カテゴリ: 刀工・刀商関連・剣豪・剣客・武器・防具一般関連
7153 秋山要助墓(佐野市大蔵町2975・興福寺)
秋山 要助(あきやま ようすけ、安永元年11月25日(1772年12月19日) - 天保4年8月25日(1833年10月8日))は江戸時代の剣客。扶桑念流(扶桑無念流)を開いた。諱は正武[1]。通称は要助[1]。号は雲嶺、雷角斎入道。
1772年(安永元年)、武蔵国埼玉郡箱田村(現 埼玉県熊谷市箱田)の農民の子として生まれる[1]。父・善太郎から鹿島新当流を学び、その後、神道無念流第2代の戸賀崎暉芳に学び、神道無念流の印可を授かった。次に同流の江戸の神田猿楽町の岡田吉利(初代 岡田十松)の撃剣館に入門した[1]。さらに近藤三助より天然理心流も学んだ。
1800年(寛政12年)、常陸国多賀郡平潟村(現 茨城県北茨城市)で撃剣館の同門の大橋平吉の仇討に助勢し、剣名をあげた[1]。
弟子の大川平兵衛に神道無念流を継がせ、1811年(文化8年)、故郷の箱田と武蔵国飯能(現 埼玉県飯能市)に道場「扶桑館」を開き、自らの流儀を扶桑念流(扶桑無念流)と称した。
1830年、上野国佐野の山崎観純と郷学「講武堂」を設け、水戸、高崎、伊勢崎にも道場を開いた[1]。
秋山要助が登場する作品
小説
・幕末浪漫剣(鳥羽亮)
・秘剣風哭 剣狼秋山要助(鳥羽亮)
・武蔵野水滸伝(山田風太郎)
・狼の眼(隆慶一郎)※短編
関連項目
・大川平兵衛
脚注
1. a b c d e f 『江戸時代人物控1000』、山本博文監修 小学館、2007年、11頁。ISBN 978-4-09-626607-6。
(wikiより)
6589 御堀耕助墓(防府市護国神社)
生垣の奥、神殿の横に御堀耕助の墓があります。
幅 30cm 角、高さ 107cm のいわゆる軍人墓と呼ばれている仏石に「贈正四位御堀耕助直方の墓」と彫られています。
長州藩士・大田要蔵の長男・市之進として萩に生まれ、18歳のとき江戸に出て、神道無念流の斎藤弥九郎道場で剣術を修業 ( 塾頭を務めるほどの腕前 ) します。
四年後、命令により帰国し、世子・毛利定広の小姓役に抜擢され、ついでに京都に上がり尊王攘夷活動に奔走します。
天誅組の変の挙兵に失敗し大阪の長州藩邸に逃れた中山忠光を助け、下関まで警護し、途中、今の防府市富海の大和屋政助の船蔵の三階に匿いました。
元治元年 ( 1864 ) 七月には、浪士隊の参謀として禁門の変 ( 蛤御門の変 ) に参戦して勇名を轟かせ、同年八月の四ヶ国連合艦隊との戦闘に従軍した後、山田顕義や品川弥二郎らと御楯隊を結成して総督となり、幕府に恭順しようとする俗論党と戦います。
また、いまの山口市大内御堀に住んでいたところから御堀耕助と名乗り、慶應二年 ( 1866 ) の第二次長州征伐では芸州口で防戦、戦功を挙げます。
慶應三年 ( 1866 ) には、26歳の若さで長州藩の参政となり、京都において薩摩藩の小松帯刀、西郷隆盛、大久保利通らと討幕について話し合うなど、維新の大業に尽力しています。
明治二年 ( 1869 ) 、藩命により山形有朋と共に欧州視察に向かいますが、渡航中、肺を患い帰国します。病状は回復せず、明治四年 ( 1871 ) に三田尻で亡くなります。享年31歳。
(案内板より)
〇 御堀耕助
御堀 耕助(みほり こうすけ、天保12年7月7日(1841年8月23日) - 明治4年5月13日(1871年6月30日))は、幕末期の長州藩士。前名:太田市之進。御楯隊総督。諱は直方。
略歴
長州藩士・太田要蔵の長男として萩に生まれる。18歳で江戸の斎藤弥九郎道場に入門、塾頭を務める。帰藩後、世子毛利定広の小姓となる。
文久3年(1863年)5月、長州藩による馬関海峡(関門海峡)での米仏商船砲撃に参加。同年、中山忠光が大和国での挙兵に失敗し(天誅組の変)、敗走して大阪の長州藩邸に逃れてくると、下関までの警護を務める。
元治元年(1864年)7月の禁門の変に参加、破れて帰藩。四国連合艦隊との戦闘に参加後、山田顕義・品川弥二郎らと御楯隊を結成し総督となる。同年12月(1865年1月)、高杉晋作が決起(功山寺挙兵)すると、これに呼応して御楯隊を率いて俗論党と戦い、呑水、赤村の戦いなどで活躍。
慶応元年(1865年)、太田市之進から御堀耕助に改名。
慶応2年(1866年)の第二次長州征伐に対して、御楯隊を指揮し芸州口方面で戦う。
慶応3年(1867年)、参政となる。同年8月、柏村数馬と共に京都に赴き、薩摩藩の小松清廉・西郷隆盛・大久保利通らと倒幕の実施計画について会談。
明治2年(1869年)、藩命により山縣有朋、西郷従道と共に欧州視察に向かうが、香港まで行って病気のためいったん帰国し、同年11月、日本公務弁理職(総領事)に任命されて渡仏するモンブラン伯爵と秘書の前田正名とともに横浜を発ち、パリで山縣たちに合流した[1]。 帰国後、薩摩で治療を受けていたが病状が悪化して三田尻へ帰り、病床を見舞った従兄弟の乃木希典(乃木の父・希次が御堀の父・要蔵の弟)を黒田清隆に紹介し、乃木が陸軍で栄達するきっかけを作った。
明治4年(1871年)、三田尻において病死。享年31。山口県防府市の防府市護國神社境内の桑山招魂場に墓所がある。
脚注
1. 『木戸孝允日記』、『元帥公爵 山県有朋』、ベルギー貴族モンブラン伯と日本人
参考文献
・蒲生重章「御堀耕助傳」:『近世偉人傳・初編』(明治10年)より
(wikiより)
6389 櫛淵虚沖軒之碑(不忍池弁天島)
〇 櫛淵虚冲軒
櫛淵 宣根(くしぶち のぶもと、寛延元年5月10日(1748年6月5日) - 文政2年4月23日(1819年5月16日))は、日本の剣豪。神道一心流の創始者。本姓は平氏。虚中軒と号した。幼名は八弥、後に彌兵衛(やひょうえ)の通称を名乗った。櫛淵家ではごく近年におけるまで、代々の当主は彌兵衛と名乗った。家紋は五瓜に二木。
生涯
上野国利根郡後閑村(現群馬県利根郡みなかみ町後閑)に生まれる。生家の櫛淵家は、飯篠長威斉から神道流を学んだとされ、櫛淵家はこれを家伝としていた。宣根は父宣久より神道流を学び、長じては秋尾善兵衛利恭より微塵流剣術を習得した。微塵流は宣根に重要な影響を与え、後に自ら「夫我神道一心流本名微塵流云々」と「神道一心流兵法切紙」の付箋で記している。これらは宣根30代のうちに習得したと思われる。三和無敵流、揚心流柔術も学んだとする記述もあるが、明確な資料に乏しい。
天明5年(1786年)、師秋尾利恭の命により、微塵流を発展させ、神道一心流を創設する。
次に当時の沼田藩のお家流であった直心影流剣術を習い、江戸にてさらに4か月修行を重ねている。直心影流は神道一心流に大きな影響を与え、「神道一心流太刀数目録次第」に直心影流の技名と一致するものが多く見られる。
沼田藩で盛んだった戸田流薙刀術(戸田派武甲流)も片山治郎左衛門より習得、天明6年(1786年)に免許を得ている。また槍術では宝蔵院流をも習得し、己が流派へと取り入れて行った。
寛政2年(1790年)2月、42歳にして江戸へ進出、下谷の御徒町に稽古場を創設した。15年後、文化3年(1806年)の江戸の大火で道場を小川町広小路に移し、文化12年(1806年)6月まで華々しい活動を行った。全盛期の門人は451名を数え、深川八幡前にも出張稽古場を創設した。
寛政4年(1792年)には一橋徳川家に御徒並として召し抱えられた。その後、小十人格御広敷添番まで昇進し、遂に一橋家剣術師範役を勤めるまでの深い関係の礎を築いた。
実子はおらず、甥(弟の子)に当たる宣猶が養子となり、跡目を継いだ。
4代で一旦絶えるが、太平洋戦争後、地元群馬県にて神道一心流保存会が設立され、120あったと伝わる形のうち48本が復元され、「刺突の剣」「斬撃の剣」などの21の形が今に到るまで伝えられている。
墓所
・櫛淵宗家近所(群馬県利根郡みなかみ町)。
・位牌は群馬県利根郡みなかみ町玉泉寺にある。
顕彰碑
上野不忍池に、櫛淵宣根の顕彰碑が設立されている。この碑に記されている「五家之刀法」とは、宣根が様々な兵法に広く接して一流を創立したという意味かと思われる。
参考文献
・加藤寛「神道一心流 櫛淵宣根、宣猶、盛宣の事跡」『國學院大学体育学研究室紀要』第11巻
関連項目
・櫛淵鍹一(5代後の子孫)
(wikiより)
櫛淵宣根
5909 小野治郎右衛門忠喜墓(新宿区原町2-30・常楽寺)
5908 平賀常伴子墓(新宿区原町2-30・常楽寺)
5907 浅利義信墓(新宿区原町2-30・常楽寺)
浅利 義信(あさり よしのぶ、1778年(安永7年) - 1853年3月29日(嘉永6年2月20日))は、日本の剣客[1]。中西派一刀流。通称、又七郎。
下総国松戸の生まれで、江戸の一刀流中西道場第3代の中西子啓に学ぶ。同門に寺田宗有、白井亨、高柳又四郎がいた。突きを得意とし、若狭国小浜藩江戸屋敷の剣術指南を勤めた。
義信の姪で養女のかつと結婚した千葉周作が道場を継いだが、組太刀の改変をめぐって義信と周作は衝突を起こしてついに物別れとなり、周作夫妻は義信から独立して北辰一刀流を興すこととなる。主を失った浅利道場を守るため、義信は新たに中西家から義明を養子に迎えた[2]。
義信の弟子に遠藤五平太がいる。
注釈
1. 『江戸時代人物控1000』、山本博文監修 小学館、2007年、15頁。ISBN 978-4-09-626607-6。
2. 義明は、後に山岡鉄舟に一刀流夢想剣の極意を伝授する。
(wikiより)
5811 巌流ゆかりの柳(錦帯橋脇)
5810 剣豪佐々木小次郎の像(山口県岩国市横山)
5742 巌流ゆかりの柳(錦帯橋傍)
5607 東郷重張墓(鹿児島県鹿児島市南林寺町・南林寺由緒墓)
東郷 重張(とうごう しげはる、? - 1688年4月12日(貞享5年3月12日))は、江戸時代初期の薩摩藩士。薩摩藩の日置流弓術師範(師範としては2代目)。諱は初め重虎、後に重張。通称は四郎左衛門。
明から帰化した薩摩藩士で加治木衆である江夏友賢の子の江夏二閑と東郷四郎左衛門重勝の娘との子であったが、母方叔父の東郷重尚に嗣子がなかったので、その養子となる。
貞享5年(1688年)死去。菩提寺は松原山南林寺。法名は廓然院射因想的大居士。現在、墓は養父同様に南林寺由緒墓にある。
子孫
子孫は代々日置流弓術師範となった。このうち、東郷実依と東郷実行の墓は重張同様に南林寺由緒墓に現存している。
また、「伊地知季安著作集六」の『諸家忠死略抄』によると幕末の子孫である東郷左大夫実敬は島津斉彬側用人や桑原郡踊郷地頭を勤める。
その孫東郷重持は島津家家令で玉里文庫を西南戦争の災禍から救済した人物の一人である。
参考文献
・上野尭史『鹿児島士人名抄録』高城書房、2006年1月。ISBN 978-4887770782。2008年7月19日閲覧。
5606 東郷実行墓(鹿児島県鹿児島市南林寺町・南林寺由緒墓)
5603 東郷長左衛門墓(鹿児島県鹿児島市南林寺町・南林寺由緒墓)
出自
家祖の東郷駿河守は祁答院良重の一族という。駿河守の養子に有川貞則の子がなり、四郎左衛門重勝と称す。その跡を重勝の子源四郎重信が継ぎ、嗣子がなかったので、重尚は、菱刈重州の三男で東郷家に養子となって跡を継ぐ。
なお、重勝の父は後に有川から伊勢に改姓する。重勝の次兄(有川貞真)の子が伊勢貞昌である。
『本藩人物誌』ではこの東郷家を東郷大和守重治の弟の子孫とする説を掲載している。
また、東郷平八郎の先祖の東郷重弘と郷里が近かった。
経歴
慶長5年(1600年)8月1日の伏見城攻めで兄・源四郎重信が戦死したために家督相続した。
島津忠恒の命で元宇喜多秀家家臣で、島津家に仕官していた本郷義則について日置流弓術を学ぶ。
後に島津家久とともに伏見に上り、家久の命で日置流印西派の祖である吉田重氏の弟子になって皆伝を授かり、帰藩して弓術師範となる。
はじめは帖佐と加治木の間に住み、後に鹿児島城下に移る。谷山郷(現在の鹿児島県鹿児島市)地頭代時代は谷山に住み、谷山衆中に編入された。後に鹿児島衆中に戻る。谷山衆中時代の寛永12年の石高は51石で、晩年の万治2年の石高は99石9斗。
嗣子がなく、甥で江夏友賢の孫の東郷重虎(後に重張と改名)を養子とする。菩提寺は松原山南林寺。法名は心與利成庵主。後に傳弓院を追号される。現在、墓は南林寺由緒墓にあり、示現流剣術の達人として知られる薬丸兼福の墓の隣にある。
参考文献
・上野尭史 『鹿児島士人名抄録』高城書房、2006年1月。ISBN 978-4887770782。
・太原久雄「南林寺に蔵む」
・「鹿児島県史料 旧記雑録追録1」
関連項目
・日置流
(wikiより)
5596 指宿五左衛門平永健墓(鹿児島県鹿児島市南林寺町・南林寺由緒墓)
5593 薬丸半左衛門墓(鹿児島県鹿児島市南林寺町・南林寺由緒墓)
薬丸 兼義(やくまる かねよし、文化2年12月25日(1806年2月13日) - 明治11年(1878年)12月1日)は薩摩藩の剣術師範。薬丸兼武の長子。幼名は、壱之助。通称ははじめ長左衛門、次いで半左衛門。諱は兼包、兼義。当時の一般的な呼称は薬丸半左衛門であり、史料中には主にこの名で登場する。薬丸流(薬丸自顕流)の師範として弟の薬丸新蔵とともに剣名が高く、下級武士を中心に多くの弟子を育てた。弟子の中から維新の元勲が数多く出たため、「明治維新は薬丸流がたたきあげた」と言われた。
家格は小番[1]であり、明治3年(1870年)4月の「人別改帳」では3番組8番小番であったことが分かる。 また、代官就任時の役料から石高は50石以下。奄美大島や徳之島の役人や代官[2]を勤める。
経歴 (月日は旧暦)
・文化12年(1815年)8月21日、初お目見え。
・天保6年(1835年)12月28日、同年7月14日に父兼武が屋久島で死去したため、家督相続。
・天保7年(1836年)8月15日、通称を長左衛門に改名する。
・天保9年(1838年)6月21日、通称を半左衛門に改名する。
・天保14年(1843年)、大島蔵方目付となり、奄美大島に赴任[3]。
・嘉永4年(1851年)春、深見休八有安[4]の後任として徳之島蔵方目付となり、徳之島に赴任[5]。
・同年4月16日、徳之島の亀津に着く。
・嘉永6年(1853年)春、任期満了につき帰臥。
・嘉永7年(1854年)1月22日、年功者ではなかったが、特別に代官に就任し、役料銀5枚30目を支給される[6]。
・文久元年、藩主島津茂久の命により二之丸稽古所の師範15人のうちの一人となる。当時、幕末の情勢により、武術を稽古する者が増え、演武館では手狭となったので、鹿児島城二ノ丸にも稽古所が置かれた。[7]。
・同年6月、剣術師範となったことにより、切米5石を与えられる[8]。
・文久2年(1862年)に島津久光が上洛。その際、什長としてこれに従う。
・元治元年に薬丸自顕流が二之丸稽古所での稽古から撤収する[9]。
・明治11年(1878年)に死去。法名あるいは神号は南林寺由緒墓にある現在の墓石には記載されていない。
人物
父の兼武の代に薬丸自顕流は異端として排斥されていたが、兼義もまた剣名が高いことや示現流師範家の東郷家と和解したこともあり、天保年間の薩摩藩の軍制改革に際し剣術師範として取り立てられた。
復権したものの、薬丸家は兼武の代の没落によってかなり貧しくなっており[10]、兼義兄弟はかぼちゃばかり食べて暮らしていたため、「かぼちゃ薬丸どん」と呼ばれていた。
兼義は、城下士の下級武士を中心に数多くの弟子を育てた。その弟子の中から幕末維新に活躍する人物が数多く出ることになる。(弟子の名前は薬丸自顕流を参照)
島津久光が上洛した際には什長としてこれに従ったとき、配下から突出するものがないように気を配ったが、結果として寺田屋事件がおき、弟子達が同士討ちすることとなった。しかし、この寺田屋事件で薬丸流の名が高まり、入門者が増えることとなった。例えば、加治木郷では、それまで真影流(直心影流)が主流であったが、これにより薬丸流が広まることとなった。
維新後は官途に就かず就農した。
西南戦争でさらに弟子の多くを失い、戦後ほどなくして失意のうちに病死した。長子の兼文が流派を継いだ。墓は現在、南林寺由緒墓にあり、南州寺および月照の墓に近い列にある。
宅地
『鹿児島城下絵図散歩』によると、天保13年(1842年)の頃、現在の鹿児島市加治屋町の地に「薬丸半左衛門 759坪」とある。また、安政5年(1858年)の段階でも加治屋町に居住していたことがわかる。なお、文政4年(1821年)の『鹿児島城下明細図』の方には、父の「薬丸長左衛門」の名がどこにもなく、かわりに加治屋町には親族と思われるが続柄不詳の「薬丸半兵衛」が住んでおり、天保13年(1842年)の頃まで「薬丸半兵衛」が住んでいたことがわかる。なお、兼義の宅地のあった場所は現在、鹿児島市立病院本館が建っている。
また、兼義の宅地の近くにあった小道は「薬丸殿小路」と呼ばれた。
家族
・妻
・生家不明。1817年~1870年以降(明治3年4月の「人別改帳」によると当時54歳)
・子女(2男1女)
・兼文(壱之助、生没年は1850年(嘉永3年)5月13日~1914年(大正3年)6月24日)
・娘。1855年~1870年以降(明治3年4月の「人別改帳」では当時16歳)
・猪之丞1857年~1870年以降(明治3年4月時点で14歳)
参考文献
・『鹿児島市史III』
・松下志郎『奄美資料集成』南方新社
・『鹿児島県資料集1 薩藩政要録』
・塩満郁夫、友野春久 編『鹿児島城下絵図散歩』高城書房、2004年12月1日初版
・宮下満郎「池上四郎伝補説」(「敬天愛人」第20号別刷、西郷南州顕彰会、平成14年9月24日)
・村山輝志『示現流兵法』島津書房
脚注
1. 薬丸自顕流が下級武士を中心に行われたため薬丸家も下級武士だと書かれることが多い。しかしながら、薬丸家の家格は代々小番であるので、厳密に言うと家格の上では中級家臣でも上の方であった
2. 薩摩藩では地頭とは別に代官という職がある。地頭は家老や側用人などの藩の重役が兼務するのに対し、代官は藩内の席次が西郷吉兵衛の勘定方小頭より5つ下で、中級の職であった。
3. 『奄美資料集成』参照
4. この人物は真影流(直心影流)剣術師範であり、嘉永7年に江戸で死去したと『薩陽過去帳』にある。養子の深見休八有正は兼義同様に二之丸稽古所の師範15人のうちの一人となり、西南戦争に薩軍として参加。
5. 『奄美資料集成』参照
6. 『薩藩政要録』によると、この役料は持高50石以下の者がもらうことがしるされている。また、代々小番は10人扶持相当の家格であるが、代官職は5人扶持級の役職であった。但し、当時は代々小番でも5人扶持級の役職に就けない者もいた。
7. 「池上四郎伝補説」参照
8. 『示現流兵法』参照。
9. 「池上四郎伝補説」参照
10. 大久保利世や西郷吉二郎の項にあるように、流刑者のでた家の家族は全員失職する。なお、一番重い終身流刑地の沖永良部島遠島の場合は、知行や財産まで没収される。〈山田尚二著「西郷吉二郎の、土持政照あて書間」(「敬天愛人」別刷)参照〉
(wikiより)
5589 加藤清風墓(鹿児島県鹿児島市南林寺町・南林寺由緒墓)
5587 平田大監物墓(鹿児島県鹿児島市南林寺町・南林寺由緒墓)
経歴
平田宗保より始まる桓武平氏流平田氏次男家に生まれる。父は平田宗衛で、兄は平田新左衛門宗徳。元和9年3月13日に兄が25歳で死去したので、その養子となり家督相続。三河国の人で薩摩藩に来ていた水野柳滴より水野流居合を学んで皆伝を授かった。吟味役や町奉行などに就任。
寛永13年(1636年)に作成された「薩州鹿児島衆中屋敷検地帳」に「平田孫六(傍注に監物)・中屋敷2段2せ12分」とある。このことから、この年以降に通称を「孫六」から「監物」に変えたようである。
万治2年(1659年)作成の「万治鹿府高帳」には「平田監物・628石」とある。
菩提寺は曹洞宗松原山南林寺。「抄名墓録」では南林寺墓地の丸瓦羅橋[2]付近にあったという。墓は現在、南林寺由緒墓にある。
桂太郎兵衛忠増(初め忠益)の長女を妻とする[3]が男子なく、故に出水衆中の山田吉左衛門の子を婿養子とする。ただし、剣術は免許皆伝した家臣の武井種次が継ぐ。
脚注
1. なお、水野流は『示現流聞書喫緊録付録系図』では関口流居合のことという。薩摩藩では『水野流居合』の呼称が一般的であることは諸資料で散見できる。
2. 現在の鹿児島県鹿児島市の清滝川(鹿児島城築城前は甲突川本流だったという川)にかかっていた。
3. 「鹿児島県史料 旧記雑録拾遺 伊地知季安著作集三」の『桂彦大夫家系図』参照
参考文献
・太原久雄『南林寺に蔵む』
・上野尭史『鹿児島士人名抄録』高城書房
5573 坂本廉四郎清東墓(鹿児島県鹿児島市南林寺町・南林寺由緒墓)
5559 細田四郎兵衛墓(鹿児島県鹿児島市南林寺町・南林寺由緒墓)
5557 薬丸刑部左衛門入道如水墓(鹿児島県鹿児島市南林寺町・南林寺由緒墓)
経歴・
祖父の薬丸壱岐守が東郷重位の初陣の際に親代わりを務めた縁、またお互い屋敷が近かったこともあり[1]、東郷重位の勧めで示現流に入門した。ときに14歳。
東郷重位の子重方と同年代だったので、互いに切磋琢磨し、またたくまに上達した。16歳のときに早くも二段目を授かり、20歳の頃には皆伝して弟子を取ることも許された。
特に小太刀の技に優れた。当時はまだ戦国の気風が残っており、兼陳も刀傷沙汰に巻き込まれたり試合を挑まれたりしたが、その全てに打ち勝って剣名を高めた。
ある夜、兼陳は島津綱久に招かれ示現流の「意地」について問われた。その部屋には茶釜が置いてあったので兼陳は言った。「この茶釜を例えに使って示現流の『意地』を説明しましょう。」綱久は答えた。「よろしい。」兼陳「茶釜に水を入れて炭火を起こしこれを煮ます。水はだんだんとお湯になりそして熱湯になります。湯が蒸発し、炉の火は燃え続け茶釜を焼き、その色は紫、紅と変わります。こうなると、茶釜に触れるものは焼き尽くされます。これが当流の『意地』です。」
兼陳が稽古をすると、その気合のあまりのすさまじさに肥前焼きの茶碗が割れてしまうほどだったので、稽古中は茶碗を伏せるようにしていたという。その剣名は藩内で高く、東郷重位の五高弟に数えられるまでとなった。
83歳まで長生きし、東郷重位の教えを知る直弟子として流派内で重きを成した。
墓所は曹洞宗松原山南林寺[2]。法名は昌岳院殿薬翁清性大居士。現在、南林寺由緒墓に墓がある。
年譜
・寛永3年2月;東郷重位より示現流聞書誓喩奥書を与えられる。なお、このときの通称は大炊兵衛であった。[3]
・万治2年;「万治2年鹿府万治高帳」[4]に「薬丸刑部左衛門 219石」とある。
・元禄5年2月17日;妻の弟、蒲地八左衛門貞隆が82歳で死去[5]。
備考
1. 「鹿児島市史III」の「寛永十三年、鹿児嶋衆中屋敷御検地帳」によると、新堀の下に、『東郷肥前守 下屋敷 2反5畝』と『薬丸伴左衛門 下屋敷 5畝10歩』との記述がある。「本藩人物誌」では「半左衛門」となっているがこの「伴左衛門」は兼陳の父兼利と思われる。「伴左衛門」の「伴」は本姓が伴姓肝付氏であったことにちなむか?。
2. 玉龍山福昌寺の末寺。師匠家の東郷家も同寺に埋葬されていた。
3. 「鹿児島市史III」の『薬丸家文書』参照
4. 「旧記雑録追録1」に掲載
5. 「旧記雑録拾遺 伊地知季安著作集Ⅲ」の『蒲地四郎左衛門家系図文書写』参照
参考文献
・鹿児島県史料集(34) 示現流関係資料、鹿児島県史料刊行会、平成6年
・鹿児島市史III《同書には「薬丸家文書」あり》
・「三国名勝図会」
・村山輝志「示現流兵法」
5556 宮原主水正正清墓(鹿児島県鹿児島市南林寺町・南林寺由緒墓)
5555 祐中墓(鹿児島県鹿児島市南林寺町・南林寺由緒墓)
5270 真邊十郎右衛門墓(高知市丹中山・歴史公園)
5267 吉岡源八郎墓(高知市丹中山・歴史公園)
5266 日比禮八徳廣墓(高知市丹中山・歴史公園)
4496 井口小十郎墓(台東区谷中1丁目・谷中霊園)
文政 3年 ~ 明治 18年 3月 ( 1820 - 1885 )
新道無念流武術家。
本姓、若林為則。通称、小十郎。
武州秩父郡横瀬 ( 埼玉県秩父 ) 出身。
関宿藩士。
23歳で江戸に出て、神道無念流中興の祖である戸賀崎熊太郎に剣法を学び、その高弟となる。
嘉永 2年 ( 1849 ) 関宿藩士井口新六の養子となり 30石。
文久 3年 ( 1863 ) 筑波山の挙兵に参画し、参謀となる。
のち武州に道場を開き、数百人の門下生を持つ。
慶応 2年 ( 1866 ) 藩主・久世広文に抱えられ 40石を与えられる。
維新の折り家老・杉山対軒の勤王の考えに反対し、富山匡之助と共に、並塚村の庄内古川付近で暗殺した。
その結果、久世藩は、戊辰戦争では左幕派となり新政府に敗れた。
廃藩後は、神道実行教に入り布教する。66歳没。





4226 久米平内堂(台東区浅草2-3-1・浅草寺)
久米平内は江戸時代前期の武士。
『武江年表』によると、天和三年 ( 1683 ) に没したとされるが、その生涯については諸説あり、実像は明らかでせはない。
平内堂には次のような伝承がある。
平内は剣術に秀でており、多くの人をあやめてきた。
後年、その供養のために、仁王坐禅の法を修業し、浅草寺内の金剛院に住んで禅に打ちこんだという。
臨終にのぞみ自らの姿を石に刻ませ、多くの人に踏んでもらうことによって、犯した罪を償うために、この像を人通りの多い仁王門付近に埋めたと伝える。
その後、石像はお堂に納められたという。
「踏付け」が「文付け」に転じ、願文をお堂に納めると願い事が叶うとされ、江戸時代中期以降、とくに縁結びの神として庶民の信仰を集めた。
平内堂は、昭和二十年三月の戦災で焼失した。
現在のお堂は同五十三年十月に浅草寺開創千三百五十年記念として再建されたものである。
(案内板より)
〇 久米平内
久米 平内(くめ の へいない、1616年2月20日 - 1683年7月29日)は、江戸時代前期に実在した日本の武士、剣術家である[1][2][3]。粂 平内(読み同)とも表記する[2][3]。出生名は兵藤 長守(ひょうどう ながもり)[1][2]、通称は平内兵衛(へいないひょうえ)[1]。講談に取り上げられたため、その人物像は伝説的とされる[2][3]。
人物・来歴
元和2年1月4日(グレゴリオ暦 1616年2月20日)、肥後国熊本(現在の熊本県熊本市)に「兵藤長守」として生まれる[1]。「久米」(粂)姓は妻のものとされる[1]。
三河国挙母藩(現在の愛知県豊田市中心部)に仕え、そののちに江戸・赤坂(現在の東京都港区赤坂)で道場を開き、武術を教えた[1][3]。赤坂時代、千人斬りの願を起こし、夜ごと辻斬に出たとされる[2][3]。その後、出家した鈴木正三に入門し、座禅を修めた[1][3]。浅草の浅草寺の境内、仁王門外に自らの「仁王坐像」を設置し、罪業消滅を願い、通行人に踏みつけさせたとされる[2][3]。浅草寺の宝蔵門脇に「久米平内堂」が現存するが、ここに安置されたとされる平内像は「踏み付け」が「文付け」に解されて、縁結び信仰の対象となった[1][2][3]。
天和3年6月6日(グレゴリオ暦 1683年7月29日)、死去した[1]。享年68(満67歳没)。 戒名は無関一素居士[1]。
伝説・物語
歌川豊国(1769年 - 1825年)描く『粂平内左衛門長盛』、一勇斎国芳(歌川国芳、1798年 - 1861年)描く『見立十二支の内丑 粂平内左衛門・松若丸』は、伝説上の平内のデフォルメされた姿である。
1808年(文化5年)、曲亭馬琴が執筆し一柳齋豊廣こと歌川豊広が口絵を描き、慶賀堂が出版した『巷談坡堤庵』は、平内のほか、三浦屋薄雲(生没年不詳、17世紀)、向坂甚内(生年不詳 - 1613年)[4]、土手の道哲らの説話が盛り込まれている[5]。同書が描く平内は、武蔵国豊島郡渋谷郷(現在の東京都渋谷区)の渋谷庄司宗順の屋敷に囲われた剣術の達人として登場する[5]。平内は、数年前まで九州浪人であったが、壮年になってから土地を離れて江戸で剣術指南を始め、宗順も指導を受けるがあまりの貧しさに居宅を提供、平内はこれを恩に着る[5]。宗順は三浦屋の薄雲太夫と出会うが、薄雲は向坂甚内に斬られるが子どもを生んで死に、宗順の夢枕に立つが、これを妖怪と見定めて平内は退治する[5]。宗順は薄雲の子を引き取り瀬太郎と名づけ、長男の金王の弟として育て、最終的に薄雲の仇討ちに成功するが、平内は、薄雲が実の娘であったことを告白する[5]。
1912年(明治45年)7月、立川文庫第32編として刊行された『武士道精華 粂平内』には、剣術指南の阪田藤十郎、荒木又右衛門(1599年 - 1638年)、幡随院長兵衛(1622年 - 1657年)、白柄組・水野十郎左衛門(1630年 - 1664年)らが登場する[6]。1916年(大正5年)、大川屋書店の八千代文庫第14編として刊行された『粂平内』にも、立川文庫同様に幡随院長兵衛が登場して平内の危難を救い、男嫌いの芸者「小春」が登場、水野十郎左衛門がこれを斬ろうとする[7]。長兵衛がとりもって平内は小春と結婚するが、長兵衛は湯殿で殺され、平内が水野を討ち取るという話になっている[7]。1918年(大正7年)、博文館が刊行した、三代目小金井蘆洲による講談本『粂平内』によれば、平内の名は「粂平内兵衛長守」、父は「真野平左衛門長親」とされ、[8]。剣術は父から学んだ卜伝流、津和野城の亀井氏に親子で仕官したという設定である[9]。阪田藤十郎が平内を(柳生宗矩、1571年 - 1646年)に推挙[10]、その後柳生新陰流の免許皆伝している[11]。同ヴァージョンにも、荒木又右衛門、幡随院長兵衛、水野十郎左衛門は登場し、平内は、最終的に初期に助けた三輪屋お里と結婚する[12]。
フィルモグラフィ
日本映画データベースにみられる「久米平内」(粂平内)の登場する劇映画一覧である。末尾の俳優が平内を演じた。
・『粂の平内一代記』 : 製作・配給M・パテー商会、1911年3月13日公開 - 主演不明
・『久米の平内』 : 監督牧野省三、製作日活京都撮影所、配給日活、1914年3月1日公開 - 尾上松之助
・『粂の平内』 : 製作日活京都撮影所、配給日活、1923年公開 - 尾上松之助
・『粂の平内 大阪の巻』 : 監督山下秀一、脚本上島量、製作帝国キネマ演芸小坂撮影所、配給帝国キネマ演芸、1925年9月3日公開 - 尾上紋十郎
・『粂平内と幡随院』 : 監督山下秀一、脚本上島量、製作帝国キネマ演芸小坂撮影所、配給帝国キネマ演芸、1925年10月29日公開 - 尾上紋十郎
・『粂平内と鉄扇』 : 監督山下秀一、脚本近松門吉、製作帝国キネマ演芸小坂撮影所、配給帝国キネマ演芸、1925年12月8日公開 - 尾上紋十郎
・『粂平内 幡随院復讐篇』 : 監督山下秀一、原作・脚本高井清太郎、製作・配給帝国キネマ演芸 1929年1月10日公開 - 明石緑郎
・『粂平内 白柄組征服篇』 : 監督矢内政治、原作・脚本高井清太郎、製作・配給帝国キネマ演芸 1929年1月15日公開 - 明石緑郎
・『豪傑粂の平内』 : 監督米沢正夫、原作川上構、製作・配給極東映画、1937年公開 - 阪東勝太郎
脚注
1. a b c d e f g h i j 久米平内、デジタル版 日本人名大辞典+Plus、コトバンク、2012年7月25日閲覧。
2. a b c d e f g 久米平内、デジタル大辞泉、コトバンク、2012年7月25日閲覧。
3. a b c d e f g h 粂平内・久米平内、大辞林 第三版、コトバンク、2012年7月25日閲覧。
4. デジタル版 日本人名大辞典+Plus『向坂甚内』 - コトバンク、2012年7月26日閲覧。
5. a b c d e 巷談坡堤庵、曲亭馬琴、ふみくら、高木元、2012年7月26日閲覧。
6. 武士道精華 粂平内、国立国会図書館、2012年7月26日閲覧。
7. a b 粂平内 怒濤庵、国立国会図書館、2012年7月26日閲覧。
8. 蘆洲、p.2-3.
9. 蘆洲、p.12-13.
10. 蘆洲、p.112.
11. 蘆洲、p.181.
12. 蘆洲、p.241.
参考文献
・『巷談坡堤庵』、著曲亭馬琴、画一柳齋豊廣、慶賀堂、1808年
・『武士道精華 粂平内』、草化山人、立川文庫第32篇、1912年7月
・『久米平内剛力物語』山東京山、『絵本稗史小説 第2集』所収、博文館、1917年
・『粂平内』、三代目小金井蘆洲、博文館、1918年
・『番町皿屋敷 実説怪談』、悟道軒円玉・今村次郎、博文館、1922年
・『第十七席 三平大淀にお菊の横死を物語る事、并に劍客久米平内兩人の仇討助勢を引受ける事』
・『第二十四席 主膳公儀の威光にて憤りを晴らさんとする事、并に久米平内素性の事』
・『民俗信仰の玩具』、万造寺竜・山中登、書物展望社、1938年
・『久米平内像と浅草寺』、磯ケ谷紫江、紫香会、1958年11月
・『浅草寺境内独案内』、磯ケ谷紫江、紫香会、1959年
関連項目
・立川文庫
・久米平内堂
外部リンク
・デジタル版 日本人名大辞典+Plus『久米平内』 - コトバンク
・『巷談坡堤庵』解題と翻刻 - ふみくら(高木元)
(wikiより)
4147 男谷忠友墓(台東区谷中1丁目・谷中霊園)
3976 宮本左一郎墓(茨城県水戸市松本町13-34・常磐共有墓地)
3963 三木啓次郎墓(茨城県水戸市見川2-103・妙雲寺)
三木 啓次郎(みき けいじろう、1877年(明治10年) - 1972年(昭和47年))は、近現代日本の剣術家。北辰一刀流免許皆伝。
1915年(大正4年)には北辰一刀流の千葉勝太郎の著書『剣法秘訣』を世に出している。
1918年(大正7年)、啓次郎は桜田門外の変を起こしたのち逃走し自刃した水戸浪士の霊を慰めるため、大阪四天王寺境内を訪れた。そこで二股ソケットを販売していた松下幸之助と出会った。経済的に困窮していた松下だったが、話を聞いた啓次郎が水戸の田畑を抵当に幸之助を援助した。後に成功した幸之助は恩義に答えるため、松下電器を『水戸黄門』のスポンサーとし、浅草寺の雷門、四天王寺の極楽門、水戸の常磐神社境内にある三木神社などに寄進した[1]。
皇室とも縁が深く「木戸御免」であったという。
水戸妙雲寺に墓があり、墓碑には「松下幸之助顧問」と書かれている。
出典
1. 「ニッポン人脈記 黄門は旅ゆく4 世直し幸之助のドラマ」 『朝日新聞』2009年11月13日付け夕刊、1面
外部リンク
・ようこそ 三木神社へ - 常磐神社
(wikiより)
3949 海保帆平墓(茨城県水戸市酒門町320・酒門共有墓地)
海保 帆平(かいほ はんぺい、文政5年(1822年) - 文久3年10月14日(1863年11月24日))は幕末期の剣豪、水戸藩士。
若くして懇望されて水戸藩に仕官したが同藩における23年の生涯のうち3分の1強は刑に服していた。このころの水戸藩の動向と同じく波乱の生涯だった。創作物では、千葉周作の道場が登場する時代小説の脇役として出てくる程度である。
生い立ち
文政5年(1822年)上州安中藩[1]の江戸屋敷で男三人兄弟の次男として生まれた。幼名は鉞次郎、後に帆平、諱は芳郷。祖父荘兵衛は享和2年(1802年)に没するまで長く安中藩の江戸詰の年寄役を勤めていた。父荘兵衛も、その父の没後、少なくも文政8年(1825年)から天保8年(1837年)に没するまで江戸詰の年寄役を勤めている[2]。
兄左次馬は4歳年上、弟順三は2歳年下だった。帆平が幼時安中で剣の修業をしたという説があるが、父の役柄からありえない。生後一貫して江戸で過ごした筈である。
天保6年(1835年)13歳のときに千葉周作の玄武館に入門、研鑽を積んで天保11年(1840年)18歳という記録的若さで大目録免許皆伝を得たといわれる。
水戸藩仕官
水戸藩に仕官するについて、水戸藩内の推薦者を藤田東湖とする説があるが、実際は東湖と並んで藩主徳川斉昭の側近だった戸田忠敞である。忠敞と東湖は水戸の両田といわれ斉昭の股肱の臣だった。
忠敞は天保10年(1839年)藩の若年寄となり、天保11年(1840年)には執政に昇進するとともに、当時造営が進んでいた藩校弘道館の造営責任者となっていた[3]。彼はまた玄武館とも縁が深く、その門弟リストに彼の名前が載っている(同名だった彼の息子かもしれないが)[4]。天保11年(1840年)秋には兄左次馬は国詰めとなっており、連絡は帆平の叔母婿で江戸詰の木村益衛門を経由して行われた。海保側はいったん承知した後断るという事態が生じ種々やりとりがあったが、結局、水戸側の好意的申し出にほだされて仕官することになった。
水戸藩の公式資料『水府系纂』によれば天保12年(1841年)1月からの採用だが、先方からの申し出では11年中に来ればその年の俸給を出すということになっていた。また、仕官後の禄高について藩からの支給は50石であるが忠敞が自分の禄高から50石を割いて上乗せするとの約束で出発した[5]。これがいつまで続いたかは詳らかでない。剣術師範として採用されたなどともいわれるがとくにそういった言葉は使われていない。
水戸藩主は天下の副将軍などといわれたが、幕末当時の藩内は抗争の絶え間がなかった。そもそも斉昭襲封の前には、世継のいない病弱な前藩主徳川斉脩のあとを、徳川将軍家から養子を迎えて便宜を受けようとする門閥派と英名高い弟斉昭をいただいて改革を図ろうとする改革派に分かれて激しく争われ、これが後々まで糸を引いた。藤田東湖や戸田忠敞は改革派の指導者格だった。さらに、安政5年(1858年)に、朝廷から国内体制の立て直しに努力せよという趣旨の勅諚が直接水戸藩に下ると、幕府の指示に従って返上すべしという鎮派とこれを奉じていくべしとの激派に改革派が分裂して抗争はさらに激しくなった。後の桜田門外の変や天狗党の乱は激派の動きが発展した結果である。門閥派、鎮派、激派の抗争は明治維新後まで続き、水戸藩疲弊の原因となった。
仕官後嘉永6年まで
仕官後間もなくだと思うが戸田忠敞の仲人[6]で、水戸の碩学会沢正志斎の三女と結婚した。正志斎は幕末の日本に大きな影響を与えた有名な学者で、改革派の理論的指導者だったから帆平もその影響を受けたと思われる。
仕官後3年半ほどたった弘化元年(1844年)藩主斉昭が幕府から叱責を受けて隠居・謹慎を命じられるという大事件が発生した。
心ある藩士とともに帆平も藩主の雪冤運動に係わって、無断で江戸表まで出かけて行った。これを咎められて藩から4年半に及ぶ逼塞・遠慮という罰を受けた[3]。縁者でもある帆平の墓碑銘の撰文者はこのおかげで「日夜研精し頗る大義に通ずるを得」たとしている。以前の帆平から脱皮する機会になったのかもしれない[7]。
嘉永4年(1851年)から翌5年(1852年)にかけて吉田松陰が東北地方を旅行した折には水戸の会沢正志斎宅で帆平に会っている(嘉永5年1月14日)[8]。嘉永6年(1853年)6月、マシュー・ペリーの来航に当たって帆平は浦賀に赴き、交渉に当たった与力から貴重な聞き書きをとった。帆平の名を付した聞き書きは東京大学史料編纂所に「浦賀異船始末」として、また、鹿児島大学附属図書館の玉里文庫に「海防名応接記」として残されている。いずれも薩摩藩関係の文書である。筆者名を明らかにしていないがほとんど同じ内容の、元は同じと思われる資料がいくつか出回っているらしい。「海保帆平記」を疑う説もあるようだが「浦賀異船始末」の末尾の「海保帆平大胡聿蔵再度浦賀表発足而聞書之」から判断し、事実に則したものと思われる。ただし、水戸関係にこれを裏付ける資料はないようだ。[要出典]
帆平が浦賀に赴いたのは、戸田忠敞が、幕府の海防参与となった斉昭の許で海岸防禦御用掛となったことと関係あるのかもしれない。翌安政元年(1854年)江戸詰となったことについても浦賀での働きと関連があるのかもしれない。[要出典]
安政元年より安政6年まで
安政元年(1854年)江戸馬廻組として出府[3]。江戸へ出て間もなく本郷の弓町に振武館という道場を持つことを認められた。後年安中藩の剣術師範となり剣名を轟かせた根岸忠蔵はここの塾頭として修練を積んだ[9]。
安政4年(1857年)には土佐藩の江戸藩邸で行われた武術試合に選ばれて出場している[10]。
ただ、帆平にとって痛恨の出来事は、安政2年(1855年)10月の安政の大地震でよき理解者だった戸田忠敞が藤田東湖とともに圧死してしまったことである。斉昭にとっても水戸藩全体にとっても両田の死は大変な損失だった。
この時期帆平は水戸にいる学者豊田天功、小太郎の親子に折に触れて便りし政治情勢を伝え、時事を論じている[11]。これが仕事として行われたものであるかどうか詳らかでないが、天功という学者は海外事情の摂取に非常に積極的な学者だったからそれへの協力の意味があると思う。そこに一介の剣客ではない帆平を見ることができる[要出典]。
安政5年(1858年)4月に井伊直弼が大老に就任し、将軍継嗣問題に日米修好通商条約問題が絡み合って、江戸・京都の政治情勢は混とんとしてきた。とりわけ水戸藩をめぐる情勢はますます厳しくなった。
安政5年(1858年)秋口から安政の大獄が始まるが、帆平にもその影響が及び、安政6年(1859年)11月、幕府の指示で、蟄居の刑に処せられた。以来水戸において3年近い蟄居生活を送る。罰の理由は詳らかでない。桜田門外の変の結果という説もあるが処罰はその前の年である。「浪士を引き連れて井伊家に斬り込む」との噂が流れたために危険人物として処罰の対象になったらしい[3]。
文久元年から文久3年まで
文久2年(1862年)8月に蟄居を免ぜられて職場に復帰し、翌文久3年(1863年)には藩主徳川慶篤にしたがって、物情騒然の京都へ赴く。在京3月5日から25日で離京するが水戸へ帰って約半年後の10月14日逝去した。41歳だった。水戸市酒門共同墓地に墓所が存在する。
帆平の墓は水戸の酒門墓地にあるが墓碑銘の撰文者はこう言っている。「人となり質直にして義を好む。躯幹長大、状貌雄偉、常に長刀を佩ぶ。風節凛然たり。」、「居常酒を嗜み、客を愛す。喜んで人の急に趨き、奮って身を顧みず。」と。
兄左次馬は帆平に先立って文久2年(1862年)に安中において没し、弟順三は安中藩に仕え、玄武館の世話役頭取を勤めたが明治12年(1879年)下総の太田で没した[12]。
逸話
・水戸公の前で仕合をすることになったが、相手は富士浅間流祖の中村一心斎(身長6尺2寸[13]、老年)。海保は逆上段を取ったが、中村は短刀を正眼につけたままで、海保は打ち込めず、中村はそのまま進んでアゴ下にふれんばかりの所(間合い)へ入り、そのまま元の所へ帰った。海保は人形のように動けず、水戸公は「勝負はあった」と仕合を止めた。納得がいかない顔をしている海保に対し、水戸公は海保は心の争いに負けたと説明したとされる[14]。
脚注
1. 藩主板倉氏。所領3万石。碓氷関所を預かる譜代大名。
2. 東京大学附属図書館鴎外文庫所蔵の武鑑により確認。
3. a b c d 『水府系纂』。茨城県立歴史館所蔵の写しによる。
4. 清河八郎記念館所蔵「玄武館出席大概」
5. 帆平生家所蔵文書
6. 明治26年(1893年)刊「上毛偉人伝」。帆平に関する記事は彼の生家の提供によるところが大きいが誤解による点が散見される
7. 撰文者寺門誠は水戸藩の修史局である彰考館末期の学者で帆平の縁者
8. 吉田松陰著「東北遊日記」
9. 安中市史第五巻近世資料篇
10. 平尾道雄著「海援隊始末記」当時の土佐藩剣術指南役石山孫六遺家所蔵文書による。
11. 茨城県立歴史館所蔵「高橋須賀子家文書」
12. 順三墓碑銘[要出典]
13. 中里介山 『日本武術神妙記』 角川ソフィア文庫 2016年 p.356.
14. 中里介山 『日本武術神妙記』 角川ソフィア文庫 2016年 pp.207 - 208
(wikiより)
3927 谷田部通堅・室墓(茨城県水戸市松本町13-34・常磐共有墓地)
3923 勝村徳勝墓(茨城県水戸市松本町13-34・常磐共有墓地)
3921 小澤寅吉墓(茨城県水戸市松本町13-34・常磐共有墓地)
3830 柳生城(石舟斎塁城址)(奈良県奈良市柳生下町445・芳徳寺)
やぎゅうじょう ( 柳生城 )
奈良県奈良市柳生町にあった山城 ( やまじろ )。
柳生新陰流の開祖、柳生石舟斎宗巌 ( やぎゅうせきしゅうさいむねよし ) の居城。
柳生城は、南北朝時代に大和柳生荘の豪族柳生氏が山上に城を築いたのが始まりとされる。
1544年 ( 天文 13 )、柳生家巌・宗巌父子は山中衆と共に大和に勢力拡大をはかる筒井順昭 ( じゅんしょう ) に抵抗したが、筒井軍の大軍に攻められ落城した。
織田信長の大和侵攻に功あって所領を得たが、豊臣秀吉の文禄検地で隠し田が露見して所領は没収された。
1600年 ( 慶長 5 ) 関ヶ原の戦いの戦功により柳生の旧領 2000石を与えられ、柳生家を再興した。
柳生家の菩提寺芳徳寺 ( ほうとくじ ) は初期の城跡に建てられており、付近には堀割などの跡がある。
また芳徳寺前には「石舟斎塁城」の石碑が建っている。
3693 一刀岩(奈良県奈良市柳生町柳生字岩戸谷789・天石立神社)
3447 久米平内墓(文京区向丘2-25-10・海蔵寺)
人物・来歴
元和2年1月4日(グレゴリオ暦 1616年2月20日)、肥後国熊本(現在の熊本県熊本市)に「兵藤長守」として生まれる[1]。「久米」(粂)姓は妻のものとされる[1]。
三河国挙母藩(現在の愛知県豊田市中心部)に仕え、そののちに江戸・赤坂(現在の東京都港区赤坂)で道場を開き、武術を教えた[1][3]。赤坂時代、千人斬りの願を起こし、夜ごと辻斬に出たとされる[2][3]。その後、出家した鈴木正三に入門し、座禅を修めた[1][3]。浅草の浅草寺の境内、仁王門外に自らの「仁王坐像」を設置し、罪業消滅を願い、通行人に踏みつけさせたとされる[2][3]。浅草寺の宝蔵門脇に「久米平内堂」が現存するが、ここに安置されたとされる平内像は「踏み付け」が「文付け」に解されて、縁結び信仰の対象となった[1][2][3]。
天和3年6月6日(グレゴリオ暦 1683年7月29日)、死去した[1]。享年68(満67歳没)。 戒名は無関一素居士[1]。
伝説・物語
歌川豊国(1769年 - 1825年)描く『粂平内左衛門長盛』、一勇斎国芳(歌川国芳、1798年 - 1861年)描く『見立十二支の内丑 粂平内左衛門・松若丸』は、伝説上の平内のデフォルメされた姿である。
1808年(文化5年)、曲亭馬琴が執筆し一柳齋豊廣こと歌川豊広が口絵を描き、慶賀堂が出版した『巷談坡堤庵』は、平内のほか、三浦屋薄雲(生没年不詳、17世紀)、向坂甚内(生年不詳 - 1613年)[4]、土手の道哲らの説話が盛り込まれている[5]。同書が描く平内は、武蔵国豊島郡渋谷郷(現在の東京都渋谷区)の渋谷庄司宗順の屋敷に囲われた剣術の達人として登場する[5]。平内は、数年前まで九州浪人であったが、壮年になってから土地を離れて江戸で剣術指南を始め、宗順も指導を受けるがあまりの貧しさに居宅を提供、平内はこれを恩に着る[5]。宗順は三浦屋の薄雲太夫と出会うが、薄雲は向坂甚内に斬られるが子どもを生んで死に、宗順の夢枕に立つが、これを妖怪と見定めて平内は退治する[5]。宗順は薄雲の子を引き取り瀬太郎と名づけ、長男の金王の弟として育て、最終的に薄雲の仇討ちに成功するが、平内は、薄雲が実の娘であったことを告白する[5]。
1912年(明治45年)7月、立川文庫第32編として刊行された『武士道精華 粂平内』には、剣術指南の阪田藤十郎、荒木又右衛門(1599年 - 1638年)、幡随院長兵衛(1622年 - 1657年)、白柄組・水野十郎左衛門(1630年 - 1664年)らが登場する[6]。1916年(大正5年)、大川屋書店の八千代文庫第14編として刊行された『粂平内』にも、立川文庫同様に幡随院長兵衛が登場して平内の危難を救い、男嫌いの芸者「小春」が登場、水野十郎左衛門がこれを斬ろうとする[7]。長兵衛がとりもって平内は小春と結婚するが、長兵衛は湯殿で殺され、平内が水野を討ち取るという話になっている[7]。1918年(大正7年)、博文館が刊行した、三代目小金井蘆洲による講談本『粂平内』によれば、平内の名は「粂平内兵衛長守」、父は「真野平左衛門長親」とされ、[8]。剣術は父から学んだ卜伝流、津和野城の亀井氏に親子で仕官したという設定である[9]。阪田藤十郎が平内を(柳生宗矩、1571年 - 1646年)に推挙[10]、その後柳生新陰流の免許皆伝している[11]。同ヴァージョンにも、荒木又右衛門、幡随院長兵衛、水野十郎左衛門は登場し、平内は、最終的に初期に助けた三輪屋お里と結婚する[12]。
フィルモグラフィ
日本映画データベースにみられる「久米平内」(粂平内)の登場する劇映画一覧である。末尾の俳優が平内を演じた。
・『粂の平内一代記』 : 製作・配給M・パテー商会、1911年3月13日公開 - 主演不明
・『久米の平内』 : 監督牧野省三、製作日活京都撮影所、配給日活、1914年3月1日公開 - 尾上松之助
・『粂の平内』 : 製作日活京都撮影所、配給日活、1923年公開 - 尾上松之助
・『粂の平内 大阪の巻』 : 監督山下秀一、脚本上島量、製作帝国キネマ演芸小坂撮影所、配給帝国キネマ演芸、1925年9月3日公開 - 尾上紋十郎
・『粂平内と幡随院』 : 監督山下秀一、脚本上島量、製作帝国キネマ演芸小坂撮影所、配給帝国キネマ演芸、1925年10月29日公開 - 尾上紋十郎
・『粂平内と鉄扇』 : 監督山下秀一、脚本近松門吉、製作帝国キネマ演芸小坂撮影所、配給帝国キネマ演芸、1925年12月8日公開 - 尾上紋十郎
・『粂平内 幡随院復讐篇』 : 監督山下秀一、原作・脚本高井清太郎、製作・配給帝国キネマ演芸 1929年1月10日公開 - 明石緑郎
・『粂平内 白柄組征服篇』 : 監督矢内政治、原作・脚本高井清太郎、製作・配給帝国キネマ演芸 1929年1月15日公開 - 明石緑郎
・『豪傑粂の平内』 : 監督米沢正夫、原作川上構、製作・配給極東映画、1937年公開 - 阪東勝太郎
脚注
1. a b c d e f g h i j 久米平内、デジタル版 日本人名大辞典+Plus、コトバンク、2012年7月25日閲覧。
2. a b c d e f g 久米平内、デジタル大辞泉、コトバンク、2012年7月25日閲覧。
3. a b c d e f g h 粂平内・久米平内、大辞林 第三版、コトバンク、2012年7月25日閲覧。
4. デジタル版 日本人名大辞典+Plus『向坂甚内』 - コトバンク、2012年7月26日閲覧。
5. a b c d e 巷談坡堤庵、曲亭馬琴、ふみくら、高木元、2012年7月26日閲覧。
6. 武士道精華 粂平内、国立国会図書館、2012年7月26日閲覧。
7. a b 粂平内 怒濤庵、国立国会図書館、2012年7月26日閲覧。
8. 蘆洲、p.2-3.
9. 蘆洲、p.12-13.
10. 蘆洲、p.112.
11. 蘆洲、p.181.
12. 蘆洲、p.241.
参考文献
・『巷談坡堤庵』、著曲亭馬琴、画一柳齋豊廣、慶賀堂、1808年
・『武士道精華 粂平内』、草化山人、立川文庫第32篇、1912年7月
・『久米平内剛力物語』山東京山、『絵本稗史小説 第2集』所収、博文館、1917年
・『粂平内』、三代目小金井蘆洲、博文館、1918年
・『番町皿屋敷 実説怪談』、悟道軒円玉・今村次郎、博文館、1922年
・『第十七席 三平大淀にお菊の横死を物語る事、并に劍客久米平内兩人の仇討助勢を引受ける事』
・『第二十四席 主膳公儀の威光にて憤りを晴らさんとする事、并に久米平内素性の事』
・『民俗信仰の玩具』、万造寺竜・山中登、書物展望社、1938年
・『久米平内像と浅草寺』、磯ケ谷紫江、紫香会、1958年11月
・『浅草寺境内独案内』、磯ケ谷紫江、紫香会、1959年
関連項目
・立川文庫
・久米平内堂
外部リンク
・デジタル版 日本人名大辞典+Plus『久米平内』 - コトバンク
・『巷談坡堤庵』解題と翻刻 - ふみくら(高木元)
(wikiより)
3256 金子徳輝・健四郎墓(京都府京都市下京区柿本町735・妙恵会総墓地)
3200 八代目・山田浅右衛門吉豊墓(豊島区池袋3-1-6・祥雲寺)
山田吉豊 ( よしとよ )
天保 10年 - 明治 15年 ( 1839 - 1882 )
明治になって浅雄とも名乗った。
俳号は亀宝館柊哉。
七代目と六代目の養女・幸の間の子。
明治三年 ( 1870 ) 4月 15日の「弁官達」で刑死者の試し斬り及び人胆等の採取が禁じられ(「従前刑余ノ骸ヲ以テ刀剣ノ利鈍ヲ試来候。右ハ残酷ノ事ニ候間厳禁取締可致。其他人胆或ハ霊天蓋陰茎等密売致ス哉ニ候(中略)是又厳禁取締可致候事」)、ために山田家は試し斬りと製薬業のいずれもが行えなくなった。
八代目は「東京府囚獄掛斬役」すなわち首斬り役として出仕。
明治五年のいわゆる壬申戸籍には「平民」と明記されている。
明治 7年 2月 12日に斬役の職務を解かれ、明治 12年 10月 16日に隠居。
明治 15年 8月 13日に父 ( 七代目 ) に先立って死亡。享年 44歳。
3199 七代目・山田朝右衛門吉利墓(豊島区池袋3-1-6・祥雲寺)
概要
吉利は備中新見藩の藩士後藤五左衛門の次男であった。山田朝右衛門の襲名は先代の出家が1847年であることからそれ以前であろうと推定されている。
吉利は据物斬り以外にも刀剣鑑定に優れ、公儀御用のほかに御三家御用、さらには公儀腰物拝見役を拝命した。歴代の山田朝右衛門は刀の試し斬りを行った事から刀剣鑑定も行っていたのだが、これは異例の抜擢であった [1]。吉利は家譜(「源姓山田家系譜」という)に「先祖に先例なき特典なり」と割り注を入れている。また、吉利はこれに伴う扶持米を「先祖より浪人の分にて」として辞退している。
1868年5月27日、吉利は市政裁判所から「市政裁判所附」を命じられ、翌1869年には山田家伝来の名刀「備前長船景光」(通称:小竜景光) [2]を宮内省に献上した。宮内省は奇特な行為として500円を下賜したが、これを明治天皇による買い上げと見る説もある。
1869年、吉利は家を長男の浅雄(山田浅右衛門吉豊)に譲り、隠居して麹町平河町(現、千代田区)二丁目の本宅から同八丁目清水谷上の隠宅へ移った。歴代の山田朝右衛門家は、死刑執行人としての家業を子に継がせる事を嫌悪し、弟子の中から養子をとっていたのだが、実子に家を継がせたのは唯一の例である。
1870年4月15日、政府は山田家家伝の製薬の「山田丸」(浅右衛門丸・人丹などとも称する)など、人間の肝臓や脳などを材料とした薬の販売を禁止した。
1872年の壬申戸籍編成に際して吉利は隠居のままに一家を新たに興し、販売禁止の製薬「山田丸」のみを吉利の家へと分け、山田家本家から「山田丸」を分離させた。なお、麹町区の「除籍簿」(58号)には「平民」とある。
吉利の墓は勝興寺(新宿区須賀町8番地)と正源寺(港区白金2丁目7番19号)とにある。これは吉利が養子であり、遺言で葬式は勝興寺、屍は正源寺としたためである。正源寺は実家の後藤家の菩提寺であった。
勝興寺の墓誌には「明治十七年十二月二十九日、天寿院慶心和水居士、第七世山田朝右衛門吉年、行年七十有二歳」とある。
関連作品
テレビドラマ・『花燃ゆ』(2015年、NHK大河ドラマ、演:松本真司)
参考文献と注釈
参考文献
・永島孫一「首斬浅右衛門吉利」。1935年6月「伝記」p77-94。
・永島孫一「八代目首斬浅右衛門吉豊」。1936年3月「伝記」p60-68。
注釈
1. 公儀腰物拝見役は徳川幕府開幕以来本阿弥家のみの専任であり、先例格式を重んじる当時にあっては極めて珍しい特例であった。
2. 楠木正成の佩刀という伝説をもち、「楠籠龍ノ太刀」の異名のある稀代の名刀という。
関連項目
・山田浅右衛門
(wikiより)
3198 山田家墓(豊島区池袋3-1-6・祥雲寺)
3197 山田浅右衛門之碑(豊島区池袋3-1-6・祥雲寺)
〇 歴代・山田浅右衛門
・初代・山田浅右衛門貞武
・二代・山田浅右衛門吉時
・三代・山田浅右衛門吉継
・四代・山田浅右衛門吉寛
・五代・山田浅右衛門吉睦
・六代・山田朝右衛門吉昌
・七代・山田朝右衛門吉利
・八代・山田浅右衛門吉豊
・浅右衛門之碑
『 山田氏の先は 六孫王源経基に出づ始祖貞武 資性倜儻(てきとう)不羈(ふき)武を好み山野氏に従て刀術を修め其妙を極む
江戸平河に住し浅右衛門と称す子孫 之を其家号となる
2世吉時 徳川家の御腰物御様御用を勤め 傍ら首打同心の役を兼ぬ
後世 職となり 3世吉継 4世吉寛 相承け 5世吉睦 山田流据物刀法を大成し又刀剣鑑定家として名声 籍甚(せきじん)なり
6世吉昌 7世吉利 8世吉豊 皆能く其裘(きゅうぐ)の業を紹恢し 敢て家声を堕ず
以て明治維新に至
今や継嗣絶え 墳墓亦殆ど壊滅に帰せり仍(よっ)て同志胥謀り
世系事蹟を石にし 祥雲寺の境内に建て 且つ 髻(もとどり)塚を修造し以て後に貼すと云爾
昭和 13年 10月 9日 鴇田恵吉 』
3196 髻塚(毛塚)(豊島区池袋3-1-6・祥雲寺)
2899 櫛淵彌兵衛宣根墓(豊島区池袋3-1-6・祥雲寺)
生涯
上野国利根郡後閑村(現群馬県利根郡みなかみ町後閑)に生まれる。生家の櫛淵家は、飯篠長威斉から神道流を学んだとされ、櫛淵家はこれを家伝としていた。宣根は父宣久より神道流を学び、長じては秋尾善兵衛利恭より微塵流剣術を習得した。微塵流は宣根に重要な影響を与え、後に自ら「夫我神道一心流本名微塵流云々」と「神道一心流兵法切紙」の付箋で記している。これらは宣根30代のうちに習得したと思われる。三和無敵流、揚心流柔術も学んだとする記述もあるが、明確な資料に乏しい。
天明5年(1786年)、師秋尾利恭の命により、微塵流を発展させ、神道一心流を創設する。
次に当時の沼田藩のお家流であった直心影流剣術を習い、江戸にてさらに4か月修行を重ねている。直心影流は神道一心流に大きな影響を与え、「神道一心流太刀数目録次第」に直心影流の技名と一致するものが多く見られる。
沼田藩で盛んだった戸田流薙刀術(戸田派武甲流)も片山治郎左衛門より習得、天明6年(1786年)に免許を得ている。また槍術では宝蔵院流をも習得し、己が流派へと取り入れて行った。
寛政2年(1790年)2月、42歳にして江戸へ進出、下谷の御徒町に稽古場を創設した。15年後、文化3年(1806年)の江戸の大火で道場を小川町広小路に移し、文化12年(1806年)6月まで華々しい活動を行った。全盛期の門人は451名を数え、深川八幡前にも出張稽古場を創設した。
寛政4年(1792年)には一橋徳川家に御徒並として召し抱えられた。その後、小十人格御広敷添番まで昇進し、遂に一橋家剣術師範役を勤めるまでの深い関係の礎を築いた。
実子はおらず、甥(弟の子)に当たる宣猶が養子となり、跡目を継いだ。
4代で一旦絶えるが、太平洋戦争後、地元群馬県にて神道一心流保存会が設立され、120あったと伝わる形のうち48本が復元され、「刺突の剣」「斬撃の剣」などの21の形が今に到るまで伝えられている。
・位牌は群馬県利根郡みなかみ町玉泉寺にある。
顕彰碑
上野不忍池に、櫛淵宣根の顕彰碑が設立されている。この碑に記されている「五家之刀法」とは、宣根が様々な兵法に広く接して一流を創立したという意味かと思われる。
参考文献
・加藤寛「神道一心流 櫛淵宣根、宣猶、盛宣の事跡」『國學院大学体育学研究室紀要』第11巻
関連項目
・櫛淵鍹一(5代後の子孫)
(wikiより)
櫛淵彌兵衛宣根
2866 剣法発祥乃聖地碑(宮崎県日南市宮浦・鵜戸神宮駐車場)
剣法発祥乃聖地
鵜戸神宮ハ平安時代ノ初ニ勅号ヲ鵜戸山大権
現仁王護国寺ト賜ワリ両部神道ノ大道場デア
ッタ此ノ怒濤巌ヲ噛ミ深緑苔ヲ湿オス荘厳ナ
霊境ヲ慕イ八方ノ修験者ガ争ッテ参籠シ常ニ
堂ニ溢レタ古典ニ依ルト奥州相馬ノ出身相馬
四郎義元即チ慈音ハ鵜戸神窟ニ籠リ神示ヲ受
ケテ奥義ヲ悟リ茲ニ念法ヲ開イテ世ニ剣聖ト
謳ワレタ又伊勢ノ出身日向守愛洲移香ハ鵜戸
権現ニ祈リ夢ニ神猿ヲ見テ奥秘ヲ悟リ茲ニ陰
流ヲ創メテ世ニ創祖ト仰ガレタ故ニ技ヲ磨キ
法ヲ鍛エ道ヲ修メントスル剣士ガ雲ノ如ク集
マリ日夜松風ニ心ヲ澄マセ濤声ニ夢ヲ練リ幽
玄ナ神威ニ触レテ士魂ヲ固メタサテモ剣ヲ撃
ツ処足ハ大地ヲ踏ミ鳴ラシ声ハ御山ニ木霊シ
テ気勢盛ンニ広大ナ神域ヲ圧シタ其ノ後鵜戸
山ヲ源流トスル剣法ハ漸次諸国ニ拡ガリ様々
ノ流派ヲ生ミ近世日本ノ剣道ヲシテ万朶ノ花
ト栄エサセタ誠ニ剣法発祥ノ霊地ト鑽仰サレ
ル所以デアル茲ニ尊イ文花ノ跡ヲ顕彰シ此ノ
碑ヲ建立スルモノデアル
昭和 32年 2月 1日建立
剣法発祥鵜戸山顕彰会
(碑文より)
鵜戸神宮は、足利時代に日本最初の剣豪とうたわれた相馬四郎義元 ( 慈音 ) が剣法“念流”を、また 室町時代には 愛州移香が剣法“陰流”を、いずれもこの地において創始したと伝えられ、このため“剣法発祥の聖地”と呼ばれる。
相馬四郎義元は奥州相馬で生まれ、一遍上人の許しを受けて仏門に入ったが、5歳の時に殺された父の仇を討ちたい一念で独自に剣術の修業をはじめた。
諸国を行脚した後に鵜戸神宮の岩屋に籠もり、夢で剣術の妙を得たとされる。
これが“念流”の誕生である。
相馬四郎はその後還俗して故郷に戻り 父の仇討ちを成就したという。
また 伊勢国の愛洲久忠は、幼い頃から天才的な剣士として知られていた。
武者修行のため諸国を巡り 京都で住吉流の剣士と試合をして敗北。
36歳の時に日向の鵜戸神宮にたどり着き、太平洋の荒波が形成した洞窟の神殿に籠もり、剣法の奥義を悟ったとされる。これが“陰流”の誕生である。
念流・陰流とも、その後さまざまな流派に受け継がれた。
2675 柳生俊睦墓(奈良県奈良市柳生下町445・芳徳寺)
2674 柳生巌勝墓(奈良県奈良市柳生下町445・芳徳寺)
2673 柳生家巌墓(奈良県奈良市柳生下町445・芳徳寺)
大興院殿一渓卜雲居士
( 柳生家巌 天正十三年十一月廿一日 ) 八十九歳
(案内板より)
〇 柳生家厳
柳生 家厳(やぎゅう いえよし、明応6年(1497年) - 天正13年(1585年)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。大和国柳生荘の主、大和柳生城主とも伝わる。柳生宗厳の父。柳生重永の子。
柳生氏は大和国の土豪。多くの剣豪を輩出し、菅原氏一門(播磨国の赤松氏と同族ともされる)と自称した。柳生氏の事項が明らかになるのは南北朝時代で、柳生永珍(ながよし)が元弘の変の時に笠置山に篭った後醍醐天皇を助けた(笠置山の戦い)ため、鎌倉幕府から所領を没収。幕府滅亡後、実弟で笠置寺衆徒の中坊源専が恩賞として柳生荘を返還された。以後、柳生の国人として根を下ろす。
応仁の乱により室町幕府が衰退すると、天文5年(1536年)、畠山氏重臣の木沢長政が信貴山に城を構え、大和国攻略に乗り出す。家厳は長政に従い、筒井氏や二木氏らと戦った。しかし、木沢長政は管領細川晴元、三好長慶と対立し、天文11年(1542年)に河内太平寺の戦いで敗死すると、筒井順昭は木沢残党を次々と攻略し、柳生氏の居城である子柳生城も攻められた。家厳は筒井氏に降伏、臣従し家名の存続を図った。その後大和に三好長慶の重臣松永久秀が進出すると松永久秀に寝返り、大和攻略戦で活躍する。
その後、三好長慶が死去すると松永久秀と対立した三好一族や筒井順昭らが衝突し、合戦となる(東大寺大仏殿の戦い)。家厳は久秀方に付き、東大寺大仏殿もこの時焼け落ちた。松永久秀が織田信長に従属し大和に攻めこんだときにも久秀に属して筒井順慶を攻めた。後に筒井氏も信長に降り、大和の戦乱は収まった。家厳はこの直後、家督を宗厳に譲り、隠遁した。
ちなみに、子の柳生宗厳は家厳が31歳を数えたときの子と伝わっている。この時、家厳はすでに壮齢の年代であったが、この時期の動静は不明である。
(wikiより)
2672 柳生宗巌墓(奈良県奈良市柳生下町445・芳徳寺)
芳徳院殿故但州刺史荘雲巌居士
( 柳生宗巌 慶長十一年丙牛四月十九日 ) 七十八歳 ~ 八十歳
(案内板より)
〇 柳生宗巌
柳生 宗厳(やぎゅう むねよし/むねとし、宗嚴)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。新陰流の兵法家。柳生家厳の子。百官名は但馬守。諱は宗厳。通称は新介、新次郎、新左衛門、右衛門。入道してからは石舟斎と号した。子に柳生厳勝(柳生利厳の父)、柳生宗矩、柳生宗章ほか。
概略
はじめ筒井順慶に、後に松永久秀に仕え戦功を重ねるも、松永氏が滅亡したこともあって武将としては不遇に終わる。一方で若年時から武芸を好み、上泉信綱から新陰流の印可を授けられて諸大名に剣術を伝授するなど剣豪として名声を得た。中でも徳川家康の師範となり、息子宗矩を徳川家に推挙したことは柳生家ならびに柳生家が伝える新陰流が大きく飛躍する切欠となった。そのため、宗厳自身は自身の流派名として生涯「新陰流」を名乗ったが、いわゆる柳生流(柳生新陰流)の流祖に位置づけられることもある
生涯
出生から筒井氏臣従
代々柳生庄(奈良市柳生町)を領する柳生氏当主・柳生家厳の嫡男として生まれる。生年について、柳生家累代の家譜『玉栄拾遺』で 大永7年(1527年)とあり、『寛政重修諸家譜』もそれに準ずる。一方で宗厳自身の記述として、慶長11年(1606年)2月に発行した目録で「生年七拾八歳」と記しており、そこから逆算して享禄2年(1529年)を生年とする説もある[2]。
若年時から剣術を好んで諸流を学んだと伝えられ、江戸柳生家の家譜『玉栄拾遺』では戸田一刀斎に 富田流を学んで奥義「獅子の洞入」[注釈 1]を修めたとあり、尾張柳生三代・柳生厳延が書いた『柳生新陰流縁起』では神取新十郎に新当流を学んで五畿内外で名を知られていたとある[3]。
宗厳が生まれた当時の大和は争乱が続いており、柳生家は木沢長政に味方して筒井氏や二木氏らと戦った。しかし長政が河内太平寺の戦いで敗死すると、筒井順昭によって長政の残党は次々と攻略されていき、天文13年(1544年)宗厳17歳の時に、柳生家の本拠地である柳生城も順昭の攻撃を受けた。同時代の日記『多聞院日記』によると、この時の筒井側は総勢一万にものぼったといい、3日に渡る攻撃の末に柳生城は落城した。
その後、父・家厳は筒井氏に臣従して家名存続を図ったと見られ、年次不詳ながら筒井氏から所領を安堵されている[4]。宗厳もまた父と共に筒井氏の家臣として戦って戦功を挙げ、吐山(奈良市)で行われた合戦では「比類無き働きを果たして負傷した」として順慶から得た感状が残る[5]。
三好政権下
永禄2年(1559年)宗厳32歳の時、畿内を支配する三好長慶の重臣・松永久秀が大和に侵攻し、宗厳の主家・筒井氏の本拠筒井城を攻めて当主・筒井順慶を敗走させ、大和を支配下におく。 柳生家は久秀侵攻直前の永禄2年7月には筒井氏より引き留め工作として、白土(奈良県郡山市)を与えられているが[6]、久秀侵攻を機に筒井氏に離反して松永氏に与した。
永禄5年(1563年)には久秀の仕える三好氏は当主・長慶の弟三好実休の戦死を機に、一時苦境に陥っているが、その間久秀からは宗厳が離反しないよう、軍事情勢を続けざまに伝えるなど励ましの書状を受けている[7]。
柳生家にはこの他にも、久秀が宗厳以外の家臣や三好家の重臣に宛てた書状が残っており、当時の宗厳は久秀の側近となり、久秀の書状を三好家中枢へ伝える取次を務めていたと見られる。永禄6年(1564年)に長慶の嫡男・ 三好義興が病床に臥した際には、三好家次期当主の危篤という機密情報の取次も任され、書面にも記されていない主君の考えも伝えるなど、この時期には久秀にとって最も気を許せる家臣として扱われている[8]。
永禄6年(1563年)正月二十七日、多武峰の戦いに参戦する。この戦いは久秀方の敗北で終わるが、宗厳は味方が敗走する中「鎗を働かれ数輩」の首級を挙げたとして、久秀から「後口比類無き御働き、いよいよ戦功をぬきんでらるべき事」として感状を与えられている[9]。 このとき宗厳は、敵の箕輪与一に拳を射られて窮地に陥っているが、家臣の松田源次郎・鳥居相模某が与一を倒して危機を脱した。源次郎はこの戦いで討ち死しにしたが、宗厳は生涯その恩を忘れず、後に源次郎の長子(同源次郎)に新陰流の印可状を与えた際には、父源次郎の武功を「比類なき働き」「討ち死にの段更に忘れ置かず候」と讃えている。[10]
その年の6月、久秀からの直状で、かつて筒井氏より得た白土の替地として秋篠分(奈良市)を与えられ[11]、久秀との主従関係を強化されている。
新陰流入門
永禄6年(1563年)宗厳36歳の時、新陰流流祖として名高い兵法家・上泉信綱とその門弟の一行が上洛の途上で奈良に立ち寄ると、信綱を訪ねてその門弟となる。
入門の経緯について、宗厳の曾孫・柳生利方は『新陰流兵法由来』に残しており、当初宗厳は信綱との試合を望んだものの、信綱は先に弟子の鈴木意伯と立ち合うようにいい、宗厳は「さらば」と何度か試合したが、自分より二寸短い竹刀を操る意伯に惨敗したとある[12]。ただし、この試合の内容には異説もあり、江戸時代中期に著された『武功雑記』では宗厳の立合いの相手を同じく信綱の弟子の疋田豊五郎としており、また利方の子孫である柳生厳長は『正伝新陰流』で、門弟ではなく信綱直々に宗厳の相手を務めたとしている[13]。
いずれにしろ信綱が編み出した新陰流に完敗した宗厳は、己の未熟さを悟って即座に弟子入りし、信綱を柳生庄に招いてその剣を学んだ。
翌永禄7年(1564年)、信綱は「無刀取り」の公案を宗厳に託して柳生庄を離れ、当初の目的だった京にのぼる。永禄8年4月に再び信綱が意伯と共に柳生庄を訪れると、宗厳は信綱に自ら工夫した無刀取りを披露して[注釈 2]信綱より『一国一人印可』を授かり、さらに翌永禄9年(1565年)には三度柳生庄を訪れた信綱より『新影流目録』を与えられたという[14]。
三好氏内乱
永禄7年(1564年)三好家当主・長慶が死去して若き三好義継が跡を継ぐと、宗厳が仕える松永久秀と三好家の重臣・三好三人衆等との間に対立が生じ、やがて三好家中を二分した争いになる。三人衆は当主・義継を擁立し、宗厳の元主家である筒井順慶をはじめとする大和の国人の多くが三人衆と結ぶなど久秀は孤立するが、宗厳は久秀方に留まった[15]。
その後も久秀と三人衆の戦いは久秀の劣勢で推移するが、永禄10年(1567年)2月、三好家当主・三好義継が三人衆への不満から出奔し、久秀に味方したことで久秀はかろうじて復活を遂げる[16]。
膠着する戦況を打開するため、久秀が当時急速に台頭してきた織田信長の上洛を画策すると、宗厳もこれに協力し、同年の8月21日には信長からの書状で、自身の通路安全のために奔走するように指示を受け[17]、続く28日には信長の重臣佐久間信盛から、信長の上洛が延引していることについて弁明を受けとっている。
この頃の宗厳は松永氏の弱体化によって、与力として半ば独立する状態となっていたと見られ[18]、信長から直接書状を受け取っているほか、久秀の嫡男・松永久通を取次として久秀の主君である三好義継から直接感状[19]を受けている[20]。
同年12月、信長より書状を受け「自分(信長)は間もなく 足利義昭に従い上洛する。自分は必ず久秀親子を見放さないので、久秀親子と連携するように」と命じられる[21]。この書状は同じ内容のものが興福寺在陣衆、岡因播守、多田四郎、瓶原七人衆中、椿井一郎にも送られており、このうち興福寺在陣衆宛ては柳生家に保管されている。このことから、この頃の宗厳は久秀の軍事的基盤の一人として、興福寺に陣取る軍勢を率いていたと見られる[22]。
信長上洛から久秀滅亡
信長が上洛を果たし、松永久秀が信長より送られた援軍と協力して大和の平定を進めると、宗厳も嫡男・柳生厳勝と共に織田家の宿将・柴田勝家に見え、大和の国人・十市氏と協力するよう命じられるなど[23]織田家と連携して活動している。
元亀二年(1572年)8月4日、松永久秀の指揮の下、かつての主君・筒井順慶が守る辰市城を攻める。この戦いで久秀方は「大和国始まって以来」(『多聞院日記』)と言われるほどの大敗を喫し、久秀の一族や多くの重臣が討ち死にした[24]。同時代の日記である『多聞院日記』によると、宗厳の息子(「柳生息」)もまたこの戦いで重傷を負ったといい、宗厳の子孫・柳生厳長はこの息子を宗厳の嫡男・厳勝のこととして、これ以降厳勝は生涯柳生庄に引きこもっていたとする[25]。
同年10月、久秀が山城南部を攻めて奈良を留守にすると、宗厳は久通の命を受けて東国へ使僧を遣わし、伊賀衆への調略や大阪本願寺と伊勢長島一向一揆との交渉にあたった[26]。
元亀2年(1573年)4月、主君・松永久秀と三好義継は織田信長との対決姿勢を示すと、信長は筒井順慶と結んで久秀と対決した。信長に反抗する勢力には足利義昭等も加わり(信長包囲網)一時は信長を圧倒するも、やがて劣勢となり元亀3年に義継は居城を攻められて自害し、久秀は降伏して信長に臣従した。
この間の宗厳の動向は明らかではないものの、天正2年頃には 本願寺の下妻頼興から、当時信長に攻められて籠城していた伊勢の長島(長島一向一揆)と大阪の本願寺との取次ぎを依頼されており[27]、松永久秀の配下にあって、信長と対立する本願寺と通じていた形跡もある[28]。
天正5年(1577年)宗厳50歳の時、久秀は信貴山城に立て籠もって再び信長との対決姿勢を示すが、同年10月に織田軍の攻撃を受けて天守に火をかけ自害した。
詳しいことは、「柳生宗巌ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B3%E7%94%9F%E5%AE%97%E5%8E%B3
(wikiより)

