本牧jack『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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小生の拙ブログ『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑に御訪問頂き誠に有難う御座います。
歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。
たまに『 多人数で取材しているのか? 』との質問を戴きますが、小生と相方の二人三脚で御座います。
出来るだけ続けたいと思っていますが 膝・耳に問題が有って、いつまで出来るやら・・・説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。
御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。 ※ 申し訳御座いませんが「画像の転用」は禁止とさせて頂きます。 コメントは原則公開させていただいております 質問等に対してはブログ記事で返信させていただきます 他の方法で連絡を取り合う等一切しません 場合によっては、「IPブロック」しますがブロックした場合解除する事は有りませんので宜しくお願いします。

カテゴリ: 史跡・名所・旧跡・城・駅・灯台・関所

国鉄時代に、松浦線が特定地方交通線に指定された時点で廃止が決まったため、JR九州は「日本最西端の駅」を明け渡す格好となった。

そこで同社最西端の駅となる佐世保線佐世保を「JR日本最西端の駅」としてPRし構内に記念碑を建立した。

〇 佐世保駅
所在地長崎県佐世保市三浦町21-1
所属事業者九州旅客鉄道(JR九州)
松浦鉄道
電報略号サホ
駅構造高架駅
ホーム(JR九州)3面6線
(松浦鉄道)1面2線
乗車人員
-統計年度-
(JR九州)2,600人/日(降車客含まず)
-2021年-
乗降人員
-統計年度-
(松浦鉄道)1,392人/日
-2021年-
開業年月日1898年明治31年)1月20日[1]
乗入路線 2 路線
所属路線佐世保線
大村線直通含む)
キロ程48.8 km(江北起点)
日宇 (3.4 km)
所属路線西九州線
キロ程93.8 km(有田起点)
佐世保中央 (1.0 km)
備考共同使用駅
JR九州:直営駅
JR九州:みどりの窓口 有[2]
松浦鉄道:有人駅

佐世保駅(させぼえき)は、長崎県佐世保市三浦町にある、九州旅客鉄道(JR九州)・松浦鉄道である。

概要
長崎県北部の主要都市である佐世保市の中心駅であり、JR九州の佐世保線と松浦鉄道の西九州線の2路線が乗り入れている。両路線とも当駅が終点で全列車が当駅始発・終着で運転される。2009年3月14日から、松浦鉄道の列車が1往復JR線に直通運転を行っていたが、2020年3月14日のダイヤ改正で直通運転を休止した。佐世保線と西九州線の他、早岐駅を起点とするJR九州大村線の列車もほとんどが当駅を始発・終着としており、利用可能である。

西九州線はかつて日本国有鉄道(国鉄)→JR九州が松浦線として管轄していたが、1988年4月1日に松浦鉄道に経営移管されたのに合わせて西九州線に改称した。同時に当駅はJRグループ全駅中最西端の駅かつ日本最西端の終着駅となった(これはJRも松浦鉄道も当駅を終点としているため)。

佐世保市は人口では長崎県第2の自治体であるが、当駅の利用者数は長崎駅諫早駅に次いで県内では3位となっている。

歴史
1898年明治31年)1月20日九州鉄道の駅として開業[1]
1907年(明治40年)7月1日:九州鉄道が国有化[1]。同時に当駅は国有鉄道の最西端駅となる。
1909年(明治42年)10月12日:国有鉄道線路名称制定により、早岐駅 - 佐世保駅間に佐世保線の名称が付けられ、当駅は佐世保線の終点となる。
1934年昭和9年)12月1日長崎本線が現行の肥前鹿島駅経由のルートに変更されたのに伴い、旧ルートのうち肥前山口駅(現・江北駅) - 早岐駅間を佐世保線に編入。
1935年(昭和10年)11月9日:佐世保線が北佐世保駅まで延長[3]。これにより当駅は佐世保線の中間駅となると共に、国有鉄道最西端の駅の座も失うこととなった。
1937年(昭和12年)8月25日:鉄筋コンクリート造2階建ての駅舎に改築、竣工[4]。この駅舎は戦災も免れて高架化まで使用された。
 ・駅舎の位置は現駅舎東口(国道35号線側)の早岐方約50mほどのところ。現在は東口駅前広場となっている。
1943年(昭和18年)8月30日:佐世保線の当駅 - 北佐世保駅間を松浦線に編入。これにより当駅は佐世保線と松浦線の駅となり、両線の終点となる。
1985年(昭和60年)3月14日:貨物営業を廃止[1]
1987年(昭和62年)4月1日国鉄分割民営化により、九州旅客鉄道(JR九州)の駅となる[1]
1988年(昭和63年)4月1日:JR九州松浦線が松浦鉄道西九州線に転換される[3]。これにより、当駅は国鉄・JRの駅としては52年ぶりに最西端に戻る。
1990年平成2年)11月2日:駅舎の内外装リニューアル[5]
1995年(平成7年)1月30日:高架化工事に着手[6]
2001年(平成13年)12月26日:高架化[7]。新駅舎完成[7]
2002年(平成14年)3月23日:当駅でのJRと松浦鉄道の直通運転が再開。
2006年(平成18年)3月18日:当駅でのJRと松浦鉄道の直通運転を休止。
2009年(平成21年)3月14日:当駅でのJRと松浦鉄道の直通運転が再開。
2010年(平成22年)3月 - JR改札口に自動改札機を設置。
2020年令和2年)3月14日:当駅でのJRと松浦鉄道の直通運転を休止。
2024年(令和6年)度:ICカードSUGOCA」の利用が可能となる(予定)[8]
※高架化前(旧駅時代)はJR九州では最後となる赤帽が配置されている駅であった。

駅構造
JR・松浦鉄道の両社一体の高架駅であり、高架下は駅舎・コンコースとなっている。国道側は「東口」、佐世保港側は「みなと口」となっており、東口側から見て左がJR九州の駅、右が松浦鉄道の駅となっている。JR九州、松浦鉄道とも有人駅自動券売機を備えている。

JR九州の窓口は高架下にありみどりの窓口を備えている[2]。なお松浦鉄道は当駅を含めて自動改札機は一切設置していないため、当駅は九州最西端の自動改札機設置駅となる。松浦鉄道の窓口は高架部(ホーム)にあり、窓口そばに自動券売機があるが、窓口の営業時間外には券売機は使用できない。なお松浦鉄道は終日車内精算で、乗車時には整理券を取り、降車時には運賃または切符と引き換えに精算証明書を運転士または車掌から受け取る。また松浦鉄道ではnimoca(SUGOCAなどの相互利用可能ICカードを含む)が利用可能であるが駅構内に対応機器はなく、車内のカードリーダーに触れることで精算を行う。

コンコース内にはKIOSKファミリーマートをはじめとする売店、佐世保観光情報センターなどがある。東口側には佐世保バーガーの店である「ログキット」もある。

ホーム

JR九州は島式ホーム3面6線、松浦鉄道は島式ホーム1面2線を有しており、いずれも東口側からみなと口側に向かって1番のりばから6番のりば(JR九州)または2番のりば(松浦鉄道)まで付番されている。JR九州のホームは改札口から続く連絡通路を介してそれぞれ結ばれており、松浦鉄道のホームにはコンコースから直接階段またはエスカレーターによって行き来する。JR九州のホームにはそれぞれエスカレーターとエレベーターが備えられている。

なお、2020年8月8日よりJR5・6番のりばは使用休止となり(それまでは早朝の佐世保線普通列車3本と、18時台の普通列車5本及び「シーサイドライナー」1本が使用していた)、立ち入りできなくなっている[9]

JR1・2番のりばホームと松浦鉄道のホームは一体となっており、境界部に松浦鉄道管理の連絡改札がある。JR2番のりばは佐世保線と西九州線の直通が可能であるため、直通列車はこのホームを使用する。ただし2020年3月14日以降はJR線と松浦鉄道線を直通する定期列車は設定されていない。

詳しいことは、「佐世保駅ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E4%B8%96%E4%BF%9D%E9%A7%85
(
wikiより)

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この海童神社は、ナガスクジラ ( 昭和 48年 ( 1973 ) 捕獲体長 18.2m ) の顎の骨でできた鳥居があることで知られ、捕鯨で栄えた有川地域を象徴する建造物である。

元和 3年 ( 1617 ) から元和 5年 ( 1619 ) の 3年間、毎年 6月 17日に限って、近くの海で遊泳する者の溺死が相次ぎ、人々は事故を恐れ気味悪く思っていると、時の乙名役、高井良福画ェ門の夢枕に海神様が立ち、神託があった。

そこで、元和 6年 ( 1620 ) 6月 17日に、その当時小島であったこの地に石祠を建てて奉斎し、即席の俄芝居ほ奉納したところ溺死者もなくなった。

以来、この地に海神様を海童神 ( 綿津見の神 ) として祀ったものである。

これが今日の「十七日祭り」と呼ばれる伝統行事として残っており、毎年 7月下旬の日曜日に行われている。
(案内板より)

〇 海童神社 (新上五島町)
所在地長崎県南松浦郡新上五島町有川郷
位置北緯32度59分12.2秒 東経129度06分51.2秒
主祭神海童神
社格旧無格社
創建不詳

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⇧ 応護島頂上の祠

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⇧ 鯨の顎骨の鳥居

海童神社(かいどうじんじゃ)は、長崎県新上五島町有川郷船津地区の応護島に鎮座する神社である。鯨の顎骨を使用した鳥居があることで有名。

祭神
海童神を主祭神に、蛭子神配祀する。

配祀神の蛭子神は、合祀された船津地区・蛭子神社の祭神である。

歴史
創建年代は不詳。町や長崎県のほとんどの資料等に記載されている由緒によると、「元和3年(1617年)~同5年にかけて、有川村では毎年6月17日に限って海で遊泳する大人・子供に溺死人が相次いだ。時の乙名役の高井良福右衛門に海童神からの神託によって神子島に石祠を建立し、海童神を奉祀した」と記載されている。また、「翌(元和)6年6月17日には例祭を行い、二〇加踊り(にわかおどり)と呼ばれる即興の寸劇を奉納したところ、溺死者はなくなった」とされる。その後も二〇加()の奉納は毎年行われ、現在では有川地区の年中行事である十七日祭りとなっている。

しかし近年では郷土史家による研究が進み、いくつかの矛盾点が指摘されている。江戸時代中期(18世紀)から明治初期(19世紀後葉)にかけて、村の漁業・農業・風俗等を記した『江口文書』や、慶応4年(1868年)に記された祖母君神社の縁起書によると、「慶長3年(1598年)の祖母君神社奉遷の際、それを守護する応護神として有川湾の中ノ島に龍神を祀り、これに因んで島の名前を応護島とした」と記述されている。また、当時は「乙名役」という役職もなく、「高井良福右衛門」という人物も宝暦5年(1755年)以降に記述があり、この時期には存在していないことが確認された。  

文久4年(1864年)の資料では「宝暦2年(1752年)6月17日に、船乗り等の水難防止を祈願して通りもの(行列)を始めた」との記述がある。また、全国に伝承される俄の諸記録によると、いずれも江戸中期(18世紀中頃)の「通りもの(練りもの)」から始まり、大阪京都江戸での即興笑劇の流行の伝播を受け、江戸時代初頭(19世紀初)より「二〇加(俄)」の芸態が確立されたとされ、有川村が江戸時代最初期(17世紀初頭)から全国に先駆け「二〇加」を創始していたとは考えにくいため、江戸時代後期以降の創始ではないかとの指摘がされている。

明治中期に船津・蛭子神社を合祀。同41年(1908年)に祖母君神社に合祀されている。この時に拝殿や鳥居は破壊され石祠のみ祀られていたが、昭和2年(1927年)に鳥居を建立し、同48年(1973年)に鯨骨の鳥居が日東捕鯨株式会社より奉納されている。 平成16年(2004年)には有川港の整備事業によって埋め立てられ陸続きになった。  

祭祀
主な祭礼・神事
・十七日祭(7月)
・魚供養祭(8月)

その他の神社
その他の有川郷の神社に有川神社がある。

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有川神社

参考文献
・『有川町郷土誌 平成6年』有川町郷土誌編纂委員会
・『有川の歴史の虚実』荒木文朗著 平成16年刊 
・『有川二〇加』荒木文朗著 平成19年刊
(wikiより)


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昭和三十八年 宮中歌会始入選歌

お題 草原

草原にほす網のした虫泣きて

       島は飛魚の猟期近づく

昭和五十年 宮中歌会始入選歌

お題 祭り

われら打つ鯨まつりの太鼓の音

       寒の潮鳴る方へとよもす

                   立石 卓
(石碑文より)

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第五十代横綱佐田の山は、昭和 31年1月に初土俵を踏み、五島の大自然と生活で鍛えた強靭な体と不屈の闘志で殊勲、敢闘、技能の三賞をはじめ六度の幕内優勝を果たしました。

引退後は伝統ある出羽海を襲名し、多くの弟子を育てると共に日本相撲協会理事長として数々の業績を残しました。

町制施行 70周年を記念し、偉大なる英雄の顕彰を永く後世に伝えるためにその勇姿を銅像として建立した。
 
建立日 平成14年10月17日

〇 第五十代横綱佐田の山 ( 佐田の山 晋松 )
基礎情報
四股名佐々田 晋松 → 佐田ノ山 晋松 → 佐田の山 晋松 → 佐田乃山 照也 → 佐田の山 晋松
本名市川(旧姓:佐々田)晋松
愛称ノッポの晋松・出羽三羽烏
生年月日1938年2月18日
没年月日2017年4月27日(79歳没)
出身日本の旗 日本長崎県南松浦郡有川町
(現:新上五島町
身長182cm
体重129kg
BMI38.94
所属部屋出羽海部屋
得意技突っ張り、右四つ、寄り、上手投げ
成績
現在の番付引退
最高位第50代横綱
生涯戦歴591勝251敗61休(71場所)
幕内戦歴435勝164敗61休(44場所)
優勝幕内最高優勝6回
殊勲賞1回
敢闘賞1回
技能賞1回
データ
初土俵1956年1月場所
入幕1961年1月場所
引退1968年3月場所
備考
金星2個(若乃花1個、朝潮1個)

佐田の山 晋松(さだのやま しんまつ、1938年2月18日 - 2017年4月27日[1])は、長崎県南松浦郡有川町(現・新上五島町)出身で出羽海部屋に所属した大相撲力士。第50代横綱。本名は市川(旧姓:佐々田)晋松(いちかわ しんまつ)。

来歴
英雄・五ツ嶋に憧れて入門
南松浦郡有川町(現:長崎県南松浦郡新上五島町)で船大工を営む家に生まれる。子どもの頃から材木を運んだり、カンナをかけたりして体を作っていた[2]。幼少期に大の相撲好きだった父親から、郷土の英雄とされている五ツ嶋奈良男の話を聞かされ、土地相撲に連れて行かれる内に相撲に憧れを抱き、角界入りを希望するが母親からは猛反対された[注 1]長崎県立上五島高等学校に進学後は相撲部に所属し、3年生で長崎県大会に参加を勧誘されて一度は辞退したものの、強引な説得に根負けして補欠選手として出場するが、いざ対戦してみるとほとんど負けなかったことから自信が付き、角界入りを強く望むようになった。1955年のある日、栃錦清隆千代の山雅信一行が地元・五島に巡業に来た際に、高校教諭から千賀ノ浦を紹介されたが、郷土の英雄である五ツ嶋への憧れが強かったことから出羽海部屋へ入門、翌日からは洗面道具と下着だけを持参してそのまま巡業に参加したが、高校の卒業証書は教諭の計らいでようやくもらえた。

1956年1月場所で初土俵を踏むと、稽古では部屋のすぐ前に立っていた電信柱を鉄砲柱代わりとして打ちこむなど努力を重ねた。後に佐田の山は「この柱、現在はコンクリート製ですが、私が若い頃は木製でした。部屋での稽古が終わった後、この電信柱に向かって何度も何度もテッポウを繰り返しました。この電信柱が私の基礎を作ったと思っています」と振り返っている[3][リンク切れ]。各段優勝こそないものの負け越すことなく1960年3月場所で新十両昇進、1961年1月場所で新入幕を果たした。新入幕の場所では10勝5敗の好成績を挙げ、同年3月場所では前頭4枚目まで躍進するが、場所前の稽古で右足首を捻挫する。稽古熱心さから「『横綱、大関ってどんなだろう』と内心ワクワクしていた」というが、出羽海からは「まだ若いから無理するな。それより足首をしっかり治せ。慢性になるとまずいぞ」と言われて全休する[4]。これによって一度は番付を下げるが、休場中に体重が急激に増加して力を増すようになった。同年5月場所では12勝3敗の好成績で、三役経験の無い力士による幕内最高優勝を果たした[5][注 2]が、成績もさることながら対戦した三役格力士は富士錦猛光のみ、しかもこの場所で十両優勝を果たした清ノ森政夫と対戦して敗れているため、周囲からは優勝の祝福より「最高優勝は十両(の清ノ森)ではないか」との意見まで出る始末だった[注 3]。このために翌場所以降は、通常なら幕内上位や三役以上、横綱と対戦することが無い幕内下位の力士でも、成績次第で終盤に取組が組まれるよう編成するきっかけになったと言われている[注 4]

ジンクスを打ち砕き横綱へ
幕内最高優勝を新入幕から僅か3場所で果たした佐田の山は一気に番付を上げ、東前頭2枚目の地位で迎えた1961年7月場所は朝潮若乃花の両横綱から金星を挙げ、11勝4敗の好成績を挙げて殊勲賞を受賞した[4]。同年9月場所では小結を通り越して関脇に昇進し、この場所を8勝7敗と勝ち越すと、それ以降三役に定着する。1962年3月場所は初日から10連勝して、13勝2敗と前場所以上の好成績を残した[4]。この場所を含めて本割で5戦全敗だった横綱・大鵬幸喜との優勝決定戦に臨み、見事に勝利して2度目の幕内最高優勝を果たすと同時に場所後の大関昇進を確実にした[5]。快進撃を続ける佐田の山に対し、部屋の大先輩である出羽錦忠雄は佐田の山を厳しく熱心に指導し、「晋松(佐田の山)が綱を取ったらワシが太刀を持つからそれまでは引退しない」と言い、佐田の山の横綱昇進を心待ちにしていたが、1964年9月場所を最後に現役を引退し、太刀持ちは叶わなかった。大先輩の引退を受けてより早期の昇進を目指す佐田の山は一層稽古に励み、同年9月場所から3場所連続で13勝2敗の好成績を挙げ、1965年1月場所には3度目の幕内最高優勝を果たして横綱に推挙された[5]。長年にわたり、「平幕優勝した力士は横綱や大関に昇進できない」というジンクスが存在していたが、佐田の山によって見事に打ち砕かれた[注 5]。昇進時の口上は「ありがたくお受けいたします」のみであった[6]

出羽錦忠雄が待ち望んでいた横綱昇進をようやく叶えた佐田の山は、横綱2場所目の1965年5月場所で14勝1敗の成績を残し、4度目の幕内最高優勝を果たした。しかしこれ以降は持病の高血圧に加え、胃腸炎も患い2年以上に渡って優勝から遠のいた[4]。それでも直向きに土俵に立ち続け、1967年11月場所では12勝3敗、1968年1月場所では13勝2敗の成績を挙げて自身初の連覇を達成した。佐田の山はこれが最後の華となり、同年3月場所で序盤に3敗を喫すると、あっさり現役引退を表明した[5][7]。まだ30歳になったばかりで悲願だった連覇を果たし、周囲からはさらに優勝回数を重ねるだろうと思われていた矢先の現役引退は角界に衝撃が走り、「高見山大五郎に金星を献上したことが悔しかったのではないか[注 6]」という憶測まで流れたが、佐田の山自身は「弟弟子である北の富士勝昭に敗れて初優勝を許した時点(1967年3月場所)で考えていた」という。戦前に活躍した栃木山守也常ノ花寛市のように出羽海一門の横綱の「引き際の潔さ」という伝統を受け継いだとも言われたが、この引退には、「晩年の柏戸大鵬を追いて自分だけ先に引退とは身勝手だ。功利的だ。」という意見も飛び交ったが、時津風理事長は「いさぎよい引退だ。引退することで横綱の権威を高めてくれた。」と述べた[8]

同年6月に蔵前国技館で行われた引退相撲では、直近の5月場所で大鵬幸喜・柏戸剛の両横綱が休場したことを受けて、露払いに同部屋の福の花孝一、太刀持ちに海乃山勇を従えて最後の横綱土俵入りを行った。引退相撲における横綱土俵入りは現役横綱が露払い・太刀持ちを務めることが通例だった当時としては異例の組み合わせだが、2003年貴乃花光司以降は、大関以下の現役力士が務める場合も増えた。

出羽海部屋継承
引退後は、大関時代に出羽海の娘と結婚して市川家の婿養子となっていたために、既に横綱昇進の時点で部屋の土地および建物が佐田の山名義となっていた[4]。このことから佐田の山が出羽海部屋の次期継承者であることは誰が見ても明白だったが、出羽海は佐田の山の引退を受けて即座に部屋を継承させ、自身は過去に襲名していた「武蔵川」に戻った。これには佐田の山も「引退して少しは楽になるかと思ったらとんでもない。ますます大変になった。こんなことならもう少し現役を続ければ良かった」と発言していたという。1969年12月の時津風(14代)との対談においても「実際、現役の時には苦しいこともあったけれども、相撲をとって自分本位に一生懸命働いていれば自分のためになると同時に部屋のためになる。それを若い者も見習ってくれるし、非常に良かったんだけれでも今度は反対ですからね。人のことでも世話していかなきゃならんし、指導せんといかんしね」と苦労を語っている。出羽海部屋継承の時点では自身を含めて11名の年寄が在籍していたが、全員が先輩格ばかりだったために部屋を継承しても名実が伴わない面が多かったと話していた[9]

出羽海部屋では常陸山谷右衛門が一門を創設して以来、「不許分家独立」の不文律が存在し、当時の大坂相撲から一門へ加入後に消滅した部屋の再興を除いて独立が無かった(武隈九重は一門を破門された)が、現役時代から可愛がっていた三重ノ海剛司が独立の意思を持っていることを知るとこれを許可し、1919年栃木山守也春日野部屋を創設)以来となる円満独立となった。出羽海は独立について「私は不文律にはこだわらない。優秀な親方であればどんどん弟子を養成させたい。協会運営も部屋運営もこれからますます複雑になってくるから、活発に動き回らないとダメなんです」と話している[10]。その後も出羽海一門では1980年代まで分家独立が相次ぎ、2019年9月時点では出羽海一門が最も所属部屋数の多い一門となった。

稽古の厳しさも有名で、朝5時には稽古場に下りて土俵に鋭い視線を送り続けた出羽海について、小城ノ花昭和は「師匠(佐田の山)が入って来ると稽古場がピリッと引き締まった。少しでも気を抜くと怒られ、出稽古に来る他の部屋の力士からも『出羽海部屋は入りにくい』と言われた」と語るほどだった。また、幕下以下の力士は部屋にいると何もすることがなく、フラフラし出すことから午後は四股を踏ませ、特に相撲を知らない序二段の力士は無暗に稽古土俵に上げてぶつかり稽古をやらせても稽古にならないため、当番的に幕下または三段目の胸を貸すのが上手い力士を土俵に上げ、入門1年未満の新弟子をぶつからせた[9]。このように弟子の指導には非常に厳しい一方で、弟子の龍興山一人1990年2月に急逝した際には通常なら番付から名前が消されるところを、3月場所が龍興山の地元・大阪で開催されることから「名前だけでも凱旋させてあげたい」と尽力し、龍興山の自己最高位となった東前頭5枚目に名前を記載した[11]

師匠・出羽海としては、先代から引き継いだ三重ノ海剛司を横綱へ昇進させたほか、関脇・出羽の花義貴、小結・大錦一徹佐田の海鴻嗣舞の海秀平などの多くの幕内力士を育成した。 三重ノ海の横綱昇進披露宴の時には、普通は大関・横綱昇進で集まったご祝儀の3割を師匠が取る仕来たりとされているのに対して、出羽海は披露宴で集まった莫大なご祝儀全額をそっくりそのまま三重ノ海に渡して、金銭にきれいな姿勢を見せて人々を驚かせた。裏でウジウジ他人を中傷したり、チクチク弱いものいじめをするようなケチ根性が全くない、肚を割って話した人はすごく気持ちがいい人物と一様に話す、人間的にスカッとした親方だったという[12]

相撲協会幹部として
「蔵前の天皇」と言われた武蔵川の娘婿で、角界の保守本流出羽海一門の本家である出羽海部屋を継承したことから、将来の理事長候補としてみなされており、師匠であり岳父の武蔵川は、出羽海王国を築き上げた角聖・ 常陸山の話や、「相撲を昔ながらの伝統として存続させながら、同時に時代にあった姿に変えていかねばならない。それには世界の情勢、日本経済の動向、時代の流れを見抜く頭脳が必要だ。不景気の時に相撲が反映したのは江戸時代の話で、世の中が不景気なら相撲も不景気になる。」という考えを基に帝王学を授けた[8]。武蔵川は出羽海を現役時代のライバルだった 時津風(14代)と仕事で組ませたが、それは時津風が出羽海同様に引退間もなく若くして一門の総帥部屋である名門を継承した境遇であるのと、当時の角界では珍しかった大学卒であり、引退後に政財界と付き合うために大学卒の思考を学ばせるためだった。佐田の山は引退後、武蔵川の教えの通りに膨大な読書をした[13]

1970年の日本相撲協会役員改選では、出羽海一門の親方衆は長らく役員を務めた秀ノ山と交代して、若き総帥・出羽海を監事に据える決定をしたが、「自分はまだ早い、先輩の秀ノ山さんが引き続き監事をやってください。」と自ら先輩に譲り出羽海一門の親方衆を茫然とさせた[14]。秀ノ山親方が逝去した後の1972年に監事・審判部副部長に主任(1972年から1期)、1974年から理事を務め、名古屋場所担当部長、指導普及部長、巡業部長、事業部長を歴任する。

1980年には相撲協会ナンバー3(当時)のポストである巡業部長に就任した時は、最初の地方巡業で事務役や土俵作りを担当する黒子の行司、呼び出し一同を集め、「なんでもいい、言いたいこと、筋の立たない話があれば申し出てみろ。もっともな話は取り上げ、改善しようじゃないか。」と切り出して、行司や呼び出しを驚かせる。意見を具申すると、理にかなった意見は取り上げられて改善されたので、これまで下積みの働きにただ我慢するしかなかった行司、呼び出しからの深い尊敬を集めた[12]。 出羽海巡業部長の登場は、二期四年続いた”土俵の鬼”二子山巡業部長の後任だったため関取衆もはじめ好奇の眼で迎えたが、地方巡業先の稽古土俵に座った出羽海は、土俵の鬼同様の厳しさ、怖さが滲み出て、相撲記者から「いま関取全員を有無言わさずに稽古に引っ張っていける双璧が二子山と出羽海だ」と言われ、関取衆は地方巡業の稽古土俵で気が抜けないと言われた[12]

1982年の役員人事で時津風(14代)と共に協会執行部である在京常勤役員に抜擢され、両国国技館建設に邁進する春日野理事長二子山理事長代行兼事業部長体制を支える要の位置に就き、業務遂行の随所で「斬れ者」ぶりを発揮した[12]

1988年に二子山理事長が誕生すると、協会ナンバー2の事業部長に就任、次期理事長見習として協会運営を遂行した。

相撲協会理事長就任
1992年からは二子山理事長の勇退によって日本相撲協会理事長に就任する。 時津風(14代)をナンバー2の事業部長、同門の親友である春日野(14代)をナンバー3の巡業部長に、役員待遇で放駒(17代)を在京常勤・執行部に起用する。

1996年には境川と名跡を交換し、出羽海 智敬から「境川 尚」となった。3期6年に渡る理事長時代には、
 1. 外国人力士の入門規制(1992年
 2. 新規入門力士の年齢制限(1992年)
 3. 幕下付出の基準設定(1992年)
 4. 巡業の勧進元興行から協会自主興行への変更(1995年
などの施策を実施した(施策の評価については後述参照)。

しかし、1996年9月に年寄名跡の協会帰属・売買禁止という改革私案を打ち出すと、私案に反対する親方が続出し、1997年5月には私案の廃案に追い込まれた。当初、マスコミは反主流派を「守旧派」として批判したが、実際には当時の年寄株の取得相場が数億円単位で推移しており、株取得によって多額の負債を抱えている親方にとって売買禁止は死活問題だった。その一方では以下のような境川個人の立場に対する批判も噴出していた。
 1. 年寄名跡の「協会による一括管理」という厳格な方針を打ち出しながら、出羽海の後継者を名跡変更で指名していること
 2. 相撲茶屋の利権を握る先代の婿養子で、退職後の生活も保障済み[注 7]という既得権益を得る立場にあること

こうした批判の中、反主流派の代表格として間垣高田川1998年1月の役員改選で理事に立候補し、1968年の機構改革以来で初めてとなる「理事選挙」が実施された[注 8]。結果として2名とも理事に当選したため、境川は混乱の責任を取る形で4期目の理事長続投を断念した。この直後に還暦を迎えるが、一連の騒動によって還暦土俵入りを辞退し、使用予定だった赤い綱を受け取るだけとなった。

また、理事長時代の1992年9月場所初日の協会挨拶では、結びの日付で「平成4年」と言うべきところを誤って「昭和4年」と言ってしまい、その直後に場内アナウンスで訂正される場面もあった。

晩年
一連の騒動によって4期目を断念したものの理事職には留まり、1998年からは相撲教習所の所長、2000年からは勝負審判の審判部長を歴任する[4]。理事長経験者による現場復帰は異例で、自身も1976年以来24年ぶりの審判部長着任だった。この時代には大関昇進目安を満たしていた琴光喜啓司の昇進を見送ったことで話題となった。

2002年からは日本相撲協会の相談役に就任し、2003年1月場所後には直弟子である両国梶之助と名跡交換を行い、年寄・中立を襲名したのち同年2月18日に停年退職した。退職後はスポーツ報知専属の相撲評論家を務め、年間最優秀力士賞選考委員も務めた。

舞の海秀平のコラムによると、佐田の山は亡くなる10年ほど前に地元・五島列島で開催された少年相撲大会に顔を見せたのが生涯最後の帰郷となった。舞の海は佐田の山の死後、「この時から病を患っていたのかもしれない」と当時を推測していた[7]。元新聞記者の室雄二のブログによると70歳を過ぎた頃より認知症が悪化したといい[15]2009年の報知年間最優秀力士賞の選考会が行われた際には、会場には到着したものの記帳時に自分の名前を書くことが出来なかったという。後日、「これ以上皆様にご迷惑を掛けたくないので、選考委員を辞退させて頂きたい」という連絡が報知新聞社の関係者へ来ており、記者が佐田の山に会ったのはこれが最後だった[3]

2010年9月1日若乃花幹士死去以降、元横綱の最年長だったが、2017年4月27日午前3時15分、肺炎により死去していたことが[16]同年5月1日に公表された[1]。79歳没。故人の遺志により、葬儀は親族のみで執り行われた[17][18]。2017年に入ってからは心筋梗塞で入退院を繰り返していたという[4]

詳しいことは、「佐田の山晋松 - Wikipediaウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E7%94%B0%E3%81%AE%E5%B1%B1%E6%99%8B%E6%9D%BE

(wikiより)

11 第五十代横綱佐田の山

⇧ 第五十代横綱佐田の山 ( 佐田の山 晋松 )

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長崎県南松浦郡新上五島町、五島列島・中通島の玄関港が有川港。平成16年に完成した多目的ターミナルが有川港ターミナルで、九州商船の長崎港への高速船、九州商船の佐世保港へのフェリー、高速船、小値賀港・宇久平港への高速船が出航。

ターミナルビル内には頭上に実物大のクロミンククジラ(全長9.6m、メス)の模型がぶら下がっていますが、上五島は、捕鯨が盛んだった地。

有川港ターミナル周辺では鯨見山(くじらみやま)、鯨供養碑(くじらくようひ)、海童神社(かいどうじんじゃ)、弁財天宮(めーざいてんぐう)、原眞一顕彰碑(はらしんいちけんしょうひ)が有川捕鯨関連文化遺産として水産庁の「未来に残したい漁業漁村の歴史文化財産百選」に選定。

有川港ターミナルには、新上五島町の捕鯨の歴史を知ることができる「鯨賓館ミュージアム」、コンサートや映画上映が行われる「鯨賓館ホール」が併設されています。

「鯨賓館ミュージアム」は1階と2階に分かれ、2階では江戸時代の有川捕鯨、明治以降・近代の捕鯨を紹介しているので、ぜひ立ち寄りを。

長崎港(長崎港ターミナル)〜有川港は、高速船で1時間43分。
佐世保港(鯨瀬ターミナルビル)〜有川港は、高速船で1時間25分、フェリーで2時間35分。
有川港〜小値賀港は、高速船で35分。
有川港〜宇久平港は、高速船で1時間。
運航はすべて九州商船です。

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〇 カトリック青砂浦教会

五島にキリストの福音が最初に伝えられたのは、一五六〇年アルメイダによってである

その頃 多くのキリスト者が島内に定住していたものと思われるが、一五八七年七月二四日 ( 天正一五年 ) の豊臣秀吉のキリシタン禁令、続いて一六一四年一二月二二日 ( 慶長一八年 ) の徳川家康によるキリシタン禁令と、宣教師国外追放により弾圧に弾圧が続いたため当時のキリスト者の子孫が、この地に残存していたか不明である

今日、一七九七年 ( 寛政九年 ) 五島備前の守盛運侯が、大村藩主・大村純尹侯に移民を要請した時に、長崎県外海地方から移住してきた

キリシタンの子孫と、迫害を逃れて、秘かに移り住んだ信徒の子孫と言われている

教会建設については、明治一二年 ( 一八七九年 ) 青砂浦に小集会所を造り、信仰生活の中心の場としていた

現在の外壁煉瓦造りの教会は三代目で、一九一〇年 ( 明治四三年 ) 大崎八重師の指導のもとに鉄川与助の設計施行により建立され同年一〇月一七日、ユリオ・アルフォンソ・グーサン司教の時、落成 建堂された教会である

当時の信徒戸数は五〇戸程であったと言われている

一九九五年一〇月建立
(案内板より)


〇 青砂ヶ浦天主堂
所在地長崎県南松浦郡新上五島町奈摩郷1241
日本の旗 日本
教派カトリック教会
歴史
守護聖人大天使聖ミカエル
管轄
教区カトリック長崎大司教区
教会管区カトリック長崎教会管区
聖職者
主教
(司教)
ペトロ中村倫明
主任司祭ドミニコ鳥瀬文武

青砂ヶ浦天主堂(あおさがうらてんしゅどう)は、長崎県南松浦郡新上五島町にあるキリスト教カトリック)の聖堂五島列島中通島北部に位置し、2001年平成13年)に国の重要文化財に指定されている[1]

教会の保護者
・大天使聖ミカエル  

略史
1878年明治11年) - 江戸時代外海地方から移住し、潜伏キリシタンからカトリックに復帰した信徒により初代の聖堂建設
1900年(明治33年) - 青砂ヶ浦小教区設立
1910年(明治43年)10月17日 - 3代目となる赤煉瓦造りの聖堂(現在の建物)が完成
1984年昭和59年) - 大規模な改修が行われる
2001年平成13年)11月14日 - 国の重要文化財に指定[1]        

建物の概要
・構造:煉瓦造平屋、葺き
・様式・意匠:平面は三廊式バシリカ型、内部は木造円柱で身廊と側廊に区切り、天井はリブ・ヴォールト天井とする
・設計・施工:鉄川与助    

青砂ヶ浦天主堂は、長崎県を中心に数多くの教会堂建築を手がけた鉄川与助が建てた3つ目の教会堂であり、煉瓦造りの教会としては2つ目となる。ユネスコ世界遺産(文化遺産)暫定リストへ掲載が決まった「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」を構成する教会の一つであったが、構成資産の見直しにより外され、「世界遺産の構成資産と一体的に保存・継承していく資産」とされている[2]

平面規模は間口11.3メートル、奥行23.4メートル。外壁はイギリス煉瓦積。西側正面は3層に区切り、バラ窓や縦長のアーチを設ける。正面入口左右には柱頭に葉形装飾のある円柱があり、その上部を尖頭アーチとする。内部はアーケード(連続アーチとそれを支える柱列)によって身廊と左右の側廊に分け、身廊、側廊ともに天井は四分割リブ・ヴォールトとする。内部壁面は漆喰塗で、側廊窓にはステンドグラスを設ける。この天主堂は内外ともに意匠が優れ、日本人の手になる初期煉瓦造キリスト教建築の代表的作品の一つである。[3]

所在地
〒 857-4402 長崎県南松浦郡新上五島町奈摩郷1241

アクセス
・青方港(中通島)から車で約15分
・有川港(中通島)から車で約20分
西肥バス「青砂ヶ浦天主堂前」バス停下車すぐ、「青砂浦別道」バス停下車徒歩約15分

脚注
a b 平成13年11月14日文部科学省告示第164号(参照:青砂ヶ浦天主堂 文化遺産データベース 文化庁、青砂ヶ浦天主堂 長崎県学芸文化課)
関連遺産の分布図 長崎県世界遺産登録推進課
「新指定の文化財」『月刊文化財』460号、pp.33 - 35

参考文献
三沢博昭『大いなる遺産 長崎の教会』(智書房、2000年 ISBN 4434002651
・『長崎遊学2 長崎・天草の教会と巡礼地完全ガイド』(長崎文献社、2005年 ISBN 9784888510912
・「新指定の文化財」『月刊文化財』460号、第一法規、
2002年     

関連項目
カトリック長崎大司教区
(wikiより)

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浄福寺は、浄土宗鎮西派に属し、天授元年 ( 1375 ) の創立と言われています。
その後長く無住庵となっていましたが、慶長 2年 ( 1597 ) に新たに堂宇が建設されました。

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〇 建築家 鉄川與助旧居宅とレンガ塀

與助といえばレンガの教会堂を思い浮かべる方も多くいる事でしょう。

與助とレンガのり出会いは家業を継いだ明治 39年の旧桐教会堂の塔の増築です。

関東大震災があった大正 12年を境にレンガの建物は廃れましたが、與助はそれ以前に野首教会から始まり田平教会まで多くの教会堂をレンガで建築しました。

敷地の正面には立派なレンガ塀が残されていますが、どこかの現場で使った材料なのでしょうか。

教会堂に使われているレンガとよく似ています。

青砂ヶ浦や大曽などの教会で使われたレンガは佐世保方面の早岐付近 ( 江上、丑ノ浦 ) で焼かれたレンガで非常に硬く上質です。

居宅跡敷地は大正 6年頃までに鉄川家が拡張したもので、レンガ塀もその頃のもののようです。
(案内板より)

〇 鉄川與助
生誕1879年(明治12年)1月13日
日本の旗 日本 長崎県南松浦郡青方村
(現 長崎県南松浦郡新上五島町
死没1976年7月5日(97歳没)
日本の旗 日本 神奈川県横浜市
国籍日本の旗 日本
出身校有川高等小学校
職業建築家
受賞黄綬褒章1959年
勲五等瑞宝章1967年
所属鉄川組

来歴

1879年(明治12年)、長崎県五島列島を構成する島の一つである中通島青方村で、大工の棟梁である鉄川与四郎の長男として生まれる。幼少の頃、近郊の魚目村に移る。(いずれも現在は長崎県南松浦郡新上五島町)

有川高等小学校卒業後、家業を手伝うが、1899年(明治32年)、20歳の時に魚目村に曽根天主堂が建設された際、野原棟梁と出会う。野原はフランス人宣教師A・ペール神父の指導のもとで、当時数少ない天主堂建築を手掛ける大工であった。与助にとっては初の西洋建築との出会いでもあり、以後、野原のもとで修行を積むことになる。また、その頃の五島列島は、信者たちが天主堂建設を合言葉にするほど求められた時代であり、与助は天主堂建築に傾斜していく。
ペール神父からリブ・ヴォールト天井や幾何学についての教えを受け、野原のもとで天主堂を建築していくなか、1906年(明治39年)27歳の時に家業を相続し鉄川組を編成する[1]。30代半ばに大浦天主堂に隣接する大司教館の建築で、マルク・マリー・ド・ロ神父と出会う。以来、教会建築に関する様々な事柄を神父より教えられ、鉄川も神父の素材選びや建築に対する姿勢に感化され、後の仕事に大きく反映されたという。[2] 1959年黄綬褒章1967年には勲五等瑞宝章を授与されている。

多くのカトリック教会を建設し、「教会建築の父」とも呼ばれているが、彼自身は生涯仏教徒であった[3]。しかし、仏教寺院の建築に関わったのは生涯で3軒と言われている[3]

晩年は横浜市で過ごす。共に暮らしていた孫は「97歳で亡くなる数週間前まで元気に過ごしていた」「(仏教徒ゆえ)亡くなるときに「仏様が見える」と話した」と2018年のシンポジウムにて明かしている[4]

五男の鉄川喜一郎が、父の手掛けた建築を一部紹介した『日本れんが紀行』(日貿出版社、2000年)を読んで、與助が遺した資料を著者の喜田信代に貸与。これを基に喜田は2017年、『天主堂建築のパイオニア・ 鉄川與助―長崎の異才なる大工棟梁の偉業』(日貿出版社)を刊行した[5]


「設計・施工に携わった教会堂」については、「鉄川與助ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%89%84%E5%B7%9D%E4%B8%8E%E5%8A%A9

設計・施工に携わった寺院
浄福寺 長崎県南松浦郡新上五島町、大正10年(1921年)、浄土宗  
元海寺 長崎県南松浦郡新上五島町、大正13年(1924年)、浄土真宗本願寺派   
得雄寺 長崎県南松浦郡新上五島町、昭和22年-25年(1947年-1950年)、浄土真宗本願寺派

脚注
1. 雑賀 雄二 1989, p. 9-10.
2. 
砂田光紀『九州遺産』弦書房、2005年P209 
3. 
a b 【今日は何の日】◆8月27日 男はつらいよの日”. クリスチャンプレス (2020年8月27日). 2021年6月11日閲覧。
4. 
長崎新聞 (2018年10月14日). “鉄川与助の人物像に迫る 子孫や識者ら意見交わす | 長崎新聞”. 長崎新聞. 2021年6月11日閲覧。
5. 
喜田信代「大工が積んだ教会レンガ◇長崎の天主堂など30棟建てた鉄川與助の仕事ひもとく◇」『日本経済新聞』2017年7月21日(文化面)
6. 
大刀洗町ホームページ

参考文献
三沢博昭『大いなる遺産 長崎の教会』(智書房、2000年)
・横浜都市発展記念館『開国150周年記念 横浜・長崎 教会建築史紀行 祈りの空間をたずねて』(2004年)
・「鉄川与助 鉄筋コンクリート独力習得」読売新聞 2010 - 01 - 24 日曜版
・雑賀雄二『天主堂物語』新潮社、1989年。ISBN 410363202X
・住友和子編集室; 村松寿満子『鉄川与助の教会建築 五島列島を訪ねて』LIXIL出版〈LIXIL BOOKLET〉、2012年。ISBN 9784864805001

伝記
・喜田信代『天主堂建築のパイオニア鉄川與助』日貿出版社、2017年

関連項目
長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産

外部リンク
長崎の教会 鉄川与助(おじいちゃんが建てた教会)
(wikiより)

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〇 頭島教会沿革

安政六年 ( 1859年 ) 十月無人島であった頭島に鯛之浦のキリシタンがあいついで移住してきた

クーザン宣教師は後の第三代長崎司教慶応三年 ( 1867年 ) 二月と四月の二回にわたって此の島に渡来し伝導を試みている

明治四十一年頃主任司祭ヨセフ大崎師は新聖堂建設に着工大正八年四月十四日 ( 1919年 ) 第四代長崎司教コンパス閣下司式により献堂式が挙行されるに至った。

此の聖堂は日本唯一の石造りで、党内の石を刻み、信徒達は額に汗してその石を運び十数年の歳月を費やして完成したものである。

爾来約六十年の風雨に絶えたとは云え信徒の滅少に伴い老朽化先祖の残した血と汗の結晶である

貴重な遺産を無くすまいと、一九七七年九月主任司祭ミカエル道向師の指導のもとに信徒一戸に付三十萬圓の據金と内外の奇特者の御協力によって修復完成したものである。

一九七七年十月建之

〇 頭ヶ島教会
所在地長崎県南松浦郡新上五島町友住郷頭ヶ島638
日本の旗 日本
教派カトリック教会
歴史
守護聖人ヨセフ
管轄
教区カトリック長崎大司教区
教会管区カトリック長崎教会管区
聖職者
主教
(司教)
ペトロ中村倫明
主任司祭ペトロ中濱敬司

頭ヶ島天主堂(かしらがしまてんしゅどう)は、長崎県南松浦郡新上五島町頭ヶ島にあるキリスト教カトリック教会)の聖堂である。2001年平成13年)に国の重要文化財に指定されており[1][2]ユネスコ世界遺産文化遺産)候補で2018年に登録審査が決まり、同年6月30日に登録が決まった[3][4]長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」を構成する「頭ヶ島の集落」に包括される教会である[5]

教会の保護者
聖ヨゼフ

沿革
1869年(明治2年)頃 - キリシタン迫害を逃れ、中通島の鯛ノ浦の潜伏キリシタン無人島だった頭ヶ島に移住
1887年(明治20年) - カトリックに復帰した信徒たちにより初代の聖堂建設
1919年(大正8年) - 1910年(明治43年)の着工から10年を費やし、現聖堂が完成[6]
2001年(平成13年)11月14日 - 国の重要文化財に指定[1][2]
2003年(平成15年)12月25日 - 境内地が重要文化財に追加指定される
2016年(平成26年) - 世界遺産としては「禁教期に焦点を絞るべき」との指摘をうけ推薦が一旦取り下げられ、対応が進められた結果再推薦は決まったが禁教期を象徴する「頭ヶ島の集落」に包括する扱いとなった
2018年(平成30年) - 世界遺産登録が決定[3][4]      

建物の概要
・構造:石造平屋
・様式・意匠:ロマネスク調の教会堂で、平面は単廊式、天井はアーチヴォールトを用いず、二重持送りのハンマー・ビーム架構で折り上げられている
設計・施工鉄川与助      

頭ヶ島教会は五島列島最東端で幕末までは無人島であった頭ヶ島に建てられた小規模な教会ではあるが、西日本唯一の、また日本全国でも珍しい石造の教会堂であり、その意匠も優れている。鉄川与助の設計・施工、大崎八重神父の指導により、島内の石を切り出し、積み上げて建設された。内観の造形は、船底天井と五島列島の椿を模した花装飾と、青を基調とした華やかな雰囲気が美しい。教会堂のほかに司祭館と門柱が重要文化財の附(つけたり)指定となっており、土地(境内地)も2003年に重要文化財に追加指定されている。教会堂本体とともに付属建物・石垣・石段などが周囲の環境とともに良好に保存されている点が、文化財として高く評価されたものである。

主任司祭は常駐しておらず、カトリック鯛ノ浦教会の巡回教会となっている。

所在地
〒 857-4102 長崎県南松浦郡新上五島町友住郷638

アクセス
・有川港(中通島)から車で約20分
西肥バス有川港ターミナルから頭ヶ島天主堂行き終点下車(1日3本のみ運行)
・2018年4月1日以降、路線バス以外の手段で天主堂を見学する場合は一旦上五島空港でシャトルバスに乗り換えなければならない。[7]      

脚注
1. a b 頭ヶ島天主堂 文化遺産データベース 文化庁
2. 
a b 頭ヶ島天主堂 長崎県の文化財 長崎県学芸文化課
3. 
a b “長崎、天草の「潜伏キリシタン」が世界文化遺産に決定 22件目”産経新聞. (2018年6月30日) 2018年6月30日閲覧。
4. 
a b “長崎と天草地方の「潜伏キリシタン」世界遺産に”読売新聞. (2018年6月30日) 2018年6月30日閲覧。
5. 
頭ヶ島天主堂 長崎の教会群とキリスト教関連遺産 長崎県世界遺産登録推進室
6. 
Comprehensive Preservation and Management Plan - Hidden Christian Sites in the Nagasaki Region” (pdf). Unesco World Heritage Centre. p. 78. 2021年11月20日閲覧。
7. 
“「頭ヶ島パーク&ライドについて」 - 長崎県五島列島新上五島町公式サイト より” (日本語). 長崎県 五島列島 新上五島町公式サイト 2018年10月15日閲覧。

参考文献
・「新指定の文化財」『月刊文化財』460号、第一法規、2002
・「新指定の文化財」『月刊文化財』483号、第一法規、2003
・『長崎遊学2 長崎・天草の教会と巡礼地完全ガイド』(長崎文献社、2005年) ISBN 9784888510912

関連項目
カトリック長崎大司教区       
島の宝100景

外部リンク 
長崎の教会群とキリスト教関連遺産    
頭ヶ島天主堂 長崎旅ネット 長崎県観光連盟
(wikiより)

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⇧ 本当は窓になるはずなのですが、外装から作ってしまった為に内装とズレてしまい窓にならなかった窓です。

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⇧ 森 松次郎翁の居館跡。

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この梶取棒は慶応 2年 ( 1866年 ) 5月 2日未明、本町江ノ浜郷潮合埼で難破したワィル・エルフ号の梶取棒で 昭和 52年 10月、友住郷の民家の改装中、屋根裏より見付かり、武村克安氏より寄贈を受けたものです。

ワィル・ウェフ号は薩摩藩が購入し、「亀山社中」の専用船として貸与した、木像二本マストのプロシャ ( ドイツ ) 船で、慶応 2年 ( 1866年 ) 4月 28日命名式と洋上訓練を、兼ね、薩長連合成立による親善のために、鹿児島に行く途中に寄港した長州の蒸気船ユニオン号と共に長崎を出港しましたが、4月 30日未明甑 ( こしき ) 島沖あたりで大暴風雨にあい、漂流中に本町江の浜郷潮合崎の暗礁に乗り上げて転覆しました。

状船者 16名中、浦田運次郎と便乗の小松帯刀の家来、村山八郎次郎及び水主の市太郎、三平の 4人は磯に打ち上げられて村人に救助されたが、船将・高泉十兵衛こと黒木小太郎 ( 鳥取藩浪人 )、細江徳太郎こと池内蔵太 ( 土佐藩浪人 ) 外水主頭以下 10名は溺死しました。

この遭難者の碑は、ここより徒歩 10分の江ノ浜郷の墓地の一角にあり、その途中、潮合崎海域の見える場所に坂本龍馬ゆかりの広場も整備されています。
(案内板より)

ワイル・ウエフ号は、坂本龍馬が慶応元年 ( 1865 ) に結成した亀山社中 ( 後の海援隊 ) が、薩摩藩家老小松帯刀の計らいで購入したドイツ生まれの木造二本檣 ( しょう / マスト ) 風帆船 ( ふうぱんせん ) です。
ワイル・ウエフを英語表記すると『Wild Wave ( ワイルド・ウェーブ )』。

昭和 52年 ( 1977 ) 10月、友住の田中康博氏宅の屋根裏から、長さ 4mもあるコモに巻かれた材木が見つかりました。 

それは大きな舵取り棒で、日本では見られない材質であったため、このような棒を装置した船はこの辺りにはありませんでした。 

田中氏の祖父は潜水夫で、ワイル・ウエフ号の荷揚げ作業に参加していたことから、ワイル・ウエフ号のものと推測されています。

現在、龍馬ゆかりの広場近くの民宿潮騒の敷地に展示されています。

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⇧ ワィル・ウェフ号の舵取棒

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〇 坂本龍馬の像 祈

龍馬がこの江ノ浜の地を訪れ、遭難した潮合の海に向かって無念の涙を流し、今は亡き 池 内蔵太ら同士の霊に手を合わせたのは 慶應二年六月十四日のことです。

龍馬が土地の人に依頼した慰霊碑は今も地区の人達や龍馬ファンによって大切にされ江ノ浜墓地の中でも、ただひとつ五島灘に向かってたたずんでいます。

同士を失い落胆する龍馬の思いを、今を生きる私共はしっかり受けとめ、龍馬の偉業に敬意をはらい、そして江ノ浜の人達や先人に感謝を込め、あわせて、全国の龍馬ファンに山崎先生の手による世界にただひとつの龍馬像を捧げるものです。

平成二十ニ年五月二日

題字 新五島町長 井上俊昭
銅像制作     山崎和國
(案内板より)

〇 俗謡「潮谷そど(騒動)」

そどよ そど、そど、潮谷そどや、

五月二日の明け六つに

異国の船とは知らねども

どこも知れぬ、島 見せぬ

島も だんだん 見えるして

かねの錨をつけこんで

つけども錨が きかずして

石に当りて 水船に

流れいくのが どこなれば

上口さしてぞ流れ行く

江ノ浜前にぞ流れ着く

どなたの 錦 の衣装

こりゃ何事じゃと村中が

浜に騒ぎて大騒ぎ

国はいづことたずぬれば

国は薩摩の鹿児島で

積荷は何ぞとたずぬれば

大砲 ( づつ ) 小砲 ( づつ ) つみまぜて

かなきんなどをさしにして

さぞやお世話じゃ浦田さん
(案内板より)

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⇧ 真ん中の岩が積んである場所辺りに沈んだそうです。




慶応 2年 ( 1866年 ) 5月 2日未明 、有川地区江ノ浜郷沖の潮合埼でワイル・エルフ号が遭難し、船将である高泉十兵衛こと鳥取藩士、黒木小太郎、そして竜馬の信頼が厚かった細江徳太郎こと土佐藩浪士、池内蔵太ら十二名が命を落とす大惨事が起きた。

慶応元年 ( 1865年 ) 9月 坂本龍馬は、薩摩藩や長崎商人の援助を受け神戸海軍操練所の塾生たちと共に「亀山社中 ( のちの海援隊 )」を長崎・亀山に設立。

亀山社中は、海運業に必要な船を薩摩の援助によってトーマス・B・グラバーから、二本マストの洋型木造帆船ワイル・ウエフ号を手に入れた。

慶応 2年 ( 1866年 ) 4年 28日、ワイル・エルフ号の命名式と洋上訓練のため、鹿児島に向けて長崎を出港。

航海の途中、大暴風雨に遭って漂流し、5月 2日、有川地区江ノ浜郷沖の潮合崎で暗礁に乗り上げ転覆した。

総勢十六人のうち四人を除く乗組員が還らぬ人となってしまった。

この時、龍馬は「寺田屋事件」で受けた傷を鹿児島にて療養中だったが、即座に亀山社中の一行を連れて当地に渡り、自ら碑文を書き同士の霊を弔うため資金を添えて建碑を依頼したといわれている。

現在も江ノ浜地区にある共同墓地には碑文・遭難者名を刻した墓碑が建っており、江ノ浜地区住民の手により大切に祀られている。
(案内板より)

〇 ワイル・ウエフ号

ワイル・ウエフ号(ワイル・ウエフごう、Wild Wave)は、亀山社中の練習船。

坂本龍馬薩摩藩の援助を得て、グラバーから購入したプロイセン建造の木造小型帆船

1866年慶応2年)4月28日 (旧暦) にユニオン号に曳航されて長崎を出航し、鹿児島へ向かっていたが、途中暴風雨に遭遇し、衝突防止のため曳航索を切断後に遭難した。5月2日 (旧暦) 未明、長崎県中通島の東、潮合崎沖で暗礁に乗り上げ転覆し、亀山社中の池内蔵太など、乗組員の多くが死亡した。

ワイル・ウエフ号が沈没した海域を臨む、長崎県新上五島町の有川地区には、その時の船の一部と思われる舵棒の原寸大模造が置かれ、「龍馬ゆかりの地」という記念碑が建てられている。2010年5月2日には新上五島町により海に向かって合掌する「祈りの龍馬像」が建立された[1]

出典
1. 「祈りの龍馬像」建立10年で式典 新上五島、五島の住民グループ”. 長崎新聞. 2022年11月25日閲覧。

参考文献
・『旅する長崎学(13)海の道Ⅲ 五島列島』(長崎文献社、2010年)

関連項目
いろは丸

外部リンク
ワイル・ウエフ号遭難の慰霊碑発見顛末記 長崎県職員公式ブログ 「ながさき情報局 ~坂本龍馬、秋山真之、観光情報、etc.~」
(wikiより)

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⇧ 真ん中が慰霊塔
左右がお墓のようです。

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聖ヨハネ五島

日本 26聖人のひとり。

1578年福江で生まれ、長崎と天草 ( 志岐 ) のセミナリオで学び、伝導士を志して、大阪のイエズス会宣教師と同宿中、豊臣秀吉の命により捕縛され、1597年 2月 5日長崎にて殉教した。

1862年教皇ピオ九世により聖人の位に挙げられ、世界全信徒の尊祟をうけるに至った。

信教自由と人間愛の証しとして 19才の青春を神への生贄とした。
(案内板より)

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マルマン、ペルー像(復活の夜明け)
1873年キリシタン禁制高札撤去後の日本宣教は、パリ国宣教会によって行われた。

堂崎にはフレノ師につづき初代主任司祭マルマン師が訪れた。

マルマン師 ( 向かって左側 ) は 1877年より約 10年間下五島全域の宣教、潜伏キリシタンの復帰に努めながら、奥浦慈恵院へと続く孤児・貧児の救済活動を始めた。

1888年よりペルー師 ( 向かって右側 ) が 2代目主任司祭となり、1899年には井持浦に日本最初のルルド建立、1908年 5月 10日に現在の赤レンガゴシック様式堂崎天主堂を献堂し 30年に及ぶ宣教師牧の日々を堂崎に捧げた。

五島キリシタン復活の礎となった二人である。
(案内板より)

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〇 ドミニコ中村長八神父ゆかりのイヌマキの木

一八六五年 五島列島奥浦村浦頭の地に生を受けた中村長八師は司祭叙階後二十六年を奄美大島で、その後の十七年を日本人最初のカトリック海外派遣宣教師としてブラジルの地に生涯をささげられました。

七十五年の生涯は宣教そのものの人生でした。

このイヌマキはブラジル出発前の直前、奄美より浦頭の生地へ移植し大木となった子孫となるものです。

記念植樹 二〇〇八年五月十一日

司式 長崎大司教 高見三明師

   パリ国宣教会 シェガレ オリビエ師
(石板案内板より)

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別名福江城
城郭構造海城
天守構造なし(本丸二重櫓で代用)
築城主五島盛徳
築城年1863年文久3年)
主な城主五島氏
廃城年1872年明治5年)
遺構・門・塀
石垣土塁・五島氏庭園
指定文化財県指定史跡
国の名勝(石田城五島氏庭園)
再建造物長崎県立五島高等学校
五島観光歴史資料館
五島市福江文化会館
位置北緯32度41分36.5秒 東経128度50分47.5秒
地図
石田城の位置(長崎県内)

石田城(いしだじょう)は、長崎県五島市池田町にあった日本の城。城跡は長崎県指定史跡。城内に残る五島氏庭園は国の名勝に指定されている。福江城とも記される。続日本100名城の1つ。

概要
幕末1863年福江藩最後の藩主五島盛徳が完成させた五島氏居城。現在は五島市の中心街に位置しているが、築城当時は四方を海に囲まれる出城となっていた海城であった。幕末期の海上防衛や異国船の来訪に備えるため、城内には台場(砲台)が設けられていた。松前城とともに幕末の城郭として貴重なものである。

本丸、二ノ丸、北ノ丸からなり、内堀、外堀がめぐらされた。天守はなかったが、本丸の二重櫓がその代用とされた。城の裏門である蹴出門(けだしもん)は、部品や木材の交換を重ねながらも現存する。また、土塀の一部や石橋も現存している。石垣は野面積み工法を多用しており、自然石も積み上げられている。

沿革
1614年慶長19年)に、五島氏の当時の居城・江川城が焼失。代わって1637年寛永14年)に石田陣屋を藩庁にした。五島氏は築城を幕府に願い続けたが、藩の財政難もありなかなか実現しなかった。しかし幕末の1849年嘉永2年)、異国船を監視し、海上防衛に備えるとの目的で、五島盛成の代に築城が認められた。盛成は海辺への築城に際し、福江川河口に、今日でいう灯台にあたる常夜灯「常灯鼻」を1846年弘化3年)に建設、さらに波の影響から城を守るため、陸へと続く導水堤(防波堤)を1848年(嘉永元年)に完成させていた。日本初の海城である高松城に続いての海城の築城には財政難や海沿い特有の問題もあり、竣工までに14年の歳月を要したが、富江藩などからの資金援助もあり、1863年文久3年)、第11代藩主・盛徳の代になり、ようやく念願であった居城(現代日本で最も新しく完成した城)が完成された。

その後、本丸跡に長崎県立五島高等学校、北の丸跡に五島観光歴史資料館五島市福江文化会館が建てられ、二の丸跡には五島氏庭園が往時の姿を今に伝えている。


2017年(平成29年)4月6日、続日本100名城(187番)に選定された。

五島氏庭園
二の丸の位置に現在も残っており、一般公開されている。見学は有料。盛成により構想が練られたといわれている。安政5年(1858年)から2年の歳月をかけ、盛成の隠居所として造られた。鹿苑寺(金閣寺)を模した林泉式庭園という回遊式の庭園である。京都の僧、善章に造らせた。庭石と築山はすべて鬼岳の溶岩を用いた特徴的なものである。植栽にビンロウジュソテツオオタニワタリキンモクセイなど南方の植物を配している点も特徴である。「心」の文字をかたどった池は、心字が池と呼ばれている。

国の名勝に指定された理由として、「江戸期の日本庭園の地方伝播の具体例」「城郭内の庭園は現存例が少ない」「作庭時期が文献に明記されている」「建物が庭園とともに保存されている」などが挙げられている。

関連項目
続日本百名城
日本の城一覧
名勝
海城 (城郭)      

外部リンク
五島市観光情報サイト
長崎県教育委員会「長崎県文化財調査報告書第163集 石田城Ⅱ」(冒頭のP8に四方を海に囲まれた出城である石田城の完成当時の古図あり)
長崎県立五島高校    
(wikiより)


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鐙瀬熔岩海岸  ( あぶんぜようがんかいがん )
鬼岳火山から流出した溶岩が、青く澄み切った海に延々 7kmにわたって流れ込み、変化に富んだ海岸線を形づくっている。

温暖な無霜地地帯で、至る所に亜熱帯植物が繁茂し、情熱的な花木が咲き乱れ、美しい景観を呈している。

永正 4年 ( 1507 )、第 16代領主囲公が、妹婿の玉之浦納に攻められた際、馬でこの地まで逃げたが、鐙がきれ、小舟で沖にある黒島に落ちのびたが反逆党は黒島に迫り、公は自刃した。

以来、鐙瀬と呼ばれるようになったという。

1969年、昭和天皇・皇后両陛下が御散策された。

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⇧⇩ 電電公社時代の灰皿

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かつて、大村藩からの移住キリシタンが潜伏し、五島藩が塩造りの竈場で働せたという地区です。

1897年建立のレンガ造教会が台風で倒壊し、1988年にコンクリート造の現教会となりました。

当時の五島列島司牧の責任者ペルー神父は、1891年、バチカンにこのルルドの洞窟が再現されたと聞き、五島の信徒に呼びかけて島内の奇岩・珍石を集め、1899年、日本で最初のルルドを作りました。

この霊水を飲むと病が治ると言われ、日本全国の信者の聖地となっています。

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ここ大瀬崎の断崖は、淡褐色の砂岩と黒色の泥岩が交互に重なった地層が、大瀬崎に打ち寄せる波濤 ( はとう ) により削り取られて形成されている。

地殻変動による傾斜や、断ち切られた断層を随所に見せて、場所によっては高さ 100mを超えるところもあり、壮大な景色を形作っていることから、西海国立公園の特別地域に指定されている。

なお岬の突端にある大瀬崎灯台は、海面に対して 24°傾いた地層で構成された海抜 80mの断崖上に、1879 ( 明治 12 ) 年 12月に竣工した歴史ある施設である。

現在の灯台は、1971 ( 昭和 46 ) 年に改装されたもので、全国でも最大級の 200万カンデラの光を発し、沖合約 50kmまで光が届く。

海上保安庁の「日本の灯台 50選」にも選定され、現在に至るまで長年日本列島の西端を航行する船舶の安全を見守っている。

また、1898 ( 明治 31 ) 年には、当地に無線電信機を備えた旧海軍の望楼 ( ぼうろう ) が設置されており、1905 ( 明治 38 ) 年、日露戦争時に、ロシアのバルチック艦隊発見の報「敵艦隊見ユ」を受信している。
(案内板より)

〇 大瀬埼灯台
航路標識番号
[国際標識番号]
6161 [M5002]
位置北緯32度36分45.8秒 東経128度35分59.9秒
所在地長崎県五島市玉之浦町山之神表1429
塗色・構造白色・円筒形
レンズ無等
灯質閃白光・毎10秒を隔てて1閃光
実効光度200万 cd
光達距離23.5海里
明弧301度から175度まで
備考
光源電灯1キロワット電球
灯器種別L13-90型
電球種別H-1000
標識種別沿岸大型
海図番号W217、W1212
大瀬埼灯台(おおせざきとうだい)は、五島列島福江島の西端、大瀬崎の断崖に建てられた灯台。灯台としての規模は大型であり日本屈指の光達距離を誇る。東シナ海を航海する船舶の標となっている。『日本の灯台50選』の一つでもある。五島列島・西海国立公園を代表する観光の名所である。海上保安庁での表記・呼称は単に大瀬埼と呼ぶ。所在地は長崎県五島市玉之浦町。

歴史
五島列島は昔より中国とを結ぶ航海の要衝であった。遣唐使派遣の初期、640年頃の唐書「挺地志」に「資聖寺有宝塔、高峻層々、用四方燈、点照東海、舟行者皆望之為標的焉」とあり、“東海(渤海)の航路を照輝し、船舶は皆これを航行の標的とした”と述べている[1]。この日本における最初と呼ぶべき灯台は、664年防人遣唐使船の目標になるよう昼は烽火(のろし)をあげ、夜はかがり火を焚かせたのがその始まりとされている。

五島は、航海の要地であるとともに漁業基地としても昭和初期までは重要視される。着工は1876年(明治9年)で、イギリス人のR・プラトンの設計といわれる。断崖の標高80m地点で、10 mあまり屹立していた岩石を切り落として基盤とし、ここに灯台を築いた[2]。初点灯は1879年(明治12年)[3]で、総工費は当時の額で3万円だった。

大瀬崎の山頂にある無線電信所は、日露戦争の日本海海戦の端緒となる、「敵艦見ゆ」の第一報を受信した歴史もあり、この山は電波山と呼ばれた。1945年(昭和20年)8月7日には、米軍の潜水艦による20分間の艦砲射撃にみまわれ、その一発は灯台丸屋根を貫通したがレンズには損傷がなかった。このとき米軍は灯台の背後の山にある、無線電信所を目標としていた。

1971年(昭和46年)に改築され現在の白い円塔の灯台となる[2]。少なくとも昭和末期までは灯台守がいて、灯台のふもとに居を構え監視していたが、現在は無人である。初代の灯台躯体は船の科学館に屋外展示物として復元されている[2]。 だが、2019年1月現在、当灯台の上には日本財団のビルが建っているため、亡失したと思われる

また太平洋戦争時には、出征した多くの将兵達が大瀬崎を日本の地の見納めとしたことから、1978年(昭和53年)には灯台を見下ろす大瀬山に鎮魂碑と北村西望作の「祈りの女神像」が建てられた。

付属施設
大瀬埼灯台には、ディファレンシャルGPS局が設置されており、船舶に搭載されているGPSを高精度に補正する電波と、電文で気象通報を配信している。また、中波(H3E) 1670.5kHzで船舶気象通報を行っており、1時間に1回、大瀬埼灯台と女島灯台の気象情報を放送している。なお、DGPSの気象通報、船舶気象通報は2016年9月30日廃止[4]、ディファレンシャルGPS局は2019年3月廃止となった[5]

自然
灯台が立つ大瀬崎断崖は西海国立公園の特別地域に指定されている。砂岩と泥岩の互層からなる第三紀層「五島層群」が、東シナ海から叩きつける荒波で削られて形成された海食崖であり、標高250mの大瀬山山頂まで急斜面が続いている。灯台は海面に対して約24°傾いた地層の上に建てられている[2][6]

大瀬崎周辺は渡り鳥の渡りの中継地でもあり、秋にはハチクマアカハラダカチゴハヤブサツバメ等、繁殖を終えた夏鳥が大陸へ渡っていくのを観察できる。特にハチクマは日本国内で繁殖した個体群の殆どが五島列島を通過して600km先の中国大陸へ渡るとされ、大瀬崎では9月中旬から10月上旬にかけて約1万羽、多い日には1日で約1500羽ものハチクマが上空を通過する[2]

画像については、「大瀬埼灯台ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%80%AC%E5%9F%BC%E7%81%AF%E5%8F%B0

交通アクセス
長崎港からの船便は長崎 - 福江間フェリー(所要時間3 - 4時間)[7]ジェットフォイル(所要時間90分弱)[8]がある。ANAによる福岡空港から五島福江空港への直行便は所要時間約40分[9]であり、九州外からの移動は空路の方が速い。

福江港からは自動車で約1時間、五島バス玉之浦・向小浦行きで1時間20分、大瀬崎口バス停下車、徒歩30分。五島バスは運行本数が少なく時間に注意しなければならない。

出典・参考資料
・玉之浦町郷土誌(記述ミス多々有り)
第七管区海上保安本部 交通部企画課監理係長 福本久士様よりの情報
・燈台風土記

出典
1. 大瀬埼灯台-海上保安庁 
2. 
a b c d e 環境省・長崎県,西海国立公園「大瀬崎園地」展望台案内板 
3. 
明治12年11月18日工部省布達第16号(『法令全書 明治12年』内閣官報局、pp.1123-1124.
4. 
海上保安庁が実施する情報提供業務の一部終了について(PDF) Archived 2016年8月17日, at the Wayback Machine. - 海上保安庁交通部 (2016年5月) ※茨城県水産試験場漁業無線局ホームページでの掲載(2016年7月12日閲覧) 
5. 
ディファレンシャルGPSの廃止について” (PDF). 海上保安庁 (2017年6月30日). 2019年1月7日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年1月7日閲覧。
6. 
鐙瀬ビジターセンター展示「湖で生まれた五島列島」
7. 
九州商船フェリー 長崎 - 福江間ダイヤ   
8. 
九州商船ジェットフォイル 長崎 - 福江間ダイヤ   
9. 
ANA国内線 - 時刻表、PDF時刻表ダウンロードサービス 2009年1月6日 - 2009年1月31日から佐賀・福岡・北九州 - 五島福江間を選択・ダウンロードにて確認。

関連項目
日本の灯台50選
日本の夕陽百選
福江島
女島灯台
悪人 (小説)
長崎県の灯台一覧  
(wikiより)


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五島とキリスト教との最初の出会いはフランシスコ・ザビエル鹿児島上陸 ( 1549年 ) から 17年後の 1566年の事である。

ポルトガル生まれで優秀な医師でもあったイエズス会宣教師ルイス・デ・アルメイダと、平戸生まれの日本人修道士ロレンソ ( レリーフ左手前の 2名 ) が五島領主 18代宇久純定 ( レリーフ中央 ) の要請に応えて来島し、キリスト教布教と病がちの純定の治療を努めた。

純定の子純堯は受洗して 1576年キリシタン大名となり、五島キリシタンは信徒 2000名余りという隆盛の時代を見たが、純堯はその 3年後に 35歳で帰天し、五島は信仰の受難の時代を迎える。

〇 ルイス・デ・アルメイダ
ルイス・デ・アルメイダLuís de Almeida [luˈiʃ dɨ ɐɫˈmɐjdɐ] 、1525年? - 1583年10月[1])は、戦国時代末期の日本を訪れたポルトガル人。商人であったが、医師の免許を持ち、西洋医学を日本に導入して豊後府内に日本初の病院を作ったことで知られる。後にイエズス会員となった。ポルトガル貴族の出身[2]

生涯
アルメイダは、1525年ごろリスボンユダヤ教からカトリックに改宗したコンベルソの家庭に生まれた。1546年にポルトガル王から与えられる医師免許を取得した後で、世界雄飛を夢見てゴアからマカオに渡った。1552年に貿易目的で肥前国平戸に初来日。日本とマカオを行き来して多くの富を手にした。

アルメイダは山口でイエズス会宣教師コスメ・デ・トーレス神父に会う。彼はフランシスコ・ザビエルの事業を継承して日本で布教を続けていた。アルメイダは宣教師たちとの出会いを通して思うところがあり、豊後府内大分県大分市)にとどまり、私財を投じて乳児院を建てた[3]。これは当時の日本で広く行われていた赤子殺しや間引きの現実にショックを受けたからであるとされている。さらに豊後府内の領主であった大友宗麟に願って土地をもらいうけ、1557年外科内科ハンセン氏病科を備えた総合病院を建てた [4] 。これが日本初の病院であり、西洋医学が初めて導入された場所である。

この病院においては、みずからが外科医療を担当した一方で、元僧侶の日本人キリシタンが内科医療や薬のことに携わった[5]。そのほか、聖水十字架数珠、祈祷文などを用いた呪術的な医療も盛んに行われた。実際、この病院で主力だったのは、外科医療よりも呪術的な医療であり、アルメイダ自身は、実際のところ、外科医療よりも呪術的な医療を重視しており、病気治癒の効果がデウスの力あることを強調する発言を残している。

また、大分において「ミゼリコルディア」(ポルトガル語:(Santa Casa de )Misericórdia 、「憐れみ(の聖なる家)」)といわれるキリスト教徒の互助組織を発足させた。

布教においても活躍し、コスメ・デ・トーレス神父は、改宗が難しそうな土地へたびたびアルメイダを向かわせた。学識あるアルメイダは僧侶など知識人の欲求によく応え、改宗へと導いた。医師としても貧しい人々を助けたので多くの信者を獲得した。

神父としての活動を始めてからも、貿易への投資を続け、病院の資金を調達した。また、慢性的な財政難に苦しんでいた日本の教会へも惜しみなく私財を寄進した。

日本人医師の協力を受けて病院を運営していたアルメイダは1558年には医学教育も開始。医師の養成を行った。やがてアルメイダは九州全域をまわって医療活動を行うようになり、1561年6月下旬には平戸の北部、度島でも治療に当たっていた。1563年には横瀬浦から避難し後に『日本史』を書いたルイス・フロイスも度島で10か月ほど滞在した。宇久純定の治療を依頼されるほどその名声は高まっていた[6]

1566年9月、トルレスに派遣され、天草の豪族・志岐麟泉の招きで初めて志岐(天草郡苓北町)を訪れた。[7]アルメイダは天草に初めて布教を開始し、南蛮文化を伝えた。天草市の殉教公園には彼の像が建てられている。天草に移住してからは、カステラ風のお菓子を教えるなど食文化にも精通しており、玉名市の銘菓「松の雪」は、アルメイダが、貿易港伊倉の菓子職人に製法を伝えたとされる。

1580年、アルメイダはマカオにわたって司祭叙階された。再び日本に戻って、宣教活動・医療活動に専念するが、1583年10月に天草の河内浦(熊本県天草市)で没した。冒険商人から無償奉仕の医師へと転身し、病人と乳児に尽くした波乱の生涯であった。

アルメイダの名を冠した施設等
大分市医師会立アルメイダ病院1969年開設、大分県大分市)の名称は彼にちなんでいる。

脚注
1. ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説”. コトバンク. 2018年2月3日閲覧。
2. 
上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 66頁。
3. 
イエズス会士 日本通信 上 (新異国叢書 1)』(昭和43年(1968年)12月10日発行 訳者:村上直次郎 編輯者:柳谷武夫 発行所:雄松堂出版) 74頁、102-103頁、117頁
4. 
この病院は現在の住所で大分県大分市顕徳町2丁目にあったデウス堂の隣地に開設され、日本初の入院施設も備えていた。 『南蛮医アルメイダ』(1993年9月24日発行 著者:東野利夫 発行所:柏書房) 45-68頁 (「4 府内病院の位置証明」)
5. 
『イエズス会士 日本通信 上 (新異国叢書 1)』(昭和43年(1968年)12月10日発行 訳者:村上直次郎 編輯者:柳谷武夫 発行所:雄松堂出版) 125-126頁、150-151頁、177-179頁、188-189頁、191-192頁、237頁
6. 
『イエズス会士 日本通信 下 (新異国叢書 2)』(昭和44年(1969年)2月10日発行 訳者:村上直次郎 編輯者:柳谷武夫 発行所:雄松堂出版) 84頁-98頁
7. 
松田毅一・川崎桃太訳『フロイス日本史』9巻、第17章(第1部72章)、中央公論社、1979年。274頁。1567年10月13日付、志岐発信、アイレス・サンシェス修道士書簡、CI.f.247v.

参考文献
若桑みどり『クアトロ・ラガッツィ 天正少年使節と世界帝国』集英社、2003年。

関連項目
日本のキリシタン一覧   
多聞山城   
(wikiより)

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宗念寺は、寛永十一年 ( 1634 ) 五島藩 第二十二代藩主 五島盛利公の生母 芳春尼が没しその菩提所として芳春山宗念寺として開基された。
(案内板より)

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常灯鼻
常灯鼻は、第 30代藩主成公が福江城(石田城)を築くにあたり城の北東から吹き寄せる大波を防ぎ、築城工事を容易にするため築かせたものといわれている。

防波堤としての役割のほか、灯台としての役目も持っていた。

弘化 3年 ( 1846 ) に完成し、さらに丸木地区からの導流堤 ( 防波堤 ) が 2年後に完成、これによって福江川港は一新され、多くの船が安全に停泊できるようになった。

石田城 ( 福江城 ) の築城にあたった石工は滋賀県大津の集団であるとされ、常灯鼻も同じ石工集団によって造られたと考えられる。

現在、防波堤の大部分は、丸木地区の埋め立て造成工事等により失われてしまったが、灯台部分は、石工技術が発達した江戸末期の造りだけあって、築城から 150年以上経った現在でも、激しい波風に耐え、出入りの船舶を見守り続けている。
(案内板より)

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廣徳禅寺遺趾
この地は、昭和 46年まで廣徳寺があった場所で、この石碑は、練馬別院に移転の際に、廣徳三十世雪底和尚によって詠まれた七言絶句を記したものです。

また、石碑の裏側には、廣徳寺が移転した理由が記されています。

なお、この解釈にあたっては、廣徳寺海雲和尚のご協力を賜わったものです。

【七言絶句】
高掲法幢三百戴タカク ホウトウヲカカゲテ サンビャクネン
( 禅宗を掲げて下谷の地に移って、300年が経った )

已憂斯地累兒孫スデニ コノチヲウルエテ ジソンニツナグ
( 時代の移り変わりや環境の変化もあったが今日まできた )

無邊廣大先人徳ムヘンコウダイナル センジンノトク
( 未来永劫受け継がれるためにも、代々、世のため人のためにおこなってきた )
纔勒碑陰去故園ワズカニ ヒインヲオサメテ コエンヲサル
(碑陰(石碑の裏面)を記して このちを去ります)

【石碑裏面】
廣徳寺は、希叟宗罕禅師 ( きそうそうかんぜんじ ) が明叟 ( みょうそう ) 和尚を小田原に招き、創建したとされ、その年代は元亀天正の頃と推定される。

天正 18年 ( 1590年 ) に豊臣秀吉により小田原城が落城し、その際、廣徳寺も焼失した。

その後、徳川家康が江戸の神田 ( 昌平橋付近 ) に再興。そして寛永 12年 ( 1635年 ) に下谷に移っておおよそ 300年が経った。

当時は、江戸屈指の禅林と仰がれた。

昭和 45年 9月、台東区より敷地を新庁舎建設用地として懇望され、時代の情勢を鑑み、これを受託し、練馬の別院へ移すことにした。

この地を去るにあたり、先人達の深い恩に感謝し、石碑を建て移転の経緯を記し、後世に残すものである。
(案内板より)

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⇧ 台東区役所



木下福治郎・鷹羽玄道は兄弟で、兄の木下は彰義隊第二青隊隊長、八番隊組頭をつとめ、弟の鷹羽は本営詰組頭などつとめ、二人とも箱館まで転戦している。

木下は明治 13年 1月 16日に42歳で没し、鷹羽は明治 44年 6月 6日に 69歳で生涯を閉じた。

この追悼碑は鷹羽の娘・登宇によって建てられた。

〇 上原 仙之助
上原 仙之助 ( うえはら - せんのすけ)
生年 : 不明。 
没年 : 不明。 
享年 : 不明。 
改名 : 鷹羽玄道 
元  : 養子に入り柳河 12万石立花飛騨守鑑寛の家臣となるが、脱藩。 
流派 : 不明。 

容姿 : 島原はおろか江戸中の女性たちから「仙さま」と呼ばれ、絶えず付け文をされるほどの美丈夫。

18歳の時、養子先の上原家の養母に惚れられ、
逃げる為に江戸へ出たとも言われている。 
性格 : 才知縦横の快男児。 
墓所 : 東京都荒川区南千住一丁目の円通寺? 

上野彰義隊時代:本営詰組頭
箱館彰義隊時代:組頭
箱館新政府時代:彰義隊差図役 

上野彰義隊兵隊組頭八番隊隊長・木下福次郎の実弟。

実の兄・木下の進退に同感し、柳河藩を脱藩して彰義隊に入り、丸毛と同じく、本営詰組頭に就任する。

史料によると上野戦争当時の年令は、20歳前(17歳位?)だったと思われる。

彰義隊時代、朝帰りの途中で官軍と真正面から鉢合わせても、決して道を避けようとはせず、あえて中央へ立ちふさがり、そのまま官軍の隊を真っ二つに割って最後列まで通り抜けてしまったり、兄に代わり八番隊を率いて市中見回り中に、官軍の巡邏隊と遭遇したおり、官軍の隊長が当時の流行り唄をもじって、「徳川武士箱詰にして、吉原通いがしてみたい」と仙之助らを罵ったが、仙之助は颯爽と鉄扇を広げ、「来る官軍首斬りつくし、五月葵の花が咲く」と、みごとに切り返し、官軍側を意気消沈させてしまったと言う。

上野戦争では八番隊として黒門口で戦い、上野敗戦後も、 仙之助は敗北感にとらわれる事なく、髪を剃って黒染の衣の托鉢僧に化け、仏前への読経を依頼されても、経文では無く、粋な清元の「梅の春」の一節を平然と読吟して切り抜けるなど、その他、医師に化けたりして、白昼道々と天下の往来を闊歩した。

そして再起を謀るべく、百七十人もの同志との連絡を取ることを成功させ、どのように資金を作ったのか、市内数カ所に居酒屋を設けて、同志達を分宿させて、隠れ家とさせた。

しかしその後、天野が捕縛されると、丸毛らと共に榎本艦隊に加わる。

この時、名を鷹羽玄道と改める。

箱館戦争では箱館総攻撃の日に負傷して前線撤退し、病院送りとなる。

そのおかげか、箱館弁天台場などでの禁錮生活はまぬがれたようである。

その後、鷹羽玄道の名で下谷二長町で有名な鍼医に。

丸毛靱負とは生涯付き合いがあったと言われる。 

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木下福治郎・鷹羽玄道は兄弟で、兄の木下は彰義隊第二青隊隊長、八番隊組頭をつとめ、弟の鷹羽は本営詰組頭などつとめ、二人とも箱館まで転戦している。

木下は明治 13年 1月 16日に42歳で没し、鷹羽は明治 44年 6月 6日に 69歳で生涯を閉じた。

この追悼碑は鷹羽の娘・登宇によって建てられた。

〇 木下福治郎
木下福次郎 ( きのした - ふくじろう )
生年 : 不明。 
没年 : 不明。 
享年 : 不明。 
元  : 木下家へ養子に入り、柳河藩の家臣となる。 
流派 : 不明。かなりの剣の使い手であったと言われる。 
容姿 : 上原仙之助の実兄というからには美丈夫だったと思われ…。 
墓所 : 東京都荒川区南千住一丁目の円通寺? 

上野彰義隊時代:兵隊組頭八番隊隊長
箱館彰義隊時代:頭取
箱館新政府時代:彰義隊差図役頭取 

上原仙之助の実兄。

上野戦争では兵隊組頭八番隊隊長を勤めた。

そもそも彰義隊八番隊は天野が気に入ったものを集めた隊だった上に、剣の使い手ばかりが揃っていたと言われる。

木下はその中でも隊長を勤めていた。

天野八郎は仙之助と共にこの兄弟を深く信頼し、潜伏中などは、福次郎に「七郎」と名乗らせるなど、ほとんど義兄弟のようにしていたと伝えられる程であったと言う。

上野戦争当日は天野と共に八番隊隊士を従え黒門口へ向かい、最後まで奮戦した。

上野敗戦後は実弟の仙之助と共に、再起を謀る為に奔走するも、天野捕縛により、仙之助ら他の隊士と榎本艦隊に加わる。

戊辰戦争後、明治3年4月に謹慎を解かれた時、静岡藩に引き渡される者と、東京に行く者に別れたようだが、その時、木下は静岡藩引渡しとなり、彰義隊の静岡藩行き取締役となった。 

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製造初年 : 1913

制作社等 : 川崎

特徴 : 9600型は初の国産貨物機関車で 770両が作られました。

その活躍の場は九州全域に及び、キュウロクの愛称で親しまれました。

特徴は動輪上にボイラーがあるため、車体高が高いことです。

この機関車は昭和 49年に米坂線から後藤寺機関区に転属してきました。

遠くやって来た機関車はその番号から「ごくろうさんよ」とファンの間では呼ばれていました。

筑豊地区で働いたのは 1年足らずでしたが北九州地区最後の蒸気機関車の 1両となっています。
(案内板より)

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製造初年 : 1941

制作社等 : 汽車会社

特徴 : 東海道、山陽本線の主力機関車として誕生。

昭和 31年に門司に配属され、寝台特急「あさかぜ」を始め、急行「雲仙」などに使用され、昭和 37年には熊本に転属。

この年に誕生した熊本発の特急「みずも」も索引しています。

昭和 40年の熊本電化か完成した時点で、本線用で軸重が重く転属先がないことから廃車となりました。

同型の 9両は解体されましたが、この車両は準鉄道記念物として小倉工場で展示保管されていました。

廃車迄に地球 62周分を走行しています。
(案内板より)

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製造初年 : 1941

制作社等 : 汽車会社、東芝

特徴 : 昭和 17年の関門トンネル開通時にこの区間たげが孤立した電化区間となり、トンネル専用のEF10型直流電気機関車が配置され、下関と門司で機関車がつけかえられました。

昭和 36年に九州側が交流 2万ボルト、本州側が直流 1千 5百ボルトの電化となり、交直両用機関車に役目を譲ることになりました。

この機関車はその後、本州各地で昭和 54年まで使用され、引退後は門司大里公園で保存されていました。
(案内板より)

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製造初年 : 1961
制作社等 : 東芝

特徴 : 北九州電化で使用する交流電気機関車として登場。

暖房用ボイラーを載せているため、車長が長く中央に動力の伝わらない中間台車があるのが特徴です。

暖房が上記から電気に変わり、ボイラーも不要となったため、旅客用に限定する必要もなくなり晩年は貨物列車にも使用されていました。

この車両は試作機関車で他の同型機とは若干趣が異なっていますが、九州初の交流電気機関車として北九州市門司区の老松公園に保存されていました。
(案内板より)

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製造初年 : 1937
製造社等 : 日本車両

特徴 : 戦前の代表的な機械式 ( クラッチで変速する方式 ) 気動車で、連結運転の時は双方の運転士が合図しながら走っていました。

昭和 27年にガソリンエンジンをディーゼルエンジンに変更。

この車両は昭和 32年に豊後森機関区に配置され、宮原線で使用されました。

昭和 44年に引退となり豊後森機関区や大分運転所で大切に保管されていました。

戦前に製造された同形車で原型を保っているのはこの車両だけです。
(案内板より)

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大観音寺には、本尊である鋳鉄製の菩薩頭 ( 総高 170センチメートル、面高 54センチメートル ) が安置されています。

菩薩頭の頭上には高さ 53センチメートルの高髻 ( こうけい ) があり、後補である鋳銅製蓮華座の台座上に祀られています。

この菩薩頭の由来については、かつて鎌倉の新清水寺に祀られていた鋳鉄製の観世音菩薩像でしたが、廃寺となった後、江戸時代に頭部のみが鶴岡八幡宮前の鉄井 ( くろがねのい ) から掘り出されたと伝わっています。

その後、明治初年の神仏分離の令に際して鎌倉から移され、大観音寺に安置されました。

以後、本尊として今日に至っています。

本尊は、毎月十一日・十七日のみ開帳され、人々の信仰を集めています。

この菩薩頭は、中世造立になる関東特有の鉄仏のうちでも、鎌倉時代制作の優秀な作品であることから、昭和四十七年四月、東京都指定有形文化財に指定されています。
(案内板より)

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所在地東京都荒川区南千住一丁目
駅番号SA01
所属事業者東京都交通局
所属路線都電荒川線(東京さくらトラム)
キロ程0.0 km(三ノ輪橋起点)
駅構造地上駅
ホーム2面2線
乗降人員
-統計年度-
3,266[1]人/日
-2019年-
開業年月日1913年(大正4年)4月1日
乗換H20 三ノ輪駅
東京メトロ日比谷線

三ノ輪橋停留場(みのわばしていりゅうじょう)は、東京都荒川区南千住一丁目にある東京都交通局都電荒川線(東京さくらトラム)の停留場駅番号SA 01

都電荒川線の始発停留場であり、停留場位置は日光街道国道4号)の西側やや奥にある。関東の駅百選認定駅の一つ。

歴史
現在の停留場の歴史は以下の通りであるが、現在の停留場に先立って1911年(明治44年)に当時の東京鉄道によって日光街道上に三輪橋(三ノ輪橋)停留場が設けられた。これらは後に東京市電(→東京都電車)三ノ輪線となり、王子電気軌道が東京市電に統合され三河島線(後に荒川線)となった後は、場所が離れた2つの都電乗降場が存在する形態となった(両者の線路は接続されていなかった)。その後、日光街道の路線(21・31系統)が1969年(昭和44年)に廃止され、現在の停留場のみとなった[2]

なお、かつては近隣に21系統・31系統の運行を担当する三ノ輪電車営業所および車庫が存在したが、こちらも両系統の廃止とともに役目を終え、跡地は都営住宅となっている[2]

三ノ輪橋の名前は、かつて付近を流れていた石神井用水(音無川)と日光街道の交点に架かっていた橋に由来する。過去には路線図や方向幕で「三輪橋」と表記された例もあったが、現行の案内では「三ノ輪橋」で統一されている。

日光街道から行くとビルの中を通って当停留場に来る形となるが、このビルはかつて王子電気軌道が所有していたビルであり、地元では今でも「王電ビル」と呼ばれることがある。
・1911年(明治44年)
  ・4月16日:東京鉄道の停留場として開業。当時は終点。
  ・8月1日:東京市の東京鉄道買収に伴い、東京市電三ノ輪線の停留場となる。
・1912年(明治45年)12月29日:三ノ輪線が千住大橋停留場まで延伸され、途中駅となる。
・1913年(大正2年)4月1日:王子電気軌道の停留場が開業、東京市電との接続地点となる。
・1942年(昭和17年)2月1日:王子電気軌道が東京市に買収され、東京市電三河島線(現・荒川線)となる。
・1943年(昭和18年)7月1日:東京都制施行に伴い、東京都電車の停留場となる。
・1969年(昭和44年)10月26日:三ノ輪線廃止。
・1978年(昭和53年):ワンマン運転に伴う改修工事を実施。これにより、従来対向式ホーム2本だった構造が、1本の線路の両側に乗降を分離したホームを備える形となる。同時にホームのかさ上げを実施。
・1997年(平成9年):関東の駅百選に認定。認定理由は「春には見事なバラが咲き揃う都内唯一の都電が走る停留場」。
・2007年(平成19年)5月26日:9000形の営業運転開始に合わせて全面リニューアルを行い、レトロ風の外観になる[3]
・2018年(平成30年)10月21日:停留場近くに都交通局が案内所「三ノ輪橋おもいで館」を開設[4]

画像については、『三ノ輪橋停留場ウィキペディア』を御覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E3%83%8E%E8%BC%AA%E6%A9%8B%E5%81%9C%E7%95%99%E5%A0%B4

停留場構造
降車ホームと乗車ホームが別々になっている。降車ホームで乗客を降ろした後、乗車ホームに電車が移動して乗客を乗せて発車する。

停留場周辺
東京メトロ日比谷線三ノ輪駅 - 徒歩3分程度。都電では乗換駅として案内されているが、東京地下鉄は正式な乗換案内としていない。
浄閑寺
南千住砂場
三河島
千束吉原
山谷
ヨークフーズ三ノ輪店
オリンピック三ノ輪店

バス路線
・三ノ輪橋
 ・都営バス
  ・<草43> 千住車庫前・足立区役所
  ・<草43> 浅草雷門(千束・浅草寿町経由、平日のみ)
  ・<草43> 浅草寿町(千束経由、土曜・休日のみ)

隣の停留場

東京都交通局
  SA 都電荒川線(東京さくらトラム)
    三ノ輪橋停留場 (SA 01) - 荒川一中前停留場 (SA 02)

脚注
・“東京都 駅乗降客数”. 2021年3月11日閲覧。
a b 幻の停留場求めて 三ノ輪橋近くの「三輪橋」 都電ファンの2人が情報募集 東京新聞 2020年10月9日
・「都電三ノ輪橋停留場をリニューアルします。」東京都交通局、2007年2月22日(インターネットアーカイブ)。
“東京さくらトラム(都電荒川線)三ノ輪橋停留場からすぐ!都営交通案内所「三ノ輪橋おもいで館」オープン!~平成30年10月21日(日)~!”. 東京都交通局. (2018年9月27日) 2018年10月21日閲覧。

関連項目
日本の鉄道駅一覧   

外部リンク
三ノ輪橋停留場 | 都電 | 東京都交通局
(wikiより)


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所在地東京都中央区日本橋人形町1-18-9
位置北緯35度41分8秒 東経139度46分57.1秒
宗派聖観音宗
本尊鉄造菩薩頭
創建年明治13年(1880年
札所等昭和新撰江戸三十三観音札所第3番
文化財鉄造菩薩頭(東京都指定有形文化財)

大観音寺(おおかんのんじ[注釈 1])は、東京都中央区にある聖観音宗寺院

歴史
1878年明治13年)に開山された。

当院の本尊は、首だけになった鉄製の観音菩薩像(以降「鉄造菩薩頭」とする。)である。元々は鎌倉の新清水寺(現在は廃寺)にあったものだが、1258年正嘉2年)の火災で崩落してしまった。その後、井戸を掘ったところ、首だけの鉄造菩薩頭が発掘されて、小堂に安置された。そういう経緯から、その井戸のことを「鉄ノ井(くろがねのい)」と呼ぶようになった[1][2]

明治になり、この鉄造菩薩頭を東京に移すことになり、1874年(明治9年)に仮堂を建てた。これが、当寺の起源である[2]

浅草寺とは本末関係にあり、1950年昭和25年)に浅草寺が「聖観音宗」を開宗した際に、当寺も天台宗から聖観音宗に転宗した[2]

2011年平成23年)3月11日東日本大震災の際に、真正面に向いていた鉄造菩薩頭が、やや右の方向(真東)に向いていた。他の仏像や仏具は特にひっくり返ってもいなかった。そのことから「平成の不思議顕現」と呼ばれるようになり、開扉日も毎月17日に加えて11日も開くようになった[3]

交通アクセス
人形町駅より徒歩2分。

脚注
注釈
1. 読みは「だいかんのんじ」ではなく「おおかんのんじ」である。

出典
1. 鎌倉十井鎌倉市市民生活部観光課観光担当
2. 
a b c 金山正好、金山るみ 著『中央区史跡散歩 (東京史跡ガイド2)』学生社、1993年、35-36p
3. 
大観音寺中央区観光情報センター「東京 中央区の観光情報公式サイト Central Tokyo for Tourism」

参考文献
・金山正好、金山るみ 著『中央区史跡散歩(東京史跡ガイド2)』学生社、1993年
(wikiより)

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開高 健が晩年過ごした自宅が記念館として開設されています。

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横浜中華街外にあるお店「長崎屋」さんです

中華街にありながらチャンポン、ナポリタンが有名です。

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⇧ 店外観

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⇧ チャンポン

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⇧ ナポリタン

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⇧ サラダ








所在地山口県下関市上新地町2丁目6-22
位置北緯33度57分40.5秒 東経130度55分13.5秒
主祭神(本文参照)
創建文久4年1月23日
1864年3月2日)

櫻山神社(さくらやまじんじゃ)は、山口県下関市に鎮座する神社[1]

祭神
吉田松陰 1柱
高杉晋作久坂義助入江九一吉田稔麿河上弥市 5柱、
白石正一郎、白石廉作、山県有朋 等 長州藩奇兵隊士 256柱
・泉十郎、熊野直助 等 豊浦藩報国隊士 96柱
・膺懲隊、八幡隊、遊撃隊、整武隊、清末藩育英隊等諸隊士 38柱 計391柱(霊標は391柱だが合祀され神霊名  簿に記載されている神霊は857柱[2]

歴史
文久3年(1863年)の下関事件を受け、高杉晋作は奇兵隊を結成した。同年10月(1864年11月)殉国の志士の神霊を祀る招魂場の創建を発議した。文久4年1月23日(1864年3月2日)、白石正一郎らにより下関の新地岡の原に招魂場の創建(社殿は翌月から着工されたが下関戦争、禁門の変といった動乱続きにより落成したのは元治の内乱で藩論が統一された後の元治2年8月3日(1865年9月22日)であった)[3]。明治5年8月20日(1872年9月22日)、防長各所の招魂場を合祀。同年9月1日(1872年10月3日)豊浦藩報国隊士を合祀。1959年吉田松陰没後百年祭にあたり山縣有朋等23柱を追祀。2016年前原一誠ら6柱を合祀。[4]

参考文献
櫻山神社 公式サイト
“東流西流”. 山口新聞. (2016年10月30日)
“御由緒”. 櫻山神社. (2018年5月9日)
“下関の桜山神社「前原一誠」合祀”. 山口新聞. (2016年8月12日)

関連項目
招魂社

外部リンク
櫻山神社 公式サイト
(wikiより)

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乃木坂駅を出てすぐの外苑東通りと乃木坂に面した公園です。日清・日露戦争を戦った陸軍大将乃木希典(1849~1912)の邸宅地でしたが、乃木将軍の遺言により、公園として東京市に寄贈され、大正2年に開設されました。現在は港区により管理されています。
旧乃木邸・馬小屋が保存されているエリアの南側には、ベンチの置かれた休憩スペースが2カ所あります。2カ所の休憩スペースは階段でつながり、階段下ではサクラの大木が枝を広げ、夏には空間を覆うように葉を茂らせて、涼しい木陰をつくっています。サクラの花が見ごろの時期は、階段上からの鑑賞もおすすめです。

園内の随所にステンレスパイプのモニュメントが配置され、植栽や旧乃木邸の趣と調和して、美術館の屋外展示のようなアート空間となっています。

〇 旧乃木邸・馬小屋について
旧乃木邸は、日清・日露戦争の両戦役に従事し、明治天皇崩御の後に殉死された陸軍大将乃木希典の邸宅です。現存する家屋は、乃木大将がドイツ留学中に見たフランス連隊本部を参考にして、自らの設計により明治 35 年 ( 1902 ) に新築されたものです。明治期の将官の邸宅は接客を目的とする豪華な建物が多かったのに比べ、旧乃木邸の外観は黒塗りの板張りで飾り気がなく、内部も極めて簡素かつ合理的に造られており、明治期の和洋折衷建築としても貴重なものとなっています。

馬小屋は母屋が改築される以前の、明治 22 年 ( 1889 ) に建てられました。

煉瓦造り、日本瓦葺きの平屋建てで、母屋より立派であったことから、「新坂の馬屋敷」と称されて評判になったといいます。煉瓦は英国から取り寄せるほどのこだわりぶりで、馬を大切にした乃木大将の人柄が偲ばれます。
(AKASAKAPARKSホームページより)

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〇 佐錬可宜 ( されかうべ ) の塚

明治十四年五月京橋の東なる新富町と入舟町との境に官より一帯の溝渠を新に開墾せられしを土中より十四の髑髏を掘出しけり事等其路傍に委するを
見るに忍びず慰めんと請て此地に埋む囲て其事を石に記して申上げる
( 不詳 )

応需素嶽記 ( ★ 1 ) 廣群鶴鐫 ( ★ 2 )

京橋銀坐壹町目

明治十六年八月十日建 ( ★ 3 ) 小倉 總兵衛
               小倉 邑太郎
               永井 勝輔

「明治 14年 ( 1881 ) 5月、京橋区 ( 現中央区 ) の新富町と入舟町の境で行われた水路の掘削工事の際に、地中から 14体分の頭蓋骨 ( しゃれこうべ ) が発見された。

道端に骨を放置したままにはしておけず、東京府管轄の公共墓地である谷中墓地に埋葬し塚が建てられた。」

★ 1 素嶽
永井 素嶽 ( ながい そがく ) 嘉永 5年 ( 1852 ) ~ 大正 4年 ( 1915 ) 

書家、劇評家 

銀座の料理屋の長男に生まれた。

松花堂・勘亭流の能書家

★ 2 廣群鶴
廣群鶴 ( こうぐんかく ) 

江戸一番の名石工、御碑銘彫刻師「谷中の廣群鶴」として知られる。

★ 3碑に刻まれた三人は京橋の大地主
『東京地主細覧.2』杉本尚正著 ( 明治 6年 )、『区分町鑑東京地主案内』山本忠兵衛編 ( 明治 11年 ) に名前が見られる。
(案内板より)

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 本田美奈子さんが病床で書いた詩だそうです。

「笑顔」

子供も、大人も、おじいちゃんも、おばあちゃんも、みんな、みんな 笑っている顔が素敵。

怒っている顔よりも、泣いている顔よりも、困っている顔よりも 笑顔が一番!!

きっと笑顔が幸せを呼ぶと、頭では分かっていても、心では、なかなか分からない人が、多いんじゃないのかナ!?

心が開いて、心の目で、周りを見渡してごらん、きっと、小さな幸せの芽が、見つかるよ。

そして、そこから少しずつ、笑顔が生まれてくる。笑顔が生まれ始めたら、喜びに変わるのも、もうすぐ。

でも人は生きていて、辛い時、悲しい時、涙が止まらず心が開けない時、勿論、沢山あると思う。

そんな時は、あせらないでね。自分だけが不幸ではない。

もっと、心が暗闇に閉じこめられている人達も、沢山いることを、少しだけ思い出してみて。

自分の力で、心を開く人もいれば、誰かの愛で、心を開いてもらう人もいる。

気が付かないうちに心が開いている人もいれば、歌や音楽で、心が開く人もいる。
それは、人それぞれだと思うの。

人は心が閉じたり、開いたり、いろいろな経験、そして、沢山心で感じることによって豊かな心を持ち、豊かな笑顔を育てて行けるのではないのかナ!?と私は思います。

自分自身、豊かな笑顔が増えたら、きっと周りにいる人達にも、幸せ届ける事が出来るでしょう。

笑顔がいちばん!!


「歌声よ響け、朝霞の空に」

本田美奈子.(本名・工藤美奈子)は昭和42年7月31日東京都葛飾区に生まれ、3歳の時からこの朝霞市で暮らしはじめた。

昭和60年に「殺意のバカンス」で歌手デビュー。
「1986年のマリリン」などのヒット曲を連発し、数々の音楽賞を受賞して時代のアイドルとなる。その後、平成4年にはミュージカル「ミス・サイゴン」の主役、キム役に抜擢される。
ミュージカル女優として活躍しながら、クラシックの領域でもソプラノボイスを活かし「アメイジング・グレース」など独自の歌の世界を切り拓いていった。日本の音楽界だけでなく世界のミュージックシーンの中でも、歌手本田美奈子.の多彩なキャリアは類を見ない。

平成17年11月6日、本田美奈子.は急性骨髄性白血病を患い38歳という若さでこの世を去るまで、朝霞を「私の一番大切な場所」と語り、いつも家族と暮らす朝霞の家から仕事先のステージへ向かっていた。また朝霞税務署や警察署の一日署長を務めるほか、朝霞地区交通安全大会にも参加するなど地域でも活動し、地元の人々とのふれ合いにも熱心だった。

平成14年には、念願であったふるさと朝霞でのコンサートをゆめぱれす(朝霞市民会館)にて開催。華麗なステージの上で生きるという人生を歩みながらも、彼女は自然に恵まれた朝霞での生活を大切にしていた。自分の部屋の窓から見える大きな欅を愛し、四季の移り変わりをその欅を通じて感じていた。欅は朝霞の市の木でもある。
急性骨髄性白血病という難病と闘う中で、本田美奈子.はさまざまな人たちから励まされ、いまを生きることの大切さを感じるようになった。難病で苦しむ人たちを勇気づけ、すべての人たちに命の尊さを伝えてゆく「LIVE FOR LIFE」(生きるために生きる)の活動は、そんな本田美奈子.の生前の願いから生まれた。

このモニュメントに刻まれた「笑顔」の詩もまた、病床にあった本田美奈子.が自身の想いを書き綴っていたノートから抜粋されたものである。
本田美奈子.は平成18年7月から1年間、骨髄バンクドナー登録推進キャンペーンのシンボルキャラクターに起用されドナー登録者が飛躍的に増えるなど、彼女の思いは多くの人たちに受け継がれ、その歌声はいまも愛され続けている。

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パシフィックホテル茅ヶ崎
ホテル概要
正式名称パシフィックパーク茅ヶ崎
階数地上1階 - 11階
レストラン数4軒
部屋数44室
駐車場3,000台
開業1965年
閉業1988年
最寄駅茅ケ崎駅
所在地〒253
神奈川県茅ヶ崎市東海岸南6-4-60

パシフィックパーク茅ヶ崎(パシフィックパークちがさき)は、1960年代後半から1980年代後半にかけて神奈川県茅ヶ崎市にあったリゾート施設。中核施設であるホテルの正式名称はパシフィックホテル茅ヶ崎で、通称「パシフィックホテル」。

概要
1965年竣工。設計は菊竹清訓。垂直コアを客室が螺旋状に取り巻く設計で、メタボリズムの論理を直截に表現した建築であった。

俳優上原謙と子息の加山雄三らが共同オーナーで、開業当初は著名人が多数訪れたことで有名となった。湘南の住民からは「パーク」という愛称で呼ばれ親しまれていた。

実際の経営は、共同オーナーのひとりである岩倉具憲[注 1] が手掛けていた。湘南海岸沿いにそびえ建つ斬新なデザインの建物で、ホテルだけではなく、ドライブイン、ボウリング場、ビリヤード場、プールなどの娯楽施設を併設し、当時としては最先端の高級リゾートを形成していた。

しかし1970年、上原・加山・岩倉らが役員を務めホテルを所有・運営していた企業「株式会社パシフィックジャパン[注 2]」が倒産。23億円もの負債の返済に当てる為、ホテルは約18億円で売却された[注 3] 

その後ホテルは休業・再開を繰り返していたが、営業不振で1988年に完全廃業。所有権は点々と渡り、最終的にホテル自体は横井英樹に買収され、営業再開を目指したが、バブル経済崩壊後の不況で断念され、1998年秋まで廃墟として存在していたが取り壊された。

1999年、跡地には高級マンション「パシフィックガーデン」が建設され現在に至る。

館内・フロア
本館
11階
スカイバー マーブル
10階
スカイレストラン サファイヤ
9階-5階
客室
3階
中国料理 一閣、宴会場(日の出の間)
2階
フロント、宴会場(ピンクシェル、富士の間、高砂の間)
1階
和風レストラン 古都、ティールーム&レストラン フローレンス、ブティック puti

別館
2階
ボウリング場(26レーン)
1階
駐車場、レンタル ウィンドサーフィン、ジェットスキー

楽曲
ブレッド&バターサザンオールスターズの楽曲にはこのホテルのことを歌った「HOTEL PACIFIC」という曲がある。
・ブレッド&バターの「HOTEL PACIFIC ホテルパシフィック」は1981年発売。作詞は呉田軽穂、作曲は岩沢二弓。バンドのメンバーのひとりである岩沢幸矢は、若き日にホテルマンを目指し同ホテルでアルバイトをしていた事もある[1]
・サザンオールスターズの「HOTEL PACIFIC」は、2000年7月25日に発売。同年夏に茅ヶ崎公園野球場で開催されたサザンオールスターズ茅ヶ崎ライブの記念曲として制作・発売された。作詞・作曲は、少年時代ホテル全盛期を眺めて過ごし、後に同ホテルでアルバイトもしたことがある、同バンドのボーカルの桑田佳祐

なお、かつて経営者でもあった加山雄三によって上記の二曲ともカヴァーされ、2012年1月11日にドリーミュージックよりリリースされた「若大将・湘南FOREVER」(MUCD-1256~7)に収録されている。

また、2008年公開の、1960年代後半の日本を舞台とした映画『GSワンダーランド』の主題歌で、同年シングルとしてもリリースされた「海岸線のホテル」の歌詞にも“茅ヶ崎パシフィック・ホテル”が登場する。作詞は橋本淳、作曲は筒美京平。歌と演奏は、劇中登場する架空のグループ・サウンズであるザ・タイツメン(栗山千明石田卓也水嶋ヒロ浅利陽介)。

桑田佳祐が作詞・作曲を手掛け、サザンオールスターズ研ナオコが歌唱した「夏をあきらめて」の2番の歌詞にもこのホテルが登場する。

杉山清貴&オメガトライブの楽曲「ROUTE 134」[注 4] に、「パシフィック茅ヶ崎」として登場する。このホテルは国道134号線沿いにあった。

映像作品
1966年9月に公開された映画『歌う若大将』で、冒頭ドキュメンタリー場面において、ホテルのプールサイドが登場する。
・同年11月に公開された映画『なつかしい風来坊』では、有島一郎ハナ肇が浜辺で釣りをするシーンで、その背後にホテルの全景が小さく映り込んでいる(有島演じる人物が、茅ヶ崎在住という設定)。
1968年に公開された映画『ガメラ対宇宙怪獣バイラス』は、茅ヶ崎が舞台となっており、ホテルもロケ地として使用されたり、舞台背景として特撮ミニチュアも登場したりしている。
仮面ライダーXの第1話において戦闘シーンの背景にホテルの全景が写り込んでいる他、廃業後の建物も特救指令ソルブレイン仮面ライダーZO五星戦隊ダイレンジャーなど、特撮ヒーロー作品のロケ地として使用された。
小泉今日子の「渚のはいから人魚」、松本伊代の「太陽がいっぱい」のミュージック・ビデオのロケ地として使用[2]、プール施設があり海にも近いことなどからアイドルの歌番組などの中継としても度々使用されていた。
2007年8月26日12月9日テレビ神奈川で放送され、また、2008年5月に映画化された、ブレッド&バターや岩倉瑞江らの青春時代をモデルにしたドラマ「サンシャインデイズ」に、ヒロインの一族が経営するホテルとしてパシフィックホテルの名前が登場している。
2019年元日に発売した桑田佳祐 & The Pin Boysの作品「レッツゴーボウリング」のミュージック・ビデオに登場し、桑田がパシフィックホテルのボウリング場でボウリングをするという設定になっている[3]

脚注
注釈
1. 
上原謙の最初の夫人:小桜葉子の弟にあたる。彼の娘は湘南テイストの婦人服ブランド「スポーティフ」の経営者 : 岩倉瑞江である。
2. 
同ホテルの他に、岩原スキーロッジも所有・運営していた。
3. 
残りは加山雄三の芸能活動で、10年がかりで返済された。
4. 
1985年発売アルバム「ANOTHER SUMMER」収録。

出典
1. 
ブレッド&バター公式サイト より。
2. 
ビクター音楽産業(1983年春号)新譜情報 発行:ビクター音楽産業株式会社「アイドルの夏先取り情報!」12頁。
3. 
プロボウラーも多数登場、桑田佳祐 & The Pin Boys「レッツゴーボウリング」MV公開 BARKS 2018年12月26日配信、閲覧

関連項目
上原謙
桑田佳祐
ブレッド&バター
(wikiより)

30 パシフィックホテル茅ヶ崎

⇧ パシフィックホテル茅ケ崎

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⇧ パシフィックパーク茅ケ崎




施設データ
所在地神奈川県茅ヶ崎市中海岸3-3-11
座標北緯35度19分11.5秒 東経139度24分18.4秒
所有者茅ヶ崎市
グラウンド外野 - 天然芝
内野 - 土
収容人員
2,756人(内野椅子席)
グラウンドデータ
球場規模両翼 - 92m
中堅 - 120m

茅ヶ崎公園野球場(ちがさきこうえんやきゅうじょう)は、神奈川県茅ヶ崎市中海岸の茅ヶ崎公園内にある軟式専用の野球場

解説
プロ野球中日ドラゴンズ1951年、当時本拠地だった中日スタヂアム(現:ナゴヤ球場中日ドラゴンズ二軍本拠地)が火災で使用出来なくなった為に、その年の10月1日に当球場(当時の名称は茅ヶ崎市営球場)で主催公式戦(対松竹ロビンス第20回戦)を開催した記録がある[1]

また、ファームイースタン・リーグでは、読売ジャイアンツ横浜大洋ホエールズが主催公式戦を開催したこともある。

平成に入ってからの改装により現在は軟式野球の専用球場になった為、硬式球を使用する高校野球やプロ野球の公式戦開催が出来なくなった。

茅ヶ崎市出身のプロ野球選手である山本昌(中日ドラゴンズ)が通算200勝を達成して茅ヶ崎市民栄誉賞を受賞したことを記念し、2009年より茅ヶ崎市などの主催で『山本昌広杯少年野球大会』がこの茅ヶ崎公園野球場にて夏休みの時期に開催されている[2]

また、2000年8月19日翌20日に開催されたサザンオールスターズの『茅ヶ崎ライブ』の会場になったことで全国に知られている。

2013年8月31日9月1日に、サザンオールスターズは13年ぶりのライブ、『SUPER SUMMER LIVE 2013「灼熱のマンピー!! G★スポット解禁!!」』を行った。

施設概要
・面積:12,751m2
・内外野:内野クレー、外野芝生
・両翼:92m、中堅:120m
・スコアボード:磁気反転式スコアボード
・収容人員:2,756人(内野:座席、外野:芝生席)

プロ野球公式戦開催実績
・1951年10月1日 名古屋ドラゴンズ4-2松竹ロビンス
1957年4月10日 大洋ホエールズ2-3読売ジャイアンツ

イベント開催実績
・プロ野球イースタン・リーグ公式戦
サザンオールスターズ 茅ヶ崎ライブ2000年8月19日20日
SUPER SUMMER LIVE 2013「灼熱のマンピー!! G★スポット解禁!!」2013年8月31日9月1日
サザンオールスターズ 茅ヶ崎ライブ2023(2023年9月27日 - 28日30日 - 10月1日[3]

交通機関
JR東海道線上野東京ライン湘南新宿ライン茅ケ崎駅より徒歩20分。
神奈川中央交通 茅ヶ崎公園野球場バス停より徒歩3分。

脚注
1951年(昭和26年)10月1日(月)セリーグ公式戦 対松竹20回戦 年度別リザルト
熱戦の火蓋を切る 山本昌広杯が開幕 タウンニュース茅ヶ崎版 2013年8月30日
"サザンオールスターズ45周年イヤー開幕! 三ヶ月連続、新曲配信リリース決定!! & 10年ぶり"故郷"での野外ライブ「茅ヶ崎ライブ2023」4DAYS開催決定!!" (HTML) (Press release). サザンオールスターズオフィシャルサイト. 25 June 2023. 2023年6月25日閲覧

関連項目
日本の野球場一覧  

外部リンク
茅ヶ崎公園野球場   
(wikiより)

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ラチエン通り(ラチエンどおり)は、神奈川県茅ヶ崎市にある市道愛称である。

概要
国道1号TOTO研究所の脇)から、国道134号の元パシフィックパーク茅ヶ崎(現・パシフィックガーデン)まで伸びる市道[1]。茅ヶ崎市の「みちの愛称事業」により、2001年2月に「ラチエン通り」が正式な愛称となった[2][3]

通りの名は、ドイツの貿易商のルドルフ・ラチエンが、1932年昭和7年)に建てた別荘沿いの道であったことに因む[3][4]。ラチエンがこの道筋に並木を作ったことから、当時は桜道とも呼ばれた[5][注 1]

1663年寛文3年)、茅ヶ崎村と小和田村(後の松林村大字小和田)の間に漁業水域争いが起き、翌年、菱沼の手白塚から烏帽子岩を見通した線を村境とし、それぞれの漁場の境ともしたことから、村の境界、つまり郷境とも呼ばれた[1][6]

この通りを海岸に向かって行くと、烏帽子岩が正面に見える。周囲の砂防林のために錯覚で大きく見えるので撮影スポットとして有名である[6][7]

この通りと交差する東海道本線踏切は「異人館踏切」という名称であるが、これはイギリス人ボールデンの邸宅に因むもので、ラチエン邸とは関係ない[8]

通りに因む楽曲
茅ヶ崎市出身の桑田佳祐が率いるサザンオールスターズ1979年発売のアルバム『10ナンバーズ・からっと』に収録された楽曲「ラチエン通りのシスター」は、ラチエン通りの近くに住む桑田の中学時代の初恋の相手のことを歌った曲とされる[3][1]

脚注
注釈
1. 
その後、ラチエン通りの桜の木はなくなり、ラチエン通りと東西に交差する通りが桜道と呼ばれるようになった[6]

出典
1. 
a b c ラチエン通り商店会”. 茅ヶ崎市商店会連合会. 2020年4月27日閲覧。
2. 
みちの愛称事業”. 茅ヶ崎市. 2020年4月27日閲覧。
3. 
a b c “潮風スケッチ~サザンに誘われて 1 ラチエン通り”読売新聞. (n.a.). オリジナルの2004年9月1日時点におけるアーカイブ。
4. 
(16)ラチエン通り商店会”. 茅ヶ崎市 (2018年4月10日). 2020年4月27日閲覧。
5. 
茅ヶ崎の煌き ルドルフ・ラチエン”. 茅ヶ崎観光情報サイト「ちがさきナビ」. 茅ヶ崎市観光協会. 2020年4月27日閲覧。
6. 
a b c ラチエン通りから海岸へ”. ちがさき丸ごとふるさと発見博物館. 茅ヶ崎市. 2020年4月27日閲覧。
7. 
えぼし岩”. 茅ヶ崎市. 2020年4月27日閲覧。
8. 
第31回 道編 「ラチエン通り」”. 茅ヶ崎の轍(わだち). タウンニュース (2014年11月28日). 2020年4月27日閲覧。

外部リンク
ラチエン通り商店会    
(wikiより)

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この石灯籠は、淳信院殿徳川第九代将軍家重菩提の為め宝暦十一年 ( 1761 ) 辛巳六月十二日従五位下堀長門守藤原直寛の奉献したものである。
(石柱説明版より)

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この石灯籠は、淳信院殿徳川第九代将軍家重菩提の為め、宝暦十一年 ( 1761 ) 辛巳六月十二日 播磨国 ( 兵庫県 ) 安志城主小笠原信濃守源長逵の奉献したものである。
(石柱案内板より)

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この石灯籠は、台徳院殿徳川第二代将軍秀忠菩提の為め、慶安四年 ( 1651 ) 辛卯七月、筑後久留米城主二十一万石従四位下有馬中務少補源朝臣忠頼の奉献したものである。
(石柱案内板より)


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海前寺は湘南の茅ケ崎にある曹洞宗のお寺です。茅ケ崎村領主で旗本の丸毛氏の菩提寺です。

昔はお寺の前が海だったそうです。

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愛称りっくんランド
専門分野陸上自衛隊の防衛装備品展示などを通じた広報
事業主体防衛省
管理運営陸上自衛隊
延床面積2,400m2
開館2002年(平成14年)4月5日
所在地351-0012
埼玉県朝霞市栄町四丁目6番地先
(正式住所・〒178-8501東京都練馬区大泉学園町[1]
位置北緯35度47分5.7秒 東経139度35分58.9秒
外部リンク陸上自衛隊広報センター

陸上自衛隊広報センター(りくじょうじえいたいこうほうセンター、英語Japan Ground Self-Defense Force Public Information Center)は、東京都埼玉県にまたがる陸上自衛隊朝霞駐屯地の構内にある陸上自衛隊の博物館・広報施設である。マスコットキャラクターの「りっくん」から名前をとった「りっくんランド」という愛称でも呼ばれている。

概要
「見て、触れて、体感して」をコンセプトに、来館者に陸上自衛隊の広範なイメージを常続的かつ体系的に情報発信し、理解を得ることを目的として設立された[2]。自衛隊の大規模広報施設としては長崎県佐世保市海上自衛隊佐世保史料館静岡県浜松市航空自衛隊浜松広報館に次ぐ3番目の施設として、2002年4月に開館した。入館無料だが、イベント開催日の入館は事前の申込みが必要な場合がある。

10式戦車89式小銃をはじめ、地下指揮所を再現するなど陸上自衛隊の主な装備類の多くが展示されている。服装や装備品の体験コーナーや射撃シミュレーターなども置かれ疑似体験ができる。オープンシアターや3Dシアターでは通常の訓練風景や国際連合平和維持活動災害派遣および自衛隊音楽まつり等の映像を上映している。

国道254号川越街道)に面した朝霞駐屯地の朝霞門から入ってすぐ右手にある。館内の売店では、自衛隊に関係した菓子やグッズ等の土産品を購入できる。

2020年春に一時閉館してリニューアル工事を行い、最新鋭の16式機動戦闘車を展示するなど展示品の更新・移動が行われたが、工事完了後も新型コロナウイルス感染症の感染防止のために同年6月26日まで閉館していた。

民主党政権による有料化実験
民主党政権下の2009年には、行政刷新会議による事業仕分けにおいて、当時行政刷新担当大臣であった蓮舫が入場料の有料化を提案[3][4]した。これが話題となり、それまで1週間で2600人ほどだった来館者数が約1.8倍の4700人にまで増加し、1日の来館者数が2000人を超える日も出るなど、注目を集めた[5][6]。この影響もあり2010年7月23日には通算来館者数100万人を達成した[7]

有料化実験を実施する防衛省令は2010年11月1日から施行された[8]。しかし有料化に伴い入場者数が激減したなどの理由から同実験は2011年2月1日付をもって終了し[9]、その後は再び入館無料が続いている。

施設および展示品
展示車両等は、用途廃止車両として全国の駐屯地等に保管展示されていたものや試験期間の終わった試作車等である。試作車は部隊配備されている量産車とは細部が異なっている。

2022年1月現在、新型コロナウイルス感染症の感染防止のために、一部の施設・展示品は展示や体験を停止している。

屋内展示
〔1階〕
16式機動戦闘車 (試作車)
偵察用オートバイカワサキKLX250
AH-1S対戦車ヘリコプター(自衛隊が同機種の配備を始めるにあたって米国から購入した2機のうちの1機)
89式5.56mm小銃
5.56mm機関銃MINIMI
74式車載7.62mm機関銃
91式携帯地対空誘導弾
・米軍1トン爆弾(不発弾処理済み)
フライトシミュレータ(AH-1Sの飛行疑似体験。操縦体験はできず、稼働する座席に座って撮影した映像を見る形式。定員2名)
・3Dシアター (陸上自衛隊の活動を紹介する映像を放映)
・服装体験コーナー(迷彩服が試着可)
・装備体験コーナー(防弾チョッキ2型や背嚢、空挺傘を装着体験可)
・射撃シミュレータ(90式戦車とAH-1Sを選択可)
・オープンシアター
・イベントホール
〔2階〕
・陸上自衛隊の組織や役割及び歴史の展示
・研修室と会議室

屋外展示
10式戦車(試作1号車)
90式戦車(試作車)[10]
74式戦車
89式装甲戦闘車(試作車)
96式装輪装甲車(試作車)[11]
74式自走105mmりゅう弾砲
75式自走155mmりゅう弾砲
87式自走高射機関砲(試作車)
94式水際地雷敷設装置
中距離多目的誘導弾(試作品)[12]
UH-1H(多用途ヘリコプター)
遠隔操縦観測システム(無人ヘリコプターのみ)
・地下指揮所
軽装甲機動車(試作車)[13](他の屋外展示とは異なり駐車場前のスペースにゲートガードとして展示)

振武臺記念館
現在の朝霞駐屯地に1941年から終戦まで存在した旧陸軍予科士官学校(通称「振武臺(振武台)」)の史料を展示する記念館。

駐屯地構内で広報センターに隣接しており、広報センター経由で時間帯限定で見学が可能。

詳細
 09:30〜11:45、13:15〜16:45(入替制)

休館日
 月曜日・火曜日(祝日の場合は次の平日)
 年末年始
 臨時休館日・イベント開催日等は公式ウェブサイトを参照

駐車場
・普通車40台(無料)
・バス5台(無料)
・臨時駐車場あり
・バイク・原付・自転車用駐輪スペースあり(無料)

交通
国道254号(川越街道) 朝霞自衛隊交差点
  ・最寄りのインターチェンジは、東京外環自動車道和光ICである。
東武東上線 東京メトロ有楽町線副都心線 和光市駅 南口徒歩約25分
東武東上線 朝霞駅
  ・南口2番乗り場
   ・西武バス 大泉学園駅行き 南大通り(朝霞警察署)バス停 徒歩12分
   ・西武バス 第4中学校経由 新座栄・新座営業所行き 栄町5丁目バス停 徒歩10分
  ・南口4番乗り場
   ・朝霞市内循環バスわくわく号 膝折溝沼線 わくわくどーむ行き 栄町5丁目バス停 徒歩10分
西武池袋線大泉学園駅 北口1番乗り場 朝霞駅南口行き 南大通り(朝霞警察署)バス停 徒歩12分
和光市駅南口から東武バスウエストが「自衛隊朝霞門」行きのバスを運行しているが、朝夕のみで広報センター開館時間帯には運行されていない。)

脚注
1. 
広報センターが所在する朝霞門は埼玉県朝霞市栄町四丁目に面しているが、朝霞駐屯地は1区3市に跨っており、正式な住所は駐屯地司令部のある東京都練馬区大泉学園町になる。
2. 
陸上自衛隊広報センター”. 陸上自衛隊広報センター. 2021年12月28日閲覧。
3. 
“「事業仕分け」後半戦開始 53事業のうち19事業、約151億7,000万円を「廃止」と判断”. FNNニュース (フジニュースネットワーク). (2009年11月26日) 2014年3月20日閲覧。
4. 
“行政刷新会議ワーキングチーム「事業仕分け」第3ワーキンググループ”. 内閣府行政刷新会議事務局. (2009年11月24日) 2014年3月20日閲覧。
5. 
仕分けで注目「りっくんランド」人気急上昇 陸自広報センター - MSN産経ニュース・2009年12月2日
6. 
東京中日スポーツ・2009年12月31日付 15面
7. 
陸自センター、100万人達成 仕分け効果で入場者急増 - 47NEWS(よんななニュース)2010年7月23日、共同通信。archive.todayによるアーカイブ
8. 
防衛省・自衛隊:自衛隊の大規模広報施設に係る入場料の徴収に関する実験の実施について2010年10月22日、防衛省
9. 
“「蓮舫は的外れ!」防衛省“造反”で事業仕分け骨抜き”. ZAKZAK (夕刊フジ). (2011年2月1日). オリジナルの2011年2月4日時点におけるアーカイブ。 2014年3月20日閲覧。
10. 
日本原駐屯地にゲートガードとして展示されていたものをレストアして移管したもの。2020年春のリニューアル工事までは屋内展示だった。
11. 
試作車だがイラク派遣仕様と同じ日の丸と国名の表記とワイヤーカッターが追加されている。
12. 
2011年春より展示。
13. 
試作車だがイラク派遣仕様に近い改修(同一ではない)が施されている。

関連項目
海上自衛隊呉史料館(てつのくじら館)
海上自衛隊佐世保史料館(セイルタワー)
航空自衛隊浜松広報館(エアーパーク)

外部リンク
陸上自衛隊広報センター    
(wikiより)


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航路標識番号
[国際標識番号]
2416 [M6332]
位置北緯35度17分59秒 東経139度28分42秒
所在地神奈川県藤沢市江の島二丁目3番地
江の島サムエル・コッキング苑
塗色・構造白色 やぐら形
レンズLB-M60型灯器
灯質単閃白光 毎10秒に1閃光
実効光度390,000 cd
光達距離23.0海里
塔高60 m (地上 - 塔頂)
灯火標高107 m (平均海面 - 灯火)
初点灯1951年3月25日
管轄江ノ島電鉄

江の島灯台(えのしまとうだい)は、神奈川県藤沢市江の島に立つ日本初の民間灯台。構造物としての江の島シーキャンドルについても本項で述べる。

沿革
旧灯台


CKT771-C46-1_Enoshima_Lighthouse

江の島灯台(初代)
国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成(1977年撮影)。

もともと二子玉川園内の遊戯施設として1940年昭和15年)に設置された「読売大落下傘塔」を戦後に解体し、それらを材料として建設されたものである[1]。よって、二子玉川園時代とは姿が違う。建設当初は「読売平和塔」と称した[2]
1951年昭和26年)3月25日:灯台設置。位置:北緯35度17分46.5秒東経139度28分56秒、灯質:閃白光・毎10秒に1閃、灯高:平均水面上97.5m、光達:25.5海里、燭光数:80万、明弧:全度、構造:白塗三角やぐら形、礎上高:37.5m、無看守[3][4]
1976年(昭和51年)12月18日:等級および灯質を、無等級、毎20秒に1閃の電灯へ一時変更[5]
1980年(昭和55年)11月5日:一時等級および灯質を変更中のところ、位置等を次のとおり補正する。所在地:北緯35度17分47秒東経139度28分55秒、光達距離:25.5海里、高さ:地上から構造物の頂部まで46m・平均水面上から灯火まで103m[6]
1982年(昭和57年)11月16日:次のとおり変更する。光度:6,400カンデラ 、光達距離19.5海里、高さ:地上から構造物の頂部まで46m・平均水面上から灯火まで98m[7]。等級および灯質を次のとおり一時変更する。無等・閃白光・毎10秒に1閃光・電灯[8]
1983年(昭和58年)1月26日:一時、光度等変更中のところ等級および灯質を変更のうえ復旧する。無等・閃白光・毎10秒に1閃光・電灯[9]
2002年(平成14年)4月1日:以下のとおり変更する。位置:北緯35度17分59秒 東経139度28分43秒、等級および灯質:削除、灯質:単閃白光・毎10秒に1閃光、光度:実効光度44万カンデラ、光達距離:23海里[10]

現灯台
・2002年(平成14年)
  5月:建設着工。
  12月31日:江ノ島電鉄開業100周年記念事業のフィナーレとして点灯式において初点灯。
2003年(平成15年)
  1月1日:新たな江の島灯台が初点灯し、以下のとおり変更する。位置:北緯35度17分59秒 東経139度28分42秒、塗色および構造:白色やぐら形、光度:実効光度39万カンデラ、高さ:地上から構造物の頂部まで60m・平均水面上から灯火まで107m[11]
  4月29日:江の島観光灯台として展望台が開業。
  10月28日:第48回神奈川建築コンクール一般建築部門奨励賞を受賞。

脚注
1. 元は落下傘訓練塔だったという今はなき「旧江の島展望灯台」がスリリングすぎたって本当?”. はまれぽ (2015年8月14日). 2020年4月19日閲覧。
2. 
写真でひもとく街のなりたち 行楽地となった二子玉川”. 三井住友トラスト不動産. 2020年3月1日閲覧。
3. 
同年4月7日、海上保安庁告示(航)第14号「航路標識の新設、改廃、その他船舶の航行に関して告示する件」
4. 
1952年(昭和27年)3月1日、海上保安庁告示(航)第9号「航路標識の新設、改廃、その他船舶の航行に関して告示する件」
5. 
1977年(昭和52年)1月17日、海上保安庁告示第9号「航路標識の性質その他の変更について告示する件」
6. 
同日、海上保安庁告示第166号「航路標識の名称その他の変更について告示する件」
7. 
同年12月7日、海上保安庁告示第235号「航路標識の性質その他の変更について告示する件」
8. 
1983年(昭和58年)1月12日、海上保安庁告示第3号「航路標識の性質の変更について告示する件」
9. 
同年2月9日、海上保安庁告示第39号「航路標識の性質その他の変更について告示する件」
10. 
同年6月20日、海上保安庁第179号「航路標識の位置その他の変更について告示する件」
11. 
同年1月20日、海上保安庁告示第20号「航路標識の位置その他の変更について告示する件」

関連項目
神奈川県の灯台一覧
江の島エスカー      

外部リンク  
江の島シーキャンドル      
(wikiより)

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分類観光施設(法令上の公園に非該当)
所在地
座標北緯35度17分59秒 東経139度28分42秒
前身江の島植物園
開園2003年4月29日
運営者藤沢市(指定管理者:江ノ島電鉄[1]
年来園者数514,795人(2008年度)
現況午前9時から午後8時まで開苑
駐車場なし
アクセス片瀬江ノ島駅から徒歩20分
告示平成15年藤沢市条例第36号
事務所江の島サムエル・コッキング苑
事務所所在地藤沢市江の島二丁目3番28号
公式サイト江の島シーキャンドル (展望灯台) 江の島サムエルコッキング苑(江ノ島電鉄)

江の島サムエル・コッキング苑(えのしまサムエル・コッキングえん)は、神奈川県藤沢市江の島二丁目にある、藤沢市立の有料観光施設。苑内に江ノ島電鉄の経営する江の島展望灯台などを含む。また日本で初めてフレンチトースト専門店『LON CAFE』がある。

沿革
1880年(明治13年) - 横浜在住のアイルランド貿易商のサムエル・コッキングが金亀山与願寺(現在は神仏分離され江島神社)の菜園敷地3800坪を買収する。
1882年(明治15年) - 植物園として開園。日本で3番目に古い植物園である。敷地面積は約18,000m2。ただし、温室の完成は1888年(明治21年)以降と推察される[注釈 1]
  この後、時代の変遷や1923年(大正12年)の関東地震により、荒廃する。
1947年(昭和22年)4月1日 - 江の島を含む鎌倉郡片瀬町、藤沢市に編入。藤沢市は江の島の観光地開発に乗り出す。
1948年(昭和23年) - 上記跡地を、藤沢市が買収。
1949年(昭和24年)12月 - 藤沢市海洋総合博物館建設計画の一環として「藤沢市立江ノ島熱帯植物園」を開設。
1950年(昭和25年) - 江ノ島熱帯植物園が江ノ島鎌倉観光(後の江ノ島電鉄)の委託経営となり、「江の島植物園」と改名。[疑問点]
1951年(昭和26年)3月25日 - 江ノ島鎌倉観光が東京都世田谷区二子玉川の読売遊園(後の二子玉川園)にあった落下傘塔を江の島植物園内に移築し、「読売平和塔」という展望台を兼ねた民間灯台(江の島灯台)を建設した。
  読売遊園の落下傘塔はロープのついた落下傘で降下する遊戯施設で、戦時中は陸軍が実際の落下傘降下の訓練に利用した。江の島の読売平和塔は材料を利用したもので、形態はかなり違う。
  同年、伊豆大島から連れてきた54匹のタイワンリスを江の島植物園で飼育。後に台風で飼育小屋が壊れて逃げ出し、江の島弁天橋を渡って鎌倉市内に入り込んで繁殖するようになったといわれる。
1959年(昭和34年) - インドネシアスラウェシ島トラジャ族の家屋を模した「南方民俗館」を開設。
  この頃から読売平和塔は江の島灯台と呼ばれるようになる。
1964年(昭和39年) - 江の島植物園、再び藤沢市の運営となる。
1971年(昭和46年) - 江の島植物園内のクックアロウカリア、シマナンヨウスギ、タイミンチク群、ツカミヒイラギの4種、藤沢市指定天然記念物に指定。
1994年(平成6年) - 江の島植物園(ツバキ)、かながわ花の名所100選に選定。
1999年(平成11年)11月7日 - 藤沢青年会議所、「いいじゃん江ノ島JYAN JYAN 祭り」を開催。
  このイベントは江の島灯台の解体撤去の噂が流れたため、保存アピールのため企画された。
2002年(平成14年) - 江の島植物園改修工事のため閉園。工事現場から縄文土器類1万点が出土。さらにサムエル・コッキングの建設した温室設備を発見。
  江ノ島電鉄は、同社開業100周年記念事業として新江の島展望灯台建設に着手。
  同年12月31日 - 江ノ島電鉄開業100周年記念事業のフィナーレとして点灯式において江の島展望灯台、初点灯。
2003年(平成15年)1月 - 旧江の島灯台に隣接して新たに建設された江ノ島電鉄所有の江の島展望灯台、オープン。その後、1951年に建てられた江の島灯台は解体された。
  同年4月29日 - 整備後、藤沢市の公園施設「江の島サムエル・コッキング苑」としてオープン。
  同年10月28日 - 江の島展望灯台、第48回神奈川建築コンクール一般建築部門奨励賞受賞。
2022年(令和4年)
  11月16日 - リニューアルオープン(テラス等を設置)[6]。江の島サムエル・コッキング苑については開苑~17時まで無料化(17時以降出場の場合は原則有料)[7]

主な施設
姉妹都市・友好都市記念広場
マイアミビーチ広場 - 東洋のマイアミビーチ片瀬海岸からヨットハーバーを見渡すウッドデッキの広場。日本初のフレンチトースト専門店「LON CAFE」が営業を行っている[8]。マイアミビーチ市の売り物であるアール・デコをイメージしたモニュメント内には同市から贈られた「友好の鍵」が納められている。
  マイアミビーチ市 - アメリカ合衆国フロリダ州マイアミ・デイド郡にある都市。ビーチリゾートとして有名な観光都市1959年3月5日姉妹都市提携。日米を代表するビーチリゾート都市同士。
・松本広場 - 休憩室を兼ねた海鼠壁の蔵風の蕎麦打ち体験施設「松本館」と松本市から贈られた双体道祖神を象った記念碑がある。
  松本市 - 長野県中部(中信地方)に位置する城下町施行時特例市国際会議観光都市に指定されている。1961年7月29日姉妹都市提携。海の観光都市と山の観光都市という関係。
・保寧(ポリョン)広場 - 韓国にちなんだ樹木の広場。夏から秋には韓国の国花ムクゲが、2月3月には保寧市の市花ツバキが咲く。2002年11月15日に保寧市から提携の記念として寄贈されたの2本の石塔が立つ。石塔に掘られた「萬世保寧」の文字は、保寧市の市民憲章「我々は、我々の故郷である萬世保寧を一番とする観光休養地に造成していく。」に由来する。
  保寧市 - 大韓民国忠清南道の都市。2002年11月15日姉妹都市提携。韓国有数の海水浴場がある。
・昆明広場(春澤園) - 昆明市から職人が来日して建てた本格的な中国伝統建築様式の四阿(あずまや)騁碧亭(ていへきてい)と昆明碑記、孔雀のブロンズ像「吉祥永駐」がある。
  昆明市 - 中華人民共和国雲南省の省都。1981年11月5日友好都市提携。昆明出身の青年作曲家聶耳1935年鵠沼海岸で遊泳中水死し、中華人民共和国成立時に彼の作品義勇軍進行曲が国歌に選ばれたことを記念して、藤沢市民有志が鵠沼海岸に記念碑を設立したことがきっかけ。
・ウィンザー広場 - 春秋のシーズンにはウィンザー市から贈られたバラ園が見事。
  ウィンザー市 - カナダ、オンタリオ州にある自動車工業都市。ローズランドと呼ばれるバラの産地としても知られる。1987年12月2日姉妹都市提携。双方の気候、文化、産業等が多くの共通性をもっていることなどから。
・コッキング遺構 - 。
  温室遺構 - 1949年の植物園工事で地下に埋め込まれたものが2002年のリニューアル工事の際再発見され、整備されて公開されるようになった。遺構は3棟の南北に長い温室の基礎と東南に長い温室基礎、西洋風のシンメトリーな形の池、温室の北側に設けられた付属施設であるボイラー室・燃料を入れた貯炭庫・植物や暖房のために水を蓄えた貯水槽・温室と付属施設とを結ぶ地下通路・冷たい風を遮るための防風壁や集水用陶管など。
  普段は閉鎖されているが、年に数回特別なイベントがあるときだけ公開され、内部を見学できる。
  熱帯植物 - コッキングのコレクションし、活着繁茂した熱帯植物に加え、市立熱帯植物園時代に植栽されたリュウゼツランなどが見られる。
  苑内には江の島植物園時代から280品種800本といわれるツバキのコレクションがあり、1994年に「かながわ花の名所100選」に選ばれている。
江の島展望灯台 - 旧平和塔の脇に2003年新たに建てられた江ノ島電鉄の経営する観光用民間灯台。完成後、旧平和塔は解体された。灯台は実効光度390,000カンデラ、単閃白色が毎10秒に1閃光で、23.0海里(46 km・民間灯台としては国内最大級)まで届く。建物の高さは59.8m(避雷針迄)、海面から120m。展望台にはエレベーター(入苑券と別売の昇塔券が必要。セット券もある)で昇れる。想定最大収容人数は188名である。遮られることのない360度の展望が楽しめる。気象条件が良ければ筑波山が見えるはずだが、その方向に横浜・東京が重なるので、極めて難しい。
・ライトアップ - 平日の営業は17時までだが、土休日は20時まで開かれ、折に触れて発光ダイオード(LED)によるライトアップが行われる。
・湘南の宝石- 1999年11月に開催された旧江の島展望灯台(現江の島シーキャンドル)ライトアップを前身に、2019年で20回目を迎えた光のフェスティバル[9]
・江の島展望灯台サンセットテラス - 「カフェ・ドゥ・ガボ」が営業する。時折ライブなどのイベント会場となる。
・グッズショップ「デルフィス」 - 小物類や江ノ電グッズを販売。
・藤沢市郷土資料館 - 展望灯台の根元にあり、旧灯台の資料や江の島の古写真などが展示されている。

主なイベント
・1月1日 - 江の島展望灯台から見る初日の出(予約制)
・2月中旬 - バレンタインアイランド江の島
・3月 - 湘南江の島春まつり
・4月6日 - ダイヤモンド富士(江の島展望灯台閉業時刻延長)
・5月 - 江の島フラワーフェスタ
・5月 - Freedom Sunset(サンセットテラスでのライブ)
・5月 - MADE in 江の島(さまざまなジャンルのアーティストによるアート展)
・5月 - ALOHA Sunset(サンセットテラスでのライブ)
・8月 - 江の島花火LIVE(サンセットテラスでのライブ)
・8月 - 江の島ゆかた祭り
・8月 - ENOSHIMA ISLAND JAM(サンセットテラスでのライブ)
・9月6日 - ダイヤモンド富士(江の島展望灯台閉業時刻延長)
・9月 - 子供達の描く絵を光と映像のアーティスト集団OVERHEADSの巨大コラージュ
・10月 - 湘南江の島秋まつり
・11月 - 湘南キャンドル
・11月下旬 - 湘南の宝石(関東三大イルミネーションのひとつ)
・12月 - 江の島ファンタジー

市指定天然記念物
すべて藤沢市が1971年(昭和46年)7月5日に指定。
・ツカミヒイラギ
・クックアロウカリア
シマナンヨウスギ
・タイミンチク群

脚注
注釈
1. 
出土した温室遺構の基礎部分に使用された煉瓦に1888年(明治21年)創業
[2][3][4][5] の横浜煉化製造会社の刻印が多数見られる。

出典1. 藤沢市指定管理者制度について     
2. 川崎市川崎区:年表”. 川崎市 (2007年3月13日). 2020年4月9日閲覧。
3. 
石田勝俊「100年前の煉瓦がでてきた 御幸煉瓦製造所」『かわさき産業ミュージアム講座記念論文集(平成23年3月発行)』” (PDF). 川崎市. 2020年4月9日閲覧。
4. 
横浜煉瓦会社の発起人をした「田中半兵衛」という人物について調べています。『日本紳士録 東京横濱之部』...”. 国立国会図書館. 2020年4月9日閲覧。
5. 
コッキング植物園温室遺構、温室遺構で使われたレンガ”. みゆネットふじさわ. 2020年4月9日閲覧。
6. 
江の島サムエル・コッキング苑新装 アート鑑賞やテラスも”. 神奈川新聞 (2022年11月16日). 2022年11月17日閲覧。
7. 
2022年11月16日からの江の島施設の料金・各種チケットについて”. 江の島サムエル・コッキング苑、江の島シーキャンドル(公式サイト). 2022年11月17日閲覧。
8. 
LONECAFE ENOSHIMA”. SHONAN LICENSE. 2020年4月9日閲覧。
9. 
湘南の宝石”. 湘南の宝石実行委員会. 2020年4月9日閲覧。

関連項目
江の島エスカー     

外部リンク
江の島サムエル・コッキング苑について at the Wayback Machine (archived 16/06/2018) - 藤沢市
コッキング植物園跡(みゆネットふじさわ)archive.is、2012年12月20日) - http://www.mus.city.fujisawa.kanagawa.jp/chrono_detail/N0043.htm
江の島を訪れた人びと、サムエル・コッキング(みゆネットふじさわ)           
藤沢市江の島サムエル・コッキング苑条例(平成15年藤沢市条例第36号)        
(wikiより)

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所在地日本の旗 日本 神奈川県藤沢市
所在海域太平洋 相模湾
座標北緯35度18分0秒 東経139度28分50秒座標北緯35度18分0秒 東経139度28分50秒
面積0.41 km²
海岸線長km
最高標高60.4 m
江の島の位置(神奈川県内)
江の島
江の島
江の島 (神奈川県)

江の島(えのしま)は、神奈川県藤沢市にある陸繋島であり、また同島全体を指した町名。片瀬地区(旧片瀬町地域)に属する。江の島一丁目および江の島二丁目があり全域で住居表示が実施されている[5]郵便番号は251-0036(藤沢郵便局管区)[3]

地理
湘南海岸から相模湾へと突き出ている。古くからの景勝地であり、神奈川県指定史跡・名勝日本百景の地である。交通機関の駅名などでは江ノ島と表記することも多いが、町名や公文書等では「江の島」と表記する。

古くは
江島神社(日本三大弁天の一つ)に代表されるように「江島」と表記されていたこともある。また、陸繋島部分のみならず、対岸の片瀬・鵠沼地区南部を含む一帯の地名として認識されることが多い。

地質・地形
周囲4km、標高60mほどの陸繋島である。三浦丘陵多摩丘陵と同様に第三紀層の凝灰砂岩の上に関東ローム層が乗る地質である。

古来は引き潮の時のみ洲鼻(すばな)という砂嘴(さし)が現れて対岸の湘南海岸と地続きとなって歩いて渡ることができた(タイダル・アイランド)が、関東地震で島全体が隆起して以降はほぼ地続きである。対岸の片瀬川河口付近の形状が時代とともに変遷し、満潮のときのみ冠水した時期、常時陸続きとなった時期とあり、砂嘴の位置も移動している(2009年(平成21年)5月現在、砂嘴の位置は江の島側で2000年代初頭よりもやや東に移動しており、満潮時には冠水する)。

島の周囲は切り立った海蝕崖に囲まれ、ことに波浪の力を強く受ける島の南部には下部には海食台(波食台)が発達する。1923年(大正12年)の関東地震の隆起で海面上に海食台が姿を現し、隆起海食台(岩棚)となった。ここは観光客の休憩や磯遊び、磯釣りの場を提供する。海蝕崖の下部には断層線などの弱線に沿って波浪による侵食が進み、海蝕洞が見られる場所があり、「岩屋」と呼ばれている。さらに侵食が著しくなると、海蝕洞が崩壊し、大きな谷状の地形となる。江の島の中央部には南北から侵食が進んで島を分断するような地形があり、「山二つ」と呼ばれている。これより東部を「東山」、西部を「西山」と呼ぶ。東山の北東部には北西 - 南東方向の平行する3本の断層と、それに直交する断層が想定され、地形・地質を複雑にしている。

気候・植生
島の上部は照葉樹林と呼ばれる常緑広葉樹林に覆われている。この森林は1988年(昭和63年)、かながわの美林50選に選定されている。主要樹種はスダジイタブノキクスノキヤブツバキヤツデアオキなど。林床にはツワブキなどの他、多種類のシダ類が見られる。

江の島には1979年(昭和54年) - 1991年(平成3年)の間、アメダスの観測点が置かれ、当時の記録によると藤沢市内陸部に比べて気温は約1℃ほど高く、これは周囲の海面温度の影響を受けるためである。海洋性気候と呼ばれる気温の較差が小さく、相対的に降水量の多い気候特性を持つ。卓越風の風向は南南西で、風の通り道になる「山二つ」では、植物の風衝扁形が著しい。海蝕崖が多い島の下部は植生が乏しい。潮風を常に受けるため、耐塩性・耐乾性の高いイソギク、ハチジョウススキ、ラセイタソウなど限られた種がみられる。東部埋め立て地の人工植栽にも、トベラシャリンバイなどの耐塩性の高い樹種が選ばれている。温暖な気候を利用して開かれたコッキングの植物園や、その跡地を利用した江の島植物園に植栽された熱帯・亜熱帯産の外来植物の中には、江の島の風土に根付き、成長・繁茂している例も多い。そのうち4種は藤沢市の天然記念物に指定されている。

イルカの群れが周辺に定着したこともあり、極めて稀にだがクジラが沖に見られることもある。

修行の島から参詣地へ
四囲を海蝕崖に囲まれた険阻な地形や海蝕洞「岩屋」の存在は、古来宗教的な修行の場として江の島を特色づけてきた。奈良時代には役小角が、平安時代には空海円仁が、鎌倉時代には良信(慈悲上人)、一遍が、江戸時代には木喰が参篭して修行に励んだと伝えられている。寿永元年(1182年)に源頼朝の祈願により文覚弁才天勧請し、頼朝が鳥居を奉納したことをきっかけに、代々の将軍や御家人が参拝したといわれる。鎌倉時代以後も、その時々の為政者から聖域として保護され、参詣されてきた。弁才天は水の神という性格を有し、歌舞音曲の守護神とされたため、歌舞伎役者や音楽家なども数多く参拝した。ことに音曲に関連する職業に多い視覚障害者の参拝も見られ、中でも関東総検校となる杉山和一の存在は特筆すべきである。参拝者のための宿坊も門前に軒を連ね、関東一円に出開帳を行うなどの活動も見られた。宿坊の中でも岩本院(江嶋寺=こうとうじとも呼ばれた)は有名で、現在の旅館「岩本楼」の前身にあたる。

近代博物学または、海洋生物学発祥の地
安政5年(1858年)の日米修好通商条約から1899年(明治32年)の日英通商航海条約発効までの間、横浜の外国人居留地に住む人々は、行動範囲を居留地から10以内に制限されていた。その制限範囲内にあり、風光明媚で宿泊施設が整っていた江の島には、明治初期以来多くの外国人が訪れるようになった。東京大学の初代動物学教授エドワード・S・モース1877年(明治10年)7月から8月まで、シャミセンガイ研究のために江の島に日本最初の臨海実験所を開いた。アイルランド人貿易商サムエル・コッキングは、東山頂上部にあった与願寺の菜園を買い取り、別荘と庭園の造営を開始した。多くの熱帯植物を収集栽培し、本格的なボイラーを持つ大型温室やオオオニバスの栽培池を持つという画期的な熱帯植物園が完成したのは1885年(明治18年)のことであった。ただし、温室の完成は1888年(明治21年)以降と推察される[6][注釈 1]。 このように、文明開化の時代に江の島が近代博物学発祥地の一つとなった。1985年(昭和60年)4月14日、北緑地に「日本近代動物学発祥の地記念碑」が建てられ、2002年(平成14年)の江の島植物園リニューアル工事の際にコッキングの温室跡が再発見され、新しくオープンした公園は「江の島サムエル・コッキング苑」と名付けられた。

景勝観光地へ
落語大山詣りに見られるように、江戸時代後期には江戸庶民の行楽地として大山 - 江の島 - 鎌倉 - 金沢八景を結ぶ観光ルートが流行した。立て前は寺社参拝だが、景勝地や古蹟を訪ね、名物料理を味わい、名産を土産とするという側面が強くなってくる。江の島の風光は多くの浮世絵に描かれ、歌舞伎の舞台となるなど、広く知られるようになる。明治維新廃仏毀釈により、与願寺は宗像三女神を祀る江島神社となり、宿坊は一般旅館へと転業した。1887年(明治20年)の鉄道開通、さらに1902年(明治35年)の江之島電氣鐵道の開通は江の島に多くの観光客を運ぶことになり、鎌倉まで全通すると、江の島、鎌倉を結ぶ観光ルートが確立し、修学旅行などで賑わうようになった。大正時代には新たな神社として児玉神社が祀られた。1923年大正12年)9月1日 - 大正関東地震により島全体が2メートル近く隆起し、海蝕台が海面上に現れる。東岸の津波被害は著しく、島内のほとんどの建物は倒壊した。江の島桟橋は津波で流失する。震災の復興が進む中、1929年(昭和4年)には小田急江ノ島線が開通し、観光地発展のきっかけを与えた。神奈川県は湘南海岸一帯の国際観光地開発を目論み、湘南遊歩道路(現・国道134号)の敷設をはじめ、インフラ整備が進められた。江の島では1934年(昭和9年)4月、海底透視船が営業開始するなど、新しい魅力が加わった。

戦後、1947年(昭和22年)4月1日、江の島を含む鎌倉郡片瀬町藤沢市に編入され、藤沢市と江ノ島鎌倉観光による江の島の観光地開発が本格化する。木造の江の島桟橋はコンクリート橋脚(橋桁は木製)の「江の島弁天橋」となり、「江の島植物園」「平和塔」の建設が続いた。1959年(昭和34年)3月5日、藤沢市は米国マイアミビーチ市と姉妹都市提携を結び、「東洋のマイアミビーチ」という触れ込みで江の島・片瀬・鵠沼地区の観光開発に力を入れる。この年、江ノ島鎌倉観光は日本初の野外エスカレータ「江の島エスカー」を建設した。

1964年(昭和39年)の第18回東京オリンピックヨット競技会場になった頃が観光客数のピークで、以後は漸減する。1971年(昭和46年)3月7日、岩屋で落石事故が起こり、立ち入り禁止となったことも江の島の魅力を失わせることとなった。そこで1986年(昭和61年)、「江の島地区整備計画検討会議」が発足し、観光地江の島の再生が図られた。神奈川県は1985年(昭和60年)に「湘南なぎさプラン」を策定、さらに1990年平成2年)、イベント「サーフ'90」を開催し、相模湾岸各自治体の連携と県の指導による相模湾岸地域の活性化が図られた。22年にわたり閉鎖した岩屋は、調査・整備の後、1993年(平成5年)に有料観光施設として再開された。その一環として藤沢市による江の島植物園のリニューアル工事が行われたのである。江の島サムエル・コッキング苑のオープン1年後に発表された年間入場者数は、旧江の島植物園時代の20万人弱から50万人を超えるまでになった。

2021年1964年東京オリンピックのレガシーを活かす形で、2020年東京オリンピック・パラリンピックセーリングの会場となったが、コロナ禍で無観客ということもあり、一般客には会場であることを知らない者も多く、人出も少なかった。

マリンスポーツの拠点
江の島周囲の隆起海蝕台は、磯釣り潜水(ダイビング)のポイントとして知られ、漁師の中には釣り客のために釣船を仕立てたり、舟宿を営む者もいた。1964年(昭和39年)の第18回東京オリンピック時にはヨット競技会場に選ばれた。この指定を受けて島の東部を大幅に埋め立て、ヨットハーバー・湘南港建設のために1962年(昭和37年)、神奈川県道305号江の島線自動車専用橋「江の島大橋」が開通し、「江の島弁天橋」の通行料が無料となった。この埋立により江の島の陸地面積は1.5倍ほどに拡大した。こうして完成した江の島ヨットハーバーは、1000隻以上のヨットを収容できる日本トップクラスのハーバーとして活用されている。東京オリンピックを皮切りに国際大会もしばしば開催され、1998年(平成10年)には第53回国民体育大会(かながわ・ゆめ国体)のヨット競技会場となった。プレジャーボートの管理や小型船舶操縦士の講習施設もあり、江の島漁港には釣船の発着場もある。

江の島の住民
江の島の人口は、江戸時代から明治、大正にかけて600から700人台に漸増した。昭和に入って急増し、1,000人を突破する。ピークは1955年(昭和30年)の1372人で、東京オリンピック以後は急減する。人口は、2014年3月時点で江の島一丁目が252人、江の島二丁目が110人、島全体で362人である[11]。年齢別人口構成は一丁目、二丁目で顕著な差はなく、0-14歳が8%、15-64歳が53%、65歳以上が39%程度である[12]。第一次産業人口として水産業従事者も若干居住する。伝統的な漁法としては、イセエビの「磯だて網」漁業を中心に、磯場での「テングサ潜り」、「見突き・ツキンボ」、サザエアワビの潜り漁業などの沿岸漁業で、漁獲物は古くから島内の宿坊、旅館、飲食店の食膳に上ったり、土産物として販売された。戦前から戦後しばらくは、相模湾から大島沖に5月から9月の間、回遊してくるカツオを追う一本釣りも行われていた。東岸の埋立が行われ、江の島漁港が整備されてから新しい漁法も加わった。江の島沖合の大型定置網漁業や、9月から3月にかけてワカメ養殖も行われている。また、12月から4月にかけてはシラスウナギ漁も盛んである。

詳しい事は、『江の島ウィキペディア』をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E3%81%AE%E5%B3%B6
(wikiより)

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