カテゴリ: 公家・天皇関連・三条実美・宮内庁関連
7368 嵯峨実愛墓(文京区湯島4-1-8・麟祥院)
経歴
文政5年(1822年)に叙爵。以降累進して、侍従・右近衛権少将・右近衛権中将・新清和院別当・奉幣使次官。嘉永元年(1848年)に従三位参議となって公卿に列する。丹波権守・権中納言・踏歌節会外弁・右衛門督などを歴任した。安政2年(1855年)の孝明天皇遷幸の際、馬副6名・舎人2名・副舎人1名・雑色6名・居飼1名・傘1名を随えて供奉している。
安政5年(1858年)、江戸幕府が朝廷に対して通商条約締結の勅許を求めた際、廷臣八十八卿の一人として反対論を展開した。これによって井伊直弼による安政の大獄に連座する。安政6年(1859年)、権大納言。万延元年(1860年)に議奏、文久2年(1862年)に国事御用掛に就任。しかし、薩摩藩の主導する公武合体運動を支持して「航海遠略策」に賛同したため、尊皇攘夷派の志士から敵視された結果、翌文久3年(1863年)に失脚する。
同年の八月十八日の政変で朝廷に復帰した後は、薩摩藩に接触して討幕派公卿の一人として朝廷を主動した。明治元年(1868年)に新政府の議定、同2年(1869年)には刑部卿に就任。その後も内国事務総督、教部卿等などを歴任した。明治3年(1871年)12月、家名を嵯峨に改姓。明治13年(1880年)、勲一等旭日大綬章。明治16年(1883年)には、滋宮韶子内親王・明宮嘉仁親王の御用掛を拝命した。明治21年(1888年)、従一位。明治42年(1909年)、90歳で薨去。
備考
・「討幕の密勅」を薩摩藩に伝達する役割を担った。
・一説に孝明天皇は暗殺されたのであり、共謀実行者は実愛と岩倉具視とするものもある。しかしながら、平成元年(1989年)と同2年(1990年)に当時名城大学商学部教授であった原口清が発表した論文『孝明天皇の死因について』『孝明天皇は毒殺されたのか』によると、死因が天然痘であることは病理学的にも明白であり、この著作の登場以降は否定されるのが通説である。
・「嵯峨日記」と総称される膨大な日記を残した。現在、写本が宮内庁書陵部に保存されている。
・華族令制定により当主・公勝に伯爵に叙されたが、それへの不満が「嵯峨日記」に残されている。大臣家ながら平堂上貴族と同じ叙爵となったこと、やはり討幕の密勅に関わった中山忠能が侯爵となるなど勲功の扱いが不公平に映ったことが原因と思われる。嵯峨は4年後に侯爵となったが、その間の動きなどは浅見雅男『華族誕生』に詳しい。
系譜
・父:正親町三条実義
・母:松姫 - 松平光年娘
・養父:正親町三条公厚
・妻:鶴
・男子:嵯峨公勝
・生母不明の子女
・男子:嵯峨公平
・長女:眉延子 - 冷泉為柔室
・七女:餘年子 - 野宮定穀後室
(wikiより)
嵯峨実愛
7044 久邇邦久墓(文京区大塚5-40-1・護国寺)
来歴・人物
学習院初等科を経て学習院中等科在学途中の1918年(大正7年)4月の17歳のとき、東京府立一中2年次に入学。1920年(大正9年)12月1日の府立一中4年次だったとき、当時の皇族の慣例に従って士官候補生として近衛歩兵第4連隊に入隊した。1921年(大正10年)10月1日の20歳のとき、陸軍士官学校に入学。1923年(大正12年)、陸軍士官学校を卒業する(35期)。陸士同期には、松谷誠陸軍大佐・荒尾興功陸軍大佐・石川晋陸軍大佐らがいる。同年10月25日、臣籍降下し侯爵を授爵、久邇の家名を賜り、従四位に叙せられる。1932年(昭和7年)3月9日、満30歳となり貴族院侯爵議員に就任した[2]。1935年(昭和10年)、浴室において脳出血で死去した。
血縁
初め公爵島津忠済の女量子と結婚、後に離婚し子爵松浦靖の二女董子と再婚した。妻の董子は邦久との間に子がなかったことから邦久逝去の後久邇家を離れる。久邇家は、伯爵三条西公正と妹・信子女王の二男実英(実栄と改名)が跡を継いだ。実栄はその後田口茂の長女操と結婚した。
・父:久邇宮邦彦王
・母:島津俔子
・兄弟:朝融王 - 邦久王 - 良子女王(香淳皇后) - 信子女王 - 智子女王 - 邦英王
・妻:島津量子 - 松浦董子
・子:無し(継嗣は久邇実栄)
脚注
1. 小田部雄次『皇族』中央公論新社〈中公新書〉、2011年。ISBN 978-4-12-102011-6。
2. 『官報』第1557号、昭和7年3月11日。
外部リンク
・久邇宮家御家族の写真アルバム
(wikiより)
久邇邦久
7016 三室戸陳光墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)
6885 松尾相永墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)
生年:文政 11( 1828 )
没年:明治 10. 12( 1877 )
幕末の非蔵人。
公家と地下官人の間にあり、御所内の雑務担当を職務とする身分の出身。
通称但馬。
安政 5 ( 1858 ) 年 3月、同志の非蔵人 50名余と条約調印反対を建議。
のち尊攘運動に接近し、文久 3 ( 1863 ) 年の 8月 18日の政変で参朝停止の処分を受ける。
慶応 3 ( 1867 ) 年 1月処分解除、同年 12月、王政復古の前日には岩倉邸にあり、鴨脚光長、松尾相保、中川元績、吉田良栄ら非蔵人と共に政変の準備に当たる。
翌明治 1 ( 1868 ) 年参与、嘉仁親王に従い会津攻撃に参画。次いで宮内省に入る。
同 10年王政復古の功を追賞され、500円を下賜された。


6869 富小路敬直墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)
6626 藤井希璞墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)
経歴
近江国滋賀郡上坂本村(現滋賀県大津市坂本)で、日吉神社社司・生源寺希烈の九男として生まれる[1]。
元治元年6月(1864年7月)有栖川宮家の家士となる[1][3]。慶応3年3月(1867年4月)熾仁親王の密書を携え長州藩に赴き、帰途に諸藩を遊説した[1][3]。同年9月(10月)討幕挙兵計画の疑いで新選組に捕縛され拷問を受けた[1][3]。同年11月、藤井の生命が危険との情報を受け熾仁親王の助命により宮家に戻された[1][3]。
戊辰戦争に際し、慶応4年4月7日(1868年4月29日)大総督として東下する熾仁親王の輔弼を命ぜられ、親王に従い各地を転戦した[4]。明治2年3月10日(1869年4月21日)多年の国事への尽力により賞典禄3人口を終身下賜された[4]。
明治3年9月3日(1870年9月27日)有栖川宮家扶となる[4]。以後、東京府士族卒族触頭、触頭取締、神祇省十一等出仕、宮内省七等出仕、兼有栖川宮家令、宮内省九等出仕、兼伏見宮家令、兼東伏見宮家令、宮内省御用掛、有栖川宮・東伏見宮御附、内閣少書記官、左大臣(熾仁親王)秘書官、有栖川宮家令などを歴任[4]。
1888年6月7日、元老院議官に就任し、1890年10月20日の廃止まで在任して非職となる[4]。
栄典
・1888年(明治21年)12月26日 - 勲四等瑞宝章[5]
・1890年(明治23年)12月26日- 勲三等瑞宝章[6]
脚注
1. a b c d e f g h 『明治維新人名辞典』848-849頁。
2. 『明治過去帳』新訂初版、379頁では「文政7年6月24日」。
3. a b c d 『新選組大人名事典 下』145-146頁。
4. a b c d e 『国立公文書館所蔵 勅奏任官履歴原書 下巻』490-494頁。
5. 『官報』第1650号「授爵叙任及辞令」1888年12月27日。
6. 『官報』第2251号「叙任及辞令」1890年12月27日。
参考文献
・大植四郎編『明治過去帳』新訂初版、東京美術、1971年(原著私家版1935年)。
・日本歴史学会編『明治維新人名辞典』吉川弘文館、1981年。
・我部政男・広瀬順晧編『国立公文書館所蔵 勅奏任官履歴原書 下巻』柏書房、1995年。
・秦郁彦編『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』東京大学出版会、2001年。
・新人物往来社編『新選組大人名事典 下』新人物往来社、2001年。
・安岡昭男編『幕末維新大人名事典』下巻、新人物往来社、2010年。
(wikiより)
6459 沢為量墓(豊島区南池袋4丁目・雑司ヶ谷霊園)
経歴
文政4年(1821年)、従五位下。文政8年(1825年)、元服して正五位下武蔵介。天保10年(1836年)、従四位上民部大輔。嘉永元年(1848年)、正三位。安政2年(1855年)、従二位。
安政5年(1858年)、養子・宣嘉と共に廷臣八十八卿列参事件に加わり、日米修好通商条約勅許に反対。その後は病弱のため、公職から退いた。
戊辰戦争では、慶応4年(1868年)2月に奥羽鎮撫使総督に挙げられ、ついで九条道孝の総督就任と共に副総督となって出陣した。奥羽各地を転戦して10月凱旋する。明治2年(1869年)6月、軍功により賞典禄200石を永世下賜された。同年8月宮内権大丞に任ぜられたが、明治3年(1870年)11月に退官して宣嘉に家督を譲った。
しかし明治6年(1873年)9月、宣嘉の薨去により再度家督を継承し、明治16年(1883年)9月特旨をもって従二位に叙せられた。
明治17年(1884年)7月7日、華族令により子爵。明治22年(1889年)薨去。享年78。死に先立って正二位に叙せられた。後に澤家は伯爵に陞爵する。
栄典
・1889年(明治22年)
・母:家女房
・妻:不詳
・生母不明の子女
・長女:藤子 - 澤宣嘉正室
・次女:延子 - 石山基正室、※基正は宣嘉の実弟・石山基文の子
・長男:澤宣種 - 宣嘉養子
・三女:忠子 - 岡崎国有室
・玄孫:加山雄三(歌手)
・養子
・男子:澤宣嘉 - 姉小路公遂五男
脚注
1. a b 『官報』第1835号「叙任及辞令」1889年8月10日。
参考文献
・神宮滋『戊辰戦争出羽戦線記―澤為量・奥羽鎮撫副総督の征討記録から』無明舎出版、ISBN 4-89544-479-1
関連項目
・澤家
(wikiより)
沢 為量
6346 大原重朝墓(台東区・谷中霊園)
経歴
山城国京都で、大原重徳の三男として生まれ、兄・大原重実の養子となる[1][2]。万延元年(1860年)孝明天皇の児に就任し、文久2年3月(1862年)元服して重朝と改名し備後権介に任じられた[3]。慶応2年2月(1866年)左馬頭に就任[1]。同年8月、朝廷刷新の二二卿建議(廷臣二十二卿列参事件)に加わり差控を命ぜられた[1]。慶応3年2月(1867年)赦免となる[1]。
慶応4年閏4月19日(1868年6月9日)参与・弁事に就任[4]。以後、権弁官事、弁官事、神楽御人数などを歴任[4]。1874年3月、宮内省九等出仕となる[1][3]。1877年9月、養父が死去し、同年10月30日、家督を継承[2]。1879年2月、外務省御用掛に就任した[1]。
1884年7月8日、子爵を叙爵[5]。1888年1月17日、父・重徳の勲功により伯爵に陞爵[6]。1890年7月、貴族院伯爵議員に選出され、死去するまで在任した[7]。
栄典
・1906年(明治39年)4月1日 - 勲四等旭日小綬章[8]
・1914年(大正3年)6月18日 - 勲三等瑞宝章[9]
系譜
・父:大原重徳
・母:不詳
・養父:大原重実
・五男:柳原博光(柳原義光養子)[2]
脚注
1. a b c d e f g h 『明治維新人名辞典』278頁。
2. a b c d e f g 『平成新修旧華族家系大成』上巻、321-322頁。
3. a b 『明治時代史大辞典 第一巻』368頁。
4. a b 『百官履歴 上巻』192頁。
5. 『官報』第308号、明治17年7月9日。
6. 『官報』第1363号、明治21年1月18日。
7. 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』24頁。
8. 『官報』第7272号「叙任及辞令」1907年9月23日。
9. 『官報』第565号「叙任及辞令」1914年6月19日。
参考文献
・修史局編『百官履歴 上巻』日本史籍協会、1928年。
・日本歴史学会編『明治維新人名辞典』吉川弘文館、1981年。
・衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
・霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』上巻、霞会館、1996年。
・安岡昭男編『幕末維新大人名事典』下巻、新人物往来社、2010年。
6345 大原重貴墓(台東区・谷中霊園)
6014 酒井忠康墓(谷中7-14-8・天王寺)
大正 4年 ~ 昭和 42年 10月 23日 ( 1915 - 1967 )
旧松嶺藩主・酒井忠匡の孫・子爵。
父、子爵・酒井忠晃 ( 長男 )。旧羽後松山藩酒井家第 10代当主。掌典。
大正 12年 ( 1923 ) 襲爵。
妻は、伯爵酒井忠良の 4女千鶴。52歳没。正面「掌典酒井忠康墓」。
※ 掌典職 ( しょうてんしょく ) : 皇室で宮中祭祀を担当する部門。
〇 掌典職
掌典職(しょうてんしょく)は、日本の皇室において宮中祭祀を担当する部門である。宮中三殿においてその職務を行う。
戦前、国家機関であった当時は、宮内省の外局として国家機関の位置付けであった。
宮内省式部職掌典部
「宮内省官制」(明治40年皇室令第3号)制定当時は、「典式」として式部職の所掌とされ、式部職に掌典部が置かれ、掌典長、掌典次長、掌典、内掌典及び掌典補を置くことが定められた。
それぞれの職務権限を述べると、
・「掌典長」は親任官又は勅任官とされ、皇室祭祀に奉仕し、掌典部・掌典職の事務を掌理し、所部職員を監督する。
・「掌典次長」は勅任官とされ、掌典長をたすけ、掌典長に事故があるときはその職務を代理する。
・「掌典」は12人を定員とされ、奏任官(名誉官とすることもできた。)とし、祭事を分掌する。
・「内掌典」及び「掌典補」は判任官とし、「内掌典」のうち1人は奏任官とできた。ともに祭事に従事する。
・なお、「内掌典」は女性が就任する官職である。
宮内省掌典職
「掌典職官制」(昭和14年皇室令第4号)により、宮内省に掌典職が置かれ、掌典職には、掌典長、掌典次長、掌典、内掌典、掌典補、事務官及び属を置くことが定められた。
・掌典長、掌典次長、掌典、内掌典及び掌典補は、宮内省式部職掌典部時代と同様の職掌である。
・「事務官」は奏任官として掌典職の庶務を掌り、「属」は判任官として掌典職の庶務に従事していた。
内廷機関としての掌典職
1947年(昭和22年)5月3日の日本国憲法施行に伴う同省の廃止(宮内府への移行)により、掌典職も国家機関としては廃止された。
その後も皇室費の内廷費をもって人件費に充てられる職員が置かれる。現在は、天皇の私的使用人としての性格を有する『内廷の職員』とされ侍従のような宮内庁職員(国家公務員)ではない(皇室に直接雇用されている存在)。
責任者の掌典長をはじめ掌典次長、掌典、内掌典、掌典補、出仕、雑仕等、宮内省掌典職時代と同職名の職員が置かれている。現在の掌典長は、前侍従次長の加地正人。
1975年(昭和50年)以後伊勢の神宮や勅祭社における祭典では、天皇の使者である「勅使」をつとめる。
関連項目
・宮内庁侍従職
・侍従
・女官
・高谷朝子(元内掌典)
・皇室の儀式
(wikiより)
6001 室町公康墓(谷中7-14-8・天王寺)
5971 花山院弘匡墓(谷中7-14-8・天王寺)
花山院家 ( かざんいんけ )は、関白藤原道長の嫡孫関白師実二男左大臣家忠より出る。
花山院家忠が、一家を立て花山院姓を冒す。
代々大臣大将の職にあり、7清華の一人。
家格は清華家。
平安時代後期の藤原師実の次男・家忠に始まった。
明治維新以後、明治 17年 ( 1884 ) 忠遠のとき侯爵に列した。
侯爵は忠遠 ( ただとお )・親家 ( ちかいえ )・親忠 ( ちかただ ) の 3名。このうち忠遠と親家の 2名が墓誌にある。
花山院弘匡 ( かざんいん - ひろまさ )
昭和 37年 ( 1962 ) ~ 現存
春日大社宮司。
花山院家 33代目当主。
父、花山院親忠。
国学院大学文学部神道学科卒業。
県立奈良高校教諭として地理を担当。
平成 20年 ( 2008 ) 4月 1日春日大社宮司に就任。


5970 花山院親忠墓(谷中7-14-8・天王寺)
花山院家 ( かざんいんけ ) は、関白藤原道長の嫡孫関白師実二男左大臣家忠より出る。
花山院家忠が、一家を立て花山院姓を冒す。
代々大臣大将の職にあり、7清華の一人。
家格は清華家。
平安時代後期の藤原師実の次男・家忠に始まった。
明治維新以後、明治 17年 ( 1884 ) 忠遠のとき侯爵に列した。
侯爵は忠遠 ( ただとお )・親家 ( ちかいえ )・親忠 ( ちかただ ) の 3名。このうち忠遠と親家の 2名が墓誌にある。
花山院親忠 ( かざんいん - ちかただ )
大正 7年 8月 3日 ~ 平成 6年 2月 28日 ( 1918 - 1994 )
春日大社宮司・侯爵。
父、花山院親家 ( 長男 )。母、青地伊一の妹とし。花山院慈薫は姉。
神奈川県出身。
大正 13年 ( 1924 ) 襲爵。
国学院大学国文科卒業。
鹿島高等学校・佐賀西高等学校および佐賀県教育庁学校課長。佐賀県文化財専門委員。佐賀民族学会事務局。従四位。76歳没。
著書 : 「ふるさとの散歩道―肥前、筑後の旅」、「春日の神は鹿にのって」。


5969 花山院親家墓(谷中7-14-8・天王寺)
花山院家 ( かざんいんけ ) は、関白藤原道長の嫡孫関白師実二男左大臣家忠より出る。
花山院家忠が、一家を立て花山院姓を冒す。
代々大臣大将の職にあり、7清華の一人。
家格は清華家。
平安時代後期の藤原師実の次男・家忠に始まった。
明治維新以後、明治 17年 ( 1884 ) 忠遠のとき侯爵に列した。
侯爵は忠遠 ( ただとお )・親家 ( ちかいえ )・親忠 ( ちかただ ) の 3名。このうち忠遠と親家の 2名が墓誌にある。
花山院親家 ( かざんいん - ちかいえ )
明治 11年 ~ 大正 13年 3月 11日 ( 1878 - 1924 )
侯爵。
父、公卿・堀河康隆。花山院忠遠の養子となる。兄、堀河護麿・岩倉具威。正三位勲三等。
妻、青地伊一の妹とし。嗣子、親忠。長女、大聖寺第 27世門跡花山院慈薫。
明治 36年 ( 1903 - 1924 ) 貴族院議員。日本製菓取締役。47歳没。「至誠院殿正三位勲三等侯爵親家卿」。


5968 花山院忠遠墓(谷中7-14-8・天王寺)
花山院家 ( かざんいんけ ) は、関白藤原道長の嫡孫関白師実二男左大臣家忠より出る。
花山院家忠が、一家を立て花山院姓を冒す。
代々大臣大将の職にあり、7清華の一人。
家格は清華家。
平安時代後期の藤原師実の次男・家忠に始まった。
明治維新以後、明治 17年 ( 1884 ) 忠遠のとき侯爵に列した。
侯爵は忠遠 ( ただとお )・親家 ( ちかいえ )・親忠 ( ちかただ ) の 3名。このうち忠遠と親家の 2名が墓誌にある。
花山院忠遠 ( かざんいん - ただとお )
明治 9年 ~ 明治 28年 8月 15日 ( 1876 - 1895 )
忠遠のときに侯爵に列する。20歳没。「温良院殿侯爵忠遠卿」


5952 高松保実墓(台東区・谷中霊園)
文化 14年 12月 1日 ~ 明治 11年 9月 24日 ( 1817 - 1878 )
江戸後期の公卿・安政勤王八十八延臣の一人。
名、保実。
父、権中納言・高松公祐 ( 三男 )。養父、正三位・高松秀実。
文政 13年 ( 1830 ) 元服の昇殿を許され備中守。院 ( 光格上皇 ) 判官代。
嘉永 6年 ( 1853 ) 大膳太夫。
安政 5年 ( 1858 ) 年 12月 19日叙従三位。
文久 2年 ( 1862 ) 正三位。52歳時右近衛少将・非参議。
この間、安政 5年 ( 1858 ) 外交措置に関して幕府と折衝するため、上書して自ら関東に赴くことを請願。
また、日米通商条約勅許阻止のため、有志公家 88卿に加わり、文久 3年 ( 1863 ) には、幕府の上奏した攘夷期限に関する朝幕間評議の大要を明示すべきことを有し公家 60余卿と共に上書した。
高松家は権大納言武者小路実陰の子参議重季を祖とし、保実は 5世代目。
上京第 22区寺町通丸太町上ル松蔭町 18番地に高松保実邸があった。子に高松実村。62歳没。「正三位高橋保実之墓」。
5900 生源寺節子墓(台東区谷中・谷中霊園)
5884 坊城俊良墓(台東区谷中・谷中霊園)
5872 吉川重国墓(台東区谷中・谷中霊園)
生涯
吉川重吉の次男として東京で生まれる。京都帝国大学卒業後の大正5年(1916年)に男爵となった。東洋拓殖に勤務の後、昭和2年(1927年)からヨーロッパへ留学。帰国後、宮内省に入省し、式部官狩猟官となる。昭和16年(1941年)には課長に昇進。
戦後は宮中儀礼の専門家として活動。昭和28年(1953年)のエリザベス2世戴冠式出席の皇太子明仁親王に随行した。昭和34年(1959年)の皇太子明仁親王と正田美智子のご成婚の際は、お妃教育を担当。また、秋篠宮文仁親王の后となった川嶋紀子に宮中儀礼の指導を行ったのも重国である。
平成8年(1996年)死去。墓所は谷中霊園。
脚注
1. 『平成新修旧華族家系大成』上巻(霞会館、1996年)p.502
参考資料
・吉川重国 『戴冠紀行』 毎日新聞社、1954年。
(wikiより)
吉川重国
5869 三条西信子墓(台東区谷中・谷中霊園)
5867 三条西季知墓(台東区谷中・谷中霊園)
経歴
安政5年(1858年)、権中納言となり重んじられるが、文久3年(1863年)八月十八日の政変により、三条実美らと長州へ下向、いわゆる七卿落ちの一人となる。その後さらに大宰府まで走り、やがて王政復古の大号令によって赦され、権大納言に復し帰洛。明治元年(1868年)には皇太后宮権大夫となった。
明治維新後、参与、教部省教導職の長官である大教正兼神宮祭主となった。
三条西家の当主だけあって歌道の宗匠として知られ、西四辻公業と共に明治天皇の歌道師範となった。季知自身は三条西家分家当主の高松公祐に師事した。 明治11年(1878年)、13年(1880年)出版の『開化新題歌集』第一編に三首、二編に二首、以下の通り歌が収められている。
第一編
題「電信機」 「ことのはのかよふをみれば風の音の遠きさかひはなき世なりけり」
題「寒暖計」 「天地のこころやこれにかよふらんさらすはしららじ暑さ寒さを」
題「国旗」 「くもりなき御世のしるしはおほかれど先づあふがるる日の御旗かな」
第二編
題「水上警察」 「川くまの隈ももらさず見ることは水の濁りを残さざるなり」
題「道路修繕」 「きのふまで行なやみしも新しくひらけし道の心ちこそすれ」
また、三条西家は香道の宗匠家としても知られ、季知自身も公家文化を担うこの時代の文化人の一人であった。
系譜
・父:三条西実勲
・母:三条実起長女
・正室:山内豊敬の娘
・継室:仙石節子 - 仙石久道の娘
・生母不明の子女
・男子:三条西公允(きんあえ) - 伯爵
・五女:幾子 - 白川資訓室
・男子:乗禅
・女子:浜子 - 三条西実義室
(wikiより)
三条西季知
5475 大谷正男墓(台東区・谷中霊園)
経歴
貴族院議員大谷靖の三男として東京市に生まれる。1907年(明治40年)、東京帝国大学法科大学を卒業した[1]。大蔵省に入り、税関監視官、同事務官、横浜税関監視部長を務めた[1]。1914年(大正3年)、宮内省に入り、内蔵寮財務課長、大臣官房総務課長、書記官、宮内大臣秘書官、勅任参事官、内蔵頭を歴任[1][3]。1933年(昭和8年)、宮内次官に就任。1936年(昭和11年)からは皇太后宮大夫を務めた。
1946年(昭和21年)6月19日、貴族院議員に勅選された[3][4]。
脚注
1. a b c d 大衆人事録 1930.
2. 『昭和物故人名録』 日外アソシエーツ、1983年。
3. a b 貴族院要覧 1946.
4. 『官報』第5831号、昭和21年6月24日。
参考文献
・帝国秘密探偵社編『大衆人事録 第3版』帝国秘密探偵社、1930年。
5392 東坊城松子墓(台東区・谷中霊園)
? ~ 明治 9年 12月 17日 ( 1876 )
幕末明治の公家・難波家 24代当主。
父、23代難波宗弘。室、東坊城松子 ( 東坊城聡長の娘 )。
子 ( 宗明の弟 ) の難波宗美 ( なんば - むねよし ) が明治 17年 ( 1884 ) 7月 8日に子爵を叙する。
難波家は藤原北家師実流の嫡流の花山院 ( かざんいん ) 家で、京極摂政藤原師実の 5男難波忠教を祖とする。
平安末期の創設だが南北朝時代に約 230年もの中絶する。
その後、飛鳥井雅庸の子宗勝 ( 雅宣 ) が 14代を再興したため、飛鳥井庶流とされることもある。
蹴鞠を家業とし、難波流と言われたが近世までに衰退した。
条約幕府委任反対の 88卿列参に参加。
※ 14代宗勝 ( むねかつ : 1586 - 1651 )。
15代宗種 ( むねたね : 1610 - 1659 )。
16代宗量 ( むねかず : 1642 - 1704 )。
17代宗尚 ( むねひさ : 1668 - 1699 )。
18代宗建 ( むねたけ : 1697 - 1768 )。
19代宗城 ( むねき : 1724 - 1805 )。
20代宗薫 ( むねもと? : 1752 - 1776 )。
21代宗享 ( むねたか? : 1770 - 1808 )。
22代宗職 ( むねもと? : 1789 - 1844 )。
23代宗弘 ( むねみつ : 1807 - 1868 )。
24代宗礼 ( むねあや : 1832 - 1884 )。
25代宗明 ( むねあき )。


5375 長谷信篤墓(台東区・谷中霊園)
経歴
安政元年12月18日(1855年2月4日)、従三位に叙される。安政勤王八十八廷臣の一人でもある。
王政復古時には正三位・参議。王政復古の大号令に伴い、東久世通禧や岩倉具視らと共に新政府三職の一つである議定に就任。その後、京都府知事に就任。明治8年(1875年)、京都府知事を退任する。京都府知事を退任後も政治の中枢で活躍し、貴族院議員などとして権勢を振るった。当時としては非常に長命で、85歳まで生きた。
1884年7月8日、子爵を叙爵した[1]。
ほかに、参与、刑法事務総督(現在の法務大臣に相当)などの要職を歴任した。
栄典
・1899年(明治32年)6月29日 - 従一位[2]
・1902年(明治35年)12月26日 - 勲二等旭日重光章[3]
系譜
・父:長谷信好
・母:猪熊慶礼の娘 - 正室
・正室:梓子 - 坊城俊政の娘
・生母不明の子女
・長男:長谷信成
脚注
1. 『官報』第308号、明治17年7月9日。
2. 『官報』第4798号、明治32年6月30日。
3. 『官報』第5848号、1902年12月29日。
関連項目
・長谷家
・京都府知事一覧
(wikiより)
5042 樫田五郎墓(台東区・谷中霊園)
5037 樫田亀一郎墓(台東区・谷中霊園)
5036 藤波義子墓(台東区・谷中霊園)
5031 北政所化粧御殿跡(京都市東山区下河原町530・圓徳院)
5025 平安京大内裏朱雀門址(千本通り押小路上がる)
5022 冷然院跡(京都市中京区竹屋町通堀川西入・二条城北)
ここは、平安前期~中期、冷然院があったところである。
弘仁年中 ( 810 ~ 824 ) 嵯峨天皇の離宮として造営されたのがはじめで、林泉を前に数十の建物が建ち、天皇はしばしば行幸になって、華麗な詩歌の宴を行い、譲位後は、後院(上皇の御所)として使用された。
嵯峨上皇の後、冷然院は皇室の重要な財産として伝えられ、代々天皇の離宮・後院として利用された。
建物は前後四回火災にあったが、そのたびに面目を一新して再建され、その間に然の字を改めて冷泉院とした。
天喜 3年 ( 1055 ) にとりこわされ、以後の状況は不明であるが、平安前・中期の二百年以上にわたり、代々皇室に愛好され、林泉の美をたたえた文学作品も多く、平安文化の一中心でもあった。
(案内板より)
5020 堀河天皇里内裏址(京都市中京区堀川通二条下ル東側・京都国際ホテル前)
堀河院の遺址
二條通と堀河通によって画された東西一二〇米、南北二五〇米の地域は、古の堀河院の遺址であって、正式には左京二坊九、十町に當たっている。
初めそれは、関白・藤原基経 ( 836 ~ 891 ) が造営した大邸宅であった。
彼は主に公式な行事のため本邸を用いた。
ここで宴会が催された時などには、公卿たちの牛車は、堀河の東側に立てられ、牛は二條堀河の橋の欄干に繋がれていたと言う。
この邸宅における苑池の美しさは、幾多の詩歌に詠まれている。
基経の没後、堀河院は息子の左大臣・仲平に伝えられ、彼の娘などの手を経て関白・藤原兼通の所有に帰した。
兼通の娘の媓小は円融天皇の中宮であったため、本邸は円融上皇の御所となったこともある。
兼通は息子の顕光がここに居住した時分には様々な話題で時人の関心の的となった。
堀河院が最も脚光を浴びたのは、ここが堀河天皇の御所(里内裏 さとないり)となっていた時期であって、天皇は嘉承二年 ( 1107 ) 七月ここで崩じた。
その委細は『讃岐典侍 ( さぬきのすけの ) 日記』に見事に叙べられている。
(案内板より)
※ 京都国際ホテルはザ・リッツ・カールトン京都になっております。
5004 九條尚忠墓(京都市東山区本町15-778・東福寺)
九条 尚忠(くじょう ひさただ)は、江戸時代後期の公卿。左大臣・二条治孝の八男。実兄で権大納言・九条輔嗣の養子。官位は従一位・関白。九条家29代当主。
孝明天皇の妃・夙子は娘。大正天皇の后・節子は孫。昭和天皇の曽祖父でもある。余技で絵を能くした。
経歴
寛政10年(1798年)、二条治孝の八男として誕生。「尚」の字は、かつて室町幕府9代将軍・足利義尚から偏諱を受けた15代当主・九条尚経からその1字を取ったものである。
実兄の権大納言・九条輔嗣に養育された。長期間関白職を務めた鷹司政通から同職を受け継ぐこととなったが、女癖の悪さもあり、各方面より警戒された。安政5年(1858年)、アメリカを始めとする諸外国との通商に際して、幕府が日米修好通商条約の勅許を求めてきた時、幕府との協調路線を推進して条約許可を求めた[1]。また、将軍継嗣問題では徳川慶福の擁立を目指す南紀派についた[1]。
しかし同年、幕府との協調路線に反発する88人の公卿たちの猛烈な抗議活動により条約勅許はならなかった(廷臣八十八卿列参事件)。更に尚忠が勅許を認めようとしていたことを知った孝明天皇は立腹し、関白の内覧職権を一時停止した(関白の地位にあっても、その最も基本的な職務である内覧職権が停止されれば、事実上の停職処分に相当した)[1]。
その後、幕府の援助により復職を許されたが、その後も幕府との協調路線を推進し、公武合体運動の一環である和宮降嫁を積極的に推し進めたため、一部の尊皇攘夷過激派から糾弾されて、文久2年(1862年)6月には関白・内覧をともに辞し、出家・謹慎を命じられて九条村に閉居した[1]。慶応3年(1867年)1月、尚忠は謹慎・入洛禁止を免除され、12月8日には還俗を許された[1]。明治元年(1868年)9月18日、准后宣下。
明治4年(1871年)8月21日、薨去[1]。享年74。墓所は京都市東山区の東福寺。
系譜
・父:二条治孝
・母:樋口信子 - 樋口基康の娘
・長男:九条道孝(幸経養嗣子)
・妻:家女房
・男子:隆芳(大乗院門跡(興福寺別当大僧正))→松園尚嘉(松園家始祖)
・養子
・養女:鷹司祥子 - 鷹司政熙の娘
脚注
1. a b c d e f g 『「九条尚忠」『朝日日本歴史人物事典』
(wikiより)
九條尚忠
5003 崇徳天皇皇后 聖子陵(京都市伏見区深草本寺山町)
5002 仲恭天皇 九條陵(京都市伏見区深草本寺山町)
仲恭天皇(ちゅうきょうてんのう、1218年10月30日〈建保6年10月10日〉 - 1234年6月18日〈天福2年5月20日〉)は、日本の第85代天皇(在位:1221年5月13日〈承久3年4月20日〉 - 1221年7月29日〈承久3年7月9日〉)。諱は懐成(かねなり)。
順徳天皇の第四皇子。母は、九條良経の娘、中宮・立子(東一条院)。北条義時によって、皇位を廃された。
略歴
中宮所生の嫡出の皇子として誕生し、生後1か月の11月26日に立太子。父の順徳天皇が、祖父の後鳥羽上皇と共に鎌倉幕府執権であった北条氏追討の挙兵(いわゆる承久の乱)に参加するため、承久3年(1221年)4月20日に譲位され4歳で践祚。同年、祖父の後鳥羽上皇が承久の乱を起こしたが、北条泰時率いる幕府軍に敗北。後鳥羽上皇・順徳上皇はそれぞれ隠岐・佐渡に、土御門上皇も自ら望んで土佐に配流された。7月9日に幕府の手によって仲恭天皇は皇位を廃され、高倉天皇の第二皇子である守貞親王(後高倉院)の皇子・茂仁王(後堀河天皇)が即位した。仲恭天皇は幼児で、将軍(摂家将軍)九條頼経の従兄弟であることから、その廃位は予想外であったらしく、後鳥羽上皇の挙兵を非難していた慈円でさえ、幕府に仲恭天皇の復位を願う願文を納めている[1]。まもなく母親の実家である摂政・九條道家(天皇の叔父、頼経の父)の邸宅に引き渡され、天福2年(1234年)に17歳で崩御。歴代の天皇の中で、在位期間が最も短い天皇である。
諡号・追号・異名
即位後わずか78日で廃され、即位式も大嘗祭も行われなかったため諡号・追号がされず、九条廃帝(くじょうはいてい)[2]、承久の廃帝(じょうきゅうのはいてい)[3]、半帝、後廃帝と呼ばれていた。
明治3年(1870年)5月、明治政府(太政官)は、大友皇子、淡路廃帝、九条廃帝に天皇号の追諡を行うことにして、神祇官および大学に追諡の撰定を命じた。九条廃帝は4歳で登極、在位78日で廃位、以後17歳で亡くなるまで生家の九条邸で隠棲されていたため、諡号撰定の根拠にすべき事績は全くなかった。神祇官でも苦心の結果、天皇が第三子であったことから「仲」の字を、また諡は本来敬を表すものであるということから「恭」の字を選び、両者で「仲恭」の諡号を撰定するに至った。政府はこれに対して弾正台などの意見も聞き、7月20日に「仲恭」と決定し、同年7月23日に神祇官で祭典執行、祝詞をして奉諡を行った。翌日、『太政官日誌』(明治3年第28号)で、弘文天皇(大友皇子)、淳仁天皇(淡路廃帝)とともに仲恭天皇の諡号が布告された[4]。
詳しいことは「仲恭天皇ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%B2%E6%81%AD%E5%A4%A9%E7%9A%87
(wikiより)
4993 橋本家跡(京都御苑内)
4992 中山邸跡(京都御苑内)
4947 藤原定家墓(今出川通烏丸東入・相国寺)
経歴
藤原北家御子左流で藤原俊成の二男。最終官位は正二位権中納言。京極殿または京極中納言と呼ばれた。法名は明静(みょうじょう)。歌人の寂蓮は従兄、太政大臣の西園寺公経は義弟にあたる。
平安時代末期から鎌倉時代初期という激動期を生き、御子左家の歌道における支配的地位を確立。日本の代表的な歌道の宗匠として永く仰がれてきた歴史がある。
2つの勅撰集、『新古今和歌集』、『新勅撰和歌集』を撰進。ほかにも秀歌撰に『定家八代抄』がある。歌論書に『毎月抄』『近代秀歌』『詠歌大概』があり、本歌取りなどの技法や心と詞との関わりを論じている。家集に『拾遺愚草』がある。拾遺愚草は六家集のひとつに数えられる。
宇都宮頼綱に依頼され『小倉百人一首』を撰じた。定家自身の作で百人一首に収められているのは、「来ぬ人を まつほの浦の夕凪に 焼くや藻塩の 身もこがれつつ」。
『源氏物語』『土佐日記』などの古典の書写・注釈にも携わった(この際に用いた仮名遣いが定家仮名遣のもととなった)。また、『松浦宮物語』の作者は定家とする説が有力である。
18歳から74歳までの56年にわたる克明な日記『明月記』(平成12年(2000年)、国宝に指定)を残した[1]。このうち、建仁元年(1201年)に後鳥羽天皇の熊野行幸随行時に記した部分を特に『熊野御幸記』(国宝)と呼ぶ。
官歴
※日付=旧暦
・仁安元年(1166年)12月30日:従五位下に叙位(皇后宮(藤原忻子)長寛元年未給分)。
・安元元年(1175年)12月8日:侍従に遷任(俊成、右京大夫辞任に伴う任官)。
・治承4年(1180年)1月5日:従五位上に昇叙。侍従如元。
・寿永2年(1183年)12月19日:正五位下に昇叙。侍従如元(朔旦冬至に伴う八条院給分)。
・文治6年(1190年)1月5日:従四位下に昇叙し、左近衛少将如元。
・建久6年(1195年)1月5日:従四位上に昇叙し、左近衛少将・因幡権介如元。
・建久10年(1199年)1月30日:安芸権介を兼任。因幡権介を去る。
・正治2年(1200年)10月26日:正四位下に昇叙し、左近衛少将・安芸権介如元(臨時給分)。
・1月14日:淡路権介を兼任。美濃介を去る。
・1月21日:左近衛中将を辞任。
・12月17日:内蔵頭に任官。
・建暦元年(1211年)9月8日:従三位に昇叙し、侍従に遷任[2]。
・建保4年(1216年)
・1月13日:治部卿を兼任。
・3月28日:侍従を辞任。
・12月14日:正三位に昇叙し、参議・治部卿・伊予権守如元。
・建保6年(1218年)7月9日:民部卿を兼任。治部卿を去る。
・建保7年(1219年:伊予権守を去る。
・承久4年(1222年)8月16日:参議を辞す。治部卿・播磨権守如元。
・嘉禄3年(1227年)10月21日:正二位に昇叙し、民部卿に遷任。
・1月30日:権中納言に転任。
・改元して貞永元年12月18日:権中納言を辞任。
・天福元年(1233年)10月11日:慈心房(元民部卿海住山長房)を戒師として出家(法名:明静)。
人物
・「美の使徒」[3]、「美の鬼」[4]、「歌聖」[5]、「日本最初の近代詩人」[6]などと呼ばれることがある日本を代表する詩人の一人。美への執念は百人一首の選歌に見られるように晩年まで衰えることがなかった。
・玉葉によると文治元年11月に少将雅行と言い争い、脂燭(ししょく)で相手を打ち除籍となり、『古今著聞集』によると父俊成から和歌によって取りなして貰い、後鳥羽天皇から許しを得たとあるほど気性が激しく、また後鳥羽院御口伝によると「さしも殊勝なりし父の詠をだにもあさ/\と思ひたりし上は、ましてや余人の歌沙汰にも及ばず」、「傍若無人、理(ことわり)も過ぎたりき。他人の詞(ことば)を聞くに及ばず」と他人の和歌を軽んじ、他人の言葉を聞き入れない強情さを指摘されている。また、どんなに後鳥羽院が褒めても、自詠の左近の桜の述懐の歌が自分では気に入らないからと、新古今に入撰することに頑強に反対するなど、折り紙付きの強情な性格だった。順徳天皇歌壇の重鎮として用いられるも、承久二年の内裏歌会への出詠歌が後鳥羽院の勅勘を受け、謹慎を命じられた。しかし、この謹慎の間、さまざまな書物を書写した結果、多くの平安文学が後世に残ったと言える。
・定家の日記には、「心神不快」とか「心神迷惑」とか「心神常に違乱」といった言葉が随所に出てきており、若い頃から病弱だったことが分かる。とりわけ日記に咳病や風病が頻繁に記録されていて、いずれも風邪の症状で、呼吸器系の疾患で冬になると毎年のようにこの病に悩まされ、写経や書写を通して持病の不快感を克服していた[7]。
歌風
・巧緻・難解、唯美主義的・夢幻的で、代表的な新古今調の歌人であるとされている。
・定家の和歌の性格について風巻景次郎著『新古今時代』の「『拾遺愚草』成立の考察」に要約がある。
定家は平安朝生活の伝統を多分に承け、それにふさわしく繊細な神経で夢の世界を馳せ、その天性によって唯美的な夢の文学を完成した。しかし表現せんとするものが縹渺(ひょうびょう)として遥かであるほど、それを生かすには辞句の選択、着想の考案のために心を用いることは大でなければならぬ。そして定家はそれに耐えるほどの俊敏な頭脳をもっていた。かれの歌の成功はこの頭脳の力にある。しかしまた、その失敗も頭脳のためであった。かれの歌の大半は、優艶なる夢をいかにして表現しようかと努力した理知の影を留め、その表現のために尽くした努力はその措辞(そじ)の上に歴々として現れた。かれはじつに夢の詩人で、理知の詩人で、そして言葉の詩人であった。
・また石田吉貞は次のように言う。
「凡そ定家の歌は、どれ一つとして、官能美という眼をもたないものはない。定家の詠作の場合におけるあらゆる苦心、沈思、彷徨は、結局において一つの官能美をさがし出すことであり、その官能美によって、彼のうちにある辿りようもない、深い、もつれた、複雑なものを、爽やかな客観的世界につなごうとすることにあったと言ってよい」。(『藤原定家の研究』270頁)
「定家美(妖艶)のなかには、多くの非正常的・怪奇的なものがある。あまりに華麗幻燿にすぎて、人を誑(たぶら)かさずにはおかないこと、つよい阿片性・麻薬性があって、人を麻痺、昏酔させる毒性をもつこと、あまりにつよい性欲性・獣性があって、人を頽廃・好婬に誘わずにおかないこと、つよい幽鬼性・悪魔性があって、人を悪魔的世界に誘おうとすること、死や亡びのもつ非生命性・空無性・滅亡性等に美を感じさせ、死や亡びのなかに投身させようとする性質をもつこと等々がそれである」。(『妖艶 定家の美』56頁)
・また谷山茂は以下のように指摘する。
「定家が恋歌を最も得意としたということは、彼を知る上で極めて重要な事実である。「定家などは智慧の力をもってつくる歌作り也」(『井蛙抄』)と自認していたというが、その智巧的態度に立って、幻想世界を縦横に描き出そうとする定家にとっては、現実にしばられ易い四季自然歌よりも、智巧(利巧)や空想(そらごと)の恣意を多分に許容される恋歌のほうが得意であったことは、全く当然のことなのである。すなわち、定家ーー少なくとも新古今撰進期における定家をして、恋歌を本領とさせたのは、その恋の体験の深さや広さではなくて、彼の智巧的超現実的な芸術至上主義の魔力的意欲であるというべきである。そういう点では、さすがの俊成も西行も家隆も俊成女(としなりのむすめ)も、遥かに遠く及ばない古今独歩の境地を極めているのである。しかも、そういう行き方が、恋歌からさらに四季自然歌にまで拡充されているのだから、全く驚くべき魔術師である。そして、新古今の歌人たちは、ほとんど例外なく、及ばぬながらにも、多かれ少なかれ、一応はこの道に追従していったのである」。(谷山茂著作集第5巻『新古今集とその歌人』282頁)
詳しいことは「藤原定家ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%AE%9A%E5%AE%B6
(wikiより)
4925 壬生桄夫墓(台東区・谷中霊園)
4924 壬生輔世墓(台東区・谷中霊園)
文化 8年 ~ 明治 12年 2月 17日 ( 1811 - 1879 )
公卿。
明治 9年 ( 1876 ) 従三位。
華族類第 6類。
小槻朝臣 垂仁天皇皇子於知別命後今雄裔。
権掌侍正六位壬生広子の父。
「廷臣八十八卿列参事件」に関与、日米修好通商条約締結にあたり官務壬生輔世と出納平田職修より地下官人 97名による条約案撤回を求める意見書が孝明天皇に提出され、その結果、孝明天皇は条約締結反対の立場を明確にし、条約の勅許を頑強に拒否することになった。
〇廷臣八十八卿列参事件
廷臣八十八卿列参事件(ていしんはちじゅうはちきょう れっさんじけん)は、1858年(安政5年)に日米修好通商条約締結の勅許打診を巡って発生した、公家による抗議行動事件である。
経緯
日米修好通商条約締結にあたり、幕府は水戸藩を中心とした攘夷論を抑えるために孝明天皇の勅許を得ることにし、老中・堀田正睦が参内することとなった。しかし安政5年3月12日(1858年4月25日)に関白・九条尚忠が朝廷に条約の議案を提出したところ、岩倉具視や中山忠能ら合計88名の堂上公家が条約案の撤回を求めて抗議の座り込みを行った。これに続いて、官務・壬生輔世と出納・平田職修より地下官人97名による条約案撤回を求める意見書が提出された。
その結果孝明天皇は条約締結反対の立場を明確にし、20日には参内した堀田に対して勅許の不可を下し、以後条約の勅許を頑強に拒否することとなった。
勅許を得られなかった責任を取る形で堀田正睦は老中辞職に追い込まれた他、九条尚忠も内覧職権を一時停止された。幕府は井伊直弼主導のもとに88人の当事者の処罰に動き、公家側から多くの処罰者が出ることとなる。
歴史的背景及び意義
江戸時代、公家社会は禁中並公家諸法度以後の諸法令によって、江戸幕府が派遣する京都所司代による強圧的な統制下に置かれていた。更に、五摂家や武家伝奏となったごく一握りの者以外、公家の大多数は経済面においても内職をして収入を得なければならないほど苦しい状況に置かれていた。
条約の勅許を打診されたことを契機に、中・下級の公家たちの江戸幕府に対する政治的・経済的な鬱屈が、抗議活動の形で爆発することとなった。彼等の動きによって勅許阻止が実現したことは江戸幕府の権威失墜を招く結果となり、これ以降、朝廷が幕末において重要な役割を果たす契機になったといえる。
詳しいことは「廷臣八十八卿列参事件ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%B7%E8%87%A3%E5%85%AB%E5%8D%81%E5%85%AB%E5%8D%BF%E5%88%97%E5%8F%82%E4%BA%8B%E4%BB%B6
(wikiより)
4917 園池公静墓(台東区・谷中霊園)
経歴・
左近衛権中将[1]・園池実達の二男[2]として生まれる。嘉永3年1月(1850年)に元服し昇殿を許された。右京大夫を経て、元治元年6月(1864年)右近衛権少将に任官[2]。
慶応2年8月(1866年)朝廷刷新の二二卿建議(廷臣二十二卿列参事件)に加わり差控となる[2][3]。慶應4年1月5日(1868年1月29日)書記御用掛となる[4]。
慶応4年7月29日(1868年9月15日)奈良府知事に就任。明治2年7月17日(1869年8月24日)奈良府が奈良県に改称され引き続き同県知事を務めた[2][4]。明治3年8月19日(1870年9月14日)知事を免官[5]。同年9月17日(10月11日)侍従に就任[4]。以後、滋宮祗候・明宮祗候を務めた[2]。
1884年7月8日、子爵を叙爵した[6]。1915年4月15日に隠居し[7]、同月30日に長男実康が襲爵した[8]。
栄典
・1887年(明治20年)12月26日 - 正三位[9]
親族
・妻 園池千賀子(ちかこ、四辻公績六女)[1][10]
・六男 岩佐公直(岩佐新養子)[1]
脚注
1. a b c d e f g h 『平成新修旧華族家系大成』上巻、804-805頁。
2. a b c d e 『明治維新人名辞典』551頁。
3. 『幕末維新大人名事典』下巻、13頁。
4. a b c 『百官履歴 上巻』293頁。
5. 『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』104頁。
6. 『官報』第308号、明治17年7月9日。
7. 『官報』第818号、大正4年4月27日。
8. 『官報』第822号、大正4年5月1日。
9. 『官報』第1351号「叙任及辞令」1887年12月28日。
10. 鷹司輔平の曾孫
参考文献
・秦郁彦編『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』東京大学出版会、2001年。
・霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』上巻、霞会館、1996年。
・日本歴史学会編『明治維新人名辞典』吉川弘文館、1981年。
・安岡昭男編『幕末維新大人名事典』上巻、新人物往来社、2010年。
4916 園池実康墓(台東区・谷中霊園)
安政 4年 12月 4日 ~ 昭和 3年 4月 23日 ( 1857 - 1928 )
宮中顧問官・子爵。
父、園池公静 ( きんしず )( 長男 )。
正三位勲三等。京都出身。
明治 25年 ( 1892 ) 宮内省出仕、掌典を経て掌典次長。
明治 34年に辞し、宮内省顧問官。
大正 4年 ( 1915 ) 襲封。72歳没。
夫人香子は、伯爵正親町実正の娘。
長男に小説家で子爵の園池 公致 ( そのいけ - きんゆき : 1886. 4. 29 - 1974. 1. 3 )、二男に演出家・評論家・女子美術大学理事の園池公功 ( きんなる )、純子、綾子、光子がいる。


4897 鷹司邸跡(京都御所)
鎌倉時代中頃、近衛 ( このえ ) 家からわかれた五摂家 ( ごせっけ ) の一つです。
江戸時代中期には閑院 ( かんいんの ) 宮家の皇子淳宮 ( おうじあつのみや ) が鷹司家を継ぎました。
孫の政通 ( まさみち ) は幕末期三十年以上も関白 ( かんぱく ) 務め、九條尚忠へ譲った後も、内覧 ( ないらん )、太閤 ( たいこう ) として朝廷で重要な役割を担いました。
政通夫人は水戸藩主・徳川斉昭の姉で、外国情報を早く知り得たといいます。
元治元年 ( 1864 ) の禁門の変では、長州藩士が邸内に入り、屋敷に放たれた火などとともに「どんどん焼け」と称する京都大火につながりました。
(案内板より)
4887 土御門内裏跡(上京区烏丸通下長者町上る西側・京都ガーデンパレス前)
土御門 ( みかど ) 烏丸邸の沿革
平安京左京一条三坊九町にあたるこの地 ( 北は上長者町通、南は下長者町通、東は烏丸通、西は室町通 ) は十世紀頃に村上天皇の皇子・具平親王の邸宅が造営され、十二世紀に至って、曾孫・源師時の邸宅・土御門第となった。
白河院近臣の権勢者・藤原顕隆は、この地を買得して内裏を模した最初の里内裏を営み鳥羽天皇から崇徳、近衛と続く三代、二十四年もの間、天皇の御所となった。
この里内裏も、保元元年 ( 1156 ) の乱によって廃絶した。
鎌倉・室町時代には清浄華院が移ってきたが、のち豊臣秀吉により寺町に移され、そのあとには黄金塗瓦葺きの大名屋敷が建ち並んだものの、これも秀吉の伏見城造営に際して伏見に移された。
江戸時代の寛永十二年 ( 1636 ) になって水戸藩邸が営まれたが、幕末の文久四年 ( 1864 )、烏丸通を鋏んで東向かいある蛤御門 ( 禁門 ) で起こった戦火により全焼した。
現存する水戸彰孝館所蔵史料の多くはこの藩邸で蒐集されたものである。
4882 蛤御門(上京区烏丸通下長者町上ル)
江戸時代末期の一八六四 ( 元治元 ) 年、この門の周辺で長州藩と、御所の護衛に当たっていた会津・薩摩・桑名藩との間で激戦が行われました。
この戦いが「禁門の変 ( 蛤御門の変 )」で、門の梁にはその時の鉄砲の弾傷らしき跡が残っています。
この門は新在家 ( しんざいけ ) 門といわれていましたが、江戸時代の大火で、それまで閉ざされていた門が始めて開かれたため、「焼けて口開く蛤」にたとえて、蛤御門と呼ばれるようになったといわれています。
(案内板より)
〇 蛤御門
蛤御門(はまぐりごもん)は、現在の京都御苑の外郭九門の一つ。本来の正式名称は「新在家御門(しんざいけごもん)」。門の形状は高麗門型の筋鉄門である。
御所の火災の際、滅多に開くことのなかった門がこの時だけは開いたため、固く閉じていたものが火にあぶられて開いたことをハマグリになぞらえて「蛤御門」という俗称が付けられたとされる。いずれの火災時期とするかについては、宝永の大火(1708年)後とする説と、天明の大火(1788年)後とする説が挙げられている[1]。近年では寛文13年(1673年)の火災後まで遡るとする説や、「開かずの門」は本来は現在の下立売御門であったとする説も挙げられている[1]。
元治元年7月19日(1864年8月20日)の蛤御門の変では門の周辺が長州藩との激戦地となった。現在でも門柱に命中した弾痕を確認することができる。
なお現在の蛤御門は、明治10年(1877年)から明治16年(1883年)にかけて行われた大内保存および京都御苑整備事業によって移設されたもので、それ以前は現在よりも30メートルほど東の位置に、南を向いて建てられていた。
脚注
1. a b 蛤御門の命名は元禄以前か 京都御苑、通説遡る新史料 - ウェイバックマシン(2016年6月1日アーカイブ分)(京都新聞、 2016年4月28日記事)。
〇 禁門の変
禁門の変(きんもんのへん)は、元治元年7月19日(1864年8月20日)に、京都で起きた武力衝突事件。蛤御門の変(はまぐりごもんのへん)、元治の変(げんじのへん)とも呼ばれる。
概要
前年の八月十八日の政変により京都を追放されていた長州藩勢力が、会津藩主・京都守護職松平容保らの排除を目指して挙兵し、京都市中において市街戦を繰り広げた事件である。畿内における大名勢力同士の交戦は大坂夏の陣(1615年)以来であり、京都市中も戦火により約3万戸が焼失するなど、太平の世を揺るがす大事件であった。
大砲も投入された激しい戦闘の結果、長州藩勢は敗北し、尊王攘夷派は真木保臣ら急進的指導者の大半を失ったことで、その勢力を大きく後退させることとなった。一方、長州掃討の主力を担った一橋慶喜・会津藩・桑名藩の協調により、その後の京都政局は主導されることとなる(一会桑政権も参照)。
禁門の変後、長州藩は「朝敵」となり、第一次長州征討が行われるが、その後も長州藩の政治的復権をねらって薩長同盟(1866年)が結ばれ、四侯会議(1867年)においても長州藩処分問題が主要な議題とされるなど、幕末の政争における中心的な問題となった。
「禁門の変」あるいは「蛤御門の変」の名称は、激戦地が京都御所の御門周辺であったことによる。蛤御門は現在の京都御苑の西側に位置し、今も門の梁には弾痕が残る。
経過
急進的な尊皇攘夷論を掲げ、京都政局を主導していた長州藩は、1863年(文久3年)に公武合体派である会津藩と薩摩藩らの主導による政変(八月十八日の政変)の結果、藩兵は任を解かれて京都を追放され、藩主の毛利敬親と子の毛利定広は国許へ謹慎を命じられるなど、政治的な主導権を失った。一方、京や大坂に潜伏した数名の長州尊攘派は、失地回復を目指して行動を続けていた。
政変により対外戦争も辞さぬ急進的な攘夷路線は後退したものの、朝廷はなお攘夷を主張し続け、1864年(元治元年)、横浜港の鎖港方針が朝幕双方によって合意された。しかし幕府内の対立もあって鎖港は実行されず、3月には鎖港実行を求めて水戸藩尊攘派が蜂起する(天狗党の乱)。こうした情勢のなか、各地の尊攘派の間で長州藩の京都政局復帰を望む声が高まることとなった。
長州藩内においても、事態打開のため京都に乗り込み、武力を背景に長州の無実を訴ようとする進発論が論じられた。進発論を主張したのは来島又兵衛、真木保臣らであり、桂小五郎(木戸孝允)、高杉晋作、久坂玄瑞らは慎重な姿勢を取るべきと主張した。慎重論を重く見た長州藩は、率兵上京を延期する代わりに来島を視察の名目で京都に向かわせた。京都の長州藩邸に入った来島は、火消装束や鎖帷子などを購入し、会津藩主松平容保への襲撃を企てるが、警備が厳重だったため実現しなかった。
そんな中、雄藩による参預会議が失敗に終わり、公武合体派諸侯が相次いで京都を離れたため、これを好機と見た久坂と来島は強く進発論を訴えた。
そして、6月5日、池田屋事件で新選組に藩士を殺された変報が長州にもたらされると、藩論は一気に進発論に傾いていった。慎重派の周布政之助、高杉晋作や宍戸真澂らは藩論の沈静化に努めるが、福原元僴や益田親施、国司親相の三家老等の積極派は、「藩主の冤罪を帝に訴える」ことを名目に挙兵を決意。益田、久坂らは山崎天王山、宝山に、国司、来島らは嵯峨天龍寺に、福原元僴は伏見長州屋敷に兵を集めて陣営を構える。
6月24日、久坂は長州藩の罪の回復を願う嘆願書を朝廷に奉り、長州藩に同情し寛大な措置を要望する藩士や公卿もいたが、薩摩藩士吉井幸輔、土佐藩士乾正厚、久留米藩士大塚敬介らは議して、長州藩兵の入京を阻止せんとの連署の意見書を、同7月17日朝廷に建白した[1]。
長門宰相父子之儀、去年八月以来、勅勘候。未其藩臣歎願とは乍申、人數兵器を相携、近畿所々へ屯集奉要、天朝候姿無紛候處、寛大之御仁恕を以て、再度理非分明之被爲在御沙汰候得共、今以抗言不引拂段甚如何にも奉存候。就而者、譬申立候筋條理有之共、決而此儘御許容被爲在儀、萬々有御座間敷と奉存候得共、自然右邊御廟議にも被爲在候而者堂々たる天朝之御威光乍ら廢替、實以御大事之御場合に奉存候。方今夷難相迫り不容易御時際、一旦 朝權、地に落候而者、後日何を以て皇威振興可仕哉。甚不可然儀に付、速かに斷然と御處置被爲在候様状而奉懇願候。不肖我々共禁裡警衛相勤候儀も全く 朝威不廢替様盡力仕候。武門當然何分難黙止奉存に付、三藩在京之重役共一同申談奉歎願候事。
(元治元年)七月十七日
松平修理大夫内
吉井幸輔(友實)
松平土佐守内
乾市郎平(正厚)
有馬中務大輔内
大塚敬介
右 同
田中紋次郎
朝廷内部では長州勢の駆逐を求める強硬派と宥和派が対立し、18日夜には有栖川宮幟仁・熾仁両親王、中山忠能らが急遽参内し、長州勢の入京と松平容保の追放を訴えた。禁裏御守衛総督・一橋慶喜は長州藩兵に退去を呼びかけるが、一貫して会津藩擁護の姿勢を取る孝明天皇に繰り返し長州掃討を命じられ、最終的に強硬姿勢に転じた。久坂は朝廷の退去命令に従おうとするも、来島、真木らの進発論に押されやむなく挙兵。
戦闘経過
19日、御所の西辺である京都蛤御門(京都市上京区)付近で長州藩兵と会津・桑名藩兵が衝突、ここに戦闘が勃発した。一時福原隊と国司信濃・来島隊は筑前藩が守る中立売門を突破して京都御所内に侵入するも、乾門を守る薩摩藩兵が援軍に駆けつけると形勢が逆転して敗退した。狙撃を受けた来島又兵衛は自決した。
真木・久坂隊は開戦に遅れ、到着時点で来島の戦死および戦線の壊滅の報を知ったが、それでも御所南方の堺町御門を攻めた。しかし守る越前藩兵を破れず、久坂玄瑞、寺島忠三郎らは朝廷への嘆願を要請するため侵入した鷹司邸で自害した。入江九一は鷹司邸脱出時に越前藩士に発見され、槍で顔面を突かれて死亡。
帰趨が決した後、落ち延びる長州勢は長州藩屋敷に火を放ち逃走、会津勢も長州藩士の隠れているとされた中立売御門付近の家屋を攻撃した。戦闘そのものは一日で終わったものの、この二箇所から上がった火を火元とする大火「どんどん焼け」により京都市街は21日朝にかけて延焼し、北は一条通から南は七条の東本願寺に至る広い範囲の街区や社寺が焼失した。
生き残った兵らはめいめいに落ち延び、福原・国司らは負傷者を籠で送るなどしながら、大阪や播磨方面に撤退した。天王山で殿となっていた益田隊も敗報を聞くと撤退するなどして、長州へと帰還した。
主戦派であった真木和泉は敗残兵と共に天王山に辿り着いたが、その他の勢との合流に失敗。兵を逃がし、宮部春蔵ら17名で天王山に立て籠もった。20日に郡山藩の降伏勧告を無視し、21日に会津藩と新撰組に攻め立てられると、皆で小屋に立て籠もり火薬に火を放って自爆した。
戦後
御所に向かって発砲したこと、藩主父子が国司親相に与えた軍令状が発見されたことも重なり、23日には藩主・毛利敬親に追討令が発せられ、長州藩は朝敵となった[注釈 1]。長州藩兵は履物に「薩賊会奸」などと書きつけて踏みつけるようにして歩いたとされ、薩摩や会津への深い遺恨が後世に伝わっている。
一方、薩摩藩と交戦して死亡した20人の遺体は、薩摩藩により相国寺の塔頭寺院の大光明寺に葬られ、明治39年になって毛利家により墓石が建立された。 鷹司邸で戦死した入江ら久坂隊の戦死者の首級は福井藩士が藩主・松平春嶽に許可を得、同様の戦死者8名と共に福井藩の京の菩提寺である上善寺に手厚く葬られた。その後忘れられていたが、旧福井藩士が毛利家に連絡した為、明治三十年代に碑石が修築された。
脚注
注釈
1. 藩主父子の官位復旧が認められ、上京が再び許されるのは、王政復古政変前日の慶應3年12月8日(1868年1月2日)である。
出典
1. 『雋傑坂本龍馬』坂本中岡銅像建設会編、弘文社、昭和2年4月1日、219-220頁
4881 清水谷家の椋(京都市上京区京都御苑内)
4877 島田正辰墓(京都市東山区五条橋東6丁目514・西大谷墓地)
島田 正辰(しまだ まさたつ、? - 文久2年7月20日(1862年8月15日))は、江戸時代末期の地下官人、九条家青侍。位階・官職は従六位下左近衛権大尉。官職から島田 左近(しまだ さこん)の通称で知られる。諱は他に龍章などを名乗った。安政年間に、同家諸大夫の宇郷重国とともに強権的な手法を用いて尊皇攘夷派を一掃したほか、14代将軍継嗣問題に介入したことでも知られ、京で絶大な政治力を有した。
なお、同じ九条家の諸大夫である嶋田正辰(陸奥守、橘氏)と同名であり、誤伝を避けるため通称の左近で呼称を統一される場合が多い。
生涯
出自に関しては石見国の農民出身で、生活の糧を求めて京まで流れ、商家に奉公した後、侍として公家に仕えたとする説の他、美濃国の神主(もしくは山伏)の子に生まれ、烏丸家で養われたのち九条家代々の臣・島田家に婿養子として入り、当主となったなど諸説あり、明らかになっていない。生年も享年が35もしくは38とされることから、はっきりしていない。
正辰の名前が歴史上で初めて記されるのは、彦根藩主井伊直弼が大老に就任したのちの安政年間であり、条約勅許問題で暗躍した。彦根藩とともに動き、当初は通商条約調印に反対であった主君九条尚忠を幕府方賛成派に内応させ、紀州藩主徳川慶福を次期将軍職に擁立するという豪腕をふるった。
安政の大獄では直弼の指令の下、数多くの尊皇攘夷派の志士、活動家らを一斉に検挙、捕縛した。その際、奉行所の目明し文吉(猿の文吉)を謀臣とし、容赦ない弾圧を行なった。これにより、江戸幕府から左近へ流れた賄賂は1万両を越えたとも言われる。
桜田門外の変での直弼暗殺後には更に権勢を強め、文久元年(1861年)の和宮降嫁問題に際しても政治力を行使、関係者らを調略し、幕府への斡旋に深く関与した。こうして、後に土佐勤皇党の武市瑞山が台頭してくるまでの間、事実上の都の支配者として君臨する。また、町人を相手にした高利貸しで莫大な金子を得ていたと言われ、文吉に厳しい取り立てを行わせていた。
その権勢を物語るように「今太閤」と異名された他、斎藤道三や三好長慶らに例えられたなどの逸話が残るが、同時に専制的で苛烈な政治手腕は朝廷や幕府、諸藩の浪士などに憎まれ、多くの政敵を作った。また、好色であったとされ、多くの愛人がいたが、文吉の娘(養女とも言われる)をとくに可愛がったとも言われる。
暗殺
左近は志士たちに付け狙われるようになったことから、中国や彦根、丹波など居場所を転々としていた。
文久2年(1862年)6月20日、九条家の領地であった伏見にいるところを発見されるが、この時は逃げることができた。志士たちが更に行方を追っていた一月後の7月20日、京都木屋町の愛妾宅へ忍んで出向いているところを薩摩藩の田中新兵衛ら配下3名に襲撃された。左近は逃走するものの、木屋町二条突き当りにあった善導寺の塀を乗り越えようとしているところで尻を斬られ、落ちたところを斬殺された。首は鴨川筋四条北の先斗町沿いの河原に晒された。
この暗殺劇から始まるのが、いわゆる「天誅」と呼ばれる都で続発した殺戮騒動である。島田の死後、彼に追従していた者たちも次々と討たれていった。こうして、時代は左近の天下から、武市を首領とする土佐勤皇党一派の時代に移っていく。皮肉なことに、時代の転換点を自らの死で演じた人物といえる。左近の暗殺については八木清之助の書物に記されている。墓は大谷本廟の西大谷墓地にあり、「嶋田龍章」の名で葬られている。
関連項目
・九条尚忠
(wikiより)
4869 九條邸跡(京都御所)
九條家は、五摂家 ( ごせっけ ) の 1つで、平安後期以降多くの人が朝廷の重要職である摂政 ( せっしょう ) や関白 ( かんぱく ) につきました。
その娘の多くも天皇妃となり、大正天皇の皇后節子 ( さだこ ) もその 1人です。
江戸末期、米総領事ハリスの通商条約締結要請 ( つうしょうじょうやくていけつようせい ) に対し、徳川幕府は了解する考えでしたが、朝廷側の孝明 ( こうめい ) 天皇は反対でした。
折りしも京都市内では、幕府と朝廷との様々な交渉が行われ、時の関白九條尚忠 ( ひさただ ) の邸もその舞台の 1つとなりました。
広大だった屋敷も、今では池の畔の茶室と拾翠亭 ( しゅうすいてい ) と、九條邸の鎮守 ( ちんじゅ ) だった厳島 ( いつくしま ) 神社が中島に残るばかりです。
(案内版より)
4863 凝華洞(ぎょうかどう)跡(京都御所)
4771 日高秩父墓(台東区・谷中霊園)
生涯
下野国(栃木県)出身。長三洲に書を学ぶ。蘭学者・箕作阮甫の孫娘と結婚し箕作家と姻戚関係で結ばれた[4]。文部省の委嘱で『尋常小学書キ方手本』(明治36年)等の国語書キ方の国定教科書を揮毫した。この国定教科書は師の長三洲の書風を受け継いでおり、顔真卿の楷書の書風、いわゆる顔法で書かれた。没後の国定教科書の揮毫は弟子の山口半峰が引き継いだ。 石碑の書も手がけており、現在全国に30基ほどを確認できる[5]。
栄典・授章・授賞
・1906年(明治39年)4月1日 - 明治三十七八年従軍記章[6]
外国勲章佩用允許
・1884年(明治17年)12月26日 - スウェーデン=ノルウェー連合王国:金製記章[7]
家族・親族
・妻・リキ - 呉黄石・せき夫妻の娘[4]、大槻ヤス・呉文聰・呉クミの妹[1][3][4][8]、呉秀三の姉[2][4]。
・義母・せき - 箕作阮甫の長女[4]。
・義姉・クミ - 相原浩明に嫁ぐ[4]。相原と離婚後明治女学校校長を務める[4]。
・次男・得二 - 貿易業に携わる[1][2][3][4][8]。
・長女・愛子 - 北島常晴に嫁ぐ[1][2][3][4][8]。
・三男・光三 - 田中家の養子となる[1][2][3][4][8]。
・四男・第四郎 - 元文部事務次官[1][2][3][4][8]。
・義孫・木田宏 - 第四郎の娘婿、文部官僚・教育評論家[9]。
脚注・出典
1. a b c d e f g h i j k 『人事興信録 第3版 く之部―す之部』、ひ7頁。
2. a b c d e f g h i j k l 『人事興信録 第4版』、ひ2頁。
3. a b c d e f g h i j k l m 『人事興信録 第5版』、ひ2頁。
4. a b c d e f g h i j k l m n o p q r 「学問の歩きオロジー わが故郷の偉人たち (3) - 現代につながる巨星たちの系譜」、102頁。
5. 林淳『近世・近代の著名書家による石碑集成-日下部鳴鶴・巌谷一六・金井金洞ら28名1500基-』収録「日高梅渓石碑一覧表」(勝山城博物館 2017年)
6. 『官報』第7578号・付録「辞令」1908年(明治41年)9月28日。
7. 『官報』第453号「賞勲叙任」1885年1月6日。
8. a b c d e f g h i j k 『人事興信録 第2版』、甲1341頁。
9. 『読売新聞』1977年(昭和52年)12月15日朝刊、19面。
参考文献
・『人事興信録 第2版』人事興信所、1908年(明治41年)6月18日発行
・『人事興信録 第3版 く之部―す之部』人事興信所、1911年(明治44年)3月25日発行
・『人事興信録 第4版』人事興信所、1915年(大正4年)1月10日発行
・『人事興信録 第5版』人事興信所、1918年(大正7年)9月15日発行
・水谷仁「学問の歩きオロジー わが故郷の偉人たち (3) - 現代につながる巨星たちの系譜」『Newton』2007年(平成19年)4月号、ニュートンプレス、98-103頁。
(wikiより)