本牧jack『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。
たまに『 多人数で取材しているのか? 』との質問を戴きますが、小生と相方の二人三脚で御座います。
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カテゴリ: 榎本武揚・戊辰・西南・円通寺・赤穂浪士・白虎隊関連etc.

碧血碑の裏側に、「徳川儀士宮田登輔」墓碑があります。

「明治二年三月建立」と刻されていて、もともとは水道貯水池の奥にあったものを移したしたものと言われています。

また「伝習隊所属の宮田登助ではないか」とも言われておりますが詳細不明です。

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木下福治郎・鷹羽玄道は兄弟で、兄の木下は彰義隊第二青隊隊長、八番隊組頭をつとめ、弟の鷹羽は本営詰組頭などつとめ、二人とも箱館まで転戦している。

木下は明治 13年 1月 16日に42歳で没し、鷹羽は明治 44年 6月 6日に 69歳で生涯を閉じた。

この追悼碑は鷹羽の娘・登宇によって建てられた。

〇 上原 仙之助
上原 仙之助 ( うえはら - せんのすけ)
生年 : 不明。 
没年 : 不明。 
享年 : 不明。 
改名 : 鷹羽玄道 
元  : 養子に入り柳河 12万石立花飛騨守鑑寛の家臣となるが、脱藩。 
流派 : 不明。 

容姿 : 島原はおろか江戸中の女性たちから「仙さま」と呼ばれ、絶えず付け文をされるほどの美丈夫。

18歳の時、養子先の上原家の養母に惚れられ、
逃げる為に江戸へ出たとも言われている。 
性格 : 才知縦横の快男児。 
墓所 : 東京都荒川区南千住一丁目の円通寺? 

上野彰義隊時代:本営詰組頭
箱館彰義隊時代:組頭
箱館新政府時代:彰義隊差図役 

上野彰義隊兵隊組頭八番隊隊長・木下福次郎の実弟。

実の兄・木下の進退に同感し、柳河藩を脱藩して彰義隊に入り、丸毛と同じく、本営詰組頭に就任する。

史料によると上野戦争当時の年令は、20歳前(17歳位?)だったと思われる。

彰義隊時代、朝帰りの途中で官軍と真正面から鉢合わせても、決して道を避けようとはせず、あえて中央へ立ちふさがり、そのまま官軍の隊を真っ二つに割って最後列まで通り抜けてしまったり、兄に代わり八番隊を率いて市中見回り中に、官軍の巡邏隊と遭遇したおり、官軍の隊長が当時の流行り唄をもじって、「徳川武士箱詰にして、吉原通いがしてみたい」と仙之助らを罵ったが、仙之助は颯爽と鉄扇を広げ、「来る官軍首斬りつくし、五月葵の花が咲く」と、みごとに切り返し、官軍側を意気消沈させてしまったと言う。

上野戦争では八番隊として黒門口で戦い、上野敗戦後も、 仙之助は敗北感にとらわれる事なく、髪を剃って黒染の衣の托鉢僧に化け、仏前への読経を依頼されても、経文では無く、粋な清元の「梅の春」の一節を平然と読吟して切り抜けるなど、その他、医師に化けたりして、白昼道々と天下の往来を闊歩した。

そして再起を謀るべく、百七十人もの同志との連絡を取ることを成功させ、どのように資金を作ったのか、市内数カ所に居酒屋を設けて、同志達を分宿させて、隠れ家とさせた。

しかしその後、天野が捕縛されると、丸毛らと共に榎本艦隊に加わる。

この時、名を鷹羽玄道と改める。

箱館戦争では箱館総攻撃の日に負傷して前線撤退し、病院送りとなる。

そのおかげか、箱館弁天台場などでの禁錮生活はまぬがれたようである。

その後、鷹羽玄道の名で下谷二長町で有名な鍼医に。

丸毛靱負とは生涯付き合いがあったと言われる。 

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木下福治郎・鷹羽玄道は兄弟で、兄の木下は彰義隊第二青隊隊長、八番隊組頭をつとめ、弟の鷹羽は本営詰組頭などつとめ、二人とも箱館まで転戦している。

木下は明治 13年 1月 16日に42歳で没し、鷹羽は明治 44年 6月 6日に 69歳で生涯を閉じた。

この追悼碑は鷹羽の娘・登宇によって建てられた。

〇 木下福治郎
木下福次郎 ( きのした - ふくじろう )
生年 : 不明。 
没年 : 不明。 
享年 : 不明。 
元  : 木下家へ養子に入り、柳河藩の家臣となる。 
流派 : 不明。かなりの剣の使い手であったと言われる。 
容姿 : 上原仙之助の実兄というからには美丈夫だったと思われ…。 
墓所 : 東京都荒川区南千住一丁目の円通寺? 

上野彰義隊時代:兵隊組頭八番隊隊長
箱館彰義隊時代:頭取
箱館新政府時代:彰義隊差図役頭取 

上原仙之助の実兄。

上野戦争では兵隊組頭八番隊隊長を勤めた。

そもそも彰義隊八番隊は天野が気に入ったものを集めた隊だった上に、剣の使い手ばかりが揃っていたと言われる。

木下はその中でも隊長を勤めていた。

天野八郎は仙之助と共にこの兄弟を深く信頼し、潜伏中などは、福次郎に「七郎」と名乗らせるなど、ほとんど義兄弟のようにしていたと伝えられる程であったと言う。

上野戦争当日は天野と共に八番隊隊士を従え黒門口へ向かい、最後まで奮戦した。

上野敗戦後は実弟の仙之助と共に、再起を謀る為に奔走するも、天野捕縛により、仙之助ら他の隊士と榎本艦隊に加わる。

戊辰戦争後、明治3年4月に謹慎を解かれた時、静岡藩に引き渡される者と、東京に行く者に別れたようだが、その時、木下は静岡藩引渡しとなり、彰義隊の静岡藩行き取締役となった。 

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所在地山口県下関市上新地町2丁目6-22
位置北緯33度57分40.5秒 東経130度55分13.5秒
主祭神(本文参照)
創建文久4年1月23日
1864年3月2日)

櫻山神社(さくらやまじんじゃ)は、山口県下関市に鎮座する神社[1]

祭神
吉田松陰 1柱
高杉晋作久坂義助入江九一吉田稔麿河上弥市 5柱、
白石正一郎、白石廉作、山県有朋 等 長州藩奇兵隊士 256柱
・泉十郎、熊野直助 等 豊浦藩報国隊士 96柱
・膺懲隊、八幡隊、遊撃隊、整武隊、清末藩育英隊等諸隊士 38柱 計391柱(霊標は391柱だが合祀され神霊名  簿に記載されている神霊は857柱[2]

歴史
文久3年(1863年)の下関事件を受け、高杉晋作は奇兵隊を結成した。同年10月(1864年11月)殉国の志士の神霊を祀る招魂場の創建を発議した。文久4年1月23日(1864年3月2日)、白石正一郎らにより下関の新地岡の原に招魂場の創建(社殿は翌月から着工されたが下関戦争、禁門の変といった動乱続きにより落成したのは元治の内乱で藩論が統一された後の元治2年8月3日(1865年9月22日)であった)[3]。明治5年8月20日(1872年9月22日)、防長各所の招魂場を合祀。同年9月1日(1872年10月3日)豊浦藩報国隊士を合祀。1959年吉田松陰没後百年祭にあたり山縣有朋等23柱を追祀。2016年前原一誠ら6柱を合祀。[4]

参考文献
櫻山神社 公式サイト
“東流西流”. 山口新聞. (2016年10月30日)
“御由緒”. 櫻山神社. (2018年5月9日)
“下関の桜山神社「前原一誠」合祀”. 山口新聞. (2016年8月12日)

関連項目
招魂社

外部リンク
櫻山神社 公式サイト
(wikiより)

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戊辰の役上田藩従軍記念碑

戊辰戦争で上田藩は新政府側につき北越戦争や会津戦争に出兵しました。

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松尾甲之進

文久三年八月 於京都にて病死 ( 二十九歳 )。

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臼井留之助平胤勝

元治元年七月十九日 於京師鷹司邸門前にて戦死 ( 二十六歳 )。

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和田小伝次唯之

文久三年十月十四日 於但馬朝来郡山木地村にて戦死 ( 二十九歳 )。

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世木騎騄義安

慶応元年正月十日 於川上口にて戦死 ( 三十一歳 )。

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堀平三郎知忠

元治元年正月四日 病死 ( 二十六歳 )。

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尾川清足

明治十六年九月二日 死亡。

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南野一郎

明治二十七年九月二十五日 病死。

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阿部宗兵衛吉道

慶応二年七月二十七日 豊前大谷越にて負傷 七月二十八日死亡 ( 三十六歳 )。

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白石資風

明治十三年三十一日 病死 ( 六十九歳 )。

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山内賢之充通喜

文久三年六月五日 於前田台場にて戦死 ( 二十二歳 )。

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下瀬熊之進

文久三年十月十四日 但馬生野義挙山口村妙見山にて戦死 ( 二十一歳 )。

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伊東貞三祐久

慶応二年八月十七日 豊前狸山にて負傷 八月二十二日死亡 ( 三十一歳 )。

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田中弁蔵知忠

慶応二年正月二十二日 病死。

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白石廉作資敏

文久三年十月十四日 但馬生野義挙山口村妙見山にて戦死 ( 三十六歳 )。

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伊藤百合五郎

文久三年十月十四日 但馬生野義挙山口村妙見山にて戦死 ( 十九歳 )。

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周田半蔵

文久三年九月六日 京師にて病死 ( 二十二歳 )。

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井関英太郎

文久三年十月十四日 但馬生野義挙山口村妙見山にて戦死 ( 十八歳 )。

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永野熊之允政和

文久三年十月十四日 但馬生野義挙山口村妙見山にて戦死 ( 二十二歳 )。

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小田村信之進

文久三年十月十四日 但馬生野義挙山口村妙見山にて戦死 ( 二十六歳 )。

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山県有朋

 大正十一年二月一日 病死。

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堀滝太郎浪風

慶応二年七月二十九日 於吉田傷死 ( 二十三歳 )。

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天宮慎太郎行文

慶応元年正月六日 絵堂村にて戦死 ( 三十九歳 )。

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十川東之勝忠一

明治元年十月九日 於山口にて病死 ( 二十七歳 )。

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阿川四郎延実

慶応二年七月三日 於豊前大里傷き小月にて傷死 ( 二十五歳 )。

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堀潜太郎春峰

明治元年七月二日 於柏崎病院にて傷死 ( 二十七歳 )。

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宮城彦助御楯

文久三年八月二十七日 於教法寺にて賜死 ( 五十一歳 )。

 賜死

賜死(しし)とは、死刑の一種。君主が臣下、特に貴人に対して自殺を命じることを指す(単純に君主の命令(王命)による死刑を賜死と呼ぶこともある)。

本来、「死を賜う」という漢語は君主を主語として「死を与える」という意を表すものであるが、近世以後の日本語においては臣下の視点で「死をもらう」という正反対の意にも用いられる。

本項の解説においては混乱を避けるため、臣下側が主語となる場合には「賜死を受ける」というような表現を用いる。

(wikiより)

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福田侠平公明

明治元年十一月十四日 於馬関にて病死 ( 四十歳 )。

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時山直八養直

明治元年五月十三日 越後国小千谷朝日山にて戦死 ( 三十一歳 )。

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入江九一弘致

元治元年七月十九日 京都鷹司邸門前にて戦死 ( 二十八歳 )。

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高杉晋作春風

慶応三年十四日 於馬関にて病死 ( 二十九歳 )。

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吉田松陰

安政六年十月二十七日 伝馬町獄中刑死 ( 三十歳 )。

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久坂義助通武

元治元年七月十九日 鷹司邸内にて負傷自殺 ( 二十五歳 )。

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吉田稔麿秀実

元治元年六月五日 負傷自殺 ( 二十四歳 )。

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河上弥一

付箋旧三年十月十四日 於但馬山口村妙見山にて戦死 ( 二十一 )。

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前兵部少丞交野◇

詳細不明。

 資格は判読不可。

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藤村太郎稲彦

元治二年正月六日 於絵堂にて戦死 ( 二十八歳 )。

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泉十郎重次

慶応元年十一月二十七日◇死 ( 二十七歳 )。

 ◇は判読不可。

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山田鵬輔成功

慶応二年七月二十七日 於豊前鳥越砲台にて戦死。

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熊美平吾宜一

明治元年七月二十二日 於柏崎病院 傷死 ( 二十六歳 )。

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元森熊次郎春幹

明治元年五月七日 傷死 ( 二十五歳 )。

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藤村英次郎稔彦

明治元年正月五日 淀川堤にて戦死 ( 十二歳 )。

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岩本勘九郎

明治四年八月 於東京にて病死。

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有川恒槌紀綱

元治元年七月十九日 京師蛤御門にて戦死 ( 十九歳 )。

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熊野直介則之

明治元年六月二日 蒲原郡今町にて戦死 ( 二十三歳 )。

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千葉三郎忠明

慶応二年九月十六日 馬関にて病死 ( 二十歳 )。

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