本牧jack『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

本牧Jackで御座います
小生の拙ブログ『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑に御訪問頂き誠に有難う御座います。
歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。
たまに『 大人数で取材しているのか? 』との質問を戴きますが、小生と相方の二人三脚で御座います。
出来るだけ続けたいと思っていますが 膝・耳に問題が有って、いつまで出来るやら・・・説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。
御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。 ※ 申し訳御座いませんが「画像の転用」は禁止とさせて頂きます。 コメントは原則公開させていただいております 質問等に対してはブログ記事で返信させていただきます 他の方法で連絡を取り合う等一切しません 場合によっては、「IPブロック」しますがブロックした場合解除する事は有りませんので宜しくお願いします。

カテゴリ: 民話・TV・漫画・ゲームキャラクター・紙芝居・園芸・人形・占星術

黒板 五郎(くろいた ごろう)
演 - 田中邦衛

1935年1月5日生[40]。本作の主人公

先祖は阿波徳島藩出身[41][注釈 16]

八人兄弟の五男[注釈 17]

1950年富良野工業高校を卒業[42]

卒業と同時に集団就職で上京し、東京田端の中村製鋼所、東京上板橋あけぼの自動車修理工場、中央区築地高津自動車サルベージを経て、青山三丁目の坂田商会ガソリンスタンドに入社する[43]

1968年のサルベージ会社勤務時代に礼子と知り合い、同年結婚[44]

坂田商会淀橋支店で働きながら一家4人で暮らしていたが、妻・令子の不倫をきっかけに1980年純と螢を連れて郷里の富良野へ帰ってくる。

その時の所持金はわずか7、8万円だった[45]

その後、令子とは正式に離婚したが、それから2ヵ月あまり後に死別する。

富良野では中畑木材の仕事を手伝ったり、小規模の農業や炭焼きをしたりして、生計を立てる。

発想力と行動力があり、沢から水道を引いたり風力発電を作ったり、井戸を独力で掘ったり、廃品で家を建築したりする。

性格は基本的に温厚だが、頑固なところもあり一度ヘソを曲げると手が付けられなくなることもある。

また、初期には内弁慶なところもあり、外で面白くないことがあると家に帰ってから子供たちに当たることもあった。

「'83冬」では内地(本州)へ出稼ぎへ行く様子も伺える。

みどりの借金を被せられ土地を追われる危機に瀕するも、村の仲間たちの助けもあり危機を逃れる。

「'84夏」では出稼ぎから帰った当日に丸太小屋が焼失する事件が起き、心身が疲弊する様子が描かれた。

「'89」で再び丸太小屋の制作に着工するが、「'92」では一人の寂しさから「アキナ」という柴犬を飼いはじめる。

やがて、純がタマコを妊娠させてしまい、純の不始末を購うため上京して謝罪し、建設用の木材を売り払って100万の金を作り慰謝料として支払う。

かわりに廃石を利用して石の家を建設する。久しぶりに3人が富良野に集う大晦日、螢から就職のため札幌に行くと宣言されて失意に打ちのめされ、純が和久井家に居る螢を迎えに出た間に石の家の建設作業中に屋根から転落。材木に足を挟まれて猛吹雪の中遭難。

未明になっても帰らないことを心配した純が近隣を訪ね歩いた際に加納から建設現場の話を知らされ、三人が駆けつけたことで発見され、九死に一生を得る。

「秘密」では螢の駆け落ちに動揺するが娘の想いをどうにか理解しようと苦悶する。

純の彼女であるシュウから慕われ、二人の交際を応援する。「時代」では無農薬農法に熱意を注ぎ、五郎を慕い教えを請う完次に目をかけていたが、疫病の発生と完次に対する草太の惨い仕打ち、完次の自殺未遂と夜逃げについて草太を責めることもなくじっと見守る。

妊娠し、正吉と結婚すると言ってきた螢には感動の余り涙を流すが、和夫から螢の子の父親が黒木だと聞き、動揺して雪子に相談。

やがて疑惑は確信となるが、それでも螢を支えようという正吉の男気に感謝し、螢の結婚式では酔い潰れるほど舞い上がる。

草太の死後、彼の遺した牧場を純と正吉が継ぐ運びになったことを危惧していた。

「遺言」では五郎の危惧は現実のものとなり、牧場の破綻で五郎の家族は離散状態となってしまう。

それでも恨み言一つ言わずに初孫の快を溺愛し、返済のため富良野を離れた純と正吉を案じていた。

富良野を訪れたシュウから結婚の報告を受けるが頑なに純の所在は明かさず、彼女の手紙を純に送る。

健康面に不安を感じるようになり、螢の強い勧めもあって精密検査を受けるがそのことで自分の死を意識するようになる。

結果的に杞憂だったが不安は拭えず、新吉の勧めで山下に弟子入りして「遺言」を書き始める。

中畑家に入り婿することになった正彦が五郎を慕い、すみえとの新居作りを手がけることになる。

やがて、みずえの病気が発覚。

愛妻の余命を知って動揺する和夫を支えつつ、事情を知る寛次らと共に突貫工事を進める。

その頃、羅臼から訪ねてきた吾平を事情を知らずに建築工事に巻き込み、それを謝罪して自宅に泊め、酒を酌み交わす。

「流氷を見せたい」という純の招待で羅臼を訪れるが、そこで純から結との結婚を相談される。

だが、結が人妻だと聞いて動揺し、純の長時間の説得でようやく納得したものの、吾平の遭難事故に巻き込まれてしまう。

生還した吾平から思わぬ歓待を受けるが、そこにみずえの訃報が届き、純と共に富良野に急ぎ戻り、みずえの死に落胆する和夫を見守る。

やがて、純に嫁ぐ覚悟で富良野に来た結を歓迎し、螢も正吉からの手紙で安堵。久しぶりの家族団欒を楽しむ。

だが、正吉と暮らすため螢が富良野を離れることになり、快との別れに最後まで抵抗し、みっともない悪あがきをする。

完成した五郎の遺言は物語を振り返り、締めくくるものとなった。

倉本の設定では学生時代は女好きであり、付き合った女性はすぐ妊娠することから「一発屋の五郎」というあだ名がつけられていた[46]

なお、「黒板」という姓は倉本が若い頃に片思いした女性に由来するという[47]
(wikiより)

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⇧⇩ 黒板五郎の石の家。

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⇧⇩ 石の家に向かい合って左側にある「 黒板五郎の記念碑 」

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⇧⇩ 田中邦衛さんのお墓が造られるとか・・・

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架空の島、志木那島 ( しきなじま ) を主な舞台とするドラマ「Dr.コトー診療所」のロケ地としても有名な与那国島ですが、その撮影で実際に使用されたセット ( 診療所 ) を 見学することができます。

待合室や入院室などもそのまま残されており、ドラマを彷彿とさせます。

白衣を着ての記念撮影もOKです。

すぐ目の前にある比川浜も、何度となくドラマに登場する天然ビーチです。

〇 
Dr.コトー診療所 (テレビドラマ)

Dr.コトー診療所』(ドクターコトーしんりょうじょ)は、フジテレビ系列で放送されていた日本のテレビドラマ。主演は吉岡秀隆山田貴敏による同名の漫画を原作とする。2022年6月、16年ぶりに続編映画が発表された。公開予定は2023年。


第1期は、2003年7月3日より9月11日まで毎週木曜日22:00 - 22:54に、「木曜劇場」枠で放送。


2004年
に『特別編』と『Dr.コトー診療所2004』が放送。


第2期は、2006年10月12日より12月21日まで毎週木曜日22:00 - 22:54に、「木曜劇場」枠で放送。


2022年
に劇場版作品として続編制作が始動した事が発表されている。2023年公開予定。

概要
第1期
沖縄県八重山列島にあるとされる架空の島志木那島(しきなじま)[注 1]を主な舞台とするドラマ版『Dr.コトー診療所』は、2003年に連続ドラマとして第1期が制作された。ロケ地となった与那国島の自然が美しく、離島での過酷な医療状況とともに、島でのゆったりとした時間の流れや人間関係が情緒豊かに描かれている。また、都会から島にやってきた人の視点と島の人が外来者を見た視点が対照的に描かれ、時には誤解が生じたり、お互いを傷つけることもあるが、忘れてしまっていた大切なコトにお互いに気付きはじめ、相互に影響しあいながら少しずつ信頼関係を築いてゆく姿が描き込まれている。

富良野塾出身である脚本家の吉田紀子と、主人公のコトー役の吉岡秀隆をはじめとする役者陣の演技や、演出家の中江功をはじめとするスタッフ陣、中島みゆきの主題歌や吉俣良劇中音楽など、それまでの医療ドラマの視点とは異なる作品になっている。

ハイビジョン撮影作品であるが、本放送時は地上デジタル放送は行われておらず(2003年12月1日放送開始)、アナログ放送において4:3サイドカットで放送されている。

なおCS ファミリー劇場で、2021年5月1日に全話一挙放送された[3] 。この際は地デジ同様の16:9比で放送された。

特別編
2004年1月9日1月10日の2夜連続でフジテレビ系列の新春ドラマスペシャルとして放送された。

志木那島での新撮場面にはコトーと和田、島の少年たちの他にはレギュラー出演者は登場しないが、Dr.コトー診療所2004、2006年第2期に繋がる貴重な新録内容となっている。

この作品はDVD化はされておらず地上波での再放送もされていないが、フジテレビオンデマンドで配信されている。なお、CS ファミリー劇場の一挙放送枠で第1期最終回の後、2021年5月1日に二部連続で放送された[4] 。

Dr.コトー診療所2004
2004年11月12日11月13日に2夜連続のドラマスペシャルとして放送された。2003年第1期の続編として完全新撮されたもので、コトーの身近な人たちを襲う悲劇や苦渋の選択をする姿が描かれている。尚、当初の放送予定は10月であったが、相次ぐ台風のため収録に手間取り、放送が遅れる経緯があった。

この作品も長らく地上波での再放送がされていなかったが、2020年6月18日より7月9日まで『特別編』として毎週木曜日22:00 - 22:54に、「木曜劇場」枠で再放送された[5]

第2期
『Dr.コトー診療所2004』の続編。また近年では珍しく、同じタイトルバック(1話のみ映像の上にタイトル)、同じエンドバックが使用されていた。なお、前シリーズでは、夏のシーンが夏に放送されただけだったが、このシリーズではドラマ中で、春から冬(12月)までの四季の移り変わりが描かれていた。

あらすじ
第1期
東京の大学病院で外科医をしていた五島健助が星野正一とともに漁船に乗り込み、本土沖縄本島)から6時間かかる志木那島をめざして洋上を行くところからドラマは始まる。それは島の診療所に常駐してくれる医師を長年さがし続けている、志木那村役場の民生課長星野[注 2]の要請だった。星野の娘で看護師の彩佳や役場の職員で診療所事務長の和田[注 3]をスタッフとして張り切る五島だったが、それまでの経緯から島の医師を信用しない島民らは全く診療所に寄りつかない。最初の患者となった島の少年から感謝のしるしとして贈られた診療所の旗に「ドクターコトー診療所」と記されていたため、以来五島は島民からコトーと呼ばれることになる。コトーの医師としての技量の確かさと誠実な人がらはしだいに島民らに受け入れられ、交流を深めていった。そんななかコトーが大学病院を辞めるきっかけとなった医療事故の関係者巽謙司が来島し、最終話に向けて島民を巻きこむ大波乱となる。


特別編
志木那島で新年を迎えたコトーのもとに三上医師からの手紙が届く。大学病院を辞した三上はコトーと同じように僻地医療を担うべく、北海道にある礼別島(れべつとう:架空の島)診療所に赴任していた。島の医師は自分1人という責任の重さと、島民に信頼されない焦りとの苦悩をつづった文面から、コトーは自分が初めて志木那島に赴任して来た頃を思い出していた。ここから2003年第1期の主要エピソードを再編集した内容が回想される。東京へ研修中の彩佳からお土産を貰う。それは「週刊アクセス」という雑誌。離島医療に携わるコトーと島の現状が掲載されている。もちろんこの記事は巽謙司が書いたものである。そしてコトーは三上に励ましの手紙を書く。三上は患者となった1人暮らしの老女との交流を通して島の医師としての手応えを掴んで行く。

Dr.コトー診療所2004
島を挙げての祭りのさなか星野昌代が家で倒れているのを、診療所から戻った娘の彩佳が発見した。コトーの緊急手術により一命を取り留めたものの、脳内出血後遺症が残り、右半身が不自由になってしまう。昌代の異変に気付かなかったことで、夫の正一や彩佳は後々まで自分を責め続けることになる。一方、コトーに憧れ医師を目指す島の少年、原剛洋は島を出て東京の私立中学受験を決意する。漁師では充分な学資が得られないと考えた父の剛利は、漁船を手放し本土(沖縄本島)に出稼ぎに行く決断をする。

Dr.コトー診療所2006
2006年、彩佳は本土から志木那島に帰る船内で出張から帰る村長と会う。そんな船内で村長は数人の男が一人の女性に絡まれていたところ仲裁に入るが吹き飛ばされた衝撃で頭を打ってしまう。船内から志木那島に連絡が入り港にはすでにコトー、和田、正一、島民たちが駆けつけ診療所に向かう。またそこには近いうちに診療所に入る予定だった看護師、仲井ミナと出会い村長のオペ(手術)に立ち会う。ミナは気を失ったが村長は一命を取り留めた。一方、東京での私立中学受験を受けに行った剛洋は島に私立に合格したことが連絡が来た。しかし次に受けた公立には失敗した一方で父・剛利にお金のことで心配していた。剛利は電話でお金の事は心配せずと伝えるが、建築会社などに残業を上司に頼のんでいた。彩佳は介護士の学校に通うために剛洋と同じ東京に来ていたが一人で大学病院に来ていた。彩佳を担当した主治医・鳴海からコトーに彼女が乳がんであることが初めて知る。後に一時、診療所での手術を望んでいたが、星野正一や昌代、島民たちに心配かけまいと鳴海のいる大学病院での手術となった。剛利は順調だった仕事だが事故で仕事仲間を怪我してしまい慰謝料を払い事になる。そしてそれらを知ったしげさんは直接剛利のいる会社に行き放った言葉で再び剛利は志木那島での漁師に戻る。また彩佳の乳がんの事を初めて知った正一と昌代、島民たちは言葉を失うが、彩佳からコトーへの電話で鳴き声を聞き、コトーは彼女の入院する東京の病院に行き鳴海と共に彩佳の手術を始める。しかし鳴海は身内の手術は避けたほうがいいと手術前に5年前、鳴海の妻の手術で失敗し寝たきりになった事を聞かされる。一時は我を失ったコトーだが、鳴海の言葉により手術は成功した。コトーは島に戻り、彩佳は退院した。島では彩佳の手術を成功させたコトーへの祝福がなされ、診療所で新たに加わったミナと共に再び戻ってくる彩佳を待ちながら診療所へやってくる島民たちの病気を治していく。

Dr.コトー診療所(劇場版、映画)
2023年公開予定

※2022年6月に16年ぶりに続編が発表。

キャスト
登場人物についてはDr.コトー診療所を参照。ただし、原作と大幅に違う部分が多い。

志木那島
志木那島診療所(ドクターコトー診療所)
五島健助
演 - 吉岡秀隆
外科医。専門は外科。東京の昭栄大学附属病院に勤めていたが、医療ミスの責任をとって志木那島にやって来る。

星野彩佳
演 - 柴咲コウ
看護師。星野正一の娘

和田一範
演 - 筧利夫
村役場の職員。志木那島診療所の事務員。

仲依ミナ
演 - 蒼井優(第2期)
看護師。

その他の主要人物
原剛利
演 - 時任三郎
漁師。

西山茉莉子[注 4]
演 - 大塚寧々
スナック経営者。

内つる子
演 - 千石規子(第1期)
村の長老。産婆。

安藤重雄[注 5]
演 - 泉谷しげる
漁業協同組合漁労長。

星野正一
演 - 小林薫
村役場の民生課課長。

その他人物
星野家
・星野昌代[注 6](正一の妻) - 朝加真由美

山下家(明夫)
山下明夫(農業) - 今福將雄(第1期)
・山下一夫(明夫の息子・村役場の職員) - 納谷真大
・山下道子(一夫の妻) - 森上千絵
・山下邦夫[注 7](一夫の息子) - 春山幹介

坂野家
坂野ゆかり - 桜井幸子
・坂野孝(村役場の職員・ゆかりの夫) - 大森南朋
・坂野千賀 - 畠山彩奈(第2期)
・坂野和枝 - 田畑ゆり


漁業関係者
・元木渡(漁師) - 山西惇
・橋口俊(漁師) - 塩谷瞬(第1期)
・熊木圭介(漁師) - 熊耳宏之
・脇田実(漁師) - 栗脇高志
・南佑介(漁師) - 東誠一郎
・洋平(漁師) - 宮嶋剛史(第2期)


山下家(努)
・山下努(漁師) - 船木誠勝
・山下春江(努の妻) - 高橋史子
・山下信一(努の息子) - 斉藤大貴(第2期:石川眞吾
・山下桃子(努の娘) - 松本梨菜


宮野家
宮野純平(剛洋の友達) - 池田晃信
・宮野真由美 - 谷本真美
・宮野真人(純平の兄) - 細田よしひこ(第2期)

小沢家
小沢信二 - 光石研(2004、第2期)
・小沢小百合 - 神野三鈴(2004、第2期)
・小沢ひな - 尾崎千瑛(現:尾崎由香)(2004、第2期)

その他
中村三郎(志木那村村長) - 坂本長利
・中村悠子(剛洋の同級生) - 大後寿々花
・川畑夏美(剛洋の同級生) - 大畑稚菜
・山下茂 - 松田史朗
・山下巌 ‐ 谷津勲
・原秀雄(剛洋の叔父) - 妹尾正文(第2期)
・原和子(剛洋の叔母) - 増子倭文江(第2期)

昭英大学附属病院・その他医師
原沢咲(五島の元同僚・昭英大学附属病院産婦人科医) - 石田ゆり子(第1期)
三上新一(五島の元同僚・昭英大学附属病院消化器外科医) - 山崎樹範(最終話)
鳴海慧(医師) - 堺雅人(第2期)

詳しいことは、『
Dr.コトー診療所 (テレビドラマ)』ウィキペディアをご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/Dr.%E3%82%B3%E3%83%88%E3%83%BC%E8%A8%BA%E7%99%82%E6%89%80_(%E3%83%86%E3%83%AC%E3%83%93%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%9E)
(wikiより)

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⇧⇩ 小雨が降っていて肌寒かったです。

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⇧ 見学料は300円でした ( 2010年 11月 10日当時 )

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⇧ 病室からの眺め。

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⇧ 屋上にある旗と同じものです。

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⇧ 撮影で使われた自転車。

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⇧⇩ 診察室からの眺め。

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⇧⇩ 劇中で食べられていたカップヌードル「ヤシガニラーメン」

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⇧⇩ 外に出てみました 比川浜が見えます。

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⇧ 屋上の旗も雨でぬれています。

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⇧⇩ 屋上に登ってみました。

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⇧⇩ 病院の左に来ました。

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⇧ ドラマ内で浜に放置されていた船

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⇧⇩ オープンセットの左側には
「 鬚川小学校(通称赤石小学校)発祥の地 」という碑が有りますが詳細不明です。


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荒木 伸吾(あらき しんご、1938年11月28日 - 2011年12月1日)は、日本アニメーターキャラクターデザイナー漫画家。作画プロダクション「有限会社荒木プロダクション」代表取締役日本アニメーター・演出協会(JAniCA)会員。


代表作に『聖闘士星矢』『キューティーハニー』『魔女っ子メグちゃん』など。全盛期の1970年代から1980年代まで、荒木伸吾デザインのアニメキャラクターはその端正な絵柄で美形キャラクターの代名詞とされるほどだった。アクション作画の腕前を評価する声も多い。

映像ディレクター、CMプランナーの荒木伸二は息子[1][2]

略歴

愛知県名古屋市出身。中学卒業後、日本車輌製造に勤務する。さいとうたかを辰巳ヨシヒロの影響を受けて漫画の執筆をはじめ、1955年に貸本劇画誌『街』(セントラル文庫)の新人コンクールで入賞、漫画家としてデビューする。その後、昼は工場で働きながら、『街』や『顔』(エンゼル文庫)などの貸本劇画誌に約60本の短編を執筆する。


しかし漫画で生計を立てることは出来ず、22歳頃から1年ほどCMのコンテを描く仕事に従事した後、貸本漫画家仲間で先に虫プロダクションに入っていた真崎守の誘いで、1964年に虫プロダクションへ入社。テレビアニメジャングル大帝』でアニメーターへの転身を果たした。


虫プロダクションは1年ほどで退社して、1966年に作画スタジオ「ジャガード」を斎藤博ら仲間数人で発足。アニメについては、ジャガード時代に斎藤から多くを学んだと後に荒木は感謝の弁を述べている。


ジャガードは虫プロダクションの作品とともに東京ムービーの作品の作画も手がけて、荒木も楠部大吉郎作画監督の下で『巨人の星』の劇画タッチの作画に挑戦し、劇中の一つのクライマックスになる星飛雄馬大リーグボール1号花形満が打ち返すパースを強調させたシーンの作画は語り草となった。


1970年
から、虫プロダクションで杉野昭夫金山明博との3人共同で『あしたのジョー』の作画監督を務めた。また、この年から『キックの鬼』『魔法のマコちゃん』で作画監督をしたのを手始めに東映動画作品にも参加するようになった。1971年には友人とスタジオZを設立(後輩の金田伊功貞光紳也富沢和雄もここに在席)。1973年にフリーになり、テレビアニメ『バビル2世』で荒木は初のキャラクターデザインを任された。これらは初期のキャラクターでは最も愛着が強いという。


さらに東映動画では、1973年の『キューティーハニー』、1974年の『魔女っ子メグちゃん』、1975年の『少年徳川家康』『UFOロボ グレンダイザー』、1977年の『惑星ロボ ダンガードA』と立て続けに東映動画作品のキャラクターデザインをして、荒木の名を印象付けた。特に『惑星ロボ ダンガードA』の男性キャラクターのトニー・ハーケンは女性ファンの支持を得た。


1970年代
末に始まったアニメブームで荒木を人気アニメーターの地位に押し上げたのは、これらの作品である。この間、1972年に倒産したジャガードに代わり1974年に荒木プロダクションを設立、荒木の設立時からのメンバーである姫野美智を片腕として、姫野の少女漫画的な華麗なタッチが荒木の作風に加わった。


1979年
の東京ムービー作品『ベルサイユのばら』を終えると、荒木プロダクションは1980年から同じく東京ムービーでフランスとの合作作品『宇宙伝説ユリシーズ31』『ルパン8世』『ガジェット警部』『シャンソン・ノノ』『ヒースクリフ』を1983年まで手がけて、日本国内ではアニメファンに対して目立った仕事がなかった。フランスとの仕事ではソフトな演技を学び、後の仕事に役立ったという。


荒木の作風の人気に再び火がついたのは、1986年車田正美原作の『聖闘士星矢』のテレビアニメ化によるものだった。『聖闘士聖矢』は3年間にわたって放送され、自他ともに認める荒木・姫野の代表作となり2000年代以降も続編を制作する人気シリーズとなった。その後は車田作品の『リングにかけろ1』・『風魔の小次郎』に加え、横山光輝作品の『横山光輝 三国志』など、多くのキャラクターデザインを手がけるようになった。この人気を背景に、荒木・姫野のオリジナルキャラクターデザインによるコンピュータゲームBURAI』(1989年)[3]と『KIGEN 輝きの覇者』(1991年)が発売された。


『聖闘士星矢』以降も荒木は東映動画作品を主としてキャラクターデザインを続けたが、作画監督を務めることは少なくなっていった。


2010年8月には公式サイトを開設(外部リンク参照)。45年ぶりに作成中の漫画作品『Sourire』のサンプルを数ページほど公開した。


2011年
12月1日、水泳中の事故による[4]急性循環不全で死去した[5]。満73歳没。

作品リスト
テレビアニメ
巨人の星(1966年、原画)
パーマン(1967年、作画)
アタックNo.1(1969年、作画)
あしたのジョー (1970年、作画監督)
キックの鬼 (1970年、作画監督)
魔法のマコちゃん (1970年、作画監督)
アニメンタリー決断 (1971年)
原始少年リュウ(1971年、作画)
アパッチ野球軍 (1971年、作画監督)
赤胴鈴之助 (1972年、作画監督)
正義を愛する者 月光仮面(1972年、作画)
デビルマン (1972年、作画監督)
荒野の少年イサム(1973年、作画監督)
キューティーハニー (1973年、キャラクターデザイン[6]・作画監督)
バビル2世 (1973年、キャラクターデザイン・作画監督)
柔道讃歌 (1974年、作画監督)
魔女っ子メグちゃん (1974年、キャラクターデザイン・作画監督)
少年徳川家康 (1975年、キャラクターデザイン[7]・作画監督)
UFOロボ グレンダイザー (1976年、キャラクターデザイン・作画監督)
新巨人の星 (1977年、作画監督)
惑星ロボ ダンガードA (1977年、キャラクターデザイン[8]・作画監督)
銀河鉄道999 (1978年、キャラクターデザイン)
花の子ルンルン(1979年、キャラクターデザイン・原画)
新・巨人の星II(1979年、作画監督)
ベルサイユのばら (1979年、キャラクターデザイン・作画監督)
宇宙伝説ユリシーズ31 (1981年、作画総監督)
銀河烈風バクシンガー (1982年、オープニングアニメーション)
わが青春のアルカディア 無限軌道SSX (1982年、作画監督)
愛してナイト (1983年、作画監督)
はーいステップジュン (1984年、作画監督)
ガラスの仮面 (1984年、オープニングアニメーション)
ルパン三世 PARTIII (1984年、作画監督)
ふしぎなメルモ (1985年、作画監督)
メイプルタウン物語 (1986年、作画監督)
聖闘士星矢 (1986年、キャラクターデザイン・作画監督)
横山光輝 三国志 (1991年、キャラクターデザイン・作画監督)
蒼き伝説 シュート! (1993年、キャラクターデザイン・作画監督)
ゲゲゲの鬼太郎 (1996年、キャラクターデザイン)
金田一少年の事件簿 (1997年、キャラクターデザイン)
遊☆戯☆王 (1998年、キャラクターデザイン)
遊☆戯☆王デュエルモンスターズ (2000年、キャラクターデザイン)
リングにかけろ1 (2004年、キャラクターデザイン・総作画監督・作画監督)
遊☆戯☆王デュエルモンスターズALEX (2006年、キャラクターデザイン)※日本未公開
・リングにかけろ1-日米決戦編- (2006年、キャラクターデザイン)
・リングにかけろ1 影道編 (2010年、キャラクターデザイン)
・リングにかけろ1 世界大会編 (2011年、キャラクターデザイン)
聖闘士星矢Ω (2012年、原画)

劇場アニメ
パンダコパンダ (1972年、原画)
・キューティーハニー (1974年、作画監督)
・魔女っ子メグちゃん (1974年、作画監督)
長靴をはいた猫 80日間世界一周 (1976年、原画)
一休さん ちえくらべ (1977年、作画監督)
さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち(1978年、作画監督)
・あしたのジョー (1980年、作画監督)
聖闘士星矢 邪神エリス (1987年、キャラクターデザイン・作画監督)
聖闘士星矢 神々の熱き戦い (1988年、キャラクターデザイン・作画監督)
聖闘士星矢 真紅の少年伝説 (1988年、キャラクターデザイン・作画監督)
聖闘士星矢 最終聖戦の戦士たち (1989年、キャラクターデザイン)
・ベルサイユのばら (1990年、作画監督)
三国志 第二部・長江燃ゆ!(1993年、原画)
・蒼き伝説 シュート! (1994年、作画監督)
ゲゲゲの鬼太郎 大海獣 (1996年、キャラクターデザイン・作画監督)
・金田一少年の事件簿・オペラ座館・新たなる殺人 (1996年、キャラクターデザイン・作画監督)
ゲゲゲの鬼太郎 妖怪特急! まぼろしの汽車 (1997年、キャラクターデザイン・作画監督)
遊☆戯☆王 (1999年、作画監督)
・金田一少年の事件簿2・殺戮のディープブルー (1999年、キャラクターデザインコンセプト)
シャム猫 -ファーストミッション-(2001年、 メインキャラクターデザイン)
聖闘士星矢 天界編 序奏〜overture〜 (2004年、キャラクターデザイン・作画監督)


OVA
アモン・サーガ (1986年、キャラクターデザイン・作画監修・原画)
風魔の小次郎 聖剣戦争篇 (1990年、キャラクターデザイン)
インフェリウス惑星戦史外伝 CONDITION GREEN (1991年、キャラクターデザイン)
ドラゴン・フィスト (1991年、キャラクターデザイン・作画監督)
・風魔の小次郎 最終章・風魔反乱篇 (1992年、キャラクターデザイン)
・バビル2世 (1992年、キャラクターデザイン)
ゲキ・ガンガー3 熱血大決戦!! (1998年、原画)
聖闘士星矢 冥王ハーデス 十二宮編 (2002年、キャラクターデザイン・総作画監督)
聖闘士星矢 冥王ハーデス 冥界編 前章 (2005年、キャラクターデザイン・総作画監督)
聖闘士星矢 冥王ハーデス 冥界編 後章 (2006年、キャラクターデザイン・総作画監督)
聖闘士星矢 冥王ハーデス エリシオン編 (2008年、キャラクターデザイン・総作画監督)

漫画
・街路 (1960年5月、『街』40号 セントラル文庫)
・Sourire (鋭意制作中。正式発表時期未定)

ゲーム
BURAI (1989年、リバーヒルソフト、キャラクターデザイン・原画)
KIGEN 輝きの覇者 (1991年、リバーヒルソフト、キャラクターデザイン・原画)
機動戦艦ナデシコ The blank of 3years (1997年、アニメパートスタッフ原画)
聖闘士星矢 ブレイブ・ソルジャーズ (2013年、オープニングアニメーションスタッフ キャラクターデザイン)

注釈
1. 『キューティーハニー』 『ベルサイユのばら』 『聖闘士星矢』などを手がけた天才アニメーター 荒木伸吾回顧展が秋葉原で開催 週刊アスキー 2012年11月14日 2020年7月5日閲覧 

2. 
長澤知之 特集 第三弾!PV制作チーム 荒木伸二氏×菅原直太氏 対談! POPSCENE 2017年4月3日 2020年7月5日閲覧 

3. 
『BURAI』の原作・シナリオなどを手がけた飯島健男が自著『ゲーム業界白書』の中で、「荒木の参加によってこれまでパソコンゲームに見向きもしなかった女性層に興味を持ってもらえ、発売前後のショップイベント等では珍しく女性ファンの姿を見ることができたが、肝心のソフトの売り上げはそれまでの作品と比べて大差無かった(=荒木キャラに熱中する女性ファンは、ソフトを買うほど作品そのものには入れ込んでくれなかった)」と当時を述懐している。 

4. 
荒木伸吾 公式サイト 「ファンの皆様へ」を参照。

5. 
「バビル2世」など手がける、荒木伸吾氏が死去 : ニュース : エンタメ : YOMIURI ONLINE(読売新聞)”. 読売新聞社 (2011年12月2日). 2011年12月2日閲覧。
6. 
キューティーハニー”. 東映アニメーション. 2016年5月23日閲覧。

7. 
少年徳川家康”. 東映アニメーション. 2016年5月23日閲覧。

8. 
惑星ロボ ダンガードA”. 東映アニメーション. 2016年6月2日閲覧。


参考文献
・「The BIKEI '87 荒木伸吾&姫野美智の世界」『アニメージュ』1987年11月号、徳間書店、pp.6-12
・「特集 荒木伸吾 その美しき世界」『アニメディア』1989年6月号、学習研究社、p109-112

外部リンク
SOURIRE(荒木伸吾 公式サイト)
 ・かつては荒木プロダクション公式サイトもあったが、現在は閉鎖されている。
WEBアニメスタイル 荒木伸吾さんに聞く 新生『聖闘士星矢』
@SHINGObySHINJI Twitter ※息子によるアカウント。
(wikiより)


2 荒木伸吾

⇧ 荒木伸吾

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高畠 華宵(たかばたけ かしょう、1888年4月6日 - 1966年7月31日)は、日本の画家。本名、高畠幸吉


愛媛県
宇和島市裡町に生まれ、京都市立美術工芸学校日本画科卒業。大正から昭和初期にかけて、華宵の絵は当時の少年少女の間で絶大な人気を得た。宇和島市長・衆議院議員を務めた高畠亀太郎は、実兄。

栄光の日々
上京した当座は生活苦に喘いでいたが、1911年に「華宵」名義で発表した津村順天堂「中将湯」の広告画で一躍有名になる。アール・ヌーボーユーゲントシュティール、特にオーブリー・ビアズリーの影響を受けたとされるシャープなペン画によるモダンな絵はそれまでの広告イラストとは一線を画したもので[1]、世間の注目を集めた。

074b 高畠華宵

⇧ 1924年『七転八起開運出世双六』高畠華宵


その後『少女画報』(東京社)『少女倶楽部』『少年倶楽部』(いずれも講談社)『日本少年』『婦人世界』(いずれも実業之日本社)などの少女向け雑誌や少年雑誌、婦人雑誌などに描いた独特な美少年美少女の挿絵や美人画は一世を風靡し、たちまち竹久夢二らと並ぶ人気画家となった。1926年には自身の意匠による便箋や封筒を発売するなど、現代でいうメディアミックス風のプロモーションも行い、当時の流行歌「銀座行進曲」(正岡容作詞、1928年)の歌詞に「華宵好みの君も往く」と歌われるほどになった[2]。また、鎌倉・稲村ヶ崎一の谷(いちのやと)に建てた異国情緒あふれる自邸は「華宵御殿」と呼ばれ、華宵の趣味が凝縮したものとして注目を集めた。華宵御殿には、全国の女性(とくに女学生)からのファンレターが殺到し、地方の令嬢が華宵御殿見たさに家出するほどだった[3]。当時の華宵の画料は本人の言い値で決まっていたとされ、1925年には『少年倶楽部』の加藤謙一らの画料引き下げの求めに対し、華宵は寄稿の取りやめで応じたという[4]


しかし戦時色が濃くなるにつれ、人気絶頂の1937年ごろから雑誌などの活動が減ってゆき、一般大衆の間でもその人気は持続しなかった。戦後も華々しいカムバックとはいかず、1960年代に再評価を受ける(後述)まではやや歴史の中に埋もれた存在となっていた。それでも完全に忘れ去られることはなく、昭和中後期における少年少女、婦人雑誌の人物の挿絵は華宵の影響を受けたものが多い。漫画家の丸尾末広も華宵の画風から影響を受けていることがよく知られている。

画風

人物画が中心。連載小説挿絵・雑誌口絵レターセットなどの小物の意匠などに使われた。独特の三白眼を有する、無国籍風な表情と中性的な雰囲気をもつ人物を描く。妖艶さと清楚さを併せ持つ少女画・美人画と、凛々しく潔い、しかしやはりどこか色香を漂わせる少年画はいずれも一目で彼の作品とわかるほどの個性を放っている。また、明治から昭和初期にかけての和装・洋装を含むありとあらゆる服装・髪型アクセサリーが画題となっていることも注目される。描かれるファッションレパートリーは幅広く、たとえば和服については生涯にわたって同じ柄の着物を二度以上描いたことがないと豪語したとも伝えられるほどに衣装デザインは多彩だった。実際、彼は浴衣洋服のデザインを行い、それが雑誌口絵に鳴り物入りで掲載されるなど、時代のファッションをリードするデザイナーとしても活躍した(雑誌口絵にはそのデザイン服は「華宵好み」という名を冠して掲載された)。そのレパートリーの広さを存分に生かした渾身の大作が「移り行く姿」(昭和初期、現在は個人蔵)である。これは明治から昭和初期にかけての女性ファッションの移り変わりを、60人以上の女性を配した六曲一双の屏風絵に仕立てたものである。華宵はこの作品を暑い季節にも寝食を忘れて描き、すっかりやせ細ってしまったという弟子の証言があるほどの、一世一代の力作であった。


幾多の美女・美少女・美少年を描き続けたが、特定のモデルはいなかったとされている。また本人にはまったく浮いた話がなく、生涯独身であった。縁談を勧められたときも「私には絵の中の女たちがいますから」と切り返した話は有名である。

失意の戦後と幸せな晩年
戦後しばらくは夢を抱いて渡米するも、経済的に貧窮し、健康にも恵まれずに帰国するなど失意の日々を過ごし、怪盗ルパンシリーズの挿絵など、子供向けの仕事を細々と続けながら、全盛期とは比べ物にならないほど凋落した生活を送っていた。晩年にはかつて絶縁した実家の兄を頼るほどに困窮し、神戸の老人福祉施設に入っている。そんな中、幼少時に華宵のファンだった[5]という弁護士の鹿野琢見が偶然華宵の困窮ぶりを伝える記事を目にし、本人と文通を開始した(のちに華宵はあらたに「新・さらば故郷!」と題する水彩画を描き、鹿野に贈っている)。鹿野らの尽力に加え、かつて華宵の絵に熱狂した世代の後押しもあり、首都圏で華宵の回顧展が開催され、爆発的に人気が再燃した。その隆盛ぶりを見届けたのちの1966年7月31日、鹿野とかつて画料問題で対立した加藤謙一に看取られつつ生涯を閉じた。同日付けで挿絵画家としては初となる勲五等双光旭日章を受けた[6]。墓所は神奈川県鎌倉市鎌倉霊園にあり、養子の華晃ものちに同じ墓に葬られている。鹿野らは1984年に東京都文京区に「弥生美術館」を開き、華宵の作品の常設展示を始めた(後述)。

展示施設

弥生美術館(東京都文京区

  3階にて鹿野らが集めた多くの作品が常設展示されている。竹久夢二美術館が併設され、これらの美術館では華宵作品を中心として当時の風俗・ファッション・イラスト・少年少女の生活などを対象とする研究が積極的に行われている。


高畠華宵大正ロマン館
(愛媛県東温市

  自筆を含む多くの作品、書簡写真などが展示されている。


宇和島市立歴史資料館(愛媛県宇和島市)

  華宵作品の常設展示室「華宵の部屋」が開設され、3ヶ月毎に展示替えが行われている。

関連書籍
・『高畠華宵名作画集』 講談社、1967年

・『想いでの華宵絵ごよみ 抒情画家・高畠華宵の生涯』 ノーベル書房、1969年

・高畠華晃編著『画家の肖像 高畠華宵の伝記と作品』 「画家の肖像」同刊行会、1971年

・『豪華限定版 高畠華宵名画大集』 講談社、1976年(限定1500部)

・『高畠華宵名画集 優美、華麗な叙情画の世界』 講談社、1984年、ISBN 4-06-201655-9

・『別冊太陽 高畠華宵 美少年・美少女幻影』 平凡社、1985年

朝日新聞東京本社編『生誕100年 大正ロマンを描いた高畠華宵展図録』 朝日新聞社、1988年

・『高畠華宵大正ロマン館 図録』同編、1990年

・高橋光子『高畠華宵とその兄』 潮出版社、1993年、ISBN 4-267-01341-1

・近藤富枝『移り行く姿』 彩樹社/星雲社:発売、1993年、ISBN 4-7952-3925-8

弥生美術館監修『弥生美術館 叙情画家高畠華宵の世界』(CD-ROM) アテイン販売

・『高畠華宵 もう一つの世界』(CD-ROM) リンクインク制作/ドーム発売、1996年、ISBN 4-88734-801-0

・コロナ・ブックス編集部編『高畠華宵・美少年図鑑』 平凡社、2001年、ISBN 4-582-63388-9

・中村圭子編 『昭和美少年手帖』 河出書房新社、2003年、ISBN 4-309-72729-8

  ・『昭和美少年手帖』 河出書房新社、新装版2012年、ISBN 978-4-309-72790-5

・松本品子編 『高畠華宵 大正・昭和 レトロビューティー』 河出書房新社、2004年、ISBN 978-4-309-72735-6

  ・『高畠華宵 大正・昭和 レトロビューティー』 河出書房新社、新装版2011年、再訂版2020年、ISBN 978-4-309-75042-2

・松本品子編 『華宵のおしゃれ教室』 河出書房新社、2007年、ISBN 978-4-309-72763-9

出典
1. 千足伸行「高畠華宵と西洋近代絵画」『高畠華宵展 -華麗なる浪漫の世界-』図録、明石市立文化博物館神戸新聞社、1994年
2. 匠秀夫 『匠秀夫著作集 第2巻』 pp.395-396、沖積舎、2002年
3. 松本品子編『高畠華宵 大正・昭和レトロビューティー』 p46、河出書房新社、2004年、
4. 加藤丈夫『漫画少年物語』都市出版、2002年、pp.117 - 118
5. 鹿野は「さらば故郷!」が好きだったという。
6. 松本品子編『高畠華宵 大正・昭和レトロビューティー』 p119、河出書房新社、2004年、

外部リンク
弥生美術館

高畠華宵大正ロマン館

宇和島市歴史資料館 華宵の部屋
(wilkiより)

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⇧ 高畠華宵

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手塚 治虫(てづか おさむ、1928年[注 1]昭和3年〉11月3日 - 1989年平成元年〉2月9日)は、日本漫画家アニメ監督医師勲等勲三等学位医学博士奈良県立医科大学1961年)。本名:手塚 治(読み同じ)。


戦後日本においてストーリー漫画の第一人者として、漫画表現の開拓者的な存在として活躍した。兵庫県宝塚市出身で同市名誉市民。出生は大阪府豊能郡豊中町大阪帝国大学附属医学専門部を卒業。

概要

大阪帝国大学附属医学専門部在学中の1946年1月1日に4コマ漫画『マアチャンの日記帳』(『少国民新聞』連載)で漫画家としてデビュー。1947年、酒井七馬原案の描き下ろし単行本新寶島』がベストセラーとなり、大阪に赤本ブームを引き起こす。1950年より漫画雑誌に登場、『鉄腕アトム』『ジャングル大帝』『リボンの騎士』といったヒット作を次々と手がけた。


1963年、自作をもとに日本初となる30分枠のテレビアニメシリーズ[注 2]鉄腕アトム』を制作、現代につながる日本のテレビアニメ制作に多大な影響を及ぼした。1970年代には『ブラック・ジャック』『三つ目がとおる』『ブッダ』などのヒット作を発表。また晩年にも『火の鳥』『陽だまりの樹』『アドルフに告ぐ』など青年漫画においても傑作を生み出す。デビューから1989年の死去まで第一線で作品を発表し続け、存命中から「マンガの神様」と評された[注 3]


藤子不二雄
藤子・F・不二雄藤子不二雄)、石ノ森章太郎赤塚不二夫横山光輝水野英子矢代まさこ萩尾望都などをはじめ数多くの人間が手塚に影響を受け、接触し漫画家を志した。

生涯
幼少期

手塚治虫(本名・治)は1928年11月3日、大阪府豊能郡豊中町(現・豊中市本町付近)に、父・手塚粲(てづかゆたか・1900年 - 1986年5月14日[2])と母・文子(1909年 - 1983年)の長男として生まれた。明治節に生まれたことから「明治」にちなんで「」と名づけられた[3]。3人兄弟の長男であり、弟は手塚浩(1930年 - )、妹は宇都美奈子(1932年 - 2015年)。


1933年、治が5歳の時に一家は、1932年に他界した祖父が終の棲み家とした兵庫県川辺郡小浜村(現・宝塚市)川面(かわも)の邸宅に移り住んだ。戦前の寶塚(現・宝塚)は、小林一三箕面有馬電気軌道の乗客増加を狙って田園風景の中に開発した新興の住宅地が散在して、その中心に宝塚少女歌劇団(現・宝塚歌劇団)の本拠地である宝塚大劇場宝塚ファミリーランドの前身である宝塚新温泉や宝塚ルナパークなどの行楽施設が立ち並んで、一種の異空間を形作っていた[4]。宝塚の人工的な近代都市の風景は手塚の作品世界の形成に大きな影響を及ぼしたと考えられる[5]。父は宝塚ホテルの中に作られた宝塚倶楽部の会員であり、ときどき治は父に連れられて宝塚ホテルのレストランで食事をして、母には宝塚少女歌劇団に連れて行ってもらっていた[6]。また手塚家の隣家は宝塚少女歌劇団の男役トップスターである天津乙女(本名:鳥居榮子)と雲野かよ子(本名:鳥居華子)と池邊鶴子(本名:鳥居久代)姉妹が住む鳥居家であり、宝塚音楽学校に入学したい娘が保護者とともにお百度を踏む光景がよく見られるなど、宝塚少女歌劇団の女性と接する機会も多かった[7]。のちに手塚は、初恋の相手が宝塚少女歌劇団の生徒だったこと、宝塚の生徒を見たいがために宝塚大劇場に通ったこと、月丘夢路淡島千景のような鉄火肌の女性が好みであること、月丘主演の大映映画『新雪』(1942年)を20数回観たことを語っている[8]


1935年、池田師範附属小学校(現・大阪教育大学附属池田小学校,ただし移転により当時とは場所が異なる)に入学した。母が東京出身であったこともあり、近畿方言を話せず浮いた存在であったために、小学2年生の時に「ガヂャボイ」というあだ名を付けられ、からかいの対象になったという。囃し歌を歌われる度に泣いていたという。しかし、幼い頃から見様見真似で描いていた漫画絵が治を救うことになる。小学3年生の時に、最初の漫画「ピンピン生チャン」を完成させると、その後漫画の練習に取り組み[9]、小学5年生の頃には長編漫画「支那の夜」を完成。同作品は、仲間内のみならず学校の教師の間でも話題になるほどであり、以後教師からも漫画を描くことを黙認されるようになったという[10]。漫画を描くことで同級生たちからも一目置かれ、また漫画目当てにいじめっ子も手塚の家に訪れるようになるなどして次第にいじめはなくなった。誕生日には家に20人もの友人が集まるほどになっていた[11][注 4]。友人が家に来ると、当時としては珍しく紅茶菓子でもてなされ、治の誕生日には五目寿司茶碗蒸しが振舞われた[11]。この当時に描いた漫画の一部は今でも記念館に保存されている[12]


この時期に、同級生の石原実(後に大阪淀屋橋石原時計店社長)と親しくなり、彼の影響を受けて昆虫科学天文学に興味を持つようになる[13]。手塚家の邸宅の広い庭は昆虫の宝庫であり[14]、また周囲の田園地帯にも虫が豊富にいて、昆虫採集には最適の環境だったことから、趣味に対し深みを持たせた[15]。友人から借りた平山修次郎『原色千種昆蟲図譜』を読み、甲虫オサムシの存在を知り、それにちなんで、この時期からペンネームとして「手塚治虫」を使い始めた。1950年頃までは、「治虫」はそのまま「おさむ」と読ませていた[16]

青年期と戦争体験

1941年、大阪府立北野中学校(現・大阪府立北野高等学校)に入学。時節柄軍事色が強まっていった時期であり、小学校時代とは一転し、漫画を描いているのを学校教練の教官に見つかり殴られるなどしている[17]。この時期、仲間内で作った同好会の会誌などで漫画を執筆する一方で、手塚版「原色甲蟲圖譜」などイラストレーションによる図鑑を自作するなど精力的に活動する。


1944年夏には体の弱い者が入れられる強制修練所に入れられる。9月からは学校に行く代わりに軍需工場に駆り出され[17]、ここで格納庫屋根にするスレートを作った[18]


1945年3月、戦時中の修業年限短縮により北野中学を4年で卒業。旧制浪速高等学校(現・大阪大学)を受験したものの、漫画ばかり描いていたため、不合格となった[19]。6月、勤労奉仕監視哨をしていたときに大阪大空襲に遭遇、頭上で焼夷弾が投下されるも九死に一生を得る[20]。この空襲は手塚の原体験ともいうべきものとなり、後に『紙の砦』(1974年)や『どついたれ』(1979年 - 1980年)などの自伝的作品の中にその様子が描かれている[21]。この体験以降、手塚は工場に行くのをやめ、家にこもってひたすら漫画を描くようになった[22]


同年7月、手塚は大阪帝国大学附属医学専門部の試験を受け、入学を許可された[23]。医学専門部は、戦争の長期化に伴い、軍医速成のため正規の医学部とは別に臨時に大阪帝国大学の学内に付設されたもので、学制上は旧制医学専門学校であり[注 5]、従って旧制中学校からの入学が可能であった[24]。大阪大学(旧・大阪帝国大学)附属医学専門部は1951年に廃止されている。なお後述の通り医師国家試験についてはジャングル大帝や鉄腕アトムなど連載の執筆をしながら合格している。

デビュー、赤本の世界へ

終戦後、学生である手塚は戦時中に描き溜めた長編の中から『幽霊男』(『メトロポリス』の原型)という長編を選んで描き直し、毎日新聞学芸部へ送った[25]。これは音沙汰無しに終わったが、その後、隣に住んでいた毎日新聞の印刷局に勤める女性からの紹介で、子供向けの『少国民新聞』(現・毎日小学生新聞)学芸部の程野という人物に会い[26]、彼の依頼を受けて『少国民新聞』の大阪版に4コマ漫画『マアチャンの日記帳』を連載(1946年1月1日 - 3月31日)、この作品が手塚のデビュー作となった。この『マアチャン』はローカルながら人気があり、人形駄菓子キャラクターに使用されたという記録も残っている[27]。『マアチャン』に続けて4月から『京都日日新聞』に4コマ漫画『珍念と京ちゃん』を連載しており、これらと平行して4コマ形式の連載長編作品『AチャンB子チャン探検記』『火星から来た男』『ロストワールド』(後述するものとは別物)なども各紙に描かれているが、4コマ連載という形式に限界があり、後2者はどちらも中断に近い形で終わっている[27]


漫画家としてデビューする前の1945年頃、2代目桂春団治が地方での自主興行を行う際のポスター画を提供した[28](現物は宝塚市立手塚治虫記念館に展示されている)。2代目春団治が宝塚市清荒神在住ということもあり、親交を重ねるうち、手塚の漫画家志望という進路を案じ、落語家になるよう勧めたという。


1946年、同人誌『まんがマン』の例会を通じて後見役の酒井七馬と知り合い、酒井から長編ストーリー漫画の合作の話を持ちかけられる[29]。これは戦後初の豪華本の企画でもあり、それまで長編漫画を描き溜めていた手塚としては願ってもない話であった[30]。こうして大雑把な構成を酒井が行い、それを元に手塚が自由に描くという形で200ページの描き下ろし長編『新寶島』が制作された[31]。1947年1月に出版されると、当時としては異例のベストセラーとなった。映画的な構成とスピーディな物語展開を持つ『新寶島』は、一般に戦後ストーリー漫画の原点として捉えられている[32][33](後段#新寶島(新宝島)の革新性も参照)。


ベストセラーとなった『新寶島』は大阪に赤本ブームを起こし、手塚はこれに乗って描き下ろし単行本の形で長編作品を発表できるようになった[34]。手塚は忙しくなり、これまでに描き溜めてきた長編を基に、学業の傍ら月に1、2冊は作品を描き上げなければならなくなった[35]。1947年に発表された『火星博士』『怪人コロンコ博士』『キングコング』などは子供向けを意識したB級映画的な作品であったが、1948年の『地底国の怪人』からは悲劇的な展開も取り入れるようになり、SF冒険などを題材に作品中でさまざまな試みが行なわれた。同年末に描かれた『ロストワールド』では様々な立場の人物が絡み合う地球規模の壮大な物語が描かれ、続く『メトロポリス』(1949年)『来るべき世界』(1951年)とともに手塚の初期を代表するSF三部作をなしている[36]。1949年の西部劇『拳銃天使』では児童漫画で初のキスシーンを描く[37]。1950年には文豪ゲーテの『ファウスト』を漫画化したほか、「映画制作の舞台裏をお見せします」という導入で始まる『ふしぎ旅行記』、自身の漫画手法を体系化して示した漫画入門書の先駆的作品『漫画大学』などを発表している。


漫画執筆が忙しくなると大学の単位取得が難しくなり、手塚は医業と漫画との掛け持ちは諦めざるを得なくなった。教授からも医者になるよりも漫画家になるようにと忠告され、また母の後押しもあって、手塚は専業漫画家となることを決める[38]。もっとも学校を辞めたわけではなく、1951年3月に医学専門部を卒業(5年制、1年留年。この年に専門部が廃止されたため最後の卒業生となった)、さらに大阪大学医学部附属病院で1年間インターンを務め、1952年3月に第十二回医師国家試験に合格、1953年9月18日に医籍登録されている[39]。このため、後に手塚は自伝『ぼくはマンガ家』の中で、「そこで、いまでも本業は医者で、副業は漫画なのだが、誰も妙な顔をして、この事実を認めてくれないのである」と述べている[40]

雑誌連載開始
手塚は大阪で赤本漫画を描く傍ら、東京への持ち込みも行なっている。当初期待した講談社では断られたが、新生閣という出版社で持ち込みが成功し、ここでいくつか読み切りを描いた後、新創刊された雑誌『少年少女漫画と読み物』に1950年4月より『タイガー博士の珍旅行』を連載、これが手塚の最初の雑誌連載作品となった[41]。同年11月より雑誌『漫画少年』(学童社)にて『ジャングル大帝』の連載を開始、1951年には『鉄腕アトム』(1952年 - )の前身となる『アトム大使』を『少年』(光文社)に連載するなど多数の雑誌で連載を始め、この年には少年漫画誌のほとんどで手塚の漫画の連載が開始された[42]。1953年には『少女クラブ』(講談社)にて『リボンの騎士』の連載を開始した。宝塚歌劇やディズニーからの影響を受けたこの作品は、以後の少女雑誌における物語漫画の先駆けとなった[43]。1954年には『ジャングル大帝』連載完結の後を受けて『漫画少年』に『火の鳥』の連載を開始した。『火の鳥』のシリーズはその後も休刊等によりCOM、マンガ少年、野性時代と掲載誌を変えながら長年に描き継がれ,手塚のライフワークとなった。

月刊の雑誌連載という形態は、手塚がそれまで描き下ろし単行本で行ってきた複雑な物語構成の見直しを余儀なくさせ、読者を引っ張るための魅力的なキャラクター作りや単純な物語構成などの作劇方法へ手塚を向かわせることになった[44]。一方、描き下ろし単行本の方は1952年の『バンビ』『罪と罰』の2冊で終わりを告げるが、代わりに郵便法の改正によってこの時期に雑誌の付録が急激に増加し、手塚は連載作品と平行して付録冊子の形で描き下ろし長編作品をいくつも手がけ、この形で単行本時代の作品も続々とリメイクされていった[45]


私生活の面では、1952年に宝塚から東京に移住し、さらに翌1953年に『漫画少年』編集部からの紹介で豊島区トキワ莊に入居[46]、その後トキワ荘には手塚に続いて寺田ヒロオ藤子不二雄が入居。手塚は自分が住んでいた14号室を藤子不二雄の二人に譲ってトキワ荘から転居したが、その後も石森章太郎(後に石ノ森章太郎に改名)、赤塚不二夫など後に著名な漫画家となる者たちが続々と入居したトキワ莊は漫画家の梁山泊となった。この時期、手塚はトキワ莊の漫画家に映画をたくさん観るようにと薦めており、手塚自身も十数年間は年に365本を必ず観ていたという[注 6]


なお、1953年に手塚は関西の長者番付の画家の部でトップとなったが、仕事場が木造2階建て建築のトキワ莊であったため、取材に来た新聞記者に呆れられたので、以後は意識して高級品を買い込むようにしたと語っている[47]


『鉄腕アトム』『ぼくのそんごくう』など児童漫画の人気作品の連載をする一方で、手塚は1955年に大人向けの漫画雑誌『漫画読本』(文藝春秋新社)に『第三帝国の崩壊』『昆虫少女の放浪記』を発表しており、ここでは子供向けの丸っこい絵柄とは違った大人向けのタッチを試みている[48]。1955年から1958年にかけての手塚は知的興味を全面に出した作品を多く出しており[48]、1956年にSF短編シリーズ『ライオンブックス』を始めたほか、学習誌に『漫画生物学』『漫画天文学』などの学習漫画を発表、後者は第3回小学館漫画賞(1957年)の対象作品となった。この他にも幼年向け作品や絵物語小説エッセイなど漫画家の枠を超えた活動をするようになっており[49]、1958年には東映動画(現・東映アニメーション)の演出家白川大作から請われて同社の嘱託となり劇場用長編漫画映画『西遊記』(『ぼくのそんごくう』が原作)の原案構成を受け持っている[50]

劇画との闘い

1958年頃より、各漫画誌で桑田次郎武内つなよし、横山光輝などの売れっ子漫画家が多数出現しており、この時期の手塚は人気面ではそのような漫画家達の中の一人に過ぎなくなっていた[51]。さらに手塚を脅やかしたのは、この時期に新しく台頭してきた劇画の存在であった。社会の闇をストレートに描く劇画の人気は当時の手塚を大いに悩ませ、階段から転げ落ちたり、大阪の劇画作家の拠点に押しかけ、集会に参加したりした[52]


当初は劇画の雑誌にも連載を持つなどしていたが、手塚のアシスタントまでが貸本劇画を何十冊も借りてくるようになると、手塚はノイローゼに陥り、精神鑑定も受けたという[53]。またすでに、1957年には『黄金のトランク』(『西日本新聞』連載)で劇画風のタッチを試みるなどしており、徐々に劇画の方法論を自作に取り入れていくようになる[54]


1959年、週刊誌ブームを受けて週刊漫画雑誌『少年マガジン』(講談社)および『少年サンデー』(小学館)が創刊され、それ以後月刊の少年誌は次第に姿を消していくことになった。この時、手塚は誘いを受けて小学館の専属作家となった(ただし、『少年サンデー』初代編集長豊田亀市は、契約料200-300万円(当時)を提示して専属契約を持ちかけたが、断られたと証言している[55]。)が、講談社からも誘いを受けて困惑し、結局『少年サンデー』創刊号には自身の手による『スリル博士』を連載、『少年マガジン』の方には連載13回分の下描きだけをして石森章太郎に『快傑ハリマオ』の連載をさせている[50]。同年、宝塚ホテルにて結婚式を挙げる。

詳しいことは、『手塚治虫ウィキペディア』をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%8B%E5%A1%9A%E6%B2%BB%E8%99%AB
(wikiより)

0010 手塚治虫

⇧ 手塚治虫

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JR高崎駅にある『幸福のだるま』モニュメント。

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家数二十軒 古昔筥崎八幡宮の御供を調べ奉りし町なる故御供所町と云う        

「筑前続風土記」より
(石碑文より)

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初代竹本弥太夫の墓は、当初門人によって建てられている。


その文政三年 ( 1820年 ) は、初代文楽の文化七年 ( 1810年 ) から十年後である。


それを思い合わせると、初代文楽の没後に、その代わりに師匠として大阪から招かれてようになったのが初代弥太夫ではあるまいか。そうすると、初代文楽は、尾道の素人浄瑠璃連を教えに時々来ていたのであってその墓は没後間もなく弟子達によって追慕のために建てられたものであろう。


尾道は文化、文政の頃港商都として非常に栄えていたのであるから、大阪から師匠を招く財力は十分にあったものと思える。


浄るりが盛んであった昭和の初め頃まで、その伝統は栄えていたのであって、浄るり会がしばしば催された。


初代文楽軒の事蹟は非常に資料が少なくてよくわからないのであるが、尾道に墓があることによって少なくとも晩年の様子が推察されることとなった。


文学史の上からも大切な資料となる文化財である。


広島大学 教授 角田一郎文学博士
(昭和四十二年論文発表)


右側のお経の塚に、手をあてて願いを念じてください
(案内板より)

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尾道海龍寺の文楽の墓 人形浄瑠璃文楽座の創始者


国指定重要無形文化財の文楽人形浄るりの文楽 ( ぶんんらく ) という名は、大阪の人形浄るりの劇場文楽座を意味する。


その劇場は今は存在しないが、文部省、大阪府、大阪市、NHKの四者の補助金による社団法人文楽協会という組織でもと文楽座の太夫、三味線弾、人形遣の一座を運営している。


アメリカにも出張して、ニューヨークなどで絶賛を浴び近くフランスのパリにも迎えられることになっていて、我国の誇るべき芸能文化である。


国内では、東京の国立劇場、大阪道頓堀の朝日座、京都の南座で定期の本興行をし、その中間には地方を巡業して広く全国の鑑賞に供することになっている。


この人形浄るりのはじめの劇場文楽座は、江戸時代、今から百録、七十年前の文化年間に興されたものであるが、初代の座主を上村文楽軒と言った。


その初代文楽軒の墓が、尾道市東久保の海龍寺の境内にある。


これはわが芸能文化史上絶好の記念物でなければならない。


海龍寺の文楽の墓は、高さ 74センチ、巾 30センチ、 横 25センチで、当時としては立派なものである。


正面に「釈楽道善男」とある。 これは初代文楽軒の法名である。


右側に「大阪、文楽墓」左側に「文化七午七月十日」とある。


大阪にある墓には、七月九日に没したことになっているので、一日の差がある。


背面には「湊 幸助、文重 忠三郎、大阪 猪文」と記されていて、これは建碑者の名である。


子の墓と並んで、初代竹本弥太夫という大阪の有名な浄るり太夫の墓がある。


正面に「法室清住信士」右側に「大阪 北新地 竹本弥太夫」左側に、「文政三庚辰五月十日 当所門人中幸建之」とあって、背面には文字はない。墓の大きさもほぼ文楽のと同じである。


大阪には、天王寺区下寺町三丁目七番地遊行寺円成院に墓がある。


しかしそれは三代目文楽軒が改造した墓で、初代の没時に近いのは尾道市の海龍寺の墓である。


その意味で、たとえ大阪に本来の墓があっても、尾道の墓は貴重である。


三代目は初代の孫で、明治 20年に没したが、この時期が文楽座の最盛期であった。


その没後に高大な記念碑「文楽翁之碑」が建てられた。


文楽翁とは三代目を指し、同じ遊行寺にある。


その碑文によると、初代の名は嘉兵衛で、淡路の人である。


幼時から浄るりの語りが上手で、文楽軒と号したのは十三歳の時であった。


特に注目せられるのは、その碑文に中国筋の巡業が記されていることである。


「かつて中国に歴遊し、諸大姓の招請に倚ってこれを演ず。その音調凡ならず、聞く者感賞せざるなし。すなわち名を添加に顕はす」とある。


諸大姓というのは、姓を名に置きかえると、諸大名である。


だから、姫路、岡山、広島などの城内でも演じたものらしい、それが人形浄るりであったか、人形なしであったかはわからないが、とにかく自身で語りをした様である。


大阪では素浄るりの席を経営することから身を起こしたように伝えられている。


人形浄瑠璃の太夫でないことは、竹本とか豊竹という芸名を持っていないから明らかである。


しかし半くろうとで素人相手の師匠はできたことであろうと思われる。


初代竹本弥太夫の墓は、当初門人によって建てられている。


その文政三年 ( 1820年 ) は、初代文楽の文化七年 ( 1810年 ) から十年後である。


それを思い合わせると、初代文楽の没後に、その代わりに師匠として大阪から招かれてようになったのが初代弥太夫ではあるまいか。そうすると、初代文楽は、尾道の素人浄瑠璃連を教えに時々来ていたのであってその墓は没後間もなく弟子達によって追慕のために建てられたものであろう。


尾道は文化、文政の頃港商都として非常に栄えていたのであるから、大阪から師匠を招く財力は十分にあったものと思える。


浄るりが盛んであった昭和の初め頃まで、その伝統は栄えていたのであって、浄るり会がしばしば催された。


初代文楽軒の事蹟は非常に資料が少なくてよくわからないのであるが、尾道に墓があることによって少なくとも晩年の様子が推察されることとなった。


文学史の上からも大切な資料となる文化財である。


広島大学 教授 角田一郎文学博士
(昭和四十二年論文発表)


右側のお経の塚に、手をあてて願いを念じてください
(案内板より)


〇 植村文楽軒
初世植村 文楽軒(うえむら ぶんらくけん、宝暦1年(1751年) - 文化7年7月9日1810年8月8日))は、人形浄瑠璃文楽座(劇場名および団体名)の源流。本名は正井与兵衛。

初代
淡路国津名郡仮屋浦(現:兵庫県淡路市仮屋)の出身。寛政頃に大坂高津橋南詰西の浜側に浄瑠璃稽古場を開場。1805年に資財をなげうって新地に立人形興行を始める。これが、後の「文楽座」という名称の源流になる。のち1809年堀江に転移。植村文楽翁を名乗る。墓所は大阪市天王寺区下寺町にある円成院。戒名は「釋樂徹」。
(wikiより)

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 これを撮影した日付は、2022年 6月 26日当時の物です。



場所としては、最寄り駅の富良野からタクシーで30分ほどの場所にある麓郷という街です。

若干安価に済ませたいのなら、タクシーを2時間貸し切った方が ( ちょっと足早の見学になりますが ) お安く済むと思います ( 2022年 6月 26日当時 ) 
ただ車内に虫等がいる場合も有りますのでご注意ください。

※ セットのご紹介は順不同となりますがご了承下さい。

〇 五郎の終の家になる「石の家

石の家に行くまでに入場口が有り「入場料」を払います。( 3か所のセット入場券を購入した方が割安となります。)

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⇧⇩ セットに行くまで、山道を登っていくのですが回りは自然なのでクマが出没したりします。
   熊が出ると入場できなくなることも有ります。

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⇧ そりゃあ、熊も出ます。

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⇧ この時には、炭焼き材料小屋、炭焼き小屋、羊小屋は有りませんでした。

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⇧ 石の家が見えてきました。

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⇧⇩ この場所に、炭焼き材料小屋、炭焼き小屋が有りました。

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〇 現時点では不確定なのですが、後々に田中邦衛さんのお墓が建設されるとの情報有り。

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⇧ 石の家に向かって歩いていくと、左側に続く道が有ります。

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⇧⇩ 「黒板五郎 此処に眠る」という石碑が有りました。
   現在、これを田中邦衛さんのお墓だと言っている人がいますが違います。

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⇧ 黒板五郎は昭和の男だった 文明に頼らず金に頼らず 家族を守りきり 原野を駆け抜けた 
   倉本聰

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⇧ 「石の家

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石の家を出て左方向に歩くと・・・

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⇧ 「最初の家」が有りました。

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⇧ ちょっとボケちゃいましたが、お風呂です。

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⇧ ここで薪をくべて

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⇧ 湯舟

と、以上が「石の家」でのセットとなります。

これで1か所目の見学が終わりました。

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次は「麓郷の森」セットになります

こちらも入り口で入場料払ってからの入場です。

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⇧ 麓郷の森
  こちらには、3番目の家、丸太小屋の2棟のセットが有ります。

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⇧ 「丸太小屋

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⇧ お風呂です。

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⇧ 「3番目の家

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これで2か所目のセット見学終了です。

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最後のセットは「拾ってきた家~やがて町~」、こちらでは4棟のセットが有ります。

入り口で入場料を払うのですが、「セット券」の購入をお勧めします。

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⇧ 北の国からが好きな人は、涙腺崩壊してしまうかもしれませんね。

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⇧ 
遺言

純、蛍  俺にはお前らに遺してやるものが何もない。
でも、お前らには、うまくいえんが、遺すべきものはもう遺した氣がする。
金や品物は何も遺せんが、遺すべきものは伝えた氣がする。
正吉や結ちゃんにはお前らから伝えてくれ

俺が死んだ後の麓郷はどんなか。きっとなんにも変わらないだろうな。
いつものように、春、雪が溶け、夏、花が咲いて畑に人が出る。
いつものように白井の親方が夜遅くまでトラクターを動かし、いつものように出面さんが働く、きっと以前と同じなんだろうな。
オオハンゴンソウの黄色の向こうに、雪子おばさんやすみえちゃんの家があって。もしもお前らがその周辺に“拾って来た家”を建ててくれると嬉しい。拾って来た町が本当に出来る。
アスファルトの屑を敷きつめた広場で快や孫たちが遊んでたらうれしい。

金なんか望むな。倖せだけを見ろ。
ここには何もないが自然だけはある。自然はお前らを死なない程度には充分毎年喰わしてくれる。
自然から頂戴しろ。そして謙虚に、つつましく生きろ。それが父さんの、お前らへの遺言だ

黒板五郎

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⇧⇩ 「4番目の家

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4番の家は以上です。

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⇧⇩ これからのセットは「拾ってきた家~やがて町~」がテーマとなっています。
   廃材利用してのセットとなります。

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物がこんなに 捨てられて行くなら オイラ、拾ってきて生き返らせてやる!
だって絶対失礼じゃねぇか 捨てられちまう そういう物に
それを懸命に 作った人達に
あんたの親爺さんが 汗水たらして作ったものを
あんた 簡単に捨てられるか? え?

黒板五郎

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⇧⇩ 「純と結の家」です。

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⇧ お風呂です。

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これで「純と結の家」のセット終了です。


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⇧⇩ 「正彦とすみえの家」です。

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正彦とすみえの家」は以上です。



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⇧⇩ 「雪子さんのアトリエと住居」になります。

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以上で「雪子さんのアトリエと住居」セット終了です。

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次に番外編として「布部駅」の画像も入れておきます。
ドラマ北の国からも、布部駅から始まったので印象深いのですが、いまは廃線となって駅舎とホームが残るだけです。

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⇧ 北の国 ここから始まる 倉本聰

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最後に、新富良野プリンスホテルから、布部駅、麓郷の北の国からセット ( 3か所 ) を駆け足気味に見学して ( 2時間貸し切り ) 1万2千円でした。( 2022年 6月 26日当時 )

正直バスの本数も多いわけでもないので、タクシー貸し切りがコスパが良いと思います。



江戸時代の天保十一年幕府によって編纂された『新編相模国風土記稿 ( しんぺんさがみのくにふどきこう )』の中に里人 ( さとびと ) の言い伝えとして、「昔、桓武 ( かんむ ) 天皇の三代孫、高見王の娘政子が、東国へ向かう旅をした折、天安元年 ( 八五七 ) 二月この地で逝去した。


柩 ( ひつぎ ) はここに埋葬され、墓として塚が築かれた。


その塚の上が平らになったので里人はそれを『ひらつか』と呼んできた。」という一節があり、これが平塚という地名の起こりとなりました。


この事から平塚の歴史の古さが伝わります。
(案内板より)

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市内に伝わる伝承によるとお菊は平塚宿宿役人眞壁源右衛門の娘で、江戸の旗本青山主膳の屋敷へ行儀見習い奉公に出ていた。

ある日主膳の屋敷内でお菊は主人愛玩の南京絵皿十枚組のうち一枚を無くしてしまった。

そのため主人の怒りを買い、お菊は屋敷内の井戸に投げ込まれて殺されてしまった。


お菊の遺体は引き上げられ、罪人の例に倣って長持に詰められて江戸から平塚宿まで送り返されてきた。

馬入の渡しで娘の遺体と対面した眞壁源右衛門(第4代目)は「もの言はぬ 晴れ着姿や菫草」とを詠んで悲しんだという。

真説によるとお菊はサラを無くしてはいない。

奉公先で言い寄って来た家来を突っぱねたので、この男に皿を隠されたという。

無実の罪で責めを受け悲しい最期を迎えたことになる。

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吉川朝衣画 菊女(「平塚市図録」より)

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⇧⇩ お菊の墓

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伝承によると、お菊は平塚宿役人・真壁源右衛門の娘で、行儀作法見習のため江戸の旗本青山主膳方へ奉公中、主人が怒むことあって菊女を斬り殺したという。


一説によると、旗本・青山主膳の家来が菊女を見染めたが、菊女がいうことを聞かないので、その家来は憎しみの余り家宝の皿を隠し、主人に菊女が紛失したと告げたので、菊女は手討ちにされてしまったが後日皿は発見されたという。


この事件は元文五年 ( 1740 ) 二月の出来事であったといい、のちに怪談「番町皿屋敷」の素材となったという。


また他の話によると菊女はきりょうが良く小町と呼ばれていたが、二四才のとき江戸で殺されたといわれている。


死骸は長持詰めとなって馬入の渡場で父親に引き渡された。


この時、父親・真壁源右衛門は「あるほどの花投げ入れよすみれ草」と言って絶句したという。


源右衛門は刑死人の例にならい墓をつくらず、センダンの木を植えて墓標とした。


昭和二七年秋、戦災復興の区画整理移転により現在の立野町晴雲寺の真壁家墓地に納められている。
(案内板より)

〇 お菊塚
お菊塚(おきくづか)は、神奈川県平塚市にある怪談番町皿屋敷」の主人公として有名なお菊の墓と伝えられるものである。

伝承

市内に伝わる伝承によるとお菊は平塚宿宿役人眞壁源右衛門の娘で、江戸の旗本青山主膳の屋敷へ行儀見習い奉公に出ていた。ある日主膳の屋敷内でお菊は主人愛玩の南京絵皿十枚組のうち一枚を無くしてしまった。そのため主人の怒りを買い、お菊は屋敷内の井戸に投げ込まれて殺されてしまった。


お菊の遺体は引き上げられ、罪人の例に倣って長持に詰められて江戸から平塚宿まで送り返されてきた。馬入の渡しで娘の遺体と対面した眞壁源右衛門(第4代目)は


「もの言はぬ 晴れ着姿や菫草」とを詠んで悲しんだという。真説によるとお菊はサラを無くしてはいない。奉公先で言い寄って来た家来を突っぱねたので、この男に皿を隠されたという。無実の罪で責めを受け悲しい最期を迎えたことになる。


その後、青山主膳の屋敷のお菊が投げ込まれた井戸には怨みを抱いたお菊の霊魂が留まり、幽霊となって夜な夜な井戸より現れたという噂がモチーフとなって怪談番町皿屋敷が生まれた。お菊の遺骸は平塚宿内の眞壁家先祖代々の墓地(70坪強)に葬られたが、これも罪人の例に倣って墓石は建立されず代わりに栴檀の木が植えられたという。


その後、昭和27年の区画整理事業に伴って眞壁家墓地は平塚市にて9尺の深さに全面すべて手掘りで作業され、遺骨はそれぞれ丁寧に集められ平塚市所有の墓地用地(平塚市立野町)と交換された眞壁家専属の墓地(平塚市立野町365-8 広さ22㎡)に移転された。手掘りされた時、多くの物見高い人々が見守る中、言い伝え通りせんだんの木の下3尺からお菊の遺骸は座り姿で現れたのであった。(この詳細は読売新聞 昭和56年8月25日版の「いま神奈川のこわーいお話 #6」に出ている)。 なお、昭和42年から眞壁家の菩提寺が光円寺から晴雲寺に変更になったが、お菊さんの墓地は眞壁家専属所有の墓地であるので光円寺や晴雲寺の霊園内ではない。


なお旧眞壁家墓地跡は整理されて平塚駅西口(北側)近くの紅谷町公園の一部になっており、ここに移転時、平塚市が立派なお菊塚を建立してくれた。横浜東京方面からも時折お参りに来る人がいる。


このお菊塚は現在も東海道本線平塚駅近くの紅谷町公園の片隅に存在している。また移転後の晴雲寺隣で光円寺北側道路の2列目奥にある3段の階段付き眞壁家墓所には「貞室菊香信女」と戒名が刻まれたお菊の墓石が現存し、その向いに墓標がある。

(wikiより)

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ドラマ『ちゅらさん』で使われた

えりぃが生まれ、幼少期を過ごした家「こはぐら荘」です。


 撮影後しばらく空家でしたが、いまは居住者がいらっしゃいますので中には入れません。

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清水 崑(しみず こん、本名:清水 幸雄1912年9月22日 - 1974年3月27日)は昭和漫画家長崎県長崎市出身。妻は歌人清水恒子、その姉は俳人石橋秀野山本健吉夫人)。

人物
長崎市銭座町(現・天神町)出身[1]。旧制長崎市立商業高校(現在の長崎市立長崎商業高等学校)を卒業後上京、似顔絵描きをしながら絵の修行をする。その後横山隆一近藤日出造らの新漫画派集団に参加、1935年新青年』に「東京千一夜物語」を連載。これがヒットし後で内田吐夢監督によって映画化された。


戦後
新夕刊」の政治漫画を担当後、朝日新聞社嘱託。時の吉田茂首相の風刺画で人気を博し、サンフランシスコ講和会議には全権団の取材に派遣され、連日文章つきで漫画の見聞録を送る。また日本ニュースでは「漫画の頁」という風刺コーナーを与えられ、執筆風景も含めてニュース映画に題材を提供した。


1953年からは週刊朝日で「かっぱ天国」を連載、黄桜酒造(2006年10月から黄桜に社名変更)社長・松本司郎の目に留まり1955年から同社のキャラクターとして採用された(後に小島功に引き継がれた。黄桜のホームページにて当時のCMを見ることが可能)。また同年にはカルビーの「かっぱあられ」に代表される菓子広告も手がけるようになり、現在でも往時の名称は「かっぱえびせん」に名残をとどめている。1953年3月はじめに、小説家の火野葦平の『河童』の装丁を描くことになり、出版社の編集者と一緒に打ち合わせのために訪問し、その場で二人は意気投合したという[2]。1974年、肋膜炎のため61歳で没した。


母校長崎市立銭座小学校に「なかよし」と称したかっぱの壁画がある。


林家木久扇
は弟子の一人で、清水が「面白い喋りをしている」という理由から3代目桂三木助に紹介した(その後三木助が亡くなり、8代目林家正蔵門下となった)。上述のように、河童の漫画で一世を風靡しているが、林家木久扇のネタのひとつ「河童」がこれに関係しているかは定かではない(ただし、「笑点」の2011年の長崎県での地方収録の際、大喜利の挨拶の中で、「清水崑先生を偲んで」と銘打ち、河童ネタを披露している)。また、木久扇が真打昇進した際には、その祝いとして、河童の絵を描いて贈った。


映画監督の市川崑は清水の大ファンで、旧名の「儀一」から「崑」に改名したのも清水の影響だと言われている。

作品
・『筆をかついで』 創元社、1951年

・『かっぱ川太郎』 朝日新聞社、1952年

・『かっぱ天国』 東峰書房、1955年

・『かっぱ天国 愛蔵版漫画集』 清水梢太郎編、らくだ出版 1993年

・『一筆対面』 東峰書房、1957年

・『ぼんやり山のぼんたろう』 学習研究社、1972年

イラスト
・『河童曼陀羅』 火野葦平著、1957年

・『かにむかし』 木下順二著、1959年

・『ふしぎなたいこ』 石井桃子著、1975年

・『吉田茂諷刺漫画集』 吉田茂記念事業財団編
 原書房、1989年→吉田茂国際基金(中央公論新社販売)、2005年

清水崑を演じた俳優
柄本明BS笑点ドラマスペシャル 初代林家木久蔵(2020年・BS日テレ

脚注
1. 清水崑プロフィール 清水崑展示館 2018年7月18日閲覧。
2. もりたなるお『芸術と戦争』産経新聞出版9ページ

関連項目
キザクラカッパカントリー - 黄桜記念館で黄桜CMの原画を展示

林家木久扇

外部リンク
清水崑展示館(長崎市・中の茶屋)

長崎県の河童伝説 - ウェイバックマシン(2000年9月25日アーカイブ分)

日本ニュース|NHK戦争証言アーカイブス(執筆中の清水含め、担当したコーナーを視聴できる)
(wikiより)



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清水 崑


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新家春三 ( にいなみ - はるみつ )     
文化 11年 ~ 明治 23年 6月 27日 ( 1814 - 1890 )

江戸末期明治期の淘宮家 ( とうきゅうか )。

名、孝弟。通称、彦次郎。号、新亀斎春三。

父、新家純孝。

先祖は、新家作次郎で、徳川家康時代に功績がある。

神儒仏の 3教を崇拝。

春亀斎丸三に師事し天源淘宮術を学び、奥義を究める。権大教正。77歳没。正面「贈権大教正新家春三之墓」。

 淘宮術 : 天源術から派生した運勢判断の一。
天保 5年 ( 1834 ) 横山丸三 ( よこやま - まるみつ ) が創始した。

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遠路安政の大獄による幕府の追ってから身を守るため、京都から薩摩へ逃れ来た月照。


甲突川沿いにあった存龍院に入りますが、存龍院はすぐにこれを藩庁に知らせ、月照と西郷隆盛の錦江湾への入水へとつながります。


存龍院はけちんぼの話として知られる「日高山伏物語」の舞台でもあります。

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純信・お馬像は、高知市出身の漫画家・横山隆一氏のデザインです。
(案内板より)

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辨慶石の由来
 
この石は辨慶が熱愛したと謂はれ

辨慶は幼少の頃三条京極に住み死後

この石は奥州高館の辺にありましたが

発声鳴動して「三条京極に往かむ」といひ

その在所には熱病が蔓延したので

土地の人が恐怖し亨徳三年 ( 約五百年前 )

三条京極に移し以来当町を辨慶石町

と称するに到りました
 
その後市内誓願寺方丈の庭に移りましたが

明治二十六年三月町内有志者により当町へ

引取られ 昭和四年七月十二日この場所に

建立されたものであります  英香書
(案内板より)


( 訳 )
辨慶石はこの石標の横に置かれている石。

石標に示す『山州名跡志』巻十七には,弁慶の愛した石で,弁慶の死後奥州にあったが,京都の三条京極へ行きたいと声を発したので,この地に移したと記す。

しばらく新京極の誓願寺に預けられていたが,明治 26 ( 1893 ) 年にこの地に戻り民家内に置かれ,昭和 4年に三条通沿いの現在地に移された。

町名弁慶石町はこの石にちなむ。

この石標は辨慶石の所在を示すものである。
 
なお,京都に所在し弁慶石と呼ばれた石についてはさまざまな伝承があり,瀬田勝哉「弁慶石の入洛」( 瀬田『洛中洛外の群像』 1994年平凡社刊に収める ) にまとめられている。

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奥野南卜 ( おくの - なんぼく )    
? ~ 文政 10年 6月 4日 ( ? - 1827 )

    
占術「天源術」の大家。

天源術は真言密教系の占術で、徳川家を支えた高僧・天海が用いていた占術。

天海は江戸城を風水的な観点から立地・建築し、徳川 300年の基礎を固めた。

この天海の流れをくむのが、奥野南卜翁。

昭和に入って、四柱推命術が普及しだすと、天源術も陶宮術も、急速に廃れた。

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初代・金林真太呂 ( かなばやし - またろ)    
明治 29年? ~ 昭和 59年 5月 25日 ( 1896 - 1984 )

明治から昭和期の人形職人。

初代真太呂。

本名、金林真太郎。

父、金林又太郎。

初代名川春山や義父吉野喜代治らに師事。

平安時代の風俗を新感覚で表現した「真多呂人形」で有名となる。

とくに木目込人形で有名。

「真多呂人形学院」を創設。後進の指導をする。

名誉院長。

東京都雛人形工業協同組合理事長。88歳没。

代表作:「競馬」、「明治雛」、「川中島の合戦」、「江戸の祭」。

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花塚の記

花を愛する心は 人生をいつくしむ心とおなじである


四季おりおりの花は 社会や 時代を選ばず自然を美しくいろどっているが けがれたところに其の花は咲かない

日本人は花にさまざまな思いを託してきた


神を祭 仏に供えることから装飾にいたるまで清らかな花は うるわしい豊かな心を象徴するものである


古も人花塚を築き 花供養を営んだが昭和三十七年九月 中村理運氏の発願により花の道につながる人々百名の志を集めて ここに花塚を築かれた


そして秋の彼岸には花供養が営まれている


敬虔な人々の心は また美しい日本の花である
(案内版より)


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浅井梅次郎 ( あさい - うめじろう )    
? ~ 明治 14年 2月 27日 ( ? - 1881 )


園芸家・菊人形師。

団子坂菊人形の祖。


団子坂 ( 文京区千駄木 3丁目 ) は、寛永寺法主輪王子宮とも懇意であった園芸家初代森田六三郎の家業の場があったところで、明治 9年 ( 1876 ) 頃、近隣の浅井梅次郎は森田六三郎 ( 三代目 ) を自宅に同居させていたことがある。


菊人形展は文化年間 ( 1804 - 1881 ) に巣鴨の染井で始まり、何回かのブームがあり、安政 3年 ( 1856 ) からは菊人形展の中心は団子坂に移った。


維新期に一時下火になったが明治 20年ころから再び盛んになったが、両国国技館ができ電気仕掛けや活動写真を併用するなど派手な菊人形が流行り、団子坂の菊人形展は明治 44年 ( 1911 ) で終了した。

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制服画像は、JR亀有駅前北口

祭り姿画像は、JR亀有駅前、リリオパーク前


画像以外に「少年両さん像」(亀有銀座商店街中央ポケットパーク)にも有ります。

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「月光仮面」の像について

「月光仮面」は昭和 33年 ( 1958年 ) に国産初の連続テレビ映画として放送され、大人気になったヒーローアクションドラマの元祖ともいうべき作品です。


この「月光仮面」像は昭和 48年に、はこだてグリーンプラザが造成されたのを記念して、翌昭和 49年 9月に「月光仮面」の原作者である川内康範氏から寄贈されたものでカラーアニメ版として制作されたものを基に作られています。


氏は、函館市出身で多感な少年時代をこの街で過ごされました。


この像には、生まれ育った地への恩返しと平和への深い思いが込められています。

 憎むな

 殺すな

 赦しましょう

        川内康範
(案内板より)

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加太 こうじ(かた こうじ、1918年1月11日 - 1998年3月13日)は、日本の評論家、庶民文化研究家、紙芝居作家。

経歴
東京市浅草区神吉町(現・東京都台東区東上野四丁目、五丁目辺り)の貧困家庭に生まれ、荒川区尾久に育つ。本名は加太一松(かぶと かずまつ)だが、名門の加太家の血筋を誇る父に反発し、尋常小学校5年の時から「かた」と名乗るようになった[1][2]。父親が働かないため関東大震災前に母親と別れ、大商人の妾をしていた伯母(父親の姉)に育てられる[3]


紙芝居の世界に入ったのは高等小学校在学中の14歳の時。高等小学校卒業後、師範学校への進学を希望していたが、給費制度廃止のために断念し、紙芝居の世界で働く。1932年に逓信省給仕に採用される話がでるが、紙芝居より少ない収入であるため断り、西洋画家を志して太平洋美術学校に入学[4]。1938年[5]太平洋美術学校を卒業。


1934年から1935年にかけて紙芝居『天誅蜘蛛』で成功[6]。1938年ごろから紙芝居会社(大日本画劇株式会社)と関係し、山川惣治永松健夫らと交流がはじまる[7]


1940年、大政翼賛会の文化部配下の「国民文化会議」に紙芝居代表として参加、相馬泰三と知り合う[8]。1941年ごろから雑文や、絵物語など、出版の仕事にも従事する[9]。戦後は、紙芝居専業にもどる。


永松健夫
が生んだ『黄金バット』について、1950年から二代目作者となり、また興行に従事し成功、紙芝居作者の第一人者となる。「黄金バット」の二代目作者として配給元になる一方、20万枚になる作品を描いた。また、神戸時代の水木しげるに紙芝居作家として道をつけたのも加太である。


紙芝居衰退後の1959年に同じ金町にすんでいた鶴見俊輔と常磐線の車両中で偶然出会ったことをきっかけに[10]、大正、昭和の庶民史、世相・風俗・文化史などの評論を始める。落語、犯罪、ヤクザ、遊興に関するものが多い。


1960年に刊行した自伝『街の自叙伝』は、NHKラジオの連続朗読物語となり、新劇俳優永井智雄が朗読した[11]。同1960年に編集者柳田邦夫と知り合い、柳田が前年創設していた「大衆芸術研究会」に参加して主宰者となる[12](他の会員はタカクラ・テル佐藤忠男福田定良ら)。


1962年から雑誌『思想の科学』編集長となる[13]。1963年から思想の科学研究会会長[14]。1980年から[15]思想の科学社社長兼編集長を務め、1986年、日本福祉大学教授となり、1988年客員教授となった[16]


江戸町人文化の全体像に迫った「江戸の笑い」のほか、「紙芝居昭和史」「下町の民俗学」「小説『黄金バット』」などの著書を記した。


1990年、東京都文化賞(第6回)を受賞[17]。晩年は東京大空襲など戦災資料の保存活動にも精力的にかかわった[18]


神奈川県で毎年行われている手作り紙芝居コンクールでは、最優秀賞を加太こうじの名前を冠した「加太こうじ賞」と名づけている。

親族
幕末の豪商「伊勢八」の加太八兵衛(七代目八兵衛)[19]が出た「加太(かぶと)家」の子孫であり、同じく加太家の子孫であるドイツ文学者山下肇(母方が加太家)と、その縁で共著『ふたりの昭和史』を出している。山下肇の弟にロシア文学者の泉三太郎、映画館経営の三浦大四郎がいる。山下肇の母の次兄の星光星亨の養嗣子。


初代の加太八兵衛は、明暦3年(1657年)ごろに伊勢から江戸に出て、「伊勢八」の屋号の商人となる[20]


六代目加太八兵衛(山下肇の曾々祖父)・七代目加太八兵衛の兄弟の、末弟にあたる・民之助がこうじの曾祖父である[21]。民之助は彰義隊士だった[22]


江戸に出ず、伊勢に残った加太家の子孫が、明治の官僚・政治家の加太邦憲[23]

著書
・『街の自叙伝』中央公論社 1960

  ・『定本街の自叙伝』晩声社、1977

  ・『加太こうじ―街の自叙伝』日本図書センター (人間の記録 (37)) 1997

・『落語 大衆芸術への招待』社会思想研究会出版部 現代教養文庫 1962

・『落語的味覚論』産報 1963

・『国定忠治猿飛佐助鞍馬天狗』三一新書, 1964

・『日本のヤクザ』大和書房 1964

・『軍歌と日本人』徳間書店 1965

・『下町教師伝』教師の友社, 1966

・『衣食住百年』日本経済新聞社 (日経新書) 1968

・『あゝ新撰組 維新風雲録』大和書房, 1968

・『江戸小ばなし考 落語のふるさとをたずねて』佑啓社, 1968

・『街の芸術論 日本人の涙と笑い』社会思想社, 1969

・『頭の回転をよくする本 ビジネスマン昇進適性テスト100問100答』編 日本文芸社 1969

・『小ばなし歳時記 江戸の笑い』立風書房 1970

・『紙芝居昭和史』立風書房, 1971 のち旺文社文庫、のち岩波現代文庫

・『こどもの四季』河出書房新社 1972 のち文庫

・『たのしい遊び』ポプラ社の少年文庫 1973

・『じごくの五右衛門』ポプラ社, 1973

・『日本列島うたの旅』日本交通公社出版事業局, 1973

・『落語の世界』全5巻 新評社 1973-74

・『交通日本史 人力車から新幹線まで』新人物往来社 1974

・『食いたい放題 東の味・西の味』立風書房, 1974

・『昭和犯罪史』現代史出版会 1974

・『おんなの現代史 明治・大正・昭和のヒロイン』現代史出版会, 1974

・『昭和大盗伝 実録・説教強盗』現代史出版会, 1975

・『歌の昭和史』時事通信社 1975

・『下町一代・六三のカブ』時事通信社, 1977

・『少年画家ひとり町をいく』ポプラ社 (のびのび人生論) 1977

・『落語の遊び 飲む・打つ・買うは江戸の粋』サンポウジャーナル, 1978

・『落語の旅 江戸の庶民の膝栗毛』サンポウジャーナル, 1978

・『江戸の事件簿 加太こうじ江戸百科』立風書房, 1979

・『飲む、打つ、… 日本の遊び』日本書籍 1979

・『下町で遊んだ頃 子供の文化再考』教育研究社 1979

・『明治・大正犯罪史』現代史出版会, 1980

・『東京事件史 明治・大正編』一声社, 1980

・『下町の民俗学』PHP研究所 1980

・『東京の原像』講談社現代新書 1980

・『流行歌論』東京書籍 1981

・『サボテンの花』晩声社 1983 のち広済堂文庫

・『関東侠客列伝』さきたま出版会, 1984

・『昭和事件史』一声社, 1985

・『シキタリがわかる便利雑学事典』日本実業出版社 1985

葛飾百景 -葛飾の自然・風物詩- (版画:佐藤義勝)発行所:葛飾文化の会、発売元:下町タイムス、1985/11

・『芸界達人浮世話』正続 青蛙房 1986-87

・『日本の恋歌相聞百選』青磁社, 1986

・『私の江戸-東京学』筑摩書房, 1987

・『加太こうじ・江戸東京誌』立風書房, 1988

江戸のあじ東京の味

東京のなかの江戸

物語江戸の事件史 のち中公文庫

・『浅草物語』時事通信社 1988

・『たのしき悪党たち 犯罪アラカルト』東京法経学院出版, 1988

・『興亡新撰組』光和堂, 1989

・『小説黄金バット』筑摩書房, 1990

・『時代を生きる女性たち 江戸から東京へ、女性400年史』あけび書房, 1991

・『言葉は世につれ』創拓社, 1991

・『彰義隊挽歌』筑摩書房, 1992

・『わたしの日本語』立風書房, 1993

・『東京四方山ばなし 江戸っ子“加太こうじ"』リバティ書房, 1995

編著・共著
・『ぶっつけ人生論』森秀人共著 三一新書, 1961

・『日本の大衆芸術 : 民衆の涙と笑い』浅井昭治佐藤忠男虫明亜呂無森秀人柳田邦夫邑井操鶴見俊輔共著、現代教養文庫 1962

・『ふたりの昭和史』山下肇共編 文藝春秋新社, 1964

・『児童文学への招待』上笙一郎共編 南北社 1965

・『替歌百年』柳田邦夫,吉田智恵男共編著 コダマプレス, 1966

・『サラリーマンの犯罪十八章 管理社会の罠に落ちた男たち』奥田博昭 現代史出版会, 1979

・『下町演芸なきわらい 戦後世代の芸能史』木津川計玉川信明共著 駸々堂出版 1984

・『名もなくすがしくしたたかに 街のエリート聞き書集』編著 筑摩書房 1985

・『日本の名随筆 別巻 15 色街』 作品社 1992

映画
・紙芝居昭和史 黄金バットがやって来る(自伝『紙芝居昭和史』の映画化) 1972年 東宝

  ・監督石田勝心 脚本笠原良三 主演小林桂樹  

脚注
1. 『ふたりの昭和史』文藝春秋新社, 1964、p.114
2. 本名の読みについては、新聞の死亡欄では「かた いちまつ」、河北新報(1998年3月14日)、2017年7月18日閲覧。
3. 『サボテンの花』(廣済堂文庫)P.13-14
4. 『底本・街の自叙伝』P.31-34
5. 日外アソシエーツ現代人物情報
6. 『サボテンの花』(廣済堂文庫)P.57
7. 『サボテンの花』(廣済堂文庫)P.114
8. 『サボテンの花』(廣済堂文庫)P.132
9. 『サボテンの花』(廣済堂文庫)P.132
10. 鶴見俊輔『回想の人びと』(ちくま文庫)P.73-74
11. 『サボテンの花』(廣済堂文庫)P.193
12. 『サボテンの花』(廣済堂文庫)P.193
13. 『サボテンの花』(廣済堂文庫)P.195
14. 『サボテンの花』(廣済堂文庫)P.208
15. 日外アソシエーツ現代人物情報
16. 日外アソシエーツ現代人物情報
17. 日外アソシエーツ現代人物情報
18. 読売人物データベース
19. 田中義郎『東京人』(早川書房)1966、P.8
20. 田中義郎『東京人』(早川書房)1966、P.8
21. 田中義郎『東京人』(早川書房)1966、P.9
22. 田中義郎『東京人』(早川書房)1966、P.9
23. 田中義郎『東京人』(早川書房)1966、P.17

外部リンク
加太こうじ - NHK人物録
(wikiより)


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石ノ森 章太郎(いしのもり しょうたろう、1938年昭和13年〉1月25日[1][2] - 1998年平成10年〉1月28日[2])は、日本漫画家特撮作品原作者。本名は小野寺 章太郎(おのでら しょうたろう)[2]


1984年までは石森 章太郎の表記を用いたが、この時期には「いしもり-」と呼ばれるのが通例だった。出生地の「石森」は「いしのもり」と読む。

概要
SF漫画ギャグ漫画から学習漫画まで幅広い分野で作品を量産し、「漫画の王様」、「漫画の帝王」と評された。(神様手塚と対応してもいる)


代表作は『サイボーグ009』、『佐武と市捕物控』、『009ノ1』、『さるとびエッちゃん』、『人造人間キカイダー』、『マンガ日本経済入門』、『HOTEL』など[2]仮面ライダーシリーズを始め、特撮作品の原作者としても活躍した。


昭和30年代から40年代、漫画の世界で新しい手法の開発者としてとくに目立った存在であり、多様な分野と作風の中でも特にSF漫画で他への影響が手塚治虫と並んで大きく、いわゆる手塚風漫画の中で最もスタイリッシュな作風で、各時点での新鮮な画面コマ表現と少女漫画にも通用する滑らかな線をもち、昭和40年代始め頃には漫画の王様と呼ばれていた。この時期の作風は、SF (S&F) 性・詩的叙情・アクションを含むことが多かった。それらの要素は1971年に放送開始された『仮面ライダー』以降、徐々に特撮作品へと移っていき、執筆する漫画の傾向は青年漫画や学習漫画など幅広いものとなっていった。


1989年(平成元年)、漫画には「面白い、おかしい」だけではない多数の表現が可能になったとして、漫画の新しい呼び名「萬画」を提唱し「萬画宣言」を発表した (この時期は青年以上向けのストーリー漫画は劇画と呼ばれる傾向があった)。以降は自らの職業を「漫画家」ではなく「萬画家」と称した。没後の2007年末には、500巻770作品におよぶ個人全集『石ノ森章太郎萬画大全集』(角川書店)が、一人の著者による最も多い漫画の出版の記録としてギネス・ワールド・レコーズに認定されている(それまでのギネスレコードは手塚治虫)。なお、テレビ原作者(アニメ、実写)としてのクレジットは放映期間のべ六十数年分に及び、野村胡堂長谷川町子らを凌駕して国内最高で、2017年現在も更新し続けている。手塚治虫の衣鉢を継ぐSF漫画の第一人者であったが、熱心なSFの読者としても知られ、海外SF小説から作品のヒントを得ていたことも指摘されている[3]し、本人も作中でよく紹介している。


妻の小野寺利子は石森グループ会長。息子に俳優の小野寺丈(長男)と石森プロ社長の小野寺章(次男)がいる。脚本家の石森史郎は従兄弟[4]。小説家の今野敏はとこ[5]

経歴
生い立ち
1938年(昭和13年)1月25日[注釈 1]宮城県登米郡石森町(現登米市中田町石森[2][注釈 2]に、父・康太郎、母・カシクの長男として生まれる。姉、弟2人、妹の5人兄弟。下記にもあるように当初は映画監督を志していたが、3歳上の姉は生来病弱で外出もままならないため、学校での出来事や外での見聞などを絵に描いて見せていたのが、漫画の原点であったという。


そして手塚治虫の「新寶島」に出会い、衝撃を受ける。以後手塚治虫の大ファンになった。


中学時代、近所の子供を集めて漫画同人誌墨汁一滴』を作るも、2号で廃刊した。2年生の時「毎日中学生新聞」に4コマ漫画を投稿し入選、以後投稿マニアとなる。


宮城県佐沼高等学校
[注釈 3]入学後、『漫画少年』への投稿仲間を集めて「東日本漫画研究会」を設立、肉筆回覧誌『墨汁一滴』を制作する。このころ既に漫画業界で「宮城県に天才がいる」と評判になっている。この頃のあだ名は「じゃがいも」。


高校2年生の春、漫画少年の投稿が手塚治虫の目に入り、『鉄腕アトム』のアシスタントを務める。

デビュー以後
高校在学中の1954年(昭和29年)[2][注釈 4]、手塚治虫の仲介で、石ノ森は『漫画少年』でデビューすることになる[10]。デビュー作は『漫画少年』新年号にて掲載された『二級天使』[2]。厳格な公務員であった父からは漫画家になることを反対されていたが、喘息持ちの姉が両親を説得するなど熱心に応援してくれたこともあり、翌年の高校卒業と同時に姉の病気治療も兼ねて2人で上京する。手塚をはじめ多くの漫画家たちが住んでいたトキワ荘に住み、作家活動を始めた。トキワ荘グループの男性陣の中では最年少ではあったが、最も早く頭角を現し、赤塚不二夫[注釈 5]などは、自分の漫画を描くよりも、石ノ森のアシスタントをする時間の方が多いほどだった。また創作速度も極めて速く、藤子不二雄[注釈 6]やのちに石ノ森のアシスタントを務めた永井豪など、石ノ森を知る人間は口を揃えて制作の速さを証言している。藤子の『まんが道』では、藤子が2人で1日に5、6枚描ければよいところを、石ノ森は1人で15-20枚を描いていたという話が出てくる。また石ノ森のエッセイ漫画『サンジェルマン伯爵』(サイボーグ009「海底ピラミッド編」のエピローグに相当)には、「昔(赤塚不二夫と2人で描いていた時代)は月650枚という無茶もやったが、最近では歳だから300枚でフウフウいう」とある。島本和彦は文庫版『石ノ森章太郎のマンガ家入門』の解説で、「石ノ森章太郎は考えずに、考えたあとの結果を惹きだせる作家ということになる。(中略)その後、石ノ森章太郎本人にたずねたことがあるが、この私の理解は正しかった。描くときは「感覚」で描くのだ。しかも「考えながら描くと良いものが出ない」ということなのだ」と語っている[11]


しかし1958年(昭和33年)4月、トキワ荘で石ノ森と同居し、トキワ荘グループのマドンナ的存在となっていた姉が急逝した[注釈 7]。最大の理解者であった姉を失ったことは、後の石ノ森の作風にも大きな影響をもたらした。


1959年(昭和34年)、手塚のアシスタントだった月岡貞夫とともに、手塚の身代わりとして東映動画(現・東映アニメーション)の劇場アニメ『西遊記』の制作現場に派遣された。石ノ森は月岡とともに「このまま東映動画に入ってアニメーションをやりたい」と訴えたが、当時東映動画の若手スタッフだった白川大作(後に東映動画専務)から「(絵が個性的でアニメに向かないから)ちゃんと漫画をやれ。そのかわり漫画が売れたらそれを原作として買いに行く」と説得されて断念した[12][注釈 8]。後にこのときの約束通り東映動画で作品がアニメ化された。さらに東映本体での特撮番組企画へとつながる東映グループとの接点のきっかけとなる。


藤子、赤塚らと共にトキワ荘に長く住み、国民的売れっ子作家に上り詰めた中でも、もっとも遅い時期まで石ノ森はトキワ荘に住み続けた。

スター作家として
1964年(昭和39年)7月19日より代表作『サイボーグ009』の連載を開始する[注釈 9]。この頃にはすでにスター作家となっており、この時期に描かれた石ノ森のマンガ入門書『マンガ家入門』(1965年)、『続・マンガ家入門』(1966年)は当時から広く読まれた。これは漫画の技術論から、具体的なストーリー構想術までが書かれた画期的な漫画家入門書で、長年の間漫画家志望者のバイブルとなった。また、『サイボーグ009』を連載していた当時、ファンレターの宛先が漫画家の住所となっていたため多数の読者が訪問していた[3]すがやみつるが『サイボーグ009』の連載終了直後に訪問したときは、サインを貰いにきた別の訪問者に対して、訪問者に見えないところで当時チーフアシスタントであった永井豪が絵だけではなくサインまで書き上げて渡していたという[3]。このような対応を行わないと仕事にならないほど訪問者がきていたことが原因である[3]


1971年
(昭和46年)より渡邊亮徳の絶大な理解とサポートにより、東映特撮作品『仮面ライダー』の原作とその漫画化(仮面ライダー)を担当した[2]。既にある漫画の実写映像化ではなく、製作会社である東映の企画に設定とキャラクターデザインを提供、できあがったものを元に漫画も執筆するというものであり、この成功をきっかけに同社における数多くの特撮変身ヒーロー番組の原作を手がけることになった。もともと映画監督志望だったこともあり、一部の作品(『仮面ライダー』や『イナズマン』)では監督も務めている。


これらの実写作品では、主役などのレギュラーのキャラクターデザインを石ノ森が手がけるのが通例だったが、『仮面ライダーストロンガー』以降の仮面ライダーシリーズや『アクマイザー3』『秘密戦隊ゴレンジャー』『ジャッカー電撃隊』などの1970年代中期以降の作品では、毎回登場するゲストのキャラクター(敵の怪人)のデザインも数多くおこなっている。ゲストのキャラクターのデザインの多くは簡単な設定込みで石ノ森がラフスケッチを起こすという形で行われ、このラフスケッチをもとに東映の番組スタッフ側でシナリオや着ぐるみがつくられた[注釈 10]


1981年
(昭和56年)より日本漫画家協会理事を務める。


1985年
(昭和60年)[注釈 11]、画業30年を機に「石森章太郎」から「石ノ森章太郎[注釈 12]」に改名した[2]。もともと彼のペンネームは故郷の石森町に由来するもので、「石森」と書いて「いしのもり」と読ませるつもりだったが、誰も「いしのもり」と読んでくれず、「いしもり」としか呼ばれなかったため、初心に戻る意味をこめて改名を行なったという。しかし、山田ゴロが自身のサイトで語るところによると、改名する前は打ち合わせ・旅行・忘年会などの季節行事で関係者一同に頻繁に会っていたのが、改名した頃からはそれがなくなり、石森プロに連絡しても会わせて貰えなくなった。ほどなく関係者一同の間で「先生は御病気らしい」という話が広まったという。


1998年(平成10年)1月28日死去[2]。60歳没。死因はリンパ腫による心不全。誕生日の3日後であった。戒名は「石森院漫徳章現居士」。墓は東京都豊島区池袋三丁目の祥雲寺にある。

年表
1938年 - 宮城県登米市(当時は登米郡石森町)に生誕。

1953年 - 『漫画少年』の投稿仲間と「東日本漫画研究会」を結成。肉筆回覧誌『墨汁一滴』を創刊。

1954年 - 『漫画少年』での「二級天使」連載でデビュー。

1963年 - アニメーション制作会社スタジオ・ゼロ設立に参画。世界旅行に立つ。

1964年 - 『少年キング』にて代表作「サイボーグ009」の連載開始。

1966年 - 『ミュータント・サブ』『サイボーグ009』により第7回講談社児童まんが賞を受賞。

1968年 - 石森章太郎プロを設立。『ジュン』・『佐武と市捕物控』により第13回小学館漫画賞を受賞。

1971年 - 『仮面ライダー』放映開始。

1985年 - デビュー30周年を機に「石ノ森」へ改名。

1988年 - 『ホテル』・『マンガ日本経済入門』により第33回小学館漫画賞を、『マンガ日本経済入門』により第17回日本漫画家協会賞大賞を受賞。

1989年 - 「萬画宣言」を発表。

1998年 - 心不全により死去。没後、勲四等旭日小綬章、全作品に対して第27回日本漫画家協会賞文部大臣賞、マンガとマンガ界への長年の貢献に対して第2回手塚治虫文化賞マンガ特別賞が贈られる。

2000年 - 故郷である宮城県登米市中田町に「石ノ森章太郎ふるさと記念館」が設立。

2001年 - 宮城県石巻市に「石ノ森萬画館」設立[14]

2006年 - 『石ノ森萬画大全集』刊行開始。

2008年 - ギネス・ワールド・レコーズにおいて手塚治虫の「講談社手塚全集」全400巻の記録を「石ノ森萬画大全集」全500冊によって更新、「世界一多作な漫画家」に認定。

2008年 - ギネス世界記録博物館の名誉館長に就任。

人物
アシスタント経験者かつ弟子でもある永井豪は、石ノ森のことを「常人の5倍のスピードで描ける天才」と評している[15]


『仮面ライダー』以後、自身が原作を手がける特撮テレビ番組の漫画連載も多く担当したが、これらはパブリシティ展開として義務付けられていたものであり、テレビ作品の雑誌連載はやりたくないというのが本音であったと述べている[1]。特に作中へテレビ用のキャラクターを登場させると物語に無理が生じることにジレンマを抱えており、後発の『秘密戦隊ゴレンジャー』などではテレビ版とは異なる内容で執筆している[1]


原作者として参加したテレビ作品に対しては技術的な部分以外に不満はないとしているが、自身の既存の作品を映像化する際は身を切られるような想いであったといい、『サイボーグ009』や『好き! すき!! 魔女先生‎(千の目先生)』などの設定変更には抵抗があったことを語っている[1]


ヘビースモーカーで灰皿をすぐ一杯にするため、トキワ荘時代は赤塚不二夫が気を利かせてこまめに交換していたという[16]

詳しいことは、「石ノ森章太郎ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E3%83%8E%E6%A3%AE%E7%AB%A0%E5%A4%AA%E9%83%8E
(wikiより)

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石ノ森章太郎

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荏柄天神社の「かっぱ筆塚」は、昭和 46年、漫画家清水崑が愛用した絵筆を納めるために建設したもの。


筆を担いだ河童の絵が彫られた石碑の裏には、作家川端康成が揮毫した「かっぱ筆塚」の文字が刻まれている。


平成元年、「かっぱ筆塚」の背後に、清水崑の遺志を継いだ横山隆一らが「絵筆塚」を建立している。


毎年 10月には、清水崑を偲ぶ「絵筆塚祭」が行われる。

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荏柄天神社の「絵筆塚」は、「かっぱ筆塚」を建てた漫画家清水崑の遺志を継いだ同じく漫画家の横山隆一らが建立してもの ( 平成元年 )。


横山隆一をはじめとする漫画家 154人によるカッパのレリーフが飾られた筆形の塚。


毎年 10月には、清水崑を偲ぶ「絵筆塚祭」が行われている。

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各地に残る「小栗判官照手姫伝説」の一つ。

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上溝の日金沢 ( ひがんざわ、彼岸沢とも書く ) の地名由来は、照手姫の乳母であった日野金子という人が住んでいたからだといわれています。
 
日金沢の上の横山台地に横山将監という豪族の館がありました。


その将監に女の子が生まれました。


その子は照手姫と名づけられて、それはそれはきれいなお姫様に育ちました。 


ある日森の中で、照手姫は傷を負って倒れていた一人の若武者を助けました。


姫はひと目で、その若武者が好きになってしまいました。


その若武者も姫が気に入ってしまいました。


しかしその若武者は、こともあろうに敵方の侍大将小栗判官でした。


ふたりの愛はそんなことに関係なく深くなるばかりです。 


そしてついに照手姫は父の将監を捨てて小栗のところへ走りました。


戦国の世の習い、武士の定めは非情、小栗判官は照手姫の父横山将監を打ち滅ぼしてしまいました。
 
その後の照手姫はどうなったか、いろいろな話が伝わっておりますが、この上溝のお話は戦国の若い男女の悲恋物語で、恋愛は肉親の情をも断ち切るということを示しています。
(相模原民話伝説集より)
 
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小栗判官(おぐりはんがん)は、伝説上の人物であり、またこれを主人公として日本の中世以降に伝承されてきた物語。妻・照手姫の一門に殺された小栗が閻魔大王の計らいで蘇り、姫と再会し、一門に復讐するという話で、説経節の代表作であり、浄瑠璃歌舞伎などになった[1]常陸国小栗御厨(現在の茨城県筑西市)にあった小栗城城主である常陸小栗氏小栗満重や、その子・小栗助重がモデルとされる。

概要
「小栗の判官」「おぐり判官」「をくりの判官」「をくり」「おくり」などの名でも伝えられる。伝承は多く残っており、後に創作されたものもあり、それぞれにかなりの相違が見られる。説経節浄瑠璃歌舞伎など多くに脚色されている。また縁のある土地にもそれぞれの伝承が残っており、小栗の通った熊野街道は小栗街道とも呼ばれる。

人物としての小栗判官は、藤原正清、名は助重常陸の小栗城主。貴族藤原兼家と常陸国の源氏の母の間に生まれ、83歳で死んだとされるが、15、16世紀頃の人物として扱われることもある。乗馬和歌を得意とした。子宝に恵まれない兼家夫妻が鞍馬毘沙門天に祈願し生まれたことから、毘沙門天の申し子とされる。

藤沢市
遊行寺長生院の伝承
長生院に伝わる小栗略縁起[2]は以下のようなものである。

これは後小松院の御世[注釈 1] の出来事である。

常陸国小栗城城主、小栗満重[注釈 2]は、讒言により謀反の疑いをかけられ、鎌倉方[注釈 3]に攻め落とされた。子の小次郎助重ともども三河[注釈 4]へ脱出を図った親子は離ればなれとなり、助重は甲斐方面から脱出した。


10人の家来とともに東海道を下る満重相模の藤沢に差し掛かったところで日が暮れてしまった。そこに横山太郎と名乗る者[注釈 5]が一行を呼び止め、宿を提供しようと申し出た。横山は、旅人を殺し金品を奪う盗賊であった。


この屋敷には照手という遊女が居た。本来上皇法皇御所をまもる武士である北面武士の子であったが、早くに父母に死に別れ、横山に拾われたという[注釈 6]


横山は宴の場で、桜に一頭の馬を繋ぎ留め、『これは人を噛み殺すほどの暴れ馬で、鬼鹿毛(おにかげ)と呼ばれている。近寄ってはならぬ』と伝えたところ、満重はこれを巧みに操ってみせた。たちまち満重の力量を察した横山は、到底敵わないとみてを盛る作戦を案じた。横山の企てを密かに照手に告げられていた満重は気分が悪いと酒を拒んだが、無理やり横山に押し付けられて臭気を吸い卒倒する。家臣も泥のような血を吐きながら息絶えた。横山は満重一行の所持品一切合財を剥ぎ取り、手下に命じ11人の屍を上野ヶ原[注釈 7]に捨てさせた。


同じ頃、遊行寺(清浄光寺)の遊行十四代太空上人は、閻魔大王の使者と名乗る者が差し出す書状を読む夢を見た。広げてみると、『常陸国の小栗満重と家臣達が上野ヶ原に倒れている。満重の命だけは救うので急いで向かい、熊野で湯治させるように』と書かれていた。目覚めた上人がお告げに従って弟子と共に向かってみると、野犬や鳥に喰い荒らされる亡骸の中で僅かに手足が動く者を見つけた。満重とみた上人は車に乗せ連れ帰り、『この者は熊野の湯に向かう病人である。わずかでも車を引いて助けた者には千の僧への供養にも勝る功徳が与えられよう』と記した札を車に据え付けた。街道沿いの人々に助けられ熊野に辿り着いた満重は、温泉の効用と熊野権現の霊験により快方に向かった。


一方、横山の狼藉を目撃した照手姫は屋敷を脱走して東方に向かうが、やがて追手に捕まり侍従川に沈められる。危ういところを金沢六浦の漁師によって偶然助けられるも、漁師の女房に美しさを妬まれてさまざまな虐待を受け、最後には六浦浜で人買いの手に売り飛ばされてしまう。照手は売られては移り、移っては売られて各地を転々とする日々を送り、美濃青墓まで流れ着いた[注釈 8]

すっかり回復した満重は三河に向かい、同族の支援を得て、京都で沙汰を受けることとなった。事の顛末を打ち明け、身の潔白を訴えた満重は鎌倉方の許しを得ることに成功し、再び常陸領地を与えられ判官となった。さらに、仇敵の横山を討ちとり、遊行上人に深く礼を述べるとともに家来を弔った。後に満重は下女として働いていた照手を見つけ出し、夫婦となった。応永33年(1426年)3月に満重は亡くなり、弟の助重が領地を継いで遊行寺に満重と家来の墓を建てた。照手姫は仏門にはいり、長照比丘尼の諱を授かり永享元年(1429年)に遊行寺内に草庵を結んだという。永享12年(1440年)10月14日永眠[注釈 9]

鎌倉大草紙
鎌倉大草紙には異なる話が書かれている。満重が三河の国に脱出した頃、判官の子である小次郎助重とその家来は相模国権現堂[注釈 10]に泊まった。屋敷に出入りする盗賊に毒を盛られたが、気が合った屋敷の遊女のひとり、照姫に進言された助重は酒を口にしなかった。


知らずに飲んだ遊女たちと家来は酔って寝込んでしまった[注釈 11]。助重は盗賊が用意していた暴れ馬を巧みに乗りこなし、遊行寺にいったん逃げ込み助けを求めたのち、三河へと脱出に成功した。後に照姫を探し出して宝を与え、盗賊を退治したという[5] [注釈 12]

バリエーション
・小栗略縁起に繋がるエピソードである。


横山の屋敷を脱した照手が捕まり、川に投げ込まれた頃、もう一名照手の行方を捜す者がいた。長年照手につき従った乳母である。照手を見失った彼女は悲嘆のあまり、川に身を投げてしまった。これが侍従川の由来だという。

相模原の伝説
清浄光寺(遊行寺)と並ぶ時宗の有力道場、無量光寺が建つ神奈川県相模原市でも複数の伝説が伝わる。舞台とされる場所も複数あるが、いずれも横山家が相模原に居を構えたとするのはおよそ共通である [6]。照手姫が横山の親族という点は説教節と共通する [7]

・照手姫は横山家の娘で、敵対者である小栗判官と娘の交際に激怒した父は小栗の暗殺を謀るが失敗、逆に討ち取られる。


・照手姫は横山家の娘で、人喰い馬の鬼鹿毛を手懐けた小栗に感服し、姫との結婚を認める。


・照手姫は領主の娘で、家督と照手姫を狙っていた姫の親族、横山家の者が小栗と家臣を謀殺する。小栗が復活してからの流れは藤沢の伝承と同様。

説経節にみる小栗判官伝説


正本として、延宝3年(1675年)「おぐり判官」(作者未詳)、年未詳「をくりの判官」(佐渡七太夫豊孝)その他がある。


鞍馬の毘沙門天の申し子として生を受けた二条大納言兼家の嫡子小栗判官が、ある日鞍馬から家に戻る帰路、菩薩池の美女に化けた大蛇の美しさに抗し切れず交わり、妻としてしまう。大蛇は懐妊するが、子の生まれることを恐れて隠れようとした神泉苑に棲む龍女と格闘になる。このために7日間も暴風雨が続き、小栗は罪を着せられ常陸の国に流された。この場所にて小栗は武蔵相模の郡代横山のもとにいる美貌の娘である照手姫のことを行商人から聞かされ、彼に頼んで照手に文を渡す。照手姫から返事を受け取るや、小栗は10人の家来とともに、照手姫のもとに強引に婿入りする。これに怒った横山によって、小栗と家来達は毒殺され、小栗は上野原土葬に、家来は火葬にされる。照手姫は相模川に流され、村君太夫に救われるが、姥の虐待を受け、千手観音の加護により難を逃れたものの人買いに売り飛ばされ、もらわれた美濃国青墓宿の万屋でこき使われる。



一方、死んだ小栗と家来は閻魔大王の裁きにより「熊野の湯に入れば元の姿に戻ることができる」との藤沢の遊行上人宛の手紙とともに現世に送り返される。餓鬼阿弥が小栗のから現われたのを見た上人は手紙を読み、餓鬼阿弥と化した小栗を車に乗せると胸の木札に「この車を引くものは供養になるべし」と書きしたためた。多くの人に引かれた車は美濃の青墓に到着する。常陸小萩の名で働いていた照手姫は餓鬼阿弥が小栗であると知らずに5日間に渡って大津まで車を引き、ついに熊野に到着する。

熊野・湯の峰温泉の薬効にて49日の湯治の末、小栗の業病は完治し元の体に戻ることができる。その後、小栗はに戻り天皇により死からの帰還は珍事であると称えられ、常陸・駿河・美濃の国を賜ることになる。また、車を引いてくれた小萩を訪ね彼女が照手姫であることを知り、姫とともに都に上った。やがて小栗は横山を滅ぼし、死後は一度死んで蘇生する英雄として美濃墨俣の正八幡(八幡神社)に祀られ、照手姫も結びの神として祀られた。

詳しいことは、「小栗判官ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%A0%97%E5%88%A4%E5%AE%98
(wikiより)

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鷺 舞 ( 国指定重要無形民俗文化財 )


古式豊かな鷺舞は神事舞として、京都より山口を経過して天文 11年 ( 1542年 ) 津和野城主・吉見十一代大蔵正頼が五穀豊穣、災厄防除のため移したことに起源する。


その後、坂崎出羽守の時代に中絶したが、二代藩主・亀井茲政に至り、寛永 20年 ( 1643年 ) 京都より伝授され復興し、弥栄神社の例祭に供奉、今日に至る。


ふるさとの川整備事業にあわせてこの像を建てる。
(案内板より)

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一. 明歴弘治十三年(1500年)代 与那国島の女酋長


一. 四人の兄弟をドナンバラ村、ダテグ村、ダンヌ村、テバル村の按司に配置し自分は島の中央に位する

サンアイ村に構えて統治し内治を良くし外患を防いでいた。
(案内板より)


サンアイ イソバは、15世紀末に実在したとされる与那国島の女性首長

概要
名前の「サンアイ」は地名、「イソバ」は個人名である[注釈 1]。サンアイは島言葉で「ガジュマル」を指す。イソバアブ(阿母)とも呼ばれた。


巨体と怪力の女傑として知られ[注釈 2]、4人の兄弟を島内に配置して与那国島を統治していた[1][2]。巨大な草鞋を海に流し、島には巨人がいると外部に思わせて、敵が島に近寄らないように図ったという逸話がある。


1500年
八重山諸島オヤケアカハチの乱が平定され、琉球王国配下の宮古島の仲屋金盛を初めとした軍勢が与那国島にも攻め寄せた際には、これを撃退したと伝えられている[3]


子孫に島袋家がある
[要出典]


与那国島の観光名所の1つであるティンダバナは、かつてイソバの拠点であったとされ、「サンアイイソバの碑」として墓が設けられている。 [4][1]


また巫女でもあるイソバは、古代において祭祀と政治を司った女性の力を象徴しており[5]、現在でも地域おこしの一環である「沖縄、ふるさと百選」の1つ「伝説の女傑、サンアイ・イソバと生きるふるさとづくり」などイベントのシンボルとして人気がある[6]

脚注
注釈
1. 「サンアイイソバの碑」の略歴にはサンアイ村と記されているが現存しない。
2. 一説では身長は八尺(約242センチ)。

出典
1. a b 崎原恭子 (2009年). “与那国島における史跡等の巡見報告 (PDF)”. 与那国島総合調査報告書. 沖縄県立博物館・美術館. 2019年5月10日閲覧。
2. 史跡等の指定等について”. 文化庁. 2014年6月25日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年5月10日閲覧。
3. 萩尾俊章 (2009年). “与那国島に関する主要歴史年表 (PDF)”. 与那国島総合調査報告書. 沖縄県立博物館・美術館. 2019年5月10日閲覧。
4. 沖縄県立埋蔵文化財センター 編 (2004年). “与那国島 嘉田地区古墓群 -嘉田地区ほ場整備事業に伴う緊急発掘調査報告書- (PDF)”. 沖縄県立埋蔵文化財センター調査報告書. 沖縄県立埋蔵文化財センター. 2019年5月10日閲覧。
5. サンアイイソバ - 琉球新報 - 沖縄の新聞、地域のニュース”. 琉球新報社 (2003年3月1日). 2019年5月10日閲覧。
6. 伝説の女傑、サンアイ・イソバと生きるふるさとづくり”. 沖縄県農林水産部 村づくり計画課社. 2019年5月10日閲覧。

関連項目
日本における女性の合戦参加の年表
(wikiより)


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〇 浦島太郎伝説

昔、丹後の国竹野郡浦島というところに、水江という領主が住んでいました。


この息子に太郎という少年がいました。


ある日小舟で沖に釣りに出た太郎は、大きな白亀を釣り上げました。


お供の者が亀をなぐり殺そうとしたので、太郎はそれを止めて、亀を海に放してあげました。


太郎が家に帰ろうとすると、一人に美しい少女がどこからともなく近づいてきて「私は先ほどの亀です。助けていただいてありがとう。」と礼をのべ、太郎を常世の国竜宮城へ案内しました。


たいそうなもてなしを受け、月日の経つのも忘れて遊んでいた太郎は、ある日故郷を思い出し、龍王にいとまごいを申し出ました。


龍王は弁財天の尊像と、万宝神書を一巻、そして決して開けてはいけないという玉手箱を渡してくれました。


太郎が故郷に帰ってみると、見知らぬ人ばかりで、「浦島太郎といえば、三百年ほど昔、沖に出てそれきり帰らぬ人」と近所の人に語られていたのでした。


親兄弟はもちろん誰ひとり知る者がなく、淋しさに耐えかねた太郎は、諸国の旅に出ました。


そして、たまたまこの美しい里に足を止め、その景色が気に入り、住みついたのでした。


ある日太郎は、龍宮での生活が忘れられず、「今一度」と貰ってきた玉手箱を開けてみると、立ちのぼる白煙とともに白髪の翁となりました。


「ああ、今までの事は夢だったのか」と目覚めたことからこの地を"寝覚め"といい、床を敷いたような岩を見て、人々は"寝覚の床"と呼ぶようになりました。


その後翁は、天慶年間にどこへともなく立ち去ってしまいました。


立ち去った後の床岩の上には弁財天の像一体が残され、これを祠に祀って建立したのが現在の臨川寺といわれています。


ここ"寝覚めの床"の浦島太郎伝説は玉手箱を開いてからの後日談であるところが特徴です。


〇 寝覚 ( ねざ ) めの床
大正十二年三月七日、内務省に寄り史跡名勝天然記念物に指定されました。


もちろん県立公園でもあります。


花崗岩の岩盤を、木曽川の激流が長い間にわたって、水食してできたものです。


花崗岩の方状節理と各所に見られる甌穴 ( ポットホール / 穴の開いた岩 ) は、地質学上、日本でも代表的なものといわれています。


それぞれの石には、その形になぞらえた名称がつけられ、浦島堂のかたわらの平らな石が、床岩、その奥にあるのが獅子岩、向こう側の甌穴のある岩が大釜、小釜、流れに沿って壁のような岩が屏風岩、その他烏帽子岩、象岩、腰掛岩などと呼ばれています。


〇 寝覚 ( ねざ ) めの橋
対岸に橋を架けたら便利だろうと誰しも思いますが、実は架けられぬ龍があります。


昔村人たちが相談して、ここに橋をかけたことがありました。


橋ができあがって村人たちが渡ろうとすると、不思議なことに渦を巻いて流れていた木曽川の水が、急に鏡のようになって、おそろしい牛の顔がうかび上がってくるのが見え、誰も渡ることができませんでした。


それからは、誰もここに橋を架けようとする者はいないということです。


そのせいかどうか、現在でもここに橋を架ける話はききません。


この他にも、乙姫さまの腕借し伝説などが伝えられています。
(案内板より)

〇 寝覚の床
寝覚の床(ねざめのとこ)は、長野県木曽郡上松町にある景勝地。国の名勝に指定されている。

概要

木曽川の水流によって花崗岩侵食されてできた自然地形である。1923年(大正12年)3月7日に国の名勝に指定された。かつては急流であったが、上流に設けられた木曽ダム(1968年に運用開始)などにより水位が下がったために、水底で侵食され続けていた花崗岩が現在は水面上にあらわれている。水の色はエメラルドグリーンである。


中山道
を訪れた歌人等によって歌にも詠まれ、長野県歌「信濃の国」の4番にも「旅のやどりの寝覚の床」とうたわれている。

寝覚の床の中央にある「浦島堂」は、弁才天像を残したといわれている[要検証]。一方、上松町臨川寺の縁起によれば、その弁才天像を祀ったのが当の寺であるという[注釈 1][1]


周囲は公園として整備されている。また川沿いの高所を走るJR中央本線の列車の車窓からも一望できる。中央西線の特急「しなの」では、列車によっては車掌が近くを通過する際にアナウンスをしたり、乗客に景色を堪能してもらうために列車の速度をやや落として運転することもある。

地質
寝覚の床の地質は、中生界の粗粒黒雲母花崗岩[2]である。露出岩盤には方状節理が見られる[2]。各段の高さと幅はそれぞれ数mで[2]、最上段は現河床からの比高が約20mである[2]。岩盤は約1.2万年前に露出した[2]。平均侵食速度(下刻速度)は1.7m/kyrである[2]

三返りの翁

民間伝承によれば、寝覚の里には三返りの翁(みかえりのおきな)という、長寿の薬を民に供していたされる伝説上の人物が住んでいた。


室町
後期の成立[注釈 2]とされる謡曲『寝覚』がこの伝承に基づいている。この作品のあらすじでは、長寿の薬のことを耳にした延喜当時の天皇が、その風聞を調べてくるように寝覚の里まで勅使を遣わすと、翁が医王仏の権現であると名乗り、その秘薬を献上する。翁はすでに千年来、寝覚の床に住んでいるが、薬を使って3度若返ったので「三返りの翁」の名称がついたのだと説明される[4]

浦島太郎伝説
この地と浦島太郎を結びつけた古い記録としては、沢庵和尚が『木曾路紀行』で「浦島がつり石」なる岩に言及している[6]


貝原益軒
も『木曾路之記』において、貞享2年(1685年)の旅中に「浦島がつりせし寝覚の床」を見聞したと記している。(ただし浦島がこの地に来た事実については懐疑的である) [6]


浦島太郎
竜宮城から帰ってきたのち、この寝覚の地で暮らした次第をありありと描いた伝説も作られている。


臨川寺 (上松町)建立の由来を語る『寝覚浦嶋寺略縁起』によれば[注釈 1]、浦島太郎は竜宮城から玉手箱と弁財天像と万宝神書をもらって帰り、日本諸国を遍歴したのち、木曽川の風景の美しい里にたどり着いた。ここであるいは釣りを楽しみ、霊薬を売るなどして長年暮らしていたが、あるとき里人に竜宮の話をするうち玉手箱を開けてしまい、齢300年の老人と化してしまった。天慶元年(938年)この地から姿を消したという[1]


以上の『略縁起』の伝説は、現存最古のものでも宝暦六年(1756年)改版本であるが[7][注釈 4]、おおまかな伝説としては、近世初頭以降に語り継がれてきたものと考えられる[1]


また巷説によれば、浦島太郎には、今までの出来事がまるで「夢」であったかのように思われ、目が覚めたかのように思われた。このことから、この里を「寝覚め」、岩が床のようであったことから「床」、すなわち「寝覚の床」と呼ぶようになったという[8]


ある頃をさかいに[注釈 5]、寝覚の床の浦島太郎と前述の三返りの翁は同一視されるようになっていた[9]。『略縁起』にもやはり、浦島太郎が「見かへりの翁」と呼ばれていたことが記されている。こちらの場合は、浦島が人々に霊薬を売っていたゆえに「見返り」の老人と呼ばれたと釈明されている[10]


古浄瑠璃
「浦嶋太郎」の舞台も上松の宿場で、浦島太郎は、海から遠い山中の木曾山中に住み、木曾川で釣り糸を垂らして暮らしていたとする。

その他
・木曽ダム建設時には景観保存が問題となり、1965年(昭和40年)関電が上松町に対し3,990万円の一時補償を行ない、異議求償を求めない契約が結ばれた。

交通
・自動車(寝覚の床周辺のドライブイン駐車場や、上松町営の駐車場を利用できる)

  ・長野自動車道塩尻ICを出て、国道19号を南方(木曽方面)へ約60km

  ・中央自動車道中津川ICを出て、国道19号を北方(塩尻方面)へ約50km

  ・中央自動車道伊那ICを出て、国道361号伊那木曽連絡道路)を経由して国道19号を南方へ約40km

・鉄道(東京方面からアクセスする場合は、JR塩尻駅で乗り換え)

  ・JR中央本線上松駅 - 南方へ約2km、徒歩約25分、もしくは定期バスタクシーを利用

  ・JR中央本線木曽福島駅 - 南方へ12km、定期バス・タクシー利用

詳しいことは、「寝覚の床ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%9D%E8%A6%9A%E3%81%AE%E5%BA%8A
(wikiより)

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1976年に「少年ジャンプ」で連載を開始して以来、多くの人々に愛されてきた
「こちら葛飾区亀有公園前派出所」。


物語の舞台となるここ浅草は主人公である両津勘吉を育み、また多くの感動を生み出してきました。


この碑は、両津勘吉の少年時代の友情を描いた「浅草物語」にちなみ、人を思いやる気持ちの大切さ、そして子供たちが夢や遊び心を忘れず
健全に成長してくれるよう願いを込めて建てられました。

                平成十七年八月六日 建立

「浅草物語」概略
ある日、浅草で一緒に遊んだ同級生が偶然再会。
かつての悪ガキ両津勘吉は警察官に
かつての優等生は、逃亡犯になっていました。


両津は、子供の頃にここ浅草神社(三社様)の神木、
槐(えんじゅ)の木の下に一緒に埋めた
ベーゴマの話を持ち出して二人の友情を確かめ合いました。
そして逃亡犯は自首することになったのです。
ジャンプ・コミックス「こちら葛飾区亀有公園前派出所」五七巻
「浅草物語」より


「こちら葛飾区亀有公園前派出所」
作者   秋元 治
連載開始 一九七六年週間少年ジャンプ(集英社)


両津勘吉
職業  警察官(巡査長)
誕生日 三月三日
出身地 東京都台東区千束
身長  約一六二cm
体重  約七一kg
特技  自転車乗り
(碑文より)

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富永 一朗(とみなが いちろう、1925年4月25日 - 2021年5月5日)は、日本漫画家勲等勲四等称号岡山県高梁市(旧:川上町名誉市民

来歴・人物
京都府京都市生まれ。父は大分県出身、母は福島県南会津郡田島町(現・南会津町)静川出身[1]。父は京都の大丸デパートに勤務していた[2][1][3]


3歳のとき父を肺結核で失い、母の郷里の田島町で2年間を過ごした後[2][3]、5歳の時から父の郷里の大分県佐伯市に移り、中学卒業までそこで育つ[1][3]。小学校4年頃から田河水泡の真似をして漫画を描き始める[2]。大分県立佐伯中学(現在の大分県立佐伯鶴城高等学校)に2番の成績で合格[2]。同校1年生のとき、地元で小学校教員をしていた母が恋愛事件を起こして子供を産み東京に出奔[1]。このため祖母に育てられた[1]。経済的理由から大学進学を断念したこともあるが、台湾の台南師範学校(現在の国立台南大学)が無試験[2]かつ学費無料であることを知り、同校に入学[1]。在学中は学徒動員で兵隊に取られ、二等兵として半年間高射砲の訓練を受け[1]台南市の高射砲陣地に配属される。富永は「高射砲を撃つどころか、空襲を受けて逃げ回っていた」と語っている[3]。終戦はその台南で迎えた[3]


敗戦後、教員免状を得て台南師範学校を卒業。教員として台南郊外の学校に3ヶ月勤務したが、1945年12月に中国軍(国民党軍)の接収で教職を追われ、台湾で半年間のルンペン生活を送り、羊羹屋の下働きを経て1946年3月に引き揚げ帰国[1]。佐伯市の実家に戻り、1946年5月頃から親戚のタドン工場でタドンの製造販売を行うが、売り物のタドンを無料配布したために2年ほどで解雇される[2]。後に公立小学校教師(=地方公務員)となり、佐伯市立鶴岡小学校で理科と図画の教師となった。「子供の村、というのをつくり、毎朝、ぼくが作った歌をうたったり、夏は校庭でキャンプファイヤーをしたり」したが、「村人たち(引用注:生徒)とはどうもしっくりしなかった」[3]。同校では2年ほどで人員整理に遭い、1948年佐伯市立佐伯小学校に転じて図画を教えるようになった[1][3]。佐伯小では「全国の図画コンクールで特選を取るほどの児童を育てた」[3]という。


1951年4月に教職を辞して上京し、母が洋裁の仕事をしていた代田橋の母子寮に潜り込み、帝国興信所の臨時雇いとして会社年鑑の編纂をしながら[3]サンデー毎日』に漫画を投稿[2]。当時、新富町の帝国興信所の向かいに新太陽社(旧・モダン日本社)があったため『モダン日本』編集部に作品を持ち込んだところ、編集者時代の吉行淳之介から才能を認められ、後に吉行が移った三世社の『講談讀切倶楽部』に作品を多数掲載された[2][3]


1953年
頃から「赤本」と呼ばれた子供向け漫画単行本や貸本漫画を描くようになる。このころの作品に『少年姿三四郎』(きんらん社、1954年-1955年)、『夕月の母』(きんらん社、1956年)、『ルリ子の歌』(きんらん社、1956年)などがあり、これら子供向けの作品と併行して大人向けの漫画も描き続けた。1955年[3]に母方の従姉と結婚し、世田谷区赤堤に新居を持つ。


1958年、新聞記者の紹介で近所の杉浦幸雄を訪問して『週刊大衆』に連載していた『ゴンさん』の原稿を見せたところ[3]、才能を認められ、『漫画サンデー』の編集者・峯島正行に紹介されて連載のチャンスを得て、下積み生活から脱出[1]。この『ゴンさん』は、1ページあたり3本の4コマ漫画を複数ページにわたり掲載した、現在の4コマ漫画の雑誌連載形態として一般的なものであるが、富永本人は「この方式は僕が初めてではないか」と語っている[3]。35歳の時に描き始めた『チンコロ姐ちゃん』が代表作となったが、女性の裸など下ネタを堂々と扱う作風が一部で嫌悪され、新聞紙上で「日本マンガの堕落」(伊藤逸平)と批判されたこともある[2]


週刊誌の創刊ブームが追い風となって人気を獲得したが、仕事を断れない性格が災いし、やがて同時に25本の連載を抱えるにいたった[3]。杉浦と近藤日出造が「あのままじゃ、あいつは死んでしまう[3]」と案じ、『ポンコツおやじ』を連載していた『漫画サンデー』に富永の原稿料を4倍与えさせ、代わりに富永に「他の類似漫画誌には描かない」と確約させた。これは雑誌連載漫画における専属契約システムの嚆矢とされる[3]1962年11月に、杉浦や近藤が率いる漫画家グループ「漫画集団」に加入[4]


1976年より1994年まで放送された長寿番組、『お笑いマンガ道場』にレギュラー出演。番組中で共演者の鈴木義司に「オバケナマコ」「デブの恵まれない人」「サンショウウオ」「タラバカガニ」などとこき下ろされる一方、鈴木を「土管に住んでいる貧乏人」「ケムシ・ミノムシ」「アホウドリ」(実在のそれではない。首だけ鈴木の架空の鳥)などとこき下ろし、そのやりとりで人気を博した。もっとも、実際は富永は鈴木とは互いに盟友と公言してはばからないほどの数十年来の友人同士であり、鈴木に誘われてマンガ道場に出演したため、鈴木が亡くなった時富永は「元気になったらまた一緒に『マンガ道場』でもやろうぜと言ってたのに…」と肩を落とした。同番組のエンディングでほかの出演者と一緒に手を振ったときに、富永だけはいつも手を斜め前に(ナチス式敬礼の様に)上げただけで、掌を振る仕草は見られなかった。手を振らなかった理由について富永は、「母親から『男が手を振ることはみっともない』、『男はいつもピシッとしてなさい』と言われていたため、いつもピシッと手を挙げている」と語っていた。なお、鈴木とともに、紫綬褒章と勲四等旭日小綬章を受章している。


1992年
紫綬褒章1998年に勲四等旭日小綬章を受章。


恰幅いい体型がトレードマークだったが、還暦を超えて糖尿病と診断され、一転生活を改めた。「健康じいさん」を自称し、模範患者として医療関係のシンポジウムや講演を通じて啓発活動を行い、闘病記も著した。近時は各種マンガ・絵画コンテストの審査員などを務めている。


歌をうたうのが大好きで、「一日うちにいるとまず30曲は歌います」という[5]


生前寿陵墓を功徳院 すがも平和霊苑内に建立している。自らのキャラクターであるチンコロ姐ちゃんが花を手向けている絵が彫刻されている。

顕彰
「マンガ文化の町づくり」を進めていた岡山県川上郡川上町(現在の高梁市)の名誉町民(名誉市民)で、1994年4月29日に開館した「吉備川上ふれあい漫画美術館」の名誉館長を務めている。


富永の業績を記念し作品を展示する施設が各地に建てられており、「ギャラリー水源の森」[6]山梨県道志村)、虹の郷「富永一朗忍者漫画館」[7]静岡県伊豆市)、かめやま美術館「富永一朗漫画館」[8]三重県亀山市)など9ヶ所に所在している[9]


佐伯市を通る国道217号の一部は、「イチローロード」と通称され、富永の作品をモチーフとした陶板などを配した整備が行われている[10]

詳しいことは、「富永一朗ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E6%B0%B8%E4%B8%80%E6%9C%97
(wikiより)

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富永一朗

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⇧ すがも平和霊苑内にある「平和記念碑」。


長谷川 五郎(はせがわ ごろう、1932年昭和7年)10月19日 - 2016年平成28年)6月20日)は、茨城県水戸市出身のボードゲーム研究家、ボードゲーム開発者で、特にオセロのパッケージを開発したことで有名な人物である。


オセロ以外にも88オセロソクラテスミラクルファイブセルゴ大碁(だいご)といったボードゲームも開発しており、生前は日本オセロ連盟会長を務めた。オセロ名誉十段。

経歴
英文学研究者(茨城大学教授)の長谷川四郎[注 1]を父として生まれる。


旧制水戸中学(現・茨城県立水戸第一高等学校)に入学。現在「オセロ」として知られるゲームを考案した経緯については、本人の説明が二転三転しており、真相は不明である。

当初はイギリスのリバーシというゲームのデザインを改良したものと説明していたが、後に自身が学生時代に独自に考案したゲームであり、リバーシと似ているのは偶然と主張するようになった


近年の主張によれば、学校の短い休み時間でも楽しめるゲームが欲しいと思い、碁石を用いて相手の石をはさむと取れるというルールの「挟み碁」を考案したことに始まる。その後、ルールを変え、石を取り除くのではなく色を反転させるようにし、牛乳瓶のふたを用いて裏表を反転させるように改良して現在の形にたどりついた、と言う。みずからのゲームに「オセロ」という名称をつけることになった由来は、そのゲームを考案した際に何と名付けるかについて英文学研究者(英文学者)である父親の四郎に相談したところ、シェイクスピアの『オセロ』を取り上げたからだという[1]。その名を出されれば、黒人軍人のオセロ(=黒石)と、その妻の白人女性のデズデモーナ(=白色)が緑の平原(=緑の盤面)で勇猛果敢に闘う物語が思い描かれたので、盤面を緑色にしこの名称を使うようになった、という[2]。シェイクスピアの『オセロ』は敵・味方が頻繁に寝返るストーリー[独自研究?]の演劇作品である。


茨城大学経済学部政経科に進学し、大学生時代はオセロを普及させることまでは考えておらず、あくまで身近な人と遊ぶために手作りで同ゲームを作って配るにとどまっていた。


同大学卒業後、製薬会社に就職し営業職MR)の仕事を始めても仕事先などで自作のオセロを披露していたところ、担当の顧客にあたる医局長に同ゲームが高く評価され、1972年、ツクダの社長である佃義範および企画担当者の和久井威に面会する機会を得て同ゲームを育てる夢を語り合い意気投合。ゲームとしては破格の長期契約を結び1973年には日本オセロ連盟を設立し東京で第1回全日本オセロ選手権大会を開催。同社がオセロの販売を開始しその後は年々ファンの数が増えた。和久井によると、持ち込まれたときのオセロにはパテントが付けられておらず、業界でもキャラクター以外にロイヤリティを払う意識がほとんどない時代だったが、佃は「おもちゃはアイデアだから」とロイヤリティを払うことを認めたという[3]


将棋
囲碁共にアマチュア五段でもある。


病気療養中のところ、2016年6月20日に千葉県柏市内の自宅で死去した。83歳だった。

著書
How to win at Othello(Jove Publications, 1977) ISBN 0156422158

・『オセロ』(あかしや出版、1979/05)

・『オセロの打ち方 ― 勝つための基本戦術』(講談社、1981/12) ISBN 4061277596

・『オセロ百戦百勝 ― 勝つための技術』(講談社、1990/07) ISBN 4062048434

・『オセロ大観(1)』(近代文芸社、1995年)ISBN 477334718X

・『オセロ大観(2)』(近代文芸社、1995年)ISBN 4773347198

・『オセロの勝ち方』(河出書房新社、2001年)ISBN 4309264611

  ・増補版(2005/5) ISBN 4309268366

  ・改訂新版(2006/7) ISBN 4309269087

・『オセロ百人物語 オセロ史を飾った名選手たち』(河出書房新社(2005/12) ISBN 4309906559

・『オセロ教室』(近代文芸社、2008/8) ISBN 4773375825

・『ソクラテスの打ち方』(ソラリス、1994年) ISBN 4795203806

脚注
1. この「長谷川四郎」は、シベリア虜囚体験がある作家の長谷川四郎とは全くの別人。

出典
1. 中日新聞社 「シティーライフ No.4」 2007年
2. 
シリーズ:茨城発・夢ドキュメント(2) オセロ考案者 〜長谷川五郎さん〜 (茨城県地域情報紙「常陽リビングニュース」[2005.11.14])2013年1月6日閲覧
3. 「和久井威氏ロングインタビュー 第2回」『月刊トイジャーナル』2007年6月号、東京玩具人形協同組合、p.72

関連記事
シリーズ:茨城発・夢ドキュメント(2) オセロ考案者〜長谷川五郎さん〜 (茨城県地域情報紙「常陽リビングニュース」[2005.11.14])

オセロゲームのあれこれ 神田雑学大学 [2006.06.09] 講座 No 314

オセロの歴史 長谷川五郎 記
(wikiより)


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⇧ 長谷川五郎

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2021年 1月 11日再訪

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整地されていました。


岡本綺堂の「半七捕物帖」の主人公、神田三河町の目明し半七の塚です。


江戸川乱歩ら捕り物作家クラブ同人が綺堂の業績を記念して昭和24年11月に建立しました。

岡本綺堂は捕り物小説の生みの親とされています。


裏側の文字「半七は生きている 江戸風物詩の中に われ等後輩の心のうちに 胡堂題 捕り物小説の生みの親なる 岡本綺堂先生を記念して その作中の主人公半七の 名をここに留む 昭和二十四年十一月六日 捕り物作家クラブ同人」ほかにに同人数十人の名がが彫られています。


塚の左側から綺堂が愛がんしていた大きなガマが見守っています。


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⇧ 半七捕物長 ( ドラマ )

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姥ヶ池は、昔、隅田川に通じていた大池で、明治二十四年に埋め立てられた。


浅草寺の子院妙音院(みょうおういん)所蔵の石枕にまつわる伝説に次のようなものがある。


昔、浅茅ヶ原の一軒家で、娘が連れ込む旅人の頭を石枕で叩き殺す老婆がおり、ある夜、娘が旅人の身代わりになって、天井から吊るした大石の下敷きになって死ぬ。


それを悲しんで悪業を悔やみ、老婆は池に身を投げて果てたので、里人はこれを姥ヶ池と呼んだ。
(案内板より)


〇 浅茅ヶ原の鬼婆
浅茅ヶ原の鬼婆(あさぢがはらのおにばば)は、東京都台東区花川戸に伝わる伝説一つ家の鬼婆(ひとつやのおにばば)、一つ家(ひとつや)あるいは土地の名前だけをとり浅茅ヶ原(あさぢがはら)とも称される。

概要
浅草寺(東京都台東区)の観音菩薩にまつわる伝説として江戸時代以後には書籍や演芸・芝居なども取り上げられ、広く知られていった。一軒家に棲む老女が宿泊する旅人をあやめて金品を奪っていたなどとする話は各地にみられ、これもそのうちの一例と見ることができる。


用明天皇の時代、武蔵国花川戸の周辺に浅茅ヶ原と呼ばれる原野があり陸奥国下総国を結ぶ唯一の小道があったが、宿泊できるような場所がまったくない荒地で、旅人たちは唯一の人家であるあばら家に宿を借りていた。この家には老婆と若く美しい娘が2人で住んでいたが、実は老婆は旅人を泊めると見せかけ、寝床を襲って石枕で頭を叩き割って殺害し(『関八州古戦録』巻二では、天井から縄をつけた大石を落として圧殺したと記す)、亡骸は近くの池に投げ捨て、奪った金品で生計を立てるという非道な鬼婆だった。娘はその行いを諌めていたが、聞き入れられることはなかった。老婆が殺した旅人が999人に達した。ある日、ひとり旅の稚児(ちご)が宿を借りた。老婆は躊躇することなく、寝床についた稚児の頭を石で叩き割った。しかし寝床の中の亡骸をよく見ると、それは自分の娘だった。娘は稚児に変装して身代わりとなり、自分の命をもって老婆の行いを咎めようとしていたのだった。老婆が自分の行いを悔いていたところ、家を訪れていた稚児が現れた。実は稚児は浅草寺の観音菩薩の化身であり、老婆に人道を説くために稚児の姿で家を訪れたのだった。その後、観音菩薩の力でと化した老婆が娘の亡骸とともに池へ消えたとも[1]、観音菩薩が娘の亡骸を抱いて消えた後、老婆が池に身を投げたとも、老婆は仏門に入って死者たちを弔ったともいわれている[2]

鬼婆が身を投げたとされる池は姥ヶ池(うばがいけ)と呼ばれてあり、現在も花川戸公園に残っている。池の大きさは、古くは隅田川に通じるほどの水をたたえた大きなものであったが、明治時代に宅地造成などのために大部分が埋め立てられており、かつての姿とはかけ離れたものとなっている[3][4]

浅茅ヶ原の鬼婆の登場する作品
和歌
白河院の作であるという和歌に、この伝説を詠み込んだ「武蔵には霞が関に一つ家の石の枕の野寺あるてふ」がある[5]。この歌は、『関八州古戦録』では、「武蔵には霞の関屋ひとつ屋の石のまくらや野守あるてふ」と記される。

絵画
江戸時代後期には江戸で広く知られたものになっており、浮世絵や芝居の題材としても数多く取り上げられている。浅草寺東京都台東区)には安政2年(1855年)の開帳のおりに奉納された浮世絵師・歌川国芳による大きな額の絵馬が保存されており、この伝説の一場面(諌める娘を恫喝する鬼婆)が描かれている[6]。国芳には『木曽街道六十九次之内』(「大久手 一ツ家老婆」)や『本朝二十四孝』(「一ツ家の老女」)や『観世音霊験一ツ家の旧事』など、この伝説を描いた作品は他にも多い。その構図は生人形の興行としても再利用されてもいる。


歌川広重『東都旧跡尽』の「浅茅ヶ原一ツ家 石の枕の由来」では、天井からつり下げられた大きな石が画面には描かれている。月岡芳年は、『一魁随筆』(「一ッ家老婆」)や『月百姿』(「孤家月」)などの作品にこの伝説を描いている。

演劇
歌舞伎十八番に対抗して5世・6世尾上菊五郎が選定した歌舞伎演目「梅幸十種」あるいは「新古演劇十種」のうちには「一つ家」として、この伝説を題材とした戯曲が組み込まれている[7]。この「一つ家」の芝居では、鬼婆は茨木(いばらき)、娘は浅茅(あさじ)、稚児・実は漢音菩薩の化身は花若(はなわか)という役名で登場する[8]

脚注
1. 末武芳一『上野浅草むかし話』三誠社、1985年、101-105頁。全国書誌番号:88005268
2. 中右瑛『浮世絵 魑魅魍魎の世界』里文出版、1987年、57頁。ISBN 978-4-947546-16-6
3. 藪野杢兵衛 『東京史蹟見物』 中興館書店 1918年 105-110頁
4. 【浅草の姥ヶ池】恐ろしい伝説も今ではキレイな公園”. 東京生活日和. メジャーハウジング (2007年2月28日). 2015年8月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年8月27日閲覧。
5. 老警子 『浅草風景』 警察思想社 1935年 93頁
6. 橋本治悳俊彦林美一 『幕末の修羅絵師 国芳』 新潮社 1995年 ISBN 4-10-602039-4 86頁
7. 日本放送出版協会 『演劇外題要覧』 日本放送協会 1937年 209頁
8. 豊原国周 『梅幸十種之内一ツ家』(三枚続き錦絵 版元・福田熊次郎) 1890年

関連項目
黒塚 安達ヶ原の鬼婆として知られる。
(wikiより)


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ここに、たぬき通り商店街があり「11体の変わりたぬき像」があります。


由来
明治の頃まで浅草一帯は、田圃に囲まれた薮野原でたくさんのたぬきが住んでいました。


戊辰戦争が勃発し、戦火を免れた上野の山のたぬき達は四方八方へ逃げのび、中にはたぬき横丁で安堵をとるものもいました。


しかし、ここには浅草の地たぬき達がいて縄張りが荒らされる思いから睨み合いがはじまり合戦という雰囲気になってきました。


そこへ浅草たぬきの長老の辰五郎たぬきが現れ、浅草の地たぬき達に、今までのいたずらを反省し、観音様の御慈悲とご加護で安穏に暮らせていることを悟り、平和を守ることや人の役に立つことの大切さを悟しました。


たぬき達の荒れていた心に暖かい気持ちが生まれ、戦いもいたずらもなくなりました。その中で、使命感を持った十二匹は人の役に立とうと一念発起して、人々の願い事が叶えられる力が持てる仙人修行を積み、それぞれが願かけたぬきとなってまちの人々からも慕われ、お参りされるようになりました。

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古来合羽橋は商売とは深い縁で結ばれていた。

今から約二百年前の文化年間、商人として財を成した合羽屋・喜八は、このあたりの水はけが悪く、僅かな雨で度重なる洪水に人々が難儀をしていることを見かね

私財を投げ出し、治水のための掘割工事を始めた

ところが工事は困難を極めなかなか捗らない、その様を見ていた隅田川の河童達が喜八の侠気に感じ、夜な夜な現れては人知れず工事を進め、さしもの難工事もついに完成した。


そして、その河童を見た人は、なぜかそれから運が開け商売が繁盛したという。


この故事に鑑み、合羽橋道具街の誕生九十年を迎えるにあたり、ご来街のお客様ともども幾久しい商売繁盛を祈念し、台東区の協力を戴き この地に、かっぱ河太郎像を建立する
(碑文より)

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神田明神内に有る銭形平次碑です。

銭形の平次は野村胡堂の名作「銭形平次捕物控」の主人公である。

平次の住居は、明神下の元の台所町ということになっている。

此の碑は、昭和四十五年十二月有志の作家と出版社とが発起人となり、縁りの明神下を見下ろす地に建立された。

石造り寛永通宝の銭形の中央には平次の碑、その右側に八五郎、通称「がらっ八」の小さな碑が建てられた。
(案内板より)

〇 銭形平次捕物控
『銭形平次捕物控』(ぜにがたへいじ とりものひかえ)は、野村胡堂による小説、またこの小説を基にした映画、テレビ時代劇、舞台作品。翻案作品ではタイトルを単に『銭形平次』とするものもある。

神田明神下に住む岡っ引の平次(通称 銭形平次)が、子分の八五郎(通称:ガラッ八-ガラッパチ)と共に卓越した推理力と寛永通宝による「投げ銭」(重さ3.5グラムで、小石を投げつけるのと同じ)を駆使し、事件を鮮やかに解決していく。岡本綺堂『半七捕物帳』と共に最も有名な捕物帳(犯罪事件を題材とした時代物の推理小説)であり、代表的な時代劇作品の一つでもある。

作品の舞台が江戸時代のいつ頃かははっきりしない。原作の最初の頃は寛永期(1624年 - 1645年、江戸初期)を舞台にしていたが、第30話から文化文政期(1804年 - 1830年、江戸後期)に移っている[1]。

平次は架空の人物であるが、小説の設定から神田明神境内に銭形平次の碑が建立されており、銭形平次の顔出し看板も設置されている。

小説(原作)
1931年、文藝春秋発行の「文藝春秋オール讀物号」創刊号に銭形平次を主人公にした「金色の処女」が掲載された。これが『銭形平次捕物控』の第1作目となり、以降第二次世界大戦を挟んで1957年までの26年間、長編・短編あわせて383編が発表された。

作者の野村胡堂は、文藝春秋から「岡本綺堂の半七捕物帳のようなものを」と依頼され、構想を練った。そのとき、たまたま建設現場で見かけた錢高組の看板と社章から「銭形」の名前と投げ銭を思いついたという。また、『水滸伝』に登場する没羽箭張清が投石を得意にしていたというエピソードも、投げ銭のヒントとなったという[2]。

非常に人気がある作品のため何度も版を変え出版されているが、すべての作品が収録されたのは河出書房から出された「錢形平次捕物全集」(昭和31年~33年)のみであり、後は不完全な全集か選集である。

2018年8月現在、書籍はすべて絶版となっているが、繰り返し出版されていたため、古書での部分的な入手は容易である。また、野村胡堂の作品自体、没後50年を経てパブリックドメインとなっており、本作も有志により電子書籍化されており、こちらでも部分的な入手は可能である。

本作は著名人の愛読者が多いことでも知られており。特に、吉田茂が愛読していたことはよく知られている。その他にも、米内光政、武者小路実篤、中谷宇吉郎、吉田洋一、木村義雄などが愛読していた。また、司馬遼太郎が「街道をゆく」で銭形平次の魅力を「叙述がすずやかで、すだれごしに上等な夏の料理をたべているような気がした」と書いている[3]。

ただし、同時代の推理小説家の評価は低く(例えば江戸川乱歩、木々高太郎など)、捕物帳は推理小説ではないとの論争を招いたこともある。

初期作品(短編)
・1 金色の処女 (こんじきのおとめ)[4] - 「銭形平次」もの第一短編。平次もお静も若くまだ独身で「ガラっ八」もまだ居ない。徳川家光の命を狙う一味と対決。

・2 振袖源太 (ふりそでげんた) - 振袖の若衆・源太に隠された過去。前作と合わせ、スケールの大きい初期2作は、シリーズの中では異色作。

・3 大盗懺悔 (だいとうざんげ)

・4 呪ひの銀簪 (のろいのぎんかんざし)

・5 幽霊にされた女 (ゆうれいにされたおんな)

・6 復讐鬼の姿 (ふくしゅうきのすがた)


メディア展開

原作の人気の高さから、何度も映画やテレビドラマが作られている。ラジオドラマも週6日放送で5年間放送された。

映画
『銭形平次』の連載が始まった1931年に、関操主演で早くも映画化されている。その後も数多くの映画が作成され、嵐寛寿郎、二代目市川猿之助、長谷川一夫らが平次を演じている。大川橋蔵もテレビ版と平行して公開された映画で主演している。


なかでも長谷川一夫主演作品は人気が高く、シリーズ化され、1949年から1961年までの間に全18本(第1作が新東宝、2作目以降は大映)が公開された。


嵐寛寿郎(寛プロ)
・『銭形平次捕物控 富籤政談』(1933年)
・『銭形平次捕物控 復讐鬼』(1933年)
・『銭形平次捕物控 紅蓮地獄』(1934年)


長谷川一夫(大映)
・『銭形平次捕物控 平次八百八町』(1949年)
・『銭形平次』(1951年)
・『銭形平次捕物控 恋文道中』(1951年)
・『銭形平次捕物控 地獄の門』(1952年)
・『銭形平次捕物控 からくり屋敷』(1953年)
・『銭形平次捕物控 金色の狼』(1953年)
・『銭形平次捕物控 幽霊大名』(1954年)
・『銭形平次捕物控 どくろ駕籠』(1955年)
・『銭形平次捕物控 死美人風呂』(1956年)
・『銭形平次捕物控 人肌蜘蛛』(1956年)
・『銭形平次捕物控 まだら蛇』(1957年)
・『銭形平次捕物控 女狐屋敷』(1957年)
・『銭形平次捕物控 八人の花嫁』(1958年)
・『銭形平次捕物控 鬼火燈篭』(1958年)
・『銭形平次捕物控 雪女の足跡』(1958年)
・『銭形平次捕物控 美人蜘蛛』(1960年)
・『銭形平次捕物控 夜のえんま帳』(1961年)
・『銭形平次捕物控 美人鮫』(1961年)


その他の作品
人名は主演者。
・『七人の花嫁』(1932年) - 沢村国太郎
・『銭形平次捕物控 濡れた千両箱』(1935年、新興キネマ京都撮影所) - 小金井勝
・『『銭形平次捕物控第二話 名月神田祭』(1939年、松竹)
・『天晴れ一番手柄 青春銭形平次』(1953年、東宝) - 大谷友右衛門
・『銭形平次 捕物控』(1963年、東映京都) - 里見浩太郎
・『銭形平次』(1967年、東映) - 大川橋蔵


ラジオ浪曲
国友忠により、文化放送で1952年から連続放送された『銭形平次』は月~土の週6ベルトで放送は5年を超え、2014年現在でもラジオドラマの最長記録とされる。同様にラジオ東京(現在のTBSラジオ)でも国友の口演で放送された。曲師は沢村豊子。


テレビドラマ
テレビドラマシリーズも多数制作されており、若山富三郎、安井昌二、大川橋蔵、風間杜夫、北大路欣也、村上弘明らが平次役を演じている。


19無題


平次を題材にした作品・キャラクター
・銭形警部 - 『ルパン三世』の主要登場人物。銭形平次の子孫であり、作品によっては先祖から受け継いだ十手を使って戦うこともある。
・『階段野郎』、『時間エージェント』(モンキー・パンチ) - 共に銭形平次本人が登場。
・『もーれつア太郎』(赤塚不二夫) - 主人公・ア太郎の子分として「でこっ八」というキャラクターが登場する。
・『B型平次捕物帳』(いしいひさいち) - 銭形平次のパロディ4コマ漫画。
・『からくり剣豪伝ムサシロード』 - 銭形平次をモチーフにした「ゼニガタン」というロボットが登場する。
・『金田一少年の事件簿』 - テレビドラマ版のみ、私立探偵の「銭形ケンタロウ」という人物が登場する。
・『ファイナルファンタジー』シリーズ - ジョブ「侍」が「ぜになげ」のアビリティを使用可能。『FFVI』では「平次の十手」というアイテムが存在する。
・パチンコ機種「CRびっくりぱちんこ銭形平次withチームZ」 - 大川橋蔵版を元にしている。
・パチンコ機種「CR新銭形くん」
・観音寺競輪場および香川県観音寺市のマスコットキャラクター「銭形くん」

その他多数


参考
1. メディアファクトリー『時代劇解体新書!』
2. 株式会社 銭高組「『銭形平次』誕生秘話」
3. 「余録」毎日新聞2014年7月15日。
4. 読みは「きんいろのしょじょ」ではなく「こんじきのおとめ」。宗教絡みの生贄に関係がある。


参考文献
・青木正美 「「銭形平次捕物控」考」 『日本古書通信』 第69巻第9号(通巻第902号) 2004年9月
・新井勝治 『浪曲、女子高へ行く』 朝日新聞社刊 2001年 ISBN 4021000518


外部リンク
・作家別作品リスト:野村 胡堂 - 青空文庫 『銭形平次捕物控 001 金色の処女』:旧字旧仮名 - 青空文庫
・『銭形平次捕物控 001 金色の処女』:新字新仮名 - 青空文庫
(以下省略)

(wikiより)

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⇧ 銭形平次 ( 大川橋蔵 )

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⇧ 銭形平次の碑 ( 土台が寛永通宝になっています )

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⇧ 八五郎の碑

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浅草・浅草寺内、法善院の植え込みにあるゲゲゲの鬼太郎の石像です。

浅草寺病院と浅草寺福祉会館の間の道から入って左側、法善院の植え込みに不思議な石像が・・・

そうそう、ゲゲゲの鬼太郎、目玉の親父、子泣き爺・・・・・・・・・・・・・ ウルトラマン!?

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谷中・妙泉寺にある「貧乏が去る像」

不況の代名詞ともういうべき「貧乏神」の頭に「猿」が乗ったこの石像は大変に縁起の良い石像です。

貧乏神をこらしめる猿は、一説によれば、四天王のひとり、毘沙門天の化身ともいわれております。

毘沙門天は、仏法を良く聞いたことから多聞天と呼ばれ、福徳の天女、吉祥天を妃とした神さまで、仏像の毘沙門天は貧乏神を踏みつけていることでも有名です。

妙泉寺の「貧乏が去る像」は国土安穏や訪れる方々の富貴繁栄を祈念するものです。

知らないうちに、あなたの家やあなたの心に住みつくもの。それが貧乏神です 貧乏神が住みつくと、家も心も貧しくなってしまいます。

この像は、貧乏神を撫でたあと、頭上の猿を撫でますと、「貧乏が猿 ( 去る )」ことから、家は富み、心は元気になるというというたいへん縁起の良いものです。

もちろん小生も撫でてきました ( 笑 )

ちなみに、この像ハドソンゲーム「桃太郎電鉄」のキャラクターで有名です。

 この御寺では、「貧乏が去る像の貯金箱」も販売しています。( 画像 3. 4 )

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⇧⇩ 貧乏が去るように祈祷された陶器製の貯金箱も購入しました。

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