本牧jack『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。
たまに『 多人数で取材しているのか? 』との質問を戴きますが、小生と相方の二人三脚で御座います。
出来るだけ続けたいと思っていますが 膝・耳に問題が有って、いつまで出来るやら・・・説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。
御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。 ※ 申し訳御座いませんが「画像の転用」は禁止とさせて頂きます。 コメントは原則公開させていただいております 質問等に対してはブログ記事で返信させていただきます 他の方法で連絡を取り合う等一切しません 場合によっては、「IPブロック」しますがブロックした場合解除する事は有りませんので宜しくお願いします。

カテゴリ: 歌舞伎・狂言・長唄・講談・浪曲・都々逸・浄瑠璃

四代目 坂田 藤十郎(さかた とうじゅうろう、1931年12月31日 - 2020年11月12日)は、歌舞伎役者。屋号山城屋定紋五つ藤重ね星梅鉢、替紋は向い藤菱日本芸術院会員、重要無形文化財保持者。


前名の三代目 中村 鴈治郎(さんだいめ なかむら がんじろう)としても、また今なお初名の二代目 中村 扇雀(にだいめ なかむら せんじゃく)としても知られる。日本舞踊雁音流家元としては雁音 歌扇(かりがね かせん)。妻は女優で政治家の扇千景、妹は女優の中村玉緒と芸能一家である。


現代歌舞伎の大看板のひとりでもあり、また上方歌舞伎の復興プロジェクトでも主導的な役目を務めたほか、近松門左衛門作品を原点から勉強し直すために劇団近松座を結成し、尽力した。


日本中にブームを巻き起こした『曾根崎心中』のお初は当たり役とされている[1]

年譜
・1931年12月31日 二代目中村鴈治郎の長男として生まれる。
・1941年10月 道頓堀角座山姥』の金時で二代目中村扇雀を襲名し初舞台。
旧制東山中学校卒業[2]
・1949年 武智鉄二が文楽座で始めた関西実験劇場に参加(武智歌舞伎)。
・1953年 250年ぶりに復活上演[3]された『曾根崎心中』のお初が絶賛。扇雀ブームを起こす。
・1955年2月 松竹を離脱し、阪急電鉄東宝の子会社・宝塚映画製作所専属俳優になる。
・1957年1月 東宝専属俳優になり、この時に当時宝塚スターの扇千景と出会う。
・1958年10月 扇千景と結婚。
・1963年3月 松竹に復帰し、歌舞伎役者としての活動を再開。
・1981年 近松座を結成。
・1990年11月 歌舞伎座廓文章』「吉田屋」の伊左衛門、『心中天網島』「河庄」の治兵衛、『春興鏡獅子』のお小姓弥生/獅子の精で三代目中村鴈治郎を襲名。
・1994年 重要無形文化財保持者に各個認定(人間国宝)。日本芸術院会員に。
・2001年 イギリスのロンドンで『曾根崎心中』を上演。
・2005年4月 韓国のソウルと釜山で『曾根崎心中』『棒縛り』を上演。
・2005年11月 京都南座顔見世本朝廿四孝』「十種香」「奥庭」の八重垣姫、『曽根崎心中』のお初、『由縁の月』の伊左衛門で上方歌舞伎の大名跡・坂田藤十郎を四代目として襲名。
・2007年8月 世界陸上大阪大会の開会式で口上を披露。
・2009年11月 文化勲章受章。
・2011年10月 七代目中村芝翫死去により、日本俳優協会会長代行に[4]
・2012年4月 日本俳優協会会長に就任。伝統歌舞伎保存会会長に就任。
・2015年6月25日 博多座公演『曽根崎心中』のお初役での出演が通算1400回を達成する[1]
・2019年 伝統歌舞伎保存会名誉会長に就任[5]
・2020年11月12日10時42分、 老衰のため都内の病院で死去[6][7][8]。88歳没。死没日をもって従三位に叙された[9]。最後の舞台は、2019年12月京都南座『祇園祭礼信仰記 金閣寺』の慶寿院尼だった[6]
・2021年10月28日、没後一周忌を迎える前にコロナ禍などの影響で延期した形になっていた「坂田藤十郎を偲ぶ会」が東京都のホテルオークラにて催された[10]

人物・逸話
扇雀ブーム
扇雀当時、お初で大当たりをとった時の人気は凄まじく、特に関西では知らない人のいないほどだった。中には本人許諾のもとで社号及び商標を扇雀にあやかったものに改名する会社まで現れた。扇雀飴本舗はその会社の一つ。関西の年配者には今でも「センジャクはん」と呼ぶ者も多い。

女性関係
昭和30年代から、浮気騒動を起こすことがよくあり、週刊誌上をたびたび賑わせていた。夫人・扇千景との新婚旅行の車中では、酔った勢いで、自身の女性遍歴を悪びれることなく全て打ち明け、その相手への対応方法などを、堂々と新妻に語ったと言われている。また、扇との結婚はできちゃった結婚であったことを、日本経済新聞に連載したコラム『私の履歴書』で告白している。


また、扇と結婚する前は、京都に相思相愛の芸妓がいたといわれており、自身がつとめる舞台にその芸妓が訪れると、表は成駒屋定紋の祇園守紋、裏はその芸妓が用いていた女紋をあしらった扇子で舞台をつとめた。

騒動
鴈治郎時代の2002年、京都のある舞妓(後に芸妓)とホテルで密会、バスローブをはだけて自身の陰部を露出させたことが、同年6月7日発売の写真週刊誌FRIDAYにスクープされた。もともと本人は若い頃から祇園界隈では遊び人として有名で、夫人の扇も夫の女遊びに対して最後に自分のところに戻ってくるなら「男の甲斐性」として許す考えであった。それを知らない(女性週刊誌等の)マスコミは、写真のバスローブ姿から「中村ガウン治郎」と揶揄し「驚いた。人間国宝でも所詮芸人か。ほんとうに驚いた」と非難したが、本人は記者会見で「お恥ずかしいなぁ。私が元気だってことを証明してくださって」と話し[11]、相手女性については「私を支援してくれるグループのリーダー。部屋では僕のビデオを見て焼き鳥を食べただけ」と説明。記者たちに対して「世の男性も頑張って欲しい」と語った[12]。当時は国土交通大臣を務めていた夫人・扇は「彼は芸人ですから」と前置きした後で、「女性にモテない夫なんてつまらない」[13]とマスコミを一蹴した。

受賞歴
受賞
・1953年 毎日演劇賞
・1980年 芸術選奨文部大臣賞
・1986年 日本芸術院賞[14]
1989年 松尾芸能賞
・1996年 読売演劇大賞最優秀男優賞
・2008年 高松宮殿下記念世界文化賞(演劇・映像部門)

栄典・顕彰
・1990年 紫綬褒章
・2003年 文化功労者
・2009年 文化勲章[15]
・2020年 叙従三位  

その他
・1994年 人間国宝   

役職
日本俳優協会会長
伝統歌舞伎保存会名誉会長
近松座主宰
日本芸術院会員

家族・親族
・曾祖父:三代目中村翫雀成駒屋
・祖父:初代中村鴈治郎(成駒屋)
・伯父:二代目林又一郎(成駒屋)
・叔母:林たみ(長谷川一夫の妻)
・叔母:中村芳子四代目中村富十郎の妻)
・父:二代目中村鴈治郎(成駒屋)
・妹:中村玉緒
・妻:林寛子(扇千景)(元参議院議員、第26代参議院議長、元宝塚歌劇団娘役)
・長男:四代目中村鴈治郎(成駒家)
  ・孫:中村壱太郎(成駒家)
・次男:三代目中村扇雀(成駒家)
  ・孫:中村虎之介(成駒家)

歌舞伎の当たり役
はじめ、女形として活躍したが、現在は立役、老役など幅広い役をこなした。祖父、父から継承した上方和事の第一人者であり、その華やかで艶のある芸風は衰えることを知らず、関西歌舞伎の発展のため後進の指導にも熱心であった。
・『心中天網島』「河庄」「時雨炬燵」紙屋治兵衛 役
・『義経千本桜』「すし屋」いがみの権太 役
・『夏祭浪花鑑』團七九郎兵衛 役
・『恋飛脚大和往来』「封印切」「新口村」亀屋忠兵衛 役
・『廓文章』藤屋伊左衛門・夕霧 役
・『梶原平三試名剣』(石切梶原)梶原景時 役
・『祇園祭礼信仰記』(金閣寺)雪姫 役
・『本朝廿四孝』「十種香」「狐火」八重垣姫・武田勝頼 役
・『大津絵道成寺』藤の精、鷹匠、座頭、船頭、鬼 役
・『桂川連理柵』「帯屋」信濃屋娘お半、お絹、丁稚長吉 役
・『傾城反魂香』「吃又」お徳 役
・『寿梅鉢万歳
・『汐汲
・『雁のたより』三二五郎七 役
・『伽羅先代萩』「御殿」乳母政岡 役
・『近江源氏先陣館』「盛綱陣屋」佐々木盛綱
・『良弁杉由来』「志賀の里」「物狂」「二月堂」渚の方 役
・『男の花道中村歌右衛門 
・『仮名手本忠臣蔵』高師直・早野勘平・おかる・大星由良助・寺岡平右衛門・戸無瀬 役(昭和52年11月中座公演では、足利直義・おかる・戸無瀬・力弥の四役を、平成4年2月国立文楽劇場公演では、師直・由良助・与市兵衛・定九郎・勘平・平右衛門・戸無瀬の七役を、平成11年3月松竹座公演では、師直・勘平・おかる・戸無瀬の四役をつとめている)。

復活上演
・『曽根崎心中[3]天満屋遊女お初 役

詳しいことは、『
四代目・坂田藤十郎ウィキペディア』をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%82%E7%94%B0%E8%97%A4%E5%8D%81%E9%83%8E_(4%E4%BB%A3%E7%9B%AE)

(wikiより)

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⇧ 四代目・坂田藤十郎

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二代目 中村鴈治郎(なかむら がんじろう、1902年明治35年)2月17日 - 1983年昭和58年)4月13日)は、日本の歌舞伎役者。屋号成駒屋定紋イ菱日本芸術院会員、重要無形文化財保持者(人間国宝)。本名は林 好雄(はやし よしお)。


上方歌舞伎
の伝統を継承し、立役から女形まで幅広い芸域を誇ったが、特に父・初代鴈治郎譲りの二枚目役においてその本領を発揮した。

略歴
大阪生まれ。初代中村鴈治郎の二男。1906年(明治39年)、京都南座で初舞台。1909年(明治42年)、初代中村扇雀に改名。幼少期は子供芝居で、やや長じては青年劇中村扇雀一座の座頭として活躍する。1924年(大正13年)に大歌舞伎に復帰し、以後初代鴈治郎・二代目實川延若十二代目片岡仁左衛門などのもとで修行。当時は主に女形を務めた。


1935年(昭和10年)初代鴈治郎が死去。このころから若手の有望株と目され、1941年(昭和16年)には四代目中村翫雀を、また1947年(昭和22年)には二代目中村鴈治郎襲名した。1952年(昭和27年)には宇野信夫の脚本により近松門左衛門の『曾根崎心中』を復活上演、以後生涯の当たり役となった。しかしこの頃になると上方歌舞伎の凋落がいちじるしく、鴈治郎自身も周囲の期待の重圧に自身の芸が伸び悩む。また三代目市川壽海を主とする興行方針をめぐる松竹との軋轢、さらには長男二代目中村扇雀の松竹離脱もあって居場所を失う形となり、1955年(昭和30年)に松竹を離脱した。大名跡である鴈治郎・扇雀親子の松竹離脱は、混乱と凋落の真っ只中にあった当時の上方歌舞伎にさらなる追い打ちを掛ける事になった。


以後は扇雀と共に映画やテレビへ活躍の場を移し、それから約10年の間、映画・ドラマ俳優としての活動が主となる。とりわけ映画では大映を中心に目覚しい活躍を見せた。当時の主な出演作には『炎上』『』(市川崑監督)、『浮草』『小早川家の秋』(小津安二郎監督)、『どん底』(黒澤明監督)、『雁の寺』(川島雄三監督)などが挙げられる。


映画出演の傍ら、1958年(昭和33年)からは十三代目片岡仁左衛門らとともに歌舞伎の自主公演「七人の会」にも出演したが、歌舞伎公演が激減していた当時の上方にはもはや活躍の場は無いも同然で、上方を離れ東京歌舞伎と一座することが多くなる。その間に映画出演などで芸の力が付いた事でようやくスランプを脱すると、上方和事の真髄とも言う芸を見せて高く評価された。主な顕彰歴は、1967年(昭和42年)人間国宝、1968年(昭和43年)紫綬褒章、1969年(昭和44年)NHK放送文化賞、1970年(昭和45年)日本芸術院賞[1]、1972年(昭和47年)日本芸術院会員、1974年(昭和49年)勲三等瑞宝章

1980年(昭和55年)文化功労者


1983年(昭和58年)4月13日死去、正四位勲二等瑞宝章が追贈された。 


家族・親族
義父に落語家笑福亭圓歌、兄に二代目林又一郎、妹に長谷川一夫に嫁した林たみ、四代目中村富十郎に嫁した女優の中村芳子など。長男は四代目坂田藤十郎(妻は元参議院議員の扇千景)、長女は女優の中村玉緒。娘婿は俳優の勝新太郎(玉緒の夫)。甥は林敏夫(又一郎の長男、第二次世界大戦で戦死)・俳優の林成年(たみの息子)。姪は俳優の長谷川季子(たみの娘)。大甥は俳優の林与一(又一郎の孫)。孫に四代目中村鴈治郎三代目中村扇雀・奥村真粧美・鴈龍。曾孫に中村壱太郎中村虎之介


娘婿・勝新太郎の実兄は同じく俳優の若山富三郎で、若山の長男、すなわち勝の甥である若山騎一郎の元妻は上原謙の長女仁美凌(上原の後妻大林雅美との間に生まれた子で、加山雄三の異母妹)。上原の前妻で加山の生母である小桜葉子は明治の元勲岩倉具視の曾孫(岩倉具定公爵の五男・岩倉具顕の娘)。小桜の伯母は依仁親王妃周子伏見宮邦家親王の第17王子である東伏見宮依仁親王の妃)であるため、林家は奥村家・池端家・岩倉家・東伏見家・久邇家を通し、一時期天皇家の縁戚となった。


なお、妹婿である四代目富十郎の孫(先妻・吾妻徳穂との次男の長女・後の二代目吾妻徳穂)が自身の孫である四代目鴈治郎に嫁いだため、曾孫の壱太郎から見て四代目富十郎は実の曽祖父であると共に義理の曾祖叔父でもある。


また、この吾妻徳穂の曽祖父に当たる(通説による)のが越前松平家当主であった松平春嶽のため、林家は徳川将軍家と繋がりがある他(一例をあげると、中村壱太郎→二代目吾妻徳穂→山田元靖→初代吾妻徳穂→十五代目市村羽左衛門→池田絲→松平春嶽→徳川斉匡徳川治済→十一代将軍徳川家斉)、同家を通じて現在も皇室には間接的な繋がりがある(例えば、春嶽の異母弟徳川慶頼の子徳川家達の妻が、後陽成天皇十一世孫である近衛泰子)。 


芸風・当たり役
立役、女形、敵役、老役とあらゆる役種をこなしたが、本領は父・初代鴈治郎ゆずりの二枚目と二代目延若の影響を受けたつっころばしなどの上方和事にある。上方歌舞伎の伝統にのっとって、を意識しない写実的な芸風が特徴で、身ごなしや風情に独特の艶のある役者だった。歌舞伎以外にも松竹新喜劇の『わてらの年輪』で花柳章太郎と共演するなど幅広く活躍した。


立役
・『曾根崎心中』の徳兵衛
・『心中天網島』の紙屋治兵衛
・『恋飛脚大和往来』「封印切」「新口村」の忠兵衛
・『伊賀越道中双六』「沼津」の重兵衛
・『双蝶々曲輪日記』「引窓」の南与兵衛後ニ南方十次兵衛
・『菅原伝授手習鑑』「寺子屋」の武部源蔵
・『義経千本櫻』「すし屋」「四ノ切」のいがみの権太、平維盛、源義経
・『仮名手本忠臣蔵』の大星由良助
・『一谷嫩軍記』「熊谷陣屋」の源義経
・『妹背山婦女庭訓』「三笠山御殿」の漁師鱶七実ハ金輪五郎今国
・『新薄雪物語』の奴妻平
・『土屋主税』の土屋侯


女形
・『菅原伝授手習鑑』「道明寺」「寺子屋」の覚寿、千代
・『鏡山旧錦絵』のお初、岩藤
・『伽羅先代萩』の八汐
・『近江源氏先陣館』「盛綱陣屋」の微妙
・『一谷嫩軍記』「熊谷陣屋」の相模


敵役
・『仮名手本忠臣蔵』の高師直
・『菅原伝授手習鑑』「車引」の藤原時平公
・『敵討天下茶屋聚』の東間三郎右衛門


道外役
・『新板色読販』(ちょいのせの善六)の善六


脇役
・『宿無団七時雨傘』(宿無団七)の並木正三


新作歌舞伎
・『建礼門院』の後白河法皇


舞踊劇
・『隅田川』の舟長


人物・逸話
最後まで若々しい芸を見せ、『曾根崎心中』で舞台を共にした長男・二代目扇雀(→三代目鴈治郎→四代目藤十郎)が人気を集めると「嫉みますがな」とライバル意識をむき出しにしていた。


庶民的な気さくな面を持ちパチンコ競馬が好きで、人間国宝に認定されると「国宝なったら競馬したらアカンのか」と本気で心配した。また、当時孤軍奮闘していた三代目市川猿之助を可愛がり、彼の一座によく参加するといった義侠心も併せ持つ人物だった。


小心なところがあり、戦時中空襲警報が発令されると真っ先に自宅の防空壕に駆け込んでいた。終戦直後はヒロポンを常習したこともある。


科白
覚えは悪かったものの、新作や新しい役柄には進んで挑戦する精神に富んでいた。科白がうろ覚えでも本番では観客に悟られることなく役をつとめることが出来る特技を持っていた。ある新作の稽古で、原作者から「鴈治郎さん、科白覚えて下さい!」と駄目を出された時は、今まで見せたことのない怒りの表情になり、後々までもこのことを恨んでいたという。また、黒澤明の『どん底』に出演した時は、黒澤から「歯を全部抜けますか。」と聞かれ、希望通りに全部抜いてしまうほどの熱の入れようだった。


また、『妹背山婦女庭訓』「金殿」の鱶七をつとめたとき、周囲は荒事の鱶七を和事の鴈治郎ができるのか、いかにもニンが違い過ぎはしないかと案じた。しかし鴈治郎は二代目尾上松緑から役の性根を教えてもらい、自身なりの鱶七を見事につとめあげて賞賛を浴びた。これには、お三輪役で舞台を共にした六代目中村歌右衛門が、以前から「成駒屋(鴈治郎のこと)の鱶七はすごいわよ」とその芸力を認め強く推薦していたからだった。


晩年は病魔に悩まされながら舞台を勤めた。最後の舞台は1982年(昭和57年)京都南座顔見世の『新口村』の忠兵衛で、息子の扇雀の梅川、友人で好敵手でもある十三代目仁左衛門の孫右衛門との共演であった。鴈治郎の死後、仁左衛門はその千秋楽の日、最後の告別の場面で「成駒屋がいつまでも私の手を離さへんのです。」と感慨を込めて証言した。


十代の頃は少年雑誌に林春虎のペンネームで投稿をおこなっていた。 


映画・テレビドラマでの出演作​
映画
・『芸道一代男』(1941年、特作プロ/松竹)、主演・中村鴈治郎
・『大阪物語』(1957年、大映京都)
・『琴の爪』(1957年、東宝
・『どん底』(1957年、東宝)
・『女殺し油地獄』(1957年、東宝)
・『暖簾』(1958年、宝塚映画/東宝)
・『炎上』(1958年、大映京都)
・『鰯雲』(1958年、東宝)
・『弁天小僧』(1958年、大映京都)
・『』(1959年、大映東京)
・『日本誕生』(1959年、東宝) - 景行天皇[2][3]
・『浮草』(1959年、大映東京)・
・『初春狸御殿』(1959年、大映京都)
・『女経』第三話「恋を忘れていた女」(1960年、大映東京)
・『女が階段を上る時』(1960年、東宝)
・『ぼんち』(1960年、大映京都)
・『好色一代男』(1961年、大映東京)
・『東京おにぎり娘』(1961年、大映東京)
・『小早川家の秋』(1961年、宝塚映画/東宝)
・『釈迦』(1961年、大映京都)
・『雁の寺』(1962年、大映京都)
・『破戒』(1962年、大映京都)
・『お吟さま』(1962年、文芸プロダクションにんじんくらぶ/松竹)
・『長脇差忠臣蔵』(1962年、大映京都)
・『殺陣師段平』(1962年、大映京都)
・『秦・始皇帝』(1962年、大映)
・『雪之丞変化』(1963年 大映京都)
・『女系家族』(1963年 大映京都)
・『越前竹人形』(1963年 大映京都)
・『怪談』第四話「茶碗の中」(1964年、文芸プロダクションにんじんくらぶ/東宝) - 出版元[4]
・『幸せなら手をたたこう』(1964年、大映)
・『「エロ事師たち」より 人類学入門』(1966年、今村プロ/日活
・『湖の琴』(1966年、東映京都)
・『悪名 縄張荒らし』(1974年、勝プロダクション/東宝)
・『ある映画監督の生涯 溝口健二の記録』(1975年、近代映画協会/ATG
・『徳川一族の崩壊』(1980年5月24日、東映京都)


テレビドラマ
・『すいーとぽてと』(1971年 - 1972年、毎日放送・NET系列)
・『男は度胸』(1970年 - 1971年、NHK)-淀屋辰五郎 役
・『日本沈没』(1974年 - 1975年、TBS系列)
・『座頭市物語』 第26話(最終回)「ひとり旅」(1975年、フジテレビ)
日本名作怪談劇場死神』(1977年、テレビ東京系列)
・『必殺仕事人』(1979年、テレビ朝日系列) - (元締)鹿蔵 役
・『木曜ゴールデンドラマ 母と子の裁かれる日』(1982年、読売テレビ・日本テレビ系列)
・『必殺シリーズ10周年記念スペシャル 仕事人大集合(1982年、テレビ朝日系列)


詳しいことは、『二代目・中村鴈治郎ウィキペディア』をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9D%91%E9%B4%88%E6%B2%BB%E9%83%8E_(2%E4%BB%A3%E7%9B%AE)
(wikiより)

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⇧ 二代目・中村鴈治郎

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三代目・岩井紫若 ( いわい - しじゃく)
( 1840 - 1873 ) 

幕末 - 明治時代の歌舞伎役者。

天保 ( てんぽう ) 11年生まれ。

10代嵐三右衛門の門人。

大坂の浜芝居で修業。

慶応 3年江戸の中村座に出演し、みとめられて 8代岩井半四郎 ( 2代紫若 ) の養子となる。

明治 5年 3代紫若を襲名。

若女方で若衆方にもすぐれた。

明治 6年 10月 5日死去。34歳。

前名は嵐栄三郎。屋号は大和屋。

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九代目・岩井半四郎( いわい - はんしろう )      
明治 15年 ~ 昭和 20年 5月 26日 ( 1882 - 1945 )

歌舞伎役者。

女形。

父、4代岩井粂三郎。5代岩井粂三郎。

日本舞踊の普及をはかるために岩井流初代宗家として流派をおこした。

「紫香院燕子日信士」

10代岩井半四郎 ( 1927. 8. 8- ) は、俳優名として昭和 26年 ( 1951 ) 市川猿之助門弟で、初代花柳寿太郎の長男市川笑猿(  本名:仁科周芳:にしな - ただよし ) が襲名し現在に至る。

長女は女優の岩井友見、次女は女優の仁科亜季子、三女は女優の仁科幸子。

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岩井半四郎( いわい - はんしろう )     
文政 12年 10月 2日 ~ 明治 15年 2月 19日 ( 1829 - 1882 )

歌舞伎俳優。

女形。

父、7代岩井半四郎。

俳名、2代紫若。

江戸出身。

天保 3年 ( 1832 ) 岩井粂三郎( くめさぶろう )を名乗って初舞台。

嘉永 4年 ( 1851 ) 河原崎座で 8代市川団十郎の相手役の立女方となる。

元治元年 ( 1864 ) 父親の前名岩井紫若の 2代目を襲名。

明治 5年 ( 1872 ) 8代目岩井半四郎を襲名。

明治 7年 ( 1874 ) 中村座座頭。

「貞松院修徳日厚信士」。

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七代目・岩井半四郎。

五代目の次男。

六代目の弟。

( 1804 - 1845 )。

俗に「紫若半四郎」。屋号は大和屋。俳名は扇朝、紫若。

初代・岩井小紫 → 初代・岩井松之助 → 初代・岩井紫若 → 七代目・岩井半四郎。

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六代目・岩井半四郎 ( ろくだいめ いわい はんしろう、寛政 10年 ( 1798年 )  - 天保 7年 4月 8日 ( 1836年 5月 22日 )) は天保期の歌舞伎役者。俳名は袖歌、梅我。屋号は大和屋。

経歴
1798年生れ。父は名優五代目・岩井半四郎。初名を初代・岩井久次郎という。

文化元年 ( 1804年 ) 11月に父の前名二代目・岩井粂三郎と改名。

天保 3年 ( 1832年 ) 11月に六代目・岩井半四郎を襲名。

江戸を中心に女形として活躍し人気を博したが、天保 7年 ( 1836年 ) 4月 8日、39歳の若さで亡くなった。

戒名は深窓院梅我日鮮信士。

死後、半四郎の名跡は弟の初代岩井紫若が七代目として襲名した。

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五代目・岩井 半四郎 ( ごだいめ いわい はんしろう、安永 5年 ( 1776年 ) - 弘化 4年 4月 6日( 1847年 5月 20日 )) は化政期に女形として活躍した江戸の歌舞伎役者。幼名は長松 ( ちょうまつ )。屋号は大和屋。俳名に梅我・杜若、通称に杜若半四郎・眼千両・大太夫などがある。

来歴
安永 5年江戸で生れる。父は四代目・岩井半四郎。

天明 7年 11月 ( 1787年 ) に桐座で岩井粂三郎と名乗り初舞台。

文化元年 ( 1804年 )、中村座で五代目・岩井半四郎を襲名、父祖以来の女形の家を継いだ。「目千両」と呼ばれるほどの眼差しと、すこし下唇が出たおちょぼ口が魅力的で、しかも容姿抜群、愛嬌もたっぷりという三拍子揃った五代目は、すぐに江戸一の人気役者になった。芸の方もしっかりしており、四代目・鶴屋南北と組んで生世話物の悪婆を得意としたほか、若衆や荒事までこなす名優であった。

文政 3年  ( 1820年 )、五代目・松本幸四郎や三代目・坂東三津五郎と同時に上方へのぼる。これをきっかけに以後多くの役者が上方に赴くことになる。

文政 5年には、長男の二代目・岩井粂三郎、次男の初代・岩井紫若 ( 後の七代目・岩井半四郎 )、そして自身の親子三人で江戸三座の立女形を独占したことで有名になった。

天保 3年 ( 1832年 ) 11月、俳名をとって岩井杜若を名乗り、弘化のはじめに剃髪、松下庵永久と号して役者を引退した。

逸話
自然体の演技を得意とし、半四郎が「お帰りあそばしませ。」と云うだけで相手方の俳優は自分の妻よりもいとしく思えたという。また、名人五代目・幸四郎は、彼のことを「あの人と一緒に演じているとまるで桜の散る中を歩くようです。」と評した。

彼の容貌から、悲劇よりも元気のいい女性を演じるのに本領を発揮した。特に「お染の七役」の「土手のお六」などは全く彼によって創作されたものであり、当時としては斬新な演技を創造する才能に長けていた。

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四代目・岩井半四郎 ( よだいめ いわい はんしろう、延享 4年 ( 1747年 ) - 寛政 12年 3月 29日 ( 1800年 4月 22日 )) は江戸時代中期の歌舞伎役者。

江戸を中心に活躍し、女形の家としての岩井家の基礎を築いた。俳号は杜若、屋号ははじめ雑司ヶ谷屋、のちに大和屋。

江戸の人形遣い辰松重三郎の子。

二代目・松本幸四郎の門人となり、宝暦 4年 ( 1754年 ) 11月の中村座で松本長松を名乗り七歳で初舞台を踏む。
その後二代目・幸四郎は四代目・市川團十郎を襲名、長松は宝暦 12年 ( 1762年 ) に師匠の前名である松本七蔵を二代目として襲名する。四代目・團十郎にとっては女形の弟子は七蔵だけだった。

当時上方には初代・半四郎の孫娘がいたが、この女性は初代・中村富十郎の妻であった。三代目・半四郎が死去したのち、富十郎は半四郎の名跡が絶えるのを惜しみ、自分が養子にしていた弟子の岩井半之助に半四郎の名を明和元年 ( 1764年 )、上方で継がせた。

ところが三代目・半四郎にはおまつという娘がいて、これが四代目・團十郎の妻となっていた。團十郎とおまつは弟子の七蔵に半四郎の名を継がせたいと望んだ。その結果明和 2年 ( 1765年 ) 11月、七蔵は岩井家の養子となって四代目・岩井半四郎を中村座で襲名、富十郎の養子である半四郎は中村新五郎と改名した。岩井半四郎はもとは立役の名跡であったが、四代目からは江戸歌舞伎の女形として基礎を築き、以後五代目、六代目、七代目へと続いた。

女形でありながら気性の荒いところがあったともいわれるが、風貌は丸顔で愛嬌があり「お多福半四郎」と呼ばれ、他にも「白金の太夫」「目黒の太夫」などの愛称があった。

生世話を得意とし、特にその中の三日月お仙は当り役となり、これは五代目・半四郎にも受け継がれ演じられている。また舞踊にも優れ、長唄の所作事『手習子』を初演し今に残る。江戸を代表する女形として高い人気を誇り、三代目・瀬川菊之丞と「女方の双璧」と並び称された。

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中興之始祖 初代古童 豊田風憧史蹟」碑


豊田風憧 ( ? ~ 1851 ) は、江戸後期の尺八奏者で、後に古童と号した。


〇 豊田古童
豊田古童 ( とよだ - こどう )
( ? - 1851 )


江戸時代後期の尺八奏者。


琴古 ( きんこ ) 流。


江戸の人。


初代・山田如童、久松風陽に学ぶ。


風憬、のち古童と号し世に風憬古童と称される。


古童の芸名は弟子の初代・荒木古童が継いだ。


嘉永 ( かえい ) 4年 4月 27日死去。通称は勝五郎。

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虚無僧の「尺八塚」。


寛永四年 ( 1851年 ) 尺八琴古流宗家の豊田鳳憬は、傑出した虚無僧の高徳と尺八の伝統技能を大成した中興の人であり、当山はその累代菩提所として歌舞伎音曲に縁の深い事でも知られています。
(法乗院パンフレットより)


〇 荒木古童
荒木 古童(あらき こどう)は琴古流尺八奏者の名跡。


初世 古童

豊田古童(生年不詳 - 嘉永3年4月27日(旧暦) [1850年6月7日] )。本名は豊田勝五郎。初代山田如童、久松風陽に師事し、風憬、後に古童と称した。通称は「風憬古童」。
(wikiより)

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初代 市川八百蔵(しょだい いちかわ やおぞう、享保15年〈1730年〉 - 宝暦9年10月19日1759年12月8日〉)とは、江戸時代中期の歌舞伎役者俳名定花、屋号蓬莱屋。紋は三升の中に八の字。

来歴
道外方松島茂平次の子。初め松島吉三郎を名乗り、大坂の豊竹蛙井の操座で子役として初舞台。寛保2年(1742年)江戸に出て、中村座の『傾城赤澤山』で子役を勤める。この時に「子役の名人」といわれて評判をとる。延享3年(1746年)に松島八百蔵と改名し若衆方、のち立役に転じる。寛元2年(1749年)11月、二代目市川團十郎の門下となり市川八百蔵と改名した。享年30。荒事を最も得意とし、曾我五郎の役は二代目團十郎を凌ぐといわれた。二代目八百蔵は初代八百蔵の妹おるやの婿。

参考文献
・野島寿三郎編 『歌舞伎人名事典』(新訂増補) 日外アソシエーツ、2002年
(wikiより)

0139 初世・市川八百蔵

⇧ 初世・市川八百蔵

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初代・竹本東猿塚 / 竹本東猿 ( たけもと - とうえん )
( 1867 ~ 1904 )


明治時代の女義太夫の太夫。


慶応 3年生まれ。


19歳で真打となり、大阪の女義太夫界で名声を博する。


明治 32年上京、多くの名士にひきたてられた。


品行方正で後進の模範ともされた。


明治 37年 8月 12日死去。38歳。大坂出身。

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七代目 澤村 訥子(しちだいめ さわむら とっし、安政7年4月8日1860年5月28日) - 大正15年(1926年3月26日)は、明治から大正にかけて活躍した歌舞伎役者。屋号は紀伊國屋定紋丸にいの字俳名に訥子がある。本名は伊藤 千之助(いとう せんのすけ)。


尾張藩家老家臣の子として名古屋に生まれる。幼少の頃から役者を志し、明治7年(1874年)に大垣で市川千之助を名乗って初舞台を踏む。明治11年(1878年)中村千之助と改名し上京。その後四代目助高屋高助が芸を見込んで養子に迎え入れ、明治15年(1882年)9月に七代目澤村訥子襲名する。勇ましい役どころや激しい大立廻りを得意とし「猛優訥子」の異名をとった。大劇場に出ることはあまりなく専ら小芝居に甘んじたが大衆の人気を勝ち得た。


長男に早世した初代助高屋小傳次、次男にやはり早世した初代澤村宗之助、また甥で養子とした二代目助高屋小傳次がいる。長男門下の澤村傳次郎が娘婿になり後に八代目澤村訥子を襲名して芸風を受け継いだ。


孫はのち映画に進出した二代目澤村宗之助伊藤雄之助澤村昌之助
(wikiより)

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助高屋 小傳次 ( すけたかや こでんじ )
( 1884 - 1899 )

明治 17年 5月 2日生まれ。


明治時代の歌舞伎役者。


7代目・沢村訥子 ( とっし ) の長男。


明治 20年 4歳のとき東京吾妻座 ( のちの宮戸座 ) で初舞台。


宮戸座の子供芝居の座頭となる。


のち新富座にうつり大好評をえて前途を期待されたが、明治 32年 8月 24日死去。16歳。


東京出身。


本名は伊藤政吉。

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歌舞伎系の名跡?

詳細不明。

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おそらく歌舞伎系?

詳細不明。

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豊澤家は浄瑠璃 ( 三味線などを弾き物語を語るもの ) などを伝える家柄で、豊澤仙糸は明治から大正にかけて活躍した人物でした。


この碑はその豊澤仙糸を称えたもので文字は漢学者で初の長崎市議会議長となった西道仙によって書かれました。

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市村 宇左衞門 / 羽左衞門(いちむら うざえもん、新字体:羽左衛門)は、歌舞伎役者名跡。名の部分は七代目までが宇左衛門、以後が羽左衛門。


屋号
は七代目までは不詳、七代目から十六代目までは菊屋、十六代目以降は橘屋


十六代目以降の定紋根上り橘(ねあがり たちばな)、替紋は渦巻(うずまき)

解説

当初「市村宇左衛門」は江戸三座の一つ市村座の座元(座を主宰し芝居小屋を経営する者)の名跡だったが、元禄年間から座元が役者に転じたり、逆に役者が座元を兼ねたりすることが多くなる。そして明治末年に市村座の経営権が田村成義の手に渡ると、「市村羽左衛門」は単に役者の名跡となった。


市村座の歴史は、寛永年間に村山又三郎が江戸に出て、葺屋町村山座の櫓を上げたのに始まる。しかし村山座の経営は不振で、年を追うごとに負債がかさんでいく。又三郎のあと座元を継いだ女婿の村田九郎右衛門は、自らが病弱だったこともあり、又三郎が数ヵ月後に病死するとすぐに村山座の興行権を売却してしまう。これを買い取ったのが上州の人で村山又三郎の門人だった市村宇左衛門である。このとき座名も村山座から市村座に替わった。


2001年(平成13年)に死去した先代の市村羽左衛門は十七代目だった。しかしこれまでに「市村宇左衛門/羽左衛門」を実際に襲名した者は12名を数えるのみである。残りの5名は、いずれも死後に代々の「市村宇左衛門」に数えられた「贈何代目」の市村宇左衛門である。


そもそも「市村宇左衛門」とは、村山座の興行権を買い取って市村座を始めた上州の人・市村宇左衛門の本名である。にもかかわらず、彼は市村宇左衛門の宗祖としてではなく、三代目として数えられている。これは彼に先立って村山座の座元だった村山又三郎と村田九右衛門の両名にそれぞれ初代宇左衛門と二代目宇左衛門が追贈されているからである。また今日四代目・六代目・七代目の宇左衛門として知られる人物は、いずれも諸般の事情から市村座の座元は継いだものの「宇左衛門」の名跡を襲名するには至らなかった者で、死後にやはり市村宇左衛門が追贈されて代々に加えられたものである。

市村宇左衛門/羽左衛門 代々
十二代目 市村羽左衛門


・十一代目の次男、1812–51(座元 1821–51)。


・市村豊松 → 市村亀之助 → 十二代目市村羽左衛門 → 五代目市村竹之丞

〇 十二代目・市村羽左衛門

十二代目 市村羽左衛門(じゅうにだいめ いちむら うざえもん、文化9年〈1812年〉 - 嘉永4年8月20日1851年9月15日〉)とは、江戸時代後期の歌舞伎役者で江戸市村座の座元。俳名家橘屋号は橘屋。定紋は根上がり橘。


市村座の座元十一代目市村羽左衛門の次男。初め市村豊松、のち市村亀之助と名を改め、文政元年(1818年)11月に子役として舞台に立つ。文政3年(1820年)7月に父が死去し、同年11月に十二代目市村羽左衛門を襲名。以後座元と役者の双方を務めた。


天保
12年(1841年)10月、隣接する中村座が失火により全焼、隣接する市村座にも類焼し全焼した。これを機に森田座を含む三座は、町奉行所から浅草猿若町に移転を命じられる。嘉永4年(1851年)4月、実子の市村九郎右衛門に十三代目羽左衛門の名と座元を継がせ、自身は五代目市村竹之丞を襲名し舞台に専念するも同年6月、病により死去した。


上品な顔立ちで、私生活では成田山詣でをするのに大勢の幇間や芸者を伴い、そのついでに宴会をするなど、派手な遊びで江戸市中の話題を集めた。

参考文献
・野島寿三郎編 『歌舞伎人名事典』(新訂増補) 日外アソシエーツ、2002年

(wikiより)

十二代目・市村羽左衛門

十二代目・市村羽左衛門

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市村 宇左衞門 / 羽左衞門(いちむら うざえもん、新字体:羽左衛門)は、歌舞伎役者名跡。名の部分は七代目までが宇左衛門、以後が羽左衛門。


屋号
は七代目までは不詳、七代目から十六代目までは菊屋、十六代目以降は橘屋


十六代目以降の定紋根上り橘(ねあがり たちばな)、替紋は渦巻(うずまき)

解説

当初「市村宇左衛門」は江戸三座の一つ市村座の座元(座を主宰し芝居小屋を経営する者)の名跡だったが、元禄年間から座元が役者に転じたり、逆に役者が座元を兼ねたりすることが多くなる。そして明治末年に市村座の経営権が田村成義の手に渡ると、「市村羽左衛門」は単に役者の名跡となった。


市村座の歴史は、寛永年間に村山又三郎が江戸に出て、葺屋町村山座の櫓を上げたのに始まる。しかし村山座の経営は不振で、年を追うごとに負債がかさんでいく。又三郎のあと座元を継いだ女婿の村田九郎右衛門は、自らが病弱だったこともあり、又三郎が数ヵ月後に病死するとすぐに村山座の興行権を売却してしまう。これを買い取ったのが上州の人で村山又三郎の門人だった市村宇左衛門である。このとき座名も村山座から市村座に替わった。


2001年(平成13年)に死去した先代の市村羽左衛門は十七代目だった。しかしこれまでに「市村宇左衛門/羽左衛門」を実際に襲名した者は12名を数えるのみである。残りの5名は、いずれも死後に代々の「市村宇左衛門」に数えられた「贈何代目」の市村宇左衛門である。


そもそも「市村宇左衛門」とは、村山座の興行権を買い取って市村座を始めた上州の人・市村宇左衛門の本名である。にもかかわらず、彼は市村宇左衛門の宗祖としてではなく、三代目として数えられている。これは彼に先立って村山座の座元だった村山又三郎と村田九右衛門の両名にそれぞれ初代宇左衛門と二代目宇左衛門が追贈されているからである。また今日四代目・六代目・七代目の宇左衛門として知られる人物は、いずれも諸般の事情から市村座の座元は継いだものの「宇左衛門」の名跡を襲名するには至らなかった者で、死後にやはり市村宇左衛門が追贈されて代々に加えられたものである。

市村宇左衛門/羽左衛門 代々
十一代目 市村羽左衛門


・十代目の養子、1791–1819(座元 1800–16)。実父は親戚筋の四代目福地茂兵衛。


・初代市村萬次郎 → 十一代目市村羽左衛門
(wikiより)

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市村 宇左衞門 / 羽左衞門(いちむら うざえもん、新字体:羽左衛門)は、歌舞伎役者名跡。名の部分は七代目までが宇左衛門、以後が羽左衛門。


屋号
は七代目までは不詳、七代目から十六代目までは菊屋、十六代目以降は橘屋


十六代目以降の定紋根上り橘(ねあがり たちばな)、替紋は渦巻(うずまき)

解説

当初「市村宇左衛門」は江戸三座の一つ市村座の座元(座を主宰し芝居小屋を経営する者)の名跡だったが、元禄年間から座元が役者に転じたり、逆に役者が座元を兼ねたりすることが多くなる。そして明治末年に市村座の経営権が田村成義の手に渡ると、「市村羽左衛門」は単に役者の名跡となった。


市村座の歴史は、寛永年間に村山又三郎が江戸に出て、葺屋町村山座の櫓を上げたのに始まる。しかし村山座の経営は不振で、年を追うごとに負債がかさんでいく。又三郎のあと座元を継いだ女婿の村田九郎右衛門は、自らが病弱だったこともあり、又三郎が数ヵ月後に病死するとすぐに村山座の興行権を売却してしまう。これを買い取ったのが上州の人で村山又三郎の門人だった市村宇左衛門である。このとき座名も村山座から市村座に替わった。


2001年(平成13年)に死去した先代の市村羽左衛門は十七代目だった。しかしこれまでに「市村宇左衛門/羽左衛門」を実際に襲名した者は12名を数えるのみである。残りの5名は、いずれも死後に代々の「市村宇左衛門」に数えられた「贈何代目」の市村宇左衛門である。


そもそも「市村宇左衛門」とは、村山座の興行権を買い取って市村座を始めた上州の人・市村宇左衛門の本名である。にもかかわらず、彼は市村宇左衛門の宗祖としてではなく、三代目として数えられている。これは彼に先立って村山座の座元だった村山又三郎と村田九右衛門の両名にそれぞれ初代宇左衛門と二代目宇左衛門が追贈されているからである。また今日四代目・六代目・七代目の宇左衛門として知られる人物は、いずれも諸般の事情から市村座の座元は継いだものの「宇左衛門」の名跡を襲名するには至らなかった者で、死後にやはり市村宇左衛門が追贈されて代々に加えられたものである。

市村宇左衛門/羽左衛門 代々
十代目 市村羽左衛門


・九代目の子、1748–99(座元 1788−93、98–99)。


・市村七十郎 → 二代目市村亀蔵 → 十代目市村羽左衛門 → 五代目市村家橘

〇 十一代目・市村羽左衛門

十代目 市村羽左衛門(じゅうだいめ いちむら うざえもん、寛延元年〈1748年〉 - 寛政11年2月15日1799年3月20日〉)とは、宝暦期から寛政期にかけての歌舞伎役者屋号は菊屋、俳名は亀全。


九代目市村羽左衛門の息子。宝暦8年(1758年)11月、市村七十郎と名乗り初舞台を踏む。翌年11月に父市村亀蔵が九代目市村羽左衛門を襲名すると、その前名である亀蔵を襲名した。天明8年(1788年)9月、それまで控櫓だった桐座から興行権を取り戻して市村座を再興、十代目市村羽左衛門を襲名し晴れて座元となる。しかし前代からの市村座の負債はなお残り、一度は決着を見るもその後また大借金となった。その結果、寛政5年(1793年)には市村座はふたたび桐座に興行権を譲らざるを得なかった。そして十代目自身は退隠し、親類の福地茂兵衛の息子を養子にして十一代目市村羽左衛門の名を継がせている。寛政9年(1797年)、魚商をしていた老人という人物から借財整理の援助を受け翌年市村座は再興したが、その次の年に死去した。役者としてはあまり舞台に立たなかったという。

参考文献
・野島寿三郎編 『歌舞伎人名事典』(新訂増補) 日外アソシエーツ、2002年
(wikiより)

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市村 宇左衞門 / 羽左衞門(いちむら うざえもん、新字体:羽左衛門)は、歌舞伎役者名跡。名の部分は七代目までが宇左衛門、以後が羽左衛門。


屋号
は七代目までは不詳、七代目から十六代目までは菊屋、十六代目以降は橘屋


十六代目以降の定紋根上り橘(ねあがり たちばな)、替紋は渦巻(うずまき)

解説

当初「市村宇左衛門」は江戸三座の一つ市村座の座元(座を主宰し芝居小屋を経営する者)の名跡だったが、元禄年間から座元が役者に転じたり、逆に役者が座元を兼ねたりすることが多くなる。そして明治末年に市村座の経営権が田村成義の手に渡ると、「市村羽左衛門」は単に役者の名跡となった。


市村座の歴史は、寛永年間に村山又三郎が江戸に出て、葺屋町村山座の櫓を上げたのに始まる。しかし村山座の経営は不振で、年を追うごとに負債がかさんでいく。又三郎のあと座元を継いだ女婿の村田九郎右衛門は、自らが病弱だったこともあり、又三郎が数ヵ月後に病死するとすぐに村山座の興行権を売却してしまう。これを買い取ったのが上州の人で村山又三郎の門人だった市村宇左衛門である。このとき座名も村山座から市村座に替わった。


2001年(平成13年)に死去した先代の市村羽左衛門は十七代目だった。しかしこれまでに「市村宇左衛門/羽左衛門」を実際に襲名した者は12名を数えるのみである。残りの5名は、いずれも死後に代々の「市村宇左衛門」に数えられた「贈何代目」の市村宇左衛門である。


そもそも「市村宇左衛門」とは、村山座の興行権を買い取って市村座を始めた上州の人・市村宇左衛門の本名である。にもかかわらず、彼は市村宇左衛門の宗祖としてではなく、三代目として数えられている。これは彼に先立って村山座の座元だった村山又三郎と村田九右衛門の両名にそれぞれ初代宇左衛門と二代目宇左衛門が追贈されているからである。また今日四代目・六代目・七代目の宇左衛門として知られる人物は、いずれも諸般の事情から市村座の座元は継いだものの「宇左衛門」の名跡を襲名するには至らなかった者で、死後にやはり市村宇左衛門が追贈されて代々に加えられたものである。

市村宇左衛門/羽左衛門 代々
九代目 市村羽左衛門


・八代目の長男、1724–82(座元 1762–82)。


・市村満蔵 → 初代市村亀蔵 → 九代目市村羽左衛門

〇 九代目・市村羽左衛門
九代目 市村羽左衛門(くだいめ いちむら うざえもん、享保9年〈1724年〉 - 天明5年8月25日1785年9月28日〉)とは、享保の初期から天明初期にかけて活躍した歌舞伎役者屋号菊屋、俳名家橘

来歴

八代目市村羽左衛門の長男で、弟は三代目坂東彦三郎。享保16年(1731年)7月、市村満蔵を名乗り市村座で初舞台、延享2年(1745年)に市村亀蔵と改名。宝暦11年(1761年)3月、伊勢参りの名目で上方へ行き、伊勢参宮ののち大坂に行き、中山文七座に同座して五変化の所作事などを見せ、のちに京にも行きやはり五変化の所作を上演して名をあげる。同年11月江戸に戻った。


宝暦12年(1762年)、父八代目羽左衛門の死去により市村座の座元を相続すると同時に市村羽左衛門を襲名。しかしその後火事や先代からの借金に苦しめられ、天明4年(1784年)にはついに市村座は倒産閉場し、控櫓桐座に興行権を譲るに至った。その翌年、中村座の座元中村勘三郎の勧めにより羽左衛門は中村座に出演し、一世一代として変化舞踊を演じたが、そのなかで猿まわしの猿に扮し『娘道成寺』の所作事を演じた。同年8月に没す。


若いころは魚のような顔つきだと評され荒事ばかりを演じていたが、のちに和事実事、また女の役も演じるようになり、八代目に劣らず幅広い芸風を誇った。特に所作事においては名人との評判を得ている。子に十代目市村羽左衛門がいる。

参考文献
・渡辺保 『娘道成寺』(改訂版) 駸々堂、1992年
・野島寿三郎編 『歌舞伎人名事典』(新訂増補) 日外アソシエーツ、2002年
(wikiより)

九代目・市村羽左衛門

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市村 宇左衞門 / 羽左衞門(いちむら うざえもん、新字体:羽左衛門)は、歌舞伎役者名跡。名の部分は七代目までが宇左衛門、以後が羽左衛門。


屋号
は七代目までは不詳、七代目から十六代目までは菊屋、十六代目以降は橘屋


十六代目以降の定紋根上り橘(ねあがり たちばな)、替紋は渦巻(うずまき)

解説

当初「市村宇左衛門」は江戸三座の一つ市村座の座元(座を主宰し芝居小屋を経営する者)の名跡だったが、元禄年間から座元が役者に転じたり、逆に役者が座元を兼ねたりすることが多くなる。そして明治末年に市村座の経営権が田村成義の手に渡ると、「市村羽左衛門」は単に役者の名跡となった。


市村座の歴史は、寛永年間に村山又三郎が江戸に出て、葺屋町村山座の櫓を上げたのに始まる。しかし村山座の経営は不振で、年を追うごとに負債がかさんでいく。又三郎のあと座元を継いだ女婿の村田九郎右衛門は、自らが病弱だったこともあり、又三郎が数ヵ月後に病死するとすぐに村山座の興行権を売却してしまう。これを買い取ったのが上州の人で村山又三郎の門人だった市村宇左衛門である。このとき座名も村山座から市村座に替わった。


2001年(平成13年)に死去した先代の市村羽左衛門は十七代目だった。しかしこれまでに「市村宇左衛門/羽左衛門」を実際に襲名した者は12名を数えるのみである。残りの5名は、いずれも死後に代々の「市村宇左衛門」に数えられた「贈何代目」の市村宇左衛門である。


そもそも「市村宇左衛門」とは、村山座の興行権を買い取って市村座を始めた上州の人・市村宇左衛門の本名である。にもかかわらず、彼は市村宇左衛門の宗祖としてではなく、三代目として数えられている。これは彼に先立って村山座の座元だった村山又三郎と村田九右衛門の両名にそれぞれ初代宇左衛門と二代目宇左衛門が追贈されているからである。また今日四代目・六代目・七代目の宇左衛門として知られる人物は、いずれも諸般の事情から市村座の座元は継いだものの「宇左衛門」の名跡を襲名するには至らなかった者で、死後にやはり市村宇左衛門が追贈されて代々に加えられたものである。

市村宇左衛門/羽左衛門 代々
八代目 市村羽左衛門


・贈七代目の弟、1699–1762(座元 1703–62)。実父は市村座の芝居茶屋・菊屋善兵衛。寛延元年 (1748) 「宇左衛門」を「羽左衛門」と改める。


・四代目市村竹之丞 → 八代目市村宇左衛門 → 八代目市村羽左衛門

〇 八代目・市村羽左衛門
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八代目 市村羽左衛門(はちだいめ いちむら うざえもん、元禄11年〈1698年〉 - 宝暦12年5月7日1762年6月28日〉)とは、江戸時代中期の歌舞伎役者。また市村座の座元。屋号菊屋俳名は可江。雅号橘中庵。


芝居茶屋
主人菊屋善兵衛の三男として江戸に生まれる。母が五代目市村宇左衛門の姉だったことから、元禄16年(1703年)、父を後見人として5歳で四代目市村竹之丞襲名し、市村座の座元となる。初舞台はそれから二年後の宝永2年(1705年)正月興行『万歳田村丸』の天童子だった。その後、座元と役者を兼ね江戸の芝居に重きをなすようになる。元文2年(1737年)、将軍家の若君竹千代の名を憚って八代目市村宇左衛門を襲名。寛延元年(1748年)さらに名を「羽左衛門」と改めた。以後市村座の座元は「羽左衛門」の名を代々名乗る。


座元を60年間勤める傍ら、舞台でも若衆、女形、実事、敵役など幅広い役柄をこなした。子に九代目市村羽左衛門三代目坂東彦三郎がいる。墓所は東京都江戸川区の大雲寺だが、ほかに江東区の自性院にも供養塔がある。なお八代目羽左衛門ゆかりの名所として、「曽我御霊社奉寄進石宝殿」がある。春の江戸の芝居に必ず取り上げられた「曽我物」の人物曽我兄弟を供養するため、八代目が駒込富士神社(東京都文京区本駒込五丁目)に寄進したものである。

参考文献
・野島寿三郎編 『歌舞伎人名事典』(新訂増補) 日外アソシエーツ、2002年
(wikiより)

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市村 宇左衞門 / 羽左衞門(いちむら うざえもん、新字体:羽左衛門)は、歌舞伎役者名跡。名の部分は七代目までが宇左衛門、以後が羽左衛門。


屋号
は七代目までは不詳、七代目から十六代目までは菊屋、十六代目以降は橘屋


十六代目以降の定紋根上り橘(ねあがり たちばな)、替紋は渦巻(うずまき)

解説

当初「市村宇左衛門」は江戸三座の一つ市村座の座元(座を主宰し芝居小屋を経営する者)の名跡だったが、元禄年間から座元が役者に転じたり、逆に役者が座元を兼ねたりすることが多くなる。そして明治末年に市村座の経営権が田村成義の手に渡ると、「市村羽左衛門」は単に役者の名跡となった。


市村座の歴史は、寛永年間に村山又三郎が江戸に出て、葺屋町村山座の櫓を上げたのに始まる。しかし村山座の経営は不振で、年を追うごとに負債がかさんでいく。又三郎のあと座元を継いだ女婿の村田九郎右衛門は、自らが病弱だったこともあり、又三郎が数ヵ月後に病死するとすぐに村山座の興行権を売却してしまう。これを買い取ったのが上州の人で村山又三郎の門人だった市村宇左衛門である。このとき座名も村山座から市村座に替わった。


2001年(平成13年)に死去した先代の市村羽左衛門は十七代目だった。しかしこれまでに「市村宇左衛門/羽左衛門」を実際に襲名した者は12名を数えるのみである。残りの5名は、いずれも死後に代々の「市村宇左衛門」に数えられた「贈何代目」の市村宇左衛門である。


そもそも「市村宇左衛門」とは、村山座の興行権を買い取って市村座を始めた上州の人・市村宇左衛門の本名である。にもかかわらず、彼は市村宇左衛門の宗祖としてではなく、三代目として数えられている。これは彼に先立って村山座の座元だった村山又三郎と村田九右衛門の両名にそれぞれ初代宇左衛門と二代目宇左衛門が追贈されているからである。また今日四代目・六代目・七代目の宇左衛門として知られる人物は、いずれも諸般の事情から市村座の座元は継いだものの「宇左衛門」の名跡を襲名するには至らなかった者で、死後にやはり市村宇左衛門が追贈されて代々に加えられたものである。

市村宇左衛門/羽左衛門 代々
・贈七代目 市村宇左衛門


・五代目の女婿で六代目の義兄・三代目市村竹之丞、1681–98(座元 1687–98)。実父は市村座の芝居茶屋・菊屋善兵衛。


・三代目市村竹之丞(=贈七代目市村宇左衛門)
(wikiより)

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市村 宇左衞門 / 羽左衞門(いちむら うざえもん、新字体:羽左衛門)は、歌舞伎役者名跡。名の部分は七代目までが宇左衛門、以後が羽左衛門。


屋号
は七代目までは不詳、七代目から十六代目までは菊屋、十六代目以降は橘屋


十六代目以降の定紋根上り橘(ねあがり たちばな)、替紋は渦巻(うずまき)

解説

当初「市村宇左衛門」は江戸三座の一つ市村座の座元(座を主宰し芝居小屋を経営する者)の名跡だったが、元禄年間から座元が役者に転じたり、逆に役者が座元を兼ねたりすることが多くなる。そして明治末年に市村座の経営権が田村成義の手に渡ると、「市村羽左衛門」は単に役者の名跡となった。


市村座の歴史は、寛永年間に村山又三郎が江戸に出て、葺屋町村山座の櫓を上げたのに始まる。しかし村山座の経営は不振で、年を追うごとに負債がかさんでいく。又三郎のあと座元を継いだ女婿の村田九郎右衛門は、自らが病弱だったこともあり、又三郎が数ヵ月後に病死するとすぐに村山座の興行権を売却してしまう。これを買い取ったのが上州の人で村山又三郎の門人だった市村宇左衛門である。このとき座名も村山座から市村座に替わった。


2001年(平成13年)に死去した先代の市村羽左衛門は十七代目だった。しかしこれまでに「市村宇左衛門/羽左衛門」を実際に襲名した者は12名を数えるのみである。残りの5名は、いずれも死後に代々の「市村宇左衛門」に数えられた「贈何代目」の市村宇左衛門である。


そもそも「市村宇左衛門」とは、村山座の興行権を買い取って市村座を始めた上州の人・市村宇左衛門の本名である。にもかかわらず、彼は市村宇左衛門の宗祖としてではなく、三代目として数えられている。これは彼に先立って村山座の座元だった村山又三郎と村田九右衛門の両名にそれぞれ初代宇左衛門と二代目宇左衛門が追贈されているからである。また今日四代目・六代目・七代目の宇左衛門として知られる人物は、いずれも諸般の事情から市村座の座元は継いだものの「宇左衛門」の名跡を襲名するには至らなかった者で、死後にやはり市村宇左衛門が追贈されて代々に加えられたものである。

市村宇左衛門/羽左衛門 代々
・贈六代目 市村宇左衛門


・五代目の子・二代目市川竹松、1680–86(座元 1685–86)。夭折。


・市村長太夫 → 二代目市川竹松(=贈六代目市村宇左衛門)
(wikiより)

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市村 宇左衞門 / 羽左衞門(いちむら うざえもん、新字体:羽左衛門)は、歌舞伎役者名跡。名の部分は七代目までが宇左衛門、以後が羽左衛門。


屋号
は七代目までは不詳、七代目から十六代目までは菊屋、十六代目以降は橘屋


十六代目以降の定紋根上り橘(ねあがり たちばな)、替紋は渦巻(うずまき)

解説

当初「市村宇左衛門」は江戸三座の一つ市村座の座元(座を主宰し芝居小屋を経営する者)の名跡だったが、元禄年間から座元が役者に転じたり、逆に役者が座元を兼ねたりすることが多くなる。そして明治末年に市村座の経営権が田村成義の手に渡ると、「市村羽左衛門」は単に役者の名跡となった。


市村座の歴史は、寛永年間に村山又三郎が江戸に出て、葺屋町村山座の櫓を上げたのに始まる。しかし村山座の経営は不振で、年を追うごとに負債がかさんでいく。又三郎のあと座元を継いだ女婿の村田九郎右衛門は、自らが病弱だったこともあり、又三郎が数ヵ月後に病死するとすぐに村山座の興行権を売却してしまう。これを買い取ったのが上州の人で村山又三郎の門人だった市村宇左衛門である。このとき座名も村山座から市村座に替わった。


2001年(平成13年)に死去した先代の市村羽左衛門は十七代目だった。しかしこれまでに「市村宇左衛門/羽左衛門」を実際に襲名した者は12名を数えるのみである。残りの5名は、いずれも死後に代々の「市村宇左衛門」に数えられた「贈何代目」の市村宇左衛門である。


そもそも「市村宇左衛門」とは、村山座の興行権を買い取って市村座を始めた上州の人・市村宇左衛門の本名である。にもかかわらず、彼は市村宇左衛門の宗祖としてではなく、三代目として数えられている。これは彼に先立って村山座の座元だった村山又三郎と村田九右衛門の両名にそれぞれ初代宇左衛門と二代目宇左衛門が追贈されているからである。また今日四代目・六代目・七代目の宇左衛門として知られる人物は、いずれも諸般の事情から市村座の座元は継いだものの「宇左衛門」の名跡を襲名するには至らなかった者で、死後にやはり市村宇左衛門が追贈されて代々に加えられたものである。

市村宇左衛門/羽左衛門 代々
五代目 市村宇左衛門


・四代目の弟、????–1691(座元 1679–91年)。


・初代市村竹松 → 五代目市村宇左衛門
(wikiより)

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市村 宇左衞門 / 羽左衞門(いちむら うざえもん、新字体:羽左衛門)は、歌舞伎役者名跡。名の部分は七代目までが宇左衛門、以後が羽左衛門。


屋号
は七代目までは不詳、七代目から十六代目までは菊屋、十六代目以降は橘屋


十六代目以降の定紋根上り橘(ねあがり たちばな)、替紋は渦巻(うずまき)

解説

当初「市村宇左衛門」は江戸三座の一つ市村座の座元(座を主宰し芝居小屋を経営する者)の名跡だったが、元禄年間から座元が役者に転じたり、逆に役者が座元を兼ねたりすることが多くなる。そして明治末年に市村座の経営権が田村成義の手に渡ると、「市村羽左衛門」は単に役者の名跡となった。


市村座の歴史は、寛永年間に村山又三郎が江戸に出て、葺屋町村山座の櫓を上げたのに始まる。しかし村山座の経営は不振で、年を追うごとに負債がかさんでいく。又三郎のあと座元を継いだ女婿の村田九郎右衛門は、自らが病弱だったこともあり、又三郎が数ヵ月後に病死するとすぐに村山座の興行権を売却してしまう。これを買い取ったのが上州の人で村山又三郎の門人だった市村宇左衛門である。このとき座名も村山座から市村座に替わった。


2001年(平成13年)に死去した先代の市村羽左衛門は十七代目だった。しかしこれまでに「市村宇左衛門/羽左衛門」を実際に襲名した者は12名を数えるのみである。残りの5名は、いずれも死後に代々の「市村宇左衛門」に数えられた「贈何代目」の市村宇左衛門である。


そもそも「市村宇左衛門」とは、村山座の興行権を買い取って市村座を始めた上州の人・市村宇左衛門の本名である。にもかかわらず、彼は市村宇左衛門の宗祖としてではなく、三代目として数えられている。これは彼に先立って村山座の座元だった村山又三郎と村田九右衛門の両名にそれぞれ初代宇左衛門と二代目宇左衛門が追贈されているからである。また今日四代目・六代目・七代目の宇左衛門として知られる人物は、いずれも諸般の事情から市村座の座元は継いだものの「宇左衛門」の名跡を襲名するには至らなかった者で、死後にやはり市村宇左衛門が追贈されて代々に加えられたものである。

市村宇左衛門/羽左衛門 代々
・贈四代目 市村宇左衛門


・三代目の甥で養子の二代目市村竹之丞、1654–1718(座元 1664−79)。延宝7年 (1679) 座元を弟に譲って出家


・二代目市村竹之丞(=贈四代目市村宇左衛門)
(wikiより)

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市村 宇左衞門 / 羽左衞門(いちむら うざえもん、新字体:羽左衛門)は、歌舞伎役者名跡。名の部分は七代目までが宇左衛門、以後が羽左衛門。


屋号
は七代目までは不詳、七代目から十六代目までは菊屋、十六代目以降は橘屋


十六代目以降の定紋根上り橘(ねあがり たちばな)、替紋は渦巻(うずまき)

解説

当初「市村宇左衛門」は江戸三座の一つ市村座の座元(座を主宰し芝居小屋を経営する者)の名跡だったが、元禄年間から座元が役者に転じたり、逆に役者が座元を兼ねたりすることが多くなる。そして明治末年に市村座の経営権が田村成義の手に渡ると、「市村羽左衛門」は単に役者の名跡となった。


市村座の歴史は、寛永年間に村山又三郎が江戸に出て、葺屋町村山座の櫓を上げたのに始まる。しかし村山座の経営は不振で、年を追うごとに負債がかさんでいく。又三郎のあと座元を継いだ女婿の村田九郎右衛門は、自らが病弱だったこともあり、又三郎が数ヵ月後に病死するとすぐに村山座の興行権を売却してしまう。これを買い取ったのが上州の人で村山又三郎の門人だった市村宇左衛門である。このとき座名も村山座から市村座に替わった。


2001年(平成13年)に死去した先代の市村羽左衛門は十七代目だった。しかしこれまでに「市村宇左衛門/羽左衛門」を実際に襲名した者は12名を数えるのみである。残りの5名は、いずれも死後に代々の「市村宇左衛門」に数えられた「贈何代目」の市村宇左衛門である。


そもそも「市村宇左衛門」とは、村山座の興行権を買い取って市村座を始めた上州の人・市村宇左衛門の本名である。にもかかわらず、彼は市村宇左衛門の宗祖としてではなく、三代目として数えられている。これは彼に先立って村山座の座元だった村山又三郎と村田九右衛門の両名にそれぞれ初代宇左衛門と二代目宇左衛門が追贈されているからである。また今日四代目・六代目・七代目の宇左衛門として知られる人物は、いずれも諸般の事情から市村座の座元は継いだものの「宇左衛門」の名跡を襲名するには至らなかった者で、死後にやはり市村宇左衛門が追贈されて代々に加えられたものである。

市村宇左衛門/羽左衛門 代々
三代目 市村宇左衛門


上州の人、初代の門人、1628–86(座元 1652–64)。村山座の興行権を買い取りこれを市村座と改める。


・初代市村竹之丞 → 三代目市村宇左衛門
(wikiより)

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市村 宇左衞門 / 羽左衞門(いちむら うざえもん、新字体:羽左衛門)は、歌舞伎役者名跡。名の部分は七代目までが宇左衛門、以後が羽左衛門。


屋号
は七代目までは不詳、七代目から十六代目までは菊屋、十六代目以降は橘屋


十六代目以降の定紋根上り橘(ねあがり たちばな)、替紋は渦巻(うずまき)

解説

当初「市村宇左衛門」は江戸三座の一つ市村座の座元(座を主宰し芝居小屋を経営する者)の名跡だったが、元禄年間から座元が役者に転じたり、逆に役者が座元を兼ねたりすることが多くなる。そして明治末年に市村座の経営権が田村成義の手に渡ると、「市村羽左衛門」は単に役者の名跡となった。


市村座の歴史は、寛永年間に村山又三郎が江戸に出て、葺屋町村山座の櫓を上げたのに始まる。しかし村山座の経営は不振で、年を追うごとに負債がかさんでいく。又三郎のあと座元を継いだ女婿の村田九郎右衛門は、自らが病弱だったこともあり、又三郎が数ヵ月後に病死するとすぐに村山座の興行権を売却してしまう。これを買い取ったのが上州の人で村山又三郎の門人だった市村宇左衛門である。このとき座名も村山座から市村座に替わった。


2001年(平成13年)に死去した先代の市村羽左衛門は十七代目だった。しかしこれまでに「市村宇左衛門/羽左衛門」を実際に襲名した者は12名を数えるのみである。残りの5名は、いずれも死後に代々の「市村宇左衛門」に数えられた「贈何代目」の市村宇左衛門である。


そもそも「市村宇左衛門」とは、村山座の興行権を買い取って市村座を始めた上州の人・市村宇左衛門の本名である。にもかかわらず、彼は市村宇左衛門の宗祖としてではなく、三代目として数えられている。これは彼に先立って村山座の座元だった村山又三郎と村田九右衛門の両名にそれぞれ初代宇左衛門と二代目宇左衛門が追贈されているからである。また今日四代目・六代目・七代目の宇左衛門として知られる人物は、いずれも諸般の事情から市村座の座元は継いだものの「宇左衛門」の名跡を襲名するには至らなかった者で、死後にやはり市村宇左衛門が追贈されて代々に加えられたものである。

市村宇左衛門/羽左衛門 代々
・贈二代目 市村宇左衛門


・贈初代の女婿・村田九郎右衛門、1622–52(座元 1652)。承応元年 (1652) に村山座の座元を継ぐとすぐにその興行権を売却、その後間もなく死去。


村田九郎右衛門(=贈二代目市村宇左衛門 =贈初代市村九郎右衛門
(wikiより)

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市村 宇左衞門 / 羽左衞門(いちむら うざえもん、新字体:羽左衛門)は、歌舞伎役者名跡。名の部分は七代目までが宇左衛門、以後が羽左衛門。


屋号
は七代目までは不詳、七代目から十六代目までは菊屋、十六代目以降は橘屋


十六代目以降の定紋根上り橘(ねあがり たちばな)、替紋は渦巻(うずまき)

解説

当初「市村宇左衛門」は江戸三座の一つ市村座の座元(座を主宰し芝居小屋を経営する者)の名跡だったが、元禄年間から座元が役者に転じたり、逆に役者が座元を兼ねたりすることが多くなる。そして明治末年に市村座の経営権が田村成義の手に渡ると、「市村羽左衛門」は単に役者の名跡となった。


市村座の歴史は、寛永年間に村山又三郎が江戸に出て、葺屋町村山座の櫓を上げたのに始まる。しかし村山座の経営は不振で、年を追うごとに負債がかさんでいく。又三郎のあと座元を継いだ女婿の村田九郎右衛門は、自らが病弱だったこともあり、又三郎が数ヵ月後に病死するとすぐに村山座の興行権を売却してしまう。これを買い取ったのが上州の人で村山又三郎の門人だった市村宇左衛門である。このとき座名も村山座から市村座に替わった。


2001年(平成13年)に死去した先代の市村羽左衛門は十七代目だった。しかしこれまでに「市村宇左衛門/羽左衛門」を実際に襲名した者は12名を数えるのみである。残りの5名は、いずれも死後に代々の「市村宇左衛門」に数えられた「贈何代目」の市村宇左衛門である。


そもそも「市村宇左衛門」とは、村山座の興行権を買い取って市村座を始めた上州の人・市村宇左衛門の本名である。にもかかわらず、彼は市村宇左衛門の宗祖としてではなく、三代目として数えられている。これは彼に先立って村山座の座元だった村山又三郎と村田九右衛門の両名にそれぞれ初代宇左衛門と二代目宇左衛門が追贈されているからである。また今日四代目・六代目・七代目の宇左衛門として知られる人物は、いずれも諸般の事情から市村座の座元は継いだものの「宇左衛門」の名跡を襲名するには至らなかった者で、死後にやはり市村宇左衛門が追贈されて代々に加えられたものである。

市村宇左衛門/羽左衛門 代々
・贈初代 市村宇左衛門


泉州の人・村山又三郎、1605–52(座元 1636–52)。京で座元をしていた村山又兵衛という者の弟。寛永11年 (1634) に江戸葺屋町に村山座の櫓をあげる。


・初代村山又三郎(=贈初代市村宇左衛門)
(wikiより)

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金春流(こんぱる-りゅう)は能楽の流派の一。古い文献には「今春」とも。シテ方と太鼓方がある。また、かつては大鼓方にも金春流があったが明治期に廃絶した。

シテ方
伝説の上では聖徳太子に近侍した秦河勝を初世としているが、実質的には室町時代前期に奈良春日大社興福寺に奉仕した猿楽大和四座の一、円満井座に端を発すると考えられている。特に同座の中心的な太夫として活躍した毘沙王権守、およびその子金春権守が流儀の基礎を築き、権守の金春禅竹(五十七世宗家)にいたって飛躍的な深化を遂げた。下掛りに分類される。

円満井座創座を巡る伝承

禅竹は、自家に伝わる伝承を基に『明宿集』を物し、猿楽の創始について述べている。


「明宿集」によれば、日本における猿楽の創始者は聖徳太子の寵臣・秦河勝であったとされる。河勝は太子に従って物部守屋討伐などに功を挙げる一方、太子に命じられて猿楽の技を行い、天下の太平を祈願した(禅竹は河勝を「」の化身とし、また始皇帝の転生と見た)。その後河勝の三人の子のうち、末子が猿楽の芸を引き継ぎ、代々継承したといい、村上天皇の代にはその末裔・秦氏安が紫宸殿で「翁」を演じた。この氏安が円満井座の中興の祖となり、以下禅竹に至るまで代々猿楽の徒として活躍したという。

金春禅竹の活躍
金春流と金剛流は、観阿弥らが京都に進出したのちもながらく奈良を本拠地とし、そこにとどまっていたが、禅竹のころから徐々に京都に進出していった。世阿弥に師事し、その娘婿となった禅竹は、世阿弥から「拾玉得花」「花鏡」等の伝書を相伝するとともに、その演技によって当時の知識人たちから人気を集めた。また禅竹は作能にもすぐれた手腕を見せ、「定家」「芭蕉」「杜若」など現在でも演じられる佳曲を次々と生みだした。さらに「六輪一露の説」を中心とする芸論においても後代に大きな影響を与えた。

金春禅鳳
このように世阿弥没後の猿楽にあって、禅竹を中心とする金春流はひろい人気を集め、大勢力となった。この時期特に活躍した人物としては禅竹の孫にあたる金春禅鳳(五十九世宗家)がいる。禅鳳は風流能の流行を担った中心的な作者であり、「生田敦盛」「初雪」などを書いた。

全盛期

金春流がその全盛期を迎えたのは、戦国時代末期、特に豊臣秀吉天下統一を果たしてからである。金春安照(六十二世宗家)に秀吉が師事したために、金春流は公的な催能の際には中心的な役割を果たし、政権公認の流儀として各地の武将たちにもてはやされることとなった。秀吉作のいわゆる「太閤能」も安照らによって型付されたものである。安照は小柄で醜貌と恵まれない外見だったと伝えられるが、重厚な芸風によって能界を圧倒し、大量の芸論や型付を書残すなど、当時を代表する太夫の一人であった。


この当時の金春流を代表する人物として、もう一人下間少進が挙げられる。本願寺坊官である少進は金春喜勝(笈蓮。安照の父。六十一世宗家)に師事した手猿楽の第一人者で、各地の大名を弟子に持ち、金春流では長らく途絶していた秘曲「関寺小町」を復活させ、「童舞抄」などの伝書を記すなどの活躍を見せた。

近世期

江戸幕府開府後も、金春流はその勢力を認められて四座のなかでは観世流に次ぐ第二位とされたものの、豊臣家とあまりに親密であったことが災いし、流派は停滞期に入ってゆく。その一方で観世流徳川家康が、喜多流徳川秀忠が、宝生流徳川綱吉が愛好し、その影響によって各地の大名のあいだで流行していった。


この時期、金春流は特に奈良と深い関係を持ち、領地を拝領し(他の流派は扶持米)、ほかの流儀が興福寺との関係をうすれさせゆくなかで薪能に謹仕するなど、独特の態度を見せた。地方で行われる神事の中には、金春流の影響を受けたものが少なくない。また大和の所領では幕末、兌換紙幣である金春札を発行するなど、経済的にも恵まれていた。しかしこの金春札は、維新後の混乱で価値を失い、金春家が経済的に没落する原因の一つともなった。[1]

維新後

明治維新後、金春宗家は奈良などで細々と演能を続けているにすぎなかったが、こうした流儀の危機にあって一人気を吐いたのが、宝生九郎梅若実とともに「明治の三名人」といわれた桜間伴馬(後に左陣)である。熊本藩細川家に仕えていた桜間家は維新後に上京。能楽全体が危殆に瀕していた時期にあって、舞台装束、面などが思うように手に入らない劣悪な環境のなかで、宝生九郎らの援助によって演能をつづけ、東京における金春流の孤塁を守った。伴馬の子・桜間弓川も父の後を承けて活躍した。


その後は桜間道雄のほか、七十八世宗家金春光太郎(八条)の長男・金春信高が上京し、奈良にとどまった叔父・栄治郎(七十七世宗家)などともに流儀の頽勢を挽回すべくつとめた。七十九世宗家を襲った信高は、他流に比べて整備の遅れていた謡本を改訂し(昭和版)、復曲などによる現行曲の増補につとめ(金春流の所演曲は五流のなかでももっとも少なく、大正末年の時点で153曲しかなかった。しかもこのなかには「姨捨」「砧」など多くの秘曲・人気曲が含まれておらず、この点が流勢低迷の要因の一ともなっていた)、積極的に女流能楽師を認めるなど、多くの改革を行った。

現状
現在、シテ方金春流は東京、奈良、熊本名古屋などを主たる地盤として活動し、能楽協会に登録される役者は100名強である。型、謡とも濃厚に下掛りの特色を残し、芸風は五流のなかでももっとも古風と評される。宗家は信高の長男八十世金春安明(こんぱるやすあき)が継承した後に、現在安明の長男金春憲和(こんぱるのりかず)が八十一世宗家を継承している。

宗家代々
・七十四世 金春広成

  ・七十三世の養子。生家は別家金春八左衛門家。

・七十五世 金春八郎義広

  ・七十四世の三男。

・七十六世 金春七郎広運

・七十七世 金春栄治郎

  ・七十六世の次男。

・七十八世 金春八条

  ・七十六世の長男。

・七十九世 金春信高

  ・七十八世の長男。

・八十世 金春安明

  ・七十九世の長男。

・八十一世 金春憲和

  ・八十世の長男。

大鼓方
大鼓方金春流は太鼓方金春又右衛門の子三郎右衛門が、大鼓方大倉流五世大蔵源右衛門に師事して一流を立てたものである。明治後に廃絶した。

太鼓方

太鼓方金春流(一名・惣右衛門流)は、金春禅竹の伯父金春豊氏(?~1458年)を流祖とする。代々金春座の座付として一族内で世襲し、二世金春勝国(豊氏の甥にあたる)は「吉備津宮」など謡曲作者としても活躍した。


座内の分業が定着する室町時代後期ごろからは、親子間の世襲が多くなり、『四座役者目録』などに多くの逸話を残す三世勝氏(豊氏の子)、金春禅鳳・氏照らの舞台につきあい権守に任せられた四世氏重(勝氏の子)の二代は際だった名人として知られる。五世長詰(宗意)に至って名を川井惣右衛門と改め、六世一峰(宗岸)の代に徳川家康に出仕して以後、江戸時代を通じて専ら惣右衛門流の名により金春座の座付となる。


維新後の能楽衰退期に一時宗家の家系が途絶えたが、熊本から上京した増見仙太郎が流儀の孤塁を守り、多くの高進を育成した。後に増見の子・林太郎が1917年に宗家を復興して、金春惣右衛門国泰(二十一世)を名乗り、柿本豊次人間国宝)らとともに活躍した。直近の宗家(二十二世)は国泰の子・金春惣右衛門国長(人間国宝、2014年没)。能楽協会には20名弱の役者が登録されている。


元来は朴強な芸風であったと言われるが、二十一世惣右衛門によって近代的な軽快さが加味されるようになった。観世流に比べて撥の扱いが軟らかく、掛け声の多いことが特色。譜そのものも手数が多く、全体に華やかな印象がつよい。

宗家代々
・初世 金春豊氏

  ・シテ方金春禅竹の伯父。

・二世 金春勝国

  ・金春禅竹の弟。

・三世 金春勝氏

  ・二世の子。

・四世 金春氏重

・五世 金春長誥

  ・四世の養子。

・六世 金春惣右衛門

  ・金春長誥の子。

・十世 金春国尚

・十九世 高安泰三

  ・十八世の養子。嗣子がおらず断絶。

・二十一世 金春惣右衛門国泰

  ・二十世 川井彦兵衛の女婿の増見仙太郎の長男。

・二十二世 金春惣右衛門国長

  ・二十一世の長男。


又右衛門流

太鼓方金春又右衛門流は、惣右衛門家の分家として活動した太鼓方の流儀。三右衛門流とも呼ぶ。初世又右衛門は金春岌蓮の甥で、似我与左衛門に師事し、「又右衛門台」と呼ばれる太鼓の台を考案したことでも有名。


豊臣秀吉徳川家康に仕え、後に上意によって観世流の座付きとなって、姓も一時「観世」に改めた。江戸後期には宗家は「観世与左衛門」とも名乗った。


初世以来観世流の芸系に属し、金春流の太鼓とはまったく異なる。現在では廃絶。


金春座の構成
・シテ方-金春流

・ワキ方-春藤流

・小鼓方-幸流、大倉流

・大鼓方-大倉流、金春三郎右衛門流(金春三郎右衛門家)

・太鼓方-金春流、金春三郎右衛門流(金春又右衛門家)、金春流(金春惣右衛門家・増見家)

・狂言方-大蔵流

金春家伝来の能面・能装束

明治維新後、困窮した金春家は家伝の能面・能装束類の一部を京都や大阪で売却した。能面や装束がなければ、春日若宮おん祭での演能ができなくなってしまうことから、明治9年(1876年)、春日神社(現・春日大社)は、金春家に残った面・装束類を引き取った。これらの面・装束類は、諦楽舎(ていらくしゃ)という民間団体が管理することとなった。この諦楽舎とは、奈良の実業家今村勤三が中心になり、地元の有志が結成した保存会である。昭和25年(1950年)、これらの面・装束類(能狂言面47面、装束類190件余[2])は東京国立博物館によって購入された。[3]


東京国立博物館所蔵の金春家伝来品のうち、能狂言面は47面が一括して重要文化財に指定され、装束は能衣装7件(2018年現在)が重要文化財に指定されている[4]。能面は大部分が江戸時代の作品だが、南北朝から室町時代にさかのぼるものもあり、猩々(しょうじょう)、曲見(しゃくみ)などは金春家の本面(後世、多くの写しが作られるもととなったオリジナルの名物面で、多くは室町時代の作)の可能性が高い。そのほか、翁、尉(じょう)、鬼神、男面、女面などの代表的な面種が一通りそろっている[5]

詳しいことは、「金春流ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E6%98%A5%E6%B5%81
(wikiより)

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大藏流(おおくらりゅう)は、狂言の流派のひとつ。猿楽の本流たる大和猿楽系の狂言を伝える唯一の流派。

歴史

大藏流の歴史は、流祖玄恵法印(1269-1350)。二世日吉彌兵衛から二十五世大藏彌右衛門虎久まで700年余続く。

猿楽の本流たる大和猿楽系の狂言を伝える能楽狂言最古の流派で、代々金春座で狂言を務めた。大藏彌右衛門家が室町後期に創流した。


江戸時代には鷺流とともに幕府御用を務めたが、狂言方としての序列は2位と、鷺流の後塵を拝した。宗家は大藏彌右衛門家。分家に大藏八右衛門家(分家筆頭。幕府序列3位)、大藏彌太夫家、大藏彌惣右衛門家があった。大藏長太夫家や京都の茂山千五郎家、茂山忠三郎家をはじめとして弟子家も多く、観世座以外の諸座の狂言のほとんどは大藏流が務めていた。


明治維新に伴い、職分の廃業などが相次ぎ、一時衰微したが、東京では初世・山本東次郎(則正。隠居名:東〈あずま〉)が大藏流の孤塁を死守し、京都では「お豆腐主義」を標榜する茂山千五郎家の正虎(九世千五郎。初世千作)、正重(十世千五郎、二世千作)が庶民的な狂言を演じて、東西で流派を支えた。昭和16年(1941年)には茂山千五郎家の分家の二世茂山忠三郎(良豊)の養子であった茂山久治(後の善竹彌五郎。狂言界初の人間国宝)の次男・吉二が、大藏虎一姉センの孫、安と結婚。虎一の養子となり、二十四世大藏彌太郎(のち大藏彌右衛門)として宗家を継ぎ、宗家は再興された。


現在大藏流には、東京を本拠とする宗家大藏彌右衛門家・山本東次郎家、京都を本拠とする茂山千五郞家・茂山忠三郞家、大阪・神戸を本拠とする善竹彌五郎家の五家がある。神戸に本家のある善竹家の中にも、関東を拠点とする善竹十郎は、彌五郎の五男、圭五郎の嫡男。


台本は、宗家の台本のほか、京都を本拠としてきた茂山千五郞家のものと、江戸の大藏宗家の芸系を受け継ぐ山本東次郞家のものとに大別される。


京都と関東では芸風も対照的で、京都・千五郞家の庶民的な親しみやすい芸風と、関東山本家の武家式楽の伝統を今に残す、古風で剛直な芸風がある。


過去に大藏流から人間国宝に認定されたのは善竹彌五郞・三世茂山千作四世茂山千作四世山本東次郞の4名。四世茂山千作は2000年に文化功労者、2007年には狂言界で初の文化勲章を受章している。

歴代宗家
1. 玄恵法印 日吉神社神職ナリシガ後 僧籍二入リ比叡山北畠ニ住

  ・流祖。
2. 日吉彌兵衛 近江国山王日吉神社神職(坂本住)

3. 日吉彌太郎

4. 日吉彌次兵衛

5. 日吉彌右衛門

6. 日吉彌太郎  (金春座へ出 後 和州奈良住)

7. 日吉彌右衛門

8. 金春四郎次郎(氏信) (金春禅竹末子 世阿弥の外孫にあたる)

9. 宇治彌太郎(政信)-大藏彌右衛門 (宇治に二年住 後金春座へ帰参)

10. 金春彌太郎-大藏彌右衛門 (観世座へ 後金春座へ帰参)

11. 大藏彌右衛門(虎政)1531-1596

12. 大藏彌右衛門(虎清)1566-1646

13. 大藏彌右衛門(虎明)1597-1622

14. 大藏彌右衛門(栄虎)1629-1676

15. 大藏彌右衛門(緑虎)1650-1704

16. 大藏彌右衛門(虎純)1682-1748

17. 大藏彌右衛門(虎教)1708-1740

18. 大藏彌右衛門(虎里)1728-1804

19. 大藏彌右衛門(虎寛)1758-1805

20. 大藏彌右衛門(虎文)1763-1834

21. 大藏彌右衛門(虎武)1820-1849

22. 大藏彌太郎(虎年) 1841-1881

23. 大藏虎一       1867-1941

24. 大藏彌右衛門(虎智)1912-2000

25. 大藏彌右衛門(虎久)1948-


現在の大藏流五家

大藏彌右衛門家(宗家。東京を本拠)

茂山千五郎家(京都を本拠)

茂山忠三郎家(京都を本拠)

山本東次郎家(東京を本拠)

善竹彌五郎家(大阪・神戸を本拠、関東に善竹十郎)

大藏彌右衛門家

家伝によれば、大藏流は14世紀に後醍醐天皇の侍講を務めていた比叡山の学僧・玄恵法印を流祖とする。玄恵は戦乱の世の中において、立派な人格の養成と人としての生きる道を説くために狂言を創始したという。その狂言は坂本在住で近江猿楽の猿楽師であった二世日吉彌兵衛に伝えられ、三世彌太郎、四世彌次兵衛、五世彌右衛門と受け継がれた。


六世彌太郎の代には大和猿楽金春座に属し、七世彌右衛門の後に世阿彌の外孫にあたる八世金春四郎次郎が芸系を受け継いだ。四郎次郎の死後、吉野猿楽出身の日吉万五郎が一時家を継いだが、最終的には養子の宇治彌太郎が9世を継ぎ、十世彌右衛門の代に「大藏」と姓を改めた。十一世彌右衛門は織田信長より虎の字を拝領し虎政と名乗り、その子十二世彌右衛門は虎清と名乗り豊臣秀吉・徳川家康に仕えた。十三世彌右衛門虎明(とらあきら)は万治3年(1660年)大藏流最古の狂言伝書『わらんべ草』を著わし、元禄7年(1694年)になると五代将軍徳川綱吉の上意により江戸屋敷を拝領し、それまでの奈良住まいから江戸住まいとなった。


その後も二十二世・彌太郎虎年まで代々幕府の俸禄を受け、最古の伝統を持つ大藏流の宗家として狂言を着々と守り続けてきたが、明治維新により大きな打撃を受ける。徳川幕府や諸大名のお抱えとして、長年にわたり手厚い庇護を受けていた大藏流の狂言師たちはみな俸禄を失い、転業・転職を余儀なくされた。宗家もその例外ではなく、明治維新後奈良に移住していた虎年が明治14年(1881年)に41歳で死去すると、 跡を継ぐ二十三世虎一(14歳)は苦しい時代の中、一時消息不明となり、京都で催された虎年追善会の節に姿を現わすまで、宗家不在の数年が続く事となる。


しかしその間も、茂山千五郎、茂山忠三郎、山本東次郎、善竹彌五郎といった大藏流の狂言師たちは各家の芸を磨き、大藏流を支え、昭和16年(1941年)、善竹彌五郎(当時・茂山久治)の次男・茂山吉二が虎一の養子に入り、虎年の娘の外孫にあたる安と結婚し、二十四世大藏彌太郎(のち彌右衛門)を名乗り、宗家を再興した。


現在大藏家では二十四世の長男、二十五世宗家・大藏彌右衛門虎久(基嗣)と、その弟の吉次郎(基義)、彼らの子である『大藏三兄弟』、大藏彌太郎千虎(虎久の長男)・大藏基誠(虎久の次男)・大藏教義(吉次郎の長男)。『OHKURA BROS』、大藏康誠(基誠の長男)、大藏章照(千虎の長男)の7人が大藏の名を名乗り東京を中心に活躍している。

狂言わらんべ

江戸時代初期に十三世大藏虎明(とらあきら)が、狂言の理念・心得などを説いた「わらんべ草(ぐさ)」という伝書が大藏家に伝わっている。


「狂言わらんべ」とは、大藏彌太郎千虎が弟子達と共に舞台に立つにあたって、いつ何時も、この先人の教えを忘れないという気持ちと、「我々はいつまでも狂言の童(わらべ)である」という思いが込められている。


毎年、12月の最終日曜日に行われている。

吉次郎狂言会
二十四世宗家故大藏彌右衛門虎智の次男、二世大藏吉次郎が運営する狂言会。狂言の原点である「平和祈念」を理念とする。また狂言の世界が描く、人の優しさや大らかさ、そして「可笑しみ」を追求するとともに、老若男女問わず、多くの方々に狂言の魅力と感動を伝えるべく、日々普及活動に全力で取り組んでいる。

外部リンク
吉次郎狂言会
(wikiより)

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「安室貞心信女、明和 6年 ( 1769 ) 10月 9日」と彫られている浮彫の観世音の墓石が加賀見山錦絵という歌舞伎で活躍する「鏡山お初」のモデル、本名「たつ」の墓であると伝えられている。


おたつは、平塚宿の松田久兵衛の娘で、萩野山中藩大久保長門守の江戸屋敷の中臈 ( ちゅうろう ) 岡本みつ女の許に奉公にあがっていた。


主人みつ女が年寄沢野から侮辱を受け自害したため、ただちに、沢野を訪ねて、主 ( あるじ ) の自殺した小脇差で仇を討ったという烈女で、後に賞せられて年寄りとなったと伝えられている。


この墓の傍には、昭和 10年に「義女松田多津顕彰碑鏡山お初」の碑が建立された。
(案内板より) 

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野村 万蔵(のむら まんぞう)は、能楽狂言和泉流名跡。四世から六世までは「万造」を名乗った。金沢の出身で、当代で9世を数える。

・四世 野村万造

天保10年6月8日1839年7月18日)- 明治9年(1876年11月20日


・本名:義比(よしちか)、三世の次男。26歳で万造を襲名して父の跡目を継ぐかたわら、町役人も務める。明治維新後は廃業して金沢博物館の書算方(事務員)となり失意のうちに早生。
(wikiより)

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九代目・杵屋六三郎

慶応2年(1866年) - 明治39年(1906年9月20日

本名、山中新太郎。8代目杵屋六三郎の次男。山中家の養子となる。8歳の時父に手ほどきを受け11歳で新宿座初出勤。杵屋長次郎となり1893年5月に9代目杵屋六三郎を襲名。「浪花町の六三郎」と呼ばれた。新富座、明治座の立三味線を勤める。3代目杵屋栄蔵談によれば大きな芸の人であった由。1906年6月閑院宮邸に伺候「勧進帳」を演じたのが最後となり、同年9月20日死去。41歳。辞世「秋の雨旅の衣を濡らしけり」。


作曲⇒熊野(六四郎と異曲)。二人羽衣。和歌三神。自転車兵。不忍池の浮島等。妻せいは宝山左衛門の娘で、<しん>という一人娘がいたが長唄の道へ進まなかった。


戒名は「絃好院明教日新信士」。
(wikiより)

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3代目 片岡 市蔵(3だいめ かたおか いちぞう、1851年嘉永4年)4月27日 - 1906年明治39年)12月11日)は歌舞伎役者。俳名、我升。屋号は松島屋。俗に「片市」という。


大阪
島の内宗右衛門町の生まれ、父は絵師の亀屋吉兵衛、兄に初代三枡稲丸、2代目片岡我當(死後9代目片岡仁左衛門を追贈)がいる。


最初は直次郎という。1855年春に三枡亀蔵を名乗って大阪道頓堀で「新薄雪」で初舞台。兄の稲丸が没後廃業し商人の奉公などで役者を離れるが、1886年に兄の我當を頼って8代目片岡仁左衛門の門下になり片岡我久三郎を名乗る。明治に入り(明治2年ごろ)に6代目片岡蝶十郎と改名。1887年京都にて3代目片岡市蔵を襲名した。


敵役から老役まで幅広く文才もあった。
(wikiより)

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四代目 尾上松助(よだいめ おのえ まつすけ、天保14年2月29日1843年3月29日) - 昭和3年(1928年9月5日)は、明治大正に名脇役として活躍した歌舞伎役者。屋号音羽屋定紋抱き若松俳名に梅賀。本名は栗原 梅五郎(くりはら うめごろう)。

略歴
大坂生まれ。芝居衣装屋の子。2歳で父とともに江戸に下り、嘉永元年(1848年)松本錦升の門人となり、松本長助を名乗る。同年松本小勘子の名で江戸河原崎座で初舞台。師の死後、八代目市村家橘の門人となり、坂東橘五郎と改名。明治元年(1868年)、師の家橘が五代目尾上菊五郎を襲名したのにともない尾上梅五郎と改名。明治15年(1882年)新富座の『夜討曽我狩場曙』の梶原景時で四代目尾上松助を襲名した。


以後は師の五代目菊五郎、その子の六代目菊五郎と舞台を共にし、脇役として評価を上げて「名人松助」と呼ばれた。晩年は歌舞伎座帝国劇場をつとめる傍ら、長老格として熱心に指導し、後輩たちから「ちゃん」(江戸弁で父親の意)のあだ名で敬愛されていた。


最大の当たり役は『与話情浮名横櫛』(切られ与三)の蝙蝠安で、十五代目市村羽左衛門の与三郎、六代目尾上梅幸のお富とならんでつとめた「源氏店の場」は近代歌舞伎の名舞台と称えられ、松助の蝙蝠安は余りの評判のためにわざわざブロマイドが販売されたほどであった。


ほかには、『仮名手本忠臣蔵』「四段目」の斧九太夫、『ひらかな盛衰記」の権四郎、『摂州合邦辻』「合邦庵室」の合邦、『義経千本桜』「すしや』の弥左衛門、『寿曽我対面』の鬼王などの時代物もよかったが、やはり松助の本領は世話物にあった。『忠臣蔵』「六段目」の判人源六、『梅雨小袖昔八丈』(髪結新三)の家主長兵衛、『盲長屋梅加賀鳶』(加賀鳶)の雷五郎次・おさすりお兼、『東海道四谷怪談』の宅悦、『天衣紛上野初花』(河内山と直侍)の丈賀などが当たり役で、今日に伝わる型を残している。

人物・芸風
・研究熱心で明治26年(1893年)『髪結新三』の家主を初めてつとめた際、劇評家の三木竹二に酷評されたことに発奮、人にこの役を初演した三代目中村仲蔵の舞台を思い出しもらっては、気のついたところどころへ走り書きを台帳に書き込む努力を重ねて役柄を自分のものにして、大正4年(1915年)に同じ役をつとめた時は辛口の劇評家・岡鬼太郎からこんどは絶賛された。


・世話物はほとんど化粧をせずに素顔で舞台に立った。声は普段は小さかったが、いざ舞台に上がると実によい味を出していた。「型のない世話物のやうな芝居は、時の味でみせなけりゃァなりませんから、ちっとだって、意気を抜くことなんて事ァ出来やしません」(邦枝完二『松助芸談』)という本人の言葉には、その芝居に対する姿勢が凝縮されている。


・晩年、『因果小僧』の小兵衛を演じた時、三宅周太郎から「写実というような世界から出て、内面的な、人生の辛酸をなめ尽くした幕末の、一老爺のうきぼりの人間像」、高安月郊から「苦い実生活の盃を呑み残してまで残る浮世の渋味・・・涙も涸れた憐みの痛さ、やさしいばかりの親より何という深酷な情」とそれぞれ激賞され、世話物狂言の真髄を最後まで見せていた。


・『魚屋宗五郎』の三吉を演じた松助は、六代目菊五郎から冗談半分に「三吉爺イ」とからかわれたことに激怒し、「若旦那にそう言われちゃあ、あっしもう三吉はできません。」と当時の若手であった二代目松緑に役の性根を叩き込み、彼自身は二度と三吉を演じなかった。爾来、三吉役は将来主役の宗五郎役を演じる御曹司に割り振られることになった。


ハイカラなところがあり、楽屋ではいつもナイフとフォークを使って洋食を食べていた。実際、松助の楽屋の化粧箱には、眉引きの筆一本とナイフとフォークのみが入っていたという。

著作
邦枝完二『名人松助芸談』興亜書院 1943

  ・『松助芸談』青々堂出版部 1947
(wikiより)

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四代目・尾上松助

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七代目 松本幸四郎(しちだいめ まつもと こうしろう、1870年6月10日明治3年5月12日) - 1949年昭和24年)1月27日)は、明治から昭和前期の歌舞伎役者、日本舞踊藤間流家元。本名、藤間金太郎(ふじま きんたろう)。舞踊の名跡は三代目藤間勘右衛門 → 藤間勘斎。屋号高麗屋俳名錦升・琴松・紫香、雅号に白鸚がある。

来歴
1870年明治3年)、伊勢国員弁郡長深村(現:三重県員弁郡東員町長深)で、土建屋[1]「福田屋」の親方・秦専治と妻りょうの三男として生まれた(幼名・豊吉)。


秦家の菩提寺真宗高田派南松山大雲寺。秦家は豊吉の長姉の婿が継ぎ、その曾孫の娘にシンガーソングライター岡村孝子(母方が秦家)がいる[2]秦豊吉は、幸四郎の長兄の息子であり、甥にあたる[3]


1874年
(明治7年)に一家で上京し、饅頭を商っていたところ、店の常連客になっていた舞踊の藤間流家元である振付師・二代目藤間勘右衛門に請われて数え3歳で養子となり、藤間金太郎と改名[2]


1880年(明治13年)、九代目市川團十郎の門弟となり、市川金太郎を名乗る。翌年4月、東京春木座における『近江源氏先陣館・盛綱陣屋』の小四郎で初舞台を踏む。


1889年
(明治22年)3月、新富座で四代目市川染五郎を襲名。1903年(明治36年)5月には歌舞伎座で八代目市川高麗蔵を襲名。このころから團菊を継ぐ次世代の有望株として注目を集めるようになる。


1911年(明治44年)11月、帝国劇場(帝劇)で七代目松本幸四郎を襲名。以後、明治末から昭和初めまでは副座長として同劇場を拠点に活躍、新作や翻訳劇にも挑戦する。1930年(昭和5年)、帝劇が松竹傘下になったことに伴って、同社と専属契約を結ぶ。


晩年になっても積極的に舞台に出演し、1946年(昭和21年)には生涯最後の『勧進帳』の弁慶を、また翌年の東京劇場、翌々年の大阪歌舞伎座では『仮名手本忠臣蔵』の通し上演も勤め上げた。1948年(昭和23年)12月、新橋演舞場での大岡越前役が最後の舞台となった。


1949年(昭和24年)1月27日、死去。享年80(満78歳没)。門弟の前で振付を見せた翌日に亡くなるという、壮絶な最期だった(後述)。

芸風
恵まれた容貌、堂々たる口跡に裏打ちされた風格のある舞台で、時代物や荒事に本領を発揮した。また舞踊にも秀で、藤間流の家元として活躍した。


当たり役の筆頭に挙げられるのが『勧進帳』の弁慶で、師匠・團十郎以後の第一人者として、生涯に約1600回演じた。殊に1943年(昭和18年)歌舞伎座にて、六代目尾上菊五郎義経十五代目市村羽左衛門富樫と共演した舞台は映画に残され、今日でも往時の舞台ぶりを知る貴重な記録となっている。辛口の劇評で知られた岡鬼太郎をして「風貌音声の堂々たる、先づ当代での随一。誰がどの件で立ち向はうと、此の金城鉄壁には矢も立たぬ」(「演芸画報」昭和7年12月号)[4]と評したほど、近代随一の弁慶役者であった。


他には『大森彦七』、『菅原伝授手習鑑・車引』の梅王丸、『一谷嫩軍記』や『源平魁躑躅』(扇屋熊谷)の熊谷直実、『博多小女郎波枕』(毛剃)の毛剃、『暫』の鎌倉権五郎、『矢の根』の曾我五郎、舞踊で『積恋雪関扉』(関の扉)の関守関兵衛実は大伴黒主、『茨木』の渡辺綱、『素襖落』などが当り役である。


一方で、音楽劇や翻訳劇を上演するという、進歩的な側面もあった。1905年(明治38年)には北村季晴の叙事唱歌『露営の夢』を舞台上演。後にはシェイクスピアの『オセロ』や『ジュリアス・シーザー』も演じている。


こうした、歌舞伎と西洋(洋物)の演劇に取り組む姿勢は、次男の初代松本白鸚や三男の二代目尾上松緑、さらにその後裔たちにも受け継がれている。

人物
十三代目片岡仁左衛門の自伝『仁左衛門楽我記』には「どんな役でも持って来られたら私は快く出る。人は高麗屋はなんだってあんな役にまで出るのだろう? あんな役はことわればいいとごひいき筋でも言ってくださるが、出てくださいと言われることは、仲間にきらわれていない証拠ですよ。私の演し物の幕に幸四郎はださないように、と言われるようになっちゃおしまいだ。私のような者でも出て欲しいと頼まれることは、ありがたいことだと思うの」 と、その温厚な人柄を表す言葉が記されている。


非常に生真面目な上に辛抱強く、文字通り「体を張る」人物でもあった。三男である二代目松緑の著書『松緑芸話』(講談社、1989年/講談社文庫、1992年)には、『茨木』の渡辺綱を演じた際に、幕切れの見得で体を伸ばし過ぎて心筋梗塞を起こしたことが紹介されている。 


その性格のためか、若い頃はあまり俊才とは見られていなかったようで、田村成義著「藝界通信 無線電話」中で、著者は冥界から電話で呼び出された師匠・九代目市川團十郎に「あれがもう少し物を早く呑み込んでくれると、ちょっと見られるようになりましょう」「少しはセリフ覚えがよくなりましたか?」などと心配させている。


さらに、1949年(昭和24年)2月の大阪歌舞伎座『助六』で三代目市川壽海助六を勤めた際には、幸四郎は以前から出端の唄の振りの稽古をつけに行くことを約束していた。しかしその時体調を崩して寝込んでいたので、名代として門弟振付師の藤間良輔が出向くことになり、師匠に伺いをたてに行ったが、「聞いて分かるものじゃない、なまじっかなものを伝えては済まないから」と、わざわざ床から起き上がって下駄を履き、振りの要を幾度も見せた。その翌日に世を去った。

家族・親族
子孫の多くが歌舞伎役者であり、今日の歌舞伎に与えた影響は計り知れない[2]


十一代目市川團十郎(長男)

初代松本白鸚(次男)

二代目尾上松緑(三男)


女婿
四代目中村雀右衛門



十二代目市川團十郎(十一代目團十郎の子)
初代市川壽紅(十一代目團十郎の子)
二代目松本白鸚(初代白鸚の子)
二代目中村吉右衛門(初代白鸚の子)
初代尾上辰之助(二代目松緑の子)
八代目大谷友右衛門(四代目雀右衛門の子)
五代目中村雀右衛門(四代目雀右衛門の子)


曾孫
十一代目市川海老蔵(十二代目團十郎の子)
四代目市川翠扇(十二代目團十郎の子)
十代目松本幸四郎(二代目白鸚の子)
松本紀保(二代目白鸚の子)
松たか子(二代目白鸚の子)
四代目尾上松緑(初代辰之助の子)
三代目大谷廣太郎(八代目友右衛門の子)
二代目大谷廣松(八代目友右衛門の子)


玄孫
四代目市川ぼたん(十一代目海老蔵の子)
八代目市川新之助(十一代目海老蔵の子、2020年襲名予定)
八代目市川染五郎(十代目幸四郎の子)
三代目尾上左近(四代目松緑の子)
七代目尾上丑之助(二代目吉右衛門の孫)

脚注・出典
1. 中川右介著『歌舞伎座物語: 明治の名優と興行師たちの奮闘史』より
2. a b c 第13回北勢線の魅力を探る報告書 松本幸四郎墓・歌舞伎公園・まちかど博物館 西村 健二北勢線の魅力を探る会、2009年10月27日
3. 小谷野敦『忘れられたベストセラー作家』(イースト・プレス)P.110
4. 松井俊諭著『歌舞伎 家の藝』(演劇出版社)より

外部リンク
歌舞伎俳優名鑑 想い出の名優篇 「七代目松本幸四郎」 - 歌舞伎 on the web

松本 幸四郎:作家別作品リスト - 青空文庫
(wikiより)

1607  七代目・松本幸四郎

七代目・松本幸四郎

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⇧ 墓所全景 ( 七代目・松本幸四郎 右、二代目・藤間勘右衛門 )

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※ 同じ画像が続いてしまい「うんざり」されたとは思いますが、大雲寺歌舞伎編は、この記事にて終了となります。


初代 坂東彦三郎
(しょだい ばんどう ひこさぶろう、1693年元禄6年) - 1751年1月27日寛延4年1月1日))は、歌舞伎役者。屋号は萬屋。俳名薪水


大坂
の立役篠塚次郎左衛門の甥とも山城国伏見武士の子とも、また相模国足柄下郡江浦の生まれともいわれる。


最初江戸で篠塚菊松の名で修行する。宝永3年(1706年)11月に大坂篠塚次郎左衛門座で坂東菊松を名乗り、角前髪で拍子事を演じたのが初舞台。翌年11月坂東彦三郎と改める。宝永8年(1711年)11月京都へ上り、同地に留まること2年間、この間所作事、武道、やつし事などで京坂で活躍。


享保14年(1729年)江戸に下り初代坂東又太郎の門に入る。元文5年(1740年)11月江戸に帰り、江戸の大立物として大御所の二代目市川團十郎初代澤村宗十郎、若手の初代大谷廣次と共に当時の四天王といわれた。
(wikiより)

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初代・市村羽左衛門

・贈初代 市村宇左衛門

  ・泉州の人・村山又三郎、1605–52(座元 1636–52)。京で座元をしていた村山又兵衛という者の弟。寛永11年 (1634) に江戸葺屋町に村山座の櫓をあげる。


  ・初代村山又三郎(=贈初代市村宇左衛門)
(wikiより)

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二代目・市村羽左衛門墓(江戸川区西瑞江2-38-7・大雲寺)
・贈二代目 市村宇左衛門

  ・贈初代の女婿・村田九郎右衛門、1622–52(座元 1652)。承応元年 (1652) に村山座の座元を継ぐとすぐにその興行権を売却、その後間もなく死去。


  ・村田九郎右衛門(=贈二代目市村宇左衛門 =贈初代市村九郎右衛門
(wikiより)

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三代目・市村羽左衛門

三代目 市村宇左衛門

  ・上州の人、初代の門人、1628–86(座元 1652–64)。村山座の興行権を買い取りこれを市村座と改める。


  ・初代市村竹之丞 → 三代目市村宇左衛門
(wikiより)

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四代目・市村宇左衛門

・贈四代目 市村宇左衛門

  ・三代目の甥で養子の二代目市村竹之丞、1654–1718(座元 1664−79)。延宝7年 (1679) 座元を弟に譲って出家


  ・二代目市村竹之丞(=贈四代目市村宇左衛門)
(wikiより)

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五代目・市村羽左衛門

五代目 市村宇左衛門

  ・四代目の弟、????–1691(座元 1679 – 91年)。


  ・初代市村竹松 → 五代目市村宇左衛門
(wikiより)

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六代目・市村羽左衛門

・贈六代目 市村宇左衛門

  ・五代目の子・二代目市川竹松、1680–86(座元 1685–86)。夭折。


  ・市村長太夫 → 二代目市川竹松(=贈六代目市村宇左衛門)
(wikiより)

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七代目・市村羽左衛門

贈七代目 市村宇左衛門

・五代目の女婿で六代目の義兄・三代目市村竹之丞、1681–98(座元 1687–98)。実父は市村座の芝居茶屋・菊屋善兵衛。

  ・三代目市村竹之丞(=贈七代目市村宇左衛門)
(wikiより)

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八代目 市村羽左衛門(はちだいめ いちむら うざえもん、元禄11年〈1698年〉 - 宝暦12年5月7日1762年6月28日〉)とは、江戸時代中期の歌舞伎役者。また市村座の座元。屋号菊屋俳名は可江。雅号橘中庵。


芝居茶屋
主人菊屋善兵衛の三男として江戸に生まれる。母が五代目市村宇左衛門の姉だったことから、元禄16年(1703年)、父を後見人として5歳で四代目市村竹之丞襲名し、市村座の座元となる。初舞台はそれから二年後の宝永2年(1705年)正月興行『万歳田村丸』の天童子だった。その後、座元と役者を兼ね江戸の芝居に重きをなすようになる。元文2年(1737年)、将軍家の若君竹千代の名を憚って八代目市村宇左衛門を襲名。寛延元年(1748年)さらに名を「羽左衛門」と改めた。以後市村座の座元は「羽左衛門」の名を代々名乗る。


座元を60年間勤める傍ら、舞台でも若衆、女形、実事、敵役など幅広い役柄をこなした。子に九代目市村羽左衛門三代目坂東彦三郎がいる。墓所は東京都江戸川区の大雲寺だが、ほかに江東区の自性院にも供養塔がある。なお八代目羽左衛門ゆかりの名所として、「曽我御霊社奉寄進石宝殿」がある。春の江戸の芝居に必ず取り上げられた「曽我物」の人物曽我兄弟を供養するため、八代目が駒込富士神社(東京都文京区本駒込五丁目)に寄進したものである。

参考文献
・野島寿三郎編 『歌舞伎人名事典』(新訂増補) 日外アソシエーツ、2002年
(wikiより)

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九代目 市村羽左衛門(くだいめ いちむら うざえもん、享保9年〈1724年〉 - 天明5年8月25日1785年9月28日〉)とは、享保の初期から天明初期にかけて活躍した歌舞伎役者屋号菊屋、俳名家橘

来歴
八代目市村羽左衛門の長男で、弟は三代目坂東彦三郎。享保16年(1731年)7月、市村満蔵を名乗り市村座で初舞台、延享2年(1745年)に市村亀蔵と改名。宝暦11年(1761年)3月、伊勢参りの名目で上方へ行き、伊勢参宮ののち大坂に行き、中山文七座に同座して五変化の所作事などを見せ、のちに京にも行きやはり五変化の所作を上演して名をあげる。同年11月江戸に戻った。


宝暦12年(1762年)、父八代目羽左衛門の死去により市村座の座元を相続すると同時に市村羽左衛門を襲名。しかしその後火事や先代からの借金に苦しめられ、天明4年(1784年)にはついに市村座は倒産閉場し、控櫓桐座に興行権を譲るに至った。その翌年、中村座の座元中村勘三郎の勧めにより羽左衛門は中村座に出演し、一世一代として変化舞踊を演じたが、そのなかで猿まわしの猿に扮し『娘道成寺』の所作事を演じた。同年8月に没す。


若いころは魚のような顔つきだと評され荒事ばかりを演じていたが、のちに和事実事、また女の役も演じるようになり、八代目に劣らず幅広い芸風を誇った。特に所作事においては名人との評判を得ている。子に十代目市村羽左衛門がいる。

参考文献
・渡辺保 『娘道成寺』(改訂版) 駸々堂、1992年

・野島寿三郎編 『歌舞伎人名事典』(新訂増補) 日外アソシエーツ、2002年
(wikiより)

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九代目・市村羽左衛門

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十代目 市村羽左衛門(じゅうだいめ いちむら うざえもん、寛延元年〈1748年〉 - 寛政11年2月15日1799年3月20日〉)とは、宝暦期から寛政期にかけての歌舞伎役者屋号は菊屋、俳名は亀全。


九代目市村羽左衛門
の息子。宝暦8年(1758年)11月、市村七十郎と名乗り初舞台を踏む。翌年11月に父市村亀蔵が九代目市村羽左衛門を襲名すると、その前名である亀蔵を襲名した。天明8年(1788年)9月、それまで控櫓だった桐座から興行権を取り戻して市村座を再興、十代目市村羽左衛門を襲名し晴れて座元となる。しかし前代からの市村座の負債はなお残り、一度は決着を見るもその後また大借金となった。その結果、寛政5年(1793年)には市村座はふたたび桐座に興行権を譲らざるを得なかった。そして十代目自身は退隠し、親類の福地茂兵衛の息子を養子にして十一代目市村羽左衛門の名を継がせている。寛政9年(1797年)、魚商をしていた老人という人物から借財整理の援助を受け翌年市村座は再興したが、その次の年に死去した。役者としてはあまり舞台に立たなかったという。

参考文献
・野島寿三郎編 『歌舞伎人名事典』(新訂増補) 日外アソシエーツ、2002年
(wikiより)

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十一代目・市村羽左衛門

十一代目 市村羽左衛門

  ・十代目の養子、1791–1819(座元 1800 – 16)。実父は親戚筋の四代目福地茂兵衛。


  ・初代市村萬次郎 → 十一代目市村羽左衛門
(wikiより)

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