本牧jack『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

本牧Jackで御座います
小生の拙ブログ『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑に御訪問頂き誠に有難う御座います。
歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。
たまに『 大人数で取材しているのか? 』との質問を戴きますが、小生と相方の二人三脚で御座います。
出来るだけ続けたいと思っていますが 膝・耳に問題が有って、いつまで出来るやら・・・説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。
御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。 ※ 申し訳御座いませんが「画像の転用」は禁止とさせて頂きます。 コメントは原則公開させていただいております 質問等に対してはブログ記事で返信させていただきます 他の方法で連絡を取り合う等一切しません 場合によっては、「IPブロック」しますがブロックした場合解除する事は有りませんので宜しくお願いします。

カテゴリ: 忠犬ハチ公・動物関連

大昔、久米島から中山王府への貢納船が出帆した。


しかし船は荒天に遭い、与那国島へ漂着した。


一行の中には女一人と雄犬一匹が加わっていて、ある夜から男がひとりひとり犬に噛み殺され、犬と女だけが岩屋で同棲するようになった。


一方、小浜島の漁夫が荒天に遭い、与那国島へ漂着した。


女はこの島に猛犬がいることを知らせ、すぐに島を離れるよう忠告するが、男は女の美貌に惹かれ、逆に犬を退治した。


二人は夫婦になり七人の子宝に恵まれるが、ふとしたことから犬の殺害を知った女は、ついに犬の死骸を抱いて命を絶った。


犬と女が住んでいたところがイヌガンと言われている。
(案内板より)

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中央区の酒屋で飼われていた六助という犬は、ねずみ捕りが上手だった。


六助ににらまれただけで、ねずみは逃げられなくなったという。


ある日、六助は野犬狩りに遭い殺されてしまいました。


その死を悼んだ有志は、明治28年に長命寺に碑を建てました。

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蛙関連の御商売をされていた会社が建立されたのでしょうか・・・

説明版も無い為に分かりません。

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名馬・鬼鹿毛 ( おにかげ ) の御墓だそうです。

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古賀 忠道(こが・ただみち、もしくは、こが・ちゅうどう 1903年12月4日 - 1986年4月25日)は佐賀県出身の上野動物園園長。


1903年12月4日、佐賀県生まれ。東京帝国大学農学部獣医学科卒。東京市公園局・上野恩賜公園動物園(上野動物園の前身)勤務。1937年、それまでなかった園長制度設立とともに「初代園長」就任(1937年までは黒川義太郎が第2代監督)。動物園においては、子ども動物園の開園、おサル電車の設置、インドネルー首相より贈られたアジアゾウインディラを目玉とした移動動物園など、動物と人間の係わり合いを高める様々な試みを展開する。1962年の動物園創立80年記念行事を最後に園長を引退。同年3月、東京大学 農学博士。「鶴類の繁殖、とくに人工孵化育雛に関する研究」。元日本哺乳動物学会理事(1965年4月〜1967年3月)。


晩年は財団法人東京動物園協会理事長、世界自然保護基金(WWF)日本委員会設立などに関わり野生・動物保護に全力を尽くした。MBSテレビ野生の王国』の監修も務めた。1986年4月25日、82歳で没した。翌1987年には彼の名を冠した古賀賞(動物園および水族館での動物繁殖において特に功績のあった業績に授与される)が設けられる。なお、有名な「動物園は平和なり」は彼が残した言葉である。

著書
・古賀忠道『上野動物園と黒川翁』黒川翁記念碑建設會、1937年。NCID BA88890212

論文
国立情報学研究所収録論文 国立情報学研究所

・古賀忠道 (1963-05-25). “高島さんと動物園(高島春雄氏追悼号)”. 動物分類学会会報 (日本動物分類学会) 29: 4-5. NAID 110002337218.

関連項目
恩賜上野動物園

みさき公園

多摩動物公園

無柵放養式展示

外部リンク
古賀忠道 - NHK人物録
(wikiより)

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昔 両国回向院で、「動物の見世物」をやっていたときに、死亡したオットセイの御墓です。


大正 15年 8月 建立

施主 國技館有志一同

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長宗我部元親が秀吉から拝領した『内記黒』の墓であると伝えられている。 


『土佐物語』によると、戸次川合戦のとき、四国勢は作戦の失敗から、薩摩勢の猛攻により指揮系統は分断され、乱戦の中で信親の生死も分からず、主従わずか 21騎となった元親は、武運もこれまでと馬を捨てて戦い、敵陣に斬り込もうとしていた。 


これを見て、家来の一人が走りよっておしとどめ、自分の馬に乗せようとしたところ、奇跡的にも戦場から内記黒がかけてきたので、家来は「これぞ家運の尽きぬしるし」と大いに喜び、元親を乗せて敵中を突破し、府内に逃れることが出来た」と記され、内記黒が元親の命を救ったという逸話が残っている。( 高知市 HPより )

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〇 霊犬 早太郎伝説
今よりおよそ 700年程も昔、光前寺に早太郎というたいへん強い山犬が飼われておりました。


その頃、遠州府中 ( 静岡県磐田市 ) 見付天神社では田畑が荒らされないようにと、毎年祭りの日に白羽の矢の立てられた家の娘を、生け贄として神様に捧げる人身御供という悲しい習わしがありました。


ある年、村を通りかかった旅の僧である一実坊弁存 ( いちじつぼうべんぞん ) は、神様がそんな悪いことをするはずがないと、その正体をみとどけることにしました。


祭りの夜にようすをうかがっていると、大きな怪物が現れ『今宵、この場に居るまいな。早太郎は居るまいな。信州信濃の早太郎。早太郎には知られるな』などと言いながら、娘をさらっていきました。


弁存はすぐさま信州へ向かい、ようやく光前寺の早太郎をさがし当てると、早太郎をかり受けるて急ぎ見付村へと帰りました。


次の祭りの日には、早太郎が娘の代わりとなって怪物と戦い、それまで村人を苦しめていた怪物 ( 老ヒヒ ) を退治しました。


早太郎は化け物との戦いで傷を負いましたが、光前寺までなんとか帰り着くと、和尚さんに怪物退治を知らせるかのように一声高く吠えて息をひきとってしまいました。


現在、光前寺の本堂の横に、早太郎のお墓がまつられています。


また、早太郎をかり受けた弁存は、早太郎の供養にと《大般若経》を写経し光前寺へと奉納いたしました。


この経本は現在でも、光前寺の宝として大切に残されています。
(早太郎の絵本 1冊 : 1400円 )


昔のことです。


光前寺というお寺の下で、山犬が三匹のかわいい子犬を生みました。


それを知った和尚さんは、毎日おいしいご馳走を、たくさん運んでやりました。


月日がたち子犬はだんだん大きくなり、母犬といっしょに、お寺の庭をかけ回って楽しく遊ぶようになりました。


ある日、母犬は三匹のかわいい子犬を連れて帰ろうとしたとき、一番利巧そうな子犬を一匹お礼としてお寺へ残していきました。


その子犬は、灰色をしていて、強そうで、走ることがとても早かったので、和尚さんは「早太郎」と名前をつけてかわいがっていました。


在る寒い日の夕方のことです。


お寺のうら山へおそろしい怪物が出てきて、遊んでいた子どもをさらって逃げようとしました。


それを見つけた早太郎は、風のような速さと、すごい力で、怪物と戦い、子どもを助けました。


そのことがあってからは、村の人たちも、やさしく強い早太郎をみるとだいたり、なでたりしてかわいがってやりました。


そのころ、遠州 ( 静岡県磐田市 ) では、秋祭りの晩になると、かわいい女の子のいる家に、白い矢がとんできて屋根にささり、矢のささった家では、女の子を、白木の箱に入れてお宮へ供えなければなりませんでした。


それをしないと田畑の作物が一晩のうちに荒らされてしまうのでした。


とうとうお祭りの夜がやってきました。

お坊さんが、白い木の箱に入れた女の子の様子を見ようと、太い木の陰に、そっと隠れて見ていると

「今宵、今晩、信州信濃の早太郎はおらぬか。このことばかりは早太郎に知らせるな。」と何回もうたいながら、大きい怪物が現れ、白い木の箱の中から、女の子をわしづかみにすると、ものすごい早さで消え去って行きました。


その様子を見たお坊さんは、おそろしい怪物のうたったうたを忘れることができず、一日も早く信州信濃の早太郎を捜そうと思い、旅をしている六部という人に頼んでみました。


頼まれた六部は「信州信濃の早太郎はおらぬかい。」「信州信濃の早太郎はおらぬかい。」と早太郎捜しの旅に出かけました。


六部は毎日あちら、こちらと捜し回って、やっとのことで、宮田のお茶屋にたどりつき、ひと休みをしてお茶を飲んでいるとお茶屋のおばあさんが、早太郎の話を聞かせてくれました。


話を聞いた六部は、喜びいさんで、お茶もそこそこに光前寺へ行き、早太郎を貸してくださいと、和尚さんに頼みました。


六部から怪物の出る話を聞いた和尚さんは早太郎がんばっておいでよ」と犬の頭を優しくなぜなぜ六部に渡しました。

 
早太郎を借りた六部はおおよろこびで遠州 ( 静岡県 ) へ帰っていきました。


さて、冷たい風が吹くお祭りの夜のことです。


かわいい女の子の身代わりに早太郎を白い木の箱に入れて、神様の前に供えておき、お宮のえんの下のすみでじっと様子を見ていると、大きい怪物が待ちかねたように、太い杉の木から飛び降り、あたりをキョロキョロ見渡して、「今宵、今晩、信州信濃の早太郎はおらぬか、このことばかりは早太郎に知らせるなよ」とうたいながら、白い木の箱に近づいて行きました。


怪物がふたをあけたとたん、早太郎は箱から飛び出して怪物にとびかかっていきました。


怪物も負けずに「ウワー、ウワー」と、すごい叫び声をあげて早太郎にとびかかりました。


しかし、早太郎はうなり声ひとつあげずすごい速さと力で闘い続けました。


怪物は体中、血だらけになりだんだん弱っていきました。


早太郎も少しけがをしていましたが、最後の力をふりしぼって、怪物ののどにかみついていきました。


怪物は「ギャー」といってばったりたおれ、動かなくなってしまいました。
 
お祭りの夜があけたので、、村の人たちが、おそるおそるお宮へ行ってみると、早太郎の姿は見えず、年とったサルが血まみれになって死んでいました。


早太郎は、血まみれのまま、遠い遠い信州の光前寺までやっとのことでたどりつき、えんがわにいた和尚さんの顔を見ると「ワン」と一声ほえ、ばったりたおれて死んでしまいました。


和尚さんは、死んだ早太郎の体を、やさしく、やさしくなでながら「早太郎よくたたかった。強かったな。」とほめてあげました。


そして、太い杉の木にかこまれた本堂の左横に穴を掘り、永い永い眠りにつかせてあげました。
( 伊那毎日新聞社「伊那の伝説と昔話」より )

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猫塚碑に刻まれた成島柳北撰文の文字は細かくて読みとれないが、線彫りされた猫の顔は目立つ。


よく見ると目、鼻、口を「魯」の字形にしてある。


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明治11年開催の「珍猫百覧会」の収益で建てたのだという。


珍猫百覧会とは今でいう猫グッズ展だというから、昔も猫モノ人気は高かったのか。


丸穴から中をのぞくと眠り猫の像が見えるという、なかなか凝った猫塔である


さすが猫々道人(みょうみょうどうじん)を名乗るだけの猫好きだ。

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松平家廟の階段の脇にひっそりと、歴代松平家愛馬之墓がありました。

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むかし、江戸幕府が開かれる少し前、今の多聞寺のあたりは隅田川の河原の中で草木が生い茂るとても寂しいところでした。


大きな池があり、そこにはひとたび見るだけで気を失い、何か月も寝込んでしまうという毒蛇がひそんでいました。


また、「牛松」と呼ばれるおとなが五人でかかえるほどの松の大木がありました。


この松の根本には大きな穴があり、妖怪狸がすみつき人々をたぶらかしていたのです。


そこで、鑁海(ばんかい)和尚と村人たちは、人も寄り付くことができないような恐ろしいこの場所に、お堂を建てて妖怪たちを追い払うことにしました。 


まず、「牛松」を切り倒し、穴をふさぎ、池を埋めてしまいました。 


するとどうでしょう、大地がとどろき、空から土が降ってきたり、いたずらはひどくなるばかりです。


ある晩のことでした。


和尚の夢の中に、天まで届くような大入道が現れて、


「おい、ここはわしのものじゃさっさと出て行け、さもないと、村人を食ってしまうぞ。」
と、おどかすのでした。


和尚さんはびっくりして、一心にご本尊さまを拝みました。


やがて、ご本尊毘沙門天のお使いが現われて妖怪狸に話しました。


「おまえの悪行は、いつかおまえをほろぼすことになるぞ」


次の朝、二匹の狸がお堂の前で死んでいました。 


これを見た和尚と村人たちは、狸がかわいそうになりました。 


そして、切り倒してしまった松や、埋めてしまった池への供養のためにもと塚を築いたのでした。 この塚はいつしか「狸塚」と呼ばれるようになりました。
(案内板より)

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境内の鳩豆屋が死んだ鳩の慰霊のため、昭和 35年建立。

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所在 東品川一丁目七番十七号 利田神社

指定 平成十八年十一月二八日(歴史資料第四号)


この鯨碑(鯨塚)は、寛政十年(一七九八)五月一日、前日からの暴風雨で品川沖に迷い込んだところを品川浦の漁師達によって捕らえられた鯨の供養碑である。


鯨の体長は九間一尺(約十六・五メートル)高さ六尺八寸(約二メートル)の大鯨で、江戸中の評判となった。


ついには十一代将軍家斉(いえなり)が浜御殿(現、浜離宮恩賜庭園)で上覧するという騒ぎになった。


全国に多くの鯨の墓(塚・塔・碑など)が散在するが、東京に現存する唯一の鯨碑(鯨塚)である。


また、本碑にかかわる調査から品川浦のように捕鯨を行っていない地域での鯨捕獲の法を定めていることや、鯨見物に対する江戸庶民の喧騒ぶりを窺い知ることができる貴重な歴史資料である。
(案内板より)

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嘉永六年(1853)三月二十九日 浅草新堀川、龍寶寺門前付近に四尺五寸程なる大鯉浮かびいたるを見て、町の人々大騒ぎとなり之を捕えんとせしも大鯉暴れ容易に捕獲出来ず遂に船を出し血気の若者達、数名川に飛び込み各刃物・竹槍等にて突き刺し漸く大鯉の弱りたるところを捕らえ河畔なる龍寶寺庭内大池に放ちやりしが、四月三日大鯉は遂に死せりところ。


にわかに高熱にうなされ吐血する者も有り、四十日余大いに苦しみたり。


特に料理せし者のうち二人は同月十六日に、他の四人は同月二十三日相継いで悶死せり。


遺族の者達この不思議なる祟りにおどろき、ゆかりの者一同と心を合わせ鯉の霊を慰めと龍寶寺境内に供養の碑を建て篤く弔いたり。


やがて風聞日々に広まり参詣する者次第に多く 又、不思議にもろもろの奇瑞をあらわし、とりわけ安産子育て開運出世縁結びなどには霊験あらたかなるにより、参詣人の讃仰いと篤く江戸中の評判となり、これよりいつしか龍寶寺を鯉寺と呼び碑を鯉塚と言い伝えたり。


然るに大正十二年九月一日の大震火災にて碑は崩れ去り、昭和十二年四月三日、千人に及ぶ善男善女の結縁協力に依り昔にまさる鯉塚の再現となり、あらたに昇鯉観音堂建立も實現し江戸以来の名跡復活なると信徒の者達大いによろこびいたるしも、無常なり日米開戦後、昭和二十年三月十日東京大空襲の折再度崩壊の厄に逢い、爾来三十九年の星霜を経て今日に至る。


然るに此度信徒の有志の人々大いに惜しく思いて 今ひとたび再建の大願成就を期し、精進結集の祈り空しからず遂に機熟してここに入魂かがやく鯉塚の新姿を仰ぐに至れり。


今よりは寺檀信徒相い共に一層心を戒しめ、江戸名跡の保存伝承ならびに昇鯉観音信仰に思いを致し、併せて各精霊の冥福を祈り、広く世の人々の幸福を分たんとするものなり。


龍門の 瀧ならなくに 龍寶寺
  登りて たつとなりし 鯉塚    鶯亭金升
(案内板より)


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墨田区・回向院にある猫塚です。


猫をたいへん可愛がっていた魚屋が、病気で商売ができなくなり、生活が困窮してしまいます。


すると猫が、どこからともなく2両のお金をくわえてき、魚屋を助けます。


ある日、猫は姿を消し戻ってきません。

商家で、2両くわえて逃げようとしたところを見つかり、奉公人に殴り殺されたのです。

それを知った魚屋は、商家の主人に事情を話したところ、主人も猫の恩に感銘を受け、魚屋とともにその遺体を回向院に葬りました。


江戸時代のいくつかの本に紹介されている話ですが、本によって人名や地名の設定が違っています。

江戸っ子の間に広まった昔話ですが、実在した猫の墓として貴重な文化財の一つに挙げられます。
(案内板より)

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台東区・東浅草、東禅寺近くに有る 駿馬塚は、平安時代の康平年間(1058~1064)源義家が陸奥へ向かう際、この地で愛馬「青海原(あおうなばら)」が絶命し、これを葬った所と伝えている。


現存する塚は、明治二十八年造立の石碑や石造層塔の一部を遺すのみだが、天保七年(1836)刊行の「江戸名所図会」には左の挿絵を載せており、江戸時代後期には土饅頭型の塚や「駿馬塚」と書した石碑が建っていたようである。


現在、付近の人々はこの塚を「馬頭観音」と呼び、覆屋等を設けて大切に守っている。

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