本牧jack『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

本牧Jackで御座います
小生の拙ブログ『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑に御訪問頂き誠に有難う御座います。
歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。
たまに『 大人数で取材しているのか? 』との質問を戴きますが、小生と相方の二人三脚で御座います。
出来るだけ続けたいと思っていますが 膝・耳に問題が有って、いつまで出来るやら・・・説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。
御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。 ※ 申し訳御座いませんが「画像の転用」は禁止とさせて頂きます。 コメントは原則公開させていただいております 質問等に対してはブログ記事で返信させていただきます 他の方法で連絡を取り合う等一切しません 場合によっては、「IPブロック」しますがブロックした場合解除する事は有りませんので宜しくお願いします。

カテゴリ: 創業者・実業家・商人・株式・会社員・日銀・銀行・鉄道・ホテル関連

生誕1884年2月20日
山口県山口市
死没1964年12月14日(80歳没)
大阪府
国籍日本の旗 日本
出身校慶應義塾大学理財科
職業大阪商工会議所会頭
日本商工会議所副会頭
日本貿易振興機構理事長
団体八木商店社長
受賞正三位
勲一等瑞宝章
藍綬褒章


杉 道助
(すぎ みちすけ、1884年明治17年)2月20日 - 1964年昭和39年)12月14日)は、日本の実業家第二次世界大戦後における大阪関西財界の代表者。曽祖父は吉田松陰の父である杉常道、祖父は松陰の兄の杉民治

八木商店社長となり、大阪商工会議所会頭を23年間務め、日本商工会議所副会頭、新日本放送(現・MBSメディアホールディングス)社長、海外市場調査会(現・日本貿易振興機構(略称:JETRO(ジェトロ)を設立後、理事長となる。鳩山一郎内閣において日ソ交渉全権顧問、日韓会談首席代表として政界にも関与した。 位階は正三位、勲等は勲一等

生涯
生い立ち
山口県山口市に生まれた。父の相次郎は県庁勤めをしていた。郷里の萩市で幼少時代を過ごし、山口師範学校附属小学校(現・山口大学教育学部附属山口小学校)へ、萩から山口の距離は相当あったのにもかかわらず、徒歩で通学した(にわかに信じがたいが、林茂香著「幕末・明治萩城下見聞録(マツノ書店発行)」によれば、著者は山口師範学校在学中に萩から徒歩で通学していたとあり、その行程もくわしく記述がある)。また、鮎川義介が学校の先輩で近所に住んでおり、学校へ一緒に通うなどした。

中学校は前半は山口中学校(現・山口県立山口高等学校)で、後半は萩中学校(現・山口県立萩高等学校)で過ごした。中学時代は自然主義が勃興し、杉も国木田独歩田山花袋などに刺激され、新体詩を制作したり、懸賞文に応募したりしていた。杉は中学を卒業すると、すぐに東京へ行った。まっすぐ大学へ入ろうと考えていなかった杉は、徳富蘆花の「歴史の片影」という著書に影響を受け、南米に憧れを抱いた。東京へ行くと、松陰の吉田家を継いだ従兄の吉田庫三の友人でペルーで開発会社を営んでいた田中貞吉にペルー行きを誘われた。早速、実家へ相談してみたが、話がまとまらないうちに日露戦争が開戦しそうになり、船が出なくなってしまった。

そこで、終戦までの「ツナギ」として大学に通うことになり、慶應義塾大学の補欠試験を受けて入学をした。大学時代は専らスポーツに親しみ、大学野球は自身を「見物選手」と称すほどよく観戦し、応援していた。また、予科を教えていた英国人教師からホッケーのルールを教わり、慶應義塾大学体育会ホッケー部を創設した。杉は後に大阪へ行ってから羽衣女学院(現・羽衣学園中学校・高等学校)にホッケーの道具を寄付し、羽衣はホッケーで全国トップクラスの女学校になった。晩年には日本ホッケー協会の会長にもなっている。

財界で
1909年に慶應義塾大学理財科を卒業し、「久原鉱業所」(後の日産コンツェルン、現・JXTGホールディングス等)に入社した。在学中より三井物産に入りたいと考えていたが、井上馨の側近に久原鉱業所を勧められたため、大阪へ向かう社長の久原房之助新橋駅の待合室で会い、久原鉱業所の東京事務所に雇われることになった。

1910年武藤山治の仲人で、大阪・船場の綿糸問屋・八木商店(現・ヤギ)の創業者・八木与三郎の長女・義と結婚した。翌年には久原鉱業所が大阪に支店を設けることになり、大阪と縁深い杉が行くことになったのだが、武藤にこの話をしたところ「せっかくの大阪なんだから繊維の方をやったらどうか」と言われ、久原の快諾を得た杉は大阪で繊維工業に関わっていくことになる。

最初の仕事は堺市の小さなタオル工場「堺製織所」の整理だった。当時の紡績業界では工場が乱立し、職工の争奪戦が起こるなど気苦労が多かった。メリヤス地の統一を行うなど、品質の均質化にも苦心した。

1912年に浪速紡織(現・ダイワボウホールディングス)が設立され、武藤の肝いりで会社を任されることになった。同年から八木商店にも関わるようになった。1910年1920年代に掛けては大戦景気とその反動の不況で市場は大混乱に陥った。八木商店や浪速紡績なども甚大な損失を被った。繊維業界では「総解合い」が行われ市場が安定したが、債務支払いのために自宅を売り払い、天下茶屋などの借家を転々とした。

1923年には武藤が政界を革新すべく「実業同志会」を結成し、杉も会員となった。同志会は翌年の第15回衆議院議員総選挙に候補を送り、武藤をはじめ12人の当選者を出した。杉も幹事長役をしたが、選挙には門外漢ばかりで選挙活動が選挙違反に引っ掛かり、2ヶ月にわたって拘引されてしまった。杉は判事に諭され、独居房でたくさんの本を読んだ。杉自身は、「この独房生活はわたしにかなりプラスになったと思う」と述懐している。

戦中・戦後の大阪
当時の経済界では営業税の一部を会議所の経費に充てていた。紡績などの大きな企業ほど納める額も多くなる。そこで、会議所の経費抑制に勉めようということで、杉らは1929年大阪商工会議所に入所した。日中戦争が始まると、大阪では軍需産業が興り、会議所も政府の下請機関の機能を負うようになっていった。理財部長や時局対策委員長などを務めた杉は、会頭の安宅弥吉らと「満支視察団」を結成し、満韓支を回った。1941年には副会頭となったが、国策の下、大阪商工会議所は布施の会議所と合併し大阪商工経済会となり、更に政府の下請機関としての色合いが濃くなっていくことになる。また、大阪の繊維統制会社「大阪繊維製品配給」の社長にも就任した。一方で、八木商店では1938年に社長、1941年には会長に就任している。

終戦後の1946年には大阪商工会議所第16代会頭に就任した[1]。またその頃、戦時中の有力企業幹部の公職追放の審査委員会の委員にも選任されている。大阪商工会議所の会長になった杉の下で大阪経済の立て直しが始まった。1953年、「大阪経済振興審議会」が結成され、ひとつの展望と振興策が示された。その結果は1956年に府や市とともに組織した「大阪経済振興連絡協議会」のもとで遂行された。新幹線の新大阪駅の位置を決定、大阪国際空港地下鉄網の整備、阪神高速道路公団の設立促進などの都市基盤整備や重化学工業化などはその成果である。

1950年、大阪初となる民間放送局・「新日本放送」(現・MBSメディアホールディングス)が設立されると、社長となった。また、貿易振興を図るために1951年に「海外市場調査会」(現・日本貿易振興機構)を設立し、理事長となった。他にも、戦争で中止になった大阪国際見本市を実現すべく、1952年に「日本国際見本市委員会」が結成され、杉は委員長となる。見本市は同年開かれ、成功を収めた。1953年における会頭挨拶では、「大阪は経済の中心だとか、貿易産業の中心地だといわれてきたが、いまは名目だけで実質ではない。これをもとの大阪にもどそうではないか。これは単に関西という地域的感情にとらわれていうのではない。大阪の復興が日本の経済発展、国力の回復に寄与するところが大きいと信ずるからだ」と呼びかけた[2]

その一方で、1956年鳩山一郎の日ソ国交回復交渉の全権顧問や、1959年赤間文三の後任として大阪府知事に推挙されるも、辞退している。だが、1961年に第6次日韓会談の政府代表になるなど、1964年に死去するまで精力的に活動を続けた。また、大正3年(1914年)に設立された大阪貿易学院高等学校(現在の学校法人大阪貿易学院・開明中学校・高等学校)の再建に力を注ぎ、昭和25年に理事長・校長に就任した。

1959年藍綬褒章1964年11月には関西財界の生存者として前例の無い勲一等瑞宝章を賜り、同年の死に際しては正三位が与えられた。

墓所は山口県萩市杉家墓地にある。墓には「杉家第八代。生涯松陰を敬慕。『祖先の墓より大きくしない』と遺言を残した」と書かれている[3]

系譜については「杉 道助ウィキペディア」をご覧ください。⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%89%E9%81%93%E5%8A%A9

栄典
藍綬褒章(1959年)
勲一等瑞宝章(1964年)
正三位(1964年)

脚注
1. [https://www.nikkei.com/article/DGXLASHD15H7P_W6A810C1960E00/ “杉道助、貿易振興に尽力 五代友厚の志継ぐ大商(3) 軌跡”]. 日本経済新聞. (2016年8月25日) 2020年2月27日閲覧。
2. 
戦後の大阪経済振興と杉道助   
3. 
『週刊司馬遼太郎Ⅱ』(朝日新聞社、2007年)158頁

参考文献
・『私の履歴書 経済人1』(日本経済新聞社、1970年) - 1956年6月日本経済新聞連載
・『関西財界外史 戦後編』(関西経済連合会、1978年)

関連項目
ヤギ (企業)
井上靖 - 杉道助を小説『あした来る人』の登場人物である梶大助のモデルにした。
阪神間モダニズム
西宮市
香櫨園
大阪
吉田松陰
鳩山一郎
伊丹空港
新大阪駅     

外部リンク
折目允亮著 現代に生きる人間学・第二十八回 「人物論-1」杉道助
大阪商工会議所ホームページ・戦後の大阪商工会議所(1)
文藝春秋ホームページ「本の話連載|大和屋女将の語る昭和のサムライたち」
杉道助の墓 
(wikiより)

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杉 道助

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 雄松院にあった墓石は、大正 12年の関東大震災で失われて現在では過去帳のみが残っているそうです。

過去帳によると茂左衛門は数代あり、何代目の茂左衛門が紀文と競ったかはよくわからないようです。




〇 奈良屋茂左衛門
奈良屋 茂左衛門(ならや もざえもん)は、江戸時代中期の江戸材木商である。

来歴
通称奈良茂(ならも)。姓は神田(かんだ)。4代目勝豊が知られ、勝豊を初代とする数え方もある。奈良屋は寛永年間1624年 - 1644年)以降、代々江戸・深川霊岸島(れいがんじま)に住んだ。


『江戸真砂六十帖』に拠れば、初代勝儀2代目勝実3代目豊勝までの茂左衛門は、裏店住いの車夫ないしは小揚人足などをして言われるが、4代目が大成した後の由緒書きで誇張が含まれるとも指摘される。


4代目勝豊
寛文2年(1662年)? - 正徳4年6月13日1714年7月24日))は、2代目茂左衛門の子。幼名は茂松、あるいは兵助。号は安休。材木問屋の「宇野屋」に奉公し、『江戸真砂六十帖』に拠れば28歳で独立。材木商として明暦の大火日光東照宮の改築、将軍綱吉の寺社造営などを契機に御用商人となり、一代で急成長したという。吉原遊女を身請けするなど、紀伊國屋文左衛門に対抗して放蕩の限りを尽くしたという。その後は材木商を廃業し、家屋敷を買い集めて地代収入を得る。


勝豊の子である5代目広璘元禄8年(1695年) - 享保10年9月3日1725年10月8日))と、分家した弟・勝屋の代に遊興で家産を使い果たし同家の経営は衰退したという。

奈良茂左衛門」を参照

6代目勝屋5代目の兄広璘の没後に跡を継ぎ細々と足袋屋をしていたようだが、それでも1744年(延享元年)には幕府から買米を命じられており、7代目の頃にも江戸町会所で有力商人に揚げられている。子孫は、大正年間1910年代 - 1920年代)まで千住質屋を営んでいたと言われる。

関連項目
奈良茂左衛門

(wikiより)

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 正直どちらの墓石が伴伝兵衛のものかは分かりません。


伴 伝兵衛(ばん でんべい)は、いち早く江戸日本橋に進出した近江商人、屋号は江戸で『近江屋』、八幡で『扇屋』。歴代当主が襲名した名称。伴伝兵衛家は西川甚五郎家・森五郎兵衛家と共に八幡御三家とされる(資料によっては伴伝兵衛に替わり西川庄六家が入るものもある)。

歴代当主[1][2]
・伴太郎左衛門尉資家:近江国甲賀郡(後の伴谷村、現滋賀県甲賀市水口町)の郷士より織田信長に従い天正10年(1582年本能寺において討死。
・伴伝兵衛 (初代)資則:武士を捨て行商を行い、大名屋敷御用を得た。慶長15年(1610年)近江商人の中で最も初期の段階に江戸出店を行った。
伴伝兵衛 (2代):正月名物近江屋の松飾
伴伝兵衛 (7代)御朱印騒動解決に尽力。

脚注
「近江商人」(平瀬光慶著 近江尚商会 1911年)
・「滋賀県百科事典」(滋賀県百科事典刊行会編 大和書房 1984年)

(wikiより)

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 詳しいことは分かりませんでしたが、平岡凞さんのお墓があるので関連しているのかもしれません。

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平岡 凞(ひらおか ひろし、1856年9月17日安政3年8月19日) - 1934年(昭和9年)5月6日)は、日本鉄道技師、野球選手・指導者(監督)、実業家、三味線の東明流の創始者[1]。芸名は平岡吟舟。


日本で最初の野球チーム創設者と言われているほか、日本初の民間鉄道車両メーカーである平岡工場の設立と経営に携わった。

人物

田安徳川家家老の家である[2] 平岡凞一の長男として江戸に生まれる[3]。孫には平岡精二ペギー葉山学生時代」の作詞・作曲などで知られる)、甥・姪には平岡養一シロフォン奏者)、平岡露子フィギュアスケート選手)がいる。1871年(明治4年)アメリカへ自費留学したが[4] 中退して機関車工場に工員として働き、機関車・機械類製造技術のほかベースボールを修得し1876年(明治9年)に帰国した。平岡は工部省鉄道局に入り1886年(明治19年)に四等技師[5] まで昇進するが、独立して1890年(明治23年)匿名組合平岡工場を創業。1894年匿名組合を解散し、個人経営の工場となる。1899年(明治32年)に創業した汽車製造の副社長[6] となるが1901年(明治34年)平岡工場は汽車製造に買収され、汽車製造東京支店になる。


日本の野球の祖とされている[7]。また、日本で初めてカーブを投げた人物とも言われており、アメリカ留学中にそれを習得した[8]。「魔球」と呼ばれ、学生野球の投手たちがその投げ方を教わるために彼の元を訪れたといわれている。


1959年に野球殿堂入り[9]。平岡の功績とその名を後世に伝えるため、2010年から全日本クラブ野球選手権大会 の優勝チームへ「平岡杯」が授与された[10]


また留学中から歌曲と親しみ、帰国後も小唄常磐津清元長唄義太夫などをこなし、踊りの振り付けにも凝った。特に小唄を得意とし、吟舟と号した。また歌舞伎関係者らとすたれていた河東節の再興につとめた[11]。さらに東明流を編み出し、その家元となった。1912年に一切の職から引退すると三味線三昧の生活を送って気前よく散財し、花柳界では「平岡大尽」として知られていた[12]。1934年に亡くなった時は、遺族には生活費以上のものを残さなかったという[2]

新橋アスレチック倶楽部
アメリカから帰国後、平岡は工部省鉄道局技師となり、新橋鉄道局に勤務した。1878年(明治11年)新橋停車場構内に日本初の野球場「保健場」を作り(品川の八ツ山説もある)、アメリカ合衆国スポルディング社から用具の提供を受けたり、ユニフォームを作るなどして、日本初の本格的野球チーム「新橋アスレチック倶楽部」を組織した。同チームではルールブックを毎年アメリカから取り寄せ、当時の最新ルールを用いていたといわれ、日本野球の発展に貢献したが、1888年(明治21年)平岡が鉄道局を退職したため解散となった。

脚注
1. 新選大人名辞典 1938年 平凡社 p.267
2. a b 『SL』NO.4、交友社、1972年、31頁
3. 『人事興信録 2版』(国立国会図書館デジタルコレクション)
4. 「渡米の名士無名士」外務省日誌 明治4年7月12日『新聞集成明治編年史第1巻』(国立国会図書館デジタルコレクション)
5. 『改正官員録 明治20年甲6月』(国立国会図書館デジタルコレクション)
6. 「汽車製造会社設立」東京日日新聞 明治32年7月5日 『新聞集成明治編年史第10巻』(国立国会図書館デジタルコレクション)
7. 「日本野球の元祖」時事新報 明治22年1月15日『新聞集成明治編年史第7巻』(国立国会図書館デジタルコレクション)
8. 佐山和夫『野球の英語A to Z:佐山和夫が語るアメリカ野球用語』三修社、69頁。ISBN 978-4384051773
9. 平岡凞 殿堂入りリスト|公益財団法人野球殿堂博物館
10. 全日本クラブ野球選手権 日本野球連盟(JABA)
11. 「平岡大尽が河東節の尻押」毎日新聞 明治29年5月13日『新聞集成明治編年史第9巻』(国立国会図書館デジタルコレクション)
12. 沢和哉「日本の鉄道こぼれ話」築地書館、208-210頁

関連書籍
・「ベースボールと陸蒸気―日本で初めてカーブを投げた男・平岡 凞」(小学館文庫 ISBN 4094052410/ISBN 978-4094052411)

外部リンク
野球殿堂博物館

港区ゆかりの人物データベース・人物詳細ページ (平岡煕)

「平岡熈(ひろし)と汽車会社と野球の殿堂」 北山敏和の鉄道いまむかし
(wikiより)

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⇧ 平岡 凞

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佐竹音次郎 ( さたけ - おとじろう )
( 1864 - 1940 ) 


明治 - 昭和時代前期の社会事業家。


元治 ( げんじ ) 元年 5月 10日生まれ。


明治 27年神奈川県腰越 ( こしごえ ) 村 ( 鎌倉市 ) に医院を開業し、29年小児保育園を併設。


38年医院を辞め、鎌倉小児保育園を設立し保育事業に専念した。


昭和 15年 8月 16日死去。77歳。

土佐 ( 高知県 ) 出身。済生学舎卒。

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光永 星郎(みつなが ほしお、慶応2年7月26日1866年9月4日〉 - 昭和20年〈1945年2月20日)は、日本実業家日本広告日本電報通信社(後の電通)創業者。貴族院勅選議員。幼名は喜一きいち雅号八火はっか熊本県八代郡野津村(現・氷川町)出身。

生涯

1866年(慶応2年)旧暦7月26日、熊本県八代郡野津村(現・氷川町)生。幼名は喜一。


宮原町寺子屋に通い、野津小学校(のちの東光寺小学校)、小川町(現・宇城市)にあった大槻英輿の漢学塾である菁莪堂で学ぶ。1880年(明治13年)、共立学舎入学。徳富一敬蘇峰の父)に学ぶが中途退学。当時高揚していた藩閥打倒運動に共鳴したためとみられる。


その後、陸軍士官学校予備門育雄校に入り、軍人を志すが、瘭疽のため右脚の自由を失った。

軍人になる道を閉ざされた光永は政治家を志し、自由党の政治家らと共に政府批判を展開したが、1887年(明治20年)に保安条例違反により、東京から3以内に入ることを禁じられた。このとき、尾崎行雄星亨中江兆民らが同様に追放処分を受けている。


のち、めさまし新聞福岡日日新聞などに寄稿するようになり、日清戦争時には従軍記者として中国に向かう。この時、通信手段の不備が原因でせっかく書いた記事の掲載が大幅に遅れた経験から、正確で迅速なニュース報道の必要性を感じ、新聞社にニュースを供給する通信社の設立を構想するようになる。しかし、通信業単独では採算がとれそうもないことから、広告代理店を設立し、新聞社から得る通信料と新聞社に支払う広告料を相殺することを思い立つ。光永の採ったこの方式は、近代的通信社の先駆であるフランスアヴァスと同様の発想に基づいていた。


通信業を興すには莫大な先行投資を要することから、光永は広告代理店を先に設立した。しかし、10万円としていた資本金のうち、実際に調達できたのは5000円に過ぎなかった。


1901年
(明治34年)7月1日、光永は現在の銀座4丁目に新聞社に広告を取り次ぐ「日本広告株式会社」を創立した。社員8名の小さな会社で、2階建ての借家からはじめ、1階の6畳と2畳が事務所、2階の4畳半と6畳が創業者光永の住居だった[1]


起業したばかりの広告会社が大手に対抗するため、光永は3つの戦略を立てた。第1が「利率の低廉」手数料を他社より安くすること。第2は「取引の公明化」入札時に談合入札を拒否するなど、広告取引の透明化を図ること。第3は「設備の完全化」意匠図案サービスの無料提供や調査情報サービスの提供により広告主への支援サービスを充実させること。従前の広告代理業の常識を変えるこうした戦略により、日本広告の企業基盤はしだいに固められていった。


株式会社日本広告創立から4カ月後の1901年11月、光永は個人経営の形で「電報通信社」を設立し、念願であった通信業を開始する。


電報通信社を創業して5年目通信業と広告代理業の一体経営化を決定。1906年(明治39年)12月27日、「株式会社日本電報通信社」(以下電通)を設立し、「電報通信社」と「日本広告(株)」を合併し、本格的な電通の併営体制を開始した。


1907年には、アメリカ合衆国で創業したばかりのUP(United Press Association、現在のUPI)と通信契約を締結した。


1914年
(大正3年)7月28日、第一次世界大戦が勃発すると、大戦報道で電通は顕著な成果を上げ、通信社電通の声価を高めた。また、戦時の好景気を背景に、広告の主力媒体である新聞の発行部数も増大し、電通の営業成績は急上昇を辿っていった。


しかし、1931年昭和6年)の満州事変が起こると、国内の情報通信機関を一元化するため、電通と競合していた新聞聯合社との合併を図る動きが浮上した。光永は強硬に反発したが、かなわず、両者の統合方針が決定された。1933年(昭和8年)12月5日、貴族院勅選議員に任じられ死去するまで在任[2]1936年(昭和11年)、新聞聯合社の後身「同盟通信社」が誕生すると、電通は通信部を同盟通信社に譲渡し、以後、電通は広告専門業者として再出発した。


戦時下の広告界は苦難の道を歩むが、光永は戦後の繁栄を見ることなく、1945年(昭和20年)2月20日死去。享年78。


埋葬地は熊本県氷川町桜ケ丘公園。没後の1970年(昭和45年)、熊本県の近代文化功労者として顕彰された。また、1973年(昭和48年)には記念事業として光永の雅号を冠した八火図書館が氷川町に開かれた。

その他
テレビ熊本は2014年10月26日、「郷土の偉人」シリーズの第22弾として「広告の先駆者・光永星郎」のドキュメンタリードラマを放送した。[3]

・光永が始めた行事として、毎年7月に実施する富士登山がある。社長以下全社員が富士山に登り、山頂の郵便局から暑中見舞い葉書を顧客に送る。現在の電通でも連綿と続けられている、恒例行事である。

脚注
1.  株式会社電通 創業者 光永星郎”. 野村ホールディングス日本経済新聞社. 2003年3月31日閲覧。
2. 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、43頁、52頁。
3. 電通の創業者をドラマ化「広告の先駆者・光永星郎」”. 電通. 2014年10月24日閲覧。

関連図書
・『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。

熊本日日新聞社編纂『九州人国記』熊本日日新聞社、1966

八代郡竜北村史編纂委員会編纂『竜北村史』竜北村役場、1973

・熊本日日新聞社編纂『熊本県大百科事典』熊本日日新聞社、1982

田原総一朗『電通』朝日文庫、1984

・熊本教育振興会『肥後の人物ものがたり』熊本教育振興会事務局、1988

日外アソシエーツ『熊本県人物・人材情報リスト、2007』

関連項目
古野伊之助

岩永裕吉

里見甫

外部リンク
電通百年の歩み

近代の熊本を創った人々(熊本県ホームページ内)
(wikiより)

0026 光永星郎

⇧ 光永星郎

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ピジョン株式会社創業者。

仲田祐一
・1910年 誕生
・1926年 近藤忠商店入社
・1936年 幾久屋百貨店入社
・1951年 ドウフ貿易常務
・1952年 ドウフ貿易社長
・1957年 ピジョン哺乳器本舗社長
・1966年 ピジョン社長
・1983年 ピジョン会長
  
父:仲田祐治
母:千春
妻:ヒテコ
・長男:仲田洋一
・長女:仲田祐子(★ピジョン専務 坂本健の妻)
・二女:仲田紘子(★ピジョン常務 手塚克麿の妻)
・三女:仲田孝子(興商代表取締役 西城真人の妻)
・四女:仲田美晴(★ピジョン常務 水之江浩之の妻、水之江殿之の長男)

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ホテル ニューグランドは、神奈川県横浜市中区山下町に在するホテル、及びその運営企業(株式会社ホテル、ニューグランド)である。プリファード・ホテル・グループに加盟し、JR東日本ホテルズ準会員である。

概要

通称山下公園通りを挟んで山下公園の真向かいに位置し、横浜中華街へ通じる横道沿い一区画を占める。横浜における主要なランドマークの一つである。


横浜市は関東大震災で壊滅的な打撃を受け、復興にあたって当時の横浜市長有吉忠一の提案により、横浜市在住の有力者を集めた「横浜市復興会」を結成。そこで決議された「外人ホテル建設の件」が、ホテルニューグランド建設の端緒となった。名称は公募によって集められたが、関東大震災で倒壊して廃業した外国ホテル「グランドホテル」の後継館として訪日客に謳う狙いで選ばれたとも、公募の中に適当な名称がなかったため横浜市復興会計画部長の井坂孝が命名したという説もあり、定かではない。


こうしてニューグランドは、横浜市復興計画の一環として官民一体となって建設が進められ、当初は今日の第三セクターとして発足した。現在の本館は、1927年創業時に渡辺仁の設計で建築され、クラシックホテルの代表例として名高い。1930年代は、ルーフガーデンで大桟橋など横浜港を見ながら食事ができた。ロビーの大階段の先には川島織物製のタペストリーがかかり、高さ6メートルのマホガニーの柱は現在も残る。洋風の豪華な造りである一方で和風の意匠も取り入れられ、メインダイニングでは御簾の奥で雅楽が奏された[2]


初代会長には先の井坂孝が就任し、井坂は東洋汽船出身であったことから、ホテルの主要業務であるサービス・宿泊・飲食に関する知識に明るく、さらに当時東洋汽船サンフランシスコ支店長であった土井慶吉を自分の補佐として呼んだ。土井は総支配人としてパリからアルフォンゾ・デュナンを招聘。新生ホテルの目玉として「最新式設備とフレンチ・スタイルの料理」をキャッチフレーズレストランへ特に力を注ぎ、総料理長には、先のアルフォンゾ・デュナンの紹介で、パリのホテルからスイスコックサリー・ワイルを据え、さらに元帝国ホテル第4代総料理長の内海藤太郎をその補佐につけた。


ニューグランドの厨房からはドリアナポリタンプリンアラモードなど後に広く知られる料理が生まれた[3]。また、ホテルオークラ初代総料理長となる小野正吉や、プリンスホテルグループ総料理長となる木沢武雄、霞が関飯野ビル「キャッスル」の荒田勇作銀座5丁目「コックドール」の林久次ロイヤル中洲本店前川卯一[4]など数々の名店の料理長を輩出し、日本の食文化に多大な影響を与えた。


開業当時から、皇族イギリス王族などの賓客や、喜劇王チャーリー・チャップリン、米国の野球選手ベーブ・ルースなど著名人も多数来訪し、ダグラス・マッカーサー1937年に新婚旅行の帰路と1945年SCAPとして来日直後[5]にそれぞれ滞在している。日本が第二次世界大戦に敗れた後の7年間は、マッカーサーが率いる占領軍将校宿舎として接収され[6][7]、戦前の錚々たる宿泊者を記したゲストブックが持ち去られた[2]。なお、マッカーサーが当時宿泊していた315号室は「マッカーサーズスイート」として一般客も宿泊できる。

その独特のクラシカルな雰囲気から、『RAMPO』『ツナグ』など邦画ロケーション撮影にも多用されている。

沿革
1926年大正15年)7月 - 「株式会社ホテル、ニューグランド」を設立する。幕末に開設されたフランス海軍病院跡を敷地とする。

1927年昭和2年)12月1日 - ホテルニューグランドを開業する。

1963年(昭和38年)2月 - 株式を店頭公開する。

1991年平成3年) - 18階建て(高さ73m)のニューグランドタワーを開業する。

2003年(平成15年)3月 - 東日本旅客鉄道(JR東日本)が株式の一部を取得。

2004年(平成16年)- JR東日本と業務及び資本提携を締結。JR東日本ホテルチェーンにアソシエイトホテルとして加盟。全面リニューアルオープンする。

2011年(平成23年)4月1日 - プリファード・ホテル・グループに加盟する。

施設概要

本館 (地上5階)
 スイートルーム3室含む全49室 (3階 - 4階)
  ・レストラン&バー
   ・イタリアン レストラン“イル・ジャルディーノ”
   ・京料理“たん熊北店”
   ・コーヒーハウス“ザ・カフェ”
   ・ロビーラウンジ“ラ・テラス”
   ・バー“シーガーディアンII”


ニューグランドタワー (地上18階・地下5階)
 全202室 (6階 - 17階)
  ・レストラン
   ・パノラミックレストラン“ル・ノルマンディ”
 エグゼクティブフロア (15階 - 17階)
   ・エグゼクティブラウンジ「ザ・クラブ」 (16階)
    (エグゼクティブフロア宿泊者専用)

アクセス
横浜高速鉄道みなとみらい線元町・中華街駅一番出口より徒歩1分(渋谷駅から東急東横線相互直通運転

・JR根岸線石川町駅より徒歩15分

横浜市営バス京浜急行バス山下公園前下車すぐ

JR東日本及びJRグループとの関連

2004年3月、東日本旅客鉄道が業務提携により株式の2.9%を取得する。同年4月以降、直営以外唯一の準会員としてJR東日本ホテルズ加盟となり[8]ビューカード利用者向け「ホテルズ利用特典」提供ならびにTYOなどびゅう国内旅行商品として取り扱われている。準会員であるため、JR東日本ホテルズWebサイトでの予約は受け付けず、JRホテルグループにも属さずJRホテルグループ施設要覧などに掲載はない。北海道旅客鉄道(JR北海道)「ツインクルプラザ」商品の首都圏フリープランパッケージツアーパンフレットでは「JRホテルグループ」として扱われている。JR東日本は自社運営ホテルを横浜市内に長らく展開していなかった[注 1]


JR東日本ホテルズの会員制度である「EASTYLE MEMBERS」についても、2015年12月1日付でようやく加盟し、以降は、当館でも同会員制度の特典が受けられるようになった。

雑記
・運営会社「株式会社ホテル、ニューグランド」は商号に「、(読点)」が入る、稀有な名前を持つ[9]
・ニューグランドタワー屋上に、テレビ朝日情報カメラが設置されている。
1988年矢沢永吉シングル『ニューグランドホテル』をリリースしている。シングル、アルバムを含め演奏場所以外に矢沢が具体的建物を題名とした、唯一の作品である。[要出典]
サザンオールスターズのシングル『LOVE AFFAIR 〜秘密のデート』の歌詞に当ホテルのバー「シーガーディアン」が登場する。
東京事変のミニアルバム『color bars』に収録される「今夜はから騒ぎ」のPVは当ホテルで撮影された。
・当地以外の同名あるいは類似名称の宿泊施設とは一切無関係である。たとえば、以下が挙げられる:
  ・東京都八王子市大和田町の八王子ホテルニューグランド(サンルートホテルチェーン提携。以前は“八王子”を省いた看板などが使われていた)。
  ・愛知県名古屋市中村区の「名鉄ニューグランドホテル」(名鉄グループ
・2013年、本館および横浜そごうのバーで、メニューと実際に提供される食材が異なっていたことが判明した[注 2]。これについて総務人事部の見解は「酒中心の店で認識が甘くなった」ためであると謝罪した[10][11][12]
太平洋戦争開戦時の外務次官であった西春彦は夫人の実家がニューグランドだった縁もあり、戦後、横浜市復興会副会長を務めていたが、退官後に入社。後に会長となった。

脚注
注釈
1. 2008年JR東海系「ホテルアソシア新横浜ターミナル」が開業してグループに加盟し、2010年10月、鶴見駅近くに「ホテルメッツ横浜鶴見」を開業している。
2. 
本館の「シーガーディアンII」および横浜そごうの「シーガーディアンIII」において、バナメイエビを「芝海老」、また加熱処理された冷凍ジュースを「フレッシュ」としていた。なお、2013年は阪急阪神ホテルズの各ホテルを皮切りに各地で類似の偽装が発覚した。

出典
1. a b c d e f g h i j k 株式会社ホテル、ニューグランド (2020-02-27). 第142期(2018年12月1日 - 2019年11月30日)有価証券報告書 (Report). 
2. a b 「クラシックホテル 1930年代のインバウンドとともに」『日本経済新聞』朝刊2019年6月23日(NIKKEI The STYLE)。
3. ホテルニューグランド ザ・カフェ”. 2013年10月18日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2013年11月7日閲覧。
4. 梅谷羊次 『ファミレスは進化する!』 商業界、2010年、14頁。ISBN 9784785503901 
5. アメリカ占領下の日本 第2巻 最高司令官マッカーサー 企画・制作:ウォークプロモーション
6. かながわの米軍施設-横浜地区編 CityOfYokohama
7. 横浜市と米軍基地 CityOfYokohama 
8. “ホテルニューグランドとの業務提携開始について” (プレスリリース), 東日本旅客鉄道, (2003年11月11日), https://www.jreast.co.jp/press/2003_2/20031104.pdf 2017年7月14日閲覧。 
9. ホテルニューグランドの社名に「、」が入る理由とは?”. はまれぽ.com (2019年11月7日). 2020年7月5日閲覧。
10. “ホテルニューグランドとベイシェラトン 偽装、横浜の名門も”. 朝日新聞: 神奈川版. (2013年11月7日) 
11. “横浜のホテルニューグランドでも不適切表記 「バナメイエビ」を「芝海老」”. MSN産経ニュース. (2013年11月6日). http://sankei.jp.msn.com/region/news/131106/kng13110618370004-n1.htm 2013年11月7日閲覧。 
12. バー シーガーディアンIIおよびIIIにおける表記についてお知らせとお詫び”. ホテル、ニューグランド (2013年11月6日). 2013年11月10日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2013年11月11日閲覧。

参考文献
・高橋清一『横浜流―すべてはここから始まった』 東京新聞出版局、2005年。ISBN 4808308347

・白土秀次『ホテルニューグランド50年史』 中央公論事業出版、1977年。

関連項目
クラシックホテル - 当ホテルと他の5つの老舗ホテルで「クラシックホテルの仲間たち」というグループを結成し、共同での広報活動を行っている。

外部リンク
公式ウェブサイト
(wikiより)


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⇧⇩ Sea Guardian Ⅱ

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⇧ 中庭



鈴木 正雄(すずき まさお、1932年9月18日[1] - )は、日本の実業家。ソープランド32軒や宝石店やボクシングジム、不動産会社、バスタオル洗濯会社などを擁する[2]角海老グループの創業者・経営者で「ソープの帝王」と呼ばれる[3]

来歴・人物

富裕な家具屋と妾の間に生まれ、山田家の養子となる[4]東京府東京市金曾木国民学校(現・台東区立金曾木小学校)を経て、1945年4月、旧制開成中学校(現・開成高等学校)に入学[5]。同年5月、山形県に疎開し、旧制山形中学校(現・山形県立山形東高等学校)に転入[6]


第二次世界大戦
後、東京に戻るが、実家と養家の没落に伴い実母のもとに戻り、困窮生活を送り、アルバイトをしながら旧制開成中学校に3年間学ぶ[7]。さらに、便所掃除や人力車の車夫の仕事をしつつ、1948年から新制巣鴨商業高等学校に学ぶが、1950年6月に中退する[7]。母が浅草花柳界にいた縁から、自らも吉原輪タクの経営を始め、さらに女郎屋「あけぼの二号店」を開く[8]。のち、車夫時代から出入りしていた老舗遊郭「角海老」の名を継いで今日に至る[9]


売春防止法
違反などで10回の逮捕歴を持ち、脱税容疑で国税庁の査察を受けること2回[10]。3回の執行猶予付き有罪判決を受けたが、実刑判決を受けたことはない[11]。外国から来日した賓客や随伴の官吏の接待に売春を斡旋していた関係から政財界や官界にパイプを持ち、特に内閣総理大臣田中角栄[12]大平正芳[12]最高裁判所長官石田和外[13]三井銀行会長の小山五郎[14]検事総長井本臺吉[15]京王閣社長の遠藤士一[16]本田技研工業社長の本田宗一郎[17] と昵懇で、石田のことは「第三の親父」[18]、遠藤のことは「わたしには人生で『親父』と呼んだ人が三人ほどおりますが、そのうちの一人が遠藤さん」[19] というほどの関係であった。


このため、「わたしは警視庁に十回逮捕されているにもかかわらず、刑務所には一度も収監されていないのは、このことが理由の一つかもしれません」とも述べている[20]


1977年
度の個人所得が東京都荒川区長者番付で第2位(国家公務員の初任給が8万8000円の時代に1億4992万円)となったこともある[21]


在日朝鮮人
と言われることもあるが、これは同姓同名の恐喝犯と混同した誤伝であると鈴木当人は主張している[22]


また鈴木は、角海老宝石ボクシングジムを開設し、ジムオーナーとして 小林光二(元WBCフライ級王者)、 イーグル・デーン・ジュンラパン(イーグル京和、元WBCミニマム級王者)、小堀佑介(元WBAライト級王者)を始め、坂本博之榎洋之など数々の名ボクサーを育成しているとされているが、本人にボクシング経験はなくトレーナーライセンスも取得していない。

脚注
1. 『公衆トイレと人生は後ろを向いたらやり直し』p.49。
2. 『公衆トイレと人生は後ろを向いたらやり直し』p.267。
3. 『公衆トイレと人生は後ろを向いたらやり直し』p.3。
4. 『公衆トイレと人生は後ろを向いたらやり直し』p.52-53。
5. 『公衆トイレと人生は後ろを向いたらやり直し』p.55。
6. 『公衆トイレと人生は後ろを向いたらやり直し』p.57。
7. a b 『公衆トイレと人生は後ろを向いたらやり直し』p.66。
8. 『公衆トイレと人生は後ろを向いたらやり直し』p.79。
9. 『公衆トイレと人生は後ろを向いたらやり直し』p.84。
10. 『公衆トイレと人生は後ろを向いたらやり直し』p.109。
11. 『公衆トイレと人生は後ろを向いたらやり直し』p.82。
12. a b 『公衆トイレと人生は後ろを向いたらやり直し』p.90-96。
13. 『公衆トイレと人生は後ろを向いたらやり直し』p.107-108, 166-169。
14. 『公衆トイレと人生は後ろを向いたらやり直し』p.148-149。
15. 『公衆トイレと人生は後ろを向いたらやり直し』p.157。
16. 『公衆トイレと人生は後ろを向いたらやり直し』p.173-176。
17. 『公衆トイレと人生は後ろを向いたらやり直し』p.178-180。
18. 『公衆トイレと人生は後ろを向いたらやり直し』p.168。
19. 『公衆トイレと人生は後ろを向いたらやり直し』p.173。
20. 『公衆トイレと人生は後ろを向いたらやり直し』p.95。
21. 『公衆トイレと人生は後ろを向いたらやり直し』p.24。
22. 『公衆トイレと人生は後ろを向いたらやり直し』p.31。

参考文献
木谷恭介『公衆トイレと人生は後ろを向いたらやり直し』(光文社、2012年)
(wikiより)

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芝山 兼太郎(しばやま けんたろう、1873年明治6年〉7月18日[1] - 1929年昭和4年〉11月14日)は、日本美容家。日本の美顔術(女性の顔の美しさを保つことを目的としたマッサージ[2])の始祖とされ[2]神奈川県横浜市で日本初の美容室を開店したとされる人物である[3]。横浜理容界の草分けの1人ともいわれる[4]。長女は日本で初めてエステティックサロンを開業した人物とされる芝山みよかであり、芝山の習得した美顔術は、みよかにも大きな影響を与えている[5][6]

経歴
誕生 - 理容師修行

肥後国熊本藩に誕生した[1][2]。幼少時に神奈川の庄屋の養子となり[* 1]、13歳のとき、遠縁の理髪店に勤めた。

間もなくその店の規模の小ささに見切りをつけて、横浜外国人居留地に夢を託した[2]。横浜は、日本で最初の西洋式の理髪店が開店したこともあり、当時は日本国外の客を相手にする理容師が多く存在していた[2]


芝山は横浜で名を馳せる理容師の中の1人、松本定吉に弟子入りした[7]。松本は当時の理容師の中でも最も名声があり、「かみそり定」の異名で呼ばれていた。その剃刀の腕前は、後年「なめらかに削った竹のヘラで頬をなでるように剃刀を使い、いつの間にか客を眠らせるほどの名人上手」と伝えられている[2][8]


芝山は松本のもとに勤め、本格的に理容師の修行を始めた。早朝から深夜まで雑用は続き、毎晩250本ものタオルを手で洗った。冬季は辛い作業であった。芝山は激務に耐えつつ、ふけ取り、剃刀の研ぎ方など、理髪の初歩的な技術を一つ一つ、懸命に学んだ。深夜は密かに、自分の膝を客の顔に見立てて、剃刀を練習していた。そのためにいつも、膝から血を流していた[2][9]


松本は芝山の器用さと熱心さを見込み、外国人居留地でフランス人が営む理髪店に修行に出した。芝山はこの店で、ドイツゾーリンゲン製の剃刀の技術を学んだ。ゾーリンゲン製の剃刀の切れ味は日本製を上回り、芝山はその性能に魅了された[10]。後に芝山は「外人屋敷の理容師」に昇格し、単独での客回りが可能となった[2]

独立・開業
21歳のとき、日清戦争で応召したが、満州での戦闘で負傷し、後送された[11]。その後は再び松本の店で働いた後、22歳で独立し、1895年(明治28年)に横浜市中区山下町に理容店「日之出軒」を開業した[12]。日之出軒は大いに繁盛し、当時の新聞に「横浜名物は伊勢佐木町の吉野志る粉に山下町の日之出軒」と記事が載るほどであった[13][14]

1897年(明治30年)、日本国外の客を専門とする「パレス・トイレット・サロン・シバヤマ」を、山下町に開業した[12]。店には、先述のフランス人理容師から帰国前に譲り受けた、全高3.6メートル以上の巨大な鏡を設置して、その前には大理石の豪華な前流しを5台も設け、客たちを驚かせた[13][15]。芝山の他、ベテラン店員が5人勤めており、後に北海道で「女床」の名で知られる宍戸いく(後の北海道美容環衛組合初代理事長)もいた[6]。店の理髪部に隣接して、日本国外の女性客を対象とした婦人部もあり、人気を呼んだ。これが日本での美容室の始まりとされる[13][15]


日露戦争
でも戦争に参加させられたが、ここでも国外での戦争で負傷し、帰国して間もなく除隊した[13][16]

美顔術の習得

1905年(明治38年)、アメリカの医師であるW・キャンブルーが芝山の店を訪ね、自ら研究している血行療法主体のマッサージ法を教え、それを学ぶことを勧めた。教授料は高額であったが、芝山は日本国外の新技術に強い興味を持っていたことから、それを教わることを決心した[12][18]。マンツーマンでの教育により、2日間でマッサージ法のほとんどを習得した[19][20]


芝山はこの技術を広めるために、講習会を開催した。講習生が「この技術を何と呼ぶか」と問い、芝山が「英語では単にフェーシャル(facial)、正確にはキャンブルー式フェイス・マッサージ」と答えたところ、「名前が長い」「難しい」との意見が多発した。講習生の一人、後に「天皇の理髪師」として知られる大場秀吉が、「顔を美しくする」との意味で、日本語での「顔美術(がんびじゅつ)」の名を提案したところ、芝山は語呂が良くないとして「美顔術」と命名した[21][* 2]。また他のキャンブルーのマッサージ用語も、「軽擦法」「振動法」「圧迫法」などと日本語訳した[19]


1906年(明治39年)、それまであまり顧みられることのなかった衛生知識の普及や、技術向上を目的として、理髪業界の初の組織である「大日本美髪会」が誕生した。芝山は大場秀吉の勧めもあって、この会に参加し、講習部長として日本全国を回った[15]。苦心して学んだ技術を、わずかの講習料で教えることを咎める声もあったが、芝山は業界利益全体の発展を願い、反対の声を退けて、技術も知識も出し惜しみすることは無かった[19]


1912年大正元年)、美顔術研究の成果の集大成として『実用美容術指針 一名学理的化粧法』を刊行した[12]。図解は、芸術的才能に恵まれた次男が担当した。モデルを務めた2人の女性は、後の日本ヘアデザイン協会名誉会員となる坪内弘江と、横浜の芝山美容学校の生徒となる吉田美津枝であり、共に関西美容界を後に牽引する人物であった。『実用美容術指針』は美顔術研究者のバイブル[19]、古典的名書ともいわれ[22]1929年(昭和4年)までに7刷を重ねた。芝山みよかの著書『正則美顔術』の基盤にもなった[19]

震災からの復興

1923年(大正12年)9月、関東大震災が発生した。芝山とみよかは北海道での講習中のために難を逃れたが、横浜の家も店も跡形なく焼失した[23][24]


県外の地方在住の弟子たち、受講生たちからは、多くの見舞金が送られてきた。芝山はそれを復興資金として、同1923年、横浜市中区相生町に、日本人を対象とした「芝山理容院」を再建し[25]、山下町には日本国外の客を対象とした店を再建した[24]。この営業再開の迅速さは、後々まで語り草となった[23]。一番弟子である大島款太郎(後の日本ヘアデザイン協会名誉会員)は、1年間無給で働くことを申し出て、芝山を感激させた[24]

後進の育成

関東地方や横浜が次第に復興した後、芝山は相生町の店を門弟に一任し、中区住吉町に理容室と美容室を開業した。さらに私塾「東洋美容学校」を併設して、理容業と共に美容教育に乗り出した[23][15]。やがて震災後に洋髪が流行し、生徒の増大により学校が手狭になったため、拡充として1925年(大正14年)[15]、横浜市鶴見区生麦に「芝山美容学校[* 3]」を開校した[12][26]。これは本格的な技術者教育を目的とし、各種学校令に基づく認可も取った学校であった[27]国際理容美容専門学校の創設者である松村重貴智も、この芝山校の生徒である[24]


しかしこの学校設立に対して、大日本美髪会から「芝山は会の復興よりも自分の復興を優先している」と批判があり、学校を美髪会の東京本部へ移管するよう要請も入った。芝山は苦心の末に、美髪会の辞職を決断した。美髪会にとって、講習会で活躍してきた芝山を欠くことは大きな痛手であったが、芝山きっての門弟の一人、後に美容評論家となる赤間徳が美髪会で跡を継ぐことで、一応の解決を見た[27]


一方で芝山の方では、美髪会辞職後に自分側の幹部が手薄となったため、講師養成を目的とした師範講習会を発足した。当時は「師範」という言葉が「師範学校」「高等師範」など、軍の学校などと同様に尊敬される立場であったため、芝山が新聞に師範講習会開催の広告を出すと、神奈川県庁より「床屋が師範とは何事か」と横槍が入る一幕もあった[28]


1929年(昭和4年)、大日本美髪会が改編されて、日本の理容の普及と発展を目的とした団体とした社団法人「大日本理容協会」が組織され、芝山は総務長を務めた[29]


急逝

同1929年(昭和4年)11月14日、横浜の自宅で、心臓発作に倒れた。駆けつけた主治医による応急手当の甲斐も無く、56歳で急逝した[30]。東京の美容室で働いていたみよかが駆けつけたときは、モーニング型の白衣、縞のズボンという仕事着姿のままで死去していた[24][31]


横浜市中区の妙香寺で葬儀が行われ、参列者や花輪の数は、関東大震災後の横浜では最大の規模に上った[30]。葬儀委員長は、先述の大場秀吉が務めた。葬列は、住吉町の店から約2キロメートル先の妙香寺まで繋がり、先頭が寺に着いても、後ろがまだ店にいたほどで[15]、「空前の葬列」とも呼ばれた[32]。弟子の1人は後に「あれほどのものは見たことがないし、これからもないでしょう」と語った[15]


遺された芝山美容学校などは諸事情から、みよかではなく他の手に渡った[31]。墓碑は少年期の師である松本定吉と共に、妙香寺にある[24]

慈善活動

芝山が店に初めて「フェイシャル・マッサージ」の看板を掲げたときは、視覚障害者による横浜のマッサージ師団体が、「晴眼者がマッサージの看板を出せば、我々は飯の食い上げ」と言って激しく抗議した[7]。芝山は「美容のためのマッサージであり、全身的な治療とは異なる」と弁明したが、聞き入れられることはなく、マッサージの資格の無いことを詰問された。芝山は免許取得のためにマッサージ学校に入学し[20]、その在学中、視覚障害者たちの教育不足を痛感した。そこで芝山は、一同が自立して生活できるようにと盲学校を建立、さらに団体への寄付など、長年にわたって援助を続けた[2]。この恩義から、芝山の葬儀の参列者の中には、涙を浮かべる盲学校の生徒たちの一団の姿もあり、沿道で人々の注目を集めた[2][30]


芝山は弱者を労わる人格でも知られ、千葉県に弟子を訪ねたときに、渡し船しかない川の不便さから、橋を架けた。感謝の意味から、この橋は地元で「芝山橋」と呼ばれた[16]1918年(大正7年)には、病気や学業不振で通学できない子供たちのために本牧中学校を設立して、その理事長も務めた[2]。野球選手として活躍した苅田久徳若林忠志も、同校の生徒である[33]。大日本美髪会の講習のために日本内外を回ったときにも、講習料は安価で、芝山の利益がほとんど無いほどだった[15]。関東大震災後に多くの支援により迅速に営業再開できたことも、芝山の優れた人望を物語っている[23]。このように温かな人格から、没後は「慈温院法香日兼居士」の戒名が授けられた[2]

人物

進取の気性に富み、日本国外の技術に貪欲であり、新たな器具や化粧品を次々に取り入れた。中には驚くほど高価な品もあり、客が仰天するほどだった。娘のみよかは「新しい物好き」とよく笑っていた。1918年(大正7年)、マーセル・アイロン(火熱式のアイロン)をいち早く輸入し、ウェーブ技術を世間に広めた。大正10年代には自ら「縮毛矯正アイロン」などの新技術を開発し[13]、これは娘みよかにも受け継がれた[22]。芝山美容学校でも「人はいつでも一歩先を行かなければ。現状に甘んじてはいけない」と唱えていた[15]


みよかの後年の弁によれば、芝山がマーセル・アイロンを用いていたのは日本国外の客を対象とした高級美容であり、日本で一般的な美容院がマーセルアイロンを導入したのは震災前後という[34]。また芝山によれば、髪のウェーブに熱アイロンを用いることは、日本女性には抵抗が強かったため、当時は男性の髪や髭に施していたという[35]

家族

長男の芝山武一(しばやま たけいち)は、神奈川県立横浜第一中学校を首席で卒業するほどの、明晰な頭脳の持ち主であった。父は大いに期待を寄せ、東京帝国大学へ進学させることを望んだものの、結核で肺を病んで学業を断念した[33]


次男の芝山征守(しばやま ゆきもり)は、芸術家肌で絵の才能もあり、加えて独学で英語とフランス語を習得していた。父の著書『実用美容術指針 一名学理的化粧法』の手技や顔の図解も手掛けた[33]。武一と征守は共に、父に先立って死去した[17]


長女(三子)の芝山みよかは、1人娘ということもあって芝山に溺愛され、兄2人に嫉妬されるほどだった。芝山の店に出入りしていたジュジューというフランス人美容師が、実娘を病気で喪った悲嘆のあまり、みよかを養女に欲しいと芝山に懇願すると、芝山はジュジューと懇意の仲にもかかわらず、さすがに「馬鹿も休み休み言え!」と激怒した[33]。なおジュジューが芝山の店で美容を指導する際、唯一知っている日本語「よく見て」を連呼していたことから、みよかの本名の漢字表記「見与加」は、「よく見て」を「よく見て、人に与え、己に加える」と転じて命名したとの説もある[33]

詳しいことは、『芝山兼太郎ウィキペディア』をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%9D%E5%B1%B1%E5%85%BC%E5%A4%AA%E9%83%8E
(wikiより)

04 芝山兼太郎

⇧ 芝山兼太郎

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直次郎 32歳の時、深谷宿の旅籠で、飯盛り女として働く、美寧 ( みね ) と出会い、事情を聴くと親は旧彦根藩武士の娘で、養子縁組で親と意見が合わず家出しているとのこと。

教養も有り将来必要な人と直次郎は感じ、尾高家にこの事を話すと、一旦尾高家の養女とした後に、妻として向かい入れることを承諾してもらいます。

仕事も順調に進み豪農として村からも信頼されるようになっていきます。
(富岡製糸場ホームページより)

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三代目の工場長時代に副工場長としてその才能を発揮して暗殺された。

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1823年 ( 文政 6 ) 10. 5 ~ 1898年 ( 明治 31 ) 1. 27

韮塚直次郎は、1832 ( 文政 6 ) 年に尾高家の使用人として働いていた父・久保田熊次郎と、同じく使用人であった母・銀の長男として尾高家 ( 惇忠の祖父・磯五郎の時代) ) の離れで 生まれました。

当時、尾高家は 油屋と呼ぱれ、農業のほかに菜種油、藍玉製造 、販売、 塩、 雑貨等を販売しており、使用人も雇っていました。

直次郎が 7歳の頃、同じく搾油業 を営んでぃた韮塚仙之助 ( 明戸村 : 現深谷市 ) に跡継がいないことを知った磯五郎は、まじめに働く熊次郎親子を韮塚家に養子縁組する事を薦めました。

そうして熊次郎親子は韮塚家に入り、韮塚姓を名乗るようになりました。

しかし、2年後には仙之助が亡くなり、翌年には熊次郎も亡くなったため、生活の糧を得るために銀は直次郎と共に再び尾高家の使用人として住み込みで働くようになりました。

7年問働いた後に独立して韮塚家に戻った母子は 、農業のほかに養蚕、藍玉作り、菜種油の製造・販売に力を注いだため幕末には豪農としての地位を築いたのでした。

このようにたゆまぬ努力でができた背景には、尾高家の物心両面の力添があったと思われますが、この直次郎のひたむきに努力する姿を尾高惇忠が目の前で見ていたため直次郎に対して深い信頼を寄せたと見る事が出す。

尾高惇忠が韮塚直次郎に富岡製糸場の礎石の運搬や煉瓦製造を任せたのはこのような背景がありました。

富岡製糸場の建設において資材調達のまとめ役をつとめた人物として知られていますが、製糸場は洋式の建物となることが決まっていて、明治時代となって 4年あまりの当時ですから、それがどんな建物なのか、想像することも非常に困難なものだったことでしょう。

主要な建築材料となる煉瓦も、まだその製造方法すら分かっていない中、直次郎は地元明戸の瓦職人たちを束ね、外国人技師バステアンから煉瓦の素材や性質を聞き、材料である粘土探しからはじめました。

そして、富岡に近い笹森稲荷神社 ( 現甘楽町福島 ) 付近の畑から煉瓦に適した粘土を発見し、その周辺に焼成窯を設け、試行錯誤の末に、煉瓦を焼き上げることに成功したのです。

その他にも、 当時はセメントがなく、煉瓦をつなぎ合わせる漆喰にも強度を増すために膠等混ぜての技術や、妙義山から御神木とされていた杉の木の切り出し、連石山から石材の切り出し、輸送や瓦など、多くの資材調達を請け負った 韮塚直次郎は、製糸場完成後は富岡製糸場の工女 400人分、1日 3食の賄い ( 今で言う社員食堂 ) を任せれます。



富岡製糸場 工女募集に奔走
富岡製糸場は伝習の場であるため、3年程で技術を取得し、工女たちは国元に帰っていき、明治 8年頃には当初入場した工女たちは殆んどいなくなりました。

工女の補充が必要となり、韮塚直次郎は妻の美寧 ( ミネ ) の出身地 ( 旧彦根藩 ) に工女を求めました。

当時彦根藩の旧藩士たちは、生活が困窮している人が多く、工女を募集したところ思った以上に希望者が有り、製糸場で受け入れられない程だったので、韮塚製糸場を建設したのか、韮塚製糸場を建設したので工女を求めたのか詳細は 、はっきりしていないようです。

韮塚製糸場の建設が明治 9年であること、植松サト ( 死亡時、明治 13年 22歳 ) 植松コト ( 死亡時、明治 12年 16歳 ) の姉妹の姉は、富岡製糸場へ入場させていること、清水ゲン ( 死亡時、明治 10年 9歳 10ヶ月 ) は、富岡製糸場ではなく、韮塚製糸場に入場させています。

当初、富岡製糸場の工女の雇用年齢は 12歳以上と決められていたため、清水ゲンの様に年齢が 12歳に満たないものは、韮塚製糸場に一時預かり、12歳になるのを待ったと考えても良いのではないでしょうか?

又、予定以上に工女希望があったため、韮塚製糸場で預かるための製糸場とも考えられます。

韮塚製糸場に付いたは、詳細な資料がないためはっきりしない部分が多々あるようです。

数年で閉場した韮塚製糸場の工女たちは、富岡製糸場に移り、直次郎は、富岡製糸場の賄い方の御用商人として独立し、多角経営に乗り出します。
(富岡製糸場ホームページより)

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初代 伊藤小左衛門墓
博多の豪商。

〇 二代目・伊藤 小左衛門
伊藤 小左衛門(いとう こざえもん)は、江戸時代初期の福岡藩の人物である。博多の地で2代にわたって活躍した豪商であり、ここでは主に2代目小左衛門(? - 寛文7年(1667年))について扱う。

生涯
半生

博多に出て、その商才を発揮して財を築いた初代の跡を継いだ2代目小左衛門は、同じく博多の豪商である大賀宗伯とともに福岡藩主黒田氏御用商人となった。そして、長崎代官末次平蔵や西村隼人・大賀九郎左衛門ら商人達とともに、直接朱印船を派遣することの無かった黒田氏に代わって海外との貿易活動を行った。

そして正保4年(1647年)6月、ポルトガル船が来航禁止令を破って長崎に入港して貿易再開を願い出た際、当時の長崎警備役であった福岡藩2代目藩主黒田忠之のため大いに尽力し、これを賞せられて50人扶持を与えられた。


浜口町[1]に在住していたが、やがて長崎にも出店を設けて移り住んだ。船津町や浦五島町などにも屋敷を構えて、博多と往来して商売し、長崎奉行の接待のため五島町の屋敷を提供するほどにもなっていた。この当時、小左衛門は毎年銀10貫を消費し、通詞乙名から銀7000貫以上の資産をもつと噂された[2]。それだけの資産を得るに至った背景には、出雲産や広島産の鉄類の売買や武器の生産に従事したこと[3]だけでなく、中国・朝鮮との密貿易による利益もあったといわれる。また、の復興を願いと戦った鄭成功とも何度も貿易を行ったとされる。

密貿易の発覚と処刑

寛文7年(1667年)、筑後柳川出身で、長崎浜町居住の江口伊右衛門の下人で、柳川領にあった平左衛門という者が、柳川藩当局に訴え出たことから、伊藤小左衛門の密貿易が発覚した。その訴えは、伊右衛門が対馬の小茂田勘左衛門と共謀して、武具を朝鮮に密売したというものであった[4]。伊右衛門を柳川藩の長崎蔵屋敷で捕え、牢舎に入れて取調べを進めた結果、密貿易に関わる者達が判明した。


これにより、伊藤小左衛門をはじめとし、長崎の浜町乙名浅見七左衛門、新大工町の油屋彦右衛門、築町の塩屋太兵衛、炉粕町の中尾弥次兵衛、そして対馬の小茂田勘左衛門、亀岡平右衛門、扇角右衛門、更に福岡領の高木惣十郎、篠崎伝右衛門、前野孫右衛門、唐津藩の今村半左衛門、島原領日見村の加兵衛、小浜村の利兵衛、熊本藩八代の九郎左衛門、大坂の仁兵衛、長兵衛、庄左衛門以下、全部でおよそ100人近い者が捕えられた。


密貿易は、数年来の計画的なもので、長崎・博多・対馬から島原・熊本・唐津各領だけでなく、上方の大坂にまで及ぶ大掛かりなものだった。その中心人物が伊藤小左衛門であり、寛文2年(1662年)から[5]、5年間で7回にわたって小茂田勘左衛門や扇角右衛門らと共謀して出資し、朝鮮に武具を密売していたのであった。

小左衛門と浅見七左衛門の2人は磔刑となり、40数人の者が斬首・獄門などの死刑、同じく40数人が在所からの追放に処された。小左衛門の子である2人の男児も縁座させられ、そのうち長崎にあった1人は父と同日に長崎で斬首。博多にいたもう1人は、長崎奉行から福岡藩に命じ、博多で斬首させた。博多の高木惣十郎は福岡藩当局の手で捕え、長崎に召し出して、ここで処刑。対馬の小茂田勘左衛門は、近江大津で捕えて京都の牢舎に入れ、ついで大坂に廻し、その後長崎に召し連れ、長崎奉行所で磔とする旨の判決を下した上で、対馬で刑の執行が行われた[6]


この密貿易は、福岡藩自身も関わっていたのではないかとも言われており、3代目藩主の黒田光之は小左衛門の命を救えなかったことを終生悔やんだ。


小左衛門の屋敷跡には、万四郎夷社(稲荷社ともいう)が祀られた[7]。近代に入り、万四郎神社と称し、小左衛門とともに処刑された2人の子・小四郎と万之助を祀る神社となった。伊藤小左衛門の墓は、妙楽寺[8]にある。


事件から50年後の享保期に、近松門左衛門は伊藤小左衛門をモデルにして作った浄瑠璃の戯曲『博多小女郎浪枕』を発表した。

脚注
1. 現在の福岡県福岡市博多区下呉服町と中呉服町にあたる。
2. 『長崎オランダ商館の日記』[要ページ番号]
3. 『西村家文書』[要ページ番号]
4. 『華蛮交易明細記』[要ページ番号]
5. 『長崎奉行 江戸幕府の耳と目』148頁では、「寛文五年から」となっている。
6. 『犯科帳』[要ページ番号]
7. 『筑前名所図会』[要ページ番号]
8. 博多区御供所町(ごくしょまち)。

参考文献
外山幹夫著 『長崎奉行 江戸幕府の耳と目』 中公新書 、1988年 ISBN 4-12-100905-3

脇本祐一著 『豪商たちの時代 徳川三百年は「あきんど」が創った』 日本経済新聞社、2006年 ISBN 4-532-16573-3

・『福岡県の歴史』 山川出版社、1997年 ISBN 4-634-32400-8

・『福岡県の地名』 平凡社 ISBN 4-582-49041-7
(wikiより)

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末次久四郎孝善の墓。


博多の豪商だとか。


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紙屋善四郎宗啿墓。


寛永十二年十月二十八日没。


[生]天文 20 ( 1551 ).博多

[没]寛永 12 ( 1635 ). 10. 28. 博多


安土桃山時代,


江戸時代初期の豪商,茶人。


紹策の子。


紙屋 ( こうや ) 宗旦とも書き,幼名善四郎,字は貞清。


神谷家は筑前博多の商人で 3代目の寿貞が石見銀山の開発に成功して富をなした。


天正 15 ( 1587 ) 年大坂城で豊臣秀吉に謁見してその寵を得、特権的政商として朝鮮、中国やルソン、シャムなどとの南洋貿易を行い巨利を博した。


さらに産業開発にも意をそそぎ、櫨 ( はぜ ) による製ろう法、博多そうめんをも創製し、冶金法、織物にも貢献した。


彼の手記『宗湛日記』は当時の茶会記録として著名。

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森繁 泉 ( もりしげ - いずみ )     
昭和 16年 1月 7日 ~ 平成 11年 1月 23日 ( 1941 - 1999 )

     
賀茂カントリークラブ社長。

昭和 37年 ( 1962 ) 出海産商代表。

昭和 40年 ( 1965 ) 佐鳥マリーナ代表専務。

昭和 49年 ( 1974 ) 日本マリーナ・ビーチ協会専務理事。

昭和 51年 ( 1976 ) B&G財団施設部会委員・日本小型船舶検査機構評議員。

昭和 63年 ( 1988 ) 神奈川県小型FRP船建造所協議会会長・舟艇利用振興センター評議員・海上保安友の会理事。

平成元年 ( 1989 ) 運輸政策審議会総合部会専門委員。58歳没。


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「尾道志稿」の著者であり尾道の名門である油屋亀山士綱その他亀山一統の墓がある。
(案内板より)


亀山士綱 ( かめやま - ことつな )
( 1770 - 1827 )


江戸時代後期の豪商。


明和 7年生まれ。


備後 ( びんご )( 広島県 ) の人。


菅茶山 ( かん - ちゃざん ) らに師事し、のち京都で若槻幾斎 ( わかつき - きさい ) に学ぶ。


帰郷して尾道の組頭、年寄を務めた。


文政 10年 7月 27日死去。58歳。


字 ( あざな ) は紀卿。通称は元助。

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天正十六年 ( 1588 ) と慶長二年 ( 1597 ) の二度、六十六州廻国を果たした小川道海の納経立石や同人夫妻をはじめ小川家累代の墓がある。


この小川氏は笠岡屋を屋号とした桃山時代以来の尾道の豪商である。
(案内板より)

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浅利 慶太(あさり けいた、1933年3月16日 - 2018年7月13日[1])は、日本の演出家実業家である。劇団四季創設者の一人で、劇団の運営・管理に当たる「四季株式会社」の代表取締役社長・会長・芸術総監督をつとめた[2]

劇団四季、四季株式会社を、商業主義ミュージカル劇団としても企業としても成長させた。


東京都
出身。永田町小学校(現麹町小学校[3]慶應義塾高等学校慶應義塾大学文学部仏文学専攻中退[4]。特選塾員。慶應義塾評議員

来歴・人物

1953年7月、慶應義塾大学東京大学の学生を中心に劇団四季を結成した[5]。主に、ジャン・アヌイジャン・ジロドゥ等フランス文学作品を上演する。その後東京田辺製薬(現:田辺三菱製薬)にて宣伝・広告などのアルバイトをしながら[6]日本テレビの「ジャングル・ジム」の吹き替えアテレコに劇団として参加した[7]。劇団四季は、もともとは文化・芸術志向の良質な劇団だった。60年安保の際には、安保反対の劇団四季の学生もいて、寺山修司は「安保反対のデモに行きたいという劇団四季の学生をぶん殴って、デモへ行くな、俺の演劇こそ世界を変える」と語ったと、自身の著書で述懐している。だが浅利の右派への転向もあり、劇団四季は70年代にはミュージカルを上演する国内有数の商業主義劇団へと変化した。


また、1958年には、石原慎太郎江藤淳谷川俊太郎寺山修司永六輔黛敏郎福田善之ら若手文化人らと「若い日本の会」を結成し、60年安保に反対した。だが、後に思想的には保守化する[8][9]


1961年、日生劇場製作営業担当取締役に就任。1969年、日本ゼネラルアーツを設立。1966年から1980年に越路吹雪が逝去するまで、「越路吹雪リサイタル公演」[10]を日生劇場において演出した。


浅利は、もともとは左翼だった。実姉と共に日本共産党員で、選挙戦や山村工作隊時代を戦ってきたが、実姉が左翼演劇人の劇団で交際していた男性と離別し自殺。浅利慶太は左翼陣営を離れた理由に姉の自殺をあげている。1970年代から海外ミュージカルの翻訳上演を始め、中曽根康弘[11]石原慎太郎[注 1]などの右派政治家との関係[注 2]を背景とした莫大な集金、集客力により、劇団四季を商業主義の企業型劇団へと成長させる。浅利は20代後半で日生劇場の取締役にも就任したが、これは異例のことであった。


1972年5月には、政府の中央教育審議会の委員に就任[13]。1975年の東京都知事選挙では、石原慎太郎の選挙参謀を務め、飯島清、中曽根康弘、深谷隆司とともに石原を熱心に応援した[14]。だが、石原はあえなく落選してしまう。興行面においては1983年『キャッツ』初演において日本で初めて無期限ロングラン公演を成功させた[15]。中曽根や石原のブレーンや佐藤栄作のなまりを治す家庭教師であったことや、財界人の五島昇など財界人[16]と親しい事実のほか、先述どおり政界との繋がりを利用して劇団を躍進させたことから、「政商」と批判された[17]


このように権力との関わりが密接である[18][19]にも関わらず、勲章などの顕彰を拒否しており、過去に紫綬褒章文化功労者の内示も辞退している[20]


ミラノ・スカラ座での『蝶々夫人』『トゥーランドット』、ザルツブルク音楽祭での『エレクトラ』の演出や、長野オリンピック開会式の総合プロデューサーを担当。また、創立当初からのポリシーであるアヌイ、ジロドゥ作品の上演や、太平洋戦争日中戦争を題材とした「昭和三部作」(李香蘭異国の丘南十字星)の上演を行っている。

2006年10月、政府の「教育再生会議委員」に就任。


2014年
6月、四季株式会社の取締役社長を退任[5]


2015年3月、新事務所の浅利演出事務所を設立し社長就任。劇団四季とは別に独自の演劇活動を開始[21]。第1弾公演は劇団四季でも公演した『オンディーヌ』で、劇団四季はJR東日本アートセンター自由劇場を提供し協力[21]


2018年7月13日、17時33分、悪性リンパ腫のため、東京都内の病院で死去[22]。85歳没。

家族

3度の結婚歴がある。最初の妻は藤野節子、2度目の妻は影万里江。2人とも劇団四季における浅利の同志だった。影の墓所は、浅利の実家の墓(谷中霊園内)である。2度目の離婚後は長く独身だったが、2003年、野村玲子を3度目の妻に迎えていた。


大叔父は二代目市川左團次。父は小山内薫らと築地小劇場の設立に参画し、三田英児の名で映画俳優として活躍した浅利鶴雄。鶴雄の母浅利たけの妹登美が左団次の妻で、左団次に子がなかったため慶太に左団次を継がせる話もあり、幼い頃は左団次の家にいたこともある[23]。母方は江戸時代から薬種商を営む田辺家の一族で、祖父は製薬会社を経営し、戦前からサロメチールやエバクレームなどを開発・販売していた[24][25][26]。その他、叔父(田辺五兵衛の次男)に旧:東京田辺製薬元会長の田辺元三郎がいる[6]

主な受賞歴
・1974年・51年 紀伊國屋演劇賞

・1976年 芸術選奨文部大臣賞

・1984年 テアトロ演劇賞

・1985年 アッビアーティ賞

・1986年 経済界大賞特別賞

・1993年 日本シェイクスピア賞シェイクスピア演劇賞

テレビ出演番組
TBSいのちの響

NHK教育訪問インタビュー


著作・評伝
・『浅利慶太の四季』慶應義塾大学出版会 全4巻、1999年

・浅利慶太『時の光の中で 劇団四季主宰者の戦後史』文藝春秋、2004年/文春文庫、2009年

・浅利慶太『劇団四季メソッド「美しい日本語の話し方」』文春新書、2013年

・梅津齊『浅利慶太-叛逆と正統 劇団四季をつくった男』日之出出版、2020年

関連項目
黒幕

政商

右派

メセナ

詳しいことは、「浅利慶太ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E5%88%A9%E6%85%B6%E5%A4%AA
(wikiより)

222  淺利慶太

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大浦 慶(おおうら けい、文政11年6月19日1828年7月30日) - 明治17年(1884年4月13日)は、江戸時代末期(幕末)から明治にかけての女性商人日本茶輸出貿易の先駆者。楠本イネ道永栄と並ぶ長崎三女傑のひとり。

生涯

文政11年(1828年)に長崎油屋町[1]で油商・大浦太平次と佐恵の娘として生まれる。


大浦家は、賀古市郎右衛門の次男・大五郎(1818年 - 1837年)が婿養子として大浦家に入るが、慶が9歳のときに死去。大五郎の死後、大浦家の財政は傾き、それに追い打ちをかけるように、天保14年10月24日1843年12月15日)の夜に出来鍛冶屋町より出火し、今籠町・今鍛冶屋町・油屋町・今石灰町・新石灰町・高野平郷など家屋526戸が焼ける大火が発生し、大浦家は大損害を受けた。この時、慶は大浦家再興に尽くそうとした。


1844年蘭学を学びに長崎にきていた天草庄屋の息子の幸次郎(秀三郎とも)を婿養子に迎える。しかし、慶はこの幸次郎が気に入らず、祝言の翌日に追い出した。以後、死ぬまで独身を貫きとおすこととなった。20歳のときに上海に密航したという説もある。

日本茶貿易

嘉永6年(1853年)に通詞・品川藤十郎と協力して出島にてオランダ人・テキストルに嬉野茶を託し、イギリスアメリカアラビアの3ヶ国へ茶を送ってもらうことにした。この時、9斤の茶葉を三階級に等分し、各階級1斤ずつ各国に割り当てた。そして同年9月、テキストルが出島から出港した。


その約3年後の安政3年(1856年)8月にイギリスの商人W・J・オールトが来航。そこで、テキストルに託した茶の見本を見せ、巨額の注文を受けた。嬉野茶だけでは足りず、九州一円の茶の産地を巡り、やっとのことで1万斤を集め、アメリカに輸出した。これが日本茶輸出貿易の先駆けとなった。文久元年(1861年)に南北戦争が勃発し、一時的に輸出は停滞するが、慶応元年(1865年)に終結した途端、爆発的に増え、翌年には長崎からの輸出はピークに達した。安政から慶応にかけての約10年間は大浦家の全盛期であった。


日本茶輸出貿易に成功した慶は名が知れ渡り、坂本龍馬大隈重信松方正義陸奥宗光らと親交があったとされる。


しかし、1860年代が終わろうとする頃、九州より大きい茶の産地である静岡からの輸出が増えて、茶の輸出業に陰りが見えはじめる。このとき慶は違う商品の貿易も考えていた。

遠山事件

明治4年(1871年)6月、慶の元へ熊本藩士の遠山一也が訪れ、イギリスのオールト商会と熊本産煙草15万斤の売買契約したため、慶に保証人になってほしいと頼んできた。遠山は熊本藩から派遣されたように装い、連署人として同藩の福田屋喜五郎の名を勝手に使い、偽の印を押した証書を見せた。また、遠山とオールトとの通弁を務めた品川藤十郎もしきりに連判することを勧めたため、慶は保証人を引き受けることにした。


ところが、オールト商会は遠山に手付金3000両を差し出したものの、期限の9月になっても煙草は全く送られてこなかった。そのため慶はオールト商会から手付金を返すように求められ、熊本藩と交渉し遠山家の家禄5ヵ年分に相当する約352両の支払いを受けたが、それが精一杯であった。実は、遠山は輸入反物で失敗し借金を返済するために慶を騙したのであった(遠山事件)。


明治5年(1872年)1月、慶はオールト商会から遠山、福田屋喜五郎と共に長崎県役所に訴えられ、慶も遠山と福田屋を訴えた。7月から8月にかけての判決で、遠山は詐欺罪で懲役10年の刑を受けるが、慶は連判したということで1500両ほどの賠償金を支払うこととなった。負債の3,000両(現在の価値でいえば約3億円ほど)と裁判費用及び賠償金を払うことになり、これで慶の信用も地に堕ち、大浦家は没落した。家財は差し押さえられ、毎日慶の家に取り立てが来ていたという。

晩年

明治12年(1879年)6月に元・第18代アメリカ大統領ユリシーズ・グラントが長崎に寄港した際は国賓として、各県令らと共に大浦が艦上に上った。その時、艦上にいた国賓で女性は大浦だけであった。


翌明治13年(1880年)1月12日に福岡県佐野弥平と長崎の大浦慶の連名にて政府に対し、海軍軍艦の高雄丸の払い下げ願いが出された。佐野弥平は福岡で1、2を争う富豪で、三菱会社に対抗して海運業の強化を考えていた。高雄丸は2月に除籍され、佐野と大浦に50,000円で売却が決定し、3月25日に引き渡された。3月31日付の読売新聞には、大浦が4万7千3百円で買ったと書かれている。軍艦は改装し、佐野らとともに自前の貿易船として使用する予定であり、この時点で大浦は商売を建て直し、さらに拡大する意図があったと理解される。


明治17年(1884年)、県令であった石田英吉農商務省の権大書記官であった岩山敬義に、大浦慶が既に危篤状態であるため、生きているうちに賞典をあげてほしいと要請した。石田の下に4月5日西郷従道から受賞の知らせを電報で伝えられ、翌日に石田の使者が大浦家に出向いて受賞を知らせた。明治政府は慶に対し、日本茶輸出貿易の先駆者としての功績を認め、茶業振興功労褒賞と金20円を贈った。


その1週間後、一代の女傑・大浦慶は57歳で死去した。借金は死ぬまでに完済していたとされる。墓所は長崎市高平町清水寺墓域(曇華院跡)大浦家墓地。

関連作品
漫画
・『ニュクスの角灯』(高浜寛

小説
朝井まかて『グッドバイ』

脚注
1. 大浦お慶 長崎商工会議所女性会

参考文献
・白石一郎『天翔ける女』文藝春秋 1979年

・本馬恭子『大浦慶女伝ノート』本馬恭子 1990年

・田川永吉『女丈夫 大浦慶伝 慶と横浜、慶と軍艦高雄丸』文芸社 2010年

・原口泉『龍馬が惚れた女たち-加尾、佐那、お龍、そして第四の女お慶とは?-』幻冬舎出版2010年

外部リンク
大浦慶

NHK福岡制作ミニ番組「維新の傑物たち 大浦慶」公開中
(wikiより)

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⇧ 大浦 慶

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英国、メリーポート生まれのウィルソンとロバート・ウォーカー兄弟は、若くして船乗りになった。

彼がはじめて極東の地を踏んだのは、英国の汽船「フィリピーノ号」の所有者がフィリピン在住のスペイン人に同船を売却しようとした時のこと。

しかし買い手がなかなか見つからず、乗組員は買い手を求めて中国の港を転々とした挙げ句、ついに明治元年(1868)3月長崎へ。

ウォーカーはここで下船。

「ナルト号」の船長として「グラバー商会」に雇われた。

翌年、同商会の石炭船を日本へ運ぶため英国に赴いたがグラバー商会が倒産し、計画中止となった。

その後、「ホーム・リンガー商会」のために建造された船の一等航海士の職を得て、明治4年(1871)に再び来崎。のち神戸に転じ、土佐藩所有の船の一等航海士として岩崎弥太郎に雇われた。

次いで岩崎弥太郎の「郵便汽船三菱会社」創立後は、上海と日本の各港間の航海開設に尽力。

取締役格の船長として数年間勤務した。

明治13年(1880)には横浜の外国人の中で実力者的存在だったオランダ人の実業家ノートフーク・ヘクトの娘と結婚。

横浜に新居を構え、息子1人と娘5人の子宝に恵まれている。

その後明治18年(1885)に「共同運輸会社」と合併し、「NYK(日本郵船会社)」を結成。

ウォーカーはこれを機に退職を決意。

同年、「ジャパン・ブルワリ・カンパニー(「キリン麦酒株式会社」の前身)の筆頭株主となり、明治22年(1889)~明治26年(1893)にかけて会社の支配人として活躍。

日本ビール業界を確立させていく上で重要な役割を演じた。

退職後、家族と共に余生を送るべく長崎へ。
が、その後独立し、瀬戸内海で水先案内人として働いていた。

その一方で南山手12番地の自宅隣にあった「クリフ・ハウス・ホテル」を購入。

また、弟ロバートと協力して日本最初の清涼飲料水の製造会社「バンザイ炭酸飲料社」を設立するなど長崎外国人居留地の実業界、社交界に於いて中心的人物として活躍した。

ウィルソン・ウォーカーは、大正3年(1914)11月4日、長い闘病生活の末、南山手の自宅で死去。

遺体は葬儀に参列したすべての子供たちに見守られる中、新坂本国際墓地に葬られた。

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1958年 8月 22日 76歳で死去 南側奥 ( 379番 ) に眠る。


兄のウイルソンと協力して炭酸飲料商会 ( ウォーカー商会 ) 設立。


初期の日本海運業界に多大な功績を残した英国人ロバート・N・ウォーカーの次男。


ウォーカー・ジュニアの旧邸がグラバー園内にある。

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倉場 富三郎(くらば とみさぶろう、明治3年12月8日1871年1月28日) - 1945年8月26日)は、日本実業家水産学者。英名はトミサブロー・アワジヤ・グラバー(Tomisaburo Awajiya Glover)[1]、ただし墓標に刻まれた名はトーマス・アルバート・グラバー(Thomas Albert Glover)[2]苗字の倉場はグラバーをもじったもの。

生涯

幕末から明治維新にかけて活躍したイギリス人貿易商トーマス・グラバー淡路屋ツルの長男[3]として1871年1月28日(明治3年12月8日)、長崎に生まれる。母は加賀マキとする説もある[4][5]。また養子として迎えられたイギリス系日本人(British-Japanese)であったとも言われている[6]


長崎の加伯利英和学校を経て学習院を中退、後にアメリカオハイオ・ウェスリアン大学ペンシルベニア大学生物学を学び、1892年に帰国後、父の興したグラバー商会から暖簾分けしたホーム・リンガー商会に入社、また長崎汽船漁業会社を興してイギリスから深紅丸を輸入し日本にトロール漁業を導入するなど第二次世界大戦前まで長崎の実業界にて活躍する。妻も日英混血の中野ワカ。また、長崎魚市場から収集した水産動物の精巧な図譜日本西部及び南部魚類図譜』いわゆる『グラバー図譜』を編纂した。


太平洋戦争開戦後、イギリス人との混血児だった富三郎はスパイ嫌疑をかけられ、官憲の監視の下で不自由な生活を強いられた。戦艦武蔵建造の機密保持を理由にグラバー邸を退去させられたり、1943年にワカに先立たれるなど不幸な晩年を送り、更に原爆投下により故郷が壊滅した事が追い打ちとなり、終戦直後の1945年8月26日に長崎の自宅で首吊り自殺を図り、死亡した(自殺の理由については、スパイの疑いを晴らすために積極的に戦争に協力した姿勢により、連合国から戦犯として裁かれるのを恐れたとする説もある)。享年74。


遺体は長崎市の坂本国際墓地に妻ワカとともに埋葬されている。両親の墓とは隣同士である。死に先立って『日本西部及び南部魚類図譜』の遺贈先を理解者の渋沢敬三に遺言状で指定。その後渋沢は長崎大学水産学部に寄贈した。

家族
・父(または養父):トーマス・ブレーク・グラバー(スコットランド人武器商人)

・母:加賀マキ、また養母は淡路屋ツル

・妹:ハナ(1873–1937、グラバーとツルの実子。富三郎が米国から帰国後作った新しい戸籍に1895年に入り、倉場ハナを名乗る[7]。1897年にイギリス人商人ウォルター・ジョージ・ベネットに嫁ぎ、4人の子をもうける。夫は韓国仁川でウールを扱う貿易会社「広昌洋行」の社長を務め、のちに在韓イギリス領事代行も務めた[8]。子孫は海外在住)

・妻:中野ワカ(1875-1943、イギリス人商人ジェームズ・ウォルターと中野エイの次女だが、グラバーに引き取られ養女として育った[9])。1899年に富三郎と結婚。

・2人の間に子はなく、死後は絶家とすることと遺言した[9]

脚注
1. ペンシルベニア大学にこの名前で入学している。
2. Find A Grave
3. ツル以前に内縁関係にあった菊園(広永園)との間に1862年梅吉をもうけているが生後4ヶ月程で病死している。
4. 長崎市『ナガジン』引用:成人した富三郎自身が“母 加賀マキ”と記した公的文書が、後年発見されている
5. Thomas Albert GloverFind a Grave
6. The National 3rd July 2015『Scotland and Japan celebrate the ‘Scottish Samurai,’ Sir Thomas Glover』
7.  Hana Glover Bennett Find a Grave
8. グラバーの娘 ハナ・グラバー戸田郁子、在日本大韓民国民団、2016.4.27、
9. a b 女一人、執念で突きとめた真実 父の遺志をつぎ汚名と誤解を晴らすために戦い続けた人生日経ビジネス、2009年11月13日

外部リンク
グラバー図譜(長崎文化百選 - 62) - 長崎文化ジャンクション(長崎県)

長崎大学附属図書館/グラバー図譜
(wikiより)

201  倉場富三郎

⇧ 倉場富三郎

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トーマス・ブレーク・グラバー: Thomas Blake Glover1838年6月6日 - 1911年12月16日)は、スコットランド出身の商人トマス・ブレイク・グローバーとも表記。


武器商人
として幕末日本で活躍した。日本で商業鉄道が開始されるよりも前に蒸気機関車の試走を行い、長崎に西洋式ドックを建設し造船の街としての礎を築くなど、日本の近代化に大きな役割を果たした。


維新
後も日本に留まり、高島炭鉱の経営を行った。造船採炭製茶貿易業を通して、日本の近代化に貢献。国産ビールの育ての親。

生涯

スコットランド・アバディーンシャーで沿岸警備隊の1等航海士トーマス・ベリー・グラバー(Thomas Berry Glover)とメアリー(Mary)の間に8人兄弟姉妹の5人目として生まれる。ギムナジウムを卒業した後、1859年上海へ渡り「ジャーディン・マセソン商会」に入社。同年9月19日安政6年8月23日)、開港後まもない長崎に移り、2年後にはフランシス・グルームと共に「ジャーディン・マセソン商会」の長崎代理店[1]として「グラバー商会」を設立し、貿易業を営む。当初は生糸の輸出を中心として扱ったが八月十八日の政変後の政治的混乱に着目して討幕派の藩、佐幕派の藩、幕府問わず、武器や弾薬を販売した[2]亀山社中とも取引を行った。また、薩摩藩の五代友厚森有礼寺島宗則長澤鼎らの海外留学、長州五傑のイギリス渡航の手引きもしている。


1865年4月12日(元治2年3月17日)[3]には、大浦海岸において蒸気機関車(アイアン・デューク号)を走らせた。本業の商売にも力を注ぎ、1866年(慶応2年)には大規模な製茶工場を建設。1868年明治元年)には肥前藩(=佐賀藩との合弁)と契約して高島炭鉱開発に着手。さらに、長崎の小菅に船工場(史跡)を造った。


明治維新後も造幣寮の機械輸入に関わるなど明治政府との関係を深めたが、武器が売れなくなったことや諸藩からの資金回収が滞ったことなどで1870年(明治3年)、グラバー商会は破産。グラバー自身は高島炭鉱(のち官営になる)の実質的経営者として日本に留まった。1881年(明治14年)、官営事業払い下げで三菱の岩崎弥太郎が高島炭鉱を買収してからも所長として経営に当たった。また1885年(明治18年)以後は三菱財閥の相談役としても活躍し、経営危機に陥ったスプリング・バレー・ブルワリーの再建参画を岩崎に勧めて後の麒麟麦酒(現・キリンホールディングス)の基礎を築いた。


私生活では五代友厚の紹介で、ツルと結婚。長女ハナをもうけている。また、息子に倉場富三郎(Tomisaburo Kraba Glover)がいる。(ツル以前に内縁の広永園との間に梅吉をもうけているが生後4ヶ月程で病死している)。


晩年は東京で過ごし1908年(明治41年)、外国人として破格の勲二等旭日重光章を授与された。1911年(明治44年)に死去。墓は長崎市内の坂本国際墓地にある。ツルとともに埋葬されており、息子の倉場富三郎夫妻の墓とは隣同士である。邸宅跡がグラバー園として一般公開され、現在は長崎の観光名所となっている。

人物

太宰府天満宮にある麒麟像をたいそう気に入っていたらしく、何度も譲ってほしいと打診していた。

・キリンビールの麒麟は麒麟像と坂本龍馬を指しているとの説もある。

・彼をスコットランド系のフリーメイソンリーとする説があるが、記録はない。グラバー邸内にはコンパスと定規を組み合わせたフリーメイソンリー特有のマークが刻まれた石柱があるが、これはもともとグラバー邸にあったものではない。フリーメイソンリーのロッジ(集会所)にあったものが1966年昭和41年)に長崎市に寄贈され、長崎市によって観光目的で移設されたものである。長崎市もこの経緯を認めている[2]

関連書籍
野田平之助『グラバー夫人』新波書房, 1972 改訂新版 野田和子改訂 1994

・ブライアン・バークガフニ『花と霜 グラバー家の人々』平幸雪 訳. 長崎文献社, 1989

多田茂治『グラバー家の最期 日英のはざまで』葦書房, 1991

杉山伸也『明治維新とイギリス商人 トマス・グラバーの生涯』(岩波新書) 1993

・山崎識子『隠れ間のあるじ トーマス・ブレイク・グラバー』栄光出版社, 1994.

・アレキサンダー・マッケイ『トーマス・グラバー伝』平岡緑訳. 中央公論社, 1997

楠戸義昭『もうひとりの蝶々夫人 長崎グラバー邸の女主人ツル』毎日新聞社, 1997

内藤初穂「トーマス・B・グラバー始末 明治建国の洋商』アテネ書房, 2001

山口由美『長崎グラバー邸父子二代』集英社新書 2010

・マイケル・ガーデナ『トマス・グラバーの生涯 大英帝国の周縁にて』村里好俊, 杉浦裕子訳. 岩波書店, 2012

山口幸彦「明治維新の大功労者トーマス・グラバー :フリーメーソンとしての活躍』長崎文献社, 2014

脚注
1. グラバーの肩書きは「マセソン商会・長崎代理人」

2. a b 片桐三郎 『入門 フリーメイスン全史 --- 偏見と真実』 アム アソシエイツ、2006年11月, p211-212
3. 唐津材木町年寄の平松儀右衛門の旅日記による(長崎県参与の本馬貞夫によって発掘された)。

関連項目
幕末の人物一覧

日英関係

死の商人

ジャーディン・マセソン商会

旧ジャーディン・マセソン商会ビル - ジャーディン・マセソン商会中国本社(上海支店)

天津ジャーディン・マセソン商会ビル - ジャーディン・マセソン商会天津支店

英一番館 - ジャーディン・マセソン商会横浜支店

明治維新以前に日本に入国した欧米人の一覧

外部リンク
三菱人物伝 トマス・グラバー(上)

三菱人物伝 トマス・グラバー(下)
(wikiより)


200  Thomasglover

⇧ トーマス・ブレーク・グラバー

200  グラバー(右)と岩崎弥之助

⇧ グラバー(右)と岩崎弥之助

200a

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200c



長崎に住んでいたユダヤ人の墓です


画像中央の胸像はジークムント・D・レスナー ( 1920年 2月 24日死亡・61歳 )。

ユダヤ人 ( 帰化オーストラリア人 ) の商人だそうです。


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明治 37年 ( 1904 ) に竣工したこの建物は、 明治~昭和初期の建築界の偉才、下田菊太郎が設計した現存する唯一の遺構であり、国指定重要文化財となっています。


長崎市内の洋館群の中にあっては最大級であり、1階部分を連続アーチのアーケードとして、2・3階部分にコリント式の円柱を通した大オーダーとし、その上に三角破風の屋根をのせるなど、海側の正面性を重視したデザインとなっています。


香港上海銀行長崎支店は当時神戸以西唯一の外国銀行で、在留外国人、なかでも貿易商を主な取引先として外国為替やロンドン・上海・香港における外貨の売買を主要業務とした特殊為替銀行でした。


「長崎近代交流史と孫文・梅屋庄吉ミュージアム」を併設し、中国革命の父孫文とその革命を支えた長崎出身の実業家・梅屋庄吉の国境を越えた友情や、国際貿易港であった長崎の歴史等を紹介しています。


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岡本安太郎 ( 1850年頃生まれ ) は、明治・大正の長崎の港湾に出入りする荷の一切をとりしきっていた、当時、 岡本組には、四、五百人の仲仕が常にいた。


仲仕たちは荒っぽくて博打好き、それではいけないと いうので安太郎は相撲を奨励した 。


岡本組の草相撲というのは有名だった。


ある時、寺町でやくざのケンカがあって、警察も手におえなくなり、岡本家へ人力車が迎えに来た。


安太郎が「お前らは何してるか!」と一喝すると、そのケンカはピタッとやんだ という。


今でも、大音寺幼稚園前には 「岡本安太郎翁の碑」がある。

 さだまさしの母の祖父 ( さだまさしの母方の曽祖父 )

岡本安太郎も明治時代、長崎港で港湾荷役を取り仕切った「岡本組」の元締。

最盛期には気性の荒い沖仲仕 ( おきなかし ) 500人を束ね、任侠 ( にんきょう ) の大親分として地元で語り継がれている。


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清風亭の主。


〇 清風亭址
慶応 3年 ( 1867 ) 1月頃、幕末の志士・坂本龍馬が、土佐藩士・溝渕広之丞と松井周助の斡旋により、土佐藩参政・後藤象二郎と会談を行った「清風亭」という料亭が、この場所にありました。


龍馬と象二郎は仇敵同士でしたが、この会談で意気投合。


以後共同して政治活動にまい進することを約束し、同年 4月には海援隊が成立、10月には大政奉還が実現しました。


このことから、この「清風亭会談」は幕末史上の重要な出来事のひとつに挙げられます。


なおこの会談には、後藤象二郎の計らいで、長崎の芸妓・お元も同席していたといわれています。


お元の名は、大江卓の追憶談「長崎見聞」に龍馬馴染みの芸妓として記されています。
 
清風亭は、土佐藩士・佐々木高行らの日記にもしばしば登場しており、土佐藩とは関係深い料亭でした。


また、明治初年、大隈重信が長崎から上京する際には、送別の宴が開かれています。

幕末頃には吉岡兵助という人物が主人をつとめ、従来、12畳の部屋と 8畳の部屋が 1室ずつあったといわれますが、同料亭で使用された食器の箱書には吸物膳 40客、小菜皿 100枚とあることから、もっと大きな料亭であったとも考えられます。


長い間、正確な場所は不明でしたが、大光寺 ( 鍛冶屋町 ) の過去長や明治初期の地図などから、平成 21年にこの場所 ( 旧榎津町 65番地、現在の万屋町 5番 11号一帯 ) が特定されました。
『清風亭跡 板碑より抜粋』

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荒木宗太郎 ( あらき - そうたろう ) ( ? ~ 1636 ) は名を一清 ( いっせい ) といい、通称を惣右衛門と改めた。


肥後熊本の武士であったが、天正 ( てんしょう ) 16年 ( 1588 ) 長崎に移住し現在の飽の浦 ( あくのうら ) 公園の地に壮大な屋敷を構え、※ 朱印船貿易商として活躍した。


荒木船の船旗 ( せんき ) は連合阿蘭陀東印度 ( いんど ) 会社のVOCのマークを逆にした図柄であった。


宗太郎の妻は、王加久戸女 ( わかくとめ ) と称し、交趾 ( こうち ) 国 ( ベトナム ) の王族阮 ( ぐえん ) 氏の娘であった。


長崎の人達は、彼女のことをアニオさんと呼んだが、その豪華な輿入 ( こしい ) れの有様は、現在でも「くんち」の奉納踊 ( ほうのうおどり ) の随所に取り入れられている。


なお、荒木家は 3代・伊太郎好信から 13代・惣八郎春章まで、西築 ( にしつき ) 町の乙名 ( おとな ) を勤めている。
(案内板より)


 朱印船貿易商
豊臣秀吉から朱印状を交付されて朱印船貿易商となる。

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小曽根 英四郎(こぞねえいしろう、1840年 - 1890年3月6日)は、江戸時代から明治時代まで活躍した長崎の豪商。

人物

長崎の豪商・小曽根六左衛門の四男として生まれる。長兄は小曽根乾堂

1866年坂本龍馬楢崎龍は長崎へ到着した後に出会い、楢崎龍は英四郎のあう別邸に預けられ、ピストルの操作を教わった。


1867年
に龍馬と交友を持ち当邸宅に土佐海援隊を設置し支援を行い、大洲藩からチャーターした蒸気船「いろは丸」の会計官として担当した。


生涯独身を貫き、1890年に51歳の生涯を終えた。

参考文献
文藝春秋増刊くりま「坂本龍馬がゆく」(2010年1月号)[1]


脚注
1. 目次に「『龍馬伝』を楽しむための坂本龍馬入門」に紹介している。

外部リンク
Golden Cadillac(小曽根英四郎)

海援隊(社中)

(wikiより)

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二代目・保々誠次郎
明治 26年 ~ 昭和 34年 10月 25日 ( 1893 - 1959 )

日本石鹸工業組合連合会理事長。

前名、保々三郎。

父、初代誠次郎 ( 長男 )。

明治大学を卒業し、南洋方面を視察。

大正 6年 ( 1917 ) 誠次郎を襲名。

父の創立した「芳誠舎」に入る。

日本硝酸化綿製造取締役。

養子保々英二は、先代誠次郎の 5男。67歳没。

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1877b



宇徳
株式会社 宇徳(うとく)は、神奈川県横浜市中区に本社を置く港湾運輸事業の大手。


沿革
・1890年 宇都宮徳蔵が「宇都宮徳蔵回漕店」を創業。
・1915年 株式会社に改組。
・1949年 宇徳運輸株式会社に改称。
・1980年 東京証券取引所1部に上場。
・2006年 株式会社商船三井の連結子会社となる。
・2007年 株式会社宇徳に改称。
(wikiより)

1850 宇都宮徳蔵

宇都宮徳蔵

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大倉 喜八郎(おおくら きはちろう、天保8年9月24日1837年10月23日) - 昭和3年(1928年4月22日)は、明治大正期に貿易、建設、化学、製鉄、繊維、食品などの企業を数多く興した日本実業家、中堅財閥である大倉財閥の設立者。渋沢栄一らと共に、鹿鳴館帝国ホテル帝国劇場などを設立。東京経済大学の前身である大倉商業学校の創設者でもある。従三位男爵。号は鶴彦。

生涯
生い立ち
天保8年(1837年9月24日越後国蒲原郡新発田町(現新潟県新発田市)の下町に父・千之助、母・千勢子の三男として生まれる。幼名は鶴吉。23歳の時に尊敬していた祖父の通称・喜八郎から名を取り、喜八郎と改名。


大倉家は喜八郎の高祖父の代より新発田の聖籠山麓の別業村で農業を営むが、曽祖父・宇一郎(初代定七)の時、兄に田地を返し、商いで生計を立てる。祖父・卯一郎(2代目定七)の時に、薬種・砂糖・錦・塩などで大きな利益を得、質店を営み始める。この頃より藩侯への拝謁を許されるようになる。父・千之助(4代目定七)は、天保の大飢饉で米倉を開き窮民に施すなどの経緯から、藩主から検断役を命じられるほどの家柄であったという。自叙伝『大倉鶴彦翁』などでは、"大倉家は累代の大名主で、苗字帯刀を許され、また下座御免[1]の格式ある家柄であった"との旨が記されている[2]。史実として、大倉家が新発田藩の大名主で苗字を名乗れた高い身分であったことは事実とされる[2]。喜八郎は家業を手伝う傍ら、8歳で四書五経を学び、12歳の時から丹羽伯弘の私塾積善堂で漢籍・習字などを学ぶ。この時に陽明学の「知行合一」という行動主義的な規範の影響を受けたといわれる。


嘉永
4年(1851年)、丹羽塾同学の白勢三之助の父の行動により、酒屋の営業差止めに追い込まれた事に大変憤慨し、江戸に出ることを決意。同年中に江戸日本橋長谷川町(現日本橋堀留町)の狂歌の師・檜園梅明(ひのきえん・うめあき)を訪ね、檜垣(ひがき)の社中に入る。

鰹節商・乾物商時代
江戸到着後、狂歌仲間の和風亭国吉のもとで塩物商いの手伝いを経たのち、中川鰹節店で丁稚見習いとして奉公した。丁稚時代に安田善次郎と親交を持つようになる。安政4年(1857年)には奉公中に貯めた100両を元手に独立し、乾物店大倉屋を開業。


横浜で黒船を見たことを契機に乾物店を慶応2年(1866年)に廃業し、同年10月に小泉屋鉄砲店に見習いに入る。約4ヶ月間、小泉屋のもとで鉄砲商いを見習い、慶応3年(1867年)に独立し、鉄砲店大倉屋を開業[3]

鉄砲商時代
神田和泉橋通りに開業した大倉屋は「和泉橋通藤堂門前自身番向大倉屋」と名乗り、小泉屋鉄砲店が出入りする屋敷先とは一切の商売をしないと証文を出した[4]


店頭には現物を置く資金がなかったため、注文を受けては横浜居留地に出向き百数十度に渡り外商から鉄砲などを購入した。不良銃を高値で売りつける鉄砲商が多かったため、良品を得意先へ早いかつ安い納品を心がけていた大倉屋は厚い信用を博した。そののち官軍御用達となり、明治元年(1868年)には新政府軍の兵器糧食の用達を命じられるまでになった。明治4年(1871年)7月以降は、鉄砲火薬免許商として、諸藩から不要武器の払い下げを受ける。

御用達商人としての活躍
大倉は明治元年(1868年)に有栖川宮熾仁親王御用達となり、奥州征討軍の輜重にあたる。これ以後、明治7年(1874年)の台湾出兵の征討都督府陸軍用達、明治10年(1877年)の西南戦争で征討軍御用達、明治27年(1894年)の日清戦争では陸軍御用達として活躍。日露戦争の際は軍用達となり、朝鮮龍巌浦に大倉組製材所を設立した。


実業家として
明治4年(1871年)3月に新橋駅建設工事の一部を請け負う。同じ頃、高島嘉右衛門らとともに横浜水道会社を設立し、建設工事に着工[5]。同年頃、貿易商社を横浜弁天通に開設し、海外貿易にも携わるようになる。欧米の文物の輸入から服装の一変を予見し、洋服裁縫店を日本橋本町に開設した[6]


明治5年(1872年)3月には銀座復興建設工事の一部を請け負い、同8年(1875年)に東京会議所の肝煎となる。この時、東京府知事・楠本正隆の要請で渋沢栄一も肝煎となり、以後50年に及ぶ親交を持つ。明治9年(1876年)には大久保利通ロンドンで会見した折に要請・協議した、被服の製造所である内務省所管羅紗製造所(千住製絨所と改称)を設立(払い下げは遅れた)。


明治10年(1877年)の東京商法会議所(現、東京商工会議所)、横浜洋銀取引所(横浜株式取引所)を皮切りに、様々な方面で新規事業の設立に関与した。明治14年(1881年)に鹿鳴館建設工事に着工、藤田伝三郎らとともに発起人となった大阪紡績会社も設立した。明治15年(1882年)3月には日本初の電力会社・東京電燈矢島作郎蜂須賀茂韶とともに設立し、宣伝の一環として銀座大倉組商会事務所前で日本初のアーク灯を点火し、驚嘆した市民が毎夜見学に押しかけた。明治20年(1887年)には藤田らと共同して日本土木会社内外用達会社を設立し、大倉組商会の事業を継承した。同年に帝国ホテルも設立した。この他に東京瓦斯京都織物会社日本製茶東京水道会社などの株主や委員などにも名を連ねるなど、日本の近代化に尽力した。

明治26年(1893年)に大倉土木組(現・大成建設)を設立し、日本土木会社の事業を継承、大倉組商会と内外用達会社を合併するなど、この頃から大倉財閥の片鱗を窺わせ始める。


日本初の私鉄である東京馬車鉄道をはじめ、九州鉄道山形鉄道北陸鉄道成田鉄道、日本国外では台湾鉄道京釜鉄道金城鉄道京仁鉄道など日本国内外で数多くの鉄道企業への参加、出資などを行なった。大倉は教育機関の創設にも熱を入れ、明治32年(1899年)、韓国善隣商業学校(韓国・現善隣インターネット高等学校)、明治40年(1907年)9月に大阪大倉商業学校(現・関西大倉中学校・高等学校)を創設した。特に明治33年(1900年)、還暦銀婚祝賀式の記念事業として私財50万円を投じて大倉商業学校(現・東京経済大学)を創設したことは米国の雑誌『THE NATION』で美挙と報じられた[7]


明治39年(1906年)に麦酒三社合同による大日本麦酒株式会社設立に関係し、翌40年(1907年)には日清豆粕製造(現・日清オイリオグループ)、日本皮革(現・ニッピ)、日本化学工業、帝国製麻(現・帝国繊維)、東海紙料(現・東海パルプ)を設立。


明治42年(1909年日本ホテル協会会長[8]


明治44年(1911年)に商事・工業・土木部門を営む株式会社大倉組を設立するも17年に大倉工業株式会社、大倉土木組と分離し、大正7年(1918年)には大倉商事株式会社と改称し、大倉組のコンツェルン化を行った。昭和2年(1927年)に日清火災海上保険を買収し、大倉火災海上保険(現・あいおいニッセイ同和損害保険)とするなど晩年まで精力的に活動した。同年1月5日に隠居し[9][10]、嗣子・喜七郎が家督を継承した[9]

死後
昭和3年(1928年)4月22日大腸癌のため死去[11]、没年92歳。戒名は大倉喜七郎が選定し、大成院殿礼本超邁鶴翁大居士となる。4月28日に赤坂本邸で葬儀が行われ1,000個に及ぶ花環・弔旗が贈られた。墓所は護国寺。政界からは首相・田中義一を始め若槻禮次郎浜口雄幸床次竹二郎清浦奎吾関屋貞三郎など、実業界からは三井高棟三井財閥)、岩崎小弥太三菱財閥)、安田善三郎安田財閥)、馬越恭平浅野総一郎浅野財閥)ら、国外からは張作霖陳宝琛段祺瑞蔣介石などであった。午前9時から行われた告別式では午後3時までに1万1,989名が参列した。朝日新聞や読売新聞内で渋沢栄一、益田孝武者小路実篤らが大倉について言及した。


人物

日本企業初の海外進出と3度に渡る欧米渡航
・明治5年(1872年)7月4日に民間人としては初の欧米経済事情の視察に出発。サンフランシスコニューヨークワシントンシカゴパリロンドンローマウィーンなどを訪れた。欧州滞在中に岩倉使節団と交流し、翌年8月頃帰国した。帰国後の10月に大倉組商会を設立し、自らは頭取となる。その後すぐにロンドンに日本企業初の海外支店・大倉組商会倫敦支店を設置する。日朝修好条規締結後、いち早く朝鮮貿易も始め釜山浦支店も設置。この洋行の通訳として雇った手島鍈次郎はのちに大倉組副頭取になった[12][13]。このときの同船者には松平忠礼橋本綱常横井佐平太横井太平兄)らがいた[14]

・明治17年(1884年)5月29日から翌18年(1885年)1月7日までの二回目の欧米旅行では、欧米の他、インドにも訪れ、茶箱輸出の展望を得た。

・三度目は明治33年(1900年)5月4日から9月24日の欧米商業視察では妻の徳子、嗣子の喜七郎も同行した。パリ万国博覧会への参加や革命記念祭ロスチャイルド家からの招待を受けるなどした。


  ・その後上海天津、ニューヨーク、台北メルボルンシドニーなどにも大倉組商会の支店・出張所を設置した。

趣味
・大倉は狂歌振興の同好会・面白会の結成への参加、「大倉鶴彦」名義で狂歌集を刊行するなど、狂歌の創作に熱心だった。少年の頃より戯れ歌に興味を持った大倉は、父に連れられ14歳の時に大極園柱の門に入り狂歌を学ぶ。和歌廼門鶴彦(わかのと・つるひこ)を称し、江戸に狂歌を投稿し『狂歌甲乙録』に数葉掲載された。その後もことある事に狂歌を詠み、没する14日前の感涙会までその活動は続いた。その数は数万首にも及ぶとされるが、関東大震災で大部分は焼失してしまった。小池藤五郎は「日本文学史上、これほど長期に渡り、作者として立った人物は、他に見当たらない」と、幸田露伴は「まことに心からすきたる水晶の璧にいつわりなく、あとからつけたる付焼刃の地金あやしき風流にはあらず」と評価した。

・美術品収集家としても知られる大倉は明治11年(1878年)ごろから趣味として美術品収集を始め、大正6年(1917年)には邸宅内に日本初の私立美術館大倉集古館開設した。

・狂歌以外にも一中節を趣味とした大倉は「都一鶴」という芸名をもち、「感涙会」では歌われないことはなかったとされる。また蒐集した本阿弥光悦を気に入り、60歳にして本阿弥光悦流の書の手習いを始め、朝4時に起床し7,80枚書くなど練習を重ね、晩年は全国書道大会の委員長を務めた。

・大正15年(1926年)8月に秩父宮雍仁親王立山を踏破したことに感激し、88歳でカゴと背負子に担がれた「大名登山」で南アルプス赤石岳に登頂する[15]など公私共に豪快な日々を送った。

大倉邸の美術館」 明治を代表する実業家の一人、大倉喜八郎(1837 - 1928 号は鶴彦、家紋は五階菱)は、産業の振興、貿易の発展に尽力した一方で育英、慈善事業、文化財の保護などにも功績を残した。喜八郎は、50余年に渡って多数の貴重な文化財を蒐集し、当初それらを私邸で知人たちに公開していた。当時の様子は、『風俗画報』(1903年7月10日号)に掲載された、「大倉邸美術館内の圖」(山本松谷画)などによって知ることができる。大正6年(1917) には、私邸の敷地の一角に日本で最初の私立美術館、財団法人大倉集古館を開館させた。鶴と菱形紋が描かれている。

— 清水晴風著『東京名物百人一首』明治40年8月「大倉邸の美術館」より抜粋[16]

評価
大倉の評価は驚くほどに二分される。「世にもまれな商傑」「日本の近世における大偉人」「すべてを超越した人」「木に例えれば三千四千年を経た大樹」などと絶賛される。


一方で、大久保利通井上馨らとの親交から「政商」、「死の商人」、「グロテスクな鯰」と酷評された。 毎日新聞で連載された木下尚江の反戦小説『火の柱』で大倉をモデルとした悪徳商人が「戦地に送られた牛肉の缶詰に石が詰まっていた事件」の犯人として描かれたことにより、それが事実として大倉の仕業と人々に信じられてしまった。実際は名古屋丸搭載の軍用缶詰に石ころが混入していた事件は、大連湾での積み下ろしの際に発覚したもので東京の山陽堂の荷物であったという。

詳しいことは、「大倉喜八郎ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%80%89%E5%96%9C%E5%85%AB%E9%83%8E
(wikiより)

1848 大倉喜八郎

大倉喜八郎

1848a

1848b



野間 清治(のま せいじ、1878年12月17日 - 1938年10月16日)は、講談社創業者であり、元報知新聞社社長。「雑誌王」とよばれ、昭和時代前期の出版界を牽引した。

経歴
1878年 - 群馬県山田郡新宿村(現在の桐生市)の新宿小学校(現在の桐生市立南小学校教員住宅で生まれる

1895年 - 木崎尋常小学校(現在の太田市立木崎小学校)の代用教員となる

1896年 - 群馬県尋常師範学校(現在の群馬大学教育学部)入学

1902年 - 東京帝国大学文科大学(現在の東京大学文学部)第一臨時教員養成所国語漢文科入学

1905年 - 沖縄県立中学校(現在の沖縄県立首里高等学校教諭となる

1906年 - 沖縄県視学(地方教育行政官)となる

1907年 - 東京帝国大学法科大学の首席書記に就任

1909年 - 大日本雄辯會(大日本雄弁会)を創設

1910年 - 弁論雑誌「雄辯(雄弁)」を創刊

1911年 - 講談社創業。雑誌「講談倶楽部」を創刊

1925年 - 雑誌「キング」を創刊。爆発的大ヒットとなる

1930年 - 報知社(1932年より報知新聞社)を買収

1938年 - 10月16日午後1時30分、急性狭心症で死去。法名:威徳院殿文誉義道清秀居士

2005年 - 全日本剣道連盟剣道殿堂に顕彰される  

人物
父の野間好雄北辰一刀流の剣豪森要蔵の高弟で、母ふゆは森要蔵の長女である。清治も剣道に励んだが、1912年明治45年)、東京帝国大学での稽古中にアキレス腱を断裂し、修行を断念。その後は剣道家のパトロンとして活動する。屋敷内に野間道場を開設し、持田盛二中山博道など有名な剣道家を歓待するとともに、講談社の全社員に剣道を奨励するなど全人教育として剣道の普及に努め、「剣道社長」と呼ばれた。


息子の野間恒には尋常小学校卒業後は進学させず、帝王学ともいえる独自の教育を施した。恒は1934年昭和9年)開催の剣道天覧試合で優勝し、「昭和の大剣士」と謳われた。ただし、恒を勝たせるため、東京予選決勝の対戦相手である甥の森寅雄に養育した恩をたてに詰め寄り、わざと負けさせたと当時から噂があった。現在でも、森寅雄の伝記ではそのように描かれている。


ビジネスにおける倫理の大切さを主張。ビジネスに奔走した自らの経験を踏まえ、「成功への近道とは道徳的な道に他ならない」とし、「修養」(精神をみがき人格を高めること)を積むことの大切さを説いた。


公共心旺盛で、社会貢献に積極的であった。奉仕的理想を抱くことが大切であるとして数々の社会貢献活動を行った。その遺志は現在の講談社にも受け継がれ、講談社野間記念館では、横山大観鏑木清方日本画や過去に講談社の雑誌で用いた漫画の原画などを収蔵している。

主な刊行雑誌
・「雄弁」(1910年

・「講談倶楽部」(1911年

・「少年倶楽部」(1914年

・「面白倶楽部」(1916年

・「現代」(1920年

・「婦人倶楽部」(1920年)

・「少女倶楽部」(1921年

・「キング」(1925年

・「幼年倶楽部」(1926年

著書
・『處世の道』 大日本雄辯會講談社1930年NDLJP:1037184

・『體驗を語る』 大日本雄辯會講談社(1930年) NDLJP:1443936

・『修養雑話』 大日本雄辯會講談社(1931年NDLJP:1026740

・『出世之礎』 大日本雄辯會講談社(1931年) NDLJP:1023835

・『喜劇全集』 大日本雄辯會講談社(1931年)

・『榮えゆく道』 大日本雄辯會講談社(1932年NDLJP:1279475

・『野間清治短話集』 大日本雄辯會講談社(1933年

・『世間雑話』 大日本雄辯會講談社(1935年NDLJP:1275017

・『私の半生』 千倉書房1936年

・『野間清治言志録』 大日本雄辯會講談社(1939年

編書
・『少年少女教育講談全集』 大日本雄辯會講談社(1930年)

・『武道寶鑑』 大日本雄辯會講談社(1934年

関連文献
荒木武行『人物評伝 野間清治論』 全線社書房(1931年)

・関豊作『雑誌王野間清治伝』 新聞解放社(1931年)

・高木義賢編『野間清治言志録』 大日本雄辯會講談社(1939年)

・辻平一『人間野間清治』 講談社(1960年)

・笛木悌治『私の見た野間清治―講談社創始者・その人と語録』 富士見書房(1979年)

・堂本昭彦『中山博道有信館』 島津書房(1993年) ISBN 4882180480

・出川沙美雄『奇蹟の出版王―野間清治とヘンリー・ルース』 河出書房新社(2000年) ISBN 4309904084

渡部昇一『仕事の達人の哲学―野間清治に学ぶ運命好転の法則』 致知出版社(2003年) ISBN 4884746678

関連項目
・野間三賞 - 野間文芸賞野間文芸新人賞野間児童文芸賞

野間出版文化賞野間児童文芸新人賞野間文芸翻訳賞

大宅壮一

加藤謙一

木暮剛平


外部リンク
野間清治顕彰会
(wikiより)

1847 野間清治

野間清治

1847a

1847b



白石 直治(しらいし なおじ、安政4年10月29日1857年12月15日[1][2][3] - 1919年大正8年)2月17日[1][2])は、明治から大正時代の土木技術者土木工学者東京帝国大学教授、衆議院議員実業家。旧姓は久家[1][3][4]

経歴・人物
土佐藩儒で漢学者の久家種平(忘斎)、峰の長男として土佐国長岡郡十市村(現・高知県南国市十市)に生まれ[5]1874年(明治7年)白石栄の養嗣子となる[3][4]。13歳の時、土佐藩校・致道館に学ぶ[5]。母の弟・中島信行の影響により勤王論に刺激され、長州に走ったこともあったが、維新後上京し後藤象二郎家に寄寓する[4]


1881年(明治14年)東京帝国大学工科大学土木学科卒業[2][3][4]農商務省を経て、東京府勤務となる[2][3][4]1882年(明治15年)竹内綱の二女・菊と結婚[5]1883年(明治16年)文部省より海外留学を下命され米国に留学[2][3][4]橋梁工学の第一人者として知られたレンセラー工科大学のバー(W. H. Burr)教授に師事し、ペンシルベニア鉄道会社、フェニックス橋梁会社などで実務を経験する[6]。さらに欧州へ渡り、英・仏・独の工場を回り[6]ベルリン工科大学などで学び、1887年(明治20年)帰国[2]


帰国後、農商務省御用掛、東京府御用掛を経て、東京帝国大学教授となるが、1890年(明治23年)退官[1][2][3][4]1891年(明治24年)工学博士[4]。実業界入りし、九州鉄道社長、関西鉄道社長、猪苗代水力電気、若松築港、日韓瓦斯電気、日本窒素肥料などの会社重役を歴任[1][2][3][4]。この間、携わった1906年(明治39年)竣工の神戸和田岬の「東京倉庫D号」は、日本初の鉄筋コンクリート造の建物である[4][7][注釈 1]。ほか、当時東洋一の規模を誇った長崎ドライ・ドック1904年竣工)や若松港などの建設にも関与した[1][4]


のち、郷里より推されて1912年(明治45年)の第11回衆議院議員総選挙に出馬・当選し、立憲政友会所属の衆議院議員となり(3回当選)、第35回帝国議会では全院委員長に推挙された[1][2][3][4]。その間、義兄の竹内明太郎と共に四国縦貫鉄道の山田・須崎間の鉄道建設に尽力した[5]。その後、1919年(大正8年)土木学会第5代会長となるが、就任後2か月で没した[2][4]


直治南岳と号し詩を嗜んだ[1]

著作
・『鉄道国有論』1891年12月14日。

伝記
・『工学博士白石直治伝』工学博士白石直治伝編纂会、1943年。

親族
・実父:久家種平(土佐藩儒、漢学者[3][8]

・岳父:竹内綱土佐藩士、政治家

・妻:白石菊(衆議院議員・竹内明太郎内閣総理大臣吉田茂の末妹)[3]

・婦:白石さが(長男多士良の妻、男爵・岩村透の妹)[3]

・叔父:中島信行(母・峰の弟、衆議院議員[5]

・義兄:竹内明太郎衆議院議員早稲田大学理工学部設立者)

・子:白石多士良(小松製作所初代社長、白石基礎工事およびパシフィックコンサルタンツ創業者)[2][3][9]

・子:白石宗城(パシフィックコンサルタンツ創業者、新日本窒素肥料社長)[3][9][10]

・孫:白石泰(多士良の長男、白石基礎工事社長)[10]

・孫:白石俊多(多士良の次男、白石基礎工事副社長・会長)[2][3][10]

脚注
注釈
1. 佐世保港の第一烹炊場や潜水器具庫を日本初のRC造の建築物であるとする資料[7]もある。

出典
1. a b c d e f g h デジタル版 日本人名大辞典+Plus(講談社)『白石直治』 - コトバンク
2. a b c d e f g h i j k l 公益社団法人 土木学会 歴代会長紹介、2019年6月6日閲覧。
3. a b c d e f g h i j k l m n o 人事興信所 1915, し30頁.
4. a b c d e f g h i j k l m 20世紀日本人名事典(日外アソシエーツ)『白石 直治』 - コトバンク
5. a b c d e 高知新聞社 1999, 395頁.
6. a b 高橋、藤井 2013, 135頁.
7. a b コンクリートの起源から構造物築造の変遷 Vol.07|コンクリートの色々|ケイコンブログ|ケイコン株式会社、2019年6月6日閲覧。
8. 世界大百科事典 第2版(平凡社)『白石直治』 - コトバンク
9. a b 白石 多士良 | パシフィックコンサルタンツのあゆみ - パシフィックコンサルタンツ株式会社、2019年6月6日閲覧。
10. a b c 竹内明太郎・白石直治 近現代・系図ワールド 近現代・系図ワールド、2019年6月6日閲覧。

参考文献
人事興信所 『人事興信録 第4版』 人事興信所、1915年https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1703995 

・『高知県人名事典 新版』 高知新聞社、1999年。ISBN 4875032854 

・高橋裕、藤井肇男 共著 『近代日本土木人物事典: 国土を築いた人々』 鹿島出版会、2013年。ISBN 4306094294
(wikiより)

1824  白石直治

白石直治

1824a

1824b

1824c



内田 信也(うちだ のぶや、本名:のぶなり、1880年明治13年)12月6日 - 1971年昭和46年)1月7日)は日本実業家政治家


山下亀三郎
勝田銀次郎と並ぶ三大船成金の一人。船舶事業で財を成した後、政界にも進出し宮城県知事鉄道大臣農商務大臣、農林大臣等を歴任した。実業家の窪田四郎は実に当たる。

茨城県士族・内田寛の五男[1]文芸評論家村上一郎や、大蔵事務次官神戸銀行頭取を歴任した石野信一

来歴・人物

常陸麻生藩士の家に生まれる。

正則中学麻布中学校を経て、東京高等商業学校(現・一橋大学)卒業。1905年(明治38年)に三井物産へ入社し、社船「愛宕山丸」の事務長などを務めるなど洋上勤務も経験。傭船主任にまで昇進した。


1914年(大正3年)に三井物産を退職、退職金と兄からの借金を元手に神戸で船舶ブローカー「内田信也事務所」を開業、同年12月に内田汽船を設立した[2]


1917年(大正6年)には横浜市山下町の横浜機械鉄工所を買収、1918年(大正7年)に内田造船所に社名変更した[3]第一次世界大戦の影響で造船需要が急激に高まっていたため、短期間で株式配当60割の億万長者となり、山下汽船山下亀三郎、勝田汽船の勝田銀次郎とともに船成金として実業界にその名を轟かせた。政界とのつながりもこの頃に出来たもので、このルートから不況の予兆をつかんだ内田は、1920年(大正9年)にて自社船を一括売却、内田造船所を大阪鉄工所(現・日立造船)に無償譲渡するなど、事業の大部分を売り抜けることで財産を現金化、戦後不況における没落を免れる。


1924年(大正13年)、政友会公認で第15回総選挙で当選して代議士となる。岡田啓介海軍大臣のもとで海軍政務次官となり岡田と親交を結び、犬養内閣では三土忠造逓信大臣の逓信政務次官として船舶改善助成施設の成立に活躍、岡田内閣鉄道大臣をつとめた。しかし鈴木喜三郎政友会総裁の反対を押し切って入閣したため、高橋是清床次竹二郎山崎達之輔とともに政友会から除名された。のちに政友会から除名された議員や彼らに従って離党した議員らとともに昭和会を結成する。


二・二六事件
の直後には内大臣府秘書官長木戸幸一に「株価が下がってしまうからはやく新しい内閣を作ってほしい」と頼み、木戸はこの非常時に株とは商人は言うことが違うと驚いたという。この時期に岡田の他に近衛文麿宇垣一成らとも深いつながりを持つようになった。

昭和会の解散後、内田は昭和会に所属していた他の議員と国民同盟に所属する議員らとともに院内会派第一議員倶楽部に所属した。1939年(昭和14年)に政友会が分裂すると、旧昭和会所属議員のうち政友会出身者の大半は中島知久平が総裁となった親軍的な政友会革新同盟(革新派、中島派とも)に合流したが、内田はこれには同調せず、同じく政友会から昭和会結成に参加した守屋栄夫とともに第一議員倶楽部に残留した。


その後宮城県官選知事を務めたのち、1944年(昭和19年)2月19日に東條内閣農商務大臣として入閣。その後、貴族院勅選議員に勅任される(1946年3月13日辞任[4])。東條内閣の閣僚ではあったが、戦中はむしろ近衛文麿グループの一員として吉田茂ら早期終戦派と会合を行った。早期終戦のため宇垣一成の首相担ぎ出しも試みるが、宇垣は近衛に不信感を持っていたため失敗した。


戦後は公職追放にあったが、追放解除後の1952年(昭和27年)に再び衆議院議員になる。第5次吉田内閣では農林大臣をつとめ、明治海運取締役会長等を歴任し海運界に重きをなした。1971年(昭和46年)1月7日に90歳で死去。


熱海市
指定有形文化財起雲閣を別邸として建設。1917年(大正6年)、旧制水戸高等学校開校のために、100万円を寄付したことでも知られる。

逸話

東海道本線垂井駅東側の相川橋梁で列車の転覆事故[5][6]にあった際に「おれは神戸の内田だ。金はいくらでも出す、助けてくれ。」と叫んだという話はいかにも成金らしいエピソードとして有名になった(内田本人は実際には『金はいくらでも出す』という部分は言っていないと回想している。『風雪五十年』51頁)。

著書に『風雪五十年』。宗教禅宗[1]趣味運動柔道[1]

脚注
1. a b c 猪野三郎監修『第十版 大衆人事録』(昭和9年)ウ四七頁より
2. 第一次大戦期における船成金の出現―内田信也と山下亀三郎―上岡一史、法政大学イノベーション・マネジメント研究センター、2019年8月4日閲覧。
3. 地図から消えた幻の島「山瀬町」がかつて新山下にあった?はまれぽ、2019年8月4日閲覧。
4. 『官報』第5749号、昭和21年3月15日。
5. 実兄は即死。1919年7月31日付大阪毎日新聞(神戸大学附属図書館新聞記事文庫)
6. 事故写真『歴史写真. 大正8年9月號』(国立国会図書館デジタルコレクション)

参考文献
・『新訂 政治家人名事典 明治〜昭和』(2003年、編集・発行 - 日外アソシエーツ、90頁)

関連項目
士族

成金

外部リンク
明治海運グループ

内田信也|近代日本人の肖像 (国立国会図書館) - 肖像写真及び略歴
(wikiより)

1815 内田信也

内田信也

1815a

1815b



岡崎 久次郎(おかざき きゅうじろう、1874年1月14日[1] - 1942年3月20日)は、日本実業家政治家衆議院議員(通算6期)。

経歴
神奈川県出身。1895年高等商業学校(現一橋大学)卒。同期に佐野善作(経済学者)、石井健吾(元第一銀行頭取)など[2]。卒業後三井物産に入り、その後退職して大日本自転車、日米商店(のち日米富士自転車)を創業する。相模鉄道初代社長。


1912年
第11回衆議院議員総選挙岐阜県から無所属で立候補して当選する。1915年第12回衆議院議員総選挙では立憲同志会公認で立候補して当選。その後一旦政界から引退し、時をおいて1928年第16回衆議院議員総選挙で神奈川3区(当時)から立憲民政党公認で立候補して当選し政界に復帰、以降4期務めた。


1940年
2月、衆議院本会議で斎藤隆夫が「支那事変処理を中心とした質問演説」(いわゆる反軍演説)をした際に所属していた民政党が斎藤の議員除名に賛成する方針を取ったのに対し岡崎はこれに反対し離党して、決議では反対票を投じた[3]。この時除名反対票を投じたのは岡崎を含めて7名であり[3]、そのうち斎藤の所属政党である民政党に所属していたことがある議員は岡崎以外では1930年に行われた第17回衆議院議員総選挙に民政党公認で立候補して初当選した北浦圭太郎のみであった。なお北浦は1939年に行われた衆議院議員選挙の再選挙に無所属で立候補して2度目の当選を果たす前に民政党を離党しており、反軍演説のときは院内会派の第一議員倶楽部に所属していた[3]


後に同交会に入り、1942年に死去した。

家族
・弟 岡崎勝男外務大臣


脚注
1. 『第拾壱回改選 代議士銘鑑』、国華新聞社、1912年。
2. 「十五 石井健吾/42」人物評論社編『財界巨星二十人伝』 (人物評論社, 1937)(国立国会図書館デジタルコレクション)
3. a b c 『昭和の政党』、364頁。

参考文献
・『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』(衆議院、1990年)


粟屋憲太郎 著 『文庫版 昭和の歴史 第6巻 昭和の政党』 小学館1988年11月1日第1版第1刷発行、ISBN 4-09-401106-4
(wikiより)

1794  岡崎久次郎


岡崎久次郎


1794a

1794b



1794c



沖 牙太郎(おき きばたろう、1848年5月10日嘉永元年4月8日) - 1906年明治39年5月29日))は、明工舎(沖電気の前身)創業者[1]。日本で初めて電気通信機器の製造・販売事業を興した技術者実業家

略歴
1848年5月10日安芸国沼田郡新庄村(現在の広島市西区新庄町)の農家に生まれる[2]。因みに、同日に資生堂創業者の福原有信も産まれている。


1874年(明治7年)実家の農業を嫌い、27歳で銀細工師の腕だけを頼りに文明開化東京に飛び出し[3]工部省電信寮(1877年電信局)で電信技術に携わる。電信寮の同僚に田中大吉三吉正一[4]


1877年(明治10年)西南戦争を機に電信事業の必要性が増大すると、政府からの電信機国産化の要請を受けて電信用の電気針や電極器などの製作に努力し、同年米国から渡来した電話機の国産製造実験にも参加[1]。この頃から電信局の三吉ら若手技術者達を糾合し、同局内に電気機械の国産化を試みる研究グループを設立した[1][5]。 狩野タケと結婚[2]


1879年(明治12年)電信局に所属のまま、東京・芝西久保桜川町(現在の港区虎ノ門)の長屋で電信局の下請け工場を始め、新製品の研究に没頭[3]


1881年(明治14年)電信機・電話機・電線・電鈴等の製造、販売を目的として東京・銀座に日本初の通信機器メーカー「明工舎」(後の沖電気工業)を設立[6][7]、同年、国産第1号電話機を製造[6]


1882年(明治15年)松方財政によるインフレーションで一時経営危機に陥るが、陸軍省に納品した軍用携帯印字機と軍用電池が高い評価を受け、政府が打ち出した将来の対清戦争を前提にした軍備拡張計画も相まって受注が増大。東京~横須賀間の海軍専用の電話線を架設し、軍用電話も納入した[3]。また浅草凌雲閣の電話設備を請け負うなど広告戦略も導入し、会社の基礎を確立した[1][5][8]。明治20年前後には、電灯に比べて電話の進歩は遅れていたが、牙太郎の宣伝の上手さもあって電話機において東京では独占的な地位を得る[3]


1889年(明治22年)明工舎を沖電機工場と改称。


1899年(明治32年)逓信省のバックアップで中国に進出し、広東市で電話局開設に乗り出すが、輸出がうまくいかず撤退[3]


1904年(明治37年)日露戦争では前線の連絡に沖の携帯電話機が多く使われた[3]


1906年(明治39年5月29日)死去。

脚注
1. a b c d 『日本の創業者 近現代起業家人名事典』63-65頁
2. a b 『沖電気100年のあゆみ』
3. a b c d e f #流される18-26頁
4. 港区ゆかりの人物データベースサイト・人物詳細ページ (沖 牙太郎)
5. a b 第2回 起業、そして事業拡大へ|時代とOKI|OKI
6. a b わが国初の通信機器メーカー「明工舎」
7. 最初の197回線 - NTT
8. 沖のあゆみ 電話拡張計画実施でトップメーカーに/WE社との提携交渉

参考文献・ウェブサイト
・『日本の創業者 近現代起業家人名事典』2010年、日外アソシエーツ

時代とOKI|OKI

最初の197回線 - NTT

沖牙太郎と 岩垂邦彦―(日本の企業家活動シリーズNo.50) - 法政大学イノベーション・マネジメント研究センター

小林信彦『流される』文藝春秋、2011年。

関連項目
岩垂邦彦

小林信彦

外部リンク
朝日日本歴史人物事典『沖牙太郎』 - コトバンク

沖のあゆみ

港区ゆかりの人物データベースサイト・人物詳細ページ (沖 牙太郎)
(wikiより)

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1771b



御木本 幸吉(みきもと こうきち、安政5年1月25日1858年3月10日) - 昭和29年(1954年9月21日)は、日本の実業家。真珠の養殖とそのブランド化などで富を成した人物である。御木本真珠店(現・ミキモト)創業者。ミキモト・パール真珠王とも呼ばれた。

生涯
誕生
志摩国
答志郡鳥羽城下の大里町(現在の三重県鳥羽市鳥羽一丁目)で代々うどんの製造・販売を営む「阿波幸」の長男として生まれた。父は音吉、母はもと。幼名は吉松と名付けられた。父は商売よりも機械類の発明・改良に関心があり、1881年(明治14年)には粉挽き臼の改良により三重県勧業課の表彰を受け賞金100円を授与されている。祖父・吉蔵は「うしろに目があるような人」と言われたように、先が見え商才に恵まれていた。大伝馬船を10艘も持ち石材の運送で儲ける一方、家業のうどん屋のほか薪、炭、青物などの販売を手広く営み財をなしたと伝えられる。幸吉は晩年、「三つ子の魂は祖父に育てられた」と述懐している。正規の教育は受けていないが、明治維新によって失業した士族の栗原勇蔵、岩佐孝四郎らに読み書きソロバン、読書などを習った。

商才と向上心と社交性
早くから1杯8厘のうどんでは身代を築くのは無理と分かっていたようで、14歳で家業の傍ら青物の行商を始める。大きな目標を掲げる事で自分自身に課題を与え自らを鼓舞するところがあり、時として大法螺吹きといわれた。足芸(仰向けに寝て足の平で蛇の目傘を回す芸)の披露で、イギリスの軍艦・シルバー号へ青果や卵を売り込むのに成功した。また、マスコミを利用する点では今で言うやらせにあたるようなことも考え出し、実行するような勇み足もあったともいわれている。

真珠に到る助走路
1876年(明治9年)の地租改正で、納税が米納から金納に変わったのを機会にが商売の種になるとみて青物商から米穀商に転換。1878年(明治11年)には20歳で家督を相続、御木本幸吉と改名する。同年3月東京、横浜への旅により天然真珠など志摩の特産物が中国人向けの有力な貿易商品になりうることを確信、海産物商人へと再転身した。海産物商人としての幸吉は自らアワビ天然真珠ナマコ伊勢海老牡蠣天草サザエハマグリ泡盛など種々雑多な商品を扱う一方、志摩物産品評会、志摩国海産物改良組合の結成などに参加、地元の産業振興に尽力した。その後、志摩国海産物改良組合長、三重県勧業諮問委員、三重県商法会議員、などを務め地元の名士になっていた。

時代の転換期に
幸吉の飛躍の始まりは明治維新という時代背景がきっかけである。職業選択の自由、身分を越えた結婚が可能になり富国強兵のスローガンの下で海国日本の殖産興業政策により1882年(明治15年)、大日本水産会が創設された。1881年(明治14年)、結婚。妻・うめは当時17歳。鳥羽藩士族・久米盛蔵の娘で新しい学制の小学校とその高等科をでた才女であり、維新以前ではこの結婚は考えられなかった。1883年(明治16年)、父・音吉が54歳で死去。

アコヤ貝の養殖
世界の装飾品市場では、天然の真珠が高値で取引されており海女が一粒の真珠を採ってくると高額の収入を得られる事から、志摩ばかりでなく全国のアコヤ貝は乱獲により絶滅の危機に瀕していた。この事態を憂慮して1888年(明治21年)6月、第2回全国水産品評会の為上京した折、主催者である大日本水産会の柳楢悦を訪ね指導を仰いだ。幸吉は同年9月11日に貝の養殖を開始したが、真珠を生まない限り商品としての価値が低く経費倒れに終わった。この為発想を転換し「真珠の養殖」を最終目的に変え、その過程でアコヤ貝の生態を調べながら貝の養殖をすることで当初の目的が採算的にも果たされる事を計画。この目的の為に柳の紹介で東京帝国大学箕作佳吉と当時大学院生だった岸上謙吉1890年(明治23年)に訪ね、学理的には養殖が可能なことを教えられた。

外国での養殖例
中国で実際行われた方法は乾道3年(1167年)に公刊された『文昌雑録』巻第一にその記述がある。仏像真珠(胡州珍珠)と称されて、浙江省で養殖され続けてきたものである。人工で作った珠を貝の中に入れるという方法で、貝付き真珠、一種の半円真珠である。この仏像真珠に関しては清に滞在したキリスト教の神父B.E.X.アントレコールが1734年にフランス本国に報告している。また、イギリスのD.T.マッゴーワンは1853年にこの方法を詳しくロンドンの芸術協会に報告している。これらの報告によりヨーロッパでは多数の人々が研究実験を行った。


日本では、1881年(明治14年)11月発行の海産論に中国の仏像真珠が図示されていることでもわかるように、ヨーロッパ経由での中国の方法が公知されており、課題は真珠養殖の産業化であった。産業化という国家の要請を背景に、幸吉の情熱と周囲の協力体制での取り組みが結果的に勝っていた事になる。

養殖実験開始
1890年(明治23年)、神明浦と相島(おじま、現在のミキモト真珠島)の2箇所で実験を開始した。この時小川多門猪野三平等が協力した。問題は山積しておりアコヤ貝についての問題、どんな異物を貝に入れるか、貝は異物を吐き出さないか、貝は異物を何処に入れるか、その結果死なないか、貝そのものの最適な生育環境、赤潮による貝の絶滅への対応策等々である。その他の問題としては、海面及び水面下を利用する為の地元漁業者や漁業組合との交渉や役所との折衝には大変な苦労が伝えられている。


1891年
(明治24年)、農商務省技手・山本由方による広島県厳島での真珠養殖実験を直接見聞。この時のアコヤ貝は英虞湾から幸吉らが移送に協力した。


1892年(明治25年)7月、東京帝大の佐々木忠次から貝の生存環境・養成上多くの示唆を得た。

縁者の協力
1893年(明治26年)7月11日、実験中のアコヤ貝の中に半円真珠が付着している貝を発見した。


1896年(明治29年)1月27日、半円真珠の特許(第2670号)取得で世の中に認知された第一歩となった。同年4月21日、妻・うめが32歳で死去。開拓者として当然の事ながら周囲は途方も無い事と感じ直接的に幸吉の作業を手伝う者は身近な親族だけであったが、特許取得をきっかけにまず親族が積極的に関わった。妻の兄であった久米楠太郎、幸吉の次弟・御木本松助夫妻、三弟・森井常蔵夫妻、須藤卯吉1897年(明治30年)秋には幸吉の五弟・斎藤信吉、1899年(明治32年)には竹内久吉猪野若造猪野三平の子息)、藤田嘉助大谷幸助らが従業員として田徳島(現・多徳島)に移住、「海のものとも山のものともわからぬ事業に一身をかける人間は身内以外にはいなかった」と幸吉の四女・乙竹あいが後に語っている。対して、大林日出雄『御木本幸吉』には「『ヒモのつく恐れのある出資は彼の事業独占を制約することがある』と考えたのではないか」と書かれていて、幸吉が大口出資を断った事実があることを記している。


その他研究には元歯科医だった桑原乙吉、次女みねの夫・西川藤吉が加わる。西川は東京帝大動物学科卒、農商務省に在籍し、箕作の下で真円真珠の科学的研究を行っていたが、1905年(明治38年)の赤潮の調査をきっかけに御木本の元で研究をはじめた。しかし1909年(明治42年)6月、35歳で死去。同時代の研究者に見瀬辰平西川藤吉の研究を引き継いだ藤田輔世藤田昌世らがいる。


出店の歩み
1899年(明治32年)、東京府東京市京橋区弥左衛門町に御木本真珠店(本店)を開設。

1902年(明治35年)、御木本真珠店を京橋区元数寄屋町に移転。

1906年(明治39年)、御木本真珠店を京橋区銀座四丁目に移転。

1907年(明治40年)、市川源次郎専属下請工場を買収し、京橋区築地に御木本金細工工場を開設。

1908年(明治41年)、御木本金細工工場を東京市麹町区内幸町に移転。

1913年(大正2年)、ロンドン支店を開設。大阪府大阪市東区淡路町に大阪支店を開設。

1916年(大正5年)、中国視察にでかけ、上海支店を開設。

1919年(大正8年)、東京市芝区三田豊岡町に貴金属第二工場を開設。

1921年(大正10年)、本店横に御木本装身具店を開設。

1923年(大正12年)、貴金属工場を統合して真珠店工場とする。

1927年(昭和2年)、ニューヨーク支店を開設。

1928年(昭和3年)、パリ支店を開設。

1929年(昭和4年)、ボンベイ支店を開設。

1931年(昭和6年)、ロサンゼルス支店を開設。大阪支店を閉鎖し、兵庫県神戸市神戸区仲町に神戸支店を開設。

1933年(昭和8年)、シカゴ支店を開設。

1937年(昭和12年)、ロサンゼルス支店を閉鎖し、サンフランシスコ支店を開設。

1942年(昭和17年)、内幸町工場を東京市目黒区上目黒に移転。

特許取得
1896年(明治29年)、特許第2670号真珠素質被着法の特許権を取得した。半円真珠の特許といわれているものである。


「真珠と甚だしく等差のない物質、例えば貝殻、硝子、陶磁器または下等の真珠を球形の小粒と成したるものを核となし、これを球のまま、または一部切り落としを設けてその転動することを防ぐようにし食塩にて振揺するか又は濃厚な食塩水に浸したあと、生活せる貝の外套膜に接して挿入し、この核に真珠質を被着せしめ真珠を形成せしむるにあり」(特許第2670号 明治29年1月27日 明治27年11月出願)


この特許取得によって真珠事業の独占が可能となり、御木本は他の事業を整理し、真珠事業に専念することとなった。この後、これにならって真珠養殖を行う者が現れ、幸吉は北村幸一郎他2名を特許侵害で訴えたが大審院で無罪判決が下った。裁判の過程でこの特許の大部分は幸吉が出願した以前から公刊物により周知の事実であったとされた。この無罪判決によって、御木本幸吉の独占の時代が終わり、真珠養殖が大きく広まったとされる。紛争は続いたが特許の存続期間が終了して問題はなくなった。


1916年
(大正5年)、特許第3002号真珠素質被着法の特許権を取得。


「本発明は適宜の核を貝の真珠素質分泌細胞組織の皮膜に被包し之を生活せる真珠貝の外套膜の表皮を剖き其部分に密接して圧着し適当時間之を放置したる後海中に放養するときは植皮的に付着発育せしめて容易に真珠袋を形成せしめ核を排出することなく完全なる球形真珠を作り得るにあり。(下略)」(特許第3002号 大正5年9月11日、大正5年5月3日出願)


なお真円真珠についての特許は幸吉の次女の婿である西川藤吉が出願し、相続人である西川真吉が取得したものがある。また桑原乙吉の発明が御木本幸吉名義で出願登録されたものも多い。


御木本幸吉が取得した主要な特許をたどると、


1. 半円真珠から真円真珠に到る特許

2. 特に半円真珠に関わる加工上の特許(容飾真珠)

3. アコヤ貝養殖方法に関する特許(養殖籠・海底いけ籠)

4. 1924年(大正13年)、母貝が子貝を生み育てる為の《仔蟲(しちゅう)被着器》の特許(この発明によって、アコヤ貝の全滅を救う当初の目的が達成されるようになった)

がある。

人々の協力
1896年(明治29年)4月の妻・うめの死は痛手であったが、天性の社交性と熱意により多数の人々が幸吉を応援している。養殖に関して一目置いていたのは、7歳年下の小川小太郎1865年 - 1889年)であった。小川は早くから真珠の養殖に関心を持ち実験もしていたが、24歳で没した。


志摩国答志郡の郡長であった河原田俊蔵は勧業に熱心だった事から勧業郡長とあだなされ、柳に紹介状を書いてくれた。


四日市万古焼商人だった親友の川村又助はアコヤ貝の中に入れる核の製造に関し協力を惜しまなかった。藤田四郎1861年 - 1934年)は同郷で藩校・尚志館の句讀師(漢学者)龍蔵の四男、東京帝大卒、農商務省特許局長で(のち事務次官、日本火災社長、台湾精糖社長)、宮内省御用達となる際の保証人になった。


他にも愛知県出身の農商務省局長・織田一1865年 - 1914年)、埼玉県深谷出身の財界の重鎮・渋沢栄一は幸吉の渡米にあたって発明王・エジソンらに紹介状を書いた。エジソンとの会見では、真珠養殖を驚嘆すべき発明と讃えられたことに対し幸吉はエジソンを巨星に例え、自分は数ある発明家の星の一つに過ぎないと返答したと伝えられている。土佐出身の森村市左衛門1875年(明治8年)、森村組を創設し日米貿易協会長、日本銀行監事などを務め、当時対米貿易の第一人者といわれていた。その組織を通じて輸出市場の調査や販売の拠点作りに協力した人など多くが助力した。

詳しいことは、「御木本幸吉ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E6%9C%A8%E6%9C%AC%E5%B9%B8%E5%90%89
(wikiより)


1763 御木本幸吉

御木本幸吉

1763a

1763b

1763c



吉永道雄 ( よしなが - みちお )     
大正 6年 4月 29日 ~ 昭和 61年9月 6日 ( 1917 - 1986 )

日本で初めてガスライターを製品化した人。

昭和 9年 ( 1934 ) 東京都立工芸卒業。

昭和 13年 ( 1938 ) 家業の機械製作業を継ぎ、のち「吉永商店」を創設。

昭和 23年 ( 1948 ) 8月 31日吉永プリンス株式会社に改組して社長に就任。
 
東京都喫煙具商業共同組合理事長・日本喫煙具協会長・日本軽工業品団体連合会長を歴任。

昭和 36年 ( 1961 ) オイルライター全盛の時代にガスライターを草加市にある自社工場で完成させた。この時のモデル「プロナ 61」は、プリンスガスライター第1号機として発売された。69歳没。

 吉永プリンス ( 株 ) は、ライターを主要商品とした喫煙具の会社であったが、のちに平成 4年 ( 1992 ) ハンドバッグや日用品に商品を拡大し、ヨシナガ ( 株 ) となり、さらに平成 17年 ( 2005 ) スタイル・インデックス株式会社となっている。

台石「吉永家」。「慈眼院殿玄道雄峯大居士」。

1738a

1738b



安藤太郎(あんどう たろう、1910年明治43年)1月3日 - 2010年平成22年)5月9日)は、日本実業家住友銀行副頭取、住友不動産社長、会長、相談役を務めた。

来歴
安藤太郎は、1910年1月3日、安藤源治郎の長男として宮城県刈田郡七ヶ宿町にて出生。仙台二中旧制水戸高校を経て、1934年昭和9年)東京帝国大学法科を卒業して、住友銀行へ入行。


住友銀行では、東京副支店長、東京事務所次長、本店営業部次長、そして銀座・日本橋の各支店長を歴任。

1959年
(昭和34年)6月には東京事務所長、同11月取締役に就任する。1962年(昭和37年)4月に常務へ昇格、1967年(昭和42年)5月には専務、1972年(昭和47年)5月副頭取に就任する。副頭取は1974年(昭和49年)5月まで2年1期務め、その後住友不動産へ転じて社長、会長を務めた。


2008年平成20年)6月27日付で健康上の理由で取締役を退き、相談役となった。

2010年(平成22年)5月9日老衰の為、東京都内の自邸にて逝去[1]。100歳没。

都銀懇話会の三羽烏
安藤太郎が、金融界で注目されるようになったのは、東京事務所所長時代である。当時住友銀行は大阪が本店所在地であり、銀行のみならず、住友系企業グループの経営基盤は関西が多かった。その意味において住銀の東京事務所は、東京を中心とする政財界の動きはもとより、各方面のさまざまな情報を収集する「東京探題」として重要な役割を担っていた。


いわば東京事務所は、秘書室と広報室と総務部をいっしょにしたような機能を持っていたわけである。安藤は常務時代、「都銀懇話会」での活躍が特筆される。当時、都市銀行がしょって立つ経営基盤の戦略は、すべて「都銀懇話会」で生み出されたものといっても過言でなく、都銀の経営ビジョンづくりのタスクフォースとして注目された。当時「都銀懇話会」で「三羽烏」と呼ばれていたのは、富士銀行松沢卓二常務、三菱銀行の黒川久専務、それに安藤であった。松沢は後に、富士銀行の頭取、黒川は副頭取から三菱油化社長に転出した。

家族
安藤太郎の妻満寿子は、山口県旧家の二代目百合本安太郎の二女。満寿子の姉香代子は元福岡県弁護士会長の白川慎一に、妹の直子はダイワ精工顧問秋庭正義に嫁いでいる。秋庭正義の叔父にあたる、秋庭義衛の妻千重子は、旧子爵第一銀行頭取渋沢栄一の孫娘で旧子爵、大蔵大臣貴族院議員、東京市長を歴任した阪谷芳郎の四女。したがって阪谷芳郎の孫娘らを娶っている大島寛一(元農中金副総裁)や経団連会長植村甲午郎の長男植村泰恵(東大理学部教授)らは甥にあたる。


安藤太郎の長姉みゆきの女婿、安藤秀夫は、日本出版販売相談役相田岩夫の実弟である。相田岩夫の妻静は、元内閣総理大臣濱口雄幸の二女。濱口雄幸の長男濱口雄彦(元国際電信電話会長)の二女淑は、上皇后美智子の兄である正田厳に嫁いでいる。

栄典
1884年(明治17年)6月30日 - 正六位[2]

1892年(明治25年)2月22日 - 正五位[3]

勲一等瑞宝章1990年

関連項目
住友家評議員会


脚註
1. “住友不中興の祖、安藤太郎氏死去 多角化経営で立て直す”. 共同通信. (2010年5月12日). http://www.47news.jp/CN/201005/CN2010051201000634.html 2014年5月21日閲覧。 
2. 『官報』第301号「叙任及辞令」1884年7月1日。
3. 『官報』第2591号「叙任及辞令」1892年2月23日。
(wikiより)

1734  安藤太郎

安藤太郎

1734a

1734b



浅沼藤吉 ( あさぬま - とうきち ) 
( 1852 - 1929 )

明治 - 大正時代の実業家。


嘉永 ( かえい ) 5年 10月 29日生まれ。


明治 4年日本最初の写真薬品、材料をあつかう浅沼商会を東京に創設。


写真台紙の国産化、乾板や木製の組立暗箱の製造、カメラの輸入など、写真材料、機器の製造・販売で業界をリードした。


昭和 4年 10月 13日死去。78歳。

安房 ( あわ )( 千葉県 ) 出身。

1654a

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永田 雅一(ながた まさいち、1906年1月21日 - 1985年10月24日)は、日本実業家映画プロデューサープロ野球オーナー馬主昭和初期から後期(1930年代後半 - 1980年代前半)に活動。大映社長として「羅生門」などを製作。プロ野球大映球団のオーナーとなり、パ・リーグの初代総裁。大言壮語な語り口から「永田ラッパ」の愛称でも知られた。

経歴
出生
京都府京都市中京区三条通油小路下ルで生まれた[1]。父・永田芳太郎、母・紀美の長男[1]。生家は染料友禅問屋であった[1]。父は熊本県阿蘇出身、母は東京出身[2]。雅一が3つぐらいのときから家運が傾きはじめた[1]工場が火事になったり、女中と小僧が金を持って駆け落ちしたりで転落に拍車をかけた[1]。やむなく両親は同じ中京区御池通神泉苑町に小さい家を建てて引越し、商売を縮小したのだが、父が友人の借金の保証をして破産の憂目を見ることになった[1]。それで再び転居し、同じ町内で新しく借家住いの境涯になった[1]

上京
満13歳、小学校卒業と同時に、青雲の志を抱いて上京した[2]。当時東京証券交換所で常務をしていた親戚を頼って「小僧にしてくれ」といったが、小僧になるのにも中学くらいの学歴が必要だった[2]。そこで補欠試験をうけて大倉商業(現・東京経済大学)に入った[2]。しかし、学業半ばで父が47歳をもって脳出血で突如急死した[2]ために「両親健在のうちに永田家を復興させたい」という念願は挫折し[2]、その失意も手伝ってか大倉商業を4年で中退した[3]

帰郷

1923年9月1日、関東大震災が発生した。永田は青年団の一員として整理によく働いた[3]。その月の18日には避難民を送る長崎丸に便乗を許されて神戸に行き、京都に帰ることができた[3]


青年多感の永田は、英雄主義的な気持ちから次第に社会主義にかぶれていった[3]。それゆえに特高に絶えず尾行された[3]にもかかわらず、いろいろなデモや集会に参加した[4]。一時は京都のヤクザ「千本組(皇民党事件の荒寅千本組はその流れを汲む)」に籍をおいた。永田によれば「私の仲間に二条駅で貨物の荷役を請負っていた千本組の元締笹井三左衛門の息子の末三郎というのがいた。この笹井というのは京都でも十番目ぐらいの多額納税者で、一部の子分はともかく、オヤジそのものは決してヤクザではない。」という[4]。永田は、警察官に夜となく昼となく尾行される身の上になっていき[4]、これを嘆いた母からは父の位牌を膝の前にして折檻され[4]、家を追放された[4]

映画界へ

家を追われた永田はマキノ兄弟との縁から1925年、日本活動写真(現・日活)京都撮影所に入所し、映画人としての道を歩む。無声映画時代の映画のロケ現場は見物客からおひねりが飛び交い、それ自体が興行のようなものだった。永田はこのおひねりを拾い集め、撮影仲間と女郎屋へ繰り出すという毎日だったという[5]。 駆け出しの永田は便利屋として働き、持ち前の雄弁さと、人を外らさぬ社交術で、藤村義朗浅岡信夫望月圭介らに可愛がられ政界への足場を築く[6]


戦後、河野一郎岸信介との交流から、一時政界のフィクサーとなっていた時期があった。特に警職法改正で閣内が分裂した際に当時の岸首相が大野伴睦に対してされたとする政権禅譲の密約を交わした際に萩原吉太郎児玉誉士夫とともに立会人になったとされている。

映画界の父

1934年日活を退社して第一映画社を創立し、自前のスタジオにて映画を製作している。1936年、同社が解散する際には従業員を前に泣きながら解散の弁を語ったとされる。その後は松竹大谷竹次郎の知遇を得て、俳優達を引き連れて大谷が経営する新興キネマの京都撮影所長となるのが表の履歴である。しかし、竹中労の『聞書き アラカン一代』によると撮影所所長の職は第一映画社を解散する前に約束されており、そもそも第一映画社の投下資本は「松竹」の出資であったとしている。大谷の実弟である白井信太郎(新興キネマ)をバックにつけて、日活の分裂に動いた永田がそのまま大谷の傘の下に入ったとしており、引き抜きや労務管理の汚れ仕事を受け持つ別働隊であったと暴露している。


永田の泣きの芝居の一週間前には東宝から金を引き出していた日活の堀久作常務(当時。後に社長)が逮捕され、日活と東宝の提携が調印後、壊されている。何もかも日活配給網を得んとする松竹の野望から始まり、小林一三阪急阪神東宝グループ創業者)の「大東宝」構想との衝突が根本にあったとされる。1942年、政府の勧奨で映画会社が統合される際に、業界を東宝ブロックと松竹ブロックに二分する動きがあるのを察知すると、当局に掛け合って新興キネマと日活を軸とした第三勢力による統合を認めさせ、「大日本映画製作(大映)」の成立に成功。この立案をした情報局第五部の第二課長に贈賄をしたという噂は当時から残っている。成立と同時に作家の菊池寛を同社社長に担ぎ出し、自らは専務に就任。1947年には社長となる。翌年1月公職追放となるが、間もなく追放解除となり社長に復帰した[7]

大映社長として

社員をすべて縁故で固め、その息子や親戚を採用し、自らをカリスマ化した。映画の企画もすべて永田の意見で決められた。監督の森一生は「企画をいくら出しても一本も通らなかった。しまいには『芸者に聞いたらこんなもんあかんゆうた』と言われた。」と述懐している。こうした公私混同とは別に、大映の企画副部長を務めた奥田久司は「功罪のうちの功」として、永田が他社に先駆けて1947年ごろに「定年60年制」を独断で採用したことを挙げている(他の映画会社は現在も「定年55年制」である)[8]


1951年
後述する様に個人所有していた競走馬トキノミノルが10戦全勝で東京優駿(日本ダービー)を優勝する。その3ヶ月後には『羅生門』がヴェネツィア国際映画祭グランプリ、アカデミー外国語映画賞を受賞。


この様に大きな栄誉がそれぞれ永田と大映作品にあったこの1951年こそが、若いころの刻苦を乗り越え、やがて強運を掴んで上り詰めた永田の人生の絶頂点であったと見る向きもある[9]。その一方では、トキノミノルが東京優駿からわずか半月後に急死してしまうというアクシデントも起きていた。


とはいえ、この『羅生門』の受賞を契機としてその後も『雨月物語』(ヴェネツィア国際映画祭 銀獅子賞受賞)『地獄門』(カンヌ国際映画祭 グランプリ受賞)[10]等の国際的に名声を得た大作を手掛ける一方、日本初の70ミリ映画『釈迦』も手掛けた。


『地獄門』[10]では、企画会議で全社員が反対するなか、「そんなら俺一人でやる!」と強引に製作。その結果、カンヌ国際映画祭でグランプリを獲っており、アカデミー特別賞も受賞。一方、多数の証言が一致する点では、永田は『羅生門』では制作立案の段階で無関心であった。グランプリ受賞の報に狂喜乱舞する新聞記者たちに「で、グランプリってのはどのくらい凄いんだ?」と聞きなおしたが、その後は自分の功績を並べ立てた。黒澤へ顕彰の証を渡さず大映本社に飾った永田に対して、当時の狂句は「黒澤明はグランプリ、永田雅一はシランプリ」と揶揄している。1954年には菊池寛賞を受賞した。


大映全盛期には異例の5割配当を行うなど、自身の手掛ける作品には絶対の自信を持ち、それ故プロ野球以外の副業には殆ど関心を示さなかった。映画の製作・配給は行っても、興行はほとんど既存の地方興行主に任せており、直営の映画館は皆無に近かった。東宝の小林一三も「君はグランプリ・プロデューサーだから興行みたいなチマチマしたことはせずに製作すれば必ず僕のところで上映しよう」と言ったとされる。 1953年には、松竹、東宝、東映新東宝に呼びかけ五社協定締結を主導。各映画会社に所属する技術者や俳優の他社への出演を原則禁止した。五社協定は1954年に戦前の映画制作を再開させた日活への対抗策として発足したが、1958年にその日活も加わって、テレビ業界への対抗策と化した悪名高き六社協定に発展する(1961年に新東宝が倒産して五社協定に戻る)。後にこの協定に絡み、大映の看板スターだった山本富士子田宮二郎が永田との確執から大映を退社し、丸井太郎はガス自殺した。その一方で、日本テレビ創立の際に出資し、フジテレビには親会社の一角として経営に参加していたものの、余りテレビには関心を示さなかった。


この様な状況で、「永田ラッパ」と呼ばれたワンマンな放漫経営の弊害は年を追う毎に色濃くなってきたが、極端なワンマン経営およびその性格ゆえに周囲から永田に諫言できる人物もおらず、1960年代半ばからの日本映画界の急激な斜陽と不振の中で、ほとんど製作本位で大作主義だった大映はジリ貧に追い込まれてゆく。その中にあって長谷川一夫の引退、上記の山本・田宮の解雇、勝新太郎の独立、養女の永田雅子と結婚させていわば娘婿の関係にあった市川雷蔵のガン死(1969年)、大型新人スター不在といった問題が重く伸し掛かり、ついに1971年12月23日東京地方裁判所より破産宣告を受け、倒産。


それでも、永田は1976年に永田プロダクションを設立。同年、永田の跡を継ぐことを狙っていた徳間康快徳間書店子会社となって映画製作に復帰していた大映作品の映画『君よ憤怒の河を渉れ』にプロデューサーとして参加することで、映画界に復帰した。


熱心な日蓮宗信者としても知られ、晩年には萬屋錦之介(初代中村錦之助)主演で映画『日蓮』を製作した。

プロ野球との関わり

1947年末、アメリカ視察旅行から帰国した永田は大映作品のアメリカ市場進出のためには、自らがアメリカにおいても名の通った存在でなくてはならないことを痛感。当時、アメリカで尊敬される名誉職の一つがプロ野球オーナーであり、また元々野球好きであったことから、永田もプロ野球チームを持つことを決意する。これを永田に吹き込んだのは、永田と夫人同志が姉妹だった側近の武田和義[11]1948年中日ドラゴンズ赤嶺昌志球団代表を慕っていた選手(赤嶺一派)が脱退し、いくところがなく赤嶺と小林次男(横沢三郎の兄)が小西得郎に話を持ち込み、小林、小西の仲介で赤嶺一派と大映球団を組織した[11]。小西の証言では、永田は川口松太郎を通じて小西に会い、小西の仲介で永田のメインブレイン・大麻唯男を間に入れて、赤嶺昌志と永田を繋げたと話している[12]。間もなく、国民野球連盟に所属していた大塚幸之助経営の大塚アスレチックスを買収[12]。この大塚幸之助は後に金星スターズのオーナーとなり、本業の洋傘製造業者・大塚製作所が倒産した後も、永田のブレーンであり続けた。


1948年1月、東急フライヤーズと合同して急映フライヤーズを名乗るが[注釈 1]、同年12月、別途金星スターズを買収して大映スターズを結成。以降、本来は副業として球団経営に携わっていたのが次第にプロ野球も本業となり、ついに1953年(昭和28年)パシフィック・リーグ(パ・リーグ)の総裁に就任。高橋ユニオンズの結成による8球団制の採用や、その高橋と大映の合併を契機とする6球団制への再編成と、いずれも球界再編成の主役となった。


その後、大映は1957年に高橋を吸収合併し、大映ユニオンズになった後、1958年から毎日オリオンズ対等合併して、大毎オリオンズとなった。この時は形式上毎日新聞社との共同経営ではあったが、法人格と各種記録は毎日が存続しつつも、経営面では大映が存続した形の逆さ合併だったため、大映側の永田がオーナーに就任し「大毎」のネーミングも自ら付けた。その2年後の1960年、大毎がパ・リーグを制し、日本シリーズ三原脩が監督の大洋ホエールズと対戦したとき、采配を巡って監督の西本幸雄と意見が衝突。前評判に反し大毎はストレート負けを喫したため、西本と電話で口論となり、永田が「バカヤロー」と言ったことをきっかけに西本は退任した(詳細は西本幸雄#大毎監督辞任を参照)。このシーズン終了後に毎日新聞社より全面的に球団経営を移譲され、名実共にオーナーとなる。


「永田ラッパ」はここでも高らかに吹き鳴らされる。自らの映画会社のスターと同じ名前だからと「長谷川一夫」という名の選手を入団させたり、短距離走選手としてオリンピック出場経験のある飯島秀雄を代走専門選手として採用したりした。だが、長谷川が(入団当初の投手ではなく野手として)一定の成績を収めたことと、小山正明山内一弘の「世紀のトレード」を実現させた実績はあったものの総じてチーム強化に大きく結びついたとは言い難く、あわせてベンチに電話をかけ監督の濃人渉に選手交代を指示するなど[14]現場への介入も多かったため、批判も受けた。一方、時には市川雷蔵などの大映のスターたちを連れながら足しげく観戦に訪れる永田はファンから愛され、オリオンズが勝った試合後に永田の出待ちをし、永田の姿が見えると拍手を送るファンもいた[15]。また、東京スタジアム(後述)のオーナー室に作った神棚にチームに向けてのお祈りを欠かさなかったなど[16]、選手を思う気持ちも並々ならぬものがあった。成田文男は「あの人ぐらいぼくらのことを思ってくれている人はいないと思う」と語っている[17]


1962年には私財を投じて東京都荒川区南千住にプロ野球専用球場・東京スタジアムを建設、その開場セレモニーでは観客に対し「今後この日本の代表的球場を愛されんことをお願い致します」と語りかけた[18]。しかしその後、東京球場はチームの不調も重なり不入りで不採算が続き、読売ジャイアンツ(巨人、セントラル・リーグ所属の球団)のオーナー・正力松太郎がこの事態を見かねて「巨人にも東京スタジアムを使わせてほしい」と救いの手を差し伸べたものの、永田は「セ・リーグ、とりわけ巨人の世話になるのは御免だ」と、これを頑なに拒んだ(開場以来、東京近辺に本拠地を置くセ・リーグ球団のうち国鉄スワローズと大洋(本拠地は川崎市)には東京スタジアムでの主催試合の開催を許可していたが、巨人には最後まで許可を出さなかった)。しかし現在、観客の入退場に対する利便性を図った設計や、当時の後楽園球場にも劣らなかった各種設備などにおいて、東京スタジアムの先駆性は再評価されている。


1969年、遂に経営難で盟友・岸信介の仲介によりロッテをスポンサーに付けたロッテオリオンズが、翌1970年、パ・リーグ優勝を東京スタジアムで決めたとき、永田はグラウンドに乱入した観客達の手により、「永田さんおめでとう」の喝采と共に優勝監督や殊勲選手よりも前に胴上げされ、永田は号泣しながら宙を舞った(その後も観客達は選手を片端から胴上げして回った)[19]。しかしその歓喜の瞬間からわずか3か月後の1971年1月、大映の経営再建に専念するため、球団を正式にロッテへ譲渡、同時にオーナー職を中村長芳に譲ることとなった。無念のうちに球界を去ることになった永田は記者会見で以下のように語った。

魂はロッテ・オリオンズの選手の上にあり。成田木樽山崎有藤……。たとえユニフォームのマークは変わっても、選手の魂とわたしの魂はいつもいっしょだよ。小山よ、未練で言うんじゃない、是が非でも巨人を破って日本一になってくれ。目の中に入れても痛くないオリオンズを、選手たちを人手に渡すのは……[20]


ここまで語った永田は言葉を失い号泣した。


永田が球界を去った3年後の1974年、ロッテはパ・リーグを制し、中日ドラゴンズとの日本シリーズに臨んだ。

ロッテのホーム初戦となる第3戦、後楽園球場のスタンドに、選手や球団に招きに応じ、永田が姿を現した。永田が野球場に足を踏み入れたのは、ロッテのオーナー職を退いて以来初めてのことであった。グラウンドには永田時代を知るロッテ選手だけでなく、中日側にも与那嶺要近藤貞雄といったオリオンズ在籍経験のある者(指導者)たちが姿を見せていた。永田はその光景を見て「まるで息子たちが試合をしているような気がする」とつぶやいたという[21]。ロッテはシリーズを4勝2敗で制し、日本一を達成した。なお、前述の記者会見で名前の挙がった小山は、前年の1973年に大洋ホエールズに移籍し、同年限りで引退した後、古巣・阪神タイガースのコーチに就任していた。


1985年
10月24日、急性肺炎のため死去した[22]享年79。1988年野球殿堂入りを果たした。

馬主として

1934年にサラブレッドを購入し、競走馬の馬主となる。永田と競馬との縁はこの時を嚆矢とする。10戦無敗で皐月賞東京優駿(日本ダービー)を制し二冠を達成したが、破傷風にかかり悲劇の最期を遂げたトキノミノルの馬主でもある。「トキノ」とは馬主でもあった菊池寛の冠名であり、「菊池寛の夢が実る」という意味で改名されたもの(デビュー戦の馬名は「パーフェクト」)と言われている。後年、トキノミノルをモデルにした「幻の馬」という映画も製作している。他にも名牝クリフジの産駒で、桜花賞優駿牝馬の2冠を勝ったヤマイチや、ダービー馬ラッキールーラの母トースト、天皇賞馬オーテモンなども永田所有だった。


勝負服
は緑地に黒三本輪で、永田が競馬から手を引いてからはしばらく使われなかったが、現在はグリーンファームの勝負服として登録されている。これはグリーンファームが永田の遺族に氏のかつての勝負服を使わせてほしいと申し出て、遺族が承諾したという経緯がある。

日蓮宗信者として

永田が熱心な日蓮宗信者であることは有名であるが、これは母・紀美の影響によるものである。紀美は家業の友禅染問屋が急激に傾いたことを機に日蓮宗に入信。身延山への百回詣でを願掛けし、毎年山に登り続けた姿を見続けることとなる。後年になって『人一倍雑念的存在であるわしが、殊勝にも信仰の道に入ったのは、全て母の信仰心に追うものなんじゃ』と語っている。


1952年 - 1953年ごろからは12月31日になると身延山の七面山に入り、元旦会のお籠りをしていたという。永田全盛期には元旦会や節分会になると長谷川一夫や時津風理事長等を従えて来山していたという。


1958年
には映画『日蓮と蒙古大襲来』の制作に関わっている。


晩年の20年程は信徒総代となる。失火によって焼失した鐘楼をほぼ独力の寄付により再建するほか、様々な施設の寄付にかかわっている。また、紀美の銅像を境内に建立しているが、霊場のしかも総本山への個人をモデルとした銅像建立は異例である。

詳しいことは、「永田雅一ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E7%94%B0%E9%9B%85%E4%B8%80
(wikiより)

1610 永田雅一

永田雅一 ( 自身が馬主だったトキノミノル東京優駿を勝利した時の記念撮影で轡を取る永田雅一
1951年6月3日、当時45歳) )



1610b

1610a

1610c



鶴原 定吉(つるはら さだきち、1857年1月10日安政3年12月15日) - 1914年大正3年)12月2日)は、日本官僚実業家政治家。第2代大阪市長韓国統監府初代総務長官衆議院議員

経歴

福岡藩士鶴原道室の長男として、福岡雁林町(現福岡市中央区)に生まれる。藩校修猷館大学予備門を経て、1883年(明治16年)7月、東京大学文学部(政治科および理財科)を卒業し、同年10月、外務省御用掛となり公信局に勤務する。


外務省では、1885年(明治18年)5月、外務書記生としてロンドン領事館に在勤し、1887年(明治20年)12月、天津領事1890年(明治23年)6月、上海領事を歴任したが、1892年(明治25年)6月、外務省を退官し、同月、日本銀行大阪支店筆頭書記に転身する。


日本銀行では、1893年(明治26年)9月、支配役・大阪支店長に就任し、1896年(明治29年)4月から営業局長を兼務、1897年(明治30年)2月から更に株式局長を兼務し、1899年(明治32年)2月には理事に就任するが、山本達雄総裁と衝突して、ストライキの主導者として、同月、日本銀行を辞職する[1]


1900年(明治33年)、立憲政友会創立委員、同年11月から関西鉄道社長を務め、その在任中には周辺諸鉄道との連帯輸送を推進し、後の近畿鉄道合同の動きを醸成する先駆となった。


1901年
(明治34年)8月、第2代大阪市長に就任し、1905年(明治38年)7月まで務めた。


1905年(明治38年)12月、伊藤博文の推薦で、同年設立された韓国統監府の初代総務長官となり、1907年(明治40年)7月の第三次日韓協約の締結を推進した。1907年(明治40年)8月からは韓国宮内次官を兼務する。


その後、1909年(明治42年)7月、東京人造肥料会社社長、蓬莱生命保険相互会社社長、1910年(明治43年)5月、中央新聞(立憲政友会機関紙)社長を歴任し、1912年(明治45年)5月、第11回衆議院議員総選挙に、福岡県福岡市区で立憲政友会から立候補し、安川財閥創始者安川敬一郎の支援も得て当選し衆議院議員となり、1914年(大正3年)10月26日に辞職した[2]

大阪市長として

助役に菅沼達吉を指名。


第五回内国勧業博覧会を開催、報奨契約制の制定、行政改革などで活躍する。


大阪港
の建設促進にも力を入れ、さらに市街地から港へのアクセスとして市電を開通させる。


「市街鉄道のような市民生活に必要な交通機関は、利害を標準に査定されるものではなく、私人や営利会社に運営を委ねるべきではない」などと市会で市内交通を公営で行うことを主張した(市営モンロー主義も参照のこと)。

栄典
1903年(明治36年)12月14日 - 双光旭日章[3]

1908年(明治41年)

  ・6月25日 - 勲三等瑞宝章[4]

  ・10月27日 - 勲二等旭日重光章[5]

1909年(明治42年)

  ・4月18日 - 皇太子渡韓記念章[6]

親族
・三男 鶴原浩二(日本銀行理事)

・娘 安川松子(実業家・安川第五郎の妻)

脚注
1. 「日銀幹部ストライキ事件」については「植村俊平」の項目も参照。
2. 『官報』第672号、大正3年10月27日。
3. 『官報』第6138号「叙任及辞令」1903年12月16日。
4. 『官報』第7499号「叙任及辞令」1908年6月26日。
5. 『官報』第7604号「叙任及辞令」1908年10月29日。
6. 『官報』第7771号「叙任及辞令」1909年5月24日。

参考文献
・『大阪市の歴史』(大阪市史編纂所 1999年4月 創元社 ISBN 4422201387
(wikiより)


1596 鶴原定吉

鶴原定吉

1596a

1596b



添田 壽一(そえだ じゅいち、元治元年8月15日1864年9月15日) - 昭和4年(1929年7月4日)は、明治大正期の財政家(大蔵官僚)・銀行家実業家経済学者・官庁エコノミスト。法学博士(1899年)。筑前福岡県)の出身。日本法律学校(現日本大学)の設立に加わった。


近代日本における財政確立の功労者の一人であるとともに、経済学の教育・普及に尽力した「官庁エコノミスト」の先駆け的人物として知られている。

経歴
東大卒業まで
1864年、筑前国遠賀郡広渡村(現・福岡県遠賀郡遠賀町)の職人・添田新三郎の三男として生まれる。出生当時は添田家は相当の資産家であったが、父新三郎が私欲が無く慈善を好んだため資産を使い果たし、家族と共に7歳から諸国を流浪することとなる。幼少より書道の才能があり、わずか8歳にして号を「筑紫山濤」と称し書によって家計を助けており、書の神童と言われたほどであったが、時の大阪府知事渡辺昇に書いた書を見せたところ、渡辺はそのあまりの才能を惜しみ添田の硯と落款を庭の敷石に叩き付け、書などではなく学業に専心し大成せよと諭した。これにより、添田は書の道ではなく学業によって立身することを志すことになった。上京した添田は小舟町の鰹節問屋の小僧として働きながら外国語学校の夜間部に通い、旧福岡藩主黒田家の給費生となって東京大学予備門を経て、東京大学に入学した。東大ではフェノロサ田尻稲次郎のもとで「理財学」(経済学)を学び、1884年(明治17年)政治学理財学科を卒業した。

大蔵官僚として
東大卒業後は、先に入省していた旧師・田尻の勧めにより、同期卒業の阪谷芳郎とともに大蔵省に入省したが、同年非職となりヨーロッパに自費留学した。これは黒田家の私学である藤雲館(現・福岡県立修猷館高等学校)において教鞭を執っていた関係から、黒田家13代目当主黒田長成の洋行に同行したものである。イギリスではケンブリッジ大学に入学し政治経済学を学び、マーシャルの講義を受講している。1887年ドイツハイデルベルク大学で学んだ後、約3年にわたる留学から帰国して大蔵省に復帰、主税官に命じられた。大蔵省では旧師であり上司でもある田尻の知遇も得て、入省後しばらくは主税畑を歩き1890年以降は銀行行政に携わり国立銀行処分に関与した。1893年には貨幣制度調査会特別委員となり、日清戦争後の賠償金により金本位制への移行がなされた際には、金本位制実施を主張する復命書の起草にあたり、これを基にした貨幣法の国会審議のなかで政府委員として田口卯吉など反対派への説得に努め同法の制定に貢献した。1898年隈板内閣が成立すると、田尻の後任として大蔵次官に就任するが、同年末の倒閣により次官辞任とともに大蔵官僚としての生活も終えることになった。

学究・エコノミストとして
添田は現役の大蔵官僚としての生活の傍ら、東京帝国大学、東京専門学校(現・早稲田大学)、専修学校(現・専修大学)、学習院などで経済学を講じており(恩師・上司であった田尻稲次郎が設立した専修学校では、同僚・同期の阪谷芳郎とともに出講し商業史などを担当)、1889年には、山田顕義宮崎道三郎金子堅太郎らと共に日本法律学校(現・日本大学)の創立に参加している。同時にまた雑誌で経済問題を論じるなど、経済学の啓蒙普及活動に務め、当時においては単なる官僚でなくエコノミストとして一般に知られる存在であった。1890年、英で雑誌『エコノミック・ジャーナル』が創刊されると日本通信員を委嘱され、日本の経済学の現状に関するレポートなどを寄稿している。

社会政策への関心

添田はまた、日清戦争後、社会問題の顕在化を背景に結成された社会政策学会に参加している。彼は「健全なる国民の発育」の観点から工場法の制定の必要を認めており、1896年の農商工高等会議ではこれに反対する渋沢栄一(のち賛成に転じた)らを前に自説を強く主張した。退官後に開催された1907年の社会政策学会第1回大会では資本と労働の調和の重要性を説いている。


社会政策学会における添田は、「主従の情誼」や家族主義・温情主義に基づく政策を唱道する最右派とされ、先述の第1回大会でもより急進的な部分を代表する高野岩三郎福田徳三からの批判を受けている。しかし早くから社会政策の必要に着目した先見性は師の田尻や同僚の阪谷には見られないものであり、幅広い視野をもつ開明派官僚であったといえる。

退官後から死まで

退省後の添田は、銀行家・実業家・政治家・学究として多彩な活動を続けた。法学博士の学位(当時は経済学博士の学位が存在しなかったため)を受けた1899年、同郷の友人である杉山茂丸の推薦により、日本統治下にあった台湾の中央銀行である台湾銀行の設立に参画し、自ら初代頭取に就任した。その後、1902年日本興業銀行設立、1912年日仏銀行設立にもそれぞれ参画し、前者については初代総裁を務めた。


大正期に入って、いわゆる排日法と言われるカリフォルニア州外国人土地法のロビー活動にあたったが、力及ばず1913年に同法は可決した。1914年には第2次大隈内閣鉄道院総裁となり、前任の仙石貢を引き継ぎ鉄道広軌化を目指したが、実現には至らなかった。1925年には勅選貴族院議員となり、その死まで在任していた。また友愛会設立(1912年)への関与と同会顧問就任、労資協調の調査機関である協調会1919年発足)への参加、志を同じくする実業家・武藤山治1923年に結成した実業同志会への参加は、先述した社会問題への関心の延長線上にあるものだった。


1929年昭和4年)胃癌から癌性腹膜炎を併発して死去(享年66)[1]。通信員として関わった『エコノミック・ジャーナル』には、添田に対する追悼文が掲載された(同誌に追悼文が掲載された日本人は彼だけであり、ケインズが追悼文を書いた唯一の日本人でもある)。墓は青山霊園にある。

年譜
・1864年:出生。

・1884年:東京大学政治学理財学科卒業。大蔵省に入省し、主税局御用掛。

・1884年:非職。英ケンブリッジ大学などに留学。

・1887年:留学から帰国。主税官となり主税局調査課。

・1890年:同局監査課。ついで大蔵省参事官。

・1891年:大蔵大臣秘書官。

・1893年:監査局長心得。ついで大蔵書記官兼参事官・官房第三課長となる。

・1897年:大蔵省監督局長。

・1898年:大蔵次官。同年末に辞職し大蔵省も退職。

・1899年:法学博士号授与。台湾銀行初代頭取( - 1901年)。

・1902年:日本興業銀行初代総裁( - 1913年)。

・1913年:中外商業新報(現・日本経済新聞)社長

・1915年:鉄道院総裁( - 1916年)。

・1916年:報知新聞社長。

・1925年:貴族院議員(12月1日[2])、ついで台湾銀行監査役となり、ともに死去まで在任。

・1929年:死去。

親族
坂口康蔵 - 三女の夫。医師。東京帝国大学教授。貴族院勅選議員。

五十嵐敬止 - 長女・いちの養父。貴族院多額納税者議員衆議院議員

栄典
位階
1890年(明治23年)10月8日 - 従六位[3]

1898年(明治31年)12月10日 - 従四位[4]

勲章等
1911年(明治44年)8月24日 - 金杯一組[5]

1915年(大正4年)11月10日 - 大礼記念章[6]

1916年(大正5年)1月19日 - 勲一等瑞宝章[7]

1921年(大正10年)7月1日 - 第一回国勢調査記念章[8]

主要な著作
・『豫算論綱』(完) 博文館、1891年

・『歳計論』(政治學經濟學法律學講習全書:第22編) 博文館、1891年

・『財政通論』(上下編) 金港堂書籍、1892年

・『法制経濟大意』(法制篇・経濟篇) 金港堂書籍、1899年

・『破壞思想と救治策』 博文館、1911年

・『富國策論』(述 / 菊池暁汀:編) 丸山舎、1911年

・『實用一家經濟法』(述 / 菊池曉汀:編) 大學館、1913年

・『最新通俗經濟講話』(菊池曉汀:編) 大學館、1914年

・『國家個人富強策』(菊池曉汀:編) 大學館、1914年

・『戰後國民經濟策』 大鎧閣、1919年

・『財政經濟講話』 日本書院、1924年

脚注
1. 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』(吉川弘文館、2010年)159頁
2. 『官報』第3982号、大正14年12月2日。
3. 『官報』第2187号「叙任及辞令」1890年10月11日。
4. 『官報』第4636号「叙任及辞令」1898年12月12日。
5. 『官報』第8454号「叙任及辞令」1911年8月25日。
6. 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
7. 『官報』第1038号「叙任及辞令」1916年1月20日。
8. 『官報』第2858号・付録「辞令」1922年2月14日。

関連文献
・大輪董郎『財界の巨人』昭文堂、1911年

・杉原四郎『日本のエコノミスト』日本評論社1984年

・西村紀三郎「添田寿一」『国史大辞典吉川弘文館

秦郁彦『日本近現代人物履歴大事典』東京大学出版会2000年

関連項目
田尻稲次郎 - 阪谷芳郎

金本位制 - 台湾銀行 - 日本興業銀行

社会政策学会 (日本 1897年) - 工場法

日本の改軌論争

相翁松の碑

信玄公旗掛松事件


外部リンク
米国加州日本移民排斥問題 添田寿一・神谷忠雄報告書日米同志会、1913年
(wikiより)

1577 添田壽一

添田壽一

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門野 幾之進(かどの いくのしん、1856年4月18日安政3年3月14日) - 1938年昭和13年)11月18日)は、日本の実業家、貴族院勅選議員千代田生命保険初代社長。勲四等

経歴
志摩鳥羽藩の家老・門野豊右衛門の長子。実弟に大倉組副頭取の門野重九郎がいる。慶應義塾中上川彦次郎らと同門になる。1878年(明治11年)板垣退助の知遇により土佐の共志舎の教頭となり、慶應義塾に戻る。1893年(明治26年)自由党の候補者として討って出る。1904年(明治37年)に阿部泰蔵らと共に千代田生命保険を創立。1932年(昭和7年)3月15日、貴族院議員に勅選された[1]


明治6年に慶應義塾の教師となった後は、同教頭、同評議員、同理事、同臨時塾長となり、千代田生命保険社長、豊国銀行監査役、時事新報会長、交詢社会長のほか、日本無線電信設立委員、国際観光委員会、臨時ローマ字調査会委員等となる。

脚注
1. 官報』第1561号、昭和7年3月16日。

参考文献
慶應義塾出身名流列伝』三田商業研究会編、実業之世界社、1909年(明治42年)6月、261-262頁。近代デジタルライブラリー

・衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』1990年。

外部リンク
門野幾之進 (男性)『人事興信録』データベース、第4版 [大正4(1915)年1月]

門野重九郞 (男性)『人事興信録』データベース、第4版 [大正4(1915)年1月]

ウィキメディア・コモンズには、門野幾之進に関するカテゴリがあります。
(wikiより)

1534  門野幾之進

門野幾之進

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三島 彌太郎(みしま やたろう、慶応3年4月1日1867年5月4日) - 1919年大正8年)3月7日)は、日本の銀行家。子爵三島通庸の長男であり、徳富蘆花の小説『不如帰』の登場人物、川島武夫のモデルでもある。

生涯
薩摩国鹿児島郡鹿児島城高麗町上の園(現在の鹿児島県鹿児島市上之園町)出身。7歳のとき東京神田の小川町学校入学、その後すぐに同人社分校に通い、9歳のとき近藤真琴の塾で学ぶ。13歳のときに山形県師範学校へ。15歳のときに同校を卒業し、17歳のとき駒場農学校に入学。18歳のとき成績首位により官費生として渡米、西フィラデルフィア中学を経てマサチューセッツ農科大学(現在のマサチューセッツ大学アマースト校)に入学し、農政学を学ぶ。同大学卒業後、コーネル大学大学院で害虫学を学び修士の学位を受けるが、神経痛を発症して退学した。


帰国後、1897年明治30年)の第2回伯子男爵議員選挙で貴族院議員に当選し、桂太郎の後押しで最大会派研究会の代表者を務め、桂の主唱する鉄道国有化を実現させた。また議員生活の傍ら金融業に深く関与。横浜正金銀行頭取を経て、1913年(大正2年)2月28日第8代日本銀行総裁に就任。日本で初めての市中銀行の預金金利協定の成立にも尽力した。第一次世界大戦戦中戦後の激務をこなすも、1919年(大正8年)急病により現職のまま逝去した。


親族
三島彌彦
は弟。最初の妻は大山巌の長女信子、離別後四条隆謌侯爵の三女加根子と再婚。長男は三島通陽、娘寿子の夫は阪谷希一、娘梅子の夫は土方与志

栄典
1915年(大正4年)11月10日 - 勲三等旭日中綬章[1]

1916年(大正5年)4月1日 - 勲二等旭日重光章[2]

脚注
1. 『官報』号外「叙任及辞令」1915年11月10日。
2. 『官報』第1218号「叙任及辞令」1916年8月21日。

参考文献
・三島義温編『三島弥太郎の手紙―アメリカへ渡った明治初期の留学生』学生社、1994年

横田順彌『明治おもしろ博覧会』、西日本新聞社、1998年、168-171頁

外部リンク
第8代総裁:三島彌太郎 - 日本銀行

国立国会図書館 憲政資料室 三島弥太郎関係文書

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(wikiより)

1532 三島 彌太郎

三島彌太郎

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大川 平三郎(おおかわ へいざぶろう、万延元年10月25日1860年12月7日) - 1936年昭和11年)12月30日[1])は、明治から昭和初期の実業家。「日本の製紙王」と呼ばれ、「大川財閥」を築いた。江戸時代剣豪で農民の出ながら武蔵国川越藩の剣術師範となった大川平兵衛は平三郎の祖父にあたる。


略歴

大川平三郎は、川越藩三芳野村(現・埼玉県坂戸市横沼)で剣道場を構えていた大川修三の次男として生まれる。道場は修三の父である剣豪大川平兵衛の興したものである。平三郎の母は富岡製糸場を作った尾高惇忠の妹・みち子である。惇忠やみち子の妹の千代は、渋沢栄一の最初の妻であった。また、後に平三郎が妻とした照子は渋沢の庶子の一人である。惇忠の息子で平三郎の従弟にあたる銀行家の尾高次郎も、栄一の庶子で照子と同母姉妹の文子を妻とし、さらに2人の次男である鉄雄が平三郎夫妻の養子となっている。


剣道が顧みられなくなった時勢で、大川家の家計は苦しく、平三郎の母・みち子はよく妹の千代に金を無心した。平三郎は、13歳で東京に出て渋沢栄一の書生として渋沢家の掃除など雑用をこなしながら、本郷壬申義塾大学南校(現在の東京大学)でドイツ語英語、歴史を学んだ。収入を稼いで実家に仕送りをするのが急務であった平三郎は、栄一が中心となり創立した抄紙会社(後の王子製紙(初代))に16歳で入社、月給は全て仕送りにした。抄紙会社では図工の職であったが、「紙を抄く技術が最も大切な仕事であるはずだ」と志願して職工になり、努力を重ね外国人技師の技術を全て習得、日本人で最初の製紙技師となった。

1879年(明治12年)、大川は会社不振の原因を分析した建白書を提出、それが会社に認められ、20歳で社命でアメリカに渡り、シャワンガム社・モンテギュー社などで製紙技術を修得した。大川は逐一、栄一に状況を手紙で報告した。


1年半の留学を終え帰国した大川は、パルプの原料をに替えるコストダウンを実行、21歳にして会社の副支配人に就いた。1884年(明治17年)、化学パルプの技術革新が起こった欧州に調査に赴いた。帰国後の1890年(明治23年)、試行錯誤の末、日本で最初の亜硫酸法による木材パルプの製造に成功、さらに木材チップを煮る釜を改良して「大川式ダイゼスター」を考案した。1893年(明治26年)に技術部門を担当する専務取締役に就任。しかし、1898年(明治31年)三井財閥が経営に参画したことから渋沢栄一は会長を退任、大川も王子を去った。

大川は、彼と行動を共にした技術者・職工らと四日市製紙三重県)に移籍。1901年(明治34年)に上海の製紙会社に招かれ、1903年(明治36年)に帰国した後は九州製紙熊本県)の社長に就任。次いで1906年(明治39年)中央製紙岐阜県)を、1908年(明治41年)木曽興業(長野県)を設立し、1908年四日市製紙の役員に復帰(1918年社長に就任)、1909年(明治42年)には中之島製紙(大阪府)の会長にも就任した。1914年大正3年)樺太工業を設立、1919年(大正8年)には大手製紙会社富士製紙の社長に就任。この結果大川が経営する製紙会社は合計で国内市場の45%を握り[2]、大川は「日本の製紙王」と呼ばれた。1933年(昭和8年)に王子製紙・富士製紙・樺太工業の3社が合併(「大王子製紙」発足)した際は、同社の相談役に就任した。さらに浅野セメント(後の日本セメント、現・太平洋セメント)、札幌ビール東洋汽船日本鋼管鶴見臨港鉄道[3](JR鶴見線)など80余の企業経営に携わり「大川財閥」を作り上げた。鶴見線の大川駅は彼の名前にちなんで命名された[4]


濱口政権による金解禁に対しては、時期尚早として反対の立場をとった[5]


大川平三郎は、1928年(昭和3年)には貴族院議員となった[6]


1936年(昭和11年)12月30日死去、享年78。「大川財閥」は平三郎個人のカリスマ性を基盤にしていたため、平三郎一代で終焉を迎えた[7]。孫には、競馬評論家大川慶次郎がいる[8]

郷里への貢献

埼玉県の産業界の要請で、銀行統合が行われ武州銀行が誕生すると、大川は請われて頭取に就任した。郷里の三芳野村(現・坂戸市)の困窮を救うため、財政支援を続け、教育や消防の施設購入に私財を注ぎ込んだ。
特に郷里の学校の校舎の建築・校庭の整備に幾度なく巨費を投じた。坂戸市立三芳野小学校など数箇所に頌徳碑がある。


祖父・大川平兵衛の開いた道場は小畔川沿いの低地で、小畔川や越辺川は度々氾濫を繰り返した。1910年(明治43年)にも大洪水を引き起こした。このため1924年大正13年)、全額私費で地元の原次郎の協力を得て、1.1kmの堤防を建設した。当時は、大河でさえ国の河川管理は稀であった。今日、それは「大川堤」と呼ばれ、大川道場跡は坂戸市の「大川平三郎翁記念公園」となっている。


また自身が貧しい幼年時代で、農村の衰退した現状を憂い、1924年(大正13年)に私財で「大川育英会」を立ち上げた。渋沢栄一もこの財団を創設から支えた。大川育英会は埼玉県出身の学生に奨学金を提供、就学の機会を与えている。

栄典
1928年(昭和3年)11月10日 - 勲三等瑞宝章[9]

脚注
1. 『官報』第3002号、昭和12年1月8日、p.112
2. 四宮俊之 『近代日本製紙業の競争と協調』、日本経済評論社、1997年
3. 鶴見臨港鉄道物語”. 鶴見臨港鉄道. 2019, 7, 2閲覧。
4. 鶴見臨港鉄道物語”. 鶴見臨港鉄道. 2019, 7, 2閲覧。
5. 中村隆英 『昭和恐慌と経済政策』、講談社学術文庫、1994年、89頁
6. 衆議院; 参議院編 『議会制度七十年史 第1大蔵省印刷局、1960年、100-101頁。 
7. 菊池浩之『47都道府県別 日本の地方財閥』平凡社新書、2014年、78-79頁
8. 平三郎の実子である大川義雄の二男。菊池浩之『47都道府県別 日本の地方財閥』平凡社新書、2014年、79頁
9. 『官報』号外、「授爵・叙任及辞令」1928年11月10日。

関連項目
藤原銀次郎

渋沢栄一

大川駅 - 平三郎の名から取られた、鶴見臨港鉄道(現、JR東日本鶴見線)の駅。

(wikiより)

3476 大川平三郎

大川平三郎

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⇧⇩ 大川平三郎墓。

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⇧⇩ 奥様は渋沢栄一氏の娘さんです。

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