本牧jack『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

本牧Jackで御座います
小生の拙ブログ『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑に御訪問頂き誠に有難う御座います。
歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。
たまに『 多人数で取材しているのか? 』との質問を戴きますが、小生と相方の二人三脚で御座います。
出来るだけ続けたいと思っていますが 膝・耳に問題が有って、いつまで出来るやら・・・説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。
御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。 ※ 申し訳御座いませんが「画像の転用」は禁止とさせて頂きます。 コメントは原則公開させていただいております 質問等に対してはブログ記事で返信させていただきます 他の方法で連絡を取り合う等一切しません 場合によっては、「IPブロック」しますがブロックした場合解除する事は有りませんので宜しくお願いします。

カテゴリ: 史跡・名所・旧跡・城・駅・灯台・関所

「高杉晋作終焉の地」の碑のすぐ脇に妙蓮寺の東門が有ります。

浄土真宗 本願寺派 妙蓮寺

寺内には、中島名左衛門の墓が有ります。

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⇧ 砲術家・中島名左衛門の墓。



高杉晋作が身を隠したと伝えられている「ひようたん井戸」

慶応元年 ( 1864 )、長州藩内の保守派との抗争に勝利して藩権力を掌握した高杉晋作は、長州藩の武備を充実するため、下関開港に奔走します。

下関の大半は支藩の長府藩領となっており、その実現のためには、本藩 ( 萩藩 ) 領との換地が必要でしたが、開港や換地に反対する勢力から命を狙われるようになり、潜伏生活を送る事態となりました。

この「とっくり小路」にある「ひょうたん井戸」は、刺客から追われた高杉が丸一日身を隠した井戸と伝えられています。
(案内板より)

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ちゃんぽんの有名店で、かの松田優作さんも食べていたそうです。( 松田優作さんの出生地に近いからなぁ )

いまでは閉店されてしまったようです。

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白石正一郎

文化九年 ( 一八一二 ) 三月七日、この地に生れ、明治十三年 ( 一八八〇 ) 八月三十一日、六十九歳で世を去った。

正一郎は、回船問屋小倉屋の主人として家業にたずさわるかたわら、国学に深い関心を持ち、四十三歳の頃 国学者・鈴木重胤の門下に入って、尊皇攘夷論の熱心な信奉者となった。 また「橘園」の号をもつ歌人でもある。

彼の残した日記は、明治維新研究にとって第一級の貴重な資料といわれる。

その中には、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允 ( 桂小五郎) ) のいわゆる維新の三傑をはじめ、坂本龍馬、梅田雲浜など志士 四百人余の名を数えることができる。

また、明治天皇の叔父・中山忠光卿、三条実美卿ら七卿も白石家に滞在している。

文久三年 ( 一八六三 ) 六月、白石家で奇兵隊 が結成されたことは、あまりにも有名であり、以来、彼も奇兵隊員として、また商人として高杉晋作と親交を深めるとともに奇兵隊を援助した。

このあたりに白石家の浜門があって、海へ通じており、志士たちはここから出入した。 

白石家の海へ降りる門は新しい時代へ向う黎明の門だったといえる。

中国電力株式会社
(案内板より)

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長州藩を明治維新へと推し進めたのは奇兵隊であるが 

さらに明治維新を解明する鍵が奇兵隊にあるともいわれている

奇兵隊は文久三年六月 

この地の回船問屋・白石正一郎家で結成された 

正一郎は結成と同時に入隊し 高杉晋作を援けた

年齢も 身分もまったく違う二人のかたい結びつきが奇兵隊をささえたということができる

題字 山根寛作書
(石碑文より)

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延徳年中 ( 1489 ~ 92 ) に、京都 本願寺の八代目 蓮如上人の弟子となった、常陸の国の釈正善が、長門国に下って、大永年間 ( 1521 ~ 28 ) に豊浦郡西市に堂を建てたことに始まるとされています。
 
その後、内日、幡生へと移転して、九代目の月印和尚まで相続し、享保 17年 ( 1732 ) に現在地に移転しました。
 
幕末には、松下村塾で高杉晋作とともに双璧と言われた、久坂玄瑞が中心となって結成した有志隊が寄宿していました。
 
有志隊は、長州に亡命していた公卿・中山忠光を総帥に戴き、光明寺を本営としていたことから、「光明寺党」と呼ばれていました。
 
文久 3年 ( 1863 ) 5月には、この光明寺党が壇之浦砲台に向い、庚申丸からアメリカの商船ペンブローク号に向けて、馬関攘夷戦の第1弾を放ちました ( 亀山砲台跡参照 )。
 
後の奇兵隊の核となったのも、この光明寺党でした。
(お寺ホームページより)

 また墓地内には「奇兵隊士の墓」、「増富竹応居士記念碑」、「懬井良図顕彰碑」が有ります。

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昭和三十九年 秋彼岸

当代総代 山形丑蔵氏により 発起し発祥
(石碑文より)

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所在地山口県下関市豊前田町1-1-23
位置北緯33度57分10.4秒 東経130度55分45.3秒
山号浄瑠璃山
宗派曹洞宗
本尊薬師如来
創建年1199年(正治元年)
開基文覚上人
札所等中国四十九薬師霊場 第31番

東光寺(とうこうじ)は、山口県下関市豊前田町にある寺院。正治元年(1199年)、文覚上人の開基と伝えられる。本尊の薬師如来像は聖徳太子の作と伝えられている。

歴史
豊前田町にあり。はじめは薬師堂として、新地町にあって真言宗。のち時宗になり、さらに貞享3年(1686年禅宗に改まり、宝永元年(1704年)東光寺と称した。

寺伝によれば、正治元年(1199年)高雄文覚上人が開基した。江戸時代は萩藩歴代の遥拝所であったが、享保5年(1720年)現在地に移転したという。

参考文献
・富永浩平 『中国四十九薬師巡礼』、中国四十九薬師霊場会編、朱鷺書房、1997年、ISBN 4886023118、140-143頁。
(wikiより)


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用途コンベンションセンター
多目的ホール
オフィスビル(国際貿易ビル)
展望塔(海峡ゆめタワー)
設計者NTTファシリティーズ[1]
事業主体山口県
管理運営一般財団法人山口県国際総合センター
NTTファシリティーズ[2]
構造形式鉄筋コンクリート造及び鉄骨造
敷地面積7,841 m²
延床面積30,582 m² [3]
階数地上10階、地下1階(国際貿易ビル)
地上4階(アリーナ)
地上30階(海峡ゆめタワー)[3]
高さ153m(海峡ゆめタワー)
着工1994年7月5日[3]
竣工1996年6月30日[3]
開館開所1996年8月1日[3]
所在地750-0018
山口県下関市豊前田町3丁目3番1号
備考

事業費

【土地】約68億円(県:50%、市:50%)

【建物】約200億円(県:276億円、財団:24億円)[3]

山口県国際総合センター(やまぐちけんこくさいそうごうセンター)は、山口県下関市豊前田町3丁目3番1号にある、山口県と一般財団法人山口県国際総合センターが設置し、同財団法人が管理・運営する会議・展示施設。通称は海峡メッセ下関(かいきょうメッセしものせき)[4]

概要
細江地区の旧日本国有鉄道貨物ヤード関門連絡船貨車航送場)跡地を対象とした再開発事業「海峡あいらんど21」計画の一環として、海峡ゆめ広場(1989年平成元年)9月完成)に隣接する土地に建設された[4]。なお、同センターの建設計画は、県立の文化施設を県内各地にバランスよく配置する意図をもって、岩国市シンフォニア岩国萩市山口県立萩美術館・浦上記念館の建設と一体をなすものとして、推し進められた。

1994年(平成6年)7月から建設が始められ、1996年(平成8年)6月に完成、同年8月1日にオープン(海峡ゆめタワーは7月20日に先行オープン[5])した。

施設
敷地面積は7,841m2、延床面積 30,587m2で、地上10階のオフィスビル「国際貿易ビル」(延床面積:14,684.21㎡)、地上4階のイベントホール・展示見本市会場「アリーナ」(6,957.97㎡)、展望塔「海峡ゆめタワー」(2,439.2㎡)、立体駐車場から構成される。

海峡ゆめタワー
海峡ゆめタワーの高さは153m、展望室の高さは地上143m[5]。これは西日本の自立型タワーの中では最も高い(ただし、超高層ビルを含めた展望室の高さを比較した場合、大阪市あべのハルカス ハルカス300が288mで西日本一)。形状が特徴的で、展望室が球体状になっている。球体状の展望室はこのタワーが世界最初だった[5]。夜はライトアップされ、関門海峡周辺(下関市街地門司港レトロ関門橋など)の夜景を楽しめる。歴史に関する展示もあり、「壇ノ浦の戦いの地」や「巌流島の決闘場」を実際に見下ろしながら学ぶことが出来る[5]

国際貿易ビル
国際貿易ビルには、4ヵ国語同時通訳設備のある国際会議場や多目的ホール「海峡ホール」が設けられているほか、様々なテナントが入居している。アリーナのイベントホールでは、2002年(平成14年)に国際捕鯨委員会 (IWC) の年次総会が開催された。

主なテナント
ジェトロ山口
パスポートセンター
NHK下関支局
・yab山口朝日放送下関支局
ワイエム証券本社
ゆうちょ銀行山口地域センター
・山口県日中経済交流促進協会

交通
JR西日本下関駅より徒歩約3分。
下関港国際ターミナルよりすぐ近く。
サンデン交通豊前田」バス停下車

近隣施設
・海峡ゆめ広場
下関駅
シーモール下関
下関港国際ターミナル
下関警察署
下関市民会館
エディオン下関店

脚注
1. 建築作品集>山口県国際総合センター - NTTファシリティーズ公式サイト、2015年9月12日閲覧
2. 
ソリューション事例>財団法人山口県国際総合センター様 - NTTファシリティーズ公式サイト、2015年9月12日閲覧
3. 
 a b c d e f 山口県国際総合センターの概要 - 海峡メッセ下関公式サイト
4. 
a b “甦る土地 海峡メッセ下関”. 交通新聞 (交通新聞社): p. 2. (1997年5月14日)
5. 
a b c d 『日本展望タワー大全』(2020年9月10日、かねだひろ著、辰巳出版発行)134頁。

外部リンク
海峡メッセ下関   
海峡ゆめタワー    
(wikiより)

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寺院名 : 勝安寺

宗派 : 浄土真宗本願寺派

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白石正一郎は赤間関 ( 現在の下関 ) 竹崎の荷受問屋小倉屋の八代目当主でした。

国学を学び、各地の志士たちとも交流があったため尊皇攘夷の思想に傾倒し、西郷隆盛に接したことをきっかけに、高杉晋作、久坂玄瑞、坂本龍馬など、400人にも及ぶ藩内外の多数の志士たちを資金面で援助していました。

明治維新における影の功労者とも呼ばれています。

1863 ( 文久 3 ) 年の白石邸における高杉晋作の奇兵隊結成にも援助し、自らも奇兵隊士となりました。

奇兵隊本陣もここに置かれましたが、隊士の増加とともに手狭になったため、のちに本陣は阿弥陀寺 ( 現赤間神宮 ) に移されました。

白石家は家財をすべて倒幕運動に捧げてしまったために破産し、維新後は赤間神宮の宮司となってひっそりと暮らしたそうです。

騎兵隊結成の地となった白石正一郎邸は、現在中国電力下関営業所となっており、敷地内に白石正一郎邸跡と高杉晋作奇兵隊結成の地の二つの碑が建てられています。

ちょうどこの碑の辺りにあった白石邸の建物の一部で、多くの志士たちがくぐったであろう浜門は、市内の長府松小田町の民家に移築され現存しています。

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七卿落ちの画碑の説明

この画碑は三条実美卿を始め、七卿 ( 七人のお公家さん ) が、京都の妙法寺から蓑笠姿にて長州へ下向する様子を ( 画碑に ) 写刻したものであります。

白石正一郎邸にて匿われた縁を持ちまして氏神の大歳神社の境内に大正 4年 ( 1915年 ) 関門史談会が建立し、七卿の偉業を顕彰されました。

嘉永 6年 ( 1853年 ) 日本に来航したペリーは、圧倒的な軍事力を背景に、江戸幕府へ開国を要求。

さらに、通商の開始を求められた井伊直弼が、朝廷の許可なく条約を結んだことにより、国内に動揺が広がりました。

以後、公卿や大名だけでなく学者・浪士など、様々な身分の者たちが、開国・鎖国・攘夷・公武一和 ( 朝廷と幕府の関係修復 ) などを訴え、行動を起こします。

文久 3年 ( 1853年 ) 8月、孝明天皇の意を受けた会津・薩摩藩は、過激な攘夷を主張した事を里由 ( ※注 1 ) に、在京諸藩と協力して三条実美卿ら公卿と長州藩を京都から退けました。

一連の事件は、八月十八日の政変及び『七卿落ち』といわれています。

※注 1、過激な攘夷を訴える諸藩士、浪人らが三条実美卿ら公卿を通じて、孝明天皇が攘夷祈願のために親征 ( 大和行幸 ) し、攘夷の気運を盛り上げようとしました。しかし、孝明天皇は、軽率な親征に反対を示しています。

長州藩においては、元治元年 ( 1864年 ) は激動の年でした。

四国連合艦隊との下関戦争の敗北に加え、禁門の変を起こして朝敵の汚名を蒙り、さらには幕府や諸藩で構成された征長軍が藩境にまで迫るなど、正に内憂外患だったのです。

苦境に陥った長州藩内において、幕府への抵抗を声高に叫ぶ人々は、三条実美卿らを唯一の拠り所としたのでした。

やがて、高杉晋作の功山寺決起をきっかけに長州藩の意見は統一され、幕府に抵抗していく方針に決定しました。

さらに、慶応 2年 ( 1866年 ) には、長州藩が薩摩藩と同盟を締結 ( 薩長同盟 ) し、第二次長州出兵 ( 四境戦争 ) で勝利を得ます。

翌年には、大政奉還、王政復古の大号令が出され、慶応 4年 ( 1868年 ) 五箇条の御誓文と共に明治時代の幕開けとなりました。

境内には、七卿落ちの画碑、明治維新の史跡、白石正一郎奉納の鳥居、さらに錦小路頼徳の病気平癒を祈願してお祀りされた八坂神社を有しています。それは、白石正一郎が氏子であったこともありますが、何より下関市において唯一源氏のご祭神を祀り、勝ち戦を祈願した歴史と由緒が大きいのではないでしょうか。

本画碑を通じ幕末維新当時の先人の足跡に触れていただければ幸いです。
(案内板より)

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大歳神社 ( おおとしじんじゃ ) の一二三坂 ( ひふみざか )

当社は昭和十五年に関門トンネル工事の折、鉄道路線敷に接収され、現在地に遷座 ( せんざ ) されました。

当初階段は一二三段でした。( ※ 1 )

この一二三とは一二三の祓い言葉 ( ※ 2 ) にちなみ厄を払う意味が込められており、お祓いの一二三坂として親しまれてきました。

不慮の遷座ではありましたが、当社は現在も本州最西端を守護しており、一二三の階段と併せ二重の厄を祓う意味が込められていたと考えられます。

平成十年に下関市の『海の見える丘の径』事業の一環として階段の整備が行われ現在の一一五段に到っております。

平成十八年には、下関市夜間景観整備事業第一号として、階段に人生の通過儀礼のプレートを施しました。

また、当社の御祭神である木花咲耶姫神は山の神 ( 富士山 ) であることから、長い階段を登るというより、小山を登頂しお参りに来たと考えて頂ければ幸甚であります。

参拝される皆様のご隆昌とご健勝に繋がりますようお祈り申し上げます。

※ 1
元の境内は下関駅西口高架下付近、文治二年 ( 西暦・・一一八六年 ) に鎮座。

遷座とはお引越しの事。
 ( 伊勢 ) 神宮の二十年に一度行われる式年遷宮が有名です。

※ 2
古事記の天の岩戸において、天鈿女命 ( あめのうずめのみこと ) が舞をしつつ、ひふみの祓詞を唱えたといわれています。

四十七の清音で成り立っています。

ひふみの祓詞・・・

ひふみよ いむなや こともちろらね しきる ゆゐつわぬ

そをたはくめか うおゑに さりへて のます あせえほれけ
(案内板より)

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所在地山口県下関市竹崎町一丁目13-10
位置北緯33度57分5.2秒 東経130度55分31.8秒
主祭神木花咲耶姫神(大歳御祖神)
社格旧村社
創建文治年(1186年

大歳神社(おおとしじんじゃ)は、山口県下関市竹崎町にある神社旧社格は村社。

由緒
平安時代末期の源平合戦において、平家追討のため西国へ下った源義経が、武運の守護神・富士浅間神社の御祭神・大歳御祖大神に戦勝祈願を行った。義経は平家が布陣する彦島を望む有明山(大歳山・円山)に富士の小松を植え、篝火を焚き、二日二夜の沐浴して潔斎を行い、祈念を込めたの弓矢をもって平知盛の率いる平家軍に開戦の矢文を放った。

平家軍は急遽壇ノ浦に軍船を進めて戦ったが、待機していた源範頼の軍勢と義経軍の挟み撃ちにあい、平家は敗れ、義経率いる源氏軍の勝利となった。翌年の文治2年(1186年)、四軒の漁民が義経の祈願のありさまを畏敬して神祠を祀ったことが大歳神社の由来となる。

以来、武運長久の神として明治維新の際には奇兵隊旗揚げの軍旗が奉納された。大鳥居文久2年(1862年)に白石正一郎攘夷必勝を祈念して奉納した。

アクセス
下関駅から徒歩5分

関連項目
壇ノ浦の戦い    
(wikiより)

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準鉄道記念物
車両航送発祥の地碑

本州・九州間の国鉄貨物輸送に大変革をもたらした貨車航送は鉄道院から下関・小森江 ( 北九州門司区小森江笠松町 ) 間の航送作業を請け負った宮本高次 ( 下関市宮本組 ) が明治四十四年三月一日から試航送を行い同年十月一日鉄道院はこの航路を関森 ( かんしん ) 航路として正式に営業を開始しました。

宮本高次はかねてから貨車航送について深い関心をよせ航送作業を請け負うに当り資材を投じて七トン貨車三両を積載する艀 ( はしけ ) 三隻 ( せき ) とこれを曳航 ( えいこう ) する小蒸気船三隻 ( せき ) を建造し当時の困難な海陸連絡輸送を打開しました。

この貨車航送はわが国の車両航送のはじまりであり当時の下関発着場がこの地点です。

昭和四十一年十月十四日指定
(説明版より)

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下関市の本土と彦島を隔てる海峡にある「下関漁港閘門 ( こうもん )」は、パナマ運河と同じ仕組みを持つ小さな運河で、規模は世界最小といわれています。

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第 4期拡張事業 ( 昭和 9年 4月 ~ 昭和 10年 10月 )

本事業は、水源対策と、昭和 8年 3月市域に編入された彦島町へ給水するため、計画された。
 
すなわち、既存の貯水池流入量では、明治 44年規模の渇水に遭遇すれば断水は必至であると予想されていたが、遂に昭和 9年大旱ばつに遭遇し、実に 70日余りにわたり制限給水の憂き目を見たのである。

従来から、渇水事態に備える抜本的対策を検討してきたところであるが、今回は、一時的な措置として、昭和 7 ~ 8年に調査した綾羅木川及び砂子多川からの取水実験結果に基づき、当面する水源不足の緩和を図った。
 
これは、貯水池下流の綾羅木川及び砂子多川から、農業用水に支障をきたさないかんがい期間外に取水し、浄水場へ揚水し、ダム貯水量を温存しようとするもので、取水施設として綾羅木ポンプ所を築造、導水管を布設して高尾浄水場へ連絡した。
 
また、彦島町への給水は、日和山浄水場から小門海峡の海底部を経由して配水管を布設するとともに、給水需要の時間的変化に備えて彦島町本村字後山に調整池 1池を築造した。
 
本事業は、昭和 9年 4月に着工し、翌 10年 10月に完成した。
(下関市ホームページより)

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平家ゆかりの寺で、建治 2年 ( 1276 )、一遍上人の従者で平忠政の孫でもあった西楽法師によって開かれました。

本尊の阿弥陀如来座像は平重盛の持仏で、守り本尊であったと伝えられていて注目、下関市の有形文化財に指定されています。

下関指定有形文化財

西楽寺木造阿弥陀如来坐像 
 

像高 : 八十三・五センチメートル

指定年月日 : 昭和六十年十二月二十日

所在地 : 下関市彦島本村町五丁目三番一号

西楽寺の本尊である阿弥陀如来坐像は、古くは平重盛の持仏であったと伝えられており、彦島の人々によって大切に守り伝えられてきました。

本像はヒノキの材を用いて、寄木造という技法でつくられています。

この寄木造りとは、いくつかの材を組み合わせて本体をつくる仏像製作の技法です。

平安時代に考案され、以後多く用いられました。

丸く張りのある顔立ちや体型、浅めに彫られた繊細は衣の線などの表現から、本像は平安時代の終わりごろから鎌倉時代のはじめにかけて制作されたと考えられます。

後の時代に部分的な修理や表面の彩色がほどこされています。

平家一門と彦島の地とのかかわりをうかがわせるものとして、また当時の文化の豊かさを伝えるものとして貴重な仏像です。

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山号正寿山
宗派日蓮宗
本尊一塔両尊四士日蓮聖人
創建年安土桃山時代 - 江戸時代初期
開山了現院日盛

慈眼寺(じげんじ)は、東京都豊島区にある日蓮宗寺院

歴史
安土桃山時代から江戸時代初期、了現院日盛によって開山された。元々は深川六間掘猿子橋(現・江東区新大橋)にあり、1615年元和元年)に日盛の弟子の慈眼院日遼によって寺院化した。その後、1693年元禄6年)に本所猿江(現・江東区猿江)に移転した[1]

1907年明治40年)と1910年(明治43年)の水害により壊滅的打撃を受けた。1912年明治45年)、谷中にあった妙伝寺と合併し、現在地に移転した[1]

墓地墓地には、下記の人物が葬られている[1]
・浦里・時次郎比翼塚(『明烏夢泡雪』の登場人物)
小林平八郎吉良家家老赤穂浪士と戦い、斃れる)
・斎藤鶴磯(儒学者
司馬江漢絵師蘭学者
芥川龍之介小説家
谷崎潤一郎(小説家)
菊島隆三(脚本家)

交通アクセス
新庚申塚停留場より徒歩7分。

脚注
1. a b c 豊島区立郷土資料館 編『豊島の寺院(豊島区立郷土資料館調査報告第二集)』豊島区教育委員会、1986年、41-42p

参考文献
・豊島区立郷土資料館 編『豊島の寺院(豊島区立郷土資料館調査報告第二集)』豊島区教育委員会、1986年
(wikiより)

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大衆帰本塚の碑

大衆帰本塚の碑は、元治元年 ( 1864年 ) 9月に建てられました。

篆額 ( てんがく ) は江戸時代後期の国学者の大畑春国が書き、碑文は浦賀奉行所与力の中島三郎助の文章と筆跡がそのまま刻まれています。

碑材には、安山岩の中でも板状節理が発達した箱根産の根府川石が使われています。

なお、石碑は浦賀警察署裏手にあった山の中腹辺りに建てられていましたが、平成 9年の造成工事により現在の場所に移しました。
(浦賀行政センターに資料があります。)

《 碑文の概要 》

この周辺の昔の様子を想えば、葦蟹 ( あしがに ) が遊ぶところから蟹田といい、のどかな湿地帯であった。

しかし、ここにも湊 ( みなと ) の賑いから家並みが押し寄せてきた。

この開発によって傍らに眠っていた無縁仏をひとまとめにして供養しようと、時の浦賀奉行の大久保土佐守が大衆帰本塚を設けることを決めた。

この話を聞いた奉行所付大工棟梁の川島平吉は、奉行の決定を神妙に承り、千年後までもこの事実を伝えるために石碑も良い物を選び、碑の周辺には何本かの桜の木を植えて、無縁になった人々の魂を慰めようと考え、実行した。

立派でたいそう嬉しい心配りであり、なんとも心強くまじめな心であろうか。

このように言うのは、浦賀奉行所に仕える中島三郎助永胤 ( ながたね ) である。
(案内板より)

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浦賀造船所

浦賀湾を囲むこの施設は、住友重機械工業株式会社追浜造船所浦賀工場です。

創業以来、浦賀船渠株式会社、浦賀重工業株式会社、更には現在の社名と変わりましたが、広く「浦賀ドック」の愛称で呼ばれてきました。

この造船所は、明治二十九年、当時農商務大臣であった榎本武揚などの提唱により陸軍要さい砲兵幹部練習所の敷地及び民有地を取得して設立準備を進め、翌三十年六月二十一日の会社設立登記をもって発足したものです。

資本金は百万円でした。

その頃の日本は、日清戦争などの影響もあって、外国から多くの艦船を買い入れ、世界的な海運国に発展しようとしていました。

一方造船界は、技術面や設備面で大きく立ち遅れていました。

その遅れを取り戻すため、外国人技師を雇い入れて国内各地に次々と造船所を造っていきました。

この造船所もそのなかの一つで、ドイツ人技師ボーゲルを月給約百五十円で雇いドックを築きました。

明治三十五年十月十五日、フィリピンの沿岸警備用砲艦ロンブローン号 ( 三五〇排水トン ) を進水させました。

創業以来手がけてきた船は、いずれも国内の企業から受注した工事用運搬船のたぐいばかりでしたが、十四隻目に初めて外国から受注した本格派の艦船を世に送りだしました。

この浦賀造船所で建造した艦船は、戦前・戦後を通じ約一千隻にのぼります。

現在もなお技術革新の旗手として、新しい船を造り続け、造船の浦賀の象徴として、今もなお地元市民に基盤を置いています。
(案内板より)

〇 浦賀船渠

浦賀船渠(うらがせんきょ)は、神奈川県横須賀市浦賀地区にあった造船所。通称浦賀ドック日本海軍駆逐艦建造で有名である。太平洋戦争後も艦艇の建造が続けられたが、2003年平成15年)に閉鎖された。

2021年(令和3年)3月に、施設及び周辺部が住友重機械工業から横須賀市に無償で寄付された[1]

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1910年の浦賀の様子

概要
幕府の浦賀造船所
浦賀での造船の歴史は1853年嘉永6年)のペリー来航までさかのぼる。この時江戸幕府は「大船建造の禁」を解いて浦賀造船所を設置、直ちに軍艦の建造を始め、7か月を掛けて国産初の洋式軍艦「鳳凰丸」を建造した。これは浦賀奉行与力中島三郎助らに軍艦の建造を命じたことが始まりである。また1859年安政6年)には日本初のドライドックが完成し、アメリカへ向かう咸臨丸整備が行われている。しかし小栗忠順らにより、横須賀港製鉄所を建設することを決定し(後の横須賀造船所横須賀海軍工廠)、艦艇建造の中心は横須賀へ移り、浦賀造船所は1876年明治9年)に閉鎖された。

浦賀船渠
中島三郎助の意志を継いだ荒井郁之助榎本武揚塚原周造が中心となり、1897年(明治30年)に浦賀船渠が設立。かつての浦賀造船所と同じ場所に工場が建設された。同時期に同じ浦賀に建設された東京石川島造船所(現:IHI)の浦賀分工場との間で、艦船建造・修理の受注合戦が繰り広げられたという。この競争はダンピング合戦を生み、両社の経営を悪化させた。ほどなくして石川島の浦賀分工場を浦賀船渠が買収、自社工場とすることで決着した。

艦艇建造

石川島との競争や、フィリピンへの砲艦輸出が不調となるなど、当初は経営が思わしくなく、渋沢栄一浅野総一郎などが再建に手を差し伸べた。1912年(明治45年)に就任した第5代社長によりようやく経営が安定した。その後の第一次世界大戦による好況(特需景気)もあり経営は立ち直った。

艦艇の建造は、日露戦争時に横須賀工廠から艦載水雷艇を受注したことに始まる。1907年(明治40年)に初めて駆逐艦「長月」を建造した。その後も小艦艇建造を中心的業務としており、特に駆逐艦の建造で有名で、大阪にあった藤永田造船所と共に駆逐艦建造の名門であり、「西の藤永田、東の浦賀」と呼ばれていた(軽巡洋艦 2隻、駆逐艦 44隻、海防艦 11隻+2隻未完)。

1914年(大正3年)には国内初の鋼製純貨物船[2]として「第五長久丸」が竣工。注目されていたこの船が成績優良につき、同型船6隻及びさらに大型の船6隻も受注して開業以来の盛況を呈した[3]。その後1924年(大正13年)には国内初の旅客兼車両渡船(鉄道連絡船)として青函連絡船翔鳳丸」と「飛鸞丸」が竣工。両船の就航後の成績も良好で、その後多くの青函連絡船を浦賀で建造する事となった。

戦後

太平洋戦争海上自衛隊向けに艦艇建造を続け、米空母ミッドウェイの大規模改修、日本丸建造なども行われた。住友機械工業と合併した際、追浜造船所(現横須賀造船所)を開設、民間船建造はこちらに移った。浦賀地区は工場集約のため2003年平成15年)に閉鎖された。閉鎖後は資材置場として使用されてきた[4]

浦賀船渠の第1号ドック(通称浦賀ドック)は世界に4か所にしか現存していないレンガ積みドライドックのうちのひとつとなっている。国内でも明治期のものは浦賀ドックと川間ドック跡しかなく、両者とも貴重な文化遺産である。

2007年(平成19年)11月30日、浦賀船渠の第1号ドック、ポンプ施設、ドックサイドクレーンが近代化産業遺産に認定。

2021年(令和3年)3月に、浦賀ドックとその周辺部は住友重機械工業から横須賀市に無償で寄付された[1]

沿革
浦賀造船所
1853年嘉永6年) 幕府が浦賀造船所を設置
1854年安政元年) 「鳳凰丸」竣工
1859年(安政6年) 日本初のドライドック建造、咸臨丸の整備が行われる
1873年明治6年) 水兵練習所を設置
1876年(明治9年) 浦賀造船所廃止
1885年(明治18年) 水兵練習所を浦賀屯営と改称
1889年(明治22年) 浦賀屯営閉鎖、陸軍要塞砲兵幹部練習所となる。

浦賀船渠
1895年(明治28年) 10月 株式会社東京石川島造船所(現・株式会社IHI)が浦賀分工場を建設
1898年(明治29年)
 ・5月 陸軍要塞砲兵幹部練習所敷地を取得
 ・9月28日 創業総会
1897年(明治30年)
 ・2月 ドックの建設開始
 ・6月21日 浦賀船渠設立登記
1898年(明治31年) 11月 東京石川島造船所浦賀分工場の操業開始
1899年(明治32年) 11月 1号ドック完成
1900年(明治33年)
 ・1月 浦賀船渠の営業開始
 ・6月10日 新造第1船竣工
1902年(明治35年) 8月 東京石川島造船所浦賀分工場を買収、川間分工場とする。
1907年(明治40年) 浦賀で初の駆逐艦「長月」竣工
1914年大正3年)国内初の鋼製純貨物船[2]第五長久丸」竣工[注 1]
1923年(大正12年)
 ・7月 軽巡洋艦「五十鈴」竣工
 ・国会議事堂鉄骨工事
1924年(大正13年) 初の青函連絡船「翔鳳丸」竣工
1925年(大正14年) 5月 軽巡洋艦「阿武隈」竣工
1938年昭和13年) 大日本兵器設立。青島工廠の経営を委託される
1943年(昭和18年) 2月25日 W型戦時標準船のモデル船として第四青函丸竣工
1944年(昭和19年) 四日市造船所開設。翌年9月閉鎖
1945年(昭和20年) 9月28日 第十一青函丸が戦後竣工第1船となる
1948年(昭和23年) 8月31日 戦後初の旅載青函連絡船として「摩周丸」竣工、際立った豪華さを誇った。子会社として玉島デイゼル工業[注 2] を岡山県に設立。
1953年(昭和28年) - 子会社の玉島デイゼル工業株式会社が浦賀玉島デイゼル工業株式会社へ社名変更。
1955年(昭和30年) 敷設艇えりも竣工(戦後初の自衛艦建造)
1957年(昭和32年) - アメリカにニューヨーク事務所(現・SHI (USA) )開設。
1961年(昭和36年) 記念館三笠修復工事完了
1962年(昭和37年) 子会社の浦賀玉島デイゼル工業と合併し、浦賀重工業株式会社設立。

浦賀重工業
1964年(昭和39年) - イギリスにロンドン事務所(現・SHI (Europe) )開設。
1969年(昭和44年) 6月 住友機械工業と合併し住友重機械工業浦賀造船所となる
 →住友機械工業と合併後については「住友重機械工業#沿革」を参照

歴代社長

[6]         
・初代・塚原周造
・2代・早崎源吾(大久保満寿子の弟)
・3代・浅野総一郎
・4代・足立太郎
・5代・町田豊千代(町田實秀の父)
・6代・山下亀三郎
・7代・今岡純一郎(今岡賀雄の父)
・8代・寺島健
・9代・堀悌吉
・10代・甘泉豊郎
・11代・多賀寛(昭和37年11月会社名が浦賀重工になる)
・12代・二瓶豊
・13代・大塚振武

主な製品
艦船
戦前
・軍艦
 ・軽巡洋艦五十鈴阿武隈
 ・敷設艦厳島 (II)
駆逐艦
 ・神風型駆逐艦 (初代)長月菊月
 ・樺型駆逐艦
 ・樅型駆逐艦
 ・若竹型駆逐艦早苗早蕨
 ・神風型駆逐艦 (2代)追風(II)
 ・睦月型弥生(II)水無月(II)望月
 ・吹雪型深雪磯波(II)狭霧潮(II)雷(II)
 ・初春型子日(II)初霜(II)
 ・白露型時雨(II)五月雨(II)山風(II)涼風
 ・朝潮型霞(II)
 ・陽炎型不知火(II)早潮時津風(II)浜風(II)萩風秋雲
 ・夕雲型風雲高波涼波岸波清波清霜
 ・秋月型宵月    
・官公庁船
 ・関門連絡船長水丸豊山丸鉄道院旅客船
 ・青函連絡船:飛鸞丸(鉄道省・旅客兼車両鉄道連絡船
 ・青函連絡船・戦時標準船第三青函丸(浦賀タービン主機1号搭載、青函連絡船のモデル船)
 ・青函連絡船・W型戦時標準船第四青函丸(W型のモデル船)、第五〜第十青函丸運輸通信省)
・民間船
 ・貨物船:第五長久丸、葛城丸
 ・貨客船白山丸    

戦後
 →住友機械工業と合併後については「住友重機械工業#過去の製品」を参照
自衛艦
 ・むらさめ型護衛艦 (初代)はるさめ (初代)
 ・はまな (給油艦)
 ・えりも (敷設艇)
・官公庁船
 ・だいおう型巡視船:むろと
 ・鉄道連絡船:第十一、第十二青函丸(運輸省W型戦時標準船、第十一青函丸は戦後竣工第1船)
 ・鉄道連絡船:北見丸日高丸国鉄
 ・鉄道連絡船:摩周丸(戦後初の客載青函連絡船、画期的な豪華船)
 ・鉄道連絡船:空知丸洞爺丸事故代替船)
 ・鉄道連絡船:津軽丸 (2代)(代替計画シリーズ第1船)、十和田丸 (2代)
・民間船
 ・ラッシュ船 アケェイディア・フォレスト

その他の製品
クレーン
 ・自社80トンクレーン
橋梁
 ・大利根橋
 ・市川橋
 ・葛西橋
 ・国会議事堂鉄骨工事
 ・東大宇宙科学研究所ラムダロケット用ランチャー
 ・記念館三笠修復工事
 ・宇宙通信センターのパラボラアンテナ、30m,20m各1

詳しいことは、「浦賀船渠ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%A6%E8%B3%80%E8%88%B9%E6%B8%A0   
(wikiより)

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ポンポン船の愛称で親しまれ、浦賀のシンボルにもなっている渡船は、奉行所が浦賀に置かれてまもない享保 10年 ( 1725年 ) 頃から始まる長い歴史を持っています。

江戸時代には、船が 1艘 ( そう ) で船頭さんが 2人。この船頭さんたちの雇用と船の維持管理は、東西浦賀の人々に加えて少し離れた鴨居地区や久里浜地区の住民までもが協力するなど、まさにこの地域の日常生活に欠かせない船でした。

明治 11年 ( 1878年 ) 8月からは、東西浦賀の 17町内会の共同体が維持管理をするようになりました。

この時の料金は、1人 3厘。営業時間は朝6時から夜 10時までで、夜間の料金は倍額と定められました。

これが地域が運営する交通としての渡船の誕生です。

浦賀町が渡船に関わるのは、それから 40年後の大正 6年 ( 1917年 ) のことです。

この時、町は共同体から 5,000円で営業権を譲渡してもらっています。

この頃が渡船の最盛期であり、1日の平均乗客数が 1,000人にも達していました。

そのため現在の場所から浦賀駅方面の 300mほどのエリアに、もう 1ルートの営業が行われていました。

昭和 18年 4月、浦賀町は横須賀市と合併し、渡船も横須賀市営となりましたが、その後、昭和 24年 10月から市の施設を民間事業者に貸し付けて運航する方式に改め、さらに令和 4年 4月からは、市から ( 株 ) トライアングルに営業譲渡され、現在に至っています。

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関東大震災の慰霊塔

大正十二年 ( 1923年 ) 九月一日午前十一時58五十八分、関東地方に大地震が発生しました。

昼食時と重なって東京や横浜では大火災となり、多くの人命と家屋が失われました。

ここ浦賀でも崖 ( がけ ) 崩れや火災などにより大きな被害を受けました。

特に西浦賀では愛宕山 ( あたごやま ) が崩れ、家屋七十四戸と百人程の人が埋まってしまいました。

ドック原 ( 浦賀生協あたり ) でも山が崩れ、通行中の七人が生き埋めとなり、浦賀町だけでも二百二人の生命が失われました。
 
戦後、この塔は震災と海難の犠牲者慰霊のため再建され、毎年八月上旬の浦賀みなと祭りで慰霊祭が行われています。
(案内板より)

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船番所跡

18世紀に入るころから国内では生活物資の生産量が拡大し、それまでの関西方面からでなく、東北や南関東からも江戸へ、大量の物資が入ってくるようになりました。

この流通の変化は、幕府に経済政策の見直しを迫るものでした。

幕府の対応の一つが、享保 5年 ( 1720年 ) 12月、それまで伊豆下田にあった奉行所を浦賀に移転させ、江戸へ出入りする船の積荷を厳しく管理し、江戸の物価の安定をはかることでした。

この船の検査「船改め」を行ったのが、船番所です。

ここは船の関所ですから、積荷の他に「入り鉄砲に出女」の検査もし、乗組員もチェックされました。

積荷の中でも生活必需品の、米、味噌、から木綿や薪までの 11品目について 3か月ごとに集計したものを、幕府の勘定奉行に提出していました。

1日に 50隻にも及ぶ船が出入りをしていましたので、「船改め」の業務は、奉行所の役人だけでは人出が足りず、この検査は廻船問屋と呼ぶ人たちに委託されました。

廻船問屋は、下田時代からやっていて、奉行所の移転に伴い浦賀に来た通称下田問屋が 63軒、西浦賀に 22軒、東浦賀に 20軒、の合計 105軒で行っており、この業務に就いた時だけは、奉行所の足軽役になったので、苗字を名乗ることが許されました。

この頃になると、外国船が日本近海に出現するようになり、1837年浦賀沖にも現れました。

そうした外国船への対応も、しなければならなくなりました。

この「船改め」は、慶応 4年 ( 1868年 ) 閏 4月奉行所が無くなっても継続され、業務が終了したのは明治 5年 ( 1872年 ) 3月のことでした。

その船番所があったのがこの場所です。

浦賀観光協会

〇 船番所跡

浦賀奉行所の出先機関で、享保六年 ( 1721 ) から明治五年まで、江戸へ出入りするすべての船の乗組員と積荷を検査する「船改め ( ふなあらため )」を行い、江戸の経済を動かすほどと言われました。

与力、同心の監督のもと、「三方 ( さんぽう ) 小屋」と呼ばれる下田と東西浦賀の廻船問屋百軒余が、昼夜を通して実務を担当しました。

「入り鉄砲に出女」を取り締まる海の関所としても、重要なものでした。
(案内板より)

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昭和 20年 ( 1945年 ) 8月 15日、太平洋戦争は終結。

ポツダム宣言により海外の軍人、軍属及び一般邦人は日本に送還された。

ここ浦賀港も引揚指定港として、中部太平洋や南方諸地域、中国大陸などから 56万余人を受け入れた。

引揚者は敗戦の失意のもと疲労困憊の極限にあり、栄養失調や疫病で倒れる者が続出した。

ことに翌 21年、華南方面からの引揚船内でコレラが発生。

以後、続々と感染者を乗せた船が入港。

このため、旧海軍対潜学校 ( 久里浜長瀬 ) に設けられた浦賀検疫所に直接上陸、有史以来かつてない大防疫が実施された。

この間、祖国を目前にして多くの人々が船内や病院で亡くなる悲劇があった。

昭和 22年 5月浦賀引揚援護局の閉鎖で、この地の引揚業務も幕を閉じる。

私たちは再び繰り返してはならない戦争による悲惨な引揚の体験を後世に伝え、犠牲となられた方々の鎮魂と恒久の平和を祈念し、市制百周年にあたりここに記念碑を建立する。

横須賀市

( 裏面 )
ここ浦賀港は、先の大戦終結後、引揚指定港の一つとして極めて重要な責務を担いました。

引揚とコレラ等の防疫に携わったすべての人々をねぎらい謝意を表するとともに、この地で倒れた幾多の御霊に弔意を表します。

この碑は、引揚者や地元の方々の熱意により建立が実現したものであり、市制百周年を迎えるにあたり、当地の歴史を再認識し、恒久平和の願いを後世に伝えんとするものです。
(石碑文より)

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寿光院
常福寺の隠居所としての境外仏堂です。

墓地には、「三命地蔵」が祀られています。

これは江戸時代後期に、弁天丸の水主 ( かこ = 水夫 ) の三人が遊ぶ金欲しさから、船の命ともいうべき網や綱を売ってしまいました。

三人は死刑に処せられる前、大変後悔し、罪滅ぼしにと「この地にねんごろに葬ってくれれば、首から上の病気は何でも治します」と言ったので、船宿が地蔵を彫って安置しました。

咸臨丸の副艦長格としてアメリカに渡った、浦賀奉行所与力・浜口英幹の墓もあります。
(案内板より)


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浦賀奉行所とは
享保 5年 ( 1720 ) 12月、伊豆の下田にあった奉行所を移転し、新たに浦賀奉行所が開設されました。

浦賀への移転理由は「下田は港の出入口に岩礁があって、船の入出港の妨げになっている」という船乗りたちからの声を聞き、より安全な湊を調査した結果、浦賀ていうことになった。」と記されています。

しかし、この理由は下田に奉行所が置かれてから 100年以上経過しているため、これが移転の本当の理由とは思えません。

江戸幕府が開かれて 100年が過ぎ、平和な時代が続いたため、農業を中心とした生産力があがり、全国各地から江戸へ様々な物資が入ってくるようになりました。

その 98%以上が船で運搬されており、江戸の物価の安定を図るために、江戸での在庫量を把握する必要に迫られていた浦賀が選ばれたのです。

浦賀奉行所では、船の積み荷と乗組員の検査をする「船改め」を行う「船番所」が開設され、江戸を往来するすべての船は浦賀で検査を受けることが義務付けられました。

この「船改め」は「廻船問屋」と呼ばれた 105件の問屋に委託され、「入り鉄砲に出女」の検査はもちろん、生活必需品 11品目については、3か月ごとに集計された数字が江戸町奉行所へ報告されました。

その他の業務としては、現在の税務署・裁判所・警察署・海上保安庁などの仕事を行っていました。

浦賀奉行所が開設されて 100年を過ぎたころから、江戸近海に異国船が来航するようになると、江戸を異国船から守る最前線の基地の役目も持つようになりました。

嘉永 6年 ( 1853 ) 6月、浦賀に入港したペリー艦隊は、日本が近代に進む第一歩としてよく知られていますが、浦賀奉行所にとっては、文政元年 ( 1818 ) 5月に来航したイギリス船から数えて 7度目の異国船でした。

このペリー来航時には、中島三郎助や香山栄左衛門をはじめとした浦賀奉行所の役人たちが大きく活躍し、交渉の結果、アメリカ大統領の親書を久里浜で受け取ることになりました。

ペリー浦賀来航後は慶応 4年 ( 1868 ) 閏 4月、新政府に接収されるまで続き、さらに、「船改め」の業務だけは、明治 5年 ( 1872 ) 3月まで続けられました。

浦賀奉行所の業務は、長官である奉行 ( 1、2人 )・与力 ( 部課長クラス ) が 10騎 ~ 18騎 ( 馬に乗ることが許されたので )・同心 ( 係長クラス ) 50人 ~ 100人で行ってました。

与力・同心はほとんど転勤がなく奉行所の表門前から海岸に向けた場所に役宅 ( 官舎 ) が建ち並び、ここに暮らしていました。
(案内板より)

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千代ヶ崎砲台跡(ちよがさきほうだいあと)神奈川県横須賀市西浦賀6丁目の海抜60mほどの丘に存在する史跡である。明治時代に東京湾防御の要塞として日本陸軍が建設した東京湾要塞群の一つである。猿島砲台ともに 以前の時期に建設された砲台と比較して砲台構造の完成度が高く、諸施設も機能的に充実し、建築技術にも進歩が認められる、これらの砲台跡は築造当初の姿を良好にとどめており、日本の近代軍事、築城技術の具体的様相を理解するうえで重要な遺跡であるとして、2015年(平成27年)3月 10日に文部科学省告示第 38 号により文化財保護法により史跡に指定された[1]

千代ヶ崎砲台跡は 1892年(明治25年)12月起工、1895年(明治28年)2月竣工した砲台である。これらの砲台跡は、築造当初の姿を良好にとどめており、我が国近代の軍事、築城技術の具体的様相を理解するうえで重要である。[2]

榴弾砲砲台(28cm榴弾砲6門を備砲)と、近接防御砲台(15cm臼砲4門、機関砲4門等を備砲)から構成され、前者は観音崎堡塁群の南方海上と浦賀湾口の海正面防御、後者は上陸した敵兵に対する防御を役割とした。榴弾砲砲台は、南北の直線上に1砲座2砲床の3砲座が配置され、砲座は西側に平行して存在する塁道と地下交通路で連絡し、塁道―砲座間の地下には砲側弾薬庫、掩蔽部、貯水所などの地下施設が付帯する。煉瓦組積法はイギリス積またはオランダ積で、隧道内施設の前面壁と室内、交通路の脚壁では普通煉瓦、露天空間に設けられた施設の前面壁、あるいは露天空間と接する隧道の出入り口には、雨水に対する防水と帯水防止のため焼過煉瓦を用いて[1]おり、第一砲座入口や一部構造物で煉瓦による斜めアーチ構造物[3]であるねじりまんぽ(斜架拱)も見ることができる。

1960年から2010年まで、海上自衛隊横須賀通信隊千代ヶ崎送信所として使われていた。当時は中波で数字ばかりのモールス信号を送っていた。その際は、第二および第三砲座は埋没していた[4]

2015年に国の史跡に指定され、日本遺産の構成文化財としても認定された。横須賀市が整備を行い、2021年10月23日からは土日祝日のみ無料一般公開が行われており、無料の現地ガイド[5]がある。

千代ヶ崎砲台跡に関しては、明らかに追加指定が必要とされる区域( 千代ヶ崎砲塔砲台 大正14年5月完成 鹿島 (戦艦)の45口径30cm加農砲塔跡などがある[6])があり、また、東京湾要塞跡を構成する砲台跡は市内だけでも夏島砲台跡、走水低砲台跡、観音崎砲台跡等が指定に至らず、現在に至っている。[2]

明治以前の歴史的背景は江戸湾防禦に当たった会津藩は現在の 千代ヶ崎の海側一部にあたる平根山に海防施設として平根山台場を1811年文化8年)に設置、1837年天保8年)にはモリソン号事件で砲撃した場所とされている。また、赤星忠直らによって縄文時代土器なども発掘されている[7]

砲塔砲台はファーマシーガーデン浦賀となっており一般の立ち入りはできない。

ギャラリーについては「千代ケ崎砲台跡ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E4%BB%A3%E3%82%B1%E5%B4%8E%E7%A0%B2%E5%8F%B0%E8%B7%A1

交通
京浜急行久里浜線京急久里浜駅から京浜急行バス(久9・19・29)千代ヶ崎 浦賀駅 ゆき バスに乗車、「燈明堂入口」で下車し坂道を登る 。バス停から徒歩15分 (アクセスマップ)。
・京浜急行本線浦賀駅から京浜急行バス(久9・19) 千代ヶ崎 京急久里浜駅 ゆき バスに乗車、 「燈明堂入口」で下車し坂道を登る。バス停から 徒歩15分(アクセスマップ)。
・自転車、バイク、自動車の場合、「燈明堂入口」バス停 または シティーマリーナヴェラシスを目印に海側に向かい、千代ヶ崎砲台駐車場(料金は無料)に駐車の後、坂道を上り徒歩5分ほど [5]。また、近隣の燈明堂に有料駐車場あり。
・敷地内には車輌(自転車やバイクを含む)の乗り入れはできない[8]
MEGURUプロジェクトで浦賀ドックと千代ケ崎砲台をめぐるツアーガイドバスを(株)トライアングルが運行している。(2022年1月23日迄・以後運用未定)[9]

脚注
1. a b 国指定文化財等データベース”. 文化庁. 2022年1月6日閲覧。
2.
a b 史跡東京湾要塞跡猿島砲台跡千代ヶ崎砲台跡整備基本計画”. 教育委員会事務局教育総務部生涯学習課 担当:文化財係. p. 12. 2022年1月6日閲覧。
3. 
小野田滋, 河村清春, 須貝清行, 神野嘉希「組積造による斜めアーチ構造物の分布とその技法に関する研究」『土木史研究』第16号、土木学会、1996年、117-132頁、doi:10.2208/journalhs1990.16.117ISSN 0916-7293NAID 130004038298
4. 
黒田泰介「東京湾要塞 千代ヶ崎砲台跡 榴弾砲砲台 第三砲座に関する考察」『日本建築学会計画系論文集』第766号、日本建築学会、2019年12月、2629-2638頁、doi:10.3130/aija.84.2629ISSN 1340-4210NAID 130007777649
5. 
a b 千代ケ崎砲台サポーターの会”. 千代ヶ崎砲台跡サポーターの会デジタル班. 2022年1月6日閲覧。
6. 
『日本の要塞』学習研究社、2003年10月1日、98-105頁。
7. 
横須賀市平根山遺跡”. 横須賀市自然・人文博物館. 2022年1月6日閲覧。
8. 
よこすかの文化財 > 国史跡東京湾要塞跡史跡整備 > 千代ヶ崎砲台跡の公開”. 横須賀市ホームページ. 2022年1月6日閲覧。
9. 
【初公開の千代ヶ崎砲台・圧巻のレンガドック】知られざる浦賀の裏側を旅するイベントが始まりました。”. (株)トライアングル. 2022年1月6日閲覧。
10. 
原剛『明治期国土防衛史 (錦正社史学叢書)』錦正社、2002年2月1日。ISBN 4764603144

参考サイト
横須賀ルートミュージアム
横須賀市ホームページ(千代ケ崎砲台跡の公開)
東京湾要塞砲台マップ【三浦半島】
千代ヶ崎砲台跡サポーターの会(Twitter)
東京湾要塞 千代ヶ崎砲台へようこそ ( 千代ケ崎砲台跡活用サポーターの会で運用している)       (wikiより)

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⇧ 内部の白い部分は「漆喰」です。

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⇧ 天井部も良い造りです。

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⇧⇩ 砲弾の貯蔵庫です。

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⇧⇩ 隣の貯蔵庫から砲弾を移動させて、上の穴からクレーンで引き揚げます。

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⇧ 下の階から上げた砲弾を大砲まで移動させていた装置なのですが、戦後のドサクサで鉄部分が盗られてしまいました。

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⇧⇩ 大砲が設置されていた場所です。

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⇧ 奥の丸い部分にも大砲が設置されていました。

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⇧ 丸い穴の部分に命令が聞こえるようにパイプが通っていました。

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⇧⇩ 小菅 ( 現小菅拘置所 ) で作られていた煉瓦。( 桜マーク )

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⇧ 通風孔

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⇧ 砲台を上から見る。

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⇧ 東京湾方向。

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⇧ 埋められた通風孔。

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〇 屯営跡の碑

築地新町と言われたこの地に、水兵の基礎教育機関として、明治五年 ( 1872 )、「海軍浦賀屯集 ( とんしゅう ) 所」が設置されました。

その後「東海水兵分営」、同十五年には「水兵練習所」、同十八年に「浦賀屯営」と改称し、数多くの水兵を送り出しました。

その事蹟を残すため、昭和九年に「屯営跡の碑」が建てられました。

この碑の石は、日露戦争のとき、旅順口の封鎖のために沈没させた弥彦丸に使用したものが使われています。
(案内板より) 

碑文は、正面に 「浦賀屯営跡 海軍大将永野修身書」

裏面には
「是ヲ浦賀屯營跡ノ記念碑ト爲ス惟フニ浦賀ノ地タル湘南ノ樞區ニシテ東京湾頭ノ要津ナリ 

徳川幕府時代浦賀奉行之ヲ管シ船改番所アリテ海上ノ警ニ備ヘタリ明治維新ノ後其五年海軍省造船局出張所ヲ此處ニ設ケ同八年革メテ浦賀水兵屯集所ヲ置ク同十年東海水兵分營同 十五年水兵練習所同十八年浦賀屯營ト改稱ス 

同二十二年横須賀海兵團ノ制建ツニ ( およ ) ヒテ浦賀屯營ヲ撤セリ現時浦賀船渠株式會社第二船臺ノ在ル地域ハ實ニ其墟址ニ屬ス蓋シ歴劫ノ閒地勢漸ク轉換シ桑海ノ變亦料ル可ヲス乃チ今茲其事蹟ヲ碑ニ勒シ以テ後人ニ傅フト云爾  

昭和九年十二月二十三日    浦賀船渠株式會社社長 寺島 健」

左側面には、「石平彫」と刻まれている。

※『 ここで、水兵の基礎訓練を担当した士官たちは、病気やその他の事情で海上勤務ができなくなった者があたったため「屯営は生きた士官の捨てどころ」といわれ、嫌われていました。』

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15 屯営跡の碑

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嘉永 2年 ( 1849年 ) 建立

碑文には千代ヶ崎台場の工事中に出土した人骨を埋葬したこと、その人骨は北条氏と里美氏の合戦による戦死者ではないかと推測していることが記されています。
(案内板より)

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地蔵菩薩像供養塔  
天保 11年 ( 1840年 ) 建立

死者を供養する碑で、台石左側面から裏面には世話人願主名が記されています。
(案内板より)

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〇 橙明堂跡 ( 浦賀橙明堂 )

復元なった浦賀燈明堂の建つこの場所は、江戸時代に浦賀港の入口、燈明崎に建っていた燈明堂の跡地である。

燈明堂は、今日の灯台のような役割をする航路標識の施設であった。
燈明堂は慶安元年 ( 1648 ) 幕府の命によって、幕史石川六左エ門重勝や能勢小十郎頼隆らが築遺したと伝えられている。

石垣を土台として、上に2階建ての建物があった。

階下は番人小屋で、階上は四方を紙張障子とその上に金網をめぐらしてあった。

その中には、直径 36.4センチ、深さ 12.2センチの鋼製の大きな灯台皿が置かれ、一晩に灯台心百筋と菜種油 1升 ( 1.8リットル ) が灯され、その光は 4海里 ( 7.2キロメートル ) に達したという。

当初は勘定奉行の所管となっていたが、後に浦賀奉行所に所管替えとなり明治になり神奈川府の所管となった。

経費は元禄三年 ( 1690 ) までは徳川幕府が賄っていたが、同四年からは東浦賀の干鰯問屋が一切を負担するようになった。

明治五年 ( 1872 ) 4月に廃止になるまで、約 220年間に渡って 1日も休まず夜間の海上安全の守り役として活躍し、我が国の灯台史の上で極めて貴重なものである。

建物は明治 20年代まで残っていたというが風雨で崩壊してしまい、一抱えもある大きな石で高さ 1.8メートル、幅 3.6メートル四方に組み合わされた「切り込みハギ石垣」だけが残された。

燈明堂跡は、大正 13年 3月国の史跡に仮指定されたが、太平洋戦争後解除され、昭和 43年 3月に市の史跡に指定された。

この石垣を利用して、浦賀燈明堂が近代建築の技術の粋を結集して当時の姿そのままに復元された。
( 起工 昭和 63年 10月、竣工 平成元年 3月 )

横須賀市教育委員会
(案内板より)

〇 橙明堂とその周辺
慶安元年 ( 1648 ) 幕府の命でつくられた日本式の灯台である橙明堂は明治 5年 ( 1872 ) までその役割を果たしました。

橙明堂の背後の山には平根山台場は天保 8年 ( 1837 ) 日本人漂流民を送り届けに来航した米商船モリソン号を最初に砲撃した台場として知られています。

ここから海岸沿いに海に突き出たところには幕末期に、千代ケ崎台場がつくられました。

橙明堂付近には供養碑などが立ち並び、かつてここが首切り場と呼ばれた浦賀奉行所の処刑場だったことが偲ばれます。
(案内板より)

燈明堂(とうみょうどう)は[† 1]神奈川県横須賀市浦賀港入り口にあたる燈明崎の先端に、江戸時代に築造された和式灯台である[1]

概要
天正18年(1590年)の、徳川家康江戸城入城後、江戸を中心とした水運は急速な発展を見せるようになった。水運の発展に伴い、東京湾入り口に近く、浦賀水道に面する入江である浦賀は港として大きく発展し、浦賀港に入港する船の安全を図る必要に迫られた。また浦賀水道を通行する船の増大は、夜間に浦賀水道を通過する船の安全策を講ずる必要性も高まってきた[2]

慶安元年(1648年)、江戸幕府は浦賀港入り口の岬に和式灯台である燈明堂を建設した[1]。燈明堂は篝火ではなく堂内で油を燃やすことによって明かりを得ており、堂内には夜間は燈台守が常駐していた[3]。当時は夜間に明かりがほとんどなかったこともあって、燈明堂の明かりは対岸の房総半島からも確認できたと言われている[4]。建設当初は江戸幕府が燈明堂の修復費用を負担し、当時の東浦賀村と浦賀港の干鰯問屋が灯火の費用を負担していたが、元禄5年(1692年)以降[† 2]は浦賀港の干鰯問屋が修復費用も捻出するようになった[5]

海に突き出た岬上にある燈明堂は、台風などの暴風や大地震による津波によって建物や石垣が崩されることがあった。しかし東京湾を通行する船の安全を守る役割を果たしていた燈明堂は、建物が破損してもただちに仮設の燈明堂を建設し、明かりが絶えないように努力がなされた[6]

明治2年(1869年)、日本初の洋式灯台である観音埼灯台が建設されたことによって、燈明堂はその使命を終え、明治5年(1872年)に廃止となった[7]。廃止後も明治27年(1894年)ないし明治28年(1895年)頃まで燈明堂の建物は残っていたが、その後崩壊して石垣のみが残されていた[8]

浦賀の燈明堂は昭和43年(1968年)に横須賀市の史跡に指定された。昭和62年(1987年)には燈明堂とその周辺の発掘が行なわれ、翌昭和63年(1988年)には燈明堂がある岬への遊歩道の整備と、燈明堂の西側にあったと伝えられていた高札場の発掘が実施された[1]。そして文献調査と発掘調査を踏まえ、昭和63年(1988年)に横須賀市は燈明堂の復元に取り掛かり、平成元年(1989年)3月に復元工事は完成し、復元された燈明堂とその周辺は現在は公園として整備されている[9]

歴史
浦賀の発展と燈明堂
三浦半島は古代より相模上総を結ぶ海上交通の要衝であり、現在の横須賀市東部はリアス式海岸で船の停泊に適した場所が多かったこともあり、中世以降水運が発達するようになった。特に天正18年(1590年)の徳川家康の江戸入城、そして慶長8年(1603年)の江戸幕府の成立によって、現在の東京湾の水運は飛躍的な発展を見せるようになった[10]

水運の飛躍的な発達に伴い、東京湾を航行する船が通過する浦賀水道の重要性が高まり、浦賀水道に面する深い入江である浦賀には風待ちの船が多く集まるようになり、また干鰯問屋などの商人たちも集まって栄えるようになった[11]。そして享保5年(1720年)には浦賀奉行所が設置され、東京湾口にあって交通の要衝である浦賀は、往来する船やその積荷を検査する場としての役割も担うようになった[12]

港湾としての重要性を増した浦賀に入港する船の安全と、東京湾の入り口である浦賀水道の航行の安全を図る必要性が高まる中、江戸幕府は慶安元年(1648年)、石川六左衛門重勝と能勢小十郎頼隆の指図のもと、浦賀に燈明堂を建設した[13]

燈明堂の運営
浦賀の燈明堂は、浦賀水道を航行する船と浦賀港を利用する船の航行安全を図るために江戸幕府が建設したという経緯から、当初修繕などの維持費用は幕府が負担していた。一方、建設当初は菜種油、その後魚油を用いた燈明の燃料代と燈明堂の燈台守については当時の東浦賀村と、寛永19年(1642年)に成立した浦賀の干鰯問屋が受け持つことになっていた[17]

ところが元禄5年(1692年)になって、上総の干鰯問屋が浦賀への新規進出を目論み、幕府に対して浦賀への新規進出を認めてもらえたら運上金の納入と燈明堂の維持費用を全て負担すると申し出た。当時15軒あった浦賀の干鰯問屋は新規進出を阻むため、同様の条件を幕府に提示し、上総の干鰯問屋の新規進出を認めないように嘆願した。結局、上総の干鰯問屋の浦賀進出は幕府より許可されることはなかったが、以降燃料代と燈台守ばかりではなく燈明堂の維持費用も浦賀の干鰯問屋が負担することになった[5]

岬の先端にある燈明堂は、台風などによる暴風や大地震による津波によってしばしば大きな被害を蒙り、老朽化に伴う修繕も必要であった。まず享保8年(1723年)には暴風によって建物が倒壊した[8]。そして文政12年(1829年)には80両を費やした大修理が行われたものの、直後の天保3年(1832年)と天保4年(1833年)には二年連続台風に襲われ、建物ばかりではなく石垣も崩されてしまったため、234両を費やして修復が行なわれた[6]。そして安政元年(1854年)には安政東海地震に伴う津波に襲われ、燈明堂は大きく破壊された[8]。江戸時代の中期以降、浦賀で取り扱う干鰯の量が減少していくようになり、干鰯問屋の経営が厳しくなっていく中で燈明台の維持管理を担うことは大きな負担となったが、倒壊後には直ちに仮設の燈明堂を設置するなど、浦賀の干鰯問屋らは浦賀港に入港する船と浦賀水道の航行安全に不可欠な燈明堂の維持管理に尽力し続けた[6]

観音埼灯台の建設と燈明堂の廃止
安政東海地震に伴う津波による倒壊の直前である嘉永6年(1853年)のペリー艦隊の来航時には、浦賀の燈明堂はペリー艦隊の航行の目安ともなった。そしてペリー来航によって鎖国体制が終焉し、欧米各国などの船が盛んに往来するようになる中、沿岸部の燈明台などの明かりしかない日本の沿岸航行は大きな危険を伴うと認識されるようになった[3]

明治2年(1869年)、フランス人技術者レオンス・ヴェルニー設計の、光源にレンズを用いた最初の洋式灯台である観音埼灯台が点灯した。観音埼灯台の完成により浦賀の燈明堂はその役割を終え、明治5年(1872年)に廃止されることになった[18]。燈明堂廃止後も明治27年(1894年)ないし明治28年(1895年)頃まで燈明堂の建物は残っていたが、その後崩壊して石垣のみが残されるようになった[8]

燈明堂の構造について
燈明堂は下部の石垣と上部の木造建物で構成されていた。上部の木造建物は現在に残されている絵図から判断すると上下二層で構成されており、上層で明かりを灯していたと見られている[1]。また屋根は瓦葺であったとされ、後述の発掘時にも瓦が検出されており、瓦葺であったことは明らかであるが、発掘時に検出された瓦には本瓦と桟瓦があり、本瓦葺きであったのか桟瓦葺きであったのか必ずしもはっきりしない点があるが、発掘内容から見て安政元年(1854年)の安政東海地震に伴う津波によって崩壊する以前は本瓦葺きであり、その後の再建時に桟瓦葺きとなったと考えられている。なお発掘された桟瓦の中に完形を留めたものが全く見られないことから、燈明堂の廃止後、使用されていた桟瓦は他の建物に転用されたと見られている[19]

燈明堂の木造建物上層は四面に鉄骨製の障子が嵌め込まれ、鉄骨障子は銅製の網が張られていた。銅網が張られた鉄骨障子の内部には燈明皿が置かれており、油が燃やされて明かりとなっていた[20]

二層の木造建物を載せていた石垣は、下端で約4.7×5.0メートル、上端で約3.7×3.9メートル、高さは約1.8メートルであった。石材は安山岩である伊豆石が全体の約8割以上を占め、残りの石材は根府川石や瀬戸内方面からもたらされたと考えられる御影石であり、これは江戸城の石垣に用いられている石材の構成と類似しており、江戸城築城時に余った石材を流用したものと考えられている。石垣の積石工法も江戸城築城で用いられた元和から寛永年間に大成された「切り込み接ぎ石垣」という技術が用いられており、崩壊しにくい締まった石垣が構築されている[21]

また石垣の東面と南面の一部は、西面と北面では見られない積石の緩みが見られる。これは安政東海地震による津波で石垣の一部が崩壊して修復された際には、「切り込み接ぎ石垣」の技法を持たない職人が修復作業に従事したため、修復部分に石垣の緩みが発生したものと考えられる[22]

浦賀の燈明堂は、四方から建物を支える控柱が取り付けられている。石垣の四隅の対角線上に安山岩製の礎石が設けられ、礎石に取り付けられた控柱が燈明堂本体の建物を支えていた。昭和63年(1988年)から平成元年(1989年)にかけて行なわれた燈明堂の復元以前は、四つあった礎石のうち二つが残っていた。この控柱の礎石である安山岩は石垣に用いられている安山岩と明らかに違う種類のものであり、控柱は燈明堂創建当時からあったものではなく、いずれかの建物倒壊後に建物補強のために新たに設けられた可能性が高い[23]

調査の経緯と復元
復元計画の始動と発掘
昭和61年度(1986年)度、横須賀市は石垣のみ残存していた燈明堂の復元を目指し、教育委員会内に燈明堂復元協議会を設立した。協議会ではまず文献の蒐集と残存していた石垣について調査を行い、燈明堂は数回の建て替えが行なわれていたことと、石垣については江戸城の石垣と同様の技法を用いて積み上げられていることが明らかになった[3]

昭和62年度(1987年)度には、燈明堂復元のためのデータ収集を目的として、燈明堂とその周辺の発掘調査を行うことになった。昭和62年(1987年)6月15日から26日にかけて行なわれた発掘調査によって、海側である東側を中心に、標高が低い基礎部分には盛土を行なった上に叩いて固めるといった整地と基礎工事が行なわれた上で、石垣が構築されたことが明らかとなった[24]

また、燈明堂北側からは本瓦や陶磁器が大量に検出されている。これは安政元年(1854年)の安政東海地震以前に、燈明堂で用いられていた本瓦と燈明堂の備品であった陶磁器類が、東京湾入り口である南側からの津波によって北側に建物が倒壊したために、集中して本瓦と陶磁器類が検出されるようになったものと考えられる[25]

検出された陶磁器の中には、皿や鉢類の他に灯明皿片、そして火鉢の一部と見られるものがあった。火鉢は冬季の夜間に灯台守を行なう際に暖をとるために用いられたものと見られている[26]

燈明堂本体とその周辺の発掘後、昭和63年(1988年)7月6日から13日にかけて、岬の先端部にある燈明堂への遊歩道の整備に伴い、かつて高札場があったと伝えられていた燈明堂西側の発掘が実施された。この時の発掘では高札場の高札を立てていたものと見られる、岩盤をくり貫いた柱穴が2つ検出され[27]

燈明堂の復元と三浦半島八景
数回の建て替えが行なわれたことが明らかとなった浦賀の燈明堂の復元に際し、いつの時期の燈明堂を復元するかについて議論が重ねられたが、各種資料が最も良く残っていて復元作業が最も容易であることなどから、安政元年(1854年)の安政東海地震の津波後に再建され、明治5年(1872年)の廃止に至った最後の燈明堂の建物を復元することになった[8]

復元に当たって、昭和63年(1988年)4月から初田亨が作成した燈明堂の復元図をもとに設計が開始され、設計をもとに基礎工事、部材の組み立てと進められた。平成元年(1989年)3月に復元工事は完成し、燈明堂周辺も公園として整備された[28]

復元された燈明堂は、神奈川県が平成13年(2001年)に選定した三浦半島八景に、「灯台(燈明堂)の帰帆」として選ばれた[29]

脚注
注釈
1. 
名称については、「浦賀燈明堂」ないしは「浦賀燈明堂跡」とするものもあるが、浦賀という地名を付けずに燈明堂と呼ばれている例が多く、かつ全国各地に燈明堂が存在し、知名度に顕著な差は見られないため、燈明堂 (横須賀市)を記事名とした
2. 
燈明堂の維持管理費が浦賀の干鰯問屋の負担となったのは、元禄4年(1691年)以降とする文献もある。ここでは横須賀市人文博物館・自然博物館(1989)ならびに燈明堂跡・横須賀市ホームページの記述に従い、元禄5年(1692年)以降とする。

出典
1. 
a b c d 横須賀市(2010)p.432 
2. 
横須賀市人文博物館・自然博物館(1989)pp.1-6 
3. 
a b c 横須賀市教育委員会(1989)p.34 
4. 
燈明堂跡・横須賀市ホームページ 
5. 
a b 横須賀市人文博物館・自然博物館(1989)pp.9-10 
6. 
a b c 横須賀市人文博物館・自然博物館(1989)p.10 
7. 
横須賀市教育委員会(1989)pp.8-9 
8. 
a b c d e 横須賀市教育委員会(1989)p.9 
9. 
横須賀市教育委員会(1989)pp.13-14、横須賀市(2010)p.432 
10. 
横須賀市教育委員会(1989)p.5 
11. 
横須賀市教育委員会(1989)p.5、横須賀市人文博物館・自然博物館(1989)pp.8-9 
12. 
横須賀市教育委員会(1989)p.8 
13. 
横須賀市人文博物館・自然博物館(1989)p.8 
14. 
横須賀市教育委員会(1989)p.8、横須賀市人文博物館・自然博物館(1989)pp.1-3 
15. 
横須賀市人文博物館・自然博物館(1989)p.3 
16. 
横須賀市教育委員会(1989)pp.5-8 
17. 
横須賀市教育委員会(1989)p.8、横須賀市人文博物館・自然博物館(1989)pp.8-9 
18. 
横須賀市教育委員会(1989)p.8、p.34 
19. 
横須賀市教育委員会(1989)p.10、p.51 
20. 
横須賀市教育委員会(1989)pp.12-19 
21. 
横須賀市教育委員会(1989)pp.40-41、横須賀市(2010)p.432 
22. 
横須賀市教育委員会(1989)pp.41 
23. 
横須賀市教育委員会(1989)p.41、横須賀市(2010)p.433 
24. 
横須賀市教育委員会(1989)pp.37-40 
25. 
横須賀市教育委員会(1989)p.37、横須賀市(2010)p.433 
26. 
横須賀市教育委員会(1989)p.52 
27. 
横須賀市教育委員会(1989)pp.66-67、横須賀市(2010)pp.432-433 
28. 
横須賀市教育委員会(1989)pp.13-15、横須賀市(2010)p.432 
29. 
ぐるっとまわる「三浦半島八景」・神奈川県ホームページ   

参考文献
・横須賀市教育委員会『浦賀燈明堂遺跡発掘・復元調査報告書』、木更津市教育委員会、1989年
・横須賀市人文博物館・自然博物館『近世の海運と浦賀の燈明堂』、横須賀市人文博物館・自然博物館、1989年
・横須賀市『新横須賀市史、別編考古』、横須賀市、2010年

外部リンク
燈明堂跡・横須賀市ホームページ[リンク切れ]
ぐるっとまわる三浦半島八景ウォーキングマップ」ガイド・神奈川県ホームページ[リンク切れ]
(wikiより)


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天保 11年 ( 1840年 ) 建立

大きく「南無妙法蓮華経」の髭題目が刻まれた碑です。
(案内板より)

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燈明堂跡及び周辺地域

燈明堂は、慶安元年 ( 1648年 ) から明治 5年 ( 1872年 ) まで、浦賀に出入りする船の安全を守った燈台です。

この史跡を郷土の宝として、また歴史の学習や憩いの場として活用し、私たちの子孫に受け継いでいくために、次の事を守ってください。

この史跡は、燈明堂跡とその周辺の土地を指定しています。

指定地域内には、築造当時から残る石垣とその上に復元した燈明堂のほかに、3基の石碑が建立しています。
(案内板より)

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⇧⇩ 橙明堂

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所在地北海道富良野市日の出町1
駅番号T30
所属事業者北海道旅客鉄道(JR北海道)
日本貨物鉄道(JR貨物)
電報略号ラノ
駅構造地上駅
ホーム2面4線
乗車人員
-統計年度-
596人/日(降車客含まず)
-2019年-
開業年月日1900年明治33年)8月1日[1]
乗入路線 2 路線
所属路線根室本線
キロ程54.6 km(滝川起点)
T28 野花南[* 1] (19.4 km)
所属路線富良野線
キロ程54.8 km(旭川起点)
F44 学田[* 2] (2.3 km)
備考直営駅管理駅
みどりの窓口 有
話せる券売機設置駅[2]
  1. ^ この間に島ノ下信号場有り(当駅から5.5 km先)。
  2. ^ この間に本社鉄道事業本部直轄エリアと旭川支社境界有り(当駅は本社管内)。

富良野駅(ふらのえき)は、北海道富良野市日の出町にある、北海道旅客鉄道(JR北海道)・日本貨物鉄道(JR貨物)の鉄道駅である。

事務管理コードは▲130410[3]JR北海道の駅番号T30

概要
所属線である根室本線[4]のほか、当駅を終点とする富良野線が乗り入れる。根室本線は2024年(令和6年)に当駅 - 新得駅間が廃止となり新得駅以東と分断されたため、実質的な2路線の行き止まり式終着駅となっている。当駅は北海道旅客鉄道鉄道事業本部(本社直轄)管内であるが、富良野線は旭川支社の管轄にあたるため富良野線の場内信号機を管轄境界としている。

石勝線開通以前は道東方面へ向かう特急おおぞら」、急行狩勝」の停車駅であった。現在は観光シーズンに札幌駅と当駅を結ぶ臨時特急「フラノラベンダーエクスプレス」を運転している。

歴史
1900年明治33年)
 ・8月1日北海道官設鉄道十勝線上富良野駅 - 当駅間開業に伴い、下富良野駅(しもふらのえき)として開業(一般駅[1]。下富良野機関庫設置。
 ・12月2日:当駅 - 鹿越駅間延伸開業[5]
1901年(明治34年)9月3日:下富良野機関庫が落合機関庫下富良野派出所となる。
1905年(明治38年)4月1日鉄道作業局(後に日本国有鉄道)へ移管[1][6]
1909年(明治42年)10月12日線路名称の制定により、釧路線(後に釧路本線→根室本線)所属となる。
1913年大正2年)
 ・10月21日:落合機関庫下富良野派出所が落合機関庫下富良野分庫となる。
 ・11月10日:釧路本線当駅 - 滝川駅間開業(旭川駅までの路線は富良野線と改称)。
1914年(大正3年)4月1日:落合機関庫下富良野分庫が下富良野機関庫となる。
1942年昭和17年)4月1日:富良野駅と改称[1]。下富良野機関区も富良野機関区と改称。
1949年(昭和24年)6月1日日本国有鉄道移管。
1954年(昭和29年)8月18日帯広市から小樽市に向かう昭和天皇香淳皇后お召し列車が発着[7]
1968年(昭和43年):富良野市が富良野駅改築のため鉄道公債7,300万円を購入、改築の陳情を展開[8]
1974年(昭和49年)12月17日:現駅舎に改築[8][9]。併せて道費により駅前広場整備[8]
 ・改築は当初、国鉄の赤字・合理化問題から暗礁に乗り上げたが、1975年(昭和50年)の冬季国体競技の市内開催が決まったこともあり、改築が決まった[8]
1981年(昭和56年)10月1日石勝線開通に伴い次のように列車削減[10]
 ・特急「おおぞら」3往復全列車が石勝線経由に変更。
 ・急行列車は4往復から「狩勝」2往復のみ存置。
 ・貨物列車8往復を2往復に減便。
1985年(昭和60年)3月14日荷物取扱い廃止[6]
1986年(昭和61年)11月1日:貨物取扱い廃止し、旅客駅となる[6]。富良野コンテナセンター設置し、自動車代行輸送開始[6]
1987年(昭和62年)
 ・3月31日:貨物取扱い再開(一般駅に戻る)[6]。秋・冬季のみ貨物列車運行。
・4月1日:国鉄分割民営化によりJR北海道・JR貨物の駅となる[1][6]。JR貨物は富良野コンテナセンターを継承。
1990年平成2年)9月1日:急行「狩勝」の快速列車格下げに伴い、当駅を発着する定期優等列車がなくなる。
2000年(平成12年)1月13日:東西自由通路「ポッポブリッジ」供用開始[11][12]
2006年(平成18年)4月1日:富良野コンテナセンター廃止し、富良野駅に統合。
2007年(平成19年)12月20日:駅前広場供用開始[13]
2016年(平成28年)10月31日キヨスク閉店。
2022年令和4年)度:話せる券売機を設置[JR北 1]
2024年(令和6年)
 ・3月31日:根室本線当駅 - 新得駅間の最終運行日。午後2時10分過ぎより富良野駅で式典を開催[14]
 ・4月1日:根室本線当駅 - 新得駅間が廃止[15][JR北 2]

駅名の由来
 →「富良野」の語源については「富良野市#市名の由来」を参照

当初「富良野」は富良野川流域一帯を指す広域地名となっていたため、当地はその下流にあるとして「下富良野」と名付けられたが、1919年(大正8年)に下富良野村が町制施行し、富良野町となったこともあって、1942年(昭和17年)に駅名も改称となった[16]

駅構造
2面4線の島式ホームを有する地上駅[17]。このほか最も駅舎よりとその反対側にホームのない留置線が設けられている[17]。駅舎とホーム間の移動には跨線橋を利用する。

社員配置駅で、みどりの窓口話せる券売機[2]、飲食店として立ち食いそば・うどん店を設置している。売店は2016年に閉店した。改札外に男女別の水洗式便所がある。ジェイアール北海道レンタリース(駅レンタカー)富良野営業所を併設している[18]

のりば
のりば番号は当初1 - 4番線までであったが[17]、後年留置線である最も駅舎よりの1番線と最も外方の6番線を欠番とした、2 - 5番線の付番となっている。

基本的に2・3番線が根室本線、4・5番線が富良野線で使用されている。ただし、信号設備の都合上、3番線から滝川方への発車および滝川方から2番線への進入は不可能となっており(4・5番線への進入・発車はそれぞれ可能)[17]、根室本線列車は当駅到着後入換作業が必要となっている。

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貨物駅
JR貨物の駅は旅客駅西口の北側にある。1面1線のコンテナホームを有しており、ホームの北端は国道237号の築堤に接しているが出入口は無い。自動車出入口は西側一般道面にある。コンテナ貨物の取扱駅で、12フィートコンテナのみを取り扱う。当駅の取扱品はタマネギジャガイモなどの農産物が多いため、季節によって取扱量が大きく変動する。そのため、年間を通して札幌貨物ターミナル駅まで運行するトラック便が1日3往復あるほか、収穫期の秋・冬季のみに臨時高速貨物列車を1日2往復設定している。

利用状況

旅客
乗車人員の推移は以下のとおり。年間の値のみ判明している年については、当該年度の日数で除した値を括弧書きで1日平均欄に示す。乗降人員のみが判明している場合は、1/2した値を括弧書きで記した。なお、『富良野市統計書』を出典とするデータは元の値が1,000人単位であるため、1000倍した値を記載する。

また、「JR調査」については、当該の年度を最終年とする過去5年間の各調査日における平均である。11-2


貨物
貨物輸送量の推移は以下の通り。

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駅周辺
富良野市中心部にある駅であり、富良野文化会館、富良野市役所、北海道富良野保健所、北海道富良野高等学校富良野広域連合富良野消防署、富良野警察署などへの最寄駅になっている。「コンシェルジュ フラノ」は徒歩約4分、「フラノマルシェ・フラノマルシェ2」は徒歩約7分、富良野税務署は徒歩約10分に位置している。また、駅東側にある北海道社会事業協会富良野病院は東西自由通路「ポッポブリッジ」を利用して徒歩約5分に位置している。
・富良野警察署駅前交番
・富良野ナチュラクスホテル
ふらの農業協同組合(JAふらの)本所
・ラビスタ富良野ヒルズ
・富良野市中心街活性化センターふらっと
・北真神社(へそ神社)
北海道銀行 富良野支店
北洋銀行 富良野支店
旭川信用金庫 富良野支店
空知商工信用組合富良野支店
・ホテルサンフラトン
北海道労働金庫富良野支店
富良野郵便局
・市立富良野図書館

バス路線
駅前には「富良野駅」バス停留所があり[24]ふらのバスが市内線や新富良野プリンスホテル・旭川方面への定期路線バス「ラベンダー号」、占冠村役場が占冠方面への村営バス、北海道中央バスが札幌方面への都市間高速バス「高速ふらの号」、道北バス北海道拓殖バス十勝バス共同運行で新得・帯広方面への都市間バス「ノースライナー」を運行している。

隣の駅
北海道旅客鉄道(JR北海道)
根室本線
  野花南駅 (T28) - *滝里駅 - (島ノ下信号場) - 富良野駅 (T30)
富良野線
  中富良野駅 (F42) - **鹿討駅 (F43) - **学田駅 (F44) - 富良野駅 (T30)
 *:打消線は廃駅
 **:一部列車は学田駅・鹿討駅を通過する。

かつて存在した路線詳しいことは、
北海道旅客鉄道(JR北海道)
 ■根室本線(廃止区間)
   富良野駅 (T30) - 布部駅 (T31)

詳しいことは、「
富良野駅ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E8%89%AF%E9%87%8E%E9%A7%85

(wikiより)

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⇧ 駅ホーム

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⇧⇩ 駅構内

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⇧ 駅前

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丘の風景が根付く美瑛。どこまでものどかで、心癒される牧歌的な風景は、訪れる人の心を魅了して止みません。

その中で、今回ご紹介したいのが「北西の丘 展望公園」です。

ピラミッド型の屋根が目印の展望台に上がれば、遮るものなく 360度のパノラマが広がり、十勝岳連峰やパッチワークの路など、北海道らしい雄大な自然を味わえます。

また 7月にはラベンダーも咲き誇る穴場スポット!

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森の中に15棟のログハウスが連なるロマンチック・ショッピングエリア。ここにしかない自然をモチーフにしたクラフト作品をご用意しております。

※各店舗により不定休があり営業店舗が少ない場合がございます。あらかじめご了承ください。
※各店舗により営業時間が異なります。
※現在、クラフト教室は開催しておりません。

営業時間: 12:00NOON 〜 8:45P.M. ※各店舗により営業時間が異なります。
料金:入場(無料)
TEL:0167-22-1111(新富良野プリンスホテル代表)
その他:各店舗により不定休がございます。

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2012年 4月 13日 啄木没後 100年の命日に除幕式が行われたそうです

石川啄木は明治 41年1月、小樽から釧路に向かう途中、旭川に立ち寄ったそうで、「水蒸気 列車の窓に花のごと 凍てしを染むる あかつきの色」等

旭川に関する歌 4首すべて歌集「一握の砂」に収められているそうです。

「啄木さんの隣の席が空いています。どうぞ一緒に記念撮影をしてください」と書いてあり、石川啄木像と記念写真が撮影できます。

また、像の台座に啄木の短歌が 2首、壁に 4首あり短歌の解説もあります。

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布部駅(ぬのべえき)は、北海道富良野市布部市街地にあった北海道旅客鉄道(JR北海道)根室本線廃駅)である。駅番号T31電報略号ヌノ[2]事務管理コードは▲110401[3]

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駅舎(2017年8月)

歴史
当駅南東に広がる東京帝国大学(現・東京大学北海道演習林(以下「東大演習林」)および、東方の麓郷(ろくごう)地区の森林資源開発を目的として、東京帝国大学が中心となって開駅運動を展開して開設された請願駅であった[4]

当駅はフジテレビ系連続ドラマ『北の国から』第1話(1981年放送)のロケーション撮影に使われ、麓郷に戻る主人公らが降り立った駅である[5][6]。駅前には脚本家倉本聰直筆の『北の国から』を記念した看板がある。

歴史
1927年昭和2年)12月26日鉄道省根室本線下富良野駅(現・富良野駅) - 山部駅間に新設開業(一般駅[7]。また、同年に当駅から麓郷22号地間に東大演習林森林軌道の路線(通称「麓郷本線」)が開通(馬力[8]
1929年(昭和4年):森林軌道麓郷本線にガソリン機関車導入[8]
1930年(昭和5年):同年頃、森林軌道麓郷本線に同西達布本線から蒸気機関車が転入[8]
1939年(昭和14年):同年頃、森林軌道麓郷本線に木炭ガス併用のガソリン機関車導入[8]
1947年(昭和22年):同年頃、森林軌道麓郷本線における木材輸送が終了(トラック輸送へ移行)[8]
1949年(昭和24年)6月1日:日本国有鉄道(国鉄)に移管。
・1949年(昭和24年)12月1日:開駅以来の管轄であった旭川鉄道管理局から釧路鉄道管理局に管轄替え[4]
1980年(昭和55年):国鉄が当駅の無人化を富良野市に提案[9]
1982年(昭和57年)
 ・2月:富良野市が当駅の無人化について同意[9]
 ・11月15日:貨物荷物取扱い廃止[10]。同時に無人化[11][9]
1987年(昭和62年)4月1日国鉄分割民営化により、北海道旅客鉄道(JR北海道)の駅となる[1]
1994年平成6年)4月1日:釧路支社本社鉄道事業本部の境界を当駅の富良野駅方(施設キロ 61km 000 m地点)から上落合信号場手前(施設キロ114 km 700 m地点)に変更し、当駅の管轄を本社鉄道事業本部に移管[12]
2024年令和6年)
 ・3月31日:駅廃止に伴うお別れセレモニーが地元住民らにより開かれ、『北の国から』脚本家の倉本聰も参加[5]
 ・4月1日:富良野駅 - 新得駅間の廃止に伴い廃駅[13][JR北 1]

駅名の由来
地名より。現在の布部川を指すアイヌ語名「ヌモッペ(num-ot-pe)」(果実・ある・もの〔川〕)に由来し、ここでいう果実とは多くの場合クルミを指す[14]

これに「布部(ぬのっぺ)」と当て字し、後に転訛して現在の読みとなった[15]

駅構造
廃止時点では木造駅舎を持つ地上駅であった。少なくとも1993年(平成5年)時点で島式ホーム1面2線のうち根室方に向かって右手(駅舎反対側)のみを使用しており、そのほか側線があった[2]無人駅

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待合室(2012年10月)

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構内踏切(2017年8月

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ホーム(2012年10月)

利用状況
乗車人員の推移は以下のとおりであった。年間の値のみ判明している年については、当該年度の日数で除した値を括弧書きで1日平均欄に示す。乗降人員のみが判明している場合は、1/2した値を括弧書きで記した。

また、「JR調査」については、当該の年度を最終年とする過去5年間の各調査日における平均である。

タイトルなし

駅周辺
駅前には小さな集落があり、商店等もある。
北海道道544号麓郷山部停車場線
・布部郵便局
・富良野市立布部小中学校
空知川
国道38号
ふらのバス「布部入口」停留所(旧踏切付近)
占冠村営バス「布部入口」停留所(国道38号沿い)

隣の駅
北海道旅客鉄道(JR北海道)
 ■根室本線
 富良野駅 (T30) - 布部駅 (T31) - 山部駅 (T32)

詳しいことは「
布部駅ウィキペディア」をご覧ください。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%83%E9%83%A8%E9%A7%85
(wikiより)

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⇧ ドラマ「北の国から」の看板。


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北海へそ踊り発祥の地碑
北海道の中心は富良野です

北緯四十三度二十分 東経百四十二度二十三分の富良野市の位置が明治四しぜゅう二年四十二年 ( 1909年 ) に北海道の中心として測量され その台座が本市の重要文化財として中心標公園に保存されています。

この中心標は人間にたとえればヘソにあたることから昭和四十四年 ( 1969年 ) すずらん街の詩人によって「北海へそ音頭」の作詞と北海へそ踊りが創作され 次いで北海へそ祭りが創設され本道を代表する夏祭りに成長発展しました。

毎年七月二十八・九日に盛大に開催される この祭りには腹に怪奇な顔を画いて踊る珍奇絶妙な図腹踊りが観光客の人気を呼び九州、名古屋、東京方面や遠くはシンガポールやシドニーなど海外に公演するなど全国的に有名になりましたが此処のすずらん商店街がそもそも元祖であり発祥の地でもあります。
(案内板より)

〇 北海へそ祭り

北海へそ祭り(ほっかいへそまつり)とは、毎年7月28日7月29日北海道富良野市の新相生通り商店街で行われる

富良野市北海道の地理的中心であることに因んだ祭りであり、北海道内のみならず日本全国、あるいは海外からも観光客が訪れる、北海道を代表する祭りの一つとなっている。


富良野市が北海道の地理的中心であることに因んだ祭りであり、北海道内のみならず日本全国、あるいは海外からも観光客が訪れる、夏の北海道を代表する祭りの一つとなっている。


歴史
1969年(昭和44年)、富良野市民憲章が制定されると同時に開催されたのが始まりである。1974年(昭和49年)に北真神社(へそ神社)が創建されて以降は同神社の例大祭となっている。

内容
祭りのメインイベントは、図腹踊り。お腹を顔に見立てて絵を描き、頭部を大きなで隠して踊ることから、そのように呼ばれている。 描かれている絵は、顔やキャラクターなど多種多彩な顔が楽しめる。

群馬県渋川市でも、ほぼ同じ内容の「渋川へそ祭り」が開催されるようになる。これは、日本のへそに因んだ祭りである。

その他
マスコットキャラクターとして、「へそ丸」がある[1]

脚注
1. KAWAii!Hokkaido, へそ丸 富良野市 ゆるキャラ, KAWAii!Hokkaido, オリジナルの2017年7月3日時点におけるアーカイブ。

外部リンク
公式ウェブサイト  
(wikiより)

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⇩ 駅近くにあるモニュメント


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白ひげの滝(しらひげのたき)は、北海道美瑛町白金温泉郷にある。落差30メートル[1]、標高600メートル。日本では珍しい潜流瀑に分類される[1][2]

概要
美瑛川の白金小函にある湧水の滝である。渓谷断崖の岩の隙間から細く数多く流れ落ちる青みがかった滝水が白いにみえることから命名されたとされる。

瀧は白金温泉街の中心を流れる美瑛川にかかる白金橋(通称ブルーリバー橋)から一望できる[3]。滝のすぐ上には白金温泉バス停とホテル群がある。

ギャラリー

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白ひげの滝と湯元白金温泉ホテル(2013年5月)

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6月の白ひげの滝(2022年6月)

周辺
湯元白金温泉ホテル(滝のすぐ上)
・十勝岳火山砂防情報センター(滝の対岸の山腹、徒歩7分)
青い池(美瑛川の下流、徒歩50分)

交通アクセス
・JR美瑛駅から道北バス「大雪青年の家」行きで26分、「白金温泉」下車、徒歩3分

関連項目
十勝岳     
北海道道966号十勝岳温泉美瑛線(パノラマロード)

脚注
1. 
a b 白ひげの滝”. 一般社団法人 美瑛町観光協会2023年11月12日閲覧。
2. 
北中康文『日本の滝1 東日本661滝』山と渓谷社、2004年、26頁。ISBN 4-635-06257-0
3. 
白ひげの滝 | 十勝岳ジオパーク 美瑛・上富良野エリア”. tokachidake-geopark.jp. 十勝岳ジオパーク推進協議会 (2020年3月2日). 2023年11月12日閲覧。

外部リンク
びえい白金温泉観光組合:美瑛観光情報(2013年5月11日閲覧)  
白ひげの滝の基本情報 - 【北海道じゃらん】(2013年5月11日閲覧)   
青い池だけではない!白金温泉の鮮やかな青い川「ブルーリバー」 たびまにあの点描北海道 北海道ファンマガジン(2013年5月11日閲覧)    
(wikiより)

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氏は美瑛町長在任中、名峯十勝岳の観光開発を企画し、泉源の開拓こそその基盤をなすものであるとして、幾多の困難生涯にも屈せず遂に四百米に及ぶ大噴湯を現出させることに成功した。

時に、昭和二十五年八月八日

氏はこの時の感激を泥淖中に白金を得た悦びになぞらえて、この地を しろがね と命名したのである。

昭和三十八年八月八日

建立 美瑛町
(案内板より)

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青い池(あおいいけ)は、北海道上川郡美瑛町白金にある人造池の通称である。「白金の青い池」、「美瑛白金青い池」などとも呼ばれる。

概要
青い池は美瑛町の東南部、美瑛川左岸の標高約500メートルに位置しており、十勝岳の麓に湧く白金温泉から約2.5キロ北西の地点にある。座標リンクに示した位置の国土地理院発行2万5千分の1地形図では水たまりと見なされているため水面は描かれていないが、Google等の衛星画像では青色の水面を確認することができる。

この池は1988年昭和63年)12月に噴火した十勝岳の堆積物による火山泥流災害を防ぐため、美瑛川本流に複数建設された堰堤のひとつに水が溜まったものである[1]

この堰堤はコンクリートブロックによるもので、北海道開発局により1989年平成元年)6月に着工され同年年末に完成した。美瑛川を横切る形で施工され、本流から離れた両岸の森林内部まで堰堤が造られた結果、美瑛川左岸側のブロック堰堤に水が溜まるようになり、周囲に自生していたカラマツ白樺等の樹木は、水没し立ち枯れた。したがって、目的を持って造られた溜池貯水池などとは異なり、青い池は偶発的に人造池となったものである。

冬季には期間限定でライトアップされている[1]

発見
写真家で元フジカラー旭川経営の子安栄信によると、青い池を最初 (1997年)に発見したのは上富良野在住のプロカメラマン高橋真澄[2][3]とされる。高橋真澄は1998年に写真集『blueriver』[4]を出版。青い池がこの写真集に収録されていたことにより写真愛好家等の口コミで存在が広まっていった。2014年5月25日にテレビ朝日奇跡の地球物語』で青い池が紹介され、その中で高橋真澄は青い池を発見した時から毎年写真を撮り続け存在を世に広めてきたと伝えられる[5]

青くなる理由
この付近の湧水には水酸化アルミニウム (Al(OH)3)など、主に白色系の微粒子が含まれており、美瑛川本流の水と混ざることによって分散され一種のコロイドが生成される。水中に差し込んだ太陽光がコロイドの粒子と衝突散乱して水の吸収による青色の透過光が加わり、美しい青色に見えると言われている[6]。水の青さと立ち枯れた木々の幻想的な景観から、その存在がカメラマン等を中心に口コミで広がり、いつの頃から誰からともなく「青い池」と呼ばれるようになった。

その他
Apple社OSへの壁紙採用
2012年7月に発売されたAppleOS X Mountain Lionの15種類の壁紙のひとつに、青い池の写真が採用された[7]。この画像は、Appleのモバイル用OSであるiOS 78で壁紙に採用された。iOS 9からは採用から外されたため、壁紙設定していない場合アップデートすると削除される[8]

台風9号による被害
台風9号に伴う2016年(平成28年)8月23日の大雨の影響で、池に土砂が流入し池が茶色く濁る被害が発生した[9]。周辺の美瑛川の護岸が崩壊したため、池周辺は立ち入り禁止となった[9]。その後、旭川開発建設部により応急工事が行われ、池周辺の安全が確保されたため、同年9月14日より立ち入り制限が解除された[10]

所在地
・北海道上川郡美瑛町白金
北海道旅客鉄道(JR北海道)富良野線美瑛駅から約18キロ。
白金温泉から約2.5キロ。

脚注
出典
1. a b 社団法人美瑛町観光協会. “青の絶景をめぐる”. おかのまち美瑛DMO. 2021年7月17日閲覧。
2. 
青い池 氷の造形 | 子安栄信のカメラ箱 
3. 
高橋真澄/SEISEISHA PUBLISHING CO.,LTD. 
4. 
青菁社ISBN 4-88350-010-1 
5. 
テレビ朝日|奇跡の地球物語”. テレビ朝日 (2015年1月11日). 2015年1月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年1月11日閲覧。
6. 
ようこそ札幌(札幌市の公式観光サイト). “美瑛町の「青い池」を訪ねる”. 東海大学教養学部国際学科3年次生 田中真実. 2012年6月21日閲覧。
7. 
ナショジオ・フォトコンテスト2011「Nature 自然・動物部門」 2012年6月21日閲覧
8. 
注意! iPhoneのデフォルト壁紙はOS更新で消えてしまう ITmediaコラム 2016年4月8日閲覧。
9. 
a b 台風で「青い池」が茶色に 北海道美瑛町”. 日本放送協会 (2016年8月24日). 2016年8月29日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年8月29日閲覧。
10. 
また会えた「青い池」 美瑛 台風影響の立ち入り制限解除”. 北海道新聞 (2016年9月14日). 2016年9月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年9月15日閲覧。

関連項目
水の青#水中の微粒子による散乱   

外部リンク
・社団法人美瑛町観光協会. “観光スポット”. 2013年6月12日閲覧。
OS X Mountain Lionの壁紙に採用された「青い池」の画像 2012年6月21日閲覧。
(wikiより)

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北眞神社は、昭和四十九年七月二十九日心ある市民若手有志の手によって、万物の母である大地の神霊大国魂神 ( おおくにたまのかみ ) を御祭神として中御料の山麓にご鎮座されました。

北眞の名は、富良野市が北海道の真中に位置し、又人体の真中すなわち「へそ」を「生命の源」「親子の絆の象徴」として据えたところから名付けられました。

人体に於ける愛情・誕生・成長・健康・繁栄・平安を祈願すると共に、自然界に於ける人類の真の姿を常に問いかける神社であります。

北眞神社分祠は更に多くの市民を始め観光客にもこの北眞神社の意義を知っていただくため、「親子の絆・市民の絆を確認する」祭りとして盛大に挙行される「北海へそ祭り」の第三十回目を記念して、平成十年七月十八日御本社より御分霊を戴き北眞神社氏子会が中心となって祭りの会場に面したこの地に鎮祭り致しました。

北の真中のまち富良野の市民から誕生した、美しい日本の心そのものと言うべきこの神社の意義・理念が多くの賛同される方々の力によって津々浦々に広まり、人々の心に継承されていくことを念じて止みません。
(案内板より)

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ファーム富田(ファームとみた)は、北海道空知郡中富良野町にある農園。主にラベンダーを中心としたを呼び物に、からにかけて開園する。園内にはドライフラワーを使用した土産屋や資料館も位置しており、営業時間内は入園無料である。所在地は北海道空知郡中富良野町北星。

沿革
1897年に北海道国有未開地処分法が制定され、本州等から北海道へ移住してくる人々が急増、その中にファーム富田の創始者である富田徳馬もいた。富田徳馬はその後1903年に現在の北海道中富良野町に開墾の鍬を下ろし、その苗字がファームの由来となる。

徳馬の孫、富田忠雄は1953年、当時富良野一帯においてラベンダー栽培の先駆的人物であった上田美一のラベンダー畑に出会い、1958年より香料用としてのラベンダー栽培を開始。妻と共に開始した畑は10アールの広さにまで及んだ。その後ラベンダー畑はおよそ1.2ヘクタールにまで拡大、富良野地方全体でもラベンダーの栽培地域が230ヘクタール以上に拡大したが、以降は急激に衰退。ピーク時にはラベンダー栽培農家が250戸以上・全道のラベンダーオイル生産量も5トンに上っていたが、1972年頃から貿易の自由化が始まって価格の低い香料が広まり、合成香料の技術が進み始めると、製造していたラベンダーオイルの買い上げの価格も急落。翌1973年には近隣一帯のラベンダー栽培農家がほぼファーム富田のみとなってしまった。

1976年5月の日本国有鉄道のカレンダーにファーム富田のラベンダー写真が紹介されると、徐々に観光客やカメラマンが訪れるようになった。また、その後にドラマ「北の国から」で放送されると、観光地として一躍有名になった。その後はポプリなどを中心にラベンダーの加工を始め、1980年代前半からエッセンシャルオイルの抽出に成功して香水「フロム」を発売する。また、「ポプリの舎」を開設し、化粧品製造業の免許を取得、オリジナルのラベンダー香水である「FURANO(フラノ)」を発売した。1987年には石鹸の製造業免許を取得し、「ソープラベンダー」という名のオリジナル石鹸を発売するなどした。この頃にそれまで経営を繋ぐために行っていた稲作を中止し、花の栽培や加工を経営の中核とした。

1990年に「ラベンダー芳香フェア」がフランスにて開催される。このイベントで行われた品評会にて、ファーム富田のオリジナルエッセンシャルオイル、「おかむらさき」が第1位を獲得。同時に「オートプロヴァンス・ラベンダー修道騎士」の称号を授与された。この称号は南フランスにあるラベンダーを生産する組織より、ラベンダー栽培における功労者へ贈与されるものである。その後は冬期間にグリーンハウス内でのラベンダー栽培に成功、富田ラベンダー資料館や「ドライフラワーの舎」をオープンさせるなど事業を拡大し、現在に至る。

2008年6月、隣接する上富良野町に開園50年記念して「ファーム富田 ラベンダーイースト」が開園した。

概要
園内ではおよそ15ヘクタールのラベンダーが栽培されているほかにも多くの花が栽培されている。花畑はそれぞれ「花人の畑」、「倖の畑」、「春の彩りの畑」、「秋の彩りの畑」、「彩りの畑」、「森の彩りの畑」、「トラディショナルラベンダー畑」に分かれている。通常の開花時期として、4月中旬ごろよりクロッカス、5月よりスイセンチューリップ、6月よりハマナスシャクヤクなどが見られるようになり、ラベンダーが開花し始めるのは通例6月の下旬ごろが目安とされている。8月中旬ごろになると冬にかけてグリーンハウスの運営も始まり、ハウス内に栽培されているラベンダーやゼラニウムなど各種植物を見ることができる。

園内には各種施設も建てられている。花人の舎ではラベンダー資料館や香りの体験コーナーが設けられ、トイレも設けられている。また、ドライフラワーの舎ではドライフラワーを展示、建物内のデザインはオランダのフラワーデザイナーであるレン・オークメイドが手がけ、「富良野の森のピクニックin北海道」と題されている。その他、オリジナルグッズを取りそろえ、軽食を楽しむことのできるポプリの舎、展望デッキから園内の花を眺めることが可能な森の舎、ラベンダーからエッセンシャルオイルを蒸留する抽出工場の蒸留の舎、「香りのしおり」を作るコーナーを設けられているなど、香水を制作する場が見られる香水の舎、など各種施設を見学することが可能である。

ファーム独自の特徴として、カフェ内で注文できるメニューには稀にしか見られない珍しい品目も並び、北海道産の野菜カレーや富良野パンを使用したジンギスカンドッグなどがある。また、スイーツにはラベンダーのエキスが含まれているラベンダーソフトクリームやラベンダーラムネ、ラベンダー生シュークリームやラベンダーはちみつプリンといったものがあり、そのうちの幾つかは季節限定の商品である。

そのほか、定期的に園内で物産展などのイベントが開催されることもある。会費無料の「ファーム富田ファンクラブ」も存在し、ポイント制の割引サービスやファンクラブ誌の「Scent of Lavender」が発行されるなど、入会特典が用意されている。ファームの最寄り駅にはJR中富良野駅があるが、夏から秋にかけてはラベンダー畑駅が臨時駅として近くに設置される。

なお、施設に隣接している「とみたメロンハウス」はファーム富田とはまったく関係ない。

アクセス
JR北海道 ラベンダー畑駅臨時駅
  夏から秋のシーズンのみ営業する臨時駅。徒歩約7分。
中富良野駅:徒歩約20分

参考文献
・ファーム富田 パンフレット
・なかふらの彩遊記 北海道中富良野町発行 HBCフレックス企画・制作

関連項目
北海道ガーデン街道    
北海道パウダーベルト   
北海道の観光地    

外部リンク
ファーム富田公式ウェブサイト   
(wikiより)

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浦賀船渠(うらがせんきょ)は、神奈川県横須賀市浦賀地区にあった造船所。通称浦賀ドック日本海軍駆逐艦建造で有名である。太平洋戦争後も艦艇の建造が続けられたが、2003年平成15年)に閉鎖された。

2021年(令和3年)3月に、施設及び周辺部が住友重機械工業から横須賀市に無償で寄付された[1]

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1910年の浦賀の様子

概要
幕府の浦賀造船所
浦賀での造船の歴史は1853年嘉永6年)のペリー来航までさかのぼる。この時江戸幕府は「大船建造の禁」を解いて浦賀造船所を設置、直ちに軍艦の建造を始め、7か月を掛けて国産初の洋式軍艦「鳳凰丸」を建造した。これは浦賀奉行与力中島三郎助らに軍艦の建造を命じたことが始まりである。また1859年安政6年)には日本初のドライドックが完成し、アメリカへ向かう咸臨丸整備が行われている。しかし小栗忠順らにより、横須賀港製鉄所を建設することを決定し(後の横須賀造船所横須賀海軍工廠)、艦艇建造の中心は横須賀へ移り、浦賀造船所は1876年明治9年)に閉鎖された。

浦賀船渠
中島三郎助の意志を継いだ荒井郁之助榎本武揚塚原周造が中心となり、1897年(明治30年)に浦賀船渠が設立。かつての浦賀造船所と同じ場所に工場が建設された。同時期に同じ浦賀に建設された東京石川島造船所(現:IHI)の浦賀分工場との間で、艦船建造・修理の受注合戦が繰り広げられたという。この競争はダンピング合戦を生み、両社の経営を悪化させた。ほどなくして石川島の浦賀分工場を浦賀船渠が買収、自社工場とすることで決着した。

艦艇建造
石川島との競争や、フィリピンへの砲艦輸出が不調となるなど、当初は経営が思わしくなく、渋沢栄一浅野総一郎などが再建に手を差し伸べた。1912年(明治45年)に就任した第5代社長によりようやく経営が安定した。その後の第一次世界大戦による好況(特需景気)もあり経営は立ち直った。

艦艇の建造は、日露戦争時に横須賀工廠から艦載水雷艇を受注したことに始まる。1907年(明治40年)に初めて駆逐艦「長月」を建造した。その後も小艦艇建造を中心的業務としており、特に駆逐艦の建造で有名で、大阪にあった藤永田造船所と共に駆逐艦建造の名門であり、「西の藤永田、東の浦賀」と呼ばれていた(軽巡洋艦 2隻、駆逐艦 44隻、海防艦 11隻+2隻未完)。

1914年(大正3年)には国内初の鋼製純貨物船[2]として「第五長久丸」が竣工。注目されていたこの船が成績優良につき、同型船6隻及びさらに大型の船6隻も受注して開業以来の盛況を呈した[3]。その後1924年(大正13年)には国内初の旅客兼車両渡船(鉄道連絡船)として青函連絡船翔鳳丸」と「飛鸞丸」が竣工。両船の就航後の成績も良好で、その後多くの青函連絡船を浦賀で建造する事となった。

戦後
太平洋戦争海上自衛隊向けに艦艇建造を続け、米空母ミッドウェイの大規模改修、日本丸建造なども行われた。住友機械工業と合併した際、追浜造船所(現横須賀造船所)を開設、民間船建造はこちらに移った。浦賀地区は工場集約のため2003年平成15年)に閉鎖された。閉鎖後は資材置場として使用されてきた[4]

浦賀船渠の第1号ドック(通称浦賀ドック)は世界に4か所にしか現存していないレンガ積みドライドックのうちのひとつとなっている。国内でも明治期のものは浦賀ドックと川間ドック跡しかなく、両者とも貴重な文化遺産である。

2007年(平成19年)11月30日、浦賀船渠の第1号ドック、ポンプ施設、ドックサイドクレーンが近代化産業遺産に認定。

2021年(令和3年)3月に、浦賀ドックとその周辺部は住友重機械工業から横須賀市に無償で寄付された[1]

沿革
浦賀造船所
1853年嘉永6年) 幕府が浦賀造船所を設置
1854年安政元年) 「鳳凰丸」竣工
1859年(安政6年) 日本初のドライドック建造、咸臨丸の整備が行われる
1873年明治6年) 水兵練習所を設置
1876年(明治9年) 浦賀造船所廃止
1885年(明治18年) 水兵練習所を浦賀屯営と改称
1889年(明治22年) 浦賀屯営閉鎖、陸軍要塞砲兵幹部練習所となる。

浦賀船渠
1895年(明治28年) 10月 株式会社東京石川島造船所(現・株式会社IHI)が浦賀分工場を建設
1898年(明治29年)
 ・5月 陸軍要塞砲兵幹部練習所敷地を取得
 ・9月28日 創業総会
1897年(明治30年)
 ・2月 ドックの建設開始
 ・6月21日 浦賀船渠設立登記
1898年(明治31年) 11月 東京石川島造船所浦賀分工場の操業開始
1899年(明治32年) 11月 1号ドック完成
1900年(明治33年)
 ・1月 浦賀船渠の営業開始
 ・6月10日 新造第1船竣工
1902年(明治35年) 8月 東京石川島造船所浦賀分工場を買収、川間分工場とする。
1907年(明治40年) 浦賀で初の駆逐艦「長月」竣工
1914年大正3年)国内初の鋼製純貨物船[2]第五長久丸」竣工[注 1]
1923年(大正12年)
 ・7月 軽巡洋艦「五十鈴」竣工
 ・国会議事堂鉄骨工事
1924年(大正13年) 初の青函連絡船「翔鳳丸」竣工
1925年(大正14年) 5月 軽巡洋艦「阿武隈」竣工
1938年昭和13年) 大日本兵器設立。青島工廠の経営を委託される
1943年(昭和18年) 2月25日 W型戦時標準船のモデル船として第四青函丸竣工
1944年(昭和19年) 四日市造船所開設。翌年9月閉鎖
1945年(昭和20年) 9月28日 第十一青函丸が戦後竣工第1船となる
1948年(昭和23年) 8月31日 戦後初の旅載青函連絡船として「摩周丸」竣工、際立った豪華さを誇った。子会社として玉島デイゼル工業[注 2] を岡山県に設立。
1953年(昭和28年) - 子会社の玉島デイゼル工業株式会社が浦賀玉島デイゼル工業株式会社へ社名変更。
1955年(昭和30年) 敷設艇えりも竣工(戦後初の自衛艦建造)
1957年(昭和32年) - アメリカにニューヨーク事務所(現・SHI (USA) )開設。
1961年(昭和36年) 記念館三笠修復工事完了
1962年(昭和37年) 子会社の浦賀玉島デイゼル工業と合併し、浦賀重工業株式会社設立。

浦賀重工業
1964年(昭和39年) - イギリスにロンドン事務所(現・SHI (Europe) )開設。
1969年(昭和44年) 6月 住友機械工業と合併し住友重機械工業浦賀造船所となる
 住友機械工業と合併後については「住友重機械工業#沿革」を参照

歴代社長
[6]      
・初代・塚原周造
・2代・早崎源吾(大久保満寿子の弟)
・3代・浅野総一郎
・4代・足立太郎
・5代・町田豊千代(町田實秀の父)
・6代・山下亀三郎
・7代・今岡純一郎(今岡賀雄の父)
・8代・寺島健
・9代・堀悌吉
・10代・甘泉豊郎
・11代・多賀寛(昭和37年11月会社名が浦賀重工になる)
・12代・二瓶豊
・13代・大塚振武

主な製品
艦船
戦前
・軍艦
 ・軽巡洋艦五十鈴阿武隈
 ・敷設艦厳島 (II)
駆逐艦
 ・神風型駆逐艦 (初代)長月菊月
 ・樺型駆逐艦
 ・樅型駆逐艦
 ・若竹型駆逐艦早苗早蕨
 ・神風型駆逐艦 (2代)追風(II)
 ・睦月型弥生(II)水無月(II)望月
 ・吹雪型深雪磯波(II)狭霧潮(II)雷(II)
 ・初春型子日(II)初霜(II)
 ・白露型時雨(II)五月雨(II)山風(II)涼風
 ・朝潮型霞(II)
 ・陽炎型不知火(II)早潮時津風(II)浜風(II)萩風秋雲
 ・夕雲型風雲高波涼波岸波清波清霜
 ・秋月型宵月
・官公庁船
 ・関門連絡船長水丸豊山丸鉄道院旅客船
 ・青函連絡船:飛鸞丸(鉄道省・旅客兼車両鉄道連絡船
 ・青函連絡船・戦時標準船第三青函丸(浦賀タービン主機1号搭載、青函連絡船のモデル船)
 ・青函連絡船・W型戦時標準船第四青函丸(W型のモデル船)、第五〜第十青函丸運輸通信省
・民間船
 ・貨物船:第五長久丸、葛城丸
 ・貨客船白山丸   

戦後
住友機械工業と合併後については「住友重機械工業#過去の製品」を参照
自衛艦
 ・むらさめ型護衛艦 (初代)はるさめ (初代)
 ・はまな (給油艦)
 ・えりも (敷設艇)
・官公庁船
 ・だいおう型巡視船:むろと
 ・鉄道連絡船:第十一、第十二青函丸(運輸省W型戦時標準船、第十一青函丸は戦後竣工第1船)
 ・鉄道連絡船:北見丸日高丸国鉄
 ・鉄道連絡船:摩周丸(戦後初の客載青函連絡船、画期的な豪華船)
 ・鉄道連絡船:空知丸洞爺丸事故代替船)
 ・鉄道連絡船:津軽丸 (2代)(代替計画シリーズ第1船)、十和田丸 (2代)
・民間船
 ・ラッシュ船 アケェイディア・フォレスト

その他製品
クレーン
 ・自社80トンクレーン
橋梁
 ・大利根橋
 ・市川橋
 ・葛西橋
国会議事堂鉄骨工事
東大宇宙科学研究所ラムダロケット用ランチャー
・記念館三笠修復工事
・宇宙通信センターのパラボラアンテナ、30m,20m各1

関連会社、造船所
・大日本兵器
1936年昭和11年)にスイスエリコン社航空機用20mm機銃で技術提携、横浜市磯子区に富岡兵器製作所を設立し技術指導を仰いだ。1938年(昭和13年)に分離独立し大日本兵器(株)となる。戦後は日平産業と改称し、機械メーカーとなる。後にトヤマキカイと合併し、「日平トヤマ」を経て2008年(平成20年)10月より「コマツNTC」ヘ。

・青島工廠
1938年(昭和13年)に海軍より青島旧海軍工廠の経営を委託される。太平洋戦争の敗戦により中国軍が接収する。

・名古屋造船
1941年(昭和16年)6月、大同製鋼と共同出資し設立。1964年(昭和39年)に石川島播磨重工業に吸収合併される。現IHI愛知工場。

・四日市造船所
戦時中の船舶不足により、大型商船建造のため産業設備営団が施設を建設し、民間で経営する方式で造船所を建設。全国の4箇所で建造され(残りは三井造船安芸津、三菱重工業広島、日立造船神奈川)、四日市では年間10万総トンを予定する。1944年(昭和19年)3月に設備一部完成により開設。1945年(昭和20年)1月に第1船「鉄山丸」を起工するが6月の空襲による火災で造船所は焼失、1隻も竣工することなく9月に閉鎖された。「鉄山丸」のみ戦後に浦賀で工事を続行し、1947年(昭和22年)に竣工した。

周辺地区の再整備
施設の周辺地区について横須賀市では1991年に「浦賀国際文化村構想」、2003年に「浦賀港周辺地区再整備計画」が策定されたが、いずれも2018年に廃止になっている[4]。施設及び周辺部の無償寄付を受けて、横須賀市はドックを保存し工場跡地部分の活用方法を検討するとともに、ガイド付きの公開ができるよう準備を進める旨を公表している[1]

2021年(令和3年)浦賀ドックは住友重機械工業株式会社から横須賀市へ寄贈され、「浦賀レンガドック」として一般公開されている[7][8]

参考文献
・住友重機械工業株式会社『浦賀・追浜百年の航跡』(住友重機械工業 横須賀造船所、1997年)[9]
造船・船渠業B〔商工業:輸送用機器〕|渋沢栄一関連会社名・団体名変遷図 2023年6月19日閲覧。
浦賀船渠(株)『船渠六十年史』(1957.06)|渋沢社史データベース 2023年6月19日閲覧。
浦賀 - 現在の写真と共に浦賀の歴史を紹介
浦賀雑学 - ウェイバックマシン(2004年12月26日アーカイブ分)
毎日新聞、川間ドッグ:世界唯一の機構美 「貴重な産業遺産」に保存の声--横須賀 /神奈川、2007年6月12日
・「回想の浦賀建造艦船」『世界の艦船』610号、P131-139、2003年

脚注
注釈
1. 総噸数2,200tで建造当時としては東京湾に進水した船の中で最大のものだった[5]
2. 
船舶用ディーゼルエンジンの製作を主な事業としていた。

出典
a b c 広報よこすかNo.857(2021年5月号)『観光立市よこすか 新たな魅力の創出へ』” (PDF). 横須賀市. p. 2 (2021年5月). 2021年5月26日閲覧。
a b 『野州名鑑』下野新聞、1931年、1127 (平野義夫の項)頁。NDLJP:1226910/587
・尋常高等浦賀小学校職員懇和会 編『浦賀案内記』信濃屋書店、1915年、20頁。NDLJP:948261/29
a b 住重「浦賀ドック」、横須賀市に無償寄付 れんが積みの遺産"神奈川新聞、2020年12月12日(2020年12月12日閲覧)
・『工業雑誌』41(536)、工業雑誌社、1914年7月、81頁。NDLJP:1561622/31
・『浦賀・追浜百年の航跡』住友重機械工業株式会社横須賀造船所、1997年6月21日、資-1,資-2頁。
・“【公式】浦賀レンガドック|ワクワク横須賀”. www.wakuwaku-yokosuka.jp. 2023年6月19日閲覧。
“わがまちの渋沢栄一(第16回)浦賀ドック~神奈川県横須賀市~”. 青淵 (883): 34-35. (2022.10).
・“住友重機械工業(株)横須賀造船所『浦賀・追浜百年の航跡 : 1897-1997』(1997.06) | 渋沢社史データベース”. shashi.shibusawa.or.jp. 2023年6月19日閲覧。

関連項目
戦前の日本の造船所一覧
浦賀
住友重機械工業
サブマリン707 - 潜水艦漫画。浦賀ドックへ大破した707号が入渠する場面がある。

外部リンク
浦賀レンガドック
住友重機械工業株式会社
塚原周造 - 【浦賀ドック】
浦賀船渠(株)『浦賀船渠六十年史』(1957.06)    
(wikiより)

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⇧ 入り口横にある説明版。

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⇧⇩ 浦賀港。

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⇧⇩ 船尾方向から船首方向を見る。

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⇧⇩ ドッグの底に降りてみました。

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⇧ 船首が入る部分です。

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⇧ 船首方向から船尾方向を見る。

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⇧ 崩れたレンガ塀。

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⇩ 資料館。

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Part-1より続く。


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⇩ 資料館に入ってみました。

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所在地山口県下関市吉田1184
位置北緯34度5分8.31秒 東経131度4分16.17秒
山号清水山
宗旨禅宗
宗派曹洞宗
本尊白衣観音
創建年1869年(明治2年)
開基山縣有朋谷梅処
正式名清水山東行庵
別称(無隣庵)
札所等山陽花の寺8番
文化財高杉晋作墓
公式サイト史跡・高杉晋作墓所 花の寺 東行庵

東行庵(とうぎょうあん)は、山口県下関市にある曹洞宗寺院功山寺の末寺である。山号は清水山。山陽花の寺二十四か寺第八番札所。

歴史
東行庵の地は清水山といい、幕末の頃奇兵隊軍監山縣有朋(当時は狂介)は麓に草庵を建て「無鄰菴」と名付けていた。ちなみに後に山縣が京都に建てた別宅を無鄰菴というのは、この下関の無鄰菴にちなんで名付けられたものである。

慶応3年4月(1867年)に死去した高杉晋作の遺骸は、遺言により奇兵隊の本拠に近いこの地に葬られた。晋作に仕えていた愛人おうの(谷梅処)が出家し、山縣は1869年(明治2年)に無鄰菴をおうのに贈った。「東行」は晋作の号であり、おうのは1909年(明治42年)に亡くなるまで晋作をこの地で弔ったという。

東行(晋作)の没後100年を前に1966年(昭和41年)に大修理が行われ、同年、東行を顕彰する東行記念館が境内に建てられた。同館は2010年(平成22年)、下関市立東行記念館として再開館した。御朱印については東行記念館の受付で対応する。

前後の札所
山陽花の寺二十四か寺     
宗隣寺 -- 8 東行庵 -- 9 功山寺     

関連項目
谷梅処(おうの)
維新・海峡ウォーク    

外部リンク
史跡・高杉晋作墓所 花の寺 東行庵 
(wikiより)

メチャ画像が多いので途中で疲れると思います。

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東行庵 Part-2に続く。





〇 本龍寺由来

当山の前身は広撰山承国寺と云う。

濃州各務原郡鵜沼の城主大沢家の菩提寺である。

第二十代霧ヶ城の城主大沢和泉守正吉の舎弟伊賀守正継、延徳二年三月 ( 1490 ) に承国寺に入り、明応二年 ( 1493 ) 蓮如上人に帰依するに至って、禅寺から浄土真宗末寺に転じ、永正十一年 ( 1514 ) 実如上人より坊号を頂き西蔵坊と称し、同年八月尾州犬山余坂村小島の里に引寺、其の後慶長十四年 ( 1609 ) 四ツ屋「現寺内町」に移す。

而して同年七月教如上人より本龍寺の名を賜り。

元文四年 ( 1729 ) 十一月十六日に、本堂以下全焼し、寛政二年 ( 1790 ) 十一月再建される。
(案内板より)

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〇 犬山市忠魂碑に付て

本神社内の忠魂碑は、日清日露両戦争初め大東亜戦争に到る迄、我が国日本の為に若き生命を捧げたられたる尊き忠義の魂を我々国民は永久に顕彰するため、建立せられたるものなり。

特に此の忠魂碑は郷土犬山市の在住せられたる御遺族と共に嘗て戦友であった、当市郷友会が忠魂を御守護し顕彰する責任を以て維持管理するものである。

附記
明治天皇が明治四年に明治維新以来国家のために功績のあった、人々の魂を顕彰するために招魂社を御建立せられた。

後に現在の靖国神社である。
(案内板より)

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