本牧jack『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。
たまに『 大人数で取材しているのか? 』との質問を戴きますが、小生と相方の二人三脚で御座います。
出来るだけ続けたいと思っていますが 膝・耳に問題が有って、いつまで出来るやら・・・説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。
御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。 ※ 申し訳御座いませんが「画像の転用」は禁止とさせて頂きます。 コメントは原則公開させていただいております 質問等に対してはブログ記事で返信させていただきます 他の方法で連絡を取り合う等一切しません 場合によっては、「IPブロック」しますがブロックした場合解除する事は有りませんので宜しくお願いします。

カテゴリ: 俳句・歌人・歌碑・園芸・向島百花園・茶道・石碑・華道関連

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剣花坊

井上剣花坊は明治 3 (1870 ) 年、藩士・井上吉兵衛の長男として、旧萩城下江向に生まれた。 本名は幸一。

苦学して木間の小学教員となり、地元の新聞記者を経て、明治 33年 ( 1900 ) に上京、雑誌「明義」の記者となって文芸欄を担当した。

明治 36年 ( 1903 ) 日本新聞社に入社し、新聞「日本」に剣花坊の名で「新題柳樽」欄を設け、新聞記者をつとめるかたわら、川柳の改革復興に尽力した。

同 38年には柳樽寺川柳会を組織し、機関紙「川柳」を創刊。

大正期には柳樽寺剣花坊の名で、新川柳会の総帥と仰がれた。

門下は全国各地に広がり、なかには雉子郎の川柳名をもつ作家・吉川英治もいた。

昭和 9年 ( 1934 ) 没、享年 65歳。

また、妻・信子は萩市土原に生まれ、後に川柳を学び、公私ともに剣花坊と歩んだ。89歳で死去。

夫妻の墓は、鎌倉建長寺にある。
(案内板より)

〇 井上剣花坊
井上 剣花坊(いのうえ けんかぼう、明治3年6月3日1870年7月1日) - 昭和9年(1934年9月11日)は、日本の川柳作家。幼名は七郎、のちに幸一[1]

著書に『江戸時代の川柳』などがある。

生涯
明治3年(1870年)6月3日、山口県に生まれた。家系は毛利家に仕えていたが、廃藩後に没落、父栄祐は1891年に、不遇のうちに亡くなった[1]

独学で小学校代用教員となり、のちに山口県の新聞社『鳳陽新報』(のち『長周日報』、その後防長新聞に併合されて消滅)に就職して新聞記者となった[2]。同じ頃山県トメと結婚し、3人の子供を授かるも、トメは3人目出産後の予後が悪く、1898年に他界。なお井上はその3年後の1901年に岡ノブと再婚、2人の子供をもうけた[2]。同じ1901年には『越後日報』に就職、主筆となった[2]

1903年7月、『越後日報』を退社し新聞「日本」に入社。ここで剣花坊の筆名で新川柳の選者を務めた。なお筆名は、山口県で「争気がある人」を「喧嘩ぼう」といったことから、自らをそれになぞらえて「剣花坊」の漢字を当てたものである[3]。その後退社したものの、客員として同誌の選者を務めた。また他に『國民新聞』や『読売新聞』でも選者を務め、新興川柳の普及に努めた[4]1905年結成の柳樽寺派の先達としても活躍し、「大正川柳」(のちに「川柳人」に改題)を創刊、新興川柳派を支援した。しかし同誌に掲載された鶴彬の句が治安維持法違反とされたため、同誌は廃刊に追い込まれた。

1929年からは『福岡日日新聞』『主婦之友』『中国民報』でも選者を務めた[5]

しかし1933年頃から体調不良を自覚し、翌年の1934年には軽い脳溢血を起こして右半身が不自由となった[6]1934年9月8日脳溢血で倒れ、9月11日、仮寓の神奈川県鎌倉建長寺で死去した。没後は妻の信子が後継となり、川柳誌を発行し続け、また川柳作家の鶴彬を支援した。

主な川柳作品
・何よりも母の乳房は甘かりし - 生誕地の句碑に刻まれている。
・咳一つ聞えぬ中を天皇旗
・米の値の知らぬやからの桜狩り
・活眼をひらくとゴミが眼にはいり

著書
単著
・『赤裸々の大石良雄』(1913年、敬文堂書店)
・『新川柳六千句』(1916年、南北社)
・『川柳を作る人に』(1918年、南北社)
・『川柳1922年集』(1922年、柳樽寺新星会)
・『古川柳真髄』(1925年、柳樽寺川柳会)
・『江戸時代の川柳』(1928年、近世日本文化史研究會)
・『新川柳自選句百三十三人集』(1932年、柳樽寺川柳会)

共編著
井上剣花坊選、近藤浩一路絵『川柳漫画』(1930年、川柳漫画刊行会)
井上剣花坊編『三笠しづ子 (丸山貞子) 句集』(1932年、柳樽寺川柳会)

作品集
・白石維想楼編『習作の二十年 : 井上剣花坊句集』(1922年、柳樽寺川柳会)
・井上信子編『井上剣花坊句集』(1935年、叢文閣)
・井上鳳吉編『井上剣花坊句集』(1966年、市ケ谷出版社)

評伝
坂本幸四郎 『井上剣花坊・鶴彬 川柳革新の旗手たち』 リブロポート<シリーズ民間日本学者>、1990年

参考文献
昭和女子大学近代文学研究室『近代文学研究叢書 第37巻』(1973年)

脚注
1. 
a b 昭和女子大学(1973)p.228 
2. 
a b c 昭和女子大学(1973)p.229 
3. 
昭和女子大学(1973)p.230 
4. 
昭和女子大学(1973)pp.231-232 
5. 
昭和女子大学(1973)p.234 
6. 
昭和女子大学(1973)p.235
(wikiより)

263 井上剣花坊

井上剣花坊

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263c




井上剣花坊は明治 3 (1870 ) 年、藩士・井上吉兵衛の長男として、旧萩城下江向に生まれた。 本名は幸一。

苦学して木間の小学教員となり、地元の新聞記者を経て、明治 33年 ( 1900 ) に上京、雑誌「明義」の記者となって文芸欄を担当した。

明治 36年 ( 1903 ) 日本新聞社に入社し、新聞「日本」に剣花坊の名で「新題柳樽」欄を設け、新聞記者をつとめるかたわら、川柳の改革復興に尽力した。

同 38年には柳樽寺川柳会を組織し、機関紙「川柳」を創刊。

大正期には柳樽寺剣花坊の名で、新川柳会の総帥と仰がれた。

門下は全国各地に広がり、なかには雉子郎の川柳名をもつ作家・吉川英治もいた。

昭和 9年 ( 1934 ) 没、享年 65歳。

また、妻・信子は萩市土原に生まれ、後に川柳を学び、公私ともに剣花坊と歩んだ。89歳で死去。

夫妻の墓は、鎌倉建長寺にある。
(案内板より)

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屋号は梅屋といわれ笠屋に屋敷あり

梅屋七兵衛ともいわれていた

高杉晋作の命をうけ萩城下酒造業・山本七兵衛は四境戦争の直前上海に渡り装條銃購入の大役を果たした。

末孫 一、金五万□□□ 森井貞子
(石柱碑文より)

 □は判読不明

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この花の

     松陰を生み

           志士を生む

柏翠

伊藤柏翠 ( 勇 )
( 1911 ~ )

高浜虚子に師事。

俳人

俳誌「花鳥」主宰。

日本伝統俳句協会副会長。

東京都浅草生まれ。

福井市在住。

昭和七年鎌倉にて病気療養中より俳句現在に至る。

昭和五十六年より毎年来萩。

萩花鳥句会を指導。

句集「虹」「越前若狭」他
(案内板より)

〇 伊藤柏翠
伊藤 柏翠(いとう はくすい 1911年5月15日 - 1999年9月1日)は、東京府出身の俳人。本名勇。 父櫻孝太郎、母大久保喜久。父の友人伊藤専蔵の養子となり、義母・義父の死別により若くして天涯孤独の身となる。1929年、結核のため鎌倉鈴木療養所に入所。1931年より作句、翌年「ホトトギス」初入選。1934年、鎌倉俳句会で高浜虚子星野立子松本たかしに会う。1939年、療養所で同じく結核をわずらっていた森田愛子と会う。1942年、愛子を追って三国を訪れ同居。1945年「花鳥」創刊、主宰。1947年愛子死去。のち高浜虚子が愛子をモデルに小説「虹」を書き、柏翠もその恋人のモデルとなった。

1949年、三国で料亭「虹屋」開業。1953年山下千鶴と結婚。1958年、永平寺で得度。1987年、日本伝統俳句協会が設立され常任理事に就任。のち副会長。1995年、「ホトトギス」同人会長に就任。1999年7月、「花鳥」主宰を坊城中子に譲り、同年9月1日死去。句集に『虹』(森田愛子との共著)『花鳥』『花鳥禅』、著書に『柏翠自伝』などがある。品格高く艶のある句風であった。福井県鯖江市に伊藤柏翠俳句記念館が建てられている。

参考文献
・現代俳句大事典、三省堂、2005年
・ホトトギスの俳人101、新書館、2010年

外部リンク
花鳥   
(wikiより)

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沢田 美喜(さわだ みき、1901年9月19日[1][2] - 1980年5月12日[3])は、日本の社会事業家。本名は澤田 美喜(読みは同じ)。


三菱財閥
の創業者・岩崎弥太郎の孫娘として生まれ[4]、外交官の沢田廉三と結婚[4]。4人の子に恵まれる[5]。敗戦後、日本女性のパンパンデビューブームのなか、日本女性と日本を占領した連合国軍(事実上のアメリカ軍)兵士たちとの間に生まれた全国の混血児(GIベビー)たちの中で、両親に捨てられたG.Iベビーたち(GIベビー孤児)の中の、東京周辺にいるG.Iベビー孤児たち約2000人を、神奈川県大磯町に建設した孤児院,エリザベス・サンダースホームに収容して保護・育成した。

略歴
1901年9月19日三菱財閥の3代目総帥・男爵岩崎久弥の長女として東京府東京市本郷区(現在の東京都文京区)に生まれる[1][2]岩崎家宗教真言宗だった[6]。母・寧子は子爵保科正益(飯野藩第10代目藩主)の長女。伯爵加藤高明(元内閣総理大臣)は義理の伯父(妻が久弥の姉)[4][7]、元京都府知事の木内重四郎(元京都府知事貴族院議員)と男爵幣原喜重郎(元内閣総理大臣)は義理の叔父(ともに妻が久弥の妹)であった[4][7]

1903年1月20日:妹・澄子(伯爵甘露寺受長の弟・方房に嫁ぐ)誕生[2]

1907年東京女子高等師範学校附属幼稚園(現在のお茶の水女子大学附属幼稚園)に入園[2]

1908年7月8日:妹・綾子(福澤諭吉の孫・堅次に嫁ぐ)誕生[2]

1916年東京女子高等師範学校附属高等女学校(現在のお茶の水女子大学附属中学校お茶の水女子大学附属高等学校)を中退し[2][8]津田梅子らの家庭教師について学習[9]

1922年7月クリスチャンの外交官・沢田廉三と結婚してキリスト教に改宗[2]

1923年:夫・廉三のアルゼンチンブエノスアイレスへの転任に伴い同行[2]。長男・信一誕生[2]4月8日、祖母・喜勢死去[2]

1924年:廉三の中国北京への転任に伴い同行[2]。次男・久雄声楽家安田祥子の夫[4])誕生[2]

1925年:三男・晃(洗礼名ステパノ、聖ステパノ学園及び聖ステパノ農場の名はここに由来)誕生[2]

1927年日本に帰国[10]

1928年:長女・恵美子誕生[10]

1931年:夫・廉三の英国ロンドンへの転任に伴い同行[10]、孤児院ドクター・バーナードス・ホーム訪問。院長の『捨てられた子を引っ張りだこになるような人間に変えるのは、素晴らしい魔法だ』という言葉に感銘を受ける。

1933年:夫・廉三のフランスパリへの転任に伴い同行[10]ジョゼフィン・ベーカーと出会い友人となり、ジョセフィンは後に美喜の良き理解者として活動を支援していく。またこのころマリー・ローランサンの弟子となる。このころのパリ社交界でコティノーベルらと親交を持つ。

1935年:夫・廉三の米国ニューヨークへの転任に伴い同行[10]パール・S・バックと出会い友人となる。

1936年:米国より帰国[10]

1937年9月12日:妹・澄子死去[10]。敬虔なクリスチャンとなった美喜の影響もあり、死に際して洗礼を受ける。

1939年:日系2世留学生を受け入れる外務省施設「敝之館(へいしかん)」「瑞穂館」の設立に伴い、瑞穂館の応援団長となる。入館者の相談によく乗り、また野球チームのマネージャーになるなど、母親のように慕われた[11]

1942年:夫の沢田廉三日本聖公会系列の財団法人滝乃川学園の第4代理事長に就任(1946年辞任)。

1944年3月10日:母・寧子死去[10]

1945年:三男・晃がインドシナ沖で戦死[10]。海軍志願兵だった。終戦後、旧岩崎邸の本館がGHQ/SCAP参謀部G2(情報部)に接収され、和館での生活を余儀なくされる。1947年にはG2所属の日系2世職員家族が同居し、美喜は誕生した子供の育児指導をしている[12]

1947年2月:列車内で死亡した混血児の母親と間違われ、混血児救済を決心。

1948年2月:孤児院エリザベス・サンダース・ホームを設立する[10]。進駐軍と日本政府から迫害をうけ、経営は窮乏を極めた。

1949年:ホームの寄付金を募るためにアメリカで講演会を行う。このころニューヨークで澤田家はグレース・ケリーと親交をもち美喜および長女恵美子の親しい友人となる。グレースはモナコ公妃となったあとも美喜の活動の良き理解者として支援する。

1950年:ホームに基金を作るため、再びアメリカで講演会を行う。

1953年学校法人聖ステパノ学園を創立[10]。ホームの小学校と中学校である。

1955年: 昭和天皇皇后訪園。12月2日:父・久弥死去[13]

1962年ブラジルアマゾン川流域の開拓を始め、聖ステパノ農場を設立。孤児院の卒園生が数多く移住。

1967年4月2日に三兄・恒弥が、9月8日に長兄・彦弥太が相次いで死去。

1970年12月8日:夫・廉三死去[14]

・1980年5月12日:スペインマヨルカ島にて心臓発作のため78歳で急死。

主な文献
著書
・『混血児の母、エリザベス・サンダース・ホーム』(毎日新聞社、1953年)

・『歴史のおとし子 エリザベス・サンダース・ホーム10年のあゆみ』(読売新聞社、1958年)、写真影山光洋ほか

・『黒い肌と白い心』(日本経済新聞社、1963年)

  ・新版『黒い肌と白い心 サンダース・ホームへの道』(創樹社、1991年/日本図書センター<人間の記録>、2001年)、ISBN 482055963X

・『黒い十字架のアガサ』(毎日新聞社、1967年)

・『母と子の絆 エリザベス・サンダース・ホームの三十年』(PHP研究所、1980年)

伝記
小坂井澄 『これはあなたの母 沢田美喜と混血孤児たち』(集英社、1982年)

青木冨貴子 『GHQと戦った女 沢田美喜』(新潮社、2015年/新潮文庫、2018年)

・小手鞠るい『名もなき花たちと』(原書房 2019年)

・『The LEAST of THESE』(John Weatherchill、Elizabeth Anne Hemphill)

テレビ番組
第9回NHK紅白歌合戦NHK1958年)審査員

・『子供たちは七つの海を越えた~サンダースホームの1600人』(日本テレビ系、1978年7月12日)

テレビ東京開局45周年記念6夜連続特番第4弾『トンネルの向こうはぼくらの楽園だった』

2009年3月11日放送 『トンネルの向こうは僕らの楽園だった』(テレビ東京)自らもハーフである土屋アンナが、初老を迎えたエリザベス・サンダースホームの卒園生たちを訪ね歩き、彼らの今を見つめた。

・2006年8月15日放送 RAMA COMPLEX 『二千人の孤児の母 澤田美喜物語』(日本テレビ系、2006年8月15日 松坂慶子が演じた)

・1981年7月8日放送 『母たることは地獄のごとく 炎の女 澤田美喜』(日本テレビ 京マチ子が演じた)

・ここ鐘は鳴る 沢田美喜(NHK1958年[15]

受賞・栄誉
・エリザベスブラックウェル賞 受賞

・国際孤児団 世界の婦人賞 受賞

・フランス 国家功労勲章グランクロワ章

内閣総理大臣顕彰(1966年7月1日)

勲二等瑞宝章(1972年4月29日)

正四位(1980年5月12日)

参考文献
・『黒い肌と白い心 サンダース・ホームへの道』創樹社、1991年4月20日第1刷発行[注釈 1]

・「特集 三菱最強伝説」『週刊ダイヤモンド2016年1月30日号、ダイヤモンド社、30-71頁。

脚注・出典
脚注
1. 同書は1963年に日本経済新聞社より発行され[16]、1979年にエリザベス・サンダースホームの自費出版として新版が[17]、1991年に創樹社より改訂新版が[18]、2001年に日本図書センターより最新版がそれぞれ発行されているが、本記事では創樹社版を出典として使用した。

出典

1. a b 『黒い肌と白い心』、創樹社版、3頁。
2. a b c d e f g h i j k l m 『黒い肌と白い心』、創樹社版、327頁。
3. 『黒い肌と白い心』、創樹社版、342頁。
4. a b c d e 「特集 三菱最強伝説 家系解剖 三大創業家の華麗すぎる閨閥図」、『週刊ダイヤモンド』2016年1月30日号、52-53頁。
5. 『黒い肌と白い心』、創樹社版、99頁。
6. 『黒い肌と白い心』、創樹社版、35頁。
7. a b 『黒い肌と白い心』、創樹社版、333頁。
8. 『黒い肌と白い心』、創樹社版、38-39頁。
9. 『黒い肌と白い心』、創樹社版、40頁。
10. a b c d e f g h i j k 『黒い肌と白い心』、創樹社版、328頁。
11. 立花譲『帝国海軍士官になった日系二世』(築地書館、1994)80頁
12. 立花譲『帝国海軍士官になった日系二世』(築地書館、1994)202頁。この職員は元帝国海軍中尉で、美喜の長男沢田信一と同部隊という縁があった。
13. 『黒い肌と白い心』、創樹社版、329頁。
14. 『黒い肌と白い心』、創樹社版、330頁。
15. - NHK名作選(動画・静止画)NHKアーカイブス
16. 『黒い肌と白い心』、創樹社版、巻頭掲載(1頁より前にある)「著者のことば」より。
17. 『黒い肌と白い心』、創樹社版、340頁。
18. 『黒い肌と白い心』、創樹社版、345頁。

関連項目
東京都出身の人物一覧

ポール・ラッシュ

松本滝蔵

外部リンク
三菱人物伝 澤田美喜

澤田美喜 -孤児の母として捧げた半生-

キリスト教人物小伝 (16) 澤田美喜 - 日本基督教団荒川教会公式サイト内のページ。
(wikiより)

068 沢田美喜

沢田美喜

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萩原宗固の墓
( 一七〇三 ~ 一七八四 ) 享年八十二歳

江戸中期の国学者、塙保巳一の師で歌人でもある。

市谷本村町の鈴木家に生まれ、後に萩原氏の養子になって、本名貞辰、通称七左衛門といい百花庵と号した。

幕府の御先手与力を勤めたが、病により辞した後は国学を学び和歌に親しんだ。

晩年は四谷荒木町に住み、八十二歳で没した。

著書に「一葉集」「蜻名遺傳」「蜻鈴日記注釈」などがあり、和歌は冷泉為村に学び、次のような名吟がある。

『夢中郭公』( ほととぎす )

「夢なれや枕ならべてねし人も、

         きかぬ初音の山ほととぎす」
(案内板より)

〇 萩原宗固  ( 

はぎわら - そうこ )

没年:天明 4. 5. 2 ( 1784. 6. 19 )
生年:元禄 16 ( 1703 )

江戸中期の歌人。

名貞辰、号百花庵。

幕府の先手組に所属する幕臣。

烏丸光栄、武者小路実岳、冷泉為村らに師事して和歌・歌学を学ぶ。

江戸の武家歌人として名声高く、また内山賀邸と共に「明和十五番狂歌合」の判者をも勤めて天明狂歌の原点に位置したことでも知られる。

家集『志野乃葉草』、ほかに『一葉抄』『もずのくさぐき』などの歌学随筆が伝わる。

『塙氏雑著』(静嘉堂文庫蔵)も宗固自筆の雑抄。

為村との問答である『冷泉宗匠家伺書』には宗固の苦悩もほの見えて興味深い。

<参考文献> 安藤菊二『江戸の和学者』

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木村岡右衛門は漢詩に秀で、吉良家討入の際、兜頭巾の裏に漢詩を縫い込んでいたと伝えられる。

身寄浮雲滄海東

久愆恩義世塵中

看花對月無窮恨

散作暁天草木風

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大高源吾は茶道と俳句に優れ、切腹の際「ちょっとお筆を拝借」と次の辞世の句を残した。

梅てのむ 茶屋も有べし 死出の山

大高子葉 ( しよう ) ( 不詳 - 一七〇三 元禄一六年 )

赤穂浪士・大高源五は、子葉と号し宝井基角 ( たからい きかく ) に俳諧を学んだ。

元禄一五年一二月一四日主君の仇を報じて後、江戸松山藩邸に預けられ同一六年二月四日同藩邸において切腹を命ぜられた。

その死に臨んでこの句を遺して潔く自刃、享年三二歳。

基角遺稿の俳諧選集『類柑子 ( るいこうじ )』( 宝永四年刊 ) の文字により昭和三九年建立。
(案内板より)

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歌師にして文化四年六月二十日死去し、夫妻は正覚寺に葬られている。
(石柱文より)

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採茶庵跡 ~奥の細道はここから~

採茶庵は、江戸時代中期の俳人杉山杉風 ( すぎやま - さんぷう ) の庵室です。


杉風は、名を市兵衛、または藤左衛門と称したほか、屋号を鯉屋 ( こいや )、俳号を採茶庵、五雲亭 ( ごうんてい ) などとし、隠居したのちは一元 ( いちげん ) と名乗りました。


家業は魚問屋で鯉上納の幕府御用もつとめ、小田原町一丁目 ( 中央区 ) に住んでいました。


松尾芭蕉の門人でもあり蕉門十哲 ( しょうもんじってつ ) に数えられ、『常盤屋句合 ( ときわやくあわせ )』『角田川 ( すみだがわ ) 紀行』などの著作があります。


また、芭蕉を経済的に支援したパトロンとしても知られています。


採茶庵が有った場所については、杉風の娘婿である髄夢 ( ずいむ ) の遺言状に「元木場平野町北角」と書かれています。


平野町 ( ひらのちょう ) は、海辺橋 ( うみべばし ) 南詰から万年町 ( まんねんちょう ) 二丁目 ( 深川1-8 ) をはさんだ一画でした。


説明版が建っている海辺橋のたもとより一四〇メートルほど南西に位置します。


芭蕉は奥の細道の旅に出る前、住居としていた芭蕉庵を手放し、しばらくは採茶庵で過ごしました。


門人たちと別れを惜しんだのち、舟で隅田川をのぼり、千住大橋のたもとから奥州へと旅立っていきました。
(案内板より)

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遺す言葉


死生命ありだ。


くよくよすることは一つもない。


お前も父の血をうけついでいるのだから、心は弱く、涙にもろいかも知れぬが、人生に対する抵抗力だけは持っているだろう。


あとは、千変万化だ。


運命の神様はときどき妙な、いたずらをする。


しかし、そこで、くじけるな。


くじけたら最後だ。


堂々とゆけ。


よしんば、中道にして倒れたところで、いいではないか。


見ろよ、高い山から谷底見れば瓜やなすびの花ざかりだ。


父は爛々たる目を輝かして、大地の底から、お前の前途を見まもっていてやるぞ。

尾崎士郎


『川甚』のホームページでは
尾崎士郎「人生劇場」では主要舞台として登場しており、主人公の青成瓢吉がお袖と出会う「柳水亭」とは川甚のことで、モデルになった女性は当時の仲居さんです。

いくつか写真を見せてもらった女将によると「ポッチャリした可愛らしい人」だったそうです。と書かれています。

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「 木々ぬらし石うかちつひに春の海 」

               秋櫻子

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俳人 鈴木松什

鈴木松什は、寛政 10年 ( 1798  )柴又村に生まれ通称を安五郎、俳号を無有庵 ( むゆうあん ) 松什といいました。


瓦の製造を生業としていましたが、若くして俳諧の道に入り、当時江戸の俳諧師として名の知れていた寥松 ( りょうしょう ) のもとで学びました。


松什は俳句のほか書画にも優れ、中央の俳壇までその名を知られていました。


『 気も散らで 暮れに及ぶや蓮の花 』


彼の編集した、句集「芭蕉翁発句類題集」などは著名なもので、嘉永 6年 ( 1853 ) 松什の没後も柴又を中心に俳句が盛んに作られました。


鈴木松は什当区の生んだ文人の先覚として、この地域の文化に寄付した顕彰すべき人物です。


墓は鈴木家の墓地の左側、法名は「無有庵俊誉松什禅士」
(案内板より)

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円光大師詠歌碑。

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「日の恩や 忽ちくだく 厚氷」と刻されています。

吉良邸に討ち入った赤穂四十七士の大高源五の辞世の句と言われています。

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巌谷小波 ( いわや - さざなみ )
( 1870 ~ 1933 )


東京に生まれる。


本名 秀雄


童話作家。


「日本昔噺」「にほんお伽噺」「世界お伽噺」等をつぎつぎに発表して、明治・大正の児童文学界の第一人者となった。


巌谷小波は舌切雀伝説の色こく残る当地磯部を舌切雀のお伽噺の発祥地と定義づけ、当館を舌切雀のお宿として、折り紙をつけて下さいました。


竹の春 雀千代ふる お宿かな


大正十五年 ( 1926 ) 頃、磯部温泉に来遊のみぎり、詠んだ句です。
(案内板より)

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製糸場へ

   工女の墓へ

       十六鐘

         洋一

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江戸時代中期の国学の大家・本居宣長翁 ( 1730 ~ 1801 ) の歌碑で大正 13年 ( 1924年 ) に建立されました。

碑文には「海の外 おきつ千しまも 天皇の 御稜威かしこみ いつきまつろふ」と刻まれています。

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川江直種翁歌碑


現在、北九州市小倉北区に鎮座する篠崎八幡神社の宮司・川江直種翁が明治 12年 ( 1879年 ) に当社例大祭の折に詠んだ歌である「豊国の 門司の関やの 岩清水 くみて昔を 知るひともがな」が刻まれています。

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和布刈る神の五百段ぬれてくらし

( わかめかる かみのいほだん ぬれてくらし )


・作者の紹介
横山白紅 ( 本名 : 健夫 )


明治三十二年東京に生まれる。


第一高等学校、九州大学医学部卒業、医学博士。


「九大俳句会」を創設、吉岡禅寺洞門下、「天の川」編集長。


小倉北区にて俳誌「自鳴鐘」を主宰創刊、現代俳句協会編集長。


小倉市議会議員、小倉市議会議長、全国市議会議長、五市合併委員長、小倉技術連合会長、北九州文化連盟会長。


昭和五十八年没。 八十四才。
(案内板より)

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春の鐘 木下夕爾


こどもらよ鐘を撞け


やはらかに鐘を撞け


ゆく春の日は眞晝

竹やぶを透く桃畠


こどもらよ

やはらかに鐘を撞け


この鐘の中に眠れる音を

遠く遠く放ちやれよ

遠く遠くあそばせよ


こどもらよ

鐘を撞け


ゆく春の日は眞晝

青春の丘の起き伏し


木下夕爾


詩人 俳人 福山生まれ


第一詩集「田舎の食卓」で、文芸汎論詩集賞を受賞


「晩夏」など その詩集には一貫して温雅で甘美な哀愁が流れている


詩誌「木靴」を主宰 句集「遠雷」などがある。
(石碑文より)

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遥かなる


樹海の果ての


湖一つ天の雫の


ごとく光れる


山下陸奥 ( 歌人 ) 一八九〇 - 一九六七

 
山下伊太郎、光栄の息として、
 
尾道市千光寺通り茶園に生まれる。

 
歌誌『一路』を主宰。

 
歌集出版六回のほか、歌論出版も多く、現在も初学者の指導者として読み継がれている。

 
一九六六年・一九六七年、宮中歌会始選者。

 
一九六七年没。

 
尾道市東土堂町の天寧寺に眠る。

 
碑の一首は、一九五五年の作品。

 
陸奥が富士五湖のひとつを眺望した折の作品であり、第六歌集『生滅』より採る。
(案内板より)

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おれに似よ俺に

     似るなと子をおもい

             路郎

飲んで欲し

   やめてもほしい酒をつぎ

             葭乃

麻生路郎 ( 本名 幸二郎 ) 一八八八 - 一九六五

尾道市十四日町に生まれる

 
一九一四年、河盛葭乃 ( 一八九四 - 一九八一 ) と結婚。

 
一九二四年、川柳雑誌 ( 現「川柳塔」) 創刊。

 
戦後の川柳界をリードした六大家の中心となった。
(案内板より)

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中村憲吉歌碑

昭和九年五月五日、アララギ派の代表的歌人中村憲吉はこの寓居で四十六才の短い生涯を終えた。


平成九年、終焉の家の修復が成った。


十年、尾道市制施行百周年を記念し歌碑三基を建て、また療養中の二首を陶板に刻み、旧居白壁の塀に埋める。


・歌碑三首

岩かげの光る潮より風は吹き
   幽(かす)かに聞けば新妻のこゑ   (新婚当時、夫人の郷里、鞆での作)


秋浅き木(こ)の下道を少女(おとめ)らは
   おほむねかろく靴ふみ来るも     (上京後、3年目、お茶の水での作)


おく山の馬棚戸(ませど)にくれば霧ふかし
   いまだ咲きたる合歓(ねむ)の淡紅(うす)はな   (郷里布野での作)


第一首は新婚当時、夫人の郷里、鞆での作。


第二首は上京後、三年目、、お茶の水での作。


第三首は郷里布野での作。


・白壁陶板の二首
病むわれに妻が屠蘇(とそ)酒をもて来れば
   たまゆら嬉し新年にして


病む室の窓の枯木の桜さへ
   枝つやづきて春はせまりぬ

(案内板より)


〇  中村憲吉
中村 憲吉(なかむら けんきち、1889年1月25日 - 1934年5月5日)は、広島県生まれの歌人

来歴
生い立ち

1889年(明治22年)1月25日、広島県三次郡上布野村(現・三次市)に、後に三次銀行初代頭取を務めた他に多くの田畑・山林を所有し醸造業も営む地元名望家の父・修一の次男[1]として生まれる。


1894年、布野尋常小学校に入学。1898年、布野尋常小学校卒業、同高等科に入学。1900年、祖母の異父妹で、三次で旅館業を営んでいた香川八重の養子となる。香川家へは後に弟で倉田百三と親交のあった三之助が入り、憲吉は中村姓に復する。9月、三次小学校高等科に転校。


1901年、三次中学に入学。四年時には倉田百三が一年生として入学。校友雑誌の『白帆』の編集を行い自身も投稿するなど、創作活動を開始。「香川霧村」という筆名を使う。憲吉が養子に入っていた香川旅館には憲吉の文学同好の友人が多く出入りし、中でも近くに住んでいた船越象一(榊屋酒店)は親友であった。また、近所の森盛文堂は中学生の交流の場にもなっていたという。


1906年、三次中学校卒業。4月、上京し正則英語学校に通学。9月、鹿児島第七高等学校造士館七高)第一部甲類に入学。


1907年、在学中に文学上の友として堀内卓造、橋田東聲岩谷莫哀らとの交流がはじまる。堀内卓造の誘いにより「万葉集」、正岡子規伊藤左千夫の歌風を知り、作歌をはじめる。兄・純造が早世し、家を継ぐために中村姓に復する。


1908年、日本新聞の伊藤左千夫選歌、課題「竹」に応募して数首が採用される。作歌の一部12首が「アララギ」第1巻第3号に掲載される。

上京とアララギへの参加

1909年、上京し、伊藤左千夫を訪ねて入門。「アララギ」に参加、斎藤茂吉古泉千樫らと交流がはじまる。


1910年7月、第七高等学校造士館を卒業。9月、東京帝国大学大学法科大学経済科に入学。本郷の追分にある富士見軒に下宿。子規九周忌歌会に出席して石原純土屋文明山宮允らと相知る。10月、盟友・堀内卓造急逝。


1911年、「アララギ」諸同人との交流が深まり、作歌にも熱心になる。1913年島木赤彦との合著歌集『馬鈴薯の花』刊行。『中村憲吉全集』がある。深川不動尊境内の下宿に移る。


1914年(大正3年)、本郷の菊富士本店に下宿。


1915年(大正4年)、東京帝大を卒業。11月、帰郷し、広島県福山市倉田岩太郎の長女・倉田静子と結婚。静子の母・きくは福山郊外深津の石井英太郎の娘。石井英太郎は広島県議会議員福山誠之館中学校の初代校長を勤め、きくの妹・大原寿恵子大原孫三郎の妻となり、後に和歌に興味を持ち1925年には憲吉に師事する。


1916年1月、上京して新居を構えるが、10月に帰郷して家務に就く。11月、第二歌集『林泉集』(アララギ発行所)刊行。


1920年4月、兵庫県西宮市に居を定める。1921年、大阪毎日新聞の経済部記者となる。1923年11月、京都へ行き桂離宮修学院離宮を拝観。1924年7月、第三歌集『しがらみ』(岩波書店)刊行。1926年4月、大阪毎日新聞社を退社。6月帰郷し、家督を相続して実家の酒造業に携わる。実家の大資産を、惜しみなく「アララギ」への精神的・物質的支援に注ぎ込んだ。また、広大な山林に目を向け、檜、杉の植林にも取り組む。1928年2月、岡山医科大学附属病院を訪れる夫人に同道して岡山へ。その際に弟子で助教授の上代皓三の案内で後楽園を廻る。

晩年

1930年11月、『現代短歌全集「中村憲吉集・土屋文明集」』刊行。肋膜の病気に罹る。1931年7月、第四歌集『軽雷集』(古今書院)刊行。1932年、広島市郊外の五日市で病気療養。


1934年(昭和9年)5月5日、肺結核と急性感冒のため尾道市の仮寓で死去[2][3]。享年46歳。戒名は林泉院釈浄信憲吉居士。なお、妻・静子は1973年まで生き、長女・良子、四女・裕子(-2018年)、五女・礼子(-2013年)がいる。また、生家は現在、中村憲吉文芸記念館(2012年開館)となっている。

著書
・馬鈴薯の花 久保田柿人(島木赤彦) 東雲堂書店, 1913

・林泉集 アララギ発行所, 1916

・中村憲吉選集 アルス, 1921

・しがらみ 岩波書店, 1924

・松の芽 改造社, 1925

・軽雷集 古今書院, 1931

・軽雷集以後 岩波書店, 1934

・中村憲吉全集 第1-4巻 岩波書店, 1937-1938

・中村憲吉歌集 岩波文庫, 1941

・中村憲吉全歌集 白玉書房, 1966

関連項目
おのみち文学の館 - 晩年過ごした旧居の離れが公開されている。

脚注
1. 田辺良平 『ふるさとの銀行物語[備後編]』菁文社、2004年、p.179。
2. 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』付録「近代有名人の死因一覧」(吉川弘文館、2010年)20頁
3. 岩井寛『作家の臨終・墓碑事典』(東京堂出版1997年)240頁

外部リンク
中村 憲吉:作家別作品リスト - 青空文庫

中村憲吉 - 吉備路文学館
(wikiより)

074 中村憲吉

⇧ 中村憲吉

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⇧ 門から入ると有る石塔

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中村三郎 ( なかむら - さぶろう )


大正期の歌人、画家


生年 : 明治 24 ( 1891 ) 年 3月 28日
没年 : 大正 11 ( 1922 ) 年 4月 18日


出生地 : 長崎県


別名: 号 = 末の郎子 ( スエノイラツコ )


経歴 : 英字新聞の解版小僧を手はじめに新聞記者、新劇団員、医学校助手など多くの仕事を転々とし、そのかたわら絵画研究をする。

大正 6年創作社に入社し、7年上京して若山牧水の助手を務めた。

没後「中村三郎集」が刊行された。


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船が長崎の港内に入ったとき、竜馬は胸のおどるような思いをおさえかね、


「長崎はわしの希望じゃ」

と、陸奥陽之助にいった。


「やがて日本回天の足場になる」

ともいった。


司馬遼太郎

「竜馬がゆく」より
(石碑文より)

 このページの項目名には、環境により表示が異なる文字があります。公式の表記では遼󠄁しんにょう)の点が二つです。

〇 司馬遼太郎

司馬 遼󠄁太郎(しば りょうたろう、1923年大正12年)8月7日 - 1996年平成8年)2月12日)は、日本の小説家ノンフィクション作家評論家。本名、福田 定一(ふくだ ていいち)。筆名の由来は「司馬遷(はるか)に及ばざる日本の者(故に太郎)」から来ている。


大阪府大阪市生まれ。産経新聞社記者として在職中に、『梟の城』で直木賞を受賞。歴史小説に新風を送る。代表作に『竜馬がゆく』『燃えよ剣』『国盗り物語』『坂の上の雲』などがある。『街道をゆく』をはじめとする多数のエッセイなどでも活発な文明批評を行った。

生涯
生い立ち
1923年(大正12年)8月7日大阪府大阪市南区難波西神田町(現・浪速区塩草)に、薬局を経営する父・福田是定(薬剤師)、母・直枝の次男として生まれた。兄がいたが2歳で早世し、姉、妹が一人ずついる。乳児脚気のために3歳まで奈良県北葛城郡當麻町(現・葛城市)の母の実家に里子に出されていた。


1930年
昭和5年)、大阪市難波塩草尋常小学校(現・大阪市立塩草立葉小学校)に入学。性格は明るかったが、学校嫌いで、悪童でもあったようである。母の実家の周りには古墳が多く、土器のかけらや石鏃などを拾い集めていた。また、当時の少年たちには特別ではなかったのであるが、大陸の馬賊に憧れていた。後に戦車隊の小隊長となることでこの夢は結実した。


1936年
(昭和11年)、私立上宮中学校に進学。入学後の成績は300名中でビリに近く本人も驚いたらしいが、慌てて勉強をしたら二学期には上位20位に入ったという。井伏鱒二の『岩田君のクロ』に感銘を受ける[注釈 1]。3年生から松坂屋の横の御蔵跡町の図書館に通うようになり、大阪外国語学校卒業まで本を乱読するようになる。

古今東西のあらゆる分野の書物を読破し、しまいには釣りや将棋などの本まで読んだという。阿倍野のデパートでは吉川英治宮本武蔵全集を立ち読みで読破した。いつも立ち読みばかりするので頭にきた売り場の主任が「うちは図書館やあらへん!」と文句を言うと、「そのうちここらの本をぎょうさん買うたりますから…」と言ったそうである。また、半ば趣味として山登りを好み、大阪周辺の名山は大抵踏破している。高等学校への受験に際して、家計の都合で私立学校への進学は許されず、官立のみと父親から釘を刺されていた。


1939年
(昭和14年)、中学生だった司馬にも戦争が影を落としており、上宮中学の配属将校から学校教練を受けている。ある日の教練の、配属将校による当時の日本軍の主力小銃三八式歩兵銃の説明で、「よその国の小銃は機関銃のように連発式になっているが、日本軍の三八式歩兵銃はボルトアクション式のライフルであり、一発ずつしか撃てない、しかし、よその国はバラバラと撃てるが、これでは心が入らない。わが国のほうが心に念じ、一発必中になって狙えるからいい」との説明があったと著作に記述し[2]、これが司馬少年の心に強く印象付けられたとされている。しかし、1939年に「機関銃のように連発式」の自動小銃が正式採用されていたのはアメリカ軍M1ガーランドだけで、これも1939年の初めにはまだ7,715丁しか生産されておらず[3]、数の面では製造開始年は三八式歩兵銃と変わらないボルトアクションライフルのスプリングフィールドM1903小銃が主力小銃であり、真珠湾攻撃による日本との開戦時には、508,000丁(日産2,000丁)の大量発注も行われていた[4]。また、ドイツ国防軍Kar98k[5]、イギリス軍のリー・エンフィールド[6]ソ連労農赤軍モシン・ナガン M1891/30[7]など、当時の列強国の主力小銃は三八式歩兵銃と同じボルトアクションライフルで、これらの小銃は第二次世界大戦が終わるまで各国歩兵の主力装備として運用されており、日本軍の小銃だけが時代遅れのボルトアクションだったというのは事実誤認である。


司馬少年は学校が嫌いで、図書館と本屋さえあれば人間はそれでいいと考えていたが、仕方なく通学し学校で社会訓練を受けているうちに、中国人朝鮮人に好感を抱くようになった。好きになった理由は、「彼らは非常に人間というものを感じさせた」からであったとしている。やがて、司馬にとっての恩人である中国と戦争をしている日本が嫌いであるという感情が芽生えることになった。しかし、それは実際は日本も大好きという感情の裏返しであるアンビバレンスな状態であったと自己分析している[8]


1940年
(昭和15年)に旧制大阪高校、翌年には旧制弘前高校を受験するも不合格。1942年(昭和17年)4月に旧制大阪外国語学校(現在の大阪大学外国語学部蒙古語学科)に入学。入学時に校内食堂で上級生が新入生に催す歓迎会では、上級生が木刀、竹刀を振り回し下駄を踏み鳴らして『こらーっ!』と怒鳴りながら入り、訓辞や軍歌指導を行なった。その際に司馬は見事なガマの油売りを一席やったが、これは彼の性格の明るさを表す一端である。当時の学生の大半がそうであったように語学が嫌いで、早稲田大学の中国文学に鞍替えしようかと考えたこともあった。しかし読書は依然として好み、ロシア文学や、司馬遷の『史記』を愛読。2年上に庄野潤三(英語学科)、1年上に陳舜臣(印度語学科)、同期に赤尾兜子(中国語学科)らの「創作グループ」がいたが、その輪には加われなかった。当時の司馬は、色白でふっくらした童顔であったが、旧制高校に憧れて下駄履きで登下校したという。教室へは「オース、オース」と声をかけながら入り、生徒間で人気があり人が集まる中心にいた。授業でもよく発言をした。食事はよく食べ朝飯を5杯おかわりするのが常であった。「中庸の徳」が座右の銘であったという。


1943年(昭和18年)11月に、学徒出陣により大阪外国語学校を仮卒業(翌年9月に正式卒業となる)。兵庫県加東郡河合村(現:小野市)青野が原の戦車第十九連隊に入隊した。軍隊内ではかなり珍しい「俳句の会」を興し、集合の合図には一番遅れて来た。翌44年4月に、満州四平四平陸軍戦車学校に入校し、12月に卒業。戦車学校では文系であったために機械に弱く、ある時に戦車を動かそうとあちこちいじっているとエンジンが起動したが、中から白煙が出て「助けてくれー」と悲鳴が聞こえたので駆けつけると、コードが戦車に触れて電流が流れていた。手斧でコードを断ち切り、事なきを得たという。戦車学校で成績の良かった者は内地や外地へ転属したが、成績の悪かった者はそのまま大陸に配属になり、これが生死を分けた。卒業後、満州牡丹江に展開していた久留米戦車第一連隊第三中隊第五小隊に小隊長として配属される。翌45年に本土決戦のため、新潟県を経て栃木県佐野市に移り、ここで陸軍少尉として終戦を迎えた。敗戦にショックを受けた司馬は「なんとくだらない戦争をしてきたのか」「なんとくだらないことをいろいろしてきた国に生まれたのだろう」との数日考えこみ、「昔の日本人は、もう少しましだったのではないか」という思いが、後の司馬の日本史に対する関心の原点となり[9]、趣味として始めた小説執筆を、綿密な調査をして執筆するようになったのは「昔というのは、鎌倉のことやら、室町、戦国のころのことである。やがて、ごく新しい江戸期や明治時代のことも考えた。いくら考えても昭和の軍人たちのように、国家そのものを賭けものにして賭場にほうりこむようなことをやったひとびとがいたようには思えなかった」と考えた終戦時の司馬自身に対する「いわば、23歳の自分への手紙を書き送るようにして小説を書いた」[注釈 2][10]からであると述懐している[11]復員後は直ちに図書館通いを再開する。

記者時代
戦地からの復員後、生野区猪飼野東五丁目8にあった在日朝鮮人経営の新世界新聞社に大竹照彦とともに入社。1946年(昭和21年)、ふたたび大竹とともに新日本新聞京都本社に入社。同僚に青木幸次郎がいた[注釈 3]。このころから30歳を過ぎたら小説を書こうと考えるようになる。大学、宗教記事を書いたが、社は2年後に倒産、産経新聞社から「外語大卒だから英語くらいできるだろう」と誘われ、英語がまったくできないにもかかわらず「できます」と応じて京都支局に入る。入社して1か月も経たない1948年(昭和23年)6月28日午後、福井地震が発生し、その日のうちに福井の取材に行く。同年11月歌人川田順の失踪事件を取材、「老いらくの恋」という見出しを付け流行語になる。


翌年大阪本社に異動。1950年(昭和25年)の初夏に京都の岩屋不動志明院に宿泊し奇っ怪な体験をする。同年に金閣寺放火事件の記事を書いた(真っ先に取材に訪れた記者の一人とされる)。このころ京都の寺社周り・京都大学を担当し、その結果京都の密教寺院で不思議な僧侶らと出会ったり、石山合戦のときの本願寺側の兵糧方の子孫の和菓子屋と話したり、京都大学で桑原武夫貝塚茂樹らの京都学派の学者たちに取材したりするなど、後年の歴史小説やエッセイを執筆する種となる出会いがあった。このことは後年の自筆の回想記(多く『司馬遼󠄁太郎が考えたこと』に所収)に記されている。その後文化部長、出版局次長を務めた。


同年に大阪大学医局の薬剤師と見合いにより最初の結婚。1952年(昭和27年)に長男が誕生するが、1954年(昭和29年)に離婚。長男は実家の福田家に預けられ祖父母に養育される。この結婚及び、誕生した息子のことは、当時は一切公表されなかったが、司馬の死後の新聞報道により明らかになっている[12]


1955年
(昭和30年)、『名言随筆・サラリーマン』(六月社)を発表。この作品は本名で発表したが、このほかにも「饅頭伝来記」など数作本名で発表した作品があるといわれる。さらに、当時親しくなっていた成田有恒(寺内大吉)に勧められて小説を書くようになる。1956年(昭和31年)5月、「ペルシャの幻術師」が第8回講談倶楽部賞に応募(「司馬遼󠄁太郎」の名で投稿)、海音寺潮五郎の絶賛を受け同賞を受賞し、出世作となる[注釈 4]。また、寺内とともに雑誌『近代説話』を創刊した。『近代説話』『面白倶楽部』『小説倶楽部』に作品を発表し続け、1958年(昭和33年)7月、「司馬遼󠄁太郎」としての初めての著書『白い歓喜天』が出版される。当時は山田風太郎と並ぶ、伝奇小説の担い手として注目され、本格歴史小説の大家になろうとは予想だにされていなかった。さらに「梟のいる都城」(のち『梟の城』に改題)の連載を開始。


1959年(昭和34年)1月、同じ産経新聞記者の松見みどりと再婚[注釈 5]。12月に大阪市西区西長堀のアパートに転居。同じアパートに南海ホークス時代の野村克也がいた。『大坂侍』『梟の城』を発表。1960年(昭和35年)、『梟の城』で第42回直木賞を受賞し、翌年に産経新聞社を退職し、作家生活に入る[15]

小説家時代
初期は直木賞を受賞した『梟の城』や『大坂侍』『風の武士』『風神の門』などの長編や、短編「ペルシャの幻術師」「果心居士の幻術」「飛び加藤」など、時代・伝奇小説が多い。忍者を主人公にした作品が多く「忍豪作家」(五味康祐ら「剣豪作家」にちなむ呼び名)とも呼ばれた。また、初期数編が西アジアを主要舞台としている点も(当時としてはなおのこと)異色でありながら、後年の創作へは(エッセイ等では同地への強い関心を維持しつつも)引き継がれなかった。推理小説も書き、『豚と薔薇』『古寺炎上』があるがあまり得意ではなくこの2作にとどまっている。


だが、1962年(昭和37年)より『竜馬がゆく』『燃えよ剣』、1963年(昭和38年)より『国盗り物語』を連載し、歴史小説家として旺盛な活動を本格化させた。この辺りの作品より、作者自ら、作中で随筆風に折込解説する手法が完成している。1964年(昭和39年)には、終のすみかとなる布施市下小阪(現在の東大阪市)に転居した。のちに「猥雑な土地でなければ住む気がしない」と記している。1966年(昭和41年)、菊池寛賞を受ける。その後も『国盗り物語』に続き、『新史太閤記』『関ヶ原』『城塞』の戦国四部作を上梓した。


1971年
(昭和46年)から、紀行随筆『街道をゆく』を週刊朝日で連載開始した。1972年(昭和47年)には明治の群像を描いた『坂の上の雲』の産経新聞での連載が終了。また、幕末を扱った『世に棲む日日』で吉川英治文学賞。初期のころから示していた密教的なものへの関心は『空海の風景』(日本芸術院恩賜賞)に結実されている。「国民的作家」の名が定着し始めるようになり、歴史を俯瞰して一つの物語と見る「司馬史観」と呼ばれる独自の歴史観を築いて人気を博した。1970年代中期から80年代にかけ、明治初期の『翔ぶが如く』や、『胡蝶の夢』、江戸後期の『菜の花の沖』、戦国期の『箱根の坂』などを著し、清朝興隆の時代を題材にした『韃靼疾風録』を最後に小説執筆を止める。「街道をゆく」や、月一回連載のエッセイ『風塵抄』、『この国のかたち』に絞り、日本とは、日本人とは何かを問うた文明批評を行った。


1981年
(昭和56年)に日本芸術院会員、1991年(平成3年)には文化功労者となり、1993年(平成5年)に文化勲章を受章した。このころから腰に痛みを覚えるようになる。坐骨神経痛と思われていたが、実際は直接の死因となる腹部大動脈瘤であった。それでも「街道を行く 台湾紀行」取材の折に、当時台北台湾総統だった李登輝との会談「場所の悲哀」[注釈 6]を行ったり、「街道を行く」取材で青森の三内丸山遺跡を訪れるなど精力的な活動を続ける。また、晩年にはノモンハン事件の作品化を構想していたといわれているが、着手されずに終わった[17]


1996年(平成8年)1月、「街道をゆく 濃尾参州記」の取材を終え、連載中の2月10日深夜に吐血して倒れ、大阪市中央区の国立大阪病院(現:国立病院機構大阪医療センター)に入院、2日後の2月12日午後8時50分、腹部大動脈瘤破裂のため死去した、72歳。同日は「菜の花忌」と呼ばれている。死去した国立大阪病院は、奇しくも『花神』で書いた大村益次郎が死去した場所であった。絶筆「濃尾参州記」は未完となった。親族・関係者による密葬を経て、3月10日に大阪市内のホテルで「司馬遼󠄁太郎さんを送る会」が行われ、約3,000人が参列した。法名は、「遼󠄁望院釋淨定」。政府から従三位を追賜された。


翌年に司馬遼󠄁太郎記念財団が発足し、司馬遼󠄁太郎賞が創設された。2001年(平成13年)に、東大阪市の自宅隣に司馬遼󠄁太郎記念館が開館。司馬遼󠄁太郎記念室がある姫路文学館では毎年8月7日の生誕日に、ゆかりのゲストを迎えて「司馬遼󠄁太郎メモリアル・デー」を開催している。また、NHK大河ドラマ原作となった作品数は最も多く、「21世紀スペシャル大河ドラマ」(後にNHKスペシャルドラマと変更)と称する『坂の上の雲』を含めると7作品である。


詳しいことは、「司馬遼太郎ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B8%E9%A6%AC%E9%81%BC%E5%A4%AA%E9%83%8E
(wikiより)

2934 司馬遼太郎

司馬遼太郎

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源五は俳諧を子葉という。


26歳秋、浅野長矩公に従い江戸よりの帰路の途中、大津市の義仲寺にある松尾芭蕉の墓前で句を詠んだ。


「 こぼるるを許させ給へ萩の露 」


源五は茶道に通じ、山田宗徧の門に入り吉良公の在邸日を探知して 12月 14日が討ち入りの日となる。


この碑は源五自筆のものを写刻し、昭和 47年 6月に茶道宗徧流の家元、山田宗囲宗匠が寄進したものである。
(案内板より)

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「奥の細道」中ほどの「平泉の条」が刻まれた句碑。

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五月雨の降り残してや光堂


松尾芭蕉 元禄二年五月十三日詠


同七年十月十二日没 五十一歳
(案内板より)

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中尊寺七重の舎利の小塔


中尊寺
            宮沢賢治

七重 ( じゅう ) の舎利の小塔 ( こたう ) に
蓋 ( がい ) なすや緑 ( りょく ) の燐光


大盗は銀のかたびら
おろがむとまづ膝だてば
赭 ( しゃ ) のまなこたゞつぶらにて
もろの肱映 ( は ) えかゞやけり


手触 ( たふ ) れ得ね舎利の宝塔
大盗は礼 ( らい ) して没 ( き ) ゆる

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福地直哉


眼にうれしこころに寒し光堂


伊藤雅休


なな重八重の霞をもれて光堂
(案内板より)

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角田竹涼 ( つのだ - ちくりょう )


明治 〜 昭和期の俳人


生年明治 25 (1 892 ) 年 5月 16日
没年昭和 5 ( 1930 ) 年 5月 11日


出生地 : 東京・神田


本名 : 角田 龍雄


経歴 : 父・竹冷、母・栄子の影響で早くから俳句に親しんだ。

また古俳書に関心、昭和 3年「俳句講座」に「俳書解題」を連載し、のちまとめて出版した。

他に「竹冷文庫」「俳書集覧」などを校訂。

どの結社にも属さず、研究に専心。

没後父の弟子の麦人が「竹涼集」を刊行。

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伊藤 梅子(いとう うめこ、嘉永元年11月8日1848年12月3日) - 大正13年(1924年4月12日[1])は、伊藤博文の継妻、女流歌人[1]

生涯

1848年、木田久兵衛の長女として長門国(現山口県)で誕生。赤間関(下関)稲荷町の置屋「いろは楼」の養女となり、芸妓となって「小梅」を名乗る。1864年(元治元年)頃、イギリスからの帰国間もない伊藤博文と出会う。

当時、博文は既に入江九一野村靖の妹であるすみ子と結婚していたが、博文とすみ子は1866年(慶應2年)に離婚し、梅子が継妻となった。その後、同年長女貞子(1868年没)、次女生子(1868年9月19日 - 1934年1月2日)を生み、養女朝子(1876年 - 1944年)、養子博邦(幼名勇吉、井上光遠の子、1870年 - 1931年)、眞一(1890年 - 1980年)、文吉らを育て上げた。


夫の博文が初代内閣総理大臣となったことにより、梅子もまた初の内閣総理大臣夫人となった。その様子は芥川龍之介の『花火』に記述されている。梅子は勝気で向学心に富み克己心が強く、下田歌子に和歌を学び、英語の習得にも心がけた。常々身だしなみに気を配り、婦徳の鑑と称された。


1909年10月26日に博文が暗殺された際には、梅子は涙ひとつ見せなかったが、自室で「国のため光をそえてゆきましし 君とし思へどかなしかりけり」と詠んだとされる。その後、滄浪閣神奈川県中郡大磯町)を出て東京の生子の嫁ぎ先の末松謙澄邸などを転々とし、1924年4月12日に死去した。

脚注
1. a b 国学関連人物データベース「伊藤梅子」 | 國學院大學

参考
・「伊藤梅子」『日本女性人名辞典』[普及版]、日本図書センター、1998年 ISBN 4-8205-7881-2

・父逝いて五十年 伊藤博文小伝記 伊藤眞一1959年 伊藤博文追頌会

やっぱり妻には かないません! 初代総理大臣 伊藤博文の妻 梅子 歴史ヒストリア NHK 2015年8月26日
(wikiより)

046 伊藤博文

伊藤梅子

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鴫の井戸。

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第十七世庵主・神林時處人句碑


山に来て落葉ふむことあたたかき


神林時處人 ( かんばやしじしょじん ) 在庵八年 昭和二十一年八月二十日没。

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第九世庵主・遠藤雉啄句碑


心ほど世は経かたくも散桜


遠藤雉啄 ( えんどう - ちたく )

在庵二十七年 天保十五年六月二十四年没


鴫立庵主葛三門。


のち鴫立庵の名蹟を継ぎ、在庵 20余年に及ぶ。


『鴫の井』『まつかぜ集』等著がある。


弘化元年 ( 1844 ) 歿、82才。

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五智如来
・釈迦
・阿弥陀
・大日
・阿閦
・宝生

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第十六世庵主・高瀬蘇迷句碑


龍神のあゆむ跡よりもゆる草


高瀬蘇迷 ( たかせ - そめい ) 在庵六年 昭和十年一月三十一日没。

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鴫立沢標石。

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第十四世庵主・二宮松汀句碑


大島ハいつのとなりよ今日の月


二宮松汀 ( にのみや - しょうてい ) 在庵二十四年 大正十四年十一月十八日没。

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第十五世庵主・原 昔人句碑


俯向て澤の音きく時雨かな


原 昔人 ( はら - せきじん ) 在庵四年 昭和四年一月六日没。

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第十四世庵主・二宮松汀墓碑


昭和 10年 ( 1935 )。

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第十三世庵主・間宮宇山墓碑


大正 2年 ( 1913 )。

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宝篋印塔。

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宇山碑。

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第十三世庵主・間宮宇山句碑


明行や桜はさくら月ハつき


間宮宇山 ( まみや - うざん ) 在庵十四年 明治三十五年一月二十五日没


〇 間宮宇山 ( まみや - うざん )

( ? - 1902 )

明治時代の俳人。


もと幕臣。


美濃派の俳諧 ( はいかい ) を学び、明治 22年神奈川県大磯の鴫立庵 ( しぎたつあん ) 13代を継いだ。

明治 35年 1月 25日死去。別号に栗庵。

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第十二世庵主・管喜田松頂墓碑


葉一枚落るかせより秋の鐘


管喜田松頂 ( すがきた - しょうちょう ) 在庵七年 明治二十二年八月十八日没。

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高橋那保女墓碑。

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佳宇墓碑。

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第十一世庵主・大澤壽道墓碑


行さきは人まかせなり更衣


大澤壽道 ( おおさわ - じゅどう ) 在庵十八年 明治十六年五月二十四日没。


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