本牧jack『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

本牧Jackで御座います
小生の拙ブログ『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑に御訪問頂き誠に有難う御座います。
歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。
たまに『 多人数で取材しているのか? 』との質問を戴きますが、小生と相方の二人三脚で御座います。
出来るだけ続けたいと思っていますが 膝・耳に問題が有って、いつまで出来るやら・・・説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。
御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。 ※ 申し訳御座いませんが「画像の転用」は禁止とさせて頂きます。 コメントは原則公開させていただいております 質問等に対してはブログ記事で返信させていただきます 他の方法で連絡を取り合う等一切しません 場合によっては、「IPブロック」しますがブロックした場合解除する事は有りませんので宜しくお願いします。

カテゴリ: 政治家・軍人・公務員・華族・公使・国家主義・警察官・弁護士関連

艦隊への補給という鎮守府の役割を象徴する倉庫群。

立神地区には兵器類が保管された。煉瓦造から鉄骨煉瓦造へと移行する技術の発展過程を見ることができる。

・海上自衛隊西1号倉庫(旧海軍工廠大砲庫)

・海上自衛隊西2号倉庫(旧武庫大砲庫)

・海上自衛隊西3号倉庫(旧軍需部第三弾丸庫)

・海上自衛隊西4号倉庫(旧武庫弾丸庫)

・海上自衛隊西5号倉庫(旧武庫弾庫)

・海上自衛隊西6号倉庫(旧武庫小銃庫)

・海上自衛隊西7号倉庫(旧水雷庫魚形水雷庫)

・SSK器具室(旧武庫預兵器庫、旧武庫予備艦兵器庫)

・佐世保市立神音楽室(旧武庫弾薬包庫)

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〇 旧佐世保海軍工廟 250トン起重機(佐世保重工業株式会社 250トン起重機)

佐世保重工業 ( 株 ) 佐世保造船所はかつての佐世保海軍工廠の施設を受け継いで発足した「佐世保船舶工業 ( SSK )」が前身となっている。

ここから見える建物の多くが海軍工廠時代のものだが、特に目を惹くものが 250トン起重機である。

これはイギリスのサー・ウィリアム・アロル社に発注され、大正 2年 ( 1913 ) に完成した。

高さ 62m、回転部の長さは 81mに及ぶ。

その形状が槌に似ているため「ハンマーヘッド」と呼ばれているが正確にはジャイアント・カンチレバー・クレーンといい、同型のものは日本に 3台、世界でも 10台しか残されていない貴重なものである。
(案内板より)

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〇 旧佐世保海軍工廟第七船船渠(佐世保重工業株式会社第四ドック)

佐世保海軍工廠で最後に完成した大型施設が第七船渠 ( 現第四ドック ) である。

この船渠は大和型戦艦の造修を目的としたもので、昭和 15年 ( 1940 ) に完成し、全長 343.8m、全幅 51.3mの規模があった。

昭和 16年 7月には三菱長崎造船所で建造中だった戦艦武蔵が入渠し、スクリューや舵、水中聴音器など艤装の一部を行っている。

戦後は空母隼鷹、笠置、伊吹など旧海軍艦艇の解体にも使用され、佐世保重工業 ( 株 ) となった後は当時世界最大のタンカーだった日章丸 ( 積載量 13万トン ) の建造をはじめ、大型、中型タンカーやバラ積み貨物船を多数建造している。
(案内板より)

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下士官兵集会所とは、下士官や水兵の宿舎、休息、食事、入浴、教養娯楽等のための施設で、海仁会集会所とも呼ばれた。

この場所に最初に建てられたのは明治 35年 ( 1902 ) のことであった。

昭和 10年 ( 1935 ) に鉄筋コンクリート造 3階建てに建て替えられ、毎日数百人の下士官や水兵が利用した。

戦後は米軍の司令部が置かれたことから、CP ( Command Post ) ビルと呼ばれた。

また佐世保橋は海軍橋とも呼ばれ、鎮守府と市街地を隔てる場所でもあった。

橋を渡った先 ( 佐世保中央IC入り口付近 ) に鎮守府の表構門があり、そこから先への一般市民の立ち入りは制限されていた。
(案内板より)

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〇  旧佐世保鎮守府凱旋記念館(佐世保市民文化ホール)

大正 3年 ( 1914 ) に勃発した第一次世界大戦において、日本は連合国側に参戦した。

大戦後半、佐世保鎮守府の所属艦艇を中心に第二特務艦隊が編成され、地中海において潜水艦からの護衛という前例のない任務に就いた。

日本艦隊の献身的な護衛活動は高く評価され、イギリス国王から勲章を授与されるほどだった。

この活躍を記念し、凱旋記念館の建設が企画された。

のちに旧制西海中学校 ( 現西海学園高等学校 ) を創立する菅沼周次郎が建設委員長を務め、建設費は鎮守府管下各県からの寄付金で賄われた。

記念館にふさわしく装飾性に富んだ建物であり、海軍の催事などに使用された。
(案内板より)

〇 旧佐世保鎮守府凱旋記念館

旧海軍佐世保鎮守府凱旋記念館(きゅうかいぐんさせぼちんじゅふがいせんきねんかん)は、長崎県佐世保市平瀬町にある歴史的建造物。国の登録有形文化財に登録されている。佐世保港付近に点在する旧海軍にまつわる近代化遺産の一つ。

第一次世界大戦海軍佐世保鎮守府に所属する艦艇が連合国側に属して地中海等で戦い活躍したことを記念して建てられたものである。現在は佐世保市が管理する佐世保市民文化ホールとなり、市民による演劇や音楽の練習及び発表の場となっている。 2014から翌2015年にかけて耐震性向上のための構造補強を主目的とした改修工事が行われ、同時に外観や内装の修復と一部創建当時への復元を行っている。

建築概要
・竣工 1923年(大正12年)
・構造 鉄筋コンクリート造2階建
・所在地 佐世保市平瀬町2

歴史
1923年(大正12年) 現在地に竣工。海軍の行事や合同葬に使用された。
1939年(昭和14年)4月13日、伊六十三潜海軍合同葬が執り行なわれた。
1945年(昭和20年) 米軍に接収される。
1982年(昭和57年) 佐世保市に返還され、その後現在の市民文化ホールとなる。
1997年(平成9年) 国の登録有形文化財になる。
2005年(平成17年) 第7回佐世保市景観デザイン賞に選ばれる。
2014年(平成26年) 3月から構造補強及び外観・内装の復元を目的として改修工事を開始。翌2015年11月竣工。事業費約4億6,900万円。
2016年(平成28年) 日本遺産『鎮守府横須賀・呉・佐世保・舞鶴 ~日本近代化の躍動を体感できるまち~』の構成資産として指定される。

アクセス
西肥バスさせぼバスも含む)「佐世保市総合医療センター入口」下車すぐ。

周辺
海上自衛隊佐世保地方総監部
海上自衛隊佐世保史料館(セイルタワー)
佐世保市総合医療センター - 旧海軍下士官兵集会所の跡地に建てられている。
佐世保橋(海軍橋)
佐世保中央インターチェンジ        

関連項目
登録有形文化財一覧    
(wikiより)


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施設情報
正式名称海上自衛隊 佐世保史料館
愛称セイルタワー
前身海上自衛隊防衛資料館
専門分野旧日本海軍海上自衛隊の史料収蔵と広報
事業主体海上自衛隊
開館1997年(平成9年)3月
所在地857-0058
長崎県佐世保市上町8-1
位置北緯33度10分26秒 東経129度42分49秒

海上自衛隊佐世保史料館(かいじょうじえいたいさせぼしりょうかん)は長崎県佐世保市にある海上自衛隊及び大日本帝国海軍に関する史料館。愛称は「セイルタワー」。1997年(平成9年)3月10日に現在地に開館した。

概要
1968年(昭和43年)、佐世保市平瀬町の佐世保補給所内(現・平瀬庁舎)に設けられた海自防衛資料館が前身。旧日本海軍・佐世保鎮守府時代から海上自衛隊にいたる現在までの資料約4,400点を収蔵、そのうち約1,300点を常設展示している。映像や写真、模型、当時の資料などを通じ、旧海軍、自衛隊の変遷を知ることができる。

建物は7階建て。1・2階部分は、旧海軍時代に将校の宿泊、福利厚生施設として利用していた「佐世保水交社」の建物の一部を再利用している。国際通り側に突き出た石張りの八角屋根がかつての雰囲気を感じさせる。3階以上はガラス張りの現代的な建物となっている。屋上部の構造物が船のにも見えることから「セイルタワー」の愛称で親しまれている。

施設
・7階 展望所、映像ホール 展望所からは佐世保港や米海軍佐世保基地などが一望でき、映像ホールでは海上自衛隊のPR映画を上映している。
・6階 長崎海軍伝習所から佐世保鎮守府開設までの歩み
・5階 日清戦争日露戦争
・4階 太平洋戦争
・3階 海上自衛隊の艦船、歴史
・2階 海上自衛隊の装備、活動(南極観測船災害派遣海外派遣など)、図書室
・1階 売店、企画・特別展示

入館者はいったんエレベーターで7階に昇り、1階ずつ降りていく。

基本情報
※外部リンクにある佐世保地方隊公式サイトも参照のこと。
・開館時間:9:30~17:00
・休館日:毎月第3木曜日及び年末・年始(12月28日~1月4日)
・入館料:無料(入館の際、1階受付で署名が必要)

2009年(平成21年)の行政刷新会議による事業仕分けにおいて、参議院議員蓮舫(後の行政刷新担当相)が入場料を徴収するよう指摘したことを受け、2010年(平成22年)11月1日より「当面の間」高校生を除く18歳以上の大人が400円、小・中・高校生が200円の有料制とされた[1]陸上自衛隊広報センター航空自衛隊浜松広報館との同時実施)が、有料化に伴い入場者数が激減したなどの理由から同実験は2011年2月1日付をもって終了した[2]
・駐車場:普通車約20台、大型バス6台(無料)

交通アクセス
西九州自動車道佐世保中央インターチェンジより車で1分
西肥バスさせぼバスも含む)「佐世保市総合医療センター入口」下車、徒歩2分
国道35号松浦交差点から車で2分


1. 
防衛省・自衛隊:自衛隊の大規模広報施設に係る入場料の徴収に関する実験の実施について2010年10月22日、防衛省
2. 
事業番号0062 平成23年度行政事業レビューシート(防衛省)

関連項目
海上自衛隊呉史料館(てつのくじら館)
鹿屋航空基地史料館
海事博物館      

外部リンク
佐世保史料館(セイルタワー)(佐世保地方隊公式サイト内)
(wikiより)

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⇧ 海上自衛隊佐世保資料館

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⇧⇩ 護衛艦くらまの錨

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乃木坂駅を出てすぐの外苑東通りと乃木坂に面した公園です。日清・日露戦争を戦った陸軍大将乃木希典(1849~1912)の邸宅地でしたが、乃木将軍の遺言により、公園として東京市に寄贈され、大正2年に開設されました。現在は港区により管理されています。
旧乃木邸・馬小屋が保存されているエリアの南側には、ベンチの置かれた休憩スペースが2カ所あります。2カ所の休憩スペースは階段でつながり、階段下ではサクラの大木が枝を広げ、夏には空間を覆うように葉を茂らせて、涼しい木陰をつくっています。サクラの花が見ごろの時期は、階段上からの鑑賞もおすすめです。

園内の随所にステンレスパイプのモニュメントが配置され、植栽や旧乃木邸の趣と調和して、美術館の屋外展示のようなアート空間となっています。

〇 旧乃木邸・馬小屋について
旧乃木邸は、日清・日露戦争の両戦役に従事し、明治天皇崩御の後に殉死された陸軍大将乃木希典の邸宅です。現存する家屋は、乃木大将がドイツ留学中に見たフランス連隊本部を参考にして、自らの設計により明治 35 年 ( 1902 ) に新築されたものです。明治期の将官の邸宅は接客を目的とする豪華な建物が多かったのに比べ、旧乃木邸の外観は黒塗りの板張りで飾り気がなく、内部も極めて簡素かつ合理的に造られており、明治期の和洋折衷建築としても貴重なものとなっています。

馬小屋は母屋が改築される以前の、明治 22 年 ( 1889 ) に建てられました。

煉瓦造り、日本瓦葺きの平屋建てで、母屋より立派であったことから、「新坂の馬屋敷」と称されて評判になったといいます。煉瓦は英国から取り寄せるほどのこだわりぶりで、馬を大切にした乃木大将の人柄が偲ばれます。
(AKASAKAPARKSホームページより)

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愛称りっくんランド
専門分野陸上自衛隊の防衛装備品展示などを通じた広報
事業主体防衛省
管理運営陸上自衛隊
延床面積2,400m2
開館2002年(平成14年)4月5日
所在地351-0012
埼玉県朝霞市栄町四丁目6番地先
(正式住所・〒178-8501東京都練馬区大泉学園町[1]
位置北緯35度47分5.7秒 東経139度35分58.9秒
外部リンク陸上自衛隊広報センター

陸上自衛隊広報センター(りくじょうじえいたいこうほうセンター、英語Japan Ground Self-Defense Force Public Information Center)は、東京都埼玉県にまたがる陸上自衛隊朝霞駐屯地の構内にある陸上自衛隊の博物館・広報施設である。マスコットキャラクターの「りっくん」から名前をとった「りっくんランド」という愛称でも呼ばれている。

概要
「見て、触れて、体感して」をコンセプトに、来館者に陸上自衛隊の広範なイメージを常続的かつ体系的に情報発信し、理解を得ることを目的として設立された[2]。自衛隊の大規模広報施設としては長崎県佐世保市海上自衛隊佐世保史料館静岡県浜松市航空自衛隊浜松広報館に次ぐ3番目の施設として、2002年4月に開館した。入館無料だが、イベント開催日の入館は事前の申込みが必要な場合がある。

10式戦車89式小銃をはじめ、地下指揮所を再現するなど陸上自衛隊の主な装備類の多くが展示されている。服装や装備品の体験コーナーや射撃シミュレーターなども置かれ疑似体験ができる。オープンシアターや3Dシアターでは通常の訓練風景や国際連合平和維持活動災害派遣および自衛隊音楽まつり等の映像を上映している。

国道254号川越街道)に面した朝霞駐屯地の朝霞門から入ってすぐ右手にある。館内の売店では、自衛隊に関係した菓子やグッズ等の土産品を購入できる。

2020年春に一時閉館してリニューアル工事を行い、最新鋭の16式機動戦闘車を展示するなど展示品の更新・移動が行われたが、工事完了後も新型コロナウイルス感染症の感染防止のために同年6月26日まで閉館していた。

民主党政権による有料化実験
民主党政権下の2009年には、行政刷新会議による事業仕分けにおいて、当時行政刷新担当大臣であった蓮舫が入場料の有料化を提案[3][4]した。これが話題となり、それまで1週間で2600人ほどだった来館者数が約1.8倍の4700人にまで増加し、1日の来館者数が2000人を超える日も出るなど、注目を集めた[5][6]。この影響もあり2010年7月23日には通算来館者数100万人を達成した[7]

有料化実験を実施する防衛省令は2010年11月1日から施行された[8]。しかし有料化に伴い入場者数が激減したなどの理由から同実験は2011年2月1日付をもって終了し[9]、その後は再び入館無料が続いている。

施設および展示品
展示車両等は、用途廃止車両として全国の駐屯地等に保管展示されていたものや試験期間の終わった試作車等である。試作車は部隊配備されている量産車とは細部が異なっている。

2022年1月現在、新型コロナウイルス感染症の感染防止のために、一部の施設・展示品は展示や体験を停止している。

屋内展示
〔1階〕
16式機動戦闘車 (試作車)
偵察用オートバイカワサキKLX250
AH-1S対戦車ヘリコプター(自衛隊が同機種の配備を始めるにあたって米国から購入した2機のうちの1機)
89式5.56mm小銃
5.56mm機関銃MINIMI
74式車載7.62mm機関銃
91式携帯地対空誘導弾
・米軍1トン爆弾(不発弾処理済み)
フライトシミュレータ(AH-1Sの飛行疑似体験。操縦体験はできず、稼働する座席に座って撮影した映像を見る形式。定員2名)
・3Dシアター (陸上自衛隊の活動を紹介する映像を放映)
・服装体験コーナー(迷彩服が試着可)
・装備体験コーナー(防弾チョッキ2型や背嚢、空挺傘を装着体験可)
・射撃シミュレータ(90式戦車とAH-1Sを選択可)
・オープンシアター
・イベントホール
〔2階〕
・陸上自衛隊の組織や役割及び歴史の展示
・研修室と会議室

屋外展示
10式戦車(試作1号車)
90式戦車(試作車)[10]
74式戦車
89式装甲戦闘車(試作車)
96式装輪装甲車(試作車)[11]
74式自走105mmりゅう弾砲
75式自走155mmりゅう弾砲
87式自走高射機関砲(試作車)
94式水際地雷敷設装置
中距離多目的誘導弾(試作品)[12]
UH-1H(多用途ヘリコプター)
遠隔操縦観測システム(無人ヘリコプターのみ)
・地下指揮所
軽装甲機動車(試作車)[13](他の屋外展示とは異なり駐車場前のスペースにゲートガードとして展示)

振武臺記念館
現在の朝霞駐屯地に1941年から終戦まで存在した旧陸軍予科士官学校(通称「振武臺(振武台)」)の史料を展示する記念館。

駐屯地構内で広報センターに隣接しており、広報センター経由で時間帯限定で見学が可能。

詳細
 09:30〜11:45、13:15〜16:45(入替制)

休館日
 月曜日・火曜日(祝日の場合は次の平日)
 年末年始
 臨時休館日・イベント開催日等は公式ウェブサイトを参照

駐車場
・普通車40台(無料)
・バス5台(無料)
・臨時駐車場あり
・バイク・原付・自転車用駐輪スペースあり(無料)

交通
国道254号(川越街道) 朝霞自衛隊交差点
  ・最寄りのインターチェンジは、東京外環自動車道和光ICである。
東武東上線 東京メトロ有楽町線副都心線 和光市駅 南口徒歩約25分
東武東上線 朝霞駅
  ・南口2番乗り場
   ・西武バス 大泉学園駅行き 南大通り(朝霞警察署)バス停 徒歩12分
   ・西武バス 第4中学校経由 新座栄・新座営業所行き 栄町5丁目バス停 徒歩10分
  ・南口4番乗り場
   ・朝霞市内循環バスわくわく号 膝折溝沼線 わくわくどーむ行き 栄町5丁目バス停 徒歩10分
西武池袋線大泉学園駅 北口1番乗り場 朝霞駅南口行き 南大通り(朝霞警察署)バス停 徒歩12分
和光市駅南口から東武バスウエストが「自衛隊朝霞門」行きのバスを運行しているが、朝夕のみで広報センター開館時間帯には運行されていない。)

脚注
1. 
広報センターが所在する朝霞門は埼玉県朝霞市栄町四丁目に面しているが、朝霞駐屯地は1区3市に跨っており、正式な住所は駐屯地司令部のある東京都練馬区大泉学園町になる。
2. 
陸上自衛隊広報センター”. 陸上自衛隊広報センター. 2021年12月28日閲覧。
3. 
“「事業仕分け」後半戦開始 53事業のうち19事業、約151億7,000万円を「廃止」と判断”. FNNニュース (フジニュースネットワーク). (2009年11月26日) 2014年3月20日閲覧。
4. 
“行政刷新会議ワーキングチーム「事業仕分け」第3ワーキンググループ”. 内閣府行政刷新会議事務局. (2009年11月24日) 2014年3月20日閲覧。
5. 
仕分けで注目「りっくんランド」人気急上昇 陸自広報センター - MSN産経ニュース・2009年12月2日
6. 
東京中日スポーツ・2009年12月31日付 15面
7. 
陸自センター、100万人達成 仕分け効果で入場者急増 - 47NEWS(よんななニュース)2010年7月23日、共同通信。archive.todayによるアーカイブ
8. 
防衛省・自衛隊:自衛隊の大規模広報施設に係る入場料の徴収に関する実験の実施について2010年10月22日、防衛省
9. 
“「蓮舫は的外れ!」防衛省“造反”で事業仕分け骨抜き”. ZAKZAK (夕刊フジ). (2011年2月1日). オリジナルの2011年2月4日時点におけるアーカイブ。 2014年3月20日閲覧。
10. 
日本原駐屯地にゲートガードとして展示されていたものをレストアして移管したもの。2020年春のリニューアル工事までは屋内展示だった。
11. 
試作車だがイラク派遣仕様と同じ日の丸と国名の表記とワイヤーカッターが追加されている。
12. 
2011年春より展示。
13. 
試作車だがイラク派遣仕様に近い改修(同一ではない)が施されている。

関連項目
海上自衛隊呉史料館(てつのくじら館)
海上自衛隊佐世保史料館(セイルタワー)
航空自衛隊浜松広報館(エアーパーク)

外部リンク
陸上自衛隊広報センター    
(wikiより)


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第 2代上田市長

勝俣英吉郎翁像

石井光三郎書

勝俣英吉郎翁は大正 13年 7月 14日上田市第 2代市長となり昭和 5年 4月 7日現職中齢 67歳にて逝去さる

在職中 皇太子殿下ご成婚記念事業として長野県議会の議決により金 5万円の県費補助金を得て昭和 2年上田公園内に野球場陸上競技場庭球場など全国でも有数な施設を上田市議会の議決を経て建設した

その後これらの施設を基盤として更に改修拡充新設などにより市営総合運動場の完成をみるに至った

この運動場の活用により幾多の国際競技人を生みまた青少年教育にも大きな貢献をいたし今日に至る

昭和の始めにこのような画期的な施設をつくった翁の先見と偉業を永久にたたえるため有志一同と相図りその胸像を建設して翁の功績を顕彰する

昭和 36年 11月 3日建之

上田市体育協会
(碑文より)

〇 勝俣英吉郎
勝俣 英吉郎(かつまた えいきちろう、1865年4月13日〈慶応元年3月18日[1][2][3]〉 - 1930年昭和5年〉4月7日[1][2][4])は、明治から昭和時代前期の政治家医師長野県上田市長。俳号・かつ丸。

経歴
信濃国上田城下上田藩医の家に生まれる[1][2][3][5]。1879年(明治12年)東京外国語学校ドイツ語を学び、1883年(明治16年)東京大学医学部別課に入学し、1887年(明治20年)帝国大学医学大学を卒業し、1888年(明治21年)家業の医院を継ぐ[1][2][3][5]

1891年(明治24年)信陽医学会を創立し、同会長を務める[5]日清日露戦争では日本赤十字社救護医として従軍[1][2][3][5]1909年(明治42年)長野県会議員に当選し、立憲民政党支部長に就任した[5]。1919年(大正8年)上田市会議員に選出され、1923年(大正12年)同議長に就任[3]

細川吉次郎市長の死去に伴い1924年(大正13年)7月14日、推挙され上田市長に就任し、1930年(昭和5年)4月7日、在職中に没した[1][2][3][4][5]。この間、上田橋の架け替え、丸子鉄道上田温泉電軌北東線の開通、汚物焼却場設置、市営運動場、児童遊園地の建設などに尽力した[1][5]

ほか、1914年(大正3年)長野県医師会長、1919年(大正8年)より5年間に渡り上田市医師会長を務めた[3][5]。また、かつ丸と号し、俳句も能くした[5]

親族
・長男:勝俣稔(医師、国会議員)[5][6]
   
脚注
1. 
a b c d e f g 『日本の歴代市長 第2巻』254頁。
2. 
a b c d e f 『信州人物誌』129-130頁。
3. 
a b c d e f g 『明日をひらいた上田の人びと』38-39頁。
4. 
a b 赤羽ほか 1989, 807頁.
5. 
a b c d e f g h i j 赤羽ほか 1989, 188頁.
6. 上田を支えた人々〜上田人物伝〜、2019年7月20日閲

参考文献
・田島清編『信州人物誌』信州人物誌刊行会、1969年。
・『日本の歴代市長 第2巻』歴代知事編纂会、1984年。
・赤羽篤ほか 編『長野県歴史人物大事典』郷土出版社、1989年。ISBN 4876631263
・『上田市誌 人物編:明日をひらいた上田の人びと』上田市、2003年。
(wikiより)

31 勝俣英吉郎

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所在地日本の旗 日本 神奈川県横須賀市
所在海域東京湾
座標北緯35度17分10秒 東経139度41分39秒
面積0.055 km²
海岸線長約1.6 km
最高標高39.3 m

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猿島(さるしま)は、神奈川県横須賀市猿島に所在する無人島[1]東京湾最大の自然島である。1995年に国から横須賀市へ移管され、横須賀市が猿島公園として観光などに活用している[1][2]

地勢
・面積 約0.055 km2
・周囲 約1.6 km[1]
・標高 最高39.3m
・横須賀市平成町より北東へ約1.15 km、三笠公園戦艦三笠保存地)東方約1.75 km 沖合。

概要
京急本線横須賀中央駅から徒歩15分の三笠ターミナルで船に乗り、10分程度で着く[2]海水浴バーベキュー釣り、散策などのレジャーに適する無人の自然島。

島からは縄文時代土器弥生時代の土器・人骨が出土し、日蓮にまつわる伝説が残るなど[3]、古くから人々に親しまれている。

幕末から第二次世界大戦前にかけては、東京湾の首都防衛拠点となる。幕末の1847年江戸幕府により国内初の台場が築造され[3]明治時代に入ると陸軍省海軍省の所管となり、東京湾要塞の猿島砲台が築造された。本施設が実戦に用いられたことはないが、島内の岩壁を掘って煉瓦で覆われた要塞跡は現在も残り[1]、日本国では数少ないフランドル積みが見られる。使用された煉瓦は愛知県の東洋組士族就産所で製造された。国の史跡に指定されている。当時の煉瓦は素材や焼成温度が均一でなかったため、結果として色とりどりの煉瓦が積まれて現代に残り、観光客に人気がある[4]。なお、砲台は2000年に「猿島要塞」として土木学会選奨土木遺産に指定される[5]

第二次世界大戦後は1961年まで、日本を占領して横須賀軍港を使用したアメリカ合衆国に接収された。その間にも1947年に渡船の運航が開始、1957年には海水浴場が開かれる。その後、1993年に海水浴場は閉鎖、航路も廃止されて、立ち入り禁止とされる。

1995年横須賀市大蔵省(現:財務省)から管理を受託。散策路等を整備し、航路を復活させた。翌1996年には海水浴場も再開された。2003年、横須賀市が国から猿島の無償譲与を受け、「猿島公園」として整備した。

アニメ映画天空の城ラピュタ』を連想させるとして人気を集めており[1]、『仮面ライダー』のロケーション撮影ではゲルショッカーの基地があると設定されたことでも知られている。2013年度の入島者は約11万人と2003年度の1.7倍に増えており、2015年に「国史跡」に指定を受ける。横須賀市では2015年4月から入園料を徴収している[6]

有料化されても人気は続いており、2017年の入島者は約18万人へ増えた[4]

2019年夏、ドローンによる食材配送サービスが期間限定で運用される[7]

交通
・三笠桟橋(三笠公園内)よりトライアングル(運行事業者)の船で10分。船は、3月から11月までは毎日運航、12月から2月までは土日祝日のみ運航。往復運賃は入島料込みで大人2000円、中学生1750円、小学生1000円で横須賀市民には割引がある[1]
  ・三笠桟橋まで、京急横須賀中央駅より徒歩15分[1]JR東日本横須賀駅より徒歩30分。
防衛省防衛大学校短艇委員会(課外活動であるが、校長直属であるため、規則により「委員会」となっている)が、トレーニングのために走水練習場から短艇で漕ぎ着けてくることがある[8]

人が搭乗することはできないが、猿島の行楽客から注文を受けた飲食品や紙皿などをドローンで配達する実験を、西友楽天が2019年7月に開始する計画を公表している[9]

作品
映画
ドグラ・マグラ』(松本俊夫監督、1988年) - 主人公・一郎(松田洋治)と若林博士(室田日出男)が話し合うシーンのロケ地。
・『蘇える金狼』(村川透監督、1979年) - 中盤アクションシーンのロケ地。
・『赤と黒の熱情』(工藤栄一監督、1992年) - ラストシーンのロケ地。

ドラマ
・『怪奇大作戦』(1968年) - 第15話「24年目の復讐」のロケ地。
・『仮面ライダー』(1971年) - ショッカー・ゲルショッカーの秘密基地のロケ地。
・『大都会 PARTIII』(1979年) - 第22話「横須賀ストーリー」のロケ地。
・『西部警察』(1980年) - 「特ダネの罠」のロケ地。
・『西部警察 PART-III』(1984年) - 「刑事無情」「ターゲットX ・鳩村刑事絶体絶命」のロケ地。
・『少女コマンドーIZUMI』(1988年) - 第15話「セーラー服戦士の伝説」のロケ地。
・『探偵学園Q』(2003年) - 日本テレビのドラマSP。赤レンガのトンネル。
・『仮面ライダー剣』(2004年) - 2話のロケ地。プラントアンデッド(カテゴリーハート7)が現れた要塞。
・『ケータイ刑事 銭形雷』(2006年) - BS-iのドラマ。25話、26話のロケ地。
・『そして誰もいなくなった』(2017年) - テレビ朝日のドラマ。劇中の兵隊島のロケ地。
・『君と世界が終わる日に』(2021年) - 日本テレビドラマ。「猿ノ島」という名称で登場する(遠景だけで、ドラマのロケ地にはなっていない)。

小説
・『猿島の七日間』(1989年) - 彦一彦の冒険小説。
・『猿島館の殺人』(1990年) - 折原一の長編小説。
・『あやしい探検隊 不思議島へ行く』(1993年) - 椎名誠の冒険エッセイ。

このほか、島内の風景がアニメ映画天空の城ラピュタ』に似ているといわれる[1]

ギャラリー

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猿島(国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成)

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うみかぜ公園から1.1 km 猿島上空から

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遊覧船(2021年10月)

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猿島ウエルカムセンター(2021年10月)

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ボードデッキ(2021年10月)

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要塞建造に使用された東洋組煉瓦の刻印

脚注・出典
1. 
a b c d e f g h 【いいね!探訪記】猿島(神奈川県横須賀市)要塞眠る森 海上のラピュタ朝日新聞』夕刊2022年6月25日3面(同日閲覧)
2. 
a b 猿島公園 横須賀市建設部公園管理課(2022年6月25日閲覧)
3. 
a b 川上朝栄「戦跡残る無人島 神奈川・横須賀の猿島」『産経新聞』朝刊2013年8月9日22面(東京本社発行13版)
4. 
a b 【ぐるっと首都圏】猿島(神奈川県横須賀市)要塞の跡 漂うロマン日本経済新聞』朝刊2018年3月24日(首都圏経済面)2019年6月21日閲覧
5. 
土木学会 平成12年度選奨土木遺産 猿島要塞”. www.jsce.or.jp. 2022年6月8日閲覧。
6. 
猿島公園 横須賀市 - ウェイバックマシン(2011年9月5日アーカイブ分)
7. 
猿島 ドローンで食材配送 楽天と西友 近未来の買い物体験 | 横須賀”. タウンニュース (2019年6月21日). 2019年7月12日閲覧。
8. 
防衛大学校 短艇委員会   
9. 
「西友、離島にドローン配送/楽天と実見 アプリで注文、400点対象/ノウハウ蓄積、他地域検討」日経MJ』2019年6月19日(コンビニ・フード面)2019年6月21日閲覧

関連項目
神奈川県の島一覧    

外部リンク
猿島公園 横須賀市
猿島 横須賀市観光情報サイト「ここはヨコスカ」
猿島
猿島公園専門ガイド協会
猿島周辺の地図 - 地理院地図(国土地理院
猿島の上空写真(2007年撮影) - 国土地理院(地図・空中写真閲覧サービス)
 ウィキメディア・コモンズには、猿島に関するカテゴリがあります。
(wikiより)


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世界三大行進曲の一つであるご存知軍艦マーチの碑である。三笠公園内 記念艦三笠の脇に設置されている。平成8年4月に建立されたが、平成15年3月、横須賀水交会によって修復されている。なお、作曲の瀬戸口軍楽長の墓は長浦の常光寺にあり、また、自筆の譜面は三笠艦で展示されている。
所在:三笠公園(横須賀市)

(刻字)
碑正面:
「行進曲 軍艦  (~楽譜~)

碑文
行進曲「軍艦」は明治30年海軍軍楽長 瀬戸口藤吉氏によって作曲された 日本の勃興期における行進曲として親しまれ 未来への明るい希望と自信を与え勇気づけるものである 世界3大行進曲の一つとして 音楽史を彩る稀有の名曲で 作曲されてから一世紀を迎える年にあたり 瀬戸口軍楽長がこよなく愛し 青春の日日を送り己が終焉の地ともなったこの横須賀の三笠公園に行進曲「軍艦」の顕彰碑を建立いたしたものである 
行進曲「軍艦」記念碑建立協賛会」

碑裏面:
「行進曲軍艦  鳥山 啓作詞 瀬戸口藤吉作曲

一.守るも攻めるも黒金(くろがね)の
  浮かべる城ぞ頼みなる
  浮かべるその城日の本(もと)の
  皇国(みくに)の四方(よも)を守るべし
  真鉄(まがね)のその艦(ふね)日の本に
  仇なす国を攻めよかし

二.石炭(いわき)の煙は太洋(わだつみ)の
  龍(たつ)かとばかり靡(なび)くなり
  弾丸撃(たまう)つ響きは雷(いかづち)の
  声かとばかりどよむなり
  万里の波濤を乗り越えて
  皇国の光輝(かが)やかせ
  平成十五年3月横須賀水交会修復」

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時あたかも、東日本大震災に始まる政治経済混乱の中で、一年余が経過した今、明徳寺ご一山のご厚誼の下に、栗林忠道・今井武夫顕彰平和宣誓碑を建立した。

ここ数年来、世界的な政治経済の激動と混迷の中で、我国は昭和前期の政党政治崩壊と、戦争への歩み想起させるような微候が見られるようになった。

そこで戦争惨禍の体験者として、長野中学四十五回同窓を始めとする有志の私共は、両家ご親族の理解と協力を得て、二度とその間違いを繰り返さないために、長野出身の先達、栗林忠道・今井武夫の生涯と平和的事項を明らかにしたいと願い、二〇〇九年に二人の顕彰会を立ち上げ、種々の活動をし、昨年は現代の覚醒の書として「栗林忠道・今井武夫物語」を出版した。

私共の憂い願いは、すべてこの書に込められている。

この二人の先達は、軍人という困難な立場にありながら、対米国対中国の開戦に対し、最後まで不戦・和平を求め続けた。

私共は今こそその強靭な和平の志願と、人間として義に生き抜かれた高邁な人格を、この「いしぶみ」と己の中に刻み、末永く学び続けて後世に伝えながら、国際平和保持の一端を担うことを、お二人に固くお誓いするものである。

この心 己に刻み 末永く 学び努めて 平和築かむ

               人間栗林忠道・今井武夫顕彰会
(顕彰碑碑文より)     

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※ 御遺体は硫黄島 ( いおうとう ) で発見されていない為 御遺骨は入っていません。

生誕1891年7月7日
日本の旗 日本長野県埴科郡西条村
死没1945年3月26日(53歳没)
日本の旗 日本東京都小笠原諸島硫黄島村硫黄島
所属組織 大日本帝国陸軍
軍歴1914年 - 1945年
最終階級帝國陸軍の階級―襟章―大将.svg 陸軍大将

栗林 忠道(くりばやし ただみち、1891年明治24年)7月7日 - 1945年昭和20年)3月26日[1][注釈 1])は、日本陸軍軍人最終階級陸軍大将位階勲等従四位勲一等旭日大綬章[注釈 2]陸士26期陸大35期次席長野県埴科郡西条村(現:長野市松代町)出身。

第二次世界大戦太平洋戦争/大東亜戦争)末期の硫黄島の戦いにおける、日本軍守備隊の最高指揮官(小笠原兵団長。小笠原方面陸海軍最高指揮官)であり、その戦闘指揮によって敵であったアメリカ軍から「アメリカ人が戦争で直面した最も手ごわい敵の一人であった[4]と評された。

経歴
戦国時代以来の旧松代藩郷士の家に生まれる。1911年(明治44年)、長野県立長野中学校を卒業(第11期)。在学中は文才に秀で、校友誌には美文が残されている。当初ジャーナリストを志し東亜同文書院を受験し合格していたが、恩師の薦めもあり1912年大正元年)12月1日に陸軍士官学校へ入校。陸軍将校の主流である陸軍幼年学校出身(陸幼組)ではなく、中学校出身(中学組)であった。長野中学の4期後輩に今井武夫陸軍少将がいる。陸士同期に、のちの硫黄島の戦いで混成第二旅団長に指名して呼び寄せた“歩兵戦の神”の異名をもつ千田貞季田中隆吉影佐禎昭、とくにノモンハン事件では、戦車第3連隊吉丸清武第23師団参謀長大内孜、第23師団捜索隊長東八百蔵の3人の同期が戦死しており、栗林が同期を代表して新聞紙面上で追悼のことばを送っている[5]

1914年(大正3年)5月28日、陸士卒業(第26期、兵科騎兵、席次:742名中125番)、騎兵第15連隊附となり、同年12月25日に陸軍騎兵少尉任官。1917年(大正6年)10月から1918年(大正7年)7月まで陸軍騎兵学校乙種学生となり[6]、馬術を専修[7]。馬術の技術は高く、気性が荒く陸軍騎兵学校の誰もが敬遠していた馬を何度も落馬しながらも乗り続け、最後には乗りこなしていたという逸話が残っている[8]

1918年(大正7年)7月に陸軍騎兵中尉1920年(大正9年)12月7日、陸軍大学校へ入校。1923年(大正12年)8月、陸軍騎兵大尉。同年11月29日に陸大を卒業(第35期)、成績優等(次席)により恩賜の軍刀を拝受[9]。同年12月、栗林義井(よしゐ[10])と結婚[注釈 3]。太郎・洋子・たか子の一男二女を儲ける。孫に衆議院議員新藤義孝がいる(たか子の子)[11]

北米駐在・騎兵畑
騎兵第15連隊中隊長、騎兵監部員を経て1927年昭和2年)、アメリカ駐在武官在米大使館附)として駐在、帰国後の1930年(昭和5年)3月に陸軍騎兵少佐に進級、4月には陸軍省軍務局課員。1931年(昭和6年)8月、再度北米カナダに駐在武官(在加公使館附)として駐在した。栗林は2年間に渡ってアメリカ各地を回ってアメリカ軍の軍人だけではなく一般市民とも親交を深めた。栗林のアメリカ人評は「朗らかで気さくな人が多い」であり、アメリカ人との交流について、妻よしゐやまだ字が読めない長男太郎宛に、イラストや漫画を描き込んだユーモアにあふれる多くの手紙を送っている[12]。 フォート・ビリス英語版では騎兵訓練を受けているが、そのときの教官であったジョージ・ヴァン・ホーン・モーズリー英語版准将からは、「尊敬する栗林へ、貴官との愉快な交際を忘れません」と書かれた記念写真を受け取っている。栗林はフランスドイツ志向の多い当時の陸軍内では少数派であった「知米派」で、国際事情にも明るくのちの対米開戦にも批判的であり、妻のよしゐに「アメリカは世界の大国だ。日本はなるべくこの国との戦いは避けるべきだ。その工業力は偉大で、国民は勤勉である。アメリカの戦力を決して過小評価してはならない」と話したこともあった[13]

1933年(昭和8年)8月、陸軍騎兵中佐、同年12月30日に陸軍省軍務局馬政課高級課員となりさらに1936年(昭和11年)8月1日には騎兵第7連隊長に就任する。1937年(昭和12年)8月2日、陸軍騎兵大佐に進級し陸軍省兵務局馬政課長。馬政課長当時の1938年(昭和13年)には軍歌愛馬進軍歌』の選定に携わっている。

1940年(昭和15年)3月9日、陸軍少将に進級し騎兵第2旅団長、同年12月2日、騎兵第1旅団長に就任。

太平洋戦争(大東亜戦争)
太平洋戦争(大東亜戦争)開戦目前の1941年(昭和16年)9月、第23軍参謀長に就任。第23軍は緒戦の南方作戦においてイギリス香港を攻略することを任務としており、12月8日の開戦後、香港の戦いにおいて18日間でイギリス軍を撃破して香港を制圧した。

1943年(昭和18年)6月、陸軍中将に進級し、第23軍参謀長から留守近衛第2師団[注釈 4]に転じる[7]

1944年(昭和19年)4月、留守近衛第2師団長から東部軍司令部附に転じる[7][注釈 5]。栗林が東部軍司令部附となったのは、厨房から失火を出した責によるとされる[7]秦郁彦は、厨房から火事を出した程度で留守師団長を更迭されるとは考えにくい、第109師団長に親補する前提での人事であろう、という旨を述べている[7]

硫黄島の戦い
詳細は「硫黄島の戦い」を参照

1944年(昭和19年)5月27日[3]、小笠原方面の防衛のために新たに編成された第109師団長に親補された[7]。6月8日、栗林は硫黄島に着任し、以後、1945年(昭和20年)3月に戦死するまで硫黄島から一度も出なかった[7]。同年7月1日には大本営直轄部隊として編成された小笠原兵団長も兼任、海軍部隊も指揮下におき「小笠原方面陸海軍最高指揮官」となる(硫黄島の戦い#小笠原兵団の編成と編制)。周囲からは、小笠原諸島全域の作戦指導の任にある以上は、兵団司令部を設備の整った父島に置くべきとの意見もあったが、アメリカ軍上陸後には最前線になると考えられた硫黄島に司令部を移した。その理由としては、サイパンの戦いにおいて、第31軍司令官小畑英良中将が、司令部のあるサイパン島から部隊視察のためパラオ諸島に行っていたときにアメリカ軍が上陸し、ついに小畑はサイパン島に帰ることができないまま守備隊が玉砕してしまったという先例があることや、父島と比較すると硫黄島の生活条件は劣悪であり、自分だけ快適な環境にいることなく部下将兵と苦難を共にしたいという想いがあったからという。栗林はその人柄から部下将兵からの人気も高かった[17]

栗林の着任当時、硫黄島には約1,000人の住民が居住しており、当時の格式では、閣僚クラスの社会的地位のある中将の来島に色めきたったが、栗林は島民に配慮して一般島民とは離れた場所に居住することとしている[18]。栗林が司令部ができるまで居住していた民家は「硫黄島産業」という会社の桜井直作常務の居宅で、桜井は栗林と接した数少ない島民となったが、栗林は食事の席で桜井に「我々の力が足りなくて、皆さまに迷惑をかけてすまない」と謝罪し桜井を驚かせている[19]。栗林の島民に対する配慮はまだ続き、アメリカ軍による空襲が激しくなると、島民も将兵と同じ防空壕に避難するようになったが、薄手の着物姿の女性が避難しているのを見た栗林は、将兵からの性被害を抑止するために女性にモンペの着用を要請し、また防空壕も可能な限り軍民を分けるよう指示した[20]。その後も、アメリカ軍の空爆は激化する一方で、全島192戸の住宅は3月16日までの空襲で120戸が焼失、6月末には20戸にまでなっていた。栗林は住民の疎開を命じ、生存していた住民は7月12日まで数回に分けて父島を経由して日本本土に疎開した[21]。栗林の方針によって硫黄島には慰安所は設置されておらず、硫黄島は男だけの島となったが、結果的に早期に住民を疎開させるという判断が、島民の犠牲を出さなかったことにつながった[22]

敵上陸軍の撃退は不可能と考えていた栗林は、堅牢な地下陣地を構築しての長期間の持久戦・遊撃戦(ゲリラ)を計画・着手する。従来の「水際配置・水際撃滅主義」に固執し水際陣地構築に拘る1部の陸軍幕僚と同島の千鳥飛行場確保に固執する海軍を最後まで抑え、またアメリカ軍爆撃機空襲にも耐え、上陸直前までに全長18kmにわたる坑道および地下陣地を建設した。陣地の構築については軍司令官である栗林が自ら島内をくまなく巡回し、ときには大地に腹ばいになって、目盛りのついた指揮棒で自ら目視して作業する兵士たちに「この砂嚢の高さをあと25cm上げよ」「こっちに機銃陣地を作って死角をなくすようにせよ」「トーチカにもっと砂をかけて隠すようにせよ」などの具体的で詳細な指示を行うこともあったという。生還者の1人であった歩兵第145連隊第1大隊長原光明少佐は「(栗林)閣下が一番島のことをご存じだった。だから私ら、突然、閣下が予想外の場所から顔を出されるので、いつもびっくりさせられた」と回想している[23]。このように、通常は部隊指揮官がやるような細かい指示を軍司令官が行ったことについて、栗林の率先指揮ぶりの好エピソードとして語られることもあるが、これは、軍参謀がわずか5人と少ないうえ着任して日も浅く、また部隊指揮官は急編成でろくに経験もない老兵が多かったという小笠原兵団の窮状によるものでもあった[24]

持久戦術は守備隊唯一の戦車戦力であった、戦車第26連隊(連隊長:西竹一中佐)に対しても徹底された。戦車第26連隊は満州で猛訓練を積んできたこともあり、連隊長の西は硫黄島でも戦車本来の機動戦を望んでいたが[25]、これまでの島嶼防衛戦で戦車を攻撃に投入したサイパンの戦い[26][27][28]ペリリューの戦いにおいては[29]、優勢なアメリカ軍部隊に戦車突撃をして、強力な「M4中戦車」との戦車戦や、バズーカなどの対戦車兵器に一方的に撃破されることが続いており[30][26][31]。栗林は西に対して、戦車を掘った穴に埋めるか窪みに入り込ませて、地面から砲塔だけをのぞかせ、トーチカ代わりの防衛兵器として戦うよう命じた。西はこの命令に反撥したが最終的には受入れている。栗林と西は同じ騎兵畑出身で親しかったとする証言もあるが、勤勉且つ繊細であった栗林に対し、華族で裕福であった西は豪放で奔放と性格が全く異なっており、確執があったとする証言もある[32]。ただし、戦車を防衛兵器として使用する判断をしたのは西であったとする説もある[33]

隷下兵士に対しては陣地撤退・万歳突撃自決を強く戒め、全将兵に配布した『敢闘ノ誓』や『膽兵ノ戦闘心得』に代表されるように、あくまで陣地防御やゲリラ戦をもっての長期抵抗を徹底させた(硫黄島の戦い#防衛戦術)。過酷な戦闘を強いることになる隷下兵士には特に気を配っており、毎日、島を何周も廻る視察には、陣地構築の状況確認のほかに、兵士の士気と指揮官の兵士に対する態度を確認する目的もあった。栗林は兵士に対して、作業中や訓練中には自分も含め上官に敬礼は不要と徹底し、部下から上官に対する苦情が寄せられた場合は容赦なく上官を処罰した。食事についても栗林自らも含め、将校が兵士より豪華な食事をとることを厳禁した。栗林は、平時から階級上下での待遇差が激しい軍内で根強い“食べ物の恨み”が蔓延しているしていることを認識しており、水不足、食料不足の硫黄島においては、さらにその“食べ物の恨み”が増幅する懸念が大きく、戦闘時の上下の信頼関係を損なって、戦力に悪影響を及ぼすという分析をしていた。そのため、自らも兵士と同じ粗食を食し、水も同じ量しか使用しなかった。この姿勢が兵士から感銘を受けて、栗林への信頼が高まっていった[34]

1945年(昭和20年)2月16日、アメリカ軍艦艇・航空機は硫黄島に対し猛烈な上陸準備砲爆撃を行い、同月19日9時、海兵隊第1波が上陸を開始(硫黄島の戦い#アメリカ軍の上陸)。上陸準備砲爆撃時に栗林の命令を無視し、(日本)海軍の海岸砲擂鉢山火砲各砲台応戦砲撃を行ってしまった。栗林は慌てて全軍に全貌を暴露するような砲撃は控えるよう再徹底したが[35]、栗林の懸念通りにアメリカ軍は応戦砲撃で海軍砲台の位置を特定すると、11時間にも及ぶ艦砲射撃で全滅させてしまった。これはアメリカ海兵隊の硫黄島の戦いの公式戦史において、「(硫黄島の戦いにおける)栗林の唯一の戦術的誤り」とも評された[36]

その後は守備隊各部隊は栗林の命令を忠実に守り、十分にアメリカ軍上陸部隊を内陸部に引き込んだ10時過ぎに栗林の命令によって一斉攻撃を開始する。上陸部隊指揮官のホーランド・スミス海兵隊中将は[7]、その夜、前線部隊からの報告によって硫黄島守備隊が無謀な突撃をまったく行なわないことを知って驚き、取材の記者たちに「誰かは知らんがこの戦いを指揮している日本の将軍は頭の切れるやつ(one smart bastard)だ」と語った[37]。また、第4海兵師団の戦闘詳報によれば、日本軍の巧みな砲撃指揮を「かつて、いかなる軍事的天才も思いつかなかった巧妙さ」と褒めたたえている[38]。アメリカ軍は硫黄島の指揮官が誰であるのかを正確には把握できておらず、上陸前にはサイパン島で入手した日本軍の機密資料から、父島要塞司令官大須賀應陸軍少将と考えていた。しかし、上陸以降に捕らえた日本兵の捕虜から「最高司令官はクリバヤシ中将」という情報を聞き出したアメリカ軍は、硫黄島のような小さく環境が劣悪な島に中将がいるとは考えられないという判断しながらも、硫黄島の戦力が当初の14,000人という見積より多いという報告から、師団クラスの戦力が配置されており、師団長クラスの中将が指揮をしてもおかしくはないという分析も行った。その場合は硫黄島の戦力は当初の見積より遥かに多く、また「クリバヤシ」が優れた戦術家であれば苦戦は必至と危惧することとなったが、事実、この危惧通りにアメリカ軍は大苦戦させられることとなる[39]

その後も圧倒的な劣勢の中、アメリカ軍の予想を遥かに上回り粘り強く戦闘を続け多大な損害をアメリカに与えたものの、3月7日、栗林は最後の戦訓電報となる「膽参電第三五一号」を大本営陸軍部、および栗林の陸大在校時の兵学教官であり、騎兵科の先輩でもある侍従武官長蓮沼蕃大将に打電。さらに組織的戦闘の最末期となった16日16時には、玉砕を意味する訣別電報を大本営に対し打電(硫黄島の戦い#組織的戦闘の終結#訣別の電文)。

翌17日付で戦死と認定され[7][注釈 6]、特旨により陸軍大将に親任された[2]陸軍大臣杉山元元帥は、内閣総理大臣小磯國昭に送付した文書に次のように記している[7]

第百九師団長として硫黄島に在りて作戦指導に任じ其の功績特に顕著なる処、三月十七日遂に戦死せる者に有之候条、同日付発令相成度候

— 杉山元。出典では漢字カナ表記、[7]

太平洋戦争(大東亜戦争)において中将の戦死者が増加したため、中将で戦死した者のうち、親補職軍事参議官[15]。陸軍では、陸軍三長官陸軍航空総監師団長以上の団隊の長、侍従武官長など[15]。海軍では、海軍大臣軍令部総長、艦隊司令長官、鎮守府司令長官など[15]。)2年半以上を経ており、武功が特に顕著な者を陸海軍協議の上で大将に親任するという内規が作られ、この内規により、陸軍で7名(栗林を含む)[40]、海軍で5名が戦死後に大将に親任された[41]

昭和19年5月27日に第109師団長に親補され、昭和20年3月17日に戦死と認定された栗林は、上記の内規の年限を満たさなかったが、特旨により大将に親任された[41]

同日、最後の総攻撃を企図した栗林は残存部隊に対し以下の命令を発した。

・一、戦局ハ最後ノ関頭ニ直面セリ
・二、兵団ハ本十七日夜、総攻撃ヲ決行シ敵ヲ撃摧セントス
・三、各部隊ハ本夜正子ヲ期シ各方面ノ敵ヲ攻撃、最後ノ一兵トナルモ飽ク迄決死敢闘スベシ 大君[42]テ顧ミルヲ許サズ
・四、予ハ常ニ諸子ノ先頭ニ在リ

大本営は訣別電報で栗林は戦死したと判断していた。しかし、3月23日に硫黄島から断続的に電文が発されているのを父島の通信隊が傍受した。その電文には3月21日以降の戦闘状況が克明に記されていたが、最後の通信は23日の午後5時で、「ホシサクラ(陸海軍のこと)300ヒガシダイチニアリテリュウダンヲオクレ」という平文電報がまず流れてきたので、通信兵が返信しようとすると、「マテ、マテ」と硫黄島から遮られて、その後に続々と電文が送られてきたという。その電文の多くが栗林による部隊や個人の殊勲上申であり、栗林は戦闘開始以降、部下の殊勲を念入りに調べてこまめに上申して、昭和天皇の上聞に達するようにしてきたが、最後の瞬間まで部下のはたらきに報いようとしていたのだと電文を受信した通信兵たちは感じ、電文に記された顔見知りの守備隊兵士を思い出して涙した。しばらくすると通信は途絶えて、その後は父島からいくら呼びかけても返信はなかった[43]

栗林の最期
3月17日以降、栗林は総攻撃の機会をうかがっていた。既に生存者の殆どが、守備隊の命運は尽きており、待っているのは自滅のときの訪れであって、そうであれば最後の突撃をなるべく早く行うべきと考えていたが、栗林は死を焦る参謀や指揮官らに「今、しばらく、様子を見たい」として安易な突撃を許さなかった。その指示を聞いた参謀らは、最後まで作戦を考える栗林の戦意と気力に大きな感銘を受けたという[44]。アメリカ軍は18日から、艦砲射撃や空爆を中止し、損害の大きかった海兵隊を硫黄島から次第に撤退させており、1個連隊程度の戦力を残して、戦車と迫撃砲での攻撃を主として近接戦闘をなるべく避けるように作戦変更していた。栗林は冷静にアメリカ軍の作戦変更を見極めて、警戒が緩んできた3月24日に攻撃の機が熟したと判断すると、25日夜間の総攻撃開始を決定した[45]。この総攻撃も、今まで栗林が徹底して禁止してきたバンザイ突撃ではなく、緻密に指揮された周到な攻撃であった。栗林は階級章を外すと、軍刀などの所持品から名前を消して白襷を着用し、25日の深夜に、今まで栗林に従ってきた師団司令部附大須賀應陸軍少将、歩兵第145連隊連隊長池田益雄陸軍大佐、参謀長高石正陸軍大佐や海軍第27航空戦隊司令官市丸利之助海軍少将と共に、攻撃隊400人の先頭に立って司令部の半地下壕を出て、元山・千鳥飛行場方向に向けて前進を開始した[46]

翌3月26日午前5時15分、栗林の指揮する攻撃隊は西部落南方の海岸で、アメリカ陸軍航空隊の第7戦闘機集団と第5工兵大隊が就寝している露営地に接触し攻撃を開始した。攻撃隊は日本軍の兵器のほかに、アメリカ軍から鹵獲したバズーカや自動小銃などを装備しており非常に重武装で、太平洋戦争の島嶼戦で繰り返された貧弱な装備でのバンザイ突撃とは一線を画した秩序だった攻撃であり、攻撃を受けたアメリカ軍も日本軍部隊がよく組織されているものと感じ、それは栗林の戦術的な規律によるものと評価している[47]。 攻撃隊の周到な攻撃によってアメリカ軍は大混乱に陥り、多数の戦闘機パイロットが殺傷されたが、その後海兵隊の増援も到着し、3時間の激戦によって戦闘機パイロットら44人が戦死、88人が負傷し、海兵隊員も9人が戦死、31人が負傷するという大損害を被った[48]。その後、栗林は部隊を元山方面に転戦しようとしたが、敵迫撃砲弾の破片を大腿部に受けて負傷し、司令部付き曹長に背負われながら前線から避退したが進退窮まり、最後に「屍は敵に渡してはいけない」と言い残して、近くの洞窟で自決した[45]。満53歳没。

ただし、栗林の最期については、直接見た者は生存していないことから諸説ある。最後の総攻撃の数少ない生還者である通信兵小田静夫曹長の証言によれば、栗林は千鳥飛行場に天皇陛下万歳三唱して斬りこんだが、参謀長の高石か参謀の中根に自分を射殺するよう命じ、高石か中根は栗林を射殺したのちに自分も拳銃で自決したという。しかし、小田は実際には栗林の最期を見てはおらずこれは推測である[49]。他の生還者である歩兵第145連隊の大山純軍曹によれば、前進途中の千鳥部落付近で敵の砲火を浴び、部隊は散開状態となったが、大山はそのとき栗林の近くにおり、栗林が「狙撃を出して攻撃せんか」と命令したのを聞いている。大山はその場で機関銃弾を受けて負傷し栗林とはぐれてしまったが、戦闘後に戦闘指揮所に戻ると、栗林が負傷し、出血多量で絶命したため、遺体を参謀長の高石が近くの木の根元の弾痕に埋葬したという話を聞いている[50]

他にも、攻撃中にアメリカ軍の155㎜砲の直撃を受けて爆死し遺体が四散したとの推察もある[51]

最後の総攻撃後に、日本兵の遺体262人が残され、18人が捕虜となった[52]。海兵隊は栗林に敬意を表し遺体を見つけようとしたが、結局見つけることはできなかった。アメリカ海兵隊は公式報告書で栗林による最後の攻撃を以下の様に記録している[53]

3月26日に栗林と他の高級将校が日本軍の最後の攻撃を主導したという報告があった。この攻撃はバンザイ突撃ではなく、最大の混乱と破壊を生み出すことを目的とした優秀な計画であった。午前5時15分、200−300人の日本兵が島の西側に沿って北から下り、西部の海岸の近くで海兵隊と陸軍の露営地を攻撃した。混乱した戦いは3時間にも及び、第7戦闘機集団の司令部が大打撃を被ったが、混乱から立ち直って反撃を開始し、第5工兵大隊は急いで戦闘ラインを形成して敵の攻撃を食い止めた。日本軍の部隊は、日本とアメリカの両方の武器で十分に武装しており、40人が軍刀を帯びていたので、高級将校が高い割合を占めることを示していたが、遺体や書類を確認したところ栗林を見つけることはできなかった。

栗林の最期に関する異説としては、大野芳が、第109師団父島派遣司令部の参謀であった堀江芳孝少佐の手記から、栗林が戦闘中にノイローゼとなり、アメリカ軍に降伏しようとして参謀に斬殺されたという説を唱えたことがあった[54]。しかし梯久美子の調査により、堀江が硫黄島で栗林の下で勤務したのは数日に過ぎず、栗林の最期についても伝聞であり、その情報源とされた小元久米治少佐[注釈 7]が否定していたことが判明、戦史叢書の編集者も堀江の手記の栗林の最期の記述については信ぴょう性が薄いと判断し、戦史叢書の記述に採用していない[56]

戦後
死後、日米の戦史研究者などからは高い評価を得ていたが、硫黄島の戦いを除くと参謀長や騎兵旅団長など軍人としては目立ったエピソードも少なく、局地戦で戦死した指揮官ということもあり、日本でも一般的な知名度は高くなかったが、2005年平成17年)に上梓された梯久美子散るぞ悲しき 硫黄島総指揮官・栗林忠道』、翌2006年(平成18年)に公開されたハリウッド映画硫黄島からの手紙』により、一躍その名が知られるようになった。

秦郁彦は下記のように述べている。

『散るぞ悲しき』(梯久美子著)がベストセラーになり、映画『硫黄島からの手紙』もヒットして、栗林忠道の名は日本中に知れわたりました。「太平洋戦争最高の名将」という地位をほぼ確立したんじゃないですか。

— 
秦郁彦[7]       

栗林は幼少の頃、一時的に養子に出ていたことがあり、養子に出ていた当時の記録は長らくの間不明であったが、近年、生家から少年時代の日記帳や成績表などが発見され、生後まもなく地元の士族・倉田家へ養子に出ていた時期など、これまで知られていなかった少年期の詳細が明らかになった。

墓所は長野市松代明徳寺だが、遺骨はない。栗林の長兄が継いだ長野市松代の生家では、仏壇に硫黄島の石、および、栗林が陣頭指揮・戦死した3月26日未明の最後の総攻撃に参加し、生還を果たした陸軍下士官が、復員から間もない1946年(昭和21年)に栗林の妻の義井に送った手紙(最後の総攻撃の様子を詳細に記す)を供えていた[10]1967年(昭和42年)、勲一等に叙せられ旭日大綬章を受勲。

詳しい事は「栗林忠道ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A0%97%E6%9E%97%E5%BF%A0%E9%81%93       
(wikiより)

5 栗林忠道

栗林忠道

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⇧ 2012年 4月に建立された栗林忠道 今井武夫顕彰平和宣誓建立趣意碑。


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従四位勲三等功四級。

軍人。

行年 63歳。

没年 昭和 10年 11月 24日。

戒名 : 諦観院殿義山誠道大居士。

平安古。陸軍少将。謙道の子。
(案内板より)

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政治家。 

行年 65歳。

没年 明治 33年 2月 9日。

戒名 : 顯光院泉水峰自澄居士。

江向、境翁介の養子。実は、斎藤謙蔵の二男、前名 栄蔵

吉田松陰および塩谷右陰に学び長府藩主の侍講となる。

廃藩後、島根県令。

明治 16年帰省してはじめて松下村塾の保存を提唱す。
(案内板より)

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従六位勲四等。 

軍人。

行年 明治 30年 11月 2日。

戒名 : 尚幽院壽外武居士。

陸軍歩兵大尉。
(案内板より)

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正三位勲三等功三級。軍人。

行年 65歳。

没年 大正 4年 1月 24日。

戒名 : 剱光院殿至誠道幹大居士。

江向、陸軍少将、八代萩町長 ( 明治 41年 6月 2日 ~ 43年 11月 19日 )
(案内板より)

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玉木家・九代。

玉木正誼の子。

乃木希典の甥。

世田谷・乃木神社を創建。

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萩藩士。

嘉永元年 ( 1848 ) から松陰の兵学門下生。

のち松下村塾に学ぶ。

明治維新後、松本村の戸長を務める。
(案内板より)

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生年月日天保15年10月9日
1844年11月18日
出生地長門国阿武郡椿郷東分
(現在の山口県萩市
没年月日1892年11月11日(47歳没)
死没地兵庫県朝来市生野町生野銀山
出身校松下村塾
前職武士長州藩士
陸軍軍人
称号帝國陸軍の階級―肩章―中将.svg 陸軍中将
正二位
JPN Toka-sho BAR.svg 勲一等旭日桐花大綬章
伯爵
配偶者山田龍子
子女山田金吉(長男)
山田梅子(長女)
親族村田清風(大伯父)
山田顕行(父)
山田亦介(伯父)
河上弥市(再従兄)
山田英夫(娘婿)

日本の旗 初代 司法大臣
内閣第1次伊藤内閣
黒田内閣
第1次山縣内閣
第1次松方内閣
在任期間1885年12月22日 - 1891年6月1日

日本の旗 第5代 司法卿
在任期間1883年12月12日 - 1885年12月22日

日本の旗 第8代 内務卿
在任期間1881年10月21日 - 1883年12月12日

日本の旗 第3代 工部卿
在任期間1879年9月10日 - 1880年2月28日

在任期間1878年3月5日 - 1879年9月10日

その他の職歴
日本の旗 貴族院伯爵議員
1890年7月10日 - 1892年4月1日)

山田 顕義
(やまだ あきよし、旧字体山田 顯義天保15年10月9日1844年11月18日〉- 明治25年〈1892年11月11日)は、日本政治家陸軍軍人[1]顕孝(あきたか)、のちに、顕義に改めた。通称市之允(いちのじょう)。に養浩斎、狂痴、韓峰山人、不抜、空斎など。別名は山田 空斎(やまだ くうさい)。陸軍中将正二位勲一等伯爵

生涯
明治維新期の軍人として新政府に貢献するとともに、新日本の設立者として、近代日本の法典編纂に尽力したことから法典伯の異名を持つ[2][3]日本法律学校を創立するうえで評議員の一人として特に関わり、日本大学の学祖とされる。

吉田松陰が営む松下村塾に最年少の14歳で入門、最後の門下生となる[4]。25歳の時に戊辰戦争で討伐軍の指揮をとる。その際、西郷隆盛から「あの小わっぱ、用兵の天才でごわす」、軍才から「用兵の妙、神の如し」との名言があり「小ナポレオン」とも称された[5]岩倉使節団の一員としてフランスを訪問した際、ナポレオン法典と出会い、「法律は軍事に優先する」ことを確信し、以後一貫して法律の研究に没頭する。約9年間にわたり司法大臣として近代国家の骨格となる明治法典を編纂した。

誕生から松下村塾入塾まで
天保15年(1844年)10月9日、長門国阿武郡椿郷東分[注 1](現・山口県萩市)で、長州藩士である山田七兵衛顕行村田光賢の子で山田家の養子となった山田龔之の子、大組士、禄高102石[6]、藩海軍頭)の長男として生まれる。伯父に山田亦介、また村田家の血縁でつながる親族に村田清風(大伯父)、河上弥市(再従兄)らがいる。


兵学者
・山田亦介の甥でありながら、幼少期の頃に「性質愚鈍、垂鼻頑獣(はなたれだるま)、ほとんど白痴の如し」といわれていた[7]


安政
3年(1856年)、松本村の新山直衛塾に学ぶ。2月、伯父の亦介により、中村九郎竹内竹叢から兵学を教授される。3月、藩校明倫館に入って師範の馬来勝平から剣術柳生新陰流)を学び[8]、文久2年(1862年)には柳生新陰流伝中許を得ている。安政4年(1857年)6月、松下村塾に入門した[8]


安政5年(1858年)、吉田松陰から「与山田生」(詩)「立志尚特異 俗流與議難 不思身後業 且偸目前安 百年一瞬耳 君子勿素餐」と立志の目標が書かれた扇面を与えられる[9]。その内容は「立志は特異を尚(たっと)ぶ、俗流はともに議し難し、身後の業を思はず、且(か)つ 目前の安きを偸(ぬす)む、百年は一瞬のみ、君子 素餐することなかれ[注 2]」である。

幕末期
文久2年(1862年)秋に上京し、藩主の世子である毛利定広の警護を務めるようになった。同年12月、高杉晋作久坂玄瑞・志道聞多(のちの井上馨)・伊藤俊輔(のちの伊藤博文)・品川弥二郎らとともに攘夷の血判書(御楯組血判書)に名を連ねた[10]。文久3年(1863年)3月31日、孝明天皇の攘夷祈願の賀茂神社行幸に際して、御前警護のため毛利定広に随行した。4月11日の石清水八幡宮への行幸にも同様に随行した。八月十八日の政変では長州藩兵として堺町御門の警備を担当し大砲掛となるも、公武合体派に排除され、三条実美以下7人の尊皇攘夷派公卿の長州亡命(七卿落ち)に同行した[10]。しかし途中で兵庫から大坂経由で京都へ一旦戻り潜伏、後に長州へ帰国した。藩から遊撃隊御用掛に任命された。慶應1年(1865年)に普門寺塾大村益次郎から西洋兵学を学んだ[11]。後に大村の遺志を継いで、陸軍創設へ大きく貢献する[12]


元治
元年(1864年)7月、禁門の変では山崎に布陣する久坂玄瑞・真木保臣らの陣に加わったものの長州勢は敗北し、山田も長州へ落ち延びている。8月、太田市之進・品川弥二郎らと御楯隊を創設し、軍監となって下関戦争で奮戦するも長州藩は敗北した。12月、対幕府恭順論の「俗論派」による藩支配に対する高杉晋作の決起(功山寺挙兵)に参戦し勝利を収め、俗論派を排除する。また、山田亦介が処刑され、市之允は謹慎となる[10]


慶応
2年(1866年)、第二次長州征伐では藩海軍総督の高杉晋作から丙寅丸の砲隊長に任命され、6月に周防大島沖で幕府軍艦を奇襲攻撃。7月、御楯隊司令として芸州口に転戦、数々の勝利を収めた。7月20日に将軍・徳川家茂の死去により第二次長州征伐は休戦となった[10]


慶応3年(1867年)5月、御楯隊と鴻城隊を合体した整武隊の総管に就任[10]。11月、薩摩藩から倒幕の出兵要請を受けた藩主・毛利敬親の命令で、長州藩先鋒隊の総隊長として三田尻(現山口県防府市)を出発し、全軍総督である毛利内匠の東征軍先鋒隊700人余とともに海路で京都に入った[13]


慶応4年(1868年)1月、戊辰戦争の発端となる鳥羽・伏見の戦いで在京長州藩兵諸隊の指揮官として、1,000余名ほどの長州藩兵を率いることとなった。新政府征討総督・仁和寺宮嘉彰親王の征討総督副参謀に命じられる。長州藩勢は、伏見口のところで京を保護、約1万の幕府軍遊撃隊)を引き払った。その後、山田と麾下の部隊は、大坂、京の守備にあたり、4月、三田尻に凱旋した。その頃、江戸城明け渡しを果たし、上野戦争彰義隊に勝利した新政府軍官軍)は、会津藩を中心とする奥羽越列藩同盟諸藩との戦いに入った。東北から新潟方面で起きた北越戦争は、北陸道鎮撫総督参謀になったばかりの黒田清隆山縣有朋奇兵隊を率いて、5月に長岡城を占拠した。しかし、アームストロング砲ガトリング砲エンフィールド銃スナイドル銃シャープス銃(軍用カービン)で武装した長岡藩兵を主軸とする精鋭兵に手こずり、長岡軍がアームストロング砲で榴散弾を発射して、奇兵隊ら新政府軍の頭上で爆発させる戦術を用いて、多大な損害を与えた。新政府軍はやむなく守勢に置かされた。それを克服するため、山田は先年にイギリスで完成した長州藩の艦艇「第一丁卯」に乗船を命じられ、5月に薩摩艦「乾行丸」、筑前艦「大鵬丸」も同行し馬関(現下関)を出発、越後海域に向かった[13](山田は山縣に協力して、海軍の戦闘を助力した)。


明治元年(1868年)5月、柏崎を拠点に新政府軍は、奥羽越列藩同盟の海からの補給路を完全に遮断するために、新潟港を手中に収める必要があったため、山田は「衝背作戦」を発案し実行した。この作戦のための兵士を乗せた輸送艦が柏崎に入港した7月、越後口海軍参謀(陸軍参謀兼海陸軍参謀)に命じられる。25日、官軍は占拠した長岡城を長岡軍に奪還されるが、同日、新政府軍が阿賀野川口東にある松ヶ崎・大夫浜に上陸する。その間、同盟軍の退路を断つとともに新潟の占領に成功する。また、29日には再度長岡城を占拠することに成功した。8月末頃、山田は援軍要請のため京に赴いたが、長州藩の衰退で増援はできなかった。9月4日に米沢藩、9月10日に仙台藩、9月22日に会津藩が相次いで降伏し、他の東北諸藩もこれに続いたため、新政府軍の戦略計画は変更になった。幕府海軍副総裁・榎本武揚は、指揮下の艦隊を率いて江戸を脱出、会津藩などの残存兵を吸収して、10月に蝦夷地に上陸する。榎本軍は新政府(箱館府)が置かれていた五稜郭を占拠した。新政府は、榎本軍と対戦するため青森に兵力を集めた。11月、青森口陸軍参謀(海軍参謀含)に命じられる。榎本軍・旧幕臣・同盟軍は蝦夷島政府(蝦夷共和国)を樹立して、新政府からの独立を試みた。明治2年(1869年)4月、新政府軍は箱館攻撃を開始、輸送艦3隻(1隻に1,500名ほど)に乗り青森を出発し、江差北方の乙部村に上陸する。五稜郭の戦い[14]で勝利し、戊辰戦争は終結した[13]

明治維新
明治2年(1869年)6月、宮中において黒田清隆らとともに明治天皇に謁見、戦功を賞される。陸海軍参謀の任を解かれ、新官制(太政官制)施行による兵部大丞に就任、長州藩少参事兼任を命ぜられる。同年8月、山口凱旋。顕義と改名する。同9月、維新の軍功により新政府から永世600石の禄を下賜されるが、大村益次郎の暗殺未遂により、藩命で急ぎ上京する。病床の大村より日本近代軍制の創設について指示を受け、11月には兵部少輔久我通久と連署で、結局大村は死去するが、その遺策をまとめた『兵部省軍務ノ大綱』を太政官に提出した。以後, 大阪を中心とした兵部省確立に尽力する。同じ長州出身の前原一誠らと共に国軍の建設を進めようとしたが、省内の統制がとれず仕事は停滞する。国軍の建設が進展をみせたのは、欧州視察から帰国した山縣有朋が兵部少輔(国防次官補)に、西郷従道が権大丞(局長の次)に就いてからであった[15]


明治3年(1870年)、亡き大村の計画に従い、大坂城跡に設置された大坂兵部省出張所と東京の本省とを往復する日々を過ごす。5月頃から畿内限定の徴兵制(辛未徴兵)施行の政府有力者への働きかけを開始する。これも大村の計画によるものであった。9月には普仏戦争の観戦を強く希望するが、川村純義ら他の兵部省員らも希望したため、省務の停滞を危惧した大久保利通らの指示により許可されなかった。この年、井上馨の養女で湯田温泉瓦屋の鹿島屋喜右衛門の長女龍子と結婚する。


明治4年(1871年)1月、大坂にて辛未徴兵を開始するも、5月には事実上延期となる[注 3]。 これは徴兵の質、および指導士官や施設の不足などの根本的な問題のためだった。7月、陸軍少将に任命された。


幕末に欧米諸国との不平等な条約を改正することが、新政府の重要課題で、欧米と対等な交渉をするためにも、日本は近代法の整備が急務となった。


同年11月、岩倉使節団に軍事制度調査のため、兵部省理事官として随行する[16]サンフランシスコソルトレイクシティシカゴを経由し、ワシントンD.C.に到着。明治5年2月(1872年3月)、岩倉らと別れて原田一道ら兵部省一行とともにフィラデルフィアの海軍施設などを見学後、渡仏。パリを中心に、ベルリンオランダベルギーローザンヌブルガリアロシアなど欧州各国で軍制を調査する。ウィーン万国博覧会にも立ち寄り、明治6年(1873年)5月、マルセイユ港から帰途に着く[17]


詳しいことは「山田顕義ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E7%94%B0%E9%A1%95%E7%BE%A9
(wikiより)

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山田顕義

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⇧⇩ 楫取素彦旧宅跡から少し登ると、山田顕義誕生地になります。

そして右側の階段を下りると、冒頭画像の顕義園という公園となります。

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生年月日1829年4月18日
出生地長門国萩魚棚沖町(現山口県萩市
没年月日1912年8月14日(83歳没)
死没地日本の旗 日本 山口県三田尻(現防府市
出身校明倫館
前職長州藩
称号正二位勲一等男爵
配偶者杉寿(久子) (1853年 - 1881年)
杉文(美和子) (1883年 - 1921年)

在任期間1876年 - 1884年

在任期間1884年 - 1890年

在任期間1890年7月10日 - 1911年7月9日

松下村塾を側面から支援した楫取素彦の旧宅跡。

文政 12年 ( 1829年 ) 萩藩医・松島瑞播の次男として生まれた素彦は、兄に松島剛蔵を持ち、萩藩儒者小田村吉平の養子となって小田村伊之助と称した。

翌天保元年 ( 1830年 ) に生まれた吉田松陰とは生前を通して深い親交を結び、松下村塾で門下生の指導にあたるなど松陰を支え、松陰の妹・寿、美和子を妻に迎えている。

四境戦争では、幕府側との交渉役を担い、維新後は初代群馬県令を経て、元老院議官、宮中顧問官、貴族院議員を歴任。

吉田松陰の実兄・杉民治と共に松陰の顕彰に努力した。

〇 楫取素彦
楫取 素彦(かとり もとひこ、文政12年3月15日[1]1829年4月18日) - 大正元年(1912年8月14日[1])は、幕末長州藩志士明治時代の官僚、政治家。錦鶏間祗候正二位勲一等男爵通称は久米次郎または内蔵次郎。小田村家の養嗣となって小田村伊之助(おだむら いのすけ)と改め、後に文助・素太郎といい、慶応3年(1867年)9月に藩命により、楫取素彦と改名[2]した。は希哲(ひさよし)、字は士毅、号は耕堂彜堂・晩稼・棋山・不如帰耕堂など。


幕末を代表する人物である吉田松陰とは関係が深く、また松陰の次妹の寿と結婚し、寿に先立たれた後の明治16年(1883年)、久坂玄瑞の未亡人であった末妹の美和子(文)と再婚している。最初の妻・寿との間に希家(小田村家を継ぐ)、道明(久坂家を一時継ぎ、のち楫取家の籍に入る、芝山巌事件で殺害された)の二男がいる。曾孫(希家の養孫、道明の外孫)に小田村寅二郎小田村四郎らがいる。

来歴
文政12年3月15日(1829年4月18日)、長門国萩魚棚沖町(現・山口県萩市)に藩医・松島瑞蟠の次男として生まれる。兄に松島剛蔵、弟に小倉健作(松田謙三)がいる。小田村家の養子となるのは天保11年(1840年)で、同家は代々儒官であった。弘化元年(1844年明倫館に入り、同4年(1847年)19歳で司典助役兼助講となる。22歳大番役として江戸藩邸に勤め、安積艮斎佐藤一斎に教えを受ける。


安政
2年(1855年)4月、明倫館舎長書記兼講師見習となる。翌3年(1856年)2月相模出衛を命ぜられ、同4年(1857年)4月帰国、明倫館都講役兼助講となる。この頃から松陰の教育事業は盛んになり、翌5年(1858年)11月の松下村塾閉鎖まで、初めはその計画に参与し、また時々訪問し間接の援助を与え、塾生とも相知ることとなる。松陰の激論を受け止め、相敬愛するところは、2人の交わりの特色である。松陰の投獄後には塾生指導の任に当たるも、国事に忙しくなり塾の世話ができなくなったが、明治以後に杉民治と共に一門の中心となって、松陰の顕彰に尽力した。


万延
元年(1860年)山口講習堂及び三田尻越氏塾で教え、文久元年(1861年)以後はもっぱら藩主に従って江戸・京都・防長の間を東奔西走する。元治元年(1864年)12月、藩の恭順派のために野山獄に投ぜられ、翌慶応元年(1865年)出獄する。5月には藩命により、当時太宰府滞在中の五卿(七卿落ちの7人から錦小路頼徳澤宣嘉を除いた5人)を訪ねる。四境戦争の時は、広島へ出張の幕軍総督への正使宍戸璣(山縣半蔵)の副使となる。慶応3年(1867年)冬、長州藩兵上京の命を受け、諸隊参謀として出征する。公卿諸藩の間を周旋し、鳥羽・伏見の戦いにおいて、江戸幕府の死命を制するに至った。


維新後、いったん帰国して長州藩に出仕していたが職を辞し、一時期三隅(現在の長門市西部)に住んでいた。明治5年(1872年)に足柄県参事となり、明治7年(1874年)に熊谷県権令、明治9年(1876年)の熊谷県改変に伴って新設された群馬県県令となった。楫取の在任中に群馬県庁移転問題で前橋が正式な県庁所在地と決定し、楫取は高崎の住民から反感を買っている。また「明治の三老農」の一人船津伝次平駒場農学校へ奉職するよう勧めている。


明治17年(1884年)、元老院議官に転任する。その後、高等法院陪席裁判官・貴族院議員・宮中顧問官などを歴任し、また貞宮多喜子内親王御養育主任を命ぜられたこともあった。明治20年(1887年男爵を授けられる。明治23年(1890年)7月10日、貴族院男爵議員に就任し、1911年(明治44年)7月9日まで3期在任[3]。1890年10月20日、錦鶏間祗候となる[4]。大正元年(1912年)8月14日、山口県の三田尻(現・防府市)で死去。84歳歿。没後に正二位に追叙され、勲一等瑞宝章を追贈された[5]


台湾で横死した次男・道明の遺児である三郎が男爵位を継いだ。

栄典
叙位
・明治5年11月12日 - 従六位[6]
1874年(明治7年)11月5日 - 正六位[6]
1876年(明治9年)5月24日 - 従五位[7]
1883年(明治16年)7月16日 - 正五位[6][8]
1884年(明治17年)8月30日 - 従四位[6][9]
1886年(明治19年)10月20日 - 従三位[6][10]
1894年(明治27年)5月21日 - 正三位[6][11]
1905年(明治38年)5月30日 - 従二位[6][12]
1912年(大正元年)8月5日 - 正二位[6][13]


勲章等
1882年(明治15年)12月7日 - 勲四等旭日小綬章[6]
1885年(明治18年)4月7日 - 勲三等旭日中綬章[6][14]
1887年(明治20年)5月24日 - 男爵[6][15]
1889年(明治22年)11月25日 - 大日本帝国憲法発布記念章[6][16]
1896年(明治29年)3月29日 - 銀杯一組[6]
1898年(明治31年)1月28日 - 御紋付御杯[6]
1901年(明治34年)6月27日 - 勲二等瑞宝章[6][17]
1906年(明治39年)4月1日 - 旭日重光章[6][18]
1912年(大正元年)8月5日 - 勲一等瑞宝章[6][13]

顕彰
2012年(平成24年)8月14日 - 初代群馬県令没後100年記念顕彰碑「足跡」(前橋市前橋公園
2016年(平成28年)8月21日 - 功績顕彰銅像(楫取素彦、妻寿子、新井領一郎星野長太郎)建立(前橋市前橋公園

詳しいことは「楫取素彦ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%AB%E5%8F%96%E7%B4%A0%E5%BD%A6
(wikiより)

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作江 伊之助(さくえ いのすけ、1910年〈明治43年〉10月17日 - 1932年〈昭和7年〉2月22日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級工兵伍長勲八等功六級長崎県北松浦郡平戸村大字平戸田助浦(現・平戸市)出身。

来歴・人物
家族は父・音次郎と、兄が大工をしながら生計をたてていた。運送業に従事していたが、間もなく徴兵され、久留米独立工兵第十八大隊に配属される。1932年(昭和7年)1月18日、第1次上海事変が勃発。2月2日、独立工兵第十八大隊は上海派遣混成第二十四旅団(下元熊弥少将)の工兵部隊に抽出され、5日、佐世保港を出発。7日上海に上陸、ただちに第九師団植田謙吉中将の隷下となった。以降進撃を続け、20日午後、旅団は国府軍との戦闘の最前線である廟行鎮に到着した。21日午前8時30分、植田中将は下元少将をして翌22日午前5時30分を期し廟行鎮を制圧せよとの命令を下した。だが、十九路軍はそこに幅4.5m、深さ2mの外壕と深さ4mの鉄条網を作り、その後方14.5mには左右から日本軍に十字砲火を浴びせかけるために側壕を設け、そこに六基の重機関銃を据え付けていた。歩兵の銃剣突撃ならば歯がたたない。


そこで下元少将は工兵第二中隊に対し、歩兵碇大隊を援護し鉄条網の破壊を命じた。中隊長の松下環大尉(陸士32期)は、竹と藁の筒に爆弾を詰め込んだ即席の破壊筒を作成し、第一破壊隊、第二破壊隊の二小隊からなる総勢36名の攻撃隊を編成。第二破壊隊小隊長・東島時松少尉(少候10期)はさらに2分隊に分け、第一班は三組、予備の第二班は二組に分けた。そこで破壊筒を5本用意し、麦家宅の家陰内にてシミュレーションを行わせた。午後6時、金馮宅西端にて休憩。


翌午前3時、小隊は歩兵第三中隊と合流し、敵前50メートルの地点に陣地を構築した。第一班班長馬田豊喜軍曹は携行している発煙筒を以て敵の視界を遮り、その間に第一斑を突撃させた。だが、鉄条網まであと14.5mというところで運悪く、南からの風で煙幕が晴れた。敵はすかさず機関銃を浴びせ、馬田班長と破壊隊第二組の小佐々吉郎一等兵を除く全員が戦死した。


第二班班長の内田徳次伍長は二組の破壊隊に突撃を命じた。作江は第一組の最後列となり、江下武二北川丞とともに敵陣へと突撃した。その途中、先頭の北川が撃たれ負傷。諦めて引き返そうとしたが、それを見た内田伍長に怒鳴りつけられたためそのまま突撃。鉄条網の下に飛び込み破壊筒をその下に差し込んだが、脱出する暇もなく破壊筒は爆発。江下、北川は即死。作江は爆風で左脚を吹き飛ばされ、駆け寄った内田伍長にしばらくうわごとを呟いていたが、間もなく死亡した。続いて第二組も成功、怯んだすきに馬田軍曹が戦死した兵士から抜き取った手榴弾を機関銃座に向かって投擲し、そのまま突撃。こうして3条の突撃路が開かれ、間もなく歩兵もなだれ込み、敵陣は陥落した。

参考文献
・『満州事変忠勇美譚』教育総監部編、1933年8月15日。川流堂。

史跡
・『忠烈作江伊之助君の碑』(昭和10年5月7日建立・陸軍大将植田謹書)

・大谷本廟

関連項目
爆弾三勇士
(wikiより)

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作江伊之助

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北川 丞(きたがわ すすむ、1910年(明治43年)3月8日 - 1932年(昭和7年)2月22日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級工兵伍長長崎県北松浦郡佐々村(現・佐々町)出身。

いわゆる爆弾三勇士の一人。

生涯
佐々村大字市瀬江里免(現・佐々町江里免)の農家、北川権作の次男として生まれる。北川家の先祖は平戸藩に仕えた武士で[1]、権作は日清戦争日露戦争に従軍するも自身が戦果を上げられなかったことを悔やみ、丞を立派な軍人にしようと考えていたが、丞が8歳の時に肺炎で亡くなってしまった[2]


1924年に佐々尋常高等小学校を卒業後、補習学校後期に入学するも1年で中退し兄とともに母を助け農業に従事、1926年には実業補習学校に進むが、この時もやむなく退学している[3]。丞は次男だったため、将来を考えて林業の道を進むこととなり、18歳の時に相浦町で住み込みで働いていたが、20歳の時の壮丁検査で甲種合格を果たし[4]、1931年に久留米工兵第18大隊に入営する[5]


1932年2月6日、一等兵として神通に乗船し第一次上海事変に出征[6]。2月22日、上海の廟行鎮に張られた鉄条網を破壊しようと丞を先頭に江下武二作江伊之助とともに破壊筒を抱え突進、爆死した[7]

平和之礎
故郷の佐々町にある三柱神社に「平和之礎」と台座に記された丞の銅像がある[8]。戦前は別の銅像が立っていたが、金属類回収令により供出されてしまい、現存の銅像は東京都港区青松寺にあった三勇士の銅像の丞の部分のみを切り離して移築したものである[9]。また生家に隣接して「肉弾三勇士北川伍長記念館」がある[10]

脚注
1. 小笠原、164頁。
2. 「肉弾三勇士の生立 北川丞君」『爆弾三勇士』護国業書、軍事教育刊行会、48-49頁。
3. 小笠原、168-169頁。
4. 小笠原、173頁。
5. 小笠原、175頁。
6. 小笠原、181頁。
7. 小笠原、44-45頁。
8. 肉弾三勇士 佐々町観光サイト、2018年6月27日更新。
9. 肉弾三勇士 青松寺(2007年11月30日時点のアーカイブ)
10. 『平戸・田平・生月れきし発見』 NPO法人長崎人権研究所、2013年3月1日発行、15頁。

参考資料
小笠原長生著『忠烈爆弾三勇士』実業之日本社、1932年4月12日発行

・護国業書『爆弾三勇士』軍事教育刊行会、1932年4月10日発行

・『平戸・田平・生月れきし発見』NPO法人長崎人権研究所、2013年3月1日発行
(wikiより)

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北川 丞

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江下武二(えした たけじ、1910年(明治43年)11月22日 - 1932年(昭和7年)2月22日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級工兵伍長佐賀県神埼郡蓮池村(現:佐賀市蓮池町)出身。

経歴
神埼郡蓮池村に生まれるも、親の事業の失敗から炭鉱を転々とし、少年期から杵島炭鉱で働く。父も兄二人も久留米歩兵連隊に入営した軍人一家で、武二は海軍志望だったが1931年(昭和6年)、父兄と同様に久留米工兵第18連隊に入営[1]。翌年混成旅団工兵中隊に編入され、陸軍一等兵として第一次上海事変に出征。同事変の「廟行鎮の戦い」に於いて北川丞作江伊之助とともに中国軍陣地の鉄条網を自らの体ごと破壊筒を以て爆破・排除したいわゆる爆弾三勇士の一人。死後一等兵より二階級特進し伍長に進んだ。爆死については決死の突撃、事故、上官の命令など諸説あるが、陸軍が愛国美談に仕立てさらに新聞が大きく報道したため芝居や映画となるなど大きなブームとなった。


死後、県民の寄付により蓮池公園に銅像が建てられたが、第二次世界大戦の戦局悪化に伴う金属提供により供出された。ただし原型の石膏像が残っており寄贈を受けた陸上自衛隊目達原駐屯地が広報資料館で展示している[2]。また、公園に残された台座は8代目蓮池藩主である鍋島直與(雲叟)の歌碑に転用された。


地元以外では貴族院議員・金杉英五郎が委員長となった「肉弾三勇士銅像建設会」によって東京都港区青松寺に三人が破壊筒を抱えて突撃する様子の銅像が設置された。しかし戦後撤去され、後に江下の部分のみが新たな台座とともに安置されている[3]。ほか、山川招魂社に「爆弾三勇士」の碑、陸上自衛隊久留米駐屯地に肉弾三勇士のジオラマ、東京靖国神社にレリーフなどがある。

関連項目
生方一平 - 新興キネマ製作 映画『肉弾三勇士』で江下を演じる

佐分利信 - 日活製作 映画『誉れもたかし 爆弾三勇士』で江下を演じる

爆弾三勇士の歌 - 与謝野鉄幹作詞、辻順治作曲。(ポリドール・レコード

脚注
1. 「肉弾三勇士の生立 江下武二君」『爆弾三勇士』護国業書、軍事教育刊行会、44-46頁。
2. 「肉弾三勇士」江下伍長の像、16年ぶり展示 佐賀新聞 - 2010年08月10日
3. 【軍事のツボ】戦後70年と軍神の今 なぜ日本人はこれほど時代に流されたのかサンスポ - 2015年3月12日

参考資料
・護国業書『爆弾三勇士』軍事教育刊行会、1932年4月10日発行
(wikiより)

8000 江下武二

江下武二

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生年月日1856年3月28日
安政3年2月22日
出生地下野国都賀郡吹上村
(現・栃木県栃木市吹上町
没年月日1906年10月16日(50歳没)
死没地東京府東京市本郷区
出身校日就館(吹上藩藩校
育英館
所属政党自由党[1][2][3]
自由倶楽部[4]
自由党[3]
東洋自由党[1][2]
大日本協会派[1]
同志倶楽部[5]
憲政党[1][2][3]
立憲政友会[1][2][3][6]

選挙区栃木県第2区、栃木県郡部
当選回数7回[2][3][6]
在任期間1890年7月1日 - 1902年8月9日
1904年3月1日 - 1906年10月16日

選挙区下都賀郡選挙区
当選回数2回
在任期間1882年7月 - 1884年5月
1889年3月 - 1889年7月[7]

新井 章吾(あらい しょうご、安政3年2月22日1856年3月28日)- 明治39年(1906年10月16日[3])は、明治前期の政治家。衆議院議員として通算7期[2][3][6]位階および勲等従四位勲四等


自由党
幹部として活躍した。

経歴

下野国都賀郡吹上村(現在の栃木県栃木市吹上町)の豪農の家に生まれる[1][2][3]吹上藩[8]藩校日就館で学んだ後、壬生の育英舎で英学を学んだ[1][3]。明治10年(1877年)、吹上村の戸長になる[1][3]

明治13年(1880年)以後、自由民権運動に参加して自由党に加入[9]、郷里を中心に運動の興隆に努め、明治15年(1882年)に栃木県会議員となる[1][3][6]。翌年、官吏侮辱罪集会条例違反で5か月間収監され、更に大阪事件に関与して朝鮮渡航部隊の責任者となったことから捕らえられて重懲役9年の判決を受ける[1][2][3][6]


明治22年(1889年)の大赦後に県会議員に復帰し[1][2][3][6]第1回衆議院議員総選挙では栃木県第2区から初当選を果たし、以後6期連続当選する[1]。だが、星亨との確執を機に「関東自由党」の分離や高島鞆之助と結んで薩摩との連携を模索するが上手くいかず、明治25年(1892年)5月に自由党を脱党し[1][3]、12月に同じく脱党した大井憲太郎とともに東洋自由党を結成した[1]。その後、硬六派系の諸会派を転々とする[1]

この間、明治29年(1896年)に拓殖務大臣であった高島の要請で衆議院議員の身分のまま拓殖務省北部局長に就任するが[2][6]、直後に同省の廃止が決定されて辞任した[1]。明治31年(1898年)に自由党の後身である憲政党に復帰してその後立憲政友会に合流するが[1][2][3]第7回衆議院議員総選挙で落選する。明治37年(1904年)の第9回衆議院議員総選挙で7回目の当選を果たして国政に復帰する[1]。その後、宇治川水力電気会社の創設に尽力するが[2][3]、設立直前の明治39年(1906年)に東京において51歳で急死した[1]。墓所は青山霊園1-イ22-1と、郷里である吹上町の専福寺だが、2022年現在吹上の方の墓所は無縁墳墓となっている[10]

親族
・室 新井タネ 昭和29年4月15日歿
・子 新井胖朝鮮総督府判事 1938年12月31日歿
・子の妻 新井静 昭和55年11月10日歿


脚注
1. a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 国史大辞典 1979   
2. 
a b c d e f g h i j k l 日本歴史大事典 2000     
3. 
a b c d e f g h i j k l m n o p 日本史大事典 1992   
4. 
栃木2区選挙結果 第1回衆議院議員選挙 栃木県小選挙区”. 選挙ドットコム. 選挙ドットコム株式会社. 2018年6月6日閲覧。
5. 
栃木2区選挙結果 第5回衆議院議員選挙 栃木県小選挙区”. 選挙ドットコム. 選挙ドットコム株式会社. 2018年5月27日閲覧。
6. 
a b c d e f g 政治家人名事典 2003     
7. 
栃木県会 編 『栃木県会沿革誌. 自明治12年度至明治29年度』栃木県、1898年11月27日。全国書誌番号:40021100閲覧は自由     
8. 
新井の生まれる直前、吹上村に陣屋が設置されて吹上藩が成立していた。
9. 
上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 57頁。
10. 
官報無縁墳墓   

参考文献
鳥海靖 著「新井章吾」、国史大辞典編集委員会 編 『国史大辞典 1』吉川弘文館、1979年3月1日、325頁。ISBN 978-4-642-00501-2
小山博也 著「新井章吾」、青木和夫ほか 編 『日本史大事典 1』平凡社、1992年11月18日、252頁。ISBN 978-4-582-13101-7
松尾章一「新井章吾」 『日本歴史大事典 1』小学館、2000年7月10日、103頁。ISBN 978-4-095-23001-6
・「新井章吾」 『新訂 政治家人名事典 明治~昭和日外アソシエーツ、2003年10月27日、26頁。ISBN 978-4-8169-1805-6
(wikiより)

6 新井章吾

⇧ 新井章吾

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大久保 端造(おおくぼ たんぞう、1854年安政元年5月10日[1][2]) - 1916年大正5年)6月25日[2])は、日本弁護士政治家衆議院議員(1期)。

経歴

常陸国新治郡(のち茨城県新治郡安飾村出島村霞ヶ浦町、現・かすみがうら市)生まれ[1]法律学を学ぶ。戸長を経て、代言人となり、弁護士の業務に従事する[2]東京弁護士会副会長、東京市京橋区会議員を務めた[2]

1890年第1回衆議院議員総選挙において茨城5区から自由党所属で立候補するが5票差で落選した[3]1892年第2回衆議院議員総選挙では自由党から立候補したが次点で落選した[4]1894年3月の第3回衆議院議員総選挙では自由党から立候補して当選した[5]。同年9月の第4回衆議院議員総選挙で落選[6]1898年3月の第5回衆議院議員総選挙では新自由党から立候補して落選した[7]。衆議院議員は1期務めた。大正5年6月25日卒去。墓所は青山霊園1-イ-22。

脚注
1. a b 衆議院 編 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第202回』衆議院事務局、1940年、92頁。NDLJP:1278238
2. 
a b c d 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』124頁。
3. 
『衆議院名鑑 第1回・1890年~第34回・1976年総選挙』1頁。
4. 
『衆議院名鑑 第1回・1890年~第34回・1976年総選挙』7頁。
5. 
『衆議院名鑑 第1回・1890年~第34回・1976年総選挙』13頁。
6. 
『衆議院名鑑 第1回・1890年~第34回・1976年総選挙』19頁。
7. 
『衆議院名鑑 第1回・1890年~第34回・1976年総選挙』25頁。

参考文献
・総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』衆議院事務局、1940年。
・日本国政調査会編『衆議院名鑑 第1回・1890年~第34回・1976年総選挙』国政出版室、1977年。
・衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
(wikiより)


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赤尾 敏(あかお びん、1899年明治32年〉1月15日 - 1990年平成2年〉2月6日)は、日本政治家右翼活動家衆議院議員大日本愛国党初代総裁


当初は社会主義者であったが、1926年(昭和元年)に「天皇制社会主義」を理想として民族主義者転向。1942年(昭和17年)には衆議院議員に当選した。1945年(昭和20年)の敗戦後、政治活動と講演活動を行い、1951年(昭和26年)親米反共を訴える大日本愛国党を創党した。特に銀座数寄屋橋などでの辻説法による過激な街頭演説で有名であった。

生涯
生涯前半

赤尾敏は1899年(明治32年)1月15日、愛知県名古屋市の金物商の息子として生まれた。彼の父親は家業である織物業を継がず、中小企業者になって金物・木炭販売、漁業、牧場などを手広く経営しており、自由主義者知識人であった。


高等小学校
に入学した時に、ある教師から「太閤秀吉はぞうり取りから天下を取った」と言われ、「俺だって勉強すれば総理大臣になれる」との夢を抱いたという。その時から彼は総理大臣を将来の希望とした。

社会主義者からの転向

旧制愛知第三中学(現在の愛知県立津島高等学校)に進学後、結核を患う。一時、彼は療養のため親元を離れ三宅島に移る。そこで小説家・武者小路実篤が唱えていた新しき村運動(原始共産制の実現を目指した社会運動)の実践を志し、実業家であった父から三宅島の牧場の経営を委ねられたという。貧困の中にあった島の孤児らを引き取って共同農場を運営した。農場では階級の別なく平等に作物が分配されるなどユートピア的な制度が用いられ、「新しき村」運動に賛意を示していた小説家・幸田露伴は赤尾の理想に共感して彼と面談している。またこの時に三宅村神着地区の旧名主浅沼家とも知り合い、後に日本社会党委員長となる浅沼稲次郎大日本愛国党参与となる浅沼美智雄(稲次郎とは遠縁になる)らとの交流が始まった。赤尾は仲間らと共に理想社会を建設する事を夢見たが、農場は島の有力者らに騙し取られる。


苦い経験をしつつも東京堺利彦山川均大杉栄高畠素之のもとで社会主義を学び、堺や後の日本共産党書記長徳田球一らの支援を受け、名古屋で東海農民組合連合会や借家人同盟をつくり、左翼運動を行う。軍事教練の最中に天皇制への批判演説を行い身柄を拘束されたほか、地元財界の有力者に活動資金のカンパを要求したことが恐喝未遂とされて逮捕された。その際、それまで同志だと思っていた「愛知通信」の記者から手のひらを返した様に批判されたことで、左翼運動に深く失望した赤尾は獄中で転向を決断する。

衆議院議員当選

赤尾は獄中で仏教儒教キリスト教などの書物を読む。1926年、高畠素之の一派と交流を深め、メーデーに対抗するために「建国祭」を企画。「建国祭」は荒木貞夫平沼騏一郎らの賛同を受け、全国で12万人を集め成功に終わる。赤尾は建国祭の常設機関として建国会を結成、会長に上杉慎吉、建国祭準備委員に高畠素之、書記長に高畠門下の津久井龍雄、顧問に頭山満と平沼騏一郎を迎え、永田秀次郎の援助も受け、理事長に就任する。会の具体的な行動の一つとしては、1933年ごろに紀元節にちなんで新しい節句「梅の節句」を考案、神武天皇を最上段に祭った人形まで作られたが、広まらなかった[2]


大東亜戦争
に関しては、赤尾は「アメリカと戦争するのは共産主義ソ連の策略に乗るだけである」として対米戦争に激しく反対した。このため右翼でありながら、戦時下の政府の国策に敵対する反体制派であった。


1942年翼賛選挙では東京6区から出馬し、大政翼賛会の推薦を受けない「非推薦候補」ながら当選を果たす。鳩山一郎斎藤隆夫中野正剛笹川良一など他の非推薦議員と同様に翼賛政治会(翼政)に加入はしたが、1943年の第81通常議会では戦時刑事特別法改正案に抗議し委員を辞職(3月8日)。また続く第82臨時議会では施政方針演説に臨もうとした東條英機首相に対し妨害行為を行い、議場退場処分(同年6月16日)を受け、翼政を除名される。議会からも譴責の懲罰を下されるなど、右翼ながら筋を通した反体制派議員としての行動が目立った。なお、戦後国会内でのビラ撒きにより元国会議員待遇を剥奪されている(当選無効ではないので、国会議員であった事実が取り消されたわけではない。選挙報道などでは、その後も「元議員」として扱われている)。1945年8月敗戦後、全土を巡って右翼活動と啓発講演活動を通い、敗戦を克服して再び立ち上がることを主張した。以降、連日東京・数寄屋橋で辻説法を行なった。

戦後

右翼政治運動

第二次世界大戦後にGHQによって公職追放され、追放解除後の1951年大日本愛国党を結成し、総裁に就任。1952年の総選挙に出馬するが落選。以後、親米反共の立場からの右翼活動に関わる一方で、各種選挙に立候補し、参議院全国区では最高で122532票(第6回参院選)を獲得した。もっとも、選挙のたびに立候補したのは、選挙期間中も街頭での辻説法を行うことが主な理由だったという。参議院不要論を唱え、参院選のたびに自分へも投票せず棄権するよう訴え続けた。


配下の党員であった山口二矢(事件当時は離党)が起こした浅沼稲次郎暗殺事件では取調べを受け、嶋中事件では殺人教唆で逮捕されている(証拠不十分で釈放)。沢木耕太郎『テロルの決算』によると、山口は浅沼の「アメリカ帝国主義は日両国人民の共同の敵」発言に殺意を抱いたという(このことは本人の「斬奸状」にも触れられている)。また、赤尾が個人的に交流のあった浅沼を「善人だから始末に悪い」と評したこともきっかけとなったのではないかとする。事件後赤尾は浅沼の妻享子三木睦子と電話で連絡を取り合ったというエピソードもある。1961年2月嶋中事件に関連、警視庁愛国党の総裁の赤尾敏が背後にあると考え、同年2月21日、赤尾を殺人教唆、殺人未遂の教唆などで逮捕したが、4月17日、赤尾は証拠不十分で不起訴になった。


また、アメリカンアセンブリーと国際親善日本委員会が主催していた第二回下田会議の初日、長髪をなびかせ数人を引き連れてロビーに押し込もうとしたことがある。日の丸の旗を振りながらホテルに上がってきた赤尾は「共産主義の脅威と戦うために再軍備すべきだ」と主張したが、駆け付けた警察に逮捕された。


銀座数寄屋橋での辻説法は当地の名物であった。街宣車を導入した右翼のはしりとも言われる。

浅沼稲次郎暗殺事件と嶋中事件

1960年1月、警視庁によって赤尾の家から左派性向文化人とジャーナリスト、学者へのいやがらせに使われた「かぎ十字ポスター」が押収された。浅沼委員長刺殺事件当日、その党員十数人は日比谷公会堂の前から3、4番目の席に陣取った。入場券は確保していなかったが、会場前のダフ屋から購入した。山口が浅沼委員長を襲った直後、出血が少ないことに気づいた赤尾は、隣の人間に「坊や(山口)、やりそこなったかな」と話しかけたという。またニュース映画「毎日ニュース」には、「坊やがよくやったもんだ、偉いもんだ」という発言や、当時の日教組委員長殺害を企て上京した少女を歓迎する様子が残っている。


10月29日
、赤尾は威力業務妨害容疑で逮捕された。11月には大日本愛国党が破防法の調査対象団体に指定される。愛国党員だった山口二矢が起こした浅沼稲次郎暗殺事件では、取調べを受けた。赤尾は、個人的に交流のあった浅沼を評して「善人だから始末に悪い」と語っていた。山口の自殺の2日後、赤尾総裁は「直接の関係はなし」とされ釈放された。ただ嶋中事件が起こった後、初めて会場のビラ撒きと浅沼委員長の演説妨害について起訴された。しかしやはり嫌疑不十分で釈放された。


晩年

街宣車には日の丸旭日旗とともに星条旗ユニオンジャックを掲げ、「ソ連・中共を叩くために日本はアメリカ・イギリスと組むべき」として徹底して親米・親英をアピールし続けた。日米安保に肯定的であった。昭和天皇の戦争責任を認めるような発言をしたこともあるが、1989年の参院選政見放送では土井たか子天皇に戦争責任があると発言したことに対し批判をしている。韓国にも反共主義のために好意的であり、「北朝鮮打倒のために日韓は協力すべき」と述べていた。


昭和天皇の大喪の礼
に続く、1989年第15回参議院議員通常選挙東京都選挙区から満90歳で出馬、政見放送では意気軒昂に演説した。国政選挙の高齢立候補者としては、94歳で立候補した1953年第26回衆議院議員総選挙での尾崎行雄2012年第46回衆議院議員総選挙での川島良吉に次ぐ第3位の高齢である。


著書は『日本の外交を何とするか 』『滅共反ソか反英米か』ほか。1990年2月6日午前9時26分、東京都立大塚病院心不全のため死去。満91歳没。

死後
赤尾は、多くの講演活動やスピーチを介して多くの青年たちに影響を与え、赤尾の死後もその影響を受けた多くの青年右翼たちが養成された。

略歴
1899年 - 愛知県名古屋市東区生まれ。

建国会理事長

1942年 - 第21回衆議院議員総選挙で東京6区から出馬し当選。

・終戦後、公職追放を受ける。

1951年 - 大日本愛国党を結成

1990年 - 心不全のため死去

選挙歴

※1942年以外は全て落選

・1942年 第21回衆議院議員総選挙東京府第6区)

・1952年 第24回衆議院補欠選挙東京都第6区

・1952年 第25回衆議院議員総選挙(東京都第6区)

・1953年 第26回衆議院議員総選挙(東京都第6区)

・1955年 第27回衆議院議員総選挙(東京都第6区)

・1956年 第4回参議院議員通常選挙東京都選挙区

・1958年 第28回衆議院議員総選挙(東京都第6区)

・1959年 東京都知事選挙

・1959年 第5回参議院議員通常選挙(東京都選挙区)

・1960年 第29回衆議院議員総選挙(東京都第6区)

・1963年 東京都知事選挙

・1967年 第31回衆議院議員総選挙(東京都第6区)

・1967年 東京都知事選挙

・1968年 第8回参議院議員通常選挙(東京都選挙区)

・1969年 第32回衆議院議員総選挙(東京都第6区)

・1971年 東京都知事選挙

・1971年 第9回参議院議員通常選挙(東京都選挙区)

・1974年 第10回参議院議員通常選挙(東京都選挙区)

・1975年 東京都知事選挙

・1979年 東京都知事選挙

・1980年 第12回参議院議員通常選挙(東京都選挙区)

・1983年 東京都知事選挙

・1983年 第13回参議院議員通常選挙(東京都選挙区)

・1983年 第37回衆議院議員総選挙東京都第1区

・1986年 第14回参議院議員通常選挙(東京都選挙区)

・1987年 東京都知事選挙

・1989年 第15回参議院議員通常選挙(東京都選挙区)

家族・親族
・祖父 赤尾志津摩

・弟 赤尾四郎(アカオアルミ創業者)

・妻 赤尾富美江、1913年-2006年(平成18年)7月14日

・子 赤尾太郞、1940年(昭和15年)-1942年(昭和17年)10月25日

・子 赤尾道彦

・姪 赤尾由美[3]

人物
・困窮の中でも参議院選挙への立候補・落選を繰り返した。第二次世界大戦前の左翼活動の中で感じた憤りから徹底して世の中の矛盾を糾弾し、名古屋弁での狂信的とも見える演説は市井では一定の支持者を得た。

・前述のように、三宅島に転地療養した関係もあって、三宅島出身の浅沼とは一時期深い親交をもっていたが、後年の浅沼事件によって三宅島の人々全体に恨まれることになってしまい、赤尾はそのことを非常に残念がっていたという。

・晩年までライフワークとした辻説法の場所に数寄屋橋を選んだのは、当時有楽町にあった朝日新聞東京本社の近くであり、同社批判も目的のひとつにあったことを筑紫哲也が証言している。赤尾の死去当日、元同社記者であった筑紫は自身の番組で訃報を伝えた際に、「テロリストを生んだ当時(浅沼事件)のことに親近感を感じる理由はないのだが、毎日のように『馬鹿野郎』と言われた身としては、愛嬌のある人柄に懐かしさも感じる」と回想していた[4]。なお同社は1980年に築地へ東京本社を移転したが、赤尾はその後も亡くなる直前まで数寄屋橋での辻説法を続けた。後年、姪の由美が第48回衆議院議員総選挙(2017年)に立候補した時は、かつて叔父の赤尾が説法をしていたこの数寄屋橋交差点角にて街頭演説を行っている。

・亡くなる前年のドキュメンタリー番組[5]で「今一番ほしいものは何ですか?」と質問を受けて、「金が欲しい。金がなけりゃ何にもできないもの。僕はね、若い頃から空想家で金のことを考えないでやってきたんだよね。90歳の今頃になって金の大事なことがわかったって、もう遅いよ(笑)何十年来の知り合いの笹川良一なんて、何千億の金もってやっているだろ。僕は何にもないんだよ。唯物論じゃないが、物は大事だよ。たとえば空気だって人間は30分吸わないと死んじまうだろ。空気があれば、人間、霊魂があるかないか意識を失っていても生きていくことができる。空気だって物だろ。だから物は大事なんだよ。物の現実的代表は金だよね。僕には何にも財産がない。ステッキ一本が財産なんだよ」と発言している。

・1965年1月31日、長崎県佐世保港空母エンタープライズが入港した時に抗議の演説をすべく佐世保市へ出かけたところ、市内でバイクをわき見運転をしていた16歳の少年にはねられるという事故に遭った。しかし赤尾はその少年が仕事でバイクに乗っていた事を知ると「16年の若さで仕事をしているとは感心だ」として訴える事はしなかった。

成田空港予定地の代執行に際して、赤尾は現地に乗り付けて三里塚闘争を行っていた反対派農民らへの批判演説を行った。このとき、三里塚芝山連合空港反対同盟が建てた農民放送塔に黒枠で縁取りされた日章旗があるのを見咎めて赤尾は激怒したが、別の砦に本物の日章旗があるのを見つけると「これはいい!」といったという[6]

・赤尾は最期まで部屋に明治天皇釈迦牟尼尊イエス・キリストの大きな肖像画を飾っていたという。

詳しいことは、『赤尾 敏ウィキペディア』をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E5%B0%BE%E6%95%8F
(wikiより)

0129 赤尾敏

⇧ 赤尾 敏

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高島四郎太夫茂敦は秋帆と号し、家は代々町年寄を務めていました。


秋帆は、儒学・書道・絵画などを修め、荻野 ( おぎの ) 流砲術を究めた上に蘭学を加え、西洋砲術を学び、砲術の発達と海防の急務を幕府に進言しました。


天保 12年 ( 1841 ) には、幕府により武蔵国徳丸原 ( とくまるがはら ) で、野戦砲・銃撃の射撃と部隊の様式調練を実演して周囲を驚かせました。


高島家は、大村町 ( 現在の万才町 ) に本宅がありましたが、天保 9年 ( 1838 ) 、市中の大火により類焼したので、ここ小島郷の「雨声楼 ( うせいろう )」とよばれる別邸に移り住みました。


建物は原爆で大破して解体され、現在は、石垣・土塀・井戸・砲痕石 ( ほうこんせき ) などが残っています。
(案内板より)

〇 高島秋帆
高島 秋帆(たかしま しゅうはん)は、江戸時代後期から末期の砲術家。高島流砲術の創始者(流祖)。「火技之中興洋兵之開祖」と号すことを認められた。

生涯
寛政10年(1798年)、長崎町年寄高島茂起四郎兵衛)の三男として生まれた。先祖は近江国高島郡出身の武士で、近江源氏佐々木氏の末裔。家紋は「丸に重ね四つ目結」。文化11年(1814年)、父の跡を継ぎ、のち長崎会所調役頭取となった。当時、長崎は日本で唯一の海外と通じた都市であったため、そこで育った秋帆は、日本砲術と西洋砲術の格差を知って愕然とし、出島のオランダ人らを通じてオランダ語や洋式砲術を学び、私費で銃器等を揃え天保5年(1834年)に高島流砲術を完成させた。また、この年に肥前佐賀藩武雄領主・鍋島茂義が入門すると、翌天保6年(1835年)に免許皆伝を与えるとともに、自作第一号の大砲(青銅製モルチール砲)を献上している。


その後、アヘン戦争イギリスに敗れたことを知ると、秋帆は幕府に火砲の近代化を訴える『天保上書』という意見書を提出して天保12年5月9日(1841年6月27日)、武蔵国徳丸ヶ原(現在の東京都板橋区高島平[1])で日本初となる洋式砲術と洋式銃陣の公開演習を行なった。この時の兵装束は筒袖上衣に裁着袴(たっつけばかま)、頭に黒塗円錐形の銃陣笠であり、特に銃陣笠は見分に来ていた幕府役人が「異様之冠物」と称するような斬新なものであった。

この演習の結果、秋帆は幕府からは砲術の専門家として重用され、阿部正弘からは「火技中興洋兵開基」と讃えられた。幕命により江川英龍下曽根信敦に洋式砲術を伝授し、更にその門人へと高島流砲術は広まった。しかし、翌天保13年(1842年)、長崎会所の長年にわたる杜撰な運営の責任者として長崎奉行伊沢政義に逮捕・投獄され、高島家は断絶となった。幕府から重用されつつ脇荷貿易によって十万石の大名に匹敵する資金力を持つ秋帆を鳥居耀蔵が妬み「密貿易をしている」という讒訴をしたためというのが通説だが、秋帆の逮捕・長崎会所の粛清は会所経理の乱脈が銅座の精銅生産を阻害することを恐れた老中水野忠邦によって行われたものとする説もある[2]。武蔵国岡部藩にて幽閉されたが、洋式兵学の必要を感じた諸藩は秘密裏に秋帆に接触し教わっていた。


嘉永6年(1853年)、ペリー来航による社会情勢の変化により赦免されて出獄。幽閉中に鎖国・海防政策の誤りに気付き、開国・交易説に転じており、開国・通商をすべきとする『嘉永上書』を幕府に提出。攘夷論の少なくない世論もあってその後は幕府の富士見宝蔵番兼講武所支配および師範となり、幕府の砲術訓練の指導に尽力した。元治元年(1864年)に『歩操新式』等の教練書を「秋帆高島敦」名で編纂した(著者名は本間弘武で、秋帆は監修)。慶応2年(1866年)、69歳で死去した。

後世への影響

秋帆が日本語の「号令」を用い、それが明治以降の軍隊や学校に受け継がれたと言う人がいるが、オランダ人は秋帆に「軍事用語は必ずオランダ語を使うこと」を条件に西洋砲術を教授したので(これはオランダが日本への影響力を強めるための施策であったが)、秋帆は日本人の美徳として師の命令を厳守し、門人に対する号令は全てオランダ語で行っていた。


ランドセル(背嚢=ランセル)やハトロン紙(紙包火薬=パトロン)など、オランダ語の軍事用語の中には外来語として一般に普及したものがあるが、他の外来語に較べて数が多いとは言えない。


後に攘夷思想に基づく外国語排除運動によって、幕府や雄藩でオランダ式号令の日本語化が進められるが、オランダ語に親しんだ門弟や将兵には不評で混乱を招いたという。その後門弟達が苦心して日本語化した号令が、形を少しずつ変えながら日本の軍隊や学校の号令として普及した。いくつかの例を揚げると、「進め(マルス)」「止まれ(ハルト)」「気をつけ(ゲーフトアクト)」「前へ習え(ペロトン)」「休め(リユスト)」「頭右(ホーフド・レクツ)」「右向け右(レクツ・オム)」「狙え(セット)」「撃て(ヒュール)」「捧げ筒(プレゼンテールト・ヘットゲール)」等がある。  

高島流砲術の門下

・高島門下の三龍[3]

 ・下曽根信敦旗本

 ・江川英龍(旗本、韮山代官)

 ・村上範致(三河田原藩

・平山醇左衛門(佐賀藩武雄家)

有坂成章(長州支藩岩国藩

・池辺啓太(肥後藩

登場作品

・漫画

  ・みなもと太郎風雲児たち

・小説

  ・佐伯泰英夏目影二郎始末旅』(光文社)

・テレビドラマ

  ・『天皇の世紀』(朝日放送、1971年)演:中村翫右衛門

脚注
1. 「高島平」という地名は、秋帆によってこの場所で初めて洋式砲術と洋式銃陣の公開演習が行われたことにちなんで名づけられたものである。
2. 山脇悌二郎「天保改革と長崎会所」(『日本歴史』248号、1969年1月)
3. 金子功『反射炉Ⅰ』1995年、法政大学出版局

参考文献
日本語

・本馬貞夫「高島秋帆 高島流砲術の開祖」、『九州の蘭学 越境と交流』、219-225頁。
 ヴォルフガング・ミヒェル鳥井裕美子川嶌眞人 共編(思文閣出版、京都、2009年)。ISBN 978-4-7842-1410-5

・坂本保富「幕末期日本におけるオランダ語号令の受容とその 日本語化問題」研究報告書 3, 1-39, 2003-09-30 信州大学 教育システム研究開発センター
(wikiより)

207   高島秋帆

⇧ 高島秋帆

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グラバーの弟、ポルトガル領事などで活躍した。

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1900年 ( 明治 33年 )、フランスが兵士のための墓地を購入。


中国の義和団事件で戦死した兵士や船員が多く眠っている。


中央には大きな石造の記念碑がある。

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坂本 天山[1](さかもと てんざん、延享2年5月22日1745年6月21日) - 享和3年2月29日1803年4月20日))は、江戸時代砲術家。信濃国高遠藩士。は俊豈(としやす)、通称孫八。遊臥楼と号す。


高遠藩士・坂本運四郎英臣の長男として高遠城下の荒町に生まれる。明和5年(1768年)、大坂の荻野照良に砲術を学び、帰郷して『銃陣詳説』などを著す。同7年(1770年)に藩主内藤頼由参勤交代に随行して江戸に出府し、荻生徂徠門下の大内熊耳に入門し復古学を修める。のち荻野流を研鑽して「荻野流増補新術」として「周発台」を発明し、自藩の砲術に採用された。天明3年(1783年)から藩の郡代も務め、治山治水に努めたが、反対派のために失脚し、三年間蟄居閉門となった。


のち脱藩して大坂彦根藩長州藩大村藩などで砲術と儒学を教授し、享和2年(1802年)、平戸藩松浦清から招待され藩士の教育にあたった。同3年(1803年)長崎で病没。『紀南遊嚢』などの漢詩集を残した。


1915年(大正4年)に従五位を遺贈された[2]。孫娘の桂が島崎重韶(島崎藤村の祖父)の後妻となった[3]


1. 「阪本」表記も
2. 『贈位諸賢伝 増補版 上』 特旨贈位年表 p.38
3. 「人づくり風土記 長野」1988年 組本社

参考文献
・『坂本天山先生遺墨集』(信濃偉人遺墨顕彰会、1933年)

・『三百藩家臣人名事典 3』(新人物往来社、1988年)

・角憲和『阪本天山―信州高遠の生んだ明治維新の先覚者』(岳風書房、2000年)
(wikiより)

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近藤 長次郎(こんどう ちょうじろう、天保9年3月7日1838年4月1日) - 慶応2年1月14日1866年2月28日))は、幕末日本政治家。名を春宗。別名は上杉宋次郎、近藤昶次郎、梅花道人。

生涯

高知城下の饅頭商人の息子として生まれ、長次郎自身も饅頭を売り歩いていたため、はじめは苗字がなく饅頭屋長次郎と呼ばれた。幼少期から聡明で土佐では河田小龍の塾に入門し、その後岩崎弥太郎に師事。安政6年(1859年)、藩の重役由比猪内の従僕として江戸に留学し、儒学安積艮斎洋学手塚玄海砲術高島秋帆に学んだ。文久2年、勝海舟に入門した。その才能を山内容堂にも認められて文久3年(1863年)に名字帯刀を許され、同年6月、神戸の勝私塾に入門して航海術を学んだ。元治元年(1864年)5月、神戸海軍操練所が開設され、「勝阿波守家来」として聴講生のような形で入所した。その後、勝が失脚したため、行き場を失い脱藩した[1]


勝は薩摩藩に援助を要請し、薩摩藩も軍艦の乗組員が不足していたので、近藤らは薩摩藩に取り込まれることになり、元治2年2月、鹿児島に向かい、小松帯刀の下で艦船の運用に従事したりする、土佐藩を中心とする脱藩浪士の集団となり、社中と自称した。この段階では坂本龍馬とは一切関係がない。慶応元年(1865年)7月21日、小松帯刀と井上馨伊藤博文との歴史的会談によって、薩摩藩の名義貸しによる長州藩の武器購入が決定したが、井上が小松に同道して鹿児島に行き、軍艦購入の根回しをした際、そのサポートにあたった。近藤が中心となって武器を長崎から長州藩に運搬した際、長州藩主・毛利敬親に謁見を許され、ユニオン号購入への尽力を依頼された。さらに武器購入と運搬への尽力に謝意を示されて三所物を下賜され、藩主父子から島津久光茂久父子に対する礼状を託された。近藤は土佐藩浪士ではなく、薩摩藩士と認識されていた[2]


岩崎弥太郎
とは知己で、土佐を立つ際には餞別として刀を貰っている。同じく土佐藩出身である坂本龍馬とは仲が良く、龍馬と共に海援隊の前身である亀山社中を設立した。また龍馬の命令で長州藩に赴き、小銃を売り渡している。このとき、長次郎は長州藩主毛利敬親から謝礼の言葉を直々に受けている。


そして長次郎は汽船・ユニオン号を購入したが、この時に長州藩とユニオン号の引渡し条件をめぐって諍いが起こってしまう。しかし龍馬が仲介したため、長州藩は謝礼金を支払ったといわれている。

その後長次郎は、薩摩藩家老の小松清廉が費用を出し英商人トーマス・ブレーク・グラバーが船の手配をしてイギリスへ留学する予定であったが[3]、亀山社中の社中盟約書に違反したとして仲間たちより追及を受けたのち責任をとって小曽根乾堂邸で切腹した。なお、このとき切腹を命じたのは龍馬自身であったという説が一部にあるが、当時龍馬は薩長同盟締結のため京都に赴いていて長崎には不在であり、長次郎の切腹は、龍馬不在中に社中の隊士が決定したことである可能性が高い。享年29。


龍馬の妻であるお龍は後に回顧録『千里駒後日譚』(せんりのこまごじつのはなし)の中で長次郎の訃報を聞いた龍馬が「己が居ったら殺しはせぬのぢゃった」とその死を悼んでいたという証言を残している。 なお、龍馬本人の手帳には「術数有り余って至誠足らず。上杉氏身を亡ぼす所以なり」(「坂本龍馬手帖摘要」)と批判的に記されているとも言われるが、この「上杉氏」が長次郎のことを指しているという証拠はない。


葬儀は社中の者であげた。墓は皓台寺墓地内の高島秋帆(幕末期砲術家)の墓の裏手(山側)にひっそりと建てられていたが、現在では大浦お慶とともに志士たちを援助した小曾根家の墓地内に移設されている。墓碑には、小曾根邸の離れの屋敷名をとって「梅花書屋氏墓」と記されている。筆跡は龍馬のものとされている。


明治31年(1898年)、正五位を追贈された[4]

関連作品
テレビドラマ
天皇の世紀 第二部 第11回「長崎と亀山社中」(1973年、朝日放送テレビ、演:沖田駿一郎

勝海舟(1974年、NHK大河ドラマ、演:北村総一朗

竜馬がゆく(1968年、NHK大河ドラマ、演:北浦昭義

竜馬がゆく(1982年、テレビ東京、演:原田大二郎

幕末青春グラフィティ 坂本竜馬(1982年、日本テレビ、演:室積光

坂本龍馬(1989年、TBS、演:香川照之

勝海舟(1990年、日本テレビ、演:大倉順憲

竜馬におまかせ!(1996年、日本テレビ、演:北原雅樹

竜馬がゆく(2004年、テレビ東京、演:長谷川朝晴

龍馬伝(2010年、NHK大河ドラマ、演:大泉洋

映画
幕末(1970年、演:中村嘉葎雄

幕末青春グラフィティ Ronin 坂本竜馬(1986年、演:倉崎青児

テレビドラマ
お〜い!竜馬(1992年 - 1993年、NHK総合テレビ、声:鈴木晶子(幼年期)、三木眞一郎(青年期))

脚注
1. 町田明広『新説 坂本龍馬』集英社2019年
2. 町田明広『新説 坂本龍馬』集英社2019年
3. 
『坂本龍馬関連文書 第二』p.328
4. 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.11

参考文献
・吉村淑甫『龍馬の影を生きた男 近藤長次郎』(平成22年、宮帯出版社
(wikiより)

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近藤長次郎

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道富丈吉は、寛政 12年 ( 1800 ) から 17年間に渡り、出島オランダ商館長を勤めたヘンドリック・ドーフと、丸山遊女・瓜生野 ( うりうの ) との間に生まれた人物。

ドーフは丈吉を溺愛したが、任期を終え帰国。

ドーフは、長崎奉行・遠山景晋に願い出て白砂糖 300籠を長崎会所に寄託することによって、その利子を生活費として瓜生野親子に毎年渡してもらうようにとり計らった。

長崎の人々もドーフの願いに応え、丈吉を奉行所の役人 ( 唐物目利 ) に育て上げたが、丈吉は 17歳の若さでこの世を去り、長崎の人々はその短い人生を惜しんだという。

墓石前に 2つの花立石がある。右の花立石には、母の紋である揚げ羽蝶、そして左の花立石には、父であるヘンドリック・ドーフの頭文字、HとDを組み合せた花文字の紋は刻まれている。

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町年寄。

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高島家は、代々大村町 ( 現在の万才町 ) に住む町年寄の家柄であった。

初祖、氏春は天正 2年 ( 1574 ) 長崎に移住し、初代・茂春が頭人 ( 後に町年寄と改称 ) となった。

中央正面が 3代・茂卿の墓碑であるが、茂卿は寛文 13年 ( 1673 ) に没しており墓の配列から考えて墓域設置は寛文前後と思われる。

当主の墓碑は、6代を除いて、初祖から 11代までがあり、この中には、慶応 4年 ( 1868 ) 門人たちが建てた茂敦 : しげよし ( 秋帆 : しゅうはんと号した ) とその家族 3人の墓碑もある。
(案内板より)

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後藤家は、代々島原町 ( 現在の万才町 ) に住む町年寄の家柄で、その初代は、海外貿易に従事した御朱印船主の五島宗印 ( そういん ) である。

宗印はキリシタンで、洗礼名を「トマス」といい、「ドチリナ・キリシタン」「オラショの翻訳」などを出版するとともに、ミゼリコルディアの組に関係し、慈善事業にも奉仕した。

宗印は、文禄 ( ぶんろく ) 元年 ( 1592 ) 頭人 ( 後に町年寄と改称 ) であったが、寛永 3年 ( 1626 ) 80余歳の老齢ながら、キリシタンで江戸に召喚され、翌年病死した。

2代貞朝 ( さだとも ) 以後明治維新まで 14代にわたって町年寄を勤めた。

墓地の形成は、墓石の配列と様式から寛文 ( かんぶん ) 前後と考えられ、正面中央に宗印 ( 貞之 : さだゆき ) を祀り、向かって右 ( 南 ) から 2代・3代と墓碑が配列されている。 ( 5代茂直 : しげなお 、14代貞紀 : さだのり、の墓碑はなし。 )
(案内板より)

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嵯峨 公勝(さが きんとう)は、江戸時代末期から昭和初期にかけての華族侯爵正親町三条実愛(嵯峨実愛)の子。母は鶴。妻は中山忠光の娘・南加愛新覚羅溥傑夫人の祖父。

経歴

明治14年(1881年)4月、父より家督を譲られる。明治17年(1884年)7月7日、華族令に基づき伯爵に叙爵した。明治21年(1888年)1月17日、父の実愛の維新の功績により侯爵となる[1]。明治23年(1890年)、貴族院侯爵議員。


ただ終身ながら無報酬の議員職には不満(伯爵までは互選で選ばれる代わりに歳費が支給されたが、侯爵となると自動的に議員に任命される代わりに歳費が支給されなかった)で、明治31年(1900年)には品川弥二郎宛に侯爵への新たな爵禄を求める文書(公爵には爵禄があり、諸侯華族の侯爵はもともと金を持っている。公卿侯爵だけが貧しくて貴族院議員の職務が果たせないという内容[2])を提出したが、反映されなかった。新たな賜金がないと見るや公勝は以後の政治活動をろくに行わなくなった。


昭和10年(1937年)に、貴族院議員在職30年以上で30回以上の議会に出席した議員を永年在職議員として表彰する制度ができたが、公勝は現役議員でありながら対象から外された。議会開設以来70回の議会があったにもかかわらず、出席率が悪かったためである[3]


孫の浩は普段、実勝の妻の実家に住んでいた。公勝は浩を嫁ぐ直前に呼び寄せ、昭和12年(1937年)4月3日、公勝の杉並大宮邸より出立させた。侯爵としての体面を保つためだったと思われる。

栄典
位階
1902年(明治35年)6月20日 - 正三位[4]

勲章等
1884年(明治17年)7月7日 - 伯爵[5]

1889年(明治22年)11月29日 - 大日本帝国憲法発布記念章[6]

1906年(明治39年)4月1日 - 勲四等旭日小綬章[7]

1914年(大正3年)6月18日 - 勲三等瑞宝章[8]

1915年(大正4年)11月10日 - 大礼記念章[9]

1938年(昭和13年)2月11日 - 金杯一個[10]

脚注
1. 『官報』第1363号、明治21年1月18日。
2. 浅見雅男 『華族誕生 名誉と体面の昭和中公文庫 ISBN 978-4122035423、243-245p
3. 浅見、252p
4. 『官報』第5688号「叙任及辞令」1902年6月21日。
5. 『官報』第307号「叙任及辞令」1884年7月8日。
6. 『官報』第1943号「叙任及辞令」1889年12月18日。
7. 『官報』第7272号「叙任及辞令」1907年9月23日。
8. 『官報』第565号「叙任及辞令」1914年6月19日。
9. 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
10. 『官報』号外「叙任及辞令」1938年2月11日。
(wikiより)

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嵯峨公勝

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角田 竹冷(つのだ[注 1] ちくれい、1857年6月4日安政4年5月2日) - 1919年大正8年)3月20日)は、明治・大正期の俳人政治家。本名は真平(しんぺい)。駿河国加島(現静岡県富士市)生れ。東京に出て代言人弁護士)となり、東京府会議員、東京市会議員、衆議院議員を歴任した。

経歴

農業・角田彦右衛門の二男として生まれる[1]。1874年(明治7年)に上京し法律学を修めた[1][2]。1880年(明治13年)、代言人試験に合格した[1]。東京府会議員、同副議長、神田区会議員、同議長、牛込区会議員、東京市会議員、同参事会員、東京市臨時市区改正局長兼水道局長などを歴任[2]


その他、跡見女学校理事、秀英舎取締役、中央窯業取締役、帝国劇場取締役、東京株式取引所理事などを務めた[2]


1892年
(明治25年)に衆議院議員に当選(計7回当選)。1895年(明治28年)、39歳で尾崎紅葉巖谷小波森無黄大野洒竹らとともに正岡子規と並ぶ新派の秋声会の創設に関わった。1919年、脳溢血のため死去[3]

句集に『竹冷句鈔』(星野麦人編・大正9年)古俳諧の収集家としても知られ、その蔵書は現在東京大学総合図書館に「竹冷文庫」として蔵されている。

代表句
・草餅や二つ並べて東山     

・水はりて春を田に見る日ざし哉

・傘さして小舟出しけり春の海

親族
・子息 俳人・角田竹涼など。

・息女 萬代(第一銀行頭取・石井健吾弟孝の妻)など[4]

脚注
注釈
1. 角川書店『俳文学大辞典』・三省堂『現代俳句大辞典』では姓を「かくた」が正しいとするが、本人自筆の履歴書等は「つのだ」となっており、衆議院に本人から提出された履歴書にもとづいて編纂された『議会制度百年史 衆議院議員名鑑』415頁でも「つのだ」とフリガナが振ってある。東京大学竹冷文庫では「すみだ」を正としているが根拠は不明である。明治期の新聞等でも「つのだ」とルビが振られている。

出典
1. a b c 『大日本人物誌』つ4頁。
2. a b c 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』415頁。
3. 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』付録「近代有名人の死因一覧」(吉川弘文館、2010年)18頁
4. 石井健吾 (男性)人事興信録第4版 [大正4(1915)年1月](名古屋大学)

参考文献
・衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。

・成瀬麟、土屋周太郎編『大日本人物誌 : 一名・現代人名辞書』八紘社、1913年。

外部リンク
東京大学総合図書館の俳書
(wikiより)

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角田竹冷

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伊藤 博文(いとう ひろぶみ、1841年10月16日天保12年9月2日〉- 1909年明治42年〉10月26日)は、日本政治家位階勲等爵位従一位大勲位公爵


明治時代
に4度にわたって内閣制度発足以降の内閣総理大臣初代[2]1885年-1888年5代1892年-1896年7代1898年10代1900年-1901年)を務めたことで知られる。1次内閣時には明治憲法の起草の中心人物となり、2次内閣では日清講和条約の起草にあたった。4次内閣の組閣に際して立憲政友会を結党して初代総裁(在職1900年-1903年)となり、政党政治に道を開いた[3]。他、初代枢密院議長(在職1888年-1889年)、初代貴族院議長(在職1890年-1891年)、初代韓国統監(在職1905年-1909年)、元老などを歴任した[4][3]


博文(ひろぶみ、「ハクブン」と読むこともある)。幼名利助(りすけ)、後に吉田松陰から俊英の俊を与えられ、俊輔(しゅんすけ)とし、さらに春輔(しゅんすけ)と改名した。春畝(しゅんぽ)で、春畝公と表記されることも多い。また小田原の別邸・滄浪閣を所持していたことから滄浪閣主人(そうろうかくしゅじん)を称して落款としても用いた。

概要

周防国百姓の子として生まれる。父が長州藩足軽伊藤家に入ったため、父とともに下級武士の身分を得る。吉田松陰私塾である松下村塾に学んだ。尊王攘夷運動に参加したが、1863年には藩命により井上馨らとともにイギリスに密航して留学して開国論者となる[5][4]1864年ロンドンで四国連合艦隊の長州藩攻撃の計画を知り、急遽帰国し、藩主毛利敬親に開国への転換の必要を説いたが、受け容れられなかった。同年幕府による第一次長州征伐に対する藩首脳の対応に憤慨した高杉晋作が起こした功山寺挙兵に参加。この藩内戦の勝利により藩主流派となり、藩政改革に参画するようになり、主に藩の対外交渉の任にあたった[4]


明治維新後の1868年から政府に出仕し、外国事務掛、参与、外国事務局判事、初代兵庫県知事などを歴任。1869年(明治2年)には陸奥宗光らとともに当面の政治改革の建白書を提出して開明派官僚として頭角を現した。また大蔵少輔民部少輔として貨幣制度の改革を担当し、1870年(明治3年)には財政幣制調査のために渡米し、翌年の金本位制の採用と新貨条例の公布を主導した。1871年(明治4年)の岩倉使節団にも参加し、副使として米欧に渡る。この間に大久保利通の信任を得た[4]


1873年(明治6年)の帰国後には大久保らとともに内政優先の立場から西郷隆盛征韓論に反対し、同年10月に西郷らが下野すると大久保の片腕として参議工部卿に就任した[3]1878年(明治11年)に大久保が不平士族に暗殺された後、その後を継いで内務卿に就任し、政府の中心人物となった。琉球処分侍補制度の廃止、教育令の制定などを推進した。1881年(明治14年)に大隈重信からイギリス型議会政治を目指す急進的憲法意見が出されると伊藤が反対し、大隈ら開明派官僚が下野するという明治十四年の政変が発生した[4][3]1882年(明治15年)にドイツオーストリアの憲法調査を行い、1884年に宮中に制度取調局を創設してその長官に就任し、立憲体制への移行に伴う諸制度の改革に着手[4]


1885年
太政官にかえて内閣制度を創設し、内閣発足以後[2]の初代内閣総理大臣に就任した(第1次伊藤内閣)。井上毅伊東巳代治金子堅太郎らとともに憲法や皇室典範貴族院令衆議院議員選挙法の草案の起草にあたり、1888年枢密院が創設されるとその議長に就任し、憲法草案の審議にあたった。1889年に日本最初の近代憲法明治憲法を制定。君主大権の強いドイツ型の憲法だったが、伊藤は立憲政治の意義が君権制限と民権保護にあることを強調し、立憲主義的憲法理解を示した[4][3]


1890年(明治24年)に帝国議会が創設されると初代貴族院議長に就任(最初の議会のみ)。1892年(明治25年)に第2次伊藤内閣を組閣し、衆議院の第一党だった自由党に接近。日清戦争では首相として大本営に列席するとともに日清講和条約に調印した。戦後は自由党と連携して連立政権を組織[3]1898年(明治31年)に第3次伊藤内閣を組閣したが、自由党や進歩党との連携に失敗し、地租増徴が議会の反発で挫折したことで総辞職。他の元老たちの反対を押し切って大隈重信と板垣退助を後継に推して日本最初の政党内閣(第1次大隈内閣)を成立させた。さらに1900年(明治33年)には立憲政友会を結党して、その初代総裁となり、第4次伊藤内閣を組閣。明治立憲制のもとでの政党政治に道を開いた[3]。しかし1901年(明治34年)に貴族院の反発と財政問題をめぐる閣内不一致で総辞職[4]


同年に起こった日英同盟論には慎重でロシアとの協商を模索して訪露したが、具体的成果を得られず、結果的に日英同盟が促進された。帰国後は野党の立場を貫こうとする政友会の指導に苦慮し、1903年(明治36年)に総裁を辞し、元老の立場に戻った[4]


日露戦争
開戦には慎重だったが[6]、日露戦争後の朝鮮満州の処理問題に尽力し、1905年(明治38年)には初代韓国統監に就任[4]韓国の国内改革と保護国化の指揮にあたり、3度にわたる日韓協約で漸次韓国の外交権や内政の諸権限を剥奪した[7]。伊藤は日本政府内では対韓慎重派であり、保護国化はやむなしとしたが、併合には慎重だったといわれる[6]。しかし韓国民族運動との対立の矢面に立つ形となり、1909年(明治42年)に韓国統監を辞職した後、ハルビン駅において韓国の民族主義運動家の安重根に狙撃されて死亡した[3]


開明派として日本の近代化、特に憲法制定とその運用を通じて立憲政治を日本に定着させた功績が評価される[3]

生涯
生い立ち
天保12年(1841年)9月2日、周防国熊毛郡束荷村字野尻(現・山口県光市束荷字野尻)の百姓・林十蔵(のちに重蔵)の長男として生まれる。母は秋山長左衛門の長女・琴子。弘化5年(1846年)に破産した父がへ単身赴任したため母とともに母の実家へ預けられたが、嘉永2年(1849年)に父に呼び出され萩に移住した。萩では久保五郎左衛門の塾に通い(同門に吉田稔麿)、家が貧しかったため、12歳ごろから父が長州藩蔵元付中間水井武兵衛養子となり、武兵衛が安政元年(1854年)に周防佐波郡相畑村の足軽・伊藤弥右衛門の養子となって伊藤直右衛門と改名したため、十蔵・博文父子も足軽となった[8]

松下村塾入門

安政4年(1857年2月江戸湾警備のため相模に派遣されていたとき、上司として赴任してきた来原良蔵と昵懇となり、その紹介で吉田松陰松下村塾に入門する。伊藤は友人の稔麿の世話になったが、身分が低いため塾の敷居をまたぐことは許されず、戸外で立ったままの聴講に甘んじていた。


渡邊嵩蔵 「伊藤公なども、もとより塾にて読書を学びたれども、自家生活と、公私の務に服せざるべからざる事情のために、長くは在塾するを得ざりしなり」[9]


翌安政5年(1858年)7月から10月まで松陰の推薦で長州藩の京都派遣に随行、帰藩後は来原に従い安政6年(1859年)6月まで長崎で勉学に努め、10月からは来原の紹介で来原の義兄の桂小五郎(のちの木戸孝允)の従者となり、長州藩の江戸屋敷に移り住んだ。ここで志道聞多(のちの井上馨)と出会い、親交を結ぶ。


松陰が同年10月に安政の大獄で斬首された際、桂の手附として江戸詰めしていた伊藤は、師の遺骸を引き取ることなる。このとき、伊藤は自分がしていた帯を遺体に巻いた。このあと、桂を始め久坂玄瑞高杉晋作・井上馨らと尊王攘夷運動に加わる一方で海外渡航も考えるようになり、万延元年12月7日1861年1月17日)に来原に宛てた手紙でイギリス留学を志願している。


文久2年(1862年)には公武合体論を主張する長井雅楽の暗殺を画策し、8月に自害した来原の葬式に参加、12月に品川御殿山英国公使館焼き討ちに参加し、山尾庸三と共に塙忠宝[注釈 1]加藤甲次郎を暗殺する[11]など、尊王攘夷の志士として活動した[12]。筋肉質の体躯であったとされる。

イギリス留学

文久3年(1863年)には井上馨の薦めで海外渡航を決意、5月12日に井上馨・遠藤謹助・山尾庸三・野村弥吉(のちの井上勝)らとともに長州五傑の一人としてイギリスに渡航する。伊藤の荷物は文久2年に発行された間違いだらけの『英和対訳袖珍辞書』1冊と寝巻きだけであったという。しかも途中に寄港した上海で別の船に乗せられた際、水兵同然の粗末な扱いをされ苦難の海上生活を強いられた。


9月23日ロンドン到着後、ヒュー・マセソンの世話を受け化学者アレキサンダー・ウィリアムソンの邸に滞在し、英語や礼儀作法の指導を受ける。ロンドンでは英語を学ぶとともに博物館美術館に通い、海軍施設、工場などを見学して見聞を広めた。留学中にイギリスと日本との、あまりにも圧倒的な国力の差を目の当たりにして開国論に転じる。


元治元年(1864年)3月、4国連合艦隊による長州藩攻撃が近いことを知ると、井上馨とともに急ぎ帰国した。


6月10日
横浜上陸後長州藩へ戻り、戦争回避に奔走する。英国公使オールコックと通訳官アーネスト・サトウと会見したが、両名の奔走も空しく、8月5日に4国連合艦隊の砲撃により下関戦争(馬関戦争)が勃発、長州の砲台は徹底的に破壊される。


伊藤は戦後、宍戸刑馬こと高杉晋作の通訳として、ユーリアラス号で艦長クーパーとの和平交渉にあたる。藩世子・毛利元徳へ経過報告したときには、攘夷派の暗殺計画を知り、高杉とともに行方をくらましている。そして、この和平交渉において、天皇将軍が長州藩宛に発した「攘夷実施の命令書」の写しをサトウに手渡したことにより、各国は賠償金江戸幕府に要求するようになる[13]

挙兵

オールコックらとの交渉で伊藤は井上馨とともに長州藩の外国応接係を任されるが、下関戦争と禁門の変で大損害を被った藩は幕府への恭順を掲げる俗論派が台頭、攘夷派の正義派(革新派)との政争が始まった。伊藤は攘夷も幕府にも反対でありどちらの派閥にも加わらなかったが、9月に井上が俗論派の襲撃で重傷を負うと行方をくらました。


11月、長州藩が第一次長州征伐で幕府に恭順の姿勢を見せると、12月に高杉らに従い力士隊を率いて挙兵(功山寺挙兵)。このとき、高杉のもとに一番に駆けつけたのは伊藤だった。その後、奇兵隊も加わるなど各所で勢力を増やして俗論派を倒し、正義派が藩政を握った。のちに伊藤は、このときのことを述懐して、「私の人生において、唯一誇れることがあるとすれば、このとき、一番に高杉さんのもとに駆けつけたことだろう」と語っている。


それからは目立った活躍は見られず、翌慶応元年(1865年)に藩の実権を握った桂の要請で行った薩摩藩や外国商人との武器購入および交渉がおもな仕事で、第二次長州征伐にも戊辰戦争にも加勢できずに暇を持て余していた。だが、慶応4年(明治元年、1868年)に外国事務総裁東久世通禧に見出され神戸事件堺事件の解決に奔走したことが出世の足がかりとなった[14]

明治維新

明治維新後は伊藤博文と改名し、長州閥の有力者として、英語に堪能なことを買われて参与外国事務局判事大蔵少輔民部少輔、初代兵庫県知事(官選)、初代工部卿宮内卿など明治政府のさまざまな要職を歴任する。これには木戸孝允の後ろ盾があり、井上馨や大隈重信とともに改革を進めることを見込まれていたからであった。


兵庫県知事時代の明治2年(1869年1月、『国是綱目』いわゆる「兵庫論」を捧呈し、


1. 君主政体

2. 兵馬の大権を朝廷に返上

3. 世界万国との通交

4. 国民に上下の別をなくし「自在自由の権」を付与

5. 「世界万国の学術」の普及

6. 国際協調・攘夷の戒め

を主張した。


明治3年(1870年)に発足した工部省の長である工部卿として、殖産興業を推進する。のちにこれは、内務卿大久保利通のもとで内務省へと引き継がれる。また同年11月から翌年5月まで、財政幣制調査のため芳川顕正福地源一郎らと渡米。中央銀行について学び、帰国後に伊藤の建議により、日本最初の貨幣法である新貨条例が制定される。


明治4年(1871年11月には岩倉使節団の副使として渡米、サンフランシスコで「日の丸演説」を行う[15][注釈 2]

明治6年(1873年)3月にはベルリンに渡り、ドイツ皇帝ヴィルヘルム1世に謁見。宰相ビスマルクとも会見し、ビスマルクから強い影響を受けた。

The red disc in the centre of our national flag shall no longer appear like a wafer over a sealed empire, but henceforth be in fact what it is designed to be, the noble emblem of the rising sun, moving onward and upward amid the enlightened nations of the world.
(国旗の中央なる吾等が緋の丸こそ最早閉ざされし帝国の封蝋の如く見ゆらざれ、将にその原意たる、旭日の貴き徽章、世界の文明諸国の只中に進み昇らん。)

                                                                                   — Hirobumi Ito, 23rd of January 1872.

大蔵兼民部少輔を務めた際には、大隈重信とともに殖産興業政策の一環として鉄道建設を強力に推し進め、京浜間の鉄道は、明治5年5月7日1872年6月12日)に品川 - 横浜間で仮営業を始め、同年9月12日(1872年10月14日)、新橋までの全線が開通した[16]


当初、伊藤が新政府に提出した『国是綱目』が当時新政府内では極秘裏の方針とされていた版籍奉還に触れていたために大久保利通や岩倉具視の不興を買い、大蔵省の権限をめぐる論争でも大久保とは対立関係にあった。また、岩倉使節団がアメリカで不平等条約改正交渉を始めた際、全権委任状を取るため一旦大久保とともに帰国したが、取得に5か月もかかったことで木戸との関係も悪化した(改正交渉も中止)。


だが、大久保・岩倉とは西欧旅行を通して親密になり、木戸とものちに和解したため、明治6年(1873年)に帰国して関わった征韓論では「内治優先」路線を掲げた大久保・岩倉・木戸らを支持して大久保の信任を得るようになった(明治六年政変)。このあと木戸とは疎遠になる代わりに、政権の重鎮となった大久保・岩倉と連携する道を選ぶ一方、盟友の井上馨とともに木戸と大久保の間を取り結び、板垣退助とも繋ぎを取り明治8年(1875年)1月の大阪会議を斡旋する。明治10年(1877年)に木戸が死去、同年に西南戦争西郷隆盛が敗死、翌11年(1878年)に大久保も暗殺されたあとは内務卿を継承し、維新の三傑なき後の明治政府指導者の1人として辣腕を振るう[17]


明治12年(1879年)9月に「教育議」を上奏し、教育令発布となる[18]


明治14年(1881年)1月、日本の立憲体制をどう作るか井上馨や大隈重信と熱海で会談。しかし大隈が急進的な構想を内密に提出、独走するようになると、政界追放を決め工作に取りかかり、10月14日の大隈下野で目的を果たし、明治23年(1890年)に国会を開設することを約束する(明治十四年の政変)。伊藤の漸進的な提案が通り、黒田清隆西郷従道ら薩摩派とも提携したことで事実上伊藤が中心となる体制ができあがった。一方で井上毅が岩倉の指示を受け、大隈案への対抗からプロイセン憲法を元にした憲法の採用を提案したときは退けたが、これは井上が憲法制定を焦り、外国憲法をどう日本に定着させるかについて具体的に論じていないことと、上役の伊藤に憲法制定を促すなど分を越えた動きをしていたからであった。


明治15年(1882年)3月3日、明治天皇憲法調査のための渡欧を命じられ、3月14日、河島醇平田東助吉田正春山崎直胤三好退蔵岩倉具定広橋賢光西園寺公望伊東巳代治ら随員を伴いヨーロッパに向けて出発した。はじめベルリン大学公法学者、ルドルフ・フォン・グナイストに教示を乞い、アルバート・モッセからプロイセン憲法の逐条的講義を受けた。のちにウィーン大学の国家学教授・憲法学者であるローレンツ・フォン・シュタインに師事し、歴史法学行政について学ぶ。これが帰国後、近代的な内閣制度を創設し、大日本帝国憲法の起草・制定に中心的役割を果たすことにつながる。


明治18年(1885年)2月、朝鮮で起きた甲申政変の事後処理のため清に派遣され、4月18日には李鴻章との間に天津条約を調印している[19]

初代内閣総理大臣就任

明治18年(1885年)12月の内閣制度移行に際し、誰が初代内閣総理大臣になるかが注目された。衆目の一致する所は、太政大臣として名目上ながらも政府のトップに立っていた三条実美と、大久保の死後事実上の宰相として明治政府を切り回し内閣制度を作り上げた伊藤だった。しかし三条は、藤原北家閑院流の嫡流で清華家の一つ三条家の生まれという高貴な身分、公爵である。一方伊藤といえば、貧農の出で武士になったのも維新の直前という低い身分の出身、お手盛りで伯爵になってはいるものの、その差は歴然としていた。


太政大臣に代わる初代内閣総理大臣を決める宮中での会議では、誰もが口をつぐんでいるなか、伊藤の盟友であった井上馨は「これからの総理は赤電報(外国電報)が読めなくてはだめだ」と口火を切り、これに山縣有朋が「そうすると伊藤君より他にはいないではないか」と賛成、これには三条を支持する保守派の参議も返す言葉がなくなった。つまり英語力が決め手となって伊藤は初代内閣総理大臣となったのである。以後、伊藤は4度にわたって内閣総理大臣を務めることになる。


なお、44歳2か月での総理大臣就任は、2018年現在日本の歴代総理大臣の中でもっとも若い記録である(2番目は近衛文麿の45歳、現行憲法下では安倍晋三の52歳)。維新以来、徐々に政府の実務から外されてきた公卿出身者の退勢はこれで決定的となり、以降、長きにわたって総理大臣はおろか、閣僚すらなかなか出せない状態となった。


第1次伊藤内閣では憲法発布前の下準備の機関創設に奔走、明治19年(1886年)2月には各省官制を制定し、3月には将来の官僚育成のため帝国大学(現・東京大学)を創設し、翌年3月には国家学会が創設、これを支援した。一方、井上馨を外務大臣として条約改正を任せたが、井上馨が提案した改正案に外国人判事の登用などを盛り込んだことが問題になり、閣内分裂の危機を招いたため、明治20年(1887年)7月に外国へ向けた改正会議は中止、9月に井上馨が辞任したため失敗に終わった。同年6月から夏島で伊東巳代治・井上毅・金子堅太郎らとともに憲法草案の検討を開始する。


またイギリス自由党議員で鉄道事業家のジャスパー・ウィルソン・ジョーンズの義理の息子である法曹のフランシス・ピゴットを憲法を含む法制顧問に迎えるなどし、のちに刊行した『秘書類纂』にも数々のピゴットの論文(和訳)を納めた[20]。なおジョーンズの娘マーベルは1896年に植民地看護協会を設立しており、ウィンストン・チャーチルは新人議員のときに同協会を支援した。 明治21年(1888年)4月28日、枢密院開設の際に初代枢密院議長となるために首相を辞任[21]

詳しいことは、「伊藤博文ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E8%97%A4%E5%8D%9A%E6%96%87
(wikiより)

046 伊藤博文

伊藤博文

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⇧⇩ 伊藤博文墓。

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⇧⇩ 伊藤梅子墓。

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園田 実徳(そのだ さねのり、1849年1月14日嘉永元年12月20日) - 1917年(大正6年)2月18日)は、日本実業家政治家薩摩国出身、明治維新開拓使として北海道函館に渡り、同市をはじめとする道南地方の経済発展に貢献した。函館船渠(現・函館どつく)函館電燈所(現・北海道電力)および北海道銀行[注 1]創業者。

経歴・人物

薩摩国鹿児島郡鹿児島近在荒田村(現・鹿児島県鹿児島市下荒田)にて、薩摩藩士の園田彦右衛門・シン夫妻の長男として生まれる[1]。藩主島津忠義小姓となった彼は1866年(慶応2年)、藩主に従い上洛し鳥羽・伏見の戦い黒田清隆の部下として参加した[1][2]1872年(明治5年)、北海道開拓使に出仕した後、1874年(明治7年)に起こった佐賀の乱では大久保利通の密使となり、1877年(明治10年)の西南戦争に参加した[1]彼は功をあげて勲六等に叙せられた[2]


1882年(明治15年)、北海道運輸会社の創立に関って同社函館支店長となり、函館-根室間の航路を開いた[1]北海道炭礦鉄道の創立発起人となり理事に就任、現函館本線函館駅-小樽駅間の鉄道開発に尽力した[1]。その後も阿部興人らとともに北海道セメント会社(後の太平洋セメント)や函館船渠会社の創設に参加し、1913年(大正2年)には函館水電株式会社運営の東川町湯川間に北海道で初めて路面電車を走らせ(現在の函館市企業局交通部北海道遺産の一つに選ばれている)、翌1914年(大正3年)4月の北海道函館外各支庁選挙区で行われた衆議院補欠選挙に立候補して当選した[1][3]


日本の近代競馬黎明期の有力者でもあり、1900年に発足した北海道共同競馬会社の発起人の一人に名を連ねている[4]。また東京馬匹改良会社にあって目黒競馬場の建設に携わり[5]、同場を使用した公認競馬会のひとつである日本競馬会[注 2]の会長も務めた[6]。馬主としても目黒の大鳥神社近辺に厩舎を構え、菅野小次郎を専属騎手として雇用した[7]。主な所有馬に、1910年の目黒帝室御賞典(秋)に優勝、当時随一の名馬と謳われたシノリがいる。また、菅野の弟子である後の「大尾形」こと尾形藤吉(当時は大河原藤吉)が騎手として初勝利を挙げたホクエンも実徳の所有馬であった[8]1887年(明治20年)には、亀田郡桔梗村(現在の函館市桔梗町)にあった北海道庁桔梗野牧羊場の払い下げを受けて園田牧場を経営[9]、同場で生まれた騎手の武邦彦は実弟・彦七の孫で又甥にあたる[2]


長女のノブは西郷隆盛の息子、西郷寅太郎に嫁いだ[2]

栄典
1917年(大正6年)2月19日 - 旭日小綬章[10]


注釈
1. 戦後地銀北海道銀行とは異なる。1944年に北海道拓殖銀行と合併。
2. 1937年に発足した全国組織日本競馬会とは異なる。

出典
1. a b c d e f はこだて人物誌 園田実徳”. 函館市文化・スポーツ振興財団. 2017年4月18日閲覧。
2. a b c d 武彦七と園田実徳”. 2010年4月19日閲覧。
3. 官報. 1914年5月15日”. 国立国会図書館近代デジタルライブラリー. 2015年1月18日閲覧。
4. 札幌競馬場馬主協会編『北ぐにの競馬』(札幌競馬場馬主協会、1983年)301頁。
5. 日本中央競馬会編『日本競馬史(3) - 各競馬場のあゆみ』(日本中央競馬会、1968年)47頁。
6. 日本中央競馬会編『日本競馬史(2) - 明治・大正の競馬』(日本中央競馬会、1967年)457頁。
7. 尾形藤吉『馬ひとすじ』(徳間書店、1967年)56頁。
8. 尾形藤吉『馬ひとすじ』(徳間書店、1967年)73頁。
9. 『角川日本地名大辞典 1 北海道 上巻』角川書店、2003年、改、436頁。ISBN 4-04-001011-6
10. 『官報』第1365号「叙任及辞令」1917年2月21日。

関連項目
武家 (家族)
(wikiより)

047   園田実徳

園田実徳

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吉田 久(よしだ ひさし、1884年明治17年)8月21日[1] - 1971年昭和46年)9月20日[2])は、日本裁判官貴族院議員、大学教授である。福井県出身。

出生と経歴
1884年8月21日、福井市佐佳枝上町の八百屋の長男として出生する[1]番町高等小学校尋常科中退[3]。福井に戻り裁判所の給仕をして生計を立てていた[4]。のち、弁護士の書生をしながら東京法学院(のちの中央大学)にて学ぶ[5]1905年(明治38年)に東京法学院を卒業し判事検事登用試験に次席合格する[6]。司法官試補、検事を経て判事となる[7]

横濱専門学校(現神奈川大学)創立に協力
神奈川大学創設者米田吉盛が1927年(昭和2年)の神田錦町の錦城中学校の校舎の一部を借りて、巡査及び看守に民事法学及び刑事法学の一般を授けることを目的とする特殊学校を創めたが、当初より、吉田久は林頼三郎からの委嘱で、同僚西川一男と民事法を担当して学生の指導に当たった。翌1928年(昭和3年)には、横浜駅(現在の桜木町駅)側のコンクリート建物桜木会館二階に移転し、横浜学院と称し。1930年(昭和5年)には六角橋に移転、1942年(昭和17年)に母校中央大学の教務が多忙になったので、教授職を退いた。

翼賛選挙無効判決

1942年(昭和17年)に行われた第21回衆議院議員総選挙翼賛選挙)をめぐって提起されていた選挙無効訴訟(鹿児島2区選挙無効事件)において1945年(昭和20年)3月1日、大審院第三民事部の部長判事(裁判長)だった吉田は「鹿児島2区の選挙は無効」とする判決を下した[8]。同事件の審理に際して吉田は4人の陪席裁判官と共に鹿児島へ出張して鹿児島県知事の薄田美朝を含む187人もの証人を尋問しており[9]、この出張尋問は大審院内部でも「壮挙」と評された[10]


なお同判決の判決原本は東京大空襲の際に焼失したとされており、大審院民事判例集にも登載されておらず「幻の判決文」とされていたが2006年平成18年)8月、最高裁判所の倉庫で61年ぶりに発見された[11]

その後の人生

翼賛選挙無効判決宣告の4日後、吉田は司法大臣 松阪広政に辞表を提出し裁判官を辞職した[12]。その後は大審院判事在職中より出講していた(当時は裁判官が大学や専門学校で教鞭をとることが認められていた)中央大学の講師を続けていたが、終戦時まで「危険人物」として特高警察の監視下に置かれていた[13]


戦後は鳩山一郎の推薦により日本自由党政務調査会顧問に就任し、同党の憲法改正要綱中の司法権に関する規定(司法権の独立強化と大審院長の天皇直隷、大審院長の下級裁判所に対する独立監督権、検察庁の裁判所からの分離を規定)を起草した[14]


1946年
(昭和21年)8月21日には貴族院議員に勅選され[15]参議院議員選挙法の立案などに携わる[16]。翌年貴族院の廃止により議員を退任した吉田は中央大学に復帰し、教授として迎えられる[17]


60年安保の当時、吉田は大学院の研究科長をしており安保闘争に学生が参加することについては批判的な意見を持っていたが、指導していた院生の吉田豊(現在 東京学芸大学名誉教授、元中央大学法学部教授)が読んでいた『アサヒグラフ』に座り込みをする学生を殴打する警官隊の写真が掲載されているのを見て、法学部に貸切りバスを呼んで「学生も教員もこれに乗って国会に行け」と言ったという[18]。吉田は思想的には保守派に属していたが、戦時中の体験から権力の横暴やファシズムを嫌っており、いかなる思想も暴力で弾圧されてはならないという信条の持ち主だったと、吉田豊は回顧している[19]


中央大学退職後は千葉商科大学で教鞭をとる[20]

1971年(昭和46年)9月20日に老衰により日本大学附属病院にて逝去[21]。87歳没。墓所は青山霊園に在する[22]

注釈
1. a b 清永『気骨の判決』57頁。
2. 清永『気骨の判決』180頁。
3. 清永『気骨の判決』58頁。
4. 清永『気骨の判決』59頁。
5. 清永『気骨の判決』60頁。
6. 清永『気骨の判決』61頁。
7. 清永『気骨の判決』62-65頁。
8. 清永『気骨の判決』152-153頁。
9. 清永『気骨の判決』80-82、97頁。
10. 清永『気骨の判決』81頁。
11. NHK終戦ドラマ『気骨の判決』(平成21年8月16日放送)エンディング字幕
12. 清永『気骨の判決』161頁。
13. 清永『気骨の判決』165頁。
14. 清永『気骨の判決』166-169頁。
15. 『官報』第5883号、昭和21年8月23日。
16. 清永『気骨の判決』170-171頁。
17. 清永『気骨の判決』173頁。
18. 清永『気骨の判決』174-175頁。
19. 清永『気骨の判決』175-176頁。
20. 清永『気骨の判決』179頁。
21. 清永『気骨の判決』180頁。
22. 清永『気骨の判決』181頁。

参考文献
・清永聡『気骨の判決』新潮社、2008年。ISBN 978-4-10-610275-2

  出版から1年後に2009年に『NHKスペシャル』の終戦企画ドラマ『気骨の判決』として放送された。

清永聡矢澤久純『戦時司法の諸相-翼賛選挙無効判決と司法権の独立』渓水社、2011年。

関連項目
久野修慈(中央大学前理事長、学生時代に吉田のもとで書生を務めていた)


外部リンク
「吉田久先生について知りたい。神奈川大学で教鞭を取っていたころの様子や学生からの評判などを調べている。」 - レファレンス協同データベース
(wikiより)


048   吉田久

吉田 久


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山県 治郎(やまがた じろう、1881年1月6日 - 1936年1月9日)は、日本の内務官僚県知事

経歴

山口県出身。庄屋・山県政吉の長男として生まれる。山口高等学校(旧旧山高)を経て、1907年月、東京帝国大学法科大学を卒業。同年11月、高等文官試験行政科試験に合格。内務省に入り警保局属となる。石川県事務官警察部長、神奈川県事務官・警察部長、福岡県警察部長、兵庫県警察部長などを経て、1915年に内務監察官に就任。内務省参事官大臣官房会計課長地理課長を経て、1922年都市計画局長となる。


1922年10月、石川県知事に就任。広島県知事兵庫県知事を歴任し休職。1929年7月、神奈川県知事として復帰。1930年11月の北伊豆地震の被災地の復興に尽力。神奈川県道片瀬大磯線の建設、県営水道事業などを推進した。1931年12月18日、犬養内閣の成立により知事を休職[1]1932年1月29日、依願免本官となり退官した[2]


1936年1月9日死去。享年55。

栄典
1930年(昭和5年)12月5日 - 帝都復興記念章[3]

伝記
山根真住編『山県治郎伝』山県治郎氏伝記編纂所、1940年。

脚注
1. 『官報』第1493号、昭和6年12月19日。
2. 『官報』第1523号、昭和7年1月30日。
3. 『官報』第1499号・付録「辞令二」1931年12月28日。

関連項目
山口県出身の人物一覧

参考文献
上田正昭他『日本人名大辞典』講談社、2001年。

・『日本の歴代知事 第1巻』歴代知事編纂会、1980年。

・神奈川県県民部県史編集室編『神奈川県史 別編1』人物 : 神奈川県歴史人名事典、神奈川県、1983年。

秦郁彦編『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』東京大学出版会、2001年。
(wikiより)

049   山縣治郎

山縣治郎

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乃木 勝典(のぎ かつすけ、1879年明治12年)8月28日 - 1904年(明治37年)5月27日))は、明治時代の陸軍軍人で、乃木希典静子夫妻の長男戦死時の階級は陸軍歩兵少尉。戦死による一階級特進により、最終階級は陸軍歩兵中尉

生涯
学才・性格など

1879年(明治12年)8月28日、乃木希典・静子夫妻の長男として出生。


父親と母親の良い面・悪い面をそれぞれ受け継いだ典型的な人物で、元来、父方の乃木家は学問的な分野に乏しく(希典が漢詩で有名であるが)、一方で母方の湯地家は学問的な分野に秀でており、母・静子およびその両親・兄姉らは学問的に優秀であった。病弱であったようだが、母の事を普段より気遣う優しい性格であったと言われる。


勝典は学識面での才能はあまり芳しくなく、陸軍士官学校の採用試験に2度不合格になっており、3度目で辛うじて合格した。当時、陸軍士官学校は一生涯のうち3度しか受験することが出来ず、勝典は最後のチャンスで希望を果たした(弟の保典は1度目で合格している)。陸士13期で建川美次と同期。

日露戦争に出征

日露戦争には陸軍少尉、第二軍歩兵第1連隊第9中隊第1小隊長として出征。出征前に、静子が東京銀座にある高級化粧品店「資生堂」で1つ9円の高級香水を購入し、勝典・保典の二人に渡している。静子が香水を渡したのは、もしも戦死した場合、遺体から異臭が放たれれば大事な愛息子が不憫であるという親心からであった。勝典はそれをお守りとして大切にしていた。


戦場では何日も風呂に入られないという激戦の日々が続いたため、戦死を覚悟した勝典は、戦死の覚悟を悟られないように記した内容の手紙を静子に宛てて送っている。


南山の戦いに参加していた1904年(明治37年)5月27日、ロシア軍が放った銃弾が勝典の腸部に直撃、向こう側が丸見えになるほどの風穴が開き、数時間の間、従軍していた陸軍軍医による手術・治療を野戦病院にて受けたが、出血多量で死亡した。享年26(満24歳没)。

死後

勝典が戦死したことは数日後に静子の耳に届けられた。静子にとって勝典は第一子、それも病弱で常に心配して大事に育ててきた子どもであり、姑・壽子(久子表記の文献有り)との確執に耐え切れず、別居生活をしていた時も気遣い、優しく守ってくれた勝典が戦死したと聞いた時、静子は我を忘れて三日三晩号泣したという。


戦死後、1階級特進で陸軍中尉に昇進。青山霊園納骨された。


勝典の死から6ヶ月後の11月30日に弟・保典も203高地で後備第1旅団の副官任務中、ロシア軍の砲弾を至近に受け、岸壁から滑落し岩場に頭部が激突、頭が砕けて戦死した(即死)。享年24(満22歳没)。


勝典・保典兄弟は未婚で死去したため、子を残すことはなかった。これにより、希典・静子夫妻の子女は全員死去。夫妻はその後、養子を迎えることをしなかったため、乃木伯爵家と夫妻の血筋は断絶した。

逸話
・陸軍士官学校に3度目で漸く合格した時、父希典から合格祝いとして1000円を貰うが、当時の1000円は陸海軍の各大将クラスが給与で貰う数ヶ月分であり、それだけの額を貰ってしまえば生活が傾き、静子に多大な迷惑を掛けると考えた勝典は、500円の雙眼鏡を購入し残りの金は返したと言われる。

・南山の戦いでの勝典の負傷は、父希典の指揮する第三軍に配属されていた弟保典にも伝わり、進軍途中でありながら時間を見つけては兄を見舞いに訪れている。その際、勝典は保典に母・静子のことを頼んだといわれる。しかし、この兄との約束は後に保典が戦死したため、果たされることはなかった。

戦死の場所

乃木勝典は金州城の東北、閻家楼会閻家楼屯七十二番地(現・大連市金州区小閻家楼)にあった「閻家楼第二野戦病院」に収容され、27日午後死亡した。野戦病院があった閻家楼屯の裏山にはその後、慰霊碑が建立され、現在もその台石が残っている。


また一時遺体を葬った馬家屯會八里庄警察官吏派出所の後方一松林中にも、金州軍政署が1905年春に墓標を建立、1909年11月1日、静子が慰霊に訪れた。[1]

閻家楼の慰霊碑跡

慰霊碑跡から閻家楼の集落と大黒山を望む

閻家楼の集落と裏山

家族・親族
・祖父:乃木希次長府藩士

・祖父:湯地定之薩摩藩士)

・父:乃木希典陸軍軍人教育者

・母:乃木静子

・弟:乃木保典(陸軍軍人)

・伯父:湯地定基(薩摩藩士、政治家

・伯父:湯地定監海軍軍人、政治家)

・叔父:玉木正誼長州藩士)

・従弟:湯地孝(日本近代文学研究者)

脚注
1. 亜細亜写真大観社(編)『亜細亜大観. 第11輯の2』亜細亜写真大観社(昭10至17)
(wikiより)

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乃木 保典(のぎ やすすけ、1881年明治14年)12月16日 - 1904年明治37年)11月30日)は、明治期の日本陸軍軍人陸軍大将乃木希典静子夫妻の次男。陸士15期[1]


日露戦争旅順攻囲戦で戦死。最終階級は陸軍歩兵少尉[1]

生涯

1881年(明治14年)12月16日乃木希典静子夫妻の次男として誕生。成城学校(現在の成城中学校・高等学校)から陸軍士官学校へ進む。陸士15期の同期生には、梅津美治郎(陸軍大将)・蓮沼蕃(陸軍大将)・多田駿(陸軍大将)・谷寿夫(陸軍中将)・河本大作(陸軍歩兵大佐)らがいる[2]


日露戦争が開戦されると、歩兵第15連隊小隊長として出征。


出征前に母・静子は、戦死した際に遺体から異臭が放たれぬようにと銀座にある高級化粧品店・資生堂で1つ9円(当時の一般の成人女性の給与の約2か月分)もする香水を買って来て渡し、保典はそれをお守りとして持って行った。


1904年(明治37年)5月27日、兄・勝典南山の戦いに参加し、腹部に重傷を負って野戦病院に運ばれ、手術・治療を受けたが、出血多量で戦死した。

その後、保典も203高地で後備第1旅団の副官任務中、ロシア軍の砲弾を至近距離に受け、岩壁から滑落し岩場に頭部が激突、頭が砕けて即死した。兄・勝典の死から6か月後のことだった。享年24(満22歳没)。

死後

1904年(明治37年)11月30日、特旨を以て位一級進められ正五位に昇叙[3]


勝典と同じく青山霊園に葬られた。


勝典・保典兄弟は未婚で死去したため、子を残すことはなかった。これにより、希典・静子夫妻の子女は全員死去。夫妻はその後、養子を迎えることをしなかったため、乃木伯爵家と夫妻の血筋は断絶した。

人物・逸話
・兄の勝典と違い、両親の良い面を受け継いだ人物といわれる。

・父親に似て前向きで明るく人懐こい性格で学才も母方に似て優秀であり、難関である陸軍士官学校の入学試験にも1発で合格している。兄の勝典は陸軍士官学校の入学試験に2度落ち、「3度目の正直」で漸く合格。それに対して勝典は僻むこともなく、二人の兄弟間の仲は良かったといわれる。

・兄の勝典の負傷の知らせを受けた保典は比較的近い場所(203高地)を攻めていた為、進軍しながら幾度か勝典の様子を見に見舞っており、生きている勝典と最後に会った時、母・静子のことを頼まれた。しかし、この約束は後に保典が戦死したため、果たされることはなかった。

森鷗外は、詩集『うた日記』に収録した「乃木将軍」の中で、希典が保典の死を知らされた際の反応について「将軍は睫毛ひとつさえ動かさなかった」と記している。

家族・親族
・祖父:乃木希次長府藩士

・祖父:湯地定之薩摩藩士)

・父:乃木希典陸軍軍人教育者

・母:乃木静子

・兄:乃木勝典(陸軍軍人)

・伯父:湯地定基(薩摩藩士、政治家

・伯父:湯地定監海軍軍人、政治家)

・叔父:玉木正誼長州藩士)

・従弟:湯地孝(日本近代文学研究者)

演じた人物
高島忠夫 (明治天皇と日露大戦争、1957年、新東宝

橋爪遼:NHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」(2010年)

出典
1. a b 秦 2005, p. 121, 第1部 主要陸海軍人の履歴-陸軍-乃木希典
2. 秦 2005, pp. 269-288, 第1部 主要陸海軍人の履歴-期別索引
3. 『官報』第6438号、「叙任及辞令」1904年12月14日。

参考文献
秦郁彦 編著 『日本陸海軍総合事典』(第2版) 東京大学出版会、2005年。
(wikiより)

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前田孝階 ( まえだ - こうかい )

( 1858 - 1910 )

明治時代の司法官。

安政 5年 1月 10日生まれ。

明治 19年ヨーロッパに留学。

東京地方裁判所長、宮城控訴院長をつとめた。

明治 43年 4月 13日死去。53歳。

加賀 ( 石川県 ) 出身。

司法省法学校卒。

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忠魂碑の書は乃木希典の文字を刻してあります。


写真右後ろに隠れている表忠碑は元の陸軍大将で帝国在郷軍人会会長も務めた鈴木荘六の書です。

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山口 二矢(やまぐち おとや、1943年(昭和18年)2月22日 - 1960年(昭和35年)11月2日)は、日本右翼活動家民族主義者および反共主義者で、1960年(昭和35年)10月12日に発生した浅沼稲次郎暗殺事件の実行犯である。


1960年(昭和35年)10月政党代表放送で演説中の日本社会党の党首浅沼稲次郎脇差様の刃物で殺害した。逮捕後、「後悔はしていないが償いはする」と口にして裁判を待たず、東京少年鑑別所内で「天皇陛下万才、七生報国」との遺書を残して首吊り自殺した。

略歴
生涯前半

1943年(昭和18年)、後の陸上自衛隊員山口晋平と大衆作家村上浪六の三女の次男として東京都台東区谷中で生まれた。次男として生まれたことから、晋平が姓名判断をした上で、「二の字に縁が多い」ことによって名前を二矢と名付けた。晋平は東北帝国大学出身の厳格な人物で、兄も学業に秀でていた。文化史家の村上信彦は伯父にあたる。


幼年時代から新聞ニュースを読み、国体護持の闘争に身を投じて政治家たちを激烈に批判し、早くから右翼思想を持った兄の影響を受けて右翼活動に参加することになった。中学から高校の初めまでは晋平の勤務地の関係で、札幌で生活した。1958年(昭和33年)玉川学園高等部に進んだが、晋平の転勤が発令されたため、札幌の光星学園へ転校。しかし、再び東京へ戻って玉川学園に転入した。

民族主義運動

1959年(昭和34年)5月10日、16歳で愛国党総裁赤尾敏の演説を聞いて感銘を受け、赤尾敏率いる大日本愛国党に入党し、愛国党の青年本部員となった。赤尾の「日本は革命前夜にある。青年は今すぐ左翼と対決しなければならない!」という言葉に感動し、赤尾が次の場所に移動しようとした時、トラックに飛び乗り、「私も連れて行って欲しい」と頼み込んだ。しかし、この時には赤尾に静かに拒絶された。その後、玉川学園高等部を中退。山梨県北巨摩郡小淵沢町(現・北杜市)で嶽南義塾をしていた杉本広義のもとでしばらく厄介になり、杉本の紹介で大東文化大学聴講生となった。


赤尾の演説に対して野次を飛ばす者がいると、野次の者に殴りかかっていくこと等を継続した。左派の集会解散と右派人士保護を率先して行った。ビラ貼りをしているときに、警察官と取っ組み合いの乱闘をしたこともあった。愛国党の入党後半年で、10回も検挙された。1959年(昭和34年)12月保護観察4年の処分を受けた。


1960年(昭和35年)5月29日、同志党員2人らとともに愛国党を脱党した。

左翼指導者を倒せば左翼勢力をすぐ阻止できるとは考えないが、彼らが現在までやってきた罪悪は許すことはできないし、1人を倒すことで、今後左翼指導者の行動が制限され、扇動者の甘言に付和雷同している一般の国民が、1人でも多く覚醒してくれればよいと思った。できれば信頼できる同志と決行したいと考えたが、自分の決意を打ち明けられる人はいず、赤尾先生に言えば阻止されるのは明らかであり、私がやれば党に迷惑がかかる。私は脱党して武器を手に入れ決行しようと思いました。

                                                         — 山口の供述


1960年(昭和35年)6月17日右翼青年たちが社会党顧問である河上丈太郎を襲撃する事件が起こった時、「自分を犠牲にして売国奴河上を刺したことは、本当に国を思っての純粋な気持ちでやったのだと思い、敬服した。私がやる時には殺害するという徹底した方法でやらなくてはならぬ」と評価した。


7月1日、同志たちと一緒に全アジア反共連盟東京都支会の結成に参加した。


10月4日、自宅でアコーディオンを探していたところ、偶然脇差を見つけた。鍔はなく、白木の鞘に収められているもので、「この脇差で殺そうと決心した」という。明治神宮を参拝し、すぐに小林武日教組委員長、野坂参三日本共産党議長宅にそれぞれ電話。「大学の学生委員だが教えてもらいたいことがある」と面会を申し込む計画だったが、小林委員長は転居、野坂議長は旅行中だったので、共にすぐに実行できず、失敗した。


10月12日、自民・社会(現在の社会民主党)・民社の三党の党首立会演説会において、当時、日本社会党の委員長だった浅沼稲次郎を殺害する計画を立て、刀袋などを準備し、東京都千代田区日比谷公会堂に向かって歩いていった。

浅沼稲次郎の暗殺事件
詳細は「浅沼稲次郎暗殺事件」を参照


1960年(昭和35年)10月12日に日比谷公会堂で演説中の浅沼稲次郎を刺殺、現行犯逮捕された。山口は当時17歳で少年法により実名非公開対象[1] であったが、事件の重大さから名前が公表されている。


浅沼殺害時に山口がポケットに入れていたとされる斬奸状の文面は以下の通りである。

汝、浅沼稲次郎は日本赤化をはかっている。自分は、汝個人に恨みはないが、社会党の指導的立場にいる者としての責任と、訪中に際しての暴言と、国会乱入の直接のせん動者としての責任からして、汝を許しておくことはできない。ここに於て我、汝に対し天誅を下す。 皇紀二千六百二十年十月十二日 山口二矢。


山口は自決を試みたが、すぐに飛びついた巡査によって逮捕された。事件直後、警察は「背後関係を徹底的に洗う」としたが、山口はあくまで単独犯行だと供述した。


一方自衛隊は、父親の晋平が自衛官1等陸佐)であることから批判の累が及ぶことを恐れ、晋平の辞職を望んだ。晋平は親と子は別と考え当初は拒んでいたが、結局事件3日後の10月15日依願退職した。

自決

山口は11月2日、東京少年鑑別所の東寮2階2号室で、支給された歯磨き粉で壁に指で「七生報国 天皇陛下万才」(原文ママ)と記し[2]、シーツを裂いて縄状にして天井の裸電球を包む金網にかけ、首吊り自殺した(若松孝二監督の映画、「11・25自決の日 三島由紀夫と若者たち」の冒頭に、このシーンが再現されている)。なお、辞世の句「国のため 神州男児 晴れやかに ほほえみ行かん 死出の旅路に」「大君に 仕えまつれる 若人は 今も昔も 心かわらじ」も残している[3]


右翼団体は盛大な葬儀を行い山口を英雄視した。また沢木耕太郎の『テロルの決算』によれば、山口はテロの標的として浅沼委員長のほか河野一郎野坂参三など政治家もリストに加えていた。

死後
毎年山口が死亡した11月2日右翼団体が追慕祭(山口二矢烈士墓前祭)を開催している。党総本部の祭壇には、山口のデスマスクが祀られている[3]

影響
山口二矢が所属していた大東文化大学では、この事件が起きた後、世間の批判を恐れ「《大東文化大学は新聞紙上に社会党委員長浅沼稲次郎氏刺殺の山口二矢は本大学、学生委員と自称しておりますが、同人は本大学の学生ではありませんので、ここに通告いたします》と「急告」を出した」り、二矢の在籍を否定したりした(出典文藝春秋第 56 巻、第 3~5号、1978年)。一方、学校法人玉川学園小原國芳は事件後も二矢を自分の大切な生徒とみなし、少しも変わらぬ態度で接した(出典:沢木耕太郎「テロルの決算(P.302)」文春文庫、1978)より)。三島由紀夫は「学生とのティーチ・イン」に収録される一橋大学での学生との対話で、山口二矢について「非常にりっぱだ。あとでちゃんと自決しているからね。あれは日本の伝統にちゃんと従っている。」と評している[4]

家族・親族
・山口晋平(父)

村上浪六(母方の祖父)

村上信彦(母方のおじ)

関連作品
小説
大江健三郎セヴンティーン文學界1961年1月号(新潮文庫『性的人間』所収)
・大江健三郎『政治少年死す―セヴンティーン第二部』文學界1961年2月号(『大江健三郎全小説 3』講談社、2018年7月、所収)[5]

演じた俳優
タモト清嵐 11・25自決の日 三島由紀夫と若者たち若松孝二監督、2012年)

脚注
1. 少年法では家庭裁判所の審判に付された少年又は少年のとき犯した罪により公訴を提起された者の実名報道を禁止しているだけで逮捕者や指名手配者の実名報道を禁止していない。山口は逮捕はされたが家裁審判に付されたり公訴提起されたりしていないため、厳密に言えば少年法の実名報道禁止規定には抵触していない。
2. 一部で「血書」とされているが誤りである。
3. a b 山口二矢烈士墓参 - 大日本愛国党(2015年11月2日付)2017年11月1日 (水) 閲覧。
4. 「学生とのティーチ・イン」、ちくま文庫の「文化防衛論」に収録。p.206 ISBN 4-480-42283-8
5. 発表直後に抗議を受けて『文學界』1961年3月号に謝罪広告が掲載される事態となり、公式には2018年の『大江健三郎全小説 3』まで一度も単行本に再録されたことがなかった。なお、非公式には『スキャンダル大戦争2』(鹿砦社)などに再録されたことがある。

参考文献
赤塚行雄 『戦後欲望史 黄金の六〇年代篇』、(講談社文庫、1984年)

礫川全次 『戦後ニッポン犯罪史』、(批評社、2000年)

田中清松 『戦中生まれの叛乱譜―山口二矢から森恒夫』、(彩流社、1985年)

沢木耕太郎 『テロルの決算』、(文春文庫、1982年、2008年)、ISBN 978-4167209148。(単行本は1979年刊行。大宅壮一ノンフィクション賞

・山口二矢顕彰会『山口二矢供述調書』、(展転社、2010年)

関連項目

赤尾敏

浅沼稲次郎暗殺事件

三島由紀夫

村上浪六

大江健三郎 - 山口をモデルにして小説「セヴンティーン」を執筆。山口の人格を否定するような描写が右翼から抗議を受けた。

沢木耕太郎 - 浅沼事件に関して「テロルの決算」を執筆。

学生運動

外部リンク
“火車頭人”——浅沼稻次郎 日本新華僑報 2009/06/19

Tokyo rewind: Right-wing groups commemorate assassination of politician Inejiro Asanuma 50 years later The Tokyo Reporter 2011/11/21 (英語)

浅沼稲次郎社会党委員長刺殺事件 - 1960
(wikiより)

012  山口二矢

山口二矢

012a

012b



樋口 季一郎(ひぐち きいちろう、Kiichiro Higuchi、1888年8月20日 - 1970年10月11日)は、日本陸軍軍人。最終階級は陸軍中将兵庫県淡路島出身。歩兵第41連隊長、第3師団参謀長ハルピン特務機関長、第9師団等を経て、第5方面軍司令官兼北部軍管区司令官。

経歴

1888年淡路島にある兵庫県三原郡本庄村上本庄(町村制後:阿万村、現:南あわじ市阿万上町戈の鼻)に父・奥濱久八、母・まつの5人兄弟(9人とも言われている)の長男として出生。奥濱家は廻船問屋で代々続く地主であったが、明治以降、蒸気船の普及に伴い時代の流れに取り残され父・久八の代で没落した。11歳の時、両親が離婚し、母・まつの阿萬家に引き取られる。


1901年、三原高等小学校2年終了後、私立尋常中学鳳鳴義塾に入学。1902年大阪陸軍地方幼年学校を経て、18歳で岐阜県大垣市歩行町の樋口家の養子(父・久八の弟・勇次が樋口家の婿養子となり季一郎を勇次夫妻の養子として迎え入れた)になった。1909年陸軍士官学校第21期)に進む一方で東京外語学校ロシア語を徹底的に学ぶ。陸軍士官学校を優秀な成績で卒業、陸軍大学校第30期)を経て、ロシア語が堪能であることもあって、卒業後すぐ1919年ウラジオストクに赴任(シベリア出兵) 。満州ロシアソビエト連邦)方面部署を転々と勤務。1925年公使館駐在武官(少佐)としてソ連西隣のポーランドにも赴任している。歩兵第41連隊長時代に起きた相沢事件は、直前まで部下だった者が起こした不祥事であったため進退伺いを出した。しかし、上官の小磯国昭に慰留され、満洲国のハルビンに赴任する。

オトポール事件

1937年昭和12年)12月26日、第1回極東ユダヤ人大会が開かれた際、関東軍の認可の下で3日間の予定で開催された同大会に、陸軍は「ユダヤ通」の安江仙弘陸軍大佐をはじめ、当時ハルピン陸軍特務機関長を務めていた樋口(当時陸軍少将)らを派遣した。この席で樋口は、前年に日独防共協定を締結したばかりの同盟国であるナチ党政権下のドイツ反ユダヤ政策を、「ユダヤ人追放の前に、彼らに土地を与えよ」と間接的に激しく批判する祝辞を行い、列席したユダヤ人らの喝采を浴びた[1]


そうした状況下、翌1938年(昭和13年)3月、ユダヤ人18人がドイツの迫害下から逃れるため、ソ満国境沿いにあるシベリア鉄道・オトポール駅(Otpor、現在のザバイカリスク駅)まで逃げて来ていた。しかし、亡命先である米国上海租界に到達するために通らなければならない満州国の外交部が入国の許可を渋り、彼らは足止めされていた。


極東ユダヤ人協会の代表のアブラハム・カウフマン博士から相談を受けた樋口はその窮状を見かねて、直属の部下であった河村愛三少佐らとともに即日ユダヤ人への給食と衣類・燃料の配給、そして要救護者への加療を実施。更には膠着状態にあった出国の斡旋、満州国内への入植や上海租界への移動の手配等を行った。日本は日独防共協定を結んだドイツの同盟国だったが、樋口は南満州鉄道(満鉄)総裁だった松岡洋右に直談判して了承を取り付け、満鉄の特別列車で上海に脱出させた[2]。その後、ユダヤ人たちの間で「ヒグチ・ルート」と呼ばれたこの脱出路を頼る難民は増え続け、東亜旅行社(現在の日本交通公社)の記録によると、ドイツから満州里経由で満州へ入国した人の数は、1938年だけで245人だったものが、1939年には551人、1940年には3,574人まで増えている[3]。ただし、早坂隆によると1941年(昭和16年)の記録がなく、数字のうち少なくない割合でユダヤ人が含まれていると考えられるが、その割合が不明であり累計が2万に到達したかは不明としている[3]。また、松井重松(当時、案内所主任)の回想には「週一回の列車が着くたび、20人、30人のユダヤ人が押し掛け、4人の所員では手が回わらず、発券手配に忙殺された」と記されている[4]。そのほかの証言として松岡総裁の秘書だった庄島辰登は、最初の18人(1938年3月8日)のあとに毎週、5あるいは10人のユダヤ難民が到着し3月-4月の累計で約50人を救ったという[5]しかし、ドイツへの外交的配慮からか、多数の難民が殺到した際の具体的な人数に関する公的文書は残されていない。[独自研究?]1941年に書かれたKeren Kayemeth Lelsrael Jewish National Fund(KKL-JNF)本部に現存する6冊目の「栄誉の書」には「樋口将軍-東京、在ハルビン極東国家ユダヤ総領事-エイブラハム・カウフマンの銘入り」とその功績が記されている[6]


「ヒグチ・ルート」で救われたユダヤ人の数は、総数は最大で2万-3万人であった可能性があるとされていた[注 1][注 2]が、研究が進みほとんどの研究者・ジャーナリストが信じていない[8]。1939年当時の有田八郎外務大臣の公式見解では「80人強」とされている[9]。2万人のユダヤ系難民が救われたとも伝えられていた中で、あまりの数の多さに事件の存在自体を疑問視する歴史家も現れた[10]。この2万人という数字は、樋口の回顧録を出版する際の誤植などから流布したものと考えられている[8]。樋口自身の原稿では「彼ら(ユダヤ人)の何千人が例の満洲里駅西方のオトポールに詰めかけ、入満を希望した」と書き記されていたものが、芙蓉書房版の『回想録』にある数字では「二万人」に変わっており、これが難民の実数検証に混乱をきたす原因になっていると指摘されている[11]。早坂は上記東亜旅行社の記録の多くがユダヤ人ではないかと考え、数千人と推定している[12]。松浦寛は、当時の浜洲線の車両編成や乗務員の証言から割り出された100-200人という推計[13] を追認している[8]。満鉄会では、ビザを入手できなかった厳密な意味での人数は100人程度と推計しているという[14]


樋口がユダヤ人救助に尽力したのは、彼がグルジアを旅した際の出来事がきっかけとされている。ポーランド駐在武官当時、コーカサス地方を旅行していた途中チフリス郊外のある貧しい集落に立ち寄ると、偶然呼び止められた一人の老人がユダヤ人であり、樋口が日本人だと知ると顔色を変えて家に招き入れたという。そして樋口に対し、ユダヤ人が世界中で迫害されている事実と、日本の天皇こそがユダヤ人が悲しい目にあった時に救ってくれる救世主に違いないと涙ながらに訴え祈りを捧げた。オトポールに辿り着いたユダヤ人難民の報告を受けたとき、樋口はその出来事が脳裏をよぎったと述懐している[15]


この事件は日独間の大きな外交問題となり、ドイツのリッベントロップ外相(当時)からの抗議文書が届いた[16]。また、陸軍内部でも樋口に対する批判が高まり、関東軍内部では樋口に対する処分を求める声が高まった[16]。そんな中、樋口は関東軍司令官植田謙吉大将(当時)に自らの考えを述べた手紙を送り、司令部に出頭し関東軍総参謀長東条英機中将(当時)と面会した際には「ヒットラーのおさき棒を担いで弱い者苛めすることを正しいと思われますか」と発言したとされる[17]。この言葉に理解を示した東条英機は、樋口を不問とした[18]。東条の判断と、その決定を植田司令も支持したことから関東軍内部からの樋口に対する処分要求は下火になり[19]、独国からの再三にわたる抗議も、東条は「当然なる人道上の配慮によって行ったものだ」と一蹴した[20]


孫の樋口隆一明治学院大名誉教授は2018年6月15日にイスラエルテルアビブKeren Kayemeth Lelsrael Jewish National Fund本部において「ヒグチ・ルート」で逃れた生存者カール・フリードマン氏の息子から「季一郎氏のユダヤ人コミュニティーに対する前向きな姿勢がユダヤ人救出を可能にした」事により「ゴールデンブック」証書を授与している[2][21][22]


ちなみに、樋口に関してよく言及される「ゴールデンブック」とは、パレスチナで土地購入、植林、イスラエル国家の境界線の設定などを主な業務とする組織Keren Kayemeth Lelsrael Jewish National Fund(ユダヤ民族基金)が管理する貢献者や献金者の名簿である[23][24][25]

アッツ島玉砕、キスカ島撤退
太平洋戦争開戦翌年の1942年昭和17年)8月1日札幌に司令部を置く北部軍(のち北方軍第5方面軍と改称)司令官として北東太平洋陸軍作戦を指揮。1943年アッツ島玉砕、キスカ島撤退(いずれも対アメリカ)を指揮した。キスカ島撤退作戦に際しては、海軍側からの要請に応じ、陸軍中央の決裁を仰がずに自らの一存で「救援艦隊がキスカに入港し、大発動艇に乗って陸を離れ次第、兵員は携行する小銃を全て海中投棄すべし」という旨をキスカ島守備隊に命じ、収容時間を短縮させ、無血撤退の成功に貢献した[26]。帝国陸軍では菊花紋章の刻まれた小銃を神聖視しており[27]、撤退成功の後、小銃の海中投棄が陸軍中央に伝わり、陸軍次官の富永恭次中将がこれを問題視したが、富永は陸士の4期先輩である樋口を以前から苦手にしていたため、小銃の海中投棄を命じたのが樋口であると知ると矛を収めたという[26]

終戦後、対ソ連占守島・樺太防衛戦

日本の降伏直前、ソ連対日参戦が発生。樋口は1945年8月18日以降、占守島南樺太におけるソ連侵攻軍への抗戦を指揮した。そのため極東国際軍事裁判に際し、スターリンは当時軍人として札幌に在住していた樋口を「戦犯」に指名した。


世界ユダヤ人会議
はいち早くこの動きを察知して、世界中のユダヤ人コミュニティーを動かし、在欧米のユダヤ人金融家によるロビー活動も始まった。世界的な規模で樋口救済運動が展開された結果、日本占領統治を主導していた連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)のダグラス・マッカーサーはソ連からの引き渡し要求を拒否、樋口の身柄を保護した[28][29][注 3]

戦後
極東国際軍事裁判で無罪となった樋口は1946年、北海道小樽市外朝里に隠遁。1947年宮崎県小林市(その後、都城市)へ転居する。1970年東京都文京区白山に転居し、その年に死去した。墓所は神奈川県大磯町妙大寺

人物
橋本欣五郎と共に桜会の中心的人物であったが、意見の相違から喧嘩別れした。また、二・二六事件を起こした青年将校らとも懇意で、武力に訴えて行動を起こすことを諌めていたと言う。さらに、相沢事件が起きたとき、樋口は、永田鉄山を惨殺した相沢三郎の直接の上官であった。血盟団事件では大蔵栄一から血盟団員の古内栄司を匿うよう依頼を受け了承している。

石原莞爾阿南惟幾とは友人だった。また、ミハエル・コーガンとも親交があった。

安江仙弘らと共に河豚計画を進めるが、シベリア出兵に参加した軍関係者の多くがユダヤ陰謀論に傾くなか、彼は「『排ユダヤ主義』否定だけで十分であろう」という立場であった。彼は、酒井勝軍日ユ同祖論を一笑に付する一方で、極めて反ユダヤ的な偽書シオン賢者の議定書』を当初から眉唾物としており、ユダヤ主義とマルキシズムを同一視できないとしている。樋口は、当時の軍人たちが陥った陰謀論、あるいは過度のユダヤ贔屓から離れ、極めて冷静な判断をしている。

・樋口季一郎の孫の樋口隆一明治学院大学名誉教授が、祖父に関する調査を行っており、日本で講演などを行ったり2018年にイスラエルを訪問したりしている[30]。隆一は24歳まで季一郎と同居していた[31]


年譜
明治21年 (1888年) 淡路島の阿万村に生まれる(旧姓奥浜)

・明治34年 (1901年) 三原高等小学校2年終了後、篠山の私立尋常中学鳳鳴義塾に入学。

・明治35年(1902年)9月 - 大阪陸軍地方幼年学校に入校。

・明治42年(1909年)5月 - 陸軍士官学校卒業(21期)。

  ・12月25日 - 陸軍歩兵少尉に任官。歩兵第1連隊附。

大正2年(1913年)2月 - 陸軍歩兵中尉に進級。

・大正7年(1918年)11月 - 陸軍大学校卒業(30期)。

・大正8年(1919年)7月 - 陸軍歩兵大尉に進級、参謀本部附勤務。

  ・12月 - ウラジオストク特務機関員として派遣軍司令部附(シベリア出兵)。ロシア系ユダヤ人ゴリドシュテイン家の一室に住む(同家はキャディラックを扱う貿易商)。

・大正9年(1920年) - ハバロフスク特務機関長として孤立(無責任な上層部への義憤)。

・大正11年(1922年)4月 - 参謀本部部員。

・大正12年(1923年)12月 - 朝鮮軍参謀。

・大正13年(1924年)8月20日 - 陸軍歩兵少佐に進級[32]

・大正14年(1925年)5月 - ポーランド公使館附武官ウクライナほかを視察。

・昭和3年(1928年)2月 - 中華民国山東省青島に駐留。歩兵第45連隊附。

  ・7月 - 帰朝。

  ・8月10日 - 陸軍歩兵中佐に進級[32]

・昭和4年(1929年)8月 - 技術本部附(陸軍省新聞班員)。

・昭和5年(1930年)8月1日 - 東京警備参謀。

・昭和8年(1933年

  ・3月18日 - 陸軍歩兵大佐に進級、東京警備司令部附。

  ・8月1日 - 歩兵第41連隊長(福山)。

・昭和10年(1935年)8月1日 - ハルビン第3師団参謀長。

・昭和12年(1937年)3月1日 - 参謀本部附(ナチス・ドイツの首都ベルリンへの出張)。

  ・8月2日 - 陸軍少将に進級、ハルピン特務機関長。

  ・12月26日・27日 - 第1回極東ユダヤ人大会がハルビンで開催。

・昭和13年(1938年

  ・3月 - ユダヤ人難民事件(オトポール事件)。

  ・7月15日 - 参謀本部第二部長。

  ・12月 - ユダヤ人対策要綱。汪兆銘重慶から脱出させ、1939年5月、ハノイ経由で東京に迎えた。滝野川の古河虎之助男爵別邸に匿う(日中戦争の和平工作)。

・昭和14年(1939年

  ・5月~9月 - ノモンハン事件 停戦努力。「臆病軍人」と呼ばれる。

  ・10月2日 - 陸軍中将に進級。

  ・12月1日 - 第9師団長(石川県金沢市)。

・昭和17年(1942年)8月1日 - 札幌北部軍司令官[33]

・昭和18年 (1943年) - 北方軍司令官として太平洋戦争アリューシャン方面の戦いを指揮(アッツ島玉砕キスカ島撤退作戦)。

・昭和19年(1944年)3月10日 - 第五方面軍司令官。

・昭和20年(1945年)2月1日 - 兼北部軍管区司令官。

  ・日本のポツダム宣言受諾後も続いた、8月18日以降の占守島・南樺太防衛戦を指揮。

  ・12月1日 - 予備役編入。

・昭和21年(1946年) - 北海道小樽市外朝里に隠遁。

・昭和22年(1947年) - 宮崎県小林市(その後、都城市)に転居。

・昭和45年(1970年) - 東京都文京区白山に転居し、老衰のため死去。82歳没。墓所は妙大寺(神奈川県大磯町)。

詳しいことは、「樋口季一郎ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%8B%E5%8F%A3%E5%AD%A3%E4%B8%80%E9%83%8E
(wikiより)

02   樋口季一郎

樋口季一郎

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平林九兵衛 ( ひらばやし - きゅうべい )
天保 8年 9月 9日 〜 明治 42年 6月 14日 ( 1837年 10月 8日 〜 1909年 6月 14日 )


職業・政治家


品川の素封家鳥山又七の子で、平林家の当主であった伯父の養子となる。


嘉永 4年 ( 1851 )、家督を相続。


維新後は、区総代、東京府会議員を務める。


明治 25年 ( 1892 ) には、衆議院議員に当選。


政治家として活躍する一方、資財を投げ打って地元の発展にも尽力した。


その功により、33年藍綬褒章を授けられている。

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平林九兵衛

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末松 謙澄(すえまつ けんちょう、安政2年8月20日1855年9月30日) - 大正9年(1920年10月5日)は、日本明治から大正期のジャーナリスト政治家歴史家


位階勲等爵位正二位勲一等子爵。幼名は千松(または線松)。帝国学士院会員。

生涯

豊前国前田村(後に福岡県行橋市)に大庄屋末松房澄(通称七右衛門、号は臥雲)・伸子の4男として生まれる。


慶応
元年(1865年)に地元の碩学村上仏山の私塾水哉園で漢学国学を学び、明治4年(1871年)に上京して佐々木高行の元へ書生として住み込み、佐々木の娘・静衛がグイド・フルベッキの娘に英語を教わっていた縁で、フルベッキ家に居候となっていた高橋是清と親交を結んだ。高橋から英語を教わる代わりに漢学の教授を引き受けて互いに勉強する日々を送り、明治5年(1872年)に東京師範学校東京教育大学筑波大学の前身)へ入学した。しかし学校生活に不満を感じて同年に中退、高橋と協力して外国新聞の翻訳で生計を立てつつ東京日日新聞社へ記事を売り込み、明治7年(1874年)に同社の記者となり笹波萍二のペンネームで社説を執筆。同時期にアメリカ合衆国に留学していた箕作佳吉の記事を東京日日新聞に掲載させたといわれる。


やがて明治8年(1875年)に社長・福地源一郎の仲介で伊藤博文の知遇を得て正院御用掛として政府へ入り、同年の江華島事件による李氏朝鮮との交渉へ赴く黒田清隆の随行および日朝修好条規の起草に参加、帰国した翌9年(1876年)に工部省権少丞、明治10年(1877年)に西南戦争が勃発すると陸軍省出仕となり、山縣有朋の秘書官として九州を従軍、9月に西郷隆盛へ宛てた降伏勧告状を起草した。同年太政官権少書記官に転じたのもつかの間、翌明治11年(1878年)にイギリス留学を命じられ、駐在日本公使館付一等書記官見習となって2月10日に渡欧、4月1日ロンドンへ到着、外交官として赴任することになった[1]


イギリス滞在中はしばらく公使館に勤務していたが、歴史の勉強に集中するため明治13年(1880年)12月に依願免官、翌明治14年(1881年)10月からケンブリッジ大学セント・ジョンズ・カレッジへ入学し、法学部を専攻した(箕作佳吉の兄菊池大麓の紹介があったとされる)。留学中はラテン語ギリシャ語が課題の試験勉強に苦しみ、留学費用を賄うため三井財閥からの借金と前田利武の家庭教師代で悪戦苦闘していたが、明治17年(1884年)5月に法律の試験に合格、12月に法学士号を取得して卒業した。在学中は文学活動が顕著で、明治12年(1879年)に「義経=ジンギスカン説」を唱える論文『義経再興記』をイギリスで発表し、日本で大ブームを起こす。また明治15年(1882年)に最初の「源氏物語」の英訳を書いたり、イギリス詩人の詩を多数邦訳したりしている。1884年にケンブリッジ大学を卒業した。


第1次伊藤内閣鹿鳴館時代の明治19年(1886年)に日本へ帰国、伊藤の意向を受けて歌舞伎の近代化のため福地源一郎・外山正一と共に演劇改良運動を興し、明治天皇の歌舞伎見物(天覧歌舞伎)を実現させた。明治21年(1888年)に法学修士号を取得、同年から明治23年(1890年)の2年がかりでバーサ・クレイの『ドラ=ソーン』を翻訳、『谷間の姫百合』と題して発表。明治22年(1889年)4月に伊藤の次女・生子と結婚。この間文部省参事官内務省参事官、内務省県治局長を歴任、明治23年の第1回衆議院議員総選挙で福岡県から当選して衆議院議員となり政界入りした。大成会中央交渉会に属し政治姿勢は政府寄りの立場を取った。


明治25年(1892年)に第2次伊藤内閣が成立すると伊藤の引き立てで法制局長官に就任、在任中の明治28年(1895年)に男爵に叙せられ、翌明治29年(1896年)に互選で貴族院議員となった。同年に法制局長官を辞任するも明治31年(1898年)の第3次伊藤内閣逓信大臣になり、明治33年(1900年)に伊藤が創立した立憲政友会へ入会、同年に成立した第4次伊藤内閣内務大臣を歴任した。辞任後は明治29年から毛利氏および家政を統括していた井上馨の依頼で、長州藩の歴史を調べ毛利氏の歴史編纂事業を開始したが、他藩出身であったことと山路愛山笹川臨風堺利彦斎藤清太郎ら新規採用組も長州藩士でなかったため長州藩出身者から嫌われ、井上に更迭された前総裁の宍戸璣が新聞に更迭された不満を暴露した記事が掲載されるなど編纂事業は凍結、日露戦争開始による新たな任務遂行のため一時中断となった[2]


明治37年(1904年)に日露戦争が勃発すると、伊藤を含めた政府・元老達からヨーロッパに対する日本の立場を説明し好意的な世論形成、および日本への悪感情を和らげるため黄禍論の拡大防止を含めた広報活動を命じられ、宣戦布告した2月10日カナダ・アメリカ経由で渡欧(2月24日に伊藤から同様の命令を受けた金子堅太郎が渡米)、3月にイギリスに到着すると広報を開始、イギリス・フランスを主として戦争に対する日本の弁護論と偏見に対する反論演説を展開した。明治38年(1905年)までに黄禍論は沈静化したことを政府に打電しつつ、なおもヨーロッパに留まり新聞取材や演説・論文寄稿などを続け、明治39年(1906年)1月にフランスを出発して2月に帰国、海外の功績を認められ3月に枢密顧問官、翌明治40年(1907年)に子爵に昇叙、帝国学士院会員にも選ばれた。


明治44年(1911年)、中断していた毛利氏歴史編纂事業が明治維新全体の歴史を纏めた一級資料『防長回天史』として初版脱稿された。ローマ法も研究するようになり大正2年(1913年)に『ユスチニアーヌス帝欽定羅馬法提要』、大正4年(1915年)に『ガーイウス羅馬法解説』『ウルピアーヌス羅馬法範』を翻訳・刊行した。大正9年(1920年)9月に『防長回天史』修訂版を脱稿するが、10月5日、全世界で大流行していたスペインかぜに罹患したことが原因で死去。享年65。子が無かったため、甥の春彦が爵位を相続した[3]


墓は東京都品川区北品川4丁目の清光院法名は蓮性院殿古香青萍大居士。

栄典
位階
1876年(明治9年)6月3日 - 正七位[4]

1886年(明治19年)7月8日 - 従五位[5]

1898年(明治31年)2月14日 - 正三位[6]

1912年(明治45年)3月20日 - 従二位[7]

1920年(大正9年)10月6日 - 正二位[8]

勲章等
1889年(明治22年)11月29日 - 大日本帝国憲法発布記念章[9]

1890年(明治23年)6月30日 - 勲五等瑞宝章[10]

1893年(明治26年)12月28日 - 勲四等瑞宝章[11]

1895年(明治28年)10月31日 - 男爵勲三等旭日中綬章[12]

1906年(明治39年)4月1日 - 勲一等旭日大綬章[13]

1907年(明治40年)9月23日 - 子爵[14]

1915年(大正4年)11月10日 - 大礼記念章(大正)[15]

1920年(大正9年)10月6日 - 旭日桐花大綬章[16]


家族・親族
・妻:生子(1868年 - 1934年) - 初代内閣総理大臣伊藤博文の次女

・養子:春彦(1896年 - 1977年) - 甥、弟凱平の次男

・養女:澤子(1899年 - 1942年) - 義妹、伊藤博文の庶子で生子の異母妹。会津藩出身の工学者大竹多気の長男虎雄に嫁ぐ[17]。虎雄は大蔵官僚で会津会会員

末松謙一(元さくら銀行頭取) - 大甥(謙澄の弟の孫)

出典
1. 松村、P7 - P10、P39、P53 - P56、P240 - P244、P305 - P306、臼井、P546、小山、P134 - P135、伊藤、P159。 2
.

松村、P39 - P40、P53 - P69、P306 - P310、臼井、P546、小山、P135 - P147、伊藤、P229、P309 - P310、P393、P438、P444。
3.

松村、P11 - P51、P250 - P285、P310 - P317、霞会館、P768、臼井、P546、小山、P224 - P225、伊藤、P486 - P487。
4.

『太政官日誌』明治9年1月-6月
5.

『官報』第907号「叙任及辞令」1886年7月10日。
6.

『官報』第4383号「叙任及辞令」1898年2月15日。
7.

『官報』第8624号「叙任及辞令」1912年3月22日。
8.

『官報』第2455号「叙任及辞令」1920年10月7日。
9.

『官報』第1932号「叙任及辞令」1889年12月5日。
10.

『官報』第2100号「叙任及辞令」1890年7月1日。
11.

『官報』第3152号「叙任及辞令」1893年12月29日。
12.

『官報』第3704号「叙任及辞令」1895年11月1日。
13.

『官報』号外「叙任及辞令」1907年3月31日。
14.

『官報』第7273号「授爵・叙任及辞令」1907年9月25日。
15.

『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
16.

『官報』第2455号「叙任及辞令」1920年10月7日。
17. 大竹多気展 大竹家・松田家東の家系”. 山形大学工学部広報室. 2014年6月4日閲覧。霞会館、P768、伊藤、P378。

参考文献
玉江彦太郎『若き日の末松謙澄-在英通信』海鳥社1992年1月ISBN 4874150071

松村正義『ポーツマスへの道-黄禍論とヨーロッパの末松謙澄』原書房1987年1月ISBN 4562018453

鳥谷部春汀『明治人物評論・正』博文館、1898年。

Japanese Students at Cambridge University in the Meiji Era, 1868-1912: Pioneers for the Modernization of Japan, by Noboru Koyama, translated by Ian Ruxton, Lulu Press, September 2004, ISBN 1411612566

・"Suematsu Kencho, 1855-1920: Statesman, Bureaucrat, Diplomat, Journalist, Poet and Scholar," by Ian Ruxton, Chapter 6, Britain & Japan: Biographical Portraits, Volume 5, edited by Hugh Cortazzi, Global Oriental, 2005, ISBN 1901903486

霞会館華族家系大成編輯委員会編『平成新修旧華族家系大成 上巻』吉川弘文館、1996年。

小山騰『破天荒<明治留学生>列伝』講談社選書メチエ、1999年。

臼井勝美高村直助鳥海靖由井正臣編『日本近現代人名辞典』吉川弘文館、2001年。

伊藤之雄『伊藤博文 近代日本を創った男講談社、2009年。

・城戸淳一著『京築の文学散歩』花乱社、2020年

関連項目
日英関係

太陽 (博文館)

法典調査会

演劇改良運動

源氏物語

外部リンク
末松謙澄について

末松 謙澄:作家別作品リスト青空文庫

・Suyematz, Kenchio (1882). Genji Monogatari : The Most Celebrated of the Classical Japanese Romances. London: Trubner  (源氏物語英訳。17帖のみの抄訳。Hathi Trust リンクは米国内のみ有効?色刷り扉絵の画像は無い)

Japanese Literature - Including Selections from Genji Monogatari and Classical Poetry and Drama of Japan - プロジェクト・グーテンベルク (同上の電子プレーンテキストを収録)
(wikiより)

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末松謙澄

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⇩ 末松謙澄碑

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