カテゴリ: 史跡・名所・旧跡・城・駅・灯台・関所
9190 ひょうたん井戸(下関市伊崎町1丁目)
9189 大阪屋(山口県下関市竹崎町3-13-2)
9188 白石宅一郎宅跡碑(山口県下関市竹崎町3-8-13)
9187 高杉晋作 奇兵隊結成の地碑(山口県下関市竹崎町3-8-13)
9186 光明寺(山口県下関市細江町1-7-10)
9185 包丁塚(山口県下関市豊前田町1-1-23・東光寺)
9184 東光寺(山口県下関市豊前田町1-1-23)
| 所在地 | 山口県下関市豊前田町1-1-23 |
|---|---|
| 位置 | 北緯33度57分10.4秒 東経130度55分45.3秒 |
| 山号 | 浄瑠璃山 |
| 宗派 | 曹洞宗 |
| 本尊 | 薬師如来 |
| 創建年 | 1199年(正治元年) |
| 開基 | 文覚上人 |
| 札所等 | 中国四十九薬師霊場 第31番 |
東光寺(とうこうじ)は、山口県下関市豊前田町にある寺院。正治元年(1199年)、文覚上人の開基と伝えられる。本尊の薬師如来像は聖徳太子の作と伝えられている。
歴史
豊前田町にあり。はじめは薬師堂として、新地町にあって真言宗。のち時宗になり、さらに貞享3年(1686年)禅宗に改まり、宝永元年(1704年)東光寺と称した。
寺伝によれば、正治元年(1199年)高雄の文覚上人が開基した。江戸時代は萩藩歴代の遥拝所であったが、享保5年(1720年)現在地に移転したという。
参考文献
・富永浩平 『中国四十九薬師巡礼』、中国四十九薬師霊場会編、朱鷺書房、1997年、ISBN 4886023118、140-143頁。
(wikiより)











9183 山口県国際総合センター(山口県下関市豊前田町3-3-1)
| 用途 | コンベンションセンター 多目的ホール オフィスビル(国際貿易ビル) 展望塔(海峡ゆめタワー) |
|---|---|
| 設計者 | NTTファシリティーズ[1] |
| 事業主体 | 山口県 |
| 管理運営 | 一般財団法人山口県国際総合センター NTTファシリティーズ[2] |
| 構造形式 | 鉄筋コンクリート造及び鉄骨造 |
| 敷地面積 | 7,841 m² |
| 延床面積 | 30,582 m² [3] |
| 階数 | 地上10階、地下1階(国際貿易ビル) 地上4階(アリーナ) 地上30階(海峡ゆめタワー)[3] |
| 高さ | 153m(海峡ゆめタワー) |
| 着工 | 1994年7月5日[3] |
| 竣工 | 1996年6月30日[3] |
| 開館開所 | 1996年8月1日[3] |
| 所在地 | 〒750-0018 山口県下関市豊前田町3丁目3番1号 |
| 備考 | 事業費 【土地】約68億円(県:50%、市:50%) 【建物】約200億円(県:276億円、財団:24億円)[3] |
山口県国際総合センター(やまぐちけんこくさいそうごうセンター)は、山口県下関市豊前田町3丁目3番1号にある、山口県と一般財団法人山口県国際総合センターが設置し、同財団法人が管理・運営する会議・展示施設。通称は海峡メッセ下関(かいきょうメッセしものせき)[4]。
概要
細江地区の旧日本国有鉄道貨物ヤード(関門連絡船貨車航送場)跡地を対象とした再開発事業「海峡あいらんど21」計画の一環として、海峡ゆめ広場(1989年(平成元年)9月完成)に隣接する土地に建設された[4]。なお、同センターの建設計画は、県立の文化施設を県内各地にバランスよく配置する意図をもって、岩国市のシンフォニア岩国と萩市の山口県立萩美術館・浦上記念館の建設と一体をなすものとして、推し進められた。
1994年(平成6年)7月から建設が始められ、1996年(平成8年)6月に完成、同年8月1日にオープン(海峡ゆめタワーは7月20日に先行オープン[5])した。
施設
敷地面積は7,841m2、延床面積 30,587m2で、地上10階のオフィスビル「国際貿易ビル」(延床面積:14,684.21㎡)、地上4階のイベントホール・展示見本市会場「アリーナ」(6,957.97㎡)、展望塔「海峡ゆめタワー」(2,439.2㎡)、立体駐車場から構成される。
海峡ゆめタワー
海峡ゆめタワーの高さは153m、展望室の高さは地上143m[5]。これは西日本の自立型タワーの中では最も高い(ただし、超高層ビルを含めた展望室の高さを比較した場合、大阪市のあべのハルカス ハルカス300が288mで西日本一)。形状が特徴的で、展望室が球体状になっている。球体状の展望室はこのタワーが世界最初だった[5]。夜はライトアップされ、関門海峡周辺(下関市街地・門司港レトロ、関門橋など)の夜景を楽しめる。歴史に関する展示もあり、「壇ノ浦の戦いの地」や「巌流島の決闘場」を実際に見下ろしながら学ぶことが出来る[5]。
国際貿易ビル
国際貿易ビルには、4ヵ国語同時通訳設備のある国際会議場や多目的ホール「海峡ホール」が設けられているほか、様々なテナントが入居している。アリーナのイベントホールでは、2002年(平成14年)に国際捕鯨委員会 (IWC) の年次総会が開催された。
主なテナント
・ジェトロ山口
・パスポートセンター
・NHK下関支局
・yab山口朝日放送下関支局
・ワイエム証券本社
・ゆうちょ銀行山口地域センター
・山口県日中経済交流促進協会
交通
・JR西日本下関駅より徒歩約3分。
・下関港国際ターミナルよりすぐ近く。
・サンデン交通「豊前田」バス停下車
近隣施設
・海峡ゆめ広場
・下関駅
・シーモール下関
・下関港国際ターミナル
・下関警察署
・下関市民会館
・エディオン下関店
脚注
1. 建築作品集>山口県国際総合センター - NTTファシリティーズ公式サイト、2015年9月12日閲覧
2. ソリューション事例>財団法人山口県国際総合センター様 - NTTファシリティーズ公式サイト、2015年9月12日閲覧
3. a b c d e f 山口県国際総合センターの概要 - 海峡メッセ下関公式サイト
4. a b “甦る土地 海峡メッセ下関”. 交通新聞 (交通新聞社): p. 2. (1997年5月14日)
5. a b c d 『日本展望タワー大全』(2020年9月10日、かねだひろ著、辰巳出版発行)134頁。
外部リンク
・海峡メッセ下関
・海峡ゆめタワー
(wikiより)



9182 勝安寺(山口県下関市豊前田町2-2-8)
9181 明治維新豪商白石雅一郎邸海門跡地(山口県下関市竹崎町3-8-13)
9180 七卿西下図(山口県下関市竹崎町1-13-10・大歳神社)
9178 大歳神社の一二三坂(山口県下関市竹崎町1-13-10・大歳神社)
9177 大歳神社(山口県下関市竹崎町1-13-10)
| 所在地 | 山口県下関市竹崎町一丁目13-10 |
|---|---|
| 位置 | 北緯33度57分5.2秒 東経130度55分31.8秒 |
| 主祭神 | 木花咲耶姫神(大歳御祖神) |
| 社格等 | 旧村社 |
| 創建 | 文治年(1186年) |
大歳神社(おおとしじんじゃ)は、山口県下関市竹崎町にある神社。旧社格は村社。
由緒
平安時代末期の源平合戦において、平家追討のため西国へ下った源義経が、武運の守護神・富士浅間神社の御祭神・大歳御祖大神に戦勝祈願を行った。義経は平家が布陣する彦島を望む有明山(大歳山・円山)に富士の小松を植え、篝火を焚き、二日二夜の沐浴して潔斎を行い、祈念を込めた桑の弓矢をもって平知盛の率いる平家軍に開戦の矢文を放った。
平家軍は急遽壇ノ浦に軍船を進めて戦ったが、待機していた源範頼の軍勢と義経軍の挟み撃ちにあい、平家は敗れ、義経率いる源氏軍の勝利となった。翌年の文治2年(1186年)、四軒の漁民が義経の祈願のありさまを畏敬して神祠を祀ったことが大歳神社の由来となる。
以来、武運長久の神として明治維新の際には奇兵隊旗揚げの軍旗が奉納された。大鳥居は文久2年(1862年)に白石正一郎が攘夷必勝を祈念して奉納した。
アクセス
・下関駅から徒歩5分
関連項目
・壇ノ浦の戦い
(wikiより)
























9176 車両航送発祥の地碑(山口県下関市竹崎町4-3)
9175 下関漁港閘門(山口県下関市彦島本村町6-1-1)
9174 第4期拡張事業完成記念碑(下関市彦島)
9173 西楽寺(山口県下関市彦島本村町5-3-1)
9159 慈眼寺(東京都豊島区巣鴨5-35-33・慈眼寺)
| 山号 | 正寿山 |
|---|---|
| 宗派 | 日蓮宗 |
| 本尊 | 一塔両尊四士・日蓮聖人 |
| 創建年 | 安土桃山時代 - 江戸時代初期 |
| 開山 | 了現院日盛 |
慈眼寺(じげんじ)は、東京都豊島区にある日蓮宗の寺院。
歴史
安土桃山時代から江戸時代初期、了現院日盛によって開山された。元々は深川六間掘猿子橋(現・江東区新大橋)にあり、1615年(元和元年)に日盛の弟子の慈眼院日遼によって寺院化した。その後、1693年(元禄6年)に本所猿江(現・江東区猿江)に移転した[1]。
1907年(明治40年)と1910年(明治43年)の水害により壊滅的打撃を受けた。1912年(明治45年)、谷中にあった妙伝寺と合併し、現在地に移転した[1]。
墓地墓地には、下記の人物が葬られている[1]。
・浦里・時次郎比翼塚(『明烏夢泡雪』の登場人物)
・小林平八郎(吉良家家老、赤穂浪士と戦い、斃れる)
・斎藤鶴磯(儒学者)
・司馬江漢(絵師、蘭学者)
・芥川龍之介(小説家)
・谷崎潤一郎(小説家)
・菊島隆三(脚本家)
交通アクセス
・新庚申塚停留場より徒歩7分。
脚注
1. a b c 豊島区立郷土資料館 編『豊島の寺院(豊島区立郷土資料館調査報告第二集)』豊島区教育委員会、1986年、41-42p
参考文献
・豊島区立郷土資料館 編『豊島の寺院(豊島区立郷土資料館調査報告第二集)』豊島区教育委員会、1986年
(wikiより)






9133 大衆帰本塚(横須賀市浦賀3-3-13・サンドラッグ浦賀店隣り)
9132 浦賀造船所(浦賀4-7)
浦賀船渠(うらがせんきょ)は、神奈川県横須賀市浦賀地区にあった造船所。通称浦賀ドック。日本海軍の駆逐艦建造で有名である。太平洋戦争後も艦艇の建造が続けられたが、2003年(平成15年)に閉鎖された。
2021年(令和3年)3月に、施設及び周辺部が住友重機械工業から横須賀市に無償で寄付された[1]。
1910年の浦賀の様子
概要
幕府の浦賀造船所
浦賀での造船の歴史は1853年(嘉永6年)のペリー来航までさかのぼる。この時江戸幕府は「大船建造の禁」を解いて浦賀造船所を設置、直ちに軍艦の建造を始め、7か月を掛けて国産初の洋式軍艦「鳳凰丸」を建造した。これは浦賀奉行所与力の中島三郎助らに軍艦の建造を命じたことが始まりである。また1859年(安政6年)には日本初のドライドックが完成し、アメリカへ向かう咸臨丸の整備が行われている。しかし小栗忠順らにより、横須賀港に製鉄所を建設することを決定し(後の横須賀造船所、横須賀海軍工廠)、艦艇建造の中心は横須賀へ移り、浦賀造船所は1876年(明治9年)に閉鎖された。
浦賀船渠
中島三郎助の意志を継いだ荒井郁之助・榎本武揚・塚原周造が中心となり、1897年(明治30年)に浦賀船渠が設立。かつての浦賀造船所と同じ場所に工場が建設された。同時期に同じ浦賀に建設された東京石川島造船所(現:IHI)の浦賀分工場との間で、艦船建造・修理の受注合戦が繰り広げられたという。この競争はダンピング合戦を生み、両社の経営を悪化させた。ほどなくして石川島の浦賀分工場を浦賀船渠が買収、自社工場とすることで決着した。
石川島との競争や、フィリピンへの砲艦輸出が不調となるなど、当初は経営が思わしくなく、渋沢栄一や浅野総一郎などが再建に手を差し伸べた。1912年(明治45年)に就任した第5代社長によりようやく経営が安定した。その後の第一次世界大戦による好況(特需景気)もあり経営は立ち直った。
艦艇の建造は、日露戦争時に横須賀工廠から艦載水雷艇を受注したことに始まる。1907年(明治40年)に初めて駆逐艦「長月」を建造した。その後も小艦艇建造を中心的業務としており、特に駆逐艦の建造で有名で、大阪にあった藤永田造船所と共に駆逐艦建造の名門であり、「西の藤永田、東の浦賀」と呼ばれていた(軽巡洋艦 2隻、駆逐艦 44隻、海防艦 11隻+2隻未完)。
1914年(大正3年)には国内初の鋼製純貨物船[2]として「第五長久丸」が竣工。注目されていたこの船が成績優良につき、同型船6隻及びさらに大型の船6隻も受注して開業以来の盛況を呈した[3]。その後1924年(大正13年)には国内初の旅客兼車両渡船(鉄道連絡船)として青函連絡船「翔鳳丸」と「飛鸞丸」が竣工。両船の就航後の成績も良好で、その後多くの青函連絡船を浦賀で建造する事となった。
戦後
太平洋戦争後も海上自衛隊向けに艦艇建造を続け、米空母ミッドウェイの大規模改修、日本丸建造なども行われた。住友機械工業と合併した際、追浜造船所(現横須賀造船所)を開設、民間船建造はこちらに移った。浦賀地区は工場集約のため2003年(平成15年)に閉鎖された。閉鎖後は資材置場として使用されてきた[4]。
浦賀船渠の第1号ドック(通称浦賀ドック)は世界に4か所にしか現存していないレンガ積みドライドックのうちのひとつとなっている。国内でも明治期のものは浦賀ドックと川間ドック跡しかなく、両者とも貴重な文化遺産である。
2007年(平成19年)11月30日、浦賀船渠の第1号ドック、ポンプ施設、ドックサイドクレーンが近代化産業遺産に認定。
2021年(令和3年)3月に、浦賀ドックとその周辺部は住友重機械工業から横須賀市に無償で寄付された[1]。
沿革
浦賀造船所
・1853年(嘉永6年) 幕府が浦賀造船所を設置
・1854年(安政元年) 「鳳凰丸」竣工
・1859年(安政6年) 日本初のドライドック建造、咸臨丸の整備が行われる
・1873年(明治6年) 水兵練習所を設置
・1876年(明治9年) 浦賀造船所廃止
・1885年(明治18年) 水兵練習所を浦賀屯営と改称
・1889年(明治22年) 浦賀屯営閉鎖、陸軍要塞砲兵幹部練習所となる。
・1895年(明治28年) 10月 株式会社東京石川島造船所(現・株式会社IHI)が浦賀分工場を建設
・1898年(明治29年)
・5月 陸軍要塞砲兵幹部練習所敷地を取得
・9月28日 創業総会
・1897年(明治30年)
・2月 ドックの建設開始
・6月21日 浦賀船渠設立登記
・1898年(明治31年) 11月 東京石川島造船所浦賀分工場の操業開始
・1899年(明治32年) 11月 1号ドック完成
・1900年(明治33年)
・1月 浦賀船渠の営業開始
・6月10日 新造第1船竣工
・1902年(明治35年) 8月 東京石川島造船所浦賀分工場を買収、川間分工場とする。
・1907年(明治40年) 浦賀で初の駆逐艦「長月」竣工
・1914年(大正3年)国内初の鋼製純貨物船[2]「第五長久丸」竣工[注 1]
・1923年(大正12年)
・7月 軽巡洋艦「五十鈴」竣工
・国会議事堂鉄骨工事
・1924年(大正13年) 初の青函連絡船「翔鳳丸」竣工
・1925年(大正14年) 5月 軽巡洋艦「阿武隈」竣工
・1938年(昭和13年) 大日本兵器設立。青島工廠の経営を委託される
・1943年(昭和18年) 2月25日 W型戦時標準船のモデル船として第四青函丸竣工
・1944年(昭和19年) 四日市造船所開設。翌年9月閉鎖
・1945年(昭和20年) 9月28日 第十一青函丸が戦後竣工第1船となる
・1948年(昭和23年) 8月31日 戦後初の旅載青函連絡船として「摩周丸」竣工、際立った豪華さを誇った。子会社として玉島デイゼル工業[注 2] を岡山県に設立。
・1953年(昭和28年) - 子会社の玉島デイゼル工業株式会社が浦賀玉島デイゼル工業株式会社へ社名変更。
・1955年(昭和30年) 敷設艇えりも竣工(戦後初の自衛艦建造)
・1957年(昭和32年) - アメリカにニューヨーク事務所(現・SHI (USA) )開設。
・1961年(昭和36年) 記念館三笠修復工事完了
・1962年(昭和37年) 子会社の浦賀玉島デイゼル工業と合併し、浦賀重工業株式会社設立。
浦賀重工業
・1964年(昭和39年) - イギリスにロンドン事務所(現・SHI (Europe) )開設。
・1969年(昭和44年) 6月 住友機械工業と合併し住友重機械工業浦賀造船所となる
→住友機械工業と合併後については「住友重機械工業#沿革」を参照
歴代社長
[6]
・初代・塚原周造
・2代・早崎源吾(大久保満寿子の弟)
・3代・浅野総一郎
・4代・足立太郎
・5代・町田豊千代(町田實秀の父)
・6代・山下亀三郎
・7代・今岡純一郎(今岡賀雄の父)
・8代・寺島健
・9代・堀悌吉
・10代・甘泉豊郎
・11代・多賀寛(昭和37年11月会社名が浦賀重工になる)
・12代・二瓶豊
・13代・大塚振武
主な製品
艦船
戦前
・軍艦
・軽巡洋艦:五十鈴、阿武隈
・敷設艦:厳島 (II)
・駆逐艦
・神風型駆逐艦 (初代):長月、菊月
・樺型駆逐艦:桐
・樅型駆逐艦:柿、萩、菱、蓮
・若竹型駆逐艦:早苗、早蕨
・神風型駆逐艦 (2代):追風(II)
・睦月型:弥生(II)、水無月(II)、望月
・吹雪型:深雪、磯波(II)、狭霧、潮(II)、雷(II)
・初春型:子日(II)、初霜(II)
・白露型:時雨(II)、五月雨(II)、山風(II)、涼風
・朝潮型:霞(II)
・陽炎型:不知火(II)、早潮、時津風(II)、浜風(II)、萩風、秋雲
・夕雲型:風雲、高波、涼波、岸波、清波、清霜
・秋月型:宵月
・官公庁船
・関門連絡船:長水丸、豊山丸(鉄道院・旅客船)
・青函連絡船:飛鸞丸(鉄道省・旅客兼車両鉄道連絡船)
・青函連絡船・戦時標準船:第三青函丸(浦賀タービン主機1号搭載、青函連絡船のモデル船)
・青函連絡船・W型戦時標準船:第四青函丸(W型のモデル船)、第五〜第十青函丸(運輸通信省)
・民間船
・貨物船:第五長久丸、葛城丸
・貨客船:白山丸
戦後
→住友機械工業と合併後については「住友重機械工業#過去の製品」を参照
・自衛艦
・むらさめ型護衛艦 (初代):はるさめ (初代)
・はまな (給油艦)
・えりも (敷設艇)
・官公庁船
・だいおう型巡視船:むろと
・鉄道連絡船:第十一、第十二青函丸(運輸省・W型戦時標準船、第十一青函丸は戦後竣工第1船)
・鉄道連絡船:北見丸、日高丸(国鉄)
・鉄道連絡船:摩周丸(戦後初の客載青函連絡船、画期的な豪華船)
・鉄道連絡船:空知丸(洞爺丸事故代替船)
・鉄道連絡船:津軽丸 (2代)(代替計画シリーズ第1船)、十和田丸 (2代)
・民間船
・ラッシュ船 アケェイディア・フォレスト
その他の製品
・クレーン
・自社80トンクレーン
・橋梁
・大利根橋
・市川橋
・葛西橋
・国会議事堂鉄骨工事
・東大宇宙科学研究所のラムダロケット用ランチャー
・記念館三笠修復工事
・宇宙通信センターのパラボラアンテナ、30m,20m各1
詳しいことは、「浦賀船渠ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%A6%E8%B3%80%E8%88%B9%E6%B8%A0
(wikiより)


9131 浦賀の渡し(横須賀市西浦賀1-18-2)
9130 関東大震災の慰霊塔(横須賀市西浦賀町1)
9129 船番所跡(横須賀市西浦賀1-11-1)
9128 浦賀港引揚記念の碑(横須賀市西浦賀1-11-2)
9126 三命地蔵(横須賀市西浦賀5-15-31・寿光院)
9125 浦賀奉行所跡(横須賀市西浦賀5-17)
9124 千代ケ崎砲台跡(横須賀市西浦賀6-5-1)
千代ヶ崎砲台跡は 1892年(明治25年)12月起工、1895年(明治28年)2月竣工した砲台である。これらの砲台跡は、築造当初の姿を良好にとどめており、我が国近代の軍事、築城技術の具体的様相を理解するうえで重要である。[2]
榴弾砲砲台(28cm榴弾砲6門を備砲)と、近接防御砲台(15cm臼砲4門、機関砲4門等を備砲)から構成され、前者は観音崎堡塁群の南方海上と浦賀湾口の海正面防御、後者は上陸した敵兵に対する防御を役割とした。榴弾砲砲台は、南北の直線上に1砲座2砲床の3砲座が配置され、砲座は西側に平行して存在する塁道と地下交通路で連絡し、塁道―砲座間の地下には砲側弾薬庫、掩蔽部、貯水所などの地下施設が付帯する。煉瓦組積法はイギリス積またはオランダ積で、隧道内施設の前面壁と室内、交通路の脚壁では普通煉瓦、露天空間に設けられた施設の前面壁、あるいは露天空間と接する隧道の出入り口には、雨水に対する防水と帯水防止のため焼過煉瓦を用いて[1]おり、第一砲座入口や一部構造物で煉瓦による斜めアーチ構造物[3]であるねじりまんぽ(斜架拱)も見ることができる。
1960年から2010年まで、海上自衛隊横須賀通信隊千代ヶ崎送信所として使われていた。当時は中波で数字ばかりのモールス信号を送っていた。その際は、第二および第三砲座は埋没していた[4]。
2015年に国の史跡に指定され、日本遺産の構成文化財としても認定された。横須賀市が整備を行い、2021年10月23日からは土日祝日のみ無料一般公開が行われており、無料の現地ガイド[5]がある。
千代ヶ崎砲台跡に関しては、明らかに追加指定が必要とされる区域( 千代ヶ崎砲塔砲台 大正14年5月完成 鹿島 (戦艦)の45口径30cm加農砲塔跡などがある[6])があり、また、東京湾要塞跡を構成する砲台跡は市内だけでも夏島砲台跡、走水低砲台跡、観音崎砲台跡等が指定に至らず、現在に至っている。[2]。
明治以前の歴史的背景は江戸湾防禦に当たった会津藩は現在の 千代ヶ崎の海側一部にあたる平根山に海防施設として平根山台場を1811年(文化8年)に設置、1837年(天保8年)にはモリソン号事件で砲撃した場所とされている。また、赤星忠直らによって縄文時代の土器なども発掘されている[7]。
砲塔砲台はファーマシーガーデン浦賀となっており一般の立ち入りはできない。
ギャラリーについては「千代ケ崎砲台跡ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E4%BB%A3%E3%82%B1%E5%B4%8E%E7%A0%B2%E5%8F%B0%E8%B7%A1
交通
・京浜急行久里浜線京急久里浜駅から京浜急行バス(久9・19・29)千代ヶ崎 浦賀駅 ゆき バスに乗車、「燈明堂入口」で下車し坂道を登る 。バス停から徒歩15分 (アクセスマップ)。
・京浜急行本線浦賀駅から京浜急行バス(久9・19) 千代ヶ崎 京急久里浜駅 ゆき バスに乗車、 「燈明堂入口」で下車し坂道を登る。バス停から 徒歩15分(アクセスマップ)。
・自転車、バイク、自動車の場合、「燈明堂入口」バス停 または シティーマリーナヴェラシスを目印に海側に向かい、千代ヶ崎砲台駐車場(料金は無料)に駐車の後、坂道を上り徒歩5分ほど [5]。また、近隣の燈明堂に有料駐車場あり。
・敷地内には車輌(自転車やバイクを含む)の乗り入れはできない[8]。
・MEGURUプロジェクトで浦賀ドックと千代ケ崎砲台をめぐるツアーガイドバスを(株)トライアングルが運行している。(2022年1月23日迄・以後運用未定)[9]
脚注
1. a b “国指定文化財等データベース”. 文化庁. 2022年1月6日閲覧。
2. a b “史跡東京湾要塞跡猿島砲台跡千代ヶ崎砲台跡整備基本計画”. 教育委員会事務局教育総務部生涯学習課 担当:文化財係. p. 12. 2022年1月6日閲覧。
3. 小野田滋, 河村清春, 須貝清行, 神野嘉希「組積造による斜めアーチ構造物の分布とその技法に関する研究」『土木史研究』第16号、土木学会、1996年、117-132頁、doi:10.2208/journalhs1990.16.117、ISSN 0916-7293、NAID 130004038298。
4. 黒田泰介「東京湾要塞 千代ヶ崎砲台跡 榴弾砲砲台 第三砲座に関する考察」『日本建築学会計画系論文集』第766号、日本建築学会、2019年12月、2629-2638頁、doi:10.3130/aija.84.2629、ISSN 1340-4210、NAID 130007777649。
5. a b “千代ケ崎砲台サポーターの会”. 千代ヶ崎砲台跡サポーターの会デジタル班. 2022年1月6日閲覧。
6. 『日本の要塞』学習研究社、2003年10月1日、98-105頁。
7. “横須賀市平根山遺跡”. 横須賀市自然・人文博物館. 2022年1月6日閲覧。
8. “よこすかの文化財 > 国史跡東京湾要塞跡史跡整備 > 千代ヶ崎砲台跡の公開”. 横須賀市ホームページ. 2022年1月6日閲覧。
9. “【初公開の千代ヶ崎砲台・圧巻のレンガドック】知られざる浦賀の裏側を旅するイベントが始まりました。”. (株)トライアングル. 2022年1月6日閲覧。
10. 原剛『明治期国土防衛史 (錦正社史学叢書)』錦正社、2002年2月1日。ISBN 4764603144。
参考サイト
・横須賀ルートミュージアム
・横須賀市ホームページ(千代ケ崎砲台跡の公開)
・東京湾要塞砲台マップ【三浦半島】
・千代ヶ崎砲台跡サポーターの会(Twitter)
・東京湾要塞 千代ヶ崎砲台へようこそ ( 千代ケ崎砲台跡活用サポーターの会で運用している) (wikiより)




⇧ 内部の白い部分は「漆喰」です。








⇧ 天井部も良い造りです。




⇧⇩ 砲弾の貯蔵庫です。

⇧⇩ 隣の貯蔵庫から砲弾を移動させて、上の穴からクレーンで引き揚げます。



⇧ 下の階から上げた砲弾を大砲まで移動させていた装置なのですが、戦後のドサクサで鉄部分が盗られてしまいました。



⇧⇩ 大砲が設置されていた場所です。

⇧ 奥の丸い部分にも大砲が設置されていました。


⇧ 丸い穴の部分に命令が聞こえるようにパイプが通っていました。

⇧⇩ 小菅 ( 現小菅拘置所 ) で作られていた煉瓦。( 桜マーク )


⇧ 通風孔

⇧ 砲台を上から見る。




⇧ 東京湾方向。



⇧ 埋められた通風孔。




9119 屯営跡の碑(横須賀市浦賀4-7)
9118 千代岬瘞骨志碑(横須賀市西浦賀6)
9117 地蔵菩薩像供養塔(横須賀市西浦賀6)
9116 橙明堂跡(横須賀市西浦賀6)
燈明堂(とうみょうどう)は[† 1]、神奈川県横須賀市の浦賀港入り口にあたる燈明崎の先端に、江戸時代に築造された和式灯台である[1]。
概要
天正18年(1590年)の、徳川家康の江戸城入城後、江戸を中心とした水運は急速な発展を見せるようになった。水運の発展に伴い、東京湾入り口に近く、浦賀水道に面する入江である浦賀は港として大きく発展し、浦賀港に入港する船の安全を図る必要に迫られた。また浦賀水道を通行する船の増大は、夜間に浦賀水道を通過する船の安全策を講ずる必要性も高まってきた[2]。
慶安元年(1648年)、江戸幕府は浦賀港入り口の岬に和式灯台である燈明堂を建設した[1]。燈明堂は篝火ではなく堂内で油を燃やすことによって明かりを得ており、堂内には夜間は燈台守が常駐していた[3]。当時は夜間に明かりがほとんどなかったこともあって、燈明堂の明かりは対岸の房総半島からも確認できたと言われている[4]。建設当初は江戸幕府が燈明堂の修復費用を負担し、当時の東浦賀村と浦賀港の干鰯問屋が灯火の費用を負担していたが、元禄5年(1692年)以降[† 2]は浦賀港の干鰯問屋が修復費用も捻出するようになった[5]。
海に突き出た岬上にある燈明堂は、台風などの暴風や大地震による津波によって建物や石垣が崩されることがあった。しかし東京湾を通行する船の安全を守る役割を果たしていた燈明堂は、建物が破損してもただちに仮設の燈明堂を建設し、明かりが絶えないように努力がなされた[6]。
明治2年(1869年)、日本初の洋式灯台である観音埼灯台が建設されたことによって、燈明堂はその使命を終え、明治5年(1872年)に廃止となった[7]。廃止後も明治27年(1894年)ないし明治28年(1895年)頃まで燈明堂の建物は残っていたが、その後崩壊して石垣のみが残されていた[8]。
浦賀の燈明堂は昭和43年(1968年)に横須賀市の史跡に指定された。昭和62年(1987年)には燈明堂とその周辺の発掘が行なわれ、翌昭和63年(1988年)には燈明堂がある岬への遊歩道の整備と、燈明堂の西側にあったと伝えられていた高札場の発掘が実施された[1]。そして文献調査と発掘調査を踏まえ、昭和63年(1988年)に横須賀市は燈明堂の復元に取り掛かり、平成元年(1989年)3月に復元工事は完成し、復元された燈明堂とその周辺は現在は公園として整備されている[9]。
歴史
浦賀の発展と燈明堂
三浦半島は古代より相模と上総を結ぶ海上交通の要衝であり、現在の横須賀市東部はリアス式海岸で船の停泊に適した場所が多かったこともあり、中世以降水運が発達するようになった。特に天正18年(1590年)の徳川家康の江戸入城、そして慶長8年(1603年)の江戸幕府の成立によって、現在の東京湾の水運は飛躍的な発展を見せるようになった[10]。
水運の飛躍的な発達に伴い、東京湾を航行する船が通過する浦賀水道の重要性が高まり、浦賀水道に面する深い入江である浦賀には風待ちの船が多く集まるようになり、また干鰯問屋などの商人たちも集まって栄えるようになった[11]。そして享保5年(1720年)には浦賀奉行所が設置され、東京湾口にあって交通の要衝である浦賀は、往来する船やその積荷を検査する場としての役割も担うようになった[12]。
港湾としての重要性を増した浦賀に入港する船の安全と、東京湾の入り口である浦賀水道の航行の安全を図る必要性が高まる中、江戸幕府は慶安元年(1648年)、石川六左衛門重勝と能勢小十郎頼隆の指図のもと、浦賀に燈明堂を建設した[13]。
燈明堂の運営
浦賀の燈明堂は、浦賀水道を航行する船と浦賀港を利用する船の航行安全を図るために江戸幕府が建設したという経緯から、当初修繕などの維持費用は幕府が負担していた。一方、建設当初は菜種油、その後魚油を用いた燈明の燃料代と燈明堂の燈台守については当時の東浦賀村と、寛永19年(1642年)に成立した浦賀の干鰯問屋が受け持つことになっていた[17]。
ところが元禄5年(1692年)になって、上総の干鰯問屋が浦賀への新規進出を目論み、幕府に対して浦賀への新規進出を認めてもらえたら運上金の納入と燈明堂の維持費用を全て負担すると申し出た。当時15軒あった浦賀の干鰯問屋は新規進出を阻むため、同様の条件を幕府に提示し、上総の干鰯問屋の新規進出を認めないように嘆願した。結局、上総の干鰯問屋の浦賀進出は幕府より許可されることはなかったが、以降燃料代と燈台守ばかりではなく燈明堂の維持費用も浦賀の干鰯問屋が負担することになった[5]。
岬の先端にある燈明堂は、台風などによる暴風や大地震による津波によってしばしば大きな被害を蒙り、老朽化に伴う修繕も必要であった。まず享保8年(1723年)には暴風によって建物が倒壊した[8]。そして文政12年(1829年)には80両を費やした大修理が行われたものの、直後の天保3年(1832年)と天保4年(1833年)には二年連続台風に襲われ、建物ばかりではなく石垣も崩されてしまったため、234両を費やして修復が行なわれた[6]。そして安政元年(1854年)には安政東海地震に伴う津波に襲われ、燈明堂は大きく破壊された[8]。江戸時代の中期以降、浦賀で取り扱う干鰯の量が減少していくようになり、干鰯問屋の経営が厳しくなっていく中で燈明台の維持管理を担うことは大きな負担となったが、倒壊後には直ちに仮設の燈明堂を設置するなど、浦賀の干鰯問屋らは浦賀港に入港する船と浦賀水道の航行安全に不可欠な燈明堂の維持管理に尽力し続けた[6]。
観音埼灯台の建設と燈明堂の廃止
安政東海地震に伴う津波による倒壊の直前である嘉永6年(1853年)のペリー艦隊の来航時には、浦賀の燈明堂はペリー艦隊の航行の目安ともなった。そしてペリー来航によって鎖国体制が終焉し、欧米各国などの船が盛んに往来するようになる中、沿岸部の燈明台などの明かりしかない日本の沿岸航行は大きな危険を伴うと認識されるようになった[3]。
明治2年(1869年)、フランス人技術者レオンス・ヴェルニー設計の、光源にレンズを用いた最初の洋式灯台である観音埼灯台が点灯した。観音埼灯台の完成により浦賀の燈明堂はその役割を終え、明治5年(1872年)に廃止されることになった[18]。燈明堂廃止後も明治27年(1894年)ないし明治28年(1895年)頃まで燈明堂の建物は残っていたが、その後崩壊して石垣のみが残されるようになった[8]。
燈明堂の構造について
燈明堂は下部の石垣と上部の木造建物で構成されていた。上部の木造建物は現在に残されている絵図から判断すると上下二層で構成されており、上層で明かりを灯していたと見られている[1]。また屋根は瓦葺であったとされ、後述の発掘時にも瓦が検出されており、瓦葺であったことは明らかであるが、発掘時に検出された瓦には本瓦と桟瓦があり、本瓦葺きであったのか桟瓦葺きであったのか必ずしもはっきりしない点があるが、発掘内容から見て安政元年(1854年)の安政東海地震に伴う津波によって崩壊する以前は本瓦葺きであり、その後の再建時に桟瓦葺きとなったと考えられている。なお発掘された桟瓦の中に完形を留めたものが全く見られないことから、燈明堂の廃止後、使用されていた桟瓦は他の建物に転用されたと見られている[19]。
燈明堂の木造建物上層は四面に鉄骨製の障子が嵌め込まれ、鉄骨障子は銅製の網が張られていた。銅網が張られた鉄骨障子の内部には燈明皿が置かれており、油が燃やされて明かりとなっていた[20]。
二層の木造建物を載せていた石垣は、下端で約4.7×5.0メートル、上端で約3.7×3.9メートル、高さは約1.8メートルであった。石材は安山岩である伊豆石が全体の約8割以上を占め、残りの石材は根府川石や瀬戸内方面からもたらされたと考えられる御影石であり、これは江戸城の石垣に用いられている石材の構成と類似しており、江戸城築城時に余った石材を流用したものと考えられている。石垣の積石工法も江戸城築城で用いられた元和から寛永年間に大成された「切り込み接ぎ石垣」という技術が用いられており、崩壊しにくい締まった石垣が構築されている[21]。
また石垣の東面と南面の一部は、西面と北面では見られない積石の緩みが見られる。これは安政東海地震による津波で石垣の一部が崩壊して修復された際には、「切り込み接ぎ石垣」の技法を持たない職人が修復作業に従事したため、修復部分に石垣の緩みが発生したものと考えられる[22]。
浦賀の燈明堂は、四方から建物を支える控柱が取り付けられている。石垣の四隅の対角線上に安山岩製の礎石が設けられ、礎石に取り付けられた控柱が燈明堂本体の建物を支えていた。昭和63年(1988年)から平成元年(1989年)にかけて行なわれた燈明堂の復元以前は、四つあった礎石のうち二つが残っていた。この控柱の礎石である安山岩は石垣に用いられている安山岩と明らかに違う種類のものであり、控柱は燈明堂創建当時からあったものではなく、いずれかの建物倒壊後に建物補強のために新たに設けられた可能性が高い[23]。
調査の経緯と復元
復元計画の始動と発掘
昭和61年度(1986年)度、横須賀市は石垣のみ残存していた燈明堂の復元を目指し、教育委員会内に燈明堂復元協議会を設立した。協議会ではまず文献の蒐集と残存していた石垣について調査を行い、燈明堂は数回の建て替えが行なわれていたことと、石垣については江戸城の石垣と同様の技法を用いて積み上げられていることが明らかになった[3]。
昭和62年度(1987年)度には、燈明堂復元のためのデータ収集を目的として、燈明堂とその周辺の発掘調査を行うことになった。昭和62年(1987年)6月15日から26日にかけて行なわれた発掘調査によって、海側である東側を中心に、標高が低い基礎部分には盛土を行なった上に叩いて固めるといった整地と基礎工事が行なわれた上で、石垣が構築されたことが明らかとなった[24]。
また、燈明堂北側からは本瓦や陶磁器が大量に検出されている。これは安政元年(1854年)の安政東海地震以前に、燈明堂で用いられていた本瓦と燈明堂の備品であった陶磁器類が、東京湾入り口である南側からの津波によって北側に建物が倒壊したために、集中して本瓦と陶磁器類が検出されるようになったものと考えられる[25]。
検出された陶磁器の中には、皿や鉢類の他に灯明皿片、そして火鉢の一部と見られるものがあった。火鉢は冬季の夜間に灯台守を行なう際に暖をとるために用いられたものと見られている[26]。
燈明堂本体とその周辺の発掘後、昭和63年(1988年)7月6日から13日にかけて、岬の先端部にある燈明堂への遊歩道の整備に伴い、かつて高札場があったと伝えられていた燈明堂西側の発掘が実施された。この時の発掘では高札場の高札を立てていたものと見られる、岩盤をくり貫いた柱穴が2つ検出された[27]。
燈明堂の復元と三浦半島八景
数回の建て替えが行なわれたことが明らかとなった浦賀の燈明堂の復元に際し、いつの時期の燈明堂を復元するかについて議論が重ねられたが、各種資料が最も良く残っていて復元作業が最も容易であることなどから、安政元年(1854年)の安政東海地震の津波後に再建され、明治5年(1872年)の廃止に至った最後の燈明堂の建物を復元することになった[8]。
復元に当たって、昭和63年(1988年)4月から初田亨が作成した燈明堂の復元図をもとに設計が開始され、設計をもとに基礎工事、部材の組み立てと進められた。平成元年(1989年)3月に復元工事は完成し、燈明堂周辺も公園として整備された[28]。
復元された燈明堂は、神奈川県が平成13年(2001年)に選定した三浦半島八景に、「灯台(燈明堂)の帰帆」として選ばれた[29]。
脚注
注釈
1. 名称については、「浦賀燈明堂」ないしは「浦賀燈明堂跡」とするものもあるが、浦賀という地名を付けずに燈明堂と呼ばれている例が多く、かつ全国各地に燈明堂が存在し、知名度に顕著な差は見られないため、燈明堂 (横須賀市)を記事名とした
2. 燈明堂の維持管理費が浦賀の干鰯問屋の負担となったのは、元禄4年(1691年)以降とする文献もある。ここでは横須賀市人文博物館・自然博物館(1989)ならびに燈明堂跡・横須賀市ホームページの記述に従い、元禄5年(1692年)以降とする。
出典
1. a b c d 横須賀市(2010)p.432
2. 横須賀市人文博物館・自然博物館(1989)pp.1-6
3. a b c 横須賀市教育委員会(1989)p.34
4. 燈明堂跡・横須賀市ホームページ
5. a b 横須賀市人文博物館・自然博物館(1989)pp.9-10
6. a b c 横須賀市人文博物館・自然博物館(1989)p.10
7. 横須賀市教育委員会(1989)pp.8-9
8. a b c d e 横須賀市教育委員会(1989)p.9
9. 横須賀市教育委員会(1989)pp.13-14、横須賀市(2010)p.432
10. 横須賀市教育委員会(1989)p.5
11. 横須賀市教育委員会(1989)p.5、横須賀市人文博物館・自然博物館(1989)pp.8-9
12. 横須賀市教育委員会(1989)p.8
13. 横須賀市人文博物館・自然博物館(1989)p.8
14. 横須賀市教育委員会(1989)p.8、横須賀市人文博物館・自然博物館(1989)pp.1-3
15. 横須賀市人文博物館・自然博物館(1989)p.3
16. 横須賀市教育委員会(1989)pp.5-8
17. 横須賀市教育委員会(1989)p.8、横須賀市人文博物館・自然博物館(1989)pp.8-9
18. 横須賀市教育委員会(1989)p.8、p.34
19. 横須賀市教育委員会(1989)p.10、p.51
20. 横須賀市教育委員会(1989)pp.12-19
21. 横須賀市教育委員会(1989)pp.40-41、横須賀市(2010)p.432
22. 横須賀市教育委員会(1989)pp.41
23. 横須賀市教育委員会(1989)p.41、横須賀市(2010)p.433
24. 横須賀市教育委員会(1989)pp.37-40
25. 横須賀市教育委員会(1989)p.37、横須賀市(2010)p.433
26. 横須賀市教育委員会(1989)p.52
27. 横須賀市教育委員会(1989)pp.66-67、横須賀市(2010)pp.432-433
28. 横須賀市教育委員会(1989)pp.13-15、横須賀市(2010)p.432
29. ぐるっとまわる「三浦半島八景」・神奈川県ホームページ
参考文献
・横須賀市教育委員会『浦賀燈明堂遺跡発掘・復元調査報告書』、木更津市教育委員会、1989年
・横須賀市人文博物館・自然博物館『近世の海運と浦賀の燈明堂』、横須賀市人文博物館・自然博物館、1989年
・横須賀市『新横須賀市史、別編考古』、横須賀市、2010年
外部リンク
・燈明堂跡・横須賀市ホームページ[リンク切れ]
・ぐるっとまわる三浦半島八景ウォーキングマップ」ガイド・神奈川県ホームページ[リンク切れ]
(wikiより)
9115 題目碑(横須賀市西浦賀6)
9114 橙明堂跡及び周辺地域(横須賀市西浦賀6)
9113 富良野駅(北海道富良野市日の出町)
| 所在地 | 北海道富良野市日の出町1 |
|---|---|
| 駅番号 | ○T30 |
| 所属事業者 | 北海道旅客鉄道(JR北海道) 日本貨物鉄道(JR貨物) |
| 電報略号 | ラノ |
| 駅構造 | 地上駅 |
| ホーム | 2面4線 |
| 乗車人員 -統計年度- | 596人/日(降車客含まず) -2019年- |
| 開業年月日 | 1900年(明治33年)8月1日[1] |
| 乗入路線 2 路線 | |
| 所属路線 | ■根室本線 |
| キロ程 | 54.6 km(滝川起点) |
| 所属路線 | ■富良野線 |
| キロ程 | 54.8 km(旭川起点) |
| 備考 | 直営駅(管理駅) みどりの窓口 有 話せる券売機設置駅[2] |
富良野駅(ふらのえき)は、北海道富良野市日の出町にある、北海道旅客鉄道(JR北海道)・日本貨物鉄道(JR貨物)の鉄道駅である。
事務管理コードは▲130410[3]。JR北海道の駅番号はT30。
概要
所属線である根室本線[4]のほか、当駅を終点とする富良野線が乗り入れる。根室本線は2024年(令和6年)に当駅 - 新得駅間が廃止となり新得駅以東と分断されたため、実質的な2路線の行き止まり式終着駅となっている。当駅は北海道旅客鉄道鉄道事業本部(本社直轄)管内であるが、富良野線は旭川支社の管轄にあたるため富良野線の場内信号機を管轄境界としている。
石勝線開通以前は道東方面へ向かう特急「おおぞら」、急行「狩勝」の停車駅であった。現在は観光シーズンに札幌駅と当駅を結ぶ臨時特急「フラノラベンダーエクスプレス」を運転している。
歴史
・1900年(明治33年)
・8月1日:北海道官設鉄道十勝線上富良野駅 - 当駅間開業に伴い、下富良野駅(しもふらのえき)として開業(一般駅)[1]。下富良野機関庫設置。
・12月2日:当駅 - 鹿越駅間延伸開業[5]。
・1901年(明治34年)9月3日:下富良野機関庫が落合機関庫下富良野派出所となる。
・1905年(明治38年)4月1日:鉄道作業局(後に日本国有鉄道)へ移管[1][6]。
・1909年(明治42年)10月12日:線路名称の制定により、釧路線(後に釧路本線→根室本線)所属となる。
・1913年(大正2年)
・10月21日:落合機関庫下富良野派出所が落合機関庫下富良野分庫となる。
・11月10日:釧路本線当駅 - 滝川駅間開業(旭川駅までの路線は富良野線と改称)。
・1914年(大正3年)4月1日:落合機関庫下富良野分庫が下富良野機関庫となる。
・1942年(昭和17年)4月1日:富良野駅と改称[1]。下富良野機関区も富良野機関区と改称。
・1949年(昭和24年)6月1日:日本国有鉄道移管。
・1954年(昭和29年)8月18日:帯広市から小樽市に向かう昭和天皇、香淳皇后のお召し列車が発着[7]。
・1968年(昭和43年):富良野市が富良野駅改築のため鉄道公債7,300万円を購入、改築の陳情を展開[8]。
・1974年(昭和49年)12月17日:現駅舎に改築[8][9]。併せて道費により駅前広場整備[8]。
・改築は当初、国鉄の赤字・合理化問題から暗礁に乗り上げたが、1975年(昭和50年)の冬季国体競技の市内開催が決まったこともあり、改築が決まった[8]。
・1981年(昭和56年)10月1日:石勝線開通に伴い次のように列車削減[10]。
・特急「おおぞら」3往復全列車が石勝線経由に変更。
・急行列車は4往復から「狩勝」2往復のみ存置。
・貨物列車8往復を2往復に減便。
・1985年(昭和60年)3月14日:荷物取扱い廃止[6]。
・1986年(昭和61年)11月1日:貨物取扱い廃止し、旅客駅となる[6]。富良野コンテナセンター設置し、自動車代行輸送開始[6]。
・1987年(昭和62年)
・3月31日:貨物取扱い再開(一般駅に戻る)[6]。秋・冬季のみ貨物列車運行。
・4月1日:国鉄分割民営化によりJR北海道・JR貨物の駅となる[1][6]。JR貨物は富良野コンテナセンターを継承。
・1990年(平成2年)9月1日:急行「狩勝」の快速列車格下げに伴い、当駅を発着する定期優等列車がなくなる。
・2000年(平成12年)1月13日:東西自由通路「ポッポブリッジ」供用開始[11][12]。
・2006年(平成18年)4月1日:富良野コンテナセンター廃止し、富良野駅に統合。
・2007年(平成19年)12月20日:駅前広場供用開始[13]。
・2016年(平成28年)10月31日:キヨスク閉店。
・2022年(令和4年)度:話せる券売機を設置[JR北 1]。
・2024年(令和6年)
・3月31日:根室本線当駅 - 新得駅間の最終運行日。午後2時10分過ぎより富良野駅で式典を開催[14]。
・4月1日:根室本線当駅 - 新得駅間が廃止[15][JR北 2]。
駅名の由来
→「富良野」の語源については「富良野市#市名の由来」を参照
当初「富良野」は富良野川流域一帯を指す広域地名となっていたため、当地はその下流にあるとして「下富良野」と名付けられたが、1919年(大正8年)に下富良野村が町制施行し、富良野町となったこともあって、1942年(昭和17年)に駅名も改称となった[16]。
駅構造
2面4線の島式ホームを有する地上駅[17]。このほか最も駅舎よりとその反対側にホームのない留置線が設けられている[17]。駅舎とホーム間の移動には跨線橋を利用する。
社員配置駅で、みどりの窓口、話せる券売機[2]、飲食店として立ち食いそば・うどん店を設置している。売店は2016年に閉店した。改札外に男女別の水洗式便所がある。ジェイアール北海道レンタリース(駅レンタカー)富良野営業所を併設している[18]。
のりば
のりば番号は当初1 - 4番線までであったが[17]、後年留置線である最も駅舎よりの1番線と最も外方の6番線を欠番とした、2 - 5番線の付番となっている。
基本的に2・3番線が根室本線、4・5番線が富良野線で使用されている。ただし、信号設備の都合上、3番線から滝川方への発車および滝川方から2番線への進入は不可能となっており(4・5番線への進入・発車はそれぞれ可能)[17]、根室本線列車は当駅到着後入換作業が必要となっている。

貨物駅
JR貨物の駅は旅客駅西口の北側にある。1面1線のコンテナホームを有しており、ホームの北端は国道237号の築堤に接しているが出入口は無い。自動車出入口は西側一般道面にある。コンテナ貨物の取扱駅で、12フィートコンテナのみを取り扱う。当駅の取扱品はタマネギやジャガイモなどの農産物が多いため、季節によって取扱量が大きく変動する。そのため、年間を通して札幌貨物ターミナル駅まで運行するトラック便が1日3往復あるほか、収穫期の秋・冬季のみに臨時高速貨物列車を1日2往復設定している。
利用状況
旅客
乗車人員の推移は以下のとおり。年間の値のみ判明している年については、当該年度の日数で除した値を括弧書きで1日平均欄に示す。乗降人員のみが判明している場合は、1/2した値を括弧書きで記した。なお、『富良野市統計書』を出典とするデータは元の値が1,000人単位であるため、1000倍した値を記載する。
また、「JR調査」については、当該の年度を最終年とする過去5年間の各調査日における平均である。
貨物
貨物輸送量の推移は以下の通り。

駅周辺
富良野市中心部にある駅であり、富良野文化会館、富良野市役所、北海道富良野保健所、北海道富良野高等学校、富良野広域連合富良野消防署、富良野警察署などへの最寄駅になっている。「コンシェルジュ フラノ」は徒歩約4分、「フラノマルシェ・フラノマルシェ2」は徒歩約7分、富良野税務署は徒歩約10分に位置している。また、駅東側にある北海道社会事業協会富良野病院は東西自由通路「ポッポブリッジ」を利用して徒歩約5分に位置している。
・富良野警察署駅前交番
・富良野ナチュラクスホテル
・ふらの農業協同組合(JAふらの)本所
・ラビスタ富良野ヒルズ
・富良野市中心街活性化センターふらっと
・北真神社(へそ神社)
・北海道銀行 富良野支店
・北洋銀行 富良野支店
・旭川信用金庫 富良野支店
・空知商工信用組合富良野支店
・ホテルサンフラトン
・北海道労働金庫富良野支店
・富良野郵便局
・市立富良野図書館
バス路線
駅前には「富良野駅」バス停留所があり[24]、ふらのバスが市内線や新富良野プリンスホテル・旭川方面への定期路線バス「ラベンダー号」、占冠村役場が占冠方面への村営バス、北海道中央バスが札幌方面への都市間高速バス「高速ふらの号」、道北バス・北海道拓殖バス・十勝バスが共同運行で新得・帯広方面への都市間バス「ノースライナー」を運行している。
隣の駅
北海道旅客鉄道(JR北海道)
■根室本線
野花南駅 (T28) - *
■富良野線
中富良野駅 (F42) - **鹿討駅 (F43) - **学田駅 (F44) - 富良野駅 (T30)
*:
**:一部列車は学田駅・鹿討駅を通過する。
かつて存在した路線詳しいことは、
■根室本線(廃止区間)
富良野駅 (T30) - 布部駅 (T31)
詳しいことは、「富良野駅ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E8%89%AF%E9%87%8E%E9%A7%85
(wikiより)


⇧⇩ 駅構内



⇧ 駅前

9111 北西の丘展望公園(北海道上川郡美瑛町字大村大久保協生)
9110 ニングルテラス(北海道富良野市北の峰町18-6・新富良野プリンスホテル)
9109 石川啄木歌碑像(旭川市宮前通西4153-1・JR旭川駅構内)
9108 布部駅(北海道富良野市字布部)

駅舎(2017年8月)
歴史
当駅南東に広がる東京帝国大学(現・東京大学)北海道演習林(以下「東大演習林」)および、東方の麓郷(ろくごう)地区の森林資源開発を目的として、東京帝国大学が中心となって開駅運動を展開して開設された請願駅であった[4]。
当駅はフジテレビ系連続ドラマ『北の国から』第1話(1981年放送)のロケーション撮影に使われ、麓郷に戻る主人公らが降り立った駅である[5][6]。駅前には脚本家倉本聰直筆の『北の国から』を記念した看板がある。
歴史
・1927年(昭和2年)12月26日:鉄道省根室本線下富良野駅(現・富良野駅) - 山部駅間に新設開業(一般駅)[7]。また、同年に当駅から麓郷22号地間に東大演習林森林軌道の路線(通称「麓郷本線」)が開通(馬力)[8]。
・1929年(昭和4年):森林軌道麓郷本線にガソリン機関車導入[8]。
・1930年(昭和5年):同年頃、森林軌道麓郷本線に同西達布本線から蒸気機関車が転入[8]。
・1939年(昭和14年):同年頃、森林軌道麓郷本線に木炭ガス併用のガソリン機関車導入[8]。
・1947年(昭和22年):同年頃、森林軌道麓郷本線における木材輸送が終了(トラック輸送へ移行)[8]。
・1949年(昭和24年)6月1日:日本国有鉄道(国鉄)に移管。
・1949年(昭和24年)12月1日:開駅以来の管轄であった旭川鉄道管理局から釧路鉄道管理局に管轄替え[4]。
・1980年(昭和55年):国鉄が当駅の無人化を富良野市に提案[9]。
・1982年(昭和57年)
・2月:富良野市が当駅の無人化について同意[9]。
・11月15日:貨物・荷物取扱い廃止[10]。同時に無人化[11][9]。
・1987年(昭和62年)4月1日:国鉄分割民営化により、北海道旅客鉄道(JR北海道)の駅となる[1]。
・1994年(平成6年)4月1日:釧路支社と本社鉄道事業本部の境界を当駅の富良野駅方(施設キロ 61km 000 m地点)から上落合信号場手前(施設キロ114 km 700 m地点)に変更し、当駅の管轄を本社鉄道事業本部に移管[12]。
・2024年(令和6年)
・3月31日:駅廃止に伴うお別れセレモニーが地元住民らにより開かれ、『北の国から』脚本家の倉本聰も参加[5]。
・4月1日:富良野駅 - 新得駅間の廃止に伴い廃駅[13][JR北 1]。
駅名の由来
地名より。現在の布部川を指すアイヌ語名「ヌモッペ(num-ot-pe)」(果実・ある・もの〔川〕)に由来し、ここでいう果実とは多くの場合クルミを指す[14]。
これに「布部(ぬのっぺ)」と当て字し、後に転訛して現在の読みとなった[15]。
駅構造
廃止時点では木造駅舎を持つ地上駅であった。少なくとも1993年(平成5年)時点で島式ホーム1面2線のうち根室方に向かって右手(駅舎反対側)のみを使用しており、そのほか側線があった[2]。無人駅。

待合室(2012年10月)

構内踏切(2017年8月

ホーム(2012年10月)
利用状況
乗車人員の推移は以下のとおりであった。年間の値のみ判明している年については、当該年度の日数で除した値を括弧書きで1日平均欄に示す。乗降人員のみが判明している場合は、1/2した値を括弧書きで記した。
また、「JR調査」については、当該の年度を最終年とする過去5年間の各調査日における平均である。

駅周辺
駅前には小さな集落があり、商店等もある。
・北海道道544号麓郷山部停車場線
・布部郵便局
・富良野市立布部小中学校
・空知川
・国道38号
・ふらのバス「布部入口」停留所(旧踏切付近)
・占冠村営バス「布部入口」停留所(国道38号沿い)
隣の駅
■根室本線
富良野駅 (T30) - 布部駅 (T31) - 山部駅 (T32)
詳しいことは「布部駅ウィキペディア」をご覧ください。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%83%E9%83%A8%E9%A7%85
(wikiより)


⇧ ドラマ「北の国から」の看板。








9107 北海へそ踊り発祥の地碑(北海道富良野)
北海へそ祭り(ほっかいへそまつり)とは、毎年7月28日・7月29日に北海道富良野市の新相生通り商店街で行われる祭。
富良野市が北海道の地理的中心であることに因んだ祭りであり、北海道内のみならず日本全国、あるいは海外からも観光客が訪れる、夏の北海道を代表する祭りの一つとなっている。
富良野市が北海道の地理的中心であることに因んだ祭りであり、北海道内のみならず日本全国、あるいは海外からも観光客が訪れる、夏の北海道を代表する祭りの一つとなっている。
9106 白ひげの滝(北海道上川郡美瑛町白金)
概要
美瑛川の白金小函にある湧水の滝である。渓谷の断崖の岩の隙間から細く数多く流れ落ちる青みがかった滝水が白い髭にみえることから命名されたとされる。
瀧は白金温泉街の中心を流れる美瑛川にかかる白金橋(通称ブルーリバー橋)から一望できる[3]。滝のすぐ上には白金温泉バス停とホテル群がある。
ギャラリー
白ひげの滝と湯元白金温泉ホテル(2013年5月)
6月の白ひげの滝(2022年6月)
周辺
・湯元白金温泉ホテル(滝のすぐ上)
・十勝岳火山砂防情報センター(滝の対岸の山腹、徒歩7分)
・青い池(美瑛川の下流、徒歩50分)
交通アクセス
・JR美瑛駅から道北バス「大雪青年の家」行きで26分、「白金温泉」下車、徒歩3分
関連項目
・十勝岳
・北海道道966号十勝岳温泉美瑛線(パノラマロード)
脚注
1. a b “白ひげの滝”. 一般社団法人 美瑛町観光協会. 2023年11月12日閲覧。
2. 北中康文『日本の滝1 東日本661滝』山と渓谷社、2004年、26頁。ISBN 4-635-06257-0。
3. “白ひげの滝 | 十勝岳ジオパーク 美瑛・上富良野エリア”. tokachidake-geopark.jp. 十勝岳ジオパーク推進協議会 (2020年3月2日). 2023年11月12日閲覧。
外部リンク
・びえい白金温泉観光組合:美瑛観光情報(2013年5月11日閲覧)
・白ひげの滝の基本情報 - 【北海道じゃらん】(2013年5月11日閲覧)
・青い池だけではない!白金温泉の鮮やかな青い川「ブルーリバー」 たびまにあの点描北海道 北海道ファンマガジン(2013年5月11日閲覧)
(wikiより)

9105 鴻上覚一翁像(上川郡美瑛町白金温泉)
9104 白金青い池(北海道上川郡美瑛町白金)
概要
青い池は美瑛町の東南部、美瑛川左岸の標高約500メートルに位置しており、十勝岳の麓に湧く白金温泉から約2.5キロ北西の地点にある。座標リンクに示した位置の国土地理院発行2万5千分の1地形図では水たまりと見なされているため水面は描かれていないが、Google等の衛星画像では青色の水面を確認することができる。
この池は1988年(昭和63年)12月に噴火した十勝岳の堆積物による火山泥流災害を防ぐため、美瑛川本流に複数建設された堰堤のひとつに水が溜まったものである[1]。
この堰堤はコンクリートブロックによるもので、北海道開発局により1989年(平成元年)6月に着工され同年年末に完成した。美瑛川を横切る形で施工され、本流から離れた両岸の森林内部まで堰堤が造られた結果、美瑛川左岸側のブロック堰堤に水が溜まるようになり、周囲に自生していたカラマツ、白樺等の樹木は、水没し立ち枯れた。したがって、目的を持って造られた溜池や貯水池などとは異なり、青い池は偶発的に人造池となったものである。
冬季には期間限定でライトアップされている[1]。
発見
写真家で元フジカラー旭川経営の子安栄信によると、青い池を最初 (1997年)に発見したのは上富良野在住のプロカメラマン高橋真澄[2][3]とされる。高橋真澄は1998年に写真集『blueriver』[4]を出版。青い池がこの写真集に収録されていたことにより写真愛好家等の口コミで存在が広まっていった。2014年5月25日にテレビ朝日『奇跡の地球物語』で青い池が紹介され、その中で高橋真澄は青い池を発見した時から毎年写真を撮り続け存在を世に広めてきたと伝えられる[5]。
青くなる理由
この付近の湧水には水酸化アルミニウム (Al(OH)3)など、主に白色系の微粒子が含まれており、美瑛川本流の水と混ざることによって分散され一種のコロイドが生成される。水中に差し込んだ太陽光がコロイドの粒子と衝突散乱して水の吸収による青色の透過光が加わり、美しい青色に見えると言われている[6]。水の青さと立ち枯れた木々の幻想的な景観から、その存在がカメラマン等を中心に口コミで広がり、いつの頃から誰からともなく「青い池」と呼ばれるようになった。
その他
Apple社OSへの壁紙採用
2012年7月に発売されたAppleのOS X Mountain Lionの15種類の壁紙のひとつに、青い池の写真が採用された[7]。この画像は、Appleのモバイル用OSであるiOS 7・8で壁紙に採用された。iOS 9からは採用から外されたため、壁紙設定していない場合アップデートすると削除される[8]。
台風9号による被害
台風9号に伴う2016年(平成28年)8月23日の大雨の影響で、池に土砂が流入し池が茶色く濁る被害が発生した[9]。周辺の美瑛川の護岸が崩壊したため、池周辺は立ち入り禁止となった[9]。その後、旭川開発建設部により応急工事が行われ、池周辺の安全が確保されたため、同年9月14日より立ち入り制限が解除された[10]。
所在地
・北海道上川郡美瑛町白金
・北海道旅客鉄道(JR北海道)富良野線美瑛駅から約18キロ。
・白金温泉から約2.5キロ。
脚注
出典
1. a b 社団法人美瑛町観光協会. “青の絶景をめぐる”. おかのまち美瑛DMO. 2021年7月17日閲覧。
2. 青い池 氷の造形 | 子安栄信のカメラ箱
3. 高橋真澄/SEISEISHA PUBLISHING CO.,LTD.
4. 青菁社、ISBN 4-88350-010-1
5. “テレビ朝日|奇跡の地球物語”. テレビ朝日 (2015年1月11日). 2015年1月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年1月11日閲覧。
6. ようこそ札幌(札幌市の公式観光サイト). “美瑛町の「青い池」を訪ねる”. 東海大学教養学部国際学科3年次生 田中真実. 2012年6月21日閲覧。
7. ナショジオ・フォトコンテスト2011「Nature 自然・動物部門」 2012年6月21日閲覧
8. 注意! iPhoneのデフォルト壁紙はOS更新で消えてしまう ITmediaコラム 2016年4月8日閲覧。
9. a b “台風で「青い池」が茶色に 北海道美瑛町”. 日本放送協会 (2016年8月24日). 2016年8月29日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年8月29日閲覧。
10. “また会えた「青い池」 美瑛 台風影響の立ち入り制限解除”. 北海道新聞 (2016年9月14日). 2016年9月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年9月15日閲覧。
関連項目
・水の青#水中の微粒子による散乱
外部リンク
・社団法人美瑛町観光協会. “観光スポット”. 2013年6月12日閲覧。
・OS X Mountain Lionの壁紙に採用された「青い池」の画像 2012年6月21日閲覧。
(wikiより)
9103 北眞神社(へそ神社)分祠御由緒(北海道富良野市中御料)
9102 ファーム富田(北海道空知郡中富良野町基線北15号)
沿革
1897年に北海道国有未開地処分法が制定され、本州等から北海道へ移住してくる人々が急増、その中にファーム富田の創始者である富田徳馬もいた。富田徳馬はその後1903年に現在の北海道中富良野町に開墾の鍬を下ろし、その苗字がファームの由来となる。
徳馬の孫、富田忠雄は1953年、当時富良野一帯においてラベンダー栽培の先駆的人物であった上田美一のラベンダー畑に出会い、1958年より香料用としてのラベンダー栽培を開始。妻と共に開始した畑は10アールの広さにまで及んだ。その後ラベンダー畑はおよそ1.2ヘクタールにまで拡大、富良野地方全体でもラベンダーの栽培地域が230ヘクタール以上に拡大したが、以降は急激に衰退。ピーク時にはラベンダー栽培農家が250戸以上・全道のラベンダーオイル生産量も5トンに上っていたが、1972年頃から貿易の自由化が始まって価格の低い香料が広まり、合成香料の技術が進み始めると、製造していたラベンダーオイルの買い上げの価格も急落。翌1973年には近隣一帯のラベンダー栽培農家がほぼファーム富田のみとなってしまった。
1976年5月の日本国有鉄道のカレンダーにファーム富田のラベンダー写真が紹介されると、徐々に観光客やカメラマンが訪れるようになった。また、その後にドラマ「北の国から」で放送されると、観光地として一躍有名になった。その後はポプリなどを中心にラベンダーの加工を始め、1980年代前半からエッセンシャルオイルの抽出に成功して香水「フロム」を発売する。また、「ポプリの舎」を開設し、化粧品製造業の免許を取得、オリジナルのラベンダー香水である「FURANO(フラノ)」を発売した。1987年には石鹸の製造業免許を取得し、「ソープラベンダー」という名のオリジナル石鹸を発売するなどした。この頃にそれまで経営を繋ぐために行っていた稲作を中止し、花の栽培や加工を経営の中核とした。
1990年に「ラベンダー芳香フェア」がフランスにて開催される。このイベントで行われた品評会にて、ファーム富田のオリジナルエッセンシャルオイル、「おかむらさき」が第1位を獲得。同時に「オートプロヴァンス・ラベンダー修道騎士」の称号を授与された。この称号は南フランスにあるラベンダーを生産する組織より、ラベンダー栽培における功労者へ贈与されるものである。その後は冬期間にグリーンハウス内でのラベンダー栽培に成功、富田ラベンダー資料館や「ドライフラワーの舎」をオープンさせるなど事業を拡大し、現在に至る。
2008年6月、隣接する上富良野町に開園50年記念して「ファーム富田 ラベンダーイースト」が開園した。
概要
園内ではおよそ15ヘクタールのラベンダーが栽培されているほかにも多くの花が栽培されている。花畑はそれぞれ「花人の畑」、「倖の畑」、「春の彩りの畑」、「秋の彩りの畑」、「彩りの畑」、「森の彩りの畑」、「トラディショナルラベンダー畑」に分かれている。通常の開花時期として、4月中旬ごろよりクロッカス、5月よりスイセン・チューリップ、6月よりハマナスやシャクヤクなどが見られるようになり、ラベンダーが開花し始めるのは通例6月の下旬ごろが目安とされている。8月中旬ごろになると冬にかけてグリーンハウスの運営も始まり、ハウス内に栽培されているラベンダーやゼラニウムなど各種植物を見ることができる。
園内には各種施設も建てられている。花人の舎ではラベンダー資料館や香りの体験コーナーが設けられ、トイレも設けられている。また、ドライフラワーの舎ではドライフラワーを展示、建物内のデザインはオランダのフラワーデザイナーであるレン・オークメイドが手がけ、「富良野の森のピクニックin北海道」と題されている。その他、オリジナルグッズを取りそろえ、軽食を楽しむことのできるポプリの舎、展望デッキから園内の花を眺めることが可能な森の舎、ラベンダーからエッセンシャルオイルを蒸留する抽出工場の蒸留の舎、「香りのしおり」を作るコーナーを設けられているなど、香水を制作する場が見られる香水の舎、など各種施設を見学することが可能である。
ファーム独自の特徴として、カフェ内で注文できるメニューには稀にしか見られない珍しい品目も並び、北海道産の野菜カレーや富良野パンを使用したジンギスカンドッグなどがある。また、スイーツにはラベンダーのエキスが含まれているラベンダーソフトクリームやラベンダーラムネ、ラベンダー生シュークリームやラベンダーはちみつプリンといったものがあり、そのうちの幾つかは季節限定の商品である。
そのほか、定期的に園内で物産展などのイベントが開催されることもある。会費無料の「ファーム富田ファンクラブ」も存在し、ポイント制の割引サービスやファンクラブ誌の「Scent of Lavender」が発行されるなど、入会特典が用意されている。ファームの最寄り駅にはJR中富良野駅があるが、夏から秋にかけてはラベンダー畑駅が臨時駅として近くに設置される。
なお、施設に隣接している「とみたメロンハウス」はファーム富田とはまったく関係ない。
アクセス
・JR北海道 ラベンダー畑駅(臨時駅)
夏から秋のシーズンのみ営業する臨時駅。徒歩約7分。
・中富良野駅:徒歩約20分
参考文献
・ファーム富田 パンフレット
・なかふらの彩遊記 北海道中富良野町発行 HBCフレックス企画・制作
関連項目
・北海道ガーデン街道
・北海道パウダーベルト
・北海道の観光地
外部リンク
・ファーム富田公式ウェブサイト
(wikiより)
9101 浦賀船渠(横須賀市浦賀4-7)
浦賀船渠(うらがせんきょ)は、神奈川県横須賀市浦賀地区にあった造船所。通称浦賀ドック。日本海軍の駆逐艦建造で有名である。太平洋戦争後も艦艇の建造が続けられたが、2003年(平成15年)に閉鎖された。
2021年(令和3年)3月に、施設及び周辺部が住友重機械工業から横須賀市に無償で寄付された[1]。
1910年の浦賀の様子
概要
幕府の浦賀造船所
浦賀での造船の歴史は1853年(嘉永6年)のペリー来航までさかのぼる。この時江戸幕府は「大船建造の禁」を解いて浦賀造船所を設置、直ちに軍艦の建造を始め、7か月を掛けて国産初の洋式軍艦「鳳凰丸」を建造した。これは浦賀奉行所与力の中島三郎助らに軍艦の建造を命じたことが始まりである。また1859年(安政6年)には日本初のドライドックが完成し、アメリカへ向かう咸臨丸の整備が行われている。しかし小栗忠順らにより、横須賀港に製鉄所を建設することを決定し(後の横須賀造船所、横須賀海軍工廠)、艦艇建造の中心は横須賀へ移り、浦賀造船所は1876年(明治9年)に閉鎖された。
浦賀船渠
中島三郎助の意志を継いだ荒井郁之助・榎本武揚・塚原周造が中心となり、1897年(明治30年)に浦賀船渠が設立。かつての浦賀造船所と同じ場所に工場が建設された。同時期に同じ浦賀に建設された東京石川島造船所(現:IHI)の浦賀分工場との間で、艦船建造・修理の受注合戦が繰り広げられたという。この競争はダンピング合戦を生み、両社の経営を悪化させた。ほどなくして石川島の浦賀分工場を浦賀船渠が買収、自社工場とすることで決着した。
艦艇建造
石川島との競争や、フィリピンへの砲艦輸出が不調となるなど、当初は経営が思わしくなく、渋沢栄一や浅野総一郎などが再建に手を差し伸べた。1912年(明治45年)に就任した第5代社長によりようやく経営が安定した。その後の第一次世界大戦による好況(特需景気)もあり経営は立ち直った。
艦艇の建造は、日露戦争時に横須賀工廠から艦載水雷艇を受注したことに始まる。1907年(明治40年)に初めて駆逐艦「長月」を建造した。その後も小艦艇建造を中心的業務としており、特に駆逐艦の建造で有名で、大阪にあった藤永田造船所と共に駆逐艦建造の名門であり、「西の藤永田、東の浦賀」と呼ばれていた(軽巡洋艦 2隻、駆逐艦 44隻、海防艦 11隻+2隻未完)。
1914年(大正3年)には国内初の鋼製純貨物船[2]として「第五長久丸」が竣工。注目されていたこの船が成績優良につき、同型船6隻及びさらに大型の船6隻も受注して開業以来の盛況を呈した[3]。その後1924年(大正13年)には国内初の旅客兼車両渡船(鉄道連絡船)として青函連絡船「翔鳳丸」と「飛鸞丸」が竣工。両船の就航後の成績も良好で、その後多くの青函連絡船を浦賀で建造する事となった。
戦後
太平洋戦争後も海上自衛隊向けに艦艇建造を続け、米空母ミッドウェイの大規模改修、日本丸建造なども行われた。住友機械工業と合併した際、追浜造船所(現横須賀造船所)を開設、民間船建造はこちらに移った。浦賀地区は工場集約のため2003年(平成15年)に閉鎖された。閉鎖後は資材置場として使用されてきた[4]。
浦賀船渠の第1号ドック(通称浦賀ドック)は世界に4か所にしか現存していないレンガ積みドライドックのうちのひとつとなっている。国内でも明治期のものは浦賀ドックと川間ドック跡しかなく、両者とも貴重な文化遺産である。
2007年(平成19年)11月30日、浦賀船渠の第1号ドック、ポンプ施設、ドックサイドクレーンが近代化産業遺産に認定。
2021年(令和3年)3月に、浦賀ドックとその周辺部は住友重機械工業から横須賀市に無償で寄付された[1]。
沿革
浦賀造船所
・1853年(嘉永6年) 幕府が浦賀造船所を設置
・1854年(安政元年) 「鳳凰丸」竣工
・1859年(安政6年) 日本初のドライドック建造、咸臨丸の整備が行われる
・1873年(明治6年) 水兵練習所を設置
・1876年(明治9年) 浦賀造船所廃止
・1885年(明治18年) 水兵練習所を浦賀屯営と改称
・1889年(明治22年) 浦賀屯営閉鎖、陸軍要塞砲兵幹部練習所となる。
浦賀船渠
・1895年(明治28年) 10月 株式会社東京石川島造船所(現・株式会社IHI)が浦賀分工場を建設
・1898年(明治29年)
・5月 陸軍要塞砲兵幹部練習所敷地を取得
・9月28日 創業総会
・1897年(明治30年)
・2月 ドックの建設開始
・6月21日 浦賀船渠設立登記
・1898年(明治31年) 11月 東京石川島造船所浦賀分工場の操業開始
・1899年(明治32年) 11月 1号ドック完成
・1900年(明治33年)
・1月 浦賀船渠の営業開始
・6月10日 新造第1船竣工
・1902年(明治35年) 8月 東京石川島造船所浦賀分工場を買収、川間分工場とする。
・1907年(明治40年) 浦賀で初の駆逐艦「長月」竣工
・1914年(大正3年)国内初の鋼製純貨物船[2]「第五長久丸」竣工[注 1]
・1923年(大正12年)
・7月 軽巡洋艦「五十鈴」竣工
・国会議事堂鉄骨工事
・1924年(大正13年) 初の青函連絡船「翔鳳丸」竣工
・1925年(大正14年) 5月 軽巡洋艦「阿武隈」竣工
・1938年(昭和13年) 大日本兵器設立。青島工廠の経営を委託される
・1943年(昭和18年) 2月25日 W型戦時標準船のモデル船として第四青函丸竣工
・1944年(昭和19年) 四日市造船所開設。翌年9月閉鎖
・1945年(昭和20年) 9月28日 第十一青函丸が戦後竣工第1船となる
・1948年(昭和23年) 8月31日 戦後初の旅載青函連絡船として「摩周丸」竣工、際立った豪華さを誇った。子会社として玉島デイゼル工業[注 2] を岡山県に設立。
・1953年(昭和28年) - 子会社の玉島デイゼル工業株式会社が浦賀玉島デイゼル工業株式会社へ社名変更。
・1955年(昭和30年) 敷設艇えりも竣工(戦後初の自衛艦建造)
・1957年(昭和32年) - アメリカにニューヨーク事務所(現・SHI (USA) )開設。
・1961年(昭和36年) 記念館三笠修復工事完了
・1962年(昭和37年) 子会社の浦賀玉島デイゼル工業と合併し、浦賀重工業株式会社設立。
浦賀重工業
・1964年(昭和39年) - イギリスにロンドン事務所(現・SHI (Europe) )開設。
・1969年(昭和44年) 6月 住友機械工業と合併し住友重機械工業浦賀造船所となる
住友機械工業と合併後については「住友重機械工業#沿革」を参照
歴代社長
[6]
・初代・塚原周造
・2代・早崎源吾(大久保満寿子の弟)
・3代・浅野総一郎
・4代・足立太郎
・5代・町田豊千代(町田實秀の父)
・6代・山下亀三郎
・7代・今岡純一郎(今岡賀雄の父)
・8代・寺島健
・9代・堀悌吉
・10代・甘泉豊郎
・11代・多賀寛(昭和37年11月会社名が浦賀重工になる)
・12代・二瓶豊
・13代・大塚振武
主な製品
艦船
戦前
・軍艦
・軽巡洋艦:五十鈴、阿武隈
・敷設艦:厳島 (II)
・駆逐艦
・神風型駆逐艦 (初代):長月、菊月
・樺型駆逐艦:桐
・樅型駆逐艦:柿、萩、菱、蓮
・若竹型駆逐艦:早苗、早蕨
・神風型駆逐艦 (2代):追風(II)
・睦月型:弥生(II)、水無月(II)、望月
・吹雪型:深雪、磯波(II)、狭霧、潮(II)、雷(II)
・初春型:子日(II)、初霜(II)
・白露型:時雨(II)、五月雨(II)、山風(II)、涼風
・朝潮型:霞(II)
・陽炎型:不知火(II)、早潮、時津風(II)、浜風(II)、萩風、秋雲
・夕雲型:風雲、高波、涼波、岸波、清波、清霜
・秋月型:宵月
・官公庁船
・関門連絡船:長水丸、豊山丸(鉄道院・旅客船)
・青函連絡船:飛鸞丸(鉄道省・旅客兼車両鉄道連絡船)
・青函連絡船・戦時標準船:第三青函丸(浦賀タービン主機1号搭載、青函連絡船のモデル船)
・青函連絡船・W型戦時標準船:第四青函丸(W型のモデル船)、第五〜第十青函丸(運輸通信省)
・民間船
・貨物船:第五長久丸、葛城丸
・貨客船:白山丸
戦後
住友機械工業と合併後については「住友重機械工業#過去の製品」を参照
・自衛艦
・むらさめ型護衛艦 (初代):はるさめ (初代)
・はまな (給油艦)
・えりも (敷設艇)
・官公庁船
・だいおう型巡視船:むろと
・鉄道連絡船:第十一、第十二青函丸(運輸省・W型戦時標準船、第十一青函丸は戦後竣工第1船)
・鉄道連絡船:北見丸、日高丸(国鉄)
・鉄道連絡船:摩周丸(戦後初の客載青函連絡船、画期的な豪華船)
・鉄道連絡船:空知丸(洞爺丸事故代替船)
・鉄道連絡船:津軽丸 (2代)(代替計画シリーズ第1船)、十和田丸 (2代)
・民間船
・ラッシュ船 アケェイディア・フォレスト
その他製品
・クレーン
・自社80トンクレーン
・橋梁
・大利根橋
・市川橋
・葛西橋
・国会議事堂鉄骨工事
・東大宇宙科学研究所のラムダロケット用ランチャー
・記念館三笠修復工事
・宇宙通信センターのパラボラアンテナ、30m,20m各1
関連会社、造船所
・大日本兵器
1936年(昭和11年)にスイスのエリコン社と航空機用20mm機銃で技術提携、横浜市磯子区に富岡兵器製作所を設立し技術指導を仰いだ。1938年(昭和13年)に分離独立し大日本兵器(株)となる。戦後は日平産業と改称し、機械メーカーとなる。後にトヤマキカイと合併し、「日平トヤマ」を経て2008年(平成20年)10月より「コマツNTC」ヘ。
・青島工廠
1938年(昭和13年)に海軍より青島旧海軍工廠の経営を委託される。太平洋戦争の敗戦により中国軍が接収する。
・名古屋造船
1941年(昭和16年)6月、大同製鋼と共同出資し設立。1964年(昭和39年)に石川島播磨重工業に吸収合併される。現IHI愛知工場。
・四日市造船所
戦時中の船舶不足により、大型商船建造のため産業設備営団が施設を建設し、民間で経営する方式で造船所を建設。全国の4箇所で建造され(残りは三井造船安芸津、三菱重工業広島、日立造船神奈川)、四日市では年間10万総トンを予定する。1944年(昭和19年)3月に設備一部完成により開設。1945年(昭和20年)1月に第1船「鉄山丸」を起工するが6月の空襲による火災で造船所は焼失、1隻も竣工することなく9月に閉鎖された。「鉄山丸」のみ戦後に浦賀で工事を続行し、1947年(昭和22年)に竣工した。
周辺地区の再整備
施設の周辺地区について横須賀市では1991年に「浦賀国際文化村構想」、2003年に「浦賀港周辺地区再整備計画」が策定されたが、いずれも2018年に廃止になっている[4]。施設及び周辺部の無償寄付を受けて、横須賀市はドックを保存し工場跡地部分の活用方法を検討するとともに、ガイド付きの公開ができるよう準備を進める旨を公表している[1]。
2021年(令和3年)浦賀ドックは住友重機械工業株式会社から横須賀市へ寄贈され、「浦賀レンガドック」として一般公開されている[7][8]。
参考文献
・住友重機械工業株式会社『浦賀・追浜百年の航跡』(住友重機械工業 横須賀造船所、1997年)[9]
・造船・船渠業B〔商工業:輸送用機器〕|渋沢栄一関連会社名・団体名変遷図 2023年6月19日閲覧。
・浦賀船渠(株)『船渠六十年史』(1957.06)|渋沢社史データベース 2023年6月19日閲覧。
・浦賀 - 現在の写真と共に浦賀の歴史を紹介
・浦賀雑学 - ウェイバックマシン(2004年12月26日アーカイブ分)
・毎日新聞、川間ドッグ:世界唯一の機構美 「貴重な産業遺産」に保存の声--横須賀 /神奈川、2007年6月12日
・「回想の浦賀建造艦船」『世界の艦船』610号、P131-139、2003年
脚注
注釈
1. 総噸数2,200tで建造当時としては東京湾に進水した船の中で最大のものだった[5]。
2. 船舶用ディーゼルエンジンの製作を主な事業としていた。
出典
・a b c “広報よこすかNo.857(2021年5月号)『観光立市よこすか 新たな魅力の創出へ』” (PDF). 横須賀市. p. 2 (2021年5月). 2021年5月26日閲覧。
・a b 『野州名鑑』下野新聞、1931年、1127 (平野義夫の項)頁。NDLJP:1226910/587。
・尋常高等浦賀小学校職員懇和会 編『浦賀案内記』信濃屋書店、1915年、20頁。NDLJP:948261/29。
・a b 住重「浦賀ドック」、横須賀市に無償寄付 れんが積みの遺産"神奈川新聞、2020年12月12日(2020年12月12日閲覧)
・『工業雑誌』41(536)、工業雑誌社、1914年7月、81頁。NDLJP:1561622/31。
・『浦賀・追浜百年の航跡』住友重機械工業株式会社横須賀造船所、1997年6月21日、資-1,資-2頁。
・“【公式】浦賀レンガドック|ワクワク横須賀”. www.wakuwaku-yokosuka.jp. 2023年6月19日閲覧。
・“わがまちの渋沢栄一(第16回)浦賀ドック~神奈川県横須賀市~”. 青淵 (883): 34-35. (2022.10).
・“住友重機械工業(株)横須賀造船所『浦賀・追浜百年の航跡 : 1897-1997』(1997.06) | 渋沢社史データベース”. shashi.shibusawa.or.jp. 2023年6月19日閲覧。
関連項目
・戦前の日本の造船所一覧
・浦賀
・住友重機械工業
・サブマリン707 - 潜水艦漫画。浦賀ドックへ大破した707号が入渠する場面がある。
外部リンク
・浦賀レンガドック
・住友重機械工業株式会社
・塚原周造 - 【浦賀ドック】
・浦賀船渠(株)『浦賀船渠六十年史』(1957.06)
(wikiより)

⇧ 入り口横にある説明版。











⇧⇩ 浦賀港。


⇧⇩ 船尾方向から船首方向を見る。







⇧⇩ ドッグの底に降りてみました。






⇧ 船首が入る部分です。


⇧ 船首方向から船尾方向を見る。

⇧ 崩れたレンガ塀。
⇩ 資料館。

9100 東行庵 Part-2(山口県下関市吉田1184)
9100 東行庵 Part-1(山口県下関市吉田1184)
| 所在地 | 山口県下関市吉田1184 |
|---|---|
| 位置 | 北緯34度5分8.31秒 東経131度4分16.17秒 |
| 山号 | 清水山 |
| 宗旨 | 禅宗 |
| 宗派 | 曹洞宗 |
| 本尊 | 白衣観音 |
| 創建年 | 1869年(明治2年) |
| 開基 | 山縣有朋、谷梅処 |
| 正式名 | 清水山東行庵 |
| 別称 | 無鄰菴(無隣庵) |
| 札所等 | 山陽花の寺8番 |
| 文化財 | 高杉晋作墓 |
| 公式サイト | 史跡・高杉晋作墓所 花の寺 東行庵 |
東行庵(とうぎょうあん)は、山口県下関市にある曹洞宗の寺院で功山寺の末寺である。山号は清水山。山陽花の寺二十四か寺第八番札所。
歴史
東行庵の地は清水山といい、幕末の頃奇兵隊軍監山縣有朋(当時は狂介)は麓に草庵を建て「無鄰菴」と名付けていた。ちなみに後に山縣が京都に建てた別宅を無鄰菴というのは、この下関の無鄰菴にちなんで名付けられたものである。
慶応3年4月(1867年)に死去した高杉晋作の遺骸は、遺言により奇兵隊の本拠に近いこの地に葬られた。晋作に仕えていた愛人おうの(谷梅処)が出家し、山縣は1869年(明治2年)に無鄰菴をおうのに贈った。「東行」は晋作の号であり、おうのは1909年(明治42年)に亡くなるまで晋作をこの地で弔ったという。
東行(晋作)の没後100年を前に1966年(昭和41年)に大修理が行われ、同年、東行を顕彰する東行記念館が境内に建てられた。同館は2010年(平成22年)、下関市立東行記念館として再開館した。御朱印については東行記念館の受付で対応する。
前後の札所
山陽花の寺二十四か寺
7 宗隣寺 -- 8 東行庵 -- 9 功山寺
関連項目
・谷梅処(おうの)
・維新・海峡ウォーク
外部リンク
・史跡・高杉晋作墓所 花の寺 東行庵
(wikiより)
メチャ画像が多いので途中で疲れると思います。




















































































































































































































































































































東行庵 Part-2に続く。




























































































































































































































































































































































































































































