本牧jack『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。
たまに『 大人数で取材しているのか? 』との質問を戴きますが、小生と相方の二人三脚で御座います。
出来るだけ続けたいと思っていますが 膝・耳に問題が有って、いつまで出来るやら・・・説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。
御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。 ※ 申し訳御座いませんが「画像の転用」は禁止とさせて頂きます。 コメントは原則公開させていただいております 質問等に対してはブログ記事で返信させていただきます 他の方法で連絡を取り合う等一切しません 場合によっては、「IPブロック」しますがブロックした場合解除する事は有りませんので宜しくお願いします。

カテゴリ: 芸能人・舞台・染色・ジュエリー・衣装関連

江戸伝統すみだ川染

手描江戸友禅伝承の碑

昭和六十三年四月十九日

染絵師 井浦深泉

・東京手描友禅
経済産業大臣指定 ( 昭和 55年 3月 3日 )・伝統的工芸品、東京都知事指定 ( 昭和 57年 12月 24日 )・伝統工芸品「東京手描友禅」に認定されています。

・東京手描友禅 ( 東京友禅・江戸友禅 ) の由来
友禅染は、江戸時代の貞享 ( じょうきょう ) 年間 ( 1684 - 1688 ) に京都の扇面絵師であった宮崎友禅斎 ( 日置清親 _ ひおききよちか ) により創始されたと伝えられています。

扇面絵師として名を知られていた友禅斎が呉服屋の依頼により、小袖に小紋模様の多彩色の図案を描いたのが評判となり、友禅模様として脚光を浴びることとなりました。

徳川家康が江戸幕府を開設したこと ( 1603年 ) を契機に大名家の参勤交代制度に伴って、絵師や染師も他の職人達と同様に京から江戸に移り住むようになりました。

京のみならず各地方の各種技術・技法の交流がはじまり伝承され、江戸特有の文化にも育まれて、より洗練されたものづくりがされるようになりました。

染物には水資源が欠かすことのできない重要な要素となり、このため隅田川や神田川の河川流域には多くの染師や職人が住んでいました。

延宝元年 ( 1673年 ) に日本橋に越後屋呉服店 ( 現在の日本橋・三越 ) が開設されて、近年には、その染工場が神田川上流域の高田馬場付近に造られ、多くの染師や染物関連の職種に携わる人達が移り住むようになりました。

特に関東大震災や第二次世界大戦を契機に東京の地場産業として、目覚ましい発展を遂げて来ました。その中にあって東京手描友禅は構想・図案・下絵・糸目糊置き・友禅の色挿し・仕上げまでの工程がほぼ作者の一貫作業となっており、華やかさを抑えて単彩のなかにも秘められた美しさと溢れる気品は、江戸の粋を現代に伝えています。

("東京手描友禅" 東京都工芸染色協同組合ホームページより)

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出生名前野曜子(まえの ようこ)
別名弓 千晶 (ゆみ ちあき)
西丘 有里 (にしおか ゆり)
生誕1948年1月25日
出身地日本の旗 日本 東京都中央区銀座
死没1988年7月31日(40歳没)
学歴川村高等学校 中退
宝塚音楽学校 卒業
ジャンルポップスジャズアニメソング
職業歌手
活動期間1968年 - 1988年
レーベルCBSソニー
ユニオンレコード
東芝エキスプレス
事務所小学館プロダクション
共同作業者ペドロ&カプリシャス
リッキー&960ポンド
旧メンバー

リッキー&960ポンド

ペドロ&カプリシャス

前野 曜子
(まえの ようこ、1948年1月25日 - 1988年7月31日)は、日本の歌手である[1][2][3][4]ペドロ&カプリシャスの初代ヴォーカルである。宝塚歌劇団在籍中の芸名は弓 千晶(ゆみ ちあき)、その後の初期芸名は西丘 有理(にしおか あり)。1980年前後の時期、俳優として劇場用映画テレビ映画に出演した[1][2][3][4]

人物・来歴
1948年(昭和23年)1月25日、東京都中央区銀座に生まれる。


1963年(昭和38年)4月、川村高等学校に進学するも、満17歳になった1965年(昭和40年)、同校を中途退学し、宝塚音楽学校に進む。1967年(昭和42年)、第53期生として宝塚歌劇団へ入団、同年の星組公演『世界はひとつ』が初舞台公演の演目であった。同期は54名、室町あかね小松美保がおり、前野の当時の芸名は弓 千晶。1968年(昭和43年)10月30日付で同劇団を退団した。


宝塚時代に知り合った亀渕友香ディスコ赤坂ムゲン」で再会して上野義美がプロデュースしていたリッキー&960ポンドに参加、翌1969年(昭和44年)、「ワッハッハ」(CBSソニー)がヒットを記録する。この頃は西丘 有里と名乗る。1971年(昭和46年)、同グループと同じ事務所(小学館プロダクション)に所属するペドロ&カプリシャスにヴォーカルとして参加、同年10月発売の「別れの朝」が大ヒットを記録する。同作の原曲はウド・ユルゲンスの「夕映えのふたり」(ドイツ語Was ich dir sagen will, 1967年)である。


1972年(昭和47年)9月、「ペドロの前野曜子が倒れた」と報道される[5]。1973年(昭和48年)、ペドロ&カプリシャスを脱退し渡米、半年弱の滞在後帰国し、本村俊雄をリーダーとするバンド”マスカレード"にて歌手活動を再開後、1976年(昭和51年)に古巣のリッキー&960ポンドに復帰する。1977年(昭和52年)9月、リッキー&960ポンドとアルバム『ABRAZAME』を録音。「別れの朝」は3ヴァージョンが存在するが、このアルバムに収録されたものが最高の出来との評価もある[誰によって?]。同グループに3年間所属した後、再び脱退する。


1979年(昭和54年)に映画『蘇える金狼』の主題歌『蘇える金狼のテーマ』をリリース。このとき「あの前野曜子が6年ぶりにカムバック!!」と報道されたが[6]、カプリシャス脱退以降の経歴が考慮されていない。1980年(昭和55年)、映画『野獣死すべし』に出演。1980年代初期には自己のバンド"ASANTE-SANA"を組みリサイタルも行った。1982年(昭和57年)から始まったテレビアニメ『スペースコブラ』(フジテレビ)のテーマ曲を歌う。同時期、都内の病院に入院し闘病を開始したとされる[7]


次第にアルコール依存症等が深刻化し、1988年(昭和63年)7月31日、心不全で死去した[7]。満40歳没。訃報についてはリアルタイムに報道されることなく、3年後に『女性自身』1991年4月23日号が初めて報じた[7]


2015年(平成27年)4月18日 第1回のファンの集いが開かれた。

ディスコグラフィ
※ ペドロ&カプリシャスは、ペドロ&カプリシャス#作品を参照。

リッキー&960ポンド
シングル
・『帰らないで(作詞:麻生香太郎)/リップ・ステックのテーマ』 (1976年11月21日)
・『告白・アイ・ラブ・ユー(作詞・万里村ゆき子)/夢物語』 (1977年7月)
・『抱きしめて (作詞・なかにし礼、作曲・フリオ・イグレシアス)/バイ・バイ・シティ』(1977年12月5日)

アルバム
・『ABRAZAME(抱きしめて)』(1977年12月)- 2011年CD化。

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アルバム
蘇える金狼・前野曜子』(1979年8月)- 2011年CD化。
『HALF TIME』(1980年8月)- 2012年CD化。
『一人で(アローン) 』(1981年12月、日本コロムビア、AF-7096-N)- 2012年CD化。
『TWILIGHT』(1982年9月)- 2012年CD化。
『YOKO MAENO memorial collection “BEST” -30th Anniversary-』(2018年7月)

フィルモグラフィ
特筆以外はいずれも「出演」である[1][2][3][4]
蘇える金狼』 : 監督村川透、製作角川春樹事務所、1979年8月25日公開(映倫番号 19789) - 主題歌
探偵物語』第14話『復讐のメロディー』 : 監督村川透、製作日本テレビ放送網東映芸能ビデオ、1979年12月18日放映(テレビ映画
野獣死すべし』 : 監督村川透、製作角川春樹事務所、1980年10月4日公開(映倫番号 110160) - 「沙羅」(鹿賀丈史の恋人のダンサーの同僚ホステス)役
スペースコブラ』 : 1982年10月7日 - 1983年5月19日放映(連続テレビアニメ映画・全31回) - 主題歌

脚注
1. a b c 前野曜子文化庁、2015年8月3日閲覧。
2. 
a b c 前野曜子KINENOTE, 2015年8月3日閲覧。
a b c 前野曜子日本映画データベース、2015年8月3日閲覧。
4. 
a b c 前野曜子テレビドラマデータベース、2015年8月3日閲覧。
5. 
週刊明星[1972], p.52-54.
6. 
週刊平凡[1979], p.159.
7. 
a b c 女性自身1991年4月23日号「「別れの朝」のペドロ&カプリシャス 前野曜子さん3年前に淋しき死! 」
8. 
a b 西丘有里名義。
9. 
映画『蘇える金狼』主題歌。
10. 
映画『蘇える金狼』挿入歌。
11. 
映画『復活の日』主題歌日本語版。
12. 
第20回国際歌祭ソポト大衆賞。
13. 
映画『スフィンクス』イメージソング。
14. 
TVアニメ『スペースコブラ』のオープニングテーマ。
15. 
TVアニメ『コブラ』のエンディングテーマ。

参考文献
週刊明星』第15巻第37号通巻第739号、集英社、1972年9月17日発行
週刊平凡』第21巻第29号、平凡出版、1979年7月発行
女性自身』、光文社、1991年4月23日発行

関連項目 
宝塚歌劇団53期生
ペドロ&カプリシャス

外部リンク
前野曜子 - KINENOTE
前野曜子 - 文化庁日本映画情報システム
前野曜子 - 日本映画データベース
前野曜子 - テレビドラマデータベース
(wikiより)

9 前野曜子

前野曜子

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本名大久保 ふみ子
生年月日1912年3月13日
没年月日2004年12月6日(92歳没)
出生地日本の旗兵庫県神戸市長田区
死没地日本の旗東京都中央区
職業女優実業家慈善家・社会事業家
ジャンル映画歌手
活動期間1930年 - 1949年
活動内容1930年に映画『時代の反抗児』でデビュー
配偶者 板谷健吾(1963年 - 1965年
著名な家族

(養父)大久保博司

(母)大久保マスエ(のちに惠代)
主な作品
映画
国境の町』(1935年、監督:松崎博臣
三聯花』(1935年、監督:田中重雄
己が罪』(1936年、監督:西鉄平
愛怨峡』(1937年、監督:溝口健二

山路 ふみ子(やまじ ふみこ、1912年明治45年〉3月13日[1] - 2004年平成16年〉12月6日[1])は、女優実業家社会事業家兵庫県神戸市長田区出身。本名・大久保 ふみ子(おおくぼ ふみこ)。

来歴・人物

1912年、兵庫県神戸市に生まれる。1930年、森高等女学校(現・神戸学院大学附属高等学校)在学中に神戸新聞社主催のミス神戸に選出され、同年、大阪松竹楽劇部(現・OSK日本歌劇団)を経て、帝国キネマ演芸株式会社に新人幹部候補生として入社し、『時代の反抗児』で映画デビューを飾る。たちまち看板スターとして脚光を浴び、雑誌や広告にもモデルとして登場するが、演技への評価はあまり高くなかった[2]

山路ふみ子という芸名の由来は、菊池寛の小説『結婚二重奏』のヒロインの名を菊池本人から頂戴したものである。


1937年、帝国キネマに移ってきた溝口健二が映画『愛怨峡』の主演に抜擢し演技指導、その後も溝口の作品に出るようになる。

帝国キネマから日活へ移籍後、新興キネマに復帰し、主演女優として多くの作品に出演し、 数本の映画主題歌もレコーディングした。日産自動車ウテナ化粧品等の広告モデルも務めた。

戦後、『暁の大地に咲く』(1949年)への映画出演を最後に映画界を引退し、母と共に東京都港区芝公園料亭「山路」を経営する実業家に転身した。自身は女将として、母が切り盛りし繁盛した。1964年に母のの病気を機に料亭を廃業した後に、当時の日本の医療器具では母の目の病気を完治させることが不可能であったことなどから、その土地と建物を売却して得た私財の内、半分以上にあたる一億円を基金として擲ち、「日本の科学の発展の為に寄与する。」という目的で「山路ふみ子自然科学振興財団」を設立して助成活動を開始し、今度は社会事業家として名前が世に知られるようになる。なお、これは「お金は人様のために使わなくては」との母の言葉に従ったものである。

1963年に東京都善行銅賞受賞、同年、「中央公論・婦人公論」最高殊勲夫人に推された。1972年藍綬褒章を受章。

また、1976年5月に映画人を育成して、功績のあった人を賞賛すること、ならびに教育・文化・福祉事業への支援活動を行うために、私財を投げ打って「山路ふみ子文化財団」を設立。毎年7部門に50万円の賞金を授与した。さらにネパールに職業訓練学校を寄付するなど、慈善活動を海外にまで広げた。

1978年、母が亡くなったショックで酒浸りとなり、くも膜下出血で倒れたが奇跡的に生還、車椅子で再び活動を続け、1993年にはネパールから勲章を贈られている。

2004年12月6日、心不全にて92歳で没。

エピソード
・1930年代に個人で自家用車を保有し、運転免許を取得して自ら車を運転をしていた、数少ない日本人女性ドライバーの一人である。


主な出演作品
・『時代の反抗児』(1930年、帝国キネマ)
・『神戸行進曲』(1930年、帝国キネマ)
・『恋は田舎でするものよ』(1930年、帝国キネマ)
・『花嫁寝台列車』(1934年、日活)
・『国境の町』(原作/岡田八千代、1935年、新興)
・『龍涎香』(原作/久米正雄、1935年、新興)
・『三聯花』(原作/吉屋信子、1935年、新興)
・『三つの愛』(原作/川村花菱、1936年、新興)
・『己が罪』(原作/菊池幽芳、1936年、新興)
・『花嫁設計図』(原作/中野実、1936年、新興)
・『浮かれ桜』(1936年、新興)
・『街の姫君』(原作/菊池寛、1936年、新興)
・『愛怨峡』(原作/川口松太郎、1937年、新興)
・『淨婚記 真砂の巻』(原作/細田民樹、1937年、新興)
・『淨婚記 比芙美の巻』(原作/細田民樹、1937年、新興)
・『露営の歌』(1938年、新興)
・『母の魂』(1938年、新興)
・『男の魂』(1938年、新興)
・『あゝ故郷』(1938年、新興)  
・『妻の魂』(1938年、新興)
・『新しき門』(原作/中野実、1938年、新興)
・『日本の魂』(1938年、新興)
・『評判五人娘』(1939年、新興)
・『紅痕』(原作/竹田敏彦、1939年、新興)
・『結婚問答』(原作/木々高太郎、1939年、新興)
・『愛情一筋道』(1939年、新興)
・『』(原作/鶴見祐輔、1939年、新興)
・『若妻の夢』(1939年、新興)
・『愛の記念日』(1939年、新興)
・『太平洋行進曲』(1940年、新興)
・『玄界灘』(原作/山田克郎、1940年、新興)
・『狂亂の娘藝人』(原作/長田幹彦、1940年、新興)
・『闘ふ母』(原作/広津和郎、1940年、新興)
・『暖きふる里』(原作/藤戸三四「JOBKラジオドラマ当選脚本『斧音』」、1941年、新興)
・『ある映画監督の生涯 溝口健二の記録』(1975年、近代映画協会)※取材協力

著書・参考文献
・山路ふみ子『命あるかぎり贈りたい 山路ふみ子自伝』草思社、1994年5月、ISBN 4794205538
立花忠男『日本映画スチール集 新興キネマ モダニズム篇』ワイズ出版、2002年1月、ISBN 4898301274
佐藤忠男丸尾定登川直樹『新興キネマ 戦前娯楽映画の王国』山路ふみ子文化財団、1993年3月、ISBN 4845993104    

脚注
1. a b 山路 ふみ子』 - コトバンク
2. 『文藝春秋 2005年2月号』2005年2月1日、458頁。

関連項目
公益財団法人山路ふみ子文化財団
山路ふみ子映画賞
帝国キネマ
新興キネマ
日活
日活撮影所
大映     

外部リンク
日本映画データベース 山路 ふみ子
公益財団法人山路ふみ子文化財団    
(wikiより)

4 山路ふみ子墓

⇧ 山路ふみ子

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本名:市瀬静雄 ( いちせ - しずお)

生年月日:1925年 1月 1日生まれ ( 大正 14年 ) 享年 89歳

出身地:長野県

家族構成:妻、市瀬恭子 長女、石田欧子

ブランド:Akio Hirata

経歴
独立し、Atelier HIRATAを設立 ( 1955年 )

パリに留学 ( 1962年 )

帰国して、Haute Mode Hirataを設立 ( 1965年 )

Boutique Salon Cocoを開店(1971年)

平田暁夫帽子教室を主宰 ( 1971 ~ 2000年 )

皇族の帽子をはじめ、著名デザイナー多数の帽子制作を手掛ける。

近年では、内閣総理大臣賞など数々の賞を受賞している。

著書
「自分で作れる帽子」文化出版局 1977年発行

「装花」文化出版局 1980年発行

「別冊25ans 帽子」婦人画報社 1994年発行

「Akio et Aquirax」ワイズ出版 2010年発行

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山口 小夜子(やまぐち さよこ、1949年9月19日 - 2007年8月14日[1])は、日本のファッションモデル

活動はモデルだけに留まらず女優、パフォーマー、ファッションデザイナー、と多岐にわたる。また晩年は、その活動を自ら「ウェアリスト」と説明していた。

経歴・来歴
パリコレデビュー 〜 資生堂専属モデル契約

京浜女子大学横浜高等学校[2]、下赤塚に住み杉野学園ドレスメーカー女学院に通う。卒業後[3]1971年プロのモデルとしてデビューし[4]高田賢三山本寛斎のショーで注目を集める[3]。1959年にルイ・フェロー英語版に見い出されてアジア系モデルとして初めてパリコレクションに起用された松田和子、1960年にピエール・カルダンに見い出された松本弘子に続き、1972年にパリコレクションに起用され[5]、次いでニューヨークコレクションにも出演した。


彼女は1960年代にパリコレクションで活躍した松田和子や松本弘子のような大きな目でキュートな顔立ちのモデルとは違い、切れ長の目と黒髪のおかっぱ髪で登場し日本人ブームを起こした[3]。白い肌に切れ長の目の美しさを作り出す繊細なアイライン、高い位置のチーク、くっきり縁取った赤いリップによる彼女のエキゾチックな顔は、ヨーロッパで熱狂的に支持され、「SAYOKO マネキン」というマネキン人形が欧米のブティックを席巻した。なお現在でもアナスイニューヨーク店で使用されている。


1973年から1986年まで、資生堂のモデルとして専属契約を結び「美」の普遍的イメージを国内外に発信していくことになる。1973年の『シフォネット』のポスターは、ハーフモデル全盛の時代に、黒髪おかっぱのいかにも「日本人らしい」モデルの登場を鮮烈に印象づけ、時代の転換点を体現した。 モデルとして活動しながら、ファッションデザインや服飾品のプロデュースも幾度となく担当。1977年には、雑誌『ニューズウィーク』の「世界のトップモデル6人」にアジア人で初めて選ばれた[3][5]

舞台・映画・ダンス・デザイン

モデルとしての活動の傍ら、舞台および映画女優としての活動も開始。寺山修司演出の『中国の不思議な役人』(1977年)の稽古で天井桟敷のメソッドに触れ、飛躍的に表現の幅を広げた後、同年に映画『杳子』、1981年には重信浩演出による半自叙伝的舞台『小夜子:山口小夜子の世界』(1980年)で主演を務める。その他、演出家 佐藤信の舞台『忘れな草』(1986年)、国際エミー賞ほかを受賞したNHK音楽ファンタジー『カルメン』(1989年)、江戸時代から続く糸あやつり人形劇団 結城座の人形たちと共演した『ペレアスとメリザンド』(1992年)など多くの舞台に出演する。


一方で、舞踏やダンスの分野にも活動の場を拡げていく。1986年にはパリ市立劇場フランス語版を拠点として活動する舞踏グループ 山海塾からメソッドを学び、横須賀功光の撮影による写真集『月 小夜子/山海塾』で共演。1987年には、勅使河原三郎/KARASとのコラボレーションを始め、以後ダンサーとして、1996年頃まで世界ツアーも含めて彼らと活動をともにする。


また、音楽や舞、ファッションショーが一体化した壮麗な舞台の出演者としても、林英哲、山本寛斎、和田勉、毛利臣男、天児牛大らとのコラボレーションを行った数多くの仕事がある。


さらに、クリエイターとしても舞台の衣装を数多く担当。自らも出演した天児牛大演出のオペラ『青ひげ公の城』(1997年)で、衣装デザインを担当したほか、フランス・リヨン国立歌劇場で初演された、同じく天児牛大演出のオペラ『三人姉妹』(1988年)の衣装デザイン、2004年の佐藤信演出のふたつの舞台『リア王の悲劇』の衣装デザイン、結城座公演『夢の浮橋~人形たちとの<源氏物語>』の人形デザインおよび人形遣いのスタイリングも手がける。

ウェアリスト(着る人)

着物をまとい、たおやかな理想の女性を演じる一方で、小夜子は、例えば1977年の時点で、ロンドン・キングスロードの動向やパンク・ムーヴメントについて中西俊夫らと雑誌で情報交換するなど、新しいもの、オルタナティヴなものに対する強い感受性を持っていた。2000年代に入った晩年の数年は、彼女のそうした側面が遺憾なく発揮された、最も自由な時間だった。


こうした活動に、晩年は「ウェアリスト(着る人)」と名乗り、自らの身体において、ファッションだけでなく、ダンス/舞、音楽、映像、文学など諸芸術が交錯する表現を展開した。


クラブカルチャーを舞台に様々な表現を始め、DJとしての活動、また多くの表現者と様々な表現に挑戦していた。 2002年、藤乃家舞(CDJ、ミキサー、FX担当)、宇川直宏(VJ担当)と『SUNZU』を結成。音楽活動としては、後にラッパーのA.K.I. PRODUCTION[注 1]とも電子音楽ライブを行っている(小夜子は、DJ・ミキサー・声を担当)。


2003年、映像作家、VJとして活躍していた生西康典[注 2]、掛川康典と、舞、ファッション、音楽、映像、朗読などが一体化したパフォーマンスを展開。山川冬樹[注 3]ら若い世代のパフォーマーたちとも積極的に共演する。これは晩年「ウェアリスト(着る人)」を名乗った彼女の、映像や音楽、空間を「纏う」という独自の表現の完成を示していた。2007年には、生西康典、掛川康典と自身の主演映画を共同監督する予定だったが、この計画は彼女の突然の逝去で断たれることになる。


一方、2005年から写真家 高木由利子[注 4]と雑誌、およびWebサイトで連載した『蒙古斑革命』は、彼女が興味を持つ世代を超えた表現者たちにインタビューしていくもので、諸文化の混合した現在の日本を、自らのありのままの出自として受け止める人々の連帯がここに示されている。かつてナショナリスティックな「日本」イメージのアイコンであった小夜子。しかし彼女自身は、早くから中国や朝鮮半島も含めた各種の身体表現、衣装やメークを通して、日本だけでなく東アジア人であることと内側から向き合おうとしてきたのであり、「日本なるもの」を再定義するようなこのプロジェクトはその集大成とも言えるものであった。(Webサイト『蒙古斑革命』はサーバーダウンにより全データが消失し、しばらく閲覧できない状態だったが、2017年から「The Salvage Project of 蒙古斑革命」[注 5]として、サイトの復元が行われている。)

急逝

小夜子は2007年8月14日、急性肺炎のため死去した[3]。小夜子の葬儀は親族だけで執り行われ、9月19日にお別れの会が開かれた[1]。 小夜子は生前、最後の出演映画となった『馬頭琴夜想曲』にて、その1週間ほど前に会ったばかりだったという、同作の木村威夫監督は小夜子について「体調が悪い様子はなかった」と語っている事から、いかに急逝だったかが伺える。


2015年、東京都現代美術館にて小夜子の生涯と携わった作品群を回顧する「山口小夜子 未来を着る人」が開催された。


当時、小夜子は既に死後8年を経過しようという時の開催だったが、『山口小夜子』を知らなかったはずの世代にも熱狂的に受け入れられ、小夜子が体現したような「纏う」ということ、現在のファッションとアートの交錯を先駆するような存在となった小夜子をフィーチャーした本展は、現在にも通ずるファッションの本質についての再考としても受け入れられたのか、入場者数は5万5千人。最終日だけでも3000人を動員し、大盛況のうちに幕を閉じた。

著書
・『小夜子の魅力学』 文化出版局 1983年3月 ISBN 9784579301188

主な出演
映画
キャロル1974年 本人役)

ピーターソンの鳥(1976年)

杳子(1977年)

原子力戦争1978年

四季の追想1979年

上海異人娼館 チャイナ・ドール1981年

石の花 ISHINOHANA1989年

利休(1989年 茶々役)

T-CITY1993年

ピストルオペラ2001年

Soundtrack(2002年)

馬頭琴夜想曲2007年「山口さよこ」名義)

氷の花火 山口小夜子(2015年 追悼作品)

テレビ
夜のヒットスタジオDELUXE(1986年) - 沢田研二「ヴォラーレ」でダンサーとして。

音楽ファンタジー「カルメン」(1989年)<1989年イタリア賞テレビ音楽部門特別賞受賞作品> ―日本の様式で描くカルメンの悲劇―

NHK-BS世界・わが心の旅』「モロッコベルベルの少女の瞳」 旅人・山口小夜子(モデル・クリエーター)、語り・磯部勉1998年。(2004年12月28日・2006年11月16日の各日にNHK衛星第2で再放送)

NHK総合課外授業 ようこそ先輩2002年11月 - 横浜市立元街小学校を訪問

・NHK衛星第2(2003年10月)[シネマナビゲーション/フランス映画特集コメンテーター]

その他
1977年発売のスティーリー・ダンのアルバム『彩(エイジャ)』のカバーをつとめた(写真:藤井秀樹)。

詳しいことは、『山口小夜子ウィキペディア』をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%8F%A3%E5%B0%8F%E5%A4%9C%E5%AD%90
(wikiより)

118 山口小夜子

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小沢 昭一(おざわ しょういち、本名:小澤 昭一(読み同じ)、1929年(昭和4年)4月6日 - 2012年(平成24年)12月10日)は、日本俳優タレント俳人エッセイスト芸能研究者放送大学客員教授日本新劇俳優協会会長、劇団「しゃぼん玉座」主宰、見世物学会顧問を務めた。俳号は小沢 変哲。

来歴・人物

東京府豊多摩郡和田堀町大字和泉(現在の東京都杉並区和泉)生まれ[1]。父は現在の長野県長野市の出身で、新潟県高田市(現・上越市)で写真屋修行時代に結婚し東京に出てきた[1]。昭一2歳の頃、父親が写真館を始めたため日暮里へ引っ越し[1]、4歳のときに蒲田に移り住む。当時の蒲田は、松竹映画の撮影所があるモダンな街で、また寄席もあり、その猥雑な雰囲気が小沢の後の活動に影響を与えた。


戦争の匂いが身近に迫る中、旧制麻布中学に入学[2]し、同級に大西信行加藤武フランキー堺仲谷昇なだいなだ等多くの友人を得る。軍事教練や、学徒動員先でも天狗連として彼らと、しばしば落語を披露し合っていた。通学帰り、ネタを増やしに、大西、加藤らと、学生服姿で人形町末廣、神楽坂演芸場、銀座金春亭など禁演落語の時節真っ只中の寄席に入り浸り、そこで出会った演芸評論家・作家の正岡容の知遇を得て弟子になる。桂米朝、大西、加藤らとは正岡門下の兄弟弟子の関係である。さらに大西、加藤らと麻布中で演劇部を立ち上げた。その後、海軍兵学校第78期生として1945年(昭和20年)4月に入校(第703分隊)するが、終戦のために退校。そこで見た一面の焼け野原・終戦体験が昭一青年に大きな影響を与えた。まだ豊かに残っていた大道芸に出た「透明人間」「蜘蛛娘」などの見世物小屋手品女相撲に熱中した経験を持つ[3]


麻布に復学後、早稲田大学第一文学部仏文科卒。早大在学中にはやはり、大西、加藤らと共に、日本で初めての学校での落語研究会を創設する(名称は「寄席文化研究会」としたかったが、大学に認めてもらえず「庶民文化研究会」とした。顧問は暉峻康隆(当時)助教授)。また、北村和夫加藤武今村昌平らとグループを結成して演劇活動に熱中した。

1949年(昭和24年)、大学在学中に俳優座付属俳優養成所の二期生となり、千田是也に師事する。卒業後、俳優座公演で初舞台を踏む。1960年(昭和35年)には演出家の早野寿郎と「劇団俳優小劇場」を結成。1966年(昭和41年)に新劇寄席『とら』で芸術祭奨励賞を受賞した(俳優小劇場はのち、1971年(昭和46年)に解散)。

以降も舞台ラジオ番組映画テレビ番組などで芸能活動を行い、1966年(昭和41年)のNHKラジオドラマ『ゆびぶえ』など優れた作品を残している。


映画俳優としては、早稲田の同窓である今村昌平の紹介で1954年(昭和29年)に映画デビュー。今村が日活に移籍したのをきっかけに自身も日活と専属契約をした。ここで、小沢の心酔することになる川島雄三と出会う。


川島の『愛のお荷物』、『洲崎パラダイス赤信号』、そして『幕末太陽傳』で、脇役ながらその存在感を示した。その後、今村の『エロ事師たちより 人類学入門』で主役を務め、1966年(昭和41年)の「キネマ旬報」主演俳優賞、「毎日映画コンクール」男優主演賞など多数の賞を獲得した。小沢は川島に傾倒しており、日本経済新聞に掲載された『焼け跡派のこころ』(2004年(平成16年)連載)では「川島監督に演技を開眼してもらった」と述べている。なお、プログラムピクチャーにも多数出演しているが、怪しい訛り言葉を話す中国人役などが多かった。個性派のバイプレイヤーとして、200本以上の映画に出演している。


また、1969年(昭和44年)、不惑の年に、それまでの新劇を基点とした活動に限界を感じ、またもともと、幼少期より落語など演芸・話芸・雑芸が好きであったこともあり、「芸能の原点」を求めて日本の伝統的な芸能に憧れを抱き、著書『私は河原乞食・考』を刊行。またこの年から、早稲田大学演劇科の大学院に特別入学して、郡司正勝教授のもとに5年間通い、芸能史の研究を行う。同1969年、東京やなぎ句会に参加。


その後も放浪芸の収集、発掘に深い関心を寄せ、記録、保存、著述、そして実践を行うようになる。1971年(昭和46年)には全国を廻って収集した音源を元に制作したレコード『日本の放浪芸』LP7枚組を発売し、1971年度の第13回日本レコード大賞企画賞を受賞。続編の『又・日本の放浪芸』は、1974年度の芸術選奨新人賞を受賞。以降も、次々と続編を制作する。また三河万歳の才蔵役として門付に出るなど、実践を行う(『日本の放浪芸』に収録)。


その「芸能研究の実践活動」として、1975年(昭和50年)、小沢が主宰し加藤武山口崇山谷初男らと劇団「芸能座」を旗揚げする(旗揚げは永六輔作『清水次郎長伝・伝』で全国を巡業する)。1980年(昭和55年)までその活動は続いた。付属として「あたらしい芸能研究室」(出版部門)をつくり、研究誌「季刊藝能東西」を創刊。「藝能東西」以外にも、芸能関係の書籍を多数刊行し、2001年(平成13年)まで出版社として活動した[注 1]。また小沢自身も、時代と共に消え行く伝統芸能やストリップなどの猥雑な諸芸能を取材・研究した本を刊行し続ける。


1973年
(昭和48年)には、TBSラジオ小沢昭一の小沢昭一的こころが放送開始される。


1982年(昭和57年)には「俳優が小沢一人」の劇団「しゃぼん玉座」を創設し、晩年まで活動を行った。「引退興行」と称して『唐来参和』(井上ひさし原作)の一人芝居を各地で、1982年(昭和57年)から18年間続け、公演660回を数えた。


他に野坂昭如永六輔と「中年御三家」を結成し、1974年(昭和49年)の武道館でのコンサートはビートルズ以来と言われるほど盛況であった(2003年(平成15年)に「帰ってきた中年御三家」コンサートをNHKホールで行ったが、野坂は病気のため不参加)。また晩年期(いわゆる「二代目小沢昭一」の時代)には「老謡」と称し、幼・少・青年期に親しんだ歌を多数歌うようになる。


小沢はまた、俳人でもあり「小沢変哲」という俳号を持っている。1969年(昭和44年)に入船亭扇橋を宗匠にして、永六輔、江國滋酔郎らと共に「やなぎ句会」を発足。句集など俳句関連の出版物もある[4]


父が修業した新潟の写真館の建物が収蔵されていることから、博物館明治村村長も務め、また日本新劇俳優協会会長を務めた。


1992年、第46回毎日出版文化賞特別賞を受賞。(ビデオブック『大系日本歴史と芸能 全14巻』網野善彦+小沢昭一+服部幸雄+宮田登大隅和雄山路興造=編集委員、平凡社+日本ビクター)による。


1994年
(平成6年)に紫綬褒章、1999年(平成11年)に坪内逍遥大賞2001年(平成13年)に勲四等旭日小綬章及び徳川夢声市民賞、2003年(平成15年)に東京都功労者。2004年(平成16年)に早稲田大学芸術功労者。2005年(平成17年)に朝日賞大衆文学研究賞。元放送大学客員教授。2008年(平成20年)したまちコメディ映画祭in台東において、『第1回コメディ栄誉賞』を受賞。


2005年
(平成17年)、新宿末廣亭6月下席夜の部にて、主任の柳家小三治の依頼により、子どもの時分から憧れだった寄席の舞台に芸人(演目は「随談」)として出演した。そのときの様子は書籍[5]になっている。


1998年
(平成10年)に前立腺癌が見つかったが長らく伏せており、仕事の間を縫って定期的に治療を行っていたことを2011年(平成23年)2月10日発売の「文藝春秋」に寄せた随筆で初めて公にしている[6]。2010年にがんは頸椎へ転移[7]2012年(平成24年)夏頃から体調を崩し、同年9月13日に入院。これに伴い、9月24日以降の『小沢昭一の小沢昭一的こころ』は過去の放送回の中より傑作選を放送していた。10月22日に退院した後も自宅で療養を続けていた。『小沢昭一の小沢昭一的こころ』11月16日放送回では、自宅で録音したというメッセージを寄せ、復帰に意欲を見せていたが、これが生涯最後の仕事となった。


2012年(平成24年)12月10日、前立腺癌のため、東京都内の自宅で死去した[8][9]。83歳没。12月14日に千日谷会堂で行われた本葬では生島ヒロシ、永六輔、乙武洋匡[10]、加藤武、桂米團治神津善行黒柳徹子篠田正浩春風亭小朝露木茂長峰由紀中村メイコ、野坂昭如、林家正蔵林家三平吉行和子ら850人が参列した。戒名は洽昭院澹然一哲居士。世の中に豊富な見識をユーモアと優しさを持って伝えた活眼の士という意味が込められている[11]。尚、式場となった千日谷会堂は生前、死を覚悟した小沢がたまたま車で通りかかった際に「ここだな…」とつぶやき、心に決めた場所だったという[12]


九条の会」傘下の「マスコミ九条の会」呼びかけ人[13]、「世田谷・九条の会」呼びかけ人を務めていた。

出演映画

太字の題名はキネマ旬報ベストテンにランクインした作品


・勲章
(1954年、俳優座) - 金子

・市川馬五郎一座顛末記・浮草日記(1955年、山本プロ)

・愛のお荷物(1955年、日活) - 鳥居秘書官

洲崎パラダイス赤信号(1956年、日活) - 三吉

・街燈(1957年、日活)

幕末太陽傳(1957年、日活) - 貸本屋金造

・誘惑(1957年、日活)

陽のあたる坂道(1958年、日活) - 上島健伍

東京のバスガール(1958年、日活) - 桃山

紅の翼(1958年、日活) - 安藤幸宏

にあんちゃん(1959年、日活) - 金山春夫

武器なき斗い(1960年、大東映画) - 清

・大出世物語(1961年、日活) - 六さん

豚と軍艦(1961年、日活) - 軍治

・大当り百発百中(1961年、日活) - 及川太郎

あいつと私(1961年、日活) - 金沢正太

・猫が変じて虎になる(1962年、日活) - 葛井久六

喜劇 にっぽんのお婆あちゃん(1962年、松竹) - 副園長小野

雁の寺(1962年、大映) - 鷹見邦遠

キューポラのある街(1962年、日活) - 鑑別所の教師

しとやかな獣(1962年、大映) - ピノサク

非行少女(1963年、日活) - 小使

台所太平記(1963年、東宝) - 園田光雄

若い東京の屋根の下(1963年、日活) - 北村利夫

エデンの海(1963年、日活) - 高岡

煙の王様(1963年、日活) - スクラップ工事長

・競輪上人行状記(1963年、日活) - 伴春道

・くノ一忍法(1964年、東映) - 薄墨友康

・くノ一化粧(1964年、東映) - 真昼狂念

越後つついし親不知(1964年、東映) - 瀬神留吉

続・拝啓天皇陛下様(1964年、松竹) - 王万林

赤い殺意(1964年、日活) - 田丸和幸

仇討(1964年、東映) - 小山左門

甘い汗(1964年、東京映画) - バーテン藤井

馬鹿が戦車でやって来る(1964年、松竹) - 郵便配達夫

春婦伝(1965年、日活) - 秋山憲兵軍曹

冷飯とおさんとちゃん(1965年、東映) - 中村又三郎

・悦楽(1965年、創造社) - 速水

犬シリーズ(大映)

  ・鉄砲犬(1965年) - 早川正

  ・早射ち犬(1967年) - 山本五郎

「エロ事師たち」より 人類学入門(1966年、日活) - スブやん

逢いたくて逢いたくて(1966年、日活) - 小橋作造

三匹の狸(1966年、東宝) - 猿田留吉

あこがれ(1966年、東宝) - 西沢恒吉

忍者武芸帳(1967年、創造社) - 語り手

痴人の愛(1967年、大映) - 河合譲治

伊豆の踊子(1967年、松竹) - 紙屋

続・何処へ(1967年、東宝) - 吉村順太郎

喜劇 駅前学園(1967年、東宝) - 小原金助

愛の讃歌(1967年、松竹) - 郵便屋

・喜劇列車シリーズ(東映)

  ・喜劇急行列車(1967年) - 今井

  ・喜劇団体列車(1967年) - 中村駅長

社長シリーズ(東宝)

  ・社長繁盛記(1968年) - 苑平漢

  ・続・社長繁盛記(1968年) - 苑平漢

  ・社長えんま帖(1969年) - 富田林茂

  ・続・社長えんま帖(1969年) - 富田林茂

  ・社長学ABC(1970年) - 汪滄海

  ・続・社長学ABC(1970年) - 汪滄海

・「経営学入門」より ネオン太平記 (1968年、日活) - 益本利徳

・サラリーマン悪党術(1968年、東宝) -

肉弾(1968年、ATG) - 軍曹

日本一の裏切り男(1968年、東宝) - 雑炊屋

スクラップ集団(1968年、松竹) - ドリーム

吹けば飛ぶよな男だが(1968年、松竹) - 弁士

橋のない川(1969年、ほるぷ映画) - 大竹

喜劇 深夜族(1969年、松竹) - ナレーター

私が棄てた女(1969年、日活) - 大野義雄

無頼漢(1970年、東宝) - 丑松

・サマー・ソルジャー(1972年、勅使河原プロ) - 谷川

一条さゆり 濡れた欲情(1972年、日活) - ラーメン屋の主人

喜劇 だましの仁義(1974年、東宝) - 石山権太郎/山田代議士

青春の門(1975年、東宝) - 平吉・語り手

ボクサー(1977年、東映) - アパートの管理人

冬の華(1978年、東映) - 陳

ええじゃないか(1981年、松竹) - 鵜飼作之丞

男はつらいよ 寅次郎紙風船(1981年、松竹) - 倉富常三郎

楢山節考(1983年、東映) - 勝造

鑓の権三(1986年、松竹) - 船頭

黒い雨(1989年、今村プロ) - 庄吉

砂の上のロビンソン(1989年) - 浮浪者

うなぎ(1997年、松竹) - 初老の医師

カンゾー先生(1998年、東映) - 医師

梟の城(1999年、東宝) - 今井宗久

かあちゃん(2001年、東宝) - 大家

釣りバカ日誌18 ハマちゃんスーさん瀬戸の約束(2007年、松竹) - 渋谷剛三

詳しいことは、『小沢昭一ウィキペディア』をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%B2%A2%E6%98%AD%E4%B8%80
(wikiより)

0128 小沢昭一

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井川 邦子(いがわ くにこ、1923年10月15日 - 2012年10月4日)は、日本女優。一ツ橋家政女学校卒業。本名は野中 敏子(のなか としこ)。

来歴・人物

1940年松竹に入り、同年、河野敏子の芸名で『絹代の初恋』で映画デビュー。戦後、井川邦子と改名し、木下惠介小津安二郎など巨匠の作品に数多く出演。中でも『わが恋せし乙女』『結婚』『肖像』『カルメン故郷に帰る』など木下作品に次々と出演し、木下学校の優等生としてスターの道を歩んだ。1960年の『笛吹川』を最後に映画界を離れ、その後はテレビドラマに出演していたが、1977年に女優業を引退。引退後は神奈川県鎌倉市で喫茶店を経営し、悠々自適の生活を送っていた。

2012年10月4日死去[1]。88歳没。

出演作品
映画
・絹代の初恋(1940年)

戸田家の兄妹(1941年)

わが恋せし乙女(1946年)

・結婚(1947年)

肖像(1948年)

・執行猶予(1950年)

・初恋問答(1950年)

カルメン故郷に帰る(1951年)

麦秋(1951年)

あの丘超えて(1951年)

二十四の瞳(1954年)

喜びも悲しみも幾歳月(1957年)

笛吹川(1960年)

テレビドラマ
ぼうふら紳士(1960年 - 1961年、CX

・松本清張シリーズ・黒の組曲 第26話「濁った陽」(1962年、NHK

木下恵介劇場 記念樹 第42話「風の音」(1967年、TBS

すぐやる一家青春記(1977年、TBS)

脚注
1. 悲しみの小雨まじりの鎌倉 御土産が御供物に・・・(涙)ケンベロンのきまぐれ AOSUKE & おとぼけ GUZUTA 2012年10月28日付
(wikiより)

125 井川邦子

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ロバート・オカザキ (Robert Okazaki)、ないし、ボブ・オカザキ (Bob Okazaki) として知られた、岡崎 巌(おかざき いわお、1902年2月3日 - 1985年5月28日)は、日本東京に生まれ、第二次世界大戦前に渡米し、その後、ハリウッドでテレビドラマ・シリーズや映画に出演し、最期はロサンゼルスに没した俳優[1]


特に、最晩年に出演した1982年の映画ブレードランナー』の冒頭の場面におけるスシバーの主人役の演技で知られる。


死去後、遺骨は分骨され、ロサンゼルス[2]と東京の青山霊園に墓がある。

フィルモグラフィ
映画
・1941年:They Met in Bombay - クレジットなし

・1942年:A Yank on the Burma Road - クレジットなし

・1942年:Secret Agent of Japan - クレジットなし

・1955年:東京暗黒街・竹の家 House of Bamboo - クレジットなし

・1956年:Navy Wife - クレジットなし

・1956年:八十日間世界一周 Around the World in 80 Days - クレジットなし

・1957年:Jungle Heat

・1959年:Tokyo After Dark

・1959年:潜望鏡を上げろ Up Periscope - クレジットなし

・1959年:クリムゾン・キモノ The Crimson Kimono

・1959年:決戦珊瑚礁 Battle of the Coral Sea - クレジットなし

・1960年:戦場よ永遠に Hell to Eternity

・1961年:嬉し泣き Cry for Happy

・1961年:7 Women from Hell

・1962年:Womanhunt

・1962年:忘れえぬ慕情 A Girl Named Tamiko - クレジットなし

・1963年:魚雷艇109 PT 109 - クレジットなし

・1966年:歩け走るな! Walk, Don't Run - クレジットなし

・1970年:R. P. M. - クレジットなし

・1971年:新・猿の惑星 Escape from the Planet of the Apes - クレジットなし

・1982年:ブレードランナー Blade Runner

おもなテレビドラマ

いずれも単発のエピソードへの出演

・1957年:西部の男パラディン Have Gun – Will Travel

・1960年/1961年/1962年:ハワイアン・アイ Hawaiian Eye - 5エピソードにそれぞれ別の役で出演。

・1963年:ヒッチコック劇場 The Alfred Hitchcock Hour

・1965年:アイ・スパイ I Spy

・1965年:弁護士ペリー・メイスン Perry Mason

・1966年:タイムトンネル The Time Tunnel

・1967年:奥さまは魔女 Bewitched

・1966年/1969年:FBIアメリカ連邦警察 The F.B.I.

・1967年:0011ナポレオン・ソロ The Man from U.N.C.L.E. - 日本などでは劇場版映画『0011ナポレオン・ソロ ミニコプター作戦 The Karate Killers』として公開された。

・1975年:鬼警部アイアンサイド Ironside

・1979年:マッシュ M*A*S*H

脚注
1. Bob Okazaki - IMDb(英語)
2. Iwao Robert Okazaki - Find a Grave(英語)

外部リンク
二つで充分ですよ! ロバート・オカザキのお墓参り - 個人ブログ

Bob Okazaki in "Have Gun: Will Travel" - YouTube - テレビドラマシリーズ『Have Gun: Will Travel』における出演場面
(wikiより)

196 ロバート・オカザキ

⇧ 右が、ロバート・オカザキさん 左がハリソン・フォードさん。

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藤村 俊二(ふじむら しゅんじ、1934年(昭和9年)12月8日 - 2017年(平成29年)1月25日[1])は、日本俳優声優タレント振付師実業家神奈川県鎌倉市出身。愛称は「おヒョイ(さん)」。俳優事務所、有限会社O’hyoi & Sons(オヒョイアンドサンズ)所属。

生涯
生い立ち
実父はスバル興業社長[2]小学校から高等学校まで暁星学園で過ごし、演出家を志して早稲田大学第一文学部演劇学科に進学。理論偏重の教育に飽き足らず中退し、東宝芸能学校舞踊科を第1期生として卒業。

芸能界へ

日劇ダンシングチーム12期生として1960年に渡欧し、イギリスフランスを巡る。このとき本場の芸の水準に驚いて舞踊家の道を断念し、帰国後、振付師に転向。ザ・ドリフターズの大人気番組『8時だョ! 全員集合』(TBS)やレナウン「イエイエ」のCFの振り付けも担当した。


『8時だョ! 全員集合』では、ギャグアドバイザーだったこともあり、「ヒゲダンス」の振り付けを担当したとされる。しかし藤村自身が2008年4月18日放送のNHK-FM『邦楽ジョッキー』や『おしゃれカンケイ』でこれを否定し、『8時だョ! 全員集合』で振り付けたのはオープニング(民謡「北海盆唄」の替歌)の「エンヤーコラヤ ドッコイジャンジャン コーラヤ」の部分であり、「腕・肩を順番に触るだけの単純な動作だが、忙しく踊っているように見える振り付け」と語っている。


かつて代表を務めていた俳優事務所「オフィス・オヒョイ」には自身のほか黒澤久雄岡崎友紀らも所属していたが、2011年をもって同事務所は解散。滝口順平の死去に伴い2011年から担当していた『ぶらり途中下車の旅』のナレーションも2015年10月24日放送分からは太川陽介林家たい平石丸謙二郎らが週替わり(代役)でナレーターを務めた(2016年1月9日放送分から小日向文世が3代目ナレーターを担当するまで)。

晩年

2015年12月になって藤村夫人が『女性自身』のインタビューに応じて、藤村について「体調を考慮して『ぶらり―』のナレーションを2015年10月をもって正式降板し、それと共に芸能界から引退した」ことを公表した。血管の状態が思わしくないため、千葉県の病院に通院していたという[3]。一方、有限会社O’hyoi & Sons(オヒョイアンドサンズ)代表取締役で長男の藤村亜実は「単に『ぶらり―』を降板しただけ」と引退発言報道を公式に否定していた[4][5]


2017年
1月25日午後8時45分頃、心不全のため静岡県御殿場市内の病院で死去[1]。82歳没。藤村の死去は2月1日に公表され、藤村の長男が記者会見を開いて「その瞬間を大事に生きていた人」と、父を偲ぶコメントを残した[6]。また、1996年に再婚した28歳年下の女性とは2013年12月頃に離婚。2015年に小脳出血で倒れ、リハビリ生活を送っていたと語られた。

人物
容姿
長らく細身に黒髪のアフロヘアートレードマークだったが、56歳のときに胃癌で胃を全摘出してからは毛染めをやめ、白髪と白い口ひげがトレードマークとなった。

役者・芸風

本人によると、もともと振付師志望であったが、番組中にエキストラ出演を頼まれることが多く、画面に映るのが嫌でその場から「ひょい」と逃げていたところ「おヒョイ」のあだ名がついたという(後輩からは「おヒョイさん」と呼ばれていた)。


バラエティ番組
などでは、とぼけたキャラクターと自虐とも取れるシュールな冗談を言うなど、飄々としたキャラクターで人気を集めていた。


本人は「タレント」という肩書きを嫌い、「アクター(俳優)」を自認しており、1990年代以降、先述の胃癌を機にした容姿の変化に伴い、老け役としての需要が急増。知的な老紳士・好々爺役が多かったが、複数回起用された三谷幸喜作品ではボケキャラだった。


たびたび「執事役が似合う芸能人」として話題に挙がることもあり、闘病前の姿を知らない若い世代には特にその傾向が強く、漫画『黒執事』に登場する老執事・タナカは藤村をモデルとして作られており、アニメ化にあたっては当の本人を声優として起用し、死去の際には作者の枢やなが追悼文を発表している[7]。また2017年に公開された『劇場版 黒執事 Book of the Atlantic』は藤村にとっての遺作となった。


「ズボンの折り目が嫌い」という理由から、クリーニングから返ってきたズボンの折り目をわざわざ自分でアイロンをかけて消していた。

交友
1934年生まれの同い年であった長門裕之愛川欽也大橋巨泉財津一郎森山周一郎らと1976年に親睦団体「昭和九年会」を結成していた。逝去後に親友の森山や中村メイコがマスコミのインタビューに応じている。

実業
芸能界で活躍する一方、東京・南青山でバー「O'hyoi's」(オヒョイズ)を経営していた。店のロゴマークにはオーナーの藤村のシルエットがあしらわれていた。芸能人が経営する飲食店は、いわゆる名義貸しオーナーの形が多いが、藤村は仕事の合間を縫って店に立つなど、実際に現場での経営を行っていた。また、この店では「お客様にサービスするのが当たり前だから」という理由でサービス料は設定していなかった。2010年12月に閉店。

出演作品

テレビドラマ
忍者部隊月光 第111話・第112話(フジテレビ) - 幻21号 役

戦え! マイティジャック 第10話「消えた王女の謎を解け!!」(フジテレビ) - R69号

ハレンチ学園東京12チャンネル(現:テレビ東京)) - ヒゲゴジラ(2代目)

2丁目3番地(1971年、日本テレビ) - 金田俊吉

いじわるばあさん 第3話「押売りさんコンニチワ!」(1971年、フジテレビ)

3丁目4番地(1972年、日本テレビ、1972年) - 金田俊吉

水曜ドラマシリーズ おやじの嫁さん(1973年、フジテレビ)

七丁目の街角で、家出娘と下駄バキ野郎の奇妙な恋が芽生えた(1976年、日本テレビ) - 哲也

西遊記II(1979年、日本テレビ) - 玉竜の人間態

江戸の牙1979年テレビ朝日三船プロ) - 間兵助

大江戸捜査網 第508話「駒下駄と鬼娘の涙」(1981年、東京12チャンネル・三船プロ) - 兵六

田中丸家御一同様(1982年、日本テレビ) - 西村英太郎

鬼平犯科帳 (萬屋錦之介) 第3シリーズ 第3話「霧の朝」(1982年、テレビ朝日・東宝) - 吉造

王様のレストラン(1995年、フジテレビ) - レストラン「マール・オ・ヴュペール」の迎えの人

古畑任三郎 第2シーズン第3話(1996年、フジテレビ) - 花見録助

こんな私に誰がした(1996年、フジテレビ) - チグリス前川

コーチ 第1話(1996年、フジテレビ) - 平林

おひさまがいっぱい(1996年、TBS)

総理と呼ばないで(1997年、フジテレビ) - 副総理

不機嫌な果実(1997年10月9日 - 12月18日、TBS) - 児玉会長

三姉妹探偵団(1998年、日本テレビ) - 王様

天国に一番近い男 MONOカンパニー編 第3話(1999年) - 龍崎教授

お水の花道(1999年、フジテレビ) - 松嶋誠二

笑ゥせぇるすまん(1999年、テレビ朝日) - バー「魔の巣」のマスター

教習所物語(1999年、TBS) - 左右田善哉

痛快!三匹のご隠居 第7話(1999年) - 近衛綾麿

HR(フジテレビ) - 日和先生

月曜ドラマスペシャル税務調査官・窓際太郎の事件簿(4)(2000年、TBS)

京都潜入捜査官 THE SLIPPERS(2000年、テレビ朝日) - オープニングナレーション

まんてん(2002年-2003年、NHK) - ナレーション

火曜サスペンス劇場(日本テレビ)

  ・「盲人探偵・松永礼太郎12・今一度の」(2000年) - 藤原浩

  ・「屋形船の女」(2003年 - 2004年) - 岩倉源三

はみだし刑事情熱系(2001年、テレビ朝日) - 脇坂康平 役

女と愛とミステリー「湯けむり殺人案内 なんにも専務の名推理」(2003年1月、テレビ東京) - シゲさん

東京ワンダーホテル(日本テレビ)

東京ワンダーツアーズ(日本テレビ)

怪奇大家族(2004年、テレビ東京系列) - 忌野淵男

虹のかなた(2004年、毎日放送) - 立野繁造

離婚弁護士(2004年、フジテレビ) - 高橋秀雄

ファイト(NHK) - 西郷

ウルトラマンコスモス 第20話(2001年、毎日放送) - 木本研作博士

よい子の味方 〜新米保育士物語〜(2003年、日本テレビ) - 村林完一(おじいちゃん先生)

ヒョイと花咲くストーリー(2006年、岩手めんこいテレビ) - 美容室オーナー

がきんちょ〜リターン・キッズ〜(2006年、毎日放送) - 田丸蔵之介

電車男(フジテレビ) - 照光

芋たこなんきん(NHK) - 有田

ハッピィ★ボーイズ(テレビ東京) - 渋川一蔵

おシャシャのシャン!(2008年1月10日、NHK)

NHKスペシャル / 感染爆発〜パンデミック・フルー(2008年1月12日、NHK)

土曜時代劇 / オトコマエ!(2008年、NHK) - 仙人(宮宅又兵衛)

恋のから騒ぎ 〜Love StoriesV〜「電報を打つ女」(2008年10月10日、日本テレビ)

月曜ゴールデン自治会長・糸井緋芽子社宅の事件簿(9)(2009年2月16日、TBS) - 五十嵐大吾朗

古代少女ドグちゃん(2009年10月、毎日放送)

HTBスペシャルドラマミエルヒ」(2009年12月、北海道テレビ) - 田代

ドラマ10八日目の蝉」(2010年、NHK) - 写真館店主

金曜ロードSHOW!特別ドラマ(日本テレビ)

  ・磁石男(2014年6月13日) - おじいさん(劇中ナレーション)

  ・Dr.ナースエイド(2014年11月7日) - 葉山幸次郎

映画
・青春ア・ゴーゴー(日活1966年) - ゴーゴーフェスティヴァルの司会者

ハレンチ学園(1970年) - ヒゲゴジラ

東京上空いらっしゃいませ(1990年) - 橋本勝

ラヂオの時間(1997年) - 伊織万作

・白痴(1999年) - 仕立屋

日本の黒い夏─冤罪(2001年) - 藤島教授

Quartet カルテット(2001年) - 藤岡俊吉

ウルトラマンコスモス THE FIRST CONTACT(2001年) - 木本研作博士

ゴーストシャウト(2004年) - 坂口健太

・冬の幽霊たち ウィンターゴースト(2004年) - 町のご意見番

子ぎつねヘレン(2006年) - 上原教授

初恋(2006年) - 柏田バイク店店主

デスノート / デスノート the Last name(2006年) - ワタリ

椿山課長の七日間(2006年) - 喫茶店マイルスのマスター

L change the WorLd(2008年) - ワタリ

なくもんか(2009年) - ボーダーシャツの男


詳しいことは、『藤村俊二ウィキペディア』をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E6%9D%91%E4%BF%8A%E4%BA%8C
(wikiより)

065 藤村俊二

⇧ 藤村俊二

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小柳 徹 ( こやなぎ - とおる )
( 1948 - 1969 )


俳優、歌手。


第三京浜をトヨタコロナクーペを運転中に激突事故で、1969年 3月 24日に亡くなりました。


『ホームラン教室』NHK土曜日の 6時 ( 1960年ごろ )。

ヤング 720の司会。

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⇧ 小柳 徹

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秋山 ちえ子(あきやま ちえこ、1917年(大正6年)1月12日 - 2016年(平成28年)4月6日)は、日本のラジオパーソナリティエッセイスト評論家。本名、橘川ちゑ(きっかわ ちえ)。

来歴・人物

宮城県仙台市出身[1]東京女子高等師範学校(現:お茶の水女子大学)を卒業後、聾唖学校の教師となる。この時、取材に訪れた川端康成と知り合い、北条誠を川端に紹介する。結婚後、中華民国に4年滞在。1948年(昭和23年)から1956年(昭和31年)まで、NHKラジオ番組『私の見たこと、聞いたこと』のレポーターを担当し、主婦の視点から見た日本の現状をわかりやすく説明した。1954年(昭和29年)にラジオ番組「私の見たこと聞いたこと」で第2回日本エッセイスト・クラブ賞を受賞(書籍ではなく、ラジオ番組に対しての授与)。その後ラジオ東京(現TBSラジオ)『昼の話題』→『秋山ちえ子の談話室』のパーソナリティ1957年(昭和32年)から45年間担当した。1994年度(平成6年度)の日本女性放送者懇談会賞の日本女性放送者懇談会25周年特別賞を受賞する[2]


2002年
(平成14年)に帯番組終了後も毎週日曜日に続編『秋山ちえ子の日曜談話室』として続いていたが、それも2005年(平成17年)10月2日をもって終了した。この番組について報道機関各社の説明では「当初から3年間限定と決めていましたし、どこかでパッとやめた方が自分の信条に合っています」としている。このラジオ番組の回想録「風の流れに添って(ラジオ生活57年)」が2005年(平成17年)10月2日の放送最終日に講談社より出版された。


2005年のラジオパーソナリティ引退後は後進の育成・訓導を行っていた。また2015年まで毎年8月15日終戦の日)に、ラジオで童話「かわいそうなぞう」の朗読を、『大沢悠里のゆうゆうワイド』(TBSラジオ)で継続していた[3]。『大沢悠里のゆうゆうワイド』の後継番組『大沢悠里のゆうゆうワイド土曜日版』では、2016年4月16日の放送分で、秋山の追悼特集を放送した。[4]また、2016年4月30日の「ゆうゆうワイド土曜日版」においての大沢悠里発言並びにネット配信[5][6]において、同年5月5日の21時より追悼特別番組を放送予定とアナウンスされた。


また、古巣のNHKでも2005年(平成17年)12月NHKラジオ第1放送きょうも元気でわくわくラジオ」に出演したことが縁で、2006年(平成18年)4月から2008年(平成20年)3月の放送終了まで、村上信夫司会週の放送回に不定期ながら出演している。この出演から、童話「かわいそうなぞう」の朗読も毎年8月NHKで行われるようになった(2011年は急病のため、出演を断念し朗読CDが流されている)。

文章にも定評があり「喋るエッセイスト」とも称されていた。


1991年(平成3年)に第39回菊池寛賞1997年(平成9年)に東京都文化賞1999年(平成11年)にエイボン女性大賞を受賞。


2016年
(平成28年)4月6日、自宅で肺炎のため死去[7]。99歳没。

福祉活動
大分県別府市を中心として障害者の支援を行っている社会福祉法人太陽の家の活動を応援しており、自らを「太陽の家応援団」と称して多くの支援を行っている。特に障害者の就労において、ソニーの創業者井深大本田技研工業の創業者本田宗一郎オムロンの創業者立石一真を紹介し、それぞれソニー・太陽株式会社、ホンダ太陽株式会社、オムロン太陽株式会社という社会福祉法人 太陽の家の共同出資会社の設立がなされた。

平和活動

1967年(昭和42年)から毎年8月15日の終戦記念日には、戦争中に餓死させられた動物園のゾウの話「かわいそうなぞう」の朗読を続け、戦争の悲惨さと憲法九条の大切さを訴えていた。生前の秋山は「生きている限りはTBSラジオで毎年読ませてくださいとお願いしている」と語っており、生涯をかけた自分の仕事の一つとして「かわいそうなぞう」の朗読を続けていた。


九条の会」傘下の「マスコミ九条の会」呼びかけ人でもあった[8]

著書
・『私の社会見学』牧書店(学校図書館文庫) 1955

・『お勝手口からごめんなさい』春陽堂書店 1957

・『日本人の住まいと暮らし』筑摩書房(新中学生全集) 1959

・『幸福へのささやき』知性社(知性選書) 1959

・『しあわせな子どものゆくすえ』文芸春秋新社(ポケット文春)1962

・『夫とつきあう法』文芸春秋(ポケット文春)1966

・『妻の孤独』主婦の友社 1966

・『町かどの福祉』柏樹社 1976

・『大晦日のローストビーフ 23の物語』文化出版局 1976 のち文春文庫

・『おそい目ざめ』文化出版局 1977

・『十年目の訪問』文化出版局 1979 のち文春文庫

・『蜃気楼』潮出版社 1980

・『いぶし銀のように 秋山ちえ子の歳時記』潮出版社 1981

・『われら人間コンサート』暮しの手帖社 1985

・『雨の日の手紙』文化出版局 1986 のち文春文庫

・『秋山ちえ子の暮しの覚え書き』文化出版局 1986

・『女の食卓 春・夏・秋・冬』海竜社 1988

・『野菜の花 随想集』文京書房 1988

・『まわり道』マガジンハウス 1991

・『近くなった町 それぞれに大人の物語』ネスコ 1992 のち文春文庫

・『冬の薔薇』三月書房 1994

・『九十九歳の恋うた 小さな町の物語』岩波書店 1994

・『さよならを言うまえに』岩波書店 1997 のち現代文庫

・『二人静 女と男五つの小さな物語』小池書院(道草文庫) 1998

・『八十二歳のひとりごと』岩波書店 1999

・『風の流れに添って ラジオ生活五十七年』講談社 2005

・『種を蒔く日々 九十歳を生きる』講談社 2008

共編著
・少年少女教養全集 1(思想編) 宝文館 1961

・家庭教育の疑問に答える 早川元二共編 1964 (三一新書)

・われら人間 自立に向って生きる 大和書房 1981.11

・わたしの家族 家の光協会 1995.4

・日本の名随筆 別巻 59 感動 作品社 1996.1

・元気よすぎる息子へのラブレター 親から子に贈る愛のメッセージ 漆原智良千葉剛共編著 KTC中央出版 1998.4

・ラジオを語ろう 永六輔 2001.10 (岩波ブックレット)

脚注
1. 評論家の秋山ちえ子さん死去 ラジオで「談話室」45年 朝日新聞 2016年4月12日
2. 歴代受賞者”. 日本女性放送者懇談会 SJWRT. 2016年6月21日閲覧。
3. 2015年(平成27年)の終戦の日は土曜日で、該当する時間には土曜ワイドラジオTOKYO 永六輔その新世界が放送されるため、8月14日に繰り上げ放送された
4. 大沢悠里が秋山ちえ子さんへの思い出話を語る - 大沢悠里のゆうゆうワイド土曜日版公式ページ、2016年4月12日、同月13日閲覧。
5. 秋山ちえ子さんの追悼特別番組を放送 - TBSラジオ、2016年4月20日10:50配信、同年5月5日閲覧。
6. 
さようなら 秋山ちえ子さん 今夜放送 - TBSラジオ、2016年5月5日00:02配信、同日閲覧。
7. “訃報:秋山ちえ子さん99歳=評論家、ラジオで「談話室」”. 毎日新聞. (2016年4月12日). http://news.nifty.com/cs/domestic/societydetail/mainichi-0412e040200/1.htm 2016年4月12日閲覧。 
8. マスコミ九条の会(よびかけ人はだれですか)

関連項目
宮城県出身の人物一覧

社会福祉法人 太陽の家
(wikiより)

0021 秋山ちえ子

⇧ 秋山ちえ子

0021a

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伊藤 雄之助(いとう ゆうのすけ、1919年8月3日 - 1980年3月11日)は、日本俳優。本名は伊藤 嘉朗(いとう よしろう)。


兄は二代目澤村宗之助、弟は伊藤寿章(澤村敞之助、澤村昌之助)、妻は新東宝の女優だった桐丘峯子。子に俳優の伊藤高と歌手の伊藤照子。付き人に大地康雄がいる。


「ゆうのすけ」は雄之助雄之弼侑之助でクレジットされている映画もある。

来歴・人物

1919年8月、東京市浅草区東仲町(現在の東京都台東区雷門)で帝国劇場専属の歌舞伎俳優の初代澤村宗之助(本名伊藤三次郎)の次男として生まれる。母は帝国劇場専属女優第1期生の鈴木徳子。兄、弟も役者の芸能一家に育つ。父方の祖父は尾張藩に仕えた300石取りの武士の家柄に生まれた士族だが、地元の子供芝居に投じて台頭、四代目助高屋高助に認められて上京し、その養子となって七代目澤村訥子を襲名していた。訥子は養父の死後小芝居の大立者となり、雄之助出生時もなお活躍中であった。


1924年
4月、満4歳8カ月で“澤村雄之助”の芸名を名乗り、父の舞台である四谷の大国座で初舞台を踏む。本来初舞台披露が行われるはずの帝国劇場は前年の関東大震災で焼失し、再建中であった。しかし、初舞台の6日目に父が舞台で急逝した。雄之助ら遺児3兄弟は祖父の世話を受けることになったが、祖父が2年後に亡くなると親戚中から冷遇され、さらに雄之助は他の兄弟たちと比べのろまで不器用だったことから“紀ノ国屋の場違い小僧”と罵られるなど、苦労の多い幼年期を過ごした。


教育熱心な母の意向で慶應義塾幼稚舎に入れられ、成績優秀で将来は教師になることを望んでいたが、慶應義塾普通部1年の夏に母が3万円ほどの借金を遺して病死したため学業中断を余儀なくされ、「澤村兄弟プロダクション」を組織して芸能活動を再開した。1934年東京宝塚劇場開場と同時に公募された専属俳優に兄弟とともに応募、「東宝専属男女優」第1号の1人となった。この一座はのちに「東宝劇団」と名づけられたが、この劇団では六代目坂東蓑助[注釈 1]ら先輩役者との対立もあり、辛酸を嘗めた。とりわけ六代目簑助からは厳しい態度で臨まれ、伊藤自身がノイローゼに追い込まれたほどで、六代目蓑助を刺し殺して自らも自殺しようと思いつめたこともあるという[1]。その最中に若手勉強会に加わったことをきっかけに、リアリズム演劇に惹かれ、初めて演技することの喜びを感じたという。


1940年
に陸軍に応召、1943年に一等兵で除隊されるまでに中国大陸で兵役に就く。上官の大便が入った浴槽で入浴することを強要されるなど、ここでも冷遇を受けた[2]。その後は第2次東宝劇団に参加、小夜福子組の移動演劇隊に加わって山形県を巡業中に終戦を迎える。1946年に演劇隊を解散し、東京に戻り八田元夫の演劇研究所に入ってからは、スタニスラフスキー・システムによる演技を学ぶ。


映画は1932年に『少年諸君』で映画デビューしているが、本格的な映画出演は戦後からで、義兄である佐伯清の薦めで1946年に東宝撮影所へ入社する。特に1949年に公開された『野良犬』(監督・黒澤明)では、端役でありながら印象的な演技を見せた。その後東宝争議が始まったために東宝を退社し、新東宝綜芸プロなどに所属。この時期は市川崑作品の常連で、主演をつとめた社会風刺喜劇『プーサン』(1953年)は、監督ともども出世作となった。


1954年よりフリー。早い段階でフリーとなったため、テレビドラマにも1950年代から多くの作品へ積極的に出演した。


代表作に『巨人と玩具』『侍』『しとやかな獣』など。特徴のある顔とアクの強い演技で多数の映画で名脇役として活躍、『椿三十郎』では大詰めのみの出演ながらも存在感を示した。一方で『気違い部落』『ああ爆弾』などでは主演として鮮烈な印象を残した。1969年6月、歌舞伎座の舞台[注釈 2]に出演中に脳溢血で倒れ[3][4][5]、半身不随となるも懸命なリハビリの結果、翌1970年には『橋のない川 第二部』(監督・今井正)にて俳優活動を再開した[6]。まだ仕事復帰は医師から厳重に止められており、文字通り命懸けの演技であったという[6]。再起不能とも言われた状態からの復帰直後には「“絶望とはおろか者の結論”とはうがったことばですね。人間、あきらめちゃだめです。努力すれば必ず道はひらけますよ。この通りあたしがなおったんですから」と述べている[5]。晩年も『太陽を盗んだ男』では日本兵の軍装で皇居に突撃しようとするバスジャック犯役で怪演を見せるなど、多数の映画・ドラマなどに出演した。


1980年3月5日、療養で伊東市の温泉へ行くが、翌3月6日になって容態が悪化、そのまま伊東市内の病院に入院。3月11日に心臓発作で死去。60歳没。同年公開の『戒厳令の夜』が遺作となった。


子どもの頃から油絵を描くなど絵を描くことが好きで、寸暇を惜しんでスケッチをして歩くのが趣味だった[7]


芝居に対する執念はすさまじく、伊藤と同じ事務所に所属していた時、伊藤への興味から伊藤の関西公演に同行して共に生活した俳優梅津栄は、ある夜明けに隣室の伊藤が起きているのに気付き、「もう起きていらっしゃるんですか」と言おうと襖を開けたが、本を前に何ごとか考えている伊藤の姿に「声をかけるきっかけさえつかめない位のきびしさがあるんだよね...。何、考えてらしたんだろうねェ。...やっぱり、気違いなんですわな。おそらく何かこう、次の作品のヒントかどうかわかんないけど、空気がピーンと張りつめててね、もうね、声かけられなかったですよ。これだっ!って思ったわな」と述懐している[8]。また気骨ある言動で知られ、ゴテ雄のあだ名がつくほどであった。1968年には幼少期から受けた冷遇などを元に、映画界の因習について厳しく批判したエッセイ『大根役者・初代文句いうの助』[9] を執筆したために映画界から干されるなど、苦労の多い役者人生だった。六代目尾上菊五郎について、「六代目亡きあと日本には役者はいない」と言うほどに深く尊敬していた。[5]


墓所は西光寺 (墨田区)にある[10]

出演作品
映画
少年諸君(1932年、兄弟プロダクション

少年忠臣蔵(1933年、兄弟プロダクション) - 吉良上野介

楠正成(1934年、太秦発声映画) - 沢上錦吾 

かけ出し時代(1947年、新東宝) - 松浦記者

人間模様(1949年、新東宝) - 狩野龍馬

野良犬(1949年、新東宝)

銀座三四郎 (1950年、新東宝)

恋人(1951年、新東宝)

ブンガワンソロ(1951年、新東宝) - 野呂上等兵

結婚行進曲(1951年、東宝) - 藤間寿五郎

生きる(1952年、東宝)

あの手この手 (1952年、大映) - 野呂ドクター

早稲田大学(1953年、東映)

プーサン(1953年、東宝) - 野呂米吉

愛と死の谷間(1954年、日活) - 松村医師

億万長者(1954年、青俳クラブ) - 団海老蔵

警察日記(1955年、日活) - 岩太

三つの顔(1955年、日活)- 小林大三

ビルマの竪琴(1956年、日活)

あなた買います(1956年、松竹) - 球気一平

気違い部落(1957年、松竹) - 村田鉄次

抜き打ち浪人(1957年、東映) - 秋沢壮典

・少年探偵団 透明怪人 首なし男(1958年、東映) - 怪人二十面相

巨人と玩具(1958年、大映) - 春川純二

坊っちゃん(1958年、松竹) - 堀田(山嵐)

楢山節考(1958年、松竹)

赤い陣羽織(1958年、松竹)

悪女の季節(1958年、松竹) - 片倉盛太

人間の壁(1959年、山本プロ) - 新井代議士

恋山彦(1959年、東映) - 英一蝶

いろはにほへと(1960年、松竹) - 松本宗治

次郎物語(1960年、松竹) - 本田俊亮

「粘土のお面」より かあちゃん(1961年、新東宝) - 豊田由五郎

しとやかな獣(1962年、大映) - 前田時造

椿三十郎(1962年、東宝) - 睦田

放浪記(1962年、東宝) - 白坂五郎

忍びの者(1962年、大映) - 百地三太夫藤林長門守

温泉巡査(1962年、大映) - 望月六郎太

白い熱球(1963年、東映) - 若山校長

若い東京の屋根の下(1963年、日活) - 柔野謙太郎

天国と地獄(1963年、東宝) - 馬場専務

関東無宿(1963年、日活) - おかる八

・停年退職(1963年、大映)- 多田良雄

ああ爆弾(1964年、東宝) - 大名大作

黒いダイスが俺を呼ぶ(1964年、東宝) - 城崎

若草物語(1964年、日活) - 高村勇造

・現代インチキ物語騙し屋 (1964年、大映) -赤トンボ

(1965年、東宝) - 星野監物

にっぽん泥棒物語(1965年、東映) - 安東警部補

けものみち(1965年、東宝) - 秦野重武

拳銃野郎(1965年、日活)

明日は咲こう花咲こう(1965年、日活) - 尊道教・教祖

血と砂(1965年、東宝)- 持田一等兵

・逃亡列車(1966年、日活) - 李元成

日本のいちばん長い日(1967年、東宝) - 野中俊雄

華岡青洲の妻(1967年、大映) - 華岡直道

眠狂四郎女地獄(1968年、大映) - 野々宮甚内

とむらい師たち(1968年、大映京都) - 先生

肉弾(1968年、ATG

橋のない川(1969年、ほるぷ映画) - 永井藤作

赤毛(1969年、東宝) - 神尾金太郎

子連れ狼 子を貸し腕貸しつかまつる (1972年、東宝) - 柳生烈堂

・青幻記 遠い日の母は美しく(1973年、青幻記プロ) - 大山公平

人間であるために(1974年、新映画協会) - 岡本尚一

血を吸う薔薇(1974年、東宝) - 高倉刑事

裸足のブルージン(1975年、東宝)

エデンの海 (1976年、東宝)

岸壁の母(1976年、東宝) - 弥助

太陽を盗んだ男(1979年、キティ・フィルム) - 山崎留吉

戒厳令の夜(1980年、東宝) - 原良介

詳しいことは、『伊藤雄之助ウィキペディア』をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E8%97%A4%E9%9B%84%E4%B9%8B%E5%8A%A9
(wikiより)

0029 伊藤雄之助

⇧ 伊藤雄之助

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0029b



1992年4月25日早朝、東京都足立区千住河原町の民家の庭にて泥酔状態で発見され、警察に通報される。


救急車で墨田区の白鬚橋病院に運ばれ診察を受け、妻と兄とともに自宅マンションに帰宅する。

足立区千住河原町の民家 通称 : 尾崎ハウス ( 当時の建物は壊され建て替えられました。) 。

043a




永 六輔(えい ろくすけ、1933年昭和8年)4月10日[2] - 2016年平成28年)7月7日[4])は、日本のラジオ番組パーソナリティタレント随筆家。元放送作家作詞家テレビラジオなどを中心に活躍。軽妙な語り口と歯に衣着せぬトークで人気を集めた。1961年7月に坂本九により初演され、その後世界中でヒットしたポップソング上を向いて歩こう』の作詞者として知られる[5]。また短く簡単な言葉で物事の本質を突く、短文の名人としても知られ、著作も多い。『大往生』は200万部を超える大ベストセラーとなった[6]


“旅の坊主”、“ラジオ屋”、“テレビ乞食”、“遊芸渡世人”、“男のおばあさん”などを自称。本名は永 孝雄(えい たかお)。晩年の所属事務所は「オフィス六丁目」だった。角刈り頭と細長い顔がトレードマーク


長女の永千絵は映画エッセイスト、次女の永麻理は元フジテレビアナウンサー、麻理の長男、岡﨑育之介は俳優、脚本家、演出家。麻理の次男は「大遺言〜祖父・永六輔の今を生きる36の言葉」(小学館刊)の著者拓実[7][8]。また、藤本義一とは遠戚である。

略歴
生い立ち
1933年、代々東京・元浅草の最尊寺の住職を勤めていた永忠順(1900年 - 1991年[9])の息子として生を受けた。江戸時代初期に渡来した中国の学僧を先祖に持つ在日本外国人17代目と自称[10]。父や祖父は永という姓を「ヨン」と名乗っていた[10]。東京都下谷区(現・台東区)の国民学校に通っていた1944年、学童疎開により長野県北佐久郡南大井村の国民学校に転校し、そこで終戦を迎えた。

学生時代以降

1946年に長野県立上田中学校(旧制)に入学するが翌年東京へ帰り早稲田中学校(旧制)に2年編入で転校。この間同校が学制改革により新制の早稲田中学校・高等学校となったため3年で高等学校に昇級進学して卒業する。ラジオに興味を持ち、焼け跡の金属を換金し秋葉原で部品を買い鉱石ラジオを組み立てるグループを作る。そのグループのリーダーが渥美清であった。


この頃からNHKのラジオ番組『日曜娯楽版』にネタを投稿するようになり、そして学校をさぼって実家から近い国際劇場を本拠地にしていた松竹歌劇団レビューを見続けたことがのちの放送作家やテレビ演出活動の原点になった。また、1948年から淀川長治が主催していた「東京映画友の会」の初期の参加メンバーであった[11]。1952年に早稲田大学第二文学部へ入学。大学では民俗学者であった宮本常一の影響を受ける。在学中に三木鶏郎(『日曜娯楽版』の発案者)にスカウトされ、トリローグループのメンバーとして放送作家、司会者としてデビューする。早稲田大学第二文学部を1952年に中退[2][12]


放送作家として

日本でテレビジョン放送が始まる前の実験放送からテレビに関わっており、数々の番組の作・構成を手がけた「放送作家」のまた、先駆者と言える。日本のテレビ草創期を語るときに欠くことのできない存在である。


また、のちには自身も出演者としてテレビ・ラジオの多くの番組を持つようになる。


かくして20代前半から、ラジオ・テレビ番組の企画・演出や、ピアニストで作曲家の中村八大らと組んでの歌曲作詞、また軽妙な語り口を生かしたタレントとしての活動など、マルチプレイヤーとして活動を続けてきた。特にラジオパーソナリティとしての知名度が高い。古今の芸人についての研究や、日本政府によるメートル法の厳しすぎる施行で過度に排除された尺貫法の復権を志す運動[13]、佐渡島の独立運動、「天皇陛下に公式の場で和服(着物)をおめしいただこう」という運動(「天皇に着物を!市民連合」略称「天着連」)など、ユニークな取り組みも多い。


ディズニー
の日本語版製作のアルバイトをしていた関係で1956年には同社のアニメ映画『わんわん物語』でチワワのペドロの声を演じた。続けて『バンビ』『ダンボ』にも声優として出演している[14]


1958年には、若手の文化人らと「若い日本の会」を結成し、安保闘争時に安保改正に反対した。当時、『光子の窓』の脚本を担当していたが、安保デモに参加して脚本を落とし、しかも永を捜しにデモ現場に駆け付けた日本テレビの担当者の「安保と番組、どっちが大事なんだ!」との問いに「安保です」と答えたために番組を降ろされている[15][16]


1960年代には1年間大阪で漫才作家の修行を積み若井はんじ・けんじらの漫才台本を書く。この頃にのちにやなぎ句会で一緒になる桂米朝と出会う。


1961年に NHKで始まった音楽バラエティ番組「夢であいましょう」の作・構成を手がけ、音楽とコントを取り合わせて当時としては大変垢抜けた画期的な番組として人気を博した。この番組からは渥美清、坂本九、黒柳徹子、初代ジャニーズ、E・H・エリックといった多くの人気者を輩出している。


1970年には読売テレビで「遠くへ行きたい」が始まる。タイトルは永と中村八大によるヒット曲「遠くへ行きたい」からとったもので番組開始当初は永六輔が毎週旅をして出演、テレビの旅番組の先駆けとなった。


1977年革新自由連合の結成に参加し政治活動にも進出。1983年6月26日執行の第13回参議院議員通常選挙に比例代表区から出馬したが落選。以降選挙への立候補からは撤退している。1985年、次女・麻理がフジテレビのアナウンサーとして同局に入社(1993年、結婚のため退職)。


1994年には『大往生』を発表。日本のあちこちの無名の人々の生、死に関する様々な名言を集めたこの本は、200万部を超える大ベストセラーとなる。他に、多方面でのエッセイの著作が多数ある。2000年に、全業績で菊池寛賞を受賞。


2002年 - 2007年まで、校長が中山千夏、講師陣が永・矢崎泰久小室等という私塾「学校ごっこ」に係わった。


2008年6月、第45回ギャラクシー賞で、ギャラクシー賞45周年記念賞を受賞[17]

音楽ではシャンソンが好きで、石井好子との学生時代からの交友関係もあった。その一方で、演歌はあまり好きでないが「好きな演歌もある」そうである[18]


闘病

2009年に呂律が回らなくなったと『週刊女性』に報じられ[19]、そのときは加齢と入れ歯のせいだとしていたが[20] [21]、2010年になってパーキンソン病と診断されてこれを公表し、投薬治療を受けていた[22][23]。2010年9月30日には、前立腺癌とパーキンソン病と闘病しながら活動を行う永を密着取材したドキュメンタリー番組『永六輔 戦いの夏』がNHK総合で放送された[24][25]。一時は引退も考えたと語ることもあったが、投薬治療されるようになってからは症状が良くなりラジオでも会話が滑らかになっていた。


パーキンソン病の影響で歩行困難になり[24]、2006年に奄美大島で転倒して右足小指骨折し、半年間杖で歩行していた。さらに2011年11月16日夕、東京都内の自宅で転倒して大腿骨頸部を骨折し入院・手術[23]。永の強い意志で仕事は極力休まず、ラジオのレギュラーは病室からのゲスト参加や収録という形式が採られた。同12月27日、イベントへ車椅子で参加。以後、レギュラー2番組の放送・収録は病院からスタジオへ赴いた。2012年1月17日に退院、リハビリは継続した。


リハビリ中には、インドネシア人介護福祉士が「日本にはいい歌がある。『上を向いて歩こう』を歌いながら歩きましょう」と提案。永は恥ずかしがり、「この歌、僕知らないからやめてください」と言ったところ、リハビリの主任の医師から「外国から勉強に来ている子なんだから嘘つかないでください。ちゃんと言ってください」と言われ、翌日リハビリが始まるときに「あれは嘘です、知ってます。なぜ知ってるかっていうと僕が作ったからです」というと、インドネシア人の介護士は「また嘘ついてる」と笑った[26]


2013年、毎日芸術賞特別賞を受賞。


死去

2016年6月27日の放送を以って「六輔七転八倒九十分」が終了し[注釈 1]、全レギュラー番組を降板した。

2016年7月7日午後1時57分に、肺炎のために東京都内の自宅にて83歳で死去していたことが同月11日に発表された。[27][4][注釈 2]。医師によると「死因は肺炎とするが、老衰と言っていい状況」で穏やかな最期だったという[28]。葬儀・告別式は実家の最尊寺で7月11日、近親者で行った。8月30日に青山葬儀所で《 六輔・永(なが)のお別れ会 》と題したお別れの会が行われ、同日に赤坂BLITZでファン参加型のお別れの会「ばらえてぃ 永六輔を送りまSHOW」が昼夜2回催された[29][30][31]


友人である黒柳徹子に対し、「黒柳が亡くなった際の葬儀委員長をやる」とよく話していたが、実際は永が先に亡くなり、黒柳が永のお別れの会でメッセージを述べることとなった。そのお別れの会で黒柳は永の顎が外れたエピソードを話し、会場が爆笑となった[32][33]


2016年11月17日第58回日本レコード大賞の特別功労賞を受賞することが発表された[34]


作詞家活動

1959年、作曲家の中村八大からの依頼がきっかけで作詞家として活動を始める[35]。この年、「黒い花びら」で第1回日本レコード大賞を受賞。1959年 - 1966年にかけて中村八大とのコンビにより数々のヒット曲を飛ばし、特に1961年に坂本九が唄って大ヒットした「上を向いて歩こう」がアメリカ合衆国で『スキヤキ・ソング』(Sukiyaki)とタイトルを変え『ビルボード』のウィークリーチャート(Hot 100)で1位(1963年6月15日付けから3週連続)に輝くという金字塔を打ち立てた。


しかし、この曲の録音の際、永は坂本九の「ウヘホムフイテ、アールコホゥホゥホゥ」という独特の節回しの歌いだしを聴いて、耳を疑い「おまえ、どこにホゥホゥホゥと書いてあるんだ」と激怒し、これではヒットしないと考えた。舞台の袖にいた俳優の水谷良重は「こういうのヒットするのよね」と言っていた。永の予感は外れ、全米のヒットチャートでも1位に輝くなどしたが、後に永は坂本が幼児期から清元小唄を仕込まれていたことを知り、「あの歌い方は邦楽だった。彼の中に日本の伝統が生きていた」と自分自身を納得させた[36][5][37]


「上を向いて歩こう」は当時大人気だったNHKの音楽バラエティ番組「夢であいましょう」(作・構成は永六輔)の”今月の歌”で歌われたことにより一気に日本中でヒットしたが、この番組からは数々の歌が生まれ、六輔・八大・九の3人による歌がヒットするにつれ、「六・八・九トリオ」と呼ばれるようになった。また、同じように「夢であいましょう」の”今月の歌”であった「こんにちは赤ちゃん」も第5回レコード大賞を受賞している。


作曲家・いずみたくと共に作ったミュージカル「見上げてごらん夜の星を」からのタイトル曲も、「上を向いて歩こう」と並んで坂本九の代表曲となっている。


永が作詞家として全盛期を迎えたのは、日本のミュージックシーンに作詞・作曲から歌まで1人で手がけるシンガーソングライターが登場した時期でもあった。ビートルズが来日した1966年は、美輪明宏が「ヨイトマケの唄」を、さらに荒木一郎が「空に星があるように」を、自ら作詞・作曲し歌ってヒットさせた年でもある。


ラジオの活動に重きをおくようになった1967年以降は作詞活動から後退し、1969年以降は付き合いを除く作詞活動から撤退した。


作詞をやめた理由としては、「テレビに出れば何でも流行するのか」と怖くなったことがあげられる[38]。また、永が多くの詞を提供した作曲家である中村八大といずみたくの2人は、同世代であり互いの曲を意識しあったが、共通の友人でもある永には複雑な思いがあった。特に板挟みのような状況ではなく作曲家2人は仲が良かったのだが、それだけに「友達でいることを優先」したかったことも、その理由のひとつだったと後に本人は述べている[39]。それとともに、シンガーソングライターの出現により「自分が歌いたい歌を作詞すればよい」と思うようになったということもあげられるが、それはシンガーソングライターを否定するものではなく、きたやまおさむとは『土曜ワイド』にたびたびゲストとして招いたり、逆にNHK-FMの『きたやまおさむのレクチャー&ミュージック』に永がゲスト出演する(2010年12月10日・17日など)という仲である。


永は1974年に野坂昭如小沢昭一と中年御三家を結成して日本武道館でコンサートを行い、ビートルズ以来と言われるほど盛況であった(2003年に「帰ってきた中年御三家」コンサートをNHKホールで行ったが、野坂は病気のため不参加)。


テレビ出演

かつてTBSテレビ放送40周年記念特別番組の際、タレントが永が行っていたラジオ番組紹介コーナーの進行を無断で遮ったことに憤慨し、生放送であるにもかかわらず途中で退場[40]。その後、テレビへの出演に消極的になった(なお他のテレビ番組(テレビ朝日こんにちは2時』など)でも途中退場したことがある[16])。


2016年
2月4日には82歳で、『徹子の部屋』40周年記念ゲストとして81歳の大橋巨泉と共に出演した。パーキンソン病の影響と、過去に圧迫骨折した背骨の再手術を控えて入院先の病院からスタジオへ出かけての出演であったため、リクライニングシートを斜めに倒した車椅子に座った状態だったが、巨泉からプレゼントされたエイ(魚)のぬいぐるみを膝に乗せてトークを披露した。『徹子の部屋』には通算39回出演。


ラジオ出演

それまで構成作家として関わってきたラジオ番組だが、1959年放送開始の『昨日のつづき』にて初めて出演することとなる。この番組は、日本初のフリートークで進められる番組で[41]、永六輔は番組開始後、早い時期に喧嘩別れして大橋巨泉と交代した。1966年に『夢であいましょう』が終了すると、活躍の場をラジオに求め、翌年の1967年に『誰かとどこかで』がスタートする。それ以降は、ラジオに重きを置くようになっているが、TBSラジオ以外の関東地方のラジオ局では晩期は定時番組(レギュラー)での仕事をしていない。「出演者は自分で名乗るべき」と永六輔に諭されていたらしい外山惠理が、永六輔亡き後の番組で、いきなりトークに入り、それに対してはぶ三太郎が「あなたは何者ですか?」と自己紹介を促したことがあった。「ご自身(永六輔)は名乗らないで、いきなりトークに突入することもあった」と、2016年7月11日放送の『いち・にの三太郎〜赤坂月曜宵の口』の中で述べている。


なお、朝日放送中部日本放送琉球放送のラジオ番組にも出演しているが、あくまでも個人的な付き合いに留まっている(朝日放送はアナウンサーの道上洋三との[42]、中部日本放送はつボイノリオとの親しい縁から[43]、道上によると、永は面白いと思った地方ラジオ放送局にアポイントを入れることなく、直接プロデューサーに交渉して出演するという。道上、および、つボイとの親交が特に深いのは、こういった事情もある。なお、出演料は基本的にノーギャラであり、CBCラジオの「つボイノリオの聞けば聞くほど」に出演した際には、「高級天丼」が、ギャラの代わりに提供されることも明らかにしている。


全国こども電話相談室』に回答者として出演した際、「どうやったらテレビに出られますか?」という質問に対し「出なくてもいい」という趣旨の答えを返し、「もっといろいろなものに興味を持ちなさい」と子供を諭した逸話がある[44]


TBSラジオでかつて放送されていた『永六輔の土曜ワイドラジオTokyo』は久米宏が初めてレギュラーを受け持った番組であり、久米は永のことを「拾ってくれた」「恩人」と言っている[45]。しかし後に永自身が語ったところによると、久米は永からかなりぞんざいに扱われた為、当時はかなり恨んでいたという[46]。久米は現在でも「永さんの前に立つと緊張する」と語っているが、恨みは持っておらず、『大往生』がベストセラーとなった1994年にはニュースステーションの年末特番に「ベストセラー作家」として永がゲスト出演している他、2010年1月2日には『久米宏 ラジオなんですけど』にゲスト出演している。また、永の訃報に久米は「永さんは、僕の恩人で先生です。いなくなると、とても困るのです。ですから、永さんはいなくならないのです」とコメントを出した。


映画出演
フランキーの宇宙人(1957年3月27日公開、菅井一郎監督、日活) - 新聞記者 役
男はつらいよ 寅次郎純情詩集(1976年12月25日公開、山田洋次監督、松竹) - 根津神社の警官 役
春男の翔んだ空(1977年12月19日公開、山田典吾監督、現代ぷろだくしょん) - 野杉春男 役(主演)[注釈 3][47]
大往生(1998年10月10日公開、藤田傳監督、劇団1980)- 熊御堂 役[48]
理由(2004年12月18日公開、大林宣彦監督、アスミック・エース) - 有吉房雄 役


その他の活動

舞台監督としても活躍していた時代があり、自らのトークショーや地方講演などではプロの舞台監督を雇わずに自分で進行をしていた。ただし、業界で唯一信頼を置いて舞台進行を任せる人物に勇村育世がおり、最近では永自らが構成・演出する舞台であるにもかかわらず、彼女を「舞台演出家」と他の出演者に紹介するほどである。「彼女の言うことに僕は逆らったことがない」というのが口癖。


初めてテレビCM出演したのが浅田飴、初めてスポンサーラジオ番組を持ったのが桃屋だが、つながりができた理由は自身の語るところによると「江戸風俗・芸能に造詣が深いから」という。


自身の信念とは正反対の文藝春秋で記事を書くこともあるが、これも「江戸風俗・芸能に造詣が深いから」書けるとのこと。しかし、文藝春秋で書いていることについて「あいつらに人質にとられているようなものですよ」と半ば自嘲気味に語っている。新潮社でも「江戸風俗・芸能に造詣が深い」との理由から長らく記事を書いていたが、親交のある灰谷健次郎斎藤十一のやり方に抗議して絶縁した1997年以降疎遠となり、週刊金曜日主催の「ちょっと待った! 教育基本法改悪 共謀罪 憲法改悪 緊急市民集会」[注釈 4]での言動を同社の雑誌に批判されてからは完全に絶縁した。


物柔らかく高めの声音が明仁天皇に似ていて、永自身も明仁天皇の即位前から冗談の種にしている[要出典]NHKラジオ第1放送の番組『話芸・笑芸・当たり芸』において「我は高田文夫を深く認識いたします」とのセリフでものまねを披露したこともあった。その一方、永のものまねをした者もいる( →永七輔小堺一機タブレット純大泉洋など)。自らを「男のおばさん」と標榜しており、ピーコなどと仲が良い。


中居正広
と接点があり、バラエティ番組「SMAP×SMAP」の1コーナーだった中居のコント「輔のちょっといい話」のために、自前の衣装(和服)をプレゼントしたことがある[49]


プライベート
生活
・大変な愛妻家として知られる。1955年、日本テレビの廊下で一目惚れした女性と22歳で結婚。テレビ・放送業界で活躍し始めていたものの、相手の家庭が堅い職業の家柄だったため、僧侶である自分の父親に頼んで筆と巻紙で手紙を書いてもらって両親に挨拶に行き、結婚の許しを得た。 2002年、68歳で妻に先立たれるが、遺骨をずっと自宅に置き、妻宛に日記代わりのハガキを書き続けた。投函して自宅に届けられた亡き妻宛のハガキは1500通を超えた。
・アナログ人間であり、ポリシーとしてウェブ(インターネット)や電子メール、携帯電話など最先端のものを避けてきたが、SO213iWR(AMラジオが付いた携帯電話端末)が出たのを機に、携帯電話を所持するようになったが、電子メール機能は利用したことがないほか、2008年1月の放送では、「持ってなくても不便ではないから、常には持ってない」と発言している。
・かつては自動車を運転していたこともあったが、「人をひきたくない」と思うようになり、運転しなくなった[50]
・"楽しくなければ嫌”というモットーを一貫しており、リハビリの車いすを選ぶ際にも『どんなのがある?』と好奇心旺盛で、展示場で目を輝かせていた。このため、長女の永千絵ら家族はどうすれば永を楽しませられるかを常に考えねばならなかった。病院嫌い、薬嫌いでもあり、服用のための子ども用のゼリーを粉薬にかけても、上のゼリーだけすくって食べて、薬は残っていた。待つことが嫌いな永のため、家族は自宅近くのクリニックへの通院では、朝一番に駆けつけて受付けを済ませ、その後、「すぐに父を呼んで来ます」と、2番目に並ぶ患者さんにも聞こえるように言い、走って迎えに行って受診させた。待合室でも、永を楽しませるためのおかしなネタを仕入れて置くなどしなければならなかった。疲れた顔など見せようものなら、「楽しくないのなら、お帰りください!」というのが永のスタンスであったという[51]


伝統
・「天皇陛下に公式の場で和服(着物)をおめしいただこう」という運動(「天皇に着物を! 市民連合」略称「天着連」)を主催する形で、天皇と日本の民族衣装である着物に対する敬意を持つことを表明している[52]
・反捕鯨運動には、日本の伝統文化としての捕鯨を守る立場から一貫して批判的である。シーシェパードなど実力行使を伴う反捕鯨運動を「テロリズム」と批判している[53]
・伝統的建築復権運動を進めている。日本では建築基準法により、建築物にボルト締めは不可避だが、ボルトを使わず木材だけで建築した建物が地震で崩れないのに、何故そういう建築を認めないのかと憤慨している。晩期になって伝統的な職人の服装の復権を呼びかけていた。
メートル法が施行されて日本古来の尺貫法が禁じられ、曲尺鯨尺の製造・使用が違法扱いになって多くの職人が困っていると知り、1975年に尺貫法復権運動を始めた。日本の建築や着物など多くの日本文化が尺貫法に則って作られてきたにも関わらず、それを違法とするおかしさをラジオや講演で訴え、尺貫法復権の立役者となった。
山田洋次監督『男はつらいよ』シリーズ第18作、1977年正月映画(1976年12月公開)の「男はつらいよ 寅次郎純情詩集」には主人公車寅次郎が露天商として「くじら尺」を売る場面があり、「家を建てるにも、服を作るにも、このくじら尺をというものがないと始まらない。これがなくては職人さんも困っちゃう。」という口上を述べるシーンがあり、その様子を怪訝な表情で見つめる警察官が登場するが、その警察官役を永が務めている[54]
佐渡島を舞台として活動する伝統芸能をもとにした和太鼓集団、鼓童の前身である鬼太鼓座の立ち上げに尽力したことから、鼓童も支援し続けた。『土曜ワイド』でも佐渡から生放送したことがある。
・「ご先祖様は大事だが、先祖を奉れと強要する人がいてよろしくない」「何何をしないと不幸になるという人がいて不快」という発言を、ラジオ番組ですることが多い。
・1960年代から安藤鶴夫との知己を得て狂言歌舞伎講談落語浪曲などの伝統芸能と接する機会が増え、以降東京の伝統芸能を積極的に後援していた。実家である浅草の最尊寺においては自身を肝煎とする寄席「永住亭」を1986年から年4回定期的に開催し、東京の女性寄席芸人による木遣を唄う集団「住吉木遣り連 大江戸小粋組」のサポーターも勤めていた。1960年代の終わり頃およそ1年半に渡って大阪に居住し、上方の文化と芸能に接した。安藤鶴夫から豊竹咲大夫を紹介された。


信条
叙勲制度に反対している。
・死刑制度に反対している。
天皇制には反対の立場を貫いた。これは天皇を嫌っているわけではなく、むしろ同世代という連帯感もあるとしている[55]。また、晩年は、この国で誰よりも日本国憲法を大切にしているのは明仁天皇皇后両陛下である、として尊敬の念を示していた。


共産党
しんぶん赤旗日本共産党推薦人になり、党や支持団体が主催するイベントで度々講演[56]していた。また、日本共産党中央主催の赤旗まつりでは色紙展に出品するのが恒例となっていた。
・同じく日本共産党の支持者であった井上ひさしとの縁と自身の信念から、井上らが構成する護憲組織「九条の会」に賛同している[57]が、「九条以外は日本国憲法を改正してもいい」という永の考えの賛同メッセージが消されているため距離を置いていた。なお井上とは不仲にならず亡くなるまで親交は続いていたという。また、永は日本国憲法を「二度と飢えた子どもの顔は見たくない[注釈 5]」の一言を組み込んで世界でいちばん短い憲法にするべきと言った考えを述べていた[58]
・2006年11月19日、日比谷公会堂で開かれた「週刊金曜日」主催の集会に参加し、日本国歌「君が代」をアメリカの有名な行進曲「星条旗よ永遠なれ」のメロディーで歌った[注釈 4]


交流
青島幸男が東京都知事時代、官僚と対決する公約を破っていると指摘した。田原総一朗石原慎太郎におもねった発言をしたとの理由で批判している[59]
東京やなぎ句会の同人である桂米朝とも親交が深く、弟子の桂ざこばとかつて新宿駅西口地下広場で反戦噺会を開いていた。
中山千夏とも古くから親交があり、当時の「反ジェンダーフリー・保守的教育復興運動」には批判的で、2007年の東京都知事選挙では親交のある中山千夏と共に浅野史郎を支援した。
辛淑玉と親交があり、彼女が『世界一受けたい授業』に講師として出演した際「推薦VTR」で出演していた。また、2007年5月5日に長野県松本市の寺で行った彼女の生前葬では葬儀委員長を務め、無着成恭と共に読経した。


詳しいことは、『永 六輔ウィキペディア』をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E5%85%AD%E8%BC%94
(wikiより)

0020 永六輔

⇧ 永 六輔

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⇧⇩ お参りが済んで寺務所にご挨拶をしたら絵葉書セットをいただきました。

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原 知佐子(はら ちさこ、本名:実相寺 知佐子(じっそうじ ちさこ)[1][2]、旧姓名・旧芸名:田原 知佐子(たはら ちさこ)、1936年1月6日 - 2020年1月19日)は、日本女優。夫は実相寺昭雄。現代制作舎所属。


高知県高岡郡高岡町(現在の同県土佐市)出身。高知県立高知追手前高等学校卒業、同志社大学文学部美学美術学科中退。

来歴・人物

高岡第一小学校に在学中、教師から「この子は宝塚に入ったらいい」と薦められ、芸能界に憧れる。


高岡中学校を経て、1954年に高等学校を卒業。宝塚歌劇団松竹歌劇団を受験するが落ちてしまい、「芸能人の多い京都ならばコネで潜り込めるかも」と思い立ち、大学に入学。1955年新東宝の「第4期スターレット」(同期は北沢典子三ツ矢歌子万里昌代、朝倉彩子ら)に合格後、大学を中退。


1959年
には東宝に移籍。


1970年代に山口百恵が主演した「赤いシリーズ」での強烈なイビリ役で有名となり[3]、一連の大映ドラマに欠かせない名脇役として活躍。


夫の実相寺が亡くなるまで、実相寺の監督作品の常連出演者でもあった。


2017年に発売された『異端の映画史 新東宝の世界』(映画秘宝編集部・編、洋泉社)に、北沢典子・矢代京子らとの座談で新東宝在籍時の事を語っている[4]


2020年1月19日、上顎肉腫のため、東京都内の病院に於いて死去[1]。84歳没。

出演
映画
スーパージャイアンツ 宇宙怪人出現(1958年)

汚れた肉体聖女(1958年)

黒い画集 あるサラリーマンの証言(1960年)

秋立ちぬ(1960年)

女ばかりの夜(1961年)※主演

真紅の男(1961年)

・その場所に女ありて(1962年)

乾いた花(1964年)

おんな番外地 鎖の牝犬(1965年)

続・おんな番外地(1966年)

華岡青洲の妻(1967年)

・女賭博師鉄火場破り(1968年)

愛のきずな(1969年)

・十七才の成人式(1971年)

・あさき夢みし(1974年)※実相寺昭雄監督作品

祭りの準備(1975年)

泥だらけの純情(1977年)

翼は心につけて(1978年)

悪魔が来りて笛を吹く(1979年)

ひめゆりの塔(1982年)

(1983年)

遠き落日(1992年)

釣りバカ日誌8(1996年)

D坂の殺人事件(1998年)※実相寺昭雄監督作品

発情娘 糸ひき生下着(1998年)別題:ベストフレンド[5]

あ、春(1998年)

百合祭(2001年)

姑獲鳥の夏(2005年)※実相寺昭雄監督作品

シルバー假面(2006年) 「第壱話 はなやしき」 ※実相寺昭雄監督作品

東京タワー 〜オカンとボクと、時々、オトン〜(2007年)

進撃の巨人 ATTACK ON TITAN(2015年)

・彦とベガ(2016年)

シン・ゴジラ(2016年)[6]

・ニッポニアニッポン フクシマ狂詩曲(2019年)

のさりの島(2021年5月29日) - 山西艶子 役 ※遺作[7][8]

テレビドラマ
・夫婦百景 第29話「にたもの夫婦」(1958年、NTV

サンヨーテレビ劇場「東京の風」(1959年、KR

・木曜ワイドアワー「からみ合い」(1960年、NTV)

・ヤシカ ゴールデン劇場(NTV)

  ・才女とカンガルー(1960年)

  ・戦国非情(1960年)

・ドラマシリーズ「青春の群像」(1963年、NTV / 松竹

近鉄金曜劇場TBS

  ・倒産(1963年)

  ・ある女優志願(1963年)

  ・岡田茉莉子シリーズ・ある女の影(1965年)

・おかあさん 第2シリーズ(TBS)

  ・第173話「さらばルイジアナ」(1963年) ※実相寺昭雄演出

  ・第242話「タニシ・タニシ・タニシ」(1964年)

  ・第395話「北の河」(1967年)

東芝日曜劇場(TBS)

  ・ふりむけばひとり(1963年)

  ・裸っ子タケちゃん(1964年・HBC制作)

  ・ダンプかあちゃん(1969年・HBC制作)

・火曜劇場まごころ(1963年、CX

日本映画名作ドラマNET

  ・子供の眼(1963年)

  ・西陣の姉妹(1964年)

  ・通り雨(1964年)

次郎長三国志(1964年、CX / 東宝

・テレビ劇場「「弓村」の報告書」(1964年、NHK

・女医(1964年、12ch

三匹の侍(CX)

  ・第1シリーズ 第24話「北辺乱刃」(1964年)

  ・第4シリーズ 第1話「吠えろ剣」(1966年) - お新

  ・第6シリーズ 第24話「白刃有情」(1969年) - おたき

・ゴールデン劇場「今ひとたびの」(1964年、12ch)

暖流(1964年、THK

・この世の憩い(1965年、THK)

ザ・ガードマン(TBS / 大映テレビ室

  ・第5話「赤い妄執」(1965年)

  ・第144話「夜と昼の顔を持つ男」(1968年)

  ・第147話「交通殺人」(1968年)

  ・第172話「怪談殺人鬼ホテル」(1968年)

  ・第206話「新婚旅行は地獄へどうぞ」(1969年)

  ・第217話「教育ママ殺人事件」(1969年)

  ・第247話「殺人せり市」(1969年)

  ・第270話「妻は夫の秘密をさぐるな」(1970年) - 神谷の妻

  ・第303話「父親の子守歌で復讐が始まる」(1971年)

  ・第329話「怪談・氷の中のヌード美人」(1971年) - ミチコ

松本清張シリーズ「弱味」(1965年、KTV

ポーラ名作劇場(NET)

  ・いのちある日を(1965年)

鉄道公安36号(1965年、NET)

今井正アワー・初夜(1966年、NET / 東映

・テレビ指定席「希望」(1966年、NHK)

日産スター劇場(NTV)

  ・バンザイ出世街道(1966年)

  ・危うし!離婚同盟(1967年)

  ・にきびと香水(1967年)

泣いてたまるか「ある結婚」(1967年、TBS / 国際放映

レモンのような女 第6話「もしもその時雨が降っていなかったら」(1967年、TBS)

・NHK劇場「ひとりぼっちの廊下」(1967年、NHK)

第21話「誰がための仇討ち」(1967年、TBS) - ※実相寺昭雄監督作品

・そしてあしたは(1967年、KTV)

七人の刑事 第175話「冬の抱擁」(1967年、TBS)

・夕映えの中にいた(1968年、TBS)

・道頓堀(1968年 - 1969年、YTV

日本剣客伝 第7話「針谷夕雲」(1968年、NET)

怪奇ロマン劇場八つ墓村」(1969年、NET)

・冬の庭(1970年、NHK)

・お嫁にいきたい(1970年、CX)

木下恵介・人間の歌シリーズ 俄-浪花遊侠伝(1970年、TBS) - 芸者

ポーラテレビ小説 (TBS)

  ・花もめん(1970年 - 1971年) - 小鶴

  ・元気です!(1980年 - 1981年) - キク

  ・白き牡丹に(1982年 - 1983年) - きん

大忠臣蔵(1971年、NET / 三船プロ) - 片岡志津

非情のライセンス(NET / 東映)

  ・第1シリーズ 第28話「兇悪の欲望」(1973年) - 美江子

  ・第2シリーズ 第27話「兇悪の炎」(1975年) - 斉藤芳江

特別機動捜査隊 第646話「嘆きの天使」(1974年、NET / 東映)

ウルトラシリーズ円谷プロ

  ・ウルトラマンレオ 第37話「怪奇! 悪魔のすむ鏡」(1974年、TBS) - 和服の女 / マザラス星人

  ・ウルトラマンをつくった男たち 星の林に月の舟(1989年、TBS) - あけぼの荘の大家 ※実相寺昭雄原作作品 
  ・ウルトラマンティガ 第37話「花」(1997年、MBS) - マノン星人女中 ※実相寺昭雄監督作品

  ・ウルトラQ dark fantasy 第19話「レンズ越しの恋」(2004年、TX) - 矢島静枝 
  ・ウルトラゾーン 第14・15話「東京ジュラ紀」(2012年、tvk) - 白石深月

  ・ウルトラマンギンガS 第11話「ガンQの涙」(2014年、TX) - アパートの大家

  ・ウルトラマンオーブ 第24話「逆襲の超大魔王獣」(2016年、TX) - 岸根秋恵

華麗なる一族(1974年、MBS / 東宝) - 原田節子

ふりむくな鶴吉 第14話「湯女風情」(1975年、NHK)

剣と風と子守唄 第25話「左源太賞金首」(1975年、NTV / 三船プロ) - お浜

燃える捜査網 第11話「女の仮面をはがせ!」(1975年、NET / 東映)

赤いシリーズ(TBS / 大映テレビ)

  ・赤い疑惑(1975年 - 1976年) - 相良多加子

  ・赤い衝撃(1976年 - 1977年) - 大山政子

  ・赤い激流(1977年、TBS) - 山田タメコ

夜明けの刑事(TBS / 大映テレビ)

  ・第73話「ハンサム歌手の赤い殺意!!」(1976年)

  ・第83話「山口さんちのツトム君誘拐事件」(1976年) - 島内かよ

岸辺のアルバム(1977年、TBS)

新幹線公安官 第2シリーズ 第26話「未来の終電車」(1978年、ANB / 東映) - 菊奴

桜中学シリーズ

  ・3年B組金八先生 第2シリーズ 第12話「三者面談始まる」(1980年、TBS) - 石川祐子の母

  ・3年B組貫八先生(1982年 - 1983年、TBS)

松本清張シリーズ・けものみち(1982年、NHK) - 久垣の妻

波の盆(1983年、NTV) ※実相寺昭雄監督作品

イエスの方舟 イエスと呼ばれた男と19人の女たち(1985年、TBS)

刑事物語'85 (1985年、NTV)

もめん家族(1986年、THK)

花嫁人形は眠らない(1986年、TBS・KANOX) - 笙子

花嫁衣裳は誰が着る(1986年、CX)- 相良 秀子

火曜サスペンス劇場(NTV)

  ・ペイパーハネムーン(1987年)

  ・女監察医室生亜季子3・瀬戸内竹原殺人行(1987年、NTV / 東映)

  ・救命救急センター(2000年) - 都築初子

  ・検事・霞夕子20(2003年) - 柳沢信子

大河ドラマ / 春日局(1989年、NHK) - 信松尼

想い出にかわるまで1990年、TBS)

都会の森(1990年、TBS)

七人の女弁護士 第1シリーズ 第4話「新婚初夜殺人事件 疑われた密会の花嫁!」(1991年、ANB)

熱血!新入社員宣言(1991年、TBS)

迷惑な家族(1992年、CBC

ホテルドクター 第1話「さあ大変!! 逃げた花嫁」(1993年、ABC

ダブル・キッチン(1993年、TBS)

適齢期(1994年、TBS)

鳥帰る(1996年5月4日、NHK) - 木崎奈津子

サイコメトラーEIJI(1997年、NTV) - 遠藤正子

水戸黄門 第28部 第2話「黄門様は恋の道先案内人 -小田原-」(2000年、TBS / C.A.L) - 菊江

花村大介 第3話「パパ、ママをもういじめないで」(2000年、KTV)

ドラマW / ご近所探偵TOMOE(2003年3月29日、WOWOW

偽りの花園 (2006年、THK

怨み屋本舗(2006年、TX)12話 - 野田文枝

怪奇大作戦 セカンドファイル 第2話「昭和幻燈小路」(2007年、NHK) - 旅館静正の女将

松本清張ドラマスペシャル・霧の旗(2010年、NTV) - 渡辺美和

ビンタ!〜弁護士事務員ミノワが愛で解決します〜 第6話(2014年、YTV) - 小田祐子

詳しいことは、『原 知佐子ウィキペディア』をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E7%9F%A5%E4%BD%90%E5%AD%90
(wikiより)

0019 原知佐子

⇧ 原 知佐子

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久松 保夫(ひさまつ やすお、本名:高橋寛[1]1919年6月6日[1] - 1982年6月15日[1])は、日本の男性俳優声優青二塾(東京校)初代塾長。最終所属は青二プロダクション[4]

経歴・人物

東京府東京市日本橋區久松町(現・東京都中央区日本橋久松町)出身[2](※芸名は出身地名に由来)。本籍は東京都中央区日本橋浜町二ノ四〇。


東京府立第六中学校(現・東京都立新宿高等学校)を経て、青山学院(現・青山学院大学)神学部へ入学するも、1938年8月に中退。


同年新築地劇団入団。ただし俳優ではなく経営部に籍を置き、劇団運営や客集めといった裏方として奔走する。舞台に上がるきっかけは、地方公演の同行でたまたま俳優が足りないゆえの頭合わせで、1939年海援隊』で初舞台を踏む。この時の発声や役者向きの顔が評価されて帰京後、役者としての籍を同劇団内に得る。1940年8月、新築地劇団解散後は。劇団築地小劇場日本移動演劇聯盟くろがね隊と移り、この間に南旺映画で1940年3月、千葉泰樹監督の『彦六なぐらる』にて映画初出演を果たす。


1942年
8月、東京宝塚劇場(現・東宝)に技芸社員として入社。東宝劇団に籍を置き、菊田一夫の下で俳優としての才能を開花させる。特にセリフの早覚えと人並み以上の反射神経を生かしたアドリブ演技に秀でており、菊田自身久松の才能を高く評価しかわいがった他、作品の配役を久松自身に選ばせるなど恵まれた時を送った。後年、久松は「菊田先生の御恩は忘れられません」と語っている。


1949年
3月、東宝劇団を退団しフリーとなる。その後、映画評論家で外国推理小説の権威でもあった双葉十三郎からの仕事で映画雑誌『スター』のグラビアを受け、これがきっかけで懇意になり、この結果1955年から始まったKRテレビ(現・TBSテレビ)の連続テレビドラマ『日真名氏飛び出す』で主人公・日真名氏役を得ることになる。双葉は東宝劇団時代の役作りに対する真摯な姿勢を菊田同様高く評価しており、双葉が原案者として参加していた『日真名氏飛び出す』の主役選定に当たって久松を主役に推薦、了承され演じることとなった。


『日真名氏飛び出す』は当時の視聴率調査で49.5%(関東地区)と高い反響を呼ぶ。久松は一躍人気者となり、ドラマでのテレビスター第一号の称号を得る。この当時のエピソードとして「チンピラ達が集まってケンカをしている処をたまたま覗きに行ったら『日真名氏が来た』と彼らは逃げていってしまった。彼らは『日真名氏は強い』と思っていたらしく恐れられていたようだった」と久松自身がインタビューで語っている。しかし反面、久松=日真名氏のイメージが強くなってしまい、以降はドラマのレギュラー、特に主役に恵まれず不遇な時を送っている。


1958年頃から声優としての活動も始め、『ララミー牧場』の主人公ジェス・ハーパー(ロバート・フラー)、『スタートレック/宇宙大作戦』のスポック副船長(レナード・ニモイ)、バート・ランカスターらの吹き替え等を担当した。中でも『ララミー牧場』のジェス・ハーパー役は渋い声と江戸言葉(いわゆる「べらんめえ口調」)で、最高視聴率43.7%(1961年2月23日)を記録する。なお『日真名氏飛び出す』で久松は本編内の生コマーシャル部分(インテグレートCM)でロバート・フラーとの共演を果たしている。


自身の持ち役であるバート・ランカスターは一作ごとに全く異なった演技をするので役者としてやりがいがあると生前語っていた。アテレコの仕事の話をきくと早めに試写をしてからアテレコ二日前から体調を整え長編スクリーンは台本を五冊ほど用意し肩をこらせないようにするという。ランカスターのくせは声を出す前に必ず白い歯を見せることらしい。


1969年
4月、日本で初の声優専門の芸能事務所青二プロダクションの設立に参加、以来死去する1982年まで13年間所属した。あわせて、後進の育成、芸能人の生活向上と権利保護の活動にも力を注ぎ、青二塾の立ち上げに尽力し初代塾長を務めたほか、日本放送芸能家協会の設立に尽力し、社団法人日本芸能実演家団体協議会専務理事、文化庁著作権審議会委員、協同組合日本俳優連合副理事長等を歴任した。


こけし
をはじめとする伝統玩具の蒐集家としても有名で、1974年に設立されたこけしの同好会「こけしの会」の同人を亡くなるまで務め、同人誌「木の花」や、こけし関連書籍の執筆などでも活躍した。1964年の時点では約5000体のこけしを収集しており、こけしの魅力について、1964年9月にこけし職人を訪ねるために夫人同伴で福島県を旅行した際には「伝統あるこけしには口に出せない美しさを感じ、民族的な面白さがある」と語っている[5]


1980年12月に呼吸困難で入院、その後、喘息、肺気腫、胃潰瘍を発症し入退院を繰り返すようになる。1982年6月15日、芸団協の会議に出席中に呼吸不全と心臓発作を併発し、死去[1]享年63。生前出演が決まっていた『わが青春のアルカディア』は、急遽森山周一郎が代役として起用された[6]

後任・代役については、『久松保夫ウィキペディア』をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%85%E6%9D%BE%E4%BF%9D%E5%A4%AB

出演作品

映画
虎の尾を踏む男達1945年9月完成、東宝) - 梶原の使者

四つの恋の物語 第四話 恋のサーカス(1947年、東宝) - 三吉

テレビドラマ
日真名氏飛び出す(1955年 - 1962年、KRテレビ) - 日真名氏(※放送回数:全380回)

鉄腕アトム(1959年、毎日放送) - アナウンサー

仇討選手(1959年、フジテレビ

一年半待て(1961年、TBS)

太閤記(1965年、NHK

特別機動捜査隊NET

  ・第198話「戦争の傷あと」(1965年)

  ・第320話「女の坂道」(1968年) - 太田黒

  ・第357話「情炎譜」(1968年) - 北川

  ・第537話「愛と憎しみのバラード」(1972年)

・悪の紋章(1965年、NET)

ザ・ガードマン 第28話「暗黒の掟」(1965年、TBS)

三匹の侍(CX)

  ・第4シリーズ 第1話「吠えろ剣」(1966年) - 有村与三衛門

  ・第4シリーズ 第26話「斬る」(1967年) - 田坂大膳

  ・第5シリーズ 第23話「紙人形」(1968年) - 水木采女

白い巨塔(1967年、NET・東映) - 小山教授

レモンのような女 第1話「離婚 結婚」(1967年、TBS)

戦え! マイティジャック 第9話「地底の悪魔をたたき出せ!」(1968年、CX円谷プロ

東芝日曜劇場(TBS)

  ・第749回「女と味噌汁 その19」(1971年)

  ・第988回「式場の微笑」(1975年)

  ・第1113回「松本清張おんなシリーズ・馬を売る女」(1978年)

火曜日の女シリーズ  逃亡者-この街のどこかで-(1970年、大映テレビ室・日本テレビ) -バーの客

天下御免 (1971年、NHK)

おらんだ左近事件帖 第6話「コロリの謎」(1971年、CX)

花神(1977年、NHK大河ドラマ) - 池田播磨守

・森村誠一シリーズ・人間の証明 第6回(1978年、毎日放送)- 弁護士

ラジオ
日本沈没(1980年、NHK-FM) - オーストラリア首相

吹き替え
俳優

クルト・ユルゲンス

眼下の敵(テレビ朝日旧録版)

史上最大の作戦(テレビ朝日版)

世界殺人公社(TBS版)

嘆きの天使

眼には眼を


バート・ランカスター

明日なき十代

アパッチ

雨を降らす男

インディアン狩り

ヴェラクルス

エルマー・ガントリー/魅せられた男

OK牧場の決斗(テレビ東京版)

怪傑ダルド

カサンドラ・クロス(LD版 Blu-Ray収録)

空中ぶらんこ

五月の七日間

地上より永遠に(TV版)

さすらいの大空

殺人者

終身犯(NET版がDVD収録)

スコルピオ

成功の甘き香り(DVD収録)

大反撃

大列車作戦

旅路(DVD収録)

タルファ駐屯兵

追撃のバラード

追跡者(TBS版)

ニュールンベルグ裁判

ビッグトレイル

秘密殺人計画書

深く静かに潜航せよ

プロフェッショナル(日本テレビ版)

許されざる者

山猫

洋画
アレゲニーの反乱 (ジョージ・サンダース) ※TBS版

1941(ジョセフ・W・スティルウェル中将:ロバート・スタック

王子と踊子ローレンス・オリヴィエ

おしゃれ泥棒ヒュー・グリフィス)※フジテレビ版

怪奇!魅惑の魔女 (オットー(エドワード・アンダーダウン))

怪情報メコンの蛇 (トニー・ローランド(ブラッド・ハリス))

風の遺産フレドリック・マーチ

華麗なるダイヤモンド強奪 (ガストーネ・モスキン)

キス!キス!キルキル (トニー・ローランド(ブラッド・ハリス))

巨大なる戦場カーク・ダグラス

恋はかくのごとく (ロジャー(フランチョット・トーン))

荒野の棺桶エドゥアルド・ファヤルド

・コマンド (エリオット軍曹(ジェームズ・ホイットモア))

細菌弾をぶっ飛ばせ! (トニー・ローランド(ブラッド・ハリス))

さすらいの旅路(ローレンス・オリヴィエ)

サムソンとデリラ (サラン(ジョージ・サンダース)) ※フジテレビ版

猿の惑星ジェームズ・ホイットモア)※フジテレビ版

スエズの陰謀 ( テオプロス(エドワルド・ファジャルド))

スパイ指令・地獄への突入 (ジョー・アレン(ブラッド・ハリス))

続・荒野の用心棒(エドゥアルド・ファヤルド)

ダイアモンド・ヘッドチャールトン・ヘストン

大海賊シャルル・ボワイエ)※NHK版

地球は壊滅するダナ・アンドリュース

地底探検ジェームズ・メイソン

テキサスディーン・マーティン

トラ・トラ・トラ!ハズバンド・キンメル海軍大将マーティン・バルサム

トルコの肝っ玉野郎 (トニー・ローランド(ブラッド・ハリス))

偽の売国奴 (ヒュー・グリフィス) ※NHK版

ネットワーク(ハワード・ビール:ピーター・フィンチ

のっぽ物語 (レオ・サリバン教授:レイ・ウォルストン)

バルジ大作戦(ダナ・アンドリュース)※NET版

ピラミッド (ヘイマー(アレクシス・ミノティス)) ※NHK版

武器よさらばヴィットリオ・デ・シーカ

ブルー・マックス(ジェームズ・メイソン)

魅惑の巴里 (レスリー・フィリップ)

・炎の女 (ピーター・カッシング)

墓石と決闘ジェイソン・ロバーズ

夜の大捜査線(エリック・エンディコット:ラリー・ゲイツ)※NET版(BD収録)

落日の決闘ブライアン・ドンレヴィ

レーザーガン奪取計画 (トニー・ローランド(ブラッド・ハリス))

若い恋人たち (アントン・ゾーベック( デビッド・コンク))

詳しいことについては、『久松保夫ウィキペディア』をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%85%E6%9D%BE%E4%BF%9D%E5%A4%AB
(wikiより)

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⇧ 久松保夫

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野沢 那智(のざわ なち、1938年1月13日[1][2] - 2010年10月30日[1])は、日本声優ラジオパーソナリティ俳優演出家実業家


東京府
(現:東京都)出身[1]オフィスPAC元代表。父は作家陸直次郎、妻は女優の成瀬麗子長男は俳優の野沢聡、姪はタレント野沢直子、大姪(直子の娘)は格闘家真珠・野沢オークレアー


本名の表記は同じ[注 1]だが、読みは「のざわ やすとも」である[3]

人物

数多の洋画吹き替えアニメ作品で声の出演、またラジオDJナレーションなどを手がける。舞台プロデュース、舞台演出でも活躍。


芸名の由来は公私ともに本来の読みである「やすとも」と呼ばれたことがなく、結果的に誤った読み方の「なち」がそのまま定着したことによる。

生涯

舞台美術家から舞台演出家への転向、役者の道へ

中学生の頃、家の近くにあった「明治座」という芝居劇場へ毎日のように通う。ただし見ていたのは役者ではなく舞台装置で、明治座から帰るとみかん箱を舞台に見立てたミニチュアを作って遊んでいた。最初から役者をやりたかったわけではなく、将来は舞台美術家になりたいと思っていた[4]


國學院大學
政経学部に進学後、大学3年生の頃からプロ劇団に出入りするようになり、大道具などの仕事を手伝わせてもらうようになる。ところが、その劇団の舞台美術家から「お前が下手だな。思いつきはいいんだけど。向いてないよ。やめろ」と言われてしまう[4]。野沢はそれでも芝居関係の仕事がやりたかったため、今度は舞台演出家を目指すようになる[4]


大学を中退し、劇団七曜会に演出家研修生として入団。だが、主催の高城淳一に会った途端、「演出家希望?とりあえず役者やれ!」と言われ、いきなり舞台に出ることになる。それから3年ほど、七曜会で役者を続けることになった[4]。なお、七曜会時代の先輩には肝付兼太青野武らがいる。


また、当時誕生したばかりだった洋画の吹き替えアルバイトをこなすようになった。俳優間では「(吹き替えの仕事は)俳優として、自分のオリジナリティを捨てている」と見下されていたが、野沢は「当時はテレビドラマ生放送だから、ドラマの仕事が来ると稽古やリハーサルで一週間は拘束される。でも、それじゃ舞台のための稽古ができない。吹き替えは一定期間で終わるから、時間的に効率のいいアルバイトだった。役者を目指しているからには、稽古時間が欲しいじゃないですか。それに、一応セリフを喋る仕事だから、まったく関係ない業種のアルバイトより、吹き替えのほうが勉強になりますからね。僕は演技のデッサンとして面白いなと思ったし、実際に収入もなかった」という理由で積極的にやったという[4]


劇団七曜会を退団後、野沢は役者仲間を集めて「劇団城」を立ち上げた。初めて演出を担当するが、難しい演目ばかりやっていたため、客は入ってこなかった。そのため、金はかかるとたちまち運営に行き詰ってしまい、劇団は分裂。製作の責任者であった野沢は3年間で370万円(現在の価値で2000万円ほど)もの借金を抱え込んでしまった。その後はアパートを引き払い、友人の家を転々とし、15円のコッペパンで「今日は食べたぞ!」と満足していたほどの赤貧生活だった。当時の生活について野沢は「少しも辛くなかったのは、芝居が好きっていうのもあるけど、日本中が貧乏だったからでしょうね」と振り返っている[4]

アテレコ(声優業)の本格開始

借金返済の見通しも立たず困り果てたある日、野沢が銀座の街を歩いていると、劇団七曜会にいた頃の先輩である八奈見乗児と道端で偶然出くわした。そこで野沢は「何か仕事が無いですか?」と聞いたら、「お前、アテレコやれ。事務所は紹介するから」と八奈見に言われるが、野沢は最初、冗談だと思ってまともに取り合わなかった。しかし一週間後また偶然八奈見と出くわすと「もう事務所に連絡入れたぞ」と言われ、四谷にあるプロダクションに連れていかれるが、そこは裏通りにある魚屋の2階で、階段も狭く「俳優の事務所っつったって汚ねぇんだな。何ていうプロダクションなんだろう」とよく見てみると「東京俳優生活協同組合[5]だったという。このような経緯から事務所の熱心な売り込みもあって、野沢は本格的に声の仕事を始めた。


テレビ普及が本格化した高度経済成長時代のテレビドラマ黎明期に、人手不足からテレビの仕事に手伝いで呼ばれ参加したところ、その仕事は演出などのスタッフではなく演じる方=俳優の端役(性犯罪者役)であった。「こんなの親に見せられない」と困惑した野沢が、「人目に触れず出来る仕事はないか」と職を探しながらも「そんなコソドロみたいな仕事はない」と返され、渋々いくつかの映像出演や舞台出演を重ねた後、次に引き込まれていったもう1つの人手不足の現場がアフレコの世界であった。野沢によれば「アテレコで若い男の役といえば野沢那智」という感じで、次々と仕事が回ってきて、1日3本こなしたこともあったと言う[4]


1年半アフレコの仕事をこなし、借金が半分になったため、そろそろ役者を辞めようと思い始めた。その時、「最後にこのオーディションに行くだけ行ってきてよ。ほとんどキャストは決まっているので、落ちるから大丈夫」と言われて紹介されたのが『0011ナポレオン・ソロ』であった。気楽にオーディションを受けたが、既にイリヤ・クリヤキン(デヴィッド・マッカラム)役は愛川欽也に決まっていたのが、何故か配役が野沢に変更された[4]。野沢が知人から聞いたところによれば、ディレクターが野沢の出演している番組を偶然見て「誰だ?この女みたいな芝居する奴は」と注目し、配役を決定したという。そして『0011ナポレオン・ソロ』が視聴率40%くらいを取る大当たりになったため、役者をやめるわけにはいかなくなったとのこと[4]


このような経緯で劇団の借金を返済するため声優業を開始して、次第に人気を獲得していった野沢だが、最終的には自分の劇団を復活させ演出家としても活動する。また数多くの吹き替えやアニメに多く出演したり、バラエティ番組などでナレーションを担当した。


TBSラジオ
の深夜ラジオ番組『パックインミュージック』でパーソナリティとして白石冬美とコンビを組み、文化放送など局を移しても2人で「那智チャコ」の愛称でラジオ番組のパーソナリティ・コンビを務めた。


1963年に、劇団薔薇座を設立し、プロデュース演出を担当。ストレートプレイミュージカルの上演に力を注いだ。1988年、劇団薔薇座の第21回公演ミュージカル『スイート・チャリティ』で文化庁芸術祭賞を受賞している。

晩年・死後

2003年オフィスPACを設立し、付属養成所のパフォーミング・アート・センターにおいて声優や舞台俳優を目指す人材を育成。設立当初は代表取締役として在籍し、声優としては賢プロダクションに所属を続けていたが、2008年5月頃に賢プロダクションを退所し、事実上オフィスPACへ移籍した。一時は青二プロダクションにも所属していた[6]


2008年
第2回声優アワード功労賞を受賞。

2008年、『コブラ』がOVAとして復活。テレビアニメ『スペースコブラ』でコブラを演じた野沢が再びコブラ役に起用された。野沢本人も声優アワードにまつわるインタビューなどにおいて「今年はコブラだ!」と気合と意気込みをアピールしている。


2009年
後半、この頃から次第に体調を崩し始め、一時仕事を完全にストップして治療に専念すると宣言するなど、仕事のセーブに拍車がかかる。


2010年
、7月頃までは指導にあたっていたが、夏に精密検査を受けた結果肺癌を患っていたことが判明し、8月から入院。抗がん剤などで治療生活を送るも、容態は一向に回復せず、10月26日に都内の別の病院へ転院。この頃には、もう会話することすらできなくなっていたという。妻や長男、親族、自身が代表を務める養成所の生徒たちに囲まれながら、10月30日午後3時36分、肺癌のため死去[7]。72歳没。


2011年
2月14日にお別れの会が行われ、俳優仲間の山寺宏一羽佐間道夫をはじめとした580人が参列した[8]。祭壇には野沢が愛用していた物や舞台演出した台本、息子の贈り物などが飾られた[8][9]。弔辞を読んだのは野沢とTBSラジオで15年間(在京3局でのべ25年間)コンビを組んだ白石冬美で「どこも痛くなくなった今、空の上から見守ってください」と別れを惜しんだ[8]


2011年3月5日に行われた、第五回声優アワードで特別功労賞が贈られた[10]。声優アワードの生前、没後双方での受賞は初となる。


スター・ツアーズ』のC-3POの声は、野沢の没後も生前に収録した音声が使用されていたが、2012年のリニューアルに伴い岩崎ひろしに交替した。

特色

声種バリトン


役柄としては主に青年役を担当しているが、時に中年・老人役も演じる。声質からアニメやゲーム作品においては、『キングダムハーツ Re:チェインオブメモリーズ』(ヴィクセン)や『ルパン三世 ルパン暗殺指令』(ジョン・クローズ)のような悪役を演じるイメージが強いが、『チキチキマシン猛レース』(ナレーター〈実況〉)のような熱血漢、洋画吹き替えではアラン・ドロンジュリアーノ・ジェンマロバート・レッドフォードジェームズ・ディーンなどの二枚目役、また雰囲気を変えた三枚目もこなす。本人によれば「狂人が得意分野」とのことで、「キレるのはそう難しくないんです」と語ったこともある[11]。『悟空の大冒険』で担当した三蔵法師がいわゆる「おかま」になったのはアドリブからである。


アル・パチーノクリストファー・ウォーケンダスティン・ホフマンデニス・ホッパー(『スピード』)といった狂気がかった役の吹き替えが多いが、本人はジェラール・フィリップトム・ハンクス全出演作を吹替えるという夢を持っていた。前者はナレーションを担当した『星の王子さま(CD-ROM版)』で一部実現したが後者は一本も担当したことがなかった。笑いの要素が好きで演技にも感動させられると語っていた。

担当俳優について
アラン・ドロン

1969年頃、アラン・ドロンの吹き替えを初めて担当。数人いるドロン担当声優のひとりとなる。『日曜洋画劇場』で主にドロンを担当していた堀勝之祐などと比べ、ドロン担当として野沢は比較的後発の存在だったが、やがて1970年代後半頃から、ほぼ全局で野沢がドロンの吹替を担当するようになり、茶の間にも「アラン・ドロンの吹替といえば野沢那智」のイメージが浸透していった。野沢に先んじてドロンを多く吹き替えた堀も野沢が担当した作品を観た際には「僕は彼の演技にのれないことが多々あったが、野沢さんの場合はぴったり合っている」と評している[12]


ドロンを担当するようになった経緯ついて、野沢本人は後に「『太陽がいっぱい』で堀勝之祐がドロン、自身がモーリス・ロネを吹き替え放送したところ、しばらくして春日正伸の提案で配役を逆にして録り直し放送した。これで初めてドロンを吹き替え、その後多く吹き替えるようになった」と述べている[13]。ただし、野沢がロネを吹き替えた音源はなく、とり・みきの調査では野沢が初めてドロンを担当したのが『黒いチューリップ』となっているため、真相は不明である。


野沢がドロン担当声優として有名なため、演劇・映画の関係者や評論家、役者たちのコラムや寄稿において「アラン・ドロンから連絡を貰った」「稽古場でアラン・ドロンがソバを食べていた」など、冗談でアラン・ドロン扱いされることも多い。東映制作の特撮テレビドラマ作品『仮面ライダークウガ』(2000年)の第37話では劇中で「アラン・ドロンの声をやっていた人物」として野沢の名前が登場する。また、野沢はドロンがダリダとデュエットし、ヒットしたシングル『あまい囁き(Parole Parole)』の日本語版にも参加している。


アラン・ドロン自身の声は、野沢が演じるものより低い声である。ディレクターも交えて(冗談まじりに)ドロンに似せた低音で演じてみた時、その声で日本語を話すと重くなりすぎ、泥臭く聞こえてドロンの外見のイメージと合わないことがわかった。そこで「ドロンの顔つきや体つきからイメージされる、甘さのある柔らかい雰囲気で」との方向性で声のトーンを決めていったという。「アラン・ドロン自身のような低音でフランス語を話してると響きが良いんですけど、その声で日本語を話すと聞こえ方が違う」と、日本語とフランス語の聴感の違いも感じさせる回答を野沢は述べている。また、ドロンの顔と体のイメージから、演技としても大芝居を避けて「さらりと、さざ波のような感じで声を出そう」という演技方針を固めていったが、「さざ波って言っても難しいんです」とも述べて、持ち役の中でもドロンと同様に二枚目俳優であるロバート・レッドフォードについても「顔がきれいで印象を壊しちゃいけないから、タッチの強い台詞が言えない。いちばん難しい」と語り[11]、二枚目を吹き替える難しさを度々振り返っていた[14]


野沢は「二枚目という端正な魅力を生かすには、汚い日本語では絶対に成立しない。正確にいうと、アラン・ドロンを演じているわけじゃない。彼が映画の中で役を通して表現したかったことを、日本語で表現している」とインタビューで話している[15]


役作りについては「3日前からドロンになれてないと収録できない」と話しており、ドロンが演じた多くの役のような孤独で人間関係には器用でない役を吹き替える際は、当日できるだけ収録本番まで人に会わないように現場に入り、挨拶もほとんどしないという。いわば担当する人物の人間関係そのままに振る舞うという行動で「孤独な役をやるんなら、世間話してると物語に入れないんです」と話している。野沢によると、オードリー・ヘプバーンの吹替で知られる池田昌子も同様の役作りをしており、特に野沢と池田が会話の少ない役で共演する時は、本番以外ではほとんど会話しないという[14]


野沢にとっては、収録の際のマイクに対する立ち方も役作りのひとつになっており、ドロンの吹替の時は大抵左端のマイクを使い、隣の相手役にも敢えて向き合わずに収録するという。その位置は「人と関わらない立ち位置」だといい、「いわば壁を作ってる感じで…相手役の台詞は聞きますが、相手役は見ないし、体も寄せてません。見ながらやると関わってしまうので…」という状態で演技することが多い。作品映像を見ながら演技する吹替現場において孤独な役を吹き替える際には「その位置だと、映像がいちばん遠くなるので合理的じゃないです。でも、そういう他人と関わらない位置でやらないと、やり辛い」とし[14]、先述のレッドフォードを吹き替える際も「(マイクが4本あったら)一番右のマイクに行き、共演者の皆が見える所で演じると、フランクな気持ちになって、楽になってやりやすい」としており、二枚目を吹き替える上での野沢流の“作法”を明かしている[16]


ドロン若き日の代表作『太陽がいっぱい』について、野沢は作品自体、またドロンの演技についても高く評価している。この作品はテレビ放映の機会も多く、テレビ放映用に現在まで少なくとも5ヴァージョンの吹替が製作され、そのうち野沢は3度ドロンを吹き替えている。2008年にこの映画のスペシャル・エディションDVDが製作され、音声特典として“野沢ドロン”の吹替収録が決定、野沢は収録の候補になった1972年収録版と1984年収録版を久々に見直した。1972年版について野沢は「出だしのころの台詞なんて、気恥ずかしい出来です」と当時30代だった自分の演技の未熟さを評し、十年以上を経た84年版での演技のほうが納得できると振り返ったが、72年版で共演のモーリス・ロネを担当した堀勝之祐の芝居の見事さや、同版での自分の演技についても「“一攫千金を狙う貧乏な青年”の雰囲気は、下手なりに出ていたのかなあ」と感じた点を含めて、「サスペンスの雰囲気も出ていて、作品全体としては72年版の方が出来が良い」と最終的に72年版のDVDへの収録に同意したという[14]


2007年、テレビ東京にて『太陽がいっぱい』を“野沢ドロン”で改めて収録・放映する企画が決まり、局側から打診を受けた野沢は「(オリジナルの製作当時20代だった)あの頃のドロンに見合った声と気持ちで演じるのはもう無理」と70歳を翌年に控えた自分の年齢などから断ったが、「今電話でお聞きしてる声なら大丈夫、気持ちもやってみたらきっといけます、また新しくこの作品を作りましょう」と局側から口説かれ、収録に応じたと2008年6月のインタビューで語った[14]。インタビュー当時野沢は自身3度めの『太陽がいっぱい』の仕上がりをまだ見ておらず「見るのが怖い」と明かしていたが、映画は08年7月に放映されている。


幼い頃父を亡くしたという経験がドロンと野沢には共通しており、野沢が生い立ちに言及した際は「共通点があるから、彼の作品を理解しやすいのかもしれない」と振り返っていた[14]


ドロンが日本で本国フランス以上ともいえる人気を博した理由についても野沢なりの分析を述べている。「(ドロンの映画には)泣かせ方というのか、物語に日本的情緒があって、彼は“信義や友情を大事にする熱い男”という役をずっと演じていた」と、当時の日本人に訴えかける男性像だったことを人気の要因として挙げた。また「彼の顔立ちも、本当に外国人という感じじゃなくて、日本人にもいそうな顔立ちだった」ことも観客には親近感があったのでは、と述べている[14]。加えて1980年代のインタビューでは、「最近はアラン・ドロンが映画を撮っても、日本の劇場ではやらないです。お客が入らないらしくてね、今のお客さんとちょっとズレちゃった」とドロンの人気の衰えについても言及し、やや野沢自身の寂しさや長くつきあっているドロンへの愛着を感じさせる回答を残している[13]


以上のように苦労もありながらも、ドロンの作品に多く共感できることや、30年にもわたって関わり続けてきたことなどから「どれだけの人数を吹き替えてきたかわからないけど、アラン・ドロンが一番やりやすいです」と野沢は答えている[14]


担当したドロン作品の中で印象に残っている作品として、冒険活劇としての面白さから『黒いチューリップ』、『アラン・ドロンのゾロ』の2作、また作品の出来栄えに感銘を受けたとして『地下室のメロディ』を挙げ、また「演じていて面白かった」と『ブーメランのように』を、また『高校教師』も印象に残る作品として選んでいる[14]

アル・パチーノ

ドロンと並んで、アル・パチーノの吹替も日本人に一番馴染み深いフィックスとしてファンから高い支持を得ている野沢の持ち役の一つである[17]。パチーノの演技力について野沢は「僕が考える演技の枠を飛び越えてる存在」と語って感嘆していた[14]。パチーノの出世作・代表作となった『ゴッドファーザーシリーズ』でのマイケル・コルレオーネ役は3部作すべてを担当、3作目では長いブランクを経て放送局が日本テレビの『水曜ロードショー』からフジテレビの『ゴールデン洋画劇場』へと変わっても野沢版(日本テレビ版)のキャストが踏襲された[17]上、ソフト版にも同キャストが採用されている。野沢は全シリーズに渡って演じている唯一の人物であるが、1・2作目の市販ソフトに関してはそれまで山路和弘[注 2](DVD版)や森川智之(Blu-ray版)など野沢版とは異なるキャストによる新録版のみの収録に留まっており配役が統一されず、3作目を除くと野沢版のソフトでの鑑賞が不可能となっていた。本シリーズの野沢版はザ・シネマで現代にあわせてHD化・ワイド化(ノートリミングのビスタサイズ)が行われた上で放映された[17]のち、『ゴッドファーザー 吹替完全版 ブルーレイBOX [初回限定盤]』に当時の吹替台本を復刻・縮刷したものを付録として付属した上で全3作を収録したものを発売する予定であったが、中止となる[18]。その後、2017年7月21日にNBCユニバーサル・エンターテイメントジャパンより発売された『ゴッドファーザー45周年記念ブルーレイBOX TV吹替初収録特別版』で初めて1作目の野沢版がソフトに収録されることとなった[19]。なお2作目は現状、野沢版はソフト未収録のままである。


『ゴッドファーザー』で担当した際、パチーノの緻密な表現に接したことを「彼のひとつひとつの演技すべてにはっきりした解釈を要求されて、「お前に演れるか?」と挑まれた思いだった。俳優として、人間としての洞察力まで試された経験」と画面の中のパチーノとの真剣勝負を振り返り、パチーノの演技水準が高いこともあって「芝居が読み取れなくて本当に大変。難しいんだけど、あの芝居に触れられたのはすごい刺激」と語っており、当3部作を「映画の面白さ、演じることの楽しさを一番経験した仕事」として[20]、キャリアの中で一際思い入れの深い仕事に挙げている[11][21]


パチーノの吹替を担当した当初は「どうだ、俺うまいだろう」と得意になって演じていたと振り返っているが、後に野沢はニューヨークブロードウェイでアル・パチーノ本人の出演する『アメリカン・バッファロー』の舞台を鑑賞する。その際、野沢はパチーノの凄まじいマシンガントークと肺活量に脱帽し、「あんたどこで息吸うの?ってくらい。あれ観ちゃうといけないね。巨人ですよ、まさに天才、ほんとに。狂気の如き演技。」とパチーノの技術を高く評価したと同時に、完全に圧倒されたと述べた。その後「この人と同じ芝居なんかやれない、俺には。どうしたもんだろってすごく悩むようになっちゃった。」と葛藤していたものの、それが面白いと感じるようになり、「彼がやっている芝居を日本語でそのまま再現できたら、役者としても面白いし意味もあるんだろうなぁ」と語り、その頃から真面目に、一生懸命に芝居をやるようになり、それからは「一作一作が闘い」もしくは「その人の演技との真剣勝負」という意識でアフレコに挑んでいたとのこと[20][22][23]


男性的で先頭に立つ役柄も多いパチーノの吹替の際は堂々たる雰囲気を心がけ「真ん中のマイクの前に立って、周りを睨みまわすぐらいの気持ちでやらないと、雰囲気が出ない」という[14]


パチーノと同様に演技派俳優として名高いダスティン・ホフマンの吹替も数多く経験、ホフマンを吹替える時も「周りを見ながら演じられる位置」に立って収録すると野沢は語っている[14]。また洋画劇場時代には上記2名と同様にオフ・ブロードウェイで初舞台を踏み、演技派として高い評価を受けているジェームズ・ウッズも持ち役にしており、ウッズの吹替に関しては「彼は普通のセリフの合間に変なブレスを入れて来るのでアテづらい」と難色を示していた[24]。パチーノやホフマンなどの吹替の際は「疲れるけど、大声を出しても大丈夫」[14]もしくは「声がどう出ようが平気な感じがある」[11]とも話して、彼らの芝居を把握したうえであれば思い切った表現を用いても違和感がないと述べており、ドロンなど正統派の二枚目を吹き替える場合との違いを明かしている。


同業者間でも誰もが「アル・パチーノといえば野沢那智」と認識しており、上述の通り『ゴッドファーザー』を2001年の新録で担当した山路和弘は「さぁ、どうしようかな。僕は野沢那智さんみたいにはできないから」と苦悩があったことを明かしており[25]、『ゴッドファーザー テレビ完全版』で一度だけパチーノを吹替えた山寺宏一は、風の噂で山寺が一回演ったことを野沢が耳にしたと聞き、後にとある現場で野沢と共演した際に恐縮していたが「お前なら許す」と言われ、本当に涙が出るほど嬉しかったといい、「頑張れよ」などの激励された時の言葉を一生忘れられない言葉として回想し、「まだまだ全然追いつけませんが、少しでも那智さんに近づけるように僕もがんばっていきたいと思います」と野沢が亡くなった際にコメントを残した[26]。また『フェイク』で野沢のパチーノと共演するジョニー・デップを吹替えた平田広明も、年老いたパチーノを吹替える野沢の芝居を見て「これはやはり一緒に録らないと、那智さんの「圧」が直接ないとできないだろう」と確信し、感銘を受けたと述べた。2000年代前後にテレビ東京の『木曜洋画劇場』で旧作を放映する「20世紀名作シネマ」の枠内での新録版『スケアクロウ』(本作は野沢がパチーノを吹き替えた版は存在しない)において平田はパチーノを吹替えており、その際には「アル・パチーノをやったというよりも那智さんをやらせてもらった、みたいなイメージでとても嬉しかった」と感激したといい、これらのエピソードを踏まえた上で、「まだ新人の頃から一人前の役者として扱っていただいてすごく嬉しかったです。すごい自信になりますよね。大御所に名前を呼び捨てにされるというのはとっても嬉しいですね。『平田、芝居やってんのか』って。まだまだ教えてもらいたいことが沢山あったんですけどね」と悔やみつつ、野沢を偲んだ[27]


2017年からオンデマンド配信されているNetflixのテレビドラマシリーズ『マインドハンター』の第1話では劇中においてパチーノの代表作である『狼たちの午後』が上映される場面が存在する。この日本語吹替版では野沢がパチーノを吹替えたフジテレビ版の吹替音声(1979年「ゴールデン洋画劇場」で初放映)が使用されている。

詳しいことは、『野沢那智ウィキペディア』をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E6%B2%A2%E9%82%A3%E6%99%BA
(wikiより)

0015 野沢那智

⇧ 野沢那智

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山形 勲(やまがた いさお、1915年7月25日 - 1996年6月28日)は、日本の俳優。本名:塙 勲(はなわ いさお)。

来歴

イギリスロンドン生まれ[1]東京市麻布区市兵衛町(現在の東京都港区六本木)出身。父親の山形巌1881年大阪生まれ。少年時代にサーカス団員となり、1917年の帰国まではヨーロッパ各国で軽業師をしていた。ベルリン滞在中に日本から呼んだ女性と結婚。勲は4男3女の次男である。帰国後は「山形ホテル」を1920年に建てた[2]。この本格的洋風ホテルのあった麻布市兵衛町(港区六本木1丁目)には永井荷風の住む偏奇館があり、大正から昭和にかけ正装して食事に訪れる姿を小学生の勲が目撃している。なお、ホテルは世界恐慌の際に廃業した。


1935年
日本俳優学校を卒業[1]兵役を経て1936年東宝劇団に入団した[1]1942年佐佐木隆鈴木光枝山村聰らと劇団文化座を結成[1]。同座には1953年まで在籍した。


1949年
、『斬られの仙太』で映画に初出演した[1]。昭和28年の『地獄門』で注目された[1]。初めは市川崑の監督作品や黒澤明監督の『七人の侍』などに出演していたが、しだいに悪役として注目され[1]、その後は東映時代劇に多く出演、主に悪役として活躍した。


1953年
大映初の総天然色イーストマンカラー映画で第7回カンヌ国際映画祭でグランプリを受賞した映画『地獄門』(衣笠貞之助監督)に京マチ子の夫役で準主演しているが、のちに定着する悪役のイメージとは全く異なる善人を演じている。その代わり、主演の長谷川一夫が悪役を演じている。


時代劇のほか、現代劇でも活躍しており、大学教授・会社重役・高級官僚などの役を演じることが多かった[1]

1976年
公開の山崎豊子原作の映画『不毛地帯』(山本薩夫監督)では仲代達矢演じる主人公・壱岐正を招き入れる近畿商事の大門一三社長を演じている。


テレビドラマにも多く出演している。特に、『剣客商売』では加藤剛演じる剣客・秋山大治郎の父親の秋山小兵衛役で主演[1]。また、『水戸黄門』では第1部から第18部まで柳沢吉保を演じ、はまり役と言われた。


1988年に勲四等瑞宝章を受章した[1]


1995年のNHKドラマ『されどわが愛』のロケ参加後に入院[1]、1996年6月28日午前6時15分に若いころから患っている肺結核のため、東京都府中市東京都立府中病院で死去した。80歳没[3]

人物
・若い頃に肺結核を患い手術で一命を取り留めるが片方の肺を失い、この手術の影響で後年は片方の肩が落ちていたそうである。また、肺結核の手術を受けた時期に新東宝製作で鈴木英夫監督の映画『殺人容疑者』(1952年)の主役である犯人役のオファーを受けているが辞退し、代役を当時まだ新人だった丹波哲郎が演じ映画デビューを飾ることとなった。


・文化座を共に結成した山村聰とは長年のライバルで、山村との共演の話が来ると『いつでも勝負するから四つに組む役を取って来なさい』と意気込んでいたそうである。山形と山村は映画の他にもテレビドラマでも共演しており、1974年放送の『華麗なる一族』では山村は主役の万俵大介を、山形は永田大蔵大臣をそれぞれ演じた。


1972年放送の円谷プロ製作の特撮テレビドラマ『ウルトラマンA』の第14話「銀河に散った5つの星」で防衛組織TACの高倉司令長官役で一回のみゲスト出演。その際、歴代のウルトラシリーズに登場した防衛組織の長官らとは一線を画した傲慢な軍人を演じた。


・出演映画が米国アカデミー賞世界三大映画祭(カンヌ・ベルリン・ヴェネツィア)のすべてで受賞しており、4冠を達成している。


・長男はテレビ朝日プロデューサーの塙淳一

出演
映画
・斬られの仙太(1949年、東宝

・無国籍者(1951年、東横映画) - 諜略部隊隊長

ブンガワンソロ(1951年、新東宝) - 憲兵曹長

・盜まれた恋(1951年、新東宝) - 学芸部長

・リンゴ園の少女(1952年、新芸術プロ) - 友景先生

・泣虫記者(1952年、東映) - デスクの大島

千姫(1953年、宝塚映画) - 速水左馬之介

・韋駄天記者(1953年、東映) - 村田副部長

プーサン(1953年、東宝) - 野毛山

・悲劇の将軍 山下泰文(1953年、東映) - 樺山副官

・新書太閤記 流転日吉丸(1953年、東映) - 築阿弥

・素浪人奉行(1953年、東映) - 水野越前守

天晴れ一番手柄 青春銭形平次(1953年、東宝) - 大久保石見守

・続々魚河岸の石松(1953年、東映) - 警察署取調べ官

人生劇場 第二部(1953年、東映) - 刑事

太平洋の鷲(1953年、東宝) - 機関参謀

地獄門 Gate of Hell(1953年、大映) - 渡辺渡

夜明け前(1953年、新東宝)

・叛乱(1954年、新東宝) - 磯部浅一

・花と波濤(1954年、東宝) - 刑事

・春色お伝の方 江戸城炎上(1954年、新東宝) - 西尾隠岐守

七人の侍(1954年、東宝) - 鉄扇の浪人

・母の秘密(1954年、新東宝) - 検事

・地獄の剣豪 平手造酒(1954年、日活) - 山部幾之進

・愛と死の谷間(1954年、日活) - 保安主任

千姫(1954年、大映) - 坂崎出羽守

・蛍草(1954年、松竹) - 小島博士

怪人二十面相 3部作(1954年、松竹) - 羽柴博士

・三つの愛(1954年、松竹) - 父修平

・若き日の啄木 雲は天才である(1954年、新東宝)

・億万長者(1954年、青俳プロ) - 行政監察委員長

・美男お小姓 人斬り彦斎(1955年、日活) - 前田伊右衛門

浮雲(1955年、東宝) - 伊庭杉夫

・皇太子の花嫁(1955年、新東宝)

・大岡政談 黄金夜叉(1955年、東映) - 高垣備前守

侍ニッポン 新納鶴千代(1955年、東映) - 吉村左馬之助

多羅尾伴内シリーズ(東映)

  ・多羅尾伴内 復讐の七仮面(1955年) - 村尾彦作

  ・多羅尾伴内 戦慄の七仮面(1956年)

  ・多羅尾伴内 七つの顔の男だぜ(1960年) - 大沢警部

楊貴妃(1955年、大映) - 楊銛

・美わしき歳月(1955年、松竹) - 院長

・六人の暗殺者(1955年、日活) - 近藤勇

・終電車の死美人(1955年、東映) - 三井主任

・母水仙(1955年、大映) - 浅井

絵島生島(1955年、松竹) - 山田宗円

青銅の基督(1955年、松竹) - 奉行

・江戸一寸の虫(1955年、日活) - 山岡鉄太郎

・応仁絵巻 吉野の盗賊(1955年、松竹) - 厨子太郎

・かりそめの唇(1955年、松竹) - 北野

・薔薇の講道館(1956年、大映) - 矢野正五郎

宇宙人東京に現わる(1956年、大映)

・浅草の灯(1956年、大映) - 佐々木紅光

警視庁物語 魔の最終列車(1956年、東映) - 森田

・鞍馬天狗 御用盗異変(1956年、東宝) - 松平主税之介

・女の足あと(1956年、松竹)

・刑事部屋(1956年、大映) - 田村警部補

・父子鷹(1956年、東映) - 桜井甚左衛門

大学の石松シリーズ(東映)

  ・大学の石松(1956年) - 次郎長先生

  ・大学の石松 女群突破(1957年) - 清水次郎吉

人妻椿(1956年、松竹)

旗本退屈男シリーズ(東映)

  ・旗本退屈男 謎の幽霊船(1956年) - 孫大人

  ・旗本退屈男 謎の紅蓮塔(1957年) - 藤崎平九郎

  ・旗本退屈男 謎の蛇姫屋敷(1957年) - 柳沢美濃守

  ・旗本退屈男(1958年) - 原口刑部

  ・旗本退屈男 謎の南蛮太鼓(1959年) - 由比道雪

  ・旗本退屈男 謎の大文字(1959年) - 内藤大和守重頼

  ・旗本退屈男 謎の幽霊島(1960年) - 唐金屋浪右衛門

  ・旗本退屈男 謎の暗殺隊(1960年) - 皎雲斎

  ・旗本退屈男 謎の竜神岬(1963年) - 桜井兵部太夫

・妖蛇の魔殿(1956年、東映) - 更科弾正

・朱鞘罷り通る(1956年、東映) - 横井甚兵衛

少年探偵団 妖怪博士 二十面相の悪魔(1956年、東映) - 小泉信太郎

流星空手打ち(1956年、東映)

・恋と金(1956年、大映)

新諸国物語 七つの誓い(東映) - 一文字入道

  ・黒水仙の巻(1956年)

  ・奴隷船の巻(1957年)

  ・凱旋歌の巻(1957年)

・新春オールスター映画(東映)

  ・任侠清水港(1957年) - 都鳥の吉兵衛

  ・任侠東海道(1958年) - 角井門之助

  ・任侠中仙道(1960年) - 松井軍太夫

・炎の氷河(1957年、松竹) - 佐伯兵五郎

・正義派(1957年、松竹) - 係官

いれずみ判官シリーズ(東映)

  ・海賊奉行(1957年) - 梅野五左衛門

  ・御存じ いれずみ判官(1960年) - 大月利左衛門

  ・さくら判官(1962年) - 跡部山城守

(1957年、東映) - 太田松之助

・大名囃子(1957年、東映) - 土方旗十郎

・多情仏心(1957年、東映) - 八田検事

・母と子の窓(1957年、松竹) - 塩沢幾太郎

・日清戦争風雲秘話 霧の街(1957年、東映) - 鬼頭重蔵

・船頭姉妹(1957年、東映) - 金田杉五郎

大菩薩峠(東映) - 神尾主膳

  ・第一部(1957年)

  ・第二部(1958年)

  ・完結篇(1959年)

・満月乙女笠(1957年、東映) - 鯛沢善兵衛

ゆうれい船(東映)

  ・前篇(1957年) - 赤鼻玄蕃

  ・后篇(1957年) - 弥三蔵

・天狗街道(1957年、東映) - 小田井の岩太郎

富士に立つ影(1957年、東映) - 玉置左内

・恋風道中(1957年、東映) - 天城の五郎丸

・気違い部落(1957年、松竹) - 野村良介

・朝晴れ鷹(1957年、東映) - 菊村正之進

・花吹雪鉄火纏(1957年、東映) - 山崎屋茂助

・神変麝香猫(1958年、東映) - 丸橋忠弥

・素っ飛び笠(1958年、東映) - 木曾の大五郎

・千両獅子(1958年、東映) - 鳥居甲斐守

・江戸の花笠(1958年、東映) - 大杉伝右衛門

丹下左膳シリーズ(東映)

  ・丹下左膳(1958年) - 峰丹波

  ・丹下左膳 怒濤篇(1959年) - 鈴川源十郎

  ・丹下左膳 妖刀濡れ燕(1960年) - 大岡越前守

  ・丹下左膳 濡れ燕一刀流(1961年) - 柳生対馬守

・葵秘帖(1958年、東映) - 藤田東湖

・大江戸七人衆(1958年、東映) - 松平帯刀

・伊那の勘太郎(1958年、東映) - 大和田重兵衛

・鶯城の花嫁(1958年、東映) - 尾形主膳

・清水港の名物男 遠州森の石松(1958年、東映) - 都鳥の吉兵衛

・新撰組(1958年、東映) - 土方歳三

・怪傑黒頭巾シリーズ(東映)

  ・怪傑黒頭巾(1958年) - 間部主税介

  ・怪傑黒頭巾 爆発篇(1959年) - 水野主膳

・喧嘩太平記(1958年、東映) - 鳳左次馬

・大東京誕生 大江戸の鐘(1958年、松竹) - 榎本武揚

裸の太陽(1958年、東映) - 運転助役

・隠密七生記(1958年、東映) - 久世右馬之丞

・今は名もない男だが(1958年、東映) - 兵頭教授

一心太助シリーズ(東映) - 松平伊豆守

  ・江戸の名物男 一心太助(1958年)

  ・一心太助 天下の一大事(1958年)

  ・一心太助 男の中の男一匹(1959年)

  ・一心太助 男一匹道中記(1963年)

点と線(1958年、東映) - 安田辰郎

・修羅八荒(1958年、東映) - 松平安芸守

・浅間の暴れん坊(1958年、東映) - 越生の虎五郎

殿さま弥次喜多 捕物道中(1959年、東映) - 垣内権兵衛

忠臣蔵 桜花の巻・菊花の巻(1959年、東映) - 不破数右衛門

・大名シリーズ(東映)

  ・あばれ大名(1959年) - 加藤義明

  ・あらくれ大名(1960年) - 板倉伊賀守勝重

  ・鉄火大名(1961年) - 黒田三左衛門

・美男城(1959年、東映) - 竹中内蔵之介

右門捕物帖シリーズ(東映) - 松平伊豆守

  ・右門捕物帖 片目の狼(1959年)

  ・右門捕物帖 地獄の風車(1960年)

  ・右門捕物帖 南蛮鮫(1961年)

新吾十番勝負(東映) - 梅井多門

  ・新吾十番勝負(1959年)

  ・新吾十番勝負 第二部(1959年)

  ・新吾十番勝負 第三部(1960年)

  ・新吾二十番勝負 完結篇(1963年) - 弘徳

・あばれ街道(1959年、東映) - 成瀬隼人正

・お役者文七捕物暦 蜘蛛の巣屋敷(1959年、東映) - 水野和泉守

・独眼竜政宗(1959年、東映) - 畠山義継

・素晴らしき娘たち(1959年、東映)

・伊達騒動 風雲六十二万石(1959年、東映) - 酒井雅楽頭

疑惑の夜(1959年、東映) - 大滝組社長

・水戸黄門漫遊記シリーズ(東映)

  ・水戸黄門 天下の副将軍(1959年) - 佐伯将監

  ・水戸黄門(1960年) - 金井将監

・血斗水滸伝 怒濤の対決(1959年、東映) - 大前田の英五郎

・榛名ばやし 喧嘩鷹(1959年、東映) - 平原権十郎

・大岡政談 千鳥の印籠(1959年、東映) - 大岡越前守

・天下の伊賀越 暁の血戦(1959年、東映) - 阿部四郎五郎

・百万両五十三次(1959年、東映) - 柳川隼人

・血槍無双(1959年、東映) - 猿橋右門

・緋鯉大名(1959年、東映) - 稲葉主膳

・江戸の悪太郎(1959年、東映) - 秋山典膳

・ひばり十八番 弁天小僧(1960年、東映) - 浜松屋幸兵衛

・浪人市場 朝やけ天狗(1960年、東映) - 黒川内記

・白い崖(1960年、東映) - 岡林専務

・天保六花撰 地獄の花道(1960年、東映) - 山崎和膳

・さいころ無宿(1960年、東映) - 国定忠治

・酒と女と槍(1960年、東映) - 石田三成

・大岡政談 魔像篇(1960年、東映) - 脇坂淡路守

・暴れん坊兄弟(1960年、東映) - 稲葉兵部

・旅の長脇差 花笠椿(1960年、東映) - 堀留の長五郎

・ひばり捕物帖 折鶴駕籠(1960年、東映) - 由比正雪

壮烈新選組 幕末の動乱(1960年、東映) - 芹沢鴨

・黒部谷の大剣客(1960年、東映) - 裏金座の雲右衛門

・庄助武勇伝 会津磐梯山(1960年、東映) - 駒田主水

・天竜母恋い笠(1960年、東映) - 飯田屋熊五郎

・森の石松 鬼より恐い(1960年、東映) - 清水の次郎長

・江戸の朝潮(1960年、東映) - 土橋大学

・若き日の次郎長シリーズ(東映)

  ・若き日の次郎長 東海の顔役(1960年) - 伝兵衛

  ・若き日の次郎長 東海道のつむじ風(1962年) - 猿屋勘助

若さま侍捕物帖シリーズ(東映)

  ・若さま侍捕物帖(1960年) - 鈴木采女

  ・若さま侍捕物帖 黒い椿(1961年) - 新三

  ・若さま侍捕物帖 お化粧蜘蛛(1962年) - 唐津屋十兵衛

・家光と彦左と一心太助(1961年、東映) - 鳥居土佐守成次

・江戸っ子肌(1961年、東映) - 中原扇十郎

・江戸っ子奉行 天下を斬る男(1961年、東映) - 竜神の虎五郎

赤穂浪士(1961年、東映) - 片岡源五右衛門

・月形半平太(1961年、東映) - 田代源八

・白馬城の花嫁(1961年、東映) - 昇り竜の富蔵

・ちゃんりんこ街道(1961年、東映) - 鬼がわらの弥曽吉

・はやぶさ大名(1961年、東映) - 森川但馬守

・幽霊島の掟(1961年、東映) - 周陽伯

・モーガン警部と謎の男(1961年、東映) - 周

・ヒマラヤ無宿 心臓破りの野郎ども(1961年、ニュー東映) - 大竹社長

・口笛を吹く無宿者(1961年、東映) - 月輪主膳

・べらんめえ中乗りさん(1961年、東映)

・ひばり・チエミの弥次喜多道中(1962年、東映) - 和泉屋多左衛門

瞼の母(1962年、東映) - 息羽田要助

・美男の顔役(1962年、東映) - 河内山宗俊

・天下の御意見番(1962年、東映) - 鮫州重左衛門

・きさらぎ無双剣(1962年、東映) - 水野和泉守

太平洋のGメン(1962年、東映) - 陳社長

・あの空の果てに星はまたたく(1962年、東映)

・あべこべ道中(1962年、東映) - 伊勢伊勢守

源九郎義経(1962年、東映) - 藤原秀衡

・胡蝶かげろう剣(1962年、東映) - 霊岸島の喜六

・まぼろし天狗(1962年、東映) - 田沼意次

・八月十五日の動乱(1962年、東映) - 陸軍大臣

柳生武芸帳シリーズ(東映)

  ・柳生武芸帳 独眼一刀流(1962年) - 山田浮月斎

  ・柳生武芸帳 片目の十兵衛(1963年) - 伊達政宗

  ・柳生武芸帳 剣豪乱れ雲(1963年) - 山田浮月斎

・次郎長と小天狗 殴り込み甲州路(1962年、東映) - 黒駒の勝蔵

・鉄火若衆(1962年、東映) - 松原大学

・血煙り笠(1962年、東映) - 田尻の平八

・お坊主天狗(1962年、東映) - 念沢修理介

・地獄の影法師(1962年、東映) - 二階堂鉄馬

・若ざくら喧嘩纏(1962年、東映) - 筒井伊賀守

・浪人街の顔役(1963年、東映) - 塚越四郎左衛門

・五人のあばれ者(1963年、東映) - 飯塚五郎太夫

・最後の顔役(1963年、東映)

・用心棒市場(1963年、東映) - 金井陣左衛門

・若様やくざ 江戸っ子天狗(1963年、東映) - 影山将監

宮本武蔵 一乗寺の決斗(1964年、東映) - 壬生源左衛門

ジャコ萬と鉄(1964年、東映) - 九兵衛

・第三の忍者(1964年、東映) - 祝部源太夫

二十一歳の父(1964年、松竹)

さすらいの賭博師(1964年、日活) - 浅野

・敗れざるもの(1964年、日活) - 沖山博士

・さまざまの夜(1964年、松竹)

・男の紋章 花と長脇差(1964年、日活) - 渋沢男爵

忍びの者 伊賀屋敷(1965年、大映) - 松平伊豆守

・その口紅が憎い(1965年、松竹) - 宮下

大根と人参(1965年、松竹)

ウナ・セラ・ディ東京(1965年、松竹)

水で書かれた物語(1965年、中日映画社) - 橋本伝蔵

・春一番(1966年、松竹)

暖春(1966年、松竹)

座頭市海を渡る(1966年、大映) - 藤八
上意討ち 拝領妻始末(1967年、東宝) - 土屋庄兵衛

・春日和(1967年、松竹)

・陸軍中野学校 密命(1967年、大映)

・ある殺し屋の鍵(1967年、大映)

・残雪(1968年、日活)

・爽春(1968年、松竹)

・いつか来るさよなら(1969年、松竹)

幕末(1970年、中村プロ) - 山田広衛

東京⇔パリ 青春の条件(1970年、松竹)

子連れ狼 死に風に向う乳母車(1972年、勝プロ) - 猿渡玄蕃

しあわせの一番星(1974年、松竹)

球形の荒野(1975年、松竹)

不毛地帯(1976年、東宝) - 大門近畿商事社長

徳川一族の崩壊(1980年、東映) - 板倉静勝

ちゃんばらグラフィティー 斬る!(1981年、東映)

La Truite(1982年、フランス映画)※大阪ヨーロッパ映画祭で上映され日本ロケも行われた

詳しいことは、『山形 勲ウィキペディア』をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%BD%A2%E5%8B%B2
(wikiより)

0014 山形勲

⇧ 山形 勲

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本名岡田 八郎
別名義江戸家小猫(初代)
生年月日1949年11月30日
没年月日(2016-03-21) 2016年3月21日(66歳没)
出身地東京都中央区
言語日本語
最終学歴玉川学園
師匠三代目江戸家猫八(父)
芸風声帯模写
事務所落語協会
過去の代表番組テレビ
キンカン素人民謡名人戦
Theゲームパワー
親族江戸家まねき猫(妹)
三遊亭歌司(義兄)
弟子二代目江戸家小猫(長男)
受賞歴
文化庁芸術祭賞優秀賞(2004年)


四代目江戸家 猫八
(よだいめ えどや ねこはち、1949年11月30日 - 2016年3月21日)は、動物の声帯模写を得意とする、落語協会所属の演芸家、司会者である。旧名を初代江戸家小猫(えどや こねこ)と称し、2009年(平成21年)四代目江戸家猫八を襲名した。本名は岡田八郎(おかだ はちろう)。東京都中央区出身。出囃子は「猫じゃ猫じゃ」。

人物

親子代々で「動物ものまね芸」を生業とする。祖父が初代 江戸家猫八、父が三代目 江戸家猫八。妹も物真似芸人で、江戸家まねき猫という芸名である。落語協会に所属。姉の夫は落語家の三遊亭歌司


1968年
玉川学園を卒業後、父親の三代目猫八に弟子入りした。風間杜夫とは中高の6年間玉川学園の同窓生(クラスが同じになったこともある)で、共に演劇部に在籍した[1]


司会者
としても活躍し、特に1991年より2001年9月まで、テレビ東京のテレビゲーム紹介番組『Theゲームパワー』から後継番組を含め約10年半司会を務めた。


2001年
に三代目猫八が死去。葬儀の際、出棺に当たっての挨拶の最後で、声帯模写の代表作であるウグイスの鳴きまねを行い、師匠であり実父である三代目を送った。


2004年
文化庁芸術祭賞優秀賞受賞。


2009年11月1日に四代目猫八を襲名した。襲名については先代(三代目猫八)から生前「俺が88歳になったらお前に猫八(の名)をやる。俺は八十八(やそはち)を名乗るから」と言われていた。そして2009年は先代が存命ならば88歳を迎えていて、自らも還暦を迎えることから襲名を決意した旨を明かしている[2]。彼の襲名興行は変則的で、寄席における定席(定期公演)の番組は通常10日間のところその5日間のみに出演するというものであった。これにより東京の定席4つ(鈴本演芸場浅草演芸ホール新宿末廣亭池袋演芸場)の寄席を5日ずつ回り、計20日間務めた。


2011年
3月、舞台修行をしていた長男・真一郎が、自身の初名である「江戸家小猫」の二代目を襲名した[3]


2016年3月8日放送のテレビ朝日系『徹子の部屋』に長男の二代目小猫とともに出演(収録は同年2月18日)。これが最後の仕事となった[4]


『徹子の部屋』出演から13日後の3月21日、進行性胃癌のため死去[4][5][6][7]。66歳没。

出演
映画
男はつらいよ 寅次郎忘れな草(1973、山田洋次監督)

かあちゃん(2001、市川崑監督)

・涙の数だけ笑おうよ(2016年9月3日、ドキュメンタリー映画) [8]

テレビ
火曜日の女シリーズ / クラスメート -高校生ブルース-(1971年、NTV)

すし屋のケンちゃん(1971年3月 - 1972年2月)

剣客商売 第12話「おかしな入門者」(1973年)- 小金吾 役

非情のライセンス 第1シリーズ 第39話「兇悪のライフル」(1973年)

はじめまして(1975年)

必殺シリーズABC / 松竹)

  ・必殺からくり人・富嶽百景殺し旅(1978年) - 鈴平 役

  ・必殺仕事人 第35話「飛技万才踊り攻め」(1980年) - かめ三 役

  ・必殺仕事人IV 第31話「加代、幽霊になる」(1984年) - 長吉 役

連続テレビ小説(NHK)

  ・マー姉ちゃん(1979年、第23作) - 栄一 役

西田敏行の泣いてたまるか 第11話「犬ちゃん恋におちて」(1987年)

笑点

初詣!爆笑ヒットパレード

まんがジョッキー

キンカン素人民謡名人戦

おもしろ漢字ミニ字典

Theゲームパワー

ゲーム王国

ゲームEX

レディス4

北野タレント名鑑

金曜バラエティー

土曜スペシャル 夫人との旅行出演

ラジオ深夜便(2009年12月26日・27日)

徹子の部屋(2016年3月8日) 長男の二代目小猫とともに出演[9]。これが最後のテレビ出演となった[4]

CM
グンゼ(1981年)- 三代目江戸家猫八と共演

マルキユー(釣り餌)

浅田飴(浅田飴)

キンカン本舗(金柑のど飴)

吉野石膏(ニューラスボード&YNプラスター) - 三代目江戸家猫八と共演

インターネット
お台場寄席DOUGAフジテレビ無料動画サイト「見参楽みさんが!)」)

著書
・されど、鶯は鳴きやまず 〜ものまね芸四代〜(2009年12月、角川書店)ISBN 978-4048850438 

・猫の鳥談義(2014年6月、文一総合出版)ISBN 978-4-8299-7101-7

エピソード
・『Theゲームパワー』の司会を務めていた当時、小猫のやる気の感じられない司会ぶりを『電気グルーヴのオールナイトニッポン』などでよくネタにされていた。

・2000年代の深夜番組「北野タレント名鑑」(フジテレビ)にて、司会のガダルカナル・タカが毎回名前の頭文字が違う芸能人に電話をかけノーギャラ前提での出演交渉を行うクイズ企画があり、その交渉すべく人選に苦慮すると、タカは「え」の回でもないのに小猫によく電話をし「すいません師匠、ちょっと人選が思うように行かなくてですね、番組の進行には関係ないんですがウグイスの声を聞きたくてお電話しました」と言っていた。毎回その問いかけに「あ、いいですよ。」と二つ返事で電話口で芸を披露していた。

脚註
1. 三遊亭小円歌演芸図鑑』(2014年3月15日、NHK)
2. “江戸家小猫が猫八襲名を発表”. nikkansports.com (日刊スポーツ新聞社). (2009年1月19日). https://www.nikkansports.com/entertainment/news/f-et-tp0-20090119-451635.html 2021年10月21日閲覧。 
3. 二代目江戸家小猫、29日デビュー[リンク切れ] 産経新聞 2011年3月26日閲覧
4. a b c “江戸家猫八さん死去 ウグイス声帯模写、66歳進行性胃がん”. スポーツ報知. (2016年4月1日). http://www.hochi.co.jp/entertainment/20160401-OHT1T50035.html 2016年4月1日閲覧。 
5. 江戸家猫八 訃報”. 一般社団法人 落語協会 (2016年3月31日). 2021年10月21日閲覧。
6. “四代目江戸家猫八さん死去 進行胃がんで 66歳”. 東スポWeb (東京スポーツ新聞社). (2016年3月31日). https://www.tokyo-sports.co.jp/entame/525102/ 2021年10月21日閲覧。 
7. “四代目江戸家猫八さん死去 66歳 ウグイスの声帯模写など”. スポーツニッポン. (2016年3月31日). http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2016/03/31/kiji/K20160331012317020.html 2016年4月1日閲覧。 
8. “41歳で脳出血…林家かん平ドキュメンタリー完成”. 日刊スポーツ. (2016年8月29日). http://www.nikkansports.com/entertainment/news/1701843.html 2016年8月29日閲覧。 
9. 3月8日(火) 江戸家猫八(えどや ねこはち) 江戸家小猫(えどや こねこ)”. 徹子の部屋. バックナンバー. テレビ朝日 (2016年3月8日). 2021年10月21日閲覧。

外部リンク
江戸家猫八 - 落語協会
(wikiより)

0008 四代目・江戸屋猫八

⇧ 四代目・江戸屋猫八

0008a

0008b



3代目江戸家 猫八(さんだいめ えどや ねこはち、1921年10月1日 - 2001年12月10日)は、物真似師、俳優落語芸術協会に所属していた。本名は岡田 六郎(六男だったため、六郎と名付けられる)。愛称は江戸猫。

来歴・人物
父は初代江戸家猫八。落語家の三遊亭歌司は長女の夫、四代目江戸家猫八(初代江戸家小猫)は長男、江戸家まねき猫は次女、江戸家猫ハッピーは三女、二代目江戸家小猫は孫(4代目猫八の長男)。

略歴
・1940年 古川緑波一座に入団し、俳優となる。

・1942年 召集により南方戦線を転々とする。ラバウル・北千島の輸送任務では九死に一生を得る。

・1945年 広島市宇品(現在の南区宇品)の大日本帝国陸軍船舶司令部(正確には陸軍船舶砲兵連隊 / 通称「暁部隊」)兵長として軍務中の8月6日被爆

・1950年 父の弟子であった2代目猫八(木下華声)から、父の物真似芸を継ぐよう薦められ、芸を教わって寄席修行をし、この年に、3代目江戸家猫八を襲名。

・1956年 三遊亭小金馬一龍斎貞鳳とNHK「お笑い三人組」(八ちゃん役)に出演。11年つづく。

・1979年 落語協会から落語芸術協会に移籍。落語協会では色物に舞台の主任(トリ)をとらせない決まりがあったため、色物でも主任をとることができる落語芸術協会に移籍した。

 ・第34回文化庁芸術祭大衆芸能部門優秀賞受賞。

・1981年 第36回文化庁芸術祭大衆芸能部門優秀賞受賞。

・1982年 第2回花王名人大賞(関西テレビ)諸芸部門名人賞受賞。

・1986年 第2回浅草芸能大賞大賞受賞。

・1988年 紫綬褒章を受章。

・1994年 勲四等旭日小綬章を受章。

・2001年 12月10日、心不全のため東京都青梅市の病院で逝去。80歳没。墓所は父と同じ雑司ヶ谷霊園

広島での被爆
広島に原爆が投下された1945年8月6日当時、23歳の猫八は同市内宇品(現・広島市南区)に駐屯する陸軍船舶砲兵第1連隊(暁2953部隊)の「岡田六郎兵長」として軍務に従事していた。当日朝は地方巡業中の移動劇団「桜隊」の一員として広島に滞在していた旧知の女優・園井恵子と会う予定であったが、前日の軍旗祭(連隊記念祭)で声帯模写を披露し獲得した優勝賞品の酒を飲み過ぎ、二日酔いで寝坊したため朝の点呼に遅刻し園井と会うことができなくなった。そして部下の初年兵に起こされた直後に原爆投下に遭遇した(このとき園井は爆心地に近い宿舎で被爆し、神戸まで避難したものの8月21日に原爆症で死去)。


しかし連隊が置かれていた宇品は爆心地から3km以上隔たっていたため直接の被害は少なく、猫八は比治山町船舶砲兵団司令部との連絡を取るため御幸橋方面の被害状況の偵察を上官から命じられ、初めて惨状を目の当たりにすることになった。その後彼は暁部隊の一員として市内の救援・医療活動に動員されたため、市内に高度に残留していた放射線に被曝、復員後は生涯にわたって二次被爆が原因と思われる体調不良と戦い続けることとなった。


被爆時・事後の救援・医療活動動員での体験は、猫八にとってあまりにも悲惨で生涯トラウマとなるほど忌まわしいものであったため、長い間この体験は語られなかったが、後年「兵隊ぐらしとピカドン」「キノコ雲から這い出した猫」を著して自らの被爆当時を記している(同様に暁部隊の一員として被爆した人物には、司令部付きの兵卒であった思想史家・丸山真男がいる)。

出演ドラマ
テレビドラマ
・母帰る

・アッちゃんシリーズ

快獣ブースカ(1966年 - 1967年) - 屯田栄之助

ウルトラマン 第37話「小さな英雄」(1967年) - 友好珍獣 再生ピグモンの鳴き声 役[1]

特別機動捜査隊

五番目の刑事 第8話「その玩具に手を出すな」(1969年、NET / 東映) - 伊沢茂夫 役

時間ですよ

繭子ひとり

・花よりだんご

・チャコちゃんシリーズ

鬼平犯科帳(松本白鸚 版)(1969年 - 1972年、NET/ 東宝) - 三次郎 役

  ・第61話「あほうがらす」(1970年)- 和泉屋万右衛門 役

非情のライセンス 第1シリーズ 第39話「兇悪のライフル」(1973年) - 宮寺 役

俺たちの朝

連続テレビ小説(NHK)

マー姉ちゃん(1979年、第23作) - 植辰

鬼平犯科帳(萬屋錦之介 版)

  ・第1シリーズ 第9話「敵」(1980年)

  ・第2シリーズ 第23話「金太郎そば」(1981年) - 藁馬の重兵衛 役

西田敏行の泣いてたまるか 第6話「こちら突撃リポーター」(1986年、TBS

鬼平犯科帳(中村吉右衛門 版)(1989年 - 2001年、フジテレビ) - 相模の彦十 役

イキのいい奴

剣客商売(藤田まこと版) - 嘉助 役(第3シリーズまで)

春の一族

必殺仕事人 第35話「飛技万才踊り攻め」 - つる吉役(1979年)

必殺仕事人IV 第7話「主水 忘年会の幹事でトチる」 - ピン助役

ジャンボーグA 第20話「ポンコツ自動車の大反乱!」 - 敬介役

ウルトラマンタロウ 第26話「僕にも怪獣は退治できる!」 - 竹雄の父・仙吉役

ダンナ様は18歳

火曜サスペンス劇場日本テレビ

  ・「松本清張スペシャル・山峡の湯村」(1992年) - 梅田敏治 役

  ・「下町葬儀屋事件簿」(1995年) - 瀬田龍三 役

  ・「地方記者 立花陽介⑥ 鎌倉湘南通信局」(1995年) - 山野厳 役

ほか


その他のテレビ番組
お笑い三人組

歌のグランプリショー - 司会者

ひょっこりひょうたん島 ネンネ役

笑点 - 2000年12月17日放送回に親子で出演した

映画
・剣豪対豪傑 誉れの決戦(1956年)

・花嫁は待っている(1957年)

・お笑い三人組(1958年)

・大笑い捕物帖(1958年)

負ケラレマセン勝ツマデハ(1958年)

・銭形平次捕物控 雪女の足跡(1958年)

・大江戸千両祭(1958年)

初春狸御殿(1959年)

・落語天国紳士録(1960年)

・俺は都会の山男(1961年)

・お笑い三人組 怪しい奴にご用心(1961年)

・お笑い三人組 泣き虫弱虫かんの虫の巻(1961年)

・カミナリお転婆娘(1961年)

・大学かぞえうた 先輩・後輩(1962年)

・腰抜けガン・ファイター(1963年)

・海抜0米(1964年)

・雨の中の二人(1966年)

・友を送る歌(1966年)

・北国の旅情(1967年)

・残雪(1968年)

・続・与太郎戦記(1969年)

・満願旅行(1970年)

・喜劇 三億円大作戦(1971年)

若大将対青大将(1971年)

伊豆の踊子(1974年)

・茗荷村見聞記(1979年)

・港町紳士録(1979年)

・お母さんのつうしんぼ(1980年)

・ヒロシマのたたかい はだしのゲン PART3(1980年)

裸の大将放浪記(1981年)

・ユッコの贈りもの コスモスのように(1982年)

お葬式(1984年)

みんなあげちゃう(1985年)

塀の中の懲りない面々(1987年)

釣りバカ日誌(1988年)

公園通りの猫たち(1989年)

せんせい(1989年)

RAMPO(1994年)

億万長者になった男。(1994年)

・大夜逃 夜逃げ屋本舗3(1995年)

鬼平犯科帳 劇場版(1995年)

・出現!東京龍 TOKYO DRAGON(1997年)

どら平太(2000年)

CM
グンゼ(1981年)- 初代江戸家小猫(現:四代目江戸家猫八)と共演

マルキュー(釣り餌)

吉野石膏(ニューラスボード&YNプラスター) - 初代江戸家小猫(現:四代目江戸家猫八)と共演

著書
・吾輩は猫ではない ポプラ社, 1983.2

・兵隊ぐらしとピカドン 吾輩は猫ではない2 ポプラ社, 1983.8

・二足のわらじをはいた猫 吾輩は猫ではない3 ポプラ社, 1984.2

・魚に釣られた猫 猫八のおもしろ釣れづれ人生 桃園書房, 1985.6

・おかあちゃんは二人いらない 筑摩書房, 1986.8

・猫とまたたび 筑摩書房, 1989.9

・キノコ雲から這い出した猫 中央公論社, 1995.8

CD
・お笑い百貨事典7 昭和34年〜39年 テレビ・コメディーブーム 2000

  ・「動物ものまね」を収録

DVD
・昭和名人芸大全~珍芸・奇芸・ビックリ芸~五日目 木村万里、江戸家猫八、ゼンジー北京ボンサイト 2002

・NHK想い出倶楽部~昭和30年代の番組より~(5)お笑い三人組 江戸家猫八、一龍斎貞鳳三遊亭小金馬楠トシエ 2003

その他
自ら車の運転をしていたが、自宅の車庫が非常に狭く、常に車庫入れの際は車庫の壁と車の隙間が数センチ単位での微調整を余儀なくされており、車庫入れの模様をワイドショーやバラエティー番組などで放送されることもあった。


中央競馬
馬主としても活動しており、中央競馬で10勝を挙げた他京成杯3歳ステークス東京4歳ステークスで2着に入ったキヤツトエイト(同馬の甥にオペックホースがいる)などを所有した。


鬼平犯科帳』に出演していたこともあり、所属していた落語芸術協会の同僚である桂歌丸から中村吉右衛門のサインをもらってほしいと仲介役を頼まれたことがあったという。これは吉右衛門と歌丸の接点が直接なかったためとのことだが、猫八没後に吉右衛門は「(歌丸が)照れ屋さんだったんでしょうね」と頭をなでながら語っている。


実は猫が苦手で、猫好きの三女江戸屋猫ハッピーが保護した捨て猫を飼うことに反対していたが、結局名前も付けて家に迎えたことがある。[2]

脚注
1. 満田かずほ監督談、『NIKKEI×BS LIVE 7PM』2012年7月5日(BSジャパン)。
2. がんで闘病時、猫が元気をくれた 江戸家猫ハッピーさんのにぎやかで夢中だった日々”. 朝日新聞 (2021年4月22日). 2021年4月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年5月1日閲覧。

関連項目
柳家小さん (5代目) - 二・二六事件時、一兵卒として反乱軍に動員され警視庁占拠に参加。そのさい上官の命で落語を独演させられた。

喜味こいし - 広島で少年兵として教育中に爆心地近くの兵舎で被爆したが、救出され九死に一生を得た。

江戸家猫八 (初代)

木下華声 - 二代目の猫八

外部リンク
ヒロシマ新聞 - 岡田六郎兵長(江戸家猫八)の証言

江戸家猫八 - NHK人物録
(wikiより)

0007 三代目・江戸屋猫八

⇧ 三代目・江戸屋猫八

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本名 長谷川 栄太郎
生年月日 1911年7月6日
没年月日 (1986-05-27) 1986年5月27日(74歳没)
師匠 2代目三遊亭金馬
5代目三升家小勝
江戸家猫八
弟子 タイヘイトリオ
名跡 1.三遊亭金時
2.三升家勝頼
3.江戸家小猫八
4.2代目江戸家猫八(1931年 - 1933年)
5.木下華声(1933年 - 1986年)
家族 2代目春風亭大与枝



木下 華声(きのした かせい、1911年明治44年)7月6日 - 1986年昭和61年)5月27日[1])は、物真似師、漫談家。本名は長谷川 栄太郎。一時は、2代目江戸家猫八を襲名していた。


落語研究家の野村無名庵はおじにあたる。また、久保田万太郎鴨下晁湖阿木翁助等に愛された浅草の豚カツ屋、「柳とんかつ」の主人はいとこ。

経歴・人物

東京出身[1]。父は柳派寄席五厘(事務員)をやっていた2代目春風亭大与枝で、芸人のプロデューサー的な役割を担っていて「頭取」と呼ばれ、落語界に大きな力を持っていた。彼の功績には、3代目柳家小さんを真打にして世に出したこと、当時皇族向けにしか芸を見せず「御止芸」といわれていた「琵琶節」を寄席に出したこと[2]、そして大道で芸をしていた初代江戸家猫八を発掘して寄席に出したこと、などがあるという。また、初代快楽亭ブラック、毒婦・花井お梅日清戦争の英雄・原田重吉などを寄席に出演させたのも、大与枝だという。


だが、1917年大正6年)に大与枝は初代伊藤痴遊と衝突。「五厘」は不要となり、一家は没落する。


そのため、2代目三遊亭金馬に入門し、三遊亭金時と名乗った。後に5代目三升家小勝の門で勝頼と名乗る。

大正14、15年頃に、父の縁がある初代江戸家猫八一座で小猫八と名乗る。


1931年(昭和6年)に2代目を襲名し上野鈴本演芸場で襲名披露を行なう。だが、1933年(昭和8年)、「東宝名人会」に出演するにあたり、「猫八」という名前は「砂の芸(大道芸)の名前だから」と言われて拒否される。そのため、久保田万太郎に相談して徳川夢声の向こうを張った「木下華声」の名をもらって一時的に名乗る。以降、「物真似」以外の仕事をする際は、この名前を使うこととなった。


この頃、夢声主催の「談譚集団」という漫談研究会に入り、5代目蝶花楼馬楽(後の林家彦六)らと漫談修行をする。


1935年
(昭和10年)には「あきれたぼういず」等のボーイズ物の流行にのり、吉本興業東京吉本)に入社して「ザツオン・ブラザース」を結成。1940年(昭和15)には松竹系の新興演芸に移り、やはりボーイズの「あひる艦隊」を結成。


また、物真似芸を活かしてPCL・東宝映画で「効果」の仕事を多くし、山本嘉次郎監督の『吾輩は猫である』(1936年)では猫の鳴き声を担当した。


1944年(昭和19年)に浅草・常盤座で軽演劇の俳優をやり、左卜全と共演。また同年に「教育召集」され、歩兵軽機関銃部隊に配属される。同じ隊に、木谷実並木一路今井正がいた。朝鮮に配置されるが3ヶ月で除隊。

なお、1945年(昭和20年)の終戦間際に「8月15日入隊」の召集令状が来たため、親友で日本放送協会(NHK)の名アナウンサー和田信賢に別れの挨拶にいったところ、いわゆる「玉音放送」の進行を担当することになっていた和田は「心配ないよ。戦争はもうすぐ終りだ」と内緒で教えた。8月12日には、NHKラジオで「猫八入隊」の特別番組に出演したが、終戦が近いことを知っているスタッフから「米軍機撃墜や、東條英機の物真似は止めてくれ」といわれたという。


また、戦後は古川ロッパの劇団で本名の「岡田六郎」名で役者をやっていた初代猫八の実子を弟子にして芸を伝え、1950年(昭和25年)に3代目の名を譲る。


以後は「木下華声」一本で漫談、声帯模写に活躍した。NHKラジオでは、2代目広沢虎造榎本健一3代目金馬大河内伝次郎5代目小さんらの声帯模写をしながら、「石川五右衛門」などのストーリーを演じた。

1969年(昭和44年)頃からは「巷談」と称して、市井の出来事や芸人の内幕などを話す芸を行った。

幼少期からの芸人であったこともあり、また、様々な仕事をしたため芸界に交流が深く、久保田万太郎に可愛がられ、また、高見順安藤鶴夫らとも懇意な仲であった。また、徳川夢声、榎本健一、山本嘉次郎らからも目をかけられた。


また、和田信賢、5代目一龍斎貞丈とは兄弟分の仲。2代目虎造(まだ売り出す前からの交友)、4代目鈴々舎馬風森川信らが親友で、その他にも多くの芸人と親交があった。

森川信とは、2人で戦争中に、サトウハチローの弟で破滅的な生き方をした佐藤節[3]の世話になったこともあった。


弟子にはタイヘイトリオの洋児がいる。その弟子筋はタイヘイ一門といわれ多くの弟子を育てた。

出演
フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ(1966年、東宝) - サンダの子供の声

出典
・木下華声『芸人紙風船』大陸書房 

・諸芸懇話会、大阪芸能懇話会共編『古今東西落語家事典』平凡社ISBN 458212612X

脚注
1. a b デジタル版 日本人名大辞典+Plus
2. 高峰三枝子の父親である高峯筑風が出演した。
3. この人物については、佐藤愛子による、佐藤家の歴史を描いた小説『血脈』に詳しい。1945年(昭和20年)旅行先の広島原爆投下により被爆死した。
(wikiより)

0006 二代目・江戸屋猫八(木下華声)

⇧ 真ん中 ( ギターを持ってる人 ) が木下華声。

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渡邊 はま子(わたなべ はまこ、1910年(明治43年)10月27日[1] - 1999年(平成11年)12月31日[1])は戦前から戦後にかけて活躍した日本の流行歌手。神奈川県横浜市[1]平沼出身。本名 加藤 濱子[1]。生涯横浜で過ごした。愛称は「おはまさん」。

経歴
横浜生まれで横浜育ちの、文字通りハマっ子の渡邊は、美貌で知られた歌手であった。母方の祖父がアメリカ人だった。

デビューからビクター移籍
1933年(昭和8年)「武蔵野音楽学校」(後の武蔵野音楽大学)卒業[1]立松ふさ[2]に師事。卒業後は、横浜高等女学校(後の横浜学園高等学校)で音楽教師をしていたが[1]、同年にポリドールの歌手テストを受け、『山形新聞』懸賞入選の新民謡「最上川小唄」を吹き込む[1]がポリドールでは結局この1曲のみで終わった。音楽学校在学中に指導を受けた徳山璉の推薦もあり、同年12月にビクターから「海鳴る空」でデビューした。


1934年(昭和9年)、日比谷公会堂で開催されるビクター歌手総出演のアトラクション「島の娘」に主演のはずであった小林千代子が突然失踪する。急遽 渡辺が代役に抜擢され、漁師の娘を演じる。以降ビクター在籍中はアトラクションに度々出演し、藤山一郎古川ロッパらの相手役を務めている。


同年のJ.Oスタヂオ映画『百万人の合唱』に出演するために勤務先の横浜高女を休んだことが問題になり、保護者らが学校に抗議。これが新聞沙汰となる。1935年(昭和10年)の秋には教職を辞し[1]、渡邊はビクターの流行歌手に専念することとなる。同年、夏川静枝の朗読によるハンセン病患者に取材した放送劇「小島の春」のラジオ主題歌「ひとり静」を歌い、初のヒット曲となる。この曲をきっかけに、渡邊は終生を通じ、ハンセン病患者の病院の慰問を続けた。特に岡山愛生園では、療養所歌として今も愛唱されている。

「ネエ小唄」騒動
1936年(昭和11年)、「忘れちゃいやヨ」をレコーディング。作曲者の細田義勝に歌中の「ネエ」の部分の歌い方を何度も指導されて、本人は辟易して歌ったが、その直後に早稲田大学野球部の応援歌の発表会で歌ったところ、観客に大ウケしたため、本人にもヒットの予感があったという。ところが、発売から3ヵ月後、ちょうどヒットの兆しが見えた頃に、内務省から『あたかも娼婦の嬌態を眼前で見るが如き歌唱。エロを満喫させる』と指摘され、ステージでの上演とレコードの発売を禁止する統制指令が下る。


ヒットを惜しんだビクターは、改訂版として「月が鏡であったなら」とタイトルを変更し歌詞の一部分を削除してレコードを発売、大人気を得る。しかし、このヒットによりこの種の曲『ネエ小唄』ブームが起こり、「あゝそれなのに」(美ち奴、のち発売禁止)「ふんなのないわ」(ミス・コロムビア)「憎いわね」などの類似曲を続々と生み出す結果となった。 この状況を快く思わなかった軍部が主導になり、日本における流行歌の傾向を意図的に変えさせようと、「国民歌謡」を誕生させるキッカケとなる。渡邊も続いて、「とんがらかっちゃ駄目よ」をヒットさせるが、ビクターの内紛と一連のネエ小唄騒動で、1年間の休業をすることになった。

コロムビア移籍
1937年(昭和12年)4月、コロムビアに移籍。翌年、皮肉にも流行歌の浄化を統制された国民歌謡の「愛国の花」が、渡邊にとっての移籍後のヒット曲第一号となる。この頃から、戦時下の上海など戦地への慰問も積極的に行うようになり、「支那の夜」「広東ブルース」などの大陸を題材にした曲目が徐々に増え、人々からは『チャイナ・メロディーの女王』『チャイナソングのおハマさん』と呼ばれ支持された。そのため、慰問先の満州から松平晃が持ち帰った「何日君再来」(訳詞長田恒雄)も渡邊が唄い、レコードが日本で発売されることになった。


さらに、当時はテイチクの専属であった満州の大陸女優、李香蘭主演の大ヒット映画の主題歌をコロムビアから国内で日本語で発売する際には、渡邊がレコーディングした。「いとしあの星」「蘇州夜曲」といった曲は渡邊、李両者の持ち歌として大ヒットを記録している。


1941年
(昭和16年)、渡邊が新聞に掲載された記事に感動し、是非とも歌謡曲としてレコード化したいと台湾総督府に申し入れ、レコード・リリースした「サヨンの鐘」もヒット。その後も「風は海から」「花白蘭の歌」など、日本のトップ歌手して活躍。スクリーンにおいても既に1937年(昭和12年)に新興映画『庭の千草』に主演していた他、東宝映画ロッパ歌の都へ行く』『ロッパの新婚旅行』『エノケンの孫悟空』などに出演している。特に『ロッパの新婚旅行』では、声楽家役として出演し、クラシックの歌曲を原語で高らかに歌い上げているのは、元音楽教師の面目躍如であった。

戦後
戦地への慰問として訪れていた大陸の天津で終戦を迎え、捕虜として1年間の収容所生活を余儀なくされる。が、その間も渡邊はま子は、日本人捕虜仲間を美しい歌声で慰めることを忘れなかった。日本へ帰国後、外地から引き揚げてきた兄とようやく再会する事ができるが、不慮の病で失うという不幸に見舞われた。


1947年(昭和22年)に結婚し、歌手活動の傍ら横浜で花屋を営みながら、「雨のオランダ坂」「東京の夜」といったヒット曲を飛ばし続けた。


1950年(昭和25年)、敗戦後初めての日本人の芸能使節団として、小唄勝太郎、三味線けい子らと共に、祖父の眠るアメリカ各地を公演。帰国後は、古巣のビクターに移籍し、「火の鳥」「桑港のチャイナ街」などのちに代表曲となるヒット曲を出す。


1952年
(昭和27年)、NHKラジオ『陽気な喫茶店』を司会していた松井翠声の元に送られてきた、フィリピンの日本人戦犯が作詞作曲した曲「あゝモンテンルパの夜は更けて」を渡邊がレコード化。日本国政府厚生省復員局と渡邊の奔走で、モンテンルパ市のニューピリビット刑務所へ慰問コンサートが実現。フィリピン政府当局に減刑、釈放を嘆願し、当時のフィリピンの元首であったキリノ大統領に日本人戦犯の釈放を決断させ、全員の日本への帰国が実現したことは、渡邊の歌手人生におけるハイライトといえる。


1951年(昭和26年)の第1回『NHK紅白歌合戦』では、紅組トリを務めた。昭和40年代には、東海林太郎らと共に歌手協会の発展に尽力し、1973年(昭和48年)には紫綬褒章を受章。暮れには、同年に受章した藤山一郎と共に『NHK紅白歌合戦』に特別出演し、「桑港のチャイナ街」を熱唱している。渡邊は特別出演も含めて『NHK紅白歌合戦』に計9回出場している(下記参照)。

晩年
1981年(昭和56年)、勲四等宝冠章を受章。テレビやラジオになお活躍を続けたが、1985年(昭和60年)におしどり夫婦として知られた渡邊の夫が亡くなったショックもあり、この頃から認知症を発症したという。異変に気付いた家族からの忠言を受けて、1989年(平成元年)に引退。ただし、引退を決意する以前にオファーがあったステージ等は引退後も約束通りこなし、翌1990年(平成2年)6月19日には水戸市の県民文化センターでの、地元銀行主催〝年金受給者の集い〟に特別出演し、好評を博している。


引退後は認知症の進行及び脳梗塞に倒れたこともあり、家族以外の者との会話がほぼ困難になり(最後に第三者と会話が成立したのは、1993年(平成5年)の藤山一郎没後に藤山未亡人へお悔やみの電話をした時と長女は語っている)、最晩年は寝たきりの生活であった。亡くなる5日前の1999年(平成11年)のクリスマスの日、長女が渡邊にモンテンルパ慰問の際に録音したテープを聞かせると、普段は病気のため表情を変えることのなかった渡邊が長女の言葉に何度も頷き、一筋の涙を流したという。


1999年 (平成11年) 12月31日、脳梗塞のため死去した。89歳没。


死後は遺言に従い親族だけで密葬を済ませ、2000年(平成12年)1月、かつての所属会社であるビクターから、正式にその訃報が明らかにされた。

代表曲
・「ひとり静」(1934年(昭和9年)2月発売)

・「忘れちゃいやヨ」(1936年(昭和11年)3月発売)

・「とんがらかっちゃ駄目よ」(1936年9月発売)

・「民謡組曲 祇園会」(1936年7月JOBKローカル初演、1937年7月19日全国放送、作曲:内田元)

・「愛国の花」(1938年(昭和13年)12月発売)

・「支那の夜」(1938年12月発売)

・「広東ブルース」(1939年(昭和14年)1月発売)

・「何日君再来」 (1939年8月発売)

・「長崎のお蝶さん」(1939年9月発売)

・「いとしあの星」(1940年(昭和15年)1月発売)

・「りぼんむすめ」(1940年6月発売)

・「蘇州夜曲」(1940年8月発売、共唱:霧島昇

・「サヨンの鐘」(1941年(昭和16年)11月発売)

・「明日の運命」(1941年(昭和16年)発売, 共唱:霧島昇)

・「西貢だより」(1942年(昭和17年)7月発売、共唱:藤山一郎

・「風は海から」「翡翠の歌」(1943年(昭和18年)1月発売、東宝映画『阿片戦争』挿入歌)

・「花白蘭」(1943年2月発売)

・「夏子の歌」(1943年10月発売、共唱:楠木繁夫

・「夢見る扇」(1946年(昭和21年)9月発売)

・「ほんのり花嫁」(1946年10月発売)

・「雨のオランダ坂」(1947年(昭和22年)1月発売)

・「東京の夜」 (1947年5月発売、共唱:藤山一郎)

・「旅空夜空」(1948年(昭和23年)4月発売)

・「アデュー上海」(1948年11月発売)

・「波止場通りの唄」(1949年(昭和24年)5月発売)

・「おらんだ船」(1949年9月発売)

・「いつの日君帰る」(1950年(昭和25年)2月発売)

 戦前に自身も吹き込んだ「何日君再来」をモチーフとした曲。新東宝映画『いつの日君帰る』の同名主題歌として発表。

・「そんな娘がいるかしら」(1950年5月発売)

・「ヨコハマ物語」(1950年6月発売)

・「火の鳥」(1950年10月発売、共唱:宇都美清

・「桑港のチャイナ街」(シスコのチャイナタウン) (1950年11月発売)

作詞:佐伯孝夫、作曲:佐々木俊一

記念すべき第1回NHK紅白歌合戦で紅組トリを飾った、戦後最大の代表作ともいえる作品。

・「そばの花咲く」 (1951年(昭和26年)1月発売)

・「チャンウェイ・チャンウェイ(薔薇處處開)」 (1951年3月発売)

・「夢の彼の君(夢中人)」(1951年3月発売)

・「七つの星座」(1951年6月発売、共唱:宇都美清)

・「峠を越えて帰ろうよ」(1951年7月発売)

・「マンボ・チャイナ」 (1951年12月発売)

・「チャイナボート」(1952年(昭和27年)4月発売)

・「マンボ上海」(1952年5月発売)

・「雨の長崎」(1952年6月発売)

・「チャイナムーン」(1952年8月発売)

・「あゝモンテンルパの夜は更けて」(1952年9月発売、共唱:宇都美清)

・「悲しみの丘」(1952年9月発売)

・「マニラの夜」(1953年(昭和28年)5月発売)

・「あゝモンテンルパの丘に泣く」(1953年5月発売)

・「蘇州舟唄」(1953年5月発売)

・「晩香玉(ワンシャンユィ)は夢の花」(1953年10月発売)

・「この太陽」(1954年(昭和29年)3月発売、共唱:小畑実

・「薔薇色のブルース」(1954年5月発売)

・「青い星のブルース」(1954年11月発売)

・「懐かしのブエノスアイレス」(1954年3月発売)

・「波止場のチャイナ娘」(1955年(昭和30年)6月発売)

・「カサブランカの夜」(1958年(昭和33年)12月発売)

・「日本の母の詩」(1979年(昭和54年)発売)

・「サンライズ・イン・ヨコハマ」(1982年(昭和57年)発売)

詳しいことは、『渡辺はま子ウィキペディア』をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A1%E8%BE%BA%E3%81%AF%E3%81%BE%E5%AD%90
(wikiより)

03 渡辺はま子

⇧ 渡辺はま子

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平尾 昌晃(ひらお まさあき、1937年12月24日 - 2017年7月21日[1])は、日本作曲家作詞家歌手社団法人日本作曲家協会・常務理事[2]社団法人日本音楽著作権協会 (JASRAC) 理事[3]

来歴・人物
生い立ち

化粧品業を営んだ平尾聚泉の孫。クラシックの作曲家で国立音楽大学教授を務めた平尾貴四男は伯父。


東京市牛込(現:東京都新宿区)「生まれ」であるが、終戦後、神奈川県湘南エリアに移住し、藤沢市にある湘南学園で小中学時代を送る[4]。出生名は平尾勇。幼少時にたびたび改名し、デビュー初期の芸名である「昌章」を経て、最終的には本名の通り平尾昌晃を芸名としていた。


小学3年生のとき、自宅に来ていた将校から貰ったジャズのLPを聴き衝撃を覚える[5]。11歳のとき、のど自慢大会に出場し「奥様お手をどうぞ」を英語で歌い、鐘3つの合格点をもらう[6]


藤沢市
に住み、ジャズ教室に通い、朝丘雪路水谷良重ペギー葉山らと知り合う。慶應義塾高等学校中退後、ウエスタンの人気バンド、チャック・ワゴン・ボーイズに入る[7]。しばらくして、チャック・ワゴン・ボーイズボーカル小坂一也が脱退したため、オールスターズ・ワゴンとなる。

ソロ・デビュー

1957年、ジャズ喫茶「テネシー」に出演していた際、ステージを見た渡辺プロ渡辺美佐と映画監督井上梅次に見初められ、同年に公開された石原裕次郎主演の『嵐を呼ぶ男』に出演する[8]。自身としても、翌1958年1月、キングレコードより「リトル・ダーリン」でソロ・デビューする[8]。同曲の売上は芳しくなかったが、続いて同年3月に発表した「監獄ロック」が10万枚を売り上げるヒットとなる[9]。その後、ミッキー・カーチス山下敬二郎(後にこの2人は渡辺プロに所属する)と「ロカビリー三人男」として「日劇ウエスタンカーニバル」などで爆発的な大人気を博した[10]。1958年には、キングレコードからオリジナルナンバーである「星は何でも知っている」1960年4月には「ミヨチャン」(ミヨちゃん)を発表し、2曲共に100万枚を売り上げる大ヒットとなった[11]。売上に関しては、「星は何でも知っている」は50万枚[12]、「ミヨちゃん」は40万枚[13] とする文献もある。


「ミヨチャン」の元歌は、戦前から中学生の間で流行していた作曲者不詳の歌で、平尾は高校生の頃に覚えたという。それを基に現代(1960年当時)向きの歌詞をつけてリメイクしたのが平尾の「ミヨチャン」である[14]


ポール・アンカ
が作詞・作曲した「好きなんだ! (I Love You)」は、日本での売上は10万枚程度に留まったが、ハワイでは地元ラジオ局KPOI英語版が流したことをきっかけにリクエスト・ランキングで1位を記録する大ヒットとなった[15]。1959年12月、ハワイで開催された「アメリカン・ポップス大会」では、日本代表として歌唱した[15]


1965年
2月20日拳銃不法所持で逮捕される[16]。平尾が独自にハワイから持ち帰り、帰国後「日頃、興行でお世話になっているから」と[16]名古屋東京暴力団組長に拳銃をプレゼントした事件が発覚した[16]。平尾は22日間拘留され[16]、釈放後「軽率だった」との反省文が雑誌に掲載された[16]


ロカビリーブームが去った1965年頃、北海道からじわじわ火がつき始めた「おもいで」で再ブレイクする[17]。「おもいで」は、渡辺プロの新人歌手だった布施明1966年に再レコーディングし、これもヒットとなった[18]。続けて、作曲家として「霧の摩周湖」「」、じゅん&ネネ「愛するってこわい」[19][20]梓みちよに提供した「渚のセニョリーナ」などがヒット。「霧の摩周湖」、「渚のセニョリーナ」では、第9回日本レコード大賞作曲賞を受賞した。


その後も作曲家として非凡な才能を発揮していたが、1968年12月3日[21]結核を患い健康保険岡谷塩嶺病院への長期間入院による療養を余儀なくされ、翌1969年5月と6月に2度にわたる大手術を経て、肋骨を6本取り除く。1969年11月30日に退院[21]。平尾自身は、この療養期間が作曲家としての活動の原点であることを事あるごとに語っている[22]

1970年代

1970年代に入ると、ソフトな演歌から穏やかなポップス調まで様々な作風の曲を、五木ひろし小柳ルミ子アグネス・チャンらに提供している。作詞家山口洋子とのコンビは、この時代を代表するゴールデン・コンビとして知られている。


1971年、五木に提供した「よこはま・たそがれ」、小柳に提供した「わたしの城下町」がそれぞれ大ヒットする。

1972年、小柳に提供した「瀬戸の花嫁」が第3回日本歌謡大賞を受賞する。

1973年、五木に提供した「夜空」が第15回日本レコード大賞を受賞する。


1974年
、平尾昌晃音楽学校(現:平尾昌晃ミュージックスクール、HMS)を創立する[23]。東京本校の他、札幌、所沢、茨城、名古屋、大阪、福岡、鹿児島にも地方校があり、デビューのバックアップもする。同校出身者は狩人畑中葉子川島なお美石野真子松田聖子川崎麻世大沢逸美森口博子芳本美代子笹峰愛倖田來未後藤真希西田あいなど。歌手としては、生徒の一人である畑中葉子とデュオを組み、「カナダからの手紙」「ヨーロッパでさよなら」などのヒットを出した。また、彼が日本でのデビューのきっかけを作ったアグネス・チャンとも、「香港国際空港(CHEK LAP KOK空港)」でデュオを組んだ。

1980年代

1980年代NHKの人気番組『レッツゴーヤング』の司会などにも携わる一方、『平尾昌晃の部屋』など、ラジオ番組のパーソナリティも務めた。その他、人気テレビ番組『熱中時代』での「僕の先生はフィーバー」、「やさしさ紙芝居」、『熱中時代-刑事編』の「カリフォルニア・コネクション」の他、ABCテレビ朝日系時代劇の『必殺シリーズ』、アニメ『銀河鉄道999』などの音楽を手がける。また1980年代初頭から宝塚歌劇団の舞台音楽も手がけており、こちらは晩年まで長きにわたって関係が続いた[24]


音楽活動のみならず、『ものまねバトル』(日本テレビ系)の審査員、チャリティゴルフの企画など、幅広く活躍した。俳優としても、『二階の他人』などに出演している。


競走馬オーナーとしては中央競馬で3勝したスーパーミヨチャンなどを所有した[25]。また、ジャパンカップ優勝のローズキングダムの一口馬主でもあった。オートレースのファンとしても有名で、川口オートレース場には年間ボックスシートを持っているほどだった。作曲者としても川口オートのテーマソングとなる『ぶっちぎりの青春』を提供した。

2000年代

2001年モンブラン国際文化賞受賞。

2002年特定非営利活動法人ラブ&ハーモニー基金を設立、音楽を通じた福祉活動を展開する。

2003年紫綬褒章受章。

2004年に三男の平尾勇気歌手デビューを果たす。

2005年、歌手を目指す若い人、生徒のために自主レーベルのHMSレコードを立ち上げて、優秀な生徒をCDデビューさせている。

2006年、大晦日の『第57回NHK紅白歌合戦』では同年3月に逝去した宮川泰の後を受け「蛍の光」の指揮者に就任し、2016年第67回まで11年間務めた。ただし、宮川やその前任の藤山一郎前田璣などと比較するべくもなく本格的に勉強した指揮法ではなく、いわば名誉職的な役割であることを本人も認めている。

晩年・闘病・死去

肺結核で片肺を切除して以来、肺疾患が慢性化。たびたび体調不調に悩まされた。


2014年末には原発性肺高血圧症に起因する肺炎で危篤状態となったが、この時は奇跡的に持ち直している[26]


2015年に肺がんであることが判明。体力面を考慮して手術を回避。以降は呼吸補助器を携行しながら、公の場にも積極的に顔を出していた。その後2017年5月「息苦しい」と訴え約1か月にわたって入院。一時は回復したものの、同年7月13日に「蒸し暑く体調が悪い」と訴え、病院で検査の結果「肺炎の疑い」との診断で入院。だがこの時も食欲は旺盛で、病室でテレビを楽しんでいたという。


しかし7月21日深夜に容体が急変。病院にかけつけた夫人や数人の親族に看取られ、同日23時40分、肺炎のため東京都内の病院で死去[1]。79歳だった。訃報後の7月23日、2016年に再々婚していたことが明らかとなった[27]。平尾の葬儀は親族らによる密葬の形で7月30日に執り行われたため、10月30日に東京・青山葬儀所にて渡邊美佐渡辺プロダクショングループ代表)を葬儀委員長とし、故人と縁のあった布施明、原辰徳青木功らを発起人とし『故 平尾昌晃 葬儀・告別式』と題して公のお別れの会が行われ、原が弔辞を読み、布施と五木ひろしが「霧の摩周湖」と「よこはま・たそがれ」を霊前に捧げるべく熱唱し、葬儀に参列した歌手らにより小柳ルミ子の「瀬戸の花嫁」を合唱するなどして故人を偲んだ[28]

没後
没後に第59回日本レコード大賞特別功労賞が贈られた[29]

詳しいことは、『平尾昌晃ウィキペディア』をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%B0%BE%E6%98%8C%E6%99%83
(WIKIより)

124 平尾昌晃

⇧ 平尾昌晃

124a



大矢市次郎(おおや いちじろう、1894年明治27年)2月11日 - 1972年昭和47年)5月28日)は、大正 - 昭和期の俳優。新派生え抜きの役者の一人で名脇役として知られた。

生涯

東京浅草須賀町(現・台東区)の生まれ[1]。幼少時からの芸事好きで、1907年(明治40年)に伊井蓉峰主演の舞台「乞食の子か大名の子か」で子役エキストラの一人で初舞台を踏む[1]。伊井の弟子の藤井六輔に師事し、藤川宗六の芸名を貰うが後に本名の大矢市次郎で活動。


18歳のときに、60歳の役を演じて以来老け役を得意とし、多くの当り役を持った。


新派系の劇団を転々としたのち、1939年(昭和14年)に花柳章太郎伊志井寛柳永二郎川口松太郎・大江良太郎らと、劇団『新生新派』を旗揚げ、戦後の劇団新派結成へも関わり、新派に欠かせぬ中心メンバーとなる。


1962年(昭和37年)に芸術院賞、紫綬褒章を、1967年(昭和42年)には勲四等旭日小綬章を受章している。


1967年にはその演技力を乞われ、文学座公演「大寺學校」へ客演(主演)として招かれ、初めて新派劇以外の舞台へも立ち、話題と人気を集めた。


1972年(昭和47年)5月28日、肺癌のため没。78歳。前年7月の歌舞伎座での新派公演「風流深川唄」の利三郎役が最期となった。


今日、初代水谷八重子・花柳章太郎・伊志井寛と並び、新派四天王と称されている。


弟子に大鹿次代などがいる。

出演作品
映画
歌行燈(1943年)

新・平家物語(1955年)

新宿そだち(1968年)

テレビドラマ
・日立ファミリーステージ 左の腕(1961年、TBS

ポーラ名作劇場 第50回「夜の河」(1963年、MBS

著書
・『日々願うこと』(六芸書房、1965年)

脚注
1. a b 歴代の名優 劇団新派 2018年7月17日閲覧。

外部リンク
劇団新派公式サイト 歴代の名優

大矢市次郎
(wikiより)

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⇧ 大矢市次郎

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芥川 比呂志(あくたがわ ひろし、1920年3月30日 - 1981年10月28日)は、日本俳優演出家


東京府
東京市滝野川区(現東京都北区田端出身。作家・芥川龍之介の長男。母は海軍少佐の塚本善五郎の娘・。妻は、龍之介の次姉・ヒサの長女で、従姉にあたる芥川瑠璃子

来歴・人物

名の由来は龍之介の親友・菊池寛(表記同じで筆名ではカン、本名ではヒロシと読む)の名の読みを万葉仮名に当てたもの。3人兄弟で、次弟・多加志は第二次世界大戦中、22歳でビルマにて戦死、末弟・也寸志作曲家。ちなみに、多加志は小穴隆一の「隆」から、也寸志は恒藤恭の「恭」から取られている。


1926年、東京高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)に入学。同級に宮澤喜一がいた。1932年、同附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)に入学。在学中からシング岸田國士戯曲を読み、15歳のとき『お察しください(A Comedy)』と題する戯曲を、附属中学の校友会誌「桐陰会雑誌」に発表。学芸会では『ヴェニスの商人』や武者小路実篤の芝居を演じる。


1937年、慶應義塾大学予科に入学。1939年、同予科から文学部仏文科に進学。演出家女優・長岡輝子や劇作家・加藤道夫たちと新演劇研究会を結成し、学生演劇活動を始める。その傍ら、鈴木亨主宰の詩誌『山の樹』の同人となり、畔柳茂夫沖廣一郎という筆名で翻訳を発表。このころ、堀田善衛中村眞一郎白井浩司福永武彦加藤周一白井健三郎小山正孝たちと知り合う。当時、東急東横線の通学電車の車内で、女優姉妹のジョーン・フォンテーンオリヴィア・デ・ハヴィランド(当時東京に住んでいた)にたびたび乗り合わせたという。演劇活動の傍ら、佐佐木茂索の配慮により、嘱託として短期間文藝春秋社に勤務。


太平洋戦争
勃発のため慶應義塾大学を繰上卒業し、甲種幹部候補生として群馬県前橋陸軍予備士官学校(赤城隊)に入校。卒業後の陸軍少尉時代には、帝国陸軍有数の本土防空戦闘機部隊として有名な東京調布飛行第244戦隊の整備隊本部附として勤務し、敗戦時は陸軍中尉として滋賀県神崎郡御園村の神崎部隊三谷隊にいた。


1945年、神奈川県藤沢市鵠沼の母の実家別荘に疎開していた家族の許に復員した。直前に三女の芥川耿子が誕生していた。鵠沼では林達夫らと交流し、1946年夏、林の主宰する市民向け教養講座「鵠沼夏期自由大学」で、加藤夫妻と共にチェーホフの「熊」を上演している。鵠沼には1949年まで滞在して上目黒に戻った。

1947年、演出家・女優長岡輝子、加藤とその妻で女優の加藤治子らと共に「麦の会」を結成。1949年に「麦の会」は文学座に合流し、以来文学座の中心俳優として、または加藤道夫作『なよたけ』などの演出家として大成する。特に1955年の『ハムレット』の主演は、今なお伝説として演劇史に語り継がれているほどの絶賛を博す。貴公子ハムレットの異名を持った。


舞台の他、ラジオドラマ・ナレーション・映画・テレビなどにも数多く出演。1963年、仲谷昇小池朝雄岸田今日子神山繁、高木均らと共に文学座を脱退し、かつて『ハムレット』の演出を手掛けた福田恆存を理事長とする財団法人現代演劇協会」を設立、協会附属の「劇団雲」でリーダーとして活動する。1966年にはNHK大河ドラマ源義経』で源頼朝を演じた。俳優業の傍ら、演出家としての才能も発揮し、1974年、『スカパンの悪だくみ』の演出で芸術選奨文部大臣賞、泉鏡花の戯曲『海神別荘』の演出で文化庁芸術祭優秀賞を受賞。


やがて盟友であった福田と劇団の運営方針を巡って対立。1975年には高木均、仲谷、岸田、神山、中村伸郎らと雲を離脱し「演劇集団 円」を創立して代表に就任した。しかし、若い頃からの持病である肺結核が悪化していて入退院を繰り返し、期待された「円」での仕事は、1978年の鏡花の『夜叉ヶ池』演出のみに留まった。

1981年、療養中だった目黒区内の自宅にて死去。享年61。

その他
・日本最大規模の劇団「劇団四季」の名づけ親である。

・戦場で肺結核を罹患し、人気が出たのちも病院と舞台を行き来する生活を10年ほど送った。健康を回復すると不摂生と爆飲、泥酔を繰り返した。[1]

著作
・芥川龍之介 (吉田精一と共著、明治書院〈写真作家伝叢書〉 1967年)

・決められた以外のせりふ (新潮社 1970年)。第18回日本エッセイスト・クラブ賞

・肩の凝らないせりふ (新潮社 1977年)

・憶えきれないせりふ (新潮社 1982年)

・芥川比呂志エッセイ選集 (新潮社 1995年)

・ハムレット役者 芥川比呂志エッセイ選 (丸谷才一講談社文芸文庫 2007年)

翻訳
ジャン・アヌイ

  ・「アンチゴーヌ」『アヌイ作品集(3)』(白水社 1957年)

  ・「アンチゴーヌ」『アンチゴーヌ アヌイ名作集』(白水社 1988年)、上記の選集版


ジャン=ポール・サルトル

  ・「恭々しき娼婦」(人文書院 サルトル全集(8)「劇作集」 1952年)

  ・「恭しき娼婦」(人文書院 サルトル全集(8)「恭しき娼婦」 1961年)、上記の改訂版

  ・「恭しき娼婦」(新潮社 新潮世界文学(47)「サルトル」 1969年)

  ・「トロイアの女たち」(人文書院 サルトル全集(33)「トロイアの女たち」 1966年)

参考文献
・芥川比呂志写真集 (徳田雅彦ほか編 牧羊社 1987年)

・芥川比呂志書簡集 (芥川瑠璃子作品社 1982年)

・双影 芥川竜之介と夫比呂志 (芥川瑠璃子著 新潮社 1984年)

・影灯篭 芥川家の人々 (芥川瑠璃子著 人文書院 1991年)

・青春のかたみ 芥川三兄弟 (芥川瑠璃子著 文藝春秋 1993年)

・気むずかしやのハムレット 素顔の父芥川比呂志 (芥川耿子主婦と生活社 1989年)

・旗手たちの青春 あの頃の加藤道夫三島由紀夫・芥川比呂志 (矢代静一著 新潮社 1985年)

・煉獄のハムレット 芥川比呂志と私 (大倉雄二著 文藝春秋 1991年)

主な出演作品

テレビドラマ
五重塔(1958年、KR

煉獄(1960年、九州朝日放送) - 炭坑夫Aと第二組合長

破戒(1961年、NTV

・徳川家康(1964年、NET

・幕末(1964年、TBS) - 徳川慶喜

NHK大河ドラマ

  ・源義経(1966年、NHK) - 源頼朝

  ・天と地と(1969年、NHK) - 長尾顕吉

  ・樅ノ木は残った(1970年、NHK)

  ・春の坂道(1971年、NHK) - 柳生石舟斎

氷点(1966年、NET)※・ナレーション

・真田幸村(1966年、TBS) - 安国寺恵瓊

ゴメスの名はゴメス(1967年、フジテレビ

氷壁(1967年、NTV)

銀河ドラマ / 真夏の日食(1969年、NHK)

ポーラ名作劇場 / 大変だァ(1970年、MBS

ゴールドアイ(1970年、NTV)- ボス役

ラジオドラマ
赤い繭NHKラジオ第2NHK-FM実験放送、1960年) - 男

映画
・モンテンルパ 望郷の歌(1953年 大映

(1953年 大映)

にごりえ(1953年 文学座製作 松竹

煙突の見える場所(1953年 新東宝

・或る女(1954年 大映)

・愛と死の谷間(1954年 日活

心に花の咲く日まで(1955年 文学座製作 大映)

・子供の眼(1956年 松竹)

夜の蝶(1957年 大映)

・生きている小平次(1957年 東宝

・東北の神武たち(1957年 東宝)

・春高樓の花の宴(1958年 大映)

無法松の一生(1958年 東宝)

・大東京誕生 大江戸の鐘(松竹、1958年、演:松本幸四郎

・夜の闘魚(1959年 大映)

濹東綺譚(1960年 東京映画製作 東宝)

日本の夜と霧(1960年 松竹)

・別れて生きるときも(1961年 東宝)

・東京夜話(1961年 東京映画製作 東宝)

・熱愛者(1961年 松竹)

・ゴメスの名はゴメス・流砂(1967年 俳優座製作 松竹)

千夜一夜物語(声優 1969年 手塚治虫監督 虫プロ製作 日本ヘラルド

日本暗殺秘録(ナレーション 1969年 東映

無頼漢篠田正浩監督 1970年 東宝=にんじんくらぶ製作)

どですかでん黒澤明監督 1970年 東宝=四騎の会製作)

トラ・トラ・トラ!木戸内大臣役 1970年 20世紀フォックス・日米合作)

舞台
榎本武揚(1967年、劇団雲) - 「現代」(演出家)役


脚注
1. 『時の光の中で』浅利慶太、文春文庫、2009年1月10日、p247


外部リンク
芥川比呂志 - allcinema

芥川比呂志 - NHK人物録
(wikiより)

040   Akutagawa_Hiroshi

芥川比呂志

040a

040b



hide(ヒデ、本名:松本 秀人〈まつもと ひでと〉[1]1964年〈昭和39年〉12月13日[2][3] - 1998年〈平成10年〉5月2日)は、日本ミュージシャンギタリスト歌手プロデューサー[3]神奈川県横須賀市出身[2]。1987年から1997年までX JAPAN(旧名:X)のギタリストとしてHIDE名義で活動[2][3]。2007年のX JAPAN活動再開以降も正式メンバーとして在籍。1989年にアルバム『BLUE BLOOD』でXのメンバーとしてメジャーデビュー[2]。 愛称は「ヒデくん」、「ヒデちゃん」。身長170cm。体重54kg。血液型AB型


1993年より、hide名義でソロ活動も開始し[2]、1996年にはレコードレーベル「LEMONed」(レモネード)を設立[4]。1997年のX JAPAN解散後はhide with Spread Beaver及びzilchでの活動を開始するも、1998年5月2日に急逝[2][3][4]

人物

少年時代は肥満から来るコンプレックスのため、内気で大人しい子供であった。小学生のころ、太っている生徒は休み時間校庭を走らされるという罰があり、その中にhideも入っていた。この頃、深夜ラジオでロックに出会い、「ロックミュージシャンは痩せてなくては」と、ダイエットしたという。学習塾や習いごとに忙しく通っていた。祖父の「松本家から医者を出せ」という命令もあり、卒業文集では「医者になって見離された患者さんを助けてあげたい」と綴った。アメリカへの集団でのホームステイも経験している。そこにはホンジャマカ恵俊彰も参加していた。UNITEDの横山明裕とは幼馴染であり、互いにプロになって以降も交流があった。


中学時代、友人がきっかけでロックに興味を持ち、祖母ギブソンエレキギターを買ってもらいバンドを組むも、活動はしておらず、そのまま県内屈指の進学校の高校へと進学した。高校が「エレキ禁止」であったためにバンドを組めずにいたが、横須賀のどぶ板通りに通うようになり、そこで出会った友人らとX加入以前に活動していた唯一のバンド、「サーベルタイガー」を組んで活動する。


また、「おばあちゃん子」であったhideは美容院を営んでいた祖母からの影響を少なからず受けている。Xデビュー当初は祖母のサリーを借りてステージ衣装として使用したりしていた。若作りでお洒落な人物であったために、後のファッションなどの基盤となった。高校卒業後に、ハリウッドビューティ専門学校へと進み、卒業して実際に美容院で働いてもいた。「サーベルタイガー」を解散した時には、全ての音楽活動からは足を洗って美容師として生きていこうと決心し、いくつかのバンドから誘いがあったのをすべて断っていたが、結局はYOSHIKIの誘いでXに加入することになる。


インディーズバンドの発掘に力を入れ、エクスタシーレコードではバンドリサーチ担当としてLUNA SEAGLAYZI:KILL、DEEPを発掘し、また、自身でもレモネードレーベルを立ち上げZEPPET STOREVINYL、trees of lifeなどのバンドを発掘した。


テレビやゲームが好きであり好んで視聴したり遊んだりしていた。またコンピュータに強い興味を示しており、90年代前半には、すでにライブでパソコンを使ったギミックを披露していた。1995年には自身で製作したホームページを開設している。テレビ番組の中では特にお笑い番組が好きで、当時人気を誇っていた「ダウンタウンのごっつええ感じ」などがお気に入りであり、ダウンタウン(特に松本人志)のファンでもあった。また、スーパーファミコンソフト『スターフォックス』にはまっていて、デビュー・シングルの『EYES LOVE YOU』のミュージック・ビデオは、そこから得たアイディアを取り入れている。


また、子供好きでも有名で、弟でマネージャーを務めた裕士に子供が生まれたときには、とても喜んでおり、大きなぬいぐるみを買ってあげたりもしていた。また、1994年のソロツアーでは アンコールで観客の子供をステージに連れてきて、一緒に歌ったこともある。しかし、自身に子供が欲しいかを聞かれると「もし自分に子供が生まれたら、ツアーや仕事で何日も留守にするなんて 絶対に無理だと思うし、全ての情熱を子供に注いで 音楽は蔑ろになってしまうかもしれないから要らない。」「裕士に子供が生まれたから、俺は子供は要らないし、結婚もしない」と語っていた。また「世界一の親バカになる自信がある」と語ったこともある。

音楽性と影響

中学生の頃、初めて聴いたキッスレコードに大きな衝撃を受け、ロックに目覚める。以後は様々なロックを聴き漁るようになり、その中でキッス(特にエース・フレーリー)、ザ・クラッシュアイアン・メイデンディープ・パープルヴァン・ヘイレンダムドレッド・ツェッペリンジミー・ペイジ)、ジャパンなどに影響を受けた。BOWWOW山本恭司ファンではあるが、hideの代名詞となる「モッキンバード」は、同じBOWWOWの斉藤光浩が使用していたのが気になった事がきっかけであると語っている[5]


Xの「PSYCHEDELIC VIOLENCE CRIME OF VISUAL SHOCK」というフレーズを考案した。これがヴィジュアル系という言葉を生み出したのはhideと言われる所以である。また、hideが音楽界に与えた視覚面や音楽面の影響は多大で、音楽ライターの市川哲史からヴィジュアル系はhideから始まってhideで終わったとも言われている。


のちに有名になるマリリン・マンソンだが、まだ無名時代からhideの大ファンだったという[6]

略歴

Xに加入しての初仕事は「天才・たけしの元気が出るテレビ!!」の企画で行われた「やしろ食堂」でのライブであった。1989年4月、Xのギタリストとしてアルバム『BLUE BLOOD』でメジャーデビュー。Xではギター以外にもバンドのビジュアル全般を担当し、メンバーの髪のセットなども行っていた[3]。主にYOSHIKIがXの作詞・作曲を行っていたが、HIDEも一部の曲で作詞・作曲を担当[3]


Xでの活動と並行して1993年1月21日にLUNA SEAJINORANと共にMxAxSxS名義でオムニバスアルバム『DANCE 2 NOISE 004』に参加し、同年8月5日に2枚のシングル「EYES LOVE YOU」、「50%&50%」を同時発売しソロデビュー[3]。9月29日にはZI:KILLのTUSKと、映像作品『Seth et Holth』を発表する[注 1]


1994年2月、初のソロアルバム『HIDE YOUR FACE』を発売。ジャケットの仮面のオブジェは、映画『エイリアン』などで知られるH・R・ギーガーによるデザイン。また、同年3月から4月にかけて初のソロツアーを開催した。

1996年、アマチュアバンドであったZEPPET STOREの楽曲や存在を世間に知らしめたいという動機からレーベル「LEMONed」(レモネード)を立ち上げる。5月22日に同名タイトルのオムニバスアルバムとビデオを発売することでレーベルの存在を公にした。また、6月よりソロアルバム制作を開始し、9月2日に2ndアルバム『PSYENCE』を発売。


1997年9月、TOSHIの脱退によりX JAPANは解散を発表し、同年12月31日の「THE LAST LIVE」をもってXは解散[注 2]。その翌日の1998年1月1日、hide with Spread Beaverとして朝日新聞紙上に全面広告を掲載。同年1月28日にシングル「ROCKET DIVE」を発売。


1998年5月2日の朝7時30分頃、自宅マンションの寝室にてドアノブに掛けたタオルで首を吊って呼吸停止した状態になっているのが同居していた婚約者によって発見され、病院に搬送されたが午前8時52分に死亡が確認された。33歳没。後にファンが後追い自殺をするなどの事態が発生したという。5月5日に関係者のみ300人を集め密葬が執り行われ、5月6日に通夜、5月7日に告別式が催され、両日はファンの献花を受け付け、連日ファンが大挙して押し寄せた。告別式にはTOSHI、TAIJIを含むX JAPANのメンバーをはじめ、親交のあった音楽仲間や業界関係者も参列した。告別式はテレビで生中継された。

hideの死
晩年

1998年5月1日、hideはSpread Beaverのメンバーと共にフジテレビ音楽番組「ロケットパンチ!」の収録を行う(その際に披露した曲は「ROCKET DIVEピンクスパイダーever freeDOUBT'97」)。これが生前最後に収録した番組となった。その打ち上げ後、日付をまたいで更に飲み、泥酔したhideはマネージャーの弟・裕士が運転する車で自宅マンションまで送られた。


5月2日朝7時30分頃、hideは自宅マンション寝室のドアノブに掛けたタオルで首を吊った状態で発見された。その後、病院に搬送されたが午前8時52分に死亡が確認された。病院に着いた時は既に心肺停止状態だったという[7]。当日午後3時頃から、「元X JAPANのギタリストhideが死亡、警視庁は自殺と断定」と速報で報道された。


HURRY GO ROUND」の歌詞や、ラジオ番組「オールナイトニッポンR」での発言が意味深長で自殺に関連するのではないかという見方や、はたまた事故ではなく自殺だと断言している人間の存在までもあり、様々な見解がある。警察は雑誌取材などに「『牽引』にしては首の輪が小さく、むしろ死を意図するものであった。また、『バンドや音楽活動で悩み酒量が増えていた』と聞いており、突発的に死に踏み切ったのだと思われる」と答えている。「故意による自殺」か、「不慮の事故」かは不明であり、遺書や「死にたい」と自殺をほのめかす発言がない事や、ドアノブに柔らかいタオルで自殺する方法は珍しいことから、不慮の事故とする説がある。YOSHIKIは「彼は自殺するような人間ではない」と発言している。


1998年10月24日 hide不在の中行われた hide with Spread Beaver TOUR appear!! "1998 TRIBAL Ja,Zoo" 公演前に行われた記者会見で、マネージャーの裕士は「hideは生前、ひどい肩こりと偏頭痛に悩まされており、整骨医が行う首の牽引によるストレッチをしていた。いつものように牽引していたが、帰国直後の時差ボケと、泥酔状態であったために起こった事故であり自殺ではない」ことを改めて発表している[8]


2014年8月22日、「中居正広の金曜日のスマたちへ」に出演したToshlが、hideの死について、自分が洗脳されていなければと自責の念を述べた[9]


1998年9月に出版された「hide 真実のストーリー」にはコンサートで行われる予定であった首吊り自殺の演出の練習を酔っぱらったまま行ってしまい死んでしまったと書き記されている。

葬儀までの5日間

hideの遺体は5月3日に東京都中央区築地築地本願寺に安置された。夕方、YOSHIKIがロサンゼルスから帰国し成田空港から築地本願寺に直行。YOSHIKIは最初これを「悪い冗談じゃないか」とも思っていたが、飛行機の中での正式な報道を見た瞬間に現実であることを受け入れ号泣したという。


翌5月4日、週が明け本格的にワイドショーなどで大々的に取り上げられる。築地本願寺にファンが集まり始め、その数は5万人規模となる。夕方にYOSHIKIがの正面に姿を現し、報道陣を前にメッセージを発表した。


5月5日には、遺族・親族・X JAPANのメンバーを始めとする音楽関係者など300人を集め密葬がとり行われた。
その間もファンは絶え間無く押し寄せ、その数は数千人にもふくれ上がった。また、疲労と心労が重なったファンが次々と倒れ、救急車で病院に搬送された。さらに、「hideが自殺」と報道されていたためにファンの後追い自殺が築地本願寺境内をはじめ全国で相次いだ。そのため、翌日には警視庁の要請でX JAPANのメンバーが記者会見を開き、自殺を思いとどまるように訴えた。


5月6日の通夜、5月7日の告別式の両日はファンの献花を受け付け、連日ファンが大挙して押し寄せた。中には単なる通行人や野次馬もいたとされるが、通夜、告別式に5万人近くが集まったとされ、隅田川沿いに2 - 3kmのファンの列が出来たことも報道されていた。「ファンは列に並ぶ際、パニックになるようなこともなく、むしろ近隣住民の迷惑にならないようにゴミ拾いまで進んで行う素行の良さであった」と葬儀翌日の朝日新聞天声人語に掲載されている他、本社が築地にあるという場所柄、「銀座の花屋が空になった」「地下鉄の車内は花の香りでむせかえるほどだった」等の記者の証言が数多く残されている。また、本願寺の外では hideやX JAPANの楽曲が流れていた。


5月7日の告別式はテレビで生中継された。告別式には、脱退したTOSHI、TAIJIを含む元X JAPANメンバーをはじめ、親交のあった音楽仲間や業界関係者が列席した。築地本願寺開山以来初めてのグランドピアノ持ち込みによるYOSHIKIの伴奏で、TOSHIがX JAPANの「Forever Love」を歌った。hideの「GOOD BYE」が流される中、午後3時40分出棺。道路に交通規制が掛けられ一般車両を完全に止めた状態であったが、ファンが大挙して道路に広がり霊柩車を追いかける者まで現れる非常事態となり、築地本願寺周辺がパニック状態になった。


その後、hideは渋谷区代々幡斎場荼毘に付された。代々幡斎場周辺も築地本願寺同様ファンが大挙して道路に広がり霊柩車が斎場に到着するシーンも追いかける者まで現れる非常事態となり、これもパニック状態になった。法名秀徳院釋慈音(しゅうとくいん しゃくじおん)。遺骨四十九日法要をもって、神奈川県三浦市三浦霊園に納骨され、一部はロサンゼルスの海に当時のzilchのメンバーや弟・裕士によって散骨されている。 2013年3月に、何者かの手によってhideの墓石が刃物のような物で傷を付けられるという事態が発覚した。そのため、器物損壊罪で調査を行うこととなった[10]


十三回忌にあたる2010年5月2日には、築地本願寺で法要が行われた。法要には約35000人の関係者やファンが参列した[11]

死後

1998年5月13日にシングル「ピンクスパイダー」、5月27日にシングル「ever free」が生前に予定されていた通りに発売。7月23日、生前にレイ・マクヴェイとポール・レイヴンと共に結成されたプロジェクトzilchの1stアルバム『3・2・1』が発売。10月21日、未発表曲としてシングル「HURRY GO ROUND」が発売。これは生前に録っていた仮歌の音源を使用して、hideと共に最もレコーディング作業に深く関わっていたI.N.Aによって制作された。11月21日、アルバム『Ja,Zoo』が発売。このアルバムは生前には未完成であったが、Spread Beaverのメンバーや、サーベルタイガー時代からの仲間であるkyo菊地哲などの参加により完成された。


死去から丁度1年後の1999年5月1日、トリビュート・アルバムhide TRIBUTE SPIRITS』が発売。hideに縁のあるミュージシャンや、hideがBOØWY時代からファンであった布袋寅泰などが参加。


2000年7月20日、故郷である神奈川県横須賀市の海岸沿いにある京浜急行電鉄所有の土地を利用し、記念館「hide MUSEUM」が開館。衣裳や楽器などhideにゆかりのある品々を展示、併設の「Cafe Le PSYENCE」ではライブも行われた。オープン式典にはX JAPANファンを公言し、設立にも協力したという衆議院議員小泉純一郎も出席。横須賀市内を走る京浜急行バスでも、hide並びにhide MUSEUMをテーマにした路線バスを3台(衣笠営業所所属車2台と湘南京急バス堀内営業所所属車1台)製作・運行させている。七回忌に当たる2004年5月2日には「FILM GIG」などのイベントが開催された。2005年9月25日に記念館は閉館。当初は3年間の期間限定であったが、結果的に5年に延長された。閉館後も、展示品などは時期を見て公開する予定であるとされている。


2007年4月1日、裏原宿に移転しLEMONed shopがオープン。


2007年10月17日、X JAPANが再始動。新曲「I.V.」は、生前のhideの演奏をデジタル加工して使用されており、念願としていた世界デビューへhideも同行する形が取られた。10月22日のミュージックビデオの撮影にはhideの立ち位置に空席のマイクスタンドとhideモデルのエレキギターが設置され、YOSHIKIがhideの人形を持って登場するなど『hideも一緒である』ということが強調されていた。2008年3月28日に東京ドームで開催されたX JAPANの復活ライブでは、特殊映像などを駆使して再現されたhideの立体映像が登場。


2008年5月3日・5月4日、味の素スタジアムにてhideを追悼する為の十周忌追悼ライブ『hide memorial summit』が開催された。多数のバンドやミュージシャンが出演し、5月3日に出演したhide with Spread Beaverと5月4日に出演したX JAPANでは、ステージに設置された巨大モニターに生前のhideの映像を放映する形で共演。


2013年はソロ活動20周年、2014年は生誕50周年のメモリアルイヤーとなり、hide MUSEUMの8年ぶりの復活など、様々なプロジェクトが進められた。


2014年12月10日、生誕50周年アルバムとして、3rdアルバム『Ja,zoo』に収録される予定であった未発表曲を含むベストアルバム子ギャルが発売された。収録内容も、新曲の「子ギャル」に加え、2002年7月にリリースされたベストアルバム『hide SINGLES 〜Junk Story〜』に収録された15曲(16曲目に収録されたコメントは除く)を、Junk Storyから順番に歴史を遡るように収録している。なお、この15曲はボーナス・トラック扱いである。また、初回限定版には、「子ギャル」のデモ音源も収録され、怪人カードが初回限定版・通常版にも封入された。これにより、完全に幻の曲は「ZOMBIE'S ROCK」の1曲となった。この曲はタイトルしか判明しておらず、メロディー・歌詞ともに hideの頭の中にしか存在していないため、音源化は不可能である。


2015年5月24日、生誕50周年記念ドキュメンタリー映画「hide 50th anniversary FILM 〜JUNK STORY〜」が全国の映画館で公開され、また世界各国でも公開された。


2016年1月29日、日本人ロックアーティスト初として、約14万字に及ぶ膨大なヒストリー・未公開を含む、約100枚以上の貴重な写真、母子手帳、成績表、名刺、サイン色紙、イラスト、作品発売のポスター、ライブチケット、スケジュール表、日本レコード大賞 特別賞の賞状、hide MUSEUMオープンのポスター、hide MUSEUMのパンフレットなど、お宝アイテム約50点で構成された、豪華な大型本「hide Perfect Treasures」が発売された。


2016年7月18日、1996年に千葉マリンスタジアムで、翌年には都内5カ所のクラブを、インターネット配信で同時中継した伝説のイベント「hide MIX LEMONeD JELLY」が、舞浜アンフィシアターで開催された。


2016年10月14日から16日までの3日間に渡って、幕張メッセで開催されたVISUAL JAPAN SUMMITに、X JAPAN及びhide with Spread Beaverのメンバーとして出演。なお、hide with Spread Beaverは、2008年5月に味の素スタジアムで開催された「hide memorial summit」以来、約8年ぶりの再集結であった。


2016年10月15日、伝説の2nd ソロツアー最終公演を3D映画化した「hide solo tour 1996 -PSYENCE A GO GO-」が全国で公開された。


2017年3月3日、X JAPANのドキュメンタリー映画We Are Xが、全国で公開された。


2017年8月5日、「hide MIX LEMONeD JELLY」が、新木場STUDIO COASTCOASTで開催された。


2018年4月28日・29日、『hide 20th memorial SUPER LIVE「SPIRITS」』がお台場野外特設ステージで開催された。hideと交友関係のあるアーティストが多数出演。hide with Spread BeaverのメンバーはVISUAL JAPAN SUMMIT以来約一年半ぶりに集結。


2018年5月26日ドキュメンタリー映画「HURRY GO ROUND」が全国で公開された。


2019年5月2日CLUB CITTA'KAWASAKIにて『hide Memorial Day 2109~春に会いましょう~』献花式が開催された。


2019年12月8日CLUB CITTA'KAWASAKIにてhide Birthday Partyが開催された。


2020年8月30日裏原宿のLEMONedショップが新型コロナウイルスの影響で閉店。 なお、オンラインショップは続行中である。

詳しいことは、「hideウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/Hide
(wikiより)

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松井 須磨子(まつい すまこ、1886年明治19年)3月8日(戸籍上:11月1日)[1] - 1919年大正8年)1月5日)は、日本新劇女優歌手。本名、小林正子(こばやしまさこ)。


二度の離婚、整形とその後遺症に苦しめられながらの名演、島村抱月とのスキャンダル、日本初の歌う女優としてのヒット曲発禁騒動、そして抱月死後の後追い自殺と、その波乱の短い生涯は多くの小説映画テレビドラマとなっている。

生涯

離婚、女優への執念
長野県埴科郡清野村(現・長野市松代町清野)に士族小林藤太(旧松代藩士)の五女(九人兄妹の末っ子)、小林正子として生まれる。数え年6歳の時、上田町の長谷川家の養女となり、1900年上田の尋常小学校を卒業する。しかし養父が亡くなったため実家に戻る。実家に戻った年、実父も亡くなった。数え年17歳の春に麻布飯倉の菓子屋「風月堂」に嫁いでいた姉を頼って上京した後、戸板裁縫学校(現・戸板女子短期大学)に入学する[2]


1903年親戚の世話で最初の結婚をするが、病気がちを理由に舅に疎まれ[3]、1年で離婚している。この頃から平凡な日常から脱却したいと思うようになり女優を志す。この時期に俳優養成学校に願書を提出し面接も受けるが、鼻が低くて顔全体の印象が平坦で華やかさがないことを理由に入学を拒否される。しかし女優の夢が諦めきれなかった須磨子は当時としては最新の技術であった、鼻筋に蝋を注入する隆鼻術(美容整形手術)を受けている。これにより、現在までに知られる顔になった。その後、俳優養成学校へ入学し念願の女優となった。

日本初の整形美人女優
と称されることもある。しかし、後年はその後遺症に苦しめられる。注入した蝋は比較的軟らかいもので、体温程度でも不安定な状態になり鼻筋からずれてしまうことも多かった。その度に自らの手で押さえていたという。そのようなことが頻繁にあったため体も拒絶反応を起こして鼻を中心に顔全体が腫れて炎症を起こすこともあり、時には痛みで寝込むほどであったが、当時は抜去する手術が確立されていなかったため冷水で絞った手拭いで患部を冷やすことしか出来ず耐えるしかなかった。恋仲にあった島村抱月にもその醜態を指摘されることもあったという。

二度目の離婚、日本初の「歌う女優」と発禁騒動
1908年同郷の埴科坂城町出身の前沢誠助と結婚する。東京高師地歴科を卒業した前沢は、その年の11月に「東京俳優養成所」の講師になり、日本史を担当した。


1909年、坪内逍遥文芸協会演劇研究所第1期生となる。家事がおろそかになることも多く、1910年10月、前沢と離婚。


1911年、『人形の家』の主人公ノラを演じて認められ、1913年、島村抱月と芸術座を旗揚げし、『復活』(トルストイ原作、抱月訳)のカチューシャ役が大当たりし、人気女優となった。須磨子が歌った主題歌『カチューシャの唄(復活唱歌)』(抱月作詞・中山晋平作曲)のレコードも当時2万枚以上を売り上げる大ヒットとなった。須磨子は日本初の歌う女優となった。


1915年、島村抱月ともにロシア帝国ウラジオストクを訪れ、ロシアの劇団との合同講演をプーシキン劇場で行い大好評を博した。また後に流行歌となる『ゴンドラの唄』(吉井勇作詞・中山晋平作曲)も歌唱した[4]


1917年に発売したレコード『今度生まれたら』(北原白秋作詞)では、歌詞の中にある「かわい女子(おなご)と寝て暮らそ」の部分が当時の文部省により猥褻扱いされ、日本における発禁レコード第1号となった。

自殺

1918年11月5日、スペイン風邪で抱月が病死すると、2ヶ月後の1919年1月5日、東京市牛込区横寺町(現・東京都新宿区横寺町)にあった芸術倶楽部の道具部屋において自殺縊死)した[5][6]


抱月と不倫関係にあった須磨子は、遺書で抱月の墓に一緒に埋葬されることを望んでいたがそれは叶わず、須磨子の墓は長野市松代町清野の小林家墓所(生家の裏山)に、また、新宿区弁天町の多聞院には分骨墓がある。

主な出演記録

文芸協会時代
明治44年(1911年)

・5月 -『ハムレット』(シェイクスピア作、坪内逍遥訳)オフヰリア役。第1回公演、帝国劇場

・9月 -『人形の家』(イプセン作、島村抱月訳)ノラ役;『鉢かつぎ姫』(坪内逍遥作)宰相役。文芸協会私演。

・11〜12月 -『人形の家』再演。第2回公演、帝国劇場。


明治45年(1912年)

・5月 -『故郷』(ズーダーマン作、島村抱月訳)マグダ役。第3回公演、有楽座

・6月 -『運命の人』(バーナード・ショー作、楠山正雄訳)不思議な旅の貴婦人役。文芸協会私演。

・6月 -『故郷』再演。大阪帝国座

・11月 -『二十世紀 [7]』(バーナード・ショー作、楠山正雄訳)グラントン夫人役。第4回公演、有楽座。


大正2年(1913年)

・2月 -『思ひ出』(マイヤー=フェルスター作、松居松葉訳)ケティ役。第5回公演、有楽座。


芸術座時代

大正2年(1913年)

・7月 -『モンナ・ヴァンナ』(メーテルリンク作、島村抱月訳)モンナ・ヴァンナ役;『内部』(メーテルリンク作、秋田雨雀訳)母親役(台詞なし)。第1回公演、有楽座。

・12月 -『サロメ』(オスカー・ワイルド作、中村吉蔵訳)サロメ役。帝国劇場。


大正3年(1914年)

・1月 -『海の夫人』(イプセン作、島村抱月訳)エリーダ役;『熊』(チェーホフ作、楠山正雄訳)ヘレエネ役。第2回公演、有楽座。

・3月 -『復活』(トルストイ原作、アンリ・バタイユ脚色、島村抱月訳)カチューシャ役;『嘲笑』(中村吉蔵作)お千代役。第3回公演、帝国劇場。

・7月 -『復讐』(島村抱月作)女・役。第1回研究劇、福澤桃介邸内試演場。

・8月 -『マグダ(故郷)』再演;『ヂオゲネスの誘惑』(シュミットボン作、森鴎外訳)イノ役。夏期臨時公演、歌舞伎座

・10月 -『剃刀』(中村吉蔵作)お鹿役;『クレオパトラ』(シェイクスピア原作、島村抱月脚色)クレオパトラ役。第4回公演、帝国劇場。

・12月 -『人形の家』『剃刀』再演;『結婚申込』(チェーホフ作、仲木貞一訳)娘・役。特別公演、本郷座


大正4年(1915年)

・4月 -『飯』(中村吉蔵作)お市役;『その前夜』(ツルゲーネフ作、楠山正雄脚色)エレエナ役[8];『サロメ』再演。第5回公演、帝国劇場。

・5月より第1回長期巡演(大阪、京都、神戸、名古屋、北陸、信州、東北、北海道、台湾、朝鮮、ハルピン、ウラジオストク)。


大正5年(1916年)

・1月 -『真人間』(中村吉蔵作)お品役;『清盛と仏御前』(島村抱月作)仏御前役。大阪浪花座

・3月 -『お葉 [9]』お葉役;『清盛と仏御前』再演。第6回公演、帝国劇場。

・4月 -『復活』『嘲笑』 [10] 再演。第1回新劇普及興行、浅草常磐座

・4~5月 -『復活』『サロメ』再演。特別公演、明治座

・5月 -『エジポス王』(ソポクレス作、中村吉蔵訳)王妃ヨカスタ役。寄付興行、牛込河田町小笠原伯爵庭園。

・7月 -『闇の力』(トルストイ作、林久男訳)アニッシャ役。第2回研究劇、牛込横寺町芸術倶楽部

・8月 -『マクベス』(シェイクスピア作、坪内逍遥訳)マクベス夫人役。特別公演、両国国技館

・9月 -『アンナ・カレニナ』(トルストイ原作、松居松葉脚色)アンナ・カレニナ役。第7回公演、帝国劇場。

・10月 -『飯』『サロメ』再演。第2回新劇普及興行、常磐座。


大正6年(1917年)

・1月 -『思い出』『剃刀』再演。二の替り、『爆発』(中村吉蔵作)近子役;『お葉』再演 [11]

・3月 -『ポーラ』(アーサー・ピネロ作、島村抱月訳)ポーラ役。第8回公演、新富座

・4月より第2回長期巡演(信州、甲府、名古屋、伊勢、奈良、満州、朝鮮、山陽、山陰、四国)。

・10~11月 -『お艶と新助』(谷崎潤一郎原作、島村抱月脚色)お艶役;『生ける屍』(トルストイ原作、川村花菱・島村抱月脚色)マーシャ役[12];『帽子ピン』(中村吉蔵作)お竹役。第9回公演、明治座。


大正7年(1918年)

・1月より第3回長期巡演(京都、中国、四国、九州)。

・9月 -『沈鐘』(ハウプトマン作、楠山正雄訳)森の精ラウテンデライン役;『神主の娘』(松居松葉作)朝江役。第10回合同公演、歌舞伎座。

・10月 -『死と其前後』(有島武郎作)妻・役。第3回研究劇、牛込芸術倶楽部。

・11月 -『緑の朝』(ダヌンチオ作、小山内薫訳)狂女イサベルラ役。第11回合同公演、明治座。


大正8年(1919年)

・1月 -『肉店』(中村吉蔵作)お吉役;『カルメン』(メリメ原作、川村花菱脚色)カルメン役。第12回公演、有楽座。

詳しいことは、「松居須磨子ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E4%BA%95%E9%A0%88%E7%A3%A8%E5%AD%90
(wikiより)

0272 松居須磨子

松居須磨子

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⇧ ここを登ります。

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⇧ ここが御実家になります。

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⇧⇩ 御実家から少し登るとお墓があります。

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⇧ 新宿区弁天町100・多聞院にも、お墓があります。

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加瀬 邦彦(かせ くにひこ、1941年3月6日 - 2015年4月20日[1])は、日本のミュージシャン作曲家音楽プロデューサー

経歴・人物

東京府(現東京都)生まれ。1957年11月、慶應義塾高等学校1年生の時、東京都から茅ヶ崎市に転居したが、これが縁で同年12月23日にアメフト部の先輩の紹介により俳優上原謙のクリスマス・パーティーに誘われ、当時慶應義塾大学2年生だった加山雄三に出会い、音楽面のみならずプライベートでも親交を深めるようになる。

慶応義塾大学在学中の1961年に、初めてのバンド「ザ・トップビーツ」を結成する[2]。その後ホリプロに所属し、清野太郎かまやつひろしらと「キャノンボール」を結成[2]1963年には事務所の指示により、かまやつと共にザ・スパイダースに加入するも、寺内タケシの誘いで約3か月後に脱退し、寺内タケシとブルージーンズに加入した[2]


1966年
ビートルズの来日公演でブルージーンズが前座を務めることになったが、警備上の措置として、前座のバンドは演奏終了後、楽屋に監禁され、ビートルズを見ることや演奏を聴くことが出来ない状態になっていたため、客席からビートルズを見たかった加瀬はブルージーンズを脱退した[3]


所属していたホリプロはそれでも、加瀬を引きとめ給料を支払い続けていたが、「ただで給料をもらうのも申し訳ない」と同年7月に、加山雄三が名付け親となるザ・ワイルドワンズを結成(この時、渡辺プロに移籍)。得意の12弦ギターヤマハ特注)は、ワンズサウンドの要となる。解散後は、作曲家としてだけでなく、沢田研二のプロデューサーとなり、全盛期の沢田を支えた。


1981年
1月、日本劇場取り壊しに伴う最後の日劇ウエスタンカーニバルザ・ワイルドワンズ(加瀬、鳥塚繁樹島英二植田芳暁渡辺茂樹)のメンバー5名が集結して出演したことを契機として、ザ・ワイルドワンズの再結成話が持ち上がり、仕事の都合で参加を辞退した渡辺を除くメンバー(加瀬、鳥塚、島、植田)4名でザ・ワイルドワンズを再結成した。一時期、渡辺茂樹と共にタイガース・メモリアル・クラブバンドにも在籍した。


ケネディハウス銀座”のオーナーや、加山雄三&ハイパーランチャーズのプロデューサーとしても活躍した。

1994年食道癌の手術をしたことを著書で明かしていた。2014年には下咽頭癌を発症し、手術後は自宅療養していた[1]


2012年
4月21日、ももいろクローバーZ横浜アリーナでのライブ公演『ももクロ春の一大事2012 〜横浜アリーナ まさかの2DAYS〜』の一日目に百田夏菜子 With ザ・ワイルドワンズとして参加。加瀬が百田夏菜子の為のソロ曲として作詞・作曲した「渚のラララ」を披露した。


2015年4月20日午後9時、自宅にて自殺を図り、死亡した[1]。74歳没。呼吸用のチューブがふさがれた状態で発見された[4][5]。通夜は27日に葬儀委員長を鳥塚しげきらザ・ワイルドワンズのメンバーが務めて護国寺で営まれ、音楽仲間の寺内タケシ、高木ブー中村あゆみモト冬樹エド山口江木俊夫らが参列した[6]。翌28日葬儀・告別式が営まれ、岸部一徳森本太郎瞳みのるつのだ☆ひろなど関係者300人が参列し、仕事の都合で葬儀に参列できなかった加山雄三は音声メッセージで加瀬を哀悼した[7]。戒名は常樂院悠照清邦居士[6]


同年、第57回日本レコード大賞・特別功労賞が贈られた[8]

逸話
・日本のエレキ・バンドが日本語の歌詞で歌ったものとしては草分け的存在であるオリジナル楽曲「ユア・ベイビー」は、加瀬がブルージーンズ時代に作曲してシングルでも発売されたが、ワイルドワンズ時代においても新たにレコーディングし、「想い出の渚」と共に両A面扱いで発売された。


主な作曲作品
1966年 『想い出の渚』(作詞:鳥塚繁樹、歌:ザ・ワイルドワンズ

1967年 『夕陽と共に』(作詞:ザ・ワイルド・ワンズ、歌:ザ・ワイルドワンズ)

・1967年 『青空のある限り』(作詞:安井かずみ、歌:ザ・ワイルドワンズ)

1968年 『愛するアニタ』(作詞:山上路夫、歌:ザ・ワイルドワンズ)

・1968年 『バラの恋人』(作詞:安井かずみ、歌:ザ・ワイルドワンズ)

・1968年 『花のヤングタウン』(作詞:島田陽子、歌:ザ・ワイルドワンズ)

・1968年 『青い果実』(作詞:山上路夫、歌:ザ・ワイルドワンズ)

・1968年 『シー・シー・シー』(作詞:安井かずみ、歌:ザ・タイガース

1969年 『あの頃』(作詞:安井かずみ、歌:ザ・ワイルドワンズ)

・1969年 『赤い靴のマリア』(作詞:山口あかり、歌:ザ・ワイルドワンズ)

1972年 『許されない愛』(作詞:山上路夫、歌:沢田研二

1973年 『情熱の砂漠』(作詞:山上路夫、編曲:星勝、歌:ザ・ピーナッツ、陳和美らもカバー)

・1973年 『指輪のあとに』(作詞:安井かずみ、歌:ザ・ピーナッツ

・1973年 『マンジョキロックンロール』(作詞:内田裕也、歌:内田裕也と1815ロックンロールバンド)

・1973年 『あなたへの愛』(作詞:安井かずみ、歌:沢田研二)

・1973年 『危険なふたり』(作詞:安井かずみ、歌:沢田研二)

・1973年 『甘い十字架』(作詞:安井かずみ、歌:布施明

・1973年 『胸いっぱいの悲しみ』(作詞:安井かずみ、歌:沢田研二)

1974年 『恋は邪魔もの』(作詞:安井かずみ、歌:沢田研二)

・1974年 『追憶』(作詞:安井かずみ、歌:沢田研二)

・1974年 『冬の駅』(作詞:なかにし礼、歌:小柳ルミ子

・1974年 『黄昏の街』(作詞:林春生、歌:小柳ルミ子)

1975年 『白い部屋(作詞:山上路夫、歌:沢田研二)

1976年 『ウィンクでさよなら』(作詞:荒井由実、歌:沢田研二)

1978年 『女はそれを我慢できない』(作詞:加瀬邦彦、歌:アンルイス

1979年 『ベイビー・アイ・メイク・ア・モーション』(作詞:岩沢律、歌:レイジー

1980年 『TOKIO』(作詞:糸井重里、歌:沢田研二)

・1980年 『恋のバッド・チューニング』(作詞:糸井重里、歌:沢田研二)

・1980年 『夢みるマイ・ボーイ』(作詞:岡田冨美子、歌:榊原郁恵

1981年 『めざめてキス・ミー』(作詞:竜真知子、歌:甲斐智枝美

1983年 『ホタテのロックン・ロール』(作詞:内田裕也、歌:安岡力也

1984年 『超電子バイオマン』(作詞:康珍化、歌:宮内タカユキ

1987年 『きわどい季節』(作詞:阿久悠、歌:沢田研二)

2010年 『渚でシャララ』(作詞:三浦徳子、歌:ジュリーwithザ・ワイルドワンズ)

2012年 『渚のラララ』〔作詞・作曲:加瀬邦彦、歌:百田夏菜子ももいろクローバーZ) with ザ・ワイルドワンズ〕

活動歴
1964年 ユア・ベイビー(元々はブルージーンズ時代作曲。)後に、ワイルドワンズ時代多数作曲。

1974年 天使なんていない(西郷輝彦、作曲)

1979年 ベイビー・アイ・メイク・ア・モーションレイジー、作曲)

1981年 青空オンリー・ユー(ひかる一平、作曲)

・1981年 アップルパップルプリンセス竹内まりや、作曲)

1984年 「超電子バイオマン」主題歌『超電子バイオマン』『バイオミック・ソルジャー』(ほか、挿入歌も数曲)作曲

    セイントフォーのデビュー曲なども手がけている。

1976年 THE DAY BEFORE TOMORROW 自身のソロ・アルバム (世界各国の7人の歌手が唄っている)

1988年 懐かしきラブ・ソング タイガース・メモリアル・クラブ・バンド、作曲

1990年 君よ女神のままに タイガース・メモリアル・クラブ・バンド、作曲

未来への花束 タイガース・メモリアル・クラブ・バンド、作曲

2001年 『ビートルズのおかげです』出版 ISBN 4870995530

    ザ・タイガースザ・ピーナッツZOOなどにも楽曲を提供している。

著書
・「ビートルズのおかげです」 ― ザ・ワイルド・ワンズ風雲録 あの頃の音楽シーンが僕たちのスタイルを生んだ (エイ出版) 2001年 ISBN 978-4870995536


脚注
1. a b c ワイルドワンズ加瀬邦彦さん 自殺だった…所属事務所が発表 スポニチアネックス 2015年4月22日
2. a b c “【さらば愛しき人よ】加瀬邦彦さん 「想い出の渚」…湘南サウンドの“元祖” 仲間を立てる爽やかな笑顔(1/5ページ)”. 産経ニュース (産経新聞社). (2015年5月9日). https://www.sankei.com/premium/news/150509/prm1505090026-n1.html 2018年6月12日閲覧。 
3. “【さらば愛しき人よ】加瀬邦彦さん 「想い出の渚」…湘南サウンドの“元祖” 仲間を立てる爽やかな笑顔(3/5ページ)”. 産経ニュース (産経新聞社). (2015年5月9日). https://www.sankei.com/premium/news/150509/prm1505090026-n3.html 2018年6月12日閲覧。 
4. ザ・ワイルドワンズの加瀬邦彦さん自殺、自宅洗面所前で見つかる”. sanspo.com (2015年4月22日). 2015年4月22日閲覧。
5. 加瀬邦彦さん急死、喉のチューブ塞がり自殺の可能性も”. スポーツ報知 (2015年4月22日). 2015年4月21日閲覧。
6. a b 加瀬邦彦さん通夜 寺内タケシら参列”. デイリースポーツ (2015年4月28日). 2015年4月30日閲覧。
7. 加瀬邦彦さん葬儀 加山雄三「つらい」”. デイリースポーツ (2015年4月28日). 2015年4月30日閲覧。
8. 『レコ大』司会、2年連続で安住アナ&仲間由紀恵 クマムシに特別賞”. ORICON STYLE (2015年11月20日). 2015年11月20日閲覧。

外部リンク
加瀬邦彦オフィシャルブログ
(wikiより)

124  加瀬邦彦

加瀬邦彦

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青山 杉作(あおやま すぎさく、1889年7月22日 - 1956年12月26日)は、日本俳優演出家映画監督である。本名は青山 達美(あおやま たつみ)。

来歴・人物
1889年(明治22年)7月22日新潟県北蒲原郡紫雲寺村[1](現在の同県新発田市米子)にある浄土真宗大谷派紫雲寺に、父・宣と母・綱の長男として生まれる[2]。12歳下の弟に青山敏美[注釈 1]がいる。旧制新発田中学校(現在の新潟県立新発田高等学校)卒業。


1909年
(明治42年)、旧制早稲田大学哲学科に入学[2]。在学中から演劇活動に参加し、同大学創立記念祭の野外公演で、青山杉作を名乗り初舞台を踏む[2]。しかし、僧籍を拒み演劇活動に熱中しすぎたため、実家から送金を絶たれてしまい[3]、英文科に転じた後大学を中退する。


1914年(大正3年)、新劇女優の内田鞠子(のちの青山万里子)と結婚[4]。この頃から村田実らの新劇団・とりで社の舞台に立つようになる。


1917年
(大正6年)2月17日、村田、関口存男木村修吉郎近藤伊与吉らと踏路社を創立。牛込芸術倶楽部で長与善郎原作の『画家とその弟子』を公演して旗揚げ[3]1918年(大正7年)4月、イプセン原作の『幽霊』にマンデルス牧師を演じ、好評を博した[3]。また、1920年(大正9年)には友田恭助水谷八重子らが結成した「わかもの座」でも演出を務めた。


同年、帰山教正の映画製作に村田、近藤らとともに参加し、同年製作(翌年公開)の『生の輝き』と翌年の『深山の乙女』に出演。1919年(大正8年)に映画芸術協会を名乗り、『いくら強情でも』(1920年)では監督・脚本を務め、主演も果たした。1923年(大正12年)には伊藤大輔の脚本を得て帝国キネマで『山は語らず』[注釈 2]を撮った。


1924年(大正13年)、築地小劇場の創立に参加し、劇場開場後に同人となる[5][注釈 3]。始めは演技部に属し、第2回公演『狼』でチュリエ役等を演じた。同年10月の第12回公演『地平線の彼方へ』から演出部に加わり[6]、『青い鳥』『令嬢ジュリー』(1925年)、『大寺学校』(1928年)等を演出。その傍ら『役の行者』(1926年)などでは俳優として出演し、演技指導も行った。


1928年(昭和3年)、小劇場創立者の小山内薫が逝去し、その影響で劇団が分裂。土方与志丸山定夫山本安英薄田研二らは脱退して新築地劇団を結成したが、青山は小劇場に残り、他の残留組らと劇団築地小劇場として活動を続けた。しかし、1930年(昭和5年)1月に脱退して、東山千栄子汐見洋らと劇団新東京を創立(翌年劇団東京に改組)。同時に松竹少女歌劇団の養成指導を10年間行い、水の江瀧子らを育てただけでなく、元野伊作の筆名で脚本も書き、70作もの作品を演出した[2]1942年(昭和17年)からは東京放送劇団で5期生までの演技指導を行った[2]


同年の藤原歌劇団公演グノーファウスト』から、オペラの演出も23回にわたり手掛けている。後に長門美保歌劇団に加え、1952年(昭和27年)の二期会旗揚げ公演プッチーニラ・ボエーム』も青山の演出であった。オペラ演出は、療養中で逝去前年の1955年(昭和30年)まで続いた。その中で助手に栗山昌良を起用し、のちの演出の第一人者に育てている[7]


1944年
(昭和19年)2月、千田是也小沢栄太郎東野英治郎、東山らと俳優座を結成。第1回作品『検察官』で千田と共同演出・共演し、以来演出・演技の両方で活躍。1949年(昭和24年)には俳優座養成所所長となり後輩の指導を行った。一方で、映画にも多く出演しており、黒澤明監督の『醜聞』や溝口健二監督の『雨月物語』(1953年)などに脇役で出演した。


1954年
(昭和29年)、三島由紀夫作の舞台『若人よ蘇れ』の稽古中に倒れて療養していたが、1956年(昭和31年)12月26日午前5時半、心筋梗塞のため死去した[8]。享年67。12月30日俳優座劇場で劇団葬が営まれた[8]。墓は青山霊園にある。

受賞歴
・1951年:放送文化賞

・1951年:毎日演劇賞

・1955年:紫綬褒章[9]

主演映画
生の輝き(1919年、映画芸術協会) - 照子の父 役 

深山の乙女(1919年、映画芸術協会) - 万里子の義父 役

・幻影の女(1920年、映画芸術協会) - 長浜錠吉 役

・白菊物語(1920年、映画芸術協会) - 結城定信 役 

・さらば青春(1920年、映画芸術協会) 

・いくら強情でも(1920年、映画芸術協会) ※兼監督・脚本  

・悲劇になる迄(1921年、映画芸術協会) - 辻村 役 

・別れ行く女(運命の船)(1923年、映画芸術協会) - 父 役 

・山語らず(1924年、帝国キネマ) ※監督作 

阿片戦争(1943年、東宝) - チャールズ・エリオット

姿三四郎(1943年、東宝) - 飯沼恒民 役  

・秘話ノルマントン号事件 仮面の舞踏(1943年、松竹) - ヘンリー・マクドナルド 役

・月の出の決闘(1947年、大映) - 大原幽学 役

女優須磨子の恋(1947年、松竹) - 土肥春曙 役

・偉大なるX(1948年、松竹) - 神経病の博士 役

お嬢さん乾杯(1949年、松竹) - 祖父 役

・斬られの仙太(1949年、東宝) - 甚伍佐 役 

・深夜の告白(1949年、新東宝

・真昼の円舞曲(1949年、松竹) - 雨宮浩二郎 役

醜聞(1950年、松竹) - 片岡博士 役

長崎の鐘(1950年、松竹) - 鈴木神父 役

・われ幻の魚見たり(1950年、大映) - 治郎左衛門 役 

・レ・ミゼラブル あゝ無情 第一部・第二部(1950年、東横) - 神保 役

・七色の花(1950年、東横) - 父・由信 役

・三つの結婚(1950年、松竹) - 寿美子の父 役

我が家は楽し(1951年、松竹) - 大宮画伯 役 

・風雲児(1951年、東映) - 青木院長 役

悲歌(1951年、映画芸術協会・東宝) - 亘理信直 役 

・風雪二十年(1951年、東映) - 神森博士 役  

戦国無頼(1952年、東宝) - 浅井の老将 役

・上海の女(1952年、東宝) - 李克明 役

慟哭(1952年、新東宝)

・銭形平次捕物控 からくり屋敷(1953年、大映) - 阿部対馬守 役

・妖精は花の匂いがする(1953年、大映) - 生田教授 役

・韋駄天記者(1953年、東映) - 尾本博士 役

雨月物語(1953年、大映) - 老僧 役  

青色革命(1953年、東宝) - 正岡総長 役

早稲田大学(1953年、東映) - 客渡辺 役

思春の泉 1953年 出演 ※新東宝・俳優座

・第二の接吻(1954年、滝村プロ) - 川辺宗太郎 役

愛染かつら(1954年、大映) - 津村保樹 役

・春琴物語(1954年、大映) - 春松検校 役

・勲章(1954年、俳優座)

黒い潮(1954年、日活) - 水谷主幹 役

・伊達騒動 母御殿(1954年、大映) - 伊達安芸 役


注釈
1. 青山敏美(1901年 - 1990年)は、東宝東和の元宣伝部長で、川喜多記念映画文化財団の職員でもあった。1986年(昭和61年)に山路ふみ子映画賞功労賞を受賞
2. 主演は友田恭助で、山本嘉次郎が助監督を務めた
3. 開設時の同人は、土方与志小山内薫友田恭助和田精浅利鶴雄汐見洋

出典
1.
KINENOTE「青山杉作」の項
2. a b c d e 『日本映画俳優全集・男優篇』pp.6-12
3. a b c 佐藤忠男著『日本の映画人 日本映画の創造者たち』p.5
4. 青山万里子、『講談社 日本人名大辞典』、講談社コトバンク、2010年1月6日閲覧。
5. 浅野時一郎著『私の築地小劇場』p.64
6. 日本におけるスタニスラフスキー・システム1
7. [=Find_PerformanceInformation 青山杉作]”. 昭和音楽大学オペラ情報センター. 2020年3月24日閲覧。
8. a b 『俳優座史,1984-1993』p.145
9. 劇団俳優座の創設者 青山杉作と俳優座”. インターネットミュージアム. 2020年7月22日閲覧。

関連事項
日本の男優一覧

新潟県出身の人物一覧

外部リンク
Sugisaku Aoyama - インターネット・ムービー・データベース(英語)

青山杉作 - 日本映画データベース

青山杉作 - KINENOTE

青山杉作 - allcinema

早稲田と文学(青山杉作) - 早稲田大学
(wikiより)

1813  青山杉作

青山杉作

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伊原 敏郎(いはら としお)、1870年5月24日明治3年4月24日) - 1941年昭和16年)7月26日)は、日本の演劇評論家、劇作家。青々園(せいせいえん)という筆名を使用したため、伊原青々園としても知られる。

来歴
松江生まれ。第一高等学校中退、1893年二六新報に入社、青々園の名で劇評を書く。坪内逍遥と親しくなる。1896年都新聞に入社した。1900年三木竹二と『歌舞伎』を創刊、さらに『日本演劇史』『近世日本演劇史』『明治演劇史』三部作で1933年朝日文化賞を受賞した。また新聞小説や戯曲『出雲の阿国』を書いた。

著書
絶版
・『欝金しごき』探偵實話 (金槇堂、1901年)

・『自轉車お玉』探偵實話 (金槇堂、1901年)

・『新比翼塚 吉原心中』(金槇堂、1900–01年)

・『市川團十郎』(エックス倶樂部、1902年)

・『強盜士官』探偵實話(金槇堂、1902年)

・『爲朝重太郎』實事小説』(駸々堂、1902年)

・『三升格子』(金槇堂、1902年)

・『日本刀』(駸々堂、1903年)

・『後の爲朝』(駸々堂、1902–03年)

・『日本演劇史』(早稻田大學出版部、1904年)

・『影法師』(春陽堂、1906年)

・『戀の闇』(近藤新榮堂、1906年)

・『唾玉集』後藤宙外共編(春陽堂、1906年、のち平凡社東洋文庫)

・『夫さだめ』(春陽堂、1907年)

・『子煩惱 戀の闇續編』(近藤新鋭堂、1907年)

・『新朝顏日記 春陽堂、1907年)

・『寶息子』(春陽堂、1908年)

・『若狹物語』(春陽堂、1908年)

・『縁の絲 新講話』(畫報社、1909年)

・『出雲の阿國』(同文館、1910年)

・『新桂川』(畫報社、1909–11年)

・『房州義民傳』(岡村書店、1911年)

・『人と人』(新鋭堂、1911–12年)

・『迷ひ子』(樋口隆文館、1911年)

・『大將の家』(春陽堂、1913年)

・『近世日本演劇史』(早稻田大學出版部、1913年)

・『火の玉小僧』(大川屋書店、1915年)

・『市川團十郎の代々』(市川宗家、1917年)

・『後の強盜士官』(大川屋書店、1919年)

・『舞臺之團十郎』 安部豊共編(舞臺之團十郎刊行會、1923年)

・『白魚河岸』(新作社、1924年)

・『現代大衆文學全集』 第25卷、伊原集(平凡社、1929年)

・『歌舞伎通』(四六書院、1930年)

・『明治演劇史』(早稻田大學出版部、1933年)

・『演劇談義 隨筆集』(岡倉書房、1934年)

・『團十郎の芝居』(早稻田大學出版部、1934年)

・『團菊以後 正・續』(相模書房、1937年)

・『伊原集』歌舞伎座劇評集、昭和2年1月〜昭和16年2月(坂上書院、1941年)

・『歌舞伎年表』全8卷(岩波書店、1956–63年)

復刻版
・『日本演劇史』近世文芸研究叢書(クレス出版、1996年)

・『明治演劇史』近世文芸研究叢書(クレス出版、1996年)

・『近世日本演劇史』近世文芸研究叢書(クレス出版、1996年)

・『市川団十郎の代々・市川団十郎』近世文芸研究叢書(クレス出版、1997年)
(wikiより)

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小林 麻央(こばやし まお、1982年〈昭和57年〉7月21日[8] - 2017年〈平成29年〉6月22日[4][5][6])は、日本フリーアナウンサー[4][5][6]キャスター[4][5][6]、タレント[10]。本名・堀越 麻央(ほりこし まお)[1]。旧姓・小林(こばやし)。 新潟県小千谷市生まれ[2][3]東京都育ち[11]。最終所属はセント・フォース[8]


姉は元フリーアナウンサー小林麻耶[4][5][6]。夫は歌舞伎俳優の十一代目市川海老蔵[4][5][6]


略歴
新潟県小千谷市で出生し、その後、父の仕事の関係でさいたま市西宮市荒川区と移り住む[12][13]國學院高等学校卒業[14]上智大学文学部心理学科卒業[15]。上智大学在学中に日本テレビ系恋愛トーク番組『恋のから騒ぎ』に出演し注目を集める[7][9]。卒業後はセント・フォースに所属しフジテレビ系めざましどようび』のお天気キャスターを務める[7][9]


2004年
、『ジャンクSPORTS』の「ファンタスティックストーリー」を担当。2004年6月放送の『ピンクヒップガール』(フジテレビ関東ローカル)でドラマに初出演。その後、2005年にビデオシネマ『東京フレンズ』、フジテレビ系月9ドラマスローダンス』などに出演。『めざましどようび』出演開始以降、テレビ番組や女優業に関してはほぼフジテレビ専属状態が続いていたが、2006年1月3日放送の日本テレビ系『太田光の私が総理大臣になったら…秘書田中。』に出演したのを皮切りに、フジ以外の番組にも進出。2006年9月30日、『めざましどようび』のお天気キャスターを卒業。


2006年10月2日から日本テレビ系ニュース番組『NEWS ZERO』のサブキャスター(月 - 木曜担当)を務める(2010年3月31日まで)[7][9]


2007年
4月12日からフジテレビ系バラエティ番組『奇跡体験!アンビリバボー』の進行役を担当[8]


2009年11月19日、イベントの記者会見で十一代目市川海老蔵との交際を認めた[16]。交際のいきさつについて、同日の公式ブログで「日本テレビ『NEWS ZERO』のZEROカルチャーでのインタビューがきっかけで知り合いました」と記して、近日中に婚約を行なうことも認めた[17]


2010年
1月29日、市川海老蔵と婚約発表会見を行う。3月3日に婚姻届を提出、7月29日にザ・プリンス パークタワー東京で挙式、結婚披露宴を行った[18][19]。2011年7月25日、第一子である長女を出産[20]。2013年3月22日、第二子である長男を出産[21][22][23]

闘病・死去
長男の出産から約1年後に乳癌の兆候が確認されていた。しかし麻央本人が早期に対応できなかったため、後に重篤な症状を引き起こすに至る。2014年2月に人間ドックを受けた際、乳房にしこりが発見された[24]。しかし当初は人間ドックの担当医が「癌の可能性は五分五分である」と診断を下し[25]乳腺専門医の知人2人が「オーバーな担当医だ」との見方を示し[26]、更に再検査時の担当医も「癌ではない」と診断を下し[27]、更に、麻央は長女の授乳時から2年以上の間、乳腺の状態を良くするための母乳マッサージに通いケアしていたため、本人も癌の可能性を疑わなかった[28]。しかし同年10月にも同じ箇所にしこりが確認され[29]、脇への転移も発見され[30]、ここで初めて癌であるという確定的な診断が下された[31]


それ以降、非公開で闘病していたが、2016年5月19日に看病していた姉の麻耶がレギュラー出演している『バイキング』(フジテレビ)の放送中に突如倒れて長期の療養に入り、同年6月9日、麻央が「進行性がんで極秘入院」との記事がスポーツ報知にて報道されたことを受け[32]、その日の午後に夫の海老蔵が緊急記者会見を開き、「妻・麻央が乳癌を患っている」と麻央の病気療養を明らかにした[33]


闘病中の2016年9月1日にブログ『KOKORO.』を開設。死去3日前の2017年6月20日まで352回更新。250万人以上の読者を集めた[34][35][36]。ブログで積極的に病状の情報発信を行ったことが評価され、2016年11月21日、英国放送協会 (BBC) の「今年の女性100人」の一人に選出された[37][38][39]。麻央の死後は海老蔵が引き継ぎ、6月29日に最後の投稿を英語訳した文章を公開。今後も継続して公開し続けることを発表した。当面は『KOKORO.』に投稿。その後、新ブログに移行する予定で進められている[40]。また、夫・海老蔵のブログも500回以上更新された[34]


2017年1月9日に放送された夫・海老蔵のドキュメンタリーテレビ番組『市川海老蔵にござりまする』(日本テレビ系)に、入院中の身を押してインタビューに応じる形で出演[41]。これが公の場での最後の姿となった。


2017年6月22日夜、自宅で死去[42]。34歳没。夫・海老蔵は、翌6月23日、シアターコクーン東京都渋谷区)にて上演中の『市川海老蔵 第四回 自主公演 ABKAI 2017 〜石川五右衛門 外伝〜』公演[43] の昼の部の終了後、同劇場にマスコミ各社を招いて14時30分から行われた記者会見で麻央の訃報を正式に公表した[4][44][45][46][47]。会見での海老蔵の談によると、死去当日の22日は喋ることさえできなくなっていたといい、最期は姉の小林麻耶、麻央と麻耶の両親、実の娘と息子、そして夫・海老蔵に看取られながら息を引き取った。最期の言葉は「愛している」だったと、同時刻に配信の海老蔵のブログでも公表された[44][45][48]


堀越家は神道神習教)信者であり[注 1][49][50]、葬儀は神式で執り行われた[51][52]。 諡名は「豊愛尚興姫命」[53]。墓所は青山霊園[53]


闘病中、劇場でのサポートは海老蔵の母や妹(3代目市川ぼたん(のちの四代目市川翠扇))が、自宅でのサポートは麻央の母や姉の麻耶が、病床の麻央に代わり行った[54]


麻央の葬儀は堀越家・小林家の家族・親族など身内だけで執り行ったこともあり、夫の海老蔵は2017年11月20日に自身のブログにて「生前の麻央がお世話になった方々にきちんとお別れをせねばならない」として、2018年中に堀越家の主催によるお別れの会を開催する意向を表明[55]。2018年6月23日に麻央の仕事関係者が集まる形で偲ぶ会を開催した[56]

公式発表前の報道への批判
麻央が死去した翌日の2017年6月23日、海老蔵は記者会見を開く前に「人生で一番泣いた日です」「なるべくいつも通りに過ごします」とブログを更新し、マスコミに対しては「お察しください。改めてご報告させて頂きますので、近隣の方々のご迷惑になるので一先ずお帰り下さいませ」と配慮を求めたが、多くの大手全国紙、スポーツ紙、テレビ局は会見前に麻央の死去を報じ、ニュースサイトのコメント欄やソーシャルメディアには非難の声が多数寄せられた[57][58]


批判の一方で、姉・麻耶がレギュラー出演していた『バイキング』(2017年6月23日放送)では、番組冒頭に司会の坂上忍が涙で声を震わせながら、海老蔵の会見前であるため番組の中で麻央の訃報を最大限取り上げず、当初の予定通り番組を進めることを求め[59][60]、視聴者から評価された[61]

人物
・身長164cm[62]左利き[63]

・将来は鈴木京香のような女優を目指していた[64]

視力が悪くコンタクトレンズを装用していたが、自宅では付けていなかった[65]

・生前の私服は7割がミニスカート、3割がワンピースであった[66]

・漫画『BASARA』が愛読書であり生前のバイブルであったと言う[67]

エピソード
・姉の麻耶に勧められた事がきっかけで、大学在学中に『恋のから騒ぎ』に出演。『恋のから騒ぎ』で刺激を受け、その後「人前でキレイに話してみたい、いろんな人に会いたい」という夢を抱き、番組卒業後アナウンススクールに通い始めた。アナウンサー試験を受けるか悩んでいるときに、セント・フォースに声をかけられた。こうした経緯をフジテレビクラブ・マガジン『アビアド』の記事で公開している。セント・フォースに入った理由は、憧れの吉田恵が所属していたことが大きいと語っていた[68]


大塚愛とは『東京フレンズ』で共演して以来の友人であり[69]、普段でも大塚から声マネをされたりしていた[70]。『東京フレンズ』の収録中は大塚に加え、真木よう子にもマネされた[70]ライブDVDJAM PUNCH TOUR 2005〜コンドルのパンツがくいコンドル〜at Tokyo International Forum Hall A on 1st of June 2005』のスペシャル盤のDISC2の「さくらんぼ」と「Happy Days」の部分で観客として映っている[70]

家族
・麻耶とは仲の良い姉妹で、「麻央ちゃん」「お姉ちゃん」と呼び合っていた[71]。恋愛の事から仕事の悩みまで、何でも麻耶に相談し、麻耶を尊敬していた[72]。麻耶も麻央を非常に可愛がっており、逆に姉から妹を尊敬している所もある[73]


・2010年4月19日放送の『SMAP×SMAP』の「BISTRO SMAP」コーナーで、初めて姉妹揃ってテレビ番組に出演した[74]。雑誌では、2007年7月2日発売の『BRUTUS』(マガジンハウス、撮影:篠山紀信)で初共演していた。


・麻央が小さい頃から、母親が大事に育てていた観葉植物のベンジャミンを小林家の家宝として挙げていた。2006年には既に自身の背丈(164 cm)を越していた[75]

出演
ニュース

めざましどようび(2003年10月4日 - 2006年9月30日、フジテレビ) - 初代 お天気お姉さん

NEWS ZERO(2006年10月2日 - 2010年3月31日、日本テレビ) - サブキャスター(月〜木曜担当)

ZERO×選挙2007 「第21回参議院議員通常選挙」(2007年7月29日、日本テレビ) - 開票速報キャスター

ACTION 日本を動かすプロジェクト(2008年1月6日・5月5日・12月23日、日本テレビ) - 司会

・ZERO×選挙2009 「第45回衆議院議員総選挙」(2009年8月30日、日本テレビ) - 開票速報キャスター

テレビドラマ
ディビジョン1 ステージ3「ピンクヒップガール」(2004年6月7日 - 22日、フジテレビ) - 佐伯えみ 役

スローダンス(2005年7月4日 - 9月12日、フジテレビ) - 広瀬歩美 役

アンフェア(2006年1月10日 - 17日、関西テレビ) - 松本理恵子 役

Happy!(2006年4月7日、TBS) - 竜ヶ崎蝶子 役

  ・Happy!2(2006年12月26日、TBS)

おいしいプロポーズ(2006年4月23日 - 5月21日、TBS) - 島崎沙織 役

タイヨウのうた(2006年7月14日 - 9月15日、TBS) - 三浦結子 役

映画
東京フレンズ The Movie(2006年8月12日、松竹) - 我孫子真希 役
キャプテン(2007年8月18日、トルネード・フィルム) - 三咲静香 役

マリと子犬の物語(2007年12月8日、東宝) - 関根博美 役

テレビアニメ
ワンピース時代劇(フジテレビ) - おまお 役

  ・ルフィ親分再び! 夢か現か富くじ騒動(2006年12月24日)

  ・時代劇特別編 破れ! スリラー商会の罠(2009年6月28日)

バラエティ
恋のから騒ぎ(2002年 - 2003年、NTV

・小林麻央の「110の王」・小林麻央の「110の王」episode2(2006年10月2日 - 2007年9月、スカチャン!ハイビジョン) - 司会

魁!音楽番付(2006年10月11日・12月28日、2007年4月4日・8月18日、フジテレビ) - ライブ放送の司会

小学生クラス対抗30人31脚(2006年12月、テレビ朝日) - 3代目大会委員長

大笑点(2007年1月1日、2008年1月1日、日本テレビ) - 総合司会

奇跡体験!アンビリバボー(2007年4月12日 - 2011年3月17日、フジテレビ) - 進行[76]

CM
サッポロ ドラフトワン(2004年12月4日) - フジテレビのインフォマーシャル

アートネイチャー(2005年6月22日 - 2006年) - イメージキャラクター

PSPソフト「脳力トレーナー ポータブル」(2005年9月6日 - 2006年) - 先生 役

ハウス食品(2005年12月25日 - 2006年1月) - 年末年始カレーキャンペーン

大塚製薬SOYJOY」(2006年10月10日 - 2007年) - みのもんたと共演

・・エステティックTBC(2006年12月25日 - 2007年) - TBCビューティナビゲーター

CHINTAI(2007年8月 - 2009年) - 宮川大輔と共演、ラジオCMでは引越遍歴について語っている

POLA(2007年9月3日 - 2016年) - イメージキャラクター

 2010年には事務所の他の所属タレント6名、2011年には小林麻耶と共演

毎日コミュニケーションズ「マイコミ人材派遣」(2007年10月 - 2016年)

ブラザー工業「JUSTIO ジャスティオ」、「MyMio マイミーオ」(2007年10月 - 2016年)

グレイズ・アナトミー シーズン3(2008年6月 - 2016年) - 八田亜矢子と共演

武田薬品工業ストレージ」(2009年6月17日 - 2016年)

ロッテリア「エビマヨバーガー」(2010年9月 - 2016年) - 海老蔵が出演した新エビバーガーの続編として登場

詳しいことは、「小林麻央ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%9E%97%E9%BA%BB%E5%A4%AE
(wikiより)

010   小林麻央

小林麻央

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〇 宮城宗典
宮城 宗典(みやぎ むねのり、1965年1月8日 - 1988年3月29日)は東京都出身の歌手。血液型はO型。ヒルビリー・バップスの初代ボーカル。享年23。

来歴
バンド「ヒルビリー・バップス」のボーカルとして、1986年4月25日にシングル『微熱なキ・ブ・ン』でデビュー(同曲はライオンの制汗デオドラント「BAN16」のCMソングとして起用された)。


深夜放送のドラマ『ヒルビリー・ザ・キッド』に主演し、映画出演もするなど、音楽以外の場でも活躍を見せ始め知名度があがってきていたデビュー2年目、全国ツアー初日を終えた翌日、飛び降り自殺をした[1]


前述の活動に疑問を感じ、バンドとして本当にやりたい音楽から離れていってしまっているジレンマから鬱の症状があったと言われているが、遺書も遺言も残されていないため根拠はない。真相は謎に包まれたままである。

ある番組で宮城宗典は「意識が外に向かっている。自己満足の世界ではないというか...。」と話している。


東京都江東区亀戸にある自性院境内に供養塔「施無畏(セムイ)観音」があり、今でも沢山のファンが訪れており、宮城が生前好きだったガーベラが絶えることがない。参詣時間は当初、家族の諸事情によって13時から17時までに限定されていたが、死後21年目をもって限定を解除された。

人物
折原みと
の小説『真夜中を駆けぬける』のモデル。

主な出演
バラエティ番組
・まんまとアイドル(1986年10月 - 1987年3月、テレビ朝日

テレビドラマ
・ヒルビリー・ザ・キッド(1987年10月 - 1988年3月、テレビ朝日)


映画
微熱少年(1987年6月13日、東宝) - 加藤 役

脚注
1. ポピュラー音楽人名事典、594頁。

参考文献
・『ポピュラー音楽人名事典』日外アソシエーツ、日外アソシエーツ、1994年7月25日。ISBN 4-8169-1223-1

外部リンク
ヒルビリー・バップスのブログ - Ameba Blog

宮城宗典 - allcinema

宮城宗典 - Movie Walker
(wikiより)

03 宮城宗典

宮城宗典 ( 左側 )

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⇧⇩ お墓近くにある「 施無畏 ( セムイ ) かんのん」

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施無畏 ( セムイ ) かんのん


すべての友に光を


真実を見る目と心を


I am proud of you


兄は誇りです


宗典君ステキな思い出ありがとう


ステキな笑顔が忘れられません


いつも一生懸命生きます


いついつまでもみまもって下さい


〇 宮城宗典
宮城 宗典(みやぎ むねのり、1965年1月8日 - 1988年3月29日)は東京都出身の歌手。血液型はO型。ヒルビリー・バップスの初代ボーカル。享年23。

来歴
バンド「ヒルビリー・バップス」のボーカルとして、1986年4月25日にシングル『微熱なキ・ブ・ン』でデビュー(同曲はライオンの制汗デオドラント「BAN16」のCMソングとして起用された)。


深夜放送のドラマ『ヒルビリー・ザ・キッド』に主演し、映画出演もするなど、音楽以外の場でも活躍を見せ始め知名度があがってきていたデビュー2年目、全国ツアー初日を終えた翌日、飛び降り自殺をした[1]


前述の活動に疑問を感じ、バンドとして本当にやりたい音楽から離れていってしまっているジレンマから鬱の症状があったと言われているが、遺書も遺言も残されていないため根拠はない。真相は謎に包まれたままである。

ある番組で宮城宗典は「意識が外に向かっている。自己満足の世界ではないというか...。」と話している。


東京都江東区亀戸にある自性院境内に供養塔「施無畏(セムイ)観音」があり、今でも沢山のファンが訪れており、宮城が生前好きだったガーベラが絶えることがない。参詣時間は当初、家族の諸事情によって13時から17時までに限定されていたが、死後21年目をもって限定を解除された。

人物
折原みと
の小説『真夜中を駆けぬける』のモデル。

主な出演
バラエティ番組
・まんまとアイドル(1986年10月 - 1987年3月、テレビ朝日

テレビドラマ
・ヒルビリー・ザ・キッド(1987年10月 - 1988年3月、テレビ朝日)


映画
微熱少年(1987年6月13日、東宝) - 加藤 役

脚注
1. ポピュラー音楽人名事典、594頁。

参考文献
・『ポピュラー音楽人名事典』日外アソシエーツ、日外アソシエーツ、1994年7月25日。ISBN 4-8169-1223-1

外部リンク
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(wikiより)

03 宮城宗典

宮城宗典 ( 左側 )

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⇧⇩ 施無畏かんのん

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高橋 良明(たかはし よしあき、1972年9月2日 - 1989年1月23日)は1980年代後半に活動していた日本の俳優アイドル歌手である。

来歴・人物
東京都で生まれ、神奈川県横浜市で育つ。1984年昭和59年)に児童劇団東京宝映(宝映テレビプロダクションの前身)に入所し、子役として芸能界デビュー。1985年(昭和60年)に出演したテレビドラマ『うちの子にかぎって2』(TBS系列)で人気を博し、1987年(昭和62年)には『オヨビでない奴!』(同)でドラマ初主演。また、同年11月21日には「天使の反乱」(キングレコード)でアイドル歌手としてもデビュー。同楽曲はオリコンランキングの9位にランクインした。歌手デビューから1年間で発表したレコードの総売上は81万枚に達した[1]


1989年
(昭和64年)1月5日夜、横浜市青葉区から川崎市麻生区にかけてオートバイで走行中、車道を横断してきた歩行者(中学生)に接触。バランスを崩して路上駐車していた自動車に激突、負傷した。事故後高橋は東京都稲城市内の脳神経外科病院に救急搬送された。


4日後の(平成元年)1月9日には意識が回復した[2] が、同月22日に容態が急変、意識不明となり、翌23日午前2時46分に死亡した。死亡当日、聖マリアンナ医科大学にて司法解剖が行われ、死因は頭部打撲による小脳くも膜下出血及び中脳出血と診断された。


この事故の際、高橋は中型バイクを運転していたが、前年(1988年(昭和63年))10月に原付免許を取得していたものの、普通自動二輪車の免許は取得していなかったため無免許運転をしていたことになる[注 1]。被害者である中学生は大腿部を骨折して全治2カ月の重傷を負った。高橋の死後、被疑者死亡による不起訴処分とされた。高橋は免許条件違反を犯していたため、事故前に収録されていた出演テレビドラマ『春日局』(NHK大河ドラマ)の「総集編」放送(1989年12月)では、高橋の全出演シーンがカットされるという措置がとられた。また、事故後の急死は医療事故であり、高橋の遺体に病院の浴衣を着せることを高橋の家族が拒否したとの報道もあった。また、この報道によって病院側が高橋家を名誉棄損で訴えた。結果は病院側の敗訴に終わった。


高橋の葬儀には女子中高生などをはじめとするファン5000人が押しかけた。追悼ライブでは1万5000人のファンが集まった。その後も追悼アルバムやベストアルバムなどが発売されている。

家族
兄弟は、2歳年下の弟と4歳年下の妹がいる。そのうち弟である高橋知秀は良明の死後にシンガーソングライターとして活動していた。知秀は2005年(平成17年)12月4日東京都立日比谷高等学校の星陵会館(東京・永田町)にて行われた『高橋良明17回忌メモリアルライブ』にも出演。同日、知秀は良明の持ち歌の『天使の反乱』をカバー収録したオリジナルアルバム『希望の歌』(ベルウッドレーベル)を発売した。


知秀自身も2008年(平成20年)10月末、交通事故により重傷を負った。一命は取り留めたものの、それ以降は音楽活動から退いたままとなり、復帰の目処は立っていない。


広島東洋カープなどに所属していた元プロ野球選手の高橋慶彦は高橋良明・知秀兄弟の従兄にあたる。


2013年8月16日の『爆報! THE フライデー』に母親と妹が出演した。

エピソード

ドラマ『オヨビでない奴!』の主演が評価され、共演者である植木等所ジョージとの3ショットがきっかけで、「第二の植木等」・「第二の所ジョージ」と評された[2]


『オヨビでない奴!』『五稜郭』などで共演した石川博之とは横浜市立すすき野中学校の同級生であり友人だった。なお、石川もまた、高橋が事故死した翌1990年(平成2年)10月末、同じくバイク運転中にトラックと衝突し死亡した。


様々な番組で共演した松本留美を母親のように慕っており、笑っていいとも!の出演時の次回のゲスト紹介の時も松本を紹介した。さらに、生涯最後の出演作である『春日局』で共演したガッツ石松とは親子盃を誓った仲だと証言されているが、後にガッツ石松はそれを否定している[2]

主な出演作品
テレビドラマ
ポーラテレビ小説「夢かける女」(1985年、TBS

電撃戦隊チェンジマン(1985年、テレビ朝日

うちの子にかぎって2(1985年、TBS) - 羽田功 役

  ・うちの子にかぎって…スペシャル1(1986年4月18日、TBS) - 羽田功 役

  ・うちの子にかぎって…SpecialII(1987年4月1日、TBS) - 羽田功 役

木曜劇場アルザスの青い空」(1985年、フジテレビ

月曜ドラマランド(フジテレビ)

  ・「おとぼけ駅員 キップくん」(1985年6月24日)

  ・「おとぼけ駅員 キップくん2」(1986年2月17日)

巨獣特捜ジャスピオン 第42話(1986年、テレビ朝日)

・夏休み特別企画「十五少年漂流記 忘れられない夏休み」(1986年、TBS)

土曜グランド劇場新・熱中時代宣言」(1986年、日本テレビ

痛快!OL通り(1986年、TBS) - 与那嶺サチオ 役

・金曜女のスペシャル「その年の冬」(1986年11月21日、フジテレビ)

ママはアイドル 第9話、第10話(1987年、TBS) - サッカー部員 役

オヨビでない奴!(1987年、TBS) - 主演・風間遊介 役

パパはニュースキャスタースペシャル 摩天楼はバラ色に(1987年10月2日、TBS) - 竹田トオル 役

痛快!ロックンロール通り(1988年、TBS)

土曜スーパースペシャルキャッツ・アイ」(1988年7月23日、日本テレビ) - 河野哲 役

避暑地の猫(1988年、テレビ朝日) - 主演・久保修平(少年期) 役

年末時代劇スペシャル五稜郭」(1988年12月30日・31日、日本テレビ) - 玉置良三 役

NHK大河ドラマ春日局」(1989年、NHK) - 斎藤利宗〈少年時代〉 役

  ・他にもツヨシしっかりしなさい(1989年、日本テレビ) に主演予定で全キャスト発表済だったが、他界により主演は森且行に急遽変更された。

映画
コミック雑誌なんかいらない!(1986年)

バラエティー番組
森田一義アワー 笑っていいとも!(1988年5月18日、フジテレビ)※テレフォンショッキング初登場

CM
NTT東日本(1986年)

オドイーター(1987年)

森永製菓パックンチョ』・『チョコモナカ』(1988年)

ラジオ
一輝と良明 どんまいフレンド(1988年、ニッポン放送

楽曲
シングル
1. 天使の反乱/Let's Dance(1987年11月21日、キングレコード)オリコンチャート最高位 9位
2. 恋の3.2.1/マドンナをおとせ(1988年4月21日、キングレコード)最高位 6位
3. ヴィーナスの失敗/STAND UP!(1988年7月11日、キングレコード)最高位 7位
4. 悲しきバッド・ボーイ/突然…KISS!(1988年10月21日、キングレコード)最高位 23位
5. 抱きしめて…サンライズ/夢で逢えるさ(1989年1月1日、キングレコード)最高位 43位
6. 夢で逢えるさ/抱きしめて…サンライズ(1989年2月25日、キングレコード)※追悼シングル 最高位 54位

アルバム
・もうちょっとでヒーロー(1988年2月10日) - ミニアルバム

・夏物語へようこそ!(1988年7月11日)

・Stay With Me(1988年12月16日) - 限定版

・夢で逢えるさ(1989年3月21日) - 追悼アルバム

・高橋良明 FOREVER(1990年2月21日)

・高橋良明パーフェクトベスト(2010年7月7日) - ベストアルバム(ASIN B003I8WZMM

参考文献
週刊明星(1989年2月9日)

脚注
注釈
1. オートバイは近く中型免許を取得する予定でいた高橋本人が事前に購入していた所有物である。借りていたビデオを返却しに行く途中の事故だった

出典
1.  【プレイバック芸能スキャンダル史】 トップアイドル高橋良明がバイク事故死、日刊ゲンダイ、2013年10月31日 掲載。
2. a b c 2013年8月16日放送の「爆報! THE フライデー」での証言[信頼性要検証]

関連項目
辻本祐樹 - 宝映テレビプロダクションに所属していたジュニアアイドル時代の2002年(平成14年)10月にキングレコードよりCDデビューしている。

外部リンク
高橋良明 WEB SITE - 公式サイト
(wikiより)
  
1 高橋良明

高橋良明

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夏目 雅子(なつめ まさこ、1957年昭和32年)12月17日 - 1985年(昭和60年)9月11日[1])は、日本女優である。本名、西山 雅子(にしやま まさこ)。旧姓、小達 雅子(おだて まさこ)。其田事務所などに所属していた。


来歴
生い立ち

1957年(昭和32年)12月17日東京都渋谷区宮代町日本赤十字社中央病院にて、六本木2丁目の輸入雑貨店・亀甲屋の子として生まれる[3]。亀甲屋は実際は荒物金物石鹸亀の子たわしなどを扱う日用品雑貨の店だが[3]、芸能界デビュー後は貿易会社社長の娘などと変更された[3]。父は東京オリンピックのための道路拡張後に店をビルにし[4]、貸しビル業などで成功した[3]。3歳上には兄、10歳下に弟がいた。趣味は毛糸の編物、絵(デッサン)、琴、古い食器収集、俳句(東京俳句倶楽部所属、俳号は海童)、生け花(草月流)。


高輪神奈川県横浜市中区山手モービル石油の日本支社長宅などに転居し、千葉県館山市には別荘があったという。


小学3年生のときにテレビドラマ「チャコちゃんハーイ!」を見て女優を志す。だが子役願望は母親に猛反対されかなわず[5]、17歳のときにヴィットリオ・デ・シーカ監督の映画「ひまわり」を映画館で見て衝撃を受け、ソフィア・ローレンに憧れ本格的に女優を目指すようになった。


東京女学館小学校
東京女学館中学校・高等学校卒業[注 1]。学生時代のあだ名は「ダテピン」。あけっぴろげでテストで悪い点数をとったときに限って「見て、見て」と答案を見せたがるからとのこと[6]


1976年東京女学館短期大学にそのまま進学してフランス語を専攻。入学直後に父の友人の伝手でタオルメーカー内野株式会社(現UCHINO)のコマーシャルに出演[7]。これはデビュー前で最初のテレビ挑戦だったが、厳しい学校であったので、結局、短大は中退することになる[1]

芸能活動
同年、日本テレビ愛のサスペンス劇場愛が見えますか…』のオーディションで486人の応募者の中から盲目のヒロイン役に選ばれ、本名(小達雅子)で女優デビューした[1]。この時の演技は57回連続NGを出され、「お嬢さん芸」と言われたほど拙いものであった[注 2]。周囲から“お嬢さん”と見られることは後々まで彼女のコンプレックスであった。


1977年
から8年間、山口銀行の広告に登場。同年、カネボウ化粧品キャンペーンガールとなり、「クッキーフェイス」のCMで注目を集め、この時、夏の注目の目玉商品になることで、芸名を本名の小達雅子から夏目雅子へと改名する[注 3]。さらに、イギリスの女性ヴォーカリスト、ティナ・チャールズ英語版が歌う同CMの使用楽曲「Oh!クッキーフェイス」を自ら日本語でカバーしCBSソニー(現・ソニー・ミュージックエンタテインメント)よりシングルレコードをリリース、歌手としてもデビューした。ブレイクのきっかけを作ったこのときのCMディレクターが後の直木賞作家で夫の伊集院静であった。なお、このときの撮影ロケ地はチュニジアであった[注 4]


同年、TBSの『すぐやる一家青春記』で2回目の連続ドラマ出演。東映映画『トラック野郎・男一匹桃次郎』にはマドンナ(ヒロイン)の小早川雅子役に抜擢され、映画初出演を果たした。これは監督の鈴木則文の判断によるもので、同シリーズは初々しい女優や歌手をマドンナに起用するのが基本だった(カネボウのポスターを見たのがきっかけだった[8])。鈴木は「彼女はカチンコの事も知らなかった」と述懐している[9]


1978年
、『西遊記』で三蔵法師役を演じて人気を得る(「頭の形が良く、美しくて神々しい」と美貌が話題となった)。ドラマ自体も好評で、この番組によって人気が高まり、バラエティー番組などのタレントとしての出演が増えていたが、「本格的に女優を目指したい」と本人が直訴して、P&M事務所[注 5] から、文学座とつながりの深い其田事務所に移籍した[10]。以後、仕事は女優業中心となる。


1979年、父がスキルス性胃癌に倒れ、摘出手術。夏目は「気絶してしまうからやめなさい」という医師の指示を聞き入れず、父の手術の一部始終をその目で見た[10]。なお父は末期癌で手術のかいなく翌年に47歳で他界した。


1980年
、ドラマ『サンキュー先生』(テレビ朝日系列)の1話で、いじめられっ子の姉役に特別出演。プロデューサー久世光彦からこれからの女優として推薦され、ドラマ『虹子の冒険』(テレビ朝日系列)で初主演。同様に夏目の女優としての将来性を見抜いた演出家和田勉によって『ザ・商社』のヒロインとして大抜擢された。このドラマはNHKの制作だが、上半身裸のヌードシーンがあった[10]。これらドラマでの迫真の演技により女優としての評価を高め、「お嬢さん女優」のイメージを覆すことに成功した[1]。さらにこの年は映画『二百三高地』にも出演。


1981年
、『野々村病院物語』に出演。NHK大河ドラマ『おんな太閤記』にもお市の方役で出演。この年にバセドウ病の手術を行った。[注 6]


1982年
、『鬼龍院花子の生涯』の台詞「なめたらいかんぜよ!」が流行語となる。この映画では、当初彼女のヌードシーンはスタントを立てる予定であったが、「他の出演者の女優さんが何人か脱いでいるのに、自分だけ脱がないのはおかしい。私も脱いで演技します」と本人が希望した。そのため事務所の大反対を受けたが、説得に説得を重ね、本人がヌードになった。迫真の演技が話題になりこの作品でブルーリボン賞獲得。演技派女優としての地位を確立したが、授賞式では「これからもお嬢さん芸でがんばりたいと思います」とスピーチした。


1983年、NHK大河ドラマ『徳川家康』に淀君役で出演。『小説吉田学校』で吉田茂の三女麻生和子(元内閣総理大臣麻生太郎の母)役で出演。

私生活
1984年
不倫していた作家伊集院静結婚[注 7]神奈川県鎌倉市由比ガ浜に在住。媒酌は行きつけの鎌倉長谷寺近くにある寿司店主夫妻。結婚式もこの寿司店で内輪だけで行われた。後日、自宅で週刊誌用に行われた記者会見では、新婚旅行はどこに行きますかと問われて、「韓国[注 8] です。」と答えている。

白血病から死去
1985年(昭和60年)2月14日、舞台『愚かな女』の公演の最中、10円玉大の口内炎ができ、さらに激しい頭痛など極度の体調不良を訴える。それでも泣きながら「這ってでも舞台に戻る!」と、頑なに出演続行を望む夏目本人を何とか説得して、共演の西岡徳馬の勧めにより翌2月15日慶應義塾大学病院に緊急入院した。


急性骨髄性白血病
[1][注 9] と診断されたが、夏目本人には「極度の貧血」とだけ告げ、本当の病名を伏せていた。夏目の入院と共に夫の伊集院は、仕事をすべて辞めて彼女が亡くなるまで母親らと共に看病にあたった。当初から、娘の芸能活動にずっと反対だった母スエは、彼女が入院して初めて娘の出演する作品をみて、ベッドの彼女に話しかけた。その時彼女はとても喜んだという。


その後、約7ヶ月に渡る闘病生活を送りながらも順調に回復し、退院間近の報道もあった矢先であったが、8月下旬から抗がん剤副作用が原因とみられる肺炎を併発。高熱が続き、9月8日に熱が一時的に引いたが、翌9日から再び高熱を発して、意識不明の重体になり、1985年(昭和60年)9月11日午前10時16分、死去。27歳没。


戒名
は「芳蓮院妙優日雅大姉」と「雅月院梨園妙薫大姉」。前者は小達家菩提寺から、後者は夫の西山家の菩提寺からのものである。菩提寺は、山口県防府市防府駅近くの大楽寺多磨霊園の小達家の墓にも分骨されている。なお彼女自身の遺作は『北の螢』であった[注 10]

夏目雅子ひまわり基金の設立

夏目雅子の闘病生活では、白血病抗がん剤副作用による脱毛に、本人も家族も悩み、精神的苦痛を味わった(しかし母の前では「髪の毛くらい、いいわ。私、三蔵法師の時とっても素敵だったのよ」と気丈に言ったという)。1回目、2回目の化学療法で、脱毛を恐れて副作用の弱い薬を選び、積極的な治療を行わなかったことが、死につながったとの母小達スエの強い後悔の念から、患者の闘病生活(特に脱毛の恐怖や、頭髪が抜けた後の患者の頭皮の負傷など)、寛解後の社会復帰を支援したいと、母スエを代表として小達一雄を中心に、彼女の遺産をもとにして、癌患者へ無料かつらを貸し出す組織、『夏目雅子ひまわり基金』が、1993年12月に設立された[10][注 11]


ひまわり基金では、かつらの無償貸し出しと、不要になったかつらをクリーニングや修繕して再利用する活動の他、「ひまわりカップ」というチャリティーゴルフ大会も企画し、ドナーカードの登録や骨髄移植、後天性免疫不全症候群の正しい知識など、各種の啓発活動も合わせて行っている。パンフレットや記念品には夏目雅子の他、田中好子なども起用された。財団法人骨髄移植推進財団のCMなど、現在も夏目雅子が起用されている(2003年の公共広告機構(現:ACジャパン)のCMもほぼ同様)のはこのため。なお、ひまわり基金では現在も活動を支援してくれる賛助会員を募集している。

没後

没後10年にあたる1995年キヤノンのコピー機の宣伝に夏目雅子が起用され、限定百組で写真集をプレゼントするという企画があり、全国から23万人もの応募があった[10]。後に彼女を題材にしたテレビドラマも数多く作られた。


13回忌を控えた1997年に、母・小達スエが、娘・雅子との愛と葛藤の日々を綴った『ふたりの「雅子」』が講談社で刊行、23回忌を控えた2006年に、小達家の秘蔵写真を追加収載して『ふたりの「雅子」 母だから語れる夏目雅子の27年』に改題し文庫化。翌2007年に『ひまわり〜夏目雅子27年の生涯と母の愛〜』と題しテレビドラマ化された。


2000年
に発表された『キネマ旬報』の「20世紀の映画スター・女優編」で日本女優の7位、同号の「読者が選んだ20世紀の映画スター女優」では第10位になった。2014年発表の『オールタイム・ベスト 日本映画男優・女優』では日本女優8位となっている[11]


日本郵便
が2006年10月10日に発行した特殊切手「日本映画II」(現代の名作)(1980年 - 2000年代公開)は、代表的な日本映画10作品を選定しているが、その1本に夏目主演の映画『瀬戸内少年野球団』が選ばれた[12]

没後25年となる2010年9月には伊集院静が『週刊現代』9月18日号に「妻・夏目雅子と暮らした日々」と題して綴った手記を発表、2011年3月に講談社より刊行の『大人の流儀』に「愛する人との別れ〜妻・夏目雅子と暮らした日々」と題して収録されている。

人物
家族

小達家は、もともと徳川将軍家の御典医で、四ッ谷に薬草園を拝領していたという家柄。明治になって「赤門堂」という薬草問屋を始めて、昭和8年に株式会社・亀甲屋と改めた。戦後、焼け出されて一から出直しとなったが、屋号は同じに雑貨屋として再スタートし、順調に成長。自宅兼店舗だった建物も、平屋から木造二階建て、さらに1967年には店舗は亀甲ビルとなり、高度経済成長とともに発展した。高輪に引っ越すまで、幼い雅子もこのビルで暮らしていた。母・スエは群馬県沼田市出身[13]


3歳上の兄・小達一雄は、映像ソフト制作と芸能プロダクションの企業である(株)スイート・ベイジル・エンタテインメントの元社長。医療用カツラの開発にも携わり、ヘキサ・プロセス株式会社の社長も務めた。夏目雅子ひまわり基金事務局長。現在は、骨髄移植の啓発とドナー登録の呼びかけ、臓器移植に関する知識の啓発などを行っている。


女優で夏目雅子の友人だった田中好子は夏目の死後、兄と結婚して義姉となる。同じく楯真由子(一雄と先妻との一人娘。夏目の死後に生まれている)は姪。なお、元夫の伊集院は篠ひろ子と結婚している。

10歳下の弟・小達敏昭はプロゴルファー。

俳句
伊集院静に連れられて、写真家の浅井慎平が主催する「東京俳句倶楽部」の句会に所属。俳号は海童。

詳しいことは、「夏目雅子ウイキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%8F%E7%9B%AE%E9%9B%85%E5%AD%90
(wikiより)

100 夏目雅子

夏目雅子

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千田 是也(せんだ これや、1904年7月15日 - 1994年12月21日)は、日本演出家俳優東京市出身、建築家・伊藤為吉の五男。本名は伊藤 圀夫。

略歴
東京府立第一中学校(現・東京都立日比谷高等学校)ドイツ語科在学中から土方与志の舞台美術研究所に通い始める。1922年大正11年)に府立一中卒業後、早大独文科聴講生を中退して演劇の道に入る。関東大震災後の1924年、土方与志、小山内薫らによる築地小劇場の第一期研究生となり、第1回公演の『海戦』で初舞台を踏んだ。1926年村山知義佐野碩らと前衛座を結成した。


1927年
昭和2年)にドイツへ渡る。渡欧前の4月29日松平里子田谷力三、壇治衛(ジェームス・ダン)、石井漠石井小浪、人形座、前衛座が出演して千田是也を送る会が築地小劇場で開催された[2]。ドイツのラインハルト演劇学校に入学し演劇を勉強。卒業後、ドイツ共産党に入党した。ベルリンでは同じくドイツ共産党員となった元東京帝大医学部助教授の国崎定洞らとともにドイツ共産党日本語部を設立。「ベルリン反帝グループ」とよばれる在独日本人メンバーの一人として活動し、小林多喜二の『一九二八年三月十五日』など日本のプロレタリア文学をドイツ語訳している[3]


1931年
、現地で結婚したドイツ人女性・イルマとともに帰国(後に離婚)。同年に東京演劇集団を結成し、ブレヒト作『三文オペラ』を翻訳した『乞食舞台』を第一回公演として上演した。1934年には新築地劇団に参加し演出・俳優の両方で活躍し、左翼演劇のリーダー的存在となった。1940年5月、新築地劇団を脱退。同年8月19日の新劇弾圧により治安維持法などで検挙され、拘留された。1942年に出獄し、女優の岸輝子と結婚。また、築地警察署で拷問死した小林多喜二の遺骸を引き取り、デスマスクを製作した[3]


1944年
東野英治郎小沢栄太郎青山杉作らと俳優座を創立、亡くなるまで同座代表を務めた。1949年に俳優座養成所、1954年に俳優座劇場を開設し、俳優座のリーダー的存在として活躍した。


千田が新劇界に与えた功績はとても大きいものであり、西欧の近代劇や古典劇の上演の基盤をつくるとともに、日本の現代演劇において最初のまとまった実践的な演技論でリアリズム演技の名教科書といわれる「近代俳優術」(1949年)を著して、近代的な演技術・俳優術を理論化した。また、ベルトルト・ブレヒトの戯曲を翻訳紹介・上演も行なった。


テレビドラマへの出演はほとんど皆無に等しいが、1940年代から1970年代頃まで約100本の映画に出演している。


1979年
ドイツ民主共和国芸術アカデミーの会員となった。1987年にはチェルノブイリ原子力発電所事故を扱った『石棺』を演出した。


1994年
12月21日、肝臓癌のため東京都港区済生会中央病院で死去[1]。90歳。その2日前に国崎定洞生誕100周年の集いに出席したのが公の場に姿を見せた最後の機会であった[4]


1998年から、毎日芸術賞で目覚ましい活躍をした演出家に与えられる「千田是也賞」が設けられた。

人物・
関東大震災直後に、千駄ヶ谷において自警団朝鮮人と間違われ暴行された経験があり、芸名をつける際にこの体験から「千駄ヶ谷でコーリア」をもじって「千田是也」とした[5]。その際、先輩の土方与志が「朝鮮とコーリャン(高麗)」を文字ってつけた、とする説もある[6]。友人であり築地小劇場の創立同人である浅利鶴雄によると、ほとんどの人が「これや」と呼ぶのに対し、本人は「これあ」と発音していたという[5]。一方、東宝の助監督である梶田興治が「これやさん」と呼びかけたところ「これなりです」と訂正された[7] など、「これなり」と読むのが正しいとする意見もある[8]


1950年代の東宝特撮映画に多数出演していたが、特技監督の中野昭慶によれば千田は「特撮大好きおじさん」だったといい、SF・特撮映画の企画があると、当時助監督だった中野に、熱心に出演オファーを出してきたという[9]。孫の中川安奈も『ゴジラvsキングギドラ』で主演を務めている。 春日太一は、「1963年公開の『真田風雲録』で、ポニーテールにホットパンツ、網タイツというくノ一のビジュアルイメージを演出した」と話している。[10]

家族
・父:伊藤為吉(建築家)

・長兄:伊藤道郎(舞踏家、子に歌手・俳優のジェリー伊藤

・二兄:伊藤鉄衛(建築家)

・三兄:伊藤祐司(オペラ歌手)

・四兄:伊藤熹朔(舞台美術家)

・・六弟:伊藤貞亮(建築家)

・七弟:伊藤翁介(作曲家)

・長姉:嘉子(陸軍大将・古荘幹郎の妻)

・二姉:あい子(3代目阪東壽三郎の妻)

・三姉:暢子(画家・中川一政の妻)

・最初の妻:イルマ(ドイツ人、1939年に帰国した)

・子:モモコ(モモコと中川晴之助(中川一政と暢子の子)の子供が女優の中川安奈

・2番目の妻:岸輝子1942年に結婚)

役職
劇団俳優座代表

桐朋学園大学短期大学部 芸術科教授

日本演出者協会 理事長

日朝友好協会 副会長

日本演劇協会 常務理事

日本中国文化交流協会 常任理事(1956年に千田、井上靖團伊玖磨らが結成)

ブレヒトの会 主宰(1970年)

日本劇団協議会 初代会長(1992年 - 1994年)

受賞
芸能選奨(1952年)

毎日演劇賞 演出部門(1952年、1958年)

テアトロン賞(1957年)

週刊読売新劇賞(1958年)

芸術祭賞(1959年)

朝日賞(1977年)

芸能功労者(1979年)

出演
映画
空想部落(1939年、南旺映画) - 横川大助

女優須磨子の恋(1947年、松竹) - 武田正憲

・わが恋は燃えぬ(1949年、松竹) - 稲垣大助

・真昼の円舞曲(1949年、松竹) - 坂崎義樹

・深夜の告白(1949年、新東宝)

風にそよぐ葦 後編(1951年、東横映画) - 楠見

善魔(1951年、松竹) - 北浦剛

恋人(1951年、東宝) - 父恵介

慟哭(1952年、新東宝) - 五味晃

加賀騒動(1953年、東映) - 前田土佐

・韋駄天記者(1953年、東映) - 市岡教授

旅路(1953年、松竹) - 瀬木博士

・広場の孤独(1953年、新東宝) - 編集局長

地獄門(1953年、大映) - 平清盛

太平洋の鷲(1953年、東宝) - 大本営陸軍大佐

思春の泉(1953年、新東宝) - 住職

女の一生(1953年、近代映画協会) - 父教信

黒い潮(1954年、日活) - 浜崎編集局長

・叛乱(1954年、新東宝) - 軍法会議判士長

・勲章(1954年、俳優座) - 三島善五郎

・女人の館(1954年、日活) - 住職

青春怪談(1955年、日活) - 奥村敬也

・うちのおばあちゃん(1955年、日活) - 佐貫博士

・新・平家物語三部作(大映)

  ・新・平家物語(1955年) - 左大臣頼長

  ・新・平家物語 静と義経(1956年) - 大江広元

・大地の侍(1956年、東映) - 神山外記

夕日と拳銃 日本篇 大陸篇(1956年、東映) - 王鳳閣

森は生きている(1956年、独立映画) - 総理大臣

月形半平太(1956年、大映) - 姉小路公知

女優(1956年、近代映画協会) - 保田

・花まつり男道中(1957年、東映) - 三本松の吉兵衛

・多情仏心(1957年、東映) - 桑木博士

大菩薩峠(1957年、東映) - 権田丹後守

美徳のよろめき(1957年、日活) - 藤井景安

・欲(1958年、松竹) - 黒河博士

陽のあたる坂道(1958年、日活) - 田代玉吉

美女と液体人間(1958年、東宝) - 真木博士

日蓮と蒙古大襲来(1958年、大映) - 重忠

大怪獣バラン(1958年、東宝) - 杉本博士

第五福竜丸(1959年、近代映画協会) - 木下博士

宇宙大戦争(1959年、東宝) - 安達博士

親鸞(1960年、東映) - 月輪兼実

松川事件(1961年) - 上村弁護人

釈迦(1961年、大映) - スッドダーナ

白と黒(1963年、東宝) - 宗方治正

五番町夕霧楼(1963年、東映) - 鳳閣寺和尚

宮本武蔵シリーズ(東映) - 本阿弥光悦

  ・宮本武蔵 一乗寺の決斗(1964年)

  ・宮本武蔵 巌流島の決斗(1965年)

徳川家康(1965年、東映) - 雪斉禅師

・スパイ(1965年、大映) - 加藤首相

けものみち(1965年、東宝) - 香川敬三

とべない沈黙(1966年、日本映画新社) - ホテルの大物

トラ・トラ・トラ!(1970年、20世紀フォックス) - 近衛文麿首相

さくら隊散る(1988年、近代映画協会) - 証言者

テレビドラマ
お気に召すまま(1962年、NETテレビ)第20話「しあわせは永遠(とわ)に」

詳しいことは、「千田是也ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E7%94%B0%E6%98%AF%E4%B9%9F
(wikiより)

2961 千田 是也

千田是也

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榊 順次郎(さかき じゅんじろう、1859年安政6年) - 1939年11月16日)は、日本の産婦人科医。


沼津藩蘭方医・榊令輔の次男。兄は榊俶、弟は榊保三郎。1883年東京大学(のち東京帝国大学)医学部別科卒業、ドイツに留学、産科婦人科を研究し、帰国後医学博士。榊産婦人科病院を設立、日本産婆看護学校を設立し校長となる。妻は陸軍獣医監・桑島景連の娘みの子、息子に医師の榊邦彦、女婿・養子に榊忠三がいる。


1892年に、脚気の原因を白米中に含まれる毒素に求めた。

著書
・『脚気病ト米穀トノ原因上関係』英蘭堂 1892

・『本邦産婦ニ適当シタル産科鉗子及挽出法』島村利助 1892

・『有毒米ノ研究』丸善 1902

翻訳
・クレーデ, ヴィンケル『産婆学』編訳 樫村清徳 閲 私家版、1888-1889

・クレデー, レヲポルド『産婆学 増益刪定』編訳 私家版、1897

・マックス・ルンケ『産科精義』私家版、1898

・ツワイフェル, レヲポルド『産婆学 増益刪定』編訳 私家版、1910、1911

参考
半澤周三『光芒の序曲 榊保三郎と九大フィル』葦書房
(wikiより)

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日本が生んだ世界的プリマドンナ三浦 環は、イタリアの作曲家ジャコモ・プッチーニが長崎を主題としたオペラ

マダムバタフライ ( 蝶々夫人 ) を 30年の長きにわたり世界各国で歌い続け美しい名曲を通じて、広く海外に日本婦人の愛の美徳を紹介した


その功績をたたえるためプッチーニの肖像とともに、ゆかり深きこの丘に三浦 環の立像を建立して永く後世に伝えるものである


1963年 5月 26日

三浦 環顕彰会

三浦 環立像建設促進委員会
(碑文より)


〇 三浦 環
三浦 環(みうら たまき、1884年(明治17年)2月22日 - 1946年(昭和21年)5月26日)は、日本で初めて国際的な名声をつかんだオペラ歌手。十八番であった、プッチーニの『蝶々夫人』の「蝶々さん」と重ね合わされて、国際的に有名だった。元の名は柴田環(しばた たまき)、次いで藤井環(ふじい たまき)といった。

生涯
生い立ち
1884年(明治17年)2月22日、東京府東京市京橋区(現在の東京都中央区内の京橋地域)に生まれる[1][2][注 1]静岡県城東郡下朝比奈村(現・御前崎市)出身で公証人の柴田孟甫(本名・熊太郎)を父に、同県城東郡小沢村(現・菊川市)出身の永田登波を母にそれぞれ持ち[2][4]、3歳の頃から日本舞踊を、6歳の頃から長唄を各々習い始める[5]


その後、虎ノ門の東京女学館に入学[1][5]。そこで東京音楽学校(現・東京芸術大学音楽学部)出身の音楽教師・杉浦チカから音楽家になることを強くすすめられ、1900年(明治33年)に東京音楽学校に入学。ピアノ瀧廉太郎に、声楽幸田延にそれぞれ師事、更にはヴァイオリンもアウグスト・ユンケルについて学ぶようになる[5][注 2]。入学直前に父親の勧めで陸軍三等軍医正、藤井善一と結婚(1907年離婚)[6]

日本人初のオペラ
1903年(明治36年)7月23日、奏楽堂に於いて催された日本人の手による初めてのオペラ公演に出演し、成功を収める[7][5][注 3]1904年(明治37年)に卒業後、奨学金を得て研究科に入ると同時に「授業補助」の辞令を受けて声楽を教えるようになる[8]。その後、助教授となる。この間に山田耕筰らを指導した[9]1911年帝国劇場に所属して、1912年3月レコード初吹き込みを行い、プリマドンナとして活躍を続ける。



欧米各国での活躍
1913年に柴田家の養子医師(東京帝国大学医学部助手を経てシンガポールの三井ゴム園病院院長)の三浦政太郎と結婚した後、夫とともに1914年にドイツ留学する。しかし第一次世界大戦の戦火を逃れてイギリスに移動。

1915年のイギリス・デビューの成功を受けて同年に渡米し、ボストンで初めて蝶々さんを演じる。好意的な批評によって、その後『蝶々夫人』やマスカーニの『イリス』をニューヨークサンフランシスコシカゴで演ずることができた(三浦環はメトロポリタン歌劇場に迎えられた最初の日本人歌手である[7])。その後ヨーロッパに戻りロンドンでビーチャム歌劇団と共演した。1918年にアメリカ合衆国に戻り、『蝶々夫人』とメサジェの『お菊さん』を上演するが、後者は「蝶々さん」の焼き直しに過ぎないとして不評であった。1920年にモンテカルロバルセロナフィレンツェローマミラノナポリの歌劇場に客演する。1922年に帰国すると長崎に留まり、『蝶々夫人』とゆかりの土地を訪ね歩き、演奏会を開いた。またレコードも大ヒットし、同年11月時点で東京市だけで8万枚を売り上げた[10]


1924年に再び渡米し、サン・カルロ・オペラ団に出演する。1925年にシカゴに行き、アルド・フランケッティから献呈された『浪子さん』を初演する。その後はイタリアで歌手活動を続け、1935年にはシチリア島パレルモで『蝶々夫人』出演2000回の記録を達成した[2]

永住帰国
パレルモで『蝶々夫人』自身出演2000回目を達成した環は、これを機に永住帰国を決断、1935年11月に帰国[2][11]


翌1936年の6月26・27両日、東京の歌舞伎座に於いて開かれた原語(イタリア語)による『蝶々夫人』公演に自身2001回目の出演を果たした[12][注 4]。以後、日本国内に於いてオペラへの出演やリサイタル開催、レコーディングなどを重ねていった[11]。ことに『蝶々夫人』に関しては、自身による日本語訳歌詞にて上演したりもした[14][注 5]


しかし、太平洋戦争第二次世界大戦)の激化から1944年3月に山梨県の山中湖(当時「中野村」→現在の山中湖村)に疎開[11]。その疎開先では、同じく疎開した母親の登波を看病する傍ら、ピアノも疎開先に持ち込み、地元民と気さくに交流したり、同じく疎開してきた多くの文化人らとの語らいを楽しんだりしていた[16]。また、子供好きの性分から、近所の子供達に歌を教えたりしていたともいわれている[17]

終戦そして人生の終焉
太平洋戦争の終戦から4ヶ月弱経った1945年12月1・7両日、日比谷公会堂に於いてシューベルト作曲『冬の旅』全24曲のリサイタルを計4回開いた。この一連の公演では自身が疎開中に翻訳した日本語歌詞が用いられている[11]


1946年に入ると目に見えて衰弱し始め、3月には大東学園病院に入院、膀胱癌のため一人では歩けない身体となっていた[11][18][5]


それでも同年3月21日に日比谷公会堂でシューベルトの歌曲集『美しき水車小屋の娘』全20曲のリサイタルを開いたほか[11][18][5][注 6]、翌4月にはNHKからの依頼を受けて計3回の録音を行った《4月5・9・16各日》[注 7]


NHKに於ける3回目の録音から9日経過した1946年4月25日、大東学園病院から東京帝国大学(現・東京大学)付属病院に転院[19]。手術の可能性を探りたいという医師側の意向からレントゲン検査を受けていた[18][5]。しかし、翌5月22日には危篤状態に陥り、その4日後の5月26日午前5時20分に息を引き取った。なお、死の2日前(5月24日)には、昏睡状態の中、ドビュッシーの『バルコン(露台)』〔歌曲集『シャルル・ボードレールの5つの詩』から第1曲〕を口ずさんでいたという[19][18][5]


環の死去を受けて、死後2日経過した1946年5月28日に最初の入院先だった病院の母体である大東学園の講堂に於いて告別式が営まれた他、翌6月7日には日比谷公会堂に於いて音楽葬が盛大に営まれ、かつて世界三大『蝶々夫人』歌手の一人として知られたジェラルディン・ファーラーや、環との共演者の一人であるテノール歌手のジョヴァンニ・マルティネッリ等から追悼メッセージが寄せられた[18][5]


亡骸は、生前残した「富士山の見える湖畔で母とともに眠りたい」という遺言に基づき[16]、前年(1945年)に亡くなった母・登波と共に、山中湖東岸に程近い平野部に所在する寿徳寺に葬られている。その裏手に建立された墓碑には「うたひめはつよき愛国心持たざれば 真の芸術家とはなり得まじ」と実筆の詩が刻まれている[20][21]

評価
作曲者自身から激賞されたように「蝶々さん」が当たり役であり、その正統的で模範的な演技で評価された。少女時代に日舞を学んでいたこともあり、美しく自然な所作によって成功を掴むことができたといわれている。その名声ゆえに、エンリコ・カルーソーヤン・パデレフスキといったスター芸術家とも共演する。


三浦環が蝶々さんに扮した姿の銅像は、プッチーニの銅像とともに長崎市のグラバー園に建っている。


トッレ・デル・ラーゴのプッチーニ博物館(晩年の家)の歌手たちの写真を集めた一角には、日本語で「親愛なるジヤコモ・プチニ先生へ」と書かれたサイン付きの三浦環の写真が展示されている。ローマ歌劇場にも歴代のプリマ・ドンナと並んで写真が展示されている。

関係者
・著名な門弟に原信子、長坂好子、柳兼子、鈴木乃婦、関屋敏子小林千代子由利あけみがいる。


広田弘毅 - 夫の一高時代の親友で、三浦夫妻のシンガポール時代の総領事であり、アメリカ時代には参事官としてワシントンD.C.に赴任していた[23]


長井長義 - 夫の帝大時代の恩師[23]


・イギリス時代には、ヘンリー・ウッドアデリーナ・パッティ濱田耕作穂積重遠野上俊夫 (心理学者)曾我廼家五郎の妻・雪、井上勝之助夫妻らと交流を持った[23]


・アメリカ時代には、エルネスティーネ・シューマン=ハインクカール・ムックニュートン・ディール・ベイカー一家、エンリコ・カルーソーらと交流を持ち、15年間の滞米中に、ウッドロウ・ウィルソンウォレン・ハーディングカルビン・クーリッジと三代の大統領の前で歌う機会に恵まれた[23]


・環の元情夫と噂された新聞記者の千葉秀甫(秀浦)は、帝劇出演に際し環が世話になった人物で、環に結婚を迫り、シンガポール、ドイツまで追いかけたとされる[23]。千葉は語学が得意で、翻訳書などの著書があるほか[24]、渡欧後はスライドを見せながら日本の文化を紹介する講演会で各地を回り、第一次大戦でスイスに逃れたのちに落ちぶれてローザンヌで没したという[25]ウィーンで客死とも[26])。座光寺秀次郎(天卿)の名で書生芝居の役者をしていたこともあり、明治の女性落語家・若柳燕嬢の元夫[27][28]

くわしいことは、「三浦 環ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩




https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%B5%A6%E7%92%B0
(wikiより)

1345  三浦環

三浦 環

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石島 房太郎(いしじま ふさたろう、1903年1月4日 - 1981年12月1日)は、日本の俳優。本名は同じ。

経歴・人物
山口県下関市出身。旧制豊浦中学校(現山口県立豊浦高等学校)を中退。


初めは工芸の仕事をしていたが、舞台俳優を目指して1924年松竹に入り、後に前進座に移る。1935年に『街の入墨者』で映画デビューする。


1937年
、石島と同じく前進座に所属していた原ひさ子と結婚した。


1944年に夫婦揃って東宝の専属となり、後に東映などに所属、『ひめゆりの塔』(1953年)や『警視庁物語シリーズ』などの映画に出演した。またテレビドラマにも多く出演した。



出演作品
映画
・日本剣豪伝より 血闘柳生谷(1945年、東宝) - 吹川弦次郎

・或る夜の殿様(1946年、東宝) - 井上直人

銀嶺の果て(1947年、東宝) - 鹿の湯の主人

女優(1947年、東宝)

・第二の人生(1947年、東宝) - 社会実業家

・鶴と子供たち(1948年、東宝教育) - 役場の男

青い山脈(1949年、東宝) - 六助の父

また逢う日まで(1950年、東宝)

暴力の街(1950年) - 薬屋

・戦慄(1950年、東横) - 三輪警部補

・わかれ雲(1951年、新東宝)

・山河を越えて(1952年、文芸プロ) - 金持ちの旦那

早稲田大学(1953年、東映)

ひめゆりの塔(1953年、東映) - 南舎監長

蟹工船(1953年、現代ぷろ) - 大船頭・和田

雲ながるる果てに(1953年、重宗プロ)

ひろしま(1953年、日教組)

どぶ(1954年、近代映画協会)

太陽のない街(1954年、新星映画)

足摺岬(1954年、近代映画協会)

・ともしび(1954年、キヌタプロ) - 教育員戸川

・若い人たち(1954年、全国銀行従業員組合) - 大島

(1955年、近代映画協会)

・愛すればこそ(1955年、独立映画) - 近所の人

・終電車の死美人(1955年、東映) - 田中部長刑事

・由起子(1955年、中央映画) - 玉木屋支配人

真昼の暗黒(1956年、現代ぷろ) - 安原弁護士

女優(1956年、近代映画協会) - 明治座頭取

・嫁ぐ日(1956年、近代映画協会)

・或る夜ふたたび(1956年、松竹)

・今どきの嫁(1956年、桜映画社)

台風騒動記(1956年、山本プロ) - 坂下

多羅尾伴内 戦慄の七仮面(1956年、東映) - 捜査主任戸田

にっぽんGメン 特別武装班出動(1956年、東映) - 西島捜査二課長

・銀座のしいのみ(1957年、東映教育)

・白鳥物語(1957年、東映教育)

純愛物語(1957年、東映) - 自誠会指導員

・爆音と大地(1957年、東映) - 小森

・うなぎとり(1957年、歌舞伎座)

警視庁物語シリーズ(東映)

  ・夜の野獣(1957年) - 渡辺刑事

  ・七人の追跡者(1958年) - 渡辺刑事

  ・魔の伝言板(1958年) - 渡辺刑事

  ・一〇八号車(1959年) - 高山電気商会店主

  ・深夜便一三〇列車(1960年) - 干拓地の刑事

  ・血液型の秘密(1960年) - 古道具屋の主人

  ・不在証明(1961年) - 部長刑事

  ・十二人の刑事(1961年) - 宮城県警課長

  ・ウラ付け捜査(1963年) - 赤城捜査係長

・アルプス物語(1958年、東映教育)

・愛のジェット機(1958年、東映教育)

・空中サーカス 嵐を呼ぶ猛獣(1958年、東映) - 電飾係

・高度7000米 恐怖の四時間(1959年、東映) - 警備本部長

・消えた牛乳びん(1959年、東映教育)

・特ダネ三十時間シリーズ(東映)

  ・拾った牝豹(1959年) - 桜井

  ・東京租界の女(1961年) - 桑田部長刑事

・七つの弾丸(1959年、東映) - 松村巡査

・リスとアメリカ人 廃墟の銃声(1959年、東映) - 東洋玩具KK工場主

・からたち日記(1959年、歌舞伎座)

・二枚の絵(1959年、東映教育)

・鳩杖(1959年、東映教育)

・若い潮(1960年、東映教育)

・道(1960年、東映教育)

大いなる旅路(1960年、東映) - 老機関士

・砂漠を渡る太陽(1960年、東映) - 承徳院医師

・わが胸に鐘は鳴る(1960年、東映教育) - 坂田の親方

・私たちの結婚(1960年、東映教育)

・多羅尾伴内 七つの顔の男だぜ(1960年、東映) - 松川刑事

・第三の疑惑(1960年、東映) - 医療器具支配人

・決斗の谷(1960年、東映) - 大津主任

・不死身の男(1960年、東映) - 捜査課長

・男ならやってみろ(1960年、東映) - 警視庁捜査課長

はだかっ子(1961年、東映) - 歯医者

・がめつい奴は損をする(1961年、ニュー東映) - 捜査主任

・荒原牧場の決闘(1961年、東映) - 消費組合理事

・ひばりの母恋いギター(1962年、東映) - 岩吉

・恐怖の魔女(1962年、東映) - 川島部長刑事

海軍(1963年、東映) - 谷真吉

・わが恐喝の人生(1963年、東映) - 清水刑事

・ギャング忠臣蔵(1963年、東映) - 部長刑事

昭和残侠伝(1965年、東映) - 戸川

・証人の椅子(1965年、大映)

男はつらいよ(1969年、松竹) - 道男の父

・やさしいにっぽん人(1971年、東プロ)

テレビドラマ
JNR公安36号 第27話「裁きの前」(1962年、NET

ダイヤル110番(NTV)

・テレビ指定席 隧道(1964年、NHK)

ウルトラQ 第5話「ペギラが来た!」(1966年、TBS) - 富士井船長

おはなはん(1967年、NHK) - 校長

光速エスパー 第12話「ウイルスの恐怖」(1967年、NTV) - 花村博士

天と地と(1969年、NHK) - 医師

東芝日曜劇場(TBS)

  ・第654話「なくてはならぬものがたり」(1969年)

  ・第718話「釣忍」(1970年)

鬼平犯科帳 第62話「罪ほろぼし」(1970年、NET) - 居酒屋の親爺

人形佐七捕物帳 第6話「雷の宿」(1971年、NET) - 宗兵衛

天皇の世紀 第12話「義兵」(1971年、ABC) - 山内民部

荒野の用心棒 第12話「群狼の宿に愛と死の花が散って…」(1973年、NET) - 仁兵衛

寺内貫太郎一家 第20話(1974年、TBS) - 竹中

華麗なる一族(1974年、NET) - 安田長兵衛

新五捕物帳 第21話「夜に咲く花ふたり花」(1978年、NTV) - 葛飾の老百姓
(wikiより)

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大正末頃、旅芝居一座で、女澤正を名乗る一座が続出してしまい「澤田正二郎」が各一座を調査して、最も優秀な一人に『女澤正を名乗る』事を許した。


そして名乗る事を許されたのが、沢竜二の母である坂東政之助こと、酒井マサ子だった。

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青江 三奈(あおえ みな、1941年5月7日 - 2000年7月2日)は、日本の歌手(演歌歌謡曲など)。本名は井原 静子(いはら しずこ)。芸能活動におけるプロフィールでは生年月日を1945年7月7日としていた。血液型はA型。

東京都江東区砂町出身。成徳学園高等部卒業。

略歴
「青江三奈」の芸名は、作詞家・川内康範が『週刊新潮』で連載した小説「恍惚」のヒロインの歌手の名前に由来する。


高校在学時から銀座の「銀巴里」でステージに立ち、高校卒業後は西武百貨店勤務を経てクラブ歌手となる。


1966年
に『恍惚のブルース』でメジャーデビューし、80万枚を売り上げるヒットとなる。


1968年に冒頭部分の「色っぽい吐息」が有名な『伊勢佐木町ブルース』が100万枚、『長崎ブルース』が120万枚をそれぞれ売り上げていずれもミリオンセラーを記録し、「伊勢佐木町ブルース」で第10回日本レコード大賞歌唱賞と第1回日本有線大賞スター賞を受賞した。


1969年に『池袋の夜』が150万枚を売り上げて自身最大のヒット曲となり、史上初めて2年連続で第11回日本レコード大賞歌唱賞を受賞した。1969年度のレコード年間売上金額は青江が全歌手の中で1位、翌1970年度は4位だった。この頃より、青江と同じくハスキーボイスの男性演歌歌手・森進一と並んでため息路線と呼ばれた。


その後、ヒット曲は途絶えるものの、1984年に初のブラジル公演を開催する。デビュー25周年となった1990年に「レディ・ブルース」で第32回日本レコード大賞・優秀アルバム賞を受賞するなど、テレビ番組やコンサートなどに精力的に出演し続けていた。


NHK紅白歌合戦」は1966年の第17回に初出場したのちに、1968年の第19回から1983年第34回まで16年連続で出場した。1990年第41回は同年12月に亡くなった「恍惚のブルース」の作曲家浜口庫之助を偲び、7年ぶりに通算18回目で出場して最後の紅白出演となった。


1990年に青江三奈としてデビュー歌手生活25周年の記念リサイタルを開催する。1991年ものまねタレント清水アキラと二人で「ラーメンブルース」のデュエット曲を発表する。1993年に初のジャズアルバムも発表しニューヨークでもライブを開催する。1995年に歌手生活30周年リサイタルをNHKホールで開催するなど、1999年1月までコンスタントに歌手活動を行った。

59歳で病死
1998年に背中の激痛で受診して膵臓癌と診断されたが、病を隠して仕事をキャンセルせずに歌い続けた。

1999年
1月23日に渋谷公会堂で催したコンサートを最後に歌手活動を停止し、1月下旬に都内の病院へ入院し、膵炎による加療と発表された。最後のコンサート当日に痛みを耐えながら熱唱した公演の写真が、追悼の特集の際に公開されることがある。


1999年2月5日に9時間を要した手術が成功し、約3か月の入院生活を経て同年4月24日に退院した。退院後は抗癌剤の点滴のために通院しながら美容院へ通うなど歌手活動の復帰を図るが、2000年2月に体調が悪化して再入院して膵癌の転移が発覚する。その後は入退院を繰り返したが、2000年7月2日午後11時40分頃に東京都港区北里研究所病院で膵臓癌により59歳で死去[1]葬儀告別式で親友の水前寺清子が歌手仲間の代表として弔辞を読んだ。


作曲家の花礼二は青江と大井町で同居しながら歌唱指導した間柄であり、癌の転移が判明した青江が直接連絡して19年ぶりに再会し、青江が死去する約2か月前に病床で婚姻届に署名して結婚した。青江の死後は、青江の兄弟と花の間で相続について訴訟するなどに争議して耳目を集め、「伊勢佐木町ブルース」の歌碑が神奈川県横浜市中区イセザキモールに建立された。

人物
・「伊勢佐木町ブルース」冒頭の「色っぽい吐息」が有名だが、発売当時は「“吐息”は子供向きではない」「お色気だ」の意見もあり、『第19回NHK紅白歌合戦』に2年ぶりで2回目に出場時は、カズーの音と差し替えて[2]白組司会の坂本九は「ダチョウのため息」と紹介した。1982年『第33回NHK紅白歌合戦』で2回目に歌唱した際は「吐息」は差し替えられなかった。


1970年(昭和45年)から1979年(昭和54年)まで、マスプロ電工のマスプロアンテナのテレビCMへ出演した。「あなた知ってる〜 マスプロアンテナ〜 見えすぎちゃって 困ァるのォ〜」と「伊勢佐木町ブルース」の替え歌を唄い、サンバイザーにミニスカート姿でゴルフのグリーンでパッティングする際にミニスカートから内側がうかがえる光景が強調され、「お色気コマーシャル」として強い印象を残したが、その後の青江が出演する同社CMは「お色気コマーシャル」では無くなった。

詳しいことは、「青江三奈ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E6%B1%9F%E4%B8%89%E5%A5%88
(wikiより)

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佐田 啓二(さだ けいじ、本名・中井寛一1926年大正15年)12月9日 - 1964年昭和39年)8月17日)は、1940年代後半から1960年代にかけて活躍した日本俳優。身長171.2 cm[1]


俳優の中井貴一、女優・エッセイストの中井貴惠は実子。

来歴・人物
京都市下京区の商家に生まれる。京都市立第二商業学校(のちの京都市立西陣商業高等学校、廃校)卒業後、早稲田大学政治経済学部に入学。学生時代、松竹の人気俳優佐野周二の家に下宿していた縁で、1946年(昭和21年)、松竹大船撮影所に入社する。芸名は、「佐野周二」の姓名から一文字ずつ譲り受けて名付けられた。


1947年(昭和22年)、木下恵介監督の『不死鳥』で、いきなり、大スター田中絹代の相手役に抜擢される。田中とのラブシーンは話題となり、早くもスターの地位を獲得。続いて、菊田一夫原作のNHKの人気ラジオドラマを映画化した『鐘の鳴る丘』に主演し、さらに人気を高める。


ほぼ同時期にデビューした高橋貞二鶴田浩二と人気を分け合い「松竹戦後の三羽烏」と言われた。その人気を決定的なものとしたのは、1953年(昭和28年)に公開された『君の名は』である。当時の大人気ラジオドラマを映画化したこの作品で岸恵子と共演し、名実共にトップスターの地位につく。その後、徐々に演技派に脱皮していき、特に、プロ野球選手スカウト合戦を題材にした1956年(昭和31年)の小林正樹監督の問題作『あなた買います』ではスカウトを演じ、伊藤雄之助を相手に鬼気迫る演技を見せ、毎日映画コンクールブルーリボン賞の主演男優賞を獲得した。その後も、木下の『喜びも悲しみも幾歳月』、小津安二郎の『秋刀魚の味』など戦後を代表する作品に出演。晩年は癖のある悪役なども演じていた。


1964年(昭和39年)8月13日から夏休みを兼ねて妻と信州蓼科高原の別荘に避暑に訪れていたが、NHKドラマ『虹の設計』の収録に参加するために帰京する途中、8月17日午前6時30分頃、山梨県韮崎市韮崎町の塩川橋手前の左カーブで、乗っていた車の運転手が前の車を追い越した直後に横滑りを起こし、佐田の乗っていた右側から橋柱に激突、さらに跳ね返されて追い抜いた車へも衝突する大事故を起こした。佐田はこの事故で頭の骨と右腕を骨折し、すぐに韮崎市立病院に運ばれたが午前11時過ぎ頃に死去した[2][3]。37歳没。


この時車に乗っていたのは佐田を含めて4名で、運転手は頭を打ち2か月の重傷、日刊スポーツ記者が顔の骨を折り1か月の重傷、義弟が右肩に1週間の軽症を負った。出演中であった『虹の設計』は生前の映像のコラージュにより製作された。葬儀は8月22日午後2時より青山葬儀場にて行われ、芸能関係者や一般のファンなど千人近くが参列した。


墓所は鎌倉・円覚寺にある。

主な出演
映画

※太字の題名は、キネマ旬報ベストテンにランクインした作品


1947年

不死鳥 - 八坂真一 役

1948年
・旅装 - 川崎新六 役
・彼と共に去りぬ - 光村雄二 役

・肖像 - 中島 役

・火の薔薇 - 石川文夫 役

鐘の鳴る丘 第一篇 隆太の巻 - 加賀見修平 役

1949年

鐘の鳴る丘 第二篇 修吉の巻 - 加賀見修平 役

・君待てども - 伊藤 役

お嬢さん乾杯! - 高松五郎 役

・朱唇(べに)いまだ消えず - 谷川 役

新釈四谷怪談 前後篇 - 小仏小平 役

・真昼の円舞曲 - 河野秀隆 役

・花の素顔 - 吉晴 役

鐘の鳴る丘 第三篇 クロの巻 - 加賀見修平 役

1950年

・母の調べ - 湯原恒夫 役

・乙女の性典 - 立花哲也 役

・危険な年令

・恋愛教室

・新妻の性典

・懐しの歌合戦

七つの宝石

・黒い花 - 中野宗一 役

・三つの結婚 - 望月敬三 役

1951年

おぼろ駕籠 - 小柳準之助 役

・愛情の旋風 - 増内桂助 役

カルメン故郷に帰る - 小川先生 役(初のカラー映画出演)

我が家は楽し - 内田三郎 役

自由学校 - 堀隆文 役

・憧れのホームラン王 - 木村先生 役

・天使も夢を見る - 大田黒英夫 役

・夢多き頃 - 高石修二 役

海の花火 - 鯨井民彦 役

・命美わし - 伊村修二 役

1952年

・この春初恋あり - 三田村五郎 役

本日休診 - 湯川春三 役

・伊豆の艶歌師 - 艶歌師潤 役

・母の願い - 阿部一雄 役

・華やかな夜景 - 小林和彦 役

ひばりのサーカス 悲しき小鳩 - 杉村健吉 役

・坊ちゃん重役 - 比野 役

・母は叫び泣く - 高木英樹 役

うず潮 - 健二 役

・若奥様一番勝負 - 杉浦吾郎 役

・わが母に罪ありや - 三上永之介 役

1953年

・春の鼓笛 - 杉浦啓一 役

・やっさもっさ - 赤松太助 役

・女性の声 - 三上達哉 役

・ひばりの歌う玉手箱

・落葉日記 - 熊岡嶺太郎 役

・その妹 - 野村広次 役

日本の悲劇 - 艶歌師達也 役

・旅路 - 津川良助 役

君の名は - 後宮春樹 役

君の名は 第二部 - 後宮春樹 役

・お嬢さん社長 - 秋山五郎 役


1954年

・家族会議 東京篇 大阪篇 - 京極錬太郎 役

・真実一路 - 矢津先生 役

・勲章 - 憲治 役

君の名は 第三部 - 後宮春樹 役

・陽は沈まず - 青木三平 役

・おとこ大学 婚前教育の巻 - 桂木昌平 役

・新婚たくあん夫婦 - 目白三平 役

・真実の愛情を求めて 何処へ - 伊能琢磨 役

この広い空のどこかに - 良一 役


1955年

・あなたと共に - 本堂克也 役

・続おとこ大学 新婚教室 - 桂木昌平 役

・亡命記 - 顔紹昌 役

・美わしき歳月 - 仲尾 役

・東京-香港 蜜月旅行 - 山下俊介 役

・花嫁はどこにいる - 八田圭介 役

・遠い雲 - 寺田俊介 役

・花ひらく - 下田歯科医 役

・お勝手の花嫁 - 嵐勇 役

・太陽は日々に新たなり - 新村保 役


1956年

・白い橋 - 内山軍平 役

・君のうたごえ

・泉 - 幾島暁太郎 役

・女の足あと - 浜田孝一 役

・青春の音 - 杉本正明 役

・花嫁募集中 - 牧直樹 役

・晴れた日に - 鷲尾謙吉 役

・俺は死なない - 関口浩二 役

・スタジオ超特急

・涙 - 山崎信也 役

・女優誕生

あなた買います - 岸本大介 役

・台風騒動記 - 吉成幸一 役


1957年

・白磁の人 - 五藤民弥 役

・正義派 - 藤田 役

土砂降り - 須藤一夫 役

・ただいま零匹 - 吉沢議員 役

喜びも悲しみも幾歳月 - 有沢四郎 役

・集金旅行 - 旗良平 役

風前の灯 - 佐藤金重 役


1958年

・花嫁のおのろけ - 熊沢伝七 役

・黒い花粉 - 木曾高志 役

・渡る世間は鬼ばかり ボロ家の春秋 - 五味司郎太 役

オンボロ人生 - シケタ先生 役

日日の背信 - 土居広之 役

・花のうず潮 - 槇五郎 役

・モダン道中 その恋待ったなし - 鶴川松夫 役

・噛みつかれた顔役 - 泉川 役

彼岸花 - 谷口正彦 役

眼の壁 - 萩崎竜雄 役


1959年

・春を待つ人々 - 洋画家西脇 役

人間の条件 第一・二部 - 影山少尉 役

・夫婦合唱 - 長島雄吉 役

惜春鳥 - 牧田英太郎 役

お早よう - 福井平一郎 役

・ハイ・ティーン - 寺崎伸一 役

・海の地図 - 外村義高 役

・暁の地平線 - 和夫 役

・三羽烏三代記 - 辰巳次郎 役

人間の条件 第三・四部 - 影山少尉 役

・大願成就 - 小宮 役


1960年

・朱の花粉 - 武中究二 役

・四万人の目撃者 - 高山正士 役

・白い波濤 - 滝良一 役

いろはにほへと - 天野竜一 役

・女の坂 - 矢追三郎 役

・暴れん坊三羽烏 - 桑原編集長 役

・「青衣の人」より 離愁 - 境道介 役

・最後の切札 - 立野駿介 役

・血は渇いてる - 木口高志 役

秋日和 - 後藤庄太郎 役


1961年

猟銃 - 門田礼一郎 役

・渦 - 中津洪介 役

・蒼い海流 - 高須弓雄 役

・女舞 - 西川昌三 役

・雲がちぎれる時 - 三崎 役

永遠の人 - 川南隆 役

・妻あり子あり友ありて

・京化粧 - 山岡 役


1962年

・千客万来 - 番取良介 役

・愛染かつら - 服部 役

・しのび逢い - 小坂敬三 役

・東京湾 ※企画のみ

二人で歩いた幾春秋 - 野中義男 役

・かあさん長生きしてね - 大島 役

・続・愛染かつら - 服部 役

秋刀魚の味 - 平山幸一 役


1963年

歌え若人達

無宿人別帳 - 宗像弥十郎 役

風の視線 - 久世俊介 役

危ない橋は渡りたい - 香川直行 役

・花の咲く家 - 木津隆三 役

結婚式・結婚式 - 奥山次郎 役

丼池 - 兼光定彦 役

踊りたい夜 - 津村忠雄 役


1964年

モンローのような女 - 水口志津夫 役

続・拝啓天皇陛下様 - 久留宮良介 役

暗殺 - 坂本龍馬

悪の紋章 - 高沢重治 役

甘い汗 - 辰岡 役

詳しいことは、「佐田啓二ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E7%94%B0%E5%95%93%E4%BA%8C
(wikiより)

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佐田啓二

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田中 絹代(たなか きぬよ、1909年11月29日 - 1977年3月21日[1])は、日本女優映画監督。本名同じ。旧芸名は田中 錦華(たなか きんか)。


黎明期から日本映画界を支えた大スターであり、日本映画史を代表する大女優の一人。小津安二郎五所平之助溝口健二成瀬巳喜男清水宏木下惠介ら大物監督に重用され、約260本の作品に出演した。14歳で松竹に入社し、清純派スターとして人気を得て、松竹の看板女優となった。戦後は年齢を経るに従って演技派として成長し[2]、脇役を演じることが多くなるも円熟した演技を見せ、晩年は『サンダカン八番娼館 望郷』の演技でベルリン国際映画祭銀熊賞(最優秀主演女優賞)を受賞した。主な作品に『マダムと女房』『愛染かつら』『西鶴一代女』『雨月物語』『煙突の見える場所』『楢山節考』『おとうと』など。また、映画監督としても6本の作品を残している。

来歴
生い立ち
1909年(明治42年)11月29日山口県下関市関後地村[3](現在の下関市丸山町)に父・久米吉と母・ヤスの四男四女(長男慶介、次男鼎、長女繁子、次女政子(早世)、三女光代、三男晴男、四男祥平、四女絹代)の末娘として生まれる。母の実家・小林家は下関の大地主で、廻船問屋を営んでいた[4]。久米吉はそこの大番頭であったが、絹代が生まれた頃には呉服商を営み、貸し家を20軒も持っていた[3]1912年(明治45年)1月に久米吉は病死し、その後母は藤表製造業を営んでいたが、使用人に有り金を持ち逃げされるなどの災難に遭い、一家の生活は徐々に暗転していった[1]


6歳の頃、母が共同出資していた実家の兄・小林保太郎の造船事業が次々と失敗したため両家とも倒産してしまう[3]1916年(大正5年)4月、下関市立王江尋常小学校に入学するが、はしかに罹り、ほとんど出席しないまま1学期を終えてしまう[3]。さらに20歳の長兄・慶介が兵役忌避をして失踪[4] したことで一家は後ろ指を指されることになり、更に経済事情が悪化。ついに一家の生活も行き詰まってしまい、同年9月に保太郎を後見人に、母と兄3人、姉1人とともに大阪市天王寺村(現在の天王寺区)へ移住した[3]。ところが、絹代は肺炎に罹り学校へも通えず1年半、療養生活を送った[3]。この間に華厳滝で投身自殺を図った次兄が肺炎で死亡している[5]


1918年
(大正7年)4月、保太郎が家庭教師になって猛勉強したおかげで、天王寺尋常小学校3年に編入される[3]。幼い頃から琵琶を習っていた絹代は筑前琵琶の宮崎錦城に弟子入りし、1919年(大正8年)に免許を受けて田中錦華の名を貰うが、授業中に琵琶の教本を読んでいたのが見つかり罰で校庭に立たされ、級友に笑われた恥ずかしさと口惜しさから学校をやめてしまう[3]。翌1920年(大正9年)、錦城が組織した琵琶少女歌劇に加わり[6]楽天地の舞台に立つ[7]。そのうち楽天地にある映画館に出入りし、栗島すみ子主演の『虞美人草』に感激したり、子役の高尾光子に憧れるうちに映画女優を志す。絹代を琵琶の師匠にと考えていた母に猛反対されるが、1923年(大正12年)に歌劇団が解散したこともあり、保太郎の説得で女優になることを許可された。

映画スターに
1924年(大正13年)7月、兄が松竹大阪支社で働いていた関係で面接を行い、8月に松竹下加茂撮影所へ入社、母と二人で京都に移住した。10月に野村芳亭監督の時代劇『元禄女』で映画デビュー。同作では腰元役を演じたが、主演の柳さく子と姿恰好が似ていたため、同時に彼女の後姿の代役もこなした[3]。続いて同年公開の清水宏監督『村の牧場』では早くも主役に抜擢された[2]


1925年
(大正14年)は清水監督作品2作に助演後、6月の撮影所閉鎖によって松竹蒲田撮影所に移籍。島津保次郎監督の喜活劇『勇敢なる恋』で中浜一三の妹役に抜擢され、以来島津監督の『自然は裁く』『お坊ちゃん』、清水監督の『妖刀』、野村監督の『カラボタン』などに下町娘、村娘、お嬢さん、芸者など、うぶな娘役で出演、時に準主演級の役もついた[3]


1927年(昭和2年)、五所平之助監督の『恥しい夢』で芸者役で主演し、出世作となる。同年7月に八雲恵美子吉川満子岡村文子坂本武松井潤子吉谷久雄横尾泥海男渡辺篤石山竜嗣高松栄子龍田静枝らとともに準幹部に昇格[8][9]。翌1928年(昭和3年)からは牛原虚彦監督・鈴木傳明主演の『彼と田園』『陸の王者』などの青春映画で鈴木の相手役として出演。この年だけでも16本もの作品に出演し、早くも蒲田の大スター・栗島すみ子に迫る人気スターとなり、1929年(昭和4年)1月には幹部に昇進した[3]。この年も牛原・伝明とのトリオで『彼と人生』『大都会 労働篇』に出演したほか、小津安二郎監督の『大学は出たけれど』では可憐な娘を好演。「明るくあたたかく未来をみつめる」という蒲田映画のシンボル的イメージを確立し、栗島を抜いて松竹蒲田の看板スターとなった[3][10]


また、以前から恋愛関係にあった清水監督とは、1927年に城戸四郎の提案で「試験結婚」という形で結婚したが、1929年に離婚した[1]


1931年(昭和6年)、五所監督による日本初の本格的トーキー映画マダムと女房』に主演。この作品は光喜三子主演で撮影が進んでいたが、彼女が恋愛事件で降板したため五所監督に口説かれ、下関訛りを理由に渋るも五所の窮地に同情して出演[3] し、その甘ったるい声で全国の映画ファンを魅了した。1932年(昭和7年)、野村監督の『金色夜叉』で下加茂の大スター林長二郎と共演、二人による貫一・お宮で評判を呼び、どこの劇場も満員札止めの大盛況となる[3] ほどの人気作となった。ほか、五所監督『伊豆の踊子』『人生のお荷物』、島津監督『春琴抄 お琴と佐助』などに主演していき、トーキー時代も蒲田の看板スターとして在り続けた。1933年(昭和8年)1月に大幹部待遇[11]1935年(昭和10年)に大幹部となった。


1936年(昭和11年)1月15日に撮影所が蒲田から大船に移転してからも、松竹三羽烏上原謙佐野周二佐分利信らを相手役として、次々と作品でヒロインを演じた。特に1938年(昭和13年)に上原と共演した野村浩将監督のメロドラマ愛染かつら』は空前の大ヒットを記録し、その後4本の続編が製作された[2][1]1940年(昭和15年)には溝口健二監督の『浪花女』に主演し、溝口監督の厳しい注文に応え、自らも演技に自信を深めた。

戦後の活躍
戦後は引き続き松竹の看板女優として主役の座を守り続け、溝口監督の『夜の女たち』や小津監督の『風の中の牝鶏』では汚れ役も演じた。1947年(昭和22年)と1948年(昭和23年)に毎日映画コンクール女優演技賞を受賞。


1949年(昭和24年)10月、日米親善使節として渡米。ベティ・デイヴィスシルヴィア・シドニーらと会い、ジョーン・クロフォードの撮影などを見学して、翌1950年(昭和25年)1月19日に帰国した[12]。出発時は豪華な古代ものを使った小袖姿[13] だったが、帰国時は茶と白のアフタヌーンドレスと毛皮のハーフコート、緑のサングラスハワイ土産のレイをまとって登場。報道陣らには「ハロー」と一声発し、銀座のパレードで投げキッスを連発[14][15]。この姿と行為で渡米を後援した毎日新聞社を除くメディアから「アメリカかぶれ」と叩かれ、一部のメディアからは「アメション女優」(アメリカで小便をしてきただけで (短い滞在期間の意味) 、安易にアメリカ文化に感化された)などと形容された。「銃後を守る気丈な日本女性」[16] のイメージを確立していた国民的女優の突然の変身に、敗戦に打ちひしがれ貧困の状態にあった国民は戸惑い、同時に憤りをかきたてることになり、それ以降自殺を考えるほどのスランプに陥った[12][17]


渡米を機に松竹を退社していたが、帰国してまず最初に新東宝で小津監督の『宗方姉妹』に出演することになり、同時に木下惠介監督の『婚約指環』を撮影。公開は撮影期間の都合で前者が8月、後者が7月となった[3]。しかし、両作とも不評で、とくに後者は三船敏郎と恋人役を演じたが、それが「老醜」とまで酷評[18] された。1951年(昭和26年)には映画雑誌『近代映画』のスター人気投票の女優部門で10位以内にも入らずトップスターの地位を失った[17]。ファンレターが1通も来なくなったと漏らしていたという[19]


1952年
(昭和27年)、田中と同じくスランプに遭っていた溝口監督による『西鶴一代女』に主演、御殿女中から様々な運命をたどり、ついには街娼となって老醜をさらけ出すという女の一生を演じる。作品はヴェネツィア国際映画祭で国際賞を受賞し、田中は一世一代の名演を披露、女優として完全復活を果たした[18]。同時に溝口もスランプから脱することに成功し、翌1953年(昭和28年)には同じコンビで『雨月物語』を製作、作品はヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞を受賞した。

同年2月、丹羽文雄原作の『恋文』で映画監督業へ進出することを発表[1]。相談相手の成瀬巳喜男監督の『あにいもうと』に監督見習いとして加わり、成瀬監督自身から手ほどきを受けた。そして12月に『恋文』を公開、日本で二人目の女性監督の誕生となった[注釈 1]1954年(昭和29年)に溝口の『山椒大夫』と『噂の女』に出演したが、同年7月に監督2作目の『月は上りぬ』の製作を小津安二郎から推薦される。しかし、五社協定に加盟していない日活での製作のため、日本映画監督協会理事長である溝口に反対される。田中は小津の協力で映画を完成させたが、これが原因で溝口との関係を疎遠なものにしてしまう[20]


その後は主演作こそ少なくなるものの、成瀬監督の『流れる』、家城巳代治監督の『異母兄弟』などに重要な役で出演、1958年(昭和33年)公開の木下監督『楢山節考』では自分の差し歯4本を抜いて老婆を演じ[14]キネマ旬報賞女優賞を受賞。それ以降は脇役に回り、小津監督の『彼岸花』や市川崑監督の『おとうと』などで母親役を好演。一方、映画監督としては京マチ子主演の『流転の王妃』など5本発表している。


1965年
(昭和40年)、黒澤明監督の『赤ひげ』に出演した後、パーキンソン病に罹った兄の看護に専念し、仕事を断るようになった[3]1970年(昭和45年)、紫綬褒章を受章。


同年にNHK大河ドラマの『樅ノ木は残った』に出演、以降はテレビドラマにも活躍の場を広げ、『前略おふくろ様』の主人公の母親役や連続テレビ小説雲のじゅうたん』のナレーションなどで親しまれた。


1974年
(昭和49年)、熊井啓監督の『サンダカン八番娼館 望郷』で元からゆきさんの老婆を演じ、ベルリン国際映画祭最優秀女優賞芸術選奨文部大臣賞などを受賞した。


1977年(昭和52年)1月12日脳腫瘍順天堂病院に入院するが、3月21日午後2時15分に死去[21][1]。67歳没。遺作はテレビドラマ『前略おふくろ様』[注釈 2]。同年3月31日築地本願寺で映画放送人葬が行われ、又従弟小林正樹が喪主、城戸四郎が葬儀委員長を務めた[22]。約2千人ものファンが参列し、みな焼香台の上に100円玉を置いていったという[23]法名は迦陵院釋絹芳。

没後
墓所は下関市の下関中央霊園にあり、1979年(昭和54年)の三回忌に小林正樹によって、神奈川県鎌倉市円覚寺にも墓が建立されて分骨された。小林も同じ墓に納骨されている[24]


1985年
(昭和60年)、小林により毎日映画コンクールに「田中絹代賞」が創設され、映画界の発展に貢献した女優に贈られることとなった。第1回受賞者は吉永小百合


1986年(昭和61年)、新藤兼人が『小説 田中絹代』を週刊読売に連載され、翌1987年(昭和62年)にこれを原作に、市川崑監督・吉永小百合主演で『映画女優』として映画化された[1]


2000年(平成12年)、『キネマ旬報』発表の「20世紀の映画スター」で、著名人選出日本人女優部門で第5位、読者選出日本人女優部門で第4位にランクインされた。また、2014年(平成26年)には同誌の「オールタイム・ベスト日本映画男優・女優」女優部門で第8位にランクインされている[25]


2009年
(平成21年)、生誕100周年となるこの年に上映会をはじめとするさまざまな催しが行なわれた。松竹は、絹代生誕100周年を記念する「絹100%プロジェクト」[26] として、作品の上映会・DVD発売・CS放送ネット配信など各種イベントなどを開催。東京国立近代美術館フィルムセンターでは、9月4日から12月20日の約4か月間わたって企画展「生誕百年 映画女優 田中絹代」で遺品や関連資料を展示。同館は10月6日から11月15日11月17日から12月27日の約3か月にわたって大規模な特集上映「生誕百年 映画女優 田中絹代(1)、(2)」で出演作および監督作計97作品を上映した。第10回東京フィルメックス映画祭では、「ニッポン★モダン1930 〜もう一つの映画黄金期〜」として田中絹代出演作を中心に特集上映し、特に生誕100年に当たる11月29日には「絹代DAY」として代表作を上映した。このほかにも、各地で特集上映会が催された。


2010年(平成22年)、下関市の旧逓信省下関電信局電話課庁舎の建物に 下関市立近代先人顕彰館 田中絹代ぶんか館 がオープン。セレモニーには松坂慶子奥田瑛二安倍晋三らが出席した。


毎年、命日のころに「花嵐忌(からんき)」が開かれる。「花嵐忌」は絹代出演の代表作「愛染かつら」の主題歌の一節「花も嵐も踏み越えて」にちなみ、一般公募で名付けられた。市民墓参会が下関中央霊園(下関市井田)で、田中絹代ぶんか館で出演映画の上映がある。

人物・エピソード
溝口健二監督とは公私に渡る親交を結び、溝口は田中に惚れていて結婚を願望していた。しかし、田中の側は溝口に魅力を感じておらず、新藤兼人や田中の証言によると溝口の片思いだったと言われる[27]。また、慶應義塾大学野球部の花形スターだった水原茂とのロマンスなどは大きな話題となった。


1936年、神奈川県鎌倉市の鎌倉山に「絹代御殿」と呼ばれる自宅を建築している。当時の鎌倉山は高級住宅地で、自宅の西隣りには近衛文麿の別邸、東隣りには藤原義江邸があった。1949年に岩田宙造の別宅(山椒洞)を購入して移り住むが、1954年には帝国ホテルを居所とした[28]。山椒洞は田中の没後に小林正樹が人手に渡したくないとして購入[29] し、料亭の檑亭別館として建物を保存していたが、店舗閉店後に檑亭の経営的理由で建物は解体され、みのもんたが自宅新築のため敷地を購入した。


最晩年、借金を抱えて困窮していた田中の面倒は唯一の親戚である[30][31] 小林が看ていた。病床についた田中は「目が見えなくなっても、やれる役があるだろうか」と見舞いに来た小林正樹監督に尋ねたという。

詳しいことは、「田中絹代ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E7%B5%B9%E4%BB%A3
(wikiより)

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田中絹代

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初代 村田 正雄(しょだい むらた まさお、天保暦 明治4年2月4日 / グレゴリオ暦 1871年3月25日 - 1925年6月7日[1])は、日本の俳優である。本名は村田 又彦(むらた またひこ)、俳号は村田 芳泉(むらた ほうせん)。

人物・来歴
グレゴリオ暦 1871年3月25日天保暦 明治4年2月4日)、東京府(現在の東京都港区)に「村田又彦」として生まれる[2]


横浜貿易商組合立横浜商業学校
(現在の横浜市立大学商学部)を卒業する[1]。1895年(明治28年)ごろの24歳のとき、横浜・港座で『色と慾二股桜』に出演して初舞台を踏む[1][3]。舞踊については森間藤蔵を師とし、義太夫については鶴沢友次郎に学んでいる[3]


1901年(明治34年)、高堂国典が村田の門下となる。1902年(明治35年)、福井茂兵衛の京都・南座での改良演劇に参加する。のちに伊井蓉峰を主宰とする「伊井容峰一座」の組織に尽力[3]、同劇団では脇役に徹し、重厚な役柄を演じた[1]


満39歳を迎える1910年(明治43年)前後、東京の吉沢商店の目黒撮影所が製作する映画に出演、多くに主演した[4]。同社は1912年(大正元年)に他の3社と合併して日活となり、1913年(大正2年)10月に日活向島撮影所を開所すると、村田は藤沢浅二郎とともに『八重欅』に出演した[5]。1917年(大正6年)には、山川吉太郎が経営する山川興行部で主演、同年、山川が小林喜三郎とともに設立した天然色活動写真(天活)の大阪撮影所製作の映画に主演した[4]。この年、村田の一座に女形明石緑郎が入門している[6]


1925年(大正14年)6月7日、死去した[1]。満54歳没。最後の舞台は『金色夜叉』であった[3]。村田の没後、甥に当たる村田高一が名跡を継ぎ、「二代目村田正雄」を襲名した[1]第二次世界大戦後、特撮等で知られるのは二代目である。

おもなフィルモグラフィ
サイレント初期はクレジットが存在せず、不明な作品がある[7]。すべて出演[4]

吉沢商店
1910年
・『女天下』 : 監督・脚本不明、共演福島清、興行島越電気館

・『サーベル』 : 監督・脚本不明、共演福島清・木村栄・藤井六輔、興行浅草電気館

・『お目出度』 : 監督・脚本不明、共演都築操・藤井六輔、興行島越電気館

1911年
・『天風組』 : 監督・脚本不明、原作田口掬汀、共演佐藤歳三藤沢浅二郎本郷座合同一座、興行浅草・電気館

・『天の網』 : 監督・脚本不明、共演木下吉之助、興行浅草・三友館

・『仁術』 : 監督・脚本不明、興行浅草・三友館

・『生仏』 : 監督・脚本不明、共演木下吉之助、興行浅草・電気館

・『三すくみ』 : 監督・脚本不明、共演関根達発、興行浅草・オペラ館

・『桂小五郎』 : 監督・脚本不明、興行浅草・電気館

・『借り児』 : 監督不明、原作・脚本吉沢商店考案部、共演木下吉之助、興行浅草・電気館

日活向島撮影所
1913年
・『八重欅』 : 監督・脚本不明、共演藤沢浅二郎、興行浅草・オペラ館

山川興行部
1917年
・『春の辰巳』 : 監督・脚本不明、共演熊谷武雄花園薫原田好太郎桜井武夫東猛夫、興行浅草・日本館

・『曙の歌』 : 監督・脚本不明、共演熊谷武雄・花園薫・原田好太郎・桜井武夫・東猛夫・志賀靖郎、興行大阪楽天地

・『文明の復讐』 : 監督・脚本不明、共演熊谷武雄・花園薫・原田好太郎・桜井武夫・東猛夫・志賀靖郎、興行大阪・楽天地

・『かげひなた』 : 監督・脚本不明、共演熊谷武雄・花園薫・国松一原田好太郎・桜井武夫・村田高一・東猛夫・宍戸熊介・志賀靖郎、興行大阪・楽天地

天活大阪撮影所
1917年
・『美人の涙』 : 監督・脚本不明、興行浅草・日本座

・『若き女の半生』 : 監督・脚本不明、共演熊谷武雄・花園薫・国松一・原田好太郎・桜井武夫、興行大阪・楽天地

・『毒草』 : 監督・脚本川口吉太郎、原作菊池幽芳、脚本、共演東猛夫・村田高一・熊谷武雄・桜井武夫・志賀靖郎・国松一、興行浅草・大勝館

・『離縁になるまで』 : 監督・脚本不明、共演原田好太郎・桜井武夫・国松一・花園薫・熊谷武雄、興行大阪・楽天地

・『封じ文』 : 監督・脚本不明、興行浅草・大勝館

・『あを嵐』 : 監督・脚本不明、原作有松暁衣、共演熊谷武雄、興行浅草・大勝館

・『絵物語』 : 監督・脚本不明、共演熊谷武雄・花園薫・国松一・村田高一・原田好太郎、興行大阪・楽天地




1. a b c d e f 村田正雄〈初代〉、『講談社 日本人名大辞典』、講談社コトバンク、2010年1月5日閲覧。
2. 村田正雄日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」コトバンク 2018年7月9日閲覧
3. a b c d 村田正雄、『美術人名辞典』、思文閣、コトバンク、2010年1月5日閲覧。
4. a b c 村田正雄、日本映画データベース、2010年1月5日閲覧。
5. 八重欅、日本映画データベース、2010年1月5日閲覧。
6. 『芸能人物事典 明治大正昭和』、日外アソシエーツ、1998年、「明石緑郎」の項。
7. 『日本映画発達史 1 活動写真時代』、田中純一郎中公文庫、1975年11月25日 ISBN 4122002850、p.274-279.

外部リンク
村田正雄 - 日本映画データベース(1940年以降は村田正雄 (2代目)の出演作品)

参考
Masao Murata - インターネット・ムービー・データベース(英語) (1943年以降は別人による出演作品)
(wikiより)

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小川 虎之助(おがわ とらのすけ、1897年12月1日 - 1967年12月29日)は、日本俳優。本名は小川 寅次

来歴・人物
1897年(明治30年)12月1日東京市浅草区蔵前に生まれる[1]。5歳のときに新派の舞台で初舞台を踏み、弟の小太郎と共に新派の名子役といわれる[1][2]。のちに新国劇に入団。沢田正二郎に芸の細かさを認められ、『三等水兵の日記』『髪』などでのコミックな役や、『国定忠次』などの老爺役を得意として大幹部俳優となる[1]。戦後の1946年(昭和21年)に退団して新国民座を主宰するが、経済的事情から解散する[1]


1951年
(昭和26年)、映画俳優に転向し、大映の『万華地獄』に出演して以来、各社の作品に出演。溝口健二黒澤明作品の脇を固めるなどベテランぶりを発揮し、小太りで白髪頭の老け役として知られた[1]


1967年
(昭和42年)12月29日糖尿病の悪化で埼玉県浦和市の自宅で死去[3]。70歳没。

出演作品
映画
太字の題名は
キネマ旬報ベスト・テンにランクインした作品
★印は黒澤明監督作品
・万花地獄(1951年、大映) - 田丸主膳

・ホープさん サラリーマン虎の巻(1951年、東宝) - 吉川前社長

・完結 佐々木小次郎(1951年、東宝) - 長岡佐渡

・荒木又右衛門 決闘鍵屋の辻(1952年、東宝) - 川合武右衛門

・慶安秘帖(1952年、東宝) - 牧野兵庫

西鶴一代女(1952年、新東宝) - 磯野弥太衛門

・ラッキーさん(1952年、東宝) - 奈良庄右衛門

三等重役(1952年、東宝) - 奈良前社長

・★生きる(1952年、東宝)- 公園課長

・四十八人目の男(1952年、東宝) - 大野九郎兵衛

・喧嘩安兵衛(1952年、東宝) - 菅野六左衛門

続三等重役(1952年、東宝) - 奈良前社長

・恐妻時代(1952年、東宝) - 社長

・明日は日曜日(1952年、大映) - 石坂社長

・サラリーマン喧嘩三代記(1952年、新東宝) - 立石老人

次郎長三国志シリーズ(東宝) - 和田島の太左衛門

  ・第一部 次郎長売出す(1952年)

  ・第二部 次郎長初旅(1953年)

  ・第四部 勢揃い清水港(1953年)

  ・第八部 海道一の暴れん坊(1954年)

・風雲千両船(1952年、東宝) - 江川太郎左衛門

・吹けよ春風(1953年、東宝) - 老人

・新婚のろけ節(1953年、大映) - 社長

・憲兵(1953年、新東宝) - 重慶軍諜報将校沈悌霞

戦艦大和(1953年、新東宝) - 草鹿連合艦隊参謀長

・金さん捕物帖 謎の人形師(1953年、東宝) - 鬼太郎

天晴れ一番手柄 青春銭形平次(1953年、東宝) - 水野越前守

太平洋の鷲(1953年、東宝) - 関根

・夜の終り(1953年、東宝) - 老刑事大久保

・すっ飛び千両旅(1953年、新東宝) - 秀五郎親分

・一等女房と三等亭主(1953年、新東宝) - 馬並社長

・初笑い寛永御前試合(1953年、新東宝) - 父三十郎

・夕立勘五郎(1953年、東宝) - 花屋金兵衛

・鯉名の銀平(1954年、東宝) - 同心蒲田三十郎

・一等マダムと三等旦那(1954年、新東宝) - 押野社長

・★七人の侍(1954年、東宝) - 豪農家の祖父

・かくて自由の鐘は鳴る(1954年、東宝) - 叔父

・水着の花嫁(1954年、東宝) - 岩村総左衛門

潜水艦ろ号 未だ浮上せず(1954年、新東宝) - 荒川基地隊司令

・花の白虎隊(1954年、大映) - 小林九十九

・たん子たん吉珍道中(1954年、新東宝) - 夜目鳥三太夫

・大阪の宿(1954年、新東宝) - 大河原

日本敗れず(1954年、新東宝) - 豊島軍令部総長

・泥だらけの青春(1954年、日活

ゴジラ(1954年、東宝) - 南海汽船社長

慈悲心鳥(1954年、新東宝) - 篠原早人

黒い潮(1954年、日活) - 山田老巡査

血槍富士(1955年、東映) - あんま

・愛のお荷物(1955年、日活) - 佐久間代議士

・森繁の新入社員(1955年、新東宝) - 郡司社長

・猿飛佐助(1955年、日活) - 戸沢白雲斎

・サラリーマン目白三平(1955年、東映) - マツオカ洋品店主

・藤十郎の恋(1955年、大映) - 金子吉左衛門
幻の馬(1955年、大映) - 西山

・美女決闘(1955年、新東宝) - 本多佐渡守

・沙羅の花の峠(1955年、日活) - 庄衛門

青い果実(1955年、東宝) - 室井運平

・★生きものの記録(1955年、東宝) - 堀

・お嬢さん女中(1955年、新東宝) - 東都の社長

・善太と三平(1955年、教育映画) - 田中の伯父

・三人娘シリーズ(東宝)

  ・ジャンケン娘(1955年) - 斎藤重兵衛

  ・ロマンス娘(1956年) - 川村会長

新・平家物語 義仲をめぐる三人の女(1956年、大映) - 老公家

電光空手打ち(1956年、東映) - 名越義仙

・まらそん侍(1956年、大映) - 宇佐美監物

・泉(1956年、松竹) - 大沼博士

赤線地帯(1956年、大映) - ミッキーの父親

・浅太郎鴉(1956年、大映) - 御室の勘助

人妻椿(1956年、松竹) - 円海和尚

てんてん娘(1956年、東宝) - 虎之助

・現代の欲望(1956年、東宝) - 頭取

夜の蝶(1957年、大映) - フランソワの客

・刀傷未遂(1957年、大映) - 左右田孫兵衛

・伴淳・森繁の糞尿譚(1957年、松竹) - 皆田老人

大忠臣蔵(1957年、松竹) - 与市兵衛

・二宮尊徳の少年時代(1957年、東映教育) - 万兵衛

・爆音と大地(1957年、東映) - 高崎町長

・気違い部落(1957年、松竹) - 甚助伯父
暖流(1957年、大映) - 志摩泰英

・すっ飛び五十三次(1958年、松竹) - 津の国屋与左衛門

・フランキー・ブーチャンの殴り込み落下傘部隊(1958年、日活) - 基地司令長官

・月給13,000円(1958年、松竹) - 下田張吉

銭形平次捕物控 鬼火燈籠(1958年、大映) - 善兵衛

・人肌孔雀(1958年、大映) - 跡部源左衛門

・七人若衆誕生(1958年、松竹) - 美濃屋作右衛門

・夜の素顔(1958年、大映) - 高梨

・濡れ髪剣法(1958年、大映) - 小田切但馬守

・娘の中の娘(1958年、東映) - 長谷社長

おトラさん大繁盛(1958年、東京映画) - 庄左衛門

・水戸黄門漫遊記(1958年、大映) - 松原市郎右衛門

・★隠し砦の三悪人(1958年、東宝) - 橋の関所奉行

・都会という港(1958年、大映) - 沢田安之助

続・社長太平記(1959年、東宝) - 白坪

・おヤエのあんま天国(1959年、日活) - 森園

疑惑の夜(1959年、東映) - 尾崎社長

いつか来た道(1959年、大映) - 池田源太郎

・電話は夕方に鳴る(1959年、大映) - 保守党幹部A

・濡れ髪三度笠(1959年、大映) - 久保寺平左衛門

・鳴門の花嫁(1959年、大映) - 阿部伊勢守

・青春蛮歌(1959年、日活) - 加納前校長

・暁の地平線(1959年、松竹) - 花火問屋の隠居

忠臣蔵 櫻花の巻・菊花の巻(1959年、東映) - 四方庵宗遍

・天下の大泥棒 白浪五人男(1960年、東宝) - 茶店の老人

・セクシー・サイン 好き好き好き(1960年、大映) - 花島社長

・太郎シリーズ(東映)

  ・天下の快男児 万年太郎(1960年) - 社長

  ・天下の快男児 旋風太郎(1961年) - 加納信五郎

・非情都市(1960年、東宝) - 久我重役

次郎物語(1960年、松竹) - 正木の祖父

・白い崖(1960年、東映) - 石山重役

番頭はんと丁稚どん(1960年、松竹) - 岩田老人

・暴れん坊シリーズ(日活) - 一本槍鬼左衛門

  ・東京の暴れん坊(1960年)

  ・でかんしょ風来坊(1961年)

  ・夢がいっぱい暴れん坊(1962年)

  ・銀座の次郎長(1963年)

  ・銀座の次郎長 天下の一大事(1963年)

大いなる驀進(1960年、東映) - 炭坑主吉田

・わんぱく公子(1960年、大映) - 森尾孫太夫

・かげろう侍(1961年、大映) - 弥兵衛

好人好日(1961年、松竹) - 作平

B・G物語 二十才の設計(1961年、東宝) - 大道老人

黒い画集 寒流(1961年、東宝) - 安井銀行頭取

・★椿三十郎(1962年、東宝) - 里藤家三太夫

・青年の椅子(1962年、日活) - 矢部社長

二人で歩いた幾春秋(1962年、松竹) - 義男の父

・サラリーマン物語 大器晩成(1963年、日活) - 星社長

武士道残酷物語(1963年、東映) - 木原重役

真田風雲録(1963年、東映) - 大野道犬

・がらくた(1964年、東宝) - 黄旗屋庄左衛門

・にっぽんぱらだいす(1964年、松竹) - 酒屋の隠居

テレビドラマ
ナショナル ゴールデン・アワー / てんてん娘(1956年 - 1957年、KRT

山一名作劇場 / 息子の縁談(1957年、NTV

・源氏鶏太シリーズ / 随行さん(1958年、KR

・お好み日曜座 / 華やかな夜景(1958年、NHK

・ヤシカゴールデン劇場(NTV)

  ・釣忍(1959年)

  ・花嫁の日(1959年)

・のり平ジョークボックス 第11話「葡萄畑の侵入者」(1959年、CX

私だけが知っている(NHK)

  ・二つの真相(1959年)

  ・脱走者 探偵局初之黒星(1960年)

・人生うらおもて 第1回「臨時昇給」(1960年、NTV)

夫婦百景(NTV)

  ・第124回「夫婦絶景」(1960年)

  ・第224回「女房怪談」(1962年)

  • プリンス劇場・愛のシグナル / 大臣の洋傘(1960年、CX)
  • ・日立劇場 / 哀れな兎たち(1960年、TBS)

    ・ゴールデン劇場 / 竹之丞しぐれ(1960年、NTV)

    ・テレビ指定席(NHK)

      ・帽子(1961年)

      ・星に行った女(1962年)

    ・人生の四季(NTV)

      ・第32回「あべこべ」(1962年)

      ・第45回「大財閥」(1962年)

    ・テレビ劇場 / 二度目の青春(1962年、NHK)

    お気に召すまま 第10話「セールスの秘訣」(1962年、NET

    東芝日曜劇場 第308回「煙の王様」(1962年、TBS)

    ・夫の居ぬ間 第15回「妻の戦略」(1962年、CX)

    ・浪曲ドラマ / 盤嶽の一生(1963年、NHK)

    コメディフランキーズ 第12回「ギャング王カポネ」(1963年、TBS)

    判決 第61話「赤い実」(1963年、NET)

    日産スター劇場(NTV)

      ・ツキが変わった(1964年)

      ・きつね馬(1964年)

      ・幕末笑談 文明爆裂弾(1964年)

    脚注
    1. a b c d e 『日本映画俳優全集・男優編』、キネマ旬報社、1979年、p.121
    2. 小川虎之助、新撰 芸能人物事典 明治〜平成、コトバンク、2015年7月30日閲覧
    3. 『演劇年鑑』、二松堂書店、1968年、p.159

    外部リンク
    小川虎之助 - 日本映画データベース

    小川虎之助 - allcinema

    小川虎之助 - KINENOTE

    Toranosuke Ogawa - インターネット・ムービー・データベース(英語)

    小川虎之助 - Movie Walker

    小川虎之助 - テレビドラマ人名録 - ◇テレビドラマデータベース◇
    (wikiより)

    2351 小川虎之助

    西鶴一代女』(1952年)左、隣りの後ろ姿は菅井一郎


    2351a



    園池 公功 ( そのいけ - きんなる )      
    明治 29年 5月 20日 ~ 昭和 47年 2月 15日 ( 1896 - 1972 )

     演出家・評論家。

    父、子爵園池実康 ( 次男 )。

    東京出身。

    京都帝国大学卒業。

    大正 11年 ( 1922 ) 帝国劇場入社、文芸部で演出を担当。のち松竹や東宝に勤務。

    昭和 7年 ( 1932 ) 革命後のソヴィエトを視察。

    戦後は女子美術大学の理事となる。75歳没。

    著書:「ソヴエト演劇の印象」、「公共劇小脚本集 誰にも出来る芝居の本」、「素人演劇の方向」、「工場演劇脚本集」。共訳: ルネ・フューロップ=ミレーの「ソヴエト演劇史」。

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    伊志井 寛(いしい かん、1901年2月7日 - 1972年4月29日)は、日本俳優である[1][2]。本名は石井 淸一[1][2]。旧芸名及び別名は竹本 津駒太夫(たけもと つこまだゆう)、石井 寛(読み同じ)[1][2]

    来歴・人物
    1901年(明治34年)2月7日東京府東京市牛込区神楽坂(現在の東京都新宿区)に、落語家4代目三升亭小勝竹本清之助(本名は富沢つね)の子として生まれる[1][2]1906年(明治39年)、5歳で父と死別する[1]


    17歳まで銀座の商家に奉公に出ていたが身に合わず、1919年(大正8年)に文楽座竹本津太夫の門に入り、竹本津駒太夫名義で初舞台を踏む[1][2]。ところが満20歳の徴兵検査を機に文楽界を退き、1922年(大正11年)、松竹蒲田撮影所に入社[1][2]。伊志井寛と改名し、旧劇活動写真の写実化に成功したといわれている1923年(大正12年)公開の野村芳亭監督映画『女と海賊』等に脇役として出演。1924年(大正13年)、帝国キネマ松本英一監督映画『籠の鳥』の大ヒットで利益を上げ、その資金で各社の名俳優・監督を引き抜いたが、伊志井も五月信子正邦宏らと共に引き抜かれて小阪撮影所に入社する[1][2]。ここでも多数の作品に出演したが、1925年(大正14年)4月、首脳部の内紛に端を発した会社出直しに伴う同撮影所閉鎖で伊志井を含む従業員400人以上が解雇される[1]。その後、伊志井は同撮影所長であった立石駒吉が跡地に設立した東邦映画製作所に入社するが、わずか数ヶ月で給料不払いとなり、解散となった[1][2]


    1927年(昭和2年)、作家菊池寛に招かれて新劇協会に加入[1][2]。『三月三十二日』『クノック』等に初めて主演を務め、「新劇の星」ともいわれて注目される。1928年(昭和3年)、久保田万太郎の勧めで新派劇に加入し、喜多村緑郎の門下となる。新派劇の花形として人気を集め、花柳章太郎と並ぶ若手スターといわれた[1]1938年(昭和13年)、花柳章太郎、大矢市次郎柳永二郎川口松太郎らと新生新派を結成し、川口松太郎、泉鏡花の作品を中心に上演し、人気を博する[1][2]。同劇団は戦後の1949年(昭和24年)に解散するが、同年に劇団新派を結成し、大幹部として屋台骨を支える[1][2]。特に『婦系図』の主税などを当たり役とした。その一方で映画テレビドラマにも意欲的に出演しており、1959年(昭和34年)8月23日から1972年(昭和47年)2月6日まで放映されたTBSテレビ系列の東芝日曜劇場人気シリーズ『カミさんと私』(全33作[3])では、同じく劇団新派に所属していた京塚昌子と共演し、その好々爺ぶりはお茶の間に親しまれた[1][2]1967年(昭和42年)、紫綬褒章を受章[1][2]


    1972年(昭和47年)4月明治座の舞台に出演中に倒れ、同月29日肝臓癌のため死去した[1][2]。71歳没。折りしもTBSテレビ系列の国民的人気ドラマ『ありがとう』に出演中であり、本作が遺作となり、伊志井の死後は清水将夫が代役を務めた[1][2]。また、同年12月31日には伊志井の功績を讃えて『カミさんと私』第32作(最終作)が再放送された。墓所は瑞輪寺墓地にあり、戒名は「芸海院永照日寛居士」。

    親縁者
    分川本の君鶴と呼ばれた芸者で小唄の家元となった三升延が妻で、俳優の石井麗子フリーアナウンサー石井希和は孫である。俳優の金田龍之介は弟子にあたり、俳優の大辻伺郎は伊志井の付き人を経験していた[1][2]


    妻の三升延が前夫の間に儲けた連れ子が、以前にTBSテレビプロデューサーであった石井ふく子である。伊志井と血縁関係は無く、伊志井が三舛と結婚の際にふく子の入籍を拒否したため、三舛が養子として迎えたといわれる。ふく子は、伊志井の没後に遺産の分配を求めて伊志井が認知した実子と騒動するも、継子であるふく子に相続権は存在せず、和解したのちに「20年以上経過してもなお母と共に受けた屈辱としてその騒動のことを忘れていない」と著書『想い出かくれんぼ』に記している。

    脚注
    1.  a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 『日本映画俳優全集 男優篇』キネマ旬報社、1979年、37頁。
    2. a b c d e f g h i j k l m n o p 『芸能人物事典 明治大正昭和』 日外アソシエーツ、1998年、38頁。
    3. 第1作のみ、番組名は『花嫁の父となりぬ』であり、夏川静江と共演している。

    外部リンク
    伊志井寛 - 日本映画データベース

    伊志井寛 - KINENOTE

    伊志井寛 テレビドラマデータベース
    (wikiより)

    1729  伊志井寛

    伊志井寛

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    伊藤 道郎(いとう みちお、1893年4月14日 - 1961年11月6日) は、日本ダンサー振付師

    人物・来歴
    東京府東京市神田区生まれ。伊藤為吉の長男。慶應義塾普通部卒業[1]1911年帝国劇場歌劇部に入団し、三浦環との共演でドイツ語のオペラ『釈迦』で初舞台。同年11月1日に声楽家を志し19歳でパリに留学、ロダンや、ドビッシー等と交流をもつ。1912年にドイツドレスデン郊外ヘレラウのエミール・ジャック=ダルクローズ舞踊学校に入団。1914年第一次世界大戦の影響で英国、ロンドンに渡る。1916年にはアイルランドの詩人イェイツと共にの研究し、イェイツの代表作である戯曲『鷹の井戸』の完成に貢献した。のちにニューヨークに渡り『武士道(寺子屋)』を演出、1918年にはニューヨークにスタジオを開いた。アメリカでは各地を公演で巡業し、1929年にはハリウッドでスタジオを開いた。英国ではホルストに作曲を依頼した『日本組曲』の舞踊公演などを行った[2]


    ニューヨークブロードウェイではミュージカル振り付けを担当している。ニューヨーク時代にアメリカ人女性と結婚、2人の息子をもうけたが日米開戦とともに抑留。1943年(昭和18年)にアメリカ国籍の家族を残し、日米交換船で日本に帰国した。戦後はGHQに接収されていたアーニー・パイル劇場(東京宝塚劇場)で、本国以上の演出を行なって見せ、柿の木坂にスタジオを持っていた。アメリカでの活動も再開した[3]1964年東京オリンピックには開会式、閉会式の総合演出を担当したが、開催を待たずして死去した。


    墓所は豊島区駒込染井霊園

    親族
    演劇人の伊藤熹朔千田是也俳優座主宰)、作曲家の伊藤翁介は弟。俳優のジェリー伊藤は次男である。

    ニューヨーク時代に結婚した妻のヘラルド・ライトもダンサーで、長男のドナルド(40代で死去)とジェリーをもうけた[3]真珠湾攻撃勃発によりスパイ容疑で2年間収監されたことから妻と離婚し家族とは音信不通となったが、戦後ジェリーが海兵として来日し再会した[3]。孫(ジェリーの子)は、兄妹デュオ「デビッド&ミシェル」として「菩提樹の丘」(1975年)で日本で歌手デビューした。ミシェルはその後ロスでTV制作者となった[3]。姪(姉と古荘幹郎の娘)の古荘妙子はダンスの弟子で、道郎没後もダンススタジオを支え、伊藤道郎財団を設立した[3]

    参考文献
    ヘレン・コールドウェル 『伊藤道郎 人と芸術』中川鋭之助ISBN 9784152032638

    藤田富士男 『伊藤道郎・世界を舞う―太陽の劇場をめざして』 武蔵野書房、1992。

    斎藤憐 『アーニー・パイル劇場―GIを慰安したレヴューガール』 ISBN 9784893091413

      ・『幻の劇場 アーニー・パイル』 ISBN 9784103648017 の改題新装版

    脚注
    1. 20世紀日本人名事典
    2. ホルストへの依頼、『日本組曲』の舞踏公演については異説あり。『日本組曲』の項参照。
    3. a b c d e New Legs for a LegendLos Angels Times, March 24, 1998 

    外部リンク
    関連家系図

    伊藤道郎の日本的舞踊武石みどり、東京音楽大学研究紀要 24, 35-60, 2000-12-20

    伊藤道郎のアメリカにおける舞踊活動 : ロサンゼルスでの活動を中心に柳下恵美、早稲田大学WASEDA RILAS JOURNAL NO. 4 (2016. 10)
    (wikiより)

    1700  伊藤道郎

    伊藤道郎

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    土方 与志(ひじかた よし、1898年明治31年)4月16日 - 1959年昭和34年)6月4日)は、日本の演出家伯爵である。築地小劇場を拠点に新劇運動を興した。東京生まれ。本名は久敬(ひさよし)。

    来歴
    東京市赤坂区表町(現・東京都港区赤坂)に生まれた[1]。祖父久元(1833年 - 1918年)は土佐藩出身で、維新後は宮内大臣・宮中顧問官・枢密顧問官國學院大學学長などを務めて伯爵を授けられた。父久明は陸軍大尉だったが、何らかの事情で精神に異常をきたして療養中、与志が生まれて間もない1898年7月15日に拳銃で自殺している[2]。母は加藤泰秋の三女・愛子。


    土方は中学時代に友田恭助と子供芝居一座である南湖座を作り、演劇活動を始めている[3]1916年学習院高等部在学中に近衛秀麿三島通陽らと友達座を結成する。友達座で音楽を担当した近衛から山田耕筰を紹介され、土方の演出デビュー作『タンタジールの死』の公演や日本楽劇協会で共に仕事をする仲間となった。1918年11月に祖父久元が危篤となったため、三島の妹である梅子と急遽結婚した。久元は結婚式の翌日に死去し、土方は伯爵位を襲爵した[3]


    学習院卒業後、東京帝国大学国文科に進む。自宅の地下に模型舞台研究所を作り伊藤熹朔遠山静雄などと実践的な演劇の研究に熱中した。1919年に友達座『タンタジールの死』の主演女優の公募を巡って新聞批判が起こり、宮内省を巻き込む騒動となる。東京帝大卒業後は山田耕筰の紹介で演出家小山内薫に師事し、小山内の助手として商業演劇に関わり明治座などで舞台演出を学んだ[3]

    築地小劇場の開設と劇場附属劇団の分裂
    1922年、演劇研究のためドイツに留学。1923年9月の関東大震災の報を聞いた土方は、予定より早く同年暮れに帰国。震災復興のため一時的に建築規制が緩められたことから、仮設バラック劇場の建設を思いつき、小山内薫に相談し、計画を進めた。1924年始めより劇場建設と劇団の育成に取り掛かり、6月13日に築地小劇場を開設した。電気を用いた世界初の照明室を備えていた。建設のため土方が出資した費用は、のちの諸出費も合わせると30数万円といわれる(21世紀初頭の貨幣価値では約7億円とされる)[4]。築地小劇場はチェーホフゴーリキーなどの翻訳劇を中心に新劇運動の拠点となった。


    1928年
    12月に小山内が急逝した後、しばらくすると劇場附属劇団内に内紛が起こり、「自治会」と称する反土方グループが生まれた[5]。このため、1929年3月25日には土方を支持する丸山定夫山本安英、薄田研二、伊藤晃一、高橋豊子、細川知歌子(のち細川ちか子)らが脱退し、築地小劇場は分裂した。脱退組は4月に新築地劇団を結成し、より〈プロレタリア・リアリズム〉に基づく演劇を志向した。残留組(築地小劇場に残ったメンバー)は、翌1930年8月に解散し、劇団新東京になった。

    新築地劇団と亡命
    新築地劇団はプロレタリア文学の代表作である小林多喜二の『蟹工船』(1929年3月に完成)を『北緯五十度以北』という題で、同年7月に帝国劇場で上演した。以降、久板栄二郎の『北東の風』や久保栄の『火山灰地』など盛んにプロレタリア演劇を上演していった。しだいに官憲の弾圧が激しくなり、1932年に土方は検挙を受けた。


    1933年2月20日、小林多喜二は治安維持法違反容疑で逮捕、築地警察署において特別高等警察による拷問で死亡。3月15日には築地小劇場で多喜二の労農葬が執り行われた。


    日本プロレタリア演劇同盟
    の代表として、妻・梅子や佐野碩とともにソ連を訪問。ソビエト連邦作家同盟第1回大会で日本代表として小林多喜二虐殺や日本の革命運動について報告を行った(1934年8月28日)。その内容はまもなく日本に伝わり、同年9月に爵位を剥奪された。土方は帰国せず、そのままソ連に亡命。

    粛清・帰国後
    1937年8月、スターリンによる粛清が本格化したことで、土方は妻、佐野碩とともに国外追放処分を受け、モスクワからパリに亡命移住する。この間、日本国内では1940年8月、劇団員のほとんどが検挙され新築地劇団は解散。劇場は11月1日には国民新劇場と改称された。1941年、土方は逮捕覚悟で帰国。直ちに治安維持法違反で検挙され、5年の実刑を受けた。


    終戦後は、出獄し日本共産党に入党。前進座舞台芸術学院で演劇活動を再開。スタニスラフスキースタニスラフスキー・システムを、日本の演劇界に導入することにも熱心であった。

    親族
    ・叔父(久元の弟の子)に当たる土方久功(1900年~1979年)は、東京美術学校彫刻科卒業。築地小劇場のマーク(一房の葡萄)をデザインした。


    ・長男敬太(1920年~1992年)はロシア文学者兼映画研究家。次男与平(1926~2010年)も演劇制作者として、劇団青年劇場顧問をつとめた。幼少期に、父与志のソビエト亡命生活に同行している。

    著書
    ・『なすの夜ばなし』(河童書房、1947年/影書房(復刻版) 1998年)

    ・『演劇の話』(ナウカ社 1950年)

    ・『土方与志演劇論集 演出家の道』(未來社、1969年、再版1975年)

    翻訳
    ・スタニスラフスキイ『俳優と劇場の倫理』(未来社 てすぴす叢書 1952年)

    ・スタニスラフスキイ『身体的行動』(未来社 てすぴす叢書 1953年)

    ・シーモノフ『ロシア問題』(早川書房 1953年)

    ・『スタニスラフスキイ・システム論争 スタニスラフスキイの遺産に深く学び、創造の上に発展せしめよ』(編訳 未来社 1955年)

    脚注・出典
    1. 土方与志 コトバンク 2018年8月22日閲覧。
    2. 千田稔『明治・大正・昭和 華族事件録』(新人物往来社、2002年)322-323頁
    3. a b c 大和滋 岩淵潤子(編)「明治・大正・昭和期の芸能と旦那」『「旦那」と遊びと日本文化』PHP研究所 1996 ISBN 4569551521 pp.117-121.
    4. 小山内富子『小山内薫 近代演劇を拓く』、慶應義塾大学出版会、2005年、192ページ
    5. 久保栄『小山内薫』1947年。よく土方の左翼思想への反発と言われるが、久保によれば、実際は土方が「人減らし」を口にしたことを不安に思った劇団員が土方排撃に回ったのだという。

    関連文献
    ・土方梅子『土方梅子自伝』(早川書房、1976年/ハヤカワ文庫、1986年)。口述筆記による回顧談

    尾崎宏次茨木憲『土方与志 ある先駆者の生涯』(筑摩書房、1961年)。追悼出版

    加藤哲郎『モスクワで粛清された日本人』(青木書店、1994年)

    小林俊一加藤昭『闇の男 野坂参三の百年』(文藝春秋、1993年)
    (wikiより)


    1691  土方与志

    土方与志


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    歌手の水森かおりさんの代表曲「鳥取砂丘」。


    記念植樹のキョウチクトウです。

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