本牧jack『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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出来るだけ続けたいと思っていますが 膝・耳に問題が有って、いつまで出来るやら・・・説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。
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カテゴリ: 寺社仏閣・教会・住職・宗教・祭関連

この海童神社は、ナガスクジラ ( 昭和 48年 ( 1973 ) 捕獲体長 18.2m ) の顎の骨でできた鳥居があることで知られ、捕鯨で栄えた有川地域を象徴する建造物である。

元和 3年 ( 1617 ) から元和 5年 ( 1619 ) の 3年間、毎年 6月 17日に限って、近くの海で遊泳する者の溺死が相次ぎ、人々は事故を恐れ気味悪く思っていると、時の乙名役、高井良福画ェ門の夢枕に海神様が立ち、神託があった。

そこで、元和 6年 ( 1620 ) 6月 17日に、その当時小島であったこの地に石祠を建てて奉斎し、即席の俄芝居ほ奉納したところ溺死者もなくなった。

以来、この地に海神様を海童神 ( 綿津見の神 ) として祀ったものである。

これが今日の「十七日祭り」と呼ばれる伝統行事として残っており、毎年 7月下旬の日曜日に行われている。
(案内板より)

〇 海童神社 (新上五島町)
所在地長崎県南松浦郡新上五島町有川郷
位置北緯32度59分12.2秒 東経129度06分51.2秒
主祭神海童神
社格旧無格社
創建不詳

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⇧ 応護島頂上の祠

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⇧ 鯨の顎骨の鳥居

海童神社(かいどうじんじゃ)は、長崎県新上五島町有川郷船津地区の応護島に鎮座する神社である。鯨の顎骨を使用した鳥居があることで有名。

祭神
海童神を主祭神に、蛭子神配祀する。

配祀神の蛭子神は、合祀された船津地区・蛭子神社の祭神である。

歴史
創建年代は不詳。町や長崎県のほとんどの資料等に記載されている由緒によると、「元和3年(1617年)~同5年にかけて、有川村では毎年6月17日に限って海で遊泳する大人・子供に溺死人が相次いだ。時の乙名役の高井良福右衛門に海童神からの神託によって神子島に石祠を建立し、海童神を奉祀した」と記載されている。また、「翌(元和)6年6月17日には例祭を行い、二〇加踊り(にわかおどり)と呼ばれる即興の寸劇を奉納したところ、溺死者はなくなった」とされる。その後も二〇加()の奉納は毎年行われ、現在では有川地区の年中行事である十七日祭りとなっている。

しかし近年では郷土史家による研究が進み、いくつかの矛盾点が指摘されている。江戸時代中期(18世紀)から明治初期(19世紀後葉)にかけて、村の漁業・農業・風俗等を記した『江口文書』や、慶応4年(1868年)に記された祖母君神社の縁起書によると、「慶長3年(1598年)の祖母君神社奉遷の際、それを守護する応護神として有川湾の中ノ島に龍神を祀り、これに因んで島の名前を応護島とした」と記述されている。また、当時は「乙名役」という役職もなく、「高井良福右衛門」という人物も宝暦5年(1755年)以降に記述があり、この時期には存在していないことが確認された。  

文久4年(1864年)の資料では「宝暦2年(1752年)6月17日に、船乗り等の水難防止を祈願して通りもの(行列)を始めた」との記述がある。また、全国に伝承される俄の諸記録によると、いずれも江戸中期(18世紀中頃)の「通りもの(練りもの)」から始まり、大阪京都江戸での即興笑劇の流行の伝播を受け、江戸時代初頭(19世紀初)より「二〇加(俄)」の芸態が確立されたとされ、有川村が江戸時代最初期(17世紀初頭)から全国に先駆け「二〇加」を創始していたとは考えにくいため、江戸時代後期以降の創始ではないかとの指摘がされている。

明治中期に船津・蛭子神社を合祀。同41年(1908年)に祖母君神社に合祀されている。この時に拝殿や鳥居は破壊され石祠のみ祀られていたが、昭和2年(1927年)に鳥居を建立し、同48年(1973年)に鯨骨の鳥居が日東捕鯨株式会社より奉納されている。 平成16年(2004年)には有川港の整備事業によって埋め立てられ陸続きになった。  

祭祀
主な祭礼・神事
・十七日祭(7月)
・魚供養祭(8月)

その他の神社
その他の有川郷の神社に有川神社がある。

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有川神社

参考文献
・『有川町郷土誌 平成6年』有川町郷土誌編纂委員会
・『有川の歴史の虚実』荒木文朗著 平成16年刊 
・『有川二〇加』荒木文朗著 平成19年刊
(wikiより)


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〇 カトリック青砂浦教会

五島にキリストの福音が最初に伝えられたのは、一五六〇年アルメイダによってである

その頃 多くのキリスト者が島内に定住していたものと思われるが、一五八七年七月二四日 ( 天正一五年 ) の豊臣秀吉のキリシタン禁令、続いて一六一四年一二月二二日 ( 慶長一八年 ) の徳川家康によるキリシタン禁令と、宣教師国外追放により弾圧に弾圧が続いたため当時のキリスト者の子孫が、この地に残存していたか不明である

今日、一七九七年 ( 寛政九年 ) 五島備前の守盛運侯が、大村藩主・大村純尹侯に移民を要請した時に、長崎県外海地方から移住してきた

キリシタンの子孫と、迫害を逃れて、秘かに移り住んだ信徒の子孫と言われている

教会建設については、明治一二年 ( 一八七九年 ) 青砂浦に小集会所を造り、信仰生活の中心の場としていた

現在の外壁煉瓦造りの教会は三代目で、一九一〇年 ( 明治四三年 ) 大崎八重師の指導のもとに鉄川与助の設計施行により建立され同年一〇月一七日、ユリオ・アルフォンソ・グーサン司教の時、落成 建堂された教会である

当時の信徒戸数は五〇戸程であったと言われている

一九九五年一〇月建立
(案内板より)


〇 青砂ヶ浦天主堂
所在地長崎県南松浦郡新上五島町奈摩郷1241
日本の旗 日本
教派カトリック教会
歴史
守護聖人大天使聖ミカエル
管轄
教区カトリック長崎大司教区
教会管区カトリック長崎教会管区
聖職者
主教
(司教)
ペトロ中村倫明
主任司祭ドミニコ鳥瀬文武

青砂ヶ浦天主堂(あおさがうらてんしゅどう)は、長崎県南松浦郡新上五島町にあるキリスト教カトリック)の聖堂五島列島中通島北部に位置し、2001年平成13年)に国の重要文化財に指定されている[1]

教会の保護者
・大天使聖ミカエル  

略史
1878年明治11年) - 江戸時代外海地方から移住し、潜伏キリシタンからカトリックに復帰した信徒により初代の聖堂建設
1900年(明治33年) - 青砂ヶ浦小教区設立
1910年(明治43年)10月17日 - 3代目となる赤煉瓦造りの聖堂(現在の建物)が完成
1984年昭和59年) - 大規模な改修が行われる
2001年平成13年)11月14日 - 国の重要文化財に指定[1]        

建物の概要
・構造:煉瓦造平屋、葺き
・様式・意匠:平面は三廊式バシリカ型、内部は木造円柱で身廊と側廊に区切り、天井はリブ・ヴォールト天井とする
・設計・施工:鉄川与助    

青砂ヶ浦天主堂は、長崎県を中心に数多くの教会堂建築を手がけた鉄川与助が建てた3つ目の教会堂であり、煉瓦造りの教会としては2つ目となる。ユネスコ世界遺産(文化遺産)暫定リストへ掲載が決まった「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」を構成する教会の一つであったが、構成資産の見直しにより外され、「世界遺産の構成資産と一体的に保存・継承していく資産」とされている[2]

平面規模は間口11.3メートル、奥行23.4メートル。外壁はイギリス煉瓦積。西側正面は3層に区切り、バラ窓や縦長のアーチを設ける。正面入口左右には柱頭に葉形装飾のある円柱があり、その上部を尖頭アーチとする。内部はアーケード(連続アーチとそれを支える柱列)によって身廊と左右の側廊に分け、身廊、側廊ともに天井は四分割リブ・ヴォールトとする。内部壁面は漆喰塗で、側廊窓にはステンドグラスを設ける。この天主堂は内外ともに意匠が優れ、日本人の手になる初期煉瓦造キリスト教建築の代表的作品の一つである。[3]

所在地
〒 857-4402 長崎県南松浦郡新上五島町奈摩郷1241

アクセス
・青方港(中通島)から車で約15分
・有川港(中通島)から車で約20分
西肥バス「青砂ヶ浦天主堂前」バス停下車すぐ、「青砂浦別道」バス停下車徒歩約15分

脚注
a b 平成13年11月14日文部科学省告示第164号(参照:青砂ヶ浦天主堂 文化遺産データベース 文化庁、青砂ヶ浦天主堂 長崎県学芸文化課)
関連遺産の分布図 長崎県世界遺産登録推進課
「新指定の文化財」『月刊文化財』460号、pp.33 - 35

参考文献
三沢博昭『大いなる遺産 長崎の教会』(智書房、2000年 ISBN 4434002651
・『長崎遊学2 長崎・天草の教会と巡礼地完全ガイド』(長崎文献社、2005年 ISBN 9784888510912
・「新指定の文化財」『月刊文化財』460号、第一法規、
2002年     

関連項目
カトリック長崎大司教区
(wikiより)

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浄福寺は、浄土宗鎮西派に属し、天授元年 ( 1375 ) の創立と言われています。
その後長く無住庵となっていましたが、慶長 2年 ( 1597 ) に新たに堂宇が建設されました。

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〇 頭島教会沿革

安政六年 ( 1859年 ) 十月無人島であった頭島に鯛之浦のキリシタンがあいついで移住してきた

クーザン宣教師は後の第三代長崎司教慶応三年 ( 1867年 ) 二月と四月の二回にわたって此の島に渡来し伝導を試みている

明治四十一年頃主任司祭ヨセフ大崎師は新聖堂建設に着工大正八年四月十四日 ( 1919年 ) 第四代長崎司教コンパス閣下司式により献堂式が挙行されるに至った。

此の聖堂は日本唯一の石造りで、党内の石を刻み、信徒達は額に汗してその石を運び十数年の歳月を費やして完成したものである。

爾来約六十年の風雨に絶えたとは云え信徒の滅少に伴い老朽化先祖の残した血と汗の結晶である

貴重な遺産を無くすまいと、一九七七年九月主任司祭ミカエル道向師の指導のもとに信徒一戸に付三十萬圓の據金と内外の奇特者の御協力によって修復完成したものである。

一九七七年十月建之

〇 頭ヶ島教会
所在地長崎県南松浦郡新上五島町友住郷頭ヶ島638
日本の旗 日本
教派カトリック教会
歴史
守護聖人ヨセフ
管轄
教区カトリック長崎大司教区
教会管区カトリック長崎教会管区
聖職者
主教
(司教)
ペトロ中村倫明
主任司祭ペトロ中濱敬司

頭ヶ島天主堂(かしらがしまてんしゅどう)は、長崎県南松浦郡新上五島町頭ヶ島にあるキリスト教カトリック教会)の聖堂である。2001年平成13年)に国の重要文化財に指定されており[1][2]ユネスコ世界遺産文化遺産)候補で2018年に登録審査が決まり、同年6月30日に登録が決まった[3][4]長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」を構成する「頭ヶ島の集落」に包括される教会である[5]

教会の保護者
聖ヨゼフ

沿革
1869年(明治2年)頃 - キリシタン迫害を逃れ、中通島の鯛ノ浦の潜伏キリシタン無人島だった頭ヶ島に移住
1887年(明治20年) - カトリックに復帰した信徒たちにより初代の聖堂建設
1919年(大正8年) - 1910年(明治43年)の着工から10年を費やし、現聖堂が完成[6]
2001年(平成13年)11月14日 - 国の重要文化財に指定[1][2]
2003年(平成15年)12月25日 - 境内地が重要文化財に追加指定される
2016年(平成26年) - 世界遺産としては「禁教期に焦点を絞るべき」との指摘をうけ推薦が一旦取り下げられ、対応が進められた結果再推薦は決まったが禁教期を象徴する「頭ヶ島の集落」に包括する扱いとなった
2018年(平成30年) - 世界遺産登録が決定[3][4]      

建物の概要
・構造:石造平屋
・様式・意匠:ロマネスク調の教会堂で、平面は単廊式、天井はアーチヴォールトを用いず、二重持送りのハンマー・ビーム架構で折り上げられている
設計・施工鉄川与助      

頭ヶ島教会は五島列島最東端で幕末までは無人島であった頭ヶ島に建てられた小規模な教会ではあるが、西日本唯一の、また日本全国でも珍しい石造の教会堂であり、その意匠も優れている。鉄川与助の設計・施工、大崎八重神父の指導により、島内の石を切り出し、積み上げて建設された。内観の造形は、船底天井と五島列島の椿を模した花装飾と、青を基調とした華やかな雰囲気が美しい。教会堂のほかに司祭館と門柱が重要文化財の附(つけたり)指定となっており、土地(境内地)も2003年に重要文化財に追加指定されている。教会堂本体とともに付属建物・石垣・石段などが周囲の環境とともに良好に保存されている点が、文化財として高く評価されたものである。

主任司祭は常駐しておらず、カトリック鯛ノ浦教会の巡回教会となっている。

所在地
〒 857-4102 長崎県南松浦郡新上五島町友住郷638

アクセス
・有川港(中通島)から車で約20分
西肥バス有川港ターミナルから頭ヶ島天主堂行き終点下車(1日3本のみ運行)
・2018年4月1日以降、路線バス以外の手段で天主堂を見学する場合は一旦上五島空港でシャトルバスに乗り換えなければならない。[7]      

脚注
1. a b 頭ヶ島天主堂 文化遺産データベース 文化庁
2. 
a b 頭ヶ島天主堂 長崎県の文化財 長崎県学芸文化課
3. 
a b “長崎、天草の「潜伏キリシタン」が世界文化遺産に決定 22件目”産経新聞. (2018年6月30日) 2018年6月30日閲覧。
4. 
a b “長崎と天草地方の「潜伏キリシタン」世界遺産に”読売新聞. (2018年6月30日) 2018年6月30日閲覧。
5. 
頭ヶ島天主堂 長崎の教会群とキリスト教関連遺産 長崎県世界遺産登録推進室
6. 
Comprehensive Preservation and Management Plan - Hidden Christian Sites in the Nagasaki Region” (pdf). Unesco World Heritage Centre. p. 78. 2021年11月20日閲覧。
7. 
“「頭ヶ島パーク&ライドについて」 - 長崎県五島列島新上五島町公式サイト より” (日本語). 長崎県 五島列島 新上五島町公式サイト 2018年10月15日閲覧。

参考文献
・「新指定の文化財」『月刊文化財』460号、第一法規、2002
・「新指定の文化財」『月刊文化財』483号、第一法規、2003
・『長崎遊学2 長崎・天草の教会と巡礼地完全ガイド』(長崎文献社、2005年) ISBN 9784888510912

関連項目
カトリック長崎大司教区       
島の宝100景

外部リンク 
長崎の教会群とキリスト教関連遺産    
頭ヶ島天主堂 長崎旅ネット 長崎県観光連盟
(wikiより)

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⇧ 本当は窓になるはずなのですが、外装から作ってしまった為に内装とズレてしまい窓にならなかった窓です。

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⇧ 森 松次郎翁の居館跡。

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聖ヨハネ五島

日本 26聖人のひとり。

1578年福江で生まれ、長崎と天草 ( 志岐 ) のセミナリオで学び、伝導士を志して、大阪のイエズス会宣教師と同宿中、豊臣秀吉の命により捕縛され、1597年 2月 5日長崎にて殉教した。

1862年教皇ピオ九世により聖人の位に挙げられ、世界全信徒の尊祟をうけるに至った。

信教自由と人間愛の証しとして 19才の青春を神への生贄とした。
(案内板より)

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マルマン、ペルー像(復活の夜明け)
1873年キリシタン禁制高札撤去後の日本宣教は、パリ国宣教会によって行われた。

堂崎にはフレノ師につづき初代主任司祭マルマン師が訪れた。

マルマン師 ( 向かって左側 ) は 1877年より約 10年間下五島全域の宣教、潜伏キリシタンの復帰に努めながら、奥浦慈恵院へと続く孤児・貧児の救済活動を始めた。

1888年よりペルー師 ( 向かって右側 ) が 2代目主任司祭となり、1899年には井持浦に日本最初のルルド建立、1908年 5月 10日に現在の赤レンガゴシック様式堂崎天主堂を献堂し 30年に及ぶ宣教師牧の日々を堂崎に捧げた。

五島キリシタン復活の礎となった二人である。
(案内板より)

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〇 ドミニコ中村長八神父ゆかりのイヌマキの木

一八六五年 五島列島奥浦村浦頭の地に生を受けた中村長八師は司祭叙階後二十六年を奄美大島で、その後の十七年を日本人最初のカトリック海外派遣宣教師としてブラジルの地に生涯をささげられました。

七十五年の生涯は宣教そのものの人生でした。

このイヌマキはブラジル出発前の直前、奄美より浦頭の生地へ移植し大木となった子孫となるものです。

記念植樹 二〇〇八年五月十一日

司式 長崎大司教 高見三明師

   パリ国宣教会 シェガレ オリビエ師
(石板案内板より)

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かつて、大村藩からの移住キリシタンが潜伏し、五島藩が塩造りの竈場で働せたという地区です。

1897年建立のレンガ造教会が台風で倒壊し、1988年にコンクリート造の現教会となりました。

当時の五島列島司牧の責任者ペルー神父は、1891年、バチカンにこのルルドの洞窟が再現されたと聞き、五島の信徒に呼びかけて島内の奇岩・珍石を集め、1899年、日本で最初のルルドを作りました。

この霊水を飲むと病が治ると言われ、日本全国の信者の聖地となっています。

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五島とキリスト教との最初の出会いはフランシスコ・ザビエル鹿児島上陸 ( 1549年 ) から 17年後の 1566年の事である。

ポルトガル生まれで優秀な医師でもあったイエズス会宣教師ルイス・デ・アルメイダと、平戸生まれの日本人修道士ロレンソ ( レリーフ左手前の 2名 ) が五島領主 18代宇久純定 ( レリーフ中央 ) の要請に応えて来島し、キリスト教布教と病がちの純定の治療を努めた。

純定の子純堯は受洗して 1576年キリシタン大名となり、五島キリシタンは信徒 2000名余りという隆盛の時代を見たが、純堯はその 3年後に 35歳で帰天し、五島は信仰の受難の時代を迎える。

〇 ルイス・デ・アルメイダ
ルイス・デ・アルメイダLuís de Almeida [luˈiʃ dɨ ɐɫˈmɐjdɐ] 、1525年? - 1583年10月[1])は、戦国時代末期の日本を訪れたポルトガル人。商人であったが、医師の免許を持ち、西洋医学を日本に導入して豊後府内に日本初の病院を作ったことで知られる。後にイエズス会員となった。ポルトガル貴族の出身[2]

生涯
アルメイダは、1525年ごろリスボンユダヤ教からカトリックに改宗したコンベルソの家庭に生まれた。1546年にポルトガル王から与えられる医師免許を取得した後で、世界雄飛を夢見てゴアからマカオに渡った。1552年に貿易目的で肥前国平戸に初来日。日本とマカオを行き来して多くの富を手にした。

アルメイダは山口でイエズス会宣教師コスメ・デ・トーレス神父に会う。彼はフランシスコ・ザビエルの事業を継承して日本で布教を続けていた。アルメイダは宣教師たちとの出会いを通して思うところがあり、豊後府内大分県大分市)にとどまり、私財を投じて乳児院を建てた[3]。これは当時の日本で広く行われていた赤子殺しや間引きの現実にショックを受けたからであるとされている。さらに豊後府内の領主であった大友宗麟に願って土地をもらいうけ、1557年外科内科ハンセン氏病科を備えた総合病院を建てた [4] 。これが日本初の病院であり、西洋医学が初めて導入された場所である。

この病院においては、みずからが外科医療を担当した一方で、元僧侶の日本人キリシタンが内科医療や薬のことに携わった[5]。そのほか、聖水十字架数珠、祈祷文などを用いた呪術的な医療も盛んに行われた。実際、この病院で主力だったのは、外科医療よりも呪術的な医療であり、アルメイダ自身は、実際のところ、外科医療よりも呪術的な医療を重視しており、病気治癒の効果がデウスの力あることを強調する発言を残している。

また、大分において「ミゼリコルディア」(ポルトガル語:(Santa Casa de )Misericórdia 、「憐れみ(の聖なる家)」)といわれるキリスト教徒の互助組織を発足させた。

布教においても活躍し、コスメ・デ・トーレス神父は、改宗が難しそうな土地へたびたびアルメイダを向かわせた。学識あるアルメイダは僧侶など知識人の欲求によく応え、改宗へと導いた。医師としても貧しい人々を助けたので多くの信者を獲得した。

神父としての活動を始めてからも、貿易への投資を続け、病院の資金を調達した。また、慢性的な財政難に苦しんでいた日本の教会へも惜しみなく私財を寄進した。

日本人医師の協力を受けて病院を運営していたアルメイダは1558年には医学教育も開始。医師の養成を行った。やがてアルメイダは九州全域をまわって医療活動を行うようになり、1561年6月下旬には平戸の北部、度島でも治療に当たっていた。1563年には横瀬浦から避難し後に『日本史』を書いたルイス・フロイスも度島で10か月ほど滞在した。宇久純定の治療を依頼されるほどその名声は高まっていた[6]

1566年9月、トルレスに派遣され、天草の豪族・志岐麟泉の招きで初めて志岐(天草郡苓北町)を訪れた。[7]アルメイダは天草に初めて布教を開始し、南蛮文化を伝えた。天草市の殉教公園には彼の像が建てられている。天草に移住してからは、カステラ風のお菓子を教えるなど食文化にも精通しており、玉名市の銘菓「松の雪」は、アルメイダが、貿易港伊倉の菓子職人に製法を伝えたとされる。

1580年、アルメイダはマカオにわたって司祭叙階された。再び日本に戻って、宣教活動・医療活動に専念するが、1583年10月に天草の河内浦(熊本県天草市)で没した。冒険商人から無償奉仕の医師へと転身し、病人と乳児に尽くした波乱の生涯であった。

アルメイダの名を冠した施設等
大分市医師会立アルメイダ病院1969年開設、大分県大分市)の名称は彼にちなんでいる。

脚注
1. ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説”. コトバンク. 2018年2月3日閲覧。
2. 
上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 66頁。
3. 
イエズス会士 日本通信 上 (新異国叢書 1)』(昭和43年(1968年)12月10日発行 訳者:村上直次郎 編輯者:柳谷武夫 発行所:雄松堂出版) 74頁、102-103頁、117頁
4. 
この病院は現在の住所で大分県大分市顕徳町2丁目にあったデウス堂の隣地に開設され、日本初の入院施設も備えていた。 『南蛮医アルメイダ』(1993年9月24日発行 著者:東野利夫 発行所:柏書房) 45-68頁 (「4 府内病院の位置証明」)
5. 
『イエズス会士 日本通信 上 (新異国叢書 1)』(昭和43年(1968年)12月10日発行 訳者:村上直次郎 編輯者:柳谷武夫 発行所:雄松堂出版) 125-126頁、150-151頁、177-179頁、188-189頁、191-192頁、237頁
6. 
『イエズス会士 日本通信 下 (新異国叢書 2)』(昭和44年(1969年)2月10日発行 訳者:村上直次郎 編輯者:柳谷武夫 発行所:雄松堂出版) 84頁-98頁
7. 
松田毅一・川崎桃太訳『フロイス日本史』9巻、第17章(第1部72章)、中央公論社、1979年。274頁。1567年10月13日付、志岐発信、アイレス・サンシェス修道士書簡、CI.f.247v.

参考文献
若桑みどり『クアトロ・ラガッツィ 天正少年使節と世界帝国』集英社、2003年。

関連項目
日本のキリシタン一覧   
多聞山城   
(wikiより)

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宗念寺は、寛永十一年 ( 1634 ) 五島藩 第二十二代藩主 五島盛利公の生母 芳春尼が没しその菩提所として芳春山宗念寺として開基された。
(案内板より)

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廣徳禅寺遺趾
この地は、昭和 46年まで廣徳寺があった場所で、この石碑は、練馬別院に移転の際に、廣徳三十世雪底和尚によって詠まれた七言絶句を記したものです。

また、石碑の裏側には、廣徳寺が移転した理由が記されています。

なお、この解釈にあたっては、廣徳寺海雲和尚のご協力を賜わったものです。

【七言絶句】
高掲法幢三百戴タカク ホウトウヲカカゲテ サンビャクネン
( 禅宗を掲げて下谷の地に移って、300年が経った )

已憂斯地累兒孫スデニ コノチヲウルエテ ジソンニツナグ
( 時代の移り変わりや環境の変化もあったが今日まできた )

無邊廣大先人徳ムヘンコウダイナル センジンノトク
( 未来永劫受け継がれるためにも、代々、世のため人のためにおこなってきた )
纔勒碑陰去故園ワズカニ ヒインヲオサメテ コエンヲサル
(碑陰(石碑の裏面)を記して このちを去ります)

【石碑裏面】
廣徳寺は、希叟宗罕禅師 ( きそうそうかんぜんじ ) が明叟 ( みょうそう ) 和尚を小田原に招き、創建したとされ、その年代は元亀天正の頃と推定される。

天正 18年 ( 1590年 ) に豊臣秀吉により小田原城が落城し、その際、廣徳寺も焼失した。

その後、徳川家康が江戸の神田 ( 昌平橋付近 ) に再興。そして寛永 12年 ( 1635年 ) に下谷に移っておおよそ 300年が経った。

当時は、江戸屈指の禅林と仰がれた。

昭和 45年 9月、台東区より敷地を新庁舎建設用地として懇望され、時代の情勢を鑑み、これを受託し、練馬の別院へ移すことにした。

この地を去るにあたり、先人達の深い恩に感謝し、石碑を建て移転の経緯を記し、後世に残すものである。
(案内板より)

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⇧ 台東区役所



大観音寺には、本尊である鋳鉄製の菩薩頭 ( 総高 170センチメートル、面高 54センチメートル ) が安置されています。

菩薩頭の頭上には高さ 53センチメートルの高髻 ( こうけい ) があり、後補である鋳銅製蓮華座の台座上に祀られています。

この菩薩頭の由来については、かつて鎌倉の新清水寺に祀られていた鋳鉄製の観世音菩薩像でしたが、廃寺となった後、江戸時代に頭部のみが鶴岡八幡宮前の鉄井 ( くろがねのい ) から掘り出されたと伝わっています。

その後、明治初年の神仏分離の令に際して鎌倉から移され、大観音寺に安置されました。

以後、本尊として今日に至っています。

本尊は、毎月十一日・十七日のみ開帳され、人々の信仰を集めています。

この菩薩頭は、中世造立になる関東特有の鉄仏のうちでも、鎌倉時代制作の優秀な作品であることから、昭和四十七年四月、東京都指定有形文化財に指定されています。
(案内板より)

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所在地東京都中央区日本橋人形町1-18-9
位置北緯35度41分8秒 東経139度46分57.1秒
宗派聖観音宗
本尊鉄造菩薩頭
創建年明治13年(1880年
札所等昭和新撰江戸三十三観音札所第3番
文化財鉄造菩薩頭(東京都指定有形文化財)

大観音寺(おおかんのんじ[注釈 1])は、東京都中央区にある聖観音宗寺院

歴史
1878年明治13年)に開山された。

当院の本尊は、首だけになった鉄製の観音菩薩像(以降「鉄造菩薩頭」とする。)である。元々は鎌倉の新清水寺(現在は廃寺)にあったものだが、1258年正嘉2年)の火災で崩落してしまった。その後、井戸を掘ったところ、首だけの鉄造菩薩頭が発掘されて、小堂に安置された。そういう経緯から、その井戸のことを「鉄ノ井(くろがねのい)」と呼ぶようになった[1][2]

明治になり、この鉄造菩薩頭を東京に移すことになり、1874年(明治9年)に仮堂を建てた。これが、当寺の起源である[2]

浅草寺とは本末関係にあり、1950年昭和25年)に浅草寺が「聖観音宗」を開宗した際に、当寺も天台宗から聖観音宗に転宗した[2]

2011年平成23年)3月11日東日本大震災の際に、真正面に向いていた鉄造菩薩頭が、やや右の方向(真東)に向いていた。他の仏像や仏具は特にひっくり返ってもいなかった。そのことから「平成の不思議顕現」と呼ばれるようになり、開扉日も毎月17日に加えて11日も開くようになった[3]

交通アクセス
人形町駅より徒歩2分。

脚注
注釈
1. 読みは「だいかんのんじ」ではなく「おおかんのんじ」である。

出典
1. 鎌倉十井鎌倉市市民生活部観光課観光担当
2. 
a b c 金山正好、金山るみ 著『中央区史跡散歩 (東京史跡ガイド2)』学生社、1993年、35-36p
3. 
大観音寺中央区観光情報センター「東京 中央区の観光情報公式サイト Central Tokyo for Tourism」

参考文献
・金山正好、金山るみ 著『中央区史跡散歩(東京史跡ガイド2)』学生社、1993年
(wikiより)

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横浜中華街外にあるお店「長崎屋」さんです

中華街にありながらチャンポン、ナポリタンが有名です。

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⇧ 店外観

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⇧ チャンポン

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⇧ ナポリタン

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⇧ サラダ








この石灯籠は、淳信院殿徳川第九代将軍家重菩提の為め宝暦十一年 ( 1761 ) 辛巳六月十二日従五位下堀長門守藤原直寛の奉献したものである。
(石柱説明版より)

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この石灯籠は、淳信院殿徳川第九代将軍家重菩提の為め、宝暦十一年 ( 1761 ) 辛巳六月十二日 播磨国 ( 兵庫県 ) 安志城主小笠原信濃守源長逵の奉献したものである。
(石柱案内板より)

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この石灯籠は、台徳院殿徳川第二代将軍秀忠菩提の為め、慶安四年 ( 1651 ) 辛卯七月、筑後久留米城主二十一万石従四位下有馬中務少補源朝臣忠頼の奉献したものである。
(石柱案内板より)


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海前寺は湘南の茅ケ崎にある曹洞宗のお寺です。茅ケ崎村領主で旗本の丸毛氏の菩提寺です。

昔はお寺の前が海だったそうです。

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 堂埼天主堂内は撮影不可です。

堂崎天主堂(どうざきてんしゅどう)は、長崎県五島市福江島にあるキリスト教カトリック教会)の聖堂である。江戸時代からのキリスト教禁教令廃止以降、五島列島で最初に建てられた聖堂で、1974年昭和49年)に堂崎教会(どうざききょうかい)の名称で長崎県指定有形文化財に指定され[1]、現在は堂崎天主堂キリシタン資料館として活用されている[2][3]

教会の保護者
日本二十六聖殉教者    

沿革
1873年明治6年)9月 - フランス宣教師フレノ神父[注釈 1]が五島に招かれる
・1873年(明治6年)12月24日 - 堂崎の浜辺にて、五島で初めてのクリスマス(降誕祭)を祝う
1877年(明治10年) - フレノ神父が五島常駐となる
1879年(明治12年) - 奥浦地区に仮聖堂建設
1880年(明治13年) - フレノ神父の後任として、ジョゼフ・マルマン神父が主任司祭として着任
・1880年(明治13年)10月17日 - マルマン神父が、のちの奥浦慈恵院のもととなる子供救済施設「子部屋」創設
1883年(明治16年) - 手狭になった子部屋を、大泊から堂崎に移設。同時に、のちの「お告げのマリア修道会奥浦修道院」のもととなる「女部屋」を創設
1887年(明治20年) - マルマン神父が堂崎を離れ、ペルー神父が後任となる
1908年(明治41年)5月10日 - 堂崎天主堂完成
1912年大正6年)6月 - 天主堂改修
1974年昭和49年)4月9日 - 「堂崎教会」の名称で長崎県指定有形文化財に指定される[1]
1977年(昭和52年) - 堂崎天主堂キリシタン資料館開設

明治時代にカトリックの禁教が解かれた後、五島で最初に司祭が常駐して教会が立てられた土地で、下五島地区のカトリック教会の信仰の中心地であった。 日本二十六聖人の一人で五島出身の聖ヨハネ五島を記念して、「日本二十六聖殉教者」を保護の聖人として建てられている。

2014年現在は、約3km南にあるカトリック浦頭教会の巡回教会となっていて、ミサは基本的に月1回行われる[4]

2007年平成19年)にユネスコ世界遺産(文化遺産)暫定リストへ掲載が決まった「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」を構成する教会の一つであったが、現在は資料館となっていてミサなどには使われていないため、構成資産の見直しにより外され[5]、「世界遺産の構成資産と一体的に保存・継承していく資産」とされている[6]

建物の概要
設計はペルー神父、施工は野原与吉・鉄川与助が担当し、1908年に完成した。煉瓦造・ゴシック様式の平屋で、五島初の洋風建築とされ、その美しい外観は五島内の他の天主堂の模範となった。

内部は木造で、ステンドグラスの模様は五島の他の教会と同じく椿をモチーフとしている。リブ・ヴォールト天井はイタリアから資材を運び込んだといわれている。

堂崎天主堂キリシタン資料館
主任教会が浦頭教会に移され、堂崎天主堂が長崎県指定有形文化財に指定された後の1977年(昭和52年)に、天主堂内部に開設された資料館で、布教時代から迫害を経て復活に至る信仰の歴史が展示されている[3]。帳方(隠れキリシタンの役職者)に受け継がれてきた「お帳(太陽暦)」(1634年)、ド・ロ聖教木版画(長崎県指定文化財[7])などの資料のほか、五島出身の二十六聖人のひとり聖ヨハネ五島の聖遺骨もマカオから里帰りして安置されている[8]

所在地
〒853-0053 五島市奥浦町堂崎2019

アクセス
福江港から五島バス戸岐・観音平行き約15分、「堂崎天主堂入口」バス停から徒歩10分(約1km)
・福江港から車で約15分

画像については、「
堂埼天主堂ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%82%E5%B4%8E%E5%A4%A9%E4%B8%BB%E5%A0%82


脚注
注釈
1. ピエール・テオドール・フレノ Pierre Theodore Fraineau 1847-1911 神父。浦上・五島・長崎にて布教。浦上天主堂創建に尽力した。

出典
1. a b 長崎県の文化財 堂崎教会 長崎県学芸文化課
2. 
『カトリック教会情報ハンドブック2014』 p266 カトリック中央協議会 ISBN 978-4877505530   
3. 
a b ミュージアム情報 堂崎天主堂キリシタン資料館 長崎県文化振興課
4. 
『カトリック教会情報ハンドブック2014』 p258
5. 
大平晃久「堂崎天主堂の世界遺産候補除外とスケールの政治」『浦上地理』第3巻、長崎大学教育学部地理学研究室、2016年12月、14-22頁、NAID 120006974070
6. 
関連遺産の分布図 長崎県世界遺産登録推進課 
7. 
長崎県の文化財 浦頭教会聖教木版画(筆彩三幅) 長崎県学芸文化課 
8. 
堂崎教会 五島市ナビ 五島市観光ポータルサイト

参考文献
・『素敵な島の休日 五島・福江島』(福江市観光協会、1990年)
・三沢博昭『大いなる遺産 長崎の教会』(智書房、2000年) ISBN 4434002651
・『長崎遊学2 長崎・天草の教会と巡礼地完全ガイド』(長崎文献社、2005年) 
ISBN 978-4888510912

外部リンク
カトリック浦頭教会
堂崎教会堂 長崎旅ネット 長崎県観光連盟
長崎県の文化財(堂崎天主堂)   

関連項目
カトリック長崎大司教区   
(wikiより)

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所在地長野県上田市常盤城3-7-48
位置北緯36度24分25.2秒 東経138度14分15.9秒
山号松翁山
院号円覚院
宗旨浄土宗
宗派鎮西派
本尊阿弥陀如来
創建年天正11年(1583年)
正式名松翁山円覚院芳泉寺
文化財小松姫の墓、仙石家霊廟、木造阿弥陀如来立像

芳泉寺(ほうせんじ)は長野県上田市にある浄土宗鎮西派の寺院。号は松翁山円覚院。本尊は阿弥陀如来[1]

歴史
天正11年(1583年)、真田昌幸上田城の築城に際して小県郡下之条村(後の上田市大字下之条)にあった全称院を上田城下に移転して、常福寺と号したのが始まりとされている[1][2]

慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いの終結後、昌幸の嫡男・真田信之が上田城主となると、当寺を真田氏の菩提寺とした[1][2]元和6年(1620年)、信之の妻・小松姫が亡くなると、当寺を含む三か寺に分骨され一周忌の際に当寺に御霊廟が設けられた[1][2][注 1]

元和8年(1622年)、信之の松代移封に伴い、小松姫の御霊廟も松代城下の大英寺に移転した[1][2]。その後、上田に小諸城主・仙石忠政が入封すると、仙石氏の菩提寺である宝仙寺を当地に移転し、真田氏の庇護にあった常福寺を小県郡下之条村に戻した[1][2]。 寺号が宝仙寺から芳泉寺に改められた時期については定かではないが、忠政の嫡男・仙石政俊の死後とも、小諸から移転した直後からともされている[2]

江戸期には浄土宗の総本山である知恩院の末寺として、上田領の触頭の役割を担っていた[1][2]

文化財
市指定文化財
小松姫の墓[4]
仙石家霊廟[5]
・木造阿弥陀如来立像
[6]


交通アクセス
上信越自動車道上田菅平インターチェンジから車で約15分[7]   
JR東日本しなの鉄道上田電鉄上田駅からタクシーで約10分[7]

脚注
注釈
1. 小松姫の墓は当寺のほかに埼玉県鴻巣市勝願寺群馬県沼田市正覚寺にある[3]

出典
1. 
a b c d e f g 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編『角川日本地名大辞典 20 長野県』角川書店、1990年、993-994頁。ISBN 4-04-001200-3
2. 
a b c d e f g 平凡社地方資料センター 編『日本歴史地名大系 20 長野県の地名』平凡社、1979年、251-252頁。ISBN 4-582-49020-4
3. 
大蓮院殿の墓”. 沼田市公式ホームページ (2017年4月1日). 2017年4月22日閲覧。
4. 
小松姫の墓(芳泉寺)”. 上田市文化財マップ. 2017年4月22日閲覧。
5. 
仙石家霊廟(芳泉寺)”. 上田市文化財マップ. 2017年4月22日閲覧。
6. 
木造阿弥陀如来立像”. 公益財団法人 八十二文化財団. 2017年4月22日閲覧。
7. 
a b 芳泉寺”. さわやか信州旅.net:長野県公式観光Webサイト. 2017年4月22日閲覧。

外部リンク
芳泉寺 - 上田市
(wikiより)

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大柏山 信綱禅寺
 
当寺の創建は室町期、横尾城の東の梅ノ木に横尾氏の菩提寺として好雪斉大柏寺と呼ばれ、横尾氏滅亡 ( 上田原合戦 ) 後、真田信綱公が寺を打越に移し、大光智照禅師を迎え大柏山打越寺と名付けられた。

その後、昌幸公が長兄信綱公の牌所として寺堂を改築され、大柏山信綱寺と改められた。

開山 大光智照禅師 ( 高山順京大和尚 )

開基 真田源太左エ門尉信綱公

宝物殿 ( 血染陣羽織、昌幸・信之の古文書他 )

真田信綱夫妻・昌輝公・白川氏御墓所。

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大黒天 経王寺

経王寺は日蓮宗の寺院で山号を大黒山と称す。

明暦元年 ( 一六五五 )、当地の豪農冠 ( かんむり ) 勝平 ( 新堀村の名主冠権四郎の祖 ) が要詮院日慶のために寺地を寄進し、堂宇を建立したことに始まるという。

本堂の隣の大黒堂には日蓮上人の作と伝えられる大黒天が鎮守として祀られており、地域の人々の祟敬を広くあつめている。

慶応四年 ( 一八六八 ) の上野戦争のとき敗走した彰義隊士
をかくまったため、新政府軍の攻撃をうけることになり、山門には今も銃弾の痕が残っている。
(案内板より)

所在地東京都荒川区西日暮里3-2-6
位置北緯35度43分41.8秒 東経139度46分6.7秒
山号大黒山[1]
宗派日蓮宗
本尊三宝尊[1]
創建年明暦元年(1655年
開山日慶[1]
開基冠勝平

経王寺(きょうおうじ)は、東京都荒川区にある日蓮宗寺院

概要
1655年明暦元年)、当地の豪農だった冠勝平の開基である。当寺は冠一族の菩提寺であった[2]

1868年慶応4年)、上野戦争に敗れた彰義隊隊員が当寺に逃げ込んだため、新政府軍の攻撃を受けることになった。当寺の山門の門扉には、その時の弾痕が残っている[2]

大黒堂には、日蓮作の大黒天が祀られている[2][1]

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経王寺門扉の弾痕

交通アクセス
日暮里駅より徒歩約3分(経路案内)。

脚注
1. a b c d 新編武蔵風土記稿 新堀村.    
2. a b c 高田隆成、荒川史談会 著『荒川区史跡散歩 (東京史跡ガイド18)』学生社、1992年、99-100p

参考文献
・高田隆成、荒川史談会 著『荒川区史跡散歩 (東京史跡ガイド18)』学生社、1992年
・「新堀村 経王寺」『新編武蔵風土記稿』 巻ノ18豊島郡ノ10、内務省地理局、1884年6月。NDLJP:763978/22

関連項目
上野戦争
(wikiより)

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所在地東京都江東区深川2-19-13
位置北緯35度40分37.1秒 東経139度47分51.9秒
山号海照山
宗派曹洞宗
創建年寛永5年(1628年
開山白洲全龍
文化財絹本着色毘沙門天像1幅 附木箱一合(江東区指定文化財)、絹本着色不動明王二童子像(江東区登録文化財)

増林寺(ぞうりんじ)は、東京都江東区にある曹洞宗寺院

概要
1628年寛永5年)、白洲全龍によって開山された。石を練りこんだ塀が有名であった[1]

墓所
三井親和父子(書家
男谷信友剣術家
石坂宗哲医師

交通アクセス
門前仲町駅より徒歩7分。

脚注
1. 
細田隆善 著『江東区史跡散歩 (東京史跡ガイド8)』学生社、1992年、70p

参考文献
・細田隆善 著『江東区史跡散歩 (東京史跡ガイド8)』学生社、1992年
(wikiより)


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所在地東京都新宿区袋町15番
位置北緯35度42分1.8秒 東経139度44分17秒
山号樹王山
院号正覚院
宗旨浄土宗
開山清誉上人光照
開基松平次郎左衛門信貞
正式名樹王山 正覚院 光照寺

光照寺(こうしょうじ)は、東京都新宿区袋町にある浄土宗寺院増上寺末寺で樹王山 正覚院 光照寺という。牛込城の跡地に建つ。

歴史
光照寺は慶長8年(1603年)、神田元誓願寺町に開かれた。開基松平次郎左衛門信貞(松平昌安)、開山は清誉上人光照と伝わる。正保2年(1645年)に現在地へ移転した。また、出羽松山藩江戸屋敷の菩提寺となったため、境内には同藩主家の酒井家歴代の墓が残る。

伽羅
本堂
  鉄筋コンクリート製

鐘楼

文化財
地蔵菩薩坐像 - 新宿区指定有形文化財(彫刻)
 鎌倉時代製作とされる像高30センチほどの坐像。光照寺門前の地名、地蔵坂はこの像に由来する。
十一面観音坐像 - 新宿区登録有形文化財(彫刻)
 江戸時代後期の造仏僧、木食五行明満の作とされる。
阿弥陀三尊来迎図 - 新宿区指定有形文化財(絵画)
 室町時代製作とされる来迎図
涅槃図 - 新宿区登録有形文化財
  元禄~正徳年間(1688年~1716年)頃に描かれた涅槃図で、狩野派の絵師によって制作されたと推定されている。文化の日前後に特別公開される。
・法然上人画像 - 新宿区指定有形文化財(絵画)
 室町時代製作とされる浄土宗の宗祖、法然上人を描いたもの。
・諸国旅人供養碑 - 新宿区登録有形文化財(歴史資料)
 文政8年(1825年)に建立された、旅人の供養碑。
・便々館湖鯉鮒の墓 - 新宿区登録史跡
 江戸時代中期の狂歌師、便々館湖鯉鮒(べんべんかんこりう)の墓地。
牛込城跡 - 新宿区登録史跡
 戦国時代、後北条氏の家臣であった牛込氏の居城跡。天正18年(1590年)の北条氏滅亡後に取り壊され、面影はない。

所在地情報
所在地
・東京都新宿区袋町15番

交通
都営地下鉄大江戸線牛込神楽坂駅A2出口より徒歩4分(経路案内)。
・神楽坂上交差点(都道25号線都道433号線)より徒歩3分(経路案内)。
(wikiより)

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所在地東京都新宿区改代町11
位置北緯35度42分25秒 東経139度44分0秒
山号龍谷山
宗派曹洞宗
本尊釈迦如来
創建年寛永5年(1628年
開山一山智乗
公式サイト坐禅会|龍谷山田中寺|日本

田中寺(でんちゅうじ)は、東京都新宿区にある曹洞宗寺院

歴史
1628年寛永5年)、一山智乗によって開山された。元々は武蔵国豊島郡天神町(現・東京都新宿区天神町)に位置していたが、1640年(寛永17年)に現在地に移転した[1]

当初は「浄見寺」という名称であった。1650年慶安3年)、江戸幕府3代将軍徳川家光鷹狩りの際に当寺に立ち寄り、「この寺、独りにあり、もって田中寺としたらよかろう。」という言葉を賜り、「田中寺」に改称した。この縁により、歴代住職は毎年新年祝賀のために江戸城に登城することになった[2]。 なお1657年明暦3年)、隣地に伝久寺横寺町より移転したため、「この寺、独りにあり」ではなくなっている。この2寺が現在まで残っているのである。

当寺には、「富田地蔵尊」と呼ばれる地蔵菩薩像が安置されている。戦国時代末期、「富田玄蕃」という人物が賊に襲われた際、身代わりとなって首を討ち取られた地蔵である。この逸話から「身代わり地蔵」として信仰を集めるようにな交通アクセス

交通アクセス
江戸川橋駅4番出口より徒歩5分(経路案内)。
神楽坂駅2番出口より徒歩6分(経路案内)。

関連項目
伝久寺 (新宿区) - 隣接する。

脚注
1. 
東京市牛込区 編『牛込区史』東京市牛込区、1930年、560p
2. 
a b 田中寺縁起田中寺

参考文献
・東京市牛込区 編『牛込区史』東京市牛込区、1930年

外部リンク
坐禅会|龍谷山田中寺|日本    
(wikiより)
 
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浄土宗寺院の大願寺は、本光明山放照院と号します。

大願寺の創建年代等は不詳ながら、津久戸より当地へ移転したといい、天蓮社暁誉上人露吟和尚 ( 寛文 7年寂 ) が開山したといいます。

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瑞光寺は、文禄 4年 ( 1596年 ) に創建、上聖院日亮 ( 正保 3年 1647年寂 ) が開山、惠光院殿妙照日曜大姉 ( 有馬出雲守出雲守の令室、寛永元年 1624年没 ) が開基したといいます。

明治 5年寺号を瑞光寺と改めています。

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縁起
感通寺は、寂陽院日建上人(正保3年1646寂)が開山となり、寛永7年(1630)に創建したといいます。

感通寺の由来と多聞天
感通寺は、東京都新宿区喜久井町に位置する日蓮宗の寺院です。

早稲田駅から徒歩5分、若松河田、牛込柳町からも徒歩圏内にあります。

当寺は寂陽院日建上人によって、寛永七年(1630年)に創建されました。

山号は本国土妙・寺号は「感応道交・神通之力」 本妙山 髙田 感通寺とされています。

松平越後守の下屋敷高田御殿後にあり、衆生に機縁があれば、仏の力が自然に応じて、衆生の感と仏の応とが互いに相通じ相交わるとの願いが込められた寺院です。

当寺安置の毘沙門天の霊像は、越後上杉謙信公が深くこの霊像を尊敬し相伝され、謙信公が天正六年に卒すると共に奥州米沢の城に遷座されましたが、徳川将軍の時代となり、髙田様入府の折、かの霊像を越後少将松平忠輝公・その御母君により当寺に勧請したとされています。

この霊像は、日蓮大聖人が佐渡より勘気赦免となり越後高田に来られた時、一人の翁が顕れ、夜半に迷われた大聖人の頭陀袋を持って案内しました。

真言宗の寺院に導かれ宿したが、先程の老翁が見えないのでお尋ねになると、神壇の多聞天即ち毘沙門天が先の頭陀袋を背負い、足に泥をつけ立っていたので、さては多聞天であったかと知り、この導きに法楽の誦経を捧げました。

寺主もその導きに感じ入り大聖人の法門に帰依されました。

この故事より「開運出迎泥足(でむかえどろあし)毘沙門天」と呼ばれています。

法華経陀羅尼神呪の感応道交の利益は不思議であり、苦しむ衆生を救う変化の人となると、今も霊験あらたかな毘沙門天として信仰されています。
(案内板より)

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延宝四年 ( 一六七六 ) に造立された板碑型 ( いたびがた ) の庚申塔である。

石質は極めて固い玄武岩 ( 玄武岩 ) で、高さは一二〇センチ、上部左右に日月 ( じつげつ ) 
配し、中央岩座に三猿 ( さんえん ) 、下部に対面した雌雄 ( しゆう ) の鶏 ( とり ) が浮彫りされ、江戸時代前半の庚申塔の特色を示している。

向かって左には、「延宝四年丙辰 ( へいしん ) 九月十六日川田久保」と、右には、「武州湯河原郡牛込馬場下町」の文字が彫り込まれており、川田久保 ( 現在の市谷柳町 ) と馬場下町 ( 現在の喜久井町 ) の庚申講によって奉納されたことがわかる。

中世には荏原郡 ( えばらぐん ) に属していた馬場下町は、江戸時代には豊島郡に属した。

湯原郡とは荏原郡を指すと思われるが、江戸時代制作である庚申塔に、馬場下町が荏原郡とされた理由は不明である。
(案内板より)

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所在地東京都新宿区喜久井町46
位置北緯35度42分15.5秒 東経139度43分13.2秒
山号紫雲山
院号聖衆院
宗派浄土宗
本尊阿弥陀如来
創建年寛永8年(1631年
開山崇蓮社伝誉上人
札所等山の手三十三観音霊場18番札所

来迎寺
(らいごうじ)は、東京都新宿区にある浄土宗寺院

概要
1631年寛永8年)、崇蓮社伝誉上人によって開山された。

境内には、庚申塔がある。元々は夏目坂の道にあったものであるが、当寺に移された[1]

この庚申塔は、1676年延宝4年)に建立されたが、当地の地名は武蔵国豊島郡のはずなのに、なぜか「武州湯原郡」と記されている謎がある[2]。この「湯原郡」は、荏原郡の誤記と看做されている。室町時代は荏原郡に属していたという説があるが、豊島郡との郡境がどこに引かれていたのかは不明である[1]

近くの誓閑寺にも、同様の謎を持つ梵鐘がある[1]

交通アクセス
早稲田駅2番出口より徒歩3分(経路案内)。

脚注
a b c 高橋庄助 著『新宿区史跡散歩 (東京史跡ガイド4)』学生社、1992年、71-73p
来迎寺新宿観光振興協会

参考文献
・高橋庄助 著『新宿区史跡散歩 (東京史跡ガイド4)』学生社、1992年
(wikiより)

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所在地東京都新宿区早稲田町77
位置北緯35度42分21.0秒 東経139度43分24.1秒
山号太子山
院号聖徳皇院
宗派真宗大谷派
本尊阿弥陀如来
創建年寛永15年(1638年
開山円明院教祐
開基真行院欅道哲
公式サイト龍善寺

龍善寺(りゅうぜんじ)は、東京都新宿区にある真宗大谷派寺院

歴史
1638年寛永15年)、円明院教祐によって開山された。徳川氏の旧領だった三河国には、元々浄土真宗門徒(信者)が多く、三河一向一揆まで起き、一時は徳川家康を追い詰めていた。その後、徳川氏の江戸入府とともに、門徒たちも江戸に移住した。門徒たちは故郷の三河国岡崎(現・愛知県岡崎市)の上宮寺本尊を拝したいので、江戸で開帳してほしいという要望を出したので、上宮寺の江戸支院という位置づけて、開帳と同時に当寺が創建された[1][2]

開帳後、上宮寺の本尊は岡崎に戻されたが、代わりに上宮寺より阿弥陀如来像が贈られ、当寺の本尊となった。この像は鎌倉時代に作られたという[2]

元々は、現在の東京都渋谷区千駄ヶ谷に位置していたが、1667年寛文7年)に現在地に移転した[1]

その後、当寺内で南春寺を再興させている[1]

文化財
・木造阿弥陀如来立像(新宿区指定文化財 平成9年3月7日指定)[3]

交通アクセス
早稲田駅1番出口より徒歩1分(経路案内)。

脚注
a b c 東京市牛込区 編『牛込区史』東京市牛込区、1930年、572-573p
 a b 龍善寺の概要と歩み龍善寺
新宿区指定・登録文化財一覧新宿区

参考文献
・東京市牛込区 編『牛込区史』東京市牛込区、1930年

関連項目
外部リンク
龍善寺
(wikiより)

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所在地神奈川県横浜市南区平楽103
位置北緯35度25分43秒 東経139度37分45秒
山号海龍山[1](海龍山)
院号増徳院(增德院)
宗旨古義真言宗[1]
宗派高野山真言宗
寺格準別格本山
創建年伝9世紀
開基不詳
中興永覺[1]
正式名海龍山本泉寺増徳院
(海龍山本泉寺增德院)
別称寺号:本泉寺[1]
札所等新四国東国八十八箇所

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聖観音高村光雲作)

増徳院(ぞうとくいん)は、神奈川県横浜市南区平楽にある高野山真言宗仏教寺院である。準別格本山で、海龍山本泉寺増徳院と号する。もとは元町1丁目(元町プラザの一角)にあり、現在の横浜外国人墓地は境内墓地であった。

歴史
大同年間(806年 – 810年)の創立と伝えられる。
1854年嘉永7年)アメリカ海軍ペリー提督の意向を受け、江戸幕府はアメリカ人用の墓地として増徳院の境内の一部を提供した。これが外国人墓地の始まりとなる。
1923年大正12年)関東大震災で全焼、1928年昭和3年)現在地に再建される。
1972年昭和47年)元町に薬師堂が再建される。

所在地・交通
神奈川県横浜市南区平楽103

脚注
1. a b c d 新編武蔵風土記稿 横濱村.

参考文献
・「横浜市史稿」
・「横浜元町140年史」
・「横濱村 増徳院」『新編武蔵風土記稿』 巻ノ77久良岐郡ノ5、内務省地理局、1884年6月。NDLJP:763986/26

関連項目
横浜外国人墓地     
元町 (横浜市)       
厳島神社 (横浜市中区) - 別当寺となっていた。
(wikiより)

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所在地東京都品川区北品川二丁目30-28[1]
位置北緯35度37分01秒 東経139度44分36秒
主祭神高龗神
豊受姫之神
天照皇大神
須佐男之尊
手力雄之尊[1]
社格郷社
創建和銅2年(709年[1]
別名天王社、貴布彌大明神[1]
札所等東海七福神
例祭6月初旬の週末(天王祭)
主な神事貴布禰祭
大酉祭

荏原神社(えばらじんじゃ)は、東京都品川区北品川にある神社である。旧社格郷社。別名を天王社、貴布彌大明神[1]という。「南の天王」とも呼ばれる[2]。また東海七福神の中の1社として恵比須を祀る。

祭神
以下の5柱の神を祀る。
・右座 豊受姫之神
・右座 天照皇大神
・右座 須佐男之尊
・中央 高龗神
・左座 
手力雄之尊     

歴史
和銅2年(709年)9月9日、大和国丹生川上神社より高龗神(水神)の勧請を受けて南品川に創建したのに始まる。

長元2年(1029年)に伊勢神宮より豊受大神・天照大神を勧請。

康平5年(1062年)、源頼義義家は奥州安倍氏征伐に際し当社と大國魂神社に参籠し、品川の海中で身を浄める(※このことより、現在でも大國魂神社の神職は例祭のくらやみ祭に際し当社に参詣してを行う)。

宝治元年(1274年)に京都祇園社(八坂神社)より牛頭天王を勧請。

以降、源氏上杉氏徳川氏など多くの武家の信仰を受け、南品川の鎮守として崇敬さる。後に現在地に遷座。旧鎮座地には今も水神の貴布彌神社(きふねじんじゃ)があるように、もとは「品川貴船社」と称す。

明治元年(1868年勅祭社に准ぜられた(准勅祭社という)[1][3]。 なお、荏原神社は品川貴船社=現荏原神社が准勅祭社に列せられたとしている[3]が、昭和50年(1975年)に12の准勅祭社を基に定めた東京十社においては、品川神社第十三代神主小泉帯刀(准勅祭社指定当時の神主)の文書を根拠に[要出典]品川神社が列した。現在、品川神社、荏原神社とも元准勅祭社を名乗っている。[1][4]

明治3年(1870年)、准勅祭社制度が廃され、改めて郷社に列した。

明治8年(1875年)、品川貴船社の名を改めて、荏原郡の名をつけて「荏原神社」に改称。

祭事
9月に貴布禰祭、6月初旬に天王祭、11月に大酉祭(酉の市)が行われる。

天王祭
6月の天王祭は当社の例祭

天王洲沖で神面をつけた神輿が海に入る「御神面海中渡御」が行われる。これは、宝暦元年6月、品川沖の海面から牛頭天王の面が発見されたことに因むものである。「天王洲」の地名はこのことによるものである。天王洲は現在は埋め立てにより陸地になっており、当社の氏子地域になっている。

牛頭天王(須佐男之尊)が水神であることから、参加者をかっぱになぞらえ、「かっぱ祭」と俗称される。

交通アクセス
新馬場駅より徒歩4分(経路案内)。

脚注
1. a b c d e f g 荏原神社【天王社】”. 東京都神社庁. 2021年1月6日閲覧。
2. 
「年中行事事典」p101 1958年(昭和33年)5月23日初版発行 西角井正慶編 東京堂出版
3. 
a b 荏原神社-准勅祭社”. 2021年1月6日閲覧。
4. 
品川神社【北の天王社】”. 東京都神社庁. 2021年1月6日閲覧。

参考文献
・“荏原神社【天王社】”. 東京都神社庁. 2021年1月6日閲覧。

外部リンク
荏原神社(公式サイト)
(wikiより)


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本地には、浅草発展の基を拓いた土師中知 ( はじの - なかとも ) の旧居宅地 ( 通称・専堂坊屋敷跡 ) が存在した。

浅草の総鎮守浅草神社は、江戸時代には三社権現と称し、主祭神は一之宮の土師真中知命 ( はじのまっちゅのみこと )( 土師中知 )、二之宮の檜前浜成命 ( ひのくまのはまなりのみこと )、三之宮の檜前竹成命 ( ひのくまのたけなりのみこと ) で、この三神は郷土浅草の開拓者であり、推古天皇三十六年 ( 六二八年 ) 三月十八日浅草寺の本尊たる観世音菩薩の尊像を感得し、護持供養に生涯を捧げた篤信者第一号にあたる人々である。

この三氏の子孫は主祭神の末孫として公認され、世襲の特権を有し、それぞれ中知の子孫は専堂坊、浜成の子孫は齊頭坊、竹成の子孫は常音坊の三譜代と称し、千三百六十有余年連綿と相続されてきた。( 平成元年専堂坊職を返上することで譜代職は消滅した )

本碑は土師中知の篤信を末代まで顕彰するため、土師中知の旧居宅地 ( 専堂坊屋敷 ) である本地に建立するものである。
(案内板より)

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長慶寺(ちょうけいじ)は、東京都江東区にある曹洞宗寺院

概要
1630年寛永7年)に開山された。境内に「蟠龍松」というの大木があったことから山号が「蟠龍山」になったという[1]

かつて、境内には松尾芭蕉翁句塚や日本左衛門の墓があったが、1923年大正12年)の関東大震災で滅失した[1]

交通アクセス
森下駅より徒歩1分。

脚注
1. a b 細田隆善 著『江東区史跡散歩 (東京史跡ガイド8)』学生社、1992年、134-135p

参考文献
細田隆善 著『江東区史跡散歩 (東京史跡ガイド8)』学生社、1992年
(wikiより)

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陽岳寺(ようがくじ)は、東京都江東区にある臨済宗妙心寺派寺院

概要
1637年寛永14年)、向井忠勝の開基である。江東区内で「東京都旧跡」に指定されている文化財が11点あるが、その内の4点が当寺にある[1]

1923年大正12年)の関東大震災で、建物や寺宝の多くを失っている。現在の本尊は、同宗派大本山の妙心寺にあった塔頭実相院(現在は廃寺)にあったものである[2]

墓所これらはいずれも東京都旧跡に指定されている[1]
向井忠勝(開基、御船手奉行)
  忠勝の子孫は代々幕府の海事官僚を歴任している。

・伏見義民
  伏見奉行小堀政方の悪政を幕府に直訴した文珠九助、丸屋久兵衛、麹屋伝兵衛の3人の墓である。

英信勝画家
  英一蝶の長男で「二代目英一蝶」を名乗った。一蝶の三宅島流刑時代に産ませた子である。

観嵩月画家
  英派の画家で高嵩谷の弟子である。

交通アクセス
門前仲町駅より徒歩5分。

脚注
1. 
a b 細田隆善 著『江東区史跡散歩 (東京史跡ガイド8)』学生社、1992年、64-66p 
2. 
陽岳寺について陽岳寺

参考文献
細田隆善 著『江東区史跡散歩 (東京史跡ガイド8)』学生社、1992年

外部リンク
臨済宗妙心寺派長光山陽岳寺ホームページ   
(wikiより)

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心行寺(しんぎょうじ)は、東京都江東区にある浄土宗寺院

概要
1616年元和2年)、岩国領領主吉川広嘉の妻の養源院の開基である。元々は八丁堀町(現・東京都中央区八丁堀)に位置していたが、1633年寛永10年)に現在地に移転した[1]

かつては末寺として「影窓院」「正寿院」があったが、現在は統合している[2]

深川七福神
深川七福神福禄寿が、当寺の六角堂に安置されている[3]

1970年昭和45年)に復活した七福神巡礼札所で、1975年(昭和50年)に六角堂が建てられ、翌年に福禄寿像が安置された[1]

墓所
・養源院(開基)
工藤平助経世論の論者)
五代目鶴屋南北歌舞伎役者
松本交山画家
・井上氏(米問屋「鯉屋」の当主)

交通アクセス
門前仲町駅より徒歩5分。

脚注
1. a b 細田隆善 著『江東区史跡散歩 (東京史跡ガイド8)』学生社、1992年、67-69p
2. 
心行寺について心行寺
3. 
心行寺江東区観光協会「江東おでかけ情報局」

参考文献
・細田隆善 著『江東区史跡散歩 (東京史跡ガイド8)』学生社、1992年

外部リンク
浄土宗双修山心行寺   
(wikiより)

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〇 川中島合戦をしのぶ田中月亀翁父子の歌碑

田中月亀翁は本名亀太郎、現長野市更北の人で、松代藩主・真田幸教に仕え、学問に熱心で、歌道に長じ、その子亀作も亀守 ( かめもり ) と号し、風雅の道で知られていた。

この歌碑は、田中父子の和歌をしるしたもので、表の和歌は、川中島の大激戦の様子をしのび、裏の和歌は、大合戦の終わった後のここ八幡原 ( はちまんばら ) 一帯の情景を歌ったものである。

( 表 ) 跡しのぶ 川中島の朝あらし

      いぶきのさ霧 おもかげに見ゆ

                   月廼亀麿 ( つきの かめまろ )

( 裏 ) 月影の入 ( いり ) にし後 ( のち ) も ほととぎす

      ひとこえ残す 小島田の里

                   月廼亀守 ( つきの かめもり )
(案内板より)

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この建物は、明治三十五年五月二十二日皇太子嘉仁 ( よしひと ) 親王殿下 ( 後の大正天皇 ) が、この歴史的景勝地八幡原の史蹟を御見学の為行啓され ( 参道右手に石垣に囲まれた二本の松はその折り、殿下が植えられたもの ) その後も県内外より史蹟見学者が多数訪れ、湯茶接待を行うための休憩所 ( 二間半四方丸木堀立板葺 ) として使用された建物址である。
(案内板より)

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ただ軍の軍旗であるこの旗は、別名「孫子」の旗ともいわれ、もともと鮮麗な紺色の絹布に金泥で書いたもので、字句は兵法の聖典「孫子」の一節で、武田氏の菩提寺恵林寺 ( えりんじ ) の禅僧快川紹喜 ( かいせんじょうき ) の筆になるものである。

「疾 ( はや ) きこと風の如く、徐 ( しず ) かなること林の如く、侵掠 ( しんりゃく ) すること火の如く、動かざること山の如し」

これは合戦にのぞみ、軍隊とはかくあるべきことを教えたもので、孫子の研究者として戦国時代の最高峰といわれた信玄の軍隊運用術でもあった。

武田軍の軍旗としては、このほかに「南無諏訪南宮法性上下大明神」の旗があり、「風林火山」の旗と共に武田軍の象徴である。
(案内板より)  

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上杉軍の軍旗で、「毘 ( び )」は上杉謙信が信仰した毘沙門天 ( びしゃもんてん ) を意味し、戦場にこの旗と共にあることは毘沙門天と共にあり、その加護のもと上杉軍将兵は勇往邁進し、水火も辞さない勇気を示したといわれる。

「龍」は乱れ龍を意味し、突撃の時まっ先に押し立てて進んだ「突撃用軍旗」である。

永禄四年 ( 一五六一 ) 九月十日の川中島合戦もこの旗で火蓋が切られたのである。

謙信自らの信仰心に発する「昆」の旗と共に、この旗は上杉軍の勇猛果敢さを象徴し戦わずして敵の恐怖心を誘発したといわれる。
(案内板より)

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永禄 4年 ( 1561 ) 9月 10日、ここ八幡原 ( はちまんばら ) を中心に上杉、武田両軍 3万余の壮絶な死闘が展開された。

上杉謙信は紺糸威 ( こんいろおどし ) の鎧 ( よろい ) に萌黄緞子 ( もえぎどんす ) の胴肩衣 ( どうかたきぬ )、金の兜に立烏帽子白妙 ( たてえぼししろたえ ) の練絹 ( ねりぎぬ ) で行人包 ( ぎょうにんつつみ )、長光 ( ながみつ ) の太刀を抜き放ち、名馬放生 ( ほうしょう ) に跨り戦況の進展に注目、乱戦で武田本陣が手薄になったのをみ、旗本数騎をつれ信玄の本営を強襲した。

この時の武田信玄は諏訪法性 ( すわほっしょう ) の兜、黒糸縅の鎧の上に緋 ( ひ ) の法衣、軍配を右手にもち、この地で崩れかかる諸隊を激励指揮していた。

この信玄めがけて謙信は只一騎、隼の如く駆け寄りざま、馬上より流星一閃、信玄は軍配で受けたが、続く二の太刀で腕を、三の太刀で肩に傷を負った。

後にこの軍配を調べたところ刀の跡が七ヶ所もあったといわれ、この一騎討ちの跡を世に三太刀七太刀之跡という。
(案内板より)

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現在八幡社境内西北の隅に蓋がされている井戸がある。

真夜中になると、井戸底から、戦死者の怨霊の悲鳴が聞こえるという。
(パンフレットより)

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永禄 4年の合戦のあと、武田方の梅津城代・高坂弾正が、一帯に散乱する戦死者の遺体を敵味方区別無く手厚く葬った塚とされる。

昔は付近に数基あったいうが、現存しているのは二基だけで、もう一基は八幡社の南 200メートル程の所にある。
(パンフレットより)

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今回は 301 ~ 391番まで紹介します。

御祭神 三九一柱
・吉田松陰:一柱
・高杉晋作、久坂義助、入江九一、吉田稔麿、河上弥一、白石正一郎、白石廉作、山県有朋 等、
 
長州藩奇兵隊士:二五六柱
・泉十郎、熊野直助 等、
 
浦藩報国隊士:九六柱
・膺徴隊、八幡隊、遊撃隊、整武隊、清末藩育英隊等諸隊士: 三八柱

 招魂碑の御名前と違う場合も有ります。

301

301 三島現八忠之

302

302 早川文三

303

303 増野矢之助

304

304 吉武五郎清久
 
305

305 橋本九兵衛忠誠

306

306 高橋源吾

307

307 熊和惣五郎正

308

308 植田謙三正致

309

309 山本弥八

310

310 上田仁兵衛

311

311 後藤酒兵衛正信

312

312 吉田喜三郎正光

313

313 山名孫八政次

314

314 平野耕造行家

315

315 岡村常吉行信

316

316 阪本伊三郎清則

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317 江見謙介正勝

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318 榎本清蔵信喬

319

319 下田小太郎正行

320

320 河田源太郎直一

321

321 畠中孫助喬秀

322

322 阿川五郎国光

323

323 藤井直江正治

324

324 大崎源吾忠勝

325

325 原新兵衛辰繁

326

326 関中力蔵義之

327

327 原吉太郎貞徳

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328 渋谷処吉年之

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329 石田幾次郎光吉

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330 石井兵蔵重信

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331 坂井栄太郎義一

332

332 平尾磯之助正一

333

333 井上三郎正一

334

334 無敵幸之進勝行

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335 堀尾六郎範勝

336

336 児玉雷蔵春唯

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337 清水甚蔵範正

338

338 上原二九郎利之

339

339 穴山一俊幸

340

340 勝見善太郎末高

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341 滝川六郎資直

342

342 倉光新吉亮正

343

343 迫田為太郎清治

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344 勝原国介棟栄

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345 下村文次郎高俊

346

346 下田恂介

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347 千葉三郎忠明

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348 熊野直介則之

349

349 泉十郎重次

350

350 有川恒槌紀綱

351

351 岩本勘九郎

352

352 藤村英次郎稔彦

353

353 元森熊次郎春幹

354

354 熊美平吾宜一

355

355 山田鵬輔成功

356

356 藤村太郎稲彦

357

357 前兵部少丞 交野◇

※ ◇は判読不可でした。

358

358 河上弥一

359

359 吉田稔麿秀実

360

360 久坂義助通武

361

361 松陰吉田先生

362

362 高杉晋作春風

363

363 入江九一弘致

364

364 時山直八養直

365

365 福田侠平公明

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366 宮城彦助御楯

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367 堀潜太郎春峰

368

368 阿川四郎延実

369

369 十川東之勝忠一

370

370 天宮慎太郎行文

371

371 堀滝太郎浪風

372

372 山県有朋

373

373 小田村信之進

374

374 永野熊之允政和

375

375 井関英太郎

376

376 周田半蔵 

377

377 伊藤百合五郎

378

378 白石廉作資敏

379

379 田中弁蔵知忠

380

380 伊東貞三祐久

381

381 下瀬熊之進

382

382 山内賢之充通喜

383

383 白石資風

384

384 阿部宗兵衛吉道

385

385 南野一郎

386

386 尾川清足

387

387 堀平三郎知忠

388

388 世木騎騄義安

389

389 和田小伝次唯之

390

390 臼井留之助平胤勝

391

391 松尾甲之進

以上 391の招魂碑でした。



今回は 201 ~ 300番まで紹介します。

御祭神 三九一柱
・吉田松陰:一柱
・高杉晋作、久坂義助、入江九一、吉田稔麿、河上弥一、白石正一郎、白石廉作、山県有朋 等、
 
長州藩奇兵隊士:二五六柱
・泉十郎、熊野直助 等、
 
浦藩報国隊士:九六柱
・膺徴隊、八幡隊、遊撃隊、整武隊、清末藩育英隊等諸隊士: 三八柱

 招魂碑の御名前と違う場合も有ります。

201

201 長網滝吉好文

202

202 武末孫六末永

203

203 吉崎常吉通行

204

204 吉津定吉利政

205

205 勝岡弥九郎信好

206

206 金田常吉正盛

207

207 河崎友次郎正勝

208

208 金山太郎熊忠貫

209

209 川崎八郎行光

210

210 渡辺幸助章

211

211 太田銀次郎正光

212

212 岡本勝右衛門吉豊

213

213 大藤季吉一好

214

214 徳永権次郎忠勝

215

215 処光蔵正勝

216

216 本田三郎金吉

217

217 萩原次郎右衛門忠孝

218

218 一柳勇次郎忠明

219

219 泉光蔵時明

220

220 入船米吉信光

221

221 木原四郎

222

222 阿武市之丞

223

223 福田直右衛永光

224

224 土田内蔵太

225

225 佐々木又四郎満寛

226

226 小枝正之助守義

227

227 中村高平

228

228 長尾兵馬春景

229

229 三井弦次郎

230

230 福田儀作任風

231

231 吉村盛之助忠光

232

232 吉村虎吉

233

233 寺岡軍一

234

234 中村広太郎国久

235

235 土井熊吉忠臣

236

236 井石和作茂秀

237

237 山田梅吉正明

238

238 高橋五郎高政

239

239 武井満太郎等実

240

240 矢野伊兵衛直行

241

241 吉岡三郎綱重

242

242 岡田辰太郎正明

243

243 泰音之進嘉延

244

244 斎藤亀蔵

245

245 西林利吉(正行)

246

246 村田団蔵

247

247 本田寅之助芳忠

248

248 飯田楳之丞敬之

249

249 河村次郎通治

250

250 田中英作義之

251

251 杉浦喜代三信之

252

252 佐伯多三郎正道

253

253 西山八十槌長安

254

254 柳半之丞之道

255

255 田村熊吉郎恵満

256

256 正木泰蔵正行

257

257 水津惣之助重義

258

258 森重菊次郎謙

259

259 斎藤千熊幸郷

260

260 町田道之助勝久

261

261 藤田吉作則忠

262

262 松江安右衛門

263

263 福田弥太郎正重

264

264 森脇三右衛門忠信

265

265 遵海坊鬼顔

266

266 戸沢竹次郎政勝

267

267 藤重源九郎行政

268

268 藤井一郎雅章

269

269 榊原剛之助勝忠

270

270 竹森源二

271

271 藤田育太郎義懐

272

272 早川源次郎

273

273 藤川清次徳一

274

274 入江勝馬一義

275

275 石川伊三郎義忠

276

276 大村精次郎義忠

277

277 本田政之助

278

278 石川和三郎勝久

279

279 伊藤俊三政寿

280

280 佐々木五右衛門綱孝

281

281 杉山蔦太郎秀清

282

282 渡辺八郎英

283

283 山田藤五郎貞光

284

284 植木百合次正之

285

285 大本昇勝喜

286

286 山本泰三

287

287 北島保介

288

288 久富豊

289

289 山田寅之助盛次

290

290 三分利徳三郎

291

291 今津宇三郎

292

292 内山太郎右衛

293

293 堀弥四郎敬忠

294

294 山徳権之丞

295

295 山本弁蔵道輝

296

296 山本作蔵

297

297 広瀬徹和義

298

298 国弘数馬一之

299

299 徳永九十九忠信

300

300 山県保助義幸



次回はは 301 ~ 391番まで紹介します。




今回は 101 ~ 200番まで紹介します。

御祭神 三九一柱
・吉田松陰:一柱
・高杉晋作、久坂義助、入江九一、吉田稔麿、河上弥一、白石正一郎、白石廉作、山県有朋 等、
 
長州藩奇兵隊士:二五六柱
・泉十郎、熊野直助 等、

浦藩報国隊士:九六柱
・膺徴隊、八幡隊、遊撃隊、整武隊、清末藩育英隊等諸隊士: 三八柱

 招魂碑の御名前と違う場合も有ります。

101

101 山中杢助盛幸

102

102 上領重三安利

103

103 奈良尾源兵衛義民

104

104 金山儀十郎忠直

105

105 杉野晋八

106

106 橋本常吉孝幸

107

107 末武省作定国

108

108 関謙三正直

109

109 船木良蔵

110

110 吉田治三郎

111

111 井尻友蔵

112

112 藤本利吉

113

113 久富信吉

114

114 中尾千之丞忠光

115

115 酒井定五郎

116

116 多々野六郎正景

117

117 加藤房蔵

118

118 石田五郎直明

119

119 原川助右衛門安則

120

120 野田蔵之進信利

121

121 山下半三郎安邦

122

122 安部直人

123

123 萩原忠一郎忠秀

124

124 村岡彦十郎

125

125 田村勇人義之

126

126 木原亀之進弘幸

127

127 山浪松蔵千治

128

128 今井満田郎忠備

129

129 西本四郎勝正

130

130 平賀宗四郎政一

131

131 檜垣五三郎貞静

132

132 藤田平太郎岸彦

133

133 粂八

134

134 堀虎蔵

135

135 中村元之親清忠

136

136 矢玉助太郎

137

137 藤野浪太郎秀一

138

138 伊藤虎松直之

139

139 古川順蔵正勝

140

140 松原与兵衛時治

141

141 飯田幸十郎勝真

142

142 中村水穂

143

143 本郷志摩之助

144

144 御手洗音五郎光重

145

145 磯野虎蔵正一

146

146 若月健蔵勝正

147

147 大枝八郎義鎌

148

148 渡辺逸蔵義之

149

149 福間辰之助久重

150

150 梅村喜代三春行

151

151 見義市蔵助光

152

152 木原祐太郎虎重

153

153 山崎四方七昌貫

154

154 安部清見

155

155 飯沼三千助(元春)

156

156 井上収蔵

157

157 玉江芳彦美臣

158

158 美香房之進忠義

159

159 山田滝太郎義忠

160

160 十河彦四郎義一

161

161 有田彦兵衛忠光

162

162 村上小次郎周徳

163

163 関口弥太郎兼房

164

164 大野秀兵衛義光

165

165 隅次郎秀光

166

166 梅津熊之進正義

167

167 守永光之進一正

168

168 徳見与五郎忠信

169

169 春日与七芳風

170

170 山城平吉政久

171

171 橘式部信秀

172

172 重富秀之進義明

173

173 伊藤清治祐俊

174

174 内田文吉清忠

175

175 柳良平守忠

176

176 藤野正助

177

177 高橋市之進

178

178 秋枝庄太郎

179

179 山下豊吉

180

180 長岡勘助国光

181

181 永山勝四郎光行

182

182 中井源次郎忠一

183

183 梅林芳助忠一

184

184 野上繁九郎信綱

185

185 国重直人与芳

186

186 黒塚源吾信弘

187

187 工藤合輔順豊

188

188 日下房助信義

189

189 国村貞右衛門正明

190

190 山尾謙次勝信

191

191 松田新兵衛雪範

192

192 舛見栄作忠清

193

193 深津信吉清喬

194

194 藤永政助雪範

195

195 福田忠蔵武俊

196

196 福原林之助俊喬

197

197 作間友槌信忠

198

198 水野清蔵範正

199

199 北村忠蔵光信

200

200 藤吉


次回は 201 ~ 300番まで紹介します。




櫻山神社(さくらやまじんじゃ)は山口県下関市に鎮座する神社[1]

祭神
吉田松陰 1柱
高杉晋作久坂義助入江九一吉田稔麿河上弥市 5柱、
白石正一郎、白石廉作、山県有朋 等 長州藩奇兵隊士 256柱
・泉十郎、熊野直助 等 豊浦藩報国隊士 96柱
・膺懲隊、八幡隊、遊撃隊、整武隊、清末藩育英隊等諸隊士 38柱 計391柱(霊標は391柱だが合祀され神霊名簿に記載されている神霊は857柱[2]

歴史
文久3年(1863年)の下関事件を受け、高杉晋作は奇兵隊を結成した。同年10月(1864年11月)殉国の志士の神霊を祀る招魂場の創建を発議した。文久4年1月23日(1864年3月2日)、白石正一郎らにより下関の新地岡の原に招魂場の創建(社殿は翌月から着工されたが下関戦争、禁門の変といった動乱続きにより落成したのは元治の内乱で藩論が統一された後の元治2年8月3日(1865年9月22日)であった)[3]。明治5年8月20日(1872年9月22日)、防長各所の招魂場を合祀。同年9月1日(1872年10月3日)豊浦藩報国隊士を合祀。

1959年吉田松陰没後百年祭にあたり山縣有朋等23柱を追祀。2016年
前原一誠ら6柱を合祀。[4]

参考文献
櫻山神社 公式サイト
“東流西流”. 山口新聞. (2016年10月30日)
“御由緒”. 櫻山神社. (2018年5月9日)
“下関の桜山神社「前原一誠」合祀”. 山口新聞. (2016年8月12日)

関連項目
招魂社    

外部リンク
櫻山神社 公式サイト       
(wikiより)

御祭神 三九一柱
・吉田松陰:一柱
・高杉晋作、久坂義助、入江九一、
 吉田稔麿、河上弥一、
 白石正一郎、白石廉作、
 山県有朋 等、
 長州藩奇兵隊士:二五六柱
・泉十郎、熊野直助 等、
 浦藩報国隊士:九六柱
・膺徴隊、八幡隊、遊撃隊、
 整武隊、
 清末藩育英隊等諸隊士: 三八柱

 招魂碑の御名前と違う場合も有ります。

30i

30j

DSC02059

DSC00567

⇧ 中央の背が高い招魂碑が吉田松陰です。

DSC02062

⇧ 入口の門

DSC02064

⇧ 招魂墓地全景 ( 中央左側に桜が咲いていました。2022.11.11. )

1

1 権右エ門

2

2 久光秀太郎秀光

3

3 杉浦梅五郎義一

4

4 楊井安右衛門政之

5

5 森重謙介

6

6 上田滝之助

7

7 皆川謙蔵義虎

8

8 久松

9

9 末村綱次郎守節

10

10 生雲五郎一友信

11

11 奇兵隊別当 喜作

12

12 奇兵隊小者 利吉

13

13 奇兵隊工人 治助

14

14 14 奇兵隊小者 友吉

15

15 奇兵隊小者 喜八

16

16 奇兵隊小者 広吉招魂碑

17

17 柳井寅之助正明

18

18 岡村房助義勝

19

19 奇兵隊付郷侠組 久松

20

20 奇兵隊別当 清助

21

21 笹倉新之丞正義

22

22 橋本虎松孝幸

23

23 柏多牧太安親

24

24 末久亀二郎久勝

25
 
25 山下次郎鬼一

26

26 田辺五郎正道

27

27 永田真平

28

28 細川清若儀金

29

29 野村織之助

30

30 原田幸三郎正義

31

31 杉山深太郎正一

32

32 和田十郎清門

33

33 和田三郎義一

34

34 藤岡三右衛門義道

35

35 磯野熊蔵

36

36 田中初太郎

37

37 依儀復忠道

38

38 長府屋由五郎

39

39 奇兵隊小者 弥吉

40

40 佐伯武治郎義武

41

41 前兵部権大録 木村文太郎

42

42 関奥小路 山形屋甚兵衛

43

43 池田与吉

44

44 波田仙一

45

45 平田四郎忠勝

46

46 三輪内蔵主

47

47 井関閑斉儀憐

48

48 奇兵隊小者 松次郎

49

49 今永順治

50

50 藤原静馬秀友

51

51 奇兵隊小者 冨蔵

52

52 渡辺九郎明

53

53 片山高岳

54

54 宮崎浅太郎基

55

55 軍曹 赤間関也藤原公任

56

56 奇兵隊別当 利吉

57

57 井上勝之進康同

58

58 桐原二平

59

59 奇兵隊郷侠組 要吉

60

60 上田村 九兵衛

61

61 上田村 嘉吉

62

62 山県清之進清澄

63

63 小村五郎

64

64 守川豊 

65

65 植田楳之允

66

66 鹿蔵

67

67 幸助

68

68 小使 竹蔵招

69

69 江本豊太郎孝敷

70

70 枝川貞吉正芳

71

71 箙梅吉

72

72 島弥太郎勝正

73

73 末永勝之進信吉

74

74 原勝蔵広行

75

75 上杉六郎良虎

76

76 直江政吉実行

77

77 大原新五郎正敬

78

78 原田儀助朝吉

79

79 岡村勝三郎新国

80

80 小川直八道近

81

81 園田伝吉保次

82

82 杉山重吉忠義

83

83 稲田次郎

84

84 河野三郎信義

85

85 植田村 喜代三郎

86

86 国島栄三高徳

87

87 久我亀吉忠行

88

88 竹林次郎英生

89

89 廣世徹和儀

90

90 伯野波江

91

91 馬屋原彦右衛門

92

92 岡田五郎忠義

93

93 吉富信吉

94

94 原勝之進為則

95

95 三栖谷建礼

96

96 小須賀逸衛知良

97

97 西山八郎勝清

98

98 芳川道祐正義

100

99 高橋淳太郎忠信

99

100 三浦平之介義英

次回は 101 ~ 200番まで紹介します。


鎮座地 : 長野市小島田町新田一三六二番地一

御祭神 : 誉田別尊 ( ほんだわけのみこと ) 建御名方命 ( たけみなかたのみこと )

由緒

祭神の誉田別尊は第十五代応神天皇の諱 ( いみな ) で神宮皇后 ( じんぐうこうごう ) を母とし在位四十一年に亘大陸の文化を積極的にとり入れられ、古代日本の文化の向上、国家の発展に尽くされた御功績が仰がれ皇室の崇敬する神であるばかりでなく源氏一族をはじめ武人の神、弓矢八幡と称して全国各地へ勧請 ( かんじょう ) され、開拓の守護神、農耕神としても信仰されました。

当社においても平安中期、源顕清が信濃の国に流されたと時、この地を訪れ広大な景勝の原野に武運長久を祈り八幡大神 ( はちまんのおおかみ ) ( 誉田別尊 ) をご神木の大欅 ( おおけやき ) に包まれる鞘堂 ( さやどう ) 内のご神殿に祀られたことから、この広源一帯を八幡原 ( はちまんばら ) と名づけました。

川中島合戦で破壊された神殿を信玄は、高坂弾正に命じて社殿を再建させ、その後松代藩真田家が明治維新まで代々祭祀、修繕運営をされました。

現在は明治四十一年に建御名方命 ( 諏訪大社の祭神 ) が合祀され、その御神徳は、必勝、厄除、交通安全、安産、育児などであります。
(案内板より)

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松代の民話

酒飲み弥勒 ( みろく ) さん

 - お小僧に化けて酒を買いに -

こがらし吹くある日の夕方、中町の酒屋へ「明徳寺 ( めいとくじ ) です。お酒を一升 ( いっしょう ) ください。」と ひとりのお小僧がやってきました。

「うちの和尚 ( おしょう ) さんとってもお酒好きなんです。」

そして毎晩毎晩やって来ました。

年の暮れに、寺へ代金を受け取りに行くと「酒代?わたしは酒は飲まんよ。小僧なんていないよ。」

酒屋は代金をとれずじまいで、ぷんぷん怒 ( おこ ) りながら家へ帰りました。

ところがその日の夕方、例の小僧がまたやってきたのでつかまえて柱にしばりつけてしまいました。

翌朝、逃げ出した足跡 ( あしあと ) を追って明徳寺の弥勒堂 ( みろくどう ) をつきとめ、開けて見たところ弥勒さんがなわでしばられて、酒の匂いをぷーんと漂 ( ただよ ) わせておりました。
(案内板より)

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