カテゴリ: 榎本武揚・戊辰・西南・円通寺・赤穂浪士・白虎隊関連etc.
8909 彰義隊遊撃隊長鷹羽玄道追悼碑(荒川区南千住1-59-11・円通寺)
木下福治郎・鷹羽玄道は兄弟で、兄の木下は彰義隊第二青隊隊長、八番隊組頭をつとめ、弟の鷹羽は本営詰組頭などつとめ、二人とも箱館まで転戦している。
木下は明治 13年 1月 16日に42歳で没し、鷹羽は明治 44年 6月 6日に 69歳で生涯を閉じた。
この追悼碑は鷹羽の娘・登宇によって建てられた。
〇 上原 仙之助
上原 仙之助 ( うえはら - せんのすけ)
生年 : 不明。
没年 : 不明。
享年 : 不明。
改名 : 鷹羽玄道
元 : 養子に入り柳河 12万石立花飛騨守鑑寛の家臣となるが、脱藩。
流派 : 不明。
容姿 : 島原はおろか江戸中の女性たちから「仙さま」と呼ばれ、絶えず付け文をされるほどの美丈夫。
18歳の時、養子先の上原家の養母に惚れられ、
逃げる為に江戸へ出たとも言われている。
性格 : 才知縦横の快男児。
墓所 : 東京都荒川区南千住一丁目の円通寺?
上野彰義隊時代:本営詰組頭
箱館彰義隊時代:組頭
箱館新政府時代:彰義隊差図役
上野彰義隊兵隊組頭八番隊隊長・木下福次郎の実弟。
実の兄・木下の進退に同感し、柳河藩を脱藩して彰義隊に入り、丸毛と同じく、本営詰組頭に就任する。
史料によると上野戦争当時の年令は、20歳前(17歳位?)だったと思われる。
彰義隊時代、朝帰りの途中で官軍と真正面から鉢合わせても、決して道を避けようとはせず、あえて中央へ立ちふさがり、そのまま官軍の隊を真っ二つに割って最後列まで通り抜けてしまったり、兄に代わり八番隊を率いて市中見回り中に、官軍の巡邏隊と遭遇したおり、官軍の隊長が当時の流行り唄をもじって、「徳川武士箱詰にして、吉原通いがしてみたい」と仙之助らを罵ったが、仙之助は颯爽と鉄扇を広げ、「来る官軍首斬りつくし、五月葵の花が咲く」と、みごとに切り返し、官軍側を意気消沈させてしまったと言う。
上野戦争では八番隊として黒門口で戦い、上野敗戦後も、 仙之助は敗北感にとらわれる事なく、髪を剃って黒染の衣の托鉢僧に化け、仏前への読経を依頼されても、経文では無く、粋な清元の「梅の春」の一節を平然と読吟して切り抜けるなど、その他、医師に化けたりして、白昼道々と天下の往来を闊歩した。
そして再起を謀るべく、百七十人もの同志との連絡を取ることを成功させ、どのように資金を作ったのか、市内数カ所に居酒屋を設けて、同志達を分宿させて、隠れ家とさせた。
しかしその後、天野が捕縛されると、丸毛らと共に榎本艦隊に加わる。
この時、名を鷹羽玄道と改める。
箱館戦争では箱館総攻撃の日に負傷して前線撤退し、病院送りとなる。
そのおかげか、箱館弁天台場などでの禁錮生活はまぬがれたようである。
その後、鷹羽玄道の名で下谷二長町で有名な鍼医に。
8907 彰義隊八番隊長木下福治郎追悼碑(荒川区南千住1-59-11・円通寺)
木下福治郎・鷹羽玄道は兄弟で、兄の木下は彰義隊第二青隊隊長、八番隊組頭をつとめ、弟の鷹羽は本営詰組頭などつとめ、二人とも箱館まで転戦している。
木下は明治 13年 1月 16日に42歳で没し、鷹羽は明治 44年 6月 6日に 69歳で生涯を閉じた。
この追悼碑は鷹羽の娘・登宇によって建てられた。
〇 木下福治郎
木下福次郎 ( きのした - ふくじろう )
生年 : 不明。
没年 : 不明。
享年 : 不明。
元 : 木下家へ養子に入り、柳河藩の家臣となる。
流派 : 不明。かなりの剣の使い手であったと言われる。
容姿 : 上原仙之助の実兄というからには美丈夫だったと思われ…。
墓所 : 東京都荒川区南千住一丁目の円通寺?
上野彰義隊時代:兵隊組頭八番隊隊長
箱館彰義隊時代:頭取
箱館新政府時代:彰義隊差図役頭取
上原仙之助の実兄。
上野戦争では兵隊組頭八番隊隊長を勤めた。
そもそも彰義隊八番隊は天野が気に入ったものを集めた隊だった上に、剣の使い手ばかりが揃っていたと言われる。
木下はその中でも隊長を勤めていた。
天野八郎は仙之助と共にこの兄弟を深く信頼し、潜伏中などは、福次郎に「七郎」と名乗らせるなど、ほとんど義兄弟のようにしていたと伝えられる程であったと言う。
上野戦争当日は天野と共に八番隊隊士を従え黒門口へ向かい、最後まで奮戦した。
上野敗戦後は実弟の仙之助と共に、再起を謀る為に奔走するも、天野捕縛により、仙之助ら他の隊士と榎本艦隊に加わる。
戊辰戦争後、明治3年4月に謹慎を解かれた時、静岡藩に引き渡される者と、東京に行く者に別れたようだが、その時、木下は静岡藩引渡しとなり、彰義隊の静岡藩行き取締役となった。
8883 櫻山神社(山口県下関市上新地町2丁目6-22)
| 所在地 | 山口県下関市上新地町2丁目6-22 |
|---|---|
| 位置 | 北緯33度57分40.5秒 東経130度55分13.5秒 |
| 主祭神 | (本文参照) |
| 創建 | 文久4年1月23日 (1864年3月2日) |
櫻山神社(さくらやまじんじゃ)は、山口県下関市に鎮座する神社[1]。
祭神
・吉田松陰 1柱
・高杉晋作、久坂義助、入江九一、吉田稔麿、河上弥市 5柱、
・白石正一郎、白石廉作、山県有朋 等 長州藩奇兵隊士 256柱
・泉十郎、熊野直助 等 豊浦藩報国隊士 96柱
・膺懲隊、八幡隊、遊撃隊、整武隊、清末藩育英隊等諸隊士 38柱 計391柱(霊標は391柱だが合祀され神霊名 簿に記載されている神霊は857柱[2])
歴史
文久3年(1863年)の下関事件を受け、高杉晋作は奇兵隊を結成した。同年10月(1864年11月)殉国の志士の神霊を祀る招魂場の創建を発議した。文久4年1月23日(1864年3月2日)、白石正一郎らにより下関の新地岡の原に招魂場の創建(社殿は翌月から着工されたが下関戦争、禁門の変といった動乱続きにより落成したのは元治の内乱で藩論が統一された後の元治2年8月3日(1865年9月22日)であった)[3]。明治5年8月20日(1872年9月22日)、防長各所の招魂場を合祀。同年9月1日(1872年10月3日)豊浦藩報国隊士を合祀。1959年吉田松陰没後百年祭にあたり山縣有朋等23柱を追祀。2016年前原一誠ら6柱を合祀。[4]
参考文献
・櫻山神社 公式サイト
・“東流西流”. 山口新聞. (2016年10月30日)
・“御由緒”. 櫻山神社. (2018年5月9日)
・“下関の桜山神社「前原一誠」合祀”. 山口新聞. (2016年8月12日)
関連項目
・招魂社
外部リンク
・櫻山神社 公式サイト
(wikiより)




8839 戊辰役上田藩従軍記念碑(長野県上田市大手1-4-32)
8749 松尾甲之進招魂碑(山口県下関市上新地町2-6-22・櫻山神社)
8748 臼井留之助平胤勝招魂碑(山口県下関市上新地町2-6-22・櫻山神社)
8747 和田小伝次唯之招魂碑(山口県下関市上新地町2-6-22・櫻山神社)
8746 世木騎騄義安招魂碑(山口県下関市上新地町2-6-22・櫻山神社)
8745 堀平三郎知忠招魂碑(山口県下関市上新地町2-6-22・櫻山神社)
8744 尾川清足招魂碑(山口県下関市上新地町2-6-22・櫻山神社)
8743 南野一郎招魂碑(山口県下関市上新地町2-6-22・櫻山神社)
8742 阿部宗兵衛吉道招魂碑(山口県下関市上新地町2-6-22・櫻山神社)
8741 白石資風招魂碑(山口県下関市上新地町2-6-22・櫻山神社)
8740 山内賢之充通喜招魂碑(山口県下関市上新地町2-6-22・櫻山神社)
8739 下瀬熊之進招魂碑(山口県下関市上新地町2-6-22・櫻山神社)
8738 伊東貞三祐久招魂碑(山口県下関市上新地町2-6-22・櫻山神社)
8737 田中弁蔵知忠招魂碑(山口県下関市上新地町2-6-22・櫻山神社)
8736 白石廉作資敏招魂碑(山口県下関市上新地町2-6-22・櫻山神社)
8735 伊藤百合五郎招魂碑(山口県下関市上新地町2-6-22・櫻山神社)
8734 周田半蔵招魂碑(山口県下関市上新地町2-6-22・櫻山神社)
8733 井関英太郎招魂碑(山口県下関市上新地町2-6-22・櫻山神社)
8732 永野熊之允政和招魂碑(山口県下関市上新地町2-6-22・櫻山神社)
8730 小田村信之進招魂碑(山口県下関市上新地町2-6-22・櫻山神社)
8728 山県有朋招魂碑(山口県下関市上新地町2-6-22・櫻山神社)
8727 堀滝太郎浪風招魂碑(山口県下関市上新地町2-6-22・櫻山神社)
8726 天宮慎太郎行文招魂碑(山口県下関市上新地町2-6-22・櫻山神社)
8725 十川東之勝忠一招魂碑(山口県下関市上新地町2-6-22・櫻山神社)
8724 阿川四郎延実招魂碑(山口県下関市上新地町2-6-22・櫻山神社)
8723 堀潜太郎春峰招魂碑(山口県下関市上新地町2-6-22・櫻山神社)
8722 宮城彦助御楯招魂碑(山口県下関市上新地町2-6-22・櫻山神社)
宮城彦助御楯
文久三年八月二十七日 於教法寺にて賜死 ( 五十一歳 )。
※ 賜死
賜死(しし)とは、死刑の一種。君主が臣下、特に貴人に対して自殺を命じることを指す(単純に君主の命令(王命)による死刑を賜死と呼ぶこともある)。
本来、「死を賜う」という漢語は君主を主語として「死を与える」という意を表すものであるが、近世以後の日本語においては臣下の視点で「死をもらう」という正反対の意にも用いられる。
本項の解説においては混乱を避けるため、臣下側が主語となる場合には「賜死を受ける」というような表現を用いる。
本来、「死を賜う」という漢語は君主を主語として「死を与える」という意を表すものであるが、近世以後の日本語においては臣下の視点で「死をもらう」という正反対の意にも用いられる。
本項の解説においては混乱を避けるため、臣下側が主語となる場合には「賜死を受ける」というような表現を用いる。






















































