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8206 栗林忠道墓(長野市松代町豊栄・明徳寺)
生誕 | 1891年7月7日![]() |
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死没 | 1945年3月26日(53歳没)![]() |
所属組織 | ![]() |
軍歴 | 1914年 - 1945年 |
最終階級 | ![]() |
栗林 忠道(くりばやし ただみち、1891年(明治24年)7月7日 - 1945年(昭和20年)3月26日[1][注釈 1])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。位階勲等は従四位勲一等(旭日大綬章)[注釈 2]。陸士26期・陸大35期次席。長野県埴科郡西条村(現:長野市松代町)出身。
第二次世界大戦(太平洋戦争/大東亜戦争)末期の硫黄島の戦いにおける、日本軍守備隊の最高指揮官(小笠原兵団長。小笠原方面陸海軍最高指揮官)であり、その戦闘指揮によって敵であったアメリカ軍から「アメリカ人が戦争で直面した最も手ごわい敵の一人であった」[4]と評された。
経歴
戦国時代以来の旧松代藩郷士の家に生まれる。1911年(明治44年)、長野県立長野中学校を卒業(第11期)。在学中は文才に秀で、校友誌には美文が残されている。当初ジャーナリストを志し東亜同文書院を受験し合格していたが、恩師の薦めもあり1912年(大正元年)12月1日に陸軍士官学校へ入校。陸軍将校の主流である陸軍幼年学校出身(陸幼組)ではなく、中学校出身(中学組)であった。長野中学の4期後輩に今井武夫陸軍少将がいる。陸士同期に、のちの硫黄島の戦いで混成第二旅団長に指名して呼び寄せた“歩兵戦の神”の異名をもつ千田貞季、田中隆吉、影佐禎昭、とくにノモンハン事件では、戦車第3連隊長吉丸清武、第23師団参謀長大内孜、第23師団捜索隊長東八百蔵の3人の同期が戦死しており、栗林が同期を代表して新聞紙面上で追悼のことばを送っている[5]。
1914年(大正3年)5月28日、陸士卒業(第26期、兵科:騎兵、席次:742名中125番)、騎兵第15連隊附となり、同年12月25日に陸軍騎兵少尉任官。1917年(大正6年)10月から1918年(大正7年)7月まで陸軍騎兵学校乙種学生となり[6]、馬術を専修[7]。馬術の技術は高く、気性が荒く陸軍騎兵学校の誰もが敬遠していた馬を何度も落馬しながらも乗り続け、最後には乗りこなしていたという逸話が残っている[8]。
1918年(大正7年)7月に陸軍騎兵中尉。1920年(大正9年)12月7日、陸軍大学校へ入校。1923年(大正12年)8月、陸軍騎兵大尉。同年11月29日に陸大を卒業(第35期)、成績優等(次席)により恩賜の軍刀を拝受[9]。同年12月、栗林義井(よしゐ[10])と結婚[注釈 3]。太郎・洋子・たか子の一男二女を儲ける。孫に衆議院議員の新藤義孝がいる(たか子の子)[11]。
北米駐在・騎兵畑
騎兵第15連隊中隊長、騎兵監部員を経て1927年(昭和2年)、アメリカに駐在武官(在米大使館附)として駐在、帰国後の1930年(昭和5年)3月に陸軍騎兵少佐に進級、4月には陸軍省軍務局課員。1931年(昭和6年)8月、再度北米のカナダに駐在武官(在加公使館附)として駐在した。栗林は2年間に渡ってアメリカ各地を回ってアメリカ軍の軍人だけではなく一般市民とも親交を深めた。栗林のアメリカ人評は「朗らかで気さくな人が多い」であり、アメリカ人との交流について、妻よしゐやまだ字が読めない長男太郎宛に、イラストや漫画を描き込んだユーモアにあふれる多くの手紙を送っている[12]。 フォート・ビリスでは騎兵訓練を受けているが、そのときの教官であったジョージ・ヴァン・ホーン・モーズリー准将からは、「尊敬する栗林へ、貴官との愉快な交際を忘れません」と書かれた記念写真を受け取っている。栗林はフランス・ドイツ志向の多い当時の陸軍内では少数派であった「知米派」で、国際事情にも明るくのちの対米開戦にも批判的であり、妻のよしゐに「アメリカは世界の大国だ。日本はなるべくこの国との戦いは避けるべきだ。その工業力は偉大で、国民は勤勉である。アメリカの戦力を決して過小評価してはならない」と話したこともあった[13]。
1933年(昭和8年)8月、陸軍騎兵中佐、同年12月30日に陸軍省軍務局馬政課高級課員となりさらに1936年(昭和11年)8月1日には騎兵第7連隊長に就任する。1937年(昭和12年)8月2日、陸軍騎兵大佐に進級し陸軍省兵務局馬政課長。馬政課長当時の1938年(昭和13年)には軍歌『愛馬進軍歌』の選定に携わっている。
1940年(昭和15年)3月9日、陸軍少将に進級し騎兵第2旅団長、同年12月2日、騎兵第1旅団長に就任。
太平洋戦争(大東亜戦争)
太平洋戦争(大東亜戦争)開戦目前の1941年(昭和16年)9月、第23軍参謀長に就任。第23軍は緒戦の南方作戦においてイギリス領香港を攻略することを任務としており、12月8日の開戦後、香港の戦いにおいて18日間でイギリス軍を撃破して香港を制圧した。
1943年(昭和18年)6月、陸軍中将に進級し、第23軍参謀長から留守近衛第2師団長[注釈 4]に転じる[7]。
1944年(昭和19年)4月、留守近衛第2師団長から東部軍司令部附に転じる[7][注釈 5]。栗林が東部軍司令部附となったのは、厨房から失火を出した責によるとされる[7]。秦郁彦は、厨房から火事を出した程度で留守師団長を更迭されるとは考えにくい、第109師団長に親補する前提での人事であろう、という旨を述べている[7]。
硫黄島の戦い
詳細は「硫黄島の戦い」を参照
1944年(昭和19年)5月27日[3]、小笠原方面の防衛のために新たに編成された第109師団長に親補された[7]。6月8日、栗林は硫黄島に着任し、以後、1945年(昭和20年)3月に戦死するまで硫黄島から一度も出なかった[7]。同年7月1日には大本営直轄部隊として編成された小笠原兵団長も兼任、海軍部隊も指揮下におき「小笠原方面陸海軍最高指揮官」となる(硫黄島の戦い#小笠原兵団の編成と編制)。周囲からは、小笠原諸島全域の作戦指導の任にある以上は、兵団司令部を設備の整った父島に置くべきとの意見もあったが、アメリカ軍上陸後には最前線になると考えられた硫黄島に司令部を移した。その理由としては、サイパンの戦いにおいて、第31軍司令官小畑英良中将が、司令部のあるサイパン島から部隊視察のためパラオ諸島に行っていたときにアメリカ軍が上陸し、ついに小畑はサイパン島に帰ることができないまま守備隊が玉砕してしまったという先例があることや、父島と比較すると硫黄島の生活条件は劣悪であり、自分だけ快適な環境にいることなく部下将兵と苦難を共にしたいという想いがあったからという。栗林はその人柄から部下将兵からの人気も高かった[17]。
栗林の着任当時、硫黄島には約1,000人の住民が居住しており、当時の格式では、閣僚クラスの社会的地位のある中将の来島に色めきたったが、栗林は島民に配慮して一般島民とは離れた場所に居住することとしている[18]。栗林が司令部ができるまで居住していた民家は「硫黄島産業」という会社の桜井直作常務の居宅で、桜井は栗林と接した数少ない島民となったが、栗林は食事の席で桜井に「我々の力が足りなくて、皆さまに迷惑をかけてすまない」と謝罪し桜井を驚かせている[19]。栗林の島民に対する配慮はまだ続き、アメリカ軍による空襲が激しくなると、島民も将兵と同じ防空壕に避難するようになったが、薄手の着物姿の女性が避難しているのを見た栗林は、将兵からの性被害を抑止するために女性にモンペの着用を要請し、また防空壕も可能な限り軍民を分けるよう指示した[20]。その後も、アメリカ軍の空爆は激化する一方で、全島192戸の住宅は3月16日までの空襲で120戸が焼失、6月末には20戸にまでなっていた。栗林は住民の疎開を命じ、生存していた住民は7月12日まで数回に分けて父島を経由して日本本土に疎開した[21]。栗林の方針によって硫黄島には慰安所は設置されておらず、硫黄島は男だけの島となったが、結果的に早期に住民を疎開させるという判断が、島民の犠牲を出さなかったことにつながった[22]。
敵上陸軍の撃退は不可能と考えていた栗林は、堅牢な地下陣地を構築しての長期間の持久戦・遊撃戦(ゲリラ)を計画・着手する。従来の「水際配置・水際撃滅主義」に固執し水際陣地構築に拘る1部の陸軍幕僚と同島の千鳥飛行場確保に固執する海軍を最後まで抑え、またアメリカ軍爆撃機の空襲にも耐え、上陸直前までに全長18kmにわたる坑道および地下陣地を建設した。陣地の構築については軍司令官である栗林が自ら島内をくまなく巡回し、ときには大地に腹ばいになって、目盛りのついた指揮棒で自ら目視して作業する兵士たちに「この砂嚢の高さをあと25cm上げよ」「こっちに機銃陣地を作って死角をなくすようにせよ」「トーチカにもっと砂をかけて隠すようにせよ」などの具体的で詳細な指示を行うこともあったという。生還者の1人であった歩兵第145連隊第1大隊長原光明少佐は「(栗林)閣下が一番島のことをご存じだった。だから私ら、突然、閣下が予想外の場所から顔を出されるので、いつもびっくりさせられた」と回想している[23]。このように、通常は部隊指揮官がやるような細かい指示を軍司令官が行ったことについて、栗林の率先指揮ぶりの好エピソードとして語られることもあるが、これは、軍参謀がわずか5人と少ないうえ着任して日も浅く、また部隊指揮官は急編成でろくに経験もない老兵が多かったという小笠原兵団の窮状によるものでもあった[24]。
持久戦術は守備隊唯一の戦車戦力であった、戦車第26連隊(連隊長:西竹一中佐)に対しても徹底された。戦車第26連隊は満州で猛訓練を積んできたこともあり、連隊長の西は硫黄島でも戦車本来の機動戦を望んでいたが[25]、これまでの島嶼防衛戦で戦車を攻撃に投入したサイパンの戦いや[26][27][28]、ペリリューの戦いにおいては[29]、優勢なアメリカ軍部隊に戦車突撃をして、強力な「M4中戦車」との戦車戦や、バズーカなどの対戦車兵器に一方的に撃破されることが続いており[30][26][31]。栗林は西に対して、戦車を掘った穴に埋めるか窪みに入り込ませて、地面から砲塔だけをのぞかせ、トーチカ代わりの防衛兵器として戦うよう命じた。西はこの命令に反撥したが最終的には受入れている。栗林と西は同じ騎兵畑出身で親しかったとする証言もあるが、勤勉且つ繊細であった栗林に対し、華族で裕福であった西は豪放で奔放と性格が全く異なっており、確執があったとする証言もある[32]。ただし、戦車を防衛兵器として使用する判断をしたのは西であったとする説もある[33]。
隷下兵士に対しては陣地撤退・万歳突撃・自決を強く戒め、全将兵に配布した『敢闘ノ誓』や『膽兵ノ戦闘心得』に代表されるように、あくまで陣地防御やゲリラ戦をもっての長期抵抗を徹底させた(硫黄島の戦い#防衛戦術)。過酷な戦闘を強いることになる隷下兵士には特に気を配っており、毎日、島を何周も廻る視察には、陣地構築の状況確認のほかに、兵士の士気と指揮官の兵士に対する態度を確認する目的もあった。栗林は兵士に対して、作業中や訓練中には自分も含め上官に敬礼は不要と徹底し、部下から上官に対する苦情が寄せられた場合は容赦なく上官を処罰した。食事についても栗林自らも含め、将校が兵士より豪華な食事をとることを厳禁した。栗林は、平時から階級上下での待遇差が激しい軍内で根強い“食べ物の恨み”が蔓延しているしていることを認識しており、水不足、食料不足の硫黄島においては、さらにその“食べ物の恨み”が増幅する懸念が大きく、戦闘時の上下の信頼関係を損なって、戦力に悪影響を及ぼすという分析をしていた。そのため、自らも兵士と同じ粗食を食し、水も同じ量しか使用しなかった。この姿勢が兵士から感銘を受けて、栗林への信頼が高まっていった[34]。
翌1945年(昭和20年)2月16日、アメリカ軍艦艇・航空機は硫黄島に対し猛烈な上陸準備砲爆撃を行い、同月19日9時、海兵隊第1波が上陸を開始(硫黄島の戦い#アメリカ軍の上陸)。上陸準備砲爆撃時に栗林の命令を無視し、(日本)海軍の海岸砲と擂鉢山火砲各砲台応戦砲撃を行ってしまった。栗林は慌てて全軍に全貌を暴露するような砲撃は控えるよう再徹底したが[35]、栗林の懸念通りにアメリカ軍は応戦砲撃で海軍砲台の位置を特定すると、11時間にも及ぶ艦砲射撃で全滅させてしまった。これはアメリカ海兵隊の硫黄島の戦いの公式戦史において、「(硫黄島の戦いにおける)栗林の唯一の戦術的誤り」とも評された[36]。
その後は守備隊各部隊は栗林の命令を忠実に守り、十分にアメリカ軍上陸部隊を内陸部に引き込んだ10時過ぎに栗林の命令によって一斉攻撃を開始する。上陸部隊指揮官のホーランド・スミス海兵隊中将は[7]、その夜、前線部隊からの報告によって硫黄島守備隊が無謀な突撃をまったく行なわないことを知って驚き、取材の記者たちに「誰かは知らんがこの戦いを指揮している日本の将軍は頭の切れるやつ(one smart bastard)だ」と語った[37]。また、第4海兵師団の戦闘詳報によれば、日本軍の巧みな砲撃指揮を「かつて、いかなる軍事的天才も思いつかなかった巧妙さ」と褒めたたえている[38]。アメリカ軍は硫黄島の指揮官が誰であるのかを正確には把握できておらず、上陸前にはサイパン島で入手した日本軍の機密資料から、父島要塞司令官大須賀應陸軍少将と考えていた。しかし、上陸以降に捕らえた日本兵の捕虜から「最高司令官はクリバヤシ中将」という情報を聞き出したアメリカ軍は、硫黄島のような小さく環境が劣悪な島に中将がいるとは考えられないという判断しながらも、硫黄島の戦力が当初の14,000人という見積より多いという報告から、師団クラスの戦力が配置されており、師団長クラスの中将が指揮をしてもおかしくはないという分析も行った。その場合は硫黄島の戦力は当初の見積より遥かに多く、また「クリバヤシ」が優れた戦術家であれば苦戦は必至と危惧することとなったが、事実、この危惧通りにアメリカ軍は大苦戦させられることとなる[39]。
その後も圧倒的な劣勢の中、アメリカ軍の予想を遥かに上回り粘り強く戦闘を続け多大な損害をアメリカに与えたものの、3月7日、栗林は最後の戦訓電報となる「膽参電第三五一号」を大本営陸軍部、および栗林の陸大在校時の兵学教官であり、騎兵科の先輩でもある侍従武官長の蓮沼蕃大将に打電。さらに組織的戦闘の最末期となった16日16時には、玉砕を意味する訣別電報を大本営に対し打電(硫黄島の戦い#組織的戦闘の終結・#訣別の電文)。
翌17日付で戦死と認定され[7][注釈 6]、特旨により陸軍大将に親任された[2]。陸軍大臣の杉山元・元帥は、内閣総理大臣の小磯國昭に送付した文書に次のように記している[7]。
第百九師団長として硫黄島に在りて作戦指導に任じ其の功績特に顕著なる処、三月十七日遂に戦死せる者に有之候条、同日付発令相成度候
— 杉山元。出典では漢字カナ表記、[7]
太平洋戦争(大東亜戦争)において中将の戦死者が増加したため、中将で戦死した者のうち、親補職(軍事参議官[15]。陸軍では、陸軍三長官、陸軍航空総監、師団長以上の団隊の長、侍従武官長など[15]。海軍では、海軍大臣、軍令部総長、艦隊司令長官、鎮守府司令長官など[15]。)2年半以上を経ており、武功が特に顕著な者を陸海軍協議の上で大将に親任するという内規が作られ、この内規により、陸軍で7名(栗林を含む)[40]、海軍で5名が戦死後に大将に親任された[41]。
昭和19年5月27日に第109師団長に親補され、昭和20年3月17日に戦死と認定された栗林は、上記の内規の年限を満たさなかったが、特旨により大将に親任された[41]。
同日、最後の総攻撃を企図した栗林は残存部隊に対し以下の命令を発した。
・一、戦局ハ最後ノ関頭ニ直面セリ
・二、兵団ハ本十七日夜、総攻撃ヲ決行シ敵ヲ撃摧セントス
・三、各部隊ハ本夜正子ヲ期シ各方面ノ敵ヲ攻撃、最後ノ一兵トナルモ飽ク迄決死敢闘スベシ 大君[42]テ顧ミルヲ許サズ
・四、予ハ常ニ諸子ノ先頭ニ在リ
大本営は訣別電報で栗林は戦死したと判断していた。しかし、3月23日に硫黄島から断続的に電文が発されているのを父島の通信隊が傍受した。その電文には3月21日以降の戦闘状況が克明に記されていたが、最後の通信は23日の午後5時で、「ホシサクラ(陸海軍のこと)300ヒガシダイチニアリテリュウダンヲオクレ」という平文電報がまず流れてきたので、通信兵が返信しようとすると、「マテ、マテ」と硫黄島から遮られて、その後に続々と電文が送られてきたという。その電文の多くが栗林による部隊や個人の殊勲上申であり、栗林は戦闘開始以降、部下の殊勲を念入りに調べてこまめに上申して、昭和天皇の上聞に達するようにしてきたが、最後の瞬間まで部下のはたらきに報いようとしていたのだと電文を受信した通信兵たちは感じ、電文に記された顔見知りの守備隊兵士を思い出して涙した。しばらくすると通信は途絶えて、その後は父島からいくら呼びかけても返信はなかった[43]。
栗林の最期
3月17日以降、栗林は総攻撃の機会をうかがっていた。既に生存者の殆どが、守備隊の命運は尽きており、待っているのは自滅のときの訪れであって、そうであれば最後の突撃をなるべく早く行うべきと考えていたが、栗林は死を焦る参謀や指揮官らに「今、しばらく、様子を見たい」として安易な突撃を許さなかった。その指示を聞いた参謀らは、最後まで作戦を考える栗林の戦意と気力に大きな感銘を受けたという[44]。アメリカ軍は18日から、艦砲射撃や空爆を中止し、損害の大きかった海兵隊を硫黄島から次第に撤退させており、1個連隊程度の戦力を残して、戦車と迫撃砲での攻撃を主として近接戦闘をなるべく避けるように作戦変更していた。栗林は冷静にアメリカ軍の作戦変更を見極めて、警戒が緩んできた3月24日に攻撃の機が熟したと判断すると、25日夜間の総攻撃開始を決定した[45]。この総攻撃も、今まで栗林が徹底して禁止してきたバンザイ突撃ではなく、緻密に指揮された周到な攻撃であった。栗林は階級章を外すと、軍刀などの所持品から名前を消して白襷を着用し、25日の深夜に、今まで栗林に従ってきた師団司令部附大須賀應陸軍少将、歩兵第145連隊連隊長池田益雄陸軍大佐、参謀長高石正陸軍大佐や海軍第27航空戦隊司令官市丸利之助海軍少将と共に、攻撃隊400人の先頭に立って司令部の半地下壕を出て、元山・千鳥飛行場方向に向けて前進を開始した[46]。
翌3月26日午前5時15分、栗林の指揮する攻撃隊は西部落南方の海岸で、アメリカ陸軍航空隊の第7戦闘機集団と第5工兵大隊が就寝している露営地に接触し攻撃を開始した。攻撃隊は日本軍の兵器のほかに、アメリカ軍から鹵獲したバズーカや自動小銃などを装備しており非常に重武装で、太平洋戦争の島嶼戦で繰り返された貧弱な装備でのバンザイ突撃とは一線を画した秩序だった攻撃であり、攻撃を受けたアメリカ軍も日本軍部隊がよく組織されているものと感じ、それは栗林の戦術的な規律によるものと評価している[47]。 攻撃隊の周到な攻撃によってアメリカ軍は大混乱に陥り、多数の戦闘機パイロットが殺傷されたが、その後海兵隊の増援も到着し、3時間の激戦によって戦闘機パイロットら44人が戦死、88人が負傷し、海兵隊員も9人が戦死、31人が負傷するという大損害を被った[48]。その後、栗林は部隊を元山方面に転戦しようとしたが、敵迫撃砲弾の破片を大腿部に受けて負傷し、司令部付き曹長に背負われながら前線から避退したが進退窮まり、最後に「屍は敵に渡してはいけない」と言い残して、近くの洞窟で自決した[45]。満53歳没。
ただし、栗林の最期については、直接見た者は生存していないことから諸説ある。最後の総攻撃の数少ない生還者である通信兵小田静夫曹長の証言によれば、栗林は千鳥飛行場に天皇陛下万歳三唱して斬りこんだが、参謀長の高石か参謀の中根に自分を射殺するよう命じ、高石か中根は栗林を射殺したのちに自分も拳銃で自決したという。しかし、小田は実際には栗林の最期を見てはおらずこれは推測である[49]。他の生還者である歩兵第145連隊の大山純軍曹によれば、前進途中の千鳥部落付近で敵の砲火を浴び、部隊は散開状態となったが、大山はそのとき栗林の近くにおり、栗林が「狙撃を出して攻撃せんか」と命令したのを聞いている。大山はその場で機関銃弾を受けて負傷し栗林とはぐれてしまったが、戦闘後に戦闘指揮所に戻ると、栗林が負傷し、出血多量で絶命したため、遺体を参謀長の高石が近くの木の根元の弾痕に埋葬したという話を聞いている[50]。
他にも、攻撃中にアメリカ軍の155㎜砲の直撃を受けて爆死し遺体が四散したとの推察もある[51]。
最後の総攻撃後に、日本兵の遺体262人が残され、18人が捕虜となった[52]。海兵隊は栗林に敬意を表し遺体を見つけようとしたが、結局見つけることはできなかった。アメリカ海兵隊は公式報告書で栗林による最後の攻撃を以下の様に記録している[53]。
3月26日に栗林と他の高級将校が日本軍の最後の攻撃を主導したという報告があった。この攻撃はバンザイ突撃ではなく、最大の混乱と破壊を生み出すことを目的とした優秀な計画であった。午前5時15分、200−300人の日本兵が島の西側に沿って北から下り、西部の海岸の近くで海兵隊と陸軍の露営地を攻撃した。混乱した戦いは3時間にも及び、第7戦闘機集団の司令部が大打撃を被ったが、混乱から立ち直って反撃を開始し、第5工兵大隊は急いで戦闘ラインを形成して敵の攻撃を食い止めた。日本軍の部隊は、日本とアメリカの両方の武器で十分に武装しており、40人が軍刀を帯びていたので、高級将校が高い割合を占めることを示していたが、遺体や書類を確認したところ栗林を見つけることはできなかった。
栗林の最期に関する異説としては、大野芳が、第109師団父島派遣司令部の参謀であった堀江芳孝少佐の手記から、栗林が戦闘中にノイローゼとなり、アメリカ軍に降伏しようとして参謀に斬殺されたという説を唱えたことがあった[54]。しかし梯久美子の調査により、堀江が硫黄島で栗林の下で勤務したのは数日に過ぎず、栗林の最期についても伝聞であり、その情報源とされた小元久米治少佐[注釈 7]が否定していたことが判明、戦史叢書の編集者も堀江の手記の栗林の最期の記述については信ぴょう性が薄いと判断し、戦史叢書の記述に採用していない[56]。
戦後
死後、日米の戦史研究者などからは高い評価を得ていたが、硫黄島の戦いを除くと軍参謀長や騎兵旅団長など軍人としては目立ったエピソードも少なく、局地戦で戦死した指揮官ということもあり、日本でも一般的な知名度は高くなかったが、2005年(平成17年)に上梓された梯久美子『散るぞ悲しき 硫黄島総指揮官・栗林忠道』、翌2006年(平成18年)に公開されたハリウッド映画『硫黄島からの手紙』により、一躍その名が知られるようになった。
秦郁彦は下記のように述べている。
『散るぞ悲しき』(梯久美子著)がベストセラーになり、映画『硫黄島からの手紙』もヒットして、栗林忠道の名は日本中に知れわたりました。「太平洋戦争最高の名将」という地位をほぼ確立したんじゃないですか。
— 秦郁彦、[7]
栗林は幼少の頃、一時的に養子に出ていたことがあり、養子に出ていた当時の記録は長らくの間不明であったが、近年、生家から少年時代の日記帳や成績表などが発見され、生後まもなく地元の士族・倉田家へ養子に出ていた時期など、これまで知られていなかった少年期の詳細が明らかになった。
墓所は長野市松代の明徳寺だが、遺骨はない。栗林の長兄が継いだ長野市松代の生家では、仏壇に硫黄島の石、および、栗林が陣頭指揮・戦死した3月26日未明の最後の総攻撃に参加し、生還を果たした陸軍下士官が、復員から間もない1946年(昭和21年)に栗林の妻の義井に送った手紙(最後の総攻撃の様子を詳細に記す)を供えていた[10]。1967年(昭和42年)、勲一等に叙せられ旭日大綬章を受勲。
詳しい事は「栗林忠道ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A0%97%E6%9E%97%E5%BF%A0%E9%81%93
(wikiより)
栗林忠道
⇧ 2012年 4月に建立された栗林忠道 今井武夫顕彰平和宣誓建立趣意碑。







8118 岡田誠道墓(山口県萩市川島197・善福寺)
8113 境二郎建直墓(山口県萩市川島197・善福寺)
8107 平田尚介墓(山口県萩市川島197・善福寺)
8106 粟屋幹墓(山口県萩市川島197・善福寺)
8088 玉木正之墓(護国山・山口県萩市椿東243‐31)
8062 口羽良純墓(護国山・山口県萩市椿東243‐31)
8035 山田顕義誕生地(山口県萩市大字椿東)
生年月日 | 天保15年10月9日 (1844年11月18日) |
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出生地 | 長門国阿武郡椿郷東分 (現在の山口県萩市) |
没年月日 | 1892年11月11日(47歳没) |
死没地 | 兵庫県朝来市生野町生野銀山 |
出身校 | 松下村塾 |
前職 | 武士(長州藩士) 陸軍軍人 |
称号 | ![]() 正二位 ![]() 伯爵 |
配偶者 | 山田龍子 |
子女 | 山田金吉(長男) 山田梅子(長女) |
親族 | 村田清風(大伯父) 山田顕行(父) 山田亦介(伯父) 河上弥市(再従兄) 山田英夫(娘婿) |
![]() | |
内閣 | 第1次伊藤内閣 黒田内閣 第1次山縣内閣 第1次松方内閣 |
在任期間 | 1885年12月22日 - 1891年6月1日 |
![]() | |
在任期間 | 1883年12月12日 - 1885年12月22日 |
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在任期間 | 1881年10月21日 - 1883年12月12日 |
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在任期間 | 1879年9月10日 - 1880年2月28日 |
在任期間 | 1878年3月5日 - 1879年9月10日 |
その他の職歴 | |
![]() (1890年7月10日 - 1892年4月1日) |
山田 顕義(やまだ あきよし、旧字体:山田 顯義、天保15年10月9日〈1844年11月18日〉- 明治25年〈1892年〉11月11日)は、日本の政治家、陸軍軍人[1]。諱は顕孝(あきたか)、のちに、顕義に改めた。通称は市之允(いちのじょう)。号に養浩斎、狂痴、韓峰山人、不抜、空斎など。別名は山田 空斎(やまだ くうさい)。陸軍中将。正二位勲一等伯爵。
生涯
明治維新期の軍人として新政府に貢献するとともに、新日本の設立者として、近代日本の法典編纂に尽力したことから法典伯の異名を持つ[2][3]。日本法律学校を創立するうえで評議員の一人として特に関わり、日本大学の学祖とされる。
吉田松陰が営む松下村塾に最年少の14歳で入門、最後の門下生となる[4]。25歳の時に戊辰戦争で討伐軍の指揮をとる。その際、西郷隆盛から「あの小わっぱ、用兵の天才でごわす」、軍才から「用兵の妙、神の如し」との名言があり「小ナポレオン」とも称された[5]。岩倉使節団の一員としてフランスを訪問した際、ナポレオン法典と出会い、「法律は軍事に優先する」ことを確信し、以後一貫して法律の研究に没頭する。約9年間にわたり司法大臣として近代国家の骨格となる明治法典を編纂した。
誕生から松下村塾入塾まで
天保15年(1844年)10月9日、長門国阿武郡椿郷東分[注 1](現・山口県萩市)で、長州藩士である山田七兵衛顕行(村田光賢の子で山田家の養子となった山田龔之の子、大組士、禄高102石[6]、藩海軍頭)の長男として生まれる。伯父に山田亦介、また村田家の血縁でつながる親族に村田清風(大伯父)、河上弥市(再従兄)らがいる。
兵学者・山田亦介の甥でありながら、幼少期の頃に「性質愚鈍、垂鼻頑獣(はなたれだるま)、ほとんど白痴の如し」といわれていた[7]。
安政3年(1856年)、松本村の新山直衛塾に学ぶ。2月、伯父の亦介により、中村九郎と竹内竹叢から兵学を教授される。3月、藩校明倫館に入って師範の馬来勝平から剣術(柳生新陰流)を学び[8]、文久2年(1862年)には柳生新陰流伝中許を得ている。安政4年(1857年)6月、松下村塾に入門した[8]。
安政5年(1858年)、吉田松陰から「与山田生」(詩)「立志尚特異 俗流與議難 不思身後業 且偸目前安 百年一瞬耳 君子勿素餐」と立志の目標が書かれた扇面を与えられる[9]。その内容は「立志は特異を尚(たっと)ぶ、俗流はともに議し難し、身後の業を思はず、且(か)つ 目前の安きを偸(ぬす)む、百年は一瞬のみ、君子 素餐することなかれ[注 2]」である。
幕末期
文久2年(1862年)秋に上京し、藩主の世子である毛利定広の警護を務めるようになった。同年12月、高杉晋作・久坂玄瑞・志道聞多(のちの井上馨)・伊藤俊輔(のちの伊藤博文)・品川弥二郎らとともに攘夷の血判書(御楯組血判書)に名を連ねた[10]。文久3年(1863年)3月31日、孝明天皇の攘夷祈願の賀茂神社行幸に際して、御前警護のため毛利定広に随行した。4月11日の石清水八幡宮への行幸にも同様に随行した。八月十八日の政変では長州藩兵として堺町御門の警備を担当し大砲掛となるも、公武合体派に排除され、三条実美以下7人の尊皇攘夷派公卿の長州亡命(七卿落ち)に同行した[10]。しかし途中で兵庫から大坂経由で京都へ一旦戻り潜伏、後に長州へ帰国した。藩から遊撃隊御用掛に任命された。慶應1年(1865年)に普門寺塾で大村益次郎から西洋兵学を学んだ[11]。後に大村の遺志を継いで、陸軍創設へ大きく貢献する[12]。
元治元年(1864年)7月、禁門の変では山崎に布陣する久坂玄瑞・真木保臣らの陣に加わったものの長州勢は敗北し、山田も長州へ落ち延びている。8月、太田市之進・品川弥二郎らと御楯隊を創設し、軍監となって下関戦争で奮戦するも長州藩は敗北した。12月、対幕府恭順論の「俗論派」による藩支配に対する高杉晋作の決起(功山寺挙兵)に参戦し勝利を収め、俗論派を排除する。また、山田亦介が処刑され、市之允は謹慎となる[10]。
慶応2年(1866年)、第二次長州征伐では藩海軍総督の高杉晋作から丙寅丸の砲隊長に任命され、6月に周防大島沖で幕府軍艦を奇襲攻撃。7月、御楯隊司令として芸州口に転戦、数々の勝利を収めた。7月20日に将軍・徳川家茂の死去により第二次長州征伐は休戦となった[10]。
慶応3年(1867年)5月、御楯隊と鴻城隊を合体した整武隊の総管に就任[10]。11月、薩摩藩から倒幕の出兵要請を受けた藩主・毛利敬親の命令で、長州藩先鋒隊の総隊長として三田尻(現山口県防府市)を出発し、全軍総督である毛利内匠の東征軍先鋒隊700人余とともに海路で京都に入った[13]。
慶応4年(1868年)1月、戊辰戦争の発端となる鳥羽・伏見の戦いで在京長州藩兵諸隊の指揮官として、1,000余名ほどの長州藩兵を率いることとなった。新政府征討総督・仁和寺宮嘉彰親王の征討総督副参謀に命じられる。長州藩勢は、伏見口のところで京を保護、約1万の幕府軍(遊撃隊)を引き払った。その後、山田と麾下の部隊は、大坂、京の守備にあたり、4月、三田尻に凱旋した。その頃、江戸城明け渡しを果たし、上野戦争で彰義隊に勝利した新政府軍(官軍)は、会津藩を中心とする奥羽越列藩同盟諸藩との戦いに入った。東北から新潟方面で起きた北越戦争は、北陸道鎮撫総督参謀になったばかりの黒田清隆・山縣有朋が奇兵隊を率いて、5月に長岡城を占拠した。しかし、アームストロング砲、ガトリング砲、エンフィールド銃、スナイドル銃、シャープス銃(軍用カービン)で武装した長岡藩兵を主軸とする精鋭兵に手こずり、長岡軍がアームストロング砲で榴散弾を発射して、奇兵隊ら新政府軍の頭上で爆発させる戦術を用いて、多大な損害を与えた。新政府軍はやむなく守勢に置かされた。それを克服するため、山田は先年にイギリスで完成した長州藩の艦艇「第一丁卯」に乗船を命じられ、5月に薩摩艦「乾行丸」、筑前艦「大鵬丸」も同行し馬関(現下関)を出発、越後海域に向かった[13](山田は山縣に協力して、海軍の戦闘を助力した)。
明治元年(1868年)5月、柏崎を拠点に新政府軍は、奥羽越列藩同盟の海からの補給路を完全に遮断するために、新潟港を手中に収める必要があったため、山田は「衝背作戦」を発案し実行した。この作戦のための兵士を乗せた輸送艦が柏崎に入港した7月、越後口海軍参謀(陸軍参謀兼海陸軍参謀)に命じられる。25日、官軍は占拠した長岡城を長岡軍に奪還されるが、同日、新政府軍が阿賀野川口東にある松ヶ崎・大夫浜に上陸する。その間、同盟軍の退路を断つとともに新潟の占領に成功する。また、29日には再度長岡城を占拠することに成功した。8月末頃、山田は援軍要請のため京に赴いたが、長州藩の衰退で増援はできなかった。9月4日に米沢藩、9月10日に仙台藩、9月22日に会津藩が相次いで降伏し、他の東北諸藩もこれに続いたため、新政府軍の戦略計画は変更になった。幕府海軍副総裁・榎本武揚は、指揮下の艦隊を率いて江戸を脱出、会津藩などの残存兵を吸収して、10月に蝦夷地に上陸する。榎本軍は新政府(箱館府)が置かれていた五稜郭を占拠した。新政府は、榎本軍と対戦するため青森に兵力を集めた。11月、青森口陸軍参謀(海軍参謀含)に命じられる。榎本軍・旧幕臣・同盟軍は蝦夷島政府(蝦夷共和国)を樹立して、新政府からの独立を試みた。明治2年(1869年)4月、新政府軍は箱館攻撃を開始、輸送艦3隻(1隻に1,500名ほど)に乗り青森を出発し、江差北方の乙部村に上陸する。五稜郭の戦い[14]で勝利し、戊辰戦争は終結した[13]。
明治維新
明治2年(1869年)6月、宮中において黒田清隆らとともに明治天皇に謁見、戦功を賞される。陸海軍参謀の任を解かれ、新官制(太政官制)施行による兵部大丞に就任、長州藩少参事兼任を命ぜられる。同年8月、山口凱旋。顕義と改名する。同9月、維新の軍功により新政府から永世600石の禄を下賜されるが、大村益次郎の暗殺未遂により、藩命で急ぎ上京する。病床の大村より日本近代軍制の創設について指示を受け、11月には兵部少輔久我通久と連署で、結局大村は死去するが、その遺策をまとめた『兵部省軍務ノ大綱』を太政官に提出した。以後, 大阪を中心とした兵部省確立に尽力する。同じ長州出身の前原一誠らと共に国軍の建設を進めようとしたが、省内の統制がとれず仕事は停滞する。国軍の建設が進展をみせたのは、欧州視察から帰国した山縣有朋が兵部少輔(国防次官補)に、西郷従道が権大丞(局長の次)に就いてからであった[15]。
明治3年(1870年)、亡き大村の計画に従い、大坂城跡に設置された大坂兵部省出張所と東京の本省とを往復する日々を過ごす。5月頃から畿内限定の徴兵制(辛未徴兵)施行の政府有力者への働きかけを開始する。これも大村の計画によるものであった。9月には普仏戦争の観戦を強く希望するが、川村純義ら他の兵部省員らも希望したため、省務の停滞を危惧した大久保利通らの指示により許可されなかった。この年、井上馨の養女で湯田温泉瓦屋の鹿島屋喜右衛門の長女龍子と結婚する。
明治4年(1871年)1月、大坂にて辛未徴兵を開始するも、5月には事実上延期となる[注 3]。 これは徴兵の質、および指導士官や施設の不足などの根本的な問題のためだった。7月、陸軍少将に任命された。
幕末に欧米諸国との不平等な条約を改正することが、新政府の重要課題で、欧米と対等な交渉をするためにも、日本は近代法の整備が急務となった。
同年11月、岩倉使節団に軍事制度調査のため、兵部省理事官として随行する[16]。サンフランシスコ、ソルトレイクシティ、シカゴを経由し、ワシントンD.C.に到着。明治5年2月(1872年3月)、岩倉らと別れて原田一道ら兵部省一行とともにフィラデルフィアの海軍施設などを見学後、渡仏。パリを中心に、ベルリン、オランダ、ベルギー、ローザンヌ、ブルガリア、ロシアなど欧州各国で軍制を調査する。ウィーン万国博覧会にも立ち寄り、明治6年(1873年)5月、マルセイユ港から帰途に着く[17]。
詳しいことは「山田顕義ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E7%94%B0%E9%A1%95%E7%BE%A9
(wikiより)

山田顕義




⇧⇩ 楫取素彦旧宅跡から少し登ると、山田顕義誕生地になります。
そして右側の階段を下りると、冒頭画像の顕義園という公園となります。


8034 楫取素彦旧宅跡(山口県萩市大字椿東)
生年月日 | 1829年4月18日 |
---|---|
出生地 | 長門国萩魚棚沖町(現山口県萩市) |
没年月日 | 1912年8月14日(83歳没) |
死没地 | ![]() |
出身校 | 明倫館 |
前職 | 長州藩士 |
称号 | 正二位勲一等男爵 |
配偶者 | 杉寿(久子) (1853年 - 1881年) 杉文(美和子) (1883年 - 1921年) |
在任期間 | 1876年 - 1884年 |
在任期間 | 1884年 - 1890年 |
在任期間 | 1890年7月10日 - 1911年7月9日 |
松下村塾を側面から支援した楫取素彦の旧宅跡。
〇 楫取素彦
楫取 素彦(かとり もとひこ、文政12年3月15日[1](1829年4月18日) - 大正元年(1912年)8月14日[1])は、幕末の長州藩の志士、明治時代の官僚、政治家。錦鶏間祗候正二位勲一等男爵。通称は久米次郎または内蔵次郎。小田村家の養嗣となって小田村伊之助(おだむら いのすけ)と改め、後に文助・素太郎といい、慶応3年(1867年)9月に藩命により、楫取素彦と改名[2]した。諱は希哲(ひさよし)、字は士毅、号は耕堂彜堂・晩稼・棋山・不如帰耕堂など。
幕末を代表する人物である吉田松陰とは関係が深く、また松陰の次妹の寿と結婚し、寿に先立たれた後の明治16年(1883年)、久坂玄瑞の未亡人であった末妹の美和子(文)と再婚している。最初の妻・寿との間に希家(小田村家を継ぐ)、道明(久坂家を一時継ぎ、のち楫取家の籍に入る、芝山巌事件で殺害された)の二男がいる。曾孫(希家の養孫、道明の外孫)に小田村寅二郎、小田村四郎らがいる。
来歴
文政12年3月15日(1829年4月18日)、長門国萩魚棚沖町(現・山口県萩市)に藩医・松島瑞蟠の次男として生まれる。兄に松島剛蔵、弟に小倉健作(松田謙三)がいる。小田村家の養子となるのは天保11年(1840年)で、同家は代々儒官であった。弘化元年(1844年)明倫館に入り、同4年(1847年)19歳で司典助役兼助講となる。22歳大番役として江戸藩邸に勤め、安積艮斎・佐藤一斎に教えを受ける。
安政2年(1855年)4月、明倫館舎長書記兼講師見習となる。翌3年(1856年)2月相模出衛を命ぜられ、同4年(1857年)4月帰国、明倫館都講役兼助講となる。この頃から松陰の教育事業は盛んになり、翌5年(1858年)11月の松下村塾閉鎖まで、初めはその計画に参与し、また時々訪問し間接の援助を与え、塾生とも相知ることとなる。松陰の激論を受け止め、相敬愛するところは、2人の交わりの特色である。松陰の投獄後には塾生指導の任に当たるも、国事に忙しくなり塾の世話ができなくなったが、明治以後に杉民治と共に一門の中心となって、松陰の顕彰に尽力した。
万延元年(1860年)山口講習堂及び三田尻越氏塾で教え、文久元年(1861年)以後はもっぱら藩主に従って江戸・京都・防長の間を東奔西走する。元治元年(1864年)12月、藩の恭順派のために野山獄に投ぜられ、翌慶応元年(1865年)出獄する。5月には藩命により、当時太宰府滞在中の五卿(七卿落ちの7人から錦小路頼徳と澤宣嘉を除いた5人)を訪ねる。四境戦争の時は、広島へ出張の幕軍総督への正使宍戸璣(山縣半蔵)の副使となる。慶応3年(1867年)冬、長州藩兵上京の命を受け、諸隊参謀として出征する。公卿諸藩の間を周旋し、鳥羽・伏見の戦いにおいて、江戸幕府の死命を制するに至った。
維新後、いったん帰国して長州藩に出仕していたが職を辞し、一時期三隅(現在の長門市西部)に住んでいた。明治5年(1872年)に足柄県参事となり、明治7年(1874年)に熊谷県権令、明治9年(1876年)の熊谷県改変に伴って新設された群馬県の県令となった。楫取の在任中に群馬県庁移転問題で前橋が正式な県庁所在地と決定し、楫取は高崎の住民から反感を買っている。また「明治の三老農」の一人船津伝次平に駒場農学校へ奉職するよう勧めている。
明治17年(1884年)、元老院議官に転任する。その後、高等法院陪席裁判官・貴族院議員・宮中顧問官などを歴任し、また貞宮多喜子内親王御養育主任を命ぜられたこともあった。明治20年(1887年)男爵を授けられる。明治23年(1890年)7月10日、貴族院男爵議員に就任し、1911年(明治44年)7月9日まで3期在任[3]。1890年10月20日、錦鶏間祗候となる[4]。大正元年(1912年)8月14日、山口県の三田尻(現・防府市)で死去。84歳歿。没後に正二位に追叙され、勲一等瑞宝章を追贈された[5]。
台湾で横死した次男・道明の遺児である三郎が男爵位を継いだ。
栄典
叙位
・明治5年11月12日 - 従六位[6]
・1874年(明治7年)11月5日 - 正六位[6]
・1876年(明治9年)5月24日 - 従五位[7]
・1883年(明治16年)7月16日 - 正五位[6][8]
・1884年(明治17年)8月30日 - 従四位[6][9]
・1886年(明治19年)10月20日 - 従三位[6][10]
・1894年(明治27年)5月21日 - 正三位[6][11]
・1905年(明治38年)5月30日 - 従二位[6][12]
・1912年(大正元年)8月5日 - 正二位[6][13]
勲章等
・1882年(明治15年)12月7日 - 勲四等旭日小綬章[6]
・1885年(明治18年)4月7日 - 勲三等旭日中綬章[6][14]
・1887年(明治20年)5月24日 - 男爵[6][15]
・1889年(明治22年)11月25日 - 大日本帝国憲法発布記念章[6][16]
・1896年(明治29年)3月29日 - 銀杯一組[6]
・1898年(明治31年)1月28日 - 御紋付御杯[6]
・1901年(明治34年)6月27日 - 勲二等瑞宝章[6][17]
・1906年(明治39年)4月1日 - 旭日重光章[6][18]
・1912年(大正元年)8月5日 - 勲一等瑞宝章[6][13]
顕彰
・2012年(平成24年)8月14日 - 初代群馬県令没後100年記念顕彰碑「足跡」(前橋市前橋公園)
・2016年(平成28年)8月21日 - 功績顕彰銅像(楫取素彦、妻寿子、新井領一郎、星野長太郎)建立(前橋市前橋公園)
詳しいことは「楫取素彦ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%AB%E5%8F%96%E7%B4%A0%E5%BD%A6
(wikiより)

楫取素彦







7950 作江伊之助墓(東山区五条橋東6-514・大谷本廟)
来歴・人物
家族は父・音次郎と、兄が大工をしながら生計をたてていた。運送業に従事していたが、間もなく徴兵され、久留米独立工兵第十八大隊に配属される。1932年(昭和7年)1月18日、第1次上海事変が勃発。2月2日、独立工兵第十八大隊は上海派遣混成第二十四旅団(下元熊弥少将)の工兵部隊に抽出され、5日、佐世保港を出発。7日上海に上陸、ただちに第九師団植田謙吉中将の隷下となった。以降進撃を続け、20日午後、旅団は国府軍との戦闘の最前線である廟行鎮に到着した。21日午前8時30分、植田中将は下元少将をして翌22日午前5時30分を期し廟行鎮を制圧せよとの命令を下した。だが、十九路軍はそこに幅4.5m、深さ2mの外壕と深さ4mの鉄条網を作り、その後方14.5mには左右から日本軍に十字砲火を浴びせかけるために側壕を設け、そこに六基の重機関銃を据え付けていた。歩兵の銃剣突撃ならば歯がたたない。
そこで下元少将は工兵第二中隊に対し、歩兵碇大隊を援護し鉄条網の破壊を命じた。中隊長の松下環大尉(陸士32期)は、竹と藁の筒に爆弾を詰め込んだ即席の破壊筒を作成し、第一破壊隊、第二破壊隊の二小隊からなる総勢36名の攻撃隊を編成。第二破壊隊小隊長・東島時松少尉(少候10期)はさらに2分隊に分け、第一班は三組、予備の第二班は二組に分けた。そこで破壊筒を5本用意し、麦家宅の家陰内にてシミュレーションを行わせた。午後6時、金馮宅西端にて休憩。
翌午前3時、小隊は歩兵第三中隊と合流し、敵前50メートルの地点に陣地を構築した。第一班班長馬田豊喜軍曹は携行している発煙筒を以て敵の視界を遮り、その間に第一斑を突撃させた。だが、鉄条網まであと14.5mというところで運悪く、南からの風で煙幕が晴れた。敵はすかさず機関銃を浴びせ、馬田班長と破壊隊第二組の小佐々吉郎一等兵を除く全員が戦死した。
第二班班長の内田徳次伍長は二組の破壊隊に突撃を命じた。作江は第一組の最後列となり、江下武二、北川丞とともに敵陣へと突撃した。その途中、先頭の北川が撃たれ負傷。諦めて引き返そうとしたが、それを見た内田伍長に怒鳴りつけられたためそのまま突撃。鉄条網の下に飛び込み破壊筒をその下に差し込んだが、脱出する暇もなく破壊筒は爆発。江下、北川は即死。作江は爆風で左脚を吹き飛ばされ、駆け寄った内田伍長にしばらくうわごとを呟いていたが、間もなく死亡した。続いて第二組も成功、怯んだすきに馬田軍曹が戦死した兵士から抜き取った手榴弾を機関銃座に向かって投擲し、そのまま突撃。こうして3条の突撃路が開かれ、間もなく歩兵もなだれ込み、敵陣は陥落した。
参考文献
・『満州事変忠勇美譚』教育総監部編、1933年8月15日。川流堂。
史跡
・『忠烈作江伊之助君の碑』(昭和10年5月7日建立・陸軍大将植田謹書)
・大谷本廟
関連項目
・爆弾三勇士
(wikiより)
作江伊之助
7949 北川丞墓(東山区五条橋東6-514・大谷本廟)
北川 丞(きたがわ すすむ、1910年(明治43年)3月8日 - 1932年(昭和7年)2月22日)は、大日本帝国陸軍の軍人。最終階級は工兵伍長。長崎県北松浦郡佐々村(現・佐々町)出身。
いわゆる爆弾三勇士の一人。
生涯
佐々村大字市瀬江里免(現・佐々町江里免)の農家、北川権作の次男として生まれる。北川家の先祖は平戸藩に仕えた武士で[1]、権作は日清戦争、日露戦争に従軍するも自身が戦果を上げられなかったことを悔やみ、丞を立派な軍人にしようと考えていたが、丞が8歳の時に肺炎で亡くなってしまった[2]。
1924年に佐々尋常高等小学校を卒業後、補習学校後期に入学するも1年で中退し兄とともに母を助け農業に従事、1926年には実業補習学校に進むが、この時もやむなく退学している[3]。丞は次男だったため、将来を考えて林業の道を進むこととなり、18歳の時に相浦町で住み込みで働いていたが、20歳の時の壮丁検査で甲種合格を果たし[4]、1931年に久留米工兵第18大隊に入営する[5]。
1932年2月6日、一等兵として神通に乗船し第一次上海事変に出征[6]。2月22日、上海の廟行鎮に張られた鉄条網を破壊しようと丞を先頭に江下武二、作江伊之助とともに破壊筒を抱え突進、爆死した[7]。
平和之礎
故郷の佐々町にある三柱神社に「平和之礎」と台座に記された丞の銅像がある[8]。戦前は別の銅像が立っていたが、金属類回収令により供出されてしまい、現存の銅像は東京都港区の青松寺にあった三勇士の銅像の丞の部分のみを切り離して移築したものである[9]。また生家に隣接して「肉弾三勇士北川伍長記念館」がある[10]。
脚注
1. 小笠原、164頁。
2. 「肉弾三勇士の生立 北川丞君」『爆弾三勇士』護国業書、軍事教育刊行会、48-49頁。
3. 小笠原、168-169頁。
4. 小笠原、173頁。
5. 小笠原、175頁。
6. 小笠原、181頁。
7. 小笠原、44-45頁。
8. 肉弾三勇士 佐々町観光サイト、2018年6月27日更新。
9. 肉弾三勇士 青松寺(2007年11月30日時点のアーカイブ)
10. 『平戸・田平・生月れきし発見』 NPO法人長崎人権研究所、2013年3月1日発行、15頁。
参考資料
・小笠原長生著『忠烈爆弾三勇士』実業之日本社、1932年4月12日発行
・護国業書『爆弾三勇士』軍事教育刊行会、1932年4月10日発行
7948 江下武二墓(東山区五条橋東6-514・大谷本廟)
経歴
神埼郡蓮池村に生まれるも、親の事業の失敗から炭鉱を転々とし、少年期から杵島炭鉱で働く。父も兄二人も久留米歩兵連隊に入営した軍人一家で、武二は海軍志望だったが1931年(昭和6年)、父兄と同様に久留米工兵第18連隊に入営[1]。翌年混成旅団工兵中隊に編入され、陸軍一等兵として第一次上海事変に出征。同事変の「廟行鎮の戦い」に於いて北川丞、作江伊之助とともに中国軍陣地の鉄条網を自らの体ごと破壊筒を以て爆破・排除したいわゆる爆弾三勇士の一人。死後一等兵より二階級特進し伍長に進んだ。爆死については決死の突撃、事故、上官の命令など諸説あるが、陸軍が愛国美談に仕立てさらに新聞が大きく報道したため芝居や映画となるなど大きなブームとなった。
死後、県民の寄付により蓮池公園に銅像が建てられたが、第二次世界大戦の戦局悪化に伴う金属提供により供出された。ただし原型の石膏像が残っており寄贈を受けた陸上自衛隊目達原駐屯地が広報資料館で展示している[2]。また、公園に残された台座は8代目蓮池藩主である鍋島直與(雲叟)の歌碑に転用された。
地元以外では貴族院議員・金杉英五郎が委員長となった「肉弾三勇士銅像建設会」によって東京都港区青松寺に三人が破壊筒を抱えて突撃する様子の銅像が設置された。しかし戦後撤去され、後に江下の部分のみが新たな台座とともに安置されている[3]。ほか、山川招魂社に「爆弾三勇士」の碑、陸上自衛隊久留米駐屯地に肉弾三勇士のジオラマ、東京靖国神社にレリーフなどがある。
関連項目
・生方一平 - 新興キネマ製作 映画『肉弾三勇士』で江下を演じる
・佐分利信 - 日活製作 映画『誉れもたかし 爆弾三勇士』で江下を演じる
・爆弾三勇士の歌 - 与謝野鉄幹作詞、辻順治作曲。(ポリドール・レコード)
脚注
1. 「肉弾三勇士の生立 江下武二君」『爆弾三勇士』護国業書、軍事教育刊行会、44-46頁。
2. 「肉弾三勇士」江下伍長の像、16年ぶり展示 佐賀新聞 - 2010年08月10日
3. 【軍事のツボ】戦後70年と軍神の今 なぜ日本人はこれほど時代に流されたのかサンスポ - 2015年3月12日
参考資料
・護国業書『爆弾三勇士』軍事教育刊行会、1932年4月10日発行
(wikiより)
江下武二
7936 新井章吾墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)
生年月日 | 1856年3月28日 (安政3年2月22日) |
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出生地 | 下野国都賀郡吹上村 (現・栃木県栃木市吹上町) |
没年月日 | 1906年10月16日(50歳没) |
死没地 | 東京府東京市本郷区 |
出身校 | 日就館(吹上藩藩校) 育英館 |
所属政党 | 自由党[1][2][3]→ 自由倶楽部[4]→ 自由党[3]→ 東洋自由党[1][2]→ 大日本協会派[1]→ 同志倶楽部[5]→ 憲政党[1][2][3]→ 立憲政友会[1][2][3][6] |
選挙区 | 栃木県第2区、栃木県郡部 |
当選回数 | 7回[2][3][6] |
在任期間 | 1890年7月1日 - 1902年8月9日 1904年3月1日 - 1906年10月16日 |
選挙区 | 下都賀郡選挙区 |
当選回数 | 2回 |
在任期間 | 1882年7月 - 1884年5月 1889年3月 - 1889年7月[7] |
新井 章吾(あらい しょうご、安政3年2月22日(1856年3月28日)- 明治39年(1906年)10月16日[3])は、明治前期の政治家。衆議院議員として通算7期[2][3][6]。位階および勲等は従四位・勲四等。
自由党幹部として活躍した。
経歴
下野国都賀郡吹上村(現在の栃木県栃木市吹上町)の豪農の家に生まれる[1][2][3]。吹上藩[8]の藩校日就館で学んだ後、壬生の育英舎で英学を学んだ[1][3]。明治10年(1877年)、吹上村の戸長になる[1][3]。
明治13年(1880年)以後、自由民権運動に参加して自由党に加入[9]、郷里を中心に運動の興隆に努め、明治15年(1882年)に栃木県会議員となる[1][3][6]。翌年、官吏侮辱罪・集会条例違反で5か月間収監され、更に大阪事件に関与して朝鮮渡航部隊の責任者となったことから捕らえられて重懲役9年の判決を受ける[1][2][3][6]。
明治22年(1889年)の大赦後に県会議員に復帰し[1][2][3][6]、第1回衆議院議員総選挙では栃木県第2区から初当選を果たし、以後6期連続当選する[1]。だが、星亨との確執を機に「関東自由党」の分離や高島鞆之助と結んで薩摩閥との連携を模索するが上手くいかず、明治25年(1892年)5月に自由党を脱党し[1][3]、12月に同じく脱党した大井憲太郎とともに東洋自由党を結成した[1]。その後、硬六派系の諸会派を転々とする[1]。
この間、明治29年(1896年)に拓殖務大臣であった高島の要請で衆議院議員の身分のまま拓殖務省北部局長に就任するが[2][6]、直後に同省の廃止が決定されて辞任した[1]。明治31年(1898年)に自由党の後身である憲政党に復帰してその後立憲政友会に合流するが[1][2][3]、第7回衆議院議員総選挙で落選する。明治37年(1904年)の第9回衆議院議員総選挙で7回目の当選を果たして国政に復帰する[1]。その後、宇治川水力電気会社の創設に尽力するが[2][3]、設立直前の明治39年(1906年)に東京において51歳で急死した[1]。墓所は青山霊園1-イ22-1と、郷里である吹上町の専福寺だが、2022年現在吹上の方の墓所は無縁墳墓となっている[10]。
親族
・室 新井タネ 昭和29年4月15日歿
・子 新井胖:朝鮮総督府判事 1938年12月31日歿
・子の妻 新井静 昭和55年11月10日歿
脚注
1. a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 国史大辞典 1979
2. a b c d e f g h i j k l 日本歴史大事典 2000
3. a b c d e f g h i j k l m n o p 日本史大事典 1992
4. “栃木2区選挙結果 第1回衆議院議員選挙 栃木県小選挙区”. 選挙ドットコム. 選挙ドットコム株式会社. 2018年6月6日閲覧。
5. “栃木2区選挙結果 第5回衆議院議員選挙 栃木県小選挙区”. 選挙ドットコム. 選挙ドットコム株式会社. 2018年5月27日閲覧。
6. a b c d e f g 政治家人名事典 2003
7. 栃木県会 編 『栃木県会沿革誌. 自明治12年度至明治29年度』栃木県、1898年11月27日。全国書誌番号:40021100。

8. 新井の生まれる直前、吹上村に陣屋が設置されて吹上藩が成立していた。
9. 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 57頁。
10. 官報無縁墳墓
参考文献
・鳥海靖 著「新井章吾」、国史大辞典編集委員会 編 『国史大辞典 1』吉川弘文館、1979年3月1日、325頁。ISBN 978-4-642-00501-2。
・小山博也 著「新井章吾」、青木和夫ほか 編 『日本史大事典 1』平凡社、1992年11月18日、252頁。ISBN 978-4-582-13101-7。
・松尾章一「新井章吾」 『日本歴史大事典 1』小学館、2000年7月10日、103頁。ISBN 978-4-095-23001-6。
・「新井章吾」 『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』日外アソシエーツ、2003年10月27日、26頁。ISBN 978-4-8169-1805-6。
(wikiより)

⇧ 新井章吾




7935 大久保端造墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)
大久保 端造(おおくぼ たんぞう、1854年(安政元年5月10日[1][2]) - 1916年(大正5年)6月25日[2])は、日本の弁護士・政治家。衆議院議員(1期)。
経歴
常陸国新治郡(のち茨城県新治郡安飾村→出島村→霞ヶ浦町、現・かすみがうら市)生まれ[1]。法律学を学ぶ。戸長を経て、代言人となり、弁護士の業務に従事する[2]。東京弁護士会副会長、東京市京橋区会議員を務めた[2]。
1890年の第1回衆議院議員総選挙において茨城5区から自由党所属で立候補するが5票差で落選した[3]。1892年の第2回衆議院議員総選挙では自由党から立候補したが次点で落選した[4]。1894年3月の第3回衆議院議員総選挙では自由党から立候補して当選した[5]。同年9月の第4回衆議院議員総選挙で落選[6]。1898年3月の第5回衆議院議員総選挙では新自由党から立候補して落選した[7]。衆議院議員は1期務めた。大正5年6月25日卒去。墓所は青山霊園1-イ-22。
脚注
1. a b 衆議院 編 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第202回』衆議院事務局、1940年、92頁。NDLJP:1278238。
2. a b c d 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』124頁。
3. 『衆議院名鑑 第1回・1890年~第34回・1976年総選挙』1頁。
4. 『衆議院名鑑 第1回・1890年~第34回・1976年総選挙』7頁。
5. 『衆議院名鑑 第1回・1890年~第34回・1976年総選挙』13頁。
6. 『衆議院名鑑 第1回・1890年~第34回・1976年総選挙』19頁。
7. 『衆議院名鑑 第1回・1890年~第34回・1976年総選挙』25頁。
参考文献
・総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』衆議院事務局、1940年。
・日本国政調査会編『衆議院名鑑 第1回・1890年~第34回・1976年総選挙』国政出版室、1977年。
・衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
(wikiより)
7891 赤尾敏墓( 某 )
赤尾 敏(あかお びん、1899年〈明治32年〉1月15日 - 1990年〈平成2年〉2月6日)は、日本の政治家、右翼活動家、衆議院議員、大日本愛国党初代総裁。
当初は社会主義者であったが、1926年(昭和元年)に「天皇制社会主義」を理想として民族主義者へ転向。1942年(昭和17年)には衆議院議員に当選した。1945年(昭和20年)の敗戦後、政治活動と講演活動を行い、1951年(昭和26年)親米反共を訴える大日本愛国党を創党した。特に銀座数寄屋橋などでの辻説法による過激な街頭演説で有名であった。
生涯
生涯前半
赤尾敏は1899年(明治32年)1月15日、愛知県名古屋市の金物商の息子として生まれた。彼の父親は家業である織物業を継がず、中小企業者になって金物・木炭販売、漁業、牧場などを手広く経営しており、自由主義者の知識人であった。
高等小学校に入学した時に、ある教師から「太閤秀吉はぞうり取りから天下を取った」と言われ、「俺だって勉強すれば総理大臣になれる」との夢を抱いたという。その時から彼は総理大臣を将来の希望とした。
社会主義者からの転向
旧制愛知第三中学(現在の愛知県立津島高等学校)に進学後、結核を患う。一時、彼は療養のため親元を離れ三宅島に移る。そこで小説家・武者小路実篤が唱えていた新しき村運動(原始共産制の実現を目指した社会運動)の実践を志し、実業家であった父から三宅島の牧場の経営を委ねられたという。貧困の中にあった島の孤児らを引き取って共同農場を運営した。農場では階級の別なく平等に作物が分配されるなどユートピア的な制度が用いられ、「新しき村」運動に賛意を示していた小説家・幸田露伴は赤尾の理想に共感して彼と面談している。またこの時に三宅村神着地区の旧名主浅沼家とも知り合い、後に日本社会党委員長となる浅沼稲次郎や大日本愛国党参与となる浅沼美智雄(稲次郎とは遠縁になる)らとの交流が始まった。赤尾は仲間らと共に理想社会を建設する事を夢見たが、農場は島の有力者らに騙し取られる。
苦い経験をしつつも東京の堺利彦、山川均、大杉栄、高畠素之のもとで社会主義を学び、堺や後の日本共産党書記長徳田球一らの支援を受け、名古屋で東海農民組合連合会や借家人同盟をつくり、左翼運動を行う。軍事教練の最中に天皇制への批判演説を行い身柄を拘束されたほか、地元財界の有力者に活動資金のカンパを要求したことが恐喝未遂とされて逮捕された。その際、それまで同志だと思っていた「愛知通信」の記者から手のひらを返した様に批判されたことで、左翼運動に深く失望した赤尾は獄中で転向を決断する。
衆議院議員当選
赤尾は獄中で仏教、儒教、キリスト教などの書物を読む。1926年、高畠素之の一派と交流を深め、メーデーに対抗するために「建国祭」を企画。「建国祭」は荒木貞夫や平沼騏一郎らの賛同を受け、全国で12万人を集め成功に終わる。赤尾は建国祭の常設機関として建国会を結成、会長に上杉慎吉、建国祭準備委員に高畠素之、書記長に高畠門下の津久井龍雄、顧問に頭山満と平沼騏一郎を迎え、永田秀次郎の援助も受け、理事長に就任する。会の具体的な行動の一つとしては、1933年ごろに紀元節にちなんで新しい節句「梅の節句」を考案、神武天皇を最上段に祭った人形まで作られたが、広まらなかった[2]。
大東亜戦争に関しては、赤尾は「アメリカと戦争するのは共産主義ソ連の策略に乗るだけである」として対米戦争に激しく反対した。このため右翼でありながら、戦時下の政府の国策に敵対する反体制派であった。
1942年の翼賛選挙では東京6区から出馬し、大政翼賛会の推薦を受けない「非推薦候補」ながら当選を果たす。鳩山一郎、斎藤隆夫、中野正剛、笹川良一など他の非推薦議員と同様に翼賛政治会(翼政)に加入はしたが、1943年の第81通常議会では戦時刑事特別法改正案に抗議し委員を辞職(3月8日)。また続く第82臨時議会では施政方針演説に臨もうとした東條英機首相に対し妨害行為を行い、議場退場処分(同年6月16日)を受け、翼政を除名される。議会からも譴責の懲罰を下されるなど、右翼ながら筋を通した反体制派議員としての行動が目立った。なお、戦後国会内でのビラ撒きにより元国会議員待遇を剥奪されている(当選無効ではないので、国会議員であった事実が取り消されたわけではない。選挙報道などでは、その後も「元議員」として扱われている)。1945年8月敗戦後、全土を巡って右翼活動と啓発講演活動を通い、敗戦を克服して再び立ち上がることを主張した。以降、連日東京・数寄屋橋で辻説法を行なった。
戦後
右翼政治運動
第二次世界大戦後にGHQによって公職追放され、追放解除後の1951年、大日本愛国党を結成し、総裁に就任。1952年の総選挙に出馬するが落選。以後、親米反共の立場からの右翼活動に関わる一方で、各種選挙に立候補し、参議院全国区では最高で122532票(第6回参院選)を獲得した。もっとも、選挙のたびに立候補したのは、選挙期間中も街頭での辻説法を行うことが主な理由だったという。参議院不要論を唱え、参院選のたびに自分へも投票せず棄権するよう訴え続けた。
配下の党員であった山口二矢(事件当時は離党)が起こした浅沼稲次郎暗殺事件では取調べを受け、嶋中事件では殺人教唆で逮捕されている(証拠不十分で釈放)。沢木耕太郎『テロルの決算』によると、山口は浅沼の「アメリカ帝国主義は日中両国人民の共同の敵」発言に殺意を抱いたという(このことは本人の「斬奸状」にも触れられている)。また、赤尾が個人的に交流のあった浅沼を「善人だから始末に悪い」と評したこともきっかけとなったのではないかとする。事件後赤尾は浅沼の妻享子や三木睦子と電話で連絡を取り合ったというエピソードもある。1961年2月の嶋中事件に関連、警視庁は愛国党の総裁の赤尾敏が背後にあると考え、同年2月21日、赤尾を殺人教唆、殺人未遂の教唆などで逮捕したが、4月17日、赤尾は証拠不十分で不起訴になった。
また、アメリカンアセンブリーと国際親善日本委員会が主催していた第二回下田会議の初日、長髪をなびかせ数人を引き連れてロビーに押し込もうとしたことがある。日の丸の旗を振りながらホテルに上がってきた赤尾は「共産主義の脅威と戦うために再軍備すべきだ」と主張したが、駆け付けた警察に逮捕された。
銀座数寄屋橋での辻説法は当地の名物であった。街宣車を導入した右翼のはしりとも言われる。
浅沼稲次郎暗殺事件と嶋中事件
1960年1月、警視庁によって赤尾の家から左派性向文化人とジャーナリスト、学者へのいやがらせに使われた「かぎ十字ポスター」が押収された。浅沼委員長刺殺事件当日、その党員十数人は日比谷公会堂の前から3、4番目の席に陣取った。入場券は確保していなかったが、会場前のダフ屋から購入した。山口が浅沼委員長を襲った直後、出血が少ないことに気づいた赤尾は、隣の人間に「坊や(山口)、やりそこなったかな」と話しかけたという。またニュース映画「毎日ニュース」には、「坊やがよくやったもんだ、偉いもんだ」という発言や、当時の日教組委員長殺害を企て上京した少女を歓迎する様子が残っている。
10月29日、赤尾は威力業務妨害容疑で逮捕された。11月には大日本愛国党が破防法の調査対象団体に指定される。愛国党員だった山口二矢が起こした浅沼稲次郎暗殺事件では、取調べを受けた。赤尾は、個人的に交流のあった浅沼を評して「善人だから始末に悪い」と語っていた。山口の自殺の2日後、赤尾総裁は「直接の関係はなし」とされ釈放された。ただ嶋中事件が起こった後、初めて会場のビラ撒きと浅沼委員長の演説妨害について起訴された。しかしやはり嫌疑不十分で釈放された。
晩年
街宣車には日の丸や旭日旗とともに星条旗とユニオンジャックを掲げ、「ソ連・中共を叩くために日本はアメリカ・イギリスと組むべき」として徹底して親米・親英をアピールし続けた。日米安保に肯定的であった。昭和天皇の戦争責任を認めるような発言をしたこともあるが、1989年の参院選政見放送では土井たか子が天皇に戦争責任があると発言したことに対し批判をしている。韓国にも反共主義のために好意的であり、「北朝鮮打倒のために日韓は協力すべき」と述べていた。
昭和天皇の大喪の礼に続く、1989年の第15回参議院議員通常選挙に東京都選挙区から満90歳で出馬、政見放送では意気軒昂に演説した。国政選挙の高齢立候補者としては、94歳で立候補した1953年の第26回衆議院議員総選挙での尾崎行雄、2012年の第46回衆議院議員総選挙での川島良吉に次ぐ第3位の高齢である。
著書は『日本の外交を何とするか 』『滅共反ソか反英米か』ほか。1990年2月6日午前9時26分、東京都立大塚病院で心不全のため死去。満91歳没。
死後
赤尾は、多くの講演活動やスピーチを介して多くの青年たちに影響を与え、赤尾の死後もその影響を受けた多くの青年右翼たちが養成された。
略歴
・1899年 - 愛知県名古屋市東区生まれ。
・建国会理事長
・1942年 - 第21回衆議院議員総選挙で東京6区から出馬し当選。
・終戦後、公職追放を受ける。
選挙歴
※1942年以外は全て落選
・1942年 第21回衆議院議員総選挙(東京府第6区)
・1952年 第24回衆議院補欠選挙(東京都第6区)
・1952年 第25回衆議院議員総選挙(東京都第6区)
・1953年 第26回衆議院議員総選挙(東京都第6区)
・1955年 第27回衆議院議員総選挙(東京都第6区)
・1956年 第4回参議院議員通常選挙(東京都選挙区)
・1958年 第28回衆議院議員総選挙(東京都第6区)
・1959年 東京都知事選挙
・1959年 第5回参議院議員通常選挙(東京都選挙区)
・1960年 第29回衆議院議員総選挙(東京都第6区)
・1963年 東京都知事選挙
・1967年 第31回衆議院議員総選挙(東京都第6区)
・1967年 東京都知事選挙
・1968年 第8回参議院議員通常選挙(東京都選挙区)
・1969年 第32回衆議院議員総選挙(東京都第6区)
・1971年 東京都知事選挙
・1971年 第9回参議院議員通常選挙(東京都選挙区)
・1974年 第10回参議院議員通常選挙(東京都選挙区)
・1975年 東京都知事選挙
・1979年 東京都知事選挙
・1980年 第12回参議院議員通常選挙(東京都選挙区)
・1983年 東京都知事選挙
・1983年 第13回参議院議員通常選挙(東京都選挙区)
・1983年 第37回衆議院議員総選挙(東京都第1区)
・1986年 第14回参議院議員通常選挙(東京都選挙区)
・1987年 東京都知事選挙
・1989年 第15回参議院議員通常選挙(東京都選挙区)
家族・親族
・祖父 赤尾志津摩
・弟 赤尾四郎(アカオアルミ創業者)
・妻 赤尾富美江、1913年-2006年(平成18年)7月14日
・子 赤尾太郞、1940年(昭和15年)-1942年(昭和17年)10月25日
・子 赤尾道彦
・姪 赤尾由美[3]
人物
・困窮の中でも参議院選挙への立候補・落選を繰り返した。第二次世界大戦前の左翼活動の中で感じた憤りから徹底して世の中の矛盾を糾弾し、名古屋弁での狂信的とも見える演説は市井では一定の支持者を得た。
・前述のように、三宅島に転地療養した関係もあって、三宅島出身の浅沼とは一時期深い親交をもっていたが、後年の浅沼事件によって三宅島の人々全体に恨まれることになってしまい、赤尾はそのことを非常に残念がっていたという。
・晩年までライフワークとした辻説法の場所に数寄屋橋を選んだのは、当時有楽町にあった朝日新聞東京本社の近くであり、同社批判も目的のひとつにあったことを筑紫哲也が証言している。赤尾の死去当日、元同社記者であった筑紫は自身の番組で訃報を伝えた際に、「テロリストを生んだ当時(浅沼事件)のことに親近感を感じる理由はないのだが、毎日のように『馬鹿野郎』と言われた身としては、愛嬌のある人柄に懐かしさも感じる」と回想していた[4]。なお同社は1980年に築地へ東京本社を移転したが、赤尾はその後も亡くなる直前まで数寄屋橋での辻説法を続けた。後年、姪の由美が第48回衆議院議員総選挙(2017年)に立候補した時は、かつて叔父の赤尾が説法をしていたこの数寄屋橋交差点角にて街頭演説を行っている。
・亡くなる前年のドキュメンタリー番組[5]で「今一番ほしいものは何ですか?」と質問を受けて、「金が欲しい。金がなけりゃ何にもできないもの。僕はね、若い頃から空想家で金のことを考えないでやってきたんだよね。90歳の今頃になって金の大事なことがわかったって、もう遅いよ(笑)何十年来の知り合いの笹川良一なんて、何千億の金もってやっているだろ。僕は何にもないんだよ。唯物論じゃないが、物は大事だよ。たとえば空気だって人間は30分吸わないと死んじまうだろ。空気があれば、人間、霊魂があるかないか意識を失っていても生きていくことができる。空気だって物だろ。だから物は大事なんだよ。物の現実的代表は金だよね。僕には何にも財産がない。ステッキ一本が財産なんだよ」と発言している。
・1965年1月31日、長崎県の佐世保港へ空母エンタープライズが入港した時に抗議の演説をすべく佐世保市へ出かけたところ、市内でバイクをわき見運転をしていた16歳の少年にはねられるという事故に遭った。しかし赤尾はその少年が仕事でバイクに乗っていた事を知ると「16年の若さで仕事をしているとは感心だ」として訴える事はしなかった。
・成田空港予定地の代執行に際して、赤尾は現地に乗り付けて三里塚闘争を行っていた反対派農民らへの批判演説を行った。このとき、三里塚芝山連合空港反対同盟が建てた農民放送塔に黒枠で縁取りされた日章旗があるのを見咎めて赤尾は激怒したが、別の砦に本物の日章旗があるのを見つけると「これはいい!」といったという[6]。
・赤尾は最期まで部屋に明治天皇、釈迦牟尼尊、イエス・キリストの大きな肖像画を飾っていたという。
詳しいことは、『赤尾 敏ウィキペディア』をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E5%B0%BE%E6%95%8F
(wikiより)
⇧ 赤尾 敏
7580 高島秋帆旧宅址(長崎市東小島町)
高島四郎太夫茂敦は秋帆と号し、家は代々町年寄を務めていました。
秋帆は、儒学・書道・絵画などを修め、荻野 ( おぎの ) 流砲術を究めた上に蘭学を加え、西洋砲術を学び、砲術の発達と海防の急務を幕府に進言しました。
天保 12年 ( 1841 ) には、幕府により武蔵国徳丸原 ( とくまるがはら ) で、野戦砲・銃撃の射撃と部隊の様式調練を実演して周囲を驚かせました。
高島家は、大村町 ( 現在の万才町 ) に本宅がありましたが、天保 9年 ( 1838 ) 、市中の大火により類焼したので、ここ小島郷の「雨声楼 ( うせいろう )」とよばれる別邸に移り住みました。
建物は原爆で大破して解体され、現在は、石垣・土塀・井戸・砲痕石 ( ほうこんせき ) などが残っています。
(案内板より)
〇 高島秋帆
高島 秋帆(たかしま しゅうはん)は、江戸時代後期から末期の砲術家。高島流砲術の創始者(流祖)。「火技之中興洋兵之開祖」と号すことを認められた。
生涯
寛政10年(1798年)、長崎町年寄の高島茂起(四郎兵衛)の三男として生まれた。先祖は近江国高島郡出身の武士で、近江源氏佐々木氏の末裔。家紋は「丸に重ね四つ目結」。文化11年(1814年)、父の跡を継ぎ、のち長崎会所調役頭取となった。当時、長崎は日本で唯一の海外と通じた都市であったため、そこで育った秋帆は、日本砲術と西洋砲術の格差を知って愕然とし、出島のオランダ人らを通じてオランダ語や洋式砲術を学び、私費で銃器等を揃え天保5年(1834年)に高島流砲術を完成させた。また、この年に肥前佐賀藩武雄領主・鍋島茂義が入門すると、翌天保6年(1835年)に免許皆伝を与えるとともに、自作第一号の大砲(青銅製モルチール砲)を献上している。
その後、清がアヘン戦争でイギリスに敗れたことを知ると、秋帆は幕府に火砲の近代化を訴える『天保上書』という意見書を提出して天保12年5月9日(1841年6月27日)、武蔵国徳丸ヶ原(現在の東京都板橋区高島平[1])で日本初となる洋式砲術と洋式銃陣の公開演習を行なった。この時の兵装束は筒袖上衣に裁着袴(たっつけばかま)、頭に黒塗円錐形の銃陣笠であり、特に銃陣笠は見分に来ていた幕府役人が「異様之冠物」と称するような斬新なものであった。
この演習の結果、秋帆は幕府からは砲術の専門家として重用され、阿部正弘からは「火技中興洋兵開基」と讃えられた。幕命により江川英龍や下曽根信敦に洋式砲術を伝授し、更にその門人へと高島流砲術は広まった。しかし、翌天保13年(1842年)、長崎会所の長年にわたる杜撰な運営の責任者として長崎奉行・伊沢政義に逮捕・投獄され、高島家は断絶となった。幕府から重用されつつ脇荷貿易によって十万石の大名に匹敵する資金力を持つ秋帆を鳥居耀蔵が妬み「密貿易をしている」という讒訴をしたためというのが通説だが、秋帆の逮捕・長崎会所の粛清は会所経理の乱脈が銅座の精銅生産を阻害することを恐れた老中水野忠邦によって行われたものとする説もある[2]。武蔵国岡部藩にて幽閉されたが、洋式兵学の必要を感じた諸藩は秘密裏に秋帆に接触し教わっていた。
嘉永6年(1853年)、ペリー来航による社会情勢の変化により赦免されて出獄。幽閉中に鎖国・海防政策の誤りに気付き、開国・交易説に転じており、開国・通商をすべきとする『嘉永上書』を幕府に提出。攘夷論の少なくない世論もあってその後は幕府の富士見宝蔵番兼講武所支配および師範となり、幕府の砲術訓練の指導に尽力した。元治元年(1864年)に『歩操新式』等の教練書を「秋帆高島敦」名で編纂した(著者名は本間弘武で、秋帆は監修)。慶応2年(1866年)、69歳で死去した。
後世への影響
秋帆が日本語の「号令」を用い、それが明治以降の軍隊や学校に受け継がれたと言う人がいるが、オランダ人は秋帆に「軍事用語は必ずオランダ語を使うこと」を条件に西洋砲術を教授したので(これはオランダが日本への影響力を強めるための施策であったが)、秋帆は日本人の美徳として師の命令を厳守し、門人に対する号令は全てオランダ語で行っていた。
ランドセル(背嚢=ランセル)やハトロン紙(紙包火薬=パトロン)など、オランダ語の軍事用語の中には外来語として一般に普及したものがあるが、他の外来語に較べて数が多いとは言えない。
後に攘夷思想に基づく外国語排除運動によって、幕府や雄藩でオランダ式号令の日本語化が進められるが、オランダ語に親しんだ門弟や将兵には不評で混乱を招いたという。その後門弟達が苦心して日本語化した号令が、形を少しずつ変えながら日本の軍隊や学校の号令として普及した。いくつかの例を揚げると、「進め(マルス)」「止まれ(ハルト)」「気をつけ(ゲーフトアクト)」「前へ習え(ペロトン)」「休め(リユスト)」「頭右(ホーフド・レクツ)」「右向け右(レクツ・オム)」「狙え(セット)」「撃て(ヒュール)」「捧げ筒(プレゼンテールト・ヘットゲール)」等がある。
高島流砲術の門下
・高島門下の三龍[3]
・平山醇左衛門(佐賀藩武雄家)
・池辺啓太(肥後藩)
登場作品
・漫画
・小説
・テレビドラマ
・『天皇の世紀』(朝日放送、1971年)演:中村翫右衛門
脚注
1. 「高島平」という地名は、秋帆によってこの場所で初めて洋式砲術と洋式銃陣の公開演習が行われたことにちなんで名づけられたものである。
2. 山脇悌二郎「天保改革と長崎会所」(『日本歴史』248号、1969年1月)
3. 金子功『反射炉Ⅰ』1995年、法政大学出版局
参考文献
日本語
・本馬貞夫「高島秋帆 高島流砲術の開祖」、『九州の蘭学 越境と交流』、219-225頁。
ヴォルフガング・ミヒェル・鳥井裕美子・川嶌眞人 共編(思文閣出版、京都、2009年)。ISBN 978-4-7842-1410-5
・坂本保富「幕末期日本におけるオランダ語号令の受容とその 日本語化問題」研究報告書 3, 1-39, 2003-09-30 信州大学 教育システム研究開発センター
(wikiより)
⇧ 高島秋帆
7576 アルフレッド・ベリー・グラバー墓(長崎市目覚町24-5・坂本国際墓地)
7569 フランス人兵士墓(長崎市目覚町24-5・坂本国際墓地)
7543 坂本天山墓(長崎市寺町晧臺寺後山墓地)
坂本 天山[1](さかもと てんざん、延享2年5月22日(1745年6月21日) - 享和3年2月29日(1803年4月20日))は、江戸時代の砲術家。信濃国高遠藩士。諱は俊豈(としやす)、通称孫八。遊臥楼と号す。
高遠藩士・坂本運四郎英臣の長男として高遠城下の荒町に生まれる。明和5年(1768年)、大坂の荻野照良に砲術を学び、帰郷して『銃陣詳説』などを著す。同7年(1770年)に藩主内藤頼由の参勤交代に随行して江戸に出府し、荻生徂徠門下の大内熊耳に入門し復古学を修める。のち荻野流を研鑽して「荻野流増補新術」として「周発台」を発明し、自藩の砲術に採用された。天明3年(1783年)から藩の郡代も務め、治山治水に努めたが、反対派のために失脚し、三年間蟄居閉門となった。
のち脱藩して大坂、彦根藩、長州藩、大村藩などで砲術と儒学を教授し、享和2年(1802年)、平戸藩主松浦清から招待され藩士の教育にあたった。同3年(1803年)長崎で病没。『紀南遊嚢』などの漢詩集を残した。
1915年(大正4年)に従五位を遺贈された[2]。孫娘の桂が島崎重韶(島崎藤村の祖父)の後妻となった[3]。
註
1. 「阪本」表記も
2. 『贈位諸賢伝 増補版 上』 特旨贈位年表 p.38
3. 「人づくり風土記 長野」1988年 組本社
参考文献
・『坂本天山先生遺墨集』(信濃偉人遺墨顕彰会、1933年)
・『三百藩家臣人名事典 3』(新人物往来社、1988年)
7530 近藤長次郎墓(長崎市寺町晧臺寺後山墓地)
生涯
高知城下の饅頭商人の息子として生まれ、長次郎自身も饅頭を売り歩いていたため、はじめは苗字がなく饅頭屋長次郎と呼ばれた。幼少期から聡明で土佐では河田小龍の塾に入門し、その後岩崎弥太郎に師事。安政6年(1859年)、藩の重役由比猪内の従僕として江戸に留学し、儒学を安積艮斎、洋学を手塚玄海、砲術を高島秋帆に学んだ。文久2年、勝海舟に入門した。その才能を山内容堂にも認められて文久3年(1863年)に名字帯刀を許され、同年6月、神戸の勝私塾に入門して航海術を学んだ。元治元年(1864年)5月、神戸海軍操練所が開設され、「勝阿波守家来」として聴講生のような形で入所した。その後、勝が失脚したため、行き場を失い脱藩した[1]。
勝は薩摩藩に援助を要請し、薩摩藩も軍艦の乗組員が不足していたので、近藤らは薩摩藩に取り込まれることになり、元治2年2月、鹿児島に向かい、小松帯刀の下で艦船の運用に従事したりする、土佐藩を中心とする脱藩浪士の集団となり、社中と自称した。この段階では坂本龍馬とは一切関係がない。慶応元年(1865年)7月21日、小松帯刀と井上馨、伊藤博文との歴史的会談によって、薩摩藩の名義貸しによる長州藩の武器購入が決定したが、井上が小松に同道して鹿児島に行き、軍艦購入の根回しをした際、そのサポートにあたった。近藤が中心となって武器を長崎から長州藩に運搬した際、長州藩主・毛利敬親に謁見を許され、ユニオン号購入への尽力を依頼された。さらに武器購入と運搬への尽力に謝意を示されて三所物を下賜され、藩主父子から島津久光・茂久父子に対する礼状を託された。近藤は土佐藩浪士ではなく、薩摩藩士と認識されていた[2]。
岩崎弥太郎とは知己で、土佐を立つ際には餞別として刀を貰っている。同じく土佐藩出身である坂本龍馬とは仲が良く、龍馬と共に海援隊の前身である亀山社中を設立した。また龍馬の命令で長州藩に赴き、小銃を売り渡している。このとき、長次郎は長州藩主毛利敬親から謝礼の言葉を直々に受けている。
そして長次郎は汽船・ユニオン号を購入したが、この時に長州藩とユニオン号の引渡し条件をめぐって諍いが起こってしまう。しかし龍馬が仲介したため、長州藩は謝礼金を支払ったといわれている。
その後長次郎は、薩摩藩家老の小松清廉が費用を出し英商人トーマス・ブレーク・グラバーが船の手配をしてイギリスへ留学する予定であったが[3]、亀山社中の社中盟約書に違反したとして仲間たちより追及を受けたのち責任をとって小曽根乾堂邸で切腹した。なお、このとき切腹を命じたのは龍馬自身であったという説が一部にあるが、当時龍馬は薩長同盟締結のため京都に赴いていて長崎には不在であり、長次郎の切腹は、龍馬不在中に社中の隊士が決定したことである可能性が高い。享年29。
龍馬の妻であるお龍は後に回顧録『千里駒後日譚』(せんりのこまごじつのはなし)の中で長次郎の訃報を聞いた龍馬が「己が居ったら殺しはせぬのぢゃった」とその死を悼んでいたという証言を残している。 なお、龍馬本人の手帳には「術数有り余って至誠足らず。上杉氏身を亡ぼす所以なり」(「坂本龍馬手帖摘要」)と批判的に記されているとも言われるが、この「上杉氏」が長次郎のことを指しているという証拠はない。
葬儀は社中の者であげた。墓は皓台寺墓地内の高島秋帆(幕末期砲術家)の墓の裏手(山側)にひっそりと建てられていたが、現在では大浦お慶とともに志士たちを援助した小曾根家の墓地内に移設されている。墓碑には、小曾根邸の離れの屋敷名をとって「梅花書屋氏墓」と記されている。筆跡は龍馬のものとされている。
明治31年(1898年)、正五位を追贈された[4]。
関連作品
テレビドラマ
・天皇の世紀 第二部 第11回「長崎と亀山社中」(1973年、朝日放送テレビ、演:沖田駿一郎)
・幕末青春グラフィティ 坂本竜馬(1982年、日本テレビ、演:室積光)
・龍馬伝(2010年、NHK大河ドラマ、演:大泉洋)
映画
・幕末(1970年、演:中村嘉葎雄)
・幕末青春グラフィティ Ronin 坂本竜馬(1986年、演:倉崎青児)
テレビドラマ
・お〜い!竜馬(1992年 - 1993年、NHK総合テレビ、声:鈴木晶子(幼年期)、三木眞一郎(青年期))
脚注
1. 町田明広『新説 坂本龍馬』集英社2019年
2. 町田明広『新説 坂本龍馬』集英社2019年
3. 『坂本龍馬関連文書 第二』p.328
4. 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.11
参考文献
・吉村淑甫『龍馬の影を生きた男 近藤長次郎』(平成22年、宮帯出版社)
(wikiより)
近藤長次郎
7528 道富丈吉墓(長崎市寺町晧臺寺後山墓地)
7527 薬師寺家墓地(長崎市寺町晧臺寺後山墓地)
7525 高島家墓地(長崎市寺町晧臺寺後山墓地)
7524 後藤家墓地(長崎市寺町晧臺寺後山墓地)
7360 嵯峨公勝墓(文京区湯島4-1-8・麟祥院)
経歴
明治14年(1881年)4月、父より家督を譲られる。明治17年(1884年)7月7日、華族令に基づき伯爵に叙爵した。明治21年(1888年)1月17日、父の実愛の維新の功績により侯爵となる[1]。明治23年(1890年)、貴族院侯爵議員。
ただ終身ながら無報酬の議員職には不満(伯爵までは互選で選ばれる代わりに歳費が支給されたが、侯爵となると自動的に議員に任命される代わりに歳費が支給されなかった)で、明治31年(1900年)には品川弥二郎宛に侯爵への新たな爵禄を求める文書(公爵には爵禄があり、諸侯華族の侯爵はもともと金を持っている。公卿侯爵だけが貧しくて貴族院議員の職務が果たせないという内容[2])を提出したが、反映されなかった。新たな賜金がないと見るや公勝は以後の政治活動をろくに行わなくなった。
昭和10年(1937年)に、貴族院議員在職30年以上で30回以上の議会に出席した議員を永年在職議員として表彰する制度ができたが、公勝は現役議員でありながら対象から外された。議会開設以来70回の議会があったにもかかわらず、出席率が悪かったためである[3]。
孫の浩は普段、実勝の妻の実家に住んでいた。公勝は浩を嫁ぐ直前に呼び寄せ、昭和12年(1937年)4月3日、公勝の杉並大宮邸より出立させた。侯爵としての体面を保つためだったと思われる。
栄典
位階
・1902年(明治35年)6月20日 - 正三位[4]
勲章等
・1884年(明治17年)7月7日 - 伯爵[5]
・1889年(明治22年)11月29日 - 大日本帝国憲法発布記念章[6]
・1906年(明治39年)4月1日 - 勲四等旭日小綬章[7]
・1938年(昭和13年)2月11日 - 金杯一個[10]
脚注
1. 『官報』第1363号、明治21年1月18日。
2. 浅見雅男 『華族誕生 名誉と体面の昭和』 中公文庫 ISBN 978-4122035423、243-245p
3. 浅見、252p
4. 『官報』第5688号「叙任及辞令」1902年6月21日。
5. 『官報』第307号「叙任及辞令」1884年7月8日。
6. 『官報』第1943号「叙任及辞令」1889年12月18日。
7. 『官報』第7272号「叙任及辞令」1907年9月23日。
8. 『官報』第565号「叙任及辞令」1914年6月19日。
9. 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
10. 『官報』号外「叙任及辞令」1938年2月11日。
(wikiより)
嵯峨公勝
7359 角田竹冷墓(文京区湯島4-1-8・麟祥院)
経歴
農業・角田彦右衛門の二男として生まれる[1]。1874年(明治7年)に上京し法律学を修めた[1][2]。1880年(明治13年)、代言人試験に合格した[1]。東京府会議員、同副議長、神田区会議員、同議長、牛込区会議員、東京市会議員、同参事会員、東京市臨時市区改正局長兼水道局長などを歴任[2]。
その他、跡見女学校理事、秀英舎取締役、中央窯業取締役、帝国劇場取締役、東京株式取引所理事などを務めた[2]。
1892年(明治25年)に衆議院議員に当選(計7回当選)。1895年(明治28年)、39歳で尾崎紅葉、巖谷小波、森無黄、大野洒竹らとともに正岡子規と並ぶ新派の秋声会の創設に関わった。1919年、脳溢血のため死去[3]。
句集に『竹冷句鈔』(星野麦人編・大正9年)古俳諧の収集家としても知られ、その蔵書は現在東京大学総合図書館に「竹冷文庫」として蔵されている。
代表句
・草餅や二つ並べて東山
・水はりて春を田に見る日ざし哉
・傘さして小舟出しけり春の海
親族
・子息 俳人・角田竹涼など。
・息女 萬代(第一銀行頭取・石井健吾弟孝の妻)など[4]。
脚注
注釈
1. 角川書店『俳文学大辞典』・三省堂『現代俳句大辞典』では姓を「かくた」が正しいとするが、本人自筆の履歴書等は「つのだ」となっており、衆議院に本人から提出された履歴書にもとづいて編纂された『議会制度百年史 衆議院議員名鑑』415頁でも「つのだ」とフリガナが振ってある。東京大学竹冷文庫では「すみだ」を正としているが根拠は不明である。明治期の新聞等でも「つのだ」とルビが振られている。
出典
1. a b c 『大日本人物誌』つ4頁。
2. a b c 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』415頁。
3. 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』付録「近代有名人の死因一覧」(吉川弘文館、2010年)18頁
4. 石井健吾 (男性)人事興信録第4版 [大正4(1915)年1月](名古屋大学)
参考文献
・衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
・成瀬麟、土屋周太郎編『大日本人物誌 : 一名・現代人名辞書』八紘社、1913年。
外部リンク
・東京大学総合図書館の俳書
(wikiより)
角田竹冷
7340 伊藤博文墓(品川区西大井6丁目10-18・伊藤博文公墓)
伊藤 博文(いとう ひろぶみ、1841年10月16日〈天保12年9月2日〉- 1909年〈明治42年〉10月26日)は、日本の政治家。位階勲等爵位は従一位大勲位公爵。
明治時代に4度にわたって内閣制度発足以降の内閣総理大臣(初代[2]:1885年-1888年、5代:1892年-1896年・7代:1898年、10代:1900年-1901年)を務めたことで知られる。1次内閣時には明治憲法の起草の中心人物となり、2次内閣では日清講和条約の起草にあたった。4次内閣の組閣に際して立憲政友会を結党して初代総裁(在職1900年-1903年)となり、政党政治に道を開いた[3]。他、初代枢密院議長(在職1888年-1889年)、初代貴族院議長(在職1890年-1891年)、初代韓国統監(在職1905年-1909年)、元老などを歴任した[4][3]。
諱は博文(ひろぶみ、「ハクブン」と読むこともある)。幼名は利助(りすけ)、後に吉田松陰から俊英の俊を与えられ、俊輔(しゅんすけ)とし、さらに春輔(しゅんすけ)と改名した。号は春畝(しゅんぽ)で、春畝公と表記されることも多い。また小田原の別邸・滄浪閣を所持していたことから滄浪閣主人(そうろうかくしゅじん)を称して落款としても用いた。
概要
周防国の百姓の子として生まれる。父が長州藩の足軽伊藤家に入ったため、父とともに下級武士の身分を得る。吉田松陰の私塾である松下村塾に学んだ。尊王攘夷運動に参加したが、1863年には藩命により井上馨らとともにイギリスに密航して留学して開国論者となる[5][4]。1864年にロンドンで四国連合艦隊の長州藩攻撃の計画を知り、急遽帰国し、藩主毛利敬親に開国への転換の必要を説いたが、受け容れられなかった。同年幕府による第一次長州征伐に対する藩首脳の対応に憤慨した高杉晋作が起こした功山寺挙兵に参加。この藩内戦の勝利により藩主流派となり、藩政改革に参画するようになり、主に藩の対外交渉の任にあたった[4]。
明治維新後の1868年から政府に出仕し、外国事務掛、参与、外国事務局判事、初代兵庫県知事などを歴任。1869年(明治2年)には陸奥宗光らとともに当面の政治改革の建白書を提出して開明派官僚として頭角を現した。また大蔵少輔兼民部少輔として貨幣制度の改革を担当し、1870年(明治3年)には財政幣制調査のために渡米し、翌年の金本位制の採用と新貨条例の公布を主導した。1871年(明治4年)の岩倉使節団にも参加し、副使として米欧に渡る。この間に大久保利通の信任を得た[4]。
1873年(明治6年)の帰国後には大久保らとともに内政優先の立場から西郷隆盛の征韓論に反対し、同年10月に西郷らが下野すると大久保の片腕として参議兼工部卿に就任した[3]。1878年(明治11年)に大久保が不平士族に暗殺された後、その後を継いで内務卿に就任し、政府の中心人物となった。琉球処分、侍補制度の廃止、教育令の制定などを推進した。1881年(明治14年)に大隈重信からイギリス型議会政治を目指す急進的憲法意見が出されると伊藤が反対し、大隈ら開明派官僚が下野するという明治十四年の政変が発生した[4][3]。1882年(明治15年)にドイツやオーストリアの憲法調査を行い、1884年に宮中に制度取調局を創設してその長官に就任し、立憲体制への移行に伴う諸制度の改革に着手[4]。
1885年に太政官にかえて内閣制度を創設し、内閣発足以後[2]の初代内閣総理大臣に就任した(第1次伊藤内閣)。井上毅や伊東巳代治、金子堅太郎らとともに憲法や皇室典範、貴族院令、衆議院議員選挙法の草案の起草にあたり、1888年に枢密院が創設されるとその議長に就任し、憲法草案の審議にあたった。1889年に日本最初の近代憲法明治憲法を制定。君主大権の強いドイツ型の憲法だったが、伊藤は立憲政治の意義が君権制限と民権保護にあることを強調し、立憲主義的憲法理解を示した[4][3]。
1890年(明治24年)に帝国議会が創設されると初代貴族院議長に就任(最初の議会のみ)。1892年(明治25年)に第2次伊藤内閣を組閣し、衆議院の第一党だった自由党に接近。日清戦争では首相として大本営に列席するとともに日清講和条約に調印した。戦後は自由党と連携して連立政権を組織[3]。1898年(明治31年)に第3次伊藤内閣を組閣したが、自由党や進歩党との連携に失敗し、地租増徴が議会の反発で挫折したことで総辞職。他の元老たちの反対を押し切って大隈重信と板垣退助を後継に推して日本最初の政党内閣(第1次大隈内閣)を成立させた。さらに1900年(明治33年)には立憲政友会を結党して、その初代総裁となり、第4次伊藤内閣を組閣。明治立憲制のもとでの政党政治に道を開いた[3]。しかし1901年(明治34年)に貴族院の反発と財政問題をめぐる閣内不一致で総辞職[4]。
同年に起こった日英同盟論には慎重でロシアとの協商を模索して訪露したが、具体的成果を得られず、結果的に日英同盟が促進された。帰国後は野党の立場を貫こうとする政友会の指導に苦慮し、1903年(明治36年)に総裁を辞し、元老の立場に戻った[4]。
日露戦争開戦には慎重だったが[6]、日露戦争後の朝鮮・満州の処理問題に尽力し、1905年(明治38年)には初代韓国統監に就任[4]。韓国の国内改革と保護国化の指揮にあたり、3度にわたる日韓協約で漸次韓国の外交権や内政の諸権限を剥奪した[7]。伊藤は日本政府内では対韓慎重派であり、保護国化はやむなしとしたが、併合には慎重だったといわれる[6]。しかし韓国民族運動との対立の矢面に立つ形となり、1909年(明治42年)に韓国統監を辞職した後、ハルビン駅において韓国の民族主義運動家の安重根に狙撃されて死亡した[3]。
開明派として日本の近代化、特に憲法制定とその運用を通じて立憲政治を日本に定着させた功績が評価される[3]。
生涯
生い立ち
天保12年(1841年)9月2日、周防国熊毛郡束荷村字野尻(現・山口県光市束荷字野尻)の百姓・林十蔵(のちに重蔵)の長男として生まれる。母は秋山長左衛門の長女・琴子。弘化5年(1846年)に破産した父が萩へ単身赴任したため母とともに母の実家へ預けられたが、嘉永2年(1849年)に父に呼び出され萩に移住した。萩では久保五郎左衛門の塾に通い(同門に吉田稔麿)、家が貧しかったため、12歳ごろから父が長州藩の蔵元付中間・水井武兵衛の養子となり、武兵衛が安政元年(1854年)に周防佐波郡相畑村の足軽・伊藤弥右衛門の養子となって伊藤直右衛門と改名したため、十蔵・博文父子も足軽となった[8]。
松下村塾入門
安政4年(1857年)2月、江戸湾警備のため相模に派遣されていたとき、上司として赴任してきた来原良蔵と昵懇となり、その紹介で吉田松陰の松下村塾に入門する。伊藤は友人の稔麿の世話になったが、身分が低いため塾の敷居をまたぐことは許されず、戸外で立ったままの聴講に甘んじていた。
・渡邊嵩蔵 「伊藤公なども、もとより塾にて読書を学びたれども、自家生活と、公私の務に服せざるべからざる事情のために、長くは在塾するを得ざりしなり」[9]
翌安政5年(1858年)7月から10月まで松陰の推薦で長州藩の京都派遣に随行、帰藩後は来原に従い安政6年(1859年)6月まで長崎で勉学に努め、10月からは来原の紹介で来原の義兄の桂小五郎(のちの木戸孝允)の従者となり、長州藩の江戸屋敷に移り住んだ。ここで志道聞多(のちの井上馨)と出会い、親交を結ぶ。
松陰が同年10月に安政の大獄で斬首された際、桂の手附として江戸詰めしていた伊藤は、師の遺骸を引き取ることなる。このとき、伊藤は自分がしていた帯を遺体に巻いた。このあと、桂を始め久坂玄瑞・高杉晋作・井上馨らと尊王攘夷運動に加わる一方で海外渡航も考えるようになり、万延元年12月7日(1861年1月17日)に来原に宛てた手紙でイギリス留学を志願している。
文久2年(1862年)には公武合体論を主張する長井雅楽の暗殺を画策し、8月に自害した来原の葬式に参加、12月に品川御殿山の英国公使館焼き討ちに参加し、山尾庸三と共に塙忠宝[注釈 1]・加藤甲次郎を暗殺する[11]など、尊王攘夷の志士として活動した[12]。筋肉質の体躯であったとされる。
イギリス留学
文久3年(1863年)には井上馨の薦めで海外渡航を決意、5月12日に井上馨・遠藤謹助・山尾庸三・野村弥吉(のちの井上勝)らとともに長州五傑の一人としてイギリスに渡航する。伊藤の荷物は文久2年に発行された間違いだらけの『英和対訳袖珍辞書』1冊と寝巻きだけであったという。しかも途中に寄港した清の上海で別の船に乗せられた際、水兵同然の粗末な扱いをされ苦難の海上生活を強いられた。
9月23日のロンドン到着後、ヒュー・マセソンの世話を受け化学者アレキサンダー・ウィリアムソンの邸に滞在し、英語や礼儀作法の指導を受ける。ロンドンでは英語を学ぶとともに博物館・美術館に通い、海軍施設、工場などを見学して見聞を広めた。留学中にイギリスと日本との、あまりにも圧倒的な国力の差を目の当たりにして開国論に転じる。
元治元年(1864年)3月、米英仏蘭4国連合艦隊による長州藩攻撃が近いことを知ると、井上馨とともに急ぎ帰国した。
6月10日に横浜上陸後長州藩へ戻り、戦争回避に奔走する。英国公使オールコックと通訳官アーネスト・サトウと会見したが、両名の奔走も空しく、8月5日に4国連合艦隊の砲撃により下関戦争(馬関戦争)が勃発、長州の砲台は徹底的に破壊される。
伊藤は戦後、宍戸刑馬こと高杉晋作の通訳として、ユーリアラス号で艦長クーパーとの和平交渉にあたる。藩世子・毛利元徳へ経過報告したときには、攘夷派の暗殺計画を知り、高杉とともに行方をくらましている。そして、この和平交渉において、天皇と将軍が長州藩宛に発した「攘夷実施の命令書」の写しをサトウに手渡したことにより、各国は賠償金を江戸幕府に要求するようになる[13]。
挙兵
オールコックらとの交渉で伊藤は井上馨とともに長州藩の外国応接係を任されるが、下関戦争と禁門の変で大損害を被った藩は幕府への恭順を掲げる俗論派が台頭、攘夷派の正義派(革新派)との政争が始まった。伊藤は攘夷も幕府にも反対でありどちらの派閥にも加わらなかったが、9月に井上が俗論派の襲撃で重傷を負うと行方をくらました。
11月、長州藩が第一次長州征伐で幕府に恭順の姿勢を見せると、12月に高杉らに従い力士隊を率いて挙兵(功山寺挙兵)。このとき、高杉のもとに一番に駆けつけたのは伊藤だった。その後、奇兵隊も加わるなど各所で勢力を増やして俗論派を倒し、正義派が藩政を握った。のちに伊藤は、このときのことを述懐して、「私の人生において、唯一誇れることがあるとすれば、このとき、一番に高杉さんのもとに駆けつけたことだろう」と語っている。
それからは目立った活躍は見られず、翌慶応元年(1865年)に藩の実権を握った桂の要請で行った薩摩藩や外国商人との武器購入および交渉がおもな仕事で、第二次長州征伐にも戊辰戦争にも加勢できずに暇を持て余していた。だが、慶応4年(明治元年、1868年)に外国事務総裁東久世通禧に見出され神戸事件と堺事件の解決に奔走したことが出世の足がかりとなった[14]。
明治維新
明治維新後は伊藤博文と改名し、長州閥の有力者として、英語に堪能なことを買われて参与、外国事務局判事、大蔵少輔兼民部少輔、初代兵庫県知事(官選)、初代工部卿、宮内卿など明治政府のさまざまな要職を歴任する。これには木戸孝允の後ろ盾があり、井上馨や大隈重信とともに改革を進めることを見込まれていたからであった。
兵庫県知事時代の明治2年(1869年)1月、『国是綱目』いわゆる「兵庫論」を捧呈し、
1. 君主政体
2. 兵馬の大権を朝廷に返上
3. 世界万国との通交
4. 国民に上下の別をなくし「自在自由の権」を付与
5. 「世界万国の学術」の普及
6. 国際協調・攘夷の戒め
を主張した。
明治3年(1870年)に発足した工部省の長である工部卿として、殖産興業を推進する。のちにこれは、内務卿・大久保利通のもとで内務省へと引き継がれる。また同年11月から翌年5月まで、財政幣制調査のため芳川顕正・福地源一郎らと渡米。中央銀行について学び、帰国後に伊藤の建議により、日本最初の貨幣法である新貨条例が制定される。
明治4年(1871年)11月には岩倉使節団の副使として渡米、サンフランシスコで「日の丸演説」を行う[15][注釈 2]。
明治6年(1873年)3月にはベルリンに渡り、ドイツ皇帝ヴィルヘルム1世に謁見。宰相ビスマルクとも会見し、ビスマルクから強い影響を受けた。
The red disc in the centre of our national flag shall no longer appear like a wafer over a sealed empire, but henceforth be in fact what it is designed to be, the noble emblem of the rising sun, moving onward and upward amid the enlightened nations of the world.
(国旗の中央なる吾等が緋の丸こそ最早閉ざされし帝国の封蝋の如く見ゆらざれ、将にその原意たる、旭日の貴き徽章、世界の文明諸国の只中に進み昇らん。)
— Hirobumi Ito, 23rd of January 1872.
大蔵兼民部少輔を務めた際には、大隈重信とともに殖産興業政策の一環として鉄道建設を強力に推し進め、京浜間の鉄道は、明治5年5月7日(1872年6月12日)に品川 - 横浜間で仮営業を始め、同年9月12日(1872年10月14日)、新橋までの全線が開通した[16]。
当初、伊藤が新政府に提出した『国是綱目』が当時新政府内では極秘裏の方針とされていた版籍奉還に触れていたために大久保利通や岩倉具視の不興を買い、大蔵省の権限をめぐる論争でも大久保とは対立関係にあった。また、岩倉使節団がアメリカで不平等条約改正交渉を始めた際、全権委任状を取るため一旦大久保とともに帰国したが、取得に5か月もかかったことで木戸との関係も悪化した(改正交渉も中止)。
だが、大久保・岩倉とは西欧旅行を通して親密になり、木戸とものちに和解したため、明治6年(1873年)に帰国して関わった征韓論では「内治優先」路線を掲げた大久保・岩倉・木戸らを支持して大久保の信任を得るようになった(明治六年政変)。このあと木戸とは疎遠になる代わりに、政権の重鎮となった大久保・岩倉と連携する道を選ぶ一方、盟友の井上馨とともに木戸と大久保の間を取り結び、板垣退助とも繋ぎを取り明治8年(1875年)1月の大阪会議を斡旋する。明治10年(1877年)に木戸が死去、同年に西南戦争で西郷隆盛が敗死、翌11年(1878年)に大久保も暗殺されたあとは内務卿を継承し、維新の三傑なき後の明治政府指導者の1人として辣腕を振るう[17]。
明治12年(1879年)9月に「教育議」を上奏し、教育令発布となる[18]。
明治14年(1881年)1月、日本の立憲体制をどう作るか井上馨や大隈重信と熱海で会談。しかし大隈が急進的な構想を内密に提出、独走するようになると、政界追放を決め工作に取りかかり、10月14日の大隈下野で目的を果たし、明治23年(1890年)に国会を開設することを約束する(明治十四年の政変)。伊藤の漸進的な提案が通り、黒田清隆・西郷従道ら薩摩派とも提携したことで事実上伊藤が中心となる体制ができあがった。一方で井上毅が岩倉の指示を受け、大隈案への対抗からプロイセン憲法を元にした憲法の採用を提案したときは退けたが、これは井上が憲法制定を焦り、外国憲法をどう日本に定着させるかについて具体的に論じていないことと、上役の伊藤に憲法制定を促すなど分を越えた動きをしていたからであった。
明治15年(1882年)3月3日、明治天皇に憲法調査のための渡欧を命じられ、3月14日、河島醇・平田東助・吉田正春・山崎直胤・三好退蔵・岩倉具定・広橋賢光・西園寺公望・伊東巳代治ら随員を伴いヨーロッパに向けて出発した。はじめベルリン大学の公法学者、ルドルフ・フォン・グナイストに教示を乞い、アルバート・モッセからプロイセン憲法の逐条的講義を受けた。のちにウィーン大学の国家学教授・憲法学者であるローレンツ・フォン・シュタインに師事し、歴史法学や行政について学ぶ。これが帰国後、近代的な内閣制度を創設し、大日本帝国憲法の起草・制定に中心的役割を果たすことにつながる。
明治18年(1885年)2月、朝鮮で起きた甲申政変の事後処理のため清に派遣され、4月18日には李鴻章との間に天津条約を調印している[19]。
初代内閣総理大臣就任
明治18年(1885年)12月の内閣制度移行に際し、誰が初代内閣総理大臣になるかが注目された。衆目の一致する所は、太政大臣として名目上ながらも政府のトップに立っていた三条実美と、大久保の死後事実上の宰相として明治政府を切り回し内閣制度を作り上げた伊藤だった。しかし三条は、藤原北家閑院流の嫡流で清華家の一つ三条家の生まれという高貴な身分、公爵である。一方伊藤といえば、貧農の出で武士になったのも維新の直前という低い身分の出身、お手盛りで伯爵になってはいるものの、その差は歴然としていた。
太政大臣に代わる初代内閣総理大臣を決める宮中での会議では、誰もが口をつぐんでいるなか、伊藤の盟友であった井上馨は「これからの総理は赤電報(外国電報)が読めなくてはだめだ」と口火を切り、これに山縣有朋が「そうすると伊藤君より他にはいないではないか」と賛成、これには三条を支持する保守派の参議も返す言葉がなくなった。つまり英語力が決め手となって伊藤は初代内閣総理大臣となったのである。以後、伊藤は4度にわたって内閣総理大臣を務めることになる。
なお、44歳2か月での総理大臣就任は、2018年現在日本の歴代総理大臣の中でもっとも若い記録である(2番目は近衛文麿の45歳、現行憲法下では安倍晋三の52歳)。維新以来、徐々に政府の実務から外されてきた公卿出身者の退勢はこれで決定的となり、以降、長きにわたって総理大臣はおろか、閣僚すらなかなか出せない状態となった。
第1次伊藤内閣では憲法発布前の下準備の機関創設に奔走、明治19年(1886年)2月には各省官制を制定し、3月には将来の官僚育成のため帝国大学(現・東京大学)を創設し、翌年3月には国家学会が創設、これを支援した。一方、井上馨を外務大臣として条約改正を任せたが、井上馨が提案した改正案に外国人判事の登用などを盛り込んだことが問題になり、閣内分裂の危機を招いたため、明治20年(1887年)7月に外国へ向けた改正会議は中止、9月に井上馨が辞任したため失敗に終わった。同年6月から夏島で伊東巳代治・井上毅・金子堅太郎らとともに憲法草案の検討を開始する。
またイギリス自由党議員で鉄道事業家のジャスパー・ウィルソン・ジョーンズの義理の息子である法曹のフランシス・ピゴットを憲法を含む法制顧問に迎えるなどし、のちに刊行した『秘書類纂』にも数々のピゴットの論文(和訳)を納めた[20]。なおジョーンズの娘マーベルは1896年に植民地看護協会を設立しており、ウィンストン・チャーチルは新人議員のときに同協会を支援した。 明治21年(1888年)4月28日、枢密院開設の際に初代枢密院議長となるために首相を辞任[21]。
詳しいことは、「伊藤博文ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E8%97%A4%E5%8D%9A%E6%96%87
(wikiより)
7339 園田実徳墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)
経歴・人物
薩摩国鹿児島郡鹿児島近在荒田村(現・鹿児島県鹿児島市下荒田)にて、薩摩藩士の園田彦右衛門・シン夫妻の長男として生まれる[1]。藩主島津忠義の小姓となった彼は1866年(慶応2年)、藩主に従い上洛し鳥羽・伏見の戦いに黒田清隆の部下として参加した[1][2]。1872年(明治5年)、北海道開拓使に出仕した後、1874年(明治7年)に起こった佐賀の乱では大久保利通の密使となり、1877年(明治10年)の西南戦争に参加した[1]彼は功をあげて勲六等に叙せられた[2]。
1882年(明治15年)、北海道運輸会社の創立に関って同社函館支店長となり、函館-根室間の航路を開いた[1]。北海道炭礦鉄道の創立発起人となり理事に就任、現函館本線、函館駅-小樽駅間の鉄道開発に尽力した[1]。その後も阿部興人らとともに北海道セメント会社(後の太平洋セメント)や函館船渠会社の創設に参加し、1913年(大正2年)には函館水電株式会社運営の東川町-湯川間に北海道で初めて路面電車を走らせ(現在の函館市企業局交通部。北海道遺産の一つに選ばれている)、翌1914年(大正3年)4月の北海道函館外各支庁選挙区で行われた衆議院補欠選挙に立候補して当選した[1][3]。
日本の近代競馬黎明期の有力者でもあり、1900年に発足した北海道共同競馬会社の発起人の一人に名を連ねている[4]。また東京馬匹改良会社にあって目黒競馬場の建設に携わり[5]、同場を使用した公認競馬会のひとつである日本競馬会[注 2]の会長も務めた[6]。馬主としても目黒の大鳥神社近辺に厩舎を構え、菅野小次郎を専属騎手として雇用した[7]。主な所有馬に、1910年の目黒帝室御賞典(秋)に優勝、当時随一の名馬と謳われたシノリがいる。また、菅野の弟子である後の「大尾形」こと尾形藤吉(当時は大河原藤吉)が騎手として初勝利を挙げたホクエンも実徳の所有馬であった[8]。1887年(明治20年)には、亀田郡桔梗村(現在の函館市桔梗町)にあった北海道庁桔梗野牧羊場の払い下げを受けて園田牧場を経営[9]、同場で生まれた騎手の武邦彦は実弟・彦七の孫で又甥にあたる[2]。
長女のノブは西郷隆盛の息子、西郷寅太郎に嫁いだ[2]。
栄典
・1917年(大正6年)2月19日 - 旭日小綬章[10]
注釈
1. 戦後地銀の北海道銀行とは異なる。1944年に北海道拓殖銀行と合併。
2. 1937年に発足した全国組織日本競馬会とは異なる。
出典
1. a b c d e f “はこだて人物誌 園田実徳”. 函館市文化・スポーツ振興財団. 2017年4月18日閲覧。
2. a b c d “武彦七と園田実徳”. 2010年4月19日閲覧。
3. “官報. 1914年5月15日”. 国立国会図書館近代デジタルライブラリー. 2015年1月18日閲覧。
4. 札幌競馬場馬主協会編『北ぐにの競馬』(札幌競馬場馬主協会、1983年)301頁。
5. 日本中央競馬会編『日本競馬史(3) - 各競馬場のあゆみ』(日本中央競馬会、1968年)47頁。
6. 日本中央競馬会編『日本競馬史(2) - 明治・大正の競馬』(日本中央競馬会、1967年)457頁。
7. 尾形藤吉『馬ひとすじ』(徳間書店、1967年)56頁。
8. 尾形藤吉『馬ひとすじ』(徳間書店、1967年)73頁。
9. 『角川日本地名大辞典 1 北海道 上巻』角川書店、2003年、改、436頁。ISBN 4-04-001011-6。
10. 『官報』第1365号「叙任及辞令」1917年2月21日。
関連項目
・武家 (家族)
(wikiより)
園田実徳
7338 吉田久墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)
出生と経歴
1884年8月21日、福井市佐佳枝上町の八百屋の長男として出生する[1]。番町高等小学校尋常科中退[3]。福井に戻り裁判所の給仕をして生計を立てていた[4]。のち、弁護士の書生をしながら東京法学院(のちの中央大学)にて学ぶ[5]。1905年(明治38年)に東京法学院を卒業し判事検事登用試験に次席合格する[6]。司法官試補、検事を経て判事となる[7]。
横濱専門学校(現神奈川大学)創立に協力
神奈川大学創設者米田吉盛が1927年(昭和2年)の神田錦町の錦城中学校の校舎の一部を借りて、巡査及び看守に民事法学及び刑事法学の一般を授けることを目的とする特殊学校を創めたが、当初より、吉田久は林頼三郎からの委嘱で、同僚西川一男と民事法を担当して学生の指導に当たった。翌1928年(昭和3年)には、横浜駅(現在の桜木町駅)側のコンクリート建物桜木会館二階に移転し、横浜学院と称し。1930年(昭和5年)には六角橋に移転、1942年(昭和17年)に母校中央大学の教務が多忙になったので、教授職を退いた。
翼賛選挙無効判決
1942年(昭和17年)に行われた第21回衆議院議員総選挙(翼賛選挙)をめぐって提起されていた選挙無効訴訟(鹿児島2区選挙無効事件)において1945年(昭和20年)3月1日、大審院第三民事部の部長判事(裁判長)だった吉田は「鹿児島2区の選挙は無効」とする判決を下した[8]。同事件の審理に際して吉田は4人の陪席裁判官と共に鹿児島へ出張して鹿児島県知事の薄田美朝を含む187人もの証人を尋問しており[9]、この出張尋問は大審院内部でも「壮挙」と評された[10]。
なお同判決の判決原本は東京大空襲の際に焼失したとされており、大審院民事判例集にも登載されておらず「幻の判決文」とされていたが2006年(平成18年)8月、最高裁判所の倉庫で61年ぶりに発見された[11]。
その後の人生
翼賛選挙無効判決宣告の4日後、吉田は司法大臣 松阪広政に辞表を提出し裁判官を辞職した[12]。その後は大審院判事在職中より出講していた(当時は裁判官が大学や専門学校で教鞭をとることが認められていた)中央大学の講師を続けていたが、終戦時まで「危険人物」として特高警察の監視下に置かれていた[13]。
戦後は鳩山一郎の推薦により日本自由党政務調査会顧問に就任し、同党の憲法改正要綱中の司法権に関する規定(司法権の独立強化と大審院長の天皇直隷、大審院長の下級裁判所に対する独立監督権、検察庁の裁判所からの分離を規定)を起草した[14]。
1946年(昭和21年)8月21日には貴族院議員に勅選され[15]、参議院議員選挙法の立案などに携わる[16]。翌年貴族院の廃止により議員を退任した吉田は中央大学に復帰し、教授として迎えられる[17]。
60年安保の当時、吉田は大学院の研究科長をしており安保闘争に学生が参加することについては批判的な意見を持っていたが、指導していた院生の吉田豊(現在 東京学芸大学名誉教授、元中央大学法学部教授)が読んでいた『アサヒグラフ』に座り込みをする学生を殴打する警官隊の写真が掲載されているのを見て、法学部に貸切りバスを呼んで「学生も教員もこれに乗って国会に行け」と言ったという[18]。吉田は思想的には保守派に属していたが、戦時中の体験から権力の横暴やファシズムを嫌っており、いかなる思想も暴力で弾圧されてはならないという信条の持ち主だったと、吉田豊は回顧している[19]。
中央大学退職後は千葉商科大学で教鞭をとる[20]。
1971年(昭和46年)9月20日に老衰により日本大学附属病院にて逝去[21]。87歳没。墓所は青山霊園に在する[22]。
注釈
1. a b 清永『気骨の判決』57頁。
2. 清永『気骨の判決』180頁。
3. 清永『気骨の判決』58頁。
4. 清永『気骨の判決』59頁。
5. 清永『気骨の判決』60頁。
6. 清永『気骨の判決』61頁。
7. 清永『気骨の判決』62-65頁。
8. 清永『気骨の判決』152-153頁。
9. 清永『気骨の判決』80-82、97頁。
10. 清永『気骨の判決』81頁。
11. NHK終戦ドラマ『気骨の判決』(平成21年8月16日放送)エンディング字幕
12. 清永『気骨の判決』161頁。
13. 清永『気骨の判決』165頁。
14. 清永『気骨の判決』166-169頁。
15. 『官報』第5883号、昭和21年8月23日。
16. 清永『気骨の判決』170-171頁。
17. 清永『気骨の判決』173頁。
18. 清永『気骨の判決』174-175頁。
19. 清永『気骨の判決』175-176頁。
20. 清永『気骨の判決』179頁。
21. 清永『気骨の判決』180頁。
22. 清永『気骨の判決』181頁。
参考文献
・清永聡『気骨の判決』新潮社、2008年。ISBN 978-4-10-610275-2
出版から1年後に2009年に『NHKスペシャル』の終戦企画ドラマ『気骨の判決』として放送された。
・清永聡・矢澤久純『戦時司法の諸相-翼賛選挙無効判決と司法権の独立』渓水社、2011年。
関連項目
・久野修慈(中央大学前理事長、学生時代に吉田のもとで書生を務めていた)
外部リンク
・「吉田久先生について知りたい。神奈川大学で教鞭を取っていたころの様子や学生からの評判などを調べている。」 - レファレンス協同データベース
(wikiより)

吉田 久
7337 山縣治郎墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)
経歴
山口県出身。庄屋・山県政吉の長男として生まれる。山口高等学校(旧旧山高)を経て、1907年月、東京帝国大学法科大学を卒業。同年11月、高等文官試験行政科試験に合格。内務省に入り警保局属となる。石川県事務官・警察部長、神奈川県事務官・警察部長、福岡県警察部長、兵庫県警察部長などを経て、1915年に内務監察官に就任。内務省参事官・大臣官房会計課長兼地理課長を経て、1922年、都市計画局長となる。
1922年10月、石川県知事に就任。広島県知事、兵庫県知事を歴任し休職。1929年7月、神奈川県知事として復帰。1930年11月の北伊豆地震の被災地の復興に尽力。神奈川県道片瀬大磯線の建設、県営水道事業などを推進した。1931年12月18日、犬養内閣の成立により知事を休職[1]。1932年1月29日、依願免本官となり退官した[2]。
1936年1月9日死去。享年55。
栄典
・1930年(昭和5年)12月5日 - 帝都復興記念章[3]
伝記
・山根真住編『山県治郎伝』山県治郎氏伝記編纂所、1940年。
脚注
1. 『官報』第1493号、昭和6年12月19日。
2. 『官報』第1523号、昭和7年1月30日。
3. 『官報』第1499号・付録「辞令二」1931年12月28日。
関連項目
・山口県出身の人物一覧
参考文献
・上田正昭他『日本人名大辞典』講談社、2001年。
・『日本の歴代知事 第1巻』歴代知事編纂会、1980年。
・神奈川県県民部県史編集室編『神奈川県史 別編1』人物 : 神奈川県歴史人名事典、神奈川県、1983年。
7335 乃木勝典墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)
生涯
学才・性格など
1879年(明治12年)8月28日、乃木希典・静子夫妻の長男として出生。
父親と母親の良い面・悪い面をそれぞれ受け継いだ典型的な人物で、元来、父方の乃木家は学問的な分野に乏しく(希典が漢詩で有名であるが)、一方で母方の湯地家は学問的な分野に秀でており、母・静子およびその両親・兄姉らは学問的に優秀であった。病弱であったようだが、母の事を普段より気遣う優しい性格であったと言われる。
勝典は学識面での才能はあまり芳しくなく、陸軍士官学校の採用試験に2度不合格になっており、3度目で辛うじて合格した。当時、陸軍士官学校は一生涯のうち3度しか受験することが出来ず、勝典は最後のチャンスで希望を果たした(弟の保典は1度目で合格している)。陸士13期で建川美次と同期。
日露戦争に出征
日露戦争には陸軍少尉、第二軍歩兵第1連隊第9中隊第1小隊長として出征。出征前に、静子が東京・銀座にある高級化粧品店「資生堂」で1つ9円の高級香水を購入し、勝典・保典の二人に渡している。静子が香水を渡したのは、もしも戦死した場合、遺体から異臭が放たれれば大事な愛息子が不憫であるという親心からであった。勝典はそれをお守りとして大切にしていた。
戦場では何日も風呂に入られないという激戦の日々が続いたため、戦死を覚悟した勝典は、戦死の覚悟を悟られないように記した内容の手紙を静子に宛てて送っている。
南山の戦いに参加していた1904年(明治37年)5月27日、ロシア軍が放った銃弾が勝典の腸部に直撃、向こう側が丸見えになるほどの風穴が開き、数時間の間、従軍していた陸軍軍医による手術・治療を野戦病院にて受けたが、出血多量で死亡した。享年26(満24歳没)。
死後
勝典が戦死したことは数日後に静子の耳に届けられた。静子にとって勝典は第一子、それも病弱で常に心配して大事に育ててきた子どもであり、姑・壽子(久子表記の文献有り)との確執に耐え切れず、別居生活をしていた時も気遣い、優しく守ってくれた勝典が戦死したと聞いた時、静子は我を忘れて三日三晩号泣したという。
勝典の死から6ヶ月後の11月30日に弟・保典も203高地で後備第1旅団の副官任務中、ロシア軍の砲弾を至近に受け、岸壁から滑落し岩場に頭部が激突、頭が砕けて戦死した(即死)。享年24(満22歳没)。
勝典・保典兄弟は未婚で死去したため、子を残すことはなかった。これにより、希典・静子夫妻の子女は全員死去。夫妻はその後、養子を迎えることをしなかったため、乃木伯爵家と夫妻の血筋は断絶した。
逸話
・陸軍士官学校に3度目で漸く合格した時、父希典から合格祝いとして1000円を貰うが、当時の1000円は陸海軍の各大将クラスが給与で貰う数ヶ月分であり、それだけの額を貰ってしまえば生活が傾き、静子に多大な迷惑を掛けると考えた勝典は、500円の雙眼鏡を購入し残りの金は返したと言われる。
・南山の戦いでの勝典の負傷は、父希典の指揮する第三軍に配属されていた弟保典にも伝わり、進軍途中でありながら時間を見つけては兄を見舞いに訪れている。その際、勝典は保典に母・静子のことを頼んだといわれる。しかし、この兄との約束は後に保典が戦死したため、果たされることはなかった。
戦死の場所
乃木勝典は金州城の東北、閻家楼会閻家楼屯七十二番地(現・大連市金州区小閻家楼)にあった「閻家楼第二野戦病院」に収容され、27日午後死亡した。野戦病院があった閻家楼屯の裏山にはその後、慰霊碑が建立され、現在もその台石が残っている。
また一時遺体を葬った馬家屯會八里庄警察官吏派出所の後方一松林中にも、金州軍政署が1905年春に墓標を建立、1909年11月1日、静子が慰霊に訪れた。[1]
閻家楼の慰霊碑跡
慰霊碑跡から閻家楼の集落と大黒山を望む
閻家楼の集落と裏山
・母:乃木静子
・弟:乃木保典(陸軍軍人)
・従弟:湯地孝(日本近代文学研究者)
脚注
1. 亜細亜写真大観社(編)『亜細亜大観. 第11輯の2』亜細亜写真大観社(昭10至17)
(wikiより)
7334 乃木保典墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)
乃木 保典(のぎ やすすけ、1881年(明治14年)12月16日 - 1904年(明治37年)11月30日)は、明治期の日本の陸軍軍人で陸軍大将・乃木希典、静子夫妻の次男。陸士15期[1]。
日露戦争の旅順攻囲戦で戦死。最終階級は陸軍歩兵少尉[1]。
生涯
1881年(明治14年)12月16日、乃木希典・静子夫妻の次男として誕生。成城学校(現在の成城中学校・高等学校)から陸軍士官学校へ進む。陸士15期の同期生には、梅津美治郎(陸軍大将)・蓮沼蕃(陸軍大将)・多田駿(陸軍大将)・谷寿夫(陸軍中将)・河本大作(陸軍歩兵大佐)らがいる[2]。
出征前に母・静子は、戦死した際に遺体から異臭が放たれぬようにと銀座にある高級化粧品店・資生堂で1つ9円(当時の一般の成人女性の給与の約2か月分)もする香水を買って来て渡し、保典はそれをお守りとして持って行った。
1904年(明治37年)5月27日、兄・勝典は南山の戦いに参加し、腹部に重傷を負って野戦病院に運ばれ、手術・治療を受けたが、出血多量で戦死した。
その後、保典も203高地で後備第1旅団の副官任務中、ロシア軍の砲弾を至近距離に受け、岩壁から滑落し岩場に頭部が激突、頭が砕けて即死した。兄・勝典の死から6か月後のことだった。享年24(満22歳没)。
死後
1904年(明治37年)11月30日、特旨を以て位一級進められ正五位に昇叙[3]。
勝典と同じく青山霊園に葬られた。
勝典・保典兄弟は未婚で死去したため、子を残すことはなかった。これにより、希典・静子夫妻の子女は全員死去。夫妻はその後、養子を迎えることをしなかったため、乃木伯爵家と夫妻の血筋は断絶した。
人物・逸話
・兄の勝典と違い、両親の良い面を受け継いだ人物といわれる。
・父親に似て前向きで明るく人懐こい性格で学才も母方に似て優秀であり、難関である陸軍士官学校の入学試験にも1発で合格している。兄の勝典は陸軍士官学校の入学試験に2度落ち、「3度目の正直」で漸く合格。それに対して勝典は僻むこともなく、二人の兄弟間の仲は良かったといわれる。
・兄の勝典の負傷の知らせを受けた保典は比較的近い場所(203高地)を攻めていた為、進軍しながら幾度か勝典の様子を見に見舞っており、生きている勝典と最後に会った時、母・静子のことを頼まれた。しかし、この約束は後に保典が戦死したため、果たされることはなかった。
・森鷗外は、詩集『うた日記』に収録した詩「乃木将軍」の中で、希典が保典の死を知らされた際の反応について「将軍は睫毛ひとつさえ動かさなかった」と記している。
家族・親族
・祖父:乃木希次(長府藩士)
・母:乃木静子
・兄:乃木勝典(陸軍軍人)
・従弟:湯地孝(日本近代文学研究者)
演じた人物
・高島忠夫 (明治天皇と日露大戦争、1957年、新東宝)
・橋爪遼:NHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」(2010年)
出典
1. a b 秦 2005, p. 121, 第1部 主要陸海軍人の履歴-陸軍-乃木希典
2. 秦 2005, pp. 269-288, 第1部 主要陸海軍人の履歴-期別索引
3. 『官報』第6438号、「叙任及辞令」1904年12月14日。
参考文献
・秦郁彦 編著 『日本陸海軍総合事典』(第2版) 東京大学出版会、2005年。
(wikiより)
7332 前田孝階墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)
7326 忠魂碑(震災復興52小公園)
7325 山口二矢墓(港区南青山2-26-38・梅窓院)
山口 二矢(やまぐち おとや、1943年(昭和18年)2月22日 - 1960年(昭和35年)11月2日)は、日本の右翼活動家、民族主義者および反共主義者で、1960年(昭和35年)10月12日に発生した浅沼稲次郎暗殺事件の実行犯である。
1960年(昭和35年)10月、政党代表放送で演説中の日本社会党の党首浅沼稲次郎を脇差様の刃物で殺害した。逮捕後、「後悔はしていないが償いはする」と口にして裁判を待たず、東京少年鑑別所内で「天皇陛下万才、七生報国」との遺書を残して首吊り自殺した。
略歴
生涯前半
1943年(昭和18年)、後の陸上自衛隊員山口晋平と大衆作家村上浪六の三女の次男として東京都台東区谷中で生まれた。次男として生まれたことから、晋平が姓名判断をした上で、「二の字に縁が多い」ことによって名前を二矢と名付けた。晋平は東北帝国大学出身の厳格な人物で、兄も学業に秀でていた。文化史家の村上信彦は伯父にあたる。
幼年時代から新聞やニュースを読み、国体護持の闘争に身を投じて政治家たちを激烈に批判し、早くから右翼思想を持った兄の影響を受けて右翼活動に参加することになった。中学から高校の初めまでは晋平の勤務地の関係で、札幌で生活した。1958年(昭和33年)玉川学園高等部に進んだが、晋平の転勤が発令されたため、札幌の光星学園へ転校。しかし、再び東京へ戻って玉川学園に転入した。
民族主義運動
1959年(昭和34年)5月10日、16歳で愛国党総裁赤尾敏の演説を聞いて感銘を受け、赤尾敏率いる大日本愛国党に入党し、愛国党の青年本部員となった。赤尾の「日本は革命前夜にある。青年は今すぐ左翼と対決しなければならない!」という言葉に感動し、赤尾が次の場所に移動しようとした時、トラックに飛び乗り、「私も連れて行って欲しい」と頼み込んだ。しかし、この時には赤尾に静かに拒絶された。その後、玉川学園高等部を中退。山梨県北巨摩郡小淵沢町(現・北杜市)で嶽南義塾をしていた杉本広義のもとでしばらく厄介になり、杉本の紹介で大東文化大学の聴講生となった。
赤尾の演説に対して野次を飛ばす者がいると、野次の者に殴りかかっていくこと等を継続した。左派の集会解散と右派人士保護を率先して行った。ビラ貼りをしているときに、警察官と取っ組み合いの乱闘をしたこともあった。愛国党の入党後半年で、10回も検挙された。1959年(昭和34年)12月に保護観察4年の処分を受けた。
1960年(昭和35年)5月29日、同志党員2人らとともに愛国党を脱党した。
左翼指導者を倒せば左翼勢力をすぐ阻止できるとは考えないが、彼らが現在までやってきた罪悪は許すことはできないし、1人を倒すことで、今後左翼指導者の行動が制限され、扇動者の甘言に付和雷同している一般の国民が、1人でも多く覚醒してくれればよいと思った。できれば信頼できる同志と決行したいと考えたが、自分の決意を打ち明けられる人はいず、赤尾先生に言えば阻止されるのは明らかであり、私がやれば党に迷惑がかかる。私は脱党して武器を手に入れ決行しようと思いました。
— 山口の供述
1960年(昭和35年)6月17日、右翼青年たちが社会党顧問である河上丈太郎を襲撃する事件が起こった時、「自分を犠牲にして売国奴河上を刺したことは、本当に国を思っての純粋な気持ちでやったのだと思い、敬服した。私がやる時には殺害するという徹底した方法でやらなくてはならぬ」と評価した。
7月1日、同志たちと一緒に全アジア反共連盟東京都支会の結成に参加した。
10月4日、自宅でアコーディオンを探していたところ、偶然脇差を見つけた。鍔はなく、白木の鞘に収められているもので、「この脇差で殺そうと決心した」という。明治神宮を参拝し、すぐに小林武日教組委員長、野坂参三日本共産党議長宅にそれぞれ電話。「大学の学生委員だが教えてもらいたいことがある」と面会を申し込む計画だったが、小林委員長は転居、野坂議長は旅行中だったので、共にすぐに実行できず、失敗した。
10月12日、自民・社会(現在の社会民主党)・民社の三党の党首立会演説会において、当時、日本社会党の委員長だった浅沼稲次郎を殺害する計画を立て、刀袋などを準備し、東京都千代田区の日比谷公会堂に向かって歩いていった。
浅沼稲次郎の暗殺事件
詳細は「浅沼稲次郎暗殺事件」を参照
1960年(昭和35年)10月12日に日比谷公会堂で演説中の浅沼稲次郎を刺殺、現行犯逮捕された。山口は当時17歳で少年法により実名非公開対象[1] であったが、事件の重大さから名前が公表されている。
浅沼殺害時に山口がポケットに入れていたとされる斬奸状の文面は以下の通りである。
汝、浅沼稲次郎は日本赤化をはかっている。自分は、汝個人に恨みはないが、社会党の指導的立場にいる者としての責任と、訪中に際しての暴言と、国会乱入の直接のせん動者としての責任からして、汝を許しておくことはできない。ここに於て我、汝に対し天誅を下す。 皇紀二千六百二十年十月十二日 山口二矢。
山口は自決を試みたが、すぐに飛びついた巡査によって逮捕された。事件直後、警察は「背後関係を徹底的に洗う」としたが、山口はあくまで単独犯行だと供述した。
一方自衛隊は、父親の晋平が自衛官(1等陸佐)であることから批判の累が及ぶことを恐れ、晋平の辞職を望んだ。晋平は親と子は別と考え当初は拒んでいたが、結局事件3日後の10月15日に依願退職した。
自決
山口は11月2日、東京少年鑑別所の東寮2階2号室で、支給された歯磨き粉で壁に指で「七生報国 天皇陛下万才」(原文ママ)と記し[2]、シーツを裂いて縄状にして天井の裸電球を包む金網にかけ、首吊り自殺した(若松孝二監督の映画、「11・25自決の日 三島由紀夫と若者たち」の冒頭に、このシーンが再現されている)。なお、辞世の句「国のため 神州男児 晴れやかに ほほえみ行かん 死出の旅路に」「大君に 仕えまつれる 若人は 今も昔も 心かわらじ」も残している[3]。
右翼団体は盛大な葬儀を行い山口を英雄視した。また沢木耕太郎の『テロルの決算』によれば、山口はテロの標的として浅沼委員長のほか河野一郎や野坂参三など政治家もリストに加えていた。
死後
毎年山口が死亡した11月2日に右翼団体が追慕祭(山口二矢烈士墓前祭)を開催している。党総本部の祭壇には、山口のデスマスクが祀られている[3]。
影響
山口二矢が所属していた大東文化大学では、この事件が起きた後、世間の批判を恐れ「《大東文化大学は新聞紙上に社会党委員長浅沼稲次郎氏刺殺の山口二矢は本大学、学生委員と自称しておりますが、同人は本大学の学生ではありませんので、ここに通告いたします》と「急告」を出した」り、二矢の在籍を否定したりした(出典文藝春秋第 56 巻、第 3~5号、1978年)。一方、学校法人玉川学園の小原國芳は事件後も二矢を自分の大切な生徒とみなし、少しも変わらぬ態度で接した(出典:沢木耕太郎「テロルの決算(P.302)」文春文庫、1978)より)。三島由紀夫は「学生とのティーチ・イン」に収録される一橋大学での学生との対話で、山口二矢について「非常にりっぱだ。あとでちゃんと自決しているからね。あれは日本の伝統にちゃんと従っている。」と評している[4]。
家族・親族
・山口晋平(父)
・村上浪六(母方の祖父)
・村上信彦(母方のおじ)
関連作品
小説
・大江健三郎『セヴンティーン』文學界1961年1月号(新潮文庫『性的人間』所収)
・大江健三郎『政治少年死す―セヴンティーン第二部』文學界1961年2月号(『大江健三郎全小説 3』講談社、2018年7月、所収)[5]
演じた俳優
・タモト清嵐 11・25自決の日 三島由紀夫と若者たち(若松孝二監督、2012年)
脚注
1. 少年法では家庭裁判所の審判に付された少年又は少年のとき犯した罪により公訴を提起された者の実名報道を禁止しているだけで逮捕者や指名手配者の実名報道を禁止していない。山口は逮捕はされたが家裁審判に付されたり公訴提起されたりしていないため、厳密に言えば少年法の実名報道禁止規定には抵触していない。
2. 一部で「血書」とされているが誤りである。
3. a b 山口二矢烈士墓参 - 大日本愛国党(2015年11月2日付)2017年11月1日 (水) 閲覧。
4. 「学生とのティーチ・イン」、ちくま文庫の「文化防衛論」に収録。p.206 ISBN 4-480-42283-8
5. 発表直後に抗議を受けて『文學界』1961年3月号に謝罪広告が掲載される事態となり、公式には2018年の『大江健三郎全小説 3』まで一度も単行本に再録されたことがなかった。なお、非公式には『スキャンダル大戦争2』(鹿砦社)などに再録されたことがある。
参考文献
・赤塚行雄 『戦後欲望史 黄金の六〇年代篇』、(講談社文庫、1984年)
・礫川全次 『戦後ニッポン犯罪史』、(批評社、2000年)
・田中清松 『戦中生まれの叛乱譜―山口二矢から森恒夫』、(彩流社、1985年)
・沢木耕太郎 『テロルの決算』、(文春文庫、1982年、2008年)、ISBN 978-4167209148。(単行本は1979年刊行。大宅壮一ノンフィクション賞)
・山口二矢顕彰会『山口二矢供述調書』、(展転社、2010年)
関連項目
・赤尾敏
・村上浪六
・大江健三郎 - 山口をモデルにして小説「セヴンティーン」を執筆。山口の人格を否定するような描写が右翼から抗議を受けた。
・沢木耕太郎 - 浅沼事件に関して「テロルの決算」を執筆。
・学生運動
外部リンク
・“火車頭人”——浅沼稻次郎 日本新華僑報 2009/06/19
・Tokyo rewind: Right-wing groups commemorate assassination of politician Inejiro Asanuma 50 years later The Tokyo Reporter 2011/11/21 (英語)
・浅沼稲次郎社会党委員長刺殺事件 - 1960
(wikiより)
山口二矢
7194 樋口季一郎墓(神奈川県中郡大磯町東小磯19・妙大寺)
経歴
1888年、淡路島にある兵庫県三原郡本庄村上本庄(町村制後:阿万村、現:南あわじ市阿万上町字戈の鼻)に父・奥濱久八、母・まつの5人兄弟(9人とも言われている)の長男として出生。奥濱家は廻船問屋で代々続く地主であったが、明治以降、蒸気船の普及に伴い時代の流れに取り残され父・久八の代で没落した。11歳の時、両親が離婚し、母・まつの阿萬家に引き取られる。
1901年、三原高等小学校2年終了後、私立尋常中学鳳鳴義塾に入学。1902年、大阪陸軍地方幼年学校を経て、18歳で岐阜県大垣市歩行町の樋口家の養子(父・久八の弟・勇次が樋口家の婿養子となり季一郎を勇次夫妻の養子として迎え入れた)になった。1909年、陸軍士官学校(第21期)に進む一方で東京外語学校でロシア語を徹底的に学ぶ。陸軍士官学校を優秀な成績で卒業、陸軍大学校(第30期)を経て、ロシア語が堪能であることもあって、卒業後すぐ1919年にウラジオストクに赴任(シベリア出兵) 。満州、ロシア(ソビエト連邦)方面部署を転々と勤務。1925年、公使館駐在武官(少佐)としてソ連西隣のポーランドにも赴任している。歩兵第41連隊長時代に起きた相沢事件は、直前まで部下だった者が起こした不祥事であったため進退伺いを出した。しかし、上官の小磯国昭に慰留され、満洲国のハルビンに赴任する。
オトポール事件
1937年(昭和12年)12月26日、第1回極東ユダヤ人大会が開かれた際、関東軍の認可の下で3日間の予定で開催された同大会に、陸軍は「ユダヤ通」の安江仙弘陸軍大佐をはじめ、当時ハルピン陸軍特務機関長を務めていた樋口(当時陸軍少将)らを派遣した。この席で樋口は、前年に日独防共協定を締結したばかりの同盟国であるナチ党政権下のドイツの反ユダヤ政策を、「ユダヤ人追放の前に、彼らに土地を与えよ」と間接的に激しく批判する祝辞を行い、列席したユダヤ人らの喝采を浴びた[1]。
そうした状況下、翌1938年(昭和13年)3月、ユダヤ人18人がドイツの迫害下から逃れるため、ソ満国境沿いにあるシベリア鉄道・オトポール駅(Otpor、現在のザバイカリスク駅)まで逃げて来ていた。しかし、亡命先である米国の上海租界に到達するために通らなければならない満州国の外交部が入国の許可を渋り、彼らは足止めされていた。
極東ユダヤ人協会の代表のアブラハム・カウフマン博士から相談を受けた樋口はその窮状を見かねて、直属の部下であった河村愛三少佐らとともに即日ユダヤ人への給食と衣類・燃料の配給、そして要救護者への加療を実施。更には膠着状態にあった出国の斡旋、満州国内への入植や上海租界への移動の手配等を行った。日本は日独防共協定を結んだドイツの同盟国だったが、樋口は南満州鉄道(満鉄)総裁だった松岡洋右に直談判して了承を取り付け、満鉄の特別列車で上海に脱出させた[2]。その後、ユダヤ人たちの間で「ヒグチ・ルート」と呼ばれたこの脱出路を頼る難民は増え続け、東亜旅行社(現在の日本交通公社)の記録によると、ドイツから満州里経由で満州へ入国した人の数は、1938年だけで245人だったものが、1939年には551人、1940年には3,574人まで増えている[3]。ただし、早坂隆によると1941年(昭和16年)の記録がなく、数字のうち少なくない割合でユダヤ人が含まれていると考えられるが、その割合が不明であり累計が2万に到達したかは不明としている[3]。また、松井重松(当時、案内所主任)の回想には「週一回の列車が着くたび、20人、30人のユダヤ人が押し掛け、4人の所員では手が回わらず、発券手配に忙殺された」と記されている[4]。そのほかの証言として松岡総裁の秘書だった庄島辰登は、最初の18人(1938年3月8日)のあとに毎週、5あるいは10人のユダヤ難民が到着し3月-4月の累計で約50人を救ったという[5]。しかし、ドイツへの外交的配慮からか、多数の難民が殺到した際の具体的な人数に関する公的文書は残されていない。[独自研究?]1941年に書かれたKeren Kayemeth Lelsrael Jewish National Fund(KKL-JNF)本部に現存する6冊目の「栄誉の書」には「樋口将軍-東京、在ハルビン極東国家ユダヤ総領事-エイブラハム・カウフマンの銘入り」とその功績が記されている[6]。
「ヒグチ・ルート」で救われたユダヤ人の数は、総数は最大で2万-3万人であった可能性があるとされていた[注 1][注 2]が、研究が進みほとんどの研究者・ジャーナリストが信じていない[8]。1939年当時の有田八郎外務大臣の公式見解では「80人強」とされている[9]。2万人のユダヤ系難民が救われたとも伝えられていた中で、あまりの数の多さに事件の存在自体を疑問視する歴史家も現れた[10]。この2万人という数字は、樋口の回顧録を出版する際の誤植などから流布したものと考えられている[8]。樋口自身の原稿では「彼ら(ユダヤ人)の何千人が例の満洲里駅西方のオトポールに詰めかけ、入満を希望した」と書き記されていたものが、芙蓉書房版の『回想録』にある数字では「二万人」に変わっており、これが難民の実数検証に混乱をきたす原因になっていると指摘されている[11]。早坂は上記東亜旅行社の記録の多くがユダヤ人ではないかと考え、数千人と推定している[12]。松浦寛は、当時の浜洲線の車両編成や乗務員の証言から割り出された100-200人という推計[13] を追認している[8]。満鉄会では、ビザを入手できなかった厳密な意味での人数は100人程度と推計しているという[14]。
樋口がユダヤ人救助に尽力したのは、彼がグルジアを旅した際の出来事がきっかけとされている。ポーランド駐在武官当時、コーカサス地方を旅行していた途中チフリス郊外のある貧しい集落に立ち寄ると、偶然呼び止められた一人の老人がユダヤ人であり、樋口が日本人だと知ると顔色を変えて家に招き入れたという。そして樋口に対し、ユダヤ人が世界中で迫害されている事実と、日本の天皇こそがユダヤ人が悲しい目にあった時に救ってくれる救世主に違いないと涙ながらに訴え祈りを捧げた。オトポールに辿り着いたユダヤ人難民の報告を受けたとき、樋口はその出来事が脳裏をよぎったと述懐している[15]。
この事件は日独間の大きな外交問題となり、ドイツのリッベントロップ外相(当時)からの抗議文書が届いた[16]。また、陸軍内部でも樋口に対する批判が高まり、関東軍内部では樋口に対する処分を求める声が高まった[16]。そんな中、樋口は関東軍司令官植田謙吉大将(当時)に自らの考えを述べた手紙を送り、司令部に出頭し関東軍総参謀長東条英機中将(当時)と面会した際には「ヒットラーのおさき棒を担いで弱い者苛めすることを正しいと思われますか」と発言したとされる[17]。この言葉に理解を示した東条英機は、樋口を不問とした[18]。東条の判断と、その決定を植田司令も支持したことから関東軍内部からの樋口に対する処分要求は下火になり[19]、独国からの再三にわたる抗議も、東条は「当然なる人道上の配慮によって行ったものだ」と一蹴した[20]。
孫の樋口隆一明治学院大名誉教授は2018年6月15日にイスラエルのテルアビブKeren Kayemeth Lelsrael Jewish National Fund本部において「ヒグチ・ルート」で逃れた生存者カール・フリードマン氏の息子から「季一郎氏のユダヤ人コミュニティーに対する前向きな姿勢がユダヤ人救出を可能にした」事により「ゴールデンブック」証書を授与している[2][21][22]。
ちなみに、樋口に関してよく言及される「ゴールデンブック」とは、パレスチナで土地購入、植林、イスラエル国家の境界線の設定などを主な業務とする組織Keren Kayemeth Lelsrael Jewish National Fund(ユダヤ民族基金)が管理する貢献者や献金者の名簿である[23][24][25]。
アッツ島玉砕、キスカ島撤退
太平洋戦争開戦翌年の1942年(昭和17年)8月1日、札幌に司令部を置く北部軍(のち北方軍・第5方面軍と改称)司令官として北東太平洋陸軍作戦を指揮。1943年アッツ島玉砕、キスカ島撤退(いずれも対アメリカ)を指揮した。キスカ島撤退作戦に際しては、海軍側からの要請に応じ、陸軍中央の決裁を仰がずに自らの一存で「救援艦隊がキスカに入港し、大発動艇に乗って陸を離れ次第、兵員は携行する小銃を全て海中投棄すべし」という旨をキスカ島守備隊に命じ、収容時間を短縮させ、無血撤退の成功に貢献した[26]。帝国陸軍では菊花紋章の刻まれた小銃を神聖視しており[27]、撤退成功の後、小銃の海中投棄が陸軍中央に伝わり、陸軍次官の富永恭次中将がこれを問題視したが、富永は陸士の4期先輩である樋口を以前から苦手にしていたため、小銃の海中投棄を命じたのが樋口であると知ると矛を収めたという[26]。
終戦後、対ソ連占守島・樺太防衛戦
日本の降伏直前、ソ連対日参戦が発生。樋口は1945年8月18日以降、占守島、南樺太におけるソ連侵攻軍への抗戦を指揮した。そのため極東国際軍事裁判に際し、スターリンは当時軍人として札幌に在住していた樋口を「戦犯」に指名した。
世界ユダヤ人会議はいち早くこの動きを察知して、世界中のユダヤ人コミュニティーを動かし、在欧米のユダヤ人金融家によるロビー活動も始まった。世界的な規模で樋口救済運動が展開された結果、日本占領統治を主導していた連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)のダグラス・マッカーサーはソ連からの引き渡し要求を拒否、樋口の身柄を保護した[28][29][注 3]。
戦後
極東国際軍事裁判で無罪となった樋口は1946年、北海道小樽市外朝里に隠遁。1947年に宮崎県小林市(その後、都城市)へ転居する。1970年に東京都文京区白山に転居し、その年に死去した。墓所は神奈川県大磯町の妙大寺。
人物
・橋本欣五郎と共に桜会の中心的人物であったが、意見の相違から喧嘩別れした。また、二・二六事件を起こした青年将校らとも懇意で、武力に訴えて行動を起こすことを諌めていたと言う。さらに、相沢事件が起きたとき、樋口は、永田鉄山を惨殺した相沢三郎の直接の上官であった。血盟団事件では大蔵栄一から血盟団員の古内栄司を匿うよう依頼を受け了承している。
・石原莞爾と阿南惟幾とは友人だった。また、ミハエル・コーガンとも親交があった。
・安江仙弘らと共に河豚計画を進めるが、シベリア出兵に参加した軍関係者の多くがユダヤ陰謀論に傾くなか、彼は「『排ユダヤ主義』否定だけで十分であろう」という立場であった。彼は、酒井勝軍の日ユ同祖論を一笑に付する一方で、極めて反ユダヤ的な偽書『シオン賢者の議定書』を当初から眉唾物としており、ユダヤ主義とマルキシズムを同一視できないとしている。樋口は、当時の軍人たちが陥った陰謀論、あるいは過度のユダヤ贔屓から離れ、極めて冷静な判断をしている。
・樋口季一郎の孫の樋口隆一明治学院大学名誉教授が、祖父に関する調査を行っており、日本で講演などを行ったり2018年にイスラエルを訪問したりしている[30]。隆一は24歳まで季一郎と同居していた[31]。
年譜
・明治21年 (1888年) 淡路島の阿万村に生まれる(旧姓奥浜)
・明治34年 (1901年) 三原高等小学校2年終了後、篠山の私立尋常中学鳳鳴義塾に入学。
・明治35年(1902年)9月 - 大阪陸軍地方幼年学校に入校。
・明治42年(1909年)5月 - 陸軍士官学校卒業(21期)。
・大正7年(1918年)11月 - 陸軍大学校卒業(30期)。
・大正8年(1919年)7月 - 陸軍歩兵大尉に進級、参謀本部附勤務。
・12月 - ウラジオストク特務機関員として派遣軍司令部附(シベリア出兵)。ロシア系ユダヤ人ゴリドシュテイン家の一室に住む(同家はキャディラックを扱う貿易商)。
・大正9年(1920年) - ハバロフスク特務機関長として孤立(無責任な上層部への義憤)。
・大正11年(1922年)4月 - 参謀本部部員。
・大正13年(1924年)8月20日 - 陸軍歩兵少佐に進級[32]。
・大正14年(1925年)5月 - ポーランド公使館附武官。ウクライナほかを視察。
・昭和3年(1928年)2月 - 中華民国山東省青島に駐留。歩兵第45連隊附。
・7月 - 帰朝。
・昭和4年(1929年)8月 - 技術本部附(陸軍省新聞班員)。
・昭和5年(1930年)8月1日 - 東京警備参謀。
・昭和8年(1933年)
・8月1日 - 歩兵第41連隊長(福山)。
・昭和10年(1935年)8月1日 - ハルビン第3師団参謀長。
・昭和12年(1937年)3月1日 - 参謀本部附(ナチス・ドイツの首都ベルリンへの出張)。
・12月26日・27日 - 第1回極東ユダヤ人大会がハルビンで開催。
・昭和13年(1938年)
・3月 - ユダヤ人難民事件(オトポール事件)。
・7月15日 - 参謀本部第二部長。
・12月 - ユダヤ人対策要綱。汪兆銘を重慶から脱出させ、1939年5月、ハノイ経由で東京に迎えた。滝野川の古河虎之助男爵別邸に匿う(日中戦争の和平工作)。
・昭和14年(1939年)
・5月~9月 - ノモンハン事件 停戦努力。「臆病軍人」と呼ばれる。
・10月2日 - 陸軍中将に進級。
・昭和17年(1942年)8月1日 - 札幌北部軍司令官[33]。
・昭和18年 (1943年) - 北方軍司令官として太平洋戦争のアリューシャン方面の戦いを指揮(アッツ島玉砕、キスカ島撤退作戦)。
・昭和19年(1944年)3月10日 - 第五方面軍司令官。
・昭和20年(1945年)2月1日 - 兼北部軍管区司令官。
・日本のポツダム宣言受諾後も続いた、8月18日以降の占守島・南樺太防衛戦を指揮。
・12月1日 - 予備役編入。
・昭和21年(1946年) - 北海道小樽市外朝里に隠遁。
・昭和22年(1947年) - 宮崎県小林市(その後、都城市)に転居。
・昭和45年(1970年) - 東京都文京区白山に転居し、老衰のため死去。82歳没。墓所は妙大寺(神奈川県大磯町)。
詳しいことは、「樋口季一郎ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%8B%E5%8F%A3%E5%AD%A3%E4%B8%80%E9%83%8E
(wikiより)
樋口季一郎
7191 平林九兵衛翁遺徳碑(品川区東大井1-20-10・鮫洲八幡神社)
7183 末松謙澄墓(品川区南品川4・東海寺清光院)
末松 謙澄(すえまつ けんちょう、安政2年8月20日(1855年9月30日) - 大正9年(1920年)10月5日)は、日本の明治から大正期のジャーナリスト・政治家・歴史家。
位階勲等爵位は正二位勲一等子爵。幼名は千松(または線松)。帝国学士院会員。
生涯
豊前国前田村(後に福岡県行橋市)に大庄屋末松房澄(通称七右衛門、号は臥雲)・伸子の4男として生まれる。
慶応元年(1865年)に地元の碩学村上仏山の私塾水哉園で漢学と国学を学び、明治4年(1871年)に上京して佐々木高行の元へ書生として住み込み、佐々木の娘・静衛がグイド・フルベッキの娘に英語を教わっていた縁で、フルベッキ家に居候となっていた高橋是清と親交を結んだ。高橋から英語を教わる代わりに漢学の教授を引き受けて互いに勉強する日々を送り、明治5年(1872年)に東京師範学校(東京教育大学、筑波大学の前身)へ入学した。しかし学校生活に不満を感じて同年に中退、高橋と協力して外国新聞の翻訳で生計を立てつつ東京日日新聞社へ記事を売り込み、明治7年(1874年)に同社の記者となり笹波萍二のペンネームで社説を執筆。同時期にアメリカ合衆国に留学していた箕作佳吉の記事を東京日日新聞に掲載させたといわれる。
やがて明治8年(1875年)に社長・福地源一郎の仲介で伊藤博文の知遇を得て正院御用掛として政府へ入り、同年の江華島事件による李氏朝鮮との交渉へ赴く黒田清隆の随行および日朝修好条規の起草に参加、帰国した翌9年(1876年)に工部省権少丞、明治10年(1877年)に西南戦争が勃発すると陸軍省出仕となり、山縣有朋の秘書官として九州を従軍、9月に西郷隆盛へ宛てた降伏勧告状を起草した。同年太政官権少書記官に転じたのもつかの間、翌明治11年(1878年)にイギリス留学を命じられ、駐在日本公使館付一等書記官見習となって2月10日に渡欧、4月1日にロンドンへ到着、外交官として赴任することになった[1]。
イギリス滞在中はしばらく公使館に勤務していたが、歴史の勉強に集中するため明治13年(1880年)12月に依願免官、翌明治14年(1881年)10月からケンブリッジ大学セント・ジョンズ・カレッジへ入学し、法学部を専攻した(箕作佳吉の兄菊池大麓の紹介があったとされる)。留学中はラテン語・ギリシャ語が課題の試験勉強に苦しみ、留学費用を賄うため三井財閥からの借金と前田利武の家庭教師代で悪戦苦闘していたが、明治17年(1884年)5月に法律の試験に合格、12月に法学士号を取得して卒業した。在学中は文学活動が顕著で、明治12年(1879年)に「義経=ジンギスカン説」を唱える論文『義経再興記』をイギリスで発表し、日本で大ブームを起こす。また明治15年(1882年)に最初の「源氏物語」の英訳を書いたり、イギリス詩人の詩を多数邦訳したりしている。1884年にケンブリッジ大学を卒業した。
第1次伊藤内閣・鹿鳴館時代の明治19年(1886年)に日本へ帰国、伊藤の意向を受けて歌舞伎の近代化のため福地源一郎・外山正一と共に演劇改良運動を興し、明治天皇の歌舞伎見物(天覧歌舞伎)を実現させた。明治21年(1888年)に法学修士号を取得、同年から明治23年(1890年)の2年がかりでバーサ・クレイの『ドラ=ソーン』を翻訳、『谷間の姫百合』と題して発表。明治22年(1889年)4月に伊藤の次女・生子と結婚。この間文部省参事官、内務省参事官、内務省県治局長を歴任、明治23年の第1回衆議院議員総選挙で福岡県から当選して衆議院議員となり政界入りした。大成会、中央交渉会に属し政治姿勢は政府寄りの立場を取った。
明治25年(1892年)に第2次伊藤内閣が成立すると伊藤の引き立てで法制局長官に就任、在任中の明治28年(1895年)に男爵に叙せられ、翌明治29年(1896年)に互選で貴族院議員となった。同年に法制局長官を辞任するも明治31年(1898年)の第3次伊藤内閣で逓信大臣になり、明治33年(1900年)に伊藤が創立した立憲政友会へ入会、同年に成立した第4次伊藤内閣の内務大臣を歴任した。辞任後は明治29年から毛利氏および家政を統括していた井上馨の依頼で、長州藩の歴史を調べ毛利氏の歴史編纂事業を開始したが、他藩出身であったことと山路愛山・笹川臨風・堺利彦・斎藤清太郎ら新規採用組も長州藩士でなかったため長州藩出身者から嫌われ、井上に更迭された前総裁の宍戸璣が新聞に更迭された不満を暴露した記事が掲載されるなど編纂事業は凍結、日露戦争開始による新たな任務遂行のため一時中断となった[2]。
明治37年(1904年)に日露戦争が勃発すると、伊藤を含めた政府・元老達からヨーロッパに対する日本の立場を説明し好意的な世論形成、および日本への悪感情を和らげるため黄禍論の拡大防止を含めた広報活動を命じられ、宣戦布告した2月10日にカナダ・アメリカ経由で渡欧(2月24日に伊藤から同様の命令を受けた金子堅太郎が渡米)、3月にイギリスに到着すると広報を開始、イギリス・フランスを主として戦争に対する日本の弁護論と偏見に対する反論演説を展開した。明治38年(1905年)までに黄禍論は沈静化したことを政府に打電しつつ、なおもヨーロッパに留まり新聞取材や演説・論文寄稿などを続け、明治39年(1906年)1月にフランスを出発して2月に帰国、海外の功績を認められ3月に枢密顧問官、翌明治40年(1907年)に子爵に昇叙、帝国学士院会員にも選ばれた。
明治44年(1911年)、中断していた毛利氏歴史編纂事業が明治維新全体の歴史を纏めた一級資料『防長回天史』として初版脱稿された。ローマ法も研究するようになり大正2年(1913年)に『ユスチニアーヌス帝欽定羅馬法提要』、大正4年(1915年)に『ガーイウス羅馬法解説』『ウルピアーヌス羅馬法範』を翻訳・刊行した。大正9年(1920年)9月に『防長回天史』修訂版を脱稿するが、10月5日、全世界で大流行していたスペインかぜに罹患したことが原因で死去。享年65。子が無かったため、甥の春彦が爵位を相続した[3]。
墓は東京都品川区北品川4丁目の清光院、法名は蓮性院殿古香青萍大居士。
・1920年(大正9年)10月6日 - 正二位[8]
勲章等
・1889年(明治22年)11月29日 - 大日本帝国憲法発布記念章[9]
・1890年(明治23年)6月30日 - 勲五等瑞宝章[10]
・1893年(明治26年)12月28日 - 勲四等瑞宝章[11]
・1895年(明治28年)10月31日 - 男爵・勲三等旭日中綬章[12]
・1906年(明治39年)4月1日 - 勲一等旭日大綬章[13]
家族・親族
・妻:生子(1868年 - 1934年) - 初代内閣総理大臣伊藤博文の次女
・養子:春彦(1896年 - 1977年) - 甥、弟凱平の次男
・養女:澤子(1899年 - 1942年) - 義妹、伊藤博文の庶子で生子の異母妹。会津藩出身の工学者大竹多気の長男虎雄に嫁ぐ[17]。虎雄は大蔵官僚で会津会会員。
出典
1. 松村、P7 - P10、P39、P53 - P56、P240 - P244、P305 - P306、臼井、P546、小山、P134 - P135、伊藤、P159。 2
.
松村、P39 - P40、P53 - P69、P306 - P310、臼井、P546、小山、P135 - P147、伊藤、P229、P309 - P310、P393、P438、P444。
3.
松村、P11 - P51、P250 - P285、P310 - P317、霞会館、P768、臼井、P546、小山、P224 - P225、伊藤、P486 - P487。
4.
『太政官日誌』明治9年1月-6月
5.
『官報』第907号「叙任及辞令」1886年7月10日。
6.
『官報』第4383号「叙任及辞令」1898年2月15日。
7.
『官報』第8624号「叙任及辞令」1912年3月22日。
8.
『官報』第2455号「叙任及辞令」1920年10月7日。
9.
『官報』第1932号「叙任及辞令」1889年12月5日。
10.
『官報』第2100号「叙任及辞令」1890年7月1日。
11.
『官報』第3152号「叙任及辞令」1893年12月29日。
12.
『官報』第3704号「叙任及辞令」1895年11月1日。
13.
『官報』号外「叙任及辞令」1907年3月31日。
14.
『官報』第7273号「授爵・叙任及辞令」1907年9月25日。
15.
『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
16.
『官報』第2455号「叙任及辞令」1920年10月7日。
17. “大竹多気展 大竹家・松田家東の家系”. 山形大学工学部広報室. 2014年6月4日閲覧。霞会館、P768、伊藤、P378。
参考文献
・玉江彦太郎『若き日の末松謙澄-在英通信』海鳥社、1992年1月。ISBN 4874150071
・松村正義『ポーツマスへの道-黄禍論とヨーロッパの末松謙澄』原書房、1987年1月。ISBN 4562018453
・Japanese Students at Cambridge University in the Meiji Era, 1868-1912: Pioneers for the Modernization of Japan, by Noboru Koyama, translated by Ian Ruxton, Lulu Press, September 2004, ISBN 1411612566
・"Suematsu Kencho, 1855-1920: Statesman, Bureaucrat, Diplomat, Journalist, Poet and Scholar," by Ian Ruxton, Chapter 6, Britain & Japan: Biographical Portraits, Volume 5, edited by Hugh Cortazzi, Global Oriental, 2005, ISBN 1901903486
・霞会館華族家系大成編輯委員会編『平成新修旧華族家系大成 上巻』吉川弘文館、1996年。
・小山騰『破天荒<明治留学生>列伝』講談社選書メチエ、1999年。
・臼井勝美・高村直助・鳥海靖・由井正臣編『日本近現代人名辞典』吉川弘文館、2001年。
・伊藤之雄『伊藤博文 近代日本を創った男』講談社、2009年。
・城戸淳一著『京築の文学散歩』花乱社、2020年
関連項目
・日英関係
・Suyematz, Kenchio (1882). Genji Monogatari : The Most Celebrated of the Classical Japanese Romances. London: Trubner (源氏物語英訳。17帖のみの抄訳。Hathi Trust リンクは米国内のみ有効?色刷り扉絵の画像は無い)
・Japanese Literature - Including Selections from Genji Monogatari and Classical Poetry and Drama of Japan - プロジェクト・グーテンベルク (同上の電子プレーンテキストを収録)
(wikiより)

末松謙澄



⇩ 末松謙澄碑



7159 鈴木孝雄墓(野田市関宿台町2140・実相寺)
鈴木 孝雄(すずき たかお、明治2年10月29日(1869年12月2日) - 1964年(昭和39年)1月29日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。栄典は勲一等功三級。砲兵監・第14師団長・陸軍技術本部長・軍事参議官を歴任。
現役を退いてから靖国神社第4代宮司及び大日本青少年団長を務め、戦後は偕行社会長となる。
経歴
旧関宿藩士鈴木由哲の子として東京に生まれ、前橋中学校・成城学校を経て1889年(明治22年)11月、陸軍士官学校に入校し、1891年(明治24年)7月30日卒業する。士官候補生(士候)2期。1892年(明治25年)3月21日、陸軍砲兵少尉に任官し、野砲兵第1連隊附を命ぜられる。鈴木の士候2期の同期生には台湾軍司令官菅野尚一大将、朝鮮軍司令官森岡守成大将、中国で軍事顧問を務めた坂西利八郎中将や、侍従武官の山根一貫少将がいる。
1894年(明治27年)10月に中尉に進級した鈴木は日清戦争に出征し、帰還後の1896年(明治29年)11月、陸軍砲工学校を卒業し独立野戦砲兵大隊附を命ぜられる。1897年(明治30年)4月から第7師団副官となり、1902年(明治35年)12月から陸軍大学校教官を兼ねる。1904年(明治37年)3月、野砲兵第8連隊附となり、同年6月に日露戦争の動員下令と共に野砲兵第8連隊補充大隊長を命ぜられる。1905年(明治38年)1月、野砲兵第10連隊大隊長を命ぜられ2月に出征する。同年11月から関東総督府砲兵部員に移り、1907年(明治40年)2月、野砲兵監部附、同年11月、砲兵中佐に進級し近衛野砲連隊附を命ぜられる。
1909年(明治42年)4月、陸軍省軍務局課員の後、1911年(明治44年)9月からヨーロッパ出張を命ぜられる。
1912年(明治45年)5月8日に野砲兵第21連隊長に任命され、7月15日、砲兵大佐に進級し、同8月に帰国する。1914年(大正3年)5月11日から陸軍省軍務局砲兵課長に就任、同6年8月6日には陸軍少将に進級して野砲兵第1旅団長、1919年(大正8年)2月20日、野戦重砲兵第1旅団長、1921年(大正10年)3月11日から陸軍士官学校長を務める。同年7月20日、陸軍中将に進級、1922年(大正11年)8月15日、砲兵監を拝命する。
1924年(大正13年)2月4日、第14師団長に親補され、同年8月20日、陸軍技術本部長に移る。1926年(大正15年)7月28日に軍事参議官に親補され、兼勤として引き続き陸軍技術本部長を命じられた[1]。1927年(昭和2年)7月26日、陸軍大将に親任される。1928年(昭和3年)3月8日、陸軍技術本部長の兼勤を免じられる。1933年(昭和8年)3月30日、予備役、1935年(昭和10年)4月、後備役。
1938年(昭和13年)4月21日から靖国神社宮司を務め、1942年(昭和17年)8月には大日本青少年団長を兼ねる。青少年団長は1945年(昭和20年)6月に退任、靖国神社宮司は1946年(昭和21年)1月17日に退任する。同年、公職追放される[2]。
戦後になって1952年(昭和27年)3月に追放解除[3]。1954年(昭和29年)4月から旧陸軍将校たちでつくる偕行社会長に就任し、1958年(昭和33年)7月に退任する。
1964年(昭和39年)1月29日死去。
栄典
位階
・1892年(明治25年)7月6日 - 正八位[4]
勲章等
・1927年(昭和2年)9月6日 - 勲一等瑞宝章
・功三級金鵄勲章
親族
・内閣総理大臣鈴木貫太郎(男爵・海軍大将)は兄。永田茂陸軍中佐は末弟。
・妻 鈴木モト 立見尚文陸軍大将の娘。
・娘の夏子は小田村有芳長男・嘉穂の妻。
脚注
1. 帝国陸軍では、親補職にあった中将が、親補職でない職に就く際に、一定の基準で、親補職たる軍事参議官を本職、親補職でない職を兼勤させる慣習があった。額田坦『陸軍省人事局長の回想』芙蓉書房、1977年(昭和52年)、227頁。
2. 『朝日新聞』1946年2月10日一面。
3. 『朝日新聞』1952年3月10日夕刊一面。
4. 『官報』第2707号「叙任及辞令」1892年7月7日。
5. 『官報』第1967号「叙任及辞令」1933年7月22日。
(wikiより)
鈴木孝雄
7158 鈴木貫太郎墓(野田市関宿台町2140・実相寺)
鈴木 貫太郎(すずき かんたろう、1868年1月18日〈慶応3年12月24日〉- 1948年〈昭和23年〉4月17日)は、日本の海軍軍人、政治家。最終階級は海軍大将。栄典は従一位勲一等功三級男爵。
海軍士官として海軍次官、連合艦隊司令長官、海軍軍令部長(第8代)などの顕職を歴任した。予備役編入後に侍従長に就任、さらに枢密顧問官も兼任した。枢密院副議長(第14代)、枢密院議長(第20・22代)を務めたあと、小磯國昭の後任として内閣総理大臣(第42代)に就任した。一時、外務大臣(第70代)、大東亜大臣(第3代)も兼任した。陸軍の反対を押し切って、ポツダム宣言受諾により第二次世界大戦を終戦に導いた。
生涯
生い立ちから海軍時代
1868年1月18日(慶応3年12月24日)、和泉国大鳥郡伏尾新田(現在の大阪府堺市中区伏尾で、当時は下総関宿藩の飛地)に関宿藩士で代官の鈴木由哲と妻・きよの長男として生まれる。1871年(明治4年)に本籍地である千葉県東葛飾郡関宿町(現・野田市)に居を移す。
1877年(明治10年)、群馬県前橋市に転居し、厩橋学校、前橋中学、攻玉社を経て、1884年(明治17年)に海軍兵学校に入学(14期)。1895年(明治28年)、日清戦争に従軍。第三水雷艇隊所属の第五号型水雷艇第6号艇艇長として威海衛の戦いに参加し、発射管の不備もあって夜襲では魚雷の発射に失敗したものの(戦後、部下の上崎辰次郎上等兵曹が責任を感じ自決している)、湾内の防材の破壊や偵察などに従事した。その後、海門航海長として台湾平定に参加、次いで比叡、金剛を経て、1897年(明治30年)海軍大学校入学、砲術を学んだ後、1898年(明治31年)甲種学生として卒業。
1888年(明治21年)に、旧会津藩士・大沼親誠の娘・とよと結婚した。とよの姉は出羽重遠夫人である[2][3]。
ドイツ駐在中だった1903年(明治36年)9月26日に鈴木は中佐に昇進したが、一期下の者たちより低いその席次[注 1]に腹をたて退役まで検討したが、「日露関係が緊迫してきた、今こそ国家のためにご奉公せよ」という手紙を父親から受けたことにより、思いとどまったという[4]。同年末に日本海軍は対ロシア戦のため、アルゼンチンの発注でイタリアにおいて建造され竣工間近であった装甲巡洋艦「リバタビア」を急遽購入し[5]、同艦は「春日」と命名され、鈴木がその回航委員長に任じられた[5]。
「春日」とその僚艦「日進」が日本に近付いた1904年(明治37年)2月、日本が仕掛ける形で日露戦争が始まった。日本に到着した鈴木はそのまま「春日」の副長に任命され[6]、黄海海戦にも参加している[7]。その後第五駆逐隊司令を経て[8]、翌1905年(明治38年)1月に第四駆逐隊司令に転じ[9]、持論だった高速近距離射法を実現するために猛訓練を行い[8]、部下から鬼の貫太郎、鬼の艇長、鬼貫と呼ばれたが、自らの駆逐隊で敵旗艦である戦艦「クニャージ・スヴォーロフ」、同「ナヴァリン」、同「シソイ・ヴェリキィー」に魚雷を命中させるなどの戦果を挙げ[10]、日本海海戦の勝利に貢献した。日露戦争後の海軍大学校教官時代には駆逐艦、水雷艇射法について誤差猶予論、また軍艦射法について射界論を説き、海軍水雷術の発展に理論的にも貢献している[11]。この武勲により、功三級金鵄勲章を受章する。
1914年(大正3年)、海軍次官となり、シーメンス事件の事後処理を行う。1923年(大正12年)、海軍大将となり、1924年(大正13年)に連合艦隊司令長官に、翌年海軍軍令部長に就任。
海軍出の侍従長
1929年(昭和4年)に昭和天皇と皇太后・節子(貞明皇后)の希望で、予備役となり侍従長に就任した。鈴木自身は宮中の仕事には適していないと考えていた。鈴木が侍従長という大役を引き受けたのは、それまで在職していた海軍の最高位である軍令部長よりも侍従長が宮中席次にすると30位くらいランクが下だったが、格下になるのが嫌で天皇に仕える名誉ある職を断った、と人々に思われたくなかったからといわれる。[4]
宮中では経験豊富な侍従に大半を委ねつつ、いざという時の差配や昭和天皇の話し相手に徹し、「大侍従長」と呼ばれた。また、1930年(昭和5年)に、海軍軍令部長・加藤寛治がロンドン軍縮条約に対する政府の回訓案に反対し、単独帷幄上奏をしようとした際には、後輩の加藤を説き伏せ思い留まらせている[12]。本来、帷幄上奏を取り次ぐのは侍従武官長であり、当の奈良武次が「侍従長の此処置は大に不穏当なりと信ず」と日記に記しているように、鈴木の行動は越権行為のおそれがあった[13]。
昭和天皇の信任が厚かった反面、国家主義者・青年将校たちからは牧野伸顕と並ぶ「君側の奸」と見なされ、このあと命を狙われることになった[14]。一方で宮内省側でも青年将校らの動向は当時懸念されており、「若し軍人が宮中に武装してきたらどうするか」が論議されたときには、鈴木は即座に「軍人でもなんでも無法の者は撃て」と述べたという[15]。
二・二六事件
1936年(昭和11年)2月26日に二・二六事件が発生した。事件前夜に鈴木はたか夫人と共に駐日アメリカ大使ジョセフ・グルーの招きで夕食会に出席した後、11時過ぎに麹町三番町の侍従長官邸に帰宅した。
午前5時頃に安藤輝三陸軍大尉の指揮する一隊が官邸を襲撃した[16]。はじめ安藤の姿はなく、下士官が兵士たちに発砲を命じた。鈴木は四発を肩、左脚付根、左胸、脇腹に被弾し倒れ伏した[16]。血の海になった八畳間に現れた安藤に対し、下士官の一人が「中隊長殿、とどめを」と促した[16]。安藤が軍刀を抜くと、部屋の隅で兵士に押さえ込まれていた妻のたかが「おまちください!」と大声で叫び、「老人ですからとどめは止めてください。どうしても必要というならわたくしが致します」と気丈に言い放った[16]。安藤はうなずいて軍刀を収めると、「鈴木貫太郎閣下に敬礼する。気をつけ、捧げ銃」と号令した[16]。そしてたかの前に進み、「まことにお気の毒なことをいたしました[16]。われわれは閣下に対しては何の恨みもありませんが、国家改造のためにやむを得ずこうした行動をとったのであります」と静かに語り、女中にも自分は後に自決をする意を述べた後、兵士を引き連れて官邸を引き上げた[16]。
反乱部隊が去った後、鈴木は自分で起き上がり「もう賊は逃げたかい」と尋ねた。たかは止血の処置をとってから宮内大臣の湯浅倉平に電話をかけ、湯浅は医師の手配をしてから駆けつけた[17]。鈴木の意識はまだはっきりしており、湯浅に「私は大丈夫です。ご安心下さるよう、お上に申し上げてください」と言った[4][17]。声を出すたびに傷口から血が溢れ出ていた[17]。鈴木は大量に出血しており、駆けつけた医師がその血で転んだという風評が立った[17]。
近所に住んでいた日本医科大学学長・塩田広重とたかが血まみれの鈴木を円タクに押し込み日医大飯田町病院に運んだが、出血多量で意識を喪失、心臓も停止した[18]。直ちに甦生術が施され、枕元ではたかが必死の思いで呼びかけたところ[注 2]、奇跡的に息を吹き返した[18]。頭と心臓、及び肩と股に拳銃弾を浴び瀕死の重症だったが、胸部の弾丸が心臓をわずかに外れたことと頭部に入った弾丸が貫通して耳の後ろから出たことが幸いした[20]。
安藤輝三は以前に一般人と共に鈴木を訪ね時局について話を聞いており面識があった[20]。安藤は鈴木について「噂を聞いているのと実際に会ってみるのでは全く違った。あの人は西郷隆盛のような人だ。懐の深い大人物だ」と言い[21]、後に座右の銘にするからと書を鈴木に希望し、鈴木もそれに応えて書を安藤に送っている[21]。安藤が処刑された後に、鈴木は記者に「首魁のような立場にいたから止むを得ずああいうことになってしまったのだろうが、思想という点では実に純真な、惜しい若者を死なせてしまったと思う」と述べた[21]。決起に及び腰であった安藤に対して磯部浅一は死ぬまで鈴木を憎み続け、獄中で残した日記で他の「君側の奸」たちとともに繰り返し罵倒している。
1937年(昭和12年)1月、鈴木の生地に鎮座する多治速比売神社に二・二六事件での負傷からの本復祝としてたか夫人と参拝し「重症を負った時、多治速比売命が、枕元にお立ちになって命を救われました。そのお礼にお参りに来ました。」と語ったと、当時の宮司夫人等により伝えられている[22]。
内閣総理大臣に就任
1941年12月に日本は大東亜戦争に参戦したが、戦況が悪化した1945年(昭和20年)4月、枢密院議長に就任していた鈴木は、戦況悪化の責任をとり辞職した小磯國昭の後継を決める重臣会議に出席した[23]。
構成メンバーは6名の総理経験者と内大臣の木戸幸一、そして枢密院議長の鈴木であった[23]。若槻禮次郎、近衛文麿、岡田啓介、平沼騏一郎らは首相に鈴木を推したが[24]、鈴木は驚いて「とんでもない話だ。お断りする」と答えた[4][25]。しかし既に重臣の間では昭和天皇の信任が厚い鈴木の首相推薦について根回しが行われていた。
東條英機は、陸軍が本土防衛の主体であるとの理由で元帥陸軍大将の畑俊六を推薦し[26]、「陸軍以外の者が総理になれば、陸軍がそっぽを向く恐れがある」と高圧的な態度で言った[27]。これに対して岡田啓介が「陛下のご命令で組閣をする者にそっぽを向くとは何たることか。陸軍がそんなことでは戦いがうまくいくはずがないではないか」と東條をたしなめ[28]、東條は反論できずに黙ってしまった[24]。こうして重臣会議では鈴木を後継首班にすることが決定された[25]。
重臣会議の結論を聞いて天皇は鈴木を呼び、組閣の大命を下した[29]。この時の遣り取りについては、侍立した侍従長の藤田尚徳の証言がある[29]。「軍人は政治に関与せざるべし」という信念があったことなどから[30]あくまで辞退の言葉を繰り返す鈴木に対して[31]、「鈴木の心境はよくわかる。しかし、この重大なときにあたって、もうほかに人はいない。頼むから、どうか曲げて承知してもらいたい」と天皇は述べた[32][33]。鈴木は自分には政治的手腕はないと思っていたが、天皇に「頼む」とまで言われそれ以上固辞しなかった[33]。皇太后は天皇よりも30歳以上年上の鈴木に対し、「どうか陛下の親代わりになって」と語った。
鈴木は非国会議員[注 3]、江戸時代生まれ[注 4]という二つの点で、内閣総理大臣を務めた人物の中で、最後の人物である(但し鈴木が亡くなった時点で平沼のほか、岡田や若槻も存命していたため江戸時代生まれの首相経験者で最後の生き残りではない)。また満77歳2ヶ月での就任は、日本の内閣総理大臣の就任年齢では、最高齢の記録である(2020年8月現在)[注 5]。
鈴木は総理就任にあたり、メディアを通じて次のように表明した[34]。
今日、私に大命が降下いたしました以上、私は私の最後のご奉公と考えますると同時に、まず私が一億国民諸君の真っ先に立って、死に花を咲かす。国民諸君は、私の屍を踏み越えて、国運の打開に邁進されることを確信いたしまして、謹んで拝受いたしたのであります。
— 昭和20年4月7日、内閣総理大臣 鈴木貫太郎
日米関係への姿勢
鈴木の就任後、まもなく死亡したアメリカ大統領ルーズベルトの訃報を知ると、同盟通信社の短波放送により、
今日、アメリカがわが国に対し優勢な戦いを展開しているのは亡き大統領の優れた指導があったからです。私は深い哀悼の意をアメリカ国民の悲しみに送るものであります。しかし、ルーズベルト氏の死によって、アメリカの日本に対する戦争継続の努力が変わるとは考えておりません。我々もまたあなた方アメリカ国民の覇権主義に対し今まで以上に強く戦います。
— 内閣総理大臣 鈴木貫太郎
という談話を、世界へ発信している[35]。1945年4月23日のTIME誌の記事では、以下のように発言が引用されている。
I must admit that Roosevelt's leadership has been very effective and has been responsible for the Americans' advantageous position today. For that reason I can easily understand the great loss his passing means to the American people and my profound sympathy goes to them.
翻訳:大日本帝国としては、ルーズベルト大統領のリーダーシップが優れており、それが現在のアメリカ優勢の戦況をもたらしていることを認めざるを得ません。よって彼の死去はアメリカ人にとって大きな損失であることを理解し、これに哀悼の意を表します。
同じ頃、同盟国であるドイツ総統アドルフ・ヒトラーも敗北寸前だったが、ラジオ放送でルーズベルトを口汚く罵っていた[32]。アメリカに亡命していたドイツ人作家トーマス・マンが鈴木のこの放送に深く感動し、イギリスBBCで「ドイツ国民の皆さん、東洋の国・日本には、なお騎士道精神があり、人間の死への深い敬意と品位が確固として存する。鈴木首相の高らかな精神に比べ、あなたたちドイツ人は恥ずかしくないですか」と声明を発表するなど、鈴木の談話は戦時下の世界に感銘を与えた[36]。
一方、ドイツの首脳であるヨーゼフ・ゲッベルスは日記において「日本大使も認めているように降伏のための内閣で、期待はできない」、「最近のヨーロッパについての言及ではドイツがまるで出てこない」など新内閣が降伏を前提として誕生したものと早くから見破っていた。鈴木の側も国家元首であるヒトラーの自殺には追悼声明もせずに、東京のドイツ大使館で行われた追悼式典に儀典課長を派遣した程度に留めていた。[要出典]
戦局が悪化し決戦態勢構築が進められていた1945年(昭和20年)6月9日、貴族院および衆議院本会議の演説で、鈴木は徹底抗戦への心構えを述べる中でアメリカの「非道」に触れるに際し、1918年(大正7年)のサンフランシスコ訪問時に「太平洋は名の如く平和の洋にして日米交易のために天の与えたる恩恵である、もしこれを軍隊搬送のために用うるが如きことあらば、必ずや両国ともに天罰を受くべしと警告した」というエピソードを紹介した。
2日後の衆議院の委員会で、質問に立った小山亮から「国民は詔勅にある『天佑』を信じて戦いに赴いているのであり、天罰を受けるなどという考えは毛頭持っていないだろう」として、演説での発言が国民に悪影響を与えるのではないかという疑念を打ち消すような釈明を求められた。これに対する鈴木の答弁(発言を後から取り消したため会議録では抹消されている)に議場は紛糾し、その後の再度の鈴木の釈明に「これでは内閣に信を置けない」として、小山は質問を打ち切り、退席する事態となった(天罰発言事件)。
議会召集に最初から反対していた和平派の海軍大臣・米内光政は、内閣を反逆者扱いする議会に反発して、閉会を主張するとともに辞意を表明、内閣は瓦解の危機に瀕した[37]。抗戦派と目された陸軍大臣・阿南惟幾は、鈴木とともに米内を説得し、内閣瓦解をなんとか防いだ[37]。
この鈴木の国会演説に関して半藤一利は、鈴木が日本の立場(平和を愛する天皇と国家)を訴えて、連合国の無条件降伏の主張を変えさせることが目的だったと記している[38]。これに対し保阪正康は、鈴木の意図は天皇との暗黙の了解のもと、議会に真意を汲ませて和平へと国論を向ける助力とすることにあったと述べている[37]。
終戦工作
1945年(昭和20年)6月6日、最高戦争指導会議に提出された内閣総合企画局作成の『国力の現状』では、産業生産力や交通輸送力の低下から、戦争継続がほとんどおぼつかないという状況認識が示されたが、「本土決戦」との整合を持たせるために「敢闘精神の不足を補えば継戦は可能」と結論づけられ、6月8日の御前会議で、戦争目的を「皇土保衛」「国体護持」とした「戦争指導大綱」が決定された[39]。
この日の重臣会議で、若槻禮次郎から戦争継続についての意見を尋ねられた時、鈴木は「理外の理ということもある。徹底抗戦で利かなければ死あるのみだ!」と叫びテーブルを叩いた。このとき同席した東條英機は満足してうなずいたが、近衛文麿は微笑しており若槻が不審に思った。
これは、東條ら戦争継続派に対する鈴木のカムフラージュと言われており、内大臣(木戸幸一)に会いに行くと、「皇族をはじめ、自分たちの間では和平より道はもうないといふ事に決まって居るから、此事、お含み置きくださいといふ話。若槻さんは首相はどうなのですかと訊くと、勿論、和平説ですといふ内大臣の返事で、初めて近衛さんの微笑の謎が解けたといふ」[40]という若槻の証言が残っている。前記の「天罰」発言がなされたのはその翌日であった。
「戦争指導大綱」に従い、国民義勇戦闘隊を創設する義勇兵役法など、本土決戦のための体制作りが進められた。7月に陸軍将校の案内で、鈴木は内閣書記官長の迫水久常とともに、国民義勇戦闘隊に支給される武器の展示を見学したが、置かれていたのは、鉄片を弾丸とする先込め単発銃・竹槍・弓・刺又など、全て江戸時代の代物で、迫水が後年の回想(『機関銃下の首相官邸』)で「陸軍の連中は、これらの兵器を、本気で国民義勇戦闘隊に使わせようと思っているのだろうか。私は狂気の沙汰だと思った」と記すほどのものであった[41]。
こうした状況で、木戸幸一と米内光政の働きかけにより、6月22日の御前会議でソ連に米英との講和の仲介を働きかけることが決定された[42]。ソ連は日ソ中立条約の延長を拒否したが、条約は規定に従い1946年(昭和21年)春まで有効となっていた。「日本軍の無条件降伏」を求めたポツダム宣言に、ソ連が署名していなかったことも政府側に期待を持たせた。鈴木は「西郷隆盛に似ている」と語るなど秘書官の松谷誠らとともに、ソ連のヨシフ・スターリンに期待していた[43]。
一方でスターリンは、1945年2月のヤルタ会談で、ルーズベルトとの会談でヨーロッパ戦線が終わった後に「満州国・千島列島・樺太に侵攻する」ことを約束しており、3週間前のポツダム会談において、アメリカ大統領トルーマンに、日本から終戦の仲介依頼があったことを明かし、「日本人をぐっすり眠らせておくのが望ましい」ため「ソ連の斡旋に脈があると信じさせるのがよい」と提案しており、トルーマンもこれに同意していた[44]。
ポツダム宣言発表翌日の7月27日未明、外務省経由で宣言の内容を知った政府は、直ちに最高戦争指導会議及び閣議を開き、その対応について協議した[45]。その結果、外務大臣・東郷茂徳の「この宣言は事実上有条件講和の申し出であるから、これを拒否すれば重大な結果を及ぼす恐れがある。よって暫くこれに対する意見表示をしないで見送ろう。その間に対ソ交渉を進めソ連の出方を見た上で何分の措置をとりたい」という意見で合意し[46]、政府の公式見解は発表しないという方針を取った[47]。
翌28日付の各紙朝刊では、「帝国政府としては、米・英・重慶三国の共同声明に関しては、何等重大なる価値あるものに非ずしてこれを黙殺するであろう」等の論評が付せられたものの、その他は宣言の要約説明と経過報告に終始し、扱いも小さなものであった[48]。
ところが、継戦派の梅津美治郎・阿南惟幾・豊田副武らが、宣言の公式な非難声明を出すことを政府に強く提案し[49]、これに押し切られる形で米内が「政府がポツダム宣言を無視するという声明を出してはどうか」と提案して認められた[49][50]。
28日午後におこなわれた記者会見において、鈴木は「共同聲明はカイロ會談の焼直しと思ふ、政府としては重大な價値あるものとは認めず默殺し、斷乎戰爭完遂に邁進する」というコメントを述べた[51]。
鈴木は、ポツダム宣言に対しては意見を特に言わない、との態度をとったつもりであり、「黙殺」という言葉についても「no comment(ノーコメント、大人びた態度でしばらく賛否の態度を表明しない)」という意図をこめていたが[52]、翌日新聞各紙に「黙殺する」という言葉を大きく取り上げられ、結果的にこの発言が連合国側にポツダム宣言に対する reject(拒否)と解されたことは誤算となった[52]。この「黙殺」は同盟通信社により「ignore it entirely(全面的に無視)」と翻訳され、ロイターとAP通信では「reject(拒否)」と報道された。
記者会見に出席した同盟通信国際局長の長谷川才次は、「政府はポツダム宣言を受諾するのか」という質問に対して鈴木が「ノーコメント」と回答したことをはっきり記憶していると戦後に述べている[53]。また、鈴木の孫の哲太郎は1995年(平成7年)の8月のNHKラジオの戦後50年特集番組において、「祖父の本心は『ノーコメント』と言いたかったのだと思うが、陸軍の圧力で『黙殺』になってしまったのだろう。祖父は後で、あの『黙殺』発言は失敗だった、もっと別の表現があったと思うと漏らしていた」と語っている。
ポツダム宣言に対する大日本帝国政府の断固たる態度を見たアメリカが、日本への原子爆弾投下を最終的に決断したとの見方もある[注 6]。鈴木自身は自叙伝のなかで、「(軍部強硬派の)圧力で心ならずも出た言葉であり、後々にいたるまで余の誠に遺憾とする点」であると反省している[55]。
高木惣吉海軍少将は米内に対して「なぜ総理にあんなくだらぬことを放言させたのですか」と質問したが、米内は沈黙したままで、鈴木のみが責をとった形となった。
トルーマンの日記には7月25日に「この兵器(原爆)は日本の軍事基地に対して今日から8月10日までの間に用いられる」と記しており、鈴木の発言とは関わりがない[56]。この7月25日は原爆投下の正式な日取りが決定された日で、長谷川毅は、トルーマンが日本のポツダム宣言拒否後に原爆投下を決定したというのは歴史的事実に反し、宣言発表前に原爆投下は既に決定されており、むしろ投下を正当化するためにポツダム宣言が出されたのだと述べている[57]。
一方で、同時期にポツダム宣言を受諾するよう促された鈴木が、内閣情報局総裁下村宏等に、「今戦争を終わらせる必要はない」との発言をしたという記録もある[58]。また、トルーマンは「今のところ最後通牒に正式な返答はない。計画に変更はなし。原爆は、日本が降伏しない限り、8月3日以後に(軍事基地に)投下されるよう手配済みである」と述べており、原爆投下の決定は「黙殺」発言に影響を受けていないにせよ、原爆投下計画は、日本側の沈黙を受けてのものであることにかわりはない。
8月6日の広島市への原子爆弾投下、9日のソ連対日参戦と長崎市への原子爆弾投下、15日の終戦に至る間、鈴木は77歳の老体を押して不眠不休に近い形で終戦工作に精力を尽くした。昭和天皇の希望は「軍や国民の混乱を最低限に抑える形で戦争を終らせたい」というものであり、鈴木は「天皇の名の下に起った戦争を衆目が納得する形で終らせるには、天皇本人の聖断を賜るよりほかない」と考えていた。
8月10日未明[注 7]から行われた天皇臨席での最高戦争指導会議(御前会議)では、ポツダム宣言受諾を巡り、東郷茂徳が主張し米内光政と平沼騏一郎が同意した1条件付受諾と、本土決戦を主張する阿南惟幾が参謀総長・梅津美治郎と軍令部総長・豊田副武の同意を受け主張した4条件付受諾との間で激論がたたかわされ、結論がでなかった[59]。
午前2時頃に鈴木が起立し、「誠に以って畏多い極みでありますが、これより私が御前に出て、思召しを御伺いし、聖慮を以って本会議の決定と致したいと存じます」と述べた[60]。昭和天皇は涙ながらに、「朕の意見は、先ほどから外務大臣の申しているところに同意である」と即時受諾案に賛意を示した[60]。
昭和天皇の聖断が下ったが、ポツダム宣言に記された国体に関する条文の解釈について、外務省と軍部の間で見解が分裂し[61]、8月14日に再度御前会議が招集され天皇の聖断を再び仰ぐことになった[62]。御前会議は8月14日正午に終わり、日本の降伏が決まった[63]。
8月15日の早朝、佐々木武雄陸軍大尉を中心とする国粋主義者達が総理官邸及び小石川の私邸を襲撃し(宮城事件)、鈴木は警護官に間一髪救い出された[64]。正午、昭和天皇の朗読による玉音放送がラジオで放送された。この日の未明、阿南惟幾が自刃した。同日、鈴木は天皇に辞表を提出し鈴木内閣は総辞職したが、東久邇宮内閣が成立する8月17日まで職務を執行している。
詳しいことは、「鈴木貫太郎ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%88%B4%E6%9C%A8%E8%B2%AB%E5%A4%AA%E9%83%8E
(wikiより)
鈴木貫太郎
7156 集乳所新設記念の碑(千葉県・鈴木貫太郎記念館)
7155 鈴木貫太郎記念館(千葉県野田市関宿町1273)
解説
1963年(昭和38年)、鈴木の本籍地であり、幼少期と最晩年を過ごした地でもある千葉県東葛飾郡関宿町に開館した。所在地は鈴木の旧宅があった場所の隣に当たる。鈴木の遺品など1,000点以上を所蔵するほか、昭和天皇臨席で鈴木内閣が太平洋戦争で日本の降伏を決めた場面を描いた油絵「最後の御前会議」(白川一郎画)が展示されている[2]。2019年、二・二六事件に関与した安藤輝三の遺品が遺族によって寄贈された[3]。
2011年9月、遺品のすずり箱と銀製のたばこ入れ、銀製のウサギの置物の3点が盗難被害に遭った[4]。
鈴木貫太郎の詳細は鈴木貫太郎を参照。
施設概要
・所在地 〒270-0200 千葉県野田市関宿町1273 地図(MapFan Web)
・駐車場 一般:12台、障害者用:2台
利用情報
アクセス
・東武鉄道野田線 川間駅から朝日バス「関宿城博物館」「境車庫」行きで「関宿台町」下車、徒歩1分
・東武鉄道伊勢崎線 東武動物公園駅から朝日バス「境車庫」行きで「関宿台町」下車、徒歩1分
開館時間
・9時〜16時30分
・祝日の翌日
・年末年始
入館料
・無料
周辺スポット
・千葉県立関宿城博物館
・関根金次郎墓碑
・實相寺:鈴木貫太郎の墓がある。
脚注
1. 野田市鈴木貫太郎記念館の設置及び管理に関する条例
2. 【ミュージアムへ行こう】鈴木貫太郎記念館(千葉県野田市)したたかに国救った宰相『読売新聞』夕刊2018年8月14日(6面)
3. “千葉)鈴木貫太郎記念館に 2・26事件将校の遺品寄贈:朝日新聞デジタル” (日本語). 朝日新聞デジタル. 2020年6月25日閲覧。
4. “鈴木貫太郎記念館で遺品3点盗難 終戦時の首相” (日本語). 日本経済新聞 (2011年9月2日). 2020年6月25日閲覧。
関連項目
・房総の魅力500選
外部リンク
・紹介ページ(野田市ホームページ内)
・紹介ページ(infoちば内)
(wikiより)
鈴木貫太郎
7152 田中正造墓(栃木県佐野市・惣宗寺(厄除大師))
生涯
生い立ち
生まれは名主の家ではあったが、田中本人によれば村では中流で、それほど裕福な家ではなかったという。
父の跡を継いで小中村の名主となり、幕末から村民らと領主である高家六角家に対して政治的要求を行っていたが、このことがもとで明治維新直前の慶応4年(1868年)に投獄された。なお、この時の牢は縦横高さともに1mほどしかない狭いもので、立つことも寝ることもできない過酷な構造だった。翌年に出所。
明治3年(1870年)、江刺県花輪支庁(現・秋田県鹿角市)の官吏となった。翌年、上司の木村新八郎殺害の容疑者として逮捕され、投獄されている。これは物的証拠もなく冤罪だったと思われるが、正造の性格や言動から当時の上役たちに反感を持たれていたのが影響したらしい。
1874年(明治7年)に釈放されて小中村に戻り、1876年(明治9年)まで隣の石塚村(現・佐野市石塚町)の造り酒屋蛭子屋の番頭を務めた。幕末に大沢カツと結婚しているが、その結婚の年については諸説ある。
初期の政治活動
1878年(明治11年)、区会議員として政治活動を再開。『栃木新聞』(現在の『下野新聞』)が創刊されると、翌年には同紙編集長になり、紙面上で国会の設立を訴えた。また、嚶鳴社や交詢社に社員として参加している。
1880年(明治13年)、栃木県議会議員。1882年(明治15年)4月、立憲改進党が結党されると、その年の12月に入党している。県令(現在の知事)だった三島通庸と議会で対立。自由民権運動のなかで、加波山事件に関係したとして1885年(明治18年)逮捕されるが、三島が異動によって栃木県を去ると年末に釈放された。1886年(明治19年)4月1日開会の第13回臨時県会で議長に当選する[2]。
足尾銅山鉱毒事件
詳細は「足尾鉱毒事件」を参照
衆議院議員
1890年(明治23年)、第1回衆議院議員総選挙に栃木3区から出馬し、初当選する[3]。田中は帝国議会でも当初は立憲改進党に属していた。この年渡良瀬川で大洪水があり、上流にある足尾銅山から流れ出した鉱毒によって稲が立ち枯れる現象が流域各地で確認され、騒ぎとなった。
1891年(明治24年)、鉱毒の害を視察し、第2回帝国議会で鉱毒問題に関する質問を行った[4]。1896年(明治29年)にも質問を行い、群馬県邑楽郡渡瀬村(現・群馬県館林市)の雲龍寺で演説を行った。
1897年(明治30年)になると、農民の鉱毒反対運動が激化。東京へ陳情団が押しかけた。当時このような運動には名前がついておらず、農民らは「押出し」と呼んだ。田中は鉱毒について国会質問を行ったほか、東京で演説を行った。農商務省と足尾銅山側は予防工事を確約[5]、脱硫装置など実際に着工されるが、効果は薄かった。
1900年(明治33年)2月13日、農民らが東京へ陳情に出かけようとしたところ、途中の群馬県邑楽郡佐貫村大字川俣村(現・明和町川俣)で警官隊と衝突。流血の惨事となり、農民多数が逮捕された(川俣事件)。この事件の2日後と4日後、田中は国会で事件に関する質問を行った。これが「亡国に至るを知らざれば之れ即ち亡国の儀につき質問書」[6]で、日本の憲政史上に残る大演説であった。2日後の演説の途中で当時所属していた憲政本党を離党した。当時の総理大臣山縣有朋は「質問の意味がわからない」として答弁を拒否した。この年の川俣事件公判の傍聴中、田中があくびをしたところ、態度が悪いとして官吏侮辱罪に問われ、裁判にかけられた。なお、川俣事件は仙台控訴審での差し戻し審で、起訴状に担当検事の署名がないという理由で1902年(明治35年)に公訴不受理(一審で無罪だった者については控訴棄却)という判決が下り、全員が釈放された。
議員辞職 - 直訴
1901年(明治34年)10月23日、田中は議員を辞職[7]したが、鉱毒被害を訴える活動は止めず、主に東京のキリスト教会などで鉱毒に関する演説を度々行った。
12月10日、東京市日比谷において、帝国議会開院式から帰る途中の明治天皇に足尾鉱毒事件について直訴を行った[8]。途中で警備の警官に取り押さえられて直訴そのものには失敗したが、東京市中は大騒ぎになり、新聞の号外も配られ、直訴状の内容は広く知れ渡った。直訴状は、幸徳秋水が書いたものに田中が加筆修正したと伝えられる。田中は即拘束されたが、政府は単に狂人が馬車の前によろめいただけだとして不問にすることとし(田中本人の言及による)、即日釈放された。田中は死を覚悟しており、釈放後、妻カツ宛に自分は(12月)10日に死ぬはずだったという意味の遺書を書いている。また直訴直前に迷惑がかからないようにとカツに離縁状を送っているが、カツ本人は離縁されてはいないと主張している。
1902年(明治35年)、川俣事件公判の際にあくびをした罪で重禁固40日の判決を受け服役。このとき聖書を読み、影響を受けた。この後の田中の言葉には「悔い改めよ」など、聖書からの引用が多くなる。ただし、キリスト教への改宗はしなかった。
その後の活動
1902年(明治35年)、渡良瀬川下流に貯水池をつくる計画が浮上。建設予定地となっていた埼玉県川辺村・利島村の反対運動に参加し、計画は白紙になった。
1903年(明治36年)には栃木県下都賀郡谷中村が貯水池になる案が浮上。田中は1904年(明治37年)7月から実質的に谷中村に住むようにしている。同年、栃木県会は秘密会で谷中村買収を決議。貯水池にするための工事が始められた。
1906年(明治39年)、谷中村議会は藤岡町への合併案を否決するが、栃木県は「谷中村は藤岡町へ合併した」と発表。谷中村は強制廃村となるが、田中はその後も谷中村に住み続けた。1907年(明治40年)、政府は土地収用法の適用を発表。「村に残れば犯罪者となり逮捕される」と圧力をかけ、多くの村民が村外に出たが、田中は強制破壊当日まで谷中村に住み続けて抵抗した。結局この土地が正造の終の棲家となる。
1908年(明治41年)、政府は谷中村全域を河川地域に指定。1911年(明治44年)4月、旧谷中村村民の北海道常呂郡サロマベツ原野への移住が開始された[9]。
正造の最期とその後
土地の強制買収を不服とする裁判などがあり、この後も精力的に演説などを行ったが、自分の生命が先行き長くないことを知ると、1913年(大正2年)7月、古参の支援者らへの挨拶回りに出かける(運動資金援助を求める旅だったともされる)。その途上の8月2日、足利郡吾妻村下羽田(現・佐野市下羽田町)の支援者・庭田清四郎宅で倒れ、約1ヵ月後の9月4日に同所で客死した。71歳没。『下野新聞』によれば、死因は胃ガンなど。
財産は全て鉱毒反対運動などに使い果たし、死去したときは無一文だったという。死亡時の全財産は信玄袋1つで、中身は書きかけの原稿と『新約聖書』、鼻紙、川海苔、小石3個[10]、日記3冊、帝国憲法と『マタイ伝』の合本だけであった。なお、病死前の1月22日に、小中の邸宅と田畑は地元の仮称旗川村小中農教会(現・小中農教倶楽部)に寄付していた。邸宅は現在、小中農教倶楽部が管理している。
雲龍寺で9月6日に密葬が行われ、10月12日に佐野町(現・佐野市)惣宗寺で本葬が行われた。参列者は20万人ともいわれる。
田中の遺骨は栃木・群馬・埼玉県の鉱毒被害地計6箇所に分骨された。このため、墓は6箇所にある。なお、このうち1箇所は1989年(平成元年)に公表されたもので、それ以前の文献では5箇所とされていた。被害地では現代も偉人として尊崇されており、特に佐野市では田中思想や活動を伝える市民団体「田中正造大学」が活動しているほか、佐野市郷土博物館が関連資料を保存・展示している[9]。
足尾銅山は1973年(昭和48年)に閉山となり、輸入鉱石の製錬も1988年(昭和63年)に終わった。燃料調達のための伐採と煙害によって樹木が失われた山は現在でも禿山が広がり、緑化作業が続けられている[9]。そして田中が明治天皇へ行おうとした直訴状は、2013年(平成25年)に渡良瀬遊水地や田中の出生地である佐野市を訪れた125代天皇明仁(当時)へと伝えられることとなった。直訴未遂から実に112年後のことであった。
正造の墓の所在地
・佐野町(現・栃木県佐野市) 惣宗寺 - 正造の本葬が行われた寺。
・渡瀬村(現・群馬県館林市) 雲龍寺 - 正造の密葬が行われた寺。また、足尾銅山鉱業停止請願事務所が置かれていた[9]。
・旗川村(現・栃木県佐野市) 浄蓮寺 - 田中家の菩提寺。
・藤岡町(現・栃木市) 田中霊祠 - 田中を葬るために谷中村跡につくられた祠。後に藤岡町堤外に移転。
・利島村(現・埼玉県加須市) - 川辺村民と利島村民が協力し、利島小学校敷地内に造営(現・加須市立北川辺西小学校[11]。加須市麦倉所在)。
・久野村(現・栃木県足利市) 寿徳寺 - 1989年に公表された6番目の分骨地。
正造の祖について
『姓氏』(樋口清之監修・丹羽基二著)によると、『尊卑分脈』に記している岩松氏の一族という。足利義純の子の時朝(岩松時兼の弟、畠山泰国の兄)が田中次郎と称し、足利郡田中郷に定着したと伝わる。子の田中時国、孫の満国は足利尊氏に従い、戦功を立てて正造の代まで至ったという。
その他のエピソード
・正造の天皇直訴の当時、盛岡中学(現・岩手県立盛岡第一高等学校)の学生であった石川啄木は、天皇直訴の報を聞いて、「夕川に 葦は枯れたり 血にまどふ 民の叫びのなど悲しきや」と、その思いを三十一文字に託した。
・1973年、画仙紙に書かれた田中正造直筆の書などが「田中正造の墨跡」として栃木県有形文化財に指定された。なお、この文化財は2018年時点、所在が不明となっている[12]。
詳しいことは、「田中正造ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E6%AD%A3%E9%80%A0
(wikiより)
田中正造
7140 武田信玄の小田原攻め戦死者供養塔(平塚市平塚1-23-16・宝善院)
7133 海上自衛隊呉史料館(広島県呉市宝町5-32・海上自衛隊呉史料館)
展示内容
海上自衛隊の歴史や装備品の紹介などが展示されており、1階部分では海上自衛隊の歴史について、2階では機雷の脅威と掃海艇の活躍、3階では潜水艦の活躍について、実物・模型・絵図や映像などの資料を用いて紹介している。
展示の目玉は国内では初めてとなる実物の潜水艦の屋外展示で、この潜水艦は実際に海上自衛隊で就役していたゆうしお型潜水艦の「あきしお」 (SS-579) である。「あきしお」は2004年3月に除籍となった後、展示用に内部機器の交換や汚れを落とすなどし、2006年9月24日から26日に建設中の呉史料館への搬入が実施された。
この様子はマスコミでも報じられ、巨大な船体などは関心をよんだ。この「あきしお」は展示の一環として艦内にも入ることができるが、公開されているのは発令所のある甲板のみであり、船殻や艤装は防諜の処置をしている他、案内係員が監視をしている。「あきしお」の錨や推進器(スクリュープロペラ)など、一部は防諜上ダミーのものに差し替えて展示されている。
所在地
・斜向かいに呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム)が、北隣にゆめタウン呉がある。
アクセス
・電車で
・JR呉線呉駅の改札口を出て連絡通路(もしくは営業時間内に限ってゆめタウン呉内を突っ切る)を徒歩約5分
・フェリー等で
・呉中央桟橋から徒歩約1分
・自家用車・バイクで
・岡山方面から
・山陽自動車道高屋ジャンクション→東広島呉自動車道馬木インターチェンジ→国道375号→東広島呉自動車道黒瀬インターチェンジ→東広島呉自動車道阿賀インターチェンジ→国道185号
・山口方面から
・山陽自動車道広島東インターチェンジ→広島高速1号線→広島高速2号線→広島呉道路
・松江方面から
・国道54号→国道375号→東広島呉自動車道黒瀬インターチェンジ→東広島呉自動車道阿賀インターチェンジ→国道185号
・国道54号→中国自動車道三次インターチェンジ→広島北ジャンクション→広島自動車道広島ジャンクション→山陽自動車道広島東インターチェンジ→広島高速1号線→広島高速2号線→広島呉道路
出来事
・2020年2月28日-2020年6月21日: 2019新型コロナウイルス感染拡大を受けて休館[1]。
脚注
1. 「てつのくじら館 22日再開決まる」『中国新聞』2020年6月20日 呉・東広島版
関連項目
・呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム)- 隣接施設。
・海上自衛隊佐世保史料館(セイルタワー)
・ゆめタウン呉 - 隣接施設
・海上自衛隊呉史料館 てつのくじら館 - 公式サイト
・潜水艦「あきしお」 海上自衛隊呉史料館へ陸揚げ移送[リンク切れ]
・展示用潜水艦「あきしお」の陸揚げ(日本船舶海洋工学会西部支部)
・呉地方隊
・てつのくじら館の紹介 - Hitachi Theater(日立グループの映像ポータルサイト)
(wikiより)
⇧ 潜水艦あきしお
⇧ 呉市のマンホールは、戦艦大和ですね。
7037 大隈重信墓(文京区大塚5-40-1・護国寺)
大隈 重信(おおくま しげのぶ、1838年3月11日〈天保9年2月16日〉- 1922年〈大正11年〉1月10日)は、日本の武士(佐賀藩士)、政治家、教育者。位階勲等爵位は従一位大勲位侯爵。菅原姓[1]。
参議、大蔵卿、内閣総理大臣(第8・17代)、外務大臣(第3・4・10・13・28代)、農商務大臣(第11代)内務大臣(第30・32代)、枢密顧問官、貴族院議員。報知新聞経営者(社主)[2]。
佐賀藩の上士の家に生まれ、明治維新期に外交などで手腕をふるったことで中央政府に抜擢され、参議兼大蔵卿を勤めるなど明治政府の最高首脳の一人にのぼり、明治初期の外交・財政・経済に大きな影響を及ぼした。明治十四年の政変で失脚後も立憲改進党や憲政党などの政党に関与しつつも、たびたび大臣の要職を勤めた。明治31年(1898年)には内閣総理大臣として内閣を組織したが短期間で崩壊し、その後は演説活動やマスメディアに意見を発表することで国民への影響力を保った。大正3年(1914年)には再び内閣総理大臣となり、第一次世界大戦への参戦、勝利し、対華21カ条要求などに関与した。また早稲田大学(1882年、東京専門学校として設立)の創設者であり、初代総長を勤めた。早稲田大学学内では「大隈老侯」と現在でも呼ばれる。
生涯
生い立ち
天保9年(1838年)2月16日、佐賀城下会所小路(現・佐賀市水ヶ江)に、佐賀藩士の大隈信保・三井子夫妻の長男として生まれる。幼名は八太郎。大隈家は、知行300石を食み石火矢頭人(砲術長) を務める上士の家柄であった。
重信は7歳で藩校弘道館に入校し、『朱子学』中心の儒教教育を受けるが、これに反発し、安政元年(1854年)に同志とともに藩校の改革を訴えた。安政2年(1855年)に、弘道館の南北騒動をきっかけに退学となった[3]。このころ、枝吉神陽から国学を学び、枝吉が結成した尊皇派の「義祭同盟」に副島種臣、江藤新平らと参加した。のち文久元年(1861年)、鍋島直正にオランダの憲法について進講し、また、蘭学寮を合併した弘道館教授に着任したが、実際には講義は殆ど行わず、議論や藩からの命を受けて各地で交渉を行うなどの仕事をしている[4]。
大隈は、長州藩への協力および江戸幕府と長州の調停の斡旋を説いたが、藩政に影響するにはいたらなかった。慶応元年(1865年)、長崎の五島町にあった諌早藩士山本家屋敷を改造した佐賀藩校英学塾「致遠館」(校長:宣教師グイド・フルベッキ)にて、副島種臣と共に教頭格となって指導にあたった。またフルベッキに英学を学んだ。 このとき新約聖書やアメリカ独立宣言を知り、大きく影響を受けた。また京都と長崎を往来し、尊王派として活動した。慶応3年(1867年)、副島とともに将軍・徳川慶喜に大政奉還を勧めることを計画し、脱藩して京都へ赴いたが、捕縛のうえ佐賀に送還され、1か月の謹慎処分を受けた。謹慎後、大隈は鍋島直正の前に召され、積極行動を呼びかけたが容れられなかった[5]。
明治維新時の活躍
慶応4年[注釈 1](1868年)、幕府役人が去った長崎の管理を行うために、藩命を受けて長崎に赴任した[5]。長崎では有力藩士との代表とともに仮政府を構成していたが、2月14日には朝廷より長崎裁判所総督澤宣嘉と参謀井上馨が赴任、引き継ぎを行った[6]。まもなく裁判所参謀助役として、外国人との訴訟の処理にあたった。3月17日、徴士参与職、外国事務局判事に任ぜられた。大隈の回想によれば、井上馨が「天下の名士」を長崎においておくのは良くないと木戸孝允に推薦したためであるという[7]。当時隠れキリシタンの弾圧である浦上四番崩れについて、各国政府との交渉が行われており、大隈はイギリス公使パークスとの交渉で手腕を発揮し、この問題を一時的に解決させた[8]。12月18日には前任の小松清廉の推挙により、外国官副知事に就任している[9]。
新政府での活動
「大隈財政」も参照
明治2年(1869年)1月10日、再び参与に任じられ、1月12日からは会計官御用掛に任ぜられた[10]。これは当時贋金問題が外交懸案の一つとなっていたためであり、大隈は財政や会計に知識はなかったが、パークスと対等に交渉できるものは大隈の他にはなかった[11]。2月には旧旗本三枝七四郎の娘、三枝綾子と結婚した[12]。美登との離婚は明治4年(1874年)に成立している[13]。
3月30日には会計官副知事を兼務し、高輪談判の処理や新貨条例の制定、版籍奉還への実務にも携わった。4月17日には外国官副知事を免ぜられたが、それ以降もパークスとの交渉には大隈があたっている[14]。7月8日の二官六省制度の設立以降は大蔵大輔となった。この頃から木戸孝允に重用され、木戸派の事実上のナンバー2と見られるようになった[15]。またこの頃から「八太郎」ではなく「重信」の名が使用されるようになる[16]。7月22日には民部大輔に転じ、8月11日の大蔵・民部両省の合併に基づき双方の大輔を兼ねた[16]。この頃大隈邸には伊藤博文や井上馨、前島密や渋沢栄一といった若手官僚が集まり、寝起きするようになった。このため大隈邸は「築地梁山泊」と称された[17]。強大な権限を持つ大蔵省の実力者として、地租改正などの改革にあたるとともに、殖産興業政策を推進した。官営の模範製糸場、富岡製糸場の設立、鉄道・電信の建設などに尽くした。しかしこれは急進的な改革を嫌う副島種臣や佐々木高行・広沢真臣といった保守派や、民力休養を考える大久保利通らの嫌うところとなった。
明治4年6月25日、大久保主導の制度改革で参議と少輔以上が免官となり、新参議となった木戸と西郷隆盛によって新たな人事が行われることになった。大隈はこの日参議と大蔵大輔を免ぜられ、6月29日に大蔵大輔に再任された。しかし7月14日には参議に任ぜられ、大蔵大輔は免ぜられた[18]。11月12日に岩倉使節団が出国すると、大隈は留守政府において三条・西郷らの信任を得て、勢力を拡大し、大蔵大輔となっていた井上馨と対立するようになる[19]。1873年(明治6年)5月に井上が辞職すると、大蔵省事務総裁を兼ねて大蔵省の実権を手にした。5月26日には大蔵卿の大久保が帰国したが、その後も実権を握り続けた[20]。
一方でウィーン万国博覧会の参加要請を日本政府が正式に受け、博覧会事務局を設置。大隈が総裁、佐野常民が副総裁を務め、明治になって政府が初めて参加した万国博覧会となり、近代博物館の源流となった。大隈は会場に出席するため渡欧しようとしたが、政府内の同意が得られず出国しなかった[21]。
明治六年政変では、当初征韓論に反対の態度を示さなかったが、10月13日以降反征韓派としての活動を始めた[22]。征韓派は失脚し、佐賀藩の先輩であった江藤新平・副島種臣と袂を分かった。政変後の10月25日には参議兼大蔵卿になった[23]。また大久保利通と連名で財政についての意見書を太政官に提出している。
大久保政権下の活動
明治7年(1876年)1月26日には三条より、大久保とともに台湾問題の担当を命ぜられ、積極的に出兵方針を推し進めることになる[24]。4月4日には台湾蕃地事務局長官となり、出兵のための船を閣議に図らず大蔵卿の職権で独断で確保した[25]。大隈は出兵を命ぜられた西郷従道とともに長崎に向かったが、その間にイギリスとアメリカから抗議があったため、出兵を一時見合わせる方針となった。ところが西郷は独断で出兵を行い、政府も追認せざるを得なくなった。この間、大隈が西郷の出兵を止めようとしたという記録は残っていない[26]。大隈は出兵後も駐兵を続けるべきと主張していたが、大久保らが早期撤兵の方針を取ると、それに従った[27]。5月23日には左大臣となっていた島津久光が、大隈とその腹心である吉田清成の免職を要求した。大隈は病気を理由に辞表を提出したものの、台湾問題の最中に担当者である大隈を辞職させることもできず、久光の意見は却下された[28]。
明治8年(1875年)1月4日には「収入支出ノ源流ヲ清マシ理財会計ノ根本ヲ立ツルノ議」という意見書を三条宛に提出し、条約改正の実現と、間接税の重視と内需の拡大、官営事業の払い下げなどを主張している[29]。2月11日の大阪会議の開催については全く知らされておらず、大隈を嫌うようになっていた木戸の復帰は、大隈の権力基盤を及びやかすこととなる[30]。この頃から大隈は体調を崩したとして出仕せず、三条・岩倉・大久保らは大隈の大蔵卿からの解任を検討しているものの、後任候補の伊藤が受けなかったことや、大隈以上の財政家がいないことを理由に大隈を慰留して続投させた[31]。しかし復帰した木戸と板垣退助も大隈の辞任を要求し、大久保が大隈を庇護する形となった[32]。久光と板垣が10月29日に辞職し、木戸も病気が悪化したことで大隈への攻撃は消滅することとなる[33]。
伊藤政権下の大隈
明治11年(1878年)5月14日に大久保が紀尾井坂の変によって暗殺されると、政府の主導権は伊藤に移った[34]。大隈は大久保暗殺を聞いた後、伊藤に「君が大いに尽力せよ、僕はすぐれた君に従って事を成し遂げるため、一緒に死ぬまで尽力しよう」と述べている[34]。
大隈は、会計検査院創設のための建議を行っており、会計検査院は明治13年(1880年)3月に設立された。明治14年(1881年)には、正確な統計の必要性を感じ統計院の設立を建議・設立し、自ら初代院長となった。
1879年6月27日、大蔵卿大隈は、地租再検延期・儲蓄備荒法の設定・紙幣消却の増額・外国関係の度支節減・国債紙幣償還法の改正の「財政四件ヲ挙行センコトヲ請フノ議」を建議する。
明治13年(1880年)2月28日、参議の各省卿兼任が解かれ、大隈も会計担当参議となった[35]。大隈は佐賀の後輩である佐野常民を大蔵卿とし、財政に対する影響力を保とうとしたが、大隈が提案した外債募集案に佐野も反対したことで、大隈による財政掌握は終焉を迎えた[36]。またこの頃から伊藤・井上らから冷眼視されるようになり、井上は駐露公使に大隈を据えるなどの左遷案を提案している[37]。
明治十四年政変
「明治十四年の政変」も参照
その頃自由民権運動の盛り上がりにより、各参議も立憲政体についての意見書を提出する動きがあったが、大隈はこれになかなか応じなかった。明治14年(1881年)1月には伊藤・井上・黒田清隆とともに熱海の温泉宿で立憲政体について語り合ったが結論は出なかった[38]。3月、大隈は意見書[注釈 2]を提出するが、それは2年後に国会を開き、イギリス流の政党内閣とするという急進的なものであり、しかも伊藤ら他の内閣閣員には内密にしてほしいという条件が付けられていた[39]。7月にこの意見書の内容を知った伊藤は驚愕し、大隈は「実現できるような見込みのものではない」と弁明したが[40]、伊藤は抗議のため出勤しなくなり、大隈は7月4日に謝罪することとなる[41]。
7月26日、自由民権派の『東京横浜毎日新聞』が北海道開拓使による五代友厚への格安での払い下げを報道し、世論が沸騰した[42]。参議の間ではこの件をリークしたのが大隈であるという観測が広がり、孤立を深めることとなった[42][注釈 3]。大隈が自らを排除する動きが進んでいたのを知ったのは10月3日のことであり、10月11日には払い下げの中止と、明治23年(1890年)の国会開設、そして大隈の罷免が奏上され、裁可された。これは同日中に伊藤と西郷従道によって伝えられ、大隈も受諾した[43]。10月12日に大隈の辞任が公表されると、小野梓ら大隈系の官僚や農商務卿河野敏鎌、駅逓総監前島密らは辞職した。また大隈派官僚とつながりがあるものも罷免された[44]。
立憲改進党の設立
野に下った大隈は、辞職した河野、小野梓、尾崎行雄、犬養毅、矢野文雄らと協力し、10年後の国会開設に備え、明治15年(1882年)4月には立憲改進党を結成、その党首となった。また10月21日には、小野梓や高田早苗らと「学問の独立」「学問の活用」「模範国民の造就」を謳って東京専門学校(現・早稲田大学)を、北門義塾があった東京郊外(当時)の早稲田に開設した[45]。明治20年(1887年)、伯爵に叙され、12月には正三位にのぼっている[46]。
外務大臣
明治20年(1887年)8月、条約改正交渉で行き詰まった井上馨外務大臣は辞意を示し、後任として大隈を推薦した[47]。伊藤は大隈と接触し、外務大臣に復帰するかどうか交渉したが、大隈が外務省員を大隈の要望に沿うよう要求したため、交渉はなかなか進まなかった[48]。明治21年(1888年)2月より大隈は外務大臣に就任した[49]。このとき、外相秘書官に抜擢したのが加藤高明である[49]。 また河野、佐野を枢密顧問官として復帰させ、前島密を逓信次官、北畠治房を東京控訴院検事長に就任させている[50]。同年、黒田清隆が組閣すると大隈は留任するが、外国人判事を導入するという条約案が「官吏は日本国籍保持者に限る」とした大日本帝国憲法に違反する[注釈 4]という指摘が陸奥宗光駐米公使より行われた[51]。大隈は裁判所構成法の附則から違憲ではないと主張するが、井上毅法制局長官からも同様の指摘が行われた。山田顕義法務大臣は外国人裁判官に日本国籍を取らせる帰化法を提案し、伊藤枢密院議長、井上馨農商務大臣もこれに同意して条約改正交渉の施行を遅らせるよう求めた[51]。大隈は帰化法の採用には応じたものの、条約改正交渉の継続を主張した。大隈を支持するのは黒田首相と榎本武揚文部大臣のみであり、また世論も大隈の条約改正に批判の声を上げた[52]。
明治22年(1889年)10月18日には国家主義組織玄洋社の一員である来島恒喜に爆弾による襲撃(大隈重信遭難事件)を受け、一命はとりとめたものの、右脚を大腿下三分の一で切断することとなった[53][注釈 5]。大隈の治療は、池田謙斎を主治医とし、手術は佐藤進・高木兼寛・橋本綱常・エルヴィン・フォン・ベルツの執刀で行われた[53]。翌10月19日、東京に在留していた薩長出身の閣僚すべてが条約改正延期を合意し、黒田首相も条約改正延期を上奏、10月23日に大隈以外の閣僚と黒田の辞表を取りまとめて提出した[55]。大隈は病状が回復した12月14日付で辞表を提出し、12月24日に裁可、大臣の前官礼遇を受けるとともに同日に枢密顧問官に任ぜられた[55]。
その後大きな活動は見せなかったが、裏面で改進党系運動に関与しており、明治24年(1891年)11月12日には政党に関わったとして枢密顧問官を辞職することとなっている[56]。12月28日には立憲改進党に再入党し、代議総会の会長という事実上の党首職についた[57]。これ以降大隈は新聞紙上に意見を発表したり、実業家らの前で演説をすることも増えていく[58]。明治26年(1893年)3月25日には進歩党系新聞の『郵便報知新聞』紙上で「大隈伯昔日譚」の連載が開始されている[59]。
明治29年(1896年)3月1日には立憲改進党は対外硬派の諸政党と合同し、旧進歩党を結成した。大隈は新党において中心的存在とされたものの進歩党には党首職はなく、8ヶ月たってから設置された5人の総務委員のうち大隈派と呼べるのは尾崎行雄と犬養毅にとどまり、内訌を抱えたままの存在であった[60]。4月22日から5月17日には、長崎赴任以来28年間帰省していなかった佐賀に戻り、大規模な演説会などを催している[61]。
詳しいことは、「大隈重信ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%9A%88%E9%87%8D%E4%BF%A1
(wikiより)
7036 田中光顕墓(文京区大塚5-40-1・護国寺)
生涯
幕末
天保14年(1843年)閏9月25日、土佐藩の家老深尾家々臣である浜田金治と金沢正敏の娘である献の長男として、土佐国高岡郡佐川村(現・高知県高岡郡佐川町)に生まれた。
土佐藩士武市半平太の尊王攘夷運動に傾倒してその道場に通い、土佐勤王党に参加した。叔父の那須信吾は吉田東洋暗殺の実行犯だが、光顕も関与した疑いもある。しかし文久3年(1863年)、同党が八月十八日の政変を契機として弾圧されるや謹慎処分となり、翌元治元年(1864年)には同志を集めて脱藩。のち高杉晋作の弟子となって長州藩を頼る。第一次長州征伐後に大坂城占領を企図したが、新撰組に摘発されたぜんざい屋事件を起こして大和十津川へ逃れる。薩長同盟の成立に貢献して、薩摩藩の黒田清隆が長州を訪ねた際に同行した。第二次長州征伐時では長州藩の軍艦丙寅丸に乗船して幕府軍と戦った。後に帰藩し中岡慎太郎の陸援隊に幹部として参加。
慶応3年(1867年)、中岡が坂本龍馬と共に暗殺(近江屋事件)されると、その現場に駆けつけて重傷の中岡から経緯を聞く。中岡の死後は副隊長として同隊を率い、鳥羽・伏見の戦い時では高野山を占領して紀州藩を威嚇(高野山挙兵)、戊辰戦争で活躍した。
明治
維新後は新政府に出仕。岩倉使節団では理事官として参加し欧州を巡察。西南戦争では征討軍会計部長となり、1879年(明治12年)に陸軍省会計局長、のち陸軍少将。また元老院議官や初代内閣書記官長、警視総監、学習院院長などの要職を歴任した。1887年(明治20年)、子爵を授けられて華族に列する。1898年(明治31年)、宮内大臣。約11年間にわたり、同じ土佐出身の佐々木高行、土方久元などと共に、天皇親政派の宮廷政治家として大きな勢力をもった。1907年(明治40年)9月23日、伯爵に陞爵。1909年(明治42年)、収賄疑惑の非難を浴びて辞職、政界を引退した。
政界引退後は、高杉晋作の漢詩集『東行遺稿』の出版、零落していた武市半平太の遺族の庇護など、日本各地で維新烈士の顕彰に尽力している。また志士たちの遺墨、遺品などを熱心に収集し、それらは彼が建設に携わった茨城県大洗町の常陽明治記念館(現在は幕末と明治の博物館)、旧多摩聖蹟記念館、高知県佐川の青山文庫にそれぞれ寄贈された。その他、1901年(明治34年)に日本漆工會の2代目会頭に就任、久能山東照宮の修理をはじめ漆器の改良などの文化事業を積極的に行っている。
晩年は静岡県富士市富士川「古渓荘」(現野間農園)、同県静岡市清水区蒲原に「宝珠荘」(後に青山荘と改称)、神奈川県小田原市に南欧風の別荘(現在の小田原文学館)等を建てて隠棲した。口述筆記による回顧談『維新風雲回顧録』(大日本雄弁会講談社、1928年)を出版。他に『維新夜話』、『憂国遺言』が遺されている。
昭和天皇に男子がなかなか出生しないことから、側室をもうけるべきだと主張。その選定を勝手に進めるなどして、天皇側近と対立した。また、昭和維新運動に理解を示し、昭和11年(1936年)の二・二六事件の際には、事件を起こした青年将校らの助命願いに浅野長勲と動いたが、叶わなかった。
1939年(昭和14年)3月28日、静岡県蒲原町の別荘にて95歳で没す。
家族
・祖父:金沢正敏
・父:浜田金治
・本人:田中光顕(浜田辰弥)
・妻:伊輿子 - 明治の新興宗教家・阿吽鉢羅婆(あむはらば)の信者でもあった[3]。
・後妻:小林孝子 - 静岡県江尻町出身の平民・小林八郎の庶子[3]。父・八郎は栃木県で金港堂系列の書店を経営し、教科書疑獄事件に関わった人物[3]。お茶の水女学校を卒業後、1909年に21歳で67歳の田中と結婚[3]。身分違いのため形式上土方久元の養女の名義を得て嫁いだ[3]。二人の仲をとりもった金杉英五郎の元情婦と新聞に書き立てられ、田中の宮内大臣罷免を招いた[4][5]。のちに離婚し、1915年写真師蒔田実と再婚[6]。1930年には『小林孝子懺悔秘話』(山西健吉著)が出版された[7]。
・養嗣子:田中遜 - フランス留学後、パリ東洋語学校で教師、万博日本委員、帰国後学習院教授嘱託となる。衆議院議員を経て東洋コンプレッソル取締役[8]。
・孫:田中光素(1946年に爵位返上)
・孫:田中光保
・孫:田中光常 - フリーカメラマン
・明治4年
・1885年(明治18年)7月25日 - 従四位[9][10]
・1886年(明治19年)10月20日 - 従三位[9][11]
・1906年(明治39年)6月30日 - 正二位[14]
勲章等
・1877年(明治10年)12月8日 - 勲三等旭日中綬章[9]
・1882年(明治15年)12月29日 - 勲二等旭日重光章[9][15]
・1889年(明治22年)11月25日 - 大日本帝国憲法発布記念章[9][17]
・1892年(明治25年)12月29日 - 勲一等瑞宝章[18]
・1900年(明治33年)5月10日 - 旭日大綬章[19]
・1906年(明治39年)4月1日 - 旭日桐花大綬章[20]・明治三十七八年従軍記章[21]
・1915年(大正4年)11月10日 - 大礼記念章[23]
外国勲章佩用允許
・1899年(明治32年)7月4日
・1901年(明治34年)4月16日 - フランス共和国:レジオンドヌール勲章グラントフィシエ[26]
・1904年(明治37年)11月29日 - 大韓帝国:大勲位李花大綬章[27]
・1907年(明治40年)2月9日 - 大韓帝国:大勲位瑞星大綬章[28]
・1908年(明治41年)10月19日 - 大清帝国:頭等第二双竜宝星[29]
関連施設
・蕉雨園 - 椿山荘、野間記念館に隣接する6000坪の敷地に建つ自邸(1897年築、東京都文京区関口2-11-17)。現在は講談社の所有。非公開だが、茶会やドラマ(華麗なる一族、鹿男あをによし、どんど晴れ、富豪刑事など多数)の撮影などに使用されている。命名は、邸宅を訪れた諸橋轍次が詠んだ「芭蕉葉上孤村の雨 蟋蟀聲中驛路の塵」から[30]。
・佐川町立青山文庫(田中の肉声が公開されている)
・古谿荘 - 明治43年竣工の別邸で、国の重要文化財[31]。静岡県富士市岩淵233番地。昭和11年に講談社社長・野間清治が取得し、現在は野間文化財団が所有[32]。
詳しいことは、「田中光顕ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E5%85%89%E9%A1%95
(wikiより)
田中光顕
7034 富岡定恭墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)
経歴
信濃国松代城下馬場町に松代藩海防隊隊長・富岡宗三郎定知の長男として生まれる。藩校文武学校を経て、1876年(明治9年)9月、海軍兵学寮(5期)を首席卒業。1878年(明治11年)までイギリス海軍戦艦「オーディシャス」(HMS Audacious)に乗組。海兵教授、艦政局兵器課、英仏派遣、造兵監督官(イギリス)、海軍大学校教官などを歴任。日清戦争では「厳島」副長として参戦。
さらに、「龍田」艦長、海軍兵学校教頭、「八雲」艦長、「敷島」艦長、軍令部第1局長を経て、1903年(明治36年)7月、海軍少将に進級。日露戦争においては早期開戦を求める山座円次郎、秋山真之ら湖月会の一員であった。戦中は海軍兵学校長を務める。その後、練習艦隊司令官を勤め、1907年(明治40年)3月、海軍中将となり、竹敷要港部司令官、旅順鎮守府長官を勤め、1911年(明治44年)12月、予備役に編入された。1914年(大正3年)11月5日、後備役となる[1]。
1914年から1917年(大正6年)まで帝国在郷軍人会副会長を務める。1907年(明治40年)9月、男爵を叙爵し華族となる。
栄典
位階
・1883年(明治16年)12月25日 - 正七位[2]
・1911年(明治44年)12月20日 - 従三位[7]
勲章等
・1895年(明治28年)9月27日 - 単光旭日章・功四級金鵄勲章[8]
・1901年(明治34年)11月30日 - 勲四等瑞宝章[9]
・1906年(明治39年)4月1日 - 勲二等旭日重光章・明治三十七八年従軍記章[10]
・1915年(大正4年)11月10日 - 大礼記念章[12]
親族
・長男 富岡定俊(海軍少将)
・娘婿 丸山寿美太郎(海軍大佐)・津留雄三(海軍大佐)・佐伯卯四郎(日本陶器社長・参議院議員)
・弟 富岡延治郎(海軍機関少将)
脚注
1. 『官報』第680号、大正3年11月6日。
2. 『官報』第177号「叙任」1884年2月4日。
3. 『官報』第4402号「叙任及辞令」1898年3月9日。
4. 『官報』第5937号「叙任及辞令」1903年4月21日。
5. 『官報』第7157号「叙任及辞令」1907年5月11日。
6. 『官報』第7770号「叙任及辞令」1909年5月22日。
7. 『官報』第8552号「叙任及辞令」1911年12月21日。
8. 『官報』第3676号「叙任及辞令」1895年9月28日。
9. 『官報』第5525号「叙任及辞令」1901年12月2日。
10. 『官報』号外「叙任及辞令」1907年1月28日。
11. 『官報』第7272号「授爵敍任及辞令」1907年9月23日。
12. 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
関連事項
・下瀬火薬- 下瀬火薬#歴史参照のこと。
参考文献
・秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
・外山操編『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
7033 上原勇作墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)
上原 勇作(うえはら ゆうさく、安政3年11月9日(1856年12月6日) - 1933年(昭和8年)11月8日)は、安政期~昭和期の陸軍軍人。
元帥陸軍大将従一位大勲位功二級子爵、聖マイケル・聖ジョージ勲章ナイト・グランド・クロス(GCMG)。
薩摩藩領であった日向国都城(現宮崎県都城市)出身。妻は野津道貫の娘、槙子。山縣有朋、桂太郎ら長州閥の元老凋落の後に陸軍に君臨し、強力な軍閥(上原閥)を築き上げた。 上原閥に属する者に荒木貞夫、真崎甚三郎、柳川平助、小畑敏四郎らがいた。
陸軍大臣、教育総監、参謀総長の「陸軍三長官」を歴任した上で元帥府に列せられたのは、帝国陸軍史上、上原、杉山元の2名のみである。
生涯
安政3年(1856年)、薩摩藩島津氏一門都城島津家重臣、龍岡資弦の次男、龍岡資長として生まれる[2]。
1875年(明治8年)、島津氏一門の上原家の養子(上原勇作)となる。陸軍幼年学校を経て、1879年(明治12年)、陸軍士官学校卒業(同期に秋山好古など)。1881年(明治14年)に渡仏、フランス陸軍に学び、1885年に帰国して工兵の近代化に貢献、工兵操典を編纂し「日本工兵の父」と称される。日清戦争においては岳父野津道貫が司令官を務める第1軍の参謀、日露戦争においては、やはり野津が司令官を務める第4軍の参謀長など数々の戦争に従軍して参謀職を務め、1907年(明治40年)に軍功により男爵を授けられた。
1912年(明治45年)、石本新六の死後、第2次西園寺内閣の陸軍大臣に就任。陸軍提出の二個師団増設案が緊縮財政を理由に拒否されるや、帷幄上奏権を行使して辞任。陸軍は上原の後任者を出さず、軍部大臣現役武官制を利用して内閣を総辞職させた。
1933年(昭和8年)、胃潰瘍と心臓病のため、大井鹿島町(現・東京都品川区大井六丁目)の本邸に於いて薨去。享年77。青山霊園に葬られた。
年譜
※日付は明治5年までは旧暦
・明治2年(1869年)7月 - 造士館入学
・明治5年(1872年)12月 - 上京、野津道貫の書生となる。武田塾通学。(塾長:武田成章)
・1873年(明治6年)6月 - 大学南校入学(同級:伏見宮貞愛親王、寺尾寿、難波正)
・1875年(明治8年)6月 - 陸軍幼年学校編入学(幼年学校長:武田成章)
・1877年(明治10年)5月 - 陸軍士官学校(旧3期)入学(学生中隊長:寺内正毅)
・1880年(明治13年)12月 - 陸士工兵科卒業
・1881年(明治14年)
・2月 - 工兵第1大隊付
・6月 - フランス留学(- 1885年12月)
・1882年(明治15年)
・8月 - フォンテンブロー砲工校学生(- 1884年8月)(同級:ジョゼフ・ジョフル元帥)
・9月29日 - 工兵中尉(フランス公使館附武官:寺内正毅)
・1886年(明治19年)
・2月 - 陸士教官
・12月 - 臨時砲台建築部本務官(建築本部長:小澤武雄)
・1889年(明治22年)
・欧州出張
・1890年(明治23年)
・5月9日 - 工兵少佐
・10月 - 工兵第5大隊長(第5師団長:野津道貫)
・1892年(明治25年)8月 - 参謀本部有栖川宮熾仁親王副官、陸軍大学校教官(参謀次長:川上操六)
・1893年(明治26年)
・11月 - 参謀本部第2局員
・1894年(明治27年)
・6月 - 朝鮮国公使館付心得
・7月 - 日清戦争出征(- 1895年5月)
・8月 - 第1軍参謀(第1軍司令官:野津道貫)
・9月25日 - 工兵中佐
・1895年(明治28年)
・3月 - 第1軍参謀副長
・5月 参謀本部第2局員(第2局長:寺内正毅)
・1896年(明治29年)
・5月 - 参謀本部第4部長
・1899年(明治32年)
・1月 - 参謀本部第3部長(- 1901年7月)・兼参謀本部第5部長(- 4月)(参謀総長:川上操六)
・4月 - 万国平和会議出席(- 10月)
・1900年(明治33年)7月11日 - 陸軍少将・兼陸軍砲工学校長(教育総監:野津道貫)
・1903年(明治36年)8月 - 欧州出張(- 1904年2月)
・1904年(明治37年)6月 - 第4軍参謀長(第4軍司令官:野津道貫)
・1906年(明治39年)
・2月 - 工兵監
・7月6日 - 陸軍中将
・1908年(明治41年)12月 - 第7師団長(陸軍大臣:寺内正毅)
・4月5日 - 陸軍大臣(元老:山縣有朋)
・12月 - 待命
・1913年(大正2年)
・3月 - 第3師団長
・5月 工兵操典制定
・6月 - 待命
・1915年(大正4年)
・2月15日 - 陸軍大将・兼軍事参議官
・12月 - 参謀総長(- 1923年3月)
栄典・授章・授賞
位階
・1880年(明治13年)5月31日 - 正八位
・1933年(昭和8年)11月8日 - 従一位[13]
勲章等
・1893年(明治26年)5月26日 - 勲六等瑞宝章[14]
・1895年(明治28年)
・1896年(明治29年)11月25日 - 勲五等瑞宝章[17]
・1899年(明治32年)12月27日 - 勲四等旭日小綬章[18]
・1901年(明治34年)12月27日 - 勲二等旭日重光章[19]
・1906年(明治39年)4月1日 - 功二級金鵄勲章、明治三十七八年従軍記章[20]
・1908年(明治41年)5月25日 - 勲一等瑞宝章[22]
・1915年(大正4年)
・9月29日 - 旭日大綬章[23]
・1920年(大正9年)11月1日 - 旭日桐花大綬章・大正三年乃至九年戦役従軍記章[26]
・1921年(大正10年)
・1925年(大正14年)1月14日 - 御紋付銀杯[28]
・1928年(昭和3年)11月10日 - 大礼記念章(昭和)
・1933年(昭和8年)11月8日 - 大勲位菊花大綬章(没後叙勲)[29]
外国勲章佩用允許
・1890年(明治23年)2月15日 - 3等聖アンナ勲章(en)[30]
・1894年(明治27年)10月10日 - 安南王:インペリアル・デュ・ドラゴン勲章コマンドゥール[31]
・1915年(大正4年)3月30日 - フランス共和国:レジオンドヌール勲章グラントフィシエ[32]
・1916年(大正5年)1月19日 - 白鷲勲章(en)[33]
・1918年(大正7年)
・12月19日 - 支那共和国:一等大綬宝光嘉禾勲章 [35]
・1926年(大正15年)3月26日 - ポーランド復興大十字勲章[36]
・ 聖マイケル・聖ジョージ勲章ナイト・グランド・クロス
・ レジオンドヌール勲章グランクロワ
・ 2等聖スタニスラウス勲章(en)
親族
・妻 上原槙子(野津道貫長女)[37]
・次男 上原勇次郎
・三男 上原勇三郎 (夭折)
・三女 小澤静子 (大阪大学医学部教授小澤凱夫の妻)
・兄 龍岡資峻(砲兵大尉)1893年病没
・甥 龍岡資誠(歩兵少佐)1904年203高地にて戦死
・外姪 上村長治(歩兵中佐、姪ケイの夫)1904年旅順にて戦死
逸話
・野津道貫の希望により第5師団に配属となるが、「新知識者」の一人として川上操六に見出されて参謀本部に引き抜かれる。川上操六が死去した後、教育総監に就任していた野津に再び重用されて工兵監に抜擢される。野津の死後は寺内正毅に接近し、事実上、工兵科初の師団長になる(工兵初の師団長は鮫島重雄であるがこれは戦時特例であった)。山縣有朋により陸軍大臣に抜擢されるが、この時の働きぶりは山縣を満足させるもので、重病から回復後、山縣閥において寺内に次ぐ地位を手に入れた。
・岳父の野津が日清戦争時に第1軍司令官を務めた際は、同軍の参謀、参謀副長として仕えたが、これは偶然の産物であった。朝鮮公使付(参謀本部直轄の独立参謀)として先遣隊とともに渡海し、大島旅団、ついで第5師団とともに転戦、第1軍司令部が上陸すると正式に参謀となった。野津が司令になったのはその後である。一方、日露戦争時に第4軍司令官を野津が務めるとその参謀長を務めるという関係になった。これは人脈人事の一つであり、一説には野津が非常な気難し屋であったため、その幕僚を務められるのは娘婿であり、懐刀の上原しかいなかったからと言われている。
・日露戦争中、野津司令官と川村景明師団長(のち元帥)の間で窮することが多かったため、それ以後、川村を苦手とした。シベリア出兵の際、総司令官を打診したが即答で断られている。
・日本における工兵技術の育成に熱心に取り組み、ポケットマネーを払って大工や鳶職を自宅に招き、実演させながら基礎作業教範を書いたという逸話がある。そのため、工兵監になってからも演習へ出向いては兵卒の作業まで自分でやって見せ、工兵将校たちは戦々恐々としていたという。
・一方で、自分が酷評したある工兵将校が「兵監の言うことは間違っておられる」と反論した際、他の将校は上原が激怒するのではないかと心配したが、しばらく考えた上原は「ただいまの講評、勇作の誤り」と述べて自分の誤りを受け入れるなど正しい意見はきちんと聴くところもあった。
・日露戦争時の旅順攻囲戦で、日本軍(乃木希典大将指揮)が大苦戦したことを受け、上原は「私は日本の工兵を厳しく鍛え上げたが、ただ一つの手抜かりは、工兵による要塞攻略、特に坑道掘削作戦の戦術研究と訓練を怠ったことだ。これをやっておれば旅順であんなに苦戦しなかった」と語り、日露戦争が終わった後、上原の指導の下に直ちに要塞攻略戦の研究が始まり、1906年(明治39年)に小倉練兵場に於いて第一回要塞攻略演習を行った。
・第7師団長就任を長州閥による左遷人事と揶揄するものもいるが実情はやや異なる。歩兵科以外から師団長を出すべきという機運が高まると上原は大迫砲兵監、秋山騎兵監とともに寺内陸相に直談判を行う。結果、長らく工兵監だった上原が工兵科初の師団長になることになった。寺内に希望を問われると「大臣が余り干渉せざる地方にして…」つまり工兵監時代同様自分の自由にさせろと要求した。さらに「人が余り好まざる場所ならば進んで赴かん。」と続けた。歩兵科の重要ポストを奪うわけだから後々の人間関係を考慮した優秀な参謀としての模範解答であった。寺内も上原がそう答えると分かっていたので「北海道は如何」と即答している。つまり栄転させて中央から遠ざけたのである。一方、寺内は上原の機嫌を損なわぬよう第3師団の特別視察を許可し、予算もそのまま通過させている。
・シベリア出兵では国際協定によって撤兵が決定され、大正9年1月、原内閣が陸相田中義一の同意を得て撤兵を閣議決定したものの、当時参謀総長であった上原は「統帥権干犯」を理由に拒絶する。これは内閣と陸軍省が参謀総長に相談なく天皇の裁可も得ずに独断で決定したこと、さらに非公式の書類一通で通知してきたことに対して反発したもので、上原は陸軍省に公文をもって天皇の許可が得られれば撤兵する旨伝えたが陸軍省の作業は遅々として進まなかった。さらに陸軍省は期間が不透明な逐次撤退を主張したのに対し、参謀本部は即時撤退を主張し両者の意見は対立する。陸軍省はウラジオストックに要塞を構築して一部占領を継続するつもりであったのである。平行線の中、チタ方面で第5師団が攻撃を受けたことへの報復攻撃で連続戦闘に移行し撤退は困難な情勢となる。結果、撤退時期が有耶無耶になり日本だけがシベリアに駐留することとなって国際的非難を受けた。原敬首相は「参謀本部の陰謀」と断じて上原を非難し、激怒した田中が上原を更迭しようとすると、上原は元老山縣有朋に懇願して更迭策を阻止している。また、これにより2か月後の尼港事件の遠因ともなったが、撤退協議のため停戦指示を出して状況を悪化させた陸軍省と田中が責任を負うことになった。
・上原閥は山縣閥の分派であるが、山縣同様に藩閥にこだわらなかったため数では長州閥を凌駕するようになり、多くの大将、中将(井戸川辰三、宇宿行輔、与倉喜平、高島友武、高山公通、長坂研介、権藤伝次、佐多武彦、伊丹松雄、岩越恒一、橋本群、林柳三郎、佐久間為人など)を輩出した。薩閥(大迫尚道、町田経宇、田中国重、菱刈隆)を始めとした九州閥(宇都宮太郎、福田雅太郎、尾野実信、武藤信義、真崎甚三郎)、陸士旧3期(+旧2期)閥(秋山好古、大谷喜久蔵、内山小二郎、柴五郎)、第5(野津)師団閥(浅田信興、一戸兵衛)、副官閥(奈良武次、今村均)、工兵閥などで構成されており、長州閥と重複するもの(田中義一、井上幾太郎)もいた。陸士(旧8~11期)、陸大(8~11期)で上原の教え子であったものが多い。上原が参謀総長時代、教育総監は上原閥であり、陸軍大臣は山縣閥から選ばれていた。当時の軍事参議官の多くは上原閥、準上原閥であり、侍従武官長(内山、奈良)も上原閥であったためである。
・禿げ頭の将軍として逸話が多い。田中義一が大臣時代、田中の先を歩く禿げ頭の将軍がいた。同期の橋本勝太郎と勘違いした田中は「ハゲカツ!ハゲカツ!」と連呼して呼び止めた。「それは俺の事か」と振り向いたのが上原だったので、田中は平身低頭で謝罪し上原は笑ってこれを許している。また、年長の将軍たちからは「和尚」と呼ばれた。名付けたのは浅田信興である。
・権藤伝次が上原の横に座ろうとすると手を以て遠ざけようとした。権藤が困惑すると「台湾坊主(円形脱毛)が伝染してはならぬ」と言って権藤を笑わせている。
・寺内正毅とは士官学校時代、教師と生徒という間柄で上原は何度も説教されたという。以降、説教好きの教師と小生意気な生徒という関係が終生続くことになる。フランス留学中、寺内は駐在武官として上原らの世話を焼きつつ説教を度々している。また寺内が参謀次長、上原が第3本部長時代に大の洋食好きの寺内に悪戯を仕掛けている。参謀本部の食堂に「洋食に限る」と書かれた寺内を暗刺した張り紙がされていた。一緒に食事をしていた上原が「私は百姓の出なので日本食が口に合う」と言い出したので、上原が犯人と気付いた寺内は怒って翌日から食堂に顔を出さなくなっている。
・年長の薩閥から準長州閥と揶揄されるほど山縣有朋、寺内正毅に接近していた。陸軍大臣事件が起こるまで田中義一との関係も良好であった。田中は上原閥の新参者とされていたが、「次の参謀総長は上原さん以外にいない」と周囲に絶賛し、上原に気に入られていた。田中が陸軍大臣になると「田中を大臣に出してやったよ」と上原は述べている。しかし田中が陸相になると二人の間に徐々に齟齬が生じるようになり、山縣の死去により破綻へと加速することになる。晩年、一戸が死去した際に浅田良逸中将に聞かれた上原は「上原と田中のことか。そりゃ田中は政治家だからな。」と言っただけでそれ以上、田中との事について語らなかった。
・陸軍大臣事件直後は面会した宇垣に田中の予備役入りを口にするほど憤慨していたが、関東大震災から日が浅いことや大正天皇の病状を考慮し事態の鎮静化を優先する。逆に政友会が田中の擁立を画策していたことを知ると田中を元帥にして政界入りを阻止(元帥は生涯現役で治安警察法により政党に所属できない)することも考慮するが有効的ではないこと(研究会からの首班指名の可能性)もあり、結局1年以上処分保留にした。しかし、福田を中心とした軍事参議官からの要望が強く、1925年4月8日に田中を予備役入りさせている。徳富蘇峰はこの時の上原を「能く忍んだ。」、「単純なる雷爺のみでなかった。」と称賛している。
・陸軍部内では元帥として影響力を持ち続け、長州閥の田中義一と対立した。田中を後継した宇垣一成による宇垣軍縮に対抗してその反対派を支援し、後の皇道派結成の温床となった。上原閥から皇道派が出た原因は上原が尊王主義であったことが部下たちに影響したためである。派閥抗争・確執の遠因となったとの意見もある
・雷爺と言われた上原であるが若い士官に対しては好々爺であった。教育総監部参謀の斎藤瀏に「何で課長をそんなにお叱りになりますか。」と聞かれた上原は「課長くらいになるとなんでも研究して知っておらぬといかぬ。お前ら小僧っ子とは違う。小僧っ子は叱らぬ。」と答えている。
・副官をつとめた今村均によれば、軍事書を中心に読書を好み、フランス語の原書を読み、軍事以外にも幅広く理解があったという。口やかましく周囲から疎ましがられたが、それは広大な知識から発せられたものであり、感服すべきものだったと述べ、副官時代を詳しく語っている。また、1931年(昭和6年)ごろには、防空には空軍省を設けて独立空軍を創るしかないと語っていたと伝えている。
・今村によれば、上原は谷寿夫の作成した機密日露戦史の内容に関して「(第三軍と乃木の評価は)客観性に欠け事実に反する。旅順を落としたのは乃木であり児玉では無い」と述べ、非難したという。
詳しいことは、「上原勇作ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E5%8E%9F%E5%8B%87%E4%BD%9C
(wikiより)
上原勇作