本牧jack『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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カテゴリ: 国歌・雅楽・童謡・作詞オーケストラ関連

平岡 養一(ひらおか よういち、1907年8月16日 - 1981年7月13日)は、日本の木琴(シロフォン)奏者。兵庫県尼崎市出身。慶應義塾大学経済学部卒業。


妹はフィギュアスケート選手の平岡露子ミュージシャン平岡精二はいとこの子。

略歴

元来、東京の家系であるが、実業家の父・寅之助が赴任した尼崎市で生まれる。


父の兄が日本初の野球チーム創設者の平岡凞で、少年も野球の特訓を受け育つが、体格的に不向きであるとわかり野球の道は断念。小学校在学中に東京へ移住し、慶應義塾大学の中等科普通部に入学。この頃ピアノを始めるが、手が小さいためピアノにも不向きであるとわかる。それでもハーモニカなどを演奏し音楽を楽しむうちに、銀座の映画館「コンパル館」で無声映画の伴奏をしている木琴(シロフォン)に魅せられるようになり、映画館に通う日々が続いた。中学3年の時に5円の木琴を買い、独学で練習を重ねる。


予科に上がる頃には学生主催のパーティーでの演奏を始め、300円の輸入品の木琴に買い換え本格的な演奏活動へと入っていった。大学は経済学部に進学。この頃には平岡は多くのレパートリー曲を持つ、木琴のスペシャリストとなっていた。


1927年
5月、帝国ホテルにて最初のリサイタルを開催。1929年には当時檜舞台とされていた日本青年館でリサイタルを開催し、成功を収める。


1930年
6月、父に促されアメリカ合衆国へ留学。レコード録音で稼いだ片道ぶんの旅費にあたる1000円のみを所持しての旅立ちだった。9月に受けたNBCのオーディションで、80人の中から選ばれ合格。翌年、15分間のラジオ番組への出演が決定。この番組は、放送回数が4000回に及び、「アメリカ全土の少年少女は、ヨーイチ・ヒラオカの木琴で目を覚ます」と言われた。戦時中はNHKを通して日本国内でも放送された。

1936年12月、ニューヨークのタウンホールにて独演会を開催。演奏は成功を収め、ニューヨーク・タイムズも絶賛した。この成功を受けて、相手の両親の許可を得ることができ、1937年3月に日系アメリカ人女性と結婚。1942年6月、戦争のため交換船で日本に帰国[1]ビクターと契約しレコードを発表すると、日本でも平岡の存在が知られるようになった。また、戦時中から国内を演奏活動して巡り、1963年までに2000回を超える演奏会を行った。


20年後の1962年11月、ニューヨーク・フィルハーモニーの独演者としてカーネギー・ホールへ日本人として初の出演。翌年、永住権を取得し家族と共にカリフォルニア州に移住。5年後には市民権を獲得。日本とアメリカを行き来しながら精力的に演奏活動を行った。


1978年
胃癌により胃を全摘出。11月、勲四等瑞宝章を受章。1981年、73歳で生涯を終えた平岡のモットーは「幸福と成功は努力して得ねばならぬ」であった。

使用楽器
平岡は、1935年製米国ディーガン社の木琴を自身で改造して使用していた。同楽器は平岡の死後、ロサンゼルスの遺族によって保管されていたが、2003年、オーケストラ・ニッポニカによる『木琴と管絃楽のための協奏曲』(紙恭輔作曲)において使用された[2]。平岡の楽器は、2005年東京フィルハーモニー交響楽団が同曲を取り上げた際にもマリンバ奏者の通崎睦美によって演奏され、これを機に遺族から通崎に譲られることになった。詳細は通崎の項を参照。

脚注
1. 鶴見俊輔・加藤典洋・黒川創『日米交換船』(新潮社、2006年3月)pp84-86。
2. 海を越えた木琴|オーケストラ・ニッポニカ 2020年5月8日閲覧。

関連書籍
通崎睦美『木琴デイズ 平岡養一「天衣無縫の音楽人生」』(講談社刊・2013年9月9日発売)

参考資料
平岡資料改訂版 (PDF)

横浜黒船研究会 議事録 - ウェイバックマシン(2013年12月14日アーカイブ分)
(wikiより)

0134 平岡養一

⇧ 平岡養一

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葛西ばやし碑
        葛西神社宮司香山善之輔書
(裏面)
葛西ばやしは 葛飾方面に古るくから伝はる郷土芸術の一とつである


享保の初年 葛西金町の鎮守香取神社の神主 能勢環氏の郷土の青少年の情操に思いをいたし 和歌ばやしといふ一種のはやしを教え 次第に江戸近郷の祭礼に愛賞され 神霊を慰めたのがその起因といわれる


後ちに葛西はやしとなって再来 文化の進取と共に郷土色豊かな祭りばやしとなって 現代に至ったのである


昭和二十六年 区内有志により葛西ばやし保存会を創設し 一段と技能 研精に努め 同二十八年十一月三日 東京都より無形文化財の指定を受けたのである


偶々今秋社殿の落慶を記念し これが起因を石に刻して もって後代に伝ふ
      
昭和四十年十月建之
同 史談会 入本英太郎


〇 史跡 葛西神社 ( 葛西ばやし発祥の地 )
当社は、むかし香取宮と称し 元暦元年 ( 1184 ) 下総国香取神宮の御分霊を勧請し 葛西三十三郷の総鎮守として創立したものと伝えられ


天正十九年 ( 1591 ) 十一月 徳川家康より御朱印十石を賜った。


享保年間 当社の神官能勢氏の創作した「和歌ばやし」は後「葛西ばやし」として 江戸市中をはじめ近郷一帯の祭礼時に「はやし」として流行し 今なお 当地方の郷土芸能の一つとして伝わり


昭和二十八年十一月三日, 東京都無形文化財に指定され 今日に至る。


葛飾区
葛飾区観光協会
(石碑文より)

昭和二十八年、葛西囃子が東京都指定無形文化財となったことを記念して、昭和四十年に建立。


〇 葛西囃子
葛西囃子(かさいばやし)は、祭の際に演奏される音楽で、祭囃子(まつりばやし おはやし)の一つ。神田囃子などをはじめとした現在の東京都およびその周辺の祭囃子の祖。 葛西囃子と言う名称は戦後有志によって保存会が結成されてから付けられたものであり、それまでは特定の呼称を有さず単に「お囃子」と呼ばれていた。

ここでは便宜上、金町を中心とした葛飾方面の農村に伝承され江戸の祭礼囃子の源流となった郷土芸能を「葛西囃子」と称する。 葛西囃子には「本所(ほんじょ)囃子」「神田囃子」「住吉囃子」等の支派が多数存在するがこれらはいずれも葛西囃子より派生したものである。なお、現在では「きりばやし」と言う流儀が葛西囃子の代表となっている。 葛西囃子は江戸祭り囃子の代表的存在とされ、神田祭や山王祭と言った江戸の天下祭において付祭(つけまつり)の山車(だし)囃子として奉仕する事を常としている。

概要
江戸時代、東葛西領の総鎮守であった金町村の香取神社(葛飾区、葛西神社)の神官が創作した祭り囃子。現在の東京都およびその周辺の祭り囃子の祖とされる。

発祥と歴史

葛西囃子の起源は、一説によれば享保(1716~36)の初めに、江戸葛西領金町村30鎮守であった香取明神(現葛飾区東金町町の葛西神社)の神主・能勢環が敬神の和歌に合わせて音律を工夫創作し、これを和歌ばやしと名づけて村内の若者に教え神霊を慰めたのものとされている。以来天下泰平国家安全の奉納囃子として改良されながら葛西領一円、更に江戸市中に広まり各地の祭礼に用いられたもの。又、享保四年関東の代官伊奈半左衛門はこれを若者善導の社会施策の一つとして奨励し、毎年各町村 より推薦会を行い、その代表者を神田明神の将軍 上覧祭りに参加させたので一層普及し、農業の余暇に能勢環より囃子を習う者が続出した。明治時代にかなり流行したようだが、現在では切り囃子という流儀が葛西囃子の代表になっている。


幕末の嘉永年間、黒船事件以来一時衰退、安政四年六月の神田祭に月番寺社奉行松平氏のきも入りで復活したが間もなく明治維新以来に至る社会情勢のため自然に中止となった。 その後、世相の安定と共に復活し、維新以来の大祭として知られる明治十七年の神田祭には葛西方面から表青戸の源次郎、小松川村の角次郎、鹿骨村の七五郎、そっぱの伝次郎、新宿町助次郎の名人が参加してその妙技を示し好評を博している。しかし、この頃には神田の人たちも葛西方面から囃子方を呼ばなくてもいいように葛西囃子を会得し神田囃子を創始した。こうして品川・目黒・大井・等々力・馬込・渋谷・阿佐ヶ谷 三つ目囃子など、それぞれの土地名を付けた囃子が生まれた。 さらに多摩川すじを経て青梅方面まで発展していき、これらの囃子が最も盛んな頃は明治中期であった。

葛西囃子の流儀
江戸時代、名人と呼ばれる演奏者の傑出は祭りに於ける山車の流行とも相まって隆昌の一途を辿る。こうしたお囃子の流行は関東周辺にも広まり後に秩父、川越、石岡、また東北地方、東海地方の囃子の流儀を生む所となった。 各地方に伝播した葛西囃子は地域によって変遷を遂げている。現在では金町・江戸川方面に伝承されている流儀の「きりばやし」がその代表的存在となっているが江戸時代には亀有の「美濃がえくづし(別名:三の輪囃子)」と言う流儀が大流行している。江戸の深川方面では旗本の次男・三男が半ば娯楽として習い覚えたのが「深川囃子」となり、本所割下水に住む御家人連中に伝えたのが「本所囃子」となった。一方浅草猿若町の三芝居の連中が葛西から習った拍子を変化させたのが「住吉囃子(別名:裏囃子)」、その他「松江囃子」、「三浦囃子」などの流派が編み出された。やがて「神田囃子」、「目黒囃子」などが次々に編成編されて、その技量の程を競ったと言う。 ちなみに当初、神田囃子は即ち葛西囃子でもあったのだが神田の氏子が葛西囃子の技術を取得してから神田囃子として発展して行ったと言われる。

演奏形態・楽器
編成は5人で、大太鼓(大胴)1名、しめ太鼓(しらべ)2名、笛(とんび)1名、鉦(よすけ)1人名。 ケテンテケテンテンテンステックという「上げ」(打ち込み)の囃子にはじまり、屋台囃子という曲から一定の順序で数曲続け、ふたたび屋台囃子で終わるというのが一般的。

葛西囃子の編成
葛西囃子は「五人ばやし」とも称せられる様に五人で編成される。その配列は向かって左より、大太鼓・締太鼓(タテ)・締太鼓(ワキまたはナガレ)が前列、そして後列が笛・鉦(かね)となっている。

曲目
1.打ち込み
(締太鼓を打ち込む。言うなれば前奏曲部分)

2.屋台
(笛、締太鼓、鉦、大太鼓、と次第に音調を整える)

3.昇殿
(全体としてゆったりとした演奏)

4.鎌倉
(鳶職の「木遣り」と似ている。比較的静か)

5.四丁目(師調目・使丁舞・四丁舞)
(一番賑やかに奏する箇所で演奏者の技量が問われる)

6.屋台
以上の順序で演奏する六段構成が基本となっている。 追記すると、四丁目には締太鼓のタテが「四丁目の玉」を打つとワキが「玉の地」を打つ玉入りが入る。(「玉」とは笛の調子に合わせて即興で打つ太鼓の事を言う) なお、上記の他に御輿巡行を迎える「投げやり」、おかめ・ひょっとこ等の馬鹿面を被った道化踊りの「忍馬(にんば)」、獅子舞の「勇み」「清め」「じゃれ」等の曲目が存在する。

囃子道具

大太鼓        別名:大胴(おおど)1基
締太鼓(しめだいこ) 別名:しらべ2基
笛          別名:とんび1管
鉦(かね)      別名:よすけ1個


踊り
馬鹿面踊り
寿獅子舞
ひょっとこ
おかめ


葛西囃子の修練と成果

かつて葛西囃子の練習は11月、収穫が済んだ時期の余暇を練習に充てる形で開始された。その多くは葛飾区の青戸・亀有・金町・新宿・奥戸等の農家の人員で構成されるが技術の取得には修練を要し、一定の技量となるには1〜2年は掛かるとされる。その中に於いて笛はとりわけ上達が困難とされ、数年(人によっては10年とも言われる)の稽古を経てやっと人前で演奏出来る一人前の笛吹きとなれると言う。 当然その練習は厳しいものであり特に江戸時代には稽古場に於ける以下の規則を遵守する事が必須だった。



一、稽古場にて酒飲むべからず、朔日、十五日、二十八日、稽古仕舞ひ候て後は格別の事
一、喧嘩口論堅く禁制たるべし
一、稽古場にて安座(あぐら)かき申間敷事
一、世話役の外、其処は打った抔(など)と多言致間敷事
一、仲間の中は折合能く可致事


追記すると、上記は代官伊奈半左衛門が葛飾地方の人心の利導を目的とした上で拵えて置いた条文とされる。 こうした背景において輩出された名人が江戸の天下祭へと参加し、葛西囃子は江戸で大流行する事となったのである。


葛西囃子保存会
葛西囃子の保存伝承のために昭和24年に東都葛西囃子睦会が結成され都内神社等の祭礼や伝統行事、地域イベント等での上演を行っている。 また、有志によって昭和26年に葛西囃子保存会(葛西神社事務局)が結成され現在も葛西神社の例大祭・酉の市の祭事に奉納演奏を、また毎月中旬の日曜日にも同神社の境内に於いて稽古が行われている。葛西囃子保存会は近年その活動領域を広げ、葛西囃子の素晴らしさを伝える為にオーストラリアやウィーン等、海外への遠征公演も果たした。 なお、上記の他にも葛飾区・江戸川区を中心とした地域に各保存会が存在する。

無形文化財指定の経緯
東京都は1953年(昭和28年)11月3日、東都葛西囃子睦会による葛西囃子(江戸川区)を無形民俗文化財に指定した。これに対し長年、本家争いを繰り返してきた葛飾区側は猛抗議を行った。これに対して東京都は1954年(昭和29年)4月9日、葛飾区の葛西囃子、神田囃子も包括して「江戸の祭囃子」として再指定を行った[1]

脚注
1. 「残したい庶民の宝 葛西ばやし」『日本経済新聞』昭和30年1月21日11面

参考文献
・「武江年表」

・「日本民謡大鑑」関東編

・「東京のまつり」 朝日新聞社刊

・「ふるさと東京 民俗芸能」 朝文社

・「東京都の郷土芸能」 宮尾しげを・本田安次 昭和29年 一古堂書店

・「日本の民謡と民俗芸能」 本田安次 音楽の友社 昭和42年 

・「江戸の祭り囃子」 東京都教育委員会編 東京都教育庁生涯学習部文化課 平成9年

・「増補 葛飾区史」 東京都葛飾区編

・「演劇百科事典」 平凡社

外部リンク
葛西囃子保存会
葛西神社
(wikiより)

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碑を建てることば

作詞者 武内俊子さんは昭和八年の秋ある日


のメリケン波止場から船で布教のためハワイへ旅立たれる叔父さんを見送りにこられました


それはよく晴れた日の午後のことで桟橋一帯に白いかもめがたくさん飛びまわりそれが折からの夕陽に映えてとても美しく印象的でした


この童謡はこのときの光景を描いたもので横浜港は「かもめの水兵さん」の発祥地であります。
(石碑文より)


童謡『かもめの水兵さん』


1.
かもめの水兵さん

並んだ水兵さん

白い帽子 白いシャツ 白い服

波にチャップチャップ 浮かんでる


2.
かもめの水兵さん

駆け足水兵さん

白い帽子 白いシャツ 白い服

波をチャップチャップ 越えていく


3.
かもめの水兵さん

ずぶ濡れ水兵さん

白い帽子 白いシャツ 白い服

波でチャップチャップ お洗濯


4.
かもめの水兵さん

仲良し水兵さん

白い帽子 白いシャツ 白い服

波にチャップチャップ 揺れている


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芥川 也寸志(あくたがわ やすし、1925年7月12日 - 1989年1月31日)は、日本作曲家指揮者JASRAC元理事長。

作風
快活で力強い作風といわれ、特に人気のある代表作に『交響三章』『交響管弦楽のための音楽』『弦楽のための三楽章』などが挙げられる。映画音楽・放送音楽の分野でも『八甲田山』『八つ墓村野村芳太郎監督)』『赤穂浪士のテーマ』などが知られるとともに、童謡『小鳥の歌』『こおろぎ』等の作曲者としても知られる。そのほか、多くの学校の校歌日産自動車の「世界の恋人」など、団体(企業等)のCMソング社歌も手がけている。

来歴
小説家・芥川龍之介の三男として東京市滝野川区(現:東京都北区田端に生まれる[1]。母は海軍少佐・塚本善五郎の娘・。長兄は俳優・芥川比呂志。次兄は多加志。也寸志の名は龍之介が親友の法哲学者・恒藤恭(つねとう きょう)の名「恭」を訓読みし万葉仮名に当て命名された。


父は1927年に自殺したが、也寸志は父の遺品であるSPレコードを愛聴し、とりわけストラヴィンスキーに傾倒した。兄弟で毎日『火の鳥』や『ペトルーシュカ』などを聴きながら遊び、早くも幼稚園の頃には『火の鳥』の「子守唄」を口ずさんでいたという。絵本の詩を即興で作曲することもあったが、当時まだ五線譜を知らなかったので、自己流の記譜法で書きとめた。このとき作った節を、作曲家になった後で気に入って自ら出版したこともある[2]


東京高等師範学校
附属小学校(現:筑波大学附属小学校)在学中は唱歌が苦手だったために、音楽の成績は通知表の中で最も劣っていた[3]1941年、東京高等師範附属中学校(現:筑波大学附属中学校・高等学校)4年在学時に初めて音楽を志し、橋本國彦の紹介で井口基成に師事してバイエルから猛勉強を開始する。このとき無理が祟って肋膜炎を患う。東京高師附属中の同期には、石川六郎鹿島建設名誉会長)、山本卓眞富士通名誉会長)、嘉治元郎(元東京大学教養学部長)、森亘(元東京大学総長)などがいる。


1943年東京音楽学校予科作曲部(現:東京芸術大学音楽学部作曲科)に合格したものの、乗杉嘉壽校長から呼び出しを受け、受験者全員の入試の成績一覧表を示されて「お前は最下位の成績で辛うじて受かったに過ぎない。大芸術家の倅として、恥ずかしく思え!」と叱責され、衝撃を受けた。橋本國彦に近代和声学管弦楽法下総皖一細川碧対位法を学ぶ。


1944年10月、学徒動員で徴兵され陸軍戸山学校軍楽隊に配属。東京音楽学校からは十数名の配属者がいたが、芥川は8か月の教育期間を首席で卒業し、教育総監だった土肥原賢二中将から銀時計を賜った。その後、作曲係上等兵として團伊玖磨奥村一斎藤高順と共に終戦まで勤務。様々な隊歌や軍楽隊向けの作編曲を行う。


1945年
8月に戦争が終わって東京音楽学校に戻ったとき、戦後の人事刷新で作曲科講師に迎えられた伊福部昭と出会い、決定的な影響を受けた。当時の進駐軍向けラジオ放送でソ連音楽界の充実ぶりを知り、ソ連への憧れを募らせた。ソ連の音楽もまた、彼の作風に影響を及ぼす。


1947年
に東京音楽学校本科を首席で卒業する。本科卒業作品『交響管絃楽のための前奏曲』は伊福部の影響が極めて濃厚な作品である。伊福部が初めて音楽を担当した映画『銀嶺の果て』ではピアノ演奏を担当した。


1949年、東京音楽学校研究科を卒業する。在学中に作曲した『交響三章』や『ラ・ダンス』もこのころしばしば演奏された。1950年、『交響管絃楽のための音楽』がNHK放送25周年記念懸賞募集管弦楽曲に特賞入賞する。このとき、もう一人の受賞者は團伊玖磨だった。同年3月21日、『交響管絃楽のための音楽』が近衛秀麿指揮の日本交響楽団(NHK交響楽団の前身)により初演され、作曲家・芥川也寸志の名は一躍脚光を浴びた。 同じ1950年には、窓ガラス越しのキスシーンで有名な東宝映画『また逢う日まで』(監督;今井正)に、ピアノを弾く学生の役で出演する。


1953年
に同じく若手作曲家である黛敏郎、團伊玖磨と共に「三人の会」を結成する。作曲者が主催してオーケストラ作品を主体とする自作を発表するという、独自の形式によるコンサートを東京と大阪で5回開催した。同年開催された毎日映画コンクールでは、『煙突の見える場所』が音楽賞を獲得している。


1954年、当時まだ日本と国交がなかったソ連に、自作を携えて単身で密入国する。ソ連政府から歓迎を受け、ショスタコーヴィチハチャトゥリアンカバレフスキーの知遇を得て、ついには自分の作品の演奏、出版にまでこぎつけた。当時のソ連で楽譜が公に出版された唯一の日本人作曲家である。中国から香港(当時イギリス領)経由で半年後に帰国する。以後、オーケストラ作品を中心に次々と作品を発表し、戦後の日本音楽界をリードした。

1956年、アマチュア演奏家たちの情熱に打たれて新交響楽団を結成する。以後、無給の指揮者としてこのアマチュアオーケストラの育成にあたった。1976年、当時としては画期的な、1940年代の日本人作曲家の作品のみによるコンサート「日本の交響作品展」を2晩にわたり行い、その功績を讃えられて翌年には鳥居音楽賞(後のサントリー音楽賞)を受賞した。その後もショスタコーヴィチ交響曲第4番の日本初演を行うなど活発に活動をした。一方で、同団においては一部の作品を除いて自作の演奏をなかなか行わず、ようやく1986年に創立30年記念演奏会を自作のみで行った。


1957年
にはヨーロッパ旅行の帰途、インドに立ち寄ってエローラ石窟院のカイラーサナータ寺院で、巨大な岩を刳り貫いて造られた魔術的空間に衝撃を受け、このときの感動から『エローラ交響曲』を作曲、代表作の一つとなった。この頃から、動的な作風の代わりに静謐な作風を模索するようになる(いわゆる「マイナスの作曲論」などに代表される)。この『エローラ交響曲』は、伊福部と同様に若き芥川に芸術観形成で大きな影響を与えた早坂文雄に捧げられた(芥川は修業時代、早坂の許で映画音楽作曲のアシスタントを勤めた)。


1958年
6月16日、京都五条の旅館にて松竹映画『欲』のための音楽を作曲中、芥川の部屋に京都大学医学部助教授夫人(35歳)が乱入し、服毒自殺を遂げるという事件が発生する。この女性は芥川に熱烈な思慕を寄せ、一方的に恋文攻勢や待ち伏せ(現在でいうストーカー行為)を繰り返していたが、恐れをなした芥川にきっぱり撥ねつけられ、絶望して覚悟の死を選んだものである。


1967年
12月、芥川を中心にアマチュア合唱団「鯨」が創立する。


1977年から1984年まで、NHKの音楽番組『音楽の広場』に司会として黒柳徹子とともに出演した。『音楽の広場』のほかにも、音楽番組のみならず彼はテレビの司会を何度か務めている(テレビ東京『木曜洋画劇場』)。ラジオの分野では1967年より死の前年までTBSラジオ百万人の音楽』で野際陽子とパーソナリティーを務めた。ダンディな容貌とソフトだが明晰な話し方で、お茶の間の人気も高かった。


1978年第1回日本アカデミー賞で『八甲田山』と『八つ墓村』が最優秀音楽賞と優秀音楽賞を受賞した。


1988年
夏、日ソ音楽交流の一環で松村禎三らと訪ソし、ヴァレリー・ゲルギエフの指揮するオーケストラが芥川の『オーケストラのためのラプソディ』などを演奏する音楽祭コンサートに出席する予定だったが、渡航直前の6月、健康診断を受けた際に進行した肺癌が見付かり、東京都中央区国立がんセンターに入院、手術治療を受け、いったんは成功。退院後は北軽井沢の別荘で静養しながら、なかにし礼の詞による合唱曲『佛立開導日扇聖人奉讃歌“いのち”』の作曲を続けたが、11月に再び病状が悪化し再入院。それまでに合唱パート全てと六分の一ほどのオーケストレーションはできていたものの、残りの完成の遅れを気にかけた芥川は、作曲家仲間の松村禎三黛敏郎に相談し、黛の弟子で新進作曲家であった鈴木行一に残りのオーケストレーションの完成を依頼。そして、芥川は、病状好転せぬまま、1989年1月31日入院先にて逝去した。63歳没。


逝去の前日、容態急変を聞き付け病院に駆け付けた黛敏郎の手を握り、回らぬ舌で「あとをたのむ」と言ったというエピソードが、東京新聞に掲載された黛による追悼記事に残されている。最後の言葉は「ブラームス一番を聴かせてくれないか…あの曲の最後の音はどうなったかなあ」だった。遺作『佛立開導日扇聖人奉讃歌“いのち”』の“いのち”という題は、なかにしの発案によったが、なかにしは、芥川からタイトルを訊かれた際に、その病状を慮るあまり、とうとう言い出せなかったという。鈴木が補作して完成した『佛立開導日扇聖人奉讃歌“いのち”』は、1989年5月2日に東京・サントリーホールで開催された「芥川也寸志追悼演奏会」で初演された。没後、勲二等瑞宝章を追贈された。


生前、芥川は「古事記によるオラトリオをライフワークにしたい」とたびたび述べていた。作曲を進行させていたと窺わせる発言もあり、1990年に予定されていたサントリー音楽財団による『作曲家の個展』にはそれを発表すべく委嘱も行われたのであるが、その死により実現を見なかった。


曲の構想など詳細は不明であるが、晩年、病院から一時帰宅を許されたときに自宅仕事場でスケッチされたという「チェンバロとオーケストラのためのコンチェルト」の一部の譜面が遺されているようである。これは、写真家・木之下晃が、芥川の没後に仕事場を撮影した写真の中に写っており、最晩年の芥川の音楽作品を考える上で興味深い。


芥川の音楽界での功績を記念して1990年4月、サントリー音楽財団により「芥川作曲賞」が創設された。芥川の死の半年後、埼玉県北葛飾郡松伏町に、芥川の「エローラ交響曲」から名を取った田園ホール・エローラが完成した。


2002年
、芥川を記念する「芥川也寸志メモリアル オーケストラ・ニッポニカ」が設立された。

人物
芥川にはうたごえ運動の指導者という側面もあった。1953年の『祖国の山河に』(詩:紺谷邦子)は広く歌われた。音楽著作権関連の活動では日本音楽著作権協会 (JASRAC) 理事長として音楽使用料規定の改定に尽力し、徴収料金倍増などの功績を上げた。この背景には、若い頃父の印税が途絶えたために非常に生活に苦しんだ経験が理由の一つとしてあるといわれる。1989年には芥川の肖像が、著作権管理制度50年記念切手の図柄に採用されている(但し郵政省の公式の見解では「特定の人物を描いたものではない」とされていた)[4]。そのほかにも生涯、純粋な音楽活動以外に、社会的分野などでも精力的な活動を行っている。


快活な人柄で知られ、姪からは「はるかぜおじさん」と呼ばれていた。ただし芥川自身は「私自身は物事をやや深刻に考え過ぎる欠点を持っているのに、私の音楽はその正反対で、重苦しい音をひっぱり回して深刻ぶるようなことは、およそ性に合わない」(『音楽の旅』)と述べている。例外的な作品が『チェロとオーケストラのためのコンチェルト・オスティナート』(1969年)で、この作品では芥川に珍しい苦渋に満ちた感情表現に接することができる。


父・龍之介に対しては尊敬の念を抱いていたが、同時に「学校を卒業して社会に出た時には、ことある毎に〈文豪の三男〉などと紹介され、いい年をして、親父に手を引っぱられて歩いているような気恥ずかしさに、やり切れなかった」「父が死んだ年齢である三十六歳を越えていく時は、もっとやり切れなかった。毎日のように、畜生! 畜生! と心の中で叫んでいた。無論、自分が確立されていないおのれ自身への怒りであった」(『父や母のこと』)とも告白していた。

私生活

結婚を3度している。


1948年
2月、東京音楽学校で知り合った山田紗織(声楽科卒。のち離婚後の再婚により間所紗織となる)と結婚する。このとき芥川は紗織に対して「作曲家と声楽家は同じ家に住めない」と主張し、音楽活動を禁じている。これはマーラーが妻・アルマに取った行動と酷似しているが、芥川の場合は、彼女の歌が「作曲の邪魔になる」というもっと即物的な理由であった[注 1]。歌を禁じられた紗織は「音のない」美術に転向、程なく画家として認められる。しかし、二女をもうけた後、1957年に離婚した[注 2]。 長女・芥川麻実子はタレントとして活躍した後にメディアコーディネイターになった。『芥川龍之介あれこれ思う孫娘より』(サンケイ出版、1977年)の著書がある。

2度目の妻は女優の草笛光子である(1960年に結婚、1962年に離婚)。離婚の原因は、草笛が芥川の連れ子と不仲だったこととされる[6]


3度目の妻は東京芸術大学作曲科出身で石桁真礼生門下の作曲家・エレクトーン奏者の江川真澄(1970年に結婚)。彼女は結婚前、作曲・編曲だけでなくYAMAHAエレクトーン演奏の名手としても名を馳せた。彼女との間に生まれた息子・芥川貴之志成城大学文芸学部英文学科卒業後、エディター・スタイリストとして活躍している。『Blue RIBBONS』(ディー・ディー・ウェーブ、2005年)の著書がある。

主な作品
歌劇
ヒロシマのオルフェ(1960年、原題『暗い鏡』、1967年改訂。台本:大江健三郎)- ザルツブルク・オペラ・コンクール第1位。西村朗による室内管弦楽編曲版が存在。

管弦楽
・交響管絃楽のための前奏曲(1947年)

交響三章(トリニタ・シンフォニカ)(1948年)

・小管弦楽のための組曲(1949年) - NHKラジオ「日曜随想」にて放送。「Basso ostinato」と「終曲 - トッカァタ」の2曲が現存。前者はピアノのための『ラ・ダンス』の間奏曲の編曲。

交響管弦楽のための音楽(1950年)

・バレエ音楽「失楽園」(1950年)

・バレエ音楽「湖底の夢」(1950年) - 二幕四場、総譜は行方不明。

・バレエ音楽「Kappa」(1951年) - 総譜は大部分が現存するが一部は行方不明。

・バレエ音楽「炎も星も」(1953年) - 二幕四場、総譜は行方不明。

弦楽のための三楽章(トリプティーク)(1953年)

交響曲第1番(1954年、1955年改訂)

・喜遊曲(ディベルティメント)(1955年) - 終曲を交響曲第1番の1955年改訂版第2楽章に改作。その後、本作は破棄された。ただし楽譜は現存する。

・子供のための交響曲「双子の星」(1957年、宮澤賢治作「雙子の星」による)

エローラ交響曲(1958年)

・Marcia in do(1959年) - 吹奏楽曲。古関裕而飯田三郎と1楽章ずつ合作した「祝典組曲」の3曲目。

・弦楽のための「陰画」(1966年)

・オスティナータ・シンフォニカ(1967年)

・舞踊組曲「蜘蛛の糸」(1968年)

チェロとオーケストラのための「コンチェルト・オスティナート」(1969年)

・オスティナータ・シンフォニカ'70(1970) - 「オスティナータ・シンフォニカ」の改訂版

オーケストラのためのラプソディー(1971年)

・GXコンチェルト(1974年) - ヤマハ・GX-1とオーケストラのための協奏曲。

・森のすきなおとなとこどものための音楽童話「ポイパの川とポイパの木」(1979年) - 語り手とorch

・March1979「栄光をめざして」(1979年) - 管弦楽版と吹奏楽版が存在

・音楽と舞踏による映像絵巻「月」(1981年)- イタリア放送協会賞、エミー賞受賞。

・行進曲「風に向かって走ろう」(1982年) - 管弦楽版と吹奏楽版が存在

・アレグロ・オスティナート(1986年) - 外山雄三三枝成章石井眞木と共に1楽章ずつ合作した交響組曲『東京』の終曲。FM東京開局15周年記念委嘱作品。GXコンチェルトの一部を改作したもの。

オルガンとオーケストラのための「響」(1986年) - サントリーホール落成記念委嘱作品。「オスティナータ・シンフォニカ」の素材が多く用いられている。

・ゴジラの主題によせるバラード(1988年) - 「伊福部昭先生の叙勲を祝う会」にて発表された小品。

詳しいことは、『芥川也寸志ウィキペディア』をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%A5%E5%B7%9D%E4%B9%9F%E5%AF%B8%E5%BF%97
(wikiより)

0018 芥川也寸志

⇧ 芥川也寸志

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春のあけぼの 花なら桜


              武士の鑑ぢゃ 赤穂義士


この碑文は昭和 11年、野口雨情が ( 1882 ~ 1945 ) 民謡行脚の道すがら、4月 18日から 3日間赤穂に滞在し詩作した十節よりなる赤穂民謡の冒頭第一節である。


代表作には「十五夜お月さん」「青い目の人形」「船頭小唄」「波浮の港」などがある。
(案内板より)

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作詞:代田銀太郎作曲:伊藤正康 歌:渡辺はま子・宇都美清


1952年 12月 25日 ( 国交が無いフィリピン政府に対し、戦犯慰問の渡航を嘆願し続けて半年後の事だった )


フィリピンのニュービリビット刑務所で、59人の死刑囚を含む 109人の戦犯たちを前で渡辺はま子が歌った。


みな涙を流し最後は大合唱だった。


その後わずか 6ヵ月後死刑囚は恩赦で日本へ返された。


作詞者作曲者がいずれも死刑囚だった。


戦争で戦犯死刑囚とされて 8年間フィリピン、モンテンルパの収容所に、苦難の歳月を過ごされた飯田市出身の旧軍人代田銀太郎さんの獄舎での望郷詩。


作曲の伊藤正康という方も友因と碑陰に刻まれています。


昭和 59年戦争責任反省が問われる時代に至って長野県日比協会創立 10周年を記念しての建立碑。

昭和 59年建立。

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〇 伊奈節歌碑
( 天龍下れば、飛沫 ( しぶき ) に濡れる持たせやりたや、桧笠 ) 上伊奈から木曽谷への権兵衛峠の馬子唄が由来といわれるこの古謡に、伊奈風景探勝会によって新歌詞募集されたのが大正 5年。


の唄は、応募 1300余篇からの一等入選作品。


作詞の小笠原秀雄は下條村生まれ、十余年来の教職を去って、ブラジル移民の先駆となった方で、皃山はその雅号。


渡航に先立って書き残された自筆の書の拡大による建碑。


昭和 34年建立。

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〇 飯田娘の歌碑

飯田町の実業家で詩人の多田二十一という方の作詞。


明治 40年生まれ。


本名が襲名の多田三七、ここから二十一と称されたのでしょうか。


詩誌 ( 山並 ) を主宰し、山田耕作・西條八十・堀口大学そして服部嘉香などの音楽家、詩人と広く交流されたロマンのかたでした。


昭和 62年建立。

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横浜のご当地ソングは横浜、ヨコハマ、YOKOHAMAで始まる曲だけでもざっと 110曲ほど。


そんな横浜のご当地ソングの中でも駅名までに影響を与えたのが青江三奈の歌った『伊勢佐木町ブルース』。


伊勢佐木町商店街 ( イセザキモール ) に伊勢佐木町ブルース歌碑と、ちょっぴりレトロ風な伊勢佐木町ブルース看板が設置されています。


基本情報
  建立:平成 13年 7月 1日
    故青江三奈 ( 平成 12年 7月 2没 ) 1周忌
    協同組合伊勢佐木町商店街創立五十周年記念事業

  歌碑:モチーフ「ブランドピアノ」、ピアノ部分「さくら石」、台座部分「黒みかげ石」
    青銅製レリーフ:彫刻家 熊谷友児氏制作
    黄銅板:楽譜・作曲者 鈴木庸一筆、題字・歌手名文字・作曲家 花礼二筆

  裏面:横浜にちなんだ二十世紀の五十曲が刻まれている
  音響:台座部分にスピーカ他内蔵「伊勢佐木町ブルース」が一分間演奏
(台座スイッチによる)

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汽車 汽車 ポッポ ポッポ シュッポ シュッポ シュッポッポ 
 
  僕らをのせって シュッポ シュッポ シュッポッポ   

  スピード スピード 窓の外 畑もとぶとぶ 家もとぶ  

  走れ 走れ 走れ 鉄橋だ 鉄橋だ たのしいな


この歌は最初「兵隊さんの汽車」という題で発表された曲との事で、原詩を探したところ、作詞の富原薫が駅から出征する兵隊を見て書き上げたもので次のような詩であることが判った。

  汽車 汽車 ポッポ ポッポ  シュッポ シュッポ シュッポッポ

  兵隊さんをのせて シュッポ シュッポ シュッポッポ

  僕等も 手に手に 日の丸の 旗をふりふり おくりませう

  万才 万才 万才 兵隊さん 兵隊さん 万々才

この詩が上記の様になったのは、1945年の大晦日に行われた戦後初の紅白歌合戦において、川田正子が歌うにあたって歌詞が時代にそぐわないという事で急據、作詞家の富田薫の許に改作の依頼が有ったためで、その際に題も現在のように改められたものである。

汽車ポッポ
  作詞 富原 薫
  作曲 草川 信

この歌は大正十三年に「兵隊さんの汽車」という題名で発表され戦後「汽車ポッポ」に改名された躍動感がみなぎり明るく戦後の童謡の中でも傑作と言われている
 
作曲の草川 信は長野市の生まれで他にも「夕焼小焼」「どこかで春が」「揺籃の歌」等多くの童謡を作曲している
 
作詞の富原 薫は静岡県御殿場市の生まれで「早起き時計」等の詩を書いている
 
この歌碑は「唱歌と童謡を愛する会」が詩情豊かな街づくりの一環として建立したものである
(石碑文より)

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宮島春松 ( みやじま - はるまつ )

( 1848 - 1904 )

明治時代の官吏、雅楽家。


嘉永 ( かえい ) 元年 8月 17日生まれ。


信濃 ( しなの )( 長野県 ) 松代 ( まつしろ ) 藩士の子。


藩の兵制士官学校で武田成章に英語、フランス語を学ぶ。


明治 3年上京、陸軍省の翻訳官としてフランス兵書を翻訳。


また東京に雅楽協会を創立し、公開演奏を重ねて雅楽振興に尽くした。


明治 37年 5月 23日死去。57歳。


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碑文

明治 2年 ( 1869年 ) 10月、薩摩藩の青年藩士 30余名が当妙香寺に合宿し、英国陸軍 10連隊第 1大隊所属軍楽隊の指導者ジョン・ウイリアム・フェントン ( John William Fenton ) から吹奏楽を学んだ。


これが日本人による吹奏楽創立の序であり、吹奏楽活動の緒となった。


発祥から 120年目にあたるこの年、日本吹奏楽が悠久に発展することを祈念し、ここに、吹奏楽界同紙に諮りこれを建立、謹んで日蓮宗本牧山妙香寺に献呈するものである。


平成元年 ( 1989年 ) 9月 8日建立


日本吹奏楽発祥の地記念碑建立発起人 代表 春日 學
(碑文より)


〇 ジョン・ウイリアム・フェントン
ジョン・ウィリアム・フェントン:John William Fenton、1831年3月12日[注 1] - 1890年4月28日[注 2] )は、アイルランドコーク県キンセール英語版生まれのイギリスの軍楽隊員。日本の国歌となった『君が代』の最初の版を作曲したことや、日本最初の吹奏楽団である薩摩バンドを指導したことで知られる。

生涯
出生地はアイルランドであるが、これはキンセール港を監視するチャールズ砦Charles Fort (Ireland)のイギリス軍宿舎で生まれたのであって、フェントンがアイルランド人というわけではない[1]。父方の血筋はスコットランド系である[2]。フェントンは13歳で、少年鼓手兵としてイギリス陸軍に入った。イギリス陸軍省関係文書によれば、日本を訪れる前にインドに13年、ジブラルタルおよびマルタに5年弱、ケープ植民地に3年4か月いた[3][4]1864年7月に最初の妻となるアニー・マリア (Annie Maria) と結婚。同年8月2日、第10連隊第1大隊軍楽隊長に就任[5]1868年、同大隊は横浜のイギリス大使館護衛部隊となり、フェントンは妻のアニー・マリアおよび娘のジェシー (Jessie) とともに軍艦テイマー (HMS Tamar) で同年4月4日慶応4年3月12日)に横浜に到着した[6]


1869年
10月頃(明治2年9月)から日本で初めての吹奏楽の練習として、横浜の本牧山妙香寺薩摩藩の青年約30人を指導した。薩摩藩からの交渉、依頼がいつから始まったのかは不明である。イギリスから楽器が届くまでは、調練、信号ラッパ、譜面読み、鼓隊の練習を行ない、1870年7月31日明治3年7月4日)にベッソン社製の楽器が届いた。大英図書館に今も残るこの時フェントンが使った教科書には楽譜の書き方から作曲法までがカバーされており、フェントンは日本で初めて西洋音楽理論を体系的に教えた人物であるとされる。薩摩藩の楽隊は翌1871年2月頃(明治3年12月)に帰藩し、同年4月頃(明治4年3月)に再上京して市谷に駐屯した[2][7][8]


1871年5月7日(明治4年3月18日)、妻のアニー・マリアが没し、横浜外国人墓地に埋葬された[9][10]。同年7月25日(明治4年6月8日)にイギリス陸軍を退役し、同年10月1日(明治4年8月17日)に日本の兵部省(後の海軍省[11])水兵本部雇楽隊教師となった。フェントンの月給はそれまでの約26ドルから洋銀200ドルに増えた[9][12]。同年8月に兵部省が陸軍部と海軍部に分かれ、軍楽隊も2つに分けられたが、うち海軍部は引き続きフェントンが指導した。海軍軍楽隊隊員として徴募された40名は本隊11名と鼓隊29名から構成されるが、そのほとんどが鹿児島県人であり、とくに本隊の11名はすべて旧薩摩藩軍楽伝習生だった[13]


1872年
3月16日明治5年2月8日)にアメリカ人女性のジェーン・ピルキントン (Jane Pilkington) と再婚[14][15]。フェントンは1874年(明治7年)[注 3]から1877年(明治10年)3月31日まで、海軍省と兼任で宮内省式部寮雇音楽教師を務めた[16]。同年4月23日に横浜を出港した客船シティ・オブ・トウキョウで妻のジェーンおよび娘のジェシーとともにサンフランシスコに渡った[17][10]。その後、イリノイ州スコットランドを経て1884年にカリフォルニア州サンタクルーズに移住した[18]1890年4月28日にサンタクルーズで死去し、4月30日に葬儀が行われた。墓はサンタクルーズ・メモリアル墓地にある[18][19]

『君が代』との関わり
ヴィクトリア女王の次男エディンバラ公アルフレッドの来日が決まった時(1869年8月29日(明治2年7月22日)来日)、多くの日本側関係者に儀礼式典での国歌吹奏を説明したが、当時の日本に国歌の概念がなかった。1870年(明治3年)、薩摩軍の大山巌らで相談し、薩摩琵琶曲の『蓬莱山』の一節から『君が代』の歌詞を選び、フェントンに渡した[20]。『君が代』は、元々『古今和歌集』にあり、通訳の原田宗助が歌っていた『武士(もののふ)の歌』を参考に、当時日本にあった鼓笛隊でも演奏が出来るように『君が代』を作曲した。フェントンの『君が代』は、コラール風で、旋律にはアイルランド臭が感じられるという。1870年10月2日(明治3年9月8日)に東京の深川越中島において、『君が代』が明治天皇の前で薩摩バンドにより初演された[7][20][21]。薩摩藩の楽隊はその直後に帰藩し、実際に吹奏楽を伝習したのは約3か月に過ぎなかった[8]


フェントン作曲の『君が代』は、歌詞の音節と一致せず奇異に聴こえるといった点から、1977年(明治10年)に中村祐庸が「君が代」をフェントンの手によって雅楽風に改訂すべしという建議書を出しており[2]、海軍と分離した後の陸軍では、フェントン作曲の『君が代』を顧みず、敬礼ラッパ曲『陣営』を礼式曲として用いた。これらのことから、正式あるいは公式の「国歌」としては、実態として受け容れられなかったといえる。

フェントン版の『君が代』は1876年(明治9年)の天長節まで演奏されたが、1880年(明治13年)に現行の雅楽風のものに改められている[2][20][22]


フェントンは1877年(明治10年)に離日しており、「君が代」の改訂には関わりがないとするのが通説であったが、中村が建議書を出したのと同じ年にフェントンの依頼により雅楽の演奏会が開かれたことを示す史料が発見されており、現行の『君が代』にもフェントンが関わりを持っていた可能性が浮上している[2]

栄誉
1989年、妙香寺に「日本吹奏楽発祥の地」の碑が建てられた。同年以降、日本吹奏楽指導者協会の主催によって妙香寺で演奏会を開催している。2008年には演奏会にフェントンの子孫を招いた[18][23]。妙香寺には「君が代発祥の地」の碑も建てられている。

脚注
注釈
1. 1871年4月18日に作成された陸軍退役申請書 (WO 97/1954) に記載された退役時の年齢「42歳と1か月あるいは9か月」、入隊時の記録「1842年の4月12日に13歳と9か月で少年兵として入隊」、「1846年7月12日に満18歳に達し、正式入隊」より中村はフェントンの生年月日を1828年7月12日と推定した。ほかに1872年3月16日でフェントンの年齢を「40歳」としている2人目の妻ジェーン・ピルキントンとの結婚届 (FO 345/34)、明治4年9月(1871年)で年齢を「36歳」とする『外国人傭免状控』(日本外務省外交史料館 分類番号 3.9.3.6)、1876年11月9月で年齢を「42歳と6か月」とする「ウィリアム・フェントンの部」『欧州音楽教師雇入録1明治9~32年』(日本宮内庁書陵部 識別番号 11567)といった資料がある。キンセール地方裁判所・博物館名誉館長マイケル・マルカイ (Michael Mulcahy) の中村宛の手紙によると、フェントンが1830年4月10日に受洗した記録 (1830 April 10th. Fenton John son of John 65th. Rg. and Judith his wife.) がある (中村 1993, p. 116-119)。秋山によれば、中村の推定は誤り。
2. 1890年4月30日死去という文献もあるが、誤り。2008年8月秋山紀夫らによる現地調査により、墓石も確認している。
3. 1876年(明治9年)3月31日に正式に雇用。

出典
1. 秋山 2013, pp. 133-136.
2. a b c d e 今村朗 (2017年12月4日). “元祖「君が代」作曲者に光”. 日本経済新聞 電子版. 2020年2月11日閲覧。
3. WO 97/1954.
4. 中村 1993, pp. 117-124.
5. 中村 1993, pp. 123-124, フェントン略年譜.
6. 中村 1993, p. 67.
7. a b 中村 1993, pp. 82-83.
8. a b 塚原 1993, p. 161.
9. a b 中村 1993, p. 88.
10.a b Joyce & Ryall 2008.
11. 組織変遷表”. アジア歴史資料センター. 国立公文書館. 2020年4月13日閲覧。 “[海軍省] 1872年4月5日(明治5年2月28日)新設”
12. 塚原 1993, p. 190.
13. 塚原 1993, pp. 165-166.
14. FO 345/34.
15. 中村 1993, pp. 118-121.
16. 中村 1993, pp. 96-109, 式部寮の兼任.
17. 中村 1993, p. 109.
18. a b c Wilson 2008.
19.John William Fenton”. Find a Grave. 2020年4月13日閲覧。
20. a b c 日本吹奏楽の始まりと薩摩”. 維新のふるさと鹿児島市. 鹿児島市観光交流局観光プロモーション課 (2014年4月1日). 2020年2月11日閲覧。
21. 日本吹奏楽発祥の地”. myokohji.jp. 妙香寺. 2020年2月11日閲覧。
22. 君が代発祥の地”. myokohji.jp. 妙香寺. 2020年2月11日閲覧。
23. 『社団法人 日本吹奏楽指導者協会(JBA)平成21年度 事業報告』、2010年、6頁。


参考文献
秋山紀夫「ジョン・ウイリアム・フェントンを追って」『吹奏楽の歴史―学問として吹奏楽を知るために』ミュージックエイト、2013年、133-136頁。ISBN 9784871643139(もと社団法人日本吹奏楽指導者協会会報『ウインド・フォーラム』No.90)

・塚原康子『十九世紀の日本における西洋音楽の受容』多賀出版、1993年。ISBN 4811532317

・中村理平『洋楽導入者の軌跡 - 日本近代洋楽史序説』刀水書房、1993年。ISBN 4887081464

・Infantry: Farrer - Fen (イギリス国立公文書館 Reference: WO 97/1954), General War Office, (1873-1882) 

・Marriages. Declarations and certificates. (イギリス国立公文書館 Reference: FO 345/34), 1, Foreign Office, (1870-1887) 

・Wilson, Alia (2008-09-02), Composer of first Japanese national anthem traced to Santa Cruz, Santa Cruz Sentinel, https://www.santacruzsentinel.com/2008/09/02/composer-of-first-japanese-national-anthem-traced-to-santa-cruz/ 2020年4月13日閲覧。 

・Joyce, Colin; Ryall, Julian (2008-10-14), British soldier who wrote Japanese national anthem honoured, The Telegraph, http://www.telegraph.co.uk/news/3192637/British-soldier-who-wrote-Japanese-national-anthem-honoured.html 2020年4月13日閲覧。
(wikiより)


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妙香寺には、「国歌 君が代由緒地碑 ( 説明文無し )」と「国歌 君代発祥之地碑」が有りますが、由来等については不明です。

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東儀鉄笛の父。

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東儀 鉄笛(とうぎ てってき、明治2年6月16日1869年7月24日) - 大正14年(1925年2月4日)は、明治大正期の雅楽家・作曲家俳優。本名・東儀季治(すえはる)。京都府出身。父・季芳(すえよし)は、安倍季誕(すえのぶ)の子として生まれ、のちに、祖父である東儀季郛(すえもり)の死後、東儀の姓を継いだ。孫・東儀季信は元宮内庁楽部楽師。

略歴
1300年続く雅楽の家柄に生まれ、宮内省雅楽寮に勤める傍ら、東京専門学校(現・早稲田大学)に学んだ(中退)。帝国教育会の事務長であり、獨協学園書記(分校主事)であった[1]。1897年宮内庁式部職雅楽部退職。


1906年
設立の坪内逍遥の「文芸協会」に加わり、新劇俳優としても活躍。「ベニスの商人」のシャイロック、「マクベス」のマクベスなどを得意とした。協会解散後は無名会を組織。また西洋音楽を学び、東京音楽学校(現・東京芸術大学)講師となった。1925年、脳出血のため死去[2]


都の西北 早稲田の森に…」の歌い出しで有名な早稲田大学校歌(作詞 相馬御風)の作曲者。イェール大学の学生歌である「オールドイェール」の旋律を採り入れているともされているが、さらに「オールドイェール」は、イギリスやアメリカの古民謡の影響の下にあり、それらを参考にしたのかは不明であった[3]。しかしながら、現在では早稲田大学校歌研究会による調査によって、当時の時代背景などから判断して東儀鉄笛が「オールドイェール」を下敷きとしたことがほぼ確定的となり、研究成果として『校歌百年... 歌い継がれた 都の西北の謎』というDVDにまとめられている[4][5]

主な作曲作品
・歌劇「常闇」(台本:坪内逍遥

・早稲田大学校歌「都の西北」(作詞:相馬御風

早稲田中学校・高等学校第一校歌(作詞:坪内逍遥)

広島県庄原市立本小学校校歌(作詞:稲毛詛風

国士舘舘歌(作詞:柴田徳次郎[6]

秋田県立大館鳳鳴高等学校校歌(作詞:土井晩翠

千葉県立成東高等学校校歌(作詞:大和田建樹

千葉県立銚子商業高等学校校歌(作詞:相馬御風

脚注
1. 目で見る獨協百年史(獨協学園百年史編纂委員会)
2. 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』付録「近代有名人の死因一覧」(吉川弘文館、2010年)19頁
3. 「都の西北」のルーツ? Archived 2008年9月25日, at the Wayback Machine.
4. News & Topics 校歌の謎”. 早稲田大学 (2007年11月22日). 2013年2月17日閲覧。
5. 葛西順一 (2007年11月14日). “No.264 「都の西北」の研究”. 早稲田大学、朝日新聞社. 2013年2月17日閲覧。
6. 校章と舘歌/国士舘大学について/大学案内|国士舘大学” (日本語). 国士舘大学. 2019年10月15日閲覧。

外部リンク・東儀鉄笛(とうぎ・てってき)
(wikiより)


2983 東儀鉄笛

東儀鉄笛

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正面円形の肖像は歌劇"蝶々夫人"の作曲家ジャコモ・プッチーニである。


イタリアの大理石で造られ、イタリア大使館から寄贈されたもの。
(案内板より)


〇 ジャコモ・プッチーニ
ジャコモ・アントニオ・ドメニコ・ミケーレ・セコンド・マリア・プッチーニ: Giacomo Antonio Domenico Michele Secondo Maria Puccini1858年12月22日 - 1924年11月29日)は、イタリアの作曲家。その作品である『トスカ』、『蝶々夫人』、『ラ・ボエーム』などのオペラは今日でも上演の機会が多いことで知られる。イタリアルッカに生まれ、ベルギーブリュッセルで没した。

生涯
プッチーニ家は、18世紀から連綿と続くルッカの宗教音楽家の家系であるが、中には器楽作曲家もいた。この中で唯一オペラ作曲家を目指し、なおかつ今日、唯一世界的音楽家として名声を残したのがジャコモ・プッチーニである。


1858年
12月22日イタリアトスカーナ地方にあるルッカで生まれる。


わずか5歳のときに父親ミケーレが没したため、叔父フォルトゥナート・マージより、温情をもって教育を与えられる。最初は教会オルガニストの職を得るが、ジュゼッペ・ヴェルディオペラアイーダ』の上演に接して、オペラ作曲家を志した。1880年4声のミサ曲』(『グローリア・ミサ』の名で知られる)の完成をもって、初期の音楽修業と、家業である宗教音楽家の道に区切りをつける。この作品では、やがてミラノの舞台においてプッチーニが開花させることとなる劇的な表現力を、魅力的なまでにうかがわせている。実際、この作品の楽想は後に彼のオペラで転用されることとなる。


1880年から1883年までミラノ音楽院にてアミルカレ・ポンキエッリアントニオ・バッジーニに師事。1882年には、出版社ソンゾーニョ社主催による1幕物オペラの作曲コンクールに参加、入賞することはできなかったが、提出作品『妖精ヴィッリ Le villi』は後に1884年に舞台化され、出版社リコルディ社主ジュリオ・リコルディに注目されるきっかけとなった。こうしてリコルディ社の依嘱によって作曲されたのが、1889年に完成された2作目のオペラ『エドガール』である。1891年には、トスカナ地方のトッレ・デル・ラーゴに別荘を購入し、終生にわたって仕事場兼自宅とした。プッチーニの亡骸が眠っているのもこの地である。


第3作の『マノン・レスコー』は大成功となったばかりか、優れた台本作家ルイージ・イッリカジュゼッペ・ジャコーザの協力をももたらすきっかけとなった。この2人の協力のもとに、『ラ・ボエーム』と『トスカ』、『蝶々夫人』の3曲が書かれた。このうち『ラ・ボエーム』はプッチーニの最高傑作としてのみならず、それまでのプッチーニ作品の中では最もロマンティックなオペラの1つに数えられている。『トスカ』はその露骨な暴力描写、主役3人が舞台上で死ぬストーリー、そして扇情的な音楽などが話題となった。『蝶々夫人』は、初演時には敵意(そのほとんどはプッチーニのライヴァル達によって組織されたものであったが)をもって迎えられたが、後にかなり手直しされてからは、プッチーニの最も成功した作品のひとつになった。


それからは御難続きで作曲の筆が緩やかになる。1902年(または1903年)の2月下旬、珍しがりやの性格から、自動車を手に入れさっそく乗り回していたところ、交通事故を起こし、脚を骨折する。1906年にはジャコーザが他界。1909年には、プッチーニの妻エルヴィーラが、誤解から、プッチーニが女中と浮気していると責め立て、疑われた女中が服毒自殺、エルヴィーラが起訴されるというスキャンダル(ドーリア・マンフレーディ事件)に発展する。そして1912年には、恩人であったリコルディ社社主ジューリオが世を去る。


しかしながら1910年に会心の作品『西部の娘』を完成させ、1917年には『つばめ』を脱稿した。『つばめ』は、はじめオペレッタの作曲を試みながらも、自分の創作様式や能力が喜劇に不向きであると悟って、書き直された作品である。


<三部作>とよばれる1幕オペラの連作は、1918年に初演された。パリグラン・ギニョール劇場の様式による恐ろしいエピソードの『外套』、感傷的な悲劇『修道女アンジェリカ』、喜劇というよりは笑劇の『ジャンニ・スキッキ』の3曲からなる。『ジャンニ・スキッキ』は、名高いアリアのためにこのうち最も人気があるのに対して、『外套』は不人気である。『ジャンニ・スキッキ』は、たとえばマスカーニの『カヴァレリア・ルスティカーナ』やレオンカヴァッロの『道化師』、ツェムリンスキーの『フィレンツェの悲劇』やコルンゴルトの『ヴィオランタ』などの、他の作曲家の1幕オペラと1夜の連続公演が行われている。


プッチーニはヘビースモーカーとして知られていたが、1923年末に喉頭癌であることが判明。翌1924年、治療のために滞在中のブリュッセルで、手術後に合併症を起こして急死した。最後のオペラ『トゥーランドット』は未完成のまま遺され、そのフィナーレは、彼の遺稿も参考にして友人フランコ・アルファーノが補筆することとなった。

しかし、アルファーノ補作の大部分は世界初演時の指揮者トスカニーニが冗長と見なしてカットしたため、その短縮した版が今日一般には公演で用いられている(もっとも、1980年代からは「アルファーノ完全版」の使用も散見される)。その他、1991年にはアメリカの作曲家ジャネット・マクガイアによるプッチーニ遺稿のより厳密な資料批判を経た補筆版、2001年にはルチアーノ・ベリオの独自稿による補筆版なども作成されている。


遺体は一旦ミラノのプッチーニ家の墓に埋葬されたが、1926年になって息子アントニオの手によりトッレ・デル・ラーゴ英語版イタリア語版の仕事場兼自宅に再埋葬された。

作品の特徴
プッチーニは、学生時代に書かれたいくつかの器楽曲(管弦楽曲数点と室内楽の小品1点)と宗教曲を別にして、オペラの作曲に余念がなく、現在ひんぱんに演奏されているのもオペラが中心である。音楽史上の位置付けは、ヴェルディ亡き後、19世紀末から20世紀初頭のイタリア・オペラにおいて最高の作曲家というものである。出世作の『マノン・レスコー』を皮切りに『ラ・ボエーム』と『トスカ』を次々に成功させて、オペラ作曲家としての地位を確立した。続く『蝶々夫人』では初演の評判は散々だったものの、徐々に評価を高め、今日ではプッチーニおよびイタリア・オペラの代表作とされている。


プッチーニの音楽は、イタリア・オペラの伝統にのっとり、劇的な展開と緻密な描写的表現、そのために繰り出される転調や印象主義音楽的な和声技巧、オーケストレーションの豊かさが特徴的だが、とりわけ旋律の忘れがたい美しさは特筆に価する。プッチーニの旋律は、しばしば息が長いにもかかわらず、覚えやすく、しかも口ずさみやすい。しかも、とってつけたようなぎこちなさがまったくなく、自然で滑らかに流れていく(オペラ作曲家としての訓練が比較的遅いことからしても、このような生来の旋律家ぶりが最大限に発揮された事実は驚異的ですらある)。このため、クラシック音楽やオペラの初心者にとっても、プッチーニ作品は親しみやすく魅力的である。



評価
同時代の作曲界や批評家は、その直感的な分かりやすさゆえに、大衆迎合的なお涙頂戴をプッチーニ作品の性格に見出し、必ずしも積極的な評価を与えようとはしなかった。しかし、カラヤンショルティシノーポリのような老練なオペラ指揮者は、同時代のヴェリズモ・オペラからの影響力を考慮しつつも、プッチーニの優れた心理描写や高度に洗練された作曲技法に、徹底して光を当てることにより、プッチーニの奥深さや独創性をたくみに浮き彫りにしている。一方で、アバドは、ヴェリズモ・オペラとプッチーニを生涯で一切取り上げなかった指揮者として知られている。一定の広範なレパートリーを持つ大指揮者が同国人の大作曲家を拒絶する例は非常に珍しい(ただし、アバドは「音楽の友」2013年3月号インタビューでも触れているように、言葉の上ではプッチーニを賞賛し、いつか指揮してみたいと語っていた)。なお、イタリアの戦後世代を代表する大指揮者としてアバドと並び称される存在であるリッカルド・ムーティも、長いキャリアの中でプッチーニを数回しか取り上げていない。むしろ外国人であるカラヤンが、4作品に計7回の全曲録音を残し(これは彼としてはヴァーグナーとヴェルディに次ぎ、自国系のモーツァルトやリヒャルト・シュトラウスを上回る数字である)、2本のオペラ映画を製作するなど、強いこだわりを見せている。


ドビュッシー
がプッチーニ人気を快く思っていなかったのに対し、ラヴェルは、プッチーニがシェーンベルクに理解があるとの事実だけをもってしても、十分評価に値する芸術家であると見なし、自国の同僚たちのむやみなプッチーニ非難をこそ不快であると感じていた。


実際にプッチーニはシェーンベルクの『月に憑かれたピエロ』を熱心に研究し、実際の演奏にも触れ、これを傑作と呼んでいた。『トゥーランドット』には、しばしば群集やタイトルロールの異常心理を強調するのに、調性感の薄いパッセージが多用されており、それらにシェーンベルク研究の痕跡を認める研究者は少なくない。一方でシェーンベルクの側もプッチーニを20世紀の重要なオペラ作曲家の1人に数えており、そればかりかプッチーニのオペラに対する尊敬や愛着を認めていた。シェーンベルクによるバッハ作品やブラームス作品のオーケストラ用編曲には、音色感覚において、プッチーニの色彩的なオーケストレーションとの親近性が感じられる。

主な作品
作品についてはプッチーニの楽曲一覧をご覧ください。

・オペラ(初演年)
  ・『妖精ヴィッリ』1884年

  ・『エドガール』1889年

  ・『マノン・レスコー』1893年

  ・『ラ・ボエーム』1896年(アリア<冷たい手を><私の名はミミ>)

  ・『トスカ』1900年(アリア<歌に生き、恋に生き><星は光りぬ>)

  ・『蝶々夫人』1904年(アリア<ある晴れた日に>)

  ・『西部の娘』1910年

  ・『つばめ』1917年

  ・「三部作」1918年

    ・『外套

    ・『修道女アンジェリカ

    ・『ジャンニ・スキッキ』(アリア<私のお父さん>)

  ・『トゥーランドット』1926年(1924年作曲者の死により未完をアルファーノが補筆完成)(アリア<お聞きください、王子様><泣くなリュー><誰も寝てはならぬ>)


・管弦楽曲

  ・『交響的前奏曲 イ長調』

  ・『交響的奇想曲』

  ・『アダージェット』

・声楽曲

  ・『グローリア・ミサ』1880年

  ・『レクイエム』1905年

・器楽曲

  ・『菊の花』(弦楽四重奏)

  ・『スケルツォ イ短調』

  ・『弦楽四重奏曲 ニ長調』

  ・『フーガ』

  ・『失意の女』

  ・『ピアノ三重奏曲』(一部分のみ)

プッチーニを扱った作品
映画『プッチーニの愛人』(2008年、イタリアパオロ・ベンヴェヌーティ監督)

  「ドーリア・マンフレーディ事件」を題材にしている。

博物館
・プッチーニ博物館(ルッカ)生家

・プッチーニ博物館(トッレ・デル・ラーゴ英語版イタリア語版)晩年の家。中の一室に墓廟がある

詳しいことは、「ジャコモ・プッチーニウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%82%B3%E3%83%A2%E3%83%BB%E3%83%97%E3%83%83%E3%83%81%E3%83%BC%E3%83%8B
(wikiより)

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ジャコモ・プッチーニ

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小篠秀一 ( こしの - しゅういち )     
? ~ 明治 38年 12月 18日 ( ? - 1905 )

「君が代」を最初に指揮演奏した人。

明治 4年 ( 1871 ) 陸軍軍楽隊に所属、喇叭 ( ラッパ ) 教官を経て明治 8年 ( 1875 ) 11月 18日 ~明治 11年 ( 1878 ) 5月陸軍楽隊長。

明治 12年 ( 1879 ) 2月式部頭・頭坊城俊政の命令で宮内省式部寮雅楽課に移る。

明治 12年 ( 1879 ) 3月 19日芝葛鎮・東儀季芳・奥好義と共に、ピアノ伝習の上伸が認められ、ドイツ婦人の松野クララに就いてピアノを習いはじめる。

明治 13年 ( 1880 ) 10月 25日初期の「君が代」が不評で新「君が代」を試し演奏する。

若干の音律の修正をし、新曲作成 9日後の明治 13年 ( 1880 ) 11月 3日天長節御宴会において、小篠が指揮を執って宮内省雅楽部吹奏楽員による新国歌「君が代」の初演奏が行われ、新曲の評判は良く、現在にまで演奏されるに至った。正八位。

校閲 : 西洋音楽調和要法 ( 稿本 ) Hullah

著 : 瀧村小太郎訳 : 明治 15年 ( 1882 ) 5月発行。

正面「正八位小篠秀一之墓」。「厚徳院明秀日道信士」。

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武井 守成(たけい もりしげ、1890年明治23年)10月11日 - 1949年昭和24年)12月14日)は、日本作曲家指揮者男爵。宮内官僚。

経歴
父は元姫路藩士で、貴族院勅選議員枢密顧問官に親任され男爵を授けられた武井守正。武井守正が第2代知事として鳥取県に赴任していたときに、二男として鳥取市で生まれた。


1903年東京高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)、1909年に東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業。1913年東京外国語学校(現在の東京外国語大学)イタリア語科を卒業した。1917年宮内省に式部官として入省。1921年に楽部長を兼任。その後、式部職儀式課長を経て、1941年より式部次長。1945年7月には式部長官(翌年「式部頭」と改称)に就任し、1947年3月まで務めた。

栄典
1927年(昭和2年)12月28日 - 従四位[1]

1940年(昭和15年)5月1日 - 従三位[2]

外国勲章佩用允許
1924年(大正13年)5月19日 - フランス共和国ドラゴンドランナン勲章オフィシエ[3]

作曲家として
東京外国語学校在学中の1911年イタリアに留学し、そこでギターマンドリンに出会った。帰国後、1915年マンドリンオーケストラ『シンフォニア・マンドリニ・オルケストラ』(1923年『オルケストラ・シンフォニカ・タケヰ』(OST)に改称)を主宰し[4]、マンドリン合奏曲・ギター独奏曲の作曲家として活動。OSTに指揮者として大沼哲菅原明朗を招いている。また雑誌『マンドリンギター研究』を発刊し、1923年にはマンドリン合奏コンクールを、1924年には作曲コンクールを、1927年にはマンドリンオーケストラ作曲コンクールを開催し、マンドリン・ギター音楽の発展に尽力した。


1952年
には武井の業績を記念して、ギター作品を対象とする武井賞が創設されている。

家族 親族
・母 ふじ(住友喜三郎の長女)

・弟 守城ほか

・姉

 とし(神奈川県、箕田長三郎の妻)

 みつゑ(富山県小幡酉吉の妻)

・妹 富子(男爵北畠義郎の妻)

・妻 花子(公爵岩倉具栄叔母

・嗣子 守久

・長女 昭子

・二女 直子

 同夫 足立仁三(王子製紙社長、日本商工会議所会頭などを歴任した足立正の三男)

系譜
武井家
武井領八 ━━ 武井守正 ━━ 武井守成

作品


マンドリンオーケストラ曲
・黄昏 Op.6(1921年)

・朝の前奏曲 Op.10(1925年)(大沼哲菅原明朗との共作『三人の友の組曲』より)

・踊る小花 Op.14(1925年)

・晩春 Op.15(1925年)

・死せる若人に Op.18(1925年)

・幻想曲「朝鮮の印象」Op.20(1926年)

・小行進曲「ルイーズ」 Op.21(1926年)

・春のノスタルヂア Op.22(1927年)

・カルッリを偲びて Op.23(1927年)

・初秋の唄 Op.26(1927年)

・アルバムの二葉 Op.30(1929年)

・夏の組曲 Op.31(1928年)

・春祭の夜 Op.34(1930年)

・豊年 Op.35(1930年)

・流れ Op.36(1931年)

・夕時雨 Op.38(1931年)

・夕雲 Op.41(1931年)

・即興曲 Op.42(1932年)

・ゆれる一輪の花 Op.43(1932年)

・大漁 Op.45(1939年)

・春さりゆく Op.46(1940年)

・殉国忠霊の家の前に立ちて Op.47(1940年)

・雨とコスモス Op.49(1941年)

・祭礼の町角 Op.50(1941年)

・茜 Op.63(1942年)

・行進曲「空をゆく」Op.64(1942年)

・露小径 Op.68(1942年)

・藻 Op.69(1942年)

・木の実は躍る Op.70(1942年)

・檳榔子 Op.74(1943年)

・虫の踊り Op.80(1943年)

・暮秋 Op.81(1943年)

・微風 Op.108(1947年)

・組曲「くだものの舞曲」Op.111(1948年)

ギターアンサンブル曲
・朝靄に Op.76(1943年)

マンドリン独奏曲
・行く春 Op.29(1928年)

ギター独奏曲
・幼き時の思い出 Op.1(1919年)

・野遊び Op.2(1919年)

・ホ調のミヌエット Op.5(1921年) - マンドリンオーケストラに編曲

・タルレガに捧ぐる曲 Op.7(1921年)

・即興曲 Op.8(1924年)

・今日の喜び Op.9(1924年) - マンドリンオーケストラに編曲(1925年)

・軒訪るる秋雨 Op.11(1924年) - マンドリンオーケストラに編曲(1925年)

・小舞曲 Op.12(1924年) - ギターアンサンブルに編曲

・落ち葉の精 Op.27(1927年) - マンドリンオーケストラに編曲(1928年)

・花びら Op.28(1928年)

・遅日の丘 Op.51(1941年)

・流れに沿いて Op.52(1941年)

・あけがたの夢を想いて Op.53(1941年)

・いりあい Op.54(1941年) - マンドリンオーケストラに編曲(1941年)

・ロマンツァ Op.55(1941年)

・スケルツォ Op.56(1941年)

・カプリチェット第1番 Op.57(1941年)

・四つの前奏曲 Op.58(1941年)

・雪もよい Op.62(1942年)

・木蓮ありて Op.65(1942年)

・いづみ Op.66(1942年)

・雨の窓 Op.67(1942年)

・秋雲 Op.71(1942年)

・少女を画きたる Op.72(1942年)

・無言詩 Op.73(1943年)

・春灯の下 Op.75(1943年) - マンドリンオーケストラに編曲(1947年)

・木の車 Op.78(1943年)

・下三絃による断章 Op.79(1943年)

・大利根 Op.82(1944年)

・やどかり Op.83(1944年)

・念誦 Op.84(1944年)

・晴れたる朝 Op.85(1944年)

・夕焼 Op.86(1944年)

・翳 Op.87(1944年)

・柴垣 Op.88(1944年)

・秋の幻想曲 Op.89(1944年)

・「荒城の月」を主題とせる変奏曲 Op.90(1944年)

・蚤 Op.92(1945年)

・木犀 Op.93(1945年) - マンドリンオーケストラに編曲(1947年)

・冬の街路樹 Op.94(1945年)

・糸を繰る女 Op.95(1945年) - マンドリンオーケストラに編曲(1947年)

・炉端 Op.96(1946年)

・幼児 Op.97(1946年)

・浮雲 Op.98(1946年)

・万花鏡 Op.99(1946年)

・二つの前奏曲 Op.101(1946年)

・トリーノの思い出 Op.102(1946年)

・破れたガラス戸 Op.103(1946年)

・葡萄酒 Op.104(1946年)

・水に落ちた蝶々 Op.105(1947年)

・或る夜 Op.106(1947年)

・カプリチェット第2番 Op.107(1947年)

・黄色の花 Op.109(1947年)

・やさしいアルバム Op.110(1948年)

・星を見る Op.112(1948年)

・子供のためのアルバム Op.114(1949年)

詳しいことは「武井守成ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E4%BA%95%E5%AE%88%E6%88%90
(wikiより)

2470  武井守成

武井守成

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箕作 秋吉(みつくり しゅうきち、1895年10月21日 - 1971年5月10日)は、日本のクラシック音楽作曲家である。箕作元八の長男として東京都に生まれた。箕作阮甫の曾孫にあたる。東洋音楽大学教授。


ロマン派の作風から、日本の旋法を元にした「日本的和声」に基づく作風へと転換した。

略歴
1913年:誠之小学校を経て東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)卒業。


1921年第一高等学校を経て東京帝国大学工学部応用化学科を卒業。ドイツベルリンに留学し、ゲオルク・シューマンに和声法を師事。カイザー・ヴィルヘルム化学・物理学研究所(現在のマックス・プランク研究所)で物理化学を研究する[1]


1925年:帰国して海軍技術研究所に勤める。池譲に対位法を、池内友次郎にフーガを、ヨゼフ・ケーニヒに管弦楽法を、ヨーゼフ・ローゼンシュトックに指揮法を師事[1]


1929年:『国民音楽に就て』を発表し、「日本的和声」を提唱。


1930年新興作曲家連盟を創設。


1939年理学博士


1945年:新興作曲家連盟を日本現代音楽協会に改組。


1954年:国際音楽評議会日本委員会書記長に就任。

主な作品
・『二つの舞曲』作品1(1926年、母校の第一高等学校に献呈した管弦楽曲)

1. マズルカ

2. ワルツ


・組曲『亡き子に』作品2(1927年、管弦楽と独唱のための組曲。ピアノ伴奏版あり。さらに「讃歌」については、独唱をヴォカリーズに代え、ピアノ伴奏のほかにサキソフォンをオブリガートに加えた版も存在する)

1. 前奏曲(管弦楽のみ)

2. 讃歌(作曲者 詞)

3. 子守唄(作曲者 詞)

4. 悲歌(海の幻し)(沙良峰夫 詞)


・『ローマン組曲』作品3(1927年、ピアノ組曲/管弦楽版は後に破棄)

1. マズルカ

2. ノクターン

3. ロマンス

4. タランテルラ


・『古典組曲』作品4(1927年、ピアノ組曲)

1. プレリュード

2. ガヴォット

3. メヌエット

4. ロンド


・『二つの詩』作品5(1927/1948年、管弦楽曲/チェロとピアノのための組曲)

1. 蒼鉛の月

2. まひる


・『小曲集』作品6(1929年、作曲者の詞によるソプラノとピアノ(またはフルート、クラリネット、ピアノ、弦楽四重奏による七重奏)伴奏のための歌曲集)

1. 五月雨

2. 冬の夕

3. 唖娘


・『壮んな夏』 (1936年、管弦楽曲) ベルリンオリンピック大会芸術競技 (音楽) 出品作品[2]

・『歌曲集《閨秀叙情詩集》』作品7(1937年、ピアノ(またはフルート、クラリネット、ピアノ、弦楽四重奏による七重奏)伴奏)

1. 唄(山口宇多子 詞)

2. 火をいだく(品川陽子 詞)

3. 櫟林の接吻(品川陽子 詞)

4. 春宵(岡田淑子 詞)

5. 女(深尾須磨子 詞)


・『芭蕉紀行集』作品8(1930-1931/1937年、松尾芭蕉による詞、ピアノ伴奏歌曲集/管弦楽伴奏歌曲集/室内管弦楽のための音詩)

1. 野ざらしを心に風のしむ身かな

2. 馬にねて残夢月遠し茶のけむり

3. 海くれて鴨の声ほのかに白し

4. 冬の日や馬上に氷る影法師

5. あらたふと青葉若葉の日のひかり

6. 閑かさや岩にしみ入る蝉の声

7. 荒海や佐渡によことふ天の川

8. 五月雨の空吹きおとせ大井川

9. 菊の香や奈良には古き仏達

10. 旅に病て夢は枯野をかけ廻る


・『現代詩集 第一集 四季篇』作品9(1931年、ピアノ伴奏歌曲集)

1. おもひ出(今川英一 詞)

2. 牛(米澤順子 詞、閨秀抒情詩集第6曲)

3. 短章(黄瀛 詞)

4. 病熱(大木篤夫 詞)


・『現代詩集 第二集 動物篇』作品10(1932年、ピアノ伴奏歌曲集)

1. 月夜の猫(大木篤夫 詞)

2. 凍えたる魚(室生犀星 詞)

3. 鳩(民謡調)(高村光太郎 詞)

4. 鴉毛の婦人(萩原朔太郎 詞)


・『現代詩集 第三集』作品11(1933-1935年、ピアノ伴奏歌曲集)

1. 積雲の歌(尾崎喜八 詞)

2. 死(金井融 詞)

3. 熱帯海(前田鉄之助 詞)

4. 靴みがきの唄(長田恒雄 詞)


・『逝ける人に』作品12(ピアノ/管弦楽伴奏歌曲集)

1. 落葉(1936年、山村耕二 詞)

2. 僧院と尼僧(1929年、三木露風 詞)


・『啄木短歌集』作品13(1934-1936年、石川啄木による詞、ピアノ(またはフルート、クラリネット、ピアノ、弦楽四重奏による七重奏)伴奏歌曲集)

1. 雨に濡れし

2. わかれ来て

3. こころみに

4. 友がみな

5. 秋の夜の


・『古典小交響曲ニ長調』作品14(1934年)(チェレプニン・コレクション No.7)

・『ヴァイオリンとピアノのためのソナタ ヘ長調』作品15-1(1935年、芭蕉紀行集の第5曲「あらたふと青葉若葉の日のひかり」を主題とする)

1. アンダンテとアレグロ

2. ラルゲット

3. 民謡調ロンド


・『ヴァイオリンと管弦楽のためのソナタ』作品15-2(1948年、小協奏曲)

・『花に因んだ3つのピアノ曲』作品16(1935/1940年)

1. 夜の狂詩曲

2. さくら、さくら

3. 春のやよい


・『三つの悲歌』作品17(1943年、ピアノ/管弦楽伴奏歌曲集)

1. 身はたとひ(吉田松陰 詞、辞世

2. 勲の家(西条八十 詞、妻の悲歌)

3. 孝塚に(平野啓司 詞、父の悲歌)


・『三つの歌』作品18(1945-1946年、ピアノ伴奏合唱曲集)

・『働く人のために』作品19(1947年、第18回メーデーのために募集した詩に作曲したピアノ伴奏合唱曲集)

・『交響曲第1番 ヘ調』作品20(1939年、3楽章から成り、それぞれ第1楽章「序曲《大地を歩む》」、第2楽章「間奏曲《大洋の挽歌》」、第3楽章「終曲《凱旋行進曲》」と題されている)

・『ピアノと室内管弦楽のための小協奏曲』作品27-1(『芭蕉紀行集』の第7曲「荒海や佐渡によことふ天の川」を主題とする)

・『ピアノ協奏曲』作品27-2(上記作品の3管編成への改作、第2回尾高賞佳作)

・『子供の報告』

・『序曲《大地を歩む》』

・『管弦楽組曲《学校生活》』

・『円舞曲《青年》』

・『皇紀二千六百年の抒情』

・チェンバロのためのメヌエット ト長調

・『日本古謡を主題とする管弦楽のための3楽章』(作曲者は「交響曲第2番」と位置づけている)

・『六つの農作業歌』

1. 草刈唄

2. 麦搗唄

3. 田植唄

4. 田の草取唄

5. 盆踊唄

5. 籾摺唄


・『現代詩集 第四集』(ピアノ伴奏歌曲集)

1. 朝の憩い

2. 煙となって

3. 幻聴

4. 妹に


・『現代詩集 第五集』(ピアノ伴奏歌曲集)

1. 岩手病院

2. 我が家の台所

3. しらなみ

4. おもかげの雲

5. 子供の生活から


・管弦楽伴奏歌曲『三つの詩』

・『挽歌』(聶耳の霊に捧ぐ)

・『お月さま』(童謡)

・『叱られ坊主』(同上)

作曲校歌・

横須賀市立浦賀小学校

上越市立城北中学校

茅ヶ崎市立第一中学校

秩父市立影森中学校

日本大学藤沢高等学校

横浜高等学校

甲府市立甲府商業高等学校

新潟大学学生歌

旭硝子社歌

脚注
1. a b 細川周平片山杜秀 監修『日本の作曲家 近現代音楽人名事典』日外アソシエーツ、2008年、647-648頁。 ISBN 978-4-8169-2119-3
2. 日本近代音楽館レクチャーコンサートシリーズVIII「オリンピックと音楽」プログラムパンフレット (2019.12.14)

参考文献
・箕作秋吉『音楽の時』村松書店、1948年、152-158頁 (作品表)。

関連項目
筑波大学附属中学校・高等学校の人物一覧

箕作家

外部リンク
箕作秋吉 - ピティナ・ピアノ曲事典

箕作秋吉 - Musica Bella

箕作阮甫とその子孫
(wikiより)

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豪気節 ( 旧制高知高校第 1回生 ) 余田弦彦 ( よでん つるひこ )作詞

一つとせ
一人のあの娘 ( こ ) が恋しけりゃ 潮吹く鯨で気を晴らせ


そいつぁ豪気だね


二つとせ
故郷忘りよか若き身に 桂の浜に星が飛ぶ


そいつぁ豪気だね


三つとせ
南の御国は土佐の国 革命と自由の生まれし地


そいつぁ豪気だね


四つとせ
善し悪し騒ぐは野暮な奴 飲めや歌へやはね廻れ


そいつぁ豪気だね


五つとせ
意気は尊い血は燃える 黒い女にゃ慕はれる


そいつぁ豪気だね


六つとせ
無為にや過ごさぬ三年の 元気はみ国の宝なり


そいつぁ豪気だね


七つとせ
泣いちゃいけない気が弱い 二十世紀に吠ゆる身ぢや


そいつぁ豪気だね


八つとせ
優しい心もないぢやない 浦戸の浜に鳴く千鳥


そいつぁ豪気だね


九つとせ
此の浜よする大濤 ( なみ ) は カリフオルニヤの岸を打つ


そいつぁ豪気だね


十とせ
時は永劫 ( えいごふ ) ぢや常夏の 土佐の高校の胸の意気


そいつぁ豪気だね


高知高等学校第一回卒業生、余田 弦彦は、熱血の詩人で、高知に多くの逸話と寮歌を残したが、京大法学部在学中に、惜しくも病没した。


彼の歌の中で、一番愛唱され、日本中に有名になったのが、豪気節である。


「この浜」で、焚火のまわりに肩を組んで、豪気節を歌い、樽酒を汲む三春の行楽、中秋の観月は、高知高校生の血を湧かせ、生涯の思い出となる年中行事となった。


「カリフオルニアの岸」は、当時としては極めて壮大な、青年の気宇を表すものである。
(案内板より)

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多 忠愛 ( おおの - ただよし )     
文化 8年 5月 25日 ~ 明治 13年 1月 7日 ( 1811 - 1880 )

雅楽家。

京都出身。

代々雅楽をもって朝廷に仕える。

文政 4年 ( 1821 ) 4月正六位下左近衛将曺。

累進し従四位上肥後守となる。

明治 2年 ( 1869 ) 旧宮人の官位が廃止となり、明治 3年 ( 1870 ) 11月中伶人正九位。

明治 8年 ( 1875 ) 4月権中怜人。

同月隠居。67歳没。

正面「多家之墓」。「信正院実誉忠愛居士」。墓碑に略歴あり。

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上 真節 ( うえ - さねたけ )
文政 8年 ~ 明治 28年 1月 30日 ( 1825 - 1895 )


式部大怜人。


本姓、狛。父、雅楽の大家の上近興。


上近豊第 6代の孫。京都府出身。


天保 5年 ( 1834 ) 左近衛将監。万延元年越後守。従四位下。


維新時、雅楽など顧みられず多くは失職する中、固く世業を守り、雅楽局を再興する。


これにより、太政官に属し、楽統を絶やすことなく続けて来られた功績がある。


明治 3年 ( 1970 ) 太政官雅楽局に入る。


明治 5年 ( 1872 ) 式部大伶人。


京都雅楽局出張所に出仕。


明治 6年 ( 1873 ) 東京に出て雅楽局曲譜選定を行い、改訂後帰任。


明治 7年 ( 1874 ) 式部権中属。


明治 10年 ( 1877 ) 東京に赴任し、皇居の雅楽を掌る。


明治 11年 ( 1878 ) 1等大伶人。


71歳没。妻は、瀧弁子 ( 1830 - 1893 )。子に、旧右将曹従七位上真行がいる。

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勝 承夫(かつ よしお、1902年明治35年)1月29日 - 1981年昭和56年)8月3日)は、東京市四谷区(現・東京都新宿区)出身の詩人。元日本音楽著作権協会会長。元東洋大学理事長。

来歴
旧制中学時代から詩人として活躍。1920年(大正9年)に、正富汪洋の勧めで東洋大学に入学し、正富が主催する『新進詩人』に参加。宵島俊吉のペンネームで「白痴を誘って野に出て」などの作品を著し、中央文壇に登場する。


また在学中には、1921年(大正10年)に井上康文らと『新詩人』を、1923年(大正12年)に同大出身の赤松月船岡村二一岡本潤角田竹夫らと『紀元』を創刊した。勝のこうした活動により、当時勝と同世代の詩人を志していた者の中では、東洋大学を志望する者が多かったと言われ、東洋大学は「詩・歌人大学」と呼ばれていた[要出典]


1927年(昭和2年)に東洋大学を卒業した後は報知新聞社に入社し記者となるも、1943年(昭和18年)には退社し、文筆活動に専念するようになる。


戦後は音楽教育活動にも参画し、日本音楽著作権協会会長を歴任。また、全国の小・中学校、高等学校の校歌の作詞を数多く手がけ、勝承夫が作詞し、平井康三郎が作曲したものが多くみられる。


1960年(昭和35年)と1975年(昭和50年)に学校法人東洋大学理事長に就任。


1953年(昭和28年)に「駅伝を讃えて」を、読売新聞紙上に発表。この詩文は、箱根駅伝第60回大会を記念して詩碑として刻まれ、往路ゴール・復路スタートの地点である芦ノ湖の湖畔で見ることができる。

主な詩集
・『惑星』 1922年

・『風の微風』 1923年

・『白い馬』 1933年

・『航路』 1947年

・『勝承夫詩集』 1981年

主な作詞
故郷の人々 - フォスター作曲。

・歌の町

・海を渡る荒鷲

小ぎつね

・さんぽ

夜汽車

・そうだん

・密林進撃 1942年

・突撃喇叭鳴り渡る

・灯台守

・小鳥の旅 - 三善晃作曲。こどものための合唱曲集「光のとおりみち」所収。

・いつも心に - 長谷川良夫作曲。第19回NHK全国学校音楽コンクール中学校の部課題曲。

・若い日の歌 - 石桁真礼生作曲。第20回同高等学校の部課題曲。

・ともだちの歌 - 高田三郎作曲。第26回同中学校の部課題曲。

校歌
東洋大学附属牛久中学校・高等学校 校歌 - 平井康三郎作曲。

東洋大学附属姫路中学校・高等学校 校歌 - 平井康三郎作曲。

千葉大学 校歌 - 平井康三郎作曲。

東京水産大学 校歌 - 下総皖一作曲。

東京工芸大学 校歌 - 平井康三郎作曲。

鎌倉学園 応援歌 - 小村三千三作曲。

江東区立数矢小学校 校歌 - 信時潔作曲。

葛飾区立道上小学校 校歌 - 芥川也寸志作曲。

葛飾区立二上小学校 校歌 - 平井康三郎作曲。

文京区立茗台中学校 校歌 - 平井康三郎作曲。

宇都宮市立陽北中学校 校歌 - 石桁真礼生作曲。

・宇都宮市立星が丘中学校 校歌 - 下総皖一作曲。

越谷市立北中学校 校歌 - 宍戸睦郎作曲。

越谷市立中央中学校 校歌 - 宍戸睦郎作曲。

川島町立中山小学校 校歌 - 下総皖一作曲。

深谷市立藤沢小学校 校歌 - 下総皖一作曲。

川口市立根岸小学校 校歌 - 中田喜直作曲。

川越市立仙波小学校 校歌 - 平井康三郎作曲。

川越市立大塚小学校 校歌 - 小林秀雄作曲。

船橋市立船橋小学校 校歌 - 平井康三郎作曲。

船橋市立三咲小学校 校歌 - 小林三千三作曲。

松戸市立矢切小学校 校歌 - 平井康三郎作曲。

市川市立国府台小学校 校歌 - 平井康三郎作曲。

横浜市立菊名小学校 校歌 - 平井康三郎作曲。

横浜市立桜岡小学校 校歌 - 井上武士作曲。

横浜市立山下小学校 校歌 - 井上武士作曲。

横浜市立戸塚小学校 校歌 - 井上武士作曲。

横浜市立中山中学校校歌 - 小村三千三作曲。

・横浜市立西谷中学校校歌 - 井上武士作曲。

・横浜市立東高等学校校歌

平塚市立大野小学校 校歌 - 平井康三郎作曲。

平塚市立花水小学校 校歌 - 平井康三郎作曲。

長野市立三陽中学校 校歌 - 平井康三郎作曲。

長野市立櫻ヶ岡中学校 校歌 - 團伊玖磨作曲。

長野市立川中島中学校 校歌 - 團伊玖磨作曲。

上田市立豊殿小学校 校歌

・喜多方市立第三中学校 校歌 - 平井康三郎 作曲

・東京都立武蔵丘高等学校 校歌-安部孝明 作曲。

・紋別市立紋別小学校 校歌 - 下總皖一 作曲。

東京都立鷺宮高等学校 校歌‐平井康三郎作曲。

法政大学 学生歌(青春の烽火(のろし))‐平井康三郎作曲。

酒田南高等学校 校歌 - 中山晋平作曲。

・大津市立堅田中学校 校歌 - 下總皖一 作曲。

・足利市立坂西中学校 校歌 - 石桁 真礼生作曲。

・那珂川町立馬頭小学校 校歌 - 平井康三郎作曲。
(wikiより)

1812  勝承夫

勝 承夫

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北村 季晴(きたむら すえはる、1872年5月22日明治5年4月16日) - 1931年昭和6年)6月17日)は、明治大正日本作曲家作詞家演出家東京府銀座出身。

経歴
明治5年4月16日(西暦1872年5月22日)[1]、東京府銀座(東京市京橋区を経て現在の東京都中央区)に漢学者で14代将軍徳川家茂の侍講を務めた北村季林・鉞夫妻の一子として生まれた。江戸時代前期の国文学者北村季吟は7代前の先祖で、季晴は季吟から見て仍孫(じょうそん)に当たる[2]


父と親交のあったジェームス・カーティス・ヘボンが開校した明治学院に入学し、同級生となった島崎藤村と親交を結ぶが季晴に音楽の才能を見出したヘボンの薦めもあり学院を中退。東京音楽学校師範部へ進み、田中正平に師事する[1]。卒業後は父の季林が経営していた私塾の向南学校を手伝っていたが、同校は1895年(明治28年)に季林の急逝を受けて閉校した。東京音楽学校の後輩に誘われて青森県師範学校の音楽教諭となった後に長野県師範学校信州大学教育学部の前身)の教諭を務めていた依田弁之助の誘いを受けて同校へ赴任し、1900年(明治33年)に浅井洌が作詞した地理唱歌「信濃の国」に曲を付ける。季晴が付けた曲は2年前に依田が作曲したものに代わって好評を博し、1968年(昭和43年)の正式な県歌としての制定を経て現在に至るまで長野県全域で愛唱され続けている。


1901年
(明治34年)に長野県師範学校を退任し、三越呉服店音楽部主任となった。季晴の作詞・作曲・演出で1905年(明治38年)に歌舞伎座で弥生狂言の中幕として演じられた『露営の夢』は、日本人の手になるものとしては最初の本格的な歌劇とされている[2]1909年(明治42年)に独立して北村音楽協会を立ち上げるが[1]、同時期に母校の東京音楽学校から邦楽調査掛員に任命され邦楽の採譜を精力的に行った[2]1912年(明治45年)、歌舞伎座で自ら作詞・作曲・演出を手掛けた歌劇『ドンブラコ』を妻の初子と演じる。この『ドンブラコ』は、1914年大正3年)に発足した宝塚少女歌劇の第1回演目となった[2]1927年(昭和2年)、北村児童歌劇協会を設立。


1931年(昭和6年)6月17日没。享年60歳(満59歳没)。墓所は東京都台東区谷中瑞輪寺境内。

作品
特に注記がない場合は本人が作詞も行っている。

唱歌
・離れ小島

・梅散る里

・故郷の夢

・信濃の国(作詞:浅井洌)

・汽車の旅(作詞:吉丸一昌

・周東の地(作詞:瀬尾武次郎

・鈴虫の鈴(作詞:野口雨情

・ワシントン(作詞者不詳)

・魔風恋風の歌(作詞者不詳)

福井県立小浜水産高等学校校歌(作詞:沼波武夫

東京都立小石川中等教育学校(旧東京府立第五中学校)校歌(作詞:伊藤長七

歌劇
・須磨の曲

・露営の夢

・ドンブラコ

参考文献
・市川健夫、小林英一『県歌 信濃の国』(信毎選書2014年ISBN 978-4-7840-7230-9

出典
1. a b c 北村季晴コトバンク・デジタル版 日本人名大辞典+Plus)
2. a b c d 市川・小林(2014), pp25-28
(wikiより)


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大田黒 元雄(おおたぐろ もとお、1893年1月11日 - 1979年1月23日)は、日本の音楽評論家である。日本における音楽評論の草分けとして知られる。

人物・来歴
裕福な環境
1893年(明治26年)1月11日、東京府(現在の東京都)に生まれる。


大田黒の父は、日本の水力発電の先駆者で、芝浦製作所(現東芝)の経営を再建し、財をなした大田黒重五郎(-じゅうごろう)である。父・重五郎は、江戸時代には徳川幕府の御家人で、小牧(こまき)が本姓であった。元熊本藩の大田黒惟信(-これのぶ、砲術家)の次女・らく(1925年没)と結婚し、以後大田黒姓を名乗ることとなった[1]


元雄は長男で一人っ子、幼時について、父・重五郎は、

「元雄は。幼い時から一度だって、頭なんか叩かないで済んで来た。私は元雄をつかまえて、「馬鹿」だなどと言って子供をいぢめたことを知らない。これも妻が良い女であったから、私が頭を擲(なぐ)らずに済むやうな子供をつくりあげて呉(く)れたのかも知れない。現在でも一時(ひとこと)だって争ひの種子(たね)もない。もう一つ幸(さいはひ)なことは、元雄夫婦の間にも争ひがないことである」

と話している[1]

元雄は、父重五郎の築き上げた裕福な環境で生涯を過ごし、黎明期の写真史に『写真芸術』同人として、福原有信福原路草石田喜一郎らと自由で重要な活動を遺し、また生涯にわたって自由な立場から音楽のみならず様々なジャンルで執筆を続けた。


若い頃の渡欧で、実際に作曲家の演奏を聴いた体験も、希有なものであったし、楽譜や資料、欧州の演奏会の情報や芸術の動向に関する最新の情報を日本に持ち込むことができたのも、この財力によるところが大きい。ガブリエル・フォーレの演奏を彼は聴いている。島崎藤村が聴いたクロード・ドビュッシーの演奏を、大田黒元雄は聴いていない[要出典]


しかし、それのみならず、音楽に関する専門的な教育を十分に受けていない一青年が、大正時代に、既に活躍ができたというのは、元雄のセンスと才幹によるものであろう[要出典]。また、彼は自分が得た情報を惜しげもなく提供し、多くの音楽愛好家に親しまれた啓蒙家としての側面もあった。


大森山王(現在の大田区山王)と杉並区東荻町(現在の同区荻窪)の2か所の東京の邸宅のほかに、静岡県沼津市神奈川県小田原市に別邸があった。病弱な母の転地療養先で育てられた元雄は、旧制・神奈川県立第二中学校(現神奈川県立小田原高等学校)卒業後、旧制高等学校には進まず、東京音楽学校の教師ペッツォルトにピアノを師事した。1912年(明治45年)に渡英し、ロンドン大学で約2年間にわたって経済学を修める傍ら、音楽会や劇場に通い詰めて本場の芸術に親しんだ。1914年(大正3年)7月に一時帰国したが、第一次世界大戦の勃発で再び渡英できなくなったため日本にとどまる。

音楽と文学社のころ
1915年(大正4年)2月、『現代英国劇作家』を洛陽堂から上梓、同年5月、松本合資会社改メ合資会社山野楽器店(現在の山野楽器)店主の山野政太郎から「作曲家の評伝のようなもの」[2]を書かないかと勧められ、ロンドン時代に集めた資料や情報をもとに『バッハよりシェーンベルヒ』を刊行した。同書で、日本では知られていなかった多くの作曲家を紹介した。Mozart(モーツァルト)⇒「モツアルト」、Rossini(ロッシーニ)⇒「ロシニ」、Saint-Saëns(サン=サーンス)⇒「サン、サーン」、Fauré(フォーレ)⇒「フヲーレー」、Debussy(ドビュッシー)⇒「デビユッシイ」、Rachmaninoff(ラフマニノフ)⇒「ラハマニノフ」等、作曲家の発音表記は現在一般的ではない表記が目につくが、現在と同様の表記の方が多い。


作曲家を紹介した本は量と質でそれまでの書物の群を抜き、発行部数は少ないものの大田黒の名を一躍高からしめた。同書一冊の価格が1円50銭、同書の印税は40円であった[2]

「ドビュッシーを日本で初めて紹介した」とされることが多いが、同書刊行以前に、『星の王子様』の邦訳で知られる内藤濯が、1908年(明治41年)に「印象主義の学才」というエッセイを雑誌『音楽界』(1908年9月号、楽会社)に、永井荷風が「西洋音楽最近の傾向」を『早稲田文学』(1908年10月)で紹介している[3]。大田黒は「デビュッシィ」と表記していたが、永井荷風は1908年の時点で既に「ドビュツシー」と表記している。


ただし、演奏会でまとまった作品を演奏したのは大田黒らであるとは言えるであろうし[要出典]、数度にわたって評伝やドビュッシーの音楽論集を刊行しており、日本で最初にドビュッシーの評伝らしい評伝を書いた最初の人物であるとは言えるであろう[要出典]


「日本で最初の音楽評論家である」といわれているが、これも客観的にそう断じるのは容易ではない[要出典]吉田秀和の随筆集『響きと鏡』の中には、吉田が園遊会のような席で、大田黒のことを英語で「日本で最初の音楽批評家」と紹介している場面が出てくる[4]


1916年
(大正5年)から1919年(大正8年)まで、堀内敬三小林愛雄野村光一と共に進歩的な同人誌『音楽と文学』を刊行、「音楽と文学社」を設立し、同誌の中心人物として活躍した。月1回自邸で音楽の集いを開き、自らピアノを演奏し、スクリャービンやドビュッシーなど当時最先端だった近代音楽の紹介普及に尽力。この間、1918年(大正7年)に声楽家の広田ちづえと結婚している。同年来日したセルゲイ・プロコフィエフを厚く持てなした。


1921年(大正10年)11月から二度目の外遊に出発するまでに、少なくとも18冊の著書と2冊の訳書を上梓している。1923年(大正12年)3月に日本へ帰国。潤沢な資産を背景に、長谷川巳之吉第一書房を資金援助し、同社の『近代劇全集』が大赤字となった際には、当時の金で7万円という大金を出資したこともある。1940年(昭和15年)版の『日本紳士録』によると、当時大田黒が収めた所得税は1万4,086円であり、これは1996年(平成8年)の貨幣価値で約3,000万円に相当する[5]

昭和に入って
1924年(大正13年)から1925年(大正14年)まで、および1928年(昭和3年)から1929年(昭和4年)まで、欧米の各地を周遊している。評論活動の傍ら、父親の仕事の関係で、株式会社東京高級鋳物の取締役、株式会社東邦重工業(現在の東邦化学工業)の常任監査役、株式会社電業社(現在の電業社機械製作所)監査役、株式会社電業機製作所の監査役を兼務したが、教職などには一切就くことなく芸術的な自由人としての生活を貫いた。


第二次世界大戦
後は、NHKのラジオ番組『話の泉』(放送期間 1946年12月3日 - 1964年3月31日)のレギュラー出演者となり、ダンディな語り口で茶の間の人気を博した。生涯の著書数は、再出版を除いて76冊、訳書は32冊にのぼる。趣味は野球相撲推理小説など幅広く、著書の内容も音楽評論以外に『西洋の汽車』『野球春秋』『ネクタイ談義』『英米探偵小説案内』など多岐にわたり、食道楽としても知られ、吉田秀和から「大正リベラリズムが生んだひとつの典型。今でもあの人が私の唯一の先輩」と評された[4]


1964年(昭和39年)、紫綬褒章を受章、1967年(昭和42年)、勲三等瑞宝章を受勲した。1977年(昭和52年)、文化功労者に選ばれた際、「自分の道楽のためにやったことが表彰されるようになった」と語った[6]。1979年(昭和54年)1月23日、死去する。満86歳没。逝去にあたり、銀杯三号を受け、従四位に叙された。


1933年
(昭和8年)から生涯を過ごした、2,700坪に及ぶ東京都杉並区荻窪の自邸跡地は、その大部分が「大田黒公園」となった。1933年(昭和8年)に建てられた仕事場が「記念館」として保存されている[7]


墓所は豊島区駒込染井霊園

詳しいことは「太田黒元雄ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%94%B0%E9%BB%92%E5%85%83%E9%9B%84
(wikiより)

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島崎 赤太郎(しまざき あかたろう、1874年明治7年〉7月9日 - 1933年昭和8年〉4月13日[1])は、日本の作曲家。音楽教育者であり、オルガン奏者である。

略歴
東京の築地(入船)に生まれた。父親の熊二郎は大工棟梁であったが、1886年(明治19年)ごろ、一家をあげてクリスチャンとなった。この父親は1890年(明治23年)の内国勧業博覧会にオルガンを出品していた。赤太郎は東京音楽学校(現・東京藝術大学)入学後、専修部でルドルフ・ディットリヒ小山作之助らの元で学び、1893年(明治26年)に卒業。そのまま母校の助教となり、1901年(明治34年)には昭憲皇太后御前演奏を行っている。1902年(明治35年)3月出国。文部省給費留学生としてドイツのライプツィヒ王立音楽院(現・フェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディ音楽演劇大学ライプツィヒ)へ留学(夏までは病気の瀧廉太郎の帰国を支援した後、9月入学)。名指揮者のアルトゥール・ニキシュが校長の時代、パウル・ホーマイエル(Paul Homeyer, オルガン)、エミル・パウル(音楽理論)ほかの元で、約4年間オルガンと作曲を学ぶ[1]。留学中に東京音楽学校教授となり、1906年(明治39年)6月に帰国、共益商社の白井家の白井もとと結婚。同年秋より母校でオルガンと音楽理論を教え、オルガン普及に尽力。


文部省視学委員、同唱歌編纂委員も務め、文部省著作『尋常小学唱歌』の作曲委員会主任。『中学唱歌』などの選曲編集にも尽力した。1899年(明治32年)初版の島崎編『オルガン教則本』(共益商社)は1936年(昭和11年)に146版を達成している。作曲の重鎮として大正天皇の「御大礼奉祝合唱歌」などの公式曲を数多く担当していた。日本教育音楽協会編纂の音楽教科書にも伴奏譜の作曲で貢献をしている。1930年(昭和5年)、東京音楽学校を退職。葬儀は1933年(昭和8年)4月15日、芝愛宕町の日本キリスト教会で行われた。


山口県立下関南高等学校
西南学院大学立教大学などの校歌も作曲する。摂政(皇太子)であった昭和天皇の御製に島崎が曲をつけた「最上川」が、現在の山形県民歌となっている。また明治期の作曲家として初めて4声フーガを書いている。1927年(昭和2年)の日米交換人形に関する公式歌「人形を送る歌」は島崎赤太郎作曲である。島崎作曲の浄土真宗の「真宗宗歌」は現在でも歌われている。


著書に『オルガン教則本』(全2巻)、『詳解楽語辞典』、『詳解楽典』などのほか、ザーロモン・ヤーダスゾーン著作の音楽理論に関する訳書も数種ある。その翻訳に関しては、遺族にも連絡をとっていたことから、著作権に関する意識をもった(当時としては珍しい)音楽家であった。


島崎は明治中期から昭和初期にかけての日本において、音楽専門教育、特にオルガンと作曲法の教師として、重要な人物であった。瀧廉太郎や岡野貞一、永井幸次、中田章、福井直秋、信時潔井上武士らが島崎の教えを何らかの形で受けている。民間で出版された彼らの楽譜にもその影響は残っている。例えば、中田章作曲「早春賦」が掲載された「新作唱歌 第三集」序文(大正元年、吉丸一昌記述)には、島崎赤太郎が綿密に校閲したことが明記されている。既に知られているように吉丸一昌と島崎赤太郎の2人は文部省編「尋常小学唱歌」の編纂主任でもあった。同時期に編集された伴奏譜「尋常小学唱歌伴奏楽譜 歌詞評釈」(共益商社)でも福井直秋を支援する形で上記二名が校閲を担当していた。しかもこの伴奏譜を、島崎・福井と対立したと説明されることの多い田村虎蔵が明確に「推薦」した(実名で)という事実も重要である。

叙勲
1917年大正6年)にルーマニア王冠四等勲章、1928年(昭和3年)に勲三等瑞宝章。

伝記上の注意点
従来、島崎赤太郎について正確な伝記がなかったことから、反対派閥当事者による誤った伝聞ばかりが引用されることが多かった。以下にその内容を示す。


例えば、島崎らが1904年(明治37年)に東京音楽学校の外国人教師、ノエル・ペリを排除したという、風評に基づく俗説が従来の音楽史家の間に広まっていた(文化功労者となった田辺尚雄著『明治音楽物語』参照)。


しかし、この田辺の著作に記述された島崎に関する風評は検証可能な歴史事実ではない。出国、帰国の記録から、事件自体島崎のライプツィヒ留学中に起こった出来事であり、島崎には全く関係がなかった。時期が合わないうえ(乗船名簿、官報で確認《赤井 励による》、島崎は留学中、既に教授就任していたため、ペリは何ら邪魔でなかった《中村理平博士が確認》)。島崎の帰国年が間違って記載されている文献もある。ノエル・ペリが編纂した『オルガンの友』が島崎夫人の実家である共益商社から発行されていたことは確認でき、それがカトリック教会東京音楽学校から離れたノエル・ペリにとっての主要な収入源の一つであった。留学前に同僚であったノエル・ペリを帰国後の島崎が支援していた可能性がある。なぜなら島崎の直弟子、草川宣雄1934年(昭和9年)に書き残した記録(「学校音楽」共益商社;島崎赤太郎先生追悼号)によれば、島崎はノエル・ペリの教科書を授業で使っていたほどであった。金永鍵によれば、ペリの辞職はカトリック教会との軋轢であった(「国際文化」1941年8月号)。以上の具体的資料群が田辺尚雄による「伝聞」と整合しない。


島崎が未成年の明治20年代中期、ルドルフ・ディットリヒに対するストライキ事件についても、田村虎蔵を被害者として島崎を告発する書がある。が、『「信濃の国」物語』(北村季晴伝)によれば停学処分を受けたのは北村であり田村ではなかった。田村と前述の田辺尚雄が文部省編「尋常小学唱歌」ついて編纂当初から強く批判してきたことは、有識者には知られてきた。遠藤宏『明治音楽史考』ではストライキ計画を事前に学校側に密告したのは田村虎蔵だと記述。しかしこれも、『明治音楽史考』発行当時、すでに故人だった岡野貞一よりの「伝聞」だとある。遠藤宏は東京音楽学校に勤務したのが島崎の没後であるうえ、『明治音楽史考』の中で明治期に編纂された文部省編「尋常小学唱歌」を無視した人物である。現代の精密な歴史学の一般傾向として、動乱期だった明治から昭和期の書物は安易に引用せず、両論の相互を資料で確認する慎重な吟味が必要であろう。このように、近年その業績が整理されつつある島崎について、不確かな伝聞を使用せず、新たな史料発掘と史料批判による徹底した再考が必要である。その結果として、より普遍的な、新しい島崎像が確立することが望ましい(両論併記という立場から本文に追記)。

詳しいことは「島崎赤太郎ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E5%B4%8E%E8%B5%A4%E5%A4%AA%E9%83%8E
(wikiより)

1430  島崎赤太郎

島崎赤太郎

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本居 長世(もとおり ながよ、1885年明治18年)4月4日 - 1945年昭和20年)10月14日)は、日本男性童謡作曲家。晩年は長豫と称した。

生涯
1885年(明治18年)東京府下谷区御徒町に生まれる。国学者として著名な本居宣長の和歌山学党6代目に当たる。


生後1年で母と死別。養子であった父が家を出たため、やはり国学者であった祖父、本居豊穎に育てられる。祖父の期待に反して音楽家を志すようになり、1908年(明治41年)東京音楽学校本科を首席で卒業、日本の伝統音楽の調査員補助として母校に残る。なお、同期にやはり作曲家となる山田耕筰がいる。1909年(明治42年)器楽部のピアノ授業補助、翌1910年(明治43年)にはピアノ科助教授となり、ピアニストを志すが、指の怪我で断念。このときの教え子に中山晋平弘田龍太郎がいる。1918年大正7年)「如月社」を結成。この如月社で本居長世の作品を独唱したのが美しいテノールの音色を持つバリトン歌手、藤山一郎東京音楽学校声楽科出身で、慶應義塾普通部のころから本居長世のところに出入りしていた)である。また、本居長世は宮城道雄吉田晴風らの新日本音楽運動に参加、洋楽と邦楽の融合を模索した。


折から、鈴木三重吉による児童雑誌『赤い鳥』が創刊され、従来の唱歌に代わる「童謡」と呼ばれる新しい歌が人気を博していた。これに呼応し1920年(大正9年)中山晋平の紹介によって斎藤佐次郎による児童雑誌『金の船』より『葱坊主』を発表。同年、新日本音楽大演奏会で発表した『十五夜お月さん』は、長女みどりの歌によって一躍有名となり[1]、以後野口雨情等と組んで次々に童謡を発表する(みどりは童謡歌手の第1号となり、童謡歌手のレコード吹き込み第1号ともなった[2])。その後、次女貴美子(後に三女若葉も)等とともに日本各地で公演を行った。1923年(大正12年)関東大震災により甚大な被害が発生すると、日系米国人を中心に多くの援助物資が贈られた。その返礼として日本音楽の演奏旅行が企画され、本居長世も2人の娘とともに参加し、アメリカ合衆国各地で公演を行った[3]1945年(昭和20年)肺炎により死去。


東京都目黒区天台宗瀧泉寺(目黒不動尊)境内には、近隣に居住していた本居長世を記念して『十五夜お月さん』の歌碑が建てられている。

代表作
・『七つの子

・『青い眼の人形

・『赤い靴

・『十五夜お月さん

・『たんぽぽ』

・『めえめえ児山羊』

・『汽車ぽっぽ』(作詞も本居が手がけた)

・『國學院大學校歌』

など

著書
・『本居長世作品選集 歌曲・合唱曲・仏教曲・御製御歌』金田一春彦編 如月社 1982

伝記
金田一春彦『十五夜お月さん 本居長世 人と作品』三省堂、1983 

脚注
1. 長田暁二『童謡歌手からみた日本童謡史』大月書店、1994年11月1日、23頁。ISBN 4-272-61066-X
2. 
長田暁二『童謡歌手からみた日本童謡史』大月書店、1994年11月1日、22頁。ISBN 4-272-61066-X
3. 
長田暁二『童謡歌手からみた日本童謡史』大月書店、1994年11月1日、26頁。ISBN 4-272-61066-X

参考文献
小林弘忠『「金の船」ものがたり』(毎日新聞社、2002年) ISBN 4-620-10656-9

藍川由美『「演歌」のススメ』(文春新書、2002年) ISBN 4-16-660282-9

  ・伝統的な日本の音楽構造と、洋楽とを融合させる上で、本居長世の果たした功績について分析している。

外部リンク
本居長世の楽譜 - 国際楽譜ライブラリープロジェクトPDFとして無料で入手可能。

本居長世 童謡の黄金時代の開拓者

本居長世

〇 赤い靴
『赤い靴』( あかいくつ ) は、1922年 ( 大正 11年 )、野口雨情作詞・本居長世作曲で発表された童謡である。


歌詞
1.赤い靴(くつ) はいてた 女の子
異人(いじん)さんに つれられて 行っちゃった


2.横浜の 埠頭(はとば)から 汽船(ふね)に乗って
異人さんに つれられて 行っちゃった


3.今では 青い目に なっちゃって
異人さんの お国に いるんだろう


4.赤い靴 見るたび 考える
異人さんに 逢(あ)うたび 考える


4番の詩は原稿段階では「赤い靴 見るたび 思い出す」であったのを「考える」と直した跡がある。


また、発表はされなかったものの、1978年になって発見された草稿には、以下の5番もあった。


生まれた 日本が 恋しくば
青い海眺めて ゐるんだらう(いるんだろう)
異人さんに たのんで 帰って来(こ)


「定説」としての『赤い靴』
歌詞は、実話を題材にして書かれたという話が定説化していた。
静岡県清水市有渡郡不二見村(現在の静岡市清水区宮加三)出身の岩崎かよの娘・佐野きみ(1902年明治35年)7月15日 - 1911年(明治44年)9月15日)がその赤い靴を履いていた少女のモデルとされた。その「定説」は次のとおりである。


岩崎かよは未婚の母としてきみを育てていたが、北海道に渡り、鈴木志郎と結婚する。きみが満3歳の時、鈴木夫妻は、社会主義運動の一環として当時注目されていた北海道の平民農場へ入植する。しかし、開拓生活の厳しさもあり、かよは義父・佐野安吉の仲介により、娘・きみの養育をアメリカ人宣教師ヒュエット夫妻に託すことにした。


やがてヒュエット夫妻は本国に帰る事になるが、その時きみは結核に冒されており、アメリカに連れて行く事が出来ず、そのまま東京麻布鳥居坂教会孤児院「永坂孤女院」に預けられてしまう。きみは孤児院で母親に会うこともできず、9歳で亡くなったという。母親のかよは、きみはヒュエット夫妻と一緒にアメリカに渡ったものと思いこんでいて、きみが東京の孤児院で結核で亡くなったことは知らされないまま、一生を過ごした。


1903年(明治36年)に社会主義詩人として出発していた野口雨情は、その後、1907年(明治40年)、札幌市の新聞社に勤めていたときに、同僚の鈴木志郎やその妻のかよと親交を深め、「かよの娘のきみが宣教師に連れられて渡米した」という話をかよから聞かされた。乳飲み子の長女のぶ(きみには異父妹)を抱えて、鈴木夫妻は開拓生活に挫折していたのだ。じつはこの時点では、きみは鳥居坂教会の孤児院にいたのだが、かよはそのことを知らない。その後、1921年(大正10年)に、この話を題材にして『赤い靴』が野口雨情によって作詞され、1922年(大正11年)に本居長世作曲で童謡になった。


1973年昭和48年)、きみの異父妹・岡その(鈴木志郎とかよの三女)が、新聞に「私の姉は『赤い靴』の女の子」と投書。この記事に注目した北海道テレビ記者の菊地寛が調査を開始した。菊地は5年にわたる取材ののち、上記の事実を確認し、1978年(昭和53年)に『ドキュメント・赤い靴はいてた女の子』というドキュメンタリー番組を北海道テレビで制作・放送した。その後、菊地は、ノンフィクション小説『赤い靴はいてた女の子』(現代評論社刊)を1979年(昭和54年)に発表、この本の記述が「定説」として定着したとされる。

詳しいことは、「赤い靴ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E3%81%84%E9%9D%B4
(wikiより)

 佐野きみの墓は青山霊園にある。

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本居長世

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「どんな小さなものにもいいところがある。とくによわいものには目をくばり、差別してはならない。」


この歌に、作詞者は、チューリップの花にたとえて、平和の世に人は等しく尊重され、明るく希望と喜びにみちた心で生きてほしいという願いをこめています。
(石碑碑文より)

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一.
函館の

立待岬に啄木が

「東海の 小島の磯の白砂に

われ泣きぬれて

蟹とたはむる 蟹とたはむる」

薄命詩人の 情熱を

今に偲んで 杖を曳く


二.
鴎啼く

巴港を 見下ろせば

「函館の 青柳町こそ かなしけれ

友の恋歌

矢ぐるまの花 矢ぐるまの花」

別れテープに ドラが鳴る

今も啄木の 語り草


三.
潮騒の

津軽海峡ながめつつ

「潮かをる 北の浜辺の砂山の

かの浜薔薇 ( はまなす ) よ

今年も咲けるや 今年も咲けるや」

すぎにし思い出 はかなくも

消えし歌人の 面影よ
(石碑碑文より)


〇 さのさ ( さのさ )
明治の流行歌。

作詞・作曲者未詳。


一節の最後で「サノサ」と歌うのが曲名のいわれ。


明治日本人の悲願であった条約改正が調印されたころ、すなわち 1899年 ( 明治 32 ) から歌い出され、またたくまに日本全国を席巻 ( せっけん ) して、10年近くも流行歌の王座を占めた。


これ以前に愛唱されていた『法界節』とは異なり、純日本的な哀調を帯びた旋律が庶民の心をとらえたものと思われる。


替え歌は無数にあり、大半は市井の人情を折り込んでいるが、なかには国家への忠誠を歌うなど、流行した時代背景が如実にうかがえる。

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浜口 庫之助(はまぐち くらのすけ、1917年7月22日 - 1990年12月2日)は、日本のシンガーソングライター。愛称はハマクラ


兵庫県神戸市出身。東京府立第四中学校卒業。青山学院大学商学部卒業。パーカッショニストの浜口茂外也は息子。元女優の渚まゆみは妻。

経歴
1917年兵庫県神戸市に生まれる。浜口の父は建設会社を経営する実業家で、家庭環境は非常に裕福だった。家族の多くが音楽好きで兄弟はチェロギターウクレレなどを嗜んだ。浜口自身も自然に音楽に親しんで育ち、5歳の時には楽譜を読めるようになった[2]


小学2年の時に一家は東京へ引っ越した。東京府立第四中学校(現・東京都立戸山高等学校)に進学した浜口は旧制第一高等学校(現・東京大学教養学部前期課程)入学を目指し勉学に励んだが受験に失敗し、1935年早稲田大学高等予科(現・早稲田大学高等学院)に入学するが翌年に中退した。


1936年、新宿にあった帝都ダンスホールのバンドボーイとなり、ギタリストとして活動した。当時の浜口は昼と夜に2つのバンドを掛け持ちしながらアメリカへ渡ってジャズの修行をすることを夢見ていた。この夢は翌1937年になって実現しかけたが、日中戦争の開戦が近いという情報を入手した友人に渡航中止を勧められて断念した[3]


渡航を断念した浜口は神戸製鋼所に就職したが社会人として働くには学歴が必要だと悟り退社。1939年に青山学院高等商学部(現・青山学院大学経営学部)に入学した。当時の浜口はギター講師やスタジオ・ミュージシャンをして生活費を稼ぐ傍ら、大学内で立教大学慶應義塾大学など他大学の学生と一緒に「DooDooフライヤン」という名のバンドを組んで活動した[4]


1942年9月に青山学院高等商学部を繰り上げ卒業した浜口はジャワ島で農園を委託経営する会社に就職し、同島のマランへ赴任した。浜口は終戦まで同地に勤務し、商社の仕事の他に軍の依頼で現地の住民に歌を通して日本語教育を行う仕事も任された。


太平洋戦争終結後捕虜となり、1946年5月に引き揚げ[5]。東京でバンドを組み、進駐軍を相手に演奏を行った。

その後灰田勝彦の誘いを受けて灰田がメンバーを務めるハワイアンバンドのメンバーとなったり、自らも「スウィング・サーフライダーズ」や「アフロクバーノ」を結成して音楽活動を続ける[6]


1950年結婚、一男一女をもうける。長男はスタジオミュージシャンで、ラテンパーカッショニストとして日本屈指の存在である浜口茂外也


「浜口庫之助とアフロ・クバーノ」としては1953年から1955年まで3年連続でNHK紅白歌合戦に出場した。(第4回第5回第6回を参照)


1957年
、新宿コマ劇場で公演を行った海外の舞踊団が「郷土の芸術をお見せできるのは光栄なこと」と挨拶したのを見た浜口は、外国の音楽を演奏するのではなく日本の曲を創作することこそが重要だと認識するようになり、バンドを解散、歌手活動を停止し、作詞家作曲家へ転向。


1959年、「黄色いさくらんぼ」、「僕は泣いちっち」がヒットし、作詞家・作曲家として頭角を現すようになる。翌1960年に作詞した「有難や節」のヒット以降は社会情勢や大衆心理をとらえた作品作りを意識することで数々のヒット曲を生み出すようになった[7]。また「有難や節」を題材にした日活映画有難や節 あゝ有難や有難や』にも出演している。


1960年代には数々のヒット曲を出し、ヒットメーカーと呼ばれるようになる。


1963年
、妻、邦子と死別。この年公開された映画「拝啓天皇陛下様」(野村芳太郎監督)には、容貌が似ていることを買われて昭和天皇役で出演した。


1965年、「愛して愛して愛しちゃったのよ」を歌った和田弘とマヒナスターズビリーバンバン西郷輝彦にしきのあきらなど自らの弟子をスターに育て上げるなど人材育成にも才能を発揮。


1966年、「星のフラメンコ」「バラが咲いた」で日本レコード大賞第8回)・作曲賞を受賞。以降、1972年石原裕次郎の「恋の町札幌」に至るまでヒット曲を世に送り続けた。鮮明に訴えかけるような個性の強い詞・曲作りを得意とし、今もなお一節が多くの人の記憶に残るようなヒット作が多い。


1973年に女優の渚まゆみと再婚。一女を儲けた。


晩年の1987年には、島倉千代子に楽曲提供した「人生いろいろ」(作詞:中山大三郎)が大ヒットした。


大衆のために歌を作るという浜口の思いは強く、1990年には文化庁から叙勲(勲四等)の打診があった際には「勲章のため曲を作っているのではない」という思いから辞退した。

1990年12月2日喉頭癌のため、東京都豊島区癌研究会附属病院にて死去、73歳没[1]クリスチャンであったため、葬儀は東京都千代田区飯田橋富士見町教会で営まれた。

主な作品

歌謡曲・フォーク・ポップス

作詞・作曲
・僕は泣いちっち(歌:守屋浩)(1959年)

・銀座の子守唄(歌:和田浩治(1960年)、守屋浩(1971年))

・コロッケの唄(歌:五月みどり)(1962年, 2003年)

・夜空の笛(歌:守屋浩)(1962年)

涙くんさよなら(歌:坂本九ジャニーズ和田弘とマヒナスターズジョニー・ティロットソンの競作)(1965年)

愛して愛して愛しちゃったのよ(歌:田代美代子・和田弘とマヒナスターズ)(1965年)

星娘(歌:西郷輝彦)(1965年)

星のフラメンコ(歌:西郷輝彦)(1966年)

バラが咲いた(歌:マイク真木)(1966年)

・笑えピエロ(歌:植木等)(1966年)

夕陽が泣いている(歌:ザ・スパイダース)(1966年)

風が泣いている(歌:ザ・スパイダース)(1967年)

・夜霧よ今夜も有難う(歌:石原裕次郎(1967年)、吉田拓郎(1977年))

・粋な別れ(歌:石原裕次郎)(1967年)

・愛の渚(歌:水原弘)(1967年)

・スイッチョ小唄(歌水原弘) (1967年)

・エンピツが一本(歌:坂本九)(1967年)

・花と小父さん(歌:伊東きよ子(1967年)、植木等(1967年)、畠田理恵(1989年)、里見浩太朗熊田胡々(2012年))

・夜の虫(歌:浜口庫之助(1967年)、渚まゆみ(1974年)、みのもんた(2006年))

・港町 涙町 別れ町(歌:石原裕次郎)(1969年)

みんな夢の中(歌:高田恭子)(1969年)

・涙と幸せ(歌:江利チエミ(1969年)、浜口真弓+庫之助(1983年))

・へんな女(歌:水原弘)(1970年)

・花の手拍子(歌:英亜里)(1970年)

もう恋なのか(歌:にしきのあきら)(1970年)

・こんど生まれてくる時は 水原弘(1971年)

・ああこの恋は 水原弘(1971年)

空に太陽がある限り(歌:にしきのあきら)(1971年)

・熱い涙(歌:にしきのあきら)(1971年)

・恋の町札幌(歌:石原裕次郎(1972年)、石原裕次郎・川中美幸(1995年)、里見浩太朗・熊田胡々(2012年))

・我愛你(歌:方怡珍)(1973年)

・奪われたいの(歌:渚まゆみ)(1973年)

・祭りの夜は恋の夜 歌 水原弘(1973年)

・青空 歌 水原弘(1973年)

・わたし半人前(歌:渚まゆみ)(1974年)

・クロスオーバー・ラブ(歌:石原裕次郎)(1978年)

・大人になれば(歌:大場久美子)(1978年)

・恋の雪まつり(歌:三浦雄一郎)(1980年)

・夕暮れ、恋人(歌:和田アキ子)(1981年)

・キャベツ畑の子供たち(歌:間下このみと子供たち)(1984年)

・ロマン札幌(歌:渚まゆみ)(1985年)

・恋する蝶々(歌:五月みどり)(1988年)

・愛しただけよ(歌:柏原芳恵)(1988年)

・海の声 森の声(歌:堺正章)(1991年)

作詞
有難や節(歌:守屋浩)(1960年)

作曲
・黄色いさくらんぼ(歌:スリー・キャッツ(1959年)、ゴールデンハーフ(1970年))

・若い突風(歌:和田浩治)(1960年)

・恋の山手線(歌:小林旭)(1964年)

恍惚のブルース(歌:青江三奈)(1966年)

・ブルーブルース(歌:青江三奈)(1966年)

・眠られぬ夜のブルース(歌:青江三奈)(1967年)

・みんなあげましょう(歌:由美かおる)(1967年)

愛のさざなみ(歌:島倉千代子)(1968年)

・旭川ブルース(歌:中坪健)(1968年)

・銭ゲバ大行進(歌:唐十郎)(1970年) - 映画『銭ゲバ』主題歌

・泣くときゃひとり(歌:水原弘(1970年)

・しのび逢う恋(歌:ちあきなおみ)(1971年)

・心に火をつけて(歌:にしきのあきら)(1971年)

ちいさな恋(歌:天地真理)(1972年

・ねことめだか(歌:宮内良)(1979年) - テレビ番組『おかあさんといっしょ』で放送

・夢という名の女(歌:森進一)(1980年)

人生いろいろ(歌:島倉千代子)(1987年)

採譜・補作
・アキラの会津磐梯山(曲) (歌:小林旭)(1960年)

ケメ子の歌(詞・曲) (歌:ザ・ダーツ、ザ・ジャイアンツの競作)(1968年)

CM曲
・小さな瞳(ロッテチョコレート

・愛する瞳、大学フレッシュ(参天製薬)(歌:浜口庫之助)

・私のカローラ(トカローラ)〜ボサノヴァ調、歌詞の一部はフランス語

・いとしのカローラ(トヨタ・カローラ)

・ヤクルト・ジョア(「ヤクルト・ジョアのうた」「ジョアのうた」とも) (ヤクルト本社) (歌:小柳ルミ子。後年、剛力彩芽も歌う)

・二度と言うな (タケダ・フローミン) (歌:浜口庫之助・天地総子

・誰かさんといっしょに (ヤマギワ) (歌:浜口庫之助・渚まゆみ)

・サンカラー薔薇 (三洋電機カラーテレビ)(歌:浜口庫之助)

・プッチンプリン (江崎グリコ)(歌:浜口庫之助、林寛子

・水割りソング (サントリー) 〜「黄色いさくらんぼ」の替え歌(ただし英語)を自らの歌唱でカバー。これを1997年KONISHIKIがカバー。

・明治屋ガーバー・ベビーフード(明治屋)(歌:浜口庫之助)

・バンソーの唄(万創)(歌:浜口庫之助・東映児童合唱団)

・ビッグ・アイ(東京コンタクトレンズ)(歌:浜口庫之助)

詳しいことは、「浜口庫之助ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%9C%E5%8F%A3%E5%BA%AB%E4%B9%8B%E5%8A%A9
(wikiより)


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渡邉 暁雄(わたなべ あけお、1919年大正8年)6月5日 - 1990年平成2年)6月22日)は、日本の指揮者教育者

人物
巣鴨ルーテル教会の日本人牧師・渡邉忠雄を父とし、フィンランド人の声楽家・渡邉シーリを母として、東京府で生まれた。兄は共同通信社で重責を歴任したジャーナリストの渡邉忠恕。妻の信子は鳩山一郎の五女。長男の渡邉康雄(指揮者)、次男の渡邉規久雄(ピアニスト)とも芸術系の大学教授を務める音楽家。声楽家の母に幼少時から音楽の手ほどきを受けたほか、5歳でピアノを、10歳でヴァイオリンを始める。1940年東京音楽学校(現東京芸術大学)本科器楽科(ヴァイオリンを専攻)卒業後、研究科に進みヴァイオリン・ヴィオラ奏者として活動。1943年に東京放送管弦楽団にヴァイオリニストとして所属。召集後もヴァイオリニストとして病院などを慰問していた。戦後、指揮者に転向。


1945年に東京都フィルハーモニー管弦楽団(現・東京フィルハーモニー交響楽団)専属指揮者、1949年より東京芸大助教授に就任し後進の指導にあたる。また、1950年に米国ジュリアード音楽院指揮科に留学している。その門下からは、大町陽一郎保科洋三石精一遠藤雅古佐藤功太郎岩城宏之山本直純矢崎彦太郎小林研一郎藤岡幸夫等を輩出。


1956年
日本フィルハーモニー交響楽団の創設に尽力、初代常任指揮者に就任、終生日フィルと緊密な関係にあった。72年の日フィル紛争発生時には東京都交響楽団の任期中であったため陰ながら支援し、任期終了後に日フィルに正式復帰して支え続けた。この功績により日フィル創立指揮者の称号を贈られている。


指揮者としての活動は、バッハの『ミサ曲ロ短調』やシベリウスの作品を得意とし、世界で初めて、シベリウス全交響曲のステレオ録音とデジタル初録音をそれぞれ行い高い評価を得ている。シベリウス以外にも北欧の作曲家をしばしば取り上げ、ニールセングリーグ等の演奏、録音を行っている。日本のオーケストラのレパートリーというとドイツ・オーストリアの作曲家が主流であった時期に、このように北欧出身の作曲家を積極的に取り上げたのは、母がフィンランド人であることによる北欧への共感が大きかったと思われる。渡辺は1921年に母・シーリの里帰りについて兄・忠恕と共にフィンランドに渡り、その後シーリが病気のため腎臓を切除する大手術を行うなどした関係で、一家で1924年までフィンランドに在住していた。レパートリーは非常に広大で、特に日フィル時代は、ベートーヴェン、ブラームス、チャイコフスキーといった古典・ロマン派の人気曲から近現代音楽までレコーディング、死後に26枚組のCDセット「渡邉曉雄と日本フィル」にまとめられている。国内での活動が主であるが1982年には、来日したヘルシンキ・フィルハーモニー管弦楽団を指揮した。1984年日本シベリウス協会を創設、初代会長となり1990年まで在任。没後、従四位勲三等旭日中綬章を授与された。

その他の活動
・映画『日本フィルハーモニー物語 炎の第五楽章』(1981年、日活) - 本人 役


・1953年に、戦後増えた困窮混血児を支援救済するため、同じく混血である藤原義江平野威馬雄江川宇礼雄佐藤美子とともに「一九五三年会」(略称・五三会)を設立。


・没後、渡邉暁雄音楽基金が創設され、若手指揮者への音楽賞、および、オーケストラ界に貢献した関係者への特別賞が設定されている。

経歴
1945年 - 1949年 東京都フィルハーモニー管弦楽団専属指揮者

1949年 - 1962年 東京藝術大学助教授

1956年 - 1968年 日本フィルハーモニー交響楽団常任指揮者

1958年 フィンランド政府より第一級騎士獅子勲章受章

1960年 フランス政府より芸術文化勲章シュヴァリエ・デザール・エ・レトル章受章

・1962年 - 1972年 東京藝術大学教授(助教授は山田一雄)(退任後、名誉教授)

1966年 日本指揮者協会幹事長

・1968年 日本芸術院賞受賞

1970年 - 1972年 京都市交響楽団音楽監督・常任指揮者

・1972年 - 1978年 東京都交響楽団音楽監督・常任指揮者(退任後、名誉指揮者)

1977年 文部省大学設置審議会専門委員

・1978年 - 1990年 日本フィルハーモニー交響楽団常任指揮者に復帰(1986年からは音楽監督も兼務)

・1978年 日本芸術院会員

1982年 モービル音楽賞受賞

1984年

  ・日フィル紛争解決。日本フィルハーモニー交響楽団創立指揮者称号授与

  ・日本シベリウス協会設立

・1984年 - 1986年 広島交響楽団音楽監督・常任指揮者(退任後、名誉音楽監督)

外部リンク
日本フィルハーモニー交響楽団

京都市交響楽団

広島交響楽団

東京都交響楽団

日本シベリウス協会

日本指揮者協会  
(wikiより)

021a

021b



大和田 建樹(おおわだ たけき、安政4年4月29日1857年5月22日) - 明治43年(1910年10月1日)とは、日本の詩人作詞家国文学者・東京高等師範学校(現・筑波大学教授


鉄道唱歌』・『故郷の空』・『青葉の笛』などの作詞者として知られている。


経歴

・1857年(安政4年)4月29日 伊予国宇和島藩士・大和田水雲の子として生まれる。

1866年慶応3年) 藩校の明倫館に入学。

1869年(明治2年) 明倫館の上級校である培寮に入学。

1872年(明治5年) 学制制定に伴い、宇和島県学校青年塾の教師門司小助業に就く。

1876年(明治9年) 広島外国語学校に入学。

1879年(明治12年) 学校を退学し、上京。

1880年(明治13年) 交詢社の書記となる。

1881年(明治14年) 東京大学の書記として博物館づとめになる。

1884年(明治17年) 東京大学古典講習課講師となる。

1886年(明治19年) 東京高等師範学校教授となる。

1891年(明治24年) 教職を辞し、文筆家となる。

1892年(明治25年) 明治女学校に講師として出講。

1900年(明治33年) 『鉄道唱歌』全5部作発表。

1909年(明治42年)秋、脊椎炎にかかり下半身不随となる。

1910年(明治43年)3月、「海軍軍歌」の制作を海軍教育本部より嘱託され、9月に8曲分書き上げるも体調を崩し、10月1日に脊髄炎のため[1]死去。享年54。

主な作品
唱歌
・「舟あそび」(曲:奥好義

・「故郷の空」(曲:スコットランド民謡)

・「青葉の笛」(曲:田村虎蔵

・「暁起」(曲:田中銀之助)

・「あわれ少女」(曲:フォスター

・「四条畷」

・「夢の外」

・地理教育 鉄道唱歌 (作曲:上真行・多梅稚・田村虎蔵・納所弁次郎・吉田信太) 1900年

・地理教育 世界唱歌 (作曲:納所弁次郎多梅稚山田源一郎田村虎蔵) 1900年

・海事教育 航海唱歌 (作曲:田村虎蔵・多梅稚・小山作之助・納所弁次郎) 1900年

・日本文典唱歌 (作曲:小山作之助) 1901年

・国民教育 忠勇唱歌1 楠公父子 (作曲:本元子=小山作之助) 1901年

・国民教育 忠勇唱歌2 四十七士 (作曲:牛銀子) 1901年

・国民教育 忠勇唱歌3 豊太閤 (作曲:多梅稚) 1901年

・国民教育 忠勇唱歌4 菅公 (作曲:多梅稚) 1901年

・国民教育 忠勇唱歌5 牛若丸 (作曲:納所弁次郎) 1901年

・春夏秋冬 花鳥唱歌 (作曲:本元子) 1901年

・春夏秋冬 散歩唱歌 (作曲:多梅稚) 1901年

・東京府民 公徳唱歌 (作曲:小山作之助) 1902年

・満韓鉄道唱歌 (作曲:天谷秀) 1903年

・戦争唱歌 (作曲:田村虎蔵) 1903年

・戦争地理 満州唱歌 (作曲:田村虎蔵) 1904年

・日露開戦唱歌 1904年

・国民唱歌 日本海軍 (作曲:小山作之助) 1904年

・家庭教育 運動唱歌 (作曲:田村虎蔵) 1905年

・地理歴史教育 東京名所唱歌 (作曲:小山作之助) 1907年

・地理教育 物産唱歌 (作曲:田村虎蔵) 1907年

・地理教育 東洋一週唱歌 (作曲:田村虎蔵) 1908年

・修身唱歌 二宮金次郎 (作曲:永井孝次) 1908年

・詔書 勤倹の歌 (作曲:小松耕輔) 1908年

・堺市水道唱歌 (作曲:田村虎蔵) 1910年

・家庭運動唱歌 摘草 (作曲:田村虎蔵) 1910年

軍歌
「日本陸軍」(曲:"開成館"深澤登代吉)

「日本海軍」(曲:小山作之助)

・「黄海海戦」(「海軍軍歌」収録。曲:瀬戸口藤吉

・「威海衛襲撃」(同上)

・「閉塞隊」(同上)

・「日本海海戦」(同上)

・「日本海夜戦」(同上)

・「第六潜水艇の遭難」(同上)

・「国旗軍艦旗」(同上)

・「艦船勤務」(同上)

・旅順陥落 祝捷軍歌 (作曲:田村虎蔵) 1904年

・日露軍歌 (作曲:田村虎蔵) 1904年

・日露軍歌第弐集・旅順口大海戦 (作曲:田村虎蔵) 1904年

・征露軍歌 橘大佐 (作曲:納所弁次郎) 1904年

・我が赤十字 (作曲:上真行) 1904年 「戦捷軍歌」収録


上記のほか、「海軍軍歌」に収められている「楠公父子」も大和田の作詞(作曲:瀬戸口藤吉)という説があるが、それを裏付ける資料はない。

その他
・「謡曲通解」

・「雲井の曲」(曲:宮城道雄

・「埼玉県立浦和高等学校校歌」

・「跡見学園女子大学校歌」

・「大野市立 有終西小学校校歌」

・「雙葉学園 (四谷・田園調布・横浜・静岡・福岡) 校歌」

・「千葉県立成東高等学校(旧制成東中学)校歌」

※大和田は、雙葉高等女学校(現在の四谷雙葉)で教鞭をとり、源氏物語や和歌を教えていた。


また、札幌農学校(現北海道大学)校歌である「永遠の幸」(有島武郎作歌)の校閲も行っている。

エピソード

・大和田は速筆として知られ、国文学随筆紀行文詩歌において多くの作品を残した。その総数は、97種150冊といわれている。また、門人も500人を有していた。

・鐵道唱歌は企画者である市田元蔵に伴い実際に取材旅行を行い作られた作品であり、その様子は「車窓日記」として残されている。

記念碑その他
宇和島駅前には、大和田建樹の生誕地であることを記念し、『鉄道唱歌』の碑がたっている。

・明倫館の後身といえる明倫小学校には、大和田自筆の額がある。

脚注
1. 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』(吉川弘文館、2010年)72頁

参考文献
・谷村政次郎 『行進曲「軍艦」百年の航跡』 大村書店、2000年。ISBN 4-7563-3012-6

外部リンク
大和田建樹:作家別作品リスト青空文庫
(wikiより)


1674   大和田建樹

大和田建樹

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1674c



名曲「荒城の月」が鶴ヶ城と青葉城をモチーフに作詞されたことは土井晩翠を招いた、音楽祭であきらかになった。

時は昭和 21年のことである。


翌年、有志により詩碑建設会が設立され、同年 6月 5日土井晩翠夫妻を招いた盛大な除幕式が行われた。


この詩碑には、晩翠氏直筆による荒城の月 1番 ~ 4番までの歌詞が記されている。
(案内板より)


〇 荒城の月
荒城の月』 (こうじょう/くわうじやう・の・つき) は、土井晩翠作詞・瀧廉太郎作曲による歌曲。哀調をおびたメロディ歌詞が特徴。七五調の歌詞(今様形式)と西洋音楽のメロディが融合した楽曲。特に、日本で作曲された初めての西洋音楽の曲とされ、日本の歴史的に重要な曲である。

旋律
1901年明治34年)に中学校(旧制中学校唱歌懸賞の応募作品として、瀧廉太郎が作曲した。原曲は無伴奏の歌曲であった。日本における作曲では、これまでの四七抜き音階の日本の旋律ではなく、西洋音楽の旋律での作曲へ扉を開いた歴史的に重要な曲である。


1903年
(明治36年)に瀧が没し、その後の1917年大正6年)山田耕筰ロ短調から短三度上のニ短調へ移調、ピアノ・パートを補い、旋律にも改変を加えた。山田版は全8小節からテンポを半分にしたのに伴い16小節に変更し、一番の歌詞でいえば「花の宴」の「え」の音を、原曲より半音下げて(シャープをとって)いる[1]


1918年
大正7年)セノオ音楽出版社から独唱「荒城の月」として出版されたが、これはシャープがついている[2]。また1920年大正9年)1月25日発行の同社の版でもシャープがついている[3]。 一方、1924年大正13年)発行の同社の版ではシャープがない[2]


作曲家の森一也によれば、1927年昭和12年)の秋、東京音楽学校橋本国彦助教授が概略次のように語ったという[4]――欧州の音楽愛好家に「荒城の月」を紹介する際は、山田耕筰の編曲にすべきである。滝廉太郎の原曲は「花のえん」の「え」の個所に#がある。即ち短音階の第4音が半音上がっているが、これはジプシー音階の特徴で外国人は日本の旋律ではなくハンガリー民謡を連想する。それを避けるために山田は、三浦環に編曲を頼まれた時[5]、#を取った。外国で歌う機会の多い三浦にとっては その方が良いとの判断だったのだろう。


山田耕筰のピアノ伴奏を用いながら、オリジナルの旋律を歌った例として、米良美一の録音が挙げられる。

詳しいことは、「荒城の月ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%92%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%9C%88
(wikiより)

1396 滝廉太郎

瀧廉太郎

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〇 赤い靴
『赤い靴』( あかいくつ ) は、1922年 ( 大正 11年 )、野口雨情作詞・本居長世作曲で発表された童謡である。


歌詞
1.赤い靴(くつ) はいてた 女の子
異人(いじん)さんに つれられて 行っちゃった


2.横浜の 埠頭(はとば)から 汽船(ふね)に乗って
異人さんに つれられて 行っちゃった


3.今では 青い目に なっちゃって
異人さんの お国に いるんだろう


4.赤い靴 見るたび 考える
異人さんに 逢(あ)うたび 考える


4番の詩は原稿段階では「赤い靴 見るたび 思い出す」であったのを「考える」と直した跡がある。


また、発表はされなかったものの、1978年になって発見された草稿には、以下の5番もあった。


生まれた 日本が 恋しくば
青い海眺めて ゐるんだらう(いるんだろう)
異人さんに たのんで 帰って来(こ)


「定説」としての『赤い靴』
歌詞は、実話を題材にして書かれたという話が定説化していた。
静岡県清水市有渡郡不二見村(現在の静岡市清水区宮加三)出身の岩崎かよの娘・佐野きみ(1902年明治35年)7月15日 - 1911年(明治44年)9月15日)がその赤い靴を履いていた少女のモデルとされた。その「定説」は次のとおりである。


岩崎かよは未婚の母としてきみを育てていたが、北海道に渡り、鈴木志郎と結婚する。きみが満3歳の時、鈴木夫妻は、社会主義運動の一環として当時注目されていた北海道の平民農場へ入植する。しかし、開拓生活の厳しさもあり、かよは義父・佐野安吉の仲介により、娘・きみの養育をアメリカ人宣教師ヒュエット夫妻に託すことにした。


やがてヒュエット夫妻は本国に帰る事になるが、その時きみは結核に冒されており、アメリカに連れて行く事が出来ず、そのまま東京麻布鳥居坂教会孤児院「永坂孤女院」に預けられてしまう。きみは孤児院で母親に会うこともできず、9歳で亡くなったという。母親のかよは、きみはヒュエット夫妻と一緒にアメリカに渡ったものと思いこんでいて、きみが東京の孤児院で結核で亡くなったことは知らされないまま、一生を過ごした。


1903年(明治36年)に社会主義詩人として出発していた野口雨情は、その後、1907年(明治40年)、札幌市の新聞社に勤めていたときに、同僚の鈴木志郎やその妻のかよと親交を深め、「かよの娘のきみが宣教師に連れられて渡米した」という話をかよから聞かされた。乳飲み子の長女のぶ(きみには異父妹)を抱えて、鈴木夫妻は開拓生活に挫折していたのだ。じつはこの時点では、きみは鳥居坂教会の孤児院にいたのだが、かよはそのことを知らない。その後、1921年(大正10年)に、この話を題材にして『赤い靴』が野口雨情によって作詞され、1922年(大正11年)に本居長世作曲で童謡になった。


1973年昭和48年)、きみの異父妹・岡その(鈴木志郎とかよの三女)が、新聞に「私の姉は『赤い靴』の女の子」と投書。この記事に注目した北海道テレビ記者の菊地寛が調査を開始した。菊地は5年にわたる取材ののち、上記の事実を確認し、1978年(昭和53年)に『ドキュメント・赤い靴はいてた女の子』というドキュメンタリー番組を北海道テレビで制作・放送した。その後、菊地は、ノンフィクション小説『赤い靴はいてた女の子』(現代評論社刊)を1979年(昭和54年)に発表、この本の記述が「定説」として定着したとされる。

詳しいことは、「赤い靴ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E3%81%84%E9%9D%B4
(wikiより)

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江差追分の研究を続けた青木好月を顕彰して昭和五十七年に建立されたそうです。


〇 江差追分
江差追分えさしおいわけ)は北海道民謡渡島半島日本海沿岸に位置する桧山郡江差町が発祥の地である。


江戸時代
中期以降に発生したとされている。信濃追分節に起源があるとするのが定説のようである。北海道指定の無形民俗文化財。「姥神大神宮渡御祭と江差追分」として北海道遺産に選定されている。 文部科学省からの中学校学生指導要領解説音楽編の鑑賞教材としても指定されている。

江差追分の特徴

〽カモメのなく音に ふと目を覚まし あれが蝦夷地の山かいな

江差追分・本唄


江差追分は上記の歌詞を伸ばしたり縮めたりしながら、2分50秒間ほどかけて歌う[1]。「こぶし」や「ゴロ」と呼ばれる装飾的な節回しが特徴となる。

発祥の経緯
信濃国追分宿馬子唄が,北前船の船頭たちによって伝わったものと,越後松坂くずしが謙良節として唄われていたものが融合されたとされている。今の江差追分の原形として大成させたのは,寛永年間,南部国の出身で,謙良節の名手であった座頭の佐之市によるものであると云われている。  その後,歌い継がれる間に幾多の変遷を経て,浜小屋節や新地節など多くの流派が発生した。 1908年(明治41年)に,追分節の統一を図る動きが生まれ,追分節正調研究会が発足し,各派の師匠たちが論議を重ねた結果,正調追分節の基礎が固まった。 

江差追分全国大会
1963年(昭和38年)、江差追分の振興・継承を目的として、第一回江差追分全国大会が開催された[2]。その後大会は一年に一度、毎年9月に江差町で開かれ、全国の江差追分会支部の予選を勝ち抜いてきた出場者が、日本一を目指して熱唱している。

歴代の優勝者
・一般の部

第1回(昭和38年) 近江八声

第2回 小笠原次郎

第3回 房田勝芳

第4回 松村守治

第5回 市戸脩

第6回 青坂満

第7回 杉野忠勝

第8回 山本ナツ子

第9回 米川美代子

第10回 石田盛一

第11回 渡部章子

第12回 渋田義幸

第13回 高清水勲

第14回 越中谷順平

第15回 浅沼春義

第16回 長谷川富夫

第17回 萩原克彦

第18回 澤口一雄

第19回 国下喜代子

第20回 濱塚良幸

第21回 佐々木潔志

第22回 上林捷二

第23回 木村正二

第24回 鈴木タマリ

第25回 菊地勲

第26回 久保田隆洲

第27回 千葉栄人

第28回 三好ゆかり

第29回 木村香澄

第30回 松山清一

第31回 道高睦子

第32回 嵯峨幸男

第33回 王藤正蔵

脚注
1. 三隅治雄『日本の民謡と舞踊』大阪書籍、1990年。ISBN 4754810856p.70-71
2.

竹内勉『追分節 信濃から江差まで』三省堂、1980年。

関連項目
追分

北前船

佐々木基晴

メリスマ

江差追分事件

江差追分会館・江差山車会館

男はつらいよ 寅次郎かもめ歌 - 江差追分全国大会が、作中で描写されている。

外部リンク
江差追分会2017年9月1日閲覧

江差追分会館 2016年4月11日閲覧

江差町公式ホームページ「江差追分会館・江差山車会館」2017年9月1日閲覧
(wikiより)


1207a


1207b



歌曲 隅田川

作曲    梁田 貞
作詞    小松耕輔
テナー独唱 奥田良三


あれこそ まさしく
   
       我が子の声

夢かやうつつか
       
       聞ゆる声


この歌曲は「城ヶ島の雨」等名曲の数々を残された作曲家の大正初期の作品にて作詞は後日なされた由 


当梅若丸哀史を物語る歌である。


これを木母寺・第六十代住職の真泉光隆上人の博捜するところとなり

かつてのレコードが再びLPにて発売をみた故の小記念とする。
(碑文より)

1198a

1198b



添田知道 唖蝉坊の長男。東京出身。昭和五十五年(1980)三月十八日歿。享年七十七歳。


父唖蝉坊とともに演歌の作詞、作曲に従事したあと作家活動に入る。


筆名は知道のほか、さっき、吐蒙。


演歌作品に「東京節」「復興節」「ストトン節」など。


著書に新潮文芸賞受賞の長編小説「教育者」「利根川随歩」「演歌の明治大正史」などがある。
(案内板より)

2563a

2563b



添田唖蝉坊 本名・平吉  


筆名は唖蝉坊のほか不知山人、のむき山人、凡人など。神奈川県大磯に生まれる。


昭和十九年(1944)二月八日歿。享年七十三歳。


明治二十年代の壮士節の世界に入り、のち演歌の作詞、作曲、演奏に従事。


作品は「四季の歌」「ストライキ節」「ラッパ節」「ああ金の世」「金色夜叉の歌」「むらさき節」「奈良丸くづし」「マックロ節」「青島節」「ノンキ節」「生活戦線異状あり」など。著書に「浅草底流記」「唖蝉坊流生記」「流行歌明治大正正史」ほか。
(案内板より)

〇 添田唖蝉坊
添田 唖蝉坊(そえだ あぜんぼう、旧字体表記では「添田啞蟬坊」、1872年12月25日(明治5年11月25日) - 1944年(昭和19年)2月8日)は、明治・大正期に活躍した演歌師の草分け。「唖」と「蝉」が当用漢字(現在は常用漢字)でないことから、添田亜蝉坊と表記されることもある。本名・平吉、号は自らを「歌を歌うしの」と称したところから由来。



経歴
神奈川県大磯の農家の出で、四男一女の三番目の子として生まれる。


叔父が汽船の機関士をしていた関係で、海軍兵学校を志願して上京したが、受験勉強中に浅草の小屋掛芝居をのぞいたのがきっかけで、その世界にのめり込む。海軍兵学校には入学せず、汽船の船客ボーイになり、2年で挫折。以後、横須賀で土方人夫、石炭の積み込みなどの仕事に従事していたが、1890年(明治23年)、壮士節と出会う。当時は政府が廃藩置県地租改正学制徴兵令殖産興業などの政策を実行している最中で、自由民権運動も盛んな時代であり、「オッペケペ」で有名な川上音二郎らの壮士芝居も、この時代のものである。


唖蝉坊は、最初の演歌といわれる「ダイナマイト節」を出した青年倶楽部からその歌本を取り寄せて売り歩いたが、のち政治的な興奮が冷めていくと、政治批判ではない純粋な演歌を目指して、自身が演歌の歌詞を書くようになる。唖蝉坊が最初に書いたといわれているものは、「壇ノ浦」(愉快節)、「白虎隊」(欣舞節)、「西洋熱」(愉快節)などで、1892年(明治25年)の作である。これ以降、「まっくろけ節」、「ノンキ節」、「ゲンコツ節」、「チャクライ節」、「新法界節」、「新トンヤレ節」と続く。1930年(昭和5年)に「生活戦線異状あり」で引退するまでに182曲を残したという[1][要出典]

1901年(明治34年)に結婚し、本所番場町に居を構えた。翌年長男の添田知道(添田さつき)が生まれる。この頃、友人と始めた「二六新報」がうまくいかず、茅ヶ崎に引っ込むが、「渋井のばあさん」と呼ばれていた知り合いの流し演歌師に頼まれてつくった「ラッパ節」が、1905年(明治38年)末から翌年にかけて大流行する。幸徳秋水堺利彦らとも交流を持つ。こうしたことがきっかけで、堺利彦に依頼を受け、「ラッパ節」の改作である「社会党喇叭節」を作詞。1906年(明治39年)には、日本社会党の結成とともにその評議員になるなどし、その演歌は、社会主義伝道のための手段になる。


1910年
(明治43年)、妻のタケが27歳で死去した。唖蝉坊は悲嘆して、知道の妹は他家に養子にやられることになった。やがて唖蝉坊は当時の有名な貧民窟であった下谷山伏町に居を定めた。なおここは、一軒が四畳半一間、それが十二軒ずつ四棟、計四十八軒ならんでいたので、「いろは長屋」と呼ばれていた。


唖蝉坊はその後、全国行脚をしながら屑屋の二階に居候しそこで死去した。浅草浅草寺の弁天堂鐘楼下に添田唖蝉坊の碑が、添田知道筆塚と共にある。

その他
・妻タケが死去してから唖蝉坊が住んでいた下谷地区にあった貧民学校、下谷万年小学校の校長は坂本龍之輔で、のち添田知道はその小学校に入学し、彼に教えを受けた。知道の著『小説 教育者』は当時の教育体験を背景にしたもので、主人公は坂本であり、小説といいつつも、かなり史実に添ったものである。添田父子は、坂本と深い親交を持っていたといわれるが、知道が途中で挫折したため、この小説は添田父子が登場するところまでは書かれていない。


竹中労の文とかわぐちかいじの挿絵による『黒旗水滸伝 大正地獄編』(皓星社 2000年)の中では、唖蝉坊は香具師―テキヤの世界の飯島源次郎、その実子分(跡目候補)山田春雄、あるいは倉持忠助の大立物と親交をもち、客分として尊敬を受ける演歌師として登場している。近代露天商組合のリーダーで、国会議員にもなった倉持は、自身演歌師の出身でもあり、唖蝉坊を師と仰いでいたという。またタレント議員第一号・石田一松が歌い大ヒットした『のんき節』は、唖蝉坊の作品に手を加えて作ったものである。他に演歌の収集、保存でも功績のあった小沢昭一は、その駆け出しの頃、添田父子と親交があったという。


1960年代以降、高石ともや高田渡日本のフォークシンガーが唖蝉坊の歌を歌っている。とくに高田渡は、アメリカのフォークソングの曲に唖蝉坊の歌詞を載せるという実験的なことを成し得た。高田渡の弟子であるなぎら健壱は、唖蝉坊の孫弟子にあたる桜井敏雄に入門した。


1990年代に入り、ロック・バンド「ソウル・フラワー・ユニオン」のチンドン・スタイルの別動隊「ソウル・フラワー・モノノケ・サミット」が、唖蝉坊の『ラッパ節』『むらさき節』『ああわからない』などをレパートリーにし、『アジール・チンドン』、『レヴェラーズ・チンドン』、『デラシネ・チンドン』にそれぞれ収録している。なお、「ソウル・フラワー・モノノケ・サミット」は、唖蝉坊の息子添田さつきの『東京節』『復興節』『ストトン節』も上記のアルバムでとりあげている。


・音楽家の土取利行が、唖蝉坊をはじめとする明治大正の演歌師の残した歌を研究し、ライブ公演やYouTubeで披露している。演歌を原曲に忠実にレコーディングしたアルバムが、これまでに3枚ある。土取利行の伴侶の桃山晴衣添田さつきの最後の弟子である。

詳しいことは、「添田唖蝉坊ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%BB%E7%94%B0%E5%94%96%E8%9D%89%E5%9D%8A
(wikiより)

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添田唖蝉坊

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いずみ たく1930年1月20日 - 1992年5月11日)は、日本作曲家。元参議院議員第二院クラブ)。本名は今泉 隆雄(いまいずみ たかお)。

概要
東京市下谷区谷中生まれ。仙台陸軍幼年学校に在学中、敗戦を迎える。東京府立第五中学校を経て、1946年昭和21年)、一期生として鎌倉アカデミア演劇科に入学する(同窓生として前田武彦高松英郎らがいた)。

1950年
昭和25年)に舞台芸術学院演劇学科を卒業後、ダンプの運転手などをしながら芥川也寸志に師事し、作曲活動を始める。後に三木鶏郎が率いる冗談工房に参加し、トリローグループの一員ともなった。1955年昭和30年)には、朝日放送ホームソングコンクール[1]・グランプリを受賞。


歌謡曲(演歌調からシャンソン風、ブルース、ポップスまで曲調はさまざま)から、フォークソング、CMソング、アニメソング、ミュージカル、童謡、校歌、交響曲(笙や能管などと管弦楽の組み合わせという作品も含めて数曲が残されている)と幅広いジャンルの曲を作曲。多作で知られ、総作数は15,000曲にのぼるという。


1969年
昭和44年)には佐良直美の『いいじゃないの幸せならば』が第11回日本レコード大賞を受賞した。「にほんのうた」シリーズで、1966年第8回日本レコード大賞 企画賞、1969年第11回日本レコード大賞 特別賞を受賞。


また、「歌はドラマである」という自らのモットーに基づいて、「見上げてごらん夜の星を」「洪水の前」「おれたちは天使じゃない」「歌麿」「船長」「死神」など多数のミュージカルを手がけた。ミュージカルの制作と共に、ミュージカル俳優の育成にも情熱を注ぎ、日本のミュージカル界で活躍する多くの俳優を育てた。その俳優養成がもととなり、ミュージカルを専門に上演する劇団フォーリーズ(現・ミュージカルカンパニー イッツフォーリーズ)を旗揚げ。客席数100席の劇場・アトリエフォンテーヌを作り、そこを拠点に数々の実験的な公演を行った。


1986年昭和61年)、第二院クラブから参議院比例区に出馬するも落選。1989年平成元年)、青島幸男辞職による繰り上げ当選となった。出馬の理由は、一部に日本共産党支持者として有名であったが、同党がタレント議員に否定的だったためとされているが、同党への支持は変わりなく、友人である青島幸男に強く請われたためだとする説も有力である。議員としての活動では、「日本は世界第2位の経済大国であるのに、国の文化・芸術関連への予算配分が少なすぎる」として、文教関係予算の増額のために尽力したが、1992年平成4年)5月11日肝不全のため任期半ばで死去。62歳没。


病床で口述筆記させた「すすめ!アンパンマン号」(ミュージカル『アンパンマンと勇気の花』挿入歌)が遺作となる。いずみが亡くなったのは編曲が終了した直後だった[2]


孫はシンガーソングライターラブリーサマーちゃん[3]

作曲・編曲した作品
青い三角定規

 ・太陽がくれた季節日本テレビ、『飛び出せ!青春』主題歌)

いしだあゆみ

 ・サチオ君

いずみたくシンガーズ

 ・帰らざる日のために(日本テレビ、『われら青春!』主題歌)

 ・ラララ青春(フジテレビ、『青春家族』主題歌)

大竹宏

 ・ニャロメのうた(NET、『もーれつア太郎』挿入歌)

尾崎紀世彦

 ・今・今・今(1971年、※元々は1970年の劇団四季ミュージカル『さよならTYO』[4]挿入歌)

桂京子

 ・もーれつア太郎(NET、『もーれつア太郎』主題歌)

上高田少年合唱団

 ・宇宙少年ソラン(TBS、『宇宙少年ソラン』主題歌)

岸洋子

 ・夜明けのうた

 ・希望

熊倉一雄吉幾三憂歌団泉谷しげるザ50回転ズ氷川きよし

 ・ゲゲゲの鬼太郎フジテレビ、『ゲゲゲの鬼太郎』主題歌)

西郷輝彦

 ・ねがい(TBS、『江戸を斬る』主題歌)

坂本九

 ・見上げてごらん夜の星を

 ・幸せなら手をたたこう(編曲のみ・有田怜名義)

 ・夜明けの唄

 ・ともだち

 ・みんなでつくろう

佐良直美

 ・世界は二人のために

 ・いいじゃないの幸せならば

 ・肝っ玉かあさん(TBS、『肝っ玉かあさん』主題歌)

沢たまき

 ・ベッドで煙草を吸わないで

ザ・ドリフターズ/デューク・エイセス

 ・いい湯だな

ジャニーズ

 ・オーイわーいチチチ(日本テレビ、『オーイわーいチチチ』主題歌)

 ・太陽のあいつ(TBS、『太陽のあいつ』主題歌)

スリー・グレイセスボーカル・ショップ

 ・さすらいの太陽(フジテレビ、『さすらいの太陽』主題歌)

デューク・エイセス

 ・女ひとり

 ・つくばがえる(筑波山麓合唱団〜かえるの合唱)

 ・鳳は今日も羽ばたく(専修大学創立百年記念歌)(作詞・岩谷時子)

中村雅俊

 ・ふれあい(日本テレビ、『われら青春!』挿入歌)
倍賞千恵子

 ・ギララのロック(「松竹映画『宇宙大怪獣ギララ』主題歌)

 ・月と星のバラード(松竹映画『宇宙大怪獣ギララ』挿入歌)

橋幸夫

 ・僕等はみんな恋人さ

尾藤イサオ

 ・ワルのテーマ(東映映画『非情学園ワル』主題歌)

弘田三枝子

 ・バラの革命

ピンキーとキラーズ

 ・恋の季節

 ・涙の季節

 ・星空のロマンス

 ・七色のしあわせ

 ・青空にとび出そう(TBS、『青空に飛び出せ!』主題歌)

フォーリーブス

 ・若者は旅をつづける

 ・人生は一度きりだから

 ・見上げてごらん夜の星を

 ・めぐり逢い

ブラザース・フォア

 ・『チリンの鈴』主題歌

布施明

 ・若い明日(日本テレビ、『青春とはなんだ』主題歌)

 ・貴様と俺(日本テレビ、『青春とはなんだ』挿入歌。以降、日テレ青春シリーズで使われ続けた)

 ・これが青春だ(日本テレビ、『これが青春だ』主題歌)

 ・でっかい青春(日本テレビ、『でっかい青春』主題歌)

堀江美都子

 ・心のうた(フジテレビ、『さすらいの太陽』主題歌)

  初期では藤山ジュンコが歌っている。

 ・ハローララベル(テレビ朝日、『魔法少女ララベル』主題歌)

 ・魔法少女ララベル(テレビ朝日、『魔法少女ララベル』主題歌)

 ・みすず児童合唱団、東京混声合唱団

 ・星の炎に(『宇宙エース』主題歌)

三橋美智也

 ・春の音/琴という女

由紀さおり

 ・夜明けのスキャット

・このほか、『それいけ!アンパンマン』ではエンディング(スポット放映)を複数作曲。劇中音楽(BGM)も担当。


童謡

 ・手のひらを太陽に(作詞:やなせたかし

 ・ケロヨン関連

  ・ケロヨンのうた

  ・ケロヨン音頭

  ・その他全楽曲、および劇中音楽(BGM)も担当。


ミュージカル

 ・ミュージカルカンパニー イッツフォーリーズ作品

 ・劇団四季作品

  ・はだかの王様 (劇団四季)

  ・ふたりのロッテ

  ・雪ん子

  ・桃次郎の冒険


CMソング

 ・愛のスカイライン日産自動車

 ・キャンロップの歌(佐久間製菓)

 ・不二家パラソルチョコレート(不二家

 ・明治マーブルチョコレート明治製菓(現・明治))

 ・チョコレートは明治(明治製菓(現・明治))

 ・伊東温泉ハトヤホテルCMソング(ハトヤ

 ・グラスをのぞくフラミンゴ(日本酒「千福」・広島県呉市三宅本店

 ・バーモントカレーの歌(ハウス食品

 ・SOGO(エスオージーオー)そごうへ行こう(そごう。倒産後は使用されなくなった。)

 ・いよてつそごうテーマソング(そごう倒産後、伊予鉄百貨店→いよてつ高島屋となったため使用されなくなった。)

 ・うすいの歌(うすい百貨店、福島県郡山市にある百貨店)


北海道エリア

 ・狸小路のうた(狸小路商店街、歌:朝丘雪路 コーラス:ボニージャックス


・仙台エリア

 ・東北電力の歌(歌:ボニージャックス)

 ・仙都タクシー(仙台市タクシー会社、歌:デューク・エイセス

 ・エンドーチェーンの歌(宮城県中心に展開していたスーパーチェーン。歌はピンキーとキラーズ

 ・虹をかける藤崎(藤崎(東北一の規模と売り上げをもつ仙台唯一の地場百貨店)。歌はいずみ朱子ハニー・ナイツ

・近畿エリア

 ・阪神百貨店の歌(歌:由紀さおり)


・その他

 ・テレビ時代劇破れ奉行』(テレビ朝日系)のテーマ曲(ゲスト出演もした)

 ・『徹子の部屋』(テレビ朝日系)のテーマ曲

 ・『TBS歌のグランプリ』(TBS系)のテーマ曲

 ・『OBCソング』(ラジオ大阪のテーマソング)

 ・『QRソング』(文化放送のテーマソング)

 ・KBCの歌(九州朝日放送のテーマソング)

 ・TBCの歌(東北放送のテーマソング。歌は佐良直美

 ・仙台放送の歌

 ・東海ラジオ放送社歌

 ・株式会社ダイエー社歌

 ・電気化学工業社歌

 ・新八王子音頭『太陽踊り』 (歌は佐良直美

 ・旧葛飾区立小谷野小学校 校歌

 ・静岡県御殿場市立原里小学校 校歌(作詞は岩谷時子

 ・東京都江戸川区立篠崎第四小学校 校歌

 ・東京都大田区立糀谷小学校 校歌

 ・東京都立八王子北高等学校 校歌

 ・東京都八王子市立四谷中学校 校歌 (作詞は井田誠一)

 ・私立釜山日本人学校 校歌

 ・神奈川県相模原市立弥栄小学校 校歌

 ・埼玉県新座市立新座小学校 校歌

 ・大阪府寝屋川市立第九中学校 校歌

 ・東京都世田谷区立松丘幼稚園 園歌

 ・明日への伝言

自作自演アルバム
・『このままでいいのだろうか』(1971年、ガーリック・レーベル)

音楽作品アルバム類
・「いずみたく作品集」, 音楽CD(2枚組), EMIミュージック・ジャパン、(1999年9月8日).

著書
・『ドレミファ交友録』(1970年、朝日新聞社)

・『真夜中のコーヒーブレイク』(1974年、講談社)

・『体験的音楽論』(1976年、大月書店 国民文庫)

・『見上げてごらん夜の星を―わが歌のアルバム』(1977年、新日本出版社)

・『新ドレミファ交友録―ミュージカルこそわが人生』(1992年、サイマル出版会)

連載
・おれは野次馬(アサヒ芸能

「夜明けのスキャット」盗作説
1970年日本テレビ系『巨泉×前武ゲバゲバ90分!』にて、大橋巨泉は、いずみたくのヒット曲「夜明けのスキャット」と「いいじゃないの幸せならば」をピアニスト中島一郎に弾かせた上、サイモン&ガーファンクルの「サウンド・オブ・サイレンス」とサンバの名曲「クマーナ」を弾かせ、「これは明らかに盗作である」と言った[5]。対象が1969年レコード大賞受賞曲だったため、巨泉のこの指摘は大きな話題を呼んだ[5]

1970年3月28日付の新聞で、作曲家の塚原晢夫は「もし盗作でないというなら、訴えたまえ、いずみ君。それが出来ないならレコード大賞は辞退すべきだ」と呼びかけたが、いずみたくは何も反応しなかった[5]。巨泉は2004年の自伝の中で「今やいずみさんもこの世にないが、これもボクは主張を変えていない」と記している[5]

脚注
1. 「クレハホームソングコンテスト」。 田家秀樹『みんなCM音楽を歌っていた』(2007年、徳間書店)p.27
2.http://app.f.m-cocolog.jp/t/typecast/270615/261481/69401784

3.https://rockinon.com/feat/lovelysummerchan_201611/ 宅録女子・ラブリーサマーちゃん、 メジャーデビュー! その正体とは!?

4.劇団四季60年の歴史 | 劇団四季 - 1970年

5.a b c d 大橋巨泉『ゲバゲバ70年!』p.256-257


関連項目
青島幸男
永六輔
野坂昭如ハトヤ」など、CMソングでコンビ作多数。

外部リンク
いずみたくメモリアル25年特設サイト - イッツフォーリーズ|株式会社オールスタッフ
(wikiより)


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いずみたく


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東儀 鉄笛(とうぎ てってき、明治2年6月16日1869年7月24日) - 大正14年(1925年2月4日)は、明治大正期の雅楽家・作曲家俳優。本名・東儀季治(すえはる)。京都府出身。父・季芳(すえよし)は、安倍季誕(すえのぶ)の子として生まれ、のちに、祖父である東儀季郛(すえもり)の死後、東儀の姓を継いだ。孫・東儀季信は元宮内庁楽部楽師。


同じ姓でも、江戸幕府に仕えた楽師の末裔にあたる雅楽演奏家・東儀秀樹とは、家系を異にする。

略歴
1300年続く雅楽の家柄に生まれ、宮内庁雅楽寮に勤める傍ら、東京専門学校(現・早稲田大学)に学んだ(中退)。帝国教育会の事務長であり、獨協学園書記(分校主事)であった[1]。1897年宮内庁式部職雅楽部退職。


1906年設立の坪内逍遥の「文芸協会」に加わり、新劇俳優としても活躍。「ベニスの商人」のシャイロック、「マクベス」のマクベスなどを得意とした。協会解散後は無名会を組織。また西洋音楽を学び、東京音楽学校(現・東京芸術大学)講師となった。1925年、脳出血のため死去[2]


都の西北 早稲田の森に…」の歌い出しで有名な早稲田大学校歌(作詞 相馬御風)の作曲者。イェール大学の学生歌である「オールドイェール」の旋律を採り入れているともされているが、さらに「オールドイェール」は、イギリスやアメリカの古民謡の影響の下にあり、それらを参考にしたのかは不明であった[3]。しかしながら、現在では早稲田大学校歌研究会による調査によって、当時の時代背景などから判断して東儀鉄笛が「オールドイェール」を下敷きとしたことがほぼ確定的となり、研究成果として『校歌百年... 歌い継がれた 都の西北の謎』というDVDにまとめられている[4][5]

主な作曲作品
・歌劇「常闇」(台本:坪内逍遥

・早稲田大学校歌「都の西北」(作詞:相馬御風

早稲田中学校・高等学校第一校歌(作詞:坪内逍遥)

広島県庄原市立本小学校校歌(作詞:稲毛詛風

国士舘舘歌(作詞:柴田徳次郎

秋田県立大館鳳鳴高等学校校歌(作詞:土井晩翠

千葉県立成東高等学校校歌(作詞:大和田建樹

千葉県立銚子商業高等学校校歌(作詞:相馬御風

脚注
1.
目で見る獨協百年史(獨協学園百年史編纂委員会)
2. 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』付録「近代有名人の死因一覧」(吉川弘文館、2010年)19頁
3.「都の西北」のルーツ? Archived 2008年9月25日, at the Wayback Machine.
4. News & Topics 校歌の謎”. 早稲田大学 (2007年11月22日). 2013年2月17日閲覧。
5. 葛西順一 (2007年11月14日). “No.264 「都の西北」の研究”. 早稲田大学、朝日新聞社. 2013年2月17日閲覧。

外部リンク
東儀鉄笛(とうぎ・てってき)
(wikiより)


1097   Togi_Tetteki

東儀鉄笛

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この詩は日本中の多くの人々に親しまれている日本の代表的な同様の一つです


東くめ女史が明治三十四年に観音さまの境内に於いて鳩とたわむれている子供らの愛らしい姿をそのまま歌によまれたものであります・・・・・・・
(碑文より)

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宮田 東峰(みやた とうほう、1898年3月24日 - 1986年1月13日)は日本のハーモニカ奏者。作曲家。本名:宮田孝三郎(こうざぶろう)。日本コロムビア常任顧問[1]。群馬県前橋市出身。兄は東京マンドリン宮田楽団創立者の宮田信義、息子はジャズ・フルート奏者の宮田英夫。


ハーモニカ奏者として

中央大学経済学科在学中にハーモニカバンド(現中央大学ハーモニカ・ソサィエティー)を結成。ハーモニカの奏法は独習し、1918年には日本初のハーモニカ合奏団を結成した。これが後の「ミヤタ・ハーモニカバンド」である。同年、東京ハーモニカ協会を創立。大学は同年に中退[2]


1925年には自身監修の「ミヤタハーモニカ」を発売し、複音ハーモニカを代表するモデルの一つとなった。


2012年、大衆音楽の殿堂入り。



歌のない歌謡曲

「ミヤタ・ハーモニカバンド」で当時流行の歌謡曲を多数演奏し、その演奏は「歌のない歌謡曲」として有名だった


作曲作品
・「輝く東京オリンピック」(1959年)
・「十国峠の白い花」島倉千代子(1961年)

他多数

著書

・「ハーモニカ教本」

・「ミヤタハーモニカ独習」

・「音楽に生きる」

褒章

・藍綬褒章(1960年)

・勲四等旭日小綬章(1968年)

・勲三等瑞宝章(1974年)

脚注
1. 宮田 東峰』 - コトバンク

2. 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)

外部リンク
高級ミヤタ MH-21鈴木楽器製作所

(wikiより)

1094 宮田東峰

⇧ 宮田東峰

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巖本 真理(いわもと まり、1926年1月19日 - 1979年5月11日)は、日本の女性ヴァイオリニスト。出生時の戸籍名は巖本メリー・エステル、後に巖本真理と改名した。

経歴
教育者巌本善治若松賤子の長男である巌本荘民(まさひと)とアメリカ人マーグリトの間の長女として東京西巣鴨に生まれ、メリー・エステルと名づけられる。6歳からヴァイオリンを小野アンナに学ぶ。


ハーフとして差別を受け、病弱だったためもあり、1935年に私立帝国小学校を4年生で中退[1]。自宅でヴァイオリンの英才教育を受け、1937年日本音楽コンクールで一位となり、天才少女と呼ばれる。1939年11月11日、レオ・シロタの伴奏で第一回独奏会を開く。1942年、英語が敵性語とされたことを受け、真理と改名する。


1946年
、20歳で東京音楽学校教授となるが1950年に辞職して渡米する。帰国後、演奏活動を再開し1959年芸術選奨文部大臣賞、芸術祭奨励賞、1964年に民放祭最優秀賞、1965年ブラームスの室内楽曲の全曲連続演奏を行い毎日芸術賞を、1966年に「巌本真理弦楽四重奏団」を結成し1970年レコード・アカデミー賞1971年に再度芸術選奨賞、1974年モービル音楽賞を受賞した。


1977年
乳癌に罹り、手術するが再発し53歳で死去した。日本初の室内楽定期演奏会94回の偉業を達成した。


墓所は豊島区駒込染井霊園にある。

参考文献
山口玲子『巌本真理 生きる意味』(新潮社

巖本真理の著作物(サイニーCiNii)


外部リンク
国立国会図書館歴史的音源
ロマンス 第2番(ヘ長調 作品50)1
ロマンス 第2番(ヘ長調 作品50)2

1950年9月。作曲:ベートーヴェン、指揮:齋藤秀雄、ヴァイオリン:巌本真理、演奏:東京交響楽団

脚注
1. 『巌本真理 生きる意味』pp.29-34
(wikiより)

999 巌本真理

⇧ 巌本真理


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都鳥さへ夜長のころは水に歌書く夢も見る


ここに刻まれた都鳥の詩は、日本童謡民謡の先駆、巨匠・野口雨情氏が、昭和八年、門下生の詩謡集の序詞執筆のため当地に来遊の折、唱われたものである。
 
東京都民の心のふるさとである隅田川ぞいを飾るにふさわしい作品として、記念碑に刻し、永遠に保存する。
(案内板より)

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三味線はわが国の代表的な楽器として世界に知られている。


十三世紀ごろ中国に三弦として起こり琉球に伝わって、十六世紀ごろ、摂津 ( せっつ ) の堺 ( 大阪府 ) に伝来して、京阪地方の琵琶法師に用いられていた。


その後、種々の技法を取り入れた「石村検校」とそれをついだ石村近江は、日本の三味線として多数の名器を相継いで世に出し、邦楽の発展に寄与した。


三味線の始祖とされる石村近江は、号を浄本、通称を源左衛門といい、京都から江戸に移住して三味線を完成、

「浄本近江」と呼ばれた名工であった。


寛永十三年 ( 1636 ) 三月二日に死去した。
(案内板より)

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昭和21年(1946)の春、茶木滋親子は小田原市郊外の小川のほとりを歩いていました。


幼い義夫くんが突然声をあげました。「お父さん、めだかがいるよ」

滋はすぐ川をのぞきこみましたが、めだかは1匹もいませんでした。


お前が大声をあげたからびっくりして逃げたのだよ」


すると義夫くんは

「待ってればくるよ。ここめだかの学校だもの」


昭和二十五年の秋、NHKから"春らしい明るい歌"の作詞を頼まれた時、ふとこの時の会話が浮かび、童話『めだかの学校』は生まれたのです。
(案内板より)

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宮城 道雄(みやぎ みちお、1894年明治27年)4月7日 - 1956年昭和31年)6月25日)は、兵庫県神戸市生まれの作曲家箏曲家である。旧姓は菅(すが)。十七絃の発明者としても知られる。大検校であったため、広く「宮城検校」と呼ばれた。


『雨の念仏』(1935年)などの随筆により文筆家としての評価も高い。作家の内田百とは親友同士であり、交友も深く、双方の随筆でたびたび言及していた。


略歴

1894年(明治27年)に菅国治郎とアサの長男として兵庫県神戸市三宮居留地内で生まれる[1][2]。父親は広島県沼隈郡鞆町(現:福山市)の出身で分部氏の次男[3]、母親も同県安佐郡祇園町(現:広島市安佐南区)出身である。生後200日頃から眼病を患い、また、4歳の頃に母と離別して祖母ミネのもとで育てられた[2]。7歳の頃に失明。以降、生涯において咽頭炎など発病の際に折に触れて眼痛を訴えることもあったが、しかし、この失明が転機ともなり音楽の道を志す。


8歳で生田流箏曲の二代菊仲検校に師事するも、その後兄弟子菊西繁樹の紹介により二代中島検校に師事した。2年後に師匠が病没したため、以降は三代中島検校のもとに師事し11歳で免許皆伝となる[1]。師匠から「中島」の「中」の字をもらい受け、中菅道雄と名乗った[2]。13歳の夏、一家の収入を支えるため父の滞在する朝鮮仁川へ渡り、昼間は、夜間は尺八を教えて家計を助けた[1][2]。道雄は既習の曲の演奏だけでは満足せず新規の作曲も目指し、1909年(明治42年)には14歳で第一作の箏曲「水の変態」を書き上げ、伊藤博文に評価された[1][2]。伊藤は道雄を上京させて支援することを約したが、同年に伊藤が暗殺されたため、これは叶うことは無かった[2]


1910年(明治43年)に朝鮮京城(現:ソウル)へ渡って頭角を現し、1913年(大正2年)、入り婿として喜多仲子と結婚したのち、妻の生家の宮城に改姓してからは芸名を廃止、本名の宮城姓を名乗った[1][2][3]1914年大正3年)に同地で尺八家の吉田晴風と知り合い、2人は生涯の親友となった[1][4]。道雄は朝鮮滞在中も神戸の旧師である中島や、熊本地歌名手として知られる長谷幸輝のもとを訪ねて更なる研鑽に励み、1916年(大正5年)に最高位である “大検校” の称号を受けた[1][2][註 1]1917年(大正6年)4月、晴風の招きにより上京するが程なくして妻が病死し、再び道雄は貧窮した[1][2]


1918年(大正7年)に吉村貞子と再婚し、貞子の姪である牧瀬喜代子(後の宮城喜代子)、数江(後の宮城数江)姉妹がのちに道雄の元へ入門した[2]。道雄は葛原しげる高野辰之、山田源一郎、田辺尚雄らの洋楽作曲家や評論家、学者などに注目され、また彼らの支援や助言により、1919年(大正8年)、本郷春木町の中央会堂で念願の第1回作品発表会を開催し作曲家としての本格的なデビューを果たした[1][2]。翌1920年(大正9年)5月、葛原の紹介により、箏の経験を持つ内田百閒が道雄に入門する。箏では弟子である百閒は文学面では逆に道雄の師となった[5]。同年11月には東京の有楽座本居長世とともに合同作品発表会を開き、この場で尺八演奏を担当した晴風が『新日本音楽大演奏会』と命名した。これは後に「新日本音楽」という邦楽と洋楽の結集による新しい日本音楽を創造することを目的とした活動になり、道雄、長世、晴風がその中心的な役割を果たし、開始されたばかりのラジオ放送や、レコード録音、初世中尾都山との演奏旅行などによって全国的に広められ、日本音楽の潮流に数多の影響を及ぼした[1][6]

1925年(大正14年)、JOAKのラジオ試験放送初日に出演する。以後、道雄は毎年の正月放送を筆頭に海外との交歓放送や国際放送、初となる放送による箏曲の講習などを実施した。これらの放送文化に対する多くの功績が認められて1950年(昭和25年)に第1回NHK放送文化賞を受賞している[2]1929年(昭和4年)に道雄が発表した箏と尺八の二重奏曲「春の海」は、来日したフランス人女流ヴァイオリニストルネ・シュメーイタリア語版が尺八部分をヴァイオリンに編曲し道雄との合奏がなされ、世界的な評価を得ることになった。その合奏は1932年(昭和7年)にレコードに吹き込まれで発売された[1][2][7]。「春の海」は翌年の歌会始勅題「海辺巌」にちなんで制作されたもので、かつて道雄が瀬戸内海を船で巡った時の印象を基に、それに波の音や鳥の声、漁師の舟唄などを加えて作られた[7]


1930年
(昭和5年)、東京音楽学校講師に赴任。1937年(昭和12年)に同校の教授となり、翌年には東京盲学校の講師も務めた[3]。道雄の教育は箏曲に五線譜や絃名譜を能動的に取り入れるなどの斬新なものであった。また、初心者向けの箏や三味線用教則本を執筆した。また、門人の指導をし後進の育成に努めた[1][2]1938年には百閒原作の東宝映画『頬白先生』で、百閒の娘役を演じることとなった高峰秀子に対して箏の手ほどきも行っている[5]戦災の悪化に伴い1944年(昭和19年)12月1日、神奈川県葉山町の別荘へ疎開し、翌1945年(昭和20年)3月29日には栃木県の現高根沢町へと再疎開した[8]。同年5月25日の山の手空襲により道雄の牛込中町の住居は焼失した[3] 。9月6日、疎開地より引き上げる。

1948年(昭和23年)5月に中町の住居を再建し、8月には父の故郷である鞆の浦で初の演奏会を開催した[3] 。同月、日本芸術院会員を拝命[1][3]1951年(昭和26年)3月には国内外の道雄の門人による「宮城会」が創設された[9]。同年4月には、箏制作者であり、また、楽器の収集家としても著名な水野佐平が開設した「丹水会館」においてこけら落としとなる演奏も行っている[10]1953年(昭和28年)夏、フランスビアリッツスペインパンプロナで開催された『国際民族音楽舞踊祭』に日本代表として参加、道雄は賛美され最優等賞を獲得した[1][2][3]。また、英国放送協会より「ロンドンの夜の雨」を放送初演した[2]


1956年
(昭和31年)6月25日未明、大阪での公演へ向かうため、下りの夜行寝台急行列車銀河」に付き添いの内弟子牧瀬喜代子と共に乗車中、午前3時頃、愛知県刈谷市刈谷駅手前で客車ドアから車外に転落した。午前3時半頃現場を通りかかった貨物列車の乗務員から〝三河線ガードのあたりで線路際に人のようなものを見た〟という通報を受け現場に向かった刈谷駅の職員に救助され豊田病院へと搬送されたが、午前7時15分に病院で死亡が確認された[1][2][11][12]。救助時点ではまだ意識があり、自らの名前を漢字の説明まで入れて辛うじて名乗ったと伝えられる[11]


道雄の死については寝ぼけてトイレのドアと乗降口を間違えた[註 2]などの推測や一方では自殺も噂されたが、どれも推測や憶測にとどまり事故の真相は不明である。周囲の人物評では、百閒が道雄の行動を常々観察して「カンの悪い盲人」と評しており、高峰秀子もまたこの訃報を新聞で知った時に、ただちに「宮城先生は誤ってデッキから落ちられたのだ」と思ったという[5][註 3]。実際に道雄は晩年(場慣れているはずの)自宅内で転倒して片方の眼球を痛め、眼球摘出手術を受けるという事故も経験しており(その後は義眼を入れていた)、視覚障害者としては歩行感覚が鋭敏でなかったことを窺わせる。

墓所は東京都台東区谷中霊園にある[2]。命日の6月25日は遺作の歌曲にちなみ、「浜木綿忌」と呼ばれている。一周忌に際して水野佐平は邦楽再興に奉じた道雄の死を無意味にしてはいけないと考え、所蔵していた名作筝などを自宅の「和楽荘」及び邸内の「丹水会館」に展示した[13]。また同年には前述の事故現場近く[註 4]に、宮城会・日本盲人会・刈谷市により供養塔が建立されている[14]


宮城道雄の功績として、箏曲の伝統に根を下ろしながら洋楽を組み込んで新しい日本の音楽を創造した点が挙げられる。道雄は生涯に大構成の合奏曲から童曲に亘る幅広い作品を400曲以上制作した。また、自作曲や古典曲の演奏を行う一方、古典楽器の改良や新楽器の開発を行い、十七絃、八十絃、短琴(たんごと:家庭用の)、大胡弓(だいこきゅう:大型の胡弓)などを発明した[2]。他方では、1935年(昭和10年)に百閒の薦めで随筆集『雨の念仏』を執筆して以降、随筆にも才能を発揮し、これらの随筆は川端康成佐藤春夫らから高評価を得ている[15]


神戸の旧居留地58番地(現:56番の三井住友銀行神戸本部ビル敷地内)に生誕地の碑が建ち、1978年(昭和53年)には道雄が晩年まで住んでいた東京都新宿区中町に “日本で最初の音楽家の記念館”「宮城道雄記念館」が設立された[1][16]。その曲風に西洋音楽の息吹を感じられるのは、幼少の頃、神戸のレコード屋の前で熱心に立ち聞きして覚えた旋律にあると言われる。

受賞等

・1932年 「春の海」が日米仏でレコード発売

・1937年 東京音楽学校(現東京藝術大学)教授就任

・1948年 日本芸術院会員

・1950年 東京藝術大学専任講師就任[3]

・1950年 第1回放送文化賞受賞

・1951年 宮城会結成

・1978年 宮城道雄記念館開館


詳しいことは、「宮城道雄ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E5%9F%8E%E9%81%93%E9%9B%84
(wikiより)


623 宮城道雄

⇧ 宮城道雄

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本居 長世(もとおり ながよ、1885年明治18年)4月4日 - 1945年昭和20年)10月14日)は、日本男性童謡作曲家。晩年は長豫と称した。

生涯
1885年(明治18年)東京府下谷区御徒町に生まれる。国学者として著名な本居宣長の和歌山学党6代目に当たる。


生後1年で母と死別。養子であった父が家を出たため、やはり国学者であった祖父、本居豊穎に育てられる。祖父の期待に反して音楽家を志すようになり、1908年(明治41年)東京音楽学校本科を首席で卒業、日本の伝統音楽の調査員補助として母校に残る。なお、同期にやはり作曲家となる山田耕筰がいる。1909年(明治42年)器楽部のピアノ授業補助、翌1910年(明治43年)にはピアノ科助教授となり、ピアニストを志すが、指の怪我で断念。このときの教え子に中山晋平弘田龍太郎がいる。1918年大正7年)「如月社」を結成。この如月社で本居長世の作品を独唱したのが美しいテノールの音色を持つバリトン歌手、藤山一郎東京音楽学校声楽科出身で、慶應義塾普通部のころから本居長世のところに出入りしていた)である。また、本居長世は宮城道雄吉田晴風らの新日本音楽運動に参加、洋楽と邦楽の融合を模索した。


折から、鈴木三重吉による児童雑誌『赤い鳥』が創刊され、従来の唱歌に代わる「童謡」と呼ばれる新しい歌が人気を博していた。これに呼応し1920年(大正9年)中山晋平の紹介によって斎藤佐次郎による児童雑誌『金の船』より『葱坊主』を発表。同年、新日本音楽大演奏会で発表した『十五夜お月さん』は、長女みどりの歌によって一躍有名となり[1]、以後野口雨情等と組んで次々に童謡を発表する(みどりは童謡歌手の第1号となり、童謡歌手のレコード吹き込み第1号ともなった[2])。その後、次女貴美子(後に三女若葉も)等とともに日本各地で公演を行った。1923年(大正12年)関東大震災により甚大な被害が発生すると、日系米国人を中心に多くの援助物資が贈られた。その返礼として日本音楽の演奏旅行が企画され、本居長世も2人の娘とともに参加し、アメリカ合衆国各地で公演を行った[3]1945年(昭和20年)肺炎により死去。

代表作
・『七つの子

・『青い眼の人形

・『赤い靴

・『十五夜お月さん

・『たんぽぽ』

・『めえめえ児山羊』

・『汽車ぽっぽ』(作詞も本居が手がけた)

・『國學院大學校歌』

など

著書
・『本居長世作品選集 歌曲・合唱曲・仏教曲・御製御歌』金田一春彦編 如月社 1982

伝記
金田一春彦『十五夜お月さん 本居長世 人と作品』三省堂、1983 

脚注
1. 長田暁二『童謡歌手からみた日本童謡史』大月書店、1994年11月1日、23頁。ISBN 4-272-61066-X
2. 長田暁二『童謡歌手からみた日本童謡史』大月書店、1994年11月1日、22頁。ISBN 4-272-61066-X
3. 長田暁二『童謡歌手からみた日本童謡史』大月書店、1994年11月1日、26頁。ISBN 4-272-61066-X

参考文献
小林弘忠『「金の船」ものがたり』(毎日新聞社、2002年) ISBN 4-620-10656-9

藍川由美『「演歌」のススメ』(文春新書、2002年) ISBN 4-16-660282-9

  ・伝統的な日本の音楽構造と、洋楽とを融合させる上で、本居長世の果たした功績について分析している。

外部リンク
本居長世の楽譜 - 国際楽譜ライブラリープロジェクトPDFとして無料で入手可能。

本居長世 童謡の黄金時代の開拓者

本居長世
(wikiより)


602

⇧ 本居豊穎

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猪俣 公章(いのまた こうしょう、1938年4月11日[1] - 1993年6月10日)は、日本作曲家作詞家福島県河沼郡会津坂下町出身[1]


本名は猪俣 公章(いのまた きみあき[1]

経歴・人物
旧制京都帝国大学工学部電気工学科出身で東北電力勤務の父と、福島市内で料亭を経営する母の間に生まれた。


小学5年生の頃から作曲をするようになり[1]、中学時代に作曲家を志望する[1]。中学卒業後は上京して開成高校に進学。高校卒業後は実家の家計が苦しくなったため、入学金を稼ぐために1年間の浪人生活を選ぶ。喫茶店のボーイ、ペンキ職人、バーテンダーなどで入学金を稼いだ。


1958年日本大学芸術学部音楽科へ入学[1]。入学後は新橋銀座キャバレーでバンド演奏のアルバイトを務め、ベースを担当。大学3年次の1960年古賀政男が設立したプロダクションにスタッフとして採用され、事実上の門下生として師事。大学卒業後の1962年ビクターレコードと契約。


1964年、鈴木やすし『僕の手でよかったら』作曲家デビュー[1]1966年森進一のデビュー作にしてヒット作となった『女のためいき』を作曲、その後も森に『港町ブルース』『おふくろさん』『冬の旅』などの大ヒット曲を提供する。他にもテレサ・テン『空港』、藤圭子『京都から博多まで』『女のブルース』、水原弘『君こそわが命』、五木ひろし『千曲川』など、数多くのヒット曲を提供して成功を収めた。


1991年に19歳年下の一般女性と結婚し一子をもうけるも[1]1993年肺がんのため死去した[1]。55歳没。晩年は坂本冬美マルシアを弟子入りさせ、自らの家に住まわせて育成したことでも知られる。なお、猪俣は生前歌手だけでなく、里村龍一冬樹かずみ等々、音楽作家の育成にも力を注いだ。

主な作品

女のためいき(1966年、歌:森進一)※森進一のデビューシングル

君こそわが命(1967年、歌:水原弘

・情愛 (歌:水原弘)

・午前四時のブルース (歌:水原弘)

ひとり酒場で (1968年、作詞:吉川静夫、歌:森進一)

・神戸の夜 (1968年、作詞:吉川静夫、歌:森進一)

・女の爪あと (1969年、歌:水原弘)

・流れ花 (1969年、歌:水原弘)

港町ブルース(1969年、歌:森進一)

・気にかかる(1969年、歌:園まり

鳴門海峡(1969年、歌:三橋美智也

恋ひとすじ(1970年、歌:森進一)

一度だけなら(1970年、歌:野村真樹

女のブルース(1970年、歌:藤圭子

噂の女(1970年、歌:内山田洋とクール・ファイブ

おふくろさん(1971年、作詞:川内康範、歌:森進一)

・故郷は地球(1971年、作詞:佐々木守、歌:柴俊夫ハニーナイツ)※『シルバー仮面』主題歌

・渡り鳥いつ帰る(1971年、作詞:阿久悠、歌:北島三郎

京都から博多まで(1972年、作詞:阿久悠、歌:藤圭子)

波止場町(1972年、歌:森進一)

・おんなの海峡(1972年、歌:都はるみ
かくれんぼ(1973年、作詞:山上路夫、歌:石川さゆり)※石川のデビュー・シングル

冬の旅(1973年、歌:森進一)

さらば友よ(1974年、歌:森進一)

北航路(1974年、歌:森進一)

空港(1974年、歌:テレサ・テン

さらばハイセイコー(1975年、作詞:小坂巖、補作詞:山田孝雄、歌:増沢末夫

千曲川(1975年、作詞:山口洋子、歌:五木ひろし)※第17回日本レコード大賞最優秀歌唱賞受賞曲

・面影の女(1975年、歌:チャダ

ふたりの旅路(1975年、歌:五木ひろし)

愛の始発(1976年、歌:五木ひろし)

さざんか(1976年、歌:森進一)

・峰子のマドロスさん(1976年、歌:西川峰子

・女になるでしょう(1976年、歌:西川峰子)

大阪ラプソディー(1976年、歌:海原千里・万里

あばれ太鼓(1987年、歌:坂本冬美)※坂本のデビュー・シングル

祝い酒(1988年、歌:坂本冬美)

男の情話(1989年、歌:坂本冬美)

ふりむけばヨコハマ(1989年、歌:マルシア)※マルシアのデビュー・シングル

・港唄(1991年、歌:石川さゆり)、ほか多数

関連項目

遠藤実

里村龍一

森進一

中村美律子

藤圭子

藤あや子

香西かおり

坂本冬美

マルシア

テレサ・テン

水原弘

冬樹かずみ

・『さらばハイセイコー

・『近松心中物語
(wikiより)


548 猪俣公章

⇧ 猪俣公章

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佐々 紅華(さっさ こうか、1886年7月15日 - 1961年1月18日)は、日本の作曲家である[1][2][3]。本名は佐々 一郎(さっさ いちろう)[1][2]作詞も行なった作品があり、歌劇の台本も書き[2]グラフィックデザイナーでもあった。

人物・来歴
1886年(明治19年)7月15日、東京府東京市下谷区根岸(現在の東京都台東区根岸)に生まれた[1][2]。紅華が4歳の時、一家で横浜市に転居、旧制横浜小学校(1946年統合廃校)、旧制・神奈川第一中学校(現在の神奈川県立希望ヶ丘高等学校)を経て、浅草区蔵前にあった旧制・東京高等工業学校(現在の東京工業大学工業図案科に進学した[1][2][3]。同校の工業図案科は、1914年(大正3年)に廃止され、空白期ののち1921年(大正10年)に創立された東京高等工芸学校を経て、現在の千葉大学工学部デザイン学科に引き継がれた学科である[4]。小学校時代からの音楽好きが嵩じてはじめは東京音楽学校(現在の東京芸術大学音楽学部)を受験したが、試験には受かったものの父親の意見で高工に行ったのだという。しかし、この時期の自身について紅華が晩年に地元紙に書いた、七代目松本幸四郎(1870年 - 1949年)についての記事がある。

高麗屋松本幸四郎の別荘が寄居の雀宮公園にあったという話はもうひとつの語り草に終わっているようだ。私は蔵前の学生時分当時(明治42、3年頃)ワグネルソサイティに集まる慶応ボーイなどと共に幸四郎がまだ高麗蔵と言っていた頃のこと、ハイカラハンサムだった彼の演ずる珍妙な和製オペラの助演歌手として歌舞伎座へ25日ぶっ通しで通いつめたそれが奇縁で幸四郎マニアになって今でも私の床の間には八代目団十郎に扮した幸四郎の隅押し(芝居の面写)が懸けてあるが、その落款には大正甲寅9月於帝劇七代目松本幸四郎雀亭、と印してある。 — 『埼北新聞』昭和27年1月

高工を卒業すると東京市内の印刷会社に就職、音楽への思いを断ち切れずにいたが、次に務めた日本蓄音器商会(ニッポノホン、現在の日本コロンビア)では図案室に入り、当時ビクターの商標であった、犬が蓄音器に耳を傾ける図案(ニッパー)に対抗し、耳に手をかざして蓄音器に聞き入る大仏のマークを作成、当時「大仏はそんなに耳が遠いのか」との評判が立ったという。これは日本蓄音器商会の商標となった。またレコードのポスター等のグラフィックデザイナーとしても頭角を現していった。音楽の面では、当時の雑誌の記事などを見ると、日本蓄音器商会の事務所を覗くと、ひたすら洋楽のレコードを聞きながら五線紙に写取る、紅華の姿が見て取れたという。


1913年(大正2年)には「茶目子の一日」「目無し達磨」「毬ちゃんの絵本」などの御伽歌劇の作詞・作曲をして、当時の山の手の上流階級に蓄音器を売ろうともくろんだ「童謡作家」、その後の1917年(大正6年)10月、石井漠(1886年 - 1962年)らとともに「東京歌劇座」を旗揚げ、自身の手によるミュージカル『カフェーの夜』を浅草公園六区日本館で公演[1]、「浅草オペラ」の嚆矢となる[2][3]。1921年には、同年3月、奈良県生駒郡生駒町(現在の同県生駒市)に落成した生駒劇場に「生駒歌劇団」を結成、同年8月に第1回公演を行い、生駒歌劇技芸学校を創設したが、これには失敗し[1]、同年10月には解散した。


1923年(大正12年)9月1日の関東大震災で浅草オペラが衰退すると、1929年昭和4年)に日本ビクターに入社、同社では「君恋し」「祇園小唄」「浪花小唄」「唐人お吉」などをレコード化しヒット作をだす[1][2]。特に当時の異色の歌手二村定一を採用したレコード吹き込みは、単なる「作曲家」としての紅華ではなく、「プロデューサー」としての才能を遺憾なく発揮、一世を風靡した時期であった。


その後、日本ビクターから日本コロムビアに移籍、今でも日本各地に残るご当地ソングのはしりとしての新民謡の「民謡作家」、映画音楽、舞踊小唄を作曲し、生涯に約2千曲を作曲したという。レコードだけでも記録に残るもので770曲ある。


1931年(昭和6年)、埼玉県大里郡寄居町寄居玉淀に数奇屋造りの新居を建築し始め、翌年から住み始める。「枕流荘」虚羽亭・京亭と号す[2]。完成するまでに5年とも6年とも言われているが、実際はなお未完成である。京亭の設計図は紅華自ら引き[2][3]、現場の監督までした。


1961年
(昭和36年)1月18日、寄居の自宅で死去した[1][2]。満74歳没。この年の暮れ、フランク永井によるリバイバル曲『君恋し』が第3回日本レコード大賞を受賞した[5]。旧佐々邸である京亭は、佐々の没後、割烹旅館として営業を開始、佐々の養女・佐々靫江が女将を務め、2015年(平成27年)6月現在も営業を行っている[3][6]。佐々の養女の夫は、映画監督演出家清島利典(1944年 - [7])である[3]2011年(平成23年)末日をもって著作権法の定める著作権保護期間が満了したため、佐々の著作物は日本国内においてはパブリック・ドメインの状態にある。日本音楽著作権協会(JASRAC)も、2015年9月現在、すでに佐々の著作物の著作権は消滅したものとして取り扱っている[8]

作品

・『目無し達磨』(お伽歌劇、1913年) - 作詞も

・『茶目子の一日』(お伽歌劇、1913年) - 作詞も

・『毬ちゃんの絵本』(お伽歌劇、1913年) - 作詞も

・『カフェーの夜』(1917年10月)

  ・挿入歌「コロッケーの唄」(作詞・曲益田太郎冠者

  ・挿入歌「おてくさん」(作詞益田太郎冠者) - 作曲

・『ヘッベレケー』(富士山印東京れこをど、1917年) - 喜歌劇『ティッペラリー』の替作・作詞

・『目無し達磨』(26676 / 1931年12月発売) - 作詞も

・『さくら音頭』(作詞伊庭孝、歌唱赤坂小梅、27757 / 1934年4月発売)


以下、ビクターレーベル。『佐々紅華 作品発売レコード目録』(1928年 - 1960年)、IKR井上歌謡ライブラリー作成・佐々家保存リストによる。

・『新銀座行進曲』(歌唱天野喜久代、50243 / 1928年4月発売) - 作詞も

・『当世銀座節』(作詞西条八十、歌唱佐藤千夜子、50371 / 1928年7月発売)

・『笑ひ薬』(歌唱二村定一、50494 / 1928年12月発売) - 作詞も

・『平凡節』(作詞野口雨情、歌唱二村定一、50494 / 1928年12月発売)

・『君恋し』(作詞時雨音羽、歌唱二村定一、50559 / 1929年1月発売)

・『神田小唄』(作詞時雨音羽、歌唱二村定一、50677 / 1929年4月発売)

・『君よさらば』(作詞時雨音羽、歌唱二村定一、50677 / 1929年4月発売)

・『隣り横丁』(作詞時雨音羽、編曲井田一郎、歌唱二村定一、50680 / 1929年4月発売)

・『ほがらかネ』(作詞時雨音羽、編曲井田一郎、歌唱二村定一、50680 / 1929年4月発売)

・『茶目子の一日』(歌唱平井英子、50681 / 1929年4月発売) - 作詞も

・『浪花小唄』(作詞時雨音羽、歌唱二村定一・藤本二三吉、50793 / 1929年6月発売)

・『唐人お吉小唄 明烏編』(作詞西条八十、歌唱藤本二三吉、51093 / 1930年2月発売)

・『恋の大島』(作詞島田芳文、歌唱藤本二三吉、27514 / 1933年7月発売)

・『君恋し』(作詞時雨音羽、編曲寺岡真三、歌唱フランク永井、VS-537 / 1961年7月発売)

墓地
東京都台東区谷中妙雲寺。同寺改築により墓所を移動したため、現在の墓は2代目である。

紅華先生は明治十九年七月十五日東京根岸に生まれ神奈川県立一中蔵前高工を卒え日本蓄音機商会広告図案部に入社

後大正中期浅草金龍館に自作オペレッタを上演して浅草オペラ全盛時代を築いた
昭和初期ビクターに次いでコロンビアに移る その間幾多の歌謡曲を発表
昭和七年明眉なる風光と素朴なる土地柄を愛して埼玉県寄居玉淀の地に自らの設計になる住居を新築した
昭和十一年以降は主として舞踊小唄の作曲と「日本の音楽理論」の執筆に専念したが昭和三十六年一月十八日自宅に永眠
代表作 君恋し 浪花小唄 祇園小唄 唐人お吉の唄は流行を超えて不朽の名曲としてその名をほしいままにして
昭和三十六年十一月京都市と京都新聞によって円山公園に祇園小唄歌曲碑が建てられ
同年十二月には君恋しが一九六一年度の日本レコード大賞受賞の栄に輝いた

— 昭和四十四年初秋 厚知 石澤義夫書

詳しいことは、「佐々紅華ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E3%80%85%E7%B4%85%E8%8F%AF
(wikiより)


482 佐々紅華

⇧ 佐々紅華

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