カテゴリ: 寺社仏閣・教会・住職・宗教・祭関連
8238 安在所(長野市小島田町1384-1・川中島古戦場史跡公園)
8236 風林火山の旗(長野市小島田町1384-1・川中島古戦場史跡公園)
8234 「毘」「龍」の旗(長野市小島田町1384-1・川中島古戦場史跡公園)
8232 三太刀七太刀之跡碑(長野市小島田町1384-1・川中島古戦場史跡公園)
8230 古井戸(長野市小島田町1384-1・川中島古戦場史跡公園)
8228 首塚(長野市小島田町1384-1・川中島古戦場史跡公園)
8226 櫻山神社招魂場 Part-4(山口県下関市上新地町2-6-22)
・吉田松陰:一柱
長州藩奇兵隊士:二五六柱
浦藩報国隊士:九六柱
※ 招魂碑の御名前と違う場合も有ります。

301 三島現八忠之

302 早川文三

303 増野矢之助

304 吉武五郎清久

305 橋本九兵衛忠誠

306 高橋源吾

307 熊和惣五郎正

308 植田謙三正致

309 山本弥八

310 上田仁兵衛

311 後藤酒兵衛正信

312 吉田喜三郎正光

313 山名孫八政次

314 平野耕造行家

315 岡村常吉行信

316 阪本伊三郎清則

317 江見謙介正勝

318 榎本清蔵信喬

319 下田小太郎正行

320 河田源太郎直一

321 畠中孫助喬秀

322 阿川五郎国光

323 藤井直江正治

324 大崎源吾忠勝

325 原新兵衛辰繁

326 関中力蔵義之

327 原吉太郎貞徳

328 渋谷処吉年之

329 石田幾次郎光吉

330 石井兵蔵重信

331 坂井栄太郎義一

332 平尾磯之助正一

333 井上三郎正一

334 無敵幸之進勝行

335 堀尾六郎範勝

336 児玉雷蔵春唯

337 清水甚蔵範正

338 上原二九郎利之

339 穴山一俊幸

340 勝見善太郎末高

341 滝川六郎資直

342 倉光新吉亮正

343 迫田為太郎清治

344 勝原国介棟栄

345 下村文次郎高俊

346 下田恂介

347 千葉三郎忠明

348 熊野直介則之

349 泉十郎重次

350 有川恒槌紀綱

351 岩本勘九郎

352 藤村英次郎稔彦

353 元森熊次郎春幹

354 熊美平吾宜一

355 山田鵬輔成功

356 藤村太郎稲彦

357 前兵部少丞 交野◇
※ ◇は判読不可でした。

358 河上弥一

359 吉田稔麿秀実

360 久坂義助通武

361 松陰吉田先生

362 高杉晋作春風

363 入江九一弘致

364 時山直八養直

365 福田侠平公明

366 宮城彦助御楯

367 堀潜太郎春峰

368 阿川四郎延実

369 十川東之勝忠一

370 天宮慎太郎行文

371 堀滝太郎浪風

372 山県有朋

373 小田村信之進

374 永野熊之允政和

375 井関英太郎

376 周田半蔵

377 伊藤百合五郎

378 白石廉作資敏

379 田中弁蔵知忠

380 伊東貞三祐久

381 下瀬熊之進

382 山内賢之充通喜

383 白石資風

384 阿部宗兵衛吉道

385 南野一郎

386 尾川清足

387 堀平三郎知忠

388 世木騎騄義安

389 和田小伝次唯之

390 臼井留之助平胤勝

391 松尾甲之進
以上 391の招魂碑でした。
8224 櫻山神社招魂場 Part-3(山口県下関市上新地町2-6-22)
長州藩奇兵隊士:二五六柱
浦藩報国隊士:九六柱
※ 招魂碑の御名前と違う場合も有ります。

201 長網滝吉好文

202 武末孫六末永

203 吉崎常吉通行

204 吉津定吉利政

205 勝岡弥九郎信好

206 金田常吉正盛

207 河崎友次郎正勝

208 金山太郎熊忠貫

209 川崎八郎行光

210 渡辺幸助章

211 太田銀次郎正光

212 岡本勝右衛門吉豊

213 大藤季吉一好

214 徳永権次郎忠勝

215 処光蔵正勝

216 本田三郎金吉

217 萩原次郎右衛門忠孝

218 一柳勇次郎忠明

219 泉光蔵時明

220 入船米吉信光

221 木原四郎

222 阿武市之丞

223 福田直右衛永光

224 土田内蔵太

225 佐々木又四郎満寛

226 小枝正之助守義

227 中村高平

228 長尾兵馬春景

229 三井弦次郎

230 福田儀作任風

231 吉村盛之助忠光

232 吉村虎吉

233 寺岡軍一

234 中村広太郎国久

235 土井熊吉忠臣

236 井石和作茂秀

237 山田梅吉正明

238 高橋五郎高政

239 武井満太郎等実

240 矢野伊兵衛直行

241 吉岡三郎綱重

242 岡田辰太郎正明

243 泰音之進嘉延

244 斎藤亀蔵

245 西林利吉(正行)

246 村田団蔵

247 本田寅之助芳忠

248 飯田楳之丞敬之

249 河村次郎通治

250 田中英作義之

251 杉浦喜代三信之

252 佐伯多三郎正道

253 西山八十槌長安

254 柳半之丞之道

255 田村熊吉郎恵満

256 正木泰蔵正行

257 水津惣之助重義

258 森重菊次郎謙

259 斎藤千熊幸郷

260 町田道之助勝久

261 藤田吉作則忠

262 松江安右衛門

263 福田弥太郎正重

264 森脇三右衛門忠信

265 遵海坊鬼顔

266 戸沢竹次郎政勝

267 藤重源九郎行政

268 藤井一郎雅章

269 榊原剛之助勝忠

270 竹森源二

271 藤田育太郎義懐

272 早川源次郎

273 藤川清次徳一

274 入江勝馬一義

275 石川伊三郎義忠

276 大村精次郎義忠

277 本田政之助

278 石川和三郎勝久

279 伊藤俊三政寿

280 佐々木五右衛門綱孝

281 杉山蔦太郎秀清

282 渡辺八郎英

283 山田藤五郎貞光

284 植木百合次正之

285 大本昇勝喜

286 山本泰三

287 北島保介

288 久富豊

289 山田寅之助盛次

290 三分利徳三郎

291 今津宇三郎

292 内山太郎右衛

293 堀弥四郎敬忠

294 山徳権之丞

295 山本弁蔵道輝

296 山本作蔵

297 広瀬徹和義

298 国弘数馬一之

299 徳永九十九忠信

300 山県保助義幸
次回はは 301 ~ 391番まで紹介します。
8222 櫻山神社招魂場 Part-2(山口県下関市上新地町2-6-22)
長州藩奇兵隊士:二五六柱
浦藩報国隊士:九六柱
※ 招魂碑の御名前と違う場合も有ります。

101 山中杢助盛幸

102 上領重三安利

103 奈良尾源兵衛義民

104 金山儀十郎忠直

105 杉野晋八

106 橋本常吉孝幸

107 末武省作定国

108 関謙三正直

109 船木良蔵

110 吉田治三郎

111 井尻友蔵

112 藤本利吉

113 久富信吉

114 中尾千之丞忠光

115 酒井定五郎

116 多々野六郎正景

117 加藤房蔵

118 石田五郎直明

119 原川助右衛門安則

120 野田蔵之進信利

121 山下半三郎安邦

122 安部直人

123 萩原忠一郎忠秀

124 村岡彦十郎

125 田村勇人義之

126 木原亀之進弘幸

127 山浪松蔵千治

128 今井満田郎忠備

129 西本四郎勝正

130 平賀宗四郎政一

131 檜垣五三郎貞静

132 藤田平太郎岸彦

133 粂八

134 堀虎蔵

135 中村元之親清忠

136 矢玉助太郎

137 藤野浪太郎秀一

138 伊藤虎松直之

139 古川順蔵正勝

140 松原与兵衛時治

141 飯田幸十郎勝真

142 中村水穂

143 本郷志摩之助

144 御手洗音五郎光重

145 磯野虎蔵正一

146 若月健蔵勝正

147 大枝八郎義鎌

148 渡辺逸蔵義之

149 福間辰之助久重

150 梅村喜代三春行

151 見義市蔵助光

152 木原祐太郎虎重

153 山崎四方七昌貫

154 安部清見

155 飯沼三千助(元春)

156 井上収蔵

157 玉江芳彦美臣

158 美香房之進忠義

159 山田滝太郎義忠

160 十河彦四郎義一

161 有田彦兵衛忠光

162 村上小次郎周徳

163 関口弥太郎兼房

164 大野秀兵衛義光

165 隅次郎秀光

166 梅津熊之進正義

167 守永光之進一正

168 徳見与五郎忠信

169 春日与七芳風

170 山城平吉政久

171 橘式部信秀

172 重富秀之進義明

173 伊藤清治祐俊

174 内田文吉清忠

175 柳良平守忠

176 藤野正助

177 高橋市之進

178 秋枝庄太郎

179 山下豊吉

180 長岡勘助国光

181 永山勝四郎光行

182 中井源次郎忠一

183 梅林芳助忠一

184 野上繁九郎信綱

185 国重直人与芳

186 黒塚源吾信弘

187 工藤合輔順豊

188 日下房助信義

189 国村貞右衛門正明

190 山尾謙次勝信

191 松田新兵衛雪範

192 舛見栄作忠清

193 深津信吉清喬

194 藤永政助雪範

195 福田忠蔵武俊

196 福原林之助俊喬

197 作間友槌信忠

198 水野清蔵範正

199 北村忠蔵光信

200 藤吉
次回は 201 ~ 300番まで紹介します。
8220 櫻山神社招魂場 Part-1(山口県下関市上新地町2-6-22)
祭神
・吉田松陰 1柱
・高杉晋作、久坂義助、入江九一、吉田稔麿、河上弥市 5柱、
・白石正一郎、白石廉作、山県有朋 等 長州藩奇兵隊士 256柱
・泉十郎、熊野直助 等 豊浦藩報国隊士 96柱
・膺懲隊、八幡隊、遊撃隊、整武隊、清末藩育英隊等諸隊士 38柱 計391柱(霊標は391柱だが合祀され神霊名簿に記載されている神霊は857柱[2])
歴史
文久3年(1863年)の下関事件を受け、高杉晋作は奇兵隊を結成した。同年10月(1864年11月)殉国の志士の神霊を祀る招魂場の創建を発議した。文久4年1月23日(1864年3月2日)、白石正一郎らにより下関の新地岡の原に招魂場の創建(社殿は翌月から着工されたが下関戦争、禁門の変といった動乱続きにより落成したのは元治の内乱で藩論が統一された後の元治2年8月3日(1865年9月22日)であった)[3]。明治5年8月20日(1872年9月22日)、防長各所の招魂場を合祀。同年9月1日(1872年10月3日)豊浦藩報国隊士を合祀。
1959年吉田松陰没後百年祭にあたり山縣有朋等23柱を追祀。2016年前原一誠ら6柱を合祀。[4]
参考文献
・櫻山神社 公式サイト
・“東流西流”. 山口新聞. (2016年10月30日)
・“御由緒”. 櫻山神社. (2018年5月9日)
・“下関の桜山神社「前原一誠」合祀”. 山口新聞. (2016年8月12日)
関連項目
・招魂社
外部リンク
・櫻山神社 公式サイト
(wikiより)


⇧ 中央の背が高い招魂碑が吉田松陰です。

⇧ 入口の門

⇧ 招魂墓地全景 ( 中央左側に桜が咲いていました。2022.11.11. )

1 権右エ門

2 久光秀太郎秀光

3 杉浦梅五郎義一

4 楊井安右衛門政之

5 森重謙介

6 上田滝之助

7 皆川謙蔵義虎

8 久松

9 末村綱次郎守節

10 生雲五郎一友信

11 奇兵隊別当 喜作

12 奇兵隊小者 利吉

13 奇兵隊工人 治助

14 14 奇兵隊小者 友吉

15 奇兵隊小者 喜八

16 奇兵隊小者 広吉招魂碑

17 柳井寅之助正明

18 岡村房助義勝

19 奇兵隊付郷侠組 久松

20 奇兵隊別当 清助

21 笹倉新之丞正義

22 橋本虎松孝幸

23 柏多牧太安親

24 末久亀二郎久勝

25 山下次郎鬼一

26 田辺五郎正道

27 永田真平

28 細川清若儀金

29 野村織之助

30 原田幸三郎正義

31 杉山深太郎正一

32 和田十郎清門

33 和田三郎義一

34 藤岡三右衛門義道

35 磯野熊蔵

36 田中初太郎

37 依儀復忠道

38 長府屋由五郎

39 奇兵隊小者 弥吉

40 佐伯武治郎義武

41 前兵部権大録 木村文太郎

42 関奥小路 山形屋甚兵衛

43 池田与吉

44 波田仙一

45 平田四郎忠勝

46 三輪内蔵主

47 井関閑斉儀憐

48 奇兵隊小者 松次郎

49 今永順治

50 藤原静馬秀友

51 奇兵隊小者 冨蔵

52 渡辺九郎明

53 片山高岳

54 宮崎浅太郎基

55 軍曹 赤間関也藤原公任

56 奇兵隊別当 利吉

57 井上勝之進康同

58 桐原二平

59 奇兵隊郷侠組 要吉

60 上田村 九兵衛

61 上田村 嘉吉

62 山県清之進清澄

63 小村五郎

64 守川豊

65 植田楳之允

66 鹿蔵

67 幸助

68 小使 竹蔵招

69 江本豊太郎孝敷

70 枝川貞吉正芳

71 箙梅吉

72 島弥太郎勝正

73 末永勝之進信吉

74 原勝蔵広行

75 上杉六郎良虎

76 直江政吉実行

77 大原新五郎正敬

78 原田儀助朝吉

79 岡村勝三郎新国

80 小川直八道近

81 園田伝吉保次

82 杉山重吉忠義

83 稲田次郎

84 河野三郎信義

85 植田村 喜代三郎

86 国島栄三高徳

87 久我亀吉忠行

88 竹林次郎英生

89 廣世徹和儀

90 伯野波江

91 馬屋原彦右衛門

92 岡田五郎忠義

93 吉富信吉

94 原勝之進為則

95 三栖谷建礼

96 小須賀逸衛知良

97 西山八郎勝清

98 芳川道祐正義

99 高橋淳太郎忠信

100 三浦平之介義英
次回は 101 ~ 200番まで紹介します。
8218 八幡社御由緒(長野市小島田町1384-1・川中島古戦場史跡公園)
8210 酒飲み弥勒さん(長野市松代町豊栄・明徳寺)
8202 蛙合戦碑(長野市松代町豊栄・明徳寺)
8198 明徳寺(長野市松代町豊栄)
概要
1390年(南朝:元中7年、北朝:明徳元年)に越後国刈羽郡の東福院5世妙徳により開山。明応10年(1501年)には正続円明禅師が中興開山となった。戦国時代には甲斐武田氏家臣で、信濃更級郡の香坂氏の養子となった海津城代の春日虎綱(高坂昌信)の帰依厚く、1533年(天文2年)に諸堂を修理し重興開基となる。玉山春洞を招き明徳寺は曹洞宗となる。
境内には虎綱の墓所があり、『甲斐国志』によれば明徳寺には虎綱の没年を天正6年5月初7日とする伝承を伝えているが、これは誤りであることが指摘される。
慶長16年(1611年)、松平忠輝により寺領20石を寄進され、慶安2年(1649年)には江戸幕府から朱印20石を安堵された。それ以後は歴代松代藩主(真田氏)により保護された。
エピソード
夜な夜な小僧に化けて酒を買いにでかけたという「酒飲み弥勒」の伝承がある弥勒菩薩も本尊のほかに安置されている。本堂裏手には、ヒキガエルの産卵場所になる「蛙合戦」の池(長野市指定天然記念物・1967年(昭和42年)11月1日指定)などがある。
墓所
高坂昌信の墓の他、大東亜戦争における硫黄島の戦いの指揮官栗林忠道の墓もある。
参考文献
・『信州の文化シリーズ 寺と神社』1981年 信濃毎日新聞社
・『探訪 信州の古寺 禅宗』1996年 郷土出版社
(wikiより)







⇧⇩ 高坂弾正の墓


⇧ 栗林忠道の墓


















8192 志都岐山神社(山口県萩市堀内)
8147 円政寺内金毘羅社社殿(萩市大字南古萩町)
8104 織部灯篭(山口県萩市川島197・善福寺)
8101 大照院(山口県萩市椿4132)
所在地 | 山口県萩市椿4132 |
---|---|
位置 | 北緯34度23分43.5秒 東経131度23分8.9秒 |
山号 | 霊椿山 |
宗旨 | 臨済宗 |
宗派 | 南禅寺派 |
創建年 | 明暦2年 |
開基 | 毛利綱広 |
札所等 | 中国三十三観音霊場第20番 |
文化財 | 本堂、鐘楼門、庫裏、書院、経蔵、木造赤童子立像(重要文化財) 萩藩主毛利家墓所(国の史跡) |
公式サイト | 大照院 |
大照院(だいしょういん)は、山口県萩市にある臨済宗南禅寺派の寺院である。中国三十三観音霊場第二十番。
歴史
延暦年間(8世紀末 - 9世紀初)に月輪山観音寺という前身寺院があったというが、創建の事情は定かでない。その後鎌倉時代末期に建長寺の義翁和尚が大椿山歓喜寺と改め、臨済宗の寺院とした。その後荒廃したが、萩藩2代藩主毛利綱広が亡父の初代藩主秀就の菩提寺とするために承応3年(1654年)から明暦2年(1656年)にかけて再建し、その時秀就の法号にちなんで霊椿山大照院と改めた。
寺は延享4年(1747年)に火災に遭い、現存する本堂等は、その後6代藩主宗広によって再建されたものである。
境内の萩藩主毛利家墓所は国の史跡で、初代(萩での藩主の代数は輝元を初代とせず、秀就を初代として数えている)秀就、2代綱広、4代吉広、6代宗広、8代治親、10代斉煕、12代斉広と2代から12代までの偶数代の藩主と夫人や藩士の墓石があり、墓前には藩士が寄進した石灯籠が600数基ある。
ちなみに奇数代の藩主の廟所は萩市内の黄檗宗寺院東光寺にあり、秀就の父輝元の廟所は萩市の天樹院跡にある。
文化財
重要文化財
・本堂 - 入母屋造、桟瓦葺きの方丈形式の仏堂。延享4年(1747年)の火災後、寛延3年(1750年)頃までに再建された。鐘楼門、庫裏、書院も同じ頃の建築である。
・鐘楼門 - 江戸時代中期(1750年)の建立。三間一戸二階二重門、入母屋造、桟瓦葺。平成14年(2002年)5月23日指定。
・庫裏 - 江戸時代中期(1750年)頃の建立。桁行18.1m、梁間18.0m、一重、切妻造、妻入、南面・西面下屋付、東面庇・南面渡廊下及び便所・北面庇・西面便所各附属、本瓦及び桟瓦葺、東面突出部 桁行4.0m、梁間4.0m、入母屋造。平成14年(2002年)5月23日指定。
・書院 - 江戸時代中期(1750年)頃の建立。桁行21.9m、梁間22.7m、一重、丁字形東面入母屋造、西面寄棟造、北面切妻造、西面北端便所附属、南面東端廊下附属、桟瓦葺。平成14年(2002年)5月23日指定。
・経蔵 - 江戸時代後期(1755年)の建立。土蔵造、正面6.2m、側面6.2m、一重、宝形蔵、向拝一間、桟瓦葺、八角輪蔵付、北面及び西面張出し附属。平成14年(2002年)5月23日指定。
・木造赤童子立像 - 南北朝時代の作品。明治35年(1902年)7月31日指定。
国の史跡
萩藩主毛利家墓所
萩藩主毛利家の墓所は、大照院隣接地と東光寺隣接地にある。
毛利輝元の子の初代藩主秀就は、慶安4年(1651年)に萩城で没し、天樹院で火葬されたあと歓喜寺に葬られた。2代藩主綱広は亡父のため、承応3年(1654年)歓喜寺の改修に着手し、明暦2年(1656年)に完工した。この時、秀就の法号大照院にちなんで寺名を大照院と改めた。大照院は臨済宗の寺で、延享4年(1747年)に火災のため全焼し、6代藩主宗広の時、寛延3年(1750年)に再建した。
東光寺は、3代藩主吉就が、元禄3年(1690年)に創建した黄檗宗の寺である。東光寺の創立以降、歴代藩主は大照院と両寺に交互に葬られることとなった。すなわち、大照院には初代秀就・2代綱広・4代吉広・6代宗広・8代治親・10代斉熙・12代斉広の7人が、東光寺には3代吉就・5代吉元・7代重就・9代藩主斉房・11代藩主斉元の5人が葬られた。
大照院の墓所は、大きく5群に分かれている。墓所内の墓の数は52基で、藩主の墓7基を除いた45基は、藩主正室、一族、殉死者などのものである。墓標は、改葬墓1基、新墓2基を除いて、花崗岩製の五輪塔型で統一され、水輪に普の字を、地輪の表には法号、その裏に没年月日を刻むのを原則としている。墓の大きさも藩主夫妻と一族などの2種類に分けてほぼ統一され、藩主夫妻のそれは特に大型である(総高約4.5メートル)。墓の周囲には玄武岩製の石柱玉垣がめぐらされており、藩主の玉垣の内側と外側には青栗石が敷きつめられている。藩主墓の参道にはそれぞれ鳥居(計7基)が建っていることも特徴である。また墓所内には、605基の石燈籠がある。この両墓所は、明治初年にそれぞれ大照院・東光寺から分離され(東光寺の墓所は明治4年(1871年))、毛利家の所有となり、現在に至っている。
毛利輝元は、寛永2年(1625年)に没すると天樹院に葬られた。旧天樹院には、五輪塔型、花崗岩製の輝元夫妻の墓、秀就火葬跡が残っている。
萩藩主毛利家墓所は、大照院・東光寺ともに、山林を背にして広大な地域に整然と配置され、その規模の大なることといい、荘厳幽邃なことといい、近世大名墓所の代表的なものであり、大名の墓制・葬制を知る上で重要である。
昭和56年(1981年)5月11日指定。
所在地
・山口県萩市椿4132
拝観
・4~11月 8~17時
・12~3月 8~16時30分
拝観料 200円
隣の札所
外部リンク
・霊椿山大照院のホームページ
・国指定文化財等データベース
(wikiより)





8033 天樹公御休息ノ所・旧明光寺地蔵屋敷跡(山口県萩市大字椿東)
8027 日宗寺(新宿区若葉2-3)
歴史
1619年(元和5年)、高見院の開基である。高見院は津藩藩主藤堂高次の妻である。
元々は江戸麹町に位置していたが、江戸城拡張工事のため、1634年(寛永11年)に現在地に移転した[1]。
墓地には、歌人の北村季吟の実家の北村家の墓がある。なお季吟本人の墓は台東区の正慶寺にある。また、旗本の里見家や土井家、大澤家、幸田家の墓所もあり、他には医師で本草学者の栗本丹洲や言語学者の新村出、和算家の内藤豊由、小説家の田中霜柳(無縁墓の中)などの墓がある[1]。
交通アクセス
・中央快速線・東京メトロ丸ノ内線・東京メトロ南北線四ツ谷駅より徒歩6分。
脚注
1. a b 新宿区教育委員会 編『ガイドブック新宿区の文化財(3)(史跡 東部篇)』新宿区教育委員会、1981年、80p
参考文献
・新宿区教育委員会 編『ガイドブック新宿区の文化財(3)(史跡 東部篇)』新宿区教育委員会、1981年
(wikiより)
8024 田宮稲荷神社跡(新宿左門町17)
歴史
創建年代は不明。元々は田宮家の屋敷神として祀られていた稲荷神の祠が起源である。四谷怪談が広く知られるようになり、当社の信仰が盛んになった[1]。
1879年(明治12年)に火災に遭い、東京市京橋区(現・東京都中央区)に移転した。これが、現在の中央区新川にある於岩稲荷田宮神社である[1]。
移転後の当地には、小さな祠が残されていた。昭和初期に陽運寺が創建され、お岩信仰の一翼を担っていた[2]。戦後の1952年(昭和27年)に再建された[1]。
そういう経緯から「於岩稲荷田宮神社」を名乗る神社が新宿区と中央区に二つ存在することになった。
交通アクセス
・四谷三丁目駅より徒歩5分。
脚注
1. a b c 新宿区教育委員会 編『ガイドブック新宿区の文化財(3)(史跡 東部篇)』新宿区教育委員会、1981年、87p
2. 陽運寺について陽運寺
参考文献
・新宿区教育委員会 編『ガイドブック新宿区の文化財(3)(史跡 東部篇)』新宿区教育委員会、1981年
(wikiより)





8023 於岩稲荷陽運寺(新宿区左門町18)
8021 霊巌寺(江東区白河1-3-32)
歴史
寛永元年(1624年)、雄誉霊巌上人の開山により、日本橋付近の芦原を埋め立てた霊巌島(現在の東京都中央区新川)に創建された。数年後に檀林が設置され、関東十八檀林の一つとなった。
明暦3年(1657年)、江戸の大半を焼失した明暦の大火により霊巌寺も延焼。境内や周辺で1万人近くの避難民が犠牲になったという。万治元年(1658年)に徳川幕府の火事対策を重視した都市改造計画の一環として、現在地に移転した。
霊巌寺には、11代将軍徳川家斉のもとで老中首座として寛政の改革を行った松平定信の墓をはじめ、今治藩主松平家や膳所藩主本多家など大名の墓が多く存在する。また、境内には江戸六地蔵の第5番が安置されている。
幕末江戸の7大火葬場(荼毘所)のひとつ、境内除地に火屋があり、火葬執行の責任者が置かれていた。
文化財
・銅造地蔵菩薩坐像 - 東京都指定有形文化財(彫刻)[1]
享保2年(1717年)に造られた、江戸六地蔵の5番目。
・松平定信の墓 - 国の史跡
陸奥白河藩の第3代藩主で、寛政の改革を行った松平定信の墓。霊巌寺周辺の地名である白河は、定信に由来する。
交通
・半蔵門線
・都営大江戸線 清澄白河駅より徒歩3分
脚注
1. 東京都文化財情報データベース
関連項目
・関東十八檀林
・成瀬川土左衛門
・霊巌寺 (同名の寺院)
(wikiより)

















8020 九品来迎引接石塔(江東区白河1-1-8・雄松院)
8018 雄松院(江東区白河1-1-8)
8017 長谷寺(上田市真田町長4646)
歴史
天文16年(1547年)、真田幸隆が真田本城(松尾城)内の種月庵跡地に伝為晃運(晃運字伝)を招聘して創建した。晃運は上野国後閑(群馬県安中市)の長源寺の僧で、幸隆とは旧知の間柄であった。
寺は慶長5年(1600年)上田合戦に巻き込まれて焼失。元和8年(1622年)には真田氏の松代(現長野市)移転と共に、長谷寺の6世住持が松代に移り、新たに長国寺を開山。長谷寺は長国寺の末寺となった。
寛保2年(1742年)、長谷寺は土砂災害に巻き込まれる。宝暦7年(1757年)には再び火災で焼失。明治23年(1890年)にも火災に遭い、古い建物は残されていない。現本堂は昭和53年(1978年)の再建である。
本堂の背後に幸隆夫妻と真田昌幸の墓所がある。
交通アクセス
・JR北陸新幹線上田駅から車で30分
参考文献
・『信州の文化シリーズ 寺と神社』1981年 信濃毎日新聞社
・『探訪 信州の古寺 禅宗』1996年 郷土出版社
外部リンク
・真田山長谷寺
(wikiより)

































8014 本性寺(新宿区須賀町13-3)
歴史
1670年(寛文10年)、観智院日詠によって開山された。江戸時代初期、幕臣三田佐兵衛の祖父(妙伝院日香居士)は、当地を隠居所としていたが、1641年(寛永18年)、観智院日詠にその土地を譲渡した。日詠は妙伝院日香居士の死去後に、菩提を弔うための寺を創建した。これが当寺の起源である[1]。
日
詠は本堂や庫裏の建設に取り掛かったが、1677年(延宝5年)に遷化し、2世住職円智院日成の代にようやく整備された[2]。
境内には、「北向毘沙門天堂」という堂宇があり、毘沙門天像が安置されている。これは元々太田道灌の時代から江戸城本丸に在ったものといわれており、江戸幕府第5代将軍徳川綱吉の時代に移築されたものという[1]。
墓地には、塙保己一の師匠として知られる萩原宗固の墓がある。新宿区の文化財に指定されている[3][2]。他にも和算家の馬場正督・正統父子の墓もある[1]。
交通アクセス
・信濃町駅より徒歩7分。
脚注
1. a b c 新宿区立図書館 編『四谷南寺町界隈(新宿区立図書館資料室紀要5)』新宿区立図書館、1971年、p38-40
2. a b 本性寺について本性寺
3. 本性寺新宿観光振興協会
参考文献
・新宿区立図書館 編『四谷南寺町界隈(新宿区立図書館資料室紀要5)』新宿区立図書館、1971年
外部リンク
・四谷本性寺(ほんしょうじ)
(wikiより)



8013 顯性寺(新宿区須賀町13-5)
歴史
1611年(慶長16年)、法印賢秀によって開山された。元々は牛込門外に位置していたが、江戸城拡張工事のため、1634年(寛永11年)に現在地に移転している[1]。
1725年(享保10年)に火災に遭い、文政年間(1818年~1831年)に至っても、まだ仮堂のままなど、寺運衰微の時期が長く続いた。そのため著名人の墓は特にない[1]。
俎大師
当寺の寺宝に「俎大師(まないただいし)」がある。これは弘法大師空海が土佐国高岡郡に巡錫した際、家に泊めてくれたお礼として、まな板に「南無阿弥陀仏」の文字を彫ったものという。その後幕末に至り、空海が泊まった家の末裔が大坂に移住し、続いて江戸改め東京に移住した。しかし生活苦に陥り、例のまな板を抵当として料亭「鳥八十」から5両を借りた。そして、そのまま鳥八十の所有となった。この鳥八十の主の娘が、後に落語家の五代目古今亭今輔の母となる女性である。1934年(昭和9年)、弘法大師千百年遠忌に際し、古今亭今輔の母は、この俎大師を当寺に寄進した[1]。
交通アクセス
・四谷三丁目駅より徒歩10分。
脚注
1. a b c 新宿区立図書館 編『四谷南寺町界隈(新宿区立図書館資料室紀要5)』新宿区立図書館、1971年、p40-42
参考文献
・新宿区立図書館 編『四谷南寺町界隈(新宿区立図書館資料室紀要5)』新宿区立図書館、1971年
(wikiより)
8008 美玉洗(墨田区千歳1-8-2・江島杉山神社)
8002 銭洗弁財天(墨田区千歳1-8-2・江島杉山神社)
8001 力石(墨田区千歳1-8-2・江島杉山神社)
7942 東都三十三間堂旧記(江東区深川2-22-5・正覚寺)
東都三十三間堂旧記
「東都三十三間堂旧記 ( とうとさんじゅうさんげんどうきゅうき )」は、元禄一三年 ( 一七〇〇 ) 深川に再建された三十三間堂に関する記録です。
一番から七番と付録の八冊で構成され、現在は六冊に装丁されています。
堂守 ( 堂司 ) をつとめた鹿塩久右衛門家 ( かしお きゅうえもんけ ) に代々伝わってきましたが、火災のたびに水をかぶり傷んだため文政三年 ( 一八二〇 ) に新たに書き写されたものです。
内容は、火災や風雨によって破損した堂宇の再建や修復に関する願書のほか、堂守の鹿塩久右衛門が三十三間堂町の名主をつとめていた関係から、三十三間堂町に記録も含まれています。
東都三十三間堂は、京都の三十三間堂 ( 蓮華王院 = れんげおういん ) を模して、寛永一九年 ( 一六四二 ) に浅草 ( 現台東区 ) に建てられました。
元禄一一年 ( 一六九八 ) の大火によって消失し敷地が召し上げられたため、代地を深川に賜り再建されました。
柱間の数して三十三間あり、弓術 ( きゅうじゅつ ) の練習や競技の場として西側に射場 ( いば ) が設けられ、堂の端から端まで矢を射通す「通し矢」が行われました。
明治五年 ( 一八七二 ) に壊された時、本文書は本尊とともに正覚寺 ( しょうかくじ ) に移管され、関東大震災や戦災の被害を免れて現在に至っています。
深川を代表する名所である三十三間堂の様相を詳しく伝え、かつ災害を乗り越えて区内に伝えられた貴重な史料です。
(案内板より)
7941 福禄寿像(江東区深川2-16-7・心行寺)
7938 福禄寿六角堂(江東区深川2-16-7・心行寺)
7929 正覚寺(江東区深川2-22-5)
正覚寺(しょうがくじ)は、東京都江東区にある浄土宗の寺院。
概要
1629年(寛永6年)、専蓮社南誉上人によって開山された[1]。
かつて、富岡八幡宮の隣には、京都の三十三間堂に倣って、江戸版ともいえる「東都三十三間堂」と呼ばれる寺があった。1872年(明治5年)に廃寺となり、仏像や文書等が当寺に移管された。旧三十三間堂の観音菩薩像は、1923年(大正12年)の関東大震災で焼失した[2]が、古文書は現在も残り、江東区の有形文化財に指定されている。
墓所
・元ノ杢網夫妻(狂歌師)
「もとのもくあみ」と読む。江戸狂歌壇の重鎮であった。
交通アクセス
・清澄白河駅より徒歩7分。
脚注
・細田隆善 著『江東区史跡散歩 (東京史跡ガイド8)』学生社、1992年、70-71p
・正覚寺浄土宗
参考文献
・細田隆善 著『江東区史跡散歩 (東京史跡ガイド8)』学生社、1992年
関連項目
・江戸三十三間堂
7928 鳥塚(江東区深川2-16-3・法乗院)
7927 曽我五郎の足跡(江東区深川2-16-3・法乗院)
『曽我兄弟の仇討ち』の弟、五郎の足跡石といわれるものです。
〇 曾我時致
曾我 時致(そが ときむね)は、鎌倉時代初期の武士。曾我兄弟の仇討ちで知られる。曽我五郎、曽我時宗とも。
生涯
安元2年(1176年)、3歳の時、実父・河津祐泰が所領相続をめぐって揉めていた同族の工藤祐経に暗殺される。その後、母が兄と自身を連れ相模国曾我荘(現神奈川県小田原市)の領主・曾我祐信に再嫁する。兄・祐成は元服後に曽我の家督を継いだ。ただし『吾妻鏡』では、祐信には先妻との間に実子の祐綱がおり、彼が家督を継いでいる。建久元年(1190年)9月7日、北条時政を烏帽子親として元服、その偏諱を賜って時致と名乗ったとされ[1]、その後は時政の庇護の下にあったという。曾我兄弟は厳しい生活のなかで成長し、雁の群れに亡き父を慕ったと伝えられる。
建久4年(1193年)5月、時致は兄・祐成と共に源頼朝が開催した富士の巻狩りに参加した[2]。
同年5月28日、曾我兄弟の仇討ち事件は富士の巻狩り最後の夜に起きた。『吾妻鑑』28日条には「曽我十郎祐成・同五郎時致、富士野の神野の御旅館に推參し工藤左衛門尉祐経を殺戮す」とあり、曽我兄弟は富士野の神野の御旅館におしかけて工藤祐経を討った。このとき酒の相手をしていた王藤内も討たれた。傍に居た手越宿と黄瀬川宿の遊女は悲鳴を上げ、この一大事に現場は大騒動となった。この後、祐成は駆けつけた祐経の部下の仁田忠常に討たれるが、時致は頼朝の御前を目指して、向かってきた武士たちをことごとく倒して頼朝の宿所に押し入った。しかし、頼朝の宿所の中にいた御所五郎丸は時致の身を一人で取り押さえた[2]。仇討ちの翌日である29日に頼朝は時致の尋問を行い、有力御家人らがそれに同席し、その他多くの者も群参した。尋問を終えた頼朝は時致の勇姿から宥免を提案するが、祐経の子である犬房丸の訴えにより同日梟首された[3]。
その後、出家して律師と号していた時致らの末弟が兄たちに連座して鎌倉へ呼び出され甘縄で自害し、時致らの同腹の兄弟である原小次郎(北条本『吾妻鏡』や『曽我物語』では「京の小次郎」)がこの事件に連動して失脚した源範頼の縁座として処刑されている。
系譜
曾我氏は、桓武平氏千葉氏の支流であり、我祐家が相模国曾我荘(現神奈川県小田原市周辺)を本拠として曾我氏と称したのに始まる[4]。
曾我兄弟の子孫は、室町時代に足利将軍家の奉公衆となり室町幕府に仕えた。足利義昭の近習に曽我晴助がいる。
・実父:河津祐泰
・養父:曾我祐信
・母:横山時重の娘
・兄弟:
・曾我祐成
・原小次郎
・律師
・養兄弟:曾我祐綱
・妾:虎御前
・男子:河津信之?
横須賀市にある乗誓寺の伝承によると、曾我時致と虎御前の間には河津三郎信之という子があり、源実朝に仕え多くの武功を残した。その恩賞として平塚の地を賜ったが、同族の宿縁と積年の仇敵を恐れて、出家して名を了源と改め、安貞元年(1227年)平塚の地に一宇を建立し、親鸞直筆の十字尊号を本尊として迎え、阿弥陀寺を開いたという。
北条時政黒幕説
吾妻鏡や曽我物語では時致が工藤祐経を討った後に源頼朝をも襲っており、これが北条時政の暗躍によるものとする解釈である。時政は事前に駿河国に入国し準備を行っており[5]、頼朝が富士野に到着した際もあらかじめ参上しており、この説に説得力をもたらした。またそれ以前より時政と兄弟は縁があり、兄が弟である筥王(曾我時致)を連れ時政の屋形を訪れ、時政を烏帽子親として元服している[6]。歴史学者の三浦周行が大正期に北条時政黒幕説を唱え、それ以来学界に大きな影響を与えてきた[7][8][9]。従来より面識のあった時政が兄弟を頼朝襲撃へと誘導したとする見方が現在でも多い[10]。
また、伊東祐親は工藤祐経に襲撃される直前に自分の外孫にあたる頼朝の長男・千鶴丸(千鶴御前)を殺害しており、工藤祐経による伊東祐親父子襲撃そのものに息子を殺された頼朝による報復の要素があり、曾我兄弟も工藤祐経による伊東父子襲撃の背後に頼朝がいたことを知っていたとする説もある[11]。
文化において
演劇
曾我時致は、能や歌舞伎の曽我兄弟の仇討ちを主題とする『曽我もの』に登場する。
・歌舞伎狂言『曽我狂言』は、曾我兄弟の仇討ちを主題とする[12]。
・歌舞伎狂言『曽我綉侠御所染』は、曾我兄弟と主人公の御所五郎蔵を主題とする[13]。
浮世絵
曾我時致は浮世絵の画題の一つである。以下は、曾我時致が描かれた浮世絵である。
・『曽我五郎と御所五郎丸』東洲斎写楽、1794年。
・『春英 武者絵 曽我五郎時宗 御所之五郎丸』勝川春英、1798年。
・『曽我五郎時宗 御所五郎丸重宗 十番切』歌川国貞、1820年代。
・『冨士裾野曽我兄弟本望遂圖』歌川国芳、1843-1847年。
・『右大将頼朝 北條時政 畠山重忠 御所五郎丸 五郎時宗』歌川国貞、1851年。
・『曽我五郎時宗 御所五郎丸 高麗之助広次』歌川国貞、1851年。
・『今様擬源氏 廿四 胡蝶 御所五郎丸宗重 曽我五郎時致』落合芳幾、1864年。
・『曽我五郎時宗、五所五郎丸』月岡芳年、1886年。
・『曽我物語之内』豊原周延。
・『曽我五郎、御所五郎丸』勝川春章。
映画
・『曾我兄弟狩場の曙』(1908年)
・『曾我十番斬』(1916年)
・『永禄曾我譚』(1917年、小林)
・『小袖曽我』(1920年)
・『夜討曽我』(1923年、帝キネ)
・『曽我』(1927年)
・『日活行進曲 曽我兄弟』(1929年)
・『夜討曽我』(1929年、マキノ)
・『仇討日本晴 孝の巻 曾我兄弟』(1931年、帝キネ)
・『富士の曙 少年曾我』(1940年)
・『曽我兄弟 富士の夜襲』(1956年、東映、監督:佐々木康)曾我時致:中村錦之助
テレビドラマ
・『曾我兄弟』(1959年、日本テレビ)
・『草燃える』(1979年、NHK大河ドラマ)
小説
・高橋直樹『天皇の刺客』(文庫題:『曾我兄弟の密命―天皇の刺客』)文藝春秋
漫画
・湯口聖子 『夢語りシリーズ 天翔ける星』秋田書店
歌謡曲
・長編歌謡浪曲曽我の討入り (三波春夫)
ミュージカル
・ミュージカル刀剣乱舞 『髭切膝丸双騎出陣〜SOGA〜』(2019年、刀剣乱舞 (舞台作品))
画像集については、『曾我時致ウィキペディア』をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%BE%E6%88%91%E6%99%82%E8%87%B4
脚注
1. 『吾妻鏡』建久元年九月七日条には筥王(時致)が兄・祐成に連れられて時政の所に赴き、時政の御前において元服した旨の記載が見られ、その場所として時政の邸宅が利用されていたという(『真名本曾我物語』巻第五(所収:『真名本曾我物語1』(参考文献掲載)P.253)に「北条殿の御宿所」において元服した旨の記載が見られる)。これは、兄・祐成が以前より時政に参勤しており、祐成が仲介役となって主人と仰ぐ時政に自身の弟の烏帽子親となるよう依頼したことにより実現したものであるとする見解も出されている。以上の記述は山野龍太郎論文(山本、2012年、P.166・169・175、参考文献参照)による。
2. a b 『曽我物語 岩波古典文学大系88』岩波書店、1966年、p 362~363。
3. 坂井孝一『曽我物語の史的研究』吉川弘文館、2014年。pp.117–118。ISBN 978-4-6420-2921-6。
4. 『世界大百科事典 第2版』平凡社、1998年、曾我氏。
5. 坂井孝一『曽我物語の史的研究』吉川弘文館、2014年。pp.120。ISBN 978-4-6420-2921-6。
6. 『吾妻鏡』建久元年(1190年)9月7日条
7. 三浦周行、「曾我兄弟と北条時政」『歴史と人物』、1915
8. 石井進、「曾我物語の世界」『中世武士団』、講談社
9. 坂井孝一『曽我物語の史的研究』吉川弘文館、2014年。pp.11-12。ISBN 978-4-6420-2921-6。
10. 坂井孝一『曽我物語の史的研究』吉川弘文館、2014年。pp.140-160。ISBN 978-4-6420-2921-6。
11. 保立道久「院政期東国と流人・源頼朝の位置」『中世の国土高権と天皇・武家』校倉書房、2015年 ISBN 978-4-7517-4640-0
12. 松村 明『大辞泉』小学館、1995年、曽我狂言。
13. 『日本大百科全書』小学館、1998年、曽我綉侠御所染。ISBN 4-09-906721-1。OCLC 1150226150。
参考文献
・青木晃・池田敬子・北川忠彦編 『真名本曾我物語1』(平凡社東洋文庫四六八、1987年)
・山野龍太郎「鎌倉期武士社会における烏帽子親子関係」(所収:山本隆志 編『日本中世政治文化論の射程』(思文閣出版、2012年)
関連項目
・曾我兄弟の仇討ち
・曽我物語
・助六
(wikiより)
⇧ 曾我時致 ( 曾我五郎 )
7924 法乗院(江東区深川2-16-3)
概要
1629年(寛永6年)、覚誉僧正によって開山された。元々は深川富吉町(現・東京都江東区佐賀)に位置していたが、1641年(寛永18年)に現在地に移転した[1]。
えんま堂
江戸時代から「深川の閻魔」として知られていた。当初の本尊は閻魔であったが、1760年(宝暦10年)に閻魔堂に移された[1]。最近ではハイテク技術を導入し、光や音を駆使しながら閻魔の声で仏の教えを語るように設定されている[2]。
墓所
・初代市川八百蔵(歌舞伎役者)
「豊田古童」としても知られている。古童の業績を偲ぶ「尺八塚」も建立されている。
交通アクセス
・門前仲町駅より徒歩5分。
脚注
1. a b 細田隆善 著『江東区史跡散歩 (東京史跡ガイド8)』学生社、1992年、66-67p
2. 法乗院(深川えんま堂)江東区観光協会「江東おでかけ情報局」
参考文献
・細田隆善 著『江東区史跡散歩 (東京史跡ガイド8)』学生社、1992年
関連項目
・閻魔
外部リンク
・賢臺山法乗院深川えんま堂
(wikiより)
7917 重願寺(江東区猿江1-11-15)
概要
戦国時代末期~江戸時代初期に開山された。開山年は、1590年(天正18年)とも1600年(慶長5年)とも1639年(寛永16年)ともいわれている。開基は千葉邦胤の娘の不虚大禅尼である[1]。
元々は、現在の日本橋馬喰町にあったが、その後新大橋に移転し、最終的に現在の猿江の地に移転した[1]。
みまもり観音
境内には、1981年(昭和56年)に建てられた「みまもり観音」と呼ばれる観音菩薩像がある。関東大震災や東京大空襲の犠牲者の冥福を祈るために建てられたもので、法相宗大本山薬師寺東院堂の国宝「銅造観音菩薩立像」を模写して2.2倍の大きさにしたものである[2]。
墓所
・関根正二(洋画家)
・新場小安(侠客)
交通アクセス
・住吉駅より徒歩5分。
脚注
1. a b 細田隆善 著『江東区史跡散歩 (東京史跡ガイド8)』学生社、1992年、135-136p
2. 境内のご案内重願寺
参考文献
・細田隆善 著『江東区史跡散歩 (東京史跡ガイド8)』学生社、1992年
外部リンク
・浄土宗重願寺
(wikiより)
7916 みまもり観音(江東区猿江1-11-15・重願寺)
殉難慰霊 平和祈願 みまもり観音
造立由来
みまもり観世音は東京大空襲による戦災や関東大震災などの災害で殉難された方々のご冥福を祈り戦争や天災のもたらす悲惨さと平和の尊さを後世に伝えるため當山檀信徒をはじめ猿江地区六ケ町有志の方々等一萬数千巻に及ぶお写経の勧進によって造立されました ( 昭和五十六年九月一日 序幕開眼 )
観音像 足下の地下収納庫には五千人に及ぶ人々のご納経がカプセルに保護されて収められています
みまもり観音と云う名称は殉難された多くの方々に対する心からなる慰霊の念をこめて観音さま「亡き人々を「みまもり給え」と願い また限りない観音さまの大慈悲をもって いま、生きる私達を「日々にみまもり給え」と祈念して名づけられました
戦災 ( ひ ) に消えし 亡き人々よ 安かれと祈りて今朝 ( けさ ) も 経の字写す
主水
・原型 奈良薬師寺 ( 官主 高田好胤師 ) 蔵
国宝 聖観世音菩薩
・鋳造 滋賀金壽堂 滋賀県無形文化財 黄地佐平氏指揮
(案内板より)
7914 豊川稲荷(江東区猿江1-1-12・豊川稲荷)
7913 日先神社(江東区猿江1-22-12)
7912 猿江地名発祥之地碑(江東区猿江2-2-17・猿江神社)
史跡顕彰 猿江神社由来記
伝承として昔、康平年間 ( 西暦 1059年 - 1065年 ) 源頼義が奥州征伐 ( 後三年の役 ) の頃 この附近の入江に勇々しき戦武者の屍がただより着き 不思議にも其の頃屍より毎夜光明を発し村人この屍を叮重に葬る。
武士の鎧に源頼義の臣「猿藤太」と記しあり また懐中より有難き経文一巻がいでたり よって村人「猿藤太」の頭文字と入江の「江」をとりて猿江稲荷と尊称し近郷近在の守護神となし村落の敬神の地として仰ぎ奉り、豊作祈願 病気平癒 悪病退散 等の、この地の氏神社として祭り 又それより 地名をも猿江村と称えはじめ現在に至れり 正に猿江の地名これより発祥せり
尚 当時この村落の氏神社である猿江稲荷神社は 古来より「天照大御神」「宇迦之御魂命」とを御祭神としてゐたが武人猿藤太の御霊をも合せ加え代々お祀り申し上げて参りました
江戸時代は猿江稲荷神社と称し隣接せる日蓮宗寺院本覚山妙寿寺の住職が代々守護管理を司とっていたが明治以後 近年になり神保宮司を祭官として招き合せて村 町の発展とともに町内氏子の者達が神社の護持運営にあたり現在に引き継がれた次第であります。
お恵み ( ご利益 ) として家内安全 病気平癒 商売繁昌心願成就として霊験あらたかなり
昭和六十一年丙寅八月吉日
文筆者 堀江候雄
7911 猿江神社(江東区猿江2-2-17)
概要
康平年間(1058年~1065年)に創建された。源義家が前九年の役で出征の途中、当地の入江で家臣の「猿藤太」が亡くなり、現地に祠を建てて葬った。これが当社の起源である。地名の猿江は、猿藤太が亡くなった入江に由来する[1]。
当社の別当寺は、妙寿寺(現在は東京都世田谷区の烏山寺町に移転)であった[1]。
1923年(大正12年)の関東大震災で社殿が焼失したため、再建時に鉄筋コンクリート造にした。その甲斐あって、1945年(昭和20年)の東京大空襲では、焼失を免れることができた[2]。
交通アクセス
・住吉駅より徒歩2分。
脚注
1. a b 細田隆善 著『江東区史跡散歩 (東京史跡ガイド8)』学生社、1992年、136-137p
2. 猿江神社トップページ猿江神社
参考文献
・細田隆善 著『江東区史跡散歩 (東京史跡ガイド8)』学生社、1992年
(wikiより)
7910 藤森神社跡(江東区猿江2-2-17・猿江神社)
藤森神社縁起
創立不詳ながら、江戸時代初期には本所 ( 墨田区 ) 横網町の江戸幕府御用材 木蔵に、すでに祀られていた。
享保十九年 ( 一九三四 ) 御用材 木蔵とともに猿江の地 ( 現在の猿江恩賜公園 ) 遷座された。
明治以降は宮内省所管となり、この頃から猿江神社の宮司家により祭祀奉仕亦、社殿が藤の木で囲まれ、毎年花の咲く時期に祭礼が行われていたことから、何時しか藤乃木魂を祀る「藤森神社」と称され、四百年余に亘り木材作業に従事する人々の厚い信仰を享けてきた。
昭和五十二年春、東京都の都市計画による猿江貯木場の移転に伴い、現潮見駅前に遷座されるが、平成十三年十二月崇敬なる旧東京官材共同組合長 氏橋幸次郎氏及び東京広葉樹連合会会長 長谷川建治氏、他関係諸氏の総意尽力で再び縁深きこの猿江の地に戻り、猿江神社の境内に安宮鎮座される。
江戸時代より木材の守護神として商売繁盛、工事作業安全のご利益があるとされている。
尚、石燈篭一対 ( 弘化五年 ) 、石水盤 ( 貞享三年 ) は区の有形文化財である。
7904 八橋検校碑(墨田区千歳1-8-2・江島杉山神社)
〇 八橋検校
八橋検校(やつはし けんぎょう、慶長19年(1614年) - 貞享2年6月12日(1685年7月13日))は、近世中期の日本を生きた人物である。江戸時代前期の音楽家であり、検校を務めた。名は城秀。出身は諸説あるが、山田松黒が安永8年(1779年)に記した『箏曲大意抄(そうきょくすすたいいしょう)』より陸奥国磐城(明治期の磐城国、現・福島県いわき市)が定説とされている。他に摂津国(現・大阪府北中部、ほか)とする説もある。
人物・来歴
八橋検校は、寛永年間(1624-1685年)の初め頃、摂津で城秀と称して三味線の分野で活躍した。その後、江戸にくだり、筑紫善導寺の僧・法水に師事して筑紫流箏曲を学んだ。この箏曲を基に現在の日本の箏の基礎を作り上げた。独奏楽器としての楽器や奏法の改良、段物などの楽式の定型化など、箏曲の発展に努めた。代表作に組歌の『梅が枝(うめがえ)』、『菜蕗(ふき)』、『心尽し』、『雲井の曲(くもいのきょく)』などがあり、また、段ものの『六段の調』、『乱(みだれ)』(乱輪舌[みだれ りんぜつ])、『八段の調』も八橋の作と伝えられている。寛永13年(1636年)に上洛し、母親が俳人・藤本箕山(ふじもと きざん、畠山箕山)配下の山住(やまずみ)某(なにがし)に扶持されていたことにちなんで山住勾当[1](やまずみ こうとう)を名乗った。1639年〈寛永16年)にも再び上洛して上永検校と称し、さらにのち、八橋検校と改めた。
その芸術は高く評価され、磐城平藩専属の音楽家として五人扶持で召し抱えられたこともある。胡弓、三味線の名手でもあり、胡弓の弓の改良も行っている。
銘菓・八ツ橋
八橋検校の死後、その業績を偲んで、箏の形を模した堅焼き煎餅が配られたといわれ、これが京の銘菓「八ツ橋」の始まりと伝えられている[2]。
箏組歌
八橋検校がそれまでの様々な中世の箏歌を基礎にして生み出した音楽のジャンルで、江戸時代に盛んに行なわれていた[3]。箏組歌は全部で三十数曲あり、「若葉」「橋姫」など、その半数ほどが『源氏物語』を典拠としたもの[3]。箏組歌「若葉」は「若紫」の巻に登場する和歌6首をもとに、「橋姫」は宇治十帖の「橋姫 (源氏物語)」巻から「浮舟 (源氏物語)」巻までの和歌をもとに作られている[3]。
脚注
1. 勾当(こうとう) :当道座に属した盲官(盲人の役職)の官位には、検校・別当・勾当・座頭があり、勾当は第3の位階。
2. “八ッ橋の歴史 - 八ッ橋について”. 聖護院八ッ橋総本店. 2017年5月24日閲覧。
3. a b c シンポジウム 源氏物語の魅力スティーブン・G・ネルソン他、法政大学、日本文學誌要第77号
関連項目
・邦楽
・吉沢検校
外部リンク
・“八ッ橋の歴史:八ッ橋の誕生”. (公式ウェブサイト). 聖護院八ツ橋総本店. 2015年2月16日閲覧。
(wikiより)
7903 岩屋(墨田区千歳1-8-2・江島杉山神社)
7892 津久井次郎義行公碑(横須賀市津久井5丁目8-3・東光寺)
7890 東光寺(横須賀市津久井5丁目8-3)
当山略縁起によれば1,200余年前、行基菩薩が諸国行脚の際、当郷にて草庵を結び、生きている全てのものを救うために地蔵菩薩像を造られた。
そんなある夜、老翁(三浦富士の神様の化身)が行基菩薩の夢に現れ、全ての生命あるものの安楽のために薬師如来の像を刻むよう告げた。
行基菩薩は、目が覚めるとすぐに三浦富士に登り、夢に見た神様を祀った。
その後、草庵に戻り夢のお告げの通りに薬師如来と日光・月光菩薩、12神将の像を彫刻し、お寺を建てた。
薬師如来のお住みになるお浄土は七宝で飾られているので七宝山(しっぽうざん)といい、浄土は東の方角にあり、名前を瑠璃光世界というので東光寺と名付けた。
さらに、三浦富士の神様のお告げによるので三浦富士大権現(みうらふじだいごんげん)と言うようになった。
しかしながら、開山以降風雨を重ね堂宇は荒廃してしまい、時の住持・上野阿闍梨はこの廃絶を悲しんでいたところ、三浦の庄司、平義継の二男、津久井次郎義行公、当郷に居し当山を治国理民の祈祷所と定められ中興した。
その威光は三浦全郷に聞こえたという。
その後、明治維新の神仏分離令や戦後の農地開放などの法難に遭遇し、著しく規模を縮小していたところ、当山54世大門僧正入山後、大規模な墓地の拡幅を行い多くの壇信徒とご縁をいただき現在に至っている。
(東光寺ホームページより)