カテゴリ: 鬼平・遠山・彦左・太助・侠客・義賊・盗賊・刑場・罪人・ドヤ街関連
8138 坪井九右衛門墓(萩市上五間町45・光源寺)
時代 | 江戸時代後期 |
---|---|
生誕 | 寛政12年(1800年) |
死没 | 文久3年10月28日(1863年12月8日) |
改名 | 諱:正裕・子寛、号:顔山 |
墓所 | 光源寺 |
幕府 | 江戸幕府 |
藩 | 長州藩 |
坪井 九右衛門(つぼい くえもん)は、江戸時代後期の長州藩士。佐藤家(内閣総理大臣・岸信介、佐藤栄作兄弟の実家)に生まれ(信介、栄作は兄の玄孫)、幼少時に坪井家の養子になった。
経歴
村田清風の藩政改革に協力して功を挙げた。清風と共に藩政改革の建白書を毛利敬親に提出している。しかし清風の2回目の藩政改革は、清風の政敵である椋梨藤太の台頭で失敗し、しかも清風は安政2年(1855年)に中風が原因で他界した。このため、坪井は椋梨により失脚を余儀なくされる。
後に椋梨の失脚により、再び藩政に参与したが、坪井は尊王攘夷よりも佐幕派を支持したため、過激な尊王攘夷派が多い長州藩内部で孤立してしまい、文久3年(1863年)にその過激な一部の尊王攘夷派によって萩城下の野山獄で処刑された。享年64。
(wikiより)



8134 金子重之輔墓(萩市土原3区-4・保福寺 = 海潮寺)
時代 | 江戸時代末期(幕末) |
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生誕 | 天保2年2月13日(1831年3月26日) |
死没 | 安政2年1月11日(1855年2月27日) |
別名 | 名:貞吉、卯之助、直三郎、重輔、変名:渋木松太郎、市木公太 |
墓所 | 山口県萩市北古萩町 保福寺 |
官位 | 贈正五位 |
幕府 | 江戸幕府 |
藩 | 長州藩 |
父母 | 父:茂左衛門、母:つる 養父:金子氏 |
金子 重之輔(かねこ しげのすけ)は幕末の長州藩士である。名は重輔とも。
経歴
長門国阿武郡紫福村商人・茂左衛門とつるの長男として生まれる。後に足軽の金子家の養子となる。幼時より白井小助、次いで土屋蕭海に学び嘉永6年(1853年)、家業を嫌って江戸に出て長州藩邸の雑役となる。
同年、熊本藩士・永島三平を伝にして吉田松陰と出会いその弟子となる。嘉永7年(1854年)、アメリカ合衆国の東インド艦隊再来に際して松陰と共に渡米を計画して藩邸を脱走。鳥山確斎の私塾に寄宿して、世界地誌を学びながら機会を窺った。
日米和親条約が締結されると松陰と共に下田へ赴いて米艦に乗り込もうとするがアメリカ側に拒否されたためにやむなく計画を中止、自首した。伝馬町牢屋敷に収容後、国許に蟄居の判決を受け、幕吏によって萩へ檻送され安政2年(1855年)、士分以外の者が入る岩倉獄で病没した。享年25(満23歳没)。
明治44年(1911年)、正五位を追贈された[1]。
金子重之輔の像は、吉田松陰誕生地にある松陰の銅像のそばで松陰を見上げる姿で残っている。
脚注
1. 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.28
登場する主な作品
・花神 - 1977年、NHK、演:岡本信人
・龍馬伝 - 2010年、NHK、演:尾関伸嗣
・花燃ゆ - 2015年、NHK、演:泉澤祐希
(wikiより)







8133 金子重輔君絶命之痕(萩市大字今古萩町)
時代 | 江戸時代末期(幕末) |
---|---|
生誕 | 天保2年2月13日(1831年3月26日) |
死没 | 安政2年1月11日(1855年2月27日) |
別名 | 名:貞吉、卯之助、直三郎、重輔、変名:渋木松太郎、市木公太 |
墓所 | 山口県萩市北古萩町 保福寺 |
官位 | 贈正五位 |
幕府 | 江戸幕府 |
藩 | 長州藩 |
父母 | 父:茂左衛門、母:つる 養父:金子氏 |
金子 重之輔(かねこ しげのすけ)は幕末の長州藩士である。名は重輔とも。
経歴
長門国阿武郡紫福村商人・茂左衛門とつるの長男として生まれる。後に足軽の金子家の養子となる。幼時より白井小助、次いで土屋蕭海に学び嘉永6年(1853年)、家業を嫌って江戸に出て長州藩邸の雑役となる。
同年、熊本藩士・永島三平を伝にして吉田松陰と出会いその弟子となる。嘉永7年(1854年)、アメリカ合衆国の東インド艦隊再来に際して松陰と共に渡米を計画して藩邸を脱走。鳥山確斎の私塾に寄宿して、世界地誌を学びながら機会を窺った。
日米和親条約が締結されると松陰と共に下田へ赴いて米艦に乗り込もうとするがアメリカ側に拒否されたためにやむなく計画を中止、自首した。伝馬町牢屋敷に収容後、国許に蟄居の判決を受け、幕吏によって萩へ檻送され安政2年(1855年)、士分以外の者が入る岩倉獄で病没した。享年25(満23歳没)。
明治44年(1911年)、正五位を追贈された[1]。
金子重之輔の像は、吉田松陰誕生地にある松陰の銅像のそばで松陰を見上げる姿で残っている。
脚注
1. 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.28
登場する作品
・花神 - 1977年、NHK、演:岡本信人
・龍馬伝 - 2010年、NHK、演:尾関伸嗣
・花燃ゆ - 2015年、NHK、演:泉澤祐希
(wikiより)


8132 野山獄跡(萩市大字今古萩町)
〇 野山獄
野山獄(いわくらごく)は、江戸時代に長州藩によって萩に設けられた獄屋敷である。
概要
長州藩には士分(武士階級)の者を収容する上牢である野山獄と、士分以外の者を収容する下牢である岩倉獄が設けられた。
長州藩の大組藩士であった野山六右衛門の屋敷と、同じく大組藩士であった岩倉孫兵衛の屋敷は道路を隔てて向かい合わせであった。正保2年(1645年)9月17日の夜、岩倉孫兵衛が酒に酔って野山六右衛門の屋敷に押し入り、家族を殺傷する事件を起こした。この時、岩倉孫兵衛は野山宅に幽閉され、のちに斬首の刑に処された。しかし、喧嘩両成敗により両家は取りつぶしとなり、屋敷が没収され、後に屋敷跡は牢獄に建て替えられた。
切り込まれた野山家側に非はないとして、野山獄は上牢とされた。12室の独房が6室ずつ向かい合わせの構造で、検視小屋や刑場も設けられた。幕末には吉田松陰が収容され、獄内で教育活動を行ったほか、高杉晋作など正義派の志士、正義派と対立した俗論党の椋梨藤太などが収容されていた。また、両派の関係者が処刑されたことでも知られる。
現在は史跡として整備され、記念碑が建てられている。
関連項目
・萩市観光協会公式サイト 野山獄跡
(wikiより)




8131 岩倉獄跡(萩市大字今古萩町)
〇 岩倉獄
岩倉獄(いわくらごく)は、江戸時代に長州藩によって萩に設けられた獄屋敷である。
概要
長州藩には士分(武士階級)の者を収容する上牢である野山獄と、士分以外の者を収容する下牢である岩倉獄が設けられた。
長州藩の大組藩士であった野山六右衛門の屋敷と、同じく大組藩士であった岩倉孫兵衛の屋敷は道路を隔てて向かい合わせであった。正保2年(1645年)9月17日の夜、岩倉孫兵衛が酒に酔って野山六右衛門の屋敷に押し入り、家族を殺傷する事件を起こした。この時、岩倉孫兵衛は野山宅に幽閉され、のちに斬首の刑に処された。しかし、喧嘩両成敗により両家は取りつぶしとなり、屋敷が没収され、後に屋敷跡は牢獄に建て替えられた。
切り込んだ岩倉家側に非があるとして、岩倉獄は下牢とされた。野山獄とは異なり環境が劣悪で、着物や食べ物が満足に与えられなかったため、吉田松陰と共に黒船で密航を企てた金子重之輔は岩倉獄で病死している。
現在は史跡として整備され、重輔絶命の詩碑と松陰が重輔に与えた詩碑が建てられている。
関連項目
・萩市観光協会公式サイト 岩倉獄跡
(wikiより)









8012 刑死者慰霊塔(新宿区余丁町4-21・富久町児童遊園)
市谷刑務所(いちがやけいむしょ)は、かつて存在した日本の刑務所である。1922年までは「東京監獄」と呼ばれていた。
近接して別に「市谷監獄」があった。1903年-1910年(明治36-43年)の間、両者が並存していたことになり、しばしば混同されてもいる。
東京監獄・市谷刑務所
東京監獄のルーツは皇居近くの鍛冶橋にあった警視庁鍛冶橋監獄署である。
1903年に内務省(警視庁)から司法省に移管され、東京監獄と改称。
同年6月、東京駅建設のため鍛冶橋より東京市牛込区市谷富久町(現在の新宿区富久町)に移転し、同年7月1日より事務を開始[1]。
1922年(大正11年) 「市谷刑務所」と改称された。
当初は未決囚を拘置し、裁判所へ送致することが主な目的であったが、その後既決囚を収容するに至り、死刑囚の収監と処刑も行っていた。当時の文献類で「市ヶ谷の未決監」等とあるのは「東京監獄」のことである。
1937年(昭和12年)、巣鴨刑務所の跡地に移転し、その際に東京拘置所と改称された。
エピソード
永井荷風の作品に「監獄署の裏」(1909年)とあるのは、東京監獄のことである(すぐ北の余丁町に荷風の家があった)。
大杉栄は東京監獄の未決監の回想を「獄中記」に書いている[2]。
三島由紀夫の『豊饒の海』第二巻『奔馬』で、主人公の飯沼勲が収容されるのも「市ヶ谷刑務所」である。
沿革
・1870年(明治3年)12月 鍛冶橋門に未決囚を収容する「監倉事務取扱所」を設置
・1876年(明治9年)2月 監倉事務取扱所を警視庁に移管、まもなく鍛冶橋監獄署と改称
・1903年(明治36年)3月 警視庁監獄が司法省に移管、鍛冶橋監獄は東京監獄と改称
・1903年6月 東京監獄が鍛冶橋より牛込区富久町に移転
・1911年(明治44年) 幸徳秋水ら大逆事件死刑囚が処刑
・1922年(大正11年) 市谷刑務所と改称
・1932年(昭和7年) 李奉昌、大逆罪で処刑
・1937年(昭和12年) 閉鎖(豊島区西巣鴨へ移転し、東京拘置所と改称)
市谷監獄
市谷監獄のルーツは伝馬町牢屋敷である。1875年(明治8年)、日本橋の小伝馬町より市谷に移転、市谷谷町囚獄役所として設立された(警視庁所管)。位置は現在の新宿区市谷台町すべてと、住吉町と富久町の一部であった。
後に市谷監獄と改称。また、1903年(明治36年)に内務省(警視庁)から司法省に移管された。
1910年(明治43年)に豊多摩郡野方村(現在の中野区)に移転し、豊多摩監獄となった。
沿革
・1875年(明治8年) 市谷谷町囚獄役所が谷町、富久町に設立
・1879年(明治12年) 高橋お伝処刑
・1903年(明治36年) 市谷監獄と改称
・1910年(明治43年) 市谷監獄が豊多摩郡野方村に移転
跡地
現在の靖国通り住吉町交差点から市谷台町へ登る坂は、市谷刑務所への入り口であり『刑務所通り』と呼ばれていた。 現在の坂は、住吉町交差点から見て右側に、もともとの道幅の約倍の幅に拡張されている。 現在の坂の中央部から左側(左車線)が、もともとの『刑務所通り』にあたる。
刑務所跡地の一部は現在『富久町児童遊園』となっており、公園内の刑死者慰霊碑が立っている場所に処刑場があったと言われる。碑は1964年(昭和39年)、日本弁護士連合会が建立したものである。
脚注
1. 『官報』第5993号、明治36年6月25日。
2. 大杉栄「獄中記」[1]
出典・参考文献
・新宿の歴史を語る会『新宿区の歴史』<東京ふる里文庫2>名著出版、1977年
・大杉栄著『獄中記』土曜社、2012年
(wikiより)

⇧ 富久町児童遊園



7908 伏見儀民墓(深川2-16-27・陽岳寺)
7869 上坂卯之松墓(京都市左京区黒谷町121・西雲院)
7839 新場小安墓(江東区猿江1-11-15・重願寺)
7655 三界萬霊之塔(台東区橋場2-5-3・松吟寺)
7652 平山角左衛門尚住像(尾道市土堂1-8-8・尾道商工会議所)
平山角左衛門尚住は、広島藩主・浅野吉長公により、元文 5年 ( 1740年 ) 尾道町奉行に任命されました。
平山奉行は、寄港する船舶等のために埋立工事を行い、寛保元年 ( 1741年 ) 住吉浜を完成させて港町尾道の発展の基礎を築きました。
また同年、浄土寺境内にあった住吉神社を港の守護神として住吉浜に遷座しています。
平山奉行の功績を慕う尾道町民は、後年、住吉神社内に平山大明神をまつり、昭和 10年 ( 1935年 ) からは、祭礼として尾道みなと祭が開催されています。
昭和 43年 ( 1968年 ) には、尾道名誉市民に選ばれました。
本像は、尾道港開港 850年にあたり平山奉行を顕彰し、港町尾道のさらなる発展を願い、尾道奉行所があったこの場所に設置されました。
(案内板より)
7614 奉行所跡(尾道市土堂1-8-8・尾道商工会議所)
7593 大屋遠江守明啓墓(長崎市筑後町・本蓮寺)
大屋 明啓(おおや みつよし、生年不詳 - 嘉永3年5月21日(1850年6月30日))は、江戸時代後期の旗本。幼名は右京、通称は図書。官途は従五位下遠江守。
先手鉄砲頭、天保12年(1841年)8月10日から天保13年(1842年)9月30日まで火付盗賊改方を勤めたのち、同年10月3日に佐渡奉行を拝命し、同14年5月28日に相川に着任した。
佐渡奉行在任中は、知行1150石、役料1500俵100人扶持。
弘化2年(1845年)4月小普請奉行となる。
嘉永元年(1848年)11月1日に長崎奉行(第102代)に就任し、翌年3月28日に着任。
同年6月には地役人に学問に励むよう命を出した。
嘉永3年5月21日、在任中に長崎で没した(喪を発したのは25日)。墓所は本蓮寺。
参考文献
・牧田利平編 『越佐人物誌』野島出版 昭和47年
・外山幹夫著 『長崎奉行』中央公論社 昭和63年
(wikiより)
7564 犯科帳所載被処刑者之霊(長崎市鍛冶屋町5-87・大音寺)
7563 大岡美濃守忠移墓(長崎市鍛冶屋町5-87・大音寺)
享保 5年 ~ 明和元年 ( 1720 ~ 1764 )
大岡氏は藤原鎌足の支流で、三河国八名郡宇利郷に居住以来、「大岡」の姓を称した。
忠移は享保の改革に尽力した大岡越前守忠相と同族にあたり、元文元年 ( 1736 ) に小普請であった大岡隼之助忠斟の遺跡を継ぐ。
忠移は、幼名を忠禁、通称を吉次郎、諱が忠移、従五位下美濃守を称した。
宝暦 5年 ( 1755 ) 目付に転じ、同 11年山田奉行、同 13年 ( 1763 ) に長崎奉行となった。
石谷備後守と中国貿易の再編に着手したが、在任中 ( 1763 ~ 64 ) の明和元年 ( 1764 ) に長崎で死去。墓所は正覚山大音寺。行年 45歳。
神奈川県高座郡寒川町に菩提寺の浄見寺がある。
( 墓碑正面 ) 敬光院殿?譽心巌大居士
( 右 ) 明和元年龍飛甲申夏六月十二日
( 左 ) 従五位下大岡美濃守藤原忠移墓
※ 長崎奉行・寺沢志摩守広高を初代長崎奉行としている。



7562 稲葉出羽守正申墓(長崎市鍛冶屋町5-87・大音寺)
寛政 6年 ~ 嘉永元年 ( 1794 ~ 1848 )
稲葉氏は河野主流 ( 越智氏 ) で、伊予国越智郡拜志村に居住。
拜志村をとり、のち「林」に改め、佐渡守正成のとき「稲葉」の姓に改称。
正申は、飯室太郎左衛門昌親の二男にあたるが、小普請組の稲葉来応正方の養子になった。
通称を清次郎、諱が正申、従五位下出羽守を称した。
弘化 2年 ( 1845 ) 目付になると同時に、幕府の対外問題処理のために設けられた海防掛を兼職した。
嘉永元年 ( 1848 ) 5月 26日長崎奉行となったが、在任中の嘉永元年 ( 1848 ) 10月 3日長崎で死去。墓碑は正覚山大音寺、行年 54歳。菩提寺は霊光寺 ( 東京都江東区深川 )
( 墓碑正面 ) 敬徳院殿従五位下前出羽守越智真譽正由大居士
( 右 ) 嘉永元年戊申
( 左 ) 十月三日卒
※ 長崎奉行・寺沢志摩守広高を初代長崎奉行としている。



7561 戸田出雲守氏武墓(長崎市鍛冶屋町5-87・大音寺)
六十八代長崎奉行・戸田出雲守氏孟墓碑 ( とだいずものかみ うじたけ )
元文 3年 ~ 天明 5年 ( 1738 ~ 1785 )
戸田氏は三条家支流で、三河国戸田郷に住み、「戸田」の姓を称した。
氏孟は新庄源六郎直良の二男であったが、小姓組番士の戸田半弥氏喜の養子となり、明和 3年 1766に家督を継いだ。
幼名を吉五郎、通称を主膳、諱が氏孟、従五位下出雲守を称した。
天明元年 ( 1781 ) 佐渡奉行、同 4年 ( 1784 ) に長崎奉行となった。
在任中 ( 1784 ~ 1785 ) には長崎会所に調役を置き、町年寄の久松半右衛門、薬師寺久左衛門を調役として任じた。
天明 5年 ( 1785 ) 10月 4日長崎で死去、墓所は正覚山大音寺。行年 48歳。
菩提寺は蓮光寺(東京都文京区)。
( 墓碑正面 ) 高岳院殿顕譽氏孟宗俊大居士
( 右 ) 従五位下戸田前出雲守藤原氏孟墓
( 左 ) 天明五乙巳歳十月上四日
※ 長崎奉行・寺沢志摩守広高を初代長崎奉行としている。
7560 松平図書頭墓(長崎市鍛冶屋町5-87・大音寺)
官位は従五位下、図書頭。
生涯
公的には宝暦11年(1761年)生まれとしていたが、実際には明和5年2月5日生まれである(「前田家系譜」)。安永6年(1777年)7月11日、幕府小普請組戸川山城守支配松平舎人康疆(松井松平家分家)の婿養子となり、2000石取りの旗本松平家の家督を相続する。天明8年(1788年)12月24日、中奥番士となる。寛政6年(1794年)11月17日、御徒頭となる。同年12月16日、布衣を許される。寛政8年(1796年)5月24日、西丸目付となる。
文化4年(1807年)1月30日、長崎奉行に就任する。文化5年(1808年)6月に長崎でのロシア船処分法、8月初めにロシア船渡来の際の港湾警備法を定める。
同年8月15日、イギリス船フェートン号がオランダ船拿捕のためにオランダ国旗を掲げて長崎港に入り、オランダ商館員2人の捕縛・長崎港内の捜索を行う事件を起こした(フェートン号事件)。これに際し康英は、福岡藩・佐賀藩・大村藩などの藩兵に打払いを命じるものの、有事に対する備えのなかった当時の藩兵の動きは著しく遅く、特に長崎警衛当番を請け負っていた佐賀藩は経費節減を名目に藩兵を削減していたことも重なってうまくいかなかった。それに加え、翌16日にフェートン号側から薪水と食料を提供しなければ長崎港内の船舶や長崎の町を焼き討ちすると脅迫を受けたため、やむなくこれに従う。この際、康英自身は武力衝突になったとしても相手側の要求をあくまでも退ける姿勢を示していたが、オランダ商館長(カピタン)であったヘンドリック・ドゥーフの説得によりやむなくフェートン号の要求を受け入れるに至った。そしてイギリス船が人質を解放して長崎を去った17日、自身の意に反して他国の脅迫に屈してしまった国辱の責任を取り、切腹して自害した。享年41。長崎奉行の切腹が幕閣に与えた衝撃は大きいものであった。
墓所は長崎県長崎市の大音寺。また、地元民により諏訪神社に祀られた。
実家である高家の「前田家系譜」「前田家先祖書」によれば、康英の読み方は「やすひで」でなく「やすふさ」と記されている。また、康英の死については「長崎奉行勤役中文化5年戊辰8月26日病死す。勤役中につき、長崎において埋葬す。墓所は天徳寺(東京都港区虎ノ門)にあり。法号・現光院」となっている。幕府への公式な届け出は、切腹による自害でなく、病死として扱われ、死亡日も自害した17日でなく、26日となっている。
(wikiより)
⇧ 墓所入り口 ( 入って右側 )
7542 松平石見守貴強墓(長崎市寺町晧臺寺後山墓地)
時代 | 江戸時代中期 |
---|---|
生誕 | 寛保2年(1742年) |
死没 | 寛政11年11月25日(1799年12月21日) |
改名 | 亀五郎(幼名)→貴強 |
別名 | 通称:次郎兵衛 |
戒名 | 恭徳院殿義嶽静貞大居士 |
墓所 | 長崎の海雲山皓台寺 |
官位 | 従五位下・石見守 |
幕府 | 江戸幕府 旗本 |
主君 | 徳川家治→家斉 |
氏族 | 竹谷松平家支流 |
父母 | 父:松平親賢、養父:松平親房 |
松平 貴強(まつだいら たかます)は、江戸時代中期の旗本。通称は次郎兵衛。官位は従五位下・石見守。
略歴
竹谷松平家支流。松平大進親賢の次男として誕生。幼名は亀五郎。松平伊織親房の養子となる。
明和8年(1771年)に家督を継ぐ。天明7年(1787年)大坂町奉行、寛政9年(1797年)長崎奉行となった。翌年に勘定奉行兼帯となった。
寛政11年(1799年)在任中に長崎で58歳で没す。墓所は長崎の海雲山皓台寺。法名は恭徳院殿義嶽静貞大居士。
参考文献
・寛政重修諸家譜
(wikiより)
7541 長井筑前守直廉墓(長崎市寺町晧臺寺後山墓地)
永井 直廉(ながい なおかど、元文4年(1739年) - 寛政4年閏2月6日(1792年3月28日)[1])は、江戸幕府の旗本。通称は主計、弾正、伊織、官位は従五位下筑前守[2][3]。
永井直允の孫で、永井直令の長男。母は土屋利起の養女(土屋利意の娘)。遠山景晋の兄で、遠山景元の伯父に当たる。妻は島津久芬の娘[2][4]。子に娘(平賀貞愛妻)、娘(窪田正扶妻)、娘(永井直堯妻)、養子に永井直堯(吉益忠徴次男)。
略歴
宝暦4年(1754年)10月15日、16歳の時に将軍徳川家重に初の御目見得を果たす[2]。同12年(1762年)9月28日、書院番になる[2]。
天明2年(1782年)12月4日に永井家を継ぐ。同6年(1786年)1月11日に使番になり、同年12月18日に布衣の着用を許される[2]。
天明7年(1787年)10月15日、田沼意次が城地を没収されることになった際、久留敬武とともに任務を受けて、田沼氏領地の遠江国相良藩に赴く[2]。
寛政元年(1789年)閏6月12日、長崎奉行に就任。同年7月1日従五位下に叙任して筑前守を名乗る[2][3]。
同4年(1792年)閏2月6日、長崎にて死去。享年54。法名は良義。長崎の哠台寺に葬られる[2][3]。墓石には「朝散大夫長崎尹大江公之墓」と彫られている[5]。
奉行在職当時、経済的に疲弊していた長崎のため、同僚の水野忠通とともに、
1. 石銭徴収の廃止
2. 貧困者に資金を貸して仕事に就かせる「市中産業方」の設置
3. 凶作に備えて籾米を購入して貯蔵
4. 80歳以上の高齢者に銀1枚を支給
などの施策をし、長崎住民たちから感謝されていた。永井が病気になった際、社寺には全快を祈願する町民が絶えず、在留唐人たちも諏訪社に永井の全快を祈ったという[6]。
脚注
1. 「永井直廉」『日本人物レファレンス事典 江戸時代の武士篇』日外アソシエーツ、715頁。
2. a b c d e f g h i 『新訂 寛政重修諸家譜』第十 株式会社続群書類従完成会、286頁。
3. a b c 『国史大辞典』第10巻 吉川弘文館、581頁。
4. 『新訂 寛政重修諸家譜』第十 株式会社続群書類従完成会、284頁。岡崎寛徳著 『遠山金四郎』 講談社現代新書、37頁。藤田覚著 『遠山景元 老中にたてついた名奉行』 山川出版社、5頁。
5. 本田貞勝著 『長崎奉行物語 サムライ官僚群像を捜す旅』 雄山閣、115頁。
6. 本田貞勝著 『長崎奉行物語 サムライ官僚群像を捜す旅』 雄山閣、114頁。
参考文献
・岡崎寛徳著 『遠山金四郎』 講談社現代新書 ISBN 978-4-06-287974-3
・木村直樹著 『長崎奉行の歴史 苦悩する官僚エリート』 角川選書 ISBN 978-4-04-703574-4
・藤田覚著 『遠山景元 老中にたてついた名奉行』 山川出版社 ISBN 978-4-634-54853-4
・本田貞勝著 『長崎奉行物語 サムライ官僚群像を捜す旅』 雄山閣 ISBN 978-4-639-02346-3
・『新訂 寛政重修諸家譜』第六 株式会社続群書類従完成会
・『国史大辞典』 第10巻 吉川弘文館、ISBN 4-642-00510-2
・『日本人物レファレンス事典 江戸時代の武士篇』日外アソシエーツ ISBN 978-4-8169-2632-7
(wikiより)
7327 吉田松陰処刑之地碑(震災復興52小公園)
身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂
(吉田松陰辞世の句)
獄中にて遺書として門弟達に向けて『留魂録』を書き残しており、その冒頭に記された辞世は“身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂”。また、家族宛には『永訣書』を残しており、こちらに記された“親思う心にまさる親心けふのおとずれ何ときくらん”も辞世として知られている。
〇 吉田松陰
吉田 松陰(よしだ しょういん)は、日本の武士(長州藩士)、思想家、教育者。山鹿流兵学師範。一般的に明治維新の精神的指導者・理論者・倒幕論者として知られる。私塾「松下村塾」で、後の明治維新で重要な働きをする多くの若者に思想的影響を与えた。
名前
幼時の名字は杉(本姓不明)。幼名は寅之助。吉田家に養子入り後、大次郎と改める。通称は寅次郎。諱は矩方(のりかた)。字は義卿、号は松陰の他、二十一回猛士。
安政元年11月20日に「二十一回猛子説」(遺書『留魂録』に収録)で、松陰はこう記している。
二十一回猛子の「二十一」の由来は、杉の木を分解すると「十」と「八」で18、三が3で計21。吉田は士と十で21、ロと口で回という意味である[2]。
生涯
文政13年(1830年)8月4日(西曆9月20日)、長州萩城下松本村(現:山口県萩市)で長州藩士・杉百合之助の次男として生まれる。天保5年(1834年)、叔父で山鹿流兵学師範である吉田大助の養子となり、兵学も修める。天保6年(1835年)に大助が死亡したため、同じく叔父の玉木文之進が開いた松下村塾で指導を受けた。9歳のときに明倫館の兵学師範に就任。11歳のとき、藩主・毛利慶親への御前講義の出来栄えが見事であったことにより、その才能が認められた。13歳のときに長州軍を率い西洋艦隊撃滅演習を実施。15歳で山田亦介より長沼流兵学の講義を受け、山鹿流、長沼流の江戸時代の兵学の双璧を収めることとなった。松陰は、子ども時代、父や兄の梅太郎とともに畑仕事に出かけ、草取りや耕作をしながら四書五経の素読、「文政十年の詔」[注 1]「神国由来」[注 2]、その他頼山陽の詩などを、父が音読し、後から兄弟が復唱した。夜も仕事しながら兄弟に書を授け本を読ませた[3]。
しかしアヘン戦争で清が西洋列強に大敗したことを知って山鹿流兵学が時代遅れになったことを痛感すると、西洋兵学を学ぶために嘉永3年(1850年)に九州に遊学する。ついで、江戸に出て佐久間象山、安積艮斎に師事する。嘉永4年(1851年)には、交流を深めていた肥後藩の宮部鼎蔵と山鹿素水にも学んでいる[4]。
嘉永5年(1852年)、宮部鼎蔵らと東北旅行を計画するが、出発日の約束を守るため、長州藩からの過書手形(通行手形)の発行を待たず脱藩。この東北遊学では、水戸で会沢正志斎と面会、会津で日新館の見学を始め、東北の鉱山の様子等を見学。秋田では相馬大作事件の現場を訪ね、津軽では津軽海峡を通行するという外国船を見学しようとした。江戸に帰着後、罪に問われて士籍剥奪・世禄没収の処分を受けた。
嘉永6年(1853年)、ペリーが浦賀に来航すると、師の佐久間象山と黒船を遠望観察し、西洋の先進文明に心を打たれた。この時、同志である宮部鼎蔵に書簡を送っている。そこには、「聞くところによれば、彼らは、来年、国書の回答を受け取りにくるということです。その時にこそ、我が日本刀の切れ味をみせたいものであります」と記されていた[5]。その後、師の薦めもあって外国留学を決意。同郷で足軽の金子重之輔と長崎に寄港していたプチャーチンのロシア軍艦に乗り込もうとするが、ヨーロッパで勃発したクリミア戦争にイギリスが参戦した事から同艦が予定を繰り上げて出航していた為に果たせなかった。
嘉永7年(1854年)にペリーが日米和親条約締結の為に再航した際には、金子重之輔と二人で、海岸につないであった漁民の小舟を盗んで下田港内の小島から旗艦ポーハタン号に漕ぎ寄せ、乗船した。しかし、渡航は拒否されて小船も流されたため、下田奉行所に自首し、伝馬町牢屋敷に投獄された[注 3]。幕府の一部ではこのときに象山、松陰両名を死罪にしようという動きもあったが、川路聖謨の働きかけで老中の松平忠固、老中首座の阿部正弘が反対したために助命、国許蟄居となった。長州へ檻送された後に野山獄に幽囚された。ここで富永有隣、高須久子と知り合う。この獄中で密航の動機とその思想的背景を『幽囚録』に記した。
安政2年(1855年)に出獄を許されたが、杉家に幽閉の処分となる。
安政4年(1857年)に叔父が主宰していた松下村塾の名を引き継ぎ、杉家の敷地に松下村塾を開塾する。この松下村塾において松陰は久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、山縣有朋、吉田稔麿、入江九一、前原一誠、品川弥二郎、山田顕義、野村靖、渡辺蒿蔵、河北義次郎などの面々を教育していった[注 4]。なお、松陰の松下村塾は一方的に師匠が弟子に教えるものではなく、松陰が弟子と一緒に意見を交わしたり、文学だけでなく登山や水泳なども行なうという「生きた学問」だったといわれる。
安政5年(1858年)、幕府が無勅許で日米修好通商条約を締結したことを知って激怒し、間部要撃策を提言する。間部要撃策とは、老中首座間部詮勝が孝明天皇への弁明の為に上洛するのをとらえて条約破棄と攘夷の実行を迫り、それが容れられなければ討ち取るという策である。松陰は計画を実行するため大砲などの武器弾薬の借用を藩に願い出るも拒絶される。次に伏見にて大原重徳と参勤交代で伏見を通る毛利敬親を待ち受け京に入る伏見要駕策への参加を計画。 しかし野村和作らを除く、久坂玄瑞、高杉晋作や桂小五郎ら弟子の多くは伏見要駕策に反対もしくは自重を唱え松陰を失望させた。松陰は、間部要撃策や伏見要駕策における藩政府の対応に不信を抱くようになり草莽崛起論を唱えるようになる[6]。さらに、松陰は幕府が日本最大の障害になっていると批判し、倒幕をも持ちかけている。結果、長州藩に危険視され、再度、野山獄に幽囚される。
安政6年(1859年)、梅田雲浜が幕府に捕縛されると、雲浜が萩に滞在した際に面会していることと、伏見要駕策を立案した大高又次郎と平島武次郎が雲浜の門下生であった関係で、安政の大獄に連座し、江戸に檻送されて伝馬町牢屋敷に投獄された。評定所で幕府が松陰に問いただしたのは、雲浜が萩に滞在した際の会話内容などの確認であったが、松陰は老中暗殺計画である間部要撃策を自ら進んで告白してしまう[7]。この結果、松陰に死刑(斬首刑)が宣告され、安政6年10月27日(グレゴリオ暦1859年11月21日)、伝馬町牢屋敷にて死刑が執行された。享年30(満29歳没)。
ゆかりの地
・故郷である山口県萩市には、誕生地、投獄された野山獄、教鞭をとった松下村塾があり、死後100日目に遺髪を埋めた遺髪塚である松陰墓地(市指定史跡)、明治23年(1890年)に建てられた松陰神社(県社)がある。ほかにも、山口県下関市の桜山神社には、高杉晋作発案で招魂墓がある。
・静岡県下田市には、ペリー艦隊へ乗艦し密航を試みた場所であり、数多くの吉田松陰に関する史跡が点在している。
・処刑直後に葬られた豊国山(ほうこくさん)回向院。小塚原回向院とも(東京都荒川区)の墓地に現在も墓石が残る。
・文久3年(1863年)に改葬された東京都世田谷区若林の現在の墓所には、明治15年(1882年)に松陰神社が創建された。
・松陰が収容されていた伝馬町牢屋敷跡の「十思公園(東京都中央区日本橋小伝馬町)」には「吉田松陰終焉乃地碑」と「留魂碑」がある。
・松陰が弟子の金子重之輔を従えてペリー艦隊を見つめている姿を彫刻したという銅像が、山口県萩市椿東の吉田松陰誕生地にある。題字は、佐藤栄作が書いた。
・松陰は嘉永4年(1851年)12月19日から翌年1月20日にかけて水戸の永井政介宅に約1カ月余り滞在している。その際、会沢正志斎、豊田天功等に師事、また、水戸の青年有志と交わり水戸の学問の真髄を学んだといわれる。松陰が滞在した永井政介宅跡に石碑は建てられている。
思想
一君万民論
「天下は万民の天下にあらず、天下は一人の天下なり」と主張して、藩校明倫館の元学頭・山県太華と論争を行っている。「一人の天下」ということは、国家は天皇が支配するものという意味であり、天皇の下に万民は平等になる。
一種の擬似平等主義であり、幕府(ひいては藩)の権威を否定する過激な思想であった。ただし、天下は万民の天下なり、という国家は国民の共有であり、君主はその国民に支えられて存在するという点からすれば、吉田松陰には天皇があっても国民がないのではという批判もある。ちなみに「一君万民」の語を松陰が用いたことはない[要出典]。
飛耳長目
塾生には、常に情報を収集し将来の判断材料にせよと説いた。これが松陰の「飛耳長目(ひじちょうもく)」である。自身東北から九州まで脚を伸ばし各地の動静を探った。萩の野山獄に監禁後は、弟子たちに触覚の役割をさせていた。長州藩に対しても主要藩へ情報探索者を送り込むことを進言し、また江戸や長崎に遊学中の者に「報知賞」を特別に支給せよと主張した。松陰の時代に対する優れた予見は、「飛耳長目」に負うところが大きい。
草莽崛起
詳細は「草莽」を参照
「草莽(そうもう)」は『孟子』においては草木の間に潜む隠者を指し、転じて一般大衆を指す。「崛起(くっき)」は一斉に立ち上がることを指し、「在野の人よ、立ち上がれ」の意。
安政の大獄で収監される直前(安政6年(1859年)4月7日)、友人の北山安世に宛てて書いた書状の中で「今の幕府も諸侯も最早酔人なれば扶持の術なし。草莽崛起の人を望む外頼なし。されど本藩の恩と天朝の徳とは如何にして忘るゝに方なし。草莽崛起の力を以て、近くは本藩を維持し、遠くは天朝の中興を補佐し奉れば、匹夫の諒に負くが如くなれど、神州の大功ある人と云ふべし」と記して、初めて用いた。
対外思想
『幽囚録』で「今急武備を修め、艦略具はり礟略足らば、則ち宜しく蝦夷を開拓して諸侯を封建し、間に乗じて加摸察加(カムチャッカ)・隩都加(オホーツク)を奪ひ、琉球に諭し、朝覲会同すること内諸侯と比しからめ朝鮮を責めて質を納れ貢を奉じ、古の盛時の如くにし、北は満州の地を割き、南は台湾、呂宋(ルソン)諸島を収め、進取の勢を漸示すべし」と記し、北海道(当時の蝦夷地)の開拓、琉球王国(現在の沖縄県。当時は半独立国であった)の日本領化、李氏朝鮮の日本への属国化、そして当時は清領だった満洲や台湾・「スペイン領東インド」と呼ばれていたフィリピン・ロシア帝国領のカムチャツカ半島やオホーツク海沿岸という太平洋北東部沿岸からユーラシア大陸内陸部にかけての領有を主張した。その実現に向けた具体的な外交・軍事策を松陰は記さなかったものの、松下村塾出身者の何人かが明治維新後に政府の中心で活躍したため[注 5]、松陰の思想は日本のアジア進出の対外政策に大きな影響を与えることとなった。
吉田松陰に影響を与えた中国の思想家
・魏源
清代の思想家。アヘン戦争でイギリスと対峙した清の政治家林則徐の側近。則徐が戦時下で収集した情報をもとに東アジアにおける当時の世界情勢を著した『海国図志』の中で、魏は「夷の長技を師とし以て夷を制す」と述べ、外国の先進技術を学ぶことでその侵略から防御するという思想を明らかにしており、松陰の思想に影響を与えたとされる。
・王陽明
松陰は王が創始した陽明学に感化され、自ら行動を起こしていく。『伝習録』は陽明学の入門書として幕末日本でも著名であった。
・文天祥
南宋末期の軍人。松陰の生き方、死に方もまさしく文天祥そのものであり、松陰は自作の「正気の歌」を作って歌っている。この「正気の歌」の思想が幕末・明治維新の尊王攘夷の思想になり、それが昭和の軍人たちにまでつながった[10]。
発言
・立志尚特異 (志を立てるためには人と異なることを恐れてはならない)
・俗流與議難 (世俗の意見に惑わされてもいけない)
・不思身後業 (死んだ後の業苦を思い煩うな)
・且偸目前安 (目先の安楽は一時しのぎと知れ)
・百年一瞬耳 (百年の時は一瞬に過ぎない)
・君子勿素餐 (君たちはどうかいたずらに時を過ごすことなかれ)
・至誠にして動かざる者は未だこれ有らざるなり(本当の誠実さを持ちながら行動を伴わない人はいない、本物の誠実さがあるというのであれば、行動しなさい)
志を立てて以って万事の源となす
志士は溝壑に在るを忘れず
万巻の書を読むに非(あら)ざるよりは、寧(いずく)んぞ
一己(いっこ)の労を軽んずるに
非ざるよりは、寧んぞ兆民の安きを致すを得ん。
仁とは人なり。人に非ざれば仁なし、禽獣これなり。
仁なければ人に非ず。禽獣に近き是なり。
必ずや仁と人と相合するを待ちて道と云うべし。
仮令獄中にありとも敵愾(てきがい)の心一日として忘るべからず。
苟(いやしく)も敵愾の心忘れざれば、一日も学問の切磋怠るべきに非ず。
己に真の志あれば、無志はおのずから引き去る
恐るるにたらず
凡そ生まれて人たらば宜しく人の禽獣に異なる所以を知るべし
体は私なり、心は公なり
公を役にして私に殉う者を小人と為す
人賢愚ありと雖も各々一二の才能なきはなし
湊合して大成する時は必ず全備する所あらん
死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし
生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし
先生から何のために学問するかと問われた事を記憶す。先生曰く、学者になるのはつまらない。
学者になるには本を読みさえすれば出来る。学問するには立志という事が大切である。[11]
肖像
松陰の「写真」なるものが存在するが[12]、松下村塾生のなかでも昭和時代まで生きた渡辺蒿蔵が、松陰のものではないと否定している[注 6]。ただし、この「写真」は「絵画を撮影したもの」[14] の一つである。
容姿
・品川弥二郎 「温順にして怒るといふことのなき体格の小兵の人であった」
・世古格太郎 「その人短小にして背かがみ、容貌醜く色黒く、鼻高にして痘痕あり。言語甚だ爽かにして、形状温柔に見えたり」[15]
・渡辺蒿蔵 「丈高からず、瘦形であり、顔色は白っぽい。天然痘の痕があった」[16]
・正木退蔵 「吉田は醜く、おかしな程痘瘡の痕が残っていた。自然は初めから彼に物惜しみした」
・野村靖 「小男の痩せた赤あばたのある余り風采の掲った人とは思われなかった。併し其炯々たる眼光は直に人の肺腑を貫くといふ概があった」
詳しいことは、「吉田松蔭ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%94%B0%E6%9D%BE%E9%99%B0
(wikiより)
吉田松蔭
7157 処刑場跡(千葉県野田市関宿町台町6227)
この地は 江戸時代の処刑場跡と伝えられています。
石碑はもともと小高い土手の上にありましたが 今では土手が削られて現在のような形になってしまいました。
石碑には南無妙法蓮華経と刻まれており また側面には享和元年 ( 1801 ) とありますので 石碑の建立年代は この時であったと思われます。
しかし処刑場が出来たのか それ以前にあったのかは 判然としていません
また この処刑場に関しては別な話も伝わっていて、実際に処刑したのはここではなく もっと東の利根川べりで、ここには首だけを持ってきて埋葬した場所だという話もあります。
江戸時代の刑罰の中で引回しは、死罪の中で重いものに付加刑として行なわれるもので 獄門 ( ごくもん ) 磔 ( はりつけ ) 火焙 ( ひあぶり ) の刑にはだいたい付加刑として 引回しがつきものでした 図のような 斬首 ( 首切り ) の刑には 下手人から始まり 死罪・獄門・磔・鋸引き・火焙りと 6段階の刑があり また他に武士だけに許された切腹もありました。
6849 地下から現れた牢屋敷の石垣(中央区日本橋小伝馬町5-1 ・十思スクエア)
江戸時代、この地には牢屋敷がありました。
天正 18年 ( 1590 )、江戸の地に徳川家康が入った当初は、牢屋敷は常盤橋門外、今の日本銀行あたりに置かれていました。
この地に移転したのは慶長 18年 ( 1618 ) ころといわれ、その後は江戸時代を通じて牢屋敷がありました。
明治維新後、明治 8年 ( 1875 ) に市ヶ谷の監獄に囚人を移し、この地の牢屋敷は取り壊されました。
平成 24年、この地で中央区の施設が建設される前に、中央区教育委員会が「伝馬町牢屋敷跡遺跡」として発掘調査を実施しました。
遺跡からは、ここの移築復元した石垣をはじめとして、複数の石垣の連なりが発見されました。
牢屋敷は高さ 7尺 8寸 ( 約 2.4m ) の高い塀で囲われていたようですが、出土した石垣は、さらにその内側でもしっかりと敷地内を仕切っていたことがわかった貴重な発見です。
石垣には一部途切れる箇所があり、そこに門柱の礎石が見つかりました。
これは、角度によって門が見えにくい「埋門 ( うずめもん )」と言われる、お城などによく用いられた施設と推測されます。
このほか、多数の上水木碑が見つかっています。
木で組まれた水道管が地中に埋められたもので、水は井の頭池などに水源のある神田上水から引き込まれたものと思われます。
ここに展示してあるものは、図中の石垣Aを出土時とほぼ同じ形に積み直して移築復元したものです。
これ以外のものには、当時の姿ではありませんが、同じく牢屋敷跡から出土した石を使って積んだものもあります。
石は伊豆周辺で切り出された、主に安山岩が四角錐に加工されたものです。
6749 アルカトラズ島(アメリカ合衆国カリフォルニア州サンフランシスコ湾)
現在、この島は、アメリカ合衆国国立公園局が運営するゴールデンゲート国立レクリエーション地域の歴史地区となっており、一般観光客に公開されている。観光客は、サンフランシスコのフィッシャーマンズワーフ近くのピア33からフェリーで島に渡ることができる。
カモメを始めとした海鳥の生息地としても知られる。
歴史
前史・軍事要塞時代
近隣に居住していたインディアンが魚や海鳥の卵を食糧として獲得するためにカヌーで上陸を試みていたようである。ただし彼らはこの島が呪われていると信じており、定住する者は存在しなかった。
1775年、スペインの海軍士官フアン・デ・アヤラが、サンフランシスコ湾を測量して海図を製作し、この島に "La Isla de los Alcatraces" と名づけた。スペイン語で「ペリカンの島」という意味である[3]。これがやがて英語風に短縮されて "Alcatraz" となった[4]。
メキシコによるカリフォルニア統治時代の終わりころ、メキシコ政府から、ジュリアン・ワークマンという帰化メキシコ人に、島に灯台を建設する条件で島の所有権が譲渡された記録がある。米墨戦争(1846年 - 1848年)中にアメリカがカリフォルニアの支配権を得ると、ジョン・C・フレモントが、「カリフォルニア総督」としての資格でこの無人島を購入した。しかし、1850年、ミラード・フィルモア米大統領の命により、メキシコ政府の所有物はアメリカ政府に承継されたとの根拠に基づき、島は軍事目的のために取り上げられた。このため、フレモントによる島の購入は無意味になってしまい、フレモント及びその相続人から政府に対して何度も訴訟が起こされ、法的紛争は1890年代まで続いた[5]。
1848年、シエラネバダ山脈の麓で金が発見されてゴールドラッシュが始まり、サンフランシスコは多くの船が寄港する重要な地となり、灯台が至急必要になった。1850年の連邦議会予算に、アルカトラズ島を含む太平洋岸の八つの灯台建設が盛り込まれた。1852年に、島で最初の恒久的建造物となる灯台ができた。1853年には、ゼラス・B・タワー中尉が、アルカトラズ島をサンフランシスコ湾の守りとするための要塞化工事に着手した。南北戦争(1861年 - 1865年)の直前までに、86門の大砲が島を巡らすように設置された。南北戦争中は、アルカトラズ島は南部連合のサンフランシスコ湾への侵入を防ぐ役割を果たした[5]。
南北戦争が終わると、島に設置された旧式の大砲は時代遅れになってしまったため、徐々に撤去された。それに代わって、防弾壁が島を取り囲むように建てられた。内部には弾薬庫などが設けられていた[4]。
軍事刑務所化
南北戦争の前後から、島は監獄としての役割も果たすようになった。地下の留置場に、島内や周囲の砦から送られた脱走兵、窃盗犯、酔っ払いなどが収容された。1861年、アルカトラズ島は太平洋省の軍事刑務所として正式に指定された。南北戦争中には、反逆罪で捕らえられた南部連合派のカリフォルニア市民もここに収監された。収容者は増加し、1863年ころロウアー・プリズン (Lower Prison) と呼ばれる刑務所棟が建てられ、19世紀末ころまで平均100人を収容していた。アメリカの西部開発に伴って、アメリカ政府とインディアンとの紛争が多発し、反乱罪などでアルカトラズ島に送られたインディアンも多かった[4]。
米西戦争(1898年)の時は、フィリピンへの遠征で熱帯病に罹患した帰還兵がアルカトラズ島の病院に収容されたり、身柄を拘束された兵士が多数収監されたりした。新たな刑務所棟が必要となり、1900年、閲兵場にアッパー・プリズン (Upper Prison) が建設された。ロウアー・プリズンは囚人の運動場となったが、1902年の火事でロウアー・プリズンは危うく焼けるところであった[4]。
1906年、サンフランシスコ地震で街が壊滅し、市内の刑務所に火災の危険が迫ると、そこにいた一般の受刑者176人が急遽アルカトラズ島に移された。このころから島は本格的な刑務所へ転換することとなり、今までの歩兵に代わり軍看守が配置され、1907年には島は「アルカトラズ島・合衆国軍事刑務所太平洋支所」との指定を受けた。砦は取り壊され、1912年に3階建ての大型監房棟が島中央にでき、合計600の監房、厨房、食堂、病院、運動場、管理事務所などを備えた大刑務所となった。発電所も建設された[4]。
1915年、島は「合衆国矯正兵舎太平洋支所」と改名され、教育と更生に力点が置かれるようになった。受刑者は、軍事訓練、矯正教育、職業補導などを受けた上、刑期満了後は、多くは軍務に復帰した。処遇は開放的で、夜間は監房に収容されるが、昼間は各自の仕事、授業、レクリエーションで時間を過ごした。規律違反の場合は、独房に収監されたり鎖につながれたりした。しかし、立地上、島内への水と食糧の供給に費用がかかったため、1930年代初頭の大恐慌もあって、アメリカ軍は1933年、アルカトラズ島の刑務所を閉鎖することとなった[4]。
連邦刑務所時代
島はアメリカ軍から連邦司法省刑務所局に移管され、刑務所局は1934年7月1日、アルカトラズ連邦刑務所を開設した。大恐慌や禁酒法により1920年代末から1930年代にかけて組織犯罪が激化し、治安当局は、犯罪に対する強い姿勢を打ち出す必要があり、アルカトラズ島はそのために「社会の敵」である凶悪犯を収容する施設という役割を担った[7]。
1934年4月から、脱走対策を万全にするため、軍事刑務所の設備に手が加えられた。格子は柔らかい素材から、道具を使っても破壊できないものに取り替えられ、受刑者が逃げ隠れできる可能性のあるトンネル等はすべてセメントで埋められた。監房を取り巻くように、武装した看守の監視拠点である「ガン・ギャラリー」が、受刑者を見下ろす高所に設けられた。ガン・ギャラリーは鉄柵で防御されていた。独房の鍵はこれ見よがしにガンギャラリーの外側に、見えるところに吊されていた。食堂の天井には催涙ガスの噴射装置が取り付けられ、ガン・ギャラリー又は外部の監視場所からの遠隔操作で噴射できるようになっていた。全部で600近くの監房があったが、どの監房も建物の外壁とは接しないようになっていた[7]。
この刑務所に収容されていた人員は、常時およそ260人から275人であり、連邦刑務所全体の収容人員から見れば1%にも満たなかった。後述のように受刑者にとっては非常に規律の厳しい刑務所ではあったが、必ず1人につき一つの監房が与えられ、食事の質も高いなど収容環境は他の連邦刑務所と比べて悪くなかったため、アルカトラズ刑務所への移送を希望する受刑者すらいた[8]。
アルカトラズ島に服役した受刑者の中には、有名な者も多い。ロバート・フランクリン・ストラウドは、殺人罪でカンザス州レブンワースの刑務所に服役中に看守を殺害して死刑判決を受けた後、母親の嘆願により1920年終身刑に減刑され、1942年アルカトラズ連邦刑務所に移送され、1959年イリノイ州の連邦刑務所へ移送されるまでの17年間をここで過ごした。レブンワース刑務所でカナリアを飼ってその病気について研究し、本も書いていたことから「バードマン」(鳥人間)というあだ名で知られたが、同刑務所で、研究の名目で手に入れた道具を酒の密造に使おうとしていたことが発覚するなどしてカナリアの飼育が禁止され、アルカトラズ時代には鳥を飼ってはいなかった。著名なギャングであるアル・カポネ、ジョージ・“マシンガン”・ケリーなどもここに収容されていた。
そのほか、他の刑務所で規則を遵守しない者、暴力的行為を行った者、脱走の危険があると考えられた者などがここに送られた。なお、受刑者がこの刑務所で規則に従い一定期間問題なく過ごせていると判断されれば(平均期間は5年間だったという)他所にある連邦刑務所に移送され、そこで釈放の手続きが取られた[8]。
刑務所長であるジェームス・A・ジョンストンは「最小限の特典、最大限の警備」を掲げ、所内の治安確保に乗り出した。事実、所内では食糧、衣服、居住、医療の四つは権利として与えられていたが、それ以外のもの――仕事、面会、図書室の利用、レクリエーション(絵を描く、楽器を演奏する)など――はすべて「特典」であって、努力によって獲得するものとされた[8]。
面会は月に一回、親族もしくは所長の許可を得た者に限られ、面会時間は2時間程度だった。受刑者が所内の様子や規則を話すことは禁じられていた。
図書室は最大で約1万5千冊の書籍と雑誌が保管されていた(多くの書籍は前身の軍事刑務所の時代に寄贈されたものである)。受刑者が直接書架から蔵書を閲覧することはできず、各監房に置かれた蔵書目録から各人が保有する図書カードに閲覧を希望する書籍の名称を記入して箱に投かんした。その後、図書係が書籍をワゴンに乗せて各監房に配布した。同時に3冊までの所有が許されており、その他に聖書と辞書、最大で12冊の教本を保有することができた。本を読むことができる時間は午後5時半から消灯の午後9時半までであった。新聞を読むこと自体は許可されないことはなかったが、他の刑務所からの脱走を報じる記事があると切り取られていた。
手紙は週に2通送ることが許されていた。検査官による内容の検閲が行われており、受刑者が読むべきでない、もしくは外部の者に伝えることが不都合な部分は黒く塗りつぶされた。
連邦刑務所時代には、14回の脱獄事件が起き、それに関与した受刑者は36人である(うち2人は2回脱走を試みた者)。このうち23人は身柄を確保され、6人は射殺され、2人は溺死した。5人は行方不明であるが、溺死したものと推測されている。1946年3月に起きた脱獄事件は「アルカトラズの戦闘」として知られる。6人の受刑者が看守を襲って武器と監房の鍵を手に入れたが、運動場への鍵を見付けることができず脱出に失敗し、当局との銃撃戦の末、2日後に制圧された。6人のうち3人は死体で発見され、残りの3人は裁判にかけられてうち2人はガス室に送られた。この事件で看守も2人が死亡し、約18人が負傷した。1962年6月11日、フランク・モリスとアングリン兄弟が監房から消えるという有名な脱獄事件(1962年6月のアルカトラズ脱獄事件)が発生した。手製のドリルで通気孔が広げられており、夜の見回り時に気付かれないよう、ベッドには作り物の人間の頭が置かれていた。壁の後ろのパイプなどを伝って建物から脱出し、島の北東部から手製のいかだで脱出を図ったと見られているが、島外にたどり着いたかは不明である。この脱獄劇は、後にクリント・イーストウッド主演の映画『アルカトラズからの脱出』に描かれた[8]。
図らずもモリス達の逃亡はアルカトラズがもはや刑務所としての体をなしていないことを明らかにした。潮風による施設の老朽化が激しく、サンフランシスコ周辺は地震の地域であるため耐震性にも問題があると指摘され、修繕・維持費用だけで300万ドルから500万ドルかかったとされる。それに加え日々の運営費用も他の連邦刑務所と比べ高額であった(1959年当時、囚人1人当たりのコストはアトランタ刑務所で3.00ドルであったのに対しアルカトラズでは10.10ドルに上った)。これは、食糧や水を始めとするあらゆる物資を船で輸送していたためである。例えば水については100万ガロンを1週間に1度艀に乗せて輸送しなければならなかった[8]。1962年の秋から受刑者は他の連邦刑務所に移送されていき、1963年3月21日にアルカトラズ刑務所は閉鎖された。
インディアンによる占拠事件
詳細は「アルカトラズ島占拠事件」を参照
連邦刑務所閉鎖後、跡地をどのように活用するか様々なアイデアが出された。カジノの建設やテキサスの大富豪によるテーマパーク及びショッピングセンターの建設計画などが持ち上がったがどれも実現しなかった[9]。
1969年11月20日から1971年6月11日までの約1年半、インディアンたちがこの島を占拠して、アメリカ合衆国連邦政府に対する抗議活動を行った。それに先立つ1964年、スー族のリチャード・マッケンジー率いる5人がこの島に渡り、インディアンの権利を訴えた。この時の滞留時間はわずか4時間であったが、この島をインディアンのための文化センター及び大学を建てる場所としてほしいという彼らの要求は、後の1969年の占拠事件で復活することとなった[10]。
1969年、モホーク族のリチャード・オークスと、それを支持する様々な部族のインディアンたちが、「全部族のインディアンたち」(Indians of All Tribes) というグループを結成し、モンテ・クリスト号に乗って島に渡り、この土地がインディアンのものであることを宣言した。彼らがこの島の占拠にあたって法的根拠としたのは、スー族やラコタ族などの諸部族と連邦政府との間で1868年に結ばれたフォート・ララミー条約であった。この条約の中には、連邦政府の所有する土地のうち放棄された土地や使われていない土地は、その土地の元の所有者であった先住民が取り戻すことができる、という条文があった[11]。
彼らは、その日のうちに島から引き揚げたが、その後長期間の占拠を計画し、カリフォルニア大学ロサンゼルス校 (UCLA) の学生約80人を含むインディアン約100人が島に渡り、同月20日から占拠を始めた。島内では評議会が組織され、治安、公衆衛生、学校、住居など、様々な事柄が占拠メンバー全員で決められた。連邦政府に対しては、インディアンの大学、文化センター、博物館の建設を求めたが、連邦政府側は要求は受け入れられないとし、立ち退きを求めた[10]。
そうした中、占拠メンバーの中にもリチャード・オークスと対立するグループが現れて内部分裂が生じたり、学生が島から引き揚げるのに代わって都市やインディアン居留地から新たなメンバーが加わったりし、さらにはインディアンでないサンフランシスコのヒッピーやドラッグ使用者まで島に住むようになった。1970年に入ってオークスは義娘の事故死をきっかけに島を去り、派閥争いは激化した。こうした状況に対し、連邦政府は当初不干渉の態度で臨み、FBIや沿岸警備隊も手を出さなかったが、これは自然に占拠メンバーらの大勢が撤退に向かうのを待つ意図であった。しかし、占拠メンバーは島の所有権と大学等の建設を主張して譲らなかった[10]。
1970年中頃、連邦政府側は電力の供給を止め、水を供給していた輸送船も撤去した。その3日後、火災が発生していくつかの古い建物は焼けてしまった。1971年に入り、派閥争いなどの内部の混乱が続く中、連邦所有建物からの金属材の窃取や暴力事件が伝えられるにしたがって、当初は占拠側に好意的だった世論の支持も失われていった。リチャード・ニクソン大統領が立ち退き計画にゴーサインを出し、1971年6月10日、在島者の少ない時を狙って、武装した連邦保安官、FBI特別捜査官及びカリフォルニア州警察[12]特殊部隊が島を急襲し、5人の女性、4人の子ども、6人の非武装の男性を立ち退かせ、これによって占拠は終了した[10]。
この占拠事件は、インディアンの土地を取り上げ、その文化を絶やそうとする連邦政府の政策に対する、部族を超えた初めての抗議活動という意味を持っていた。島の利用についての占拠メンバーの要求は受け入れられずに終わったものの、インディアンの置かれた状況を世に訴えるとともに、その後のインディアンの抗議運動の引き金となり、連邦政府にインディアンの権利を尊重した政策へ転換させるきっかけとなったと評価されている[10][13]。
国立公園化
1971年、アメリカ合衆国国立公園局がこの島を取得し[14]、1972年10月27日に設立されたゴールデンゲート国立レクリエーション地域の一部となった[15]。
1973年から現在に至るまで一般公開されている。
1976年、軍事史及び社会史(行刑学)の領域で国家的歴史的重要性を有するとして国家歴史登録財 (NRHP) の登録を受け、1986年、国定歴史建造物 (NHL) に指定された[14][16]。
詳しいことは、「アルカトラズ島ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%82%AB%E3%83%88%E3%83%A9%E3%82%BA%E5%B3%B6
(wikiより)
6610 大場久八墓(静岡県田方郡函南町間宮193・広渡寺)
来歴
伊豆国間宮村の百姓栄助とのぶの倅に生まれる。天保13年(1842年)、28歳の時に野天バクチで捕まり「五人組」から追放され、無職渡世の門をくぐる。その後、甲斐国都留郡下吉田村(山梨県富士吉田市下吉田)の人切り長兵衛の元を訪ね、渡世人としての修業を積んだ。
この頃に兄弟分の契りを結んだ者が甲斐国八代郡竹居村(笛吹市八代町竹居)の博徒・竹居安五郎(吃安)と都留郡境村(山梨県都留市境)の名主にして豪商の天野海蔵である。後に伊豆に戻り結婚をしているが、妻(志津)の弟が、東海道随一の貸元とされた丹波屋伝兵衛(半田竹之助)である。下田の赤鬼金平、弁天安太郎、甲州の石和廣吉、吉田近之助(長兵衛の子)、相州の小田原集月ら名のある貸元を率いて博徒としての地盤を築く。
嘉永2年(1849年)4月、35歳の時に、兄弟分である桐生半兵衛を殺害した田中村岩五郎、石原村幸次郎らと遠江国岡田村(現・磐田市)で決闘を行い、両名に深手を追わせた。(ただし久八側も子分伊達五郎を討ち取られた)また同年8月には上野国の博徒の巨魁である大前田英五郎の暗殺を謀った御宿の惣蔵を殺害し、英五郎と兄弟分になった。この関係で、後に大前田一家の江戸屋虎五郎の舎弟である保下田久六が駿河国の清水次郎長に殺された際には、富士の大宮(現・静岡県富士宮市)まで軍団を動員した。(『東海遊侠伝』)
嘉永6年(1853年)に品川台場の工事人足の間で賃金不払いによる紛争が起こると、天野海蔵を介して江川代官から請われ、その懐柔役として働いた。久八の採った方法は、人足に毎度食と日当を提供し、銭樽の懸賞を付けて士気を上げるというものだったと言う。この時の働きにより、人足たちから「台場の親分」と尊敬され、これに出生地に近い「大場村」が混同されて「大場久八」と呼ばれるようになった。
明治元年(1868年)甲州の旅先で官軍に御用弁になり、甲府の牢へ収監されるが、ほどなくして解放された。明治維新後、跡目を三島の玉屋佐十郎に譲り、博徒の足を洗う。以降百姓として余生をすごす。
明治25年12月、上州への旅の途中、山梨県南都留郡谷村町(都留市谷村)の旅籠で中風を発して同月3日亡くなった。墓は静岡県田方郡函南町の広渡寺。
逸話
・素人衆には常にへりくだった態度で接し、百姓と同席するに際しては「私どもにはお座敷が違います」と辞退して、決して同席したことがなかったという。
・6尺2寸の大男で右目が斜視、強力(ごうりき)で健脚の持ち主とされ、三島と江戸を1日で往復して、平気な顔をして畑仕事をしていたという。
・台場の工事を進展を図るために、片手が入るだけの穴をあけた銭樽を何個も現場に備え付け、人足たちが土を一荷担いで来る毎に、一回ずつ樽の銭を掴ませた。この際、欲の深い者は一度に多くの銭を掴み過ぎ、手を抜くことができなかったという。
・食事、服装は質素を重んじ、食事は常に一汁一菜、服は木綿着で生涯を通した。これに驚いた武州の小金井小次郎が村山織二反を送り届けたが、ただ有り難く頂戴したでけで一向に着ることはなかったという。
・慶応四年には、武州と甲州の子分30人から成る「辰巳隊」を構成し、甲陽鎮撫隊に加わったという。当初「辰巳隊」は食料運搬等が任務の部隊であったが、本隊の相次ぐ脱走にともなって戦争にも参加することになった。久八は八王子の亀吉、石和の廣吉らと共に銃を握って奮戦したという。(「駿遠豆遊侠伝」)
参考文献
・放牛舎桃湖(講談)『侠客大場久八』朗月堂, 1897年
・戸羽山瀚「海道筋の侠客」(『日本の風俗』第二巻・第五号 pp77-81)、日本風俗研究所、1939年
・『三島市誌』(中巻)、三島市誌編纂委員会、1959年
・戸羽山瀚「駿遠豆遊侠伝」(『ふるさと百話 第7巻』、静岡新聞社、1972年)
・高橋敏『博徒の幕末維新』 筑摩書房、2004年
(wikiより)
⇧ 大場久八
6498 織部正爽烈堀府君墓(文京区小石川2-23-14・源覚寺)
堀 織部正利煕 ( おりべのしょうとしひろ )( 1818年 ~ 1860年 ) の墓
堀 利煕は文政元年 ( 1818年 ) 堀 利堅の四男として生まれた。
家督をつぎ、小姓組・徒頭になり嘉永六年 ( 1853年 ) には江戸湾 ( 東京湾 ) の海防のため監察として活躍した。
当時我が国は北からロシアが根室に来航し国交を迫ったが、幕府は「鎖国 ( さこく )」をたてに通商を拒否していた。
折りしもペリーは艦隊 ( くろふね ) を率いて東京湾に入り通商を要求した。
そのために江戸市中は大騒ぎになった。
利煕は、箱館 ( はこだて ) 奉行になった安政元年 ( 1854年 ) 樺太 ( サハリン ) に渡り調査をし、函館においてロシア使節と会談を行った。
安政五年、我が国初代の外国奉行となり神奈川奉行を兼ね、横浜開港についての交渉を行った。
万延元年 ( 1860年 ) プロシアとの条約締結の交渉において幕閣と意見が対立し同年十一年自刃した。( 享年 42歳 )
狂歌 『太平の眠りをさます上喜選 ( 蒸気船 ) たった四はい ( 隻 ) で夜も眠れず』( 上喜選は茶の名 )
(案内板より)
堀利熙の辞世
6466 此付近東町奉行所跡(京都市中京区西ノ京職司町)
6373 長谷川平蔵剣術練習道場跡:高杉銀平道場跡(墨田区石原4-28付近)
6358 長谷川平蔵幼年時住居跡(墨田区緑4-12付近)
6240 井深元治墓(台東区・谷中霊園)
嘉永元年? ~ 明治 6年 2月 5日 ( 1848? - 1873 )
元会津藩士・「束松事件」犯人の一人。
福島県出身。
戊辰戦争後、新政府は、会津の治世を越前の久保村文四郎に命令するが、暴虐貪欲で、とくに贋金作りの探索では、容疑があると調べもせず惨殺した。
また、会津藩士の死体埋葬を許可しなかったが、伴百悦等が手を尽くして埋葬を行った。
しかし、民政局筆頭・越前藩士の久保村文四郎より撤去命令が出た。
明治 2年 ( 1869 ) 7月久保村に激怒した会津藩士・伴百悦・井深元治・高津仲三郎・武田源蔵の 4名が河沼郡束松峠にて久保村を暗殺した「束松事件」を起こした。
元治は名前を上山大八と変え大阪に逃れ潜伏した。
しばらくして、久保村殺害の首謀者は処刑されて、政府は他の犯人を追及しないと聞き及び、東京に出て日下義雄の紹介・井上馨の斡旋で学業を始めるが、密告され捕り、明治 6年 ( 1873 ) 獄中にて死亡。25歳。
このときの判事は、玉乃世履。屍は、小塚原回向院に投げられたという。
建立は元会津藩士・日下義雄。
明治 27年 10月建立で死後 20年以上経っているが官職の地位で獄死者の墓を建てたのには、井深元治の行為に賛同するところがあったからだろう。



6164 杉村文一墓(台東区・谷中霊園)
杉村 文一(すぎむら ぶんいち、文久元年(1861年) - 明治11年(1878年)7月27日)は明治時代初期の石川県士族。兄には忠告社社長の杉村寛正、明治法律学校の創立にも関わった杉村虎一などがいる。
明治10年(1877年)の西南戦争勃発に際し、島田一郎ら5名と大久保利通暗殺計画の盟約を結ぶ。翌明治11年(1878年)5月14日、大久保襲撃に最年少メンバーとして参加し、東京・紀尾井町の清水谷付近にて大久保を暗殺する(「紀尾井坂の変」とも呼ばれるが暗殺現場は紀尾井坂ではない)。
事件後すぐさま宮内省に自首し、同年7月27日午前10時頃に死刑を宣告されると同日午前11時半に市ヶ谷監獄にて他の5人と共に斬罪に処せられた。享年18。明治22年(1889年)に大赦された。墓は谷中霊園にある。
彼らを裁いた判事・玉乃世履によると、主犯の島田一郎以外はこの暗殺の趣意を知らず、ただ島田に「この人を除く事が御国のため」と洗脳されて犯行に及ぶに至ったと思われるという(東京日日新聞・明治11年6月1日)。
(wikiより)
6163 杉本乙菊墓(台東区・谷中霊園)
概要
嘉永2年(1849年)、加賀藩士・杉本作左衛門の子として生まれる。
島田一郎ら5人と共に大久保利通の暗殺を企て、明治11年(1878年)5月14日、東京の紀尾井町の清水谷付近にて大久保を暗殺した(「紀尾井坂の変」とも呼ばれるが暗殺現場は紀尾井坂ではない)。
事件後すぐさま宮内省に自首し、同年7月27日午前10時頃に死刑を宣告されると同日午前11時半に市ヶ谷監獄にて他の5人と共に斬首刑に処せられた。享年30。明治22年(1889年)に大赦された。墓は谷中霊園にある。
彼らを裁いた判事・玉乃世履によると、主犯の島田一郎以外はこの暗殺の趣意を知らず、ただ島田に「この人を除く事が御国のため」と洗脳されて犯行に及ぶに至ったと思われるという(東京日日新聞・明治11年6月1日)。
(wikiより)
6162 浅井寿篤墓(台東区・谷中霊園)
浅井 寿篤(あさい ひさあつ、安政元年(1854年) - 明治11年(1878年)7月27日)は明治初期の島根県士族、警視庁巡査。
大久保利通暗殺(紀尾井坂の変)の実行犯のひとり。
経歴
鳥取藩士の子として生まれ、明治維新後、警視庁巡査となった。西南戦争に従軍後、凱旋中に禁令を破り免職された。
島田一郎ら5人と共に大久保利通の暗殺を企て、明治11年(1878年)5月14日、石川県士族以外ではただ一人、大久保利通の襲撃に参加した(紀尾井坂の変)。
事件後すぐさま宮内省に自首し、同年7月27日午前10時頃に死刑を宣告されると、同日午前11時半に市ヶ谷監獄にて他の5人と共に斬罪に処せられた。享年25とされている。明治22年(1889年)に大赦された。墓は谷中霊園にある。
彼らを裁いた判事・玉乃世履によると、主犯の島田一郎以外はこの暗殺の趣意を知らず、ただ島田に「この人を除く事が御国のため」と洗脳されて犯行に及ぶに至ったと思われるという(東京日日新聞・明治11年6月1日)。
(wikiより)
6161 脇田巧一墓(台東区・谷中霊園)
脇田 巧一(わきた こういち、嘉永3年(1850年) - 明治11年(1878年)7月27日)は明治時代初期の石川県士族。
脇田直賢の末裔。
嘉永3年(1850年)、加賀藩士・脇田八兵衛の四子として生まれる。
明治6年(1873年)頃、石川県変則中学の監正となる。生徒・松田克之(のちに紀尾井坂の変の際、朝野新聞に斬奸状を郵送し逮捕された人物)と県庁に民選議員設立を建言したが却下され、辞職。翌年、鹿児島から石川に帰郷した長連豪と親交し、西郷隆盛・桐野利秋らの人柄を聞き信奉するようになる。西南戦争で西郷が死ぬと、島田一郎らと大久保利通の暗殺を計画し明治11年(1878年)5月14日、東京・紀尾井町の清水谷付近にて大久保を暗殺した(「紀尾井坂の変」とも呼ばれるが暗殺現場は紀尾井坂ではない)。
事件後すぐさま宮内省に自首し、同年7月27日午前10時頃に死刑を宣告されると同日午前11時半に市ヶ谷監獄にて他の5人と共に斬罪に処せられた。享年29。明治22年(1889年)に大赦された。墓は谷中霊園にある。
(wikiより)
6160 長連豪墓(台東区・谷中霊園)
生涯
能登国穴水(現・石川県鳳珠郡穴水町)に、加賀藩士・此木(長)連潔の子として安政3(1856)年に生まれる。幼い頃は漢文学者の豊島洞斎に師事。その後、加賀藩の藩校・明倫堂で学ぶ。
西郷隆盛を尊敬しており、明治6年(1873年)~同8年(1875年)の間に2度、合計14ヶ月の間鹿児島に滞在し、桐野利秋や別府晋介と親交を結んだ。
島田一郎ら5人と共に大久保利通の暗殺を企て、明治10年(1877年)11月に上京する。そして明治11年(1878年)5月14日、東京の紀尾井町の清水谷付近にて大久保を暗殺した(「紀尾井坂の変」とも呼ばれるが暗殺現場は紀尾井坂ではない)。事件後に自首し、同年7月27日午前10時頃に死刑を宣告されると同日午前11時半に市ヶ谷監獄にて他の5人と共に斬首刑に処せられた。享年23。墓は谷中霊園にある。
エピソード
・大久保暗殺当日、長は五所紋付きの黒羽織を着用していた(東京日日新聞・明治11年5月15日付)。
・処刑されるに当たって、首打役の山田吉亮に言い残すことはないかと聞かれ、「北はどちらの方角ですか」と尋ねた。吉亮が北の方角を指し示すと、そちらに手を合わせて何事かつぶやき、「北は私の故郷で、今なお母が存命なもので」と吉亮に理由を説明したうえで、従容と首を差し出したという。吉亮はそのときの心境を後に「刀の錆にするのが惜しく感じられた」と語っている[1]。
脚注
1. 篠田鉱造『明治百話(上)』(岩波文庫、ISBN 4003346920)
(wikiより)
6159 島田一良墓(台東区・谷中霊園)
来歴
嘉永元年(1848年)、現在の石川県金沢市に加賀藩の足軽の子として生まれた。
元治元年(1864年)、長州征伐で初陣。明治元年(1868年)、北越戦争で長岡藩が遺棄した兵糧の確保等の功で翌年に御歩並(おかちなみ)に昇格。
廃藩置県後、陸軍軍人を目指してフランス式兵学を修め、中尉にまで昇進するがその後に帰郷。不平士族の一派三光寺派のリーダー格として萩の乱、西南戦争に呼応し挙兵を試みるが断念。その後、方針を要人暗殺に切り替え、明治11年(1878年)5月14日、長連豪等と共に大久保利通を東京紀尾井町の清水谷付近で暗殺(「紀尾井坂の変」と言われるが暗殺現場は紀尾井坂ではない)。事件後に自首し、同年7月27日午前10時頃に死刑を宣告されると同日午前11時半に市ヶ谷監獄にて他の5人と共に大逆罪により斬首刑に処せられ、31年の生涯に幕を閉じる。
島田一郎等6名の墓所は東京の谷中霊園にあり、6本の墓石が並んでいる。
エピソード
・台湾の役、征韓の時に東西を奔走し、有志を募って征韓論を主張した。
・あだ名は「西洋犬」だった。
・家督を長男に譲って隠居して、遊歴と称して4月15日に東京へ向かい、その後大久保暗殺の犯行に及んだ。(朝野新聞・明治11年6月9日付)
・大久保暗殺当日、島田は無地の羽織姿だった。(東京日日新聞・明治11年5月15日付)
・大久保暗殺時、島田は懐中に短銃を所持していたが結局使わなかった。(東京日日新聞・明治11年6月1日付)
・彼の斬首を行った9代目山田浅右衛門によると、斬首される直前に「愛国の諸君、御先に御免」と共に処刑される仲間達に向かって叫び、「何か申し残すことは」と問いかけても首を振って「ここに及んで申し残すことはない」と淡々と述べたという。
・辞世の歌は明治18年8月4日発行の「自由燈」によれば「あらうれし 花の都につきにけり 屍を晒す 処と思へば」
・もう一つ有名な辞世の歌は「かねてより 今日のある日を知りながら 今は別れとなるぞ悲しき」
・明治8年(1875年)8月23日の土佐立志社が開いた全国愛国社集会に加賀代表で参加する。
・明治8年(1875年)に結婚した妻・ミネは武田耕雲斎の娘[1]。
・「血風、紀尾井坂 島田一良」 - 徳永真一郎著『明治叛臣伝』収録
脚注
1. 『新聞集成明治編年史. 第十四卷』p.221
(wikiより)
6111 今村正信墓(下田市七軒町3・了仙寺)
6110 今村正長墓(下田市七軒町3・了仙寺)
6109 今村正成墓(下田市七軒町3・了仙寺)
6096 小栗上野介像(横須賀市汐入町1-1・ヴェルニー公園)
小栗 忠順(おぐり ただまさ)は、江戸時代末期の幕臣、勘定奉行、江戸町奉行、外国奉行。
通称は又一。安政6年(1859年)、従五位下豊後守に叙任[5]。文久3年(1863年)、上野介に遷任され、以後小栗上野介と称される。三河小栗氏第12代当主で、父方の祖父は同じく勘定奉行を務めた中川忠英。
概要
安政7年(1860年)、日米修好通商条約批准のため米艦ポーハタン号で渡米し、地球を一周して帰国した。その後は多くの奉行を務め、江戸幕府の財政再建や、フランス公使レオン・ロッシュに依頼しての洋式軍隊の整備、横須賀製鉄所の建設などを行う。
徳川慶喜の恭順に反対し、薩長への主戦論を唱えるも容れられず、慶応4年(1868年)に罷免されて領地である上野国群馬郡権田村(群馬県高崎市倉渕町権田)に隠遁。同年閏4月、薩長軍の追討令に対して武装解除に応じ、自身の養子をその証人として差し出したが逮捕され、翌日、斬首[6]。逮捕の理由としては、大砲2門・小銃20挺の所持[7]と農兵の訓練が理由であるとする説や、勘定奉行時代に徳川家の大金を隠蔽したという説(徳川埋蔵金説)[8]などが挙げられるが、これらの説を裏付ける根拠は現在まで出てきていない。
のちに、明治政府中心の歴史観が薄まると小栗の評価は見直され、大隈重信や東郷平八郎から幕府側から近代化政策を行った人として評価されている。司馬遼太郎は小栗を「明治の父」と記した[9]。
生涯
家督相続前
文政10年(1827年)、禄高2,500石[10]の旗本・小栗忠高の子として江戸駿河台の屋敷[11]に生まれる。幼名は剛太郎。当初、周囲からは暗愚で悪戯好きな悪童と思われていたが[12]、成長するに従って文武に抜きん出た才能を発揮し、14歳の頃には自身の意志を誰にはばかることなく主張するようになった。
8歳から、小栗家の屋敷内にあった安積艮斎の私塾「見山楼」に入門、栗本鋤雲と知り合うこととなる[13]。武術については、剣術を島田虎之助に師事した。後に藤川整斎の門下となり、直心影流免許皆伝を許される。また砲術を田付主計に、柔術と山鹿流兵学(19歳から4年間)を窪田助太郎清音(のちの講武所頭取)に師事している[14][15]。天保11年(1840年)頃、田付主計の同門であった年長者の結城啓之助から開国論を聞かされ、以後影響を受ける[16]。
天保14年(1843年)、17歳になり登城する。文武の才を注目され、若くして両御番となる。率直な物言いを疎まれて幾度か役職を変えられたが、そのたびに才腕を惜しまれて役職を戻されている。嘉永2年(1849年)、林田藩の前藩主建部政醇の娘・道子と結婚する。
嘉永6年(1853年)、アメリカ合衆国東インド艦隊司令長官マシュー・ペリーが浦賀に来航する。その後、来航する異国船に対処する詰警備役となるが、戦国時代からの関船しか所持していない状態ではアメリカと同等の交渉はできず、開国の要求を受け入れることしかできなかった。この頃から外国との積極的通商を主張し、造船所を作るという発想を持ったと言われる[17]。
安政2年(1855年)、父が医師の誤診により死去し[18]、家督を相続する[19]。安政6年、小栗豊後守を名乗る。
アメリカ渡航
安政7年(1860年)、遣米使節目付(監察)として、正使の新見正興が乗船するポーハタン号で渡米する[20]。2ヶ月の船旅の後、サンフランシスコに到着する。代表は新見であったが、目付の小栗が代表と勘違いされ、行く先々で取材を受けた。勘違いの理由として、新見をはじめとして同乗者の多くは外国人と接したことがなく困惑していたが、小栗は詰警備役として外国人と交渉経験があるため落ち着いており、そのため代表に見えたとされる。また「目付とはスパイのことだ。日本(徳川幕府)はスパイを使節として同行させているのか。」という嫌疑を受けた。その際に「目付とはCensor(ケンソル)である」と主張して切り抜けたという。「Censor」という役の重さが代表扱いされる一因かと推察される。
フィラデルフィアでは通貨の交換比率の見直しの交渉に挑んだ。これは日米修好通商条約で定められた交換比率が不適当で、経済の混乱が生じていたためである。小栗は小判と金貨の分析実験をもとに主張の正しさを証明したものの、比率の改定までは至らなかった。しかしこの交渉に関して、多くのアメリカの新聞は絶賛の記事を掲載する。また小栗はワシントン海軍工廠を見学した際、日本との製鉄及び金属加工技術などの差に驚愕し、記念にネジを持ち帰った[21]。
その後、ナイアガラ号に乗り換え、大西洋を越えて品川に帰着する。帰国後、遣米使節の功により200石を加増されて2,700石となり、外国奉行に就任する。
内政・外交に携わる
文久元年(1861年)、ロシア軍艦対馬占領事件が発生。事件の処理に当たるが、同時に幕府の対処に限界を感じ、江戸に戻って老中に
・対馬を直轄領とすること。
・今回の事件の折衝は正式の外交形式で行うこと。
・国際世論に訴え、場合によっては英国海軍の協力を得ること。
などを提言したが、容れられず外国奉行を辞任した[22][23]。
文久2年(1862年)、勘定奉行に就任し、名乗りを小栗豊後守から上野介に変更する。幕府の財政立て直しを指揮する。当時、幕府は海軍力強化のため44隻の艦船を諸外国から購入しており、その総額は実に333万6千ドル[24]に上った。小栗は、駐日フランス公使レオン・ロッシュの通訳メルメ・カションと親しかった旧知の栗本鋤雲を通じて、ロッシュとの繋がりを作り、製鉄所についての具体的な提案を練り上げた。当初は縁のあるアメリカ人を招聘しようとも考えたが、当時アメリカは南北戦争で国が疲弊し外国を助ける余裕がなかったため、結果的にロッシュとの繋がりができたフランス中心の招聘となった。
文久3年(1863年)、製鉄所建設案を幕府に提出、幕閣などから反発を受けたが、14代将軍徳川家茂はこれを承認し、11月26日に実地検分が始まり、建設予定地は横須賀に決定された。なお、建設に際し、多くの鉄を必要とすることから、上野国甘楽郡中小坂村(現在の群馬県甘楽郡下仁田町中小坂)で中小坂鉄山採掘施設の建設を計画し、武田斐三郎などを現地の見分に派遣した。見分の結果、鉄鉱石の埋蔵量は莫大であり、ついで成分分析の結果、鉄鉱石の鉄分は極めて良好であることが判明した[25]。ただし、近隣での石炭供給が不十分であるので、しばらくの間木炭を使った高炉を建設すべしとの報告を受けている。また慶応元年(1865年)には高炉で使用する木炭を確保するため、御用林の立木の使用について陸軍奉行と協議をしている。
慶応元年(1865年)11月15日、横須賀製鉄所(後の横須賀海軍工廠)の建設開始[26]。費用は4年継続で総額240万ドル[27]で、これが後の小栗逮捕における徳川埋蔵金説に繋がったとも言われるが、実際には万延二分金などの貨幣の増鋳による貨幣発行益により建設費用を賄っていた[28][29]。横須賀製鉄所の建設を巡っては、相当な費用の負担を強いることから幕府内部の反対論は強く[30]、建設地を横須賀にすることへの反対論もあった[31]が、工作機械類がフランスに発注済であり、最終的に製鉄所は建設された。多くの反対を押しきれたのは、計画の進捗が迅速であり、外部がこれを知った時には取りやめることが不可能であったからである[32]。
小栗は横須賀製鉄所の首長としてフランスのレオンス・ヴェルニーを任命した。これは幕府公認の事業では初の事例だったが、この人事により職務分掌・雇用規則・残業手当・社内教育・洋式簿記・月給制など、経営学や人事労務管理の基礎が日本に導入された[33]。また、製鉄所の建設をきっかけに日本初のフランス語学校・横浜仏蘭西語伝習所を設立。ロッシュの助力もあり、フランス人講師を招いて本格的な授業を行った[34]。この学校の卒業生には明治政府に貢献した人物が多い[35]。
小栗は陸軍の力も増強するため、小銃・大砲・弾薬等の兵器・装備品の国産化を推進した[36][37]。
文久2年(1862年)12月、銃砲製造の責任者に任ぜられると、それまで韮山代官江川英武に任されていた湯島大小砲鋳立場を幕府直轄として関口製造所に統合し、組織の合理化や当時多発していた製造不良の低減に着手した。これに伴い、それまで実務を取り仕切ってきた江川の手代の代わりに武田斐三郎、友平栄などの気鋭の技術者を関口製造所の責任者として新たに登用した[38]。また、ベルギーから弾薬火薬製造機械を購入し、滝野川反射炉の一角に設置、日本初の西洋式火薬工場を建設した[39]。
小栗は更なる軍事力強化のため、幕府陸軍をフランス軍人に指導させることを計画する。慶応2年12月8日(1867年1月12日)、フランス軍事顧問団が到着、翌日から訓練が開始された。また軍事顧問団と時を同じくしてフランスに、大砲90門、シャスポー銃10,000丁を含む後装小銃25,000丁、陸軍将兵用の軍服27,000人分等の大量の兵器・装備品を発注、購入金額は総計72万ドルにも上った[40]。
経済面では、慶応2年(1866年)には関税率改訂交渉に尽力し、特にフランスとの経済関係を緊密にし、三都商人と結んで日本全国の商品流通を掌握しようとした[41]。これが後の商社設立に繋がることとなる。翌慶応3年(1867年)、株式会社「兵庫商社」の設立案を提出、大阪の有力商人から100万両という資金出資を受け設立した。これは資本の少なさから日本商人が海外貿易で不利益を被っていることを受け、解決には大資本の商社が必要との認識によるものであった。100万両という設立資金は、当時設立されていた株式会社の中でも大きく抜きん出たものであった[42]。
8月9日、日本初の本格的ホテル、築地ホテル館の建設が始まる。これは小栗の発案・主導のもとに清水喜助らが建設したもので[43]、翌年8月10日に完成する。このように、小栗の財政、経済及び軍事上の施策は大いに見るべきものがあり、その手腕については倒幕派もこれを認めざるを得なかった。[44]
詳しいことは、「小栗上野介ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%A0%97%E5%BF%A0%E9%A0%86
(wikiより)
小栗上野介
6055 本庄兄弟首塚(助七・助八)(荒川区南千住2-1-12・浄閑寺)
5997 田母野秀顕墓(台東区・谷中霊園)
嘉永 3年 ~ 明治 16年 11月 29日 ( 1850 - 1883 )
社会運動家。
幼名、留彦・惠寛・千秋・秀顕。
父、三春の神宮赤松某の庶子。
三春藩士。
福島県出身。
幼くて父を亡くし孤児となったため土地の常楽院に入り、修験者となる。
田母野と名乗る。
維新時は、王事に尽くす。
明治 10年 ( 1877 ) 頃、河野広中・松本茂らと青少年の政治教育のための「正導館」を設立し、民権思想の普及に尽力した。
河野広中らと藩閥専制政府に対抗する連判状を取り交わしていたが、明治 15年 ( 1882 ) 福島県令三島通庸の暴政に対して起こした福島事件で石川島監獄に投獄され、明治 16年 ( 1883 ) 獄中でチフスに罹り死んだ。国事犯のため高等法院を開設した最初となる。
河野広中も投獄されたが、明治 22年 ( 1899 ) の憲法発布の恩赦で赦免となり、後に衆議院議員となる。
辞世 : "噫々獄中の鬼と化す 誰か之を悼まざらんや"。
同時に投獄された花香恭次郎墓と並んでいる。明治 17年 ( 1844 ) 5月苅宿仲衛の建立と思われる。「義岳秀顕居士」。
〇 福島事件
福島事件(ふくしまじけん)は、自由民権運動のなかで1882年(明治15年)、県令三島通庸が会津三方道路工事事業に反対する福島県の自由党員・農民を弾圧した事件[1]。喜多方事件も含んでいう。民権激化事件のひとつ。
概要
1882年2月に着任した三島通庸は、着任すぐ会津地方から新潟県、山形県、栃木県へ通じる県道(会津三方道路)の工事をさせるために、会津地方六郡下の15歳から60歳までの男女を、2年にわたり月一日人夫として働かせるか、一日につき男15銭、女10銭の人夫賃を出させると布告した。さらに、工事に従事しない者の財産を競売に出すなどした。この布告に県会議長河野広中ら福島県会は反発する。各地で三島非難の演説会が開かれた。春から8月までに36回余りの演説会が開かれ、うち19回を解散させるというように警察の弾圧が激化した。そんな最中に福島県会が開会し、県側から前年度2.5倍の地方税増税が提案された。これにも県会は抵抗し、否決に追い込んだ。しかし、三島は内務卿山田顕義から「原案執行」の特別許可を得、県会の議決を事実上無効にした。さらに、三島は自由党に対抗するため旧会津士族からなる帝政党をつくった。彼らに民権家を襲わせ、流血事件が続発した[2]。
8月1日夜、河野ら幹部は福島自由党の本拠地「無名館」(福島市)に集まり、そこで密かに「無名館血誓書」をつくった。その第一条では、「吾党は自由の公敵たる擅制政府を顛覆し、公議政体を建立するを以て任となす」とし、第五条では「吾党の密事を漏らし、及誓詞に背戻(はいれい)する者ある時には、直(ただち)に自刃せしむべし」と厳罰を課した[3]。
11月、佐治幸平らの逮捕をきっかけに、28日午後6時山刀・棍棒・熊手を手に千数百人の農民が弾正ヶ原に集まった。彼らは隊列を整え喜多方警察署におしかけ、警察官は抜刀し農民たちに切りかかり無理やり解散させた(喜多方事件)。29日より東京都、福島県で弾圧が開始され、12月1日深夜には、無名館が巡査隊と福島監獄看守らにより包囲突入され、河野広中ら同志連25人が逮捕、たんすなどが封印された。一連の弾圧で約2000人が逮捕された。翌年1月中旬に「血誓書」が当局に発見され、「国家転覆」という目的が当局の機嫌を損ね、河野らは「国事犯」として裁かれる。逮捕者には容赦ない拷問がくわえられ獄死者が出た。大審院に設置された高等法院により、河野広中が軽禁獄7年、他5人は6年の判決が下った[3]。
また、この事件に反抗した青年自由党員が加波山事件を起こすことになる。
処罰された人
・愛沢寧堅
・河野広中
・原胤昭
脚注
1. 福島事件コトバンク
2. 中嶋 繁雄 『明治の事件史―日本人の本当の姿が見えてくる!』 青春出版社〈青春文庫〉、2004年3月20日、98-99頁
3. a b 清水嘉兵衛編 『福島事件高等法院裁判言渡書 : 写真肖像入』 清宝堂、1883年。
参考文献
・『会津高田町史』
関連項目
・加波山事件
・自由民権運動
(wikiより)
5910 荒井顕道墓(池之端2-5-38・休昌院)
文化 11年 ~ 文久 2年 8月 11日 ( 1814 - 1862 )
幕臣の民政家。
父、荒井道貞。
江戸出身。
幼名、太郎。通称、清兵衛。字、慎士。
和漢・蘭学を修める。
天保 10年 ( 1839 ) 家督を継ぐ。
小普請方から嘉永 2年 ( 1849 ) 陸奥国棚倉の代官。
嘉永 4年 ( 1851 ) 甲斐国八代郡市川、安政 2年 ( 1855 ) 陸奥国桑折 ( 11万石の天領 ) の代官となる。
代官時代に江戸初期からの地方支配の法令・慣行などを集め嘉永 6年 ( 1853 )「牧民金鑑」を編纂。
弟に幕府最後の海軍総裁の矢田堀 鴻( やたぼり - こう : 1829 - 1887. 12. 18 )。
子に幕政家の荒井郁之助 ( 1835 - 1909 )( 長男 )・画家の荒井陸男( 7男 )。夫人は、蘭学医師・安藤文沢の娘とみ子。
一宮浅間神社 ( 山梨県西八代郡市川三郷町高田 3696 ) の境内には荒井清兵衛顕道を祀った生祠がある。
正面「心源院殿迂軒顕道居士」。



5874 友平親徽墓(台東区谷中・谷中霊園)
天保 13年 ~ 明治 24年 2月 22日 ( 1842 - 1891 )
壬生藩の大砲奉行。
名、親徽。
通称、慎三郎。
父、壬生藩士・斉藤佐左衛門 ( 三男 )。
栃木県出身。
養父、友平 栄。
安政 2年 ( 1855 ) 実弟の斉藤留蔵 ( 佐左衛門・四男 ) と共に江川太郎左衛門の塾に入門。
天狗党が太平山に籠ったとき大砲を率いて出陣。
天狗党が太平山から筑波へ戻った後の鎮撫戦でも大砲隊を率いて活躍。
慶応 4年 ( 1868 ) 戊辰の役で会津軍に加わり大砲隊を指揮し各地を転戦。
宇都宮城を占領した旧幕府軍に壬生城内の状況を内通したため、「安塚の戦」となる。
明治 3年 ( 1870 ) 友平 栄の養子となり、その娘・伊代子を娶る。
明治 4年 ( 1871 ) 兵部省に出仕。
明治 5年 ( 1872 ) ころ佐井正民・岩上俊温らと陸軍武庫中令史。
明治 6年 ( 1873 ) 陸軍武庫権大令史となる。
明治 8年 ( 1875 ) ころ綾部幸煕・米田精らと陸軍省 9等出仕。
明治 12年 ( 1879 ) 大尉に任じ砲兵第 1方面本署員。
明治 16年 ( 1883 ) 砲兵会議所付。正 7位。
妻・伊代子 ( 明治 35年 2月 21日歿 )。子に友平親教がいる。50歳没。
※ 斉藤留蔵(1844-1917): 16歳のとき勝海舟らと共に咸臨丸で渡米、その後岩倉使節団に同行して再び日本を離れる。
※ 壬生藩: 現在の栃木県にあった藩で、幕末には、幕府側に付くか、新政府側に付くか二分し揺れて、最終的には新政府側に付。
正面「友平親徽 / 友平伊代子 / 友平親教 之墓」。


5568 迫田太次右衛門墓(鹿児島県鹿児島市南林寺町・南林寺由緒墓)
5353 渋江信夫墓(台東区・谷中霊園)
? ~ 明治 14年 5月 19日 ( ? - 1886 )
「清国地図漏洩事件」関係者。
明治政府最初の測量技術者・福田治軒は、陸軍省に入局すると早速に測量機材とともに、各県から測量技術者を採用したが、その中には、渋江信夫と矢島守一がいた。
渋江信夫は、陸軍省参謀本部職員地図課職員で明治 10年 ( 1877 ) 木村信卿と共に陸軍参謀局から発行された百十六万分一「大日本全図」 ( 国土地理院蔵 ) を完成。
矢島守一は、日露国境画定事業の日本側測量責任者であった。
明治 14年 ( 1881 ) 1月 29日非職であった木村信卿と渋江信夫、木下孟寛、他 2名は、日本全図を清国公使館に密売した容疑で拘引されるが、なぜか事件の前に二人の参謀本部職員が謎の死を遂げ、続いて同年 5月 3日の参謀局で西洋画の指導をしていた川上冬涯が熱海で謎の死をとげ。更に、拘留中の渋江信夫が自殺する。
5271 高屋順平長棟墓・墓誌(高知市丹中山・歴史公園)
5040 安倍信旨墓(文京区小石川4-12-6・慈照院)
5027 此付近東町奉行所跡(京都市中京区西ノ京職司町)
この現NTT西日本壬生別館付近、東は神泉苑の西側より美福通にいたる一帯は、江戸時代に、東町奉行所があった所である。
この奉行所は、奉行のもとに与力、同心と呼ばれる職員をもち、京都の市政一般、すなわち行政、司法、警察全般を担当し、さらに幾内幕府領の租税徴収や寺社領の訴訟処理にも当たった幕府の役所で、西町奉行所 ( 現中京中学付近 ) と隔月交代で任についた。
しかし両奉行所それぞれ与力二十騎、同心五十人で職員の数は少なく、各町の自治組織を利用して市政に当たった。
京都町奉行が初めておかれたのは、慶長五年 ( 1600 )、寛文八年 ( 1668 ) からは常置の職となって幕末にいたった。
(案内板より)