本牧jack『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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小生の拙ブログ『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑に御訪問頂き誠に有難う御座います。
歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。
たまに『 大人数で取材しているのか? 』との質問を戴きますが、小生と相方の二人三脚で御座います。
出来るだけ続けたいと思っていますが 膝・耳に問題が有って、いつまで出来るやら・・・説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。
御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。 ※ 申し訳御座いませんが「画像の転用」は禁止とさせて頂きます。 コメントは原則公開させていただいております 質問等に対してはブログ記事で返信させていただきます 他の方法で連絡を取り合う等一切しません 場合によっては、「IPブロック」しますがブロックした場合解除する事は有りませんので宜しくお願いします。

カテゴリ: 安政・生麦・桜田門・坂下門・元治甲子・萩の乱関連

久光秀太郎秀光

明治元年八月二十九日 於岩代河沼郡片門村にて戦士 ( 23歳 )。

2



 櫻山神社にある招魂場霊標は総数 391柱です。

この招魂場が日本初となり、全国に広がって、靖国神社 ( 旧東京招魂社 ) が造られました。

これから1年オーバーの長期記事になりますが宜しくお願いします。


「高杉は云へり、我等同志の者は何時戦歿するや計り難し、皆互に予め生墳を築くこそ妙策なれと、既に必死を期したる共同墓地たりしに因り、此の地の創意者たり。此隊の総督たりし高杉の神霊は必ず祀らざるべからずと、その遺愛物を埋めて分霊となし、永く彼等とともに招魂の場と定めたり。」
戦死した同志の霊を慰め、また死を覚悟して生墳を設けることを提唱した高杉晋作。

(村田峯次郎著『高杉晋作』より)

御祭神 三九一柱
・吉田松陰:一柱
・高杉晋作、久坂義助、入江九一、吉田稔麿、河上弥一、白石正一郎、白石廉作、山県有朋 等、長州

藩奇兵隊士:二五六柱
・泉十郎、熊野直助 等、浦藩報国隊士:九六柱
・膺徴隊、八幡隊、遊撃隊、整武隊、清末藩育英隊等諸隊士: 三八柱

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権右エ門 神霊

詳細不明。

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高杉晋作とともに“松下村塾の双璧”と称されていた幕末の志士・久坂玄瑞の旧宅跡。

久坂玄瑞は、天保 11年 ( 1840 )、萩藩医・久坂良迪 ( りょうてき ) の三男として平安古に生まれました。

17歳のときに高杉晋作らと共に松下村塾で学び、のちに藩校明倫館に学びます。

吉田松陰から「防長年少第一流の才気ある男」と絶賛された玄瑞は、18歳のときに松陰の妹・文 ( ふみ ) と結婚しました。

長井雅楽の提唱した航海遠略策に反対し、藩論を尊攘討幕に一変。

英国公使館焼き打ちや下関の外国船砲撃に参加しました。

元治元 ( 1864 ) 年の禁門の変 ( 蛤御門の変 ) で、幕府方諸軍と戦い、流弾を受け負傷。享年 25歳という若さで自刃しました。 

現在は、長州に亡命した尊王攘夷派公卿の 1人、三条実美が詠んだ追悼の和歌を刻んだ石碑が建てられています。

中央公園の一角に、平成 27年 1月 久坂玄瑞進撃像が建立されました。

〇 久坂玄瑞

生年天保11年(1840年5月
生地日本の旗 日本長門国
没年元治元年7月19日1864年8月20日)(満24歳没)
没地日本の旗 日本山城国京都
活動尊王攘夷
長州藩

久坂 玄瑞(くさか げんずい、1840年天保11年5月) - 1864年8月20日元治元年7月19日))は、幕末長州藩士。幼名秀三郎、は通武(みちたけ)、通称は実甫、誠、義助(よしすけ)。妻は吉田松陰の妹・文(後の楫取美和子)。長州藩における尊王攘夷派の中心人物。栄典正四位1891年)。

経歴
幼少年期から藩医になるまで
天保11年(1840年長門国萩平安古(ひやこ)本町(現・山口県萩市)に藩医久坂良迪、富子の三男・秀三郎として生まれる(二男は早世している)[1]。幼少の頃から城下の私塾の松下村塾四書の素読を受けた(この塾には1歳年長の高杉晋作も通っていた)[2]。ついで藩の医学所・好生館に入学したが、14歳の夏に母を亡くし、翌年には兄・久坂玄機が病没した。そして、そのわずか数日後に父も亡くし、15歳の春に秀三郎は家族全てを失った。こうして秀三郎は藩医久坂家の当主となり、医者として頭を剃り、名を玄瑞と改めた。17歳の時に、成績優秀者は居寮生として藩費で寄宿舎に入れるという制度を利用して、玄瑞は藩の医学所である「好生館」の居寮生となった。身長は6尺(約180cm)ほどの長身で恰幅がよく、声が大きく美声であった。片目は少しスガメであった[3][4]

九州遊学から松下村塾入門へ
安政3年(1856年)、玄瑞は兄事する中村道太郎のすすめで九州に遊学する。九州各地の著名な文人を訪ね、名勝地を巡りつつ詩作にふける旅に出た。玄瑞がこの旅で作った詩は、のちに『西遊稿』としてまとめている[5]。熊本に宮部鼎蔵を訪ねた際、吉田松陰に従学することを強く勧められた[6]。玄瑞はかねてから、亡兄の旧友である月性上人から松陰に従学することを勧められており、久坂は萩に帰ると松陰に手紙を書き、松陰の友人の土屋蕭海を通じて届けてもらった[7]

まず玄瑞が松陰に送った手紙の内容は、「弘安の役の時の如く外国の使者を斬るべし。そうすれば、必ず米国は来襲する。来襲すれば、綱紀の緩んだ武士達も覚醒し、期せずして国防も厳重になるであろう」という意見であった[8]。しかし松陰は、玄瑞の手紙をそのまま送り返し、その欄外に「あなたの議論は浮ついており、思慮も浅い。至誠より発する言葉ではない。私はこの種の文章を憎みこの種の人間を憎む。アメリカの使節を斬るのは今はもう遅い。昔の死んだような事例をもとに、現在のまったく違った出来事を解決しようということを思慮が浅いと言うのだ。つまらぬ迷言を費すよりも、至誠を積み蓄えるべきだ。実践を抜きにした言説は駄目だ」と書いて玄瑞の論を酷評した[9]

だが、松陰が玄瑞に痛烈な批判を加えたのは考えがあってのことだった。玄瑞を紹介した土屋への手紙に松陰は、「久坂の士気は平凡ではない。何とか大成させようと思い、力をこめて弁駁しました。これで激昂して反駁してくる勢いがあれば、私の本望です。もし、これでうわべを繕って受け入れたふりをするような人ならば、私の見込み違いであったというべきでしょう。」と玄瑞を試していたのであった[10]。玄瑞は猛然と反駁した。「米英仏が強いことは昔の朝鮮の如きとは比較にならない。米英仏の巨大な戦艦と大砲、鉄砲には我が国は太刀打ちできない。だからといって座して国が亡びるのを待つのは如何なものであろうか。まず守りを固めるべきである。」「あなたの不遜な言説では私は屈しない」「もしあなたがこのような罵詈、妄言、不遜をなす男ならば、先に宮部殿があなたを称賛したのも、私があなたを豪傑だと思ったのも、誤りであったようだ。私は手紙に対して、憤激のあまり拳を手紙に撃ちつけてしまった。」と書いた[11]

松陰はすぐに返事はせずに約1カ月の間をおいて筆を執った。「今や幕府は諸外国と条約を結んでしまった。それがだめだといっても、我が国から断交すべきではない。国家間の信義を失うことは避けなければならない。外国とは平穏な関係を続けながら、我が国の力を蓄え、アジア、中国、インドと手を携えたのちに欧米諸国と対峙すればいい。あなたは一医学生でありながら空論を弄び、天下の大計を言う。あなたの滔々と語る言説はただの空論だ。一つとしてあなたの実践に基づくものはない。すべて空論である。一時の憤激でその気持ちを書くような態度はやめよ。」と返書した[12]

しかし、三度玄瑞は反論の筆を執った。「外国人との交易はどちらを利しているのか」「人心は現状を保つことに汲々としているが、武器はいつ備えるのか。士気はいつ高まるのか。危急存亡について誰が考えているのか」と食い下がった[13]。これに対して松陰の3度目の返信は、それまでとはうってかわって、「あなたが外国の使いを斬ろうとするのを空論と思っていたのは間違いだった。今から米使を斬るようにつとめてほしい。私はあなたの才略を傍観させていただこう。私の才略はあなたにとうてい及ばない。私もかつてはアメリカの使いを斬ろうとしたことがあるが、無益であることをさとってやめた。そして、考えたことが手紙に書いたことである。あなたは言葉通り、私と同じにならないように断固としてやってほしい。もし、そうでないと、私はあなたの大言壮語を一層非難するであろう。」と書いた[14]

松陰は玄瑞に実践を求めたのであったが、玄瑞に米使を斬る手だてはなかった。ここに両者の議論に決着がついた。このやりとりの後しばらくして玄瑞は、翌安政4年(1857年)晩春、正式に松門に弟子入りした。

松下村塾では晋作と共に「村塾の双璧」、晋作・吉田稔麿入江九一と共に「松門四天王」といわれた。松陰は玄瑞を長州第一の俊才であるとし、晋作と争わせて才能を開花させるよう努めた。そして、安政4年(1857年)12月5日、松陰は自分の妹・を玄瑞に嫁がせた。

尊王攘夷運動
安政6年(1859年)10月、安政の大獄によって松陰が刑死した。

文久元年(1861年)12月、玄瑞は、松下村塾生を中心とした長州志士の結束を深めるため、一灯銭申合を創った(参加者は桂小五郎、高杉晋作、伊藤俊輔山縣有朋ら24名)。

文久元年頃から玄瑞と各藩の志士たちと交流が活発となり、特に長州、水戸、薩摩、土佐の四藩による尊攘派同盟の結成に向けて尽力し、尊王攘夷運動、反幕運動の中心人物となりつつあった[15]

文久元年初めから藩論は、長井雅楽の「航海遠略策公武合体」に傾きつつあり、5月23日、藩主は長井に、朝廷に参内させ攘夷論の朝廷を説得せしめることに成功した。しかし、これに対し玄瑞は以下の観点から反駁した[16]

一点目は経済の観点から、「今の通商は亡国への道である。売るものがなく、買うばかりの一方的な貿易で年々多くの国幣を失っている。物価は高騰し、国民は塗炭の苦しみの中にある。貿易を盛んにする前に、国産の開発が大いになされなければならない」。

二点目は幕府を助けることのみに終わるという観点から、「最終的には我が国は海外へ出ていかなければならないのはわかっている。先師(松陰)の考えもそうだった。だが、それが幕府を助け天朝を抑えることになってはならない。いずれは万里の外へ航海に乗り出す策を立てねばならないのは当然だ。しかし、今回対馬を占領されており、これだけの凌辱を受けながら、その罪も正さず、頭を垂れて尻尾を振って、航海に乗り出しても武威の高まることはないと思う。先日、佐久間象山を訪ねたが、同じ航海説でも「力を計り勝ちを計る」という考えで、大人物かつ発想に秀でており、戦を恐れて航海を唱える者と同じ土俵で論ずるべきではない」。

玄瑞は長井に何度を議論を挑み、また藩主への具申をしたが、藩論は覆ることはなかった。文久元年、公武合体の考えに沿うように和宮の降嫁が実現した。

このような中、玄瑞は全国の「草莽の志士糾合」に賭けざるを得なくなる。文久2年(1862年)正月14日、坂本龍馬が剣道修行の名目で、武市半平太の書簡を携え、玄瑞との打ち合わせのため萩へ来訪した。馬関の豪商白石正一郎と結び、白石宅をアジトにして、薩摩の西郷隆盛、土佐の吉村寅太郎、久留米、筑前の志士たちとも謀議を重ねた。松門の同志は血盟を交わし、桂小五郎は、繰り返し藩主親子、藩の重臣たちに、長井雅楽弾劾を具申し続けた。4月、玄瑞は同志と共に上京し、長井の弾劾書を藩に提出する。6月、玄瑞は長井要撃を試みるが襲撃の時機を逸したため、藩に長井への訴状も兼ねて待罪書を提出するも、京都にて謹慎となる。しかし、桂小五郎らは攘夷をもって幕府を危地に追い込む考えで、藩主・毛利敬親に対し攘夷を力説し、7月6日、長井失脚に成功した[17]

廻瀾條議と解腕痴言
玄瑞は謹慎中の文久2年(1862年)8月、『廻瀾條議』と名付けた建白書を藩主に上提した。これが藩主に受け入れられ、長州藩の藩論となる。藩論は航海遠略策を捨て、完全に尊王攘夷に変更された(長井は翌年2月自刃を命ぜられた)。また翌月には、全国の尊攘派同士に向けた実践綱領の書『解腕痴言』を書いた。

『廻瀾條議』と『解腕痴言』は、結局「西洋の強大な武力に屈服する形で開国するのではなく、対等に交渉する気力を奮い起こすべきであり、それによって国力を回復させ、軍備を整えた後、対等な立場で条約締結に及ぶ」という意見であった。これは師松陰の開国的攘夷論を踏まえたものであるが、他方、「攘夷」という主張は、政権を幕府から朝廷へ回復させる倒幕という目的からも有効であると玄瑞は力説した[18][19]。|『廻瀾條議』の要点は次の通りである[20]

(1)汚名を蒙って処刑された吉田松陰の遺骸を改葬して、その「忠烈節義」「殉国の志」を顕彰し、藩内で誰の意見が正しくまた邪であったかをはっきりさせること。

(2)安政五年の修好通商条約をはじめ幕府の怯懦な方策により、日本が将来植民地同様となる危機が生じており、その責任を負うべき井伊直弼以下の閣僚はさらに安政の大獄という暴虐の責めをも負うべきで、厳罰に処さねばならない。

(3)下田の和親条約までは良く、安政五年の条約はすべて下田の条約にまで引き戻し、外国貿易は長崎、下田、函館の三港に限ること。

(4)安政五年の条約は違勅の大罪をも犯しており、「大義をもって論ぜば」幕府を「誅戮殲滅」させてもいいのだが、朝廷が「ご寛容」に将軍の過誤を改める機会を与えられたのだから、「長薩二藩」が「督責」して条約に関する処罰や下田条約への引き戻しをさせねばならない。

(5)朝廷に「御政事所」を設け、ちくいち重要政務を幕府から奏聞させ、また、「御親兵」を置くなどして、ゆくゆくは「天下の御威権」を「朝廷に帰」すべきだが、ものごとには順序が大切であり、まず先の項(4)を実現するようにもってゆき、もし「承服つかまつらず」は、「決闘死戦と御勇決猛断」をなされねばならない。

以上をなして、諸外国の様子を洞観し、海軍を充実させ士気を高めて積極的海外に雄飛せよ。

同年9月、謹慎を解かれた玄瑞は、早速活動を開始する。薩長土三藩有志の会合に出席し、攘夷御下命の勅使を激励する決議をなした。また、9月末には土佐の坂本龍馬福岡孝弟らと会い、三藩連合で近衛兵を創設する件を議した。10月、玄瑞は桂小五郎とともに、朝廷の尊王攘夷派の三条実美姉小路公知らと結び、公武合体派の岩倉具視らを排斥して、朝廷を尊攘化した。そして同年10月、幕府へ攘夷を督促するための勅使である三条実美・姉小路公知と共に江戸に下り、幕府に攘夷の実行を迫った。これに対し、将軍・徳川家茂は翌年上京し返答すると勅旨を受け取った。

イギリス公使館焼き討ち
江戸に着いた玄瑞は晋作と合流した。晋作は外国人襲撃を画策していたが、玄瑞は「そのような無謀の挙をなすよりも、同志団結し藩を動かし、正々堂々たる攘夷を実行するべき」と主張し、晋作と斬るか斬られるかの激論となった。それを井上聞多がうまく裁き、結局玄瑞も受け入れ、長州藩志士11名が襲撃を決行することとなった[21]。しかし報せを聞いた長州藩世子・毛利定広や三条実美らの説得を受け、中止に終わった。その後11名の志士は、御楯組を結成し血盟した。ちなみにその趣意精神を記した「気節文章」は玄瑞が書いたものである。そして12月、彼らは品川御殿山に建設中の英国公使館焼き討ちを実行した。

下関戦争と光明寺党、奇兵隊
文久2年12月、玄瑞は再び佐久間象山を訪ねるため、水戸を経て信州に入った。象山を長州藩に招聘するためだったが、象山は辞退した。しかし象山は、玄瑞を数日滞在させて助言を与える。翌文久3年の正月に、この助言を藩主に詳しく説明したところから、伊藤俊輔、井上聞多らの藩費によるイギリス留学が実現した[22]

文久3年(1863年)1月27日に京都翠紅館にて各藩士と会合する。2月21日には朝廷の攘夷決定にもかかわらず幕府が因循しているのため、玄瑞は関白鷹司輔煕の邸に推参し建白書を提出し、攘夷期限の確定を求めた。また、京都藩邸御用掛として攘夷祈願の行幸を画策した。これらが実現し、朝廷の指導権は長州が握ることとなった。

幕府は朝廷に御親兵をおくこと、攘夷期限を定めることを認めざるを得なくなり、3月には幕府より奉勅攘夷の決定が列藩に布告され、4月には攘夷期日を5月10日とする勅令が発せられた。

4月25日、玄瑞は帰藩し、5月10日に関門海峡を通航する外国船を砲撃する準備を整えるため、50人の同志を率いて馬関の光明寺を本陣とし、光明寺党を結成した。光明寺党は、他藩の士や身分にとらわれない草莽の士を糾合したものであり、その行動は藩意識を超脱したものだった。これを長州藩の玄関たる馬関の地で実行した[23]

この光明寺党が後の奇兵隊の前身となる。玄瑞は公卿中山忠光を首領として、久留米藩の真木和泉も加え、士卒の意気を高めた。5月10日から外国船砲撃を実行に移した(外国艦船砲撃事件)。

長州藩はアメリカ商船ベンブローク、フランス軍艦キャンシャン、オランダ艦メデューサへの攻撃を行ったが、長州藩の砲台では海峡の反対側を通る船舶には弾が届かないことが判明したため、玄瑞は、かつて松陰が書いた『水陸戦略』の「海戦は奇なり、陸戦は正なり、……夜中など賊船に潜み近づき、船腹を打ち貫き候様の術、……」に倣い、夜中に船で近づいて攻撃するという戦法を実行した[24]

この戦いで、長州藩の海防上の問題(旧式の青銅砲は射程が短く、外国間の報復攻撃の際に、門司側が無防備では十分な反撃ができないということ)が明らかになった。また、5月20日に朝廷の攘夷急進派の中心人物で長州藩の最も重要な後ろ盾であった姉小路公知国事参政が、何者かに暗殺された。そのため藩は5月28日、朝廷へのパイプの太い玄瑞を、朝廷への攘夷報告と対岸の小倉藩の協力要請のための使者に伴わせて京都に向かわせた[25]

6月1日、玄瑞ら長州藩は朝廷に攘夷の報告をし、朝廷から藩主への褒め詞を賜った。3日には、朝廷から各藩への攘夷趣旨貫徹の下達を請願した。朝廷は、5日に小倉藩へ通達。6日には列藩に対しても攘夷の趣旨が伝えられた。

攘夷実行と同時に起きた京都政界の急変に対応するため、入江九一を除き、光明寺党の中核をなしていた玄瑞、寺島忠三郎吉田稔麿野村靖ら松下村塾の門人たちはみな、京都、山口、馬関の間を駆け巡らなければならなくなった[26]

玄瑞が京都へ東上した頃、光明寺党の幹部と真木和泉、中山忠光白石正一郎らが話し合い、新しい隊を結成することとなった。光明寺党を基として、足軽、農民、町人、工匠等の希望者を募って、隊づくりが進行した[27]

しかし、玄瑞が京都で政治活動中の6月1日、5日に長州藩は、アメリカ艦、フランス艦から報復攻撃を受け、長州藩軍艦2隻が撃沈、砲台が破壊され、寺、民家を焼かれた。玄瑞不在の代理として藩は6月5日、討幕挙兵を唱えて謹慎中であった高杉晋作に馬関防衛を命じ、6月6日、晋作は現地に赴任し、奇兵隊の総管となった。『奇兵隊日記』によると、光明寺党が奇兵隊へ名称変更したのは、晋作が着任以前のことであることがわかる[28]

くわしいことは「久坂玄瑞ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%85%E5%9D%82%E7%8E%84%E7%91%9E     
(wikiより)


282 久坂玄瑞

久坂玄瑞

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⇧ 久坂玄瑞誕生地

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佐世一清 ( させ - いっせい )

嘉永 5 ( 1852 ) 年 ~ 明治 9 ( 1876 ) 年 12月 3日 江戸時代末期・明治期の萩藩士の子。

萩の乱で敗れ斬首される。

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生年天保5年3月20日1834年4月28日
生地長門国・土原村
没年1876年12月3日(42歳没)[1]
没地長門国・
活動倒幕萩の乱
長州藩
受賞贈従四位


前原 一誠
(まえばら いっせい)は、日本武士長州藩士)。は一誠。通称は八十郎、彦太郎。倒幕運動志士として活躍したが、明治維新後、萩の乱の首謀者として処刑された。

位階は贈従四位大正5年(1916年)4月11日)。維新の十傑の一人。参議、兵部大輔(現在の国防次官)を務めた。

出自
本姓佐世氏は、宇多源氏佐々木氏の分流で、出雲源氏の諸流に属する。遠祖は尼子氏毛利氏の家臣である佐世清宗

経歴
天保5年(1834年3月20日、4月28日長門国土原村(現・山口県萩市)にて、長州藩士・佐世彦七(大組47石)の長男として生まれ、前原氏を相続する。前原家の遠祖は戦国武将米原綱寛である。

天保10年(1839年)、郡吏となった父とともに厚狭郡船木村に移住。のちに萩にて修学するが、嘉永4年(1851年)、再び船木にて陶器製造など農漁業に従事する。安政4年(1857年)、久坂玄瑞高杉晋作らと共に吉田松陰松下村塾に入門する。松陰の処刑後は長崎で洋学を修め、のちにの西洋学問所・博習堂に学ぶ。

文久2年(1862年)に脱藩し、久坂らと共に直目付・長井雅楽の暗殺を計画する。文久3年(1863年)、右筆役、七卿方御用掛。その後は高杉らと下関に挙兵して藩権力を奪取し、用所役右筆や干城隊頭取として倒幕活動に尽力した。長州征伐では小倉口の参謀心得として参戦、明治元年(1868年)の戊辰戦争では北越戦争に出兵し、参謀として長岡城攻略戦など会津戦線で活躍する。明治3年(1870年)、戦功を賞されて賞典禄600石を賜る。

維新後は越後府判事(次官)や参議を勤める。大村益次郎の死後は兵部大輔を兼ねたが、出仕することが少なかったため、船越衛は省務停滞を嘆いている。また、大村の方針である「国民皆兵」路線(徴兵令)に反対して木戸孝允と対立する。

やがて、徴兵制を支持する山縣有朋に追われるように下野し、萩へ帰郷する。新政府の方針に不満をもった前原は明治9年(1876年)、奥平謙輔とともに不平士族を集めて萩の乱を引き起こしたが、即座に鎮圧されて捕らえられ、12月3日、萩にて斬首刑に処された。享年43(満42歳没)。

彼の辞世の詩として伝えられるのは、

吾今国の為に死す、死すとも君恩に背かず。人事通塞あり、乾坤我が魂を弔さん。

またその戯句に

これまでは いかい御苦労 からだどの よびだしの声 まつむしや秋の風 」

墓所は山口県萩市土原の弘法寺。遺言により戒名はないという[2]

評価
吉田松陰        
 ・「八十郎(一誠)は勇あり、智あり。誠実人に過ぐ。いわゆる布帛粟米。適用せざるなし。その才や實甫(久坂玄瑞)に及ばず。その識や暢夫(高杉晋作)に及ばず。しかしてその人物の完全なること、二子また八十に及ばざること遠し。吾友肥後の宮部鼎蔵の資性、八十と相近し。八十父母に事へて至孝。余未だ責むるに国事を以てすべからざる也」[3]        
 ・「佐世八十郎に至っては隠然両郎(高杉・久坂)の一敵国である」
横山幾太 「極めて重厚なる風の人」[4]
渡邊嵩蔵 「佐世八十郎は、村塾にても余り多くは読書せず」[4]
曽我祐準 「妙な人で、事の善悪を決して云わぬ人であった」[5]         

親族
・甥:国司仙吉(秋田県権令、異父姉「まし」の子息)[6]

脚注
1. 前原一誠』 - コトバンク     
2. 
中嶋 繁雄 『明治の事件史―日本人の本当の姿が見えてくる!』 青春出版社〈青春文庫〉、2004年3月20日、47頁   
3. 
『松陰とその門下』
4. 
a b 『吉田松陰全集 第12巻』
5. 
『大村先生逸事談話』P73   
6. 
海原徹『松下村塾の明治維新 : 近代日本を支えた人びと』ミネルヴァ書房、1999年、222頁。

登場作
花神 - 1977年、演:江原正士     
・遠雷と怒涛と-1982年、演:近藤正臣      
幕末青春グラフィティ Ronin 坂本竜馬 - 1986年、演:石田純一      
炎の如く・吉田松陰 - 1991年、演:吉田次昭      
花燃ゆ - 2015年、演:佐藤隆太       
戦国炒飯TV - 2021年、演:小川史記     

関連項目
佐藤信寛     

外部リンク
佐世氏系譜      
前原一誠年譜・解説      

(wikiより)

243  Maebara_Issei

前原一誠

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渡辺 内蔵太(わたなべ くらた、天保7年2月3日1836年3月19日) - 元治元年12月19日1865年1月16日))は、江戸時代末期(幕末)の萩藩士。長嶺内蔵太(ながみね くらた)とも。甲子殉難十一烈士の一人。

1862年御楯組結成に参加。

その後、山田亦介前田孫右衛門毛利登人松島剛蔵大和弥八郎楢崎弥八郎らと共に斬罪に処される。
(wikiより)

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時代江戸時代末期(幕末
生誕天保14年(1843年1月
死没文久3年10月14日1863年11月24日
別名別名:南八郎
墓所兵庫県朝来市山口護国神社
山口県萩市長寿寺
下関市櫻山神社
官位従四位
幕府江戸幕府
長州藩
父母父:河上繁完

河上 弥市(かわかみ やいち)は、幕末の長州藩士。河上繁完の子。

人物
高杉晋作が中心となって立ち上げた奇兵隊の第2代総監を務めた。

討幕の先駆けとなり、七卿落ちの公家である沢宣嘉を主将に奉じ、幕府直轄地生野銀山のある生野代官所を占拠するため、但馬国平野国臣多田弥太郎、美玉三平、北垣晋太郎進藤俊三郎らと挙兵するが、生野の変で敗死した。享年21。

生野の変は、土佐藩出身の吉村虎太郎を中心に挙兵した天誅組の変に呼応した挙兵であった。

明治24年(1891年)、従四位を追贈された[1]

辞世の句
「奉献 議論より実を行へ、なまけ武士、 国の大事を余所に見る馬鹿、皇国草莽臣 南八郎」
(南八郎は河上弥市の別名)


高杉は、吉村寅太郎と河上の死を知り、「私の知り合いは世に数多くいるが、私の心を知るものは吉村虎太郎と河上弥市のみだ」と悼んだという。

「予、知己天下に多し、而して能く我心を知る者は、土州の吉村寅太郎、我藩の河上弥市也、弥市節に但馬に死し、寅太郎節に大和に死す。二士之名頗る近時に冠たり、而して寅太郎は張巡に類し、弥市は霽雲 に類す。然して、二士之節義は固より巡雲の及ぶ所に非ざる也。」
(東行遺稿。東行とは高杉のこと)

墓所
河上ら十三士は、兵庫県朝来市山口にある山口護国神社に、幕末以降の戦役での戦没者とともに祀られている。また、高杉晋作の発議により建立された櫻山神社に、吉田松陰や晋作らと共に祀られている。

親族
再従弟の山田顕義は、萩市にある河上弥市碑の文を書いている。山田は河上弥市最期の地となった朝来市山口の妙見山麓に建立された忠魂碑に参ったのち、生野銀山を視察中に卒倒し、そのまま没した。

弥市亡き後、顕義の弟の繁栄が、弥市の妹の梅子と結婚し、河上家の名跡を継いだ。一方、のちに顕義の跡を繁栄の子の久雄が、さらにその跡を繁栄自身が継いだ。その他の一族・親類に、村田清風(大伯父)、山田亦介(父の従兄弟)らがいる。

脚注
1.田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.6

関連項目
奇兵隊#長州奇兵隊      

関連作品
秋山香乃『晋作 蒼き烈日』(日本放送出版協会

外部リンク
・萩市 萩博物館 『萩の維新関係碑文拓本集 「河上弥市碑」
・朝来市 『明治維新の魁 生野義挙
『東行先生遺文』(高杉晋作)大正期 - ウィンベル教育研究所
日本大学 日本大学の歴史『日大を作った先人たち 「学祖 山田顕義」』    
萩の人物データベース 河上弥市     
(wikiより)


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時代江戸時代末期(幕末
生誕天保8年4月5日1837年5月9日
死没元治元年7月19日1864年8月20日
別名:弘致、弘毅、通称:万吉、杉蔵、:子遠、変名:河島小太郎
戒名精節軒弘致子遠居士
墓所上善寺京都府京都市北区
長寿寺山口県萩市
官位正四位
長州藩
氏族入江氏
父母父:入江嘉伝次、母:満智(村上与三右衛門の長女)
兄弟九一野村靖伊藤すみ子伊藤博文の最初の妻)
粂(堀音右衛門の娘)
養子:音次郎貫一

入江 九一(いりえ くいち)は、日本武士長州藩士)。別名は河島小太郎

生涯
天保8年(1837年4月5日、長州藩の足軽である入江嘉伝次・満智(村上与三右衛門の長女)夫妻の長男として生まれた。弟に野村靖(和作)、妹に伊藤すみ子伊藤博文の最初の妻)がいる。妻は九一の父の同僚である堀音右衛門の娘・粂。

松下村塾
安政3年(1856年)に父が死去し、家督を継いだ。安政4年(1857年)に弟の和作が吉田松陰松下村塾に入塾するが、九一は家計を支えるべき立場であるため通う暇を作れず、安政5年(1858年)になって遅れて入門した。同年12月に松陰は再投獄されるため、実際に学んだのは1ヶ月程度に過ぎないが、松陰から高く評価され久坂玄瑞高杉晋作吉田稔麿と並んで松門四天王の一人に数えられた。

同年、師匠の松陰が江戸幕府の無勅許による日米修好通商条約締結に激怒し倒幕を表明して老中間部詮勝暗殺計画を企んだ。この時、高杉・久坂・稔麿らは猛反対したが、九一・和作兄弟だけは賛成し計画に加担。その際に松陰から「久坂君たちは優秀だが、度胸が無い。しかし君だけは国のために死ねる男児である」と高く評価されている。そのため、後に松陰が安政の大獄で処刑された後も、九一は師匠の遺志を受け継いで間部詮勝暗殺計画を実行に移そうとしている。

同年、伏見にて藩主を拉致して朝廷に誘導し、強引に攘夷を宣言させるという奇策「伏見要駕策」を獄中で思いついた松陰は、無謀な策に反対する久坂玄瑞、高杉晋作ら殆どの門下生に破門状を出し、入江兄弟に実行の指示を出すが、藩に察知されて弟と共に岩倉獄に投獄された。これにより入江家は困窮し、九一は獄中で内職を行って家計を助けた。

奇兵隊と禁門の変
松陰の処刑から半年後、兄弟も万延元年(1860年)に釈放され、文久3年(1863年)には吉田稔麿らと共に足軽から士分[1]に取り立てられたが、無給の士分という扱いであり、家計の苦しさに変化はなかった。京都尊皇攘夷のための活動を行なう一方で高杉の奇兵隊創設にも協力し、奇兵隊の参謀となった。同年の下関戦争には久坂の率いる光明寺党の一員として参加した。

元治元年(1864年7月19日禁門の変では久坂の率いる浪人隊の一員として天王山に布陣し、御所攻撃に参加したが敗れて久坂は自刃。久坂に藩主世子への伝言を頼まれた九一は何とか脱出しようと図ったが、塀を越えたところで越前兵の槍を顔面に受けて死亡。享年28。

首級は福井藩士が松平春嶽に許可を得、同様の戦死者8名と共に福井藩の京の菩提寺である上善寺に手厚く葬られた。その後長らく長州藩側に忘れられていたが、旧福井藩士が毛利家に連絡した事をきっかけに、明治30年代に碑石が修築された。

死後
後に木戸孝允大村益次郎たちによって[要出典]長州藩内の桜山招魂場(現在の桜山神社下関市上新地町)・朝日山招魂場(現在の朝日山護国神社山口市秋穂二島)、京都霊山護国神社東京招魂社(後の靖国神社)に護国の英霊として祀られている。山口県萩市「長寿寺」にも入江家の父母、妻の粂らと共に墓碑がある。九一の没後、妻の弟の音次郎を養嫡子にしたが、アメリカへ官費留学した翌年の明治6年(1873年)に病で客死したため、九一の弟・野村靖の次男である貫一を明治13年(1880年)に養子に迎え入江家を継がせた[2]ニュージャージー州ニューブランズウィックウィロー・グローブ墓地には、幕末に同地のラトガース大学で学び、同地にて客死した日下部太郎の墓があり、それと並んで入江音次郎の墓碑がある(墓碑では1874年、19歳没)[3]。日下部家は旧福井藩士である。

明治24年(1891年)に正四位を贈られた。家紋は丸に並び鷹の羽。

著作
・「伝言録」
・「入江子遠遺稿」

脚注
1. 武士の身分。長州藩制では足軽と士分には明確な身分差があった。
2.
家系図九一会
3. 
Changing our World for the BetterWHEEL OF DHARMA, Buddhist Churches of America, AUGUST 2010

関連作品
テレビドラマ
・『花神』(1977年NHK大河ドラマ)演:今村民路    
・『奇兵隊』 (1989年日本テレビ年末時代劇スペシャル、 演:岡野進一郎)
・『花燃ゆ』(2015年NHK大河ドラマ、演:要潤
(wikiより)

233 入江九一

入江九一

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⇧ 中央の墓石が入江九一 その左が夫人の墓。

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勤王。 

行年 28歳。

没年 元治 2年 1月 6日。

戒名 : 自光軒義山稲彦居士。

奇兵隊小隊司令となり絵堂にて戦死す。

別名 正臣。
(案内板より)

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志士。 

行年 27歳。

没年 明治 9年 12月 3日。

戒名 : 雲凌院英岩俊彦居士。

大組士。 87石余。

横山彦七の養子、実は三戸市之亟の二男。前名 新之亟。

明治 9年、萩の大区長となり、前原一誠等反乱首謀者の一人として獄中にて斬首される。
(案内板より)

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贈正四位。 

志士。

行年 元治元年 12月 19日。

戒名 : 節庵清義居士。

大組士。

源次郎の嫡子。

文久 3年 9月 政務役となり、国事に奔走し禁門の変後、俗論派政府のため野山獄に投ぜられ、獄中にて斬刑に処せらる。
(案内板より)

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時代江戸時代幕末) - 明治時代初期
生誕天保12年1月21日1841年2月12日
死没明治9年(1876年12月3日
別名:居正、号:弘毅斎
官位従五位
長州藩
父母父:奥平清兵衛

奥平 謙輔(おくだいら けんすけ)は、幕末から明治時代初期の長州藩士、志士萩の乱の首謀者の一人。

経歴
天保12年(1841年)2月12日、長州藩士・奥平清兵衛の五男として萩城下土原に生まれる。藩校明倫館で学び詩賦に優れた。文久3年(1863年)の下関戦争では先鋒隊士として参加。慶応2年(1866年)には干城隊に配属された。その後の戊辰戦争ではその干城隊の参謀として報国隊、奇兵隊とともに長岡新発田新潟を転戦した。その際、友人の会津藩士・秋月悌次郎にあてた手紙は名文として知られる。またその際には秋月から会津藩士の少年2人を書生として預かったが、一人は後に東京帝国大学総長となった山川健次郎で、もう一人は陸軍に入り近衛師団工兵大隊長を務めた小川亮である。

明治2年(1869年)に越後府権判事として佐渡に赴任するが、同年8月には職を辞している。

郷里に戻ってからは攘夷論を説き、新政府の方針に不満を募らせる。明治9年(1876年)には前原一誠を盟主に萩の乱を起こしたが敗走し、12月3日に斬首となった。享年36。

大正5年(1916年)、従五位を追贈された[1]

秋月悌次郎を通じて会津との交流、会津藩の子弟を教育したことが縁となり、平成7年(1995年)には当時の会津市長であった山内日出夫が奥平謙輔の墓に参っている。

脚注
1. 
田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.40

参考資料
松本次郎『増補 萩の乱前原一誠とその一党』マツノ書店 1996年
一坂太郎『長州奇兵隊』中公新書 2002年
・山川健次郎「奥平謙輔先生」『男爵山川先生遺稿』所載
(wikiより)

207  Okudaira_Kensuke

奥平謙助


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明治 9年に、新政府に不満をもつ士族らを率いた前原一誠が萩市内で反乱を起こした激戦地にこの慰霊碑が建つ。

新政府では徴兵制を推し進める木戸孝充、山縣有朋らに反発して、下野して萩に帰郷した。

萩の乱では、約 40日間の萩市内での戦闘で、政府軍に敗れ、前原一誠は斬首刑となった。享年 43歳。

生年天保5年3月20日1834年4月28日
生地長門国・土原村
没年1876年12月3日(42歳没)[1]
没地長門国・
活動倒幕萩の乱
長州藩
受賞贈従四位

〇 前原一誠

前原 一誠(まえばら いっせい)は、日本武士長州藩士)。は一誠。通称は八十郎、彦太郎。倒幕運動志士として活躍したが、明治維新後、萩の乱の首謀者として処刑された。

位階は贈従四位大正5年(1916年)4月11日)。維新の十傑の一人。参議、兵部大輔(現在の国防次官)を務めた。

出自
本姓佐世氏は、宇多源氏佐々木氏の分流で、出雲源氏の諸流に属する。遠祖は尼子氏毛利氏の家臣である佐世清宗

経歴
天保5年(1834年3月20日、4月28日長門国土原村(現・山口県萩市)にて、長州藩士・佐世彦七(大組47石)の長男として生まれ、前原氏を相続する。前原家の遠祖は戦国武将米原綱寛である。

天保10年(1839年)、郡吏となった父とともに厚狭郡船木村に移住。のちに萩にて修学するが、嘉永4年(1851年)、再び船木にて陶器製造など農漁業に従事する。安政4年(1857年)、久坂玄瑞高杉晋作らと共に吉田松陰松下村塾に入門する。松陰の処刑後は長崎で洋学を修め、のちにの西洋学問所・博習堂に学ぶ。

文久2年(1862年)に脱藩し、久坂らと共に直目付・長井雅楽の暗殺を計画する。文久3年(1863年)、右筆役、七卿方御用掛。その後は高杉らと下関に挙兵して藩権力を奪取し、用所役右筆や干城隊頭取として倒幕活動に尽力した。長州征伐では小倉口の参謀心得として参戦、明治元年(1868年)の戊辰戦争では北越戦争に出兵し、参謀として長岡城攻略戦など会津戦線で活躍する。明治3年(1870年)、戦功を賞されて賞典禄600石を賜る。

維新後は越後府判事(次官)や参議を勤める。大村益次郎の死後は兵部大輔を兼ねたが、出仕することが少なかったため、船越衛は省務停滞を嘆いている。また、大村の方針である「国民皆兵」路線(徴兵令)に反対して木戸孝允と対立する。

やがて、徴兵制を支持する山縣有朋に追われるように下野し、萩へ帰郷する。新政府の方針に不満をもった前原は明治9年(1876年)、奥平謙輔とともに不平士族を集めて萩の乱を引き起こしたが、即座に鎮圧されて捕らえられ、12月3日、萩にて斬首刑に処された。享年43(満42歳没)。

彼の辞世の詩として伝えられるのは、

吾今国の為に死す、死すとも君恩に背かず。人事通塞あり、乾坤我が魂を弔さん。

またその戯句に、

これまでは いかい御苦労 からだどの よびだしの声 まつむしや秋の風 」

墓所は山口県萩市土原の弘法寺。遺言により戒名はないという[2]

評価
吉田松陰
 ・「八十郎(一誠)は勇あり、智あり。誠実人に過ぐ。いわゆる布帛粟米。適用せざるなし。その才や實甫(久坂玄瑞)に及ばず。その識や暢夫(高杉晋作)に及ばず。しかしてその人物の完全なること、二子また八十に及ばざること遠し。吾友肥後の宮部鼎蔵の資性、八十と相近し。八十父母に事へて至孝。余未だ責むるに国事を以てすべからざる也」[3]
 ・「佐世八十郎に至っては隠然両郎(高杉・久坂)の一敵国である」
横山幾太 「極めて重厚なる風の人」[4]      
渡邊嵩蔵 「佐世八十郎は、村塾にても余り多くは読書せず」[4]      
曽我祐準 「妙な人で、事の善悪を決して云わぬ人であった」[5]     

親族
・甥:国司仙吉(秋田県権令、異父姉「まし」の子息)[6]

脚注
1. 前原一誠』 - コトバンク   

2. 中嶋 繁雄 『明治の事件史―日本人の本当の姿が見えてくる!』 青春出版社〈青春文庫〉、2004年3月20日、47頁
3. 
『松陰とその門下』
4. 
a b 『吉田松陰全集 第12巻』
5. 
『大村先生逸事談話』P73 
6. 
海原徹『松下村塾の明治維新 : 近代日本を支えた人びと』ミネルヴァ書房、1999年、222頁。

登場作品
花神 - 1977年、演:江原正士
・遠雷と怒涛と-1982年、演:近藤正臣
幕末青春グラフィティ Ronin 坂本竜馬 - 1986年、演:石田純一
炎の如く・吉田松陰 - 1991年、演:吉田次昭
花燃ゆ - 2015年、演:佐藤隆太
戦国炒飯TV - 2021年、演:小川史記   

関連項目
佐藤信寛      

外部リンク
佐世氏系譜

前原一誠年譜・解説    

206 前原騒動

前原一誠

〇 萩の乱
萩の乱(はぎのらん)は、1876年明治9年)に山口県で起こった明治政府に対する士族反乱の一つ。

1876年10月24日熊本県で起こった神風連の乱と、同年10月27日福岡県で起こった秋月の乱に呼応し、山口県士族前原一誠(元参議)、奥平謙輔ら約200名(吉田樟堂文庫「丙子萩事変裁判調書」では506名、岩村通俊遺稿では2千余名と諸説あり)によって起こされた反乱である。後の内閣総理大臣第26代田中義一も当時13歳で反乱に参加している。

206 前原騒動慰霊碑

『萩一戦録』(
早川松山画)

概要
前参議前原一誠は辞職したのち故郷で各地の不平士族と連絡を取っていたが、熊本城下での神風連の決起を聞くと旧藩校明倫館を拠点に同志を募り、10月26日には県庁を挟撃するため須佐育英館長の坂上忠介や多根卯一、徳山の同志・今田浪江らに決起を促す使者を派遣した。10月28日には前原を指導者とする「殉国軍」が挙兵したが、県庁襲撃は政府側に事前に察知されたため、天皇直訴するため紫福を経て須佐より山陰道を東上するよう方針を転換し10月30日には須佐兵67人と合流し約300名にて地扱所を占拠し兵糧を確保する。しかし、海路で浜田に向かったところ悪天候で断念し江崎に上陸した後、虚報(袂を分かった諫早基清が萩を占拠し近親者を処罰しているという説「須佐郷土史研究会」)により10月31日萩・越ケ浜より明倫館に戻ったが備蓄弾薬が池に破棄されており、待ち伏せていた政府軍と市街戦が発生。これを退けるも橋本町辺に68軒の焼失被害を出す(品川弥二郎書翰)。弾薬欠乏から前原らは軍勢を囮として小倉信一有福洵允にまかせ幹部5名のみ直訴のため別行動をとった。小倉らは萩で三浦梧楼少将率いる広島鎮台と軍艦孟春の攻撃を受け、11月6日までに政府軍により鎮圧された。この際、長州藩剣術指南役を務めた内藤作兵衛が誤認射殺されている。

その後
別行動をとった一誠・奥平ら幹部と従者白井林蔵、馬来木工の7名は東京へ向かうべく船舶にて萩越ケ浜を出港したが、悪天候のため宇竜港(現在の出雲市内)に停泊中水先案内人に通報されたことで11月5日に島根県令佐藤信寛らに包囲され、弁明の機会を与えることを条件に投降し逮捕された。なお、一誠は決起の前に元会津藩士で親交のあった永岡久茂と連絡を取っており、永岡は10月29日に千葉県庁襲撃未遂事件(思案橋事件)を起こしている。

12月3日に山口裁判所・萩臨時裁判所(裁判所長・岩村通俊)にて弁明の機会を与えられぬまま関係者の判決が言い渡され、首謀者とされた一誠と奥平および横山俊彦、佐世一清(一誠の実弟)、山田頴太郎(一誠の実弟)、有福旬允、小倉信一、河野義一は即日(翌日説あり)斬首された。 残る人物の処遇は明治九年司法省之部賊徒口供書では有罪72名、無罪1名、放免299名、合計372名(諸説あり、萩の乱刑死者追悼詩書木額では懲役48人・除族放免15人・放免388人とも、岩村通俊判事ノ遺稿では懲役60余人・2千余を放免とも、清水清太郎の日記では賊徒凡三千五百人ともある)。この処罰には司法卿大木喬任により制定された臨時暴徒処分例(明治9年11月8日)が適用された。

乱による松下村塾への影響
この乱には松下村塾最年長の一誠をはじめ、多くの塾生や吉田松陰の親族(松陰叔父の玉木家、本人の吉田家、実家の杉家)跡取が事件に深く関与した。いずれも松陰の実兄の杉民治を介しており、玉木正誼は民治長女の婿養子、吉田小太郎は民治長男、杉相次郎は民治次女の婿養子である。玉木正誼と吉田小太郎が戦死したため玉木家は正誼の子・玉木正之が、吉田家は民治三女の婿養子・吉田庫三が相続した。この件により松陰の叔父であり松下村塾塾頭玉木文之進切腹し塾も閉鎖された。松陰の実兄・杉民治も本郷代官を辞して隠居の身となったが、明治13年(1880年)松下村塾を再興し明治23年(1890年)の教育勅語で塾が閉鎖されるまで子弟教育に励んだ。

脚注
1. a b 原 剛 2002, p. 47.

参考文献
原 剛 『明治期国土防衛史』錦正社、2002年2月。ISBN 4-7646-0314-4

関連項目
日本史の出来事一覧

外部リンク
山口伝報記 高瀬茂顕 (温故堂, 1877)

(wikiより)


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時代江戸時代末期(幕末
生誕天保12年5月17日1841年7月5日
死没元治2年1月21日1865年2月11日
別名:正弘
官位正五位
主君毛利敬親
長州藩嗣子近侍
氏族玉木氏(乃木氏分流)
父母父:玉木文之進。母:国司氏

玉木 彦助(たまき ひこすけ)は、江戸時代末期(幕末)の長州藩士。玉木文之進嗣子吉田松陰の従弟である。正弘。藩吏子弟として初の諸隊入隊者であった。

経歴
天保12年(1841年)5月17日、吉田松陰の叔父である家格大組士、玉木文之進の長男として生まれる。安政2年(1855年)に元服する。従兄の松陰とは仲が良く、元服のときから松下村塾で教えを受けたといわれる。

文久3年(1863年)に藩主の世子である毛利元徳近侍となる。

元治元年(1864年)に長崎へ留学し、帰国後に御堀耕助御楯隊に入隊する。第1次長州征伐で長州藩が幕府軍に降伏したことにより幕府恭順派の俗論党が台頭すると、彦助は高杉晋作らと共にこれに反発、元治2年(1865年)1月16日には俗論党によって送られた軍と戦って敗れた上に負傷した。同月21日、吉敷郡小郡で自害した。享年25。

明治21年(1888年)に靖国神社合祀となり、明治35年(1902年)に正五位[1]

登場する作品
・『花燃ゆ』 - 2015年NHK大河ドラマ、演:冨田佳輔  

脚注
1. 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.17

参考文献
・『三百藩家臣人名事典 6』新人物往来社   
(wikiより)

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生年天保11年(1840年5月
生地日本の旗 日本長門国
没年元治元年7月19日1864年8月20日)(満24歳没)
没地日本の旗 日本山城国京都
活動尊王攘夷
長州藩

久坂 玄瑞
(くさか げんずい、1840年天保11年5月) - 1864年8月20日元治元年7月19日))は、幕末長州藩士。幼名秀三郎、は通武(みちたけ)、通称は実甫、誠、義助(よしすけ)。妻は吉田松陰の妹・文(後の楫取美和子)。長州藩における尊王攘夷派の中心人物。栄典正四位1891年)。

経歴
幼少年期から藩医になるまで
天保11年(1840年長門国萩平安古(ひやこ)本町(現・山口県萩市)に藩医久坂良迪、富子の三男・秀三郎として生まれる(二男は早世している)[1]。幼少の頃から城下の私塾の松下村塾四書の素読を受けた(この塾には1歳年長の高杉晋作も通っていた)[2]。ついで藩の医学所・好生館に入学したが、14歳の夏に母を亡くし、翌年には兄・久坂玄機が病没した。そして、そのわずか数日後に父も亡くし、15歳の春に秀三郎は家族全てを失った。こうして秀三郎は藩医久坂家の当主となり、医者として頭を剃り、名を玄瑞と改めた。17歳の時に、成績優秀者は居寮生として藩費で寄宿舎に入れるという制度を利用して、玄瑞は藩の医学所である「好生館」の居寮生となった。身長は6尺(約180cm)ほどの長身で恰幅がよく、声が大きく美声であった。片目は少しスガメであった[3][4]

九州遊学から松下村塾入門へ
安政3年(1856年)、玄瑞は兄事する中村道太郎のすすめで九州に遊学する。九州各地の著名な文人を訪ね、名勝地を巡りつつ詩作にふける旅に出た。玄瑞がこの旅で作った詩は、のちに『西遊稿』としてまとめている[5]。熊本に宮部鼎蔵を訪ねた際、吉田松陰に従学することを強く勧められた[6]。玄瑞はかねてから、亡兄の旧友である月性上人から松陰に従学することを勧められており、久坂は萩に帰ると松陰に手紙を書き、松陰の友人の土屋蕭海を通じて届けてもらった[7]

まず玄瑞が松陰に送った手紙の内容は、「弘安の役の時の如く外国の使者を斬るべし。そうすれば、必ず米国は来襲する。来襲すれば、綱紀の緩んだ武士達も覚醒し、期せずして国防も厳重になるであろう」という意見であった[8]。しかし松陰は、玄瑞の手紙をそのまま送り返し、その欄外に「あなたの議論は浮ついており、思慮も浅い。至誠より発する言葉ではない。私はこの種の文章を憎みこの種の人間を憎む。アメリカの使節を斬るのは今はもう遅い。昔の死んだような事例をもとに、現在のまったく違った出来事を解決しようということを思慮が浅いと言うのだ。つまらぬ迷言を費すよりも、至誠を積み蓄えるべきだ。実践を抜きにした言説は駄目だ」と書いて玄瑞の論を酷評した[9]

だが、松陰が玄瑞に痛烈な批判を加えたのは考えがあってのことだった。玄瑞を紹介した土屋への手紙に松陰は、「久坂の士気は平凡ではない。何とか大成させようと思い、力をこめて弁駁しました。これで激昂して反駁してくる勢いがあれば、私の本望です。もし、これでうわべを繕って受け入れたふりをするような人ならば、私の見込み違いであったというべきでしょう。」と玄瑞を試していたのであった[10]。玄瑞は猛然と反駁した。「米英仏が強いことは昔の朝鮮の如きとは比較にならない。米英仏の巨大な戦艦と大砲、鉄砲には我が国は太刀打ちできない。だからといって座して国が亡びるのを待つのは如何なものであろうか。まず守りを固めるべきである。」「あなたの不遜な言説では私は屈しない」「もしあなたがこのような罵詈、妄言、不遜をなす男ならば、先に宮部殿があなたを称賛したのも、私があなたを豪傑だと思ったのも、誤りであったようだ。私は手紙に対して、憤激のあまり拳を手紙に撃ちつけてしまった。」と書いた[11]

松陰はすぐに返事はせずに約1カ月の間をおいて筆を執った。「今や幕府は諸外国と条約を結んでしまった。それがだめだといっても、我が国から断交すべきではない。国家間の信義を失うことは避けなければならない。外国とは平穏な関係を続けながら、我が国の力を蓄え、アジア、中国、インドと手を携えたのちに欧米諸国と対峙すればいい。あなたは一医学生でありながら空論を弄び、天下の大計を言う。あなたの滔々と語る言説はただの空論だ。一つとしてあなたの実践に基づくものはない。すべて空論である。一時の憤激でその気持ちを書くような態度はやめよ。」と返書した[12]

しかし、三度玄瑞は反論の筆を執った。「外国人との交易はどちらを利しているのか」「人心は現状を保つことに汲々としているが、武器はいつ備えるのか。士気はいつ高まるのか。危急存亡について誰が考えているのか」と食い下がった[13]。これに対して松陰の3度目の返信は、それまでとはうってかわって、「あなたが外国の使いを斬ろうとするのを空論と思っていたのは間違いだった。今から米使を斬るようにつとめてほしい。私はあなたの才略を傍観させていただこう。私の才略はあなたにとうてい及ばない。私もかつてはアメリカの使いを斬ろうとしたことがあるが、無益であることをさとってやめた。そして、考えたことが手紙に書いたことである。あなたは言葉通り、私と同じにならないように断固としてやってほしい。もし、そうでないと、私はあなたの大言壮語を一層非難するであろう。」と書いた[14]

松陰は玄瑞に実践を求めたのであったが、玄瑞に米使を斬る手だてはなかった。ここに両者の議論に決着がついた。このやりとりの後しばらくして玄瑞は、翌安政4年(1857年)晩春、正式に松門に弟子入りした。

松下村塾では晋作と共に「村塾の双璧」、晋作・吉田稔麿入江九一と共に「松門四天王」といわれた。松陰は玄瑞を長州第一の俊才であるとし、晋作と争わせて才能を開花させるよう努めた。そして、安政4年(1857年)12月5日、松陰は自分の妹・を玄瑞に嫁がせた。

尊王攘夷運動
安政6年(1859年)10月、安政の大獄によって松陰が刑死した。

文久元年(1861年)12月、玄瑞は、松下村塾生を中心とした長州志士の結束を深めるため、一灯銭申合を創った(参加者は桂小五郎、高杉晋作、伊藤俊輔山縣有朋ら24名)。

文久元年頃から玄瑞と各藩の志士たちと交流が活発となり、特に長州、水戸、薩摩、土佐の四藩による尊攘派同盟の結成に向けて尽力し、尊王攘夷運動、反幕運動の中心人物となりつつあった[15]

文久元年初めから藩論は、長井雅楽の「航海遠略策公武合体」に傾きつつあり、5月23日、藩主は長井に、朝廷に参内させ攘夷論の朝廷を説得せしめることに成功した。しかし、これに対し玄瑞は以下の観点から反駁した[16]

一点目は経済の観点から、「今の通商は亡国への道である。売るものがなく、買うばかりの一方的な貿易で年々多くの国幣を失っている。物価は高騰し、国民は塗炭の苦しみの中にある。貿易を盛んにする前に、国産の開発が大いになされなければならない」。


二点目は幕府を助けることのみに終わるという観点から、「最終的には我が国は海外へ出ていかなければならないのはわかっている。先師(松陰)の考えもそうだった。だが、それが幕府を助け天朝を抑えることになってはならない。いずれは万里の外へ航海に乗り出す策を立てねばならないのは当然だ。しかし、今回対馬を占領されており、これだけの凌辱を受けながら、その罪も正さず、頭を垂れて尻尾を振って、航海に乗り出しても武威の高まることはないと思う。先日、佐久間象山を訪ねたが、同じ航海説でも「力を計り勝ちを計る」という考えで、大人物かつ発想に秀でており、戦を恐れて航海を唱える者と同じ土俵で論ずるべきではない」。


玄瑞は長井に何度を議論を挑み、また藩主への具申をしたが、藩論は覆ることはなかった。文久元年、公武合体の考えに沿うように和宮の降嫁が実現した。

このような中、玄瑞は全国の「草莽の志士糾合」に賭けざるを得なくなる。文久2年(1862年)正月14日、坂本龍馬が剣道修行の名目で、武市半平太の書簡を携え、玄瑞との打ち合わせのため萩へ来訪した。馬関の豪商白石正一郎と結び、白石宅をアジトにして、薩摩の西郷隆盛、土佐の吉村寅太郎、久留米、筑前の志士たちとも謀議を重ねた。松門の同志は血盟を交わし、桂小五郎は、繰り返し藩主親子、藩の重臣たちに、長井雅楽弾劾を具申し続けた。4月、玄瑞は同志と共に上京し、長井の弾劾書を藩に提出する。6月、玄瑞は長井要撃を試みるが襲撃の時機を逸したため、藩に長井への訴状も兼ねて待罪書を提出するも、京都にて謹慎となる。しかし、桂小五郎らは攘夷をもって幕府を危地に追い込む考えで、藩主・毛利敬親に対し攘夷を力説し、7月6日、長井失脚に成功した[17]

廻瀾條議と解腕痴言
玄瑞は謹慎中の文久2年(1862年)8月、『廻瀾條議』と名付けた建白書を藩主に上提した。これが藩主に受け入れられ、長州藩の藩論となる。藩論は航海遠略策を捨て、完全に尊王攘夷に変更された(長井は翌年2月自刃を命ぜられた)。また翌月には、全国の尊攘派同士に向けた実践綱領の書『解腕痴言』を書いた。

『廻瀾條議』と『解腕痴言』は、結局「西洋の強大な武力に屈服する形で開国するのではなく、対等に交渉する気力を奮い起こすべきであり、それによって国力を回復させ、軍備を整えた後、対等な立場で条約締結に及ぶ」という意見であった。これは師松陰の開国的攘夷論を踏まえたものであるが、他方、「攘夷」という主張は、政権を幕府から朝廷へ回復させる倒幕という目的からも有効であると玄瑞は力説した[18][19]。|『廻瀾條議』の要点は次の通りである[20]


(1)汚名を蒙って処刑された吉田松陰の遺骸を改葬して、その「忠烈節義」「殉国の志」を顕彰し、藩内で誰の意見が正しくまた邪であったかをはっきりさせること。

(2)安政五年の修好通商条約をはじめ幕府の怯懦な方策により、日本が将来植民地同様となる危機が生じており、その責任を負うべき井伊直弼以下の閣僚はさらに安政の大獄という暴虐の責めをも負うべきで、厳罰に処さねばならない。

(3)下田の和親条約までは良く、安政五年の条約はすべて下田の条約にまで引き戻し、外国貿易は長崎、下田、函館の三港に限ること。

(4)安政五年の条約は違勅の大罪をも犯しており、「大義をもって論ぜば」幕府を「誅戮殲滅」させてもいいのだが、朝廷が「ご寛容」に将軍の過誤を改める機会を与えられたのだから、「長薩二藩」が「督責」して条約に関する処罰や下田条約への引き戻しをさせねばならない。

(5)朝廷に「御政事所」を設け、ちくいち重要政務を幕府から奏聞させ、また、「御親兵」を置くなどして、ゆくゆくは「天下の御威権」を「朝廷に帰」すべきだが、ものごとには順序が大切であり、まず先の項(4)を実現するようにもってゆき、もし「承服つかまつらず」は、「決闘死戦と御勇決猛断」をなされねばならない。

以上をなして、諸外国の様子を洞観し、海軍を充実させ士気を高めて積極的海外に雄飛せよ。


同年9月、謹慎を解かれた玄瑞は、早速活動を開始する。薩長土三藩有志の会合に出席し、攘夷御下命の勅使を激励する決議をなした。また、9月末には土佐の坂本龍馬福岡孝弟らと会い、三藩連合で近衛兵を創設する件を議した。10月、玄瑞は桂小五郎とともに、朝廷の尊王攘夷派の三条実美姉小路公知らと結び、公武合体派の岩倉具視らを排斥して、朝廷を尊攘化した。そして同年10月、幕府へ攘夷を督促するための勅使である三条実美・姉小路公知と共に江戸に下り、幕府に攘夷の実行を迫った。これに対し、将軍・徳川家茂は翌年上京し返答すると勅旨を受け取った。

イギリス公使館焼き討ち
江戸に着いた玄瑞は晋作と合流した。晋作は外国人襲撃を画策していたが、玄瑞は「そのような無謀の挙をなすよりも、同志団結し藩を動かし、正々堂々たる攘夷を実行するべき」と主張し、晋作と斬るか斬られるかの激論となった。それを井上聞多がうまく裁き、結局玄瑞も受け入れ、長州藩志士11名が襲撃を決行することとなった[21]。しかし報せを聞いた長州藩世子・毛利定広や三条実美らの説得を受け、中止に終わった。その後11名の志士は、御楯組を結成し血盟した。ちなみにその趣意精神を記した「気節文章」は玄瑞が書いたものである。そして12月、彼らは品川御殿山に建設中の英国公使館焼き討ちを実行した。

下関戦争と光明寺党、奇兵隊
文久2年12月、玄瑞は再び佐久間象山を訪ねるため、水戸を経て信州に入った。象山を長州藩に招聘するためだったが、象山は辞退した。しかし象山は、玄瑞を数日滞在させて助言を与える。翌文久3年の正月に、この助言を藩主に詳しく説明したところから、伊藤俊輔、井上聞多らの藩費によるイギリス留学が実現した[22]

文久3年(1863年)1月27日に京都翠紅館にて各藩士と会合する。2月21日には朝廷の攘夷決定にもかかわらず幕府が因循しているのため、玄瑞は関白鷹司輔煕の邸に推参し建白書を提出し、攘夷期限の確定を求めた。また、京都藩邸御用掛として攘夷祈願の行幸を画策した。これらが実現し、朝廷の指導権は長州が握ることとなった。

幕府は朝廷に御親兵をおくこと、攘夷期限を定めることを認めざるを得なくなり、3月には幕府より奉勅攘夷の決定が列藩に布告され、4月には攘夷期日を5月10日とする勅令が発せられた。

4月25日、玄瑞は帰藩し、5月10日に関門海峡を通航する外国船を砲撃する準備を整えるため、50人の同志を率いて馬関の光明寺を本陣とし、光明寺党を結成した。光明寺党は、他藩の士や身分にとらわれない草莽の士を糾合したものであり、その行動は藩意識を超脱したものだった。これを長州藩の玄関たる馬関の地で実行した[23]

この光明寺党が後の奇兵隊の前身となる。玄瑞は公卿中山忠光を首領として、久留米藩の真木和泉も加え、士卒の意気を高めた。5月10日から外国船砲撃を実行に移した(外国艦船砲撃事件)。

長州藩はアメリカ商船ベンブローク、フランス軍艦キャンシャン、オランダ艦メデューサへの攻撃を行ったが、長州藩の砲台では海峡の反対側を通る船舶には弾が届かないことが判明したため、玄瑞は、かつて松陰が書いた『水陸戦略』の「海戦は奇なり、陸戦は正なり、……夜中など賊船に潜み近づき、船腹を打ち貫き候様の術、……」に倣い、夜中に船で近づいて攻撃するという戦法を実行した[24]

この戦いで、長州藩の海防上の問題(旧式の青銅砲は射程が短く、外国間の報復攻撃の際に、門司側が無防備では十分な反撃ができないということ)が明らかになった。また、5月20日に朝廷の攘夷急進派の中心人物で長州藩の最も重要な後ろ盾であった姉小路公知国事参政が、何者かに暗殺された。そのため藩は5月28日、朝廷へのパイプの太い玄瑞を、朝廷への攘夷報告と対岸の小倉藩の協力要請のための使者に伴わせて京都に向かわせた[25]

6月1日、玄瑞ら長州藩は朝廷に攘夷の報告をし、朝廷から藩主への褒め詞を賜った。3日には、朝廷から各藩への攘夷趣旨貫徹の下達を請願した。朝廷は、5日に小倉藩へ通達。6日には列藩に対しても攘夷の趣旨が伝えられた。

攘夷実行と同時に起きた京都政界の急変に対応するため、入江九一を除き、光明寺党の中核をなしていた玄瑞、寺島忠三郎吉田稔麿野村靖ら松下村塾の門人たちはみな、京都、山口、馬関の間を駆け巡らなければならなくなった[26]

玄瑞が京都へ東上した頃、光明寺党の幹部と真木和泉、中山忠光白石正一郎らが話し合い、新しい隊を結成することとなった。光明寺党を基として、足軽、農民、町人、工匠等の希望者を募って、隊づくりが進行した[27]

しかし、玄瑞が京都で政治活動中の6月1日、5日に長州藩は、アメリカ艦、フランス艦から報復攻撃を受け、長州藩軍艦2隻が撃沈、砲台が破壊され、寺、民家を焼かれた。玄瑞不在の代理として藩は6月5日、討幕挙兵を唱えて謹慎中であった高杉晋作に馬関防衛を命じ、6月6日、晋作は現地に赴任し、奇兵隊の総管となった。『奇兵隊日記』によると、光明寺党が奇兵隊へ名称変更したのは、晋作が着任以前のことであることがわかる[28]

くわしいことは「
久坂玄瑞ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
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(wikiより)

187  Genzui_Kusaka

久坂玄瑞

187a

187b

187c

187d




通称東行
生年天保10年8月20日1839年9月27日
生地日本の旗 長門国(現在の山口県萩市)
没年慶応3年4月14日1867年5月17日
(満27歳没)
没地日本の旗 長門国下関(現在の山口県下関市)
活動尊王攘夷倒幕運動
長州藩
所属奇兵隊
受賞正四位
母校明倫館松下村塾
靖国神社

高杉 晋作
(たかすぎ しんさく、天保10年8月20日1839年9月27日〉- 慶應3年4月14日1867年5月17日〉)は、日本武士幕末長州藩尊王攘夷志士として活躍。奇兵隊など諸隊を創設し、長州藩を倒幕運動に方向付けた。

系譜と名前
高杉氏戦国時代以来、代々毛利氏に仕え藩政に関わる要職を歴任した家である。

晋作通称で、春風(はるかぜ)。他に東一、和助。暢夫(ちょうふ)。は楠樹、東行(とうぎょう)で、東行狂生、西海一狂生、東洋一狂生とも名乗った。ほかに些々などがある。変名を谷 潜蔵、谷 梅之助、備後屋助一郎、三谷和助、祝部太郎、宍戸刑馬、西浦松助など。のち、谷 潜蔵とも改名。

生涯
誕生
長門国萩城菊屋横丁(現在の山口県萩市)に長州藩士・高杉小忠太(大組・200)とミチ(道子・大西将曹の娘)の長男として生まれる。3人の妹がいたが、男子は晋作のみで跡取りとして大切に育てられた。

10歳のころに疱瘡を患う。祖父母ら家族の献身的な介抱で一命を取り留めるが、あばたが残った事から「あずき餅」と呼ばれた。漢学塾(吉松塾)を経て、嘉永5年(1852年)に藩校の明倫館に入学。柳生新陰流剣術も学び、のち免許を皆伝される。安政4年(1857年)には吉田松陰が主宰していた松下村塾に入り、久坂玄瑞吉田稔麿入江九一とともに松下村塾四天王と呼ばれた。安政5年(1858年)には藩命で江戸へ遊学、昌平坂学問所や大橋訥庵の大橋塾などで学ぶ。安政6年(1859年)には師の松陰が安政の大獄で捕らえられると伝馬町獄を見舞って、獄中の師を世話をするが、藩より命じられて萩に戻る途中で、松陰は10月に処刑される。万延元年(1860年11月に帰郷後、防長一の美人と言われた山口町奉行井上平右衛門(大組・250石)の次女・と結婚する。

留学
文久元年(1861年3月には海軍修練のため、藩の所蔵する軍艦「丙辰丸」に乗船、江戸へ渡る。神道無念流練兵館道場で剣術の稽古をした。8月には東北遊学を行い、加藤桜老佐久間象山横井小楠とも交友する。文久2年(1862年5月には藩命で、五代友厚らとともに、幕府使節随行員として長崎から中国上海へ渡航、欧米植民地となりつつある実情や、太平天国の乱を見聞して7月に帰国。日記の『遊清五録』に大きな影響を受けたことが記されている。

尊王攘夷運動
長州藩では、晋作の渡航中に俗論派の長井雅楽らが失脚、尊王攘夷(尊攘)派が台頭し、晋作も桂小五郎(木戸孝允)や久坂義助(久坂玄瑞)らとともに尊攘運動に加わり、江戸・京都において勤皇・破約攘夷の宣伝活動を展開し、各藩の志士たちと交流した。

文久2年(1862年)、晋作は「薩藩はすでに生麦に於いて夷人を斬殺して攘夷の実を挙げたのに、我が藩はなお、公武合体を説いている。何とか攘夷の実を挙げねばならぬ。藩政府でこれを断行できぬならば」と論じていた。折りしも、外国公使がしばしば武州金澤(金沢八景)で遊ぶからそこで刺殺しようと同志(高杉晋作、久坂玄瑞、大和弥八郎長嶺内蔵太志道聞多松島剛蔵寺島忠三郎有吉熊次郎赤禰幹之丞山尾庸三品川弥二郎[1] が相談した。しかし玄瑞が土佐藩武市半平太に話したことから、これが前土佐藩主・山内容堂を通して長州藩世子・毛利定広に伝わり、無謀であると制止され実行に到らず、櫻田邸内に謹慎を命ぜられる。

この過程で、長州藩と朝廷や他藩との提携交渉は、もっぱら桂や久坂が担当することとなる。文久2年12月12日には、幕府の違勅に抗議するため、同志とともに品川御殿山に建設中の英国公使館焼き討ちを行う。この事件の後、他の同志たちが次々と京都に向かうなか、晋作はそのまま江戸に居座り松蔭改葬などを済ませたが、京都にいる世子の命を受けた志道聞多が晋作を迎えに来て共に京都に向かった。京都に呼び寄せられた晋作は、藩が晋作に就かせようと考えていた朝廷側との交渉役である学習院用掛の役を辞退し、突然十年の暇を願い出た。それが許されると翌日には頭を丸めて僧形になってしまった。このとき晋作は「西へ行く人をしたひて東行くわが心をば神やしるらむ」と詠み、東行(とうぎょう)と号した。その後萩に帰り吉田松陰の生誕地である松本村にある小さな借家に妻と女中1人を引き連れて引っ越した。

下関戦争と奇兵隊創設
文久3年(1863年5月10日、幕府が朝廷から要請されて制定した攘夷期限が過ぎると、長州藩は関門海峡において外国船砲撃を行うが、逆にの報復に逢い惨敗する(下関戦争)。晋作は下関の防衛を任せられ、6月には廻船問屋白石正一郎邸において身分に因らない志願兵による奇兵隊を結成し、阿弥陀寺(赤間神宮の隣)を本拠とするが、9月には教法寺事件の責任を問われ総監を罷免された。

京都では薩摩藩会津藩が結託したクーデターである八月十八日の政変で長州藩が追放され、文久4年(1864年1月、晋作は脱藩して京都へ潜伏する。桂小五郎の説得で2月には帰郷するが、脱藩の罪で野山獄に投獄され、6月には出所して謹慎処分となる。7月、長州藩は禁門の変で敗北して朝敵となり、来島又兵衛は戦死、久坂玄瑞は自害した。

8月には、イギリスフランスアメリカオランダの4か国連合艦隊が下関を砲撃、砲台が占拠されるに至ると、晋作は赦免されて和議交渉を任される。晋作が24歳のときであった。交渉の席で通訳を務めた伊藤博文の後年の回想によると、この講和会議において、連合国は数多の条件とともに「彦島租借」を要求してきた。晋作はほぼすべての提示条件を受け入れたが、この「領土の租借」についてのみ頑として受け入れようとせず、結局は取り下げさせることに成功した(古事記を暗誦して有耶無耶にしたと言われる)。これは清国の見聞を経た晋作が「領土の期限付き租借」の意味するところ(植民地化)を深く見抜いていたからで、もしこの要求を受け入れていれば日本の歴史は大きく変わっていたであろうと伊藤は自伝で記している(ただし、このエピソードは当時の記録にはない[2])。

功山寺挙兵
詳細は「功山寺挙兵」を参照
幕府による第一次長州征伐が迫るなか、長州藩では幕府への恭順止むなしとする保守派(晋作は「俗論派」と呼び、自らを「正義派」と称した)が台頭し、10月には福岡へ逃れる。平尾山荘に匿われるが、俗論派による正義派家老の処刑を聞き、ふたたび下関へ帰還。12月15日夜半、伊藤俊輔 (博文) 率いる力士隊石川小五郎率いる遊撃隊長州藩諸隊を率いて功山寺で挙兵。のちに奇兵隊ら諸隊も加わり、元治2年(1865年3月には俗論派の首魁・椋梨藤太らを排斥して藩の実権を握る。

晋作は同月、海外渡航を試みて長崎でイギリス商人のグラバーと接触するが反対される。4月には、下関開港を推し進めたことにより攘夷・俗論両派に命を狙われたため、愛妾・おうのとともに四国へ逃れ、日柳燕石を頼る。6月に桂小五郎の斡旋により帰郷。

元治2年(1865年1月11日付で晋作は高杉家を廃嫡されて「育(はぐくみ)」扱いとされ、そして同年9月29日、藩命により谷潜蔵と改名する。慶応3年(1867年3月29日には新知100が与えられ、谷家を創設して初代当主となる。高杉本家の家督は末妹・の婿に迎えた春棋が継いだ。

四境戦争
再度の長州征討に備え、晋作は防衛態勢の強化を進めた。慶応2年(1866年1月21日(一説には1月22日)、彼が桂小五郎(後の木戸孝允)・井上聞多・伊藤俊輔たちとともに進めていた薩長盟約土佐藩坂本龍馬中岡慎太郎土方久元の仲介によって京都薩摩藩邸で結ばれた。

5月、伊藤俊輔とともに薩摩行きを命じられ、その途次長崎で蒸気船「丙寅丸」(オテントサマ丸)を購入している。

6月の第二次長州征伐(四境戦争)では海軍総督として「丙寅丸」に乗船し、戦闘指揮を執った。屋代島(周防大島)沖で幕府艦隊を夜襲してこれを退け、林半七率いる第二奇兵隊などと連絡して周防大島を奪還している。小倉方面では艦砲射撃の援護のもと奇兵隊・報国隊を門司・田ノ浦に上陸させて幕府軍を敗走させている。その後小倉城近くまで進撃したものの、肥後藩細川家の軍勢に撃退され戦況は停滞した。

しかし、7月20日将軍徳川家茂が死去すると、7月30日には肥後藩久留米藩柳川藩唐津藩中津藩が撤兵、幕府軍総督・小笠原長行も海路で小倉から離脱、残された小倉藩が8月1日小倉城に火を放ち逃走したため、幕府軍の敗北が決定的となった。幕府の権威は大きく失墜し、翌慶応3年(1867年)11月大政奉還へとつながることとなった。

その後、下関市桜山で肺結核の療養中、慶応3年4月13日1867年5月16日)深夜に死去。享年29(満27歳8ヶ月)。なお墓碑銘などで命日が14日とされているのは、長男の梅之進に谷家を相続させるために時間が必要だったためと考えられる[3]。 臨終には父・母・妻と息子がかけつけ、野村望東尼山県狂介田中顕助が立ち会ったとされる(ただし田中自身は当日は京にいたと日記に記している)。

栄典正四位1891年(明治24年)4月8日)。

墓所
墓所は山口県下関市吉田の東行庵にある。2016年4月に晋作の生前の遺言を刻んだ「墓誌碑」が建立された[4]

また木戸孝允・大村益次郎らによって東京招魂社(現在の靖国神社)に吉田松陰久坂玄瑞坂本龍馬中岡慎太郎たちとともに祀られた。

人物
・いわゆる辞世の歌について、
 ・「おもしろきこともなき世おもしろく」
 ・「おもしろきこともなき世おもしろく」

の両説あるが、晋作直筆になる歌が残されていないため、正確なところは不明。なお東行庵の句碑には「に」とあり、防府天満宮の歌碑では「を」となっている。古川薫の著書では「を」が採用されている一方、一坂太郎は「に」を採用し「『を』は後年の改作であろう」としている。その根拠として高杉家に伝えられた和装本では「こともなき世」とされており、この本は晋作直筆ではないものの晋作直筆本を写本したもとであることはほぼ確かで、原本と校合したと思われる朱筆も残っていることをあげている。[5]

かつては死の床にあった晋作が詠み、晋作を看病していた野村望東尼が「すみなすものは心なりけり」という下の句をつけたと言われていたが、近年の研究によればこの歌は死の前年にすでに詠まれていたという記録があり、正確には辞世ではないという説が有力である。

都々逸三千世界の鴉を殺し、主と添寝がしてみたい」(添寝の部分が『朝寝』とされていることもある)は一般に晋作の作であると言われている(木戸孝允作の説も有り)。この都々逸は、現在でも萩の民謡である「男なら」や「ヨイショコショ節」の歌詞として唄われている。

・師である吉田松陰は晋作の非凡さをいち早く見抜き、剣術ばかりであまり学業に本腰を入れない晋作を奮起させるために、あえて同門で幼馴染でもある優秀な久坂ばかりをべた褒めしたという。晋作は悔しさをバネに自身の非凡さを発揮。玄瑞と肩を並べお互いを切磋琢磨しあうなど、とても優秀であったという。

公金と私金の区別をつけない人物だった。藩の金で軍艦を二度、購入しようとしたこともある。

・一度日本に駐在していた英国人兵に頼まれて刀を見せたことがあったが、武士の魂ともいえる刀を物めずらしいと何度も見せてくれと言われ、そのことを遺憾に感じた晋作はそれ以後決して見せることはなかったという。

・晋作が上海で購入したS&Wモデル2アーミー 33口径6連発を坂本龍馬に贈ったとの逸話がある。龍馬が手紙に「かの高杉より送られ候ビストールをもって打ち払い」と述べているように、晋作から龍馬にピストルが贈られたことは確かなようだが、このピストルが実際に上海で購入されたものという確証はない。一坂太郎は晋作が上海でピストルを購入してから龍馬に贈るまでの約二年半の間に長州藩では武器の密輸が行われ、晋作も密輸されたピストルを一挺個人で購入していることをあげ、龍馬に贈られたピストルは「上海土産」ではなくこの頃に入手したものである可能性も否定できないとしている。

・のちに伊藤博文彦島の前を船で通過した際、「あのとき高杉が租借問題をうやむやにしていなければ、彦島は香港になり、下関は九龍半島になっていただろう」と語っている。

言動
「死すべきときに死し、生くべき時に生くるは英雄豪傑のなすところである。両三年は軽挙妄動せずして、専ら学問をするがよい。その中には英雄の死すべき時が必ず来る」[6]

「およそ英雄というものは変なき時は非人乞食となって潜れ。変ある時に及んで龍の如くに振舞はねばならない」[6]

「男子と言うものは困ったと言うことを決して言うものではない。これは自分が父から平生やかましく言われたことであるが、困ったと言う時は死ぬ時である。どんな難局に處しても、何困らぬと言う気概でやっておると、自づと通づるものである。どんな難局にも必ず逃れ路がある。行き当れば曲り路ありと言う訳である。断じて困らぬと言う気概でやっていれば必ず道はつくものである。だから困ったという一言だけは決して口にしてはいけない」
[6]


詳しいことは「高杉晋作ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%9D%89%E6%99%8B%E4%BD%9C
(wikiより)

177 高杉晋作

高杉晋作

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吉田大助の妻。

松陰の実母。

夫の没後は実家・森田家に寄寓。

松陰を常に見守り、死後も墓参をかかさず供養に努めた。

明治五年 ( 1872 )没 行年五十九才。
(案内板より)

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通称吉田寅次郎
生年文政13年8月4日1830年9月20日
生地日本の旗 長門国
没年安政6年10月27日1859年11月21日
満29歳没
没地日本の旗 江戸
思想尊王攘夷
活動倒幕
長州藩
投獄野山獄、伝馬町牢屋敷
裁判斬罪(罪状:老中暗殺を計画)
刑場伝馬町牢屋敷
受賞正四位[1]
桜山神社松陰神社靖国神社

吉田 松陰[注 1](よしだ しょういん、文政13年8月4日1830年9月20日〉 - 安政6年10月27日1859年11月21日〉)は、江戸時代後期の日本武士長州藩士)、思想家教育者山鹿流兵学師範。明治維新の精神的指導者理論者。「松下村塾」で明治維新に重要な働きをする多くの若者へ影響を与えた。

名前
吉田 松陰[注 1](よしだ しょういん、文政13年8月4日1830年9月20日〉 - 安政6年10月27日1859年11月21日〉)は、江戸時代後期の日本武士長州藩士)、思想家教育者山鹿流兵学師範。明治維新の精神的指導者理論者。「松下村塾」で明治維新に重要な働きをする多くの若者へ影響を与えた。

文に曰く、二十一回猛子と、忽ち覚(さ)む。因て思ふに杉は二十一の象あり。吉田の字も亦二十一回の象あり。我が名は寅、寅は虎に属す。虎の特は猛なり。

                  — 吉田松陰全集 第1巻(岩波書店,1940)

二十一回猛子の「二十一」の由来は、杉の木を分解すると「十」と「八」で18、三(さんづくり)が3で計21。吉田は士と十で21、ロと口で回という意味である[2]

生涯
文政13年(1830年)8月4日(西曆9月20日)、長州萩城下松本村(現・山口県萩市)で長州藩士・杉百合之助の次男として生まれる。天保5年(1834年)、叔父で山鹿流兵学師範である吉田大助養子となり、兵学を修める。天保6年(1835年)に大助が死亡したため、同じく叔父の玉木文之進が開いた松下村塾で指導を受けた。9歳のときに明倫館の兵学師範に就任。11歳のとき、藩主・毛利慶親への御前講義の出来栄えが見事であったことにより、その才能が認められた。13歳のときに長州軍を率い西洋艦隊撃滅演習を実施。15歳で山田亦介より長沼流兵学の講義を受け、山鹿流、長沼流の江戸時代の兵学の双璧を収めることとなった。松陰は子ども時代、父や兄の梅太郎とともに畑仕事に出かけ、草取りや耕作をしながら四書五経の素読、「文政十年の詔」[注 2]「神国由来」[注 3]、その他頼山陽の詩などを父が音読し、あとから兄弟が復唱した。夜も仕事をしながら兄弟に書を授け本を読ませた[3]


嘉永
3年(1850年)9月、九州平戸藩に遊学し、葉山左内(1796-1864)のもとで修練した[4]。葉山左内は海防論者として有名で、『辺備摘案』を上梓し、阿片戦争で清が敗北した原因は、紅夷(欧米列強)が軍事力が強大であったことと、アヘンとキリスト教によって中国の内治を紊乱させたことにあったとみて、山鹿流兵学では西洋兵学にかなわず、西洋兵学を導入すべきだと主張し、民政・内治に努めるべきだと主張していた[4]。松蔭は葉山左内から『辺備摘案』や魏源著『聖武記附録』を借り受け、謄写し、大きな影響を受けた[4]


ついで、松蔭は江戸に出て、砲学者の豊島権平や、安積艮斎山鹿素水、古河謹一郎、佐久間象山などから西洋兵学を学んだ[4]嘉永4年(1851年)には、交流を深めていた肥後藩宮部鼎蔵山鹿素水にも学んでいる[5]


嘉永
5年(1852年)、宮部鼎蔵らと東北旅行を計画するが、出発日の約束を守るため、長州藩からの過書手形通行手形)の発行を待たず脱藩。この東北遊学では、水戸会沢正志斎と面会、会津日新館の見学を始め、東北の鉱山の様子などを見学した。秋田では相馬大作事件の現場を訪ね(盛岡藩南部家の治世を酷評している)、津軽では津軽海峡を通行するという外国船を見学しようとした。 山鹿流古学者との交流を求め訪問した米沢では、「米沢領内においては教育がいき届き、関所通過も宿泊も容易だった。領民は温かい気持ちで接し、無人の販売所(棒杭商)まである。さすがに御家柄だ[注 4]」と驚いている[6][注 5]。江戸に帰着後、罪に問われて士籍剥奪・世禄没収の処分を受けた。


嘉永6年(1853年)、ペリー浦賀に来航すると、師の佐久間象山と黒船を遠望観察し、西洋の先進文明に心を打たれた。このとき、同志である宮部鼎蔵に書簡を送っている。そこには「聞くところによれば、彼らは来年、国書の回答を受け取りにくるということです。そのときにこそ、我が日本刀の切れ味をみせたいものであります」と記されていた[7]。その後、師の薦めもあって外国留学を決意。同郷で足軽の金子重之輔長崎に寄港していたプチャーチンロシア軍艦に乗り込もうとするが、ヨーロッパで勃発したクリミア戦争イギリスが参戦したことから同艦が予定を繰り上げて出航していたために果たせなかった。1853年旧暦8月に、藩主に意見書「将及私言」を提出し、諸侯が一致して幕府を助け、外寇に対処することを説いた。


嘉永7年(1854年)、ペリーが日米和親条約締結のために再航した際には、金子重之輔と2人で、海岸につないであった漁民の小舟を盗んで下田港内の小島から旗艦ポーハタン号に漕ぎ寄せ、乗船した。しかし、3月27日渡航は拒否されて小船も流されたため、下田奉行所に自首し、伝馬町牢屋敷に投獄された[注 6]。幕府の一部ではこのときに象山、松陰両名を死罪にしようという動きもあったが、川路聖謨の働きかけで老中の松平忠固老中首座の阿部正弘が反対したために助命、国許蟄居となった(9月18日)。長州へ檻送されたあとに野山獄に幽囚された。ここで富永有隣高須久子と知り合い、彼らを含め11名の同囚のために『論語』『孟子』を講じ、それがもととなって『講孟余話』が成立することになる[8]。この獄中で密航の動機とその思想的背景を『幽囚録』に記した。


安政2年(1855年)に出獄を許されたが、杉家に幽閉の処分となる。


安政3年8月22日(1856年9月20日)、禁固中の杉家において「武教全書」の講義を開始した[9]


安政4年(1857年)に叔父が主宰していた松下村塾の名を引き継ぎ、杉家の敷地に松下村塾を開塾する。この松下村塾において松陰は久坂玄瑞高杉晋作伊藤博文吉田稔麿入江九一前原一誠品川弥二郎山田顕義野村靖渡辺蒿蔵、河北義次郎などの面々を教育していった[注 7]山縣有朋桂小五郎は松陰が明倫館時代の弟子であり、松下村塾には入塾していない)。なお、松陰の松下村塾は一方的に師匠が弟子に教えるものではなく、松陰が弟子と一緒に意見を交わしたり、文学だけでなく登山や水泳なども行うという「生きた学問」だったといわれる。


安政5年(1858年)、幕府が無勅許で日米修好通商条約を締結したことを知って激怒し、間部要撃策を提言する。間部要撃策とは、老中首座間部詮勝孝明天皇への弁明のために上洛するのをとらえて条約破棄と攘夷の実行を迫り、それが受け入れられなければ討ち取るという策である。松陰は計画を実行するため、大砲などの武器弾薬の借用を藩に願い出るも拒絶される。次に伏見にて、大原重徳と参勤交代で伏見を通る毛利敬親を待ち受け、京に入る伏見要駕策への参加を計画した。 しかし野村和作らを除く、久坂玄瑞、高杉晋作や桂小五郎ら弟子や友人の多くは伏見要駕策に反対もしくは自重を唱え、松陰を失望させた。松陰は、間部要撃策や伏見要駕策における藩政府の対応に不信を抱くようになり草莽崛起論を唱えるようになる[10]。さらに、松陰は幕府が日本最大の障害になっていると批判し、倒幕をも持ちかけている。結果、長州藩に危険視され、再度、野山獄に幽囚される。


安政6年(1859年)、梅田雲浜が幕府に捕縛されると、雲浜が萩に滞在した際に面会していることと、伏見要駕策を立案した大高又次郎平島武次郎が雲浜の門下生であった関係で、安政の大獄に連座し、江戸に檻送されて伝馬町牢屋敷に投獄された。評定所で幕府が松陰に問いただしたのは、雲浜が萩に滞在した際の会話内容などの確認であったが、松陰は老中暗殺計画である間部要撃策を自ら進んで告白してしまう[11]。この結果、松陰に死罪が宣告され、安政6年10月27日グレゴリオ暦1859年11月21日)、伝馬町牢屋敷にて執行された。享年30(満29歳没)。

ゆかりの地
・故郷である山口県萩市には、誕生地、投獄された野山獄、教鞭をとった松下村塾があり、死後100日目に遺髪を埋めた遺髪塚である松陰墓地(市指定史跡)、明治23年(1890年)に建てられた松陰神社(県社)がある。ほかにも、山口県下関市桜山神社には、高杉晋作発案で招魂墓がある。
・静岡県下田市には、ペリー艦隊へ乗艦し密航を試みた場所であり、数多くの吉田松陰に関する史跡が点在している。
・処刑直後に葬られた豊国山(ほうこくさん)回向院。小塚原回向院とも(東京都荒川区)の墓地に現在も墓石が残る。
・文久3年(1863年)に改葬された東京都世田谷区若林の現在の墓所には、明治15年(1882年)に松陰神社が創建された。若林は吉良氏の領地であり[注 8]、長州藩はその領内に土地を購入し自前で藩別邸を持った。
・松陰が収容されていた伝馬町牢屋敷跡の「十思公園(東京都中央区日本橋小伝馬町)」には「吉田松陰終焉乃地碑」と「留魂碑」がある。
・松陰が弟子の金子重之輔を従えてペリー艦隊を見つめている姿を彫刻したという銅像が、山口県萩市椿東の吉田松陰誕生地にある。題字は、佐藤栄作が書いた。
・松陰は嘉永4年(1851年)12月19日から翌年1月20日にかけて水戸の永井政介宅に約1カ月余り滞在している。その際、会沢正志斎、豊田天功等に師事、また、水戸の青年有志と交わり水戸の学問の真髄を学んだといわれる。松陰が滞在した永井政介宅跡に石碑は建てられている。
・嘉永5年、長州藩を脱藩して東北旅行に出かける途中、追っ手をおそれた松陰は松戸宿から東北に半里離れた山中に分け入り、本郷村(松戸市上本郷)の本福寺の門を叩いて一晩の宿を得た。その翌日、村の子供たちを集めて講義をしたという。本福寺には「吉田松陰脱藩の道」の碑が建てられている。
・山形県米沢市粡町(あらまち)辻西には「吉田松陰宿泊の地」石碑がある。松陰は山鹿流古学や蘭学の高橋玄勝(はるまさ)らと交流があった。領内視察を行ない、上杉家治世を称賛した記録が萩に現存する。

思想
一君万民論
「天下は万民の天下にあらず、天下は一人の天下なり」と主張して、藩校明倫館の元学頭・山県太華と論争を行っている。「一人の天下」ということは、国家は天皇が支配するものという意味であり、天皇の下に万民は平等になる。

飛耳長目
塾生には、常に情報を収集し将来の判断材料にせよと説いた。これが松陰の「飛耳長目(ひじちょうもく)」である。自身東北から九州まで脚を伸ばし各地の動静を探った。萩の野山獄に監禁後は、弟子たちに触覚の役割をさせていた。長州藩に対しても主要藩へ情報探索者を送り込むことを進言し、また江戸や長崎に遊学中の者に「報知賞」を特別に支給せよと主張した。松陰の時代に対する優れた予見は、「飛耳長目」に負うところが大きい。

草莽崛起
詳細は「草莽」を参照

「草莽(そうもう)」は『孟子』においては草木の間に潜む隠者を指し、転じて一般大衆を指す。「崛起(くっき)」は一斉に立ち上がることを指し、「在野の人よ、立ち上がれ」の意。


安政の大獄で収監される直前(安政6年(1859年)4月7日)、友人の北山安世に宛てて書いた書状の中で「今の幕府も諸侯も最早酔人なれば扶持の術なし。草莽崛起の人を望む外頼なし。されど本藩の恩と天朝の徳とは如何にして忘るゝに方なし。草莽崛起の力を以て、近くは本藩を維持し、遠くは天朝の中興を補佐し奉れば、匹夫の諒に負くが如くなれど、神州の大功ある人と云ふべし」と記して、初めて用いた。

対外思想
『幽囚録』で「今急武備を修め、艦略具はり礟略足らば、則ち宜しく蝦夷を開拓して諸侯を封建し、間に乗じて加摸察加(カムチャッカ)・隩都加(オホーツク)を奪ひ、琉球に諭し、朝覲会同すること内諸侯と比しからめ朝鮮を責めて質を納れ貢を奉じ、古の盛時の如くにし、北は満州の地を割き、南は台湾、呂宋(ルソン)諸島を収め、進取の勢を漸示すべし」と記し、北海道(当時の蝦夷地)の開拓、琉球王国(現在の沖縄県。当時は半独立国であった)の日本領化、李氏朝鮮の日本への属国化、そして当時は領だった満洲台湾・「スペイン領東インド」と呼ばれていたフィリピンロシア帝国領のカムチャツカ半島オホーツク海沿岸という太平洋北東部沿岸からユーラシア大陸内陸部にかけての領有を主張した。その実現に向けた具体的な外交・軍事策を松陰は記さなかったものの、松下村塾出身者の何人かが明治維新後に政府の中心で活躍したため[注 9]、松陰の思想は日本のアジア進出の対外政策に大きな影響を与えることとなった。

吉田松陰に影響を与えた中国の思想家
魏源
清代の思想家。アヘン戦争でイギリスと対峙した清の政治家林則徐の側近。則徐が戦時下で収集した情報をもとに東アジアにおける当時の世界情勢を著した『海国図志』の中で、魏は「夷の長技を師とし以て夷を制す」と述べ、外国の先進技術を学ぶことでその侵略から防御するという思想を明らかにしており、松陰の思想に影響を与えたとされる。

王陽明
松陰は王が創始した陽明学に感化され、自ら行動を起こしていく。『伝習録』は陽明学の入門書として幕末日本でも著名であった。

文天祥
南宋末期の軍人。松陰の生き方、死に方もまさしく文天祥そのものであり、松陰は自作の「正気の歌」を作って歌っている。この「正気の歌」の思想が幕末・明治維新の尊王攘夷の思想になり、それが昭和の軍人たちにまでつながった[12]

語録
・立志尚特異 (志を立てるためには人と異なることを恐れてはならない)
・俗流與議難 (世俗の意見に惑わされてもいけない)
・不思身後業 (死んだ後の業苦を思い煩うな)
・且偸目前安 (目先の安楽は一時しのぎと知れ)
・百年一瞬耳 (百年の時は一瞬に過ぎない)
・君子勿素餐 (君たちはどうかいたずらに時を過ごすことなかれ)
・至誠にして動かざる者は未だこれ有らざるなり(本当の誠実さを持ちながら行動を伴わない人はいない、本物の誠実さがあるというのであれば、行動しなさい)

志を立てて以って万事の源となす

志士は溝壑に在るを忘れず

万巻の書を読むに非(あら)ざるよりは、寧(いずく)んぞ
   一己(いっこ)の労を軽んずるに
非ざるよりは、寧んぞ兆民の安きを致すを得ん。

仁とは人なり。人に非ざれば仁なし、禽獣これなり。
仁なければ人に非ず。禽獣に近き是なり。
必ずや仁と人と相合するを待ちて道と云うべし。

仮令獄中にありとも敵愾(てきがい)の心一日として忘るべからず。
苟(いやしく)も敵愾の心忘れざれば、一日も学問の切磋怠るべきに非ず。

己に真の志あれば、無志はおのずから引き去る
恐るるにたらず

凡そ生まれて人たらば宜しく人の禽獣に異なる所以を知るべし

体は私なり、心は公なり
公を役にして私に殉う者を小人と為す

人賢愚ありと雖も各々一二の才能なきはなし
湊合して大成する時は必ず全備する所あらん

死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし
生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし

先生から何のために学問するかと問われた事を記憶す。先生曰く、学者になるのはつまらない。
学者になるには本を読みさえすれば出来る。学問するには立志という事が大切である。[13]     

詳しいことは「吉田松陰ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%94%B0%E6%9D%BE%E9%99%B0
(wikiより)

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吉田松陰

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安政四年 ( 1857 ) から松陰の兵学門下生。

下関の外国艦隊砲撃に参加。

元治元年 ( 1864 ) 禁門の変にて重傷を負い自刃。

行年 十九歳
(案内板より)

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時代江戸時代末期(幕末
生誕天保4年9月2日1833年10月14日
死没元治元年11月11日1864年12月9日
改名:兼施(かねのぶ)→親施
別名仮名:右衛門介(うえもんのすけ)、号:霜台、翠山、通称:幾三郎、越中、弾正
戒名高正院大義全明
墓所笠松山麓
幕府江戸幕府
長州藩
父母父:益田元宣、母:益田房清の娘・孝子
兄弟親興親施、房子
精祥、養子:益田親祥

益田 親施(ますだ ちかのぶ)は、江戸時代末期(幕末)の長州藩士。益田家第33代当主。長州藩永代家老・須佐領主益田家14代。益田元宣の三男。通称右衛門介(うえもんのすけ)。

は初め兼施(かねのぶ)、後に長州藩主毛利敬親より偏諱の授与を受けて親施と名乗る。

生涯
天保4年(1833年)9月2日、益田元宣の三男として生まれる。母は益田房清の娘・孝子。


嘉永
2年(1849年)、父・元宣が死去し、兄の親興(ちかおき)も既に亡くなっていたため、家督を継いだ。同年、吉田松陰の山鹿流兵学に入門。嘉永6年(1853年)、アメリカ合衆国マシュー・ペリーが浦賀に来航すると、浦賀総奉行として着任する。安政3年(1856年)には長州藩の国家老となった。安政5年(1858年)、通商条約問題が起こると、益田は周布政之助らと共に朝廷の意思に従って攘夷を決行すべきと江戸幕府に提言し、「朝廷に対しては忠節、幕府に対しては信義、祖先には孝道」という藩の三大原則を打ち出した。


文久
3年(1863年)には上洛して孝明天皇に謁見し、真木保臣らと共に過激な尊皇攘夷に走ろうとした。しかし同年の八月十八日の政変で長州をはじめとする尊皇攘夷派が京都から追放されると、益田は七卿落ちで朝廷から追放された7人の公卿と共に長州に帰国した。その後、失った勢力を取り戻すため、翌元治元年(1864年)に上洛、福原元僴国司親相久坂玄瑞来島又兵衛らと共に出陣して長州軍の指揮を執るが、薩摩藩会津藩連合軍の前に敗れ(禁門の変)、長州に帰国した。


そして責任を取る形で領地の阿武郡須佐に引き込んだが、同年に行なわれた第一次長州征伐で、幕府軍より益田に責任が問われて、徳山藩に身柄を預けられた後、11月11日、惣持院にて切腹を命じられ、自刃した。享年32。


この時、実子の精次郎(後の精祥)は3歳とまだ幼少であったため、妹・房子の夫となった桂親澄改め益田親祥が中継ぎの当主として家督を継承するが、結局翌慶応元年(1865年)3月に精次郎が家督を相続している。

関連作品
天皇の世紀 - 演:宮川洋一 (ABCテレビ国際放映、1971年)
白虎隊 - 演:荒木茂 (日本テレビ年末時代劇スペシャル、1986年)
白虎隊 - 演:並木史朗 (テレビ朝日、2007年)

関連項目
長州藩の家臣団     
(wikiより)


163 益田右衛門介

益田右衛門介

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時代江戸時代末期(幕末
生誕文化12年8月28日1815年9月30日
死没元治元年11月12日1864年12月10日
別名福原越後、福原徴之助、佐世主殿、号:翠崖
戒名隆文院願堂全忠居士
墓所山口県宇部市宗隣寺
官位越後守
幕府江戸幕府
主君毛利斉熙斉元斉広慶親
長州藩
氏族大江姓毛利氏宇多源氏佐々木氏佐世氏→大江姓福原氏
父母父:毛利広鎮、母:不詳
養父:佐世親長福原親俊
兄弟雅太郎、寛之進、鋭三郎、雍五郎、堅田元琦、元蕃秋元志朝定広(元徳)、他多数
正室:椙森元周の娘
彦七、養子:良通 (粟屋氏より)


福原 元(ふくばら もとたけ)は、江戸時代末期(幕末期)の長州藩の永代家老。通称は越後で、福原越後として知られる。


長州藩支藩である周防徳山藩毛利広鎮の六男で、最後の長州藩主となる毛利元徳の実兄である。

生涯
文化12年(1815年)8月28日生まれ。六男であるために家督を継ぐことはできず、12歳の頃に長州藩寄組佐世親長益田就恭の実弟)の養子となる。「元」の字はこの頃の藩主・毛利斉元(在任:1824年 - 1836年)から偏諱を受けたものと推測される。


嘉永
4年(1851年)、家老に昇進するが、大名の子の養子先としては家格が低すぎることから[1]安政5年(1858年)に藩命で長州藩で代々家老職を継ぐ家柄の福原親俊(伯父・福原房純の孫)の家督を継承した[2]


万延
元年(1860年)に国家老として藩主・毛利慶親(斉元の子、後の敬親)を補佐し、尊王攘夷運動を推進する[3]文久3年(1863年)に廃止された最後の当職(財務を統括する家老職)[4]を務めており、当職廃止後も加判役として藩政の中枢に残った。後述の長州軍上洛に至る政務において、どのような権限を持ち政務を行ったかは定かでは無いものの、在職期間から考えて、航海遠略策の進言・藩是転換(奉勅攘夷・破約攘夷の提案・実行)などの政策で責任者のひとりであった可能性が高い[5]


同年、八月十八日の政変で長州藩が京都から追放されると、元治元年(1864年)に来島又兵衛久坂玄瑞らと協力して挙兵し、上京して禁門の変を引き起こした。元は伏見長州藩邸に布陣した長州藩主力軍の総大将として伏見街道を進むが、途中で交戦した大垣藩勢の銃撃で負傷、敗退して帰国した。


その後、幕府による第1次長州征伐が起こると、藩内では保守派である俗論党が主導権を掌握してしまう。元は禁門の変で敗れて逃げ戻ったという経緯があったため、保守派の意向に逆らうことができず、西郷隆盛の要求により国司親相益田親施と共に禁門の変、並びに長州征伐の責任を取る形で、同年11月12日に岩国の龍護寺で自害した(享年50)。首級は他の家老らの首級と共に幕府側に送られた。


辞世の句
:くるしさは 絶ゆるわが身の夕煙 空に立つ名は 捨てがてにする

死後
慶応2年(1866年)8月に罪状焼棄の命が下り、藩主に背いた不忠不義との汚名は破棄され、11月に完成した維新招魂社(現・宇部護国神社)の主神として遷座された。


養嗣子は福原姓を憚って鈴尾五郎(後に毛利敬親の1字を受けて鈴尾親徳)[6]と名乗ったが、後に復姓して福原良通と名乗った。また、佐世家に養子へ出された時に側室との間に実子彦七が生まれ、文久2年(1862年)に彦七と井上馨の妹孝子との間に孫栄太郎が誕生した。栄太郎は母方の伯父馨の庇護を受け慶應義塾へ入学、三井物産へ就職して明治34年(1901年)頃に小野田セメント社長になった[7]。 元については、昭和期に周防大島町出身の画家中村青田によって作られたとされる木像が知られていたが、平成25年(2013年)に防府市毛利博物館肖像画が発見され、明治45年/大正元年(1912年)までに同博物館に預けられたとみられることから、前述の木像の元になった可能性が指摘されている[8]。その他、地元彫刻家によって作られた銅像が、宇部護国神社に平成22年(2010年)に建てられた[9]

人物
寡黙で果断、温厚でもあり、幕末初期の長州藩政を見事に運営した名臣として、高く評価されている。毛利博物館には元が描いたとされる郭公の絵が残されている。元治元年に藩兵を率いて上洛する直前に描かれたこの絵には、『太平記』で楠木正成が登場する一節と思われる文が書写されている。湊川の戦いで敗死した楠木正成は、事前に勝ち目が無いことを悟っていた(桜井の別れ)とされることから、長州軍の挙兵・上洛が成功するかどうか疑問視していたとの見方もある[10]

系図

実際の親子関係のみを示す。
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脚注
佐世家(3997石)は佐々木源氏系の名門であるが、一門六家や永代家老と較べれば家格は高くなかった。翻って福原家(安芸福原氏)は毛利氏と同じ大江朝臣長井氏を祖に持つ、代々永代家老の家柄であった。
・福原氏への転出の理由としてはもう1つ、元自身が、当時の藩主・毛利慶親(敬親)が養嗣子としていた毛利定広(後の元徳)の実兄であったことも関係しているものと推測される。以後も国家老として藩主を補佐する立場にあった。
福原越後 - 朝日日本歴史人物事典、日本大百科全書コトバンク
参勤交代制度の緩和に併せて、長州藩内でも様々な改革が行われたもの。
・ 「目で見る 毛利家あれこれ 〜毛利博物館収蔵資料と歴史ばなし〜第252回 - 毛利博物館館長代理 柴原直樹」(『ほっぷ』2015年7月24日号 - 地域情報新聞社)
・「鈴尾」は安芸福原氏発祥の城名にちなんだものである。
・堀雅昭『井上馨』P262 - P263。
・福原越後の肖像画見つかる/ 福原越後の肖像画見つかる - このまちメディアWeb 2013年12月13日(宇部日報
・宇部護国神社で越後公像の除幕式 - Web宇部日報 2010年11月24日(宇部日報)
・「目で見る 毛利家あれこれ 〜毛利博物館収蔵資料と歴史ばなし〜第253回 - 毛利博物館館長代理 柴原直樹」(『ほっぷ』2015年7月31日号 - 地域情報新聞社)

関連作品
テレビドラマ
・『竜馬がゆく』(1968年、NHK大河ドラマ、演:高橋正夫
・『天皇の世紀』(1971年、ABCテレビ・国際放映、演:矢野宏
・『花神』(1977年、NHK大河ドラマ、演:草薙幸二郎)※役名は「佐世主殿」
・『花燃ゆ』(2015年、NHK大河ドラマ、演:西岡秀記
( wikiより)

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福原越後

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 この記事で 今年最後の記事となりました 来年からは 5日より記事のUPをしていきますので宜しくお願い致します。

時代江戸時代末期(幕末
生誕天保13年6月15日1842年7月22日
死没元治元年11月12日1864年12月10日
改名丑之介(幼名)→信濃→朝相→親相
別名通称:熊之助、徳蔵
墓所宇部市奥万倉 天龍寺
官位贈正四位
幕府江戸幕府
長州藩家老
氏族国司氏
父母父:高洲元忠、養父:国司迪徳
兄弟弟:堅田少輔
弥佐
養子:国司純行

国司 親相(くにし ちかすけ)は、江戸時代末期(幕末期)の武士長州藩家老国司 信濃(くにし しなの)の名で知られる。

生涯

天保13年(1842年)6月15日、寄組藩士・高洲元忠(たかす もとただ)の次男として生まれる。幼名丑之介、徳蔵、熊之助とも称し、後に信濃、朝相(ともすけ)と改め、毛利慶親(後の毛利敬親)より一字を賜り、親相と改めた。6歳の頃、同じく寄組藩士5600石の国司迪徳(みちのり、通称は亀之助、将監)の養嗣子となり、弘化4年(1847年)に家督を継いで大組頭となった。家柄も然ることながら、親相は若い頃から聡明だったため、次第に頭角を現してゆき、文久3年(1863年)には長井雅楽の切腹検視役正使を務めている。


嘉永
6年(1853年)、アメリカ合衆国マシュー・ペリー浦賀来航して以来、日本では尊王攘夷論が高まり国内騒然し、文久3年(1863年)5月10日、親相は久坂玄瑞らと共にアメリカ船ペンブローク号(Pembroke)を砲撃し、下関海峡を封鎖、朝廷からも褒勅の沙汰を賜わった。この功績により、親相は下関防備総奉行に任じられる。しかし八月十八日の政変で長州藩が京都から追放されると、親相は家老に昇格した上で、同じく家老の益田親施福原元僴、さらに久坂・来島又兵衛真木保臣らと共に京都における長州藩の影響力を取り戻そうと挙兵して、翌元治元年(1864年)7月19日禁門の変を引き起こした。


だが、薩摩藩会津藩連合軍の前に大敗し、来島や久坂と真木は自刃、戦乱を起した敗軍の責を負わざるを得なくなった。親相は誰よりも責任を感じ、死をおもうていた。「はかなくも風の前の燈火(ともしび)の、消えゆることのみ待つ我が身かな」との京都の天龍寺において詠んでいる一首にそのことが偲ばれる。最善の引責の方法を藩主の命によって決したいとの一念で、玉砕をさけあえて帰藩。時は元治元年(1864年)8月5日である。


やがて第一次長州征伐が始まると、征長総督(総大将)に徳川慶勝、参謀に西郷隆盛が就任した大軍が長州に押し寄せてくる。そして西郷が長州藩に対して、責任を取る形で親相ら三家老の切腹を要求したため、親相は徳山澄泉寺にて同年11月12日、自刃して果てた。享年23。親相の家老職は、益田や福原の永代家老とは違い、実力で昇進した家老職であった。


辞世の句「よしやよし 世を去るとても 我が心 御国のために なほ尽さばや」「君がため つくせやつくせ おのがこの 命一つを なきものにして」。


墓所は宇部市奥万倉の天龍寺。妻と並んで墓石が建っている。死後の明治21年(1888年)に靖国神社合祀。明治24年(1891年)、贈正四位。
(wikiより)

161 国司信濃

国司信濃

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時代江戸時代末期 - 幕末
生誕文政6年3月23日1823年5月3日
死没元治元年9月26日1864年10月26日
別名変名:麻田公輔、松岡敬助
幕府江戸幕府
長州藩
氏族周布氏
父母父:周布吉左衛門兼正、母:村田伝左衛門信嘉の娘・竹
兄弟兄、政之助
藤吾公平

周布 政之助(すふ まさのすけ)は、幕末長州藩士。政之助は通称で、兼翼(かねすけ)。変名に麻田公輔、松岡敬助などがある。

略歴
周布氏益田氏の支流にあたり、近世以降は代々長州藩毛利家に仕えた家柄である。


政之助(兼翼)もこの一族の出身者であり、文政6年(1823年)、長州藩士(大組219石)・周布吉左衛門兼正村田伝左衛門信嘉の娘竹の五男として生まれる。父と長兄が相次いで歿したことによる末期養子であったため、家禄を68石に減ぜられ、わずか生後6ヵ月で家督を相続した。


来原良蔵
松島剛蔵らと嚶鳴社を結成して政治を論じたが、弾圧されることなく、弘化4年(1847年)に祐筆・椋梨藤太の添役として抜擢された。文久2年(1862年)頃に藩論の主流となった長井雅楽航海遠略策に藩の経済政策の責任者として同意したが久坂玄瑞松下村塾の藩士らに説得され藩論統一のために攘夷を唱えた[1]


元治
元年(1864年)、高杉晋作とともに長州藩士の暴発を抑えようとしたが失敗[2]、その結果起こった禁門の変第一次長州征伐に際しても事態の収拾に奔走したが、次第に椋梨ら反対派に実権を奪われることとなった。同年9月、責任を感じて山口矢原(現・山口市幸町)の庄屋吉富藤兵衛邸にて切腹した。享年42。

備考
・酒癖が悪く、一途な性格から多くの舌禍事件を起こしてたびたび逼塞処分を受けたが、その都度、その有能さから政治へ復帰している。舌禍事件の一つとして、文久2年(1862年)に土佐藩前藩主・山内容堂に対して暴言を吐いて謹慎となった。その際、「麻田公輔」と改名している。また、高杉晋作が脱藩の罪で投獄された時にも、酒に酔って馬で野山獄に抜刀して乱入したとも言われる。

明治期、政之助の偉業を知る有志の手により、切腹の地の近隣に顕彰碑が建立された。のちに顕彰碑の周囲は周布公園として整備され、さらに一帯の地名は山口市周布町となっている。

親族
周布藤吾 - 長男、第二次長州征伐で戦死
周布公平 - 次男
周布兼道 - 孫 (公平の長男)
杉孫七郎 - 甥

脚注
1. 村上一郎 『草莽論』ちくま学芸文庫、2018年、P.272頁。
2. 
村上一郎 『草莽論』ちくま学芸文庫、2018年、P.273頁。

関連作品
竜馬がゆく(NHK大河ドラマ)-演:渥美国泰 (NHK大河ドラマ、1968年)
天皇の世紀 (テレビドラマ) - 演:高津住男 (ABCテレビ国際放映、1971年)
花神 - 演:田村高廣 (NHK大河ドラマ、1977年)
奇兵隊 - 演:津川雅彦 (日本テレビ年末時代劇スペシャル、1989年)
炎の如く 吉田松陰 - 演:山口崇 (日本テレビ時代劇スペシャル、1991年)
長州ファイブ - 演:矢島健一 (リベロ、2006年)
花燃ゆ - 演:石丸幹二 (NHK大河ドラマ、2015年)

関連項目
村田清風記念館

(wikiより)

159 周布政之助

周布政之助


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時代江戸時代末期(幕末
生誕文政4年7月6日1821年8月3日
死没元治元年12月19日1865年1月16日
別名:貞武、武、号:主静庵、斤田
墓所東光寺
幕府江戸幕府
長州藩
氏族吉敷毛利家
父母父:毛利虎十郎

毛利 登人(もうり のぼる)は、幕末期の長州藩士。貞武甲子殉難十一烈士 の1人。

生涯
吉敷毛利家の末家、毛利虎十郎(大組600石)の嫡男として誕生。長州藩主毛利敬親の世子、毛利定広(後の元徳)の小姓として在京し、勤王の志士との交流を深め、大きな影響を受けた。


文久
3年(1864年)の馬関戦争では宍戸刑部こと高杉晋作とともに、毛利出雲と称して四国連合艦隊との停戦の副使となったが、その直後の同年秋の第1次長州征伐の後に俗論派が藩論を主導するようになると、前田孫右衛門大和弥八郎らと共に謹慎処分を受け、蟄居した。12月には野山獄に投じられ、山田亦介松島剛蔵前田孫右衛門大和国之助楢崎弥八郎渡辺内蔵太らと処刑された。


辞世の歌は「皇の 道しるき世を ねかふかな わが身はこけの したにくつとも」。
(wikiより)

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時代江戸時代後期
生誕文化元年8月13日1804年9月16日
死没元治元年11月12日1864年12月10日
別名通称:山三郎、九郎兵衛、左馬之介 名:忠美、号:橘廂、鳰浮巣翁、宍翁
官位死後贈正四位
主君毛利斉熙斉元斉広敬親
長州藩
氏族林氏宍戸氏
父母父:林隆州
養父:宍戸知之
小弥太

宍戸 真澂(ししど ますみ/まさもと)は、江戸時代末期の勤皇家、長州萩藩士長門萩生まれ。萩藩の重臣として活躍し、萩藩大坂屋敷の留守居役を務めた。

生涯
長門国阿武郡川上村で林隆州の三男として生まれる。文化14年(1818年)に毛利氏一門である宍戸藤兵衛知之の養子となり、宍戸氏を継ぐ。若き頃に伴信友近藤芳樹に師事して、国学を熱心に学び、勤皇思想に感化される。安政3年(1856年)に長州藩京都藩邸の都合人になると在京の梅田雲浜らとも交流した。


同藩の来島又兵衛久坂玄瑞らとも気脈を通じて活動したが、元治元年(1864年)の禁門の変において長州藩兵の鎮撫に失敗し、帰国した後に俗論派によって野山獄に投獄され、獄中で斬首された(甲子殉難十一烈士[1]。享年61。


辞世の歌は「われならぬ 人のしをりを たどりつゝ たか根に匂ふ はなをみるかな」。

脚注
1.コトバンク

関連項目
宍戸氏
幕末の人物一覧

(wikiより)

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時代江戸時代末期(幕末
生誕文政元年7月28日1818年8月29日
死没元治元年12月19日1865年1月16日
別名:利済、字:致遠、通称:岩助、号:陸山
墓所東光寺
幕府江戸幕府
長州藩

前田 孫右衛門
(まえだ まごえもん )は、幕末長州藩士。利済甲子殉難十一烈士の一人。

略伝
藩校明倫館で学び、長州藩の代官や奉行を歴任後、文久元年(1862年)に上京して直目付に就任して軍備の整備に当たるが、奉勅攘夷の為出奔。文久2年(1863年)の八月十八日の政変により直目付を罷免されるが、9月に表番頭格用談役に登用され、後に直目付に復職。


元治
元年(1864年)7月、山田亦介天野謙吉らと共に東上するが京師の変の報を聞いて帰国し、伊藤俊輔と共に応接使となる。禁門の変の後、直目付を再び罷免され、謹慎処分に処される。その後野山獄に入れられ、楢崎弥八郎松島剛蔵毛利登人山田亦介大和弥八郎渡辺内蔵太ら6人と共に処刑される。

関連作品
花神 - 演:渡辺厳 NHK大河ドラマ、1977年)
奇兵隊 - 演:近藤洋介 日本テレビ年末時代劇スペシャル、1989年)
(wikiより)

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時代江戸時代末期
生誕天保元年(1830年
死没元治2年2月11日1865年3月8日
別名玉井氏、知章(諱)
官位正五位
主君毛利敬親
長州藩藩士

桜井 三木三
(さくらい みきぞう)は、江戸時代幕末武士長州藩士。諱は知章。

来歴
いわゆる正義派・俗論派と呼ばれる派閥争いが長州藩内で発生した際、桜井は同士の冷泉五郎らとともに中立派の鎮静会に加わり、藩内争乱の調停を目指す。諸隊との調停のため、山口の諸隊屯所へ赴いて藩論の説明に心を砕くが、その帰途、俗論派に属する選鋒隊隊士によって襲撃され、同僚の冷泉や香川半助とともに殺害された。元治2年(1865年)のことだった。


明治44年(1911年)、正五位を追贈された[1]

脚注
1. 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.28

参考文献
・『日本人名大辞典』(講談社2001年

(wikiより)

権現原 斬殺 享年 36歳。

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香川半助 ( かがわ - はんすけ )
( 1831 − 1865 ) 幕末の武士。

天保 ( てんぽう ) 2年生まれ。

長門 ( ながと )( 山口県 ) 萩 ( はぎ ) 藩士。

文久 3年奥番頭 ( ばんがしら ) 格となり藩の世子に仕えたが、病気のため退く。

禁門の変後、幕府恭順派による藩政独占を怒り、桜井三木三らと実情説明に山口諸隊屯所に赴いての帰途、元治 ( げんじ ) 2年 2月 11日暗殺された。35歳。名は景真。

( 権現原 斬殺 享年 35歳 ) 

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冷泉五郎 ( れいぜい - ごろう )
( 1841 - 1865 ) 幕末の武士。

天保 ( てんぽう ) 12年生まれ。

長門 ( ながと )( 山口県 ) 萩 ( はぎ ) 藩士。

砲術を江川太郎左衛門に、剣術を斎藤弥九郎に学び、帰藩後兵制改革に当たる。

元治 ( げんじ ) 2年の藩内抗争に際し、中立派の鎮静会に加わり、藩主に藩論統一を建白。

香川半助らと山口の諸隊を訪れて調停を進める。

その帰途の同年 2月 11日恭順派に暗殺された。25歳。本姓は井上。名は綏豊 ( やすとも )。

 (権現原 斬殺 享年 25歳 )

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元治元年 ( 1864 ) に勃発した禁門の変と下関戦争の敗北により、萩藩は幕府へひたすら謝罪降伏する藩論へ転換し、尊王攘夷派 ( 急進派 ) が一掃されて恭順派が藩の政権を握った。

第一次長州出兵が迫るな中、益田右衛門介 ( ますだ - うえもんすけ )・国司信濃 ( くにし - しなの )・福原越後 ( くにはら - えちご ) の 3家老が禁門の変の責任を問われ、同年 11月 11日に自刃を命ぜられ、また 12月 25日、家老の清水清太郎 ( しみず - せいたろう ) も自刃を命ぜられた。

さらに 10月 24日、尊王攘夷派の 11人が野山獄に投獄され、11月 12日に竹内正平衛 ( たけうち - しょうべえ )・中村九郎 ( なかむら - くろう )・佐久間佐兵衛 ( さくま - さへえ )・宍戸左馬之助 ( ししど - さまのすけ ) の4人が、ついで12月19日に前田孫右衛門 ( まえだ - まごえもん )・毛利登人 ( もうり - のぼる )・山田亦介 ( やまだ - またすけ )・渡辺蔵太 ( わたなべ - くらた )・楢崎弥八郎 ( ならざき - やはちろう )・大和国之助 ( やまと - くにのすけ )・松島剛蔵 ( まつしま - ごうぞう ) の 7人が斬首された。

明治維新後、旧藩士・杉山孫七郎 ( すぎやま - まごしちろう ) やか杉民治 ( すぎ - みんじ )( 吉田松陰の兄 ) らは、殉死した四大夫、十一烈士の墓が各所に散在し、香花も絶えて十分な世話もできない状態であることを見聞し、明治 22年 ( 1889 ) 彼らの招魂墓を建立した。

のち明治 31年 ( 1898 ) には、禁門の変の責任を感じて自刃した周布政之助 ( すふ - まさのすけ ) の招魂墓も、同所に建立された。
(案内板より)

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渡辺 内蔵太(わたなべ くらた、天保7年2月3日1836年3月19日) - 元治元年12月19日1865年1月16日))は、江戸時代末期(幕末)の萩藩士。長嶺内蔵太(ながみね くらた)とも。甲子殉難十一烈士の一人。


1862年
御楯組結成に参加。

その後、山田亦介前田孫右衛門毛利登人松島剛蔵大和弥八郎楢崎弥八郎らと共に斬罪に処される。
(wikiより)

( 野山獄 刑死 29歳 )

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山田 亦介(やまだ またすけ)は、幕末長州藩士甲子殉難十一烈士の一人。

略歴

大組頭山田家の嫡男。村田清風の甥にあたる。甥に初代司法大臣・陸軍中将の山田顕義がいる。

長沼流兵学を学び、弘化2年(1845年)には吉田松陰(寅次郎、当時15歳)に教授している。嘉永5年(1852年)、古賀侗庵の『海防憶測』を出版した罪で隠居となり、知行も削減される。安政5年(1858年)には隠居雇として海防や軍艦「庚申丸」製造に関わり、銃士隊の編成を進言する。


しかし、長州藩内の主導権を握った俗論党によって、萩の野山獄にて57歳で処刑された。

〇 甲子殉難十一烈士
甲子殉難十一烈士(きのえねじゅんなんじゅういちれっし)は、江戸時代末期(幕末)の1864年元治元年)、江戸幕府による第一次長州征伐に際し長州藩内の主導権を握った俗論党によって、萩の野山獄で処刑された長州藩士11人を総称した名称。


彼ら11人は、黄檗宗東光寺萩市)の元治甲子殉難烈士墓所に福原元僴益田親施国司親相清水清太郎周布政之助らと共に祀られている。

該当者
宍戸真澂
山田亦介
前田孫右衛門
竹内正兵衛
毛利登人
松島剛蔵
中村九郎
佐久間左兵衛
大和弥八郎
渡辺内蔵太
楢崎弥八郎

関連項目
幕末の人物一覧
烈士

(wikiより)

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竹内正兵衛 ( たけのうち - しょうべえ )
( 1819 - 1864 ) 幕末の武士。

文政 2年生まれ。

長門 ( ながと )( 山口県 ) 萩 ( はぎ ) 藩士。

元治 ( げんじ ) 元年禁門の変で敗れて帰国。

恭順派が藩の政権をにぎったため野山獄に投獄され、同年 11月 12日処刑された。46歳。

本姓は八谷 ( やたがい )。名は清喜 ( 記 ) 、勝愛。号は竹叢、至愚。 

( 野山獄 刑死 享年 46歳 )

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楢崎弥八郎 ( ならざき - やはちろう )
( 1837 - 1865 ) 幕末の武士。

天保 ( てんぽう ) 8年 7月 12日生まれ。

長門 ( ながと )( 山口県 ) 萩 ( はぎ ) 藩士。

江戸で安積艮斎 ( あさか - ごんさい )、大橋訥庵 ( とつあん ) に学び、尊王攘夷 ( じょうい ) の志をいだく。

文久3年政務役となり、禁門の変のあと、藩内で幕府恭順派が実権をにぎると捕らえられ, 、同志と共に元治 ( げんじ ) 元年 12月1 9日刑死した。28歳。

名は清義。号は節庵。 

( 野山獄 刑死 享年 28歳 )

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中村九郎 ( なかむら - くろう )
幕末の志士。萩藩士。

通称喜八郎・道太郎、諱は清旭、号は白水山人、変名・中河内主水。

吉田松陰に師事する。

国事に尽力し密用方右筆から江戸方右筆に進む。

禁門の変に敗れ、国に戻り野山嶽に投ぜられる。

元治元年 ( 1864 ) 歿、37才。 ( 野山獄 刑死 )

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佐久間佐兵衛 ( さくま - さへえ )
1833 - 1864 幕末の武士。

天保 ( てんぽう ) 4年生まれ。

長門 ( ながと )( 山口県 ) 萩 ( はぎ ) 藩士。

伯父に養われ赤川姓を名のる。

水戸の会沢正志斎 ( あいざわ - せいしさい ) に学び、帰郷後

佐久間氏を継ぎ、藩校明倫館の助教。

のち京都で尊攘 ( そんじょう ) 派として活躍。

禁門の変で敗れて帰藩後捕らえられ、元治 ( げんじ ) 元年 11月 12日処刑された。32歳。

本姓は中村。名は忠亮,義済。通称ははじめ直次郎。号は淡水,思斎。 

( 野山獄 刑死 享年 32歳 )

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松島 剛蔵(まつしま ごうぞう、文政8年3月6日1825年4月23日) - 元治元年12月19日1865年1月16日))は、幕末長州藩士、医師。尊王攘夷および倒幕運動派の志士として活動したが、長州藩の俗論派(幕府派)によって処刑された。甲子殉難十一烈士の一人である。

生涯
長州藩の藩医である松島瑞蟠の長男として文政8年(1825年)3月6日、萩中ノ倉に生まれた。弟に吉田松陰の妹婿である小田村伊之助(楫取素彦)と小倉健作(松田謙三)がいる。天保2年(1831年)、父・瑞蟠が狂を発し廃人となったため家督を継ぐ。禄39石余り。


江戸遊学し、坪井信道に4年間従学のち、世子である毛利元徳の侍医となった。のち、長崎に赴き勝海舟らと共に長崎海軍伝習所でオランダ人に航海術を3年間学び、帰藩して洋学所・軍艦教授所を創立する。軍艦教授所の門下生には高杉晋作らがいた。桂小五郎(木戸孝允)、吉田松陰とは友人であり、特に松下村塾の門下生らと提携して様々な活動を行った。


安政
4年(1857年)、長州藩初の西洋式軍艦製造にともない、初代長州藩海軍総督となり、丙辰丸艦長に就任する。桂小五郎と共に海軍の充実と丙辰丸の江戸航海について、藩庁に請願書を提出する。万延元年(1860年)、藩はこれを許可し、高杉晋作・久坂玄瑞ら士分6人と舸子14人が丙辰丸に乗り込み、外洋を航海し同年6月、江戸に入る。同年7月、桂小五郎に水戸藩の西丸帯刀・野村彝之介・住谷寅之介らを紹介し、水戸藩と長州藩が連帯して行動することを約した「丙辰丸の盟約」(成破の約)を丙辰丸艦内で結ぶ。


文久2年(1862年)、高杉晋作、久坂玄瑞らと共に御楯組を結成する。12月12日、江戸品川の御殿山に建設中だったイギリス公使館を襲撃した(英国公使館焼き討ち事件)。


文久3年(1863年)5月、下関戦争に参加、直接に自身が指揮する庚申丸でアメリカ商船を攻撃した。これを皮切りに、23日にはフランス艦を、26日にはオランダ艦に砲撃を浴びせた。ただ驚愕するばかりの両艦はなんとか逃走した。「攘夷が成功した!」と、長州藩は勝利に沸きたつ。同年6月、米国軍艦(ワイオミング号)の猛烈な反撃にあい、他の長州艦船(癸亥丸壬戌丸)と共に庚申丸は沈没した。大砲、砲台も破壊されて大損害をこうむり、5日にはフランス軍艦(フリゲート艦セミラミスと通報艦タンクレード)が下関を砲撃した。250人の武装兵が上陸し、砲台を破壊、付近の村を焼き払った。松島はこの戦闘の際に負傷している。


元治元年(1864年)、禁門の変が起こり、久坂玄瑞らが戦死する。幕府による第一次長州征伐で俗論派が藩政権を握ったため、松島は萩野山獄に投ぜられる。同年12月16日、「高杉晋作が功山寺で挙兵」との報が萩に伝わるや、その3日後の12月19日に処刑された。享年40(満39歳没)。

辞世の句は
かねてより たてしこゝろの たゆむべき たとへこの身は くちはてぬとも[1]

である。

明治時代になって正四位の位が贈られた。誕生の地には今も石碑が立ち、墓は山口県萩市の東光寺にある。

著書
(長州藩)松島剛蔵「覚」書という書籍が現存する。

登場する作品

花燃ゆ - 2015年、NHK、演:津田寛治 

脚注
1. #『勇猛・悲壮 辞世の句150 戦国武将・維新志士・帝国軍人…日本男児が遺した最期の言葉!』136P

参考文献
蒲生重章「松島剛蔵傳」:『近世偉人傳・二編』(1878年)より

(wikiより)

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伊舟城 源一郎(いばらき げんいちろう、天保元年(1830年) - 元治元年12月26日1865年1月23日))は、幕末武士[1]。名は致美[1]。通称ははじめ宗一郎[1]

経歴・人物

播磨国姫路藩[1]文久2年(1862年)上洛[2]。他藩の尊攘派と交流し尊王攘夷運動に参加、文久3年1月29日賀川肇暗殺事件に関与[2]。元治元年(1864年)藩に戻るが、事件が発覚し処刑された[2]


明治31年(1898年)、正五位を追贈された[3]

脚注
1. a b c d デジタル版 日本人名大辞典+Plus(講談社)『伊舟城源一郎』 - コトバンク
2. a b c 朝日日本歴史人物事典(朝日新聞社)『伊舟城源一郎』 - コトバンク
3. 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.10
(wikiより)

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河合伝十郎 ( かわい - でんじゅうろう )
( 1841 - 1865 )

幕末の武士。

天保 ( てんぽう ) 12年生まれ。

境野求馬の次男。河合惣兵衛の養子。

播磨 ( はりま )( 兵庫県 ) 姫路藩士。

諸藩の尊攘 ( そんじょう ) 派とまじわる。

元治 ( げんじ ) 元年 ( 1864 ) 江坂栄次郎とともに脱藩。

大阪の高知藩邸に潜伏中、実父が自殺したのを聞き長門 ( ながと )( 山口県 ) におもむこうしたが、藩吏に捕らえられ、元治元年 12月 26日斬刑となった。 24歳。名は宗貞。

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河合 宗元(かわい むねもと)は江戸時代後期から幕末武士姫路藩士、尊王攘夷派志士である。初名は宗邦(むねくに)。惣兵衛、また勸次郎と称し、姫路藩尊攘派の首魁と目された。号は松塢。贈従四位。家紋は違い鷹の羽。替紋は銀杏打違。俸禄は250石。

経歴

文化13年(1816年2月5日播磨国飾東郡姫路城中曲輪内(現・兵庫県姫路市本町[1]に誕生し、勸次郎と名付けられる。河合惣兵衛家は雅楽頭酒井家家老職を務めた河合寸翁家から戦国時代に分家した家系で、本家と同じく代々酒井家に仕えていた。若年より藩校好古堂の学問所教員を勤め、嘉永5年(1852年)に父の病歿を受けて当主となった後は、安政2年(1855年)に惣兵衛と改称し、使番や宗門奉行、作事奉行、物頭、持筒頭を歴任する。同5年(1858年)には同志の一人、境野意英の次男宗貞を婿養子として迎え、次女さきに配した。


文久
2年(1862年)に酒井忠績が京都所司代不在中の同地取締りを命じられると、宗元も5月28日に出京を命じられ、入出京を繰り返しながら、同志と共に諸藩の尊攘派志士と交流を深めて行く。特に三條實美の邸には在京中、一日として伺候しない日は無く、實美も宗元が来ないことが有れば書を遣わして招いたという。


文久3年(1863年4月10日に禁裏御所御守衛人数組頭に任命された後は、6月6日姉小路公知の暗殺犯探索を命じられ、7月5日に組頭を罷免された。 八月十八日の政変時には實美に付き従って大佛妙法院に至り、京都に留まるように説得したという。自身もその後、京都を離れて大坂、次いで江戸に向かい、幕府に京都の動静を報告したとされる。江戸からの帰国途中には藩主の行列と行きあったため、暫く同道して11月13日に姫路へ帰着した。これ以降、彼は京都に向かうことは無かったとされている。


元治元年(1864年2月16日、京都に滞在していた婿養子宗貞と同志の江坂行正が脱藩し、同年4月1日に捕縛、翌日の明け方には宗貞の実父意英が自殺しているのが発見された。その影響からか宗元も同4日に眼病を理由として全ての役を退き、同日に謹慎を命じられる。これに先立って、姫路や京都では姫路藩尊攘派の関与した暗殺事件が発生し、前後して関係者の面々が処罰されていたが、6月28日には彼も親類預けとなり、9月6日に入獄。そして同年の12月26日に自殺刑を命じられ、宗元は姫路城中備前門内の牢舎に生涯を終えた。享年49。辞世として「ひをむしの 身をいかてかは 惜しむへき たゝ惜しまるゝ 御代の行末」の歌が伝わっている。宗貞も同日、斬首刑となり、河合家は家断絶を命じられた。同日には宗元父子のほか数十人の尊攘派志士とその関係者が処罰され、2人に斬首、6名に自殺刑、6名に終身禁獄の重罪が命じられたことから、この事件は同年の干支を採って、姫路藩甲子の獄と通称されている。

歿後

明治元年(1868年)、戊辰の獄を機に藩政が一新され、処罰された家々の再興が認められると、宗元の家も小林定修の三男で同志の一人だった宗孝が名跡養子に入って当主と成り、同家の菩提寺である姫路市坂田町の浄土宗西山禅林寺派寺院、悟真山善導寺に宗元の墓石を建立した。


その後、明治24年(1891年12月17日従四位を贈られ、同27年(1894年)に有栖川宮熾仁親王篆額、山田顕義撰、田所千秋書の記念碑が河合邸の側に完成する。大正3年(1914年)5月には同2年(1913年11月26日に行われた姫路藩勤王志士五十年祭の余資を以て宗元達8名が処刑された旧備前門内の獄舎跡に「姫路藩勤王志士終焉之地」碑が建設された。上記の碑は太平洋戦争終結後、勤王思想を想起させると言う事から引き倒され、城南練兵場(現大手前公園付近)、次いで姫路護国神社裏手に放置されていたが、昭和43年(1968年)、明治百年を記念して再建が決定し、前者は神屋町5丁目の外堀公園、後者は元の備前門跡に作られた大蔵前公園へ再設され、式典当日には宗元の玄孫が碑の除幕を行った。


この外、河合惣兵衛家に由来するものとしては、宗孝やさきが姫路鎮台設置後に移住した場所(現姫路市神屋町4丁目)の前に架かる橋が河合橋と名付けられており[2]、外堀公園は河合公園と通称されることがある。また、播磨国総社内の祖霊社と姫路護国神社は宗元と宗貞を祭神の一柱として祭祀している。


平成16年(2004年)12月には河合惣兵衛家墓所の整備を機として宗元の墓石が善導寺本堂の前に移設され、景福寺山に有った宗貞の墓石も墓所の中へ移された。同年からは12月第3、第4日曜日のどちらかに午後1時より宗元父子の法要が営まれ、関係者以外にも開放されている。

人物・逸話
・養嗣子宗孝が建立した墓石には、容貌は魁梧で、性格は激烈、終始尊攘の大義を以て自任していたと刻まれている。藩校の教員を務めた様に学問に優れる傍ら、武術にも秀でていたらしく、宗元在世当時に使用人を勤めていた人物の家には、襖を締め切った八畳間の中で八尺柄の槍を自由自在に使いこなしたとする話が伝わっていた。

・刀剣の鑑定を好み、良い品を売る者が有れば千嚢を傾けてでも購入した。物頭在職中には一日、配下の士を集めて佩刀を検め、鈍刀を帯びた者数名にその刀では功を挙げるに足らないと諭し、それぞれに蔵していた刀を贈ったという。

・婿養子の宗貞が同志と共に城下の商人児嶋政光を暗殺し、興奮して帰宅した際には事情を聞き、政光を斬った事よりも武士が一人を斬っただけで狼狽した事を叱責したとされる。

・文久3年8月17日に発生した鳥取藩士同士の暗殺事件の際には、知恩院内に於いて自殺しようとしていた河田景与らを同院に駈け付けて説得したとされる。また、自身の収獄までの謹慎中、景与(一説には長州藩士佐々木男也)より幾度も書状で鳥取藩に逃れる事を奨められたが、自分が脱藩すれば、老母に危害が加わる事かも知れず、獄に在る同志を死地に置いて自分だけ助かろうとすることは出来ないとして断ったという。

・自殺の際には普段の如く談笑して茶を喫し、筆を乞い辞世を認めて死に就いた。一説には刀で自ら首の少し後ろ側を突き刺して、両手で刃を前へ押し、その殆どを切り落としたとする。

脚注
1. 姫路公園
2. もっとも橋の欄干には誤って寸翁家や仁寿山黌に由来する熊鷹紋が附されているため、一見すると宗元とは関係が無い様に見える。

参考文献
・『舊姫路藩勤王志士五十年祭記事』(舊姫路藩勤王志士五十年祭事務所、大正2年12月)

・砂川雄健編『姫路藩勤王志士列傳』(播磨史談會、大正3年11月)

・穂積勝次郎著『姫路文化研究會叢書第四輯 姫路藩勤王志士の歌』(姫路文化研究會、昭和17年3月)

・ひめじ明治のかたりべ集編集委員会編『ひめじ・明治のかたりべ集』上巻(姫路市老人のための明るいまち推進協議会、昭和54年3月)「河合惣兵衛の話」

・津山邦寧著『景福寺とその周辺の史跡‐姫路藩と景福寺の歴史を考える‐』(景福寺山史跡研究会、平成27年7月)

関連項目
姫路藩

河合屛山

秋元安民

武井守正

酒井忠績

三条実美

仁寿山黌

朔平門外の変
(wikiより)

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⇧⇩ 墓地奥にある河合家総墓。

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・贈正四位河合屏山君霊位  :  河合宗元

河合 宗元(かわい むねもと)は江戸時代後期から幕末武士姫路藩士、尊王攘夷派志士である。初名は宗邦(むねくに)。惣兵衛、また勸次郎と称し、姫路藩尊攘派の首魁と目された。号は松塢。贈従四位。家紋は違い鷹の羽。替紋は銀杏打違。俸禄は250石。

経歴

文化13年(1816年2月5日播磨国飾東郡姫路城中曲輪内(現・兵庫県姫路市本町[1]に誕生し、勸次郎と名付けられる。河合惣兵衛家は雅楽頭酒井家家老職を務めた河合寸翁家から戦国時代に分家した家系で、本家と同じく代々酒井家に仕えていた。若年より藩校好古堂の学問所教員を勤め、嘉永5年(1852年)に父の病歿を受けて当主となった後は、安政2年(1855年)に惣兵衛と改称し、使番や宗門奉行、作事奉行、物頭、持筒頭を歴任する。同5年(1858年)には同志の一人、境野意英の次男宗貞を婿養子として迎え、次女さきに配した。


文久
2年(1862年)に酒井忠績が京都所司代不在中の同地取締りを命じられると、宗元も5月28日に出京を命じられ、入出京を繰り返しながら、同志と共に諸藩の尊攘派志士と交流を深めて行く。特に三條實美の邸には在京中、一日として伺候しない日は無く、實美も宗元が来ないことが有れば書を遣わして招いたという。


文久3年(1863年4月10日に禁裏御所御守衛人数組頭に任命された後は、6月6日姉小路公知の暗殺犯探索を命じられ、7月5日に組頭を罷免された。 八月十八日の政変時には實美に付き従って大佛妙法院に至り、京都に留まるように説得したという。自身もその後、京都を離れて大坂、次いで江戸に向かい、幕府に京都の動静を報告したとされる。江戸からの帰国途中には藩主の行列と行きあったため、暫く同道して11月13日に姫路へ帰着した。これ以降、彼は京都に向かうことは無かったとされている。


元治元年(1864年2月16日、京都に滞在していた婿養子宗貞と同志の江坂行正が脱藩し、同年4月1日に捕縛、翌日の明け方には宗貞の実父意英が自殺しているのが発見された。その影響からか宗元も同4日に眼病を理由として全ての役を退き、同日に謹慎を命じられる。これに先立って、姫路や京都では姫路藩尊攘派の関与した暗殺事件が発生し、前後して関係者の面々が処罰されていたが、6月28日には彼も親類預けとなり、9月6日に入獄。そして同年の12月26日に自殺刑を命じられ、宗元は姫路城中備前門内の牢舎に生涯を終えた。享年49。辞世として「ひをむしの 身をいかてかは 惜しむへき たゝ惜しまるゝ 御代の行末」の歌が伝わっている。宗貞も同日、斬首刑となり、河合家は家断絶を命じられた。同日には宗元父子のほか数十人の尊攘派志士とその関係者が処罰され、2人に斬首、6名に自殺刑、6名に終身禁獄の重罪が命じられたことから、この事件は同年の干支を採って、姫路藩甲子の獄と通称されている。

歿後

明治元年(1868年)、戊辰の獄を機に藩政が一新され、処罰された家々の再興が認められると、宗元の家も小林定修の三男で同志の一人だった宗孝が名跡養子に入って当主と成り、同家の菩提寺である姫路市坂田町の浄土宗西山禅林寺派寺院、悟真山善導寺に宗元の墓石を建立した。


その後、明治24年(1891年12月17日従四位を贈られ、同27年(1894年)に有栖川宮熾仁親王篆額、山田顕義撰、田所千秋書の記念碑が河合邸の側に完成する。大正3年(1914年)5月には同2年(1913年11月26日に行われた姫路藩勤王志士五十年祭の余資を以て宗元達8名が処刑された旧備前門内の獄舎跡に「姫路藩勤王志士終焉之地」碑が建設された。上記の碑は太平洋戦争終結後、勤王思想を想起させると言う事から引き倒され、城南練兵場(現大手前公園付近)、次いで姫路護国神社裏手に放置されていたが、昭和43年(1968年)、明治百年を記念して再建が決定し、前者は神屋町5丁目の外堀公園、後者は元の備前門跡に作られた大蔵前公園へ再設され、式典当日には宗元の玄孫が碑の除幕を行った。


この外、河合惣兵衛家に由来するものとしては、宗孝やさきが姫路鎮台設置後に移住した場所(現姫路市神屋町4丁目)の前に架かる橋が河合橋と名付けられており[2]、外堀公園は河合公園と通称されることがある。また、播磨国総社内の祖霊社と姫路護国神社は宗元と宗貞を祭神の一柱として祭祀している。


平成16年(2004年)12月には河合惣兵衛家墓所の整備を機として宗元の墓石が善導寺本堂の前に移設され、景福寺山に有った宗貞の墓石も墓所の中へ移された。同年からは12月第3、第4日曜日のどちらかに午後1時より宗元父子の法要が営まれ、関係者以外にも開放されている。

人物・逸話
・養嗣子宗孝が建立した墓石には、容貌は魁梧で、性格は激烈、終始尊攘の大義を以て自任していたと刻まれている。藩校の教員を務めた様に学問に優れる傍ら、武術にも秀でていたらしく、宗元在世当時に使用人を勤めていた人物の家には、襖を締め切った八畳間の中で八尺柄の槍を自由自在に使いこなしたとする話が伝わっていた。

・刀剣の鑑定を好み、良い品を売る者が有れば千嚢を傾けてでも購入した。物頭在職中には一日、配下の士を集めて佩刀を検め、鈍刀を帯びた者数名にその刀では功を挙げるに足らないと諭し、それぞれに蔵していた刀を贈ったという。

・婿養子の宗貞が同志と共に城下の商人児嶋政光を暗殺し、興奮して帰宅した際には事情を聞き、政光を斬った事よりも武士が一人を斬っただけで狼狽した事を叱責したとされる。

・文久3年8月17日に発生した鳥取藩士同士の暗殺事件の際には、知恩院内に於いて自殺しようとしていた河田景与らを同院に駈け付けて説得したとされる。また、自身の収獄までの謹慎中、景与(一説には長州藩士佐々木男也)より幾度も書状で鳥取藩に逃れる事を奨められたが、自分が脱藩すれば、老母に危害が加わる事かも知れず、獄に在る同志を死地に置いて自分だけ助かろうとすることは出来ないとして断ったという。

・自殺の際には普段の如く談笑して茶を喫し、筆を乞い辞世を認めて死に就いた。一説には刀で自ら首の少し後ろ側を突き刺して、両手で刃を前へ押し、その殆どを切り落としたとする。

脚注
1. 姫路公園
2. もっとも橋の欄干には誤って寸翁家や仁寿山黌に由来する熊鷹紋が附されているため、一見すると宗元とは関係が無い様に見える。

参考文献
・『舊姫路藩勤王志士五十年祭記事』(舊姫路藩勤王志士五十年祭事務所、大正2年12月)

・砂川雄健編『姫路藩勤王志士列傳』(播磨史談會、大正3年11月)

・穂積勝次郎著『姫路文化研究會叢書第四輯 姫路藩勤王志士の歌』(姫路文化研究會、昭和17年3月)

・ひめじ明治のかたりべ集編集委員会編『ひめじ・明治のかたりべ集』上巻(姫路市老人のための明るいまち推進協議会、昭和54年3月)「河合惣兵衛の話」

・津山邦寧著『景福寺とその周辺の史跡‐姫路藩と景福寺の歴史を考える‐』(景福寺山史跡研究会、平成27年7月)

関連項目
姫路藩

河合屛山

秋元安民

武井守正

酒井忠績

三条実美

仁寿山黌

朔平門外の変
(wikiより)

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・贈正五位境野求馬意英君霊位  :  境野求馬

境野求馬 ( さかいの - もとめ )
( 1810 - 1864 )

江戸時代後期の武士。

文化 7年 1月 6日生まれ。

河合道臣 ( ひろおみ ) の孫。

播磨 ( はりま )( 兵庫県 ) 姫路藩士。

文久 2年藩主・酒井忠績 ( ただしげ ) に従って京におもむき勤王のために活動するが、実子・河合伝十郎の脱藩がもとで、佐幕派の圧力が強まる。

その責任をとり、藩主に上書を残して元治 ( げんじ ) 元年 4月 2日自刃 ( じじん )。55歳。名は意英。

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・贈正五位秋元正一郎安民君霊位  :  秋元安民

秋元 安民(あきもと やすたみ、1823年2月11日文政6年1月1日) - 1862年9月22日文久2年8月29日))は播磨国姫路藩(現在の兵庫県姫路市藩士国学者。名は正一郎、正蔭、御民、逸民とも称した。字は正朔、号は空室。

生涯

文政6年(1823年1月1日、姫路藩士の秋元右源次の次男に生まれる。仁寿山黌で学ぶ。


小野藩
客員大国隆正に師事し国学和歌を学ぶとともに、隆正の養子になり野々口正蔭と名乗る[1]。後に伴信友にも師事する。


播磨国三木(兵庫県三木市)に私塾を開学、姫路藩の藩校教授になり姫路藩での尊王攘夷派の先駆者になる。西洋学問にも通じ、安政3年(1856年)、姫路藩主の酒井忠顕に大型西洋帆船の建造を進言する。遭難しアメリカ商船に救助された播磨の領民の情報を元に安政6年(1859年)に速鳥丸を建造・進水させると、続けて神護丸金花丸も建造する。


文久
2年(1862年)、藩主の酒井忠績に随従して上京。同年8月29日、京都で客死。享年39。墓地は廬山寺


明治36年(1903年)、正五位を追贈された[2]

著書
・『例語部類』

・『就中宇宙起源』

・『近世三十六歌撰』

・『大祓詞集疏』

・『神議』

・『古祝詞新疏』

・『古語拾遺異本考』

・『八岐大蛇変化考』


など

脚注
1. 大国隆正の別姓が野々口であるため。
2. 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.20

参考文献
・『姫路城の基礎知識』(2009年、姫路市立城郭研究室

関連項目
姫路藩

速鳥丸

神護丸

河合惣兵衛
(wikiより)

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・従五位永田伴正君霊位  :  永田伴正

永田伴正 ( ながた - ともまさ )
( 1839 - 1903 )

幕末 - 明治時代の武士、実業家。

天保 ( てんぽう ) 10年 11月生まれ。

播磨 ( はりま )( 兵庫県 ) 姫路藩士。

河合惣兵衛らと尊攘運動に加わる。

文久 3年藩の御用商人紅粉屋 ( べにや ) 又左衛門を江坂栄次郎らと殺害、捕らえられ家名断絶・終身禁獄となる。

のち許され実業界に転じ明治 26年第三十八国立銀行頭取となった。明治 36年 12月 5日死去。65歳。

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・贈正五位市川豊次久明君霊位  :  市川豊次

市川豊次 ( いちかわ - とよじ )
( 1841 - 1865 )

幕末の武士。

天保 ( 天保 ) 12年生まれ。

播磨 ( はりま )( 兵庫県 ) 姫路藩士。

剣術にすぐれ、文久 2年京都御所を警備、尊攘 ( そんじょう ) 派とまじわる。

翌年千種 ( ちぐさ ) 家家臣の賀川肇 ( はじめ )、儒者家・里松嶹 ( しょうとう ) を暗殺 。

元治 ( げんじ ) 元年捕らえられ、12月 26日切腹。 24歳。名は久明。通称は豊二、豊治とも書く。

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・贈正五位松下鉄馬綱光君霊位  :  松下鉄馬

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・贈正五位伊舟城源一郎致美君霊位  :  伊舟城源一郎

伊舟城 源一郎(いばらき げんいちろう、天保元年(1830年) - 元治元年12月26日1865年1月23日))は、幕末武士[1]。名は致美[1]。通称ははじめ宗一郎[1]

経歴・人物

播磨国姫路藩[1]文久2年(1862年)上洛[2]。他藩の尊攘派と交流し尊王攘夷運動に参加、文久3年1月29日賀川肇暗殺事件に関与[2]。元治元年(1864年)藩に戻るが、事件が発覚し処刑された[2]


明治31年(1898年)、正五位を追贈された[3]

脚注
1. a b c d デジタル版 日本人名大辞典+Plus(講談社)『伊舟城源一郎』 - コトバンク
2. a b c 朝日日本歴史人物事典(朝日新聞社)『伊舟城源一郎』 - コトバンク
3. 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.10
(wikiより)

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・贈正五位江坂元之助行厚君霊位  :  江坂元之助

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・贈正五位河合傳十郎宗貞君霊位  :  河合伝十郎

河合伝十郎 ( かわい - でんじゅうろう )
( 1841 - 1865 )

幕末の武士。

天保 ( てんぽう ) 12年生まれ。

境野求馬の次男。河合惣兵衛の養子。

播磨 ( はりま )( 兵庫県 ) 姫路藩士。

諸藩の尊攘 ( そんじょう ) 派とまじわる。

元治 ( げんじ ) 元年 ( 1864 ) 江坂栄次郎とともに脱藩。

大阪の高知藩邸に潜伏中、実父が自殺したのを聞き長門 ( ながと )( 山口県 ) におもむこうしたが、藩吏に捕らえられ、元治元年 12月 26日斬刑となった。 24歳。名は宗貞。

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・贈正五位萩原虎六政興君霊位  :  萩原虎六

萩原虎六 ( はぎわら - ころく )
( 1841 - 1865 )

幕末の武士。

天保 ( てんぽう ) 12年生まれ。

播磨 ( はりま )(  兵庫県 ) 姫路藩士。

槍・砲・柔術の達人。

文久 2年 ( 1862 ) 藩主に従って京都へ行き、尊攘 ( そんじょう ) 派とまじわる。

3年八月十八日の政変後帰藩、在京中に千種家 ( ちくさけ ) 雑掌 ( ざっしょう ) 賀川肇らを殺害したとして元治 ( げんじ ) 元年 12月 26日自刃 ( じじん )を命じられた。 24歳。名は政輿 ( まさこし )。

【格言など】よしや身は草むす野辺に埋む共君のなき名を洗てすゝかん ( 辞世 )

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