本牧jack『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。
たまに『 大人数で取材しているのか? 』との質問を戴きますが、小生と相方の二人三脚で御座います。
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カテゴリ: 作家・文芸・戯作・エッセイ・翻訳・記者関連

長沢別天 ( ながさわ - べってん ) / 長沢 説    
慶応 4年 5月 1日 ~ 明治 32年 11月 22日 ( 1868 - 1899 )

文学評論家・ジャーナリスト。

本名、説 ( せつ )。号、半眼子・坂東太郎・別天楼・渺茫居士 ( びょうぼうこじ )。

土浦藩重臣・長沢岩五郎 ( 長男 )。

常陸国出身。

功玉社・立教学校に学び、江東義塾の教員となる。

「学」・「書生」・「筆之力」の同人。

「江湖新聞」記者を経て明治 23年 ( 1890 ) 国粋政治文化団体の「政教社」に入る。

三宅雪嶺のもと「日本人」、「亜細亜」も編集をする。

明治 24年 ( 1891 ) アメリカ留学。

明治 26年 ( 1893 ) 帰国し、鎌倉で保養、アメリカ論「ヤンキー」を著す。

ミルトンやバイロンの英文学の紹介に尽力し、明治 27年 ( 1894 ) 社会主義に共鳴して「政教社」の雑誌「日本人」に「社会主義一斑」という研究論文を連載し、マルクス紹介号で発禁処分を受けた。

「山陽新報」主筆を経て、明治 31年 ( 1898 )「東京朝日新聞」に入社、政治主任となる。内藤湖南・田岡嶺雲と交流あり。

エドガー アラン ポーの詩を初めて紹介。

肺結核で没する。32歳没。「長松院文淵別天居士」。

著書:「盲詩人」。

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宇野 千代(うの ちよ、1897年明治30年)11月28日 - 1996年平成8年)6月10日)は、大正昭和・平成にかけて活躍した日本小説家随筆家。多才で知られ、編集者着物デザイナー実業家の顔も持った。作家の尾崎士郎梶井基次郎、画家の東郷青児北原武夫など、多くの著名人との恋愛・結婚遍歴を持ち、その波乱に富んだ生涯はさまざまな作品の中で描かれている。

来歴

山口県玖珂郡横山村(現・岩国市)出身。実家は酒造業を営む裕福な家だが、父親は生涯生業に就いたことはなく、博打好きだった。千代が幼いころに母親がなくなり、父親は千代と12歳しか違わない若い娘と再婚。千代は実母と思って育ち、大変慕っていた。この継母が「おはん」のモデルとされる。[2]


岩国高等女学校(現・山口県立岩国高等学校)卒。14歳で義母の姉の子(従兄)藤村亮一と結婚するが10日ほどで実家へ帰る。小学校の代用教員となるが退職。その後朝鮮京城へ行くがとんぼ返りで舞い戻り、元夫の弟・藤村忠と結婚。京都に住んだあと上京。本郷三丁目の西洋料理店・燕楽軒で給仕のアルバイトを18日間している間に久米正雄芥川龍之介と知り合い、今東光とは親交を結んだ[3]。その後北海道へ行くが、1921年(大正10年)『時事新報』の懸賞短編小説に『脂粉の顔』が一等で当選し作家としてデビュー。


文章がこんなに金になるのかと驚き、執筆活動に専念。『墓を暴く』を中央公論に送ったが、いっこうに返事がないので上京したところ、すでに掲載されていたことを知り、その場で原稿料をもらう。あまりの大金であったため、その足で岩国の実家に戻り、母親に原稿料の一部を渡す。北海道に戻る途中、今後の打ち合わせとお礼を兼ねて中央公論に立ち寄った際に尾崎士郎を紹介され、ひと目惚れし、そのまま東京で暮らし始める[4]


1936年
にはファッション雑誌『スタイル』を創刊。表紙絵は藤田嗣治、題字は東郷青児が描き、のちに夫となる北原武夫とともに編集を務めた。戦時中にいったん廃刊するものの、1946年に再び刊行し、成功を収めた[5]着物のデザインも始め、スタイル誌で紹介、販売もした。


作家としては寡作で、戦後10年近く沈黙していた。1960年代からまた書き始め、1980年代からは女性向けの恋愛論・幸福論・長寿論などのエッセイを数多く書いた。小説は10年かけて書かれた『おはん』、『色ざんげ』(東郷青児との関係を描いたもの)、『或る一人の女の話』などがある。1970年(昭和45年)に『幸福』で女流文学賞、1972年(昭和47年)に日本芸術院賞受賞[6]、同年日本芸術院会員。1974年(昭和49年)には『雨の音』を発表、1982年(昭和57年)に菊池寛賞受賞。その翌年発表された『生きて行く私』は自伝的小説として以後宇野の代名詞となる。1990年(平成2年)文化功労者

晩年に到るまで旺盛な活動を続けた女性実業家の先駆者としても知られる。結婚離婚を繰り返すたびに家を建て替え、「数えて見ると、十一軒建てた勘定になるから」と、それを『私が建てた家』という随筆にしてしまったり、長寿で、それを『私何だか死なないような気がするんですよ』という書名のエッセイにまとめてしまったりする愛嬌があった。


1996年6月10日、急性肺炎のため東京都港区虎の門病院において98歳の生涯を閉じた[1]。戒名は謙恕院釈尼千瑛。忌日は「薄桜忌」と名付けられた[7]


岐阜県本巣市(旧本巣郡根尾村)にある樹齢1500年以上の彼岸桜の古木である「淡墨桜」の保護を訴え活動した。同市のさくら資料館には淡墨桜に関する千代の作品が展示してある。

年譜
・1911年(明治44年) - 義母の姉の子藤村亮一に嫁入りするが十日ほどで帰宅する。


・1913年(大正2年) - 父・俊次が57歳で没。


・1914年(大正3年) - 岩国高等女学校卒、川上村小学校代用教員となる。


・1915年(大正4年) - 鑓田研一らと回覧雑誌を作る。同僚教師との恋愛で退職、大池房代を頼って朝鮮京城に渡る。


・1916年(大正5年) - 帰国し、亮一の弟忠が第三高等学校学生だったので頼って京都へ行き同棲生活をする。


・1917年(大正6年) - 忠が東京帝国大学に入学、ともに上京。各種職業を転々とし、燕楽軒に働く。


・1919年(大正8年) - 忠と正式に結婚し藤村姓となる。


・1920年(大正9年) - 忠が大学卒業、北海道拓殖銀行札幌支店に勤務、北海道に暮す。


・1921年(大正10年) - 「脂粉の顔」で『時事新報』懸賞で一等となる。2等に尾崎士郎、選外佳作に横光利一


貧しく若い一人の女給が、ひいき客から競馬に誘われ、きおい立って勢一杯の期待で出かけたところ、その客は一人の美しい自信ありげな女性を連れていて、女主人公は自分にだけ分っている自分の気持で切なく苦しむという短編[8]


・1922年(大正11年) - 滝田樗陰に送った原稿の返事がないので上京、「墓を暴く」が『中央公論』に掲載されたことを知り、郷里岩国へ帰り、上京、尾崎士郎と同棲を始める。


・1923年(大正12年) - 尾崎とともに馬込に住み小説を発表す。短編集『脂粉の顔』を上梓。


・1924年(大正13年) - 忠と協議離婚、筆名を宇野千代に改める。吉屋信子と親しくなる。


・1926年(大正15年) - 尾崎と正式に結婚。


・1928年(昭和3年) - 梶井基次郎との関係が噂となり尾崎と別居。


・1930年(昭和5年) - 東郷青児と知り合い同棲、尾崎と正式に離婚。


・1933年(昭和8年) - 『色ざんげ』を発表。


・1934年(昭和9年) - 青児と別れる。


・1936年(昭和11年) - 『スタイル』誌を創刊。


・1939年(昭和14年) - 北原武夫と結婚。媒酌人は、吉屋信子藤田嗣治


・1947年(昭和22年) - スタイル社の『文体』誌に『おはん』の連載を始める。


・1949年(昭和24年) - 井上友一郎の『絶壁』が宇野夫妻をモデルとしたものと言われ紛糾す。


・1951年(昭和26年) - フランス旅行。


・1957年(昭和32年) - 『おはん』を上梓、野間文芸賞を受賞。


・1959年(昭和34年) - スタイル社が倒産。


・1964年(昭和39年) - 北原と離婚。


・1966年(昭和41年) - 『刺す』を上梓。


・1971年(昭和46年) - 女流文学賞を受賞。


・1972年(昭和47年) - 芸術院賞受賞、芸術院会員。


・1974年(昭和49年) - 勲三等瑞宝章受章。


・1977年(昭和52年) - 『宇野千代全集』の刊行始まる。


・1982年(昭和57年) - 菊池寛賞受賞。


・1983年(昭和58年) - 『生きて行く私』刊行。


・1990年(平成2年) - 文化功労者

著作
・『幸福』(金星堂、1924年)

・『白い家と罪』(新潮社、1925年)

・『晩唱』(現代短篇小説選集』(文芸日本社、1925年)

・『罌粟はなぜ紅い』(中央公論社、1930年)

・『オペラ館サクラ座』(改造社、1934年)

・『色ざんげ』(中央公論社、1935年、のち新潮文庫・岩波文庫など)

・『あひびき』(新陽社、1936年)

・『別れも愉し』(第一書房、1936年、のち集英社文庫)

・『ひとの男』(版画荘、1937年)

・『月夜』(中央公論社、1938年)

・『恋の手紙』(中央公論社、1939年)

・『女の愛情』(鱒書房、1939年)

・『ある客間での物語』(スタイル社出版部、1941年)・め『日露の戦聞書』(文体社、1943年)

・『人形師天狗屋久吉』(文体社、1947年、のち集英社文庫)

・『わたしの青春物語』(酣灯社、1947年)

・『ピイピイ三吉』(國民圖書刊行會、1947年)

・『私のお化粧人生史』(中央公論社、1955年、のち中公文庫)

・『おはん』(中央公論社、1957年、のち中公文庫新潮文庫など)

・『きもの読本』(長嶋書房、1957年)

・『女の日記』(講談社、1960年、のち文芸文庫)

・『刺す』(新潮社、1966年、のち集英社文庫)

・『風の音』(中央公論社、1969年、のち中公文庫)

・『親しい仲』(随筆集』(講談社、1970年)

・『貞潔』(短編小説集』(講談社、1970年)

・『私の文学的回想記』(中央公論社、1972年、のち中公文庫、改題『思いのままに生きて』、集英社文庫)

・『或る一人の女の話』(文藝春秋、1972年)

・『雨の音』(文藝春秋、1974年、のち講談社文芸文庫)

・『恋は愉しいか』(大和書房、1974年)

・『八重山の雪』(文藝春秋、1975年)

・『薄墨の桜』(新潮社、1975年、のち集英社文庫)

・『ママの話』(中央公論社、1976年)

・『往復書簡』(中里恒子共著、文藝春秋、1976年)

・『水西書院の娘』(中央公論社、1977年、のち中公文庫)

・『宇野千代全集』全12巻 (中央公論社、1977–78年)

・『或る日記』(集英社、1978年)

・『大人の絵本』(成瀬書房、1978年)

・『残ってゐる話』(集英社、1980年)

・『幸福人生まっしぐら』(大和書房、1980年)

・『青山二郎の話』(中央公論社、1980年、のち中公文庫)

・『悪徳もまた』(新潮社、1981年、のち新潮文庫)

・『或るとき突然』(中央公論社、1981年、のち中公文庫)

・『幸福を知る才能』(正・続、海竜社、1982 – 1984年、のち集英社文庫)

・『自伝的恋愛論』(大和書房、1983年)

・『生きて行く私』(毎日新聞社、1983年、のち中公文庫、角川文庫)

・『生きて行く私  人生相談篇』(毎日新聞社、1984年)

・『或る男の断面』(講談社、1984年、のち中公文庫)

・『幸せのつくり方』(小学館、1984年)

・『私はいつでも忙しい』(中央公論社、1984年、のち中公文庫)

・『私のおとぎ話』(中央公論社、1985年、のち文芸社)

・『私は幸福昔もいまもこれからも』(海竜社、1985年)

・『私の作ったお惣菜』(海竜社、1986年、のち集英社文庫)

・『幸福は幸福を呼ぶ』(海竜社、1986年、のち広済堂文庫、集英社文庫)

・『普段着の「生きて行く私」』(毎日新聞社、1986年、のち集英社文庫)

・『しあはせな話』(中央公論社、1987年、のち中公文庫)

・『倖せを求めて生きる』(海竜社、1987年、のち集英社文庫)

・『行動することが生きることである』(海竜社、1988年、のち集英社文庫)

・『一ぺんに春風が吹いて来た』(中央公論社、1989年、のち中公文庫)

・『私のしあわせ人生』(毎日新聞社、1990年、のち集英社文庫)

・『恋愛作法』(海竜社、1991年、のち集英社文庫)

・『生きる幸福老いる幸福』(海竜社、1992年、のち集英社文庫)

・『私は夢を見るのが上手』(中央公論社、1992年、のち中公文庫)

・『私の幸福論』(海竜社、1993年、のち集英社文庫)

・『幸福に生きる知恵』(講談社、1993年、のち中公文庫)

・『私の長生き料理』(海竜社、1993年、のち集英社文庫)

・『人生学校』(海竜社、1994年)

・『私の作ったきもの』(海竜社、1994年)

・『私何だか死なないような気がするんですよ』(海竜社、1995年、のち集英社文庫)

・『幸福人生まっしぐら』(大和書房、1996年)

・『不思議な事があるものだ』(中央公論社、1996年、のち中公文庫)

・『百歳ゆきゆきて』(世界文化社、2002年)

・『老女マノン・脂粉の顔 他四篇』(岩波文庫、2019年)、新編

・『青山二郎の話・小林秀雄の話』(中公文庫、2019年)、新編

詳しいことは、「宇野千代ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E9%87%8E%E5%8D%83%E4%BB%A3
(wikiより)

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宇野千代

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松居 松葉(まつい しょうよう、1870年3月19日明治3年2月18日) - 1933年昭和8年)7月14日)は、劇作家演出家、小説家、翻訳家。別号に、松翁・駿河町人・大久保二八など。

生涯
父真房・母鶴子の長男として、陸前国塩釜(現・宮城県塩竈市)に生まれた。幼名は雄児、二歳のときに真玄(まさはる)と改めた。養子だった父は、1876年生家に戻り、真玄は親戚に預けられた。母は再婚した。


1877年(明治10年)(7歳)、宮城県師範学校付属小学校に入り、1880年、宮城尋常中学校に進んだが、経済的事情から1883年中退して、丁稚奉公に出た。


1887年(17歳)上京して専修学校に、次いで国民英学会に学び、1889年卒業した。この頃から歌舞伎に通った。文学を志し坪内逍遙に師事し、1891年の創刊から、早稲田文学の編集に従った。


1894年(明治27年)(24歳)、初めての脚本『昇旭朝鮮太平記』を読売新聞に発表し、1895年中央新聞の、1896年報知新聞の、1897年万朝報の記者を務めた。速筆だった。小説や翻訳も発表し、それらのうちの史劇『悪源太』を、1899年、初代市川左団次一座が演じた。座付きでない文士の作品を歌舞伎が取り上げた最初だった[1]。続いて、『源三位頼政』『後藤又兵衛』『敵国降伏』も上演された。


1905年(明治38年)に初代左団次が没すると、長男の市川莚升を助け、その年から翌1906年にかけて『粗忽の使者』、『江戸気性』を書き、ユーゴーの『エルナニ』を翻案して与えた。新派伊井蓉峰高田実にも書いた。


1906年、ヨーロッパへ演劇研究に渡り、翌年、二代目左団次襲名後の莚升を呼んで英・仏・独の演劇を学ばせた。そして1908年、書き下ろしの『袈裟と盛遠』ほかを上演させたが、興行的には失敗し、東京を去った。


1909年(明治42年)(39歳)、三越の嘱託になって『三越タイムス』を編集し、また、発足した坪内逍遙・島村抱月文芸協会演劇研究所に招かれて講師を勤めた。1911年、新開場の帝国劇場の演劇主任を引き受けたが三越側の苦情でやめ、1913年、抱月脱退後の文芸協会を指導したものの間もなく解散となり、次いで河合武雄と『公衆劇団』を組織した。


1918年(大正7年)(48歳)、三越を退き松竹の文芸顧問となって台本を書き舞台を監督をした。1919年、欧米の劇団を視察。帰国後、暫く休養した。


1922年、演劇活動を再開し、また、1927年、電気療法を会得して診療し、1929年には合気道の免許を受け、1930年からはフロイトを研究し、1933年からはギリシャ語を修めてエディプス王を翻訳し上演した。


その1933年夏、リンパ腺炎に尿毒症を併発して没した。63歳。『無名院松翁高風大居士』。墓碑は、春性院谷中墓地。乙11号14側通路前にある[2]

家族
妻・勝(1951年没)、長男・主税(1938年没)、三男・桃多郎(1994年没)

業績

台本の初演の記録(抄)
翻訳は原作者名:『外題』、主演者、劇場(上演年月)、[備考] の順に記す。
・『昇旭朝鮮太平記』、福井茂兵衛、大阪(1894)

・『悪源太』、初代市川左団次明治座(1899.1)

・『源三位頼政』、初代左団次、(1901.1)

・『山賊芸者』、伊井蓉峰・河合武雄ら、真砂座(1902.1)

・『後藤又兵衛』、初代左団次、明治座(1904.1)

・『敵国降伏』、初代左団次、 明治座(1904.5)[ 日露戦争開戦]

・『粗忽の使者』、二代目市川左団次、明治座(1904.9)[初代左団次没後]

・『江戸気性』、二代目左団次、明治座(1904.9)

ダンテ:『フランチェスカの悲哀』、高田実ら、本郷座(1904.9)

・ウィリアム・ル・キュー(William Le Queux):『虚無党奇談』、伊井蓉峰・河合武雄ら、真砂座(1904.9)

ユーゴー:『エルナニ』、二代目左団次、明治座(1905.1)

・『袈裟と盛遠』、二代目左団次、明治座(1908.1)

・ホール・ケン(Hall Caine):『ボンドマン』(Bondman)、川上音二郎、本郷座(1909.1)

・『見合い』、高田実・河合武雄ら、本郷座(1909.4)

オーガスタ・グレゴリー:『噂のひろまり』(The spreading the news)、文芸協会生、文芸協会演劇研究所(1910.1)

・T.W. Roeston:『デヴィッド・ガーリック』(David Garrick)、文芸協会生、文芸協会演劇研究所(1910.3)

・『女』、河合・伊井・藤沢浅二郎ら、本郷座(1910.7)

・原作者不詳:『孤島の兄弟』、文芸協会生、文芸協会演劇研究所(1910.7)

・『最愛の妻』、河合武雄、新富座(1911.7)

小デュマ:『椿姫』、河合・伊井・藤沢ら、帝国劇場(1911.4)

・原作者不詳:『結婚反対倶楽部』(Me a man)、帝劇女優ら、帝国劇場(1911.1)

・『胡蝶の舞』、柴田環ら、帝国劇場(1911.1)

・『邯鄲城』(翻案)、高田・河合ら、本郷座(1911.1)

・『女優募集』(翻案)、帝劇女優ら、帝国劇場(1911.1)

・『陽気な女房』(翻案)、帝劇女優ら、帝国劇場(1912.2)

・『釈迦』(翻案)、浅野太郎、帝国劇場(1912.6)

・『貞操』(ローベルト・ブラッコ(Roberto Bracco) のファンタズム(phantasms)の 翻案)、帝劇女優ら、帝国劇場(1912.9)

・『願の石』(翻案)、伊井蓉峰ら、明治座(1912.1)

バーナード・ショー:『二十世紀』(You never can tell)、文芸協会生、帝国劇場(1912.1)

・フェルスター:『思ひ出』、文芸協会生、有楽座(1913.2)

・サルドゥー:『トスカ』、川上貞奴松本幸四郎、帝国劇場(1913.6)

・『マクベスの稽古』、河合武雄ら公衆劇団、帝国劇場(1913.1)

・ロビンソン(Lennox Robinson):『茶を作る家』、河合武雄・小織桂一郎ら公衆劇団、帝国劇場(1913.1)

ホフマンスタール:『エレクトラ』、河合武雄・小織桂一郎ら公衆劇団、帝国劇場(1913.1)

・『富士の麓』、河合武雄・小織桂一郎ら公衆劇団、本郷座(1914.4)

・『暮の廿一日』、河合武雄・小織桂一郎ら公衆劇団、本郷座(1914.4)

・『混戦』、帝劇女優ら、帝国劇場(1914.8)

・『敵軍来たれり』、伊井・河合ら、、(1914.9)[ 第一次世界大戦期]

・『英雄と美人』、川上貞奴・松本幸四郎、帝国劇場(1914.1)

・『秀吉と淀君』、東儀鉄笛・河村菊江、帝国劇場(1914.1)

・『稚児姿一休禅師』、伊井・河合・小織、新富座(1915.9)

・『軍神』、尾上菊五郎中村吉右衛門・川上貞奴、市村座(1915.9)

・『灯篭大臣』、松本幸四郎・森律子、帝国劇場(1915.9)

・『飛行芸妓』、初代沢村宗之助・初瀬浪子、帝国劇場(1916.2)

・『医師の母』、帝劇女優ら、帝国劇場(1916.5)

・『他人の子』、帝劇女優ら、帝国劇場(1917.2)

・『寝台列車』、沢田正二郎倉橋仙太郎、新富座(1917.4)

・『散楓恋血祭』、市川猿之助、新富座(1917.9)

・『三組盃』、伊井・河合・喜多村緑郎、新富座(1917.9)

ヴェルディ:『アイーダ』、貞奴・河合・伊井、新富座(1917.1)

・『信夫里仏師物語』、沢村宗之助、帝国劇場(1918.5)

・『白耳義の悲哀』、舞台協会、有楽座(1918.5)

・『結婚の前』、帝劇女優ら、帝国劇場(1918.7)

・『増補兜軍記』、二代目左団次・三代目中村雀右衛門、明治座(1918.9)

・『神主の娘』、河合・松井須磨子歌舞伎座(1918.9)

・『淀君』、五代目中村歌右衛門・二代目左団次、歌舞伎座(1918.11)

・『坂東武者』、二代目市川猿之助、明治座(1918.11)

・『妖霊星』、主演者不詳 、明治座(1918.11)

・『太閤記朝鮮巻』、市川中車、帝国劇場(1918.12)

・『烈女初子』、歌右衛門、歌舞伎座(1919.1)

・『羅馬の使者』、二代目左団次、明治座(1919.3)

・『堀川夜討』、文芸座、帝国劇場(1919.1)

・『護国女太平記』、歌右衛門、歌舞伎座(1920.1)

・『春の村』、 喜多村緑郎、新富座(1920.1)

・『雪のふる夜』、猿之助、明治座(1921.3)

・『明治第一年』、歌右衛門・二代目左団次、歌舞伎座(1921.4)

・『養蚕の家』、歌右衛門・吉右衛門、新富座(1921.7)

・『雷鳴』、猿之助・坂東秀調、歌舞伎座(1921.8)

・『織田信長』、二代目左団次・三代目阪東寿三郎知恩院(1922.1)[野外劇]

・『清洲城』、歌右衛門、新富座(1923.1)

・『薩摩の淀君』、歌右衛門、本郷座(1923.3)

・『人形師』、片岡仁左衛門、明治座(1923.4)

・『聖母』、歌右衛門、明治座(1923.5)

・『家康の母』、歌右衛門、新富座(1923.6)

・『淀君と五右衛門』、帝劇女優ら、帝国劇場(1923.7)

・『卑怯者』、猿之助、本郷座(1924.4)

・『政子と頼朝』、猿之助、本郷座(1924.6)

・『弱虫』、猿之助・四代目片岡市蔵、日本橋劇場(1924.7)

・『文覚』、二代目左団次、松竹座、(1924.7)

・『開国秘話』、市川筵升・中村芝鶴、松竹座(1924.7)

・『吉田松陰』、沢田正二郎、演技座(1924.7)

・『義経と伊勢三郎』、「中村扇雀・板東寿三郎、浪花座(1924.8)

・『美代吉殺し』、喜多村緑郎・片岡我当、中座(1924.9)

・『花留明』、花柳章太郎梅島昇角座(1924.1)

・『大磯・小磯』、猿之助・秀調、邦楽座(1924.1)

・『応挙と芦雪』、松本幸四郎、邦楽座(1924.1)

・『朝日丸』、河合武雄、本郷座(1925.1)

・『ユウデット』、河合・英太郎、邦楽座、(1925.2)

・『パリアッチ』、十三代目守田勘弥、帝国劇場(1925.2)

・『乃木将軍』、幸四郎、歌舞伎座(1925.1)

・『坂崎出羽守』、阪東寿三郎、角座(1926.1)

・『老松若松』、六代目尾上梅幸、帝国劇場(1926.1)

・『山吹の里』、二代目実川延若・秀調、中座(1926.3)

・『淀君と小田原陣』、歌右衛門、歌舞伎座(1926.4)

・『楠木正成』、二代目左団次、歌舞伎座(1926.5)

・『明治の曙』、幸四郎、帝国劇場(1926.7)

・『和田の酒盛』、幸四郎、帝国劇場(1926.7)

・『楓橋雪夜譚』、市村羽左衛門、歌舞伎座(1926.7)

・『和宮樣御使』、梅幸・幸四郎・河合、帝国劇場(1926.1)

・『女楠』、歌右衛門、歌舞伎座(1926.1)

・『法場換子』(とりかえご)、守田勘弥、帝国劇場(1926.1)

・『養蚕の家』、花柳章太郎ら、角座(1927.1)

・『児島高徳』、二代目左団次、歌舞伎座(1927.2)

・『源平盛衰記』、歌右衛門・中車、歌舞伎座(1927.4)

・『前々太平記』、六代目市川団之助五代目高助、帝国劇場(1927.4)

・『参照四谷五更話』、六代目市川寿美蔵、帝国劇場(1927.8)

・『増補太平記』、東京俳優協会、歌舞伎座(1927.1)

・『和泉式部』、歌右衛門、歌舞伎座(1928.1)

・『又五郎兄弟』、羽左衛門・菊五郎、歌舞伎座(1928.3)

・『春霞旅行橘』、菊五郎・羽左衛門、歌舞伎座(1928.3)

・『平清盛』、市川中車、歌舞伎座(1928.5)

・『上野戦争』、仁左衛門・菊五郎、歌舞伎座(1928.6)

・『六韜三略恋兵法』、市川寿美蔵、帝国劇場(1928.7)

・『義経記』、寿美蔵・秀調、明治座(1928.8)

・『おまん源五兵衛』、守田勘弥、帝国劇場(1928.9)

・『人情深川祭』、仁左衛門・菊五郎、新橋演舞場(1928.1)

・『命髪切り』、羽左衛門・菊五郎、歌舞伎座(1928.1)

・『夢相兵衛胡蝶譚』、守田勘弥、帝国劇場(1928.1)

・『尾形光琳』、中村福助・片岡我当、中座(1929.1)

・『泡』、主演者不詳、市村座(1929.1)

・『遠山の金ちゃんと鼠小僧』、水谷八重子・梅島昇、市村座(1929.2)

・『台湾神社』、二代目左団次・猿之助、歌舞伎座(1929.3)

・『討てば討たるる』、幸四郎、帝国劇場(1929.7)

・『秀吉と淀君』、伊井、喜多村、河合ら、明治座(1929.8)

・『緊縮』、帝劇女優ら、帝国劇場(1929.9)

・『新宿行進曲』、吉右衛門、歌舞伎座(1929.9)

・『高野長英』、菊五郎、新橋演舞場(1929.1)

・『恋愛競争』、八重子・二代目市川小太夫、新橋演舞場(1929.1)

・『吹雪の夜』、井上正夫、南座(1930.4)

・『旅順包囲録』、二代目左団次・守田勘弥、歌舞伎座(1930.6)

・『玉藻前』、中村魁車・寿三郎、中座(1930.1)

・『日蓮上人』、幸四郎、歌舞伎座(1931.3)

・『ある陪審裁判』、河合・喜多村、帝国劇場(1931.4)

・『山田長政』、片岡我当、帝国劇場(1931.5)

・『治承の秋』、菊五郎、歌舞伎座(1931.6)

・『江戸から東京』、菊五郎・幸四郎、東京劇場(1931.1)

・『紅葉散故郷の唄』、羽左衛門、歌舞伎座(1931.1)

・『満州事変』、猿之助・沢村訥子、東京劇場(1931.1)[満州事変期]

・『肉弾三勇士』、菊五郎・羽左衛門、歌舞伎座(1932.3)[ 第一次上海事変期]

・『上海の殊勲者』、新派合同、明治座(1932.3)

・『大場鎮総攻撃』猿之助、東京劇場(1932.3)

・『エディプス王』、フロイト祝祭劇、朝日講堂(1933.4)

・『岩倉具視』、二代目左団次、歌舞伎座(1933.5)

詳しいことは、「松居松葉ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B1%85%E6%9D%BE%E8%91%89
(wikiより)

「無名院松翁高風大居士」。

2644  松居松翁

松居松葉

2644a

2644b



菱山 修三(ひしやま しゅうぞう、1909年8月28日 - 1967年8月7日)は、日本の詩人


東京府出身。兄はジャーナリスト菱山辰一東京外国語学校(現東京外国語大学フランス語科卒業。山内義雄関根秀雄に学び、堀口大學に師事。1946年、音楽家・本居長世宣長の子孫)の三女・若葉と結婚[1]、本居雷章を本名とする。ヴァレリーの影響を受け、1931年詩集『懸崖』を刊行。『歴程』創刊同人。

著書
・『懸崖 詩集』第一書房 1931年 今日の詩人叢書

・『荒地 菱山修三詩集』版画荘 1938年

・『望郷 菱山修三詩集』青磁社 1941年

・『絵のなかの乙女』春陽堂 1942年

・『定本懸崖・荒地 菱山修三詩集』青磁社 1942年

・『文芸管見』東京書房 1942年

・『盛夏 詩集』角川書店 1946年

・『たらちねの母をうしなふ 菱山修三詩集』新生社 1946年

・『海 菱山修三詩集』地平社 1947年

・『昼の螢 詩集』鮎沢書店 1948年

・『夢の女 詩集』岩谷書店 1948年

・『恐怖の時代 詩集』弥生書房 1962年

・『不信の時代』弥生書房 1962年

・『幼年時代 詩集』牧羊社 1964年

・『詩と思索と人生 生きがいを求めて』南北社 1968年

翻訳
ヴァレリー『海辺の墓』椎の木社 1933年

・『ジイド全集 第2巻 蕩児帰る 他五篇』金星堂 1934年

・『ジイド全集 第5巻 イザベル』金星堂 1935年

・ラモン・フェルナンデス『青春を賭ける /フランス現代小説』第一書房 1936年

・アンドレ・ジイド『恋をしてみて 他二篇』改造文庫 1937年

・ヴァレリー『旧詩帖』青磁社 1942年

・ヴァレリー『若きパルク』青磁社 1942年

・イザベル・ランボオ『捨身と信仰 アルチュール・ランボオ終焉』那珂書店 1943年

・『続仏蘭西詩集』訳編 青磁社 1943年

・ピエール・オーヂア『パリ 抵抗の記録』ダヴィッド社 1951年

・『ヴァレリイ詩集』角川書店 1953年      

参考
デジタル版日本人名大辞典

・『日本近代文学大辞典』講談社、1984


1. 金田一春彦『本居長世 人と作品』。

外部リンク
菱山 修三:作家別作品リスト - 青空文庫
(wikiより)


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川端 康成(かわばた やすなり、1899年明治32年)6月14日 - 1972年昭和47年)4月16日)は、日本小説家文芸評論家大正から昭和の戦前・戦後にかけて活躍した近現代日本文学の頂点に立つ作家の一人である。1968年ノーベル文学賞受賞。


大阪府
出身。東京帝国大学国文学科卒業。大学時代に菊池寛に認められ文芸時評などで頭角を現した後、横光利一らと共に同人誌『文藝時代』を創刊。西欧前衛文学を取り入れた新しい感覚の文学を志し「新感覚派」の作家として注目され、的、抒情的作品、浅草物、心霊神秘的作品、少女小説など様々な手法や作風の変遷を見せて「奇術師」の異名を持った[1]。その後は、や流転のうちに「日本の」を表現した作品、連歌と前衛が融合した作品など、伝統美、魔界幽玄、妖美な世界観を確立させ[1][2]、人間のも、非情や孤独絶望も知り尽くした上で、美やへの転換を探求した数々の日本文学史に燦然とかがやく名作を遺し、日本文学の最高峰として不動の地位を築いた[3][4]。日本人として初のノーベル文学賞も受賞し、受賞講演で日本人死生観美意識を世界に紹介した[5]


代表作は、『伊豆の踊子』『抒情歌』『禽獣』『雪国』『千羽鶴』『山の音』『眠れる美女』『古都』など。初期の小説や自伝的作品は、川端本人が登場人物や事物などについて、随想でやや饒舌に記述している。そのため、多少の脚色はあるものの、純然たる創作(架空のできごと)というより実体験を元にした作品として具体的実名や背景が判明し、研究・追跡調査されている[6][7][8]


川端は新人発掘の名人としても知られ、ハンセン病の青年・北條民雄の作品を世に送り出し、佐左木俊郎武田麟太郎藤沢桓夫、少年少女の文章、山川彌千枝、豊田正子岡本かの子中里恒子三島由紀夫などを後援し、数多くの新しい才能を育て自立に導いたことも特記できる[9][10][11]。また、その鋭い審美眼で数々の茶器陶器仏像埴輪俳画日本画などの古美術品蒐集家としても有名で、そのコレクションは美術的価値が高い[12]


多くの名誉ある文学賞を受賞し、日本ペンクラブ国際ペンクラブ大会で尽力したが、多忙の中、1972年(昭和47年)4月16日夜、72歳でガス自殺した。なお、遺書はなかった[13][14]

生涯
生い立ち――両親との死別

1899年明治32年)6月14日大阪府大阪市北区此花町1丁目79番屋敷(現・大阪市北区天神橋 1丁目16-12)に、医師の父・川端栄吉(当時30歳)と、母・ゲン(当時34歳)の長男として誕生[15][16][17](川端自身は6月11日生れと最晩年まで信じていた[18][19][20])。7か月の早産だった[21][22]。4歳上には姉・芳子がいた[23]。父・栄吉は、東京の医学校済生学舎(現・日本医科大学の前身)を卒業し、天王寺村桃山(現・大阪市天王寺区筆ヶ崎)の桃山避病院などの勤務医を経た後、自宅で開業医をしていたが、を病んでおり虚弱であった[24][15]。また、栄吉は浪華の儒家寺西易堂で漢学書画を学び、「谷堂」と号して漢詩文や文人画をたしなむ多趣味の人でもあった[25]。蔵書には、ドイツ語の小説や近松西鶴などの本もあった[26][27][28]


しかし栄吉は自宅医院が軌道に乗らず、無理がたたって病状が重くなったため、康成が1歳7か月となる1901年(明治34年)1月に、妻・ゲンの実家近くの大阪府西成郡豊里村大字天王寺庄182番地(現・大阪市東淀川区大道南)に夫婦で転移し(ゲンはすでに感染していたため)、子供たちは実家へ預け、同月17日に結核で死去した(32歳没)[15][29][17]。栄吉は瀕死の床で、「要耐忍 為康成書」というを遺し、芳子のために「貞節」、康成のために「保身」と記した[24][注釈 2]


2人の幼子が預けられたゲンの実家・黒田家は、西成郡豊里村大字3番745番地(現・大阪市東淀川区豊里6丁目2-25)にあり、代々、「黒善」(黒田善右衛門の二字から)と呼ばれる素封家(資産家)で、広壮な家を構える大地主であった[29][30][31]。ところが、ゲンも翌1902年(明治35年)1月10日に同病で亡くなった(37歳没)。幼くして両親を失った康成は、祖父・川端三八郎と祖母・カネに連れられて、原籍地の大阪府三島郡豊川村大字宿久庄小字東村11番屋敷(のちの大阪府茨木市大字宿久庄1540-1。現・茨木市宿久庄1丁目11-25)に移った[32][15][33][34]

宿久庄の川端家は、豪族や資産家として村に君臨していた旧家で代々、豊川村の庄屋で大地主であったが、祖父・三八郎は若い頃に様々の事業に手を出しては失敗し、三八郎の代で財産の大半は人手に渡っていた[23][35]。三八郎は一時村を出ていたが、息子・栄吉の嫁・ゲンの死を聞き村に戻り、昔の屋敷よりも小ぶりな家を建てて、3歳の孫・康成を引き取った[15][36]。その際、7歳の芳子は、ゲンの妹・タニの婚家である大阪府東成郡鯰江村大字蒲生35番屋敷(現・大阪市城東区蒲生)の秋岡家に預けられ、芳子と康成の姉弟は離ればなれとなった[23]。タニの夫・秋岡義一は当時衆議院議員をしており、栄吉とゲンの遺した金3千円もその時に預かり、康成と祖父母はその月々の仕送りの金23円で生活をした[25][36]


川端の家系は北条泰時から700年続き[35]、北条泰時の孫・川端舎人助道政が川端家の祖先である(道政の父親・駿河五郎道時は、北条泰時の九男)[29][37][38]。道政は、宿久庄にある如意寺(現・慧光院の前身)の坊官で、同寺は明治期まで川端家の名義であった[29][35]。川端家の29代目が三八郎で、30代目が栄吉、康成は31代目に当たる[37][39]。祖母・カネはゲンと同じく黒田家出身(伯母の関係)で、血縁の途絶えようとしていた川端家に嫁いだ人であった[32]。父母の病死は幼い康成の胸に、〈(父母が)死んだ年頃までに、自分もまた死ぬであらう〉という〈病気と早死との恐れ〉を深く彫りつけたと同時に[40][24]、記憶のない父母(特に母性)への思慕や憧憬が川端の諸作品に反映されることになる[28][2]

「寂寥の家」の神童
幼い頃の康成には一種の予知能力のようなものがあり、探し物の在り処や明日の来客を言い当てたり、天気予報ができたりと小さな予言をし、便利がられ[41][32]、「神童」と呼ばれることもあった[42]。また、康成は父親の虚弱体質を受け継いだ上、月足らずで生れたため、生育の見込みがないほど病弱で食が細く、祖母に大事に〈真綿にくるむやう〉に育てられていた[21][43][32]


1906年(明治39年)4月、三島郡豊川尋常高等小学校(現・茨木市立豊川小学校)に入学した康成は、入学式の時は、〈世のなかにはこんなに多くの人がゐるのかとおどろき〉、慄きと恐怖のあまり泣いた[41][32][22]

人なかに出るのがいやで、私は学校を休みがちだつた。ところが、村々で児童の出席率の競争があつて、誘ひ合はせて登校する習はしだつたから、子供たちがそろつて押し寄せて来ると、私の家では雨戸をしめ、老人と私の三人が片隅でひつそりとすくんでゐた。子供たちが声を合はせて呼んでも答へなかつた。子供たちは悪口雑言し、雨戸に石を投げ、落書きをした。

                                     — 川端康成「行燈――落花流水」[41]


康成は学校を休みがちで、1年生の時は69日欠席し(258日のうち)[44]、しばらくは近所の百姓女の田中みとが授業中も教室まで付き添っていた[33]。小学校時代の旧友によると、康成の成績はよく、作文が得意で群を抜いていたという[29]。小学校に上がる前から祖母に、〈うんと醤油をふくませたかつを節を入れて巻いた、からい海苔巻〉を食べさせてもらいながら、〈いろは〉を習っていたため、〈学校で教はることは、ほとんどみなもう知つてゐて、学校がつまらなかつた。小学校に入る前から、私はやさしい読み書きはできた〉と川端は当時を述懐している[41][22]。なお、笹川良一とは小学の同級生であった[45][46]。祖父同士が囲碁仲間で[45]、笹川の父・鶴吉も、易学に凝っていた三八郎から私生活万端にわたって指示を受けていたという[29][15][36]


しかし、小学校に入学した年の9月9日に優しかった祖母・カネが死去し(66歳没)、祖父との2人暮らしとなった。別居していた姉・芳子も翌1909年(明治42年)7月21日、誕生日前に13歳で夭折した[33]。川端にとって〈都合二度〉しか会ったことのない姉の姿は、祖母の葬儀の時のおぼろげな一つの記憶しかないという[23]。熱病に倒れた芳子の危篤を知った祖父は悲しみ、目が悪いながらも孫の身をで占った。10歳の康成は姉の訃報をしばらく祖父に隠しておいてから、決心して読んで聞かせた[47]。これまでも何人もの子供を早くに亡くし、孫にも先立たれた祖父を康成は憐れむ[35]。女手がなくなった家に何かと手伝いにくる人への好意に涙脆く有難がる祖父が、康成にとっての〈ただ一人の肉親〉となった[32]


小学校5、6年になると、欠席もほとんどなくなり、成績は全部「」であった[46]。康成はが得意であったため、文人画をたしなんでいた祖父の勧めで画家になろうと思ったこともあったが、上級生になると書物を濫読することに関心が向き、小学校の図書館の本は一冊もらさず読んでしまった[27]。康成は毎日のように庭の木斛の木に登り、〈楽々と仕事をする植木屋のやうに〉樹上に跨って本を読み[48]講談や戦記物、史伝をはじめ、立川文庫冒険小説家・押川春浪に親しんだ[22][27]

作家志望と「孤児の感情」
1912年(明治45年・大正元年)、尋常小学校を卒業した康成は、親戚の川端松太郎を身許保証人として、4月に大阪府立茨木中学校(現・大阪府立茨木高等学校)に首席で入学し「甲組」となった。茨木中学校は質実剛健の校風で体操教練に厳しく、マラソンも盛んで、生徒の勤労奉仕で水泳プールが作られ、オリンピック選手も輩出していた。登校後は教室でも運動場でも裸足となり、寒中だけ地下足袋が許されていた[32]。康成は学校まで約一半(約6キロメートル)の道を毎日徒歩通学し、虚弱体質が改善され、1年の時は「精勤賞」をもらった[49]


しかし夜になると家にいる寂しさに耐えられず、康成は祖父を一人残して毎日のように、〈二組も兄弟もそろつてゐる〉友人(宮脇秀一、憲一の兄弟)の家に遊びに行き、温かい家庭の団欒に交ぜてもらっていた。そして家に戻ると祖父を独りきりにしたことを詫びる気持ちでいつもいっぱいになった[41][24][32]。この当時の手記には、〈父母なく兄弟なき余は万人の愛より尚厚き祖父の愛とこの一家の人々の愛とに生くるなり〉と記されている[50][25]


康成は中学2年頃から作家になることを志し、『新潮』『新小説』『文章世界』『中央公論』など文芸雑誌を読み始めた[27]。亡き父・栄吉の号に拠って、『第一谷堂集』『第二谷堂集』と題して新体詩や作文を纏めてみることもあった[25]。学内では、欠田寛治、清水正光、正野勇次郎などの文学仲間とも知り合った。祖父からも作家になることを許された康成は、田舎町の本屋・乕谷誠々堂に来る目ぼしい文学書はほとんど買っていた。〈本代がたまつて祖父と共に苦しんだ。祖父が死んだ後の借金には、中学生としては法外な私の本代もあつた〉と川端は述懐している[51]。そのため秋岡家から仕送りの月々23円では不足で、毎日おかずは汁物梅干ばかりであった[25]。徐々に文学の世界に向き始めた康成は、学校での勉学が二の次となり宿題の提出などを怠ったため、作文の成績が53点で全生徒88名中の86番目の成績に下がったとされる[52]


中学3年となった1914年(大正3年)5月25日未明(午前2時)、寝たきりとなっていた祖父・三八郎(この年に「康壽」と改名)が死去した(73歳没)。祖父は家相学や漢方薬の研究をしていたが、それを世に広めるという志は叶わなかった[35]。この時の病床の祖父を記録した日記は、のちに『十六歳の日記』として発表される。川端は、人の顔をじろじろと見つめる自分の癖は、白内障盲目となった祖父と何年も暮していたことから生まれたかもしれないとしている[53][54]。祖父の葬列が村を行く時、小さな村中の女たちは、孤児となった康成を憐れんで大きな声を上げ泣いたが、悲しみに張りつめていた康成は、自分の弱い姿を見せまいとした[47]。祖父の骨揚げの日のことを康成は、以下のように綴っている[55]

お祖父さんの――。私はをかけたやうに力強く右手を振つてみた。からからとが鳴る。小さい方の骨壺を持つてゐる。旦那はお気の毒な人だつた。お家のためになつた旦那だつた。村に忘れられない人だ。帰りみちは祖父の話。止めてほしい。悲しむのは私だけだらう。家に残つた連中も、祖父に死なれてただ一人の私が、これからどうなるだらうと、同情のうちにも、好奇心をまじへてゐるやうに思はれる。

                                                  — 川端康成「骨拾ひ」[55]


川端はその頃の自身について、〈幼少の頃から周囲の人々の同情が無理にも私を哀れなものに仕立てようとした。私の心の半ばは人々の心の恵みを素直に受け、半ばは傲然と反撥した〉と語っている[47]。他人の世話で生きなければならない身となり、康成の中で〈孤児根性、下宿人根性、被恩恵者根性〉が強まった[56][57][16]。遠慮しがちで、面と向って明るく感謝を表現できなかった当時のことを川端は、〈恥づかしい秘密のやうなことであるが、天涯孤独の少年の私は寝る前に床の上で、瞑目合掌しては、私に恩愛を与へてくれた人に、心をこらしたものであつた〉と語っている[22]。また自身の出目(生命力の脆弱な家系)と自身の宿命について以下のように語っている[58]

私の家は旧家である。肉親がばたばたと死んで行つて、十五六の頃から私一人ぽつちになつてゐる。さうした境遇は少年の私を、自分も若死にするだらうと言ふ予感で怯えさせた。自分の一家は燃え尽くして消えて行く燈火だと思はせた。所詮滅んで行く一族の最後の人が自分なんだと、寂しいあきらめを感じさせた。今ではもうそんな消極的なことは考へない。しかし、自分の血統が古び朽ちて敗廃してゐる。つまり代々の文化的な生活が積み重り積み重りして来た頂上で弱い木の梢のやうに自分が立つてゐる事は感じてゐる。

                                                 — 川端康成「一流の人物」[58]


両親、祖父母、姉の全ての肉親を失ったことは、康成に虚無感を抱かせると同時に、「霊魂」がどこかに生きて存在していてくれることを願わずにはいられない思いを与えた[59]。親戚や周囲の人々の多くは親切に接してはくれても、それは本当の肉親のように、お互い悪口やわがままを言い合っても後が残らない関係とはならず、もしも自分が一度でも悪態をついたならば、生涯ゆるされないだろうということを知っていた康成は、常に他人の顔色を窺い、心を閉ざしがちな自身のあり方を〈孤児根性〉として蔑んだ[60][59]。そして、どんなわがままもそのまま受け入れてくれる母親的な愛の有難さに対して、康成は人一倍に鋭敏な感受性や憧れを持つようになる[59][2]


8月に康成は、母の実家・黒田家の伯父・秀太郎(母の実兄)に引き取られ、吹田駅から茨木駅間を汽車で通学するようになったが、康成が本屋で買う本代がかさむために翌年3月から寄宿舎に行くことになった[51][61]

詳しいことは「川端康成ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E7%AB%AF%E5%BA%B7%E6%88%90
(wikiより)

2462  川端康成

川端康成

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小林 勇(こばやし いさむ、1903年3月27日 - 1981年11月20日)は、編集者、随筆家、画家。号は冬青。岩波書店の創業者の女婿であり、同社会長を務めた。

人物
長野県上伊那郡赤穂村(現駒ヶ根市)の農家の五男として生まれる[1]。実業学校で基礎教育を受けたのち家業を手伝っていたが、1920年、17歳で上京し、岩波書店の住み込み社員となり、岩波文庫の創刊に携わる。幸田露伴の愛顧を受ける。


岩波茂雄の女婿(次女小百合と結婚)となるが、1928年に独立し、三木清らの援助を受けて自身の出版社・鉄塔書院[2]、新興科学社を興す。だが、後に経営不振となり、1934年に岩波書店に復帰。1937年には『回想の寺田寅彦』を編んでいる。1945年5月治安維持法違反の嫌疑で逮捕され拷問を受ける(横浜事件)が、同年8月29日釈放[1]


1946年岩波書店支配人、岩波映画を興し、のち岩波書店代表取締役、1955年初の随筆集『遠いあし音』で日本エッセイスト・クラブ賞受賞。1962年岩波書店会長、1972年退任。


中谷宇吉郎
、初代中村吉右衛門など[1]文化人たちとの交遊は幅広く、生涯にわたり書画を描き「吉井画廊」などで個展を十数回催した。数多くの随筆評伝などの著書を上梓している。晩年は、山梨県にある清春白樺美術館創設に関わった。

著書
・『闘うアメリカの第三党』同友社, 1948

・『遠いあし音』文藝春秋新社, 1955

  ・『遠いあし音・人はさびしき』筑摩叢書, 1987

・『蝸牛庵訪問記 露伴先生の晩年』岩波書店, 1956、講談社文芸文庫, 1991

・『小閑』東京創元社, 1960

・『雨の日』文藝春秋新社, 1961

・『惜櫟荘主人 一つの岩波茂雄伝』岩波書店, 1963、講談社文芸文庫, 1993

・『竹影』筑摩書房, 1965

・『彼岸花 追憶三十三人』文藝春秋, 1968、講談社文芸文庫, 1992

・『蓑雲 歌集』新星書房 1968

・『隠者の焔』文藝春秋 1971

・『山中独膳』文藝春秋, 1971

・『山中独膳・厨に近く』筑摩叢書, 1988

・『随筆 書画一如』求龍堂, 1972

・『人はさびしき』文藝春秋, 1973、のち筑摩叢書

・『夕焼』文藝春秋, 1974

・『一本の道』岩波書店, 1975、復刊2003

・『冬青庵楽事』新潮社, 1977

・『厨に近く』中央公論社, 1978、のち筑摩叢書 

・『赤い鞄』新潮社, 1980

文集
・『小林勇文集』全11巻、筑摩書房, 1982‐1983

1. 遠いあし音、彼岸花 他

2. 蝸牛庵訪問記 他

3. 惜檪荘主人

4. 人はさびしき 他

5. 隠者の焔 他

6. 山中独膳、厨に近く

7. 冬青庵楽事、赤い鞄

8. 随筆書画一如 他

9. 小閑、竹影、雨の日

10. 夕焼、故人今人 他

11. 一本の道、竹頭木屑 他

別巻『回想 小林勇』谷川徹三井上靖

関連文献
・『冬青 小林勇画集』中央公論美術出版, 1969。限定版

・『冬青 小林勇画集』同刊行会編、岩波ブックサービスセンター, 1987

・『絵筆を持って 冬青小林勇画文集』求龍堂, 2003。生誕百年記念の画文集

・『懐遠 小林勇-娘への絵手紙』アートデイズ, 1997、東京堂出版, 2015。小松美沙子編著 

・『私の履歴書 反骨の言論人』日本経済新聞出版社〈日経ビジネス人文庫〉, 2007。文庫新版

脚注
1. a b c 冬青 小林 勇 年譜 (PDF)
2. 
鉄塔書院は、1929年4月東京市神田区一ツ橋通で開業し、6年間存続した。--冬青 小林勇展 梅野記念絵画館・ふれあい館 , 三木清『社会科学の予備概念』鉄塔書院、1929年、奥付、国立国会図書館デジタルコレクション

書評
小林勇『蝸牛庵訪問記』(「松岡正剛の千夜千冊」第二百四十七夜【0247】2001年3月12日)
(wikiより)

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小林 秀雄(こばやし ひでお、1902年明治35年)4月11日[注釈 1] - 1983年昭和58年)3月1日)は、日本文芸評論家編集者作家

人物
近代日本の文芸評論の確立者であり、晩年は保守文化人の代表者であった。アルチュール・ランボーシャルル・ボードレールなどフランス象徴派詩人たち、ドストエフスキー幸田露伴泉鏡花志賀直哉らの作品、ベルクソンアラン哲学思想に影響を受ける。本居宣長の著作など近代以前の日本文学などにも造詣と鑑識眼を持っていた。


妹の高見沢潤子は、作家随筆家[注釈 2]。その夫は『のらくろ』で著名な漫画家田河水泡


長女の明子は、白洲次郎正子夫妻の次男・兼正の妻。英文学者西村孝次、西洋史学者の西村貞二兄弟は従弟にあたる。文藝評論家の平野謙は又従弟[注釈 3]

経歴
1902年明治35年)4月11日、東京市神田区(現東京都千代田区)猿楽町に小林豊造、精子の長男として生まれた。本籍地兵庫県出石郡出石町鉄砲町。父豊造は[注釈 4]ベルギーアントワープ市でダイヤモンド加工研磨の技術を学び、日本にその技術と機械とを持ち帰り、「洋風装身具製作」の先駆者となった[1]。また日本で最初に蓄音機用のルビー針を作るなど、数々の技術を開発している。1915年大正4年)3月、白金尋常小学校を卒業。同年4月、東京府立第一中学校入学。同期に迫水久常西竹一ら、一期上には富永太郎蔵原惟人河上徹太郎(神戸一中から編入)らが在学していた。1920年(大正9年)3月、府立一中卒業。第一高等学校受験、不合格。1921年(大正10年)3月、父豊造没。同年4月、第一高等学校文科丙類入学。


1925年
(大正14年)4月、東京帝国大学文学部仏蘭西文学科入学。同級生に今日出海中島健蔵三好達治らがいた。同月富永太郎を通じて中原中也と識る。同年11月、長谷川泰子同棲1928年昭和3年)2月、富永の弟次郎を通じて大岡昇平を識る[注釈 5]。同年3月、東京帝国大学卒業。同年5月、単身家を出て大阪に行く。後に奈良に住み、志賀直哉家に出入する。長谷川泰子との同棲関係は解消。1929年(昭和4年)9月、『様々なる意匠』が『改造』懸賞評論第二等入選作として発表された。なお一等は宮本顕治『「敗北」の文学』であった[注釈 6]1930年(昭和5年)4月、『アシルと亀の子』を『文藝春秋』に発表、以後翌年3月まで文芸時評を連載、批評家としての地位を確立した。1932年(昭和7年)4月、明治大学文芸科が創設され、講師に就任し、日本文化史、ドストエフスキー作品論などを講じた。


1933年(昭和8年)10月、文化公論社より宇野浩二武田麟太郎林房雄川端康成らと『文學界』を創刊。

1935年
(昭和10年)1月、『文學界』の編輯責任者となり、『ドストエフスキイの生活』を連載し始める。1938年(昭和13年)6月、明治大学教授に昇格。1940年(昭和15年)4月、『文學界』の編輯委員を辞任する。


1946年
(昭和21年)2月、 「近代文学」で座談会「コメディ・リテレール-小林秀雄を囲んで」[注釈 7]。同月『無常といふ事』を創元社より刊行。同年5月、母精子没。同年8月、明治大学教授辞任。同年12月、青山二郎・石原龍一と『創元』を編集、「第一輯 梅原龍三郎特集」で『モオツアルト』を、「第二輯 幸田露伴特集」で『「罪と罰」について』を発表。1948年(昭和23年)4月 - 創元社取締役就任。1951年(昭和26年)3月、第一次『小林秀雄全集』により日本芸術院賞受賞[3]1953年(昭和28年)1月、『ゴッホの手紙』により読売文学賞受賞。1958年(昭和33年)12月、『近代絵画』により野間文芸賞受賞。1959年(昭和34年)12月、日本芸術院会員となる。1961年(昭和36年)10月、創元社取締役辞任。1963年(昭和38年)11月、文化功労者に顕彰。1965年(昭和40年)6月、『本居宣長』を「新潮」に連載開始(昭和51年(1976年)まで)。1967年(昭和42年)11月、文化勲章を受章。

1978年(昭和53年)6月、『本居宣長』により日本文学大賞受賞。1983年(昭和58年)3月1日、腎不全による尿毒症と呼吸循環不全のため慶應義塾大学病院で死去[4]

業績
学生時代
父・豊造の洋行土産のレコードと蓄音機の影響で小林は若い頃から音楽ファンとなる。学生時代は友人間で流行したレコードの竹針に否定的であり、蓄音機の針のテストのために父に貸したレコードをガリガリにされて憤慨したといった記録も残っている[5]。豊造の洋行土産であるバイオリンのレッスンを受けていた時期もあり(後年、小林は「ノコギリ引き」と評している)、府立一中時代には、河上徹太郎と「ブーブーガンガン」モーツァルトの合奏をするために楽器を鳴らしていた[6]。学生時代にはマンドリンクラブに所属し、演奏会なども催している。父豊造は小林19歳の時に没しており、以後、小林は家長としての責任を負うことになる。同年、神経症で第一高等学校を休学。初期の文章には、当時の自分への記述が見られる。小林は、同世代の若者たちに人気のあった新劇よりも歌舞伎などの旧劇を好んだ。後年の「平家物語」の評論にその影響を見ることができる[注釈 8]。青年時代には、美術学校にある彫刻科の公開されている参考室で、ギリシアやルネッサンス彫刻の模造に親しんだということを書いている[7]。府立一中時代から文芸同人誌活動を開始しており[8]、一高時代に雑誌『跫音』に発表した「蛸の自殺」で志賀直哉の、『山繭』に発表した短編「ポンキンの笑ひ」に対し、武者小路実篤の賞賛を受けるなどしていた[9]

詩人ランボーとの出会いと文学的青春
1924年(大正13年)春、第一高等学校在学中に神田の書店街でフランスの象徴派詩人アルチュール・ランボーの詩集『地獄の季節』の「メルキュウル版の豆本」と出会う[注釈 9][10]1947年(昭和22年)3月『展望』に書いた「ランボオの問題」(現行タイトル「ランボオⅢ」)で、「向うからやって来た見知らぬ男が、いきなり僕を叩きのめしたのである」と書いている[11]。しかし以後、二十代の小林において、ランボーは、約4年ののちには回復しようもなく失われてしまう[注釈 10][注釈 11]


一方、訳業においては、1929年(昭和4年)10月、同人雑誌『文學』創刊号より翌1930年(昭和5年)2月号にランボオ「地獄の一季節」の9篇を翻訳掲載。同年10月、新たに訳した詩を加え、「ランボオⅠ」「ランボオⅡ」とあわせて、『地獄の季節』を白水社より刊行。のち、1938年(昭和13年)には改訳を施したうえで岩波文庫より『地獄の季節』を刊行した[12]。『地獄の季節』のランボーとの出会いは、ここに袖珍本による普及という具体的成果を得たのである。

そら、科學だ。どいつもこいつも又飛び附いた。

肉體の爲にも魂の爲にも、―― 醫學もあれば哲學もある、―― たかが萬病の妙藥と恰好を附けた俗謡さ。
それに王子樣等の慰みかそれとも御法度の戲れか、やれ地理學、やれ天文學、機械學、化學・・・・・・
科學。新貴族。進歩。世界は進む。何故逆戻りはいけないのだらう。これが大衆の夢である。
俺達の行手は『聖靈』だ。俺の言葉は神託だ、嘘も僞りもない。

俺には解つている、たゞ、解らせようにも外道の言葉しか知らないのだ。あゝ、喋るまい。
                                             — 『地獄の季節』小林秀雄訳

[13]

大正末期から昭和初期の時期は、世界史においては、第一次世界大戦後の混乱から生じた西洋進歩主義にゆらぎが生じた時期でもあった[注釈 12]。この頃、詩人ポール・ヴァレリーテュービンゲン大学における講演で、「諸君、嵐は終わった。にもかかわらず、われわれは、あたかも嵐が起ころうとしている矢先のように、不安である。」と言った。また、大戦末期にロシア革命が成立していた。このような時代の前段階である19世紀に、ランボーは、早々と、科学による学問の進歩とそれとは異なる逆戻りの志向が世の中に共在し得ることを詩の中に示している。


小林は、学生時代はしばしば講義を休む学生で、乱読家であり、1926年(大正15年)、24歳の時に東大仏文研究室の『仏蘭西文学研究』に発表した「人生斫断家アルチュル・ランボオ」(現行タイトル「ランボオI」)を読んだ指導教官の鈴木信太郎らが「これほど優秀なら」と卒業認可した。


1927年
(昭和2年)「芥川龍之介の美神と宿命」を『大調和』9月号に[注釈 13]、「『悪の華』一面」を同年11月発行の『仏蘭西文学研究』に発表[注釈 14][注釈 15]。さらに、1930年(昭和5年)より、文藝春秋において文芸時評を始める。「一番初めに文藝春秋に」書いたときは、「学校を出てから、金がなくってお袋を養わなきゃならない、そのために文芸時評を書いた。それが、一番確かな動機」であった。「思い切り悪口を言えば、評判を取るだろうと思ってやった」もの[14]。小林は若い時代を顧みて「評判を取るだろうと思ってやったんだ。果して評判を取ったよ」という旨のことを言っている[14]。この時期、小林らは同人誌『作品』を立ち上げ、小林はランボーの『飾画』を掲載している[注釈 16]


初期小林批評は、翌年1931年(昭和6年)の『文藝春秋』1月号「マルクスの悟達」[注釈 17]、2月号「文芸時評」、3月号「心理小説」で一区切りを付ける。そして、同年7月『文藝評論』を白水社より刊行する。

なお、後年、小林は文藝春秋創立者の菊池寛を回顧する文章の中で[15]、菊池が1921年(大正10年)に書いた「社会主義について」では、「日本が社会主義化して行く事は時の問題であり、ただ手段を誤り、過激な事で、そこに進もうとすると、却って反動期をまねく恐れがあるのが心配であるという考え」を表明し、1947年(昭和22年)に書いた「半自叙伝」では、「今になって言っても益もない事だが、自分の予想は不幸にして的中し、大正末から起った共産主義の弾圧のとばっちりを受けて、自由主義的なものから社会主義的なものへの健全な発展がはばまれて了った」と記していることに注目している。


当時、世界は大恐慌にさしかかり、日本は統帥権問題を端に発した軍部の暴走、その延長として起きた満州事変5.15事件による立憲政治の中断、特別高等警察の設置などによる緊迫した情勢下にあった。この時期1932年(昭和7年)『中央公論』9月号に書かれた小林の「Xへの手紙」は、サント・ブウヴボードレールニイチェゲエテの4者の名を呼ぶのみの小説であり、以後、小林によるランボーへの言及は機会を減らしていく。評論にあっては、海外思潮の分野では、ランボーとの出会い以前に小林に影響を与え、ランボー詩と並行して翻訳を行ったフランスの象徴詩人ボードレールや同じくフランスの哲学者ベルクソンに対する言及が現れてくる[注釈 18][注釈 19][注釈 20]


また、小林のドストエフスキー論がこの時期以後に始まる。ときはファシズム興隆期の戦前昭和の時代であった[注釈 21]。ドストエフスキー論で小林は、帝政ロシアの反動体制において西欧進歩主義の世界に遠い憧憬の眼を投げる若いインテリゲンチャについて「どれもこれも辛すぎる夢」というドストエフスキーの青年期の書簡での言葉を引きつつ、「青年達は西欧の理想に憑かれながら、この理想をはぐぐむ社會條件を、空しく周圍に捜し求めた」と記した[16]


1933年
(昭和8年)10月より発刊された『文學界』の同人となり、1936年(昭和11年)1月には、高齢同人に退いてもらい、新たな同人を入れ、自分たちの世代の文学的理想の実現の場を確保[注釈 22]。また、同年には、自身による翻訳書アラン『精神と情熱とに関する八十一章』の刊行とともに創元社に編集顧問として参加している。同社ではさらに自身の著作である『ランボオ詩集』、『ドストエフスキイの生活』などを出版し、社に貢献しつつ、自分の文業を広めることとなる。


小林は、戦後『大東亜戦争肯定論』を著し、論壇に論議を起こすこととなる林房雄が、戦前、二度の入獄を経て転向する以前の作品『青年』を評価し紹介していた[17][注釈 23]。1936年(昭和11年)1月の同人改組前後には、小林は左翼作家を標榜する島木健作と中野重治に参加を働きかけ、島木は参入。しかし、中野は拒絶した[18]。敗戦直前に獄中死した唯物論哲学者で、同年12月に小林が『東京朝日新聞』に発表した「文学の伝統性と近代性」をめぐって論争した相手の一人[注釈 24]だった戸坂潤の誘いを受けて唯物論研究会に名を連ねてもいる[注釈 25]。以後、1937年(昭和12年)日中戦争開始後になっても小林は、河上とともに『文學界』の編集に関与し続け、雑誌同人を拡大しながら文学の社会の中における機能を継続させようと図る[注釈 26]

思想と実生活論争
日中戦争が始まる前年の1936年(昭和11年)に、小林は正宗白鳥との間で、ロシアの文豪レフ・トルストイの最晩期の家出を巡って、後年「思想と実生活論争」と呼ばれることになる論争を行う[19]。小林が『讀賣新聞』に掲載した論文「作家の顔」の中で、正宗白鳥が家出したうえ野垂れ死にしたトルストイについて自己流の感慨を述べた文章を抜粋し、これを批判。この論文に白鳥が反駁した。さらに小林は、『文藝春秋』4月号に白鳥にこたえる形で論文「思想と実生活」を載せる。トルストイが妻を怖がって家出した。天才も竟に細君のヒステリイには敵わなかった。抽象的な思想でなく実生活の退屈で凡庸な瑣事が偉大な思想家の命運を決した。これはどういうことか。白鳥はそこに、⦅卑小な実生活上の瑣事⦆に「人生の真相を鏡に掛けて見るが如」き感慨を覚え、小林は巨大な精神が負わねばならぬ「実生活」という屑肉の退屈を感じた。論争の発端はこの認識の差である。


その後、昭和23年の正宗との対談(「大作家論」)で小林は以下のように述べ、意見相違は表面上に過ぎなかったとの認識を示した。

小林:僕は今にしてあの時の論戦の意味がよくわかるんですよ。というのは、あの時あなたのおっしゃった実生活というものは、一つの言葉、一つの思想なんですな、あなたに非常に大切な……。僕はトルストイの晩年を書ければ書いてみたいと思っているのですけど、書けば、きっと九尾の狐と殺生石を書くでしょうよ。思想なんて書きませんよ。

また、昭和38年の河上徹太郎との対談(「白鳥の精神」)でも同様の見解を述べた河上に賛意を示している。

河上:理想主義で合理主義……、ぼくは今度きみと正宗さんとの有名なトルストイ家出論争というのをまた読み直してみたよ。そうしたら、当時感じたのとちょっと違ったものを感じたな。当時ぼくは間違えて批評していたんだ。きみは理想主義で、向こうがリアリズムだというふうにぼくは簡単にさばいていたけれども、そうじゃないな。向こうもリアリズムじゃないよ。あれは一種の理想主義だ。
小林:うん、そうだ。
河上:だから同じことなんだ。きみと同じことをいっているのだ。

詳しいことは「小林秀雄ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%9E%97%E7%A7%80%E9%9B%84_(%E6%89%B9%E8%A9%95%E5%AE%B6)
(wikiより)

2455  小林秀雄

小林秀雄

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真杉 静枝(ますぎ しずえ、1901年10月3日 - 1955年6月29日)は、日本の小説家

略歴
教職を務める父と住職の娘である母との間にできた私生児として福井県伊那郡殿下村に生まれる[1]神官の娘。父が台湾宮司になったため3歳から台湾で過ごす。1911年に一旦日本に戻ったが、再び台湾に戻り、台中看護婦養成所を卒業して1916年から看護婦として台中病院に務める[1]。台中高等女学校中退。1917年、17歳で台中駅助役(のちに旧城駅長)と結婚。相手は13歳年上で、内縁の妻がいた[1]1921年に離婚し、大阪の祖父母の元で暮らす[1]


タイピスト、事務員を経て、1925年に大阪毎日新聞の記者となる[1]。その頃、正岡容の愛人となって心中を図るも未遂に終わる。のち武者小路実篤と知り合って、1927年その愛人となる。武者小路の指導で小説家を志し、1927年に武者小路が主宰する『大調和』8月号で『駅長の若き妻』を発表したのち、武者小路や中村地平との恋愛をもとにした処女作『小魚の心』を発表[1]長谷川時雨の『女人藝術』に参加。武者小路が経営する神田猿若町の美術店「日向堂」を手伝いながら、文芸雑誌に作品を発表しつづける[1]


武者小路と別れた後、中村地平菊池寛などと恋愛。1939年に、中村とともに18年ぶりに台湾を訪れ、台南に住む家族と久しぶりの再会を果たす[1]1941年には長谷川時雨、円地文子らと中国・広東へ日本軍の慰問にも出向いている[1]1942年中山義秀と結婚したが1946年に離婚。この間、中国戦地の慰問団に参加して陸軍中尉の佐藤賢了と恋愛。


戦後は娯楽月刊誌「鏡」を刊行したが3号で廃刊。また「読売新聞」で「身の上相談」を担当し、被爆少女の教護に尽した。昭和28年に渡欧、エリザベス女王戴冠式と国際ペンクラブ大会にそれぞれ出席。


癌に苦しみ、死の直前にキリスト教洗礼を受けた。1955年6月29日、肺癌のため東京大学医学部附属病院小石川分院で死去[2]。通夜の席にはかつての夫、中山義秀が参列している。

小説に描かれた真杉静枝
吉屋信子「小魚の心 真杉静枝と私」(『自伝的女流文壇史』中公文庫

林真理子「女文士」新潮文庫 ISBN 978-4-101-19117-1

石川達三「花の浮草」文春文庫 ※モデル小説

十津川光子「悪評の女」真杉静枝の伝記

火野葦平「淋しきヨーロッパの女王」(新潮 1955年1月号、p230~262)

その他
生年は1905年説(吉屋信子など)あり。墓地は北鎌倉の東慶寺にある。

著書
・『小魚の心』(1938年)竹村書房 序坂口安吾

・『草履を抱く女』春陽堂、1939 

・『その後の幸福』昭森社、1940 

・『ひなどり』(1939年)竹村書房

・『万葉をとめ』(1940年)人文書院      

・『愛情の門』(1940年)国際女性社

・『歴史物語薄幸の姫宮』(1940年)画高畠華宵、装丁蕗谷虹児

・『甲斐なき羽撃き 随筆』(1940年)協力出版社

・『ことづけ』(1941年)新潮社

・『南方紀行』(1941年)昭和書房

・『天日爽やかに』(1941年)墨水書房

・『凱歌』報国社、1942 

・『三つの誓ひ』むらさき出版部、1942 

・『鹿鳴館以後』(1942年)実業之日本社

・『妻』博文館、1942 

・『母と妻』全国書房、1943 

・『帰休三日間』(1943年)秩父書房

・『松山氏の下駄』

・『思はれ人』(1946年)丹頂書房

・『鏡と鬘』(1947年)前田出版社

・『愛情の門』(1948年) 国際女性社 

・『花怨』(1948年) 六興出版部 

・『美くしい人』 (1948年) 京都印書館 

・『後宮の人』 (1948年) 九州書房 

・『仇ごよみ』(1948年)鏡書房 

・『夜会服の乙女』(1949年)

・『嵐の中の姉妹』偕成社、1949 

・『小説人生案内』(1951年)四季社

訳書
ヨーロッパの横顔 サム・ウエルズ(Sam Welles)著 ジープ社、1950

(原書:Sam Welles, "Profile of Europe", herper & Brothers New York, 1948)

脚注
1. a b c d e f g h i 植民地を語る苦痛と快楽 - 台湾と日本のはざまにおける真杉静枝のアイディンティティ形成李文茄、日本台湾学会
2. 岩井寛『作家の臨終・墓碑事典』(東京堂出版、1997年)298頁

外部リンク
真杉静枝著作集 - 近代デジタルライブラリー
(wikiより)


2448  真杉静枝

真杉静枝

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2448b



田村 俊子 (たむら としこ、1884年明治17年)4月25日 - 1945年昭和20年)4月16日)は、日本小説家。別名、佐藤露英佐藤俊子、本名、佐藤とし。東京府東京市浅草区蔵前町(現在の東京都台東区蔵前)生れ[1]東京府立第一高等女学校卒業、日本女子大学校国文科中退[1]。代表作は『木乃伊(みいら)の口紅』、『炮烙(ほうらく)の刑』など。官能的な退廃美の世界を描き、人気を得た。没後、田村俊子賞が創設された[1]

生涯
代々続く札差だったという米穀商の家に生まれる。1893年(明治26年)4月、浅草小学校(現在の台東区立浅草小学校)に入学。翌年2月、下谷区下谷金杉上町(現在の台東区下谷竜泉入谷辺り)に移住し、下谷区根岸尋常高等小学校(現在の台東区立根岸小学校)に編入学。1895年(明治28年)、浅草区馬道(現在の台東区浅草花川戸辺り)に転居し浅草小学校に再編入学。1896年(明治29年)、東京女子高等師範学校附属高等女学校(現在のお茶の水女子大学附属中学校附属高等学校)に入学するが、僅か1学期で退学。東京府立第一高等女学校(現在の東京都立白鴎高等学校・附属中学校)に転学。作家を志し、幸田露伴の門下に入る。露伴を選んだ理由は、その作品からでなく、尾崎紅葉が「金色夜叉」の上演につききりでやかましく言っているのと反対に、露伴は「ひげ男」の上演に一切無干渉だという新聞記事を読み、人格に惚れたためだった[2]


1902年
に露伴から与えられた露英の名で、小説『露分衣(つゆわけごろも)』を発表するも、露伴から離れ、岡本綺堂らの文士劇に参加したことをきっかけに女優になる。女優としての芸名は花房露子[1]。しかし文学への意欲は失われず、1909年に結婚(事実婚)した田村松魚の勧めで書いた『あきらめ』が、1911年大阪朝日新聞懸賞小説一等になり文壇デビュー、その後「青鞜」、「中央公論」、「新潮」に次々と小説を発表し、人気作家となる。しかしそれも長くは続かず、1918年、朝日新聞記者鈴木悦の後を追い、松魚と別れバンクーバーへ移住。悦とともに現地の邦字紙大陸日報の編集に参画する。


1936年、悦の死去により18年ぶりに帰国。日本で小説家としての活動を再開したが、かつての筆力はなく、また佐多稲子の夫である窪川鶴次郎との情事が発覚、その経験を基に書いた小説『山道』を発表後、日本を離れ上海に渡り、中国語婦人雑誌『女声』を主宰した[3]。1945年4月13日、友人の中国人作家陶晶孫の家から人力車で帰宅途中に昏倒し、搬送された上海の病院で4月16日、脳溢血により客死した[4]。享年62。墓所は鎌倉東慶寺にある[1]


大相撲
力士両國勇治郎のファンであり、彼を題材にした俳句も複数残している。

主な作品
・生血

・女作者

・炮烙の刑 - 俊子と田村松魚、伊東六郎の三角関係をもとに作品化したもの

・山道


  ・著書 

・あきらめ 金尾文淵堂 1911

・誓言 新潮社 1913

・山吹の花 植竹書院 1914 (文明叢書 ; 第33編)

・木乃伊の口紅 牧民社 1914

・恋むすめ 牧民社 1914

・恋のいのち 実業之世界社 1915

・小さん金五郎 新潮社 1915 (情話新集)

・お七吉三 新潮社 1916.6 (情話新集)

・彼女の生活 新潮社 1917 

・あきらめ・木乃伊の口紅 1952 (岩波文庫)

・田村俊子作品集 全3巻 オリジン出版センター 1987-88

・木乃伊の口紅・破壊する前 1994.6 (講談社文芸文庫)

・田村俊子全集 全9巻+別巻1 ゆまに書房 2012.8-刊行中


  ・復刊

・木乃伊の口紅 不二出版 1986.6 (叢書『青鞜』の女たち)

・恋むすめ ゆまに書房 1999.12 (近代女性作家精選集)

・山吹の花・恋のいのち ゆまに書房 1999.12 (近代女性作家精選集)

・作家の自伝 87 田村俊子 日本図書センター 1999.4 (シリーズ・人間図書館)

・紅 ゆまに書房 2000.11 (近代女性作家精選集)

・彼女の生活 ゆまに書房 2000.11 (近代女性作家精選集)


  ・翻訳

・機械時代の恋愛 フロイド・デル 中島幸子,田村とし子訳 先進社 1932

参考文献
・『田村俊子』 瀬戸内晴美(寂聴)著、文藝春秋新社、1961年、のち角川書店、講談社。

・『田村俊子とわたし』 丸岡秀子 著、中央公論、1973年、のちドメス出版。

・『晩香坡(バンクーヴァー)の愛―田村俊子と鈴木悦』 工藤美代子、S・フィリップス共著、ドメス出版、1982年。

・『旅人たちのバンクーバー わが青春の田村俊子』 工藤美代子 著、筑摩書房、1985年、のち集英社文庫。

・『大百科事典』平凡社、1985年。

・『田村俊子作品集1~3』ドメス出版、1987年。

・『現代女性文学辞典』 村松定孝渡邊澄子 編、東京堂出版、1990年。

・『日本現代文学大事典』 三好行雄竹盛天雄他 編、明治書院、1994年。

・『作家の自伝87』 長谷川啓 編解説、日本図書センター、1999年。

・『田村俊子 谷中天王寺町の日々』 福田はるか 著、図書新聞、2003年。

・『田村俊子の世界 作品と言説空間の変容』 山崎眞紀子 著、彩流社、2005年。

・『今という時代の田村俊子―俊子新論』 渡辺澄子 編集、至文堂、2005年。

脚注
1. a b c d e 江刺昭子・史の会編『時代を拓いた女たち 第2集』神奈川新聞社、2011年、142-143頁。ISBN 978-4-87645-475-4
2. 「婦人と文学」宮本百合子
3. 日本女作家田村俊子的上海冒險” (中国語). 徐靜波 (2020年5月20日). 2020年5月20日閲覧。
4. 岩井寛『作家の臨終・墓碑事典』(東京堂出版、1997年)204頁

外部リンク
田村 俊子:作家別作品リスト青空文庫
(wikiより)

2421  田村俊子

田村俊子

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小説家。

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高見 順(たかみ じゅん、本名・高間芳雄、1907年1月30日 - 1965年8月17日)は、日本小説家詩人

経歴
1907年福井県知事阪本釤之助[1]非嫡出子として福井県坂井郡三国町(現坂井市三国町)平木に生まれる。母・高間古代(コヨ)は阪本が視察で三国を訪れた際に夜伽を務めた女性である。


1908年
、母と共に上京する。実父と一度も会うことなく、東京市麻布飯倉にあった父の邸宅付近の陋屋に育つ。私生児としてしばしばいじめを受けた。阪本家からは毎月10円の手当てを受けていたが、それでは足りず、母が針仕事で生計を立てた。

1924年東京府立第一中学校卒業、第一高等学校文科甲類入学。一高社会思想研究会に入会する。

1925年ダダイスムの雑誌『廻転時代』を創刊する。

1926年、校友会文芸部委員に就任する。

1927年
に一高を卒業[2]東京帝国大学文学部英文学科に入学する。同人雑誌『文芸交錯』創刊に参加、また

1928年
左翼芸術同盟に参加し、機関紙『左翼芸術』に小説『秋から秋まで』を発表する。東大内の左翼系同人雑誌7誌が合同した『大学左派』創刊にも参加する。劇団制作座の仕事に従事し、劇団員だった石田愛子と知り合った。


1929年、『大学左派』の後身『十月』や『時代文化』の創刊に参加し、プロレタリア文学への道を進んだ。

1930年に東大を卒業、研究社英和辞典臨時雇として勤務する。その後、コロムビア・レコード会社教育部に勤務する。雑誌『集団』創刊に参加、この頃、日本プロレタリア作家同盟(ナルプ)に参加したと推定される。石田愛子と結婚する。


1933年
治安維持法違反の疑いで大森署に検挙される[3]が、「転向」を表明し、半年後に釈放された。妻・愛子は他の男性と失踪し、離婚した。[4]雑誌『日暦』創刊に参加した。


1935年饒舌体と呼ばれる手法で『故旧忘れ得べき』[5]を『日暦』に発表、第1回芥川賞候補となり、作家としての地位を確立した。水谷秋子と結婚する。


1936年、『人民文庫』の創刊に『日暦』同人とともに参加する。また、コロムビア・レコード会社を退社、文筆生活に入る。思想犯保護観察法が施行され、擬似転向者として再調査される。

1938年、浅草五一郎アパート(曽我廼家五一郎が経営)に部屋を借りて浅草生活を始める。


1939年
、『如何なる星の下に[6]を『文芸』に発表、高い評価を受ける。


1941年、陸軍報道班員として徴用されビルマに派遣される。戦場にも出たが、鉄兜も帽子もなくしてしまい、心細さの挙句に鉢巻をしたが、「多少は心強くなった、鉄砲玉には何の効果もないだろうが、いくらかは安心感がある。戦場の心理とはおかしなものだ」と、戦後になって海音寺潮五郎に語っている[7]。その後、1944年には中国大陸にも派遣され、南京における第3回大東亜文学者大会に出席している。1945年6月に日本文学報国会参加。


1950年
、『胸より胸に[8]を『婦人公論』に発表する。


戦後は、『わが胸の底のここには』『あるリベラリスト」などの作品で私小説風に傷つきやすい精神を掘り下げた作品を次々と発表する。また晩年は、昭和という時代を描く『激流』『いやな感じ』『大いなる手の影』の連作を発表する。長編などでは他に『都に夜のある如く』『生命の樹』『今ひとたびの』などがある。


詩人としても活動し、『樹木派』『わが埋葬』、最晩年に『死の淵より』(度々再刊)などを発表する。永井荷風と並ぶ日記作家としても知られ、昭和史の資料ともなった『高見順日記』を著す(『敗戦日記』が度々再刊)。回想記に『昭和文学盛衰史』がある。


晩年に、近代文学の資料の散逸を防ぐため、日本近代文学館の建設に尽力したが、落成間近の1965年8月17日、食道癌のため放射線医学総合研究所病院で亡くなった。戒名は素雲院文憲全生居士[9]文化功労者が追贈された。勁草書房で「全集」「全日記」が刊行された。

著書
・『起承転々』改造社 1936年

・『故旧忘れ得べき』人民社 1936年 のち角川文庫、新潮文庫

・『女体』竹村書房 1936年

・『虚実 小説集』竹村書房 1937年

・『手袋』版画荘文庫 1937年

・『描写のうしろに寝てゐられない』信正社 1937年

・『流木』竹村書房 1937年

・『昨日の黄昏 他九篇』新小説選集 春陽堂 1938年

・『人間』竹村書房 1938年

・『化粧』青木書店 1939年

・『爪髪集』新選随筆感想叢書 第9 金星堂 1939年

・『私の小説勉強』竹村書房 1939年

・『文芸的雑談』昭森社 1940年

・『愛恋風俗』時代社 1940

・『如何なる星の下に』新潮社 1940年 のち文庫、角川文庫、講談社文芸文庫

・『更生記』昭森社 1940年

・『わが饒舌 評論随筆』富士出版社 1941年

・『蘭印の印象』改造社 1941年

・『ある晴れた日に』河出書房 1941年

・『東京暮色』明石書房 1941年

・『高見順文芸随感』河出書房 1942年

・『諸民族』新潮社 1942年

・『ビルマ記』協力出版社 1944年

・『東橋新誌 前篇』六興出版部 1944年

・『遠方の朱唇 創作集』新紀元社 1946年

・『眼で見る愛情』南北書園 1946年

・『今ひとたびの 高見順小説集』鎌倉文庫 1946年 のち角川文庫、河出文庫

・『流れ藻』丹頂書房 1946年

・『日曜と月曜』実業之日本社 1946年

・『山の彼方の空遠く 短編集』新生活社(新生活叢書) 1946年

・『仮面』青竜社 1947年

・『霙降る背景』地光社 1947年

・『恋愛年鑑 長篇』虹書房 1947年

・『炎と共に』新潮社 1948年

・『神聖受胎』永晃社 1948年

・『文学者の運命』中央公論社 1948年

・『真相』共立書房 1948年

・『天の笛 長篇』六興出版社 1949年

・『高見順叢書 全4 わが胸の底のここには』六興出版社 1949年-1950年

・『インテリゲンチア』池田書店 1951年

・『胸より胸に』黄土社書店 1951年 のち角川文庫

・『拐帯者』北辰堂 1951年

・『朝の波紋』朝日新聞社 1952年 のち角川文庫

・『高見順詩集』中村真一郎編 河出書房(市民文庫) 1953年

・『この神のへど』大日本雄弁会講談社 1954年

・『一囘だけの招待』新潮社 1954年

・『各駅停車』毎日新聞社 1954年

・『私の文学観』社会思想研究会出版部(現代教養文庫) 1955年

・『花自ら教あり』山田書店 1955年

・『本日は晴天なり』東方社 1955年

・『都に夜のある如く』文藝春秋新社 1955年 のち角川文庫、文春文庫

・『罪多い女』角川小説新書 1955年

・『駄目な夜』東方社(東方新書) 1955年

・『二番線発車』東方社 1956年

・『天使の時間』雲井書店 1956年

・『湿原植物群落』三笠書房 1956年

・『悪女礼讃』酒井書店 1956年

・『ひと日わが心の郊外に』三笠書房 1957年

・『愛と美と死 エッセイ集』宝文館 1957年

・『対談現代文壇史』中央公論社 1957年

・『人生の周辺』平凡社 1957年

・『愛情列島』角川書店 1957年

・『虹の橋』大日本雄弁会講談社 1958年

・『エロスの招宴』新潮社 1958年

・『昭和文学盛衰史』 文藝春秋新社(全2巻) 1958年 のち講談社、福武書店、角川文庫、文春文庫(全1巻)

・『愛のために・青春のために』凡書房 1958年

・『生命の樹』講談社 1958年 のち文春文庫(自身の浮気を描いた私小説)

・『敗戦日記』文藝春秋新社 1959年 のち文庫、中公文庫

・『三面鏡』中央公論社 1959年

・『都会の雌雄』講談社 1959年

・『完本・高見順日記 昭和二十一年篇』凡書房新社 1959年、「終戦日記」文春文庫

・『遠い窓』中央公論社 1960年

・『異性読本』角川書店 1960年

・『文学的現代紀行』講談社 1961年

・『ちょっと一服』朝日新聞社 1961年

・『愛が扉をたたく時』講談社(ロマン・ブックス) 1962年

・『いやな感じ』文藝春秋新社 1963年 のち角川文庫

・『激流 第1部』岩波書店 1963年

・『高見順日記』全8巻 勁草書房 1964年-1965年、のち新版+続編(全9巻)

・『高見順文学全集』全6巻 講談社 1964年-1965年

・『詩集 死の淵より』講談社 1964年 のち文庫、文芸文庫

・『わが埋葬』思潮社 1965年

・『高見順全集』全20巻 勁草書房 1970年-1974年

・『三十五歳の詩人』中公文庫、1977年

・『高見順詩集』思潮社・現代詩文庫 1977年

編著
・『眠られぬ夜のために 療友に贈る書』(編)四季社 1950年

・『目撃者の証言』(編)青銅社 1952年

・『文学に見る日本の川 隅田川』(編)日本週報社 1960年

詳しいことは「高見 順ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E8%A6%8B%E9%A0%86
(wikiより)

2439  高見順

川端康成(右)とともに(1949年)


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堀田 善衛(ほった よしえ、1918年大正7年)7月7日 - 1998年平成10年)9月5日)は、日本小説家評論家中国国民党宣伝部に徴用された経験をもとにした作品で作家デビューし、1951年に芥川賞受賞[1]

来歴・人物
富山県高岡市出身。父は富山県会議長の堀田勝文、母は大正年間に富山県で初めて保育所を創設した堀田くに。経済学者で慶應義塾大学商学部名誉教授の堀田一善は甥にあたる。生家は伏木港廻船問屋であり、当時の北前船日本海航路の重要な地点であったため、国際的な感覚を幼少時から養うことができた[2]


1936年
旧制金沢二中から慶應義塾大学政治科予科に進学。1940年文学部仏文科に移り、卒業。大学時代はを書き、雑誌『批評』で活躍、その方面で知られるようになる。


第二次世界大戦末期の1945年3月に国際文化振興会が中国に置いていた上海資料室に赴任。現地で敗戦を迎える。1945年8月に現地日本語雑誌『新大陸』にエッセイ「上海・南京」を発表。敗戦直後、上海現地の日文新聞『改造日報』に評論「希望について」を発表。同年12月に上海昆山路128号にあった中国国民党中央宣伝部対日文化工作委員会に留用され、現地日本語雑誌『新生』の編集と、現地中国語紙『中央日報』の対日輿論の翻訳を担当。1946年6月に現地日本語雑誌『改造評論』に「反省と希望」を発表。翌年12月まで留用生活を送る。12月28日(29日の夜明け)にアメリカ軍の上陸用舟艇引き揚げ。上海での生活と留用体験について、陳童君『堀田善衛の敗戦後文学論-「中国」表象と戦後日本』(鼎書房、2017年)参照。また『新生』は中国国家図書館アメリカ議会図書館に現存している[3]


1947年、世界日報社に勤めるが、会社は1948年末に解散する。この頃は詩作や翻訳業を多く手がけていた。

アガサ・クリスティ
の『白昼の悪魔』の最初の邦訳は堀田によるものである。


1948年
、処女作である連作小説『祖国喪失』の第1章「波の下」を発表、戦後の作家生活を始める。 1950年10月23日品川駅でかっぱらいをして逮捕されたと報じられたが[4]、『高見順日記』によると、酔った上でのいたずらだったらしい。


1951年、『中央公論』に話題作「広場の孤独」を発表、同作で当年度下半期の芥川賞受賞。また、同時期に発表した短編小説「漢奸」(『文學界』1951年9月)も受賞作の対象となっていた。


1953年国共内戦期の中国を舞台にした長編小説『歴史』を新潮社から刊行。1955年日中戦争初期の南京事件をテーマとした長編小説『時間』を新潮社から刊行。


1956年
、アジア作家会議に出席のためにインドを訪問、この経験を岩波新書の『インドで考えたこと』にまとめる。これ以後、諸外国をしばしば訪問し、日本文学の国際的な知名度を高めるために活躍した。また、その中での体験に基づいた作品も多く発表し、欧米中心主義とは異なる国際的な視野を持つ文学者として知られるようになった。この間、1959年にはアジア・アフリカ作家会議日本評議会の事務局長に就任。ソビエト連邦の首都モスクワパキスタンの詩人ファイズ・アハマド・ファイズと知り合ったのは1960年代である。ジャン=ポール・サルトルとも親交があった。日本評議会が中ソ対立の影響で瓦解した後、1974年に結成された日本アジア・アフリカ作家会議でも初代の事務局長を務めた。また、「ベ平連」の発足の呼びかけ人でもあり[5]、脱走米兵を自宅に匿ったこともあった[6]マルクス主義には賛同せず日本共産党などの党派左翼でもなかったが、政治的には戦後日本を代表する進歩派知識人であった。


1977年
フランシスコ・デ・ゴヤの評伝『ゴヤ』完結後、スペインに居を構え、以後はスペインと日本とを往復する。スペインやヨーロッパに関する著作がこの時期には多い。


1980年代後半からは、社会に関するエッセイである〈同時代評〉のシリーズを開始。同シリーズの執筆は堀田の死まで続けられ、没後に『天上大風』として1冊にまとめられた。


1998年に「国際政治の問題点を浮き彫りにした活躍」が評価され、芸術院賞を受けた後体調を崩し神奈川県横浜市の病院へ入院するも、同年9月5日午前10時7分に脳梗塞のため帰らぬ人となった[7][8][9]

エピソード
宮崎駿が最も尊敬する作家であり、宮崎は堀田の文学世界や価値観から非常な影響を受けていることを常々公言、堀田と幾度も対談している。たとえば宮崎の作品によく出てくるゴート人のイメージは、堀田のスペイン論に由来している[10]。また、宮崎は堀田の『方丈記私記』のアニメ化を長年にわたって構想していた。2008年には、宮崎吾朗などのスタジオ・ジブリスタッフによって、『方丈記私記』などの堀田作品をアニメ化するという仮定の下のイメージ・ボードが制作され、神奈川近代文学館に展示された。

海外での受容
大学図書館システムNACSISで確認できる範囲では、英語ロシア語中国語韓国語に著作が翻訳されている。このうちロシア語訳されたものは4作確認でき、最も多い。

英訳作品
・「審判」(1994年)

TR:Judgment / Yoshie Hotta ; translated with an introduction by Nobuko TsukuiPUB:Hirakata-shi, Osaka-fu, Japan : Intercultural Research Institute, Kansai Gaidai University , 1994

ロシア語訳作品
・「海鳴りの底から」(1968年)

TR:Из глубины бушующего моря : роман / Хотта Ёсиэ ; перевод с японского И. Львовой

PUB:Москва : Изд-во "Художественная литература" , 1968

http://www.livelib.ru/book/1000540119


・「審判」(1969年)

TR:Суд / Ё. Хотта ; перевод с японского З. Рахима

VT:RM:Sud

PUB:Москва : Изд-во "Прогресс" , 1969


・「記念碑」(1962年)

TR:Памятник : роман / Ёсиэ Хотта ; перевод Я. Берлина и З. Рахима

RM:Pami︠a︡tnik

PUB:Москва : Изд-во иностранной литературы , 1962


・「時間・歯車」(1958年)

TR:Шестерни : повесть ; Время: роман / Ёсиэ Хотта ; перевод с японского род редакцией И .Л. Иоффе||||:Shesterni : povest' ; Vremi︠a︡ : roman

PUB:Ташкент : Государственное изд-во художественной литературы УзССР , 1958

ウズベキスタンでの受容
ロシア語版の「時間・歯車」の出版地はウズベキスタンの首都タシュケントで、第2回アジア・アフリカ作家会議は1958年10月にタシュケントで開かれている。

2005年5月にウズベク語で刊行された『ウズベキスタン国家百科事典』第9巻には、二葉亭四迷と並んで堀田の項がある[11]

中国語訳作品
・「鬼無鬼島」

鬼无鬼島 / 堀田善卫著 ; 李芒, 文洁若譯||キブキジマ||gui wu gui dao

PUB:北京:作家出版社 , 1963.4


・「時間」

秦刚訳、人民文学出版社、出版2018年7月

韓国語訳作品
・「ゴヤ Vol.1」(1998年)

TR:에스파냐 : 빛과 그림자 / 홋타 요시에 지음 ; 김석희 옮김||에스파냐 : 빛 과 그림자

VT:TT:Francisco Goya

PUB:서울 : 한길사 , 1998


・「ゴヤ Vol.2」(1998年)

TR:마드리드 : 사막과 초목 / 홋타 요시에 지음 ; 김석희 옮김||마드리드 : 사막과 초목

ST:마드리드 : 사막과 초원||마드리드 : 사막 과 초원

PUB:서울 : 한길사 , 1998


・「ゴヤ Vol.3」(1998年)

TR:거인의 그림자 / 홋타 요시에 지음 ; 김석희 옮김||거인 의 그림자

PUB:서울 : 한길사 , 1998


・「ゴヤ Vol.4」(1998年)

TR:운명 : 검은 그림 / 홋타 요시에 지음 ; 김석희 옮김||운명 : 검은 그림

PUB:서울 : 한길사 , 1998


書籍を紹介する韓国のウェブサイトでは、翻訳者による堀田へのインタビューを見ることができる。「浜の近くにある丘の上の小さな家に大作家を訪ねる」「アジア/アフリカ作家会議の指導者」と題され、一貫して深い敬意をもって語られている[12] 韓国における堀田作品の出版元である「ハンギル社」社長の自伝『本で作るユートピア』(日本では2015年4月、北沢書店刊行)において、この訪問が詳しく記されている。

ミャンマーでの受容
刊行物は未確認であるが、2013年6月に在ミャンマー日本国大使館で開催された「第8回日本文学翻訳コンテスト」では、堀田の『美しきもの見し人は』が題材となっている[13]

詳しいことは「堀田善衛ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%80%E7%94%B0%E5%96%84%E8%A1%9B
(wikiより)

2424  堀田善衛

堀田善衛

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鐘楼前にある女流作家田村俊子の記念碑は、高さ 90センチの自然石で作られており、表には自作の一文が刻まれ、裏には銅板の略歴がはめこまれています。


俊子は晩年中国に渡り、昭和 20年 4月 16日上海北西川路上で急逝しました。


旧友の湯浅芳子、山原鶴等が当山に墓を設け、昭和 26年に 7回忌を営み、昭和 30年にこの文学碑を建てました。


その後湯浅芳子が中心となって「田村俊子賞」を創設。


第 1回は瀬戸内晴美の『田村俊子』に贈られ、瀬戸内は記念として 2本の桜を碑の側に植えました。


以後毎年 4月 16日にこの碑前において、女流作家の優れた作品に対し草野心平筆の賞状が贈呈されました。

この賞は第 17回をもって終了しました。


〇 田村俊子
村 俊子
(たむら としこ、1884年明治17年)4月25日 - 1945年昭和20年)4月16日)は、日本小説家。別名、佐藤露英佐藤俊子、本名、佐藤とし。東京府東京市浅草区蔵前町(現在の東京都台東区蔵前)生れ[1]

東京府立第一高等女学校卒業、日本女子大学校国文科中退[1]。代表作は『木乃伊(みいら)の口紅』、『炮烙(ほうらく)の刑』など。官能的な退廃美の世界を描き、人気を得た。没後、田村俊子賞が創設された[1]

生涯
代々続く札差だったという米穀商の家に生まれる。1893年(明治26年)4月、浅草小学校(現在の台東区立浅草小学校)に入学。翌年2月、下谷区下谷金杉上町(現在の台東区下谷竜泉入谷辺り)に移住し、下谷区根岸尋常高等小学校(現在の台東区立根岸小学校)に編入学。1895年(明治28年)、浅草区馬道(現在の台東区浅草花川戸辺り)に転居し浅草小学校に再編入学。1896年(明治29年)、東京女子高等師範学校附属高等女学校(現在のお茶の水女子大学附属中学校附属高等学校)に入学するが、僅か1学期で退学。東京府立第一高等女学校(現在の東京都立白鴎高等学校・附属中学校)に転学。作家を志し、幸田露伴の門下に入る。露伴を選んだ理由は、その作品からでなく、尾崎紅葉が「金色夜叉」の上演につききりでやかましく言っているのと反対に、露伴は「ひげ男」の上演に一切無干渉だという新聞記事を読み、人格に惚れたためだった[2]


1902年
に露伴から与えられた露英の名で、小説『露分衣(つゆわけごろも)』を発表するも、露伴から離れ、岡本綺堂らの文士劇に参加したことをきっかけに女優になる。女優としての芸名は花房露子[1]。しかし文学への意欲は失われず、1909年に結婚(事実婚)した田村松魚の勧めで書いた『あきらめ』が、1911年大阪朝日新聞懸賞小説一等になり文壇デビュー、その後「青鞜」、「中央公論」、「新潮」に次々と小説を発表し、人気作家となる。しかしそれも長くは続かず、1918年、朝日新聞記者鈴木悦の後を追い、松魚と別れバンクーバーへ移住。悦とともに現地の邦字紙大陸日報の編集に参画する。


1936年、悦の死去により18年ぶりに帰国。日本で小説家としての活動を再開したが、かつての筆力はなく、また佐多稲子の夫である窪川鶴次郎との情事が発覚、その経験を基に書いた小説『山道』を発表後、日本を離れ上海に渡り、中国語婦人雑誌『女声』を主宰した[3]。1945年4月13日、友人の中国人作家陶晶孫の家から人力車で帰宅途中に昏倒し、搬送された上海の病院で4月16日、脳溢血により客死した[4]。享年62。墓所は鎌倉東慶寺にある[1]


大相撲
力士両國勇治郎のファンであり、彼を題材にした俳句も複数残している。

主な作品
・生血

・女作者

・炮烙の刑 - 俊子と田村松魚、伊東六郎の三角関係をもとに作品化したもの

・山道


  ・著書 

・あきらめ 金尾文淵堂 1911

・誓言 新潮社 1913

・山吹の花 植竹書院 1914 (文明叢書 ; 第33編)

・木乃伊の口紅 牧民社 1914

・恋むすめ 牧民社 1914

・恋のいのち 実業之世界社 1915

・小さん金五郎 新潮社 1915 (情話新集)

・お七吉三 新潮社 1916.6 (情話新集)

・彼女の生活 新潮社 1917 

・あきらめ・木乃伊の口紅 1952 (岩波文庫)

・田村俊子作品集 全3巻 オリジン出版センター 1987-88

・木乃伊の口紅・破壊する前 1994.6 (講談社文芸文庫)

・田村俊子全集 全9巻+別巻1 ゆまに書房 2012.8-刊行中


  ・復刊

・木乃伊の口紅 不二出版 1986.6 (叢書『青鞜』の女たち)

・恋むすめ ゆまに書房 1999.12 (近代女性作家精選集)

・山吹の花・恋のいのち ゆまに書房 1999.12 (近代女性作家精選集)

・作家の自伝 87 田村俊子 日本図書センター 1999.4 (シリーズ・人間図書館)

・紅 ゆまに書房 2000.11 (近代女性作家精選集)

・彼女の生活 ゆまに書房 2000.11 (近代女性作家精選集)


  ・翻訳

・機械時代の恋愛 フロイド・デル 中島幸子,田村とし子訳 先進社 1932

参考文献
・『田村俊子』 瀬戸内晴美(寂聴)著、文藝春秋新社、1961年、のち角川書店、講談社。

・『田村俊子とわたし』 丸岡秀子 著、中央公論、1973年、のちドメス出版。

・『晩香坡(バンクーヴァー)の愛―田村俊子と鈴木悦』 工藤美代子、S・フィリップス共著、ドメス出版、1982年。

・『旅人たちのバンクーバー わが青春の田村俊子』 工藤美代子 著、筑摩書房、1985年、のち集英社文庫。

・『大百科事典』平凡社、1985年。

・『田村俊子作品集1~3』ドメス出版、1987年。

・『現代女性文学辞典』 村松定孝渡邊澄子 編、東京堂出版、1990年。

・『日本現代文学大事典』 三好行雄竹盛天雄他 編、明治書院、1994年。

・『作家の自伝87』 長谷川啓 編解説、日本図書センター、1999年。

・『田村俊子 谷中天王寺町の日々』 福田はるか 著、図書新聞、2003年。

・『田村俊子の世界 作品と言説空間の変容』 山崎眞紀子 著、彩流社、2005年。

・『今という時代の田村俊子―俊子新論』 渡辺澄子 編集、至文堂、2005年。

脚注
1. a b c d e 江刺昭子・史の会編『時代を拓いた女たち 第2集』神奈川新聞社、2011年、142-143頁。ISBN 978-4-87645-475-4
2. 「婦人と文学」宮本百合子
3. 日本女作家田村俊子的上海冒險” (中国語). 徐靜波 (2020年5月20日). 2020年5月20日閲覧。
4. 岩井寛『作家の臨終・墓碑事典』(東京堂出版、1997年)204頁

外部リンク
田村 俊子:作家別作品リスト青空文庫
(wikiより)

2421  田村俊子

田村俊子

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夏目漱石は明治二十八年四月英語の教師として旧制松山中学校に赴任。


ここにあった家老屋敷のはなれに下宿した。


後年小説「坊っちゃん」の題材となった愛松亭がこれである。


碑文は愛松亭から東京の恩師に着任の報告をした書簡である。
(案内板より)


明治 28 ( 1895 ) 年、愛媛県尋常中学校に赴任した夏目漱石が城戸屋旅館から最初に移り住んだのが、小料理屋「愛松亭」の二階です。


その後、愛松亭の敷地には萬翠荘が建てられ、現在は萬翠荘の敷地に愛松亭跡の石碑が建っています。


隣には恩師の神田乃武宛に書いた着任報告の書簡が石碑となっています。( 画像 5 ~ 6 )

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⇧⇩ 恩師の神田乃武宛に書いた着任報告の書簡の石碑


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桃葉、田中貢太郎 ( 1880 ~ 1941 ) 作家。


対岸の高知市仁井田 ( 当寺長岡郡 ) 生まれ。


教員、新聞記者を経て上京。


実録もの「田岡嶺雲、幸徳秋水、奥宮健之追懐録」で文壇デビュー。


明治の変革期を背景にした「旋風時代」は大阪毎日、東京日日両紙に連載され、その反骨の筆づかいとともに昭和初期の洛陽の紙価を高らしめた。


他に「模範村長」「明治叛臣伝」「日本怪談全集」等がある。


貢太郎は早くから大町桂月に随行して酒を愛し、桂月なきのち桂月酒供養の端緒を開いたが、みずからは「博浪紗」の一党を率いておのずから近代土佐文学の系譜を形づくった。


最後のことばは「なんちゃじゃなかったきにのう」といわれる。
(案内板より)

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小池堅治 ( こいけ - けんじ )     
明治 11年 4月 9日 ~ 昭和 44年 4月 24日 ( 1878 - 1969 )

ドイツ文学者・随筆家。

号、秋草。

福井県福井市出身。

第七高等学校・第二高等学校教授。のち、山形高校教授を兼ねる。

昭和 7年 ( 1932 ) 退官。

東北大学講師・千葉大学講師を経て、お茶の水女子大講師。多くの翻訳本を出す。

また、夏目漱石・二葉亭四迷・森鴎外らの日本文学をドイツ語訳した。

さらに徳富蘇峰・土井晩翠・岡崎義惠らの論文のドイツ語訳も行った。

研究論文として、「独逸表現主義文学の研究」がある。

著書:「紅毛人交遊帖」、「外遊印象」など。訳:ヘルマン・ズウデルマンの「フラウ・ゾルゲ憂姫」、「独訳昭和国民読本」 など。

正面「小池家之墓」。「寿徳院普賢秋草居士」。

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金津武夫 ( かねづ - たけお )     
明治 38年 ~ 昭和 59年 7月 7日 ( 1905 - 1984 )

児童文学者。

父、鈴村繁次郎。

養父、下谷区議会議員金津義次。

東京出身。

下谷区役所勤務。文化課長。浅草支所長。三木筆一台東区長の助役。傍ら、児童文学を研究・著作。

著書:「下町あの頃このころ」、「ガンバルおじいさん」、「お母さんとおへそ」、「こども議会」、「童心童顔」、「あるお池の出来事」など。81歳没。

正面「金津家之墓」。「久遠院黄石日武居士」。

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園池 公致(そのいけ きんゆき、1886年4月29日 - 1974年1月3日)は東京府出身の小説家子爵

略歴
東京市麹町区平河町にて、子爵園池実康(さねやす)の長男として生まれる。

父は宮内省に勤務し、のち宮中顧問官となった。祖父園池公静(きんしず)は子爵奈良県知事侍従。母は正親町春香(権大納言正親町実徳の娘、伯爵正親町実正の妹)。弟の園池公功(きんなる)は演出家評論家女子美術大学理事。


学習院を中退し、1896年から1901年まで侍従職出仕として明治天皇に侍した。


里見弴
たちと共に回覧雑誌『麦』を刊行。また『白樺』創刊に参加。


1919年
、小説『一人角力』(ひとりずもう)が広津和郎に激賞される。

晩年は安倍能成和辻哲郎武者小路実篤竹山道雄たちと共に、著名な白樺派作家も参加した文芸誌『』の同人だった。


長男園池実覧(さねみ)は応用物理学者、工学博士中央大学名誉教授。孫の園池公毅(きんたけ)は植物生理学者、早稲田大学教授
(wikiより)

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永峰正樹 ( ながみね - まさき )     
大正 9年? ~ 平成 9年 3月 10日 ( 1920? - 1997 )

ジャーナリスト。

著書:「あるジャーナリストの断章」、「八路軍とともに」。77歳没。

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永峯 秀樹(ながみね ひでき、嘉永元年6月1日1848年7月1日) - 昭和2年(1927年12月3日)は、英文学者翻訳家

人物
甲斐国巨摩郡浅尾新田(山梨県北杜市明野町)出身。本姓は小野で、父は蘭方医の小野通仙。永峰家の養子となる。父に従い甲府に居住し、甲府徽典館を卒業後、沼津兵学校で英語を学ぶ。1871年(明治4年)、東京築地の海軍兵学寮(海軍兵学校)で英語数学教師。ギゾーの『欧羅巴文明史』の翻訳で、福地源一郎がソサエティの訳語として作った「社会」の語を広めた。ほか、『アラビアン・ナイト』を「暴夜物語」として初めて邦訳した。

栄典
1902年(明治35年)10月20日 - 正五位[1]

著作・翻訳
・『支那事情』奎章閣、1874

・ウォーケル『富国論』奎章閣、1874

・『開巻驚奇暴夜物語』奎章閣、1875

・『物理問答』抄訳、内藤伝右衛門 1875

・『智氏家訓』査斯徳費耳士 (チェストルフヰールド) 種玉堂、1875-1876

・ハスケル『家政要旨 経済小学』抄訳. 内藤伝右衛門、1877

・ギゾー『欧羅巴文明史』ヘンリー訳、再訳. 奎章閣、1877

ジョン・スチュアート・ミル『代議政体』弥児 (ミル) 奎章閣、1875-1878

・ロベルト『官民議場必携』内藤伝右衛門、1880

・『華英字典』竹雲書屋、1881

・『博物小学』編 北原信太郎、1882

・『人と日本人』東海堂、1904

復刻
・「代議政体 ミル」『明治文化全集』第3集 (政治篇) 日本評論社、1927

・「暴夜物語 タチンスヱンド」明治文化全集. 第14巻 (時事小説篇) 日本評論社、1927

・「家政要旨 ハスケル」『家政学文献集成』 渡辺書店、1966

・「智氏家訓 チェストルフィールド」『家政学文献集成』続編 [第10冊] 渡辺書店、1968

伝記
保坂忠信『評伝永峯秀樹 明治初期翻訳・文化功労者』リーベル出版、1990

脚注
1. 『官報』第5790号「叙任及辞令」1902年10月21日。

参考
コトバンク:日本人名大辞典
(wikiより)

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吉岡哲太郎 ( よしおか - てつたろう )     
万延元年 ~ ? ( 1860 - ? )

理学士・「新著百種」出版元。

父、吉岡正直 ( 長男 )。

東京出身。

明治 16年 ( 1883 ) 理学士。

大蔵省入省。のち農商務省技師。

明治 39年 ( 1906 ) イタリア出張。

明治 41年 ( 1908 ) 水産講習所技師。

この間、神田南乗物町で「吉岡書店」を営む。

明治 22年 ( 1889 ) 雑誌「新著百種」を出すにあたり、尾崎紅葉に第 1集の小説を依頼し、紅葉は「色懺悔」を書いて応えている。

また、明治 35年 ( 1902 ) 棚橋一郎・山本宜喚・小川銀次郎・實吉益美・杉浦鋼太郎・高津鍬三郎らと 7名で私立高等女学校設立を計画。

翌年棚橋絢子を校長に「私立東京高等女学校」を開校した。

このほか、幸田露伴とも交流があった。正五位勲六等。

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2237b



山岡熊二 ( やまおか - くまじ )     
明治 4年 5月 2日 ~ 昭和 15年 7月 21日 ( 1871 - 1940 )

田口卯吉の義弟。

父、実業家山岡義方 ( 長男 )。

母、恵以子。

東京出身。

義兄田口卯吉を助けて「東京経済雑誌」の編纂に従事。著作も行う。

のち東海銀行を経て横浜正金銀行に入り、本店・漢口・布哇・済南・大連各支店に歴任。

大正 2年より勤めた布哇では、妻春子と共に在留邦人のために尽力する。

母の死去と考えるところあり帰朝。

春子が先逝したため、継妻敏と結婚。子はない。70歳没。

長妹千代は、田口卯吉と結婚するも早世。季妹鶴が後妻となる。

その妹力は、河田烋に嫁ぐ。なお、田口卯吉の異父姉は、木村鐙子。

共編:「新編普通辞典」。

正面「山岡熊二之墓」。側面に略歴あり。

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森川鍵蔵 ( もりかわ - けんぞう )    
明治 2年 6月 14日 ~ 大正 6年 9月 7日 ( 1869 - 1917 )

漢詩人。

字は雲卿。竹ケイ ( 渓の石偏 )・鬢絲禅侶・聴秋仙館主人等と号す。

父は、幕府旗本の森川荘次郎 ( 後に義利 )、母は服部筑後守勝全の女美喜 ( 幹子 )。

荘次郎は川勝広道の親友で、歩兵頭並・外国奉行並・開成所奉行並を歴任、維新後には、兵学寮の大属となった。

鍵蔵は、初め溝口桂巌・馬杉雲外に学んだが、後に森槐南門に入り、また清人陶杏南に学んで詩餘をよくした。

雲外門の同門藤沢竹所・篠崎柳園等と謀って「鴎夢吟社」を設立し、その機関誌として「鴎夢新誌」を刊行、詩文のみならず詩餘の普及につとめた。

後大正 2年 ( 1913 ) には「詩苑」を創刊した。

詩餘は、単に「詞」とも言い、中国唐末から宋代にかけて流行した歌謡文学である。

江戸以前にも詩餘に手を染める詩人はいたが、質量ともに日本で最も充実するのは明治期で、その中心となったのが森槐南・高野竹隠と森川鍵蔵であった。

著書:「得間集」、「夢餘稿」、「詞律大成」等がある。

森川鍵蔵は槐南の妹婿でもあり、義父・森春濤の「春濤詩鈔」、槐南の「槐南集」両書の編纂にも尽力した。

なお平成 15年 ( 2003 ) には中国で、槐南・竹隠・森川三家の詞を集めた「日本三家詞箋注」( 張珍懐箋注、澳門中華詩詞学会刊 ) が刊行されている。

森川鍵蔵については、立命館大学文学部教授の萩原正樹氏により研究されている。

正面「竹ケイ森川鍵蔵墓」。右隣りに父の森川義利 ( 明治 16年 12月 9日歿 ) の墓碑がある。

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山岸 荷葉(やまぎし かよう、1876年1月29日 - 1945年3月10日)は、日本小説家書家、劇評家。本名、惣次郎


日本橋通油町の丸合小間物問屋(扱い品:鼈甲・朝鮮・眼鏡・鏡・磁針)加賀屋(吉郎兵衛・通称:加賀吉・屋号:山吉)の次男。雲石と号し、巌谷一六門下の天才書家として知られる。加賀屋を継いだ兄山岸定吉の妻つるの従兄弟に当たる尾崎紅葉の門下に入り、硯友社同人となる。


明治36年(1903年)川上音次郎一座が上演した「ハムレット」の翻案を土肥春曙とともにおこない、ハムレットを葉村年丸とした。明治39年(1906年)には同座にメーテルリンクの「モンナヴァンナ」を翻訳するなど劇界にも活動した。


1945年3月10日東京大空襲で死去した。

著書
・リンクは国会図書館近代デジタルライブラリー

・『紺暖簾』春陽堂 1902 [1]

・『五世尾上菊五郎』編 文学堂 1903 [2]

・『五人娘』文禄堂 1903 [3]

・『失恋境』春陽堂 1903 [4]

・『反魂記』青木嵩山堂 1903 [5]

・『ふところ鏡』金港堂 1903 [6]

・『町女房』春陽堂 1906 [7]

・『金蒔絵』今古堂 1907 [8]

・『新作女判任官』春陽堂 1907 [9]

・『氏か育か 少女小説』博文館 1911 [10]

・『女優』春陽堂 1913 [11]

・『明治文学全集 22 硯友社文学集』山岸荷葉篇「紺暖簾」筑摩書房 1969

翻案
・シェークスピア『ハムレット 沙翁悲劇』土肥春曙と翻案 冨山房 1903 [12][13]

・Terumaro : the Japanese Version of "Hamlet" translated by J. Umezawa. Japan Herald, 1905.


・(浄瑠璃本文の筆耕)『定本 常磐津全集』全12巻、同刊行会 1940ー1943

伝記と書誌
・『近代文学研究叢書 第55巻』「山岸荷葉」昭和女子大学近代文化研究所 1983

関連項目
蒲原有明

外部リンク
早稲田と文学(山岸荷葉) - (早稲田大学
(wikiより)


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串田 孫一(くしだ まごいち、1915年11月12日 - 2005年7月8日)は、日本詩人哲学者随筆家

人物

東京市芝区生まれ。父は三菱銀行会長の串田萬蔵、母フミは今村繁三の姉[1]駿河台永田町一番町に育つ。暁星中学校から、1932年東京高等学校 (旧制)文科丙類入学、1935年卒業[2]1938年東京帝国大学文学部哲学科卒。中学時代から登山を始めた。1938年、処女短編集『白椿』を刊行、戦前は上智大学で教える。戦後、1946年に『永遠の沈黙 パスカル小論』を上梓、『歴程』同人となる。旧制東京高等学校で教え、1955年、最初の山の本『若き日の山』を上梓、1958年、尾崎喜八らと山の文芸誌『アルプ』を創刊、1983年に終刊するまで責任編集者を務めた。また矢内原伊作宇佐見英治らが創刊した文芸誌『同時代』にも同人として参加。東京外国語大学教授を務めたが1965年退官。同年から1994年までFMラジオ番組「音楽の絵本」でパーソナリティを務めた。初見靖一の筆名をもつ。1980年に紫綬褒章を受章。

2005年7月8日に老衰のため東京都小金井市の自宅で89歳で死去[3]。戒名は豊徳院孫誉文岳哲道居士[4]

サインを求められたとき本名の音をもじって「九四○五一」と書くことがあった。

著作は山岳文学、画集、小説、人生論、哲学書、翻訳など多岐にわたる。詩集『羊飼の時計』(1953)、『山のパンセ』などが主著。

妻は旧侯爵・佐々木行忠の長女・美枝子[5]、長男は俳優・演出家の串田和美、次男はグラフィックデザイナーの串田光弘

詳しいことは「串田孫一ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%B2%E7%94%B0%E5%AD%AB%E4%B8%80
(wikiより)

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石川 欣一(いしかわ きんいち、1895年明治28年)3月17日 - 1959年昭和34年)8月4日)は、ジャーナリスト随筆家翻訳家。おもに毎日新聞社に属した。

生涯
東京に生れた。父は動物学者石川千代松、母は貞。貞は法学者箕作麟祥の娘である。


1906年
(明治39年)に東京高等師範学校附属小学校尋常科(現・筑波大学附属小学校)、1913年(大正2年)に東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業。


1918年(大正7年)(23歳)、東京帝国大学英文科から、アメリカプリンストン大学に転じ、1920年卒業して、大阪毎日新聞社の学芸部員となった。留学中、父千代松の恩師、大森貝塚エドワード・S・モースの知遇を得、その縁が、モースの『日本その日その日』の邦訳・出版(1929年)に繋がった。

妻「江い」は、東山千栄子の妹である。


大阪毎日新聞社から東京日日新聞社へ移り、1933年(昭和8年)から1935年まで、ロンドン支局長を勤め、1937年、大阪毎日新聞社文化部長となった。勤務の傍ら、随筆・翻訳の執筆にはげんだ。登山・たばこを好んだことは、おもな文業の項に見る通りである。


1942年(昭和17年)(47歳)、日本軍が占領したフィリピンマニラ新聞社に出向したが、1944年12月、アメリカ軍の反攻上陸をルソン島の山中に避け、1945年9月、新聞報道関係者22人を率いて投降し、年末浦賀に帰った(『比島投降記』(1946年)。


戦後は、毎日新聞社出版局長、サン写真新聞社長などを歴任した。


1952年(57歳)、小津安二郎監督作品『お茶漬の味』に出演した。同年東京ライオンズクラブの初代会長に、翌1953年、日本ライオンズクラブの初代ガバナーになった。その年、ヴァン・ウィック・ブルックス著『アメリカ文学史』の翻訳出版により、日本芸術院賞を受賞した。


1959年(64歳)、ニューヨークのライオンズクラブ世界大会で国際理事に就任したが、帰国後の8月4日、急逝した。

主な文業
各列記の1行目に初版、2行目以降に重版・改版などを記す。

著作
・『旅から旅へ』、東京日日新聞社大阪毎日新聞社、(1923)

・『パイプをくはえて』、東京日日新聞社・大阪毎日新聞社、(1924)

・『煙草とパイプ』、郊外社、(1925)

・『むだ話』、春陽堂、(1926)

・『山へ入る日』、中央公論社(1929)

・『煙草通』、四六書院 通叢書、(1930)

・『山・都会・スキー』、四六書院(1931)

・『ひとむかし』、人文書院(1936)

・『大阪弁』、創元社、(1939)

・『樫の芽』、白水社、(1943)

・『比島投降記 - ある新聞記者の見た敗戦』、大地書房(1946)

  ・中公文庫(1995)ISBN 9784122022485

・『世界の春』、春光社(1947)

・『卅年』、文藝春秋新社、(1948)

・『たばこ談義』、毎日新聞社(1949)

・『ひなたぼっこ』、桐陰堂書店、(1953)

・『可愛い山』、中央公論社(1954)

  ・白水社(1987)ISBN 9784560030097

・『山を思う』、山と渓谷社 山渓山岳新書(1955)

・『旅・酒・煙草』、朋文堂 旅窓叢書16、(1955)

・『タバコ・あれこれ』、ダヴィッド社 (1957)

・『チャーチル』、日本書房 現代伝記全集12(1959)

訳業
ジェームス・マシュー・バリー、『マイ レーディー ニコティーン』、春陽堂(1925)、国立国会図書館オンライン

  ・『妖姫ニコティン』、白水社(1938)


エドワード・S・モース、『日本その日その日』、科学知識普及会(1929)

  ・創元選書(1939)。抜粋訳

    ・新版:講談社学術文庫(2013) ISBN 9784062921787

  ・平凡社東洋文庫〉全3巻(初版1970)ISBN 9784582801712ISBN 9784582801729ISBN 9784582801798

    ・ワイド版(オンデマンド)東洋文庫(2004)ISBN 9784256801710ISBN 9784256801727ISBN 9784256801796


パール・バック、『アジヤの友へ』、毎日新聞社(1946)


ジョセフ・グルー、『滞日十年』、毎日新聞社(上下)(1948)

  ・改訂版:ちくま学芸文庫(上下)(2011)ISBN 9784480094018ISBN 9784480094025


ジョン・ハーシー、『ヒロシマ』、谷本清と共訳、法政大学出版局(1949、新装版1982ほか)

  ・増訂版 『ヒロシマ』、谷本清・明田川融と共訳、法政大学出版局(2003 新装版2014) ISBN 9784588316302


・パール・バック、『郷土』、毎日新聞社、(1949)


アーニイ・パイル、『これが戦争だ 兵隊ジョー』、高橋長助と共訳、養徳社(1951)


・フランク・ギブニイ(Frank Gibney)、『日本の五人の紳士』、毎日新聞社(1953)


トーマス・ハーディ、『テス』上下、河出文庫(1955)

  ・新版「河出世界文学大系52」河出書房新社(1980)


バーナード・リーチ、『陶工の本』、中央公論社(1955)

  ・新装改版:河出書房新社(2020) ISBN 9784309256528


・ロバート・シュワンテス(Robert Schwantes)、『日本人とアメリカ人 日米文化交流百年史』、創元社(1957)


ウィンストン・チャーチル、『人生と政治に関する我が意見』、創元社(1958)


・クリフトン・フェディマン(Clifton Fadiman)、『頭脳の楽しみ』、荒地出版社(1958)


マーク・トウェイン、『ハックルベリー・フィンの冒険』、研究社アメリカ文学選集 (1958)

  ・「筑摩世界文学大系35(1980)」中の一篇


・ヴァン・ウィック・ブルックス(Van Wyck Brooks)、ダヴィッド社(1953)

  ・『アメリカ文学史1800 - 1915 (1) - 造る者と見出す者、ワシントン・アーヴィングの世界』

  ・『(2)‐花ひらくニュー・イングランド』、『(3)-メルヴィルとウィットマンの時代』

  ・『(4)-小春日和のニュー・イングランド』、『(5)-自信の歳月 1885年-1915年』

    ・新装版:名著普及会 (1987)ISBN 9784895513043ISBN 9784895513050ISBN 9784895513067ISBN 9784895513074ISBN 9784895513081

出典
いろいろなウェブ情報[出典無効]のほか、

・「比島投降記、中公文庫(1995)」巻末の、石川周三:『著者について』(なお石川周三は欣一の三男)

・磯田光一他編:新潮日本文学辞典、新潮社(1988) ISBN 4107302083

・小田切進編:『日本近代文学大事典 机上版』、講談社(1984) ISBN 9784062009270

関連項目
筑波大学附属中学校・高等学校の人物一覧

外部リンク
石川 欣一:作家別作品リスト - 青空文庫

石川欣一 - allcinema

石川欣一:日本ライオンズ誕生の立役者 - ライオン誌日本語版ウェブマガジン
(wikiより)

1995  石川欣一

石川欣一

1995a

1995b

1995c



徳山樗堂 ( とくやま - ちょどう ) / 徳山純 ( とくやま - すみ )    
天保 13年 ~ 明治 9年 6月 6日 ( 1842 - 1876 )

漢詩人。

名、純。字、公束。

姓、東出のち徳山。

福井県出身。

官史・司法権大録。

山陽道を行脚中、倉敷で客死。

作詞多数。35歳没。

正面「徳山家」。

幕末の書家関雪江書・広群鶴刻刻の碑があり自然石で漢詩と来歴が書かれている。

反対側にある「徳山淑子之墓」は、樗堂の妻。

1982a

1982b

1982c

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獅子 文六(しし ぶんろく、1893年明治26年)7月1日 - 1969年昭和44年)12月13日)は、日本小説家演出家。本名は、岩田 豊雄(いわた とよお)。演劇の分野では本名で活動した。日本芸術院会員、文化勲章受章者。牡丹亭愛媛県宇和島市津島町に句碑がある。


母方の祖父は実業家(花火師)の平山甚太。弟の岩田彦二郎は札幌グランドホテル社長。

来歴・人物
日清戦争開戦の前年、1893年に、横浜市中区月岡町9番地(現在の横浜市西区老松町の迎賓館付近)に誕生。父の岩田茂穂は、福澤諭吉に学んだのちに、絹織物商「岩田商会」を営んでいたが、豊雄が9歳のおりに死去する。横浜市立老松小学校から慶應義塾幼稚舎に編入学。慶應義塾普通部を経て、慶應義塾大学理財科予科に進学するも中退。


1920年
に、母の岩田あさじが死去。その後に一人暮らしを始めたものの、1920年代前半のフランスが、第一次世界大戦後のフランの下落で、日本とそれほど変わらない生活費でフランスに滞在できることが動機となり、1922年に渡航。現地ではジャック・コポーが主宰するヴィユ・コロンビエ座や、ジュール・ロマンに代表されたフランス現代劇の観劇、研究に没頭する。滞在中に知り合ったフランス人のマリー・ショウミーと結婚し、1925年に帰国。同年に長女の巴絵が生まれる。杉並区和田堀に住み、第一書房の『近代劇全集』の翻訳、フランス滞在時の見聞を題材にした随筆や短編小説を、『新青年』『改造』などの雑誌に掲載することで生計を立てていた。

1930年ごろ、妻のマリーが病気のためにフランスへ帰り、そのまま死去。マリーの死去から自身の再婚までは、長女と二人だけの暮らしが続いた。


1932年
築地小劇場を脱退した友田恭助田村秋子夫妻を中心に結成された新劇の団体「築地座」に、岸田國士久保田万太郎里見弴らと共に顧問として関わる。この時期には、演劇関連の仕事、戯曲や翻訳の執筆だけでは生活が立ち行かなくなったことから、「四四、十六」をもじった獅子文六の筆名で、小説家として活動するようになる。1934年に『新青年』に掲載された『金色青春譜』が、長編小説の処女作である。同1934年には富永静子と二度目の結婚をし、千駄ヶ谷に転居。1936年に、最初の新聞連載小説として報知新聞に掲載された『悦ちゃん』は大好評となり、このときに小説家としての獅子文六の筆名が知れ渡ることになった。


1937年、岸田國士、久保田万太郎と共に文学座を創立する。「文学座」の命名は岩田のものによる。岸田、久保田と共に文学座幹事(のちに顧問)を務め、岸田、久保田がこの世を去った後は、文学座の最後の精神的支柱として、文学座座員はもとより、文学座を脱退した劇団雲劇団NLTの面々からも信頼を一手に受けた。


1942年
真珠湾攻撃の「九軍神」の一人を描いた『海軍』で 朝日文化賞を受賞する。この作品がきっかけとなり、戦後に「戦争協力作家」として「追放」の仮指定がされたものの、1ヶ月半後に解除された。1945年12月から1947年までは、愛媛県宇和島市津島町(旧北宇和郡岩松町)に疎開。この地での体験や見聞が、戦後最初の新聞連載小説となった『てんやわんや』、『大番』などの作品に取り入れられた。


1947年10月に再度上京し、神田駿河台主婦の友社社員寮に住む。1950年2月には、2人目の妻であった富永静子が急死。同年に神奈川県中郡大磯町に転居する。この時期に朝日新聞へ連載した『自由学校』が、翌年に松竹(渋谷実監督)と大映(吉村公三郎監督)で競作映画化される。同1951年、吉川幸子(きっかわゆきこ、男爵吉川重吉の娘)と三度目の結婚。1953年ごろ、長男・敦夫が誕生。


1955年には『青春怪談』が日活(市川崑監督)と新東宝(阿部豊監督)で競作映画化されている。また『娘と私』は、1961年NHKで『連続テレビ小説娘と私』としてテレビドラマ化された。1958年には、長男の慶応幼稚舎への進学を考え、東京・赤坂の住宅地に転居。同じ敷地内に、妻の姉の嫁ぎ先である和田小六の家、和田家の娘の嫁ぎ先である都留重人肥後一郎の家があった[1]


1963年
には日本芸術院賞を受賞、翌年には芸術院会員となる。1969年には文化勲章を受賞し、文化功労者となった。同年12月13日に脳出血のため赤坂の自宅で死去。享年77。戒名は牡丹亭豊雄獅子文六居士[2]谷中霊園に眠る。


1966年から死去するまで、早川書房の演劇雑誌『悲劇喜劇』の監修をつとめた。

同時代の流行や諷刺を取り込むことに長けた作品が多く、多くの長編小説が映像化されたが、没後はほとんどが絶版となってしまっていた。しかし、2013年ちくま文庫から復刊された『コーヒーと恋愛』を契機に、表紙や解説などに現在の作家を起用した新装版が、ちくま文庫を中心に、朝日文庫中公文庫から刊行されている。

2017年には『悦ちゃん』がNHK土曜時代ドラマで再びテレビドラマ化された[3][4]

家族
・母方の祖父・平山甚太 - 実業家(花火師など)。1840年生、1900年没。


・大伯父 - 中村道太 - 甚太の兄。横浜正金銀行初代頭取。


・父・岩田茂穂 - 横浜市弁天通りで、欧米人を相手に「S.EWATA(岩田商店)」を営んでいた商人[5]


・母・あさじ


・弟・岩田彦二郎 - 札幌グランドホテル社長、府中カントリークラブ創設者・初代会長[6]、東京スポーツマンクラブ創業者


・妻・マリー・ショウミー - フランス人。小学校長の娘[7]矢田部達郎のフランス語家庭教師だったショミイと同一人物ではないかと言われている[8]。1925年に結婚後、娘・巴絵をもうけたが、帰国後に病没[7]


・妻・静子 - 1934年結婚。愛媛県宇和島市津島町岩松生まれ[9]。1906年生まれ[10]。1950年2月死去[11]。軽度の心臓弁膜症を患っていたが、脳血栓により44歳で急死した[10]。巴絵との仲も良好で、生前の暮らしは『娘と私』に詳しい。


・妻・幸子 - 1951年結婚。1912年生まれ、2002年5月14日没[12]吉川重吉の娘。母方の祖父は最後の大洲藩加藤泰秋。松方勝彦(松方幸次郎四男)と死別後、大磯で18歳年上の文六と見合いし、友人の白洲正子に「御曹司などより海千山千の作家のほうが面白い」と勧められ決断した[7]。姉妹は、原田熊雄和田小六の妻。文六との暮らしは自著『笛ふき天女』(講談社、1986年)(1988年に「花くらべ」の題でドラマ化)[13]や、家政婦をしていた福本信子の『獅子文六先生の応接室、「文学座」騒動のころ』(影書房、2003年)に詳しい。


・長女・巴絵 - マリーとの子。外交官の伊達宗起に嫁ぐ。


・長男・敦夫 - 幸子との子。2018年に朝日文庫から復刊された『南の風』には、「我が父・獅子文六と鹿児島の記憶」として解説文を寄稿した。また、『父の肖像-芸術・文学に生きた「父」たちの素顔-』(かまくら春秋社、1999年)に「思い出すがままに」を寄稿している。

句碑
愛媛県岩松町「思ひきや 伊豫の涯にて 初硯」

詳しいことは「獅子文六ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8D%85%E5%AD%90%E6%96%87%E5%85%AD
(wikiより)

1977  獅子文六

獅子文六

1977a

1977b



近藤 朔風(こんどう さくふう、1880年明治13年)2月14日 - 1915年大正4年)1月14日)は、訳詞家。原詩に忠実な、歌い易い訳詞で、西欧歌曲への市民の耳を開いた。『泉に沿いて茂る菩提樹』・『なじかは知らねど心侘びて』・『わらべは見たり野中のばーら』などは、今も歌い継がれる。本名逸五郎。筆名には近藤あきら羌村もあった。

生涯
桜井勉・八重子の第5子として、東京に生まれた[1]。桜井家は、但馬国出石藩(現・兵庫県豊岡市出石町)の藩儒の家系で、明治維新後上京した勉は、逸五郎誕生のときには内務省山林局長を務め、東京在住の出石出身者の中心的な人物だった。叔父(勉の実弟)に、教育家木村熊二がいた。


1893年(明治26年)(13歳)、逸五郎は父方母方両方の叔父に当たる近藤軌四郎の養子に入った。1895年誠之小学校から尋常中学郁文館へ進み、1900年に卒業した。その頃から西洋音楽を好み、1901年東京音楽学校の専科生となり、1902年から東京外国語学校伊語学科にも在籍した。1903年東京音楽学校が日本初のオペラ、グルックオルフェウスを上演したときには、石倉小三郎らと訳詞を担当した。


オルフェウス上演後、東京音楽学校・東京外国語学校から離れ、雑誌への寄稿を始めた。西洋音楽の手引きのほかリヒャルト・ワーグナーの紹介記事も書いた。1905年4月から『音楽』誌の編集主任となり、初の訳詞、グノーの『セレナアデ』を同誌に載せた。


1906年(明治39年)(26歳)、日下部千穂と結婚した。この頃、日本民謡の紹介もした。


1907年頃から、『近藤朔風』の筆名で、原詩に忠実な訳詞作りに励んだ。訳詞は47編確認されているが、訳業による収入は十分でなく、役所勤めもしたと言う。詳細は明らかでない。


酒好きで、1915年の年明けに倒れて順天堂病院に入院し、面疔肝臓炎のために没した。35歳。墓は、谷中霊園甲11号1側、桜井家墓域にある。[1]

主な訳詞
訳詞は先ず雑誌に発表し、それから訳詞集に纏めたと言う。その次第は出典の坂本麻実子の論文に詳しい。以下には、よく知られる分をおよその年代順に抄し、次項に出版の表題だけを掲げる。


ユーゴー詩・グノー曲の『セレナーデ』


・クラウディウス(Matthias Claudius)詩・シューベルト曲の『シューベルトの子守歌』


ヴィーラント詩・ウェーバー曲の『ふなうた』


・ゲレルト(Gellert)詩・ベートーヴェン曲の『神のみいつ』


ハイネ詩・シューマン曲の『わすれな草』


・ハイネ詩・リスト曲の『花かそもなれ』


ラマルティーヌ詩・ゴダール曲の『ジョスランの子守歌』


・ガイベル(Emanuel Geibel)詩・シューマン曲の『流浪の民』


・ハイネ詩・ジルヒャー曲の『ローレライ


ゲーテ詩・シューベルト & ウェルナー曲の『野ばら


ポーランド民謡・ショパン曲の『乙女の願』


・ミュラー(Wilhelm Müller)詩・シューベルト曲の『菩提樹


・ハイネ詩・シューマン曲の『はすの花』


・ライトン(W.T.Wrighton)曲の『ほととぎす』、(ウーラント(Ludwig Uhland)詩・シューマン曲の『暗路』の訳詞だったが、現在は、ライトンの旋律に乗せて歌われる。)


マルティーニ曲の『愛の歓び』


・ベイリー(Thomas Haynes Bayly)曲の『久しき昔』(ロング・ロング・アゴー)



出版の記録
・編著:『歌劇オルフォイス』(翻訳台本)、東文館(1903.7)

・『独唱名曲集』、如山堂書店(1907.6)(収録15篇中10篇が朔風の訳詞)

・『つはもの』(独唱・合唱西欧名曲集 第3巻)、如山堂書店(1907.8)(7篇)

・小松玉巌編:『名曲新集』、大倉書店(1908.9)(収録25篇中9篇が朔風の訳詞)

・天谷秀と共編:『女声唱歌』(三部合唱曲集)、共益商社書店(1909.11)(収録25篇中14篇が朔風の訳詞)

・山本正夫と共編:『西欧名曲集』(合唱曲集)、音楽社(1911.4)(収録15篇中8篇が朔風の訳詞)

・山本正夫と共編:『西洋名曲叢書 第1集』(メンデルスゾーン号)、楽界社(1915.3)(4篇)

・同上『第2集』(女声三部合唱集)(1915.4):(6篇)

・同上『第3集』(歌劇独唱曲号)(1915.5)(3篇)

・同上『第4集』(高名民謡号)(1915.6)(6篇)

・同上『第5集』(ベートーヴェン号)(1915.7)(3篇)

・同上『第6集』(シューベルト号)(1915.8)(3篇)

・同上『第7集』(シューマン号)(1915.9)(3篇)

・同上『第8集』(英国民謡号)(1915.10)(4篇)

・同上『第9集』(芸術的歌曲号)(1915.11)(4篇)

・同上『第10集』(近代作家歌曲号)(1915.12):(内容不明)

出典
坂本麻実子:『近藤朔風とその訳詞曲再考』

脚注
1. 「坂本麻実子:『近藤朔風とその訳詞曲再考』」のp.3
(wikiより)

1902  近藤朔風

近藤朔風

1902a

1902b




江見 水蔭(えみ すいいん、明治2年8月12日1869年9月17日) - 昭和9年(1934年11月3日)は、岡山市生まれの小説家翻訳家編集者冒険家。本名忠功(ただかつ)。


文学作品を皮切りに、通俗小説、推理小説、冒険小説探検記など多岐に渡る分野に作品を残し、硯友社博文館など数々の出版社で雑誌の編集発行に関わった。代表作に小説『女房殺し』、『地底探検記』、随筆『自己中心明治文壇史』、翻案戯曲『正劇  室鷲郎』など。

生涯と作品
生い立ち
江見忠功は岡山の一番町一番屋敷に生れた。父の鋭馬は水蔭が幼少の頃死去。1881年(明治14年)、叔父の水原久雄の勧めで軍人を志して上京したが、次第に文学に惹かれるようになり、15歳のときに軍人を諦める。明治18年、従兄の富田嘉則のもとに預けられ、東京英語学校に通いながら、杉浦重剛称好塾に入り同人誌『毎週雑誌』を発刊する。19歳の時に『毎週雑誌』に水蔭亭居士名義で掲載した韻文「賤のふせや」の上巻が、川那辺貞太郎の推薦で『日本文芸雑誌』に掲載され、下巻は1887年(明治20年)に『日本之女学』に掲載され、以後同誌に小説や新体詩を寄稿し、「桜かな」「驚く鷗」の連載がある。またこの頃、巌谷小波が塾に入り知り合うようになり、1888年に小波とともに尾崎紅葉を訪ねた。叔父も忠功が作家として活動することを認める。この頃また川上眉山石橋思案石橋忍月広津柳浪らを知った。

作家活動

その後小波の勧めで硯友社に属し、『我楽多文庫』誌第3号に狂歌一首が載せられ、新人社員水蔭亭雨外(すいいんてい うがい)として紹介される。1889年(明治22年)に岡山帰郷中に『我楽多文庫』から改名した『文庫』に「旅画師」を発表し、本格的な文筆活動を始めた。紅葉の紹介で『小説無尽蔵』誌、『新著叢詞』誌、その他の新聞、雑誌に作品掲載、武内桂舟の紹介で『都の花』『小説叢書』に執筆。紅葉に私淑し、杉浦塾から牛込の紅葉宅の筋向かいに移る。また硯友社の雑誌『江戸紫』では紅葉の助手、続いて発刊した『千紫万紅』の事務として働いた。『千紫万紅』が『読売新聞』の文芸欄に移ると、巌谷小波、川上眉山、石橋思案とともに社友となって読売の四天王と呼ばれ、『読売』『中央新聞』などに作品を執筆、この頃の文体は雅俗折衷文で、多作家と非難されることもあった。


1892年(明治25年)に、都会的な作品中心の硯友社に飽き足らず、江水社を起こし、天然描写にも重きを置く『小桜緘』を発刊。これは水蔭自身の他に、当時親しかった田山花袋、玉茗堂(太田玉茗)、高瀬文淵などの作品を掲載したが、5号で廃刊となった。日清戦争の始まった1894年(明治27年)に博文館が『征清画報』を刊行すると編集長となるが、2号で廃刊。同年『中央新聞』に誘われて入社、軍事小説「電光石火」を執筆して人気を得た。浪漫的に始まった作風もこの頃から広がりを見せ、脚本も書くようになり、特に芸術家の苦悩を描いた作品を数多く世に出した。さらに通俗的な作品も書くようになり、また川上眉山とともに高瀬文淵の影響を受けて社会小説的要素もあって[1]言文一致体による「女房殺し」(『文芸倶楽部』1895年)は好評を博して悲惨小説の傑作と呼ばれ、内田魯庵に「眉山の『大盃』と共に硯友社諸才子金業の双璧」と賞された[2]。そのほか「新潮来曲」「旅役者」「泥水清水」といった作品を発表し最盛期を迎え、多くの単行本が出版された。


1896年(明治29年)に住まいを片瀬に移り怒濤庵と称する。また『読売新聞』に移って作品を発表するが、一方では生活が乱れ、1897年に退社、1898年に『神戸新聞社』に記者として転職、さらに1890年に博文館、1907年には『二六新聞』と職を転々とした。しかしそうした中でも、1903年(明治36年)には欧州公演から帰朝した川上音二郎に口説き落とされシェークスピアの『オセロ』を翻案、『正劇  室鷲郎』。脚本作家を重視する川上がこのとき江見に支払ったのは一千円という当時としては目が飛び出るほどの大金で、大きな話題となった。


探険と晩年
その後は、考古学的な探検に興味を移し、朝日新聞水谷幻花と交際するようになる。幻花の採集品を見たのをきっかけに、各地の貝塚遺跡を発掘して出土品を蒐集する趣味が始まる。


その調査・研究の成果が『地底探検記』(明治40年8月 博文館)、『探検実記 地中の秘密』(明治42年5月 博文館)、日本の先住民をコロボックルとする坪井正五郎の説に基づいた空想冒険小説『考古小説 三千年前』(大正6年2月 實業之日本社)などの発刊に繋がっている。また、趣味を同じくする者との共同研究による太古遺跡研究会を組織し、太古遺物陳列所を自宅の庭に造っている。


また日原鍾乳洞探検や、戸隠山富士山などの雪中登山も行うかたわら、太平洋少年世界探検世界各誌の主筆も務め、自身の行った探検の成果を発表していった。その一方で自伝的随筆『自己中心明治文壇史』は明治期の文人の生活の様子を克明に記し、文学史の資料としても貴重である。


晩年は講演などのために各地を回り、その旅の記録は『水蔭行脚全集』に詳しい。1934年(昭和9年)11月3日、旅行先の松山市の旅館で急性肺炎のため客死した[3]


日本の相撲を「国技」と呼ぶのは、水蔭が旧両国国技館の開会式の案内文に「角力は日本の國技なり」と記載したことにヒントを得て、国技館と命名されたことがきっかけとされている。[4]  

参考文献
1. 柳田泉「明治に於ける社会主義文学の勃興と展開」(『明治社会主義文学集(1) 明治文学全集83』筑摩書房 1965年)
2. 齋藤秀明(『明治深刻悲惨小説集』講談社 2016年)
3. 岩井寛『作家の臨終・墓碑事典』(東京堂出版、1997年)56頁
4. 第153回常設展示 「国技・相撲」 -近代以降の事件と名力士- | 本の万華鏡 | 国立国会図書館”. rnavi.ndl.go.jp. 2018年9月27日閲覧。


●生田敦夫「江見水蔭」(『江見水蔭特輯』浪花書林、2001年)

・江見水蔭「硯友社側面史 纏まらぬ記憶(明治20年から同30年まで)」(十川信介編『明治文学回想集(下)』岩波書店、1998年)

関連項目
両国国技館

神戸文学館

外部リンク
江見 水蔭:作家別作品リスト - 青空文庫

著者=“江見水蔭”で検索国立国会図書館デジタルコレクション
(wikiより)
 
1899  江見水蔭

江見水蔭

1899a

1899b

1899c



中内 蝶二(なかうち ちょうじ、1875年5月5日 - 1937年2月19日[1])は、日本の小説家劇作家ジャーナリスト作詞家である。本名は中内 義一(なかうち ぎいち)[1]

人物・来歴
1875年(明治8年)5月5日高知県に「中内義一」として生まれる[1]


旧制・東京帝国大学(現在の東京大学)を卒業し、博文館に入社し、その後、『萬朝報』の記者となった[1]。戯曲『大尉の娘』は、1923年(大正12年)、井上正夫初代水谷八重子が演じ、評価を得た[1][2]。同作は、八重子の当たり役となり、「八重子十種」の演目のひとつとなった[2]


新派
のための戯曲のほか、小説を執筆し、長唄の作詞も手がけている[1]


1937年(昭和12年)2月19日に死去した[1]。満61歳没。

著書

国立国会図書館蔵書[3]
・『旭将軍』少年史譚 文武堂、1902年

・『世界文豪傳』文光堂 1905 秀才文壇 臨時増刊

・『大石良雄』少年武士道史伝、国光社、1903年

・『青年の活力』青年修養叢書、参文舎、1907年 - 義一名義

・『美文の作法』作法叢書、修文館、1908年

・『新俳句自在』二松堂書店、1916年

・『俳句と文章 日日作例』日本書院、1918年

・『俳句の作りかた』日本書店 1919

・『みなし児』講談社、1919年

・『千代見草 御大典記念新曲』法木書店、1928年

・『剣豪近藤勇 近藤勇と加納惣三郎の巻・新選組阿修羅道の巻』平凡社、1928年 - 1929年

・『日本俗曲通』通叢書 第9巻、四六書院、1930年

・『都の栄 大東京記念新曲』法木書店、1933年

翻訳/校訂
・グレゴール・サマロフ『日露戦争未来之夢』博文館、1904年

・『赤穂義士参考内侍所』今古文学、鍾美堂、1911年

十返舎一九東海道中膝栗毛』今古文学 鍾美堂、1911年

・『通俗呉越軍談』今古文学、鍾美堂、1911年

曲亭馬琴『椿説弓張月』今古文学 鍾美堂、1911年

・『通俗漢楚軍談』今古文学、鍾美堂、1911年

・『大久保武蔵鐙』今古文学、鍾美堂、1911年

・『増補柳荒美談』今古文学、鍾美堂、1911年

・『慶安太平記』今古文学、鍾美堂編輯部、鍾美堂、1911年

・『日蓮上人一代記』今古文学、鍾美堂、1911年

ゲエテ『ファウスト』世界文芸叢書チヨイスシリーズ、鍾美堂書店、1914年

シェイクスピア『ヴェニスの商人』鍾美堂書店 1914 世界文藝叢書 チヨイス・シリーズ

柳亭種彦『新訳 偽紫田舎源氏』名作人情文庫刊行会、1920年

為永春水『新訳 梅ごよみ』名作人情文庫刊行會、1920年



編纂
・『伊東案内記』文泉堂、1911年

・『文章俳句大観 三百六十五日』日本書院、1926年

・『大日本百科全集』第13 娯楽大全、誠文堂、1927年

・『日本音曲全集』全15巻、田村西男共編、日本音曲全集刊行会、1927年 - 1928年

・『大衆日本音曲全集』田村西男共編、誠文堂新光社、1937年

フィルモグラフィ映画化一覧。
すべて原作。
・『二人少将』 : 監督不明、M・パテー商会、1911年

・『大尉の娘』 : 監督井上正夫小林商会、1917年

・『大尉の娘』 : 監督野村芳亭松竹蒲田撮影所、1924年

・『大尉の娘』 : 監督井上金太郎マキノ・プロダクション御室撮影所、1927年

・『大尉の娘』 : 監督落合浪雄発声映画社大森撮影所、1929年

・『大尉の娘』 : 監督野淵昶松竹興行現代劇部・芸術座新興キネマ東京撮影所、1936年


1. a b c d e f g 中内蝶二、『講談社 日本人名大辞典』、講談社コトバンク、2009年12月1日閲覧。
2. a b 大尉の娘劇団新派、2009年12月1日閲覧。
3. OPAC NDL 検索結果、国立国会図書館、2009年11月25日閲覧。



外部リンク
中内蝶二 - 日本映画データベース


中内蝶二 - allcinema
(wikiより)




1882a


1882b

1882c



武田 仰天子(たけだ ぎょうてんし、1854年8月19日嘉永7年7月25日) - 1926年4月10日大正15年4月10日))は、日本の作家。本名は(えい)。

経歴
現在の大阪府堂島に生まれる。堺県立河泉学校卒業。大阪で小学校教員や官吏を経て、記者となる。


1889年
明治22年)に『三都の花』を金港堂書籍『都の花』に発表したことで認められ、1891年(明治24年)に上京。1897年(明治30年)に東京朝日新聞に入社してからは小説欄を担当し、『諏訪部』を初めとする長編時代小説を30編ほど執筆した。


新聞小説を執筆する一方で児童文学作品の執筆も手掛け、1894年(明治27年)には雑誌『少年文学』第27編にて、少年向け歴史小説の草分けともされる『二代忠孝』を発表。以降も子供向けの作品を執筆するが、その多くは彼が独自に生み出した教訓性の高い御伽噺であった。1904年(明治37年)1月からはほぼ毎月、雑誌『少年』にそのような御伽噺を執筆した。


1907年
(明治40年)には、文部省による仮作物語公募に本名で作品を応募。巌谷小波に加え、芳賀矢一上田萬年などの文部省側の代表者による審査の結果、彼の作品『競馬』は第1等で当選し、他13編と合わせて『教訓仮作物語』にまとめられた。


大正以降は御伽噺ではなく、歴史物を中心に手掛けるようになり、『武蔵坊弁慶』『鎮西八郎為朝』『長屋喜兵次』『三国志物語』など、少年向けの歴史小説を多く執筆した。

主な作品
・二代忠孝(1894年、博文館


関ヶ原の戦いで破れた宇喜多秀家が自身の子や乳母と八丈島に流刑となった後、乳母の子供である沢橋兵太夫が母や旧主のために奔走したという史実をもとにした歴史小説。


・競馬(1908年)


子供を騎手とした競馬によって村の支配を定めるという神事の中、途中で池に落ちた競争相手を見た主人公が飛び込んで救助したことで賛美されるという筋書きの小説。騎手の心理などを一切述べることなく、事実経過を述べる手法で書かれた。

参考文献
滑川道夫他編著 『作品による日本児童文学史 1 明治・大正期』 牧書店、1968年。

大阪国際児童文学館編 『日本児童文学大事典 第1巻』 大日本図書、1993年 ISBN 4477003765

外部リンク
全国名前辞典
(wikiより)

1839a

1839b

1839c

1839d

1839e




1925年に劇団心座を結成。


その後、明治大学で教鞭をとる傍ら井伊直弼の生涯を綴った『花の生涯』をはじめ、多くの戯曲を書き才能を示した舟橋聖一の生地に建つ碑である。


〇 花の生涯
花の生涯』(はなのしょうがい)は、舟橋聖一歴史小説1952年から1953年にかけて「毎日新聞」紙上で連載された。現在は祥伝社文庫版が刊行されている。


幕末の大老彦根藩井伊直弼を主人公に、その波乱の生涯を描いている。


たびたび映画・ドラマ・舞台化されている。

映画・花の生涯 彦根篇 江戸篇(1953年 松竹

テレビドラマ
花の生涯(1963年 NHK) ※大河ドラマ第1作[1]

花の生涯(1974年 日本テレビ

花の生涯 井伊大老と桜田門(1988年 テレビ東京) ※新春ワイド時代劇

脚注
1. “大河”と呼ばれるドラマの誕生 - マンガで読むNHKヒストリー
(wikiより)

1838a

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立原 道造(たちはら みちぞう、1914年大正3年)7月30日 - 1939年昭和14年)3月29日)は、昭和初期に活動し24歳で急逝した詩人。また建築家としても足跡を残している。父は立原貞次郎(婿養子)、母は立原登免(通称 光子)。次男として生まれる。先祖には立原翠軒立原杏所などがいる。学歴東京帝国大学工学部建築学科卒業。学位(当時は称号)は工学士(東京帝国大学)。戒名は温恭院紫雲道範清信士。東京都谷中の多宝院。賞歴は、辰野賞3年連続受賞、中原中也賞受賞。

詩人
1914年(大正3年)、立原貞治郎、とめ夫妻の次男として日本橋区橘町(現:中央区東日本橋)に生まれる。家系桓武平氏の一家系 常陸平氏 大掾氏一門 鹿島氏庶流 立原氏。近い祖先には水戸藩の儒家で『大日本史』を編纂した立原翠軒、画家立原杏所がいるという。1927年(昭和2年)、13歳の折、北原白秋を訪問するなど、既に詩作への造詣を持っていた。同年、口語自由律短歌を『學友會誌』に発表、自選の歌集である『葛飾集』『両國閑吟集』、詩集『水晶簾』をまとめるなど13歳にして歌集を作り才能を発揮していた。東京府立第三中学(現東京都立両国高等学校・附属中学校)から第一高等学校理科甲類に天文学を志して進学した[1]1931年(昭和6年)、短歌の倶楽部に入部した道造は『詩歌』に投稿するなど高校時代を通じて詩作を続け、『校友會雜誌』に物語「あひみてののちの」を掲載した。翌1932年(昭和7年)、自らの詩集である『こかげ』を創刊する一方、四行詩集『さふらん』編纂も手がけた。高校最後の年を迎えた1933年(昭和8年)、詩集『日曜日』『散歩詩集』を製作、翌年には東京帝国大学工学部建築学科に入学した。建築学科では1934年(昭和9年)から1937年(昭和12年)まで岸田日出刀の研究室に所属。丹下健三浜口隆一が1学年下、生田勉が2学年下に在籍した。

一高同期でもあった生田とは、特に親しく交わった[2]。帝大在学中に建築の奨励賞である辰野賞を3度受賞した。大学卒業年次を迎えた1936年(昭和11年)、テオドール・シュトルム短篇集『林檎みのる頃』を訳出した。


1937年(昭和12年)、石本建築事務所[3]に入所した道造は「豊田氏山荘」を設計。詩作の方面では物語「鮎の歌」を『文藝』に掲載し、詩集『ゆふすげびとの歌』を編んだ他、詩集『萱草に寄す』、『曉と夕の詩』と立て続けに出版、発表し建築と詩作の双方で才能を見せた。1938年(昭和13年)11月、九州へ旅行するが、12月6日に長崎で発熱・喀血する。12月26日に東京市中野区江古田の市立療養所へ入院[4]1939年(昭和14年)、第1回中原中也賞(現在の同名の賞とは異なる)を受賞したが、同年3月29日午前2時20分、結核のため24歳で没した。


詩以外に短歌・俳句・物語・パステル画・スケッチ・建築設計図などを残した。道造の優しい詩風には今日でも共鳴する人は多く、文庫本の詩集もいくつか刊行されている。また存命中に今井慶明が立原の2つの詩を歌曲にして以来、柴田南雄高木東六高田三郎別宮貞雄三善晃などが作曲している[5]

立原道造全集
最初の全集は、山本書店で1941年(昭和16年)から1943年(昭和18年)にかけ刊行。戦後は角川書店で3度刊行(1950-51年、1957-59年、1971-73年)。


決定版全集は、筑摩書房(全5巻 順に詩Ⅰ・詩Ⅱ・手記・建築図面・書簡)で、2006年(平成18年)より2010年(平成22年)にかけ刊行された。編集委員は中村稔安藤元雄宇佐美斉鈴木博之

立原道造記念館
1997年(平成9年)、文京区弥生に立原道造記念館が設立された。記念館は、2011年2月20日に閉館。


2011年2月、信濃デッサン館内に「立原道造記念展示室」を新設。

ヒアシンスハウス
立原が構想した図面に基づき、2004年に「ヒアシンスハウス」がさいたま市別所沼公園に竣工された[6]

主な作品

・『優しき歌 I』『優しき歌 II』は、詩人の没後に複数人によって編纂されたもの。『I』は『II』の後に編まれたことに注意。


・『優しき歌 II』は角川書店から1947年に『優しき歌』として出版された。詩人の生前の構想を、中村真一郎の証言によって堀辰雄が復元したものである。『優しき歌 I』は、第三次角川書店版全集(1971-73年)にあたって復元されたものである。『II』の出版後に発見された立原のメモに基づいている。


筑摩書房版『立原道造全集』(全5巻)では、「立原の死の時点で彼の作品が残されていた状態をなるべく正確に再現するように」(第一巻、p.582)という目的から、2種の『優しき歌』は採用されていない。

『萱草に寄す』
「わすれぐさによす」と読む。

・SONATINE NO.1

 1. はじめてのものに

 2. またある夜に

 3. わかれる昼に

 4 のちのおもひに

・夏花の歌

 1. その一

 2. その二

・SONATINE NO.2

 1. 虹とひとと

 2. 夏の弔ひ

 3. 忘れてしまつて

『暁と夕の詩』

 1. I 或る風に寄せて

 2. II やがて秋‥‥

 3. III 小譚詩

 4. IV 眠りの誘ひ

 5. V 真冬の夜の雨に

 6. VI 失はれた夜に

 7. VII 溢れひたす闇に

 8. VIII 眠りのほとりに

 9. IX さまよひ

 10. X 朝やけ

『優しき歌 I』
・燕の歌

・うたふやうにゆつくりと‥‥薊の花のすきな子に
 1. I 憩らひ

 2. II 虹の輪

 3. III 窓下楽

 4. IV 薄 明

 5. V 民 謡
・鳥啼くときに

・甘たるく感傷的な歌ひとり林に‥‥


 1. I ひとり林に‥‥

 2. II 真冬のかたみに‥‥
・浅き春に寄せて

『優しき歌 II』
・序の歌

 1. I 爽やかな五月に

 2. II 落葉林で

 3. III さびしき野辺

 4. IV 夢のあと

 5. V また落葉林で

 6. VI 朝に

 7. VII また昼に

 8. VIII 午後に

 9. IX 樹木の影に

 10. X 夢見たものは……

備考
・立原道造が生前、東京府立第三中学校(現在の東京都立両国高等学校・附属中学校)時代に東京市電(現在の東京都電車)の切符収集の趣味を持っており、自らコレクションした東京市電切符3,000枚が現存している。その切符などが「立原道造記念館」で、2010年3月から9月までの特別展覧会にて一般公開された[7]


・立原道造をモデルとした青年を登場させた小説『菜穂子』を堀辰雄が執筆している[8]


関連人物
・立原蘭渓

立原翠軒

立原杏所

立原朴次郎

・水戸部アサイ

津村信夫

杉浦明平

寺田透

生田勉   


脚註
1.  神保光太郎「立原道造の生涯ー覚え書として」(『四季』立原道造追悼號(1939年7月))
2. 『立原道造と生田勉―建築へのメッセージ』 立原道造記念館(1998年3月)
3. 岸田日出刀「立原道造君のことども」(『四季』立原道造追悼號(1939年7月))によれば、石本より「設計の堪能な人」を求められ、岸田が立原を推薦した。
4. 大塚英良『文学者掃苔録図書館』(原書房、2015年)142頁
5. 『国文学解釈と鑑賞』別冊立原道造特集(2001年5月)掲載「立原道造の詩による作曲一覧」
6. ヒアシンスハウス ヒアシンスハウスの会
7. 夭逝の詩人・立原道造 元祖“乙女系男子”は元祖鉄道オタク!? 産経新聞 2010年5月12日閲覧
8. 『新潮日本文学アルバム17 堀辰雄』(新潮社、1984年)

外部リンク
立原 道造:作家別作品リスト青空文庫

立原道造記念館

日本詩人愛唱歌集-立原道造 - ウェイバックマシン(2019年3月30日アーカイブ分)
(wikiより)


1819  立原道造

立原道造

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1819c



伊藤 左千夫(いとう さちお、1864年9月18日元治元年8月18日) - 1913年大正2年)7月30日)は日本歌人小説家。本名 幸次郎

経歴
上総国武射郡殿台村(現在の千葉県山武市)の農家出身。明治法律学校(現・明治大学)中退。


その後、現在の錦糸町駅前に牛舎を建てて乳牛を飼育して牛乳の製造販売を始め、その傍ら1898年明治31年)に新聞『日本』に「非新自讃歌論」を発表。『歌よみに与ふる書』に感化され、正岡子規に師事。子規の没後、根岸短歌会系歌人をまとめ、短歌雑誌『馬酔木』『アララギ』の中心となって、島木赤彦斎藤茂吉古泉千樫中村憲吉土屋文明などを育成した[広報 1]


また、1905年(明治38年)には、子規の写生文の影響を受けた小説「野菊の墓」を『ホトトギス』に発表。夏目漱石に評価される。代表作に『隣の嫁』『春の潮』など。この頃、東京帝国大学学生の三井甲之や近角常音が出入りをしていた。常音の兄である真宗大谷派僧侶の近角常観とも知遇を得て、常観が主宰していた雑誌『求道』(求道発行所)に短歌を寄稿する。


1913年(大正2年)に脳溢血のため南葛飾郡大島町の仮寓で死去[1]。戒名は唯真居士。

人物
茶の湯
左千夫は茶道にも通じており、子規から「茶博士」と呼ばれたほどで、左千夫の自宅を「無一塵庵」と名付けた。


一戸建ての茶室を欲しており、友人である蕨真の助けを借りて、自邸内に茶室「唯真閣」を建立した。現在では生家に移築されている。

その他
山武市歴史民俗資料館の横には左千夫の生家がある。資料館には左千夫に関する資料が多く展示されている。また、1991年(平成3年)5月に完成した山武市伊藤左千夫記念公園には、政夫と民子の銅像が建立された[2]。また、錦糸町駅南口、東京都立城東高等学校内には左千夫の歌碑が建立されている。

刊行著作
・『野菊の墓』俳書堂 1906

・『左千夫全集』全4巻 古泉幾太郎春陽堂 1920-21

・『左千夫歌集』斎藤茂吉,土屋文明岩波文庫 1928

・『左千夫歌論集』全3巻 斎藤茂吉,土屋文明編 岩波書店 1929-1931

・『左千夫歌論抄』斎藤茂吉,土屋文明編 岩波文庫 1931

・『伊藤左千夫選集』斎藤茂吉,土屋文明編 青磁社

 第1巻 (短歌篇) 1948

 第2巻 (歌論篇) 1949

 第3巻 (小説篇) 1949

・『隣の嫁』河出文庫 1956

・『隣の嫁・春の潮』角川文庫 1956

・『伊藤左千夫歌集』土屋文明編 角川文庫 1957

・『野菊の墓・隣の嫁・春の潮』講談社文庫 1971

・『左千夫全集』全9巻 岩波書店

 第1巻 (歌集) 1977

 第2‐4巻 (小説・紀行・小品) 1976‐77

 第5‐7巻 (歌論・随想) 1977

 第8巻 (雑纂) 1977

 第9巻 (書簡) 1977

・『新編左千夫歌集』土屋文明,山本英吉選 岩波文庫 1980

・『伊藤左千夫全短歌』土屋文明, 山本英吉編 岩波書店 1986

・『左千夫全集』全9巻 土屋文明, 山本英吉編 岩波書店 1986‐87

脚注
出典
1. 岩井寛『作家の臨終・墓碑事典』(東京堂出版、1997年)34頁
2. “左千夫の記念公園完成 悲恋物語「野菊の墓」 政夫と民子の銅像も”. 朝日新聞 (朝日新聞社): p. 朝刊 28. (1991年5月12日)

 
広報資料
1. 歴史民俗資料館 伊藤左千夫について - 千葉県山武市公式ホームページ

外部リンク
伊藤 左千夫:作家別作品リスト - 青空文庫

伊藤左千夫について - 千葉県山武市公式ホームページ

伊藤左千夫ゆかりの地 - 千葉県山武市公式ホームページ

伊藤左千夫牧舎兼住居跡 - すみだ観光サイト

伊藤左千夫歌碑 | 浅間温泉観光協会
(wikiより)

99   伊藤左千夫

伊藤左千夫

1807a

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結城 信一(ゆうき しんいち、1916年3月6日 - 1984年10月26日)は、日本の作家である。


東京府
生まれ。1933年、旧制日本大学中学校(現在の日本大学第一高等学校)卒。早稲田大学英文科卒。国際学友会日本語学校の教師を経て、1948年、「秋祭」で作家デビュー。以後、『早稲田文学』ほかの文芸雑誌、年に二作程度の短篇を発表する寡作で地味な作家だったが、1980年、老人と少女の交流を描いた「空の細道」で日本文学大賞受賞。没後の2000年、未知谷より全3巻の『結城信一全集』(串田孫一郡司勝義、結城信孝責任編集)が刊行された。アンソロジスト、エッセイストの結城信孝は息子。

著書
・青い水 緑地社, 1955

・螢草 創文社, 1958

・鶴の書 創文社, 1961

・鎮魂曲 創文社, 1967

・夜明けのランプ 創文社, 1968

・夜の鐘 講談社, 1971

・萩すすき 青娥書房, 1976

・文化祭 青娥書房, 1977

・作家のいろいろ 六興出版, 1979

・空の細道 河出書房新社, 1980

・石榴抄 新潮社, 1981

・不吉な港 新潮社, 1983

・犀星抄 日本古書通信社, 1996

・結城信一全集 全3巻 未知谷, 2000

・セザンヌの山 講談社文芸文庫, 2002

・結城信一 評論・随筆集成 未知谷, 2007

翻訳
みずうみ・三色菫 テオドール・シュトルム 偕成社, 1962

外部リンク
早稲田と文学(結城信一) - (早稲田大学
(wikiより)

1793a

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山田 美妙(やまだ びみょう、1868年8月25日慶応4年7月8日) - 1910年明治43年)10月24日)は、日本の小説家詩人評論家言文一致体および新体詩運動の先駆者として知られる。二世曲亭主人、美妙斎、美妙子、樵耕蛙船、飛影などの号も用いた。


SF推理小説作家の加納一朗は孫。

生涯
生い立ち
本名は、山田武太郎。江戸の神田柳町(現在の東京都千代田区神田須田町二丁目)に旧南部藩士山田吉雄の長男として生まれる。3歳のとき父が地方に赴任し、母よし、その養母海保ますと神明前(浜松町)に、桶屋を家業として住む。父は鳥取、長野などの警察部長を歴任し、その後武徳会に関係して京都に住み、1911年(明治44年)に没した。1874年に私立烏森学校入学、この頃尾崎徳太郎尾崎紅葉)と知り合う。翌年公立巴学校(後の港区立鞆絵小学校)に転校。12歳頃から詩を学んで小田源蔵に教えを受け、漢文を石川鴻斎から、和歌を叔父の山田吉就から学んだ。1879年(明治12年)東京府第二中学(1881年に府第一中と統合し東京府中学)入学、幼友達の紅葉と再会。東京府中学を経て1884年(明治17年)大学予備門入学。

硯友社と新体詩・言文一致運動
予備門在学中の1885年(明治18年)に友人の尾崎紅葉、石橋思案丸岡九華らと文学結社である硯友社を結成し、雑誌『我楽多文庫』を編集・刊行し、第1、2集に曲亭馬琴風の処女作「竪琴草紙」を発表。1886年から同誌に連載した「嘲戒小説天狗」は、言文一致体で書かれた小説として先駆的なものであった。また1882年の『新体詩抄』以来の新体詩への意気込みで、縁山散史こと尾崎紅葉、延春亭主人こと丸岡九華とともに『新体詞選』を刊行。同年第一高等中学校(大学予備門改称)退学。1887年(明治20年)に読売新聞に「武蔵野」を連載し、最初の言文一致体の新聞小説となる。同年婦人雑誌『以良都女』(成美社)創刊。1888年には短篇集『夏木立』を刊行、小説雑誌『都の花』(金港堂)を主宰、1890年まで務め、20歳にして坪内逍遥に匹敵する名声を得た。硯友社とは疎遠になり自然脱退。徳富蘇峰らが1888年に組織した「文学会」にも参加し、1889年に『国民之友』誌で初めて小説を掲載した特別付録に、逍遥と並んで蘇峰の依頼を受けて、「蝴蝶」を執筆した。「蝴蝶」は、挿絵に初めて裸体が登場した作品で(渡辺省亭筆)、発売禁止となるなど物議をかもした[1]

1889年「日本俗語文法論」を『国民之友』に連載した。1890年改進新聞社入社。1891-92年頃は国民新聞紙上に小説、詩などを発表、その後は『文芸倶楽部』『世界の日本』などに作品を発表。1894年頃に浅草の茶店の女に子を産ませていたが籍は入れないなどの性行があり、作品の題材を実体験で得るためと称したことなどが、『万朝報』、『毎日新聞』などで指弾され、坪内逍遥も『早稲田文学』誌上で批判した。1895年に発表した「阿千代」は久しぶりに好評だったが、その後『以良都女』の投稿欄出身で弟子の女流作家田澤稲舟と結婚。1896年稲舟との合作「峯の残月」を『文芸倶楽部』に発表。稲舟は美妙の祖母と不仲のため、3月に結婚を解消して鶴岡に帰郷。4月に西戸カネと結婚。稲舟が自殺未遂の後9月に病死したが、新聞に自殺と報じられて美妙は非難を蒙り、文壇から遠ざけられるようになった。[2]



思想的活動
1897年「魔界天女」を『やまと琴』に連載。この頃、近衛篤麿を会長として「東洋青年会」を結成していた山県悌三郎と深い交友を持つようになり、フィリピン独立運動家のマリアーノ・ポンセの来日時に東洋青年会を訪問、日本青年会でもホセ・リサールの追悼会行うなどの活動により、フィリピン独立革命にシンパシーを抱き、独立の志士エミリオ・アギナルドの伝記『あぎなるど』や、運動の挿話『羽ぬけ鳥』なども著した(フィリピン独立革命と日本との関係も参照)。1899年にやまと新聞社に一時在籍。また本郷から王子村に移り、王子義塾を開いた。

1901年9月に脳充血で倒れ、以後禁酒する。1903年頃からは主に歴史小説を発表。日清戦争前後から国家主義的傾向を強めており、次第にロシア問題に関心を深め、日本の北進政策を背景に尽忠報国の烈士を描く『女装の探偵』『漁隊の遠征』なども書いた。


1907年から『大辞典』刊行に着手し、村上浪六の支援も受けて1911年に発刊。1909年に本郷区上富士前町に移転、1910年に6月に耳下腺癌腫と診断され、10月24日に死去し、西巣鴨染井霊園に葬られる。晩年は文壇内で親しい交際も少なく、病と貧しさに悩まされるさびしいもので、病体となってからは石橋思案と丸岡九華が世話をしたという。[3]



作品
新体詞選』は、『新体詩抄』の二番煎じのように見られ識者の評価は高くない。しかし、所収『戦景大和魂』8章から3章を選んで小山作之助が曲を付け、軍歌敵は幾万』として歌われるようになった。 言文一致の先駆者であるとともに、小説に悲劇的情緒を取り入れ、歴史小説に主情的心理を含め、新体詩のために音韻研究を求め、東洋のシェークスピアとの綽名も得た。[4]


美妙の言文一致の作品は、『武蔵野』『蝴蝶』のような時代小説が多かったので、地の文が「です・ます」「である」調であるのに、会話文は南北朝時代を題材にした『武蔵野』では「足利ごろの俗語」奥浄瑠璃を用いるなど、古めかしい言葉遣いであり、いささか奇をてらったようにも見えた。また擬人法、倒置法、間投詞の多用され、感情過多のきらいを生み、また「主客の格を明亮にすること」を疑念視した[5]結果、語り手の視点を自由に挿入できる文法を得た反面で、押しつけがましさも生んでしまうことになった[6]二葉亭四迷の回顧では「山田君は初め敬語なしの『だ』調を試みて見たが、どうも旨く行かぬと云うので『です』調に定めたといふ。自分は初め、『です』調でやらうかと思って、遂に『だ』調にした。即ち行き方が全然反對であったのだ。」という[7]


さらに『蝴蝶』が掲載されたときの挿絵に、主人公胡蝶の裸体画が初めて用いられたので、その意味での注目を集めてしまったことも、彼の作品を文学としてきちんと評価させず、美妙を文学の第一線からしりぞかせ、辞書の編纂をして糊口をしのぐような生活に追いこんだ一因でもある。小説は導入部のあと主人公が死んで終わる作品、講談本などの場面を継ぎはぎした作品、教訓のみが目に付く作品も多い。小説・詩ともやや内容に乏しい。しかし先駆者として、文学の形式を発展させた。


フィリピン独立については、独立軍の将グレゴリオ・デル・ピラールにまつわる戦史余話『桃色絹』もあり、『言文一致文例』では、アギナルドの島民に対する独立の宣言を「義軍の宣言」として、言文一致の演説文の模範として載せている。独立戦争の将軍アルテミオ・リカルテは、日本滞在時にホセ・リサールの最後の詩を美妙が翻訳したものを所持しており(美妙は『あぎなるど』の中でリサールの詩を「わが末期のおもひ」として訳しているが、リカルテの所持していた詩を見た塩田良平によると美妙とは文体が違っているという)、リカルテは帰国した際にも美妙への感謝の辞を述べている[8]


国語辞典の編纂者としても著名で、『日本大辞書』(1892年)と『大辞典』(青木嵩山堂1912年)『新式節用辞典』『人名事典』などを編んだ。「日本大辞書」は美妙が口述し、大川発が速記したもの。日本の辞典で初めて語釈が口語体で書かれた。もちろん、これらは、口語形、口頭語形、笑い声、泣き声なども豊富に立項していた(「あはは」「いひひ」「おほほ」「にこにこ」「うんにゃ」など)。また「日本大辞書」は共通語アクセントが付記された辞書としては近代において最古のものとされ、日本語のアクセント研究の黎明を築いた。

詳しいことは「山田美妙ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E7%94%B0%E7%BE%8E%E5%A6%99
(wikiより)

1721  山田美妙

山田美妙

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高安 月郊(たかやす げっこう、明治2年2月16日1869年3月28日) - 昭和19年(1944年2月26日)は、劇作家、詩人。


大阪の六代続いた医師の家に生まれた。本名・三郎。医学を修めるために上京したが文学に転じ、1896年チョボ(竹本)、合方を全廃した戯曲『重盛』を刊行。以後歴史物戯曲に取組み、1902年福井茂兵衛らと京都演劇改良会を興し、シェークスピアの『リア王』の翻案『闇と光』を上演、1903年に川上音二郎新派によって出世作『江戸城明渡』が上演された。以後、東京と大阪を拠点に活動したが、昭和期に入ってからは劇作の筆を折り、文芸史などを執筆した。


女婿に弘田龍太郎、甥に高安国世がいる[1]

著書
・『天無情』高安月郊 (愁風吟客) 1891

・『犠牲』 1894

・『重盛』 1894

・『大塩平八郎』金港堂 1902

・『江戸城明渡』高安月郊 (三郎) 博文館 1903

・『桜時雨』芝居道楽社 1906

・『寝覚草』金尾文淵堂 1906

・『月郊脚本集 第1』高安三郎 1916

・『現代戯曲全集 第3巻 桜時雨・江戸城明渡』 国民図書 1924

・『東西文学比較評論』高安三郎 1916 東光閣書店 1926

・『東西文芸評伝』春陽堂 1929

・『日本文芸復興史』早稲田大学出版部 1929

・『日本戯曲全集 現代篇 第4輯 高安月郊篇 平賀源内、奢、八代目団十郎、壇之浦、狂小町、あじろ舟、崋山
・『日本文芸復興史』早稲田大学出版部 1929

・『日本文芸近代史』早稲田大学出版部 1930

・『高安乃里』書物展望社 1934

・『神我の曲』新潮社 1941

・『現代日本戯曲選集 第1巻』「桜時雨」白水社 1955

・『名作歌舞伎全集 第20巻 (新歌舞伎集)』「桜時雨」東京創元新社 1969  

伝記・書誌
・『近代文学研究叢書 第53巻』「高安月郊」平井法著 昭和女子大学近代文化研究所 1982

脚注
1. 『近代文学研究叢書』『日本近代文学大辞典』(秋庭太郎の執筆)

外部リンク
高安月郊
(wikiより)

1717a

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長田 秀雄(ながた ひでお、1885年明治18年)5月13日 - 1949年昭和24年)5月5日)は詩人小説家劇作家


東京
出身。獨協中学校卒業後、明治大学にて学ぶ。『明星』の詩人として北原白秋木下杢太郎らとともに活躍。パンの会、『スバル』にも参加。最初の戯曲「歓楽の鬼」が自由劇場で上演され、以後劇作家として活躍、新劇運動に加わった。1920年には大作「大仏開眼」を発表、以後多くの歌舞伎劇の史劇を書く。1939年築地小劇場が会社組織となるに際して代表取締役[1]


弟の長田幹彦も詩人、小説家である。

著作
・『歓楽の鬼』(お七吉三.廃兵院夜曲.黄金截)たちはなや書店、1913

・『琴平丸』(仏陀と阿闊世主) 春陽堂、1914

・『放火』植竹書院、1914

・『飢渇』日東堂、1916

・『小説午前二時』玄文社、1918

・『声』天佑社、1920

・『大仏開眼』新潮社、1921

・『牡丹灯籠』新潮社、1923

・『愛憎篇』改造社、1923

・『黒幕』玄文社、1924

・『現代戯曲選集 第1篇 石山開城記』春陽堂、1926

・『昭和血士録』春秋社、1934

・『新劇の黎明』ぐろりあ・そさえて、1941

・『女優須磨子』高島屋出版部、1947

外部リンク
長田秀雄(くまもと文学・歴史館)

長田秀雄(kotobank)


1. 『歌舞伎座百年史』
(wikiより)

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淡島 寒月(あわしま かんげつ、本名: 淡島 寶受郎とみお安政6年10月23日1859年11月17日) - 1926年大正15年)2月23日)は、明治時代日本作家画家古物収集家。父親は画家の淡島椿岳。長女は教育者・政治家の木内キヤウ(公立小学校校長となり第1回参議院議員選挙参議院議員ともなった)。伯父は幕末の大富豪の伊藤八兵衛


広範な知識を持った趣味人であり、元禄の作家井原西鶴を再評価し、幸田露伴尾崎紅葉など文壇に紹介したエピソードで有名である。


収集家としても有名であり、住居の梵雲庵には3000あまりの玩具と江戸文化の貴重な資料があったが、関東大震災の際に全て焼失した。

略歴
日本橋馬喰町4丁目に生まれる。淡島家の家業は軽焼きの名店淡島屋であり、非常に裕福であった。父親の椿岳には160人の愛妾がいたという。


1870年、福澤諭吉を読んで西洋文化に興味を持つようになり、英語を勉強し洋間に住んだ。頭髪に灰汁をかけて染髪までしていた。寒月は西洋文明への憧れのあまり、アメリカ帰化しようと願う。向こうで日本のことを聞かれると思い、日本文化を研究し始めた。


1880年、湯島聖堂の図書館に通い、草双紙を毎日写本する。このとき山東京伝を読んで西鶴のことを知る。


1887年頃、文学者の露伴や紅葉らと知り合い、西鶴を紹介する。このことが明治における西鶴再評価に繋がった。


1893年、前々年から雑誌や新聞への寄稿を止め、向島の梵雲庵で隠居生活に入る。このころキリスト教の洗礼を受ける。しかし、これは宗教観からというよりは、外国の文化に接するためであったと、後に述懐している。


1923年9月1日、関東大震災により、梵雲庵全焼。収集物を全て失う。12月、梵雲庵再建。


1926年2月23日、66歳で死去。遺体は駒込染井霊園に葬られた。

主な作品
・『江戸か東京か』

・『亡び行く江戸趣味』

・『西鶴雑話』

参考資料
・『梵雲庵雑話』 延広真治解説、岩波書店〈岩波文庫〉、1999年、ISBN 4003115910

・『「敗者」の精神史』 山口昌男、岩波書店、1995年、ISBN 4000029665

外部リンク
淡島寒月:作家別作品リスト - 青空文庫 

淡島寒月のこと幸田露伴、「東京日日新聞」1938(昭和13)年6月4日号、5日号
(wikiより)

1712  淡島寒月

淡島寒月

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饗庭 篁村(あえば こうそん、安政2年8月15日1855年9月25日)- 1922年6月20日)は、明治時代小説家演劇評論家。根岸派の重鎮。本名は饗庭與三郎。別号「竹の屋(舎)(たけのや)主人」とも称す。下谷龍泉寺町生まれにちなんで「龍泉居士」、その縁で「太阿居士」、南傳町2丁目に住んで「南傳二」とも。


日本人として初めてエドガー・アラン・ポーの作品を翻訳した人物としても知られる。

概要
ほぼ独学ではあるが和漢学に造詣が深く俳諧の道にも明るかった[1]。作家としては「戯作者」世代と坪内逍遥幸田露伴ら新時代の作家たちとの過渡期に位置づけられる。篁村はこの時期の代表的な作家のひとりと見られており、幸田露伴は、饗庭篁村と須藤南翠が明治20年前後の「二文星」、「当時の小説壇の二巨星」であったと記し[2]江見水蔭は「篁南両大関時代」としたという[3]


篁村は読売新聞に編集記者として執筆していたが、1886年(明治19年)1月、前年に「小説神髄」と「当世書生気質」を世に出していた坪内逍遥(春のや主人)と知り合い、3-5月、読売新聞に長編「当世商人気質」を連載。これは人情の機微を穿った平明軽妙な文章で「商人(あきうど)」という職業身分の類型を3つの説話に描いたもので、篁村の出世作とされる。


「紀行文」でも、成島柳北とならんで明治初期、20年ごろの時期における代表的書き手で、根岸党の友人達との旅の紀行文などを新聞に連載した。明治20年代以降、幸田露伴尾崎紅葉など、後進の小説家が新時代の小説を世に出すようになり、篁村は著作活動の比重を劇評や江戸文学研究に移していく。後年は「竹の屋主人」の名で朝日新聞に劇評を連載。

根岸党
篁村は1886年(明治19年)、下谷根岸に居を構え、付き合いのあった作家達ともども「根岸党」(のちに「根岸派」)と呼ばれるようになった。当時交友のあった人々には、劇通幸堂得知、画家高橋応真高橋太華岡倉天心、画家川崎千虎森田思軒中井錦城など。宮崎三昧幸田露伴陸羯南、須藤南翠も根岸党と目されていた。篁村は彼らと酒を酌み交わして歓談し、またともに旅を楽しんで紀行文を残した。

略歴
1855年(安政2年)、江戸下谷龍泉寺町に饗場(戸籍面)與之吉の五男として生まれる。先祖は近江の医者の家。父の代で東京に出て呉服屋を開いたが、篁村誕生当時の家業は質屋。生まれた年の10月2日に起きた安政の大地震で母を失う。その際、赤ん坊であった篁村を助けたのが「近くの竹村氏」であり、それにちなんで後に「篁村」「竹の屋」の号を用いることにしたという[4]。本人は自伝的短文で「竹村何某方に里にやられ乳をのみたる母の恩を忘れぬ為なり」と書いている[5]


11歳から15歳まで日本橋新材木町の箱根屋という質屋に奉公に預けられたが、女婿山田清作の聞き書きによれば、主人に愛されて貸本は読み放題、「観劇の常侶(つねども)を承ったり」という状態で、篁村の「劇や俳諧に関する修養」や「遊芸乃至花柳界に関する知識」はこの丁稚奉公時代に養われたものであるという。1869年(明治2年)、15歳で生家にもどり兄與之吉の下で家業を手伝う。1874年(明治7年)、19(20)歳で日就社(読売新聞発行元)に入社し校正を担当。1876年(明治9年)、入社した高畠藍泉(三世柳亭種彦)に引き立てられ読売新聞の編集記者となり、紙上に様々な文を発表し、やがて岡本起泉古川魁蕾とともに「文壇三才子」と称されるようになる。


1886年(明治19年)1月に坪内逍遥と知り合う。このころ、根岸御隠殿に転居。3-5月、読売新聞に長編「当世商人気質」を連載。同年に長編「人の噂」、1887年(明治20年)ポーの翻案「西洋怪談 黒猫」・「ルーモルグの人殺し」、1889年(明治22年)短編「良夜」ほか、著述多数を発表。1889年(明治22年)から1890年(明治23年)にかけて、著述全集ともいえる『小説 むら竹』20巻を春陽堂から出版。1889年(明治22年)、東京朝日新聞に移る。

入社直後から1922年(大正11年)まで「竹の屋主人」の名で朝日新聞に劇評を執筆する。1892年(明治25年)には東京専門学校(現早稲田大学)で近松門左衛門を講じている。1919年(大正8年)、東京朝日新聞社客員。1922年(大正11年)、脳の障害のため死去。勸文院篁村清節居士。本郷駒込染井墓地(現在の染井霊園)に眠る。

代表作
小説
・当世商人気質(1886年 - 1889年 読売新聞連載)

・人の噂(1886年 読売新聞連載)

・走馬燈(まはりどうらう 1887年 読売新聞発表)

・魂膽(1888年 読売新聞発表)

・面目玉(めんぼくだま 1889年 読売新聞連載)

・掘り出し物(「新著百種」第2号 1889年 吉岡書籍店)

・良夜(1889年 國民之友に掲載)

・驅落の驅落

・俳諧気違ひ

論考
・大石眞虎の傳(おおいしまとらのでん 1888年 読売新聞発表)

紀行
・鹽原入浴の記(1888年6月14日 - 20日 読売新聞:6回)

・木曾道中記(1890年5月3日 - 7月3日 東京朝日新聞:20回)

・水戸の観梅(1895年3月3日 - 17日 東京朝日新聞:6回)

・小金井の櫻(1899年)

・新西遊記(1900年5月28日 - 8月9日 東京朝日新聞に連載)

・伊勢参宮(右田寅彦との交互執筆 明治40年)

翻案
エドガー・アラン・ポー「ルーモルグの人殺し」(1886年 読売新聞連載)
・エドガー・アラン・ポー「西洋怪談 黒猫」(1887年 読売新聞連載)
チャールズ・ディケンズ「影法師(原作:クリスマス・キャロル)」(1888年 読売新聞連載)

主な著書
・『むら竹』、春陽堂、1889年7月-1890年12月。

・『旅硯』、1901年。

・『巣林子撰註』(近松研究)、1902年。

・『雀躍』(評論随筆)、1909年。

・『篁村叢書』、1912年。

・『竹の屋劇評集』(「明治文学名著全集」 第12編)、東京堂、1927年。

・『饗庭篁村集』、1928年。

近年刊
・『饗庭篁村 明治の文学 第13巻』 坪内祐三編、、平成15年(2003年)

詳しいことは「饗庭篁村ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A5%97%E5%BA%AD%E7%AF%81%E6%9D%91
(wikiより)

1709  饗庭篁村

饗庭篁村

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北田 薄氷(きただ うすらい、1876年明治9年)3月14日[1] - 1900年明治33年)11月5日[1])は、日本小説家。本名、尊子大阪出身。


尾崎紅葉
門下生。


処女作『三人やもめ』。 代表作『乳母』 その他の著作『葎の宿』、『濡衣』、『浅ましの姿』、『鬼千疋』、『産衣』、『秋の空』、『白髪染』、『晩桜』、『うしろ髪』、『二階の客』、『黒眼鏡』、『あしたの露』等。 児童文学『おいてけぼり』、『食辛棒』等。


1898年
明治31年)に日本画家梶田半古と結婚するが、1900年明治33年)に結核腸結核)のため25歳で死去した[1]


墓所は豊島区駒込染井霊園

逸話
・薄氷と同じく尾崎紅葉門下生であった泉鏡花の作品「薄紅梅」の登場人物 「お京」は、薄氷がモデルとされている。

脚注
1. a b c 北田薄氷』 - コトバンク

参考文献
・北田薄氷 「薄氷遺稿」 春陽堂、1901年12月

昭和女子大学近代文学研究室 編 「近代文学研究叢書 第4巻」 昭和女子大学光葉会、1956年

・伊狩 章 「北田薄氷」 (東京堂 「明治大正文学研究」通号 20) 1956年10月

・ 「現代日本文学全集 第84(明治小説集)」 筑摩書房、1957年

・轟栄子 「北田薄氷研究」双文社出版、1984年3月

・岩淵宏子, 長谷川啓 監修 ; 北田幸恵 責任編集 「「新編」日本女性文学全集 第2巻」 菁柿堂、2008年9月

・伊藤かおり 「北田薄氷作品に関する一考察 : 我意を貫こうとする女性たちを中心に」(『帝塚山学院大学研究論集. リベラルアーツ学部』48集、2013年12月、所収)(帝塚山学院大学の図書館のウェブサイトにより閲覧可[1])
(wikiより)

1699a

1699b



野村文夫 ( のむら - ふみお )

生年: 天保 7. 4. 5 ( 1836. 5. 19 )
没年: 明治 24. 10. 27 ( 1891 )


明治時代のジャーナリスト。


広島藩に仕える眼科医野村正硯の子として生まれ、同藩医・村田文尚の養子となる。

幼名虎吉。


緒方洪庵の適塾 で蘭学・医学を、その後長崎で英語を学ぶ。


慶応 1年 ( 1865 ) イギリスへ密出国する。


4年に帰国したのち藩の、洋学教授職に就き『西洋聞見録』を著す。


維新後、民部省、内務省に勤務するが、明治 10年 ( 1877 ) に団団社を設立し同年、『団団珍聞』、翌 11年『驥尾団子』を創刊した。

両誌とも滑稽、風刺を売り物にした。


15年、立憲改進党に入党。


22年には自ら東京政友会を設立し、陸羯南の『日本』創刊にも関与した。


<著作>『洋語音訳筌』

<参考文献>木本至『「団団珍聞」「驥尾団子」がゆく』、北根豊監修『複製版/団団珍聞』
 

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宮武 外骨(みやたけ がいこつ、1867年2月22日慶応3年1月18日) -1955年7月28日昭和30年7月28日)は、日本ジャーナリスト新聞記者編集者)、著作家、新聞史研究家、江戸明治期の世相風俗研究家。


明治・大正期にはジャーナリストとして、政治家官僚行政機関マスメディアを含めた権力の腐敗を言論により追及した。日本における言論の自由の確立を志向し、それを言論によって訴えた。また、活字によるアスキーアートを先駆的に取り入れた文章など、様々な趣向を凝らしたパロディ言葉遊びを執筆したことでも有名。関東大震災以降は風俗史研究に活動の重点を移し、東京帝国大学(東京大学)に明治新聞雑誌文庫を創設した。

生涯

パロディから反官僚へ
讃岐国阿野郡小野村(現在の香川県綾歌郡綾川町小野)に庄屋宮武家の四男として生まれた。幼名は亀四郎。


一生農家で果てるのを嫌って、高松栄義塾で漢学を学び、明治14年(1881年)、14歳の時に上京し進文学舎においても漢学を学ぶ。東京で多くの出版物に触れて記者や著述家ほど愉快な職業はないと感じ、『朝野新聞』の成島柳北、『近事評論』の林正明 (肥後熊本藩士)、『東京新誌』の服部誠一らに憧れ、18歳から執筆活動を始める[1]


17歳の時に戸籍上の本名を "外骨" に改める。幼名の亀四郎の亀が "外骨内肉" の動物であることに因んだ物である。正式の本名であるにもかかわらず、のようにしか受け止められないことが多く、役所や図書館の窓口などで「号ではなく本名をお願いします」などとたびたび言われるのが癪だと言って、「是本名也」と彫った印鑑を用いたことも少なくなかった。なお、晩年に「外骨」の読みを「とぼね」に改めている。


当初は比較的穏健だったが、反骨精神に富み自ら新聞・雑誌を刊行して政治や権力批判を行ったためたびたび発禁・差し止め処分を受けた。明治22年(1889年)、『頓智協会雑誌』で大日本帝国憲法発布をパロディ化して不敬罪に問われ禁錮3年の実刑判決を受けた。未決勾留日数の刑期算入も認められず、投獄は3年8ヶ月に及んだ。それからは官僚を宿敵と見なし、活発な権力批判を行うようになった。その後も検挙投獄は3回に及んだ。また雑誌は数多く創刊したが比較的短命なものが多く、1号のみの廃刊誌は実に17を数える。


警察署長の不正や悪徳商法の主(野口茂平)を長期間紙面で晒し上げる一方で日露戦争に対する社説を翻した『万朝報』を批判するなど、批判精神を忘れて権力・世論に迎合するジャーナリズムに対する批判も行い、反権力を貫く一ジャーナリスト(当時の訳語では「操觚者」)として徹底した行動を取りつづけた。もっとも日露戦争自体については主戦論ではないが反戦論でもなく、戦争協力を誌面で説いたこともある。たとえばニコライ教ロシア正教会ニコライ・カサートキンによる伝来であったから、「愚民を惑はすのみならず、常に賣国奴を養成して居る」[2]と非難し、ニコライの逮捕、退会しない信徒の国外追放[3]ニコライ堂の破壊などの弾圧を行うよう主張した。これは当時の世論にある程度影響されたものと言えた。


特に、自らの力を悪用して私欲を働くマスメディアには「ユスリ記者」と呼び激しい批判を行った(『滑稽新聞』では「ユスリ」に特注の極太ゴシック体を使用して強調した)。もっともその主張の中には「味の素の原料は青大将」など、後に結局デマと分かったものもあった[4]


外骨の厳しさは読者や親族にも及んだ。たとえば『滑稽新聞』明治40年(1907年11月20日号で吉田東伍の『大日本地名辞書』の誤りを指摘し、版元の冨山房ともども「文壇の山師」と批判した。読者に、この記事は出版社をユスろうとしているのではないかと批判投稿した者がいた。12月20日号で採用した上でこの読者に対する反論を行い、さらに「間抜け」な批判をした読者を磔にした挿絵を付け文字通りさらし者にしたことがある。この読者からは冨山房の店員(拡販員と思われる)から『滑稽新聞』の記事について「善悪とも交渉すべからず」といわれたため疑念を抱いたのだという返信が来たため、外骨は冨山房に抗議した上で『大日本地名辞書』批判をしばらく続けた。


また、著書『つむじまがり』で「予の先祖は備中穢多(えた)であるそうな」と書いたところ、「未だ穢多の子孫と云ふ事は耳にしたる事無之候、(中略)宮武家一門三百人の大迷惑」と抗議した親類があった。外骨は「予の親族中にも、今尚斯る舊弊(きゅうへい)思想の脱しない者がある位だから、予は飽迄も穢多の子孫なりと叫ばねばならぬ」(『スコブル』大正6年(1917年)第10号)と反論した。部落差別が解消されていれば「穢多の子孫」と自称しても全く意味はないはずだから、抗議した親類の態度こそ差別であると主張したのである[5]。一方、桃中軒雲右衛門を否定的な意味で「穢多芸人」[6]と呼ぶなどの差別発言を行っていたことも指摘されている[7]

『滑稽新聞』の成功
外骨の出版した刊行物の中でも最も有名な『滑稽新聞』は、明治34年(1901年)に大阪で創刊された。名目上の発行人は三好米吉。これは、外骨に万一のことがあっても発行を続けられるように別人を立てたためである。外骨は「小野村夫」(出身地にちなむ)のペンネームで執筆。無署名なども含めると、記事の大半を自ら書いた。寄稿は編集者によるものを含めほとんどがペンネームで、外骨以外の編集者、寄稿者で実名がはっきりしているのは三好、溝口駒造、板橋菊松森近運平、松崎天民、結城禮一郎、寺門咲平の7人である。また、印刷は福田友吉が担当した。


モットーは『威武に屈せず富貴に淫せず、ユスリもやらずハッタリもせず、天下独特の肝癪(かんしゃく)を経(たていと)とし色気を緯(よこいと)とす。過激にして愛嬌あり』。時事批評だけでなく下世話な世相の話題まで扱い、現代の週刊誌に相当する内容であった。外骨の記事は巧みに仕込まれた毒とパロディー精神に富み、さらに挿絵も腕の良い職人(実名がはっきりしているのは墨池亭黒坊こと前野一廣竹久茂次郎)の手になるもので一般大衆に人気を博した。活字(文字約物)を並べて絵に見せたり、他愛ない小説に見せかけて(縦組みのページを)横に読むと性的なネタが隠れていたりと今日各種ウェブサイトで一般化した技法(アスキーアート縦読みなど)の原形も見られる。検閲などのため刊行が遅れることが多く途中からは「例の延刊」と自ら表紙に載せ、たまに予定通り発行されると「例の延刊にあらず」とネタにしたほどだった[8]。最盛期の部数は8万部。この時代の雑誌としてはトップクラスの売れ行きだった。そのため類似誌も『いろは新聞』『東京滑稽新聞』『あづま滑稽新聞』『滑稽界』『東京滑稽』『江戸ツ子』『ポテン』『滑稽雑誌』『名古屋滑稽』『釜山滑稽新聞』など多数登場し、外骨は「猿雑誌」と類似誌を評しつつ『滑稽新聞』の影響力を自慢した。


重複になるが、たとえば野口に対しては野口が誹毀罪で告訴したためもあるが毎号野口がさらし首にされた絵を載せ攻撃し続けるなど同じ対象を長期間にわたって追跡する記事が多かったのも特徴である。もっとも、他誌にまま見られた金銭などのユスリ目的ではないことは野口も承知していた[9]


明治41年(1908年)10月、当局は『滑稽新聞』に対して発行禁止命令を出した。外骨は発行禁止に先んじて173号を以て「自殺号」として廃刊。しかし翌月には『大阪滑稽新聞』を創刊して事実上の後継誌とした(31号までで外骨は編集を離れたが、大正3年(1914年)まで存続)。同誌では批判対象の伊藤博文井上馨山縣有朋の死期を当てる懸賞という不謹慎企画を立てた(明治42年(1909年10月15日号、通巻24号)[10]。外骨は懸賞商法を批判していたが内務省が10月15日付で規制に乗り出したため、わざと懸賞を始めたのである。その直後に伊藤が安重根に暗殺されると11月1日号(通巻25号)は風俗関連の記事が安寧秩序を乱し、風俗を害するとして発禁となった。11月15日号(通巻26号)では伊藤追悼一色のマスコミを批判し「非常の死は幸福」と題して津田三蔵[11]小山六之助李鴻章襲撃犯)を例に挙げ[12]、暗に安を擁護した。これも発禁処分となった。また12月15日号(通巻28号)では「我輩と社会主義」と題し、「社会主義者ではない」が社会主義を取り入れた国家社会主義によって「今日の政弊を除去し得られる」と主張したがこれは発禁にはならなかった。外骨と編集発行人の金子又次郎は25号、26号について自首した。その結果、大阪区裁(村野美雄裁判長)は25号、26号の記事を無罪としたが代わりに検察が問題にしなかった「我輩と社会主義」を有罪とし又次郎は新聞紙法違反で罰金80円、外骨は禁錮2ヶ月の実刑判決を受けた。

『スコブル』以降
大正4年(1915年)、第12回衆議院議員総選挙に立候補し「政界廓清(かくせい)・選挙違反告発候補者」を名乗り選挙違反を片っ端から告発。落選運動の走り的存在といえた。結果は259票と、法定得票には辛くも到達したが落選。当時、制限選挙のため有権者数が少ないせいもあったが、一部の高額納税者にしか選挙権が無いという当時の選挙制度を正面から批判した。


大正5年(1916年)、月刊誌『スコブル』を創刊し軌道に乗せた。大正6年(1917年)、第13回衆議院議員総選挙でも再び選挙違反告発を目的として立候補。『スコブル』に選挙違反告発の目的を達成できなくとも「自己の賣名」は達成できると開き直ったり、投票日前に「落選報告演説會」の告知を出したりした。この時代の総選挙は厳密には立候補制ではなくどこの選挙区で運動することも可能だったが、東京市、大阪市それぞれの選挙区でいずれも3票と惨敗した。ちなみに「落選報告演説會」は落選後予定どおり開催され、外骨の他、外骨を下回る2票で惨敗した職工の厚田正二、1295票で法定得票には到達したが及ばなかった講釈師の伊藤痴遊も弁士として出席し盛況であった。入口に「入場料金三銭、貧民無料、新聞記者は貧民同様無料」と掲げたところ新聞記者たちは始めはそのまま入場しかけたが、「貧民同様」の文言にプライドを刺激されたのか慌てて入場料を支払ったという。


また、社会主義には当初は「到底世人の賛同を得られまい」「今の政府者がコンナ社會主義者を怖がるのは何故であるか、我々は其の理由が判らない」(『滑稽新聞』通巻125号)と冷めた見方をしていた。その後は「極端なる社會主義の実行には不賛成」だが「(政府を)普通尋常の手段で攻撃してもその功は無い、これは社會主義でおどかして改心せしめるより外に途はない」(『滑稽新聞』通巻139号)と間接的に評価するようになった。さらに思想的には距離を置きつつも森近の『大阪平民新聞』刊行を援助し「平民新聞の提灯持ち」を自称したため、特別高等警察に「社會主義派」の「特別要視察人」としてマークされた[13]。森近が師事した幸徳秋水にも好意的で面識はないが幸徳の死刑廃止論を評価し、第二次大戦後になって『明治社会主義文献叢書』(龍吟社)の秋水文集の編纂に協力している。その後吉野作造民本主義に傾倒し、大正8年(1919年)3月には雑誌『民本主義』を創刊した。しかし創刊からわずか4日後に即発禁処分となり廃刊させられている。大正13年(1924年)に吉野が明治文化研究会を立ち上げた際にも、外骨は同人として名を連ねている。


昭和2年(1927年)、博報堂の創業者で外骨の友人瀬木博尚の寄付により、東京帝国大学法学部に明治新聞雑誌文庫(通称「明治文庫」)が創立された。外骨は事務主任(東京帝国大学嘱託)となり、吉野作造とともにその充実に貢献した。外骨は全国の旧家を回るなどして新聞・雑誌の収集を行った。これらの資料は文化史的に価値のあるもので、広く研究のための利用に供されている(明治新聞雑誌文庫は、後に東京大学大学院法学政治学研究科附属近代日本法政史料センターの一部門に改組)[14]

終戦後もGHQによる検閲や発禁処分を度々受け、「何が言論の自由か」と言論の規制を敷いている点では戦前の日本政府とGHQは大して差が無いことを批判した。

昭和24年(1949年)に東京大学(昭和22年(1947年)東京帝国大学より改称、昭和24年新制東京大学に)を退職。昭和30年(1955年)7月30日に文京区駒込追分町の自宅で死去。享年89。戒名は質直院外骨日亀居士[15]。晩年は容姿がガンジーに似ているといわれた。

詳しいことは「宮武外骨ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E6%AD%A6%E5%A4%96%E9%AA%A8
(wikiより)

1676  宮武外骨

宮武外骨

1676a

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幸堂 得知(こうどう とくち、本名:高橋利平、天保14年(1843年1月 - 大正2年(1913年3月22日)は、明治時代文人黄表紙の流れを汲む軽妙な滑稽味が持ち味の作家。「江戸通人の風格」[1]を持つ演劇通で、多くの劇評を新聞紙上などで発表した。、饗庭篁村らと親しく、根岸派の1人と目された。

生涯
・1843年(天保14年)、江戸下谷車坂町に生まれる。父は青物商高橋彌平、高橋夢叟として『上野公園沿革史』の著者でもある。


・1869年(明治2年)、三井両替店(のちの三井銀行)に入社。


・1870年、上司の鈴木利平の養子となる。


・1878年以降、時折、文章を読売新聞紙上で発表するようになる。


・1888年、三井銀行を退職。


・1889年以降、本格的に文筆で身を立てるようになる。


・1891年、東京朝日新聞に入社。


・1892年より「歌舞伎新報」編集に携わる。


・1913年(大正2年)、死去。


1. 越塚和夫編の年譜
(wikiより)


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斎藤 緑雨(さいとう りょくう 齋藤緑雨、1868年1月24日慶応3年12月30日) - 1904年明治37年)4月13日)は、明治時代の小説家評論家。本名・賢(まさる)。「正直正太夫」をはじめ、「江東みどり」「登仙坊」など別名も多数ある。幸田露伴がつけたという戒名は「春暁院緑雨醒客」。

生涯
1868年1月24日慶応3年12月30日)、伊勢国神戸(現在の三重県鈴鹿市神戸(かんべ))で津藩の医師・斎藤利光の子として生まれ、10歳で上京。東京府中学を経て、明治法律学校(現在の明治大学)に進学するが、弟たちのために中途で学業を廃し、文筆で立つことを決意。


1884年
(明治17年)より仮名垣魯文に師事し、〈江東みどり〉の筆名でいくつかの小説を書く。その後、1889年(明治22年)から1890年(明治23年)に『小説八宗』、『初学小説心得』、『小説評注問答』などのパロディ精神にあふれた評論を書き、辛辣な批評家として自他ともに許す。1891年(明治24年)に『油地獄』、『かくれんぼ』などの作品で小説家としても認められるが、生活は苦しかった。


萬朝報読売新聞二六新報などの新聞で「眼前口頭」をはじめとするアフォリズムを連載する。萬朝報記者だった幸徳秋水と親交。1895年(明治28年)9月から時論日報という新聞の編輯主幹を任され、同じく仮名垣魯文の弟子で「今日新聞」にいた時の同僚であった野崎左文を招いて顧問とした[1]


樋口一葉の真価を理解評価し、森鴎外幸田露伴とともに「三人冗語」で紹介した一人である。1896年(明治29年)1月に手紙をやりとりし始め、緑雨は直截な批評を一葉に寄せるようになる。樋口家を訪問しては一葉と江戸文学や当時の文壇について語り明かし、一葉は「敵にまわしてもおもしろい。味方にするとなおおもしろそうだ」とその印象を日記に書き記している[2]。以来、一葉没するまで2人の交流は続く。


1899年(明治32年)に、「一葉全集」(博文館)の校訂を引き受け、遺族の生活を請け負う一方、一葉日記を手元にとどめ、亡くなる直前に友人の馬場孤蝶に託したことにも、緑雨の一葉への愛着がうかがえる。


肺結核にかかり、1900年(明治33年)10月23日から鵠沼旅館東屋で転地療養し、1901年4月13日、東屋の女中頭金澤タケを伴って、タケの実家のある小田原に移り、タケと結婚する。小田原で二年間療養するが、病状はかんばしくなく、東京に戻る。しかしなかなか働き口がなかった。 友人の秋水は堺利彦らと発行していた「週刊・平民新聞」に、緑雨のために「もゝはがき」という欄を設け、原稿料を得ることができるようにした[3]。緑雨はその送金が待ちきれずに、病躯をおして平民社に受け取りに来る時も多くあり、秋水はいつも、小遣い銭を加えて渡すようにしていたという[4]


1904年(明治37年)4月13日、「僕本月本日を以て目出度死去致候間此段広告仕候也」と孤蝶に口述筆記させた死亡広告(翌14日に万朝報掲載)を遺し、東京市・本所横網町の自宅で、36歳で病死した。戒名は春暁院緑雨醒客居士(幸田露伴の撰)[5]


弟子に小杉天外らがいる。

警語
その常識に捉われない機知は、1903年(明治34年)1月から1903年(明治36年)7月まで萬朝報読売新聞・二六新報などの新聞に発表された「眼前口頭」をはじめとするアフォリズム集によくあらわれている。

・" 按ずるに筆は一本也、箸は二本也。衆寡敵せずと知るべし "

・"ギヨエテとは おれのことかと ゲーテ云ひ"

近年刊行の著作

・『あられ酒』(岩波文庫 1939年、復刊1985年、1999年) ISBN 4003111117

・『油地獄 他二篇』(岩波文庫 1939年、復刊1988年) ISBN 4003111125

・『かくれんぼ 他二篇』(岩波文庫 1939年、復刊1991年) ISBN 4003111133 

・『齋藤緑雨集 明治文学全集 第28巻』 (稲垣達郎編 筑摩書房、初版1966年)

・『齋藤緑雨全集』(筑摩書房(全8巻) 1990年~2000年)

・『明治の文学15 齋藤緑雨』(坪内祐三南伸坊編、筑摩書房 2002年) ISBN 4480101551

・『緑雨警語』(中野三敏編、冨山房百科文庫 1991年) ISBN 4572001413

  ・「眼前口頭」「霏々剌々」「巌下電」「両口一舌」「青眼白眼」「長者短者」「半文銭」「大底小底」

・『風刺文学集 新日本古典文学大系明治編 29』(岩波書店 2005年)ISBN 4002402290

  ・「かくれんぼ」「あま蛙」「小説評註問答(しょうせつひょうちゅうもんどう)」「眼前口頭(がんぜんこうとう)」を所収。

・『緑雨遺稿』(木下出版商社 1907年[6])(復刻版 湖北社 1982年)

その他
・伝記に吉野孝雄(宮武外骨の甥)『飢は恋をなさず 齋藤緑雨伝』(筑摩書房 1989年)。

・1992年より、鈴鹿市が斎藤緑雨賞を設立したが、費用対効果(宣伝効果)が薄いとして1996年度で終了した。4年間で6作品が受賞している。

2004年4月に起こった最初のイラク日本人人質事件で、『讀賣新聞4月14日号のコラム「編集手帳」は、斎藤の死亡広告を冒頭に引用した。その上で、「イラクでの人質事件では、自衛隊の撤退を求める被害者家族の声を「人の心の自然」として理解しつつも、首を横に振らねばならない苦しさ、むずかしさを教えられた。百年前に三十六歳で世を去った人は、折に触れて物思いに誘ってくれる」と主張した。このコラムは、被害者が解放される以前に書かれた。

脚注
1.
伊藤整『日本文壇史4』講談社文芸文庫、1995年、83p。
2. 「この男かたきにとりてもいとおもしろし。みかたにつきなば猶さらにおかしかるべく」明治29年5月29日の日記より。
3. 師岡千代子 「夫・幸徳秋水の思い出」1946年東洋堂。
4. 師岡前掲書
5. 岩井寛『作家の臨終・墓碑事典』(東京堂出版、1997年)150頁
6. 緑雨遺稿 - 近代デジタルライブラリー

外部リンク
斎藤緑雨:作家別作品リスト - 青空文庫
(wikiより)


 墓碑銘は、幸田露伴による書

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⇧ 斉藤緑雨

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森鴎外は文久二年 ( 1862 ) 正月十九日、石見国津和野藩典医 ( いわみのくにつわのはんてんい )・森静男の長男として生まれた。


本名を林太郎という。


明治二十一年 ( 1889 ) 三月九日、海軍中将・赤松則良の長女・登志子と結婚し、その夏に根岸からこの地 ( 下谷区上野花園町十一番地 ) に移り住んだ。


この家は、現在でもホテルの中庭に残されてる。


同年八月に『国民之友』夏季附録として、『於母影 ( おもかげ )』を発表。


十月二十五日に文学評論『しがらみ草子』を創刊し、翌二十三年一月には処女作『舞姫』を『国民之友』に発表するなど、当地で初期の文学活動を行った。


一方、陸軍二等軍医正に就任し、陸軍軍医学校教官としても活躍した。


しかし、家庭的には恵まれず、長男於菟 ( おと ) が生まれた二十三年九月に登志子と離婚し、翌十月、本郷区駒込千駄木町五十七番地に転居していった。
(案内板より)

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〇 森鴎外旧居・橘井堂森医院跡
森鴎外の父 静男は、元津和野藩主亀井家の典医てせあったが明治維新後上京し、明治十一年(1878)南足立郡設置とともに東京府から郡医を委嘱されて千住に住んだ。


同十四年郡医を辞し、橘井堂森医院をこの地に開業した。


鴎外は十九歳で東京大学医学部を卒業後、陸軍軍医副に任官し、千住の家から人力車で陸軍病院に通った。


こうして明治十七年ドイツ留学までの四年間を千住で過ごした。


その後 静男は、明治二十五年、本郷団子坂に居を移した。


〇 千住で始まった文筆活動 ( 明治十四年 )
千住に居住している頃、上図 ( 画像 5 ) のように明治十四年九月十七日付『讀賣新聞』に「千住 森 林太郎」の本名で寄書 ( 投稿 ) 欄に一文を寄せ、当時の一流文筆人を堂々と批判する文章を発表するなど、文筆活動を始めていた。


明治二十三年には作品『舞姫』を「森鴎外」の名前で発表した。


また、千住仲町に隠棲していた元幕府医学館教授・佐藤應渠 ( おうきょ )[ 元萇 げんちょう ] のもとに通い漢詩の手ほどきをうけていた。


漢詩作品も数多く、発表された作品のなかには、「訪應渠先生千住居」「呈應渠先生」「訪應渠先生居偶作」などがある。


これらの漢詩は、佐藤應渠をたたえるとともに、應渠が医療活動をしていたことや、詩作に精通していたことを伝える内容ともなっている。


これらの作品は明治二十四年頃に精力的に発表されているが、この年、鴎外は二十九歳・医学博士となっている。


〇 千住から医師開業免状申請書を出す
明治十四年十月二十三日付で、南足立郡千住一丁目十九番地から医師開業免状を申請した。


〇 「千住の鴎外碑」の碑文 小説『カズイスチカ』 ( 明治四十四年に発表された作品 ) について

鴎外は、明治四十二年・四十七歳の時に文学博士となった。


かつて千住宿の町医者であった父・静男が毀誉褒貶 ( きよほうへん ) に無頓着で、貧富の差なく真摯に患者に接していた姿を思い起こし、改めてその生き方に感動し敬愛の念を深めていった自分自身のことを題材にした作品である。
(案内板より)

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相島虚吼 ( あいしま / あいじま - きょこう )    
慶応 3年 12月 19日 ~ 昭和 10年 4月 4日 ( 1867 - 1935 )


ジャーナリスト・俳人。

本名、勘次郎。

茨城県筑波郡出身。


「大阪毎日新聞」記者・編集主任・副幹事・顧問。


のち国会に出、憲改擁護、閥族打破に活躍。


また従軍記者として帰国の際に同船した正岡子規と知りあい、俳句界に入る。

正岡子規・高浜虚子門の俳人だった。


昭和 5年 ( 1930 ) 引退し、「ほととぎす」の同人として亡くなるまで俳句を作り続け、大阪にて没する。69歳。


勲四等瑞宝章。

著書:「虚吼句集」。

辞世の句: 「大桜十日の春を全うす」。

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Elizabeth Scidmore.

( シドモア )

米ポトマック湖畔への日本の桜の移植に尽力した文筆家。


日本の仏語教育に貢献の宣教師。


明治憲法制度で伊藤博文に協力。


〇 シドモア
この墓には、母親と息子と娘の 3人が眠っている。


息子は外交官でのち弁護士を開業した。


1才下の妹はジャーナリストであった。


娘エリザ・シドモアはワシントンに日本の桜を植えて名所にしようとタフト大統領夫人ヘレンにはなした。


多くの困難があったが、1912年の春ワシントンで植樹式が行われエリザの提言が、見事に実現した。


スイスで没したが、日本政府がその死を慎み、ここに葬った。
(案内板より)


朝曇りこの墓原に

     吾かゐれは

汽笛とよもし

     船行か見ゆ

中島 敦


〇 かめれおん日記 ( 敦の場所 )
小説家

中島 敦 ( 1909 - 42 )

昭和 8年から 16年まで私立横浜高等学校女子校 ( 現・横浜学園 ) の国語教師を勤めた。


元町や山手の丘は敦の散歩道であり、外人墓地もよく訪れた。


作品「かめれおん日記」には「スイドモア氏の碑の手前に腰を下す」とあり、散歩の途中ここで休み、港の景色眺めたことがうかがわれる。
(石碑碑文より)

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