カテゴリ: 吉原・遊女・遊郭・料亭・芸者・舞踊・美女関連
7902 ももんじや(墨田区両国1-10-2)
ももんじ屋(ももんじや)またはももんじい屋とは、江戸時代の江戸近郊農村において、農民が鉄砲などで捕獲した農害獣の猪や鹿を利根川を利用して江戸へ運び、その他、犬や狼に狐、猿、鶏、牛、馬などの肉を食べさせたり、売っていた店のこと。表向きは肉食忌避があったから、これらを「薬喰い」と呼んだ。猪肉を山鯨(やまくじら)、鶏肉を柏(かしわ)、鹿肉を紅葉(もみじ)などと称した。猪肉を「牡丹」、鹿肉を「紅葉」と称するのは、花札の絵柄に由来する隠語の説もある[注 1]が、赤身と脂身の色から牡丹と言ったり、牡丹を模して盛り付けるからとも言われている。江戸時代では、猪をブタ、野猪をイノシシと読み混合していた[注 2][1]。
江戸では両国広小路[注 3]、あるいは麹町にあった店が有名であった。獣肉を鍋物にしたり、鉄板で焼いたりし食べていたようで、近代のすき焼きや桜鍋の源流と言える。幕末には豚肉(猪肉)食が流行し、これを好んだ15代将軍・徳川慶喜は「豚将軍」「豚一殿」とあだ名された。また、新撰組でも豚肉を常食していた記録が残っている。これら肉食文化は明治初期の牛鍋の人気につながっていった。
百獣屋の字をあてて「ももんじや」としているが、一方で関東地方で妖怪を意味する児童語のモモンジイに由来しており、江戸時代には尾のある獣や毛深い獣が嫌われてモモンジイと呼ばれたことから、それらの肉を扱う店も「ももんじ屋」と呼ばれるようになった[3]という説がある。
彦根藩では第3代藩主・井伊直澄のころ、反本丸(へいほんがん)と称して全国で唯一牛肉の味噌漬けが作られており、滋養をつける薬として全国に出回り、幕末まで幕府や他藩から要求が絶えなかったという。これは近江牛が名産となるはしりとなった[4][5]。
小説などへの登場
・鳥羽亮著 『ももんじや 御助宿控帳』 朝日文庫、2009年、ISBN 978-4-02-264508-1
脚注
注釈
1. 猪は7月、鹿は10月のそれぞれ種札(10点札)の絵柄で存在する。ただし、鹿は10月が紅葉なので名前と絵柄で符合するのだが、猪の札がある7月は萩の花で一方の牡丹は6月の花であり、また6月の種札は蝶であるため符合しない。一方、猪については「獅子に牡丹」という成句の獅子を猪に置き換えたものとの説もあるがこちらは鹿も「しし」と読む。
2. 日本以外の漢字文化圏では現代においても猪をブタとするため、例えば十二支の亥は日本以外ではブタである。
3. 現在の中央区東日本橋2丁目。なお、ほど近い墨田区両国で、1718年(享保3)創業の「もゝんじや(ももんじや)」が2021年現在も営業している[2]。
出典
1. 松下幸子 『江戸料理読本』 ちくま学芸文庫、2012年、P.109
2. “もゝんじや(猪料理)”. 墨田区銘品名店会. 2015年7月7日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2010年7月20日閲覧。
3. 村上健司著 『妖怪事典』 毎日新聞社、2000年、335頁。ISBN 4-620-31428-5
4. 国宝彦根城築城400年祭「列伝 井伊家十四代 第8回」[1]
5. 市村 勲. “牛鍋物語”. 食文化のウンチク. 2009年9月3日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2010年4月7日閲覧。
参考文献
・飯野亮一著 『居酒屋の誕生』 ちくま学芸文庫、2014年、ISBN 978-4-480-09637-1 C0121
・大久保洋子著 『江戸の食空間』 講談社学術文庫、2012年、ISBN 978-4-06-292142-8
・松下幸子著 『江戸料理読本』 ちくま学芸文庫、2012年、ISBN 978-4-480-09483-4 C0139
関連項目
・日本の獣肉食の歴史
・ジビエ / ブッシュミート - ももんじ屋で取り扱われる鳥獣の肉は当時のジビエもしくはブッシュミートともいえる。
・焼肉
・ぼたん鍋
・犬食文化
外部リンク
・一般社団法人日本ジビエ振興協会
・ももんじや
(wikiより)

7822 方葉の葦(墨田区両国1)
駒留橋が架かる入り堀に生える葦は、同じ方向にしか葉を出さなかったことから、方葉の葦と呼ばれていました。
入り組んだ地形の風の吹き込み方が影響していたと考えられますが、当時はそれが、本所七不思議の一つとされていました。
その由来は・・・
昔、本所横網町に住んでいた留蔵という男が、三笠町のお駒という娘に惚れました。
留蔵はお駒を自分のものにしようと、あの手この手で近づきますが、お駒は一向になびきません。
腹を立てた留蔵は、お駒を殺害し、片手片足を切り落として堀に投げ込みました。
それ以来、ここに生える葦は、すべて片葉になったというものです。
7669 遊女墓(福岡市博多区祇園町4-50・萬行寺)
7668 名娼明月墓(福岡市博多区祇園町4-50・萬行寺)
この方源氏名「明月」、本名「お秋」と言い備中生まれ。石山本願寺の戦の折、11世顕如上人に父とともに仕え働いていました。
ここ萬行寺の住職第 5世正海、俗名七里三河守順宗も駆けつけていました。その時お秋さん 15才。
戦いの中で父が戦死し、その遺骨を抱えて国に帰ると病弱だった母はすでになく、唯一の頼りである許婚者の金吾は親の仇討ちのため九州へ旅立ったあとでした。
会いたい一心で後をおうのですが、金吾は仇をとったものの自らも命果てたことを知り生きる力尽き果て海に身を投げます。
そのお秋を助けた男、お秋の美貌に慾心を起こし博多柳町の妓楼薩摩屋へ遊女として売られ源氏名「明月」としての暮らしが始まりました。
信仰心あるお秋さん、明月となってもその心をなくさず、ある日楼主に許を乞い亡き父母、金吾の菩提追善供養のため参詣した萬行寺において石山合戦で活躍した正海和上に遭遇、暗黒の中に一筋の光明を見出した心地であったに違いありません。
よりいっそうの信仰にめざめお参りを怠ることない明月の姿がいつしか病床に臥すに至り天正 6年 ( 1578年 ) 2月 7日普賢菩薩に迎えられました。22才。
なきがらは萬行寺境内に葬られ供養されました・・・。
明月逝きて 49日を迎えた朝、墓より一茎の蓮華が伸び白蓮華の花がいまやほころびかけていました。
その墓を掘り返して見た時、49日前に葬った明月のかんばせ ( 顔 ) は今なお生きているが如く輝き、わずかに開いた唇から浅緑の蓮華の茎が真っすぐに伸びていました。
この口蓮華は 400余年の歳月を経た今日なおも浅緑に色をたたえ毎年 5月 15日に営まれる明月追悼の日に拝観できます。
「死したのちも生きつづける。」と言うことでしょうか。
7573 グラバー・ツル墓(長崎市目覚町24-5・坂本国際墓地)
生涯
大阪の造船屋「淡路屋」に生まれる。豊後竹田(現大分県竹田市)の岡藩士・山村国太郎と結婚し、娘・センをもうけるも離縁し、芸者となる[1](なお、センは祖母の元で育ち、1年ほどグラバー邸で暮らすがなじめず祖母の元に戻り、以後ツルとは断絶した)[1]。いつ頃トーマス・ブレーク・グラバーと結ばれたかは不明だが、戸籍によると長女ハナを明治9年(1876年)に出産している。グラバーの長男倉場富三郎とはハナの異母兄弟になる。ツルとグラバーは五代友厚に紹介されたといわれるが、根拠はない。
明治32年(1899年)、死去。大平寺にあるツルの墓には、揚羽蝶の紋が添えられている[1]。
『蝶々夫人』のモデル説
詳細は「蝶々夫人#「蝶々さん」は誰か?」を参照
ジャコモ・プッチーニのオペラ『蝶々夫人』の蝶々さんのモデルとされる説がある。これは、長崎の武士の出身であることや、「蝶」の紋付をこのんで着用し「蝶々さん」と呼ばれたことに由来する。
しかし、オペラの原作であるジョン・ルーサー・ロングの小説『マダム・バタフライ』では、蝶々夫人は自殺しておらず、ロングはのちに『マダム・バタフライ その20年後』という戯曲を書いている[2]。ロングはアメリカ人で来日経験はなく、宣教師の妻として長崎にいた姉からの話をもとにして書いたと推測されている[3]。
『蝶々夫人を探して』の著者B・バークガフニ氏はモデル説を否定し、旧グラバー住宅とオペラ蝶々夫人の関連は、同住宅がアメリカ進駐軍に接収されていた時に初めて言われるようになったと指摘する。
参考文献
・野田平之助『グラバー夫人』新波書房 (1972) - 著者はセンの子孫
・ブライアン・バークガフニ『蝶々夫人を探して』クリエイツかもがわ(2000)
脚注
1. a b c 明治維新と新国家を支えた長崎の男グラバーの日本人妻と『蝶々夫人』のなぞを追う日経ビジネス、2009年10月30日
2. 女一人、執念で突きとめた真実 父の遺志をつぎ汚名と誤解を晴らすために戦い続けた人生日経ビジネス、2009年11月13日
3. 蝶々さんとピンカートン朝日新聞、2007年11月10日
関連項目
・楠本瀧
・斎藤きち
(wikiより)
⇧ グラバー・ツル
7536 楠本滝墓(長崎市寺町晧臺寺後山墓地)
7477 お夏清十郎比翼塚の由緒(姫路市野里慶雲寺前町10-1・慶雲寺)
お夏清十郎比翼塚の由緒
江戸時代の劇作家西鶴の五人女、近松の歌念仏で有名なお夏は、姫路城の大手門にあたる本町の米問屋但馬屋九左衛門の娘に生まれ、清十郎は姫路の西方、室津港造り酒屋和泉清左衛門の息子で、何不自由のない家庭に育ち、錦絵にも優る美男であったが、故あって清十郎は十九才の時、但馬屋に勤める身になり、明け暮れ律儀に勤めたので万人から好かれるようになった。
いつしかお夏と清十郎は深い相想の仲となったが、九左衛門はこれを許さなかった。
思いのよらぬ濡れ衣に依って、あたら二十五才の時清十郎ははかなくも刑場の露と消えたのである。
此の事を知ったお夏は、黒染の衣に身につつんで読経三昧に暮し、ひたすら清十郎の冥福を祈った。
但馬屋も二人の純愛に打たれ「比翼塚」をつくって、其の霊を慰めたと云う。
むこうを通るは清十郎じゃないか
笠がよう似た管笠が・・・・・・
と云う俗謡が大流行し、畏くも天皇上聞に達し、御製を賜わりたるもの。
御製
後水尾天皇
清十郎 きけ 夏が来たりと 杜宇 ( ほととぎす )
後西天皇
笠が よう似た ありあけの 月
(案内板より)
〇 お夏清十郎
『お夏清十郎』(おなつ せいじゅうろう)は、寛文2年 (1662年) に播州姫路で実際に起きた駆落ち事件を題材にした一連の文芸作品の通称・総称。『お夏狂乱』(おなつ きょうらん)ともいう。
概要
伝承による事件のあらましは次の通り。姫路城下の旅籠の大店・但馬屋の娘・お夏は、恋仲になった手代・清十郎と駆け落ちするが、すぐに捕らえられてしまう。清十郎はかどわかしに加え店金持ち逃げの濡れ衣まで着せられ打ち首となる。お夏は狂乱して行方をくらませ、誰も二度とその姿を見ることはなかったという。姫路市内の慶雲寺には二人の墓があり、毎年8月9日に「お夏清十郎慰霊祭」が執り行われている。
お夏と清十郎の悲劇は、事件後各地でさまざまな小唄や歌祭文に歌われて民間に浸透していった。そして早くも寛文年間には江戸中村座で歌舞伎舞踊『清十郎ぶし』が上演され、以後この事件を題材にとった作品が次々と書かれていった。そのなかでも貞享3年 (1686年) に井原西鶴が著した浮世草子『好色五人女』の第一章『姿姫路清十郎物語』(すがたひめじ せいじゅうろう ものがたり)と、それを宝永4年 (1707年) に近松門左衛門が脚色して世話物の人形浄瑠璃に仕立てあげた『五十年忌歌念仏』(ごじゅうねんき うたねんぶつ)は、登場人物の繊細な心情にまで迫った物語性の高い秀作で、これ以降に書かれたものは概ねこの2作を下敷きにしているといって差し支えない。お夏の出自を姫路の旅籠の大店の娘から米問屋の主人の妹という設定に変えたのもこの西鶴である。
代表的作品については、「お夏清十郎ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E5%A4%8F%E6%B8%85%E5%8D%81%E9%83%8E
参考資料・外部リンク
・『姿姫路清十郎物語』(丸諒の好色五人女)
・『歌ごよみ お夏清十郎』(雷蔵ワールド)
・お夏・清十郎の墓(名所・旧跡を訪ねて)
・真山青果『お夏清十郎』 - ウェイバックマシン(2016年3月4日アーカイブ分)(グルッポ・テアトロ)
・菅笠節(兵庫県民謡)
(wikiより)




6679 二代目・西川喜洲墓(台東区谷中5-2-25・常在寺)
明治 37年 ~ 平成 5年 5月 23日 ( 1904 - 1993 )
日本舞踊正派西川流宗家。
本名、堀口敏子。
東京出身。
初代西川喜州 ( 喜代春 ) の幼女となり、日本舞踊を師事。
6歳で神田南明倶楽部で初舞台。
大正 12年 ( 1923 ) 初代が隠居し喜州を名乗ると、2代西川喜代春を襲名。
養母没後昭和 7年 ( 1932 ) 2代喜州を襲名。
昭和 38年栄寿と改名。
正派西川流は、初代の西川喜州 ( 1875 - 1931 ) が大正 5年 ( 1916 ) 西川流宗家西川扇藏家と分かれて創流、西川喜州を名乗り初代家元となる。
「栄寿院妙遠日久大姉」。
正面「堀口家之墓」が 2代の墓。墓誌には「俊子」とある。
隣接する大きな碑は、初代の碑。
初代の墓は、足立区千住長円寺。 


6352 花魁・玉菊墓(台東区寿2-7-6・永見寺)
玉菊(たまぎく、1702年 - 享保11年3月29日(1726年))は、江戸時代、江戸新吉原の遊女、太夫。
角町中万字屋勘兵衛のかかえで、茶の湯、生け花、俳諧、琴曲など諸芸に通じ、才色兼備、殊に河東節の三味線と拳の妙手であった。
仲の町をあるくときは床几のこしかけるごとに、禿にもたせた100匹、200匹という目録を置いていった。
大酒のために若くして世を去った。
享保11年7月、盂蘭盆に吉原の茶屋は軒ごとに燈籠をかかげて玉菊の精霊をまつった。
これが玉菊燈籠で、吉原三景容のひとつとなった。
享保13年7月、三回忌に二代目十寸見蘭洲が「水調子」という河東節をかたって、玉菊の追善供養をしたが、中万字でこの曲をひくと玉菊の霊があらわれるとつたえられた。
歌舞伎や講談に脚色された。
〇 玉菊灯籠
新吉原の年中行事の一。
盂蘭盆 ( うらぼん ) に灯籠を軒先にともすもの。
6124 安直楼(下田市3)
6112 お吉塚(下田市七軒町3・了仙寺)
6104 斎藤きち墓(下田市七軒町1・宝福寺)
※ 此方のお墓は、お吉の 「 分骨墓 」 で当時に建てられたオリジナルの物です。
〇 斎藤きち
斎藤 きち(さいとう きち、 1841年(天保12年)月日不詳[1] - 1890年5月27日)は、幕末から明治期にかけての伊豆国下田の芸妓、酌婦、髪結、小料理屋店主。俗に唐人お吉(とうじんおきち)の名で知られる。
生涯
出生
1841年(天保12年)、伊豆国賀茂郡下田の坂下町(現在の静岡県下田市)で出生(月日不詳)[1][注釈 1]。父・市兵衛、母・きわ、姉・もと、弟・惣五郎の家族がいたことが判明している[1]。船大工の父が没し生活が困窮したことから1847年(弘化4年)新田町の老婆せんの養女になる。1855年(安政元年)芸妓になったが本格の芸妓ではなく、船頭相手の酌婦まがいの芸妓で、副業として客の衣類の洗濯も請け負っていた。翌年養母せん没により実家に帰る[3]。
看護人
玉泉寺に駐留していたアメリカ合衆国駐日領事タウンゼント・ハリスは、長期間の船旅や遅々として進まない日本側との条約締結交渉のストレスも相まって体重が40ポンド(約18kg)も落ちてしまい、吐血するほどに体調を崩していた。満52歳と当時としては高齢でもあり、ハリスの秘書兼通訳であるヘンリー・ヒュースケンが下田奉行所に看護人の派遣を要求した。
日本側は男性の看護人を派遣することにしたが、ヒュースケンが自分とハリスにそれぞれ女性の看護人を派遣することを強硬に要求したことから、下田奉行所はハリス側はいわゆる「妾」を要求しているものと判断し、方々に交渉した結果、ハリスに「きち」を、ヒュースケンに「ふく」を派遣することになった[4]。
「きち」は1857年(安政4年)5月22日ハリスが滞在する玉泉寺に籠で出向くが、3日後の5月25日に帰された。
「町会所日記」には「きち」の体に腫物があるので帰されたとする記述があり、やがて正式に解雇された[5]。
転々
実家に帰った「きち」は芸妓兼酌婦に戻って家計を支え、明治に入って斎藤姓を名乗り戸籍上の姓名は「斎藤きち」となった。
1868年(明治元年)に横浜で幼なじみの船大工・鶴松(のちに改名して川井又五郎)[注釈 2]と再会し、1871年(明治4年)に下田の大工町に転居して所帯を構えるが、当人の酒癖の悪さが原因で1874年(明治7年)に離別して姉の所へ戻った[6]。
1876年(明治9年)に三島の料理屋「かねや」の芸妓になり、1878年(明治11年)に下田で髪結いになった[6]。
1882年(明治15年)に下田の大工町に貸座敷「安直楼」を開業するが、経営能力の欠如と酒癖の悪さから早々に店をつぶしてしまう。借家住まいになり三味線や踊りを教えて生計を立てた[6]。
晩年
1887年(明治20年)1月、長年の不養生の結果発病し、半身不随の後遺症が残った。養母・せんから相続した新田町の家も売却し、吉奈温泉に逗留して湯治する。健康を損ない財産も失い生活を支えることもできず、以降は近隣の知人にすがって細々と暮らした[6]。
1890年(明治23年)5月27日[注釈 3]、稲生沢川に転落して水死した[注釈 4]。行年48。
遺体は下田の宝福寺[7]に埋葬され、当初の戒名は「貞歓信女」だったが1925年(大正14年)に「宝海院妙満大師」と改めた[6]。 転落した場所は不詳だが、遺体発見の前に杖をついて門栗ヶ淵付近を歩く姿が目撃されていたことから、のちに観光資源化を目論んで門栗ヶ淵は「お吉ヶ淵」と改名された[8]。
フィクションの混入
斎藤きちの存在は、1928年(昭和3年)に十一谷義三郎が発表した小説『唐人お吉』で広く知られることとなる。
元来とくに身分が高い訳でもない一民間人にすぎなかった斎藤きちの経歴については、出生地を含め諸説あり[9]、資料が少ない上に、後年の小説・戯曲・映画等で表現されたことさらに薄幸で悲劇的なフィクションの世界の「唐人お吉」像が、忠臣蔵や八百屋お七の例にみられるようにさながら史実のごとく語られてしまっている可能性が高く、伝わる経歴の正誤を一概に断定する事は困難である。
なお、当人の名前がフィクションの影響で「お吉」と表記されることが多いが、江戸期の下田奉行所の記録や町会所日記、明治期の戸籍上の当人の名前表記は平仮名で「きち」である。
「看護人」か「妾」か
名目上は「看護人」であっても、見た事もない外国人の元へ「妾」同然の扱いで派遣されるとあって[注釈 5]、高額の給金が支給された。「きち」の場合、支度金が25両、月給は10両だったが3日で解雇されたので、「給分の内」としてまず7両が支払われた。家族が再雇用を願い出るもかなわず、さらに5両が支払われ、30両が解雇手当のような形で支給された。総支給額は計67両である[5]。
ヒュースケンの下に派遣された「ふく」は支度金が20両、月給7両2分であった。ハリスの元へは「きち」の後釜として下田在住・為吉の娘「さよ」が派遣され、支度金が20両、月給7両2分である[5]。
アメリカ側を籠絡して条約締結交渉を引き延ばしたかった日本側の思惑はさておき、ハリスは生涯妻帯しなかった敬虔な聖公会教徒であった上に、生命が危ぶまれるほどの著しい体調不良に悩まされてもいた。そうした状況下で母国を代表し、日米和親条約の締結で部分的に開国していたとはいえ、未だ鎖国政策を敷いていた日本との通商条約締結交渉の全権を委任されるという重責を担う立場の人間が、交渉相手国から妾を提供されるような外交交渉に悪影響を与えかねない供応を受けるとは常識的には考えにくい。
自らはハリスの秘書兼通訳の立場にすぎず、あからさまに「女性の看護人」を要求したヒュースケンはともかく、こうした状況からハリスは妾ではなく純然たる看護人を要求したと判断することもできるが、ハリスと「きち」との男女関係の有無を証明する証拠が存在しない限りさまざまな説は想像の域を出ず、詳細は不詳である。
19歳当時の「きち」(斎藤きち)を撮影したものと称されている写真
19歳当時の「きち」(斎藤きち)を撮影したものと称されている写真が存在する。下岡蓮杖の弟子である水野半兵衛が下田市の八幡山宝福寺に寄贈したとの来歴が伝わっており、出版物や観光用のパンフレット等に多数用いられている。 
19歳当時の「きち」(斎藤きち)を撮影したものと称されている写真
(八幡山宝福寺唐人お吉記念館蔵)
撮影条件の不一致
「きち」が数え年19歳であったのは1860年(安政7年 - 万延元年)である。
・1859年(安政6年)まで下岡蓮杖は下田に居住していた。下岡蓮杖の写真技術習得の経歴については諸説あるが[10]、当時は未だ写真技術の基礎すら手探りの状態であったか、あるいは実質的には手つかずの状態にあった事は確かで、仮に「きち」と接触があったとしても鮮明な写真の撮影は到底不可能である。
・下岡蓮杖が横浜の野毛に写真店を開業したのは1862年(文久2年)末、「きち」は当時数え年21歳であるから年齢が合致しない[11]。
・下岡蓮杖の初期の写真はガラス湿板写真[注釈 7]で、鶏卵紙を用いた紙焼きプリントを開始するのは慶応年間頃と推定される[12]。
したがって、文久年間の下岡蓮杖の手による写真ならばガラス湿板写真のはずだが、後述の「Officer's Daughter」(士官の娘)は紙焼きプリント写真である。
このように時代と条件が合致せず、伝わる来歴通り水野半兵衛による寄贈かどうかはともかく、少なくとも下岡蓮杖・水野半兵衛の師弟が19歳当時の「きち」を撮影した事実はない。
「Officer's Daughter」の存在
・幕末から明治中頃にかけて主に横浜の写真館から国内向けや在留外国人の土産物、あるいは輸出用に多数販売されていた写真[注釈 9]の中の一葉で、「Officer's Daughter」(士官の娘)と呼ばれる写真が存在する。アドルフォ・ファルサーリが横浜で経営していた写真店・ファルサーリ商会[14]で販売していたもので、撮影者[注釈 11]・モデル共に不詳。紙焼きプリントに手彩色[注釈 12]されている。1880年代(明治10年代)から1890年代(明治30年代)半ば頃まで販売され続けた人気商品であり、ファルサーリ商会以外の複数の写真店からも販売されて国内外に多数が現存している[15]。売れ行きが好調だったためであろうか、このモデルの女性は複数の土産物写真に用いられている。女体についての考察で知られ、明治期に来日もしているドイツ医師カール・ハインリッヒ・シュトラッツの日本人に関する書物では、鼻を高く加工したものがイタリア人と日本人の混血の娘として掲載されている[16]。
「Officer's Daughter」(士官の娘)と19歳の「きち」を撮影したものと称されている写真が基本的には同一の写真である事は一見して明らかである。
女性モデルの髪形
・「Officer's Daughter」(士官の娘)の女性モデルの髪形は真ん中分けでやや西洋風だが日本髪で、髪留めも玉簪や櫛など旧来の日本式の物を用いている。西洋文化が大量に流入した明治時代前半に登場した髪形[17]で、写真の撮影年を特定する決定打とはならないが明治以降の撮影と推定できる。
・明治時代からの髪形をしている「Officer's Daughter」(士官の娘)の女性モデルと、発売当時30 - 40歳代の斎藤きちでは年齢が合致しない。
・「きち」が数え年19歳の頃に撮影された古い写真を紙焼きして販売したと仮定しても、幕末期の若い未婚女性の髪形は島田髷・銀杏返し・桃割れ等の純然たる日本髪で、「Officer's Daughter」(士官の娘)の女性モデルの髪形では時代が合致しない。
写真の改変
・19歳当時の「きち」を撮影したと称される写真は画質が荒れているが「Officer's Daughter」(士官の娘)ははっきりした良好な画質である。良好な画質の写真を加工複製すれば画質が劣化するが、筆による修正や手彩色ならともかく、劣悪な画質の写真を加工複製して根本から良好な画質の写真を作る技術は当時存在しない。
つまり、「Officer's Daughter」(士官の娘)から当該写真を作成する事は可能だが、当該写真から「Officer's Daughter」(士官の娘)を作成する事は不可能である。
上記の理由で、19歳の「きち」を撮影したものと称されている写真は、明治期に撮影・販売されたファルサーリ商会の人気商品「Officer's Daughter」(士官の娘)あるいは他のいずれかの写真店から販売された同種の写真から、女性モデルの玉簪・櫛・髪飾りと後頭部の巻き髪を削除する改変を施して複写したものと断定できる。
後頭部の巻き髪まで削除した理由は不明だが、これでは日本髪が一見真ん中分けの洋髪に見えてしまう。写真を改変した施工者が不明である以上はこのような加工を施した意図は不明だが、伝わる来歴通り水野半兵衛による寄贈であっても、現物はオリジナルに粗雑な改変を施された物にすぎない。
はたして「きち」か
写真の女性モデルが「きち」であると断定はおろか、推定できる具体的かつ客観的な根拠が何一つ存在せず、むしろ上記のように否定的な状況証拠が複数存在している。
さらに、明治期の横浜発の土産物写真「Officer's Daughter」(士官の娘)あるいは他のいずれかの写真店から販売された同種の写真と、来歴があるはずの当該写真が、いわゆる「唐人お吉」の写真として関係各方面で混用されている状態では[注釈 15]、提示された情報の信憑性は著しく低いと言わざるを得ない。
したがって、当該写真の女性モデルが19歳かあるいはそれに近い年齢であった当時の「きち」である可能性は極めて低い[13]。
なお、唐人お吉とされる別人の30歳頃の写真が存在する[18]。
詳しいことは、「斎藤きちウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%8E%E8%97%A4%E3%81%8D%E3%81%A1
(wikiより)











6103 斎藤きち墓(下田市七軒町1・宝福寺)
※ 水谷八重子が建立したお墓です。
此方のお墓にも分骨してあります。 また鶴松のお墓については「お骨」は入っておらず「塚」となっています。
〇 斎藤きち
斎藤 きち(さいとう きち、 1841年(天保12年)月日不詳[1] - 1890年5月27日)は、幕末から明治期にかけての伊豆国下田の芸妓、酌婦、髪結、小料理屋店主。俗に唐人お吉(とうじんおきち)の名で知られる。
生涯
出生
1841年(天保12年)、伊豆国賀茂郡下田の坂下町(現在の静岡県下田市)で出生(月日不詳)[1][注釈 1]。父・市兵衛、母・きわ、姉・もと、弟・惣五郎の家族がいたことが判明している[1]。船大工の父が没し生活が困窮したことから1847年(弘化4年)新田町の老婆せんの養女になる。1855年(安政元年)芸妓になったが本格の芸妓ではなく、船頭相手の酌婦まがいの芸妓で、副業として客の衣類の洗濯も請け負っていた。翌年養母せん没により実家に帰る[3]。
看護人
玉泉寺に駐留していたアメリカ合衆国駐日領事タウンゼント・ハリスは、長期間の船旅や遅々として進まない日本側との条約締結交渉のストレスも相まって体重が40ポンド(約18kg)も落ちてしまい、吐血するほどに体調を崩していた。満52歳と当時としては高齢でもあり、ハリスの秘書兼通訳であるヘンリー・ヒュースケンが下田奉行所に看護人の派遣を要求した。
日本側は男性の看護人を派遣することにしたが、ヒュースケンが自分とハリスにそれぞれ女性の看護人を派遣することを強硬に要求したことから、下田奉行所はハリス側はいわゆる「妾」を要求しているものと判断し、方々に交渉した結果、ハリスに「きち」を、ヒュースケンに「ふく」を派遣することになった[4]。
「きち」は1857年(安政4年)5月22日ハリスが滞在する玉泉寺に籠で出向くが、3日後の5月25日に帰された。
「町会所日記」には「きち」の体に腫物があるので帰されたとする記述があり、やがて正式に解雇された[5]。
転々
実家に帰った「きち」は芸妓兼酌婦に戻って家計を支え、明治に入って斎藤姓を名乗り戸籍上の姓名は「斎藤きち」となった。
1868年(明治元年)に横浜で幼なじみの船大工・鶴松(のちに改名して川井又五郎)[注釈 2]と再会し、1871年(明治4年)に下田の大工町に転居して所帯を構えるが、当人の酒癖の悪さが原因で1874年(明治7年)に離別して姉の所へ戻った[6]。
1876年(明治9年)に三島の料理屋「かねや」の芸妓になり、1878年(明治11年)に下田で髪結いになった[6]。
1882年(明治15年)に下田の大工町に貸座敷「安直楼」を開業するが、経営能力の欠如と酒癖の悪さから早々に店をつぶしてしまう。借家住まいになり三味線や踊りを教えて生計を立てた[6]。
晩年
1887年(明治20年)1月、長年の不養生の結果発病し、半身不随の後遺症が残った。養母・せんから相続した新田町の家も売却し、吉奈温泉に逗留して湯治する。健康を損ない財産も失い生活を支えることもできず、以降は近隣の知人にすがって細々と暮らした[6]。
1890年(明治23年)5月27日[注釈 3]、稲生沢川に転落して水死した[注釈 4]。行年48。
遺体は下田の宝福寺[7]に埋葬され、当初の戒名は「貞歓信女」だったが1925年(大正14年)に「宝海院妙満大師」と改めた[6]。 転落した場所は不詳だが、遺体発見の前に杖をついて門栗ヶ淵付近を歩く姿が目撃されていたことから、のちに観光資源化を目論んで門栗ヶ淵は「お吉ヶ淵」と改名された[8]。
フィクションの混入
斎藤きちの存在は、1928年(昭和3年)に十一谷義三郎が発表した小説『唐人お吉』で広く知られることとなる。
元来とくに身分が高い訳でもない一民間人にすぎなかった斎藤きちの経歴については、出生地を含め諸説あり[9]、資料が少ない上に、後年の小説・戯曲・映画等で表現されたことさらに薄幸で悲劇的なフィクションの世界の「唐人お吉」像が、忠臣蔵や八百屋お七の例にみられるようにさながら史実のごとく語られてしまっている可能性が高く、伝わる経歴の正誤を一概に断定する事は困難である。
なお、当人の名前がフィクションの影響で「お吉」と表記されることが多いが、江戸期の下田奉行所の記録や町会所日記、明治期の戸籍上の当人の名前表記は平仮名で「きち」である。
「看護人」か「妾」か
名目上は「看護人」であっても、見た事もない外国人の元へ「妾」同然の扱いで派遣されるとあって[注釈 5]、高額の給金が支給された。「きち」の場合、支度金が25両、月給は10両だったが3日で解雇されたので、「給分の内」としてまず7両が支払われた。家族が再雇用を願い出るもかなわず、さらに5両が支払われ、30両が解雇手当のような形で支給された。総支給額は計67両である[5]。
ヒュースケンの下に派遣された「ふく」は支度金が20両、月給7両2分であった。ハリスの元へは「きち」の後釜として下田在住・為吉の娘「さよ」が派遣され、支度金が20両、月給7両2分である[5]。
アメリカ側を籠絡して条約締結交渉を引き延ばしたかった日本側の思惑はさておき、ハリスは生涯妻帯しなかった敬虔な聖公会教徒であった上に、生命が危ぶまれるほどの著しい体調不良に悩まされてもいた。そうした状況下で母国を代表し、日米和親条約の締結で部分的に開国していたとはいえ、未だ鎖国政策を敷いていた日本との通商条約締結交渉の全権を委任されるという重責を担う立場の人間が、交渉相手国から妾を提供されるような外交交渉に悪影響を与えかねない供応を受けるとは常識的には考えにくい。
自らはハリスの秘書兼通訳の立場にすぎず、あからさまに「女性の看護人」を要求したヒュースケンはともかく、こうした状況からハリスは妾ではなく純然たる看護人を要求したと判断することもできるが、ハリスと「きち」との男女関係の有無を証明する証拠が存在しない限りさまざまな説は想像の域を出ず、詳細は不詳である。
19歳当時の「きち」(斎藤きち)を撮影したものと称されている写真
19歳当時の「きち」(斎藤きち)を撮影したものと称されている写真が存在する。下岡蓮杖の弟子である水野半兵衛が下田市の八幡山宝福寺に寄贈したとの来歴が伝わっており、出版物や観光用のパンフレット等に多数用いられている。 
19歳当時の「きち」(斎藤きち)を撮影したものと称されている写真
(八幡山宝福寺唐人お吉記念館蔵)
撮影条件の不一致
「きち」が数え年19歳であったのは1860年(安政7年 - 万延元年)である。
・1859年(安政6年)まで下岡蓮杖は下田に居住していた。下岡蓮杖の写真技術習得の経歴については諸説あるが[10]、当時は未だ写真技術の基礎すら手探りの状態であったか、あるいは実質的には手つかずの状態にあった事は確かで、仮に「きち」と接触があったとしても鮮明な写真の撮影は到底不可能である。
・下岡蓮杖が横浜の野毛に写真店を開業したのは1862年(文久2年)末、「きち」は当時数え年21歳であるから年齢が合致しない[11]。
・下岡蓮杖の初期の写真はガラス湿板写真[注釈 7]で、鶏卵紙を用いた紙焼きプリントを開始するのは慶応年間頃と推定される[12]。
したがって、文久年間の下岡蓮杖の手による写真ならばガラス湿板写真のはずだが、後述の「Officer's Daughter」(士官の娘)は紙焼きプリント写真である。
このように時代と条件が合致せず、伝わる来歴通り水野半兵衛による寄贈かどうかはともかく、少なくとも下岡蓮杖・水野半兵衛の師弟が19歳当時の「きち」を撮影した事実はない。
「Officer's Daughter」の存在
・幕末から明治中頃にかけて主に横浜の写真館から国内向けや在留外国人の土産物、あるいは輸出用に多数販売されていた写真[注釈 9]の中の一葉で、「Officer's Daughter」(士官の娘)と呼ばれる写真が存在する。アドルフォ・ファルサーリが横浜で経営していた写真店・ファルサーリ商会[14]で販売していたもので、撮影者[注釈 11]・モデル共に不詳。紙焼きプリントに手彩色[注釈 12]されている。1880年代(明治10年代)から1890年代(明治30年代)半ば頃まで販売され続けた人気商品であり、ファルサーリ商会以外の複数の写真店からも販売されて国内外に多数が現存している[15]。売れ行きが好調だったためであろうか、このモデルの女性は複数の土産物写真に用いられている。女体についての考察で知られ、明治期に来日もしているドイツ医師カール・ハインリッヒ・シュトラッツの日本人に関する書物では、鼻を高く加工したものがイタリア人と日本人の混血の娘として掲載されている[16]。
「Officer's Daughter」(士官の娘)と19歳の「きち」を撮影したものと称されている写真が基本的には同一の写真である事は一見して明らかである。
女性モデルの髪形
・「Officer's Daughter」(士官の娘)の女性モデルの髪形は真ん中分けでやや西洋風だが日本髪で、髪留めも玉簪や櫛など旧来の日本式の物を用いている。西洋文化が大量に流入した明治時代前半に登場した髪形[17]で、写真の撮影年を特定する決定打とはならないが明治以降の撮影と推定できる。
・明治時代からの髪形をしている「Officer's Daughter」(士官の娘)の女性モデルと、発売当時30 - 40歳代の斎藤きちでは年齢が合致しない。
・「きち」が数え年19歳の頃に撮影された古い写真を紙焼きして販売したと仮定しても、幕末期の若い未婚女性の髪形は島田髷・銀杏返し・桃割れ等の純然たる日本髪で、「Officer's Daughter」(士官の娘)の女性モデルの髪形では時代が合致しない。
写真の改変
・19歳当時の「きち」を撮影したと称される写真は画質が荒れているが「Officer's Daughter」(士官の娘)ははっきりした良好な画質である。良好な画質の写真を加工複製すれば画質が劣化するが、筆による修正や手彩色ならともかく、劣悪な画質の写真を加工複製して根本から良好な画質の写真を作る技術は当時存在しない。
つまり、「Officer's Daughter」(士官の娘)から当該写真を作成する事は可能だが、当該写真から「Officer's Daughter」(士官の娘)を作成する事は不可能である。
上記の理由で、19歳の「きち」を撮影したものと称されている写真は、明治期に撮影・販売されたファルサーリ商会の人気商品「Officer's Daughter」(士官の娘)あるいは他のいずれかの写真店から販売された同種の写真から、女性モデルの玉簪・櫛・髪飾りと後頭部の巻き髪を削除する改変を施して複写したものと断定できる。
後頭部の巻き髪まで削除した理由は不明だが、これでは日本髪が一見真ん中分けの洋髪に見えてしまう。写真を改変した施工者が不明である以上はこのような加工を施した意図は不明だが、伝わる来歴通り水野半兵衛による寄贈であっても、現物はオリジナルに粗雑な改変を施された物にすぎない。
はたして「きち」か
写真の女性モデルが「きち」であると断定はおろか、推定できる具体的かつ客観的な根拠が何一つ存在せず、むしろ上記のように否定的な状況証拠が複数存在している。
さらに、明治期の横浜発の土産物写真「Officer's Daughter」(士官の娘)あるいは他のいずれかの写真店から販売された同種の写真と、来歴があるはずの当該写真が、いわゆる「唐人お吉」の写真として関係各方面で混用されている状態では[注釈 15]、提示された情報の信憑性は著しく低いと言わざるを得ない。
したがって、当該写真の女性モデルが19歳かあるいはそれに近い年齢であった当時の「きち」である可能性は極めて低い[13]。
なお、唐人お吉とされる別人の30歳頃の写真が存在する[18]。
詳しいことは、「斎藤きちウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%8E%E8%97%A4%E3%81%8D%E3%81%A1
(wikiより)

水谷八重子



鶴松墓 ( お骨は入っていませんので「 塚 」となっています。)
6100 鶴松墓(下田市七軒町1・稲田寺)
〇 鶴松の一生
鶴松は今この墓地に静かに眠っている。
納骨瓶には「純譽敬法信士俗名大工川井又五郎明治九年六月六日歿」と誌されている。
幕末開国の舞台に一輪の花と咲いた”唐人お吉”の陰に隠れて鶴松の一生は余りにも哀れであった。
領事ハリスの侍妾として仕えたお吉と後年、旧情を温め仲むつまじく同棲したのも束の間の四年ほどであった。
明治八年、故あって離婚すると翌年には一夜ポックリと ( 今でいう心臓麻痺 ) 敢えなく急死した。
生前の鶴松は性格温順で酒を飲まず煙草もすわず器用な船大工職であったという。
山桃 ( やまもも ) が好きだったので、お吉は鶴松の死後泣きながらこの墓前に鶴松好物の山桃を供えて、その冥福を祈っていたという。
鶴松の死後、弟の熊吉が相続したが、戸籍上では妻子がなく甥の啓蔵が相続届を出したが啓蔵で鶴松の血統は絶えたことになっている。
今は遠縁にあたる太田家 ( 下田市原町 ) で供養しているが鶴松も又、お吉と共に幕末開国の為の果無い犠牲者の一人であった。
5965 二代目・若柳寿童墓(谷中7-14-8・天王寺)
大正 10年 8月 11日 ~ 平成元年 7月 17日 ( 1921 - 1989 )
日本舞踊家。
三世宗家若柳寿童。
京都市伏見区出身。
本名:竹内正次。
養父、若柳吉蔵 ( 宗家 2世、初代吉蔵 )。
父に舞踏を学び 16歳で正蔵を襲名。
昭和 19年 ( 1944 ) 養父亡き後、2代若柳吉蔵を襲名する。
昭和 20年 ( 1945 ) 日本大学芸術学部入学、翌年中退。
昭和 45年 ( 1970 ) 若柳寿邦と名乗る。
チャリティ公演を国内をはじめ、アメリカ、イタリア、香港、韓国など国外にて数多く開催した。
昭和 63年 10月2代若柳寿童を襲名。
子に五世若柳吉蔵 ( 本名:竹内英雄 ) がいる。
正面「若柳家累代之墓」。墓誌に「三世宗家若柳寿童俗名竹内正次」とある。「至芸院殿燦晃寿童日正居士」。 

4868 久坂玄瑞の密議の角屋碑(京都市下京区西新屋敷揚屋町32 )
島原は、我が国最初の官許の花街で、当初は二条柳馬場に開かれ、その後、六条三筋町に移転し、更に寛永 18年 ( 1641 ) にこの地に移された。
正式な地名は西新屋敷というが、急な移転騒動が、当時の九州で起こった島原の乱に似ていたことから、島原と呼ばれるようになった。
島原には、揚屋 ( あげや ) と置屋 ( おきや ) があり、揚屋は太夫・芸妓などを一切抱えず、置屋から太夫等を呼んで沿海を催す場であった。
角屋の建物は、揚屋建築唯一の遺構として昭和 27年 ( 1952 ) に重要文化財に指定された。
また円山応挙・与謝蕪村など、当時の一流画人の作品を多く蔵し、蕪村の大作「紅白梅図」は重要文化財に指定されている。
江戸中期には、俳壇が形成されるなど文化サロンとしての役割も担い、また、幕末には西郷隆盛・久坂玄瑞 ( くさか - げんずい ) などの勤王の志士たちが、軍用金調達のために時の豪商を招いて会議を行い、彼等を探し求めた新撰組が乱舞した場所でもあった。
こうした江戸時代の社交遊宴文化の余香を今に伝える角屋は、現在「角屋もてなしの文化美術館」として一般に公開されている。
(案内板より)
※ 文政元年 ( 1818 )、頼山陽が郷里の母を連れ角屋南隣の八文字屋で宴会をし、揚屋が親孝行の場となる。


4867 輪違屋(京都府京都市下京区西新屋敷中之町114)
輪違屋(わちがいや)は、京都府京都市下京区の花街、島原の置屋兼お茶屋である。現在も営業を続けている。
創業は元禄元年(1688年)、置屋として始まる。置屋として創業当時の名は「養花楼」。お茶屋兼業は明治5年(1872年)より。現在の建物は安政4年(1857年)に再建されたものであり、明治4年(1871年)にほぼ現在の姿となった。
かつては芸妓等も抱えていたが、現在は太夫のみを抱え、太夫の教育の場であり、また、宴席の場として営まれている。表に「観覧謝絶」の札がある(いわゆる「一見さんおことわり」の店である)。
建物は昭和59年(1984年)に京都市指定有形文化財(建造物)に指定された。太夫道中に使われる傘を襖に貼り込んだ「傘の間」、本物の紅葉を使って型取りしたうえに彩色した壁が使われた「紅葉の間」が特徴的である。いずれももともとは当主の部屋であった。傘の間の傘には「高」(正確には髙島屋のマークの「高」の字体と同じ)の文字が入っているがこれは当主の姓が「高橋」だったということに由来する。
1階には近藤勇書の屏風が、2階には桂小五郎書の掛軸がある。
浅田次郎小説およびテレビドラマの『輪違屋糸里』で有名だが、糸里が輪違屋にいた との記録は輪違屋側にはない。 「維新の名花」といわれた「桜木太夫」を抱えていたのはここである(糸里が「桜木太夫」となる小説・ドラマでのエピソードはフィクション)。
文献
・石原哲男『京・嶋原太夫』京都書院、1991年
・高橋利樹『京の花街「輪違屋(わちがいや)」物語』(PHP新書)、PHP研究所、2007年8月、ISBN 4569693784
・京都府文化財保護基金/編『京都の明治文化財 第1編 改訂版 建築.庭園.史跡』京都府文化財保護基金、1974年
・京都市文化観光局文化部文化財保護課『京都市の文化財 建築物・文化財環境保全地区 京都市指定・登録文化財集』京都市文化観光局、1992年
外部リンク
・「文藝春秋、糸里が生きた「輪違屋」の魂」・・・浅田次郎と輪違屋十代目当主との対談(現在は文庫版『輪違屋糸里』に収録)
・京都・島原三百余年 花柳界の旅路「輪違屋」の"日常"(2012年5月20日時点のアーカイブ)
・京都市情報館 文化市民局(2013年1月16日時点のアーカイブ)
・京都市指定・登録文化財-建造物
(wikiより)



4318 初代・花柳輔蔵墓(台東区谷中4-2-5・瑞輪寺)
初代・花柳輔蔵 ( はなやぎ - すけぞう )
明治 24?年 2月 15日 ~ 昭和 37年 2月 17日 ( 1891? - 1962 )
日本舞踊家。
本名、三宅藤五郎。東京下谷出身。
5歳で花柳輔次郎に師事。
明治 40年 ( 1907 )「輔蔵」を許される。
花柳名取代表として 2代目・花柳寿輔 ( 1893 - 1970 ) を補佐。
第 1次日本舞踊協会評議員。
第 2次日本舞踊協会理事長。
花柳舞踊研究会を創立に尽力。
松竹歌劇団の発足時から専属で振り付けを担当。
花柳流理事長。74歳没 ( 墓誌によるが、計算が合わない )。
演目:「小袖曽我」の満江、「老松」、「北州」などがある。
長男、花柳啓之。
「慈身院法道日藤居士」。


4201 三代目・藤間勘兵衛墓(台東区谷中1丁目・谷中霊園)
4200 二代目・藤間勘兵衛墓(台東区谷中1丁目・谷中霊園)
4199 初代・藤間勘兵衛墓(台東区谷中1丁目・谷中霊園)
4108 若柳壽童墓(台東区谷中1丁目・谷中霊園)
初生
初世壽童(1845年7月27日(弘化2年6月23日) - 1917年7月22日)は、本名は若林勇吉(わかばやし ゆうきち)と言い、12歳で花柳流の初世花柳壽輔の弟子となり、15歳で壽輔の幼名である芳松の名を与えられ花柳芳松(はなやぎ よしまつ)となる。
壽輔と共同で多くの振付に携わり、また3代目花柳芳次郎と共に中村座の振付を担うなど花柳流の高弟に数えられていたが、壽輔との間で意見の相違が生じ1893年に破門される。
その後若柳吉松(わかやぎ きちまつ)と改名し若柳流を創流すると、舞台の振付から離れ花柳界に勢力を求め、柳橋の花街を中心に地盤を築いた。1905年に、還暦を機にで壽童と改名した。
墓所は谷中霊園。かつては浅草妙音寺にあったが戦争の空襲で焼失。
戒名は「園林院壽童日宝居士」。
(wikiより)
※ 子の市太郎に継ぐ意思がなく、高弟若柳吉蔵に家元を継がせた。




4091 吾妻徳穂墓(台東区谷中1丁目・谷中霊園)
経歴
・1909年2月15日 十五代目市村羽左衛門と、芸妓で舞踊家の藤間政弥の間の娘(庶子)として東京に生まれる。父方の祖父はチャールズ・ルジャンドル。
(以上は通説で、田村成義『演芸逸史無線電話』に、藤間政弥がお竜と名のって歌舞伎座社長だった大河内輝剛の愛人であったことが書かれており、二代目市川猿之助も、大河内がほどなくがんに倒れた時、政弥に電話をかけたとあるので、実際の父は大河内であろうとする説もある。里見弴は『羽左衛門伝説』で、羽左衛門の父がルジャンドルであることを明らかにした上、徳穂が羽左衛門の子だというのは疑わしいとしている。小谷野敦『弁慶役者 七代目松本幸四郎』(青土社)にもこのことが書いてある。)
・1928年 19歳の時、隣の楽屋にいた三代目坂東鶴之助(のち四代目中村富十郎)と恋仲になり、駆け落ち結婚する。
・1930年 春藤会を結成。
・1933年 藤間 春枝(ふじま はるえ)の名で舞踊家活動していたが、吾妻流を再興、家元となり、吾妻 春枝(あづま はるえ)と改名した。この間二男を儲ける。
・1939年 30歳の時に内弟子の佐藤光次郎(藤間万三哉)と恋仲になり駆け落ちする。
・1942年 吾妻徳穂と改名。
・1950年 長男の吾妻徳隆(歌舞伎役者としては五代目中村富十郎)が吾妻流家元となる。
・1954年から1956年 徳穂は宗家として、『アヅマカブキ』を欧米十数カ国・四十数都市で公演した。
・万三哉と離婚。
・1968年 長男・吾妻徳隆(歌舞伎役者としては五代目中村富十郎)が家元を母徳穂に返還。
・1992年 NHK古典芸能鑑賞会で、武原はん、藤間藤子と荻江節の「松竹梅」を披露。
代表作
・『時雨西行』
・『赤猪子』
・『藤戸の浦』
などがある。
・1991年 - 文化功労者
著書
・『世界に踊る』(角川書店、1957)
・『おどり』(邦楽と舞踊出版部、1967)
・『女でござる』(読売新聞社、1978、自伝)
・『踊って躍って八十年 - 想い出の交遊記』(読売新聞社、1988、自伝)
・『女三昧芸三昧 如是の華(女の自叙伝)』(婦人画報社、1990)
テレビ出演
・第7回NHK紅白歌合戦(NHK) - 審査員
・Azuma Kabuki Dancers and Musicians - アヅマカブキ一座の写真。ニューヨーク市博物館所蔵。1954-1955
4056 花柳輔三朗墓(台東区・谷中霊園)
4028 若柳吉三郎墓(台東区・谷中霊園)
初代・若柳吉三郎 ( わかやぎ - きちさぶろう )
明治 24年 11月 15日 ~ 昭和 15年 1月 28日 ( 1891 - 1940 )
日本舞踊家。
本名、新井真護。
東京出身。
幼時より若柳吉之輔に習い、のち若柳寿童に師事。
18歳で吉三郎を名乗る。
若柳吉蔵と共に寿童を助け、若柳流を隆盛にした。
寿童没後は、柳橋の師匠として弟子を指導。
大正 13年 ( 1924 ) に創設された「花柳舞踊研究会」に刺戟され、「若柳流舞踊研究会」を興す。
日本舞踊として、はじめて「紀州道成寺」を振り付け、また、「舞踊座」を結成し、新しい舞踊形態の作品「ラグビー」を発表。
ついで、演劇と舞踊の中間的な「伊勢音頭」を上演。
昭和 4年 ( 1929 ) 富山の「八尾四季」に合わせた「新踊り」が生まれた際に振り付けをしている。
夫人は、若柳光 ( 前名、吉美津 )。
孫のジップシーギタリストが、若柳吉三郎を名乗っている。50歳没。 

3990 虎御前祈願の龍神(神奈川県中郡大磯町大磯1054・延台寺)
3745 美幾女墓(文京区白山2-9-12・念速寺)
特志解剖第一号 美幾女 ( みきじょ ) の墓
( ~ 1869 )
美幾女 ( みきじょ ) は、病重く死を予期して、死後の屍体解剖の勧めに応じ、明治 2年 ( 1869 ) 8月 12日、34歳で没した。
死後、直ちに解剖が行われ、美幾女の志は達せられた。
当時の社会通念、道徳観などから、自ら屍体を提供することの難しい時代にあって、美幾女の志は、特志解剖第一号として、わが国の医学研究の進展に大きな貢献をした。
墓石の裏面には、"わが国病屍解剖の始めその志を嘉賞する"と、美幾女の解剖に当たった当時の医学校教官の銘が刻まれている。
(案内板より)
美幾女は、駒込追分の彦四郎の娘で、10歳で本郷の旧家に奉公していたが、父のけがで遊女になったといわれている。
彼女は病死を予期し、自らの意志で死後解剖のために提供する特志解剖のすすめに応じ、父母・兄連署のうえ、東京府に提出した。
その後、明治 2年 ( 1869 ) 8月 34歳で没した。
わが国最初の病死体の解剖は、旧下谷和泉町の医学校の仮小屋で行われた。
吉村昭の小説「梅の刺青」には美幾女の解剖を題材にしたくだりで、解剖執刀者を田口和美として描いていて、その中の一節には・・・『美幾女の腕には梅の折枝と愛しい人の名が彫られた短冊の刺青があったという。』
〇 美幾 ( 美幾女 )
美幾(みき、1836年 - 1869年8月12日)は、江戸時代末期 - 明治時代初期の遊女である[1][2][3]。梅毒の治療中に重体に陥り、医師から解剖のための遺体提供を依頼されて承諾したと伝えられ、日本で最初の献体者(篤志解剖)とされる[1][2][3]。美幾とその生涯については、渡辺淳一の小説『白き旅立ち』、吉村昭の小説『梅の刺青』などが題材に取り上げている[4][5][6]。
生涯
1836年(天保7年)生まれ[2]。駒込追分(現在の東京都文京区向丘、中山道と日光御成街道の分岐点にあたる)の住人彦四郎の娘といい、名については「美幾女(みきじょ)」、または「ミキ」、「みき」などとも表記される[1][2][3][6]。10歳のころから本郷の旧家へ奉公に出ていたが、父が負傷して働けなくなったため遊女になったと伝えられる[3][4]。
遊廓での勤めを続けるうちに、美幾は梅毒に罹患した[3][4][5][6]。その治療のため、医学校(東京大学医学部の前身)の附属病院として設置されていた黴毒院(ばいどくいん)に入院した[5]。美幾の病は重く、治療に当たっていた医師からの解剖のための遺体提供を求められた[3]。美幾は自らの死期が近いことを悟り、その求めに応じた[3][7]。父母と兄が連署の上、美幾の遺言を東京府に届け出た[3]。届け出は認容されたが、許可書には「厚ク相弔イ遣ルベキコト」との条件が付加されていた[1]。
美幾は1869年(明治2年)8月12日、34歳で死去した[2][6]。翌日、下谷和泉町[注釈 1]にあった医学校の仮小屋で日本初の病死体解剖が実施された[注釈 2][注釈 3][1][2][3][7]。医学校は美幾の霊を慰めるため、小石川植物園そばの念速寺(浄土真宗大谷派)で同月16日に葬儀を執り行って手厚く葬り、遺族には金10両が贈られた[1][4][7][6]。
美幾の墓は、念速寺(東京都文京区白山2丁目9番11号)の本堂裏、千川通り側の塀ぎわに現存する[1][3][7][8]。墓石の裏面には、「わが国病屍の始めその志を嘉賞する」と当時の医学校教官が美幾の志を称えた銘が刻まれ、法名として「釈妙倖信女」が与えられている[注釈 4][8]。この墓は、1974年(昭和49年)11月1日に文京区指定史跡となった[8][9]。墓碑は、保存のために透明なケースで覆われた状態となっている[6][7][10]。
なお、美幾に続く篤志解剖の2人目から4人目までの人々については、翌年の1870年(明治3年)に記録が残されている[1]。2月の八丁堀亀島町の「金次郎」、3月の深川大島町の「竹蔵」、10月の小日向水道町の「ムツ」の名があるが、いずれの人にも姓の記録がないため、貧しい階級の出と推定されている[1]。これらの人々も丁重に葬られて、遺族には金3両が贈られていた[1]。
「篤志解剖」第1号について
小川鼎三は、その著『医学の歴史』で「篤志解剖」希望者の第1号は、幕末から明治期にかけて活躍した洋学者・軍学者の宇都宮三郎であると記述している[1][4]。宇都宮は旧名を「宇都宮鉱之進」といい、尾張藩士の子として名古屋に生まれた。若いころから武芸と兵法を修め、砲術を学んだ後に化学の分野に進み、明治維新前後の日本の化学界に大きな功績を遺した人物である[1][4]。宇都宮は蘭学も学んでいたため、桂川甫周の家によく出入りしていた[注釈 5][1]。
1868年(明治元年)、宇都宮は重病で病床に伏していた[4]。幕藩体制の瓦解を目の当たりにし、かつての仲間たちが活躍するのを見て前途を悲観した彼は、「篤志解剖願」を書き上げて東京府に提出した[注釈 6][1][4]。この願に対して東京府は、「願の通り御免仰付けられ候」と許可を与えた[1]。しかし、宇都宮の病はすっかり回復したため、解剖も行われなかった。宇都宮は1869年(明治2年)3月に明治新政府の開成学校の教官として出仕を命ぜられ、7月には大学中助教に任じられた[1][4]。同年には結婚もしている[1]。小川は、宇都宮(による篤志解剖願)と美幾の間に何らかのつながりがあるかもしれないと推測している[1]。結局宇都宮は1902年(明治35年)に死去し、故郷の幸福寺(愛知県豊田市)に埋葬された[4][5][11]。そのため、「篤志解剖」第1号は美幾となった[1][4]。
なお、美幾の「篤志解剖」第1号について、末永恵子(福島県立医科大学講師)がその著書『死体は見世物か 「人体の不思議展」をめぐって』の中で触れている[12][13]。末永は美幾について「医学校の附属病院に入院していた重症の患者で『貧病人』であった」と当時の文書に記されていたことを挙げて、「入院したときはすでに重症で命の危機に瀕していた彼女の意思のほんとうのところは、今では知る由もない」と指摘した[12]。
フィクションにおける美幾
小説家の渡辺淳一は、1973年(昭和48年)に当時順天堂大学の教授を務めていた小川鼎三から、日本における志願解剖の第1号が吉原の遊女であったという話を聞いた[14]。渡辺は当初、何かの記録違いではないかと思い即座に信用できなかったというが、小川は美幾の名と念速寺の墓地のことまでを渡辺に教えた[14]。それ以来、渡辺は美幾の存在に強い興味を覚えるようになった。渡辺は同年12月に念速寺を訪問した。墓に詣でて住職から美幾についての話を聞き、自らの医学生時代に実習で年若い女性の死体解剖に当たった体験などとと重ね合わせつつイメージを育て上げていった[14][15]。
渡辺は美幾の生涯を題材に、小説『白き旅立ち』を書き上げて小説新潮の1974年3月号から5月号にかけて連載した[16]。この作品中では、宇都宮鉱之進は美幾の馴染み客として描かれた。美幾は宇都宮から解剖についての知識を得て、後に労咳が悪化した後に彼の縁で小石川養生所へ入院し、篤志解剖の申請手続きは円滑に行われたこととされた[4][6]。作中で美幾は養生所で出会った滝川長安という若き医師に密かに想いを寄せ、彼が解剖こそ日本医学の発展に不可欠だと説いているのを聞き、死後に自らの体を提供する約束をした後に生涯を終えている[17]。
『白き旅立ち』について詩人で文芸評論家の郷原宏は「伝記小説の秀作」と評し、美幾のことを「作者のペンによって発見され、発掘されたヒロインである」と記述した[18]。郷原はさらに「篇中至るところに医学と文学の最も理想的な協調を見い出すことができる」と高い評価を与えた[18]。
吉村昭の小説『梅の刺青』は、美幾の腕に刻まれていたという刺青から題を得ている[注釈 7][6][19]。吉村は美幾の解剖に立ち会った医学者石黒忠悳の子孫から当時の日記を見せてもらう機会を得た[19]。石黒の日記中に彼女の腕に梅の小枝を描いた刺青があったとの記載を見つけた吉村は、そのことに衝撃を受けた旨を記述している[6][19]。
この小説は、宇都宮鉱之進が1868年(明治元年)11月に医学所宛てに自身の献体の願い書を提出するところから始まり、最後は解剖された人々の慰霊のため1881年(明治14年)に建立された谷中墓地内にある千人塚の場面で終わる[5]。小説内では、美幾の解剖時に執刀者となった人物を田口和美(たぐち かずよし、後に東京大学医学部解剖学の初代教授となった)、説明者となった人物を桐原真節(きりはら しんせつ、後に東京大学付属病院の初代院長を務めた)としている[20][21][22]。
『梅の刺青』は、あとがきで作者の吉村が述べているとおり、日本での初期解剖の歴史を主題としている[19]。美幾のことについては、東京大学医学部解剖学教室が取り扱った解剖の歴史的事実と捉えて小説化した[5][6]。吉村は美幾のことを、小川の後任に当たる順天堂大学教授酒井シヅから教示されたと小説のあとがきで述べている[5][19]。
2004年に公開された塚本晋也の映画『ヴィタール』は、人間の肉体と意識あるいは魂の関連を取り上げた作品である[23][24][25]。映画の主人公で人体解剖に耽溺する記憶喪失の医学生高木(浅野忠信)にはレオナルド・ダ・ヴィンチ、高木の幻想の中に繰り返して現れるヒロイン、涼子(柄本奈美)には美幾のイメージがそれぞれ投影されているという[23]。
脚注
注釈
1. 文献によっては、「下谷和泉橋通り」とも記述されている。
2. 宝暦4年(1754年)閏2月7日に、山脇東洋が京都の刑場で刑死者の解剖を行って以来、解剖には刑死者の遺体が使われていた。
3. 小川鼎三は『医学の歴史』178頁で、解剖実施日を「8月14日」と記述している。
4. 墓石の原文は、「駒込追分販夫彦四郎女名美幾 患徽症属不治 遂入病院乞治 已而病革 遺言解視其体以阪医理 因鳴之官得充焉 寛死年三十四 乃如其言則於其内景 果有大所発明突是為本邦剖検病屍之始 官乃嘉其志賜資葬之礫川念速寺 為誌以伝焉 明治已已秋八月 医学校教官 同主簿記」と漢文で刻まれている。
5. 桂川甫周 (国興)は、『ターヘル・アナトミア』の日本語訳に参加した同名人物の曾孫にあたる。
6. 宇都宮によるこの願は現存し、東京大学の解剖学教室に保管されているという。
7. 吉村の小説では、彼女の名を「みき」とひらがなで表記している。
出典
1. a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 小川、178-180頁。
2. a b c d e f “美幾女とは”. 講談社 日本人名大辞典- コトバンク. 2015年5月6日閲覧。
3. a b c d e f g h i j 籠谷、88頁。
4. a b c d e f g h i j k l お茶の水女子大学附近の科学史散歩 (PDF) 立花 太郎 2013年8月31日閲覧。
5. a b c d e f g 江戸東京医学史散歩 その16 医学用語を歩く シソーラス研究会ウェブサイト、2013年8月31日閲覧。
6. a b c d e f g h i j 梅のいれずみ -篤志解剖第一号 遊女美幾- (いれずみ物語 ; 28) (PDF) 小野友通、2008-10-10 熊本大学学術リポジトリ、2013年8月31日閲覧。
7. a b c d e 横山、158頁。
8. a b c 文京区 区指定文化財 文京区役所ウェブサイト、2013年8月30日閲覧。
9. 美幾女墓 文京区指定文化財データベース 文京区役所ウェブサイト、2013年8月30日閲覧。
10. 文京区・念速寺 TOKYO TEMPLE GUIDE・東京寺院ガイド、2013年8月30日閲覧。
11. 豊田市郷土資料館特別展 舎密(セイミ)から化学技術へ─近代技術を拓いた男・宇都宮三郎─ 豊田市郷土資料館だよりNo.37 (PDF) 平成13年10月10日発行 豊田市郷土資料館ウェブサイト、2013年9月1日閲覧。
12. a b 末永、181-182頁。
13. 福島県立医科大学 医学部医学科 人間科学講座(人文社会科学)末永 恵子 公立大学法人 福島県立医科大学ウェブサイト、2013年8月31日閲覧。
14. a b c 渡辺、271-272頁。
15. 渡辺、274-279頁。
16. 『渡辺淳一の世界』、246頁。
17. 渡辺、391-422頁。
18. a b 『渡辺淳一の世界』、116頁。
19. a b c d e 吉村、260-261頁。
20. 田口和美とは コトバンク、2013年9月2日閲覧。
21. 東大病院だより No.47 (PDF) 2013年9月2日閲覧。
22. 吉村、258頁。
23. a b シネマ情報『ヴィタール』ダンス・ライブラリー -観る・読む・学ぶ- Chacott webマガジン DANCE CUBE 2013年8月31日閲覧。
24. ヴィタール Movie Walker、2013年8月31日閲覧。
25. ヴィタール-映画作品紹介- CINEMA TOPICS ONLINE、2013年8月31日閲覧。
参考文献
・小川鼎三 『医学の歴史』 中央公論社〈中公新書〉、1964年。ISBN 4-12-100039-0
・籠谷典子編著 『東京ウォーキング No.16 小石川後楽園・植物園コース』 牧野出版、2003年。ISBN 4-8950-0084-2
・末永恵子 『死体は見世物か 「人体の不思議展」をめぐって』 大月書店、2012年。ISBN 978-4-272-33077-5
・横山吉男 『江戸・東京名墓碑ウォーク』 東京新聞出版局、2002年。ISBN 4-8083-0774-X
・吉村昭 『島抜け』 新潮社〈新潮文庫〉(表題作の他『欠けた椀』、『梅の刺青』を収録)2002年。ISBN 978-4-10-111744-7
・渡辺淳一 『渡辺淳一全集 第2巻 花埋み 白き旅立ち』 角川書店、1996年。ISBN 4-04-573602-6
・『渡辺淳一の世界』 集英社、1998年。ISBN 4-08-774332-2
外部リンク
・登録者文集「私と献体」 日本財団図書館(電子図書館) 2013年8月27日閲覧。
・東京の医跡 諸澄 邦彦(埼玉県立がんセンター放射線技術部) Web医療科学 医療科学社のホームページ、2013年8月31日閲覧。
・解剖学と医学:今と昔 (PDF) 井上芳郎 北海道大学ウェブサイト、2013年8月31日閲覧。
(wikiより)
3702 有無両縁塔(函館市船見町23-2・地蔵寺)
この「有無両縁塔」は、元治元 ( 1864 ) 年に、当時の遊郭の経営者たちが、引き取り手のない遊女などを供養するために、合同で建立した供養塔である。
かつて山ノ上町と呼ばれた界隈 ( 現在の船見町周辺 ) には、多くの遊女屋があって賑わっていたが、函館奉行が安政 5 ( 1868 ) 年に、その一画を山ノ上遊郭として公認してからは、整備も進んでいった。
さらに、翌年の開港に伴い、日本各地の商人や外国人の往来が盛んになり、遊郭も一層の賑わいをみせるようになった。
この碑は、開港と言う新しい時代の影に、遊郭で働き、ここで生涯を終えざるを得なかった女性たちがいた事実を遺すもので、台石には建立者たちの名が刻まれている。
(案内板より)







3665 遊女墓(奈良県奈良市東木辻町42・称念寺)
3636 大磯宿遊女墓(神奈川県中郡大磯町大磯1054・延台寺)
3634 高清水近太夫墓(函館市船見町23-2・地蔵寺)
3487 初代・若柳吉蔵墓(谷中7-14-8・天王寺)
若柳 吉蔵(わかやぎ きちぞう)は、若柳流宗家家元の名跡。当代3代目。5世若柳流宗家家元。
歴代の家元に関しては若柳流#派と家元項参照。
初代
若柳 吉蔵(明治12年(1879年)6月21日 - 昭和19年(1944年)1月25日) 本名は竹内幸太郎。2世若柳流家元。
東京小石川水道町の生まれ。父が落語家で「ステテコ踊り」で一世風靡した初代三遊亭圓遊。
・12歳で振付師・西川古代に入門。
・2年後廃業し落語家に転じ父の門下になり三遊亭清遊から三遊亭小圓遊を名乗った。
・その後新派の俳優となる。
・1896年、再度舞踊に転じ若柳流・若柳吉松(後の若柳壽童)の門下になり翌年吉蔵を名乗る。
・1917年に師・壽童が死去。
・翌年、2世若柳流家元を継ぐ。
墓所は谷中霊園天王寺墓地。戒名は「信妙院遊阿弥即真居士」。
養子が2代目吉蔵(後の2代目壽童)を襲名し3世若柳流家元を継いだ。
〇 若柳流
若柳流(わかやぎりゅう)は、日本舞踊の流派のひとつである。
手振りの多いことが特徴で、品のある舞踊と評される[1]。1895年に若柳吉松(後の初代若柳壽童)により創流され、柳橋をはじめ花街に一大勢力を築き、壽童の後を継いだ初代若柳吉蔵によって日本全国に勢力を広め、今日では日本舞踊における5大流派のひとつとして数えられる。
分家独立や勢力争いなどが元で、数多くの分派が存在している。
歴史
創流から発展まで
若柳流の創始者となった若柳吉松は、本名を若林勇吉といい、もとは花柳流の家元花柳壽輔の門下で舞踊を学んでいた。勇吉は壽輔の幼名である「芳松」の名を与えられ、壽輔と共に多くの舞台の振付に携わっていたが、意見の相違がもとで1893年に破門される[2]。その後、それまでの芸名(花柳芳松)と本名を組み合わせ「若柳吉松」を名乗り、若柳流を立てた。
創流後の吉松は舞台の振付から離れて、花柳界に勢力を広げ、柳橋を中心として各地に地盤を築いた。吉松は1905年に「壽童」に改名し、1917年に没した。壽童の子は流派を継承する意思が無く、門弟の間で推挙された若柳吉蔵が2代目の家元となった。
吉蔵は壽童が築いた地盤を足がかりに勢力を拡大し、また一方で1920年に新作舞踊の研究機関である「若柳舞踊研究会」を、1926年には歌舞伎舞踊を研究する「日本舞踊研究会」を立ち上げ、数多くの門弟を育てた。結果、若柳流は日本全国に広がり、全盛を極めた。
2代目没後の分裂
1943年に吉蔵が没した後は、その子[3]である若柳正蔵が2世吉蔵を襲名し、3代目の家元となった。しかし2世吉蔵はまだ若く、一部の門弟からは家元制を廃し、理事制による流派の運営を主張する声があがった。2世吉蔵も一旦は理事制への移行に同意したが、後にそれを撤回。これにより若柳流は2世吉蔵を主とする宗家若柳流と、理事制を敷く正派若柳流に分裂することとなった。また、初世吉蔵の長女・2世吉蔵の姉であり、分家して関西地方を統括していた若柳吉世が独立。
正派若柳流
家元から離れた一派は「正派若柳流」を称し、理事制による流派の運営を行うことになった。運営機関として1951年に正派若柳会を設立。壽童の直弟子である若柳吉登代が総務理事となる。1955年に吉登代が世を去ると代わって若柳寿慶が総務に就いた。その後寿慶は派閥間の対立から1971年に独立し「直派若柳流」を立てるが、同年に寿慶が没すると、若柳吉駒を理事長とする寿慶協会と、若柳慶を会長とする寿慶会に分裂。さらに寿慶協会からは若柳寿宏が直派分家若柳流として独立し、寿慶会では若柳汎が汎栄会を立てた。
若柳流西
関西の勢力を統括するため分家していた若柳吉世は1950年に独立し、若柳流西家元となった。2世吉蔵の薫陶を受けた門弟たちが結束しており、吉蔵の芸をよく受け継いでいると評されている。[1]吉世の没後はその長女若柳吉世童が吉世を襲名し、後を継いでいる。また、芦屋から練馬に本拠をうつした。
参考資料
・柴崎四郎 『通史花柳流 花の流れ一世紀』自由国民社、1985年。ISBN 978-4-426-50018-4
・演劇出版社編『日本舞踊入門』2004年、ISBN 4-900256-89-7
・藤田洋『日本舞踊ハンドブック改訂版』三省堂、2010年、ISBN 978-4-385-41066-1
注釈
1. a b 藤田洋『日本舞踊ハンドブック改訂版』
2. 柴崎四郎 『通史花柳流 花の流れ一世紀』
3. 『日本舞踊ハンドブック改訂版』では実子、『日本舞踊入門』では養子とされている
外部リンク
・若柳流宗家 若柳吉蔵公式ウェブサイト - 若柳吉蔵によるウェブサイト
・若柳流オフィシャルサイト - 若柳寿延によるウェブサイト
・若柳舞踊稽古場 - 若柳吉世によるウェブサイト
(wikiより)

3125 江木欣々墓(台東区・谷中霊園)
江木欣々 ( えぎ きんきん ) / 江木栄子 ( えぎ えいこ) 明治 12年 1月 30日 ~ 昭和 5年 2月 20日 ( 1879 - 1930 )
東京新橋の芸者で、結婚後は社交界で名を知られた。
父、大審院判事・愛媛県令の関新平 ( 二女 )。母は妾の藤谷花子。中島歌子の門人。
才色兼備な才芸夫人で、書画・豪刻・漢詩・謡曲・乗馬を得意とした。
一を聞いて十を知る明に加えて美貌の人であった。
漢詩を岩渓裳川・永坂石塘・結城蓄堂に、豪刻を河合仙郎に、文章を新田雲処に学ぶ。また、武道を中山博道に師事する。
生後 1年ほどで里子に出され、さらに別の家に貰われて行き、ここで諸芸を習う。
養父没後に神田講武所の花町で半玉となる。のち、細川家の家老・有吉男に身請けされ一時男爵夫人となる。
しかし、夫に先立たれ、新橋の花柳界に戻る。ここで江木衷と出会う。
生活はリッチとなり、社交界にデビューする。
江木衷の没後は、牛込納戸町の自宅で、夫の冥福を祈り尼僧のように暮らしていたという。
病弱となりまた精神的に疲れていたため大坂の里家の実弟 ( 異父 ) 早川徳次が静養のため呼び寄せていたが徳次の家で自殺した。52歳。
「青鞜社」のメンバーでもあった。
母の藤谷花子は、早川政吉と結婚し、子の早川徳次は、シャープペンシルの発明者。異母妹に江木ませ子がいる。
3061 旭地蔵(新宿区新宿2-15-18・成覚寺)
三界万霊と刻まれた台座に露座し錫杖と宝珠を持つ石地蔵で、蓮座と反花の間に十八人の戒名が記されている。
これらの人々は寛政十二年 ( 1800 ) から文化十年 ( 1814 ) の間に宿場内で不慮の死を遂げた人達で、そのうちの七組の男女はなさぬ仲を悲しんで心中した遊女と客達であると思われる。
これらの人々を供養するため寛政十二年 ( 1800 ) 七月に宿場中が合力し、今の新宿御苑北側を流れていた玉川上水の北岸に建立した。
別名夜泣地蔵とも呼ばれていたと伝えられる。
明治十二年 ( 1879 ) 七月道路拡張に伴いここに移設された。
2805 島原大門(京都市下京区花屋町大門西入)
島原大門(しまばらおおもん)は、京都の花街である島原の東入口にあたる大門で、京都市の登録有形文化財[1][2]。高麗門形式である[1][3]。
島原は、寛永17年(1640年) または寛永18年(1641年)[1] に六条三筋町から移転した日本初の幕府公認の遊女街。当初は東側の大門のみであったが、享保17年(1732年)に西門が設置された。大門は明和3年(1767年)に現在地に付け替えられ[3]、慶応3年(1867年)に現在の門が建てられた。[1]
周囲を塀と堀で囲み、大門を一か所に設ける当初の構成は、江戸の吉原、大阪の新町と同様に、遊里を隔離し、遊女を疎外する目的で作られている。 [4]
大門外には、近世、遊郭を訪れる客に、顔を隠すための編み笠を貸した編み笠茶屋があった。また、大門口を入ったところには出口の茶屋という、客を待たせ、揚屋の門口まで送っていく施設もあった。 [5]
八つ時(午後二時頃)に大門を開くことを八門(やつもん)と言った[6]。
脚注
1. a b c d “京都市指定・登録文化財-建造物”. 京都市情報館. 京都市役所. 2014年2月16日閲覧。
2. “13.京都駅北コース (PDF)”. 京都市考古資料館. 2014年2月16日閲覧。
3. a b 「京都市の文化財」1992年 京都市文化観光局
4. 「国史大辞典」
5. 「デジタル大辞林」
6. 「日本国語大辞典」
(wikiより)


2795 歌舞練場跡記念碑(下京区西新屋敷中之町)
宝暦の むかしの夢は 見は見つれ 夜半の投節 聴くよしもなし
吉井勇(歌人1886~1960)
島原歌舞練場は、明治6年(1873)上之町に島原女紅場(にょこうば)として開設され、青柳踊や温習会が上演されていたが、同14年頃には衰微を極め、青柳踊等も頓挫した。
その後景気の回復により、太夫道中が再興され、歌舞練場が常にその巡行の拠点としての役割を果たしていた。
しかし、当初の歌舞練場は、狭隘にして、かつ貸座敷組合事務所との共用であったため、昭和2年(1927)に中之町の現在地に移転し、本格的な劇場施設として新築された。
それ以来、この新歌舞練場は、歌舞会にあたる養柳会が運営にあたり、歌舞音曲の練習発表の場として、毎年温習会が開催された。
戦後の同22年以降は島原貸席お茶屋業組合の事務所としても使用されてきたが、平成8年(1996)同組合の解散に伴い、歌舞練場を解体し、歌舞練場120余年の歴史を閉じることとなった。
また、天保年間の島原鳥瞰図によると、当地はもと稲荷社が鎮座していたことから、この大榎(おおえのき)には、歌舞練場解体時までその根元に祠が祀られていた。
約200年の樹齢を誇るがごとく、樹高は15m、幹周も2mとなり、今なお神木としての威厳を留めている。
ここに、記念碑を建立し、花街の象徴であった歌舞練場と古木の由来を刻するものである。
宝暦の むかしの夢は見は見つれ 勇
夜半の投節 聴くよしもなし
吉井勇 (歌人 一八八六 ~ 一九六〇 )
(案内板より)
1411 花吉原名残碑(台東区千束3-22・吉原神社)
台東区・千束にある花吉原名残碑 ( はなのよしわら なごりのひ ) です。
吉原は、江戸における唯一の幕府公許の遊郭で、元和 3年 ( 1617 )「葺屋町東隣 ( よしやちょう ひがしどなり )」( 現中央区日本橋人形町付近 ) に開設した。
吉原の名称は、植物の葦 ( よし ) の生い茂る湿地を埋め立てて町を造成したことにより、はじめ葦原と称したのを、のちに縁起の良い文字にあらためたことによるという。
明暦 3年 ( 1657 ) の大火を契機に、幕府による吉原遊郭の郊外移転が実行され同年 8月、浅草千束村 ( 現台東区千束 ) に移転した。
これを「新吉原」と呼び移転前の遊郭を「元吉原」という。
新吉原は江戸で有数の遊興地として繁栄を極め、華麗な江戸文化の一翼をにない、幾多の歴史を刻んだが、昭和 33年「売春防止法」の成立によって廃止された。
その名残を記す当碑は、昭和 35年地域有志によって建てられたもので、碑文は共立女子大学教授で俳人、古川柳 ( こせんりゅう ) 研究家の山路閑古 ( やまじかんこ ) による。
1401 一葉観音(台東区浅草2-3・浅草寺)
1359 薄雲太夫墓(品川区南品川1-1-1・妙蓮寺)
薄雲太夫 ( うすぐもだゆう )
江戸中期に江戸・吉原 ( よしわら ) の三浦屋四郎左衛門方にいた遊女。
薄雲は『源氏物語』第 19帖 ( じょう ) からとったもので、太夫は揚女郎 ( あげじょろう ) の最高の職制をいう。
勝山、高雄、吉野らとともに吉原で著名な遊女だが、薄雲を名のった遊女は 3人あり、それぞれの詳細はさだかでない。
一般に知られる薄雲は信州 ( 長野県 ) 埴科 ( はにしな ) 郡鼠宿 ( ねずみじゅく ) の出身で、舞伎 ( ぶぎ ) に優れ、猫を愛したといわれる。
1700年 ( 元禄 13 ) 7月に 350両で身請けされた。
ところが・・・仙台伊達家 3代目藩主の伊達綱宗は吉原通いにうつつを抜かし、高尾太夫に袖にされ、代わりに薄雲太夫を身請けしていったという
そんなことばかりして、政事をしない伊達綱宗は、幕府から隠居を命じられ、跡を嗣いだのがたった 2歳の伊達綱村だったことが、後の伊達騒動の原因となった。 

1344 お歯黒溝(どぶ)(台東区・千束4)
1332 扇塚(台東区浅草2-1-16・弁天山)
1264 扇塚(台東区浅草2-3・浅草神社)
1240 マムヤ墓(宮古島・城辺地区)
平安名(びゃうな)のマムヤ 新生(あらんま)り乙女(みやらび)
野城按司(ぬぐすくあず)の 崎山坊や
で謡い出す「マムヤのあやぐ」は、野城按司との悲恋を歌った物語です。
このあやぐや民話になれは、マムヤはニフニリ(香草の名)の芳しい香りのする絶世の美女として伝える。
妻子ある野城按司は、マムヤを見染めて恋仲になるが、「将来の事を思えばマムヤよりは糞尿(フスユスパイ)の臭いがしても妻のほうがいい」と諭されてマムヤを見捨てる。
按司の心変わりを知ったマムヤは平安名崎の断崖から身を投じる。
非観にくれた母親は再びこの村に美人が生まれないようにと神に祈願した。と伝えられています。
いつの頃からか、この巨石はマムヤの霊を弔う「マムヤの墓」として伝えられています。
およそ400米西側にあるマムヤが機織りしたと伝えられる岩穴は「マムヤの機織り場」として文化財に指定(平成三年四月九日)されています。
(案内板より)


1193 采女(うねめ)塚(台東区清川1-13-13・出山寺)
石碑の正面上部に横書きで「采女塚」とあり、その下に仮名混じりの文でその由来を刻んでいる。
江戸時代の初期、寛文年間 ( 1661 ~ 1672 ) 新吉原雁金屋の遊女「采女」に心を寄せた若い僧侶が師から固く制され悩んだ末、雁金屋の前で自害してしまった。
采女は悲しんで浅茅ケ原の鏡が池に身を投げた。時に十七才。
翌朝、草刈りの人たちが
『名をそれとしらずともしれさる沢の
あとをかがみが池にしずめば』
としるした短冊を見つけ、采女とわかり、塚に葬った。
浅茅ヶ原は、現在の橋場一、二丁目と清川一、二丁目のあたりを指し、『江戸名所図会』によると、鏡が池の面積は、文政 ( 1818 ~ 1829 ) の頃、約五百平方メートル、橋場一丁目の北部あたりにあったという。
碑は、文化元年 ( 1804 ) 大田南畝ら文人たちによって建立。第二次世界大戦で火をあびている。
(案内板より)
(石碑文)
「寛文の比、新吉原雁がね屋の遊女采女がもとに、ひそかにかよふ客ありけるを、其家の長、かたくいましめて近づけざりしかば、その客思ひの切なるに堪ず、釆女が格子窓のもとに来りて自害せり、采女その志を哀ミ、ある夜家をしのび出て、浅茅ヶ原のわたり鏡ヶ池に身を沈めぬ、時に年十七にして、此里の美人なりしとぞ、かたへの松に小袖をかけて短冊を付けたり。
名をそれとしらずともしれさる沢のあとをかゞみが池にしづめば
そのなきがらを埋しところ、采女塚とてありしに、寛政八のとし、わが兄牛門の如水子、札に書しるして建置しが、それさへ失ぬれば、こたび兄の志を継て、石ぶみにゑり置ものならし。
文化元年甲子六月 駿河加島郡 石川正寿建」
1179 花柳啓之墓(台東区谷中4-2-5・瑞輪寺)
花柳啓之 ( はなやぎ - ひろゆき )
大正 3年 8月 1日 ~ 昭和 50年 10月 24日 ( 1914 - 1975 )
日本舞踊家。
本名、三宅勇。父、花柳輔蔵 ( 初代 )。
東京下谷出身。
父に指導を受ける。
昭和 10年 ( 1935 ) 2代目・家元花柳寿輔の推挙により「啓之」を名乗る。
下谷花街のけいこを指導し、「花柳舞踏研交会」に出演。
戦後GHQ中央事務芸能局芸能委員会の日舞委員として活躍。
国際興行株式会社を創立。
テレビ草創期から歌謡番組の振り付けで活躍。
一方、昭和 33年 ( 1958 ) ブリュッセル万国博の文化使節団に随行、のち松竹歌劇団・歌舞伎等の国際公演の振付を担当、昭和 40年文化使節団長としてインドネシアを訪問するなど国際的にも活躍。
日本舞踊協会常任委員・花柳流理事。61歳没。
作品:「竜虎」、「日月星」、「平家物語」など。子にフジテレビの三宅惠介がいる。
「慈達院法唱日啓居士」。



1067 白髭神社の狛犬(墨田区東向島3-5-2・白髭神社)
向島の白髭神社に、八百屋善四郎 ( 八百善 ) と吉原の松葉屋半左衛門、駿河屋市兵衛の寄進した狛犬 ( 文化 2年 = 1815 ) が有ります。
商売繁盛を願って寄進したのでしょうか。
● 松葉屋
また遊郭松葉屋は遊女瀬川を抱えていた店として知られ、主人は宝暦中期から代々半左衛門を襲名しています。
千住の素盞雄神社の狛犬と虎ノ門の金比羅神社の銅鳥居には「新吉原角町 松葉屋半蔵」とあり、半蔵が通り名と思われます。
● 駿河屋市兵衛
駿河屋は仲ノ町の茶屋です、新吉原の大門を入ると真っ直ぐな通りがあります。
これが「仲ノ町」と呼ばれ、左右に茶屋が並んでいます。
駿河屋は七軒茶屋と呼ばれた別格の茶屋の一軒で、入口近くの右側にあったようです。
吉原に来たお客はまず茶屋駿河屋に上がり、そこから松葉屋に連絡、遊女を呼んで貰います。
そして八百善から料理や酒を取り寄せ、ひとしきり楽しんでから、松葉屋へ移って一晩過ごす事になります。
お金がもの凄くかかるようになっている。
このお金の一部が狛犬になったのでしょう ほんのちょっと・・・だけ ( 笑 )
狛犬の銘 文化十二乙亥年二月吉日 ( 1815 )
奉納 御寶前 松葉屋半左衛門 八百屋善四郎 駿河屋市兵衛
石工 神田今川橋 六兵衛明貴
954 野崎車応追悼碑(墨田区向島2-5-17・三囲神社)
733 遊女墓(奈良県奈良市東木辻町42・称念寺)
668 幇間塚碑(浅草・伝法院)
「幇」は、たすける意。
幇間とは、客の宴席に侍し、座を取り持つなどして遊興を助ける者。
たいこもち、男芸者のこと。
幇間有志によって、幇間物故者供養のため、昭和三十八年に建立された。
碑には、浅草生まれで、大正・昭和期の小説家・劇作家・俳人、久保田万太郎の俳句がある。
「またの名の たぬきづか 春ふかきかな」
(案内板より)
吉原の幇間として聞こえた桜川の一門が昭和 38年建立
〇 幇間
幇間(ほうかん、たいこ)は、宴席やお座敷などの酒席において主や客の機嫌をとり、自ら芸を見せ、さらに芸者・舞妓を助けて場を盛り上げる職業。歴史的には男性の職業である。
解説
⇧ 幇間芸の一例。足踊り。
⇧
19世紀前半のころの江戸の幇間は髷を豆本田にしていた[1]。豆本多とも言い、小さい髷を本多形(本多家の武士髷)に結ったもの[2]
幇間は別名「太鼓持ち(たいこもち)」、「男芸者」などと言い、また敬意を持って「太夫衆」とも呼ばれた。歴史は古く豊臣秀吉の御伽衆を務めたと言われる曽呂利新左衛門という非常に機知に富んだ武士を祖とすると伝えられている。秀吉の機嫌が悪そうな時は、「太閤、いかがで、太閤、いかがで」と、太閤を持ち上げて機嫌取りをしていたため、機嫌取りが上手な人を「太閤持ち」から「太鼓持ち」と言うようになったと言われている。ただし曽呂利新左衛門は実在する人物かどうかも含めて謎が多い人物なので、単なる伝承である可能性も高い。鳴り物である太鼓を叩いて踊ることからそう呼ばれるようになったとする説などがある。
また、太鼓持ちは俗称で、幇間が正式名称である。「幇」は助けるという意味で、「間」は人と人の間、すなわち人間関係をあらわす意味。この二つの言葉が合わさって、人間関係を助けるという意味となる。宴会の席で接待する側とされる側の間、客同士や客と芸者の間、雰囲気が途切れた時楽しく盛り上げるために繋いでいく遊びの助っ人役が、幇間すなわち太鼓持ちである、ともされる。
専業の幇間は元禄の頃(1688年 - 1704年)に始まり、揚代を得て職業的に確立するのは宝暦(1751年 - 1764年)の頃とされる。江戸時代では吉原の幇間を一流としていたと伝えられる。
現在では東京に数名と岐阜に1名しかおらず絶滅寸前の職業とまで言われ、後継者の減少から伝承されてきた「お座敷芸」が失伝されつつある。古典落語では江戸・上方を問わず多くの噺に登場し、その雰囲気をうかがい知ることができる。台東区浅草にある浅草寺の本坊伝法院には1963年に建立された幇間塚がある。幇間の第一人者としては悠玄亭玉介が挙げられる。男性の職業として「らしくない仕事」の代名詞とされた時代もあった。
正式な「たいこ」は師匠について、芸名を貰い、住み込みで、師匠の身の回りの世話や雑用をこなしながら芸を磨く。通常は5 - 6年の修業を勤め、お礼奉公を一年で、正式な幇間となる。師匠は芸者置屋などを経営していることが多いが、芸者との恋愛は厳禁である。もっとも、披露も終わり、一人前の幇間と認められれば、芸者と所帯を持つことも許された。
芸者と同じように、芸者置屋に所属している。服装は、見栄の商売であるから、着流しの絹の柔らか物に、真夏でも羽織を着て、白足袋に雪駄、扇子をぱちぱち鳴らしながら、旦那に取り巻いた。
一方、正式な師匠に付かず、放蕩の果てに、見よう見まねの素人芸で、身過ぎ世過ぎを行っていた者を「野だいこ」という。これは正式な芸人ではないが、「師匠」と呼ばれることも多かった。
なお上方では、江戸でいう幇間は芸者と呼ばれ、対して女性は芸妓・芸子と呼んでいたが、明治以降は芸者も女性を指すようになった。
幇間を題材とした作品
・幇間探偵しゃろく - 幇間が主役の漫画。
・父の花、咲く春〜岐阜・長良川幇間物語〜 - 2013年、NHK BSプレミアムで放送されたテレビドラマ。
詳しいことは、「幇間ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%87%E9%96%93
(wikiより)











































































































