本牧jack『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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小生の拙ブログ『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑に御訪問頂き誠に有難う御座います。
歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。
たまに『 大人数で取材しているのか? 』との質問を戴きますが、小生と相方の二人三脚で御座います。
出来るだけ続けたいと思っていますが 膝・耳に問題が有って、いつまで出来るやら・・・説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。
御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。 ※ 申し訳御座いませんが「画像の転用」は禁止とさせて頂きます。 コメントは原則公開させていただいております 質問等に対してはブログ記事で返信させていただきます 他の方法で連絡を取り合う等一切しません 場合によっては、「IPブロック」しますがブロックした場合解除する事は有りませんので宜しくお願いします。

カテゴリ: 儒・蘭・通・国・教育・科学・土木・建築・活動家・冒険・造船関連

門生が、馬島春海の為に建立したみたいです。

馬島春海 ( まじま - しゅんかい )

天保 12年 ~ 明治 38年 11月 16日 ( 1841 ~ 1905 )

江戸時代末期・明治期の漢学者。

騎兵隊書記を経て、萩に帰り、漢学塾晩成堂を開く。

松下村塾入塾年 ( 安政 4年12月 )

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田中義一 ( 1864 - 1929 )

近代の軍人、政治家、男爵。

藩主の御六尺 ( かごかき ) 田中家の三男として呉服町に出生。

13歳のときに新堀小学校の授業生 ( 代用教員 ) に登用され、萩の乱にも参加したが、のち陸大に進学した。

大正 7年以降陸軍大臣、次いで大将に進み、再び陸軍大臣となる。

大正 14年政友会総裁に就任、昭和 2年内閣総理大臣となり、外務大臣をも兼任した。
(案内板より)

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山縣 周南(やまがた しゅうなん、貞享4年(1687年) - 宝暦2年8月12日1752年9月19日))は、江戸時代中期の儒学者荻生徂徠の高弟であり、長州藩藩校明倫館の二代目学頭。漢詩、国史に精通し、教育者としても名声を博した。

名は孝孺(こうじゅ)。周南と号する。字は次公、少介。徂徠学派は中国風に名乗る風習があり縣次公、縣孝孺などと称した。

生涯
周防国の南方、右田鈴屋村(現山口県防府市)に山縣良斎の次男として生まれる。号の周南はこの生地にちなむ。父、良斎は毛利家一門毛利就信に仕える儒者。父の教育は厳しく、高楼上で学問をさせられ、必要が無ければ降ろしてもらえなかった。

8歳の時、父良斎の転勤に伴い萩へ移住。19歳で江戸へ遊学し荻生徂徠の門を叩く。3年で卒業し萩へ帰るが、以後江戸出張の際や書簡において頻繁に徂徠の薫陶を受ける。

26歳の時、朝鮮通信使が赤間関に来訪。長州藩の学者として朝鮮の学者と詩文の応酬を行う。詩才を高く評価され、朝鮮通信使正使に特別に接見を許される。この出来事が周南と、徂徠学派の文名を世に知らしめる一因となった。

31歳、藩主侍講となり、藩主に従い度々萩と江戸を往復する。また、藩校明倫館開学にあたって館の儀式・学規等を制定する。明倫館の初代学頭小倉尚斎没後は、二代目学頭に就任。学者、医者、官吏など多くの人材を育成した。また藩要人も多く門下にあり、藩政にも関与した。

59歳頃川魚を食べて体を壊し病に伏せるようになる。自身の文業について服部南郭に後事を託した後、66歳で没した。萩の保福寺(山口県萩市北古萩)に葬られる。

行状によると温厚な性格であったという。川遊びを好み、江戸で徂徠や南郭ら大勢の蘐園一門を招いて川遊びを挙行した。また没する直前、やや病が回復した際にも京都で川遊びを行っている。

大正4年(1915年)、従四位を追贈された[1]

学統
徂徠が未だ名を成さない頃から従った愛弟子であり、長州藩に、また西日本に徂徠学(古文辞学)を普及させる一大要因となった。末流といえる広瀬淡窓の儒林評では格別に古文辞を固守するようなところは無いとされ、彼自身仁斎学にも共感を示し、伊藤東涯と度々交渉を持つなど開けた学問交流を行っていた。ただし、日野龍夫によれば、その詩文の作風については古文辞風という以外に格別の特徴はないという。

また、京都の古医方派と親しく、香川修庵山脇東洋吉益東洞などの医師と交流が深かったことも特筆される。

著作
・『周南文集』 明倫館の設立次第を記した「長門国明倫館記」や周南先生行状等多くの詩文を載せる。なお、周南文集の稿本が存在し、周南続稿とも異なる周南の文章が収録されている。
・『為学初問』 小論文集。
・『作文初問』 明古文辞派の主張をその中心とする漢文手引書。
・『講学日記』 学問上の覚え書きを収録したもの。
・『宣室夜話』 周南の作ではないという説がある
・『周南続稿』 「周南文集」に収録された詩文数十編と、外に未収録の詩文を収録。 
・『周南先生医談』
・『江氏家譜』 藩命によって編纂した毛利家の系譜。

脚注
1. 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.35

参考文献 
・河村一郎『長州藩徂徠学』私家版
・藤井明・久富木成大『山井崑崙 山県周南』明徳出版社

(wikiより)

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儒者。 

行年 72歳。

行年 明治 25年 8月 23日。

戒名 : 一貫斎文藻道哲居士。

大組士。

64石。

市川仁五衛門の養子。実は平佐二蔵の子。

維新後、川島に私塾 ( 新選塾 ) を開きのち、新堀小学、椿町小学校の校長を務める。
(案内板より)

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儒者。

行年 48歳。

没年 天明 6年 9月 4日。

戒名 : 玉山季有居士。

藩士。

実は山県周南の第五子。

儒学に造詣深く藩の典故に詳し、藩の史局の長となる。
(案内板より)

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儒者。 

行年 39歳。

没年 宝暦 8年 4月 15日。

戒名 : 源了軒天峰全柱居士。

藩士。 山県周南門下の高足にて儒学に造詣深し。

灞山詩集あり。
(案内板より)

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時代江戸時代末期 - 幕末 - 明治時代
生誕文化7年9月24日1810年10月22日
死没明治9年(1876年11月6日
改名正一 → 正韞(まさかぬ、
別名通称;文之進。;韓峰・玉韞。
主君毛利敬親 → 元徳
長州藩郡奉行、当役、奥番蔵
氏族杉氏 → 玉木家(乃木氏分流)
父母実父:杉常徳杉七兵衛
養父:玉木正路
兄弟杉百合之助(杉常道)
吉田大助(吉田賢良)
玉木文之進
国司氏の娘
実子:彦助
養子:正誼乃木希次四男)

玉木 文之進(たまき ぶんのしん)は、日本武士長州藩士)、教育者兵学者山鹿流)。松下村塾の創立者。吉田松陰の叔父に当たる。正韞であるが、一般的に通称で文之進と呼ばれる。家格は大組。石高40石。

生涯
文化7年(1810年)9月24日、長州藩士で無給通組・杉常徳(七兵衛)の三男としてで生まれる。文政3年(1820年)6月、家格では杉家より上にあたる大組士、40石取りの玉木正路(十右衛門)の養子となって家督を継いだ。

天保13年(1842年)に松下村塾を開いて、少年期の松陰を大変厳しく教育した(過激な、体罰を加えられることが多かったという。)。また親戚の乃木希典も玉木の教育を受けている。天保14年(1843年)に大組証人役として出仕。安政3年(1856年)には吉田代官に任じられ、以後は各地の代官職を歴任して名代官と謳われたという。安政6年(1859年)に郡奉行に栄進するが、同年の安政の大獄で甥の松陰が捕縛されると、その助命嘆願に奔走した。しかし松陰は処刑され、その監督不行き届きにより万延元年(1860年)11月に代官職を剥奪されている。

文久2年(1862年)に郡用方として復帰し、文久3年(1863年)からは奥阿武代官として再び藩政に参与し、その年のうちに当役(江戸行相府)に進む。藩内では尊王攘夷派として行動し、毛利一門家厚狭毛利家毛利親民の参謀を兼ね、慶応2年(1866年)の第2次長州征伐では萩の守備に務めた。その後、奥番頭にすすむが、明治2年(1869年)には政界から退隠し、再び松下村塾を開いて子弟の教育に努めている。なお、実子で継嗣であった玉木彦助奇兵隊に入隊し、功山寺挙兵後の戦いで落命している。

明治9年(1876年)、前原一誠による萩の乱に養子の玉木正誼と門弟の多くが参加したため、その責任を取る形で11月6日に先祖の墓の前で自害した[1]。享年67。その跡は正誼の子、正之が相続した。

山口県萩市に旧宅が保存されている。

人物
玉木家は乃木傳庵の長男である玉木春政が、母の玉木の勲功で母の雅号を家名として分立し成立した家であるため、乃木家とは代々交流があった。加えて乃木希典の父である希次とは歳が近い上に、性格も似ていたので、平素互いに推服していたという。このためか、実子の彦助が死去すると希次の子が文之進の養子となるが、これが玉木正誼である。

参考文献
塚田清市著「乃木大将事跡」乃木十三日会
・「三百藩藩主人名事典 6」新人物往来社
・萩市立図書館 編 『萩市立図書館所蔵諸家旧蔵書籍目録』
萩市立図書館、1995年。

登場する作品
・『
坂の上の雲』 - 2011年、NHK、演: 江良潤
・『
花燃ゆ』 - 2015年、NHK、演:奥田瑛二     

脚注
1. 
萩市立図書館 1995, p. 36
(wikiより)

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久坂 玄機(くさか げんき、文政3年(1820年) - 嘉永7年2月27日1854年3月25日))は、幕末長州藩士、蘭学家、医師。適塾塾頭。名は真(まこと)、静。天籟と号す。久坂玄瑞の兄。

経歴
文政3年(1820年長門国萩平安古(ひやこ)石屋町(現・山口県萩市)に藩医久坂良迪、富子の長男として生まれる。長州藩医きっての俊英で、弟の玄瑞とともに「坂家の連璧(ばんけのれんぺき)」と称せられた。久坂玄瑞とは20歳の年の差があったが、後の玄瑞の思想、行動に大きな影響を与えた。

弘化4年(1847年)6月に緒方洪庵適塾に客分の処遇で籍を置く。翌嘉永元年(1848年)3月に適塾塾頭となる。しかし、翌年、召還の藩命が下り、好生館の都講に任ぜられる。適塾塾頭は同じ長州の村田蔵六が継承した。長州藩初の藩内種痘実施に際して、引痘主任を命ぜられ、藩下で種痘を組織的に行った。嘉永3年(1850年)6月に好生館の書物方を兼任し、また、最年少(31歳)の本道科教授となる。


海外事情に通じており、西洋軍事学に関する藩内の評価も高く、藩命により、『演砲法律』、『銃隊指揮令』、『新撰海軍砲術論』、『和蘭陀紀略内編』、『抜太抜亜志』、『新訳小史』など数多くの翻訳書を残した。このような玄機の西洋学問研究は、弟の久坂玄瑞に相当の影響と感化を与えたと言われている。 そして、海防については、幾度も藩政府から意見具申を求められ、病床にありながら、藩主毛利敬親に上書建白した数日後の嘉永7年(1854年)2月27日に逝去した。享年35。

明治44年(1911年)、正五位を追贈された[1]

脚注
1. 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.28

参考文献
『日本の思想家50 高杉晋作 久坂玄瑞』 (2012年)

登場人物
花燃ゆ - 2015年、NHK、演:村上新悟    
(wikiより)


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吉田 庫三(よしだ くらぞう、1867年 - 1922年6月)は、日本の教育者。長州藩(現山口県)出身。吉田松陰の甥に当たる。

概要
1867年(慶応3年)、吉田松陰の妹・千代(芳子)と児玉祐之の息子として長州藩に生まれる。吉田松陰が刑死後、安政の大獄大赦によって再興された吉田家を、11歳の時に第11代として相続。松陰神社の毎年の例祭に祭主を務める。


吉田松陰が創立した松下村塾に7歳の時に入り、大叔父(吉田松陰の叔父)の玉木文之進の教えを受ける。12歳でその課程を終えた後は、私塾西鄙黌で学び、1882年、15歳の時に上京して二松学舎に入学し、2年間、漢学を学んだ。福永淑人から国史・国文を、法学博士末岡精一に法制を、高嶺秀夫に心理・教育を学び、三島中洲に従い文章を研究、森槐南について漢詩を研究した。


1890年
、22歳の時に学習院で初めて教鞭をとった。同年から1893年まで、海軍編修書記との兼任であった[1]。以後、高等師範学校中学科、陸軍幼年学校等で教え、1895年には従七位を授与された。1897年から商船学校(現:東京海洋大学)で教えた後は、鳥取県第一中学校(現:鳥取県立鳥取西高等学校)、神奈川県第二中学校(現:神奈川県立小田原高等学校)、神奈川県立第四中学校(現:神奈川県立横須賀高等学校)の校長をそれぞれ歴任する。


鳥取県第一中学校の校長時には校友会生徒会)の活性化、原因不明の出火により焼失した校舎の復旧対策と新校舎建築に取り組んだ。


神奈川県立第二中学校の校長時には修身の講義を行っていたが、自分の家柄のことや、吉田松陰のことについては一言も触れることなく、郷土の偉人として二宮尊徳を推称し、その言行を教訓とすべきことを力説した。約3年間の校長在任中、「至誠無息・堅忍不抜」を校訓に、質実剛健の校風をつくることに努めた。


乃木希典
は吉田家と親戚関係にあり、生涯にわたって吉田庫三と親交があった。乃木が日露戦争旅順攻撃の際に得た漢詩『金州城外の作』は、第二中学校長吉田庫三宛に送った1枚の葉書に記されたのが世に出た初めてのものである。


神奈川県
下の2校の校長を歴任したのは、当時の神奈川県知事・周布公平の招請によるものだが、これは、周布が長州藩士で、同郷の吉田の教育者としての経験を高く評価していたからといわれている。

年譜
1867年(慶応 3年) - 吉田松陰の妹・千代(芳子)と児玉祐之の息子として長州藩で出生。
1874年(明治 7年) - 松下村塾に入る。
1878年(明治11年) - 吉田家第11代当主となる。
1879年(明治12年) - 松下村塾の課程を修了し、私塾西鄙黌で学ぶ。
1882年(明治15年) - 上京。二松学舎に入学。
1890年(明治23年) - 海軍編修書記となる。学習院で初めて教鞭をとる。
1893年 (明治26年) - 海軍編修書記を退職。
1895年(明治28年) - 従七位を授与。
1897年(明治30年) - 商船学校(現:東京海洋大学)で教鞭。
1899年(明治32年) - 鳥取県第一中学校(現:鳥取県立鳥取西高等学校)第14代校長に就任。
1899年(明治32年) - 文官普通試験委員を命ぜられる。
1901年(明治34年) - 神奈川県第二中学校(現:神奈川県立小田原高等学校)初代校長に就任。
1904年(明治37年) - 和歌山県視学官に転ずる。その後、奈良県でも勤務。
1908年(明治41年) - 神奈川県立第四中学校(現:神奈川県立横須賀高等学校)初代校長に就任。
1922年(大正11年) - 死去。

脚注
1. 学習院授業嘱托を兼任することについて不都合の有無を、宮内大臣が海軍大臣に宛てて問い合わせる文書が残る。防衛省防衛研究所所蔵、海軍『職員進退録 明治23年6巻』2103-2113丁。1893年3月4日付で海軍編修書記を退職した。『職員進退録 明治26年5巻』0446丁。

参考文献
・中野敬次郎『小田原近代百年史』形成社、1968年
・神奈川県県民部県史編集室『神奈川県史 別編1 人物』神奈川県、1983年
・神奈川県立横須賀高等学校『神奈川県立横須賀中学校・高等学校八十年史』神奈川県立横須賀高等学校、1989年
・神奈川県立小田原高等学校『小田原高校百年の歩み』神奈川県立小田原高等学校、2002年


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芝山巌六氏追慕之碑
昭和五十七年五月、元台湾教育関係者一同によって、明治二十九年一月一日芝山巌学堂において殉職された以下六氏の英魂が一堂に合祀されたものです。

山口県 楫取道明先生  三十九歳
愛知県 関口長太郎先生 三十七歳
群馬県 中島長吉先生  二十五歳
東京都 桂金太郎先生  二十七歳
山口県 井原順之介先生 二十四歳
熊本県 平井数馬先生      十七歳
(案内板より)

〇 六氏先生
六氏先生(ろくしせんせい / りくしせんせい)または六士先生は、日本統治時代台湾に設立された小学校、芝山巌学堂(しざんがんがくどう)で抗日事件により殺害された日本人教師6人のことである。

芝山巌事件
1895年明治28年)5月17日下関条約(馬関条約)により台湾が日本に割譲され、5月21日から日本による統治が始まると、当時文部省の学務部長心得だった伊沢修二は、初代台湾総督に就任した樺山資紀に「(台湾の統治政策の中で)教育こそ最優先すべき」と教育の必要性を訴え、同年6月、日本全国から集めた人材7名を連れて台湾へ渡り、台北北部の芝山巌恵済宮という道観の一部を借りて同年7月に芝山巌学堂という小学校を設立した。


最初は生徒6人を集め、台湾総督府学務部長となった伊沢と教師7人の計8人で日本語を教えていた。次第に周辺住人に受け入れられ、同年9月20日には生徒数が21人になり甲、乙、丙の3組に分けて授業を行っていた。


その頃、能久親王が出征中の台南(後の台南神社境内)で薨去し、それに伴い伊沢と1人の教師(山田耕造)は親王の棺とともに日本本土に一時帰国した。

その伊沢の帰国中に事件は起こる。

1895年の暮れになるとふたたび台北の治安が悪化し、日本の統治に反対する勢力による暴動が頻発すると、周辺住人は教師たちに避難を勧めたが、彼らは「死して余栄あり、実に死に甲斐あり」と教育に命を懸けていることを示し、芝山巌を去ろうとはしなかった。


1896年(明治29年)1月1日、6人の教師と用務員(小林清吉)が元旦の拝賀式に出席するために生徒を連れて船着場に行ったが、前日からのゲリラ騒ぎで船が無く、生徒達を帰して芝山巌に戻った。再び芝山巌を下山しようとした時、約100人の抗日ゲリラ(日本側で言う匪賊)に遭遇した。教師たちはゲリラたちに説諭したが聞き入れられず、用務員の小林を含む7人全員が惨殺された。ゲリラ達は、日本人の首を取ったら賞金が貰えるとの流言から襲撃を掛けたと言われており、6人の首級と用務員を襲って殺害した上に着衣や所持品を奪い、さらに芝山巌学堂の物品も略奪した。この事件は、台湾にいた日本人を震撼させたのみならず、日本政府にも重大視され、丁重に葬儀を行うとともに、台湾統治の強化が行われた。芝山巌学堂は3か月間の授業停止の後に再開された。

6人の教師

「六氏先生」と呼ばれる教師は以下の6人である。
楫取道明山口県、38歳、初代群馬県令楫取素彦吉田松陰の妹・寿の次男)
・関口長太郎(愛知県、37歳)
・中島長吉(群馬県、25歳)
・桂金太郎(東京府、27歳、東京府士族
・井原順之助(山口県、23歳)
・平井数馬(熊本県、17歳)
(wikiより)

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正五位・楫取道明先生之墓

先生は萩藩儒・小田村伊之助 ( のち楫取素彦と改名 ) の二男として、安政五年 ( 1858 ) 萩に生まれられました。

母は吉田松陰の妹・寿子です。

幼名を久米次郎といい、一旦同藩士・久坂義助 ( 前名・玄瑞 ) の後嗣となりましたが、のち復籍して兄・篤太郎が小田村家をつぎ、先生は楫取家をつがれました。

先生は学問を好まれ、和歌に堪能で、宮内省に入って御歌所の講師となられました。

やがて台湾がわが領土となり、教化の急が要請されるに及び、先生は率先志願されて三男二女を夫人・美寿子 ( 千草 ( ちぐさ ) 氏 ) に託し、明治二十八年六月十五日勇躍台湾に渡られ、六月十七日に学務部員となられ、芝山巌上の学堂に五名の学務部員と起居を共にして、現地学童の教育に専念され、伊沢修二学務部長の職務を代行されました。

明治二十九年 ( 1896 ) 一月一日、かねて不穏の噂があった抗日派の住民の襲来にあい、他の部員五氏と共に殉職されました。

しかし英霊は永く台湾教育者の指針となり、いわゆる「芝山巌精神」による教育の成果は、異国となった今も尚 華を咲かせています。
(案内板より)

〇 楫取道明

楫取 道明(かとり みちあき、安政5年5月27日1858年7月7日) - 明治29年(1896年1月1日)は、日本教育者楫取素彦(小田村伊之助)と最初の妻・寿吉田松陰の妹)との次男。台湾教育の祖。六氏先生の一人。

幼名は粂次郎(くめじろう)。幼少時に久坂玄瑞と文(松陰と寿の妹)夫婦の養子となり、玄瑞の死後に一時久坂家を継いだが、のち玄瑞の庶子の秀次郎が認知されて久坂家を継ぎ、粂次郎は生家に戻された。文はのちに美和子と改名し、寿の死後に楫取素彦と再婚した。


明治29年(1896年)1月1日、芝山巌事件で殺害された。同年1月13日、正五位を贈られた[1]

家族・子孫
・妻:美寿子 - 千種有任の娘
・息子:三郎 - 素彦の男爵位を継ぐ
・娘:治子 - 小田村有芳(道明の実兄・小田村希家の養子)の妻
・孫:小田村寅二郎小田村四郎など

脚注
1. 『官報』第3761号、1896年1月15日
(wikiより)


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六氏先生の写真。楫取道明は前列中央。

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萩東光寺境内にある先生の墓の南側に、明治二十九年五月父・素彦氏が建てられた自然石の碑で、撰文は素彦氏、揮毫は看雨村田峯次郎氏 ( 清風の孫 ) です。
(案内板から)

〇 六氏先生
六氏先生(ろくしせんせい / りくしせんせい)または六士先生は、日本統治時代台湾に設立された小学校、芝山巌学堂(しざんがんがくどう)で抗日事件により殺害された日本人教師6人のことである。

芝山巌事件
1895年明治28年)5月17日下関条約(馬関条約)により台湾が日本に割譲され、5月21日から日本による統治が始まると、当時文部省の学務部長心得だった伊沢修二は、初代台湾総督に就任した樺山資紀に「(台湾の統治政策の中で)教育こそ最優先すべき」と教育の必要性を訴え、同年6月、日本全国から集めた人材7名を連れて台湾へ渡り、台北北部の芝山巌恵済宮という道観の一部を借りて同年7月に芝山巌学堂という小学校を設立した。


最初は生徒6人を集め、台湾総督府学務部長となった伊沢と教師7人の計8人で日本語を教えていた。次第に周辺住人に受け入れられ、同年9月20日には生徒数が21人になり甲、乙、丙の3組に分けて授業を行っていた。


その頃、能久親王が出征中の台南(後の台南神社境内)で薨去し、それに伴い伊沢と1人の教師(山田耕造)は親王の棺とともに日本本土に一時帰国した。


その伊沢の帰国中に事件は起こる。


1895年の暮れになるとふたたび台北の治安が悪化し、日本の統治に反対する勢力による暴動が頻発すると、周辺住人は教師たちに避難を勧めたが、彼らは「死して余栄あり、実に死に甲斐あり」と教育に命を懸けていることを示し、芝山巌を去ろうとはしなかった。

1896年(明治29年)1月1日、6人の教師と用務員(小林清吉)が元旦の拝賀式に出席するために生徒を連れて船着場に行ったが、前日からのゲリラ騒ぎで船が無く、生徒達を帰して芝山巌に戻った。再び芝山巌を下山しようとした時、約100人の抗日ゲリラ(日本側で言う匪賊)に遭遇した。教師たちはゲリラたちに説諭したが聞き入れられず、用務員の小林を含む7人全員が惨殺された。ゲリラ達は、日本人の首を取ったら賞金が貰えるとの流言から襲撃を掛けたと言われており、6人の首級と用務員を襲って殺害した上に着衣や所持品を奪い、さらに芝山巌学堂の物品も略奪した。この事件は、台湾にいた日本人を震撼させたのみならず、日本政府にも重大視され、丁重に葬儀を行うとともに、台湾統治の強化が行われた。芝山巌学堂は3か月間の授業停止の後に再開された。

6人の教師

「六氏先生」と呼ばれる教師は以下の6人である。
楫取道明山口県、38歳、初代群馬県令楫取素彦吉田松陰の妹・寿の次男)
・関口長太郎(愛知県、37歳)
・中島長吉(群馬県、25歳)
・桂金太郎(東京府、27歳、東京府士族
・井原順之助(山口県、23歳)
・平井数馬(熊本県、17歳)
(wikiより)

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前列真ん中が、楫取道明

事件のその後

彼らの台湾の教育に賭ける犠牲精神は「芝山巌精神」と言われ、人々の間で語り継がれるようになった。


この「芝山巌精神」は当時の台湾教育者に多くの影響を与え、統治直後、総人口の0.5~0.6%だった台湾の学齢児童の就学率は1943年昭和18年)頃には70%にもなった。また終戦時には識字率が92.5%に登り、後に台湾が経済発展をする基礎となった。


1930年
(昭和5年)には「芝山巌神社」が創建され、六氏先生をはじめ、台湾教育に殉じた人々が、1933年(昭和8年)までに330人祀られた(そのうち台湾人教育者は24人)。


境内には六氏先生を合葬する墓があり、また社殿の前には六氏先生を追悼して、伊藤博文揮毫による「学務官僚遭難之碑」(1896年7月1日建立)が建てられた。


毎年2月1日には慰霊祭が執り行われ、芝山巌は「台湾教育の聖地」と称された。

165 六氏先生の墓

六氏先生の墓


165 芝山巌神社

芝山巌神社

165 雨農閲覧室の額

雨農閲覧室の額

戦後
終戦後、蔣介石をはじめとする外省人中国国民党の者たちが中国本土から台湾に逃げて来て、台湾は日本色を一掃する中国国民党により芝山巌神社は破壊され、本殿跡には国民党軍統局副局長だった戴笠を記念する「雨農閲覧室」が建てられた。この時、神社の隣にあった恵済宮の住職は、六氏先生の墓跡から遺骨を密かに移し、無名の墓を造って祀っていた。


雨農閲覧室では、抗日運動の成果のひとつとして芝山巌事件を紹介する展示などが行われてきた。しかし、李登輝総統の下で台湾民主化の動きが進むと、芝山巌学堂が開かれて100年経った1995年平成7年)1月1日に芝山巌学堂の後身である台北市立士林国民小学中国語版の卒業生により、教育に命をかけた「六氏先生の墓」が再建され、2000年(平成12年)には「学務官僚遭難之碑」も復元された。


在、周辺は芝山文化生態緑園として整備されており、自然観察をしたり、大石象、蝙蝠洞、太陽石、砲台跡、同帰所(芝山で亡くなった無縁仏の合葬施設)などを見て回ることができる。

六氏先生の歌

作歌: 加部巌夫、作曲: 高橋二三四

やよや子等 はげめよや
学べ子等 子供たちよ
慕へ慕へ 倒れてやみし先生を

歌へ子等 思へよや
すすめ子等 国のため
思へ思へ 遭難六氏先生を

関連項目
伊沢修二        

外部リンク
六氏先生之墓
六氏先生墓-芝山文化生態綠園(中国語)
(wikiより)


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江戸時代に材木の貯木場があった場所。

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新村 出(しんむら いずる、1876年明治9年)10月4日 - 1967年昭和42年)8月17日)は、日本言語学者文献学者京都大学教授名誉教授で、ソシュール言語学の受容やキリシタン語の資料研究などを行った日本人の草分けである。

人物・来歴
幕臣で当時山口県令を務めていた関口隆吉の次男として現在の山口市道場門前[1]に生まれる。「出」という名は、父親が山口県と山形県の県令だったことから「山」という字を重ねて命名された。


1889年(明治22年)4月に父・隆吉が機関車事故により不慮の死を遂げた後、徳川慶喜家の家扶で、慶喜の側室新村信の養父にあたり元小姓頭取の新村猛雄の養子となる[2]。慶喜の多彩な趣味のひとつに写真撮影があったが、彼の遺した写真の中には若き日の出の姿を写したものもある。出は慶喜家で子弟の家庭教師も務めていた[2]

静岡尋常中学第一高等学校を経て、1899年(明治32年)、東京帝国大学文科大学博言学科卒業[3]。在学中は上田萬年の指導を受けた。この頃からの友人として亀田次郎がおり、のちに『音韻分布図』を共同して出版した。国語研究室助手を経て、1902年(明治35年)に東京高等師範学校教授[4]となり、1904年(明治37年)には東京帝国大学助教授を兼任した。


1906年(明治38年)から1909年(同41年)までイギリスドイツフランスに留学し、言語学研究に従事する。その間、1907年(明治39年)に京都帝国大学助教授、帰朝後に同教授となった。言語学講座を担当し、1910年(明治43年)には文学博士[5]、1928年(昭和3年)には帝国学士院会員となる。1936年(昭和10年)に定年退官した。


1933年、宮中の講書始の控えメンバーに選ばれた後、1935年には正メンバーに選ばれた。同年1月28日、昭和天皇に国書の進講を行った[6]


終生京都に在住して辞書編纂に専念し、1955年(昭和30年)に初版が発刊された『広辞苑』の編纂・著者として知られる。息子の新村猛がこの共同作業に当たった。出は新仮名遣いに反対し、当初予定の『廣辭苑』が『広辞苑』に変更になったときは一晩泣き明かしたという。そのため『広辞苑』の前文は、新仮名遣いでも旧仮名遣いでも同じになるように書き、せめてもの抵抗をした。出はまた形容動詞を認めなかったため『広辞苑』には形容動詞の概念がない。

新村はまたエスペランティストでもあった。1908年にドレスデンで行われた第4回世界エスペラント大会に日本政府代表として日本エスペラント協会代表の黒板勝美とともに参加している。

1956年(昭和31年)文化勲章受章。1967年(昭和42年)の死去時に賜銀杯一組。


没後にその業績は『全集』(筑摩書房)にまとめられた。南蛮交易研究や吉利支丹文学キリシタン版関連)は平凡社東洋文庫などで再刊されている。


出の業績を記念し1982年(昭和57年)から、優れた日本語学や言語学の研究者や団体に対し毎年「新村出賞」が授与されている。

エピソード
谷崎潤一郎を通じ、女優の高峰秀子と交流を持つようになる。自宅に招いた際は、玄関や書斎を高峰のポスターやノベルティで飾り、高峰を驚かせたという。


また「高峰のあめりかだより夕刊に出でしまわりに赤い線引く」と詠み、これは「全集15巻」に収録されている。


同世代の歌人佐佐木信綱とは終生の友人で『佐新書簡 新村出宛佐佐木信綱書簡』(竹柏会心の花[7]、2019年)がある。

栄典
1915年(大正4年)1月11日 - 正五位[8]     

家族
父:関口隆吉
兄弟:関口壮吉加藤周蔵関口鯉吉関口隆正関口操関口万寿
次男:新村猛
孫:新村祐一郎(西洋史学者)、新村徹新村恭(編集者)[9]   

著書

単著
『南蛮記』 東亜堂書房、1915年
『南蛮更紗』 改造社、1924年
『典籍叢談』 岡書院、1925年
『南蛮廣記』 岩波書店、1925年
『続 南蛮廣記』 岩波書店、1925年
『船舶史考』 更生閣、1927年
『東方言語史叢考』 岩波書店、1927年
『薩道先生景仰録 吉利支丹研究史回顧』「ぐろりあ叢書」ぐろりあそさえて、1929年
『東亜語源志』 岡書院、1930年
『南国巡礼』 梓書房、1930年
『琅玕記』 改造社、1930年
『言語学概説 続国文学講座』 国文学講座刊行会、1933年
『史伝叢考』 楽浪書院、1934年
『典籍散語』 書物展望社、1934年
『遠西叢考』 楽浪書院、1935年
『花鳥草紙』 中央公論社、1935年
『言語学概論』 日本文学社、1935年
『随筆 橿』 靖文社、1940年
『日本の言葉』 創元社〈創元選書〉、1940年
『国語問題正義』 白水社、1941年
・『重山集』 草木社出版部、1941年
『日本吉利支丹文化史』 地人書館(大観日本文化史薦書)、1941年
『言葉の歴史』 創元社〈創元選書〉、1942年
『随筆 ちぎれ雲』 甲鳥書林、1942年
『日本晴』 靖文社、1942年
『言語学序説』 星野書店、1943年
『国語学叢録』 一条書房、1943年
『国語の規準』 敞文館(黎明選書)、1943年
新村出選集』全4巻、甲鳥書林、1943–47年
『朝霞随筆』 湯川弘文社、1943年
『南方記』 明治書房、1943年
『外来語の話』 新日本図書、1944年
『典籍雑考』 筑摩書房、1944年
『童心録』 靖文社、1946年
『あけぼの』 大八洲出版、1947年
『吉利支丹研究余録』 国立書院、1948年
『松笠集』 河原書店、1948年
『万葉苑枯葉』 生活社、1948年
『語源をさぐる 第1』 岡書院、1951年
『五月富士』 読売新聞社(読売新書)、1955年
『言葉の今昔』 河出書房(河出新書)、1956年

全集
新村出全集 筑摩書房(全15巻)、1971–1973年
1. 言語研究篇I
2. 言語研究篇II
3. 言語研究篇III
4. 言語研究篇IV
5. 南蠻紅毛篇I
6. 南蠻紅毛篇II
7. 南蠻紅毛篇III
8. 書誌典籍篇I
9. 書誌典籍篇II/史伝考証篇I
10. 史伝考証篇II
11. 随筆篇I
12. 随筆篇II
13. 随筆篇III
14. 随筆篇IV
15. 短歌篇・書簡篇
『新村出全集 別巻』(索引と、書誌・稿本目録・年譜)、新村出記念財団 編・刊、1983年
・『美意延年 新村出追悼文集』(新村猛編)、新村出遺著刊行会、1981年

没後出版
『歌集 白芙蓉』 初音書房、1968年
『新村出 国語学概説』 金田一京助 筆録・金田一春彦 校訂、教育出版(シリーズ名講義ノート)、1974年
『語源をさぐる 語源叢談一』 教育出版、1976年/旺文社文庫(新編)、1981年/講談社文芸文庫、1995年
  『広辞苑先生、語源をさぐる』 河出文庫、2018年
・『日本語漫談 語源叢談二』 教育出版、1976年
・『外来語の話 語源叢談三』 教育出版、1976年/講談社文芸文庫(新編)、1995年
・『言葉の散歩道 語源叢談四』 教育出版、1976年
・『新編 琅玕記』 旺文社文庫、1981年/講談社文芸文庫、1994年。新村徹編
・『新村出集 現代の随想24』 彌生書房、1982年/『新村出随筆集』平凡社ライブラリー、2020年。新村猛編
・『南蛮更紗』 平凡社東洋文庫、1995年、ワイド版2009年
・『新編 南蛮更紗』 講談社文芸文庫、1996年。『南蛮広記』も一部収録
・『わが学問生活の七十年ほか』「人間の記録」日本図書センター、1998年

編著
『異国情趣集』 更生閣書店、1928年
・『辞苑』 博文館、1935年
・『言苑』 博文館、1938年
・『万葉図録 文献篇』、『地理篇』 佐佐木信綱 共編、靖文社、1940年
・『聖徳太子御年譜』 山口書店、1943年
・『言林』昭和24年版、全国書房、1949年
・『国語博辞典』 甲鳥書林、1952年
・『新辞林』 清文堂書店、1953年
・『新辞泉』 清文堂書店、1954年
・『広辞苑』 岩波書店、1955年(第1版)
・『鑑賞小倉百人一首』 洛文社、1964年(第2版)

翻訳・校訂・共著
『イエスペルセン氏 言語進歩論』 東京専門学校出版部、1901年
『佐久間象山先生』 象山会、久保田収 共著、1964年
・『文禄旧訳 伊曽保物語』 開成館、1911年
・『天草本 伊曽保物語』 岩波文庫、1939年。復刊1997年ほか
・『吉利支丹文学集』(全2巻)、柊源一共編・校註
  ・朝日新聞社(日本古典全書)、1957–60年/平凡社東洋文庫、1993年、ワイド版2008年
・『近代浪漫派文庫18 山田孝雄 新村出[10] 新学社、2006年

脚注
1. 「やまぐちの文学者たち」80人/新村出 山口県 2018年8月31日閲覧。
2. a b 将軍・殿様が撮った幕末明治. 新人物往来社. (1996年4月21日). pp. 126-127
3. 『官報』第4808号、明治32年7月12日、p.194
4. 『東京高等師範学校沿革略志』東京高等師範学校、1911年、p.72
5. 『官報』第8106号、明治43年6月30日、p.695
6. 「講書始の奉仕者」『東京朝日新聞』昭和10年1月10日3面
7. 佐佐木幸綱(信綱の孫で歌人)監修
8. 『官報』第731号「叙任及辞令」1915年1月12日。
9. 伝記『広辞苑はなぜ生まれたか 新村出の生きた軌跡』(新村恭著、世界思想社、2017年)を著した。
10. 南蛮記(抄)を収録。

外部リンク
新村 出:作家別作品リスト - 青空文庫
新村出氏の紹介 - 大阪大学文学部
新村出 :: 東文研アーカイブデータベース - 東京文化財研究所
新村出記念財団 重山文庫
新村出 - NHK人物録
(wikiより)


10 新村出

新村 出

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碑文
安政元年三月三日 ( 1854 ) 日米和親条約が横浜村で調印された。


本邦初のペンキ塗装が施された。


本邦ペンキ塗装の元祖町田辰五郎は寝食を忘れ研究に研究を重ねてそれを完成させたのである。


以来数多くのペンキ塗装を手懸け、又数多くの弟子を育成した。


それにより本邦の隅々迠もペンキ塗装が伝はり 今日の現況に迠至ったのである。
(石碑文より)

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明治・大正期の一時代を画した日本経済史学の先駆者、内田銀蔵は明治五年 ( 一八七二 ) 正月二十五日、ここ千住仲町で江戸時代初期から続く川魚問屋の老舗「鮒与」内田与兵衛の長男として生まれました。


銀蔵は家業を継ぐ立場にありましたが幼少の頃から学問好きで、千寿小学校での成績も抜群でした。


そして学問の道を熱望したため父親も許し、地方裁判所に願い出て弟善蔵に与兵衛の名跡を相続させ、学者の道に進みました。


明治二十二年ね東京専門学校 ( 後の早稲田大学 ) 政治科に進学して経済学を学び、さらに東京大学文化大学国史科に進んで二十六年に卒業、「日本経済史及び史学と経済学との教育的価値」を課題として大学院で研究し、学会誌『史学雑誌』に日本の古代・中世・近世における経済史関係の論文を次々と発表しました。


これが認められて大学院卒業後は東京大学の講師となり、わが国最初の日本経済史を講義しました。


経済史学の創始者と後々までも称えられる所以はここにもあります。


三十五年十月、二十九歳の若さで文学博士となり、翌年一月には文部省の外国理由学生として三年半の長きにわたりヨーロッパの歴史学・経済学を学び、その間、主著『日本近世史』を刊行しました。


また、海外留学中にもかかわらず広島高等師範の教授に任命され、帰国後は京都大学文化大学の教授も兼任して史学の道を切り開きました。


史学といえば現在も京都大学が一目おかれるのは、銀蔵が築いた研究室の在り方が伝統になっているからだと言われています。


かくして四自由年五月、三十六歳の時、京都大学の専任教授となり、五年後には経済史のバイブル的存在『経済史総論』を刊行しています。


第一次世界大戦後の大正七年 ( 一九一八 ) 欧米各国に出張して翌年帰国しましたが間もなく発病し、七月二十日、四十七歳の若さで他界しました。


戒名は「文教院智顕日名居士」、墓は日ノ出町四二ノ一の清亮寺墓地にあります。


なお銀蔵は幼い日、生家の向かいにある橋本家で、稿本『自然真営道』の旧蔵者・橋本律蔵の薫陶を受けたと言われ、銀蔵の死後、京都大学に寄贈された遺品資料の中からは、〇六年九月、調べる会の調査によって、安藤昌益の医学や自然哲学を受け継ぐ川村真斎の『老子解真斎先生草稿』や橋栄徳の『静谿謾筆』、橋本律蔵の『雑記』等といった貴重な資料が見出されました。


長いあいだ昌益研究史上の謎とされてきた、安藤昌益と千住を結ぶ医師たちの系譜が他ならぬ内田銀蔵の仲介によって解明されつつあるのです。


二〇〇六年五月設置、二〇〇九年二月増補


安藤昌益と千住宿の関係を調べる会
(案内板より)

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犬養 廉(いぬかい きよし、1922年10月31日 - 2005年5月7日)は、日本文学者お茶の水女子大学名誉教授東京生まれ。1952年東京大学国文科卒。北海道大学助教授、中央大学教授、お茶の水女子大教授、88年定年、立正大学教授。93年退職。万葉集研究の第一人者である犬養孝は実兄。

著書
・『万葉・古今・新古今新解』新塔社 1991 (要所研究シリーズ)

・『平安和歌と日記』笠間書院 2004

共編著
・『小倉百人一首新釈』小高敏郎共編 白揚社 1954

・『古典和歌論叢』明治書院 1988

・『後拾遺和歌集新釈』上巻 笠間書院 1996 (笠間注釈叢書) 

校注
・『更級日記 日本古典文学全集 18』小学館 1971

・『百人一首 兼載』有吉保,橋本不美男校注 新典社 1974 (影印校注古典叢書)

・紫式部『帚木』奥出文子と校注 新典社 1978 (影印校注古典叢書)

・『山家集(鑑賞日本の古典)』尚学図書 1980

藤原道綱母『蜻蛉日記』 1982 (新潮日本古典集成)

・『小倉百人一首』創英社 1985 (全対訳日本古典新書)

・『新日本古典文学大系 平安私家集』共校注 岩波書店 1994

・紫式部『源氏物語 須磨』おうふう 1995

・『蜻蛉日記』學燈社 2006

参考文献
・文藝年鑑2004
(wikiより)

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犬養 孝(いぬかい たかし.1907年4月1日 - 1998年10月3日)は日本文学者万葉学者)。大阪大学名誉教授甲南女子大学名誉教授文学博士文化功労者。高岡市万葉歴史館名誉館長東京都出身。


弟の犬養廉日本文学者お茶の水女子大学名誉教授 中古平安時代日本文学研究者。

人物

万葉集に登場する万葉故地をすべて訪れ、万葉集研究に生涯をささげ「万葉風土学」を確立。また、テレビ・ラジオ番組や公演などで多数の人に万葉集をひろめた。万葉歌に旋律をつけて朗唱する「犬養節」は独自の歌い方で、おおくの万葉ファンに親しまれた。


万葉の景観をまもるため、万葉故地が乱開発される現状に抗議し、国会議員や松下幸之助などの財界人にも万葉故地の重要性をうったえた。その一環として、日本全国の万葉故地に所縁の万葉歌を揮毫した「万葉歌碑」を建立、故地をまもる活動に奔走した。定例の万葉ハイキングや月見の会をかさね、明日香古都保存に尽力し、明日香村名誉村民となる。

1979年(昭和54年)に昭和天皇が明日香に行幸し、甘樫丘にて明日香の歴史的風土を視察したときの案内役をつとめる。1951年(昭和26年)に始まった「大阪大学万葉旅行」は45年間の参加者延べ4万人をこえた。2000年には奈良県明日香村に犬養を顕彰し関係資料を展示する「犬養万葉記念館」が完成した。


犬養揮毫の万葉歌碑は131基におよぶ。


墓は養子(実の甥)によってまもられている。

年譜
・1907年 - 東京市下谷区谷中清水町一番地(現、東京都台東区東区池の端3-1)に生まれる

・1929年 - 第五高等学校文科甲類卒業

・1932年 - 東京帝国大学文学部卒業

神奈川県立横浜第一中学校教諭

・1942年 - 台北高等学校 (旧制)教授

・1946年 - 大阪高等学校講師

・1950年 - 大阪大学教養部助教授

・1956年 - 大阪大学分校教授

・1962年 - 「萬葉集の心情表現とその風土的関聯につきての研究」で文学博士東京大学)の学位取得

・1967年 - 大阪文化賞受賞

・1970年 - 大阪大学定年退官、名誉教授、帝塚山短期大学教授を経て、甲南女子大学教授

・1978年 - 勲三等旭日中綬章

・1981年 - 甲南女子大学定年退任、名誉教授

・1986年 - 明日香村名誉村民

・1987年 - 文化功労者

・1998年 - 叙正四位、叙勲二等瑞宝章

著書
・『笠金村』青梧堂 1944

・「万葉の風土」塙書房、1956

・「万葉の旅」社会思想社現代教養文庫、1964 のち平凡社ライブラリー

・『続・万葉の風土』塙書房 1972

・『明日香風 随想 万葉風土』社会思想社 1972 のち文庫

・『万葉のいぶき』PHP研究所 1975 のち新潮文庫

・『万葉の人びと』PHP研究所 1978 のち新潮文庫

・『万葉のこだま』PHP研究所 1982

・『わたしの万葉歌碑』(編著)社会思想社 1982

・『万葉十二カ月』新潮社 1983 のち文庫

・『万葉の大和路』講談社 1983 のち旺文社文庫

・『明日香風 第3 万葉風土』社会思想社(現代教養文庫) 1984

・『続々 万葉の風土』塙書房 1986

・『万葉 花・風土・心』社会思想社(現代教養文庫) 1987

・『万葉の歌びとと風土』中央公論社 1988

・『万葉恋の歌』世界思想社 1991

・『万葉の風土と歌人』雄山閣出版 1991

・『万葉魂の歌』世界思想社 1994

・『万葉の歌人高橋虫麻呂』世界思想社 1997

・『犬養孝万葉歌碑』山内英正 (野間教育研究所特別紀要) 1999

・『犬養孝揮毫の万葉歌碑探訪』山内英正 和泉書院 2007

・『万葉の里』和泉書院 2007

・『万葉・その後』犬養孝博士古稀記念論集刊行委員会 塙書房 1980

・『万葉の風土・文学』犬養孝博士米寿記念論集刊行委員会 塙書房 1995

関連項目
帝塚山大学の人物一覧

外部リンク
犬養万葉記念館

犬養孝 - NHK人物録
(wikiより)

0024 犬養孝

⇧ 犬養 孝

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内田 銀蔵(うちだ ぎんぞう、1872年3月4日明治5年1月25日) - 1919年大正8年)7月22日[1])は、日本歴史学者。専門は日本経済史。文学博士。日本経済史学の先駆者。

生涯

明治5年(1872年)1月、東京府足立郡千住宿中組(現在の東京都足立区)の旧家に生まれる。明治22年(1889年)、東京専門学校(現:早稲田大学)邦語政治科卒業[2]。第一高等中学校(のちの一高)に編入し、1896年(明治29年)に帝国大学文科大学国史科を卒業[3]した。国史科の同期に、喜田貞吉黒板勝美笹川種郎原勝郎幸田成友らがいた。帝国大学卒業後、同大学院に進学し、「日本経済史及び史学と経済学との教育的価値」をテーマに研究した[4]


1899年
(明治32年)、東京帝国大学文科大学国史科・史学科の講師となり、日本の大学で初めて経済史を講義した。1902年(明治35年)、「我国中古の班田収授及近時まで本邦中所々に存在せし田地定期割替の慣行に就きて」と「徳川時代特に其中世以後に於ける外国金銀の輸入」によって、文学博士の学位を取得した[5]


1903年(明治36年)1月、文部省外国留学生[6]としてヨーロッパに派遣、イギリスフランスドイツに3年間留学し、ドイツ歴史学派経済学の学風を学んだ。同年発刊の『日本近世史』第1巻 上冊 第1で、西洋歴史学の三分法を適用して、日本史三分法で江戸時代を近世として「古代 - 中世 - 近世」を提起し、研究者たちに支持され、これに近代を末に加えて、日本史学での総括的な日本史時代区分の名称となり、後代に影響を与えた[7]1906年(明治39年)に帰国する[8]が、留学途中の1905年(明治38年)に、広島高等師範学校教授に就任した。


帰国後の1906年(明治39年)、創設されたばかりの京都帝国大学文科大学教授を兼任し、文科大学史学科開設に参画した。その際、内田の創案によって、日本で初めて史学科に学生向けの国史研究室や、史学科に地理学の講座を設置した。翌1907年(明治40年)5月に京都帝国大学文科大学専任教授に就任、同年9月に開設された史学科で国史学講座を担当し、史学研究法・史学概論、のちに日本近世史・日本経済史も併せて講義した。


1918年大正7年)、再びヨーロッパに出張し、翌1919年(大正8年)3月に帰国するが、間もなく発病し、同年7月22日、胃潰瘍のため[9]48歳で歿した。

著書
・『日本近世史』 第1巻 上冊 第1、冨山房 1903

・『近世の日本』冨山房 1919

・『日本近世史・近世の日本』平凡社東洋文庫(上記二冊)

・『内田銀蔵遺稿全集』全5巻 同文館 1921-1922

  ・(1)日本経済史の研究 上巻

  ・(2)日本経済史の研究 下巻

  ・(3)国史総論及日本近世史

  ・(4)史学研究法及史学理論

  ・(5)内田銀蔵講論集

脚注
1. 『京都帝国大学一覧 自大正9年至大正11年』京都帝国大学、1921年、p.293
2. 『会員名簿 昭和2年11月』早稲田大学校友会、1927年、p.2
3. 『官報』第3910号、明治29年7月11日、p.119
4. 『東京帝国大学一覧 従明治29年至明治30年』東京帝国大学、1896年、p.322
5. 『官報』第5785号、明治35年10月14日、p.260
6. 『官報』第5868号、明治36年1月27日、p.517
7. 坂本賞三「日本中世史の形成」『史人』第6号 2015年、2018年7月15日閲覧
8. 『官報』第6886号、明治39年6月14日、p.456
9. 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』(吉川弘文館、2010年)54頁
(wikiより)

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造船技術者・渡邉忠右衛門 ( わたなべ - ちゅうえもん )


横浜における民間造船業のパイオニアである渡邉忠右衛門は、嘉永元 ( 1848 ) 年伊豆国戸田 ( へた ) 村で生まれた。


父・金右衛門は、安政元年 12月 ( 1854 ) に沈没したロシア艦船「ディアナ号」の代替船「ヘダ号」建造にあたった船大工 ( 「造船世話掛(ぞうせんせわがかり)」 ) の 1人であり、その後石川島造船所で「君沢型 ( きみさわがた )」と呼ばれる洋式船の建造に従事した。


忠右衛門もまた文久 3 ( 1863 ) 年 15歳で石川島造船所に入り、その後横須賀製鉄所をへて、横浜居留地のヨコハマ・アイアン・ワークス、築地の海軍兵学寮をへて、横浜の三菱製鉄所、横浜船渠 ( よこはませんきょ ) と技術者として渡り歩き、明治 29 ( 1896 ) 年平沼町 4丁目に丙申 ( へいしん ) 工場を、31年には高島に渡邉造船鉄工所を設けて独立。


明治 41 ( 1909 ) 年神奈川台場東の海面を埋め立てて、本格的な乾ドック ( かんどっく ) をもつ渡邉船渠会社を開いた。


忠右衛門は大正 9 ( 1920 ) 年に 72歳で逝去している。


豊富とはいえない渡邉忠右衛門の履歴資料ではあるが、忠右衛門のような技術者が、明治日本の近代化を底辺で支えたことは間違いなく、私は平成 11年の当館企画展示「工業都市への鳴動―ビールから自動車まで」においてやや詳しく紹介した。


渡邉船渠は昭和 8 ( 1933 ) 年に操業を終え、不動産部門を運営する現在の渡邉戊申株式会社 ( 明治 41年創業・在神奈川区 ) が渡邉家の事業として残ることとなった。


渡邉戊申株式会社・渡邉淳社長から、平成 20年に「当社が創立 100周年を迎えるにあたり、記念としてこれまでご縁のあった横浜市のいくつかの施設に寄付をしたいが、なにかよい使い道はないか」との連絡をいただいた。大変ありがたいお申し出であり、横浜市がご寄付を受納するかたちをとり、以下の資料が開港資料館の収蔵品として収まることとなった。


拓本・渡邊忠右衛門翁碑

中区北方・妙香寺 ( みょうこうじ ) の本堂から墓地にのぼる階段のわきにある石柱で区切られた一画に、大きな台座石に支えられた高さ 3メートルをこえる巨大な石碑がある。自然石の表面に「渡邊忠右衛門翁碑」と刻まれた文面は漢文で、忠右衛門の履歴を記している。


企画展示「工業都市への鳴動」では、文字をノートに書き取り、ワープロ入力したうえで展示パネルを作成したが、今回は専門業者に依頼して拓本をとり、軸装をお願いした。


石碑の建立は忠右衛門氏逝去の 3年をへた大正 12 ( 1923 ) 年であり、85年の歳月は、文字を刻んだ部分の表面に細かな剥離を生じさせていたが、解読不能の文字はなかった。


拓本を軸装したところ、タテ 233センチ×ヨコ 158センチとなり、開港資料館の企画展示室では陳列できないものとなった。そこでさらにお願いして、当館展示室のグリッドに掛けられるような縮小版も作成させていただいた。
(開港のひろばより)

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〇 旧官営富岡製糸場 工女の説明

旧官営富岡製糸場は、日本の近代国家への礎として、明治政府が総力を結集し国営で創設した。


外国人の設計による西洋式建物 ( 木骨レンガ造り ) で、我が国最初の工場化された産業施設であり、近代産業の象徴として又日本蚕糸工業の官営模範工場として、一八七二年 ( 明治五年 ) 十月に操業を開始した。


現在は片倉工業株式会社富岡工場となっている。

この操業に当たって特に苦心したのが工女の募集である。


当時、ブドウ酒を飲む外国人を見た民衆は、「若い娘の生き血を飲んでいる」といって恐れ、噂が噂を生み工女の確保に大変困ったという。


初代所長長尾惇忠は率先してまず自分の娘を入場させ、全国各府県の士族から工女を集めたという。


翌年一八七三 ( 明治六年 ) 一月には、工女総数四百四人に達し、当工場で生産する生糸は品質優良で海外に名声を博し、特に一八七三年ウィーンで開かれた万国博覧会において入賞している。


国の繁栄のため遠く親元を離れ、病のため異郷のこの地に命を落とした乙女たち四十八人の墓が、小さな肩を寄り添うように墓地中心部に立っていて、乙女たちのけなげな姿を現在に伝えている。
(案内板より)


 大雨のため全部の墓石を撮影することが出来ませんでした。

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富岡製糸場(とみおかせいしじょう、Tomioka Silk Mill)は、群馬県富岡に設立された日本初の本格的な機械製糸[注釈 1]の工場である。1872年明治5年)の開業当時の繰糸所、繭倉庫などが現存している。日本の近代化だけでなく、絹産業の技術革新・交流などにも大きく貢献した工場であり、敷地を含む全体が国の史跡に、初期の建造物群が国宝および重要文化財に指定されている。また、「富岡製糸場と絹産業遺産群」の構成資産として、2014年6月21日の第38回世界遺産委員会ドーハ)で正式登録された[1]


時期によって「富岡製糸場」(1872年から)、「富岡製糸所」(1876年から)、「原富岡製糸所」(1902年から)、「株式会社富岡製糸所」(1938年から)、「片倉富岡製糸所」(1939年から)、「片倉工業株式会社富岡工場」(1946年から[注釈 2])とたびたび名称を変更している[2]史跡国宝重要文化財としての名称は「旧富岡製糸場」、世界遺産暫定リスト記載物件構成資産としての名称は「富岡製糸場」である。

概要

日本は江戸時代末期に開国した際、生糸が主要な輸出品となっていたが、粗製濫造の横行によって国際的評価を落としていた。そのため、官営の器械製糸工場建設が計画されるようになる。


富岡製糸場は1872年にフランスの技術を導入して設立された官営模範工場であり、器械製糸工場としては、当時世界最大級の規模を持っていた。そこに導入された日本の気候にも配慮した器械は後続の製糸工場にも取り入れられ、働いていた工女たちは各地で技術を伝えることに貢献した。


1893年に三井家に払い下げられ、1902年に原合名会社、1939年に片倉製糸紡績会社(現片倉工業)と経営母体は変わったが、1987年に操業を停止するまで、第二次世界大戦中も含め、一貫して製糸工場として機能した。


第二次世界大戦
時のアメリカ軍空襲の被害を受けずに済んだ上、操業停止後も片倉工業が保存に尽力したことなどもあって、繰糸所を始めとする開業当初の木骨レンガ造の建造物群が良好な状態で現代まで残っている。2005年に敷地全体が国の史跡に、2006年に初期の主要建造物(建築物7棟、貯水槽1基、排水溝1所)が重要文化財の指定を受け、2007年には他の蚕業文化財とともに「富岡製糸場と絹産業遺産群」として世界遺産の暫定リストに記載された。2014年6月に世界遺産登録の可否が審議され、6月21日に日本の近代化遺産で初の世界遺産リスト登録物件となった。

歴史
建設決定まで

開国直後の日本では、生糸蚕種などの輸出が急速に伸びた。ことに生糸の輸出拡大の背景には、ヨーロッパにおける生糸の生産地であるフランスイタリア微粒子病[注釈 3]という蚕の病気が大流行し、ヨーロッパの養蚕業が壊滅的な打撃を被っていたことや[3]太平天国の乱によっての生糸輸出が振るわなくなっていたことなどが背景にあった[4]。その結果、1862年(文久2年)には日本からの輸出品の86%を生糸と蚕種が占めるまでになったが[5]、急激な需要の増大は粗製濫造を招き、日本の生糸の国際的評価の低落につながった[6][7]。また、イタリアの製糸業の回復も日本にとっては向かい風になり、日本製生糸の価格は1868年から下落に転じた[4]

明治政府には、外国商人などから器械製糸場建設の要望が出されており、エシュト・リリアンタール商会[注釈 4]からは資金提供の申し出まであった。これが直接的な引き金となって器械製糸工場建設が実現に向かうが[8]、政府内では外国資本を入れず、むしろ国策として器械製糸工場を建設すべきという意見が持ち上がり、1870年(明治3年)2月に器械製糸の官営模範工場建設が決定した[9][10]。これは粗製濫造問題への対応というよりも、従来の座繰りによる製糸では太さが揃わなかったために、経糸たていとよりも安価で取引される緯糸よこいととして使われることが多かった実態を踏まえ、その改良を志向した側面があったとも言われている[11]

同時に政府は器械製糸技術の導入を奨励しており[6]前橋藩では速水堅曹らが同じ年に藩営前橋製糸所を設立した。これは日本初の器械製糸工場と見なされているが[12]、イタリアで製糸業に従事した経験を持つスイス人ミュラーを雇い入れ、イタリア式の製糸器械を導入したものであり、当初は6人繰り、次いで12人繰りという小規模なものにとどまった[13][14]


大隈重信伊藤博文渋沢栄一は官営の器械製糸場建設のため、フランス公使館通訳アルベール・シャルル・デュ・ブスケおよびエシュト・リリアンタール商会横浜支店長ガイゼンハイマー (F. Geisenheimer) に、いわゆるお雇い外国人として適任者を紹介するように要請したところ、エシュト・リリアンタール商会横浜支店に生糸検査人として勤務していたポール・ブリューナ (Paul Brunat) の名が挙がった[15]。明治政府はブリューナが提出した詳細な「見込み書」の内容を吟味した上で、1870年(明治3年)6月に仮契約を結んだ[16]

ブリューナは仮契約後すぐに尾高惇忠らを伴って、長野県群馬県埼玉県などを視察し、製糸場建設予定地の選定に入った。そして、明治3年閏10月7日に民部大輔らと正式な雇用契約を取り交わすと[17]、同月17日には富岡を建設地とすることを最終決定している[18]。この決定は、周辺で養蚕業がさかんで繭の調達が容易であることや、建設予定地周辺の土質が悪く、農業には不向きな土地であること[19]、水や石炭などの製糸に必要な資源の調達が可能であること、全町民が建設に同意したこと、元和年間に富岡を拓いた代官中野七蔵が代官屋敷の建設予定地として確保してあった土地が公有地として残されており、それを工場用地の一部に当てられること[10]など、様々な要件が考慮された結果であった。

建設

ブリューナは製糸場の設計のために、横須賀製鉄所のお雇い外国人だったエドモン・オーギュスト・バスチャンに依頼し、設計図を作成させた[20]。バスチャンは明治3年11月初旬に依頼を受けると、同年12月26日(1871年2月15日[21])に完成させた[20]。彼が短期間のうちに主要建造物群の設計を完成させられた背景としては、木骨レンガ造の横須賀製鉄所を設計した際の経験を活かせたことが挙げられている[20][22][注釈 5]


ブリューナは設計図の完成を踏まえ、翌月22日(1871年3月12日[21])に器械購入と技術者雇用のためにフランスに帰国した[21]。ブリューナは建設予定地調査の折に、地元工女に在来の手法で糸を繰らせて日本的な特徴を把握しており[23]、それを踏まえて製糸場用の器械は特別注文した[24]。目的を達したブリューナはその年の内、すなわち明治4年11月8日(1871年12月19日)に妻らとともに再来日を果たすことになる。


他方で、ブリューナが日本を発ったのと同じ月には、尾高惇忠が日本側の責任者となって資材の調達に着手し、1871年(明治4年)3月には着工にこぎつけていた[10]。建築資材のうち、石材、木材、レンガ、漆喰などは周辺地域で調達した。なお、レンガはまだ一般的な建材ではなく、明戸村(現埼玉県深谷市)からも瓦職人を呼び寄せ、良質の粘土を産する福島村(現甘楽町福島)に設置した窯で焼き上げた[25]。この時期、民部省庶務司から大蔵省勧業司へと所管が変わった(明治4年7月24日)[26]


建設を進めることと並行し、明治5年(1872年)2月12日に政府から工女[注釈 6]募集の布達が出された[27]。しかし、「工女になると西洋人に生き血を飲まれる」(西洋人が飲んでいた赤ワインを生き血と誤解したもの)などの根拠のない噂話が広まっていたことなどから、思うように集まらず、政府は生き血を取られるという話を打ち消すとともに、富岡製糸場の意義やそこで技術を習得した工女の重要性などを説く布告をたびたび出した[28][24]。このような状況の中で尾高は、噂を払拭する狙いで娘の勇(ゆう)を最初の工女として入場させた[29][30][注釈 7]。富岡製糸場は、1872年7月に主要部分の建設工事が終わるのに合わせて開業される予定だったが、予定よりも遅れた[24]。その理由の一つには、この工女不足の問題があったと推測されている[31]

官営時代
富岡製糸場は、明治5年10月4日1872年11月4日)に官営模範工場の一つとして操業を開始した。ただし、当初は工女不足から210人あまりの工女たちで全体の半分の繰糸器を使って操業するにとどまった[32]。翌年1月の時点で入場していた工女は404人で、主に旧士族などの娘が集められていた[24]。同年4月に就業していた工女は556人となり[33]、4月入場者には『富岡日記』で知られる和田英(横田英)も含まれていた[34][24]

製糸場の中心をなす繰糸所は繰糸器300釜を擁した巨大建造物であり、フランスやイタリアの製糸工場ですら繰糸器は150釜程度までが一般的とされていた時代にあって、世界最大級の規模を持っていた[35][36]。また、特徴的なのは揚返器156窓も備えていたことである。揚返あげかえしは再繰ともいい、小枠に一度巻き取った生糸を大枠に巻き直す工程で、湿度の高い日本の気候の場合、一度巻き取っただけではセリシン(生糸を繭として固めていた成分)の作用で再膠着する恐れがあり、それを防ぐために欠かせなかった[37]。これに対し、ヨーロッパの場合はこの工程を省く直繰ちょくそう式が一般的で、前出の前橋製糸所が導入した器械も直繰式であった[38]。前出の通り、ブリューナは富岡製糸場のための器械を特注していたが、その一つはこの日本の気候に合わせて再繰式を導入する点にあった[39][注釈 8]。なお、特別注文したほかの点には、日本人女性の体格に合わせて高さの調整をしたことなどが挙げられる[40]


工女たちの労働環境は充実していた。当時としては先進的な七曜制の導入と日曜休み、年末年始と夏期の10日ずつの休暇[41][42]、1日8時間程度[注釈 9]の労働で、食費・寮費・医療費などは製糸場持ち、制服も貸与された[43]。群馬県では県令楫取素彦が教育に熱心だったこともあり、1877年(明治10年)には変則的な小学校である工女余暇学校の制度が始まり、以前から工女の余暇を利用した教育機会が設けられていた富岡製糸場でも、1878年(明治11年)までには工女余暇学校が設置された[44]。しかし、官営としてさまざまな規律が存在していたことや、作業場内の騒音など、若い工女たちにとってはストレスとなる要因も少なくなかった[43]。そのため、満期(1年から3年)を迎えずに退職する者も多く、その入れ替わりの頻繁さから不熟練工を多く抱え、赤字経営を生む一因となった[45]。また、様々な身分の若い女性が同じ場所で生活していたことから、上流出身の女性の身なりに合わせたがる工女も少なくなく、出入りしていた呉服商・小間物商から月賦払いで服飾品を購入して借金を重ねる事例もしばしば見られた[46]


工女たちは熟練度によって等級に分けられていた。開業当初は一等から三等および等外からなっていたが、1873年には等外上等および一等から七等の8階級に変わった[43]。工女たちはブリューナがフランスから連れてきたフランス人教婦たちから製糸技術を学び、1873年5月には尾高勇ら一等工女の手になる生糸がウィーン万国博覧会で「二等進歩賞牌」を受賞した[47]。これは品質面の評価よりも、近代化されたことに対する評価だったという指摘もあるが[48]、開業間もない富岡製糸場の評価を高めたことに変わりはなく[49][47]リヨンミラノの絹織物に富岡製の生糸が使われることにつながったとされる[50]。工女たちは、後に日本全国に建設された製糸工場に繰糸の方法を伝授する役割も果たした。和田英や春日蝶が1874年7月に帰郷したのも、そうした工場の一つである民営の西条製糸場(のちの六工社)で指導に当たるためであった[51]。なお、初期には人数は少なかったが、蒸気機関の扱いなどを学ぶための工男たちも受け入れており、西条製糸場の設立にも、そうした工男が貢献している[52][53]


初期の富岡製糸場は初代所長(場長)尾高惇忠、首長ポール・ブリューナを中心に運営されたが、前述の不熟練工の問題やブリューナ以下フランス人教婦、検査人などのお雇い外国人たちに支払う高額の俸給、さらに官営ならではの非効率さなどの理由から大幅な赤字が続いていた[54][55]


契約満了につきブリューナとフランス人医師が去った1875年(明治8年)12月31日をもって、富岡製糸場のお雇い外国人は一人もいなくなった[56]。日本人のみの経営となった最初の年度、明治9年度[注釈 10]には大幅な黒字に転じた。この理由としては、お雇い外国人への支出がなくなったことのほか、所長の尾高の大胆な繭の思惑買いなどが奏功したことが挙げられる[57]。しかし、尾高の思惑買いは、彼が当時政府が認めていなかった秋蚕の導入に積極的だったことなどと併せ、政府との対立を生む原因になり、尾高は富岡製糸場が富岡製糸所と改称された翌月に当たる1876年(明治9年)11月に所長を退いた[58]


翌年度には、従来、エシュト・リリアンタール社を経てリヨンに輸出されていた生糸が、三井物産によってリヨンへ直輸出されるようにもなり、日本人による直輸出が始まった[59][注釈 11]


内務省の官吏だった速水堅曹はかねてから民営化も含めた抜本改革を提言していたが、西南戦争(1877年)の勃発によって一時的に棚上げされた[60]。しかし、1878年(明治11年)にパリ万国博覧会に赴いていた松方正義(当時は勧農局長)が富岡の生糸の質の低下を指摘されたことから、速水が富岡製糸所の改革を任されることになる[61][62]。速水は、尾高の後任だった山田令行が改革を阻害しているとして更迭を進言し、これを実現させた[63]。松方は後任として速水を第3代所長に任命したが、民営化を主張する速水は1880年(明治13年)11月5日の「官営工場払下概則」制定と前後して、富岡製糸所の生糸の直輸出を一手に担う横浜同伸会社設立に関わり所長を辞任、かわって同伸会社の社長に就任した[64]。この時点では、民間人となった速水が富岡製糸所を5年間借り受けるという話が、松方との間で事実上内定していたが、群馬県令の反対などもあって、政府は最終的にこれを認めなかった[65]。他方で、ほかに払い下げを希望する民間人は現れなかった。富岡製糸所の巨大さが、当時の民間資本では手に余る存在だったからと言われている[66][67]。「官営工場払下概則」が結果的に払い下げを促進することにはならずに1884年に廃止されると、官営工場の払い下げは急速に進んだが[68]、富岡製糸場は払い下げの見通しが立たないまま、官営の時期がなおも続いた。


第4代所長の岡野朝治の時期は、度々の糸価下落などの影響を受け、経営的に厳しい時期にあたっていた[69]。そうした状況を受け、1885年(明治18年)には速水が第5代所長として復帰した。速水は同伸会社社長時代に、一手に輸出を引き受けていた富岡製糸所の生糸を、リヨン以外にニューヨークにも輸出するようになっていた[70]。彼は製糸所所長として改革を進める一方で、アメリカ向けの輸出も増やし、米仏の両国で富岡の生糸の評価を高めた[71][72][注釈 12]。他方で速水は民営化を引き続いて主張していたが、それは1890年代になってようやく実現することになる。

三井家時代

1891年(明治24年)6月に払い下げのための入札が初めて行われたが、このときに応札した片倉兼太郎貴志喜助はいずれも予定価額(5万5000円)に大きく及ばず、不成立になった[73]。改めて1893年(明治26年)9月10日に行われた入札では、最高額入札となった三井家が12万1460円をつけ、予定価額10万5000円[注釈 13]を上回ったため、払い下げが決定した(引渡しは10月1日)[74]


三井家の時代の経営はおおむね良好で[2][75]、繰糸所に加えて木造平屋建ての第二工場を新設したほか[76]、第一工場(旧繰糸所)からは揚返器を撤去し、揚返場を西置繭所1階に新設した。これは蒸気機関のせいで繰糸所内が多湿であったことから、揚返場を兼ねさせることに不都合があったためである[77][注釈 14]。この時期には新型繰糸機などが導入され[2]、開業当初の繰糸器、揚返器はすべて姿を消した[78]。そのような新体制の下で生産された生糸は、すべてアメリカ向けに輸出された[79]


この時期に寄宿舎も新設したが、工女の約半数は通勤になっている[80]。工女の労働時間は、開業当初に比べると伸ばされる傾向にあり、6月の実働時間は11時間55分、12月には8時間55分となっていた[81]。読み書きや裁縫を教える1時間程度の夜学は継続されていたが、長時間労働で疲れた工女たちは必ずしも就学に熱心でなかったという[82]


三井
は富岡以外にも3つの製糸工場を抱えていたが、4工場全てを併せた収益は好調とはいえなかった[83]。また、三井家の中で製糸工場の維持に積極的だった銀行部理事の中上川彦次郎が病没したことも、製糸業存続には向かい風となった[84]。こうして、三井は1902年(明治35年)9月13日に4工場全てを一括して原富太郎原合名会社に譲渡した[85]。原が4工場の代価として支払ったのは、即金10万円と年賦払い(10年)13万5000円であった[85]

原合名会社時代

原合名会社が富岡製糸所を手に入れると、その翌月に当たる1902年10月に原富岡製糸所と改名した[2]。1900年前後には郡是製糸(現グンゼ)を始め、繭質改良に積極的な事業者が現れ、蚕種を安価で配布するものも現れていた[86]。蚕種を養蚕農家に配布することは、繭の品質向上と均質化に寄与するものであった。原合名会社も、まず原名古屋製糸所で1903年(明治36年)から蚕種の配布を始め、1906年(明治39年)からは原富岡製糸所でも開始した[87]。原富岡での蚕種の配布は無償で行なわれ、その数を増やしていく上では、群馬で発祥し、全国的に影響のあった養蚕教育機関高山社の協力も仰いだ[87]。また、工女たちの教育機会の確保は継続されており、娯楽の提供などの福利厚生面にも配慮されていたが、それらについては「普通糸」よりも質の高い「優等糸」を生産していた富岡製糸所にとっては、熟練工をつなぎとめておくことが必要であったからとも指摘されている[88][89][注釈 15]


原時代は第一次世界大戦(1914年勃発)や、世界恐慌(1929年)に見舞われた時期を含んでいる。いずれの時期にも生産量は減少しており、ことに1932年(昭和7年)には大幅な減少を経験した[90]。しかし、それから間もなく8緒[注釈 16]TO式繰糸器御法川式繰糸器を撤去し、20緒のTO式および御法川式を大増設し、生産性は上昇した[91]。1936年(昭和11年)には14万7000キログラムの生産量を記録し、過去最高となった[92]


このように生産性の向上は見られたが、満州事変日中戦争によって国際情勢は不安定化していき、1938年(昭和13年)には群馬県最大(全国2位)の山十製糸が倒産した[93]。このような情勢の中、原富岡製糸所の大久保佐一工場長が組合製糸会社(大久保が社長を兼務)のトラブルがもとで自殺したことや、原富太郎の後継者原善一郎が早世するなど、原合資会社内部の混乱が重なっていた[94]。さらに、主要輸出先アメリカで絹の代替となるナイロンが台頭し、先行きにも懸念があった[95]。そのため、原合名会社は山十が倒産したのと同じ1938年に製糸事業の縮小に踏み切った[96]。富岡製糸所は切り離されて、同年6月1日に株式会社富岡製糸所として独立した[97]。形式上の代表取締役は西郷健雄(原富太郎の娘婿)であったが[98]、経営は筆頭株主の片倉製糸紡績会社が担当することになった[96]

詳しいことは、『富岡製糸場ウィキペディア』をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E5%B2%A1%E8%A3%BD%E7%B3%B8%E5%A0%B4
(wikiより)

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加藤司書の子で、玄洋社員として活動した。

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高場 乱(たかば おさむ、天保2年10月8日1831年11月11日) - 明治24年(1891年3月31日)は、江戸時代末期の女性儒学者で、医者、教育者。筑前国博多の人。幼名は養命。は元陽のち乱。通称は小刀。号は仙芝など。

経歴

筑前国博多瓦町の眼科医・高場正山の末子として生まれる。高場家は代々眼科医の名門で福岡藩の藩医を努めていたが、幼名の「養命」からうかがえるように、乱は男として育てられた。天保12年(1841年)、10歳で(男として)元服。なお、この元服は藩に受理された公的なものである。異例と言えなくはないが、福岡藩の支藩にあたる秋月藩には原采蘋という男装帯刀の女性儒学者がすでにいた。16歳で一度は夫を得るが、これを不服として自ら離縁、20歳の時に亀井昭陽の亀井塾に入る。亀井塾は身分性別を問わない学風で、実際に女性の弟子も多かった。先に挙げた原采蘋もその一人である。


亀井塾で学問を修めた乱は明治6年(1873年)、福岡藩の薬用人参畑跡(現在博多駅の近く)に私塾興志塾(通称「人参畑塾」)を開設、医業の傍らで教育にも携わる道を選んだ。弟子は何故か乱暴者が多く、乱もあえてそういった人物を拒まなかったという。そのせいか乱は世間から「人参畑の女傑」と呼ばれ、塾も「梁山泊」などと呼ばれていたというが、乱自身は生来虚弱で、華奢であったと伝えられている。そんな興志塾に明治7年(1874年)頃に入門したのが頭山満であるが、彼の他にも後に玄洋社の主要なメンバーとなった平岡浩太郎進藤喜平太箱田六輔武部小四郎などはいずれも興志塾で学んだ。


その弟子たちが起こした明治10年(1877年)3月の福岡の変への関与を疑われ、乱も一時は拘束されるが、釈放されている。その後、頭山らが結成した向陽社(玄洋社の前身)内部の抗争を仲裁するなどしつつ、弟子たちの行く末を見守っていたが、自由民権運動のうねりの中で多くの弟子たちが命を失っていった。ことに、弟子の一人である来島恒喜大隈重信へテロを仕掛け自殺したことには衝撃を受けたようで、これを「匹夫の勇」(思慮浅く、ただ血気にはやって行動したがるだけの勇気)と評した書簡が残っている。来島の自殺の翌年、乱は後を追うように病床に伏し、医者であるにも関わらず一切の治療を拒みながら、弟子たちに看取られつつ逝去した。明治24年(1891年)3月31日のこと、59歳であった。


墓所は福岡市の崇福寺にあり、その墓碑銘「高場先生之墓」は勝海舟が書いている。

参考文献
・永畑道子『凛―近代日本の女魁・高場乱』藤原書店, 1997。 ISBN 978-4894340633

・石瀧豊美『玄洋社・封印された実像』海鳥社、2010年。ISBN 978-4874157879

・荒井周大編『福岡県碑誌』福岡県碑誌保存會、昭和4年(崇福寺・玄洋社墓地の勝海舟の墓碑撰文、漢詩)

・浦辺登著『玄洋社とは何者か』弦書房、2020年、ISBN978-4-86329-154-6
(wikiより)

043 高場乱

⇧ 高場 乱

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⇧⇩ 墓碑銘「高場先生之墓」は勝海舟が書いている。

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来島 恒喜(くるしま つねき、1860年1月31日安政6年12月30日) - 1889年(明治22年)10月18日)は、日本右翼活動家、不平士族、テロリスト。筑前共愛公衆会玄洋社元社員。

概要

外国人司法官任用問題」も参照

福岡藩士・来島又右衛門の二男として現在の福岡県福岡市に生まれる。


高場乱
興志塾に学び、堅志社十一学舎を経て、1879年(明治12年)4月、向陽義塾に加入する[1]

1883年(明治16年)4月、上京し中江兆民に仏語を学んだ後、筑前共愛公衆会や、頭山満率いる玄洋社に参加する。一時、小笠原諸島に玄洋社の的野半介竹下篤次郎と渡り、同地に送られた朝鮮開化党金玉均と過ごし、朝鮮の政治改革について語り合った。


その後、大隈重信の条約改正案に反対し、現状の日本の国際地位ではこの改正案が第一歩として次の改正に繋がると批判しなかった[要出典]玄洋社を退社。(退社の理由は他の社員が共犯関係を疑われて刑事責任を負わされる可能性を最小限に抑える為とも言われる)。計画には同じく玄洋社の社員であった月成功太郎も加わっていたが、老母、妻子を持つ月成の身を欺き、単独で決行した。


1889年
(明治22年)10月18日、外務省からの帰路にあった大隈に、彼の乗る馬車へ爆弾を投げつけた。爆弾は馬車の中に入り、大隈の足元で爆発した[2]。来島はその場で短刀で喉を突き自害した[2]。享年29。大隈は命はとりとめたものの、顔と手に軽症、右膝とくるぶしに重症を負い、右脚を切断することとなった[2]。かねてから条約交渉に反発していた閣僚らは、黒田清隆首相に条約改正交渉の中止を求めた。これにより黒田内閣は総辞職に追い込まれ、条約改正は頓挫した[3]。来島の死後、石工広田徳平により、墓碑が寄贈された。また、博多の玄洋社墓地(崇福寺)にも墓があるが、勝海舟によって谷中霊園にも墓が建てられた。同墓はその後、頭山満によって建て替えられたが、当初の墓石も傍に横たえて残されている。


後に、友好関係にあり眠食も共にした杉山茂丸が自身の著書『百魔』の中で、以前、自決することを仄めかす様な事を言ったとある。また、上京することを杉山に告げた際、時期でないと止められたが、林斧助という人に杉山宛の手紙を残したまま上京した、ともある。

逸話

・大隈の治療は、池田謙斎を主治医とし、手術は佐藤進高木兼寛橋本綱常エルヴィン・フォン・ベルツの執刀で行われた[2]。大隈はその後、来島について「爆裂弾を放りつけた奴を、決して気違いの人間で、憎い奴とは寸毫も思わず。」「華厳の滝に飛び込む弱虫よりは、よっぽどエライ者と思うておる」「いやしくも外務大臣である我が輩に爆裂弾を食わせて世論を覆そうとした勇気は、蛮勇であろうと何であろうと感心する。」と語っている[4]小久保喜七は毎年来島のために年忌を行っていたが、大隈は毎年法要に代理人を送ってきたという。大隈の没後も、養嗣子の大隈信常によって代理人の派遣は続けられた[5]


・来島も学んだ興志塾(通称人参畑塾)の塾長高場乱(たかばおさむ)は国際情勢や日本の国際環境を理解しない浅はかな者だと否定し、批判している[6]。一方で、自決したことには「ながらえて明治の年の秋なから心にあらぬ月を見るかな」という嘆きの歌を詠んでいる[7]


・博多の侠客「勇敢仁平」の異名をとる大野仁平と乱闘となり、燭台で大野仁平の頭をたたき割っている。


・来島の墓碑を寄贈した広田徳平は、後に首相となる広田弘毅の父。また、計画に加わっていた月成功太郎は弘毅の妻の父であり、岳父にあたる。

登場する作品

・『風蕭々』 - 尾崎士郎の短編小説。大隈重信の遭難事件を来島の視点から描いた作品。

日本暗殺秘録(1969年、東映) - 演:吉田輝雄

・『テロルの系譜』「綺異譚 来島恒喜」(1975年、日本文華社) - かわぐちかいじの漫画作品。

春の波涛(1985年、NHK) - 演:堀隆博

夜会の果て(1997年、NHK) - 演:林邦史朗

八重の桜(2013年、NHK) - 演:大平真嗣

・『ゴーマニズム宣言SPECIAL 大東亜論 巨傑誕生篇』(2014年、小学館) - 小林よしのりの漫画作品。

・「高場乱」(2020年、ユーチューブ配信)語り芝居:岩城朋子

脚注
1. 凛―近代日本の女魁・高場乱p16,永畑道子,藤原書店,1997年3月1日

2. a b c d 伊藤之雄 & 2019上, p. 346.
3. 伊藤之雄 & 2019上, p. 346-347.
4. 大隈重信『青年の為に』(東亜堂,1919) p.113https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/933317
5. 伊藤之雄 & 2019上, p. 348.
6. 凛―近代日本の女魁・高場乱,永畑道子p56,藤原書店,1997年3月1日
7. 凛―近代日本の女魁・高場乱p62,永畑道子,藤原書店,1997年3月1日

参考文献
北川晃二『黙してゆかむ―広田弘毅の生涯』(1975年、講談社ISBN 978-4061840959

頭山統一『筑前玄洋社』(1977年9月、葦書房ISBN 978-4751200353

浦辺登『太宰府天満宮の定遠館―遠の朝廷から日清戦争まで』(2009年8月20日、弦書房ISBN 978-4863290266

石瀧豊美『玄洋社・封印された実像』(2010年10月15日、海鳥社ISBN 978-4874157879

小林よしのり『ゴーマニズム宣言スペシャル 反TPP論』(2012年2月24日、幻冬舎ISBN 978-4344021341

伊藤之雄大隈重信(上)「巨人」が夢見たもの』中央公論新社〈中公新書〉、2019年7月。ISBN 978-4-12-102550-0

・浦辺登著『玄洋社とは何者か』弦書房、2020年、ISBN978-4-86329-154-6

関連項目
玄洋社

頭山満

中江兆民

大隈重信

杉山茂丸

大野仁平
(wikiより)

042 来島恒喜

⇧ 来島恒喜

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頭山 満(とうやま みつる、安政2年4月12日1855年5月27日[1] - 昭和19年(1944年10月5日[1]、幼名:乙次郎)は、日本国家主義者、大アジア主義[2]は立雲[1]


1878年
板垣退助の影響で自由民権運動に参加して国会開設運動を行い、向陽社(のち共愛会)を創設したが、1881年に国会開設の詔勅が出ると共愛会を玄洋社と改名し、自由民権論から離れて国権伸張を主張し、大アジア主義を唱導するようになり、玄洋社の中心人物として対外強硬論を主張し続け、韓国併合などを推進した[2]

概略

頭山満の組織した玄洋社は、日本における民間の国家主義運動の草分け的存在であり、後の愛国主義団体や右翼団体に道を開いたとされる。また、教え子の内田良平の奨めで黒龍会顧問となると、大陸浪人にも影響力を及ぼす右翼の巨頭・黒幕的存在と見られた。一方、中江兆民吉野作造などの民権運動家や、遠縁のアナキスト伊藤野枝大杉栄とも交流があった。また、鳥尾小弥太犬養毅広田弘毅など政界にも広い人脈を持ち、実業家(鉱山経営者)や篤志家としての側面も持っていた[3]


条約改正交渉
に関しては、一貫して強硬姿勢の主張をおこない、また、早い時期から日本の海外進出を訴え、対露同志会に加わって日露戦争開戦論を主張した。同時に、朝鮮金玉均中国孫文蔣介石インドラス・ビハリ・ボースベトナムファン・ボイ・チャウなど、日本に亡命したアジア各地の民族主義者・独立運動家への援助を積極的に行った[4]

生涯
初期の経歴

安政2年(1855年)4月12日、筑前国早良郡西新町福岡藩士・筒井亀策の三男として生まれる[1]。幼名は乙次郎(おとじろう)[5]。のちに鎮西八郎為朝にあやかって、自ら八郎と名を改める[6]。13歳の時には、太宰府天満宮の「満」から名前を授かって筒井満と改める[6]。1871年、16歳の時に、父の従弟の山本兵蔵の養子となり、山本に姓をあらためるが、しばらくして実家に戻る[7]。1873年の春に、男手のなかった母方の頭山家に当時3歳だった娘の峰尾の婿として迎え入れられ、頭山に姓を改める[7]。なお、頭山が峰尾と正式に結婚するのは、1885年頭山が30歳になってからである[7]。筒井家は福岡藩百石取りの馬廻役であったものの、家計は苦しかった[5]

町でサツマイモを売り歩く貧しい少年時代をすごす[要出典]。「小さいときから記憶力が強くて物事を語ることが鋭敏」だったと言われている。幼少期に桜田義士伝の講談に連れて行かれた際に、家に帰ってから最初から最後までを人名とともに説明してみせた、という記憶力の良さを示すエピソードが伝わる[6]慶応元年(1865年)、11歳の時に「楠木正成のような人物になりたい」という思いから生家の庭に植えたクスノキが、現在も生家跡(現・西新エルモールプラリバ)北側の西新緑地に残る[6][8]


16歳の時、福岡藩の勤皇派の流れを汲む[要出典]、男装の女医(眼科医)で儒学者の高場乱(たかば おさむ)が開いていた興志塾(高場塾[要出典]、人参塾とも)に入門する[9]。初めは眼病を患い治療のために高場のもとに訪れたが、治療のために通っているうちにこの塾の話を高場に聞かされ興味を持ったことが、入塾のきっかけだった[10]。興志塾は他の塾では断られるような乱暴な少年たちを好んで入門させており、腕白少年たちの巣窟と言われていた。頭山はここで進藤喜平太箱田六輔ら後の玄洋社の創設メンバーと出会う[要出典]。頭山は晩年、当時のことを「教えは徹頭徹尾、実践だった」と回想している[要出典]。頭山は、この興志塾で熱心に学問に取り組み、高場の代わりに浅見絅斎の『靖献遺言』を講義することもあった[11]。この『靖献遺言』は、中国及び日本の中心や義士の遺文や略伝、行状を載せたものであり、幕末の尊王倒幕の思想に大きな影響を与えたといわれている[12]。『靖献遺言』をはじめとしてこの時期に学んだ文献によって、頭山の思想的基盤が形作られたとみられている[11][13]


頭山が興志塾で学んでいた頃、板垣退助らを中心として全国的に自由民権運動が盛んになっていた[14]。1874年の愛国公党の結成を経て、板垣は1875年2月に大阪で愛国社を結成する[14]。この結成大会には興志塾出身の武部小四郎越知彦四郎が参加しており、同年の8月には福岡に戻り、武部を社長とする矯志社(きょうししゃ)、越知を社長とする強忍社(きょうにんしゃ)、箱田六輔を社長とする堅志社(けんししゃ)を設立した[15]。頭山はこのうちの矯志社の社員となった[15]


1874年の佐賀の乱をはじめとして、明治9年(1876年)には神風連の乱、秋月の乱などの不平士族の反乱が相次いで起こった[16]。続いて同年、頭山らの矯志社とつながりの深かった前原一誠が萩の乱起こしたが、この反乱に呼応して矯志社が決起することはなかった[17]。しかし、矯志社は以前から警察当局に警戒されており、同年11月に矯志社の社員でもあった箱田が家宅捜査を受けると、社内で議論されていた大久保利通襲撃を示す文書が見つかり箱田が逮捕される[17]。この逮捕が不当であると抗議するために頭山らは警察に赴くがそのまま拘束され、投獄された[17]。初めは福岡の牢獄に入れられていたが、後に萩に移送された[17]。翌年の西南戦争は獄中で知ることになる。西南戦争時には、約500名の旧福岡藩士も呼応して決起(福岡の変)し、武部や越知がこの中心であった[18]。彼らと同じように、尊敬する西郷隆盛とともに戦えなかった頭山らの悔しい思いが、玄洋社の原点になっている[要出典]。頭山らが釈放されたのは、皮肉にも西郷が自刃した9月24日であった[18]。頭山らは福岡に戻り、海の中道の土地を官有地の払い下げで手に入れる[19]。開墾社を創設して、山林を伐採してその木材を販売し[19]、田畑を開墾して自給自足の生活を送りながら心身の鍛錬に励み[要出典]、来るべき時に備える日々を送った。しかしこの生活も一年半で金銭的に行き詰まった[19]

自由民権運動への参加

西南戦争の翌年の明治11年(1878年)5月14日、大久保利通が暗殺される(紀尾井坂の変)。西郷討伐の中心人物の死を受け、板垣退助が西郷隆盛に続いて決起することを期待して頭山は高知に旅立つ。しかし、板垣は血気にはやる頭山を諭し、言論による戦いを主張する。これをきっかけに自由民権運動に参画した頭山は、板垣が興した立志社集会で初めて演説を体験し、植木枝盛ら民権運動家と交流を結ぶ。


高知から福岡に戻った頭山は福岡の街の不良たちを集め、12月に向陽社を結成し[1]、力づくで地元炭鉱労働者の不満や反発を抑えるようになる。このときも興志塾、開墾社時代からの仲間である進藤喜平太(第二代玄洋社社長)、箱田六輔(第四代社長)が行動をともにし、箱田が向陽社の初代社長となった。翌年1月には、福岡の豪商たちの支援を受けて向陽義塾を開校した。一方で、この時期は日清の対立が表面化した時でもあり、血気盛んな向陽社では、「討清義勇軍」の募集を行い武道の訓練を熱心に行ったと記録されている。子分に気前良く金を与え「スラムの帝王」として知られるようになると地元の政治家達もその暴力に一目おくようになる。

玄洋社
設立

玄洋社は、自由民権運動の結社であった向陽社を改名して結成された[1]。成立年については諸説があり、大正時代に書かれた『玄洋社社史』では明治14年(1881年)2月となっているが、それ以前の活動の記録が残っており、最近では明治12年(1879年)12月成立という研究結果もある[要出典]。社員は61名。自由民権運動を目的とした結社であり、また誰もが例外なく西郷隆盛を敬慕しており、束縛がなくきわめて自由な組織だったと言われている。このなかから、異彩を放つ人材が数々輩出し、近代史に足跡を残すことになる。箱田六輔(30歳)・平岡浩太郎(29歳)・頭山満(25歳)は「玄洋社三傑」と称された。

憲則三条

結成の届け出の際に示された玄洋社の基本精神である「憲則三条」は次の通りである。


・第一条 皇室を敬戴すべし。

・第二条 本国を愛重すべし。

・第三条 人民の権利を固守すべし。

政党政治時代
明治13年(1880年)5月に、頭山は福岡から徒歩で東京に向かい、早稲田の近くに一軒家を借りて住み始めた。7月初めには東北地方に行脚の旅に出て、福島の河野広中はじめ多くの民権運動家と出会った。明治14年(1881年)、政府は国会開設の詔を発布し、九年後の国会開設を決定した。自由民権運動は軌道に乗り、板垣退助自由党を結成して政党政治の時代に移行する。九州でも民権派が結束して九州改進党が発足し、玄洋社にも誘いが来た。しかし、党利党略に明け暮れる運動家たちを嫌った頭山は加盟を見合わせ、玄洋社の面々は各自の事業に専念するようになる。『玄洋社社史』は当時の様子を「頭山は平尾の山荘にあって社員らと農業にいそしみ、箱田は養蚕を業とし、平岡は鉱業に専念する」と伝えている。

金玉均と朝鮮独立党支援

明治17年(1884年)12月6日、朝鮮で日本と結んで自国の近代化を目指した金玉均が率いる独立党によるクーデター(甲申政変)が起こるが、清国軍の介入により三日間で失敗に終わった。


頭山は翌年、半島から長崎にたどり着いた金玉均と神戸の西村旅館で会い、支援のため当時の金で500円(2020年現在の価値で約1,000万円程度)という大金を渡した。

福陵新報創刊
明治20年(1887年)8月、頭山は『福陵新報』(九州日報の前身)を創刊し、社長に就任した。玄洋社の中心的人物でありながらその社長になることすらなかった頭山が生涯で唯一持った肩書だった。紙面は活気に満ち売れ行きも順調であった。この時期に議論の的となったテーマは、不平等条約改正反対運動の盛り上がり、清国に対する敵愾心などである。


不平等条約改正問題
政党政治が始まった当時の日本で、最も関心が高かったテーマの一つが条約改正である。これは、幕末に結ばれた不平等条約を対等条約に改めようという政治課題であるが、実際に政府が作る改正案はいまだに諸外国の圧力に屈した内容であったため、自由民権運動の流れを汲む活動家たちは「改正反対」を声高に訴えていた。頭山は、その不平等条約改正反対運動のリーダー的存在であり、また民権主義を訴えるだけでは国家の存立は困難と考え自由民権運動とは一線を画す手法をとるようになっていた。明治22年(1889年)10月18日、首相・黒田清隆が「改正を断行する」と閣議で発言したのを受けて、改正交渉の責任者であった外相・大隈重信が外務省門前で爆弾を投げ付けられて右脚切断の重傷を負う事件が起きた。犯人の来島恒喜は元玄洋社員だったが、その場で頸動脈を切って自殺したため背後関係は不明のままとなった。この事件で黒田内閣は瓦解、条約改正交渉も白紙に戻った。

選挙干渉

明治23年(1890年)7月、第1回衆議院議員総選挙が行われ、政府側は敗北した。日清戦争に向けての軍備拡大を進める政府の予算案は、第一回の議会では土佐派の切り崩しで辛うじて通過したが、翌年の議会では否決される形勢となった。そこで首相・松方正義は衆議院を解散するとともに、次の選挙での民党の締め付けを行った。これが明治25年(1892年)の選挙干渉であり、民党支持者に対して買収や脅迫が公然と繰り広げられ、時には警官までもが動員された。玄洋社も選挙干渉への協力を求められ、その実行者となった。


大規模な選挙干渉にもかかわらず、第2回衆議院議員総選挙も政府側の敗北に終わった。その後、玄洋社は結社としての活動を縮小し、頭山は自由民権運動の志士から脱却し、「国士」としてアジア主義への道を歩み始める。

孫文と頭山

明治28年(1895年)、日清戦争の終結後、広州での武装蜂起を企てた孫文が、密告されたため頓挫し日本に亡命した。孫文は明治30年(1897年)、宮崎滔天の紹介によって頭山と出会い、頭山を通じて平岡浩太郎から東京での活動費と生活費の援助を受けることになった。また、住居である早稲田鶴巻町の2千平方メートルの屋敷は犬養毅が斡旋した。


明治32年(1899年)、義和団の乱が発生し、翌年、孫文は恵州で再度挙兵するが失敗に終わった。明治44年(1911年)、辛亥革命が成功し、その翌年、孫文が中華民国臨時政府の大総統に就任すると、頭山は犬養とともに中国に渡って会見し、長年の苦労をねぎらった。その後、袁世凱に大総統の座を譲った孫文は、大正2年(1913年)の春に前大総統として来日し各地で熱烈な大歓迎を受け、福岡の玄洋社や熊本の宮崎滔天の生家にも立ち寄った。このとき既に頭山は袁世凱の動向を強く懸念していたというが、その予言通り袁世凱と争って破れた孫文は、再び日本への亡命を余儀なくされた。日本政府は袁世凱支持に回っていたため孫文の入国を認めない方針をとっていたが、頭山は犬養を通じて首相・山本権兵衛に交渉し、亡命を認めさせた。孫文が匿われたのは霊南坂(現港区)にあった頭山邸の隣家である。

アジア主義とその挫折

明治35年(1902年)、欧米列強によるの半植民地化が加速し、日本とロシアの対立が鮮明になるなか、日本は対ロシア戦略のもとに日英同盟を締結し、頭山も対露同志会を設立した。明治37年(1904年)、日露戦争が勃発すると玄洋社は若者を中心に満州義軍を結成、参謀本部の協力を得て満州の馬賊を組織し、ロシア軍の背後を撹乱するゲリラ戦を展開した。


玄洋社は孫文の革命運動への支援と並行して、明治43年(1910年)の日韓併合にも暗躍したとされている。杉山茂丸内田良平などの社員もしくは250余名の関係者が日韓の連携のために奔走したのは事実だが、玄洋社が目指していたのは植民地化ではなく、「合邦」という理想主義的な形態だったと見られている。「合邦」の詳細については定かではないが、内田は現実の日韓併合に対して憤激しており、初めは協力的だった玄洋社と日本政府の関係は後に大きく離間していった。


大正4年(1915年)、頭山は孫文の仲介により、インドの独立運動家ラス・ビハリ・ボースと会談し、支援を決意した。当時のラス・ビハリ・ボースはイギリス領インド帝国植民地政府から追われ日本へ亡命していたものの、イギリス政府および植民地政府から要請を受けていた日本政府によって、国外退去命令を受けていた身であった。


並行して日本国内では、1919年11月、河合徳三郎梅津勘兵衛倉持直吉青山広吉篠信太郎西村伊三郎中安信三郎を中心とし、原敬内閣の内務大臣・床次竹二郎立憲政友会)を世話役に、伯爵大木遠吉を総裁、村野常右衛門を会長、中安信三郎を理事長として、会員数60万と称する大日本国粹会を立ち上げた。

またボースの紹介により、当時のインドの独立運動家で、アフガニスタン首長国インド臨時政府を樹立していたマヘンドラ・プラタップにも会った。大正12年(1923年)、頭山は来日したプラタップの歓迎会を開き、援助を約束した。そして、アフガニスタンが統一されると「わが明治維新の当時を想わしむ」との賀詞をアフガニスタン首長に送った。


頭山はこのような独立支援の対象をフィリピンベトナムエチオピアなど当時アメリカフランスイタリアなどの列強帝国主義の元にひれ伏していた地にも拡大していった。


大正13年(1924年)11月、孫文は最後の日本訪問を行い、神戸で頭山と会見した。日本軍の中国東北部への侵攻により日中関係が憂慮すべき事態となっているのを受けての会談であったが、孫文が撤退への働きかけを申し入れたのに対し、日本の拡大がアジアの安定につながると真摯に考えていた頭山はこれを断った。会見の翌日、孫文は「大亜細亜問題」と題する講演を行い、その4ヵ月後に病没した。


翌年、孫文の後継者として蔣介石中華民国の国民軍総司令官に就任したが、その2年後には下野して頭山を頼って来日し、孫文と同様に頭山邸の隣家で起居する。後に蔣介石は、頭山らに激励を受けて帰国し、孫文の宿願であった北伐を成功させる。昭和4年(1929年)、南京の中山稜で行われた孫文の英霊奉安祭に、頭山は犬養毅とともに日本を代表して出席している。


昭和7年(1932年)の関東軍の主導による満州国建国は、頭山の理想とは大きくかけ離れていた。昭和10年(1935年)、来日した満州国皇帝溥儀の公式晩さん会への招待を、頭山は「気が進まない」との理由で断わっている。

詳しいことは、『頭山 満ウィキペディア』をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%AD%E5%B1%B1%E6%BA%80
(wikiより)

041 頭山満

⇧ 頭山 満

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玄洋社(げんようしゃ、1881年 - 1946年)は、旧福岡藩(黒田藩)士が中心となって、1881年明治14年)に結成されたアジア主義を抱く政治団体。日本で初めて誕生した右翼団体ともいわれる[1]

概要
当時の在野の多くの政治結社と同じく、欧米諸国の植民地主義に席捲された世界の中で、人民の権利を守るためには、まず国権の強化こそが必要であると主張した。また、対外的にはアジア各国の独立を支援し、それらの国々との同盟によって西洋列国と対抗する大アジア主義を構想した。明治から敗戦までの間、政財界に多大な影響力を持っていたとされる。

主な活動

1881年(明治14年)、平岡浩太郎を社長として旧福岡藩士らが中心となり、杉山茂丸頭山満箱田六輔大原義剛福本誠内田良五郎内田良平の父)、進藤喜平太進藤一馬の父)、月成功太郎末永純一郎武井忍助古賀壮兵衛的野半介月成勲児玉音松らが創立に参画し、新聞「福陵新報」を創刊し、吉田磯吉といった侠客や、「二六新報」の主筆・鈴木天眼もしばしば関係した。


戦前、戦中期にかけて軍部官僚財閥政界に強大な影響力を持ち、日清戦争日露戦争第一次世界大戦そして第二次世界大戦日本の関わってきた数々の戦争において情報収集や裏工作に関係してきた。またアジア主義の下に、中国孫文李氏朝鮮金玉均をはじめ、当時欧米諸国の植民地下にあったイスラム指導者などアジア各国の独立運動家を支援した。ただし「玄洋社の連中がわしが半島に行って乱を起こしてやると吹聴していた」のは、東学党の綱領の中に「排日」があったので、ただの大言壮語であろうと陳舜臣たちは述べている[2]


玄洋社の社則の条項は「皇室を敬戴すべし」、「本国を愛重すべし」、「人民の権利を固守すべし」というものであった。当時、薩長藩閥政府による有司専制を打破するために、議会の開設を要求した有力な政治勢力の一つは、今日「右翼」と称される玄洋社などの民間結社であった。しかし、これらの勢力が議会開設後に一転して政府と一体になって選挙干渉に転じた。その理由は、当時の議会が「民力休養」を掲げ、軍事予算の削減を要求しながら清国との戦争を躊躇していたためであった。玄洋社は、テロも含めた激しい選挙干渉を実行している。

外国人司法官任用問題」も参照


他に玄洋社が関わった有名な事件としては、1889年(明治22年)の大隈重信爆殺未遂事件がある。当時外務大臣だった大隈重信は、日本が幕末に結んだ不平等条約の改正をはかったが、その改正案は関係各国に対しかなり妥協的であり、国民的反対運動がたちまち全国を覆った。しかし、剛毅な大隈は決して自案を曲げなかったため、玄洋社社員の来島恒喜が大隈に爆弾を投擲し、自身もその場で咽喉を斬って自決したのである。来島の投げた爆弾は過激自由民権運動家の大井憲太郎から提供されたものと言われている。事件で大隈は右足を失いながらも、尚自説を貫く決意であったが、政府は方針を急転し、大隈は辞職したため、この妥協的改正案は見送られることとなった。


玄洋社の社員らが掲げた有名なスローガンには「大アジア主義」(孫文の神戸演説に語源があるとされる)がある。彼らは、朝鮮の親日開化運動家金玉均朴泳孝インドの独立運動家ラース・ビハーリー・ボースらを庇護し、アメリカと独立戦争を戦うフィリピンアギナルドへは武器と義兵を送ろうとした。


1901年
(明治34年)に、内田良平らが黒龍会(玄洋社の国外工作を担う)を設立してからは、より多彩な活動が展開されるようになる。孫文らの辛亥革命を支援するために、多くの浪人たちが清朝政府軍やその後の軍閥政府軍と戦っている。


日露戦争中全般にわたり、ロシア国内の政情不安を画策してロシアの継戦を困難にし、日本の勝利に大きく貢献した明石元二郎も玄洋社の社中(社員)であった。陸軍参謀本部参謀次長長岡外史は「明石の活躍は陸軍10個師団に相当する」と評した。また、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は「明石元二郎一人で、満州の日本軍20万人に匹敵する戦果を上げている。」といって称えた。


また、日韓問題については、内田良平は一進会の領袖李容九と、日本と大韓帝国(韓国)の対等な立場での合邦を希望し運動した。


昭和に入ると、玄洋社と関係の深かった中野正剛らは、大日本帝国憲法朝鮮台湾にも施行して、内地と朝鮮の法律上の平等の徹底(参政権は属地主義であったため、日本内地在住の朝鮮人、台湾人にのみ選挙権、被選挙権があった)をはかるべきと主張した。一方、頭山満と親交のあった葦津耕次郎らは、国家として独立できるだけの朝鮮のインフラ整備は既に完了したとして朝鮮独立を主張した。葦津は、満州帝国に対する関東軍の政治指導を終了すべきことも主張している。

新聞発刊
新聞「福陵新報」を1887年(明治20年)8月から発行した。これは1898年(明治31年)に「九州日報」と改題し、さらに1942年(昭和17年)には新聞統制に伴い「福岡日日新聞」に合併されて「西日本新聞」となり、現在に至っている。

政治との関連

進藤喜平太の子息で、中野正剛秘書や玄洋社の最後の社長を務めた進藤一馬は福岡市長となった。


多くの玄洋社の運動家を輩出した福岡藩の藩校である修猷館は、現在は県立高校(福岡県立修猷館高等学校)となった。進藤の跡を継ぎ1986年(昭和61年)から1998年平成10年)まで福岡市長を務めた桑原敬一も修猷館高校出身である。


また、玄洋社の思想に共鳴した柴田徳次郎によって、関東一円の学生によって設立されたのが青年大民團である。青年大民團は玄洋社の思想を多くの青年へ教育するための教育機関として私塾國士舘を設立しており、こうした関係から第二次世界大戦直後は国士舘はその名称を変更させられていた時期もあった。


記念館・記念碑

福岡市中央区舞鶴の玄洋社跡地に隣接して建てられた雑居ビル「玄洋ビル」内に、玄洋社関係の各種資料を収蔵した「玄洋社記念館」があった。1978年11月に開館したが、2008年5月末をもって閉館され、資料は福岡市博物館に寄託される[3]


なお、玄洋ビルは後に解体されたが、同ビル跡の隣にあるNTTドコモ舞鶴ビルの一角に記念碑が設置されている[4]


また、博多区崇福寺には頭山満来島恒喜など社員の墓がある。

歴代社長
1. 平岡浩太郎

2. 進藤喜平太

3. 阿部武三郎

4. 箱田六輔

5. 進藤喜平太(再任)

6. 喜多嶋淳

7. 月成勲

8. 美和作次郎

9. 吉田庾

10. 進藤一馬

著名な出身者

川上音二郎

須永元

杉山茂丸

寺田栄鳩山由紀夫の曾祖父)

明石元二郎

中野正剛

緒方竹虎

月成功太郎

中村天風

山座円次郎

内田良平

末永節

来島恒喜

横山雄偉

広田弘毅[注釈 1]

小野(三木)隆助  
堀川辰吉郎(孫文の辛亥革命に助力)[信頼性要検証]

吉岡友愛

関連人物
夢野久作

犬養毅

松岡洋右

真藤慎太郎

安川敬一郎

安川第五郎

山崎和三郎山崎拓の祖父)

深作清次郎

宮崎滔天

桃中軒雲右衛門

脚注
注釈
1. 広田弘毅伝記刊行会編『広田弘毅』どでは正式な社員とならなかったとしており、『落日燃ゆ』などでも踏襲されている。しかし玄洋社記念館の館報『玄洋』第2号の記述から服部龍二は広田が正式な社員になったとしている[5]。また東京裁判開廷前の尋問では「イギリスから帰ったとき青年教育のために入社するよう求められ、改めて社員になった」と供述している[6]

出典
1. 石原莞爾の「墓守」は軍歌を流す街宣車を追い払ったJcast
2. 司馬遼太郎『司馬遼太郎対話選集』9「アジアの中の日本」p194、文春文庫
3. 玄洋社記念館 月末で閉館 政治結社の足跡伝え30年 資料、市立博物館に寄託へ - 西日本新聞(2008年5月25日)
4. 玄洋社跡碑 - 地域情報サイト ZAQ(2012年9月26日閲覧)
5. 服部 2008、pp.4-6、p.16
6. 服部 2008、pp.229-230、『国際検察局尋問調書』第28巻よりの引用

参考文献
・頭山統一『筑前玄洋社』(葦書房) ISBN 9784751200353

葦津珍彦『大アジア主義と頭山満』(葦津事務所) ISBN 9784901577090

宮崎滔天萱野長知北一輝著『アジア主義者たちの声』書肆心水、2008年。ISBN 9784902854428

・石瀧豊美『玄洋社・封印された実像』海鳥社、2010年。ISBN-13: 978-4874157879

服部龍二『広田弘毅―「悲劇の宰相」の実像』中央公論新社中公新書〉、2008年。ISBN 4121019512

・嵯峨隆『頭山満 アジア主義者の実像』ちくま新書、2021年、ISBN978-4-480-07433-1

関連項目
黒龍会

浪人会

東方会

自剛天真流

青年大民團

児玉誉士夫

国士舘大学

外部リンク
玄洋社史概観
(wikiより)

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月形鷦窠 ( つきがた - しょうか )
( 1757 - 1843 )

江戸時代中期 - 後期の儒者。

宝暦 7年生まれ。

月形漪嵐 ( きらん )、健助の父。

筑前 ( ちくぜん ) 福岡藩士。

真藤峨眉 ( がび )、竹田梅廬 ( ばいろ ) に師事し,藩校東学問所の指南加勢となる。

寛政 7年京都に行き西依 ( にしより ) 成斎らに学ぶ。

奥頭取、侍講などを勤めた。

天保 13年 12月 6日死去。86歳。

名は質 ( すなお )。字 ( あざな ) は君璞。通称は市平、七助。

著作に「山園雑興」。

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月形 深蔵(つきがた しんぞう、寛政10年3月3日1798年4月18日) - 文久2年4月5日1862年5月3日[1])は江戸時代後期の福岡藩士、儒学者。諱は弘。字は伯重。漪嵐(きらん)と号した。月形鷦窠の子で、月形洗蔵の父。


福岡藩士で100石を食んだ。17歳で江戸(現在の東京)に出て、古賀精里に学んだ。文政2年(1819年)帰国して馬廻り役となり、学校加勢小役となった。嘉永3年(1850年)致仕し、子の月形洗蔵(詳)が跡目を嗣いだ。深蔵は辺防の策一篇を著して、当今の急勢を論じた。文久元年(1861年)、深蔵は屏居を命ぜられ、洗蔵は秩禄(給与)を奪われて謫居させられた。深蔵はこれがため憂鬱ついに病気となり、文久2年(1862年)4月5日歿した。享年65。明治24年(1891年)11月5日靖国神社合祀。明治35年(1902年)11月正五位を贈られた。

脚注
1. デジタル版 日本人名大辞典+Plus

参考文献
・筑紫豊 編「福岡県に於ける明治維新の人柱」 福岡県護国神社、1968年10月8日(非売品)21ページ
(wikiより)

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広島県で最初の女性教師 植村雅子先生の記念碑。

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除虫菊發祥之碑


上山英一郎君紀功碑


余嘗遊紀之白濱興上山英一郎君邂逅於白砂青松之際一見如舊結編紵之交君和歌山人少以濟世自期日方今急務在國産率國本以大興貿易之利也明治十九年獲除蟲菊種於米國始培育之歴游諸國精覈地味投私費以頒種苗於廣島岡山愛媛香川諸縣奨励其栽培自是中國諸方生産増進三十一年属桑港領事陸奥廣吉発招販路竟至輸出之米國其額及一千萬圓本邦輸出品中合優位者君興有力焉三十九年大日本農會総裁負受親王嘉其功績授綠有功章越四十三年賜勅定藍綬章君之名遠聞海外廬額斯拉維國以君有功扚斯業特嘱叙日本駐剳名譽領事葢異數也項者同志之士相發祥地欲建碑於千光寺山圖其不朽属予為之文君平生以光公益開民利為志四十餘年終始靡渝予之所取乎君者不獨為其れ除蟲菊之始祖也已喜有其れ徳之孚于人也廼叙其梗槩係銘日


厚生利用 自見眙謀 開物成務 以賛皇献

卓卓之子 經營有術 作事堅忍 計算縝密

殖産致富 維彌維綸 名馳域外 利及四隣

千光寺阿 山靈水碧 爰稱厥徳 鐫名於石


昭和五年龍集庚午八月上浣


蘓峰徳富猪一郎撰 黄山中川吉郎書


〇 上山英一郎
上山 英一郎(うえやま えいいちろう、1862年文久2年) - 1943年昭和18年)9月7日)は、日本実業家篤農家[1]蚊取線香の発明者。また、「金鳥」の商標で知られる大日本除虫菊の創業者。向島亀森八幡神社「除虫菊神社」の祭神[2]ユーゴスラビア国名誉領事[3][4]。前名・秀之助[3][4]

経歴

1862年(文久2年)、紀伊国有田郡山田原村(現・和歌山県有田市)の蜜柑農家に生まれる。上山長八の四男で先代彌兵衛の養子となり、1878年家督を相続し前名秀之助を改めた[3][4]。上山家は日本有数の蜜柑農家であり、上山家の蜜柑は紀州山勘蜜柑(当主が上山勘太郎と称していたため)と呼ばれていた。


16歳の時に上京して神田の進徳館に入り学を修めて後、立教学校に転じて英国人に就いて語学を学び、さらに慶應義塾に教育を受けた[5]。しかし病気になり、涙を飲んで帰郷した[5]。病が癒えると再度上京し勉学を切願したが、近親者が許さなかったので、方向を転じて「産業界に貢献しよう」と深く決意した[5]


1885年
サンフランシスコで植物の販売を行う植物輸入会社を営むH.E.アモアが、福澤諭吉の紹介状を携え、日本の珍しい植物を求めて上山の農家を訪ねた。上山はアモアに棕櫚秋菊などを進呈し、その見返りとしてビュハークという除虫菊の種子を譲り受けることとなる。翌1886年より上山は除虫菊の種子の栽培研究を開始した。


1887年、除虫菊の栽培に成功した上山は、全国各地を講演して回り、この種の普及に努めた。1890年仏壇線香からヒントを得、持続時間1時間ほどの棒状の蚊取り線香を考案、発売する[6]1895年、妻・ゆきの「渦巻き型にすればよいのでは」というアイデアに着想を得て、蚊取り線香の改良に着手、1902年に日本初の渦巻き型蚊取り線香を発売開始した。1919年、大日本除虫菊株式会社を設立。1929年、大阪駐在ユーゴスラビア名誉領事に任命された。1943年昭和18年)9月7日、死去。享年82。

人物

趣味は書画、骨董[3][4]。宗教は浄土宗[3][4]。和歌山県在籍で住所は和歌山県有田郡保田村[3][4]


英一郎は遺徳を称えられ、除虫菊神社に神として祀られている、所在地は広島県尾道市向島町名郷丸の亀森八幡神社境内、創建は1930年(昭和5年)、英一郎の存命中であった。1886年(明治19年)に英一郎が初めて除虫菊を植えたのが向島の干汐であるためここが選ばれた。現在でも毎年5月8日に例祭が営まれている[7]


1910年藍綬褒章[3][4][5]

1943年勲六等瑞宝章

家族・親族

上山家

英一郎の長男・英之助は、先代勘太郎の養子となり、1908年、上山家15代の家督を相続[4]。1942年、社長を務めていた勘太郎は、東南アジアに出張中、シンガポールで航空機事故のため死去した。1943年、副社長を務めていた英一郎の三男・英夫は勘太郎を襲名し、社長に就任した。


・父・長八[3][4]

・姉・てい1851年 - ?、和歌山、玉置傳三郎の母)[3][4]

・妹・ひさ1867年 - ?、和歌山、御前喜八郎の妻)[3][4]

・妻・ゆき(1862年 - ?、和歌山、上山市郎兵衛の養叔母)[3][4]

・長男・十五代勘太郎1889年 - 1942年、前名は英之助、大日本除蟲菊社長)

・二男・英三1893年 - 1981年台湾銀行頭取)

・三男・十六代勘太郎1899年 - 1984年、前名は英夫、大日本除虫菊社長)

  ・同妻・昌子

  ・同養子・直武1924年 - 1997年、長女の夫)

  ・同長女・同二女

  ・同長男・英介1937年 - 2015年

系譜

━ 英一郎 ┳ 勘太郎
       ┣ 英三
       ┗ 英夫

親戚

上山市郎兵衛(南海水力電気社長)

上山薫(内外除蟲菊社長)

山口孫七(紀伊貯蓄銀行頭取)

脚注
1. 大日本篤農家名鑑』119頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2017年7月21日閲覧。
2. スポット3 瀬戸内の除虫菊発祥の地に祭られる「除虫菊神社」”. 大日本除虫菊. 2010年4月4日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2013年6月25日閲覧。
3. a b c d e f g h i j k 人事興信録 第12版 上』ウ38頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年12月5日閲覧。
4. a b c d e f g h i j k l 人事興信録 第13版 上』う33頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2016年1月3日閲覧。
5. a b c d 非常時日本と人物』91-98頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2016年1月3日閲覧。
6. ただしこの線香は、持続時間が短いことや運搬中の破損が多いなどといった欠点が指摘されていた。
7. 亀森八幡神社”. 尾道市観光協会. 2021年7月28日閲覧。 8.

参考文献
・大日本篤農家名鑑編纂所編『大日本篤農家名鑑』大日本篤農家名鑑編纂所、1910年。

・原静村『非常時日本と人物』南海新聞社、1935年。

・人事興信所編『人事興信録 第12版 上』人事興信所、1940年。

・人事興信所編『人事興信録 第13版 上』人事興信所、1941年。

神坂次郎 『熊野まんだら街道』 新潮社新潮文庫〉、2000年6月。ISBN 4-10-120923-5。ISBN-13: 978-4-10-120923-4。 

  ・「白い除虫菊の花」(249-251頁)のタイトルで上山英一郎の生涯と業績を紹介

町田忍 『蚊遣り豚の謎 - 近代日本殺虫史考』 新潮社〈ラッコブックス〉、2001年6月。ISBN 4-10-447501-7。ISBN-13: 978-4-10-447501-8。 

佐藤朝泰『豪閥 地方豪族のネットワーク』立風書房、2001年。

関連項目
蚊取線香

大日本除虫菊

外部リンク
公文書にみる発明のチカラ - 42. 蚊取り線香の発明(上山英一郎) - 国立公文書館

上山 英一郎 - 和歌山県文化情報アーカイブ
(wikiより)

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⇧ 上山英一郎

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1803 ( 享和 3 ) 年 ~ 1886 ( 明治 19 ) 年
 
江戸時代から明治にかけての学者で、糸崎に港を開いた人です。
 
伊予 ( 愛媛県 ) で生まれ、幼いころ父が亡くなりました。
 
早くから学問の道を志し、大洲 ( 現在の愛媛県大洲市 ) で学び、その後大洲藩のすすめにより江戸に出て勉強をしました。
 
このころ,母が手足の不自由な難病にかかり、龍山は 20年間にわたり介抱しました。その親孝行ぶりは,誰もが頭の下がる思いでした。
 
1838 ( 天保 9 ) 年に母が亡くなり、龍山は翌年から尾道に住むようになりました。
 
42歳のとき、龍山は 11代三原城主の浅野忠助にたのまれて、城内の明善堂 ( 学校 ) の先生になりました。
 
また学問だけでなく、藩の政治にも参加し活躍しました。


とくに糸崎の松浜港の開港については,どうしても必要であるとの意見を出し、ついに1864 ( 元治元 ) 年に工事がはじまり,翌年に開港することができました。
 
開港以後、北前船なども寄港するようになり、三原の商人もここに店をかまえ,町は繁栄していきました。
 
龍山は、現在の糸崎港の基を開いたわけです。
 
1868 ( 明治元 ) 年に三原を退いてからは、尾道に私塾「 朝陽館」を設けて子弟を育成しました。

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穎川家 ( えがわけ ) は陳 沖一 ( ちん ちゅういつ ) を祖とする唐通事 ( とうつうじ ) 界屈指の名門で、福済寺第一の大檀越 ( だいだんおつ ) であった。


福済寺穎川 ( 陳 ) 家墓地は二か所にあったが一方は改葬された。


この保存された方の墓地には、開祖陳 沖一の墓碑・二代穎川藤左衛門 ( 葉茂猷 / ようもゆう ) 夫妻・四代藤左衛門夫妻・五代藤左衛門夫妻の墓碑が現存する。


原爆の火災で全焼した福済寺は、近代的寺院として再建されたので、馬蹄形 ( ばていけい ) の石垣に囲まれた中国風のこの穎川家墓地と、隣接する唐僧墓地だけが、その昔、福済寺が唐寺であったという面影を残している。
(案内板より)

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・ 四代目・向井文平
・ 五代目・向井元仲


松尾芭蕉の門人だった俳諧師「向井去来」の父。


「向井元升」が正保 4年 ( 1847 ) 長崎聖堂 ( 孔子廟 ) を創建。


元升自ら所長となり、傍ら私塾を開いて儒学を講じます。


その後、向井家の子孫が代々所長を勤め、明治 4年 ( 1871 ) 聖堂が廃止されるまでの間、実に創立以来 220年も続きます。


この聖堂は広く一般にも開放され、かの坂本龍馬・上野彦馬も受講。


向井家は学問・思想の中心として、多くの人材育成に取り組み長崎の儒学の振興に大きく寄与した一家です。


お寺には、「長崎聖堂 向井家之墓」の碑、4代目・向井文平、5代目・向井元仲の墓があります。
(案内板より)

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⇧⇩ 四代目・向井文平墓

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⇧⇩ 五代目・向井元仲墓

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柴田 昌吉(しばた まさよし[1][2]/しばた しょうきち[3]天保12年12月27日1842年2月7日) - 明治34年(1901年10月8日)は、日本の英語学者。長崎生まれ。長崎英語伝習所で学び、幕府、明治政府で通訳を務めた。

著書
共著
柴田昌吉、子安峻『英和字彙』日就社、1873年1月。NDLJP:870052 NDLJP:1871572 NDLJP:2938261

  ・柴田昌吉、子安峻『英和字彙』日就社、1882年8月、増補訂正第2版。NDLJP:870057

  ・柴田昌吉、子安峻『英和字彙』浜田健次郎増補、桃林堂、1888年11月、増補版。NDLJP:1085242

・柴田昌吉、子安峻『英和字彙』輿論社、1885年12月。NDLJP:870053

・柴田昌吉、子安峻『英和字彙』文学社、1885年11月。NDLJP:870058

・柴田昌吉、子安峻『英和字彙』織田純一郎校正、積善館、1886年12月。NDLJP:870060

・柴田昌吉、子安峻『英和字彙』共立活版部、1886年2月。NDLJP:870055

・柴田昌吉、子安峻『英和字彙』天野為之訂正、鈴木重陽増補、同盟書房、1887年7月。NDLJP:870059

・柴田昌吉、子安峻『英和字彙』佐藤乙三郎、1887年2月。NDLJP:870054

・柴田昌吉、子安峻『英和字彙』栗野忠雄増訳、坪井九馬三校閲、中村順三郎、1888年6月。NDLJP:870061

共訳
・『英国海軍律令全書』巻之1、子安宗峻・柴田昌吉訳、松陰山房、1870年。NDLJP:797664

  ・『英国海軍律令全書』巻之2、子安宗峻・柴田昌吉訳、松陰山房、1870年。NDLJP:797665

校閲
・『和訳 英小文典』賀島尚太郎訳、翠柳堂、1889年9月。NDLJP:870419

伝記
岩崎克己『柴田昌吉伝』岩崎克己、1935年9月。

脚注
1. 子安峻(こやす・たかし)”. 港区ゆかりの人物データベースサイト. 港区立図書館. 2020年11月5日閲覧。
2. 『附音挿図英和字彙』初版本”. 玉川大学教育博物館. 2020年11月5日閲覧。
3. 柴田, 昌吉, 1841-1901”. Web NDL Authorities. 国立国会図書館 (1999年7月5日). 2020年11月5日閲覧。

参考文献
『明六雑誌』上巻、山室信一中野目徹校注、岩波書店岩波文庫〉、1999年5月。ISBN 9784003313015

・『明六雑誌』中巻、山室信一・中野目徹校注、岩波書店〈岩波文庫〉、2008年6月。ISBN 9784003313022

・『明六雑誌』下巻、山室信一・中野目徹校注、岩波書店〈岩波文庫〉、2009年8月。ISBN 9784003313039

関連項目
明六社
明六雑誌

外部リンク
柴田昌吉』 - コトバンク
柴田 昌吉:作家別作品リスト - 青空文庫
(wikiより)

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180  吉雄流写本「吉雄 外科聞書」





島谷市左衛門 ( しまや - いちざえもん )

( ? - 1690 )

江戸時代前期の探検家。

肥前長崎出身。


貿易商の父に航海術を習い、オランダ流の測量術も学ぶ。


寛文 9年長崎代官の末次平蔵の命で唐船造りの船を江戸へ回航。


延宝 3年 ( 1675 ) 幕命によりその船で中尾庄左衛門らと小笠原諸島を探検し、「延宝無人島巡見記」を著した。


元禄 ( げんろく ) 4年 7月 16日死去。

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池原日南 ( いけはら - にちなん ) 名は香穉 ( かわか ) 。
( 1830 - 1884 )

幕末 - 明治時代の医師、国学者。


天保 ( てんぽう ) 元年生まれ。


備前岡山藩の上田及淵 ( しきぶち ) に学ぶ。


安政 3年郷里の肥前長崎で眼科医を開業、かたわら国学を教えた。のち宮内省文学御用掛。


明治 17年 7月 14日死去。55歳。

著作に「みとものかず」。

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阿蘭陀 ( オランダ ) 通詞中山家の墓地には、中山家一族の墓碑 25基と、シーボルトの高弟であった美馬順三 ( みま - じゅんぞう ) ( 1795 ~ 1825 ) の墓碑 1基がある。


中山家は始祖 ( しそ ) 作左衛門が寛文 3年 ( 1663 ) に稽古 ( けいこ ) 通詞 ( 後に小 ( こ ) 通詞 ) に任ぜられて以来、8代にわたって阿蘭陀通詞を勤めたが、2代・喜左衛門政純、3代・喜左衛門正紀、5代・作三郎武成、6代・三郎武徳は大通詞に、8代・六左衛門武和は通弁役頭取に進んでいる。


また、6代・作三郎武徳は御用和蘭 ( おらんだ ) 字書翻訳認掛として、ヘンドリック・ドゥフの指導で行われた蘭日対訳辞典「ドゥフ・ハルマ」の編纂 ( へんさん ) に従事し、これを完成させた。
(案内板より)

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〇 唐通事 林・官梅家の墓
福建省 福州府 福清県 ( ふっけんしょう ふくしゅうふ ふくせいけん ) の出身の林公琰 ( りん こうえん ) が日本に渡来し、大村藩の森氏の娘と結婚し、生まれたのが林道栄 ( りん どうえい ) で、彼は有名な大通事となった。


学識が深く詩文に長じ、かつ、書を能 ( よ ) くし、語学も抜群であった。


その子・三郎兵衛 ( さぶろうべえ ) が早く死んだので、孫の勝五郎の後見として官梅三十郎 ( かんばい さんじゅうろう ) をつけた。


官梅三十郎は平井仁右衛門 ( ひらい にえもん ) の子で三郎兵衛の娘婿である。


三郎兵衛子が林家を継ぎ、三十郎の子孫が官梅家となった。


両家の墓は、向かって右が林家、左が官梅家となっている。


林家が一時鹿児島に行き断絶したようになったのを游龍彦十郎 ( ゆりゅう ひこじゅうろう ) が林道三郎を立てて、林の本家を継がせようとしたときはもう幕末が迫っていた。
( 案内板より)

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〇 加福家の墓
加福家は代々阿蘭陀 ( オランダ ) 通詞を継承した家柄である。


始祖・吉左衛門は初めポルトガル語の通訳として勤めていたが、ポルトガル人の国外退去に伴って阿蘭陀通詞へと移行した。


寛文 4年 ( 1664 ) 小通詞となり、その後寛文 8年 ( 1668 ) には、大通詞に就任している。


阿蘭陀通詞の大役である江戸番通詞も務めたが、元禄 2年 ( 1689 ) 江戸参府の際、72歳で没している。


加福家は、吉左衛門を含め、明治維新に至るまで九代にわたって阿蘭陀通詞を勤めている。


吉左衛門の他 3代喜七朗、4代喜蔵、5代安次郎及び 6代新右衛門がそれぞれ年番大通詞に就任している。


墓地内には、大小併せて 29基の墓碑があるが、中には寛文年間の墓碑もほぼ原型のままで残っていることもあり、大変貴重であるといえる。

長崎市教育委員会 ( 平成 12年設置 )
( 案内板より )

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コンテナ船「らいん丸」搭載 蒸気タービンエンジン ( 高圧タービン )


この展示物は 1971年 ( 昭和46年 ) 三菱重工株式会社神戸造船所で建造され、翌年 1月 20日より神戸港起こしでヨーロッパ航路に就航していた大阪商船三井船舶株式会社のコンテナ船「らいん丸」( 51,041トン ) に搭載されていた船舶用蒸気タービンエンジンの高圧タービン部です。


タービン内部の仕組みが見えるように断面カットして、同社から神戸市に寄贈され、神戸海洋博物館の屋外展示物として設置しています。


蒸気タービンエンジンはボイラーで発生させた蒸気を羽根 ( ブレード )に吹き付けて回転体 ( ローター ) を回転させ、これによって生じた回転力を推進器 ( プロペラスクリュー ) に伝えて船を動かします。
 
この高圧タービンは、最初の勢いのある蒸気を受け入れるところで、通過した蒸気は低圧タービンに導かれ、効率よく動力を推進機に伝達します。


概要
形式:三菱ウエスティングハウス・マリン・スチームタービンエンジン(三菱衝動式復水タービン MS40)
  
最大出力:40,000PS×135RPM
 
長さ:約 4メートル


幅: 約 3m
  
高さ: 約 3m  重量: 約 12トン
 
寄贈:株式会社商船三井
  
展示協力:三井造船株式会社、三菱重工株式会社、井本商運株式会社、廣瀬造船株式会社、商船海運株式会社
(案内板より)

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有銲錨 ( ストック・アンカー )

この錨は十字に張り出した銲 ( ストック ) を持っていることから有銲錨 ( ストック・アンカー ) と呼ばれ、明治末期頃まで世界中の艦艇や商船に多く使用されていました。
 
その後、格納に便利な銲を持たない無銲錨 ( ストックレス・アンカー ) が一般の商船や艦艇に使用されるようになり、有銲錨は普通の船にはほとんど使われなくなりました。
 
しかし、有銲錨は重さの割に保持力が大きいことから、帆船や作業船、係船用ブイなどのほか、進水式で船台を抜き取るためのアンカーとして今でも使用されています。


この錨は建造中の船を係留するため、三菱重工業株式会社神戸造船所で永年使用されていたもので、銲を除いた重さが 4トンあり、明治時代の大型艦船に装備されていたものに匹敵する大きさです。


1987年寄贈:三菱重工業株式会社 神戸造船所
(案内板より)

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山鹿素行先生銅像
兵学者・儒学者として高名な山鹿素行 ( 一六二二 ~ 一六八五 ) は、承応元年 ( 一六五二 ) から万治三年 ( 一六六〇 ) の間、赤穂藩主浅野長直に千石で召し抱えられ、承応二年には赤穂城築城に参画して二の丸虎口 ( こぐち ) の縄張りを一部変更し、家中に兵法を指南した。
 
その後、寛文五年 ( 一六六五 ) に「聖教要録 ( せいきょうようろく )」の著述が幕府の忌諱に触れ、翌年から延宝三年 ( 一六七五 ) まで赤穂に配流 ( はいる ) され、二の丸内の家老大石頼母助 ( たのものすけ ) 邸の一隅に謫居 ( たっきょ ) した。


配流 ( はいる ) 中は、藩主や重臣のもてなしを受けることも多く、この間に「四書句読大全 ( ししょくとうたいぜん )」「中朝事実 ( ちゅうちょうじじつ )」「武家事紀 ( ぶけじき )」「謫居童問 ( たっきょどうもん )」など、素行の学問を代表する大著を完成している。
 
大正一四年 ( 一九二五 )、謫居 ( たっきょ ) 跡に建立された素行先生の銅像は、平成一〇年に赤穂城跡公園整備のため現位置に移転した。


 「謫居」とは「罰せられ遠方に配流されること」を意味します。
蟄居や閉門と同様に江戸時代における処罰のひとつですね。
(案内板より)

〇 山鹿素行
山鹿 素行(やまが そこう、元和8年8月16日1622年9月21日) - 貞享2年9月26日1685年10月23日))は、江戸時代前期の日本儒学者軍学者山鹿流兵法及び古学派の祖である。高祐(たかすけ)、また義矩(よしのり)とも。は子敬、通称は甚五右衛門。因山、素行とした。

経歴
陸奥国会津福島県会津若松市)にて浪人・山鹿貞以(山鹿高道とも[1])の子として生まれる[2]寛永5年(1628年)に6歳で江戸に出る。寛永7年(1630年)、9歳のとき大学頭を務めていた林羅山の門下に入り朱子学を学び、15歳からは小幡景憲北条氏長の下で甲州流の軍学を、廣田坦斎らに神道を、それ以外にも歌学など様々な学問を学んだ。[3]

朱子学を批判したことから播磨国赤穂藩へお預けの身となった。


承応
2年(1653年)に築城中であった赤穂城の縄張りについて助言したともいわれ、これにより二の丸門周辺の手直しがなされたという説があり、発掘調査ではその痕跡の可能性がある遺構が発見されている[4]


寛文2年(1662年)頃から朱子学に疑問を持つようになり、新しい学問体系を研究し、寛文5年(1665年)、天地からなる自然は、人間の意識から独立した存在であり、一定の法則性をもって自己運動していると考えた。この考えは、門人によって編集され『山鹿語類』などに示されている。


]延宝
3年(1675年)、許されて江戸へ戻り、その後の10年間は軍学を教えた。貞享2年(1685年)死去。墓所は東京都新宿区弁天町1番地の宗参寺曹洞宗)にある[5]

人物
地球球体説を支持し、儒教の宇宙観である天円地方を否定している[6]

・名言に「常の勝敗は現在なり」がある。

子孫

弘前藩(嫡流)
津軽藩主の津軽信政やその後見人である旗本(黒石藩)の津軽信英は素行に師事し、津軽藩は1万石をもって素行を招聘しようとしたが実現せず、代わりに素行の子の政実が登用されている。政実はのちに津軽姓を名乗ることを許され、家老職家となる。素行から6代後の子孫に山鹿流兵学者として活躍した山鹿素水が出ている。


・素行の嫡男・政実に学んだ津軽政兕は赤穂事件の直後に、真っ先に家臣らと吉良邸に駆けつけ、義央の遺体を発見し負傷者の救助に協力した。また赤穂浪士らは黒石津軽家弘前藩津軽家からの討手の追い討ちを警戒し、泉岳寺まで最短距離ではない逃走ルートを、かなりの早足で撤退したと伝わる。この様子は同じく山鹿流が伝わる平戸藩にも記されている[7]


・また、津軽藩士の喜多村宗則に素行の娘が嫁ぎ、宗則もまた津軽姓を許されて津軽政広と名乗り江戸家老となるが、若くして死去した。政広の遺児は素行の娘である母の手により山鹿流兵学や儒学を教育され、長じて津軽藩家老喜多村政方となる。政方の次男が国学者や画家として名高い建部綾足である[8]

平戸藩
・素行が平戸藩松浦鎮信と親しかった縁で、一族の山鹿平馬は松浦家に召し抱えられ、後に家老となっている。


・上杉家の千坂高房が山鹿流の達人であり、赤穂浪士と頭脳戦を展開する創作があるが[9]、千坂も松浦重信も赤穂事件との関わりはない。ただ、吉良氏秘伝の『吉良懐中抄』が山鹿素行によって書写されて、松浦家に現存しており、素行と吉良義央とは交流があったとされる[10]。また、『山鹿語類』には上杉謙信の「敵に塩を送る」の故事が記されている[11]。平戸藩の記録は歌舞伎の創作とは逆に吉良方寄りになっている[12]

創作・巷説と考察

山鹿素行といえば「山鹿流陣太鼓」が有名だが、実際には「一打ち二打ち三流れ」という「山鹿流の陣太鼓」というものは存在せず、物語の中の創作である[13]


石岡久夫は菅谷政利が山鹿流を学んだとしているが[14]赤穂市史編纂室は疑問視し、菅谷を「もっとも行動や考えのわかりにくい一人である」としている[15]。同様に同市編纂室は「一次資料である山鹿素行日記・年譜に全く記載がない」事を理由に大石良雄や大石良重が山鹿素行から山鹿流を学んだとする説をも記してない[16](wikipediaにおける両記事もこれに倣っている)。

石碑
福島県会津若松市山鹿町の直江兼続屋敷跡には、素行を記念する「山鹿素行誕生地」としるした石碑がある。文字は東郷平八郎による。

著書
・『聖教要録

・『中朝事実

・『配所残筆』

・『武教本論』

・『武教全書』

・『武家事紀

・『山鹿語類』

・『謫居童問』

刊行文献
・『山鹿素行全集』全15巻、岩波書店 1940年-1942年

・『聖教要録 配所残筆』岩波文庫 1940年 復刊1989年ほか。村岡典嗣校訂

・『日本思想大系〈32〉 山鹿素行』岩波書店 1970年。田原嗣郎・守本順一郎校注

・『日本の名著〈12〉 山鹿素行』中央公論社 1971年、新装版1983年。田原嗣郎責任編集

・『聖教要録・配所残筆』講談社学術文庫 2001年。土田健次郎全訳注

・『山鹿素行「中朝事実」を読む』致知出版社 2015年。荒井桂現代語訳



関連書籍
中山久四郎『山鹿素行』北海出版社(日本教育家文庫) 1937年

納富康之『山鹿素行の国体観』鶴書房 1943年

清原貞雄『山鹿素行の兵學』ダイヤモンド社(國防科學叢書) 1944年 

堀勇雄『山鹿素行』吉川弘文館(人物叢書) 1959年

佐佐木杜太郎『山鹿素行 叢書・日本の思想家 8』明徳出版社 1978年

石岡久夫『山鹿素行兵法学の史的研究』玉川大学出版部 1980年

・石岡久夫「兵法者の生活」(雄山閣出版)1981年

・山鹿光世『山鹿素行』 原書房 1981年

中山広司『山鹿素行の研究』神道史学会(神道史研究叢書) 1988年

・佐佐木杜太郎『武士道は死んだか 山鹿素行武士道哲学の解説』壮神社 1995年

・劉長輝『山鹿素行 「聖学」とその展開』ぺりかん社 1998年

・風間健「武士道教育総論」(壮神社)2000年

多田顕『武士道の倫理 山鹿素行の場合』永安幸正編集・解説 麗澤大学出版会 2006年

立花均『山鹿素行の思想』ぺりかん社 2007年

詳しいことは、「山鹿素行ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E9%B9%BF%E7%B4%A0%E8%A1%8C
(wikiより)

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山鹿素行

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黒川 紀章(くろかわ きしょう、本名:くろかわ のりあき、1934年昭和9年)4月8日 - 2007年平成19年)10月12日)は、日本建築家一級建築士)、思想家実業家政治活動家。株式会社黒川紀章建築都市設計事務所代表取締役社長を務めた。日本芸術院会員。1986年にフランス建築アカデミーのゴールドメダルを受賞[1]

来歴

愛知県海部郡蟹江町生まれ。

1953年昭和28年)東海高等学校卒業。1957年(昭和32年)京都大学工学部建築学科卒業。在学中は西山卯三に師事。卒業制作の題目は「A Project for Shopping Center」であった。同年東京大学大学院工学研究科建築学専攻修士課程へ進学。東大では丹下健三研究室に所属し指導を受ける[2]。東大在学中に「株式会社黒川紀章建築都市設計事務所」を設立。1964年(昭和39年)東京大学大学院工学系研究科建築学専攻博士課程単位取得退学。1969年(昭和44年)に株式会社アーバンデザインコンサルタントと社会工学研究所を設立。


槇文彦
磯崎新谷口吉生らと共に丹下健三の門下生である。1959年(昭和34年)に建築理論メタボリズム浅田孝大高正人槇文彦菊竹清訓粟津潔栄久庵憲司川添登らと提唱した。1960年(昭和35年)、メタボリズム・グループとして世界デザイン会議に参加。社会の変化や人口の成長に合わせて有機的に成長する都市や建築を提案した。メタボリズムに基づいた増築・取替えの可能な建築として中銀カプセルタワービル(1972年)などの作品がある。


博士課程時代の数々の構想案や、磯崎新の代理でアスペン学生デザイン会議に参加するなどの結果、学生時代から国際的に著名で、[3]のちも海外の作品も数多い。


2007年平成19年)、共生新党を結党して、4月の東京都知事選挙、7月29日の参院選に立候補していずれも落選するが、バラエティ番組への出演と合わせて耳目を集めた。


院選2ヵ月後の10月12日午前8時42分に、東京女子医科大学病院で死去した。73歳没。死の2年ほど前にすい臓がんが見つかり手術をしていたが公表しておらず、死の直前まで夫人の若尾文子にもがんであることを明かしていなかった[4][5][6][7]青山の梅窓院に埋葬され、戒名は至聖院範空功道居士である。


フランス
建築家協会正会員、日本景観学会会長などを務めた。

主な作品については、「黒川紀章ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E5%B7%9D%E7%B4%80%E7%AB%A0

賞歴
1965年昭和40年) - 高村光太郎賞(造型部門)

1978年(昭和53年) - 毎日芸術賞

1986年(昭和61年) - フランス建築アカデミーゴールドメダル

1988年(昭和63年) - リチャード・ノイトラ賞(米国)

1989年平成元年) - 世界建築ビエンナーレ・グランプリ・ゴールドメダル、フランス芸術文化勲章

1990年(平成2年) - 日本建築学会賞作品賞(広島市現代美術館

1992年(平成4年) - 日本芸術院賞(奈良市写真美術館)

2002年(平成14年) - 国際都市賞(スペイン、メトロポリス協会)

2003年(平成15年) - 第1回世界都市賞

2006年(平成18年) - 文化功労者

2007年(平成19年) - 正四位旭日重光章(逝去後の叙位・叙勲)

海外の学会における顕彰を受けており、

アメリカ建築家協会名誉会員

英国王立建築家協会名誉会員

ブルガリア建築家協会名誉会員

カザフスタン建築家協会名誉会員

である。

都市計画への取り組み

他の丹下研究室出身の建築家と同様、“都市”について意識的な建築家である。東京計画1960は磯崎新とともに主担当したが、それまでは丹下研究室での設計実務も磯崎とともに極力拒否していた[8][9][10]


ポンピドゥ・センター
コンペでドミノ1971を提案し、大阪府立国際会議場のコンペでスーパードミノ2000を提案した[11]


以下に手がけた具体的事案を「主な都市計画」、構想を「主な都市構想」、で示す。

主な都市計画
1959年昭和34年) - 戸山ハイツ計画案

1962年(昭和37年) - 磯子団地計画

1964年(昭和39年) - 堺・泉北臨海工業地帯緑地計画

・1964年(昭和39年) - 札幌大通公園改造計画

1965年(昭和40年) - 丸亀市法定都市計画案策定[12]

1966年(昭和41年) - 愛知県菱野ニュータウン基本計画

1967年(昭和42年) - 藤沢市西部開発湘南ライフタウン

1968年(昭和43年) - 佐倉市都市計画策定

・1968年(昭和43年) - 北湘南開発基本計画

1969年(昭和44年) - 根岸駅前再開発計画

・1969年(昭和44年) - 鴻巣ニュータウン基本設計

1970年(昭和45年) - 小田急奥蓼科あけぼの計画インスタントビレッジ

・1970年(昭和45年) - 川崎駅前再開発計画

1971年(昭和46年) - 清川村総合計画

・1971年(昭和46年) - 鳥取駅前再開発

・1971年(昭和46年) - 国鉄飯田町操車場再開発基本構想

1973年(昭和48年) - 稲山総合開発計画

1974年(昭和49年) - 南青山一丁目再開発計画、

1979年(昭和54年) - イタリアヴァスト市とサンサルヴォ市都市計画のほか、リビア・アー・サリール・ニュータウン(1979年(昭和54年) - 1984年(昭和59年))

カザフスタン新首都アスタナ計画

シンガポール実験特区フュージョンポリス

マレーシア・バイオバレー都市計画

タンザニア新首都計画

中華人民共和国杭州市都市計画設計競技

・中国・鄭州市のマスタープラン(河南省新都市)

・中国・焦作市新都市都市計画

・中国・上海嘉定新都市都市計画

・中国・昆明市新空港都市都市計画

主な都市構想
1959年昭和34年) - 新東京計画案:50年後の東京

1960年(昭和35年) - 垂直壁都市 丸の内再開発計画

・1960年(昭和35年) - 農村都市計画

1961年(昭和36年) - 東京計画1960サイクルトランスポーテーションシステム

・1961年(昭和36年) - 霞ヶ浦計画

・1961年(昭和36年) - 丸の内業務地域再開発計画

・1961年(昭和36年) - 東京計画1961<ヘリックス計画>

1962年(昭和37年) - 箱型量産アパート計画

・1962年(昭和37年) - 西陣地区再開発計画

1965年(昭和40年) - メタモルフォーゼ計画1965

1966年(昭和41年) - 山形HD計画

1969年(昭和44年) - 海洋工業基地メタボナート'69

1976年(昭和51年) - 吉備高原都市計画

1987年(昭和62年) - 東京2025計画(グループ2025)

1989年平成元年) - ニーム副都心計画コリゼ

政治活動

かねてから日本会議で代表委員を務めるなど、保守派の論客として知られていた。2007年平成19年)に共生新党を発足して党首に就任し、4月の東京都知事選挙、7月の第21回参議院議員通常選挙に出馬したが落選した。建築で世界的に著名な人物の初出馬は、派手なパフォーマンスが世間の注目を集めた。


建築家磯崎新は黒川の死後、彼の立候補によるアイデア表明はメディア型建築家として当然のことと見なし「(都知事選の)マニフェストは群を抜いていた」「そのアイデアは誰かが実現させることだろう」と述べた[13]

経緯

2007年平成19年)2月21日、「石原氏とは親しいが、議会無視、側近政治、無意味な五輪招致など目に余る」と2007年東京都知事選挙に出馬を表明。本人は石原を応援していた8年前から出馬を考えていたと発言した。3月16日には共生新党を立ち上げた。


主要4候補の一人としてテレビ討論に出演するなどメディアに取り上げられるも落選(票数:159,126、得票率:2.9%)。


選挙翌日のフジテレビのインタビューでは、浅野史郎が敗因や感想を述べ総括をしていたのとは対照的に、都政の具体的な話題に熱弁をふるい、次の都知事選に触れた。


選挙の2日後に、共生新党として参院選に出馬する意志があることを明らかにした。

マニフェスト

以下は2007年平成19年)3月5日に都庁で発表したマニフェストである。


・任期中の給与は1円。

東京都庁舎や、江戸東京博物館東京国際フォーラムの民間売却。

オリンピック招致中止。

・学校現場での日の丸君が代の強制を改める。

築地市場豊洲新市場移転は反対。

東京23区の市昇格を行い、行財政権力を強化する。

首都機能の一部を移転し、霞が関に緑地を増やす。


都知事選立候補時の記者会見では、日本会議で代表委員も務めた保守派言論人というイメージにも関わらず、「僕は社会主義に対する幻影がいまだにある。具体的に支援しているのは中国。ロシアは本気で亡命しようとしたこともあった」と発言して話題となった[14]

パフォーマンス

自らがデザインした円形のガラス張り選挙カーを使用、クルーザーから手を振る、ヘリコプターで都知事選候補者では初めて離島へ向かうなどの選挙活動を黒川自らが「陸海空作戦」と称した。当初は飛行船から桜吹雪を撒き散らすというアイデアもあったが、選挙管理委員会の許可が下りなかった。


他の主要候補者が演説している場所に突然現れ、対話しようとする選挙活動を一部のメディアが「奇襲作戦」と称した。選挙戦の最終日は新宿西口で演説中の石原慎太郎候補の近くに来て、「石原裕次郎の名前を出さないと当選できない石原慎太郎さんには、この歌を送ります」といい、妻と共に石原裕次郎の「銀座の恋の物語」を歌った。しかし、その後は夫婦で石原の演説に聞き入り、最後に拍手を送っていた。


参議院選挙から関口忠相を選対副本部長
[要出典]に据え、最終日の和太鼓・ほら貝・松明に武田信玄のテーマをバックミュージックにした新宿駅東口の打ち上げ演説の様子は、多くのテレビで放映されたが、黒川本人は体調不良で参加しなかった。


詳しいことは、「黒川紀章ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩

011 黒川紀章

黒川紀章

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的場 幸雄(まとば さちお、1899年3月23日 - 1987年9月28日)は、日本の金属工学者。東北大学名誉教授。元富士製鐵代表取締役副社長。元日本金属学会会長。元日本鉄鋼協会副会長。

人物・経歴
1924年九州帝国大学工学部冶金学科卒業、東北帝国大学工学部金属工学科講師。1927年東北帝国大学工学部金属工学科助教授[1]。1935年九州帝国大学工学博士[2]。1936年東北帝国大学工学部金属工学科教授[1]。1955年日本金属学会会長[3]。1959年東北大学工学部長。1962年東北大学名誉教授[1]、富士製鐵代表取締役副社長、富士製鐵中央研究所所長[4]。1971年日本工学会会長[5]日本鉄鋼協会副会長、日本学術会議会員なども務めた[1]

脚注
1. a b c d 選鉱製錬研究所前併任教授 的場幸雄博士 東北大学
2. 的場幸雄, 「熔鋼ニ於ケル炭素ト酸素トノ平衡ニ就テ」 九州帝国大学 博士論文, [報告番号不明] , 1935年, NAID 500000487621
3. 「歴代会長」日本金属学会
4. 「富士製鐵有価証券報告書」 東京大
5. 「日本工学会会長・副会長等」日本工学会
(wikiより)

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的場 中(まとば なか、安政3年10月12日1856年11月9日) - 1933年昭和8年)4月20日[1])は、日本冶金学者

経歴
伊勢国山田(現在の三重県伊勢市)出身。1882年明治15年)、工部大学校鉱山学科を卒業。工部大学校助教授、東京帝国大学工科大学助教授を歴任した。1890年(明治23年)から1893年(明治26年)まで冶金鉱山学研究のためドイツに留学した。1894年(明治27年)、東京帝国大学工科大学教授となり、1899年(明治32年)に工学博士の学位を得た。1909年(明治42年)に退官した後は、私立明治専門学校(現在の九州工業大学)校長・教授となり、九州帝国大学工科大学講師を兼ねた。1914年大正)3年、東京帝国大学名誉教授の称号を得た。1921年(大正10年)4月に明治専門学校が官立に移管した後も校長を務め、7月に退官した。

栄典
位階
1894年(明治27年)10月30日 - 従七位[2]

著書
・『通気論』(丸善、1903年)

脚注
1. 『昭和9年版 朝日年鑑』朝日新聞社、1933年。
2. 『官報』第3404号「叙任及辞令」1894年10月31日。

参考文献
・井関九郎『大日本博士録 第五巻』発展社、1930年。
(wikiより)

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塩谷 宕陰(しおのや とういん、文化6年4月17日1809年5月30日) - 慶応3年8月28日1867年9月25日))は、江戸末期の儒学者

江戸愛宕山下に生まれる。名は世弘、字は毅侯、別号は九里香園、悔山、晩薫廬。文政7年(1824年昌平黌に入門し、また松崎慊堂に学んだ。

遠江掛川藩主の太田氏に仕え、嘉永6年(1853年ペリー来航の際に献策し、海防論を著す。
文久2年(1862年)昌平黌教授に抜擢され修史に携わる。

甥に漢学者・塩谷青山で、その子は支那学者の塩谷温である。

没後刊行の著書
・宕陰存稿 山城屋政吉, 1870
・大統歌 名山閣, 1873
・昭代記 塩谷時敏, 1879
・茗黌廿勝小記 高美書店, 1890
・宕陰〔ヨウ〕稿 谷門精舎, 1931
・丕揚録 近藤出版社(日本史料選書), 1971
(wikiより)

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ウィリアム・アダムス(William Adams, 1564年9月24日 - 1620年5月16日元和6年4月24日))は、江戸時代初期に徳川家康に外交顧問として仕えたイングランド人航海士・水先案内人・貿易家。三浦 按針(みうら あんじん)の日本名でも知られる。

生涯
生い立ちと青年時代

1564年イングランド南東部のケント州ジリンガムの生まれ。船員だった父親を亡くして故郷を後にし、12歳でロンドンテムズ川北岸にあるライムハウス英語版に移り、船大工の棟梁ニコラス・ディギンズに弟子入りする。

造船術
よりも航海術に興味を持ったアダムスは、1588年に奉公の年限を終えると同時に海軍に入り、フランシス・ドレークの指揮下にあった貨物補給船リチャード・ダフィールド号の船長としてアルマダの海戦に参加した。


1589年にはメアリー・ハインと結婚し、娘デリヴァレンスと息子ジョンを設けている。しかし、軍を離れてバーバリー会社ロンドン会社の航海士・船長として北方航路やアフリカへの航海で多忙だったアダムスは、ほとんど家に居つかなかったといわれている。

リーフデ号の航海
航海で共に仕事をする中でオランダ人船員たちと交流を深めたアダムスは、ロッテルダムから極東を目指す航海のためにベテランの航海士を探しているという噂を聞きつけ、弟のトマスらと共にロッテルダムに渡り志願する。航海は5隻からなる船団で行われることになっていた。


・ホーぺ号("希望"の意・旗艦

リーフデ号("愛"の意)

・ヘローフ号("信仰"の意・ロッテルダムに帰還した唯一の船)

・トラウ号("忠誠"の意)

・フライデ・ボートスハップ号("良い予兆"あるいは"陽気な使者"の意)


司令官のジャック・マフ英語版はアダムスをホープ号の航海士として採用する。こうして1598年6月24日、船団はロッテルダム港を出航した。


しかし航海は惨憺たる有様で、マゼラン海峡を抜けるまでにはウィリアムとトマスの兄弟はリーフデ号に配置転換されていたが、トマスが最初乗船していたトラウ号はポルトガルに、フライデ・ボートスハップ号はスペインに拿捕され、1隻はぐれたヘローフ号は続行を断念してロッテルダムに引き返した。生き残った2隻で太平洋を横断する途中、ホープ号も沈没してしまい、極東に到達するという目的を果たしたのはリーフデ号ただ1隻となった。その上、食糧補給のために寄港した先々で赤痢壊血病が蔓延したり、インディオの襲撃に晒されたために次々と船員を失っていき、トマスもインディオに殺害されてしまう。こうして出航時に110人だった乗組員は、日本漂着までには24人に減っていた。

日本漂着、家康の引見
関ヶ原の戦いの約半年前の1600年4月29日慶長5年3月16日)、リーフデ号は豊後臼杵黒島に漂着した。自力では上陸できなかった乗組員は、臼杵城主・太田一吉の出した小舟でようやく日本の土を踏んだ。一吉は長崎奉行寺沢広高に通報した。広高はアダムスらを拘束し、船内に積まれていた大砲火縄銃弾薬といった武器を没収したのち、大坂城豊臣秀頼に指示を仰いだ。この間にイエズス会宣教師たちが訪れ、オランダ人やイングランド人を即刻処刑するように要求している。


結局、五大老首座の徳川家康が指示し、重体で身動きの取れない船長ヤコブ・クワッケルナックに代わり、アダムスとヤン=ヨーステン・ファン・ローデンスタインメルキオール・ファン・サントフォールトらを大坂に護送させ、併せて船も回航させた。


5月12日(慶長5年3月30日)、家康は初めて彼らを引見する。イエズス会士の注進でリーフデ号を海賊船だと思い込んでいた家康だったが、路程や航海の目的、オランダやイングランドなどプロテスタント国とポルトガル・スペインらカトリック国との紛争を臆せず説明するアダムスとヤン=ヨーステンを気に入って誤解を解いた。しばらく乗組員たちを投獄したものの、執拗に処刑を要求する宣教師らを黙殺した家康は、幾度かにわたって引見を繰り返した後に釈放し、城地である江戸に招いた。

三浦按針となる
江戸でのアダムスは帰国を願い出たが、叶うことはなかった。代わりに家康は米や俸給を与えて慰留し、外国使節との対面や外交交渉に際して通訳を任せたり、助言を求めたりした。またこの時期に、幾何学数学、航海術などの知識を家康以下の側近に授けたとも言われている。


やがて江戸湾に係留されていたリーフデ号が沈没すると、船大工としての経験を買われて、西洋式の帆船を建造することを要請される。永らく造船の現場から遠ざかっていたアダムスは、当初は固辞したものの受け入れざるを得なくなり、伊東に日本で初めての造船ドックを設けて80tの帆船を建造した。これが1604年(慶長9年)に完成すると、気をよくした家康は大型船の建造を指示、1607年(慶長12年)には120tの船舶を完成させる[注釈 1]


この功績を賞した家康は、さらなる慰留の意味もあってアダムスを250石取りの旗本に取り立て、帯刀を許したのみならず相模国逸見采地も与えた[1]。また、三浦按針("按針"の名は、彼の職業である水先案内人の意。姓の"三浦"は領地のある三浦郡にちなむ)の名乗りを与えられ、異国人でありながら日本の武士として生きるという数奇な境遇を得たのである。のち、この所領は息子のジョゼフが相続し、三浦按針の名乗りもジョゼフに継承されている。


1613年(慶長18年)にイギリス東インド会社クローブ号が交易を求めて日本に来航した際、一行に付き添い、家康らとの謁見を実現させ、貿易を許可する朱印状を取りつけるなどの手助けをした。1614年(慶長19年)のクローブ号帰還の際には、一緒に帰国できる許可が日英両方から出たが、同船司令官のジョン・セーリスと馬が合わず、帰国を見送った。セーリスは何事も日本式を強要するアダムズが気に入らず、アダムズはセーリスを生意気で無礼な青二才として嫌っていた。一行が去ったあとは、それまで手伝っていたオランダ商館より安い賃金だったが、母国イギリス商館の仕事を手伝った[2]

家康の死後
家康に信頼された按針だったが、1616年元和2年)4月に家康が死去し、跡を継いだ徳川秀忠をはじめ江戸幕府幕臣たちの方針で貿易を平戸のみに制限し鎖国体制を敷いたため、按針の立場は不遇となった。以降の按針の役目は天文官のみとなり、幕臣や次期将軍候補の徳川家光らに警戒された。按針は憂鬱な状態のまま、1620年5月16日元和6年4月24日)に平戸で死去した。(享年55歳)

夫人について
帰国を諦めつつあったアダムスは、1602年(慶長7年)頃に大伝馬町名主で家康の御用商人でもあった馬込勘解由平左衛門の娘・お雪(マリア)と結婚したとされてきた。しかし、馬込勘解由の娘とする説は1888年(明治21年)の「横須賀新報」、1892年(明治25年)の菅沼貞風『日本商業史』[3]が初出であり、現実的に勘解由本人の娘とは考えられず、実際の出自は不明である。また、お雪という名前も1973年(昭和48年)石一郎の小説『海のサムライ』を初出とし、牧野正『青い目のサムライ三浦按針』の英訳書を通じて誤って広まったものであり、史料上夫人の名前は残っていない[4]


彼女との間には、息子ジョゼフと娘スザンナが生まれている。

記念する場所・行事など
横須賀
神奈川県横須賀市逸見には三浦按針の領地があった。同地(横須賀市西逸見)にある濤江山浄土寺が三浦按針の菩提寺となっており、按針が東南アジアからもたらしたという唄多羅葉や、念持仏が納められている[5]

横須賀市西逸見町の「塚山公園」には、按針夫妻の慰霊のために作られた2基の供養塔(宝筺印塔)があり[6]、「安針塚(按針塚)」「三浦按針墓」と呼ばれる。江戸時代後期には浄土寺や日本橋按針町の人々によって、按針の法要が行われた[5]


日本の開国後、ウィリアム・アダムスの墓探しが行われた。1874年(明治7年)、横浜に住む実業家ジェームズ・ウォルタースによって、逸見の浄土寺から古い2基の宝筺印塔が見いだされたウォルタースは「按針塚」周辺の荒廃を憂いて修復を行い、横浜居留のイギリス人や地元の人々などからも支援が行われた[5]。1902年(明治35年)に結ばれた日英同盟を契機に「安針塚(按針塚)」周辺の大規模な整備が行われ、塚山公園が作られたが、これに際して発掘調査が行われ、埋葬地ではないことが確認された[5]1923年大正12年)3月7日、「三浦按針墓」として国の史跡に指定された。


塚山公園では第二次世界大戦以前から「按針祭」が挙行されていた。日英間で交戦状態になった第二次世界大戦期の中断を挟み、「三浦按針墓前祭」「三浦按針祭」などの名称で記念行事が行われた[7]。1997年(平成9年)以後は「三浦按針祭観桜会」の名称で、毎年4月8日[注釈 2]に挙行されている[7]

1982年(昭和57年)に横須賀市とジリンガム市は姉妹都市提携をおこなった。ジリンガム市側の自治体合併によってメドウェイ英語版[注釈 3]が発足したため、1999年(平成11年)以降はメドウェイ市と姉妹都市関係にある[8]


2019年10月25日、浄土寺本堂でアダムスの400回忌法要が営まれ、徳川宗家18代当主の徳川恒孝も参列した[9]

伊東
按針が洋式船を建造した静岡県伊東市では、「按針メモリアル公園」が作られ、銅像がある。


毎年夏には「按針祭」が開催され、日程の最後には「按針祭海の花火大会」が挙行される。


1982年(昭和57年)に伊東市とジリンガム市は姉妹都市提携をしており、1999年(平成11年)以降はメドウェイ市と姉妹都市関係にある[10]

その他
その後、キリスト教弾圧の中で商館とともに外国人墓地の破壊が行われたため、埋葬地の正確な場所ははっきりしない。1931年、崎方にほど近い三浦家で「安針墓」として伝えられてきた墓から、遺骨と遺品の一部が発掘される。三浦家は通詞の末裔であり、ひそかに按針の遺骨の一部をもらいうけて埋葬したという口伝があった。


1954年(昭和29年)、イギリス商館跡近くの崎方公園(平戸市大久保町)に「三浦按針の墓」が建立された。

1964年(昭和39年)、アダムスの生誕400年に際し、イングランドの妻の墓地より小石を取り寄せ、夫婦塚とした[11]。毎年5月下旬には墓前で「按針忌」が催される。


・アダムスの江戸屋敷があった地区は按針町と呼ばれた(現在の東京都中央区日本橋室町)。同地(日本橋室町1-10-8)には、「三浦按針屋敷跡の碑」が立つ。

・リーフデ号が漂着した大分県臼杵市佐志生海岸黒島には「三浦按針上陸記念碑」が立つ。「三浦按針記念公園」や「リーフデ号到着記念公園」が整備されている。

・リーフデ号の船尾像であったエラスムス像は、旗本・牧野成里の菩提寺である栃木県佐野市の龍江院に「貨狄尊者」として伝えられた。エラスムス像は国の重要文化財に指定され、東京国立博物館に収蔵されている。

・出生地であるメドウェイでは、毎年9月中旬に「Will Adams Festival」が開催される[12]

・アダムスが浦賀外交の顧問として迎えられたことの周知のため、浦賀住民の熱意によって賛助金が集められ、2019年平成31年)4月25日、横須賀市東浦賀の東叶神社境内に「日西墨比貿易港之碑」が建碑され、除幕式が行われた[13]

関連図書
・『按針と家康: イギリス人侍 三浦按針

・P・G・ロジャーズ『日本に来た最初のイギリス人 ウイリアム・アダムズ=三浦按針』幸田礼雅訳(新評論、1993年)

・ファン・ヒル『イダルゴとサムライ16・17世紀のイスパニアと日本』平山篤子訳(法政大学出版局 2000年)

鈴木かほる『徳川家康のスペイン外交 向井将監と三浦按針』新人物往来社 2010年

フレデリック・クレインス『ウィリアム・アダムス 家康に愛された男・三浦按針』ちくま新書 2021年

歴史小説
白石一郎『航海者 三浦按針の生涯』幻冬舎、1999年 のち同・文庫/文春文庫、2005年。歴史小説、各上・下

大島昌宏『海の隼 参謀・三浦按針』学陽書房、1999年

ジャイルズ・ミルトン英語版『さむらいウィリアム 三浦按針の生きた時代』築地誠子訳(原書房、2005年)

佐々木裕一『青い目の旗本 ジョゼフ按針』光文社文庫 全3巻、2014-16年 

仁志耕一郎『按針』ハヤカワ文庫、2020年

脚注
注釈
1. この船は1610年(慶長15年)になって、上総国御宿海岸で遭難し地元民に救助された前フィリピン総督ロドリゴ・デ・ビベロに家康から貸し出され、サン・ブエナ・ベントゥーラと名付けられた。
2. 後述する1982年のジリンガム市との姉妹都市提携日。
3. 1998年、ジリンガム市と隣接するロチェスター市と合併して発足。

出典
1. ウィリアム・アダムス|人物事典 - 三浦半島観光地図”. そらいろネット. 2019年5月30日閲覧。
2. Saris John; Sir Ernest Mason Satow (1900). The voyage of Captain John Saris to Japan. 1613. London : Printed for the Hakluyt Society. http://archive.org/details/captainjvoyageof00saririch [要ページ番号]
3. 菅沼貞風『大日本商業史東邦協会、1892年、389頁。
4. 森良和「ウィリアム・アダムズの日本人妻 ―その出自と名前をめぐって― (PDF) 」 『玉川大学教育学部紀要』第2016号、玉川大学教育学部、2017年3月31日。[要ページ番号]
5. a b c d 横須賀市政策推進部文化振興課: “三浦按針と横須賀 (PDF)”. 横須賀市. 2016年3月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年9月21日閲覧。
6.三浦按針祭観桜会 (William Adams Cherry Blossom Party)”. 横須賀市. 2013年9月21日閲覧。
7. a b 三浦按針祭観桜会 (William Adams Cherry Blossom Party)”. 横須賀市. 2017年12月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年9月21日閲覧。
8. 姉妹(友好)提携情報”. 自治体国際化協会. 2017年3月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年9月21日閲覧。
9. “按針の功績、再考の日に あす横須賀の浄土寺で400回忌法要”. 東京新聞神奈川版. (2019年10月25日). https://www.tokyo-np.co.jp/article/kanagawa/list/201910/CK2019102502000131.html 2020年2月24日閲覧。 
10. 姉妹(友好)提携情報”. 自治体国際化協会. 2017年3月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年9月21日閲覧。
11. 三浦按針の墓”. 平戸観光協会. 2016年3月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年9月21日閲覧。
12. 三浦按針祭観桜会 (William Adams Cherry Blossom Party)”. 横須賀市. 2017年12月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年9月21日閲覧。
13. 「神奈川新聞」横須賀版、2019年4月27日付。[要ページ番号]

関連項目
安針塚駅 - 京急線の駅で横須賀市にある。

将軍 SHOGUN - ウィリアム・アダムスをモデルとした、アメリカのドラマ

ヤン・ヤンセ・ウェルテフレー - 同時代の朝鮮半島に漂着し、朝鮮王朝に仕えたオランダ人

仁王 - ウィリアム・アダムスを主人公とした、PlayStation 4向けアクションRPG

・『まんが日本史 (日本テレビ)』 - 演じている声優は村松康雄

明治維新以前に日本に入国した欧米人の一覧

有史時代における各国の出身人物による最初期の来日の年表

海外出身の武士の一覧



外部リンク
按針のまち逸見を愛する会

涛江山 浄土寺 公式ホームページ

三浦按針と横須賀 - 横須賀市市政策推進部文化振興課
"ウィリアム・アダムス". Find a Grave. 2016年6月12日閲覧



(wikiより)


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乃木 希次(のぎ まれつぐ )は、幕末武士長府藩定府藩士乃木希典の父。


石高は初め80石、後に150石。一時期50石に減俸。小笠原流松岡辰方(清助)門人。のちの長州藩毛利定広の正室・銀姫の守役や、藩の諸礼法師範、藩校敬業館の講師を勤める。

経歴

文化2年(1805年)、乃木宗家の分家である長州藩士・乃木希建の4男として誕生。母は小田原藩士野村利久(才右衛門)の娘[1]。なお、分家の乃木家も侍医の家であった。


文化6年(1809年)、本家である乃木周久(隆玄)の養子になっていた兄希幸(惣吉)の死去に伴い、その養子となって乃木本家を相続する。文化13年2月28日(1816年)、深川三十三間堂通し矢を射、これを賞した藩主毛利元義の命により藩医を解かれ、禄高80石の御馬廻に編入される。


後に毛利元運の娘、銀姫の守役となり、安政5年(1858年)1月の銀姫と長州藩養嗣子定広との婚礼一切を取り仕切る。同年2月、政務に関する建白書を提出したことで藩主の忌諱に触れ、帰藩を命じられる。同年12月、長府外浦に到着し、閉門100日と50石への減禄を命じられる。


閉門が解かれて後、100石を給されて再仕し、長府藩藩校敬業館で藩主毛利元周の養子毛利元敏とその実弟毛利元功に礼法及び武芸を授ける。元敏、元功兄弟が長州藩藩校の明倫館に移った際に同行している。慶応元年(1865年)、藩首脳部と対立して切腹した泉十郎の処置に立腹した長府藩報国隊の桂弥一が脱藩して吉田駐屯の奇兵隊に投じた際、説得して帰藩させている。


明治7年(1874年)に家族とともに東京に戻り、東京の乃木家と同居。明治10年(1877年)10月31日、東京で死去。

家族
・実祖父 - 希和(道伯、長州藩士の乃木氏祖)

・養祖父 - 周久(龍玄、長府藩士、文化2年に死去)

・実父 - 希健(次郎左衛門、長州藩士、天保4年に死去)

・養父 - 希幸(惣吉、長府藩士、文化6年に9歳で死去)

・妻 - 秀(先々代乃木本家当主の乃木周久の次女、離婚)

・後妻 - 寿子(常陸国土浦藩士長谷川金大夫の娘、明治29年12月27日に死去)

・子

  1. 乃木信通(秀との子、通称は源太郎、毛利元周の近習役。嘉永2年(1849年)に23歳で死去)

  2. 乃木次郎(寿子との子、早死)   

  3. 乃木希典(寿子との子)    

  4. キネ(寿子との子、幼少期に小笠原家へ養子となる)

  5. 玉木正誼(眞人、寿子との子、乃木家分家の長州藩士玉木文之進《本名は正韞》の養子になる)

  6. イネ(寿子との子、長谷川家の嫁ぐ)

  7. 大館集作(寿子との子、長府藩士大館甚五左衛門の養子になる)

人物 、逸話
・長府藩士の乃木氏は、天和2年(1682年)に先祖の乃木傳庵毛利綱元に侍医として仕えて以来、代々江戸定府の侍医であったが、希次は医学を好まず、幼少より文武の学を修め、弓馬術流鏑馬)に長じていたという。

故実家で小笠原流礼法の大家である久留米藩士松岡辰方の門人となって、その高足となる。辰方死去後、その嗣子の松岡明義を希次が指導したという。

・帰藩を命じられた際に改易を覚悟したが、結局、減禄と閉門で済んだため、平素信仰していた王子稲荷神社の加護であるとして感泣したという。

・閉門の刑期満了後、当時痔疾に苦しんでいた希次は一時菅野清右衛門の家に僑居していたが、希次の回復後に城下の横枕小路にある江木傳右衛門の邸宅を25両で購入して、そこに移る。現在、この邸宅は長府の有志者によって保存されている。

・性格は剛毅厳格で、古武士の風格を備えていたという。また、長州藩士の大組士で、分家筋である玉木家とは代々交流があったが、玉木文之進と希次とは5歳しか歳が離れていない上に、性格も似ていたので平素互いに推服していたという。

脚注
1. 『乃木大将事跡』の系図参照。しかしながら、野村氏は同系図で1794年(寛政6年)6月4日に死去しており、希建の後妻、吉村氏の娘の竹が実母の可能性がある。

参考文献
塚田清市『乃木大将事跡』乃木十三日会

・『三百藩家臣人名事典 6』(新人物往来社
(wikiより)

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⇧ 奥様のお墓。


和田 英(わだ えい、安政4年8月21日1857年10月8日) - 昭和4年(1929年9月26日)は、官営富岡製糸場の伝習工女。『富岡日記』を著した。旧姓は横田。

経歴

1857年 信濃国埴科郡松代(現・長野市松代町松代)に松代藩士横田数馬の次女として生まれる。


1873年 松代町から英を含む16人が富岡製糸場へ伝習工女として入場する。


1874年
富岡製糸場を退場し、長野県埴科郡西條村(現・長野市松代町西条)に建設された日本初の民営機械製糸場・六工社の創業に参画するとともに、その後も教授として指導的な役割を果たす。


1878年
和田盛治と結婚。


1905年 富岡製糸場での日々を回顧して『富岡日記』を著す。


墓所は、長野市松代町の蓮乗寺

人物・逸話
・英は17歳で故郷を離れ富岡に着任するが、工女募集責任者である父・横田数馬の影響をうけ、国益と家名のために自ら進んで工女となっている。

・『富岡日記』の前半は伝習生として、後半は技術者としての記録であるが、どちらも国家的視点から展開されている。新版はちくま文庫(2014年6月)、ほかにみすず書房〈大人の本棚〉、中公文庫などで刊行された。

・横田家の先祖は奥会津横田の住人山内大学と伝えられ、江戸時代には信州松代藩士として150石の禄を受けていた中級武士であった。英の実弟である横田秀雄横田正俊の父)は大審院長、同じく小松謙次郎は鉄道大臣を務めた。

・『富岡日記』や『我母乃躾』に示されている英の母・横田亀代子(きよこ)の躾は、儒教精神に裏付けられた独自の教えであり、学習教材に広く使われている。

・長野市松代町の生家は「旧横田家住宅」として国の重要文化財に指定され、保存、公開されている。

・秀雄と小松謙次郎は英の

真田志んは英の

・富岡製糸場の工女姿のキャラクター「おエイちゃん」(現:富岡市イメージキャラクター「お富ちゃん」)のモデルとなった。

参考文献
・和田英『富岡日記―定』創樹選書1976年

・和田英『我母之躾』信濃教育会出版部、1992年

上條宏之『絹ひとすじの青春-『富岡日記』にみる日本の近代』日本放送出版協会(NHKブックス320)、1978年

外部リンク
富岡日記

・『富岡後記』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
(wikiより)

240  生家(旧横田家住宅)

生家(旧横田家住宅)

240  明治時代の富岡製糸場

明治時代の富岡製糸場

240  六工社

六工社

240  和田英

和田 英

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