本牧jack『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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小生の拙ブログ『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑に御訪問頂き誠に有難う御座います。
歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。
たまに『 大人数で取材しているのか? 』との質問を戴きますが、小生と相方の二人三脚で御座います。
出来るだけ続けたいと思っていますが 膝・耳に問題が有って、いつまで出来るやら・・・説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。
御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。 ※ 申し訳御座いませんが「画像の転用」は禁止とさせて頂きます。 コメントは原則公開させていただいております 質問等に対してはブログ記事で返信させていただきます 他の方法で連絡を取り合う等一切しません 場合によっては、「IPブロック」しますがブロックした場合解除する事は有りませんので宜しくお願いします。

カテゴリ: 寺社仏閣・教会・住職・宗教・祭関連

〇 川中島合戦をしのぶ田中月亀翁父子の歌碑

田中月亀翁は本名亀太郎、現長野市更北の人で、松代藩主・真田幸教に仕え、学問に熱心で、歌道に長じ、その子亀作も亀守 ( かめもり ) と号し、風雅の道で知られていた。

この歌碑は、田中父子の和歌をしるしたもので、表の和歌は、川中島の大激戦の様子をしのび、裏の和歌は、大合戦の終わった後のここ八幡原 ( はちまんばら ) 一帯の情景を歌ったものである。

( 表 ) 跡しのぶ 川中島の朝あらし

      いぶきのさ霧 おもかげに見ゆ

                   月廼亀麿 ( つきの かめまろ )

( 裏 ) 月影の入 ( いり ) にし後 ( のち ) も ほととぎす

      ひとこえ残す 小島田の里

                   月廼亀守 ( つきの かめもり )
(案内板より)

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この建物は、明治三十五年五月二十二日皇太子嘉仁 ( よしひと ) 親王殿下 ( 後の大正天皇 ) が、この歴史的景勝地八幡原の史蹟を御見学の為行啓され ( 参道右手に石垣に囲まれた二本の松はその折り、殿下が植えられたもの ) その後も県内外より史蹟見学者が多数訪れ、湯茶接待を行うための休憩所 ( 二間半四方丸木堀立板葺 ) として使用された建物址である。
(案内板より)

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ただ軍の軍旗であるこの旗は、別名「孫子」の旗ともいわれ、もともと鮮麗な紺色の絹布に金泥で書いたもので、字句は兵法の聖典「孫子」の一節で、武田氏の菩提寺恵林寺 ( えりんじ ) の禅僧快川紹喜 ( かいせんじょうき ) の筆になるものである。

「疾 ( はや ) きこと風の如く、徐 ( しず ) かなること林の如く、侵掠 ( しんりゃく ) すること火の如く、動かざること山の如し」

これは合戦にのぞみ、軍隊とはかくあるべきことを教えたもので、孫子の研究者として戦国時代の最高峰といわれた信玄の軍隊運用術でもあった。

武田軍の軍旗としては、このほかに「南無諏訪南宮法性上下大明神」の旗があり、「風林火山」の旗と共に武田軍の象徴である。
(案内板より)  

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上杉軍の軍旗で、「毘 ( び )」は上杉謙信が信仰した毘沙門天 ( びしゃもんてん ) を意味し、戦場にこの旗と共にあることは毘沙門天と共にあり、その加護のもと上杉軍将兵は勇往邁進し、水火も辞さない勇気を示したといわれる。

「龍」は乱れ龍を意味し、突撃の時まっ先に押し立てて進んだ「突撃用軍旗」である。

永禄四年 ( 一五六一 ) 九月十日の川中島合戦もこの旗で火蓋が切られたのである。

謙信自らの信仰心に発する「昆」の旗と共に、この旗は上杉軍の勇猛果敢さを象徴し戦わずして敵の恐怖心を誘発したといわれる。
(案内板より)

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永禄 4年 ( 1561 ) 9月 10日、ここ八幡原 ( はちまんばら ) を中心に上杉、武田両軍 3万余の壮絶な死闘が展開された。

上杉謙信は紺糸威 ( こんいろおどし ) の鎧 ( よろい ) に萌黄緞子 ( もえぎどんす ) の胴肩衣 ( どうかたきぬ )、金の兜に立烏帽子白妙 ( たてえぼししろたえ ) の練絹 ( ねりぎぬ ) で行人包 ( ぎょうにんつつみ )、長光 ( ながみつ ) の太刀を抜き放ち、名馬放生 ( ほうしょう ) に跨り戦況の進展に注目、乱戦で武田本陣が手薄になったのをみ、旗本数騎をつれ信玄の本営を強襲した。

この時の武田信玄は諏訪法性 ( すわほっしょう ) の兜、黒糸縅の鎧の上に緋 ( ひ ) の法衣、軍配を右手にもち、この地で崩れかかる諸隊を激励指揮していた。

この信玄めがけて謙信は只一騎、隼の如く駆け寄りざま、馬上より流星一閃、信玄は軍配で受けたが、続く二の太刀で腕を、三の太刀で肩に傷を負った。

後にこの軍配を調べたところ刀の跡が七ヶ所もあったといわれ、この一騎討ちの跡を世に三太刀七太刀之跡という。
(案内板より)

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現在八幡社境内西北の隅に蓋がされている井戸がある。

真夜中になると、井戸底から、戦死者の怨霊の悲鳴が聞こえるという。
(パンフレットより)

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永禄 4年の合戦のあと、武田方の梅津城代・高坂弾正が、一帯に散乱する戦死者の遺体を敵味方区別無く手厚く葬った塚とされる。

昔は付近に数基あったいうが、現存しているのは二基だけで、もう一基は八幡社の南 200メートル程の所にある。
(パンフレットより)

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今回は 301 ~ 391番まで紹介します。

御祭神 三九一柱
・吉田松陰:一柱
・高杉晋作、久坂義助、入江九一、吉田稔麿、河上弥一、白石正一郎、白石廉作、山県有朋 等、
 
長州藩奇兵隊士:二五六柱
・泉十郎、熊野直助 等、
 
浦藩報国隊士:九六柱
・膺徴隊、八幡隊、遊撃隊、整武隊、清末藩育英隊等諸隊士: 三八柱

 招魂碑の御名前と違う場合も有ります。

301

301 三島現八忠之

302

302 早川文三

303

303 増野矢之助

304

304 吉武五郎清久
 
305

305 橋本九兵衛忠誠

306

306 高橋源吾

307

307 熊和惣五郎正

308

308 植田謙三正致

309

309 山本弥八

310

310 上田仁兵衛

311

311 後藤酒兵衛正信

312

312 吉田喜三郎正光

313

313 山名孫八政次

314

314 平野耕造行家

315

315 岡村常吉行信

316

316 阪本伊三郎清則

317

317 江見謙介正勝

318

318 榎本清蔵信喬

319

319 下田小太郎正行

320

320 河田源太郎直一

321

321 畠中孫助喬秀

322

322 阿川五郎国光

323

323 藤井直江正治

324

324 大崎源吾忠勝

325

325 原新兵衛辰繁

326

326 関中力蔵義之

327

327 原吉太郎貞徳

328

328 渋谷処吉年之

329

329 石田幾次郎光吉

330

330 石井兵蔵重信

331

331 坂井栄太郎義一

332

332 平尾磯之助正一

333

333 井上三郎正一

334

334 無敵幸之進勝行

335

335 堀尾六郎範勝

336

336 児玉雷蔵春唯

337

337 清水甚蔵範正

338

338 上原二九郎利之

339

339 穴山一俊幸

340

340 勝見善太郎末高

341

341 滝川六郎資直

342

342 倉光新吉亮正

343

343 迫田為太郎清治

344

344 勝原国介棟栄

345

345 下村文次郎高俊

346

346 下田恂介

347

347 千葉三郎忠明

348

348 熊野直介則之

349

349 泉十郎重次

350

350 有川恒槌紀綱

351

351 岩本勘九郎

352

352 藤村英次郎稔彦

353

353 元森熊次郎春幹

354

354 熊美平吾宜一

355

355 山田鵬輔成功

356

356 藤村太郎稲彦

357

357 前兵部少丞 交野◇

※ ◇は判読不可でした。

358

358 河上弥一

359

359 吉田稔麿秀実

360

360 久坂義助通武

361

361 松陰吉田先生

362

362 高杉晋作春風

363

363 入江九一弘致

364

364 時山直八養直

365

365 福田侠平公明

366

366 宮城彦助御楯

367

367 堀潜太郎春峰

368

368 阿川四郎延実

369

369 十川東之勝忠一

370

370 天宮慎太郎行文

371

371 堀滝太郎浪風

372

372 山県有朋

373

373 小田村信之進

374

374 永野熊之允政和

375

375 井関英太郎

376

376 周田半蔵 

377

377 伊藤百合五郎

378

378 白石廉作資敏

379

379 田中弁蔵知忠

380

380 伊東貞三祐久

381

381 下瀬熊之進

382

382 山内賢之充通喜

383

383 白石資風

384

384 阿部宗兵衛吉道

385

385 南野一郎

386

386 尾川清足

387

387 堀平三郎知忠

388

388 世木騎騄義安

389

389 和田小伝次唯之

390

390 臼井留之助平胤勝

391

391 松尾甲之進

以上 391の招魂碑でした。



今回は 201 ~ 300番まで紹介します。

御祭神 三九一柱
・吉田松陰:一柱
・高杉晋作、久坂義助、入江九一、吉田稔麿、河上弥一、白石正一郎、白石廉作、山県有朋 等、
 
長州藩奇兵隊士:二五六柱
・泉十郎、熊野直助 等、
 
浦藩報国隊士:九六柱
・膺徴隊、八幡隊、遊撃隊、整武隊、清末藩育英隊等諸隊士: 三八柱

 招魂碑の御名前と違う場合も有ります。

201

201 長網滝吉好文

202

202 武末孫六末永

203

203 吉崎常吉通行

204

204 吉津定吉利政

205

205 勝岡弥九郎信好

206

206 金田常吉正盛

207

207 河崎友次郎正勝

208

208 金山太郎熊忠貫

209

209 川崎八郎行光

210

210 渡辺幸助章

211

211 太田銀次郎正光

212

212 岡本勝右衛門吉豊

213

213 大藤季吉一好

214

214 徳永権次郎忠勝

215

215 処光蔵正勝

216

216 本田三郎金吉

217

217 萩原次郎右衛門忠孝

218

218 一柳勇次郎忠明

219

219 泉光蔵時明

220

220 入船米吉信光

221

221 木原四郎

222

222 阿武市之丞

223

223 福田直右衛永光

224

224 土田内蔵太

225

225 佐々木又四郎満寛

226

226 小枝正之助守義

227

227 中村高平

228

228 長尾兵馬春景

229

229 三井弦次郎

230

230 福田儀作任風

231

231 吉村盛之助忠光

232

232 吉村虎吉

233

233 寺岡軍一

234

234 中村広太郎国久

235

235 土井熊吉忠臣

236

236 井石和作茂秀

237

237 山田梅吉正明

238

238 高橋五郎高政

239

239 武井満太郎等実

240

240 矢野伊兵衛直行

241

241 吉岡三郎綱重

242

242 岡田辰太郎正明

243

243 泰音之進嘉延

244

244 斎藤亀蔵

245

245 西林利吉(正行)

246

246 村田団蔵

247

247 本田寅之助芳忠

248

248 飯田楳之丞敬之

249

249 河村次郎通治

250

250 田中英作義之

251

251 杉浦喜代三信之

252

252 佐伯多三郎正道

253

253 西山八十槌長安

254

254 柳半之丞之道

255

255 田村熊吉郎恵満

256

256 正木泰蔵正行

257

257 水津惣之助重義

258

258 森重菊次郎謙

259

259 斎藤千熊幸郷

260

260 町田道之助勝久

261

261 藤田吉作則忠

262

262 松江安右衛門

263

263 福田弥太郎正重

264

264 森脇三右衛門忠信

265

265 遵海坊鬼顔

266

266 戸沢竹次郎政勝

267

267 藤重源九郎行政

268

268 藤井一郎雅章

269

269 榊原剛之助勝忠

270

270 竹森源二

271

271 藤田育太郎義懐

272

272 早川源次郎

273

273 藤川清次徳一

274

274 入江勝馬一義

275

275 石川伊三郎義忠

276

276 大村精次郎義忠

277

277 本田政之助

278

278 石川和三郎勝久

279

279 伊藤俊三政寿

280

280 佐々木五右衛門綱孝

281

281 杉山蔦太郎秀清

282

282 渡辺八郎英

283

283 山田藤五郎貞光

284

284 植木百合次正之

285

285 大本昇勝喜

286

286 山本泰三

287

287 北島保介

288

288 久富豊

289

289 山田寅之助盛次

290

290 三分利徳三郎

291

291 今津宇三郎

292

292 内山太郎右衛

293

293 堀弥四郎敬忠

294

294 山徳権之丞

295

295 山本弁蔵道輝

296

296 山本作蔵

297

297 広瀬徹和義

298

298 国弘数馬一之

299

299 徳永九十九忠信

300

300 山県保助義幸



次回はは 301 ~ 391番まで紹介します。




今回は 101 ~ 200番まで紹介します。

御祭神 三九一柱
・吉田松陰:一柱
・高杉晋作、久坂義助、入江九一、吉田稔麿、河上弥一、白石正一郎、白石廉作、山県有朋 等、
 
長州藩奇兵隊士:二五六柱
・泉十郎、熊野直助 等、

浦藩報国隊士:九六柱
・膺徴隊、八幡隊、遊撃隊、整武隊、清末藩育英隊等諸隊士: 三八柱

 招魂碑の御名前と違う場合も有ります。

101

101 山中杢助盛幸

102

102 上領重三安利

103

103 奈良尾源兵衛義民

104

104 金山儀十郎忠直

105

105 杉野晋八

106

106 橋本常吉孝幸

107

107 末武省作定国

108

108 関謙三正直

109

109 船木良蔵

110

110 吉田治三郎

111

111 井尻友蔵

112

112 藤本利吉

113

113 久富信吉

114

114 中尾千之丞忠光

115

115 酒井定五郎

116

116 多々野六郎正景

117

117 加藤房蔵

118

118 石田五郎直明

119

119 原川助右衛門安則

120

120 野田蔵之進信利

121

121 山下半三郎安邦

122

122 安部直人

123

123 萩原忠一郎忠秀

124

124 村岡彦十郎

125

125 田村勇人義之

126

126 木原亀之進弘幸

127

127 山浪松蔵千治

128

128 今井満田郎忠備

129

129 西本四郎勝正

130

130 平賀宗四郎政一

131

131 檜垣五三郎貞静

132

132 藤田平太郎岸彦

133

133 粂八

134

134 堀虎蔵

135

135 中村元之親清忠

136

136 矢玉助太郎

137

137 藤野浪太郎秀一

138

138 伊藤虎松直之

139

139 古川順蔵正勝

140

140 松原与兵衛時治

141

141 飯田幸十郎勝真

142

142 中村水穂

143

143 本郷志摩之助

144

144 御手洗音五郎光重

145

145 磯野虎蔵正一

146

146 若月健蔵勝正

147

147 大枝八郎義鎌

148

148 渡辺逸蔵義之

149

149 福間辰之助久重

150

150 梅村喜代三春行

151

151 見義市蔵助光

152

152 木原祐太郎虎重

153

153 山崎四方七昌貫

154

154 安部清見

155

155 飯沼三千助(元春)

156

156 井上収蔵

157

157 玉江芳彦美臣

158

158 美香房之進忠義

159

159 山田滝太郎義忠

160

160 十河彦四郎義一

161

161 有田彦兵衛忠光

162

162 村上小次郎周徳

163

163 関口弥太郎兼房

164

164 大野秀兵衛義光

165

165 隅次郎秀光

166

166 梅津熊之進正義

167

167 守永光之進一正

168

168 徳見与五郎忠信

169

169 春日与七芳風

170

170 山城平吉政久

171

171 橘式部信秀

172

172 重富秀之進義明

173

173 伊藤清治祐俊

174

174 内田文吉清忠

175

175 柳良平守忠

176

176 藤野正助

177

177 高橋市之進

178

178 秋枝庄太郎

179

179 山下豊吉

180

180 長岡勘助国光

181

181 永山勝四郎光行

182

182 中井源次郎忠一

183

183 梅林芳助忠一

184

184 野上繁九郎信綱

185

185 国重直人与芳

186

186 黒塚源吾信弘

187

187 工藤合輔順豊

188

188 日下房助信義

189

189 国村貞右衛門正明

190

190 山尾謙次勝信

191

191 松田新兵衛雪範

192

192 舛見栄作忠清

193

193 深津信吉清喬

194

194 藤永政助雪範

195

195 福田忠蔵武俊

196

196 福原林之助俊喬

197

197 作間友槌信忠

198

198 水野清蔵範正

199

199 北村忠蔵光信

200

200 藤吉


次回は 201 ~ 300番まで紹介します。




櫻山神社(さくらやまじんじゃ)は山口県下関市に鎮座する神社[1]

祭神
吉田松陰 1柱
高杉晋作久坂義助入江九一吉田稔麿河上弥市 5柱、
白石正一郎、白石廉作、山県有朋 等 長州藩奇兵隊士 256柱
・泉十郎、熊野直助 等 豊浦藩報国隊士 96柱
・膺懲隊、八幡隊、遊撃隊、整武隊、清末藩育英隊等諸隊士 38柱 計391柱(霊標は391柱だが合祀され神霊名簿に記載されている神霊は857柱[2]

歴史
文久3年(1863年)の下関事件を受け、高杉晋作は奇兵隊を結成した。同年10月(1864年11月)殉国の志士の神霊を祀る招魂場の創建を発議した。文久4年1月23日(1864年3月2日)、白石正一郎らにより下関の新地岡の原に招魂場の創建(社殿は翌月から着工されたが下関戦争、禁門の変といった動乱続きにより落成したのは元治の内乱で藩論が統一された後の元治2年8月3日(1865年9月22日)であった)[3]。明治5年8月20日(1872年9月22日)、防長各所の招魂場を合祀。同年9月1日(1872年10月3日)豊浦藩報国隊士を合祀。

1959年吉田松陰没後百年祭にあたり山縣有朋等23柱を追祀。2016年
前原一誠ら6柱を合祀。[4]

参考文献
櫻山神社 公式サイト
“東流西流”. 山口新聞. (2016年10月30日)
“御由緒”. 櫻山神社. (2018年5月9日)
“下関の桜山神社「前原一誠」合祀”. 山口新聞. (2016年8月12日)

関連項目
招魂社    

外部リンク
櫻山神社 公式サイト       
(wikiより)

御祭神 三九一柱
・吉田松陰:一柱
・高杉晋作、久坂義助、入江九一、
 吉田稔麿、河上弥一、
 白石正一郎、白石廉作、
 山県有朋 等、
 長州藩奇兵隊士:二五六柱
・泉十郎、熊野直助 等、
 浦藩報国隊士:九六柱
・膺徴隊、八幡隊、遊撃隊、
 整武隊、
 清末藩育英隊等諸隊士: 三八柱

 招魂碑の御名前と違う場合も有ります。

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⇧ 中央の背が高い招魂碑が吉田松陰です。

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⇧ 入口の門

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⇧ 招魂墓地全景 ( 中央左側に桜が咲いていました。2022.11.11. )

1

1 権右エ門

2

2 久光秀太郎秀光

3

3 杉浦梅五郎義一

4

4 楊井安右衛門政之

5

5 森重謙介

6

6 上田滝之助

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7 皆川謙蔵義虎

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8 久松

9

9 末村綱次郎守節

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10 生雲五郎一友信

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11 奇兵隊別当 喜作

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12 奇兵隊小者 利吉

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13 奇兵隊工人 治助

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14 14 奇兵隊小者 友吉

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15 奇兵隊小者 喜八

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16 奇兵隊小者 広吉招魂碑

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17 柳井寅之助正明

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18 岡村房助義勝

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19 奇兵隊付郷侠組 久松

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20 奇兵隊別当 清助

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21 笹倉新之丞正義

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22 橋本虎松孝幸

23

23 柏多牧太安親

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24 末久亀二郎久勝

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25 山下次郎鬼一

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26 田辺五郎正道

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27 永田真平

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28 細川清若儀金

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29 野村織之助

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30 原田幸三郎正義

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31 杉山深太郎正一

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32 和田十郎清門

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33 和田三郎義一

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34 藤岡三右衛門義道

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35 磯野熊蔵

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36 田中初太郎

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37 依儀復忠道

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38 長府屋由五郎

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39 奇兵隊小者 弥吉

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40 佐伯武治郎義武

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41 前兵部権大録 木村文太郎

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42 関奥小路 山形屋甚兵衛

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43 池田与吉

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44 波田仙一

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45 平田四郎忠勝

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46 三輪内蔵主

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47 井関閑斉儀憐

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48 奇兵隊小者 松次郎

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49 今永順治

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50 藤原静馬秀友

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51 奇兵隊小者 冨蔵

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52 渡辺九郎明

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53 片山高岳

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54 宮崎浅太郎基

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55 軍曹 赤間関也藤原公任

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56 奇兵隊別当 利吉

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57 井上勝之進康同

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58 桐原二平

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59 奇兵隊郷侠組 要吉

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60 上田村 九兵衛

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61 上田村 嘉吉

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62 山県清之進清澄

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63 小村五郎

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64 守川豊 

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65 植田楳之允

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66 鹿蔵

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67 幸助

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68 小使 竹蔵招

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69 江本豊太郎孝敷

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70 枝川貞吉正芳

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71 箙梅吉

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72 島弥太郎勝正

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73 末永勝之進信吉

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74 原勝蔵広行

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75 上杉六郎良虎

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76 直江政吉実行

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77 大原新五郎正敬

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78 原田儀助朝吉

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79 岡村勝三郎新国

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80 小川直八道近

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81 園田伝吉保次

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82 杉山重吉忠義

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83 稲田次郎

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84 河野三郎信義

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85 植田村 喜代三郎

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86 国島栄三高徳

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87 久我亀吉忠行

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88 竹林次郎英生

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89 廣世徹和儀

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90 伯野波江

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91 馬屋原彦右衛門

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92 岡田五郎忠義

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93 吉富信吉

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94 原勝之進為則

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95 三栖谷建礼

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96 小須賀逸衛知良

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97 西山八郎勝清

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98 芳川道祐正義

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99 高橋淳太郎忠信

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100 三浦平之介義英

次回は 101 ~ 200番まで紹介します。


鎮座地 : 長野市小島田町新田一三六二番地一

御祭神 : 誉田別尊 ( ほんだわけのみこと ) 建御名方命 ( たけみなかたのみこと )

由緒

祭神の誉田別尊は第十五代応神天皇の諱 ( いみな ) で神宮皇后 ( じんぐうこうごう ) を母とし在位四十一年に亘大陸の文化を積極的にとり入れられ、古代日本の文化の向上、国家の発展に尽くされた御功績が仰がれ皇室の崇敬する神であるばかりでなく源氏一族をはじめ武人の神、弓矢八幡と称して全国各地へ勧請 ( かんじょう ) され、開拓の守護神、農耕神としても信仰されました。

当社においても平安中期、源顕清が信濃の国に流されたと時、この地を訪れ広大な景勝の原野に武運長久を祈り八幡大神 ( はちまんのおおかみ ) ( 誉田別尊 ) をご神木の大欅 ( おおけやき ) に包まれる鞘堂 ( さやどう ) 内のご神殿に祀られたことから、この広源一帯を八幡原 ( はちまんばら ) と名づけました。

川中島合戦で破壊された神殿を信玄は、高坂弾正に命じて社殿を再建させ、その後松代藩真田家が明治維新まで代々祭祀、修繕運営をされました。

現在は明治四十一年に建御名方命 ( 諏訪大社の祭神 ) が合祀され、その御神徳は、必勝、厄除、交通安全、安産、育児などであります。
(案内板より)

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松代の民話

酒飲み弥勒 ( みろく ) さん

 - お小僧に化けて酒を買いに -

こがらし吹くある日の夕方、中町の酒屋へ「明徳寺 ( めいとくじ ) です。お酒を一升 ( いっしょう ) ください。」と ひとりのお小僧がやってきました。

「うちの和尚 ( おしょう ) さんとってもお酒好きなんです。」

そして毎晩毎晩やって来ました。

年の暮れに、寺へ代金を受け取りに行くと「酒代?わたしは酒は飲まんよ。小僧なんていないよ。」

酒屋は代金をとれずじまいで、ぷんぷん怒 ( おこ ) りながら家へ帰りました。

ところがその日の夕方、例の小僧がまたやってきたのでつかまえて柱にしばりつけてしまいました。

翌朝、逃げ出した足跡 ( あしあと ) を追って明徳寺の弥勒堂 ( みろくどう ) をつきとめ、開けて見たところ弥勒さんがなわでしばられて、酒の匂いをぷーんと漂 ( ただよ ) わせておりました。
(案内板より)

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蛙合戦 

   見し夜の泊まり 

          川中島
 
                鉄之介
(石碑文より)

 本堂の裏には、ヒキガエルが産卵のために群集する「蛙合戦」の池などがある。

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明徳寺(めいとくじ)は、長野県長野市松代町豊栄にある曹洞宗寺院。山号は、龍潭山。本尊は拈華微笑 釈迦牟尼仏鎌倉時代作)。

概要
1390年(南朝:元中7年、北朝:明徳元年)に越後国刈羽郡の東福院5世妙徳により開山。明応10年(1501年)には正続円明禅師が中興開山となった。戦国時代には甲斐武田氏家臣で、信濃更級郡香坂氏の養子となった海津城代の春日虎綱(高坂昌信)の帰依厚く、1533年(天文2年)に諸堂を修理し重興開基となる。玉山春洞を招き明徳寺は曹洞宗となる。

境内には虎綱の墓所があり、『甲斐国志』によれば明徳寺には虎綱の没年を天正6年5月初7日とする伝承を伝えているが、これは誤りであることが指摘される。

慶長16年(1611年)、松平忠輝により寺領20石を寄進され、慶安2年(1649年)には江戸幕府から朱印20石を安堵された。それ以後は歴代松代藩主(真田氏)により保護された。

エピソード
夜な夜な小僧に化けて酒を買いにでかけたという「酒飲み弥勒」の伝承がある弥勒菩薩も本尊のほかに安置されている。本堂裏手には、ヒキガエルの産卵場所になる「蛙合戦」の池(長野市指定天然記念物1967年(昭和42年)11月1日指定)などがある。

墓所
高坂昌信の墓の他、大東亜戦争における硫黄島の戦いの指揮官栗林忠道の墓もある。

参考文献
・『信州の文化シリーズ 寺と神社』1981年 信濃毎日新聞社   
・『探訪 信州の古寺 禅宗』1996年 
郷土出版社            
(wikiより)

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⇧⇩ 高坂弾正の墓

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⇧ 栗林忠道の墓

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旧県社。

祭神は、毛利元就・毛利隆元・毛利輝元・毛利敬親・毛利元徳。

明治 11年 ( 1878 )、萩町及び付近の有志が発起し、広く毛利家ゆかりのあるものの賛同を得て、萩城跡本丸内に山口の豊栄 ( 祭神・毛利元就 )・野田 ( 祭神・毛利敬親 ) 両神社の遥拝所を創建した。

翌 12年、この遥拝所を山口にある両神社の分社とし、指月神社と称した。

同 15年県社に列せられ、志都岐山神社と改めた。

同 33年、祭神を元就・隆元・敬親・元徳の 5柱とし、初代から 12代まで萩藩主を配祀した。
(案内板より)

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金毘羅社の建立年は不詳であるが、入口に金毘羅社に寄進された鳥居が建っており、それに延享 2年 ( 1745 ) と彫られている点や天保年間 ( 1830 ~ 43 ) に編纂された「八江萩名所図画」に現在の社そのままの姿が描かれていることなどから、少なくともそのころには建立されていたと思われる。

本殿は木像切妻造檜皮葺で桁行 1.73m、梁間 1.2m、主な用材はケヤキ、柱は丸柱である。

釣屋は桁行 5.41m、梁間 5.1mの桟瓦葺で、内部は畳敷きである。

拝殿は一重裳階付、入母屋造瓦葺、前面庇は檜皮葺、用材はケヤキ、柱は丸柱で、唐破風の桁行 4.0m、梁間 6.1mの本県独特の楼造風である。

このように社殿が地方色の濃い古い建物であることや神仏習合の形態が今でもみられる点で貴重な遺構である。

石鳥居は花崗岩製で高さ 2.8m、様式は明神鳥居で笠木・島木に反りがあり、柱には転びがあり、柱頭部には台輪がついている。

建立年代は延享 2年 ( 1745 ) である。

山門は桁行 2.42m、梁間 1.34mの棟門形式で本瓦葺、両袖に 1.35mの潜門がついている。

建築年代は不明である。

石灯籠は玄武岩製で高さ 4.3m、さらに 77cmの 4段の台座上に立ち、県下最大のものである。

竿の部分の竜の高彫はすばらしく、高さ 1.14m、直径 52cmである。

制作年代安政 5年 ( 1858 ) で萩の石工・五嶋吉平恒徳、同山中武祐利豊の共同制作であり、付近の町人たちが寄進したものである。
(案内板より)

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江戸時代初めの茶人・古田織部が考案した灯篭

この灯篭の特色として竿の部分が角柱状で上部が分厚い円盤状になっており、正面にそれぞれ人物形と文学風の刻みを入れるものもある。

竿を十字架に見立ててキリシタン灯篭という説もある。
(案内板より)

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所在地山口県萩市椿4132
位置北緯34度23分43.5秒 東経131度23分8.9秒
山号霊椿山
宗旨臨済宗
宗派南禅寺派
創建年明暦2年
開基毛利綱広
札所等中国三十三観音霊場第20番
文化財本堂、鐘楼門、庫裏、書院、経蔵、木造赤童子立像(重要文化財)
萩藩主毛利家墓所(国の史跡)
公式サイト大照院

大照院(だいしょういん)は、山口県萩市にある臨済宗南禅寺派寺院である。中国三十三観音霊場第二十番。

歴史
延暦年間(8世紀末 - 9世紀初)に月輪山観音寺という前身寺院があったというが、創建の事情は定かでない。その後鎌倉時代末期に建長寺の義翁和尚が大椿山歓喜寺と改め、臨済宗の寺院とした。その後荒廃したが、萩藩2代藩主毛利綱広が亡父の初代藩主秀就の菩提寺とするために承応3年(1654年)から明暦2年(1656年)にかけて再建し、その時秀就の法号にちなんで霊椿山大照院と改めた。

寺は延享4年(1747年)に火災に遭い、現存する本堂等は、その後6代藩主宗広によって再建されたものである。

境内の萩藩主毛利家墓所は国の史跡で、初代(萩での藩主の代数は輝元を初代とせず、秀就を初代として数えている)秀就、2代綱広、4代吉広、6代宗広、8代治親、10代斉煕、12代斉広と2代から12代までの偶数代の藩主と夫人や藩士の墓石があり、墓前には藩士が寄進した石灯籠が600数基ある。

ちなみに奇数代の藩主の廟所は萩市内の黄檗宗寺院東光寺にあり、秀就の父輝元の廟所は萩市の天樹院跡にある。

文化財
重要文化財
・本堂 - 入母屋造、桟瓦葺きの方丈形式の仏堂。延享4年(1747年)の火災後、寛延3年(1750年)頃までに再建された。鐘楼門、庫裏、書院も同じ頃の建築である。
・鐘楼門 - 江戸時代中期(1750年)の建立。三間一戸二階二重門、入母屋造、桟瓦葺。平成14年(2002年)5月23日指定。
・庫裏 - 江戸時代中期(1750年)頃の建立。桁行18.1m、梁間18.0m、一重、切妻造、妻入、南面・西面下屋付、東面庇・南面渡廊下及び便所・北面庇・西面便所各附属、本瓦及び桟瓦葺、東面突出部 桁行4.0m、梁間4.0m、入母屋造。平成14年(2002年)5月23日指定。
・書院 - 江戸時代中期(1750年)頃の建立。桁行21.9m、梁間22.7m、一重、丁字形東面入母屋造、西面寄棟造、北面切妻造、西面北端便所附属、南面東端廊下附属、桟瓦葺。平成14年(2002年)5月23日指定。
・経蔵 - 江戸時代後期(1755年)の建立。土蔵造、正面6.2m、側面6.2m、一重、宝形蔵、向拝一間、桟瓦葺、八角輪蔵付、北面及び西面張出し附属。平成14年(2002年)5月23日指定。
・木造赤童子立像 - 南北朝時代の作品。明治35年(1902年)7月31日指定。

国の史跡
萩藩主毛利家墓所
萩藩主毛利家の墓所は、大照院隣接地と東光寺隣接地にある。

毛利輝元の子の初代藩主秀就は、慶安4年(1651年)に萩城で没し、天樹院で火葬されたあと歓喜寺に葬られた。2代藩主綱広は亡父のため、承応3年(1654年)歓喜寺の改修に着手し、明暦2年(1656年)に完工した。この時、秀就の法号大照院にちなんで寺名を大照院と改めた。大照院は臨済宗の寺で、延享4年(1747年)に火災のため全焼し、6代藩主宗広の時、寛延3年(1750年)に再建した。

東光寺は、3代藩主吉就が、元禄3年(1690年)に創建した黄檗宗の寺である。東光寺の創立以降、歴代藩主は大照院と両寺に交互に葬られることとなった。すなわち、大照院には初代秀就・2代綱広・4代吉広・6代宗広・8代治親・10代斉熙・12代斉広の7人が、東光寺には3代吉就・5代吉元・7代重就・9代藩主斉房・11代藩主斉元の5人が葬られた。

大照院の墓所は、大きく5群に分かれている。墓所内の墓の数は52基で、藩主の墓7基を除いた45基は、藩主正室、一族、殉死者などのものである。墓標は、改葬墓1基、新墓2基を除いて、花崗岩製の五輪塔型で統一され、水輪に普の字を、地輪の表には法号、その裏に没年月日を刻むのを原則としている。墓の大きさも藩主夫妻と一族などの2種類に分けてほぼ統一され、藩主夫妻のそれは特に大型である(総高約4.5メートル)。墓の周囲には玄武岩製の石柱玉垣がめぐらされており、藩主の玉垣の内側と外側には青栗石が敷きつめられている。藩主墓の参道にはそれぞれ鳥居(計7基)が建っていることも特徴である。また墓所内には、605基の石燈籠がある。この両墓所は、明治初年にそれぞれ大照院・東光寺から分離され(東光寺の墓所は明治4年(1871年))、毛利家の所有となり、現在に至っている。

毛利輝元は、寛永2年(1625年)に没すると天樹院に葬られた。旧天樹院には、五輪塔型、花崗岩製の輝元夫妻の墓、秀就火葬跡が残っている。

萩藩主毛利家墓所は、大照院・東光寺ともに、山林を背にして広大な地域に整然と配置され、その規模の大なることといい、荘厳幽邃なことといい、近世大名墓所の代表的なものであり、大名の墓制・葬制を知る上で重要である。

昭和56年(1981年)5月11日指定。

所在地
・山口県萩市椿4132

拝観
・4~11月 8~17時
・12~3月 8~16時30分
拝観料 200円

隣の札所
中国三十三観音霊場
19 功山寺 -- 20 大照院 -- 21 観音院

外部リンク
霊椿山大照院のホームページ        
国指定文化財等データベース     
(wikiより)

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案内板も無い為、詳しい事は分からないのですが・・・

おそらく「天樹公」とは「毛利輝元」の事なので

旧明光寺地蔵屋敷にて、毛利輝元が休息をしたとゆう事だと思います。

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日宗寺(にっそうじ)は、東京都新宿区にある日蓮宗寺院

歴史
1619年元和5年)、高見院の開基である。高見院は津藩藩主藤堂高次の妻である。


元々は江戸麹町に位置していたが、江戸城拡張工事のため、1634年寛永11年)に現在地に移転した[1]


墓地
には、歌人北村季吟の実家の北村家の墓がある。なお季吟本人の墓は台東区正慶寺にある。また、旗本里見家土井家、大澤家、幸田家の墓所もあり、他には医師本草学者栗本丹洲言語学者新村出和算家内藤豊由小説家田中霜柳無縁墓の中)などの墓がある[1]

交通アクセス
中央快速線東京メトロ丸ノ内線東京メトロ南北線四ツ谷駅より徒歩6分。

脚注
1. a b 新宿区教育委員会 編『ガイドブック新宿区の文化財(3)(史跡 東部篇)』新宿区教育委員会、1981年、80p

参考文献
新宿区教育委員会 編『ガイドブック新宿区の文化財(3)(史跡 東部篇)』新宿区教育委員会、1981年
(wikiより)

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於岩稲荷田宮神社(おいわいなりたみやじんじゃ)は、東京都新宿区神社

歴史
創建年代は不明。元々は田宮家の屋敷神として祀られていた稲荷神の祠が起源である。四谷怪談が広く知られるようになり、当社の信仰が盛んになった[1]


1879年
明治12年)に火災に遭い、東京市京橋区(現・東京都中央区)に移転した。これが、現在の中央区新川にある於岩稲荷田宮神社である[1]


移転後の当地には、小さな祠が残されていた。昭和初期に陽運寺が創建され、お岩信仰の一翼を担っていた[2]。戦後の1952年(昭和27年)に再建された[1]


そういう経緯から「於岩稲荷田宮神社」を名乗る神社が新宿区と中央区に二つ存在することになった。

交通アクセス
四谷三丁目駅より徒歩5分。

脚注
1. a b c 新宿区教育委員会 編『ガイドブック新宿区の文化財(3)(史跡 東部篇)』新宿区教育委員会、1981年、87p
2.
 陽運寺について陽運寺

参考文献
新宿区教育委員会 編『ガイドブック新宿区の文化財(3)(史跡 東部篇)』新宿区教育委員会、1981年
(wikiより)


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江戸時代、文政八年七月、歌舞伎作者 四世鶴屋南北作「東海道四谷怪談」が世に広まり、お岩様が庶民の畏敬を集めました。この地にあったお岩様の霊堂が戦災にあったため栃木県沼和田から薬師堂を移築再建し当寺が開山されました。

境内にある秦山木の下にお岩様縁の祠があったと伝えられ陽運寺の起源とされています。薬師堂の棟札には宝暦七年と記されており二五〇年以上の歴史ある建物です。当堂内にはお岩様の立像が奉祀され、厄除け、ご縁事、芸能事に霊験があると多くの参拝者の信仰を集めています。境内にはお岩様由縁の井戸、再建記念碑等があります。

平成二十五年 ・巳年十月吉辰 於岩稲荷 長照山 陽運寺

陽運寺ホームページ

霊巌寺(れいがんじ)は、東京都江東区白河一丁目にある浄土宗の寺院。山号道本山院号東海院。本尊は阿弥陀如来

歴史
寛永元年(1624年)、雄誉霊巌上人の開山により、日本橋付近の芦原を埋め立てた霊巌島(現在の東京都中央区新川)に創建された。数年後に檀林が設置され、関東十八檀林の一つとなった。


明暦
3年(1657年)、江戸の大半を焼失した明暦の大火により霊巌寺も延焼。境内や周辺で1万人近くの避難民が犠牲になったという。万治元年(1658年)に徳川幕府の火事対策を重視した都市改造計画の一環として、現在地に移転した。


霊巌寺には、11代将軍徳川家斉のもとで老中首座として寛政の改革を行った松平定信の墓をはじめ、今治藩主松平家や膳所藩主本多家など大名の墓が多く存在する。また、境内には江戸六地蔵の第5番が安置されている。


幕末江戸の7大火葬場(荼毘所)のひとつ、境内除地に火屋があり、火葬執行の責任者が置かれていた。

文化財
・銅造地蔵菩薩坐像 - 東京都指定有形文化財(彫刻)[1]  
  享保2年(1717年)に造られた、江戸六地蔵の5番目。

・松平定信の墓 - 国の史跡
  陸奥白河藩の第3代藩主で、寛政の改革を行った松平定信の墓。霊巌寺周辺の地名である白河は、定信に由来する。

交通
半蔵門線
都営大江戸線 清澄白河駅より徒歩3分

脚注
1. 東京都文化財情報データベース   

関連項目
関東十八檀林 
成瀬川土左衛門 
霊巌寺 (同名の寺院)
(wikiより)

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戦災で真っ黒に焼けてしまっていて読めないが江東区指定文化財になっている。

九角柱で「南無下品上生即無生」と刻されている。

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霊巌寺の開山堂で、寛永四年 ( 1627 ) に創立された。開基は雄誉上人で、そのため本尊も雄誉上人である。( 江東区の民俗深川編より )

浄土宗寺院の雄松院は、道本山と号します。

雄松院は、雄誉上人が開基となり、寛永 4年 ( 1627 ) 霊巌寺の開山堂として創建したといいます。

豪商・奈良屋茂左衛門の過去帳や、松尾芭蕉門人の女流俳人・渡会園女の墓があります。

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長谷寺(ちょうこくじ)は、長野県上田市にある曹洞宗寺院である。山号は真田山(さなださん)。

歴史

天文16年(1547年)、真田幸隆真田本城(松尾城)内の種月庵跡地に伝為晃運(晃運字伝)を招聘して創建した。晃運は上野国後閑(群馬県安中市)の長源寺の僧で、幸隆とは旧知の間柄であった。


寺は慶長5年(1600年上田合戦に巻き込まれて焼失。元和8年(1622年)には真田氏松代(現長野市)移転と共に、長谷寺の6世住持が松代に移り、新たに長国寺を開山。長谷寺は長国寺の末寺となった。


寛保
2年(1742年)、長谷寺は土砂災害に巻き込まれる。宝暦7年(1757年)には再び火災で焼失。明治23年(1890年)にも火災に遭い、古い建物は残されていない。現本堂は昭和53年(1978年)の再建である。


本堂の背後に幸隆夫妻と真田昌幸の墓所がある。

交通アクセス
JR北陸新幹線上田駅から車で30分

参考文献
・『信州の文化シリーズ 寺と神社』1981年 信濃毎日新聞社
・『探訪 信州の古寺 禅宗』1996年 郷土出版社  

外部リンク
真田山長谷寺  
(wikiより)


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本性寺(ほんしょうじ)は、東京都新宿区にある日蓮宗寺院

歴史
1670年寛文10年)、観智院日詠によって開山された。江戸時代初期、幕臣三田佐兵衛の祖父(妙伝院日香居士)は、当地を隠居所としていたが、1641年寛永18年)、観智院日詠にその土地を譲渡した。日詠は妙伝院日香居士の死去後に、菩提を弔うための寺を創建した。これが当寺の起源である[1]


詠は本堂や庫裏の建設に取り掛かったが、1677年延宝5年)に遷化し、2世住職円智院日成の代にようやく整備された[2]


境内
には、「北向毘沙門天堂」という堂宇があり、毘沙門天像が安置されている。これは元々太田道灌の時代から江戸城本丸に在ったものといわれており、江戸幕府第5代将軍徳川綱吉の時代に移築されたものという[1]


墓地
には、塙保己一の師匠として知られる萩原宗固の墓がある。新宿区の文化財に指定されている[3][2]。他にも和算家馬場正督正統父子の墓もある[1]

交通アクセス
信濃町駅より徒歩7分。

脚注
1. a b c 新宿区立図書館 編『四谷南寺町界隈(新宿区立図書館資料室紀要5)』新宿区立図書館、1971年、p38-40
2. 
a b 本性寺について本性寺
3. 
本性寺新宿観光振興協会

参考文献
新宿区立図書館 編『四谷南寺町界隈(新宿区立図書館資料室紀要5)』新宿区立図書館、1971年

外部リンク
四谷本性寺(ほんしょうじ) 
(wikiより)

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顕性寺(けんしょうじ)は、東京都新宿区にある真言宗豊山派寺院

歴史
1611年慶長16年)、法印賢秀によって開山された。元々は牛込門外に位置していたが、江戸城拡張工事のため、1634年寛永11年)に現在地に移転している[1]

1725年享保10年)に火災に遭い、文政年間(1818年1831年)に至っても、まだ仮堂のままなど、寺運衰微の時期が長く続いた。そのため著名人の墓は特にない[1]

俎大師
当寺の寺宝に「俎大師(まないただいし)」がある。これは弘法大師空海土佐国高岡郡に巡錫した際、家に泊めてくれたお礼として、まな板に「南無阿弥陀仏」の文字を彫ったものという。その後幕末に至り、空海が泊まった家の末裔が大坂に移住し、続いて江戸改め東京に移住した。しかし生活苦に陥り、例のまな板を抵当として料亭「鳥八十」から5を借りた。そして、そのまま鳥八十の所有となった。この鳥八十の主の娘が、後に落語家五代目古今亭今輔の母となる女性である。1934年昭和9年)、弘法大師千百年遠忌に際し、古今亭今輔の母は、この俎大師を当寺に寄進した[1]

交通アクセス
四谷三丁目駅より徒歩10分。

脚注
1. a b c 新宿区立図書館 編『四谷南寺町界隈(新宿区立図書館資料室紀要5)』新宿区立図書館、1971年、p40-42

参考文献
・新宿区立図書館 編『四谷南寺町界隈(新宿区立図書館資料室紀要5)』新宿区立図書館、1971年
(wikiより)


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授与所でお頒けしている

勾玉をお水で浄め

美と長命を祈り

お守りとしてお持ちください。
(案内板より)

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弁財天の御利益である

福徳円満を祈り

浄水にてお金を洗い

お詣りください
(案内板より)

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力石は墨田区内に三十七個あるが、一番古いものは牛島神社の享保十五年 ( 1730 ) であるが最も重いものは此力石で重量九十三貫 ( 三四八、七五キロ ) もあり江戸中頃より末期頃迄の庶民の最も手軽なスポーツ、レジャーとして力比べに使はれたものと云ふ。
(案内板より)

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東都三十三間堂旧記


「東都三十三間堂旧記 ( とうとさんじゅうさんげんどうきゅうき )」は、元禄一三年 ( 一七〇〇 ) 深川に再建された三十三間堂に関する記録です。


一番から七番と付録の八冊で構成され、現在は六冊に装丁されています。


堂守 ( 堂司 ) をつとめた鹿塩久右衛門家 ( かしお きゅうえもんけ ) に代々伝わってきましたが、火災のたびに水をかぶり傷んだため文政三年 ( 一八二〇 ) に新たに書き写されたものです。


内容は、火災や風雨によって破損した堂宇の再建や修復に関する願書のほか、堂守の鹿塩久右衛門が三十三間堂町の名主をつとめていた関係から、三十三間堂町に記録も含まれています。


東都三十三間堂は、京都の三十三間堂 ( 蓮華王院 = れんげおういん ) を模して、寛永一九年 ( 一六四二 ) に浅草 ( 現台東区 ) に建てられました。


元禄一一年 ( 一六九八 ) の大火によって消失し敷地が召し上げられたため、代地を深川に賜り再建されました。


柱間の数して三十三間あり、弓術 ( きゅうじゅつ ) の練習や競技の場として西側に射場 ( いば ) が設けられ、堂の端から端まで矢を射通す「通し矢」が行われました。


明治五年 ( 一八七二 ) に壊された時、本文書は本尊とともに正覚寺 ( しょうかくじ ) に移管され、関東大震災や戦災の被害を免れて現在に至っています。


深川を代表する名所である三十三間堂の様相を詳しく伝え、かつ災害を乗り越えて区内に伝えられた貴重な史料です。

(案内板より)


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福禄寿像。

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不求自得

- 自然に徳がそなわる -

この福禄寿像の中には当時書院移築の際に土中より発見された戦災前の福禄寿土偶が収蔵されています。

感染対策のため、尊像には触れずにご参拝ください。

福寿海無量 是故應頂礼

(案内板より)

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正覚寺(しょうがくじ)は、東京都江東区にある浄土宗寺院

概要

1629年寛永6年)、専蓮社南誉上人によって開山された[1]


かつて、富岡八幡宮の隣には、京都の三十三間堂に倣って、江戸版ともいえる「東都三十三間堂」と呼ばれる寺があった。1872年明治5年)に廃寺となり、仏像や文書等が当寺に移管された。旧三十三間堂の観音菩薩像は、1923年大正12年)の関東大震災で焼失した[2]が、古文書は現在も残り、江東区の有形文化財に指定されている。

墓所
元ノ杢網夫妻(狂歌師
   「もとのもくあみ」と読む。江戸狂歌壇の重鎮であった。

交通アクセス
清澄白河駅より徒歩7分。

脚注
・細田隆善 著『江東区史跡散歩 (東京史跡ガイド8)』学生社、1992年、70-71p
正覚寺浄土宗

参考文献
・細田隆善 著『江東区史跡散歩 (東京史跡ガイド8)』学生社、1992年


関連項目
江戸三十三間堂

(wikiより)

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生きもの殺生供養の鳥塚です。

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『曽我兄弟の仇討ち』の弟、五郎の足跡石といわれるものです。


〇 曾我時致
曾我 時致(そが ときむね)は、鎌倉時代初期の武士曾我兄弟の仇討ちで知られる。曽我五郎曽我時宗とも。

生涯

安元2年(1176年)、3歳の時、実父・河津祐泰が所領相続をめぐって揉めていた同族の工藤祐経に暗殺される。その後、母が兄と自身を連れ相模国曾我荘(現神奈川県小田原市)の領主・曾我祐信に再嫁する。兄・祐成元服後に曽我の家督を継いだ。ただし『吾妻鏡』では、祐信には先妻との間に実子の祐綱がおり、彼が家督を継いでいる。建久元年(1190年9月7日北条時政烏帽子親として元服、その偏諱を賜って時致と名乗ったとされ[1]、その後は時政の庇護の下にあったという。曾我兄弟は厳しい生活のなかで成長し、雁の群れに亡き父を慕ったと伝えられる。


建久
4年(1193年)5月、時致は兄・祐成と共に源頼朝が開催した富士の巻狩りに参加した[2]

同年5月28日、曾我兄弟の仇討ち事件は富士の巻狩り最後の夜に起きた。『吾妻鑑』28日条には「曽我十郎祐成・同五郎時致、富士野の神野の御旅館に推參し工藤左衛門尉祐経を殺戮す」とあり、曽我兄弟は富士野の神野の御旅館におしかけて工藤祐経を討った。このとき酒の相手をしていた王藤内も討たれた。傍に居た手越宿と黄瀬川宿の遊女は悲鳴を上げ、この一大事に現場は大騒動となった。この後、祐成は駆けつけた祐経の部下の仁田忠常に討たれるが、時致は頼朝の御前を目指して、向かってきた武士たちをことごとく倒して頼朝の宿所に押し入った。しかし、頼朝の宿所の中にいた御所五郎丸は時致の身を一人で取り押さえた[2]。仇討ちの翌日である29日に頼朝は時致の尋問を行い、有力御家人らがそれに同席し、その他多くの者も群参した。尋問を終えた頼朝は時致の勇姿から宥免を提案するが、祐経の子である犬房丸の訴えにより同日梟首された[3]

その後、出家して律師と号していた時致らの末弟が兄たちに連座して鎌倉へ呼び出され甘縄で自害し、時致らの同腹の兄弟である原小次郎(北条本『吾妻鏡』や『曽我物語』では「京の小次郎」)がこの事件に連動して失脚した源範頼の縁座として処刑されている。

系譜

曾我氏は、桓武平氏千葉氏の支流であり、我祐家が相模国曾我荘(現神奈川県小田原市周辺)を本拠として曾我氏と称したのに始まる[4]


曾我兄弟の子孫は、室町時代足利将軍家奉公衆となり室町幕府に仕えた。足利義昭の近習に曽我晴助がいる。


・実父:河津祐泰

・養父:曾我祐信

・母:横山時重の娘

・兄弟:

  ・曾我祐成

  ・原小次郎

  ・律師

・養兄弟:曾我祐綱

・妾:虎御前

  ・男子:河津信之


横須賀市
にある乗誓寺の伝承によると、曾我時致と虎御前の間には河津三郎信之という子があり、源実朝に仕え多くの武功を残した。その恩賞として平塚の地を賜ったが、同族の宿縁と積年の仇敵を恐れて、出家して名を了源と改め、安貞元年(1227年)平塚の地に一宇を建立し、親鸞直筆の十字尊号を本尊として迎え、阿弥陀寺を開いたという。

北条時政黒幕説

吾妻鏡や曽我物語では時致が工藤祐経を討った後に源頼朝をも襲っており、これが北条時政の暗躍によるものとする解釈である。時政は事前に駿河国に入国し準備を行っており[5]、頼朝が富士野に到着した際もあらかじめ参上しており、この説に説得力をもたらした。またそれ以前より時政と兄弟は縁があり、兄が弟である筥王(曾我時致)を連れ時政の屋形を訪れ、時政を烏帽子親として元服している[6]。歴史学者の三浦周行大正期に北条時政黒幕説を唱え、それ以来学界に大きな影響を与えてきた[7][8][9]。従来より面識のあった時政が兄弟を頼朝襲撃へと誘導したとする見方が現在でも多い[10]


また、伊東祐親は工藤祐経に襲撃される直前に自分の外孫にあたる頼朝の長男・千鶴丸(千鶴御前)を殺害しており、工藤祐経による伊東祐親父子襲撃そのものに息子を殺された頼朝による報復の要素があり、曾我兄弟も工藤祐経による伊東父子襲撃の背後に頼朝がいたことを知っていたとする説もある[11]

文化において
演劇
曾我時致は、歌舞伎の曽我兄弟の仇討ちを主題とする『曽我もの』に登場する。

・歌舞伎狂言『曽我狂言』は、曾我兄弟の仇討ちを主題とする[12]

・歌舞伎狂言『曽我綉侠御所染』は、曾我兄弟と主人公の御所五郎蔵を主題とする[13]

浮世絵

曾我時致は浮世絵の画題の一つである。以下は、曾我時致が描かれた浮世絵である。

・『曽我五郎と御所五郎丸東洲斎写楽、1794年。

・『春英 武者絵 曽我五郎時宗 御所之五郎丸』勝川春英、1798年。

・『曽我五郎時宗 御所五郎丸重宗 十番切』歌川国貞、1820年代。

・『武英猛勇鏡歌川国芳、1836年。

・『冨士裾野曽我兄弟本望遂圖歌川国芳、1843-1847年。

・『曽我物語図絵歌川広重、1844年。

・『右大将頼朝 北條時政 畠山重忠 御所五郎丸 五郎時宗』歌川国貞、1851年。

・『曽我五郎時宗 御所五郎丸 高麗之助広次』歌川国貞、1851年。

・『曽我五郎・曽我十郎歌川国貞、1860年。

・『今様擬源氏 廿四 胡蝶 御所五郎丸宗重 曽我五郎時致』落合芳幾、1864年。

・『曽我五郎と曽我十郎月岡芳年、1876-1882年。

・『雨後の山月 時致月岡芳年、 1885年。

・『曽我五郎時宗、五所五郎丸』月岡芳年、1886年。

・『英名武者鑑 御所五郎丸 曽我五郎時宗山田年忠

・『曽我物語之内』豊原周延

・『曽我五郎、御所五郎丸』勝川春章

映画
・『曾我兄弟狩場の曙』(1908年)

・『曾我十番斬』(1916年)

・『永禄曾我譚』(1917年、小林)

・『小袖曽我』(1920年)

・『夜討曽我』(1923年、帝キネ)

・『曽我』(1927年)

・『日活行進曲 曽我兄弟』(1929年)

・『夜討曽我』(1929年、マキノ)

・『仇討日本晴 孝の巻 曾我兄弟』(1931年、帝キネ)

・『富士の曙 少年曾我』(1940年)

・『曽我兄弟 富士の夜襲』(1956年、東映、監督:佐々木康)曾我時致:中村錦之助

テレビドラマ
・『曾我兄弟』(1959年、日本テレビ)

・『草燃える』(1979年、NHK大河ドラマ

小説
高橋直樹『天皇の刺客』(文庫題:『曾我兄弟の密命―天皇の刺客』)文藝春秋

漫画
湯口聖子夢語りシリーズ 天翔ける星』秋田書店

歌謡曲
・長編歌謡浪曲曽我の討入り (三波春夫

ミュージカル
・ミュージカル刀剣乱舞 『髭切膝丸双騎出陣〜SOGA〜』(2019年、刀剣乱舞 (舞台作品)

画像集については、『曾我時致ウィキペディア』をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%BE%E6%88%91%E6%99%82%E8%87%B4

脚注
1. 吾妻鏡』建久元年九月七日条には筥王(時致)が兄・祐成に連れられて時政の所に赴き、時政の御前において元服した旨の記載が見られ、その場所として時政の邸宅が利用されていたという(『真名本曾我物語』巻第五(所収:『真名本曾我物語1』(参考文献掲載)P.253)に「北条殿の御宿所」において元服した旨の記載が見られる)。これは、兄・祐成が以前より時政に参勤しており、祐成が仲介役となって主人と仰ぐ時政に自身の弟の烏帽子親となるよう依頼したことにより実現したものであるとする見解も出されている。以上の記述は山野龍太郎論文(山本、2012年、P.166・169・175、参考文献参照)による。
2. a b 『曽我物語 岩波古典文学大系88』岩波書店、1966年、p 362~363。
3. 坂井孝一『曽我物語の史的研究』吉川弘文館、2014年。pp.117–118。ISBN 978-4-6420-2921-6
4. 『世界大百科事典 第2版』平凡社、1998年、曾我氏。
5. 坂井孝一『曽我物語の史的研究』吉川弘文館、2014年。pp.120。ISBN 978-4-6420-2921-6
6. 『吾妻鏡』建久元年(1190年)9月7日条
7. 三浦周行、「曾我兄弟と北条時政」『歴史と人物』、1915
8. 石井進、「曾我物語の世界」『中世武士団』、講談社
9. 坂井孝一『曽我物語の史的研究』吉川弘文館、2014年。pp.11-12。ISBN 978-4-6420-2921-6
10. 坂井孝一『曽我物語の史的研究』吉川弘文館、2014年。pp.140-160。ISBN 978-4-6420-2921-6
11. 保立道久「院政期東国と流人・源頼朝の位置」『中世の国土高権と天皇・武家』校倉書房、2015年 ISBN 978-4-7517-4640-0
12. 松村 明『大辞泉』小学館、1995年、曽我狂言。
13. 『日本大百科全書』小学館、1998年、曽我綉侠御所染。ISBN 4-09-906721-1OCLC 1150226150

参考文献
・青木晃・池田敬子・北川忠彦編 『真名本曾我物語1』(平凡社東洋文庫四六八、1987年)

・山野龍太郎「鎌倉期武士社会における烏帽子親子関係」(所収:山本隆志 編『日本中世政治文化論の射程』(思文閣出版、2012年)

関連項目
曾我兄弟の仇討ち

富士の巻き狩り

曽我物語

助六
(wikiより)

0141 曽我五郎

⇧ 曾我時致 ( 曾我五郎 )

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法乗院(ほうじょういん)は、東京都江東区にある真言宗豊山派寺院

概要
1629年寛永6年)、覚誉僧正によって開山された。元々は深川富吉町(現・東京都江東区佐賀)に位置していたが、1641年(寛永18年)に現在地に移転した[1]

えんま堂
江戸時代から「深川の閻魔」として知られていた。当初の本尊閻魔であったが、1760年宝暦10年)に閻魔堂に移された[1]。最近ではハイテク技術を導入し、光や音を駆使しながら閻魔の声で仏の教えを語るように設定されている[2]

墓所
初代市川八百蔵歌舞伎役者

初世荒木古童尺八奏者

  「豊田古童」としても知られている。古童の業績を偲ぶ「尺八塚」も建立されている。

交通アクセス
門前仲町駅より徒歩5分。

脚注
1. a b 細田隆善 著『江東区史跡散歩 (東京史跡ガイド8)』学生社、1992年、66-67p
2. 法乗院(深川えんま堂)江東区観光協会「江東おでかけ情報局」

参考文献
・細田隆善 著『江東区史跡散歩 (東京史跡ガイド8)』学生社、1992年

関連項目
閻魔

外部リンク
賢臺山法乗院深川えんま堂
(wikiより)

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重願寺(じゅうがんじ)は、東京都江東区にある浄土宗寺院

概要

戦国時代末期~江戸時代初期に開山された。開山年は、1590年天正18年)とも1600年慶長5年)とも1639年寛永16年)ともいわれている。開基は千葉邦胤の娘の不虚大禅尼である[1]


元々は、現在の日本橋馬喰町にあったが、その後新大橋に移転し、最終的に現在の猿江の地に移転した[1]

みまもり観音
境内には、1981年昭和56年)に建てられた「みまもり観音」と呼ばれる観音菩薩像がある。関東大震災東京大空襲の犠牲者の冥福を祈るために建てられたもので、法相宗大本山薬師寺東院堂の国宝「銅造観音菩薩立像」を模写して2.2倍の大きさにしたものである[2]

墓所
関根正二洋画家

新場小安侠客

交通アクセス
住吉駅より徒歩5分。

脚注
1. a b 細田隆善 著『江東区史跡散歩 (東京史跡ガイド8)』学生社、1992年、135-136p
2. 境内のご案内重願寺

参考文献
・細田隆善 著『江東区史跡散歩 (東京史跡ガイド8)』学生社、1992年

外部リンク
浄土宗重願寺
(wikiより)

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殉難慰霊 平和祈願 みまもり観音


造立由来

みまもり観世音は東京大空襲による戦災や関東大震災などの災害で殉難された方々のご冥福を祈り戦争や天災のもたらす悲惨さと平和の尊さを後世に伝えるため當山檀信徒をはじめ猿江地区六ケ町有志の方々等一萬数千巻に及ぶお写経の勧進によって造立されました ( 昭和五十六年九月一日 序幕開眼 )


観音像 足下の地下収納庫には五千人に及ぶ人々のご納経がカプセルに保護されて収められています


みまもり観音と云う名称は殉難された多くの方々に対する心からなる慰霊の念をこめて観音さま「亡き人々を「みまもり給え」と願い また限りない観音さまの大慈悲をもって いま、生きる私達を「日々にみまもり給え」と祈念して名づけられました


戦災 ( ひ ) に消えし 亡き人々よ 安かれと祈りて今朝 ( けさ ) も 経の字写す

                                主水

・原型 奈良薬師寺 ( 官主 高田好胤師 ) 蔵
      
      国宝 聖観世音菩薩
       
・鋳造 滋賀金壽堂 滋賀県無形文化財 黄地佐平氏指揮
(案内板より)

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とてもキレイに整備されていて地元の人々とのつながりの深さを感じます。

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日先神社神社は正徳年間(1711-1716)に猿田彦命を祭って勧請したといいます。明治維新後は無格社に列格しています。


由緒
日先神社


猿江裏町にあり、無格社で猿田彦命を祭る。


正徳年中の勧請と云ひ、境内八十坪現神職は神保鐡男。(「深川区史」より)


・日先神社所蔵の文化財

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史跡顕彰 猿江神社由来記


伝承として昔、康平年間 ( 西暦 1059年 - 1065年 ) 源頼義が奥州征伐 ( 後三年の役 ) の頃 この附近の入江に勇々しき戦武者の屍がただより着き 不思議にも其の頃屍より毎夜光明を発し村人この屍を叮重に葬る。


武士の鎧に源頼義の臣「猿藤太」と記しあり また懐中より有難き経文一巻がいでたり よって村人「猿藤太」の頭文字と入江の「江」をとりて猿江稲荷と尊称し近郷近在の守護神となし村落の敬神の地として仰ぎ奉り、豊作祈願 病気平癒 悪病退散 等の、この地の氏神社として祭り 又それより 地名をも猿江村と称えはじめ現在に至れり 正に猿江の地名これより発祥せり


尚 当時この村落の氏神社である猿江稲荷神社は 古来より「天照大御神」「宇迦之御魂命」とを御祭神としてゐたが武人猿藤太の御霊をも合せ加え代々お祀り申し上げて参りました


江戸時代は猿江稲荷神社と称し隣接せる日蓮宗寺院本覚山妙寿寺の住職が代々守護管理を司とっていたが明治以後 近年になり神保宮司を祭官として招き合せて村 町の発展とともに町内氏子の者達が神社の護持運営にあたり現在に引き継がれた次第であります。


お恵み ( ご利益 ) として家内安全 病気平癒 商売繁昌心願成就として霊験あらたかなり


昭和六十一年丙寅八月吉日


文筆者 堀江候雄


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猿江神社(さるえじんじゃ)は東京都江東区神社

概要

康平年間(1058年1065年)に創建された。源義家前九年の役で出征の途中、当地の入江で家臣の「猿藤太」が亡くなり、現地に祠を建てて葬った。これが当社の起源である。地名の猿江は、藤太が亡くなった入に由来する[1]


当社の別当寺は、妙寿寺(現在は東京都世田谷区烏山寺町に移転)であった[1]


1923年
大正12年)の関東大震災で社殿が焼失したため、再建時に鉄筋コンクリート造にした。その甲斐あって、1945年昭和20年)の東京大空襲では、焼失を免れることができた[2]

交通アクセス
住吉駅より徒歩2分。

脚注
1. a b 細田隆善 著『江東区史跡散歩 (東京史跡ガイド8)』学生社、1992年、136-137p
2. 猿江神社トップページ猿江神社

参考文献
・細田隆善 著『江東区史跡散歩 (東京史跡ガイド8)』学生社、1992年
(wikiより)

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藤森神社縁起

創立不詳ながら、江戸時代初期には本所 ( 墨田区 ) 横網町の江戸幕府御用材 木蔵に、すでに祀られていた。


享保十九年 ( 一九三四 ) 御用材 木蔵とともに猿江の地 ( 現在の猿江恩賜公園 ) 遷座された。


明治以降は宮内省所管となり、この頃から猿江神社の宮司家により祭祀奉仕亦、社殿が藤の木で囲まれ、毎年花の咲く時期に祭礼が行われていたことから、何時しか藤乃木魂を祀る「藤森神社」と称され、四百年余に亘り木材作業に従事する人々の厚い信仰を享けてきた。


昭和五十二年春、東京都の都市計画による猿江貯木場の移転に伴い、現潮見駅前に遷座されるが、平成十三年十二月崇敬なる旧東京官材共同組合長 氏橋幸次郎氏及び東京広葉樹連合会会長 長谷川建治氏、他関係諸氏の総意尽力で再び縁深きこの猿江の地に戻り、猿江神社の境内に安宮鎮座される。


江戸時代より木材の守護神として商売繁盛、工事作業安全のご利益があるとされている。


尚、石燈篭一対 ( 弘化五年 ) 、石水盤 ( 貞享三年 ) は区の有形文化財である。


宮司 神保恵一 謹書
(案内板より)

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八橋城秀検校 ( 八橋検校 ) の事が刻されています。

〇 八橋検校
八橋検校(やつはし けんぎょう、慶長19年(1614年) - 貞享2年6月12日1685年7月13日))は、近世中期の日本を生きた人物である。江戸時代前期の音楽家であり、検校を務めた。名は城秀。出身は諸説あるが、山田松黒が安永8年(1779年)に記した『箏曲大意抄(そうきょくすすたいいしょう)』より陸奥国磐城(明治期の磐城国、現・福島県いわき市)が定説とされている。他に摂津国(現・大阪府北中部、ほか)とする説もある。

人物・来歴
八橋検校は、寛永年間(1624-1685年)の初め頃、摂津で城秀と称して三味線の分野で活躍した。その後、江戸にくだり、筑紫善導寺法水に師事して筑紫流箏曲を学んだ。この箏曲を基に現在の日本のの基礎を作り上げた。独奏楽器としての楽器奏法の改良、段物などの楽式の定型化など、箏曲の発展に努めた。代表作に組歌の『梅が枝(うめがえ)』、『菜蕗(ふき)』、『心尽し』、『雲井の曲(くもいのきょく)』などがあり、また、段ものの『六段の調』、『(みだれ)』(乱輪舌[みだれ りんぜつ])、『八段の調』も八橋の作と伝えられている。寛永13年(1636年)に上洛し、母親が俳人藤本箕山(ふじもと きざん、畠山箕山)配下の山住(やまずみ)某(なにがし)に扶持されていたことにちなんで山住勾当[1](やまずみ こうとう)を名乗った。1639年〈寛永16年)にも再び上洛して上永検校と称し、さらにのち、八橋検校と改めた。


その芸術は高く評価され、磐城平藩専属の音楽家として五人扶持で召し抱えられたこともある。胡弓、三味線の名手でもあり、胡弓のの改良も行っている。

銘菓・八ツ橋
八橋検校の死後、その業績を偲んで、箏の形を模した堅焼き煎餅が配られたといわれ、これが銘菓八ツ橋」の始まりと伝えられている[2]

箏組歌
八橋検校がそれまでの様々な中世の箏歌を基礎にして生み出した音楽のジャンルで、江戸時代に盛んに行なわれていた[3]。箏組歌は全部で三十数曲あり、「若葉」「橋姫」など、その半数ほどが『源氏物語』を典拠としたもの[3]。箏組歌「若葉」は「若紫」の巻に登場する和歌6首をもとに、「橋姫」は宇治十帖の「橋姫 (源氏物語)」巻から「浮舟 (源氏物語)」巻までの和歌をもとに作られている[3]

脚注
1. 勾当(こうとう) :当道座に属した盲官(盲人の役職)の官位には、検校・別当・勾当・座頭があり、勾当は第3の位階。
2. 八ッ橋の歴史 - 八ッ橋について”. 聖護院八ッ橋総本店. 2017年5月24日閲覧。
3. a b c シンポジウム 源氏物語の魅力スティーブン・G・ネルソン他、法政大学、日本文學誌要第77号

関連項目
邦楽

江戸時代の人物一覧

日本のクラシック音楽の作曲家一覧

吉沢検校

外部リンク
・“八ッ橋の歴史:八ッ橋の誕生”. (公式ウェブサイト). 聖護院八ツ橋総本店. 2015年2月16日閲覧。
(wikiより)

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寛政 8年に作られた「いわやみちの碑」から更に奥へ進むと、杉山和一が管鍼術を授かった、本社江ノ島弁天の岩屋を模した岩屋がある。
 
寛政 5年に一部補修をした記録が岩屋入口の「岩屋修復記」に記されている。
 
岩屋中には人頭蛇尾の姿をした宇賀神像、宗像三女神像、杉山和一検校像が祀られている。


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門前には、大正11年6月に建立された津久井義行公の碑がたつ。


当山第52世・中島佛山師代に、津久井氏墓所の修復をした記念にたてられたもの。


碑の裏面には、義行公墓所の由来と施主の名前が彫られている。

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当山略縁起によれば1,200余年前、行基菩薩が諸国行脚の際、当郷にて草庵を結び、生きている全てのものを救うために地蔵菩薩像を造られた。

そんなある夜、老翁(三浦富士の神様の化身)が行基菩薩の夢に現れ、全ての生命あるものの安楽のために薬師如来の像を刻むよう告げた。

行基菩薩は、目が覚めるとすぐに三浦富士に登り、夢に見た神様を祀った。


その後、草庵に戻り夢のお告げの通りに薬師如来と日光・月光菩薩、12神将の像を彫刻し、お寺を建てた。

薬師如来のお住みになるお浄土は七宝で飾られているので七宝山(しっぽうざん)といい、浄土は東の方角にあり、名前を瑠璃光世界というので東光寺と名付けた。

さらに、三浦富士の神様のお告げによるので三浦富士大権現(みうらふじだいごんげん)と言うようになった。


しかしながら、開山以降風雨を重ね堂宇は荒廃してしまい、時の住持・上野阿闍梨はこの廃絶を悲しんでいたところ、三浦の庄司、平義継の二男、津久井次郎義行公、当郷に居し当山を治国理民の祈祷所と定められ中興した。

その威光は三浦全郷に聞こえたという。


その後、明治維新の神仏分離令や戦後の農地開放などの法難に遭遇し、著しく規模を縮小していたところ、当山54世大門僧正入山後、大規模な墓地の拡幅を行い多くの壇信徒とご縁をいただき現在に至っている。
(東光寺ホームページより)

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