カテゴリ: 創業者・実業家・商人・株式・会社員・日銀・銀行・鉄道・ホテル関連
8880 渋沢栄一墓(台東区谷中・谷中霊園)
| 生誕 | 天保11年2月13日 (1840年3月16日) (現・埼玉県深谷市血洗島) |
|---|---|
| 死没 | 1931年11月11日(91歳没) (現・東京都北区西ケ原) |
| 別名 | #名前参照 |
| 職業 | 幕臣、官僚、実業家、教育者、慈善家、政治家 |
| 配偶者 | 千代(1858年 - 1882年) 兼子(1883年 - 1934年) |
| 子供 | 渋沢篤二、渋沢武之助、渋沢正雄 、渋沢秀雄、穂積歌子、阪谷琴子、明石愛子など(下記参照) |
| 親 | 父・渋沢市郎右衛門 母・渋沢ゑい |
| 栄誉 | 正二位 子爵 黄綬褒章、紺綬褒章 |
渋沢 栄一(しぶさわ えいいち、旧字体: 澁澤 榮一、1840年3月16日〈天保11年2月13日〉- 1931年〈昭和6年〉11月11日)は、日本の実業家[2]。位階勲等爵位は正二位勲一等子爵。雅号は青淵(せいえん)。
江戸時代末期に農民(名主身分)から武士(一橋家家臣)に取り立てられ、のちに主君・徳川慶喜の将軍就任にともない幕臣となり[3]、明治政府では官僚も務めた。民部省を経て直属の上司である大蔵大輔と井上馨の下で大蔵少輔、吉田清成らと共に造幣、戸籍、出納など様々な政策立案を行い、初代紙幣頭、次いで大蔵省三等官の大蔵少輔事務取扱となる。
井上馨と共に退官後は実業界に転じ、第一国立銀行(現・みずほ銀行)や東京商法会議所(現・東京商工会議所)、東京証券取引所といった多種多様な会社や経済団体の設立・経営に関わった。そのうち企業は約500社[4] にもおよび、「日本資本主義の父」[5] と称される。
同時に東京養育院等の福祉事業、東京慈恵会等の医療事業、商法講習所(現:一橋大学)、大倉商業学校(現:東京経済大学)、高千穂高等商業学校(現:高千穂大学)等の実業教育、東京女学館などの女子教育、台湾協会学校(現:拓殖大学)の設立、二松學舍(現:二松学舎大学)第3代舎長就任等による私学教育支援や、理化学研究所設立等の研究事業支援、国際交流、民間外交の実践等にも尽力した。また『論語と算盤』の言葉に代表されるその道徳経済合一の思想でも広く知られている[6]。
経歴郷里にて
1840年 -
武蔵国榛沢郡血洗島村(現・埼玉県深谷市血洗島)に渋沢市郎右衛門(1809年 - 1872年)[7] とゑい(1811年 - 1874年)の姉と妹を持つ長男として天保11年(1840年)2月13日に誕生した。
渋沢家は藍玉の製造販売と養蚕を兼営して米、麦、野菜の生産も手がける百姓だった。原料の買い入れから製造、販売までを担うため、一般的な農家と異なり、常に算盤をはじく商業的な才覚が求められた。栄一も父と共に信州や上州まで製品の藍玉を売り歩くほか、原料の藍葉の仕入れ調達にも携わった。14歳の頃からは単身で藍葉の仕入れに出かけるようになり、こうした経験がヨーロッパ視察時に、近代的な経済システム、諸制度を理解吸収する素地となり、また後の現実的な合理主義思想の形成にも繋がったともいわれる。
一方で、5歳の頃より父から漢籍の手ほどきを受け、7歳の時には従兄の尾高惇忠の許に通い、『論語』を始め四書五経や『日本外史』を学ぶ。剣術は元川越藩剣術師範で近隣に在郷の大川平兵衛より神道無念流を学んだ。安政3年(1856年)16歳の時、領主代官のいる岡部藩の岡部陣屋で御用金の上納を命じられ、大いに反発したと伝わる。安政5年(1858年)18歳の時、惇忠の妹で従妹にあたる尾高千代(1841〜82)と結婚した。
尊攘派志士から、一橋慶喜の家臣へ 1861年 -
文久元年(1861年)、江戸に出て海保漁村の門下生となる。また北辰一刀流の千葉栄次郎の道場(お玉が池の千葉道場)に入門し、剣術修行の傍ら勤皇志士と交友を結ぶ。その影響から尊皇攘夷の思想に目覚め、文久3年(1863年)に共に従兄弟である尾高惇忠や渋沢喜作らと、高崎城を乗っ取って武器を奪い、横浜外国人居留地を焼き討ちにしたのち長州藩と連携して幕府を倒すという計画を立てるが、同じく従兄(惇忠の弟)の尾高長七郎の懸命な説得により中止する。
親族に累が及ばぬよう父より勘当を受けた体裁を取り、喜作と連れ立って京都に出るが、八月十八日の政変直後であったため、勤皇派が凋落した京都での志士活動に行き詰まり、江戸遊学の折より交際のあった一橋家家臣・平岡円四郎の推挙により喜作と共に一橋慶喜に仕えることになる。士分となった栄一は篤太夫、喜作は成一郎の通称を名乗る。当時、慶喜は朝議参与として京都に常駐していた。仕官後、慶喜が朝廷から禁裏御守衛総督を拝命するが、御三卿は自前の兵力を持っていないため兵力調達が急務となり、栄一らが一橋家領内を巡回して農兵の募集で手腕を発揮した。
幕臣となりヨーロッパへ 1867年 -
慶応2年(1866年)12月、主君の慶喜が将軍となったことに伴って幕臣となる。フランスの首都パリで行われる万国博覧会(1867年)に将軍の名代として出席する慶喜の異母弟・清水家当主の徳川昭武の随員として御勘定格陸軍付調役の肩書を得て、フランスへと渡航する。パリ万博を視察したほか、ヨーロッパ各国を訪問する昭武に随行する。その際に通訳兼案内役として同行していたアレクサンダー・フォン・シーボルトより語学や諸外国事情を学び、シーボルトの案内で各地で先進的な産業・諸制度を見聞すると共に、近代社会のありように感銘を受ける。フランス滞在中に、幕府における役職は御勘定格陸軍付調役から外国奉行支配調役となり、その後開成所奉行支配調役に転じている[8]。パリ万博とヨーロッパ各国訪問を終えた後、昭武はパリに留学する予定であったが、大政奉還に伴い、慶応4年(1868年)5月には新政府から帰国を命じられ、昭武の水戸徳川家相続の件もあり、昭武と共に9月4日(1868年10月19日)にマルセイユから帰国の途につき、同年11月3日(12月16日)に横浜港へ帰国した。
一年半ほどの滞欧中に洋装を整え、当時の日本男子が結っていた髷を切り、送られてきたその写真を見た妻は嘆いたという[5]。渋沢は後年、山高帽をかぶり、それを国産化する日本製帽の操業にも携わり、日本で男性が帽子着用を好む文化の定着に一役買った[5]。この経験を通じ、ヨーロッパ文明に驚き、また、人間平等主義にも感銘を受けた[要出典]。この見聞した経験が、栄一の人生を大きく変えた。
静岡藩、民部省・大蔵省時代 1869年 -
帰国後、駿府の宝台院(現所在地は静岡市葵区常磐町二丁目)に謹慎していた徳川慶喜と面会し「これからは、お前の道を行きなさい」との言葉を拝受するも旧恩に報いるため、駿府(静岡)に留まり静岡藩に出仕した。静岡ではフランスで学んだ株式会社制度を実践することや、新政府からの借入金返済のために、勘定頭の平岡準に相談し、明治2年(1869年)1月には商法会議所を設立した。この商法会議所では銀行的業務と物産販売を兼ね、小野組で糸店を担う古河市兵衛に取り扱いを依頼することもあった[9]。
1869年(明治2年)10月、明治新政府からの招状が静岡藩庁に届き、栄一は大久保一翁に相談し東京へ向かうと民部省租税正の辞令書を受ける。一度は辞任を決意するも、大隈重信らの説得で11月に出仕する。民部省内に改正掛が置かれると掛長となり、度量衡の制定や国立銀行条例制定に携わった。明治4年(1871年)年7月27日に民部省が大蔵省に統合されることに伴い、芳川顕正紙幣頭の下で大蔵権大丞となり、次いで大蔵大丞となる。1872年(明治5年)には大蔵省三等出仕となり、紙幣寮の頭に就任(同三等出仕は上野景範)。大蔵大輔井上馨や大蔵少輔吉田清成と連携して造幣寮の事務に勤しみ、ドイツで印刷された明治通宝(通称「ゲルマン紙幣」)を取り扱ったが、贋札事件の発生も少なくなかった。さらに、同年2月に起きた東京での大火からの再建を大蔵省が主導することとなり、井上馨、東京府参事の三島通庸らとともに煉瓦造りの街並みを計画した。しかし、予算編成を巡って大久保利通や大隈と対立し1873年5月7日、大蔵大輔井上馨や大蔵少輔吉田清成と共同で財政改革意見を建議し、建議書を『日新真事誌』などに掲載して論議を喚起した。明治6年(1873年)5月14日に井上馨と共に退官した。
この間、戊辰戦争を旧幕府側で戦い投獄されていた従兄の渋沢喜作の出獄を引き受け、大蔵省への仕官を世話し養蚕製糸事業調査の名目でヨーロッパ視察に送り出している。同じく戊辰戦争を幕府側で戦った従兄の尾高惇忠には富岡製糸場の初代場長として事業立ち上げを託している。
実業家時代 1873年 -
銀行
大蔵省を辞職した栄一は、井上馨やアレクサンダー・フォン・シーボルト、その弟のハインリヒ・フォン・シーボルトの協力も得ながら明治6年(1873年)自ら設立を指導した第一国立銀行(後の第一銀行、第一勧業銀行、現:みずほ銀行)の総監役に就任する。大株主の三井組、小野組の頭取2名の上に立って、日本最初の銀行の創業を担う。明治7年(1874年)に二大株主の一つ小野組が破綻したことで、新銀行は経営危機に陥った。三井組は単独経営を志向するが、栄一は小野組の古河市兵衛の誠実な対応にも助けられ、被害を最小限に留め、三井組による銀行経営の独占を退けた。自ら単独の第一銀行頭取となり、公益に資する民間取引を軸に据えた銀行の路線を確立する。財閥の機関銀行的な運営とは一線を画し、新興の商工業者の創業指導や資金支援を積極的に展開する。
また、栄一は全国に設立された多くの国立銀行の指導、支援を第一国立銀行を通じて行った。明治10年(1877年)、宇和島伊達家を主な出資先とする第二十国立銀行(後、第一銀行と合併)の設立には相談役を引受け、最終的には第一銀行が吸収合併して経営を引き取り、その深川支店を栄一自邸跡地に移した。
明治25年(1892年)、小口の貯蓄を集める貯蓄銀行の制度ができると、栄一はじめ第一銀行役員の出資により東京貯蓄銀行(後の協和銀行、現:りそな銀行)を設立し、栄一は取締役会長を務めた。
栄一の郷里の埼玉では、明治26年(1894年)に熊谷銀行(後、武州銀行、埼玉銀行、現:埼玉りそな銀行)の設立発起人、明治32年(1899年)設立の黒須銀行(後、武州銀行、埼玉銀行、現:埼玉りそな銀行)では顧問役を引受けている。栄一の頭取退任後ではあるが大正8年(1919年)の武州銀行設立にあたり、第一銀行は栄一の甥で娘婿の尾高次郎監査役を初代頭取に送り出し、設立を支援した。その後、武州銀行は栄一が設立を支援した熊谷銀行、黒須銀行を合併している。
半官半民の特殊銀行が開設されるようになると、栄一は明治29年(1896年)に日本勧業銀行(後、第一勧業銀行、現:みずほ銀行)、明治33年(1900年)に日本興業銀行(現:みずほ銀行)、北海道拓殖銀行、いずれにおいても設立委員として開業を指導した。
事業会社
明治6年(1873年)、栄一は大蔵省在職時から計画を練っていた抄紙会社(現:王子ホールディングス、日本製紙)の設立認可を得て経営を始める。同年、東京府の瓦斯掛(現:東京ガス)の委員となりガス事業を計画。明治8年(1875年)に廻米、生糸貿易の澁澤喜作商店の開業を支援。明治9年(1876年)、平野富二の石川島平野造船所(現:IHI、いすゞ自動車、立飛ホールディングス)に対し個人出資や第一国立銀行の融資で創業を支援。同年、秀英舎(現:大日本印刷)の印刷業創業や、『中外物価新報』(現在の『日本経済新聞』)の創刊を支援した。
明治12年(1879年)に東京海上保険会社(現:東京海上日動火災保険)創立発起人および相談役に就き、保険業創業を支援。明治14年(1881年)に日本鉄道会社(現:東日本旅客鉄道)理事委員となり設立に参画。明治15年(1882年)には倉庫会社・均融会社の設立出願総代、監査役。同年、共同運輸会社の創立発起人となり三菱財閥の日本郵船による海運独占に対抗した(後に両社は合併)。さらに同年には東京電灯会社(現:東京電力ホールディングス)発起人、委員、大阪紡績会社(現:東洋紡)発起人および相談役となった。明治16年(1883年)、工部省深川工作分局の浅野総一郎への払下げによる浅野セメント工場(現:太平洋セメント)創業を支援。明治18年(1885年)、ジャパンブリュワリー(現:キリンホールディングス)設立の理事員を務めた。
明治20年(1887年)、清水組(現:清水建設)の後継者が幼少のため相談役に就き経営にあたる。同年、高峰譲吉の東京人造肥料会社(現:日産化学)の起業を創立委員長として支援したほか、東京製綱会社(現:東京製綱)創立委員、日本煉瓦製造会社理事長、東京ホテル(現:帝国ホテル)発起人総代および理事長、札幌麦酒会社委員長、後に札幌麦酒㈱ 取締役会長(現:サッポロホールディングス)、後に大日本麦酒㈱(現:サッポロホールディングス、アサヒグループホールディングス)設立総会議長 取締役、日本土木会社(現:大成建設)発起人総代、委員長。明治21年(1888年)、古河市兵衛の足尾鉱山組合(現:古河機械金属、古河電気工業、富士通、富士電機、横浜ゴム)の設立を支援。明治25年(1892年)、東京帽子(現:オーベクス)取締役会長。明治28年(1895年)東洋経済新報の創刊を支援、日本精糖(現:大日本明治製糖)発起人および取締役。明治29年(1896年)、汽車製造(現:川崎重工業)創立委員および監査役、浦賀船渠(現:住友重機械工業)相談役、東京建物設立発起人を務めた。
栄一は汽車製造だけでなく、日本鉄道など45の鉄道会社の創立・経営に関わった(小川裕夫『渋沢栄一と鉄道』天夢人)[4]。豊島線(現在の山手線の一部)開業前には、目の前を鉄道が通ることによる騒音を嫌って旧主の慶喜が巣鴨から小石川へ転居する一幕もあった[4]。
明治30年(1897年)、澁澤倉庫部(現:澁澤倉庫)を自邸倉庫を使った家業として創業。
明治31年(1898年)、北海道十勝清水町熊牛地区に開墾を目的とした十勝開墾合資会社を設立。明治39年(1906年)、京阪電気鉄道(現:京阪ホールディングス)創立委員長、帝国劇場会社(現:東宝、東京会館)創立委員長。
明治40年(1909年)、日本皮革(現:ニッピ)発起人、相談役。この他にも多種多様な企業の設立や運営に関わった。
経済団体
明治10年(1877年)に択善会(後に東京銀行集会所、東京銀行協会に発展)を組織して、銀行経営者の連携により、政府に対して各種の提言を実施。明治11年(1878年)には渋沢喜作、大倉喜八郎、三野村利助、益田孝らの財界人を誘い、東京商法会議所(後に東京商工会議所、日本商工会議所に発展)を設立して会頭に就任し、広く商工業者の輿論を形成して多様な財界活動を展開する。広く資本を集め事業を起こす合本主義の考え方を実践するためには、株式市場の創設が必須と明治11年(1878年)、東京株式取引所を設立。当初は債券取引が中心で、株式を公開する企業が少ない中、第一国立銀行の株式を率先して上場した。
福祉・医療
明治7年(1874年)より、生活困窮者救済事業である養育院(現:東京都健康長寿医療センター)の運営に携わり、後に事務長、院長に就いた[10]。幼少年や長期療養者ごとの分院や感化が必要な少年への学校を設置する等、終生この事業に係わり運営に心を砕いた。明治10年(1877年)には、佐野常民が西南戦争の傷病兵を敵味方無く救護する目的で博愛社が創立されると社員となり、後に同社が日本赤十字社と改称されると常議員となり、引き続き運営に関わった。明治17年(1884年)に高松凌雲が生活困窮者に無料で診療治療を行う事業のために設立した同愛社の幹事となり事業に協力した。
明治40年(1907年)東京慈恵医院(現:東京慈恵会)の相談役および委員長となり、財団化に尽力する。明治41年(1908年)、癌研究会(現:がん研究会、がん研有明病院)の設立にも尽力して副総裁となる。
教育
明治8年(1875年)、当時は実学教育に関する意識がまだ薄く、実学教育を実施する機関が無い事から森有礼の興した商業講習私塾を東京会議所が所管する商法講習所(のちに東京商科大学を経て、現在の一橋大学)とし、経営委員として運営を支援した。明治14年(1881年)から明治16年(1883年)まで東京大学において自ら講師として日本財政論を講義した。明治21年(1888年)には、工手学校(現:工学院大学)設立に際しても賛助員となり支援を行い、明治33年(1900年)には大倉喜八郎の大倉商業学校(現:東京経済大学)にも創立委員として協するなど実業教育の充実発展を継続して支援した。
まだ男尊女卑の風が強い当時にあっても女子への高等教育の必要性を唱え、明治20年(1887年)には伊藤博文、勝海舟らと共に女子教育奨励会を設立し、これを母体として東京女学館を設立。明治34年(1901年)の日本女子大学創立においても支援を行った。なお実業界引退後はそれぞれ館長、校長も引き受けている。
その他にも栄一は私学設立・運営への協力にも積極的で、明治21年(1888年)には新島襄の同志社の大学設立の基金の募集や管理に尽力。明治31年(1908年)の早稲田大学の理工系への事業拡大計画に際しても、基金管理委員長として協力した。明治33年(1900年)、台湾協会学校(現:拓殖大学)の学校設立委員会委員に就任、学校設立に尽力し、設立後の明治36年(1903年)には大講堂において学生向けに演説を行った記録がある。明治34年(1901年)に朝鮮に開校した日語学校の関城学堂設立に向けての構想を、大日本海外教育会の有力後援者のひとりとして尽力した。
詳しいことは、『渋沢栄一ウィキペディア』をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%8B%E6%B2%A2%E6%A0%84%E4%B8%80
(wikiより)
⇧ 渋沢栄一



8879 渋沢栄一家墓所(台東区谷中・谷中霊園)
8826 小県蚕業学校初代校長 三吉米熊胸像(長野県上田市二の丸2-5・上田城跡公園)
8822 みすず飴本舗(長野県上田市中央1-1-21)
概要
みすず飴は果汁に水飴等を加え寒天で固めたもので、弾力性があって柔かく果汁の風味と独特の歯ごたえが好まる。飴どうし、あるいは飴と包装紙がつかないようオブラートでくるむか、砂糖をまぶすなどの処置が施されている。商品としてはセロファンで包まれたものと、紙の包装のものがあり、セロファンで包まれたものは首都圏でも売られている。みすゞ飴、みすず飴は特に上田市周辺の長野県土産の常連で、駅や土産店でも目立つ場所に置かれている。
「みすゞ飴」[1]と「みすず飴」[2]は株式会社飯島商店の登録商標であるため、他社が同様の商品を販売する際はそれを避けるため「寒天ゼリー」という名称で売られている。
歴史
みすゞ飴、みすず飴は大正8年(1919年)、上田市の株式会社飯島商店の飯島新三郎によって翁飴をヒントに開発された。信州というイメージで商品化するという狙いからみすず飴とつけられた。最初はアンズ、イチゴ、リンゴの三種類であった。[3]現在ではアンズ、梅、三宝柑、ぶどう、もも、りんごの6種類である。ちなみに高麗人参抽出液のみを使用した製品が存在するがこちらは「みすゞ人参糖」と呼ばれている。また、杏果汁を原料とした製品は「みすゞ杏」の名で独立販売されていたことがある。
脚注
1. 「みすゞ飴」商標登録 第1645947号
2. 「みすず飴」商標登録 第5699420号
3. 上田市誌人物編「明日をひらいた上田の人びと」p.6-7(2003年)
関連項目
・踊り字(みすゞ飴のゞ)
外部リンク
・株式会社飯島商店 - みすゞ飴
・みすゞ飴本舗 飯島商店 (misuzuame) - Facebook
(wikiより)



8772 日本銀行(中央区日本橋本石町2-1-1)
| 種類 | 日本銀行法に基づく認可法人 |
|---|---|
| 市場情報 | 東証 8301 1983年11月1日上場 |
| 略称 | 日銀 |
| 本店所在地 | 〒103-8660[1] 東京都中央区日本橋本石町二丁目1番1号[1] 北緯35度41分11.5秒 東経139度46分17秒 |
| 設立 | 1882年10月10日 |
| 業種 | 銀行業 |
| 法人番号 | 3010005002599 |
| 金融機関コード | 0000 |
| SWIFTコード | BOJPJPJT |
| 代表者 | 植田和男(総裁) |
| 資本金 | 1億円(日本銀行法第8条第1項) |
| 発行済株式総数 | 出資証券として100万口(日本銀行法第9条第1項) |
| 経常利益 | 1兆6375億8745万3153円 (2020年3月期)[2] |
| 純資産 | 4兆5473億9689万1115円 (2020年3月31日現在)[2] |
| 決算期 | 3月31日 |
| 外部リンク | 日本銀行 |

日本銀行本店
日本銀行(にっぽんぎんこう、英: Bank of Japan、英語略称: BOJ)は、日本銀行法に基づき日本の中央銀行として設立された認可法人。略称は日銀(にちぎん)。財務省が所管する。
概要
日本銀行は、日本国政府から独立した法人とされ、国の行政機関ではないものの、その金融政策は行政の範疇に属すると考えられている。物価の長期的な安定はマクロ経済学の観点から重要であるが、政治部門は短期的な手法をとることを選好しがちであるため、長期的な公益確保・政治的中立性の観点から自主性・独立性が認められている[4]。 第二次世界大戦下の1942年に制定された旧日本銀行法では、「国家経済総力ノ適切ナル発揮ヲ図ルタメ国家ノ政策ニ即シ通貨ノ調節、金融ノ調節及ビ信用制度ノ保持育成ニ任ズル」、「専ラ国家目的ノ達成ヲ使命トシテ運営セラシムル」機関とされていた[5]。
読み方日本銀行の慣習では「にっぽんぎんこう」と呼ばれているが[6]、法的に定められているわけではなく、「にほんぎんこう」と読まれる場合もある。
・国税庁が管理する法人番号に届け出られている商号又は名称のフリガナ欄には「ニッポンギンコウ」とあり[7]、日本銀行券でのローマ字表記もNIPPON GINKOとなっている。
・日本銀行法や旧日本銀行岡山支店本館[8]では「にほんぎんこう」と読むほか、日本銀行の読みを「にほんぎんこう」とする民間企業や辞書もある[9][10]。
出資証券
日本銀行は、公的資本と民間資本により存立する。資本金は1億円(100万口)で、そのうち日本政府が55%の約5500万円を出資し、残り45%にあたる約4500万円を日本政府以外の者が出資する。日本銀行法により日本政府の保有割合が55%を下回ってはならないこととなっている[11][注釈 1]。2022年3月末日時点における日本政府以外の出資者の内訳は、個人40.6%、金融機関1.9%、公共団体等0.2%、証券会社0.0%、その他法人2.3%となっている[13]。
株式会社における株主総会にあたる、出資者で構成される機関は存在しない[14]ことから、出資者は経営に関与することはできず、役員選任権等の共益権は存在しない。一方で自益権に相当する剰余金の配当は、払込出資金額(1株の額面金額に相当、1口あたり100円)に対して年5%(つまり1口あたり5円)以内に制限されている。もしも日本銀行が解散を決議した場合でも、残余財産のうち払込出資金額を超える分の財産は出資者ではなく国に帰属することになっている(日本銀行法第60条2項)。出資者となる経済的メリットは1口あたり5円以下の配当金が貰えることだけであり、40%ほどを占める個人出資者は短期的な値幅取りを目当てとした投資家と推測されている[15]。日本銀行の財務諸表に剰余金をどのように処分したか記載されているが、1兆円程度の剰余金(純利益)が発生し、500万円を配当し、5%を法定準備金として積み立て、95%が国庫納付金となっている[16]。これらとは別に法人税なども支払っている[17]。
日本銀行の発行する出資証券[18](株式会社における株式に近い)は、東京証券取引所のJASDAQスタンダード市場に上場していたが[19]、市場再編に伴い、2022年4月4日から市場区分なしとなった[20]。
資本金の出資者には一般の株式会社の株式に相当する出資口数を証した出資証券が発行される。出資証券は東京証券取引所に上場され、株式に準じて取引されているが、証券保管振替制度の取扱銘柄ではなく、そのため日本銀行の出資証券を取り扱っていない証券会社もある[21]。証券コードは8301[22]。売買価格は株式市場における実勢価格であり、額面の払込出資金額(1口あたり100円)とは異なる。
日本銀行の出資証券の東京証券取引所での2018年における年間の売買高は、462,000口[23](4,620単位)。売買単位は100口。100口券を1口券100枚に分割可能ではある。100口未満(1 - 99口)の買取請求はできない。
日本銀行の出資証券はいわゆる有価証券のペーパーレス化(株券の領域では「株券の電子化」と呼ばれた)がなされておらず[14]、東京証券取引所でなされた売買の決済は(日本証券クリアリング機構での)現物証券の受け渡しによってなされる[24]。日本国内の証券取引所でなされる売買の決済では唯一の現物受け渡しの例である[24]。証券会社では客からの注文が成立した場合、3日以内に日本証券クリアリング機構に現金と必要書類を持ち込んで窓口で現物証券を受け取り、会社に持ち帰るという手間がかかることから、取り扱いを嫌っているという[15]。
日本国債の証券集中保管機関
日本銀行は(2021年現在で唯一の)日本国債に関する証券集中保管機関(CSD)であるという性格も持つ[25]。社債、株式等の振替に関する法律第四十七条による主務大臣の指定により同法上の「振替業(※国債に係るものに限る)を営む者」となっている[26]。
沿革
明治
・1871年(明治4年) - 新貨条例(明治4年太政官布告第267号)が制定され、日本円の取り扱いが始まる。
・1872年(明治5年) - 国立銀行条例(明治5年太政官布告第349号)制定。紙幣の発行を担う。
・1876年(明治9年) - 国立銀行条例全面改正。国立銀行条例及国立銀行成規(明治9年太政官布告第106号)[27]公布。不換紙幣の発行を認めたことが一因となって、インフレーションが進行。
・1881年(明治14年) - 三井銀行の為替方を廃止し、大蔵卿松方正義により日本銀行創設へ。
・1882年(明治15年)
・6月27日、日本銀行条例(明治15年太政官布告第32号)[28]公布。10月6日、総裁に吉原重俊、副総裁に富田鐵之助を任命。10月9日、開業免許(資本金1000万円、政府半額出資)。10月10日に営業開始。
・10月11日、当所商業手形割引歩合(公定歩合)を2銭8厘とする。11月22日2厘引き下げ。
・12月18日、大阪支店開業。
・1883年(明治16年)
・3月14日、公定歩合をさらに2厘引き下げて2銭4厘とする。10月2日2厘、11月29日1厘、12月10日1厘引き下げ。
・4月27日、大蔵省は国庫金取扱を命じ、5月6日国庫局を設置、7月1日事務開始。
・5月30日、大蔵省は各国立銀行紙幣を消却させるため、その手続として銀行紙幣合同銷却方法を下付。
・1884年(明治17年)
・4月26日、公定歩合をさらに2厘引き下げ、1銭8厘とする。
・5月26日、兌換銀行券条例(明治17年太政官布告第18号)[29]制定。7月1日施行。日本銀行を唯一の発券銀行として銀行紙幣を回収。一方、集権的な倉荷証券付手形割引制度を創設。倉庫商品の権利関係に対する同証券の曖昧性を露呈。米穀投機と信用危機を誘発して破綻。
・7月3日、公定歩合を2厘引き下げ、2銭とする。7月18日1厘、8月12日1厘、11月19日2厘引き下げ。
・1885年(明治18年)- 日本銀行兌換銀券発行、銀本位制を確立する。
・1886年(明治19年)- 3月4日、公定歩合をさらに1厘引き下げ1銭8厘とする。4月9日1厘、5月3日1厘、5月28日1厘、6月22日1.5厘引き下げ。10月14日1.5厘引上げ、1銭5厘とする。10月22日1厘引上げ。
・1887年(明治20年)- 1月24日、公定歩合を1厘引き下げ、1銭5厘とする。
・1888年(明治21年)
・1月4日、公定歩合を1厘引上げ、1銭6厘とする。
・2月21日、副総裁富田鐵之助は総裁に昇任。
・3月10日、公定歩合を1厘引き下げ1銭5厘とする。5月11日1厘引上げ1銭6厘とする。6月2日さらに1厘、8月24日1厘、9月29日1.5厘引上げ。
・1889年(明治22年)
・公定歩合を0.5厘引き下げ、1銭8厘とする。2月1日さらに0.5厘、2月19日1厘引き下げ。5月8日1厘引上げ1銭7.5厘とする。6月1日さらに0.5厘、8月19日0.5厘、9月3日0.5厘引上げ。
・9月3日、富田鐵之助総裁辞任、後任に川田小一郎任命。
・1890年(明治23年)
・2月26日、日本銀行兌換券制限外500万円発行認可、3月3日発行。米価暴騰による金融梗塞対策で、日本初の制限外発行、発行額に対し5分の税率。
・5月17日、日本銀行兌換券の保証準備発行限度を7000万円から8500万円に拡張する旨公布。
・5月18日、日本鉄道会社株券など15種の株券を担保とする手形割引の道をひらく(担保付手形割引制度)。
・6月14日、公定歩合を2厘引下げ、1銭7厘とする。10月20日公定歩合を1厘引上げ、1銭8厘とする。
・1891年(明治24年)- 3月2日、公定歩合をさらに2厘引上げ2銭とする。5月6日2厘引下げ、1銭8厘とする。7月21日さらに1厘引下げ。
・1892年(明治25年)- 11月24日、公定歩合をさらに1厘引下げ1銭6厘とする。
・1893年(明治26年)
・全国2番目の支店として、山口県下関市に西部支店(現日本銀行下関支店)を開設。
・3月23日公定歩合をさらに2厘引下げ1銭4厘とする。5月31日1厘引下げ。9月2日2厘引上げ、1銭5厘とする。11月21日2厘引上げ。
・1894年(明治27年) - 1月22日公定歩合をさらに1厘引上げ1銭8厘とする。2月8日さらに1厘、6月19日1厘、7月26日1厘引上げ、戦争中は据置。
・4月1日、京都出張所を開設(1911年6月1日、支店に昇格)。
・6月12日、国庫金出納上一時貸借に関する法律公布、政府が国庫余裕金を日銀に預入れ、国庫不足金を日銀から借入れることを認める。
・11月14日、政府は日銀に950万円の借上げを令達、以後数度の借上げで戦費を応急調達し、1896年5月返済完了。
・12月29日、制限外兌換券を発行、12月末現在419万余円、1895年1月まで発行。
・1895年(明治28年)
・5月31日、制限外兌換券を発行(1896年5月まで)。月末残高最高は7261万円。
・7月12日、公定歩合を2厘引下げ、1銭9厘とする、戦後企業勃興の契機となる。
・8月19日、大蔵省は日銀に1000万円の増資を許可(布告)、資本金3000万円となる。
・1896年(明治29年)
・日本銀行本店に、日本で初めてのエレベーター(オーチス製)を取り付ける。
・5月16日、いわゆる預合勘定をひらき、在外正貨を正貨準備に繰り入れる。9月7日公定歩合を1厘引上げ、2銭とする。
・1897年(明治30年)
・3月1日、名古屋支店を開設。
・6月14日、個人取引を公開、個人と銀行とで利率に差を設ける(1899年11月27日差別廃止)。
・6月14日、当座貸越利子のみ2厘引上げ、8月11日公定歩合1厘引上げ、2銭1厘とする。10月23日1厘引上げ。
・6月14日、担保品付手形割引を廃止し、見返品付手形割引を開始、実質的には前者を存続。
・7月27日、制限外兌換券を発行(1899年2月まで発行)、月末残高最高は4731万円。
・1898年(明治31年)
・公定歩合をさらに1厘引上げ、2銭3厘とする。3月14日1厘引上げ。
・4月19日、財界の金融逼迫救済のため、政府委託により償金の一部で公債を買入れ、10月10日までに3870万余円、日本銀行による初の市場操作。
・10月8日、公定歩合を2厘引下げ、2銭2厘とする。12月7日さらに2厘引下げ。
・10月20日、総裁岩崎は公定歩合引下げ時期をめぐり蔵相と対立し辞職。山本、第5代総裁に任命。
・1899年(明治32年)
・2月10日、公定歩合をさらに1厘引下げ、1銭9厘とする。3月11日、4月12日、7月28日それぞれ1厘引下げ。
・3月10日、日銀券発行税に関する法律公布。
・4月15日、横浜正金銀行へ対清国事業拡張資金として金貨1000万円を年利2分で預入る旨通告。6月、第一銀行に対し韓国産金購入資金として10万円預入。7月7日、横浜正金銀行へロンドン支店為替資金970万円を年利2分で預入。
・11月10日、公定歩合を1厘引上げ、1銭7厘とする。11月27日2厘引上げ。12月19日商業手形割引歩合を除き1厘引上げ。12月26日制限外兌換券を発行、一時的中断をふくみつつ1902年2月まで発行、月末残高最高は4122万余円。
・1900年(明治33年)
・3月20日、公定歩合をさらに2厘引上げ2銭1厘とする。4月18日2厘、7月18日1厘それぞれ引上げ。
・4月24日、公定歩合引上げの影響で東京株式相場暴落。
・1901年(明治34年)10月24日、北清事変の軍費支弁のため、政府へ12月までに11回にわたり1500万円を貸上げ、1903年3月までに返済完了。
・1902年(明治35年) - 3月19日公定歩合を2厘引下げ、2銭2厘とする。6月27日2厘、10月3日2厘、12月9日1厘それぞれ引下げ。7月卸売物価指数を発表、1900年10月基準
・1903年(明治36年) - 3月18日公定歩合をさらに1厘引下げ、1銭6厘とする。12月29日軍備補充費を政府へ貸上、1904年3月29日までに計4100万円、1904年7月26日返済完了。
・1904年(明治37年) - 2月11日制限外兌換券発行、一時的な中断をふくみつつ1909年2月まで発行、月末残高の最高は8824万円。4月21日臨時事件費として政府へ1904年3月までに計2億3900万円を貸上、1905年4月25日以降同じく7800万円、1906年2月27日以降同じく5500万円をそれぞれ貸上、1906年10月15日返済完了。7月2日公定歩合を2厘引上げ、1銭8厘とする。12月19日さらに2厘引上げ。
・1905年(明治38年) - 日露戦争中であるこの年12月4日から翌年4月2日にかけて、しめて1160万ポンドをイングランド銀行へ貸し付けた[30]。この後も貸付は続き、1907年まで毎回50万ポンド単位で行われていた。巨額の外債を発行する傍らでこのような貸付が行われた事実は、1907年恐慌の兆候がいかに早く、また現金輸送が当時においていかに困難だったかを示唆する。
・6月16日、公定歩合をさらに2厘引上げ2銭2厘とする。
・1906年(明治39年) - 3月13日公定歩合を2厘引下げ2銭とする。5月1日2厘引下げ。7月1日本支店における貸出利率を一律にし、国債抵当・保証を除く貸付・割引利率につき最高最低利子率を設定する。
・1907年(明治40年) - 10月24日、横浜正金銀行に対する低利(年2分)外国為替再割引限度を、1000万円から1500万円に拡張。12月4日公定歩合を2厘引上げ、2銭とする
・1909年(明治42年)
・3月15日、金沢出張所を開設(1911年6月1日、支店に昇格)。
・5月4日、公定歩合を2厘引下げ、1銭8厘とする。8月2厘引下げ。
・1910年(明治43年) - 1月11日、公定歩合をさらに2厘引下げ、1銭4厘とする。3月7日1厘引下げ。2月22日大蔵省は日銀の3000万円増資を許可する(告示)、6000万円となる。12月21日制限外兌換券発行、一時的な中断をふくみつつ1915年1月まで発行、月末残高最高8424万余円。
・1911年(明治44年) - 7月1日、横浜正金銀行に対する外国為替手形再割引制度を、外国為替手形引当の外国為替貸付金制度に改める。9月27日公定歩合を2厘引上げ、1銭5厘とする。
・1912年(明治45年) - 公定歩合をさらに1厘引上げ、1銭6厘とする。10月2日1厘、11月14日1厘それぞれ引上げ。
大正
・1913年(大正2年) - 1月6日、蔵相は日銀兌換券制限外発行税率を1分引上げ、年6分とする。
・1914年(大正3年)
・7月1日、新潟支店・松本支店を設置。
・7月6日、公定歩合をさらに2厘引上げ、2銭とする。7月31日政府との間で、日銀所有正貨および横浜正金銀行などから買入れるべき正貨を政府に売却することを協定。11月1日台湾銀行に対し南方為替資金を預け金として預入れ、1915年11月ロンドン・ニューヨーク向け為替資金をふくめ2000万円までを預入れ。
・1915年(大正4年) - 1月18日見返担保品の範囲を拡張し、東京市債・勧銀債券・興銀債券を加える。
・1916年(大正5年) - 4月17日公定歩合を2厘引下げ、1銭8厘とする。7月5日さらに2厘引下げ。12月15日金融界の安定をはかるため進んで低率の貸出を行う旨発表。
・1917年(大正6年)
・3月16日、公定歩合をさらに2厘引下げ、1銭4厘とする。
・8月1日、熊本支店・秋田支店を設置。
・11月16日、見返品の範囲を拡張し、品目指定をやめ、一定基準に合致する有価証券は見返担保品として認めることとする。
・1918年(大正7年)
・3月1日、松江支店を設置。
・9月16日、公定歩合を2厘引上げ、1銭6厘とする。11月25日2厘引上げ。
・1919年(大正8年) - 6月、銀行引受手形の再割引を行うことを決定(貿易金融の改善・割引市場の発達促進・日銀券増発防止のため)。8月1日、スタンプ手形制度実施(輸出金融円滑化のため、横浜正金銀行が売出すスタンプ押捺為替手形の再割引を優遇。のちに台湾銀行・住友銀行にも実施)。10月6日公定歩合をさらに2厘引上げ、2銭とする。11月19日さらに2厘引上げ、1905年6月以来の最高となる。11月22日、東西組合銀行と投機抑制について懇談。12月3日、さらに組合銀行以外の銀行とも懇談。
・1920年(大正9年) - 4月12日、株式市場救済のため月末受渡資金の融資を表明。4月15日、銀行シンジケート経由の整理資金供給方式を決定。4月20日、製糖会社に救済資金融資決定、引き続き製鉄業・産銅業・絹織物業・製糸業・毛織物業などに特別融資決定。
・1922年(大正11年) - 8月19日、在外正貨を正貨準備に繰入れることを禁止し、従来充当分も8月末日限り解除と決定。12月15日、東京・大阪のシンジケート銀行と会合、金融界動揺の善後策を協議し、救済援助を声明、12月中の日銀救済融資は2億2000万円。
・1923年(大正12年) - 関東大震災発生により、9月27日、日銀震災手形割引損失補償令公布(緊急勅令)。補償限度1億円、日銀の震災手形割引高は1924年3月末までで4億3081万円。9月29日、副総裁は担保貸出の拡張など資金融通の方針を発表。
・1925年(大正14年) - 4月15日公定歩合を2厘引下げ、2銭とする。5月、兌換券発行高・一般貸出高、震災以来の最低を記録。
昭和 ( 戦前・戦中 )
・1926年(昭和元年)- 10月4日、公定歩合をさらに2厘引下げ1銭8厘とする。11月12日、帝国蚕糸倉庫に、横浜正金銀行経由で生糸救済資金220万円を融資。11月20日政府・日銀は、鈴木商店・日本製粉の救済のため資金援助措置を決定、台湾銀行から両社に800万円ずつ融資。
・1927年(昭和2年)
・3月9日、公定歩合を2厘引下げ1銭6厘とする。10月10日、さらに1厘引下げ。
・3月21日、市中銀行に対し非常貸出しを実施、3月23日までに6億円を突破。4月18日総裁は財界動揺防止に関し声明を発表。4月24日総裁は取引先以外の銀行へも援助を与える旨声明、4月25日までの対市中銀行貸出残高20億円を突破。
・5月9日、日本銀行特別融通および損失補償法、台湾に金融機関に対する資金融通に関する法律それぞれ公布、2法による日銀貸出高8億7943億円。
・1928年(昭和3年)
・5月8日、日銀特別融資打切り、特別融通法によるものは6億8793億円、金融市場は超緩和。
・5月15日、総裁井上は全国手形交換所大会で特別融資の結果日銀が金融統制力を喪失した状況下では金解禁は尚早と発言。
・1930年(昭和5年)- 10月7日、公定歩合を1厘引下げ1銭4厘とする。
・1931年(昭和6年)
・金輸出再禁止に伴い管理通貨制度を確立した。
・10月6日、公定歩合を2厘引上げ1銭6厘とする。11月5日、蔵相は日銀の制限外発行税率を6分に決定。
・1932年(昭和7年)- 3月12日、公定歩合を2厘引下げ1銭6厘とする。6月8日2厘、8月18日2厘引下げ。3月12日、蔵相は日銀の制限外発行税率を5分に決定。6月18日兌換銀行券条例改正、保証発行限度の拡張、限外発行税最低率の引下げなど。
・6月18日、日銀納付金法・日銀参与会法それぞれ公布。
・11月25日、新規国債2億円(4%利半国庫債券)の直接引受。12月24日から売りオペ[31]。12月24日、所有国債の対市中売却操作を初実施。
・1933年(昭和8年)- 7月3日、公定歩合を2厘引下げ、1銭とする。
・1934年(昭和9年)- 4月7日、日本銀行金買入法公布、政府の産金時価買入策の拡大。
・1936年(昭和11年)- 4月7日、公定歩合を1厘引下げ9厘とする。12月28日蔵相は日銀券制限外発行税率を年3分に決定。
・1937年(昭和12年)- 7月15日、公定歩合を引下げ、国債担保貸付利子歩合を1厘引下げて9厘とし、商業手形割引歩合は据置。
・1938年(昭和13年)- 7月23日、外国為替基金を設定。
・1940年(昭和15年)- 8月7日、満洲中央銀行に対する1億円の借款供与契約成立。
・1942年(昭和17年)
・2月24日、日本銀行法(昭和17年法律第67号、以下「旧法」)[32]公布、管理通貨制度の法的確立。
・5月1日、旧法に基づく法人に改組。日本銀行条例・兌換銀行条例の廃止。
・6月18日、タイ大蔵省と2億円の借款供与に関する協定に調印。
・7月28日、中央儲備銀行に対する1億円の借款供与契約調印。11月18日、政府保証軍需手形再割引とそれを担保とする貸付に優遇措置実施。
・1944年(昭和19年)- 4月4日貸出利率調整制度実施、従来の高率適用手続は廃止。
昭和 ( 戦後 )
・1945年(昭和20年)- 12月27日、インドシナ銀行東京支店の業務・財産の管理人となる(以後、同様措置の対象先は拡大した)。
・1946年(昭和21年)- 2月、ハイパーインフレーションの懸念から、新円切替と一昨年に続く預金封鎖が実施された。
・1946年(昭和21年)
・3月12日、日銀券(新円)発行残高152億円、1945年8月15日以降最低、金融緊急措置実施の結果。
・7月17日、日本興業銀行の復興資金融通手形を担保。
・7月22日、連合国総司令部が米系銀行の在日支店の再開を許可。7月31日、外貨債処理法による政府債務承継まで保管されていた利払い資金がGHQから日銀へ移管される。同日、ニューヨーク・ナショナル・シティー銀行、香港上海銀行、チャータード銀行、オランダ系銀行2行の以上5行がもつ国内支店について、戦時中の敵産管理法により横浜正金銀行がもっていた管理権を日銀が継承した[33]。
・9月16日、日銀券発行残高618億3700万円、旧円の最高額を突破。10月14日公定歩合を1厘引上げ1銭とする。
・1947年(昭和22年)
・3月15日、農地証券の交付および元利金支払に関する特別取扱に関する件公布施行。
・4月1日日銀法改正公布、日銀券発行限度の決定方法の変更、5月3日施行。
・1948年(昭和23年)
・4月26日、公定歩合を2厘引上げ1銭2厘とする。7月5日、さらに2厘引上げ。
・12月20日 - 閉鎖機関処理部廃止。
・1949年(昭和24年)
・5月30日、東証一部に上場。同年6月には大証一部、名証一部にも上場。
・6月1日、社債消化促進のため市中銀行に社債買入額を限度とする復興金融金庫債の償還を認める、貸出政策と公開市場政策併用の初め。
・6月3日、日銀法改正公布、政策委員会の新設、6月17日同委員会発足。
・11月1日、外国為替管理委員会から外国為替資金に関する計算登記および報告事務を引き継いだ。また、3年前から置いていた山口事務所を大晦日に廃止。
・1950年(昭和25年)- 6月7日、外資委員会の事務の取扱いに関する政令を公布、翌日施行。
・1951年(昭和26年)- 10月1日、公定歩合を2厘引上げ1銭6厘とする。
・1952年(昭和27年)- 6月16日、国際通貨基金へ出資する金塊15トンを政府へ売却。
・1953年(昭和28年)
・7月15日、金管理法[注釈 2]。
・10月8日、世界銀行債200万ドルを買い入れ。
・12月18日、連邦準備制度に口座開設。
・1954年(昭和29年) - 1月16日、輸入金融抑制措置を実施、貸付金利1厘引上げなど。3月10日、優遇措置全廃など再度の引締強化を実施。7月22日、輸出金融優遇措置を実施、輸出手形貸付金利引下げなど。8月16日、輸出金融引締措置を実施、輸入決済手形貸付金利引上げなど。
・1955年(昭和30年)4月15日、イングランド銀行に口座開設。8月10日、公定歩合を4厘引上げ2銭とする。11月8日、市中金融機関に対し年内買戻条件付で売オペレーションを実施。
・1956年(昭和31年)- 年末現在、日銀券発行残高8632億円。
・1957年(昭和32年)- 3月20日、公定歩合を1厘引上げ2銭1厘とする。5月8日、さらに2厘引上げ。
・1958年(昭和33年)- 11月28日、政策委員会は農業手形制度の本年度限り廃止を決定、四国・中国・九州は1959年1月31日に廃止。
・1959年(昭和34年)
・2月19日、公定歩合を1厘引下げ1銭9厘とする。12月2日、公定歩合を1厘引上げ2銭とする。
・9月11日 - 普通銀・長信・外為銀行を対象に準備預金制度はじまる[注釈 3]。
・1960年(昭和35年)
・5月、東証、大証、名証から上場廃止。
・8月24日、公定歩合を1厘引下げ1銭9厘とする。
・1961年(昭和36年)
・1月26日、公定歩合を1厘引上げ1銭8厘とする、低金利政策の展開。
・7月22日、公定歩合を1厘引上げ1銭9厘とする(7月21日東証ダウ株価45円72銭安と下落)。9月29日さらに1厘引上げ。
・11月24日、外債2億USドルを外貨準備補強策として発行した。
・1962年(昭和37年)
・10月1日、世銀債500万ドルを引受け(1964年同月同日にも同額引受け)。
・10月27日、公定歩合を1厘引下げ1銭9厘とする。高率適用制度を緩和。11月1日、預金準備率も引下げ、3本立で金融引締め緩和。11月27日、公定歩合をさらに1厘引下げ。
・1963年(昭和38年)
・2月店頭登録(現ジャスダック市場に公開)。
・3月20日、公定歩合を1厘引下げ1銭7厘とする。4月20日さらに1厘引下げ、輸出手形は1銭1厘に据置。
・10月31日、ニューヨーク連邦準備銀行と貸付予約方式で1億5000万ドル双務通貨協定調印、いわゆるスワップ協定。
・1964年(昭和39年)
・3月18日、公定歩合を2厘引上げ、1銭8厘とする。
・11月25日、主要11中銀・国際決済銀行・合衆国輸出入銀行との間に30億ドルのクレジット設定。
・9月4日、政策委員会は日本証券金融を通ずる債券担保の特別融資を決定、株価安定のため。9月17日大蔵省は日本共同証券資金の拡大などを決定、日銀も同調。9月22日、蔵相田中は証券市場に財界の協力を要請。
・12月4日、日本共同証券に400億円の特別融資、実質金利1銭5厘。翌年1月19日、日本証券保有組合にも特融決定。
・1965年(昭和40年)
・1月9日、公定歩合を1厘引下げ、1銭7厘とする。4月3日1厘、6月26日1厘引下げ。
・5月28日深夜、蔵相田中は記者会見で証券緊急対策として山一証券に無制限・無期限の日銀特別融資発表、日銀法第25条適用、1956年以来の異例措置、いわゆる山一証券事件。5月29日発動。
・6月7日、山一証券に対する日銀特融第1回融資45億円。6月28日まで6回累計234億円。
・6月18日、証券14社に約600億円の救済融資決定、投資信託解約激増のため。日本証券金融に600億円までの公社債担保貸付を決定。
・6月25日、市中銀行に対する貸出増加額規制の廃止を決定。
・7月16日、預金準備率引下げ、景気刺激策。
・1967年(昭和42年)
・2月2日国債653億円を買入れ、初の国債オペレーション。
・12月1日、米側の申入れにより米ニューヨーク連邦準備銀行とのスワップ協定限度額を4.5億ドルから7.5億ドルに増額。
・1968年(昭和43年)3月18日 - 連邦準備制度とのスワップ取引額上限が10億ドルに増加(1973年7月10日には倍の20億ドル、1978年11月1日には50億ドルに達した)。
・1971年(昭和46年)6月1日 - 外国為替資金特別会計の外国為替銀行に対する外貨預託による輸入関係資金の供給を日本銀行の輸入資金貸付により行うようになる。
・1973年(昭和48年)4月9日 - 全国銀行データ通信システム稼動。
・1982年(昭和57年)10月8日 - 金融研究局を日本銀行金融研究所に改組。
・1985年(昭和60年)1月25日 - シティバンク他2行と国債元利支払取扱店契約を締結。
・1988年(昭和63年)8月15日 - 本支店間で日本銀行金融ネットワークシステム稼動。1990年5月28日、この日銀ネットによる国債関係事務の対外オンライン処理を開始。さらに同年12月11日、長期国債の募集・引受・発行事務がオンライン化。1992年5月26日に払込みオンライン化。1994年4月11日、国債資金同時受渡(国債DVP)システム稼動。
詳しい事は、「日本銀行ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E9%8A%80%E8%A1%8C
(wikiより)


8765 サムエル・コッキング墓(神奈川県横浜市中区大芝台・根岸共同墓地)
概要
各種雑貨類や骨董品、植物などを取り扱う商社「コッキング商会」を経営した。また、江ノ島(現在の神奈川県藤沢市江の島)に別荘を持ち、当時日本最大級といわれた近代的温室をもつ庭園(後の江の島植物園、現在の江の島サムエル・コッキング苑)を造営した。
経歴
・1845年 アイルランドに生まれる。
・1848年 両親とともにオーストラリア・アデレードに移住。後にメルボルンに転居。
・1861年頃 英国本国に帰国。
・1868年 貿易商を志し、日本に向かう。
・1869年(明治2年)来日。
・1871年(明治4年)横浜居留地55番地にてコッキング商会を設立
・1872年(明治5年)宮田リキと結婚
・1877年(明治10年)この年に流行したコレラの消毒薬として石炭酸を大量に輸入し、利益を得る
・1880年(明治13年)江島神社の所有地であった江の島頂上部の土地500坪余(現在の亀ヶ岡公園)を妻名義で購入し、別荘を建築
・1882年(明治15年)別荘の向かいに所在していた江島神社の所有地(神仏分離で廃寺になった寺の菜園跡)であった江の島頂上部の土地3200坪余(現在のサムエル・コッキング苑の一部)を買い取り、庭園の造営を開始する
・1884年(明治17年)横浜・平沼に自邸と石鹸工場を開設
・1885年(明治18年)庭園完成
・ただし、温室の完成は1888年(明治21年)以降と推察される[注釈 1]。
・1887年(明治20年)居留地内に発電所開設(後に横浜共同電燈会社となる)
・1889年(明治22年)英国の植物学雑誌「Garden」に寄稿。日本の植物を紹介。またこのころテッポウユリやハッカなどをヨーロッパに輸出。
・1906年(明治39年)頃、取引先の英国の銀行の倒産に伴って、事業縮小を余儀なくされる
・1914年(大正3年)横浜市平沼の自宅にて逝去
コッキング庭園の概要
コッキングの庭園は、当時の西欧の回遊式の庭園の様式を持ちながらも、東洋趣味を反映して、特に南洋の植物なども持ち込んで造営されたものだといわれている。現在もクックアローカリアやタイミンチクなどの珍しい植物が現存しており、これらはコッキングが持ち込んだといわれている。
コッキングの庭園の見所は、当時、東洋最大といわれた温室であり、その面積は900平方メートルに及ぶ規模を有していた。基礎部分はレンガ造で、地下には水槽やボイラー室、貯炭庫などが設置されていた。上部構造は木造であったと推定されているが、1923年(大正12年)9月1日の関東大震災で壊滅し失なわれた。
下部構造は1949年(昭和24年)の藤沢市による江の島植物園の造営の際に完全に破壊され、地下に埋没したと思われていたが、2002年(平成14年)の江の島植物園再整備工事の際に発見され、大部分が残っていることが判明した。調査の結果、当時の国内の土木遺構としては貴重な資料であることが判明したことから、保存され、現在「江の島コッキング植物園温室遺構」として一般にも公開されている。
余談
来日の際、折からの低気圧の影響で嵐に襲われ、避難した相模湾に浮かぶ江の島の斜面緑地の美しさが印象深かったことが、後に江の島に別荘を構えるきっかけになったという説がある。
サムエルの名は「サミュエル」の方が発音としては近いと思われるが、当時の書籍や記録の大半に「サムエル」と表記されていることから、藤沢市等の公的機関でも「サムエル」の表記で統一している。
脚注
注釈1. 出土した温室遺構の基礎部分に使用された煉瓦に1888年(明治21年)創業[2][3][4][5]の横浜煉化製造会社の刻印が多数見られる。
出典
1. 内海孝「外国人と藤沢」『藤沢市史研究 37号』、藤沢市市編纂委員会、2004年3月、18頁。
2. “川崎市川崎区:年表”. 川崎市. 2018年7月10日閲覧。
3. “石田勝俊「100年前の煉瓦がでてきた 御幸煉瓦製造所」『かわさき産業ミュージアム講座記念論文集(平成23年3月発行)』” (PDF). 川崎市. 2018年7月10日閲覧。
4. “横浜煉瓦会社の発起人をした「田中半兵衛」という人物について調べています。『日本紳士録 東京横濱之部』...”. 国立国会図書館. 2018年7月10日閲覧。
5. “コッキング植物園温室遺構、温室遺構で使われたレンガ”. みゆネットふじさわ. 2018年6月17日閲覧。
外部リンク
・江の島を訪れた人びと、サムエル・コッキング(みゆネットふじさわ)
・江の島サムエル・コッキング苑について(藤沢市)
(wikiより)
〇 江の島サムエル・コッキング苑
江の島サムエル・コッキング苑(えのしまサムエル・コッキングえん)は、神奈川県藤沢市江の島二丁目にある、藤沢市立の有料観光施設。苑内に江ノ島電鉄の経営する江の島展望灯台などを含む。また日本で初めてのフレンチトースト専門店『LON CAFE』がある。
沿革
・1880年(明治13年) - 横浜在住のアイルランド人貿易商のサムエル・コッキングが金亀山与願寺(現在は神仏分離され江島神社)の菜園敷地3800坪を買収する。
・1882年(明治15年) - 植物園として開園。日本で3番目に古い植物園である。敷地面積は約18,000m2。ただし、温室の完成は1888年(明治21年)以降と推察される[注釈 1]。
この後、時代の変遷や1923年(大正12年)の関東地震により、荒廃する。
・1947年(昭和22年)4月1日 - 江の島を含む鎌倉郡片瀬町、藤沢市に編入。藤沢市は江の島の観光地開発に乗り出す。
・1948年(昭和23年) - 上記跡地を、藤沢市が買収。
・1949年(昭和24年)12月 - 藤沢市海洋総合博物館建設計画の一環として「藤沢市立江ノ島熱帯植物園」を開設。
・1950年(昭和25年) - 江ノ島熱帯植物園が江ノ島鎌倉観光(後の江ノ島電鉄)の委託経営となり、「江の島植物園」と改名。[疑問点]
・1951年(昭和26年)3月25日 - 江ノ島鎌倉観光が東京都世田谷区二子玉川の読売遊園(後の二子玉川園)にあった落下傘塔を江の島植物園内に移築し、「読売平和塔」という展望台を兼ねた民間灯台(江の島灯台)を建設した。
読売遊園の落下傘塔はロープのついた落下傘で降下する遊戯施設で、戦時中は陸軍が実際の落下傘降下の訓練に利用した。江の島の読売平和塔は材料を利用したもので、形態はかなり違う。
同年、伊豆大島から連れてきた54匹のタイワンリスを江の島植物園で飼育。後に台風で飼育小屋が壊れて逃げ出し、江の島弁天橋を渡って鎌倉市内に入り込んで繁殖するようになったといわれる。
・1959年(昭和34年) - インドネシアスラウェシ島のトラジャ族の家屋を模した「南方民俗館」を開設。
この頃から読売平和塔は江の島灯台と呼ばれるようになる。
・1964年(昭和39年) - 江の島植物園、再び藤沢市の運営となる。
・1971年(昭和46年) - 江の島植物園内のクックアロウカリア、シマナンヨウスギ、タイミンチク群、ツカミヒイラギの4種、藤沢市指定天然記念物に指定。
・1994年(平成6年) - 江の島植物園(ツバキ)、かながわ花の名所100選に選定。
・1999年(平成11年)11月7日 - 藤沢青年会議所、「いいじゃん江ノ島JYAN JYAN 祭り」を開催。
このイベントは江の島灯台の解体撤去の噂が流れたため、保存アピールのため企画された。
・2002年(平成14年) - 江の島植物園改修工事のため閉園。工事現場から縄文土器類1万点が出土。さらにサムエル・コッキングの建設した温室設備を発見。
江ノ島電鉄は、同社開業100周年記念事業として新江の島展望灯台建設に着手。
同年12月31日 - 江ノ島電鉄開業100周年記念事業のフィナーレとして点灯式において江の島展望灯台、初点灯。
・2003年(平成15年)1月 - 旧江の島灯台に隣接して新たに建設された江ノ島電鉄所有の江の島展望灯台、オープン。その後、1951年に建てられた江の島灯台は解体された。
同年4月29日 - 整備後、藤沢市の公園施設「江の島サムエル・コッキング苑」としてオープン。
同年10月28日 - 江の島展望灯台、第48回神奈川建築コンクール一般建築部門奨励賞受賞。
・2022年(令和4年)
・11月16日 - リニューアルオープン(テラス等を設置)[6]。江の島サムエル・コッキング苑については開苑~17時まで無料化(17時以降出場の場合は原則有料)[7]。
主な施設
・姉妹都市・友好都市記念広場 - 苑内の各所に藤沢市と友好提携を結ぶ各都市をイメージした広場が設けられている。
・マイアミビーチ広場 - 東洋のマイアミビーチ片瀬海岸からヨットハーバーを見渡すウッドデッキの広場。日本初のフレンチトースト専門店「LON CAFE」が営業を行っている[8]。マイアミビーチ市の売り物であるアール・デコをイメージしたモニュメント内には同市から贈られた「友好の鍵」が納められている。
・マイアミビーチ市 - アメリカ合衆国フロリダ州マイアミ・デイド郡にある都市。ビーチリゾートとして有名な観光都市。1959年3月5日姉妹都市提携。日米を代表するビーチリゾート都市同士。
・松本広場 - 休憩室を兼ねた海鼠壁の蔵風の蕎麦打ち体験施設「松本館」と松本市から贈られた双体道祖神を象った記念碑がある。
松本市 - 長野県中部(中信地方)に位置する城下町。施行時特例市や国際会議観光都市に指定されている。1961年7月29日姉妹都市提携。海の観光都市と山の観光都市という関係。
・保寧(ポリョン)広場 - 韓国にちなんだ樹木の広場。夏から秋には韓国の国花ムクゲが、2月3月には保寧市の市花ツバキが咲く。2002年11月15日に保寧市から提携の記念として寄贈されたの2本の石塔が立つ。石塔に掘られた「萬世保寧」の文字は、保寧市の市民憲章「我々は、我々の故郷である萬世保寧を一番とする観光休養地に造成していく。」に由来する。
保寧市 - 大韓民国忠清南道の都市。2002年11月15日姉妹都市提携。韓国有数の海水浴場がある。
・昆明広場(春澤園) - 昆明市から職人が来日して建てた本格的な中国伝統建築様式の四阿(あずまや)騁碧亭(ていへきてい)と昆明碑記、孔雀のブロンズ像「吉祥永駐」がある。
・昆明市 - 中華人民共和国雲南省の省都。1981年11月5日友好都市提携。昆明出身の青年作曲家聶耳が1935年鵠沼海岸で遊泳中水死し、中華人民共和国成立時に彼の作品義勇軍進行曲が国歌に選ばれたことを記念して、藤沢市民有志が鵠沼海岸に記念碑を設立したことがきっかけ。
・ウィンザー広場 - 春秋のシーズンにはウィンザー市から贈られたバラ園が見事。
ウィンザー市 - カナダ、オンタリオ州にある自動車工業都市。ローズランドと呼ばれるバラの産地としても知られる。1987年12月2日姉妹都市提携。双方の気候、文化、産業等が多くの共通性をもっていることなどから。
・コッキング遺構 -
・温室遺構 - 1949年の植物園工事で地下に埋め込まれたものが2002年のリニューアル工事の際再発見され、整備されて公開されるようになった。遺構は3棟の南北に長い温室の基礎と東南に長い温室基礎、西洋風のシンメトリーな形の池、温室の北側に設けられた付属施設であるボイラー室・燃料を入れた貯炭庫・植物や暖房のために水を蓄えた貯水槽・温室と付属施設とを結ぶ地下通路・冷たい風を遮るための防風壁や集水用陶管など。
普段は閉鎖されているが、年に数回特別なイベントがあるときだけ公開され、内部を見学できる。
・熱帯植物 - コッキングのコレクションし、活着繁茂した熱帯植物に加え、市立熱帯植物園時代に植栽されたリュウゼツランなどが見られる。
苑内には江の島植物園時代から280品種800本といわれるツバキのコレクションがあり、1994年に「かながわ花の名所100選」に選ばれている。
・江の島展望灯台 - 旧平和塔の脇に2003年新たに建てられた江ノ島電鉄の経営する観光用民間灯台。完成後、旧平和塔は解体された。灯台は実効光度390,000カンデラ、単閃白色が毎10秒に1閃光で、23.0海里(46 km・民間灯台としては国内最大級)まで届く。建物の高さは59.8m(避雷針迄)、海面から120m。展望台にはエレベーター(入苑券と別売の昇塔券が必要。セット券もある)で昇れる。想定最大収容人数は188名である。遮られることのない360度の展望が楽しめる。気象条件が良ければ筑波山が見えるはずだが、その方向に横浜・東京が重なるので、極めて難しい。
ライトアップ - 平日の営業は17時までだが、土休日は20時まで開かれ、折に触れて発光ダイオード(LED)によるライトアップが行われる。
・湘南の宝石- 1999年11月に開催された旧江の島展望灯台(現江の島シーキャンドル)ライトアップを前身に、2019年で20回目を迎えた光のフェスティバル[9]。
・江の島展望灯台サンセットテラス - 「カフェ・ドゥ・ガボ」が営業する。時折ライブなどのイベント会場となる。
・グッズショップ「デルフィス」 - 小物類や江ノ電グッズを販売。
・藤沢市郷土資料館 - 展望灯台の根元にあり、旧灯台の資料や江の島の古写真などが展示されている。
主なイベント
・1月1日 - 江の島展望灯台から見る初日の出(予約制)
・2月中旬 - バレンタインアイランド江の島
・3月 - 湘南江の島春まつり
・4月6日 - ダイヤモンド富士(江の島展望灯台閉業時刻延長)
・5月 - 江の島フラワーフェスタ
・5月 - Freedom Sunset(サンセットテラスでのライブ)
・5月 - MADE in 江の島(さまざまなジャンルのアーティストによるアート展)
・5月 - ALOHA Sunset(サンセットテラスでのライブ)
・8月 - 江の島花火LIVE(サンセットテラスでのライブ)
・8月 - 江の島ゆかた祭り
・8月 - ENOSHIMA ISLAND JAM(サンセットテラスでのライブ)
・9月6日 - ダイヤモンド富士(江の島展望灯台閉業時刻延長)
・9月 - 子供達の描く絵を光と映像のアーティスト集団OVERHEADSの巨大コラージュ
・10月 - 湘南江の島秋まつり
・11月 - 湘南キャンドル
・11月下旬 - 湘南の宝石(関東三大イルミネーションのひとつ)
・12月 - 江の島ファンタジー
市指定天然記念物
すべて藤沢市が1971年(昭和46年)7月5日に指定。
・ツカミヒイラギ
・クックアロウカリア
・シマナンヨウスギ
・タイミンチク群
脚注
注釈
1. 出土した温室遺構の基礎部分に使用された煉瓦に1888年(明治21年)創業[2][3][4][5] の横浜煉化製造会社の刻印が多数見られる。
出典
1. 藤沢市指定管理者制度について
2. “川崎市川崎区:年表”. 川崎市 (2007年3月13日). 2020年4月9日閲覧。
3. “石田勝俊「100年前の煉瓦がでてきた 御幸煉瓦製造所」『かわさき産業ミュージアム講座記念論文集(平成23年3月発行)』” (PDF). 川崎市. 2020年4月9日閲覧。
4. “横浜煉瓦会社の発起人をした「田中半兵衛」という人物について調べています。『日本紳士録 東京横濱之部』...”. 国立国会図書館. 2020年4月9日閲覧。
5. “コッキング植物園温室遺構、温室遺構で使われたレンガ”. みゆネットふじさわ. 2020年4月9日閲覧。
6. “江の島サムエル・コッキング苑新装 アート鑑賞やテラスも”. 神奈川新聞 (2022年11月16日). 2022年11月17日閲覧。
7. “2022年11月16日からの江の島施設の料金・各種チケットについて”. 江の島サムエル・コッキング苑、江の島シーキャンドル(公式サイト). 2022年11月17日閲覧。
8. “LONECAFE ENOSHIMA”. SHONAN LICENSE. 2020年4月9日閲覧。
9. “湘南の宝石”. 湘南の宝石実行委員会. 2020年4月9日閲覧。
関連項目
・江の島エスカー
外部リンク
・江の島サムエル・コッキング苑について at the Wayback Machine (archived 16/06/2018) - 藤沢市
・コッキング植物園跡(みゆネットふじさわ)(archive.is、2012年12月20日) - http://www.mus.city.fujisawa.kanagawa.jp/chrono_detail/N0043.htm
・江の島を訪れた人びと、サムエル・コッキング(みゆネットふじさわ)
・藤沢市江の島サムエル・コッキング苑条例(平成15年藤沢市条例第36号)
(wikiより)

⇧ サムエル・コッキング









⇧ 賢明院英誉秀徳居士が、サムエル・コッキング。
8754 鈴木その子墓(千葉県成田市赤荻622-14・成田メモリアルパーク)
| 生誕 | 1932年(昭和7年)1月20日 (現:東京都) |
|---|---|
| 死没 | 2000年12月5日(68歳没) 東京都 |
| 出身校 | 学習院女子短期大学 |
| 職業 | 料理研究家 |
鈴木 その子(すずき そのこ、1932年(昭和7年)1月20日 - 2000年(平成12年)12月5日)は、昭和50年代から平成年代にかけての料理研究家である。本名、鈴木 荘能子(読み同じ)。株式会社トキノ(現在の株式会社SONOKO)を創業した。
人物
東京府(現・東京都)出身。山脇学園中学校・高等学校を経て、学習院女子短期大学食品化学科卒業。
実父の死去後、譲り受けた遺産を元手に株式会社トキノを設立し、拒食症で愛息を失ったことから考案した「鈴木式ダイエット法」を1980年(昭和55年)に本にまとめた『やせたい人は食べなさい』[注 1]」がミリオンセラーとなった。その後は、白米食を中心としたダイエット法の提唱者として、会社経営の他に各地で講演活動を行った。1990年代後半には、その異様に白塗りした仮面のような顔と、テレビ番組出演の際に顔だけ集中的に照明で照らす方法により「美白の女王」として演出した。
1999年(平成11年)3月のイレウス発症を機に体調を崩し気味になり、翌年11月下旬に風邪をこじらせて入院して1週間後、肺炎のため急死した[注 2][1]。68歳没。戒名は「白蓮院妙容日苑大姉」。墓所は成田メモリアルパーク。
私生活
短期大学卒業後は、お見合いで結婚し一男一女をもうけ、株式会社トキノ創業までは平凡な専業主婦として過ごしていた。1976年(昭和51年)、拒食症を患っていた息子が、ベランダにいたところ突然倒れそのまま転落死。料理研究家が料理で息子を救えなかったと後悔したことが「鈴木式ダイエット法」考案のきっかけとなった。
政治家、越智通雄の選挙応援を幾度となく行ったことも知られるが、これは越智の永年連れ添った妻が鈴木の学習院時代の同期・親友であったことに由来した。
鈴木は晩年、ホテルニュージャパンの元オーナー・横井英樹が所有していた東京・田園調布の邸宅跡地を購入、自身の邸宅の建設を進めていた。建設は鈴木の死去により中断され、土地は売却された。
出演
テレビ番組
・未来ナース (TBS系列)
・鈴木その子の出番です (テレビ東京系列、製作:テレビ愛知)
・笑っていいとも!(フジテレビ系列、1999年1月 - 2000年11月※不定期出演)[2]
・愛する二人別れる二人(フジテレビ系)
・ドラマヤマダ一家の辛抱 (TBS系列)山田寿美恵役
・ドラマ天国に一番近い男 第5話 (TBS系列) 本人役
著書
・やせたい人は食べなさい 減量常識を破る奇跡の鈴木式(1980年、発行:祥伝社、ISBN 4-396-10170-8)
・やせたい人の献立集 食べてやせる和・中・洋食と外食の知恵(1980年、発行:祥伝社)
・3週間でやせる毎日のおかず(1981年、発行:二見書房)
・カロリーなんか忘れなさい 食べて・やせる・鈴木式健康法(1983年、発行:祥伝社、ISBN 4-396-10225-9)
・鈴木その子のスーパーダイエット 常識革命・食べなければやせない!(1984年、発行:小学館、ISBN 4-093-06006-1)
・男のスーパーパワー 鈴木その子の食養法 健康革命・食べて、やせて、活力を得る(1985年、発行:小学館、ISBN 4-093-06011-8)
・鈴木その子の秘密のスーパーダイエット(1985年、発行:小学館、ISBN 4-093-29013-X)
・食因病に克つ 鈴木その子の食療革命 食で冒された体は"食"で治す(1986年、発行:小学館、ISBN 4-093-06017-7)
・鈴木式・食べ方の処方箋 成人病からドカ食いまでを治す調理のコツ(1986年、発行:祥伝社、ISBN 4-396-10265-8)
・鈴木その子のやせるクッキングテクニック ごはんを中心にしっかり食べて 2週間で5kgらくらくやせる(1986年、発行:主婦の友社)
・新・やせたい人は食べなさい 奇跡の鈴木式・スーパー・ダイエット(1990年、発行:祥伝社)
・奇跡のダイエット 美と健康を求めて(1992年、発行:小学館、ISBN 4-093-97411-X)
・鈴木その子のやせる調理革命(1992年、発行:講談社、ISBN 4-062-05991-6)
・鈴木その子のダイエットへの道 美しく健康な明日の自分を創るために(1993年、発行:海竜社、ISBN 4-759-30355-3)
・鈴木その子の美肌革命 食べて・美しくなる・真の化粧法(1993年、発行:講談社、ISBN 4-062-06697-1)
・やせるダイエット革命(1993年、発行:三笠書房)
・時のダイエット鈴木式の極意 肥満・成人病から自分を守るのはもう一人の自分(1994年、発行:祥伝社、ISBN 4-396-10348-4)
・鈴木その子のダイエット心理作戦 香りと神経・香りと食事(1994年、発行:講談社、ISBN 4-062-07065-0)
・マンガでバッチリ!!鈴木式ダイエット(1995年、発行:祥伝社、ISBN 4-396-10362-X)
・過食・拒食からの脱出 トキノ会10万人のデータからの処方箋(1995年、発行:祥伝社、ISBN 4-396-10373-5)
・幸せをよぶダイエット 鈴木その子のタリズマンパワー(1996年、発行:海竜社、ISBN 4-759-30461-4)
・鈴木その子のやせる水・太る水 誰も書かなかった水の話(1996年、発行:講談社、ISBN 4-062-08271-3)
・鈴木その子の<超>ダイエット法(1996年、発行:三笠書房、ISBN 4-837-90821-7)
・鈴木その子のDQ やせる法則がわかった!(1997年、発行:祥伝社、ISBN 4-396-10396-4)
・キレるキレないは「食」で決まる(1998年、発行:祥伝社、ISBN 4-396-10398-0)
・その子の美容革命 白肌は絶対おトクよ!(1998年、発行:祥伝社、ISBN 4-396-10402-2)
・鈴木その子の幸せをつくる生き方(1999年、発行:海竜社、ISBN 4-759-30582-3)
・やせたい人は食べなさい 決定版(1999年、発行:祥伝社、ISBN 4-396-31126-5)
・鈴木その子のおしゃれレクチャー(1999年、発行:KKベストセラーズ、ISBN 4-584-01059-5)
・鈴木その子のキレイになれる美造講座(2000年、発行:小学館、ISBN 4-093-97412-8)
・鈴木その子のやせる本格レシピ 美白とスリムのトキノの調理法、教えます(2000年、発行:主婦の友社、ISBN 4-072-28690-7)
・鈴木その子のシンプル・ダイエット(2000年、発行:三笠書房、ISBN 4-837-96049-9)
・鈴木その子のこれが究極!食べてやせる料理(2000年、発行:小学館、ISBN 4-09-397413-6)
・カロリーなんか忘れなさい 完全版(2001年、発行:祥伝社、ISBN 4-396-31279-2)
・その子(2001年、発行:新潮社、ISBN 4-10-443601-1)
その他
2000年(平成12年)に講談社の月刊少女漫画雑誌『デザート』において、『鈴木その子物語』(漫画:寄田みゆき)と言うタイトルで彼女の半生が描かれた漫画が掲載され、単行本も発売されている。
テレビドラマ放送枠『DRAMA COMPLEX』(日本テレビ)内で2006年(平成18年)に放送されたエピソード、『ダイエットの女王 鈴木その子』[3]では、坂下千里子が20代の鈴木その子役、加賀まりこが30代から晩年の鈴木その子役をそれぞれ演じた。
脚注
注釈
1. 自身のモットーでもある。
2. 死亡時刻は、2000年(平成12年)12月5日午前4時45分。
出典
1. 日刊スポーツ 訃報
2. 鈴木その子 - オリコンTV出演情報
3. 2006年(平成18年)4月25日放送
関連項目
・浅草キッド その子ライトの発案者
・JR東海313系電車 - 前面が白いことから「その子」と呼ばれることがあった
外部リンク
・創業者 鈴木その子 | SONOKO公式オンラインショップ
・鈴木その子の生涯 | SONOKO公式オンラインショップ
・20世紀日本人名事典『鈴木その子』 - コトバンク
(wikiより)




8080 杉道助墓(護国山・山口県萩市椿東243‐31)
| 生誕 | 1884年2月20日 山口県山口市 |
|---|---|
| 死没 | 1964年12月14日(80歳没) 大阪府 |
| 国籍 | |
| 出身校 | 慶應義塾大学理財科 |
| 職業 | 大阪商工会議所会頭 日本商工会議所副会頭 日本貿易振興機構理事長 |
| 団体 | 八木商店社長 |
| 受賞 | 正三位 勲一等瑞宝章 藍綬褒章 |
杉 道助(すぎ みちすけ、1884年(明治17年)2月20日 - 1964年(昭和39年)12月14日)は、日本の実業家。第二次世界大戦後における大阪・関西財界の代表者。曽祖父は吉田松陰の父である杉常道、祖父は松陰の兄の杉民治。
八木商店社長となり、大阪商工会議所会頭を23年間務め、日本商工会議所副会頭、新日本放送(現・MBSメディアホールディングス)社長、海外市場調査会(現・日本貿易振興機構(略称:JETRO(ジェトロ)を設立後、理事長となる。鳩山一郎内閣において日ソ交渉全権顧問、日韓会談首席代表として政界にも関与した。 位階は正三位、勲等は勲一等。
生涯
生い立ち
山口県山口市に生まれた。父の相次郎は県庁勤めをしていた。郷里の萩市で幼少時代を過ごし、山口師範学校附属小学校(現・山口大学教育学部附属山口小学校)へ、萩から山口の距離は相当あったのにもかかわらず、徒歩で通学した(にわかに信じがたいが、林茂香著「幕末・明治萩城下見聞録(マツノ書店発行)」によれば、著者は山口師範学校在学中に萩から徒歩で通学していたとあり、その行程もくわしく記述がある)。また、鮎川義介が学校の先輩で近所に住んでおり、学校へ一緒に通うなどした。
中学校は前半は山口中学校(現・山口県立山口高等学校)で、後半は萩中学校(現・山口県立萩高等学校)で過ごした。中学時代は自然主義が勃興し、杉も国木田独歩や田山花袋などに刺激され、新体詩を制作したり、懸賞文に応募したりしていた。杉は中学を卒業すると、すぐに東京へ行った。まっすぐ大学へ入ろうと考えていなかった杉は、徳富蘆花の「歴史の片影」という著書に影響を受け、南米に憧れを抱いた。東京へ行くと、松陰の吉田家を継いだ従兄の吉田庫三の友人でペルーで開発会社を営んでいた田中貞吉にペルー行きを誘われた。早速、実家へ相談してみたが、話がまとまらないうちに日露戦争が開戦しそうになり、船が出なくなってしまった。
そこで、終戦までの「ツナギ」として大学に通うことになり、慶應義塾大学の補欠試験を受けて入学をした。大学時代は専らスポーツに親しみ、大学野球は自身を「見物選手」と称すほどよく観戦し、応援していた。また、予科を教えていた英国人教師からホッケーのルールを教わり、慶應義塾大学体育会ホッケー部を創設した。杉は後に大阪へ行ってから羽衣女学院(現・羽衣学園中学校・高等学校)にホッケーの道具を寄付し、羽衣はホッケーで全国トップクラスの女学校になった。晩年には日本ホッケー協会の会長にもなっている。
財界で
1909年に慶應義塾大学理財科を卒業し、「久原鉱業所」(後の日産コンツェルン、現・JXTGホールディングス等)に入社した。在学中より三井物産に入りたいと考えていたが、井上馨の側近に久原鉱業所を勧められたため、大阪へ向かう社長の久原房之助と新橋駅の待合室で会い、久原鉱業所の東京事務所に雇われることになった。
1910年に武藤山治の仲人で、大阪・船場の綿糸問屋・八木商店(現・ヤギ)の創業者・八木与三郎の長女・義と結婚した。翌年には久原鉱業所が大阪に支店を設けることになり、大阪と縁深い杉が行くことになったのだが、武藤にこの話をしたところ「せっかくの大阪なんだから繊維の方をやったらどうか」と言われ、久原の快諾を得た杉は大阪で繊維工業に関わっていくことになる。
最初の仕事は堺市の小さなタオル工場「堺製織所」の整理だった。当時の紡績業界では工場が乱立し、職工の争奪戦が起こるなど気苦労が多かった。メリヤス地の統一を行うなど、品質の均質化にも苦心した。
1912年に浪速紡織(現・ダイワボウホールディングス)が設立され、武藤の肝いりで会社を任されることになった。同年から八木商店にも関わるようになった。1910年~1920年代に掛けては大戦景気とその反動の不況で市場は大混乱に陥った。八木商店や浪速紡績なども甚大な損失を被った。繊維業界では「総解合い」が行われ市場が安定したが、債務支払いのために自宅を売り払い、天下茶屋などの借家を転々とした。
1923年には武藤が政界を革新すべく「実業同志会」を結成し、杉も会員となった。同志会は翌年の第15回衆議院議員総選挙に候補を送り、武藤をはじめ12人の当選者を出した。杉も幹事長役をしたが、選挙には門外漢ばかりで選挙活動が選挙違反に引っ掛かり、2ヶ月にわたって拘引されてしまった。杉は判事に諭され、独居房でたくさんの本を読んだ。杉自身は、「この独房生活はわたしにかなりプラスになったと思う」と述懐している。
戦中・戦後の大阪
当時の経済界では営業税の一部を会議所の経費に充てていた。紡績などの大きな企業ほど納める額も多くなる。そこで、会議所の経費抑制に勉めようということで、杉らは1929年に大阪商工会議所に入所した。日中戦争が始まると、大阪では軍需産業が興り、会議所も政府の下請機関の機能を負うようになっていった。理財部長や時局対策委員長などを務めた杉は、会頭の安宅弥吉らと「満支視察団」を結成し、満韓支を回った。1941年には副会頭となったが、国策の下、大阪商工会議所は堺や布施の会議所と合併し大阪商工経済会となり、更に政府の下請機関としての色合いが濃くなっていくことになる。また、大阪の繊維統制会社「大阪繊維製品配給」の社長にも就任した。一方で、八木商店では1938年に社長、1941年には会長に就任している。
終戦後の1946年には大阪商工会議所第16代会頭に就任した[1]。またその頃、戦時中の有力企業幹部の公職追放の審査委員会の委員にも選任されている。大阪商工会議所の会長になった杉の下で大阪経済の立て直しが始まった。1953年、「大阪経済振興審議会」が結成され、ひとつの展望と振興策が示された。その結果は1956年に府や市とともに組織した「大阪経済振興連絡協議会」のもとで遂行された。新幹線の新大阪駅の位置を決定、大阪国際空港や地下鉄網の整備、阪神高速道路公団の設立促進などの都市基盤整備や重化学工業化などはその成果である。
1950年、大阪初となる民間放送局・「新日本放送」(現・MBSメディアホールディングス)が設立されると、社長となった。また、貿易振興を図るために1951年に「海外市場調査会」(現・日本貿易振興機構)を設立し、理事長となった。他にも、戦争で中止になった大阪国際見本市を実現すべく、1952年に「日本国際見本市委員会」が結成され、杉は委員長となる。見本市は同年開かれ、成功を収めた。1953年における会頭挨拶では、「大阪は経済の中心だとか、貿易産業の中心地だといわれてきたが、いまは名目だけで実質ではない。これをもとの大阪にもどそうではないか。これは単に関西という地域的感情にとらわれていうのではない。大阪の復興が日本の経済発展、国力の回復に寄与するところが大きいと信ずるからだ」と呼びかけた[2]。
その一方で、1956年に鳩山一郎の日ソ国交回復交渉の全権顧問や、1959年に赤間文三の後任として大阪府知事に推挙されるも、辞退している。だが、1961年に第6次日韓会談の政府代表になるなど、1964年に死去するまで精力的に活動を続けた。また、大正3年(1914年)に設立された大阪貿易学院高等学校(現在の学校法人大阪貿易学院・開明中学校・高等学校)の再建に力を注ぎ、昭和25年に理事長・校長に就任した。
1959年に藍綬褒章、1964年11月には関西財界の生存者として前例の無い勲一等瑞宝章を賜り、同年の死に際しては正三位が与えられた。
墓所は山口県萩市杉家墓地にある。墓には「杉家第八代。生涯松陰を敬慕。『祖先の墓より大きくしない』と遺言を残した」と書かれている[3]。
系譜については「杉 道助ウィキペディア」をご覧ください。⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%89%E9%81%93%E5%8A%A9
栄典
・藍綬褒章(1959年)
・勲一等瑞宝章(1964年)
・正三位(1964年)
脚注
1. [https://www.nikkei.com/article/DGXLASHD15H7P_W6A810C1960E00/ “杉道助、貿易振興に尽力 五代友厚の志継ぐ大商(3) 軌跡”]. 日本経済新聞. (2016年8月25日) 2020年2月27日閲覧。
2. 戦後の大阪経済振興と杉道助
3. 『週刊司馬遼太郎Ⅱ』(朝日新聞社、2007年)158頁
参考文献
・『私の履歴書 経済人1』(日本経済新聞社、1970年) - 1956年6月日本経済新聞連載
・『関西財界外史 戦後編』(関西経済連合会、1978年)
関連項目
・ヤギ (企業)
・井上靖 - 杉道助を小説『あした来る人』の登場人物である梶大助のモデルにした。
・阪神間モダニズム
・西宮市
・香櫨園
・大阪
・吉田松陰
・鳩山一郎
・伊丹空港
・新大阪駅
外部リンク
・折目允亮著 現代に生きる人間学・第二十八回 「人物論-1」杉道助
・大阪商工会議所ホームページ・戦後の大阪商工会議所(1)
・文藝春秋ホームページ「本の話連載|大和屋女将の語る昭和のサムライたち」
・杉道助の墓
(wikiより)
8019 奈良屋茂左衛門墓跡(江東区白河1-1-8・雄松院)
過去帳によると茂左衛門は数代あり、何代目の茂左衛門が紀文と競ったかはよくわからないようです。
〇 奈良屋茂左衛門
奈良屋 茂左衛門(ならや もざえもん)は、江戸時代中期の江戸の材木商である。
来歴
通称奈良茂(ならも)。姓は神田(かんだ)。4代目勝豊が知られ、勝豊を初代とする数え方もある。奈良屋は寛永年間(1624年 - 1644年)以降、代々江戸・深川霊岸島(れいがんじま)に住んだ。
『江戸真砂六十帖』に拠れば、初代勝儀、2代目勝実、3代目豊勝までの茂左衛門は、裏店住いの車夫ないしは小揚人足などをして言われるが、4代目が大成した後の由緒書きで誇張が含まれるとも指摘される。
4代目勝豊(寛文2年(1662年)? - 正徳4年6月13日(1714年7月24日))は、2代目茂左衛門の子。幼名は茂松、あるいは兵助。号は安休。材木問屋の「宇野屋」に奉公し、『江戸真砂六十帖』に拠れば28歳で独立。材木商として明暦の大火や日光東照宮の改築、将軍綱吉の寺社造営などを契機に御用商人となり、一代で急成長したという。吉原の遊女を身請けするなど、紀伊國屋文左衛門に対抗して放蕩の限りを尽くしたという。その後は材木商を廃業し、家屋敷を買い集めて地代収入を得る。
勝豊の子である5代目広璘(元禄8年(1695年) - 享保10年9月3日(1725年10月8日))と、分家した弟・勝屋の代に遊興で家産を使い果たし同家の経営は衰退したという。
「奈良茂左衛門」を参照
6代目勝屋は5代目の兄広璘の没後に跡を継ぎ細々と足袋屋をしていたようだが、それでも1744年(延享元年)には幕府から買米を命じられており、7代目の頃にも江戸町会所で有力商人に揚げられている。子孫は、大正年間(1910年代 - 1920年代)まで千住で質屋を営んでいたと言われる。
関連項目
・奈良茂左衛門


7937 伴伝兵衛墓(江東区深川2-16-7・心行寺)
※ 正直どちらの墓石が伴伝兵衛のものかは分かりません。
伴 伝兵衛(ばん でんべい)は、いち早く江戸日本橋に進出した近江商人、屋号は江戸で『近江屋』、八幡で『扇屋』。歴代当主が襲名した名称。伴伝兵衛家は西川甚五郎家・森五郎兵衛家と共に八幡御三家とされる(資料によっては伴伝兵衛に替わり西川庄六家が入るものもある)。
歴代当主[1][2]
・伴太郎左衛門尉資家:近江国甲賀郡(後の伴谷村、現滋賀県甲賀市水口町)の郷士より織田信長に従い天正10年(1582年)本能寺において討死。
・伴伝兵衛 (初代)資則:武士を捨て行商を行い、大名屋敷御用を得た。慶長15年(1610年)近江商人の中で最も初期の段階に江戸出店を行った。
・伴伝兵衛 (2代):正月名物近江屋の松飾。
・伴伝兵衛 (7代):御朱印騒動解決に尽力。
脚注
・「近江商人」(平瀬光慶著 近江尚商会 1911年)
・「滋賀県百科事典」(滋賀県百科事典刊行会編 大和書房 1984年)
7922 全鉄道諸部隊将兵之碑(東駒形2-21-12・本久寺)
7879 平岡凞墓(墨田区東駒形2-21-12・本久寺)
平岡 凞(ひらおか ひろし、1856年9月17日(安政3年8月19日) - 1934年(昭和9年)5月6日)は、日本の鉄道技師、野球選手・指導者(監督)、実業家、三味線の東明流の創始者[1]。芸名は平岡吟舟。
日本で最初の野球チーム創設者と言われているほか、日本初の民間鉄道車両メーカーである平岡工場の設立と経営に携わった。
人物
田安徳川家の家老の家である[2] 平岡凞一の長男として江戸に生まれる[3]。孫には平岡精二(ペギー葉山「学生時代」の作詞・作曲などで知られる)、甥・姪には平岡養一(シロフォン奏者)、平岡露子(フィギュアスケート選手)がいる。1871年(明治4年)アメリカへ自費留学したが[4] 中退して機関車工場に工員として働き、機関車・機械類製造技術のほかベースボールを修得し1876年(明治9年)に帰国した。平岡は工部省鉄道局に入り1886年(明治19年)に四等技師[5] まで昇進するが、独立して1890年(明治23年)匿名組合平岡工場を創業。1894年匿名組合を解散し、個人経営の工場となる。1899年(明治32年)に創業した汽車製造の副社長[6] となるが1901年(明治34年)平岡工場は汽車製造に買収され、汽車製造東京支店になる。
日本の野球の祖とされている[7]。また、日本で初めてカーブを投げた人物とも言われており、アメリカ留学中にそれを習得した[8]。「魔球」と呼ばれ、学生野球の投手たちがその投げ方を教わるために彼の元を訪れたといわれている。
1959年に野球殿堂入り[9]。平岡の功績とその名を後世に伝えるため、2010年から全日本クラブ野球選手権大会 の優勝チームへ「平岡杯」が授与された[10]。
また留学中から歌曲と親しみ、帰国後も小唄、常磐津、清元、長唄、義太夫などをこなし、踊りの振り付けにも凝った。特に小唄を得意とし、吟舟と号した。また歌舞伎関係者らとすたれていた河東節の再興につとめた[11]。さらに東明流を編み出し、その家元となった。1912年に一切の職から引退すると三味線三昧の生活を送って気前よく散財し、花柳界では「平岡大尽」として知られていた[12]。1934年に亡くなった時は、遺族には生活費以上のものを残さなかったという[2]。
新橋アスレチック倶楽部
アメリカから帰国後、平岡は工部省鉄道局技師となり、新橋鉄道局に勤務した。1878年(明治11年)新橋停車場構内に日本初の野球場「保健場」を作り(品川の八ツ山説もある)、アメリカ合衆国のスポルディング社から用具の提供を受けたり、ユニフォームを作るなどして、日本初の本格的野球チーム「新橋アスレチック倶楽部」を組織した。同チームではルールブックを毎年アメリカから取り寄せ、当時の最新ルールを用いていたといわれ、日本野球の発展に貢献したが、1888年(明治21年)平岡が鉄道局を退職したため解散となった。
脚注
1. 新選大人名辞典 1938年 平凡社 p.267
2. a b 『SL』NO.4、交友社、1972年、31頁
3. 『人事興信録 2版』(国立国会図書館デジタルコレクション)
4. 「渡米の名士無名士」外務省日誌 明治4年7月12日『新聞集成明治編年史第1巻』(国立国会図書館デジタルコレクション)
5. 『改正官員録 明治20年甲6月』(国立国会図書館デジタルコレクション)
6. 「汽車製造会社設立」東京日日新聞 明治32年7月5日 『新聞集成明治編年史第10巻』(国立国会図書館デジタルコレクション)
7. 「日本野球の元祖」時事新報 明治22年1月15日『新聞集成明治編年史第7巻』(国立国会図書館デジタルコレクション)
8. 佐山和夫『野球の英語A to Z:佐山和夫が語るアメリカ野球用語』三修社、69頁。ISBN 978-4384051773。
9. 平岡凞 殿堂入りリスト|公益財団法人野球殿堂博物館
10. 全日本クラブ野球選手権 日本野球連盟(JABA)
11. 「平岡大尽が河東節の尻押」毎日新聞 明治29年5月13日『新聞集成明治編年史第9巻』(国立国会図書館デジタルコレクション)
12. 沢和哉「日本の鉄道こぼれ話」築地書館、208-210頁
関連書籍
・「ベースボールと陸蒸気―日本で初めてカーブを投げた男・平岡 凞」(小学館文庫 ISBN 4094052410/ISBN 978-4094052411)
外部リンク
・野球殿堂博物館
・「平岡熈(ひろし)と汽車会社と野球の殿堂」 北山敏和の鉄道いまむかし
(wikiより)
⇧ 平岡 凞



7861 佐竹音次郎墓(神奈川県鎌倉市十二所512・鎌倉霊園)
7830 光永星郎墓(台東区谷中・谷中霊園)
生涯
1866年(慶応2年)旧暦7月26日、熊本県八代郡野津村(現・氷川町)生。幼名は喜一。
宮原町の寺子屋に通い、野津小学校(のちの東光寺小学校)、小川町(現・宇城市)にあった大槻英輿の漢学塾である菁莪堂で学ぶ。1880年(明治13年)、共立学舎入学。徳富一敬(蘇峰の父)に学ぶが中途退学。当時高揚していた藩閥打倒運動に共鳴したためとみられる。
その後、陸軍士官学校予備門育雄校に入り、軍人を志すが、瘭疽のため右脚の自由を失った。
軍人になる道を閉ざされた光永は政治家を志し、自由党の政治家らと共に政府批判を展開したが、1887年(明治20年)に保安条例違反により、東京から3里以内に入ることを禁じられた。このとき、尾崎行雄、星亨、中江兆民らが同様に追放処分を受けている。
のち、めさまし新聞や福岡日日新聞などに寄稿するようになり、日清戦争時には従軍記者として中国に向かう。この時、通信手段の不備が原因でせっかく書いた記事の掲載が大幅に遅れた経験から、正確で迅速なニュース報道の必要性を感じ、新聞社にニュースを供給する通信社の設立を構想するようになる。しかし、通信業単独では採算がとれそうもないことから、広告代理店を設立し、新聞社から得る通信料と新聞社に支払う広告料を相殺することを思い立つ。光永の採ったこの方式は、近代的通信社の先駆であるフランスのアヴァスと同様の発想に基づいていた。
通信業を興すには莫大な先行投資を要することから、光永は広告代理店を先に設立した。しかし、10万円としていた資本金のうち、実際に調達できたのは5000円に過ぎなかった。
1901年(明治34年)7月1日、光永は現在の銀座4丁目に新聞社に広告を取り次ぐ「日本広告株式会社」を創立した。社員8名の小さな会社で、2階建ての借家からはじめ、1階の6畳と2畳が事務所、2階の4畳半と6畳が創業者光永の住居だった[1]。
起業したばかりの広告会社が大手に対抗するため、光永は3つの戦略を立てた。第1が「利率の低廉」手数料を他社より安くすること。第2は「取引の公明化」入札時に談合入札を拒否するなど、広告取引の透明化を図ること。第3は「設備の完全化」意匠図案サービスの無料提供や調査情報サービスの提供により広告主への支援サービスを充実させること。従前の広告代理業の常識を変えるこうした戦略により、日本広告の企業基盤はしだいに固められていった。
株式会社日本広告創立から4カ月後の1901年11月、光永は個人経営の形で「電報通信社」を設立し、念願であった通信業を開始する。
電報通信社を創業して5年目通信業と広告代理業の一体経営化を決定。1906年(明治39年)12月27日、「株式会社日本電報通信社」(以下電通)を設立し、「電報通信社」と「日本広告(株)」を合併し、本格的な電通の併営体制を開始した。
1907年には、アメリカ合衆国で創業したばかりのUP(United Press Association、現在のUPI)と通信契約を締結した。
1914年(大正3年)7月28日、第一次世界大戦が勃発すると、大戦報道で電通は顕著な成果を上げ、通信社電通の声価を高めた。また、戦時の好景気を背景に、広告の主力媒体である新聞の発行部数も増大し、電通の営業成績は急上昇を辿っていった。
しかし、1931年(昭和6年)の満州事変が起こると、国内の情報通信機関を一元化するため、電通と競合していた新聞聯合社との合併を図る動きが浮上した。光永は強硬に反発したが、かなわず、両者の統合方針が決定された。1933年(昭和8年)12月5日、貴族院勅選議員に任じられ死去するまで在任[2]。1936年(昭和11年)、新聞聯合社の後身「同盟通信社」が誕生すると、電通は通信部を同盟通信社に譲渡し、以後、電通は広告専門業者として再出発した。
戦時下の広告界は苦難の道を歩むが、光永は戦後の繁栄を見ることなく、1945年(昭和20年)2月20日死去。享年78。
埋葬地は熊本県氷川町桜ケ丘公園。没後の1970年(昭和45年)、熊本県の近代文化功労者として顕彰された。また、1973年(昭和48年)には記念事業として光永の雅号を冠した八火図書館が氷川町に開かれた。
その他
・テレビ熊本は2014年10月26日、「郷土の偉人」シリーズの第22弾として「広告の先駆者・光永星郎」のドキュメンタリードラマを放送した。[3]
・光永が始めた行事として、毎年7月に実施する富士登山がある。社長以下全社員が富士山に登り、山頂の郵便局から暑中見舞いの葉書を顧客に送る。現在の電通でも連綿と続けられている、恒例行事である。
脚注
1. “株式会社電通 創業者 光永星郎”. 野村ホールディングス・日本経済新聞社. 2003年3月31日閲覧。
2. 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、43頁、52頁。
3. “電通の創業者をドラマ化「広告の先駆者・光永星郎」”. 電通. 2014年10月24日閲覧。
関連図書
・『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
・熊本日日新聞社編纂『九州人国記』熊本日日新聞社、1966
・八代郡竜北村史編纂委員会編纂『竜北村史』竜北村役場、1973
・熊本日日新聞社編纂『熊本県大百科事典』熊本日日新聞社、1982
・熊本教育振興会『肥後の人物ものがたり』熊本教育振興会事務局、1988
・日外アソシエーツ『熊本県人物・人材情報リスト、2007』
関連項目
・古野伊之助
・岩永裕吉
・近代の熊本を創った人々(熊本県ホームページ内)
(wikiより)
⇧ 光永星郎


7816 仲田祐一墓(神奈川県鎌倉市十二所512・鎌倉霊園)
7807 ホテル・ニューグランド(神奈川県横浜市中区山下町10番地 )
概要
通称山下公園通りを挟んで山下公園の真向かいに位置し、横浜中華街へ通じる横道沿い一区画を占める。横浜における主要なランドマークの一つである。
横浜市は関東大震災で壊滅的な打撃を受け、復興にあたって当時の横浜市長有吉忠一の提案により、横浜市在住の有力者を集めた「横浜市復興会」を結成。そこで決議された「外人ホテル建設の件」が、ホテルニューグランド建設の端緒となった。名称は公募によって集められたが、関東大震災で倒壊して廃業した外国ホテル「グランドホテル」の後継館として訪日客に謳う狙いで選ばれたとも、公募の中に適当な名称がなかったため横浜市復興会計画部長の井坂孝が命名したという説もあり、定かではない。
こうしてニューグランドは、横浜市復興計画の一環として官民一体となって建設が進められ、当初は今日の第三セクターとして発足した。現在の本館は、1927年創業時に渡辺仁の設計で建築され、クラシックホテルの代表例として名高い。1930年代は、ルーフガーデンで大桟橋など横浜港を見ながら食事ができた。ロビーの大階段の先には川島織物製のタペストリーがかかり、高さ6メートルのマホガニーの柱は現在も残る。洋風の豪華な造りである一方で和風の意匠も取り入れられ、メインダイニングでは御簾の奥で雅楽が奏された[2]。
初代会長には先の井坂孝が就任し、井坂は東洋汽船出身であったことから、ホテルの主要業務であるサービス・宿泊・飲食に関する知識に明るく、さらに当時東洋汽船サンフランシスコ支店長であった土井慶吉を自分の補佐として呼んだ。土井は総支配人としてパリからアルフォンゾ・デュナンを招聘。新生ホテルの目玉として「最新式設備とフレンチ・スタイルの料理」をキャッチフレーズにレストランへ特に力を注ぎ、総料理長には、先のアルフォンゾ・デュナンの紹介で、パリのホテルからスイス人コックのサリー・ワイルを据え、さらに元帝国ホテル第4代総料理長の内海藤太郎をその補佐につけた。
ニューグランドの厨房からはドリア、ナポリタン、プリンアラモードなど後に広く知られる料理が生まれた[3]。また、ホテルオークラ初代総料理長となる小野正吉や、プリンスホテルグループ総料理長となる木沢武雄、霞が関飯野ビル「キャッスル」の荒田勇作や銀座5丁目「コックドール」の林久次、ロイヤル中洲本店の前川卯一[4]など数々の名店の料理長を輩出し、日本の食文化に多大な影響を与えた。
開業当時から、皇族、イギリス王族などの賓客や、喜劇王チャーリー・チャップリン、米国の野球選手ベーブ・ルースなど著名人も多数来訪し、ダグラス・マッカーサーは1937年に新婚旅行の帰路と1945年にSCAPとして来日直後[5]にそれぞれ滞在している。日本が第二次世界大戦に敗れた後の7年間は、マッカーサーが率いる占領軍将校宿舎として接収され[6][7]、戦前の錚々たる宿泊者を記したゲストブックが持ち去られた[2]。なお、マッカーサーが当時宿泊していた315号室は「マッカーサーズスイート」として一般客も宿泊できる。
その独特のクラシカルな雰囲気から、『RAMPO』『ツナグ』など邦画ロケーション撮影にも多用されている。
沿革
・1926年(大正15年)7月 - 「株式会社ホテル、ニューグランド」を設立する。幕末に開設されたフランス海軍病院跡を敷地とする。
・1927年(昭和2年)12月1日 - ホテルニューグランドを開業する。
・1991年(平成3年) - 18階建て(高さ73m)のニューグランドタワーを開業する。
・2003年(平成15年)3月 - 東日本旅客鉄道(JR東日本)が株式の一部を取得。
・2004年(平成16年)- JR東日本と業務及び資本提携を締結。JR東日本ホテルチェーンにアソシエイトホテルとして加盟。全面リニューアルオープンする。
・2011年(平成23年)4月1日 - プリファード・ホテル・グループに加盟する。
施設概要
本館 (地上5階)
スイートルーム3室含む全49室 (3階 - 4階)
・レストラン&バー
・イタリアン レストラン“イル・ジャルディーノ”
・京料理“たん熊北店”
・コーヒーハウス“ザ・カフェ”
・ロビーラウンジ“ラ・テラス”
・バー“シーガーディアンII”
ニューグランドタワー (地上18階・地下5階)
全202室 (6階 - 17階)
・レストラン
・パノラミックレストラン“ル・ノルマンディ”
エグゼクティブフロア (15階 - 17階)
・エグゼクティブラウンジ「ザ・クラブ」 (16階)
(エグゼクティブフロア宿泊者専用)
アクセス
・横浜高速鉄道みなとみらい線元町・中華街駅一番出口より徒歩1分(渋谷駅から東急東横線と相互直通運転)
・横浜市営バス・京浜急行バス山下公園前下車すぐ
JR東日本及びJRグループとの関連
2004年3月、東日本旅客鉄道が業務提携により株式の2.9%を取得する。同年4月以降、直営以外唯一の準会員としてJR東日本ホテルズ加盟となり[8]、ビューカード利用者向け「ホテルズ利用特典」提供ならびにTYOなどびゅう国内旅行商品として取り扱われている。準会員であるため、JR東日本ホテルズWebサイトでの予約は受け付けず、JRホテルグループにも属さずJRホテルグループ施設要覧などに掲載はない。北海道旅客鉄道(JR北海道)「ツインクルプラザ」商品の首都圏フリープランやパッケージツアーパンフレットでは「JRホテルグループ」として扱われている。JR東日本は自社運営ホテルを横浜市内に長らく展開していなかった[注 1]。
JR東日本ホテルズの会員制度である「EASTYLE MEMBERS」についても、2015年12月1日付でようやく加盟し、以降は、当館でも同会員制度の特典が受けられるようになった。
雑記
・運営会社「株式会社ホテル、ニューグランド」は商号に「、(読点)」が入る、稀有な名前を持つ[9]。
・ニューグランドタワー屋上に、テレビ朝日情報カメラが設置されている。
・1988年、矢沢永吉はシングル『ニューグランドホテル』をリリースしている。シングル、アルバムを含め演奏場所以外に矢沢が具体的建物を題名とした、唯一の作品である。[要出典]
・サザンオールスターズのシングル『LOVE AFFAIR 〜秘密のデート』の歌詞に当ホテルのバー「シーガーディアン」が登場する。
・東京事変のミニアルバム『color bars』に収録される「今夜はから騒ぎ」のPVは当ホテルで撮影された。
・当地以外の同名あるいは類似名称の宿泊施設とは一切無関係である。たとえば、以下が挙げられる:
・東京都八王子市大和田町の八王子ホテルニューグランド(サンルートホテルチェーン提携。以前は“八王子”を省いた看板などが使われていた)。
・愛知県名古屋市中村区の「名鉄ニューグランドホテル」(名鉄グループ)
・2013年、本館および横浜そごうのバーで、メニューと実際に提供される食材が異なっていたことが判明した[注 2]。これについて総務人事部の見解は「酒中心の店で認識が甘くなった」ためであると謝罪した[10][11][12]。
・太平洋戦争開戦時の外務次官であった西春彦は夫人の実家がニューグランドだった縁もあり、戦後、横浜市復興会副会長を務めていたが、退官後に入社。後に会長となった。
脚注
注釈
1. 2008年、JR東海系「ホテルアソシア新横浜ターミナル」が開業してグループに加盟し、2010年10月、鶴見駅近くに「ホテルメッツ横浜鶴見」を開業している。
2. 本館の「シーガーディアンII」および横浜そごうの「シーガーディアンIII」において、バナメイエビを「芝海老」、また加熱処理された冷凍ジュースを「フレッシュ」としていた。なお、2013年は阪急阪神ホテルズの各ホテルを皮切りに各地で類似の偽装が発覚した。
出典
1. a b c d e f g h i j k 株式会社ホテル、ニューグランド (2020-02-27). 第142期(2018年12月1日 - 2019年11月30日)有価証券報告書 (Report).
2. a b 「クラシックホテル 1930年代のインバウンドとともに」『日本経済新聞』朝刊2019年6月23日(NIKKEI The STYLE)。
3. “ホテルニューグランド ザ・カフェ”. 2013年10月18日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2013年11月7日閲覧。
4. 梅谷羊次 『ファミレスは進化する!』 商業界、2010年、14頁。ISBN 9784785503901。
5. アメリカ占領下の日本 第2巻 最高司令官マッカーサー 企画・制作:ウォークプロモーション
6. かながわの米軍施設-横浜地区編 CityOfYokohama
7. 横浜市と米軍基地 CityOfYokohama
8. “ホテルニューグランドとの業務提携開始について” (プレスリリース), 東日本旅客鉄道, (2003年11月11日) 2017年7月14日閲覧。
9. “ホテルニューグランドの社名に「、」が入る理由とは?”. はまれぽ.com (2019年11月7日). 2020年7月5日閲覧。
10. “ホテルニューグランドとベイシェラトン 偽装、横浜の名門も”. 『朝日新聞』: 神奈川版. (2013年11月7日)
11. “横浜のホテルニューグランドでも不適切表記 「バナメイエビ」を「芝海老」”. MSN産経ニュース. (2013年11月6日) 2013年11月7日閲覧。
12. “バー シーガーディアンIIおよびIIIにおける表記についてお知らせとお詫び”. ホテル、ニューグランド (2013年11月6日). 2013年11月10日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2013年11月11日閲覧。
参考文献
・高橋清一『横浜流―すべてはここから始まった』 東京新聞出版局、2005年。ISBN 4808308347
・白土秀次『ホテルニューグランド50年史』 中央公論事業出版、1977年。
関連項目
・クラシックホテル - 当ホテルと他の5つの老舗ホテルで「クラシックホテルの仲間たち」というグループを結成し、共同での広報活動を行っている。
外部リンク
・公式ウェブサイト
(wikiより)
















⇧⇩ Sea Guardian Ⅱ







⇧ 中庭
7783 鈴木正雄(角海老)墓(豊島区巣鴨5-32-2・摠禅寺)
来歴・人物
富裕な家具屋と妾の間に生まれ、山田家の養子となる[4]。東京府東京市金曾木国民学校(現・台東区立金曾木小学校)を経て、1945年4月、旧制開成中学校(現・開成高等学校)に入学[5]。同年5月、山形県に疎開し、旧制山形中学校(現・山形県立山形東高等学校)に転入[6]。
第二次世界大戦後、東京に戻るが、実家と養家の没落に伴い実母のもとに戻り、困窮生活を送り、アルバイトをしながら旧制開成中学校に3年間学ぶ[7]。さらに、便所掃除や人力車の車夫の仕事をしつつ、1948年から新制巣鴨商業高等学校に学ぶが、1950年6月に中退する[7]。母が浅草の花柳界にいた縁から、自らも吉原で輪タクの経営を始め、さらに女郎屋「あけぼの二号店」を開く[8]。のち、車夫時代から出入りしていた老舗遊郭「角海老」の名を継いで今日に至る[9]。
売春防止法違反などで10回の逮捕歴を持ち、脱税容疑で国税庁の査察を受けること2回[10]。3回の執行猶予付き有罪判決を受けたが、実刑判決を受けたことはない[11]。外国から来日した賓客や随伴の官吏の接待に売春を斡旋していた関係から政財界や官界にパイプを持ち、特に内閣総理大臣の田中角栄[12] や大平正芳[12]、最高裁判所長官の石田和外[13]、三井銀行会長の小山五郎[14]、検事総長の井本臺吉[15]、京王閣社長の遠藤士一[16]、本田技研工業社長の本田宗一郎[17] と昵懇で、石田のことは「第三の親父」[18]、遠藤のことは「わたしには人生で『親父』と呼んだ人が三人ほどおりますが、そのうちの一人が遠藤さん」[19] というほどの関係であった。
このため、「わたしは警視庁に十回逮捕されているにもかかわらず、刑務所には一度も収監されていないのは、このことが理由の一つかもしれません」とも述べている[20]。
1977年度の個人所得が東京都荒川区の長者番付で第2位(国家公務員の初任給が8万8000円の時代に1億4992万円)となったこともある[21]。
在日朝鮮人と言われることもあるが、これは同姓同名の恐喝犯と混同した誤伝であると鈴木当人は主張している[22]。
また鈴木は、角海老宝石ボクシングジムを開設し、ジムオーナーとして 小林光二(元WBCフライ級王者)、 イーグル・デーン・ジュンラパン(イーグル京和、元WBCミニマム級王者)、小堀佑介(元WBAライト級王者)を始め、坂本博之や榎洋之など数々の名ボクサーを育成しているとされているが、本人にボクシング経験はなくトレーナーライセンスも取得していない。
脚注
1. 『公衆トイレと人生は後ろを向いたらやり直し』p.49。
2. 『公衆トイレと人生は後ろを向いたらやり直し』p.267。
3. 『公衆トイレと人生は後ろを向いたらやり直し』p.3。
4. 『公衆トイレと人生は後ろを向いたらやり直し』p.52-53。
5. 『公衆トイレと人生は後ろを向いたらやり直し』p.55。
6. 『公衆トイレと人生は後ろを向いたらやり直し』p.57。
7. a b 『公衆トイレと人生は後ろを向いたらやり直し』p.66。
8. 『公衆トイレと人生は後ろを向いたらやり直し』p.79。
9. 『公衆トイレと人生は後ろを向いたらやり直し』p.84。
10. 『公衆トイレと人生は後ろを向いたらやり直し』p.109。
11. 『公衆トイレと人生は後ろを向いたらやり直し』p.82。
12. a b 『公衆トイレと人生は後ろを向いたらやり直し』p.90-96。
13. 『公衆トイレと人生は後ろを向いたらやり直し』p.107-108, 166-169。
14. 『公衆トイレと人生は後ろを向いたらやり直し』p.148-149。
15. 『公衆トイレと人生は後ろを向いたらやり直し』p.157。
16. 『公衆トイレと人生は後ろを向いたらやり直し』p.173-176。
17. 『公衆トイレと人生は後ろを向いたらやり直し』p.178-180。
18. 『公衆トイレと人生は後ろを向いたらやり直し』p.168。
19. 『公衆トイレと人生は後ろを向いたらやり直し』p.173。
20. 『公衆トイレと人生は後ろを向いたらやり直し』p.95。
21. 『公衆トイレと人生は後ろを向いたらやり直し』p.24。
22. 『公衆トイレと人生は後ろを向いたらやり直し』p.31。
参考文献
・木谷恭介『公衆トイレと人生は後ろを向いたらやり直し』(光文社、2012年)
(wikiより)



7778 芝山兼太郎墓(神奈川県横浜市中区妙香寺台8・妙香寺)
経歴
誕生 - 理容師修行
肥後国熊本藩に誕生した[1][2]。幼少時に神奈川の庄屋の養子となり[* 1]、13歳のとき、遠縁の理髪店に勤めた。
間もなくその店の規模の小ささに見切りをつけて、横浜の外国人居留地に夢を託した[2]。横浜は、日本で最初の西洋式の理髪店が開店したこともあり、当時は日本国外の客を相手にする理容師が多く存在していた[2]。
芝山は横浜で名を馳せる理容師の中の1人、松本定吉に弟子入りした[7]。松本は当時の理容師の中でも最も名声があり、「かみそり定」の異名で呼ばれていた。その剃刀の腕前は、後年「なめらかに削った竹のヘラで頬をなでるように剃刀を使い、いつの間にか客を眠らせるほどの名人上手」と伝えられている[2][8]。
芝山は松本のもとに勤め、本格的に理容師の修行を始めた。早朝から深夜まで雑用は続き、毎晩250本ものタオルを手で洗った。冬季は辛い作業であった。芝山は激務に耐えつつ、ふけ取り、剃刀の研ぎ方など、理髪の初歩的な技術を一つ一つ、懸命に学んだ。深夜は密かに、自分の膝を客の顔に見立てて、剃刀を練習していた。そのためにいつも、膝から血を流していた[2][9]。
松本は芝山の器用さと熱心さを見込み、外国人居留地でフランス人が営む理髪店に修行に出した。芝山はこの店で、ドイツのゾーリンゲン製の剃刀の技術を学んだ。ゾーリンゲン製の剃刀の切れ味は日本製を上回り、芝山はその性能に魅了された[10]。後に芝山は「外人屋敷の理容師」に昇格し、単独での客回りが可能となった[2]。
独立・開業
21歳のとき、日清戦争で応召したが、満州での戦闘で負傷し、後送された[11]。その後は再び松本の店で働いた後、22歳で独立し、1895年(明治28年)に横浜市中区山下町に理容店「日之出軒」を開業した[12]。日之出軒は大いに繁盛し、当時の新聞に「横浜名物は伊勢佐木町の吉野志る粉に山下町の日之出軒」と記事が載るほどであった[13][14]。
1897年(明治30年)、日本国外の客を専門とする「パレス・トイレット・サロン・シバヤマ」を、山下町に開業した[12]。店には、先述のフランス人理容師から帰国前に譲り受けた、全高3.6メートル以上の巨大な鏡を設置して、その前には大理石の豪華な前流しを5台も設け、客たちを驚かせた[13][15]。芝山の他、ベテラン店員が5人勤めており、後に北海道で「女床」の名で知られる宍戸いく(後の北海道美容環衛組合初代理事長)もいた[6]。店の理髪部に隣接して、日本国外の女性客を対象とした婦人部もあり、人気を呼んだ。これが日本での美容室の始まりとされる[13][15]。
日露戦争でも戦争に参加させられたが、ここでも国外での戦争で負傷し、帰国して間もなく除隊した[13][16]。
美顔術の習得
1905年(明治38年)、アメリカの医師であるW・キャンブルーが芝山の店を訪ね、自ら研究している血行療法主体のマッサージ法を教え、それを学ぶことを勧めた。教授料は高額であったが、芝山は日本国外の新技術に強い興味を持っていたことから、それを教わることを決心した[12][18]。マンツーマンでの教育により、2日間でマッサージ法のほとんどを習得した[19][20]。
芝山はこの技術を広めるために、講習会を開催した。講習生が「この技術を何と呼ぶか」と問い、芝山が「英語では単にフェーシャル(facial)、正確にはキャンブルー式フェイス・マッサージ」と答えたところ、「名前が長い」「難しい」との意見が多発した。講習生の一人、後に「天皇の理髪師」として知られる大場秀吉が、「顔を美しくする」との意味で、日本語での「顔美術(がんびじゅつ)」の名を提案したところ、芝山は語呂が良くないとして「美顔術」と命名した[21][* 2]。また他のキャンブルーのマッサージ用語も、「軽擦法」「振動法」「圧迫法」などと日本語訳した[19]。
1906年(明治39年)、それまであまり顧みられることのなかった衛生知識の普及や、技術向上を目的として、理髪業界の初の組織である「大日本美髪会」が誕生した。芝山は大場秀吉の勧めもあって、この会に参加し、講習部長として日本全国を回った[15]。苦心して学んだ技術を、わずかの講習料で教えることを咎める声もあったが、芝山は業界利益全体の発展を願い、反対の声を退けて、技術も知識も出し惜しみすることは無かった[19]。
1912年(大正元年)、美顔術研究の成果の集大成として『実用美容術指針 一名学理的化粧法』を刊行した[12]。図解は、芸術的才能に恵まれた次男が担当した。モデルを務めた2人の女性は、後の日本ヘアデザイン協会名誉会員となる坪内弘江と、横浜の芝山美容学校の生徒となる吉田美津枝であり、共に関西美容界を後に牽引する人物であった。『実用美容術指針』は美顔術研究者のバイブル[19]、古典的名書ともいわれ[22]、1929年(昭和4年)までに7刷を重ねた。芝山みよかの著書『正則美顔術』の基盤にもなった[19]。
震災からの復興
1923年(大正12年)9月、関東大震災が発生した。芝山とみよかは北海道での講習中のために難を逃れたが、横浜の家も店も跡形なく焼失した[23][24]。
県外の地方在住の弟子たち、受講生たちからは、多くの見舞金が送られてきた。芝山はそれを復興資金として、同1923年、横浜市中区相生町に、日本人を対象とした「芝山理容院」を再建し[25]、山下町には日本国外の客を対象とした店を再建した[24]。この営業再開の迅速さは、後々まで語り草となった[23]。一番弟子である大島款太郎(後の日本ヘアデザイン協会名誉会員)は、1年間無給で働くことを申し出て、芝山を感激させた[24]。
後進の育成
関東地方や横浜が次第に復興した後、芝山は相生町の店を門弟に一任し、中区住吉町に理容室と美容室を開業した。さらに私塾「東洋美容学校」を併設して、理容業と共に美容教育に乗り出した[23][15]。やがて震災後に洋髪が流行し、生徒の増大により学校が手狭になったため、拡充として1925年(大正14年)[15]、横浜市鶴見区生麦に「芝山美容学校[* 3]」を開校した[12][26]。これは本格的な技術者教育を目的とし、各種学校令に基づく認可も取った学校であった[27]。国際理容美容専門学校の創設者である松村重貴智も、この芝山校の生徒である[24]。
しかしこの学校設立に対して、大日本美髪会から「芝山は会の復興よりも自分の復興を優先している」と批判があり、学校を美髪会の東京本部へ移管するよう要請も入った。芝山は苦心の末に、美髪会の辞職を決断した。美髪会にとって、講習会で活躍してきた芝山を欠くことは大きな痛手であったが、芝山きっての門弟の一人、後に美容評論家となる赤間徳が美髪会で跡を継ぐことで、一応の解決を見た[27]。
一方で芝山の方では、美髪会辞職後に自分側の幹部が手薄となったため、講師養成を目的とした師範講習会を発足した。当時は「師範」という言葉が「師範学校」「高等師範」など、軍の学校などと同様に尊敬される立場であったため、芝山が新聞に師範講習会開催の広告を出すと、神奈川県庁より「床屋が師範とは何事か」と横槍が入る一幕もあった[28]。
1929年(昭和4年)、大日本美髪会が改編されて、日本の理容の普及と発展を目的とした団体とした社団法人「大日本理容協会」が組織され、芝山は総務長を務めた[29]。
急逝
同1929年(昭和4年)11月14日、横浜の自宅で、心臓発作に倒れた。駆けつけた主治医による応急手当の甲斐も無く、56歳で急逝した[30]。東京の美容室で働いていたみよかが駆けつけたときは、モーニング型の白衣、縞のズボンという仕事着姿のままで死去していた[24][31]。
横浜市中区の妙香寺で葬儀が行われ、参列者や花輪の数は、関東大震災後の横浜では最大の規模に上った[30]。葬儀委員長は、先述の大場秀吉が務めた。葬列は、住吉町の店から約2キロメートル先の妙香寺まで繋がり、先頭が寺に着いても、後ろがまだ店にいたほどで[15]、「空前の葬列」とも呼ばれた[32]。弟子の1人は後に「あれほどのものは見たことがないし、これからもないでしょう」と語った[15]。
遺された芝山美容学校などは諸事情から、みよかではなく他の手に渡った[31]。墓碑は少年期の師である松本定吉と共に、妙香寺にある[24]。
慈善活動
芝山が店に初めて「フェイシャル・マッサージ」の看板を掲げたときは、視覚障害者による横浜のマッサージ師団体が、「晴眼者がマッサージの看板を出せば、我々は飯の食い上げ」と言って激しく抗議した[7]。芝山は「美容のためのマッサージであり、全身的な治療とは異なる」と弁明したが、聞き入れられることはなく、マッサージの資格の無いことを詰問された。芝山は免許取得のためにマッサージ学校に入学し[20]、その在学中、視覚障害者たちの教育不足を痛感した。そこで芝山は、一同が自立して生活できるようにと盲学校を建立、さらに団体への寄付など、長年にわたって援助を続けた[2]。この恩義から、芝山の葬儀の参列者の中には、涙を浮かべる盲学校の生徒たちの一団の姿もあり、沿道で人々の注目を集めた[2][30]。
芝山は弱者を労わる人格でも知られ、千葉県に弟子を訪ねたときに、渡し船しかない川の不便さから、橋を架けた。感謝の意味から、この橋は地元で「芝山橋」と呼ばれた[16]。1918年(大正7年)には、病気や学業不振で通学できない子供たちのために本牧中学校を設立して、その理事長も務めた[2]。野球選手として活躍した苅田久徳や若林忠志も、同校の生徒である[33]。大日本美髪会の講習のために日本内外を回ったときにも、講習料は安価で、芝山の利益がほとんど無いほどだった[15]。関東大震災後に多くの支援により迅速に営業再開できたことも、芝山の優れた人望を物語っている[23]。このように温かな人格から、没後は「慈温院法香日兼居士」の戒名が授けられた[2]。
人物
進取の気性に富み、日本国外の技術に貪欲であり、新たな器具や化粧品を次々に取り入れた。中には驚くほど高価な品もあり、客が仰天するほどだった。娘のみよかは「新しい物好き」とよく笑っていた。1918年(大正7年)、マーセル・アイロン(火熱式のアイロン)をいち早く輸入し、ウェーブ技術を世間に広めた。大正10年代には自ら「縮毛矯正アイロン」などの新技術を開発し[13]、これは娘みよかにも受け継がれた[22]。芝山美容学校でも「人はいつでも一歩先を行かなければ。現状に甘んじてはいけない」と唱えていた[15]。
みよかの後年の弁によれば、芝山がマーセル・アイロンを用いていたのは日本国外の客を対象とした高級美容であり、日本で一般的な美容院がマーセルアイロンを導入したのは震災前後という[34]。また芝山によれば、髪のウェーブに熱アイロンを用いることは、日本女性には抵抗が強かったため、当時は男性の髪や髭に施していたという[35]。
家族
長男の芝山武一(しばやま たけいち)は、神奈川県立横浜第一中学校を首席で卒業するほどの、明晰な頭脳の持ち主であった。父は大いに期待を寄せ、東京帝国大学へ進学させることを望んだものの、結核で肺を病んで学業を断念した[33]。
次男の芝山征守(しばやま ゆきもり)は、芸術家肌で絵の才能もあり、加えて独学で英語とフランス語を習得していた。父の著書『実用美容術指針 一名学理的化粧法』の手技や顔の図解も手掛けた[33]。武一と征守は共に、父に先立って死去した[17]。
長女(三子)の芝山みよかは、1人娘ということもあって芝山に溺愛され、兄2人に嫉妬されるほどだった。芝山の店に出入りしていたジュジューというフランス人美容師が、実娘を病気で喪った悲嘆のあまり、みよかを養女に欲しいと芝山に懇願すると、芝山はジュジューと懇意の仲にもかかわらず、さすがに「馬鹿も休み休み言え!」と激怒した[33]。なおジュジューが芝山の店で美容を指導する際、唯一知っている日本語「よく見て」を連呼していたことから、みよかの本名の漢字表記「見与加」は、「よく見て」を「よく見て、人に与え、己に加える」と転じて命名したとの説もある[33]。
詳しいことは、『芝山兼太郎ウィキペディア』をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%9D%E5%B1%B1%E5%85%BC%E5%A4%AA%E9%83%8E
(wikiより)
⇧ 芝山兼太郎



7774 韮塚美寧墓(群馬県富岡市富岡1093・龍光寺)
7773 長野親蔵墓(群馬県富岡市富岡1093・龍光寺)
7772 韮塚直次郎墓(群馬県富岡市富岡1093・龍光寺)
1823年 ( 文政 6 ) 10. 5 ~ 1898年 ( 明治 31 ) 1. 27
韮塚直次郎は、1832 ( 文政 6 ) 年に尾高家の使用人として働いていた父・久保田熊次郎と、同じく使用人であった母・銀の長男として尾高家 ( 惇忠の祖父・磯五郎の時代) ) の離れで 生まれました。
当時、尾高家は 油屋と呼ぱれ、農業のほかに菜種油、藍玉製造 、販売、 塩、 雑貨等を販売しており、使用人も雇っていました。
直次郎が 7歳の頃、同じく搾油業 を営んでぃた韮塚仙之助 ( 明戸村 : 現深谷市 ) に跡継がいないことを知った磯五郎は、まじめに働く熊次郎親子を韮塚家に養子縁組する事を薦めました。
そうして熊次郎親子は韮塚家に入り、韮塚姓を名乗るようになりました。
しかし、2年後には仙之助が亡くなり、翌年には熊次郎も亡くなったため、生活の糧を得るために銀は直次郎と共に再び尾高家の使用人として住み込みで働くようになりました。
7年問働いた後に独立して韮塚家に戻った母子は 、農業のほかに養蚕、藍玉作り、菜種油の製造・販売に力を注いだため幕末には豪農としての地位を築いたのでした。
このようにたゆまぬ努力でができた背景には、尾高家の物心両面の力添があったと思われますが、この直次郎のひたむきに努力する姿を尾高惇忠が目の前で見ていたため直次郎に対して深い信頼を寄せたと見る事が出す。
尾高惇忠が韮塚直次郎に富岡製糸場の礎石の運搬や煉瓦製造を任せたのはこのような背景がありました。
富岡製糸場の建設において資材調達のまとめ役をつとめた人物として知られていますが、製糸場は洋式の建物となることが決まっていて、明治時代となって 4年あまりの当時ですから、それがどんな建物なのか、想像することも非常に困難なものだったことでしょう。
主要な建築材料となる煉瓦も、まだその製造方法すら分かっていない中、直次郎は地元明戸の瓦職人たちを束ね、外国人技師バステアンから煉瓦の素材や性質を聞き、材料である粘土探しからはじめました。
そして、富岡に近い笹森稲荷神社 ( 現甘楽町福島 ) 付近の畑から煉瓦に適した粘土を発見し、その周辺に焼成窯を設け、試行錯誤の末に、煉瓦を焼き上げることに成功したのです。
その他にも、 当時はセメントがなく、煉瓦をつなぎ合わせる漆喰にも強度を増すために膠等混ぜての技術や、妙義山から御神木とされていた杉の木の切り出し、連石山から石材の切り出し、輸送や瓦など、多くの資材調達を請け負った 韮塚直次郎は、製糸場完成後は富岡製糸場の工女 400人分、1日 3食の賄い ( 今で言う社員食堂 ) を任せれます。
富岡製糸場 工女募集に奔走
富岡製糸場は伝習の場であるため、3年程で技術を取得し、工女たちは国元に帰っていき、明治 8年頃には当初入場した工女たちは殆んどいなくなりました。
工女の補充が必要となり、韮塚直次郎は妻の美寧 ( ミネ ) の出身地 ( 旧彦根藩 ) に工女を求めました。
当時彦根藩の旧藩士たちは、生活が困窮している人が多く、工女を募集したところ思った以上に希望者が有り、製糸場で受け入れられない程だったので、韮塚製糸場を建設したのか、韮塚製糸場を建設したので工女を求めたのか詳細は 、はっきりしていないようです。
韮塚製糸場の建設が明治 9年であること、植松サト ( 死亡時、明治 13年 22歳 ) 植松コト ( 死亡時、明治 12年 16歳 ) の姉妹の姉は、富岡製糸場へ入場させていること、清水ゲン ( 死亡時、明治 10年 9歳 10ヶ月 ) は、富岡製糸場ではなく、韮塚製糸場に入場させています。
当初、富岡製糸場の工女の雇用年齢は 12歳以上と決められていたため、清水ゲンの様に年齢が 12歳に満たないものは、韮塚製糸場に一時預かり、12歳になるのを待ったと考えても良いのではないでしょうか?
又、予定以上に工女希望があったため、韮塚製糸場で預かるための製糸場とも考えられます。
韮塚製糸場に付いたは、詳細な資料がないためはっきりしない部分が多々あるようです。
数年で閉場した韮塚製糸場の工女たちは、富岡製糸場に移り、直次郎は、富岡製糸場の賄い方の御用商人として独立し、多角経営に乗り出します。
(富岡製糸場ホームページより)



7758 伊藤小左衛門墓(福岡市博多区御供所町13-6・妙楽寺)
博多の豪商。
〇 二代目・伊藤 小左衛門
伊藤 小左衛門(いとう こざえもん)は、江戸時代初期の福岡藩の人物である。博多の地で2代にわたって活躍した豪商であり、ここでは主に2代目小左衛門(? - 寛文7年(1667年))について扱う。
生涯
半生
博多に出て、その商才を発揮して財を築いた初代の跡を継いだ2代目小左衛門は、同じく博多の豪商である大賀宗伯とともに福岡藩主黒田氏の御用商人となった。そして、長崎代官の末次平蔵や西村隼人・大賀九郎左衛門ら商人達とともに、直接朱印船を派遣することの無かった黒田氏に代わって海外との貿易活動を行った。
そして正保4年(1647年)6月、ポルトガル船が来航禁止令を破って長崎に入港して貿易再開を願い出た際、当時の長崎警備役であった福岡藩2代目藩主黒田忠之のため大いに尽力し、これを賞せられて50人扶持を与えられた。
浜口町[1]に在住していたが、やがて長崎にも出店を設けて移り住んだ。船津町や浦五島町などにも屋敷を構えて、博多と往来して商売し、長崎奉行の接待のため五島町の屋敷を提供するほどにもなっていた。この当時、小左衛門は毎年銀10貫を消費し、通詞や乙名から銀7000貫以上の資産をもつと噂された[2]。それだけの資産を得るに至った背景には、出雲産や広島産の鉄類の売買や武器の生産に従事したこと[3]だけでなく、中国・朝鮮との密貿易による利益もあったといわれる。また、明の復興を願い清と戦った鄭成功とも何度も貿易を行ったとされる。
密貿易の発覚と処刑
寛文7年(1667年)、筑後柳川出身で、長崎浜町居住の江口伊右衛門の下人で、柳川領にあった平左衛門という者が、柳川藩当局に訴え出たことから、伊藤小左衛門の密貿易が発覚した。その訴えは、伊右衛門が対馬の小茂田勘左衛門と共謀して、武具を朝鮮に密売したというものであった[4]。伊右衛門を柳川藩の長崎蔵屋敷で捕え、牢舎に入れて取調べを進めた結果、密貿易に関わる者達が判明した。
これにより、伊藤小左衛門をはじめとし、長崎の浜町乙名浅見七左衛門、新大工町の油屋彦右衛門、築町の塩屋太兵衛、炉粕町の中尾弥次兵衛、そして対馬の小茂田勘左衛門、亀岡平右衛門、扇角右衛門、更に福岡領の高木惣十郎、篠崎伝右衛門、前野孫右衛門、唐津藩の今村半左衛門、島原領日見村の加兵衛、小浜村の利兵衛、熊本藩八代の九郎左衛門、大坂の仁兵衛、長兵衛、庄左衛門以下、全部でおよそ100人近い者が捕えられた。
密貿易は、数年来の計画的なもので、長崎・博多・対馬から島原・熊本・唐津各領だけでなく、上方の大坂にまで及ぶ大掛かりなものだった。その中心人物が伊藤小左衛門であり、寛文2年(1662年)から[5]、5年間で7回にわたって小茂田勘左衛門や扇角右衛門らと共謀して出資し、朝鮮に武具を密売していたのであった。
小左衛門と浅見七左衛門の2人は磔刑となり、40数人の者が斬首・獄門などの死刑、同じく40数人が在所からの追放に処された。小左衛門の子である2人の男児も縁座させられ、そのうち長崎にあった1人は父と同日に長崎で斬首。博多にいたもう1人は、長崎奉行から福岡藩に命じ、博多で斬首させた。博多の高木惣十郎は福岡藩当局の手で捕え、長崎に召し出して、ここで処刑。対馬の小茂田勘左衛門は、近江大津で捕えて京都の牢舎に入れ、ついで大坂に廻し、その後長崎に召し連れ、長崎奉行所で磔とする旨の判決を下した上で、対馬で刑の執行が行われた[6]。
この密貿易は、福岡藩自身も関わっていたのではないかとも言われており、3代目藩主の黒田光之は小左衛門の命を救えなかったことを終生悔やんだ。
小左衛門の屋敷跡には、万四郎夷社(稲荷社ともいう)が祀られた[7]。近代に入り、万四郎神社と称し、小左衛門とともに処刑された2人の子・小四郎と万之助を祀る神社となった。伊藤小左衛門の墓は、妙楽寺[8]にある。
事件から50年後の享保期に、近松門左衛門は伊藤小左衛門をモデルにして作った浄瑠璃の戯曲『博多小女郎浪枕』を発表した。
脚注
1. 現在の福岡県福岡市博多区下呉服町と中呉服町にあたる。
2. 『長崎オランダ商館の日記』[要ページ番号]。
3. 『西村家文書』[要ページ番号]。
4. 『華蛮交易明細記』[要ページ番号]。
5. 『長崎奉行 江戸幕府の耳と目』148頁では、「寛文五年から」となっている。
6. 『犯科帳』[要ページ番号]。
7. 『筑前名所図会』[要ページ番号]。
8. 博多区御供所町(ごくしょまち)。
参考文献
・外山幹夫著 『長崎奉行 江戸幕府の耳と目』 中公新書 、1988年 ISBN 4-12-100905-3
・脇本祐一著 『豪商たちの時代 徳川三百年は「あきんど」が創った』 日本経済新聞社、2006年 ISBN 4-532-16573-3
・『福岡県の歴史』 山川出版社、1997年 ISBN 4-634-32400-8
・『福岡県の地名』 平凡社 ISBN 4-582-49041-7
(wikiより)




7749 末次久四郎孝善墓(福岡市博多区御供所町13-6・妙楽寺)
7748 紙屋善四郎宗啿墓(福岡市博多区御供所町13-6・妙楽寺)
紙屋善四郎宗啿墓。
寛永十二年十月二十八日没。
[生]天文 20 ( 1551 ).博多
[没]寛永 12 ( 1635 ). 10. 28. 博多
安土桃山時代,
江戸時代初期の豪商,茶人。
紹策の子。
紙屋 ( こうや ) 宗旦とも書き,幼名善四郎,字は貞清。
神谷家は筑前博多の商人で 3代目の寿貞が石見銀山の開発に成功して富をなした。
天正 15 ( 1587 ) 年大坂城で豊臣秀吉に謁見してその寵を得、特権的政商として朝鮮、中国やルソン、シャムなどとの南洋貿易を行い巨利を博した。
さらに産業開発にも意をそそぎ、櫨 ( はぜ ) による製ろう法、博多そうめんをも創製し、冶金法、織物にも貢献した。
7659 森繁泉墓(台東区・谷中霊園)
7622 亀山士綱累代墓(広島県尾道市東土堂町11-36・信行寺)
7617 小川氏累代墓(広島県尾道市長江1-2-17・正授院)
7595 浅利慶太墓(台東区・谷中霊園)
浅利 慶太(あさり けいた、1933年3月16日 - 2018年7月13日[1])は、日本の演出家、実業家である。劇団四季創設者の一人で、劇団の運営・管理に当たる「四季株式会社」の代表取締役社長・会長・芸術総監督をつとめた[2]。
劇団四季、四季株式会社を、商業主義ミュージカル劇団としても企業としても成長させた。
東京都出身。永田町小学校(現麹町小学校)[3]、慶應義塾高等学校、慶應義塾大学文学部仏文学専攻中退[4]。特選塾員。慶應義塾評議員。
来歴・人物
1953年7月、慶應義塾大学、東京大学の学生を中心に劇団四季を結成した[5]。主に、ジャン・アヌイやジャン・ジロドゥ等フランス文学作品を上演する。その後東京田辺製薬(現:田辺三菱製薬)にて宣伝・広告などのアルバイトをしながら[6]、日本テレビの「ジャングル・ジム」の吹き替えアテレコに劇団として参加した[7]。劇団四季は、もともとは文化・芸術志向の良質な劇団だった。60年安保の際には、安保反対の劇団四季の学生もいて、寺山修司は「安保反対のデモに行きたいという劇団四季の学生をぶん殴って、デモへ行くな、俺の演劇こそ世界を変える」と語ったと、自身の著書で述懐している。だが浅利の右派への転向もあり、劇団四季は70年代にはミュージカルを上演する国内有数の商業主義劇団へと変化した。
また、1958年には、石原慎太郎、江藤淳、谷川俊太郎、寺山修司、永六輔、黛敏郎、福田善之ら若手文化人らと「若い日本の会」を結成し、60年安保に反対した。だが、後に思想的には保守化する[8][9]。
1961年、日生劇場製作営業担当取締役に就任。1969年、日本ゼネラルアーツを設立。1966年から1980年に越路吹雪が逝去するまで、「越路吹雪リサイタル公演」[10]を日生劇場において演出した。
浅利は、もともとは左翼だった。実姉と共に日本共産党員で、選挙戦や山村工作隊時代を戦ってきたが、実姉が左翼演劇人の劇団で交際していた男性と離別し自殺。浅利慶太は左翼陣営を離れた理由に姉の自殺をあげている。1970年代から海外ミュージカルの翻訳上演を始め、中曽根康弘[11]や石原慎太郎[注 1]などの右派政治家との関係[注 2]を背景とした莫大な集金、集客力により、劇団四季を商業主義の企業型劇団へと成長させる。浅利は20代後半で日生劇場の取締役にも就任したが、これは異例のことであった。
1972年5月には、政府の中央教育審議会の委員に就任[13]。1975年の東京都知事選挙では、石原慎太郎の選挙参謀を務め、飯島清、中曽根康弘、深谷隆司とともに石原を熱心に応援した[14]。だが、石原はあえなく落選してしまう。興行面においては1983年『キャッツ』初演において日本で初めて無期限ロングラン公演を成功させた[15]。中曽根や石原のブレーンや佐藤栄作のなまりを治す家庭教師であったことや、財界人の五島昇など財界人[16]と親しい事実のほか、先述どおり政界との繋がりを利用して劇団を躍進させたことから、「政商」と批判された[17]。
このように権力との関わりが密接である[18][19]にも関わらず、勲章などの顕彰を拒否しており、過去に紫綬褒章や文化功労者の内示も辞退している[20]。
ミラノ・スカラ座での『蝶々夫人』『トゥーランドット』、ザルツブルク音楽祭での『エレクトラ』の演出や、長野オリンピック開会式の総合プロデューサーを担当。また、創立当初からのポリシーであるアヌイ、ジロドゥ作品の上演や、太平洋戦争や日中戦争を題材とした「昭和三部作」(李香蘭、異国の丘、南十字星)の上演を行っている。
2006年10月、政府の「教育再生会議委員」に就任。
2015年3月、新事務所の浅利演出事務所を設立し社長就任。劇団四季とは別に独自の演劇活動を開始[21]。第1弾公演は劇団四季でも公演した『オンディーヌ』で、劇団四季はJR東日本アートセンター自由劇場を提供し協力[21]。
2018年7月13日、17時33分、悪性リンパ腫のため、東京都内の病院で死去[22]。85歳没。
家族
3度の結婚歴がある。最初の妻は藤野節子、2度目の妻は影万里江。2人とも劇団四季における浅利の同志だった。影の墓所は、浅利の実家の墓(谷中霊園内)である。2度目の離婚後は長く独身だったが、2003年、野村玲子を3度目の妻に迎えていた。
大叔父は二代目市川左團次。父は小山内薫らと築地小劇場の設立に参画し、三田英児の名で映画俳優として活躍した浅利鶴雄。鶴雄の母浅利たけの妹登美が左団次の妻で、左団次に子がなかったため慶太に左団次を継がせる話もあり、幼い頃は左団次の家にいたこともある[23]。母方は江戸時代から薬種商を営む田辺家の一族で、祖父は製薬会社を経営し、戦前からサロメチールやエバクレームなどを開発・販売していた[24][25][26]。その他、叔父(田辺五兵衛の次男)に旧:東京田辺製薬元会長の田辺元三郎がいる[6]。
主な受賞歴
・1974年・51年 紀伊國屋演劇賞
・1976年 芸術選奨文部大臣賞
・1984年 テアトロ演劇賞
・1985年 アッビアーティ賞
・1986年 経済界大賞特別賞
・1993年 日本シェイクスピア賞シェイクスピア演劇賞
著作・評伝
・『浅利慶太の四季』慶應義塾大学出版会 全4巻、1999年
・浅利慶太『時の光の中で 劇団四季主宰者の戦後史』文藝春秋、2004年/文春文庫、2009年
・浅利慶太『劇団四季メソッド「美しい日本語の話し方」』文春新書、2013年
・梅津齊『浅利慶太-叛逆と正統 劇団四季をつくった男』日之出出版、2020年
関連項目
・黒幕
・政商
・右派
・メセナ
詳しいことは、「浅利慶太ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E5%88%A9%E6%85%B6%E5%A4%AA
(wikiより)
⇧ 浅利慶太


7581 大浦慶墓(長崎市高平町・大浦家墓所)
生涯
文政11年(1828年)に長崎油屋町[1]で油商・大浦太平次と佐恵の娘として生まれる。
大浦家は、賀古市郎右衛門の次男・大五郎(1818年 - 1837年)が婿養子として大浦家に入るが、慶が9歳のときに死去。大五郎の死後、大浦家の財政は傾き、それに追い打ちをかけるように、天保14年10月24日(1843年12月15日)の夜に出来鍛冶屋町より出火し、今籠町・今鍛冶屋町・油屋町・今石灰町・新石灰町・高野平郷など家屋526戸が焼ける大火が発生し、大浦家は大損害を受けた。この時、慶は大浦家再興に尽くそうとした。
翌1844年、蘭学を学びに長崎にきていた天草の庄屋の息子の幸次郎(秀三郎とも)を婿養子に迎える。しかし、慶はこの幸次郎が気に入らず、祝言の翌日に追い出した。以後、死ぬまで独身を貫きとおすこととなった。20歳のときに上海に密航したという説もある。
日本茶貿易
嘉永6年(1853年)に通詞・品川藤十郎と協力して出島にてオランダ人・テキストルに嬉野茶を託し、イギリス、アメリカ、アラビアの3ヶ国へ茶を送ってもらうことにした。この時、9斤の茶葉を三階級に等分し、各階級1斤ずつ各国に割り当てた。そして同年9月、テキストルが出島から出港した。
その約3年後の安政3年(1856年)8月にイギリスの商人、W・J・オールトが来航。そこで、テキストルに託した茶の見本を見せ、巨額の注文を受けた。嬉野茶だけでは足りず、九州一円の茶の産地を巡り、やっとのことで1万斤を集め、アメリカに輸出した。これが日本茶輸出貿易の先駆けとなった。文久元年(1861年)に南北戦争が勃発し、一時的に輸出は停滞するが、慶応元年(1865年)に終結した途端、爆発的に増え、翌年には長崎からの輸出はピークに達した。安政から慶応にかけての約10年間は大浦家の全盛期であった。
日本茶輸出貿易に成功した慶は名が知れ渡り、坂本龍馬・大隈重信・松方正義・陸奥宗光らと親交があったとされる。
しかし、1860年代が終わろうとする頃、九州より大きい茶の産地である静岡からの輸出が増えて、茶の輸出業に陰りが見えはじめる。このとき慶は違う商品の貿易も考えていた。
遠山事件
明治4年(1871年)6月、慶の元へ熊本藩士の遠山一也が訪れ、イギリスのオールト商会と熊本産煙草15万斤の売買契約したため、慶に保証人になってほしいと頼んできた。遠山は熊本藩から派遣されたように装い、連署人として同藩の福田屋喜五郎の名を勝手に使い、偽の印を押した証書を見せた。また、遠山とオールトとの通弁を務めた品川藤十郎もしきりに連判することを勧めたため、慶は保証人を引き受けることにした。
ところが、オールト商会は遠山に手付金3000両を差し出したものの、期限の9月になっても煙草は全く送られてこなかった。そのため慶はオールト商会から手付金を返すように求められ、熊本藩と交渉し遠山家の家禄5ヵ年分に相当する約352両の支払いを受けたが、それが精一杯であった。実は、遠山は輸入反物で失敗し借金を返済するために慶を騙したのであった(遠山事件)。
明治5年(1872年)1月、慶はオールト商会から遠山、福田屋喜五郎と共に長崎県役所に訴えられ、慶も遠山と福田屋を訴えた。7月から8月にかけての判決で、遠山は詐欺罪で懲役10年の刑を受けるが、慶は連判したということで1500両ほどの賠償金を支払うこととなった。負債の3,000両(現在の価値でいえば約3億円ほど)と裁判費用及び賠償金を払うことになり、これで慶の信用も地に堕ち、大浦家は没落した。家財は差し押さえられ、毎日慶の家に取り立てが来ていたという。
晩年
明治12年(1879年)6月に元・第18代アメリカ大統領ユリシーズ・グラントが長崎に寄港した際は国賓として、各県令らと共に大浦が艦上に上った。その時、艦上にいた国賓で女性は大浦だけであった。
翌明治13年(1880年)1月12日に福岡県の佐野弥平と長崎の大浦慶の連名にて政府に対し、海軍軍艦の高雄丸の払い下げ願いが出された。佐野弥平は福岡で1、2を争う富豪で、三菱会社に対抗して海運業の強化を考えていた。高雄丸は2月に除籍され、佐野と大浦に50,000円で売却が決定し、3月25日に引き渡された。3月31日付の読売新聞には、大浦が4万7千3百円で買ったと書かれている。軍艦は改装し、佐野らとともに自前の貿易船として使用する予定であり、この時点で大浦は商売を建て直し、さらに拡大する意図があったと理解される。
明治17年(1884年)、県令であった石田英吉が農商務省の権大書記官であった岩山敬義に、大浦慶が既に危篤状態であるため、生きているうちに賞典をあげてほしいと要請した。石田の下に4月5日に西郷従道から受賞の知らせを電報で伝えられ、翌日に石田の使者が大浦家に出向いて受賞を知らせた。明治政府は慶に対し、日本茶輸出貿易の先駆者としての功績を認め、茶業振興功労褒賞と金20円を贈った。
その1週間後、一代の女傑・大浦慶は57歳で死去した。借金は死ぬまでに完済していたとされる。墓所は長崎市高平町清水寺墓域(曇華院跡)大浦家墓地。
関連作品
漫画
・『ニュクスの角灯』(高浜寛)
小説
・朝井まかて『グッドバイ』
脚注
1. 大浦お慶 長崎商工会議所女性会
参考文献
・白石一郎『天翔ける女』文藝春秋 1979年
・本馬恭子『大浦慶女伝ノート』本馬恭子 1990年
・田川永吉『女丈夫 大浦慶伝 慶と横浜、慶と軍艦高雄丸』文芸社 2010年
・原口泉『龍馬が惚れた女たち-加尾、佐那、お龍、そして第四の女お慶とは?-』幻冬舎出版2010年
外部リンク
・大浦慶
・NHK福岡制作ミニ番組「維新の傑物たち 大浦慶」公開中
(wikiより)
⇧ 大浦 慶





7579 ウィルソン・ウォーカー墓(長崎市目覚町24-5・坂本国際墓地)
彼がはじめて極東の地を踏んだのは、英国の汽船「フィリピーノ号」の所有者がフィリピン在住のスペイン人に同船を売却しようとした時のこと。
しかし買い手がなかなか見つからず、乗組員は買い手を求めて中国の港を転々とした挙げ句、ついに明治元年(1868)3月長崎へ。
ウォーカーはここで下船。
「ナルト号」の船長として「グラバー商会」に雇われた。
翌年、同商会の石炭船を日本へ運ぶため英国に赴いたがグラバー商会が倒産し、計画中止となった。
その後、「ホーム・リンガー商会」のために建造された船の一等航海士の職を得て、明治4年(1871)に再び来崎。のち神戸に転じ、土佐藩所有の船の一等航海士として岩崎弥太郎に雇われた。
次いで岩崎弥太郎の「郵便汽船三菱会社」創立後は、上海と日本の各港間の航海開設に尽力。
取締役格の船長として数年間勤務した。
明治13年(1880)には横浜の外国人の中で実力者的存在だったオランダ人の実業家ノートフーク・ヘクトの娘と結婚。
横浜に新居を構え、息子1人と娘5人の子宝に恵まれている。
その後明治18年(1885)に「共同運輸会社」と合併し、「NYK(日本郵船会社)」を結成。
ウォーカーはこれを機に退職を決意。
同年、「ジャパン・ブルワリ・カンパニー(「キリン麦酒株式会社」の前身)の筆頭株主となり、明治22年(1889)~明治26年(1893)にかけて会社の支配人として活躍。
日本ビール業界を確立させていく上で重要な役割を演じた。
退職後、家族と共に余生を送るべく長崎へ。
が、その後独立し、瀬戸内海で水先案内人として働いていた。
その一方で南山手12番地の自宅隣にあった「クリフ・ハウス・ホテル」を購入。
また、弟ロバートと協力して日本最初の清涼飲料水の製造会社「バンザイ炭酸飲料社」を設立するなど長崎外国人居留地の実業界、社交界に於いて中心的人物として活躍した。
ウィルソン・ウォーカーは、大正3年(1914)11月4日、長い闘病生活の末、南山手の自宅で死去。
遺体は葬儀に参列したすべての子供たちに見守られる中、新坂本国際墓地に葬られた。



7578 ロバート・ウォーカージュニア墓(長崎市目覚町24-5・坂本国際墓地)
7574 倉場富三郎墓(長崎市目覚町24-5・坂本国際墓地)
生涯
幕末から明治維新にかけて活躍したイギリス人貿易商トーマス・グラバーと淡路屋ツルの長男[3]として1871年1月28日(明治3年12月8日)、長崎に生まれる。母は加賀マキとする説もある[4][5]。また養子として迎えられたイギリス系日本人(British-Japanese)であったとも言われている[6]。
長崎の加伯利英和学校を経て学習院を中退、後にアメリカのオハイオ・ウェスリアン大学とペンシルベニア大学で生物学を学び、1892年に帰国後、父の興したグラバー商会から暖簾分けしたホーム・リンガー商会に入社、また長崎汽船漁業会社を興してイギリスから深紅丸を輸入し日本にトロール漁業を導入するなど第二次世界大戦前まで長崎の実業界にて活躍する。妻も日英混血の中野ワカ。また、長崎魚市場から収集した水産動物の精巧な図譜『日本西部及び南部魚類図譜』いわゆる『グラバー図譜』を編纂した。
太平洋戦争開戦後、イギリス人との混血児だった富三郎はスパイ嫌疑をかけられ、官憲の監視の下で不自由な生活を強いられた。戦艦武蔵建造の機密保持を理由にグラバー邸を退去させられたり、1943年にワカに先立たれるなど不幸な晩年を送り、更に原爆投下により故郷が壊滅した事が追い打ちとなり、終戦直後の1945年8月26日に長崎の自宅で首吊り自殺を図り、死亡した(自殺の理由については、スパイの疑いを晴らすために積極的に戦争に協力した姿勢により、連合国から戦犯として裁かれるのを恐れたとする説もある)。享年74。
遺体は長崎市の坂本国際墓地に妻ワカとともに埋葬されている。両親の墓とは隣同士である。死に先立って『日本西部及び南部魚類図譜』の遺贈先を理解者の渋沢敬三に遺言状で指定。その後渋沢は長崎大学水産学部に寄贈した。
家族
・父(または養父):トーマス・ブレーク・グラバー(スコットランド人武器商人)
・母:加賀マキ、また養母は淡路屋ツル
・妹:ハナ(1873–1937、グラバーとツルの実子。富三郎が米国から帰国後作った新しい戸籍に1895年に入り、倉場ハナを名乗る[7]。1897年にイギリス人商人ウォルター・ジョージ・ベネットに嫁ぎ、4人の子をもうける。夫は韓国の仁川でウールを扱う貿易会社「広昌洋行」の社長を務め、のちに在韓イギリス領事代行も務めた[8]。子孫は海外在住)
・妻:中野ワカ(1875-1943、イギリス人商人ジェームズ・ウォルターと中野エイの次女だが、グラバーに引き取られ養女として育った[9])。1899年に富三郎と結婚。
・2人の間に子はなく、死後は絶家とすることと遺言した[9]。
脚注
1. ペンシルベニア大学にこの名前で入学している。
2. Find A Grave
3. ツル以前に内縁関係にあった菊園(広永園)との間に1862年梅吉をもうけているが生後4ヶ月程で病死している。
4. 長崎市『ナガジン』引用:成人した富三郎自身が“母 加賀マキ”と記した公的文書が、後年発見されている
5. Thomas Albert GloverFind a Grave
6. The National 3rd July 2015『Scotland and Japan celebrate the ‘Scottish Samurai,’ Sir Thomas Glover』
7. Hana Glover Bennett Find a Grave
8. グラバーの娘 ハナ・グラバー戸田郁子、在日本大韓民国民団、2016.4.27、
9. a b 女一人、執念で突きとめた真実 父の遺志をつぎ汚名と誤解を晴らすために戦い続けた人生日経ビジネス、2009年11月13日
外部リンク
・グラバー図譜(長崎文化百選 - 62) - 長崎文化ジャンクション(長崎県)
・長崎大学附属図書館/グラバー図譜
(wikiより)
⇧ 倉場富三郎



7572 トーマス・ブレーク・グラバー墓(長崎市目覚町24-5・坂本国際墓地)
トーマス・ブレーク・グラバー(英: Thomas Blake Glover、1838年6月6日 - 1911年12月16日)は、スコットランド出身の商人。トマス・ブレイク・グローバーとも表記。
武器商人として幕末の日本で活躍した。日本で商業鉄道が開始されるよりも前に蒸気機関車の試走を行い、長崎に西洋式ドックを建設し造船の街としての礎を築くなど、日本の近代化に大きな役割を果たした。
維新後も日本に留まり、高島炭鉱の経営を行った。造船・採炭・製茶貿易業を通して、日本の近代化に貢献。国産ビールの育ての親。
生涯
スコットランド・アバディーンシャーで沿岸警備隊の1等航海士トーマス・ベリー・グラバー(Thomas Berry Glover)とメアリー(Mary)の間に8人兄弟姉妹の5人目として生まれる。ギムナジウムを卒業した後、1859年に上海へ渡り「ジャーディン・マセソン商会」に入社。同年9月19日(安政6年8月23日)、開港後まもない長崎に移り、2年後にはフランシス・グルームと共に「ジャーディン・マセソン商会」の長崎代理店[1]として「グラバー商会」を設立し、貿易業を営む。当初は生糸や茶の輸出を中心として扱ったが八月十八日の政変後の政治的混乱に着目して討幕派の藩、佐幕派の藩、幕府問わず、武器や弾薬を販売した[2]。亀山社中とも取引を行った。また、薩摩藩の五代友厚・森有礼・寺島宗則、長澤鼎らの海外留学、長州五傑のイギリス渡航の手引きもしている。
1865年4月12日(元治2年3月17日)[3]には、大浦海岸において蒸気機関車(アイアン・デューク号)を走らせた。本業の商売にも力を注ぎ、1866年(慶応2年)には大規模な製茶工場を建設。1868年(明治元年)には肥前藩(=佐賀藩との合弁)と契約して高島炭鉱開発に着手。さらに、長崎の小菅に船工場(史跡)を造った。
明治維新後も造幣寮の機械輸入に関わるなど明治政府との関係を深めたが、武器が売れなくなったことや諸藩からの資金回収が滞ったことなどで1870年(明治3年)、グラバー商会は破産。グラバー自身は高島炭鉱(のち官営になる)の実質的経営者として日本に留まった。1881年(明治14年)、官営事業払い下げで三菱の岩崎弥太郎が高島炭鉱を買収してからも所長として経営に当たった。また1885年(明治18年)以後は三菱財閥の相談役としても活躍し、経営危機に陥ったスプリング・バレー・ブルワリーの再建参画を岩崎に勧めて後の麒麟麦酒(現・キリンホールディングス)の基礎を築いた。
私生活では五代友厚の紹介で、ツルと結婚。長女ハナをもうけている。また、息子に倉場富三郎(Tomisaburo Kraba Glover)がいる。(ツル以前に内縁の広永園との間に梅吉をもうけているが生後4ヶ月程で病死している)。
晩年は東京で過ごし1908年(明治41年)、外国人として破格の勲二等旭日重光章を授与された。1911年(明治44年)に死去。墓は長崎市内の坂本国際墓地にある。ツルとともに埋葬されており、息子の倉場富三郎夫妻の墓とは隣同士である。邸宅跡がグラバー園として一般公開され、現在は長崎の観光名所となっている。
人物
・太宰府天満宮にある麒麟像をたいそう気に入っていたらしく、何度も譲ってほしいと打診していた。
・キリンビールの麒麟は麒麟像と坂本龍馬を指しているとの説もある。
・彼をスコットランド系のフリーメイソンリーとする説があるが、記録はない。グラバー邸内にはコンパスと定規を組み合わせたフリーメイソンリー特有のマークが刻まれた石柱があるが、これはもともとグラバー邸にあったものではない。フリーメイソンリーのロッジ(集会所)にあったものが1966年(昭和41年)に長崎市に寄贈され、長崎市によって観光目的で移設されたものである。長崎市もこの経緯を認めている[2]。
関連書籍
・野田平之助『グラバー夫人』新波書房, 1972 改訂新版 野田和子改訂 1994
・ブライアン・バークガフニ『花と霜 グラバー家の人々』平幸雪 訳. 長崎文献社, 1989
・多田茂治『グラバー家の最期 日英のはざまで』葦書房, 1991
・杉山伸也『明治維新とイギリス商人 トマス・グラバーの生涯』(岩波新書) 1993
・山崎識子『隠れ間のあるじ トーマス・ブレイク・グラバー』栄光出版社, 1994.
・アレキサンダー・マッケイ『トーマス・グラバー伝』平岡緑訳. 中央公論社, 1997
・楠戸義昭『もうひとりの蝶々夫人 長崎グラバー邸の女主人ツル』毎日新聞社, 1997
・内藤初穂「トーマス・B・グラバー始末 明治建国の洋商』アテネ書房, 2001
・マイケル・ガーデナ『トマス・グラバーの生涯 大英帝国の周縁にて』村里好俊, 杉浦裕子訳. 岩波書店, 2012
・山口幸彦「明治維新の大功労者トーマス・グラバー :フリーメーソンとしての活躍』長崎文献社, 2014
脚注
1. グラバーの肩書きは「マセソン商会・長崎代理人」
2. a b 片桐三郎 『入門 フリーメイスン全史 --- 偏見と真実』 アム アソシエイツ、2006年11月, p211-212
3. 唐津材木町年寄の平松儀右衛門の旅日記による(長崎県参与の本馬貞夫によって発掘された)。
関連項目
・幕末の人物一覧
・日英関係
・死の商人
・旧ジャーディン・マセソン商会ビル - ジャーディン・マセソン商会中国本社(上海支店)
・天津ジャーディン・マセソン商会ビル - ジャーディン・マセソン商会天津支店
・英一番館 - ジャーディン・マセソン商会横浜支店
外部リンク
・三菱人物伝 トマス・グラバー(上)
・三菱人物伝 トマス・グラバー(下)
(wikiより)

⇧ トーマス・ブレーク・グラバー
⇧ グラバー(右)と岩崎弥之助


7570 ユダヤ人墓(長崎市目覚町24-5・坂本国際墓地)
7567 長崎市旧香港上海銀行長崎支店記念館(長崎市松が枝町4-27)
明治 37年 ( 1904 ) に竣工したこの建物は、 明治~昭和初期の建築界の偉才、下田菊太郎が設計した現存する唯一の遺構であり、国指定重要文化財となっています。
長崎市内の洋館群の中にあっては最大級であり、1階部分を連続アーチのアーケードとして、2・3階部分にコリント式の円柱を通した大オーダーとし、その上に三角破風の屋根をのせるなど、海側の正面性を重視したデザインとなっています。
香港上海銀行長崎支店は当時神戸以西唯一の外国銀行で、在留外国人、なかでも貿易商を主な取引先として外国為替やロンドン・上海・香港における外貨の売買を主要業務とした特殊為替銀行でした。
「長崎近代交流史と孫文・梅屋庄吉ミュージアム」を併設し、中国革命の父孫文とその革命を支えた長崎出身の実業家・梅屋庄吉の国境を越えた友情や、国際貿易港であった長崎の歴史等を紹介しています。
7559 岡本安太郎翁之碑(長崎市鍛冶屋町5-87・大音寺)
岡本安太郎 ( 1850年頃生まれ ) は、明治・大正の長崎の港湾に出入りする荷の一切をとりしきっていた、当時、 岡本組には、四、五百人の仲仕が常にいた。
仲仕たちは荒っぽくて博打好き、それではいけないと いうので安太郎は相撲を奨励した 。
岡本組の草相撲というのは有名だった。
ある時、寺町でやくざのケンカがあって、警察も手におえなくなり、岡本家へ人力車が迎えに来た。
安太郎が「お前らは何してるか!」と一喝すると、そのケンカはピタッとやんだ という。
今でも、大音寺幼稚園前には 「岡本安太郎翁の碑」がある。
※ さだまさしの母の祖父 ( さだまさしの母方の曽祖父 )
岡本安太郎も明治時代、長崎港で港湾荷役を取り仕切った「岡本組」の元締。
最盛期には気性の荒い沖仲仕 ( おきなかし ) 500人を束ね、任侠 ( にんきょう ) の大親分として地元で語り継がれている。

7544 吉岡コマ墓(長崎市寺町晧臺寺後山墓地)
清風亭の主。
〇 清風亭址
慶応 3年 ( 1867 ) 1月頃、幕末の志士・坂本龍馬が、土佐藩士・溝渕広之丞と松井周助の斡旋により、土佐藩参政・後藤象二郎と会談を行った「清風亭」という料亭が、この場所にありました。
龍馬と象二郎は仇敵同士でしたが、この会談で意気投合。
以後共同して政治活動にまい進することを約束し、同年 4月には海援隊が成立、10月には大政奉還が実現しました。
このことから、この「清風亭会談」は幕末史上の重要な出来事のひとつに挙げられます。
なおこの会談には、後藤象二郎の計らいで、長崎の芸妓・お元も同席していたといわれています。
お元の名は、大江卓の追憶談「長崎見聞」に龍馬馴染みの芸妓として記されています。
清風亭は、土佐藩士・佐々木高行らの日記にもしばしば登場しており、土佐藩とは関係深い料亭でした。
また、明治初年、大隈重信が長崎から上京する際には、送別の宴が開かれています。
幕末頃には吉岡兵助という人物が主人をつとめ、従来、12畳の部屋と 8畳の部屋が 1室ずつあったといわれますが、同料亭で使用された食器の箱書には吸物膳 40客、小菜皿 100枚とあることから、もっと大きな料亭であったとも考えられます。
長い間、正確な場所は不明でしたが、大光寺 ( 鍛冶屋町 ) の過去長や明治初期の地図などから、平成 21年にこの場所 ( 旧榎津町 65番地、現在の万屋町 5番 11号一帯 ) が特定されました。
『清風亭跡 板碑より抜粋』


7532 荒木宗太郎墓(長崎市鍛冶屋町・大音寺後山墓地)
荒木宗太郎 ( あらき - そうたろう ) ( ? ~ 1636 ) は名を一清 ( いっせい ) といい、通称を惣右衛門と改めた。
肥後熊本の武士であったが、天正 ( てんしょう ) 16年 ( 1588 ) 長崎に移住し現在の飽の浦 ( あくのうら ) 公園の地に壮大な屋敷を構え、※ 朱印船貿易商として活躍した。
荒木船の船旗 ( せんき ) は連合阿蘭陀東印度 ( いんど ) 会社のVOCのマークを逆にした図柄であった。
宗太郎の妻は、王加久戸女 ( わかくとめ ) と称し、交趾 ( こうち ) 国 ( ベトナム ) の王族阮 ( ぐえん ) 氏の娘であった。
長崎の人達は、彼女のことをアニオさんと呼んだが、その豪華な輿入 ( こしい ) れの有様は、現在でも「くんち」の奉納踊 ( ほうのうおどり ) の随所に取り入れられている。
なお、荒木家は 3代・伊太郎好信から 13代・惣八郎春章まで、西築 ( にしつき ) 町の乙名 ( おとな ) を勤めている。
(案内板より)
7529 小曽根英四郎墓(長崎市寺町晧臺寺後山墓地)
人物
長崎の豪商・小曽根六左衛門の四男として生まれる。長兄は小曽根乾堂。
1866年に坂本龍馬と楢崎龍は長崎へ到着した後に出会い、楢崎龍は英四郎のあう別邸に預けられ、ピストルの操作を教わった。
1867年に龍馬と交友を持ち当邸宅に土佐海援隊を設置し支援を行い、大洲藩からチャーターした蒸気船「いろは丸」の会計官として担当した。
生涯独身を貫き、1890年に51歳の生涯を終えた。
参考文献
・文藝春秋増刊くりま「坂本龍馬がゆく」(2010年1月号)[1]
脚注
1. 目次に「『龍馬伝』を楽しむための坂本龍馬入門」に紹介している。
外部リンク
・Golden Cadillac(小曽根英四郎)
7047 二代目・保々誠次郎墓(台東区谷中7-5-24・谷中霊園)
7045 宇都宮徳蔵墓(文京区大塚5-40-1・護国寺)
7043 大倉喜八郎墓(文京区大塚5-40-1・護国寺)
生涯
生い立ち
天保8年(1837年)9月24日、越後国蒲原郡新発田町(現新潟県新発田市)の下町に父・千之助、母・千勢子の三男として生まれる。幼名は鶴吉。23歳の時に尊敬していた祖父の通称・喜八郎から名を取り、喜八郎と改名。
大倉家は喜八郎の高祖父の代より新発田の聖籠山麓の別業村で農業を営むが、曽祖父・宇一郎(初代定七)の時、兄に田地を返し、商いで生計を立てる。祖父・卯一郎(2代目定七)の時に、薬種・砂糖・錦・塩などで大きな利益を得、質店を営み始める。この頃より藩侯への拝謁を許されるようになる。父・千之助(4代目定七)は、天保の大飢饉で米倉を開き窮民に施すなどの経緯から、藩主から検断役を命じられるほどの家柄であったという。自叙伝『大倉鶴彦翁』などでは、"大倉家は累代の大名主で、苗字帯刀を許され、また下座御免[1]の格式ある家柄であった"との旨が記されている[2]。史実として、大倉家が新発田藩の大名主で苗字を名乗れた高い身分であったことは事実とされる[2]。喜八郎は家業を手伝う傍ら、8歳で四書五経を学び、12歳の時から丹羽伯弘の私塾積善堂で漢籍・習字などを学ぶ。この時に陽明学の「知行合一」という行動主義的な規範の影響を受けたといわれる。
嘉永4年(1851年)、丹羽塾同学の白勢三之助の父の行動により、酒屋の営業差止めに追い込まれた事に大変憤慨し、江戸に出ることを決意。同年中に江戸日本橋長谷川町(現日本橋堀留町)の狂歌の師・檜園梅明(ひのきえん・うめあき)を訪ね、檜垣(ひがき)の社中に入る。
鰹節商・乾物商時代
江戸到着後、狂歌仲間の和風亭国吉のもとで塩物商いの手伝いを経たのち、中川鰹節店で丁稚見習いとして奉公した。丁稚時代に安田善次郎と親交を持つようになる。安政4年(1857年)には奉公中に貯めた100両を元手に独立し、乾物店大倉屋を開業。
横浜で黒船を見たことを契機に乾物店を慶応2年(1866年)に廃業し、同年10月に小泉屋鉄砲店に見習いに入る。約4ヶ月間、小泉屋のもとで鉄砲商いを見習い、慶応3年(1867年)に独立し、鉄砲店大倉屋を開業[3]。
鉄砲商時代
神田和泉橋通りに開業した大倉屋は「和泉橋通藤堂門前自身番向大倉屋」と名乗り、小泉屋鉄砲店が出入りする屋敷先とは一切の商売をしないと証文を出した[4]。
店頭には現物を置く資金がなかったため、注文を受けては横浜居留地に出向き百数十度に渡り外商から鉄砲などを購入した。不良銃を高値で売りつける鉄砲商が多かったため、良品を得意先へ早いかつ安い納品を心がけていた大倉屋は厚い信用を博した。そののち官軍御用達となり、明治元年(1868年)には新政府軍の兵器糧食の用達を命じられるまでになった。明治4年(1871年)7月以降は、鉄砲火薬免許商として、諸藩から不要武器の払い下げを受ける。
御用達商人としての活躍
大倉は明治元年(1868年)に有栖川宮熾仁親王御用達となり、奥州征討軍の輜重にあたる。これ以後、明治7年(1874年)の台湾出兵の征討都督府陸軍用達、明治10年(1877年)の西南戦争で征討軍御用達、明治27年(1894年)の日清戦争では陸軍御用達として活躍。日露戦争の際は軍用達となり、朝鮮龍巌浦に大倉組製材所を設立した。
実業家として
明治4年(1871年)3月に新橋駅建設工事の一部を請け負う。同じ頃、高島嘉右衛門らとともに横浜水道会社を設立し、建設工事に着工[5]。同年頃、貿易商社を横浜弁天通に開設し、海外貿易にも携わるようになる。欧米の文物の輸入から服装の一変を予見し、洋服裁縫店を日本橋本町に開設した[6]。
明治5年(1872年)3月には銀座復興建設工事の一部を請け負い、同8年(1875年)に東京会議所の肝煎となる。この時、東京府知事・楠本正隆の要請で渋沢栄一も肝煎となり、以後50年に及ぶ親交を持つ。明治9年(1876年)には大久保利通とロンドンで会見した折に要請・協議した、被服の製造所である内務省所管羅紗製造所(千住製絨所と改称)を設立(払い下げは遅れた)。
明治10年(1877年)の東京商法会議所(現、東京商工会議所)、横浜洋銀取引所(横浜株式取引所)を皮切りに、様々な方面で新規事業の設立に関与した。明治14年(1881年)に鹿鳴館建設工事に着工、藤田伝三郎らとともに発起人となった大阪紡績会社も設立した。明治15年(1882年)3月には日本初の電力会社・東京電燈を矢島作郎、蜂須賀茂韶とともに設立し、宣伝の一環として銀座大倉組商会事務所前で日本初のアーク灯を点火し、驚嘆した市民が毎夜見学に押しかけた。明治20年(1887年)には藤田らと共同して日本土木会社、内外用達会社を設立し、大倉組商会の事業を継承した。同年に帝国ホテルも設立した。この他に東京瓦斯、京都織物会社、日本製茶、東京水道会社などの株主や委員などにも名を連ねるなど、日本の近代化に尽力した。
明治26年(1893年)に大倉土木組(現・大成建設)を設立し、日本土木会社の事業を継承、大倉組商会と内外用達会社を合併するなど、この頃から大倉財閥の片鱗を窺わせ始める。
日本初の私鉄である東京馬車鉄道をはじめ、九州鉄道、山形鉄道、北陸鉄道、成田鉄道、日本国外では台湾鉄道、京釜鉄道、金城鉄道、京仁鉄道など日本国内外で数多くの鉄道企業への参加、出資などを行なった。大倉は教育機関の創設にも熱を入れ、明治32年(1899年)、韓国に善隣商業学校(韓国・現善隣インターネット高等学校)、明治40年(1907年)9月に大阪大倉商業学校(現・関西大倉中学校・高等学校)を創設した。特に明治33年(1900年)、還暦銀婚祝賀式の記念事業として私財50万円を投じて大倉商業学校(現・東京経済大学)を創設したことは米国の雑誌『THE NATION』で美挙と報じられた[7]。
明治39年(1906年)に麦酒三社合同による大日本麦酒株式会社設立に関係し、翌40年(1907年)には日清豆粕製造(現・日清オイリオグループ)、日本皮革(現・ニッピ)、日本化学工業、帝国製麻(現・帝国繊維)、東海紙料(現・東海パルプ)を設立。
明治44年(1911年)に商事・工業・土木部門を営む株式会社大倉組を設立するも17年に大倉工業株式会社、大倉土木組と分離し、大正7年(1918年)には大倉商事株式会社と改称し、大倉組のコンツェルン化を行った。昭和2年(1927年)に日清火災海上保険を買収し、大倉火災海上保険(現・あいおいニッセイ同和損害保険)とするなど晩年まで精力的に活動した。同年1月5日に隠居し[9][10]、嗣子・喜七郎が家督を継承した[9]。
死後
昭和3年(1928年)4月22日大腸癌のため死去[11]、没年92歳。戒名は大倉喜七郎が選定し、大成院殿礼本超邁鶴翁大居士となる。4月28日に赤坂本邸で葬儀が行われ1,000個に及ぶ花環・弔旗が贈られた。墓所は護国寺。政界からは首相・田中義一を始め若槻禮次郎、浜口雄幸、床次竹二郎、清浦奎吾、関屋貞三郎など、実業界からは三井高棟(三井財閥)、岩崎小弥太(三菱財閥)、安田善三郎(安田財閥)、馬越恭平、浅野総一郎(浅野財閥)ら、国外からは張作霖、陳宝琛、段祺瑞、蔣介石などであった。午前9時から行われた告別式では午後3時までに1万1,989名が参列した。朝日新聞や読売新聞内で渋沢栄一、益田孝、武者小路実篤らが大倉について言及した。
人物
日本企業初の海外進出と3度に渡る欧米渡航
・明治5年(1872年)7月4日に民間人としては初の欧米経済事情の視察に出発。サンフランシスコ、ニューヨーク、ワシントン、シカゴ、パリ、ロンドン、ローマ、ウィーンなどを訪れた。欧州滞在中に岩倉使節団と交流し、翌年8月頃帰国した。帰国後の10月に大倉組商会を設立し、自らは頭取となる。その後すぐにロンドンに日本企業初の海外支店・大倉組商会倫敦支店を設置する。日朝修好条規締結後、いち早く朝鮮貿易も始め釜山浦支店も設置。この洋行の通訳として雇った手島鍈次郎はのちに大倉組副頭取になった[12][13]。このときの同船者には松平忠礼、橋本綱常、横井佐平太(横井太平兄)らがいた[14]。
・明治17年(1884年)5月29日から翌18年(1885年)1月7日までの二回目の欧米旅行では、欧米の他、インドにも訪れ、茶箱輸出の展望を得た。
・三度目は明治33年(1900年)5月4日から9月24日の欧米商業視察では妻の徳子、嗣子の喜七郎も同行した。パリ万国博覧会への参加や革命記念祭、ロスチャイルド家からの招待を受けるなどした。
・その後上海、天津、ニューヨーク、台北、メルボルン、シドニーなどにも大倉組商会の支店・出張所を設置した。
趣味
・大倉は狂歌振興の同好会・面白会の結成への参加、「大倉鶴彦」名義で狂歌集を刊行するなど、狂歌の創作に熱心だった。少年の頃より戯れ歌に興味を持った大倉は、父に連れられ14歳の時に大極園柱の門に入り狂歌を学ぶ。和歌廼門鶴彦(わかのと・つるひこ)を称し、江戸に狂歌を投稿し『狂歌甲乙録』に数葉掲載された。その後もことある事に狂歌を詠み、没する14日前の感涙会までその活動は続いた。その数は数万首にも及ぶとされるが、関東大震災で大部分は焼失してしまった。小池藤五郎は「日本文学史上、これほど長期に渡り、作者として立った人物は、他に見当たらない」と、幸田露伴は「まことに心からすきたる水晶の璧にいつわりなく、あとからつけたる付焼刃の地金あやしき風流にはあらず」と評価した。
・美術品収集家としても知られる大倉は明治11年(1878年)ごろから趣味として美術品収集を始め、大正6年(1917年)には邸宅内に日本初の私立美術館大倉集古館開設した。
・狂歌以外にも一中節を趣味とした大倉は「都一鶴」という芸名をもち、「感涙会」では歌われないことはなかったとされる。また蒐集した本阿弥光悦を気に入り、60歳にして本阿弥光悦流の書の手習いを始め、朝4時に起床し7,80枚書くなど練習を重ね、晩年は全国書道大会の委員長を務めた。
・大正15年(1926年)8月に秩父宮雍仁親王が立山を踏破したことに感激し、88歳でカゴと背負子に担がれた「大名登山」で南アルプス赤石岳に登頂する[15]など公私共に豪快な日々を送った。
「大倉邸の美術館」 明治を代表する実業家の一人、大倉喜八郎(1837 - 1928 号は鶴彦、家紋は五階菱)は、産業の振興、貿易の発展に尽力した一方で育英、慈善事業、文化財の保護などにも功績を残した。喜八郎は、50余年に渡って多数の貴重な文化財を蒐集し、当初それらを私邸で知人たちに公開していた。当時の様子は、『風俗画報』(1903年7月10日号)に掲載された、「大倉邸美術館内の圖」(山本松谷画)などによって知ることができる。大正6年(1917) には、私邸の敷地の一角に日本で最初の私立美術館、財団法人大倉集古館を開館させた。鶴と菱形紋が描かれている。
評価
大倉の評価は驚くほどに二分される。「世にもまれな商傑」「日本の近世における大偉人」「すべてを超越した人」「木に例えれば三千四千年を経た大樹」などと絶賛される。
一方で、大久保利通や井上馨らとの親交から「政商」、「死の商人」、「グロテスクな鯰」と酷評された。 毎日新聞で連載された木下尚江の反戦小説『火の柱』で大倉をモデルとした悪徳商人が「戦地に送られた牛肉の缶詰に石が詰まっていた事件」の犯人として描かれたことにより、それが事実として大倉の仕業と人々に信じられてしまった。実際は名古屋丸搭載の軍用缶詰に石ころが混入していた事件は、大連湾での積み下ろしの際に発覚したもので東京の山陽堂の荷物であったという。
詳しいことは、「大倉喜八郎ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%80%89%E5%96%9C%E5%85%AB%E9%83%8E
(wikiより)
大倉喜八郎

7042 野間清治墓(文京区大塚5-40-1・護国寺)
経歴
・1878年 - 群馬県山田郡新宿村(現在の桐生市)の新宿小学校(現在の桐生市立南小学校)教員住宅で生まれる
・1895年 - 木崎尋常小学校(現在の太田市立木崎小学校)の代用教員となる
・1896年 - 群馬県尋常師範学校(現在の群馬大学教育学部)入学
・1902年 - 東京帝国大学文科大学(現在の東京大学文学部)第一臨時教員養成所国語漢文科入学
・1905年 - 沖縄県立中学校(現在の沖縄県立首里高等学校)教諭となる
・1906年 - 沖縄県視学(地方教育行政官)となる
・1907年 - 東京帝国大学法科大学の首席書記に就任
・1910年 - 弁論雑誌「雄辯(雄弁)」を創刊
・1925年 - 雑誌「キング」を創刊。爆発的大ヒットとなる
・1938年 - 10月16日午後1時30分、急性狭心症で死去。法名:威徳院殿文誉義道清秀居士
・2005年 - 全日本剣道連盟剣道殿堂に顕彰される
人物
父の野間好雄は北辰一刀流の剣豪森要蔵の高弟で、母ふゆは森要蔵の長女である。清治も剣道に励んだが、1912年(明治45年)、東京帝国大学での稽古中にアキレス腱を断裂し、修行を断念。その後は剣道家のパトロンとして活動する。屋敷内に野間道場を開設し、持田盛二や中山博道など有名な剣道家を歓待するとともに、講談社の全社員に剣道を奨励するなど全人教育として剣道の普及に努め、「剣道社長」と呼ばれた。
息子の野間恒には尋常小学校卒業後は進学させず、帝王学ともいえる独自の教育を施した。恒は1934年(昭和9年)開催の剣道天覧試合で優勝し、「昭和の大剣士」と謳われた。ただし、恒を勝たせるため、東京予選決勝の対戦相手である甥の森寅雄に養育した恩をたてに詰め寄り、わざと負けさせたと当時から噂があった。現在でも、森寅雄の伝記ではそのように描かれている。
ビジネスにおける倫理の大切さを主張。ビジネスに奔走した自らの経験を踏まえ、「成功への近道とは道徳的な道に他ならない」とし、「修養」(精神をみがき人格を高めること)を積むことの大切さを説いた。
公共心旺盛で、社会貢献に積極的であった。奉仕的理想を抱くことが大切であるとして数々の社会貢献活動を行った。その遺志は現在の講談社にも受け継がれ、講談社野間記念館では、横山大観や鏑木清方の日本画や過去に講談社の雑誌で用いた漫画の原画などを収蔵している。
主な刊行雑誌
・「雄弁」(1910年)
・「面白倶楽部」(1916年)
・「現代」(1920年)
・「婦人倶楽部」(1920年)
・「幼年倶楽部」(1926年)
著書
・『處世の道』 大日本雄辯會講談社(1930年) NDLJP:1037184
・『體驗を語る』 大日本雄辯會講談社(1930年) NDLJP:1443936
・『修養雑話』 大日本雄辯會講談社(1931年) NDLJP:1026740
・『出世之礎』 大日本雄辯會講談社(1931年) NDLJP:1023835
・『喜劇全集』 大日本雄辯會講談社(1931年)
・『榮えゆく道』 大日本雄辯會講談社(1932年) NDLJP:1279475
・『野間清治短話集』 大日本雄辯會講談社(1933年)
・『世間雑話』 大日本雄辯會講談社(1935年) NDLJP:1275017
・『野間清治言志録』 大日本雄辯會講談社(1939年)
編書
・『少年少女教育講談全集』 大日本雄辯會講談社(1930年)
・『武道寶鑑』 大日本雄辯會講談社(1934年)
関連文献
・荒木武行『人物評伝 野間清治論』 全線社書房(1931年)
・関豊作『雑誌王野間清治伝』 新聞解放社(1931年)
・高木義賢編『野間清治言志録』 大日本雄辯會講談社(1939年)
・辻平一『人間野間清治』 講談社(1960年)
・笛木悌治『私の見た野間清治―講談社創始者・その人と語録』 富士見書房(1979年)
・堂本昭彦『中山博道有信館』 島津書房(1993年) ISBN 4882180480
・出川沙美雄『奇蹟の出版王―野間清治とヘンリー・ルース』 河出書房新社(2000年) ISBN 4309904084
・渡部昇一『仕事の達人の哲学―野間清治に学ぶ運命好転の法則』 致知出版社(2003年) ISBN 4884746678
関連項目
・野間三賞 - 野間文芸賞、野間文芸新人賞、野間児童文芸賞
・大宅壮一
・加藤謙一
・木暮剛平
外部リンク
・野間清治顕彰会
(wikiより)
野間清治

7022 白石直治墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)
経歴・人物
土佐藩儒で漢学者の久家種平(忘斎)、峰の長男として土佐国長岡郡十市村(現・高知県南国市十市)に生まれ[5]、1874年(明治7年)白石栄の養嗣子となる[3][4]。13歳の時、土佐藩校・致道館に学ぶ[5]。母の弟・中島信行の影響により勤王論に刺激され、長州に走ったこともあったが、維新後上京し後藤象二郎家に寄寓する[4]。
1881年(明治14年)東京帝国大学工科大学土木学科卒業[2][3][4]。農商務省を経て、東京府勤務となる[2][3][4]。1882年(明治15年)竹内綱の二女・菊と結婚[5]。1883年(明治16年)文部省より海外留学を下命され米国に留学[2][3][4]。橋梁工学の第一人者として知られたレンセラー工科大学のバー(W. H. Burr)教授に師事し、ペンシルベニア鉄道会社、フェニックス橋梁会社などで実務を経験する[6]。さらに欧州へ渡り、英・仏・独の工場を回り[6]、ベルリン工科大学などで学び、1887年(明治20年)帰国[2]。
帰国後、農商務省御用掛、東京府御用掛を経て、東京帝国大学教授となるが、1890年(明治23年)退官[1][2][3][4]。1891年(明治24年)工学博士[4]。実業界入りし、九州鉄道社長、関西鉄道社長、猪苗代水力電気、若松築港、日韓瓦斯電気、日本窒素肥料などの会社重役を歴任[1][2][3][4]。この間、携わった1906年(明治39年)竣工の神戸和田岬の「東京倉庫D号」は、日本初の鉄筋コンクリート造の建物である[4][7][注釈 1]。ほか、当時東洋一の規模を誇った長崎のドライ・ドック(1904年竣工)や若松港などの建設にも関与した[1][4]。
のち、郷里より推されて1912年(明治45年)の第11回衆議院議員総選挙に出馬・当選し、立憲政友会所属の衆議院議員となり(3回当選)、第35回帝国議会では全院委員長に推挙された[1][2][3][4]。その間、義兄の竹内明太郎と共に四国縦貫鉄道の山田・須崎間の鉄道建設に尽力した[5]。その後、1919年(大正8年)土木学会第5代会長となるが、就任後2か月で没した[2][4]。
直治南岳と号し詩を嗜んだ[1]。
著作
・『鉄道国有論』1891年12月14日。
伝記
・『工学博士白石直治伝』工学博士白石直治伝編纂会、1943年。
親族
・実父:久家種平(土佐藩儒、漢学者)[3][8]
・妻:白石菊(衆議院議員・竹内明太郎、内閣総理大臣・吉田茂の末妹)[3]
・子:白石多士良(小松製作所初代社長、白石基礎工事およびパシフィックコンサルタンツ創業者)[2][3][9]
・子:白石宗城(パシフィックコンサルタンツ創業者、新日本窒素肥料社長)[3][9][10]
・孫:白石泰(多士良の長男、白石基礎工事社長)[10]
・孫:白石俊多(多士良の次男、白石基礎工事副社長・会長)[2][3][10]
脚注
注釈
1. 佐世保港の第一烹炊場や潜水器具庫を日本初のRC造の建築物であるとする資料[7]もある。
出典
1. a b c d e f g h デジタル版 日本人名大辞典+Plus(講談社)『白石直治』 - コトバンク
2. a b c d e f g h i j k l 公益社団法人 土木学会 歴代会長紹介、2019年6月6日閲覧。
3. a b c d e f g h i j k l m n o 人事興信所 1915, し30頁.
4. a b c d e f g h i j k l m 20世紀日本人名事典(日外アソシエーツ)『白石 直治』 - コトバンク
5. a b c d e 高知新聞社 1999, 395頁.
6. a b 高橋、藤井 2013, 135頁.
7. a b コンクリートの起源から構造物築造の変遷 Vol.07|コンクリートの色々|ケイコンブログ|ケイコン株式会社、2019年6月6日閲覧。
8. 世界大百科事典 第2版(平凡社)『白石直治』 - コトバンク
9. a b 白石 多士良 | パシフィックコンサルタンツのあゆみ - パシフィックコンサルタンツ株式会社、2019年6月6日閲覧。
10. a b c 竹内明太郎・白石直治 近現代・系図ワールド 近現代・系図ワールド、2019年6月6日閲覧。
参考文献
・人事興信所 『人事興信録 第4版』 人事興信所、1915年。
・『高知県人名事典 新版』 高知新聞社、1999年。ISBN 4875032854。
・高橋裕、藤井肇男 共著 『近代日本土木人物事典: 国土を築いた人々』 鹿島出版会、2013年。ISBN 4306094294。
(wikiより)
白石直治


7015 内田信也墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)
内田 信也(うちだ のぶや、本名:のぶなり、1880年(明治13年)12月6日 - 1971年(昭和46年)1月7日)は日本の実業家、政治家。
山下亀三郎、勝田銀次郎と並ぶ三大船成金の一人。船舶事業で財を成した後、政界にも進出し宮城県知事、鉄道大臣、農商務大臣、農林大臣等を歴任した。実業家の窪田四郎は実兄に当たる。
茨城県士族・内田寛の五男[1]。文芸評論家の村上一郎や、大蔵事務次官や神戸銀行頭取を歴任した石野信一は甥。
来歴・人物
正則中学、麻布中学校を経て、東京高等商業学校(現・一橋大学)卒業。1905年(明治38年)に三井物産へ入社し、社船「愛宕山丸」の事務長などを務めるなど洋上勤務も経験。傭船主任にまで昇進した。
1914年(大正3年)に三井物産を退職、退職金と兄からの借金を元手に神戸で船舶ブローカー「内田信也事務所」を開業、同年12月に内田汽船を設立した[2]。
1917年(大正6年)には横浜市山下町の横浜機械鉄工所を買収、1918年(大正7年)に内田造船所に社名変更した[3]。 第一次世界大戦の影響で造船需要が急激に高まっていたため、短期間で株式配当60割の億万長者となり、山下汽船の山下亀三郎、勝田汽船の勝田銀次郎とともに船成金として実業界にその名を轟かせた。政界とのつながりもこの頃に出来たもので、このルートから不況の予兆をつかんだ内田は、1920年(大正9年)にて自社船を一括売却、内田造船所を大阪鉄工所(現・日立造船)に無償譲渡するなど、事業の大部分を売り抜けることで財産を現金化、戦後不況における没落を免れる。
1924年(大正13年)、政友会公認で第15回総選挙で当選して代議士となる。岡田啓介海軍大臣のもとで海軍政務次官となり岡田と親交を結び、犬養内閣では三土忠造逓信大臣の逓信政務次官として船舶改善助成施設の成立に活躍、岡田内閣で鉄道大臣をつとめた。しかし鈴木喜三郎政友会総裁の反対を押し切って入閣したため、高橋是清・床次竹二郎・山崎達之輔とともに政友会から除名された。のちに政友会から除名された議員や彼らに従って離党した議員らとともに昭和会を結成する。
二・二六事件の直後には内大臣府秘書官長木戸幸一に「株価が下がってしまうからはやく新しい内閣を作ってほしい」と頼み、木戸はこの非常時に株とは商人は言うことが違うと驚いたという。この時期に岡田の他に近衛文麿や宇垣一成らとも深いつながりを持つようになった。
昭和会の解散後、内田は昭和会に所属していた他の議員と国民同盟に所属する議員らとともに院内会派の第一議員倶楽部に所属した。1939年(昭和14年)に政友会が分裂すると、旧昭和会所属議員のうち政友会出身者の大半は中島知久平が総裁となった親軍的な政友会革新同盟(革新派、中島派とも)に合流したが、内田はこれには同調せず、同じく政友会から昭和会結成に参加した守屋栄夫とともに第一議員倶楽部に残留した。
その後宮城県の官選知事を務めたのち、1944年(昭和19年)2月19日に東條内閣の農商務大臣として入閣。その後、貴族院勅選議員に勅任される(1946年3月13日辞任[4])。東條内閣の閣僚ではあったが、戦中はむしろ近衛文麿グループの一員として吉田茂ら早期終戦派と会合を行った。早期終戦のため宇垣一成の首相担ぎ出しも試みるが、宇垣は近衛に不信感を持っていたため失敗した。
戦後は公職追放にあったが、追放解除後の1952年(昭和27年)に再び衆議院議員になる。第5次吉田内閣では農林大臣をつとめ、明治海運取締役会長等を歴任し海運界に重きをなした。1971年(昭和46年)1月7日に90歳で死去。
熱海市指定有形文化財の起雲閣を別邸として建設。1917年(大正6年)、旧制水戸高等学校開校のために、100万円を寄付したことでも知られる。
逸話
東海道本線垂井駅東側の相川橋梁で列車の転覆事故[5][6]にあった際に「おれは神戸の内田だ。金はいくらでも出す、助けてくれ。」と叫んだという話はいかにも成金らしいエピソードとして有名になった(内田本人は実際には『金はいくらでも出す』という部分は言っていないと回想している。『風雪五十年』51頁)。
著書に『風雪五十年』。宗教は禅宗[1]。趣味は運動、柔道[1]。
脚注
1. a b c 猪野三郎監修『第十版 大衆人事録』(昭和9年)ウ四七頁より
2. 第一次大戦期における船成金の出現―内田信也と山下亀三郎―上岡一史、法政大学イノベーション・マネジメント研究センター、2019年8月4日閲覧。
3. 地図から消えた幻の島「山瀬町」がかつて新山下にあった?はまれぽ、2019年8月4日閲覧。
4. 『官報』第5749号、昭和21年3月15日。
5. 実兄は即死。1919年7月31日付大阪毎日新聞(神戸大学附属図書館新聞記事文庫)
6. 事故写真『歴史写真. 大正8年9月號』(国立国会図書館デジタルコレクション)
参考文献
・『新訂 政治家人名事典 明治〜昭和』(2003年、編集・発行 - 日外アソシエーツ、90頁)
関連項目
・士族
・内田信也|近代日本人の肖像 (国立国会図書館) - 肖像写真及び略歴
(wikiより)
内田信也

6895 岡崎久次郎墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)
経歴
神奈川県出身。1895年、高等商業学校(現一橋大学)卒。同期に佐野善作(経済学者)、石井健吾(元第一銀行頭取)など[2]。卒業後三井物産に入り、その後退職して大日本自転車、日米商店(のち日米富士自転車)を創業する。相模鉄道初代社長。
1912年の第11回衆議院議員総選挙に岐阜県から無所属で立候補して当選する。1915年の第12回衆議院議員総選挙では立憲同志会公認で立候補して当選。その後一旦政界から引退し、時をおいて1928年の第16回衆議院議員総選挙で神奈川3区(当時)から立憲民政党公認で立候補して当選し政界に復帰、以降4期務めた。
1940年2月、衆議院本会議で斎藤隆夫が「支那事変処理を中心とした質問演説」(いわゆる反軍演説)をした際に所属していた民政党が斎藤の議員除名に賛成する方針を取ったのに対し岡崎はこれに反対し離党して、決議では反対票を投じた[3]。この時除名反対票を投じたのは岡崎を含めて7名であり[3]、そのうち斎藤の所属政党である民政党に所属していたことがある議員は岡崎以外では1930年に行われた第17回衆議院議員総選挙に民政党公認で立候補して初当選した北浦圭太郎のみであった。なお北浦は1939年に行われた衆議院議員選挙の再選挙に無所属で立候補して2度目の当選を果たす前に民政党を離党しており、反軍演説のときは院内会派の第一議員倶楽部に所属していた[3]。
後に同交会に入り、1942年に死去した。
家族
・弟 岡崎勝男(外務大臣)
脚注
1. 『第拾壱回改選 代議士銘鑑』、国華新聞社、1912年。
2. 「十五 石井健吾/42」人物評論社編『財界巨星二十人伝』 (人物評論社, 1937)(国立国会図書館デジタルコレクション)
3. a b c 『昭和の政党』、364頁。
参考文献
・『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』(衆議院、1990年)
・粟屋憲太郎 著 『文庫版 昭和の歴史 第6巻 昭和の政党』 小学館、1988年11月1日第1版第1刷発行、ISBN 4-09-401106-4
(wikiより)
岡崎久次郎

6877 沖牙太郎墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)
略歴
・1848年5月10日安芸国沼田郡新庄村(現在の広島市西区新庄町)の農家に生まれる[2]。因みに、同日に資生堂創業者の福原有信も産まれている。
・1874年(明治7年)実家の農業を嫌い、27歳で銀細工師の腕だけを頼りに文明開化の東京に飛び出し[3]、工部省電信寮(1877年電信局)で電信技術に携わる。電信寮の同僚に田中大吉、三吉正一ら[4]。
・1877年(明治10年)西南戦争を機に電信事業の必要性が増大すると、政府からの電信機国産化の要請を受けて電信用の電気針や電極器などの製作に努力し、同年米国から渡来した電話機の国産製造実験にも参加[1]。この頃から電信局の三吉ら若手技術者達を糾合し、同局内に電気機械の国産化を試みる研究グループを設立した[1][5]。 狩野タケと結婚[2]。
・1879年(明治12年)電信局に所属のまま、東京・芝西久保桜川町(現在の港区虎ノ門)の長屋で電信局の下請け工場を始め、新製品の研究に没頭[3]。
・1881年(明治14年)電信機・電話機・電線・電鈴等の製造、販売を目的として東京・銀座に日本初の通信機器メーカー「明工舎」(後の沖電気工業)を設立[6][7]、同年、国産第1号電話機を製造[6]。
・1882年(明治15年)松方財政によるインフレーションで一時経営危機に陥るが、陸軍省に納品した軍用携帯印字機と軍用電池が高い評価を受け、政府が打ち出した将来の対清戦争を前提にした軍備拡張計画も相まって受注が増大。東京~横須賀間の海軍専用の電話線を架設し、軍用電話も納入した[3]。また浅草凌雲閣の電話設備を請け負うなど広告戦略も導入し、会社の基礎を確立した[1][5][8]。明治20年前後には、電灯に比べて電話の進歩は遅れていたが、牙太郎の宣伝の上手さもあって電話機において東京では独占的な地位を得る[3]。
・1889年(明治22年)明工舎を沖電機工場と改称。
・1899年(明治32年)逓信省のバックアップで中国に進出し、広東市で電話局開設に乗り出すが、輸出がうまくいかず撤退[3]。
・1904年(明治37年)日露戦争では前線の連絡に沖の携帯電話機が多く使われた[3]。
・1906年(明治39年5月29日)死去。
脚注
1. a b c d 『日本の創業者 近現代起業家人名事典』63-65頁
2. a b 『沖電気100年のあゆみ』
3. a b c d e f #流される18-26頁
4. 港区ゆかりの人物データベースサイト・人物詳細ページ (沖 牙太郎)
5. a b 第2回 起業、そして事業拡大へ|時代とOKI|OKI
6. a b わが国初の通信機器メーカー「明工舎」
7. 最初の197回線 - NTT
8. 沖のあゆみ 電話拡張計画実施でトップメーカーに/WE社との提携交渉
参考文献・ウェブサイト
・『日本の創業者 近現代起業家人名事典』2010年、日外アソシエーツ
・沖牙太郎と 岩垂邦彦―(日本の企業家活動シリーズNo.50) - 法政大学イノベーション・マネジメント研究センター
・小林信彦『流される』文藝春秋、2011年。
関連項目
・岩垂邦彦
・小林信彦
外部リンク
・朝日日本歴史人物事典『沖牙太郎』 - コトバンク
・港区ゆかりの人物データベースサイト・人物詳細ページ (沖 牙太郎)
(wikiより)

6870 御木本幸吉墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)
生涯
誕生
志摩国答志郡鳥羽城下の大里町(現在の三重県鳥羽市鳥羽一丁目)で代々うどんの製造・販売を営む「阿波幸」の長男として生まれた。父は音吉、母はもと。幼名は吉松と名付けられた。父は商売よりも機械類の発明・改良に関心があり、1881年(明治14年)には粉挽き臼の改良により三重県勧業課の表彰を受け賞金100円を授与されている。祖父・吉蔵は「うしろに目があるような人」と言われたように、先が見え商才に恵まれていた。大伝馬船を10艘も持ち石材の運送で儲ける一方、家業のうどん屋のほか薪、炭、青物などの販売を手広く営み財をなしたと伝えられる。幸吉は晩年、「三つ子の魂は祖父に育てられた」と述懐している。正規の教育は受けていないが、明治維新によって失業した士族の栗原勇蔵、岩佐孝四郎らに読み書きソロバン、読書などを習った。
商才と向上心と社交性
早くから1杯8厘のうどんでは身代を築くのは無理と分かっていたようで、14歳で家業の傍ら青物の行商を始める。大きな目標を掲げる事で自分自身に課題を与え自らを鼓舞するところがあり、時として大法螺吹きといわれた。足芸(仰向けに寝て足の平で蛇の目傘を回す芸)の披露で、イギリスの軍艦・シルバー号へ青果や卵を売り込むのに成功した。また、マスコミを利用する点では今で言うやらせにあたるようなことも考え出し、実行するような勇み足もあったともいわれている。
真珠に到る助走路
1876年(明治9年)の地租改正で、納税が米納から金納に変わったのを機会に米が商売の種になるとみて青物商から米穀商に転換。1878年(明治11年)には20歳で家督を相続、御木本幸吉と改名する。同年3月東京、横浜への旅により天然真珠など志摩の特産物が中国人向けの有力な貿易商品になりうることを確信、海産物商人へと再転身した。海産物商人としての幸吉は自らアワビ、天然真珠、ナマコ、伊勢海老、牡蠣、天草、サザエ、ハマグリ、泡盛など種々雑多な商品を扱う一方、志摩物産品評会、志摩国海産物改良組合の結成などに参加、地元の産業振興に尽力した。その後、志摩国海産物改良組合長、三重県勧業諮問委員、三重県商法会議員、などを務め地元の名士になっていた。
時代の転換期に
幸吉の飛躍の始まりは明治維新という時代背景がきっかけである。職業選択の自由、身分を越えた結婚が可能になり富国強兵のスローガンの下で海国日本の殖産興業政策により1882年(明治15年)、大日本水産会が創設された。1881年(明治14年)、結婚。妻・うめは当時17歳。鳥羽藩士族・久米盛蔵の娘で新しい学制の小学校とその高等科をでた才女であり、維新以前ではこの結婚は考えられなかった。1883年(明治16年)、父・音吉が54歳で死去。
アコヤ貝の養殖
世界の装飾品市場では、天然の真珠が高値で取引されており海女が一粒の真珠を採ってくると高額の収入を得られる事から、志摩ばかりでなく全国のアコヤ貝は乱獲により絶滅の危機に瀕していた。この事態を憂慮して1888年(明治21年)6月、第2回全国水産品評会の為上京した折、主催者である大日本水産会の柳楢悦を訪ね指導を仰いだ。幸吉は同年9月11日に貝の養殖を開始したが、真珠を生まない限り商品としての価値が低く経費倒れに終わった。この為発想を転換し「真珠の養殖」を最終目的に変え、その過程でアコヤ貝の生態を調べながら貝の養殖をすることで当初の目的が採算的にも果たされる事を計画。この目的の為に柳の紹介で東京帝国大学の箕作佳吉と当時大学院生だった岸上謙吉を1890年(明治23年)に訪ね、学理的には養殖が可能なことを教えられた。
外国での養殖例
中国で実際行われた方法は乾道3年(1167年)に公刊された『文昌雑録』巻第一にその記述がある。仏像真珠(胡州珍珠)と称されて、浙江省で養殖され続けてきたものである。人工で作った珠を貝の中に入れるという方法で、貝付き真珠、一種の半円真珠である。この仏像真珠に関しては清に滞在したキリスト教の神父B.E.X.アントレコールが1734年にフランス本国に報告している。また、イギリスのD.T.マッゴーワンは1853年にこの方法を詳しくロンドンの芸術協会に報告している。これらの報告によりヨーロッパでは多数の人々が研究実験を行った。
日本では、1881年(明治14年)11月発行の海産論に中国の仏像真珠が図示されていることでもわかるように、ヨーロッパ経由での中国の方法が公知されており、課題は真珠養殖の産業化であった。産業化という国家の要請を背景に、幸吉の情熱と周囲の協力体制での取り組みが結果的に勝っていた事になる。
養殖実験開始
1890年(明治23年)、神明浦と相島(おじま、現在のミキモト真珠島)の2箇所で実験を開始した。この時小川多門、猪野三平等が協力した。問題は山積しておりアコヤ貝についての問題、どんな異物を貝に入れるか、貝は異物を吐き出さないか、貝は異物を何処に入れるか、その結果死なないか、貝そのものの最適な生育環境、赤潮による貝の絶滅への対応策等々である。その他の問題としては、海面及び水面下を利用する為の地元漁業者や漁業組合との交渉や役所との折衝には大変な苦労が伝えられている。
1891年(明治24年)、農商務省技手・山本由方による広島県厳島での真珠養殖実験を直接見聞。この時のアコヤ貝は英虞湾から幸吉らが移送に協力した。
縁者の協力
1893年(明治26年)7月11日、実験中のアコヤ貝の中に半円真珠が付着している貝を発見した。
1896年(明治29年)1月27日、半円真珠の特許(第2670号)取得で世の中に認知された第一歩となった。同年4月21日、妻・うめが32歳で死去。開拓者として当然の事ながら周囲は途方も無い事と感じ直接的に幸吉の作業を手伝う者は身近な親族だけであったが、特許取得をきっかけにまず親族が積極的に関わった。妻の兄であった久米楠太郎、幸吉の次弟・御木本松助夫妻、三弟・森井常蔵夫妻、須藤卯吉、1897年(明治30年)秋には幸吉の五弟・斎藤信吉、1899年(明治32年)には竹内久吉、猪野若造(猪野三平の子息)、藤田嘉助、大谷幸助らが従業員として田徳島(現・多徳島)に移住、「海のものとも山のものともわからぬ事業に一身をかける人間は身内以外にはいなかった」と幸吉の四女・乙竹あいが後に語っている。対して、大林日出雄『御木本幸吉』には「『ヒモのつく恐れのある出資は彼の事業独占を制約することがある』と考えたのではないか」と書かれていて、幸吉が大口出資を断った事実があることを記している。
その他研究には元歯科医だった桑原乙吉、次女みねの夫・西川藤吉が加わる。西川は東京帝大動物学科卒、農商務省に在籍し、箕作の下で真円真珠の科学的研究を行っていたが、1905年(明治38年)の赤潮の調査をきっかけに御木本の元で研究をはじめた。しかし1909年(明治42年)6月、35歳で死去。同時代の研究者に見瀬辰平、西川藤吉の研究を引き継いだ藤田輔世、藤田昌世らがいる。
出店の歩み
・1899年(明治32年)、東京府東京市京橋区弥左衛門町に御木本真珠店(本店)を開設。
・1902年(明治35年)、御木本真珠店を京橋区元数寄屋町に移転。
・1906年(明治39年)、御木本真珠店を京橋区銀座四丁目に移転。
・1907年(明治40年)、市川源次郎専属下請工場を買収し、京橋区築地に御木本金細工工場を開設。
・1908年(明治41年)、御木本金細工工場を東京市麹町区内幸町に移転。
・1913年(大正2年)、ロンドン支店を開設。大阪府大阪市東区淡路町に大阪支店を開設。
・1916年(大正5年)、中国視察にでかけ、上海支店を開設。
・1919年(大正8年)、東京市芝区三田豊岡町に貴金属第二工場を開設。
・1921年(大正10年)、本店横に御木本装身具店を開設。
・1923年(大正12年)、貴金属工場を統合して真珠店工場とする。
・1931年(昭和6年)、ロサンゼルス支店を開設。大阪支店を閉鎖し、兵庫県神戸市神戸区仲町に神戸支店を開設。
・1937年(昭和12年)、ロサンゼルス支店を閉鎖し、サンフランシスコ支店を開設。
・1942年(昭和17年)、内幸町工場を東京市目黒区上目黒に移転。
特許取得
1896年(明治29年)、特許第2670号真珠素質被着法の特許権を取得した。半円真珠の特許といわれているものである。
「真珠と甚だしく等差のない物質、例えば貝殻、硝子、陶磁器または下等の真珠を球形の小粒と成したるものを核となし、これを球のまま、または一部切り落としを設けてその転動することを防ぐようにし食塩にて振揺するか又は濃厚な食塩水に浸したあと、生活せる貝の外套膜に接して挿入し、この核に真珠質を被着せしめ真珠を形成せしむるにあり」(特許第2670号 明治29年1月27日 明治27年11月出願)
この特許取得によって真珠事業の独占が可能となり、御木本は他の事業を整理し、真珠事業に専念することとなった。この後、これにならって真珠養殖を行う者が現れ、幸吉は北村幸一郎他2名を特許侵害で訴えたが大審院で無罪判決が下った。裁判の過程でこの特許の大部分は幸吉が出願した以前から公刊物により周知の事実であったとされた。この無罪判決によって、御木本幸吉の独占の時代が終わり、真珠養殖が大きく広まったとされる。紛争は続いたが特許の存続期間が終了して問題はなくなった。
1916年(大正5年)、特許第3002号真珠素質被着法の特許権を取得。
「本発明は適宜の核を貝の真珠素質分泌細胞組織の皮膜に被包し之を生活せる真珠貝の外套膜の表皮を剖き其部分に密接して圧着し適当時間之を放置したる後海中に放養するときは植皮的に付着発育せしめて容易に真珠袋を形成せしめ核を排出することなく完全なる球形真珠を作り得るにあり。(下略)」(特許第3002号 大正5年9月11日、大正5年5月3日出願)
なお真円真珠についての特許は幸吉の次女の婿である西川藤吉が出願し、相続人である西川真吉が取得したものがある。また桑原乙吉の発明が御木本幸吉名義で出願登録されたものも多い。
御木本幸吉が取得した主要な特許をたどると、
1. 半円真珠から真円真珠に到る特許
2. 特に半円真珠に関わる加工上の特許(容飾真珠)
3. アコヤ貝養殖方法に関する特許(養殖籠・海底いけ籠)
4. 1924年(大正13年)、母貝が子貝を生み育てる為の《仔蟲(しちゅう)被着器》の特許(この発明によって、アコヤ貝の全滅を救う当初の目的が達成されるようになった)
がある。
人々の協力
1896年(明治29年)4月の妻・うめの死は痛手であったが、天性の社交性と熱意により多数の人々が幸吉を応援している。養殖に関して一目置いていたのは、7歳年下の小川小太郎(1865年 - 1889年)であった。小川は早くから真珠の養殖に関心を持ち実験もしていたが、24歳で没した。
志摩国答志郡の郡長であった河原田俊蔵は勧業に熱心だった事から勧業郡長とあだなされ、柳に紹介状を書いてくれた。
四日市の万古焼商人だった親友の川村又助はアコヤ貝の中に入れる核の製造に関し協力を惜しまなかった。藤田四郎(1861年 - 1934年)は同郷で藩校・尚志館の句讀師(漢学者)龍蔵の四男、東京帝大卒、農商務省特許局長で(のち事務次官、日本火災社長、台湾精糖社長)、宮内省御用達となる際の保証人になった。
他にも愛知県出身の農商務省局長・織田一(1865年 - 1914年)、埼玉県深谷出身の財界の重鎮・渋沢栄一は幸吉の渡米にあたって発明王・エジソンらに紹介状を書いた。エジソンとの会見では、真珠養殖を驚嘆すべき発明と讃えられたことに対し幸吉はエジソンを巨星に例え、自分は数ある発明家の星の一つに過ぎないと返答したと伝えられている。土佐出身の森村市左衛門は1875年(明治8年)、森村組を創設し日米貿易協会長、日本銀行監事などを務め、当時対米貿易の第一人者といわれていた。その組織を通じて輸出市場の調査や販売の拠点作りに協力した人など多くが助力した。
詳しいことは、「御木本幸吉ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E6%9C%A8%E6%9C%AC%E5%B9%B8%E5%90%89
(wikiより)
6780 吉永道雄墓(台東区谷中1-2-14・天眼寺)
大正 6年 4月 29日 ~ 昭和 61年9月 6日 ( 1917 - 1986 )
日本で初めてガスライターを製品化した人。
昭和 9年 ( 1934 ) 東京都立工芸卒業。
昭和 13年 ( 1938 ) 家業の機械製作業を継ぎ、のち「吉永商店」を創設。
昭和 23年 ( 1948 ) 8月 31日吉永プリンス株式会社に改組して社長に就任。
東京都喫煙具商業共同組合理事長・日本喫煙具協会長・日本軽工業品団体連合会長を歴任。
昭和 36年 ( 1961 ) オイルライター全盛の時代にガスライターを草加市にある自社工場で完成させた。この時のモデル「プロナ 61」は、プリンスガスライター第1号機として発売された。69歳没。
※ 吉永プリンス ( 株 ) は、ライターを主要商品とした喫煙具の会社であったが、のちに平成 4年 ( 1992 ) ハンドバッグや日用品に商品を拡大し、ヨシナガ ( 株 ) となり、さらに平成 17年 ( 2005 ) スタイル・インデックス株式会社となっている。
台石「吉永家」。「慈眼院殿玄道雄峯大居士」。
























































































































