本牧jack『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

本牧Jackで御座います
小生の拙ブログ『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑に御訪問頂き誠に有難う御座います。
歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。
たまに『 多人数で取材しているのか? 』との質問を戴きますが、小生と相方の二人三脚で御座います。
出来るだけ続けたいと思っていますが 膝・耳に問題が有って、いつまで出来るやら・・・説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。
御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。 ※ 申し訳御座いませんが「画像の転用」は禁止とさせて頂きます。 コメントは原則公開させていただいております 質問等に対してはブログ記事で返信させていただきます 他の方法で連絡を取り合う等一切しません 場合によっては、「IPブロック」しますがブロックした場合解除する事は有りませんので宜しくお願いします。

カテゴリ: 儒・蘭・通・国・教育・科学・土木・建築・活動家・冒険・造船関連

〇 鉄川與助
生誕1879年(明治12年)1月13日
日本の旗 日本 長崎県南松浦郡青方村
(現 長崎県南松浦郡新上五島町
死没1976年7月5日(97歳没)
日本の旗 日本 神奈川県横浜市
国籍日本の旗 日本
出身校有川高等小学校
職業建築家
受賞黄綬褒章1959年
勲五等瑞宝章1967年
所属鉄川組

来歴

1879年(明治12年)、長崎県五島列島を構成する島の一つである中通島青方村で、大工の棟梁である鉄川与四郎の長男として生まれる。幼少の頃、近郊の魚目村に移る。(いずれも現在は長崎県南松浦郡新上五島町)

有川高等小学校卒業後、家業を手伝うが、1899年(明治32年)、20歳の時に魚目村に曽根天主堂が建設された際、野原棟梁と出会う。野原はフランス人宣教師A・ペール神父の指導のもとで、当時数少ない天主堂建築を手掛ける大工であった。与助にとっては初の西洋建築との出会いでもあり、以後、野原のもとで修行を積むことになる。また、その頃の五島列島は、信者たちが天主堂建設を合言葉にするほど求められた時代であり、与助は天主堂建築に傾斜していく。
ペール神父からリブ・ヴォールト天井や幾何学についての教えを受け、野原のもとで天主堂を建築していくなか、1906年(明治39年)27歳の時に家業を相続し鉄川組を編成する[1]。30代半ばに大浦天主堂に隣接する大司教館の建築で、マルク・マリー・ド・ロ神父と出会う。以来、教会建築に関する様々な事柄を神父より教えられ、鉄川も神父の素材選びや建築に対する姿勢に感化され、後の仕事に大きく反映されたという。[2] 1959年黄綬褒章1967年には勲五等瑞宝章を授与されている。

多くのカトリック教会を建設し、「教会建築の父」とも呼ばれているが、彼自身は生涯仏教徒であった[3]。しかし、仏教寺院の建築に関わったのは生涯で3軒と言われている[3]

晩年は横浜市で過ごす。共に暮らしていた孫は「97歳で亡くなる数週間前まで元気に過ごしていた」「(仏教徒ゆえ)亡くなるときに「仏様が見える」と話した」と2018年のシンポジウムにて明かしている[4]

五男の鉄川喜一郎が、父の手掛けた建築を一部紹介した『日本れんが紀行』(日貿出版社、2000年)を読んで、與助が遺した資料を著者の喜田信代に貸与。これを基に喜田は2017年、『天主堂建築のパイオニア・ 鉄川與助―長崎の異才なる大工棟梁の偉業』(日貿出版社)を刊行した[5]


「設計・施工に携わった教会堂」については、「鉄川與助ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%89%84%E5%B7%9D%E4%B8%8E%E5%8A%A9

設計・施工に携わった寺院
浄福寺 長崎県南松浦郡新上五島町、大正10年(1921年)、浄土宗  
元海寺 長崎県南松浦郡新上五島町、大正13年(1924年)、浄土真宗本願寺派   
得雄寺 長崎県南松浦郡新上五島町、昭和22年-25年(1947年-1950年)、浄土真宗本願寺派

脚注
1. 雑賀 雄二 1989, p. 9-10.
2. 
砂田光紀『九州遺産』弦書房、2005年P209 
3. 
a b 【今日は何の日】◆8月27日 男はつらいよの日”. クリスチャンプレス (2020年8月27日). 2021年6月11日閲覧。
4. 
長崎新聞 (2018年10月14日). “鉄川与助の人物像に迫る 子孫や識者ら意見交わす | 長崎新聞”. 長崎新聞. 2021年6月11日閲覧。
5. 
喜田信代「大工が積んだ教会レンガ◇長崎の天主堂など30棟建てた鉄川與助の仕事ひもとく◇」『日本経済新聞』2017年7月21日(文化面)
6. 
大刀洗町ホームページ

参考文献
三沢博昭『大いなる遺産 長崎の教会』(智書房、2000年)
・横浜都市発展記念館『開国150周年記念 横浜・長崎 教会建築史紀行 祈りの空間をたずねて』(2004年)
・「鉄川与助 鉄筋コンクリート独力習得」読売新聞 2010 - 01 - 24 日曜版
・雑賀雄二『天主堂物語』新潮社、1989年。ISBN 410363202X
・住友和子編集室; 村松寿満子『鉄川与助の教会建築 五島列島を訪ねて』LIXIL出版〈LIXIL BOOKLET〉、2012年。ISBN 9784864805001

伝記
・喜田信代『天主堂建築のパイオニア鉄川與助』日貿出版社、2017年

関連項目
長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産

外部リンク
長崎の教会 鉄川与助(おじいちゃんが建てた教会)
(wikiより)

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⇧ ボケちゃいました。

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⇧ 鉄川與助。

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〇 建築家 鉄川與助旧居宅とレンガ塀

與助といえばレンガの教会堂を思い浮かべる方も多くいる事でしょう。

與助とレンガのり出会いは家業を継いだ明治 39年の旧桐教会堂の塔の増築です。

関東大震災があった大正 12年を境にレンガの建物は廃れましたが、與助はそれ以前に野首教会から始まり田平教会まで多くの教会堂をレンガで建築しました。

敷地の正面には立派なレンガ塀が残されていますが、どこかの現場で使った材料なのでしょうか。

教会堂に使われているレンガとよく似ています。

青砂ヶ浦や大曽などの教会で使われたレンガは佐世保方面の早岐付近 ( 江上、丑ノ浦 ) で焼かれたレンガで非常に硬く上質です。

居宅跡敷地は大正 6年頃までに鉄川家が拡張したもので、レンガ塀もその頃のもののようです。
(案内板より)

〇 鉄川與助
生誕1879年(明治12年)1月13日
日本の旗 日本 長崎県南松浦郡青方村
(現 長崎県南松浦郡新上五島町
死没1976年7月5日(97歳没)
日本の旗 日本 神奈川県横浜市
国籍日本の旗 日本
出身校有川高等小学校
職業建築家
受賞黄綬褒章1959年
勲五等瑞宝章1967年
所属鉄川組

来歴

1879年(明治12年)、長崎県五島列島を構成する島の一つである中通島青方村で、大工の棟梁である鉄川与四郎の長男として生まれる。幼少の頃、近郊の魚目村に移る。(いずれも現在は長崎県南松浦郡新上五島町)

有川高等小学校卒業後、家業を手伝うが、1899年(明治32年)、20歳の時に魚目村に曽根天主堂が建設された際、野原棟梁と出会う。野原はフランス人宣教師A・ペール神父の指導のもとで、当時数少ない天主堂建築を手掛ける大工であった。与助にとっては初の西洋建築との出会いでもあり、以後、野原のもとで修行を積むことになる。また、その頃の五島列島は、信者たちが天主堂建設を合言葉にするほど求められた時代であり、与助は天主堂建築に傾斜していく。
ペール神父からリブ・ヴォールト天井や幾何学についての教えを受け、野原のもとで天主堂を建築していくなか、1906年(明治39年)27歳の時に家業を相続し鉄川組を編成する[1]。30代半ばに大浦天主堂に隣接する大司教館の建築で、マルク・マリー・ド・ロ神父と出会う。以来、教会建築に関する様々な事柄を神父より教えられ、鉄川も神父の素材選びや建築に対する姿勢に感化され、後の仕事に大きく反映されたという。[2] 1959年黄綬褒章1967年には勲五等瑞宝章を授与されている。

多くのカトリック教会を建設し、「教会建築の父」とも呼ばれているが、彼自身は生涯仏教徒であった[3]。しかし、仏教寺院の建築に関わったのは生涯で3軒と言われている[3]

晩年は横浜市で過ごす。共に暮らしていた孫は「97歳で亡くなる数週間前まで元気に過ごしていた」「(仏教徒ゆえ)亡くなるときに「仏様が見える」と話した」と2018年のシンポジウムにて明かしている[4]

五男の鉄川喜一郎が、父の手掛けた建築を一部紹介した『日本れんが紀行』(日貿出版社、2000年)を読んで、與助が遺した資料を著者の喜田信代に貸与。これを基に喜田は2017年、『天主堂建築のパイオニア・ 鉄川與助―長崎の異才なる大工棟梁の偉業』(日貿出版社)を刊行した[5]


「設計・施工に携わった教会堂」については、「鉄川與助ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%89%84%E5%B7%9D%E4%B8%8E%E5%8A%A9

設計・施工に携わった寺院
浄福寺 長崎県南松浦郡新上五島町、大正10年(1921年)、浄土宗  
元海寺 長崎県南松浦郡新上五島町、大正13年(1924年)、浄土真宗本願寺派   
得雄寺 長崎県南松浦郡新上五島町、昭和22年-25年(1947年-1950年)、浄土真宗本願寺派

脚注
1. 雑賀 雄二 1989, p. 9-10.
2. 
砂田光紀『九州遺産』弦書房、2005年P209 
3. 
a b 【今日は何の日】◆8月27日 男はつらいよの日”. クリスチャンプレス (2020年8月27日). 2021年6月11日閲覧。
4. 
長崎新聞 (2018年10月14日). “鉄川与助の人物像に迫る 子孫や識者ら意見交わす | 長崎新聞”. 長崎新聞. 2021年6月11日閲覧。
5. 
喜田信代「大工が積んだ教会レンガ◇長崎の天主堂など30棟建てた鉄川與助の仕事ひもとく◇」『日本経済新聞』2017年7月21日(文化面)
6. 
大刀洗町ホームページ

参考文献
三沢博昭『大いなる遺産 長崎の教会』(智書房、2000年)
・横浜都市発展記念館『開国150周年記念 横浜・長崎 教会建築史紀行 祈りの空間をたずねて』(2004年)
・「鉄川与助 鉄筋コンクリート独力習得」読売新聞 2010 - 01 - 24 日曜版
・雑賀雄二『天主堂物語』新潮社、1989年。ISBN 410363202X
・住友和子編集室; 村松寿満子『鉄川与助の教会建築 五島列島を訪ねて』LIXIL出版〈LIXIL BOOKLET〉、2012年。ISBN 9784864805001

伝記
・喜田信代『天主堂建築のパイオニア鉄川與助』日貿出版社、2017年

関連項目
長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産

外部リンク
長崎の教会 鉄川与助(おじいちゃんが建てた教会)
(wikiより)

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白浜 徴 ( シラハマ - アキラ )

明治 〜 昭和期の教育者 東京美術学校教授。

生年 : 慶応 1年 12月 8日 ( 1866年 )
没年 : 昭和 3 ( 1928 ) 年 4月 9日

出身地肥前国松浦郡福江 ( 長崎県 )

学歴〔年〕東京美術学校〔明治 27年〕卒

経歴 長崎県士族・白浜久太夫の長男に生まれる。

明治 37年図画研究のため欧米に留学を命じられる。

のち東京高等師範学校助教授、日本女子大学教授、母校の東京美術学校 ( 現・東京芸術大学 ) 教授を歴任。

小・中学校の図画教科書を編纂し、美術教育の発展に貢献した。

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坂部貞兵衛 ( さかべ - ていべえ )

江戸生まれの人。

1805 ( 文化 2 ) 年 34歳の時、伊能忠敬の測量隊に加わった。

五島列島の測量が始まったのが 1813 ( 文化 10 ) 年 5月、彼は支隊の長となって五島西海岸の測量に当たった。

若松島日の島で発病、福江に運ばれて治療したがその甲斐なく死亡、43才。

「天測の地」の記念碑が東公園の一角に五島出身の宇宙物理学者である今道周三理学博士によって建てられた。

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常灯鼻
常灯鼻は、第 30代藩主成公が福江城(石田城)を築くにあたり城の北東から吹き寄せる大波を防ぎ、築城工事を容易にするため築かせたものといわれている。

防波堤としての役割のほか、灯台としての役目も持っていた。

弘化 3年 ( 1846 ) に完成し、さらに丸木地区からの導流堤 ( 防波堤 ) が 2年後に完成、これによって福江川港は一新され、多くの船が安全に停泊できるようになった。

石田城 ( 福江城 ) の築城にあたった石工は滋賀県大津の集団であるとされ、常灯鼻も同じ石工集団によって造られたと考えられる。

現在、防波堤の大部分は、丸木地区の埋め立て造成工事等により失われてしまったが、灯台部分は、石工技術が発達した江戸末期の造りだけあって、築城から 150年以上経った現在でも、激しい波風に耐え、出入りの船舶を見守り続けている。
(案内板より)

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製造初年 : 1913

制作社等 : 川崎

特徴 : 9600型は初の国産貨物機関車で 770両が作られました。

その活躍の場は九州全域に及び、キュウロクの愛称で親しまれました。

特徴は動輪上にボイラーがあるため、車体高が高いことです。

この機関車は昭和 49年に米坂線から後藤寺機関区に転属してきました。

遠くやって来た機関車はその番号から「ごくろうさんよ」とファンの間では呼ばれていました。

筑豊地区で働いたのは 1年足らずでしたが北九州地区最後の蒸気機関車の 1両となっています。
(案内板より)

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製造初年 : 1941

制作社等 : 汽車会社

特徴 : 東海道、山陽本線の主力機関車として誕生。

昭和 31年に門司に配属され、寝台特急「あさかぜ」を始め、急行「雲仙」などに使用され、昭和 37年には熊本に転属。

この年に誕生した熊本発の特急「みずも」も索引しています。

昭和 40年の熊本電化か完成した時点で、本線用で軸重が重く転属先がないことから廃車となりました。

同型の 9両は解体されましたが、この車両は準鉄道記念物として小倉工場で展示保管されていました。

廃車迄に地球 62周分を走行しています。
(案内板より)

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製造初年 : 1941

制作社等 : 汽車会社、東芝

特徴 : 昭和 17年の関門トンネル開通時にこの区間たげが孤立した電化区間となり、トンネル専用のEF10型直流電気機関車が配置され、下関と門司で機関車がつけかえられました。

昭和 36年に九州側が交流 2万ボルト、本州側が直流 1千 5百ボルトの電化となり、交直両用機関車に役目を譲ることになりました。

この機関車はその後、本州各地で昭和 54年まで使用され、引退後は門司大里公園で保存されていました。
(案内板より)

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製造初年 : 1961
制作社等 : 東芝

特徴 : 北九州電化で使用する交流電気機関車として登場。

暖房用ボイラーを載せているため、車長が長く中央に動力の伝わらない中間台車があるのが特徴です。

暖房が上記から電気に変わり、ボイラーも不要となったため、旅客用に限定する必要もなくなり晩年は貨物列車にも使用されていました。

この車両は試作機関車で他の同型機とは若干趣が異なっていますが、九州初の交流電気機関車として北九州市門司区の老松公園に保存されていました。
(案内板より)

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製造初年 : 1937
製造社等 : 日本車両

特徴 : 戦前の代表的な機械式 ( クラッチで変速する方式 ) 気動車で、連結運転の時は双方の運転士が合図しながら走っていました。

昭和 27年にガソリンエンジンをディーゼルエンジンに変更。

この車両は昭和 32年に豊後森機関区に配置され、宮原線で使用されました。

昭和 44年に引退となり豊後森機関区や大分運転所で大切に保管されていました。

戦前に製造された同形車で原型を保っているのはこの車両だけです。
(案内板より)

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所在地東京都荒川区南千住一丁目
駅番号SA01
所属事業者東京都交通局
所属路線都電荒川線(東京さくらトラム)
キロ程0.0 km(三ノ輪橋起点)
駅構造地上駅
ホーム2面2線
乗降人員
-統計年度-
3,266[1]人/日
-2019年-
開業年月日1913年(大正4年)4月1日
乗換H20 三ノ輪駅
東京メトロ日比谷線

三ノ輪橋停留場(みのわばしていりゅうじょう)は、東京都荒川区南千住一丁目にある東京都交通局都電荒川線(東京さくらトラム)の停留場駅番号SA 01

都電荒川線の始発停留場であり、停留場位置は日光街道国道4号)の西側やや奥にある。関東の駅百選認定駅の一つ。

歴史
現在の停留場の歴史は以下の通りであるが、現在の停留場に先立って1911年(明治44年)に当時の東京鉄道によって日光街道上に三輪橋(三ノ輪橋)停留場が設けられた。これらは後に東京市電(→東京都電車)三ノ輪線となり、王子電気軌道が東京市電に統合され三河島線(後に荒川線)となった後は、場所が離れた2つの都電乗降場が存在する形態となった(両者の線路は接続されていなかった)。その後、日光街道の路線(21・31系統)が1969年(昭和44年)に廃止され、現在の停留場のみとなった[2]

なお、かつては近隣に21系統・31系統の運行を担当する三ノ輪電車営業所および車庫が存在したが、こちらも両系統の廃止とともに役目を終え、跡地は都営住宅となっている[2]

三ノ輪橋の名前は、かつて付近を流れていた石神井用水(音無川)と日光街道の交点に架かっていた橋に由来する。過去には路線図や方向幕で「三輪橋」と表記された例もあったが、現行の案内では「三ノ輪橋」で統一されている。

日光街道から行くとビルの中を通って当停留場に来る形となるが、このビルはかつて王子電気軌道が所有していたビルであり、地元では今でも「王電ビル」と呼ばれることがある。
・1911年(明治44年)
  ・4月16日:東京鉄道の停留場として開業。当時は終点。
  ・8月1日:東京市の東京鉄道買収に伴い、東京市電三ノ輪線の停留場となる。
・1912年(明治45年)12月29日:三ノ輪線が千住大橋停留場まで延伸され、途中駅となる。
・1913年(大正2年)4月1日:王子電気軌道の停留場が開業、東京市電との接続地点となる。
・1942年(昭和17年)2月1日:王子電気軌道が東京市に買収され、東京市電三河島線(現・荒川線)となる。
・1943年(昭和18年)7月1日:東京都制施行に伴い、東京都電車の停留場となる。
・1969年(昭和44年)10月26日:三ノ輪線廃止。
・1978年(昭和53年):ワンマン運転に伴う改修工事を実施。これにより、従来対向式ホーム2本だった構造が、1本の線路の両側に乗降を分離したホームを備える形となる。同時にホームのかさ上げを実施。
・1997年(平成9年):関東の駅百選に認定。認定理由は「春には見事なバラが咲き揃う都内唯一の都電が走る停留場」。
・2007年(平成19年)5月26日:9000形の営業運転開始に合わせて全面リニューアルを行い、レトロ風の外観になる[3]
・2018年(平成30年)10月21日:停留場近くに都交通局が案内所「三ノ輪橋おもいで館」を開設[4]

画像については、『三ノ輪橋停留場ウィキペディア』を御覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E3%83%8E%E8%BC%AA%E6%A9%8B%E5%81%9C%E7%95%99%E5%A0%B4

停留場構造
降車ホームと乗車ホームが別々になっている。降車ホームで乗客を降ろした後、乗車ホームに電車が移動して乗客を乗せて発車する。

停留場周辺
東京メトロ日比谷線三ノ輪駅 - 徒歩3分程度。都電では乗換駅として案内されているが、東京地下鉄は正式な乗換案内としていない。
浄閑寺
南千住砂場
三河島
千束吉原
山谷
ヨークフーズ三ノ輪店
オリンピック三ノ輪店

バス路線
・三ノ輪橋
 ・都営バス
  ・<草43> 千住車庫前・足立区役所
  ・<草43> 浅草雷門(千束・浅草寿町経由、平日のみ)
  ・<草43> 浅草寿町(千束経由、土曜・休日のみ)

隣の停留場

東京都交通局
  SA 都電荒川線(東京さくらトラム)
    三ノ輪橋停留場 (SA 01) - 荒川一中前停留場 (SA 02)

脚注
・“東京都 駅乗降客数”. 2021年3月11日閲覧。
a b 幻の停留場求めて 三ノ輪橋近くの「三輪橋」 都電ファンの2人が情報募集 東京新聞 2020年10月9日
・「都電三ノ輪橋停留場をリニューアルします。」東京都交通局、2007年2月22日(インターネットアーカイブ)。
“東京さくらトラム(都電荒川線)三ノ輪橋停留場からすぐ!都営交通案内所「三ノ輪橋おもいで館」オープン!~平成30年10月21日(日)~!”. 東京都交通局. (2018年9月27日) 2018年10月21日閲覧。

関連項目
日本の鉄道駅一覧   

外部リンク
三ノ輪橋停留場 | 都電 | 東京都交通局
(wikiより)


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渡辺 渡(わたなべ わたる、安政4年7月27日1857年9月15日) - 大正8年(1919年6月29日[1])は、日本冶金学者

人物・生涯
長崎県出身。大学南校を経て、1879年明治12年)、東京大学理学部を卒業し、東京大学校助教授となった。

1882年(明治15年)から1885年(明治18年)まで冶金鉱山学研究のためドイツに留学し、フライベルク鉱山大学に学ぶ[2]1886年(明治19年)、東京帝国大学工科大学教授に就任し、農商務省技師を兼ね佐渡鉱山局に勤務した。また宮内省で御料鉱山設置の構想が進むと、御料局技師・理事・佐渡支庁長に任命された。

1891年(明治24年)には工学博士の学位を得た。しかし1896年(明治29年)に御料鉱山構想が中止になると退官した。しかし翌年に再び工科大学教授に任命され、農商務省鉱山局長を兼ねた。

1899年(明治32年)、局長を辞し欧米に出張した。1902年(明治35年)から工科大学長を務めた。

親族
・父・渡辺真 - 東京府平民[3]
・妻・すみ - 台北賓館台湾神宮などを手掛けた建築家福田東吾(1855年-1917年)の妹[3]
・長女・つな(1880年生) - 横堀治三郎の妻[3]
・二女・禄(1882年生) - 加茂正雄の妻[4]
・長男・渡辺仁(1887年生) - 東京帝大建築科卒。建築家。岳父に菊池武夫 (法律家)[5]
・三女・義乃(1890年生) - 古宇田實の妻[6]
・二男・礼(1894年生) - 法学士
・四女・智聰子(1897年生)
・五女・信夫(1899-1970) - 医師・堀江恭一(1889-1962)の妻[7]。婚家の堀江家は天正年間より中野郷(現・東京都中野区)の名主を務めた旧家で、恭一の父・堀江悦之助は地主で銀行家[8]。継母の松江は石坂泰三の姉[7]。弟の堀江重賢は日本ステンレス副社長、住友金属工業常務取締役[9][10]。信夫・恭一夫妻には子がなく、屋敷の半分を中野バプティスト教会に売却し、信夫の遺言でもう半分を老人福祉センター設立のために中野区に寄附した[9]
・三男・渡辺誠(1903年生) - 商工省鉱山局技師

脚注
1. 
『官報』第2072号、大正8年7月2日。
2. 
20世紀日本人名事典『渡辺 渡』 - コトバンク   
3. 
a b c 渡辺渡『人事興信録』第4版 [大正4(1915)年1月]
4. 
『人事興信録. 第13版(昭和16年) 上』加茂正雄
5. 
渡辺仁『人事興信録』第13版(昭和16年) 下
6. 
『人事興信録. 第13版(昭和16年) 下』渡辺仁
7. 
a b 堀江恭一『人事興信録』第8版 [昭和3(1928)年7月]
8. 
『東京府豊多摩』豊多摩郡、1916年、p387   
9. 
a b 中野区の敬老館から「堀江」の名が消えた顛末 (2022年6月)中野非公式リポート
10. 役員住友金属工業(株)『住友金属工業最近十年史 : 創業七十周年記念』(1967.06)

参考文献
・「東京帝国大学工科大学教授渡辺渡叙勲ノ件」 アジア歴史資料センター Ref.A10112853200

外部リンク
デジタル版 日本人名大辞典+Plus『渡辺渡』 - コトバンク      
「渡辺渡」横断検索 - ジャパンサーチ(BETA)
(wikiより)


13 渡邊渡

渡邊 渡

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伊藤貞亮
( 1908. 8. 3. - 2001. 1. 9. )

建築家、ビオラ奏者。
(墓碑より)

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伊藤辨治郎 
( 1830 - 1898 )

伊勢松坂の生

宮大工

為吉の父。
(墓碑より)

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伊藤 為吉(いとう ためきち、1864年2月24日文久4年1月17日) - 1943年昭和18年)5月9日)は、日本の建築家発明家伊勢国松坂(現三重県松阪市)出身。

クリスチャンであり[1]教会の建築も多く手掛けている。

来歴・人物
17歳で上京、尾崎行雄の家に寄宿し、工部大学校機械工学を学び、幸田露伴郡司成忠漢学の勉強をする。その後攻玉社に学僕として住み込み、片山潜と知り合う。22歳の時、片山とともに渡米、サンフランシスコ付近の修道会に学僕として住み込み、洗礼を受ける。学費捻出のためクリーニング店などで働き、イタリア人建築家カッペレッティ建築設計事務所製図工として働き、建築と物理学を学ぶ。1888年に帰国、日本最初のドライクリーニング店を開店した。ついでアメリカ式の家具製造を始め、さらに洋風建築の設計施工を始める。

銀座の初代服部時計店、日本博品館愛宕ホテル、本郷春木町の中央会堂(現在の本郷中央教会)、麻布教会(現在の鳥居坂教会)[2]などを建築設計する。1893年に郡司成忠が千島探検に出た際には、3時間で組み立てられるプレハブ式家屋を贈った。木造家屋の耐震・耐風化の研究や、建築用具の発明、職工徒弟の教育に力を注いだ。発明家として生涯に70近い特許をとり、和製レオナルド・ダ・ヴィンチと言われた。晩年は永久機関の開発に着手していた。

のちに東京工大田辺平学が提唱したものに先駆けて、コンクリートブロック式耐震構造から万年塀を考案、伊藤の万年塀は関東大震災に際しても破損しなかった。

伊藤のところに寄宿していた人物として、後の救世軍山室軍平がいる。

生涯
・1864年2月24日 伊勢国松坂近郊塩鼻村で宮大工の父弁治郎と母家寿(やす)の長男として生まれる[3]
・1882年 上京し、同郷の尾崎行雄宅の書生となる。工部大学校の自称「自由研究生」となり機械工学を学ぶ。菊池松軒の漢学塾で幸田露伴郡司成忠兄弟らと出会う。
・1883年 攻玉社の学僕となり、片山潜と知り合う。
・1884年 片山潜を渡米させる。
・1885年2月8日 渡米し、サンフランシスコに移住[3]
・1887年
  ・4月 帰国[3]
  ・9月 東京で日本初のクリーニング工場「伊藤組洗染所」を始める[3]
・1888年4月頃 下谷教会付属の駒込講義所(現在の西片町教会)ができる[4]。そこへ出席するようになり、受洗する[5]
・1889年
  ・3月1日 設計施工を行った駒込講義所の会堂が完成[5][6]
  ・3月25日 駒込講義所の会堂で飯島喜美栄との結婚式を挙げる。司祭はチャールズ・イビー宣教師。[5]
  ・3月31日 駒込講義所が駒込教会と改められる[4]
  ・9月 伊藤建築事務所を設立する[3]
  ・11月 長女の嘉子誕生[3]
  ・芝愛宕ホテル及び5階の愛宕塔を建てる[3]
  ・麻布教会(現在の鳥居坂教会)の会堂を建てる[2]
1892年
  ・1月 長男の晃一誕生(夭逝)[3]
  ・静岡教会 2代目会堂を建てる[2][7]
  ・牛込教会堂を建てる[7][8][9]
・1893年4月13日 次男の道郎誕生[3]
・1894年 青山英和女子学校職業部[7]、日比谷の裁判所、鳥居坂の日本メソジスト教会などの工事に参加。銀座服部時計店を建てる。[3]
・1895年  
  ・三男の鉄衛誕生[3]
  ・10月末ごろ 山室軍平、寄宿。
・1896年
  ・四男の裕司誕生[3]
  ・6月5日 駒込教会(西片町教会)が西片町に移転。
・1899年
  ・五男の熹朔(きさく)誕生。
  ・博品館を建てる。
・1902年
  ・1月 次女の暢子誕生[3]
  ・静岡教会 3代目会堂を建てる[10]
・1904年
  ・巻煙草包装機械を発明[3]
  ・7月15日 六男の圀男(千田是也)誕生[3]
・1905年7月7日 三女の愛子誕生[3]
・1907年2月 七男の忠雄誕生(夭逝)[3]
・1908年8月3日 八男の貞亮誕生[3]
・1911年2月26日 九男の翁介誕生[3]
・1917年3月 コンクリート製造研究所を設ける[3]
・1926年6月16日 伊藤式コンクリート製造所を独力で始める[3]
・1930年
  ・2月14日 古銅器コレクションを携えて横浜出発[3]
  ・5月27日 ロサンゼルス州立博物館で古銅器展がオープン[3]
・1932年8月25日 アメリカより帰国[3]
・1933年 大阪に「研究所」を設け、無限動力機関の発明に没頭する[3]
・1942年12月26日 妻の喜美栄、死去[3]
・1943年5月9日 大阪で没する[3]

代表建築
商業施設
・銀座の初代服部時計店(1894年 - 1921年頃)[7]
・日本博品館(1899年 - 1921年)[11]
・愛宕ホテル(1889年 - 1897年)[3][7]
・愛宕塔(1889年 - 1923年)[3][7]
第十六国立銀行[7]
第七十八国立銀行[7]    

教会関係
・駒込教会(西片町教会)初代会堂(1889年 - 1896年に移転 本郷駒込東片町)[5][7]
・駒込教会(西片町教会)2代目会堂(1896年 - 1935年 現在の東京都文京区西片2-18-18)
・駒込教会(西片町教会)3代目会堂(1935年 - 現存 現在の東京都文京区西片2-18-18)
・中央会堂(現・日本基督教団本郷中央教会[7]
函館教会[7]
・相良教会堂[7]
静岡教会 2代目会堂(1892年 - 1902年に移転 現在の静岡県静岡市葵区追手町6丁目付近) [2][7]
・静岡教会 3代目会堂(1902年 - 1945年に空襲で焼失 現在の静岡県静岡市葵区追手町9丁目付近) [10]
・牛込教会堂(現・日本基督教団頌栄教会) (1892年 - 1934年?) [7][8][9]
甲府教会 2代目会堂(1891年 - 1916年 現在の山梨県甲府市中央2丁目付近) [7][12][13]
・麻布教会堂(現・日本基督教団鳥居坂教会) (1889年 - 1945年)[2][7]
弘前教会堂[7]
チャールズ・イビー宣教師邸[7]


家族
・妻 喜美栄(きみえ、1864年 - 1942年)は、動物学者で東京帝国大学教授の飯島魁の妹(1890年に結婚)。
 ・長女 嘉子(よしこ、1889年 - ?)は陸軍大将の古荘幹郎の妻[14]
 ・長男 晃一(こういち、1892年 - 夭逝)[14]
 ・次男 伊藤道郎(みちお、1893年 - 1961年)は世界的舞踊家で[14]、妻はアメリカ人のヘイゼル(子にジェリー伊藤)。
 ・三男 伊藤鉄衛(かなえ、1895年 - ?)は建築家[14]
 ・四男 伊藤祐司(ゆうじ、1896年 - ?)はオペラ歌手でコスチューム・デザイナー[14][15]、妻は日系人舞踊家のテイコ・イトウ(子に伊藤貞司)。
 ・五男 伊藤熹朔(きさく、1899年 - 1967年)は舞台美術家[14]
 ・次女 暢子(のぶこ、1902年 - ?)は画家の中川一政の妻(子に中川晴之助[14]
 ・六男 伊藤圀夫(くにお、1904年 - 1994年)は千田是也として知られる演出家・俳優で[14]、妻はドイツ人のイルマ(娘に中川晴之助の妻、孫に女優の中川安奈)と女優の岸輝子
 ・七男 忠雄(ただお、1907年 - 夭逝)[14]
 ・三女 愛子(あいこ、1905年 - ?) は邦楽家で、阪東壽三郎の妻[14]
 ・八男 伊藤貞亮(ていりょう、1908年 - ?)は建築家[14]
 ・九男 伊藤翁介(おうすけ、1911年 - 2009年)は作曲家・ギタリスト[14]で、妻は伊藤多津子

脚注
1. 村松貞次郎 (1994年7月28日). やわらかいものへの視点 異端の建築家伊藤為吉. 岩波書店. pp. 111-114
2. a b c d e 鳥居坂教会百年史. 日本基督教団鳥居坂教会. (1987年11月15日). p. 64
3. 
a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac 村松貞次郎 (1994年7月28日). やわらかいものへの視点 異端の建築家伊藤為吉. 岩波書店. pp. 223-229   
4. 
a b 日本メソヂスト下谷教会六拾年史. 日本メソヂスト下谷教会. (1879). pp. 64,74-76 
5. 
a b c d 村松貞次郎 (1994年7月28日). やわらかいものへの視点 異端の建築家伊藤為吉. 岩波書店. pp. 111-112   
6. 
会堂完成の時期は『やわらかいものへの視点 異端の建築家伊藤為吉』には1889年、『下谷教会六拾年史』には1890年とある。会堂で結婚式を挙げたという記述と矛盾してしまうため、ここでは前者を採用している。
7. 
a b c d e f g h i j k l m n o p q r 建築造営主心得書 : 附・伊藤建築事務所定則 - 国立国会図書館デジタルコレクション”. dl.ndl.go.jp. pp. 10-19. doi:10.11501/8462382019年1月26日閲覧。
8. 
a b 日本メソヂスト牛込教会史. 日本メソヂスト牛込教会. (1925年10月27日). p. 20 
9. 
a b 日本メソヂスト牛込教会史 - 国立国会図書館デジタルコレクション”. dl.ndl.go.jp. p. 18. doi:10.11501/9204852019年1月29日閲覧。
10. 
a b 静岡教会125年史. 日本基督教団静岡教会. (2009年7月31日). pp. 52-54
11. 
村松貞次郎 (1994年7月28日). やわらかいものへの視点 異端の建築家伊藤為吉. 岩波書店. pp. 38-42 
12. 
日本基督教団甲府教会百年史. 日本基督教団甲府教会. (1979年4月22日). pp. 61-62 
13. 
『甲府教会百年史』では設計者に関する記録がない。また、『建築造営主心得書』には甲府教会会堂を建てた時期の記録がない。ただし、伊藤為吉がキリスト教に関わりだした1888年から『建築造営主心得書』の発行された1897年までの間に建てられた甲府教会の会堂は1891年の2代目会堂のみである。
14. 
a b c d e f g h i j k l 村松貞次郎 (1994年7月28日). やわらかいものへの視点 異端の建築家伊藤為吉. 岩波書店. pp. 191-192 
15. 
Teiji Ito -MySpace     

参考文献
・『鳥居坂教会百年史』日本基督教団鳥居坂教会、1987年11月15日
・伊藤為吉 著『建築造営主心得書』伊藤建築事務所、1897年3月
・村松貞次郎 著『やわらかいものへの視点 異端の建築家伊藤為吉』岩波書店、1994年7月28日
・『静岡教会125年史』日本基督教団静岡教会、2009年7月31日
・『日本メソヂスト下谷教会六拾年史』日本メソヂスト下谷教会、1879年
・『日本基督教団甲府教会百年史』日本基督教団甲府教会、1979年4月22日
・『日本メソヂスト牛込教会史』日本メソヂスト牛込教会、1925年10月27日

関連項目
日本の建築家一覧
片山潜
山室軍平
伊藤道郎
伊藤熹朔
千田是也
伊藤翁介     

外部リンク
関連家系図
西片町教会    

伝記

・村松貞次郎『やわらかいものへの視点 異端の建築家伊藤為吉』岩波書店
(wikiより)


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 明治時代、上田街学校の校長だった久米由太郎を称える碑

日本人・久米先生碑

題額 上田市長 淺井敬吾先生

先生名ハ由太郎東京ノ人ナリ曾テ東京師範學校ニ學ヒ業ヲ卒ヘテ福島縣訓導ヲ奉シ尋テ長野縣ニ轉シ上田小學校長ニ任ス先生性寡黙謹厳ニシテ恪勤常ニ率先シテ衆人ヲ導キ言行一致ス在職五年學績大ニ舉リ令名頗ル高シ曩ニ本縣カ教育王國ノ讃辭ヲ贏チ得タル所以モ亦先生訓育ノ功興リテ大ナリトス然ルニ明治三十一年三月不幸ニシテ火ヲ失シ貴重ナル記念校舎鳥有ニ歸ス蓋シ同校舎ハ曾テ

明治天皇在所タリ先生恐慴シテ謹愼スルコト数日遂ニ決然トシテ自刃シ以テ其ノ罪ヲ天下ニ謝ス時ニ先生四十七歳ナル當時恰モ政争激甚ヲ極メ此活教育ノ至寳ヲ敢テ顯彰スルモノ之ガ爲ニ去ル者日ニ疎クシテ四十有七年ヲ閲ス昭和十九年五月大東亞青年同盟上田支部ハ此ノ列々タル先生ノ遺徳堙没センコトヲ憂ヘテ慰霊祭を擧行シ朝野ノ名士ヲ招シテ大講演會ヲ開キ以テ先生ノ徳ヲ表ハス眞ニ當代ノ殷鑑タリ今茲昭和二十年右支部及ヒ遺弟ノ有志ニヨリテ先生彰徳ノ碑ヲ其ノ殉職ノ地ニ建テ以テ後世ニ貽サントス冀クハ後進ノ士民ハ先ノ遺訓ヲ體シ君國ノ為メ大ニ重責ニ任センコトヲ望ミ建碑ノ梗概ヲ記ス云爾

大東亜青年同盟参議細田晦堂撰文

   従七位勲八等 堀内義謹書
(案内板より)

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日本の旗 日本
所在地東京都千代田区 - 中央区
交差物件日本橋川
建設1926年[1]
座標北緯35度41分7秒 東経139度46分15秒
構造諸元
形式2連鉄筋コンクリートアーチ橋

常盤橋(ときわばし)は、東京都千代田区大手町中央区日本橋本石町との間の日本橋川にかかる橋。

「ときわばし」という名の橋は2つあり、上流側にある歩行者専用の石橋の常磐橋と、下流側にある関東大震災後の復興計画で建設された道路橋の常盤橋が存在する。この2つの橋は共に2連アーチの構造を持ち70メートルほど離れて架けられている。区別するため、石橋の方の「磐」の字は「般」に「」が用いられ、また旧常磐橋と表記されることもある。

歴史太田道灌と親交が厚かった正宗龍統が記した『江戸城静勝軒詩序并江亭記等写』に登場する河口に架かる高橋を当時の平川(現在の神田川・日本橋川)の河口付近にあったと推定されている常盤橋に当てる説(菊池山哉説ほか)があるが、賛否両論がある。その一方、1568年永禄11年)に北条氏政下総国高城胤辰を江戸城防衛のために駐屯させた「江城大橋宿」は大橋(常盤橋)そばにあった宿場町であったとする説もある。徳川家康による江戸の再整備後に日本橋が誕生して江戸の交通が南北を軸にする以前は、江戸城及び大橋(常盤橋)を中心とした東西の軸によって陸路が形成されていたと考えられている(江戸城の西の道は鎌倉府中に、大橋を通る東の道は浅草を経由して奥州房総に連絡していたと考えられている)。

元は「大橋」と称され、江戸城の大手門から浅草に直接向かう本町通りに架けられていた。また、浅草に通じていることから「浅草口橋」とも呼ばれた。ただし、大橋が架かる日本橋川は徳川家康の関東移封後に開削されたとも考えられており、その場合は常盤橋もそれ以前には存在しないことになる。この場合、当時の平川は日比谷入江に注いでおり、そこに架かっていた現在の江戸城大手門の橋(大手橋)は三ノ丸が内城に取り込まれるまでは大橋と呼称されていた(『別本慶長江戸図』『慶長江戸絵図』、それまでは現在の二ノ丸下乗門を大手門としていた)。『東京市史稿』では高橋は大橋=大手門として、当時の江戸市街の中心がそこにあったとしている。

1629年寛永6年)、本町通りが日本橋川を渡る位置に常盤橋門が設置され[2]、この頃に「常盤橋」の名称が登場したと考えられている。「常盤」の由来については、『金葉和歌集』(巻1)の「色かへぬ松によそへて東路の常盤のはしにかかる藤浪」に由来する説や、「徳川氏=松平氏」と松が持つ常盤(常緑)を掛けて同氏の繁栄が続く事を願ったとする説がある。江戸の交通の中心は日本橋にその地位を譲ったものの、常盤橋から浅草方面の途中には「伝馬町」「馬喰町」など(運送業者に由来する町名)が引き続き栄えていた。

明治になって、この木造橋は石造のアーチ橋に架け替えられたものの、手狭であったことから、関東大震災後の復興計画で幅広の常盤橋が少し離れたところに建設されて、旧橋は「常磐橋」と呼ばれるようになった。常盤橋門は明治初期に解体され石垣のみが残る。門の周囲は常盤橋公園となっており、石垣保存に功績のあった渋沢栄一の銅像が建っている[3]2007年平成19年)3月28日に常磐橋・常盤橋はともに千代田区景観まちづくり重要物件に指定された[1]2020年(令和2年)に土木学会選奨土木遺産に選ばれる[4]

旧橋は東京都内で現存する最古の石橋となっている。経年と東北地方太平洋沖地震東日本大震災)の影響による損傷で2011年(平成23年)より通行禁止となっていたが、2013年(平成25年)より約7年かけて修復工事が行われ[5]、周辺整備を経て2021年(令和3年)5月10日から通行を再開した[6]。周辺地域では「常盤橋街区」として超高層ビル建設など大規模な再開発計画が進み、千代田区では「古き良き都心の象徴として整備していく」としている。

常盤橋御門・常磐橋の歴史
・1606年(慶長11年) - 江戸城外郭工事が始まる。
・1629年(寛永6年) - 出羽奥羽の大名により外郭諸門(日比谷・数寄屋・鍜冶橋・呉服橋・常盤橋・神田橋・雉子橋)が築かれる。
・1657年(明暦3年) - 大火、常盤橋門・常磐橋が修復される。
・1703年(元禄16年) - 地震、常盤橋門・常磐橋が修復される。
・1806年(文化3年) - 火災、常盤橋門・常磐橋が修復される。
・1849年(嘉永2年) - 大地震、常盤橋門・常磐橋が修復される。
・1855年(安政2年) - 大地震、常盤橋門・常磐橋が修復される。
・1873年(明治6年) - 常盤橋門渡櫓(わたりやぐら)・冠木門(かぶきもん)などが撤去され、桝形石垣は残る。
・1877年(明治10年) - 桝形石垣の多くは取り壊され、小石川橋門の石垣の一部を使って石橋「常磐橋」が造られる。
・1917年(大正6年) - 戸川残花(とがわざんか)翁が市役所に常盤橋見附の保存を懇願。
・1923年(大正12年) - 関東大震災後の大正15年に新たに常盤橋と新たな道路が建設され、道路によって桝形石垣の一部が切り取られる。
・1925年(大正14年) - 常盤橋の保存を内務省及び復興局に陳情、史跡保存物として仮指定を申請。
・1928年(昭和3年) - 国史跡「常盤橋門跡」に指定。
・1933年(昭和8年) - 在団法人渋沢青淵(しぶさわせいえん)翁記念会による復興整備で、常盤橋公園が開園する。
・1934年(昭和9年) - 常磐橋の補修工事が行われる。
・1965年(昭和40年) - 常盤橋公園が千代田区へ移管される。
・1969年(昭和44年) - 高速道路建設によって常盤橋門石垣が解体修理される。
・1986年(昭和61年) - 千代田区により常盤橋門石垣が解体修復される。
・2011年(平成23年) - 東日本大震災の影響で常磐橋の一部の石がずれ、2年後より修復工事を開始する[7]
・2021年(令和3年)5月10日 - 常磐橋の修復工事が終了し再開通された[6]

c1

⇧ 
1871年(明治4年)の常磐橋 [8]

c2

⇧ 1880年(明治13年)頃の常磐橋

0188g

⇧ 現在の常磐橋(2021年)

隣の橋
日本橋川
  (上流) - 新常盤橋 - 常磐橋 - 常盤橋 - 一石橋 - (下流)

脚注
1. a b 千代田区景観まちづくり重要物件指定一覧表”. 千代田区役所 (2014年7月). 2018年6月18日閲覧。
2. 
金山正好,金山るみ『中央区史跡散歩』学生社、1993年、12頁。
3. 
金山正好,金山るみ『中央区史跡散歩』学生社、1993年、12-13頁。
4. 
土木学会 令和2年度度選奨土木遺産 常盤橋”. www.jsce.or.jp. 2022年6月9日閲覧。
5. 
『都内最古の石橋、和紙活用し復旧…耐久力が向上』”.読売新聞オンラインニュース(2020年2月15日). 2020年3月6日閲覧。
6. 
a b 都内最古の石橋 常磐橋の修復完了~江戸城枡形門のひとつ国指定史跡「常盤橋門跡」内の常磐橋、5月10日に通行開始!”. 千代田区役所 (2021年4月27日).
7. 
『常磐橋の概要』、「常盤橋御門・常磐橋の歴史」、千代田区、環境まちづくり部道路公園課・地域振興部文化振興課、2020年3月6日閲覧。
8. 
『旧江戸城写真帖』明治4年(1871年)常磐橋」の様子、東京国立博物館所蔵

参考文献
・鈴木理生「常盤橋」(『国史大辞典 10』(吉川弘文館、1989年) ISBN 978-4-642-00510-4
・齋藤慎一「中近世移行期の都市江戸」(『中世東国の道と城館』東京大学出版会、2010年 ISBN 978-4-13-020147-6 第15章)

関連項目
常盤橋 (山形県) - 同名の橋で、同様の由来を持つ。
公儀橋    

外部リンク
江戸東京土木遺産 常磐橋 (PDF) (DOBOKU技士会東京 第66号(2016年7月発行)) - 東京土木施工管理技士会
関東大震災復興工事関係写真 28.常盤橋工事 - 土木学会付属土木図書館
常盤橋・常磐橋     
(wikiより)


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門生が、馬島春海の為に建立したみたいです。

馬島春海 ( まじま - しゅんかい )

天保 12年 ~ 明治 38年 11月 16日 ( 1841 ~ 1905 )

江戸時代末期・明治期の漢学者。

騎兵隊書記を経て、萩に帰り、漢学塾晩成堂を開く。

松下村塾入塾年 ( 安政 4年12月 )

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田中義一 ( 1864 - 1929 )

近代の軍人、政治家、男爵。

藩主の御六尺 ( かごかき ) 田中家の三男として呉服町に出生。

13歳のときに新堀小学校の授業生 ( 代用教員 ) に登用され、萩の乱にも参加したが、のち陸大に進学した。

大正 7年以降陸軍大臣、次いで大将に進み、再び陸軍大臣となる。

大正 14年政友会総裁に就任、昭和 2年内閣総理大臣となり、外務大臣をも兼任した。
(案内板より)

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山縣 周南(やまがた しゅうなん、貞享4年(1687年) - 宝暦2年8月12日1752年9月19日))は、江戸時代中期の儒学者荻生徂徠の高弟であり、長州藩藩校明倫館の二代目学頭。漢詩、国史に精通し、教育者としても名声を博した。

名は孝孺(こうじゅ)。周南と号する。字は次公、少介。徂徠学派は中国風に名乗る風習があり縣次公、縣孝孺などと称した。

生涯
周防国の南方、右田鈴屋村(現山口県防府市)に山縣良斎の次男として生まれる。号の周南はこの生地にちなむ。父、良斎は毛利家一門毛利就信に仕える儒者。父の教育は厳しく、高楼上で学問をさせられ、必要が無ければ降ろしてもらえなかった。

8歳の時、父良斎の転勤に伴い萩へ移住。19歳で江戸へ遊学し荻生徂徠の門を叩く。3年で卒業し萩へ帰るが、以後江戸出張の際や書簡において頻繁に徂徠の薫陶を受ける。

26歳の時、朝鮮通信使が赤間関に来訪。長州藩の学者として朝鮮の学者と詩文の応酬を行う。詩才を高く評価され、朝鮮通信使正使に特別に接見を許される。この出来事が周南と、徂徠学派の文名を世に知らしめる一因となった。

31歳、藩主侍講となり、藩主に従い度々萩と江戸を往復する。また、藩校明倫館開学にあたって館の儀式・学規等を制定する。明倫館の初代学頭小倉尚斎没後は、二代目学頭に就任。学者、医者、官吏など多くの人材を育成した。また藩要人も多く門下にあり、藩政にも関与した。

59歳頃川魚を食べて体を壊し病に伏せるようになる。自身の文業について服部南郭に後事を託した後、66歳で没した。萩の保福寺(山口県萩市北古萩)に葬られる。

行状によると温厚な性格であったという。川遊びを好み、江戸で徂徠や南郭ら大勢の蘐園一門を招いて川遊びを挙行した。また没する直前、やや病が回復した際にも京都で川遊びを行っている。

大正4年(1915年)、従四位を追贈された[1]

学統
徂徠が未だ名を成さない頃から従った愛弟子であり、長州藩に、また西日本に徂徠学(古文辞学)を普及させる一大要因となった。末流といえる広瀬淡窓の儒林評では格別に古文辞を固守するようなところは無いとされ、彼自身仁斎学にも共感を示し、伊藤東涯と度々交渉を持つなど開けた学問交流を行っていた。ただし、日野龍夫によれば、その詩文の作風については古文辞風という以外に格別の特徴はないという。

また、京都の古医方派と親しく、香川修庵山脇東洋吉益東洞などの医師と交流が深かったことも特筆される。

著作
・『周南文集』 明倫館の設立次第を記した「長門国明倫館記」や周南先生行状等多くの詩文を載せる。なお、周南文集の稿本が存在し、周南続稿とも異なる周南の文章が収録されている。
・『為学初問』 小論文集。
・『作文初問』 明古文辞派の主張をその中心とする漢文手引書。
・『講学日記』 学問上の覚え書きを収録したもの。
・『宣室夜話』 周南の作ではないという説がある
・『周南続稿』 「周南文集」に収録された詩文数十編と、外に未収録の詩文を収録。 
・『周南先生医談』
・『江氏家譜』 藩命によって編纂した毛利家の系譜。

脚注
1. 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.35

参考文献 
・河村一郎『長州藩徂徠学』私家版
・藤井明・久富木成大『山井崑崙 山県周南』明徳出版社

(wikiより)

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儒者。 

行年 72歳。

行年 明治 25年 8月 23日。

戒名 : 一貫斎文藻道哲居士。

大組士。

64石。

市川仁五衛門の養子。実は平佐二蔵の子。

維新後、川島に私塾 ( 新選塾 ) を開きのち、新堀小学、椿町小学校の校長を務める。
(案内板より)

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儒者。

行年 48歳。

没年 天明 6年 9月 4日。

戒名 : 玉山季有居士。

藩士。

実は山県周南の第五子。

儒学に造詣深く藩の典故に詳し、藩の史局の長となる。
(案内板より)

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儒者。 

行年 39歳。

没年 宝暦 8年 4月 15日。

戒名 : 源了軒天峰全柱居士。

藩士。 山県周南門下の高足にて儒学に造詣深し。

灞山詩集あり。
(案内板より)

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時代江戸時代末期 - 幕末 - 明治時代
生誕文化7年9月24日1810年10月22日
死没明治9年(1876年11月6日
改名正一 → 正韞(まさかぬ、
別名通称;文之進。;韓峰・玉韞。
主君毛利敬親 → 元徳
長州藩郡奉行、当役、奥番蔵
氏族杉氏 → 玉木家(乃木氏分流)
父母実父:杉常徳杉七兵衛
養父:玉木正路
兄弟杉百合之助(杉常道)
吉田大助(吉田賢良)
玉木文之進
国司氏の娘
実子:彦助
養子:正誼乃木希次四男)

玉木 文之進(たまき ぶんのしん)は、日本武士長州藩士)、教育者兵学者山鹿流)。松下村塾の創立者。吉田松陰の叔父に当たる。正韞であるが、一般的に通称で文之進と呼ばれる。家格は大組。石高40石。

生涯
文化7年(1810年)9月24日、長州藩士で無給通組・杉常徳(七兵衛)の三男としてで生まれる。文政3年(1820年)6月、家格では杉家より上にあたる大組士、40石取りの玉木正路(十右衛門)の養子となって家督を継いだ。

天保13年(1842年)に松下村塾を開いて、少年期の松陰を大変厳しく教育した(過激な、体罰を加えられることが多かったという。)。また親戚の乃木希典も玉木の教育を受けている。天保14年(1843年)に大組証人役として出仕。安政3年(1856年)には吉田代官に任じられ、以後は各地の代官職を歴任して名代官と謳われたという。安政6年(1859年)に郡奉行に栄進するが、同年の安政の大獄で甥の松陰が捕縛されると、その助命嘆願に奔走した。しかし松陰は処刑され、その監督不行き届きにより万延元年(1860年)11月に代官職を剥奪されている。

文久2年(1862年)に郡用方として復帰し、文久3年(1863年)からは奥阿武代官として再び藩政に参与し、その年のうちに当役(江戸行相府)に進む。藩内では尊王攘夷派として行動し、毛利一門家厚狭毛利家毛利親民の参謀を兼ね、慶応2年(1866年)の第2次長州征伐では萩の守備に務めた。その後、奥番頭にすすむが、明治2年(1869年)には政界から退隠し、再び松下村塾を開いて子弟の教育に努めている。なお、実子で継嗣であった玉木彦助奇兵隊に入隊し、功山寺挙兵後の戦いで落命している。

明治9年(1876年)、前原一誠による萩の乱に養子の玉木正誼と門弟の多くが参加したため、その責任を取る形で11月6日に先祖の墓の前で自害した[1]。享年67。その跡は正誼の子、正之が相続した。

山口県萩市に旧宅が保存されている。

人物
玉木家は乃木傳庵の長男である玉木春政が、母の玉木の勲功で母の雅号を家名として分立し成立した家であるため、乃木家とは代々交流があった。加えて乃木希典の父である希次とは歳が近い上に、性格も似ていたので、平素互いに推服していたという。このためか、実子の彦助が死去すると希次の子が文之進の養子となるが、これが玉木正誼である。

参考文献
塚田清市著「乃木大将事跡」乃木十三日会
・「三百藩藩主人名事典 6」新人物往来社
・萩市立図書館 編 『萩市立図書館所蔵諸家旧蔵書籍目録』
萩市立図書館、1995年。

登場する作品
・『
坂の上の雲』 - 2011年、NHK、演: 江良潤
・『
花燃ゆ』 - 2015年、NHK、演:奥田瑛二     

脚注
1. 
萩市立図書館 1995, p. 36
(wikiより)

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久坂 玄機(くさか げんき、文政3年(1820年) - 嘉永7年2月27日1854年3月25日))は、幕末長州藩士、蘭学家、医師。適塾塾頭。名は真(まこと)、静。天籟と号す。久坂玄瑞の兄。

経歴
文政3年(1820年長門国萩平安古(ひやこ)石屋町(現・山口県萩市)に藩医久坂良迪、富子の長男として生まれる。長州藩医きっての俊英で、弟の玄瑞とともに「坂家の連璧(ばんけのれんぺき)」と称せられた。久坂玄瑞とは20歳の年の差があったが、後の玄瑞の思想、行動に大きな影響を与えた。

弘化4年(1847年)6月に緒方洪庵適塾に客分の処遇で籍を置く。翌嘉永元年(1848年)3月に適塾塾頭となる。しかし、翌年、召還の藩命が下り、好生館の都講に任ぜられる。適塾塾頭は同じ長州の村田蔵六が継承した。長州藩初の藩内種痘実施に際して、引痘主任を命ぜられ、藩下で種痘を組織的に行った。嘉永3年(1850年)6月に好生館の書物方を兼任し、また、最年少(31歳)の本道科教授となる。


海外事情に通じており、西洋軍事学に関する藩内の評価も高く、藩命により、『演砲法律』、『銃隊指揮令』、『新撰海軍砲術論』、『和蘭陀紀略内編』、『抜太抜亜志』、『新訳小史』など数多くの翻訳書を残した。このような玄機の西洋学問研究は、弟の久坂玄瑞に相当の影響と感化を与えたと言われている。 そして、海防については、幾度も藩政府から意見具申を求められ、病床にありながら、藩主毛利敬親に上書建白した数日後の嘉永7年(1854年)2月27日に逝去した。享年35。

明治44年(1911年)、正五位を追贈された[1]

脚注
1. 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.28

参考文献
『日本の思想家50 高杉晋作 久坂玄瑞』 (2012年)

登場人物
花燃ゆ - 2015年、NHK、演:村上新悟    
(wikiより)


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吉田 庫三(よしだ くらぞう、1867年 - 1922年6月)は、日本の教育者。長州藩(現山口県)出身。吉田松陰の甥に当たる。

概要
1867年(慶応3年)、吉田松陰の妹・千代(芳子)と児玉祐之の息子として長州藩に生まれる。吉田松陰が刑死後、安政の大獄大赦によって再興された吉田家を、11歳の時に第11代として相続。松陰神社の毎年の例祭に祭主を務める。


吉田松陰が創立した松下村塾に7歳の時に入り、大叔父(吉田松陰の叔父)の玉木文之進の教えを受ける。12歳でその課程を終えた後は、私塾西鄙黌で学び、1882年、15歳の時に上京して二松学舎に入学し、2年間、漢学を学んだ。福永淑人から国史・国文を、法学博士末岡精一に法制を、高嶺秀夫に心理・教育を学び、三島中洲に従い文章を研究、森槐南について漢詩を研究した。


1890年
、22歳の時に学習院で初めて教鞭をとった。同年から1893年まで、海軍編修書記との兼任であった[1]。以後、高等師範学校中学科、陸軍幼年学校等で教え、1895年には従七位を授与された。1897年から商船学校(現:東京海洋大学)で教えた後は、鳥取県第一中学校(現:鳥取県立鳥取西高等学校)、神奈川県第二中学校(現:神奈川県立小田原高等学校)、神奈川県立第四中学校(現:神奈川県立横須賀高等学校)の校長をそれぞれ歴任する。


鳥取県第一中学校の校長時には校友会生徒会)の活性化、原因不明の出火により焼失した校舎の復旧対策と新校舎建築に取り組んだ。


神奈川県立第二中学校の校長時には修身の講義を行っていたが、自分の家柄のことや、吉田松陰のことについては一言も触れることなく、郷土の偉人として二宮尊徳を推称し、その言行を教訓とすべきことを力説した。約3年間の校長在任中、「至誠無息・堅忍不抜」を校訓に、質実剛健の校風をつくることに努めた。


乃木希典
は吉田家と親戚関係にあり、生涯にわたって吉田庫三と親交があった。乃木が日露戦争旅順攻撃の際に得た漢詩『金州城外の作』は、第二中学校長吉田庫三宛に送った1枚の葉書に記されたのが世に出た初めてのものである。


神奈川県
下の2校の校長を歴任したのは、当時の神奈川県知事・周布公平の招請によるものだが、これは、周布が長州藩士で、同郷の吉田の教育者としての経験を高く評価していたからといわれている。

年譜
1867年(慶応 3年) - 吉田松陰の妹・千代(芳子)と児玉祐之の息子として長州藩で出生。
1874年(明治 7年) - 松下村塾に入る。
1878年(明治11年) - 吉田家第11代当主となる。
1879年(明治12年) - 松下村塾の課程を修了し、私塾西鄙黌で学ぶ。
1882年(明治15年) - 上京。二松学舎に入学。
1890年(明治23年) - 海軍編修書記となる。学習院で初めて教鞭をとる。
1893年 (明治26年) - 海軍編修書記を退職。
1895年(明治28年) - 従七位を授与。
1897年(明治30年) - 商船学校(現:東京海洋大学)で教鞭。
1899年(明治32年) - 鳥取県第一中学校(現:鳥取県立鳥取西高等学校)第14代校長に就任。
1899年(明治32年) - 文官普通試験委員を命ぜられる。
1901年(明治34年) - 神奈川県第二中学校(現:神奈川県立小田原高等学校)初代校長に就任。
1904年(明治37年) - 和歌山県視学官に転ずる。その後、奈良県でも勤務。
1908年(明治41年) - 神奈川県立第四中学校(現:神奈川県立横須賀高等学校)初代校長に就任。
1922年(大正11年) - 死去。

脚注
1. 学習院授業嘱托を兼任することについて不都合の有無を、宮内大臣が海軍大臣に宛てて問い合わせる文書が残る。防衛省防衛研究所所蔵、海軍『職員進退録 明治23年6巻』2103-2113丁。1893年3月4日付で海軍編修書記を退職した。『職員進退録 明治26年5巻』0446丁。

参考文献
・中野敬次郎『小田原近代百年史』形成社、1968年
・神奈川県県民部県史編集室『神奈川県史 別編1 人物』神奈川県、1983年
・神奈川県立横須賀高等学校『神奈川県立横須賀中学校・高等学校八十年史』神奈川県立横須賀高等学校、1989年
・神奈川県立小田原高等学校『小田原高校百年の歩み』神奈川県立小田原高等学校、2002年


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芝山巌六氏追慕之碑
昭和五十七年五月、元台湾教育関係者一同によって、明治二十九年一月一日芝山巌学堂において殉職された以下六氏の英魂が一堂に合祀されたものです。

山口県 楫取道明先生  三十九歳
愛知県 関口長太郎先生 三十七歳
群馬県 中島長吉先生  二十五歳
東京都 桂金太郎先生  二十七歳
山口県 井原順之介先生 二十四歳
熊本県 平井数馬先生      十七歳
(案内板より)

〇 六氏先生
六氏先生(ろくしせんせい / りくしせんせい)または六士先生は、日本統治時代台湾に設立された小学校、芝山巌学堂(しざんがんがくどう)で抗日事件により殺害された日本人教師6人のことである。

芝山巌事件
1895年明治28年)5月17日下関条約(馬関条約)により台湾が日本に割譲され、5月21日から日本による統治が始まると、当時文部省の学務部長心得だった伊沢修二は、初代台湾総督に就任した樺山資紀に「(台湾の統治政策の中で)教育こそ最優先すべき」と教育の必要性を訴え、同年6月、日本全国から集めた人材7名を連れて台湾へ渡り、台北北部の芝山巌恵済宮という道観の一部を借りて同年7月に芝山巌学堂という小学校を設立した。


最初は生徒6人を集め、台湾総督府学務部長となった伊沢と教師7人の計8人で日本語を教えていた。次第に周辺住人に受け入れられ、同年9月20日には生徒数が21人になり甲、乙、丙の3組に分けて授業を行っていた。


その頃、能久親王が出征中の台南(後の台南神社境内)で薨去し、それに伴い伊沢と1人の教師(山田耕造)は親王の棺とともに日本本土に一時帰国した。

その伊沢の帰国中に事件は起こる。

1895年の暮れになるとふたたび台北の治安が悪化し、日本の統治に反対する勢力による暴動が頻発すると、周辺住人は教師たちに避難を勧めたが、彼らは「死して余栄あり、実に死に甲斐あり」と教育に命を懸けていることを示し、芝山巌を去ろうとはしなかった。


1896年(明治29年)1月1日、6人の教師と用務員(小林清吉)が元旦の拝賀式に出席するために生徒を連れて船着場に行ったが、前日からのゲリラ騒ぎで船が無く、生徒達を帰して芝山巌に戻った。再び芝山巌を下山しようとした時、約100人の抗日ゲリラ(日本側で言う匪賊)に遭遇した。教師たちはゲリラたちに説諭したが聞き入れられず、用務員の小林を含む7人全員が惨殺された。ゲリラ達は、日本人の首を取ったら賞金が貰えるとの流言から襲撃を掛けたと言われており、6人の首級と用務員を襲って殺害した上に着衣や所持品を奪い、さらに芝山巌学堂の物品も略奪した。この事件は、台湾にいた日本人を震撼させたのみならず、日本政府にも重大視され、丁重に葬儀を行うとともに、台湾統治の強化が行われた。芝山巌学堂は3か月間の授業停止の後に再開された。

6人の教師

「六氏先生」と呼ばれる教師は以下の6人である。
楫取道明山口県、38歳、初代群馬県令楫取素彦吉田松陰の妹・寿の次男)
・関口長太郎(愛知県、37歳)
・中島長吉(群馬県、25歳)
・桂金太郎(東京府、27歳、東京府士族
・井原順之助(山口県、23歳)
・平井数馬(熊本県、17歳)
(wikiより)

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正五位・楫取道明先生之墓

先生は萩藩儒・小田村伊之助 ( のち楫取素彦と改名 ) の二男として、安政五年 ( 1858 ) 萩に生まれられました。

母は吉田松陰の妹・寿子です。

幼名を久米次郎といい、一旦同藩士・久坂義助 ( 前名・玄瑞 ) の後嗣となりましたが、のち復籍して兄・篤太郎が小田村家をつぎ、先生は楫取家をつがれました。

先生は学問を好まれ、和歌に堪能で、宮内省に入って御歌所の講師となられました。

やがて台湾がわが領土となり、教化の急が要請されるに及び、先生は率先志願されて三男二女を夫人・美寿子 ( 千草 ( ちぐさ ) 氏 ) に託し、明治二十八年六月十五日勇躍台湾に渡られ、六月十七日に学務部員となられ、芝山巌上の学堂に五名の学務部員と起居を共にして、現地学童の教育に専念され、伊沢修二学務部長の職務を代行されました。

明治二十九年 ( 1896 ) 一月一日、かねて不穏の噂があった抗日派の住民の襲来にあい、他の部員五氏と共に殉職されました。

しかし英霊は永く台湾教育者の指針となり、いわゆる「芝山巌精神」による教育の成果は、異国となった今も尚 華を咲かせています。
(案内板より)

〇 楫取道明

楫取 道明(かとり みちあき、安政5年5月27日1858年7月7日) - 明治29年(1896年1月1日)は、日本教育者楫取素彦(小田村伊之助)と最初の妻・寿吉田松陰の妹)との次男。台湾教育の祖。六氏先生の一人。

幼名は粂次郎(くめじろう)。幼少時に久坂玄瑞と文(松陰と寿の妹)夫婦の養子となり、玄瑞の死後に一時久坂家を継いだが、のち玄瑞の庶子の秀次郎が認知されて久坂家を継ぎ、粂次郎は生家に戻された。文はのちに美和子と改名し、寿の死後に楫取素彦と再婚した。


明治29年(1896年)1月1日、芝山巌事件で殺害された。同年1月13日、正五位を贈られた[1]

家族・子孫
・妻:美寿子 - 千種有任の娘
・息子:三郎 - 素彦の男爵位を継ぐ
・娘:治子 - 小田村有芳(道明の実兄・小田村希家の養子)の妻
・孫:小田村寅二郎小田村四郎など

脚注
1. 『官報』第3761号、1896年1月15日
(wikiより)


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六氏先生の写真。楫取道明は前列中央。

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萩東光寺境内にある先生の墓の南側に、明治二十九年五月父・素彦氏が建てられた自然石の碑で、撰文は素彦氏、揮毫は看雨村田峯次郎氏 ( 清風の孫 ) です。
(案内板から)

〇 六氏先生
六氏先生(ろくしせんせい / りくしせんせい)または六士先生は、日本統治時代台湾に設立された小学校、芝山巌学堂(しざんがんがくどう)で抗日事件により殺害された日本人教師6人のことである。

芝山巌事件
1895年明治28年)5月17日下関条約(馬関条約)により台湾が日本に割譲され、5月21日から日本による統治が始まると、当時文部省の学務部長心得だった伊沢修二は、初代台湾総督に就任した樺山資紀に「(台湾の統治政策の中で)教育こそ最優先すべき」と教育の必要性を訴え、同年6月、日本全国から集めた人材7名を連れて台湾へ渡り、台北北部の芝山巌恵済宮という道観の一部を借りて同年7月に芝山巌学堂という小学校を設立した。


最初は生徒6人を集め、台湾総督府学務部長となった伊沢と教師7人の計8人で日本語を教えていた。次第に周辺住人に受け入れられ、同年9月20日には生徒数が21人になり甲、乙、丙の3組に分けて授業を行っていた。


その頃、能久親王が出征中の台南(後の台南神社境内)で薨去し、それに伴い伊沢と1人の教師(山田耕造)は親王の棺とともに日本本土に一時帰国した。


その伊沢の帰国中に事件は起こる。


1895年の暮れになるとふたたび台北の治安が悪化し、日本の統治に反対する勢力による暴動が頻発すると、周辺住人は教師たちに避難を勧めたが、彼らは「死して余栄あり、実に死に甲斐あり」と教育に命を懸けていることを示し、芝山巌を去ろうとはしなかった。

1896年(明治29年)1月1日、6人の教師と用務員(小林清吉)が元旦の拝賀式に出席するために生徒を連れて船着場に行ったが、前日からのゲリラ騒ぎで船が無く、生徒達を帰して芝山巌に戻った。再び芝山巌を下山しようとした時、約100人の抗日ゲリラ(日本側で言う匪賊)に遭遇した。教師たちはゲリラたちに説諭したが聞き入れられず、用務員の小林を含む7人全員が惨殺された。ゲリラ達は、日本人の首を取ったら賞金が貰えるとの流言から襲撃を掛けたと言われており、6人の首級と用務員を襲って殺害した上に着衣や所持品を奪い、さらに芝山巌学堂の物品も略奪した。この事件は、台湾にいた日本人を震撼させたのみならず、日本政府にも重大視され、丁重に葬儀を行うとともに、台湾統治の強化が行われた。芝山巌学堂は3か月間の授業停止の後に再開された。

6人の教師

「六氏先生」と呼ばれる教師は以下の6人である。
楫取道明山口県、38歳、初代群馬県令楫取素彦吉田松陰の妹・寿の次男)
・関口長太郎(愛知県、37歳)
・中島長吉(群馬県、25歳)
・桂金太郎(東京府、27歳、東京府士族
・井原順之助(山口県、23歳)
・平井数馬(熊本県、17歳)
(wikiより)

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前列真ん中が、楫取道明

事件のその後

彼らの台湾の教育に賭ける犠牲精神は「芝山巌精神」と言われ、人々の間で語り継がれるようになった。


この「芝山巌精神」は当時の台湾教育者に多くの影響を与え、統治直後、総人口の0.5~0.6%だった台湾の学齢児童の就学率は1943年昭和18年)頃には70%にもなった。また終戦時には識字率が92.5%に登り、後に台湾が経済発展をする基礎となった。


1930年
(昭和5年)には「芝山巌神社」が創建され、六氏先生をはじめ、台湾教育に殉じた人々が、1933年(昭和8年)までに330人祀られた(そのうち台湾人教育者は24人)。


境内には六氏先生を合葬する墓があり、また社殿の前には六氏先生を追悼して、伊藤博文揮毫による「学務官僚遭難之碑」(1896年7月1日建立)が建てられた。


毎年2月1日には慰霊祭が執り行われ、芝山巌は「台湾教育の聖地」と称された。

165 六氏先生の墓

六氏先生の墓


165 芝山巌神社

芝山巌神社

165 雨農閲覧室の額

雨農閲覧室の額

戦後
終戦後、蔣介石をはじめとする外省人中国国民党の者たちが中国本土から台湾に逃げて来て、台湾は日本色を一掃する中国国民党により芝山巌神社は破壊され、本殿跡には国民党軍統局副局長だった戴笠を記念する「雨農閲覧室」が建てられた。この時、神社の隣にあった恵済宮の住職は、六氏先生の墓跡から遺骨を密かに移し、無名の墓を造って祀っていた。


雨農閲覧室では、抗日運動の成果のひとつとして芝山巌事件を紹介する展示などが行われてきた。しかし、李登輝総統の下で台湾民主化の動きが進むと、芝山巌学堂が開かれて100年経った1995年平成7年)1月1日に芝山巌学堂の後身である台北市立士林国民小学中国語版の卒業生により、教育に命をかけた「六氏先生の墓」が再建され、2000年(平成12年)には「学務官僚遭難之碑」も復元された。


在、周辺は芝山文化生態緑園として整備されており、自然観察をしたり、大石象、蝙蝠洞、太陽石、砲台跡、同帰所(芝山で亡くなった無縁仏の合葬施設)などを見て回ることができる。

六氏先生の歌

作歌: 加部巌夫、作曲: 高橋二三四

やよや子等 はげめよや
学べ子等 子供たちよ
慕へ慕へ 倒れてやみし先生を

歌へ子等 思へよや
すすめ子等 国のため
思へ思へ 遭難六氏先生を

関連項目
伊沢修二        

外部リンク
六氏先生之墓
六氏先生墓-芝山文化生態綠園(中国語)
(wikiより)


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江戸時代に材木の貯木場があった場所。

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新村 出(しんむら いずる、1876年明治9年)10月4日 - 1967年昭和42年)8月17日)は、日本言語学者文献学者京都大学教授名誉教授で、ソシュール言語学の受容やキリシタン語の資料研究などを行った日本人の草分けである。

人物・来歴
幕臣で当時山口県令を務めていた関口隆吉の次男として現在の山口市道場門前[1]に生まれる。「出」という名は、父親が山口県と山形県の県令だったことから「山」という字を重ねて命名された。


1889年(明治22年)4月に父・隆吉が機関車事故により不慮の死を遂げた後、徳川慶喜家の家扶で、慶喜の側室新村信の養父にあたり元小姓頭取の新村猛雄の養子となる[2]。慶喜の多彩な趣味のひとつに写真撮影があったが、彼の遺した写真の中には若き日の出の姿を写したものもある。出は慶喜家で子弟の家庭教師も務めていた[2]

静岡尋常中学第一高等学校を経て、1899年(明治32年)、東京帝国大学文科大学博言学科卒業[3]。在学中は上田萬年の指導を受けた。この頃からの友人として亀田次郎がおり、のちに『音韻分布図』を共同して出版した。国語研究室助手を経て、1902年(明治35年)に東京高等師範学校教授[4]となり、1904年(明治37年)には東京帝国大学助教授を兼任した。


1906年(明治38年)から1909年(同41年)までイギリスドイツフランスに留学し、言語学研究に従事する。その間、1907年(明治39年)に京都帝国大学助教授、帰朝後に同教授となった。言語学講座を担当し、1910年(明治43年)には文学博士[5]、1928年(昭和3年)には帝国学士院会員となる。1936年(昭和10年)に定年退官した。


1933年、宮中の講書始の控えメンバーに選ばれた後、1935年には正メンバーに選ばれた。同年1月28日、昭和天皇に国書の進講を行った[6]


終生京都に在住して辞書編纂に専念し、1955年(昭和30年)に初版が発刊された『広辞苑』の編纂・著者として知られる。息子の新村猛がこの共同作業に当たった。出は新仮名遣いに反対し、当初予定の『廣辭苑』が『広辞苑』に変更になったときは一晩泣き明かしたという。そのため『広辞苑』の前文は、新仮名遣いでも旧仮名遣いでも同じになるように書き、せめてもの抵抗をした。出はまた形容動詞を認めなかったため『広辞苑』には形容動詞の概念がない。

新村はまたエスペランティストでもあった。1908年にドレスデンで行われた第4回世界エスペラント大会に日本政府代表として日本エスペラント協会代表の黒板勝美とともに参加している。

1956年(昭和31年)文化勲章受章。1967年(昭和42年)の死去時に賜銀杯一組。


没後にその業績は『全集』(筑摩書房)にまとめられた。南蛮交易研究や吉利支丹文学キリシタン版関連)は平凡社東洋文庫などで再刊されている。


出の業績を記念し1982年(昭和57年)から、優れた日本語学や言語学の研究者や団体に対し毎年「新村出賞」が授与されている。

エピソード
谷崎潤一郎を通じ、女優の高峰秀子と交流を持つようになる。自宅に招いた際は、玄関や書斎を高峰のポスターやノベルティで飾り、高峰を驚かせたという。


また「高峰のあめりかだより夕刊に出でしまわりに赤い線引く」と詠み、これは「全集15巻」に収録されている。


同世代の歌人佐佐木信綱とは終生の友人で『佐新書簡 新村出宛佐佐木信綱書簡』(竹柏会心の花[7]、2019年)がある。

栄典
1915年(大正4年)1月11日 - 正五位[8]     

家族
父:関口隆吉
兄弟:関口壮吉加藤周蔵関口鯉吉関口隆正関口操関口万寿
次男:新村猛
孫:新村祐一郎(西洋史学者)、新村徹新村恭(編集者)[9]   

著書

単著
『南蛮記』 東亜堂書房、1915年
『南蛮更紗』 改造社、1924年
『典籍叢談』 岡書院、1925年
『南蛮廣記』 岩波書店、1925年
『続 南蛮廣記』 岩波書店、1925年
『船舶史考』 更生閣、1927年
『東方言語史叢考』 岩波書店、1927年
『薩道先生景仰録 吉利支丹研究史回顧』「ぐろりあ叢書」ぐろりあそさえて、1929年
『東亜語源志』 岡書院、1930年
『南国巡礼』 梓書房、1930年
『琅玕記』 改造社、1930年
『言語学概説 続国文学講座』 国文学講座刊行会、1933年
『史伝叢考』 楽浪書院、1934年
『典籍散語』 書物展望社、1934年
『遠西叢考』 楽浪書院、1935年
『花鳥草紙』 中央公論社、1935年
『言語学概論』 日本文学社、1935年
『随筆 橿』 靖文社、1940年
『日本の言葉』 創元社〈創元選書〉、1940年
『国語問題正義』 白水社、1941年
・『重山集』 草木社出版部、1941年
『日本吉利支丹文化史』 地人書館(大観日本文化史薦書)、1941年
『言葉の歴史』 創元社〈創元選書〉、1942年
『随筆 ちぎれ雲』 甲鳥書林、1942年
『日本晴』 靖文社、1942年
『言語学序説』 星野書店、1943年
『国語学叢録』 一条書房、1943年
『国語の規準』 敞文館(黎明選書)、1943年
新村出選集』全4巻、甲鳥書林、1943–47年
『朝霞随筆』 湯川弘文社、1943年
『南方記』 明治書房、1943年
『外来語の話』 新日本図書、1944年
『典籍雑考』 筑摩書房、1944年
『童心録』 靖文社、1946年
『あけぼの』 大八洲出版、1947年
『吉利支丹研究余録』 国立書院、1948年
『松笠集』 河原書店、1948年
『万葉苑枯葉』 生活社、1948年
『語源をさぐる 第1』 岡書院、1951年
『五月富士』 読売新聞社(読売新書)、1955年
『言葉の今昔』 河出書房(河出新書)、1956年

全集
新村出全集 筑摩書房(全15巻)、1971–1973年
1. 言語研究篇I
2. 言語研究篇II
3. 言語研究篇III
4. 言語研究篇IV
5. 南蠻紅毛篇I
6. 南蠻紅毛篇II
7. 南蠻紅毛篇III
8. 書誌典籍篇I
9. 書誌典籍篇II/史伝考証篇I
10. 史伝考証篇II
11. 随筆篇I
12. 随筆篇II
13. 随筆篇III
14. 随筆篇IV
15. 短歌篇・書簡篇
『新村出全集 別巻』(索引と、書誌・稿本目録・年譜)、新村出記念財団 編・刊、1983年
・『美意延年 新村出追悼文集』(新村猛編)、新村出遺著刊行会、1981年

没後出版
『歌集 白芙蓉』 初音書房、1968年
『新村出 国語学概説』 金田一京助 筆録・金田一春彦 校訂、教育出版(シリーズ名講義ノート)、1974年
『語源をさぐる 語源叢談一』 教育出版、1976年/旺文社文庫(新編)、1981年/講談社文芸文庫、1995年
  『広辞苑先生、語源をさぐる』 河出文庫、2018年
・『日本語漫談 語源叢談二』 教育出版、1976年
・『外来語の話 語源叢談三』 教育出版、1976年/講談社文芸文庫(新編)、1995年
・『言葉の散歩道 語源叢談四』 教育出版、1976年
・『新編 琅玕記』 旺文社文庫、1981年/講談社文芸文庫、1994年。新村徹編
・『新村出集 現代の随想24』 彌生書房、1982年/『新村出随筆集』平凡社ライブラリー、2020年。新村猛編
・『南蛮更紗』 平凡社東洋文庫、1995年、ワイド版2009年
・『新編 南蛮更紗』 講談社文芸文庫、1996年。『南蛮広記』も一部収録
・『わが学問生活の七十年ほか』「人間の記録」日本図書センター、1998年

編著
『異国情趣集』 更生閣書店、1928年
・『辞苑』 博文館、1935年
・『言苑』 博文館、1938年
・『万葉図録 文献篇』、『地理篇』 佐佐木信綱 共編、靖文社、1940年
・『聖徳太子御年譜』 山口書店、1943年
・『言林』昭和24年版、全国書房、1949年
・『国語博辞典』 甲鳥書林、1952年
・『新辞林』 清文堂書店、1953年
・『新辞泉』 清文堂書店、1954年
・『広辞苑』 岩波書店、1955年(第1版)
・『鑑賞小倉百人一首』 洛文社、1964年(第2版)

翻訳・校訂・共著
『イエスペルセン氏 言語進歩論』 東京専門学校出版部、1901年
『佐久間象山先生』 象山会、久保田収 共著、1964年
・『文禄旧訳 伊曽保物語』 開成館、1911年
・『天草本 伊曽保物語』 岩波文庫、1939年。復刊1997年ほか
・『吉利支丹文学集』(全2巻)、柊源一共編・校註
  ・朝日新聞社(日本古典全書)、1957–60年/平凡社東洋文庫、1993年、ワイド版2008年
・『近代浪漫派文庫18 山田孝雄 新村出[10] 新学社、2006年

脚注
1. 「やまぐちの文学者たち」80人/新村出 山口県 2018年8月31日閲覧。
2. a b 将軍・殿様が撮った幕末明治. 新人物往来社. (1996年4月21日). pp. 126-127
3. 『官報』第4808号、明治32年7月12日、p.194
4. 『東京高等師範学校沿革略志』東京高等師範学校、1911年、p.72
5. 『官報』第8106号、明治43年6月30日、p.695
6. 「講書始の奉仕者」『東京朝日新聞』昭和10年1月10日3面
7. 佐佐木幸綱(信綱の孫で歌人)監修
8. 『官報』第731号「叙任及辞令」1915年1月12日。
9. 伝記『広辞苑はなぜ生まれたか 新村出の生きた軌跡』(新村恭著、世界思想社、2017年)を著した。
10. 南蛮記(抄)を収録。

外部リンク
新村 出:作家別作品リスト - 青空文庫
新村出氏の紹介 - 大阪大学文学部
新村出 :: 東文研アーカイブデータベース - 東京文化財研究所
新村出記念財団 重山文庫
新村出 - NHK人物録
(wikiより)


10 新村出

新村 出

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碑文
安政元年三月三日 ( 1854 ) 日米和親条約が横浜村で調印された。


本邦初のペンキ塗装が施された。


本邦ペンキ塗装の元祖町田辰五郎は寝食を忘れ研究に研究を重ねてそれを完成させたのである。


以来数多くのペンキ塗装を手懸け、又数多くの弟子を育成した。


それにより本邦の隅々迠もペンキ塗装が伝はり 今日の現況に迠至ったのである。
(石碑文より)

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明治・大正期の一時代を画した日本経済史学の先駆者、内田銀蔵は明治五年 ( 一八七二 ) 正月二十五日、ここ千住仲町で江戸時代初期から続く川魚問屋の老舗「鮒与」内田与兵衛の長男として生まれました。


銀蔵は家業を継ぐ立場にありましたが幼少の頃から学問好きで、千寿小学校での成績も抜群でした。


そして学問の道を熱望したため父親も許し、地方裁判所に願い出て弟善蔵に与兵衛の名跡を相続させ、学者の道に進みました。


明治二十二年ね東京専門学校 ( 後の早稲田大学 ) 政治科に進学して経済学を学び、さらに東京大学文化大学国史科に進んで二十六年に卒業、「日本経済史及び史学と経済学との教育的価値」を課題として大学院で研究し、学会誌『史学雑誌』に日本の古代・中世・近世における経済史関係の論文を次々と発表しました。


これが認められて大学院卒業後は東京大学の講師となり、わが国最初の日本経済史を講義しました。


経済史学の創始者と後々までも称えられる所以はここにもあります。


三十五年十月、二十九歳の若さで文学博士となり、翌年一月には文部省の外国理由学生として三年半の長きにわたりヨーロッパの歴史学・経済学を学び、その間、主著『日本近世史』を刊行しました。


また、海外留学中にもかかわらず広島高等師範の教授に任命され、帰国後は京都大学文化大学の教授も兼任して史学の道を切り開きました。


史学といえば現在も京都大学が一目おかれるのは、銀蔵が築いた研究室の在り方が伝統になっているからだと言われています。


かくして四自由年五月、三十六歳の時、京都大学の専任教授となり、五年後には経済史のバイブル的存在『経済史総論』を刊行しています。


第一次世界大戦後の大正七年 ( 一九一八 ) 欧米各国に出張して翌年帰国しましたが間もなく発病し、七月二十日、四十七歳の若さで他界しました。


戒名は「文教院智顕日名居士」、墓は日ノ出町四二ノ一の清亮寺墓地にあります。


なお銀蔵は幼い日、生家の向かいにある橋本家で、稿本『自然真営道』の旧蔵者・橋本律蔵の薫陶を受けたと言われ、銀蔵の死後、京都大学に寄贈された遺品資料の中からは、〇六年九月、調べる会の調査によって、安藤昌益の医学や自然哲学を受け継ぐ川村真斎の『老子解真斎先生草稿』や橋栄徳の『静谿謾筆』、橋本律蔵の『雑記』等といった貴重な資料が見出されました。


長いあいだ昌益研究史上の謎とされてきた、安藤昌益と千住を結ぶ医師たちの系譜が他ならぬ内田銀蔵の仲介によって解明されつつあるのです。


二〇〇六年五月設置、二〇〇九年二月増補


安藤昌益と千住宿の関係を調べる会
(案内板より)

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犬養 廉(いぬかい きよし、1922年10月31日 - 2005年5月7日)は、日本文学者お茶の水女子大学名誉教授東京生まれ。1952年東京大学国文科卒。北海道大学助教授、中央大学教授、お茶の水女子大教授、88年定年、立正大学教授。93年退職。万葉集研究の第一人者である犬養孝は実兄。

著書
・『万葉・古今・新古今新解』新塔社 1991 (要所研究シリーズ)

・『平安和歌と日記』笠間書院 2004

共編著
・『小倉百人一首新釈』小高敏郎共編 白揚社 1954

・『古典和歌論叢』明治書院 1988

・『後拾遺和歌集新釈』上巻 笠間書院 1996 (笠間注釈叢書) 

校注
・『更級日記 日本古典文学全集 18』小学館 1971

・『百人一首 兼載』有吉保,橋本不美男校注 新典社 1974 (影印校注古典叢書)

・紫式部『帚木』奥出文子と校注 新典社 1978 (影印校注古典叢書)

・『山家集(鑑賞日本の古典)』尚学図書 1980

藤原道綱母『蜻蛉日記』 1982 (新潮日本古典集成)

・『小倉百人一首』創英社 1985 (全対訳日本古典新書)

・『新日本古典文学大系 平安私家集』共校注 岩波書店 1994

・紫式部『源氏物語 須磨』おうふう 1995

・『蜻蛉日記』學燈社 2006

参考文献
・文藝年鑑2004
(wikiより)

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犬養 孝(いぬかい たかし.1907年4月1日 - 1998年10月3日)は日本文学者万葉学者)。大阪大学名誉教授甲南女子大学名誉教授文学博士文化功労者。高岡市万葉歴史館名誉館長東京都出身。


弟の犬養廉日本文学者お茶の水女子大学名誉教授 中古平安時代日本文学研究者。

人物

万葉集に登場する万葉故地をすべて訪れ、万葉集研究に生涯をささげ「万葉風土学」を確立。また、テレビ・ラジオ番組や公演などで多数の人に万葉集をひろめた。万葉歌に旋律をつけて朗唱する「犬養節」は独自の歌い方で、おおくの万葉ファンに親しまれた。


万葉の景観をまもるため、万葉故地が乱開発される現状に抗議し、国会議員や松下幸之助などの財界人にも万葉故地の重要性をうったえた。その一環として、日本全国の万葉故地に所縁の万葉歌を揮毫した「万葉歌碑」を建立、故地をまもる活動に奔走した。定例の万葉ハイキングや月見の会をかさね、明日香古都保存に尽力し、明日香村名誉村民となる。

1979年(昭和54年)に昭和天皇が明日香に行幸し、甘樫丘にて明日香の歴史的風土を視察したときの案内役をつとめる。1951年(昭和26年)に始まった「大阪大学万葉旅行」は45年間の参加者延べ4万人をこえた。2000年には奈良県明日香村に犬養を顕彰し関係資料を展示する「犬養万葉記念館」が完成した。


犬養揮毫の万葉歌碑は131基におよぶ。


墓は養子(実の甥)によってまもられている。

年譜
・1907年 - 東京市下谷区谷中清水町一番地(現、東京都台東区東区池の端3-1)に生まれる

・1929年 - 第五高等学校文科甲類卒業

・1932年 - 東京帝国大学文学部卒業

神奈川県立横浜第一中学校教諭

・1942年 - 台北高等学校 (旧制)教授

・1946年 - 大阪高等学校講師

・1950年 - 大阪大学教養部助教授

・1956年 - 大阪大学分校教授

・1962年 - 「萬葉集の心情表現とその風土的関聯につきての研究」で文学博士東京大学)の学位取得

・1967年 - 大阪文化賞受賞

・1970年 - 大阪大学定年退官、名誉教授、帝塚山短期大学教授を経て、甲南女子大学教授

・1978年 - 勲三等旭日中綬章

・1981年 - 甲南女子大学定年退任、名誉教授

・1986年 - 明日香村名誉村民

・1987年 - 文化功労者

・1998年 - 叙正四位、叙勲二等瑞宝章

著書
・『笠金村』青梧堂 1944

・「万葉の風土」塙書房、1956

・「万葉の旅」社会思想社現代教養文庫、1964 のち平凡社ライブラリー

・『続・万葉の風土』塙書房 1972

・『明日香風 随想 万葉風土』社会思想社 1972 のち文庫

・『万葉のいぶき』PHP研究所 1975 のち新潮文庫

・『万葉の人びと』PHP研究所 1978 のち新潮文庫

・『万葉のこだま』PHP研究所 1982

・『わたしの万葉歌碑』(編著)社会思想社 1982

・『万葉十二カ月』新潮社 1983 のち文庫

・『万葉の大和路』講談社 1983 のち旺文社文庫

・『明日香風 第3 万葉風土』社会思想社(現代教養文庫) 1984

・『続々 万葉の風土』塙書房 1986

・『万葉 花・風土・心』社会思想社(現代教養文庫) 1987

・『万葉の歌びとと風土』中央公論社 1988

・『万葉恋の歌』世界思想社 1991

・『万葉の風土と歌人』雄山閣出版 1991

・『万葉魂の歌』世界思想社 1994

・『万葉の歌人高橋虫麻呂』世界思想社 1997

・『犬養孝万葉歌碑』山内英正 (野間教育研究所特別紀要) 1999

・『犬養孝揮毫の万葉歌碑探訪』山内英正 和泉書院 2007

・『万葉の里』和泉書院 2007

・『万葉・その後』犬養孝博士古稀記念論集刊行委員会 塙書房 1980

・『万葉の風土・文学』犬養孝博士米寿記念論集刊行委員会 塙書房 1995

関連項目
帝塚山大学の人物一覧

外部リンク
犬養万葉記念館

犬養孝 - NHK人物録
(wikiより)

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⇧ 犬養 孝

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内田 銀蔵(うちだ ぎんぞう、1872年3月4日明治5年1月25日) - 1919年大正8年)7月22日[1])は、日本歴史学者。専門は日本経済史。文学博士。日本経済史学の先駆者。

生涯

明治5年(1872年)1月、東京府足立郡千住宿中組(現在の東京都足立区)の旧家に生まれる。明治22年(1889年)、東京専門学校(現:早稲田大学)邦語政治科卒業[2]。第一高等中学校(のちの一高)に編入し、1896年(明治29年)に帝国大学文科大学国史科を卒業[3]した。国史科の同期に、喜田貞吉黒板勝美笹川種郎原勝郎幸田成友らがいた。帝国大学卒業後、同大学院に進学し、「日本経済史及び史学と経済学との教育的価値」をテーマに研究した[4]


1899年
(明治32年)、東京帝国大学文科大学国史科・史学科の講師となり、日本の大学で初めて経済史を講義した。1902年(明治35年)、「我国中古の班田収授及近時まで本邦中所々に存在せし田地定期割替の慣行に就きて」と「徳川時代特に其中世以後に於ける外国金銀の輸入」によって、文学博士の学位を取得した[5]


1903年(明治36年)1月、文部省外国留学生[6]としてヨーロッパに派遣、イギリスフランスドイツに3年間留学し、ドイツ歴史学派経済学の学風を学んだ。同年発刊の『日本近世史』第1巻 上冊 第1で、西洋歴史学の三分法を適用して、日本史三分法で江戸時代を近世として「古代 - 中世 - 近世」を提起し、研究者たちに支持され、これに近代を末に加えて、日本史学での総括的な日本史時代区分の名称となり、後代に影響を与えた[7]1906年(明治39年)に帰国する[8]が、留学途中の1905年(明治38年)に、広島高等師範学校教授に就任した。


帰国後の1906年(明治39年)、創設されたばかりの京都帝国大学文科大学教授を兼任し、文科大学史学科開設に参画した。その際、内田の創案によって、日本で初めて史学科に学生向けの国史研究室や、史学科に地理学の講座を設置した。翌1907年(明治40年)5月に京都帝国大学文科大学専任教授に就任、同年9月に開設された史学科で国史学講座を担当し、史学研究法・史学概論、のちに日本近世史・日本経済史も併せて講義した。


1918年大正7年)、再びヨーロッパに出張し、翌1919年(大正8年)3月に帰国するが、間もなく発病し、同年7月22日、胃潰瘍のため[9]48歳で歿した。

著書
・『日本近世史』 第1巻 上冊 第1、冨山房 1903

・『近世の日本』冨山房 1919

・『日本近世史・近世の日本』平凡社東洋文庫(上記二冊)

・『内田銀蔵遺稿全集』全5巻 同文館 1921-1922

  ・(1)日本経済史の研究 上巻

  ・(2)日本経済史の研究 下巻

  ・(3)国史総論及日本近世史

  ・(4)史学研究法及史学理論

  ・(5)内田銀蔵講論集

脚注
1. 『京都帝国大学一覧 自大正9年至大正11年』京都帝国大学、1921年、p.293
2. 『会員名簿 昭和2年11月』早稲田大学校友会、1927年、p.2
3. 『官報』第3910号、明治29年7月11日、p.119
4. 『東京帝国大学一覧 従明治29年至明治30年』東京帝国大学、1896年、p.322
5. 『官報』第5785号、明治35年10月14日、p.260
6. 『官報』第5868号、明治36年1月27日、p.517
7. 坂本賞三「日本中世史の形成」『史人』第6号 2015年、2018年7月15日閲覧
8. 『官報』第6886号、明治39年6月14日、p.456
9. 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』(吉川弘文館、2010年)54頁
(wikiより)

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⇧ 内田銀蔵

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造船技術者・渡邉忠右衛門 ( わたなべ - ちゅうえもん )


横浜における民間造船業のパイオニアである渡邉忠右衛門は、嘉永元 ( 1848 ) 年伊豆国戸田 ( へた ) 村で生まれた。


父・金右衛門は、安政元年 12月 ( 1854 ) に沈没したロシア艦船「ディアナ号」の代替船「ヘダ号」建造にあたった船大工 ( 「造船世話掛(ぞうせんせわがかり)」 ) の 1人であり、その後石川島造船所で「君沢型 ( きみさわがた )」と呼ばれる洋式船の建造に従事した。


忠右衛門もまた文久 3 ( 1863 ) 年 15歳で石川島造船所に入り、その後横須賀製鉄所をへて、横浜居留地のヨコハマ・アイアン・ワークス、築地の海軍兵学寮をへて、横浜の三菱製鉄所、横浜船渠 ( よこはませんきょ ) と技術者として渡り歩き、明治 29 ( 1896 ) 年平沼町 4丁目に丙申 ( へいしん ) 工場を、31年には高島に渡邉造船鉄工所を設けて独立。


明治 41 ( 1909 ) 年神奈川台場東の海面を埋め立てて、本格的な乾ドック ( かんどっく ) をもつ渡邉船渠会社を開いた。


忠右衛門は大正 9 ( 1920 ) 年に 72歳で逝去している。


豊富とはいえない渡邉忠右衛門の履歴資料ではあるが、忠右衛門のような技術者が、明治日本の近代化を底辺で支えたことは間違いなく、私は平成 11年の当館企画展示「工業都市への鳴動―ビールから自動車まで」においてやや詳しく紹介した。


渡邉船渠は昭和 8 ( 1933 ) 年に操業を終え、不動産部門を運営する現在の渡邉戊申株式会社 ( 明治 41年創業・在神奈川区 ) が渡邉家の事業として残ることとなった。


渡邉戊申株式会社・渡邉淳社長から、平成 20年に「当社が創立 100周年を迎えるにあたり、記念としてこれまでご縁のあった横浜市のいくつかの施設に寄付をしたいが、なにかよい使い道はないか」との連絡をいただいた。大変ありがたいお申し出であり、横浜市がご寄付を受納するかたちをとり、以下の資料が開港資料館の収蔵品として収まることとなった。


拓本・渡邊忠右衛門翁碑

中区北方・妙香寺 ( みょうこうじ ) の本堂から墓地にのぼる階段のわきにある石柱で区切られた一画に、大きな台座石に支えられた高さ 3メートルをこえる巨大な石碑がある。自然石の表面に「渡邊忠右衛門翁碑」と刻まれた文面は漢文で、忠右衛門の履歴を記している。


企画展示「工業都市への鳴動」では、文字をノートに書き取り、ワープロ入力したうえで展示パネルを作成したが、今回は専門業者に依頼して拓本をとり、軸装をお願いした。


石碑の建立は忠右衛門氏逝去の 3年をへた大正 12 ( 1923 ) 年であり、85年の歳月は、文字を刻んだ部分の表面に細かな剥離を生じさせていたが、解読不能の文字はなかった。


拓本を軸装したところ、タテ 233センチ×ヨコ 158センチとなり、開港資料館の企画展示室では陳列できないものとなった。そこでさらにお願いして、当館展示室のグリッドに掛けられるような縮小版も作成させていただいた。
(開港のひろばより)

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〇 旧官営富岡製糸場 工女の説明

旧官営富岡製糸場は、日本の近代国家への礎として、明治政府が総力を結集し国営で創設した。


外国人の設計による西洋式建物 ( 木骨レンガ造り ) で、我が国最初の工場化された産業施設であり、近代産業の象徴として又日本蚕糸工業の官営模範工場として、一八七二年 ( 明治五年 ) 十月に操業を開始した。


現在は片倉工業株式会社富岡工場となっている。

この操業に当たって特に苦心したのが工女の募集である。


当時、ブドウ酒を飲む外国人を見た民衆は、「若い娘の生き血を飲んでいる」といって恐れ、噂が噂を生み工女の確保に大変困ったという。


初代所長長尾惇忠は率先してまず自分の娘を入場させ、全国各府県の士族から工女を集めたという。


翌年一八七三 ( 明治六年 ) 一月には、工女総数四百四人に達し、当工場で生産する生糸は品質優良で海外に名声を博し、特に一八七三年ウィーンで開かれた万国博覧会において入賞している。


国の繁栄のため遠く親元を離れ、病のため異郷のこの地に命を落とした乙女たち四十八人の墓が、小さな肩を寄り添うように墓地中心部に立っていて、乙女たちのけなげな姿を現在に伝えている。
(案内板より)


 大雨のため全部の墓石を撮影することが出来ませんでした。

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富岡製糸場(とみおかせいしじょう、Tomioka Silk Mill)は、群馬県富岡に設立された日本初の本格的な機械製糸[注釈 1]の工場である。1872年明治5年)の開業当時の繰糸所、繭倉庫などが現存している。日本の近代化だけでなく、絹産業の技術革新・交流などにも大きく貢献した工場であり、敷地を含む全体が国の史跡に、初期の建造物群が国宝および重要文化財に指定されている。また、「富岡製糸場と絹産業遺産群」の構成資産として、2014年6月21日の第38回世界遺産委員会ドーハ)で正式登録された[1]


時期によって「富岡製糸場」(1872年から)、「富岡製糸所」(1876年から)、「原富岡製糸所」(1902年から)、「株式会社富岡製糸所」(1938年から)、「片倉富岡製糸所」(1939年から)、「片倉工業株式会社富岡工場」(1946年から[注釈 2])とたびたび名称を変更している[2]史跡国宝重要文化財としての名称は「旧富岡製糸場」、世界遺産暫定リスト記載物件構成資産としての名称は「富岡製糸場」である。

概要

日本は江戸時代末期に開国した際、生糸が主要な輸出品となっていたが、粗製濫造の横行によって国際的評価を落としていた。そのため、官営の器械製糸工場建設が計画されるようになる。


富岡製糸場は1872年にフランスの技術を導入して設立された官営模範工場であり、器械製糸工場としては、当時世界最大級の規模を持っていた。そこに導入された日本の気候にも配慮した器械は後続の製糸工場にも取り入れられ、働いていた工女たちは各地で技術を伝えることに貢献した。


1893年に三井家に払い下げられ、1902年に原合名会社、1939年に片倉製糸紡績会社(現片倉工業)と経営母体は変わったが、1987年に操業を停止するまで、第二次世界大戦中も含め、一貫して製糸工場として機能した。


第二次世界大戦
時のアメリカ軍空襲の被害を受けずに済んだ上、操業停止後も片倉工業が保存に尽力したことなどもあって、繰糸所を始めとする開業当初の木骨レンガ造の建造物群が良好な状態で現代まで残っている。2005年に敷地全体が国の史跡に、2006年に初期の主要建造物(建築物7棟、貯水槽1基、排水溝1所)が重要文化財の指定を受け、2007年には他の蚕業文化財とともに「富岡製糸場と絹産業遺産群」として世界遺産の暫定リストに記載された。2014年6月に世界遺産登録の可否が審議され、6月21日に日本の近代化遺産で初の世界遺産リスト登録物件となった。

歴史
建設決定まで

開国直後の日本では、生糸蚕種などの輸出が急速に伸びた。ことに生糸の輸出拡大の背景には、ヨーロッパにおける生糸の生産地であるフランスイタリア微粒子病[注釈 3]という蚕の病気が大流行し、ヨーロッパの養蚕業が壊滅的な打撃を被っていたことや[3]太平天国の乱によっての生糸輸出が振るわなくなっていたことなどが背景にあった[4]。その結果、1862年(文久2年)には日本からの輸出品の86%を生糸と蚕種が占めるまでになったが[5]、急激な需要の増大は粗製濫造を招き、日本の生糸の国際的評価の低落につながった[6][7]。また、イタリアの製糸業の回復も日本にとっては向かい風になり、日本製生糸の価格は1868年から下落に転じた[4]

明治政府には、外国商人などから器械製糸場建設の要望が出されており、エシュト・リリアンタール商会[注釈 4]からは資金提供の申し出まであった。これが直接的な引き金となって器械製糸工場建設が実現に向かうが[8]、政府内では外国資本を入れず、むしろ国策として器械製糸工場を建設すべきという意見が持ち上がり、1870年(明治3年)2月に器械製糸の官営模範工場建設が決定した[9][10]。これは粗製濫造問題への対応というよりも、従来の座繰りによる製糸では太さが揃わなかったために、経糸たていとよりも安価で取引される緯糸よこいととして使われることが多かった実態を踏まえ、その改良を志向した側面があったとも言われている[11]

同時に政府は器械製糸技術の導入を奨励しており[6]前橋藩では速水堅曹らが同じ年に藩営前橋製糸所を設立した。これは日本初の器械製糸工場と見なされているが[12]、イタリアで製糸業に従事した経験を持つスイス人ミュラーを雇い入れ、イタリア式の製糸器械を導入したものであり、当初は6人繰り、次いで12人繰りという小規模なものにとどまった[13][14]


大隈重信伊藤博文渋沢栄一は官営の器械製糸場建設のため、フランス公使館通訳アルベール・シャルル・デュ・ブスケおよびエシュト・リリアンタール商会横浜支店長ガイゼンハイマー (F. Geisenheimer) に、いわゆるお雇い外国人として適任者を紹介するように要請したところ、エシュト・リリアンタール商会横浜支店に生糸検査人として勤務していたポール・ブリューナ (Paul Brunat) の名が挙がった[15]。明治政府はブリューナが提出した詳細な「見込み書」の内容を吟味した上で、1870年(明治3年)6月に仮契約を結んだ[16]

ブリューナは仮契約後すぐに尾高惇忠らを伴って、長野県群馬県埼玉県などを視察し、製糸場建設予定地の選定に入った。そして、明治3年閏10月7日に民部大輔らと正式な雇用契約を取り交わすと[17]、同月17日には富岡を建設地とすることを最終決定している[18]。この決定は、周辺で養蚕業がさかんで繭の調達が容易であることや、建設予定地周辺の土質が悪く、農業には不向きな土地であること[19]、水や石炭などの製糸に必要な資源の調達が可能であること、全町民が建設に同意したこと、元和年間に富岡を拓いた代官中野七蔵が代官屋敷の建設予定地として確保してあった土地が公有地として残されており、それを工場用地の一部に当てられること[10]など、様々な要件が考慮された結果であった。

建設

ブリューナは製糸場の設計のために、横須賀製鉄所のお雇い外国人だったエドモン・オーギュスト・バスチャンに依頼し、設計図を作成させた[20]。バスチャンは明治3年11月初旬に依頼を受けると、同年12月26日(1871年2月15日[21])に完成させた[20]。彼が短期間のうちに主要建造物群の設計を完成させられた背景としては、木骨レンガ造の横須賀製鉄所を設計した際の経験を活かせたことが挙げられている[20][22][注釈 5]


ブリューナは設計図の完成を踏まえ、翌月22日(1871年3月12日[21])に器械購入と技術者雇用のためにフランスに帰国した[21]。ブリューナは建設予定地調査の折に、地元工女に在来の手法で糸を繰らせて日本的な特徴を把握しており[23]、それを踏まえて製糸場用の器械は特別注文した[24]。目的を達したブリューナはその年の内、すなわち明治4年11月8日(1871年12月19日)に妻らとともに再来日を果たすことになる。


他方で、ブリューナが日本を発ったのと同じ月には、尾高惇忠が日本側の責任者となって資材の調達に着手し、1871年(明治4年)3月には着工にこぎつけていた[10]。建築資材のうち、石材、木材、レンガ、漆喰などは周辺地域で調達した。なお、レンガはまだ一般的な建材ではなく、明戸村(現埼玉県深谷市)からも瓦職人を呼び寄せ、良質の粘土を産する福島村(現甘楽町福島)に設置した窯で焼き上げた[25]。この時期、民部省庶務司から大蔵省勧業司へと所管が変わった(明治4年7月24日)[26]


建設を進めることと並行し、明治5年(1872年)2月12日に政府から工女[注釈 6]募集の布達が出された[27]。しかし、「工女になると西洋人に生き血を飲まれる」(西洋人が飲んでいた赤ワインを生き血と誤解したもの)などの根拠のない噂話が広まっていたことなどから、思うように集まらず、政府は生き血を取られるという話を打ち消すとともに、富岡製糸場の意義やそこで技術を習得した工女の重要性などを説く布告をたびたび出した[28][24]。このような状況の中で尾高は、噂を払拭する狙いで娘の勇(ゆう)を最初の工女として入場させた[29][30][注釈 7]。富岡製糸場は、1872年7月に主要部分の建設工事が終わるのに合わせて開業される予定だったが、予定よりも遅れた[24]。その理由の一つには、この工女不足の問題があったと推測されている[31]

官営時代
富岡製糸場は、明治5年10月4日1872年11月4日)に官営模範工場の一つとして操業を開始した。ただし、当初は工女不足から210人あまりの工女たちで全体の半分の繰糸器を使って操業するにとどまった[32]。翌年1月の時点で入場していた工女は404人で、主に旧士族などの娘が集められていた[24]。同年4月に就業していた工女は556人となり[33]、4月入場者には『富岡日記』で知られる和田英(横田英)も含まれていた[34][24]

製糸場の中心をなす繰糸所は繰糸器300釜を擁した巨大建造物であり、フランスやイタリアの製糸工場ですら繰糸器は150釜程度までが一般的とされていた時代にあって、世界最大級の規模を持っていた[35][36]。また、特徴的なのは揚返器156窓も備えていたことである。揚返あげかえしは再繰ともいい、小枠に一度巻き取った生糸を大枠に巻き直す工程で、湿度の高い日本の気候の場合、一度巻き取っただけではセリシン(生糸を繭として固めていた成分)の作用で再膠着する恐れがあり、それを防ぐために欠かせなかった[37]。これに対し、ヨーロッパの場合はこの工程を省く直繰ちょくそう式が一般的で、前出の前橋製糸所が導入した器械も直繰式であった[38]。前出の通り、ブリューナは富岡製糸場のための器械を特注していたが、その一つはこの日本の気候に合わせて再繰式を導入する点にあった[39][注釈 8]。なお、特別注文したほかの点には、日本人女性の体格に合わせて高さの調整をしたことなどが挙げられる[40]


工女たちの労働環境は充実していた。当時としては先進的な七曜制の導入と日曜休み、年末年始と夏期の10日ずつの休暇[41][42]、1日8時間程度[注釈 9]の労働で、食費・寮費・医療費などは製糸場持ち、制服も貸与された[43]。群馬県では県令楫取素彦が教育に熱心だったこともあり、1877年(明治10年)には変則的な小学校である工女余暇学校の制度が始まり、以前から工女の余暇を利用した教育機会が設けられていた富岡製糸場でも、1878年(明治11年)までには工女余暇学校が設置された[44]。しかし、官営としてさまざまな規律が存在していたことや、作業場内の騒音など、若い工女たちにとってはストレスとなる要因も少なくなかった[43]。そのため、満期(1年から3年)を迎えずに退職する者も多く、その入れ替わりの頻繁さから不熟練工を多く抱え、赤字経営を生む一因となった[45]。また、様々な身分の若い女性が同じ場所で生活していたことから、上流出身の女性の身なりに合わせたがる工女も少なくなく、出入りしていた呉服商・小間物商から月賦払いで服飾品を購入して借金を重ねる事例もしばしば見られた[46]


工女たちは熟練度によって等級に分けられていた。開業当初は一等から三等および等外からなっていたが、1873年には等外上等および一等から七等の8階級に変わった[43]。工女たちはブリューナがフランスから連れてきたフランス人教婦たちから製糸技術を学び、1873年5月には尾高勇ら一等工女の手になる生糸がウィーン万国博覧会で「二等進歩賞牌」を受賞した[47]。これは品質面の評価よりも、近代化されたことに対する評価だったという指摘もあるが[48]、開業間もない富岡製糸場の評価を高めたことに変わりはなく[49][47]リヨンミラノの絹織物に富岡製の生糸が使われることにつながったとされる[50]。工女たちは、後に日本全国に建設された製糸工場に繰糸の方法を伝授する役割も果たした。和田英や春日蝶が1874年7月に帰郷したのも、そうした工場の一つである民営の西条製糸場(のちの六工社)で指導に当たるためであった[51]。なお、初期には人数は少なかったが、蒸気機関の扱いなどを学ぶための工男たちも受け入れており、西条製糸場の設立にも、そうした工男が貢献している[52][53]


初期の富岡製糸場は初代所長(場長)尾高惇忠、首長ポール・ブリューナを中心に運営されたが、前述の不熟練工の問題やブリューナ以下フランス人教婦、検査人などのお雇い外国人たちに支払う高額の俸給、さらに官営ならではの非効率さなどの理由から大幅な赤字が続いていた[54][55]


契約満了につきブリューナとフランス人医師が去った1875年(明治8年)12月31日をもって、富岡製糸場のお雇い外国人は一人もいなくなった[56]。日本人のみの経営となった最初の年度、明治9年度[注釈 10]には大幅な黒字に転じた。この理由としては、お雇い外国人への支出がなくなったことのほか、所長の尾高の大胆な繭の思惑買いなどが奏功したことが挙げられる[57]。しかし、尾高の思惑買いは、彼が当時政府が認めていなかった秋蚕の導入に積極的だったことなどと併せ、政府との対立を生む原因になり、尾高は富岡製糸場が富岡製糸所と改称された翌月に当たる1876年(明治9年)11月に所長を退いた[58]


翌年度には、従来、エシュト・リリアンタール社を経てリヨンに輸出されていた生糸が、三井物産によってリヨンへ直輸出されるようにもなり、日本人による直輸出が始まった[59][注釈 11]


内務省の官吏だった速水堅曹はかねてから民営化も含めた抜本改革を提言していたが、西南戦争(1877年)の勃発によって一時的に棚上げされた[60]。しかし、1878年(明治11年)にパリ万国博覧会に赴いていた松方正義(当時は勧農局長)が富岡の生糸の質の低下を指摘されたことから、速水が富岡製糸所の改革を任されることになる[61][62]。速水は、尾高の後任だった山田令行が改革を阻害しているとして更迭を進言し、これを実現させた[63]。松方は後任として速水を第3代所長に任命したが、民営化を主張する速水は1880年(明治13年)11月5日の「官営工場払下概則」制定と前後して、富岡製糸所の生糸の直輸出を一手に担う横浜同伸会社設立に関わり所長を辞任、かわって同伸会社の社長に就任した[64]。この時点では、民間人となった速水が富岡製糸所を5年間借り受けるという話が、松方との間で事実上内定していたが、群馬県令の反対などもあって、政府は最終的にこれを認めなかった[65]。他方で、ほかに払い下げを希望する民間人は現れなかった。富岡製糸所の巨大さが、当時の民間資本では手に余る存在だったからと言われている[66][67]。「官営工場払下概則」が結果的に払い下げを促進することにはならずに1884年に廃止されると、官営工場の払い下げは急速に進んだが[68]、富岡製糸場は払い下げの見通しが立たないまま、官営の時期がなおも続いた。


第4代所長の岡野朝治の時期は、度々の糸価下落などの影響を受け、経営的に厳しい時期にあたっていた[69]。そうした状況を受け、1885年(明治18年)には速水が第5代所長として復帰した。速水は同伸会社社長時代に、一手に輸出を引き受けていた富岡製糸所の生糸を、リヨン以外にニューヨークにも輸出するようになっていた[70]。彼は製糸所所長として改革を進める一方で、アメリカ向けの輸出も増やし、米仏の両国で富岡の生糸の評価を高めた[71][72][注釈 12]。他方で速水は民営化を引き続いて主張していたが、それは1890年代になってようやく実現することになる。

三井家時代

1891年(明治24年)6月に払い下げのための入札が初めて行われたが、このときに応札した片倉兼太郎貴志喜助はいずれも予定価額(5万5000円)に大きく及ばず、不成立になった[73]。改めて1893年(明治26年)9月10日に行われた入札では、最高額入札となった三井家が12万1460円をつけ、予定価額10万5000円[注釈 13]を上回ったため、払い下げが決定した(引渡しは10月1日)[74]


三井家の時代の経営はおおむね良好で[2][75]、繰糸所に加えて木造平屋建ての第二工場を新設したほか[76]、第一工場(旧繰糸所)からは揚返器を撤去し、揚返場を西置繭所1階に新設した。これは蒸気機関のせいで繰糸所内が多湿であったことから、揚返場を兼ねさせることに不都合があったためである[77][注釈 14]。この時期には新型繰糸機などが導入され[2]、開業当初の繰糸器、揚返器はすべて姿を消した[78]。そのような新体制の下で生産された生糸は、すべてアメリカ向けに輸出された[79]


この時期に寄宿舎も新設したが、工女の約半数は通勤になっている[80]。工女の労働時間は、開業当初に比べると伸ばされる傾向にあり、6月の実働時間は11時間55分、12月には8時間55分となっていた[81]。読み書きや裁縫を教える1時間程度の夜学は継続されていたが、長時間労働で疲れた工女たちは必ずしも就学に熱心でなかったという[82]


三井
は富岡以外にも3つの製糸工場を抱えていたが、4工場全てを併せた収益は好調とはいえなかった[83]。また、三井家の中で製糸工場の維持に積極的だった銀行部理事の中上川彦次郎が病没したことも、製糸業存続には向かい風となった[84]。こうして、三井は1902年(明治35年)9月13日に4工場全てを一括して原富太郎原合名会社に譲渡した[85]。原が4工場の代価として支払ったのは、即金10万円と年賦払い(10年)13万5000円であった[85]

原合名会社時代

原合名会社が富岡製糸所を手に入れると、その翌月に当たる1902年10月に原富岡製糸所と改名した[2]。1900年前後には郡是製糸(現グンゼ)を始め、繭質改良に積極的な事業者が現れ、蚕種を安価で配布するものも現れていた[86]。蚕種を養蚕農家に配布することは、繭の品質向上と均質化に寄与するものであった。原合名会社も、まず原名古屋製糸所で1903年(明治36年)から蚕種の配布を始め、1906年(明治39年)からは原富岡製糸所でも開始した[87]。原富岡での蚕種の配布は無償で行なわれ、その数を増やしていく上では、群馬で発祥し、全国的に影響のあった養蚕教育機関高山社の協力も仰いだ[87]。また、工女たちの教育機会の確保は継続されており、娯楽の提供などの福利厚生面にも配慮されていたが、それらについては「普通糸」よりも質の高い「優等糸」を生産していた富岡製糸所にとっては、熟練工をつなぎとめておくことが必要であったからとも指摘されている[88][89][注釈 15]


原時代は第一次世界大戦(1914年勃発)や、世界恐慌(1929年)に見舞われた時期を含んでいる。いずれの時期にも生産量は減少しており、ことに1932年(昭和7年)には大幅な減少を経験した[90]。しかし、それから間もなく8緒[注釈 16]TO式繰糸器御法川式繰糸器を撤去し、20緒のTO式および御法川式を大増設し、生産性は上昇した[91]。1936年(昭和11年)には14万7000キログラムの生産量を記録し、過去最高となった[92]


このように生産性の向上は見られたが、満州事変日中戦争によって国際情勢は不安定化していき、1938年(昭和13年)には群馬県最大(全国2位)の山十製糸が倒産した[93]。このような情勢の中、原富岡製糸所の大久保佐一工場長が組合製糸会社(大久保が社長を兼務)のトラブルがもとで自殺したことや、原富太郎の後継者原善一郎が早世するなど、原合資会社内部の混乱が重なっていた[94]。さらに、主要輸出先アメリカで絹の代替となるナイロンが台頭し、先行きにも懸念があった[95]。そのため、原合名会社は山十が倒産したのと同じ1938年に製糸事業の縮小に踏み切った[96]。富岡製糸所は切り離されて、同年6月1日に株式会社富岡製糸所として独立した[97]。形式上の代表取締役は西郷健雄(原富太郎の娘婿)であったが[98]、経営は筆頭株主の片倉製糸紡績会社が担当することになった[96]

詳しいことは、『富岡製糸場ウィキペディア』をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E5%B2%A1%E8%A3%BD%E7%B3%B8%E5%A0%B4
(wikiより)

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加藤司書の子で、玄洋社員として活動した。

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高場 乱(たかば おさむ、天保2年10月8日1831年11月11日) - 明治24年(1891年3月31日)は、江戸時代末期の女性儒学者で、医者、教育者。筑前国博多の人。幼名は養命。は元陽のち乱。通称は小刀。号は仙芝など。

経歴

筑前国博多瓦町の眼科医・高場正山の末子として生まれる。高場家は代々眼科医の名門で福岡藩の藩医を努めていたが、幼名の「養命」からうかがえるように、乱は男として育てられた。天保12年(1841年)、10歳で(男として)元服。なお、この元服は藩に受理された公的なものである。異例と言えなくはないが、福岡藩の支藩にあたる秋月藩には原采蘋という男装帯刀の女性儒学者がすでにいた。16歳で一度は夫を得るが、これを不服として自ら離縁、20歳の時に亀井昭陽の亀井塾に入る。亀井塾は身分性別を問わない学風で、実際に女性の弟子も多かった。先に挙げた原采蘋もその一人である。


亀井塾で学問を修めた乱は明治6年(1873年)、福岡藩の薬用人参畑跡(現在博多駅の近く)に私塾興志塾(通称「人参畑塾」)を開設、医業の傍らで教育にも携わる道を選んだ。弟子は何故か乱暴者が多く、乱もあえてそういった人物を拒まなかったという。そのせいか乱は世間から「人参畑の女傑」と呼ばれ、塾も「梁山泊」などと呼ばれていたというが、乱自身は生来虚弱で、華奢であったと伝えられている。そんな興志塾に明治7年(1874年)頃に入門したのが頭山満であるが、彼の他にも後に玄洋社の主要なメンバーとなった平岡浩太郎進藤喜平太箱田六輔武部小四郎などはいずれも興志塾で学んだ。


その弟子たちが起こした明治10年(1877年)3月の福岡の変への関与を疑われ、乱も一時は拘束されるが、釈放されている。その後、頭山らが結成した向陽社(玄洋社の前身)内部の抗争を仲裁するなどしつつ、弟子たちの行く末を見守っていたが、自由民権運動のうねりの中で多くの弟子たちが命を失っていった。ことに、弟子の一人である来島恒喜大隈重信へテロを仕掛け自殺したことには衝撃を受けたようで、これを「匹夫の勇」(思慮浅く、ただ血気にはやって行動したがるだけの勇気)と評した書簡が残っている。来島の自殺の翌年、乱は後を追うように病床に伏し、医者であるにも関わらず一切の治療を拒みながら、弟子たちに看取られつつ逝去した。明治24年(1891年)3月31日のこと、59歳であった。


墓所は福岡市の崇福寺にあり、その墓碑銘「高場先生之墓」は勝海舟が書いている。

参考文献
・永畑道子『凛―近代日本の女魁・高場乱』藤原書店, 1997。 ISBN 978-4894340633

・石瀧豊美『玄洋社・封印された実像』海鳥社、2010年。ISBN 978-4874157879

・荒井周大編『福岡県碑誌』福岡県碑誌保存會、昭和4年(崇福寺・玄洋社墓地の勝海舟の墓碑撰文、漢詩)

・浦辺登著『玄洋社とは何者か』弦書房、2020年、ISBN978-4-86329-154-6
(wikiより)

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⇧ 高場 乱

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⇧⇩ 墓碑銘「高場先生之墓」は勝海舟が書いている。

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来島 恒喜(くるしま つねき、1860年1月31日安政6年12月30日) - 1889年(明治22年)10月18日)は、日本右翼活動家、不平士族、テロリスト。筑前共愛公衆会玄洋社元社員。

概要

外国人司法官任用問題」も参照

福岡藩士・来島又右衛門の二男として現在の福岡県福岡市に生まれる。


高場乱
興志塾に学び、堅志社十一学舎を経て、1879年(明治12年)4月、向陽義塾に加入する[1]

1883年(明治16年)4月、上京し中江兆民に仏語を学んだ後、筑前共愛公衆会や、頭山満率いる玄洋社に参加する。一時、小笠原諸島に玄洋社の的野半介竹下篤次郎と渡り、同地に送られた朝鮮開化党金玉均と過ごし、朝鮮の政治改革について語り合った。


その後、大隈重信の条約改正案に反対し、現状の日本の国際地位ではこの改正案が第一歩として次の改正に繋がると批判しなかった[要出典]玄洋社を退社。(退社の理由は他の社員が共犯関係を疑われて刑事責任を負わされる可能性を最小限に抑える為とも言われる)。計画には同じく玄洋社の社員であった月成功太郎も加わっていたが、老母、妻子を持つ月成の身を欺き、単独で決行した。


1889年
(明治22年)10月18日、外務省からの帰路にあった大隈に、彼の乗る馬車へ爆弾を投げつけた。爆弾は馬車の中に入り、大隈の足元で爆発した[2]。来島はその場で短刀で喉を突き自害した[2]。享年29。大隈は命はとりとめたものの、顔と手に軽症、右膝とくるぶしに重症を負い、右脚を切断することとなった[2]。かねてから条約交渉に反発していた閣僚らは、黒田清隆首相に条約改正交渉の中止を求めた。これにより黒田内閣は総辞職に追い込まれ、条約改正は頓挫した[3]。来島の死後、石工広田徳平により、墓碑が寄贈された。また、博多の玄洋社墓地(崇福寺)にも墓があるが、勝海舟によって谷中霊園にも墓が建てられた。同墓はその後、頭山満によって建て替えられたが、当初の墓石も傍に横たえて残されている。


後に、友好関係にあり眠食も共にした杉山茂丸が自身の著書『百魔』の中で、以前、自決することを仄めかす様な事を言ったとある。また、上京することを杉山に告げた際、時期でないと止められたが、林斧助という人に杉山宛の手紙を残したまま上京した、ともある。

逸話

・大隈の治療は、池田謙斎を主治医とし、手術は佐藤進高木兼寛橋本綱常エルヴィン・フォン・ベルツの執刀で行われた[2]。大隈はその後、来島について「爆裂弾を放りつけた奴を、決して気違いの人間で、憎い奴とは寸毫も思わず。」「華厳の滝に飛び込む弱虫よりは、よっぽどエライ者と思うておる」「いやしくも外務大臣である我が輩に爆裂弾を食わせて世論を覆そうとした勇気は、蛮勇であろうと何であろうと感心する。」と語っている[4]小久保喜七は毎年来島のために年忌を行っていたが、大隈は毎年法要に代理人を送ってきたという。大隈の没後も、養嗣子の大隈信常によって代理人の派遣は続けられた[5]


・来島も学んだ興志塾(通称人参畑塾)の塾長高場乱(たかばおさむ)は国際情勢や日本の国際環境を理解しない浅はかな者だと否定し、批判している[6]。一方で、自決したことには「ながらえて明治の年の秋なから心にあらぬ月を見るかな」という嘆きの歌を詠んでいる[7]


・博多の侠客「勇敢仁平」の異名をとる大野仁平と乱闘となり、燭台で大野仁平の頭をたたき割っている。


・来島の墓碑を寄贈した広田徳平は、後に首相となる広田弘毅の父。また、計画に加わっていた月成功太郎は弘毅の妻の父であり、岳父にあたる。

登場する作品

・『風蕭々』 - 尾崎士郎の短編小説。大隈重信の遭難事件を来島の視点から描いた作品。

日本暗殺秘録(1969年、東映) - 演:吉田輝雄

・『テロルの系譜』「綺異譚 来島恒喜」(1975年、日本文華社) - かわぐちかいじの漫画作品。

春の波涛(1985年、NHK) - 演:堀隆博

夜会の果て(1997年、NHK) - 演:林邦史朗

八重の桜(2013年、NHK) - 演:大平真嗣

・『ゴーマニズム宣言SPECIAL 大東亜論 巨傑誕生篇』(2014年、小学館) - 小林よしのりの漫画作品。

・「高場乱」(2020年、ユーチューブ配信)語り芝居:岩城朋子

脚注
1. 凛―近代日本の女魁・高場乱p16,永畑道子,藤原書店,1997年3月1日

2. a b c d 伊藤之雄 & 2019上, p. 346.
3. 伊藤之雄 & 2019上, p. 346-347.
4. 大隈重信『青年の為に』(東亜堂,1919) p.113https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/933317
5. 伊藤之雄 & 2019上, p. 348.
6. 凛―近代日本の女魁・高場乱,永畑道子p56,藤原書店,1997年3月1日
7. 凛―近代日本の女魁・高場乱p62,永畑道子,藤原書店,1997年3月1日

参考文献
北川晃二『黙してゆかむ―広田弘毅の生涯』(1975年、講談社ISBN 978-4061840959

頭山統一『筑前玄洋社』(1977年9月、葦書房ISBN 978-4751200353

浦辺登『太宰府天満宮の定遠館―遠の朝廷から日清戦争まで』(2009年8月20日、弦書房ISBN 978-4863290266

石瀧豊美『玄洋社・封印された実像』(2010年10月15日、海鳥社ISBN 978-4874157879

小林よしのり『ゴーマニズム宣言スペシャル 反TPP論』(2012年2月24日、幻冬舎ISBN 978-4344021341

伊藤之雄大隈重信(上)「巨人」が夢見たもの』中央公論新社〈中公新書〉、2019年7月。ISBN 978-4-12-102550-0

・浦辺登著『玄洋社とは何者か』弦書房、2020年、ISBN978-4-86329-154-6

関連項目
玄洋社

頭山満

中江兆民

大隈重信

杉山茂丸

大野仁平
(wikiより)

042 来島恒喜

⇧ 来島恒喜

042c

042a

042b

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頭山 満(とうやま みつる、安政2年4月12日1855年5月27日[1] - 昭和19年(1944年10月5日[1]、幼名:乙次郎)は、日本国家主義者、大アジア主義[2]は立雲[1]


1878年
板垣退助の影響で自由民権運動に参加して国会開設運動を行い、向陽社(のち共愛会)を創設したが、1881年に国会開設の詔勅が出ると共愛会を玄洋社と改名し、自由民権論から離れて国権伸張を主張し、大アジア主義を唱導するようになり、玄洋社の中心人物として対外強硬論を主張し続け、韓国併合などを推進した[2]

概略

頭山満の組織した玄洋社は、日本における民間の国家主義運動の草分け的存在であり、後の愛国主義団体や右翼団体に道を開いたとされる。また、教え子の内田良平の奨めで黒龍会顧問となると、大陸浪人にも影響力を及ぼす右翼の巨頭・黒幕的存在と見られた。一方、中江兆民吉野作造などの民権運動家や、遠縁のアナキスト伊藤野枝大杉栄とも交流があった。また、鳥尾小弥太犬養毅広田弘毅など政界にも広い人脈を持ち、実業家(鉱山経営者)や篤志家としての側面も持っていた[3]


条約改正交渉
に関しては、一貫して強硬姿勢の主張をおこない、また、早い時期から日本の海外進出を訴え、対露同志会に加わって日露戦争開戦論を主張した。同時に、朝鮮金玉均中国孫文蔣介石インドラス・ビハリ・ボースベトナムファン・ボイ・チャウなど、日本に亡命したアジア各地の民族主義者・独立運動家への援助を積極的に行った[4]

生涯
初期の経歴

安政2年(1855年)4月12日、筑前国早良郡西新町福岡藩士・筒井亀策の三男として生まれる[1]。幼名は乙次郎(おとじろう)[5]。のちに鎮西八郎為朝にあやかって、自ら八郎と名を改める[6]。13歳の時には、太宰府天満宮の「満」から名前を授かって筒井満と改める[6]。1871年、16歳の時に、父の従弟の山本兵蔵の養子となり、山本に姓をあらためるが、しばらくして実家に戻る[7]。1873年の春に、男手のなかった母方の頭山家に当時3歳だった娘の峰尾の婿として迎え入れられ、頭山に姓を改める[7]。なお、頭山が峰尾と正式に結婚するのは、1885年頭山が30歳になってからである[7]。筒井家は福岡藩百石取りの馬廻役であったものの、家計は苦しかった[5]

町でサツマイモを売り歩く貧しい少年時代をすごす[要出典]。「小さいときから記憶力が強くて物事を語ることが鋭敏」だったと言われている。幼少期に桜田義士伝の講談に連れて行かれた際に、家に帰ってから最初から最後までを人名とともに説明してみせた、という記憶力の良さを示すエピソードが伝わる[6]慶応元年(1865年)、11歳の時に「楠木正成のような人物になりたい」という思いから生家の庭に植えたクスノキが、現在も生家跡(現・西新エルモールプラリバ)北側の西新緑地に残る[6][8]


16歳の時、福岡藩の勤皇派の流れを汲む[要出典]、男装の女医(眼科医)で儒学者の高場乱(たかば おさむ)が開いていた興志塾(高場塾[要出典]、人参塾とも)に入門する[9]。初めは眼病を患い治療のために高場のもとに訪れたが、治療のために通っているうちにこの塾の話を高場に聞かされ興味を持ったことが、入塾のきっかけだった[10]。興志塾は他の塾では断られるような乱暴な少年たちを好んで入門させており、腕白少年たちの巣窟と言われていた。頭山はここで進藤喜平太箱田六輔ら後の玄洋社の創設メンバーと出会う[要出典]。頭山は晩年、当時のことを「教えは徹頭徹尾、実践だった」と回想している[要出典]。頭山は、この興志塾で熱心に学問に取り組み、高場の代わりに浅見絅斎の『靖献遺言』を講義することもあった[11]。この『靖献遺言』は、中国及び日本の中心や義士の遺文や略伝、行状を載せたものであり、幕末の尊王倒幕の思想に大きな影響を与えたといわれている[12]。『靖献遺言』をはじめとしてこの時期に学んだ文献によって、頭山の思想的基盤が形作られたとみられている[11][13]


頭山が興志塾で学んでいた頃、板垣退助らを中心として全国的に自由民権運動が盛んになっていた[14]。1874年の愛国公党の結成を経て、板垣は1875年2月に大阪で愛国社を結成する[14]。この結成大会には興志塾出身の武部小四郎越知彦四郎が参加しており、同年の8月には福岡に戻り、武部を社長とする矯志社(きょうししゃ)、越知を社長とする強忍社(きょうにんしゃ)、箱田六輔を社長とする堅志社(けんししゃ)を設立した[15]。頭山はこのうちの矯志社の社員となった[15]


1874年の佐賀の乱をはじめとして、明治9年(1876年)には神風連の乱、秋月の乱などの不平士族の反乱が相次いで起こった[16]。続いて同年、頭山らの矯志社とつながりの深かった前原一誠が萩の乱起こしたが、この反乱に呼応して矯志社が決起することはなかった[17]。しかし、矯志社は以前から警察当局に警戒されており、同年11月に矯志社の社員でもあった箱田が家宅捜査を受けると、社内で議論されていた大久保利通襲撃を示す文書が見つかり箱田が逮捕される[17]。この逮捕が不当であると抗議するために頭山らは警察に赴くがそのまま拘束され、投獄された[17]。初めは福岡の牢獄に入れられていたが、後に萩に移送された[17]。翌年の西南戦争は獄中で知ることになる。西南戦争時には、約500名の旧福岡藩士も呼応して決起(福岡の変)し、武部や越知がこの中心であった[18]。彼らと同じように、尊敬する西郷隆盛とともに戦えなかった頭山らの悔しい思いが、玄洋社の原点になっている[要出典]。頭山らが釈放されたのは、皮肉にも西郷が自刃した9月24日であった[18]。頭山らは福岡に戻り、海の中道の土地を官有地の払い下げで手に入れる[19]。開墾社を創設して、山林を伐採してその木材を販売し[19]、田畑を開墾して自給自足の生活を送りながら心身の鍛錬に励み[要出典]、来るべき時に備える日々を送った。しかしこの生活も一年半で金銭的に行き詰まった[19]

自由民権運動への参加

西南戦争の翌年の明治11年(1878年)5月14日、大久保利通が暗殺される(紀尾井坂の変)。西郷討伐の中心人物の死を受け、板垣退助が西郷隆盛に続いて決起することを期待して頭山は高知に旅立つ。しかし、板垣は血気にはやる頭山を諭し、言論による戦いを主張する。これをきっかけに自由民権運動に参画した頭山は、板垣が興した立志社集会で初めて演説を体験し、植木枝盛ら民権運動家と交流を結ぶ。


高知から福岡に戻った頭山は福岡の街の不良たちを集め、12月に向陽社を結成し[1]、力づくで地元炭鉱労働者の不満や反発を抑えるようになる。このときも興志塾、開墾社時代からの仲間である進藤喜平太(第二代玄洋社社長)、箱田六輔(第四代社長)が行動をともにし、箱田が向陽社の初代社長となった。翌年1月には、福岡の豪商たちの支援を受けて向陽義塾を開校した。一方で、この時期は日清の対立が表面化した時でもあり、血気盛んな向陽社では、「討清義勇軍」の募集を行い武道の訓練を熱心に行ったと記録されている。子分に気前良く金を与え「スラムの帝王」として知られるようになると地元の政治家達もその暴力に一目おくようになる。

玄洋社
設立

玄洋社は、自由民権運動の結社であった向陽社を改名して結成された[1]。成立年については諸説があり、大正時代に書かれた『玄洋社社史』では明治14年(1881年)2月となっているが、それ以前の活動の記録が残っており、最近では明治12年(1879年)12月成立という研究結果もある[要出典]。社員は61名。自由民権運動を目的とした結社であり、また誰もが例外なく西郷隆盛を敬慕しており、束縛がなくきわめて自由な組織だったと言われている。このなかから、異彩を放つ人材が数々輩出し、近代史に足跡を残すことになる。箱田六輔(30歳)・平岡浩太郎(29歳)・頭山満(25歳)は「玄洋社三傑」と称された。

憲則三条

結成の届け出の際に示された玄洋社の基本精神である「憲則三条」は次の通りである。


・第一条 皇室を敬戴すべし。

・第二条 本国を愛重すべし。

・第三条 人民の権利を固守すべし。

政党政治時代
明治13年(1880年)5月に、頭山は福岡から徒歩で東京に向かい、早稲田の近くに一軒家を借りて住み始めた。7月初めには東北地方に行脚の旅に出て、福島の河野広中はじめ多くの民権運動家と出会った。明治14年(1881年)、政府は国会開設の詔を発布し、九年後の国会開設を決定した。自由民権運動は軌道に乗り、板垣退助自由党を結成して政党政治の時代に移行する。九州でも民権派が結束して九州改進党が発足し、玄洋社にも誘いが来た。しかし、党利党略に明け暮れる運動家たちを嫌った頭山は加盟を見合わせ、玄洋社の面々は各自の事業に専念するようになる。『玄洋社社史』は当時の様子を「頭山は平尾の山荘にあって社員らと農業にいそしみ、箱田は養蚕を業とし、平岡は鉱業に専念する」と伝えている。

金玉均と朝鮮独立党支援

明治17年(1884年)12月6日、朝鮮で日本と結んで自国の近代化を目指した金玉均が率いる独立党によるクーデター(甲申政変)が起こるが、清国軍の介入により三日間で失敗に終わった。


頭山は翌年、半島から長崎にたどり着いた金玉均と神戸の西村旅館で会い、支援のため当時の金で500円(2020年現在の価値で約1,000万円程度)という大金を渡した。

福陵新報創刊
明治20年(1887年)8月、頭山は『福陵新報』(九州日報の前身)を創刊し、社長に就任した。玄洋社の中心的人物でありながらその社長になることすらなかった頭山が生涯で唯一持った肩書だった。紙面は活気に満ち売れ行きも順調であった。この時期に議論の的となったテーマは、不平等条約改正反対運動の盛り上がり、清国に対する敵愾心などである。


不平等条約改正問題
政党政治が始まった当時の日本で、最も関心が高かったテーマの一つが条約改正である。これは、幕末に結ばれた不平等条約を対等条約に改めようという政治課題であるが、実際に政府が作る改正案はいまだに諸外国の圧力に屈した内容であったため、自由民権運動の流れを汲む活動家たちは「改正反対」を声高に訴えていた。頭山は、その不平等条約改正反対運動のリーダー的存在であり、また民権主義を訴えるだけでは国家の存立は困難と考え自由民権運動とは一線を画す手法をとるようになっていた。明治22年(1889年)10月18日、首相・黒田清隆が「改正を断行する」と閣議で発言したのを受けて、改正交渉の責任者であった外相・大隈重信が外務省門前で爆弾を投げ付けられて右脚切断の重傷を負う事件が起きた。犯人の来島恒喜は元玄洋社員だったが、その場で頸動脈を切って自殺したため背後関係は不明のままとなった。この事件で黒田内閣は瓦解、条約改正交渉も白紙に戻った。

選挙干渉

明治23年(1890年)7月、第1回衆議院議員総選挙が行われ、政府側は敗北した。日清戦争に向けての軍備拡大を進める政府の予算案は、第一回の議会では土佐派の切り崩しで辛うじて通過したが、翌年の議会では否決される形勢となった。そこで首相・松方正義は衆議院を解散するとともに、次の選挙での民党の締め付けを行った。これが明治25年(1892年)の選挙干渉であり、民党支持者に対して買収や脅迫が公然と繰り広げられ、時には警官までもが動員された。玄洋社も選挙干渉への協力を求められ、その実行者となった。


大規模な選挙干渉にもかかわらず、第2回衆議院議員総選挙も政府側の敗北に終わった。その後、玄洋社は結社としての活動を縮小し、頭山は自由民権運動の志士から脱却し、「国士」としてアジア主義への道を歩み始める。

孫文と頭山

明治28年(1895年)、日清戦争の終結後、広州での武装蜂起を企てた孫文が、密告されたため頓挫し日本に亡命した。孫文は明治30年(1897年)、宮崎滔天の紹介によって頭山と出会い、頭山を通じて平岡浩太郎から東京での活動費と生活費の援助を受けることになった。また、住居である早稲田鶴巻町の2千平方メートルの屋敷は犬養毅が斡旋した。


明治32年(1899年)、義和団の乱が発生し、翌年、孫文は恵州で再度挙兵するが失敗に終わった。明治44年(1911年)、辛亥革命が成功し、その翌年、孫文が中華民国臨時政府の大総統に就任すると、頭山は犬養とともに中国に渡って会見し、長年の苦労をねぎらった。その後、袁世凱に大総統の座を譲った孫文は、大正2年(1913年)の春に前大総統として来日し各地で熱烈な大歓迎を受け、福岡の玄洋社や熊本の宮崎滔天の生家にも立ち寄った。このとき既に頭山は袁世凱の動向を強く懸念していたというが、その予言通り袁世凱と争って破れた孫文は、再び日本への亡命を余儀なくされた。日本政府は袁世凱支持に回っていたため孫文の入国を認めない方針をとっていたが、頭山は犬養を通じて首相・山本権兵衛に交渉し、亡命を認めさせた。孫文が匿われたのは霊南坂(現港区)にあった頭山邸の隣家である。

アジア主義とその挫折

明治35年(1902年)、欧米列強によるの半植民地化が加速し、日本とロシアの対立が鮮明になるなか、日本は対ロシア戦略のもとに日英同盟を締結し、頭山も対露同志会を設立した。明治37年(1904年)、日露戦争が勃発すると玄洋社は若者を中心に満州義軍を結成、参謀本部の協力を得て満州の馬賊を組織し、ロシア軍の背後を撹乱するゲリラ戦を展開した。


玄洋社は孫文の革命運動への支援と並行して、明治43年(1910年)の日韓併合にも暗躍したとされている。杉山茂丸内田良平などの社員もしくは250余名の関係者が日韓の連携のために奔走したのは事実だが、玄洋社が目指していたのは植民地化ではなく、「合邦」という理想主義的な形態だったと見られている。「合邦」の詳細については定かではないが、内田は現実の日韓併合に対して憤激しており、初めは協力的だった玄洋社と日本政府の関係は後に大きく離間していった。


大正4年(1915年)、頭山は孫文の仲介により、インドの独立運動家ラス・ビハリ・ボースと会談し、支援を決意した。当時のラス・ビハリ・ボースはイギリス領インド帝国植民地政府から追われ日本へ亡命していたものの、イギリス政府および植民地政府から要請を受けていた日本政府によって、国外退去命令を受けていた身であった。


並行して日本国内では、1919年11月、河合徳三郎梅津勘兵衛倉持直吉青山広吉篠信太郎西村伊三郎中安信三郎を中心とし、原敬内閣の内務大臣・床次竹二郎立憲政友会)を世話役に、伯爵大木遠吉を総裁、村野常右衛門を会長、中安信三郎を理事長として、会員数60万と称する大日本国粹会を立ち上げた。

またボースの紹介により、当時のインドの独立運動家で、アフガニスタン首長国インド臨時政府を樹立していたマヘンドラ・プラタップにも会った。大正12年(1923年)、頭山は来日したプラタップの歓迎会を開き、援助を約束した。そして、アフガニスタンが統一されると「わが明治維新の当時を想わしむ」との賀詞をアフガニスタン首長に送った。


頭山はこのような独立支援の対象をフィリピンベトナムエチオピアなど当時アメリカフランスイタリアなどの列強帝国主義の元にひれ伏していた地にも拡大していった。


大正13年(1924年)11月、孫文は最後の日本訪問を行い、神戸で頭山と会見した。日本軍の中国東北部への侵攻により日中関係が憂慮すべき事態となっているのを受けての会談であったが、孫文が撤退への働きかけを申し入れたのに対し、日本の拡大がアジアの安定につながると真摯に考えていた頭山はこれを断った。会見の翌日、孫文は「大亜細亜問題」と題する講演を行い、その4ヵ月後に病没した。


翌年、孫文の後継者として蔣介石中華民国の国民軍総司令官に就任したが、その2年後には下野して頭山を頼って来日し、孫文と同様に頭山邸の隣家で起居する。後に蔣介石は、頭山らに激励を受けて帰国し、孫文の宿願であった北伐を成功させる。昭和4年(1929年)、南京の中山稜で行われた孫文の英霊奉安祭に、頭山は犬養毅とともに日本を代表して出席している。


昭和7年(1932年)の関東軍の主導による満州国建国は、頭山の理想とは大きくかけ離れていた。昭和10年(1935年)、来日した満州国皇帝溥儀の公式晩さん会への招待を、頭山は「気が進まない」との理由で断わっている。

詳しいことは、『頭山 満ウィキペディア』をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%AD%E5%B1%B1%E6%BA%80
(wikiより)

041 頭山満

⇧ 頭山 満

041b

041c

041a



玄洋社(げんようしゃ、1881年 - 1946年)は、旧福岡藩(黒田藩)士が中心となって、1881年明治14年)に結成されたアジア主義を抱く政治団体。日本で初めて誕生した右翼団体ともいわれる[1]

概要
当時の在野の多くの政治結社と同じく、欧米諸国の植民地主義に席捲された世界の中で、人民の権利を守るためには、まず国権の強化こそが必要であると主張した。また、対外的にはアジア各国の独立を支援し、それらの国々との同盟によって西洋列国と対抗する大アジア主義を構想した。明治から敗戦までの間、政財界に多大な影響力を持っていたとされる。

主な活動

1881年(明治14年)、平岡浩太郎を社長として旧福岡藩士らが中心となり、杉山茂丸頭山満箱田六輔大原義剛福本誠内田良五郎内田良平の父)、進藤喜平太進藤一馬の父)、月成功太郎末永純一郎武井忍助古賀壮兵衛的野半介月成勲児玉音松らが創立に参画し、新聞「福陵新報」を創刊し、吉田磯吉といった侠客や、「二六新報」の主筆・鈴木天眼もしばしば関係した。


戦前、戦中期にかけて軍部官僚財閥政界に強大な影響力を持ち、日清戦争日露戦争第一次世界大戦そして第二次世界大戦日本の関わってきた数々の戦争において情報収集や裏工作に関係してきた。またアジア主義の下に、中国孫文李氏朝鮮金玉均をはじめ、当時欧米諸国の植民地下にあったイスラム指導者などアジア各国の独立運動家を支援した。ただし「玄洋社の連中がわしが半島に行って乱を起こしてやると吹聴していた」のは、東学党の綱領の中に「排日」があったので、ただの大言壮語であろうと陳舜臣たちは述べている[2]


玄洋社の社則の条項は「皇室を敬戴すべし」、「本国を愛重すべし」、「人民の権利を固守すべし」というものであった。当時、薩長藩閥政府による有司専制を打破するために、議会の開設を要求した有力な政治勢力の一つは、今日「右翼」と称される玄洋社などの民間結社であった。しかし、これらの勢力が議会開設後に一転して政府と一体になって選挙干渉に転じた。その理由は、当時の議会が「民力休養」を掲げ、軍事予算の削減を要求しながら清国との戦争を躊躇していたためであった。玄洋社は、テロも含めた激しい選挙干渉を実行している。

外国人司法官任用問題」も参照


他に玄洋社が関わった有名な事件としては、1889年(明治22年)の大隈重信爆殺未遂事件がある。当時外務大臣だった大隈重信は、日本が幕末に結んだ不平等条約の改正をはかったが、その改正案は関係各国に対しかなり妥協的であり、国民的反対運動がたちまち全国を覆った。しかし、剛毅な大隈は決して自案を曲げなかったため、玄洋社社員の来島恒喜が大隈に爆弾を投擲し、自身もその場で咽喉を斬って自決したのである。来島の投げた爆弾は過激自由民権運動家の大井憲太郎から提供されたものと言われている。事件で大隈は右足を失いながらも、尚自説を貫く決意であったが、政府は方針を急転し、大隈は辞職したため、この妥協的改正案は見送られることとなった。


玄洋社の社員らが掲げた有名なスローガンには「大アジア主義」(孫文の神戸演説に語源があるとされる)がある。彼らは、朝鮮の親日開化運動家金玉均朴泳孝インドの独立運動家ラース・ビハーリー・ボースらを庇護し、アメリカと独立戦争を戦うフィリピンアギナルドへは武器と義兵を送ろうとした。


1901年
(明治34年)に、内田良平らが黒龍会(玄洋社の国外工作を担う)を設立してからは、より多彩な活動が展開されるようになる。孫文らの辛亥革命を支援するために、多くの浪人たちが清朝政府軍やその後の軍閥政府軍と戦っている。


日露戦争中全般にわたり、ロシア国内の政情不安を画策してロシアの継戦を困難にし、日本の勝利に大きく貢献した明石元二郎も玄洋社の社中(社員)であった。陸軍参謀本部参謀次長長岡外史は「明石の活躍は陸軍10個師団に相当する」と評した。また、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は「明石元二郎一人で、満州の日本軍20万人に匹敵する戦果を上げている。」といって称えた。


また、日韓問題については、内田良平は一進会の領袖李容九と、日本と大韓帝国(韓国)の対等な立場での合邦を希望し運動した。


昭和に入ると、玄洋社と関係の深かった中野正剛らは、大日本帝国憲法朝鮮台湾にも施行して、内地と朝鮮の法律上の平等の徹底(参政権は属地主義であったため、日本内地在住の朝鮮人、台湾人にのみ選挙権、被選挙権があった)をはかるべきと主張した。一方、頭山満と親交のあった葦津耕次郎らは、国家として独立できるだけの朝鮮のインフラ整備は既に完了したとして朝鮮独立を主張した。葦津は、満州帝国に対する関東軍の政治指導を終了すべきことも主張している。

新聞発刊
新聞「福陵新報」を1887年(明治20年)8月から発行した。これは1898年(明治31年)に「九州日報」と改題し、さらに1942年(昭和17年)には新聞統制に伴い「福岡日日新聞」に合併されて「西日本新聞」となり、現在に至っている。

政治との関連

進藤喜平太の子息で、中野正剛秘書や玄洋社の最後の社長を務めた進藤一馬は福岡市長となった。


多くの玄洋社の運動家を輩出した福岡藩の藩校である修猷館は、現在は県立高校(福岡県立修猷館高等学校)となった。進藤の跡を継ぎ1986年(昭和61年)から1998年平成10年)まで福岡市長を務めた桑原敬一も修猷館高校出身である。


また、玄洋社の思想に共鳴した柴田徳次郎によって、関東一円の学生によって設立されたのが青年大民團である。青年大民團は玄洋社の思想を多くの青年へ教育するための教育機関として私塾國士舘を設立しており、こうした関係から第二次世界大戦直後は国士舘はその名称を変更させられていた時期もあった。


記念館・記念碑

福岡市中央区舞鶴の玄洋社跡地に隣接して建てられた雑居ビル「玄洋ビル」内に、玄洋社関係の各種資料を収蔵した「玄洋社記念館」があった。1978年11月に開館したが、2008年5月末をもって閉館され、資料は福岡市博物館に寄託される[3]


なお、玄洋ビルは後に解体されたが、同ビル跡の隣にあるNTTドコモ舞鶴ビルの一角に記念碑が設置されている[4]


また、博多区崇福寺には頭山満来島恒喜など社員の墓がある。

歴代社長
1. 平岡浩太郎

2. 進藤喜平太

3. 阿部武三郎

4. 箱田六輔

5. 進藤喜平太(再任)

6. 喜多嶋淳

7. 月成勲

8. 美和作次郎

9. 吉田庾

10. 進藤一馬

著名な出身者

川上音二郎

須永元

杉山茂丸

寺田栄鳩山由紀夫の曾祖父)

明石元二郎

中野正剛

緒方竹虎

月成功太郎

中村天風

山座円次郎

内田良平

末永節

来島恒喜

横山雄偉

広田弘毅[注釈 1]

小野(三木)隆助  
堀川辰吉郎(孫文の辛亥革命に助力)[信頼性要検証]

吉岡友愛

関連人物
夢野久作

犬養毅

松岡洋右

真藤慎太郎

安川敬一郎

安川第五郎

山崎和三郎山崎拓の祖父)

深作清次郎

宮崎滔天

桃中軒雲右衛門

脚注
注釈
1. 広田弘毅伝記刊行会編『広田弘毅』どでは正式な社員とならなかったとしており、『落日燃ゆ』などでも踏襲されている。しかし玄洋社記念館の館報『玄洋』第2号の記述から服部龍二は広田が正式な社員になったとしている[5]。また東京裁判開廷前の尋問では「イギリスから帰ったとき青年教育のために入社するよう求められ、改めて社員になった」と供述している[6]

出典
1. 石原莞爾の「墓守」は軍歌を流す街宣車を追い払ったJcast
2. 司馬遼太郎『司馬遼太郎対話選集』9「アジアの中の日本」p194、文春文庫
3. 玄洋社記念館 月末で閉館 政治結社の足跡伝え30年 資料、市立博物館に寄託へ - 西日本新聞(2008年5月25日)
4. 玄洋社跡碑 - 地域情報サイト ZAQ(2012年9月26日閲覧)
5. 服部 2008、pp.4-6、p.16
6. 服部 2008、pp.229-230、『国際検察局尋問調書』第28巻よりの引用

参考文献
・頭山統一『筑前玄洋社』(葦書房) ISBN 9784751200353

葦津珍彦『大アジア主義と頭山満』(葦津事務所) ISBN 9784901577090

宮崎滔天萱野長知北一輝著『アジア主義者たちの声』書肆心水、2008年。ISBN 9784902854428

・石瀧豊美『玄洋社・封印された実像』海鳥社、2010年。ISBN-13: 978-4874157879

服部龍二『広田弘毅―「悲劇の宰相」の実像』中央公論新社中公新書〉、2008年。ISBN 4121019512

・嵯峨隆『頭山満 アジア主義者の実像』ちくま新書、2021年、ISBN978-4-480-07433-1

関連項目
黒龍会

浪人会

東方会

自剛天真流

青年大民團

児玉誉士夫

国士舘大学

外部リンク
玄洋社史概観
(wikiより)

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月形鷦窠 ( つきがた - しょうか )
( 1757 - 1843 )

江戸時代中期 - 後期の儒者。

宝暦 7年生まれ。

月形漪嵐 ( きらん )、健助の父。

筑前 ( ちくぜん ) 福岡藩士。

真藤峨眉 ( がび )、竹田梅廬 ( ばいろ ) に師事し,藩校東学問所の指南加勢となる。

寛政 7年京都に行き西依 ( にしより ) 成斎らに学ぶ。

奥頭取、侍講などを勤めた。

天保 13年 12月 6日死去。86歳。

名は質 ( すなお )。字 ( あざな ) は君璞。通称は市平、七助。

著作に「山園雑興」。

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月形 深蔵(つきがた しんぞう、寛政10年3月3日1798年4月18日) - 文久2年4月5日1862年5月3日[1])は江戸時代後期の福岡藩士、儒学者。諱は弘。字は伯重。漪嵐(きらん)と号した。月形鷦窠の子で、月形洗蔵の父。


福岡藩士で100石を食んだ。17歳で江戸(現在の東京)に出て、古賀精里に学んだ。文政2年(1819年)帰国して馬廻り役となり、学校加勢小役となった。嘉永3年(1850年)致仕し、子の月形洗蔵(詳)が跡目を嗣いだ。深蔵は辺防の策一篇を著して、当今の急勢を論じた。文久元年(1861年)、深蔵は屏居を命ぜられ、洗蔵は秩禄(給与)を奪われて謫居させられた。深蔵はこれがため憂鬱ついに病気となり、文久2年(1862年)4月5日歿した。享年65。明治24年(1891年)11月5日靖国神社合祀。明治35年(1902年)11月正五位を贈られた。

脚注
1. デジタル版 日本人名大辞典+Plus

参考文献
・筑紫豊 編「福岡県に於ける明治維新の人柱」 福岡県護国神社、1968年10月8日(非売品)21ページ
(wikiより)

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広島県で最初の女性教師 植村雅子先生の記念碑。

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除虫菊發祥之碑


上山英一郎君紀功碑


余嘗遊紀之白濱興上山英一郎君邂逅於白砂青松之際一見如舊結編紵之交君和歌山人少以濟世自期日方今急務在國産率國本以大興貿易之利也明治十九年獲除蟲菊種於米國始培育之歴游諸國精覈地味投私費以頒種苗於廣島岡山愛媛香川諸縣奨励其栽培自是中國諸方生産増進三十一年属桑港領事陸奥廣吉発招販路竟至輸出之米國其額及一千萬圓本邦輸出品中合優位者君興有力焉三十九年大日本農會総裁負受親王嘉其功績授綠有功章越四十三年賜勅定藍綬章君之名遠聞海外廬額斯拉維國以君有功扚斯業特嘱叙日本駐剳名譽領事葢異數也項者同志之士相發祥地欲建碑於千光寺山圖其不朽属予為之文君平生以光公益開民利為志四十餘年終始靡渝予之所取乎君者不獨為其れ除蟲菊之始祖也已喜有其れ徳之孚于人也廼叙其梗槩係銘日


厚生利用 自見眙謀 開物成務 以賛皇献

卓卓之子 經營有術 作事堅忍 計算縝密

殖産致富 維彌維綸 名馳域外 利及四隣

千光寺阿 山靈水碧 爰稱厥徳 鐫名於石


昭和五年龍集庚午八月上浣


蘓峰徳富猪一郎撰 黄山中川吉郎書


〇 上山英一郎
上山 英一郎(うえやま えいいちろう、1862年文久2年) - 1943年昭和18年)9月7日)は、日本実業家篤農家[1]蚊取線香の発明者。また、「金鳥」の商標で知られる大日本除虫菊の創業者。向島亀森八幡神社「除虫菊神社」の祭神[2]ユーゴスラビア国名誉領事[3][4]。前名・秀之助[3][4]

経歴

1862年(文久2年)、紀伊国有田郡山田原村(現・和歌山県有田市)の蜜柑農家に生まれる。上山長八の四男で先代彌兵衛の養子となり、1878年家督を相続し前名秀之助を改めた[3][4]。上山家は日本有数の蜜柑農家であり、上山家の蜜柑は紀州山勘蜜柑(当主が上山勘太郎と称していたため)と呼ばれていた。


16歳の時に上京して神田の進徳館に入り学を修めて後、立教学校に転じて英国人に就いて語学を学び、さらに慶應義塾に教育を受けた[5]。しかし病気になり、涙を飲んで帰郷した[5]。病が癒えると再度上京し勉学を切願したが、近親者が許さなかったので、方向を転じて「産業界に貢献しよう」と深く決意した[5]


1885年
サンフランシスコで植物の販売を行う植物輸入会社を営むH.E.アモアが、福澤諭吉の紹介状を携え、日本の珍しい植物を求めて上山の農家を訪ねた。上山はアモアに棕櫚秋菊などを進呈し、その見返りとしてビュハークという除虫菊の種子を譲り受けることとなる。翌1886年より上山は除虫菊の種子の栽培研究を開始した。


1887年、除虫菊の栽培に成功した上山は、全国各地を講演して回り、この種の普及に努めた。1890年仏壇線香からヒントを得、持続時間1時間ほどの棒状の蚊取り線香を考案、発売する[6]1895年、妻・ゆきの「渦巻き型にすればよいのでは」というアイデアに着想を得て、蚊取り線香の改良に着手、1902年に日本初の渦巻き型蚊取り線香を発売開始した。1919年、大日本除虫菊株式会社を設立。1929年、大阪駐在ユーゴスラビア名誉領事に任命された。1943年昭和18年)9月7日、死去。享年82。

人物

趣味は書画、骨董[3][4]。宗教は浄土宗[3][4]。和歌山県在籍で住所は和歌山県有田郡保田村[3][4]


英一郎は遺徳を称えられ、除虫菊神社に神として祀られている、所在地は広島県尾道市向島町名郷丸の亀森八幡神社境内、創建は1930年(昭和5年)、英一郎の存命中であった。1886年(明治19年)に英一郎が初めて除虫菊を植えたのが向島の干汐であるためここが選ばれた。現在でも毎年5月8日に例祭が営まれている[7]


1910年藍綬褒章[3][4][5]

1943年勲六等瑞宝章

家族・親族

上山家

英一郎の長男・英之助は、先代勘太郎の養子となり、1908年、上山家15代の家督を相続[4]。1942年、社長を務めていた勘太郎は、東南アジアに出張中、シンガポールで航空機事故のため死去した。1943年、副社長を務めていた英一郎の三男・英夫は勘太郎を襲名し、社長に就任した。


・父・長八[3][4]

・姉・てい1851年 - ?、和歌山、玉置傳三郎の母)[3][4]

・妹・ひさ1867年 - ?、和歌山、御前喜八郎の妻)[3][4]

・妻・ゆき(1862年 - ?、和歌山、上山市郎兵衛の養叔母)[3][4]

・長男・十五代勘太郎1889年 - 1942年、前名は英之助、大日本除蟲菊社長)

・二男・英三1893年 - 1981年台湾銀行頭取)

・三男・十六代勘太郎1899年 - 1984年、前名は英夫、大日本除虫菊社長)

  ・同妻・昌子

  ・同養子・直武1924年 - 1997年、長女の夫)

  ・同長女・同二女

  ・同長男・英介1937年 - 2015年

系譜

━ 英一郎 ┳ 勘太郎
       ┣ 英三
       ┗ 英夫

親戚

上山市郎兵衛(南海水力電気社長)

上山薫(内外除蟲菊社長)

山口孫七(紀伊貯蓄銀行頭取)

脚注
1. 大日本篤農家名鑑』119頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2017年7月21日閲覧。
2. スポット3 瀬戸内の除虫菊発祥の地に祭られる「除虫菊神社」”. 大日本除虫菊. 2010年4月4日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2013年6月25日閲覧。
3. a b c d e f g h i j k 人事興信録 第12版 上』ウ38頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年12月5日閲覧。
4. a b c d e f g h i j k l 人事興信録 第13版 上』う33頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2016年1月3日閲覧。
5. a b c d 非常時日本と人物』91-98頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2016年1月3日閲覧。
6. ただしこの線香は、持続時間が短いことや運搬中の破損が多いなどといった欠点が指摘されていた。
7. 亀森八幡神社”. 尾道市観光協会. 2021年7月28日閲覧。 8.

参考文献
・大日本篤農家名鑑編纂所編『大日本篤農家名鑑』大日本篤農家名鑑編纂所、1910年。

・原静村『非常時日本と人物』南海新聞社、1935年。

・人事興信所編『人事興信録 第12版 上』人事興信所、1940年。

・人事興信所編『人事興信録 第13版 上』人事興信所、1941年。

神坂次郎 『熊野まんだら街道』 新潮社新潮文庫〉、2000年6月。ISBN 4-10-120923-5。ISBN-13: 978-4-10-120923-4。 

  ・「白い除虫菊の花」(249-251頁)のタイトルで上山英一郎の生涯と業績を紹介

町田忍 『蚊遣り豚の謎 - 近代日本殺虫史考』 新潮社〈ラッコブックス〉、2001年6月。ISBN 4-10-447501-7。ISBN-13: 978-4-10-447501-8。 

佐藤朝泰『豪閥 地方豪族のネットワーク』立風書房、2001年。

関連項目
蚊取線香

大日本除虫菊

外部リンク
公文書にみる発明のチカラ - 42. 蚊取り線香の発明(上山英一郎) - 国立公文書館

上山 英一郎 - 和歌山県文化情報アーカイブ
(wikiより)

073   上山英一郎

⇧ 上山英一郎

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1803 ( 享和 3 ) 年 ~ 1886 ( 明治 19 ) 年
 
江戸時代から明治にかけての学者で、糸崎に港を開いた人です。
 
伊予 ( 愛媛県 ) で生まれ、幼いころ父が亡くなりました。
 
早くから学問の道を志し、大洲 ( 現在の愛媛県大洲市 ) で学び、その後大洲藩のすすめにより江戸に出て勉強をしました。
 
このころ,母が手足の不自由な難病にかかり、龍山は 20年間にわたり介抱しました。その親孝行ぶりは,誰もが頭の下がる思いでした。
 
1838 ( 天保 9 ) 年に母が亡くなり、龍山は翌年から尾道に住むようになりました。
 
42歳のとき、龍山は 11代三原城主の浅野忠助にたのまれて、城内の明善堂 ( 学校 ) の先生になりました。
 
また学問だけでなく、藩の政治にも参加し活躍しました。


とくに糸崎の松浜港の開港については,どうしても必要であるとの意見を出し、ついに1864 ( 元治元 ) 年に工事がはじまり,翌年に開港することができました。
 
開港以後、北前船なども寄港するようになり、三原の商人もここに店をかまえ,町は繁栄していきました。
 
龍山は、現在の糸崎港の基を開いたわけです。
 
1868 ( 明治元 ) 年に三原を退いてからは、尾道に私塾「 朝陽館」を設けて子弟を育成しました。

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穎川家 ( えがわけ ) は陳 沖一 ( ちん ちゅういつ ) を祖とする唐通事 ( とうつうじ ) 界屈指の名門で、福済寺第一の大檀越 ( だいだんおつ ) であった。


福済寺穎川 ( 陳 ) 家墓地は二か所にあったが一方は改葬された。


この保存された方の墓地には、開祖陳 沖一の墓碑・二代穎川藤左衛門 ( 葉茂猷 / ようもゆう ) 夫妻・四代藤左衛門夫妻・五代藤左衛門夫妻の墓碑が現存する。


原爆の火災で全焼した福済寺は、近代的寺院として再建されたので、馬蹄形 ( ばていけい ) の石垣に囲まれた中国風のこの穎川家墓地と、隣接する唐僧墓地だけが、その昔、福済寺が唐寺であったという面影を残している。
(案内板より)

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