本牧jack『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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小生の拙ブログ『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑に御訪問頂き誠に有難う御座います。
歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。
たまに『 大人数で取材しているのか? 』との質問を戴きますが、小生と相方の二人三脚で御座います。
出来るだけ続けたいと思っていますが 膝・耳に問題が有って、いつまで出来るやら・・・説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。
御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。 ※ 申し訳御座いませんが「画像の転用」は禁止とさせて頂きます。 コメントは原則公開させていただいております 質問等に対してはブログ記事で返信させていただきます 他の方法で連絡を取り合う等一切しません 場合によっては、「IPブロック」しますがブロックした場合解除する事は有りませんので宜しくお願いします。

カテゴリ: 落語家・手品・曲芸師・花火・囲碁将棋・富くじ

本名関口せきぐち 達雄たつお
別名籬風[注釈 1]
生年月日1924年1月14日
没年月日2004年1月31日(80歳没)
出身地日本の旗 日本東京都
死没地日本の旗 日本東京都
師匠二代目桂小文治
弟子二代目柳家蝠丸
三代目桂伸治
三代目桂小文治
十一代目桂文治
桂右團治
名跡1.柳家小よし
(1946年)
2.桂小よし
(1946年 - 1948年)
3.二代目桂伸治
(1948年 - 1979年)
4.十代目桂文治
(1979年 - 2004年)
出囃子武蔵名物
活動期間1946年 - 2004年
所属日本芸術協会
落語芸術協会
主な作品
掛取り
源平盛衰記
親子酒
受賞歴
2002年:勲四等旭日小綬章受章
備考
公益社団法人落語芸術協会会長(1999年 - 2004年)

十代目 桂 文治(かつら ぶんじ、1924年1月14日 - 2004年1月31日)は、東京都豊島区出身の落語家南画家(雅号:籬風)。落語芸術協会会長(第4代)。落語江戸(東京)桂派宗家。血液型はO型、本名∶関口 達雄。父は同じく落語家初代柳家蝠丸出囃子は『武蔵名物』。

人物

早くから噺家志望であったが、軍需工場工員を経て1944年召集令状を受ける[1]。終戦後日本に帰国後の1946年6月、2代目桂小文治に師事し、父の名であった柳家小よしを名乗るが、後に師の亭号が桂だったために桂小よしに改名。1948年10月、2代目桂伸治に改名し二つ目昇進。1958年9月、春風亭柳昇2代目桂小南三笑亭夢楽三遊亭小圓馬4代目春風亭柳好とともに真打昇進。

1960年代の演芸ブームでテレビ・ラジオに多く出演。フジテレビお笑いタッグマッチ」(5代目春風亭柳昇司会の大喜利番組)の回答者や同番組の提供スポンサーでもあった丸美屋食品工業のふりかけ「のりたま」のテレビCMで売れる。

1979年3月、前年亡くなった9代目桂文治の盟友である8代目林家正蔵(後の林家彦六)の推薦で10代目桂文治[注釈 2]を襲名。桂派宗家となる。1996年芸術選奨文部大臣賞受賞。1999年9月、4代目桂米丸の後任で落語芸術協会会長就任。正調の江戸弁を大切にしていた噺家であった。

得意ネタは、「掛取り」「源平盛衰記」「親子酒」「お血脈」「長短」「蛙茶番」「義眼」「鼻ほしい」「火焔太鼓」「道具屋」「替り目」「ラブレター」「あわて者」「猫と金魚田河水泡・作)」「二十四孝」などであり、5代目柳家小さんと並んで滑稽噺のスペシャリストであった。芸風は極めて自由闊達で、晩年に至るまで客席を爆笑の渦に誘ったが、その芸の根底には本人も認めるように戦前の爆笑王の一人であった初代柳家権太楼の影響があるといえる(「猫と金魚」「あわて者」は権太楼譲りのネタ)。

2002年11月勲四等旭日小綬章受章。

2004年1月、急性白血病に倒れ、同月18日に入院[2]。その後、東京都新宿区の東京女子医科大学病院に転院したが容態が悪化し、芸協会長の任期満了日であった1月31日、急性白血病による腎不全のため死去した。80歳没。翌日付で昇格が内定していた副会長の桂歌丸が後任の会長に就任した。

戒名は「文翁院話玄達道居士」。墓所は東京都港区南青山の玉窓寺。

一門弟子
桂伸乃介
二代目柳家蝠丸
三代目桂伸治
三代目桂小文治
十一代目桂文治
桂右團治 - 芸協初の女性真打
桂快治 - 文治死後伸治門下へ
桂前助 - 立川談志門下から移籍、文治死後蝠丸門下へ

画家として
・財団法人書壇院 院友・南画部審査員
・回瀾書道会 参与

映画出演
・春だ!ドリフだ!全員集合!!(松竹大船
・男はつらいよ 柴又慕情(松竹

エピソード
・航空兵志望だったが、父が初代蝠丸だというのが知られていたのか、「はなし家はオトスから」という理由で断られた[1]

・高座に上がる際、聴衆の拍手を遮りながら「どうぞお構いなく」と言うのが決まり文句であり、これにより聴衆を一度に自分の世界に引き込むという効果があった。

・9代目文治の弟子筋ではないが、父の初代蝠丸が作った「大蔵次官」を9代目が得意ネタにしていたという縁がある。

・十八番の一つである「あわて者」(=「堀の内」)の主人公をかなりリアルに演じられたのは本人自身がかなりの慌て者だったからという説もある。

・時間に非常にルーズな面があり、落語芸術協会会長時代、常に周囲の者を冷や冷やさせていた。後任会長・桂歌丸(もちろん後輩)に著書で批判されているほか、他の後輩落語家たちからも半ばネタとして扱われている。ラジオ番組の出番をすっぽかしたこともあり、通りすがりの運転手にそのことを指摘されたこともある[3]

・出囃子が同じ「武蔵名物」だった古今亭圓菊落語協会)とは折り合いが悪く、ホール落語で同席するとトラブルになることも多かった。[4]

・弟子入りすると、四年間は内弟子として自宅で寝泊りさせていた。

・趣味は絵画のほか木彫りやカメラなどがあり、宮本幹也玉川一郎三国一朗宅の表札を彫ったこともある[3]。宮本からは、その多才ぶりが芸の大成を阻害しやしないかと心配されたこともある[5]

・江戸言葉に厳しかったことで有名で、例えば「『こたけむかいはら』(小竹向原)というのは間違っている、江戸言葉では『向こう』というのが正しいから、正確には『こたけむこうはら』なんだ」といったり、また「やじうま(野次馬)」ではなく「やじんま」、「何を言やがるんでえ」ではなく「何をいやんでぇ」、また江戸の職人は「やかましいやい」ではなく「うるせいやい」、商人は「ありがとうございました」では縁が切れるから「ありがとうございます」や「ありがとう存じます」というのが正しいんだ、という持論があった。ただし、若い頃はそういうこだわりは無く、どこかで感銘を受けてこだわるようになったのではないか、と弟子などからは指摘されている。また普段から落語家らしく色紋付きのない着物姿で歌舞伎を愛した。

・晩年、寄席への行き来に使っていた西武新宿線の女子高校生たちの間で「ラッキーおじいさん」と呼ばれ、「ラッキーおじいさん」に会えればその日一日が幸せになる、と噂されるようになった。

著書
・『十代文治 噺家のかたち』著:桂文治、編:太田博(うなぎ書房、2001年12月)ISBN 9784901174091


参考文献
・中島英雄「最後の噺家 こだわり文治の泣きどころ」(うなぎ書房、2005年2月)[注釈 3]
・桂伸治「エー はなし家です」『落語など』第1巻第1号、プレイグラフ社、1966年、 154-155頁。
・宮本幹也「落語家らしい落語家」『落語など』第1巻第1号、プレイグラフ社、1966年、 155頁。

関連項目
小文治一門  

脚注
注釈
1. 南画家としての雅号
2. 
10代目文治は上方にいた7代目 桂文治の孫弟子に当たる。
3. 
著者は中央群馬脳神経外科病院理事長。1985年に十代文治から「桂前治」の名前をもらい、病院寄席を開催。2012年死去。

出典
1. 
a b #落語など p. 154 
2. 
文治師匠との最後の別れ - 噺家 桂伸治オフィシャルサイト 2004年4月1日
3. 
a b #落語など p. 155 
4. 
そのことをよく目撃していた10代目文治の愛弟子11代目桂文治と圓菊の実子で弟子の古今亭菊生は、それぞれの師匠から出囃子を受け継ぎ二人とも「武蔵名物」を使っていた。その二人がホール落語で同席した際は互いに出囃子を譲り合い、文治が「武蔵名物」を、菊生が圓菊死去の際まで使用していた「鉄道唱歌」を使用した。
5. 
#落語など(宮本) p. 155

外部リンク
桂文治 - 落語芸術協会               
(wikiより)

1 十代目・桂文治

⇧ 十代目・桂文治

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 墓石名は、「 飯森家 」なので、初代か二代目の柳橋だと思います

春風亭 柳橋(しゅんぷうてい りゅうきょう)は、落語家名跡柳派の祖。2008年9月21日に当代の8代目が襲名した。

3代目、4代目、5代目は親子の関係である。


初代から5代目までの亭号は麗々亭(れいれいてい)であった。そのため6代目柳橋を「初代春風亭柳橋」と表記する人もごく少数存在する。この項では便宜上、全て「春風亭 柳橋」として一括に表記をする。

生年月日 不詳年
没年月日 不詳年
出身地 日本の旗 日本
師匠 惣領甚六
初代麗々亭柳橋
名跡 1. 惣領和久蔵
2. 麗々亭柳舎
3. 麗々亭柳女
4. 昔々亭桃流
5. 2代目麗々亭柳橋
所属 柳派


麗々亭柳橋 (2代目) ( 二代目・春風亭柳橋 )

2代目 麗々亭 柳橋(れいれいてい りゅうきょう、生没年不詳)は、落語家。本名は不明。


『落語家奇奴部類』によれば、最初は惣領甚六の門人で惣領和久蔵といったというので素人連出身とも考えられる。


初代柳橋の門人で柳舎から柳女その後、初代の兄と不和になり2代目三笑亭可楽の門に移り昔々亭桃流と改名したが和解の後に2代目を継いだ。


神田
に居を構えていたが、没年は不明だが亡くなったのは新宿で、3代目柳橋が襲名直前のことだったという。

妻は女義太夫竹本咲家寿。門下には田舎咄を得意とした、龍女がいる。
(wikiより)

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 墓石名は、「 飯森家 」なので、初代か二代目の柳橋だと思います。

春風亭 柳橋(しゅんぷうてい りゅうきょう)は、落語家名跡柳派の祖。2008年9月21日に当代の8代目が襲名した。

3代目、4代目、5代目は親子の関係である。


初代から5代目までの亭号は麗々亭(れいれいてい)であった。そのため6代目柳橋を「初代春風亭柳橋」と表記する人もごく少数存在する。この項では便宜上、全て「春風亭 柳橋」として一括に表記をする。

別名 柳橋庵亀好
生年月日 不詳年
没年月日 1840年4月25日
出身地 日本の旗 日本
師匠 初代船遊亭扇橋
名跡 1. 扇遊亭新橋
2. 扇遊亭新鳥
3. 舞遊亭扇蝶
4. (亭号不明)柳好
5. 初代麗々亭柳橋
活動期間 ? - 1840年
所属 柳派


〇 麗々亭柳橋 (初代) ( 初代・春風亭柳橋 )

初代 麗々亭 柳橋(れいれいてい りゅうきょう、生年不詳 - 1840年4月25日(21日とも))は、本名、不明、名字は久世?。俳名、柳橋庵亀好。人情噺の元祖。俗に「久世柳橋」。


初代船遊亭扇橋の門人で初名を扇遊亭?新橋から新鳥、舞遊亭扇蝶となった。扇橋と不和になり一時柳好。和解し麗々亭柳橋と改名した。


俳諧
を良くした。辞世の句は「ほととぎす明かしかねたる此世かな」(『墓碣余誌』)


門人には2代目3代目柳橋初代春風亭柳枝、柳馬、柳鳥(後の2代目柳好)、柳里、柳佐、などがいた。
(wikiより)

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二代目 古今亭 志ん生(ここんてい しんしょう、天保3年(1832年9月) - 明治22年(1889年11月24日)は、幕末・明治期に活躍した東京の落語家。本名∶福原 常蔵


三代目五明楼玉輔
の叔父にあたり、志ん生の姉の夫が三代目金原亭馬生の門弟の初代金原亭馬きん。通称「お相撲」、「トバシヤ」(※巨漢だったことからお相撲といわれた、トバシヤに関してはヨタをとばしたということから)

『講談落語今昔譚』には相生町の餅菓子屋の職人で力士を志し、姉を頼って江戸に来た。近所に初代古今亭志ん生が住んでいたのが縁で門下になり寿六(壽六)と名乗った。


初代志ん生死去に伴い初代五明楼玉輔の門に移り初代五明楼今輔、その後慶応2年頃、二代目志ん生となった。

1880年には初代談洲楼燕枝初代三遊亭圓馬と共に「落語睦連」の社長に就任している。


1873年
の落語番付に「盲ヘビ」と書かれたことに怒り版元に抗議したり1878年の寄席取締規則が発足された際的外れな批判をし拘束されたりと向こうみずなところもあった。


墓所は墨田区本久寺。

得意ネタ
・「人情噺ねずみ小僧」

・「桜田事件

・「相撲伝」

・「桂川の仇討」

弟子
三代目古今亭今輔

三代目五明楼玉輔

四代目五明楼玉輔

横目家助平

出典
・諸芸懇話会、大阪芸能懇話会共編『古今東西落語家事典』平凡社ISBN 458212612X
(wikiより)

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初代 古今亭 志ん生(ここんてい しんしょう、文化6年(1809年)(逆算) - 安政3年12月26日1856年1月21日))は、幕末期に活躍した江戸落語家。俗称、清吉。俳名、寿耕。通称「八丁荒らしの志ん生」。


小玉屋権左衛門家に丁稚奉公をした後、文政期から初代三遊亭圓生の弟子になり初代三遊亭圓太の名で噺家になった。


のちに初代立花屋圓蔵と圓生の名跡でを争って敗れたため失意の結果旅に出たとされる。1847年に帰京し四谷忍原亭で古金亭真生を披露したが、1836年には既に古金亭志ん生で名乗っており、弘化期には新生、嘉永期では真生を名乗ることもあった。


人情咄
を得意とした、得意演目には「お初徳兵衛浮き名の桟橋」「お富与三郎」「小猿七之助」などがありいずれも劇化され8代目市川團十郎が演じ評判になった。「九州吹戻し」は鈴々舎馬風から2両2文で譲り受けたといわれ、そのうまさは誰も真似できなかった、そのため後に三遊亭圓朝は弟子に一切演じるのを禁じた。


俳句
も良くし「送り火や飛びつく螽追ひながら」の句を残している。


顔にはあざがあったとされ、また片目か片足が不自由でかごに乗って寄席通いをしたと伝わっている。墓所は墨田区本久寺。

門下
初代蝶花楼馬楽

2代目古今亭志ん生

出典
・諸芸懇話会、大阪芸能懇話会共編『古今東西落語家事典』平凡社ISBN 458212612X

関連項目
古今亭志ん生
(wikiより)

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十代目 金原亭 馬生(きんげんてい ばしょう、1928年昭和3年〉1月5日 - 1982年〈昭和57年〉9月13日)は、東京市出身の落語家である。本名∶美濃部 清(みのべ きよし)。

来歴・人物

豊山第二中学校(旧制私立豊山中学校定時制)を中退した後、当時の中学生の憧れの一つであった予科練を志していたが、体調が悪化したことにより断念する。の病気の発見がやや遅れ、駒込の病院で大手術を施された。


退院すると死生観の変化により予科練志願の心は消え、落語家になろうと思い立つ。1942年8月、父・5代目古今亭志ん生に入門し、4代目むかし家今松を名乗る。当時は落語家が足りなかったため、二つ目として落語家人生をスタートさせた。1944年頃、初代古今亭志ん朝と改名。1945年4月、終戦直前になって父・志ん生が満州慰問に出てしまったため、苦労を重ねる。


1947年
1月、父・志ん生が帰国。同年には再び今松を名乗る。1948年真打昇進し、5代目古今亭志ん橋を襲名。1949年10月、10代目金原亭馬生を襲名した。父・志ん生からはあまり噺の稽古をつけてもらえなかったため、他の師匠から稽古を受けたり、独流で噺を練り上げたりすることで独自の芸風を磨き続け、三遊派柳派両派のネタを多く持った。また、人情噺などのじっくり聴かせる噺に本領を発揮し、独自の芸風を確立した[1]


書画
は本職並みで、酒仙でもあった。また、私生活では噺家らしく和服を貫いていた。


1969年芸術選奨新人賞を受賞。1973年には文化庁芸術祭優秀賞を受賞する。1978年から1982年まで落語協会副会長を務めた。


俳句も作り、結城昌治らと第一次「くちなし句会」を1978年に結成[2]青木雨彦高橋呉郎大泉拓村上豊青柳純一小田島雅和らがメンバーだったが[3]、1982年の馬生の死で解散。


1982年9月13日、食道がんのため、54歳で死去。

経歴

5代目古今亭志ん生一家の戦前の履歴は諸説あるが、この年表は『総特集古今亭志ん生』〈KAWADE夢ムック文藝別冊〉204 - 207頁に掲載の年表を底として作成した。なお、年表内に記した住所の旧居はいずれも現存しない。


1928年昭和3年)1月5日 - 東京市豊多摩郡和田堀町方南71(現:杉並区方南)にて出生[注釈 1][注釈 2]

  ・4月 - 本所区業平橋1丁目12(現:墨田区業平1丁目、いわゆる「なめくじ長屋」)へ転居。

1936年(昭和11年)2月26日 - 浅草区永住町(現:台東区元浅草)へ転居。

1937年(昭和12年)8月 - 本郷区駒込神明町338(現:文京区本駒込)へ転居。

1940年(昭和15年)4月 - 豊山第二中学校(旧制私立豊山中学校夜間部)入学。

1943年(昭和18年)8月 - 父・5代目古今亭志ん生に入門。芸名は4代目むかし家今松[4]。取り急ぎ『たぬき』『道灌』『子ほめ』の三席を教わり[5]、入門当日から高座に上がる[6]

1944年(昭和19年)9月 - 古今亭志ん朝(初代)[4]に改名。

  ・5月6日 - 父・志ん生が満州へ慰問に行く。

1945年(昭和20年)4月13日 - 本郷区駒込動坂町327(現:文京区千駄木)へ転居。

  ・5月6日 - 父・5代目古今亭志ん生が満州へ慰問旅行中に、敗戦のため帰国不能になる。

1947年 - 父・5代目古今亭志ん生が約1年7か月ぶりに帰国。

  ・6月 - 再びむかし家今松[4]に改名。

1948年(昭和23年) - 古今亭志ん橋(代数不詳だが5代目と称した)と改名して真打昇進。

1949年(昭和24年)10月 - 10代目金原亭馬生[4]を襲名。

1950年(昭和25年) - NHKラジオ若手演芸会でラジオ初出演[7]。『鮑のし』を口演する。

1951年(昭和26年)11月 - 荒川区日暮里町9丁目1114(現:荒川区西日暮里3丁目)へ転居。

1953年(昭和28年)10月16日 - 妻・治子と結婚。

1955年(昭和30年)3月12日 - 長女・志津子(池波志乃)誕生。この頃実家の前の路地を挟んだ二軒隣(現:荒川区西日暮里3丁目16 - 12[注釈 3])に転居。

1961年(昭和36年)

  ・4月 - 一番弟子金原亭桂太が入門。総領弟子。

  ・5月30日 - 第31回東横落語会で東横落語会初出演。『禁酒番屋』を口演する。

1966年(昭和41年)4月26日 - 第57回東横落語会出演。以降レギュラーメンバーとなる[7]

1969年(昭和44年)3月 - 第19回芸術選奨において新人賞受賞。演目は『鰍沢』。

1973年(昭和48年) - 第248回三越落語会において口演した『明烏』で文化庁芸術祭優秀賞を受賞。

  ・9月21日 父・5代目古今亭志ん生死去。志ん生門下から古今亭志ん駒が移籍。

1976年(昭和51年) - 旧居のはす向かいに転居。

1978年(昭和53年) - 社団法人落語協会の副会長に就任。

  ・5月 - 6代目三遊亭圓生主催の落語三遊協会発足(落語協会分裂)に伴い、古今亭志ん駒が3代目古今亭志ん朝門下へ移籍。

1979年(昭和54年) - 金原亭駒七が入門。最後の弟子となる。

1980年(昭和55年)2月18日 - 本牧亭で独演会「馬生十八番」を開始、以降計10回開催する[7]

1982年(昭和57年)8月30日 - 第260回東横落語会で『船徳』口演。最後の高座となる。

  ・9月13日 - 死去。戒名「心光院清誉良観馬生居士」。墓所は文京区小日向の還国寺。

2006年平成18年)11月25日 - 妻・治子死去。享年75。

2011年(平成23年) - 墓所が台東区谷中の長久院に移される。

2014年(平成26年)9月6日、上野精養軒で三十三回忌法要[8]。9月11日~20日、新宿末廣亭昼の部『十代目金原亭馬生三十三回忌 追善興行 師匠を語る・父を語る』が開催される。当代馬生が中トリの後、中尾彬池波志乃が連日座談会に登場、日替わりで直弟子がトリを務めた。

芸歴
1943年8月∶五代目古今亭志ん生に入門、「四代目むかし家今松」を名乗る。

1944年9月∶古今亭志ん朝に改名。

1947年6月∶「四代目むかし家今松」に再改名。

1948年∶真打昇進、「五代目古今亭志ん橋」を改名。

1949年10月∶十代目金原亭馬生を襲名。

1982年9月∶死去。

代数をめぐる議論

10代目金原亭馬生を襲名した当時、5代目(「黒馬生」)と6代目(「赤馬生」)が併存した「二人馬生」時代からの名跡の混乱(金原亭馬生参照)によるいざこざが尾を引いていた。10代目馬生[注釈 4]は5代目馬生の弟子である9代目馬生から生前稽古を付けてもらった際に、「本来ならば師匠の5代目馬生から名前をもらった自分は『6代目馬生』となるはずだったが、東京で6代目・7代目・8代目が勝手に襲名されたせいで『9代目馬生』になってしまった。馬生の名跡は差し上げるけれども、将来継ぐときは『7代目馬生』として継いでくれ」と依頼されていた。

しかし、9代目馬生から6代目(鶴本勝太郎、父・5代目志ん生の師匠)・7代目(父・5代目志ん生)・8代目(小西万之助、父・5代目志ん生の友人)を「インチキ馬生」呼ばわりされて意地になった父・5代目志ん生の意見で、当初は9代目馬生として襲名した。鴨下晁湖の筆で「九代目金原亭馬生」と記してある襲名披露に使用された後ろ幕が現存している[9][8]


その後、「さまざまないきさつがあっても、存在したものは存在したものとして正しい代数に直すべきである」という6代目三遊亭圓生の意見に従い、代数を10代目に訂正した。

主な演目
明烏

安中草三

幾代餅

今戸の狐

王子の狐

大阪屋花鳥

おせつ徳三郎

お富与三郎

親子酒

笠碁

鰍沢

子別れ

ざる屋

真景累ヶ淵 〜豊志賀の死〜

鈴振り

崇徳院

粗忽長屋

そば清

茶金

付き馬

佃祭

つづら

天狗裁き

富久

二番煎じ

八五郎出世(別名:妾馬)

花筏

花見の仇討

船徳

文七元結

目黒のさんま

宿屋の富

柳田角之進

淀五郎

らくだ

など

詳しいことは、『十代目・金原亭馬生ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E5%8E%9F%E4%BA%AD%E9%A6%AC%E7%94%9F_(10%E4%BB%A3%E7%9B%AE)
(wikiより)

0133 十代目・金原亭馬生

⇧ 十代目・金原亭馬生

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三代目 三遊亭 圓歌(さんゆうてい えんか、1932年1929年?)1月10日 - 2017年4月23日)は日本落語家俳優日蓮宗僧侶。 本名∶中澤 信夫であるが、出家後の資料では中澤 圓法(円法えんぽう)としている場合がほとんどである[1]出囃子は「二ツ巴」。定紋は片喰。

生年について
生年については1932年説と1929年説があり、落語協会公式サイト[2] では1932年1月10日となっている。これに対して1929年説は「空襲で役所が焼け、戸籍を再度届け出た際に家族が間違え、戸籍上3歳若くなったためである」としている[3]。一般的には1929年説が通っているともされていたが、4代目圓歌によれば、3代目の通夜が終わった後、飲み屋で会った岩倉鉄道学校の卒業生が1931年生まれで圓歌のことを「1年後輩」と言ったこと[4]、かつて手伝いに来ていた圓歌の母に1929年生まれが正しいのか聞いたところ「そんなに早く産んだ覚えはない」と言われたことに加え[5]、1929年説は5代目春風亭柳朝との確執の末に出てきたものだという。圓歌は日ごろから柳朝とはそりが合わず何かにつけて意地の張り合いをしていたが、ある時柳朝に「俺は昭和4年生まれだ。そっちは?」と聞かれ、負けず嫌いがゆえに1932年生まれの年下であることが言えず「俺も4年だ」と言い返し、これが定着したものだとしている[4][5]

生涯

東京府東京市向島区(現:東京都墨田区向島)出身。幼少期より、駄菓子屋を経営する祖母・中澤タダと二人暮らしであったという。東京市第二寺島尋常小学校(現在の墨田区立第二寺島小学校)時代の先輩には小川宏、同級生(1929年説であれば後輩)にはのちに漫画家となる滝田ゆうがいた。なお、この頃から吃音症を患うようになる。卒業後は鉄道員になりたくて岩倉鉄道学校(現岩倉高等学校)に入学し、同校を卒業[6]


その後について、「運輸通信省東京鉄道局(当時の国鉄)に入局し、山手線新大久保駅駅員を務め[6]、終戦を迎えた1945年8月に東京鉄道局を退職、同年9月2代目三遊亭圓歌に入門した[7]。」に語られることがあるが、高座の上でのネタ、漫談での語り、あるいは高座外での嘘が混ざっている話で、新大久保駅員であったことも、真偽の根拠が不明であるため、これらは弟子の立花家橘之助らによって高座で語られている。


戦後間もない頃、実家を間借りていた人物が「ポコちゃん」こと4代目三遊亭圓楽(後の3代目柳亭市馬)であった。圓楽に吃音症の克服を相談したところ「落語家になればいい」とアドバイスを受け、寄席見物に行く。ここで2代目三遊亭円歌と出会い、入門。前座名・三遊亭歌治。[8] なお、入門した詳細な時期については不明。自伝及び落語では1945年9月1日とあるが、実際はこれよりもっと遅くに入門したといわれる。


1949年、二つ目に昇進し、2代目三遊亭歌奴に改名した。 この頃スランプに陥り、一時期大阪へ失踪。周囲に諭されて東京に戻るが、帰路の都電で円歌と遭遇。「明日の朝、おいで」と言われ、翌朝おそるおそる謝罪しに行くと、「いままでの芸じゃ駄目だ。何か、新しいものを見つけてこい」と1ヶ月ほど暇を出される。そこで歌奴は祖母の疎開先であった秋田県湯ノ岱温泉へ向かった[8]

ここで、現地の人と東京の観光客で方言の違いで両者の会話に齟齬が出ていたことが面白く、これを落語に取り入れることができないかと思案し、そこへたまたま持っていた上田敏の訳詩集「海潮音」に収録されていたカール・ブッセの詩「山のあなた」を加えてできた噺が、歌奴の代名詞とも言える創作落語「授業中(山のあなた)」である。

この「授業中」を早稲田の寄席「ゆたか」でやったところ大いに受ける。気をよくした歌奴はNHKラジオにかけるとこれまた大好評。こうして1950年代には歌奴の名前は全国区になっていった。[8]

1957年
には二つ目のまま林家三平鈴本演芸場でトリを務めるまでになった。 1958年9月、真打に昇進した[9]


歌奴時代、黎明期のテレビ演芸番組に多く出演し、1960年代の演芸ブームでは売れっ子芸人の一人に目される。この時の活躍から、初代林家三平と共に「爆笑落語」の時代を築いた人物として後年に知られるようになる[7]。一時期『笑点』の大喜利メンバーとして出演[10]。この頃に自作の「授業中」で人気を博した[10] ことから、この時代の世代からは圓歌襲名後も「歌奴」と呼ばれることがあるという。


1967年昭和天皇の前で御前公演をした
(演目は十八番の「授業中」であったという)と語られることがあるが、真実は不明である(他のエピソードを含め、圓歌が高座で語ったものはあくまで落語であるから真実とは限らないということを、橘之助らが高座で述べている)。


1970年9月、三遊亭圓歌を襲名した。以後はテレビ出演を控え、高座に専念。1971年文化庁芸術祭優秀賞受賞。


1985年
出家日蓮宗久遠寺修行し、法号「本遊院圓法日信」を名乗り、噺家と僧侶の二足の草鞋を履く。

「中沢家の人々」では、前妻の死去をきっかけだと語られるが真偽は不明。高齢となってからの入門だったため、お経を唱えながら水垢離を行っている最中に心筋梗塞で倒れ、東京女子医大病院へ搬送されたとこちらも「中沢家の人々」で語られるが、真偽は不明。この一件について、後に圓歌は「寺から病院に行ったのは俺くらいだ[11]」、「俺が退院した後に、同じ病室に逸見政孝ら著名人が立て続けに入院して亡くなっていった。俺は良いタイミングで出てきたな(と、高座で話したところ、東京女子医大から誰もその病室に入りたがらないとクレームが来た)」「マスコミからの問い合わせに対し、三遊亭小円歌(当時。現:立花家橘之助)が誤って『病状は近親相姦です』と答えた。なんで俺が親と寝なきゃならねぇんだ!」などと、「中沢家の人々」のネタにしている。


1987年、当時の落語協会副会長6代目蝶花楼馬楽の死去に伴い、副会長に就任。1992年浅草芸能大賞大賞受賞。1996年8月、5代目柳家小さんの後任で、8代目会長就任[7]2006年6月から最高顧問に就任。2002年勲四等旭日小綬章受章[12] 後任の会長は、2001年に死去した3代目古今亭志ん朝の後任で副会長に就任した5代目鈴々舎馬風である。


1967年[13] から2015年まで東京都千代田区六番町に在住。なお、住んでいた自宅は作家有島武郎の旧家であったと「中沢家の人々」で語られるが真偽は不明。2015年からは湯島のマンションに住んでいた[13]。関係者によれば「最後まで高座に上がり続けるために鈴本演芸場に近い場所を選んだ終活ではないか」としている[14]


2017年
4月23日、結腸がんによる腸閉塞のため、東京都内の病院で死去した。享年86(1929年説では89)[15]。関係者によれば、亡くなる前年末頃から体調がすぐれず、高座を降りてから弟子に抱えられて舞台袖に向かう姿が見られたといい[16]、死の3か月ほど前の1月4日に鈴本演芸場で弟子とともに座談会を開いたが、結果的にこれが最後の高座となった[13]。4月27日に東京・青山葬儀所で「落語協会葬」(葬儀委員長・柳亭市馬落語協会会長)が執り行われた[15]

人物

得意演目は、新作では「授業中(山のあな)」「浪曲社長」「月給日」「電報違い」「我孫子宿」「中沢家の人々」「天皇陛下、初めて落語を聴く」「円歌の道標」[17] など。古典では、「替わり目」「坊主の遊び」「西行」[7]「三味線栗毛」「紺田屋」「品川心中」[7]宮戸川」「湯屋番」など。


前述の通り、幼少期から吃音症であった。「授業中」「浪曲社長」「月給日」には登場人物に吃音者が出てくるのはそのためである。CD「中沢家の人々完全版」によると、近所に住んでいた幼馴染で後にアナウンサーとなる小川宏が吃音者で、真似をしていたら自分もなってしまったという。落語家になった理由もそれの克服だが、入門時に(落語家への入門を懇願され)激怒した親から戸籍を外されてしまった。また、吃音者であることは駅員時代にも災いし、偶然同じく吃音者だった旧日本軍の人間の接客をしていた際、つられてどもって話していたところ、マネしてバカにしていると勘違いして激怒した軍人に危うく切り捨てられそうになった。やはり吃音癖のある2代目圓歌に弟子入りしたのは偶然であったという。以上の吃音に関する(いささか誇張も混じっていると思われる)エピソードは3代目本人の語るところによるものであるが、7代目立川談志は「あれは師匠に合わせた誇張で、(3代目)圓歌兄さんはどもっちゃいない」と生前に語っている。いずれの話も真偽は定かでない。


それまでの落語界ではありえなかったことをいくつか始めており、「落語界の異端児」を自称している。例として次のようなことが挙げられる[18]


・黒以外の色の紋付きを着て高座を務める。元々、落語界では黒紋付きを着て高座を務めるのが慣例であったが、「お葬式じゃねぇんだから何人も黒紋付きで出ることはねぇ」との理由でこれを破った。

眼鏡を掛けて高座を務める。元々、強度の近視で眼鏡なしでは客席もよく見えないためであった。

江戸落語界では初めて女流の弟子として、1980年に立花家橘之助(当時の前座名「あす歌」。三味線漫談)、1981年三遊亭歌る多(当時の前座名「歌代」)を取り、育て上げた。このうち、歌る多は1993年に落語協会初の女流真打に昇進している。

・居酒屋でたまたま出会ったハドソンの創業者の工藤裕司と話が合い、弟子に誘い「三遊亭あほまろ」という名前を与えている。


落語協会で初めて、副会長から会長になった人物でもある。副会長時代、病気療養を理由に前会長の5代目柳家小さんから次期会長を頼まれ、引き受けた。「馬風なんて俺殺せば会長になる会長になるって[19]、あいつ知らねえんだ。代々副会長ってのは会長より先に死ぬもんだ」と、新作落語「昭和の噺家」でネタにしている。


「浪曲社長」を自作したことからもわかるように浪曲好きで、木村若衛に弟子入りまでした[20]


副業
として伊豆長岡に「三遊亭」というしゃぶしゃぶ店を経営していた。「中沢家の人々」によれば、この店は自分の4番目の弟に仕切らせていたという。


芸者好きで、後妻・令子は伊豆長岡の芸者で、亡くなった前妻・和子は向島の芸者だった。ちなみに、ふたりの名前をあわせると「令和」になる。

芸歴
1945年9月∶二代目三遊亭円歌に入門、前座名「歌治」。

1948年∶二ツ目昇進、「二代目三遊亭歌奴」を襲名。

1958年∶真打昇進。

1970年∶「三代目三遊亭圓歌」を襲名。

1971年∶「三味線栗毛」により文部省芸術祭優秀賞受賞。

1987年落語協会副会長就任。

1992年∶浅草芸能大賞受賞。

1996年∶落語協会会長に就任。

2006年∶最高顧問に就任。

2017年4月∶死去。

出演
テレビドラマ
アイフル大作戦

赤い衝撃(1976年)

悪魔くん - 山田春吉 役

大奥(フジテレビ) - 佐田兵助

おんなの家(1974年)

・元旦ドラマスペシャル・初春物語(日本テレビ)

ザ・ガードマン 第334話「荒野のカー・アクション殺人」(TBS / 大映テレビ室、1971年) - スタントカーショー司会 役

シークレット部隊(1972年)

太陽野郎(1967年)
晴のちカミナリ(1989年)

窓からコンチワ(1967年)

燃える兄弟(1972年)

夜明けの刑事 第78話「現代・四谷怪談」(1976年、TBS / 大映テレビ) - 質屋の店主 役

映画
羽織の大将(1960年、東宝

三等兵親分(1966年、東映

落語野郎 大脱線(1966年、東宝)

落語野郎 大馬鹿時代(1966年、東宝)

落語野郎 大爆笑(1967年、東宝)

落語野郎 大泥棒(1967年、東宝)

喜劇急行列車(1967年、東映)

爆笑野郎 大事件(1967年、東宝)

濡れた逢いびき(1967年、松竹

喜劇 団体列車(1967年、東映)

コント55号と水前寺清子の神様の恋人(1968年、松竹)

コント55号と水前寺清子のワン・ツー・パンチ 三百六十五歩のマーチ(1969年、松竹)

喜劇 いじわる大障害(1971年、日活

陽のあたる坂道(1975年、東宝) - 清吉 役

戦争と青春(1991年、松竹)

詳しいことは、『三代目・三遊亭圓歌ウィキペディア』をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E9%81%8A%E4%BA%AD%E5%9C%93%E6%AD%8C_(3%E4%BB%A3%E7%9B%AE)
(wikiより)

0023b 三代目・三遊亭圓歌

⇧ 三代目・三遊亭圓歌


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 上から見ると『 米の文字 』に見える墓石です。

3代目桂 米朝(かつら べいちょう、1925年大正14年)11月6日 - 2015年平成27年)3月19日)は、日本落語家。本名、中川なかがわ きよし出囃子は『三下り鞨鼓』、『都囃子』[1]俳号は「八十八やそはち[2]。所属は米朝事務所。 現代の落語界を代表する落語家の一人で、第二次世界大戦後滅びかけていた上方落語の継承、復興への功績から「上方落語中興の祖」と言われた。


関東州満州大連市生まれ、兵庫県姫路市出身。1979年(昭和54年)に帝塚山学院大学非常勤講師を務めた。1996年(平成8年)に落語界から2人目の重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定され、2009年(平成21年)には演芸界初の文化勲章受章者となった。


若い頃から尼崎市武庫之荘に在住し[3]、同町の発展や景観維持などにも貢献していた[4][5]

生涯
生い立ち
1925年関東州大連普蘭店(現中華人民共和国遼寧省大連市普蘭店区)に生まれた。4歳のころに奉天(現瀋陽)ヘ転居。実家は兵庫県姫路市の九所御霊天神社の神職であり[6]、祖父の死去に伴い、父が1930年に実家を継承するために一家揃って姫路に帰郷した。米朝自身も上京前に周囲の勧めもあって神職の資格を取得しており、落語家になる前には実家の神社の禰宜(ねぎ)を務めたこともあったという[7]。幼少時代から落語浪曲に親しみ、父や演芸好きの叔父に連れられて西花月亭南地花月にもよく通っていた。

上京、正岡との出会い
旧制姫路中学(現在の兵庫県立姫路西高等学校)卒業後、1943年、大東文化学院(現大東文化大学)進学のため上京。在学中、作家であり落語・寄席研究家でもある正岡容(蓉)主催の珍しい落語会を見たことを機に正岡に入門。正岡一門の一番弟子となった。正岡を通じ5代目笑福亭松鶴や、大阪の映画館主の息子であった矢倉悦夫(のちの3代目桂米之助)と知り合いとなった。

太平洋戦争終りの前後
1945年2月に応召し、入隊するが急性腎臓炎に倒れて、3月には地元の陸軍病院に入院。三田の療養所に転院の後、8月12日に退院し、姫路の実家で太平洋戦争の終結を迎える。この頃、慰問で病院に訪れた橘ノ圓都と出会うことになる。大学には復学せず、神戸市の神戸生活用品商事で会社員となり一介の落語愛好家として落語会や素人落語の上演会を主催するなど、上方落語復興に力を入れていた。[8]

本格的に落語家へ

矢倉が3代目桂米之助となったことが縁で、後に師匠となる4代目桂米團治に教えを請う機会が生じた。この時に「高津の富」を教わる。


やがて、師・正岡の「いまや伝統ある上方落語は消滅の危機にある。復興に貴公の生命をかけろ」との言葉を受け、本格的に落語家を志すようになり、1947年9月に会社勤めをしながら米團治に入門。3代目桂米朝を名乗る[9][10]。一旦勤めを辞めて米團治宅の内弟子となるものの親戚から叱責を受け、姫路市内の広畑郵便局員として1年ほど勤務した[11]。その後、師・米團治の死に遭い、落語のみに精進する事を決意する。

初舞台
戎橋松竹で初舞台後、長年千土地興行(後の日本ドリーム観光)に所属し、千日劇場を本拠に道頓堀角座うめだ花月に出演したが、1968年3月以降はフリーとなり、ホール落語、独演会、一門会を中心に活動するようになる。ラジオパーソナリティーを務めていた近畿放送の「天壇ゴールデンリクエスト」の縁で1966年7月16日、初の独演会「米朝 スポットショー」を京都府立勤労会館で開催、その流れで10月25日に現在でも続く桂米朝落語研究会をスタート。1974年、千土地時代の担当マネージャーを社長に据え芸能事務所米朝事務所を設立。現在一門の多くがここに所属する。

テレビ出演と落語研究家活動
1958年頃には朝日放送専属となり、放送タレントとしても、1960年代以降は、『ハイ!土曜日です』、『お笑いとんち袋』(関西テレビ)や『味の招待席』、『和朗亭』(朝日放送)など多数の番組に出演して大人気を博した。一方で、落語研究家としても活動を行い、文献から発掘したり落語界の古老から聴き取り調査をしたりして、一度滅んだ噺を多数復活させている。彼によって復活した演目としては「算段の平兵衛」「風の神送り」「矢橋船」などがある。また上方文化の交流を深める「上方風流」を1963年から結成し「上方風流」を発行(1967年まで活動)。

上方落語四天王らの復興尽力
入門当時には衰微を来たしていた上方落語の復興を願い、共に上方落語四天王と讃えられた6代目笑福亭松鶴、3代目桂小文枝(後の5代目桂文枝)、3代目桂春団治らと東奔西走して尽力した。現在の上方落語の隆盛は米朝・松鶴らの功績であるというのが衆目の一致する処である。一言に東奔西走といっても、地方においては昭和40年代(1965年 - 1974年)であってもなお、落語に対する理解は低く、米朝が高座に上がって落語を始めても、客からは「何を一人で喋ってるんだ? 遊んでないで早く落語を始めろ!」と野次が飛んでくる有様だった。地方に於ける落語の一般的認知は複数の演者が舞台に上がり問答で笑いを取る大喜利、演芸テレビ番組の『笑点』が落語であると、その程度の認識であり、その苦労は並大抵のものではなかったのである。

文化貢献への評価
1987年4月29日紫綬褒章を受章する。1988年には上方落語協会の選挙で一旦は会長に選出されたが、当時相談役に退いていた米朝は「いまさら会長になる気持ちはない」と辞退したため、「米朝会長」は幻に終わっている[12]四天王としては唯一、会長に就任していない。1996年、落語家では5代目柳家小さんに続き2人目、上方落語界では初の重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定される。また、2002年11月3日には、演芸人として史上初の文化功労者顕彰を受ける。

晩年

2009年3月、医師から脳梗塞と診断され入院し、7月27日にも脳幹出血と診断され入院した[13]が、いずれも軽度で済み、早期に活動復帰している。同年11月3日、演芸人として史上初の文化勲章受章者となった[14]


2013年1月の米朝一門会を最後に高座から遠のき、2013年8月、肺炎のため入院。10月に退院するも、再び入院し2015年3月19日19時41分、肺炎のため死去[15]。89歳だった。諡は「中川清大人之命(なかがわきよしうしのみこと)」[16]。4月17日に日本政府は、三代目米朝が上方落語界発展に尽くした功績を讃え、没日に遡り従三位に追叙することを閣議決定した[17]


墓所は姫路市の名古山霊苑内。同市名誉市民として同霊園に築かれた「名誉市民墓」は、上から見ると「米」の字をかたどった形に石が配されている[18]

年譜
1925年関東州大連普蘭店(現中華人民共和国遼寧省大連市普蘭店区)に生まれる。旧制姫路中学(現在の兵庫県立姫路西高等学校)卒業。

1943年、大東文化学院(現大東文化大学)進学のため上京。

1944年2月に応召

1945年に入隊、病気により3月に入院、終戦直前に退院。

1947年9月に会社勤めをしながら米團治に入門。3代目桂米朝を名乗る。

1958年4月に元OSSK(大阪松竹少女歌劇団、のちのOSK日本歌劇団)の駒ひかると結婚[19]。同年12月に長男(米團治)、1960年12月に次男・三男が誕生。

1963年次代の上方文化を担う40歳以下の有志で「上方風流(かみがたぶり)」を結成。茂山千之丞、藤山寛美、大村崑、現在の坂田藤十郎や竹本住大夫とで同人誌を出版。

・1966年7月16日初の独演会「米朝スポットショー」京都会館にて開催。

 同年10月25日安井金比羅宮会館にて「桂米朝落語研究会」を開く。

1967年5月2日矢野誠一の企画で東京で初の独演会「桂米朝 上方落語の会」紀伊國屋ホールで開催。この会には安藤鶴夫、小沢昭一、永六輔立川談志ら著名人も会場に駆け付けた。この会がきっかけで米朝の名が東京でも知られるようになる。

1972年に正月と夏にサンケイホールで独演会を開催(その後も長年サンケイでは独演会を開く)。

1973年からは毎年、地元姫路市で「姫路落語会」を開催している[20]

テレビコマーシャルの出演は一切拒否していたが、『ハイ!土曜日です』でアイバンクを紹介した事が縁で、1983年放送の公共広告機構(現:ACジャパン)のアイバンクのCMに出演した。このCMは、ラジオ部門のACCグランプリ、秀作賞、タレント賞を受賞した。

1987年4月29日、紫綬褒章受章。

・1988年、上方落語協会の会長選挙に選出されるも、当時相談役に退いていた米朝は「いまさら会長になる気持ちはない」と辞退[12]

1996年、落語家では5代目柳家小さんに続き2人目、上方落語界では初の重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定される。

2002年の東京・歌舞伎座の口演を最後に一線を退く。11月3日、演芸人として史上初の文化功労者顕彰を受ける。

2007年は芸能生活60周年(米團治に入門してから数えて)であり桂米朝を祝う会なども行われ、退院以来のトリで落語『将棋小噺』を披露した。

2009年3月、医師から脳梗塞と診断され入院し、7月27日にも脳幹梗塞と診断され入院した[21]が、いずれも軽度で済み、早期に活動復帰している。同年11月3日、演芸人として史上初の文化勲章受章者となった[22]

2012年8月、数え年米寿を記念してサンケイホールブリーゼで「米寿記念 米朝展」を開催。会では石黒浩が制作した米朝アンドロイドロボットが公開された[23]。これは大阪大学石黒浩ロボット工学者)とスペシャル4Dクリエーターの遠藤慎也によって製作されたものである[24][25][26]

2013年8月、肺炎のため入院。10月に退院する。

・2015年3月19日19時41分、肺炎のため死去[27]。89歳没。同日付で従三位追叙[17]

2017年1月28日~3月20日、兵庫県立歴史博物館にて特別展「人間国宝・桂米朝とその時代」開催。企画した同館学芸員は米朝の三男。

人物
芸風及び落語への取り組み

  • 語り口調は端正で上品。容姿も端麗で人気を博した。
  • 「芸は最終的には催眠術である」が持論。お客さんを落語の世界へ引っ張り込むことを催眠術に例えている。
  • 滅びた噺の復活や当時の時代背景、風俗、流行などの研究のために多種多様な古書や文書を収蔵した書庫を自宅に持つ(孫弟子の桂吉弥曰く「米朝文庫」)。特に演目の登場人物が取る仕草の研究に余念がなく、酒席でのほろ酔いと酩酊の演じ分け(酒肴の口の運び方、酒の注ぎ方など)から縫い物の糸切りの位置に至るまで、日常生活上のさり気ない動作に徹底的なリアリティを追求している。
  • 持ちネタは多数あるが、代表的なところでは自ら掘り起こした「地獄八景亡者戯」や「百年目」、自作に「淀の鯉」(中川清時代)や「一文笛」がある。
  • 身近な存在だった実父、正岡、米團治が55歳で亡くなったので、自身も55歳で死ぬと断言していた。自らに課した55歳というタイムリミットに間に合わせるために、後進の育成に加え、書籍や音声資料による落語の記録に精力的に取り組んだ。
  • 古典落語を流暢に演じる正統派としての印象が強いが、時として艶笑落語も演じており、現在でもその音源がⅭⅮに録取され市販されている。特に「続いろはにほへとひとりでする噺篇」では、せんずり自慰などと言う卑猥な言葉も発するなど過激な内容になっている。
弟子との関わり
#主な門弟」および「米朝一門」も参照


・多くの弟子を育て、長男5代目桂米團治もその一人。特に初期の弟子には月亭可朝2代目桂枝雀2代目桂ざこばら異能派が多く、TVなどで売れっ子になっていった。むしろ後期の方に桂吉朝ら、師匠の端正な芸風の後継者と目される人材が多い。かつては芸に厳しく怒鳴ってはいたが、近年は大きな包容力で一門を育て上げた。

一門の弟子たちからは「ちゃーちゃん」と呼ばれている。5代目桂米團治の著書によると、米團治が幼少のころ、「おとーちゃん」と発音しようとして、「ちゃーちゃん」と言っていたものを当時の弟子たちがまねて使ったのが由来であるという。

・厳しい指導で知られていたが、一方では、破門者を一人も出さなかったとされ、人情味のある一面も見せていた。枝雀は「自分やったら兄弟弟子の内半分位は破門にしていただろう。」と述べたことがあるという。

家族

・中川絹子夫人は元OSSK(大阪松竹少女歌劇団、のちのOSK日本歌劇団)の「駒ひかる」である。十数年パーキンソン病で静養していたが2014年に死別[19]長男は5代目桂米團治。次男(高校の保健体育教諭から教頭)と三男(博物館の学芸員)は双子で、米朝一家と同じく武庫之荘に住んでいた大村崑の息子とは同級生。

・長男・5代目桂米團治によると「父の中川清」は、とりわけて子煩悩でも、教育熱心でもなく、かといって目立った諍いもなく、家に居ても丹念に落語の資料に目を通している父親で父子としては至って普通の淡白な関係であった。ただわからないことを訊ねると子供相手であっても順を追って理路整然と説明するなど、父親と本業の両面が出ていた。舞台での流暢な喋りと温厚そうな雰囲気の反面、TVや新聞を見て気に障ることがあると、途端に虫の居所が悪くなり、怒声や剣幕こそ出さないものの、険しい顔で所作が乱暴になり険悪な雰囲気を撒き散らすなど、子供にとっては居心地の悪くなってしまう気難しい面も持っていた。

その他

大塚徹が処女詩集「古城幻想」出版の寄付を募った際には、中川清名義で資金ではなく清酒一升を寄付した[28]

・ニュースなどで北朝鮮と米国を扱ったいわゆる「米朝問題」を聞くと「自分とは無関係なのにドキっとする」という。

・晩年、「稽古をつけていただけないでしょうか」と米朝の自宅に電話をいれたという桂歌丸は、米朝の訃報を聞き、「博学であることは言うに及ばず、我々は落語界の『百科事典』を失ったに等しい」と悼んだ。

幻の桂三木助の襲名

朝日放送社員の松本昇三(当時)が、香川登志緒(のちの香川登枝緒 作家)、三田純市(作家)とともに、米朝に対し、3代目の死後空き名跡となっていた「桂三木助」の襲名を提案した。米朝の芸風や風貌が2代目に似ているとされることがその理由だった[29]


やがて、3代目三木助の師匠であり落語芸術協会の会長であった6代目春風亭柳橋[30]、3代目が心酔していた落語協会8代目桂文楽[30]、3代目の遺族、在京の各寄席の席亭、安藤鶴夫久保田万太郎、テレビ局関係者の承諾がまとまったが、8代目文楽から[要出典]「襲名披露は角座で行うこと」との条件が出された。当時、角座は原則として松竹芸能が芸人の配給や番組の編成を取り仕切っており、一方の米朝は千土地興行所属であった(千土地と松竹との関係から定期的に角座に出演はしていた)。当時の上方芸界の慣習上、角座で襲名披露を行うためには、松竹へ移籍することが必須条件であった[31]。この話を聞いた米朝は「大きな名前がほしいために、今までお世話になって来た千土地さんを裏切ることは、わたしの良心が許しまへん[30]」と、断固拒否する姿勢を示した。その後、柳橋と文楽を呼び寄せて話し合いの場が設けられるなど、米朝への説得が続けられたが、松本の朝日放送退社などで襲名計画は立ち消えとなった。米朝自身は著書で「文楽さんにも私にも知らされていなかったが(中略)襲名を条件に私をある興行会社の専属にしようという計画だった」「三木助の名前で誘い込もうというのである。それを知った途端に私の思いは冷めた」[10]と回想している。


その後「三木助」の名跡は、3代目の実子が4代目を、3代目の孫で4代目の甥が5代目を襲名した。なお、米朝は4代目に稽古を付けていたことがある。


結局、米朝は改名・襲名を生涯行わなかった。

詳しいことは、「三代目・桂米朝ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%82%E7%B1%B3%E6%9C%9D_(3%E4%BB%A3%E7%9B%AE)
(wikiより)

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三代目・桂米朝

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上から見ると『 米の文字 』に見える墓石の配置です。

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囲碁界に尽くされた木谷實九段は昭和十四年から昭和五十年まで、この地の自宅を木谷道場として多くの内弟子を育てた


現在、弟子、孫弟子を合わせると五百段を超える棋士達が、その遺志を継いで活躍中である
(案内板より)

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初代 桂 小南(しょだい かつら こなん、1880年5月24日 - 1947年11月21日)は、日本の落語家。本名: 岩田 秀吉

略歴

東京府東京市下谷区生まれ。幼少時に大阪に移り、1890年5月の11歳の時、2代目桂南光(後の桂仁左衛門)に入門。前座名として小南を名乗った(1907年に2ヶ月だけ桂小南光を名乗ったのを例外に生涯改名をしなかった)、瓢亭で初舞台。18歳で真打昇進。1905年、師・南光の後を追い上京し、三遊派に所属。しかし、同年に始まった第一次落語研究会には参加せず、別行動を取っている。


東京で上方落語はなかなか理解されなかったため、2世曽呂利新左衛門が曲書き(踊りながら和歌等を書く芸)で喝采を得たのをヒントに、「松づくし」(2代目笑福亭松鶴の項を参照)や「電気踊り」(豆電球を体中に巻きつけて常磐津の『奴凧』のほか、『玉兎』『勢獅子』『夜這星』などを踊るのだが、舞台上に陰陽の電極板が仕掛けてあり、これを裏に金属板の入った足袋で踏むと、体中の電球が点滅する、というもの。感電の危険性があり、命がけの芸でもあった)といったケレン芸で名を売った。また、背後の幕に昇降機が隠してあり、これに背中の金具を引っ掛けて、天井へ向かって上がってゆく、という仕掛けを用いたり、映画の連鎖劇をヒントに一本のネタの前半は口演し、後半は撮影したフィルムを高座で上映するという手法を用いたりもした。これらの芸は、「八丁荒らし」として同業者に恐れられた。


後に3代目三遊亭圓橘月の家圓鏡(のちの3代目三遊亭圓遊)らと三遊分派を設立。しかし、座組に変化がなく、次第に客に飽きられ、同業者の信用も失った。ついには多額の借金を背負い、地方巡業に出たが、失敗の連続で帰阪。しかし、その人気から見捨てられることはなく、再び上京し、睦会から東京落語協会へ移るなど、所属を変えながらも、最後まで上方落語を演じ続けた。


1947年
11月21日に没した。67歳没。墓所は谷中興禅寺


弟子には桂南馬(のちの7代目都家歌六)、桂一奴8代目桂文楽らがいる。

芸風

3代目桂米朝は、東京で下宿生活を送っていた際、初代小南の追っかけをしており、その際の見聞を書き留めている。


「小南の芝居噺は私も大分見ている。もはや老人ではあったが、何とも言えぬ柔らかさと華やかな雰囲気を持った人で、かつて寄席のスター的存在であったことは、げに尤も…とうなずけるものがあった」「長い顔で大きな眼で、ニコリと笑うと実に愛嬌があった。ゆっくりとした大間なしゃべりで関西弁でも東京人にもよく解った」「初代桂小南はたしかに巧い人であった。ひと口に言って、実に間の良い人であったと言える[1]


「私はこの人を追いかけたおかげで、短時日にいろんなものを学べて幸せであった[2]

エピソード
・ある時、さる華族子爵であったという)出身の未亡人と、亡夫と似ているという理由で深い仲となり、一人娘を生した。汽車で移動する時などは、駅長が見送りに来るため、周囲の者の驚きを誘ったという。


・当時珍しかった電話をいち早く自宅に設け、電話番号の下谷の一八二四に、得意の『鏡山』から思い付いた「いはふし」という振り仮名を付けた名刺を作るなど、ハイカラな面を持つ人でもあった。


大西信行は、戦時中に小沢昭一と友人の3人で神楽坂の寄席に行き、初代小南の『児雷也』を見ている。ネタの最中に空襲警報が鳴り、3人は慌てて逃げたという[3]


・2代目山遊亭金太郎は、8代目文楽が持っていた「右女助」の名跡を引き継ごうと文楽と交渉に臨んだところ、文楽に見込まれ、「小南」が譲られることとなった(2代目桂小南)。

脚注
1. 『上方落語ノート』pp.104-108
2. 『続・上方落語ノート』p.111
3. 2008年11月16日米朝よもやま噺』(ABCラジオ

出典
・古今東西落語家事典(平凡社、1989年)

・上方落語ノート(桂米朝著、青蛙房、1978年)

・続・上方落語ノート(桂米朝著、青蛙房、1985年)

・落語案内 楽屋への招待(桂小南著、立風書房、1982年)


外部リンク
桂小南:作家別作品リスト - 青空文庫
(wikiより)

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三遊亭 圓遊(さんゆうてい えんゆう)は落語家名跡である。三遊派の系統から生まれた名である。当代は5代目。 

初代とされている圓遊は本来は3代目である。過去2人の圓遊は売れなかった訳ではなく、きちんと名を残した落語家が名乗っているのだがこの「3代目」圓遊が珍芸ステテコ踊りで大人気を博し、あまりにも売れたためこのステテコの圓遊が初代ということで完全に定着した。

〇 三代目
3代目 三遊亭 圓遊(明治11年(1878年8月18日 - 昭和20年(1945年3月17日)は落語家。本名は伊藤いとう 金三きんぞう

略歴
・東京日本橋蠣殻町の相場師の子。

1899年8月 - 初代三遊亭小圓遊に入門。小蔵を名乗る。

1900年頃 - 4代目麗々亭柳橋門下に移る。麗々亭柳福と改名。

1901年頃 - 小圓遊門下に戻り、三遊亭小傳遊と改名。

1904年3月 - 師匠小圓遊が亡くなり、初代三遊亭遊三門下に移り同名で真打に昇進。

1907年7月 - 2代目三遊亭三福を襲名。

1913年8月 - 三遊亭金三に改名。

1914年5月 - 亭号を扇遊亭に改める。

1917年1月 - 4代目橘家圓蔵の内輪となり、2代目月の家圓鏡を名乗る。

1925年4月 - 3代目三遊亭圓遊を襲名。

来歴・人物
器用な人物で、幇間を一時期兼業していた。晩年は幇間一本でやっていくことを決意し初代圓遊の遺族に圓遊の名跡を返還しようとしたが、圓遊の名を離さない方がよいと言われ「櫻川圓遊」や「柳橋の圓遊」の名で柳橋において幇間をしていた。


昭和20年(1945年)3月の空襲で焼け出されたので疎開しその疎開先で死去している。墓所は西日暮里啓運寺。戒名は「悟道院圓遊日金信士」。


得意ネタは『成田小僧』『野ざらし』『明烏』『転宅』『紙屑屋』など。


妻は初代三遊亭歌奴の門下で色奴と名乗っていた女流落語家であった。戦後は実娘小奴と親子コンビを結成し、立花家色奴・小奴として日本芸術協会に所属し色物で高座に上がっていたが廃業後赤坂で裕福に芸者をしていた。


小奴の3歳年上の兄は太神楽海老一菊蔵海老一海老蔵門下)であったが芸が乏しく若年で廃業、早世した。

弟子
三遊亭福よし

3代目柳亭市馬

(wikiより)

「悟道院円遊日金信士」。

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この石碑は落語界の一派、柳派の記念碑と考えられます。


江戸時代、睦会と称して運営されていた落語は、明治 17年 ( 1884年 )三遊・柳派に分裂。


同 22年 ( 1889年 ) には、三遊派に記念碑「三遊塚」が区内の木母寺に建立されました。

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六代目・文治碑


桂家元 故六世文治之碑  


江戸落語の名家文治翁の碑の成り立ちを喜びて 「名に残る芝居噺や涼ミ台」 三代目柳家小さん ( 大正 4年 7月建立 )


石碑裏面は、世話人・三笑亭可楽、桂文楽、翁家さん馬の名前が刻されています。


〇 六代目・桂文治
6代目桂 文治(かつら ぶんじ、天保14年(1843年) - 明治44年(1911年2月16日)は、落語家。本名は桂文治(幼名は由之助)。弟は4代目 桂文之助、実の息子は5代目 桂文之助を名乗った。

来歴
4代目 桂文治の長男[1]寛永3年(1850年)、8歳の時に幼名の由之助で高座に上がった。友禅の振袖姿で小咄を演じた後舌の四竹を打ちながら踊ったという。初代文治の長女でもある祖母・お幸の後ろ盾により万延2年正月(1861年2月)に3代目 桂文楽と名を変え芝居噺の看板を上げた。さらに慶応2年(1866年)に6代目桂文治を襲名した。芝居噺は本格的で踊りを西川寅之助に習い、噺の基本は3代目金原亭馬生から仕込まれた。この頃江戸では『下谷上野さねかつら 桂文治は噺家で』という江戸しりとり唄が流行した。


明治8年(1875年)、「落語睦連」が出来た時、頭取を3代目麗々亭柳橋とし三遊亭圓朝と共に補佐役となった。

明治33年(1900年)には頭取に返り咲いた。


明治中期以降は人気が落ち、明治41年(1908年)11月に上方に出勤した際に2代目桂文團治に一代限りの条件で文治の名を譲り、7代目桂文治を襲名させ、自らを3代目桂大和大掾と改めた、翌年2月には3代目桂楽翁を名乗り3月には中風で倒れ引退した。明治44年(1911年)2月16日、死去した。享年69。碑は江東区法性寺。墓所は父・4代目文治と同じ光圓寺。


文治の名跡が江戸系統に戻るのは、6代目の死から18年後に養子(後妻)の3代目 桂大和が8代目桂文治を襲名した時である。

人物
顔は面長で顎がしゃくれていたことから「ちりれんげ」とあだ名された。

得意ネタ
『おさん茂兵衛』『西郷隆盛』『高橋お伝』『上野戦争』『桜田の雪』などの正本芝居噺や『小烏丸』『逸見十郎太』『猫忠』といった一席物芝居噺、『唐茶屋』『縮み上り』『団子平』『親子茶屋』『清正公酒屋』『おすわどん』『七段目』といった古典も得意とした。

弟子
喜久亭寿楽(本名:倉繁善太郎)

4代目 立川談志(本名:中森定吉、「釜掘りの談志」)

4代目 桂文楽(「デコデコの文楽」)

桂文左衛門

6代目 三笑亭可楽

8代目 桂文治(文治の養子)

他多数。

脚注
1. a b 桂文治 (6代目) 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」コトバンク

出典
1. 『古今東西落語家事典』(平凡社、1989年)
(wikiより)

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三遊亭 圓馬(さんゆうてい えんば)は、落語家名跡。当代は5代目。三遊派系統で初代以前に初代三遊亭圓生の門人に花枝房圓馬の名が確認されている。

4代目 三遊亭 圓馬1899年1月18日 - 1984年11月16日)は。東京府東京市小石川区(現:東京都文京区)出身の落語家。生前は落語芸術協会所属(晩年は同協会相談役)。本名は森田 彦太郎。出囃子は『圓馬ばやし』。


父は落語家あがりで奇術や踊りなどを演じた三遊亭左圓太(後の月の家満月、森田天賞、本名は森田喜太郎、1929年12月22日没)であり、弟は大阪の曲芸師・森幸児・静児の森幸児(1906年 - 1985年?)。7歳の時に父と共に大阪に移り住む。1906年1月父の門下で(一説に2代目圓馬)に入門し、圓童を名乗り初舞台。その後父が3代目桂文三の門下になって三太郎を名乗ったので自身も文三の元で小三(呼称はこさん、しょうざ、しょうぞう、こぞうなど諸説あり)となった。


1917年
に2代目圓馬の門下で三遊亭とん馬と改名し二つ目。1923年2代目圓馬が圓馬の名跡を3代目に譲った際、3代目の預かりとなる形で移籍。1923年4月真打格昇進し、3代目三遊亭小圓馬を襲名。以降、吉本興業の若手落語家として売り出す。このころはよくに女性にモテてサイン帳とサインペンを持った女性が列を作って自宅に押しかけていたという。洋服で高座に上がるなど新しいことにも挑戦した。大阪に在っても師匠同様東京落語を演じた。


1943年
師匠圓馬の病気の悪化もあり、師匠の薦めで吉本を辞めて東京へ移籍し修行を始める。1947年4月に4代目圓馬を襲名し上野鈴本演芸場で襲名披露をした。以降、芸術協会の重鎮として活躍。落語は上方ネタ、東京ネタなど多く。父親同様に余芸の踊り、ほかに二人羽織りも得意であった。主な得意ネタに『淀五郎』『宮戸川』『鼻ほしい』など。


主な受賞に勲五等双光旭日章など。


1984年11月16日、東京都中野区の小原病院で老衰のため死去、享年85歳[1]。墓所は台東区東淵寺。戒名は「三遊亭圓馬廣舌居士」。

弟子
4代目三遊亭小圓馬

3代目三遊亭遊三

3代目橘ノ圓

三遊亭圓太

3代目三遊亭圓輔

三遊亭若馬

5代目三遊亭圓雀

4代目三遊亭圓左

三遊亭左圓馬

三遊亭扇馬(圓馬の死後は小圓馬門下に移籍)
(wikiより)

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中川 亀三郎(なかがわ かめさぶろう、1837年天保8年) - 1903年明治36年)10月13日)は、囲碁棋士江戸(東京)生まれ、本因坊丈和の三男で、幼名は葛野長三郎、本因坊秀和門下。明治になって幕府による家元制が崩壊した後、村瀬秀甫(後の本因坊秀甫)らと最初の囲碁結社である方円社を設立し、秀甫没後は2代目方円社社長となる。八段準名人

2代目中川亀三郎(石井千治の項で記述)と区別して初代中川亀三郎とも言う。

経歴
武蔵国・江戸上野車坂下に生まれる。長兄は水谷順策(後の十二世井上節山因碩)、姉の花子は本因坊秀策妻となる。姓の中川は叔父の家を相続したもの。11歳で本因坊秀和に入門。16歳で初段。安政4年の本因坊秀策の因島帰郷に同道。26歳で五段、29歳で六段。維新後の明治2年(1969年)、本因坊跡目秀悦、林秀栄(後の本因坊秀栄)、安井算英、小林鉄次郎、吉田半十郎らを自宅に招いて例会(六人会)を始める。明治6年(1873年)、小林鉄次郎と十番碁。明治9年(1876年)、林秀栄と十番碁。明治11年(1878年)、郵便報知新聞に初めて囲碁の棋譜として中川-高橋杵三郎戦が掲載される。


明治12年(1879年)4月、 秀甫、小林鉄次郎、高橋周徳らと研究会方円社を作り、副社長となる。秀和の死後は黙許七段とされていたが、明治14年(1881年)に方円社として正式に、秀甫の八段昇段とともに七段昇段。しかしこの後の対局で、秀甫に敗れて先二に打込まれる。ただし秀甫は2子局は打たなかったという。この年から置かれた方円社の常置指南役の一人を務める。明治16年(1883年)に方円社が段位制から級位制に移行した際には、秀甫の2級に次ぐ3級とされる。


明治19年(1886年)に本因坊秀栄が本因坊を秀甫に譲るが、同年秀甫が没し、秀栄との間で本因坊継承のための争碁を申し込まれたが、これを辞して2代目方円社社長となる。この後は後進の指導に尽力した。明治22年(1889年)、今井金江茂と十番碁。明治32年(1899年)に社長を引退し、巌崎健造が3代目社長となる。同年八段準名人に推される。この後に打った田村保寿(後の本因坊秀哉)との碁が絶局となった(田村先番2目勝)。


明治36年(1903年)死去。門下に雁金準一。内弟子でもあった雁金を娘婿に迎える意志があったというが、成らなかった。遺言により石井千次を中川家後継ぎとした。棋風は、若い頃は非力であったが、25、6歳頃から手の付けられない腕力家になり、秀策が乗り移ったとも、父丈和に似てきたとも言われた。

著作
・『囲碁大鑑 (上)(下)』日昌館 1893年(小林鉄次郎、 巌埼健造と共著)

・『囲碁段級人名録 』方円社 1894年

参考文献
瀬越憲作『囲碁百年』平凡社 1968年

・藤井正義『明治・大正名棋家集1 (現代囲碁大系第1巻)』講談社 1981年
(wikiより)

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都筑米子 ( つづき - よねこ )     
明治 5年 ~ 昭和 12年 5月 30日 ( 1872 - 1937 )

明治大正期の女流棋士 4段。

旧姓、村田。

茨城県古河出身。

棋士都筑仙芝の養女となり、14歳のころ碁を覚える。

本因坊秀栄・梅主長江らに師事、明治 23年 ( 1890 ) 初段。

大正 14年 ( 1925 ) 4段。

この間、明治 40年 ( 1907 )「女碁客大手合」( 毎日電報 ) で優勝。

また、喜多文子と「囲碁同志会」に参加。

米子は、純然なレッスンプロではなく、方円社定式手合にも参加し、ほぼ五分の戦績であった。

一時は、喜多文子のライバルの目される。

生涯独身で、”女将軍”と呼ばれた。

弟子に、吉田志津がいる。66歳没。追贈 5段。

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都筑仙芝 ( つづき - せんし ) / 都筑仙子     
嘉永元年 ~ 明治 34年 1月 30日 ( 1848 - 1901 )

明治期の囲碁棋士 5段。

妻、松子。54歳没。

正面「都筑仙芝/妻 松子 墓」。

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初代 三遊亭 圓生(さんゆうてい えんしょう、1768年明和5年) - 1838年4月15日天保9年3月21日)は、落語家。通名、橘屋 松五郎


多くの同業者から尊敬され浅草堂前に住んでいたために「堂前の師匠」「堂前のおじさん」などと呼ばれた。

来歴
江戸神田の生まれ、元は芝居の木戸芸者。最初は東亭八子門下で多子、のちに初代三笑亭可楽門下で東生亭世楽となったとされる。1797年4月に初代東亭鬼丸の門下で山遊亭猿松、初代烏亭焉馬(立川焉馬)の門下で立川焉笑を経て、三遊亭圓生と名乗った。


鳴り物入りの芝居の台詞回しや声色を得意とした。


門下には初代三升亭小勝2代目圓生初代古今亭志ん生花枝房圓馬初代山松亭圓喬、圓桂(のちの初代坂東政吉)、三遊亭圓遊(のちの初代金原亭馬生)、三遊亭圓盛(のちの初代司馬龍生)、初代三遊亭三生、初代三遊亭南生、傳生(のちの初代司馬龍斎)、2代目竹林亭虎生らがいた。

出典
・『ご存じ古今東西噺家紳士録』(CD-ROM、APP、2005年)

三遊亭円生(初代) とは - コトバンク 2013年4月12日閲覧。

関連項目
三遊亭圓生
(wikiより)

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三遊亭 圓朝(さんゆうてい えんちょう)は、江戸東京落語三遊派大名跡円朝とも表記。
1. 初代三遊亭 圓朝は、三遊派の総帥、宗家。三遊派のみならず落語中興の祖として有名。敬意を込めて「大圓朝」という人もいる。二葉亭四迷が『浮雲』を書く際に圓朝の落語口演筆記を参考にしたとされ、明治の言文一致運動にも大きな影響を及ぼした、現代の日本語の祖でもある。本項目で詳述。
2. 二代目三遊亭 圓朝になることになっていたのは、初代 三遊亭圓右。「名人圓右」の呼び声も高く、明治期から大正期に活躍した。圓朝の二代目を襲名することが決定したものの、一度も披露目をせずに病のため亡くなった。そのため「幻の二代目」とも称される。→三遊亭圓右の項目を参照のこと。


初代
初代三遊亭 圓朝(さんゆうてい えんちょう)、(天保10年4月1日1839年5月13日) - 明治33年(1900年8月11日)は、江戸時代末期(幕末)から明治時代に活躍した落語家。本名は出淵 次郎吉(いずぶち じろきち)。


概要
落語家であり、歴代の名人の中でも筆頭(もしくは別格)に巧いとされる。また、多くの落語演目を創作した。


滑稽噺(「お笑い」の分野)より、人情噺怪談噺など、(笑いのない)真面目な、(いわば)講談に近い分野で独自の世界を築く。圓朝の噺が三遊派のスタイル(人情噺)を決定づけた。


あまりの巧さに嫉妬され、師匠の2代目 三遊亭圓生から妨害を受けた。具体的には、圓朝が演ずるであろう演目を圓生らが先回りして演じ、圓朝の演ずる演目をなくしてしまうのである。たまりかねた圓朝は自作の演目(これなら他人が演ずることはできない)を口演するようになり、多数の新作落語を創作した。


初代 談洲楼燕枝とは年齢が1歳下のライバルであった。
また怪談噺の参考とした幽霊画のコレクターとしても知られ、遺されたコレクションは全生庵蔵として圓朝まつりで毎年公開されているほか、2015年7月22日から9月13日までの期間で東京藝術大学大学美術館でも展覧会が行われる。


来歴・略歴

※日付は明治5年までは旧暦
・天保10年(1839年)4月1日:初代 橘屋圓太郎(初代圓橘)の息子として江戸湯島切通町で生まれる。母の名は、すみ。


弘化2年(1845年3月3日:初代 橘家小圓太の名で江戸橋の寄席・「土手倉」で初高座。


・弘化4年(1847年):父・圓太郎と同じく二代目 三遊亭圓生の元で修行する。


嘉永2年(1849年):二つ目昇進。


・嘉永4年(1851年):玄冶店の一勇斎歌川国芳の内弟子となり、画工奉公や商画奉公する。


安政2年(1855年3月21日圓朝を名乗り真打昇進。


・安政5年(1858年):鳴物入り道具仕立て芝居噺で旗揚げ。


元治元年(1864年):両国垢離場(こりば)の「昼席」で真打披露。


・明治元年(1868年):長子の朝太郎誕生。母は御徒町住の同朋倉田元庵の娘、お里。


・明治5年(1872年):道具仕立て芝居噺から素噺に転向。


・明治8年(1875年):六代目 桂文治と共に「落語睦連」の相談役に就任。


・明治10年(1877年):陸奥宗光の父で国学者伊達千広による禅学講義の席で知己となった高橋泥舟により、義弟の山岡鉄舟を紹介される。


・明治13年(1880年9月24日:山岡鉄舟の侍医である千葉立造の新居披露宴の席で、同席していた天龍寺の滴水和尚から「無舌居士」の道号を授かる[1]


・明治19年(1886年1月8日井上馨の共をして身延山参詣。また井上の北海道視察(8月4日より9月17日)にも同行した。


・明治20年(1887年4月26日:井上馨邸(八窓庵茶室開き)での天覧歌舞伎に招かれ、また井上の興津の別荘にも益田孝らと共に招かれている。


・明治22年(1889年
 ・4月:向島木母寺境内に三遊派一門43名を集め、三遊塚を建立。初代および二代目 三遊亭圓生を追善記念する。
 ・6月30日:各界人士を集めて、初代・二代目 圓生の追善供養のための大施餓鬼会を施行し、一門の43名が小噺を披露し、記念誌を配布した。
 ・朗月散史編『三遊亭圓朝子の傳』が三友舎から出版される。圓朝自身の口述に基づく自伝。


・明治24年(1891年)6月:席亭との不和で寄席の出演を退き、新聞紙上での速記のみに明け暮れる。


・明治25年(1892年):病の為に廃業。


・明治30年(1897年)11月:弟子の勧めで高座に復帰。


・明治32年(1899年
 ・9月 発病。
 ・10月 木原店で演じた『牡丹燈籠』が最後の高座となる。
 ・不行跡により朝太郎を廃嫡処分とする。


・明治33年(1900年8月11日午前2時:死去。病名は「進行性麻痺」と「続発性脳髄炎」。法名は「三遊亭圓朝無舌居士」。墓は台東区谷中五丁目4番7号の臨済宗国泰寺派全生庵にあり、東京都指定旧跡となっている。


詳しいことは、「初代・三遊亭圓朝ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E9%81%8A%E4%BA%AD%E5%9C%93%E6%9C%9D
(wikiより)

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初代・三遊亭圓朝

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四代目・五明楼玉輔 ( ごめいろう - たますけ ) 
安政 3年 ~ 昭和 10年 5月 24日 ( 1856 - 1935 )


落語家。

本名、原新左衛門。


初名、古今亭志ん好。前名、古今亭志ん多 ( 新太 )・古今亭今朝・3代目五明楼春輔。

徳川直参旗本の家に生まれる。


維新後は、商人になるつもりで色々とやるが長続きせず、明治 8年 ( 1875 ) 2代目古今亭志ん生に入門し、志ん好と名乗る。


明治 9年 ( 1876 ) 西南戦争に従軍。

3年の兵役を終えた後、志ん多と改名。

この頃、「カッパの志ん多」と呼ばれ人気ものとなる。


明治 25年 ( 1892 ) 頃今朝と改名する。


明治 30年 ( 1897 ) 頃大阪へ移り、三友派などに出演。


明治 38年 ( 1905 ) 3代目五明楼春輔となり、明治 39年 ( 1906 ) 11月 4代目五明楼玉輔を襲名する。

晩年は、「小言念仏」を十八番とし、柳屋金語楼一派に籍を置いた。


門下に 5代目古今亭志ん生。

子に五明樓玉の助 ( ごめいろう - たまのすけ:1905 - 1978:本名、原正治 ) がいる。

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初代 三遊亭 圓遊嘉永3年5月28日1850年7月7日) - 明治40年(1907年11月26日)は明治時代に活躍した江戸小石川小日向出身の落語家である。本名は竹内 金太郎(たけうち きんたろう)。

来歴・人物
江戸小石川小日向の紺屋「藤屋」竹内清五郎の長男として生まれる。12歳で別の紺屋に奉公に出て17歳で家業を継いだ。しかし19歳の時に病気がきっかけで家業に嫌気がさし、以前から芸事に興味を持っていたために初代三遊亭圓朝に弟子入り志願した。圓朝には弟子入りを断られるが、慶応4年(1868年)ころ、2代目五明楼玉輔に入門し、(雀家?)志う雀を名乗る。このころ新宿で一六の名で太鼓持ちをしていた時期もあるという。明治3年(1870年)、師匠が廃業したため(後に復帰)、明治5年(1872年)ころに改めて夢であった初代三遊亭圓朝門下に移り、圓遊に改名。明治13年(1880年)4月、日本橋の伊勢本で真打の昇進披露を行った。以降門弟も増え三遊派の看板で圓朝、4代目圓生、4代目桂文楽に次ぐ位置にまで活躍。三遊派では圓朝を社長、4代目圓生を頭取に副頭取を務めた。圓朝没後は三遊亭一門で確執もあり上方にも活動を広げ初代笑福亭福松の没後衰退していた三友派の看板としても活躍。日露戦争前後には不景気も重なり寄席の不入りが続き圓遊の人気も落ちその後中風で病み不遇であったが亡くなる1か月前まで高座に上がった。


大きい鼻で知られており、「鼻の圓遊」ともよく呼ばれていた。寄席において、落語の後の余興として奇妙な踊りを披露して大人気を博した。大きな鼻をもいで捨てるような振付けから「捨ててこ、捨ててこ」と言いながら、着物の裾をまくり踊る芸が「ステテコ踊り」の異名を得、このために「ステテコの圓遊」の名で呼ばれるようになった[1]。また古典落語を明治風に改作して演じた。明治時代の落語界において中心人物であった。全盛期には1日36軒の寄席を掛け持ちしたという伝説がある。


辞世の句は「散りぎわも 賑やかであれ 江戸の花(鼻)」。墓所は谷中霊園天王寺墓地。戒名は「唱行院圓遊日悟居士」。


人気ゆえに多くのSPレコードも残している。

弟子
初代圓遊は弟子の数も非常に多かった。

初代三遊亭遊三

初代三遊亭小圓遊

・2代目三遊亭圓遊(三遊亭左圓遊から、2代目小圓遊を経て襲名)

三遊亭一圓遊(後に大阪で圓遊を名乗る)

橘家圓六(橋本林蔵)

三遊亭遊林(森彦太郎)

三遊亭清遊

初代三遊亭遊輔

3代目三遊亭圓橘

三遊亭福圓遊

三遊亭遊朝(お茶兼の遊朝)

三遊亭花圓遊

三遊亭花遊

・三遊亭花遊(後の柳の小枝

3代目人情亭錦紅(元:三遊亭遊鶴)

8代目司馬龍生

三遊亭大漁

三遊亭遊寿

三遊亭遊楽


など。3代目春風亭柳朝(「初音屋」)や5代目立川ぜん馬(本名:鳥井兼吉)も一時期圓遊の門下だったことがある。


実の息子(本名:竹内 孝太郎)は15歳頃落語家として父の下に入門し三遊亭清遊を名乗っている。一時期小圓遊を名乗っていたが、技芸未熟のため取り上げられたという説もある。その後日本舞踊若柳流を興した若柳寿童の弟子となり、2世宗家家元・若柳吉蔵と名乗った。

三遊亭圓遊を扱った作品

舞台『すててこてこてこ』
吉永仁郎作。1977年発表、1982年初演[2]。明治の大名人三遊亭円朝と、弟子の「珍芸ステテコ」の三遊亭円遊、時代の流れと二人の関係を描く。


1982年1984年劇団民藝[3] 三遊亭圓朝:大滝秀治 三遊亭圓遊:梅野泰靖 演出:渡辺浩子

1997年蝉の会) 三遊亭圓朝:名古屋章 三遊亭圓遊:風間杜夫 [4] 演出:渡辺浩子

2015年可児市文化創造センター×文学座[5] 三遊亭圓朝:坂部文昭[6] 三遊亭圓遊:千葉哲也  演出:西川信廣 落語指導:三遊亭遊之介 
(wikiより)

1591  初代・三遊亭円遊

初代・三遊亭円遊

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9代目 桂 文治(かつら ぶんじ、1892年9月7日 - 1978年3月8日)は、落語家。本名は高安留吉。生前は落語協会所属。定紋は結三柏。出囃子は『野崎』。通称「留さん文治」(※襲名までは単に「留さん」)。


周囲の薦めにより前名翁家さん馬から9代目桂文治襲名時、本人は「さん馬」「産婆」のクスグリが使えなくなることと、襲名に多額の資金が必要なことから嫌がったという。彼は落語界屈指の吝嗇家として有名だった。またロセンが大きいことでも知られた。


稲荷町(現:台東区東上野)の長屋に住み、3代目柳家小さん門下だった8代目林家正蔵(後の林家彦六)とは兄弟分であり家も隣り同士と昵懇の間柄であった。なお彦六は一時、文治の最初の師匠4代目橘家圓蔵一門に在籍していたことがある。


得意ネタは、本人を地でゆくような「片棒」、初代柳家蝠丸10代目桂文治の実父)作の「大蔵次官」、「口入屋」、「小言幸兵衛」、「好きと怖い」、「俳優命日」、「岸さん」、「不動坊」、「歌劇の穴」、「宇治大納言」などである。

芸歴
東京日本橋小伝馬町の生まれ。

  ・実家は魚屋。


十思小学校を卒業。

1904年錦城中学校入学も1年ほどで退学し、蕎麦屋などの奉公に出るもそこも転々、父の魚屋を手伝いながら天狗連に出るようになる。

1915年橘家圓三(「品川の馬鹿銀」)の紹介で一門の総帥の4代目橘家圓蔵に入門し、橘家咲蔵となる。

1918年12月、7代目翁家さん馬(のちの8代目桂文治)門下に移って翁家さん好と改名する。

・後に立花家橘之助の一座に加わり巡業に出るが、御難にあい東京に帰れなくなる。

1921年

  ・大阪に流れつき2代目桂三木助門人となり桂三木弥となる。

    ・大阪時代は、その後の持ちネタとなる多くの噺を学び、また初代桂春團治に接し大きな影響をうけるなど彼自身にとって一つの転機となった。

  ・帰京。文治門下に復帰する。

・翌1922年11月、桂文七に改名するが、師匠文治との関係が悪化し止むなく小さん一門に移る。

1925年10月、真打昇進し柳家さん輔に改名。

1938年4月、前師匠文治の前名9代目翁家さん馬襲名。

・戦後は文化放送専属でラジオ寄席中継に出るようになり、その芸が認めらるようになる。

1960年4月、9代目桂文治襲名。

1972年3月、友人彦六、彦六の「天敵」と呼ばれた6代目三遊亭圓生とともに落語協会顧問就任。落語界最長老として活躍する。

1976年1月24日脳溢血に倒れる。

1978年3月8日死去。85歳没。墓所は谷中玉林寺。

奇想天外なクスグリ
「留さん文治」は、一見前師匠8代目文治を引き継いだ非常に怖そうな老大家のようだが、その芸風はひょうひょうとした軽い語り口の中に不思議な英語、微妙にアナクロな現代語を織り込んだものであった。そのため歴代の文治の流れからすると異色である感は否めないものの、寄席には絶対に欠かせない芸人であった。以下は「留さん文治」の名文句集である。


・「心中するのにサーベルもって行くやつがあるかい。バグダッドの盗賊じゃねぇんだぞ」(「小言幸兵衛」)


・「エデンの東のほうから来たんじゃねぇのかい」(「小言幸兵衛」)


・「若い頃だけですよ、女性が男性に憧憬されたり、ベストを尽くされるのは。ましてや頭の毛がホワイトとなってごらんなさい。そして筋肉に緩みが生じてくるね。アクセントロジックのZ(ゼット)が迷宮に入ってごらんなさい、だぁれも構う者はないから」(「大蔵次官」)


・「顔面にホワイトのペンキを塗り」(「大蔵次官」→10代目文治も使っていたクスグリ)


・「(ケネディ大統領が暗殺された話で)殺された場所がよくねぇ、テキサス州ってんでしょう。敵を刺すってんですからね。ダラスって町でしょ。だらすがない。殺したやつがオズワルドってので、自分の了見じゃねぇ、人におすわるとそういうことをする」


・「『悶え』っていう映画を観てると体が悶えてくる。あの映画に出てる若尾文子って女優がね。すけべったらしい目つきでね。ああいう映画、あたしゃ大好きなんすよ」(「現代の穴」)

ドケチの逸話
落語界屈指の吝嗇家であり、師匠小さんの曾孫弟子7代目立川談志(自身もケチで有名であった)、彦六の弟子林家木久扇(芸人では珍しい節約家)をして賞賛せしめるほどの「ケチの文治」として有名で、数々の「ドケチ」の逸話を残す。


・寄席の席亭に「毎週、これこれの日は早く高座に上がらせて下さい」と要請。刺身好きな文治は、アメ横の魚屋の特売日に、早く高座を上がって帰りたかっためである。

  ・なお、買ってきた魚は、当時としては珍しい電気冷蔵庫に入れていた。しかし自分のではなく、隣に住む友人の彦六宅の冷蔵庫である。


・新聞は毎日、彦六宅で読んでいた。


・呼ばれたお座敷で出されたご馳走を腹一杯食べてから寄席に回ってきたが、食い過ぎで腹痛を起こして楽屋で七転八倒しだしたので、噺家仲間が「今日は休んで帰ったらどうですか? タクシー呼びますよ」と言うと、文治はいきなりしゃんとなり「いいえ地下鉄で帰ります」


  ・仕方がないので若い前座に荷物を持たせ、地下鉄の駅まで送ってやることになった。駅で別れ際に「取っておきなさい」と文治の渡した小さな包みを、前座が後で開いてみると、中身はタクシー代よりも多額のチップだった。「ドケチ」と言われてはいたが、単なる吝嗇家ではなかった。


・普段から大切な義理事への出費は惜しまず、むしろ他人よりも多く包むことを厭わなかったという。「美学のある吝嗇家」であった。

弟子
10代目翁家さん馬(文治の養子)

7代目桂才賀(文治没後は3代目古今亭志ん朝一門に移籍)
(wikiより)

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吉田悦子 ( よしだ - えつこ )     
嘉永 5年 ~ 大正 6年 8月 15日 ( 1852 - 1917 )


明治期の天才女性棋匠。

父、日太左衛門。


尾張国中島郡中島村 ( 愛知県 ) 出身。

父、太左衛門 ( 二女 )。


11歳で初段。

大垣藩士族戸田三弥の支援により、江戸で本因坊秀和の門に入る。


6年ののち累進し囲碁 4段となる。


慶応 3年 ( 1867 ) に帰郷。


大阪で、大久保・寺島・吉井諸公と対局。

ついで上京し、岩倉・徳大寺・西郷・後藤の諸公と対局。


碑文は、女性棋匠・吉田妙子撰文・菅原時保書。

吉田妙子墓は隣りにある。

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2代目(一説には初代)桂 小文治(かつら こぶんじ、1893年(明治26年)3月28日 - 1967年(昭和42年)11月28日は、大正昭和期に活躍した落語家。本名は稲田 裕次郎。出囃子は『野崎』。

人物・生涯
現在の大阪府大阪市港区出身。1906年(明治39年)ころ、7代目桂文治門下となり9代目桂小米1915年(大正5年)、2代目桂米丸襲名。三友派若手の有望株として踊り、声色で活躍する。


1916年
(大正6年)10月、東京寄席演芸会社の招きで上京し上席に出演。当初1か月の契約だったのが、そのまま東京に定住。1917年(大正7年)5月、下席から桂小文治に改名し真打昇進。1922年(大正11年)4月、落語睦会に移籍。6代目春風亭柳橋、(俗に)3代目春風亭柳好8代目桂文楽と並ぶ「四天王」の一角として人気を得る。その後日本演芸協会、さらに日本芸術協会(現:落語芸術協会)に加わり、副会長として、会長6代目春風亭柳橋を補佐する。大阪落語の落語家でありながら、東京落語界の幹部となった。


また、小文治は東京に行ったのち、師匠文治の引退興行の時に大阪に顔を出したが、小文治を可愛がっていた4代目橘家圓蔵が引退する文治よりも小文治の宣伝をしたため、小文治の兄弟子初代桂春団治が激怒し、止めに入った小文治を蹴飛ばし、舞台上で圓蔵を罵倒した、それがゆえに大阪へ戻れなくなり、東京に骨を埋めることとなったといわれている。


2代目三遊亭百生と共に、上方落語を東京で紹介した業績は大きい。また、第二次世界大戦後は、衰亡していた上方落語復興のため、当時の若手6代目笑福亭松鶴3代目桂米朝らを支えた。戎橋松竹道頓堀角座にも定期的に出演していた(ただし、肩書きは「東京落語」であった)。


面倒見の良い性格で、他所の門を失敗した落語家を引取ったため、門人も多かった(このため、小文治一門は現在、芸術協会の大半を占め、80名の真打の中で50名以上いる)。


1961年、文部省芸術祭奨励賞受賞。


1967年11月28日死去。74歳没。墓所は寛永寺第一霊園。戒名は生前からすでに用意していた「芸能院小文治居士」。小文治没後の副会長は総領弟子5代目古今亭今輔が就任した。

芸風
始めは上方仕込の芝居噺や、江戸弁上方弁をミックスした新作落語を演じていたが、晩年は、本格的な上方落語を演じる様になった。


得意ネタは芝居噺では『加賀見山』『質屋芝居』『蛸芝居』『蔵丁稚』、音曲噺では『紙屑屋』(1961年度文部省芸術祭奨励賞受賞)『辻占茶屋』『稽古屋』。本格派の落語では『しじみ売り』『木津川』『百年目』『菊江の仏壇』『七度狐』『出歯吉』『正月丁稚』『稲荷車』『鳥屋坊主』『立ち切り』など。踊りの名手で、一席終わった後「目をごらん。」と言いながら躍る『奴さん』『名古屋甚句』などは、寄席の踊りとして絶品であった。

一門弟子
孫弟子などは小文治一門を参照。
高砂家ちび助1905年 - 1983年2月2日)。元々桂小文治門で桂小助であったが、後に高砂家吉右衛門門下。客席から「ちび助!」と言われたので、改名した。「のろまの蠅取り」などの珍芸で『花王名人劇場』などに出演。享年78。


桂木東声。元浅草の活動弁士で小文治門になったが、後に講談師を経て漫才に転じ、初代春風小柳、2代目三遊亭小柳、戦後は京乃春風と相方が変わった。


5代目古今亭今輔(元は3代目柳家小さんの弟子だったが、後に小文治一門に移籍。小文治の前名「桂米丸」の3代目を名乗る。)


2代目桂枝太郎(元は6代目春風亭柳枝の弟子だったが、後に小文治一門に移籍。)


4代目三遊亭圓遊(元は6代目雷門助六の弟子で、一時期幇間をしていたが戦争で禁止され、落語界復帰時に小文治一門に移籍。)


2代目桂小南(元は3代目三遊亭金馬の弟子だが、戦後フリーとなり、小文治一門に移籍。)


10代目桂文治


2代目桂小金治


9代目土橋亭里う馬(元は8代目桂文治の弟子だが、芸術協会移籍と共に小文治一門に移籍)


2代目文の家かしく


春風亭枝葉


三遊亭圓駒


悠玄亭玉介(幇間、桂小祐の名で小文治門下に在籍していたことがある)


宮尾たか志漫談司会者3代目柳家つばめの実子。)

出演
・あなたと私の合言葉 さようなら、今日は(1959年、大映映画)
(wikiより)

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2代目・桂小文治

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三遊亭 新朝(さんゆうてい しんちょう)は、落語家名跡


三遊派
において受け継がれてきたが、現在は空き名跡となっている。下の名の読みが同じ古今亭志ん朝の知名度が高くなった現在、三遊亭新朝の名跡が復活する可能性は極めて低い。

2代目 三遊亭 新朝(生年月日不詳 - 1892年11月29日)は、落語家。本名は山田岩吉


初代と同じく圓朝門下で、三遊亭林朝から三遊亭圓遊(本来は2代目だが、通説では代数に数えられておらず、次の「ステテコの圓遊」が初代とされている)となる。


1874年
ころに真打昇進し2代目新朝となり、師匠譲りの人情噺を演じていた。


関根黙庵
によると「佃祭」「江島屋」「越後伝吉」などがあり手堅い芸風だったという。


墓所は谷中長明寺。
(wikiより)

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明治時代に活躍した落語の名人。
(案内板より)

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3代目 古今亭 志ん生(ここんてい しんしょう、文久3年9月5日1863年10月17日) - 大正7年(1918年5月10日)は、明治・大正期に活躍した東京の落語家。本名、小瀬 岩松(後に和田と改姓)。通称「軍鶏の志ん生」(※なぜ軍鶏と呼ばれたかは説が諸説あり、当時新橋にあった「今松」という軍鶏を食べる専門店があってその今松からという説と、名前の岩松が似ていたからという説が知られている、他にも顔が軍鶏に似ていたなど)。


前身は大工であったといい、4代目立川談志の門下で4代目立川談笑を名乗って流しの声色師をしていた、

1882年
ころに2代目古今亭今輔の門で今三郎今松となりやがて屋号を変えて1888年12月に初代むかし家今松1896年5月に真打で5代目雷門助六を襲名。


1910年12月に3代目古今亭志ん生を襲名したが大正に入り病気がちになり心機一転1913年6月初代古今亭雷門と改名し、翌年1月に3代目古今庵志ん生、また翌年6月に古今庵雷門に戻し1917年8月にはまた新たに発足した睦会に所属し3代目の志ん生にと改名、この間に持病のぜんそくで休演が増え人気が下火になり改名を繰り返したとされる。一時小石川で「初音亭」という名の寄席を経営していた。


7代目市川團蔵
の声色が売りであった。


墓所は新宿区法身寺


SPレコードは歌舞伎の声色中心に残されている。


弟子に、雷門のち横目家助平(利倉常次郎)、4代目古今亭志ん生4代目古今亭志ん馬4代目五明楼玉輔6代目雷門助六雷門のち春雨家雷蔵上方に移住した古今亭のち三遊亭志ん蔵など。


実の娘は常盤津文字喜代と言い、後に上方に出向き3代目笑福亭福松の門下になり文の家たよりと改名、その後同じ一門の文の家恋しくと結婚末、相方となり漫才師になった。
(wikiより)


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〇 五代目・立川談志 恒川駒吉墓所

当山檀家恒川駒吉は安政五年に生を享ける。


明治十年頃 立川談志の門に入り、明治二十三年に談志を継ぐ。


大正五年頃 三遊亭圓右の門で三遊亭右之字となり一旦引退する。


大正十年頃 三遊亭金馬の門で三遊亭金駒になり復帰する。


大正末は金語楼一座で柳家金太郎の名で昭和十年頃まで名簿に見える。


談志の頃が最盛期で{ ねぎまの殿様 }の噺の作者として著名である。


この噺を大の得意としていた故五代目・古今亭今輔師匠は次の名言を残した。


「この噺をやる時は必ずお参りします。それがため無縁になりません。落語をひとつ残しておくと、だれかがやりますと墓参りに参ります。それが著作権で御座います。」


恒川駒吉 法号・本壽宗要信士

昭和十七年三月二十三日没享年八十四才
(碑文より)

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この佃屋白魚、もの凄い大酒飲みで横浜の万竹亭出演中、泥酔して梯子段踏み外し、転落死したそうです。


酒樽の墓石の下に眠りたいとの遺言通り、1893年、落語家同志により四斗樽の墓石が造られたそうです。


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7代目(ただし自称5代目)立川 談志(たてかわ だんし、1936年昭和11年〉1月2日 - 2011年平成23年〉11月21日)は、東京府小石川区(現:東京都文京区)出身の落語家落語立川流家元。本名、松岡 克由(まつおか かつよし)。


古典落語
に広く通じ、現代と古典との乖離を絶えず意識しつつ、長年にわたって理論感覚の両面から落語に挑み続けた。古典落語を現代的価値観・感性で表現し直そうとする野心的努力が高く評価されたが、その荒唐無稽・破天荒ぶりから好き嫌いが大きく分かれる落語家の一人でもあった。落語のみならず、講談漫談をも得意とするなど、芸域の広さで知られた。初高座は新宿末廣亭における『浮世根問』。


自ら落語立川流を主宰し、「家元」を名乗る。出囃子は「あの町この町」「木賊刈」(とくさがり)。5代目三遊亭圓楽3代目古今亭志ん朝5代目春風亭柳朝(柳朝没後は8代目橘家圓蔵)と共に「江戸落語若手四天王」と呼ばれた。

参議院議員(1期)、沖縄開発庁政務次官三木内閣において36日間)、サイバー大学客員教授などを歴任した。

来歴
入門〜真打昇進
1936年1月2日東京府東京市小石川区(現在の東京都文京区白山)に生まれる。終戦後は結婚まで大森区鵜の木に居住していた。


1952年、東京中学校卒業。先輩に安藤鶴夫牧伸二がいる。同年4月、東都高等学校を中退後、16歳で5代目柳家小さんに入門。本名の「克由」の一字を取って、柳家小よしと名乗る。1954年3月、二つ目昇進し柳家小ゑんに改名。寄席のほかに日劇ミュージックホール新宿松竹文化演芸場にも定期的に出演し、コントや漫談も披露。スタンダップコメディを演じる際には赤シャツにジーパン姿がトレードマークだった。


1962年
、3月に入門が5年遅い古今亭朝太(後の3代目古今亭志ん朝)が「36人抜き」で小ゑんよりも先に真打に昇進、さらに10月には入門が約3年遅い5代目三遊亭圓楽にも真打昇進で先を越され、生涯最大の屈辱を味わう。1963年4月、立川談志襲名し、真打に昇進。同時に小さん門下から5代目柳家つばめも真打に昇進した。


なお、松岡が立川談志の「5代目」(実際は7代目とも)を自称した経緯は次の通りである。


明治時代寄席で人気を博していた4代目(談志)が『初代(談志)』を称しており、小ゑん(松岡)の先代にあたる6代目(談志)がそれに倣って『4代目(談志)』と称していたようなので、小ゑんは『5代目』というのは語呂が良く、さらに師匠5代目柳家小さんと代数が合うので丁度いいということで、『5代目談志』を名乗ることになった」[1]

『笑点』立ち上げ

1966年5月15日、『笑点』(日本テレビ)が放送開始。1969年11月2日まで初代司会者を務める。後に、『笑点』放送100回記念放送では桂歌丸と異色漫才を披露した。後年、「『笑点』ってのはよう、アタシが作った傑作なんだよ」と語った通り、『笑点』は談志が自ら企画して実現したものである。


初代メンバーの1人である5代目三遊亭圓楽が『いつみても波瀾万丈』で語ったところによると、談志が5代目圓楽に「寄席でやっている大喜利をテレビでやろうじゃないか」と持ちかけたのが番組開始の端緒だという[2]。落語ではなく敢えて大喜利をメインとしたのは「落語は(噺の)前後にしかコマーシャルを入れられないし、座ってるだけで(テレビに)不向きだから。大喜利なら途中でコマーシャルが入れられるから」だったという[3]。談志はまた「大喜利を前面に出すのは感心しないが、やらないのも駄目だ」と考えていた[3]。談志は1960年代半ばにテレビ・ラジオの電波メディアの普及で寄席に閑古鳥が鳴いている状況に危機感を抱き、「これからは、落語家はテレビにもどんどん出て行かなきゃ駄目だ。」[3]との考えから、テレビ局へ企画の売り込みを図った。その結果生まれた番組が前身番組の『金曜夜席』で、隔週金曜深夜に放送された番組であった。当初は談志が演芸コーナーの司会で、5代目圓楽が大喜利コーナーの司会というローテーションだったが、後にどちらとも談志に統一された[注釈 1]。前身番組の時点で『笑点』の基礎が固まり、そのまま日曜夕方の番組としてスタートしたのである。笑点の司会では、持ち前のブラックユーモアを生かした、機知に富んだ掛け合いを演じた[2]。しかし視聴率が伸び悩み、またこれに伴い、初代レギュラー陣との関係も悪化したため、最終的には暫時的な新レギュラー期間を挟んで、談志自身が降板を余儀なくされた[2][4]。なお、歴代笑点の司会者で(就任時点で)落語協会に所属していた人物は、現在まで談志のみである。


談志は降板後も特別番組の時には何度か出演したが、2000年代以降は完全に距離を置き、そのまま他界した。番組で不定期に行われている『真打昇進披露口上』には一度も登場しなかった[注釈 2]。また、談志は初代メンバーの一人である歌丸に対し、「『笑点』を辞めてくれ」と直言したこともあるという[5]


一方で、『笑点』の企画自体の思い入れがあったためか、2001年 - 2003年頃には『特冊新鮮組』(竹書房の隔週刊娯楽雑誌)で「大笑点」という投稿コーナーを企画(2006年 - 2008年元日に日本テレビで放送された『同名番組』とはまったく関係がない。2002年には書籍化)し、2005年10月開始の『談志の遺言』(TBSラジオ番組)には「おれとお前の笑点」という投稿コーナーを設けていた(2006年3月の一時終了まで存在した。同年10月の再開時には消滅)。

政治活動
1969年第32回衆議院議員総選挙東京8区から無所属で出馬するも落選。定数3のところ、19,548票で立候補者9人中6位であった。


同年、ニッポン放送にて、月の家圓鏡(現:8代目橘家圓蔵)と木魚を叩きながらナンセンスなやりとりをするラジオ番組『談志・円鏡 歌謡合戦』がスタート。人気番組となり、1973年まで放送された[6](のちに、舞台やテレビ番組などで、何度も「再現」している)。


1971年第9回参議院議員通常選挙全国区から無所属で出馬、初当選。当時の全国区で50人中50位の最下位当選だったが、その際のインタビューで「寄席でも選挙でも、真打は最後に上がるもんだ」という言葉を残す。直後に自由民主党に入党した(本人によれば、談志の自民党入りを要請するために訪れた佐藤栄作が座布団から降りて小さんに頭を下げたため、小さんが談志に自民党入りを促したという)。国会質疑ではNHK受信料問題などを取り上げた。


1975年12月26日三木内閣沖縄開発政務次官に就任するが、就任時の会見で議員の選挙資金について「子供の面倒を親分が見るのは当然」と発言したことが問題化。さらに、政務次官初仕事である沖縄海洋博視察では二日酔いのまま記者会見に臨み、地元沖縄メディアの記者から「あなたは公務ととどちらが大切なんだ」と咎められる。これに対して「酒に決まってんだろ」と返したことがさらに問題となる。さらに詰問する記者に対し、退席を命じ、会見を打ち切ろうとしたため批判を浴びた。弁明を行うはずの参議院決算委員会を寄席を理由に欠席するに至って、自民党内部からも反発が起こり辞任。在任期間は僅か36日であった。談志自身は、議員になったのは兼職をしてもいいと言われたからであり、自分は大衆との接点を持ち続けるのが信条だとして、自民党も離党した。この時、親交がある石原慎太郎[注釈 3]から「謝罪したらどうだ」と説得されたが拒絶している。


参議院議員2期目を目指し、全国区から東京地方区への鞍替え出馬を予定していたが、直前で出馬を取りやめ、議員活動は参議院議員1期6年だけで終わった。本人曰く「政治家としての経歴がマイナスになるのは俺ぐらいだろう」と振り返っていた。


政治思想的には保守寄りであった。在任中は日本共産党議員への野次に力を入れていたことにより、共産党支持者の8代目林家正蔵(後の林家彦六)(ただし、共産党のイデオロギーに共感したわけではなく、本人は判官贔屓としている)と、野次があるたびに喧嘩をしていた模様である(ただし、彦六は談志の選挙を手伝っていた。

談志も、国会の決算委員会で国鉄問題の際に「通勤定期を通勤のみに使い、外出など私用な目的には定期を使わずに運賃を払っている人物」の例として彦六を取り上げており、議事録にも残っている[8])。政界を退いた後も自民党を中心とする保守系政治家との親交を深め、保守系議員の選挙応援などにもしばしば動いた。


その反面、元社会党衆議院・参議院議員上田哲の選挙応援に動いたこともある。談志によると「議会には反対派も必要だ」とのことだが、政治レベル以外での個人的な交友関係による支援と思われ、上田も立川流の高座に上がったこともあるほか、医師作家なだいなだの提唱した老人党に賛同、談志・西丸震哉と「老人党東京」(3人の共同代表)を旗揚げした。

落語立川流創設
1978年6代目三遊亭圓生三遊派が落語協会脱退。落語協会分裂騒動となる。この脱退については諸説あり、落語史としても今なお不透明な部分が多い。談志と5代目圓楽を黒幕とする説が多数説(5代目圓楽は著書で、新協会設立の話を圓生に持ちかけたのは談志であると述べている。志ん朝の香盤を下げるために仕組んだとする見方もある)だが、反響の大きさに慌てる談志の姿が目撃されてもいる。また、参加しないと思われていた志ん朝が参加してしまったため、慌てて参加を取りやめたとの説もある。川柳川柳の著書によると、談志は脱退した三遊派で構成される「三遊協会」の次期会長は自分だと思い込んでおり、圓生に確認したところ、「次は志ん朝だ」と答えられたため、思惑が外れて計画から手を退いたという。金原亭伯楽の著書にも同趣旨が記述されている。


1983年落語協会真打昇進試験制度運用をめぐり、当時落語協会会長であった師匠・小さんと対立。同年、落語協会を脱会し、落語立川流を創設して家元となる。


1992年
瀬戸内海ホホジロザメが人を襲う事件があり、そのサメを自ら退治しょうと行動を取り、当時明治大学替え玉受験疑惑で芸能活動を謹慎中であったなべおさみと「シャークハンター必殺隊」を結成。鮫のぬいぐるみのついた野球帽を被って現地入りした。しかし現地の人達からはこの行動に対し「一体、何考えてるんだ!」「ふざけてるのか!」等と激怒し、談志らは痛烈な批判と罵声を浴びた。その為何も出来ずに帰京をせざるを得なくなり、発足した「シャークハンター必殺隊」は特に活動する事も無く自然消滅した形で解散した。当時のワイドショーでもこの談志らの無謀な行動に対して否定的に報じており、コメンテーターからも厳しい意見が飛んだ。

1995年新潟県西蒲原郡岩室村夏井(現:新潟市西蒲区夏井)に田んぼを持つ。「談志の田んぼ」と称し、以降、田植えと稲刈りをほぼ毎年行い、年によっては岩室温泉での落語会も行った。


1997年食道癌を外科手術により摘出。以降の人生を癌との戦いに費やすことになる。しかし、この時は白板症と診断され「癌もどき」と自嘲した。術後、医者から止められていたにもかかわらず、記者会見では堂々とタバコを吸った。ただし、その後は毎月定期健診に行くなどして健康には人一倍気を遣っていたという(5代目圓楽の著書による)。


1999年長野県飯田市での高座にて、落語を上演中に居眠りしていた客一人を注意して退場を勧告した。後日、その客がその高座の主催者を相手取り、「落語を聴く権利を侵害された」として民事訴訟を起こすも、請求は棄却された。


2002年5月、「二つ目への昇進意欲が感じられない」として、立川流の前座門弟、立川キウイ、立川談修、立川志加吾(現雷門獅篭)、立川談号(現雷門幸福)、立川談大、立川談吉を破門。その後2003年5月に破門者の復帰試験を実施した。

メディアへの再登場
2004年TOKYO MXにて、野末陳平とともにトークバラエティ番組『談志・陳平の言いたい放だい』を開始。番組は2008年まで4年間続いた。同番組は2007年6月からYouTubeでも公式に視聴することが可能となっている。同番組の共演者である吉村作治との交流が深まり、その縁で吉村が学長を務めるサイバー大学では客員教授を務めた。受け持ち科目は共通科目の「落語と文化・文明論」であった。


2005年
4月、NHKラジオ第1放送にて、ラジオ創世記の名番組のリメイク『新・話の泉』(『おしゃべりクイズ疑問の館』の枠で月一回放送)が放送開始され、番組レギュラーを毒蝮三太夫山藤章二松尾貴史、その他ゲストと共に務めた。


2007年
10月6日爆笑問題太田光とともに『立川談志・太田光 今夜はふたりで』に出演。番組は2008年3月30日まで続いた。以前は2005年10月6日から、ナイターオフシーズン(10月 - 3月)に放送されていた『おとなの時間割談志の遺言」』(TBSラジオ火曜21時 - 22時)に出演していた。また過去に、文化放送で放送された『立川談志 最後のラジオ』にも出演していた。


2007年に入ってからテレビで再びコメントを求められるようになり、『筑紫哲也NEWS23』に出演、「私の多事争論」で病欠の筑紫哲也をサポートしてみせた。『情報プレゼンター とくダネ!』では、直接ではないものの5代目柳家小さんの孫・柳家花緑と共演している(花緑の受け持ちコーナー「温故知人〜天国からのメッセージ」で生前親交のあった横山ノックを取り上げた際、ゆかりの人物としてVTR出演した)。


2008年
3月9日NHK BShiで『立川談志 きょうはまるごと10時間』放送。以前放送された『わが心の旅』『HV特集 71歳の反逆児・素顔をドキュメント』、毎日放送(MBS)『情熱大陸』を含む、インタビューや密着ドキュメント、『居残り佐平次』の高座などが放送された。

闘病と死
2008年5月、喉にポリープの疑いがあると診断され、検査を受ける。6月3日、自宅からほど近い日本医科大学付属病院に一泊二日の検査入院したが、「20日間は入院が必要」と医師に言われる。6月18日、退院。入院の間は病院から落語会やテレビ収録に行っていたという。この頃以降、高座でもそれ以外でも発声が極端に苦しくなり、力がなくしわがれた聞き取りづらい声に変わっていった。10月14日喉頭癌を発病したことを『サライ』大賞授与式で告白。癌の発病箇所は声門であり、声帯摘出以外に完治の見込みはなかった。


2009年
8月26日、長期休養を発表。予定されていた出演をすべてキャンセルとする。理由は体力の低下と持病の糖尿病治療であると発表していたが、実際は癌により発声が困難になったためと推測される。当初、本人は事務所に引退を切り出したというが、事務所の説得で休養という形に落ち着いた。同年12月1日NHKラジオ第1放送公開収録番組『新・話の泉』に別録りのインタビューという形で出演。実際の公開収録舞台には談志の写真ボードが置かれた。その後も体調は好転せず、2010年冒頭に入院することが決定したことなどを受け、12月28日、休養期間を約3か月延長すると発表する。


2010年3月2日6代目三遊亭円楽襲名披露パーティーに姿を見せ、挨拶する。パーティーで同席した桂歌丸は「生きている談志さんにお会いできたことが嬉しかった」とコメントし、談志との再会を喜んだ[9]


同年4月13日には8か月ぶりに高座に復帰し『首提灯』を披露するも、11月に声門癌再発を確認。この時は声帯摘出手術を本人が拒否した。12月には『芝浜』ほか3席を熱演したが、「3席もった喉と体に素直に感謝しています」といつもの談志節は鳴りを潜め、落語家としての無上の喜びを打ち明けた。


2011年3月6日川崎市・麻生市民館麻生文化センターでの「立川談志一門会」にて、咳き込みながら『長屋の花見』『蜘蛛駕籠』を披露。これが談志にとって生涯最後の高座となった。3月21日に入院し、翌日に手術が行われた。ストレス性胃潰瘍と公表していたが、実際には声門癌の進行による呼吸困難症状が発生し、気管切開手術(声帯にメスを入れる)で一命を取り留めたものの、この手術で声を失うことになった[10]。本人の希望で4月18日に退院後は自宅で療養する[11]が、以降のすべての仕事をキャンセルしたと発表し、現実に後述の『週刊現代』の連載の執筆を除き、その死まで一切仕事は行わなかった。


5月21日の『立川キウイ真打昇進記念パーティー』は演芸関係者だけではなく一般参加者の募集も行われ、事務所の「すべての予定のキャンセル」発表後も談志出席のまま告知が続けられていた。さらにキウイも問い合わせに対し「師匠からは出席の返事をいただいています。」と回答していたため、パーティへの出席の期待は高かった。しかし談志は会場に姿を見せず、「(5月2日に死亡したとされる)ビンラディンの喪に服するため」との欠席理由が発表された[注釈 4]。続くキウイの真打披露興行(6月30日・7月19日)にも登場が告知されていたが、会場に足を運ぶことはなく、弟子の真打昇進記念パーティー・興行を欠席した唯一の例外となった。ただし、談志は5月のパーティーと7月の真打披露興行の数日後にキウイのアルバイト先であり、かつ自身の行きつけの店でもある東京・銀座のバーに足を運び、直接キウイにメッセージを送っている[13]


自宅療養中に衰弱が進んだため、9月12日に再入院[14]10月27日、昏睡状態に陥る。この日を最後に意識が回復することはなく、11月21日午後2時24分、家族に看取られて喉頭癌のため死去[15]。75歳だった。

没後の反応
談志死去の報は、最期まで談志の世話をしていた立川談吉[16]を除き、一門の弟子たちを含む落語界・芸能界・知人の誰にも伝えられなかった。家族および談吉のみで通夜・告別式(密葬)を挙行し、11月23日に落合斎場にて荼毘に付され、家族は2日の間、談志の死を一門を含む誰からも隠し通した。23日に所属事務所である談志役場(息子・慎太郎の会社)が死の事実をプレス・リリースしたが、その際も弟子たちに知らせなかった。立川キウイ[17]立川談慶[18]ら弟子たちは、死の2日後にテレビニュースなどで談志の死を知ることとなる。このため、マスコミやファンの問い合わせを受けて「(自分は聞いていないので)ガセだろう」と回答してしまい、あとで訂正するはめになった弟子たちが複数出た。


一方、死の直後からTwitterWikipediaなどに情報のリークがあり、落合斎場にも到着時には報道陣が集まっていた。しかし、談吉は自身のブログやTwitterで談志と無関係の話題を記述し、情報操作を試みた。


談志の死去を受けて、11月23日、8代目橘家圓蔵林家木久扇が日本テレビのニュース番組『news every.』に生出演し、談志との想い出を語った。また、日本テレビ『金曜夜席』当時からの友人である桂歌丸、上方落語界長老の3代目桂米朝も逝去を悼むコメントを発表した[19]。弟弟子で落語協会会長(当時)の柳家小三治は「とんでもない人物だった。今でも兄弟弟子という思いは強い」と語り、兄弟子の死を悼んだ[20]。また、談志に憧れて落語家の道を志した上方落語協会会長(当時)の桂三枝(現:6代桂文枝)も談志の訃報が公表された日の緊急会見で「嘘であって欲しいと思いました」と泣き崩れながら談志を偲んだ。


報道各紙による訃報の見出しは「談志が死んだ」であった。生前、談志は「上から読んでも下から読んでも、『談志が死んだ!』と書いてくれ」と言っていた(本人他一門の書いた文章を集めた『談志が死んだ: 立川流はだれが継ぐ』(2003年、ISBN 4062121859)という本もあった)。また、同年に死去したウサーマ・ビン・ラーディンムアンマル・アル=カッザーフィー金正日と合わせ、「2011年は独裁者が死ぬ年」と言われた。


葬儀の際、談志が生前かわいがっていたライオンのぬいぐるみ「ライ坊」が談志とともに荼毘に付されたという情報が流れた。このため、ライ坊が原因で破門騒動[注釈 5]に巻き込まれた立川志らくは、24日放送の『高田文夫のラジオビバリー昼ズ』にて大いに嘆き、高田文夫が大笑いする一幕があった。しかし、その後談吉が明かしたところによると、荼毘に付されたのは別のクマのぬいぐるみであり、ライ坊は無事だった。


墓所は文京区向丘の浄心寺本郷さくら霊園で、墓石の正面には談志の筆による「立川談志」の名が、側面には生前自ら考えた戒名「立川雲黒斎家元勝手居士(たてかわうんこくさいいえもとかってこじ)」が刻まれている[22]。生前から公開していた戒名が原因で受け入れてくれるお寺が見つからなかったといい、納骨が行われたのは2012年12月2日だった[23]。生前からの希望により遺骨の一部が海に散骨されたが、直後に魚が集まってきて撒かれた遺骨を食べてしまったという[24]。長女の松岡ゆみこは、談志が生前埋葬を希望していなかったことを受け、遺骨の一部を手元で保管している[25]


2014年
、長女・ゆみこが、談志の長年の住まいであった練馬区の自宅のリフォームを『大改造!!劇的ビフォーアフター』(朝日放送)に依頼し、リフォーム後は志らく夫妻が住むことになった[26]


2013年
にはNHK BSプレミアムで、過去のドキュメンタリー映像や弟子のインタビューと木皿泉脚本によるドラマ(青年期を小出恵介、壮年期を中山秀征、全盛期と晩年を田中泯が演じた)を組み合わせた『人生、成り行き』が放送された。また、2015年には立川談春のエッセイを題材にしたドラマ『赤めだか』がTBSで放送され、ビートたけしが談志を演じた。2018年には生前の言動などをAIに導入し、談志を再現したアンドロイドが太田光、志らくとトークを行う特別番組『天国からのお客さま』が放送された。

詳しいことは、「立川談志ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%8B%E5%B7%9D%E8%AB%87%E5%BF%97
(wikiより)

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立川談志

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本名:桝井 長四郎(ますい ちょうしろう)、東京府生れ。明治9年(1876年11月26日 - 昭和20年(1945年3月10日

経歴
1876年明治9年)11月、東京銀座(現在の東京都中央区)の袋物商の家「富田屋」に生まれる。

・11歳の時に4代目一龍斎貞山に入門し3代目貞花を名乗る。

・師が没し、5代目一龍斎貞山門へ移る。

初代村邑井吉瓶初代伊藤痴遊の後見で3代目貞丈を襲名し21歳の時に昼席で真打昇進。

1907年明治40年)、6代目一龍斎貞山を襲名。

1940年、初代講談落語協会会長に就任。

1945年昭和20年)3月10日、アメリカ軍による東京大空襲に被災し隅田川で死去。

人物
大正から昭和初期に、3代目神田伯山2代目大島伯鶴と共に売り出し確固たる地位を築き、ラジオ放送の出演回数もトップクラスだった。


多様な演目を持っていたが中でも「義士伝」はお家芸であった。


また、講釈師であるのに、講釈の席はもちろん「落語協会」の頭取をつとめて勢力をふるい、出世するのも落ち目になるのも貞山次第という勢いだった。色物の寄席にも積極に出演した。
(wikiより)

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昭和の爆笑王と賞讃された林家三平の笑いの精神を受け継ぐ東京都台東区の施設です。


林家三平は落語家の名門に生まれながら、それまでの古典落語の殻を大きく破った三平落語の世界を創り上げました。


自由闊達な話芸は、寄席だけにとどまらず、あらゆるメディアに進出し、神風タレント第一号となりました。


館内には、林家三平の思い出の品々、台本、衣装、ネタ帳、レコード、名刺、双眼鏡などが展示されています。


また高座では、毎月第3土曜日に「三平落語会」を開催しています。


ねぎし三平堂オフィシャル・ホームページ
http://www.sanpeido.com/f01_goannai.htm

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 ほぼ前に、東 八郎さんのお墓があります。

初代 三笑亭 夢丸(さんしょうてい ゆめまる、1945年昭和20年〉10月4日 - 2015年3月7日)は、落語芸術協会所属の落語家。本名、坂田 宏(さかた ひろし)[1]


神奈川県横浜市出身。横浜市立金沢高等学校卒業。身長172cm血液型はA型。出囃子は『元禄花見踊』。

芸歴
1964年昭和39年)4月 - 三笑亭夢楽に入門[2]夢八[3]を名乗る[4]


1967年(昭和42年)8月 - 二ツ目に昇進。


1969年(昭和44年)11月9日 - 日本テレビ笑点』の座布団運びを翌年6月14日まで務める[5]


この時期の『笑点』はチーム対抗制で、夢八(当時)は2代目三遊亭歌奴(3代目三遊亭圓歌)チームの担当だった[5]。ちなみに、4代目三遊亭金馬チームの担当は三遊亭笑遊(現:5代目三遊亭圓遊)だった。


1978年(昭和53年)4月 - 真打昇進[2]夢丸と改名[4]


2010年平成22年)春 - 右の鼻に違和感を覚え病院の検査で中咽頭癌であることが判明、以降再発・転移を繰り返し、体調に考慮しながら高座に専念していた[6]


2015年(平成27年)春 - 弟子の三笑亭夢吉の真打昇進に伴い、夢吉に夢丸の名前を譲ることを発表[7]笑福亭鶴光Twitterによると、自身は再び夢八を名乗るとのことであった[8]


・2015年(平成27年)3月7日、中咽頭癌のため逝去[9]。69歳没。弟子の朝夢と夢吉改め2代目夢丸の真打昇進を見届けることと、自身が夢八に戻ることは共に叶わず。最後の高座は、2014年3月29日千葉県長慶寺での「看板のピン」であった[10]

人物
・『ルックルックこんにちは』(日本テレビ)のリポーターを19年間務め、同番組では国内外を問わず3,000か所以上を取材した。



夢丸新江戸噺
2001年(平成13年)ごろから自主的にテレビ出演を控えるようになり、ライフワークとして、演芸情報誌「東京かわら版」の協力のもと、江戸を舞台にした古典題材の落語台本を一般公募、優秀作を「夢丸新江戸噺」として高座にかけた。台本の条件は「日本人が着物を着ていた時代を背景とする噺」。台本の公募は2001年から2011年まで続けられ、懸賞金は夢丸自身が用意していた。[11]


第一回の受賞者のうちの一人は夢丸に入門、三笑亭小夢となった[12]。また、立川寸志は、落語家となる前の出版社の編集者時代に何回か応募したが選外だったことを告白している。[13]   


受賞作一覧[14]    
・第1回(2001年) 優秀賞 「夢の破片」(三ツ橋良紀) 「小桜」(冨田龍一) 「太公望」(向山正家)

・第2回(2002年) 優秀賞  「ちぎり」(中井酸味人[15][14]) 「昼神様」(久郷椋子) 

           夢丸特別賞「椿の喧嘩」(藤原美和)

・第3回(2003年) 最優秀賞 「えんぜる」(冨田龍一)  

           審査員特別賞 「蛙の子」(本田久作)「いろがたき」(冨田龍一)

・第4回(2004年) 審査員特別賞 「こころもち」(小林勝彦)

・第5回(2005年) 該当作なし

・第6回(2006年) 優秀賞「かがみ」(渡辺敏郎)

・第7回(2007年) 優秀賞「三文銭」(山田浩二)[16]

・第8回(2008年) 審査員特別賞「紅き手の平」(味田恵里香)[17][18]

・第9回(2009年) 優秀賞「身替わり首」(中島要) 

           審査員特別賞「拝み絵馬」(栗原昇)[19]

・第10回(2010年) 夢丸特別賞「花いちもんめ」(井口守)[20]

・第11回(2011年)

CD
・『えんぜる〜夢丸新江戸噺』5枚組、WZCR-77001(ワザオギ

2006年10月15日発売、7,714円(税込)、500セット限定(製造・販売終了)

1枚目 「えんぜる」「夢の破片」

2枚目 「小桜」「椿の喧嘩」

3枚目 「太公望」「こころもち」

4枚目 「昼神様」「ちぎり」

5枚目 「いろがたき」「蛙の子」

USENの番組「うきうき落語会」(司会進行、大友浩)の第297回(2016年8月前半)および第298回(同月後半)の放送において、三笑亭夢丸を偲び「夢丸新江戸噺大特集」としてCD音源の6席とインタビュー(CD未収録)を放送した。

DVD
・台東芸能文庫(6) 落語家 三笑亭夢丸 (2013年、台東区) *「えんぜる」を収録。非売品。台東区中央図書館でのみ閲覧・貸出可[21]

書籍
・『えんぜる―夢丸新江戸噺』(水曜社)2006年10月 ISBN 4880651826 

同名のCDと同じ演目を収録

著:三笑亭夢丸、編集:大友浩   

主な出演番組
テレビ番組
連想ゲームNHK

笑点日本テレビ

ルックルックこんにちは(日本テレビ)

11PM読売テレビ

3時のあなたフジテレビ

ザ・ガマン(フジテレビ)

がまかつ 日本列島釣りある記テレビ朝日

アフタヌーンショー(テレビ朝日)

フィッシング・ナウ独立UHF局などのローカル局

ラジオ番組
マット安川のスーパーフライデー(2010年2月12日、ラジオ日本) - ゲスト

弟子

真打
三笑亭夢花

東生亭世楽桂枝助門下より移籍)

三笑亭小夢

二代目三笑亭夢丸(三笑亭夢吉)

関連項目
落語芸術協会

三笑亭夢楽

武方直己TBSテレビスポーツ局業務推進部次長、元同局アナウンサー) - 初代夢丸に師事して落語家として『三笑亭我夢』の名を貰い、前座として高座に上がった経験を持つ[22]

脚注
1. “三笑亭夢丸氏=落語家”. YOMIURI ONLINE (読売新聞社). (2015年3月9日). http://www.yomiuri.co.jp/obit/20150309-OYT1T50042.html 2015年3月11日閲覧。 
2. a b “三笑亭夢丸氏が死去 落語家”. 日本経済新聞 (日本経済新聞社). (2015年3月7日). http://www.nikkei.com/article/DGXLASDG07H5Z_X00C15A3CZ8000/ 2015年3月11日閲覧。 
3. 高座名の由来は「夢八」というネタから。
4. a b “訃報:三笑亭夢丸さん69歳=落語家”. 毎日新聞 (毎日新聞社). (2015年3月7日). http://mainichi.jp/select/news/20150308k0000m040038000c.html 2015年3月11日閲覧。 
5. a b ぴあMOOK『笑点五〇年史 1966-2016』131ページ
6. 何度がんになっても諦めない 探せば必ず出会いがある | がんサポート
7. 一月一日(木)|【垂れ流し日常報告】
8. 鶴光でおま(@turuturu04)さん | Twitter
9. 落語家の三笑亭夢丸さん死去 「ルックルック」など出演 朝日新聞 2015年3月7日閲覧
10. 訃報 三笑亭夢丸”. 落語芸術協会 (2015年3月7日). 2015年3月9日閲覧。
11. 三笑亭夢丸と《新江戸噺》”. 乱志&流三&永久の落語徘徊 (2015年4月28日). 2018年7月3日閲覧。
12. 第一回優秀賞「夢の破片」の三ツ橋良紀。
13. 「三笑亭夢丸&立川寸志 初代夢丸トリビュート二人会」(2015年10月19日〔月〕)開催予定のお知らせ”. 落語カーネル之会(兼・落語千代田線之会). 2018年7月3日閲覧。 “もともと相当な落語愛好者であった寸志さんは、──その頃は出版社勤務の編集者だったわけですが──実は「夢丸新江戸噺」に複数回、落語台本原稿を応募していたのです。結局、入選はならなかったのですが、”
14. a b 三笑亭夢丸 (2006年11月1日). 大友浩. ed. えんぜる-夢丸新江戸噺. 水曜社. pp. 232-237. ISBN 4880651826. 
15. 中井氏は受賞直後に亡くなり、自作の口演を聴くことはかなわなかった。
16. 東京かわら版寄席演芸年鑑2008年版(東京かわら版平成20年4月号合併号). 東京かわら版. (平成20年3月28日). p. 64. 
17. 夢丸 新作台本入選作は「紅き手の平」”. スポニチアネックス. スポーツニッポン新聞社 (2008年5月6日). 2018年7月4日閲覧。
18. 上演時にはタイトルを「紅い手」に変更。(文化デジタルライブラリー、国立演芸場2009年3月定席公演)[1]
19. 東京かわら版寄席演芸年鑑2010年版(東京かわら版平成22年4月号合併号). 東京かわら版. (2010年3月28日). p. 58. 
20. 東京かわら版寄席演芸年鑑2011年版(東京かわら版平成23年4月号合併号). 東京かわら版. (2011年3月28日). p. 57. 
21. 台東芸能文庫について”. 台東区. 2019年2月25日閲覧。
22. 2000年12月頃のTBSホームページ内プロフィール - インターネット・アーカイブ2000年12月3日付保存キャッシュより。

外部リンク
三笑亭夢丸ホームページ

(公社)落語芸術協会によるプロフィールページ
(wikiより)


0134 三笑亭夢丸墓

初代・三笑亭夢丸

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3代目 桂 三木助(かつら みきすけ、1902年3月28日〈戸籍上は1903年2月17日〉 - 1961年1月16日)は、日本落語家。本名小林 七郎(こばやし しちろう)。出囃子は「つくま」。NHKとんち教室落第生。日本芸術協会所属だったが最晩年に脱退し、フリーを経て落語協会に移籍。当時まではとりわけて注目もされていなかった、円朝作と云われる落語芝浜を独自に練り上げ得意にした。以降、芝浜は夫婦の情愛を美しく描いた名作落語として認識されるようになり、多くの落語家が口演するようになった。現在でも3代目三木助のものが傑作と云われることから通称「芝浜の三木助」他にも通称は田端の三木助」「隼の七」

来歴・人物
実家は床屋。後日、養子であることを知るが両親には最後まで聞かなかったと告白している。実父は相貌の非常に良く似た2代目桂三木助という説があったが、近年の研究でこれは間違いであったことが明らかとなっている。ただし本人は生前に「実は(湯島天神の床屋に)藁の上からの貰い子だったんだよ。」と発言している。三木助の長女(小林茂子)がブログ(2012年3月28日記事)で明かしたことによると、七郎の実父は東京都紀尾井町のある華族("M"という名の男爵家)の次男であり、実父が長野県の貴族院議員の家へ養子縁組した際に、息子の七郎は床屋の小林家へ養子縁組されたとのこと。


母親(実母ではなく小林家の育ての親)の実の弟が4代目春風亭柳枝(後の初代春風亭華柳)。彼に弟子入りしようとするが、既に老齢のため断られ、自分の総領弟子である6代目春風亭柳橋に弟子入りするよう勧められる。柳橋に入門した。以上のような経緯をたどったため、二人は年齢差が極めて小さい(2歳差)師弟となった。しかし修行はきちんとこなし、柳橋の住み込みの内弟子となる。以後、三木助自身が日本芸術協会を脱退するときまで、柳橋に師事する。


若い頃は大阪名古屋へも流れるなど放浪を繰り返し、一時は日本舞踊花柳流の師匠(花柳太兵衛(はなやぎたへい))となり落語も廃業している。戦後も賭場通いを繰り返し日本橋界隈の賭場の連中に『橘ノ圓(まどか)』(落語家としての当時の芸名)では通じないが「隼の七」(賭場で名乗っていた名)と聞けば誰もが知っているという荒んだ生活を繰り返した。


彼の人生を変えたのは、踊りの師匠時代の弟子仲子への直向な愛である。25歳年上の博打好きに嫁がせることは出来ないと考えた仲子の家からは、「三木助を継げるような立派な芸人になれたら。」という条件を出した。どうせ出来まいという気持ちが、仲子の家の方にはあったのだろうが、彼は心機一転、博打を止め(この心情を、後に三木助は「芝浜」の主人公の断酒に感情移入して語っている。)ついに3代目三木助を襲名し、二人も結ばれることになる。以降三木助の名跡は小林家で受け継がれていく。


名人への道を進んだのは壮年になってからで、「江戸前」「粋」「いなせ」という言葉を体現したような芸風で、とりわけ「芝浜」を得意演目とし「芝浜の三木助」と呼ばれた。話の構成力、写実力に優れておりその輝きは現在も光を失っていない。初代雷門福助の話によると、噺家仲間相手に演じてみせた8代目桂文楽の「芝浜」を見た三木助がそれを気に入り、嫌がる文楽に無理を言って教えてもらった、といういきさつがあるという。文楽はネタとして「芝浜」を持ってはいたが、高座にかけることはしていなかった。 また、浪曲の鬼才2代目広沢菊春と意気投合し、落語界に持ち込んだネタが「ねずみ」である。


長年日本芸術協会(現落語芸術協会)に所属していたが、8代目桂文楽に私淑し、また序列問題でのゴタゴタもあり、フリーを経て最晩年落語協会に移籍。日本芸術協会会長の師匠柳橋とは最後までそりが合わなかったとされる。落語協会移籍前には、5代目柳家小さんに、6代目三遊亭圓生を担いで新協会設立の画策を相談したこともあった。昭和36年1月16日午後4時37分、東京都北区田端にある自宅で胃がんのため死去した。


昭和36年に夭逝した三木助の口演を記録した映像は一本も残されていない、もしくは発見されていない。昭和39年没の3代目三遊亭金馬8代目三笑亭可楽の完全な口演映像が一本ずつ残されていることに比しても惜しまれる。三木助の落語の録音は、40演目のべ46席のみが残されており、それらを全て収録した全集が市販されている。同時期に活躍した落語家達と比べても残された口演音源が少ない理由の一つとして、落語全集の出版のため普通社に保管されていた三木助の音源を、当時普通社に出入りしていた或る女性が社外へ持ち出した結果、紛失したことも挙げられる。


日本芸術協会退会時、既に二つ目になっていた弟子は芸術協会に残した。前座の弟子のうちほとんどは、自らに帯同させ、約一年間フリー(彼ら前座は、木馬館で、浪曲の前座として落語を演ずる機会を与えられた)を経て落語協会に移籍させた(3代目三遊亭圓輔らは帯同せず)。前座の弟子は、三木助死後も(落語協会の幹部の門下に直り)落語協会に留まった。前者は8代目春風亭柏枝(後の7代目春風亭柳橋、大師匠6代目柳橋門下へ)など。後者は9代目入船亭扇橋(当時は桂木久八、三木助の兄弟分だった5代目柳家小さんの門下に直る)や林家木久扇(初代林家木久蔵、当時は桂木久男)等。彼ら元三木助門下の弟子たちは、一人一人それぞれまったく違ったキャラクター・芸風となり(そのため高座を見ただけでは旧師三木助の痕跡を辿るのは極めて困難である)、しかも彼らの多くは売れている。

得意演目
芝浜火事息子へっつい幽霊、ざこ八、味噌蔵、崇徳院三井の大黒ねずみ宿屋の仇討御神酒徳利さんま火事蛇含草近日息子加賀の千代化物使い巻き返し、など。

エピソード
小さんとは同姓で、義兄弟の杯を交わしたほどの大親友であった。この縁で、最晩年に生まれた長男の名前に小さんの本名と同じ盛夫と名付ける。盛夫は後年小さんに入門し、4代目桂三木助を襲名した。孫(娘茂子の子)の康浩は5代目桂三木助。なお、4代目三木助と5代目三木助は叔父甥の関係になる。


賭博にはまっただけに博打にまつわる噺をよくした。ある日仲間の噺家が6代目三遊亭圓生に「へっつい幽霊」の稽古をつけているとき、「あなた!それじゃあ盆の使い方が悪い」と言ってサイコロの際の振り方を演じた。それはあまりにも真に迫っているので、圓生は感心したが、そこまでやらなくてもいいのにと思ったという。


また、新宿末広亭の席亭、北村銀太郎の話によると、柄に似合わず甘党であったという。


死の際、もう死ぬからと小さんなど仲間を枕元に呼び、娘にピアノをひかせて、いよいよお別れとなったが、死なない。三木助は怒り出し、「どうも今日はだめだな」ということでみんな帰ったが、居合わせた5代目古今亭志ん生は「世の中そう都合よく死ねるわけがねえ」と言っていた。実際に息を引き取った時に枕元に居たのは2人の弟子、桂木久八(のちの9代目入船亭扇橋)と桂木久男(のちの林家木久扇)であった。


2代目三木助は東京から流れてきた3代目をわが子のように可愛がった。3代目にとっても大阪の1年間は「近日息子」「崇徳院」などのネタを教わるなど、その後の芸風に影響を与える貴重な時期であった。


いびきのうるささと朝寝坊で知られる。となると、まず肥満や睡眠時無呼吸症候群を疑うが、生涯を通じて痩身であった。また旅に出る時もラジオを手放さず(注:当時はラジオはすべて大型・卓上型だった)、チューニングを合わせながらかすかな音に耳を傾けていた。他の随行者と雑談をすることに疎んじていたからかもしれない(とんち教室収録のため地方に行くことが多かったが、ともに旅をする“落第生”(レギュラー出演者)には師匠柳橋も含まれていた)。


寝言もうるさく、また睡眠中の夢の中でしている行動をそのまま実行してしまうのは周囲を困らせることであった。二階へ階段を駆け上がる夢を見て睡眠中に足をバタバタ動かすのはよくあることで、内弟子として師匠柳橋家に住み込んでいたが、新婚だった柳橋夫妻の夜の営みを何度となく妨害した。地方巡業に行ったとき、寝ている状態なのに立ち上がり暴れだした。刀(はないのでこうもり傘)を手に相手(はいないので部屋の柱)と斬り合いを演ずるのである。柳橋は三木助のことを夢遊病と評している。


生涯最後の高座は1960年秋の東横落語会における「三井の大黒」であった。三木助はこの時すでに身体は病魔に蝕まれ両足も腫れ歩行困難の状態であった。仕方なく釈台を置いて投げだした足を隠し、「ええ、まことに不思議な形でお目どおりをいたします。我々の仲間では金馬がこのような形で演じていますが・・・・実は足が酷くむくみまして、座ることが出来ないン・・・。足を投げ出してはお客様に失礼にあたる、・・・実は出してるんですけれど。(客席爆笑)」と自身の病状を笑いで済ませ、1時間近く演じた「三井の大黒」は、最後に登場人物の名を間違えるしくじりはあったものの、実によい出来であった。なおこれは収録もされレコード化されている。


三木助の芸を賞賛し、支援し続けた人物としては、落語評論家演芸プロデューサー安藤鶴夫が知られる。しかし、安藤といえば落語評論の論調はある意味で通人気取りでまた極端に攻撃的な上、評論という手法を用いて新作落語を手がける落語家を徹底的に排斥しようとした人物であったがゆえ、熱烈な支持者がいる一方で強烈なアンチも落語・演芸業界の内外に数多く抱えており、これら安藤を嫌悪する人々の反感が、その身代わりとして三木助やその弟子たちへと向かってしまうという弊害も生まれ、三木助没後も弟子たちは長年アンチの存在に悩まされた。三木助の没後、安藤は本牧亭で「桂三木助君をしのぶ会」という追善興行を主催した。だが、同日同時刻、同じ本牧亭内の食堂では、「桂三木助君をしのばず会」という催しが安藤には極秘の内に開催されており、こちらの参加者の中にはこともあろうに本牧亭の席亭である石井英子も含まれていた。なお、この会は実質的には三木助をけなすものではなく、あくまで安藤の陰口を言い合うために設けられた席であった。ただし芸人や寄席関係者にとっては両方共が一種の踏み絵のようなもので、先約など適当な理由を付けて回避した者も少なくない。その中にあって8代目桂文楽だけは2つの会に堂々と出席したが、安藤から評論で賞賛を受けていた文楽のこの行動は、落語関係者を驚嘆させるものであった。

詳しいことは、「桂三木助 (3代目)ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%82%E4%B8%89%E6%9C%A8%E5%8A%A9_(3%E4%BB%A3%E7%9B%AE)
(wikiより)

1855 三・桂三木助

三代目・桂三木助

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服部 伸(はっとり しん、本名:服部 辰次郎(はっとり たつじろう)、1880年6月2日 - 1974年12月4日)は、講談師である。東京浅草生まれ。


初めは浪曲師として啖呵で人気を博したが、後に節の声が出なくなり、会話に優れた芸(浪曲でいう「啖呵」)を生かして講談師に転じた。90歳を過ぎても高座にあがり続けた。その実直な人柄で愛され、多くの浪曲史に貴重な証言を残している。浪曲時代の得意演目には「は組小町」「関の弥太ッぺ」「一本刀土俵入」「大石東下り」がある。

略歴
1880年6月 - 東京浅草に生れる。父は俥屋を営んでいた。


・7、8歳の時に親に連れられて初めて浅草北新町の「長玉亭」という浪曲の寄席に行く。


1892年 - 12歳で浪花節語り浪花亭駒吉に入門し浪曲師となり、浪花亭小吉を名乗る。


1893年 - 「長玉亭」で初舞台。若い頃にはまだヒラキで浪花節を語っていたこともあるという[1]


・18歳の時、浪花亭駒子で真打昇進。


1903年5月 - 関東浪曲界を二つに割った「浅草組」「神田組」の争いの絡みから、一心亭辰雄(いっしんてい たつお)と改名する。「自由演芸会」を伊藤痴遊らと発足。浅草・新恵比寿亭を本拠とする。「節の奈良丸、啖呵の辰雄、声のいいのが雲右衛門」、と並び称せらる大看板となる。


1936年 - 作家の長谷川伸から一字名を貰い、服部伸の名で講談へ転向。


1961年 - 「大石東下り」で芸術祭賞を受賞。

・同年 - 勲五等双光旭日章を受章。


1974年12月14日 - 死去。墓所は台東区潮江院。

脚注
1. 「浪花節繁昌記」大西信行

参考資料
・三好貢『浪花節一代』朋文社、1957。JP:58000659。半分は服部伸の浪曲師時代の芸談である。
(wikiより)

2628   服部伸

服部 伸

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2628c



 生前墓ですので御注意下さい。

金原亭 伯楽
(きんげんてい はくらく、1939年2月16日 - )は、神奈川県横浜市出身の落語家。本名は津野 良弘(つの よしひろ)。落語協会所属。出囃子は「鞍馬」。紋は「鬼蔦」。

来歴
1961年3月、法政大学法学部を卒業。

・1961年4月、10代目金原亭馬生に入門。前座名は桂太
1964年9月、二ツ目昇進。
1969年6月 - 12月、『セイ!ヤング』(文化放送)でパーソナリティを務める。

1973年9月、真打昇進。

1980年3月、初代「金原亭 伯楽」となる。


受賞
2006年 文化庁芸術祭 演芸部門優秀賞

書籍
・『落語小説・江島屋』(本阿弥書店、2011年)

・『小説・古今亭志ん朝 - 芸は命、恋も命』(本阿弥書店、2006年、新装版 2012年)

・『小説・落語協団騒動記』(本阿弥書店、2004年

弟子
金原亭馬遊

金原亭龍馬  

参考
・『落語小説・江島屋』

関連項目
御乱心 落語協会分裂と、円生とその弟子たち
(wikiより)

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三代伊藤宗看(さんだいいとうそうかん、1706年宝永3年)-1761年6月2日宝暦11年4月29日))は江戸時代将棋指し七世名人。将棋三家の一つである伊藤家当主。別名に政長、印寿。


父は五世名人二代伊藤宗印(次男)。兄に伊藤印達(五段)。弟に八代大橋宗桂(八段)、伊藤看恕(七段)、初代伊藤看寿(八段、贈名人)。子に四代伊藤得寿(五段)。養子に弟の初代看寿。


指し将棋、詰将棋ともに優れ、「鬼宗看」とも呼ばれる。御城将棋では、18勝6敗1持将棋と圧倒的な強さを誇った(名人就位前の戦績は10勝1敗)。

経歴
兄の印達は四世名人五代大橋宗桂の時代である正徳2年(1712年)に夭折したため、次男の印寿が伊藤家の後継となる。それまでの印寿は将棋に関心を示さず、武事のみに熱中していたが、印達の死後には見違えるように将棋に打ち込むようになったという。


父の二代宗印は正徳3年(1713年)に五代宗桂の死を受けて五世名人となった。印寿は享保元年(1716年)に11歳・初段で御城将棋に初出勤し、三代大橋宗与に飛車落とされで対戦し勝利した。享保8年(1723年)、父の二代宗印が死去し、18歳で伊藤家を継ぐ。翌享保9年(1724年)に三代宗看を襲名した。享保12年(1727年)に八段に昇段。


父の死後に名人位を襲っていた六世名人三代大橋宗与は実子の宗民(後の四代宗与)を宗看と競わせるように御城将棋に出勤させたため、宗看の初期の対戦は宗民とのものが多い。三代宗与が享保13年(1728年)4月5日に死去すると、同年のうちに図式献上のないまま23歳で七世名人を就位した[1]。享保19年(1734年)に『象戯作物』を提出[2]


享保20年[3]1735年)には、名村立摩と七段昇段をかけて角香交じりで対戦し、香落ち番では「立摩流」に敗れたものの角落ち番で勝利し、立摩に七段昇段を断念させたという[4]


元文
2年(1737年)5月には「碁将棋席次争い」を起こした。それまでは御城碁将棋の席順(つまり上下関係)は伝統として家元が上、将棋の家元を下とするものであったが、宗看らはそれを変更しようとしていた。その頃は碁の家元は傑出した人物が出ず、低迷していたのに対し、将棋の家元は宗看を筆頭に、弟の宗桂、看寿らがおり、さらに奉行側のうち、井上河内守松平紀伊守が宗看の門人であったため、勢いとしては、宗看の意見が通りそうであった。が、旧守派の大岡越前守が「そのまま」の判決を下したため、碁の家元側は命拾いした。

元文5年(1740年)に実子の得寿が誕生する。


延享2年(1745年)に、後継者に定めて養子[5]としていた弟の看寿と、八段で宗看に次ぐ実力者の四代宗与が右香落ちで対戦し、看寿が勝利した。この時に看寿が放った金底の歩の名手を見て、看寿の勝ちを確信した宗看が魚釣りに出かけたという逸話がある(魚釣りの歩)。


長く御城将棋では手明が続いていた宗看であったが[6]、寛延元年(1748年)に久しぶりに御城将棋に出勤している(右香落ちで四代宗与に勝利。)。宝暦2年(1752年)に5年ぶりに出勤し八代宗桂に右香落ちで勝利。

宝暦3年(1753年)に兄の八代宗桂との平手戦に勝利した看寿は翌宝暦4年(1754年)に宗桂に先んじて八段に昇段し、翌宝暦5年(1755年)には献上図式(将棋図巧)を作成した。こうして看寿が次期将棋所に内定したとされる。同年には甥の大橋印寿(八代宗桂の子、後の九代宗桂)が御城将棋に初出勤するなど全盛期を迎えていた伊藤家であったが、宝暦10年(1760年)には弟の看恕と看寿が相次いで没し、翌宝暦11年(1761年)4月29日には宗看もまた56歳で没する。法名は玉将院宗看源立日盤。墓所は東京本所の本法院にある。

晩年は権勢の高さに溺れて棋力も衰え勝ちであったといわれる[7]


名人位は初めての空位となった。伊藤家は実子の得寿が継いだが、宝暦13年(1763年)10月29日に24歳で没したため、鳥飼忠七が養子に迎えられ五代伊藤宗印を名乗ることになる。


『将棋営中日記』によると、十一代大橋宗桂は「代々の名人の内にては三代宗看第一の由」「宗看の将棋はすがたいかにも位高きといへり」と高く評価している。また同書の別の項では、六代大橋宗英に次ぐ第二位とされている。

詰将棋
宗看の残した詰将棋作品集『象戯作物』(俗称:『詰むや詰まざるや』『将棋無双』)は、詰将棋史上の傑作とされる。これにより、詰将棋の水準は格段に上がったとされる。『象戯作物』は、八段昇段が早かったため異例の名人就位6年後に献上された。



象戯作物(将棋無双)
古今で最も難解とも言われるほどの作品集で、弟の看寿の「将棋図巧」と並んで詰将棋の最高峰とまでいわれる[誰によって?]


しかし、「象戯作物」の解答本はほとんど世に出回らなかったため、詰むかどうか長年棋界の謎とされてきた(解答は載っていなかった)が、昭和40年代に、将軍に献上した原本が皇居内の内閣文庫で発見されるに至り、解決に至った(原本には解答が付いていた)。これにより、最初から詰まない何題かがあったことが分かった。



代表的な作品
十二番
盤上に攻め方がない「無仕掛」。

三十番
古来より神局とよばれた奇跡のように美しい傑作。

百番
象戯作物のトリを飾る超大作。「大迷路」の名の通り超難解である。

詳しいことは、「三代目・伊藤宗看ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E8%97%A4%E5%AE%97%E7%9C%8B_(3%E4%BB%A3)
(wikiより)

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9代目金原亭 馬生(きんげんてい ばしょう、1887年1月13日 - 1949年1月1日)は、主に大正昭和期にかけて活躍した落語家。本名、小林捨吉。


初めは1910年3月に4代目橘家圓喬門下に入門し、東喬を名乗る。その後、大阪に移住していた5代目金原亭馬生(後の通称「赤馬生」と呼ばれる)門下に移籍し、1913年2月に金原亭馬きんとなり真打昇進。吉本興行部に所属していた。


師匠が1919年に帰京した後も上方で活動し、1926年11月金原亭馬生襲名。後の5代目古今亭志ん生が7代目金原亭馬生襲名前のことである。


後に東京に戻るが、既に1939年8代目金原亭馬生がいたので4年間だけ浅草亭馬道と改名した。8代目馬生没後の1944年2月に再度、馬生襲名。


1949年元旦に死去。享年62。墓所は台東区東淵寺。馬生没後10代目金原亭馬生7代目金原亭馬生の息子が襲名した。
(wikiより)

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4代目 古今亭 今輔(ここんてい いますけ、明治19年1886年5月21日 - 昭和10年(1935年7月23日)は、落語家。本名:中島市太郎。妻はな(旧姓:土方はな)

人物
大阪府大阪市北浜株屋の出身で「天狗連」で腕を磨き3代目桂文三の門で小文となりセミプロとなった。


一攫千金を狙って東京に出向き、兜町で株式仲買の店に住み込みで働いたが株の暴落で倒産、撞球屋のボーイやプロの連珠師となるも商売としてうまく行かず噺家に戻った。同じ上方出身でもあった初代桂小南の口利きで1909年10年初代三遊亭圓右の内輪になって初代三遊亭右女助となった。


1913年3月に人形町末広亭で真打昇進。以降所属は会社派、睦会、などを転々とする。所帯を持った頃、両国の米沢町に「とらや横町」という処があってそこの2階に居を構え弟子達(桃助(後の5代目古今亭今輔))を居候させていた。


その後上野黒門町に居を移し、1923年関東大震災の時には、妻はなをはじめ大勢の弟子たちを連れて関西へ巡業に行っていた。東京が大地震に見舞われたと聞いて急いで戻ってみると、当時留守番を任せていた「爺や」と呼ばれていた人物が、大八車に家財道具一式を積み込んで上野のお山(上野公園)に避難していた。 この「爺や」というのは妻はなの係累の者で、年相応に所帯も持たずいわば一族の厄介者だった。今輔はそれを引き取って下男として使っていたのであったが、この大震災の時の功労でその後「爺や」には大層手厚くしてやったと言う。


やがて徐々に人気も出て1926年10月に5代目柳亭左楽の斡旋で4代目今輔を襲名。一方今輔夫婦には実子がなく、はなの甥にあたる土方勇(いさむ)(1996年5月6日、77歳没)を大層かわいがっていた。幼い勇をよく高座へ連れて行ったり、勇の方も言われるままに落語の真似事をしては今輔に気に入られていた。


しかし今輔は1934年咽頭癌を患って声帯を手術したために声が聞こえなくなる。土方勇の話では、この時病院のベッドの上に正座している今輔の姿が写真入りで新聞に載り、「あの今輔が噺家としての命である声を失った」と報じられたと言う。 同年6月29日日本橋倶楽部で引退披露興行を行った。翌1935年7月23日死去。49歳没。墓所は文京区忠綱寺。戒名は「釈真浄」。


その後、「今輔」の名跡は弟子であった桃助が五代目として襲名した。


前名である「右女助」は恩人・初代小南の孫弟子であった桂文七が二代目を、四代目今輔自身の孫弟子である古今亭今之輔が三代目が襲名し、現在は二代目右女助の孫弟子が四代目を名乗っている


東京で上方落語を演じる数少ない人物で地味な口調の人物でもあった。SPレコードも数枚吹き込んでいる。


弟子には恵まれなかったが、後年妻はなのもとへ、今輔の前の名前である「右女助」を襲名することになったと言って、若い孫弟子がはるばる挨拶に来てくれたことがあったという。

出典
・諸芸懇話会、大阪芸能懇話会共編『古今東西落語家事典』平凡社ISBN 458212612X
(wikiより)

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初代 三遊亭 圓歌(しょだい さんゆうてい えんか、1876年6月10日 - 1927年10月22日)は日本落語家

来歴・人物
本名は泉 清太郎東京府下谷区同朋町の仕立て屋の家に生まれ、幼くして実家が火事にあい父が死別、1895年に近所に住んでいた三遊亭右楽の紹介でその師匠の初代三遊亭圓右の門に入り三遊亭右左喜1897年に師に内緒で上総房州に巡業し破門、詫びを入れ二つ目で三橘、翌年再び上方、九州を巡業、巡業先で「橋立」の艦長と知り合い従僕することになり日露戦争に従軍、1906年に帰国復帰し初代三遊亭小圓右を経て1907年9月に真打で初代圓歌を襲名し京橋金沢亭で披露した。


人情噺
芝居噺古典、古典の改作、新作幅広くこなし「肝つぶし」「鹿政談」「新助市」「品川心中」など多数、新作では「酢豆腐」を「石鹸」の名で改作している。


52歳没。墓所は谷中長久院。戒名は「圓浄清歌信士」。


弟子は3代目三遊亭金馬2代目三遊亭円歌船遊亭扇太郎軽口三遊亭歌輔・歌之輔(元三遊亭左近・右近)。
(wikiより)

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8代目 三笑亭 可楽1897年明治30年〉1月5日 - 1964年昭和39年〉8月23日)は、東京府東京市下谷区(現:東京都台東区)出身の落語家。本名、麹池 元吉(きくち もときち)。出囃子は『勧進帳』。所属は日本芸術協会文化放送専属。精選落語会レギュラー。


黒門町の経師屋の家に生まれる。家業を継ぐべく修行するも、父親の家作に出入りしていた5代目古今亭志ん生の吞気な生活ぶりに憧れを抱き、天狗連を経て1915年初代三遊亭圓右に入門して「右喜松」。1918年10月に三橘と改名。後に7代目翁家さん馬(後の8代目桂文治)門下に移ってさん生となり、1922年翁家馬之助で真打昇進。さらに6代目春風亭柳枝門下に転じてさん枝、さらに1924年8月に5代目柳亭左楽門下となり春風亭柳楽と改名。1940年4月に6代目春風亭小柳枝となり、1946年5月に8代目可楽を襲名。師匠と名前を度々変えていることからも窺える通り、長く不遇であった。これは可楽が他の噺家のように他人に媚びへつらうことが出来ず、不平不満や愚痴がすぐ口をつく性格が災いしたと言われる。また人気が出た晩年も、日本芸術協会会長6代目柳橋との衝突から長期休業したり、報われなかった。


芸風は極めて地味で動作が少なく、一般大衆受けする華やかなものではなかった。しかし、可楽には少数ながら熱烈な愛好者がおり「可楽が死んだらもう落語は聞かない」とまで語る者もいた。彼らの多くは現役ミュージシャン、それもジャズマンで、著名なところでは小島正雄北村英治フランク永井などがいた。とくに人気歌手であったフランク永井との交流は自慢の種で、可楽自身もフランク永井が贔屓にしてくれることをうれしそうに語ったり、酔うとフランク永井のヒット曲「夜霧の第二国道」を歌ったり、「らくだ」の屑屋のセリフに「低音の魅力ってやつだね。」というクスグリを入れた。


独特の渋い低音と妙に舌足らずの語り口。「べらんめえ」口調ながら、不思議と礼儀正しく、客との距離感は絶妙であった。酒豪であり、また酒が出てくる噺を好んで演じた。『らくだ』(上方6代目松鶴から直接移された惨忍な演出)、『今戸焼』が絶品。『二番煎じ』『反魂香』『うどんや』『岸柳島』『鰻の幇間』などの演目を得意とした。ただ無精な性格ゆえに十八番の『らくだ』の他、『芝浜』や『子別れ』のような小一時間もかかる大ネタでも他の落語家に比べて短く切り上げていた。また不器用ながら小唄や舞踊も時折演じていた。


いつも苦虫を噛み潰したような顔をしていたが、意外にも女性にはよくもてたという。


それまで日蔭の世界の芸人だったが、1962年に内幸町イイノホールで開催された精選落語会のレギュラーのひとりに抜擢され(他は8代目桂文楽6代目三遊亭圓生5代目柳家小さん8代目林家正蔵(後の林家彦六))、やっとスポットライトを浴びた矢先、1963年の暮れに体調不良を訴えて入院、胃の手術を受けるも1964年食道癌で死去。享年67。墓所は台東区興禅寺。


弟子に、三笑亭夢楽三笑亭笑三、9代目(当代)可楽、三笑亭茶楽がいる。可楽と茶楽は没後夢楽門下に移籍。
(wikiより)

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囲碁の本因坊家は江戸時代に成立した四家元の一つ(他には井上、安井、林の各家)

「本因坊」の名称は、京都・寂光寺の塔頭の一つ 本因坊において、日海(にっかい〔後の算砂〕 さんさ)が居住していたことに由来します。


算砂は本因坊家の初代頭領として興隆への道を切り開き、囲碁界最高の栄誉である「名人・本因坊」に叙せられ、また慶長8年(1603)、江戸幕府から初代の「碁所」に任ぜられました。

「碁所」とは、江戸城において将軍の御前で対局をする「御城碁」の棋士の手合いを差配したり、棋士の段位を定めたり、免状の発行権をもつなど、囲碁界最高の地位を保障された棋士です。


碁所をめぐって四家はしばしば識烈な争いを展開しましたが、その中で頂点に立ったのが本因坊家であり、庶民への広まりも含めた碁界の興隆に貢献しました。

その理由は実子相続を前提とする世襲制ではなく、弟子のなかで優れたものが相続する実力制だったことが挙げられます。


本妙寺は創立後何度も場所をかえ、明治43年(1910)現在地へ移転しましたが、その時に墓所の配置はほぼ現在の形となり、四世本因坊道策(どうさく)より二十一世本因坊秀哉(しゅうさい)に至るまで、本因坊代々の棋士と縁の人々が祀られております。


「秀哉忌」について
「最後の名人」二十一世本因坊秀哉は、昭和12年(1937)引退を決意し、本因坊の名跡を日本棋院に譲ります。

そして木谷實七段との「名人引退碁」が最後の対局となり、昭和15年(1940)1月18日療養先の熱海で病没、享年66歳でした。

翌年の一周忌までに墓碑が完成し法要が営まれました。

それ以来、門人らの集まりである「秀哉会」により毎睦月18日に「秀哉忌」が執り行われてきました。

現在は日本棋院が主宰し、その年の「本因坊」のタイトルを持つ棋士が祭主を務め法要が行われております。


歴代本因坊の紹介
      (本因坊)   (生没年)         
一世 : 算砂 1559年(永禄 2)-1623年(元和 9)
二世 : 算悦 1611年(慶長16)-1658年(万治元)
三世 : 道悦 1636年(寛永13)-1727年(享保12)
四世 : 道策 1645年(正保 2)-1702年(元禄15)
跡目 : 道的 1669年(寛文 9)-1690年(元禄 3)
五世 : 道知 1690年(元禄 3)-1727年(享保12)
六世 : 知伯 1710年(宝永 7)-1733年(享保18)
七世 : 秀伯 1716年(享保元)-1741年(寛保元)
八世 : 伯元 1726年(享保11)-1754年(宝暦 4)
九世 : 察元 1733年(享保18)-1788年(天明 8)
十世 : 烈元 1750年(寛延 3)-1808年(文化 5)
十一世 ; 元丈 1775年(安永 4)-1832年(天保 3)
十二世 : 丈和 1787年(天明 7)-1847年(弘化 4)
十三世 : 丈策 1803年(享和 3)-1847年(弘化 4)
十四世 : 秀和 1820年(文政 3)-1873年(明治 6)
跡目 : 秀策 1829年(文政12)-1862年(文久 2)
十五世 : 秀悦 1850年(嘉永 3)-1890年(明治23)
十六・二十世 : 秀元 1854年(安政元)-1917年(大正 6)
十七・十九世 : 秀栄 1852年(嘉永 5)-1907年(明治40)
十八世 : 秀甫 1838年(天保 9)-1886年(明治19)
二十一世 : 秀哉 1874年(明治 7)-1940年(昭和15)


(注)この墓所には四世・道策以降の墓があります。
(案内板より)

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三遊亭 圓朝(さんゆうてい えんちょう)は、江戸東京落語三遊派大名跡円朝とも表記。
1. 初代三遊亭 圓朝は、三遊派の総帥、宗家。三遊派のみならず落語中興の祖として有名。敬意を込めて「大圓朝」という人もいる。二葉亭四迷が『浮雲』を書く際に圓朝の落語口演筆記を参考にしたとされ、明治の言文一致運動にも大きな影響を及ぼした、現代の日本語の祖でもある。本項目で詳述。
2. 二代目三遊亭 圓朝になることになっていたのは、初代 三遊亭圓右。「名人圓右」の呼び声も高く、明治期から大正期に活躍した。圓朝の二代目を襲名することが決定したものの、一度も披露目をせずに病のため亡くなった。そのため「幻の二代目」とも称される。→三遊亭圓右の項目を参照のこと。


初代
初代三遊亭 圓朝(さんゆうてい えんちょう)、(天保10年4月1日1839年5月13日) - 明治33年(1900年8月11日)は、江戸時代末期(幕末)から明治時代に活躍した落語家。本名は出淵 次郎吉(いずぶち じろきち)。


概要
落語家であり、歴代の名人の中でも筆頭(もしくは別格)に巧いとされる。また、多くの落語演目を創作した。


滑稽噺(「お笑い」の分野)より、人情噺怪談噺など、(笑いのない)真面目な、(いわば)講談に近い分野で独自の世界を築く。圓朝の噺が三遊派のスタイル(人情噺)を決定づけた。


あまりの巧さに嫉妬され、師匠の2代目 三遊亭圓生から妨害を受けた。具体的には、圓朝が演ずるであろう演目を圓生らが先回りして演じ、圓朝の演ずる演目をなくしてしまうのである。たまりかねた圓朝は自作の演目(これなら他人が演ずることはできない)を口演するようになり、多数の新作落語を創作した。


初代 談洲楼燕枝とは年齢が1歳下のライバルであった。
また怪談噺の参考とした幽霊画のコレクターとしても知られ、遺されたコレクションは全生庵蔵として圓朝まつりで毎年公開されているほか、2015年7月22日から9月13日までの期間で東京藝術大学大学美術館でも展覧会が行われる。


来歴・略歴

※日付は明治5年までは旧暦
・天保10年(1839年)4月1日:初代 橘屋圓太郎(初代圓橘)の息子として江戸湯島切通町で生まれる。母の名は、すみ。


弘化2年(1845年3月3日:初代 橘家小圓太の名で江戸橋の寄席・「土手倉」で初高座。


・弘化4年(1847年):父・圓太郎と同じく二代目 三遊亭圓生の元で修行する。


嘉永2年(1849年):二つ目昇進。


・嘉永4年(1851年):玄冶店の一勇斎歌川国芳の内弟子となり、画工奉公や商画奉公する。


安政2年(1855年3月21日圓朝を名乗り真打昇進。


・安政5年(1858年):鳴物入り道具仕立て芝居噺で旗揚げ。


元治元年(1864年):両国垢離場(こりば)の「昼席」で真打披露。


・明治元年(1868年):長子の朝太郎誕生。母は御徒町住の同朋倉田元庵の娘、お里。


・明治5年(1872年):道具仕立て芝居噺から素噺に転向。


・明治8年(1875年):六代目 桂文治と共に「落語睦連」の相談役に就任。


・明治10年(1877年):陸奥宗光の父で国学者伊達千広による禅学講義の席で知己となった高橋泥舟により、義弟の山岡鉄舟を紹介される。


・明治13年(1880年9月24日:山岡鉄舟の侍医である千葉立造の新居披露宴の席で、同席していた天龍寺の滴水和尚から「無舌居士」の道号を授かる[1]


・明治19年(1886年1月8日井上馨の共をして身延山参詣。また井上の北海道視察(8月4日より9月17日)にも同行した。


・明治20年(1887年4月26日:井上馨邸(八窓庵茶室開き)での天覧歌舞伎に招かれ、また井上の興津の別荘にも益田孝らと共に招かれている。


・明治22年(1889年
 ・4月:向島木母寺境内に三遊派一門43名を集め、三遊塚を建立。初代および二代目 三遊亭圓生を追善記念する。
 ・6月30日:各界人士を集めて、初代・二代目 圓生の追善供養のための大施餓鬼会を施行し、一門の43名が小噺を披露し、記念誌を配布した。
 ・朗月散史編『三遊亭圓朝子の傳』が三友舎から出版される。圓朝自身の口述に基づく自伝。


・明治24年(1891年)6月:席亭との不和で寄席の出演を退き、新聞紙上での速記のみに明け暮れる。


・明治25年(1892年):病の為に廃業。


・明治30年(1897年)11月:弟子の勧めで高座に復帰。


・明治32年(1899年
 ・9月 発病。
 ・10月 木原店で演じた『牡丹燈籠』が最後の高座となる。
 ・不行跡により朝太郎を廃嫡処分とする。


・明治33年(1900年8月11日午前2時:死去。病名は「進行性麻痺」と「続発性脳髄炎」。法名は「三遊亭圓朝無舌居士」。墓は台東区谷中五丁目4番7号の臨済宗国泰寺派全生庵にあり、東京都指定旧跡となっている。


詳しいことは、「初代・三遊亭圓朝ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E9%81%8A%E4%BA%AD%E5%9C%93%E6%9C%9D
(wikiより)

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初代・三遊亭圓朝

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3代目三遊亭 圓生(さんゆうてい えんしょう、1839年天保10年)(逆算) - 1881年明治14年)8月16日)は、落語家。本名、嶋岡(野本?)新兵衛。

人物
当初歌舞伎役者で、本名兵衛にちなんで「のしん」と名乗ったので、後に「のしん」の圓生と渾名(あだな)されたとされていたが、誰の役者の弟子だったのか、旧幕府時代に既に野本という名字のある身分だったのかなどについて何も傍証となるものがなく、さらに本名を嶋岡と載せている文献もあるので、その由緒については疑問がある。一方で天狗連の真打格で、○○連の真打を略して「のしん」が渾名されたという説もある。

安政の末に役者から転じて、江戸噺家4代目桂文治門下で万治(萬治)となったとされるが、確証はない。明治維新前後に三遊亭圓朝門下に移り、初代にあたる三遊亭圓楽を名乗る。


圓朝の下でめきめきと頭角を現し、演芸評論家関根黙庵によると、初代三遊亭圓馬初代三遊亭圓橘3代目三遊亭圓喬(後の4代目三遊亭圓生)と並んで「圓朝四天王」の一人に数えられたという。関根黙庵の説では、1872年両国立花家杮落としに際して、圓朝が素噺に転じるために芝居噺の道具を圓楽に全て譲って、3代目圓生を襲名させたと言う。しかし、実際はもう少し早く1869年から1870年ころ襲名したのではないかとも思われる。


1881年
に、43歳で死去した。


弟子は初代三遊亭圓丸ら大勢いた。

出典
・諸芸懇話会、大阪芸能懇話会共編『古今東西落語家事典』平凡社ISBN 458212612X

関連項目
三遊亭圓生
(wikiより)

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5代目三遊亭 圓生(さんゆうてい えんしょう、1884年明治17年)10月 - 1940年昭和15年)1月23日)は、東京の落語家。本名、村田源治。通称「デブの圓生」。(約85キロもある巨体であったため)。弟は5代目三遊亭圓窓6代目三遊亭圓生は義理の息子(妻の連れ子)。また一時兵役逃れで4代目三遊亭圓生門下の三遊亭桃生(堀江元次郎)の養子になっていたことがある。

来歴・人物
下総八街の宿屋「梅屋」の家に生まれ、父は入婿で芝愛宕下で大工をしていた、6歳で実父は出奔、親戚に預けられ14歳で足袋店に奉公するなど、波瀾に満ちた少年時代を送る。1902年(明治35年)の19歳で奉公先を飛び出し剣舞の日比野雷風一座(日比野雷風正吉)に1、2年程加わったり旅回りの一座に加わるなど苦労を重ね、1905年(明治38年)に旅回りの一座で知り合った4代目橘家圓蔵一門に入り、橘家二三蔵となる。1909年(明治42年)橘家小圓蔵で二つ目、新進気鋭の若手として注目され、1912年(明治45年)に3代目三遊亭圓窓を襲名し真打昇進。


1915年大正4年)3月には当時では珍しく講釈師坂本富岳らとともに落語家として初めて横浜から渡米して興行。1916年(大正5年)9月に帰国。師匠圓蔵ともども落語界の重鎮として活躍。師匠圓蔵の死後、1922年(大正11年)2月、5代目橘家圓蔵を襲名し、一門を率いると共に関東大震災を挟んで芝宇田川町で寄席「三光亭」を経営にも乗り出した。4代目圓窓は義理の息子である5代目三遊亭圓好(後の6代目三遊亭圓生)が襲名した。1925年(大正14年)1月、5代目三遊亭圓生を襲名。6代目圓蔵は4代目圓窓(後の6代目圓生)が襲名し、5代目圓窓は実弟三遊亭圓都が襲名した。この間所属の演芸会社を脱退、以降東西会、睦会に所属。1927年(昭和2年)には初代柳家三語楼の落語協会入り。1930年(昭和5年)睦会復帰し1934年(昭和9年)に同会会長に就任もすぐに脱退し東京落語協会に移籍。


得意ネタは前述の「首提灯」のほか「三十石」「お若伊之助」「文七元結」「らくだ」「三年目」「夢金」など、相撲取りのような身体なのに高座で娘を演じると、はたして娘に見えたと言う伝説を持つ。また、単行本や雑誌などに数多くの速記を載せている。


1940年(昭和15年)1月に風邪気味をおして寄席に出演、「首提灯」を演じる。帰宅し雑煮を食べた後容態が悪化、同月15日死去。


残されているSPレコードは少ない。墓所は世田谷区永隆寺

主な弟子
橘家花圓蔵(本名:川崎仙太郎)
三遊亭圓吉(本名:坂崎角次郎)
橘家圓晃
6代目橘家圓好(菊島春三郎、後に廃業)
2代目(3代目とも)三遊亭百生

関連項目・三遊亭圓生

(wikiより)

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⇧ 五代目・三遊亭圓生 ( 左 )

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4代目 三升亭 小勝(みますてい こかつ、1856年安政3年)3月 - 1906年明治39年)4月6日)は、江戸出身の落語家。本名は石井 淸兵衞。


日本橋箱崎町
の船宿鈴木屋の息子。初めは3代目春風亭柳枝門下で初代春風亭枝雀を名乗り、後に2代目の春風亭柏枝と改める。その後2代目三升亭小勝の次女の竹本清之助(富沢つね)と結婚し、義理の父の名である小勝を継ぎ真打に昇進した1894年10月に上席の芝玉の井で昇進披露をしている。


1904年7月には浮気相手の2代目東家小満之助(青木てふ)と上方に出向き、三友派に席を置き高座に上がっていたが、後に高座への意欲もなくなり1906年4月6日に糖尿病で死亡した。享年51。墓所は瑞輪寺墓地。戒名は「勝宗院遊楽日友居士」。


が好きでそれが高じて狸が出るよく出るネタを好んで演じていた事から俗に「狸の小勝」と言われた。


弟子に小つね(後の3代目古今亭今輔)、勝之助(後の2代目松柳亭鶴枝)、三升家勝ぐり(鈴木峯次郎)、4代目三升家勝蔵(俗に「ガマの勝蔵」)などがいる。


伊志井寛
の父、石井ふく子の祖父、石井麗子石井希和の曽祖父にあたる。

出典・
諸芸懇話会、大阪芸能懇話会共編『古今東西落語家事典』平凡社ISBN 458212612X
(wikiより)

1006 四代目・三升亭 小勝

⇧ 四代目・三升亭小勝

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将棋の十四世名人・木村義雄は、明治三十八年 ( 1905 ) に本所区表町三十九番地に生まれ、明徳 ( めいとく ) 尋常小学校 ( 現本所中学校 ) を卒業しました。


子どもの頃から将棋や囲碁が強く、大正五年 ( 1916 ) に十三世名人・関根金次郎の下に入門し、頭角を現しました。


昭和十三年 ( 1938 ) に第一期実力制名人となり、その後四期連続で名人位を防衛しました。


同二十二年 ( 1947 ) に塚田八段に破れたものの、同二十四年 ( 1949 ) には再び名人位に就き、通算八期十年の間、その地位を守りました。


同二十七年 ( 1952 ) に大山八段に破れて以後、公式戦休場を表明し、十四世永世名人を襲位しました。


また、同二十二年 ( 1947 ) には日本将棋連盟の初代会長に就任するなど、将棋界の近代化を進めました。

多筆家としても知られ、「将棋大観」など多くの著作を残しています。


その功績が認められて、昭和五十三年 ( 1973 ) には勲三等旭日中綬章を授与されました。


以後も執筆活動などを行っていましたが、昭和六十一年 ( 1986 ) 十一月十七日に八十一歳で亡くなりました。


墨田区は将棋とのゆかりが深く、東駒形では十一世名人・伊藤宗印 ( そういん ) の弟子で「本所小僧」と呼ばれた相川治三吉 ( じそきち ) が生まれたほか、両国四丁目には師の宗印も屋敷を構えていました。

本法寺 ( ほんぽうじ、横川一丁目 ) には駒の形をした宗印の墓があります。


また、木村義雄の実弟の文俊 ( ふみとし ) は駒師として有名で、押上 ( 現在の立花一丁目 ) などに店を構えました。
(案内板より)

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明治十二年 ( 1879 )に 十一世名人襲位した八代・伊藤宗印がここに屋敷を構えていました。


将棋でいう名人とは、将棋指しの家元の第一人者が名乗った称号です。

江戸時代には大橋家本家、大橋家分家、伊藤家の三家が持ち回りで世襲していました。


三家とも初めは本所に屋敷を構えましたが、間もなく転居し、明治に入って宗印だけが戻ってきました。

宗印はここで棋士の育成を始めます。

のちの名人・関根金次郎もこの屋敷で腕を磨きました。


さらにその関係に弟子入りしたのが本所生まれの名人・木村義雄です。

木村はこの屋敷でめきめきと頭角を現し、現在の将棋の隆盛を築き上げました。
(案内板より)


〇 八代目・伊藤宗印

八代伊藤宗印(はちだいいとうそういん、1826年文政9年7月) - 1893年明治26年)1月6日)は、江戸時代将棋指し十一世名人。将棋三家の一家伊藤家当主。最後の家元出身の名人である。


実子に伊藤印嘉(早世)。弟子に小菅剣之助名誉名人、関根金次郎十三世名人がいる。

家元制崩壊
江戸幕府が衰退していくにつれて、家元三家に対する支援も次第に減少していった。これにより将棋も道連れのように衰退の道を辿り、名人位不在の期間が長らく続くほどの後継者不足にも陥ってしまった。


八代宗印は初名は上野房次郎といい、大橋本家の十一代大橋宗桂の弟子の一人であったが、後に伊藤家の養子となり伊藤宗印を名乗るようになる。兄弟子である天野宗歩が死去すると、次期名人候補として期待を集めるようになった。


明治維新
の頃には、家元制度は家禄を失い有名無実と化してしまった。八代宗印は高齢の十一代宗桂に代わって将棋界の中心となり、1869年(明治2年)には大橋分家の当主九代大橋宗与らと協力して将棋界の再興を図り「百番出版校合会」を呼びかけ、大矢東吉小野五平ら各地の強豪の参加をとりつけ、将棋界の再興に着手した。しかし八代宗印と大矢・小野はその後昇段などの件をめぐり対立し、九代宗与の投獄事件などもあって将棋界は分裂状態になってしまう。


宗印の名人襲位にあたって、若手の有望株である松本竹次郎に角落ち(宗印が上手)で指し分け(五分)以上の成績ならば認めるという小野らとの妥協が成立した。1873年(明治6年)、1局目は敗れたが2局目で勝利し、ここで勝負は打ち切りとした。しかし、名人襲位の実現はさらに6年後になった。


1879年
(明治12年)、35年ぶりに十一世名人を襲位した。しかし上方方面に支持基盤を得た小野五平との溝は埋まることはなかった。


1881年(明治14年)、『将棊新報』を刊行する。


1893年(明治26年)に死去。宗印が死去してから6年後に小野五平が十二世を襲位する事となり、江戸初期より続いてきた家元制名人位の制度が崩壊した。


駒落ち将棋に長け、「駒落ち名人」の異名もあったという。


実戦譜に小菅が編集した『将棋名家手合』がある。本法寺に墓誌がある。

参考文献
・大内延介・天狗太郎『名匠の棋跡』(時事通信社、1980年)187 - 205頁

外部リンク
日本将棋連盟
伊藤家の紹介(関西将棋会館)
特集十二世名人小野五平その知られざる実力(関西将棋会館)
企画展示「将棋展」解説(大阪商業大学商業史博物館)
コトバンク
(wikiより)

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一柳斉柳一 ( いちりゅうさい - りゅういち )( お伽丸柳一 )
慶応元年? ~ 昭和 4年 2月 7日 ( 1865 ? - 1929 )


曲芸師。


父、講釈師・伊東凌潮。


はじめ帰天斎正一の門人となり、正孝を名乗る。


のち 3代目・春風亭枝門に移り、春風一柳斎と改名した。


明治 33年 ( 1900 ) 頃に一柳斎柳一と名乗り、皿回しの曲芸のほか、記憶術などを得意とした。64歳没。


正面「南無妙法蓮華経」。左面「妙風院殊芸日柳信士 昭和四年二月七日 一柳斎柳一」。

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4代目 桂 三木助(かつら みきすけ、1957年3月29日 - 2001年1月3日)は、日本の落語家東京都北区田端出身。本名は師匠である5代目小さんの本名と同姓同名の小林 盛夫(こばやし もりお)。出囃子は「つくま」。立教高等学校(現:立教新座高等学校)、立教大学経済学部卒業。父は落語家3代目桂三木助。甥は5代目桂三木助


落語協会
所属。十八番ネタは「死ぬなら今」。弟子に三遊亭司(当時:桂六久助)がいたが、三木助没後は三遊亭歌司門下に移籍している。

経歴
1977年4月 - 人間国宝5代目柳家小さんに入門。前座名は柳家小太郎
1981年5月 - 二つ目昇進。柳家小きんに改名。
1984年 - NHK新人落語コンクール優秀賞受賞。
1985年9月 - 真打昇進、4代目桂三木助襲名。
1997年 - 芸術祭演芸部門優秀賞受賞。
2001年1月3日 - 自殺。43歳没。墓所は父と同じ台東区観音寺。

人物

出生から入門まで
父・3代目桂三木助の晩年に出生。唯一の男児となった。父が5代目柳家小さんと義兄弟の杯を交わすほどの大親友であったので、誰もが認める実力者であった小さんのようになれとの願いをこめて、小さんの本名と同じ「盛夫」と命名された。


父とは3歳で死別し、以降は母と2つ年上の姉のもとで育つ。大学在学中に落語家になることを決意。父はすでに亡くなっていたので、小さんへの入門となった。

桂三木助襲名
前前座時代
新入り落語家である前座は、師匠宅における労働(家事・掃除など)の義務があり、当然それは早朝から深夜に及ぶものである。しかし、三木助はようやく昼過ぎに師匠宅に車で乗り付けるという重役出勤ぶりで、それもただ「出勤」しただけで、労働らしきものは全く行わなかった。師匠小さんも特に注意せず、野放しにさせた。他の弟子たちは上下問わず「あの人(=三木助)は宇宙人みたいな人だから…」と呆れたまま放置するのであった。


実質的な前座作業をしていないということは功罪両面があり、後のタレントとしての成功につながった。これは苦役を体験することからくる「暗さ」や「セコさ」とは縁がなく、御曹子ならではの屈託のないキャラクターがそのまま活かされたことにある。


反面、小さん一門ひいては落語家社会からの反感を買うこととなり[1]、修行体験で古典落語を身体に沁み込ませなかったこと、それでも古典落語を無理にやろうとしていたので、専門家やファンからの評価が高くなかったこと、修行全般から逃げてきたことによって精神面が鍛えられなかったという致命的なデメリットもあった。


なお、小さんへ弟子入りしたことで、師弟が完全に同姓同名となり、郵便物などの取り違えが起こるトラブルが多発した。さらには師匠小さんの代理で区役所に印鑑証明をとろうと足を運んだところ、職員から「本人も代理人も小林盛夫では話にならない」と言われ、もめてしまったと言う逸話もある。

二つ目時代
御曹司、一流大学出身、寄席に外車で乗り付け、隣に女性をはべらせる…というイメージを隠さずにむしろ強調し、「落語界のシティーボーイ」とキャッチフレーズもついた[1]春風亭小朝と共に次世代のホープとして注目された。また、俳優やテレビリポーターなどとしても活躍した。


二つ目になってから3年後、1984年(昭和59年)度のNHK新人落語コンクールに出演。『湯屋番』を演じ、優秀賞を受賞する。

桂三木助襲名後
翌年に26人抜きで真打に昇進して4代目桂三木助を襲名した後は、タレントとしての仕事をほぼなくし、落語家の仕事を中心にした。演芸番組を除いては自然とテレビから遠ざかり落語に専念するようになる。その理由として、胃の摘出によって体力的に衰えを自覚したことにあることを、東京かわら版のインタビューで述べている[2]


1993年
(平成5年)の秋に入院した三木助は、重度の胃潰瘍のために胃の4分の3を摘出する手術を行った。さらに同年、自分の師匠の孫にあたる弟弟子の柳家小緑の戦後史上最年少での真打昇進が決定となり、翌年の1994年には小緑改め柳家花緑の真打昇進披露興行が開催された。それらの影響を受けて落語に対する姿勢が変わり、春風亭小朝、林家こぶ平春風亭昇太らとともに江戸落語の若手発掘・自身も含めた中堅世代のスキルアップのために、数々の寄席や落語関連のイベントで奔走することとなる。


同年の9月には「三木助ひとり会スペシャル」という昼夜の独演会を開催し、昼の部には立川志の輔と昇太、夜の部には桂小米朝立川談志を招くなど、主役である自分が食われかねないゲストとも共演した。また、三木助は元来上方の名跡である事から、桂米朝にも幾つか噺を教わり精進を重ねた。父がかつて芸術祭賞を受賞した芸術祭に対しても意欲を示し、1996年(平成8年)は不参加であったものの、1997年(平成9年)には演芸部門優秀賞を受賞した。さらに吉川潮の協力のもと、父の十八番であった『芝浜』も習得しようと励んでいた。

狂い出した歯車
最初に芸術祭に参加を申し込んだのは1996年だが、公演の前々日に事故にあって怪我をしたために公演を中止した。その際にマスコミが取り上げ、注目の的になった。三木助本人は「夜中に飼い猫の餌を買いに行った帰りにピカっと光る物体を見たとたん、何かとぶつかって気を失った」[3] と証言したが、周囲からは「彼に冷たくされた女性が待ち伏せして襲った」説や「参加公演直前になって自信をなくして体調がおかしくなった」説、宇宙人来襲説、狂言説などが浮上したが[3]、姉の小林茂子の話では自動車による当て逃げの被害にあったというのが真相であった。高座に復帰した際には自ら自虐的にこの事故についてまくらで触れていた。またこれ以後自嘲的にお騒がせ噺家と名乗るなどスキャンダラスな存在になっていった。


それ以降、三木助は奇行が目立つようになり、寄席も遅刻し[4]、無断で欠席するようになった。たとえ寄席に出ても楽屋でも身だしなみにこだわらなくなり[5]、寄席を出てから10時間近くも夜の街を徘徊した末に駅でコートを脱ぎ捨て、足を腫らして病院に運び込まれることもあった[4]。また、周囲の人々に、父親の年まで生きられず[6] に30代で亡くなるかもしれない[6] ことや、亡くなったら、かつて一緒に遊び回っていた病死したり自殺したり変死した仲間と再会出来る[6] ということを口にするようになった。


かねてから「三木助」の名に重圧を感じており、うつ病にかかっていたなどの憶測が流れたが、このような言動の背景には、胃の手術によって体に変調が表れやすくなったこと[6] や、長年の付き合いのあった友人に裏切られて金銭問題を抱えたことがある[7]

突然の死
2001年1月2日に開催された5代目小さんの誕生パーティを無断で欠席した三木助だったが、その翌日に自宅で首を吊っている姿が発見された。病院に救急搬送されたが、死亡。この時、遺書には「か 自分でも整理がつかないと同時に私の力のなさを痛感する」と書かれており、文字はかなり乱れていたという。冒頭の「か」の意味は明らかにされていない。


後日都内のホテルにて、林家こぶ平などの親しかった落語家たちにより、三木助を送る会『さよなら!ミッキー』が催された。このとき小朝は「もし生き返らせることが出来るなら、生き返らせたい」と発言している。

ネタ

死ぬなら今
「死ぬなら今」という演目がある。この落語のサゲは「死ぬなら今(です)」。通常、落語の下げは、推理小説のトリックや真犯人と同様、客には秘匿される。しかしこの演目は、唯一、下げがあからさまに公表され、下げが演目名になっている大変珍しいものである(倒叙)。


元々上方の話で、8代目林家正蔵6代目三遊亭圓生2代目桂三木助から教わって東京に伝わった。その後、10代目金原亭馬生春風亭小朝→三木助と伝承された。三木助はこの珍しい噺を伝えられた少数派の1人である。自身はこの噺を笑点でかけている。


詳しいことは、「四代目・桂三木助ウィキペディア」をご覧ください ⇩

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%82%E4%B8%89%E6%9C%A8%E5%8A%A9_(4%E4%BB%A3%E7%9B%AE)
(wikiより)

995 4・桂 三木助

⇧ 四代目・桂三木助

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