カテゴリ: 史跡・名所・旧跡・城・駅・灯台・関所
8238 安在所(長野市小島田町1384-1・川中島古戦場史跡公園)
8236 風林火山の旗(長野市小島田町1384-1・川中島古戦場史跡公園)
8234 「毘」「龍」の旗(長野市小島田町1384-1・川中島古戦場史跡公園)
8232 三太刀七太刀之跡碑(長野市小島田町1384-1・川中島古戦場史跡公園)
8230 古井戸(長野市小島田町1384-1・川中島古戦場史跡公園)
8228 首塚(長野市小島田町1384-1・川中島古戦場史跡公園)
8218 八幡社御由緒(長野市小島田町1384-1・川中島古戦場史跡公園)
8216 一騎討ちの銅像(長野市小島田町1384-1・川中島古戦場史跡公園)
8214 川中島古戦場史跡公園(長野市小島田町1384-1)
概要
川中島古戦場とはいえ、この地で戦闘があった訳ではなく、武田軍が勝鬨を上げたとされる八幡社境内と、討ち取った敵将兵の首実見を行ったとされ、周辺の広い田畑の中に残されていた首塚や「三太刀七太刀跡」の石碑(大正期に建造)が散在していた。また、実際に両軍が激突した最前線はこの地から2~3km西方に当たるとされる。現在の南長野運動公園[注 1] と国道18号篠ノ井バイパスを挟んだ西側には「合戦場」の地名が残り、こちらの一帯が激戦地であり最前線であったことを物語っている。
川中島古戦場は1969年(昭和44年)NHK大河ドラマ「天と地と」放映の前後頃から、一帯が公園化整備された。八幡原史跡公園内には石碑の移設、馬に乗った謙信と見られる武将の剣を信玄が軍配で防いだという甲陽軍鑑の記述に基づく銅像が建てられて、長野市立博物館も建設された。この博物館の建物はその後1981年地方都市にあっては珍しい日本建築学会賞作品賞を受賞し、同年に建設省から全国公共建築百選にも選定された。
現在は善光寺と上信越道長野ICとを結ぶ道路(県道)に接していることもあって観光名所になっており、八幡神社参道にはみやげ物屋が並んでいる。八幡社の鳥居の前からは上杉軍が布陣したと伝えられる妻女山が望め、その背後に冠着山(姨捨山)が聳える。地域在住者らによって「川中島の戦い語り部の会」と言うボランティアグループが結成されており八幡社境内でのガイドが得られ甲越合戦の解説などもしてくれる。
交通アクセス
・上信越自動車道長野ICから車で3分
・最寄りの鉄道駅は今井駅であるが約4km程離れており鉄道駅からの徒歩でのアクセスにはやや難があり、長野駅より後述の路線バス(アルピコ交通・30系統)の利用が推奨される。
・川中島の名称が冠されている川中島駅ならびに篠ノ井駅とは約5km離れている。
路線バス・高速バス
八幡原史跡公園前の長野県道35号長野真田線上に、アルピコ交通の川中島古戦場停留所がある。
長野ICへのアクセス道路であることもあって、アルピコ交通が関わる(共同運行の事業者も含む)高速バスのうち、当地を経由しない妙高高原線を除くすべての路線が停車する。但し、クローズドドアシステムが採用されており当停留所は長野発の系統は乗車専用、長野着の系統は降車専用となっている為、長野駅方面とのアクセスに利用することはできない[1]。一方、長電バス運行の高速バスも新潟方面を除きすべて停留所を通るものの、停車はしない。
・アルピコ交通
・30 長野駅・県庁前 - 丹波島橋南 - 川中島古戦場 - 長野インター前 - 松代駅 - 松代高校
・102 文化学園前 ← 市役所前 ← 県庁前 ← 丹波島橋南 ← 川中島古戦場 ← …
・103 善光寺大門 ← 合同庁舎前 ← 県庁前 ← 丹波島橋南 ← 川中島古戦場 ← …
・高速バス 新宿ゆき
・高速バス 京都・大阪ゆき
・高速バス 名古屋ゆき
・高速バス 飯田ゆき
・高速バス 松本ゆき
・高速バス 上高地ゆき(夏季)
注釈
1. 武田方の足軽大将・山本勘助が第四次合戦で討死したのはこのあたりと伝説されている~墓は八幡原史跡公園の東側を流れる千曲川の対岸の河川敷にある
外部リンク
・川中島古戦場~武田信玄・上杉謙信両雄激突の地~
(wikiより)



















8212 誠忠碑(長野市松代町豊栄・明徳寺)
時代 | 戦国時代 |
---|---|
生誕 | 大永7年(1527年) |
死没 | 天正6年5月7日(1578年6月12日) |
改名 | 春日虎綱、香坂虎綱 |
別名 | 昌信、昌宣、昌忠、晴昌、晴久 通称:源五郎、弾正 渾名:逃げ弾正[1] |
戒名 | 保雲椿公禅定門(「成慶院過去帳」) 憲徳院玄菴道忠居士 |
墓所 | 明徳寺(長野県長野市) 恵林寺(山梨県甲州市) |
官位 | 弾正忠 |
主君 | 武田信玄→勝頼 |
氏族 | 春日氏、香坂氏(高坂氏) |
父母 | 父:春日大隅、養父:香坂宗重 |
兄弟 | 熊麿、虎綱(高坂昌信) |
妻 | 正室:香坂宗重の娘 |
子 | 昌澄(源五郎)、信達(源次郎)、昌定(源三郎) |
春日 虎綱(かすが とらつな)は、戦国時代の武将。高坂(香坂) 昌信(こうさか まさのぶ)の名で知られる甲斐武田氏家臣で譜代家老衆。幼名は春日源五郎(かすがげんごろう)。武田晴信 (信玄)・勝頼に仕え、武田四天王の一人として数えられる。
姓名
及び仮名一般に「高坂昌信」の名前で知られるが、姓については「高坂」または「香坂」姓を用いたのは最も長くて弘治2年(1556年)から永禄9年(1566年)9月までの11年間である。この「高坂」または「香坂」姓は信濃国更級郡牧ノ島の香坂氏の家督を継承していることに由来する。香坂氏は武田領と反武田の北信濃国人・上杉謙信との境目に位置しつつ唯一武田側に属しており、虎綱が養子に入った背景にも香坂氏の川中島地域における政治・軍事的立場が考慮されたと考えられている[2]。
香坂氏に養子に入った時期は『甲陽軍鑑』によれば、永禄4年に香坂氏が上杉謙信に内通し成敗された時点、または弘治2年(1556年)に小山田昌行(備中守)が水内郡海津城(長野市松代町)から雨飾城に番替えとなると後任として海津城代となり、この時点で「高坂」を称していたとしている[3]。なお、『甲陽軍鑑』は海津城築城を永禄3年としているが、これは史実とは矛盾する[4]。
一方、高野山成慶院『武田家過去帳』では弘治4年時点で「香坂弾正」を称していることが確認される[3]。この他に「香坂」姓の名乗りが確認されるのは、永禄2年11月屋代政国宛判物における副状で、早くとも永禄6年6月まで「香坂」姓を称し、遅くとも永禄9年9月までには復姓している[5]。
名については、確実な文書上からは実名は「虎綱」であることが指摘されており[6]、「昌信」(しょうしん)に関しては出家名とされる[要出典]。
また、仮名として弾正を名乗っていたとされ、しばしば「高坂弾正」と記載する場合もある。永禄2年まで「弾正左衛門尉」を称し、同年以降には「弾正忠」に改めている[3]。
本記事においては以下、春日虎綱として記述する。
生涯
出生から香坂氏継承
『甲陽軍鑑』に拠れば、大永7年(1527年)、甲斐国八代郡石和郷(山梨県笛吹市石和町)の百姓春日大隅の子として生まれる。天文11年(1542年)に父の大隅が死去した後、姉夫婦との遺産を巡る裁判で敗訴して身寄りが無くなるが、信玄の奥近習として召抱えられたという。
はじめは使番として働き、天文21年(1552年)には100騎持を預る足軽大将となり、春日弾正忠を名乗ったという[要出典]。なお、この間の『天文15年(1546年)推定武田晴信誓詞(東京大学史料編纂所所蔵文書)』は、虎綱を指すとされる「春日源助」宛で晴信と虎綱の衆道関係を示す文書とされていたが、近年は宛名の「春日」姓が後筆である可能性が指摘されている[7]。
武田氏による埴科郡の村上義清攻略が本格化した天文22年(1553年)には信濃佐久郡小諸城(長野県小諸市)の城代となる。同年4月に虎綱が名跡を継承することになる信濃更級郡牧野島の国人の香坂氏が武田家に出仕している[2]。
その後、虎綱は香坂氏をはじめとする川中島衆を率いて越後上杉氏に対する最前線にあたる海津領の守将を任された。川中島衆となる北信の寺尾・屋代両氏の取次役を務めている[5]。海津城は武田氏と上杉氏の争いにおいて最前線に位置し、『軍鑑』に拠れば永禄4年(1561年)8月には上杉謙信が侵攻し、虎綱は海津城において籠城し、同年9月4日には川中島において第4次川中島の戦いが発生する[4]。『甲陽軍鑑』によれば妻女山攻撃の別働隊として戦功を挙げ、引き続き北信濃の治世にあたったという。
『軍鑑』に拠れば、その後も元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦いなど、武田氏の主だった戦いに参戦したという。
囲碁に関しては「信玄より高坂のほうが二子強かるべし」とする伝説があった[8]。
勝頼期の活動から晩年
元亀4年(1573年)4月の武田信玄死後の武田勝頼期にも海津城代として上杉氏に対する抑えを任されている。天正3年(1575年)5月21日の長篠の戦いには、上杉軍の抑えとして参戦せずに海津城を守備していたが、嫡男の高坂昌澄が戦死している。『軍鑑』に拠れば武田勝頼期には一門の武田信豊や穴山信君、譜代家臣の跡部勝資・長坂光堅らが台頭していたといわれ、春日虎綱らの老臣は疎まれていたという。
長篠の戦いで武田氏は織田氏に大敗した。この戦いは武田家にとって有力家臣の多くを失い領国の動揺を招くこととなり甲陽軍鑑においても武田氏の衰退を決定づけた合戦とされる。武田勝頼は長篠敗戦後に信濃へ逃れ、6月2日に甲府へ帰陣している。甲陽軍鑑には、春日虎綱は敗報を聞くと信濃駒場において武田勝頼を出迎え、衣服・武具などを替えさせ敗軍の見苦しさを感じさせないように体面に配慮し、五箇条の献策を行ったとする逸話がある[9]。虎綱の献策が事実であるかは検討を要することが指摘されるが、主に相模国の後北条氏との同盟を強化することと、戦死した内藤昌豊・山県昌景・馬場信春らの子弟を奥近習衆として取り立てて家臣団を再編すること、および長篠敗戦の責任を取らせるため、戦場を離脱したとされる親族衆の穴山信君と武田信豊の切腹を申し立てたとしている[10]。
武田勝頼期には尾張の織田氏との対決が行われているが、虎綱は天正6年(1578年)の上杉謙信死後に発生した上杉家における御館の乱において、武田信豊とともに上杉景勝との取次を努め、甲越同盟の締結に携わっている。虎綱が甲越間の交渉に携わっている天正6年6月8日付の北条高広・北条景広宛上杉景勝書状を最後に史料からは消え、6月12日付の武田信豊書状では信豊が単独で交渉に携わっており、同年10月からは虎綱の子の高坂昌元が登場することが確認される[11]。同年6月14日に海津城において死去したとされる。享年52。
虎綱の命日は複数の説があり、『乾徳山恵林寺雑本』等では天正6年5月11日、『甲斐国志』人物部第五では墓所の明徳寺に伝わる5月初7日死去としているが、甲越間の交渉時期からこの説は整合性が取れない[12]。高野山成慶院「武田家過去帳」では虎綱の命日を「天正6年6月14日巳ノ刻」としており、この説が最も整合性の取れることが指摘される[13]。『武田御日坏帳』によれば、同年7月25日には高野山成慶院で甥の惣次郎による供養が営まれている。法名は弘治2年4月21日に「保雲椿公禅定門」と定められている。
虎綱の子孫と『甲陽軍鑑』
春日氏は次男の信達が継承し海津城代も務めるが、天正10年(1582年)3月の武田氏滅亡後は森長可の支配を受ける。同年6月の本能寺の変後、信達は美濃に撤退する森長可を妨害し、越後の上杉景勝に属したが、7月13日、北信での自立を画策する武田遺臣の真田昌幸や北条氏直らと内通したことが発覚し、激怒した上杉景勝によって誅殺され、これにより高坂氏嫡流は滅亡した。さらに慶長5年(1600年)3月、初代川中島藩主として北信濃に入った森長可の弟の森忠政によって信濃に残っていた信達の一族は残らず探し出され18年前に森長可の信濃撤退を妨害した罪で一族全員が磔刑に処された(森家先代実録)。
近世には甲府町年寄の山本金右衛門(春日昌預、1751年3月17日(寛延4年) - 1836年(天保7年))は甲府城下の大店若松屋を営む加藤家の出自で、加藤家は虎綱の子孫を称している。
虎綱の活躍をはじめ信玄・勝頼期の事績を記している『甲陽軍鑑』は江戸時代の元和年間に成立した軍学書で、『軍鑑』自身の奥書によれば原本は虎綱の口述記録で、長篠合戦の後に武田氏の行く末を危惧した虎綱が勝頼や重臣の跡部勝資・長坂光堅らに対する「諫言の書」として記したという。
虎綱の死後も甥の惣次郎と家臣大蔵彦十郎が執筆を継続し、虎綱の海津城代時代の部下である小幡昌盛の子の小幡景憲がこれを入手し、完成させたという[14]。
高坂節三(経済同友会幹事)によると、「高坂家の先祖は甲斐の武田信玄に仕えた武将・高坂弾正忠昌信といわれ、兄(高坂正堯)は自分が戦国武将の末裔であることを非常に誇りに思っていた」という[15]。高坂正堯は自身の長男を「昌信」と名付けている[16]。
関連作品
映画
・杉森修平:『影武者』(1980年・東宝)
・沖田浩之:『天と地と』(1990年・角川)
・稲見雅文:『おけちみゃく』(2018年・カエルカフェ)
テレビドラマ
・村井国夫
・『天と地と』(1969年・NHK大河ドラマ)
・『おんな風林火山』(1986年・TBS)
・村上弘明:『武田信玄』(1988年・NHK大河ドラマ)
・成瀬正孝:『武田信玄』(1991年・TBS大型時代劇スペシャル)
・里見浩太朗:『風林火山』(1992年・日本テレビ年末時代劇スペシャル 里見は山本勘助と2役を演じている。)
・金児憲史:『風林火山』(2006年・テレビ朝日
・田中幸太朗:『風林火山』(2007年・NHK大河ドラマ)役名は春日源五郎→春日虎綱→香坂虎綱
・大出俊:『天地人』(2009年・NHK大河ドラマ)役名は高坂弾正昌信
脚注
1. 『甲陽軍鑑』に拠れば、虎綱は慎重な采配で三方ヶ原の戦い等においても撤退を進言し、「逃げ弾正」の異名を取ったという。
2. a b 平山(1994・②)、p.52
3. a b c 平山(1994・②)、p.53
4. a b 平山(1994・②)、p.55
5. a b 平山(2008)、p.314
6. 平山(2008)、p.313
7. 鴨川(2004)
8. http://www.excite.co.jp/News/lifestyle/20150720/NHKtextview_21077.html
9. 平山(2011)、p.156
10. 平山(2011)、pp.156 - 158
11. 平山(1994・②)、p.64
12. 平山(1994・②)、pp. 64 - 65
13. 平山(1994・②)、p.65
14. 『甲陽軍鑑』には文書上確認されない人物名や合戦、年紀の誤り等基本的事実の混同が頻出するため史料的価値や虎綱が原本を口述したとすることも疑問視する指摘もあるが、近年は国学的検討により再び性格をめぐり議論が行われている
15. 高坂節三 『昭和の宿命を見つめた眼―父・高坂正顕と兄・高坂正堯』PHP研究所、2000年11月1日、28頁。ISBN 978-4569613574。
16. 岡部陽二、服部龍二 『Documents and Data 元住友銀行専務取締役 岡部陽二インタビュー : 学生時代の高坂正堯』中央大学総合政策学部〈総合政策研究 = Japanese journal of policy and culture (28)〉、2020年3月、116頁。
参考文献
・『石和町誌』石和町、1987年
・平山優「春日虎綱」『新編武田信玄のすべて』(新人物往来社、2008年)
・平山優①「戦国大名武田氏の領国支配機構の形成と展開 -川中島四郡支配を事例として-」『山梨県史研究 第2号』、1994年
・平山優②「戦国大名武田氏の海津領支配について-城代春日虎綱の動向を中心に-」『甲斐路 No.80』山梨郷土研究会、1994年
・柴辻俊六「戦国期信濃海津城代春日虎綱の考察」『信濃 第59巻第9号』2007年、のち『戦国期武田氏領の地域支配』(岩田書院、2013年)に収録
・鴨川達夫「武田信玄の自筆文書をめぐって」『山梨県史研究 第12号』、2004年
関連項目
・戦国時代の人物一覧
・春日氏
・香坂氏
・高坂氏
(wikiより)



8210 酒飲み弥勒さん(長野市松代町豊栄・明徳寺)
8202 蛙合戦碑(長野市松代町豊栄・明徳寺)
8200 ゆずり葉碑(長野市松代町豊栄・明徳寺)
8198 明徳寺(長野市松代町豊栄)
概要
1390年(南朝:元中7年、北朝:明徳元年)に越後国刈羽郡の東福院5世妙徳により開山。明応10年(1501年)には正続円明禅師が中興開山となった。戦国時代には甲斐武田氏家臣で、信濃更級郡の香坂氏の養子となった海津城代の春日虎綱(高坂昌信)の帰依厚く、1533年(天文2年)に諸堂を修理し重興開基となる。玉山春洞を招き明徳寺は曹洞宗となる。
境内には虎綱の墓所があり、『甲斐国志』によれば明徳寺には虎綱の没年を天正6年5月初7日とする伝承を伝えているが、これは誤りであることが指摘される。
慶長16年(1611年)、松平忠輝により寺領20石を寄進され、慶安2年(1649年)には江戸幕府から朱印20石を安堵された。それ以後は歴代松代藩主(真田氏)により保護された。
エピソード
夜な夜な小僧に化けて酒を買いにでかけたという「酒飲み弥勒」の伝承がある弥勒菩薩も本尊のほかに安置されている。本堂裏手には、ヒキガエルの産卵場所になる「蛙合戦」の池(長野市指定天然記念物・1967年(昭和42年)11月1日指定)などがある。
墓所
高坂昌信の墓の他、大東亜戦争における硫黄島の戦いの指揮官栗林忠道の墓もある。
参考文献
・『信州の文化シリーズ 寺と神社』1981年 信濃毎日新聞社
・『探訪 信州の古寺 禅宗』1996年 郷土出版社
(wikiより)







⇧⇩ 高坂弾正の墓


⇧ 栗林忠道の墓


















8196 馬島先生碑(山口県萩市堀内)
8194 萩城址碑(山口県萩市堀内)
8192 志都岐山神社(山口県萩市堀内)
8190 久坂玄瑞誕生地(萩市平安古町537-2)
久坂玄瑞は、天保 11年 ( 1840 )、萩藩医・久坂良迪 ( りょうてき ) の三男として平安古に生まれました。
17歳のときに高杉晋作らと共に松下村塾で学び、のちに藩校明倫館に学びます。
吉田松陰から「防長年少第一流の才気ある男」と絶賛された玄瑞は、18歳のときに松陰の妹・文 ( ふみ ) と結婚しました。
長井雅楽の提唱した航海遠略策に反対し、藩論を尊攘討幕に一変。
英国公使館焼き打ちや下関の外国船砲撃に参加しました。
元治元 ( 1864 ) 年の禁門の変 ( 蛤御門の変 ) で、幕府方諸軍と戦い、流弾を受け負傷。享年 25歳という若さで自刃しました。
現在は、長州に亡命した尊王攘夷派公卿の 1人、三条実美が詠んだ追悼の和歌を刻んだ石碑が建てられています。
中央公園の一角に、平成 27年 1月 久坂玄瑞進撃像が建立されました。
〇 久坂玄瑞
生年 | 天保11年(1840年)5月 |
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生地 | ![]() |
没年 | 元治元年7月19日(1864年8月20日)(満24歳没) |
没地 | ![]() |
活動 | 尊王攘夷 |
藩 | 長州藩 |
久坂 玄瑞(くさか げんずい、1840年(天保11年5月) - 1864年8月20日(元治元年7月19日))は、幕末の長州藩士。幼名秀三郎、諱は通武(みちたけ)、通称は実甫、誠、義助(よしすけ)。妻は吉田松陰の妹・文(後の楫取美和子)。長州藩における尊王攘夷派の中心人物。栄典は贈正四位(1891年)。
経歴
幼少年期から藩医になるまで
天保11年(1840年)長門国萩平安古(ひやこ)本町(現・山口県萩市)に萩藩医・久坂良迪、富子の三男・秀三郎として生まれる(二男は早世している)[1]。幼少の頃から城下の私塾の松下村塾で四書の素読を受けた(この塾には1歳年長の高杉晋作も通っていた)[2]。ついで藩の医学所・好生館に入学したが、14歳の夏に母を亡くし、翌年には兄・久坂玄機が病没した。そして、そのわずか数日後に父も亡くし、15歳の春に秀三郎は家族全てを失った。こうして秀三郎は藩医久坂家の当主となり、医者として頭を剃り、名を玄瑞と改めた。17歳の時に、成績優秀者は居寮生として藩費で寄宿舎に入れるという制度を利用して、玄瑞は藩の医学所である「好生館」の居寮生となった。身長は6尺(約180cm)ほどの長身で恰幅がよく、声が大きく美声であった。片目は少しスガメであった[3][4]。
九州遊学から松下村塾入門へ
安政3年(1856年)、玄瑞は兄事する中村道太郎のすすめで九州に遊学する。九州各地の著名な文人を訪ね、名勝地を巡りつつ詩作にふける旅に出た。玄瑞がこの旅で作った詩は、のちに『西遊稿』としてまとめている[5]。熊本に宮部鼎蔵を訪ねた際、吉田松陰に従学することを強く勧められた[6]。玄瑞はかねてから、亡兄の旧友である月性上人から松陰に従学することを勧められており、久坂は萩に帰ると松陰に手紙を書き、松陰の友人の土屋蕭海を通じて届けてもらった[7]。
まず玄瑞が松陰に送った手紙の内容は、「弘安の役の時の如く外国の使者を斬るべし。そうすれば、必ず米国は来襲する。来襲すれば、綱紀の緩んだ武士達も覚醒し、期せずして国防も厳重になるであろう」という意見であった[8]。しかし松陰は、玄瑞の手紙をそのまま送り返し、その欄外に「あなたの議論は浮ついており、思慮も浅い。至誠より発する言葉ではない。私はこの種の文章を憎みこの種の人間を憎む。アメリカの使節を斬るのは今はもう遅い。昔の死んだような事例をもとに、現在のまったく違った出来事を解決しようということを思慮が浅いと言うのだ。つまらぬ迷言を費すよりも、至誠を積み蓄えるべきだ。実践を抜きにした言説は駄目だ」と書いて玄瑞の論を酷評した[9]。
だが、松陰が玄瑞に痛烈な批判を加えたのは考えがあってのことだった。玄瑞を紹介した土屋への手紙に松陰は、「久坂の士気は平凡ではない。何とか大成させようと思い、力をこめて弁駁しました。これで激昂して反駁してくる勢いがあれば、私の本望です。もし、これでうわべを繕って受け入れたふりをするような人ならば、私の見込み違いであったというべきでしょう。」と玄瑞を試していたのであった[10]。玄瑞は猛然と反駁した。「米英仏が強いことは昔の朝鮮の如きとは比較にならない。米英仏の巨大な戦艦と大砲、鉄砲には我が国は太刀打ちできない。だからといって座して国が亡びるのを待つのは如何なものであろうか。まず守りを固めるべきである。」「あなたの不遜な言説では私は屈しない」「もしあなたがこのような罵詈、妄言、不遜をなす男ならば、先に宮部殿があなたを称賛したのも、私があなたを豪傑だと思ったのも、誤りであったようだ。私は手紙に対して、憤激のあまり拳を手紙に撃ちつけてしまった。」と書いた[11]。
松陰はすぐに返事はせずに約1カ月の間をおいて筆を執った。「今や幕府は諸外国と条約を結んでしまった。それがだめだといっても、我が国から断交すべきではない。国家間の信義を失うことは避けなければならない。外国とは平穏な関係を続けながら、我が国の力を蓄え、アジア、中国、インドと手を携えたのちに欧米諸国と対峙すればいい。あなたは一医学生でありながら空論を弄び、天下の大計を言う。あなたの滔々と語る言説はただの空論だ。一つとしてあなたの実践に基づくものはない。すべて空論である。一時の憤激でその気持ちを書くような態度はやめよ。」と返書した[12]。
しかし、三度玄瑞は反論の筆を執った。「外国人との交易はどちらを利しているのか」「人心は現状を保つことに汲々としているが、武器はいつ備えるのか。士気はいつ高まるのか。危急存亡について誰が考えているのか」と食い下がった[13]。これに対して松陰の3度目の返信は、それまでとはうってかわって、「あなたが外国の使いを斬ろうとするのを空論と思っていたのは間違いだった。今から米使を斬るようにつとめてほしい。私はあなたの才略を傍観させていただこう。私の才略はあなたにとうてい及ばない。私もかつてはアメリカの使いを斬ろうとしたことがあるが、無益であることをさとってやめた。そして、考えたことが手紙に書いたことである。あなたは言葉通り、私と同じにならないように断固としてやってほしい。もし、そうでないと、私はあなたの大言壮語を一層非難するであろう。」と書いた[14]。
松陰は玄瑞に実践を求めたのであったが、玄瑞に米使を斬る手だてはなかった。ここに両者の議論に決着がついた。このやりとりの後しばらくして玄瑞は、翌安政4年(1857年)晩春、正式に松門に弟子入りした。
松下村塾では晋作と共に「村塾の双璧」、晋作・吉田稔麿・入江九一と共に「松門四天王」といわれた。松陰は玄瑞を長州第一の俊才であるとし、晋作と争わせて才能を開花させるよう努めた。そして、安政4年(1857年)12月5日、松陰は自分の妹・文を玄瑞に嫁がせた。
尊王攘夷運動
安政6年(1859年)10月、安政の大獄によって松陰が刑死した。
文久元年(1861年)12月、玄瑞は、松下村塾生を中心とした長州志士の結束を深めるため、一灯銭申合を創った(参加者は桂小五郎、高杉晋作、伊藤俊輔、山縣有朋ら24名)。
文久元年頃から玄瑞と各藩の志士たちと交流が活発となり、特に長州、水戸、薩摩、土佐の四藩による尊攘派同盟の結成に向けて尽力し、尊王攘夷運動、反幕運動の中心人物となりつつあった[15]。
文久元年初めから藩論は、長井雅楽の「航海遠略策、公武合体」に傾きつつあり、5月23日、藩主は長井に、朝廷に参内させ攘夷論の朝廷を説得せしめることに成功した。しかし、これに対し玄瑞は以下の観点から反駁した[16]。
一点目は経済の観点から、「今の通商は亡国への道である。売るものがなく、買うばかりの一方的な貿易で年々多くの国幣を失っている。物価は高騰し、国民は塗炭の苦しみの中にある。貿易を盛んにする前に、国産の開発が大いになされなければならない」。
二点目は幕府を助けることのみに終わるという観点から、「最終的には我が国は海外へ出ていかなければならないのはわかっている。先師(松陰)の考えもそうだった。だが、それが幕府を助け天朝を抑えることになってはならない。いずれは万里の外へ航海に乗り出す策を立てねばならないのは当然だ。しかし、今回対馬を占領されており、これだけの凌辱を受けながら、その罪も正さず、頭を垂れて尻尾を振って、航海に乗り出しても武威の高まることはないと思う。先日、佐久間象山を訪ねたが、同じ航海説でも「力を計り勝ちを計る」という考えで、大人物かつ発想に秀でており、戦を恐れて航海を唱える者と同じ土俵で論ずるべきではない」。
玄瑞は長井に何度を議論を挑み、また藩主への具申をしたが、藩論は覆ることはなかった。文久元年、公武合体の考えに沿うように和宮の降嫁が実現した。
このような中、玄瑞は全国の「草莽の志士糾合」に賭けざるを得なくなる。文久2年(1862年)正月14日、坂本龍馬が剣道修行の名目で、武市半平太の書簡を携え、玄瑞との打ち合わせのため萩へ来訪した。馬関の豪商白石正一郎と結び、白石宅をアジトにして、薩摩の西郷隆盛、土佐の吉村寅太郎、久留米、筑前の志士たちとも謀議を重ねた。松門の同志は血盟を交わし、桂小五郎は、繰り返し藩主親子、藩の重臣たちに、長井雅楽弾劾を具申し続けた。4月、玄瑞は同志と共に上京し、長井の弾劾書を藩に提出する。6月、玄瑞は長井要撃を試みるが襲撃の時機を逸したため、藩に長井への訴状も兼ねて待罪書を提出するも、京都にて謹慎となる。しかし、桂小五郎らは攘夷をもって幕府を危地に追い込む考えで、藩主・毛利敬親に対し攘夷を力説し、7月6日、長井失脚に成功した[17]。
廻瀾條議と解腕痴言
玄瑞は謹慎中の文久2年(1862年)8月、『廻瀾條議』と名付けた建白書を藩主に上提した。これが藩主に受け入れられ、長州藩の藩論となる。藩論は航海遠略策を捨て、完全に尊王攘夷に変更された(長井は翌年2月自刃を命ぜられた)。また翌月には、全国の尊攘派同士に向けた実践綱領の書『解腕痴言』を書いた。
『廻瀾條議』と『解腕痴言』は、結局「西洋の強大な武力に屈服する形で開国するのではなく、対等に交渉する気力を奮い起こすべきであり、それによって国力を回復させ、軍備を整えた後、対等な立場で条約締結に及ぶ」という意見であった。これは師松陰の開国的攘夷論を踏まえたものであるが、他方、「攘夷」という主張は、政権を幕府から朝廷へ回復させる倒幕という目的からも有効であると玄瑞は力説した[18][19]。|『廻瀾條議』の要点は次の通りである[20]。
(1)汚名を蒙って処刑された吉田松陰の遺骸を改葬して、その「忠烈節義」「殉国の志」を顕彰し、藩内で誰の意見が正しくまた邪であったかをはっきりさせること。
(2)安政五年の修好通商条約をはじめ幕府の怯懦な方策により、日本が将来植民地同様となる危機が生じており、その責任を負うべき井伊直弼以下の閣僚はさらに安政の大獄という暴虐の責めをも負うべきで、厳罰に処さねばならない。
(3)下田の和親条約までは良く、安政五年の条約はすべて下田の条約にまで引き戻し、外国貿易は長崎、下田、函館の三港に限ること。
(4)安政五年の条約は違勅の大罪をも犯しており、「大義をもって論ぜば」幕府を「誅戮殲滅」させてもいいのだが、朝廷が「ご寛容」に将軍の過誤を改める機会を与えられたのだから、「長薩二藩」が「督責」して条約に関する処罰や下田条約への引き戻しをさせねばならない。
(5)朝廷に「御政事所」を設け、ちくいち重要政務を幕府から奏聞させ、また、「御親兵」を置くなどして、ゆくゆくは「天下の御威権」を「朝廷に帰」すべきだが、ものごとには順序が大切であり、まず先の項(4)を実現するようにもってゆき、もし「承服つかまつらず」は、「決闘死戦と御勇決猛断」をなされねばならない。
以上をなして、諸外国の様子を洞観し、海軍を充実させ士気を高めて積極的海外に雄飛せよ。
同年9月、謹慎を解かれた玄瑞は、早速活動を開始する。薩長土三藩有志の会合に出席し、攘夷御下命の勅使を激励する決議をなした。また、9月末には土佐の坂本龍馬、福岡孝弟らと会い、三藩連合で近衛兵を創設する件を議した。10月、玄瑞は桂小五郎とともに、朝廷の尊王攘夷派の三条実美・姉小路公知らと結び、公武合体派の岩倉具視らを排斥して、朝廷を尊攘化した。そして同年10月、幕府へ攘夷を督促するための勅使である三条実美・姉小路公知と共に江戸に下り、幕府に攘夷の実行を迫った。これに対し、将軍・徳川家茂は翌年上京し返答すると勅旨を受け取った。
イギリス公使館焼き討ち
江戸に着いた玄瑞は晋作と合流した。晋作は外国人襲撃を画策していたが、玄瑞は「そのような無謀の挙をなすよりも、同志団結し藩を動かし、正々堂々たる攘夷を実行するべき」と主張し、晋作と斬るか斬られるかの激論となった。それを井上聞多がうまく裁き、結局玄瑞も受け入れ、長州藩志士11名が襲撃を決行することとなった[21]。しかし報せを聞いた長州藩世子・毛利定広や三条実美らの説得を受け、中止に終わった。その後11名の志士は、御楯組を結成し血盟した。ちなみにその趣意精神を記した「気節文章」は玄瑞が書いたものである。そして12月、彼らは品川御殿山に建設中の英国公使館焼き討ちを実行した。
下関戦争と光明寺党、奇兵隊
文久2年12月、玄瑞は再び佐久間象山を訪ねるため、水戸を経て信州に入った。象山を長州藩に招聘するためだったが、象山は辞退した。しかし象山は、玄瑞を数日滞在させて助言を与える。翌文久3年の正月に、この助言を藩主に詳しく説明したところから、伊藤俊輔、井上聞多らの藩費によるイギリス留学が実現した[22]。
文久3年(1863年)1月27日に京都翠紅館にて各藩士と会合する。2月21日には朝廷の攘夷決定にもかかわらず幕府が因循しているのため、玄瑞は関白鷹司輔煕の邸に推参し建白書を提出し、攘夷期限の確定を求めた。また、京都藩邸御用掛として攘夷祈願の行幸を画策した。これらが実現し、朝廷の指導権は長州が握ることとなった。
幕府は朝廷に御親兵をおくこと、攘夷期限を定めることを認めざるを得なくなり、3月には幕府より奉勅攘夷の決定が列藩に布告され、4月には攘夷期日を5月10日とする勅令が発せられた。
4月25日、玄瑞は帰藩し、5月10日に関門海峡を通航する外国船を砲撃する準備を整えるため、50人の同志を率いて馬関の光明寺を本陣とし、光明寺党を結成した。光明寺党は、他藩の士や身分にとらわれない草莽の士を糾合したものであり、その行動は藩意識を超脱したものだった。これを長州藩の玄関たる馬関の地で実行した[23]。
この光明寺党が後の奇兵隊の前身となる。玄瑞は公卿中山忠光を首領として、久留米藩の真木和泉も加え、士卒の意気を高めた。5月10日から外国船砲撃を実行に移した(外国艦船砲撃事件)。
長州藩はアメリカ商船ベンブローク、フランス軍艦キャンシャン、オランダ艦メデューサへの攻撃を行ったが、長州藩の砲台では海峡の反対側を通る船舶には弾が届かないことが判明したため、玄瑞は、かつて松陰が書いた『水陸戦略』の「海戦は奇なり、陸戦は正なり、……夜中など賊船に潜み近づき、船腹を打ち貫き候様の術、……」に倣い、夜中に船で近づいて攻撃するという戦法を実行した[24]。
この戦いで、長州藩の海防上の問題(旧式の青銅砲は射程が短く、外国間の報復攻撃の際に、門司側が無防備では十分な反撃ができないということ)が明らかになった。また、5月20日に朝廷の攘夷急進派の中心人物で長州藩の最も重要な後ろ盾であった姉小路公知国事参政が、何者かに暗殺された。そのため藩は5月28日、朝廷へのパイプの太い玄瑞を、朝廷への攘夷報告と対岸の小倉藩の協力要請のための使者に伴わせて京都に向かわせた[25]。
6月1日、玄瑞ら長州藩は朝廷に攘夷の報告をし、朝廷から藩主への褒め詞を賜った。3日には、朝廷から各藩への攘夷趣旨貫徹の下達を請願した。朝廷は、5日に小倉藩へ通達。6日には列藩に対しても攘夷の趣旨が伝えられた。
攘夷実行と同時に起きた京都政界の急変に対応するため、入江九一を除き、光明寺党の中核をなしていた玄瑞、寺島忠三郎、吉田稔麿、野村靖ら松下村塾の門人たちはみな、京都、山口、馬関の間を駆け巡らなければならなくなった[26]。
玄瑞が京都へ東上した頃、光明寺党の幹部と真木和泉、中山忠光、白石正一郎らが話し合い、新しい隊を結成することとなった。光明寺党を基として、足軽、農民、町人、工匠等の希望者を募って、隊づくりが進行した[27]。
しかし、玄瑞が京都で政治活動中の6月1日、5日に長州藩は、アメリカ艦、フランス艦から報復攻撃を受け、長州藩軍艦2隻が撃沈、砲台が破壊され、寺、民家を焼かれた。玄瑞不在の代理として藩は6月5日、討幕挙兵を唱えて謹慎中であった高杉晋作に馬関防衛を命じ、6月6日、晋作は現地に赴任し、奇兵隊の総管となった。『奇兵隊日記』によると、光明寺党が奇兵隊へ名称変更したのは、晋作が着任以前のことであることがわかる[28]。
くわしいことは「久坂玄瑞ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%85%E5%9D%82%E7%8E%84%E7%91%9E
(wikiより)

久坂玄瑞

⇧ 久坂玄瑞誕生地














8188 志都岐山神社のミドリヨシノ(山口県萩市堀内)
8186 児玉花外碑(山口県萩市堀内)
〇 児玉花外
児玉 花外(こだま かがい、1874年(明治7年)7月7日 - 1943年(昭和18年)9月20日)は、日本の詩人。はじめ社会主義詩を、後に愛国詩をよくし、「熱血詩人」の異名をとった[1]。『明治大学校歌』[2]の作詞者でもある。本名は伝八。詩人の児玉星人は異母弟[3]。
経歴
京都の室町通上立売下ル西入蒔鳥屋町(現・京都府京都市上京区)で旧長州藩士の児玉精斎の長男として生まれた。児玉家は代々萩城下町に住んでいたが、維新後に大津郡三隅村、次いで京都に移り、室町通で漢方医を開業していた[3]。
1886年(明治19年)、高倉初音小学校(現・京都市立高倉小学校)を卒業。同志社予備校に入学し、次いで同志社普通学校(本科)に進む[3]。1890年(明治23年)、新島襄の死に際して棺を担いで野辺の送りをした[3]。その直後に同志社を中退し、やはり新島が校長を務めていた東華学校に入学。同校が廃校になった後、札幌農学校(現・北海道大学)予科に入学するも本科に進まず中退。1894年(明治27年)には東京専門学校(現・早稲田大学)文学部に入学。坪内逍遙の影響を受け、バイロンやシェリー、バーンズの詩に親しんだが、3年後にやはり中退し、京都に帰る[3]。
京都に帰った児玉は内村鑑三に影響を受け、内村の『東京独立雑誌』や片山潜の『労働世界』などといった雑誌に次々と詩作を発表[3]。1899年(明治32年)には山本露葉、山田枯柳との共著で、処女詩集『風月万象』を出版する[4]。また、この頃から「花外」という雅号を使用するようになった。ちなみに「一生を出世栄達という花の外に居る」という思いからつけられている。
その後、新聞記者などを務めながら社会主義的詩を次々と発表し、評論家からは高い評価を受けていたが、1903年(明治36年)、第2詩集となる『社会主義詩集』が、製本段階で発売禁止処分を受ける[5]。『社会主義詩集』というタイトルであるとはいえ、収録されている詩はそれまでに雑誌で合法的に発表していたものであり、特別過激な内容であったわけではない。このため、なぜ発売禁止処分を受けたのかは不明である。さらに、1907年(明治40年)には第4詩集『天風魔帆』が、またも発売禁止処分を受けてしまう。
以後、児玉は社会主義的作品をほとんど書かなくなり、『冒険世界』『武侠世界』などの雑誌に英雄詩や勇壮詩を多く執筆するようになる。しかし生活は苦しく、酒の飲み過ぎから体調を崩したこともあって、救護法の適用を受けたことさえあった。なお、この頃の代表作には、「白雲なびく駿河台」の歌詞で知られる『明治大学校歌』がある。
最晩年、花外が板橋の東京養育院に入所していると聞いた武田孟(のち明大総長)ら多くの明大の関係者・学生が、学内で寄付金を募り、慰問の品々を持参して見舞いに訪れた。車椅子で迎えた花外に、学生たちはマンドリンオーケストラの旋律に合わせて明治大学校歌を合唱して慰め、花外は感激のあまり涙を流したという[6]。
1943年(昭和18年)9月20日、急性腸炎のため死去[4]。69歳。晩年は日蓮宗が心の支えだったという。墓所は静岡県伊豆市の上行院。
1960年(昭和35年)、祖父のゆかりの地である山口県長門市の大寧寺に詩碑が建立された[7]。
『社会主義詩集』のその後
発売禁止処分を受けた『社会主義詩集』であったが、ごくわずかに製本されたものが存在していた。 1935年(昭和10年)ごろ、大阪の活字問屋社主で古書コレクターでもあった青山督太郎の手元に渡ったことが確認されたものの、青山の蔵書は後に警察に押収されてしまい、戦後青山が返還を求めたときには行方不明になっていた。
このことから、稀覯本番付が作られた場合には第一に名前があがる稀覯本として古書コレクターの間で知られていたが、時を経るに従って、もう現存していないと考えられるようになったため、近年ではその名前が取り沙汰されることはない。
なお、『社会主義詩集』は1949年に日本評論社から岡野他家夫の解題、中野重治の序文をつけて刊行され、またそこに収められていた詩のなかのいくつかは、『日本プロレタリア文学大系』(三一書房)の「序巻」(ISBN 978-4-380-68509-5)で読むことができる。
関連項目
・天狗倶楽部
脚注
1. 原田謙次 『校歌と校風』 北光書房、1943年、80頁
2. 『児玉花外詩集』 文松堂書店、274-276頁
3. a b c d e f 『明治文學全集83 明治社会主義文學集(一)』 506-507頁
4. a b 『日本現代詩辞典』 185-186頁
5. 明治36年内務省告示第57号(『官報』第6062号、明治36年9月14日、p.217)
6. 『朝日新聞』 昭和15年11月17日
7. 『同志社山脈』 201頁
参考文献
・『明治文學全集83 明治社会主義文學集(一)』 筑摩書房、1965年 ISBN 978-4-480-10383-3
・『日本現代詩辞典』 桜楓社、1986年 ISBN 4-273-02072-6
・同志社山脈編集委員会編 『同志社山脈』 晃洋書房、2003年 ISBN 4771014086
・明治大学百年史編纂委員会 『明治大学百年史』 第三巻 通史編Ⅰ、学校法人明治大学、1992年
・横田順彌 『[天狗倶楽部]快傑伝 元気と正義の男たち』 朝日ソノラマ 1993年
外部リンク
・山口県/文化振興課/山口の文学者たち・児玉花外
・児玉花外資料目録|山口県立山口図書館
・

・明大校歌歌詞の成立 補論 - 明治大学図書館
・児玉花外:作家別作品リスト - 青空文庫
(wikiより)

児玉花外




8184 近藤元統碑(墓所)(山口県萩市堀内)
8182 西村秀造翁頌徳碑(山口県萩市堀内)
8180 前田孫右衛門碑(山口県萩市堀内)
〇 前田孫右衛門
時代 | 江戸時代末期(幕末) |
---|---|
生誕 | 文政元年7月28日(1818年8月29日) |
死没 | 元治元年12月19日(1865年1月16日) |
別名 | 諱:利済、字:致遠、通称:岩助、号:陸山 |
墓所 | 東光寺 |
幕府 | 江戸幕府 |
藩 | 長州藩 |
前田 孫右衛門(まえだ まごえもん )は、幕末の長州藩士。諱は利済。甲子殉難十一烈士の一人。
略伝
藩校の明倫館で学び、長州藩の代官や奉行を歴任後、文久元年(1862年)に上京して直目付に就任して軍備の整備に当たるが、奉勅攘夷の為出奔。文久2年(1863年)の八月十八日の政変により直目付を罷免されるが、9月に表番頭格用談役に登用され、後に直目付に復職。
元治元年(1864年)7月、山田亦介・天野謙吉らと共に東上するが京師の変の報を聞いて帰国し、伊藤俊輔と共に応接使となる。禁門の変の後、直目付を再び罷免され、謹慎処分に処される。その後野山獄に入れられ、楢崎弥八郎・松島剛蔵・毛利登人・山田亦介・大和弥八郎・渡辺内蔵太ら6人と共に処刑される。
関連作品
・花神 - 演:渡辺厳 (NHK大河ドラマ、1977年)
・奇兵隊 - 演:近藤洋介 (日本テレビ年末時代劇スペシャル、1989年)
(wikiより)





8178 萩城跡(山口県萩市堀内)
別名 | 指月城 |
---|---|
城郭構造 | 梯郭式平山城(指月山) |
天守構造 | 複合式望楼型5層5階(1608年築・非現存) |
築城主 | 毛利輝元 |
築城年 | 慶長9年(1604年) |
主な城主 | 毛利氏 |
廃城年 | 明治7年(1874年) |
遺構 | 長屋、石垣、堀 |
指定文化財 | 国の重要文化財(厚狭毛利家長屋) 国の史跡 |
再建造物 | 北の総門・土塀・土橋 |
位置 | 北緯34度25分3.33秒 東経131度22分56.92秒 |
地図 |
萩城(はぎじょう)は、山口県萩市にあった日本の城である。別名・指月城(しづきじょう)。城跡は国の史跡に指定されている。
概要
関ヶ原の戦いに西軍の総大将に就いたことにより周防国・長門国の2ヶ国に減封された毛利氏が、広島城に代わる新たな居城として慶長9年(1604年)に築いた城。完工は慶長13年(1608年)だが、築城者である毛利輝元[1]は、慶長9年12月に未完成のまま入城していた。
指月山の山麓にある平城(本丸・二の丸・三の丸)と山頂にある山城(詰丸)で構成されている。本丸の御殿は藩主居館と政庁を兼ねており、250年余りの間、長州藩(萩藩)の拠点であったが、明治7年(1874年)前年に発布された廃城令により櫓など他の建物と共に破却され、石垣や堀(水堀)のみが現存している。現存していた頃の姿は解体前に撮影された古写真[2]で見ることができる。現在、二の丸土塀や三の丸総門など一部は復元されている。さらには、破却された天守など建物の復元を行う動きもあるが、財源の問題で難しくなっている。
現在、城跡は指月公園(しづきこうえん)として整備され、二の丸入口近くに旧厚狭毛利家萩屋敷長屋(重要文化財)が現存し、松下村塾や侍屋敷などとともに萩市の観光名所となっている。萩市の観光の中でも有名である。
歴史・沿革
戦国時代
・戦国時代、指月山に津和野城主・吉見氏が出城を構え、のちに吉見正頼の隠棲所となった。
・1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いで西軍総大将となった毛利輝元は安芸国ほか8か国で112万石の大大名であったが、敗戦により隠居のうえ嫡男の秀就に家督を譲るように命じられ、防長2か国29万8千石[3]余に減封された。
江戸時代
・1603年(慶長8年)幼少の秀就に代わり、輝元は後見役として萩・山口・三田尻(防府市)の3ヵ所を城地の候補とし、幕府に裁可を求めた。これに対し幕府は、海に臨み要害の地である萩が良いとの回答をしている。
・1604年(慶長9年)萩城建造に着手。指月山に連なる干潟を埋め立て、城地を建造した。輝元は、本丸御殿などまだ一部しか出来ていなかった11月に、早々に入城した。
・1608年(慶長13年)落成。平時に建設された城ではあるが、指月山に詰の丸を配するなど、戦時を意識した構えとなっている。
・1613年(慶長18年)、幕閣とも協議のうえ36万9千石に高直し、幕府は長州藩の表高として公認した。この石高は支藩の分与後も変わることはなかった。
・1863年(文久3年)時の藩主・毛利敬親は幕府に無許可で藩庁を山口城(山口市)に移し、萩城は藩庁としての役目を終えた(山口移鎮)。
近現代
・1874年(明治7年)廃城令により天守・櫓などの建物を破却。
・1951年(昭和26年)国の史跡に指定される。
・1967年(昭和42年)萩城下町が国の史跡に指定される。
・1971年(昭和46年)指月山が国の天然記念物に指定される。
・1996年 - 堀や石垣・門の復元・保存を行う「史跡萩城跡外堀保存整備事業」を開始。
・2004年 - 「史跡萩城跡外堀保存整備事業」によって北の総門が復元される。
・2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(75番)に選定された。
・2011年3月29日 - 1996年から行われていた「史跡萩城跡外堀保存整備事業」が終了。堀や石垣の復元整備や北の総門復元などが行われた[4]。
・2015年7月5日 - ユネスコの世界遺産に「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の1つとして登録される。
構造
城の位置と構成
毛利輝元は、萩・山口・防府の3ヵ所を築城候補地とし、最終には幕府の指示で萩に決定した[5]。一般的には、これは外様大名の雄である毛利氏を山陰の僻遠地に押し込める意図が幕府にあり、毛利氏の本命候補地は山口であったとも言われている[6]。しかし、幕末に山口移鎮を行った毛利敬親は、萩城は他大名と戦う場所としては優れた「形勝之地」と表現するなど先祖代々の重要な場所と認識しており、萩への築城は毛利氏の不本意だったという見方には根拠が無いとする見解もある[6]。
三角州に築城されたため、三方を海に囲まれている。日本海に張り出した指月山山頂の詰丸(要害とも呼ばれる)と、その山麓に梯郭式(曲輪#縄張と主要な曲輪を参照)に本丸・二の丸・三の丸を配し3重の堀を巡らした平山城であった。吉田郡山城などの中世山城に見られる"山麓の館と山頂の砦"という形態を近世の最新築城術で再現したような城で、広島城を失った毛利輝元が背水の陣で築いた城として、輝元の築城理念が最もよく示されているとされる[7][5]。厳密には、山頂の詰丸も本丸と二の丸で構成されており、山麓の城とは独立したものであるため、平山城ではなく平城と山城であるとする見解がある。また、海に突出しているため、海城であるという見方もある[8]。
本丸
指月山を背後にした本丸御殿を中心に、南西部に天守を、南東部と北東部の隅に櫓(着見櫓と井上櫓)[9]を配した曲輪。広さは東西約200メートル・南北約145メートルに及ぶ。正面となる南側には本丸門(内側の渡櫓門と外側の高麗門で構成される内枡形の虎口)と極楽橋(現在は土橋だが往時は木橋)を設け、二の丸との間には幅20間(約40メートル)の内堀・石垣を巡らせていた。明治12年(1872年)に豊榮神社・野田神社を分社した志都岐山神社が建てられたほか、明治20年(1887年)には藩主別邸の花江御殿から茶室・花江茶亭[10]も移築された。現在では指月公園(要入場料)を成しており、その他の旧跡として梨羽家茶室[11]、旧福原家書院、万歳橋などがある。
・本丸の櫓[12]:井上櫓・着見櫓・天守
天守
萩城の天守は5層5階の複合式望楼型(天守の北側には付櫓を接続した複合式の縄張りと2層2階の入母屋造の基部に3層3階の望楼を載せた構造)で、高さは約21メートルであった。外壁は白漆喰の総塗籠で、窓は銅板を貼った突き上げ戸を備える。明和5年(1768年)の修理では赤瓦に葺きかえられた。また、高さ6間、約11メートルの天守台は、非常に勾配の緩やかな裾から上にいくに従って急勾配に立ち上がっている。これは、城の築かれた土地である三角州の地盤の強度を補うため、底面を広げることで荷重を分散させる工夫である。
指月山山麓の本丸南西部に据えられた天守は、城外(城下町)からは見えなかったため、安土桃山時代以降の多くの近代城郭が持っていたとされる城主(藩主)の支配力を誇示するという役割は期待できなかったと思われる[5]。
各階
東西は桁行、南北は梁間。「間」は柱割であり寸法ではない。重数は「御天守之図」記載の名称。括弧内は「萩城絵図」記載の名称。
付櫓(天守戸前と天守附添之長屋)
付櫓は、「天守戸前」と「天守附添之長屋」に分かれていた。戸前の北西に附添之長屋が付属する構造が「御天守之図」に描かれている。平櫓であるが、内部には中二階があり、天守台下に当たる付櫓1階から中二階を経て天守に入る構造となっていた。
初重(天守下段)
東西11間、南北9間。「萩城絵図」によれば坪数99坪とある。
天守台から外に半間ほど張り出している張出構造で、張出し部の床下は石落としに利用された。
身舎には6部屋あったが、無目の敷居が敷かれるのみであった。
弐重(天守弐階)
東西10間、南北8間。
構造、仕様は初重とほぼ同じである。
三重(天守三階)
東西6間、南北5間。東西面に2間×3間の小屋の間、南北面に4間×1間の入母屋破風出窓の張り出しがある。
身舎には薄縁の畳が敷かれ、南側に床の間と上段があり、建具は障子とはめ殺しの格子が建てられていた。
四重(天守四階)
東西6間、南北5間。南北面に2間×1間半の小屋の間(入母屋破風出窓の上)がある。
構造は三重目とほぼ同じであるが、床の間や上段などはない。
五重(天守五階)
東西3間、南北3間。ただし、南北は19尺5寸、東西は22尺5寸である。
外廻縁高欄をつけ、南北面に中央開口部の両脇に2つずつ、東西面中央に1つずつの花頭窓型の出入り口(花頭口)があった。
二の丸
本丸と指月山を囲むように造られた曲輪。12基の櫓、34の井戸、蔵元役所、寺社(真言宗満願寺[13]、臨済宗妙玖寺[14]など)、6代藩主毛利宗広により東園と名付けられた回遊式庭園[15]などがあった。南側と東側にそれぞれ内枡形虎口城門があり、大手門である南門は虎口内部に突き出た石垣を設けて「コ」の字型とする構造となっており、東門は外門(高麗門)・内門(渡櫓門)に加えて2つの櫓(三重の東櫓・二重の時打櫓)が設けられていた。また、菊ヶ浜の方に面した東側には渡櫓門式の潮入門やいくつかの埋門があった。いずれもの門も石垣のみが現存し、豪雨被害の修復は行われたが復元はされていない。ただし、潮入門の南側には四角い銃眼のある土塀(二の丸土塀)が昭和40年(1965年)に復元されている。地続きとなっている二の丸南側は幅16間(約32メートル)の中堀で囲まれていたが、大正15年(1926年)に指月川(橋本川の水を迂回させて水害を防止するために造られた萩疎水で中堀とは無関係。)が造られた時に埋め立てられている。
・二の丸の櫓[12]:北櫓・満願寺櫓(三摩寺院櫓)・荒川櫓・紙櫓・華櫓・東櫓・時打櫓・塩櫓・青海櫓(青見櫓)・八間櫓・岡崎櫓・妙玖寺櫓。
三の丸
重臣の居住区となっていた曲輪。厚狭毛利家の萩屋敷[16]も建てられている。三の丸から城下町に出入りする総門は北・中・南の3つがあった。南は平安古の総門と呼ばれ、外堀に架けられた玄武岩製の石橋・平安橋が現存している[17]。また、平成16年(2004年)には北の総門が復元され、総門脇の土塁・船着場・土塀付き土橋なども整備された[18]。一方、城内と城外を隔てる幅20間の外堀は、元和8年(1622年)に完成したとされる。しかし、東側の城下町の発展にともなって堀が埋められていき、元文4年(1739年)には幅8間(16メートル)になった[19]。現在では、外堀より内側(萩城側)の地区が堀内と呼ばれており、昭和51年(1976年)に、堀内地区のうち約77ヘクタールが重要伝統的建造物群保存地区として選定されている(日本で最初に選定された7地区のうちの1つ)[20][21]。
・三の丸の櫓:益田家物見櫓[22]・大野毛利家隅櫓[23]・児玉家隅櫓。
・旧厚狭毛利家萩屋敷長屋:二の丸南門の近くにあり、約1万5500平方メートルにおよぶ敷地に庭園も備えていたとされる武家屋敷。明治維新後にほとんど解体されたため、現在では長屋のみが残っている。桁行51.5メートル・梁間5メートルの長屋は、萩に残る武家屋敷の中では最大のもの。昭和41年(1966年)に国の重要文化財に指定された。昭和43年(1968年)に解体修理が完了し、現在は萩城下町絵図や萩城復元模型などを展示する資料館となっている。
詰丸
指月山の山頂に設けられた詰めの城。城跡の案内板では「萩城要害跡」とも表記されている。石垣と土塀で囲まれた本格的な城郭で、東側の上段を本丸、西側の下段を二の丸として、石垣と塀で仕切られていた両者の間は棟門で繋がれていた。二の丸の南側に枡形虎口と櫓門による表門があり、本丸東側に裏門として埋門がある。詰丸には現存する建物はなく、天守があったという記録もないが、二の丸には海と陸を監視する番兵たち(平時でも6・7名が泊まり込んでいた)が詰める番所と居小屋が、本丸には藩主のための茶屋があったとされる。また、門櫓以外に7基の櫓が建てられていた。櫓には万が一籠城する時ために武器が備えられていた。なお、山頂には井戸がないので水溜があり、昭和40年に土塀の一部と共に復元整備された。石垣とする石を切り出した石切場も残されている。
・詰丸の櫓[12]:八間櫓・拾間櫓・北国櫓・辰巳櫓(小櫓)・大将櫓(大櫓)・瀬戸崎櫓・山中櫓[24]。
くわしいことは「萩城ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%90%A9%E5%9F%8E
(wikiより)












⇧⇩ 大きい木の切り株です。

⇧ 携帯電話を置いてみました 大きさが分かり易いと思います。

⇧ 萩城入り口です。



⇧ 堀の向うに石垣が見えます。


⇧ 入場料を払って入場します。

⇧ 顔出し看板も有ります。

⇧ 石垣に登れます。( 萩城天守閣跡 )


⇧ 登るってみました。



8157 井上剣花坊歌碑(萩市)
〇 井上剣花坊
井上 剣花坊(いのうえ けんかぼう、明治3年6月3日(1870年7月1日) - 昭和9年(1934年)9月11日)は、日本の川柳作家。幼名は七郎、のちに幸一[1]。
著書に『江戸時代の川柳』などがある。
生涯
明治3年(1870年)6月3日、山口県萩に生まれた。家系は毛利家に仕えていたが、廃藩後に没落、父栄祐は1891年に、不遇のうちに亡くなった[1]。
独学で小学校代用教員となり、のちに山口県の新聞社『鳳陽新報』(のち『長周日報』、その後防長新聞に併合されて消滅)に就職して新聞記者となった[2]。同じ頃山県トメと結婚し、3人の子供を授かるも、トメは3人目出産後の予後が悪く、1898年に他界。なお井上はその3年後の1901年に岡ノブと再婚、2人の子供をもうけた[2]。同じ1901年には『越後日報』に就職、主筆となった[2]。
1903年7月、『越後日報』を退社し新聞「日本」に入社。ここで剣花坊の筆名で新川柳の選者を務めた。なお筆名は、山口県で「争気がある人」を「喧嘩ぼう」といったことから、自らをそれになぞらえて「剣花坊」の漢字を当てたものである[3]。その後退社したものの、客員として同誌の選者を務めた。また他に『國民新聞』や『読売新聞』でも選者を務め、新興川柳の普及に努めた[4]。1905年結成の柳樽寺派の先達としても活躍し、「大正川柳」(のちに「川柳人」に改題)を創刊、新興川柳派を支援した。しかし同誌に掲載された鶴彬の句が治安維持法違反とされたため、同誌は廃刊に追い込まれた。
1929年からは『福岡日日新聞』『主婦之友』『中国民報』でも選者を務めた[5]。
しかし1933年頃から体調不良を自覚し、翌年の1934年には軽い脳溢血を起こして右半身が不自由となった[6]。1934年9月8日に脳溢血で倒れ、9月11日、仮寓の神奈川県鎌倉の建長寺で死去した。没後は妻の信子が後継となり、川柳誌を発行し続け、また川柳作家の鶴彬を支援した。
主な川柳作品
・何よりも母の乳房は甘かりし - 生誕地の句碑に刻まれている。
・咳一つ聞えぬ中を天皇旗
・米の値の知らぬやからの桜狩り
・活眼をひらくとゴミが眼にはいり
著書
単著
・『赤裸々の大石良雄』(1913年、敬文堂書店)
・『新川柳六千句』(1916年、南北社)
・『川柳を作る人に』(1918年、南北社)
・『川柳1922年集』(1922年、柳樽寺新星会)
・『古川柳真髄』(1925年、柳樽寺川柳会)
・『江戸時代の川柳』(1928年、近世日本文化史研究會)
・『新川柳自選句百三十三人集』(1932年、柳樽寺川柳会)
共編著
・井上剣花坊選、近藤浩一路絵『川柳漫画』(1930年、川柳漫画刊行会)
・井上剣花坊編『三笠しづ子 (丸山貞子) 句集』(1932年、柳樽寺川柳会)
作品集
・白石維想楼編『習作の二十年 : 井上剣花坊句集』(1922年、柳樽寺川柳会)
・井上信子編『井上剣花坊句集』(1935年、叢文閣)
・井上鳳吉編『井上剣花坊句集』(1966年、市ケ谷出版社)
評伝
・坂本幸四郎 『井上剣花坊・鶴彬 川柳革新の旗手たち』 リブロポート<シリーズ民間日本学者>、1990年
参考文献
・昭和女子大学近代文学研究室『近代文学研究叢書 第37巻』(1973年)
脚注
1. a b 昭和女子大学(1973)p.228
2. a b c 昭和女子大学(1973)p.229
3. 昭和女子大学(1973)p.230
4. 昭和女子大学(1973)pp.231-232
5. 昭和女子大学(1973)p.234
6. 昭和女子大学(1973)p.235
(wikiより)

井上剣花坊



8155 口羽家住宅 2棟(主屋・表門)(萩市大字堀内)
8150 旧益田家物見矢倉(萩市北片河町堀内)
8149 刑場跡(萩市恵美須町1)
8148 小田村伊之助(楫取素彦)旧宅地(萩市南古萩町)
8147 円政寺内金毘羅社社殿(萩市大字南古萩町)
8146 青木周弼旧宅(萩市南古萩町)
幕末当時、日本屈指の蘭学医でもあった。
来客用と家人用の座敷に分けられた母屋が、全国から門下生が集まった青木家の事情を物語っている。
青木周弼は、享和 3 ( 1803 ) 年、周防大島郡の医師・青木玄棟の長男として生まれる。
三田尻の名医・能美友庵・洞庵父子に学び、江戸に出て蘭方医坪井信道などに学んだ。
長崎に遊学した際には、シーボルトに師事。
一時、長崎で開業するも天保 9 ( 1838 ) 年に能美洞庵などの推薦で藩医となり、嘉永元 ( 1848 ) 年、13代藩主・毛利敬親の信任を得て侍医となる。
早くから種痘法に注目し、弟・研蔵を長崎に遣わし研究させ、藩内でこれを施し大いに功を奏した。
高杉晋作が 10歳のとき疱瘡にかかった際、診療した医者としても知られる。
藩の医学館 ( 好生堂 ) 創設にかかわり、後に館長となり、防長医学の発展に大きく貢献。
周弼が培った洋学の知識は、村田清風を通じて幕末の藩政改革に生かされた。
文久 3 ( 1863 ) 年、61歳でこの世を去る。
8145 旧佐伯丹下家屋敷(山口県萩市)
・「撫育方」藩の別途会計を管理する役所。
・「奥番頭役」藩主の側に仕え殿中の諸事一切を統括する役。
8144 菊屋家住宅(萩市呉服町1-1)
8143 旧久保田家住宅(萩市大字呉服町1-31)
8142 田中義一像(萩市堀内(萩博物館脇の公園))
8141 高杉晋作誕生地(萩市南古萩町23)
8140 旧野田家住宅(萩市南古萩町8)
8139 井上剣花坊誕生地(萩市江向)
8133 金子重輔君絶命之痕(萩市大字今古萩町)
時代 | 江戸時代末期(幕末) |
---|---|
生誕 | 天保2年2月13日(1831年3月26日) |
死没 | 安政2年1月11日(1855年2月27日) |
別名 | 名:貞吉、卯之助、直三郎、重輔、変名:渋木松太郎、市木公太 |
墓所 | 山口県萩市北古萩町 保福寺 |
官位 | 贈正五位 |
幕府 | 江戸幕府 |
藩 | 長州藩 |
父母 | 父:茂左衛門、母:つる 養父:金子氏 |
金子 重之輔(かねこ しげのすけ)は幕末の長州藩士である。名は重輔とも。
経歴
長門国阿武郡紫福村商人・茂左衛門とつるの長男として生まれる。後に足軽の金子家の養子となる。幼時より白井小助、次いで土屋蕭海に学び嘉永6年(1853年)、家業を嫌って江戸に出て長州藩邸の雑役となる。
同年、熊本藩士・永島三平を伝にして吉田松陰と出会いその弟子となる。嘉永7年(1854年)、アメリカ合衆国の東インド艦隊再来に際して松陰と共に渡米を計画して藩邸を脱走。鳥山確斎の私塾に寄宿して、世界地誌を学びながら機会を窺った。
日米和親条約が締結されると松陰と共に下田へ赴いて米艦に乗り込もうとするがアメリカ側に拒否されたためにやむなく計画を中止、自首した。伝馬町牢屋敷に収容後、国許に蟄居の判決を受け、幕吏によって萩へ檻送され安政2年(1855年)、士分以外の者が入る岩倉獄で病没した。享年25(満23歳没)。
明治44年(1911年)、正五位を追贈された[1]。
金子重之輔の像は、吉田松陰誕生地にある松陰の銅像のそばで松陰を見上げる姿で残っている。
脚注
1. 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.28
登場する作品
・花神 - 1977年、NHK、演:岡本信人
・龍馬伝 - 2010年、NHK、演:尾関伸嗣
・花燃ゆ - 2015年、NHK、演:泉澤祐希
(wikiより)


8132 野山獄跡(萩市大字今古萩町)
〇 野山獄
野山獄(いわくらごく)は、江戸時代に長州藩によって萩に設けられた獄屋敷である。
概要
長州藩には士分(武士階級)の者を収容する上牢である野山獄と、士分以外の者を収容する下牢である岩倉獄が設けられた。
長州藩の大組藩士であった野山六右衛門の屋敷と、同じく大組藩士であった岩倉孫兵衛の屋敷は道路を隔てて向かい合わせであった。正保2年(1645年)9月17日の夜、岩倉孫兵衛が酒に酔って野山六右衛門の屋敷に押し入り、家族を殺傷する事件を起こした。この時、岩倉孫兵衛は野山宅に幽閉され、のちに斬首の刑に処された。しかし、喧嘩両成敗により両家は取りつぶしとなり、屋敷が没収され、後に屋敷跡は牢獄に建て替えられた。
切り込まれた野山家側に非はないとして、野山獄は上牢とされた。12室の独房が6室ずつ向かい合わせの構造で、検視小屋や刑場も設けられた。幕末には吉田松陰が収容され、獄内で教育活動を行ったほか、高杉晋作など正義派の志士、正義派と対立した俗論党の椋梨藤太などが収容されていた。また、両派の関係者が処刑されたことでも知られる。
現在は史跡として整備され、記念碑が建てられている。
関連項目
・萩市観光協会公式サイト 野山獄跡
(wikiより)




8131 岩倉獄跡(萩市大字今古萩町)
〇 岩倉獄
岩倉獄(いわくらごく)は、江戸時代に長州藩によって萩に設けられた獄屋敷である。
概要
長州藩には士分(武士階級)の者を収容する上牢である野山獄と、士分以外の者を収容する下牢である岩倉獄が設けられた。
長州藩の大組藩士であった野山六右衛門の屋敷と、同じく大組藩士であった岩倉孫兵衛の屋敷は道路を隔てて向かい合わせであった。正保2年(1645年)9月17日の夜、岩倉孫兵衛が酒に酔って野山六右衛門の屋敷に押し入り、家族を殺傷する事件を起こした。この時、岩倉孫兵衛は野山宅に幽閉され、のちに斬首の刑に処された。しかし、喧嘩両成敗により両家は取りつぶしとなり、屋敷が没収され、後に屋敷跡は牢獄に建て替えられた。
切り込んだ岩倉家側に非があるとして、岩倉獄は下牢とされた。野山獄とは異なり環境が劣悪で、着物や食べ物が満足に与えられなかったため、吉田松陰と共に黒船で密航を企てた金子重之輔は岩倉獄で病死している。
現在は史跡として整備され、重輔絶命の詩碑と松陰が重輔に与えた詩碑が建てられている。
関連項目
・萩市観光協会公式サイト 岩倉獄跡
(wikiより)









8124 竹内先生略伝(萩市藍場川畔)
8123 桂太郎旧宅(萩市川島73-2 )
8104 織部灯篭(山口県萩市川島197・善福寺)
8103 山田宇衛門旧宅跡(萩市川島2区-2)
8102 山縣有朋誕生地(萩市川島313-1)
幼名は小輔、狂介などを名乗り、維新後有朋と改名。
早くから志をたてて文武に励み、特に槍術 ( 宝蔵院流 ) に長じた。
吉田松陰の松下村塾に学び、高杉晋作率いる奇兵隊に入隊。
長州藩の中心人物の一人として活躍し、維新後は明治政府の軍備面に精力を注いだ。
欧州視察等を経て、大村益次郎の唱えた軍制を具体化、参謀本部の創設など日本陸軍の建設に当たった。
総理大臣となり、明治 22年 ( 1889 ) 第 1次内閣を組閣。
枢密院議長、日清戦争に際して第一司令官、陸軍大臣、次いで陸軍元帥にすすみ、明治 31年 ( 1898 ) 第 2次内閣を組閣した。
大正 11年 ( 1922 ) 85歳でこの世を去るまで、長州出身の長老として長きに渡り明治政府の中心的な存在であり続けました。
8101 大照院(山口県萩市椿4132)
所在地 | 山口県萩市椿4132 |
---|---|
位置 | 北緯34度23分43.5秒 東経131度23分8.9秒 |
山号 | 霊椿山 |
宗旨 | 臨済宗 |
宗派 | 南禅寺派 |
創建年 | 明暦2年 |
開基 | 毛利綱広 |
札所等 | 中国三十三観音霊場第20番 |
文化財 | 本堂、鐘楼門、庫裏、書院、経蔵、木造赤童子立像(重要文化財) 萩藩主毛利家墓所(国の史跡) |
公式サイト | 大照院 |
大照院(だいしょういん)は、山口県萩市にある臨済宗南禅寺派の寺院である。中国三十三観音霊場第二十番。
歴史
延暦年間(8世紀末 - 9世紀初)に月輪山観音寺という前身寺院があったというが、創建の事情は定かでない。その後鎌倉時代末期に建長寺の義翁和尚が大椿山歓喜寺と改め、臨済宗の寺院とした。その後荒廃したが、萩藩2代藩主毛利綱広が亡父の初代藩主秀就の菩提寺とするために承応3年(1654年)から明暦2年(1656年)にかけて再建し、その時秀就の法号にちなんで霊椿山大照院と改めた。
寺は延享4年(1747年)に火災に遭い、現存する本堂等は、その後6代藩主宗広によって再建されたものである。
境内の萩藩主毛利家墓所は国の史跡で、初代(萩での藩主の代数は輝元を初代とせず、秀就を初代として数えている)秀就、2代綱広、4代吉広、6代宗広、8代治親、10代斉煕、12代斉広と2代から12代までの偶数代の藩主と夫人や藩士の墓石があり、墓前には藩士が寄進した石灯籠が600数基ある。
ちなみに奇数代の藩主の廟所は萩市内の黄檗宗寺院東光寺にあり、秀就の父輝元の廟所は萩市の天樹院跡にある。
文化財
重要文化財
・本堂 - 入母屋造、桟瓦葺きの方丈形式の仏堂。延享4年(1747年)の火災後、寛延3年(1750年)頃までに再建された。鐘楼門、庫裏、書院も同じ頃の建築である。
・鐘楼門 - 江戸時代中期(1750年)の建立。三間一戸二階二重門、入母屋造、桟瓦葺。平成14年(2002年)5月23日指定。
・庫裏 - 江戸時代中期(1750年)頃の建立。桁行18.1m、梁間18.0m、一重、切妻造、妻入、南面・西面下屋付、東面庇・南面渡廊下及び便所・北面庇・西面便所各附属、本瓦及び桟瓦葺、東面突出部 桁行4.0m、梁間4.0m、入母屋造。平成14年(2002年)5月23日指定。
・書院 - 江戸時代中期(1750年)頃の建立。桁行21.9m、梁間22.7m、一重、丁字形東面入母屋造、西面寄棟造、北面切妻造、西面北端便所附属、南面東端廊下附属、桟瓦葺。平成14年(2002年)5月23日指定。
・経蔵 - 江戸時代後期(1755年)の建立。土蔵造、正面6.2m、側面6.2m、一重、宝形蔵、向拝一間、桟瓦葺、八角輪蔵付、北面及び西面張出し附属。平成14年(2002年)5月23日指定。
・木造赤童子立像 - 南北朝時代の作品。明治35年(1902年)7月31日指定。
国の史跡
萩藩主毛利家墓所
萩藩主毛利家の墓所は、大照院隣接地と東光寺隣接地にある。
毛利輝元の子の初代藩主秀就は、慶安4年(1651年)に萩城で没し、天樹院で火葬されたあと歓喜寺に葬られた。2代藩主綱広は亡父のため、承応3年(1654年)歓喜寺の改修に着手し、明暦2年(1656年)に完工した。この時、秀就の法号大照院にちなんで寺名を大照院と改めた。大照院は臨済宗の寺で、延享4年(1747年)に火災のため全焼し、6代藩主宗広の時、寛延3年(1750年)に再建した。
東光寺は、3代藩主吉就が、元禄3年(1690年)に創建した黄檗宗の寺である。東光寺の創立以降、歴代藩主は大照院と両寺に交互に葬られることとなった。すなわち、大照院には初代秀就・2代綱広・4代吉広・6代宗広・8代治親・10代斉熙・12代斉広の7人が、東光寺には3代吉就・5代吉元・7代重就・9代藩主斉房・11代藩主斉元の5人が葬られた。
大照院の墓所は、大きく5群に分かれている。墓所内の墓の数は52基で、藩主の墓7基を除いた45基は、藩主正室、一族、殉死者などのものである。墓標は、改葬墓1基、新墓2基を除いて、花崗岩製の五輪塔型で統一され、水輪に普の字を、地輪の表には法号、その裏に没年月日を刻むのを原則としている。墓の大きさも藩主夫妻と一族などの2種類に分けてほぼ統一され、藩主夫妻のそれは特に大型である(総高約4.5メートル)。墓の周囲には玄武岩製の石柱玉垣がめぐらされており、藩主の玉垣の内側と外側には青栗石が敷きつめられている。藩主墓の参道にはそれぞれ鳥居(計7基)が建っていることも特徴である。また墓所内には、605基の石燈籠がある。この両墓所は、明治初年にそれぞれ大照院・東光寺から分離され(東光寺の墓所は明治4年(1871年))、毛利家の所有となり、現在に至っている。
毛利輝元は、寛永2年(1625年)に没すると天樹院に葬られた。旧天樹院には、五輪塔型、花崗岩製の輝元夫妻の墓、秀就火葬跡が残っている。
萩藩主毛利家墓所は、大照院・東光寺ともに、山林を背にして広大な地域に整然と配置され、その規模の大なることといい、荘厳幽邃なことといい、近世大名墓所の代表的なものであり、大名の墓制・葬制を知る上で重要である。
昭和56年(1981年)5月11日指定。
所在地
・山口県萩市椿4132
拝観
・4~11月 8~17時
・12~3月 8~16時30分
拝観料 200円
隣の札所
外部リンク
・霊椿山大照院のホームページ
・国指定文化財等データベース
(wikiより)





8099 前原騒動慰霊碑(山口県萩市椿1015‐14)
生年 | 天保5年3月20日(1834年4月28日) |
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生地 | 長門国・土原村 |
没年 | 1876年12月3日(42歳没)[1] |
没地 | 長門国・萩 |
活動 | 倒幕、萩の乱 |
藩 | 長州藩 |
受賞 | 贈従四位 |
〇 前原一誠
前原 一誠(まえばら いっせい)は、日本の武士(長州藩士)。諱は一誠。通称は八十郎、彦太郎。倒幕運動の志士として活躍したが、明治維新後、萩の乱の首謀者として処刑された。
位階は贈従四位(大正5年(1916年)4月11日)。維新の十傑の一人。参議、兵部大輔(現在の国防次官)を務めた。
出自
本姓の佐世氏は、宇多源氏佐々木氏の分流で、出雲源氏の諸流に属する。遠祖は尼子氏・毛利氏の家臣である佐世清宗。
経歴
天保5年(1834年)3月20日、4月28日長門国土原村(現・山口県萩市)にて、長州藩士・佐世彦七(大組47石)の長男として生まれ、前原氏を相続する。前原家の遠祖は戦国武将米原綱寛である。
天保10年(1839年)、郡吏となった父とともに厚狭郡船木村に移住。のちに萩にて修学するが、嘉永4年(1851年)、再び船木にて陶器製造など農漁業に従事する。安政4年(1857年)、久坂玄瑞や高杉晋作らと共に吉田松陰の松下村塾に入門する。松陰の処刑後は長崎で洋学を修め、のちに藩の西洋学問所・博習堂に学ぶ。
文久2年(1862年)に脱藩し、久坂らと共に直目付・長井雅楽の暗殺を計画する。文久3年(1863年)、右筆役、七卿方御用掛。その後は高杉らと下関に挙兵して藩権力を奪取し、用所役右筆や干城隊頭取として倒幕活動に尽力した。長州征伐では小倉口の参謀心得として参戦、明治元年(1868年)の戊辰戦争では北越戦争に出兵し、参謀として長岡城攻略戦など会津戦線で活躍する。明治3年(1870年)、戦功を賞されて賞典禄600石を賜る。
維新後は越後府判事(次官)や参議を勤める。大村益次郎の死後は兵部大輔を兼ねたが、出仕することが少なかったため、船越衛は省務停滞を嘆いている。また、大村の方針である「国民皆兵」路線(徴兵令)に反対して木戸孝允と対立する。
やがて、徴兵制を支持する山縣有朋に追われるように下野し、萩へ帰郷する。新政府の方針に不満をもった前原は明治9年(1876年)、奥平謙輔とともに不平士族を集めて萩の乱を引き起こしたが、即座に鎮圧されて捕らえられ、12月3日、萩にて斬首刑に処された。享年43(満42歳没)。
彼の辞世の詩として伝えられるのは、
「吾今国の為に死す、死すとも君恩に背かず。人事通塞あり、乾坤我が魂を弔さん。」
またその戯句に、
「これまでは いかい御苦労 からだどの よびだしの声 まつむしや秋の風 」
墓所は山口県萩市土原の弘法寺。遺言により戒名はないという[2]。
評価
・吉田松陰
・「八十郎(一誠)は勇あり、智あり。誠実人に過ぐ。いわゆる布帛粟米。適用せざるなし。その才や實甫(久坂玄瑞)に及ばず。その識や暢夫(高杉晋作)に及ばず。しかしてその人物の完全なること、二子また八十に及ばざること遠し。吾友肥後の宮部鼎蔵の資性、八十と相近し。八十父母に事へて至孝。余未だ責むるに国事を以てすべからざる也」[3]
・「佐世八十郎に至っては隠然両郎(高杉・久坂)の一敵国である」
・横山幾太 「極めて重厚なる風の人」[4]
・渡邊嵩蔵 「佐世八十郎は、村塾にても余り多くは読書せず」[4]
・曽我祐準 「妙な人で、事の善悪を決して云わぬ人であった」[5]
親族
・甥:国司仙吉(秋田県権令、異父姉「まし」の子息)[6]
2. 中嶋 繁雄 『明治の事件史―日本人の本当の姿が見えてくる!』 青春出版社〈青春文庫〉、2004年3月20日、47頁
3. 『松陰とその門下』
4. a b 『吉田松陰全集 第12巻』
5. 『大村先生逸事談話』P73
6. 海原徹『松下村塾の明治維新 : 近代日本を支えた人びと』ミネルヴァ書房、1999年、222頁。
登場作品
・花神 - 1977年、演:江原正士
・遠雷と怒涛と-1982年、演:近藤正臣
・幕末青春グラフィティ Ronin 坂本竜馬 - 1986年、演:石田純一
・炎の如く・吉田松陰 - 1991年、演:吉田次昭
・花燃ゆ - 2015年、演:佐藤隆太
・戦国炒飯TV - 2021年、演:小川史記
関連項目
・佐藤信寛
外部リンク
・佐世氏系譜
・前原一誠年譜・解説
前原一誠
〇 萩の乱
萩の乱(はぎのらん)は、1876年(明治9年)に山口県の萩で起こった明治政府に対する士族反乱の一つ。
1876年10月24日に熊本県で起こった神風連の乱と、同年10月27日に福岡県で起こった秋月の乱に呼応し、山口県士族の前原一誠(元参議)、奥平謙輔ら約200名(吉田樟堂文庫「丙子萩事変裁判調書」では506名、岩村通俊遺稿では2千余名と諸説あり)によって起こされた反乱である。後の内閣総理大臣(第26代)田中義一も当時13歳で反乱に参加している。
『萩一戦録』(早川松山画)
概要
前参議前原一誠は辞職したのち故郷で各地の不平士族と連絡を取っていたが、熊本城下での神風連の決起を聞くと旧藩校明倫館を拠点に同志を募り、10月26日には県庁を挟撃するため須佐育英館長の坂上忠介や多根卯一、徳山の同志・今田浪江らに決起を促す使者を派遣した。10月28日には前原を指導者とする「殉国軍」が挙兵したが、県庁襲撃は政府側に事前に察知されたため、天皇に直訴するため紫福を経て須佐より山陰道を東上するよう方針を転換し10月30日には須佐兵67人と合流し約300名にて地扱所を占拠し兵糧を確保する。しかし、海路で浜田に向かったところ悪天候で断念し江崎に上陸した後、虚報(袂を分かった諫早基清が萩を占拠し近親者を処罰しているという説「須佐郷土史研究会」)により10月31日萩・越ケ浜より明倫館に戻ったが備蓄弾薬が池に破棄されており、待ち伏せていた政府軍と市街戦が発生。これを退けるも橋本町辺に68軒の焼失被害を出す(品川弥二郎書翰)。弾薬欠乏から前原らは軍勢を囮として小倉信一、有福洵允にまかせ幹部5名のみ直訴のため別行動をとった。小倉らは萩で三浦梧楼少将率いる広島鎮台と軍艦孟春の攻撃を受け、11月6日までに政府軍により鎮圧された。この際、長州藩剣術指南役を務めた内藤作兵衛が誤認射殺されている。
その後
別行動をとった一誠・奥平ら幹部と従者白井林蔵、馬来木工の7名は東京へ向かうべく船舶にて萩越ケ浜を出港したが、悪天候のため宇竜港(現在の出雲市内)に停泊中水先案内人に通報されたことで11月5日に島根県令佐藤信寛らに包囲され、弁明の機会を与えることを条件に投降し逮捕された。なお、一誠は決起の前に元会津藩士で親交のあった永岡久茂と連絡を取っており、永岡は10月29日に千葉県庁襲撃未遂事件(思案橋事件)を起こしている。
12月3日に山口裁判所・萩臨時裁判所(裁判所長・岩村通俊)にて弁明の機会を与えられぬまま関係者の判決が言い渡され、首謀者とされた一誠と奥平および横山俊彦、佐世一清(一誠の実弟)、山田頴太郎(一誠の実弟)、有福旬允、小倉信一、河野義一は即日(翌日説あり)斬首された。 残る人物の処遇は明治九年司法省之部賊徒口供書では有罪72名、無罪1名、放免299名、合計372名(諸説あり、萩の乱刑死者追悼詩書木額では懲役48人・除族放免15人・放免388人とも、岩村通俊判事ノ遺稿では懲役60余人・2千余を放免とも、清水清太郎の日記では賊徒凡三千五百人ともある)。この処罰には司法卿・大木喬任により制定された臨時暴徒処分例(明治9年11月8日)が適用された。
乱による松下村塾への影響
この乱には松下村塾最年長の一誠をはじめ、多くの塾生や吉田松陰の親族(松陰叔父の玉木家、本人の吉田家、実家の杉家)跡取が事件に深く関与した。いずれも松陰の実兄の杉民治を介しており、玉木正誼は民治長女の婿養子、吉田小太郎は民治長男、杉相次郎は民治次女の婿養子である。玉木正誼と吉田小太郎が戦死したため玉木家は正誼の子・玉木正之が、吉田家は民治三女の婿養子・吉田庫三が相続した。この件により松陰の叔父であり松下村塾塾頭玉木文之進は切腹し塾も閉鎖された。松陰の実兄・杉民治も本郷代官を辞して隠居の身となったが、明治13年(1880年)松下村塾を再興し明治23年(1890年)の教育勅語で塾が閉鎖されるまで子弟教育に励んだ。
脚注
1. a b 原 剛 2002, p. 47.
参考文献
・原 剛 『明治期国土防衛史』錦正社、2002年2月。ISBN 4-7646-0314-4。
関連項目
・日本史の出来事一覧
(wikiより)





8098 品川弥二郎誕生地(萩市椿東船津)
生年月日 | 1843年11月20日 (天保14年閏9月29日) |
---|---|
出生地 | 長門国阿武郡椿郷東分村 (現在の山口県萩市) |
没年月日 | 1900年2月26日(56歳没) |
死没地 | 東京府(現在の東京都) |
出身校 | 松下村塾 |
前職 | 武士(長州藩士) |
所属政党 | 国民協会 |
称号 | 正二位 勲一等旭日大綬章 子爵 |
配偶者 | 品川静子 |
子女 | 品川弥一(長男) |
親族 | 池田六左衛門(祖父) 品川弥市右衛門(父) 品川清太郎(孫) |
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内閣 | 第1次松方内閣 |
在任期間 | 1891年6月1日 - 1892年3月11日 |
〇 品川弥二郎
品川 弥二郎(しながわ やじろう、天保14年閏9月29日〈1843年11月20日〉- 明治33年〈1900年〉2月26日)は、日本の官僚・政治家[1]。栄典は正二位勲一等子爵。名は省吾、弥吉。号は扇洲。別称に橋本八郎、松本清熊などがある。
経歴
天保14年(1843年)、長州藩の足軽・品川弥市右衛門と池田六左衛門の長女・まつの長男として生まれた。安政5年(1858年)、松下村塾に入門して吉田松陰から教えを受けるが、安政6年(1859年)に安政の大獄で松陰が刑死すると、高杉晋作らと行動を共にして尊王攘夷運動に奔走し、英国公使館焼き討ちなどを実行している。元治元年(1864年)の禁門の変では八幡隊長として参戦し、のちに太田市之進、山田顕義らと御楯隊を組織した。慶応元年(1865年)、木戸孝允と共に上京して情報収集と連絡係として薩長同盟の成立に尽力した。戊辰戦争では奥羽鎮撫総督参謀、整武隊参謀として活躍する。
明治維新後の明治3年(1870年)、渡欧して普仏戦争を視察するなどドイツやイギリスに6年間留学する[2]。内務大書記官や内務少輔、農商務大輔、駐独公使、宮内省御料局長、枢密顧問官などを歴任する。明治17年(1884年)、維新の功により子爵を授けられる。
明治24年(1891年)に第1次松方内閣の内務大臣に就任するが、明治25年(1892年)の第2回衆議院議員総選挙において次官の白根専一とともに警察を動員して強力な選挙干渉を行なって死者25人を出してしまった経緯を非難され、引責辞職を余儀なくされた(ただし、実際の経緯については諸説存在する)。その後は西郷従道と協力して政治団体・国民協会を組織する。
民間にあっては、獨逸学協会学校(現在の獨協大学)や旧制京華中学校(現在の京華学園)を創立し、また信用組合や産業組合の設立にも貢献している[2]。
明治33年(1900年)、流行性感冒(インフルエンザ)に肺炎を併発して死去[3][4]。享年58。
人物・逸話
・戊辰戦争の際、新政府軍が歌った「トコトンヤレ節」(「宮さん宮さん」)は、品川が作詞をしたとされる[要出典]。
・松陰は品川を「温厚正直で人情に厚く、うわべを飾らない。抜きん出た能力はないが、心が広く奥深いのが優れている」と評している[要出典]。
・同時代のジャーナリストである鳥谷部春汀は、明治24年(1891年)の選挙干渉における品川の手段を全く公正明大を欠いたものであると難じ、選挙干渉以後の言動は陸奥宗光への嫉妬と復讐の私情に制せられ「堂々たる大丈夫の気象なし」と評する。さらに品川の師である吉田松陰と比較して、同じく多感であり「怒りやすく泣きやすき奇癖あり」とするが、誠実さという点では「未了の疑問なり」と書く[5]。
・維新で亡くなった志士たちを顕彰するため、京都に尊攘堂を建立して京都帝国大学に寄贈した[要出典]。品川の死後、山口県下関市の功山寺にも建立されている[要出典]。
・東京都千代田区九段南の田安門前(九段坂公園内)に銅像がある。高村光雲の監督によるという[要出典]。
・大日本山林会初代幹事長を務めた[要出典]。
・大日本水産会 第一次幹事長(初代会長に相当)を務めた(任期:明治15年(1882年)2月12日 - 同19年(1886年)4月26日)[6]。
・大日本農会初代幹事長を務めた[要出典]。
・1885年(明治18年)に、塩原温泉塩釜の地(栃木県那須塩原市)に別荘を建てた。この別荘は、塩原温泉における別荘建築として最古に属し、現在は「品川弥二郎の旧念仏庵」として、市の有形文化財に指定されている[2]。
栄典
位階
・1885年(明治18年)10月31日 - 正四位[7]
・1886年(明治19年)10月20日 - 従三位[8]
・1891年(明治24年)6月15日 - 従二位[9]
・1900年(明治33年)2月26日 - 正二位[10]
勲章等
・1884年(明治17年)7月17日 - 子爵[11]
・1887年(明治20年)11月25日 - 勲二等旭日重光章[12]
・1900年(明治33年)2月26日 - 勲一等旭日大綬章[13]
系譜
品川氏
弥一右衛門━━弥二郎━━弥一━━清太郎
脚注
1. 日本大百科全書(ニッポニカ)「品川弥二郎」
2. a b c “品川弥二郎の旧念仏庵|那須塩原市” (日本語). www.city.nasushiobara.lg.jp. 2021年12月5日閲覧。
3. 『新聞集成明治編年史』 11巻、林泉社、1940年、31頁。
4. 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』(吉川弘文館、2010年)140頁
5. 鳥谷部春汀 『明治人物評論・正』博文館、1898年、22-30p頁。
6. 『大日本水産会百年史』社団法人大日本水産会、1982年。
7. 『官報』第711号「叙任」1885年11月12日。
8. 『官報』第994号「叙任及辞令」1886年10月21日。
9. 『官報』第2388号「叙任及辞令」1891年6月17日。
10. 『官報』第4995号「叙任及辞令」1900年2月28日。
11. 『官報』第316号「叙任及辞令」明治17年7月18日。
12. 『官報』第1325号「叙任及辞令」1887年11月28日。
13. 『官報』第4994号「叙任及辞令」1900年2月27日。
関連作品
テレビドラマ
・『竜馬がゆく』(1968年、NHK大河ドラマ、演:岡本富士太)
・『花神』(1977年、NHK大河ドラマ、演:荒川太郎)
・『竜馬がゆく』(1982年、テレビ東京、演:天田俊明)
・『翔ぶが如く』(1990年、NHK大河ドラマ、演:廣田高志)
・『花燃ゆ』(2015年、NHK大河ドラマ、演:音尾琢真)
参考文献
・池田さなえ 『皇室財産の政治史: 明治二〇年代の御料地「処分」と宮中・府中』人文書院、2019年3月。ISBN 978-4409520765。
関連項目
・第2回衆議院議員総選挙
・本山白雲(九段坂公園にある品川弥二郎の銅像の作者)
外部リンク
・品川弥二郎 | 近代日本人の肖像
・品川 弥二郎(京都大学附属図書館 維新資料画像データベース)
・品川弥二郎関係文書(その1) | 国立国会図書館 憲政資料室
・品川弥二郎関係文書(その2)|国立国会図書館 憲政資料室
(wikiより)

品川弥二郎

