本牧jack『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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小生の拙ブログ『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑に御訪問頂き誠に有難う御座います。
歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。
たまに『 大人数で取材しているのか? 』との質問を戴きますが、小生と相方の二人三脚で御座います。
出来るだけ続けたいと思っていますが 膝・耳に問題が有って、いつまで出来るやら・・・説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。
御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。 ※ 申し訳御座いませんが「画像の転用」は禁止とさせて頂きます。 コメントは原則公開させていただいております 質問等に対してはブログ記事で返信させていただきます 他の方法で連絡を取り合う等一切しません 場合によっては、「IPブロック」しますがブロックした場合解除する事は有りませんので宜しくお願いします。

カテゴリ: 画・彫刻・彫金・陶工・芸術・書家・出版・版元一般

画家。 

行年 49歳。

没年 安政 8年 11月 5日。

戒名 : 雲山緑水居士。

大組士。53石。

林百非および田村竹田に学び南画家として聞ゆ。
(案内板より)

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画家。 

行年 73歳。

没年 安永 3年 7月 17日。

戒名 : 雲谷庵声応等琳大徳。

絵師。 雪舟流、等直の妹驚、中島小兵衛利茂の三男。初名 弥八。

原景光、雲谷等直より画業をゆずり受く。
(案内板より)

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画家。 

行年 47歳。

没年 大正 15年 4月 23日。

戒名 : 太鼓堂天倫西湖居士。

日本画家、田総百山、山元春挙に学ぶ、花鳥及び人物に長ず。

萩町公会堂に虎の襖絵を揮毫す。萩にて病没。
(案内板より)

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三井 親和(みつい しんな、元禄13年(1700年) – 天明2年3月7日1782年4月19日))は、江戸時代中期の日本の書家篆刻家である。


は孺鄕、に竜湖・深川漁夫・万玉亭などがある。通称は孫兵衛。信濃国諏訪藩諏訪忠晴の弟にあたる旗本諏訪盛條の家臣三井孫四郎之親(ゆきちか)の子。深川に住んだので深川親和とも称された。

略伝
最初、禅僧東湖に書法を学び、正徳元年(1711年)、細井広沢に就いて書と篆刻を学んだ。広沢没後は関思恭松下烏石、平林惇信とともに、細井門下の「四天王」と並び称された。寺社の扁額や祭礼の幟、商家の暖簾など請われるままに書している[1]安永天明の頃に親和の篆書草書を反物に染出した「親和染」が好事家の間に流行した[注釈 1]。また印譜なども多く収蔵し、「親和は広沢の深遠な刀法をただひとり受け継いだ」と評された。しかし、実際は正しい篆法を学んでいないので書体の用法に過ちが多いと指摘される。


兄喜左衛門の仕えた高崎藩主で当時老中に昇り詰めた松平輝高に気に入られ、深川に地屋敷を与えられた。旗本御家人の子息が挙って門を叩き多くの門人を集め、馬術弓術指南と書を教えた。


親和は50歳過ぎまで妻帯しなかったが、人に勧められて40過ぎの農家の女を妻にした。しかし、子が出来ないので妻に請われて20歳ほどの女を妾とし、三人の子に恵まれた。一説には親和の妻は松平輝高の臣下の娘だとも言う。


享年
83。門下で著名となった者に林述斎亀田鵬斎などがいる。子の親孝も書家となったが大成しなかった。甥の三井之孝による肖像画が伝わっている。

注釈
1. 甲子夜話』より[2]

脚注
1. 
八島五岳 『百家琦行伝』有朋堂文庫、1914年、P.691頁。
2. 
石川恒太郎 『日本浪人史』西田書店、1980年、P.116頁。
3. 
読みは以下のとおり。「高城」「東去海雲低 玄菟城頭烏夜啼」(出典は明・王世貞「寄耿中丞子承」)「弦中」

出典
中井敬所「日本印人伝」『日本の篆刻』 中田勇次郎編 二玄社、1966年。
森銑三「三井親和」、 中央公論社<森銑三著作集 第4巻 人物篇>
小松雅雄『江戸に旋風三井親和の書』信濃毎日新聞社、2004年。

関連項目
日本の篆刻家一覧 
(wikiより)

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⇧ 三井親和 『百家琦行伝』より

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⇧⇩ お寺入り口付近にある石柱

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関根 正二(せきね しょうじ、本名読み:まさじ[1]1899年4月3日 - 1919年6月16日)は、日本洋画家である。

経歴
1899年福島県西白河郡大沼村(現白河市)に屋根葺き職人の父のもとに生まれた。1908年、前年に発った父を追い上京、深川に住む。小学校の同級生に伊東深水がおり、伊東の紹介で1914年に東京印刷株式会社に就職、そこでオスカー・ワイルドの作品を読み、ワイルドの思想に触れた。1915年、会社を辞めた関根は知人と共に長野県へ放浪、そこで洋画家の河野通勢と出会った影響などを受け、ほぼ独学で絵画を学んでいく。同年、16歳の時に描いた「死を思う日」が第2回二科展に入選。1918年、19歳の時に第5回二科展に出品した「信仰の悲しみ」が樗牛賞に選ばれたが、関根はこの頃より心身共に衰弱し、翌年結核により20歳で夭折した。絶筆となった「慰められつゝ悩む」は後に紛失し、現在は作品を写した絵葉書のみが残されている。関根の代表作である「信仰の悲しみ」は後に日本の近代洋画史を代表する傑作の一つと評され、2003年重要文化財の指定を受けている。

代表作品については、『関根正二ウィキペディア』をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E6%A0%B9%E6%AD%A3%E4%BA%8C

展覧会
・関根正二展 生誕120年・没後100年 神奈川県立近代美術館 鎌倉別館 2020年2月1日ー3月22日

脚注
1. 二十歳で逝った天才画家
2. 牛舎 - 収蔵作品検索 - 福島県立美術館ホームページ
3. 風景 - 収蔵作品検索 - 福島県立美術館ホームページ。なお、当ページでは「1918年頃」「33.2×23.0」と記載しているが、『生誕100年 関根正二展図録』や『生誕120年・没後100年 関根正二展』では「1916年頃」「33.3x23.1」と記載しており、当項目では後者に従っている。
4. 村岡みんの肖像 _ 神奈川県立近代美術館
5. 一本杉の風景 - 収蔵作品検索 - 福島県立美術館ホームページ
6. OHARA MUSEUM of ART ― 作品紹介>主な作品の紹介>日本の絵画と彫刻>関根正二
7. 姉弟 - 収蔵作品検索 - 福島県立美術館ホームページ
8. 自画像 - 収蔵作品検索 - 福島県立美術館ホームページ
9. 神の祈り - 収蔵作品検索 - 福島県立美術館ホームページ
10. 婦人像 - 独立行政法人国立美術館・所蔵作品検索
11. 三星 - 独立行政法人国立美術館・所蔵作品検索
12. 《子供》 - 日本近代洋画 _ アーティゾン美術館
13. 関根正二《慰められつゝ悩む》 - 関根正二研究所

参考文献
・神奈川県立近代美術館ほか編集 『生誕100年 関根正二展図録』 神奈川県立近代美術館、1999年7月10日

関連項目
河野通勢

東郷青児

今東光

村山槐多 - 関根と並び評される夭折の画家。両者の関係は今なお不明だが、関根が親友宅に槐多のデッサンを預けたという伝説がある。

外部リンク
関根正二と河野通勢の邂逅(三重県立美術館学芸課長)

関根正二(三重県立美術館)
(wikiより)

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高 嵩月(こうすうげつ、宝暦5年(1755年[1]) - 文政13年8月29日1830年10月15日[2]))は江戸時代英派絵師観嵩月とも表記される。

来歴

高嵩谷の門人。氏は坂本[3]、名は常雄。字は子行または巨熊。嵩月、蓑虫庵、景訥、観、卓朗斎、(草冠+鹿)菴と号す。生家は筑島屋といい、もともとは材木屋だったが、祖父・坂本雪花斎の代に別家し、地主として地代で生活していた[3]。父は幕府御用達という池之端仲町の小間物手遊類問屋の大槌屋(新井氏)からの養子だった[3]。祖父の代から俳号を持っており、祖父の姉または妹が江戸座の俳人・岡田米仲の妻になり、自身も米化という俳名を持つなど俳諧グループとの繋がりもあった[3]


久松町に住んでおり、主に寛政から文政にかけて活躍、肉筆画のほかにわずかに版画摺物を残している。一方、書画に精通しており、菅原洞斎著『画師姓名冠字類鈔』や朝岡興禎著『古画備考』に、情報の提供や仲介をし、その成立に大きな貢献を果たした。嵩月の祖父の長屋に晩年の尾形乾山が住んだ(『古画備考』巻三十五)という縁からか、酒井抱一にも乾山の情報を提供している[4]。嵩月自身も、『画師冠字類考』(西尾市岩瀬文庫蔵)を編著している。戒名は観月院湘室景納居士、墓は深川陽岳寺で、金3両で妻と共に永代供養を契約したためか、現在も陽岳寺の本堂前に観月の墓石は残っている[5]。また、その墓の隣にはやはり金1両で永代供養を約した英一蝶 (2代目)の墓が建っている[5]

作品については、『高 嵩月ウィキペディア』をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B5%A9%E6%9C%88

脚注
1.  結城素明 『東京美術家墓所誌』 1936年、p.145に歿年七十六とあることから逆算。
2. 『古画備考』より、『武江年表』や陽岳寺に残る墓石では文政13年11月20日1831年1月3日沒としているが、これは嵩月の遺言状に「何ヶ月に没しても忌日は十一月ノ廿日也」と沒日を変更したためである。しかし、なぜ嵩月がこの日に拘ったかは不明(井田(2016)p.32)。
3. a b c d 井田(2016)p.29。
4. 井田(2016)p.31。
5. a b 井田(2016)p.32。
6. 威光山法明寺 近江正典編 『雑司ヶ谷鬼子母神堂開堂三百五十年・重要文化財指定記念 雑司ヶ谷鬼子母神堂』 勉誠出版、2016年11月28日、pp.80,132、ISBN 978-4-585-21036-8

参考文献
日本浮世絵協会編『原色浮世絵大百科事典』第2巻 大修館書店、1982年

・古画備考研究会編 『原本『古画備考』のネットワーク』 思文閣出版、2013年2月、ISBN 978-4-7842-1674-1

・井田太郎 「本を読む 観嵩月という結節点 血縁と基本資料」『書物學 BIBLIOLOGY 第8巻』 勉誠出版、2016年8月8日、pp.27-33、ISBN 978-4-585-20708-5
(wikiより)

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英信勝は英一蝶の子で、父一蝶が元禄十一年 (1968) 三宅島に流され、宝永六年 ( 1709 ) 有されて江戸に帰り、深川に住んだが、信勝も父に従って江戸に出て絵画に専念、画風はよく一蝶の風格を得て絶妙であった。


信勝は通称を長八、号を栗舎、一峰、春窓などと称し、二世・英一蝶とも称した。


信勝は元文二年 ( 一七三七 ) 閏十一月十一日、四十七才をもって死去し、法名は「機外道倫信士」である。
(案内板より)

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里見 勝蔵(さとみ かつぞう、1895年明治28年)6月9日 - 1981年昭和56年)5月13日)は、日本洋画家国画会会員[1]

人物
京都市四条生まれ。東京美術学校卒業後にフランスに留学。二科展に入会し活躍。1926年には前田寛治佐伯祐三らと1930年協会を設立したほか、児島善三郎らと独立美術協会を創立し、フォーブ運動を展開した。終戦後に国画会に入会。著書に「ブラマンク」など[2]

コレクション
東京国立近代美術館[3]

京都国立近代美術館

茨城県近代美術館

宇都宮美術館

目黒区美術館

神奈川県立近代美術館

山梨県立美術館

愛知県美術館

三重県立美術館

山口県立美術館

静岡県立美術館

京都市美術館

ふくやま美術館

山梨県立美術館

愛媛県立美術館

北九州市立美術館

大分市美術館

脚注
1. 里見勝蔵 :: 東文研アーカイブデータベース”. www.tobunken.go.jp. 2021年1月9日閲覧。
2. 
里見勝蔵』 - コトバンク
3. 里見勝蔵 略歴”. www.g-ashiya.jp. 2021年1月9日閲覧。
(wikiより)

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中川 一政(なかがわ かずまさ、1893年明治26年)2月14日 - 1991年平成3年)2月5日)は、日本洋画家美術家歌人随筆家東京府生まれ。

経歴
1893年 東京市本郷に生まれる。

1914年 巽画会展に出品した作品が岸田劉生に見出されて画家を志す。

1915年 草土社を結成。

1920年 初の個展(油彩)を開く。また、同年2月千家元麿宮崎丈二らと雑誌『詩』を創刊。

1922年 小杉放庵らと「春陽会(しゅんようかい)」設立に参加。

1923年 伊藤暢子(伊藤為吉の娘)と結婚[1]

1931年 水墨画の個展を開く。

1949年 神奈川県真鶴町にアトリエを構える。

1975年 文化勲章を受章。文化功労者表彰。

1986年 母の故郷である石川県松任市(現白山市)に松任市立中川一政記念美術館(現 白山市立松任中川一政記念美術館)が開館。

1989年3月 真鶴町に真鶴町立中川一政美術館(設計 柳澤孝彦/第15回吉田五十八賞受賞、第33回BCS賞受賞)が開館した。

作品

洋画水墨画版画陶芸詩作和歌随筆と多彩な作品を制作した。全てが独学であり自ら「在野派」と称した。洒脱な文章でも知られた。

・絵画作品 「漁村凱風」「薔薇」「箱根駒ケ岳」等。

・和歌 1961年歌会始の召人となり詠進した。

・挿絵 都新聞に連載された尾崎士郎「人生劇場」

・随筆 文集全5巻、全文集全10巻がある。

評伝・その他
・97歳と長命であったが、晩年まで創作活動を続けた。視力が衰えたため、家政婦に絵の具の色の名を大きく書かせて描く時に見分けたという[要出典]。絶筆はかねてから好んで描いていたバラであった[要出典]。バラを題材にした作品は判明しているだけで800点を超える[要出典]

・遺した美術品コレクションが競売にかけられた際、それまで判明していなかったがゴッホの油彩画であることが判明した絵画があった。当初は落札予想価格が1万円とされていたものが、6600万円でウッドワン美術館に落札された。中川がゴッホ作であったことを知っていたかどうかは不明[要出典]

・戦時中は伊豆に疎開しその途中、真鶴に魅了された[要出典]

著作
・見なれざる人 (詩集 叢文閣、1921年)

・ゴオホ (アルス、1925年)

・美術の眺め (アトリヱ社、1930年 のち講談社文芸文庫)

・美術方寸 (第一書房、1933年)

・永福寺余暇 (竹村書房、1934年)

・武蔵野日記 (竹村書房、1934年)

・庭の眺め (竹村書房、1936年)

・旅窓読本 (学芸社、1936年)

・一政随筆 (学芸社、1937年)

・顔を洗ふ (中央公論社、1938年)

・美しい季節 (桜井書店、1942年)

・一月櫻 (随筆 錦城出版社、1942年)

・向ふ山 (歌集 昭南書房、1943年)

・野の娘 (昭南書房、1943年 のち講談社文芸文庫)

・我思古人 (靖文社、1947年 のち講談社文芸文庫)

・歳々年々 (自在書房、1947年 のち講談社文芸文庫

・篋中デッサン (建設社、1947年)

・香爐峰の雪 (創元社、1950年)

・見えない世界 (筑摩書房、1954年)

・モンマルトルの空の月 (筑摩書房、1955年 のち中公文庫)

・猫と人間 (朋文堂、1955年)

・正午牡丹 (筑摩書房、1958年)

・道芝の記 (実業之日本社、1959年)

・うちには猛犬がゐる (筑摩書房、1963年 のち中公文庫)

・遠くの顔 (中央公論美術出版、1967年)

・近くの顔 (中央公論美術出版、1967年)

・中川一政書蹟 (中央公論美術出版、1967年)

・中川一政插画 (中央公論美術出版、1971年)

・さしゑ人生劇場 (求竜堂美術出版、1971年)

・門前小僧 (中川一政水墨・岩彩 求竜堂、1973年)

・書の本 (求竜堂、1974年)

・一政印譜 (求竜堂、1974年)

・中川一政文集 (全5巻 筑摩書房、1975年-1976年)

・腹の虫 (日本経済新聞社、1975年 のち中公文庫)

・対談 (求竜堂、1977年)

・雨過天晴 (歌集 求龍堂、1979年)

・随筆八十八 (講談社、1980年2月 のち文芸文庫)

・中川一政文選 (筑摩叢書、1983年 のちちくま文庫)

・画にもかけない (講談社、1984年 のち文芸文庫)

・中川一政ブックワーク (形象社、1984年)

・つりおとした魚の寸法 (講談社、1985年)

・中川一政全文集 (全10巻 中央公論社、1986年-1987年)

・裸の字 (中央公論社、1988年 のち文庫)

・いのち弾ける! (二玄社、1996年)

系譜
妻は伊藤為吉の娘、伊藤道郎の妹、千田是也の姉の暢子[2]で、中川のぶの名で翻訳を1冊(カアスン・マックカラーズ 『話しかける彼等』)出している。長男は元劇団四季副社長、舞踊評論家の中川鋭之助。長女は俳優原保美の妻・原桃子。次男は映画監督中川晴之助。晴之助が是也と最初の妻との間の娘モモコと従兄妹同士で結婚して生まれたのが女優の中川安奈である。

中川一政に師事した主な画家
田垣内友吉(1894年 - 1931年、三重県出身)

堀内唯生(1900年 - 1981年、長野県出身)

・棟方寅雄(1902年 - 1992年、青森県出身)

・志村一男(1908年 - 1981年、長野県出身)

・田中謹左右(1908年 - 1935年、岡山県出身)

・上原欽二(1915年 - 2001年、愛知県出身)

野村千春(1908年 - 2000年、長野県出身)

・渡邉一雄(1937年 - 、静岡県出身)

・小池邦夫(1941年 - 、愛媛県出身)

小杉小二郎(1944年 - 、東京都出身)

脚注
1. 村松貞次郎 (1994年7月28日). やわらかいものへの視点 異端の建築家伊藤為吉. 岩波書店. p. 228
 

2. 村松貞次郎 (1994年7月28日). やわらかいものへの視点 異端の建築家伊藤為吉. 岩波書店. pp. 191-192 

参考文献
・村松貞次郎 著『やわらかいものへの視点 異端の建築家伊藤為吉』岩波書店、1994年7月28日

関連項目
中川一政美術館

白山市立松任中川一政記念美術館(旧 松任市立中川一政記念美術館)

外部リンク
中川一政 - 白山市

真鶴町立中川一政美術館

白山市立松任中川一政記念美術館

関連家系図

中川一政 - NHK人物録
(wikiより)

0016 中川一政

⇧ 中川一政

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福沢 一郎(ふくざわ いちろう、1898年明治31年)1月18日 - 1992年平成4年)10月16日[1])は、日本の洋画家。日本にシュルレアリスムを紹介した画家として知られる[2]

来歴

群馬県北甘楽郡富岡町(現富岡市)に生まれる。父は後に富岡町長となった。


1915年
旧制富岡中学校を卒業。第二高等学校英法科[3]を経て、1918年東京帝国大学文学部入学。しかし大学の講義に興味なく、彫刻家朝倉文夫に入門し、彫刻家を志す。1922年、第4回帝展に彫刻作品「酔漢」が初入選。1923年の関東大震災を気に渡欧を決意し、1924年から1931年にかけてパリに遊学[4]。1924年といえばアンドレ・ブルトンがシュルレアリスム宣言を著した年であり[4]ジョルジョ・デ・キリコマックス・エルンストなど、最先端の美術潮流の影響を受けて絵画制作へと移る[5]


1931年の帰国に先立ち、1930年独立美術協会の結成に参加[5]。第1回独立美術協会展に滞欧作品が特別陳列され、日本の美術界に衝撃を与えた[5]。以後も旺盛な創作活動と執筆によりシュルレアリスムの紹介に努め、前衛の主導的立場となる[5]。1934年頃、プロレタリア芸術運動が政府の弾圧を受け壊滅し、表現者の間で閉塞的な空気が立ち込める中で、小松清らが唱えた行動主義思想に福沢も共鳴[6]。古典的なイメージを引用し、そこに象徴的な意味を忍ばせた作品を描き、社会批評的表現を試みた[6]。1936年、福沢絵画研究所を開設、後進の指導を行う[7]1939年、独立美術協会を脱退し、若手の画家たちとともに新たに美術文化協会を結成。この団体がシュルレアリスムの影響を受けた画家たちの一大拠点となった[7]。しかし、治安維持法違反の疑いにより、1941年4月5日詩人・評論家の瀧口修造とともに逮捕、拘禁された[5][8]。シュルレアリスムと共産主義との関係を疑われ尋問を受ける[9]。同年11月に二人は釈放されるものの、その後は軍部への協力を余儀なくされ、戦争記録画を手掛けるようになる[10]


戦後に活動を再開。《敗戦群像》(1948年、群馬県立近代美術館蔵)は、日本の近代美術史において、しばしば戦後美術の起点と位置づけられる[11]。1952年渡欧、その後ブラジルやメキシコ、インド、オーストラリア、ニューギニア等を旅してまわる[12]高度経済成長をとげる日本の社会状況にむしろ逆らうかのように、プリミティブなエネルギーから想像を膨らませた作品を描いた[7]。1957年、この年を最後に美術文化協会を脱会、以後無所属[13]。同年、第4回日本国際美術展にて《埋葬》が日本部最高賞受賞[13]。1958年、ヴェネツィア・ビエンナーレ副代表として瀧口修造とともに渡仏[5]。1965年には公民権運動が高まりを見せていたアメリカを旅し、自由を求める運動のエネルギーを、アクリル絵具を駆使したすばやいタッチの連作として描いた[14]。1970年代以降は旧約聖書や神話の世界に主題を求め、力強く奔放なタッチに鮮やかな色彩を特徴とした[5]


多摩美術大学
女子美術大学教授をつとめた。1978年文化功労者となる。1991年文化勲章を受章。


代表作に《他人の恋》(1930年 群馬県立近代美術館蔵)、《科学美を盲目にする》(1930年 群馬県立近代美術館蔵)、《よき料理人》 (1930年 神奈川県立近代美術館蔵)などがある。


2019年3月、「福沢一郎展 このどうしようもない世界を笑いとばせ」が東京国立近代美術館で開催[15]

脚注
1. 本間正義「追悼 福沢一郎氏を思う」『美術手帖 : monthly art magazine』第45巻第664号、1993年、 249頁、 ISSN 02872218
2. NHK. “福沢一郎|NHK人物録” (日本語). NHK人物録 | NHKアーカイブス. 2020年11月13日閲覧。
3. 第二高等学校編『第二高等学校一覧 自大正7年至大正8年』第二高等学校、1918年、p.266
4. a b 『福沢一郎展 : このどうしようもない世界を笑いとばせ』東京国立近代美術館、2019年、8頁。
5. a b c d e f g 『詩人と美術:瀧口修造のシュルレアリスム』瀧口修造展実行委員会、2013年、179頁。
6. a b 『福沢一郎展 : このどうしようもない世界を笑いとばせ』東京国立近代美術館、2019年、10頁。
7. a b c 『福沢一郎展 : このどうしようもない世界を笑いとばせ』東京国立近代美術館、2019年、9頁。
8. 『日本美術家事典 2003年度版』(構成執筆・藤森耕英、日本美術家事典社、2003年3月)
9. 『福沢一郎展:このどうしようもない世界を笑いとばせ』東京国立近代美術館、2019年、74頁。
10. 『福沢一郎展 : このどうしようもない世界を笑いとばせ』東京国立近代美術館、2019年、74頁。
11. 『福沢一郎展 : このどうしようもない世界を笑いとばせ』東京国立近代美術館、2019年、80頁。
12. 『福沢一郎展 : このどうしようもない世界を笑いとばせ』東京国立近代美術館、2019年、94頁。
13. a b 『福沢一郎とそれぞれの戦後美術』富岡市立美術博物館・福沢一郎記念美術館、2004年、92頁。
14. 『福沢一郎展 : このどうしようもない世界を笑いとばせ』東京国立近代美術館、2019年、106頁。
15. 福沢一郎展  このどうしようもない世界を笑いとばせ | 東京国立近代美術館”. www.momat.go.jp. 2019年3月13日閲覧。

関連項目
群馬県名誉県民

群馬県出身の人物一覧

富岡市立美術博物館・福沢一郎記念美術館

外部リンク
富岡市立美術博物館・福沢一郎記念美術館

福沢一郎記念館

福沢一郎 - 東京文化財研究所

・『福沢一郎』 - コトバンク

福沢一郎 - NHK人物録
(wikiより)

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三浦 梧門(みうら ごもん、文化5年1月4日1808年1月31日) - 万延元年11月9日[1]1860年12月20日))は、江戸時代後期の長崎南画家鉄翁祖門木下逸雲と共に長崎三大家とされる。


は惟純、を宗亮。通称は総助もしくは惣吉。梧門はで別号に秋声・荷梁・香雨など。

略伝

長崎本興善町乙名の三浦総之丞の長男。先祖は平戸藩家臣で代々興善町乙名を任される。号の梧門は邸内に植えた梧桐(梧桐)の美しさを愛でたことに由来するという。梧梧門は本興善町の乙名から長崎会所目付役となっている。


画は最初、唐絵目利渡辺秀実石崎融思に学び、その後、舶載される中国の古書画・名品に臨んでその画法を独学した。米法山水を得意とし作品数も最も多く、中でも「雪景山水図」が目立つ。人物図花鳥図も能くし、他に土佐絵風の画も見られる。特に「鍾馗図」は、山水画に次いで人気があり、病気除け、平癒に効果があると評判で、梧門も好んで描いた。更に伊藤若冲の「乗興舟」のような正面摺り(正面版[2])の花卉図も確認されており、梧門の多様な作画と当時の長崎文化の成熟ぶりが伝わってくる。


享年53。墓所は本蓮寺。門弟に伊藤深江がいる。

代表作
・「鍾馗禳魔図」 長崎歴史文化博物館蔵 1858年(安政5年)

関連項目

長崎派
亀山焼

脚注
1. 墓石の記載より。ただし、10月8日とする説もある。
2. 日本の印刷史において正面版は珍しいが、中国文化の影響が強い長崎ではしばしば見られ、長崎版画にも用いられる技法である。

出典
・阿野露団『長崎の肖像 長崎派の美術家列伝』 形文社、1995年

・植松有希 「長崎の南画家・三浦梧門について」『長崎歴史文化博物館 研究紀要』第8号、2014年3月、pp.15-30
(wikiより)

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山本森之助 ( やまもと - もりのすけ )

( 1877 - 1928 )

明治 - 大正時代の洋画家。

長崎県出身。


明治 10年 4月 2日生まれ。


山内愚仙 ( ぐせん ) に師事し、上京して黒田清輝らの天真道場、東京美術学校 ( 現東京芸大 ) に学ぶ。


白馬会、文展、帝展で入賞をかさねて文展審査員となる。


明治 45年中沢弘光らと光風会を創立した。


昭和 3年 12月 19日死去。52歳。長崎県出身。

作品に「曲浦」「丘」など。

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渡辺秀石(わたなべ しゅうせき、寛永16年(1639年) - 宝永4年1月16日1707年2月18日))は、江戸時代前期に長崎で活躍した画家。逸然に就いて画を修め、長崎奉行所から唐絵目利を命ぜられると写生画を基調とする唐絵目利派の祖となった。


本姓
は岩川氏。を元章、仁寿斎・嬾道人などとし、師の画号である煙霞比丘も襲名している。通称は甚吉。

略伝

肥後国菊池氏を祖という。商人岩川甚吉の子であったが渡辺に改姓。正保元年(1645年)逸然について北宗画を修め、河村若芝とともに長崎漢画の代表的な画人となる。ともに師と共通の画号である煙霞比丘を襲名している。


元禄
10年(1697年)唐絵目利職と御用絵師長崎奉行所に命ぜられ、唐絵目利派の元祖となる。逸然を通じて中国から伝わった北宗画風の絵画が、公に長崎の独自な画風として認められたのである。


秀石は長崎土産となるような異国情緒あふれる長崎の風俗図や細密な花鳥図を画いている。作品は無落款のものが多く、伝存作品が少ない。その人柄は温厚で慎ましく、画神と称賛された。


秀石の一族は代々唐絵目利職を世襲し、2世秀朴・3世元周・4世秀渓・5世秀彩・6世秀詮・7世秀実(鶴洲)・8世元洲と続いた。秀石の弟の渡辺秀岳も画家。


法号
は仁寿院元章秀石居士。東林山深崇寺に一族と共に葬られている。

183   布袋渡水図 伝渡辺秀石筆 隠元賛 1672年 絹本着色 萬福寺

⇧ 布袋渡水図 伝渡辺秀石筆 隠元賛 1672年 絹本着色 萬福寺

183   双鶴図 渡辺秀石筆 絹本着色

⇧ 双鶴図 渡辺秀石筆 絹本着色

作品
・「野稲群雀図」伝秀石 長崎歴史文化博物館

・「寿老図」伝秀石 長崎歴史文化博物館

・「唐夫人図」長崎歴史文化博物館

・「雪中梅鶴図」

・「布袋渡水図」伝秀石 寛文12年(1672年)萬福寺 

・「出島・十善寺絵巻」

・「老松双鶴図」

参考文献
渡辺秀実『長崎画人伝』

田能村竹田『屠赤瑣瑣録』

・『瓊浦画工伝』』(文化元年 春孔撰 文化10年 今井孝寛増訂)

・古賀十二郎『長崎画史彙伝』1983年 大正堂書店

出典
成澤勝嗣「物はやりの系譜」(「隠元禅師と黄檗宗の絵画展」所載  1991年 神戸市立博物館)

・阿野露団『長崎の肖像 長崎派の美術家列伝』1995年 形文社

183  異国人図巻(琉球人・朝鮮人・韃靼人)

⇧ 異国人図巻(琉球人・朝鮮人・韃靼人)

183  異国人図巻(阿蘭陀人・毛留人・咬𠺕吧人)

⇧ 異国人図巻(阿蘭陀人・毛留人・咬𠺕吧人)
(wikiより)

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打橋半雨 ( うちはし - はんう ) 名は喜衡。通称は小野次。別号に竹里。
( 1804 - 1847 )

江戸時代後期の画家。


文化元年生まれ。

打橋竹雲の子。


家は代々長崎の北瀬崎御用米蔵預役。


石崎融思に師事。

鉄翁 ( てっとう ) 祖門、木下逸雲とは融思門の同門。

隠元、木庵、即非の書を学び、書家としても知られた。


弘化 ( こうか ) 4年 4月 5日死去。44歳。名は喜衡。


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木下 逸雲(きのした いつうん、寛政12年8月1日1800年9月19日) – 慶応2年8月4日1866年9月12日))は、江戸時代後期の長崎南画家鉄翁祖門三浦梧門と共に長崎三大家とされる。


幼名弥四郎といい、のちに通称を志賀之介とした。を相宰。逸雲は、ほかに如螺山人・物々子。室号を養竹山房・荷香深処とした。

略伝

長崎八幡町、木下勝茂の3男に生まれる。文化14年(1817年)、18歳で木下家代々の乙名(名主)の役を引き継ぐも、文政12年(1829年)にその役を兄の子に譲り、自身は元来関心のあった医師を生業とし、医門名を得生堂と称した。蘭医オットー・モーニケによって伝えられた種痘術の普及に努めている。「霧島山に登るの記」(文政11年(1828年))の小文がある。


画は、はじめ唐絵目利石崎融思に学び、来舶清人江稼圃張秋穀からは南画の技法を修めた。その後も清人陳逸舟徐雨亭にその画風を学んだ。さらに雪舟狩野派大和絵円山四条派などの諸派や西洋画の画法を熱心に研究し、様々な技法を取り入れた。画僧鉄翁祖門と画を共に学び生涯の友となった。逸雲は筆が早く、遅筆の鉄翁と対極をなした。田能村竹田頼山陽広瀬淡窓など文人と交わった。


逸雲は多芸多才で知られ、篆刻を能くし、琵琶の演奏・制作に巧みで、煎茶をたしなみ、藤原相宰の名で優れた和歌を詠んだ。また白磁染付で知られる亀山焼の発展に尽くし、自ら絵付けも行っている。長崎円山花月楼清譚会の世話役を務め、日中文化交流を促した。


慶応
2年(1866年)4月、京阪江戸に漫遊し、同年8月横浜から長崎行きのイギリス船黒龍号に乗船するも、玄界灘で海難事故に遭い、帰らぬ人となった。享年68。門人に、河村雨谷津田南竹池島邨泉長井雲坪など。また姉の小蘭、甥の秋塘も画家である。

176 秋景山水図 1854年 絹本墨画

⇧ 秋景山水図 1854年 絹本墨画

作品
・「秋景山水図」1830年 長崎歴史文化博物館

・「秋景山水図」1854年

・「山水図」1861年

・「花鳥図(牡丹に猫)」1862年

・「水墨林巒重畳図」1863年

・「桃花源図」1864年

・「蘭水仙図」1864年

・「蓮塘図」1865年

出典
・阿野露団 『長崎の肖像 長崎派の美術家列伝』 形文社、1995年12月22日、pp.123-127

・『文人画の近代 鉄斎とその師友たち』 京都国立近代美術館、1997年

・関啓治編集 『長崎南画三筆のひとり 木下逸雲 ~南画と印影を楽しむ~』 長崎新聞社、2012年10月15日、ISBN 978-4-904561-60-7

関連項目
小曽根乾堂

長崎派
(wikiより)

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〇 上野 ( 彦馬 ) 家墓地(長崎市寺町1-1・裏山)
上野家は絵師の家計であり、絵画、彫金などに秀でていた。


幕末の当主・俊之丞 ( しゅんのじょう ) 、彦馬 ( 1338 ~ 1904 ) 父子は 2代にわたり、写真技術の取得と普及に多大の功績を挙げ、わが国の近代科学研究の発展に寄与した。


彦馬は日本最初の職業写真家として著名であり、高杉晋作、桂小五郎たちを撮影したことでも知られている。


墓地には上野家初代の左衛門尉英傳 ( さえもんじょう えいでん ) 、3代若元 ( じゃくげん ) 、5代若瑞 ( じゃくずい ) 、6代俊之丞、7代彦馬などの墓碑が立つ。


これら墓碑群のなかで最も古い、英傳 ( えいでん ) の墓碑は五輪塔様式であり、延宝 ( えんぽう ) 3年 ( 1677 ) の年代を示す。


これは上野家墓地の近くに所在する阿蘭陀通詞 ( おらんだつうじ ) 加福家墓地、唐通事 林・官梅墓地 ( ともに市指定史跡 ) にある墓碑と同型である。
( 案内板より )

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ここも 2度目の再訪です。

時間が無かったので、とりあえず上野彦馬のお墓を撮影して移動しました。

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⇧⇩ 上野彦馬の墓。

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横山大玄 ( よこやま - だいげん ) / 横山善信 ( よこやま - ぜんしん )     
明治 31年 ~ 昭和 52年 12月 4日 ( 1898 - 1977 )

横山大観記念館館長。

本名、善信 ( よしのぶ )。号、大玄。

京都伏見出身。

大正 14年 ( 1925 ) 東京美術学校日本画科卒業。横山大観に師事する。

京都に移り、昭和初年大観の夫婦養子となった。

昭和 8年 ( 1933 ) 再興第 20回院展に「初夏」で初入選。

昭和 27年 ( 1952 ) 日本美術院院友となる。

昭和 30年 ( 1955 ) 第 40回院展に「夏たけかわ」、昭和 40年 ( 1965 ) 第 50回記念院展に「浅曇り」を出品入選。

昭和 49年 ( 1974 ) 日本美術院特待となり、昭和 51年 ( 1976 ) 自邸に横山大観記念館を開館、館長を務めた。

台東区で歿。79歳。「碧桐院大玄自照居士」。

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狩野常川 ( かのう - じょうせん )
( 1717 ‐ 1770 )

江戸時代中期の画家。

享保 ( きょうほう ) 2年生まれ。

狩野随川の次男。

延享 2年浜町狩野家を継ぐ。

翌年姓を松本から狩野にあらためた。

明和 7年 8月 19日死去。54歳。

名は幸信。別号に随柳斎。

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狩野 栄信(かのう ながのぶ、安永4年8月30日1775年9月24日) - 文政11年7月4日1828年8月14日)は江戸時代後期の絵師で、木挽町(こびきちょう)家狩野派8代目の絵師である。幼名は英二郎。号は法眼時代は伊川、法印叙任後は伊川院、玄賞斎。院号と合わせて伊川院栄信と表記されることも多い。父は狩野惟信。子に木挽町を継いだ長男狩野養信、朝岡氏に養子入りし『古画備考』を著した次男朝岡興禎、浜町狩野家を継いだ五男狩野董川中信、宗家の中橋狩野家に入りフェノロサと親交のあった六男狩野永悳立信がいる。

略伝
狩野養川院惟信の子として江戸に生まれる。天明5年(1785年)11歳で奥絵師として勤め始め、享和2年(1802年)に法眼に叙す。文化5年(1808年)父惟信が死ぬと家督を継ぐ。同年、朝鮮通信使への贈答用屏風絵制作の棟梁となり、自身も2双制作する。文化13年(1816年)に法印となる。茶道を能くし、松平不昧の恩顧を受けたといわれる。息子養信の『公用日記』では、鑑賞会などの公務をしばしばサボって息子に押し付ける、調子のよい一面が記されている。


こうした一方で画才には恵まれたらしく、現存する作品は秀作・力作が多い。中国名画の場面を幾つか組み合わせて一画面を構成し、新画題を作る手法を確立、代絵画に学んで遠近法をも取り入れて爽快で奥行きある画面空間を作るのに成功している。更に家祖狩野尚信風の瀟洒な水墨画の再興や、長崎派南蘋派の影響を思わせる極彩色の着色画、大和絵の細密濃彩の画法の積極的な摂取など、次代養信によって展開される要素をすべて準備したと言える。


弟子に菊田伊洲菊田伊徳など。

代表作については、「狩野栄信ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%A9%E9%87%8E%E6%A0%84%E4%BF%A1

脚注
1. 仙台市博物館編集・発行 『仙台市博物館 館蔵名品図録』 2013年3月29日、p.116。
2. a b c 川延安直 「会津藩主の肖像画」福島県立博物館編集・発行 『福島県立博物館 若松城天守閣 共同企画展 展示解説図録 徳川将軍家会津松平家』 2006年9月30日、pp.58-60,107-108
3. 財団法人 三井文庫編集発行 『三井文庫別館蔵品図録 三井家の絵画』 2002年9月、pp.46-47,109。
4. 「新編 弘前市史」編纂委員会編集 『「新編 弘前市史」特別編 弘前の仏像 ―弘前市内寺院彫刻・絵画調査報告書―』 弘前市市長公室企画課、1998年3月31日、p.84。
5. 『東山庵グループコレクション 安土桃山・江戸の美 ~知られざる日本美術の名品~』 高岡市美術館、2010年9月23日、pp.12,44。
6. 敦賀市立博物館編集・発行 『特別展度 館蔵逸品図録(続)』 1998年9月22日、第5図。

参考資料
安村敏信 『もっと知りたい狩野派 探幽と江戸狩野派東京美術〈アートビギナーズ・コレクション〉、2006年 ISBN 978-4-8087-0815-3

山下裕二監修 安村敏信 山本英男 山下善也筆 『狩野派決定版』 平凡社〈別冊太陽 日本のこころ131〉、2004年 ISBN 978-4-5829-2131-1

展覧会図録

・『特集 狩野派の世界2009』 静岡県立美術館、2009年

・『狩野派の世界 ─静岡県立美術館蔵品図録─』 静岡県立美術館、1999年

・『狩野派の三百年』 東京都江戸東京博物館、1998年

・『開館三周年記念展 狩野派の巨匠たち』 静岡県立美術館、1989年
(wikiより)

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狩野 惟信(かのう これのぶ、宝暦3年10月15日1753年11月9日) - 文化5年1月9日1808年2月5日)は江戸時代の木挽町(こびきちょう)家狩野派7代目の絵師である。父は狩野典信で、子に狩野栄信がおり、鍬形蕙斎が弟子だった時期がある。号は養川(法眼時代)、養川院(法印時代)、玄之斎。号と合わせて養川院惟信と表記されることも多い。

来歴
狩野栄川典信の長男として生まれる。父が築いた地位を順調に受け継いで、歴代の狩野派の絵師の中でも異例に早い出世を遂げる。明和元年(1764年)12歳で早くも奥御用を務め、父と同様10代将軍徳川家治老中田沼意次に厚遇され、天明元年(1781年)29歳で法眼に叙せられる。寛政2年(1790年)父の跡をうけ、木挽町狩野家を継ぐ。更に寛政6年(1794年)42歳で法印となり、病死が続いた宗家の中橋狩野家を尻目に、奥絵師四家筆頭の地位を確たるものにする。江戸城障壁画や京都御所関係の絵事を多く手がけた。文化5年(1808年)、56歳で死去。


早い栄達の割に画風は大人しく、父・典信が推進した江戸狩野派の新たな展開に大きく寄与することはなかった。しかし、大和絵を良くし、温和で軽妙な筆致に持ち味がある。

代表作については、「狩野惟信ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%A9%E9%87%8E%E6%83%9F%E4%BF%A1

脚注
1. 仙台市博物館編集・発行 『特別展図録 宇和島伊達家の名宝 政宗長男・秀宗からはじまる西国の伊達』pp.61,121-122。
2. 金子岳史(熊本県立美術館)企画・編集 熊本県立美術館編集 『開館四十周年記念展 雪舟流と狩野派 細川家を魅了した日本絵画の至宝』 雪舟流と狩野派実行委員会、2016年8月30日、pp.78-79。
3. (いすみ市)絹本 水墨額装 虎図/千葉県
4. (いすみ市)絹本 極彩色額装 琴棋書画図/千葉県
5. (財)冷泉家時雨亭文庫・NHK編集 『京の雅・和歌(うた)のこころ 冷泉家の至宝展』 NHK NHKプロモーション、1997年、第1図。
6. 香川県歴史博物館編集・発行 『高松松平家歴史資料目録2 絵画1』 2003年3月30日,、pp.20-21。

参考資料
山下裕二監修 安村敏信 山本英男 山下善也筆 『狩野派決定版』 平凡社〈別冊太陽 日本のこころ131〉、2004年 ISBN 978-4-5829-2131-1

・展覧会図録 『狩野派の三百年』 東京都江戸東京博物館、1998年
(wikiより)

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狩野 典信(かのう みちのぶ、享保15年11月11日1730年12月20日) - 寛政2年8月16日1790年9月24日))は江戸時代中期の竹川町家、後に木挽町家狩野派6代目の絵師である。父は狩野古信で、子に狩野惟信がいる。

伝記
幼名庄三郎、号は栄川、栄川院、白玉斎。白玉斎の号は一羽の雀が典信の部屋に飛び込み、置いてあった白玉を硯の中に落として飛び去ったという逸話に由来するという。僅か2歳で父・古信と浜町狩野家から養子入りし養父となっていた受川玄信(はるのぶ)を相次いで亡くし、以後母に育てられる。母妙性尼は水戸藩家臣・岡部忠平以直の娘で、この母が幼少の典信の代わりに公務を勤めたようだ[1]寛保元年(1741年)12歳の時、同朋格奥詰の岡本善悦を介して将軍徳川吉宗にお目見えし、画巻を献上する[2]。吉宗は「栄川幼しといえども、はや衆人を越たり」と賞した上で、自身が名手と慕う狩野探幽を超えたければ探幽が学んだ古画に学べ、と指示した[3]宝暦12年(1762年)33歳で法眼中務卿、翌年奥絵師を仰せつけられ、安永2年(1773年)には表御医師並200石取となって、竹川町家は典信の代で初めて奥絵師となった。


典信は絵を好んだ徳川家治の寵愛深く、子の惟信や中橋狩野家の永徳高信と共に日々傍らに仕えたという[4]。安永6年(1777年)、通常新たな屋敷を拝領すれば旧来の家屋敷は返却するのが習わしであるのに、従来の竹川町の屋敷はそのままに木挽町に新たな屋敷地838坪を拝領した。以後、時代を遡って狩野尚信の家系は、木挽町狩野家と呼ばれる。木挽町の屋敷は田沼意次の旧邸を分与されたものであり、ここから典信と意次は互いに裏門から往来し、意次の密議は常に典信の屋敷で計られたという伝承が生まれた。ただその一方で、『よしの冊子』では松平定信とも「御懇意にて」と記されている。新宅には他の狩野家より大きな画塾が設けられ、塾生の数も常に5、60人を下らなかったという。


安永9年(1780年)12月18日に法印となり栄川院を名乗る。同年11月、翌年の日蓮五百遠忌と母への報恩のため「日蓮聖人縁起絵巻」を、木挽町狩野家の菩提寺である池上本門寺に奉納した(戦災で消失)。寛政2年(1790年)新造御所の障壁画制作を主導するさなか、賢聖障子の下絵を完成させた直後亡くなった。この賢聖障子絵は典信と住吉廣行の共同制作として記録された(『禁裏寛政御造営記』)。法名は法壽院殿典信日妙大居士。池上本門寺に残る顕彰筆塚には、寡黙、真面目、清廉な人柄だったと記されている。


門人に鈴木鄰松や、津山藩御用絵師の狩野如水由信、後に浮世絵師になった鳥文斎栄之などがいる。また、弟子に狩野白珪斎という絵師がおり、この白珪斎の弟子が渓斎英泉だったという。

狩野派の変革
18世紀半ば、南蘋派の流入が契機に本格的な民間画壇が育ち始めると、形骸化が進んでいた狩野派は飽きられ顧客が奪われ始めた。これに危機感をもった典信は、漢画の力強い描線を復活させることにより弱体化した狩野派の再建を目指した。こうした試みが将軍の好みと合致したのが、典信が寵愛を受けた理由であろう。絵画表現においてはやや戯画にはしり、典信の意図は完全に成功したとは言い難い面があるけれども、その意欲や地歩は後の木挽町家の絵師に引き継がれ、木挽町家が幕末まで奥絵師4家の中で最も繁栄することとなる。

代表作、ギャラリーについては、「狩野典信ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%A9%E9%87%8E%E5%85%B8%E4%BF%A1

脚注
1. 典信の弟子・狩野如水が模写した典信筆「日蓮聖人縁起絵巻」模本(妙法寺 (津山市) 蔵)の跋文(安藤(2015)p.2)。
2. 狩野勝川先祖書」国立国会図書館蔵。
3. 徳川実紀』「有徳院殿御実紀」。
4. 『続三王外記』
5. 高岸輝 黒田智 『天皇の美術史3 乱世の王権と美術戦略 室町・戦国時代』 吉川弘文館、2017年5月20日、口絵3、pp.170-171、ISBN 978-4-642-01733-6
6. 仙台市博物館編集・発行 『特別展 樹木礼賛 日本絵画に描かれた木と花の美』 2014年9月26日、第49図。
7. 高野山金剛峯寺 高野山文化財保存会監修 『高野山障屏画』 美術出版 美乃美、1980年10月5日、第66図。 8. 敦賀市立博物館編集・発行 『特別展度 館蔵逸品図録(続)』 1998年9月22日、第3図
9. (財)冷泉家時雨亭文庫・NHK編集 『京の雅・和歌(うた)のこころ 冷泉家の至宝展』 NHK NHKプロモーション、1997年、第207図。
10. 永青文庫 春画展日本開催実行委員会編集 『SHUNGA』 春画展日本開催実行委員会、2015年9月19日、pp.226-227。
11. 小林法子 「狩野典信筆 墨松墨梅図屏風」『国華』第1333号、2006年11月20日、pp.37-38。
12. 『高照神社所蔵品目録』 高照神社文化財維持保存後援会、1991年、p.18(画像なし)。

参考資料
山下裕二監修 安村敏信 山本英男 山下善也筆 『狩野派決定版』 平凡社〈別冊太陽 日本のこころ131〉、2004年 ISBN 978-4-5829-2131-1

安村敏信 『もっと知りたい狩野派 探幽と江戸狩野派東京美術〈アートビギナーズ・コレクション〉、2006年 ISBN 978-4-8087-0815-3

徳島市立徳島城博物館編集・発行 『狩野栄川院と徳島藩の画人たち』 2013年10月

論文
・安藤昌就 「木挽町狩野家における法華信仰と絵画について ―「日蓮聖人縁起絵巻を中心に」―」『鹿島美術研究』年報第32号別冊、公益財団法人 鹿島美術財団、2015年11月15日、pp.1-12
・薄田大輔 「狩野典信にみる江戸狩野派の探幽学習―狩野典信筆「西胡図」を中心に―」『金鯱叢書 ―史学美術史論文集― 第四十四輯』 徳川黎明会、2007年3月30日、pp.61-82

外部リンク
・中谷伸生, 「再考・妙心寺聖澤院書院障壁画 : 狩野典信筆「山水・麒麟図」及び「竹林七賢図」」『関西大学博物館』 12巻 2006年 p.94-132, 関西大学博物館, ISSN 13414895
(wikiより)

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江戸中期の画家。

木挽町狩野家五世。

初名は庄三郎、号は栄川。

如川周信の子。

画法を父に学ぶ。

享保 13年父の後を継いで幕府の絵師となる。

法印に叙せらる。

享保 16年 ( 1731 ) 歿、36才没。

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狩野 岑信(かのう みねのぶ、寛文2年(1662年) - 宝永5年12月3日1709年1月13日))は、日本江戸時代前期から中期にかけて活躍した絵師江戸幕府に仕えた御用絵師で、浜町狩野家の祖。名は吉之助、通称は主税、号は随川、覚柳斎など。

略伝
木挽町狩野家2代目・狩野常信の次男として生まれる。母は狩野安信の息女、兄に家を継いだ狩野周信がいる。

元禄
元年(1698年)後に六代将軍となる徳川家宣に召し出され、同3年(1700年)15人扶持が与えられる。宝暦元年(1704年)家宣の西の丸入場に従い、宝暦4年(1707年)11月29日松本性を賜って松本友盛と名を改めた。この時、家宣自ら松平姓を与えようとしたが、岑信が憚って辞退したため松本姓を与えたという。更に翌年家宣の将軍宣下に伴い奥医師並、200俵7人扶持に加増、別家を許されて浜町狩野家を興し、更に狩野宗家の中橋狩野家を凌いで狩野総上席を与えられた。なお、御用絵師が奥医師並の職格を与えられたのは、住吉具慶と岑信のみである。しかし、家宣の将軍就任を見ずに宝永5年(1708年)12月3日、父常信に先立って亡くなった。享年47。戒名は覚樹院岑信日量、墓所は池上本門寺。家宣の御用を多く務めたと推測されるが、現在確認されている作品数は20点に満たない。弟子に伊予松山藩御用絵師の豊田随園など。

作品については、「狩野岑信ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%A9%E9%87%8E%E5%B2%91%E4%BF%A1

脚注
1. 『没後三〇〇年記念 柳澤吉保とその時代ー柳沢文庫伝来の品々を中心にー』 川越市立博物館、2014年10月18日、pp.64-65、117-118。
2. 木村(2011)p.41-42。
3. 四季耕作図屏風(右隻) 狩野岑信 « 石川県七尾美術館
4. 安村敏信 「因州池田侯爵家旧蔵「百人一首画帖」について」(『因州池田侯爵家旧蔵「小倉山庄色紙和歌」(小倉百人一首)』 株式会社宝庫堂美術、2014年3月22日、pp.8-13)。なお、書も松花堂昭乗ではなく、それより一世代後の松花堂流の書き手だと考えられる。
5. 田中方南 『秘宝=第十一巻 大徳寺』 講談社、1968年、図105,p.339。
6. 仙台市博物館編集・発行 『特別展 樹木礼賛 日本絵画に描かれた木と花の美』 2014年9月26日、第48図。

参考資料
・安村敏信『もっと知りたい狩野派 探幽と江戸狩野派』東京美術、2006年、ISBN 978-4-8087-0815-3

・鎌田純子「狩野岑信」(竹内誠ほか編 『徳川幕臣人名辞典』 東京堂出版、2010年、pp.215-216)ISBN 978-4-490-10784-5

・木村重圭 「赤穂市の指定文化財ー絵画ー」赤穂市立歴史博物館編集・発行 『特別展図録 赤穂の指定文化財』 2011年11月19日
(wikiより)

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英 一蝶(はなぶさ いっちょう、承応元年(1652年) - 享保9年1月13日1724年2月7日))は、日本江戸時代中期(元禄期)の画家芸人本姓藤原多賀氏を安雄(やすかつ?)、後に信香(のぶか)。は君受(くんじゅ)。幼名は猪三郎(いさぶろう)、次右衛門(じえもん)、助之進(すけのしん。もしくは、助之丞[すけのじょう])。剃髪後に多賀朝湖(たが ちょうこ)と名乗るようになった。俳号暁雲(ぎょううん)、狂雲堂(きょううんどう)、夕寥(せきりょう)。


名を英一蝶、画号北窓翁(ほくそうおう)に改めたのは晩年になってからであるが、本項では「一蝶」で統一する。なお、画号は他に翠蓑翁(すいさおう)、隣樵庵(りんしょうあん)、牛麻呂、一峰、旧草堂、狩林斎、六巣閑雲などがある。

生涯

承応元年(1652年)、多賀伯庵(たが はくあん)の子として京都で生まれる[1]


父・伯庵は伊勢亀山藩の侍医(藩お抱えの国許の医師)であったが、一蝶が15歳の頃(異説では8歳の頃)、藩主の石川憲之に付き従っての江戸詰めが決まり、一家で江戸へ転居する。


絵描きの才能を認められた一蝶は、藩主の命令で狩野安信に入門したものの、後に破門されたと言われる。多賀朝湖という名で「狩野派風の町絵師」として活躍する一方、暁雲俳諧に親しみ、俳人・宝井其角松尾芭蕉と交友を持つようになる。書道玄竜門下に学ぶ。名を江戸中に知られるようになり、町人から旗本、諸大名豪商まで、広く親交を持つようになる。版画の作品はないが、肉筆浮世絵に近い風俗画に優れた作品を残している。また、吉原遊廓通いを好み、客として楽しむ一方で自ら幇間としても活動していた。その話術・芸風は、豪商や大大名すらもついつい財布を緩め、ぱっと散財してしまうような見事に愉快な芸であったと伝わっている。


元禄6年(1693年)、罪を得て入牢する。理由は不明で、2ヵ月後に釈放される。元禄11年(1698年)、今度は生類憐れみの令に対する違反(後述)により、三宅島流罪となった[2]


配流中の罪人には、親族から年数度の仕送り(物品)が許されていたが、一蝶は制限ある仕送りに毎度のように画材を要求。江戸の自分を贔屓にしてくれる人々や島で自分に便宜を図ってくれる人達のため、さらには江戸に残した家族(母)の家計のために、絵を描き続けた。乏しい画材を駆使しての創作活動であったが、江戸の風俗を活き活きと描いたり、島民の求めに応じて描いたりした多数の縁起絵などが残されている。一蝶はいつも江戸の方角へ机を向け、創作活動をしていたと伝わり、そこから「北窓翁」の雅号が生まれた。この時期の風俗画は、推定も含め『四季日待図巻』『吉原風俗図巻』『布晒舞図』『松風村雨図』の4点確認されている。画材こそ良質とはいえないが、江戸を偲び、我が身を省みて心情を託して描かれた作品群は、一蝶の代表作の一部として知られる。この時期に描かれた作品を特に島一蝶と呼ぶ。島一蝶は、一蝶を支援した御用船主の梅田藤右衛門がいた新島には16点が伝わり、御蔵島にも絵馬や『鍾馗図』が残る。一方、三宅島には『七福神図』一幅のみ。これは火山噴火や火災で失われたほか、江戸での島一蝶人気を受けて、島を訪れた富山の売薬行商人が買い漁り、持ち出されたためである。


島では、絵を売った収入で居宅を購入して「家持ち流人」となって商いも営み、島役人ともうまく付き合い、流人としてはゆとりのある暮らしをしていた[3]。世話をしてくれていた名主の娘との間に、子を成している(後述)。また、配流中の元禄15年(1702年)に、随筆『朝清水記(あさしみずき)』を記す。


宝永
6年(1709年)、将軍・徳川綱吉の死去による将軍代替わりの大赦によって許され、12年ぶりに江戸へ帰る。この頃から英一蝶と名乗り、深川宜雲寺[4]に住まい、市井の風俗を描く人気絵師として数々の大作を手がけた。また、吉原での芸人活動も続けていたらしく、豪商の奈良屋茂左衛門紀伊國屋文左衛門らとの交遊の話が伝わる。


江戸に帰った一蝶が、島流し以前に自身が描いた四季絵を見せられて、喜び懐かしんで書いた一文が『浮世絵類考』に収録されている。「此道(岩佐又兵衛菱川師宣などによる画)予が学ぶ所にあらずといへども 若かりし時あだしあだ浪のよるべにまよひ 時雨朝がへりのまばゆきもいとはざるころほひ 岩佐菱川が上にたゝん事を思ひては」。自らもそういう浮世絵のような風俗画を描いたと述懐しており、この文からは岩佐・菱川両者の作品群に対する一蝶の意識を感じられる。


享保9年(1724年)、死去。享年73。戒名は英受院一蝶日意居士。東京都港区高輪二丁目の承教寺顕乗院に墓所があり、大正13年(1924年)2月には東京府知事によって史跡に指定された。辞世は「まぎらはず浮世の業の色どりも有とて月の薄墨の空[5]」。

作風
配流以前の画風は、当時既に形式化しつつあった狩野派を学びながらも浮世絵に惹かれ、古典の軽妙なパロディや俳諧趣味を加味することで、浮世絵の大家である岩佐又兵衛菱川師宣を超える新しい都市風俗画を目指した。また、水面や障子に映る影を描く(作品例は『朝暾曳馬図』)といった、新しい表現にも挑戦している。島流し時代は、島民の求めに応じて天神(菅原道真)七福神の絵を描き、生活の糧としていた。江戸復帰以後は、大作を含む多くの作品を残し、市井の風俗や生活を採り入れた、良い意味での俗っぽさ・町絵師らしさがある、と言われる。


一蝶には師宣の作品に倣ったことを明記した作品がある。『業平涅槃図』がそれで、「以菱川師宣圖蹟 北窓翁一蝶書」と落款している。在原業平の死を釈迦涅槃に見立てた物で、北枕の業平を、歎き悲しむ老若の女性や鶴や鹿といった鳥獣が取り囲む、という諧謔味の強い作品である。師宣の父は上総国の松翁院のために縫箔の大涅槃圖を制作し、自身にも『無常重夢物語』(無款、刊行年未詳)の挿絵に涅槃図があることから、師宣は何度か涅槃図を描く機会があったと想像できる。しかし、師宣の作品には諧謔性の強い物や見立絵は皆無に等しく、『業平涅槃図』のような作品を残したとは考え難い。一蝶は、師宣の『業平涅槃図』を見て、この図を制作したのではなく、師宣の新様式ではあるが常態の釈迦涅槃図を見たのであって、業平に転化させたのは一蝶自身ではないかと想像される。浮世絵に俳諧的見立による作品が盛行するのが正徳頃からであること、そして、一蝶の俳趣味の強さがそれを裏付ける。

交友関係
芭蕉や其角との交友関係、つまりは一蝶自身を含む当時の芸術サロン的な人々(文化人や趣味人、後援者ら)との交流は前述したとおりである。加えて、漆芸家金属工芸作家ら、当時の江戸を代表するような芸術家・工芸家らとの交流もあった。漆芸家・小川破笠(同郷伊勢国出身)などが有名で,破笠も一蝶に師事している。また、遊びを通して豪商や旗本・大名ら、身分の違う人々との交流もあった。


英派
(英流、一蝶流とも)と呼ばれる彼の画業の弟子には、佐脇嵩之(英一水。代表作に『百怪図巻』)とその弟子達や、一蜂一舟[6]らがいる。一舟は弟子であったが後に一蝶の養子となり、英家(英流)二代目となった。英流絵師の高嵩谷が英一蝶の肖像画を描いている(東京国立博物館蔵)[7]


島流し時代に子を成したが、赦免後には江戸に連れ帰り画を学ばせた。長八信勝と呼ばれた長男は後に英一蝶二代を名乗るものの、その後、一蝶と不和になった。


次男の百松信祐もまた父に画を学び英一蜩と名乗り、後年、久留米藩に仕えたとされている。


そのほか、福王流能楽師・九世福王盛勝も一蝶の弟子であり(ただし後に土佐派を慕ったという)、福王雪岑の画号で知られ、狂言の絵を数多く描いた。

島流しに至る経緯
当時幕府は、元禄文化の過剰な華やかさ、つまりは風紀の乱れ、特に武士や大名らの綱紀を粛正しようと試みていた感がある。元禄6年(1693年)には「大名および旗本が吉原遊郭に出入りし、遊ぶこと」を禁じている。

島流しに至る経緯については以下のような、いくつか説がある。

1. 為政者の風刺

時の権力者である柳沢吉保が出世する過程で実の娘を将軍綱吉の側室に差し出した、という当時からあったゴシップ的な噂を、一蝶が風刺作品にしたから。代表作『朝妻舟図』(#絵画を参照)が関係している(吉保の妻を遊女に、綱吉を客に見立てたとするもの)とも言われる。

2. 釣りの罪

町人の分際で釣りを行った(武士は修練目的として黙認されていた)ことが、綱吉政権が発令した生類憐れみの令違反とされた(同年、追加条例として“釣り具の販売禁止令”すらも出ている)。

3. 禁句の罪

“馬がもの言う”という歌を広めたから。これは今で言うところの、放送禁止歌謡指定も同然である[8]

4. そそのかしの罪

ある時、いつものように芸で座敷を盛り上げていた際、とある殿様をそそのかし、勢いで花魁身請け(つまり、武家らしからぬ行状と、巨額浪費)させてしまった。ところがその殿様は将軍・綱吉の母である桂昌院や柳沢吉保の派閥と縁のある六角越前守であったため、その方面の怒りを買った、という話も伝わる(表高家旗本の六角家の当時の当主で「遊郭吉原での狼藉により、元禄10年[1697年]頃に閉門蟄居命令」が確認される六角広治(越前守)か。広治の母は桂昌院実家の本庄氏出身。またこの六角家は、著名な近江国守護大名の六角氏とは別の家系。公家の烏丸家系。またこれ以外にも掛川藩井伊直武をそそのかした(遊びで盛り上げた)話なども伝わり、島流しの際は同時に幇間であった村田半兵衛(村田民部)らも流されている)。

5. その他

村田民部との共作『当世百人一首』で将軍綱吉の側室である於伝の方(瑞春院)の舟遊び風景を描いたこと、大名・金持ちの間で当時、石灯籠を集めることが流行った際、それを買い集めて儲けようとした、などの話がある。当時からお騒がせの有名人だったことが窺える。大田南畝が伝えるには、当時禁教とされていた不受不施派に与したため、とされている。


正式な罪状として採用されたのは、“釣り罪”であるらしい。

代表作
絵画
・立美人図 [たち びじん ず]千葉市美術館

朝鮮通信使小童図 [ちょうせんつうしんし しょうどう ず] :別項「朝鮮通信使#絵画、工芸、芸能に伝わる朝鮮通信使」を参照のこと。

・鉢廻図 [はちまわし ず] :片足立ちし、口の先にを乗せて回す芸を披露する大道芸人と、それを観て大いに喜ぶ取り巻きの子供達。

・朝暾曳馬図 [ちょうとん えいば ず]:墨画。朝靄の中、馬を曳いて行く童子。その姿を朝陽が川面に映す。配流前の作。静嘉堂文庫

・朝妻舟図 [あさずまぶね ず]琵琶湖畔に浮かべた舟(浅妻船)で客を待つ、物悲しげな白拍子の佇まい。流刑の罪状との絡みについては「#島流しに至る経緯」の説を参照のこと。板橋区立美術館

・徒然草 御室法師図 [つれづれぐさ おむろほうし ず] :『徒然草』の中にある、酔っ払った挙句の悪乗りで(かなえ)を頭から被ったものの抜けなくなってしまったという御室仁和寺)の僧の滑稽な逸話を画題としたもの。

雷神 [らいじん]絹本着色。

・懐春図 [かいしゅん ず]:画巻12図。春画。「朝湖戯画」の落款から放免前の作品だとわかる[9]

・四季日待図巻 [しき ひまち ずかん] :一巻。四季それぞれの日待[10]の様子を描く。配流中(1700年頃)、江戸の友人の求めに応えて描いた画巻の一つ。出光美術館重要文化財

・布晒舞図 [ぬのさらしまい ず]紙本着色。布晒舞(お囃子に乗り、長い晒し布を地に着けないように踊る芸事)を披露する踊り子。配流中の作(江戸の友人に応じての一画)。遠山記念館重要文化財

・見立琴棋書画図屏風 [みたて きんきしょが ず] :遠山記念館。

狂言福の神[きょうげん ふくのかみ ず] :紙本着色。個人蔵。

虚空蔵菩薩[こくうぞうぼさつ ぞう] :紙本着色。配流中の作(島民の求めに応じての一画)。個人蔵。

・天神図 [てんじん ず]菅原道真の図像。配流中の作(島民の求めに応じての一画)。個人蔵。

・十二天像火天図 [じゅうにてんぞう かてん ず]十二天の一柱・火天を描く。

・十二天像風天図 [じゅうにてんぞう ふうてん ず] :十二天の一柱・風天を描く。

吉原風俗図巻 [よしわら ふうぞく ずかん] :紙本着色。 配流中の作(江戸の友人に応じて描いた画巻)。サントリー美術館

・田園風俗図屏風 [でんえん ふうぞくず びょうぶ] :6曲一双。驟雨に襲われて村の屋敷に身を寄せる大勢の老若男女の様子。のちに描かれる『雨宿り図屏風』に通じる作品。サントリー美術館。

・月次風俗図屏風 [つきなみ ふうぞくず びょうぶ]東京国立博物館

・月次風俗図屏風 [つきなみ ふうぞくず びょうぶ] :六曲一双。紙本著色。宝永6年から享保2年までの作。ボストン美術館

六歌仙図屏風 [ろくかせんず びょうぶ] :板橋区立美術館。

・僧正遍昭落馬図 [そうじょう へんしょう らくば ず] :野に咲く女郎花(おみなえし)に見とれて落馬した遍昭六歌仙の一人である僧正)を描く。大和文華館

・富士山図 [ふじさん ず]山梨県立博物館所蔵。法量は縦56.5センチメートル、横117.0センチメートル。落款に「北窓翁一蝶書」、「趣在山雲和泉石間」(朱文円印) の印章、箱書には「御掛物一幅 富士之絵 英一蝶筆」とある。馬入川(相模川)渡口から見た富士山を遠景に船頭や旅人、子どもたちなどを描いている。

鍾馗[しょうき ず]

・茶挽坊主悪戯図 [ちゃひきぼうず あくぎ ず]

・麦搗図 [むぎつき ず]

・阿弥陀来迎図 [あみだ らいごう ず]来迎する阿弥陀如来と25尊の菩薩を極彩色に描く。

大井川渡口図 [おおいがわ わたしぐち ず] :紙本淡彩。板橋区立美術館。

・投扇図 [とうせん ず] :紙本着色。大鳥居の隙間めがけて投扇の願掛けを投げて運試しをする習俗)をする3人の酔っ払い。板橋区立美術館。

・芭蕉柳図 [ばしょう と やなぎ ず] :紙本墨画。大きなの木の横枝に寄りかかり、疲れを癒す松尾芭蕉の旅姿。江東区芭蕉記念館

・梅月山鵲 [ばいげつ さんじゃく] :紙本墨画。満月の夜、花咲く梅の木の枝に留まる一羽の山鵲[11]。個人蔵。

[れんろ ず、はすさぎ ず] :紙本墨画。個人蔵。

・四条河原納涼図 [しじょうかわら のうりょう ず] :夕刻の京は四条河原町鴨川の川床(鴨川納涼床)にて涼を楽しむ人々の様子。千葉市美術館。

群盲撫象[ぐんもう ぶぞう ず]三井記念美術館

・狂言猩猩図(狂言猩々図) [きょうげん しょうじょう ず] :肉筆画、桐板金箔地額面着色。三井記念美術館。

・大井川渡し図 [おおいがわ わたし ず] :三井記念美術館。

雨宿り図屏風 [あまやどり ず びょうぶ] :6曲一隻。驟雨を武家屋敷の門前に寄せて凌ぐ、身分の上下を超えた大勢の老若男女の様子を描く。江戸復帰後、間もなくの作。東京国立博物館。

・一休和尚酔臥図 [いっきゅうおしょう すいが ず] :紙本墨画淡彩。酒屋の前で酔い潰れて倒れている一休宗純。江戸復帰後の作。板橋区立美術館。

・不動図 [ふどう ず]滝行に励む青不動。得物の剣・羂索(けんじゃく、縄)のみならず、普段は背負っている炎まで脇の岩場に取り外して置いてある滑稽さが一蝶らしい。江戸復帰後の作。

士農工商図屏風 [しのうこうしょう ず びょうぶ] :紙本着色。板橋区立美術館。

松風村雨[まつかぜむらさめ ず] :紙本着色。三宅島流謫時の島一蝶と推定されている。須磨の浦の松に掛けられた、在原行平形見の狩衣烏帽子を見上げる松風と村雨は、江戸の踊り子のように軽やかな足取りで舞い踊る。沈々とした深い想いが画面に満ちている。

・業平涅槃図 [なりひら ねはん ず] :紙本着色。東京国立博物館。

賀茂競馬屏風 :紙本着色 6曲1双 城西大学水田美術館

大名火消絵巻 :紙本着色 2巻 城西大学水田美術館。

・扇面役者肖像図 :紙本着色 扇面 城西大学水田美術館。

俳句
・初松魚(はつがつおカラシガナクテ涙カナ

島流し時代、宝井基角に送った句。島なので松魚(鰹)は採れるが、薬味につかうカラシが手に入らない。江戸を遠く離れた島暮らしの境遇を表していると考えられる。これに対して、基角は「其カラシキイテ涙ノ松魚カナ」と返句した[3]

演じた俳優
片岡鶴太郎 :NHK大河ドラマ『元禄繚乱

伊藤雄之助 :東映映画『恋山彦

脚注
1. 山東京伝著の『近世奇跡考』に摂津国の生まれとされ、長らく定説となっていたが、当時の島流しに関する公文書では京の生まれと記されており、こちらが史実とも考えられる。
2. 住まわされたのは、阿古(現在の阿古地区)。
3. a b 英一蝶 三宅島の寄り道/元禄絵師 遠島11年の礎『日本経済新聞』朝刊2018年11月4日(NIKKEI The STYLE)。
4. 多くの作品が残り、「一蝶寺」と呼ばれていたが、関東大震災で焼失。
5. 大田南畝「半日閑話」吉川弘文館(『日本随筆大成』巻4)1927年,316頁より。
6. 山東京伝『浮世絵類考追考』(享和2年10月)
7. 英一蝶像東京国立博物館(2018年12月8日閲覧)。
8. 「馬がもの言う、牛がもの言う」とは将軍綱吉が館林藩主時代「館林右馬頭」と名乗っており、腹心の柳沢吉保の幼名が牛之助であったことを風刺している戯曲であり、真の作者とされる筑紫園右衛門は捕縛後、斬首刑となっている。
9. 樋口一貴 『肉筆春画傑作選』 大洋図書、2016年4月6日、pp.76-81、ISBN 978-4-8130-2270-1
10. 日待 :お日待ち。前夜から潔斎(けっさい。祭事を前に沐浴などをして心身を清めること)して翌朝の日の出を拝む古習。時代が下るほどに遊興化し、飲食と歌舞音曲を楽しむ場と化した。
11. サンジャクは、冠羽と長い尾羽を持つ鳥を指す「綬帯鳥(じゅたいちょう)」の名でも呼ばれる。

関連項目
久隅守景 :独特の画風で英一蝶と並び評される画家。

江戸時代の人物一覧#絵師

浮世絵

肉筆浮世絵

参考文献
小林忠執筆・編集 『日本の美術 No.260 英一蝶』 至文堂、1988年。

・『週刊アーティストジャパン〈改訂版〉No.32』 デアゴスティーニ・ジャパン、2007年。

・『美術の窓』2009年9月号「大江戸散歩 英一蝶ものがたり」 生活の友社([1])。

・特別展図録『〈開館30周年記念 御赦免300年記念〉江戸文化シリーズ No.25 一蝶リターンズ ~元禄風流子 英一蝶の画業~』 板橋区立美術館、2009年。
(wikiより)


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狩野 探幽(かのう たんゆう、慶長7年1月14日1602年3月7日) - 延宝2年10月7日1674年11月4日))は、江戸時代初期の狩野派絵師狩野孝信の子。法号は探幽斎、は守信。早熟の天才肌の絵師、と評されることが多いが、桃山絵画からの流れを引き継ぎつつも、宋元画や雪舟を深く学び、線の肥痩や墨の濃淡を適切に使い分け、画面地の余白を生かした淡麗瀟洒な画風を切り開き、江戸時代の絵画の基調を作った。

生涯
慶長7年(1602年)、狩野孝信(狩野永徳の次男)の長男として京都で生まれる。母は、佐々成政の娘。


慶長17年(1612年)、駿府徳川家康に謁見し、元和3年(1617年)、江戸幕府の御用絵師となり、元和7年(1621年)には江戸城鍛冶橋門外に屋敷を得て、本拠を江戸に移した。江戸城二条城名古屋城などの公儀の絵画制作に携わり、大徳寺妙心寺などの有力寺院の障壁画も制作した。山水、人物、花鳥など作域は幅広い。


元和9年(1623年)、狩野宗家を嫡流・貞信の養子として末弟・安信に継がせて、自身は鍛冶橋狩野家を興した。探幽には嗣子となる男子がなかったため、刀剣金工家・後藤立乗の息子・益信(洞雲)を養子にしていた。その後、50歳を過ぎてから実子・守政探雪が生まれたため、守政が鍛冶橋家を継いだ。しかし、探幽の直系である鍛冶橋狩野家から有能な絵師が輩出されることは、6代後の子孫である狩野探信守道とその弟子沖一峨を僅かな例外として殆どなかった。


探幽の作品は制作年代(署名の形式の変化)により、誕生から34歳までの「宰相・釆女(うねめ)時代」、34歳から60歳までの「斎書き時代」、60歳から死没までの「行年(こうねん)時代」の三期に分けられる[1]


延宝2年(1674年)、死去。享年73(満72歳没)。戒名は玄徳院殿前法眼守信日道。墓所は池上本門寺。墓の形は、瓢箪を象っている。弟子も多く、久隅守景、神足常庵守周、桃田柳栄守光、尾形幽元守義ら探幽四天王に加え、京都で鶴澤派をおこした鶴澤探山会津藩御用絵師となった加藤遠澤など。

評価
若年時は永徳風の豪壮な画風を示すが、後年の大徳寺の障壁画は水墨などを主体とし、墨線の肥痩を使い分け、枠を意識し余白をたっぷりと取った瀟洒淡泊、端麗で詩情豊かな画風を生み出した。探幽は、画面地を一つの不透明で均質な平面と考え、そこに山水や人物が描かれることによって生じる絵画空間とは次元の異なる意味を持たせようとした。絵画空間にはモチーフが断片的にしか描かれていなくても、地の素材に由来する安定した均一性によって、画面に堅固な統合性を与えている。この画法は、描かれた部分のみ見ると、筆致が荒く、モチーフの形も中途半端な粗雑な画に見える。しかし、濃墨ではなく最も薄い墨色で表された部分に注目して、薄墨と画面地との間に暗示される景観の展開を想像で補いながら追うと、薄墨と画面地の間に柔らかい光を帯びた、深く潤いに満ちた景観が立ち上がってくる[2]


この画法は掛け軸等の小作品でも生かされ、その中に彼の芸術的真骨頂を見いだすのも可能である。その一方、大和絵の学習も努め、初期の作品は漢画の雄渾な作画精神が抜け切れていないが、次第に大和絵の柔和さを身に付け、樹木や建物はやや漢画風を残し、人物や土波は大和絵風に徹した「新やまと絵」と言える作品も残している。江戸時代の絵画批評では、探幽を漢画ではなく「和画」に分類しているのは、こうした探幽の画法を反映していると云えよう。粉本主義と言われる狩野派にあって探幽は写生も多く残し、尾形光琳がそれを模写しており、また後の博物画の先駆と言える。


探幽の画風は後の狩野派の絵師たちに大きな影響を与えたが、彼の生み出した余白の美は、後世の絵師たちが模写が繰り返されるにつれ緊張感を失い、余白は単に何も描かれていない無意味な空間に堕し、江戸狩野派の絵の魅力を失わせる原因となった。すでに晩年の探幽自身の絵にその兆候が見られる。近代に入ると、封建的画壇の弊害を作った張本人とされ、不当に低い評価を与えられていた。しかし近年、その真価が再評価されている。

ギャラリー、主な作品は「狩野探幽守信ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%A9%E9%87%8E%E6%8E%A2%E5%B9%BD

脚注
1. 影山幸一. “狩野探幽《雪中梅竹鳥図》軽やかに晴れやかに、綺麗の美──「榊原悟」(artscape 2016年12月15日号)”. 大日本印刷. 2020年8月30日閲覧。
2. 鬼原 (1998)。
3. 愛知県史編さん委員会編集 『愛知県史 別編 文化財2 絵画』 愛知県、2011年3月31日、pp.530-533。
4. 門脇むつみ「《作品紹介》狩野探幽筆、玉室宗珀・沢庵宗彭・江月宗玩賛「堀直寄像」『MUSEUM 東京国立博物館研究誌』第641号、2012年12月、pp.69-77
5. 紙本著色伊達政宗画像 狩野探幽筆 - 仙台市の指定・登録文化財
6. 仙台市博物館編集・発行 『特別展図録 伊達政宗―生誕450年記念』 2017年10月7日、第202図。
7. 京都国立博物館 毎日新聞社編集 『特別展覧会 桃山時代の狩野派―永徳の後継者たち―』 毎日新聞社 NHK京都放送局 NHKプラネット近畿、2015年4月7日、pp.248,281。
8. 京都市文化市民局文化芸術都市推進室文化財保護課編集発行 『京都市文化財ブックス第21集 京の障壁画―京都市指定・登録障壁画集成― 附 第24回京都市指定・登録文化財』 2007年2月13日、pp.92-93。
9. 山下善也 「狩野探幽と獺図と黒田忠之像」福岡市美術館編集・発行 『狩野派と福岡展』 1998年2月3日、pp.62-66。
10. 小林法子 「狩野探幽筆 獺図」『国華』第1129号、1989年。
11. 図録(2002)p.223。
12. 京都国立博物館編著 『特別展覧会 御即位二十年記念 京都御所ゆかりの至宝―蘇る宮廷文化の美―』 京都新聞社 NHK NHKプラネット、2009年1月10日、第66図。
13. 愛知県史編さん委員会編集 『愛知県史 別編 文化財2 絵画』 愛知県、2011年3月31日、p.536。
14. 門脇むつみ 「詩仙図について」『文学』11巻3号、岩波書店、2010年。
15. 徳川美術館 中日新聞社文化事業部編集『徳川美術館展 尾張徳川家の至宝』 中日新聞社、2013年1月2日、pp.190-191。
16. 『松平・徳川氏の寺社』(岡崎市美術博物館、2000年)に全図掲載。
17. 花園大学歴史博物館編集・発行 『花園大学歴史博物館二〇一三年度春季企画展 大圓宝鑑國師三五〇年遠忌記念 大仙寺展』 2013年4月2日、pp.40-41,88-89。
18. 守屋正彦狩野探幽筆「野外奏楽図・猿曳図」屏風とその儒教的主題について(PDF)」『藝叢 筑波大学芸術学研究誌』第31号、筑波大学大学院人間総合科学研究科芸術学研究室、2016年3月1日、pp.58-47。
19. 『館蔵品名品選集』 一般財団法人 今治文化振興会 今治市河野美術館、2019年3月28日、第42図。
20. 門脇むつみ 「狩野探幽筆、翠巌宗珉ほか賛「荒尾崇就像」(景福寺)について」『大和文華』第131号、大和文華館、2017年3月31日、pp.1-11。
21. 富山市佐藤記念美術館編集発行 『特別展 とやまの寺宝 ―花鳥山水 お寺に秘された絵画たち―』 2014年10月4日、第4図。
22. a b c 「大徳川展」主催事務局編集・発行 『大徳川展』 2007年10月10日、第252-254図。
23. a b 京都市文化市民局文化部文化財保護課編集発行 『京都市文化財ブックス第11集 京都近世の肖像画』1996年2月、pp.40-41
24. 幽美を求めて ― 墨から墨まで ― │ 大阪市立美術館
25. 榊原悟 「狩野探幽筆 桐鳳凰図屏風」『国華』第1258号、国華社、2000年8月20日、pp.9-16。
26. 京都国立博物館 東京国立博物館 朝日新聞社編集 『亀山法皇七〇〇年御忌記念 南禅寺』 朝日新聞社、2004年、図2。
27. 京都国立博物館 東京国立博物館 朝日新聞社編集 『亀山法皇七〇〇年御忌記念 南禅寺』 朝日新聞社、2004年、図87。
28. 愛知県史編さん委員会編集 『愛知県史 別編 文化財2 絵画』 愛知県、2011年3月31日、pp.478-479。
29. 京都市文化市民局文化芸術都市推進室文化財保護課編集発行 『京都市文化財ブックス第21集 京の障壁画―京都市指定・登録障壁画集成― 附 第24回京都市指定・登録文化財』 2007年2月13日、図6。
30. 
鬼原俊枝 「狩野探幽筆 瀟湘八景図屏風」『国華』第1259号、国華社、2000年9月20日、pp.13-19。
31. 野口剛 五十嵐公一 門脇むつみ 『天皇の美術史4 雅の近世、花開く宮廷絵画 江戸時代前期』 吉川弘文館、2017年10月20日、口絵4、p.230、ISBN 978-4-642-01734-3
32. 栃木県立博物館編集・発行 『平成十七年度秋季企画展 祈りのすがた ―下野の仏画―』 2005年10月1日、第31図、ISBN 4-88758-033-9
33. a b c 川延安直 「会津藩主の肖像画」福島県立博物館編集・発行 『福島県立博物館 若松城天守閣 共同企画展 展示解説図録 徳川将軍家会津松平家』 2006年9月30日、pp.20-21,107-108
34. 石川県立歴史博物館編集発行 『肖像画にみる加賀藩の人々』 2009年4月18日、p.52。

参考資料
河野元昭編 『日本の美術194 狩野探幽』 至文堂、1982年

武田恒夫 松永伍一 『水墨画の巨匠 第5巻 探幽・守景』 講談社、1994年。ISBN 4-06-253925-X

・鬼原俊枝 『幽微の研究 狩野探幽論』 大阪大学出版会、1998年2月。ISBN 4-87259-034-1

・『狩野探幽』 新潮社〈新潮日本美術文庫7〉、1998年4月。ISBN 978-4-10-601527-4

・安村敏信 『もっと知りたい狩野派 探幽と江戸狩野派』 東京美術〈アート・ビギナーズ・コレクション〉、2006年。ISBN 978-4-8087-0815-3

展覧会図録
・『「狩野探幽展」図録』 板橋区立美術館、1983年2月26日
・『狩野探幽の絵画 : 江戸初期、抒情美の世界』 静岡県立美術館、1997年
榊原悟 松木寛 安村敏信展覧会監修 日本経済新聞社「守信」朱文瓢箪印編集・発行 『四〇〇年記念 狩野探幽展』 東京都美術館、2002年
・佐々木英理子 野田麻美企画・編集 『「探幽3兄弟─狩野探幽・尚信・安信─」展図録』 板橋区立美術館・群馬県立近代美術館、2014年2月

関連項目
狩野派
詩仙堂
久隅守景 - 探幽の最も有力な弟子

外部リンク
天理図書館藏探幽縮図解題と翻刻 - 近本謙介、天理大学
(wikiより)


1643  狩野探幽守信

狩野探幽守信

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狩野受川 ( かのう ‐ じゅせん )
( 1715 ‐ 1731 )

江戸時代中期の画家。

正徳 ( しょうとく ) 5年生まれ。

狩野随川甫信 ( よしのぶ ) の長男。

享保 ( きょうほう ) 16年木挽町 ( こびきちょう ) 狩野家の栄川古信の養子となり、その跡をつぐが、同年10月 14日死去。17歳。名は玄信。

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加藤遠澤 ( かとう - えんたく )
( 1643 - 1730 )


会津藩が全国に誇る絵師遠澤は、寛永 20年に会津城下に生まれ、茶坊主として会津藩に仕えましたが、19歳の時に江戸の狩野探幽の門に入って画技を磨きました。

やがて久隅守景、鶴沢探山、桃田柳栄とともに探幽門下の四天王として名を高め、会津藩のお抱え絵師として活躍しました。

生涯独身で 88歳の長寿を全うしました。


清廉謹直、飄々恬淡とした性格の人らしく、師の狩野探幽は、彼を愛し「百歳の後は汝必ずや我が許に来るべし」との言葉を残したそうですが、その言葉どおり遠澤は江戸の池上本門寺にある探幽の墓の傍らに葬られています。

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浅野 長祚(あさの ながよし、文化13年6月9日1816年7月3日) - 明治13年(1880年2月17日)は、江戸時代末期(幕末)から明治時代にかけての幕臣旗本)、蔵書家、芸術鑑定家。通称は金之丞。官途中務少輔和泉守備前守など。号の梅堂でも知られる。他に池香、蔣潭、蝦侶斎漱芳閣、楽是幽居、柏洪楼などとも名乗った。娘の花子は川路寛堂に嫁いでいる。

略歴
文化13年(1816年)、江戸飯田町(現・千代田区)で旗本浅野長泰(号は金谷)の子として生まれる。家系は播磨赤穂藩浅野家の支族(家原浅野家)で、家禄3500石の上級旗本であった。幼少より父から漢詩和歌俳句等を学び、書画をよくした。出羽亀田藩岩城隆喜の3女直子と結婚。天保10年(1839年)に使番、同12年(1841年)に7月目付に就任。翌年10月には甲府勤番支配。甲府にあった幕府の学問所徽典館に教授として友野霞舟乙骨耐軒を招くなど規模を拡大した。弘化2年(1845年)3月には先手鉄砲頭、同4年(1847年)5月に浦賀奉行に転じ、以後5年間在職する。


この間、嘉永2年(1849年)に相模湾イギリス船マリナー号が停泊する事件が発生。奉行として処理に当たるが、浦賀を初めとする江戸近海の防備状況の貧弱さを痛感し、江戸にたびたび防備の強化を上申した。大砲の弾薬、兵糧ともに在庫がほとんど無く、外国艦接近のたびに近隣の商人から借財して軍備を整えるという惨状[1]に業を煮やし、辞表を提出。嘉永5年(1852年)閏2月10日[2]京都西町奉行に転任となった。


京都在任中は町奉行所与力平塚瓢斎の助力も得て洛中洛外の山陵調査にあたり、「歴代廟陵考補遺」を著す。安政元年(1854年)4月に皇居炎上後は川路聖謨らと共に禁裏造営掛となった。同5年(1858年)の日米修好通商条約締結に際し、老中堀田正睦下総佐倉藩主)が上京して条約勅許を得るための交渉を行った際には、同行した川路や岩瀬忠震と共に対公家工作を行った。しかし条約勅許は得られず、かえって将軍継嗣問題一橋派と目されたため、失脚した堀田に代わって政権についた大老井伊直弼近江彦根藩主)に疎まれ、同年6月小普請奉行に左遷される。翌年8月には免職となった。


桜田門外の変
で井伊が暗殺された後、文久2年(1862年)7月に寄合から寄合肝煎に挙げられ、同10月に江戸北町奉行に任ぜられた。しかし翌年4月には作事奉行、同年末には西丸留守居に転じて第一線から退き、慶応3年(1867年)に致仕。向島に隠居し、後に入谷に転じ、詩文・書画に没頭した。明治13年(1880年)に没。享年65。贈正五位。法号は文荘院殿梅堂帰夢軒居士。

芸術家として
杉浦西涯に学び、画は栗本翠庵椿椿山に師事し、多くの作品を残すいっぽう、書画鑑定家としても名高く、中国書画の研究では当時第一人者と称された。また蔵書家でもあり、所有書籍は5万巻に及んだといい、蔵書印に「浅野源氏五万巻図書之記」「漱芳閣」などを使用した。


著書に「歴代廟陵考補遺」「漱芳閣書画記」「安政御造営誌」「寒檠璅綴」「朝野纂聞」「浅野梅堂雑記」など。

脚注
1. 「其砲とても、多くは旧式にて、たまたま少数の洋式砲あるも、弾丸の備は僅に数発に留まり、甚しきは全く弾丸なきもありて、火薬も亦之に準ず。戦艦と称すべきものは固より有ることなく、先年奉行より軍艦の製造を請へるに、御沙汰に及び難しとて僅に押送船一艘の増加を許され、(中略)、非常金の備なく、事ある時は町人に立替へせしめ、五七箇月を過ぎて代金を下げ渡すを常とすれども、異変の際は町人恐怖して立替の命に応ぜざるべきが故に、水主・船頭・多人数の兵糧先づ欠乏して、一日の防戦も覚束なし」(『徳川慶喜公伝』(渋沢栄一)『陸軍歴史』(勝海舟)など)。
2. 徳川実紀』慎徳院殿(徳川家慶)御実紀嘉永五年閏二月十日条。

参考文献
・『明治維新人名辞典』(日本歴史学会編、吉川弘文館1981年)23ページ「浅野長祚」

・『幕末維新人名事典』(新人物往来社1994年ISBN 4-404-02063-5)30ページ「浅野長祚」(執筆:釣洋一)
(wikiより)

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狩野 周信(かのう ちかのぶ、万治3年7月2日1660年8月7日〉 - 享保13年1月6日1728年2月15日〉は、日本江戸時代前期から中期にかけて活躍した絵師江戸幕府に仕えた御用絵師で、最も格式の高い奥絵師4家のひとつ木挽町狩野家の3代目。幼名は生三郎、初名は右近で、如川、泰寓斎と号した。父は狩野常信、弟に狩野岑信、子に狩野古信がいる。

略伝
常信の長男として生まれる。延宝6年(1678年)19歳の時、4代将軍徳川家綱にお目見え。宝永7年(1710年)10人扶持を受け、正徳3年(1713年)に常信が没したため跡を継いだ。享保4年(1719年法眼に叙せられ、中務卿と称する。『徳川実紀』「有徳院殿御実紀附録」には、「養朴うせぬる後は、其子如川周信を召して、常にとひはからわせ玉ひしが」とあり、常信没後、有徳院・徳川吉宗の絵画指導をしていた。一方、将軍の寵愛は周信に慢心を生んだらしく、湯浅常山が纏めた『文会雑記』には、弟子の長谷川如辰の言葉として「近頃周信が書崩して、埒もなき絵になりたるは、最早我を圧す絵はなきと云ひ誇る心より、大事の戒を忘れて、散々のことになりたると也」といった悪評も伝えられる。享保13年(1728年)69歳で没。墓は池上本門寺平成14年(2002年)に同寺の五重塔が解体・修理された際の周辺整備事業として、周信の墓が発掘調査され、筆箱、香箱、眼鏡、煙管、毛抜き、印籠、刀子、銭貨などの副葬品が確認されている[1]


上記の悪評は事実の一面を表しているらしく、父常信に比べると繊細で筆力が弱く見るべき絵は少ない。弟子に、鳥山石燕理豊女王仙台藩お抱え絵師の荒川周良(如慶)など。

作品については、「狩野周信ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%A9%E9%87%8E%E5%91%A8%E4%BF%A1

脚注
1. 立正大学博物館編集・発行 『第3回特別展 江戸狩野とその世界 (PDFファイル)』 2006年10月16日
2. 田島達也 「作品紹介 光明寺蔵 旧内裏障壁画」『美術史』No.132、1992年4月15日、pp.260-272。
3. 栃木県立博物館編集・発行 『平成二十一年度秋季企画展 狩野派 ―四〇〇年の栄華―』 2009年10月10日、pp.68-69,111、ISBN 978-4-88758-055-8
4. 『秘蔵日本美術大観 二 大英博物館 2』 講談社、1990年3月25日。
5. 周南市立図書館|郷土資料ギャラリー|中央図書館所蔵書画類|狩野周信 寿老松鶴梅鶴図(三幅対)
6. 奥平俊六 門脇むつみ 森道彦 『公益財団法人 渡辺美術館所蔵品調査報告書 狩野派絵画』 2015年3月、第37図。
7. 奥平俊六 門脇むつみ 森道彦 『公益財団法人 渡辺美術館所蔵品調査報告書(第二回) 狩野派絵画』 2016年3月、第20図。
8. 姫路市|龍門寺大方丈襖絵
9. a b 東京都江戸東京博物館編集・発行 『狩野派の三百年』 1998年7月22日、pp.50-53。
10. 折井貴恵(川越市立美術館)編集 『開館10周年・市制施行90周年記念特別展 小江戸川越江戸絵画 職人尽絵と三十六歌仙額』 川越市立美術館、2012年11月6日、第6図。

参考文献
・静岡県立美術館編集・発行 『狩野派の世界 ─静岡県立美術館蔵品図録』 1999年7月24日

・佐々木英理子(板橋区立美術館)編集 『板橋区立美術館所蔵 狩野派全図録』 板橋区立美術館発行、2006年4月
(wikiより)

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狩野 常信(かのう つねのぶ、寛永13年3月13日1636年4月18日) - 正徳3年1月27日1713年2月21日))は、江戸時代前期の江戸幕府に仕えた御用絵師。父は狩野尚信。幼名は三位、右近と称し、養朴・朴斎・耕寛斎・紫薇翁・古川叟・青白斎・寒雲子・潜屋・弄毫軒、篁渚山人などと号した。子に後を継いだ長男・周信、別に浜町狩野を興した次男・岑信、さらにそれを継いだ甫信がいる。

略伝
京都出身。1650年慶安3年)4月父の尚信が没した後、15歳で狩野派(木挽町狩野家)を継いだ。同年12月剃髪、養朴と号し家光にお目見え、後に家綱の御用を勤めた。父没後は狩野探幽に画を学んだとされる。古来より狩野元信狩野永徳・狩野探幽とともに四大家の一人とされ高く評価されてきたが、狩野派内での地位が上がるのは遅かった。これは叔父で妻の父でもある狩野安信に疎んじられたからだと言われる。


その間に中院通茂に和歌を学び、幕末に著された『古画備考』や『文翰雑編』には多くの歌が収録されている[1]。また、徳川光圀の愛顧を得て、近衛家熈の言行を記録した『槐記』には、しばしば近衛家の画事を勤めた記事が載る。その一方で、探幽同様に古画の学習に努め、後に「常信縮図」(60巻、東京国立博物館蔵)と呼ばれる膨大な古画鑑定控え、粉本・画稿を残した。印章にも凝り、その数は150夥にも及んだという。そうした甲斐もあってか、天和2年(1682年)20人扶持を拝領、同年朝鮮通信使に贈る屏風二双を制作、更に訳官・洪世泰の肖像画を描いた。洪世泰は常信の画を「絶代奇筆」と最大限の賛辞を送った。宝永元年(1704年)10月12日、孔子廟に七十二賢像を描いた功で法眼に叙される[2]。同5年(1708年内裏造営で賢聖障子を描き、翌年(1709年)11月3日に前年の画事と江戸城修理の功績を賞され中務卿法印位を得て、翌年12月19日には200石を加増された[2]。正徳元年(1711年)の通信使来日の際には、前より増えた屏風三双を手掛けた。


弟子に常信門下四天王と呼ばれた新井寒竹常償(津軽藩御用絵師)、長谷川養辰常時、大石古閑常得、永井慶竺常喜(薩摩藩御用絵師)をはじめ、福岡藩御用絵師の上田永朴など。

画風
画風は探幽に学んだためか、探幽のそれに近い。探幽様式の絵師の殆どは探幽の描き方を上辺だけなぞり、余韻がなく平板でつまらない絵となることが多いが、常信は探幽の意図を理解し再現できる画力をもった数少ない絵師である。ただし両者を比較すると、常信には探幽のような幽遠さは無いが、モチーフの位置関係の整理・合理化、装飾性の増加と細密化が指摘でき、より明快で華やかな印象な画面となっている。また、若年から壮年期には狩野永徳に学んだと思われる力強い大作が複数残っている。一方、常信は多くの古画粉本を蓄え、200石という他の奥絵師家を超える知行地を得るなど、狩野派、特に木挽町狩野家の繁栄の基礎を固めたと評価される。反面、晩年の画風は穏やかで繊細なものに変わり、以降の狩野派が弱体化し絵の魅力が失われる原因となった。

代表作については、「狩野常信ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%A9%E9%87%8E%E5%B8%B8%E4%BF%A1

脚注
1. 中部義隆 「江戸時代前期における江戸狩野派」(大和文華館編集・発行 『特別展 大倉集古館所蔵 江戸の狩野派 ─武家の典雅─』 2007年9月、所収)の註(pp.74-76)には、常信が呼んだ和歌が纏められている。
2. 
a b 徳川実紀
3. 埼玉県立歴史と民俗の博物館編集・発行 『特別展「徳川家康 -語り継がれる天下人-」』 2016年10月15日、p.46。
4. 東京国立博物館 京都国立博物館 朝日新聞社編集 『亀山法皇七〇〇年御忌記念 南禅寺』 朝日新聞社、2004年1月20日、pp.194、279。
5. 高崎市タワー美術館編集・発行 『香る大名文化 ─旧高崎藩主・安藤家の至宝』 2009年、pp.10-11、94。
6. 愛知県史編さん委員会編集 『愛知県史 別編 文化財2 絵画』 愛知県、2011年3月31日、p.470。
7. 「大徳川展」主催事務局編集・発行 『大徳川展』 2007年10月10日、pp.89、232
8. 『永慶寺殿公御実録』。福留真紀 『将軍側近 柳沢吉保 いかにして悪名は作られたか新潮社新潮新書419〉、2011年、pp.7-11、ISBN 978-4-10-610419-0
9. 姫路市史編集専門委員会編集 『姫路市史 第十五巻 中 別編 文化財1』 1995年3月28日、pp.191-195。
10. 弘前市立博物館 館蔵品紹介No.3 狩野常信筆「山水図」PDF
11. 公益財団法人馬事文化財団編集 『図録『馬の博物館開館40周年記念所蔵名品展 馬の美術150選 ―山口晃「厩図2016」完成披露―』』 2017年9月9日、第18図。
12. 静岡県立美術館編集 『日本絵画修復協力企画 ホノルル美術館展 ー平安~江戸の日本絵画ー』 ホノルル美術館名品展日本実行委員会、1995年、pp.54,185-186。
13. 宮内庁三の丸尚蔵館編集 『江戸の美意識―絵画意匠の伝統と展開 三の丸尚蔵館展覧会図録No.28』 宮内庁、2002年3月26日、pp.28-29。
14. 宮内庁三の丸尚蔵館編集 『旧桂宮家伝来の美術―雅と華麗 三の丸尚蔵館展覧会図録No.13』 財団法人 菊葉文化協会、1996年9月21日、第10図。
15. 宮内庁三の丸尚蔵館編集 『名所絵から風景画へ―情景との対話 三の丸尚蔵館展覧会図録No.76』 宮内庁、2017年3月25日、pp.10-11。
16. 大分市美術館編集・発行 『富春館作品集─戸次帆足家伝来─』 1999年2月、pp.84-85、124。
17. 公益財団法人 徳川記念財団 徳川家広編 『徳川家康没後四〇〇年記念 天下太平 徳川名宝展』 講談社、2016年4月1日、pp.150-151、ISBN 978-4-06-219868-4
18. a b 京都国立博物館編集 『特別展覧会 菅原道真公1100年記念 北野天満宮神宝展』 東京新聞、2001年4月10日、第15,58図。
19. 石川県立歴史博物館編集発行 『源平合戦と北陸 ―義経伝説を育んだふるさと―』 2005年7月23日、第20図。

参考資料
単行本
安村敏信 『もっと知りたい狩野派 探幽と江戸狩野派』 東京美術、2006年 ISBN 978-4-8087-0815-3

山下裕二監修 安村敏信・山本英男山下善也執筆 『別冊太陽 狩野派決定版』 平凡社、2004年 ISBN 978-4-5829-2131-1

展覧会図録
福岡県立美術館編集・発行 『狩野探幽と近世のアカデミズム 特別展 御用絵師』 1987年3月3日
・『元禄繚乱展』 江戸東京博物館1999年1-3月、岡崎市美術館4-5月、兵庫県立歴史博物館9-11月

論文
・松嶋雅人 「狩野常信とその画業に関する研究」『鹿島美術研究』年報第13号別冊、鹿島美術財団、1996年11月
・安部美貴子 「木挽町狩野家における常信の功績」『聖心女子大学大学院論集』第31巻1号(通巻36号)、2009年7月
・薄田大輔 「狩野常信様式の成立について ―「吉野図屏風」(徳川美術館蔵)の紹介をかねて―」『金鯱叢書 第四十六輯 ―史学美術史論文集―』 公益財団法人 徳川黎明会、2019年3月30日、pp.23-39

関連項目
狩野派
(wikiより)

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狩野 養信(かのう おさのぶ)(1796年8月18日(寛政8年7月26日)-1846年6月12日(弘化3年5月19日))は、江戸時代の絵師。

略歴
伊川院栄信の長男として江戸で生まれる。母は稲葉丹後守家来、松尾多宮直常の娘。通称、庄三郎(しょうざぶろう)。は玉川・晴川院・会心斎。もともと、彼の名「養信」の読みは「たけのぶ」であったが、1813年(文化10年)、将軍徳川家慶に長男竹千代が生まれると、「たけ」の音が同じでは失礼であるとして「おさのぶ」に読み改めた。さらに、竹千代が翌年亡くなり、玉樹院と呼ばれたため、それまでの号・玉川を避けて「晴川」とした[1]


15歳で初めて江戸城に出仕した。その前日から、没する前日までの、36年間にわたる『公用日記』56冊[注釈 1]には、御用絵師の業務やそれ以外の日常を知ることが出来る。


1819年(文政2年)に法眼の称号を得、1828年(文政11年)には父の死を受けて家督を相続し、木挽町狩野派9代目となる。1834年(天保5年)、法印に叙せられた。1838-39年(天保9-10年)には、江戸城西の丸御殿、1844-45年(天保15-弘化2年)には本丸御殿の障壁画再建の指揮をとった[1]。障壁画は現存しないが、上述の『公用日記』に淡彩下図が残る[3]


子に狩野雅信、弟に『古画備考』を著した朝岡興禎、浜町狩野家の狩野董川中信、中橋狩野家の狩野永悳立信らがいる[要出典]


なお、弟子に明治期の日本画家である狩野芳崖橋本雅邦がいる。橋本雅邦は、その父・橋本養邦が狩野養信の高弟であったのに加え、雅邦自身、木挽町狩野家の邸内で生を受けている。幼少期は父から狩野派を学んで育ち、わずかに最後の一ヶ月のみながら最晩年の養信に師事してもいる。芳崖と雅邦は同日の入門であり[要出典]、実質の師匠は養信の子・雅信であったと考えられている。他の弟子に、阿波藩御用絵師の中山養福、松代藩絵師の三村晴山弘前藩の御用絵師の新井晴峰、糺晴岱、狩野養長、岩崎信盈、林伊教など[要出典]


2003年(平成15年])、東京都大田区池上本門寺にある、養信の墓が移転される際、遺骨が掘り出され、頭蓋骨から、生前の頭部復元模型が制作された。この模型は、池上本門寺に保管されている[4]

模写

養信は、職務とは別に、古画の模写に力を入れた。東京国立博物館所蔵分だけで、絵巻約130巻以上、和漢古画550点以上ある[5]。詞書の書風は勿論、絵具の剥落や虫損まで忠実に写し取る、「現状復元」を行っている。彩色が省略されたものは、摸本からの摸写と推測される[6]


養信は模写の為、徳川将軍家はもちろん、『集古十種』などの編纂で模本を多く所蔵していた松平定信の白河文庫、狩野宗家中橋家や、住吉家らを始めとする諸家から、原本や模本を借りて写した。公務で江戸を離れられない為、京都・奈良に弟子を派遣して写させたり、ついにはどこの寺からでも宝物を取り寄せられるよう、寺社奉行から許可を得た[7]。死の12日前まで、細川家蒙古襲来絵詞を写した[8]


最も早い時期の模写は、数え年11歳の「保元平治物語物語図屏風」右隻(東京国立博物館蔵)である。父栄信の指導が考えられる[9]

作品群については、「狩野養信ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%A9%E9%87%8E%E9%A4%8A%E4%BF%A1

脚注
注釈
1. 53冊は東京国立博物館蔵、3冊は国立国会図書館[2]。但し、未記録の時期があるので、実際には倍以上の冊数があったのではと推察される[2]

出典
1. a b 松原 1995, p. 99.
2. a b 池田 1999, p. 105.
3. 松原 1995, pp. 74-85.
4. 安村 2004, p. 136.
5. 松原 1979, p. 15.
6. 松原 1995, pp. 96-98.
7. 松原 1995, p. 96.
8. 松原 1995, p. 97.
9. 松原 1995, p. 98.
10. 四季耕作図屛風 コレクションデータベース サントリー美術館
11. 波涛図屛風 コレクションデータベース サントリー美術館
12. 円浄寺 紙本金地著色四季花鳥図 (市指定)
13. 遠山記念館 秋田市立千秋美術館編集 『至高の日本美術 遠山記念館名品選』 秋田市立千秋美術館、2017年9月23日、pp.64-65。
14. 日本画 - 島田市博物館
15. 島田市博物館編集発行 『島田市博物館収蔵品目録』 2006年3月30日、p.24。
16. Screen with Scene from the Tale of Genji _ TriArte_ Art & Artifacts Database
17. a b 富山市佐藤記念美術館編集発行 『特別展 とやまの寺宝 ―花鳥山水 お寺に秘された絵画たち―』 2014年10月4日、第25図。
18. 竹雀図屏風 館蔵品検索|コレクション|静岡県立美術館|日本平のふもと、緑に囲まれた美術館.mht
19. https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11E0/WJJS06U/1620295100/1620295100200010/ht010090 刑和璞百鶴百猿図 - ADEAC(アデアック):デジタルアーカイブシステム
20. 富山県高岡市教育委員会文化財課編集 『重要文化財勝興寺本堂落慶記念 勝興寺宝物展図録』 勝興寺、財団法人勝興寺文化財保存・活用事業団、高岡市発行、2005年10月、pp.62、151。
21. 白畑よし 切畑健監修 『江戸期に開いた日本の美 花展 ―松坂屋 会社創立80周年記念―』 朝日新聞名古屋本社企画部、1990年、第17図。
22. 長尾直茂 「江戸時代の漢詩文に見る羽扇綸巾の諸葛孔明像―『三国志演義』との関連において」『漢文學 解釋與研究』第七輯、漢文学研究会、2004年12月10日、pp.73-74,92。なお同図は、細野正信 『江戸の狩野派』 至文堂〈日本の美術262号〉、1988年、p.78、第99図で「孔子像」として紹介されているが、同論文では方孝孺の賛及び図様から誤りだとしている。
23. (いすみ市)絹本 極彩色額装 弁財天図/千葉県
24. (いすみ市)絹本 極彩色軸装 山水図/千葉県

参考文献
松原茂「狩野晴川院と絵巻」『Museum』第344号、1979年1月、 15-24頁。

東京国立博物館神戸市立博物館編『江戸城障壁画の下絵 大広間・松の廊下から大奥まで』、1988年2月。

・松原茂『断面日本絵画史』、1988年11月。

・東京国立博物館編『江戸城障壁画の下絵』第一法規出版、1989年。ISBN 4-474-06205-1

池田宏「狩野晴川院『公用日記』にみる諸相」『東京国立博物館紀要』第28号、1993年、 105-497頁。

松原茂「狩野晴川院の業績」『狩野晴川院養信の全貌』板橋区立美術館編、1995年、89-102頁。

・安村敏信「骨から顔が…復元された養信の顔」『狩野派決定版』山下裕二監修、平凡社別冊太陽131〉、2004年、136頁。ISBN 978-4-5829-2131-1

安村敏信 『もっと知りたい狩野派-探幽と江戸狩野派』、東京美術、2006年。ISBN 978-4-8087-0815-3
(wikiより)

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湯浅 一郎(ゆあさ いちろう、明治元年12月18日1869年1月30日) - 昭和6年(1931年6月23日)は、明治・大正・昭和戦前期の日本の洋画家。政治家・湯浅治郎の長男。湯浅八郎は弟。上野国(現・群馬県安中市)出身。

経歴
同志社英学校(現・同志社大学)、東京美術学校(現・東京藝術大学)卒業。黒田清輝の天真道場に学び、大正時代の日本の洋画界の重鎮だった。1888年(明治21年)に山本芳翠の生巧館画塾に入塾して芳翠から洋画を学び、1896年(明治29年)には白馬会の結成に加わった。1906年(明治39年)にジブラルタル経由でスペインに渡り、アルヘシーラスグラナダセビリアに滞在した後、マドリードプラド美術館ではいくつかの作品を模写している[1]。特にディエゴ・ベラスケスの『ラス・メニーナス』については「これを見たいためにまずスペインに行ったのであった。この部屋に入ったときは、これを見ればほかに絵を見る必要がないとまで思わせた」と語っている[1]。マドリードには約1年、スペイン全体には約1年半滞在してからフランスに渡り、1908年(明治41年)の第2回文展にはパリで制作した『イスパニア国風景』を出品した[1]。1914年(大正3年)には二科会の結成に参加。1931年(昭和6年)死去。

主な作品
・徒然

・画室

・村娘

・室内婦人像


その他、新島襄の肖像画(安中教会)を描く。

脚注
1. a b c 坂東省次 2013, pp. 276-277.

参考文献
坂東省次戸門一衛碇順治『現代スペインを知るための60章』明石書店〈エリアスタディーズ〉、東京、2013年。
(wikiより)

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杉山 寧(すぎやま やすし、1909年10月20日 - 1993年10月20日)は、日本画家日本芸術院会員、文化勲章受章者。

来歴

東京府東京市浅草区浅草西三筋町(現在の東京都台東区三筋一丁目、二丁目西側辺り)に文房具店を営む杉山卯吉の長男として生まれる。本籍神奈川県1928年東京美術学校(現在の東京芸術大学美術学部)に入学。山本丘人高山辰雄らと「瑠爽画社」(るそうがしゃ)を結成、日本画の革新をめざす運動に携わる。1929年帝展に出品、1931年、美校日本画科卒、結城素明に師事。1934年、第1回日独交換留学生に選ばれベルリン大学に学ぶ。だが1938年肺結核を病む。1943年、朝鮮満洲支那へ取材旅行。その後は病のために長く創作活動が止まる。


1947年
日展特選、1950年、日展審査員。1951年に「エウロペ」を日展に出展して本格的に画壇に復帰。以降、作風を一新した絵画を意欲的に発表する。1957年日本芸術院賞受賞[2]1958年、日展評議員。1970年、日本芸術院会員。1974年文化功労者文化勲章受章。


1958年
6月、長女・瑤子三島由紀夫と結婚。三島は瑤子を選んだ理由について「芸術家の娘だから、芸術家に対して何ら幻想を抱いていないこと」を挙げた。実際は瑤子は見合いの際に一目で三島を気に入り、結婚を強く希望した為に、両家話し合いの末結婚と成った(媒酌人は川端康成夫妻)。


1969年
に日展常務理事となり、1974年に日展理事長に就任。この間、1970年に娘婿の三島が割腹自殺。1976年、西ドイツより大功労十字勲章受章。1977年東京国立近代美術館評議員。1991年東京都名誉都民になる。 1956年から1986年12月号まで『文藝春秋』の表紙画を描いた。1993年の誕生日の朝、心不全のため[3]没した(生没同日)。死後、従三位に叙せられる。墓は寛永寺谷中墓地にある[1]


戦前は日本画の技法を極めた技巧で知られたが、戦後は岩絵具を用いながらも線描などの日本画の技法を一新し、メチエールにこだわった独自の作風を確立した。また。エジプトインドなどの古代遺跡や神像、抽象画や裸婦など従来の日本画にはなかった題材も手掛けた。亡くなる直前まで、納得いくまで絵を修正し続けるなど完璧主義者としても知られた。

代表作品
・「野(の)」(1933年)(東京藝術大学大学美術館):大学の卒業習作で、首席を獲得した。

・「穹(きゅう)」(1964年)(東京国立近代美術館):スフィンクスが題材となっている。

・「洸(こう)」(1992年)(ポーラ美術館

 

著書、画集
・杉山寧 三彩社 1959年

・日本の名画 29 杉山寧 講談社 1974年

・現代日本の美術 6 杉山寧 座右宝刊行会編 集英社 1976年

・日本の名画 26 杉山寧 中央公論社 1977年

・杉山寧自選画集 芸術新聞社 1989年

・画作の余白に 美術年鑑社 1989年

・現代の日本画 8 杉山寧 学習研究社 1991年

・杉山寧 日経ポケット・ギャラリー 日本経済新聞社 1991年

・杉山寧素描聚成 小学館 1992年


脚注
1. a b c d e f g h i 東京文化財研究所刊「日本美術年鑑」より:「杉山寧」(2015年12月14日)、2016年10月13日閲覧。
2. 『朝日新聞』1957年2月28日(東京本社発行)朝刊、11頁。
3. 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』付録「近代有名人の死因一覧」(吉川弘文館、2010年)15頁

関連項目
東京都出身の人物一覧

田中健五

東山魁夷

外部リンク
杉山寧: 絵画作品と所蔵美術館

杉山寧 - 東京文化財研究所
(wikiより)

2197  杉山寧

杉山 寧

2197a

2197b

2197c

2197d



渡辺文三郎 ( わたなべ - ぶんざぶろう )
嘉永 6年 ~ 昭和 11年 2月 1日 ( 1853 - 1936 )


洋画家。

号、薇山。

岡山出身。


子供のとき円山派の日本画を学ぶ。


上京して五姓田芳柳に師事。


第 1回・ 2回の内国勧業博覧会に出品し受賞。


東京英語学校教授・東京大学予備門画学教授。


第一高等学校図画教員。明治美術会創立評議員。文部省中等教員検査委員。太平洋画会・文展で活躍。


作品:「多摩川夕照」、「洋灯下青年勉学図」、「春景山水」など。

共著書;図画教科書「習画自在」、「中学臨画帳」など。84歳没。「大仙院祥堂薇山居士」。

2203a

2203b



佐々木玄龍(ささき・げんりゅう、慶安3年8月27日1650年9月22日) - 享保8年2月22日1723年3月28日))は江戸時代初期の書家。名は玄龍、字は煥甫、通称は萬治郎、池庵と号す。弟の文山も書家である。

略伝
江戸で生まれる。幼少より書の修行に励み、「象體の字」を得意とする。天和2年(1682年)、来日した朝鮮通信使の一行と詩文をやりとりし、正徳元年(1711年)7月から幕府に仕え、この時と享保4年(1719年)9月にも朝鮮通信使の接待を任されている。享保6年(1721年)6月25日に致仕。享保8年(1723年)に病を得て没す。享年74歳。武州三縁山(増上寺)浄運院に葬る。法号は「領春院興誉琉霊玄龍居士」[1]

書法
書家の細井九皋は『墨道私言』で玄龍と弟の文山は朝鮮の書法を学んだ、と書いている。玄龍自身は孟魯軒という清国人の書を蔵しそれを学んだという。細井広沢は孟魯軒はおそらく朝鮮の人で、玄龍の書は趙孟頫を尊重していた朝鮮人に似ると評す。『東川筆記』という文献には、玄龍は長崎の訳司・林道栄の門人であったと書かれている[2]


玄龍の門人として宝井其角・後藤仲龍などがいる。

脚注
1. 三村竹清『近世能書傳』二見書房、1930年、88-89p。
2. 三村竹清『近世能書傳』二見書房、1930年、93-94p。
(wikiより)

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2213b



松本弘二 ( まつもと ‐ こうじ )
( 1895 ‐ 1973 )


明治 28年 9月 21日生まれ。

高木背水 ( はいすい )、のち白馬会洋画研究所で黒田清輝に学ぶ。

雑誌「解放」の編集に携わり、大正 10年「種蒔 ( ま ) く人」同人となり、小説などを発表。

同年二科展に初入選、のち二科会会員、理事となる。

昭和 45年「男鹿の夏」で内閣総理大臣賞。

昭和 48年 6月 29日死去。77歳。

佐賀県出身。

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板谷 波山(いたや はざん、1872年4月10日明治5年3月3日〉 - 1963年昭和38年〉10月10日)は、明治後期から昭和中期にかけて活動した日本陶芸家。本名は板谷 嘉七(いたや かしち)。は、始め「勤川」、のち「波山」。「勤川」は故郷を流れる五行川の別名「勤行川(ごんぎょうがわ)」に、「波山」は故郷の名山である「筑波山」に因む。


日本の近代陶芸の開拓者であり、陶芸家としては初の文化勲章受章者である。理想の陶磁器づくりのためには一切の妥協を許さなかった波山の生涯は映画化もされている。


日本の陶芸は縄文時代からの長い歴史をもつが、「職人」ではない「芸術家」としての「陶芸家」が登場するのは近代になってからであった。波山は、正規の美術教育を受けた「アーティスト」としての陶芸家としては、日本における最も初期の存在である。陶芸家の社会的地位を高め、日本近代陶芸の発達を促した先覚者として高く評価されている。

来歴

のちの板谷波山こと板谷嘉七は、1872年(明治5年)、茨城県真壁郡下館城下町制施行前の真壁郡下館町字田町、現在の筑西市甲866番地)にて、醤油醸造業雑貨店を営む旧家・板谷家の主人であり、商才のみならず文化人としても多才であった善吉(板谷増太郎善吉)とその妻・宇多(うた)の三男として生まれた。


上京して2年後の1889年(明治22年)9月、18歳の嘉七は東京美術学校(現・東京芸術大学彫刻に入学し、岡倉覚三(天心)、高村光雲らの指導を受けた。1894年(明治27年)に東京美術学校を卒業した後、1896年(明治29年)、金沢の石川県工業学校に彫刻科の主任教諭として採用された。同校で陶芸の指導を担当するようになった嘉七は、このことをきっかけとしてようやく本格的に作陶に打ち込み始め、1898年(明治31年)もしくは翌1899年(明治32年)には最初のである「勤川」を名乗り始めた。1903年(明治36年)に工業学校の職を辞し、家族と共に上京した彼は、同年11月、東京府北豊島郡滝野川村(現・東京都北区田端)に極めて粗末な住家と場小屋を築き、苦しい生活の中で作陶の研究に打ち込み始めた。1906年(明治39年)4月、初窯を焼き上げて好成績を得る。号を「勤川」から終生用いることとなる「波山」に改めたのはこの頃であった。


波山は1908年(明治41年)の日本美術協会展における受賞以来、数々の賞を受賞し、1917年大正6年)の第57回日本美術協会展では、出品した「珍果花文花瓶」が同展最高の賞である1等賞金牌(きんはい、金メダル)を受賞している。その後、1929年(昭和4年)には帝国美術院会員、1934年(昭和9年)12月3日には帝室技芸員になっている[1]第二次世界大戦後1953年(昭和28年)には陶芸家として初めて文化勲章を受章。1960年(昭和35年)には重要無形文化財保持者(いわゆる人間国宝)の候補となるが、これは辞退している。波山の「自分は単なる伝統文化の継承者ではなく、芸術家である」という自負が辞退の理由であったと言われている。


1963年(昭和38年)1月6日、53年の長きにわたって助手を務めてきた片腕というべき轆轤師(ろくろし)・現田市松(げんだ いちまつ)が78歳(数え年79)で死去すると、波山は仕事の上でも精神的打撃を受けたと見られ、春のうちに病いを得て、4月2日、順天堂病院に入院する。手術を経て6月に退院するも、10月10日、工房のある田端にて生涯を終えた。波山は1964年東京オリンピックの開幕を楽しみにしていたが、開会式のちょうど1年間前に息を引き取った[2]享年92、91歳没。絶作(最後の作品)となった「椿文茶碗」は没年の作品であり、彼の技巧が死の直前まで衰えていなかったことを示している。墓所JR山手線田端駅近くの大龍寺[3]境内にある。

轆轤(ろくろ)師・現田市松

波山の作品には青磁白磁彩磁(多色を用いた磁器)などがあるが、いずれも造形や色彩に完璧を期した格調の高いものである。波山の独自の創案によるものに葆光釉(ほこうゆう)という(うわぐすり)がある。これは、器の表面に様々な色の顔料絵付けをした後、全体をマット(つや消し)の不透明釉で被うものである。この技法により、従来の色絵磁器とは異なった、ソフトで微妙な色調や絵画的・幻想的な表現が可能になった。前述の第57回日本美術協会展出品作「珍果文花瓶」もこの技法によるもので、美術学校時代に習得した彫刻技術を生かして模様を薄肉彫で表した後、繊細な筆で絵付けをし、葆光釉をかけたものである。波山は完璧な器形を追求するため、あえて轆轤師を使っていた。初窯制作期の1903年(明治36年)から中国に招聘される1910年(大正9年)まで勤めた佐賀県有田出身の深海三次郎(ふかみ みつじろう)と、その後任に当たった石川県小松出身の現田市松(前述)がそれで、とりわけ現田は波山の晩年に至るまで半世紀以上にわたるパートナーであった。


前述の「珍果文花瓶」は2002年平成14年)、国の重要文化財に指定された。これは、同年に指定された宮川香山の作品と共に、明治以降の陶磁器としては初めての国の重要文化財指定物件となった。また、茨城県筑西市にある波山の生家は茨城県指定史跡として板谷波山記念館内で保存公開されている。

代表作
・葆光彩磁珍果文花瓶 :1917年大正6年)作の花瓶。国の重要文化財泉屋博古館分館所蔵[4]

・彩磁禽果文花瓶 :1926年(大正15年)作の花瓶。国の重要文化財。敦井美術館所蔵[5]

・彩磁延寿文花瓶 :1942年昭和17年)作の花瓶。出光美術館所蔵[6]

・彩磁椿文茶碗 :1963年(昭和38年)作の茶碗。出光美術館所蔵。


人物
1958年(昭和33年)に妻を亡くして以降の波山は、住み込みのお手伝いさん2人と暮らしていた[7]。8時頃に朝食としてご飯味噌汁お新香海苔納豆を食べ、作陶し、昼食パンを食べ、夕食御用聞きに来る魚屋から買った魚で刺身煮魚焼き魚などを摂った[8]。故郷の下館からの来客があった時には、出前蕎麦取って歓待するのが常であった[2]。おいしいものを贈られると皆に分け、下館にも送った[2]


性格は穏やかであったが、若い頃は怒りっぽく、自らを律して穏やかな性格を身に付けたという[2]。日常生活は質素であったが、外出時には正装し、おしゃれにも気を遣った[2]。作陶しない時は、読書やテレビ鑑賞、趣味の日本刀の手入れをしていた[8]テレビ番組は好きなものしか見ず、特にプロレスを好み、力道山のファンであった[7]


田端の波山邸の隣には弥生荘という四畳半アパートがあり、渥美清が5年ほど住んでいた[9]。渥美が住んでいたことは弥生荘の住人にも知られていなかったが、波山はお手伝いさんを通して茶菓を贈るなど親交があった[9]

観音像・香炉と鳩杖

波山は、東京田端で長きにわたり陶芸品の制作活動に打ち込みながら、生まれ故郷の下館にも想いを寄せ続けていた。故郷に帰省した際には、文化財の修復や保存、工芸展や観能会の開催、小学校の運動会への寄付をしたり、祇園祭のお囃子の伝授を行ったりもしていた[10]


1937年(昭和12年)に日中戦争が勃発し、下館の町で戦死者が出始めた(下館から出征した最初の戦死者は波山の実家「板善」の縁者であったといわれる)。波山は各遺族宅へ自ら弔問に訪れ、「忠勇義士」の文字を刻んだ自作の白磁香炉を霊前に供えた(その数は42点にものぼるといわれる)。その後戦死者はさらに増え続けていったため、波山は香炉の贈呈について中断し、あらためて戦後に自作の白磁観音像を贈ることとし、1951年(昭和26年)4月29日1956年(昭和31年)7月10日の2回にわたり、故人の名前と波山の銘が記された桐箱に収められた観音坐像が、計271名の遺族へ贈られた[11]


また1933年(昭和8年)、実家「板善」を継いだ義兄が82歳となり、自作の鳩杖を祝物として贈ろうと考えたことをきっかけとして「兄だけでなく故郷旧知の方々にも同じく祝物を」と考え、下館町の80歳以上すべての高齢者に自作の鳩杖が贈呈された。こちらも、絹の袋に入れてから桐箱へ収め、さらに熨斗付きの奉書でつつみ水引で結んだものを、自らが一軒一軒を回り、直接本人に手渡している。鳩の部分には鋳物と白磁の2種類あるが「最初は私得意の焼物で鳩を作ろうかと思いましたが疵(きず)でも出来るといけぬと(思い)、合金の鋳物にしました。杖は狂いの出ぬよう南洋産の木を用い、女の方には赤みのところ、男の方には黒味を使いました」と波山は語っている(太平洋戦争中、鋳物から白磁に、桐箱から和紙の袋に変わった)。以来、自らの住まいと窯が東京大空襲で破壊され、故郷へ疎開していたあいだも含めて休むことなく、自らが80歳となる1951年(昭和26年)まで私費で毎年続けた[12][13]

関連施設
板谷波山記念館1980年(昭和55年)開業(開館)。茨城県筑西市田町甲866番地1に所在。

しもだて美術館2003年平成15年)開業(開館)。茨城県筑西市丙372(アルテリオ3階)に所在[14]

田端文士村記念館 :東京都北区田端6丁目1-2(田端駅北口至近)に所在。田端界隈に集まり住んでいた芥川龍之介菊池寛田河水泡その他の芸術・文筆家らとともに、波山の文化芸術活動を記念して紹介されている。

関連作品
板谷波山を描いた映画
・『HAZAN』 :2004年(平成16年)公開。桜映画社[15]

・『波山をたどる旅』 :2013年(平成25年)公開。企画:陶芸WEB、製作:プロジェクト茨城[16]

映画「HAZAN」
2004年(平成16年)には、波山の生涯を題材にした映画HAZAN』(監督:五十嵐匠、主演〈波山役〉:榎木孝明)が公開された[15]。この映画は、ブルガリア・ヴァルナの国際映画祭でグランプリを受賞している。

脚注

注釈・出典
1. 『官報』第2378号、昭和9年12月4日。
2. a b c d e 渡辺 2020, p. 43.
3. 真言宗霊雲寺派和光山大龍寺。通称:田端大龍寺、子規寺(俳人正岡子規の墓があることに由来)。
4. 重文 葆光彩磁珍果文花瓶”. 住友コレクション 泉屋博古館(公式ウェブサイト). 泉屋博古館. 2013年1月8日閲覧。:■画像と解説あり。
5. 板谷波山・彩磁禽果文花瓶”. (公式ウェブサイト). 敦井美術館. 2013年1月8日閲覧。:■画像あり。
6. 彩磁延寿文花瓶”. 出光コレクション(公式ウェブサイト). 出光美術館. 2013年1月8日閲覧。:■画像と解説あり。
7. a b 渡辺 2020, p. 42.
8. a b 渡辺 2020, pp. 42-43.
9. a b 渡辺 2020, p. 44.
10. 「『故郷・下館と板谷波山 - ふるさとへの贈り物 -』波山 鳩杖80年展」資料 一木努(下館・時の会 会長)著 - しもだて美術館 2013年10月開催
11. 「『故郷・下館と板谷波山 - ふるさとへの贈り物 -』波山 鳩杖80年展」資料 一木努(下館・時の会 会長)著 - しもだて美術館 2013年10月開催
12. 板谷波山記念館 板谷波山について :■波山が愛した故郷・下館 の項を参照
13. 「『故郷・下館と板谷波山 - ふるさとへの贈り物 -』波山 鳩杖80年展」資料 一木努(下館・時の会 会長)著 - しもだて美術館 2013年10月開催
14. しもだて美術館”. (公式ウェブサイト). しもだて美術館. 2013年1月8日閲覧。
15. a b HAZAN”. (公式ウェブサイト). 桜映画社. 2013年1月8日閲覧。
16. 波山をたどる旅”. (公式ウェブサイト). 陶芸WEB. 2013年1月8日閲覧。

参考文献
・渡辺朝子「板谷波山先生と田端のこと」『TABATA 批判と創造 経済地域研究所研究誌』第5号、経済地域研究所、2020年6月1日、 42-45頁、 NAID 40022265548

関連項目
下館市

下館小学校 - 出身校。1953年(昭和28年)6月に胸像を建立。

出光佐三 - 波山のパトロンのひとり。波山の作品「氷華磁仙桃文花瓶」に魅せられ、以降波山と親交を深めていく。

外部リンク
板谷 波山:作家別作品リスト - 青空文庫

板谷波山記念館

茨城県陶芸美術館:コレクション:板谷波山

板谷波山 :: 東文研アーカイブデータベース - 東京文化財研究所

板谷 波山 : 北区文化振興財団

板谷波山 - 会津人物伝
(wikiより)

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板谷波山


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福地家墓 ( 茶屋、版元 )

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池田 孤邨(村[1])(いけだ こそん、 享和3年(1803年) - 慶応4年2月13日(1868年3月6日)[2])は、江戸時代後期の江戸琳派絵師酒井抱一の弟子で、兄弟子の鈴木其一と並ぶ高弟である。

略伝
越後国水原近辺(現在の阿賀野市)出身。名は三信(みつのぶ)、三辰、字は周二、通称・周次郎。号は自然庵、蓮菴、冬樹街士(天保後期)、煉心窟(安政から文久頃)、画戦軒、天狗堂、旧(舊)松軒、久松軒など。


池田藤蔵の子として生まれる。10代後半には江戸へ出て、酒井抱一に師事したと見られる。水原は天領で、越後有数の米処として、干拓新田開発が積極的に行われた。その結果、廻船業などで富を成す素封家も多く、江戸や京阪の文人墨客が水原を訪れ、逗留することも珍しくなかった。父藤蔵は水原でこうした素封家と交流があり、弧邨が若くに江戸に出るのも、水原に来訪した文化人が関与したとする説がある[3]。また、抱一の弟子で、後に孤邨の弟子となる野沢堤雨の父・九皐庵九甲の紹介とする説もある[4]。孤邨は後々まで水原との関係を保ち続ける。嘉永6年(1853年)2月に父が亡くなると、同年4月水原の古刹西福寺に父の墓碑を建立している(大橋訥庵銘文)。


文政年間前期頃に抱一に入門[5]、抱一の号の一つ「鶯邨」の1字から孤邨を名乗ったと推測される[6]。抱一の死後30代の半ばから一時深川冬木町に住み、40代後半には両国久松町に移り、没するまで過ごした。しかし、深川時代の作品は関東大震災で多くを失ったとされ[7]、動向は不明な点が多い。安政6年(1859年)刊の『書画會粹 二編』では「画名天下に高し、然れども名を得る事を好まず、戸を閉め独り楽しむ」とあり、その人物を伝えている。書画の鑑定に優れ、茶道を好み和歌に通じた教養人で、を好み「蓮菴」と号した。琳派の後継者を自認し、最晩年の元治2年『光琳新撰百図』上下(弟子の野沢堤雨跋、ボストン美術館など蔵)、慶応元年(1865年)『抱一上人真蹟鏡』上下を出版した。これらは絵手本として使用された他、ジャポニズムの機運にのって西洋に渡り、装飾美術の隆盛に寄与した。1882年にイギリス初のインダストリアルデザイナーとして活躍したクリストファー・ドレッサーが出版した『日本 その建築、美術と美術工芸』では、早くも『光琳新撰百図』が引用されている。一方、文中に「大和魂」「皇国」といった語句が散見し、孤邨が勤王思想を持っていたことが窺える。墓は江戸川区西瑞江大雲寺


孤邨は其一ほど多作ではなく、作品の質も振り幅が大きい。また、抱一や其一、酒井鶯蒲に比べて画材に劣り状態が劣化しているものが少なからずあり、彼らに比べて大名や豪商の注文が少なかったと推測される[8]。しかし、代表作「檜図屏風」(バークコレクション)には、近代日本画を先取りする新鮮な表現がみられる。弟子に中村岳陵に最初の絵の手ほどきをした野沢堤雨、木村江村、鷲孤山、胝狐仙、胝狐松、八木沢松嶺、西崑山、高橋孤道、福島孤龍など。早稲田大学図書館初代館長などを務めた市島謙吉は、数多くの印章コレクションしており、その中には同郷の孤邨の印章も37顆含まれ、現在は早稲田大学會津八一記念博物館に所蔵されている[9]

詳しいことは、「池田孤邨ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E7%94%B0%E5%AD%A4%E9%82%A8
(wikiより)

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大須賀 力

1979年 ( 昭和 54 ) 年制作


浅井 忠 

洋画家

1856 ( 安政 3 ) 年 ~ 1907 ( 明治 40 ) 年


佐倉藩士の子として生まれ、8歳の時から約 10年間、現在の佐倉市将門町で過ごしました。


日本で初めて本格的な西洋美術を行った工部美術学校で学び、明治画壇をリードする存在となりました。
(案内板より)

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狩野董川 ( かのう - とうせん )
( ? - 1871 )


幕末 - 明治時代の画家。
 
狩野伊川院の 5男。


浜町狩野家の友川の養子となって跡を継ぎ、奥絵師となる。


弘化 ( こうか ) 元年 ( 1844 ) 法眼 ( ほうげん )。


江戸城本丸・西の丸の障壁画制作などに参加。


明治 4年 5月 9日死去。


名は中信。別号に幸川、全楽斎。

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天賦の才に恵まれ、若くして乾山焼 6代を襲名した。


陶芸家としての道を歩む一方、谷文晁に絵を習い、小川破笠 ( おがわ - はりつ ) が編み出した破笠細工の蒔絵も学び、彫刻も手がけるなど、多芸多才の士としても知られた。


嘉永 6年 ( 1853 )、32歳の時に人生最大の転機が訪れる。黒船来航である。


驚愕した乾山は、幕府に造艦を建白、雄藩にもその必要性を説き回った。


これが認められ、翌安政元年 ( 1854 )、勝海舟とともに長崎で建造技術の習得を命じられ、伝習所に赴く。


安政 3年、仙台藩に造艦惣棟梁として招聘され、洋式軍艦「開成丸」を見事進水させ、一躍名を知られるところとなる。


この功業により厚遇され、同藩には万延元年 ( 1860 ) まで滞在した。


この間、焼物の技術も伝授し、地元の陶工にも影響を与えた。


明治に入って居を東京に移し、近県で創窯、焼物の復興にも努める。


明治 8年 ( 1875 )、54歳で向島長命寺に移り、境内の一隅に築窯し、根付、印籠、帯留めなどの捜索に励み、特に、簪 ( かんざし ) の珠は「乾也玉」の名で流行した。
(案内板より)

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勝川春英は宝暦十二年 ( 1762 ) に生まれ、新和泉町 ( 現在の中央区日本橋 ) に住し、久徳斎と号した勝川派の絵師です。


勝川春章の門人で、相撲絵と役者絵を得意とし、兄弟子・春好のあと勝川派を牽引しました。


文政二年 ( 1819 ) 五十八歳で没し、浅草善照寺に葬られました。


右の碑 ( 画像 ) は、文政八年 ( 1825 ) 春英七回忌に門人たちにより建立された顕彰碑です。


題額と撰文は江戸時代後期の国学者・石川雅望によります。


碑文には、冒頭に春英の出自と生没年、続いて春英の人柄やそれにまつわるエピソードが紹介され、最後に建碑の趣旨でしめくくられています。


春英伝の基本史料に位置づけられる貴重な石碑です。


勝川派は役者絵や相撲絵を得意とし、人物の個性を生かした表現で人気を博しました。


また、春英とは同門の春朗は勝川派を離脱した後に様々な画境を拓き、のちに北斎と号しました。
(案内板より)

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高斎単山 ( こうさい - たんざん )    
文政元年 ~ 明治 23年 6月 13日 ( 1818 - 1890 )

 江戸末期から明治期の書家。

名、有常。字、子恒。通称、精一。号、単山・三余堂。落款は、単山常。

父、滝沢友七。

田安家家臣・高斎清兵衛の養子となる。

巻菱湖に書を学び、菱湖没後は萩原秋巌に師事、晋・唐の諸礼を究め一家をなす。

頼山陽に認められる。

寛永寺 30余坊の僧侶を指導。

大沼枕山の隣りに住み、三枚橋畔両名山と称される。

明治 3年 ( 1870 ) 秋発行の「書家番付」の大家・名家欄には萩原秋厳、服部随庵、関雪江、柳田正斎、市河萬庵、山内香溪、樋口逸斎、高斎単山、高林二峯、永井盤谷、松本董仙らの名前がある。

書は、幼いころから父から学び、長崎で清人 ( 中国人 ) に師事したらしい。

門下に徳川家達・伊達本家・真田・小笠原の大名・書家説文学研究家の高田竹山 ( たかだ - ちくざん : 1861 - 1946 ) らがいる。

明治の英国外交官アーネスト・サトウは、書道の師である高斎単山から「静山」という号をもらったという。73歳没。

碑は、門人金田正誠の撰文、高田忠周 ( たかだ - ただかね : 竹山 ) の書。

 金田正誠 ( ? ~ 明治 30年 1月 29日 ) 墓は、了ごん寺墓地奥の塀際より 1本手前にある。

正面「至誠院殿真如学山居士 / 錦恕院殿貞房妙観大姉」。

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幕末三筆の 1人巻菱湖の顕彰碑。


篆額は日野資愛。朝川鼎 ( 善庵 ) の撰文を、菱湖四天王の 1人大竹培 ( 将塘 ) が書丹し、窪世升が鐫を採っている。


菱湖は市河米庵と勢力を二分し、一世を風靡した江戸の書家。


越後に生まれ、江戸に出て亀田鵬齋に師事した人で漢詩にも秀でていた。


千字文など書道手本も多く残し、明治初期の習字教育にも影響を与えている。


菱門の系譜は、当時四天王といわれた中澤雪城の下に西川春洞・日下部鳴鶴・巌谷一六らが、同じく萩原秋厳からは村田海石らが連なる。


この碑は何度も拓本に採られ、かなり磨耗しているが、しっかりとした楷書が刻まれている。


〇 巻 菱湖
巻 菱湖(まき りょうこ、安永6年(1777年) - 天保14年4月7日1843年5月6日))は、江戸時代後期の書家越後国巻(現在の新潟市西蒲区)に生まれる。池田、後にを名襲名。大任致遠または起巌菱湖で、別号に弘斎通称右内と称した。


五言律詩行書双幅

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『五仙騎五羊』

2518   巻菱湖書


業績
明治政府及び宮内庁の官用文字・欽定文字は御家流から菱湖流に改められ、菱湖の門下生は1万人を超えたと伝えられている。市河米庵貫名菘翁と共に「幕末の三筆」と並び称された。石碑の揮毫も手がけており、現在全国に30基ほどの石碑が確認されている[1]

略歴
幼少の頃から新潟町で育ち、寺の住職にの手ほどきを受けた。母親が他界した後、19歳で江戸へ行き、書家の亀田鵬斎に師事して書とを学んだ。以後、楷書欧陽詢褚遂良行書李邕王羲之草書を『孝経』・『書譜』・『十七帖』・『絶交書』、隷書を『曹全碑』に範をとり、以前の書法に傾倒した。


29歳の時、『十体源流』を著し、書塾「蕭遠堂」を開く。53歳の時、近衛家にあった賀知章の『孝経』を見て驚倒したという。漢詩も能くし、酒を好み、天保14年(1843年)67歳で没した。

菱湖流
菱湖は篆書・隷書・楷書・行書・草書・仮名のすべてに巧みで、特に楷書を得意とした。平明で端麗な書体は、千字文などにより、世に広く書の手本として用いられ、「菱湖流」と呼ばれた書風は幕末から明治にかけての書道界に大きな影響を与えた。

菱湖書体
現在でも将棋の駒においては、銘駒と呼ばれる書体の1つが菱湖体である。タイトル戦などで使用される高級な駒などによく用いられており、中原誠などこの書体を好む棋士も多い。なお、菱湖自身が駒の書体を確立したわけではなく、大正時代頃に将棋の専門棋士で、阪田三吉の弟子だった高濱禎(たかはま てい)が菱湖の書体を駒字に作り替えたものである。

2518   巻菱湖書の将棋駒

巻菱湖書の将棋駒


門弟
門弟に菱湖四天王萩原秋巌中沢雪城大竹蒋塘生方鼎斎)や巻鴎洲(-おうしゅう、1814年 - 1869年)、中根半仙などがある。鴎洲は菱湖の子で、優れた才能を持ちながら病弱のため早世した。巻菱潭(-りょうたん、1846年 - 1886年)は鴎洲の門人で、鴎洲没後、養子となり跡をついだ。[2]



脚注
1.  林淳『近世・近代の著名書家による石碑集成-日下部鳴鶴・巌谷一六・金井金洞ら28名1500基-』収録「巻菱湖石碑一覧表」(勝山城博物館、2017年)
2. 飯島春敬 P.759 - 760

参考文献
・「図説日本書道史」(『墨スペシャル』第12号 芸術新聞社、1992年7月)

・藤原鶴来 『和漢書道史』(二玄社、2005年8月)ISBN 4-544-01008-X

・飯島春敬 『書道辞典』(東京堂出版、1975年4月)

・林淳 『近世・近代の著名書家による石碑集成-日下部鳴鶴・巌谷一六・金井金洞ら28名1500基-』(勝山城博物館 2017年4月)

関連項目
日本の私塾一覧

日本の書道史


外部リンク
巻菱湖記念時代館
駒の詩 書体への誘い2~菱湖
(wikiより)


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一勇斎歌川先生とは、幕末を代表する浮世絵師・歌川国芳のことです。


国芳は、寛政九年 ( 1797 ) に日本橋で生まれました。


15歳で初代歌川豊国の門人となり、文政十年 ( 1827 ) 頃「通俗水滸伝豪傑百八人一個 ( 一人)」の連作を契機に人気を博し、浮世絵のあらゆる分野で高い水準の作品を残しました。


この碑は、文久元年 ( 1861 ) に没した国芳の十三回忌にあたる明治六年 ( 1873 ) に建立されました。


撰文は学者の東條琴台、篆額と書は萩原秋巌、碑刻は宮亀年が受け持ちました。


碑文には国芳の出自や経歴、建碑の経緯などが刻まれています。


裏面には、建立者である弟子たちの名が刻まれており、その中には明治時代の浮世絵を代表する月岡芳年や新聞錦絵の落合芳幾、おもちゃ絵の歌川芳藤などがみられます。


芳年の画系は水野年方から鏑木清方、伊東深水、岩田専太郎と近代日本画の流れとして続きました。


国芳は向島に居住した時期もあり、この碑は墨田区の浮世絵に関わる豊かな歴史を示す貴重な文化財といえます。
(案内板より)

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明治 19年建碑。


篆額・九條道孝、自撰、書丹高村愛軒、田鶴年刻。


大島尭田 ( おおしま - ぎょうでん )
( 1805 - 1885 )

江戸後期 - 明治時代の書家。


文化 2年 8月生まれ。

代々武蔵 ( むさし ) 忍 ( おし ) 藩 ( 埼玉県 ) 藩主・阿部家に仕えた。


江戸にでて巻菱湖 ( まき - りょうこ ) に学ぶ。


維新後は東京師範で教えた。


明治 18年 10月死去。81歳。


本姓は矢島。名は信。字 ( あざな ) は立卿。

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五島耕畝 ( ごとう - こうほ ) 
明治 15年 ~ 昭和 33年 6月 11日 ( 1882 - 1958 )


日本画家。


本名、五島貞雄。

父、五島伝之允。

茨城県久慈郡 ( 日立市 ) 出身。


16歳で市内内田町の梶山太海に絵を学び、ついで水戸の松平雪江に師事。


明治 34年 ( 1901 ) 東京に出て原丹橋に師事。
ついで荒木寛畝に師事して花鳥画を学ぶ。

南北合派を研究。読画会会員。


明治 40年 ( 1907 ) 東京勧業博覧会で「秋」が褒状を受ける。
同年の文展開設で、正派同志会の結成に評議員として参画。


明治 41年 ( 1908 ) 第 2回文展に「塒はなれ」を出品。


明治 43年 ( 1910 ) 日英博覧会で銅賞。
以来、「初秋の朝」、「河原の朝」、「深山の秋」、「田家の秋」など文展・帝展に出品。

入選 11回、推薦 1回。宮内省買い上げとなる作品あり。


昭和 5年 ( 1930 ) から帝展推薦として最終展まで出品。

戦時中は、生家のある中里村に疎開、戦後は、那珂町菅谷で創作活動を続ける。

日本美術協会の創立時会員。日本美術協会絵画委員、同審査員。美術研精会・日本画会・同志会委員。読画会幹事。帝国絵画協会会員。77歳没。


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大岡 力 ( おおおか - つとむ )    
文久 3年 ~ 大正 2年 9月 3日 ( 1863 - 1913 )

    
ジャーナリスト・評論家。

号、長峡。

父、医師・大岡尚斎。兄、衆議院議員長・大岡育造。

山口県出身。

兄の経営する「中央新聞」の記者。

日清・日露戦争に従軍記者として活躍。のち、福社長。

明治 41年 ( 1908 ) 「京城日報」社長。

日朝親善に努める。

パリ万国博覧会美術部審査員。

明治 43年 ( 1910 ) 退界し、美術・骨董界に転じる。

著書 : 「地方官人物評論」。

正面「大岡 / 高村 両家之墓」。「聴雪院釈機心霊眠居士」。

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浜野 政随(はまの しょうずい/まさゆき、1696年元禄9年)- 1769年11月23日明和6年10月26日))は、江戸時代中期の装剣金工家である。通称は太郎兵衛。号は乙柳軒、味墨、半圭子等。浜野派の祖。

経歴・人物
江戸神田生まれ。奈良派に属する奈良利寿の門人となり、装剣金工を学ぶ。後に師匠の作風を受け継いだ小さな模様を使った装剣を製作した。後に大柄な作品となり、浜野派が生まれた。またこの頃、横谷宗珉が創始した横谷派や師匠の奈良派と共に江戸での装剣金工の三派のひとつとなり、一躍有名となった。

作品は縁頭が多数を占めるが、小柄目貫等も少数であるが多岐に渡った。素材もを大多数を占めるが、朧銀等もあった。作風は独創的で、「高肉彫り」と呼ばれる斬新で緻密な技法な作品を多く残した。この技法は奈良三作(師匠の利寿、杉浦乗意土屋安親)にも使用している。死後5代に渡り、政随と名乗った。

主な弟子
直弟子
浜野兼随(2代目政随)- 政随の次男でもある。
・初代浜野矩随

孫弟子
浜野(遠山)直随 - 初代浜野矩随の弟子。

曾孫弟子
岩間政盧 - 直随の弟子。

主な作品
・『葦に鷺図鍔』

出典
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典(ブリタニカ・ジャパン)『浜野政随』- コトバンク
世界大百科事典 第2版(平凡社)『浜野政随』- コトバンク
・デジタル版 日本人名大辞典+Plus(講談社)『浜野政随(初代)』- コトバンク
・朝日日本歴史人物事典(朝日新聞出版)『浜野政随(初代)』- コトバンク
(wikiより)

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