本牧jack『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

本牧Jackで御座います
小生の拙ブログ『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑に御訪問頂き誠に有難う御座います。
歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。
たまに『 多人数で取材しているのか? 』との質問を戴きますが、小生と相方の二人三脚で御座います。
出来るだけ続けたいと思っていますが 膝・耳に問題が有って、いつまで出来るやら・・・説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。
御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。 ※ 申し訳御座いませんが「画像の転用」は禁止とさせて頂きます。 コメントは原則公開させていただいております 質問等に対してはブログ記事で返信させていただきます 他の方法で連絡を取り合う等一切しません 場合によっては、「IPブロック」しますがブロックした場合解除する事は有りませんので宜しくお願いします。

カテゴリ: お墓マイラー関連 ( 慰霊、鎮魂、招魂、欽仰、顕彰碑を含む )

文学・俳人。

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文学・俳人。

渡辺水巴妻。

俳人協会名誉会員

吉野雛、吾亦紅。

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何も説明版が無い為、詳細は不明ですが・・・

尺八の名手の方が、柳居青翁という人のようです。

柳居青翁者東京人名恒考旧称半兵衛糟谷氏世為幕府臣凪有隠逸之志年既壮矣譲家其弟受吹笛法於荒木古童終極秘奥又喜俳諧歌煎茶式等超然遊于物他明治十七年五月静岡寶臺院謙賀愛其爲人延爲賓師乃移中居数年骰最留也古典無所來推究遂補修之蓋出于其自得巳今年六十又四門人相謀建石勤銘代壽碑因請余銘銘曰

虞舜作簫 律呂和調 厥形参差 厥音超遥 星移物換 ◇求絶萩 或稱尺八 猶協九韶 李唐高僧 呪経升天 張伯一叫 雲爲穿 
或稱尺八 猶協九韶 李唐高僧 呪経升天 張伯一叫 雲爲穿 十又六世 張参傳 我僧法燈 渡海問禅 受業出藍 悟八玄 
歸朝建寺 法侶満筵 創意截竹 不復用編 一管五 美之吹之 如喜如泣 如訴如悲 上下鬼神 感動媍兒 爲布教具 設後世規 尺八之穪 遍千四維 騒人嘯月 遣懐慰思 義士晦跡 避険去危 世勢一変 教法敗壊 新政漸興 旧物盡廃 國多野調 郷之豎遂 嗚呼青翁 不顧人言 及其未絶 餘音尚在 刻苦研究 尽夜諼 濯足東海 寄身寺門 訂曲校譜 誘掖後昆 惟斯奇行 豈無淵源
壽興石堅 長頌聖思

明治二十三年十月 関口隆正撰文并書

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従二位勲一等伯爵松方正義公篆額  

従六位 片山遠平君撰文

君名辰一潮田君常吉之長子也母松井氏安政五

年五月廿九日生于東都櫻田街西尾侯藩邸資性

實著好學明治二年及藩侯轉封安房君従而徙焉

五年負笈游横濱親就西人講英學九年入駒場農

學校十三年卒其業乃受農學士之稱無幾出歴事

岐阜山梨二縣之農學校等尋任静岡尋常中學校

一等教諭兼幹事二十一年三月九日病歿于静岡

享年三十有一訃至諸友莫不痛悼者吁嗟君之甞

在駒場農學校也余時承乏校長補善知君之為人

心竊期其成立而何料天不假之年溘然易簀悲夫

君娶蜂屋氏生男誠一尚幼頃者諸友有謀為君建

碑俾余撰文余不文何當然義不得辭因略記其◇

歴以代之

明治二十二年九月  高田忠周書

 

※ ◇部分は判読不能

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勝海舟の妹 ( 佐久間象山の妻 ) じゅんの墓。

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勝海舟の母

信子の墓。

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養珠院(ようじゅいん、天正5年(1577年)/天正8年(1580年) - 承応2年8月22日1653年10月13日))は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての女性。徳川家康の側室。紀州徳川家の家祖徳川頼宣、および水戸徳川家の家祖徳川頼房の母。名は(まん、旧字体:)。

以下の呼称は実名の万で統一する。

生涯
出自については、有力な説として『寛政重修諸家譜』などでは、勝浦城正木頼忠と智光院との間に生まれた娘とある。『南紀徳川史』では河津城主蔭山氏広と智光院との間に生まれた娘とされる。信憑性は低いが、冷川村百姓夫婦の娘など諸説もある。また母とされる智光院は『寛政重修諸家譜』などでは北条氏隆の娘[1]とあり、『南紀徳川史』では田中泰行の娘(板部岡江雪斎の姉、氏隆養女)という説がある。血筋は三浦義村の娘矢部禅尼を先祖に持つ三浦宗家の末裔である。

天正5年(1577年)4月4日、三浦庶流の正木頼忠を父として生まれたが、同年8月正木憲時の挙兵により勝浦城から三原(和田町)に移り、その後、小田原に居住した。天正12年(1584年)、母親が蔭山氏広と再婚したことより蔭山一族となったとされる[2]小田原征伐の際に蔭山氏広は山中城籠城軍に加わるも、落城時に脱出し居城の河津城に戻ったが、伊豆国修善寺にて蟄居したと伝わる。一説に伊豆国冷川村の出身で幼いころに百姓である両親と死別した。

万は駿河国大平村(沼津市大平)の名主、星谷縫殿右衛門に養育される。文禄2年(1593年)三島徳川家康に目見え、江川英長(江川太郎左衛門)の養女として家康の側室となった[2]。伏見において、慶長7年(1602年)3月7日には頼宣を、同8年(1603年)8月10日には頼房を出産する[3]

慶長11年(1606年)3月26日の『玉沢手鑑草稿』に記載されている宝倉板本尊銘写によると「蓮華院妙紹日心」とあり、養珠院と称する前は蓮華院と称していたことが確認できる[4]

義父の蔭山家は代々日蓮宗を信仰しており、万もその影響を受けて日遠に帰依した。家康は浄土宗であり、日頃から宗論を挑む日遠を不快に思っていたため、慶長13年(1608年)11月15日、江戸城での問答の直前に日蓮宗側の論者日経を家臣に襲わせた結果、日蓮宗側は半死半生の状態となり、浄土宗側を勝利させた。この不法な家康のやり方に怒った日遠は身延山法主を辞し、家康が禁止した宗論を上申した。これに激怒した家康は、日遠を捕まえて駿府の安倍川原で磔にしようとしたため、万は家康に日遠の助命嘆願をするが、家康は聞き入れなかった。すると万は「師の日遠が死ぬ時は自分も死ぬ」と、日遠と自分の2枚の死に衣を縫う。これには家康も驚いて日遠を放免した[3]。この万の勇気は当時かなりの話題になったようで、後陽成天皇も万の行動に感激し、天皇が自ら「南無妙法蓮華経」と題目を揮毫し、万に下賜されたという。彼女は家康が死去した後、元和5年(1619年)8月、身延山で法華経一万部読誦の大法要を催し、満願の日に七面山に向かった。

なお、この慶長宗論で日経が襲撃されたとする主張は日蓮宗側の主張のみで、他の浄土宗・武家・判者の高野山は日経が横たわったまま殆ど発言しなかったと記録する。また日遠が駿河国に赴いたのは、日蓮宗関係以外の史料では確認することができないとする指摘がある[5]

大坂の陣における実兄の三浦為春の武功に、徳川家康が喜んでいることを万が為春に知らせた古文書が残る[6]。歴史的な内容が確認できる唯一のものだが、年月日、文書の形態・宛所等も不明で現蔵機関名も記されていない[5]。三浦為春はのちに万の子である徳川頼宣に附属され、紀州藩御附家老となった。

元和2年(1616年)4月22日、蓮華院妙昭日心から養珠院妙昭日心に法号を変えた(『本光国師日記』)[5]

承応2年(1653年)、万は死去した。墓所は山梨県南巨摩郡身延町大野の日蓮宗寺院・本遠寺静岡県三島市妙法華寺。承応3年(1654年)に徳川頼宣により建立された墓所で、花崗岩製の宝篋印塔が現存している。山梨県指定史跡。法号は養珠院殿妙紹日心大姉。杉並区理性寺にも分骨されている。

その他
駿府城の万の居間が移築されて、妙法華寺奥書院(静岡県三島市玉沢)として現存している。駿府城で唯一の遺構である。静岡県三島市文化財となっている。

2004年(平成16年)、海禅院多宝塔の下の石室から万の遺髪が発見された[7]

登場作品
春日局(1989年、NHK大河ドラマ、演 : 佐藤真浪
影武者徳川家康 (1998年、テレビ朝日、演 : 石井亜可理)
葵 徳川三代 (2000年、NHK大河ドラマ、演 : 尾上紫
・影武者徳川家康(2014年、テレビ東京、演 : 葉月

脚注
1. 北条氏尭の誤伝もしくは田中泰行の娘で氏尭の養子。
2. 
a b 勝浦市史 2006, p. 405.
3. 
a b 勝浦市史 2006, p. 406.
4. 
勝浦市史 2006, pp. 406–407.
5. 
a b c 大石 1997.
6. 
中村利枝『徳川養珠夫人伝』(私家版)、1971年、59-60頁。
7. 
妹背山護持顕彰会

参考文献
書籍
・勝浦市史編さん委員会 編『勝浦市史 史料編 中世』2003年。
・勝浦市史編さん委員会 編『勝浦市史 通史編』2006年、385-421頁。
論文
大石泰史「養珠院お萬の方に関する諸問題」『勝浦市史研究』3号、1997年。
・大石泰史「養珠院お萬の方(一五七七?―一六五三)―紀州・水戸徳川家初代の生母となった正木氏の娘―」『千葉史学』54号、2009年。
小山譽城「徳川頼宣の母養珠院について」『南紀徳川史研究』9号、2010年。

関連項目
仙寿院 (渋谷区)    

外部リンク
肖像画(静岡市清水区 龍華寺)

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時代江戸時代中期
生誕元禄12年(1699年
死没寛延2年8月18日1749年9月29日
改名源五郎(幼名)、暉之
墓所東京都豊島区本妙寺
官位従五位下隠岐守讃岐守
幕府江戸幕府
主君徳川吉宗家重
下総関宿藩
氏族久世氏
父母久世重之:不詳
兄弟暉之広籌広般松平康員正室、石川総慶正室ら
正室津軽信寿の娘
養子広明

久世 暉之(くぜ てるゆき)は、江戸時代中期の下総国関宿藩主。関宿藩久世家3代。

生涯
元禄12年(1699年)、当時は三河吉田藩主だった久世重之の四男として三河吉田で生まれる。重之は宝永2年(1705年)に関宿へ転封された。兄3人が早世したために世子となり、正徳3年(1713年)3月7日に従五位下・隠岐守に叙位・任官する。享保5年(1720年)、父の死去により家督を継いだ。このとき、弟の久世広籌に5000石を分与した。

寛保2年(1742年)、寛保二年江戸洪水により、関宿城および領内に甚大な被害を受ける。延享2年(1745年)9月3日に讃岐守に遷任する。寛延元年(1748年)8月22日に養子の広明に家督を譲って隠居する。

寛延2年(1749年)8月18日に死去した。享年51。

系譜
父母
久世重之(父)
正室
・慈照院、於染 ー 津軽信寿の娘
養子
久世広明 ー 久世広武の長男
(wikiより)

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時代江戸時代前期 - 中期
生誕万治2年(1659年
死没享保5年6月27日1720年8月1日
墓所東京都豊島区本妙寺
官位従四位下讃岐守大和守
幕府江戸幕府寺社奉行若年寄老中
主君徳川家綱綱吉家宣家継吉宗
下総関宿藩主→備中庭瀬藩主→丹波亀山藩主→三河吉田藩主→下総関宿藩主
氏族久世氏
父母久世広之:不詳
兄弟重之遠山友貞正室、松平重治正室、内田正衆正室ら
正室土井利房の次女
暉之広籌広般松平康員正室、石川総慶正室ら

久世 重之(くぜ しげゆき)は、江戸時代前期から中期にかけての大名老中官位従四位下讃岐守、のち大和守下総国関宿藩主、備中国庭瀬藩主、丹波国亀山藩主、三河国吉田藩主。関宿藩久世家2代。

生涯
関宿藩初代藩主・久世広之の3男として誕生。

延宝7年(1679年)に関宿藩主となって以来、重之一代の間に下総関宿藩千葉県野田市関宿三軒家)から備中国庭瀬藩岡山県岡山市北区庭瀬)ついで丹波国亀山藩京都府亀岡市)さらに三河国吉田藩愛知県豊橋市)へと転封を続け、宝永2年(1705年)に再び関宿に復帰する。元禄9年(1696年)11月に但馬国出石藩小出氏が無嗣断絶となった際に出石領内で暴動が起こったが、隣国亀山藩を領していた重之がこれを鎮圧している。

幕府では45歳のときに三河吉田藩主時に寺社奉行に起用されたのを皮切りに、若年寄、ついで、下総関宿藩主になった翌年からの正徳3年(1713年) - 享保5年(1720年)、老中を務める。この時期1万石を加増され、都合6万石となる。また、新井白石の学問の崇拝者として知られ、幕閣に味方の少ない正徳の治を側面から支持し、正徳金鋳造の責任者を担当している。

重之の死後、家督は四男の暉之が継いだ。

逸話
土芥寇讎記』に拠れば、若いころは男色に耽り、色白で化粧をした男性を好んでいたが、長じてその趣味を止めた、とされている。また同書では「(儒学に対して)無学無能」とされている。

経歴
1659年万治2年) 生誕
1679年延宝7年) 下総関宿藩主就任
1683年天和3年) 備中庭瀬藩に転封
1686年貞享3年) 丹波亀山藩に転封
1697年元禄10年) 三河吉田藩に転封
1704年(宝永元年) 寺社奉行
1705年(宝永2年) 若年寄。下総関宿藩に再封
1713年正徳3年) 老中
1720年(享保5年) 在職中死去。享年61。
墓所は本妙寺東京都豊島区

系譜
父母
久世広之(父)
正室
土井利房の次女
子女
久世暉之(四男)
久世広籌(五男)
久世広般(九男)久世広貞の養子
松平康員正室
石川総慶正室
(wikiより)

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時代江戸時代中期 - 後期
生誕寛延4年2月29日1751年3月26日
死没文政4年3月8日1821年4月10日
改名勝之助(幼名)、広敦(初名)、広誉
戒名隆光院殿昌徳日統
墓所東京都豊島区巣鴨本妙寺
官位従五位下隠岐守大和守従四位下
幕府江戸幕府
主君徳川家治家斉
下総関宿藩
氏族久世氏
父母久世広明岡部長著の娘
兄弟広誉広備長谷川勝孚土井利豊広才鈴木重逵松平広徳広侶
久世広楽正室、満喜子、久世広孝正室ら
正室松平武元の7女・
側室:道樹院
綏之土井利器秋田長季正室、安藤信馨正室、伊保子ら
養子広運

久世 広誉(くぜ ひろやす)は、江戸時代中期から後期にかけての下総国関宿藩主。関宿藩久世家5代。

来歴
寛延4年(1751年)、先代藩主久世広明の長男として生まれる。明和2年(1765年)6月1日、10代将軍徳川家治に拝謁する。同年12月18日に従五位下隠岐守。明和6年10月1日、雁間詰めを命じられる。天明5年(1785年)3月10日、父広明の死去により遺領を継いだ。同年8月15日、初めてお国入りする許可を得る。天明7年(1787年)10月28日、相模国などの領地を常陸国内などに移される。

寛政7年(1795年)、広敦から広誉に改め、3月13日に名乗りを大和守とする。文化7年(1810年)末に従四位下に陞叙。文化14年(1817年)11月7日、病気を理由に家督を嫡孫で養子の広運に譲って隠居する。文政4年(1821年)3月に死去した。享年71。

系譜
父母
久世広明(父)
岡部長著の娘(母)
正室
・泰 ー 松平武元の七女
側室
・道樹院
子女
久世綏之(長男)
土井利器[1](十一男)生母は道樹院(側室)
秋田長季正室
安藤信馨正室
・久世伊保子 ー 松平光庸正室
養子
久世広運 ー 久世綏之の子

脚注
1. 土井利義の養子
(wikiより)

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時代江戸時代中期
生誕享保16年12月23日1732年1月20日
死没天明5年1月24日1785年3月4日
改名熊太郎、広明
墓所東京都豊島区本妙寺
官位従四位下大和守
幕府江戸幕府寺社奉行大坂城代京都所司代老中
主君徳川家重家治
下総関宿藩
氏族久世氏
父母父:久世広武、母:松平忠根の娘
養父久世暉之
兄弟広明土井利剛巨勢利永正室、河野通成
正室岡部長著の娘
広誉広備長谷川勝孚土井利豊広才鈴木重逵松平広徳広侶久世広楽正室、満喜子、久世広孝正室ら

久世 広明(くぜ ひろあきら)は、江戸時代中期の大名寺社奉行大坂城代京都所司代老中下総国関宿藩主。官位従四位下大和守。関宿藩久世家4代。

略歴
大身旗本久世広武久世重之の五男広籌を初代とする旗本久世家)の長男として誕生。幼名は熊太郎。実父広武は土井利良の三男として生まれて、広籌の養子に迎えられた。

寛保3年(1743年)7月9日、本家である関宿藩主久世暉之の養嗣子となった。7月28日、8代将軍徳川吉宗御目見した。寛延元年(1748年)8月22日、暉之が隠居し家督を継ぐ。寺社奉行、京都所司代などを歴任後、天明元年(1781年)に老中となり、天明5年(1785年)に死去するまで在任した。墓所は、東京都豊島区巣鴨5丁目の本妙寺

年表
1731年享保16年) 12月23日 生誕
1739年(元文4年)徳川吉宗の伽衆となる。
1765年明和2年) 8月21日 寺社奉行
1769年(明和6年) 9月24日 寺社奉行免、9月28日 大坂城代
1777年安永6年) 9月15日 大坂城代免、京都所司代
1781年天明元年) 京都所司代免、9月18日老中
1785年(天明5年) 1月24日 在職のまま卒。享年55。

系譜
父母
久世広武(実父)
松平忠根[1]の娘(実母)
久世暉之(養父)
正室
岡部長著の娘
子女
久世広誉(長男)生母は正室
久世広備(六男)
長谷川勝孚(七男)
土井利豊(八男)
久世広才(九男)
鈴木重逵(十一男)
松平広徳(十二男)
久世広侶(十三男)
久世広楽正室
・久世満喜子 - 伊達村芳正室
久世広孝正室

脚注
1. 土井利義の養子
(wikiより)

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時代江戸時代前期
生誕慶長14年(1609年
死没延宝7年6月25日1679年8月1日
墓所東京都豊島区本妙寺
官位従五位下大和守従四位下
幕府江戸幕府御側若年寄老中
主君徳川秀忠家光家綱
下総関宿藩
氏族久世氏
父母父:久世広宣、母:奥原経重
兄弟広当勝宣広之重利
大久保忠当室ら
正室:戸田忠能養女
重之遠山友貞正室、松平重治正室、
内田正衆正室ら
養子:広次

久世 広之(くぜ ひろゆき)は、江戸時代前期の大名若年寄老中下総国関宿藩主。関宿藩久世家初代。武家官位(名乗り)従四位下大和守。

来歴
慶長14年(1609年)、徳川氏の家臣・久世広宣の三男として誕生。

元和8年(1622年)に江戸幕府2代将軍徳川秀忠の小姓となり、寛永元年(1624年)に3代将軍・徳川家光の小姓となる。寛永3年(1626年)に父の遺領を継いだ兄・広当から下総国海上郡内500石を分与されて分家。寛永12年(1635年)に徒頭、同13年(1636年)に従五位下に叙位され大和守を名乗る。寛永15年(1638年)に小姓組番頭に任じられ、寛永18年(1641年)に4500石加増で都合5000石。正保3年(1646年)には家光に拝謁するため長崎出島から江戸に赴いたオランダ商館館長レイニール・ファン・ツムと会見している。慶安元年(1648年)に5000石加増で都合1万石となり大名に列す。

承応2年(1653年)9月、土屋数直牧野親成と共に4代将軍徳川家綱御側となる。万治2年(1659年)に5000石加増で都合1万5000石、寛文2年(1662年)に若年寄になるとさら5000石を加増され都合2万石。寛文3年(1663年)に老中となり従四位下に昇叙。同4年(1664年)にはさらに2万石を加増され都合4万石。寛文6年(1666年)、稲葉正則阿部忠秋酒井忠清と共に4老中の連名で諸国山川掟を発令している。寛文9年(1669年)にさらに1万石を加増され、都合5万石で下総国関宿城を拝領した。

延宝7年(1679年)に死去、享年71。遺領は三男の重之が継いだ。墓所は東京都豊島区本妙寺

系譜
実家
・父:旗本寄合 久世広宣
・母:奥原経重
・兄:旗本寄合 久世広当
・妹:旗本 大久保忠当正室
自家
・正室:下野国宇都宮藩主 戸田忠能養女(実父は旗本戸田忠次
・三男:久世重之
・女子:美濃国苗木藩主 遠山友貞正室
・女子:上総国佐貫藩主 松平重治正室
・女子:下野国鹿沼藩主 内田正衆正室
・養子:久世広次(実父は久世広当)

関連項目
文治政治     
能見台      
(wikiより)

30 久世広之

久世広之

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時代江戸時代後期
生誕寛政11年7月5日1799年8月5日
死没文政13年8月20日1830年10月6日
改名吉九郎(幼名)、広運
戒名泰領院殿海山英意日照
墓所東京都豊島区巣鴨本妙寺
官位従五位下長門守
幕府江戸幕府
主君徳川家斉
下総関宿藩
氏族久世氏
父母久世綏之:不詳
養父久世広誉
兄弟広運大友義路
正室伊達村芳の娘・八智
養子広周

久世 広運(くぜ ひろたか)は、江戸時代後期の下総国関宿藩の第6代藩主。関宿藩久世家6代。

生涯
寛政11年(1799年)、先代藩主・久世広誉の長男・久世綏之の子として生まれる。文化10年(1813年)9月2日、祖父広誉の嫡孫となる(父・綏之が病弱を理由に廃嫡されたため、孫である広運が広誉の後継者となったことによる)。文化11年(1814年)4月1日、11代将軍徳川家斉に拝謁する。同年12月16日、従五位下・長門守に叙位・任官する。文化14年(1817年)11月7日、広誉が病気を理由に隠居したため家督を継いだ。文化15年(1818年)8月15日、初めてお国入りする許可を得る。

藩政では文政7年(1824年)11月に藩校教倫館を創設して学問を奨励している。文政13年(1830年)8月20日に死去、享年32。跡を末期養子広周が継いだ。

系譜
父母
久世綏之(実父)
久世広誉(養父)
正室
・八智 ー 伊達村芳の娘
養子
久世広周 ー 大草高好の次男
(wikiより)

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追慕の碑

會計は

 かね ( 金銭 ) やたから ( 財産 ) の

   はたらき ( 活動 ) を

はかり ( 計算 ) ととのえ ( 記帳整理 )

  しらべ ( 監査 )
 
      きわむる ( 分析吟味 )

 著書會計学入門より抜粋

   岩垂 至

明治二十三年 福岡県に生まれる

明治大学教授として会計の本質を平易に

説き実務に明るい人材の育成に努めた

なお公認会計士制度の発足に当たり第一回

特別公認会計士試験委員に選ばれる

  昭和四十六年三月二日没

平成二十年八月 岩垂邦典建之
(石碑文より)

26a

26b

26c




時代江戸時代後期
生誕不明
死没文久元年9月17日1861年10月20日
改名熊五郎(幼名)、意留、楽山(号)
墓所東京都豊島区駒込勝林寺
官位従五位下備前守
幕府江戸幕府
主君徳川家斉家慶
遠江相良藩
氏族田沼氏
父母田沼意正水野忠友
兄弟意留柳生俊能柳生俊章正室ら
正室:堀直教
継室:分部光実
意尊久留島通容正室

田沼 意留(たぬま おきとめ)は、江戸時代後期の大名遠江国相良藩主。官位従五位下備前守。相良藩田沼家7代。田沼意次の孫。

生涯
先代藩主・田沼意正の長男。文化2年(1805年)閏2月15日、11代将軍・徳川家斉御目見する。文政2年(1819年)8月9日、意正の若年寄就任に伴って菊之間詰となる。12月16日、従五位下・備前守に叙任される。天保7年(1836年)4月21日、家督を相続し、雁之間詰となる。同年8月、天保の大飢饉による凶作で領内に多数の餓死者を出すなど、前途多難であった。

天保11年(1840年)7月20日、家督を嫡男の意尊に譲って隠居する。天保14年(1843年)11月25日、楽山と号す。文久元年(1861年)9月17日死去。

系譜
父母
田沼意正(父)
水野忠友の娘(母)
正室、継室
堀直教の娘(正室)
分部光実の娘(継室)
子女
田沼意尊
久留島通容正室
(wikiより)

25a

25b

25c




時代江戸時代中期
生誕安永2年(1773年
死没寛政8年9月22日1796年10月22日
官位従五位下下野守
幕府江戸幕府
主君徳川家斉
遠江相良藩主→陸奥下村藩
氏族田沼氏
父母田沼意知
兄弟意明意壱意信
織田信浮長女・喜姫
意壱

田沼 意明(たぬま おきあき)は、江戸時代中期の大名遠江国相良藩2代藩主、のち陸奥国下村藩初代藩主。官位従五位下下野守。相良藩田沼家2代。初代相良藩主・田沼意次の孫。

略歴
田沼意次の世子で若年寄を務めた田沼意知の長男。正室は織田信浮長女の喜姫。

意知が天明4年(1784年)に暗殺されたため、祖父である意次の世継となり、天明7年(1787年)に家督を継いだ。ただし、祖父が松平定信の粛清を受けて失脚したため、相良領は意次最盛期の5万7000石から意明継承時には2万7000石まで減封され、さらにそののち下村1万石に減移封となった。寛政5年(1793年)の定信失脚までは、領地へ下向することも許されず、江戸定府とされ、将軍への御目見や従五位下の官位任官も受けられなかった。

寛政8年(1796年)に大坂定番もしくは大坂加番に任命されたが、領地を一度も見ることなく[1]同年24歳で死去し、跡を弟で養嗣子の意壱が継いだ。

系譜
父母
田沼意知(父)

正室
織田信浮の娘

養子
田沼意壱 - 意知の次男

脚注
1. 深谷克己『田沼意次―「商業革命」と江戸城政治家』2010年、山川出版社
(wikiより)

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時代江戸時代後期
生誕天明4年(1784年
死没文化元年7月26日1804年8月31日
改名幾之助(幼名)、意定
墓所静岡県牧之原市の西大寺
官位従五位下主計頭
幕府江戸幕府
主君徳川家斉
陸奥下村藩
氏族田沼氏
父母田沼意致
養父:田沼意信
兄弟意英意定
稲生正方
意正

田沼 意定(たぬま おきさだ)は、江戸時代後期の大名陸奥国下村藩4代藩主。官位従五位下主計頭相良藩田沼家5代。

略歴
天明4年(1784年)、田沼家初代・田沼意次の甥(意次の弟・田沼意誠の子)田沼意致の四男として誕生した。正室は稲生正方娘。

享和3年(1803年)、先代藩主・田沼意信が早世したため、その養嗣子となって跡を継いだが、翌文化元年(1804年7月26日に後を追うように死去した。嗣子がなかったため、従父である意正(意次の四男)が養嗣子となってその跡を継いだ。

系譜
父母
田沼意致(実父)
田沼意信(養父)
正室
稲生正方の娘

養子
田沼意正 - 田沼意次の四男
(wikiより)

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23b

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時代江戸時代中期
生誕寛延2年(1749年
死没天明4年4月2日1784年5月20日
官位従五位下大和守播磨守山城守
幕府江戸幕府 奏者番若年寄
主君徳川家治
遠江相良藩
氏族田沼氏
父母田沼意次黒沢定紀
兄弟意知、勇次郎、勝助、意正、松三郎、
土方雄貞九鬼隆棋、千賀、宝池院
松平康福
意明意壱意信
稲葉正武正室

田沼 意知(たぬま おきとも)は、江戸時代中期の遠江国相良藩の世嗣。若年寄官位従五位下大和守播磨守山城守

生涯
老中を務めた遠江国相良藩主・田沼意次の嫡男として誕生した。母は黒沢定紀の娘。

明和4年(1767年)、19歳にして従五位下・大和守に叙任する。松平輝高の没後の天明元年(1781年)12月15日には奏者番、天明3年(1783年)に意次の世子の身分のまま若年寄となり[1]、意次が主導する一連の政治を支えた。これは徳川綱吉時代に老中大久保忠朝の子・忠増が世子のまま若年寄になって以来の異例な出世である。また、老中である父が奥詰めも同時に果たしたように、若年寄でありながら奥詰めもした。その翌年に江戸城内において佐野政言に斬りつけられ、治療が遅れたために8日後に死亡した。享年36。

父子ともに現役の幕閣であったため、意次と別居するために田沼家中屋敷または下屋敷へ移ったが、新たな屋敷を構えたのは暗殺の直前であった。江戸市民の間では、佐野を賞賛して田沼政治に対する批判が高まり、幕閣においても松平定信ら反田沼派が台頭することとなった。江戸に意知を嘲笑う落首が溢れている中、オランダ商館長イサーク・ティチングは「鉢植えて 梅か桜か咲く花を 誰れたきつけて 佐野に斬らせた」という謡曲鉢木』に因んだ落首を世界に伝え、「田沼意知の暗殺は幕府内の勢力争いから始まったものであり、井の中の蛙ぞろいの幕府首脳の中、田沼意知ただ一人が日本の将来を考えていた。彼の死により、近い将来起こるはずであった開国の道は、今や完全に閉ざされたのである」と書き残した。

意知の死後に失脚して隠居した意次の跡は、意知の長男・意明(当時の名乗りは幼名の龍助)が継いだ。しかし、後見した意次が間もなく没し、意明も夭折した。その跡を継いだ次男・意壱、四男・意信のいずれも早世し、意知の血筋は絶えた。田沼家の家督はその後、意知の従子にあたる意定、次いで意知の弟・意正が継いだ。

系譜
・父:田沼意次(1719年 - 1788年)
・母:黒沢定紀の娘
・正室:松平康福の娘
・生母不明の子女
 ・長男:田沼意明(1773年 - 1796年)
 ・次男:田沼意壱(1780年 - 1800年) - 意明の養子
 ・四男:田沼意信(1782年 - 1803年) - 意壱の養子
・養子
 ・女子:稲葉正武正室、のち土方義苗正室、田沼意致の娘

脚注
1. 山田忠雄「田沼意次の政権独占をめぐって」1972年4月(『史学44(3)』慶應義塾大学)

関連作品
小説
稲葉稔 『邪鬼』 - 朝松健えとう乱星編著『伝奇城』収録
芦辺拓 鶴屋南北の殺人』(2020年6月、原書房)- 佐野善右衛門の刃傷沙汰を『仮名手本忠臣蔵』の塩谷判官のそれに重ね合わせて描いている。
横溝正史 神変稲妻車』 - 田沼時代を舞台とした冒険活劇風時代小説。意知の悪行が物語の大筋に深く関わっており、終盤に主人公たちとは無関係な意知の暗殺によって作中の陰謀が意味を失い、デウス・エクス・マキナ的に戦乱が突如終息する。
・筑前助広『颯の太刀』(2024年2月、KADOKAWA)-田沼時代を舞台とした青春剣劇。意知は主人公の後ろ盾として登場する。

漫画
みなもと太郎 『風雲児たち
よしながふみ 『大奥
・原作:池波正太郎・漫画:大島やすいち 『剣客商売

映画
剣光桜吹雪(1941年、日活、演者:北龍二
紫頭巾(1958年、東映 演者:石井一雄
ふたり若獅子(1959年、東映 演者:柳永二郎
忍術使いと三人娘(1961年、東映 演者:和崎隆太郎
武士道残酷物語(1963年、東映 演者:成瀬昌彦
歌麿 夢と知りせば(1977年、演:堀内正美

テレビドラマ
闇を斬れ(1981年、関西テレビ 演者:原田大二郎
栄花物語(1983年、TBS 演者:西郷輝彦
快傑黒頭巾(1990年、TBS 演者:河原崎建三
大江戸風雲伝(1994年、NHK 演者:黒田アーサー
殿さま風来坊隠れ旅(1994年、テレビ朝日 演者:原田大二郎)
大江戸捜査網2015〜隠密同心、悪を斬る!(2015年、テレビ東京、演者:高知東生
陽炎の辻 完結編〜居眠り磐音 江戸双紙〜(2017年1月2日、NHK、演者:滝藤賢一
大奥(2024年、フジテレビ、演:佐々木誠
べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~(2025年、NHK大河ドラマ、演者:宮沢氷魚

関連項目
(wikiより)

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22b

22c




時代江戸時代後期 - 明治時代
生誕文政2年(1819年
死没明治2年12月24日1870年1月25日
改名金弥(幼名)、意尊
墓所東京都豊島区駒込勝林寺
官位従五位下玄蕃頭
幕府江戸幕府 若年寄
主君徳川家慶家定家茂慶喜明治天皇
遠江相良藩主→上総小久保藩
氏族田沼氏
父母田沼意留
兄弟意尊久留島通容正室
久留島通嘉
智恵、路
意斉忠千代

田沼 意尊(たぬま おきたか)は、江戸時代後期の大名明治時代初期の華族

田沼意次の曽孫で遠江国相良藩主、上総国小久保藩初代藩主、同藩初代知藩事。幕末に江戸幕府の若年寄を務めた。官位従五位下玄蕃頭

略歴
田沼意留の子として誕生した。天保11年(1840年)7月20日、22歳で家督を相続する。大坂定番を務めた。文久元年(1861年)9月14日、43歳で若年寄に就任する。

元治元年(1864年)、幕府軍総督として水戸藩浪士による天狗党の乱の鎮圧に努め、天狗党退去後には筑波山を占領しているが、部田野の戦いでは敗北した。なお、乱の鎮圧に必要な軍資金の調達に奔走した家老の井上寛司が、借金を返済できなかったために切腹するという出来事があった。翌元治2年(1865年)、越前国敦賀で降伏をした武田耕雲斎らを処刑した。

慶応2年(1866年)10月4日、若年寄を解任された。慶応4年(1868年)の鳥羽・伏見の戦いに幕府軍として参陣した。直後の2月に駿地方では最も遅く勤王証書を提出した。

明治元年(1868年)9月21日に上総小久保へ移封され、明治2年(1869年)6月24日、版籍奉還により知藩事となった。洋学を取り入れた近代的な藩校創設に尽力した。同年12月24日、51歳で死去した。

系譜
父母
田沼意留(父)
正室
久留島通嘉の娘
子女
・智恵(長女) - 田沼忠千代夫人、のち田沼望夫人
・路(次女) - 小笠原長育夫人
養子
田沼忠千代 - 伊達宗城の六男
田沼意斉 - 大岡忠恕の五男
田沼望 - 伏原宣諭の二男
(wikiより)

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時代江戸時代後期
生誕宝暦9年(1759年
死没天保7年8月24日1836年4月21日
改名水野忠徳→田代玄蕃→田沼意正
別名通称:金弥、玄蕃
墓所東京都豊島区駒込勝林寺
官位従五位下中務少輔玄蕃頭従四位下・内膳正
幕府江戸幕府 大番頭若年寄(西丸)、側用人(西丸)
主君徳川家斉
陸奥下村藩主→遠江相良藩
氏族田沼氏水野氏(忠重系忠清流 出羽守家)→田代氏→田沼氏
父母父:田沼意次、母:田代氏
養父:水野忠友田沼意定
兄弟意知、勇次郎、勝助、意正、松三郎、
土方雄貞九鬼隆棋、宝池院、千賀ら
水野忠友の娘
意留柳生俊能柳生俊章正室ら

田沼 意正(たぬま おきまさ)は、江戸時代後期の大名陸奥国下村藩5代藩主、のち遠江国相良藩主。通称は金弥、玄蕃。官位従四位下・内膳正。相良藩田沼家6代。

生涯
藩祖・田沼意次の四男で、初代から3代の下村藩主の叔父に当たる。母は側室の田代氏。

安永3年(1774年)7月27日、老中水野忠友と養子縁組し、その娘と結婚して水野忠徳(みずの ただのり)と名乗る[1]。安永4年(1775年)11月15日、10代将軍・徳川家治御目見した。同年閏12月11日、従五位下・中務少輔に叙任された。しかし、天明6年(1786年)9月5日、意次の失脚により、養子縁組を解消されて田沼家に戻された。このとき、母方の姓である田代を称し[2]田代玄蕃(たしろ げんば)と名乗っている。

文化元年(1804年)7月26日、従子である陸奥国下村藩主・田沼意定の死去により、末期養子として田沼本家の家督を相続した。同年10月1日、11代将軍・徳川家斉に御目見した。同年12月16日、従五位下・玄番頭に叙任された。後に内膳正となる。文化3年(1806年)6月1日、大番頭に就任した。文政2年(1819年)8月8日、若年寄(西丸)に就任した。

文政6年(1823年)7月8日、忠友の跡を継いだ水野忠成の推挙や家斉の尽力もあって、旧領である遠州相良への復帰を許された。文政8年(1825年)4月18日、側用人(西丸)となった。同年12月、従四位下に昇進する。天保5年(1834年)4月26日、側用人を病気を理由に辞任する。天保7年(1836年)4月21日、隠居し長男の意留に家督を譲った。同年8月24日、78歳で死去した。墓所は東京都豊島区駒込勝林寺

意正の時代になって田沼家が相良復帰、復権を果たしたのは、元来田沼派であった水野家の後継養子の忠成が将軍家斉の信任を受けて老中側用人として栄達し、家斉の同意の下で意正を引き立てたためと思われる。

系譜
父母
田沼意次(実父)
・田代氏(実母) - 側室
水野忠友(養父)
田沼意定(養父)
正室
水野忠友の娘・八重姫 - のち離縁
子女
田沼意留(長男) 生母は正室
柳生俊能(次男) - 柳生俊章の養子
柳生俊章正室

脚注
1. 山田忠雄「田沼意次の政権独占をめぐって」1972年4月(『史学44(3)』慶應義塾大学)
2. 
田代は意次の母方の姓でもある(意次の母が田代高近の養女)。

関連作品
幻十郎必殺剣(2008年、テレビ東京東映) - 演:中原丈雄   
(wikiより)

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20c




時代江戸時代後期
生誕天明2年(1782年
死没享和3年9月12日1803年10月27日
改名鎌之丞(幼名)、意信
墓所静岡県牧之原市の西大寺
官位従五位下主計頭
幕府江戸幕府
主君徳川家斉
陸奥下村藩
氏族田沼氏
父母田沼意知
兄弟意明意壱意信
松平頼前養女
意定

田沼 意信(たぬま おきのぶ)は、江戸時代後期の大名陸奥国下村藩3代藩主。官位従五位下主計頭田沼家4代。

略歴
天明2年(1782年)、田沼意知田沼意次の嫡男)の四男として誕生した。正室は松平頼前の養女(松平頼陽の娘)。

寛政12年(1800年)に次兄の意壱が、先々代の長兄意明に続いて早世したため、その養嗣子として跡を継いだ。

しかし享和3年(1803年)9月12日、意信も早世した。享年22。跡を養嗣子の意定田沼意致の四男)が継いだ。

系譜
父母
田沼意知(実父)
田沼意壱(養父)
正室
松平頼前の養女、松平頼陽の娘
養子
田沼意定 - 田沼意致の四男
(wikiより)

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時代江戸時代中期
生誕安永9年(1780年
死没寛政12年9月17日1800年11月3日
改名万吉・万之助(幼名)、意壱
別名意吉
墓所静岡県牧之原市の西大寺
官位従五位下左衛門佐
幕府江戸幕府
主君徳川家斉
陸奥下村藩
氏族田沼氏
父母田沼意知
兄弟意明意壱意信
新見正偏
意信

田沼 意壱(たぬま おきかず)は、江戸時代中期の大名陸奥国下村藩2代藩主。官位従五位下左衛門佐田沼家3代。田沼意次の孫。

略歴
安永9年(1780年田沼意知(田沼意次の嫡男)の次男として誕生した。正室は新見正偏の娘。

寛政8年(1796年)に兄意明の早世により跡を継いだ。しかし病弱だったため、意壱も寛政12年(1800年)9月17日に早世した。享年21。

小夜の間との子を儲けたが、未熟児で幼少のころ他界したとされている。弟の意信が養嗣子として跡を継いだ。

系譜
父母
田沼意知(父)

正室
新見正偏の娘

養子
田沼意信 - 意知の四男
(wikiより)

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時代江戸時代後期 - 大正時代
生誕嘉永3年7月19日1850年8月26日
死没大正11年(1922年3月7日[注釈 1]
改名包五郎[1]、末徳
諡号徳源院殿実道至信大居士[1]
墓所東京都の染井墓地[1]
官位対馬守[1]正三位従二位
幕府江戸幕府
主君徳川家茂慶喜明治天皇大正天皇
播磨小野藩
氏族九鬼氏一柳氏
父母九鬼隆都一柳末彦
兄弟九鬼隆備大田原富清九鬼隆義末徳建部秀隆九鬼寧隆本庄道美正室、
板倉勝敬正室、石川総邦正室ら
一柳頼紹栄子志乃、妾蓉子
譲二、広岡恵三、剛、大井光衛室、
喜久子、満喜子筏井寿夫室ら

一柳 末徳(ひとつやなぎ すえのり)は、江戸時代後期の大名播磨国小野藩第11代(最後)の藩主。明治維新後に華族子爵)となり、貴族院議員(子爵議員)を務めた[1]

経歴
丹波国綾部藩主・九鬼隆都の五男として誕生した[1]。幼名は包五郎[1]

先代藩主・一柳末彦の養嗣子となり、文久3年(1863年)6月9日の末彦の隠居により家督を継いだ。慶応4年(1868年)の戊辰戦争では早くに新政府に帰順して北越戦争に出兵する。明治2年(1869年)の版籍奉還知藩事となり、明治4年(1871年)の廃藩置県で上京する。その後は慶應義塾に入って英学を学んだ。

明治12年(1879年)には東京府区会議長となる。明治17年(1884年)の華族令子爵となり、その後帝国博物館員を務めた。1890年(明治23年)7月10日、貴族院議員に就任し4期ほど務め[2]正三位勲三等に叙せられ、1920年(大正9年)1月17日に辞職した[3]。大正11年(1922年)3月7日、兵庫県明石市大蔵谷本邸にて死去した。享年73。

栄典
1914年(大正3年)6月18日 - 勲三等瑞宝章[4]       

備考
・子供たちには男女ともに高等教育と海外留学を薦め、自由と平等を尊重した人物であったという[5]

系譜
・父:九鬼隆都(1801年 - 1882年)
・母:不詳
・養父:一柳末彦(1843年 - 1881年)
・正室:栄子 - 一柳頼紹
・継室:志乃
・室:妾蓉子
・生母不明の子女
 ・長男:一柳譲二
 ・次男:広岡恵三(1876年 - 1953年) - 加島銀行大同生命大阪電気軌道広岡浅子の女婿
 ・三男:一柳剛
 ・長女:大井光衛
 ・次女:喜久子 - 森忠恕
 ・三女:一柳満喜子(1884年 - 1969年) - ウィリアム・メレル・ヴォーリズ夫人
 ・四女:筏井寿夫
長男の譲二は分家[6]、二男の恵三は他家に養子に行った[7]。継嗣とされた三男の剛は大正天皇の学友の一人であるが[5]、家督相続前に死去[8]。剛の長男の一柳末幸が家督を継ぎ、子爵となった[1]。四男の喬は夭折[9]

脚注
注釈
1. 『一柳家史紀要』では3月21日没[1]

出典
1.a b c d e f g h i 一柳貞吉 1933, p. 48.
2. 
『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』52頁。
3. 
『官報』第2236号、大正9年1月20日。
4. 
『官報』第565号「叙任及辞令」1914年6月19日。
5. 
a b “小野藩主一柳末徳の三女と米国人夫の歩みたどる 小野で企画展”兵庫おでかけプラス (神戸新聞). (2019年2月17日) 2021年10月11日閲覧。
6. 
一柳貞吉 1933, pp. 45, 48.
7. 
一柳貞吉 1933, pp. 45–46, 48.
8. 
一柳貞吉 1933, p. 46, 48.
9. 
一柳貞吉 1933, p. 46.

参考文献
一柳貞吉一柳家史紀要』1933年。
・衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。

外部リンク
・デジタル版 日本人名大辞典+Plus『一柳末徳』 - コトバンク    
(wikiより)

17 一柳末徳

一柳末徳

17a

17b

17c

17d

17e

17f




青森士族。

会津藩士・三橋文内は文庫の父。

16a

16b

16c



会津藩。

10石 3人扶持。

青龍足軽三番唐木隊小隊頭。

明治元年 9月 1日会津大内峠で戦死。

15a

15b

15c




時代江戸時代後期 - 明治時代
生誕天保8年9月20日1837年10月19日
死没明治22年(1889年11月18日
改名録千代・大助(幼名)→高潔
墓所豊島区染井霊園
官位左近衛権少将従三位大学頭
主君徳川慶喜明治天皇
伊勢国津藩知事
氏族藤堂氏
父母父:藤堂高猷
母:橋本氏
兄弟高潔黒田長知脇坂安斐松平定昭
量子蜂須賀斉昌養女、蜂須賀昭順娘)
高紹、銑子(子爵高倉永則夫人)、鋀子(常磐井尭猷室、子爵牧野忠篤室)

藤堂 高潔(とうどう たかきよ)は、伊勢津藩の第12代(最後)の藩主(知藩事)。藤堂家宗家12代。正室は蜂須賀斉昌養女で蜂須賀昭順の娘の量子

生涯
天保8年(1837年9月20日に生まれる。嘉永元年12月16日(1849年)、従四位下・侍従・大学頭に叙任する。文久3年(1863年)、父に代わって上京して孝明天皇に拝謁し、御所の警備を務めた。元治元年(1864年)4月18日、左近衛権少将となる。

慶応3年(1867年)12月、朝廷の命令に従い、上洛するものの、ほどなく帰藩する。明治元年(1868年)3月2日、上洛する。同年10月、版籍奉還後の藩政改革を主導し、明治天皇伊勢神宮参拝においても守備などで尽力した。明治3年(1870年)10月、藩士を解散したことで監物騒動が発生する。

明治4年(1871年)6月28日、病を理由に父が隠退したため、その跡を継いで知藩事となる。しかし同年7月の廃藩置県で免官となった。明治22年(1889年)11月18日、父に先立って53歳で死去した。

賢明温厚で書画の才にも優れていたと言われている。絵は、渡辺崋山に師事し、花卉図を得意としたという。またの腕前も免許皆伝の腕前で、自邸や実弟、黒田長知の赤坂の黒田邸に出入りし、喜多六平太にも稽古を付けた程であった。

栄典
1884年(明治17年)7月7日 - 伯爵[1]
1889年(明治22年)11月19日 - 従三位[2]

家族
父:藤堂高猷   
・母:橋本氏 − 側室
・正室:藤堂量子 − 蜂須賀昭順の娘、蜂須賀斉昌の養女
 ・長男:藤堂高紹(1884−1943)
 ・次女:藤堂銑子(1880-1929)子爵高倉永則夫人
 ・三女:藤堂鋀子(1882-1963)男爵常磐井尭猷夫人後に子爵牧野忠篤夫人

脚注
1. 『官報』第307号「叙任及辞令」1884年7月8日。
2. 
『官報』第1920号「叙任及辞令」1889年11月20日。
(wikiより)

14 藤堂高潔

藤堂高潔

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生年月日明治5年8月11日
1872年9月13日
出生地日本の旗 日本 堺県茨田郡門真一番下村
(現:大阪府門真市
没年月日1951年3月10日(78歳没)
死没地日本の旗 日本 東京都世田谷区
出身校帝国大学法科大学
前職外務官僚
所属政党(無所属→)
同和会→)
日本進歩党→)
日本民主党→)
(無所属/同志クラブ→)
(無所属/民主クラブ→)
民主自由党
称号従一位
 勲一等旭日桐花大綬章
男爵
法学士(帝国大学・1895年
配偶者幣原雅子
子女長男:幣原道太郎
次男:幣原重雄
三男:幣原平三
親族岩崎弥太郎(義父)
幣原坦(兄)
加藤高明(義兄)
木内重四郎(義兄)
サイン

日本の旗 第44代 内閣総理大臣
内閣幣原内閣
在任期間1945年10月9日 - 1946年5月22日
天皇昭和天皇

日本の旗 第40代 衆議院議長
在任期間1949年2月11日 - 1951年3月10日
天皇昭和天皇

内閣濱口内閣
在任期間1930年11月14日 - 1931年3月10日
天皇昭和天皇

内閣第1次吉田内閣
在任期間1947年5月3日 - 1947年5月24日

日本の旗 初代 復員庁総裁
内閣第1次吉田内閣
在任期間1946年6月15日 - 1947年5月24日

その他の職歴
日本の旗 初代 第一復員大臣
初代 第二復員大臣

(幣原内閣)
(1945年12月1日 - 1946年5月22日、総理兼任)
日本の旗 第38・40代 外務大臣
加藤高明内閣第1次若槻内閣
1924年6月11日 - 1927年4月20日
濱口内閣第2次若槻内閣
1929年7月2日 - 1931年12月13日
日本の旗 衆議院議員
旧大阪3区、当選回数 2回)
1947年4月26日 - 1951年3月10日
日本の旗 貴族院議員
1926年1月29日 - 1947年5月2日

幣原 喜重郎(しではら きじゅうろう、旧字体幣󠄁原 喜重郞1872年9月13日明治5年8月11日〉- 1951年昭和26年〉3月10日)は、日本政治家外交官爵位男爵位階従一位勲等勲一等

外務大臣(第40414344代)、貴族院議員(勅選議員[1])、内閣総理大臣臨時代理内閣総理大臣第44代)、第一復員大臣初代)、第二復員大臣初代)、復員庁総裁初代)、副総理衆議院議員衆議院議長(第40代)を歴任した。

生涯
生い立ち
明治5年8月11日1872年9月13日)、堺県茨田郡門真一番下村[2](現・大阪府門真市)の豪農の家に生まれた[3]。兄・は教育行政官、台北帝国大学初代総長。大阪城西側にあった官立大阪中学校(のち京都に移転、第三高等中学校となる)から、第三高等中学校(首席卒業)を経て、1895年(明治28年) 東京帝国大学法科大学卒業。濱口雄幸とは、第三高等中学校、帝国大学法科大学時代を通じての同級生であり2人の成績は常に1、2位を争ったという。

大学卒業後は農商務省に入省したが、翌1896年(明治29年)外交官試験に合格し、外務省に転じた[1]

外務省
外務省入省後、仁川、ロンドン、ベルギー、釜山の各領事館に在勤後、ワシントン、ロンドンの各大使館参事官、オランダ公使を経て1915年大正4年)に外務次官となり、1919年(大正8年)に駐米大使[1]第一次世界大戦後にアメリカ合衆国大統領ウォレン・ハーディングの提唱で開かれた国際軍縮会議ワシントン会議においては全権委員を務める[1]

外務大臣歴任
外務大臣になったのは1924年(大正13年)の加藤高明内閣が最初であった。以降、若槻内閣(1次2次)、濱口内閣憲政会立憲民政党内閣で4回外相を歴任した。

彼の1920年代自由主義体制における国際協調路線は「幣原外交」とも称され、軍部の軍拡自主路線「田中外交」と対立した。ワシントン体制に基づき、対米英に対しては列強協調を、民族運動が高揚する中国においては、あくまで条約上の権益擁護のみを追求し、東アジアに特別な地位を占める日本が中心となって安定した秩序を形成していくべきとの方針であった。そのため、1925年(大正14年)の5・30事件においては、在華紡(在中国の日系製糸会社)の中国人ストライキに対して奉天軍閥張作霖に要請して武力鎮圧するなど、権益の擁護をはかっている。

1926年(大正15年)に蔣介石国民革命軍率いて行った北伐に対しては、内政不干渉の方針に基づき、アメリカとともにイギリスによる派兵の要請を拒絶。しかし、1927年(昭和2年)3月に南京事件が発生すると、軍部や政友会のみならず閣内でも宇垣一成陸相が政策転換を求めるなど批判が高まった。こうした幣原外交への反感は金融恐慌における若槻内閣倒閣の重要な要素となった。

1930年(昭和5年)にロンドン海軍軍縮条約を締結させると、特に軍部からは「軟弱外交」と非難された。1931年(昭和6年)夏、広州国民政府の外交部長陳友仁が訪日し、張学良を満洲から排除し満洲を日本が任命する政権の下において統治させ、中国は間接的な宗主権のみを保持することを提案したが、幣原外相は一蹴した。その後、関東軍の独走で勃発した満洲事変の収拾に失敗し、政界を退いた。幣原外交の終焉は文民外交の終焉であり、その後は軍部が独断する時代が終戦まで続いた。

なお、濱口内閣時代には、濱口雄幸総理の銃撃による負傷療養期間中、宮中席次の規定により次席であった幣原が内閣総理大臣臨時代理を務めた[4]立憲民政党の党員でなかった幣原が臨時代理を務めたことは野党立憲政友会の批判の的となり、また同じく批判されたロンドン条約については天皇による批准済みであると国会答弁でしたことが天皇への責任転嫁であると失言問題を追及された[5]。その際の首相臨時代理在任期間116日は最長記録である。

第2次若槻内閣の総辞職以降は表舞台から遠ざかっていたが、南部仏印進駐のころに近衛文麿に今後の見通しを訊かれ、「南部仏印に向かって出帆したばかりの陸軍の船団をなんとか呼び戻せませんか?あるいは台湾に留め置けませんか?それが出来ずに進駐が実現すれば、絶対アメリカとの戦争は避けられません」と直言し、予言が的中した逸話が残っている。

第二次世界大戦末期の1945年5月25日、空襲により千駄ヶ谷の自邸が焼失。多摩川畔にあった三菱系の農場に移った[6]

内閣総理大臣
戦後の1945年10月9日に、10月5日東久邇宮内閣総辞職を受け内閣総理大臣に就任[7]。本人は首相に指名されたことを嫌がって引っ越しの準備をしていたが、同じく指名を固辞した吉田茂の後押し[8]昭和天皇じきじきの説得などもあり[要出典]政界に返り咲いた。幣原の再登場を聞いた古手の政治記者が「幣原さんはまだ生きていたのか」と言ったという逸話が残る[要出典]ほど、当時の政界では忘れられた存在となっていたが、親英米派としての独自のパイプを用いて活躍した。ただし、吉田が幣原を首相に推したのは吉田の政治的な地位作りのためであったともいわれている[要出典]

1945年10月11日マッカーサーに新任の挨拶を行うために連合国軍最高司令官総司令部を訪問[9]。挨拶という体裁ではあったが、持ち前の卓越した英語力、外交官としての見識などを持って一時間にわたる会談となった。マッカーサーからはポツダム宣言に沿って憲法改正を行うこと、人権確保のための改革を行うこと、厳冬期対策を急ぐべきことの要求が出された[10]

日本国憲法と幣原
幣原と日本国憲法の制定については様々な研究が行われているが、特に日本国憲法第9条における戦争の放棄については、幣原の発案であるかどうかという論争が行われている。

幣原は当初天皇制の維持のため、憲法改正には消極的であった[11]

幣原は1951年に公刊した『外交五十年』において、9条の発案者は自身であると述べている[12]。これによれば、1945年8月15日に玉音放送を聞いた後、電車内で泣き叫ぶ男に出会ったのがきっかけで、「戦争を放棄し、軍備を全廃」することを発案したという[13]。後にマッカーサーも9条は幣原の提案によると述べている[14]。一方で松本烝治芦田均といった幣原内閣の閣僚、木内四郎内閣副書記官長、増田甲子七押谷富三といった政治家、幣原の息子道太郎も幣原の発案であることを否定している[15]

1946年1月24日、幣原は風邪をひいた際にマッカーサーからペニシリンを贈られたことに対する返礼を名目に会談を行った(ペニシリン会談)[16]。マッカーサーの回顧録によれば、この席で幣原が戦力の放棄を含む戦争放棄の新憲法制定の提案を行ったという[14][17]。後に幣原が大平駒槌に語った談話(羽室メモ[注釈 1])によれば、「僕はかねて考えていた戦争を世界中がしなくなる様になるには戦争を放棄するという事以外にないと考える」「世界から信用をなくしてしまつた日本にとつて戦争を放棄すると云ふ様な事をハツキリと世界に声明する事それだけが日本を信用してもらえる唯一のほこりとなる事じやないだろうか」と述べ、マッカーサーも大いに感動していたという[19]

ただしチャールズ・L・ケーディス民政局次長の回想によれば、マッカーサーから告げられた会談のテーマは公職追放についてであったという[19]。また「羽室メモ」通りのことを幣原が述べたとしても、「声明」にとどまっており、憲法に戦力の不保持とともに書き込むというものではなかった[19][17][20]

1月30日、閣議において新憲法の政府案である松本試案について検討が行われた[14]。この席で幣原は軍に関する条項を削除するよう求めたが、「大勢カラ云ヘバイツカ軍ハ出来ルト思フガ今、之ニ入レルコトハ刺激ガツヨスギル」「(GHQとの交渉に)一、 二ケ月モ引カツテシマフ」と述べたように、単に交渉的な問題であり、将来的な軍の保有を排除したものではなかった[14]。松本試案は新聞によって暴露され、日本政府の憲法案が不十分であると判断したマッカーサーは、2月3日に民政局に対して新憲法草案を作成するよう命じた。この際マッカーサーは自衛権をも含む戦争放棄を含めた新憲法の原則「マッカーサー・ノート」を示している[21]

2月13日コートニー・ホイットニー民政局局長は、松本試案を否定し戦争放棄を含むGHQの憲法草案(マッカーサー草案)を幣原と松本烝治国務大臣に手交した[22]広田弘毅の弁護人を務めた広田洋二は、幣原の秘書である岸倉松の証言から「幣原首相もちよつとおどろいたようであり」と、幣原が憲法に戦争放棄条項が含まれることを予想していなかったことを述べている[17]2月18日にはホイットニー民政局局長は48時間以内の回答を要求した[22]。閣議は紛糾し、2月21日にマッカーサーと幣原、芦田均小林一三の会談が行われた。この席で幣原は主権在民の明文化に難色を示すとともに、「(戦争放棄の条文化は)世界のどの国の憲法にもない異例な話で」と戦争放棄条項についても否定的な意見を述べた[23]。マッカーサーは「日本の為に図るに寧ろ第二章(GHQ草案)の如く国策遂行の為めにする戦争を抛棄すると声明して日本がMoral Leadershipを握るべきだと思ふ」と述べたが、幣原は「leadershipと言はれるが、おそらく誰もfollowerとならない」と否定した[24]。しかしマッカーサーは「譲ることも変へることも出来ない」と受諾を要求した[23]

2月22日、GHQ側から渡された憲法草案を原則的に受諾することが閣議決定された。ただし、戦争放棄条項については松本国務大臣が前文に移すことを提案したがホイットニー民政局局長に却下され、修文・翻訳を通じて「ウマク曲文」することとなった[23]。同日、天皇を訪ね経緯と内容を報告した[25]

幣原は3月15日の閣議で「天子様をすてるかすてぬかと云ふ事態に直面して、あの司令部側の申出を承諾した」と述べており、GHQ案の受諾は天皇制維持という受動的な動機にすぎなかった[26]

憲法9条幣原発案説論争
→「日本国憲法第9条 § 発案者をめぐる議論」も参照

古関彰一は戦争放棄の発案者は幣原であるとし、マッカーサーがその提案を受けて条項化を指示したとした[12]深瀬忠一河上暁弘笠原十九司などは更に幣原の主導性を重視し、幣原が発案者であるとしている[12]。一方で佐々木髙雄五百籏頭眞は1946年1月24日会談における幣原の提案は不戦条約レベルのものではなかったかとしている[27]。また幣原が年来の考えであった非戦思想をマッカーサーに話したことと、マッカーサーがそれに共鳴したことによって9条が生まれたという見解もある。幣原内閣の外務大臣であった吉田茂や幣原の秘書岸倉松、佐藤達夫法制局次長などはこの見解を取っている[28]

2020年代においては笠原十九司は幣原発案説を支持しているが、幣原の評伝を著した熊本史雄種稲秀司は否定している[29]

発案者公表の経緯
マッカーサーは1950年1月1日の「日本国民諸君」というメッセージにおいて、戦争放棄規定は「日本人みずから考え出したもの」と述べているが、幣原とは明示しなかった[30]

1976年に外務省が公開したマッカーサー・ノートには、戦争放棄条項の次に括弧書きで「この考えは、最初に当時の幣原首相から最高司令官に表明され、司令官はただちにそれにつき心からの支持を与えた。」という注釈が入っているが、もとの公式文書であるマッカーサー・ノートには入っていない[31]。これは1950年11月11日にマッカーサー・ノートを記事にしようとした『ニッポン・タイムズ(現ジャパンタイムズ)』に掲載の許可を与えた際、GHQ側が掲載の条件として括弧書きの文面を提示したものである[32]。これ以降マッカーサーも幣原の発案であることを語るようになり、1951年5月5日のアメリカ合衆国上院軍事・外交合同委員会での証言、1962年の内閣憲法調査会への高柳賢三会長への書簡、1964年に刊行された回顧録でも幣原の発案であると述べている[33]。また幣原も1951年刊行の回顧録『外交五十年』において発案者であると記している。

平野文書
幣原の秘書をしていたという[注釈 2]衆議院議員平野三郎は1958年頃から自由民主党内における護憲派として、幣原が憲法9条の発案者であるという主張を行うようになった[35]。1963年11月頃、平野が幣原の発案を裏付ける文書を持っているという情報が一部メディアに取り上げられた[36]。この頃内閣憲法調査会でも9条の発案者が幣原かどうかを調査することとなった。憲法調査会会長の高柳賢三は、護憲派の立場から幣原発案説を支持し、否定派の議員と対立していた。このような状況で、平野は1951年2月下旬に日向ぼっこをしながら幣原から話を聞き、その内容をまとめたという文書(平野文書)を提出した。この文書では「原子爆弾というものが出来た以上、世界の事情は根本的に変って終った」「戦争をやめるには武器を持たないことが一番の保証になる」と戦力の放棄を述べられており[37]、1946年1月24日会談で「天皇の人間化と戦争放棄を同時に提案」 したとしており、「日本がアメリカと全く同じものになったら誰が世界の運命を切り拓くか」と日米の軍事一体化を否定するものであった[38]。しかし憲法調査会での評価は芳しく無く、平野も文書のもととなったというメモを提示しなかったため、最終報告書にも取り上げられなかった[36]。笠原十九司は「幣原でなければ言えなかった事実」「平野には創作できなかった事実」であるとしているが、佐々木髙雄や中村克明は創作である可能性を指摘している[37]。佐々木は1951年2月下旬は幣原が日向ぼっこができるような日はなかったこと、平野が文書の原本であるメモを提出しなかったことを指摘している[39]。また種稲秀司は幣原の他の発言や思想と一致しないことや幣原没後のことである冷戦を意識したような記述から、「矛盾や齟齬があまりにも多い怪文書」と評している[40]

詳しいことは、「弊原喜重郎ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%A3%E5%8E%9F%E5%96%9C%E9%87%8D%E9%83%8E
(wikiより)

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弊原喜重郎

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⇩ 奥様墓。

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生誕1860年11月27日
 土佐国土佐郡神田村高神
死没1925年9月18日(64歳没)
所属組織 大日本帝国陸軍
最終階級陸軍大将
指揮軍事参議官
浦塩派遣軍参謀長
近衛師団
第15師団
参謀本部第1部長
歩兵第27旅団長
第8師団参謀長
戦闘日清戦争
日露戦争
シベリア出兵
墓所染井霊園

由比 光衛(ゆひ みつえ、1860年11月27日万延元年10月15日[1] ) - 1925年9月18日[2])は、日本陸軍軍人。最終階級は陸軍大将従二位勲一等功二級。教育者・由比質は弟[3]

経歴
土佐藩士、由比光索の長男として土佐国土佐郡神田村高神(現・高知市)に生れる[4]。土佐海南私塾を経て、陸軍士官学校幼年生徒となり、1882年12月、陸軍士官学校(旧5期)を卒業し、陸軍少尉任官。1891年11月、陸軍大学校(7期)を首席で卒業した。陸士教官、大本営参謀を歴任し、日清戦争では第2軍参謀として出征した。1895年から1899年までイギリスに留学し、その後、西部都督部参謀、臨時清国派遣隊参謀、第5師団参謀、参謀本部2部欧州班長などを歴任した。
シベリア派遣軍各国軍人らとの集合写真(前列右から3人目)

日露戦争では、第2軍参謀副長として出征したが、同軍参謀長落合豊三郎少将と対立し、奉天会戦直前に第8師団参謀長に転出し参戦した。1909年5月、陸軍少将に進級し歩兵第27旅団長、参謀本部第1部長を務め、1914年5月、陸軍中将となり、陸大校長、第15師団長、近衛師団長を歴任。シベリア出兵では、浦塩派遣軍の参謀長を務めた。その後、青島守備軍司令官を経て、1919年11月、陸軍大将となり、軍事参議官を務め1923年予備役に編入された。

1925年(大正14年)9月18日薨去。墓所は染井霊園1-イ-4-19。弟の由比質の墓も同所にあり、左側の由比家の墓石が光衛の墓石である。

評価
陸軍士官学校を首席で卒業した秀才。旅順攻略ではその難しさに警鐘を鳴らす数少ない良識者であり、早くから28センチ砲を用いるように提案していた人物であった。「其ノ初メ少佐由比光衛開戦前大イニ二十八珊砲使用ヲ主張シタガ、突飛ナリトテ一笑に附セラレタ(出典:機密日露戦史)」。また少将時代に田中義一大将(当時中佐)、佐藤鋼次郎中将(当時中佐)らと共に旅順要塞の攻略を軽視しないように進言したがこれも聞き入れられることはなかった[要出典]この由比の進言の的確さは旅順要塞で大量の死傷者を出したことによって証明された。もしこの進言が受け入れられていれば、被害を最小限に済ませてもっと短期間で旅順要塞を陥落できたといえる[要出典]

一方、黒溝台一時放棄作戦を考え、日本軍を窮地に陥らせた[要出典]。 しかし、これは満州軍総司令部が敵の数を偵察隊ぐらいだと間違って伝達された上で構築された策であり、正確な情報が伝えられていれば由比の策は違うものになったと思われる[要出典]

宇都宮太郎大将は自身の手記で、松石更迭後の第一部長について「第一候補は由比光衛、第二候補は田村怡与造の婿山梨半造、宇都宮の同期の柴勝三郎、新潟出身の星野金吾」を挙げたが、福島中将も由比が最適であるとして第一部長に推薦されている[要出典]

また、日本軍の四回の出兵全てにおいて主要方面での参謀を務めている。

栄典・授章・授賞
位階
1883年(明治16年)1月3日 - 正八位[1]
1886年(明治19年)7月8日 - 従七位[1][5]
1892年(明治25年)3月28日 - 正七位[1][6]
1897年(明治30年)8月20日 - 従六位[1][7]
1902年(明治35年)12月10日 - 正六位[1][8]
1905年(明治38年)4月7日 - 従五位[1][9]
1909年(明治42年)7月20日 - 正五位[1][10]
1914年(大正3年)6月10日 - 従四位[1][11]
1916年(大正5年)6月30日 - 正四位[1][12]
1919年(大正8年)7月21日 - 従三位[1][13]
1922年(大正11年)8月10日 - 正三位[1][14]
1923年(大正12年)4月20日 - 従二位[15]    

勲章等
1889年(明治22年)11月29日 - 大日本帝国憲法発布記念章[16]
1895年(明治28年)
 ・5月23日 - 勲六等瑞宝章[17]
 ・11月18日 - 明治二十七八年従軍記章[18]
1901年(明治34年)10月1日 - 勲四等旭日小綬章功四級金鵄勲章[19]
1914年(大正3年)11月30日 - 勲二等瑞宝章[20]
1915年(大正4年)11月10日 - 大礼記念章[21]
1919年(大正8年)11月28日 - 勲一等瑞宝章[22]
1920年(大正9年)11月1日 - 旭日大綬章功二級金鵄勲章大正三年乃至九年戦役従軍記章[23]戦捷記章[24]      

脚注
1. 
a b c d e f g h i j k l 陸軍大将男爵内山小二郎外三名特旨叙位ノ件」 アジア歴史資料センター Ref.A11113162600   
2. 
『官報』第3956号「彙報 - 官吏薨去及卒去」1925年10月30日。
3. 
人事興信所編『人事興信録 第5版』(人事興信所、1918年)ゆ1頁
4. 
高知新聞社 1999, 897頁.
5. 
『官報』第929号「叙任」1886年8月5日。
6. 
『官報』第2621号「叙任及辞令」1892年3月29日。
7. 
『官報』第4242号「叙任及辞令」1897年8月21日。
8. 
『官報』第5833号「叙任及辞令」1902年12月11日。
9. 
『官報』第6531号「叙任及辞令」1905年4月12日。
10. 
『官報』第7821号「叙任及辞令」1909年7月21日。
11. 
『官報』第558号「叙任及辞令」1914年6月11日。
12. 
『官報』第1175号「叙任及辞令」1916年7月1日。
13. 
『官報』第2089号「叙任及辞令」1919年7月22日。
14. 
『官報』第3009号「叙任及辞令」1922年8月11日。
15. 
『官報』第3215号「叙任及辞令」1923年4月21日。
16. 
『官報』号外「叙任及辞令」1889年12月29日。
17. 
『官報』第3578及辞令」1895年6月5日。
18. 
『官報』第3824号・付録「辞令」1896年4月1日。
19. 
『官報』第5487号「叙任及辞令」1901年10月15日。
20. 
『官報』第700号「叙任及辞令」1914年12月1日。
21. 
『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
22. 
『官報』第2197号「叙任及辞令」1919年11月29日。
23. 
『官報』第2612号「叙任及辞令」1921年4月19日。
24. 
『官報』第2903号「叙任及辞令」1922年4月10日。

参考文献
秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
・福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
・外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
(wikiより)

12 由比光衛

由比光衛

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誕生宮武 亀四郎(かめしろう)
1867年2月22日
 日本讃岐国阿野郡小野村(現・香川県綾歌郡綾川町小野)
死没1955年7月28日(88歳没)
日本の旗 日本東京都文京区駒込追分町(東京都文京区向丘二丁目)
墓地染井霊園
職業ジャーナリスト著作家
国籍日本の旗 日本
活動期間1887年 - 1946年
主題パロディ言葉遊び、風俗史研究
代表作新聞・雑誌
『頓智協会雑誌』
『滑稽新聞』
『スコブル』
『公私月報』など多数

書籍
『奇態流行史』
『賭博史』
『面白半分』
アメリカ様』など多数
配偶者緒方八節
子供2人

宮武 外骨(みやたけ がいこつ、1867年2月22日慶応3年1月18日〉 - 1955年昭和30年〉7月28日)は、日本ジャーナリスト新聞記者編集者)、著作家、新聞史研究家、明治期の世相風俗研究家。

明治・大正期にはジャーナリストとして、政治家官僚行政機関マスメディアを含めた権力の腐敗を言論により追及した。日本における言論の自由の確立を志向し、それを言論によって訴えた。また、活字による文字絵(後のアスキーアートのようなもの)を先駆的に取り入れた文章など、様々な趣向を凝らしたパロディ言葉遊びを執筆した。関東大震災以降は風俗史研究に活動の重点を移し、東京帝国大学(東京大学)に明治新聞雑誌文庫を創設した。

生涯
パロディから反官僚へ
讃岐国阿野郡小野村(現在の香川県綾歌郡綾川町小野)に庄屋宮武家の四男として生まれた。幼名は亀四郎。

一生農家で果てるのを嫌って、高松栄義塾で漢学を学び、明治14年(1881年)、14歳の時に上京し進文学舎においても漢学を学ぶ。東京で多くの出版物に触れて記者や著述家ほど愉快な職業はないと感じ、『朝野新聞』の成島柳北、『近事評論』の林正明 (肥後熊本藩士)、『東京新誌』の服部誠一らに憧れ、18歳から執筆活動を始める[1]

17歳の時に戸籍上の本名を "外骨" に改める。幼名の亀四郎の亀が "外骨内肉" の動物であることに因んだ物である[2][3]。正式の本名であるにもかかわらず、のようにしか受け止められないことが多く、役所や図書館の窓口などで「号ではなく本名をお願いします」などとたびたび言われるのが癪だと言って、「是本名也」と彫った印鑑を用いたことも少なくなかった。なお、晩年は「外骨」の読みを「とぼね」に改めている。

当初は比較的穏健だったが、反骨精神に富み自ら新聞・雑誌を刊行して政治や権力批判を行ったためたびたび発禁・差し止め処分を受けた。明治22年(1889年)3月4日、『頓智協会雑誌』で大日本帝国憲法発布をパロディ化して(戯画「頓智研法発布式」)不敬罪に問われ禁錮3年の実刑判決を受けた(10月)。未決勾留日数の刑期算入も認められず、投獄は3年8ヶ月に及んだ。それからは官僚を宿敵と見なし、活発な権力批判を行うようになった。その後も検挙投獄は3回に及んだ。また雑誌は数多く創刊したが比較的短命なものが多く、1号のみの廃刊誌は実に17を数える。 1927年(昭和2年)時点で、同業者からは「発売禁止の大先輩」として半ば崇められており、その時点の発禁回数は43回とされている[4]

警察署長の不正や悪徳商法の主(野口茂平)を長期間紙面で晒し上げる一方で日露戦争に対する社説を翻した『万朝報』を批判するなど、批判精神を忘れて権力・世論に迎合するジャーナリズムに対する批判も行い、反権力を貫く一ジャーナリスト(当時の訳語では「操觚者」)として徹底した行動を取りつづけた。もっとも日露戦争自体については主戦論ではないが反戦論でもなく、戦争協力を誌面で説いたこともある。たとえばニコライ教ロシア正教会ニコライ・カサートキンによる伝来であったから、「愚民を惑はすのみならず、常に賣国奴を養成して居る」[5]と非難し、ニコライの逮捕、退会しない信徒の国外追放[6]ニコライ堂の破壊などの弾圧を行うよう主張した。

特に、自らの力を悪用して私欲を働くマスメディアには「ユスリ記者」と呼び激しい批判を行った(『滑稽新聞』では「ユスリ」に特注の極太ゴシック体を使用して強調した)。ただし、その主張の中には「味の素の原料は青大将」など、後に結局デマと分かったものもあった[7]

外骨の厳しさは読者や親族にも及んだ。『滑稽新聞』明治40年(1907年11月20日号で吉田東伍の『大日本地名辞書』の誤りを指摘し、版元の冨山房ともども「文壇の山師」と批判した。読者に、この記事は出版社をユスろうとしているのではないかと批判投稿した者がいた。12月20日号で採用した上でこの読者に対する反論を行い、さらに「間抜け」な批判をした読者を磔にした挿絵を付け文字通りさらし者にしたことがある。この読者からは冨山房の店員(拡販員と思われる)から『滑稽新聞』の記事について「善悪とも交渉すべからず」といわれたため疑念を抱いたのだという返信が来たため、外骨は冨山房に抗議した上で『大日本地名辞書』批判をしばらく続けた。

また、著書『つむじまがり』で「予の先祖は備中穢多(えた)であるそうな」と書いたところ、「未だ穢多の子孫と云ふ事は耳にしたる事無之候、(中略)宮武家一門三百人の大迷惑」と抗議した親類があった。外骨は「予の親族中にも、今尚斯る舊弊(きゅうへい)思想の脱しない者がある位だから、予は飽迄も穢多の子孫なりと叫ばねばならぬ」(『スコブル』大正6年(1917年)第10号)と反論した。部落差別が解消されていれば「穢多の子孫」と自称しても全く意味はないはずだから、抗議した親類の態度こそ差別であると主張した[8]。一方、桃中軒雲右衛門を否定的な意味で「穢多芸人」[9]と呼ぶなどの差別発言を行っていたことも指摘されている[10]

『滑稽新聞』の成功
外骨の出版した刊行物の中でも最も有名な『滑稽新聞』は、明治34年(1901年)に大阪で創刊された。名目上の発行人は三好米吉。これは、外骨に万一のことがあっても発行を続けられるように別人を立てたためで、外骨は「小野村夫」(出身地にちなむ)のペンネームで執筆。無署名なども含めると、記事の大半を自ら書いた。寄稿は編集者によるものを含めほとんどがペンネームで、外骨以外の編集者、寄稿者で実名がはっきりしているのは三好、溝口駒造、板橋菊松森近運平、松崎天民、結城禮一郎、寺門咲平の7人。印刷は福田友吉が担当した。

モットーは『威武に屈せず富貴に淫せず、ユスリもやらずハッタリもせず、天下独特の肝癪(かんしゃく)を経(たていと)とし色気を緯(よこいと)とす。過激にして愛嬌あり』。時事批評だけでなく下世話な世相の話題まで扱い、現代の週刊誌に相当する内容であった。外骨の記事は巧みに仕込まれた毒とパロディー精神に富み、さらに挿絵も腕の良い職人(実名がはっきりしているのは墨池亭黒坊こと前野一廣竹久茂次郎)の手になるもので一般大衆に人気を博した。活字(文字約物)を並べて絵に見せたり、他愛ない小説に見せかけて(縦組みのページを)横に読むと性的なネタが隠れていたりと今日各種ウェブサイトで一般化した技法(アスキーアート縦読みなど)の原形も見られる。検閲などのため刊行が遅れることが多く途中からは「例の延刊」と自ら表紙に載せ、たまに予定通り発行されると「例の延刊にあらず」とネタにしたほどだった[11]。最盛期の部数は8万部。この時代の雑誌としてはトップクラスの売れ行きだった。そのため類似誌も『いろは新聞』『東京滑稽新聞』『あづま滑稽新聞』『滑稽界』『東京滑稽』『江戸ツ子』『ポテン』『滑稽雑誌』『名古屋滑稽』『釜山滑稽新聞』など多数登場し、外骨は「猿雑誌」と類似誌を評しつつ『滑稽新聞』の影響力を自慢した。先述の野口茂平に対しては、野口が誹毀罪で告訴したためもあるが、毎号野口がさらし首にされた絵を載せ攻撃し続けるなど長期間にわたって追跡する記事が多かった。これらが他誌にまま見られた金銭などのユスリ目的ではないことは野口も承知していた[12]

明治41年(1908年)10月、当局は『滑稽新聞』に対して発行禁止命令を出した。外骨は発行禁止に先んじて173号を以て「自殺号」として廃刊。しかし翌月には『大阪滑稽新聞』を創刊して事実上の後継誌とした(31号までで外骨は編集を離れたが、大正3年(1914年)まで存続)。同誌では批判対象の伊藤博文井上馨山縣有朋の死期を当てる懸賞という不謹慎企画を立てた(明治42年(1909年10月15日号、通巻24号)[13]。外骨は懸賞商法を批判していたが内務省が10月15日付で規制に乗り出したため、わざと懸賞を始めたのである。その直後に伊藤が安重根に暗殺されると11月1日号(通巻25号)は風俗関連の記事が安寧秩序を乱し、風俗を害するとして発禁となった。11月15日号(通巻26号)では伊藤追悼一色のマスコミを批判し「非常の死は幸福」と題して津田三蔵[14]小山六之助李鴻章襲撃犯)を例に挙げ[15]、暗に安を擁護した。これも発禁処分となった。また12月15日号(通巻28号)では「我輩と社会主義」と題し、「社会主義者ではない」が社会主義を取り入れた国家社会主義によって「今日の政弊を除去し得られる」と主張したがこれは発禁にはならなかった。外骨と編集発行人の金子又次郎は25号、26号について自首した。その結果、大阪区裁(村野美雄裁判長)は25号、26号の記事を無罪としたが代わりに検察が問題にしなかった「我輩と社会主義」を有罪とし又次郎は新聞紙法違反で罰金80円、外骨は禁錮2ヶ月の実刑判決を受けた。

『スコブル』以降
大正4年(1915年)、第12回衆議院議員総選挙に立候補し「政界廓清(かくせい)・選挙違反告発候補者」を名乗り選挙違反を片っ端から告発。落選運動の走り的存在といえた。結果は259票と、法定得票には辛くも到達したが落選。一部の高額納税者にしか選挙権が無いという当時の選挙制度を正面から批判した。

大正5年(1916年)、月刊誌『スコブル』を創刊し軌道に乗せた。大正6年(1917年)、第13回衆議院議員総選挙でも再び選挙違反告発を目的として立候補。『スコブル』に選挙違反告発の目的を達成できなくとも「自己の賣名」は達成できると開き直ったり、投票日前に「落選報告演説會」の告知を出したりした。この時代の総選挙は厳密には立候補制ではなくどこの選挙区で運動することも可能だったが、東京市、大阪市それぞれの選挙区でいずれも3票と惨敗した。ちなみに「落選報告演説會」は落選後予定どおり開催され、外骨の他、外骨を下回る2票で惨敗した職工の厚田正二、1295票で法定得票には到達したが及ばなかった講釈師の伊藤痴遊も弁士として出席し盛況であった。入口に「入場料金三銭、貧民無料、新聞記者は貧民同様無料」と掲げたところ新聞記者たちは始めはそのまま入場しかけたが、「貧民同様」の文言にプライドを刺激されたのか慌てて入場料を支払ったという。

また、社会主義には当初は「到底世人の賛同を得られまい」「今の政府者がコンナ社會主義者を怖がるのは何故であるか、我々は其の理由が判らない」(『滑稽新聞』通巻125号)と冷めた見方をしていた。その後は「極端なる社會主義の実行には不賛成」だが「(政府を)普通尋常の手段で攻撃してもその功は無い、これは社會主義でおどかして改心せしめるより外に途はない」(『滑稽新聞』通巻139号)と間接的に評価するようになった。さらに思想的には距離を置きつつも森近の『大阪平民新聞』刊行を援助し「平民新聞の提灯持ち」を自称したため、特別高等警察に「社會主義派」の「特別要視察人」としてマークされた[16]。森近が師事した幸徳秋水にも好意的で面識はないが幸徳の死刑廃止論を評価し、第二次大戦後になって『明治社会主義文献叢書』(龍吟社)の秋水文集の編纂に協力している。その後吉野作造民本主義に傾倒し、大正8年(1919年)3月には雑誌『民本主義』を創刊した。しかし創刊からわずか4日後に即発禁処分となり廃刊させられている。大正13年(1924年)に吉野が明治文化研究会を立ち上げた際にも、外骨は同人として名を連ねている。

昭和2年(1927年)、博報堂の創業者で外骨の友人瀬木博尚の寄付により、東京帝国大学法学部に明治新聞雑誌文庫(通称「明治文庫」)が創立された。外骨は事務主任(東京帝国大学嘱託)となり、吉野作造とともにその充実に貢献した。外骨は全国の旧家を回るなどして新聞・雑誌の収集を行った。これらの資料は文化史的に価値のあるもので、広く研究のための利用に供されている(後に明治新聞雑誌文庫は、東京大学大学院法学政治学研究科附属「近代日本法政史料センター」の一部門に改組)[17]

終戦後もGHQによる検閲や発禁処分を度々受け、「何が言論の自由か」と言論の規制を敷いている点では戦前の日本政府とGHQは大して差が無いことを批判した。

昭和24年(1949年)に東京大学(昭和22年(1947年)に東京帝国大学から新制東京大学に改称)を退職。昭和30年(1955年)7月30日に文京区駒込追分町の自宅で老衰により死去。享年89。戒名は質直院外骨日亀居士[18]。晩年は容姿がガンジーに似ているといわれた。

家族及び親族
父親の宮武吉太郎は代々の庄屋の仕事のほかに酒造・砂糖業を営んでいた[19]。兄の宮武南海(1861年生)は出版社「進歩館」や私塾「東京学館」などを経営したほか[20][21]、東京市会議員[19]、日動火災海上保険の取締役なども務めた[22]。外骨が収監中には『頓智協会雑誌』の後継誌として『頓智会雑誌』を創刊した[23]

外骨自身は結婚しているが、若くして妻子に先立たれている。明治25年(1892年)に緒方八節(おがた やよ)と連れ添い[24]、外骨が27歳の時に八節との間に、一男天民(てんみん)をもうけたが、わずか1歳で天民は夭折。大正4年(1915年)、バセドー氏病を患った妻・八節とも48歳の時に死別している[24]。八節は旧肥後高瀬藩主・細川利愛の子・緒方倫親の娘だが、明治維新後、貧困のため妾奉公などを経て外骨の下女となり、そののち妻となった[25]。八節の父親の倫親は幼児期に細川家から緒方家に養子に出された際に細川家から生涯年金が支払われる約束を得ていたが、廃藩置県を機にその支給が途絶えていた[25]。倫親の貧窮ぶりを見た外骨は、倫親の兄である細川家当主細川利永子爵にかけあったが拒否されたため、事の次第を告発する文書を作成したり、民事訴訟を起こすなどして細川家の非情を世に訴えた[25]。同じ華族醜聞事件として世を賑わせた相馬家事件で一儲けした黒岩涙香萬朝報が「細川家事件」として外骨に取材して連載する予定だったが、細川家からの依頼でこれを反故にしたため、外骨と黒岩は生涯反目したと言われる[25]

明治39年(1906年)に養女にした三千代は大正13年(1924年)に嫁ぎ先で流産の為に死去。その死を知らせて来た電報を外骨は生涯手元に置いていた。もともと『滑稽新聞』の顧問弁護士・日野国明の娘だった三千代は、八節が亡くなった年に実家の日野家に復籍、大正11年に上野高等女学校を卒業後、吉野作造を媒酌人に、吉野の教え子の東京帝国大学法学部出で住友総本店に勤務していた石川清と結婚、亡くなったときはまだ19歳だった[24]

大正11年(1922年)に吉原の元遊女だった小清水マチ(末知)と暮らし始め、のちに再婚したが、昭和3年(1928年)にマチは書生との密通を外骨に問い詰められて猫いらずで服毒自殺した[24]。その一週間後、39歳の水野和子(まさこ)と再婚、昭和15年に和子が脳溢血で亡くなると稲田能子(よしこ)と再婚した[24]。八節の前に同棲していた房子を入れると外骨は生涯に5人の女性を妻とした。

晩年の外骨と生活をともにし外骨の伝記や復刻本を多数刊行、近代史関係の著作もある吉野孝雄は甥(最後の妻・能子の妹の子)。

従兄弟の曾孫にフリーライターで宮武外骨を研究するグループ「ぐわいこつふあんくらぶ」会長の、砂古口早苗(さこぐち さなえ、昭和24年(1949年) - )がいる。

刊行物及び著書
雑誌・新聞
・『屁茶無苦新聞』明治19年(1886年)4月 ※1号のみ
・『頓智新聞』明治19年(1886年)10月 ※1号のみ
・『絵入広告新聞』明治19年(1886年)11月 ※1号のみ
・『頓智協会雑誌』明治20年(1887年)4月~明治22年(1889年)2月 ※1~28号
・『宮武雑誌』明治20年(1887年)12月 ※1号のみ
・『西洋叢談』明治21年(1888年)3月 ※1号のみ
・『文明雑誌』明治26年(1893年)3月 ※1号のみ
・『頓智と滑稽』明治28年(1895年)5月~11月 ※1~7号
・『骨董雑誌』明治29年(1896年)11月~明治31年(1898年)10月 ※1号~第3編4号
・『半狂堂随筆』明治29年(1896年)11月~明治30年(1897年)10月 ※1~8集「骨董雑誌」付録
・『古今内外名数雑誌』明治30年(1897年)8月 ※1号のみ
・『骨董協会雑誌』明治32年(1899年)1月~4月 ※1~4号
・『美術国』明治32年(1899年)4月 ※1号のみ
・『台北新報』明治32年(1899年)10月 ※1号のみ
・『滑稽新聞』明治34年(1901年)1月~明治41年(1908年)10月 ※1~173号
・『活殺』明治40年(1907年)5月 ※1号のみ
・『絵葉書世界』明治40年(1907年)5月~明治42年(1909年)6月 ※1~26集「滑稽新聞」増刊
・『月雪花』明治40年(1907年)5月~6月 ※1~2集「絵葉書世界」付録
・『教育画報 ハート』明治40年(1907年)10月~明治41年(1908年)1月 ※1~3号
・『大阪滑稽新聞』明治40年(1907年)10月~明治42年(1909年)4月 ※1~19号
・『大阪滑稽新聞』明治41年(1908年)11月~明治43年(1910年)2月 ※1~31号
・『此花』明治43年(1910年)1月~明治45年(1912年)7月 ※1枝~周落号
・『有名無名』明治45年(1912年)4月~6月 ※1~2号
・『日刊 不二 新聞』大正2年(1913年)4月~大正3年(1914年)4月 ※1~300号
・『月刊 不二 雑誌』大正2年(1913年)10月~大正3年(1914年)3月 ※1~10号
・『興味雑誌 奇』大正3年(1914年)5月~11月 ※1~7号
・『天下茶屋』大正3年(1914年)12月 ※1号のみ
・『ザックバラン』大正4年(1915年)5月~7月 ※1~2号
・『袋雑誌—新刊十二種』大正4年(1915年)11月 ※1号のみ
・『猥褻研究会雑誌』大正5年(1916年)6月 ※1号のみ
・『スコブル』大正5年(1916年)10月~大正8年(1919年)2月 ※1~27号
・『男女性学雑誌』大正7年(1918年)1月~2月 ※1~2号
・『迷信研究雑誌』大正7年(1918年)1月~2月 ※1~2号
・『民本主義』大正8年(1919年)3月 ※1号のみ
・『赤』大正8年(1919年)7月~大正9年(1920年)2月 ※1~7号
・『逃避文学』大正11年(1922年)5月~大正12年(1923年)5月 ※1~4号
・『変態知識』大正13年(1924年)1月~12月 ※1~12号
・『早晩廃刊雑誌』大正15年(1926年)4月 ※1号のみ
・『奇抜と滑稽』昭和2年(1927年)5月~9月 ※1~5号
・『面白半分』昭和4年(1929年)6月~11月 ※1~6号
・『公私月報』昭和5年(1930年)11月~昭和15年(1940年)3月 ※1~109号
・『ふたな』昭和12年(1937年)9月 ※1号のみ

詳しいことは、「宮武外骨ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E6%AD%A6%E5%A4%96%E9%AA%A8    
(wikiより)

11 宮武外骨

宮武外骨

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時代江戸時代後期 - 明治時代
生誕寛政10年6月26日1798年8月8日
死没明治11年(1878年10月4日
改名起之進(幼名)→松平光庸→戸田光庸
別名左京、主馬(通称)、尤香斎(号)
墓所東京都豊島区駒込染井霊園
官位従五位下、弾正少弼、丹波
幕府江戸幕府
主君徳川家斉家慶
信濃松本藩
氏族戸田松平家→戸田家
父母父:松平光行、母:錠姫(松平光悌の娘)
養父:松平光年
伊保子久世広誉の娘)
小笠原長国光則内藤政恒戸田光芬(四男)、戸田光遠野々山義比(六男)、康載(板倉勝観)、貞(安藤直裕正室)、孝(島津忠寛継室のち九鬼隆備正室)
養子:光領

松平 光庸(まつだいら みつつね)は、信濃松本藩の第8代藩主。戸田松平家13代。

生涯
寛政10年(1798年)、松本藩の第6代藩主・松平光行の三男として生まれる。母・錠姫は光行の正室で、第5代藩主・松平光悌の娘である。文政2年(1819年)7月8日、第7代藩主・松平光年(母方のおじにあたる)の養子となる。同年9月1日、将軍・徳川家斉に拝謁する。文政3年12月16日(1821年)、従五位下・弾正少弼に叙任する。天保8年(1837年)3月30日、光年の死去により家督を相続した。

文化13年(1816年)、産物会所を設置して領内の産業を奨励した。 天保12年(1841年)、藩の財政改革を巡って譜代家臣と新参家臣が対立し、お家騒動(戸田図書事件)が起こる。弘化2年(1845年)10月22日、家督を次男の光則に譲り、隠居して尤香斎と称する。明治5年(1872年)2月5日、東京に移住する。明治11年(1878年)、葛飾郡須崎村の邸宅で死去した。

系譜
父母
松平光行(実父)
・錠姫 ー 松平光悌の娘(実母)
松平光年(養父)[1]

正室
・伊保子 ー 久世広誉の娘

側室
・吉野曽興子
・浅野氏

子女
小笠原長国[2](長男)
松平(戸田)光則(次男)生母は吉野氏(側室)
内藤政恒[3](三男)生母は伊保子(正室)
戸田光芬(四男)
戸田光遠(五男)
野々山義比(六男)
松平(松井)康載[4](九男)
・貞 ー 安藤直裕正室
・孝 ー 島津忠寛継室のち九鬼隆備正室

養子
松平光領 ー 松平光年の四男

脚注
1. 松平光悌の長男
2. 
小笠原長和の養子
3. 
内藤政民の養子
4. 
松平康英の養子、生家へ復籍ののち板倉家に入婿(板倉勝観と改名)
(wikiより)

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時代江戸時代後期 - 明治時代
生誕天保10年1月24日1839年3月9日
死没明治12年(1879年12月27日[1]
別名通称:連麿[2]
墓所豊島区染井霊園
主君孝明天皇明治天皇
氏族中山家正親町家
父母父:中山忠能、母:中山愛子
養父:正親町実徳、養母:山内豊敬の六女
兄弟中山忠愛中山慶子公董中山忠光
季董、兎美子、弥栄、春香
養子:実正

経歴
山城国京都権大納言中山忠能の二男として生まれ[3]、権大納言・正親町実徳の養子となる[1]嘉永4年3月23日1851年4月24日)に元服し昇殿を許された[4]。嘉永5年7月3日1852年8月17日)左近衛権少将安政3年2月14日1856年3月20日)国事寄人となる[1][4]

文久3年5月(1863年6月)長州藩が外国船への砲撃を行い攘夷を決行すると、同年6月14日(7月15日)長門国監察使に任じられ長州藩に攘夷実行嘉賞の勅諚を届け、三田尻三条実美と会見した[1][4]。同年八月十八日の政変により、同年10月7日(11月4日)三条との会見を咎められ差控となり、慶応3年1月25日1867年3月1日)に赦免された[1][4]

王政復古後、慶応3年12月13日1868年1月7日)参与に就任し、慶応4年2月2日(1868年2月24日)左近衛権中将に任じられた[2]。同年2月9日(3月2日)東征大総督参謀となり、さらに奥羽追討白河口総督を務め各地を転戦し、明治元年11月5日(1868年12月18日)京都に帰還した[2]。その後、兼皇后宮亮、三等陸軍将、十津川郷巡察使、陸軍少将などを歴任[2]。明治2年6月2日1869年7月10日)戊辰の戦功により賞典禄300石を永世下賜された[2]。明治4年3月24日1871年5月13日)に免本官となる[2]

1873年12月、河鰭実文秋月種樹らと華族の職責を果たすことを目的とした通款社を設立した[5]

系譜
・父:中山忠能
・母:中山愛子
・養母:高知藩山内豊敬六女[5]
・養父:正親町実徳
・妻:宮田濱子(季董生母、その他不詳)
 ・三男:正親町季董男爵[6]
 ・女子:兎美子 - 伯爵正親町実正夫人
 ・女子:弥栄 - 牧野弼成正室
 ・女子:春香 - 子爵園池実康夫人
 ・女子:継子(六女)
・養子
 ・男子:正親町実正(養父の長男、伯爵[6]
・妾:せき - 神戸市の鈴木氏知(長谷川猪三郎父)の妹[7]
 ・女子:亀子(1892年3月生)- 藤原瑩宣(東京本法寺住職)の妻[7][8]
 ・女子:幸子(1894年9月生)- 菊亭公長の妻(別名・章子)[7][8]。最晩年に志賀潔の曾孫・直子(1968年生)を養子とする。

脚注
1. a b c d e 『明治維新人名辞典』179-180頁。
2. 
a b c d e f 『百官履歴 下巻』450-452頁。
3. 
『平成新修旧華族家系大成』上巻、273頁では三男。
4. 
a b c d 『正親町家譜』
5. 
a b 『明治時代史大辞典 第三巻』316頁。
6. 
a b 『平成新修旧華族家系大成』上巻、273-274頁。
7. 
a b c 『弊風一班 蓄妾の実例』黒岩涙香、現代教養文庫、社会思想社、1992年、p183 
8. 
a b 中山孝麿『人事興信録』第4版 [大正4(1915)年1月]

参考文献
・修史局編『百官履歴 下巻』日本史籍協会、1928年。
・日本歴史学会編『明治維新人名辞典』吉川弘文館、1981年。
霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』上巻、霞会館、1996年。
安岡昭男編『幕末維新大人名事典』上巻、新人物往来社、2010年。
・宮地正人・佐藤能丸・櫻井良樹編『明治時代史大辞典 第三巻』吉川弘文館、2013年。
・『正親町家譜』1875年。東京大学史料編纂所所蔵。
(wikiより)

9a

9b




生誕1888年明治21年)10月12日
日本の旗 日本茨城県[1]
死没1957年11月29日(69歳没)
所属組織 大日本帝国海軍
軍歴1916年 - 1945年
最終階級 海軍技術中将
墓所豊島区染井霊園

徳川 武定(とくがわ たけさだ、1888年明治21年〉10月12日 - 1957年昭和32年〉11月29日)は、日本の海軍軍人(海軍造船官)、造船学者華族東京帝国大学教授、海軍技術研究所所長。最終階級は海軍技術中将工学博士子爵

生涯
武定の父・徳川昭武は最後の水戸藩主であったが、1883年明治16年)に水戸徳川家家督を甥(前藩主であった長兄・慶篤の遺児)の篤敬に譲って隠居した後、実子の武定をもうけた。1892年(明治25年)5月3日、父の勲功により特旨によって武定は華族に列し子爵を叙爵して[2]松戸徳川家が創設された。

東京高等師範学校附属小学校東京高等師範学校附属中学校第八高等学校を経て[3]1916年大正5年)7月に東京帝国大学工科大学造船学科を卒業[3][4]

1918年(大正7年)12月に海軍造船大技士(大尉相当官)、呉海軍工廠造船部員[3][注釈 1]。海軍に入ってから平賀譲(のちに海軍技術中将・東京帝国大学総長)の部下となり、その影響を強く受けた[5]八八艦隊計画では、4万7000トン・18インチ砲搭載の巨大戦艦を設計した。1922年(大正11年)3月から1925年(大正14年)3月まで、3年間イギリスに私費留学した[3]

1924年(大正13年)から1944年昭和19年)まで20年にわたって海軍技術研究所に勤務した。当初、同研究所は築地市場の傍にあったが、徳川はしばしば市場に通っては魚を観察して、新造艦のアイデアを求めたと言われている[6]。特に昭和初期に帝国海軍が優秀な潜水艦を多数保有できた[7][8]のは、徳川の研究成果によるところが大きいとされている[8][9][10][11]1942年(昭和17年)11月、海軍技術中将に進級すると共に海軍技術研究所長に就任し、1944年(昭和19年)12月に海軍艦政本部出仕となり、1945年(昭和20年)4月に予備役に編入された[3]

海軍士官として勤務しつつ、東京帝国大学工学部教授を、1938年(昭和13年)3月から1944年(昭和19年)10月まで兼任した[3]

戦後公職追放令によって、一時丸善の顧問(研究員)となる[12]が、畑違いと思われた永井荷風の研究論文で文学界の注目を集めた。また、技術者らしく「ペンを科学する」というペン先を科学的に分析した研究論文も執筆した[13]。追放解除後は、防衛庁技術研究所[14]川崎重工業の顧問を務めて、日本の造船業の再建に尽力した。

松戸市にある武定の邸宅である戸定邸には多くの工学関連、あるいは趣味によるアフリカ関連書籍が収蔵されていた[15]。前者は藤原工業大学慶應義塾大学に統合)、後者は天理大学に寄贈された。

1951年(昭和26年)に戸定邸を松戸市へ物納し、以後はその離れに住した。登山も楽しんだ[16]

栄典
1913年大正2年)11月1日 - 正五位[17]

家族
妻は徳川達孝の四女・繡子(ぬいこ)[18](母・鏡子は昭武の七兄・徳川慶喜の長女)。その間に長女・宗子(ときこ)がおり、その婿・徳川博武(母・保子は昭武の十三兄・土屋挙直の娘)が松戸徳川家を継いだ[18]。ついで博武・宗子の子の徳川文武が3代当主となっている。

脚注
注釈
・出典には、海軍造船中技士(中尉相当官)への任官については記載がない。

出典
1. デジタル版 日本人名大辞典+Plus「徳川武定」 (日本語)
2.  『官報』第2652号、1892年明治25年)5月4日、p26。
3. 
a b c d e f 秦 2005, p. 232, 第1部 主要陸海軍人の履歴-海軍-徳川武定
4. 
高木 1917, pp. 145–150.
5. 
山本 1997, pp. 39–43.
6. 
谷口 1970, pp. 53–57.
7. 
鬼頭 1979, pp. 620–623.
8. 
a b 鬼頭 1967, pp. 523–528.
9. 
竹沢 1978, pp. 467–474.
10. 
吉織 1980, pp. 267–272.
11. 
山本 2000, pp. 812–814.
12. 
「鹿鳴館資料・1867年渡仏の徳川民部公子一行に関する資料・その他(德川武定氏出品)」『日仏文化交流展 : 解説及出品目録 資料,文献,絵画 日仏文化協定締結記念』文化懇話会、国際文化振興会、東洋文庫(編)、丸善、1953年(昭和28年)、p76(コマ番号0048.jp2)、全国書誌番号:54013658doi:10.11501/2987565。戦後の日仏文化交流再開を祝う展覧会の図録。徳川は父・昭武がフランスを訪問したとき受贈した懐中時計ほかを出展した。会期は1953年(昭和28年)11月3 - 14日、会場は日本橋丸善本店。
13. 
中村 1985, pp. 427 -.
14. 
佐藤 2003, pp. 676–682.
15. 
新聞集成昭和編年史 2003, p. 418.
16. 
小林義正「徳川武定氏」『山と書物』築地書館、1957年、343頁。doi:10.11501/3013071全国書誌番号:57000125国立国会図書館内限定・図書館送信対象(コマ番号0191.jp2)
17. 
官報』第379号「叙任及辞令」1913年(大正2年)11月3日。
18. 
a b 平成新修旧華族家系大成、p173。

参考文献
主な執筆者名の50音順。
霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』 下巻、東京 : 霞会館、吉川弘文館 (発売)、1996年11月、173頁。:注記『昭和新修華族家系大成』1982年刊(昭和57年)の改訂版。
・鬼頭史城「流体力学の回顧」『造船協会誌』第462号、1967年12月25日、523 - 528頁、doi:10.14856/kyokaisi.462.0_523
・鬼頭史城「水力学よもやまばなし」『日本機械学会誌』第82巻第727号、1979年6月5日、620 - 623頁、doi:10.1299/jsmemag.82.727_620
・佐藤隆一「防衛庁技術研究本部第1研究所(〈シリーズ〉研究所紹介)」『Techno marine 日本造船学会誌』第875号、2003年9月10日、676 - 682頁、doi:10.14856/technom.875.0_676
・高木栄二郎「耐圧球殻の圧壊強度について」『日本造船学会誌』第501号、1971年、145 - 150頁、doi:10.14856/zogakusi.501.0_145
・竹沢誠二「本邦試験水槽発達小史〔1〕」『日本造船学会誌』第592号、1978年10月25日、467 - 474頁、doi:10.14856/zogakusi.592.0_467
・谷口中「船型開発ものがたり (その 1)」『日本造船学会誌』第488号、1970年、53 - 57頁、doi:10.14856/zogakusi.488.0_53
・中村貴憲「漢字の制限などについて思うこと」『日本造船学会誌』第673号、1985年7月25日、427 -、doi:10.14856/zogakusi.673.0_427
秦郁彦(編著)『日本陸海軍総合事典』(第2)東京大学出版会、2005年。
・明治大正昭和新聞研究会(編)「『アフリカ文献』を完成・徳川武定博士三十年の努力」『新聞集成昭和編年史』 昭和27年版、3号、新聞資料出版、2003年4月、418頁。<GB511-H9>
・山本善之「平賀 譲先生を考える2」『らん:纜』第38号、1997年12月30日、39 - 43頁、doi:10.14856/ran.38.0_39
・山本善之「徳川武定先生と鬼頭史城先生」『Techno marine 日本造船学会誌』第857号、2000年11月25日、812 - 814頁、doi:10.14856/technom.857.0_812
・吉織正雄「弾性安定論覚書」『日本造船学会誌』第611号、1980年5月25日、267 - 272頁、doi:10.14856/zogakusi.611.0_267

関連資料
 脚注に使用していないもの。発行年順
・松戸市教育委員会(編)『松戸徳川家資料目録』第2集、松戸市教育委員会、1990年。<GK138-E25>
・原剛、安岡昭男(編)「徳川武定」『日本陸海軍事典』新人物往来社、1997年、p466。<A112-G101>
・「徳川武定」『ドキュメント人と業績大事典』第16巻、ドキュメント人と業績大事典編集委員会(編)、ナダ出版センター、2001年、p52。<GK13-G691>
沢井実「徳川武定」『近代日本の研究開発体制』名古屋大学出版会、2012年、p86。<M33-J39>
板倉聖宣(監修)「徳川武定(造船工学)」『事典日本の科学者 : 科学技術を築いた5000人』日外アソシエーツ、2014年、p535。<M2-L18>

関連項目
水力学
弾性
土浦藩
流体力学       
(wikiより)

8 徳川武定

徳川武定

8a

8b

8c




時代江戸時代後期 - 明治時代
生誕天保4年8月11日1833年9月24日
死没明治27年(1894年10月5日
別名通称:半之丞
墓所豊島区染井霊園
官位従五位下正五位従四位正四位備中守丹後守子爵
幕府江戸幕府
主君徳川家慶家定家茂慶喜明治天皇
和泉伯太藩
氏族三河渡辺氏
父母父:渡辺潔綱
兄弟章綱寛綱隆綱、里(永井直幹正室)、稲垣太祥継室、永井尚敏正室
正室:内藤頼寧の娘
恭綱(長男)
養子:寛綱(実弟)

渡辺 章綱(わたなべ あきつな)は、江戸時代後期の大名明治時代華族和泉伯太藩最後(第9代)の藩主で同藩初代(最後)知藩事。華族としての爵位は子爵

略歴
天保4年(1833年)、第8代藩主・渡辺潔綱の長男として誕生する。弘化3年(1846年)9月1日、第12代将軍・徳川家慶御目見した。

弘化4年(1847年)5月23日、父・潔綱の隠居により、家督を相続した。同年12月16日、従五位下備中守に叙任した。後に丹後守に改めた。安政3年(1856年)2月8日、大坂加番を命じられる。また、日光祭祀奉行を務めた。元治元年(1864年)6月25日、大和橋などの警備を命じられた。慶応4年(1868年)3月16日、上洛する。

明治2年(1869年)の版籍奉還藩知事となるが、明治4年(1871年)7月15日の廃藩置県で免官となる。同年9月28日、東京に移る。明治17年(1884年)、子爵となった。

明治27年(1894年)、死去。享年62。
(wikiより)

7 渡辺章綱

渡辺章綱

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7c




樺山 愛輔(かばやま あいすけ、慶応元年5月10日1865年6月3日) - 昭和28年(1953年10月21日)は、日本の実業家政治家華族貴族院伯爵議員伯爵樺山資紀の長男。

生涯
1865年薩摩藩士・樺山資紀の長男として鹿児島に生まれた。1878年米国に留学。1885年コネチカット州ウェズリアン大学に入学。[1]その後、1887年アマースト大学に編入。アマースト大学卒業後はドイツボン大学に学ぶ。実業界に入り、函館どつく日本製鋼所十五銀行などの役員を務める。1922年、父資紀(海軍大将、伯爵)の死後、爵位を襲爵した。1925年7月10日に貴族院議員に選任され[2]1946年6月13日まで務めた[3][4]1930年ロンドン海軍軍縮会議には随員として参加。太平洋戦争中は、近衛文麿原田熊雄吉田茂、盟友の松平恒雄などと連携していわゆる「ヨハンセングループ」の終戦工作に従事した。1946年枢密顧問官に就任。翌年日本国憲法の施行により枢密院廃止。公職追放となる[5]

20年以上の滞米経験から米国内に多くの知己を持ち、日米協会会長や国際文化振興会顧問、国際文化会館理事長、ロックフェラー財団などの国際的文化事業にも携わった。墓所は染井霊園

栄典
位階
1885年(明治18年)6月10日 - 従五位[6][7]
1894年(明治27年)6月30日 - 正五位[6]
1901年(明治34年)6月21日 - 従四位[6]
1913年(大正2年)6月30日 - 正四位[6]
1924年(大正13年)11月15日 - 従三位[6][8]
1932年(昭和7年)12月2日 - 正三位[6][9]
1941年(昭和16年)12月15日 - 従二位[6]

勲章等
1922年(大正11年)2月28日 - 伯爵襲爵[6]
1928年(昭和3年)11月10日 - 金杯一個大礼記念章(昭和)[6]
1931年(昭和6年)
 ・5月1日 - 帝都復興記念章[6][10]
 ・10月31日 - 勲三等瑞宝章[6]
1932年(昭和7年)10月1日 - 朝鮮昭和五年国勢調査記念章[6]
1934年(昭和9年)
 ・2月1日 - 御紋付銀盃[6]
 ・4月29日 - 旭日中綬章昭和六年乃至九年事変従軍記章[6]
1940年(昭和15年)
 ・4月29日 - 勲二等瑞宝章支那事変従軍記章[6]
 ・11月10日 - 紀元二千六百年祝典記念章[6]
1944年(昭和19年)1月15日 - 御紋付木盃[6]

外国勲章佩用允許
1934年(昭和9年)3月1日 - 満洲帝国大満洲国建国功労章[6]
1935年(昭和10年)9月21日 - 満洲帝国満洲帝国皇帝訪日記念章[6]
1937年(昭和12年)10月7日 - ベルギー王国:ゲーロンヌ勲章グランオフィシエ[6]
1941年(昭和16年)12月9日 - 満洲帝国建国神廟創建記念章[6]

家族
・妻・常子は、伯爵川村純義の娘。兄に鉄太郎大寺純藏がいる。
・長男・丑二は、東宝取締役、モルガン銀行東京支店顧問。妻の梅子は橋本圭三郎の娘。
・長女・泰子は、男爵近藤廉平の二男・廉治の妻。「不良華族事件」も参照。
・二女・正子は、白洲次郎の妻。

脚注
1. Bronson Potts, David. Wesleyan University, 1831-1910: Collegiate Enterprise in New England. Yale University Press, 1992, p. 345.   
2. 
『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年、33頁。
3. 
『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』25頁。
4. 
『官報』第5828号、昭和21年6月20日。
5. 
『朝日新聞』1947年6月22日一面。
6. 
a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u 樺山愛輔」 アジア歴史資料センター Ref.A06051186300   
7. 
『官報』第582号「賞勲叙任」1885年6月11日。
8. 
『官報』第3672号「叙任及辞令」1924年11月18日。
9. 
『官報』第1779号「叙任及辞令」1932年12月3日。
10. 
『官報』第1499号・付録「辞令二」1931年12月28日。

参考文献
・衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。

外部リンク
国立国会図書館 憲政資料室 樺山愛輔関係文書     
(wikiより)

6 樺山愛輔

樺山愛輔

6a1

6b




生誕1876年12月21日
日本の旗 日本東京府
死没1951年3月5日(74歳没)
所属組織 大日本帝国海軍
軍歴1898年 - 1924年
最終階級 海軍少将
除隊後講道館長
墓所豊島区染井霊園

南郷 次郎(なんごう じろう、1876年明治9年)12月21日 - 1951年昭和26年)3月5日)は、日本海軍軍人。最終階級は海軍少将講道館長(第2代)

経歴
東京府出身。南郷茂光の長男として生まれる。学習院海軍予科を経て、1898年(明治31年)12月、海軍兵学校26期)を卒業し、1900年(明治33年)1月、海軍少尉任官。日露戦争に第4艇隊艇長として出征し、さらに第1艇隊に属する第67号艇長として日本海海戦に参戦した。1905年(明治38年)12月、海兵幹事に就任。海軍大学校乙種学生、海軍水雷学校高等科学生として学び、1907年(明治40年)9月、「初霜駆逐艦長となり、「鹿島水雷長心得を経て、1908年(明治41年)9月、海軍少佐に昇進し「常磐」水雷長に就任。水雷学校教官を経て、1910年(明治43年)11月、海軍大学校(甲種8期)を卒業した。

1910年12月、「薩摩」水雷長となり、海兵教官を経て「浅間」副長として第一次世界大戦に出征した。1913年(大正2年)12月、海軍中佐に進級。1916年(大正5年)2月から東伏見宮依仁親王付武官を務め、1917年(大正6年)12月、海軍大佐に昇進。

1919年(大正8年)2月、「春日艦長に就任し、以後、「香取」艦長、軍令部副官、軍令部出仕を歴任。1922年(大正11年)12月、海軍少将に進み佐世保防備隊司令に就任した。1923年(大正12年)12月、待命となり、1924年(大正13年)2月、予備役に編入された。

講道館の創始者である嘉納治五郎の甥である縁から、海軍退役後に講道館第2代館長を務めた。

栄典
位階
1900年(明治33年)2月20日 - 正八位[1]
1901年(明治34年)12月17日 - 従七位[2]
1903年(明治36年)12月19日 - 正七位[3]
1908年(明治41年)12月11日 - 従六位[4]
1914年(大正3年)1月30日 - 正六位[5]
1918年(大正7年)1月30日 - 従五位[6]
1922年(大正11年)12月28日 - 正五位[7]
1924年(大正13年)3月24日 - 従四位[8]

勲章等
1914年(大正3年)5月16日 - 勲四等瑞宝章[9]
1921年(大正10年)7月1日 - 第一回国勢調査記念章[10]

外国勲章佩用允許
1919年(大正8年)1月22日
 ・イギリス帝国ロイヤル・ヴィクトリア勲章コマンダー[11]
 ・イタリア王国聖マウリッツィオ・ラザロ勲章コメンダトーレ[11]
 ・ベルギー王国:王冠第三等勲章[11]
 ・フランス共和国レジオンドヌール勲章オフィシエ[11]

親族
・長男 南郷茂章(海軍少佐、戦死)
・三男 南郷茂男(陸軍中佐、戦死)
・娘婿 矢田健二(海軍技術大佐)
・弟 南郷三郎日本綿花社長)・九里四郎洋画家
・叔父 嘉納治五郎(母の弟)・遠藤喜太郎(海軍少将、父の弟)
・義父 堤正誼男爵

脚注
1. 『官報』第4989号「叙任及辞令」1900年2月21日。
2. 
『官報』第5539号「叙任及辞令」1901年12月18日。
3. 
『官報』第6142号「叙任及辞令」1903年12月21日。
4. 
『官報』第7640号「叙任及辞令」1908年12月12日。
5. 
『官報』第451号「叙任及辞令」1914年1月31日。
6. 
『官報』第1647号「叙任及辞令」1918年1月31日。
7. 
『官報』第3126号「叙任及辞令」1923年1月4日。
8. 
『官報』第3483号「叙任及辞令」1924年4月7日。
9. 
『官報』第539号「叙任及辞令」1914年5月18日。
10. 
『官報』第2858号・付録「辞令」1922年2月14日。
11. 
a b c d 『官報』第3369号「叙任及辞令」1919年1月24日。

参考文献
秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
・外山操編『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
・福川秀樹『日本海軍将官辞典』芙蓉書房出版、2000年。
・海軍歴史保存会編『日本海軍史』第10巻、発売:第一法規出版、1995年。
・「軍艦浅間准士官以上名簿」 アジア歴史資料センター Ref.C11081162800 (防衛省防衛研究所所蔵 海軍省-遣英遣米-T3-13-19 海軍省公文備考類 遣米枝隊関係書類 巻15)
(wikiより)

5 南郷次郎

南郷次郎

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中根 東里(なかね とうり、元禄7年(1694年) - 明和2年2月7日1765年3月27日))は、江戸時代中期の儒学者。名は若思、字は敬夫、通称は貞右衛門[1]

伊豆国下田村(現静岡県下田市)生まれ。父は三河国出身の農民医師を兼ねていた重勝(しげかつ)[2]。13歳のとき父が死去し、母の勧めで出家して地元の禅宗となった。のちに山城国宇治(現京都府宇治市)の黄檗山萬福寺に赴いて中国語を学び[3]、次いで江戸駒込の浄土宗蓮光寺に移り読書に励んだ。19歳で荻生徂徠に入門、のち還俗した。徂徠学に疑いを抱くようになり、朱子学に傾斜して、享保元年(1716年)23歳で加賀国金沢(現石川県金沢市)の室鳩巣に師事した。それでも満足できず、さらにのち陽明学に転じた[4]。享保20年(1735年)、弟子である下野国植野村(現栃木県佐野市植野町付近)の医師金束信甫に招かれ、信甫の家の泥月庵(のち知松庵)で塾を開き[5]、20年余りにわたって陽明学や『伝習録』をわかりやすく講じた[3]宝暦12年(1762年)、母と姉の住む相模国浦賀村(現神奈川県横須賀市)に移り、明和2年(1765年)2月7日死去、村内の日蓮宗東耀山顕正寺に葬られた[2]。著書に『学則』『新瓦(しんが)』『東里遺稿』などがある[2]

脚注
1. 中根東里 なかね-とうり 日本人名大辞典
2. 
a b c 中根東里 なかねとうり(1694 - 1765) 日本大百科全書     
3. 
a b 「中根東里」 (PDF) 『浦賀文化』第34号、浦賀行政センター、2013年7月1日   
4. 
中根東里 朝日日本歴史人物事典   
5. 
佐野市指定文化財 中根東里学則版木 佐野市       

外部リンク
中根東里の経歴(『下田の栞』による) - ウェイバックマシン(2016年5月31日アーカイブ分)
(wikiより)

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誕生山口 瞳
1926年1月19日
日本の旗 日本 東京府荏原郡入新井町(現:東京都大田区
死没1995年8月30日(69歳没)
日本の旗 日本 東京都小金井市(聖ヨハネ会桜町病院)[1]
職業小説家エッセイスト
国籍日本の旗 日本
民族大和民族
教育鎌倉アカデミア
最終学歴國學院大學文学部卒業
ジャンル小説
代表作江分利満氏の優雅な生活』(1963年)
『血族』(1979年)
『男性自身』シリーズ(1963年 - 1995年)
主な受賞歴直木賞(1965年)
菊池寛賞(1979年)
デビュー作江分利満氏の優雅な生活』(1963年)
活動期間1961年 - 1995年
子供山口正介
親族花柳若奈(妹)

山口 瞳(やまぐち ひとみ、本名同じ、1926年(大正15年)1月19日(戸籍上は11月3日) - 1995年(平成7年)8月30日)は、日本男性作家エッセイスト

妹は日本舞踊家花柳若奈(本名:栄)でジェリー伊藤の妻。作家映画評論家山口正介は息子。甥(弟・山口昭の子)にプロレスのレフェリーだったウォーリー山口(本名:山口雄介)[2]

経歴
1926年1月19日、東京府荏原郡入新井町(現:東京都大田区)に生まれる。ただし、同年同月に異母兄が生まれたため、戸籍には11月3日生まれとして届けられた[3]。父親はアイディアマンの実業家。母親は横須賀柏木田遊郭の経営者の娘で(ただし、その事実は、終生子供には隠していた。のちに山口は柏木田を舞台に『血族』を執筆)、美人で社交的で粋な女性。非常に雰囲気が明るく、交友関係も広く、派手な家庭であった。長唄三味線家元杵屋勝東治、その息子である、後の若山富三郎勝新太郎も出入りしていた。

父親の事業が一時失敗し、落魄して川崎の尻手付近に「都落ち」したこともあり、山口の中ではその赤貧時代が原風景としていつまでも残り、派手好きでありながら、一方で非常に謹直であるという複雑な性格の元となった。家族の間では「冷血動物」とあだ名されたという。

小学校時代は野球に熱中し、同級生に元東急フライヤーズ投手黒尾重明がいた。旧制麻布中学を経て旧制第一早稲田高等学院を中退。

兵役の後、1946年鎌倉アカデミアに入学し、在学中から同人誌に作品を発表。なお、鎌倉アカデミア時代には、歌人吉野秀雄に師事した。この時川端康成宅の隣に住み、養女の政子と親しくしていた[4]

国土社に入社し編集者となる。だが、正式の大学を出ていないことに対する劣等感を指摘され、師事していた高橋義孝から「正式な大学を出れば、もっと大きな出版社に紹介してあげる」と言われたことから、國學院大學文学部に入り、1954年に卒業[注 1]河出書房の「知性」編集部に勤務していたが、1957年3月に同社が倒産。同誌の続刊を図る編集長の小石原昭に従って新設の知性社に移るも、同誌は2号で廃刊となったため再び失職。

1958年開高健の推薦で壽屋(現:サントリー)に入社。PR雑誌「洋酒天国」の編集や、コピーライターとして活躍する。ハワイ旅行が当たる懸賞のコピートリスを飲んでHawaiiへ行こう!」が代表作。

婦人画報」に連載した『江分利満氏の優雅な生活』で、1963年に第48回直木賞を受賞、同作品は映画化もされた。受賞後しばらくは二足の草鞋を履いたが、「週刊新潮」の伝説的編集者斉藤十一からコラムの連載依頼を受けたことから、文筆業に専念するためにサントリーを退社。

代表作は、「週刊新潮」に1963年から31年間、延べ1614回、死去まで一度も穴を開けることなく連載を続けたコラム・日記の『男性自身』シリーズ、自らの両親の生い立ちを題材とした『血族』(第27回菊池寛賞受賞)、『家族』などがある。

血族』は、1980年1月6日から2月3日まで、NHKテレビドラマ人間模様」で脚本:早坂暁、音楽:武満徹、演出:深町幸男で全5回のドラマとして放送された(主演は小林桂樹

競馬将棋、野球に造詣が深く、全国の地方競馬場を踏破した『草競馬流浪記』、プロ棋士と駒落ちで対戦した記録『山口瞳血涙十番勝負』、プロ野球から草野球まで、野球に関するエッセイをまとめた『草野球必勝法』などの著書もある。

なお、山口の著書の表紙絵、挿絵は、その多くをサントリー時代からの友人である、柳原良平が担当している。

糖尿病を患っていたが、克服。晩年は小説の執筆をやめ、『男性自身』に集中して仕事をしていた。死の直前は肺癌が急速に悪化。直前まで本人には告知されなかった。家族がホスピスへ移すことを相談している最中に突然、状態が急変し、東京都小金井市の聖ヨハネ会桜町病院ホスピス棟にて死去[1]。死が急であったため、結果的に、『男性自身』は「アナ空き」がないことになった。戒名は文光院法国日瞳居士[5]

エピソード
将棋
将棋には幼少の頃から熱心に打ち込み、専業作家になってからも、原田泰夫の弟子である山口英夫を自宅に呼んで稽古をつけてもらっていた。また、将棋棋士たちの世界のことが一般に知られていないことに義憤を抱き、「将棋界の宣伝マン」と自ら名乗った。「将棋界は大天才の集団」と唱え、著書や観戦記などで、個性的な将棋棋士たちを紹介した。

また、師の山口英夫と飛車落ちの新定跡「瞳流6筋位取り戦法(瞳流位取り)」を研究・創案。これを用いて「血涙十番勝負」では、飛車落ちで、当時のトッププロであった米長邦雄、原田泰夫に勝利し、山田道美と引き分け、3勝6敗1分け(ただし、6敗のうちの1敗は後述する蛸島彰子との平手戦である)という結果を残した。なお、将棋では千日手や持将棋などは再試合となるため、純粋な引き分けが記録されることは殆どなく、山口の1分けという棋譜は非常に変わった記録である(山田は対局後に記した自戦記で上手側からの攻撃が難しくなる瞳流6筋位取り戦法の優秀性を認めるとともに、従来の6筋位取り戦法は6筋の位を取って中央に二枚銀を配し、飛車は4八の地点で受けに使い左玉で囲う形だったのを、飛車を6八に振って6筋の攻撃の主力にし、右玉に囲うという発展形を考案した。直後に山田が急死したため、山口はその後に行われた第四戦で山田への追悼としてこの戦法を使い、米長を破っている)。ただ、アマチュアの段位を貰うことは頑なに拒んだ。これは山口が子供の頃プロ棋士を志望したが、当時の棋士の収入の低さを不安に思ってやめてしまったという複雑な感情に起因する。

しかし、その「血涙十番勝負」の企画で、蛸島彰子初段(当時)と平手対局するにあたり、将棋連盟の強い要望によりアマ四段の免状を受けている。これは、万が一プロの二段(当時、女流棋界は発足する前で、蛸島は奨励会の初段としてプロを目指した後、二段ということで対局していた)が無段の人間に負けては示しがつかない、というのが理由である。

また「子供の頃からの夢」であった、名人戦第1局の観戦記執筆も叶えた。

だが、晩年には、山口英夫や将棋連盟の米長邦雄との間にトラブルが起きたことや、将棋界の保守的な体質に対して不信感を抱いたこともあり、将棋界との交流を絶った。[要出典]

ただし、1987年に創設された、将棋を愛する作家、ジャーナリスト、観戦記者たちの団体「将棋ペンクラブ」には参加し、「将棋ペンクラブ大賞」の選考委員も、死去するまで務めた。

なお、山口瞳から絶縁された山口英夫は、瞳の弟で、婦人洋品卸会社社長だった山口昭に招かれて将棋の指導会を行っていた[2]。ただし、昭のほうは瞳のような棋力はなく、アマチュア級位者クラスだった[6]

没後、日本将棋連盟からアマ七段の免状(二上達也会長と羽生善治名人・竜王の署名入。ただし、役職、タイトルは何れも当時)が授与された[7]

行きつけの店
東京や、取材で訪れた旅行先等で、お気に入りの店が見つかると、その店に通いつめる性格であった。そうした「行きつけの店」たちのことを、たびたび『男性自身』等に描いている。また、自らの母親の家系が「サービス業」だったせいか、「飲食業の人たちが仲間に思える。大きな顔をして客らしく構えることができず、どうしても従業員の人に気を使ってしまう」とも書いている。

ただし、執筆のための飲食では、出版社に「接待」されていたため、晩年、デビューしたばかりの田中康夫から「自分は自腹を切って、料理店の批評を書いている。山口のように自分のお金で飲食しないのでは、その店を正しく評価できない」と批判された。

礼儀作法
サラリーマン向けの礼儀作法についての作品も多く、『礼儀作法入門』はロングセラーとなっている。サントリーの新聞広告での新成人や新社会人へのメッセージは、毎年成人の日4月1日の恒例となっていた。没後は伊集院静が引き継いで続いている。

向田邦子晩年の向田邦子の、最も近くにいた作家の一人でもある。その随筆や短編小説に惚れ込み、第83回直木賞では向田を強く推薦して受賞に至らしめた。仕事の上での交友関係も続いたが、1981年8月22日の向田の突然の事故死には大きなショックを受け、「アル中寸前」にまで陥ったという。こうした向田とのエピソードの多くは、自身のエッセイ『男性自身 木槿の花』に収められている。この作品から、向田の命日は「木槿忌」と呼ばれることとなった。

なお、山口は向田の死後、「向田邦子は八方美人的なところがあり、誰もが『自分が一番愛されている』と思わせる天才だった。それゆえ嘘つきだった」と評した[要出典]。競馬を介して交流があった色川武大が死去した際も、同趣旨の追悼文を書いた。

国立
かねがね「山手線の外側には住まない」と発言していたが、サントリー退社当時、息子の山口正介が東京郊外の国立市の中学校に通っていたことから、国立に居を移し、気に入って終生の棲家とした。国立に移住する際、師と仰いだ高橋義孝の紹介による若手女性建築家に自宅の設計を任せたところ、「コンクリート打ちっぱなし、家の真ん中にある半地下の部屋が食堂」という、非常にモダンで実験的な家が出来上がった。山口自身は、和風な家が好みであったが、高橋との義理のため、このうちに我慢して住んだ。大雨の際に地下の食堂が浸水したり、晩年の足が不自由になった際でも、食堂にいくため一々階段を下りなければならない等、「実験的な家」は住むには不自由な家であった。

『男性自身』でもたびたび地元・国立のことに触れていて、なかでも谷保天満宮(やぼてんまんぐう)はお気に入りの場所だった。なお、谷保天満宮では、ある朝突然たずねてきた伊丹十三宮本信子に依頼されて、山口が立会人を務めて、その日のうちに彼等の結婚式が行われた。気さくな人柄で谷保駅前の焼き鳥屋に夜毎顔を出し、地元の人々との交流を大切にしていた。『居酒屋兆治』はそんな経緯から生まれた作品である。

近所に住む彫刻家関保寿ドストエフスキーに容貌が似ていることから、作中では「ドスト氏」と表現)とは特に気が合い、一緒に数多く旅行をした。旅行先では、地方競馬に興じたり、油絵を描くなどして、楽しんだ。

同じ国立に所在する縁で、荒磯部屋(二所ノ関系)の後援会長を務めていた[8]


妻とは鎌倉アカデミア時代に知り合った。妻の実家は東京向島で皮革業を営んでいた。結婚後、彼女が現在でいうパニック障害(当時はノイローゼと診断)に罹ったため、妻は電車に乗れず、共に外出する際は、いつもタクシーを用いた。妻と幼い息子を連れて、銀座バーに出かけたこともあるという。

平和主義者
筋金入りの反戦主義者・護憲論者であり、「我が生涯の幸運は、戦争に負けたことと憲法九条に尽きると思って居る」「人を傷つけたり殺したりすることが厭で、そのために亡びてしまった国家があったということで充分ではないか」「もし、こういう(非武装の)国を攻め滅ぼそうとする国が存在するならば、そういう世界は生きるに価しないと考える」[9]など、強固な信念に基づく見解を『男性自身』などで述べている。

プロ野球選手
史上最強の打者に、景浦将(阪神)と大杉勝男(ヤクルト)の2名を挙げている。大杉評として有名なものに「大杉のバッティングを見ると、いつも景浦を思い出した」と言うものがある。

著作
・『山口瞳大全』全11巻 新潮社 1992-93

小説
・『江分利満氏の優雅な生活』 文藝春秋新社 1963 のち新潮文庫、「江分利満氏の優雅で華麗な生活」小学館
・『江分利満氏の華麗な生活』 文藝春秋新社、1963 のち新潮文庫角川文庫
・『結婚します』 新潮社1965 のち文庫
・『マジメ人間』 文藝春秋新社 1965 のち角川文庫
・『新入社員諸君!』 文藝春秋新社 1966 のち角川文庫
・『世相講談』正続、第三 文藝春秋 1966-69 のち角川文庫
・『少年老い易く』 講談社 1967
・『結婚しません』 新潮社 1967 のち文庫
・『善の研究』 文藝春秋 1968 のち角川文庫
・『わが町』 新潮社 1968 のち角川文庫
・『愛ってなに?』 新潮社 1968 のち文庫
・『小説・吉野秀雄先生』 文藝春秋 1969 のち文庫
・『江分利満氏大いに怒る』 新潮社 1969 のち集英社文庫
・『鳩胸の鳩』 新潮社 1970
・『なんじゃもんじゃ』 文藝春秋 1971 のち角川文庫
・『人殺し』 文藝春秋 1972 のち文庫
・『けっぱり先生』 新潮社 1972 のち文庫
・『どこ吹く風』 新潮社 1972 のち集英社文庫
・『山口瞳血涙十番勝負』正続 講談社 1972 のち文庫、中公文庫、小学館
・『犬の歴史』 番町書房 1973
・『むにゃむにゃ童子』 角川書店 1976 のち文庫
・『伝法水滸伝』 集英社文庫 1977
・『血族』 文藝春秋 1979 のち文庫、小学館
・『単身赴任』 講談社 1979 のち文庫
・『考える人たち』 作品社 1979 のち文春文庫
・『同行百歳』 講談社 1979 のち文庫
・『谷間の花』 集英社文庫 1980
・『青雲の志について 鳥井信治郎伝』 集英社文庫 1981
・『居酒屋兆治』 新潮社 1982 のち文庫、小学館
・『婚約』 講談社 1982 のち文庫
・『家族』 文藝春秋 1983 のち文庫、小学館
・『木彫りの兎』 集英社文庫 1983
・『庭の砂場』 文藝春秋 1987 のち文庫
・『梔子の花』 新潮文庫 1995
・『いろいろ有難う・これからどうなる』 新潮ピコ文庫 1996
・『巷説 天保水滸伝』 河出書房新社 2004
・『父の晩年』 河出書房新社 2007

男性自身シリーズ
・1 男性自身 (1965)
・2 ポケットの穴 (1966)
・3 旧友再会 (1967)
・4 父のステッキ (1968)
・5 壁に耳あり (1969)
・6 少年達よ、未来は (1970)
・7 天下の美女 (1971)
・8 変奇館日常 (1972)
・9 変奇館の春 (1973)
・10 隠居志願 (1974)
・11 銀婚式決算報告 (1975)
・12 元日の客 (1976)
・13 巨人ファン善人説 (1977)
・14 人生仮免許 (1978)
・15 展覧会の絵 (1980)
・16 卑怯者の弁 (1981)
・17 木槿の花 (1982)
・18 禁酒時代 (1983)
・19 余計なお世話 (1984)
・20 私本歳時記 (1985)
・21 私の根本思想 (1986)
・22 梔子の花 (1987)
・23 還暦老人ボケ日記 (1989)
・24 還暦老人憂愁日記 (1989)
・25 還暦老人極楽蜻蛉 (1991)
・26 年金老人奮戦日記 (1994)
・27 江分利満氏の優雅なサヨナラ (1995)

エッセイ・対談
・『酒呑みの自己弁護』新潮社 1973 のち文庫
・『作法・不作法 師弟対談』高橋義孝 角川書店 1974 のち集英社文庫
・『山口瞳幇間対談』講談社 1974
・『礼儀作法入門 気持ちよく人とつきあうために』祥伝社ノン・ブック 1975、のち集英社文庫、新潮文庫
・『湖沼学入門』講談社 1976 のち文庫
・『月曜日の朝』新潮社 1976 のち「月曜日の朝・金曜日の夜」で新潮文庫
・『私流頑固主義 さりげなく優しさを示すエチケット』祥伝社ノン・ブック 1976、のち集英社文庫、「続礼
・作法入門」新潮文庫
・『草野球必勝法』実業之日本社 1977 のち文春文庫
・『旦那の意見』中央公論社 1977 のち文庫
・『金曜日の夜』新潮社 1978
・『迷惑旅行』新潮社 1978 のち文庫
・『ゲーム的人間』(編)新潮社 1979(楽しみと冒険)
・『酔いどれ紀行』新潮社 1981 のち文庫
・『男の風俗・男の酒』丸谷才一 TBSブリタニカ 1984
・『草競馬流浪記』新潮社 1984 のち文庫
・『温泉へ行こう』新潮社 1985 のち文庫
・『諸君!この人生、大変なんだ』講談社 1985 のち文庫
・『日本競馬論序説』赤木駿介 新潮社 1986 のち文庫
・『新東京百景』新潮社 1988 のち文庫
・『イテマスマス耄碌』対談:吉行淳之介 新潮社 1993
・『行きつけの店』TBSブリタニカ 1993 のち新潮文庫
・『この人生に乾杯! 山口瞳と三十人』TBSブリタニカ 1996
・『君等の人生に乾盃だ!』講談社 1998、「社会人心得入門」講談社+α文庫
・『勤め人ここが心得違い』小学館文庫 1999
・『江分利満氏の酒食生活』角川春樹事務所 2002(ランティエ叢書)
・『やってみなはれみとくんなはれ』開高健 新潮文庫 2003
・『人生の楽しみ見つけたり』講談社+α文庫 2003
・『禁酒禁煙』中公文庫 2003
・『人生論手帖』河出書房新社 2004
・『わが師わが友』河出書房新社 2004
・『わたしの読書作法』河出書房新社 2004
・『会社の渡世』河出書房新社 2005
・『衣食足りて』河出書房新社 2006
・『忘れえぬ人』河出書房新社 2006
・『ああ!懐かしのプロ野球黄金時代』河出文庫 2012
・『山口瞳ベスト・エッセイ』ちくま文庫 2018 小玉武

参考文献
山口正介『ぼくの父はこうして死んだ 男性自身外伝』新潮社 1996
・『この人生に乾杯!山口瞳と三十人』TBSブリタニカ 1996
・山口正介『親子三人』新潮社 1997
・中野朗『変奇館の主人 山口瞳評伝・書誌』響文社 1999
・『KAWADE夢ムック 山口瞳-江分利満氏の研究読本』河出書房新社 2003、増補新版2014
・山口治子『瞳さんと』聞き書き:中島茂信、小学館 2007
・山口正介『山口瞳の行きつけの店』ランダムハウス講談社 2007
常盤新平『国立の先生 山口瞳を読もう』中野朗編、柏艪舎 2007

関連文献
・山口正介『江分利満家の崩壊』新潮社 2012。母治子の死を機に実情を明かした
・山口正介『正太郎の粋 瞳の洒脱』講談社文庫 2013
・山口正介『父・山口瞳自身 息子が語る家族ヒストリー』小学館 2020

脚注
注釈
1. 『文藝年鑑』1969年版では最終学歴が「早大中退」となっている。

出典
1. 
a b 史上初の大調査 著名人100人が最後に頼った病院 あなたの病院選びは間違っていませんか”. 現代ビジネス (2011年8月17日). 2019年12月22日閲覧。
2. 
a b 湯川博士『将棋巷談 一手劇場』毎日コミュニケーションズ p.152 
3. 
山口瞳電子全集 - P+D MAGAZINE   
4. 
「隣人・川端康成」『小説吉野秀雄先生』
5. 
大塚英良『文学者掃苔録図書館』(原書房、2015年)p.243   
6. 
湯川博士『将棋巷談 一手劇場』毎日コミュニケーションズ p.155   
7. 
春原千秋 『将棋を愛した文豪たち』(メディカル・カルチュア社、1994年)、「山口瞳」の章
8. 
北の富士勝昭、嵐山光三郎『大放談!大相撲打ちあけ話』(新講舎、2016年)p.58   
9. 
嵐山光三郎編『男性自身傑作選 熟年篇』所収「私の根本思想」(新潮文庫、2003年)p.227
(wikiより)

18 山口瞳

山口 瞳

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西野前知 ( さきとも ) は、江戸時代の後期から明治にかけて浦賀を中心に三浦半島の歌壇をリードした人物。

文政五年 ( 1822 ) 生まれ。嘉永六年 ( 1853 ) には、父の後を継いで回船問屋の八代目市郎左衛門を名乗った。

維新後は新政府の浦賀役所に出仕した。

愛宕山の中島三郎助の招魂碑建立にあたっては、濱口英幹らとともに発起人の一人として名を連ねている。

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浜口 興右衛門(はまぐち おきえもん、文政12年11月15日1829年12月10日) - 明治27年(1894年10月15日)は、日本の武士幕臣。明治期の海軍技官は英幹(ひでもと)。

経歴
浦賀奉行所組同心から長崎海軍伝習所第一期生に選ばれ、航海術を修めた。与力上席軍艦操練所教授方となり、咸臨丸が太平洋横断を果たした際、運用方として大きな働きをした。後に軍艦頭取として蟠竜丸艦長を務め、位は大番格軍艦役並に進んだ。

維新後、明治4年に主船少師として横須賀製鉄所に勤務している。製鉄所が海軍に移管された後、海軍権少匠司に進む。従六位勲六等(単光旭日章)海軍少技監(奏任官三等)に任ぜられ、横須賀造船所造船科主幹となった。

浦賀奉行所の与力、同心には俳諧を嗜む者が多く、浜口も蕉雪の号を持ち、俳人としても知られていたという。

参考文献
新人物往来社編『世界を見た幕末維新の英雄たち』、新人物往来社〈別冊歴史読本64〉、2007年3月。ISBN 978-4-404-03364-2、46-47頁

関連項目
大日本帝国海軍文官一覧    
(wikiより)

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時代江戸時代中期
生誕元文元年6月1日1736年7月9日
死没文化4年12月29日1808年1月26日
改名富次郎(幼名)、政従、政純、忠宝、政次、政一、政永
官位従五位下式部大輔従四位下侍従右京大夫
幕府江戸幕府
主君徳川吉宗家重家治家斉
越後高田藩
氏族榊原氏
父母父:榊原政岑、母:坂田氏
兄弟政純政永勝行勝定大久保忠由正室、榊原長之
堀田正亮の娘・
政敦政晨政億政成職序稲垣長続京極高貞大久保政敏、亀姫、喜連川彭氏正室、内藤正弘正室ら
特記
事項
異母兄の政純の死後に身代わりで家督相続し、公式には同一人物とされた。

榊原 政永(さかきばら まさなが)は、江戸時代中期の大名越後国高田藩の初代藩主。官位従四位下侍従右京大夫。榊原家9代当主。ただし、本来の初代藩主・9代当主であった異母兄の榊原政純の身代わりとして擁立され、公式には同一人物とされた。

生涯
元文元年(1736年)6月1日、姫路藩主・榊原政岑の次男として誕生。生母は坂田氏。幼名は富次郎。初名は政従。その後、政純(異母兄の名)、忠宝、政次、政一、政永(隠居後)と改名する。

寛保元年(1741年)、政岑は8代将軍・徳川吉宗から強制隠居と蟄居を命じられ、家督は嫡男・小平太政純が継いだが、さらに姫路から高田転封となった。政岑は寛保3年(1743年)に没した。

延享元年(1744年)12月11日、小平太政純が病死した。小平太は兄とはいえ富次郎とは1歳しか違わず、当時数え10歳であった。幼少のため将軍御目見も果たしておらず、世継も定めていなかった。末期養子が認められる年齢でもなかったため、榊原家は幕閣から内密の了承を得て、異母弟の富次郎政従を小平太政純とすり替えることにした。

寛延3年(1750年)10月1日、富次郎は小平太政純として9代将軍・徳川家重に御目見した。同年12月18日、従五位下・式部大輔に叙任する。以降、宝暦4年(1754年)従四位下、天明4年(1784年)侍従、寛政元年(1789年)右京大夫と官位を重ねた。

寛政元年(1789年)5月10日に隠居し、跡を次男・政敦に譲る。隠居後、右京大夫を称する。文化4年12月29日(1808年1月26日)死去。

逸話
父の政岑は、当時の将軍・徳川吉宗が出した倹約令を無視した行動を行ったために処分を受け、榊原家は越後高田へ懲罰転封となった。政岑は複数の芸事も熱心に遊んだが、その一つに能楽があった。この能楽趣味は政永も受け継いだ。

政永は城中で自身の舞う能の会を何度も開催し、その都度身内や家臣らに、観覧の許可を与えた。許可といっても命令に等しく、家臣らは参加が強要されたも同然であった。何度も開催される主君の能に辟易した家臣らは、何かと理由をつけて避けたため、回を重ねるごとに観覧者が減少していった。これでは張り合いがないので、なんとか観る者を増やしたい政永は、次に城下の領民らに対し観覧の許可を与えた。普段は入ることのできない城内での能舞台であり、殿様を間近に見られる機会であったため、領民らはお城見物とばかりにこぞって押し寄せたが、これも回を重ねるごとに物珍しさも無くなり、参加者が減っていった。このため政永は町々村々に対し、人口や石高に応じて観覧者の強制割り当てを命じた。町年寄や名主らはこれに困り、藩と交渉を行い、参加者には日当と弁当が出ることを約束させた。それでもしかし、能どころではない農繁期などは参加者が激減した。最終的に城下にたむろしていた素性も知れぬ無宿人らが、日当と弁当目当てに殿様の能を観にやってくるようになってしまった。

そもそも能楽鑑賞を家臣や城下の庶民が好むとは限らない上に、政永の能は上手か下手かも定かではない。

年表
1735年享保20年)12月11日 - 小平太、生誕。
1736年元文元年)6月1日 - 富次郎、生誕。
1741年寛保元年) - 小平太、家督相続(10月13日)、高田に国替(11月1日)。
1744年(延享元年)12月11日、小平太政純、病死。富次郎がすり替わる。
1789年寛政元年) - 隠居。
1807年文化4年) - 死去、享年73。

官位位階
1750年寛延3年) - 従五位下式部大輔。
1754年宝暦4年) - 従四位下。
1784年天明4年) - 侍従。
1789年寛政元年) - 右京大夫。

系譜
父母
榊原政岑(父)
・坂田氏(母) - 側室
正室
・園 - 堀田正亮の娘
子女
・(長男)
榊原政敦(次男) 生母は園
榊原政晨(三男)
榊原政億(四男)
榊原政成(五男)
榊原職序(八男) - 榊原職武の養子
稲垣長続(十男) - 稲垣長以の養子
京極高貞(十二男)
大久保政敏(十三男)
・亀姫、のち幸姫、瑤津院 - 黒田治之正室
喜連川彭氏正室
内藤正弘正室

家臣
岡部八左衛門 - 剣術家

脚注
関連項目
末期養子#藩主のすり替えの例 
(wikiより)

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時代江戸時代後期 - 明治時代
生誕天保10年7月28日1839年9月5日
死没明治40年(1907年11月10日
改名幸五郎(幼名、孝五郎とも)→忠優(初名)→忠惇
別名勘解由(通称
戒名慈徳院殿義徹忠惇源信大居士
墓所東京都豊島区駒込染井霊園
官位従五位下、河内守従四位下、侍従雅楽頭正四位従三位正三位
幕府江戸幕府老中
播磨姫路藩
氏族酒井氏(雅楽頭家分家旗本家→雅楽頭家宗家→雅楽頭家分家男爵家)
父母父:酒井忠誨、母:家女
養父:酒井忠夏酒井忠績
兄弟忠績、忠恕、忠惇
正室:酒井忠欽の娘
側室:いせ(青鹿源右衛門の長女)
忠精(長男、男爵家後嗣)、鍈子(立花寛治継々夫人)、錥子(酒井千代吉麿夫人)、登喜子(浅野養長夫人)
養子:忠邦(雅楽頭家後嗣)

酒井 忠惇(さかい ただとし/ただとう)は、江戸時代末期の旗本大名明治時代日本華族男爵)。

雅楽頭系酒井家宗家17代目当主で、慶応3年(1867年)に兄酒井忠績の隠居で播磨姫路藩の第9代藩主を襲封し、江戸幕府老中となったが、慶応4年(1868年)の鳥羽伏見の戦い徳川慶喜に従って江戸に逃亡したため官位褫奪・蟄居となる。明治2年(1869年)に赦免され、明治13年(1880年)11月に姫路酒井家から忠績とそれぞれに分家、明治22年(1889年)5月に揃って華族の男爵に叙された[1]

生涯
姫路藩主家分家の御小姓組番頭・酒井忠誨(5000石)の四男として江戸に生まれる。母は家女。

文久元年(1861年)12月に5500石の寄合旗本酒井忠夏の養子となり、文久3年(1863年10月4日に家督を相続、12月15日に御使番に任命される。翌元治元年(1864年6月28日に御使番在任のまま箱根関所の見廻りを命じられ、7月2日に箱根へ出発し、8月2日に江戸に戻る。6日に本家を継いで姫路藩主となっていた兄・酒井忠績の養子となり、13日忠優と改め、19日通称を勘解由と改める。10月27日に従五位下・河内守に叙任、同日に従四位下に叙される。慶応元年(1865年4月15日溜間詰に列せられ、5月15日侍従に任じられる。

慶応3年(1867年2月28日、兄の隠居により姫路藩主となり、諱を忠惇に改める。3月2日に雅楽頭に任じられ、12月30日に老中に任命される。しかし慶応4年(1868年)1月に始まった戊辰戦争鳥羽・伏見の戦い徳川慶喜ら幕府側に与したため2月5日に老中を罷免された上、3月7日には官位を剥奪され、入京も禁止される。さらに5月20日明治新政府から隠居謹慎を命じられ、 分家の伊勢崎藩から酒井忠邦を養子に迎えて家督を譲った[2]。そして明治元年(1868年)12月12日駿府徳川亀之助(後の家達)へ預けとなり、翌明治2年(1869年9月28日に蟄居預かりを解かれる。明治4年(1871年2月3日、兄と同じく静岡藩士族・酒井録四郎忠恕(忠績と忠惇の間の兄弟)方へ終身同居することを許される。

明治5年(1872年1月6日、従五位に叙される。明治9年(1876年4月12日、宗家の忠邦方へ復籍する。明治13年(1880年5月18日に従四位に叙され、11月18日に分家して終身華族に列せられる。明治22年(1889年5月11日に永世華族に列せられ、男爵を授与される。6月17日、東京上野東照宮副祀官に任命される。6月26日、正四位に叙される。明治23年(1890年12月27日、上野東照宮副祀官を辞職する。明治26年(1893年10月21日久能山東照宮宮司に任命され、明治29年(1896年1月28日まで勤める。

明治32年(1899年6月20日従三位、明治40年(1907年)11月11日に正三位に叙され、同日薨去。享年69。

栄典
1889年(明治22年)5月11日 - 男爵[3]
1907年(明治40年)11月11日 - 正三位[4]

脚注
1.  霞会館華族家系大成編輯委員会 1996, p. 641.
2. 
千田稔『華族総覧』講談社現代新書、2009年7月、315頁。ISBN 978-4-06-288001-5
3. 
『官報』第1758号「授爵叙任及辞令」1889年5月13日。
4. 
『官報』第7313号「叙任及辞令」1907年11月12日。

参考文献
・霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成 上巻』霞会館、1996年(平成8年)。ISBN 978-4642036702
橋本政次『姫路城史』下(1952年、同刊行会)
杉本勝二郎『国乃礎』(1893年、杉本嘉次郎)
・『播磨姫路酒井家譜』東京大学史料編纂所
・『姫路市史』10 史料編近世1(1986年、同市)所収。
・『兵庫県史』史料編近世1(1989年、同県)抄録。
・『姫陽秘鑑』姫路市立城郭研究室蔵
・『姫路市史資料叢書』2(2003年、同市史編纂室)
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(wikiより)

4 酒井忠惇

酒井忠惇

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時代江戸時代後期 - 明治時代
生誕天保4年(1833年
死没明治4年11月24日1872年1月4日
改名松三郎(幼名)、正和
戒名玄勇院広山日仁or玄勇院広山日成大居士
墓所東京都文京区白山の浄心寺(染井霊園に改葬)
官位従五位下筑後
幕府江戸幕府
主君徳川家慶家定家茂慶喜
下総高岡藩
氏族井上氏
父母父:井上正瀧、養父:井上正域
兄弟正域正和永井直哉大久保忠寿正室
正室:諏訪忠恕
正順

井上 正和(いのうえ まさかず)は、下総国高岡藩の第10代藩主。

8代藩主・井上正瀧の次男として生まれる。弘化3年(1846年)、兄の9代藩主・正域が嗣子無くして死去したことから、兄の養子となって家督を継いだ。嘉永元年12月24日(1849年)、従五位下、筑後守に叙位・任官する。嘉永4年(1851年)9月8日、日光祭祀奉行に任じられる。嘉永6年(1853年)に大坂加番に任じられる。文久2年(1862年)には江戸藩邸に藩校・学習館を創設した。

慶応3年(1867年)3月28日、長男の正順に家督を譲って隠居した。明治4年(1871年)11月24日、死去。

系譜
父母
井上正瀧(実父)
・香那 ー 大久保忠誠の娘(実母)
井上正域(養父)

正室
諏訪忠恕の娘

子女
井上正順(長男)

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時代安土桃山時代 - 江戸時代
生誕天正13年(1585年
死没万治4年2月27日1661年3月27日
別名清兵衛、井上正重
戒名幽山日性玄高院
墓所東京都文京区向丘浄心寺染井霊園に改葬)
官位従五位下筑後
幕府江戸幕府宗門改役
下総国高岡藩
氏族井上氏
父母父:井上清秀、母:永田氏
兄弟重成正友正就政重
太田重正の娘
政次

井上 政重(いのうえ まさしげ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名江戸幕府宗門改役下総国高岡藩初代藩主。高岡藩井上家初代。号は幽山

経歴
天正13年(1585年徳川家康の家臣、井上清秀の四男として遠江国で生まれる。

寛永4年(1627年)12月29日、従五位下筑後守に叙任。

寛永9年(1632年)12月17日、江戸幕府の大目付(当時は惣目付という名称)となる。宗門改役に任ぜられ、幕府のキリシタン禁令政策の中心人物となった。井上の下屋敷文京区小日向にあり、キリシタンを幽閉する施設(切支丹屋敷)として使用されていた。脇に切支丹坂という坂が残っている。

寛永15年(1638年)、島原の乱に上使として九州に赴いた。

寛永17年(1640年)6月12日、1万石を領し大名に列し下総国高岡藩の藩祖となる。

寛永20年(1643年)5月23日、3千石を加増される。

寛永20年(1643年)5月、筑前国で捕らえられたジュゼッペ・キアラ(岡本三右衛門)が同年7月に江戸へ移送され、政重の小日向の下屋敷に預けられて取り調べを受けた。

同年、ブレスケンス号事件が発生したことを受け、1650年に、バタヴィア側は信任状のない特使を送る事になる。この特使に対して惣目付の井上が対応した。紅毛流測量術はこの際に伝えられたとされている[1]

正保元年(1644年)12月16日、大目付として宮城和甫と共に、諸大名に正保国絵図正保郷帳の作成を命じた。

万治元年(1658年)閏12月8日、職を辞す。

万治3年(1660年)7月9日、嫡男政次は早世したため、政次の嫡男である政清に家督を譲って隠居し、幽山と号した。

万治4年(1661年)2月27日、文京区小日向の下屋敷にて死去。享年77。墓地は文京区向丘浄心寺であったが、後に染井霊園に改葬された。

後世の評価
アメリカ合衆国の歴史家ジョージ・エリソンは、井上をアドルフ・アイヒマンと比較した[2][3]

系譜
父母
・井上清秀(父)
・永田氏(母)

正室
・太田重正の娘

子女
・井上政次(長男)

出典
1. 小曽根淳「紅毛流として伝来した測量術について(I) (数学史の研究)」『数理解析研究所講究録』第1787巻、京都大学数理解析研究所、2012年4月、127-137頁、CRID 1050845760697354752hdl:2433/172777ISSN 1880-2818
2. 
George Elison, Deus Destroyed, The Image of Christianity in Early Modern Japan, Harvard University Press, 1973, p. 208.
3. 
José Miguel Pinto dos Santos, THE “KURODA PLOT” AND THE LEGACY OF JESUIT SCIENTIFIC INFLUENCE IN SEVENTEENTH CENTURY JAPAN, Bulletin of Portuguese /Japanese Studies, 2005 june-december, número 10-11 Universidade Nova de Lisboa Lisboa, Portugal, p. 134

関連項目
沈黙 (遠藤周作) - 幕府大目付・宗門改役、井上筑後守として登場。
沈黙 -サイレンス- -イッセー尾形が演じる。長崎奉行、井上筑後守として登場。
(wikiより)

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当山の裏門にて死去

「富士の雪とけて硯の墨衣

           かしく筆の終わりなりけり」

墓には 正徳六丙申二月屰日摂州大阪生 かしくとある

戒名は雲水夢覚

現在墓は久能別院
(案内板より)

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西郷局(さいごうのつぼね、天文21年(1552年)(永禄4年(1561年)説もあり) - 天正17年5月19日1589年7月1日))は、戦国時代安土桃山時代の女性[1]。初名はあいお愛とされるが、お相が正しいとする説もある(後述)。徳川家康側室となって以降は西郷局と称した[2][3]。院号は宝台院贈位を受けた際の名は源昌子[4]

江戸幕府第2代将軍徳川秀忠松平忠吉を産んだ[3]

通説における生涯
江戸後期に成立した『寛政重修諸家譜』・『以貴小伝』によれば、父は戸塚忠春[5][6]とされる。母は源姓土岐氏流三河西郷氏とされ、西郷正勝の娘とされる。

幼少時、父忠春と兄の忠家が討ち死し、母とともに、祖父・西郷正勝に保護された[3]。『以貴小伝』・『寛政重修諸家譜』では母が忠春の死後蓑笠之助正尚に嫁いだためにその養女になり、その後正勝に引き取られたとしている[7]。のち、正勝の嫡孫・西郷義勝と結婚した[8][7]。義勝との間に1男1女をもうけている[9]元亀2年(1571年)、武田氏の先遣・秋山虎繁の南進を阻むため、縁戚の菅沼定盈に協力した竹広合戦で、義勝が落命する。彼女の産んだ男子は幼過ぎて家督を継げなかった。

義勝の死後、藤正尚の屋敷にいた母の元に身を寄せた。天正6年(1578年)、家康が同屋敷を訪れた際、お愛の方を見初め、浜松に連れ帰った[8]。お愛の方は、正勝の子であり伯父にあたる西郷清員の養女となり、家康に仕え、西郷局と改めた[8]。『柳営婦女伝系』では西郷清貞の養女となったとされる[6]

天正7年(1579年)4月に秀忠を、同8年(1580年)9月に忠吉を産んだ[8]

天正17年(1589年)5月19日、駿府で死去した[8]。28歳(一説に30歳)[8]。龍泉寺に葬られ、法名は竜泉院殿とされた[8]

家忠日記』の天正17年(1589年)5月21日の記事には「駿川若君様御袋西郷殿一昨日十九日ニ御死去之由申来候。野田菅沼助兵へ喧嘩にて死去之由申来候」と記されている[10]。このため西郷局が野田菅沼助兵(菅沼定盈の従兄弟であり、その家臣)とのトラブルで命を落としたのではないかという見方もある。一方で家康の後継者の生母が喧嘩に巻き込まれることは考え難く、他史料に同じ記述がないことから、病死したという見解もある[11]。郷土史家の中山正清は西郷局死去の知らせと野田菅沼助兵が喧嘩で殺害されたという別のものが同日条に記されたにすぎないとしている[12]。また『柳営婦女伝系』には「松平主殿助家忠の家士・稲吉兵衛に害されたと云々」とあり、家忠の家臣が殺害したと書かれている[10][13]

寛永5年(1628年)5月9日、従一位が贈られ、5月19日には法名も宝台院殿一品大夫人松誉定樹大禅定尼とする宣命が下り、龍泉寺は宝台院と名を改めた[4]。当時の将軍・徳川家光は孫、翌年即位した明正天皇は曾孫に当たる。

通説の生涯に対する疑義
通説の生涯は、『寛政重修諸家譜』で整理され、18世紀末以降に成立した『以貴小伝』の頃に完成したものと見られる[14]。後世の系譜類では混乱があり、寛政11年(1799年)に編纂された『譜牒余録』では西郷局は西郷正勝の娘、『柳営婦女伝系』では服部氏の一族蓑笠之助正尚の娘であるとしている[6]

先行する江戸時代前期成立の『寛永諸家系図伝』や林鵞峰の『故江府令朝散大夫親衛校尉石谷叟行状』では、戸塚氏の縁者であるとはされているが、三河西郷氏については全く触れられておらず、『藩翰譜』でも言及されていない[6]。戸塚氏は上西郷村(現在の静岡県掛川市)の西郷氏(江戸時代には石谷氏を称する)に属する地侍であり、一方生母の生家とされる三河西郷氏は豊橋市西郷校区辺りに勢力を持つ豪族であった。『掛川市史』は家格の釣り合いが取れず、西郷氏が戸塚氏と婚姻を結ぶ必然性に乏しいとして疑問を呈している[9]

また、天正17年(1589年)に西郷局が28歳で没したと言う記録は、通説を構成する記録との齟齬が生まれる。『以貴小伝』では戸塚忠春が天文23年(1554年)に没したとしているが、これは西郷局の生まれる8年前である[9]。また夫であった義勝が死亡した元亀2年(1571年)には、満年齢で10歳となり、一男一女をもうけたというのは考え難い[9]。『以貴小伝』は西郷局の没年齢を38歳としているが、他の諸系図では没年齢は28歳である[9]

郷土史家の中山正清徳川綱吉の不興を蒙って大名から転落して旗本となっていた三河西郷氏の嫡流が、将軍家とのつながりを主張するために西郷局との血縁を強調する作為を行ったのではないかとしている[15]

家康正室説
彼女の死を伝えた『家忠日記』天正17年5月21日条に、彼女のことを「西郷殿」と記している。この「殿」という呼称から、彼女が家康の妻として遇されていたとする説がある[16][17]。「殿」は公式の妻に対して用いられる呼称で、側妾に対してもちいられる呼称は「局」だからである[16]。この説が正しければ、家康の最初の正室(正妻)である築山殿は天正7年に死去しているため、それ以降は唯一の妻であった彼女が正室となっていたことになる(築山殿が死去したために、秀忠を生んだ彼女が妻に引き上げられた可能性もある)。その後、家康は豊臣秀吉の妹である朝日姫を正室として迎えたが、当時の武家では一夫一妻制が確立していなかったため、引き続き正室と同格とされる「次妻」として遇されていた可能性が高く、死去時の「殿」の呼称につながったと推測される[17]

なお、武家諸法度成立以降、武家における一夫一妻制の原則が確立され、同法成立以前の婚姻に関しても次妻・別妻と称されていた正室以外の妻に対して、法的には非公式な関係に過ぎない妾の格式である「側室」としてみなされるようになったと言われている(豊臣秀吉における淀殿も同様とされている)[18]。正室説では「西郷」という呼称は『徳川幕府家譜』などの江戸時代以降の史料しか登場しないと指摘されている。

人物
西郷局は美人で、また温和誠実な人柄であり、家康の信頼厚く、周囲の家臣や侍女達にも好かれていた。また強度の近眼であったらしく、とりわけ盲目の女性に同情を寄せ、常に衣服飲食を施し生活を保護していた。そのため西郷局が死去すると、大勢の盲目の女性達が連日、寺門の前で彼女のために後生を祈ったという。

また西郷局の従姉妹が記した『お国文書』と呼ばれる文書が静岡県掛川市に残されており、西郷局が家康から拝領した屋敷が上西郷村に存在したとされる[19]

名前について
『幕府祚胤伝』には「於愛」もしくは「於丁」、『徳川幕府家譜』には「於桐」、『柳営婦女伝系』には「於相」、『以小貴伝』には「お愛」と書かれているため、通説では「愛」が実名と考えられている。しかし、「桐」を「相」の誤記、「愛」は「相」は同音の別表記という考えから、「相」が正しい実名で「愛」はその別表記とする説もある。また、『徳川幕府家譜』には「西郷局」と書かれているが、同時代史料である『家忠日記』には「西郷殿」と書かれているのは前述の通りである[17]

登場作品
・『徳川家康』(1964年、NET、演:中原ひとみ藤野節子)※中原ひとみは吉良御前と二役
・『戦国うらばなし 長勝院の萩 家康父子に愛された女』(1983年、朝日放送テレビ、演:亀井光代
・『徳川家康』(1983年、NHK大河ドラマ、演:竹下景子)※吉良御前と二役
・『どうする家康』(2023年、NHK大河ドラマ、演:広瀬アリス

脚注
出典
1. 小林貞美、牧野登『西郷氏興亡全史 [Complete History of the Rise and Fall of the Saigo Clan]』歴史調査研究所、東京、1994年、613頁。
2. 
中山 2016, p. 12.
3. 
a b c 山本 2020, pp. 1–2.
4. 
a b "徳川家康公の側室お愛の方(西郷の局)の菩提寺"宝台院【静岡】の公式ホームページ. 2023年6月24日閲覧
5. 
山本 2020, p. 1.
6. 
a b c d 中山 2016, p. 15.
7. 
a b 中山 2016, p. 16.
8. 
a b c d e f g 山本 2020, p. 2.
9. 
a b c d e 中山 2016, p. 18.
10. 
a b 鷹橋忍 (2023年6月19日). "『どうする家康』お万、於愛…最後は40歳下?家康の側室遍歴と彼女たちの生涯|徳川家康と家臣たちのゆかりの地(第5回)"JBpress オートグラフ. JBpress. p. 3. 2023年10月29日閲覧
11. 
濱田浩一郎 (2023年9月25日). "大河『家康』お愛の方 早逝に謎 喧嘩による死か?病死か? 識者が語る". よろず~ニュース. 2023年10月29日閲覧
12. 
"西郷の局・史談". 西郷の局・於愛の方. 2023年1月5日. 2023年10月29日閲覧
13. 
国書刊行会 編「柳營婦女傳系 四」『柳営婦女伝叢 (国書刊行会本)』国書刊行会〈国書刊行会本〉、1917年、83頁。doi:10.11501/945825NDLJP:945825/47(大正6年)
14. 
中山 2016, p. 17.
15. 
中山 2016, p. 18-19.
16. 
a b 福田 2018, p. 52, 「一夫一妻制の原則と世襲制」.
17. 
a b c 黒田 2023, pp. 36–37, 「家康の妻と子どもたち」.
18. 
福田千鶴『大奥を創った女たち』吉川弘文館〈歴史文化ライブラリー549〉、2022年5月23日、5-11頁。ISBN 978-4-642-05949-7
19. 
中山 2016, p. 11-12.

参考文献
・中山正清「西郷局の出自と構江屋敷についての一考案 -『お国文書』「先祖覚」の再評価を通じて-」『静岡産業大学情報学部研究紀要』第18巻、2016年3月、11-24頁、NII:1530/00001328
福田千鶴「一夫一妻制の原則と世襲制」『近代武家社会の奥向構造 江戸城・大名武家屋敷の女性と職制』吉川弘文館、2018年5月25日、52頁。ISBN 978-4-642-03488-3初出:『歴史評論』747号(2012年)。
山本博文 著、日本歴史学会 編『徳川秀忠』(新装版)吉川弘文館〈人物叢書303〉、2020年2月26日。ISBN 978-4-642-05296-2
黒田基樹 編「家康の妻と子どもたち」『徳川家康とその時代』戎光祥出版〈戦国大名の新研究3〉、2023年5月1日、36-37頁。ISBN 978-4-86403-473-9
(wikiより)

027 西郷局

⇧ 西郷局

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徳川家康公の五女 市姫。

〇 市姫

市姫(いちひめ、慶長12年1月1日1607年1月28日) - 慶長15年2月12日[1]1610年3月7日))は、伊達政宗の嫡男・伊達忠宗と婚約していた女性。父は徳川家康、母は側室のお梶の方(遠山氏)。

徳川家康が66歳のときに生まれた五女である。家康は、織田信長の妹で絶世の美女と謳われたお市の方のように美女になってほしいと願っていたらしく、市姫と命名した。

慶長12年(1607年)2月8日、家康は当時、最大の勢力を誇っていた外様大名の伊達政宗と関係をさらに深めるため、政宗の嫡男・虎菊丸(のちの忠宗)と婚約させている。しかし慶長15年(1610年)2月12日、市姫は3歳で夭折した。野苺を摘んでいた際、毒虫に刺され、それが原因でこの世を去ったと言われている。追号清雲院[2]、または一照院[3]。墓所は静岡市葵区の華陽院。

家康は市姫の夭折に嘆き悲しむと同時に、忠宗に対して孫娘の振姫(実父は池田輝政で、生母が家康の次女・督姫)を徳川秀忠の養女として婚約させている。

脚注
1. 『徳川幕府家譜』より。『幕府祚胤伝』では閏2月12日とされている。
2. 
『徳川幕府家譜』
3. 
『幕府祚胤伝』(wikiより)

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華陽院(けよういん、明応元年(1492年) - 永禄3年5月6日1560年5月30日))は、戦国時代女性水野忠政、のちに松平清康星野秋国菅沼定望川口盛祐に嫁ぐ。実名は「於富の方」あるいは「於満の方」などといわれている。徳川家康の祖母。

出身
江州佐々木氏流の尾張青木加賀守弌宗
・尾張・宮野善七郎(『尾張志』)
三河寺津の城主・大河内左衛門佐元綱の養女、または実の娘(政局と伝わる)
・川口家々譜によれば大河内但馬守満成の娘
など様々な説がある。

生涯
明応元年(1492年)に誕生。

はじめ、三河国刈谷城城主・水野忠政に嫁いで水野忠重於大の方ら3男1女を生む。ところが、隣の岡崎城城主・松平清康がその美しさに目をつけて、松平氏水野氏を破ったときの講和条件として譲り受けたといわれている。(しかし、伝えられている松平清康(天文4年(1535年死亡)との再婚が事実とすれば、これ以後の出生と考えられる忠分や忠重の母ではない事になり矛盾が生じる。平野明夫は自書「三河松平一族」において所生の子供たちの生年から検討した結果、於富の方と松平清康との再婚は有り得ないと考証、結論している)。清康の死後、星野秋国菅沼定望川口盛祐といった三河の諸豪族に次々に嫁ぐが、いずれも夫に先立たれている。

その後、駿河国大名今川義元を頼って駿府に入り、出家して源応尼(げんおうに)と名乗る。松平竹千代(後の徳川家康、清康の先妻の子である松平広忠と娘である於大の方との間に生まれた子)が今川氏人質として駿府に送られると、義元に乞うて竹千代が元服するまでの8年間、その育成にあたった。

永禄3年(1560年)、死去。華陽院の静岡市葵区鷹匠2丁目24番18号の玉桂山華陽院(浄土宗)にある。この寺は元、知源院とよばれていたものを華陽院の法名により改めたものであり、境内には華陽院の墓のほか、3歳で歿した家康の五女市姫の墓もある。法名は華陽院殿玉桂慈仙大禅尼。豊橋市龍拈寺刈谷市楞厳寺には、華陽院の肖像画が現存している(共に市指定文化財[1]

華陽院の子
水野忠政との子
 ・水野忠守
 ・於大の方松平広忠室、久松俊勝室。徳川家康、松平定勝らの母)
 ・水野信近
 ・水野忠分(「水野氏法名一覧」によれば三昭貞富禅定尼の子とも)
 ・水野忠重(「水野氏法名一覧」によれば本樹院殿栄岩宗盛大姉の子とも)
松平清康との子とされる人物
 ・碓井姫松平政忠室、酒井忠次室。松平康忠酒井家次本多康俊らの母)
 ・松平信康 (源次郎)
川口盛祐との子
 ・川口宗吉       

おもな登場作品
徳川家康1983年NHK大河ドラマ)、演:八千草薫      
麒麟がくる2020年、NHK大河ドラマ)、演:真野響子

脚注
出典
1. 楞厳寺(りょうごんじ)”. 刈谷市2022年3月12日閲覧。
(wikiより)

023 源応尼

⇧ 源応尼 ( 華陽院 )

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御定番 島津式部男又吉郎源久攄の墓。

詳細不明。

 〇 御定番
御庭番(おにわばん)は、江戸時代の第8代将軍徳川吉宗が設けた幕府役職。将軍から直接の命令を受けて秘密裡に諜報活動を行った隠密を指した。

諜報活動といっても、実際には時々命令を受けて、江戸市中の情報を将軍に報告したり、身分を隠して地方におもむき情勢を視察していた程度だといわれている。実態としては、大目付目付を補う将軍直属の監察官に相当する職であることがうかがえる。

職務
御庭番は、江戸幕府の職制では大奥に属する男性の職員・広敷役人のひとつで、若年寄の支配だった。彼らは江戸城本丸に位置する庭に設けられた御庭番所に詰め、奥向きの警備を表向きの職務としていた。時に将軍の側近である御側御用取次から命令を受け、情報収集活動を行って将軍直通の貴重な情報源となった[1]。また、日常的に大名・幕臣や江戸市中を観察し、異常があれば報告するよう定められていたといわれる。

庭の番の名目で御殿に近づくことができたので、報告にあたっては御目見以下の御家人身分であっても将軍に直接目通りすることもあり、身分は低くても将軍自身の意思を受けて行動する特殊な立場にあった。

その特殊な任務のために功績を挙げて出世する機会に恵まれ、中には幕末に初代新潟奉行長崎奉行を歴任した川村修就勘定奉行外国奉行を歴任し、日米修好通商条約批准のため使節副使としてアメリカに渡った村垣範正のような人物もいる。

起源
御庭番の前身は、吉宗が将軍就任前に藩主を務めていた紀州藩お抱えの薬込役(くすりごめやく)と呼ばれる役人たちで、紀州藩でも奥向きの警備を表向きの職務とし、藩主の命を受けて情報収集を行っていたといわれる。吉宗が将軍に就任したとき、薬込役のうち十数人の者たちが吉宗に随行して江戸に移り、幕臣に編入されて御庭番となった。紀州藩の薬込役は全体で数十人おり、その中から幕臣に編入されたのは十数人だけだったが、これは輪番で江戸に随行した者を任命しただけで、特に選抜して連れてきたというわけではない。

吉宗が御庭番を新設した理由としては、家康以来幕府に仕えてきた伊賀者甲賀者が忍者としての機能を失い、間諜として使い物にならなくなったことや、傍流の紀州家から将軍家を継いだ吉宗が代々自分の家に仕えてきて信頼のおける者を間諜に用いようとしたことが、理由として挙げられる。また、幕府の公式の監察官だった大目付が後代には伝令を主たる職務とする儀礼官になったこともあり、将軍直属の監察能力が形骸化したため、これを補って将軍権力を強化する意味あいもあった。
・「御庭番」の家筋の祖となった17名の採用経緯と役職名の変遷[2]
 ・享保元年10月に吉宗の長男長福丸(後の徳川家重)に供奉して江戸城に入った者(「広敷伊賀者」に任命、元紀州藩「薬込役」)
  ・川村弥五左衛門
  ・宮地六右衛門
  ・薮田定八
 ・享保元年11月に江戸に出府した者(12月に「広敷伊賀者」に任命、元紀州藩「薬込役」)
  ・明楽樫右衛門
  ・西村庄左衛門
 ・享保3年5月に吉宗の母(浄円院)とともに和歌山城から江戸城に入った者(「広敷伊賀者」に任命、元紀州藩「薬込役」)
  ・馬場瀧右衛門
  ・中村万五郎
  ・野尻七郎兵衛
  ・村垣吉平
  ・古坂興吉
  ・高橋與右衛門
  ・倉地文左衛門
  ・梶野太左衛門
  ・和多田孫市
  ・林惣七郎
  ・吉川安之右衛門
・以上、江戸幕府の「広敷伊賀者」となった16名は享保11年2月に7名が「御休息御庭締戸番(おきゅうそくおにわしめどばん)」、残りの9名は「伊賀御庭番」となり、従来の「広敷伊賀者」と区別された。
 ・享保14年8月に紀州藩出身で江戸幕府でも「口之者」を勤めていた者1名(「御庭番」に任命、元紀州藩「口之者」)
  ・川村新六
・以上の合計17名が「御庭番」の祖となった。

身分と家柄
吉宗のとき紀州藩で薬込役と呼ばれていた隠密任務に就いていたものを幕府に編入し、最終的に17名を初代の御庭番に任命した。以後の御庭番はこの子孫17家の世襲からなり、さらに分家9家が生まれて合計26家となり、歴史の中で4家が解任され、幕末には22家が残った。彼らは、世襲によってまかなわれる御庭番の家筋としての団結を保ち、御庭番の職務を協同して行っていた。[2]

御庭番の家筋の諸家は、当初はすべてが下級の御家人だったが、幕末までに大半の家が下級の旗本にまで上昇した。御庭番出身の者が出世すれば、当然に軽輩の職務である御庭番からは離れることになるが、その子が新たに幕府に出仕するときは御庭番となるのが定めで、旗本に出世した御庭番の子は旗本格の御庭番になった。

彼らは当時の武鑑に御庭番として収録されており、間諜でありながら氏名、住居はもとより収入や経歴に至るまで公開されていた。

遠国御用
御庭番が幕臣としての身分を隠し、遠国に実情を調査に出かける旅行のことを「遠国御用」という。前述したように、彼らは一般に言われるような華々しい間諜行動はとらなかったようだが、それでもしばしば命ぜられる遠国御用は重要な任務だった。

御庭番に関しては、将軍の命を受けてすぐに幕府御用達呉服店におもむき、秘密の部屋で変装して家族にも告げず、ただちに出立するといった記述をよく見かけるが、御庭番自身の談話や彼らの書き残した記録、幕府に残る公的記録からは、これが伝説に過ぎないことが見て取れる。

実際には、情報収集の命令を受けた御庭番は、出発前に一度自宅に戻って綿密に準備していた。彼らは、幕臣として出世後に御庭番の職務を離れた長老までも含めた、御庭番家筋の間で相互に親密に連絡を取り合っており、命を受けた御庭番は家筋の長老をはじめとする先輩御庭番たちに、調査内容について相談していた。それでも表向きには、御庭番たちは「他人はもとより親兄弟と雖も職務上の秘密を漏らさない」旨の誓紙を就任時に提出していた。また、江戸で事前の調査を行い、予備知識を蓄えてから出発した。調査報告にあたっても報告は書面で認め、先輩御庭番たちの校閲を経てから報告が行われた。

隠密調査中は、公式には病欠扱いとされていたようである。報告書上の旅程は、下命直後に出発して帰着直後に復命した、という形式をとったが、実際には事前の準備と事後の報告書作成のため、前後数日間の在宅期間が存在していた。これは、脇目もふらず職務に邁進したという建前をとる必要があったことと、日割で出張手当が支給されたことによると考えられる。

遠国御用のたびに立ち寄ることになる京都大坂には、毎回御用を命ぜられた御庭番が立ち寄る御用達町人が、御庭番の隠密調査を支援するための一種の現地スタッフとして配置されており、御庭番は初めての御用でも彼らの助けを得て無事に任務を果たすことができた。

創作作品
一般には、いわゆる間者忍者の類だったとする御庭番像が広まっており、時代劇時代小説漫画などでそのような描写が数多くなされている[注釈 1]

脚注
注釈
1. 
ただし、忍者についても、時代劇・時代小説・漫画などで大幅な脚色が見られる。現実の忍者の諜報活動も御庭番と同程度のものだったとも考えられ、むしろ忍者同様に大幅な脚色がなされていると言える。

出典
1. 
深井雅海「江戸幕府御側御用取次の基礎的研究」1983年5月(『国史学 第120号』)
2. 
a b 深井雅海、「徳川将軍の情報収集活動」 『情報管理』 1991年 34巻 3号 p.219-231, doi:10.1241/johokanri.34.219, 科学技術振興機構

参考文献
・旧事諮問会編『旧事諮問録』(岩波文庫、1986年) - 明治維新後に元御庭番の川村帰元(川村修就の嫡子で、洋画家川村清雄の父)がその職務について語った記録を載せる。
小松重男『旗本の経済学』(新潮選書、1991年) - 御庭番家筋の川村修富(川村修就の父)の覚書をまとめたもの。
深井雅海『江戸城御庭番 徳川将軍の耳と目』(中公新書、1992年)

外部リンク
・『御庭番』 - コトバンク      
(wikiより)

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御城代 安藤出雲守 藤原広栄の墓。

大番頭 : 安藤出雲守広栄 : 文政八年四月二十八日仰付。

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時代江戸時代中期 - 後期
生誕寛保2年12月22日1743年1月17日
死没文化2年8月10日1805年9月2日
改名大河内祝嘏、安藤直之
別名大河内将曹、安藤木工之助、彦四郎(通称
戒名源樹院殿直誉騰山誼純大居士
墓所東京都千代田区麹町栖岸院
官位従五位下伊予守
幕府江戸幕府 駿府城代
主君徳川家治家斉
氏族大河内松平氏安藤氏
父母父:松平信祝、母:小林氏娘狭妻
養父:安藤直元
兄弟松平信復中川久貞松平正温、翁之丞、直之、多代、伊代、得寿、清涼院、喜尾、兼、八十、光、幸、郁、参、賀久、皆
安藤直元の娘
直温保之直則武藤安存直與
斎藤利道室、酒井忠徹

安藤 直之(あんどう なおゆき)は、江戸時代中期から後期にかけての旗本寄合)。官位従五位下伊予守。石高は4535石。

生涯
寛保2年(1742年)12月22日、遠江国浜松藩主・松平信祝の五男として江戸にて誕生した(幕府には元文5年(1740年)生まれと届ける)。同族である上野国高崎藩主・松平輝高の仮養子となっていたが、輝高の実子が成長して丈夫届を幕府に提出したため、宝暦4年(1754年)7月に解消された。宝暦6年(1756年)2月23日に250石を与えられ、三河国吉田藩谷中下屋敷の山之屋形へ引越す。

明和3年(1766年)8月11日に旗本・安藤直元の婿養子となり、直之と名乗る。明和4年(1767年)3月19日に初めて10代将軍家治に拝謁した。明和6年(1769年)4月15日、直元の隠居により家督を相続した。明和8年(1771年)3月27日に中川御番安永2年(1773年)12月12日に火消役となる。同年同月16日、布衣の着用を許される。安永9年(1780年)11月15日に百人組頭寛政4年(1792年)12月24日に小姓組番頭となる。同年同月28日、従五位下・伊予守に叙任される。寛政9年(1797年)6月5日に西丸書院番頭、寛政10年(1798年)12月10日に書院番頭となる。享和3年(1803年)閏1月30日に大番頭となり、二条在番を勤める。文化2年(1805年)2月29日に駿府城代となり、同年8月11日に在職のまま駿府で病死した。享年64(公的には66)。

系譜
・父:松平信祝(1683年 - 1744年)
・母:狭妻 - 側室、清凉院、小林氏
・養父:安藤直元
・正室:安藤直元の娘
・生母不明の子女
 ・男子:安藤直温
 ・男子:安藤保之
 ・三男:安藤直則(1780年 - 1823年) - 安藤直與の養子
 ・男子:武藤安存
 ・五男:安藤直與(1790年 - 1809年) - 安藤道紀の養子
 ・女子:斎藤利道
 ・女子:酒井忠徹

参考文献
・『寛政重修諸家譜』第17巻
・『豊橋市史』第6巻
(wikiより)

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