本牧jack『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。
たまに『 大人数で取材しているのか? 』との質問を戴きますが、小生と相方の二人三脚で御座います。
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カテゴリ: 相撲・空手・野球・柔道・競馬、スポーツ関連

ピストン堀口(ピストンほりぐち、1914年大正3年)10月7日 - 1950年昭和25年)10月24日)は、日本プロボクサー。本名:堀口 恒男(ほりぐち つねお)。栃木県真岡市出身。昭和初期における日本ボクシング界の象徴的存在で「拳聖」と呼ばれた。元日本フェザー級・東洋フェザー級および日本ミドル級チャンピオン。次兄から順に、基治、宏(元日本バンタム級チャンピオンの堀口宏)、喬久という堀口4兄弟(いずれもプロボクサー)の長兄。孫は元ボクサーの堀口昌彰で、日本ライト級2位に格付けされていた。現在はピストン堀口道場の指導者を務める。


「ピストン堀口」の呼称は正式なリングネームではなく、あくまで本名の堀口恒男が正式なリングネームなのだが、いつの頃からか「ピストン・堀口恒男」との異名が新聞記事などで使われるようになり、一般に「ピストン堀口」の呼称が定着してしまった[1]

略歴
警察署長の子として栃木県真岡市で生まれる。旧制真岡中学時代は柔道部の主将を務め、県下で有名な強豪選手であった。真岡中学の先輩で「日本ボクシングの父」と称される渡辺勇次郎が弟子達を率いて真岡市でボクシングの模範試合を行った際、堀口は腕試しのつもりで飛び入り参加しプロボクサー相手に3ラウンドを戦い、渡辺に度胸と才能を評価されて1932年に上京し、早稲田大学に通うかたわら、日本拳闘倶楽部へ入門した。


自己流でトレーニングをして、上京からわずか半月後に初試合を行いKO勝ちを収める。翌1933年にプロデビュー。その後、かつての名選手岡本不二の指導を受け、デビューから5引き分けを挟んで47連勝という驚異的な記録を残す。その間、元世界王者のエミール・プラドネル(フランス)と8回戦で引き分けたり、B・D・グスマンを破り東洋フェザー級チャンピオンまで上りつめるなど、世界クラスの実力を持っていたが、太平洋戦争の影響もあり世界王座に挑戦する機会には恵まれなかった。特に、1941年5月28日両国国技館で行われた笹崎僙戦は日本ボクシング史上「世紀の一戦」と呼ばれるほど有名で、この試合に勝利して以降は「剣聖」宮本武蔵になぞらえて「拳聖」と称されるようになった。

ピストン戦法
対戦相手をロープに追い詰めての休まぬ左右の連打を得意とし、「ピストン戦法」と呼ばれた。その無類のスタミナは、10分間連打でミット打ちを続けてなお息切れ一つしなかったという。堀口の連打が始まると「わっしょい、わっしょい」の大合唱が起こる程の人気であった。


ただし、1936年ハワイ巡業を行った際、日本では熱狂的に受け入れられた捨て身のピストン戦法は、先進国であった当地の新聞に「ボクシングと呼べるものではない」と酷評されている。この頃、既にアメリカのボクシング界ではフットワークやディフェンスの技術が重要視され、攻防一体のスタイルが主流となっており、ディフェンスを軽視した堀口のファイトスタイルは時代遅れのものであった。この時の体験が契機となり剣道空手など武道を通じて精神修養に励み(師匠は小西康裕)、プロボクサーとしてではなく拳闘家として精神力と肉体の練磨に一層努めるようになった。

主な戦績
1933年3月、早稲田大学在学中(後に中退)に日本拳闘倶楽部(日倶ジム)からプロデビュー。
1933年7月3日、元世界フライ級王者エミール・プラドネルフランスの旗 フランス)と8回戦で引き分け。
1934年12月26日、日本フェザー級王座獲得。
1936年5月8日、東洋フェザー級王座獲得。以後1度防衛。
1937年1月4日、デビュー以来40連勝を達成。
1941年5月28日笹崎僙(後の笹崎ボクシングジム会長)に5回TKO勝ち。(試合詳細
1944年1月25日秋山政司に10回判定勝ち。
1946年7月14日、通算100勝達成。
1948年3月28日、日本ミドル級王座獲得。
1950年4月22日、現役引退。

最終戦績176戦138勝(82KO)24敗14分[2]

引退後
戦後はボクシングの他探偵業もしていたが、現役引退から半年後の1950年10月24日午前0時過ぎ、東海道線線路上を平塚方面から茅ヶ崎方面へ歩いている処を列車に撥ねられて轢死。泥酔して自宅に近い下車駅(茅ケ崎)を寝過ごしてしまい、線路沿いを歩いて帰る途中だったといわれている。


1937年にピストン堀口が茅ヶ崎市幸町に練習場として開いていたジムを、長男・昌信が引き継いで「ピストン堀口道場」として同市茅ヶ崎1丁目に開設し、現在は孫にあたる昌彰が会長の座を受け継いでいる。3代続けての早大ボクシング部である[3]。道場にはピストン堀口の書「拳闘こそ我が命」の額が掲げられ、好んだ緑色がジムのマット色になっている。


墓は茅ヶ崎市内の海前寺にあり、墓碑銘に「拳闘こそ我が命」と刻まれている。

エピソード
合気道開祖の植芝盛平の道場へ行き、植芝に対して挑みストレートを打ったが、その手を鷲掴みにして投げられたことがある(塩田剛三『合気道修行』より)。
警察庁逮捕術制定委員を務めた[4]
梶原一騎は若いころ、喧嘩や格闘技にのめり込んでおり、憧れの存在がピストン堀口であった。

映画
・リングの王者(1935年日活、ピストン堀口自ら主演で、清瀬英次郎がメガホンを執った[5]

漫画
・ピストン堀口物語 著者 梶原一騎 影丸譲也   

脚注
1. “4万円”チケットがダフ屋で“60万円”に…戦前の異常人気ボクサー、“拳聖”ピストン堀口とは何者だったのか?(2/4) Number Web 2021年4月25日
2. 
ピストン堀口道場ホームページ「ピストン堀口って?」より 
3. 湘南経済新聞 
4. 『警視庁武道九十年史』404頁、警視庁警務部教養課
5. 
リングの王者 日活

出典・参考文献
ピストン堀口の風景(1988年、ベースボール・マガジン社刊、山本茂著)ISBN 4583027044
・ETV特集 シリーズ父の日記を読む『俺は拳闘家だ! 〜ピストン堀口の「拳闘日記」〜』(NHK教育テレビジョンで1994年9月6日に放送、NHKアーカイブスで2007年9月2日再放送)
・わが人生の時の人々 石原慎太郎 文芸春秋(紹介のエピソードは199ページに所収)

関連項目
男子ボクサー一覧      
ボクシング日本王者一覧


外部リンク
ピストン堀口道場 公式サイト

(wikiより)

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ピストン堀口

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⇧ 拳闘こそ我が命

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 本堂裏の高台にある駐車場近くに有ります。


ジャッキー佐藤
(じゃっきーさとう、本名:佐藤 尚子(さとう なおこ)、1957年10月30日 - 1999年8月9日)は、日本の元女子プロレスラー神奈川県横浜市港南区出身。

経歴

川崎市立桜本小学校在校時から長身で、横浜市立浜中学校在学中はバスケットボール部で活躍。その後結局は1975年3月に神奈川県立商工高等学校を2年で中退し全日本女子プロレスに入門。デビュー戦は同年4月27日のマキ上田戦。 1976年2月24日にマキとビューティ・ペアを結成しWWWA世界タッグ王座を獲得した。ビューティ・ペアは「かけめぐる青春」「真赤な青春」「青春にバラはいらない」などの曲が大ヒットする。当時のビューティ・ペア人気は凄まじく、試合前のリングで歌を披露する際はリングに紙テープや紙吹雪がいっぱいになった。

ジャッキー佐藤名義で「美しい決意」、「ポケット一杯の涙」、「もしも旅立ちなら(B面:Ciscoを探せ)」というシングルレコードも出している。


1977年
11月1日にはマキが持つWWWA世界シングル王座に挑戦。この試合はビューティ・ペア同士の対決として注目され、互いに譲らず60分時間切れ、判定でタイトルを獲得。1979年2月27日には「敗者引退」という過酷なルールでのマキとの再対決は48分7秒、エビ固めで勝ち、マキは引退、ビューティ・ペアに終止符が打たれた。マキ引退後はモンスター・リッパーにWWWA世界シングル王座を奪われるも奪還したが、1981年2月25日のジャガー横田(当時:横田利美)戦で同王座から転落。1981年5月21日に引退式が行われた。


その後、新団体「ジャパン女子プロレス」の設立に参加。1986年8月17日、対神取忍(当時:神取しのぶ)戦で現役に復帰する。しかし、団体内でのトラブルから神取との確執が表面化し、1987年7月18日の神奈川・大和車体工業体育館大会において行われた神取との一騎打ちが壮絶なセメントマッチとなり、敗れたジャッキーは1988年3月20日での試合を最後に現役を引退した。

引退後

引退直後の1988年には体操教室の会社「ジャムナ」を設立する。スポーツプログラマー、ヘルスケアトレーナーの資格を取得し、中高年女性を中心に自らが考案した「ジャムナ体操」を教える。


1999年8月9日8時41分、胃がんのため神奈川県川崎市の病院で死去。41歳没。生涯独身だった。


大のタバコ好きで、にはタバコが納められた。引退後に卵巣がんを患った全女の後輩ナンシー久美の治療生活を精神的に支えており、最期まで私生活でも仲がよかった。ナンシーはジャッキーの姉弟と共に入院中のジャッキーの看護[1]・死後の諸々の後始末にもあたった。


ジャッキーは病名をマキには伝えず、マキはそのことについて「哀しいけど、いつまでもライバルとして見ていてくれたことが嬉しい」と話している。ジャッキーは死の前年に故郷の鳥取で暮らしていたマキを訪ねており、それが今生の別れとなったという[2]


葬儀は横浜市鶴見区總持寺で執り行われた。

タイトル歴
WWWA世界シングル王座

WWWA世界タッグ王座

メディア
テレビドラマ
噂のポテトボーイ 第9話「俺たち女子プロの味方です」(1983年、TBS

脚注
1. ジャッキー佐藤を看取った元女子プロレスラーの現在” (日本語). ライブドアニュース(2019年4月6日). 2021年11月15日閲覧。
2. 元ビューティ・ペアのマキ上田さんは、浅草で釜飯屋の女将に…相方・J佐藤さんとの別れ、そしてコロナ禍|まいどなニュース” (日本語). まいどなニュース(2020年8月31日). 2021年11月15日閲覧。

外部リンク
JAKKIE FOREVER - ウェイバックマシン(2016年7月29日アーカイブ分)
(wikiより)

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⇧ ジャッキー佐藤

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千代の富士 貢(ちよのふじ みつぐ、1955年昭和30年)6月1日 - 2016年平成28年)7月31日)は、1970年代から1990年代初頭にかけて活躍した大相撲力士北海道松前郡福島町出身。第58代横綱。昭和最後の大横綱。本名:秋元 貢(あきもと みつぐ)。血液型はA型

来歴
秋元少年の角界入り

秋元貢は1955年、北海道松前郡福島町で漁師を営む家に誕生。子供の頃から漁業を手伝って自然に足腰が鍛えられ、運動神経が抜群だった。特に福島町立福島中学校陸上競技部では走り高跳び三段跳びの松前郡大会で優勝し[2]、「オリンピック選手もいける」と言われるほどだったが、相撲は大嫌いだった。中学1年生の時に盲腸炎の手術を受けたが、貢の腹の筋肉が厚いために手こずって、予定を大幅に上回る長時間の手術になってしまい、終了直前に麻酔が切れてしまった。それでも必死に耐え続ける体格の良い貢を見た病院長が千代の山の入門の世話をしたことがある若狭龍太郎(当時、九重部屋北海道後援会世話人)に連絡した。九重(千代の山)と、貢の母の実家である大村家が遠縁であり[2]、北海道巡業の際に九重は直々に秋元家に勧誘に赴いたが、貢自身は気があまり乗らず、両親も入門に大反対したため一旦は断っていた。


それでも諦めない九重は貢に対して「とりあえず東京に行こう。入門するなら飛行機[補足 1]に乗っけてあげるよ」[3][4]「中学の間だけでも(相撲を)やってみて、後のことを考えたらどうだ?」などと持ちかけると、貢は飛行機にどうしても乗りたいがために、家族の反対を押し切って九重部屋に入門を決めた。まだ現役であった北の富士も貢と会っているが、その時を後に北の富士は「小さかったよ。だけど、物おじしないで平気な顔で部屋に来たのを覚えている。『おれのこと知ってるか』と聞いたら、『知らない。大鵬なら知ってるけど』。それが初めての会話だった。」と振り返っている[5]。上京前夜には、父が巡業の接待役にあたっていた貴ノ花に会わされ、「坊や、相撲に行くんだって?」「(九重部屋は)親方もいい。横綱もいい。とっても明るくて、いい部屋だよ……坊や、目つきが違うぞ。頑張れよ」と声をかけられた[6]

五文字の関取誕生

中学3年生で[補足 2]本名のまま1970年9月場所初土俵を踏み、翌11月場所序ノ口につき「大秋元」と改名、1971年1月場所序二段に昇進すると「千代の冨士」(1975年1月場所より「千代の富士」[7])と名付けられた[4]四股名の由来は、九重の四股名である「千代の山」と同じ部屋の先輩横綱・北の富士から取られていて、九重からはそれだけの大器と見られていた[8]。上京して相撲を始めたものの陸上への未練も捨てがたく、転入した台東区立福井中学校では台東区立中学連合の陸上競技大会の砲丸投げで2位に入賞する活躍を見せた。ただ相撲には馴染めず、中学校を卒業後に帰郷しようと、1971年3月場所の終了後は荷物を実家へ送り返してしまった。土俵での成績は概ね良好のため、逸材を手放すことを恐れた九重は故郷の後援会会員に世話を頼んで千代の冨士を明治大学付属中野高校定時制へ進学させた。そこで学業と相撲の両立を図ったが、これを妬んだ兄弟子からの折檻を受け、さらに同年7月場所を負け越しで終えると「学校と相撲は両立できない」と6か月で高校を中途退学し、相撲に専念した[3][9]。同年秋ごろに右足首の骨折でやる気が薄れたが、当時東京で上野の松坂屋に勤めていた姉に励まされて踏みとどまった[3]


小兵(幕内定着の頃まで体重は100kg以下)ながら気性の激しさを見せる取り口[4]で順調に出世して、1974年11月場所で19歳5ヶ月にして十両昇進、史上初の5文字四股名の関取となった。異名の「ウルフ」については、ちゃんこ番として魚をさばいているところを見た九重が「みたいだな」と言ったことから名付けられた[3]。当初は狼と呼ばれていたものがいつしか変化したそうで、これを聞いた春日野理事長は「動物の名前で呼ばれる力士は強くなる。ワシは『マムシ』だった。狼は若乃花の昔のあだ名だ」と言ったという。

肩脱臼との戦い

幕下時代は投げに頼った強引な相撲が目立ち、このことが肩の脱臼癖を招くこととなった[10]1973年3月場所13日目、白藤との取組で左腕をねじられた際に左肩を脱臼した。このときは医者に相手にされず湿布でしのいだが、翌5月場所3番相撲、立山との取組で二本差しになり左から投げを打ったところその左腕を抱えられた瞬間に再度脱臼し、休場に追い込まれた。三段目に下がった翌7月場所では場所前の稽古でまた左肩を脱臼したが、痛みに耐えて出場し6勝を挙げた。新十両の1974年11月場所でも11日目の隆ノ里との取組で土俵下に転落した際に左肩を脱臼している。


1975年9月場所で昭和30年代生まれの力士として第1号の新入幕を果たし、2日目に元大関大受からは幕内初白星を挙げる[補足 3]が、相撲の粗さ[補足 4]もあって5勝10敗と負け越した。その後も故障もあって1976年1月場所まで連続負け越しとなり、幕下まで番付を下げる。昭和30年代生まれの力士としての幕内勝ち越し第1号は、当時「北の湖二世」と呼ばれ将来を嘱望された小沼が達成し先を越された。奮起し76年7月場所で帰り十両を果たすが、先天的に骨の形状から両肩の関節のかみ合わせが浅く、左肩を脱臼しやすいという弱点が顕在化し[補足 5]、最初の幕下からの5年間で公式には7回、部屋で半脱臼したものも含めれば10回を超える脱臼を繰り返した[12]。その頃の取り口は類い稀な運動神経を活かし、力任せの強引な投げ技で相手を振り回すのを得意としていたが、それは左肩へますます負担をかけ、度重なる脱臼に悩まされることとなった。けがの影響で2年間を十両で過ごすことになるが、元NHKアナウンサー向坂松彦はこの頃から「(千代の冨士は)ケガ(脱臼)さえなければ幕内上位にいる人だと思う。ウルフと言われる鋭い目はいつの日か土俵の天下を取るものと見ている」と将来性を見抜いていた[13]


1977年10月29日に九重が死去したため、部屋は北の富士が継承した。この頃から師匠(北の富士)の指導で脇を締めて左の下手を取って引き付ける相撲を身に付ける[14]。その成果もあって脱臼も幾分か治まり、1978年1月場所には再入幕を果たした。同年5月場所13日目の対貴ノ花戦は、取組前の「両者とも足腰が良いからもつれるだろう」という実況・解説者の予想を覆して、頭を付けて懐に入ってから強烈な引き付けで貴ノ花の上体を起こし、貴ノ花が左からおっつけるところを一気に寄り切るという会心の相撲で勝利し、大関戦初勝利と勝ち越しを同時に手にする大きな白星となった。この場所、9勝6敗の成績を挙げて初の敢闘賞を受賞。同年7月場所では新小結に昇進し、貴ノ花・旭國の2大関を破る活躍も見せたが、5勝10敗と負け越す。西前頭8枚目で迎え、幕内への定着も見えてきた1979年3月場所の播竜山戦では右肩を脱臼する。全治1年、手術すれば2年という重大なけがで途中休場し入院。脱臼との戦いをまたも強いられることとなった。このときの診察で肩関節の臼が左右とも普通人の3分の2しかないことが発見された[15]。三重県四日市中央病院の院長には「手術すれば半年は稽古ができない」と言われる一方、「もし2カ月で治したいなら筋力トレーニングを行い肩の周辺を筋肉で固めなさい」とアドバイスされた[16][3][17]ことが、肩を鋼の筋肉で固めるというけが防止策を見出すこととなった。毎日500回の腕立て伏せウェイトトレーニングに励み、当時東京都江戸川区に構えていた自宅の8畳の自室を4か月に一度、畳替えをしなければならないほどすさまじいトレーニングだったという[補足 6][18]

三役昇進

1979年5月場所は休場明けで十両に下がり、取組中のケガだったことから公傷制度を利用して肩の治療に専念するはずだった。しかし、手続きの不手際(書類を受け取った担当の親方が書類を鞄に入れたまま提出するのを忘れてしまった[19])で公傷と認められない[17]ことが場所の直前になって発覚したため、このまま休場し続ければ幕下陥落の危機もあったことから3日目より強行出場、9勝を挙げて同年7月場所に幕内へ復帰した。以後は着実に力をつけ、幕内上位に定着することとなる。


肩の脱臼を受けて、それまでの強引な投げから前廻しを取ってからの一気の寄りという形を完成させ[補足 7]1980年3月場所から幕内上位に定着する。横綱・大関陣を次々と倒して人気者となり、特に大関昇進後の増位山に対しては6戦6勝負けなしと「増位山キラー」とされた。同年9月場所には小結で幕内初の二ケタ勝利となる10勝5敗の成績を挙げた(この場所以降引退まで、皆勤場所では全て二ケタ勝利)。同年11月場所に新関脇に昇進すると初日から8連勝した。連勝は九日目輪島に敗れて[補足 8]止まったが11勝4敗の成績を挙げ、大関を目前として1981年1月場所を迎えた。


1981年1月場所は前場所をはるかに上回る快進撃を見せる。輪島を相手得意の左四つからの上手投げ、若乃花を外四つで寄り倒し、いずれも不利な体勢から2横綱を破るなど初日から14連勝を記録。そして迎えた千秋楽(1月25日)、1敗で追いかけた北の湖との直接対決を迎えた。本割では吊り出しで敗れて全勝優勝こそ逃し、北の湖に14勝1敗で並ばれたが、吊り出された時に北の湖の足の状態が不完全であることに気付いて立てた作戦が優勝決定戦で見事に決まり、北の湖を右からの上手出し投げで下し、幕内初優勝を果たした。場所後に千代の富士の大関昇進が決定。千秋楽の大相撲中継視聴率は52.2%[18]、千代の富士の優勝が決まった瞬間の最高視聴率は65.3%に達し、現在でも大相撲中継の最高記録となっている(ビデオリサーチ調べ)[20]。九重は千代の富士の優勝で一番思い出に残る取組にこの優勝決定戦を挙げており、塩沢実信のインタビューでは「やっぱり、初優勝の時ですね。北の湖との本割で敗れて、そして優勝決定戦。あの二番は忘れられません。大関に昇進、横綱に昇進という時は、感激が大きすぎてピンと来ないもんなんです。初優勝した時は、千代の富士の姿を見て涙が出ましたから」と語っていた[4]

ウルフフィーバー

新大関で迎えた3月場所は11勝4敗、5月場所は13勝2敗と連続して千秋楽まで優勝争いに残り、横綱昇進が懸かった7月場所には千秋楽で北の湖を破って14勝1敗の成績で2度目の優勝を果たして横綱を掴んだ。この千秋楽の取組では千代の富士が立合い、得意の左前ミツを取って頭をつけた。北の湖が左をのぞかせ、右からおっつけたが、千代の富士は土俵際、回り込んで右の前ミツも取ると、右上手出し投げで北の湖の体を泳がし、そのまま寄り切った[21]。非常に劇的な瞬間に、千秋楽審判委員として土俵下に控えていた当時の九重親方(北の富士)は勝負が決まった瞬間手で涙を拭った。この日のNHK大相撲中継の視聴率は2017年3月場所終了までの記録で夏場所としては第3位となる36.5%[22]と盛り上がった。横綱昇進の際「2代目・千代の山」の襲名を打診されたが「今の横綱2人分(千代の山+北の富士=『千代の富士』)の四股名の方が強そうだから」と述べ固辞。千代の富士の大関・横綱昇進伝達式の際には、北の富士と、北の富士の配慮で先代九重親方の未亡人が同席していた。横綱昇進伝達式では「横綱の名を汚さぬよう一生懸命頑張ります」と口上を述べた[23]横綱土俵入りは九重と同じ雲龍型を選択した[補足 9]


新横綱となった同年9月場所の2日目、ライバルと言われた隆の里との取組で場所前から痛めていた足を負傷し、新横綱が途中休場という憂き目を見る(新横綱の休場は昭和以降では武蔵山吉葉山に次いで3人目)。新横綱の期待が一転し、一部に「不祥事」「短命か」などの批判もあった[24]。しかし、同年11月場所では12勝3敗の成績で朝汐との優勝決定戦を制して横綱としての初優勝を飾ることで復活を見せた。なお、この場所も14日目に隆の里に敗れ、隆の里はその後も千代の富士の天敵と言えるような存在で千代の富士を長く苦しめた。対隆の里戦の通算成績は12勝16敗で、下位力士(関脇~大関時代の隆の里)相手に8連敗という不名誉な記録も作っている。


1981年は、同一年中に関脇・大関・横綱の3つの地位で優勝するという史上初の記録を達成した[4]。関脇から横綱へ一気に駆け上がるとともに新横綱での挫折、翌場所の復活優勝と、1981年は千代の富士にとって激動の1年であった。一気に大関・横綱への昇進を決めた1年間は「ウルフフィーバー」の年として記憶されている。細身で筋肉質な体型と精悍な顔立ち、そして豪快でスピーディな取り口から若い女性や子供まで知名度が高まり、一種のアイドル的な人気を得た。千代の富士の取組にかかる懸賞の数は他の力士に比べて圧倒的に多く、懸賞旗が土俵を数周してもまだ余る状態だった(大抵の場合3周以上していた)。スピード昇進だったことから、千代の富士が関脇や大関として登場した広告などの記録は、大関時代に『テレビマガジン』における永谷園「味ぶし」の宣伝に登場した例があるものの少ない。

怪我や不幸との戦いと「千代の富士時代」の到来

1982年は3~7月の3場所連続優勝を達成し、初の年間最多勝を記録した。しかし横綱昇進後の最初の3年間は強い時は強いが頼りない部分も見受けられ、1982年7月場所後の『読売大相撲』では「ウルフV3はしたけれど……ひどい、低調しらけ場所」という総評が出されるなど周囲の崩れに助けられたという意見もあった。特に1984年は年明けから振るわず、3月場所は右股関節捻挫で中日から途中休場。同年5月場所は2年ぶりの優勝を目指す北の湖敏満から一方的な寄りを受けて敗れるなど11勝4敗に終わった。同年7月場所は左肩の脱臼で全休。同年9月場所は入幕2場所目の小錦の突き押しにあっけなく敗れ、同年11月場所は1年ぶりに優勝したが、翌年は30歳を迎えるという年齢的な面から「千代の富士限界説」が流れた[25][補足 10]


しかし、千代の富士にとっての本格的な黄金時代は30代に入ってからだった。両国国技館のこけら落としとなった1985年1月場所は全勝優勝を果たして幸先良いスタートを切る。5月場所から廻しの色を青から「黒」に変え、この年には史上3人目となる年間80勝を達成、3年ぶり2度目の年間最多勝にも輝き、「限界説」を一蹴して「千代の富士無敵時代」がやってきた[25]1986年1月場所に天敵・隆の里が引退し、同年3月場所から7月場所までの番付は千代の富士のみの一人横綱となり(7月場所後に北尾が横綱昇進し一人横綱は3場所で解消)、1986年5月場所から1987年1月場所までは5場所連続優勝を達成した(1986年も2年連続3度目の年間最多勝となるが、これが自身最後の同受賞)。


1987年前半は5月場所が10勝5敗に終わるなど崩れ、千代の富士時代は終わりに近づいたとの声も出て「次の時代を担う力士は誰か」というアンケートも実施された[要出典]。しかし1988年5月場所7日目から11月場所14日目まで53連勝を記録して[18][26]そんな声を打ち消し、他を寄せ付けない強さで昭和末期から平成初期にかけての「千代の富士時代」を築き上げた。昭和最後の取組となった11月場所千秋楽で大乃国に破れ連勝を止められたが、53連勝は昭和以降の記録としては2020年7月場所現在、双葉山(69連勝)、白鵬(63連勝)に次いで歴代3位の記録となった。


1989年
1月場所も優勝候補筆頭だったが、8日目に寺尾に敗れて以降は優勝争いから後退、11勝4敗に終わる。4年4ヶ月ぶりに西正横綱として登場した同年3月場所は初日から他を寄せ付けない強さで、14日目に大乃国を破って優勝を決めたが、この一番で左肩を再び脱臼したことで千秋楽が不戦敗となり、表彰式では左手首にテープを巻いて腹に固定して登場、右手のみで賜杯を手にした[補足 11]


さらに、1989年6月には、2月に生まれたばかりの三女・愛がSIDS(乳幼児突然死症候群)で生後わずか4か月足らずで死去した[18][27]。自身や家族が受けた精神的ショックは計り知れず、師匠・九重でさえも「もう相撲は取れないのではないか」と思われるほどだったという。しかし直後の7月場所は首に数珠を掛けて場所入りし、12勝3敗の成績ながらも千秋楽の優勝決定戦にて同部屋の弟弟子・横綱北勝海を下して優勝を果たした[4][27]。この優勝決定戦では2人は仕切りでほとんど目を合わせなかった。立ち上がって北勝海が右ノド輪で攻めたが、千代の富士は左おっつけから差し手争いに持ち込み左四つがっぷりの体勢になった。千代の富士は北勝海が再三右上手を切りにくるのも構わず、出し投げ気味のタイミングのいい上手投げで、28回目の優勝を決めた。この優勝に際して千代の富士は「優勝できて、愛のためにいい供養ができた」とコメントした[28]。同年9月場所には通算勝ち星の新記録を達成し、同年9月28日に大相撲で初となる「国民栄誉賞」授与が決定した。この日は先代九重(千代の山)の13回忌が行われた日でもあり、千代の富士は「苦労をかけた師匠に良い報告ができます」と言った。翌9月29日に首相官邸において、内閣総理大臣海部俊樹から賞が授与された[補足 12]。協会は一代年寄「千代の富士」を満場一致で承認するが、本人は九重とも相談した上で辞退している[補足 13]

1000勝到達〜現役引退

1990年1月場所に優勝回数を30の大台に乗せた。同年3月場所の7日目には花ノ国戦に勝利して前人未踏だった通算1000勝の大記録を達成した[補足 14]。同年5月場所と7月場所は旭富士に優勝を奪われ、旭富士の横綱昇進の引き立て役にもなった。夏巡業で左足を痛めて同年9月場所を全休、35歳という年齢から引退を囁かれたが、同年11月場所に復帰して4横綱の中で14日目に31回目の優勝を決め、同時に北の湖と並び史上1位タイとなる幕内通算804勝目を上げて貫禄を見せ付けた。


1991年1月場所初日に幕内通算805勝目を挙げ、当時の大相撲史上単独1位(2020年7月場所終了後現在では史上3位)の記録を達成したが、翌日の逆鉾戦で左腕を痛めて途中休場。翌場所も全休した。復帰場所となった1991年5月場所は初日に新鋭・貴花田(のち貴乃花)と対戦。貴花田との対戦は5月場所に出場した目的でもあった[27]が、まわしが取れず頭をつけられて寄り切りで敗れた[29]。この時点では引退を否定、翌日の板井戦は勝利したものの納得いく相撲とはほど遠かった。「もう1敗したら引退する」と決意して3日目の貴闘力戦に挑んだが、現役時代で唯一なったとったりを受けて完敗。その日の夜に九重部屋にて緊急記者会見し、現役引退を表明した[補足 15]。会見では冒頭に「体力の限界・・・、気力もなくなり、引退することになりました」と述べた。引退理由として「最後に貴花田と当たってね、若い、強い芽が出てきたな、と。そろそろ潮時だな、と」と貴花田戦の衝撃を挙げた。


日本相撲協会は理事会で功績顕著として全会一致で一代年寄を認めたが、将来的に九重部屋を継ぐことが決まっていたため、同じ九重部屋に所属していた16代・陣幕(元前頭1・嶋錦)と千代の富士自身が所有していた年寄・八角の名跡交換を行い、17代・陣幕を襲名し九重部屋の部屋付きの親方となった。

あと1回優勝すれば大鵬の優勝32回に並ぶところでの引退であり、巷では引退を惜しむ声が高かったが、九重は塩澤実信からのインタビューで「そりゃみんなそう言うし、本人もできればもう一度優勝して辞めたかったんだろうけど、しかし僕は『記録は31回も32回も一緒だ。記録にこだわっちゃいかん。辞める時が大事だ』と言ったんです。そういう意味じゃ、僕も納得したし、千代の富士本人も納得したいい辞め方だったと思います」と答えている。


千代の富士の引退相撲・断髪式は1992年1月場所後に行われた。

引退後

1992年4月に師匠の九重(元横綱・北の富士)と名跡交換し九重部屋を継承。しかし、まもなく陣幕(先代九重)との考え方の違いなどもあり[補足 16]1993年弟弟子の八角(元横綱・北勝海)が10月に九重部屋から独立し八角部屋を創設する際、陣幕を含む部屋付の年寄全員が同部屋に移籍することになった[4]。さらに、施設も旧九重のものを継承し九重の方が部屋を出て行く形となった[補足 17][補足 18]。このため、九重は自宅を改装して部屋を新設した[補足 19]。現在の九重部屋は「大横綱・千代の富士が師匠の相撲部屋」という色を前面に打ち出した部屋になっている[補足 20]


引退後、2010年5月場所まで毎場所に渡って中日新聞に「一刀両断」と題した相撲解説コラムを連載していた(系列紙の東京新聞には「ウルフの目」というタイトルで掲載)。注目した取組や力士に関する独自の解説、相撲界への提言、優勝力士の予想など幅広く執筆していた。優勝力士予想については千秋楽当日でも当たらない場合があった。しかし、親方業の傍ら執筆しているために自分の部屋に所属する力士の情報なども詳細に語られ、新聞の相撲担当記者が書いた記事とは違った魅力がある。晩年には力士の稽古不足・下半身の強化不足を主張し続けた。


日本相撲協会では、1994年武蔵川と揃って役員待遇に昇格し、審判部副部長を務めていたが、評議員が少ない高砂一門に所属しており、さらに一門内でも外様出身[補足 21]であるため、理事に立候補することが出来ずにいた。また、1998年に弟弟子の八角が格上の監事に就任したり[補足 22]、また、長く審判部副部長を務めているのにもかかわらず、理事が務める審判部長には二子山押尾川放駒と大関止まりの理事が3代続いて九重を超えて就任していて、「副部長を務めている」と言うより「部長に昇進できずにいる」という印象が強かった。

しかし、2007年半ばより始まる朝青龍のトラブルや時津風部屋力士暴行死事件で角界が大揺れの中、一門代表の理事・高砂が朝青龍の師匠として責任を問われたことにより2008年2月からようやく理事に就任し、広報部長・指導普及部長を務めた。審判部の職から離れたことでNHKの大相撲中継の解説者として登場することが可能となり、2008年3月場所8日目には15年ぶりに正面解説席で幕内取組の解説を務めた。また、直後の5月場所から東京場所限定でファンサービスの一環として、親方衆による握手会を開催して先着100名に直筆サイン色紙をプレゼントした。その後は日替わりで玉ノ井高田川とともに日本相撲協会のキャラクターグッズを先着100名にプレゼントをした。


その直後の理事選挙には、高砂一門から立候補して当選を果たし、新弟子検査担当・ドーピング委員長を兼任する審判部長に就任した。理事長が放駒に代わった後の体制では巡業部長を務めている。2010年9月場所7日目に正面解説席で解説を務め、この日に自身の連勝記録(53連勝)を超えた白鵬を支度部屋で祝福した。


2012年
の理事改選で再選されるが最下位当選。しかし、改選直後の理事会において、貴乃花とともに北の湖の理事長就任に尽力したことから、論功行賞により2月の職掌任命において、事実上のナンバー2である事業部長に就任した。9月に理事が辞任したことを受けて、総合企画部長と監察委員長も兼任。


北の湖が腸閉塞のため2014年1月場所・初日から7日目までを休場する中で理事長代行を務める運びとなり協会あいさつも担当[30]。あいさつとして「大関稀勢の里が休場致し遺憾に存じます」と述べる[31]


2014年の理事改選では最下位である5票しか獲得できず、11人の候補者中唯一の落選となった。現職の事業部長の落選は史上初であったが、理事・九重への悪評は「豪傑すぎる言動」として常時指摘されており[4]、件の理事選で高砂一門が八角を第1候補に擁立していたことからも、驚きをもって迎えられることはなかった[32]。同年4月の職務分担では委員に降格。友綱(元関脇・魁輝)のように前期に理事を務めた年寄が次の職務分担で委員に降格する例が過去にも存在するが、前期の年寄序列と現役時代の実績を考えれば左遷や冷遇と呼べるものがあった[33]。育成面では前述の千代大海の他に千代天山千代鳳千代丸千代大龍千代の国千代翔馬らを育てている[34]。大鵬以降の一代年寄で弟子が大関に昇進した親方は2016年時点では九重ただ一人である[補足 23]。(ただし前述の通り、一代年寄は辞退している。)

詳しいことは、『千代の富士ウィキペディア』をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E4%BB%A3%E3%81%AE%E5%AF%8C%E5%A3%AB%E8%B2%A2
(wikiより)

126 千代の富士

⇧ 千代の富士

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⇧ 棹石の右側に ほんのちょっと緑色に見える部分は「千代の富士像」です
お墓の場所も把握しやすいと思います。

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甲 吾郎(かぶと ごろう、1870年1月5日明治2年12月4日) - 1923年1月9日[1])は、立川部屋中村部屋、再度立川部屋に所属した元力士。6代立川。本名は五味安吉。山梨県巨摩郡(現・南アルプス市)出身。168cm、90kg。最高位は東前頭4枚目。

経歴
甲 吾郎(かぶと ごろう、1870年1月5日明治2年12月4日) - 1923年1月9日[1])は、立川部屋中村部屋、再度立川部屋に所属した元力士。6代立川。本名は五味安吉。山梨県巨摩郡(現・南アルプス市)出身。168cm、90kg。最高位は東前頭4枚目。

成績
・幕内21場所59勝77敗44休30分預

・通算30場所103勝101敗44休36分預

改名
甲 → 甲斐ノ山 → 甲 → 兜 → 甲 → 立川 [2]

出典
1. 京須利敏・水野尚文『令和三年版 大相撲力士名鑑』(共同通信社) 8頁
2. 大相撲力士名鑑平成13年版、水野尚文、京須利敏、共同通信社、2000年、ISBN 978-4764104709
(wikiより)

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栃光 正之(とちひかり まさゆき、本名:中村 有雄(なかむら ありお)、1933年8月29日 - 1977年3月28日)は、熊本県牛深市深海町(現在の天草市深海町)出身で、春日野部屋に所属した大相撲力士である。最高位は東大関(1962年9月場所、1963年5月場所など)。身長176cm、体重128kg。得意手は左四つ、押し、寄り、上手投げ[1]

来歴

農家の長男で、中学生の時から宮相撲で活躍したが、天草に巡業に来た力士の一団を見て栃錦に魅せられた。1952年、熊本県水俣市で開催された相撲大会に出場した時に春日野部屋の力士から勧誘され、父の反対を押し切って同部屋へ入門し、同年5月場所で初土俵[2]


非力で不器用ながらも、春日野親方(元横綱栃木山)から押し相撲の基本を叩きこまれた。脇を固めハズ押しで攻めるために両脇にを挟んでの押しの稽古をも課せられた[2]が、無類の稽古熱心で師匠の指導を身につけていった。稽古熱心であったが好きであったわけではなく「こんな稽古、田舎にいた頃に比べればへでもないよ」と言って一生懸命取り組んでいた[3]1954年5月場所にて新十両となり、1955年3月場所では十両で15戦全勝優勝を成し遂げ、翌5月場所で入幕した[2]。ここまで初土俵から五分の場所(当時、幕下以下は8番相撲を取る)が1場所あるものの、負け越しがなかった。


なお、15日制になってから十両で全勝優勝した力士は、栃光のほかに内田(後の大関・豊山)、北の冨士(後の横綱・北の富士)、把瑠都栃ノ心の4人がいる。


入幕後はすぐに上位に進出、1956年1月場所では初日に新大関の松登を破り、4日目には横綱・吉葉山から金星をあげた。一時蕁麻疹のために伸び悩んだ時期もあったが、1962年5月場所で3日目に柏戸、12日目に大鵬の両横綱を破るなど13勝2敗と好成績を挙げ、14勝1敗で優勝した弟弟子栃ノ海と同時に場所後に大関昇進を果たした[4][1]。直前3場所前が西前頭4枚目での11勝であり、これが次点にも及ばないことから当時の感覚としてもやや甘めの大関昇進であった[5]。好成績を挙げながら幕内最高優勝には手が届かなかったものの、決して「待った」をしない立派な土俵態度のために名大関と呼ばれた[1][6]。出身地の「牛深」にちなみ「ベコ」(牛)の異名があり[1][2]、土俵態度そのままの実直で礼儀正しい人柄はファンや報道陣などから広く愛された[2]1965年9月場所から6勝9敗、5勝10敗、5勝10敗と3場所連続で負け越して大関陥落(当時の規定)が決定的となり、1966年1月場所の千秋楽限りで現役引退した。この場所12日目の柏戸戦で鯖折りを受けて右ひざから土俵に落ちたが、負けた栃光はいつもの通り直立不動の姿勢で土俵に一礼して引上げ、その土俵態度の良さから観衆が「よくやったゾ!栃光」と声を上げ、盛んな拍手がわきあがった[2]


引退後は年寄千賀ノ浦を襲名し、春日野部屋の名コーチとして栃錦をよく助けていた。親方時代には勝負審判を務めており、1969年3月場所2日目、大鵬が戸田に連勝を45で止められた「世紀の大誤審」の時に土俵下から物言いをつけた検査役が千賀ノ浦であり、1972年1月場所8日目北の富士-貴ノ花戦で北の富士の右手が「つき手」か「かばい手」かで先に物言いをつけたのも千賀ノ浦だった[7][8][2]


1977年3月28日、直腸癌のため東京都中央区内の病院で逝去。43歳没[8]

人物・エピソード
・趣味はゴルフとマージャンで、酒も好きだった。同郷の川上哲治には可愛がられていた。

・2007年にはテレビ熊本「TKUドキュメンタリードラマ 郷土の偉人シリーズ第15弾」として『押し相撲の名大関 栃光正之〜真実一路・待ったなし〜』が放送され、栃光を元幕下力士の両國宏が演じた。

・地方場所であれば当時の春日野部屋が親しくしている出羽海部屋の力士たちと遊ぶことが多かったが、東京場所では栃ノ海が出かけると話し相手がいないのでテレビを見るのが関の山であった[9]

主な成績・記録
・通算成績:577勝431敗11休 勝率.572

・幕内成績:486勝403敗11休 勝率.547

・大関成績:188勝131敗11休 勝率.589

・幕内在位:60場所

・大関在位:22場所

・三役在位:15場所(関脇7場所、小結8場所)

三賞:5回

  ・殊勲賞:3回(1961年3月場所、1962年3月場所、1962年5月場所)

  ・敢闘賞:2回(1959年5月場所、1961年7月場所)

・金星:4個(吉葉山2個、鏡里1個、朝潮1個)

・各段優勝

  ・十両優勝:1回(1955年3月場所)

  ・幕下優勝:1回(1954年3月場所)

場所別成績については、『栃光正之ウィキペディア』をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A0%83%E5%85%89%E6%AD%A3%E4%B9%8B

四股名変遷
・栃光 正之(とちひかり まさゆき)1952年7月場所 - 1966年1月場所(引退)

  ※本名の姓・中村は同名の年寄名跡があるため、そのまま四股名にすることができない。

年寄変遷
・千賀ノ浦 穏光(ちがのうら やすみつ)1966年1月 - 1977年3月(死去)

  ※番付表上は「隠光」と記載された時期あり

参考文献
・ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(1) 出羽海部屋・春日野部屋 』(2017年、B・B・MOOK)

脚注
1. a b c d 『大相撲名門列伝シリーズ(1) 出羽海部屋・春日野部屋 』p29
2. a b c d e f g 北辰堂出版『昭和平成 大相撲名力士100列伝』(塩澤実信、2015年)68ページから69ページ
3. 北の富士勝昭、嵐山光三郎『大放談!大相撲打ちあけ話』(新講舎、2016年)p19
4. 同部屋から2者同時新大関に昇進したため、昇進伝達式は2人一緒に行われた。
5. 琴ヶ濱以降、年6場所制下で大関昇進を果たした力士の中で直前3場所前の地位として、最低のものである。1977年3月に大関特例復帰の規定にあずからず再大関を果たした魁傑も同じく直前3場所前に西前頭4枚目の地位にあったがこちらは14勝での優勝であった。
6. ベースボールマガジン社『大相撲戦後70年史』18ページ
7. 三宅充 「大相撲なんでも七傑事典」128頁(講談社+α文庫)
8. a b 「歴代大関大全」79頁(ベースボール・マガジン社)2014年
9. 『大相撲名門列伝シリーズ(1) 出羽海部屋・春日野部屋 』p60
10. 外傷性左肘関節炎のため途中休場
11. 腎臓炎及び頭痛のため途中休場
12. 角番(当時1969年5月場所までは3場所連続負け越しで大関陥落)

関連項目
大関一覧
(wikiより)

108 栃光正之

⇧ 栃光正之

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師匠は十一代・春日野清隆 ( 元関脇・栃乃和歌 )。


大正十四年 ( 一九二五 ) 五月、第二十七代横綱・栃木山 ( 八代・春日野剛也 ) が、出羽海部屋から分家独立し、創設しました。


昭和三十四年 ( 一九五九 ) 十月、八代・春日野の死去に伴い、部屋所属の第四十四代横綱・栃錦が現役のまま九代・春日野を襲名、部屋を継承し、昭和三十五年 ( 一九六〇 ) 、現役を引退するまでの間、二枚鑑札で部屋経営ににあたりました。


また、九代・春日野は、昭和四十九年 ( 一九七四 ) から同六十三年 ( 一九八八 ) まで日本相撲協会理事長を務めました。


平成二年 ( 一九九〇 ) 一月、九代・春日野の死去に伴い、部屋付の中立親方 ( 第四十九代横綱・栃ノ海 ) が部屋を継承、十代・春日野晃将を襲名しました。


平成十五年 ( 二〇〇三 ) 二月、十代・春日野の定年退職に伴い、部屋付の竹縄親方 ( 元関脇・栃乃和歌 ) が十一代・春日野を襲名し、部屋を継承、今日に至っています。
(案内板より)

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須田 開代子(すだ かよこ、1938年8月2日 - 1995年11月20日)は、日本のプロボウリング選手。東京都出身。


ライセンスナンバー1の女子第1期生。日本国内初の女子プロボウラーとしても知られる。通算タイトル43勝。永久A級ライセンス取得者。日本ブランズウィック社所属。ジャパンレディスボウリングクラブ(JLBC)初代代表。

来歴・人物

1967年の第1回全日本選抜選手権で優勝。1969年プロ入り。同期の中山律子石井利枝並木恵美子と共に、高度成長期を背景にボウリングブームを支えた。


オイルショック
によりボウリングブームが一気に下火になる中、1976年須田は女性だけのボウリング団体「ジャパンレディースボウリングクラブ」を設立。自ら初代代表に就任し、ボウリング業界復興に尽力した(本人の意向で会長とは名乗らず、2代目藤原清子より会長となる。3代目中山律子を経て、現在は石井利枝が4代目会長)。

私生活では男子プロボウリング選手だった西城正明との結婚・離婚を経験している。歌手の田谷力三のファンであり、西城との結婚式では田谷が式中で歌った。


自らを蝕んだ胃癌食道癌を一度は克服して復活を果たした須田であったが、1995年に療養先のアメリカバージニア州内の病院にて心不全のため57歳で死去。


須田のボウリング人生を記した著書に、『須田開代子という生き方―世界一ボウリングを愛した女(ひと)』(笹山生子著 チクマ秀版社版)がある。また、1971年には映画『起きて転んでまた起きて』(東京映画)にプロボウラー役として出演した。

テレビ番組
レディズ・チャレンジボウル(NETテレビ→テレビ朝日)

ザ・スターボウリング(テレビ東京)

関連項目

日本プロボウリング協会

永久シード (プロボウリング)

外部リンク
須田開代子(社団法人 日本プロボウリング協会)
(wikiより)

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⇧ 須田開代子

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舌間宗綱の高弟 : 相羽蜘祐。


〇 双水執流
双水執流(そうすいしつりゅう、そうすいしりゅう)は日本武術柔術居合の流派。

歴史

流祖は、竹内流開祖の竹内久盛の高弟だった二上半之亙で、竹内流の極意皆伝後、二神流体術を創始したが、吉野山中に37日参籠して大悟、二神流を改め、双水執流組討腰之廻と称した[1]。その後、1652年(承応元年)筑前直方に入り、黒田藩の体術指南役として迎えられ、二神半之助正聡(ふたがみはんのすけまさあき)と改名した[1]。その後、正聡は1666年(寛文6年)高弟の田代清次郎に極意を相伝するまで、多くの後進を育成した[1]寛文年間、二神は福岡藩で馬廻組に就き、後直方舌間家によって東蓮寺藩で伝承、寛延四年に舌間宗益によって福岡藩に伝承された。竹内流から派生した流派だが、竹内流では「腰之廻」は1尺2寸の短刀を用いた組討技法を指すが、現在の双水執流では居合のことを「腰之廻」と呼ぶ。なお、江戸期に江戸に伝播したという記録は残っていない。


明治
21年、警視庁に招かれた松井百太郎宗忠(まついひゃくたろうむねただ)によって東京にも伝播しており、現在は福岡と東京にて伝承されている。また昭和以降、海外に伝播した流れもある。


ー尺二寸の脇差を帯しておこなう戦場での組討である腰之廻を中心として、捕手・剣術・居合・槍術短剣など所謂武芸十八般から構成されており、純然たる組討というよりも、総合武術的な要素が強いのが双水執流の技法の特色とされる[1]

系譜

福岡に伝わる系統[2] [3] [4]

三代目以降は、舌間家を中心として栄え、柔術諸流派の中でも古い部類に入り、技法と家系を今日まで正しく伝えているとされる[1]

・二神半之助正聴 - 承応

・田代清次郎則忠 - 寛文六年十一月十四日

・舌間新次郎宗督 - 天和三年四月十五日

・舌間喜兵衛宗一 - 元禄十年八月十二日

・大野弥兵衛宗勝 - 亨保三年五月七日

・舌間作五郎宗廉 - 同十年正月二七日

・榎本久右衛門忠直 - 同十五年十月五日

・舌間七郎宗益 - 元文四年九月十五日

・臼杵九十郎宗直 - 安永三年九月十一日

・舌間眞次郎宗章 - 文化十五年一月十三日

・舌間弥五郎(忘多)宗綱(十一代・十三代)- 天保四年十一月十八日

・舌間愼吾宗継

・青柳喜平正聰

・舌間修三宗聴

・舌間萬三宗利(現在)


東京に伝わった系統(11代舌間宗綱高弟、松井百太郎以降)[5] [6] [7]

・十一代:舌間弥五郎宗綱

   ・松井百太郎宗忠

     ・松井福次郎宗継

     ・佐藤昇一郎 - 大正六年

     ・佐々木章次 - 昭和二年十月

     ・杉山正太郎 - 昭和二年

       ・北島胡空 - 昭和三九年

         ・島村武司

           ・伊藤學

           ・木村昭夫 現在

         ・臼木良彦宗隆 平成十年〜現在

参考文献

・舌間家譜 安永五年二月 舌間宗益(舌間家蔵)

・組討腰之廻口伝書 天保四年十一月 舌間宗章(隻流館蔵)

・双水執流組討目録 安政二年 舌間弥五郎宗綱(臼木家蔵)

・双水執流組討目録 昭和二年十月 松井宗忠(佐々木家蔵)

・双水之流 昭和十六年八月十五日 舌間修三宗聴(隻流館蔵)

・双水執流秘書(隻流館蔵)

・双水執流略史(隻流館蔵)

・武芸 大正四年

・武道家名鑑 昭和五年

・黒田三藩分限帳(福岡地方史談話会)

・『朝野新聞』1910年2月9日東京朝刊 「柔道の奥様 良夫に劣らぬ大怪力」[8]

・郷土の先達 舌間宗益とその業績(紫村一重著 郷土直方第12号)

・双水執流組討腰之廻について 1982. 135 山本義泰『天理大学学報』第33巻第4号

脚注
1. a b c d e 山本義泰「双水執流組討腰之廻について」『天理大学学報』第33巻第4号、天理大学学術研究会、2019年3月、 18-30頁。
2. 双水執流組討目録 安政二年 舌間弥五郎宗綱
3. 双水之流 昭和十六年 舌間修造宗聴
4. 双水執流略史
5. 双水執流組討目録 昭和二年十月 松井宗忠
6. 武芸 大正四年
7. 武道家名鑑 昭和五年
8. 松井百太郎の妻袖子と双水執流道場尚武館に関する記事。

外部リンク
双水執流柔術会 社団法人隻流館

双水執流組討腰之廻 清漣館

江戸伝 双水執流組討腰之廻 光尊会
(wikiより)

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自剛天真流(じごうてんしんりゅう)は、福岡藩伝来の武術の一つ。別名、為勢自得天真流。

概要
創流時は全てのものを武器として使用する綜合武術であったが、現在では主に柔術が相伝されている。古式の技法が数多く残されており、逆手を中心とした関節技、居取、拳法、逮捕術、活法など多彩な技を今に伝えている。また2005年に福岡市無形文化財に指定された[1]

歴史

流祖の藤田麓憲貞は、黒田藩武術指南役の久保貞次のもとで良移心当流を収めた後、柔術の代表である揚心流秋月藩武術指南役の海賀藤蔵直方に師事し、極意皆伝を受けた後、二流に自己の工夫を加えて、為勢自得天真流を輿こした[2]。藤田麓憲貞は、大いに名声を博し、大坂奉行所の武術指南として活躍したが、1839年(天保10年)に病没した。


藤田の一人娘を娶った庄林道ーの在世中、および子息又七郎が相伝のころまでは、良移心当流と為勢自得天真流の両派の名称で指南したようである[2]。又七郎が壮年時に病没したので、高弟達が合議した結果、その流名を白剛天真流と称するようにしたようである。圧林道ーの自著した伝書に自剛天真の巻があり、これに基づいたとされる[2]


庄林藤橘の没後、玄洋社の附属道場明道館が伝承の中心的な役割を担った。また、玄洋社から分かれた黒龍会の創始者内田良平天真館を設立し、自剛天真流の普及につとめた。

伝系

山本義泰によれば以下の通り[2]で、良移心当流の伝系と同一視されている。

庄林家

・藤田麓憲貞(流祖)

・庄林藤原道一(初代)

・庄林又七郎(2代)

・庄林藤橘(3代) - 藤橘の代で庄林家の相伝は絶えた。


明道館道場

・宮川太一郎 - 庄林又七郎の高弟、免許皆伝。

・猪股雲八 - 庄林又七郎と庄林藤橘に師事、免許皆伝。

・坪田必義勝 - 庄林又七郎と庄林藤橘に師事、免許皆伝。

・吉田繁次郎 - 坪田必義勝の高弟、免許皆伝。

・竹田乙麿 - 庄林藤橘と猪股雲八に師事、免許皆伝。

・十時惟隆 - 竹田乙麿の高弟、免許皆伝。

・横田正米清廣 - 竹田乙麻呂の高弟、免許皆伝。

・財部一郎 - 横田正米清廣に師事。


天真館道場

・山田六郎貞信 - 庄林藤橘と猪股雲八に師事、免許皆伝。

西文雄 - 講道館柔道の師範。免許皆伝。伝書類の再興に貢献した。

・藤川恒夫

・野田清美

・前田実

・赤司智治 - 西・藤川・野田・前田の4氏に師事、免許皆伝

・昭和義塾

・赤司智治 免許皆伝 現在、以下4名を師南

・明道館

・石橋晋平 

・昭和義塾道場(タフス道場)

・松田大次老

・昭和義塾道場

・花岡一誠

・恒久尚利 

脚注
1. 平成16年指定文化財” (日本語). 福岡市の文化財. 2020年4月29日閲覧。
2. a b c d 山本義泰「自剛天真流組討について」『天理大学学報体育編』第36巻第4号、天理大学学術研究会、2009年3月、 102-118頁。

外部リンク
福岡市指定無形文化財 為勢自得天真流柔術

・山本義泰「自剛天真流組討について」『天理大学学報』第146号、天理大学学術研究会、1985年3月、 102-118頁、 ISSN 03874311NAID 120005980638

・宗家自剛天眞流保存会ホームページ jigoutenshinryu.jp
(wikiより)

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カール・ゴッチKarl Gotch、本名:Krel Alfons Ceclie Istaz / Karl Istaz1924年8月3日 - 2007年7月28日)は、プロレスラーおよびプロレスのトレーナー。


1961年までは、カール・クラウザーKarl Krauser)のリングネームを名乗っていた。


プロフィール上はドイツハンブルク出身とされているが、実際はベルギーアントワープ出身と言われている[2]。詳しくは「#来歴についての疑問点」を参照。

来歴
生い立ち
1924年8月3日にベルギーのアントワープでドイツ国籍の元、父エドワードと母ヨハナの元に生まれる。本名はカレル・アルフォンス・セシル・イスタス。幼少期にドイツのハンブルクに移り住む。

レスリング
レスリングでは、グレコローマンおよびフリースタイルレスリングのベルギー王座を7回ずつ獲得[3]ロンドンオリンピック1948年)のグレコローマンおよびフリースタイルレスリングにベルギー代表として出場[4]

アメリカのプロレス

1950年、"Karel Istaz" のリングネームでプロレスラーとしてデビュー、ヨーロッパ各地のトーナメントへ参戦。同年、ウィーンでのトーナメントでハープ・ガーウィッグ(後のキラー・カール・コックス)に敗れ準優勝[要出典]。1951年より"Snake Pit"(蛇の穴)の通称でも知られるイギリスビリー・ライレージムビリー・ジョイスについてランカシャーレスリング(キャッチ・アズ・キャッチ・キャン)を練習する。


1959年
カナダへ進出、モントリオールでの興行へ参戦。1960年アメリカへ進出、プロフィール上はドイツ人となり、リングネームとしてカール・クラウザーを名乗る。オハイオ州のMWA(Midwest Wrestling Association)へ参戦すると、1961年にNWAイースタンステーツヘビー級王座を獲得。同年、リングネームをフランク・ゴッチにあやかりカール・ゴッチへ改める[5]。1962年8月31日オハイオ州コロンバスにおいて、友人であるビル・ミラーと共に、NWA世界ヘビー級王者バディ・ロジャースと控え室でトラブルを起こす。同年、ドン・レオ・ジョナサンを破り、オハイオ版AWA(American Wrestling Alliance)世界ヘビー級王座を獲得。1963年9月から1964年11月にかけて、ルー・テーズが保持していたNWA世界ヘビー級王座に9回挑戦するが、王座は獲得できず。


1967年カリフォルニア州ロサンゼルスWWAに参戦すると、同年 "アイアン" マイク・デビアスをパートナーとしてWWA世界タッグ王座を獲得。同年6月30日、大木金太郎が保持していたWWA世界ヘビー級王座にデビアスが挑戦した試合へ乱入し、デビアスの王座獲得を助けたと言われている。1968年アメリカ市民権を取得。1971年WWWF(後のWWE)へ参戦すると、レネ・グレイをパートナーとしてWWWF世界タッグ王座を獲得。しかし、ルー・テーズから「私をもっとも苦しめた挑戦者」と評されながらもとうとう主要王座は獲得できず、「無冠の帝王」の異名を持つ。

日本のプロレス

日本においては、1961年4月に日本プロレスの第3回ワールドリーグに出場するために、カール・クラウザーKarl Krauser)のリングネームで初来日。東京都体育館吉村道明と45分3本勝負で対戦し、1本目にジャーマン・スープレックス・ホールドを日本初公開し、吉村からピンフォールを奪った(試合は1-1で時間切れ引き分け)。

第3回ワールドリーグ終了後の国際試合シリーズにも引き続き参戦し、1961年5月26日に福井市体育館力道山とシングルマッチ(60分3本勝負)で対戦し、1-1で引き分ける[6][7]。この福井での試合が力道山とゴッチがただ一度だけ一騎打ちを行った試合となった。なお、来日中、ビル・ミラー(覆面レスラーのミスター・Xとして来日)と共に控え室でグレート・アントニオへ制裁を加えたという噂がある。1966年7月に再来日、ジャイアント馬場インターナショナル・ヘビー級選手権に挑戦が決まっていたが、怪我で断念した為、馬場とのタイトル戦は実現しなかった。

1968年1月に日本へ移り住み、日本プロレスのコーチに就任。「ゴッチ教室」を開き、アントニオ猪木卍固め、ジャーマン・スープレックスを伝授。さらに山本小鉄星野勘太郎といった当時の若手・中堅選手を厳しく鍛えた。ヨーロッパ仕込みのテクニックの高さから「プロレスの神様」とも称されるという。


その後はハワイで清掃関係の企業をしていた[7]が、1971年3月国際プロレス吉原功社長の招きで、第3回IWAワールド・シリーズに参加。ビル・ロビンソンと5回対戦し、全試合とも時間切れで引き分ける。モンスター・ロシモフ(後のアンドレ・ザ・ジャイアント)とも対戦し、ジャーマン・スープレックス・ホールドを決めるが、レフェリーリング外でダウンしていたためフォールは認められず、ロシモフの逆襲に不意を突かれ敗れる。国際プロレスに所属していたアニマル浜口らを指導する。


1972年1月の新日本プロレス設立に選手兼ブッカーとして助力。1972年3月から1974年8月にかけて、アントニオ猪木と5回対戦し、3勝2敗。1973年10月ルー・テーズをパートナーとしてアントニオ猪木&坂口征二組と3本勝負で対戦し、1-2で敗れる。

アメリカへ戻る
その後、フロリダ州タンパ市の「ゴッチ道場」において、藤波辰巳木戸修藤原喜明佐山聡前田日明らプロレスラーを数多く育成する。1982年1月1日後楽園ホールにおいて藤原喜明エキシビション・マッチで対戦、同年1月8日後楽園ホールにおいて木戸修と対戦したエキシビション・マッチが、プロレスラーとして最後の試合である。

晩年

2006年7月より藤波辰爾西村修が設立した無我ワールド・プロレスリングの名誉顧問に就任。晩年はタンパの自宅に西村が度々訪ね、既に夫人を亡くしていたゴッチの世話を行っていた。2人で夜な夜なワインを酌み交わしながら、プロレス談義に花を咲かせていたという。前田日明はその話を聞き、後輩である西村に恩義を感じている。


2007年7月28日21時45分に、フロリダ州タンパ市にて82歳で死去した。2007年7月30日発行の『東京スポーツ』紙の記事では「大動脈瘤破裂」が死因だったとしている。

来歴についての疑問点
・ゴッチの生年月日についてはいくつかの説が伝えられていたが、2000年代になってからは「1924年8月3日生まれ」でほぼ統一されている。


・「ドイツ・ハンブルク出身」とされているが、「ベルギーのアントウェルペンまたはブリュッセルの生まれで、後にハンブルクへ移住した」とも言われている。また、「父はハンガリー人マジャル人)、母はドイツ人」「"Gotch"というリングネームは母方の姓に由来する」とも「オランダ系でドイツ人の血は引いていない」とも言われている。このため、「ゴッチは(かつて第二次世界大戦においてアメリカと戦った「ヒール」としての)ギミックとしてドイツ人を演じているだけではないか」という意見もあるが、一方で、「ゴッチはナチスについて肯定的な発言を本気でしている」とも言われている。


・ナチスについてはG SPIRITS Vol.46による実娘ジェニン・ソラナカのインタビューによると、ゴッチは父親のエドワードと1943年と1944年と2回にわたって強制収容所に収監されている。父親のエドワードがナチス反対派で、ビラやチラシを配っていたという。何度も逃げようとしたが、その都度捕まり酷い罰を与えられたといい、ろくに食事も与えられず、とにかくいつもお腹をすかせていたという。収容所では鉄道レールを敷く仕事をやらされていたという。そして本誌では、ドイツ人としたのは、ハンガリーやベルギー、オランダといった国ではアメリカ人らには馴染みが無かったからだとしている他、本名はKrel Alfons Ceclie Istaz カレル・アルフォンス・セシル・イスタスで、兄弟はいない一人息子、夫人のエラは水泳の選手だったといい、ふだんの言語はフラマン語を使用していたという。ゴッチの父エドワードがハンガリー系で、ゴッチの母ヨハナ、旧姓ファン・ヘイステレンがオランダ系。母方エラのデルース家は生粋のベルギー人とのこと。ゴッチが結婚したのは1949年9月で、翌年3月に娘ジェニンが生まれている。


・ザ・ベストマガジン9月号増刊平成5年9月発行プロレス王国の本人のインタビューによると、生まれたのは確かにアントワープであるが両親がドイツ国籍で幼少期にハンブルクに移り住み、祖父がハンガリー人で1/4ハンガリーの血が流れているという。父親が商船士、9歳の時に近所のジムで、元グレコローマンのオリンピック王者であるフリッツ・ヤンセンの門下生となったという。13歳の時に鉄製の船具を作る鍛冶屋で働き、並行してトレーニングに励んでいた。ボクシングを1年間練習しウエイトリフティングのジムにも足を運んでいたという。なお、リングネームをゴッチに改名したのは1970年で,母方のファミリーネームからとしている。同雑誌の記述による1945年ナショナル王者をへて1952年にヘルシンキオリンピック出場といった経緯自体実に曖昧で,ドイツ国籍であったがベルギー代表として出場したとしている。


・ゴッチのアメリカ進出以前の経歴については、出典により異なった情報が伝えられている点が多い。例えば、以下のような経歴が紹介されたことがある。


  ・ナチス統治下のドイツにおいて、9歳よりレスリングを始める。

  ・16歳でアマチュアレスリング全ドイツ・ヘビー級王座を獲得[8]

  ・ヘルシンキオリンピック1952年)のグレコローマンスタイルレスリングに出場、銀メダルを獲得[9]

  ・1954年より2年間、ビリー・ライレージムでランカシャーレスリングを練習する。

  ・1956年ヨーロッパでプロレスデビュー。


・ゴッチが初来日の時に「クライザー」と名乗っていたのは、元々来日する予定であったクライザーというプロレスラーが来日できなくなり、代役として来日したためであるという「ゴッチ代役説」が伝えられている。この説では、ゴッチが「クラウザー」という類似したリングネームを使っていた事実はなかった(もしくは単なる偶然)とされる[注釈 1]。また、代役としてゴッチを推薦したのは、ビル・ミラーとも言われている。この説とは別に、「クライザー」というプロレスラーが来日するはずが、なんらかの手違いにより「クラウザー」ことゴッチが来日してしまったという「ゴッチ人違い説」も伝えられている。元々来日する予定であったプロレスラーは、カロル・カルミコフのリングネームも使っていたカロル・クラウザー(Karol Krauser)とも言われている。


1962年8月31日にオハイオ州コロンバスのフェアグラウンズ・コロシアムにおいて、ジョニー・バレンドと対戦予定であったNWA世界ヘビー級王者バディ・ロジャースが「控え室でカール・ゴッチとビル・ミラーに襲われて負傷した」と訴え、その日の試合を欠場した(公演自体は行われ、ロジャースの代役としてジャイアント馬場がバレンドと対戦したが、入場料の一部は払い戻しとなった)。ゴッチとミラーは警察署に出頭して逮捕され、保釈金を支払って釈放された。ロジャースが「急に閉じられたドアに手を挟まれて負傷した」と主張したのに対し、ゴッチとミラーは「平手で一発ずつロジャースの顔を殴っただけで、負傷させるつもりはなかった」と反論した。ゴッチとミラーは「ロジャースには次にオハイオを訪れた時にわたしたちの挑戦を受けることを要求したのに、負傷させては意味がない」「わたしたちがロジャースを負傷させるつもりであれば、手を負傷した程度で終わるはずがない」とロジャースを負傷させたことを否定したが、ロジャースは複数のプロモーター、プロレスラーから恨まれていたため[11]、何者かがゴッチとミラーに依頼してロジャースを負傷させたという憶測が絶えなかった。なお、ロジャースはしばらくして試合に復帰したが、1963年1月24日にルー・テーズに敗れてNWA世界ヘビー級王座を奪われた。一方、ゴッチはこの事件の2週間後にオハイオ版AWA世界ヘビー級王座を獲得すると、その後はテーズと互いの王座を懸けて対戦するなど、アメリカにおける全盛期を迎えた。この逸話はかつては梶原一騎などによって「ロジャースは人気ばかりで実力がなかったからゴッチに控室でKOされた男として最低の恥をかかされた(『プロレススーパースター列伝』でのリック・フレアーの台詞)」などと誇張して伝えられ、ロジャースが未来日だったこともあって日本でのある時期のロジャースの印象を一部で低下させた。

詳しいことは、『カール・ゴッチウィキペディア』をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B4%E3%83%83%E3%83%81
(wikiより)

117 カールゴッチ

⇧ カール・ゴッチ

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初汐久五郎の師匠。

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初汐久五郎の兄弟子。

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陣幕久五郎の師匠。

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第十二代横綱陣幕久五郎百回忌法要記念碑。

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⇧ 陣幕久五郎

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第十二代横綱 陣幕久五郎の手形
(石碑文より)

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⇧ 陣幕久五郎

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尾道陣幕久五郎会


柳 創立十五年記念植樹


二〇十二年四月吉日
(案内板より)

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 画像左端。



陣幕 久五郎(じんまく きゅうごろう、文政12年5月3日1829年6月4日) - 明治36年(1903年10月21日)は、出雲国意宇郡意東村(現・島根県松江市東出雲町下意東)出身の元大相撲力士。第12代横綱(江戸最後の横綱)。本名は石倉 槇太郎(いしくら まきたろう)。「負けず屋」と言われた強豪で、明治維新の後に大阪頭取総長となり横綱の代数を創案した[1]

来歴
文政12年5月3日(1829年6月4日)に、出雲国意宇郡意東村の農家に生まれる。14歳だったある日、兄と友人の3人で小舟に乗って海釣りを楽しんでいると、昇った月が3個に分割してその間に3個の星が出ているのが見え、左から右へ旋回する様子が15分ほど見られた。3人の中で自分だけが見えたため、愼太郎は以前から好きだった相撲で名を挙げなければならないと決心して力士を志した。弘化4年(1847年)、大坂相撲の巡業へ飛び入り参加して自信を持ち、尾道の土地相撲へ加入してその力量を認められると同時に、黒縅槙之助と名乗って同郷の力士・初汐久五郎の弟子となった。


嘉永元年(1848年)に初汐が没すると、巡業に飛び入り参加したことがある大坂相撲に戻り、朝日山四郎右衛門の門人となって嘉永3年(1850年)11月場所に初土俵を踏む。安政4年(1858年)1月場所で新入幕を果たすと、江戸相撲へ加入して秀ノ山部屋に所属する。当初は徳島藩の抱え力士として出発したが、途中で松江藩の抱え力士となり、元治元年(1864年)10月以降は薩摩藩の抱え力士となった。この所属替えが、後に明治以降における陣幕の活動を助けることとなるが、度重なる所属替えは徳島藩士の陣幕への嫌悪へ繋がった。


慶応
2年(1866年)11月場所で大関へ昇進し、慶応3年(1867年)正月に五条家から、同年10月に吉田司家から江戸時代で最後となる横綱免許が授与された。


同年4月場所7日目、陣幕は徳島藩の抱え力士で、かつては共に「阿波の四天王」と称されたこともある強豪力士・鬼面山谷五郎と対戦。土俵脇の砂かぶりでは徳島・薩摩の両藩士が刀の柄に手をかけ、立行司・式守伊之助も顔面蒼白になるという一触即発の重々しい雰囲気の中、両者は待った2度、水入り2度の後に引き分けた。水入りの際の場内の大騒ぎは、天地も崩れるほどだったと伝わる。


陣幕が横綱として相撲を取ったのは同年11月場所までと非常に短期間で、その後は明治維新の動乱に巻き込まれていく。


慶応3年12月25日1868年1月19日)、江戸・三田で発生した薩摩藩邸焼討事件の直前に偶然近くを通ると、たむろする武士達を見て即座に藩邸への襲撃を予知し、汐留の船宿から早船で本所の自宅に戻り、藩抱えの力士全員を召集した上で、妻と別れの盃を交わすと早船で芝の藩邸に戻った。しかし、藩邸は既に庄内藩士らの手によって焼き討ちされたため、陣幕は川崎の漆田の家まで走って向かい、知人に対して大坂にいる西郷隆盛へ急を知らせる手紙を送るように頼んだ。この手紙は慶応4年1月2日(1868年1月26日)に西郷の元へ届けられた。戊辰戦争では官軍の荷駄掛かりや、京都に上って薩摩藩主・島津忠義の護衛を担当した。


その後は東京相撲を離れ、年寄・陣幕として大阪相撲の頭取総長を務め、大阪相撲を東京相撲と同等にまで引き上げる活躍を見せた。明治6年(1873年6月6日には大阪造幣寮での天覧相撲において大阪相撲頭取総長として取組を編成したが、陣幕が決めた編成に西郷隆盛が納得せず、強引に大関・八陣の対戦相手を務めるように命じられた。当時既に引退から3年が経過していたために勝利することなど出来ず、『行在所日記』には「東方薩摩の陣幕は 大坂の八陣に負けたりければ 流石の西郷も座に耐えずして 蒼惶として拝辞して退きけるとぞ」と書かれている。これが元で明治13年(1880年)9月場所限りで廃業し、実業家へ転身した。


明治21年(1888年)5月には、靖国神社での大祭奉納大相撲で横綱土俵入りを奉納したほか、明治29年(1896年)には力士として初の自伝「陣幕久五郎通高事跡」を著した。実業家としては、とりわけ相撲関係の建碑事業に奔走し、明治33年(1900年)に竣工した東京・深川の富岡八幡宮の「横綱力士碑」を建てるなど、全国各地に相撲に関する碑を建てた。元勲元老を始めとする政財官界の大物が陣幕の建碑活動に全面的に協力しており、かつて薩摩藩抱えだった経歴を十二分に活用する形となった。


晩年は相撲興行中に限って、東両国の日除地の一角で横綱煎餅を販売していたと伝わる。明治36年(1903年10月21日に死去、74歳没。陣幕は遺言通り、生前に作らせた75kgの檜製の棺に横綱を巻き付けて葬られた。

陣幕の墓は東京都品川区の光取寺と、広島県尾道市光明寺にある。

詳しいことは、「陣幕久五郎ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%A3%E5%B9%95%E4%B9%85%E4%BA%94%E9%83%8E
(wikiより)

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⇧ 陣幕久五郎

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稲妻 雷五郎(いなづま らいごろう、1802年[1] - 1877年3月29日)は、常陸国河内郡阿波崎村(現・茨城県稲敷市)出身の元大相撲力士。第7代横綱。本名は根本 才助(ねもと さいすけ)。

来歴

1802年頃に常陸国河内郡阿波崎村(現・茨城県稲敷市)で生まれる。佐渡ヶ嶽部屋へ入門後に錦嶋部屋へ移籍し、松江藩抱えの力士となった。


1821年2月場所、「槇ノ嶌」の四股名で幕下から初土俵を踏む。1824年10月場所で新入幕を果たすと同時に「稲妻」に改名すると、その場所では7勝1預2休の好成績を挙げ、1825年1月場所では小結に昇進する。その後もトントン拍子に出世していき、1827年には大関へ昇進した。看板大関ではなく、平幕1場所・小結2場所・関脇3場所を務めた後の大関昇進は異例の速さで、雷電爲右エ門をも凌ぐほどである。


1828年に京都・五条家から紫の廻しと注連縄、1829年には吉田司家から横綱免許を授与された。これによって両者の間で紛争が起きたが、徳川家斉の上覧相撲に際して阿武松緑之助とともに横綱土俵入りを披露する必要が生じたため、最終的には吉田司家側が折れる形で決着が付き、1830年には横綱免許が正式に授与された。その後は阿武松緑之助と競い合って江戸時代後期の相撲黄金時代を築き上げ、当時の川柳には


  ・雷電と 稲妻雲の 抱えなり

  ・稲妻は もう雷電に なる下地


などと詠まれ、雷電と比較されるほどの強豪力士だったことが伝わる。


現役引退後は雲州相撲の頭取を務めたが、藩財政緊縮の動きの中で抱えの力士が減少したため、大きな任務が無いまま終わった。一方で力士の粗暴を戒め、精神の鍛錬を進めた「相撲訓」を著し、死去する直前の辞世では「稲妻の 去り行く空や 秋の風」と残すほどの風流人だったといわれる。墓は、原宿の日蓮宗妙円寺(渋谷区神宮前)に存在する[2]

人物
怪力で知られ、銭が山ほど詰まった重い火鉢を片手で持ち上げ、煙管の火を着けるほどだったと言われる(エピソードを参照)。引退後の1859年に、神祇管領から「ゆうだすき」という白い麻綱を贈られ、横綱の一種と解して三つの横綱免許を持つ唯一の力士とする見方もある。

エピソード

・ある時、青山にあった質屋が、普通の人では両手を使っても持ち上がらない唐金製の火鉢の底に、天保銭10貫(100枚)を隠して埋めた。今日ばかりはいつものようにはいくまいという家人の視線をよそに、稲妻が火鉢を左手に取って、空いている右手のキセルに火を吸い付ける様子は、人が普通にタバコ盆を扱うのと変わりがなかった。その怪力に驚嘆した質屋は、その天保銭入り火鉢をそのまま稲妻へ贈ったという。

・五条家から横綱免許を授与された時に宮中へ召され、仁孝天皇が御簾の中から見たが、頂戴した清酒4斗樽2駄(200kg)を両手に下げたまま静かに後ずさりして階を降りたと伝わる。

山咲トオル中沢初絵は稲妻雷五郎の玄孫にあたる[3]

詳しいことは、「稲妻雷五郎ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
(wikiより)

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稲妻雷五郎

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加藤 大治郎(かとう だいじろう、1976年7月4日 - 2003年4月20日)は、埼玉県浦和市(現さいたま市)出身のオートバイロードレースレーサー。血液型A型。


愛称は「加藤くん」「大ちゃん」「大治郎くん」「大治郎」。以下、「大治郎」と表記する。

来歴

ポケバイ・ミニバイクレース時代

3歳の誕生日に両親からポケットバイクをプレゼントされたことをきっかけに[1]、5歳の時にポケバイでレースに初出場[1]。自宅近くのサーキット秋ヶ瀬に通うことになる[1]武田雄一亀谷長純(大治郎の従兄弟)、阿部典史といった後のロードレースライダーが秋ヶ瀬に集っており、大治郎は彼らと競うことで腕を磨いていった。秋ヶ瀬のオーナーの息子であり、後のフォーミュラ・ニッポンチャンピオンとなる本山哲を兄のように慕っていた。


11歳のときにミニバイクレースにステップアップ、連戦連勝を誇った。

ノービス時代

1992年にロードレースにデビューする[1]。16歳になりバイクの免許とロードレースライセンスを取得。1993年に九州・熊本のホンダ系名門チーム「Team高武」に加入。九州選手権の3クラス(GP250、GP125、SP250)で出場した全てのレースで優勝し、3クラス全てでチャンピオンを獲得。関東選手権、鈴鹿選手権でも勝利を重ねた。Team高武には先輩に柳川明宇川徹、同年代に玉田誠、後輩に中冨伸一清成龍一がいる。


当時高校生だった大治郎は、レースの度に住んでいた埼玉と熊本を往復していた。両親の方針もあってレースがあるからといって高校を休むことは無かったという。

全日本選手権時代

1994年、2階級の特別昇格により国際A級ライセンスを取得する[1]。Team高武から全日本ロードレース選手権GP250クラスにフル参戦。マシンはホンダRS250R。転倒の相次ぐシーズンだったが、終盤のTIサーキット英田で初優勝をとげる。鈴鹿8耐にも初参戦。辻本聡とのペアで挑むもリタイアに終わる。


1995年、前年の活躍を受けてHRCからワークスマシン・ホンダNSR250(型落ち)を貸与される。2勝を上げランキング5位。1996年には4勝でランキング2位。ロードレース世界選手権日本GP鈴鹿)にスポット参戦、3位に入る。


1997年、ホンダワークスのカストロール・ホンダに加入、チャンピオン候補の筆頭となる[1]。シーズン開幕前に交通事故に遭った大治郎は全日本開幕戦を欠場、スポット参戦予定の日本GPへの参戦も危ぶまれたが、大治郎は欠場を促す医師を「絶対に勝つから」と説得、骨折を抱えた体で日本GPに臨んだ。予選3位からスタートし、ホンダの先輩でGPレギュラーの宇川徹、1993年GP250クラス世界王者の原田哲也とトップ争いを繰り広げ、最終ラップの最終コーナーでトップに立ち、優勝。全日本でも8勝を上げ、初の全日本チャンピオンに輝く[1]


チャンピオンとして臨んだ1998年、HRCがNSR250をフルモデルチェンジ、熟成が進まず大治郎のみならず世界選手権でもホンダGP250勢は不振に陥った。その中でも日本GPを連覇、改めてその才能を世界にアピールするも、全日本では1勝も上げることなくランキング8位に低迷してしまう。


前年の苦悩を繰り返すまいと、1999年はNSR250の開発に尽力した。ヤマハ松戸直樹とのタイトル争い。後半戦に4連勝と巻き返したが、最終的に松戸とポイント・勝利数・上位順位獲得回数で並び、レギュレーションによって前年のランキングが上位だった松戸にチャンピオンの座を奪われた。

世界GP250ccクラス時代

2000年、イタリアのグレシーニ・レーシングに加入し、GPライダーとしてロードレース世界選手権GP250クラスにフル参戦。第3戦日本GP(鈴鹿)で宇川徹、中野真矢との三つ巴を制してシーズン初勝利[2]、シーズン終盤にも3勝をあげ計4勝、ランキング3位[1]。第15戦パシフィックGP(もてぎ)では、ヤマハの中野真矢ファステストラップの応酬によるハイレベルなトップ争いを展開し優勝。この年の鈴鹿8耐には宇川と組んで出場し、最多周回記録を更新しての初優勝[1]。表彰台で宇川とともにツナギを脱いでファンにプレゼントした。


GP2年目の2001年、前年チャンピオンのオリビエ・ジャックをはじめ中野・宇川らランキング上位のライダーがGP500にステップアップ。GP250は大治郎の独擅場かと思われたが、前年までGP500に参戦していたアプリリアの原田哲也と一騎討ちとなる。開幕4連勝でダッシュをかけた大治郎に対し、原田は2位に入ることが多く、大治郎の落としたレースを拾ってなんとか喰らいついている状態だった。徐々に2人のポイント差は広がり、第15戦マレーシアGPで大治郎は自身初の世界チャンピオンに輝く。最終戦リオGPにも勝利し、GP250クラスの年間最多勝記録に並ぶ11勝を上げ、チャンピオン獲得に花を添えた[3] 。翌年、この功績を称え、文部科学省から「スポーツ功労者顕彰」が贈られた[3]

MotoGPクラス時代
2002年、最高峰クラスにステップアップ。最高峰クラスはこの年から「MotoGPクラス」と名称が変わり、それまでの2st500ccマシンに加え、4st990ccマシンが参戦できるようになった。チャンピオン、バレンティーノ・ロッシの乗るホンダ・RC211Vなど、4stマシンの多くは大治郎の乗るホンダ・NSR500をはじめとする2stマシンの能力を大きく上回り、ほとんどのレースにおいて2st勢は優勝争いに加わることは無かった。スペインGPでは2st勢としてのシーズン最上位タイとなる2位を獲得するなど活躍。第10戦チェコGPからRC211Vを供給されるに至る[1]

チェコGPでいきなり2位に入り、パシフィックGPではポールポジションを獲得。MotoGPクラス初優勝が期待されたがリタイア、それ以降も優勝できないままシーズンを終えた。

前年、体の小さい大治郎は大きくパワーのあるMotoGPマシンを扱いきれなかったことから、2003年初優勝を遂げるべく、オフシーズンに肉体改造に取り組んだ。ウィンターテストにも熱心に取り組み、王者ロッシから最大のライバルとして名前をあげられた。


確たる自信をつかめないままスタートしたシーズン開幕戦、日本GP(鈴鹿)、予選は好調といえない状態で11位。決勝ではまずまずのスタートをきり、4位争い集団につけた。3周目、130Rの立ち上がりでマシンが左右に激しく揺さぶられ、コントロールを失い、立て直そうと試みたもののその先のシケインのスポンジバリアに激突した。発生から激突までわずか2秒ほどであった。ヘリコプターで病院に搬送され意識不明の状態が2週間ほど続いたが、4月20日未明、脳幹梗塞のため夭折する。26歳[4]


2004年5月8日、イタリアミサノ市で、ミサノ・サーキットのメインゲートに通じる新しい道路が完成し、加藤大治郎を称えて「viale daijiro kato」(加藤大治郎通り)と命名された[5][6]

その他
・生前、野球チームを作りたいと話していたことから、彼の仲間が集まり「レーサーズ」という野球チームが結成されている。将来は本山哲の後を追うように四輪レースに転向したいという事もほのめかしていたが、叶わなかった。

・愛車はポルシェ・911ターボ。事故で亡くなった後は、本山が所有している。

・自身が優勝した2000年の第15戦パシフィックGP(もてぎ)のレース後、2位に敗れたヤマハの中野真矢はインタビュー中に涙を浮かべるほど悔しがっていた。後日中野は「レース中、周りの風景がゆっくり流れるように見えた。それくらい集中していた。それでも勝てなかった。」とコメントした。

・2001年のシーズンオフ、欧州から帰国した加藤と、日本での親善試合を終えたサッカーイタリア代表成田空港で鉢合わせた際、加藤のファンだったアレッサンドロ・デル・ピエロがサインを求め、加藤も快く応じた。しかしながら報道陣の多くが加藤のことを認知しておらず、サッカー界の世界的なスタープレイヤーが、日本人の若者にサインを求める様子を見た日本のサッカーの番記者達は、「あの日本人は何者だ?」と騒然となった。このエピソードは、欧州における2輪レースの人気が日本ではほとんど知られていないことや、チャンピオンですら一般的には殆ど知名度が無いという状況を象徴するものとして、しばしば紹介される。ただしこれについては、デル・ピエロが大の親日家であった点には留意する必要がある。

・元チームメイトのセテ・ジベルナウ選手は、加藤選手の死後、優勝した時は天に指を指して加藤大治郎氏に優勝を捧げるポーズを行なっていた。

詳しいことは、「加藤大治郎ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E5%A4%A7%E6%B2%BB%E9%83%8E
(wikiより)

08 加藤大治郎

加藤大治郎

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力道山(りきどうざん、1924年11月14日 - 1963年12月15日)は、プロレスラー大相撲力士。本名・戸籍名・日本名:百田 光浩(ももた みつひろ)。旧名・出生名・朝鮮名:金 信洛(きん・しんらく、キム・シㇽラク、김신락、Gim Sinrak / Kim Sinrak)。身長176cm(プロレス時代の公称身長は180cm)、体重116kg[1]

生涯
生い立ち
日本統治時代の朝鮮咸鏡南道洪原郡新豊里(現在の北朝鮮統治範囲)で朝鮮人の両親のもとに生まれた。

力士時代
二所ノ関部屋に入門し[2]1940年5月場所初土俵1946年11月場所に入幕し、入幕2場所目の1947年6月場所に前頭8枚目で9勝1敗の星をあげ、横綱羽黒山大関前田山、同東富士ら3人と相星となり、この場所から設けられた優勝決定戦に出場した(優勝は羽黒山)[3]1948年5月場所では横綱照國とこの場所優勝した大関東冨士を破り、さらに横綱前田山には取り直しの末、前田山の棄権によって不戦勝となって殊勲賞を受賞している[1][3]


なお、この年に力道山の生まれた朝鮮半島に韓国北朝鮮が建国されたが、その後も力道山は自分の出自をマスコミに公開しないままであった。1949年5月場所に関脇に昇進するが、1950年9月場所前に突然、自ら髷(まげ)を切り廃業。民族の壁に阻まれて大関に昇進できなかったため廃業を決意したという説が良く語られるが、場所別成績の通り、関脇で勝ち越すのが精いっぱいであり、大関に昇進できるような星は残していない。力道山は酔うとあたりかまわず暴れることで周囲から疎んじられた。師匠の二所ノ関親方との間にはこのような素行への叱責を受けるだけでなく、金銭問題を含むトラブルを多く起こしていた。これが引退の引き金と考えるのが妥当である[4][5]。相撲界から引退時、百田の戸籍に長男として入籍[6]

大相撲時代の成績
・通算成績:135勝82敗15休 勝率.622

・幕内成績:75勝54敗15休 勝率.581

・現役在位:23場所

・幕内在位:11場所

・三役在位:6場所 (関脇3場所、小結3場所)

・三賞:1回

  ・殊勲賞:1回 (1948年5月場所)

・金星:2個(東冨士1個、照國1個)

・各段優勝

  ・幕下優勝:1回 (1944年5月場所)

  ・三段目優勝:1回 (1942年1月場所)

場所別成績については、「力道山ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%9B%E9%81%93%E5%B1%B1

四股名変遷
・力道山 信洛(りきどうざん のぶらく)1940年5月場所 - 1942年1月場所

・力道山 光吉(りきどうざん みつよし)1942年5月場所 - 1944年5月場所

・力道山 光浩(りきどうざん みつひろ)1944年11月場所 - 1950年9月場所

プロレス転身
その後二所ノ関部屋の後援者新田新作[7]が社長を務め、当時本牧にあった新田建設に資材部長として勤務。

次男の光雄によれば「建築現場の監督をしていた」という[8]ナイトクラブでの喧嘩が元でハワイ出身の日系人レスラーハロルド坂田(トシ東郷)と知り合い意気投合した(「プロレス修行」の項参照)[3]1951年9月30日から、アメリカフリーメイソン系慈善団体「シュライン英語版フリーメイソン#関連団体も参照)」が、当時日本を占領下に置いていた連合国軍への慰問と障害者チャリティーを兼ねて、母国からボビー・ブランズら6人のレスラーを招きプロレスを開催していたが、坂田もこの一員だった。力道山は坂田の勧めで練習を見に行き、プロレス転向を決意し、港区芝にあったシュライナーズ・クラブで指導を受けるようになった。


1952年
2月、アメリカに渡り、ホノルルで日系人レスラー沖識名の下で猛特訓を受けた。翌年帰国して新田新作と興行師永田貞雄の助力を得て日本プロレスを設立する[3]シャープ兄弟を招聘し、1954年2月19日から全国を14連戦した初興行は、1953年テレビ放送が始まったことに追い風を受け、全国民の支持を受けて大ブームとなる[3]。この興行でシャープ兄弟組と戦う時の力道山のタッグパートナーは、戦前戦中に日本柔道史上最強と謳われる木村政彦だった。しかし、木村は相手の技を受ける等のプロレス独特のスタイルに適応できず[9]、シャープ兄弟との戦いでいつも負け役を担わされ、その木村を力道山が空手チョップで救いだし、相手レスラーを倒すという一連の展開に嫌気がさし、力道山との間に亀裂が入るようになった。

後に木村は力道山とは袂を分かち、自身の団体で興行を打つものの、観客動員は芳しくなく、金銭的に窮地に陥った[10]木村は朝日新聞記者に「力道山のプロレスはジェスチャーの多いショーだ。真剣勝負なら負けない」と挑戦を表明した。この一連の流れが「昭和の巌流島」といわれる謎の試合に繋がっていった。

1954年12月22日、力道山は挑戦に応じ「相撲が勝つか柔道が勝つか」と騒がれたプロレス日本ヘビー級王座の決定戦が行われた。この試合は、力道山側によるレフェリーハロルド登喜」の選定、木村側のみ当身禁止という力道山側に有利なルールで行われた。しかし、木村側の証言によれば、本来この試合は、あくまで勝敗の決まったプロレスであり、東京をはじめ、大会場で両者勝敗を繰り返しながら全国を巡業する予定であったという[11]。しかし、初戦で木村の急所蹴りに激怒した力道山が突如と殴りかかり、そのまま張り手と執拗な蹴りの連打で、戸惑ったままの木村政彦をそのままKO。倒れた木村は大量の血を吐き、マットには大きな血だまりができた。この通常のプロレスと違う顛末に観客たちも驚き会場は静まりかえったという。この力道山が激怒したとされる急所蹴りについて、幾つかのスポーツ紙においては力道山が木村の胴へ右足裏での飛び蹴りを浴びせたことが由来とする報道もあり[12]、鮮明な映像がない当時の記録では、事の詳細は不明となっている。後日、力道山が木村が試合前に渡したと言われる「1試合目は引き分け」と書かれた念書をマスコミに公開し、この試合がいわゆる八百長崩れであったと証言する。後年、力道山と木村は仲介人を得て和解するものの、21世紀になる今日でも当時の試合舞台裏については謎が多く、様々な憶測や意見が出されることで、この試合をモチーフとし書かれた小説、エッセー等が存在する。近年では、ノンフィクションを謳う増田俊也著の 『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』が主に木村視点での綿密な取材を行い、ヒットしたことで話題となった。

1955年キングコングを破ってアジアヘビー級王座を獲得。同年、横綱東富士がプロレスに転向した。この時期には、後援者であった新田氏の力道山を押さえ日本プロレスを実質的に手中におさめようとする動き [13]など、力道山にとっていくつかの危機があった。特に厳しかったのは、第1次プロレスブームが去ったことである。1957年頃は客が入らず、地方巡業では金の未払いもあった。そんななかで、1958年、ロスアンゼルスでルー・テーズを破ってインターナショナル・ヘビー級王座を獲得。これによって下火になったプロレスブームに一気に火がついた。1959年には第1回ワールド大リーグ戦を開催し優勝する。ワールド大リーグ戦はその後1963年まで連続優勝。1962年フレッド・ブラッシーのNAWA世界王座に挑戦、奪取とみられたが、その後、クレームが付き、保留。新たに初代WWA世界ヘビー級王者と「追認」された(WWA世界ヘビー級王座は、当時NWA世界ヘビー級王座から分裂していた王座である)。力道山はルー・テーズパット・オコーナーカール・ゴッチのようなストロングタイプともジェス・オルテガフレッド・ブラッシーのような悪役・怪物タイプとも名勝負を残しているが、後者の方が手が合ったようである。


1958年
4月、力道山を慕って韓国から密入国して横浜で逮捕された金一を、後見人である自民党副総裁大野伴睦の政治力で日本在住を認めさせ、門下生にし、大木金太郎のリング名を与え、韓国名を用いることを厳禁した[14]


1963年1月、韓国側の招きで韓国を訪問し、金浦空港で体育協会、レスリング関係者約60人に出迎えられた。記者会見で「20年ぶりに母国を訪問でき感無量です。長い間日本語ばかり使っているので、韓国語はさっぱり…」と言い、最後に「カムサ・ハムニダ(ありがとう)」と付け加えた。その模様を『東京中日新聞』が「力道山、二十年ぶりに母国へ」の見出しと写真入りで掲載したところ、これまで朝鮮半島出身であることを隠し続けていた力道山は、帰国後これを知り当新聞に激怒したという[14]


1963年5月24日、東京体育館で行われたWWA世界ヘビー級選手権・ザ・デストロイヤー戦は平均視聴率で実に64.0%を記録、これは今日においても歴代視聴率4位にランクされている。なお、この試合では、「四の字固めを完璧に決められた力道山が」ギブアップすることなく戦い続けたものの決着がつかず、「両者試合続行不可能と判断したレフェリーによって、引き分け」とされた。そして、「試合後、自らの力ではからみあった足を解けぬ両者のリング・シューズのヒモ」を若手レスラーがハサミで切って引き離したという[15]

1963年12月8日午後10時30分に、遊興中の赤坂ナイトクラブニューラテンクォーター」で、暴力団住吉一家傘下の大日本興業構成員であった村田勝志と、足を踏んだ踏まない、で口論になり、馬乗りになって殴打したところ、村田に下から登山ナイフで腹部を刺された。だが、自ら持ちかけた喧嘩ということもあり警察沙汰にはせず、知り合いの医師の勤める山王病院に入院。手術は無事に成功するが再び体調悪化し12月15日に化膿性腹膜炎で死去した。39歳だった。戒名は大光院力道日源居士。墓所は東京都大田区池上本門寺の他に、故郷・長崎県大村市の長安寺にある百田家の墓所に分骨されている。

刺殺事件の顛末
1991年の大下英治による加害者への直接取材、その他により刺殺事件の顛末が明らかにされている。


酩酊するほど飲みながら女性と話していた力道山の横を暴力団員村田勝志が通り掛る際、力道山が「足を踏まれた」と、後ろから村田の襟首をつかんだ。村田は踏んでいなかったので、「踏んだ覚えはない」と反論するが、口論となり、「あんたみたいな図体の男がそんなところに立っていたらぶつかって当然」と言い放つ。この時、村田は懐中に手をやる。それを見て、刃物を取り出すのではないかと思った力道山が、「わかった。仲直りしよう」と言い出す。それに対し村田は「こんな事されて俺の立場がない」と仲直りを拒否。和解を諦めた力道山は村田の顎を拳で突き飛ばし、壁に激突した村田は顎がガクガクになった。さらに力道山は村田の上に馬乗りになり激しく殴打する。村田は「殺される」と思い、ナイフを抜いて下から左下腹部を刺した。ナイフの刃は根元まで刺さったが、出血は衣服の上に染み出ていなかったという[16]


1日目は応急手当を受け帰宅。その後、村田の所属団体の長である小林楠扶がリキアパート内の力道山宅を謝罪に訪問。「申し訳ない。この責任は自分がとる」と頭を下げたところ、力道山も「うん、うん、わかったよ」と声をしぼり出すようにいったという[17]


2日目に症状が悪化したため赤坂の山王病院に入院、聖路加病院から外科医に来てもらい十数針縫う手術を受け成功[18]。山王病院は産科婦人科が中心の病院だが、力道山がここを選んだのは、親しい医者のいる病院にして話が表に出ないようしたためという。側近たちは、同じ赤坂にある有名な外科病院である前田外科への入院を勧めたが、力道山は嫌がった[19]


7日目に腹膜炎による腸閉塞を理由に午後2時30分再手術。これも成功したと報告されるが、その約6時間後の午後の9時50分ごろに力道山は死亡した。39歳だった。死因は正式には穿孔(せんこう)性化膿性腹膜炎とされている[20]


しかしながら他にも諸説ある。ある説は、手術の際、麻酔を担当した外科医が、筋弛緩剤注射した後に気管内チューブの気管挿管を失敗し窒息したという医療事故のためという[21]。なお、村田勝志を裁く裁判の際、死因究明のため提出されたカルテの中に麻酔に関するものだけなく、最後まで「紛失した」として出されなかったという[22]


また、他の説は、力道山の腹膜炎はほぼ完治に近い状態まで回復していたが、腹膜炎を患っている期間は食事は勿論のこと、水の服用も厳しく制限される状態にあった。ところが食欲が非常に旺盛であった力道山は、空腹に耐えきれず、付き人に行きつけの寿司屋に寿司を注文するように命令し、ついでに酒も買わせた。届けられた寿司と酒を飲食して空腹感を抑えた力道山であったが、飲食した生ものである寿司やアルコールが完全に完治しきっていなかった患部に障り、これを以って病状が急変、急死したという[23]。力道山が最初の手術後、サイダーやコーラ等を飲用しているのを目にしたという者は多く、上記のようなこともありうる話だが確証はない[24]。力道山夫人の田中敬子も「自分や看護師が昼夜交代で付き添っていたので絶対にありません」と否定している[25][26]。力道山は普段から人よりも傷が治るのが早く、刺された直後にも病院へ行かず応急処置だけで済ませたことなどから、自身の体を過信していた部分がある。


加害者の村田は、力道山の死を病院のベッドで聞いた。犯行の当夜、彼が所属する大日本興業の上部団体・住吉一家と対立関係にあり、力道山とつながりの深い東声会の組員らにより暴行を受けた村田は、重傷を負い入院していたのである。経緯については、小林楠扶がリキアパートに謝罪に赴いた際、村田も同行した。しかし、「直接顔を合わせると、先生が興奮してしまう」という力道山側近の判断から、村田は外で待機していた。この時、周辺に集まっていた東声会組員から激しい暴行を加えられたのである。村田は初めは、小林の立場を考えじっと耐えていたが、我慢しきれず力道山を刺した登山ナイフで、東声会組員一名を刺している。なお、村田が入院していた病院は、力道山が入院を拒んだ赤坂の前田外科だった[27]

人物
性格
性格的には粗暴で、感情の起伏が激しかった。機嫌が良いときはボーイに1万円札で[28]チップを渡すこともあったが、機嫌が悪いと飲食店での暴力沙汰は日常茶飯事であり、そのつど金で表ざたになるのを防いだ。1957年(昭和32年)10月18日の『読売新聞』朝刊や、同年12月5日の『朝日新聞』夕刊に「力道山また暴れる」と報道されたこともあった[29]


可愛がられたという張本勲は、飲むと暴れて大きな手で木やガラスのテーブルを叩いて割る、薄いガラスのコップを美味しいと言って食べていた、などと話している[30]。粗暴な行為に関しては、本人の生来の激高しやすい性格も一因ではあるが、晩年には肉体的な衰えをカバーするために試合前に興奮剤を服用しており、試合後にそのまま飲み屋に出かけて行ったため、トラブルを引き起こしたという証言もある。


また、リングで殴り合っても、その後の飲み会で対戦した相手と仲良く飲んでいることから、八百長ではないかと疑われる要因が強まったともいわれている[31]


当時阪急ブレーブスに在籍していたロベルト・バルボンはテレビで力道山の試合を見て、チームメイトに「こういう素晴らしい試合のことを日本では八百長と言うんだ」と嘘の知識を教えられ、バルボンは報道陣のいる前で「リキ、八百長」と言った。後日、これを伝え聞いた力道山本人が怒鳴り込んできて、バルボンは謝罪したが、事の顛末を聞いた力道山はバルボンと和解している。


金田正一
とは友人関係だった[32]

トラブル

力士時代、カツオ遠洋漁船「力道山丸」(40トン)の共同船主になっていたが、1949年、250万円の保険をかけた力道山丸が火災となり保険金詐欺疑惑が取りざたされた。1950年6月、力道山は高知警察署で事情聴取を受け、保険契約は他の船主に利用されたものだと弁明している[33]


プロレスに転向後も粗暴な性格のため、多数のトラブルを引き起こしている。例をあげると山口組ともめて監禁寸前にまでなったり、安藤組に対して誠実な対応を取らなかったため付け回され家に帰れなくなったり、フィリピンマフィアの顔役を橋から川に投げ込み揉めるなど、当時のプロレス興行が暴力団と密接な関係にあるにもかかわらず[34]、配慮に欠けた行動を繰り返したため、命を狙われることも多かった。いくら相手が暴力団とはいえ、これらのトラブルの中には力道山が弁(わきま)えていれば防げたものも多数あったと言われる。


1963年12月8日の赤坂での刃傷事件で見られるように、力道山には飲酒した時のトラブルが多かったようで、山口組三代目組長の田岡一雄は、力道山とは親しい間柄であったにも関わらず「(力道山は)酒を飲まなければ……」と自伝で嘆いている。


力道山本人も自身の性格がよくわかっていたのか、猟銃を合法的に数丁所持し、また妻の自伝によると拳銃まで所持していたという。


ジャイアント馬場
は「人間として何一つ良いところの無い人でした」とコメントしている。

家系関連
プロレスラーの百田義浩百田光雄は実息。芸者・綾の息子である。自らが朝鮮人であることは生前周囲に隠して生きており、力道山主演映画「力道山物語」でも「長崎県の貧しい農家で生まれ育った」という設定になっている。亡くなる10ヶ月前に結婚した田中敬子(元日本航空客室乗務員。死後、百田姓から抜けた[35])はそのことを知っていたが、実息であった二人の息子は父である力道山の死後に知ったということである[36]


最後の妻となった田中敬子に関しては余程惚れていたらしく、当時数多くあった女性関係を全て清算した上で結婚したと言われている。


1984年に週刊プレイボーイが、当時タブー視されていた力道山の国籍問題を「もうひとつの力道山物語」として報じた。それによると、力道山は15歳で来日する時、既に結婚し子供もいた。その後、2002年の釜山アジア競技大会で、力道山の孫娘が北朝鮮の重量挙げ監督としてエントリーして話題になった。

強靱な肉体
怪我をしてもすぐ出血が止まる体質だったようで、「額を割って血を流しても、ものの10分もすると赤チンをつけただけで血も出ていない」、「骨が見えるぐらいの傷なのにすぐ血が止まる」と剱持松二が証言している[37]リキパレスでプロレスの試合が終わると、怪我したままの状態で「(リキパレスの別フロアのレストランで)『今日はひどかったねえ』なんて話をしながら(酒を)飲んでいる」というのが日常だった[37]


自身を含めたプロレスラーの強靱な肉体に過信があったことは事実であり、客人の前で馬場に度数の高い洋酒を一気飲みさせたり、猪木を走行中の自動車から突き落としたりして、「強靱な肉体があるからプロレスラーはケロっとしている」というアピールを好んで行った。


また、相手を威嚇するためにガラスコップをバリバリと噛み砕いて飲み込む「人間ポンプ」という芸を持っており、ごく機嫌のいい時か悪い時に披露したという。


大きいイメージを持たせるため、実際より4cm身長をサバ読みした。それによりその世代のレスラーは4cmサバ読みしていることが多い。

詳しいことは、「力道山ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%9B%E9%81%93%E5%B1%B1
(wikiより)

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力道山

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双葉山 定次[3](ふたばやま さだじ、1912年2月9日 - 1968年12月16日)は、大分県宇佐郡天津村布津部(現:大分県宇佐市下庄)出身の元大相撲力士。第35代横綱。本名は龝吉 定次(あきよし さだじ)[1]

来歴
定次少年の角界入り

1912年2月9日に大分県宇佐郡天津村布津部(現:大分県宇佐市下庄)で生まれる。5歳の時に吹き矢が自身の右目に直撃して負傷し、これが元で右目が半失明状態になった[4][5]ただ一人父親は吹き矢を誰が吹いたか知っていたが、定次が傷つかないように、また吹き矢を吹いた者を恨むことが定次にとってマイナスになるかもしれないため、相手の名前を言わなかった、と横綱審議委員長の舟橋聖一は分析している[6]。少年時代は成績優秀で普通に進学を目指していたが、父親が営む海運業が失敗して5000円(現在の2億5000万円に相当する)の借金を負い[7]、兄と妹と母親も早くに亡くしている事情から、次男坊でありながらも一家の家計を支えるべく父の手伝いをしながらたくましく育つ[8]浪曲研究家の芝清之が作成した『双葉山物語』では、この海運業の手伝いをしているときにの巻上げ作業で右手の小指に重傷を負ったとしている[4]。定次が14歳の頃、父と乗っていた船が大波を受けて転覆、龝吉父子は海に投げ出されたが、たまたま近くを通っていた船に助けられて九死に一生を得た。その後定次は別の業者に雇われることになった[9]


定次は相撲の方はそれほど気持ちを入れていたわけではなかったが、初めて出場した相撲大会で畳屋の男と取組むことになった。だが、定次は相撲を取ったことがなかったため相手に食いつかれてしまい動けなくなった。見物人から「押せ、押せ」の声が聞こえたため、定次は相手を上から押さえつけて倒した。しかし、相手はしばらく起き上がれなかったという[9]。逆にこのことが地元の新聞に載り、この記事を見た大分県警察部長の双川喜一(のちに明治大学専務理事となる)の世話で立浪部屋に入門する。1927年3月場所に初土俵四股名の双葉山は「栴檀は双葉より芳し」から命名し、入門時に世話になった双川部長の一字も含まれる[8][10]。双川は大分県に赴任する前、立浪の出身地の富山県で学務部長を務めていた。そのような関係から立浪とは昵懇の間柄で、かねてから全国を転勤して回る双川に新弟子を見つけたら入門の世話をするように頼みこんでいた。そのことから、立浪が弟子勧誘の網を全国に張り巡らせていたことが窺える[8]

双葉山の苦労時代

出身地である宇佐市で双葉山を研究している市民グループ「豊の国宇佐市塾」の平田崇英塾長が語るところによると、新弟子時代の双葉山は同期入門の大八洲晃と午前6時から開始される朝稽古に競って早起きし、とうとう午前4時から稽古を始めたことで「早すぎて眠れない」と親方から苦情が来たという。こうした稽古熱心さから、当時は兄弟子が双葉山に対してかわいがりを加えることも日常茶飯事だったとされており、を盛ったバケツを持って200回の屈伸を行った後、兄弟子のぶつかり稽古の格好の標的となるといった猛稽古を課されることも珍しくなかったという。それでも入門前に海運業に従事して精神と肉体を鍛えていたこともあって、こうした苦行を力に変えていった[11]。下積み時代の双葉山の指導係だった旭川幸之丞(当時「高浪」)に言わせると「相撲っぷりは平凡だった。ただ、稽古熱心で、どんなにたたきつけられても、決して弱音を吐いたことがなかった」とのことであり、その高浪も「でも、まさかあんな大横綱になるとは」とその出世ぶりに驚いている[8]


入幕
以前は目立った力士ではなかったが、成績は4勝2敗(当時幕下以下は1場所6番)が多く大きく勝ち越すことがない一方で負け越しもなく(3勝3敗は何度かあった)、年寄春日野(元横綱栃木山)や常ノ花[12]から「誰とやってもちょっとだけ強い」と評されたという。1931年5月場所には19歳3ヶ月で新十両に昇進(西5枚目)、この場所で3勝8敗と初めて負け越した。


1932年1月場所は東十両6枚目で迎えるはずだったが、場所前に春秋園事件が発生した。天竜三郎ら脱退力士の主張には共感するものもあり、その勧誘には大いに迷ったが、部屋の女将の「(脱退力士らは)主張はいいのだが本当に変えたいことがあるなら内部にいてやるべき」との言葉に残留を決意。再編された2月場所の番付で西前頭4枚目と繰り上げ入幕となる。


入幕後しばらくは、相撲が正攻法すぎて上位を脅かすまでには至らなかった。ただ足腰は非常に強い(船に乗っているうちに自然と鍛えられたらしい)ため、攻め込まれても簡単には土俵を割らずに土俵際で逆転することが多く「うっちゃり双葉」と皮肉られていた[1][13][14]。「相撲が雑で工夫がない」という批判も多かったが、若い頃から双葉山を可愛がっていた玉錦三右エ門だけは「双葉(山)の相撲はあれで良いのだ。いまに力がつけば欠点が欠点でなくなる」と評価したという[10]


1935年1月場所には小結に昇進するが、4勝6敗1分と負け越して前頭筆頭に転落。5月場所も4勝7敗と負け越し、この頃までは苦労の連続だった。

69連勝

1935年蓄膿症の手術を機に体重が増え、それまでの相撲ぶりが一変した[13]。取り口そのものは正攻法で変わらなかったが、それまでは力不足で土俵際まで押し込まれることが多かったのに対し、立合いから「後の先をとる」を地で行き相手より一瞬遅れて立つように見えながら先手を取り、右四つに組み止めた後に吊り出し、寄り、または左からの上手投げで相手を下すようになった[1][10]。なお、この年に「相撲には未練はございません」と言って相撲界を辞める決心をして仙台に行ったが、この時は後援者に諭されて戻った。[15]


1936年
1月場所は初日の新海戦で敗れて黒星発進だったが、横綱武藏山から初金星を奪い、清水川男女ノ川(場所後横綱)の両大関も破るなど2日目から4連勝、6日目全勝の玉錦との対戦を迎える。この玉錦戦は落として4勝2敗とするが(玉錦はそのまま全勝優勝)、7日目瓊ノ浦を下すと、これから双葉山の69連勝がスタートする。双葉山はこの場所を5連勝で終えて9勝2敗[16]、翌場所の関脇昇進を決めた。


新関脇で迎えた同年5月場所では、9日目に玉錦を初めて破って11戦全勝で初優勝、場所後に大関へ昇進した。これ以降、双葉山は本場所で玉錦に負けることがなかった[17]。玉錦は前々場所(1935年5月場所)4日目から双葉山に敗れるまで27連勝しており[18]、その連勝の1勝目が他ならぬ双葉山だった。玉錦の最後の優勝と双葉山の初優勝を跨いで二度以上優勝した力士はおらず、玉錦の現役死もあるが明確な覇者交代の一番として現在まで語り継がれている。


1937年
1月場所を11戦全勝。この場所では玉錦は初日から6連勝しながら左上腕骨骨折のために途中休場しており、双葉山の5連覇中唯一玉錦戦のなかった場所となっている。先場所初白星をあげたとはいえまだ地力では玉錦が上をいっており、玉錦にすればこの時が双葉を倒す最後のチャンスだったのではないかという見方もある。


同年5月場所を13戦全勝で連続での全勝優勝を果たし、横綱に推挙される[19]。玉錦、武蔵山、男女ノ川とともに1918年5月場所(2代西ノ海大錦、栃木山)以来の史上3例目の4横綱となり、系統別総当たり制ということで初めての4横綱総当たりもあると話題を呼んだが、武蔵山が休場がちだったことや玉錦の現役死もあって、1938年5月場所で一度実現しただけで終わってしまった。


新横綱で迎えた1938年1月場所、9日目の両國戦では、両國を寄り倒したかに見えたが、控えの玉錦と男女ノ川から勇み足ありと物言いが付いた。検査役は両者に経過を説明したが玉錦があくまで双葉の負けを主張して納得せず、揉めに揉めた。後年、双葉の大連勝が48で止まっていたかもしれない大物言いとして語り継がれることになる。これには双葉人気への両横綱のひがみからの物言いではないかという声も当時あったが、両國は明らかに体勢を崩して死に体だったものの、双葉山も大きく右足を踏み越してしまっており、さほど無理のある物言いでもなかった。結果、取直しとなり双葉山が吊り出しで勝利し49連勝、この場所でも13戦全勝で優勝した。

続く5月場所も千秋楽、玉錦戦との水入りの大相撲を制して13戦全勝、5場所連続全勝優勝を果たす。この記録を受けて協会から"古今に例がない"と表彰されたが、本人は「これからまだやるんですから、そんなことをしないでください」と言ったという。[20]この時点で66連勝、谷風梶之助の63連勝を、約150年ぶりに塗り替えている。谷風の記録はを挟み純然たる連勝記録ではなかったが(また幕下力士を相手に五人掛けを行い5人抜きを果たして1勝に代えられた星が二つ含まれる)、逆に双葉山が江戸時代の力士であれば両國との物言い相撲や玉錦との水入りはそれぞれ預と分にされていた可能性もあり、いずれにしても単純比較は難しい。


当時の相撲ファン達の間では、双葉山の連勝がどこまで続くかという話題で大いに盛り上がっていた一方、誰が双葉山の連勝を止めるかという点にもファン達の注目が集まるようになり、「双葉よ負けるな双葉を倒せ」という相矛盾する流行語が生まれた。この当時、武蔵山は休場続きで、男女ノ川は好不調の波が大きく、衰えたとはいえ前の第一人者である玉錦がやはり双葉山の連勝を止める有力候補とも目されたが、その玉錦が現役のまま病死すると、もはや双葉山の連勝を止める力士はいないと思われ、100連勝まで予想する声も出始めた。

70連勝ならずの一番

1939年1月場所、前年の満州大連の巡業でアメーバ赤痢に感染して体重が激減[21]、体調も最悪だったので、双葉山は当初休場を考えていた。しかし、力士会長の玉錦が前年に虫垂炎を悪化させて現役死した(双葉山が2代会長に就任)のと、武蔵山も休場し、不振続きで前場所負け越した男女ノ川しか横綱がいなくなるため、責任感の強い双葉山は強行出場した。双葉山は調子が悪いながらも初日から3日目まで連勝を重ね、70連勝を賭けて1月場所4日目(1月15日)を迎える。


この場所で初日から4日目までの実況中継を担当した和田信賢は、「不世出の名力士・双葉、今日(15日)まで69連勝。果たして70連勝なるか?70は古希、古来稀なり!」とのアナウンスで放送を開始した。対戦相手は前頭4枚目の安藝ノ海。この取組前まで、双葉山が連勝記録を更新し続ける中で、出羽海一門では「打倒双葉」を合言葉に、笠置山を作戦本部長として毎日、双葉山に対する戦略・戦術を練った。笠置山は当時としては珍しい大学(早稲田大学)出身の関取で、自身が記した「横綱双葉山論」では、双葉山の右目が前述の吹き矢によって半失明状態であることを知っていたことから、対策の結論として「双葉山の右足を狙え」とした[10]。この右足対策を十分に身に付けたまま、安藝ノ海は本番を迎えた。


安藝ノ海は立合いから突っ張り双葉山を寄せ付けようとしなかったが、双葉山は右手で安藝ノ海の左ひじを跳ね上げて右四つに組んだ。安藝ノ海は左に回り込み双葉山の右に食い下がり、双葉山の右掬い投げに対して左外掛けを掛けた。両者の身体が大きく傾いたが一度堪えた後、双葉山が安藝ノ海の身体を担ぎあげるようにして外掛けを外し、再度右から掬い投げにいったので、安藝ノ海の身体は右側に傾きながら双葉山と共に倒れた[22][23]。双葉山の身体が先に土俵に付いていたため、双葉山の連勝は69で止まり、安藝ノ海は金星を挙げた。実況を担当していた和田は、当然4日目に連勝が途切れるなどとは予想しておらず、双葉山が倒れた時に、控えにいた山本照に対して「負けましたね!?確かに負けましたね!?」と確認してから「双葉敗れる!」と叫んだ。しかし、万一双葉山が敗れた場合に備えて用意していた言葉は霧散し、ただマイクに向かって何度も「双葉山敗れる!」を繰り返したと自著に記している。この相撲を見ていた歌舞伎役者の6代目澤村田之助(当時6歳)の証言によると、館内は座布団だけでなく、酒瓶、暖房用の火鉢や煙草盆などが投げられ、興奮の坩堝と化した。[22][24][8]


28代木村庄之助は、2000年に放送されたNHKの特別番組にゲスト出演した際に「付け人の仕事で直接見られなかったが、津波が押し寄せてくるような地鳴りのような轟音がした。すると、庄之助親方(20代)も伊之助親方(17代、のち21代庄之助)もみんな口を利かない、厳しい表情で戻ってきた。それで、『あ、双葉(山)関が負けたんだ』と思った」と回想している。


この69連勝は現在まで最多連勝記録[25]である。双葉山が三役に上がった頃、一場所の取組日数は11日だったが、双葉山人気が凄まじく、1月場所でも徹夜で入場券を求めるファンが急増したため、日数が13日となり(1937年5月場所から)、さらに現在と同じ15日(1939年5月場所から)となった。

安藝ノ海戦の取組後

双葉山は約3年ぶりとなる黒星を喫し、連勝を69で止められたにも関わらず、悔しさや絶望感などを表情に見せることなく普段通り一礼し、東の花道を引き揚げて行った。同じ東方の支度部屋を使っており、この後の結びの一番のために土俵下で控えていた男女ノ川は、取組後に「あの男(双葉山)は勝っても負けても全く変わらないな」と語っているが、支度部屋では「あー、クソッ!」と叫んだと新聞記事に書かれている。


双葉山は、その日の夜に師と仰ぐ安岡正篤に対して「イマダモッケイタリエズ(未だ木鶏たりえず)」と打電した[8]。これには双葉山の言葉を友人が取り次いだものという説もある。その日、双葉山は以前から約束していた大分県人会主催の激励会に出席しており、後者の説を採るなら、同会で発せられた言葉であったことになる。70連勝を阻止された当日の夜だったことで、急遽敗戦を慰める会の雰囲気になったが、いつもと変わらない態度で現れた双葉山に列席者は感銘を受けたという。なお、双葉山自身は著書の中で、友人に宛てて打電したもので、友人が共通の師である安岡に取り次いだものと見える、と述べている。


一方、安藝ノ海は、土俵下でこの取組を見ていた後の27代木村庄之助によれば「勝ち名乗りを受けるための蹲踞をためらっているように見え、心ここにあらずという表情だった」という[26]。この後安藝ノ海は次の一番で取る鹿嶌洋力水を付け、勝ち残りで控えに座り、結びの一番が終わって支度部屋に引き上げた(現在ならインタビュールームでアナウンサーから殊勲インタビューを受け、支度部屋では大勢の記者に囲まれる)。取組を終えた安藝ノ海は出羽海部屋に帰ろうとしたが、国技館を出た瞬間から双葉山に勝った彼を見ようとした多くの群衆に取り囲まれもみくしゃにされた。[27]そのため部屋へほんの数分で帰れる時間を1時間以上もかかってしまい、部屋へ着いた安藝ノ海の着物はボロボロになった。部屋へ戻ってから師匠の出羽海に報告した際、出羽海は「勝って褒められる力士になるより、負けて騒がれる力士になれ」と諭したという。これには、安藝ノ海の入門を世話した藤島(この時は中耳炎で入院中)の言葉だとの説もある。当時部屋の豆行司だった28代庄之助は、出羽海の付け人をしながらこの時の言葉を聞いたと証言しており、後者の藤島発言説を否定している。

詳しいことは、「双葉山定次ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%8C%E8%91%89%E5%B1%B1%E5%AE%9A%E6%AC%A1
(wikiより)

2193  双葉山定次

双葉山定次

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名寄岩 静男(なよろいわ しずお、1914年9月27日 - 1971年1月26日)は、北海道名寄市出身(出生地は北海道小樽市)の元大相撲力士。本名は岩壁 静雄(いわかべ しずお)[1][2]

来歴
鍼灸師から角界入り

1914年9月27日に家伝のを用いた治療業を営む家に生まれる。両親と同じ鍼灸師を目指すべく、1931年の春に上京して東京・両国の東京鍼灸医学校へ進学し、1932年に鍼灸師の免許を取得して帰郷しようとしていたところ、体格の良い岩壁を見つけた立浪から強引にスカウトされた。最初はせっかく鍼灸師の免許を取得したために断ったが、弟子勧誘に対する執念に定評があった立浪が岩壁の父親へ向けて手紙を書いて送ったところ、許可されたことで立浪部屋へ入門した[3]


1932年5月場所において初土俵を踏むと、部屋の1年後輩で、各段優勝を果たしてスピード出世で追いかけてくる羽黒山をライバル視していた。新入幕1937年1月場所)までは全て名寄岩が先を越していたが、大関昇進争いでついに羽黒山に先を越された。逆に言えば、何人もの部屋や角界の先輩をごぼう抜きにしてきた羽黒山には、三役昇進まで先を譲らなかったことになる。大横綱の双葉山よりも5年初土俵が遅く、各段優勝して破竹の勢いで番付を駆け上がった羽黒山よりも1年早いという微妙な立場が名寄岩を稽古の虫に仕立て上げることになった[3]


1938年1月場所は2日目に男女ノ川に一蹴されたが、7日目には武蔵山を得意の左四つから、右上手を引いて軽々と吊り上げ運び出した。右肘を怪我して以降も二枚腰と評される強靭な足腰を誇っていた武蔵山が吊り出されたのは現役中この1番のみである[2]


1939年1月場所7日目、この場所4日目に双葉山の連勝を69で止めた安藝ノ海に対していつも以上に闘志を剥き出しにして勝ち、仇を取っている[3]

病との戦い

立浪部屋に双葉山・羽黒山の横綱・大関が存在していたため、名寄岩は関脇で10勝を挙げながら据え置かれた不運もあった[4]が、1942年5月場所で11勝を挙げ、場所後に照國・安藝ノ海が揃って横綱へ昇進したことで、大関前田山ただ一人になることから、1943年1月場所で念願の大関昇進を果たした[4]


新大関の場所こそ9勝6敗と勝ち越すが、その後は連続で負け越すなど不振で、大関在位僅か3場所で1944年5月場所では関脇に陥落した。その関脇でも一度だけ負け越したが(1945年6月場所で3勝4敗)、当時の日本は第二次世界大戦の真っ只中で混乱期に陥っていたことから番付面で幸いにも小結に陥落することが無かった。1946年11月場所で大関復帰を果たすが、糖尿病胃潰瘍腎臓疾患関節炎・神経病などの様々な病気を患い[3]、「病気のデパート」との愛称まで付くほど[4]で、9勝4敗と勝ち越したものの全盛期の活躍は見られなくなった。1947年6月場所ではついに初の幕内全休となり、同年11月場所では11戦全敗で再び関脇へ陥落した[5]

現役引退~晩年

二回目の大関陥落後も様々な病気・怪我が減る気配は一向に無く、幕内も前頭下位にまで落ちていたが、名寄岩は懸命に土俵を務めていた。1950年5月場所では西前頭14枚目の地位で土俵に上がり、9勝6敗の成績で2度目の敢闘賞を受賞[3]し、「涙の敢闘賞」として映画にもなった[4]1952年9月場所では千代の山から金星を奪うなど健在ぶりを発揮し、再び敢闘賞を受賞した。1954年5月場所千秋楽には、全力士の鑑として日本相撲協会から特別表彰を受けた。同年9月場所を最後に現役を引退したが、若い頃からのライバルだった羽黒山より1年遅い引退となった。最後の土俵となった1954年9月場所千秋楽には40歳と6日で、これはちょうど60年後の2014年9月場所7日目に旭天鵬に更新されるまで、戦後の最高齢幕内出場記録だった[6]


現役引退後は年寄・春日山を襲名して春日山部屋を再興。旧・春日山部屋閉鎖後に立浪部屋預りとなっていた前頭・大昇充宏を育成し、直弟子からは白法山旺三が十両昇進を果たした。協会内では長く勝負検査役を務めていたが、1965年脳出血で倒れ1966年参与に退いた[7]。その後肝臓癌になり白法山が関取昇進を決めた1971年初場所千秋楽から2日後の1月26日に肝臓がんで死去。56歳没[3]


名寄岩の死去から10年が経過した1981年、故郷の名寄市に名寄岩の銅像が建てられた。また、2006年には孫(長女の子)が「片桐」の四股名で松ヶ根部屋に入門して祖父(名寄岩)に続く関取昇進を目指したが、幕下昇進を間近にしながら網膜剥離ドクターストップとなり、2010年11月場所を最後に現役を引退している。

人物

左を差し相手の左を引っ張り込んでから極め出すか、吊り出すか、掬い投げる一本調子の取り口で、相手の上手が取れなければ相手の肉を掴んでまでも吊り上げる強引なものだった。また、立合いで相手力士にじらされると顔を真っ赤にして怒り出すほどの直情な人柄から「怒り金時」と呼ばれた。


大関から二度の陥落を経験しているが、金星・三賞(敢闘賞)を受賞した上に関脇まで返り咲き、40歳まで現役で土俵に上がるなど劇的な土俵人生を送った。この件から「涙の敢斗賞」として舞台や映画になり、戦後の日本を沸かせた[3]


天真爛漫・純情で一途な性格で、双葉山を終生敬愛してやまなかったという。

エピソード
・性格のためか妥協を許さないことで師匠・立浪から叱られたり兄弟子から反感を買ったことがある。特に同部屋の羽黒山との不仲は異様な域に達しており、互いに入門から死去まで一切口を聞かなかったとされている[4]。本名の「岩壁」が本人の頑固さを喩える単語のように見られることもあった[3]


  ・ある日行われた花相撲で、本場所とは異なり優勝争いなどに全く関与しない取組にも関わらず、双葉山に勝利したことで師匠・立浪から厳しく叱られた。


  ・四股名の「名寄岩」は、師匠の現役時代の一字を取った「緑川」を用意した師匠に対して「そんな弱そうな名前は嫌だ」と言って押し通したものである[3]。しかし、時期が入門直後かつ、言い争いで師匠を負かしたことで兄弟子から悪く思われ、いじめられたと伝わる。それでも早い出世でいじめを封じるだけの地位と実力をものにした[4]


  ・春日山親方時代はしばしば高血圧で倒れそうになるほど熱を入れて指導していた。黒姫山は「『他の誰にも指導させない、自分が教えるんだ』という雰囲気が伝わってくる」と当時を後に振り返っており、そんな名寄岩を羽黒山は「この野郎、うるさいんだよ!」と怒鳴ったという[8]。ただこの話が本当なら、羽黒山と名寄岩は生涯に渡って一度も口を聞かなかったと言いつつも、どちらかがもう一方に対して一方的に怒鳴りかける程度の事はあったということになる。


1936年の雪が降った寒い暮れのある日、部屋の門限である22時に遅れてしまい、いつも鍵を開ける女中が帰ってしまっていたため、寒さ凌ぎに四股を踏みながら門前で徹夜していた。翌朝、部屋の若い衆が玄関を開けた時、名寄岩は雪達磨と化して直立不動の状態だった[3]


・涙の敢闘賞の受賞を確定した時、日本人ハリウッドスター早川雪洲花道を引き上げる名寄岩へゆで卵を20個手渡したという。


・1958年1月場所6日目、この日の十両最初の取組であった伊勢錦柏竜の取組で物言いが付いたが、この場所の5日目の大相撲運営審議会の定例会議で決定した「協議の内容の公表」の一環で検査役・春日山として当時1台20万円もしたワイヤレスマイクで検査役の協議の内容を集音しようとした。ところがマイクのセッティングにもたついている間に協議が終了し、あっさりと取り直しになった。11日目、十両の平鹿川神生山の一番で物言いが付き、検査役の競技が集音できるまでは良かったが、肝心の春日山の歯切れが悪く、効果を発揮したとは言い難かった。天竜三郎は「喋れない検査役が尻込みしていい相撲にますます物言いがつかなくなってしまう恐れがある」とこの制度の難点を指摘し、相撲協会は1965年1月場所からマイクでの集音による協議の公表の中止を決定した[9]


・1968年名寄市に100万円を寄付し、名寄市は名寄岩基金を設立した[7]

詳しいことは、「名寄岩静男ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%8D%E5%AF%84%E5%B2%A9%E9%9D%99%E7%94%B7
(wikiより)

2194  15代・春日山(名寄岩静男)

名寄岩静男

2194a

2194b



若浪 義光(わかなみ よしみつ、1914年5月6日 - 1982年12月30日)は、樺太恵須取郡恵須取町(現在のサハリンウグレゴルスク)出身で1940年代に活躍した立浪部屋所属の元大相撲力士。最高位は東前頭19枚目(1940年5月場所)。本名は若林 義光(わかばやし よしみつ)。現役時代の体格は身長176cm、体重94kg。得意手は右四つ、寄り[1]

人物

1914年5月6日北海道上川郡東川町にて生まれたが、本人は9歳のとき渡った樺太で育ったことから、日本相撲協会には樺太を出身地として届け出ていた。


1935年
5月場所初土俵。入門前に軍隊に所属しており満州事変に出征した経験がある年長入門ということもあって出世も早く幕下まで各段1場所で通過し、1938年5月場所には十両に昇進した。しかしその後、心臓脚気を患い、1940年5月場所に入幕を決めたものの5勝10敗で1場所で陥落。若乃森と改名した十両でも3場所連続して負け越し、幕下陥落が決定的になった1942年1月場所限りで現役を退く[1]


年寄株
を持っていなかったが、在郷軍人会の副分会長も務め、事務的能力に優れていたこともあって、協会に必要な人材として認められ、東西合併の際に廃家となっていた大坂相撲の『藤島』の年寄名跡を復活させ、『大島』と改めて、彼が襲名することになった。立浪部屋付の年寄として後進を指導し、1979年5月の停年(定年)まで相撲協会に在籍していた。名跡は立浪部屋の後輩で、同じ北海道上川郡出身の大関旭國に譲った。

「 主な成績 」については、「若浪義光ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8B%A5%E6%B5%AA%E7%BE%A9%E5%85%89

改名歴
四股名
・若浪 義光(わかなみ よしみつ)1935年5月場所 - 1940年5月場所

・若乃森 義光(わかのもり -)1941年1月場所 - 1942年1月場所

年寄名
・大島 正義(おおしま まさよし):1943年2月 - 1979年5月

脚注
1. a b c d e f ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(4) 立浪部屋』p25

関連項目
大相撲力士一覧

外部リンク
若乃森 義光
(wikiより)

2195a

2195b



横山 作次郎(よこやま さくじろう、1864年(元治元年)- 1912年(大正元年)9月23日)は、東京都出身の講道館創成期の柔道家。身長173 cm(5尺6寸)、体重86 kg(23貫)。段位は八段(没後追贈)で、通称鬼横山富田常次郎西郷四郎山下義韶と共に講道館四天王と称された。また、三船久蔵前田光世の師匠としても知られる。得意技は回込み払腰[1]俵返、横捨身で、また、自らが編み出した天狗投という技の使い手でもある(技については文献が無く、正体不明となっている)。

年譜
1864年(元治元年)、江戸の鷺宮で生まれる。


・井上敬太郎(道場は湯島天神下)に天神真楊流を学び、他に起倒流を修行していた。兄弟子に三上富治(後、山形県警の師範となる。京都武徳殿磯貝一永岡秀一に勝ったこともある。また大東流合気柔術武田惣角の弟子となった。)がいる。


1886年(明治19年)、23歳、4月に嘉納治五郎の講道館に入門。5月初段、9月二段。10月向ヶ丘弥生社警視庁武術大会で、1883年(明治16年)に初代警視庁柔術世話掛4人のうちの1人であった良移心当流柔術の中村半助(弘化2年11月16日(1845年(弘化2年) - 1897年(明治30年)で当時41歳)と55分試合し、三島通庸警視総監の裁定により引き分けとなる。


1887年(明治20年)、1月三段、同年警視庁柔術世話掛となる。


1888年(明治21年)、3月四段。


・このころ、警視庁柔術世話掛となった竹内流柔術の金谷仙十郎(養子前名は片岡仙十郎 1890年(明治23年)上京)と数十分試合をするが引き分けとなったことが有名となる[2]


1893年(明治26年)、1月五段。


1896年(明治29年)、東京高等師範学校で柔道を教授。成績により級を決めた。


1898年(明治31年)、1月六段。


1904年(明治37年)、10月七段。


1908年(明治41年)、『柔道教範』出版。


1912年(大正元年)9月23日没。享年49歳。墓は東京都北区田端の大龍寺わきの墓地にある。

モデルとしたフィクション
映画
柔道一代 - 横山をモデルにした横川次郎作が登場する


脚注
1. 嘉納行光川村禎三中村良三醍醐敏郎竹内善徳『柔道大事典』佐藤宣践(監修)、アテネ書房、日本(原著1999年11月21日)、391頁。ISBN 4871522059。「回込み払腰」

2. 金光弥一兵衛『岡山縣柔道史』1958年(昭和33年)から。

関連項目
柔道家一覧

外部リンク
横山作次郎の墓 - ウェイバックマシン(2011年9月28日アーカイブ分)

外編2-古流と講道館流
(wikiより)

3472 横山作次郎
横山作次郎

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〇 司馬遼太郎

司馬 遼󠄁太郎(しば りょうたろう、1923年大正12年)8月7日 - 1996年平成8年)2月12日)は、日本の小説家ノンフィクション作家評論家。本名、福田 定一(ふくだ ていいち)。筆名の由来は「司馬遷(はるか)に及ばざる日本の者(故に太郎)」から来ている。


大阪府大阪市生まれ。産経新聞社記者として在職中に、『梟の城』で直木賞を受賞。歴史小説に新風を送る。代表作に『竜馬がゆく』『燃えよ剣』『国盗り物語』『坂の上の雲』などがある。『街道をゆく』をはじめとする多数のエッセイなどでも活発な文明批評を行った。

生涯
生い立ち
1923年(大正12年)8月7日大阪府大阪市南区難波西神田町(現・浪速区塩草)に、薬局を経営する父・福田是定(薬剤師)、母・直枝の次男として生まれた。兄がいたが2歳で早世し、姉、妹が一人ずついる。乳児脚気のために3歳まで奈良県北葛城郡當麻町(現・葛城市)の母の実家に里子に出されていた。


1930年
昭和5年)、大阪市難波塩草尋常小学校(現・大阪市立塩草立葉小学校)に入学。性格は明るかったが、学校嫌いで、悪童でもあったようである。母の実家の周りには古墳が多く、土器のかけらや石鏃などを拾い集めていた。また、当時の少年たちには特別ではなかったのであるが、大陸の馬賊に憧れていた。後に戦車隊の小隊長となることでこの夢は結実した。


1936年
(昭和11年)、私立上宮中学校に進学。入学後の成績は300名中でビリに近く本人も驚いたらしいが、慌てて勉強をしたら二学期には上位20位に入ったという。井伏鱒二の『岩田君のクロ』に感銘を受ける[注釈 1]。3年生から松坂屋の横の御蔵跡町の図書館に通うようになり、大阪外国語学校卒業まで本を乱読するようになる。

古今東西のあらゆる分野の書物を読破し、しまいには釣りや将棋などの本まで読んだという。阿倍野のデパートでは吉川英治宮本武蔵全集を立ち読みで読破した。いつも立ち読みばかりするので頭にきた売り場の主任が「うちは図書館やあらへん!」と文句を言うと、「そのうちここらの本をぎょうさん買うたりますから…」と言ったそうである。また、半ば趣味として山登りを好み、大阪周辺の名山は大抵踏破している。高等学校への受験に際して、家計の都合で私立学校への進学は許されず、官立のみと父親から釘を刺されていた。


1939年
(昭和14年)、中学生だった司馬にも戦争が影を落としており、上宮中学の配属将校から学校教練を受けている。ある日の教練の、配属将校による当時の日本軍の主力小銃三八式歩兵銃の説明で、「よその国の小銃は機関銃のように連発式になっているが、日本軍の三八式歩兵銃はボルトアクション式のライフルであり、一発ずつしか撃てない、しかし、よその国はバラバラと撃てるが、これでは心が入らない。わが国のほうが心に念じ、一発必中になって狙えるからいい」との説明があったと著作に記述し[2]、これが司馬少年の心に強く印象付けられたとされている。しかし、1939年に「機関銃のように連発式」の自動小銃が正式採用されていたのはアメリカ軍M1ガーランドだけで、これも1939年の初めにはまだ7,715丁しか生産されておらず[3]、数の面では製造開始年は三八式歩兵銃と変わらないボルトアクションライフルのスプリングフィールドM1903小銃が主力小銃であり、真珠湾攻撃による日本との開戦時には、508,000丁(日産2,000丁)の大量発注も行われていた[4]。また、ドイツ国防軍Kar98k[5]、イギリス軍のリー・エンフィールド[6]ソ連労農赤軍モシン・ナガン M1891/30[7]など、当時の列強国の主力小銃は三八式歩兵銃と同じボルトアクションライフルで、これらの小銃は第二次世界大戦が終わるまで各国歩兵の主力装備として運用されており、日本軍の小銃だけが時代遅れのボルトアクションだったというのは事実誤認である。


司馬少年は学校が嫌いで、図書館と本屋さえあれば人間はそれでいいと考えていたが、仕方なく通学し学校で社会訓練を受けているうちに、中国人朝鮮人に好感を抱くようになった。好きになった理由は、「彼らは非常に人間というものを感じさせた」からであったとしている。やがて、司馬にとっての恩人である中国と戦争をしている日本が嫌いであるという感情が芽生えることになった。しかし、それは実際は日本も大好きという感情の裏返しであるアンビバレンスな状態であったと自己分析している[8]


1940年
(昭和15年)に旧制大阪高校、翌年には旧制弘前高校を受験するも不合格。1942年(昭和17年)4月に旧制大阪外国語学校(現在の大阪大学外国語学部蒙古語学科)に入学。入学時に校内食堂で上級生が新入生に催す歓迎会では、上級生が木刀、竹刀を振り回し下駄を踏み鳴らして『こらーっ!』と怒鳴りながら入り、訓辞や軍歌指導を行なった。その際に司馬は見事なガマの油売りを一席やったが、これは彼の性格の明るさを表す一端である。当時の学生の大半がそうであったように語学が嫌いで、早稲田大学の中国文学に鞍替えしようかと考えたこともあった。しかし読書は依然として好み、ロシア文学や、司馬遷の『史記』を愛読。2年上に庄野潤三(英語学科)、1年上に陳舜臣(印度語学科)、同期に赤尾兜子(中国語学科)らの「創作グループ」がいたが、その輪には加われなかった。当時の司馬は、色白でふっくらした童顔であったが、旧制高校に憧れて下駄履きで登下校したという。教室へは「オース、オース」と声をかけながら入り、生徒間で人気があり人が集まる中心にいた。授業でもよく発言をした。食事はよく食べ朝飯を5杯おかわりするのが常であった。「中庸の徳」が座右の銘であったという。


1943年(昭和18年)11月に、学徒出陣により大阪外国語学校を仮卒業(翌年9月に正式卒業となる)。兵庫県加東郡河合村(現:小野市)青野が原の戦車第十九連隊に入隊した。軍隊内ではかなり珍しい「俳句の会」を興し、集合の合図には一番遅れて来た。翌44年4月に、満州四平四平陸軍戦車学校に入校し、12月に卒業。戦車学校では文系であったために機械に弱く、ある時に戦車を動かそうとあちこちいじっているとエンジンが起動したが、中から白煙が出て「助けてくれー」と悲鳴が聞こえたので駆けつけると、コードが戦車に触れて電流が流れていた。手斧でコードを断ち切り、事なきを得たという。戦車学校で成績の良かった者は内地や外地へ転属したが、成績の悪かった者はそのまま大陸に配属になり、これが生死を分けた。卒業後、満州牡丹江に展開していた久留米戦車第一連隊第三中隊第五小隊に小隊長として配属される。翌45年に本土決戦のため、新潟県を経て栃木県佐野市に移り、ここで陸軍少尉として終戦を迎えた。敗戦にショックを受けた司馬は「なんとくだらない戦争をしてきたのか」「なんとくだらないことをいろいろしてきた国に生まれたのだろう」との数日考えこみ、「昔の日本人は、もう少しましだったのではないか」という思いが、後の司馬の日本史に対する関心の原点となり[9]、趣味として始めた小説執筆を、綿密な調査をして執筆するようになったのは「昔というのは、鎌倉のことやら、室町、戦国のころのことである。やがて、ごく新しい江戸期や明治時代のことも考えた。いくら考えても昭和の軍人たちのように、国家そのものを賭けものにして賭場にほうりこむようなことをやったひとびとがいたようには思えなかった」と考えた終戦時の司馬自身に対する「いわば、23歳の自分への手紙を書き送るようにして小説を書いた」[注釈 2][10]からであると述懐している[11]復員後は直ちに図書館通いを再開する。

記者時代
戦地からの復員後、生野区猪飼野東五丁目8にあった在日朝鮮人経営の新世界新聞社に大竹照彦とともに入社。1946年(昭和21年)、ふたたび大竹とともに新日本新聞京都本社に入社。同僚に青木幸次郎がいた[注釈 3]。このころから30歳を過ぎたら小説を書こうと考えるようになる。大学、宗教記事を書いたが、社は2年後に倒産、産経新聞社から「外語大卒だから英語くらいできるだろう」と誘われ、英語がまったくできないにもかかわらず「できます」と応じて京都支局に入る。入社して1か月も経たない1948年(昭和23年)6月28日午後、福井地震が発生し、その日のうちに福井の取材に行く。同年11月歌人川田順の失踪事件を取材、「老いらくの恋」という見出しを付け流行語になる。


翌年大阪本社に異動。1950年(昭和25年)の初夏に京都の岩屋不動志明院に宿泊し奇っ怪な体験をする。同年に金閣寺放火事件の記事を書いた(真っ先に取材に訪れた記者の一人とされる)。このころ京都の寺社周り・京都大学を担当し、その結果京都の密教寺院で不思議な僧侶らと出会ったり、石山合戦のときの本願寺側の兵糧方の子孫の和菓子屋と話したり、京都大学で桑原武夫貝塚茂樹らの京都学派の学者たちに取材したりするなど、後年の歴史小説やエッセイを執筆する種となる出会いがあった。このことは後年の自筆の回想記(多く『司馬遼󠄁太郎が考えたこと』に所収)に記されている。その後文化部長、出版局次長を務めた。


同年に大阪大学医局の薬剤師と見合いにより最初の結婚。1952年(昭和27年)に長男が誕生するが、1954年(昭和29年)に離婚。長男は実家の福田家に預けられ祖父母に養育される。この結婚及び、誕生した息子のことは、当時は一切公表されなかったが、司馬の死後の新聞報道により明らかになっている[12]


1955年
(昭和30年)、『名言随筆・サラリーマン』(六月社)を発表。この作品は本名で発表したが、このほかにも「饅頭伝来記」など数作本名で発表した作品があるといわれる。さらに、当時親しくなっていた成田有恒(寺内大吉)に勧められて小説を書くようになる。1956年(昭和31年)5月、「ペルシャの幻術師」が第8回講談倶楽部賞に応募(「司馬遼󠄁太郎」の名で投稿)、海音寺潮五郎の絶賛を受け同賞を受賞し、出世作となる[注釈 4]。また、寺内とともに雑誌『近代説話』を創刊した。『近代説話』『面白倶楽部』『小説倶楽部』に作品を発表し続け、1958年(昭和33年)7月、「司馬遼󠄁太郎」としての初めての著書『白い歓喜天』が出版される。当時は山田風太郎と並ぶ、伝奇小説の担い手として注目され、本格歴史小説の大家になろうとは予想だにされていなかった。さらに「梟のいる都城」(のち『梟の城』に改題)の連載を開始。


1959年(昭和34年)1月、同じ産経新聞記者の松見みどりと再婚[注釈 5]。12月に大阪市西区西長堀のアパートに転居。同じアパートに南海ホークス時代の野村克也がいた。『大坂侍』『梟の城』を発表。1960年(昭和35年)、『梟の城』で第42回直木賞を受賞し、翌年に産経新聞社を退職し、作家生活に入る[15]

小説家時代
初期は直木賞を受賞した『梟の城』や『大坂侍』『風の武士』『風神の門』などの長編や、短編「ペルシャの幻術師」「果心居士の幻術」「飛び加藤」など、時代・伝奇小説が多い。忍者を主人公にした作品が多く「忍豪作家」(五味康祐ら「剣豪作家」にちなむ呼び名)とも呼ばれた。また、初期数編が西アジアを主要舞台としている点も(当時としてはなおのこと)異色でありながら、後年の創作へは(エッセイ等では同地への強い関心を維持しつつも)引き継がれなかった。推理小説も書き、『豚と薔薇』『古寺炎上』があるがあまり得意ではなくこの2作にとどまっている。


だが、1962年(昭和37年)より『竜馬がゆく』『燃えよ剣』、1963年(昭和38年)より『国盗り物語』を連載し、歴史小説家として旺盛な活動を本格化させた。この辺りの作品より、作者自ら、作中で随筆風に折込解説する手法が完成している。1964年(昭和39年)には、終のすみかとなる布施市下小阪(現在の東大阪市)に転居した。のちに「猥雑な土地でなければ住む気がしない」と記している。1966年(昭和41年)、菊池寛賞を受ける。その後も『国盗り物語』に続き、『新史太閤記』『関ヶ原』『城塞』の戦国四部作を上梓した。


1971年
(昭和46年)から、紀行随筆『街道をゆく』を週刊朝日で連載開始した。1972年(昭和47年)には明治の群像を描いた『坂の上の雲』の産経新聞での連載が終了。また、幕末を扱った『世に棲む日日』で吉川英治文学賞。初期のころから示していた密教的なものへの関心は『空海の風景』(日本芸術院恩賜賞)に結実されている。「国民的作家」の名が定着し始めるようになり、歴史を俯瞰して一つの物語と見る「司馬史観」と呼ばれる独自の歴史観を築いて人気を博した。1970年代中期から80年代にかけ、明治初期の『翔ぶが如く』や、『胡蝶の夢』、江戸後期の『菜の花の沖』、戦国期の『箱根の坂』などを著し、清朝興隆の時代を題材にした『韃靼疾風録』を最後に小説執筆を止める。「街道をゆく」や、月一回連載のエッセイ『風塵抄』、『この国のかたち』に絞り、日本とは、日本人とは何かを問うた文明批評を行った。


1981年
(昭和56年)に日本芸術院会員、1991年(平成3年)には文化功労者となり、1993年(平成5年)に文化勲章を受章した。このころから腰に痛みを覚えるようになる。坐骨神経痛と思われていたが、実際は直接の死因となる腹部大動脈瘤であった。それでも「街道を行く 台湾紀行」取材の折に、当時台北台湾総統だった李登輝との会談「場所の悲哀」[注釈 6]を行ったり、「街道を行く」取材で青森の三内丸山遺跡を訪れるなど精力的な活動を続ける。また、晩年にはノモンハン事件の作品化を構想していたといわれているが、着手されずに終わった[17]


1996年(平成8年)1月、「街道をゆく 濃尾参州記」の取材を終え、連載中の2月10日深夜に吐血して倒れ、大阪市中央区の国立大阪病院(現:国立病院機構大阪医療センター)に入院、2日後の2月12日午後8時50分、腹部大動脈瘤破裂のため死去した、72歳。同日は「菜の花忌」と呼ばれている。死去した国立大阪病院は、奇しくも『花神』で書いた大村益次郎が死去した場所であった。絶筆「濃尾参州記」は未完となった。親族・関係者による密葬を経て、3月10日に大阪市内のホテルで「司馬遼󠄁太郎さんを送る会」が行われ、約3,000人が参列した。法名は、「遼󠄁望院釋淨定」。政府から従三位を追賜された。


翌年に司馬遼󠄁太郎記念財団が発足し、司馬遼󠄁太郎賞が創設された。2001年(平成13年)に、東大阪市の自宅隣に司馬遼󠄁太郎記念館が開館。司馬遼󠄁太郎記念室がある姫路文学館では毎年8月7日の生誕日に、ゆかりのゲストを迎えて「司馬遼󠄁太郎メモリアル・デー」を開催している。また、NHK大河ドラマ原作となった作品数は最も多く、「21世紀スペシャル大河ドラマ」(後にNHKスペシャルドラマと変更)と称する『坂の上の雲』を含めると7作品である。


詳しいことは、「司馬遼太郎ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B8%E9%A6%AC%E9%81%BC%E5%A4%AA%E9%83%8E
(wikiより)

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⇧ 司馬遼太郎

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⇧⇩ メチャ大きい墓石です。

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日本最古のボウリング場は、わが国最初の英字新聞であり初の近代活版新聞である「ザ・ナガサキ・シッピング・リスト・アンド・アドバタイザー」に 1861年 ( 文久元年 ) 6月 22日の日付で新装開店の広告が掲載されたインターナショナル・ボウリング・サロンである。
 
この史実をもとに、昭和 47年より 6月 22日を「ボウリングの日」として制定した。


その後, 開港されていた横浜や神戸にも, ボウリングサロンが次々とオープンした。


1864年 ( 元治元年 ) 横浜 5月7日付の英字新聞「ジャパン・ヘラルト」に横浜開港当時, 外国人居留地であった現在の“港の見える丘公園"内にボウリングサロンが開店したという広告が掲載された。


1869年 ( 明治 2年 ) 神戸 4月 20日 神戸に, ボウリングレーン付の駐在外国人の会員制クラブ「ユニオンクラブ」が誕生した。


その後現在の神戸市庁舎南隣の東遊園地に移転し、「神戸クラブ」の名称で長い間親しまれた。


1952年 ( 昭和 27年 ) 東京 12月 20に、東京・神宮外苑、現在の秩父宮ラグビー場付近に、米軍の格納庫を利用し、民間商業施設として日本初のボウリングセンターがオープンした。


2002年で 509周年を迎えた。


2003年 ( 平成 15年 ) 6月 22日 「ボウリングの日」

社団法人 日本ボウリング場協会
( 社団法人化 30周年記念事業としてこの案内板を建てた )
(碑文より)

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「バンクーバーの朝日」の実在した「バンクーバー朝日軍」の初代エース、テディーフルモト古本忠義。


法名 : 瑛林院浄徳日忠居士。

〇 バンクーバー朝日
バンクーバー朝日
Vancouver Asahi)は、1914年から1941年まで、カナダバンクーバーで活動していた、日系カナダ移民の二世を中心とした野球チーム[1]

球団史
1908年頃、カナダではビクトリアやバンクーバーに「ニッポン」を名乗る日系二世の野球チームが組織されていた。野球チーム設立の当初の目的は、日系カナダ移民の二世への教育目的があったという。


1900年代初頭当時、バンクーバーには日本人街もあり活気に溢れていたが、日本人は人種差別と過酷な低賃金労働に耐えながらも勤労に勤しんだため、現地の白人たちから「日本人が白人の仕事を奪っている」として排斥されたり、日本人街が襲撃されることもあったという。そんな中で、「日本人の誇りを白人に見せつけたい」という思いから、バンクーバー朝日(以下、朝日)は1914年に結成された[1]


初代の監督には宮本松次郎が就任した。宮本は「馬車松」とあだ名されるほど精力的な人物だったようで、「英語は話せなくても野球なら出来る」と当時15歳前後の日系二世の少年9人を選び抜いて猛特訓を開始する。当時の日系人社会を中心とした支援を受けながら、猛練習の末チームは力をつけていき、朝日は5年目の1919年に、マイナーリーグにあたるインターナショナル・リーグで優勝する。この頃のチームは一軍から五軍までの構成であったらしく、一軍以外は下からそれぞれ「クローバーズ」「ビーバーズ」「アスレチックス」「カブス」という愛称を持っていた(一軍も短い期間ながら「タイガース」と名乗っていたことがあったようである)。


1921年、朝日は日本運動協会の招待を受けて日本に遠征する。しかしこの時、理由は不明だが朝日はチーム分裂を起こす。二代目の監督であった笠原、主力選手のハリー宮本、トム的場、ジョージ伊藤らが脱退して別の野球チームを結成する動きがあった。本体のチームは結局4人の白人を加えての遠征となった。遠征における朝日の試合経過や結果はよく判っていないが、当時の雑誌の論評によれば、「守備はともかく打力がさっぱり」と酷評されていた。当時和歌山中と対戦し敗れた記録が残っているようである[1]。また函館太洋倶楽部とは3回戦を行い、1勝2敗の成績を残している[2]


遠征から帰国後、朝日はチームを再編成し、ハリー宮崎が監督を務めた。ハリーはブリティッシュ・コロンビア州各地の白人チームから有力な選手を引き抜く一方、堅い守りとバントやエンドランなどの緻密な機動力を駆使する「Brain Ball」(頭脳野球)と呼ばれた戦術を編み出す。1926年に朝日は前年から加盟していたターミナル・リーグで優勝を果たし、その後1930年1933年にもリーグ制覇を遂げている。当時ハリーは選手に対して、ラフプレーを禁じ、抗議も一切行わないよう指導した。これは当時の日本人社会と白人社会との間の軋轢を鑑みたものと考えられている。結果、朝日は日系人だけでなく、白人も応援するチームになっていった。


1935年
、結成されたばかりの大日本東京野球倶楽部(東京ジャイアンツ)が北米遠征を行った際には、バンクーバーで朝日との対戦を行っている[1]。その後1930年代後半は、毎年監督が変わり成績も伸び悩む時期が続いたようである。


1941年太平洋戦争が始まると、選手達は戦時捕虜収容所や強制疎開地などに送られ、朝日はチームとしての歴史を閉じる。ただ、当時朝日に所属していた選手達が、収容所内で野球大会をしていたという記録が残っている。

その後
1994年TBSテレビJNN報道特集』でこのチームを取り上げたドキュメント企画『知られざるカナダ朝日軍』が放映された[3]。これをたまたま見ていたという、かつて朝日に投手として所属し太平洋戦争前に帰国したテディ古本の息子である古本喜庸は、番組プロデューサーに送った手紙の返信で朝日のOBが存命でカナダに在住していることを知る。当地でOBと対面しチーム秘話を聞いた古本は「朝日の存在を知ってほしい」と本を執筆、父に敬意を表し英名風の「テッド・Y・フルモト」というペンネーム[4]2008年に『バンクーバー朝日軍』として文芸社[5]から出版された。なお本作を原作とした、原秀則の作画による同タイトルの漫画作品が『ビッグコミックスペリオール』(小学館)にて連載された。なお、漫画では登場人物の名前を一部捻るなど、セミフィクションの形式を取っている。詳細は『バンクーバー朝日軍』を参照。


2002年、朝日を取り上げたドキュメンタリー映画『スリーピング・タイガース』が製作された。またこの年の5月15日には、かつての朝日の所属選手のうちミッキー前川ら5人がトロントのスカイドームに招かれ、当時イチロー佐々木主浩が所属していたシアトル・マリナーズトロント・ブルージェイズとの試合の始球式を務めている。

2003年、朝日はカナダ野球殿堂入りチームとなった[1]。表彰式は同年6月28日に行われ、かつての所属選手ら5名(ミッキー前川、ケン沓掛、キヨシ菅、ケイ上西、マイク丸野)が招待された。


2010年
、3月26日に岩波書店から『伝説の野球ティーム バンクーバー朝日物語』が出版された。著者は後藤紀夫。出版に至る経緯などは民放出身者の親睦団体「日本民放クラブ」の機関紙[6]に記されている。


2014年、朝日を題材として石井裕也がメガホンを執り、妻夫木聡亀梨和也らが出演した映画『バンクーバーの朝日』が製作・公開された[7]。同年、現地でバンクーバー朝日が再結成された[8]


2017年
2月21日に放送された『世界の村で発見!こんなところに日本人』にて、賀来千香子がカナダにある小さな町カムループスを訪れ、ケイ上西こと上西功一と対面し、当時のエピソードを伺った。上西は2017年2月時点で95歳で、朝日の選手としては最後の存命者でもある[9]

脚注
1. a b c d e 私のカナダ物語 元『朝日軍』選手 ケイ上西(かみにし)さん
2. 今話題の映画「バンクーバーの朝日」 - 函館太洋倶楽部公式HP、2015年1月12日
3. 『バンクーバー朝日軍』漫画化決定小学館取材班がバンクーバーで現地取材 - JB PRESS、2012年6月25日配信
4. バンクーバー朝日軍の栄光(2013年4月25日時点のアーカイブ) - 東京新聞、2009年7月2日
5. 2009年に東峰書房より新装版が出る。
6. 日本民放クラブ2011年1月25日発行「民放クラブ」第100号28ページ「MY BOOK」欄
7. バンクーバーの朝日 シネマトゥデイ
8. “伝説の日系人球団再結成、カナダ 94年ぶり来日へ”. 47NEWS. 共同通信 (全国新聞ネット). (2015年2月18日). オリジナルの2015年4月2日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20150402095002/http://www.47news.jp/CN/201502/CN2015021801000925.html 
9. 世界の村で発見!こんなところに日本人 - gooテレビ番組(関西版),2017年2月21日

参考文献
・名古屋多文化共生研究会 第7回研究会(2004)[要文献特定詳細情報]

関連項目
日系カナダ人

カナダ野球殿堂

フレスノ野球団

バンクーバー朝日軍 - 原作/デッド・Y・フルモト、作画/原秀則による漫画

外部リンク
Virtualmuseum.ca(日本語あり)

Sleeping Tigers Film(英語)

テッド・Y・フルモトのバンクーバー朝日軍 - ウェイバックマシン(2013年8月6日アーカイブ分)

小学館コミック - バンクーバー朝日軍
(wikiより)

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三島 通陽(みしま みちはる、1897年明治30年)1月1日 - 1965年昭和40年)4月20日) は、日本の小説家劇作家・演劇評論家。子爵貴族院議員・参議院議員。文部政務次官二荒芳徳とともにボーイスカウト運動を日本に広めた人物として知られる。東京麻布生まれ、学習院卒業。ペンネームに三島章道(みしま しょうどう)。


祖父は三島通庸。父は第8代日本銀行総裁を務めた三島弥太郎、母は四条隆謌侯爵の三女・加根子。妹・壽子の夫は阪谷希一、妹・梅子の夫は土方与志。妻は松岡均平の長女・純[1]

ボーイスカウト運動
ボーイスカウト日本連盟初代理事長兼中央実修所所長を経て、ボーイスカウト日本連盟第4代総長。


1922年大正11年)、後藤新平を中心として初の全国組織「少年団日本連盟」が結成されると、25歳で副理事長に選任される。妻の純は翌年、日本のガールガイドガールスカウト組織として、「日本女子補導団」を設立。


1950年(昭和25年)、三島家別荘の土地と家屋(栃木県西那須野町)をボーイスカウト日本連盟に譲渡。その地所は現在、ボーイスカウト日本連盟の常設野営場、那須野営場となっている。


1951年(昭和26年)、全国総会において第4代総長に選出される。


1953年(昭和28年)、ボーイスカウト日本連盟より功労章「きじ章」を贈られる。


1959年(昭和34年)、藍綬褒章受章


1961年(昭和36年)、英国ボーイスカウト連盟より功労章「ブロンズ・ウルフ章」を贈られる。


1965年(昭和40年)


  ・2月25日から3月7日まで毎日新聞に「スカウト十話」を連載。これが絶筆となる。

  ・4月20日死去。叙・正三位勲二等旭日重光章受章。

  ・4月24日、日本連盟葬が執行された。


なお、琵琶湖畔の雄松崎(滋賀県大津市)にある「日本ボーイスカウト初野営の地」の石碑の書は、三島の筆によるものである。



著・訳・編書
・和譯孟子(1918年、大同館)

・パトロールシステム(1925年、著:ローランド・フィリップス)

・少年団指導者教範(Aids to Scoutmastership, 著:ロバート・ベーデン・パウエル

・満州及上海に正しき日本を観る 附國際聯盟と我裏南洋(1932年、東学社)

・世界少年団劇集(1933年、少年団日本聯盟)

・校外健児教育(1933年、著:ロアゾウ、少年団日本聯盟)

・日満健児工作(1934年、東学社)

・伊太利は奮起した(1939年、実業之日本社)

・少年団概論(1939年、著:ロアゾウ、教育研究会)

・世界児童劇集 附少年団劇集(1940年、章華社)

・戦時下の世界青少年運動(1940年、日本評論社)

・少年団指導の理念と実践(1942年、三學書房)

・音なき交響曲(1958年、宝文館)

・十人百話-9 ボーイスカウト十話(1965年、毎日新聞社)

映画
平和の勇士
・指揮:三島章道

・監督:曾根純三

・原作・脚本:山村魏

・出演:松尾文人井上潔滝沢憲児島武彦

・製作:社会教育映画研究所

1926年(大正15年)10月29日公開 (白黒、無声映画

歌劇
・ボーイスカウト』(1925年、宝塚歌劇団・雪組)

脚注
1. 平成新修旧華族家系大成』下巻(霞会館、1996年) p.671

参考文献
紅野敏郎「逍遥・文学誌 80 「舞台芸術」―川口尚輝・三島章道・菊岡進一郎・渡平民ら」『國文學:解釈と教材の研究』43(2)、學燈社、[1998]

末永航「子爵、ドゥーチェと会う―三島章道」『イタリア、旅する心ー大正教養世代のみた都市と文化』青弓社、2005年、ISBN 978-4-7872-7196-9

関連項目
東京都出身の人物一覧

外部リンク
『戦時下の世界青少年運動』三島通陽著 (日本評論社, 1940) 国立国会図書館デジタルコレクション

ウィキメディア・コモンズには、三島通陽に関するカテゴリがあります。
(wikiより)

2748  三島通陽

三島通陽

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宇都宮 新八郎(うつのみや しんぱちろう、1890年6月15日 - 1952年1月7日)は、大相撲力士で最高位は前頭2枚目。現在の栃木県鹿沼市出身。出羽海部屋(当時は出羽ノ海部屋)所属。本名は上沢新七郎。現役時代の体格は182cm、98kg。話のうまさで知られ、明治大正期の相撲界の語り部として代表的な存在であった。

来歴・人物
常陸山の出羽ノ海に入門、1907年1月初土俵を踏む。1912年5月新十両1913年5月新入幕。長身を生かした突っ張り、吊りで責める取り口は豪快だが粗雑で、幕内下位で二度の8勝2敗がある以外2~5勝の成績に終始した。


現役時代のある時、師匠常陸山の代理で海軍提督たちの宴席に出席したが、ささいなことから料亭の従業員と大喧嘩になってしまう。このために破門にされそうになったが、常陸山と交際のあった(義兄弟の盃を交わした仲であった)八代六郎大将が仲裁に入って救われた。この一件で海軍幹部たちにも威勢の良い力士として知られることになり、海軍記念日の訪問興行の折東郷平八郎元帥から声をかけられたこともあったという。


引退後、年寄・放駒、のち九重を襲名。日本相撲協会の理事もつとめたが、ものごとをはっきり言い過ぎる性格のため他の理事と対立、一時除名処分を受けた。


口が大きく「ガマ」のあだ名があった。当人も「明治の三ガマといったら、浪曲桃中軒雲右衛門、女優では松井須磨子、角界ではかくいう宇都宮新八郎だ」と称していた。


本家の出羽海部屋よりも郷里の後輩である栃木山守也春日野部屋に入り浸ることが多く、新弟子時代の栃木山にシャモの肉をふるまった話をいつもするので、栃錦清隆ら春日野の弟子たちは「シャモの親方」とあだ名した。

主な成績
・幕内在位:17場所

・幕内成績:57勝57敗8分預48休 勝率.500

関連項目
大相撲力士一覧
(wikiより)

左面「相撲協会理事 九重貴昭 宇都宮新七郎」。

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秀の山與四郎 ( ひでのやま - よしろう ) / 小常陸由太郎    
明治 19年 ~ 昭和 2年 9月 15日 ( 1886 - 1927 )

 関脇。

本名、市毛與四郎。

東京出身。

出羽の海部屋。

常陸山の養子。

現役名、小常陸由太郎。

大正 2年 ( 1913 ) 5月関脇。

幕内 10年をつとめ、通算、20場所、70勝 77敗 2分。

妻は、常陸山の先妻の従妹で、国技館サービス株式会社 1号の割烹「高砂屋」を営む。

正面「市毛家之墓」。裏面「昭和二年九月十五日逝去 小常陸事 秀の山与四郎」。

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秀ノ山 雷五郎(ひでのやま らいごろう、1808年文化5年) - 1862年6月16日文久2年5月19日))は、仙台藩陸奥国本吉郡(現・宮城県気仙沼市)出身の元大相撲力士[2]。第9代横綱。本名は橋本(旧姓:菊田) 辰五郎(はしもと たつごろう)。

来歴
1808年に、陸奥国本吉郡(現・宮城県気仙沼市)で海上運輸業を営む家に長男として生まれる。当時家に出入りしていた荷揚げ人の中に元力士である籬嶋がいたが、籬嶋に辰五郎の二男である源太夫が相撲の指導を受け、土地相撲の大関として活躍していたことが刺激となり、辰五郎も力士を目指すようになった。その後は家の裏にあったを相手に毎日ぶつかった結果、榎を枯らしてしまったと伝わる。


榎を枯らしてしまったことで稽古場を失った辰五郎は、それでも力士になる夢を諦めきれずに無断で家出して仙台の兄を訪ねたが、力士になる話を聞くと猛反対されたため、一人で江戸へ出ていくつかの相撲部屋を訪ね歩いた。しかし、辰五郎の身長の低さから全く相手にされなかったために一度は諦めていたところへ、同郷の荒熊に拾われると、荒熊から使い走り扱いされたことに失望して仙台に戻り、魚問屋「境屋」へ奉公に出た。この奉公の合間に相撲の稽古に励むと力量が増し、再び江戸へ出て秀ノ山部屋へ入門した。


入門後は雑用ばかりで稽古どころか土俵にも上がらせてもらえなかったが、入門前に得た怪力と努力、さらに激しい闘志によって実力を付け、「北山 辰五郎」の四股名1828年に初土俵を踏む。雲州藩の抱え力士となってからは「天津風 雲右衛門」と改名し、のちに横綱へ昇進する不知火諾右衛門と同時に新入幕を果たした。入幕後も持ち前の怪力と闘志は健在で、盛岡の南部藩の抱え力士に転向後は1841年1月場所で大関に昇進、「岩見潟 丈右衛門」と改名後に1844年10月場所からは「秀ノ山 辰五郎」を襲名した。1847年9月場所で、入門から19年目で吉田司家から悲願の横綱免許を授与された。


引退後は四股名のまま年寄となり、陣幕久五郎を育成した[3]が、中改め(審判委員)を担当している時に自身の弟子ばかりを贔屓にしていたことで「嘉永事件」と言われる相撲史上初の大事件を引き起こした。当時、本中(現在の前相撲~序ノ口間に存在していた地位)だけでも100人を超す力士が存在しており、2日に1日のペースで取組を行っていたが、3日~4日に1日のペースに伸ばされ、昇進が遅れる者も多数存在した。そんな中で秀ノ山は弟子2名を必ず2日に1日のペースで土俵に上がらせたため周囲から反発を買い、力士のストライキ(嘉永の紛擾)、さらには本中力士から竹刀で殺される寸前までに発展する大騒動へ発展したが、秀ノ山自身が謝罪したことで解決した。しかし、この事件によって秀ノ山は勧進元を1858年まで待つこととなった。


1862年6月16日(文久2年5月19日)に死去、56歳没。秀ノ山の墓は東京都江東区の普門院と、岩手県一関市願成寺に存在する。2011年3月11日に発生した東日本大震災によって、故郷・気仙沼市にある秀ノ山の銅像が大津波に飲み込まれたが、奇跡的に流出せずに存在している。

詳しいことは、「秀ノ山雷五郎ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%80%E3%83%8E%E5%B1%B1%E9%9B%B7%E4%BA%94%E9%83%8E
(wikiより)

2684  秀ノ山雷五郎

秀ノ山雷五郎

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豊沢 團翁


本名 : 吉田 七郎平。


生年月日 : 天保十一年三月七日。


出生地 : 京都市二軒茶屋。


師匠 : 二代目・豊澤 團平。


入門 : 嘉永三年。


前名 : 豊澤 團七。


改名 : 大正十一年十一月一日。


住所 : 東京市四谷區箪笥町七四。


死去 : 大正 12年 9月 11日歿。


行年 : 84才。

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千葉県大網白里町の出身、慶応 2年 ( 1866 ) 8月 15日生まれ。


明治 20年 1月の初土俵、27年 1月入幕。


大見崎を名乗ったのは 31年 5月からでここからが全盛期、梅ノ谷 ( のちの横綱・梅ヶ谷 ) を 3回倒した。

 
36年 1月引退、検査役を 16年務めている。


昭和 14年 10月 9日歿、「大勇院剛誉浄卯居士」。

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鬼ヶ谷 才治(おにがたに さいじ、1855年4月19日安政2年3月3日) - 1931年昭和6年)2月2日)は、 伊予国宇摩郡(現:愛媛県四国中央市)出身の元大相撲力士。本名は鈴木 才治(すずき さいじ)。

経歴
1855年4月19日(旧暦3月3日)に伊予国宇摩郡(現:愛媛県四国中央市)で生まれた。当初は時津風部屋(大坂相撲)に入門し、本場所に登場するまでの巡業では愛媛潟と名乗った。1886年梅ヶ谷藤太郎 (初代)から勧誘されて東京相撲に加入することが決まると、東京相撲では雷部屋に所属し、同年1月場所に二段目(現:幕下)格付出で東京相撲の初土俵を踏んだ。1887年1月場所で新入幕を果たすと、際立った好成績を残すことは無かったが地道な努力を重ね、1891年5月場所で小結昇進、この場所を5勝3敗1分で勝ち越して翌場所も小結を務めた。その後は平幕を長く務め、1904年1月場所では6勝2預2休の好成績を挙げ、優勝同点に相当する成績[1]を残した。


1907年
1月場所を最後に現役を引退したが、この時既に51歳となっており、新入幕から20年もの長きに渡って幕内の座を守り続けたことから、その功労と驚異的な持久力を称えて協会から特別表彰を受け、銀杯を授与された。引退直後の同年5月場所千秋楽には相撲記者団体「振角会」からの表彰も受けた。


引退後は年寄・田子ノ浦を襲名し、初代・2代両方の梅ヶ谷の良き相談役を務めるなど、様々な面で雷部屋を支えた。1931年2月2日に死去、75歳没。

人物
鋭い出足を生かした突っ張りが得意で、時に引き落とし蹴手繰りも見せたほか、例え組んだとしても投げ、捻りが強かった。活躍した当時は三賞制度が存在せず、もし存在していれば技能賞敢闘賞は何度でも獲得できたと思われる。


梅ヶ谷藤太郎(2代)が雷部屋に入門して以降、英才教育を受けさせたのは鬼ヶ谷だった。徹底的に相撲の基本を指導し、幕下昇進後は早くも師匠と共に横綱土俵入りの指導まで行ない、1903年5月場所後に横綱昇進が決定すると、鬼ヶ谷は土俵入りで露払いを務めた。


「鬼ヶ谷」という四股名ゆえ、彼の世話になった者は節分などでは「鬼は外」とは言えなかったそうである(梅ヶ谷藤太郎 (2代)の項を参照)。

主な成績
・幕内在位:41場所

・幕内通算成績:105勝119敗28分12預146休 勝率.469

四股名
・鬼ヶ谷雪藏(1886年1月 - 1888年1月)

・鬼ヶ谷才治(1888年5月 - 1907年1月)[2]

脚注
1. この場所で優勝相当成績を挙げたのは常陸山谷右エ門(7勝1敗2休)、梅ヶ谷藤太郎_(2代)(7勝1敗1預1休)の両横綱で、いずれも1敗している。
2. 鬼ヶ谷才治[1]

関連項目
小結一覧

梅ヶ谷藤太郎 (初代)

梅ヶ谷藤太郎 (2代)
(wikiより)


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司天龍 政吉(してんりゅう まさきち、1860年9月21日万延元年8月7日) - 1917年大正6年)9月26日[1])は、小野川部屋玉垣部屋雷部屋八角部屋に所属した元力士。7代大嶽、5代中立。本名は勇川政吉。大和国葛下郡(現在の奈良県葛城市)出身。身長不明、体重は70kg。最高位は西小結

経歴
大坂相撲の小野川部屋から、1880年5月に三段目格で初土俵。1885年5月には新入幕を果たした。所属が八角部屋になったことから、四股名を鶴ヶ濱から司天龍に改めている。以後幕内20場所を務め、その間にはのちの横綱小錦八十吉に幕内初黒星を付けた。1895年1月限りで引退し、年寄大嶽を襲名した。

成績
・幕内20場所50勝49敗78休23分預

改名
・鶴ヶ濱→司天龍→司天竜[2]

出典
1. http://sumodb.sumogames.de/Rikishi.aspx?r=3483&l=j
2. 大相撲力士名鑑平成13年版、水野尚文、京須利敏、共同通信社、2000年、ISBN 978-4764104709
(wikiより)

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栃富士 勝健(とちふじ かつたけ、1946年6月8日-2003年4月28日)は、埼玉県大里郡三尻村(現・熊谷市)出身(出生地は東京都渋谷区)で、春日野部屋に所属した大相撲力士。本名は小暮 晴男(こぐれ はるお)。最高位は東前頭3枚目(1971年5月場所)。身長186cm、体重141kg。得意手は左四つ、寄り。

来歴・人物
渋谷区立上原中学校在学時の1961年に春日野部屋へ入門し、同年5月、14歳で初土俵を踏んだ。


小兵力士が多かった同部屋に於いて、珍しい大型力士として早くから注目されていた。


幕下
までは順調に昇進するも、ここで苦労する。特に1967年3月場所では東幕下筆頭で6勝1敗と好成績を挙げながら、場所後の「番付枚数削減」の煽りを受けて翌5月場所では東幕下3枚目に下げられた。しかし腐らず7戦全勝で幕下優勝し、7月場所で新十両昇進を果たした。


さらに、1968年9月場所では新入幕を果たしたが、6勝9敗と負け越して1場所で陥落。2場所後の翌年1月場所で再入幕して11勝4敗の好成績を挙げ、幕内上位に進出した翌3月場所では9日目に柏戸をうっちゃりで破り、初めての横綱戦で金星を挙げた。


だが同年9月場所では再び十両に陥落し、1971年1月場所で再々入幕。5月場所では自己最高位となる東前頭3枚目に進み、初日に横綱・大鵬と対戦した。この一戦で、大鵬の突き押しを凌いで押し返すと大鵬は尻餅を着き、柏鵬の両方から1度だけの対戦で金星を得るという記録を残した。大鵬は同場所5日目に貴ノ花に寄り倒しで敗れた後引退を表明したが、尻から落ちるという負け方を下位力士相手に2度も喫したことで限界を実感したとされ、栃富士戦での敗戦も引退の要因となっている。大鵬が幕内で対戦した全力士で1度も勝てずに終わったのは、福田山、本項目の栃富士と彼の師匠・栃錦、及び錦洋の4人だけである(2度戦った福田山以外は、いずれも1度のみの対戦)。


貴ノ花や輪島は十両から平幕の頃彼を苦手としており、貴ノ花に対しては4勝3敗、輪島に対しては4勝1敗の成績を残している。だが、彼らが三役に昇進した時期に対戦する機会はなかった。


左を差しての一気の寄りに威力があって時に横綱や人気力士を倒すことがあったので、「スター・キラー」という異名もあった。反面、取り口にムラがあり、鋭い切れ技も持ち合わせていなかったことから体力を持て余した。以

後は結局、幕内と十両との往復に終わった。


1974年
9月場所後、28歳で引退


引退後は年寄山分を襲名し、春日野部屋付きの親方となった。


1990年1月に師匠・春日野(元横綱・栃錦)が亡くなった後は、兄弟子だった元関脇栃東の玉ノ井親方の独立に同行。以降は玉ノ井部屋で、師匠の右腕として後進の指導に当たった。日本相撲協会では木戸委員、指導普及部委員を務めた。


2000年
頃より体の不調を訴えていたが、2003年4月28日、急性心筋梗塞のため死去した。56歳没。


亡くなった当日は、来客にちゃんこを振る舞うために自宅の台所で準備をしており、その際に倒れたという。

主な成績・記録
・通算成績:465勝445敗18休 勝率.511

・幕内成績:64勝101敗 勝率.388

・現役在位:80場所

・幕内在位:11場所

金星:2個(柏戸1個、大鵬1個)

・各段優勝

  ・十両優勝:2回(1968年3月場所、1972年9月場所)

  ・幕下優勝:1回(1967年5月場所)

詳しいことは、「栃富士勝健ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A0%83%E5%AF%8C%E5%A3%AB%E5%8B%9D%E5%81%A5
(wikiより)

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吉の谷 彰俊(よしのたに あきとし、1949年4月23日-2000年1月14日)は、長崎県南松浦郡三井楽町(現・同県五島市)出身で、かつて出羽海部屋に所属した力士である。本名は吉谷 作利(よしたに さくとし)。最高位は西前頭4枚目(1974年9月場所)。現役時代の体格は177cm、104kg。得意手は右四つ、足取り下手投げ

来歴・人物
五島列島福江島出身で、同郷の横綱佐田の山に憧れて、中学校卒業後に彼が所属する出羽海部屋へ入門。1965年5月場所に於いて、16歳で初土俵を踏んだ。


当初の四股名は、本名でもある「吉谷」。


三段目
で3年半ほど苦労し、途中「宇戸の山」と改名したが1年ほどで本名に「の」の字を挟んだ「吉の谷」と四股名を改めた。1970年5月場所で三段目優勝して翌場所幕下に、1972年5月場所で十両に昇進し、1974年1月場所で念願の入幕を果たした。


弟弟子で同じ小兵だった鷲羽山(前・出羽海親方)とは、十両・幕内がほぼ同時期の昇進と、出世を競った[1]

1年後輩に当たる特等床山・床安にとって吉の谷は「忘れられない先輩」であり、曰く「言うこと為すことがはっきりしており、嘘もつけずごまかせない」好人物であったという。


ある日親方や関取衆がちゃんこを食べた後に漬物すらまともに残っておらず、泣く泣く鍋の残り汁だけで飯を食おうとしていた床安に対し、当時序二段だった吉の谷がこっそり卵とふりかけを持ってくる気遣いを見せたという逸話が伝わっている。この時吉の谷は「やす、俺も頑張るから、お前もな。関取になったらお前にまげを結ってもらうから」と誓い、結果として見事関取昇進を果たしたのであった。[2]


小さい体ながら、全身闘志の塊というほどに気合いの入った相撲を見せた。右を差して食い下がり、投げや捻りを見せて粘る取り口だったが、なんといっても十八番だったものが足取りで、1970年代の角界で「足取りといえば吉の谷」と言われるほどだった[1]


その足取りも、相撲の足取りである「波まくら」ではなく、レスリングの「シングルレッグダイブ」の要領で放たれるものであった。手取り型の力士で入幕5場所目で自己最高位の前頭4枚目に進むほど技量はあったが、右肘を故障したこともあって幕内からはわずか7場所で陥落、以後は十両と幕下を往復する苦しい土俵生活を送った[1]


西十両13枚目で迎えた1978年5月場所、6勝7敗と1敗もできない状況で14日目の相手は鳴り物入りで角界入りした長岡(のちの大関朝潮、現・高砂親方)に決まった。長岡はこの一番に幕下付出からの14連勝・2場所連続幕下優勝での十両昇進をかけていたが、吉の谷は必殺の足取りからの寄り倒しで長岡を破り名を上げた(なお、この一番は後にDVDマガジン『国技大相撲』に収録され、舞の海による解説がつけられている)。


この場所は残りを連勝して勝ち越して陥落を免れたが翌場所負け越して幕下へ陥落、1場所で返り咲いたものの再び負け越して、以後は1982年5月場所後の現役引退まで幕下で取り続けた[1]


肘の故障を抱えながら、引退まで102場所、930番一度も休場することなく取り納めた。


引退後は借株で年寄山科を襲名、名跡の保有者だった大錦の引退後は千賀ノ浦から入間川竹縄大鳴戸と名跡を変えつつ、出羽海部屋付きの親方として後進の指導に当たった。


1998年
5月場所後、同じ長崎県出身の中立親方(元小結・両国)が中立部屋(現・境川部屋)を興すと、これに同行した。


しかし、1999年夏頃に体調を崩し、緊急入院して治療を行っていた。

2000年1月14日、多臓器不全のため、入院先の東京都江東区内の病院で逝去。享年50。

主な成績・記録
・通算成績:461勝469敗 勝率.496

・幕内成績:48勝57敗 勝率.457

・現役在位:102場所

・幕内在位:7場所

・各段優勝

  ・十両優勝:1回(1973年9月場所)

  ・幕下優勝:2回(1975年11月場所、1976年5月場所)

  ・三段目優勝:1回(1970年5月場所)

詳しいことは、「吉の谷彰俊ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E3%81%AE%E8%B0%B7%E5%BD%B0%E4%BF%8A
(wikiより)

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蜂矢 敏行(はちや としゆき、本名は四股名と同じ、1950年11月16日 - 2001年1月27日)は、岐阜県本巣郡根尾村(※現役当時、現在の同県本巣市)出身で、春日野部屋に所属した大相撲力士である。最高位は西前頭6枚目(1984年11月場所)。現役時代の体格は180cm、110kg。得意手は左四つ、吊り、寄り。

来歴・人物
地元・根尾村の中学校を卒業後、愛知県犬山市スーパーマーケットに勤務していたが、1967年7月に相撲見物に行った事を切っ掛けに相撲取りになる事を決意。しかし、体重が規定の75kgより下回っていたため、その後故郷に戻って体重増加に努めた。


1年後、春日野部屋への入門を許され、1968年9月場所で初土俵を踏んだ。序ノ口当初から、本名でもある「蜂矢」の四股名で相撲を取り(一時「栃ノ矢」と改名した時期もあったが、すぐに元の「蜂矢」の名に戻している)、1976年5月場所で新十両に昇進。以降は、幕下と十両との往復を幾度も繰り返した。だが、十両24場所目の1981年9月場所では東十両5枚目に在って10勝5敗と好成績を残し、これを手土産に翌11月場所で念願の新入幕を果たした。序ノ口に付いてから約13年、80場所目での超スロー入幕であった。


小兵だが腕力は強く、投げや吊り寄りの大きい相撲を取ったが、頭をつけて食い下がる相撲は少なかった。そのため幕内では通用しなかったが、十両在位は歴代1位(大潮とタイ)の55場所と、息の長い土俵生活を送った。

再入幕を果たした1984年9月場所では、東前頭14枚目の地位で10勝を挙げている。


1985年
1月場所を最後に幕内から遠ざかり、以降は長く十両で相撲を取ったが、幕下に落ちて全休した1987年9月場所を以って36歳で引退した。


春日野部屋が出羽海一門という事から、同じ一門で力士の人数が少なかった三保ヶ関部屋で横綱・北の湖付け人を長く務め、“北の湖の参謀”と呼ばれた。その縁から、引退後は北の湖親方から年寄名跡の「小野川」を借り、春日野部屋から北の湖部屋へと移籍して後進の指導に当たった。


2001年1月27日、上顎がんのため、東京都内の病院で死去。50歳没。

主な成績・記録
・通算成績:638勝625敗7休 勝率.505

・幕内成績:26勝34敗 勝率.433

・十両成績:399勝426敗 勝率.484

・現役在位:114場所

・幕内在位:4場所

・十両在位:55場所(史上1位タイ)

・各段優勝

  ・十両優勝:1回(1976年7月場所)

  ・幕下優勝:1回(1976年3月場所)

・通算連続出場:1263回(史上12位。初土俵からの記録では史上9位。1968年11月場所 - 1987年7月場所)

詳しいことは、「蜂矢敏行ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9C%82%E7%9F%A2%E6%95%8F%E8%A1%8C
(wikiより)

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安政 2年 ( 1855 ) 5月、徳島市生まれ。


草相撲で活躍し、明治 14年 7月に大阪竹縄弟子として見習に登場。


次いで京都に移って華ノ峰善吉の弟子となり、18年 5月には梅ヶ谷の弟子として東京に出た。しかも幕下十枚目格である。


23年 5月に入幕、得意は首投げと合掌捻りで、35年 5月に引退したときには 47歳だった。


昭和 6年 1月 15日歿、戒名は「清誉鬼勇居士」であるが、子孫が別に「本清院顕道信士」という戒名をつけている。

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この墓は昭和 43年 7月に本人が建てたもので、亡くなったのは 48年 7月 20日である。


この人は行司の木村今朝三で、明治 36年 4月 10日生まれ。


長野県池田町の産で、僅か 5歳で 2代目・峰崎 ( 木村銀治郎 ) の門人となった。


「けさぞう」は本名であるが、漢字で書くと「北原袈裟三」である。


師匠が大正 11年に亡くなってから片男浪、伊勢ノ海部屋へと移り、昭和 8年から錦嶋部屋所属となった。


17年 1月から三役行司となり 31年 5月に 9代目・錦嶋が亡くなり、今朝三が継ぐことになって 6月 20日に 10代目・錦嶋となった。


二枚鑑札となった次の年、行司の二枚鑑札は 33年 5月限りで廃止と決まったので、今朝三は 33年 1月を限りに年寄専務となり、のちには理事も務め、43年 4月 9日に定年退職した。

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八代目・山響、釋迦ヶ嶽庄太郎


山科 - 出羽海部屋


1922年 5月 - 1961年 1月 ( 定年 ) 退職。

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6代目・山響、嶽ノ越亀吉


伊勢ノ海部屋


1904年 1月 - 1913年 4月 ( 死去 )

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浪ノ音健藏(なみのおとけんぞう、1882年3月14日-1967年11月25日[1][2])は、高砂部屋に所属した元力士。11代振分。本名は鎌田健藏。現在の青森県青森市出身。166cm、79kg。最高位は西関脇[3]

経歴
子供の時から小兵ながら土地相撲で取っていたが、1897年の夏に高砂の一行が巡業に来た時に同県の綾浪を頼り入門した[4]。1898年1月初土俵、1906年1月新入幕。入幕3場所目には小結に上がり、当時大関であった荒岩亀之助引き落としで破る殊勲を挙げた。1907年5月関脇昇進。それ以降は中堅に甘んじた。1914年5月幕下に陥落して引退し11代振分を襲名[3]振分部屋を創設し、大ノ高などを育て、勝負検査役などを務めた。47年間年寄として在職し、78歳で1961年1月定年退職。


引退後は青森へ移住し、宿禰神社の社務をこなし、晩年は角界の生き字引として好角家との交流を楽しんだ。


1967年11月25日、85歳で死去。


1911年1月に起きた新橋倶楽部事件では力士側代表として協会との交渉に当たった[5]


1914年の高砂襲名争いでは綾川を推薦したが敗れ、出羽海一門に転属した。

取り口
前捌きのうまさから、右前ミツ、左ハズ、または右差し一気の寄りが持ち味であった。さらには巻き落とし蹴返しなども得意の、速攻相撲の技能派だった[3]

成績
・幕内16場所55勝56敗30休19分預

・通算20場所65勝59敗30休23分預

詳しいことは、「浪ノ音健藏ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%AA%E3%83%8E%E9%9F%B3%E5%81%A5%E8%97%8F
(wikiより)

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八代・常盤山小平治

1866年 11月 - 1870年 8月 ( 死去) 二枚鑑札、現役没


関脇


常盤山 - 玉垣 - 常盤山部屋

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十八代横綱・大砲 万右衛門 ( おおづつ - まんえもん )


本名:角張 満次 → 満右衛門


出身地 : 宮城県白石市


生年月日 : 明治 2年 ( 1869年 ) 11月 28日


身長、体重 : 194cm、132kg.


所属部屋 : 尾車 ( 2代 ~ 3代 )


初土俵 : 明治 20年 ( 1887年 ) 1月場所 序ノ口付出


最終場所 : 明治 41年 ( 1908年 ) 1月場所


改名歴 : 三沢滝 → 大砲


成績 : 通算 32場所、98勝 29敗 51分 4預 138休
金星 2個 ( 西ノ海、小錦 )
優勝相当成績 2回


年寄名 : 待乳山 ( 7代 )


没年月日 : 大正 7年 ( 1928年 ) 5月 27日 ( 48歳 )


備考 : 突っ張り、叩き、右四つ、寄りが得意。
    
明治時代生まれ最初の横綱。

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九代目・野州山徳之丞 ( 高砂部屋 )


いまの宇都宮市の出身で、安政 5年 ( 1858 ) 生まれ。


明治 10年 初代・高砂の弟子となり、19年 5月に十枚目に上がり 幕内には上がらなかったが十枚目を務めること 12場所、29年 1月で引退した。


尾上部屋を興して 2人の野州山を育てている。


2代目は幕内まで上がったが、モテすぎて脱走を繰り返した珍力士で 3代目は次の尾上を襲名した十枚目力士である。


大正 8年 1月 28日に歿し墓は未亡人亡きあと、3代・野州山夫婦が香華を手向けていたというが、いつしか無縁となり普通なら整理されてしまうところ、棹石だけ本堂脇の現在地に移されたという。


現在の台石は新しくつけられたもので、もともとの台石には姓の「信田」と彫られてあったそうだ。

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大上戸清隆 / 清恵波清隆 ( きよえなみ - きよたか ) / 清恵波一綱     
大正 12年 6月 24日 ~ 平成 18年 4月 25日 ( 1923 - 2006 )

関取。

本名、川端清隆のち大上戸清隆。

サハリンにて生まれ、石川県鳳至郡穴水町出身。

双葉山に推挙され立浪部屋に入門。

四股名・清恵波清隆のち清恵波一綱 ( かずつな )。

昭和 24年 ( 1949 ) 1月入幕。

8代中川の婿養子となる。最高位は前頭 2枚目。

昭和 35年 ( 1960 ) 1月引退。幕内在位、36場所。幕内成績、237勝 295敗。

9代中川を襲名し、昭和 40年 ( 1965 ) に中川部屋を開いたが、弟子に恵まれず部屋を閉じる。

監事・監察副委員長から警備担当となる。

昭和 63年 ( 1988 ) 6月 1日定年で辞す。不整脈で没する。82歳没。「大乗院釈紹隆」。

正面「南無阿弥陀仏」。台石「大上戸家」。

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増巳山 豪(ますみやま たけし、1922年1月17日 - 1995年5月11日)は、1950年代に活躍した大相撲力士である。身長182cm、体重99kg。引退後は、年寄・阿武松や同・待乳山として後進の指導に努めた。

来歴・人物
和歌山県西牟婁郡(現・東牟婁郡串本町出身。本名は石谷 昌治(いしや まさはる)。


小学校卒業後は神戸市内の企業に勤めていたが、16歳の時に上京し、三保ヶ関部屋へ入門。1939年1月場所で初土俵を踏んだ。当初の四股名は、故郷の近くの名勝である熊野灘から1字を取った「熊ノ浦」(後、「秀ノ海」を経て「増巳山」へ改名している)。


1944年
5月、幕下にいた時に召集され、兵役に就く。その間、1946年5月に師匠の8代三保ヶ関(元十両4・滝ノ海)が亡くなり、それに伴って弟子達は出羽海部屋に預けられた。そのため、帰還した時には、出羽海部屋の所属となっていた。


1949年1月、新十両に昇進。1950年1月場所では13勝2敗と大勝ちして十両優勝を飾り、翌5月場所で新入幕を果たした。この場所から、兄弟子であった元大関・増位山の三保ヶ関親方(9代目)が出羽海部屋から独立して三保ヶ関部屋を再興したため、4年ぶりに同部屋へ戻る事となった。


突っ張りと叩きを主な武器としたが、幕内上位には上がれず、最高位は1950年9月場所に於いての西前頭13枚目に留まった。幕内を8場所連続保ったあと、1953年1月場所では十両に陥落し、その後は1場所だけ再入幕した。


以降、1958年9月場所まで十両に在り、十両在位は通算29場所に及んだ。


同年11月場所では幕下に落ちて初日より休場し、場所後、36歳で引退


引退後は年寄・阿武松から同・待乳山を襲名し、三保ヶ関部屋付きの親方として停年まで日本相撲協会に在籍した。


1995年5月11日、腎臓癌のため東京都墨田区内の病院で逝去。73歳没。

主な戦績
・現役在位:54場所

・通算成績:321勝343敗1分12休 勝率.483

・幕内在位:9場所

・幕内成績:54勝81敗 勝率.400

場所別成績については、「増巳山 豪ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A2%97%E5%B7%B3%E5%B1%B1%E8%B1%AA

各段優勝
・十両優勝:1回(1950年1月場所=13勝2敗)

改名歴
・熊ノ浦(くまのうら、1940年1月場所)

・秀ノ海(ひでのうみ、1940年5月場所-1947年11月場所)

・増巳山(ますみやま、1948年5月場所-1958年11月場所)

年寄変遷
・阿武松(おうのまつ、1958年11月-1960年3月)

・待乳山(まつちやま、1960年3月-1987年1月)

関連項目
大相撲力士一覧

参考文献
・『全幕内力士 個人別大相撲星取大鑑』(著者:小池謙二、発行元:医聖社)

・『戦後新入幕力士物語 第1巻』(著者:佐竹義惇、発行元:ベースボール・マガジン社
(wikiより)




浄昌院入岱増久居士。

2785  幕内・増巳山(石谷家)

浄昌院入岱増久居士。

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日本体育会発祥之地

明治二十四年八月十一日 日高藤吉郎先生この地に日本体育会を創立し国民体育の振興を図る 


現在傘下に日本体育大学 同女子短期大学ほか専門学校 高校幼稚園等六校を有する   


平成三年八月 創立百周年を記念し日本体育会建之
(石碑文より)

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勝利の喜びは

  努力の過程にあり

    勝利の結果にはない


勝利は目標ではあるが、目的ではない


多くの競争者をしのいで優勝しようと思えば


人一倍のくふうと努力がいる


その苦しみに堪えていくところに


スポーツのだいご味がうまれてくるのだ

                       田島 直人
(碑文より)

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