基本情報 | |
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建造所 | 浦賀船渠 |
運用者 | ![]() |
艦種 | 駆逐艦 |
級名 | 陽炎型 |
艦歴 | |
計画 | ③計画 |
起工 | 1938年6月30日[1] |
進水 | 1939年4月19日[1] |
竣工 | 1940年8月31日[1][注釈 1] |
最期 | 1942年11月24日、フォン湾にて沈没。 |
除籍 | 1942年12月24日 |
要目 | |
基準排水量 | 2,033 トン |
全長 | 118.5 m |
最大幅 | 10.8 m |
吃水 | 3.8 m |
主缶 | ロ号艦本式缶×3基 |
主機 | 艦本式衝動タービン×2基 |
出力 | 52,000 馬力 |
推進器 | スクリュープロペラ×2軸 |
速力 | 35.5 ノット |
航続距離 | 5,000 海里/18ノット |
乗員 | 239人 |
兵装 |
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早潮(はやしお / はやしほ)は[2]、日本海軍の駆逐艦[3]。陽炎型駆逐艦の5番艦である[4]。1942年(昭和17年)11月下旬、ラエ沖で空襲により大破、沈没した[5]。戦後、艦名は海上自衛隊のはやしお型潜水艦「はやしお」、はるしお型潜水艦「はやしお」に継承された。
概要
1940年(昭和15年)8月末に浦賀船渠で完成した陽炎型駆逐艦5番艦[4]。太平洋戦争開戦時、第二水雷戦隊麾下の第十五駆逐隊に所属して南方作戦にともなう比島作戦や蘭印作戦に従事[6]。1942年(昭和17年)6月上旬のミッドウェー作戦では第十一航空戦隊(千歳、神川丸)の護衛に従事した[6][7]。8月以降のガダルカナル島の戦いでは、第二次ソロモン海戦や南太平洋海戦等に並行して、鼠輸送(ガダルカナル島輸送作戦)に多数参加[6]。11月中旬の第三次ソロモン海戦では[8]、第二水雷戦隊(司令官田中頼三少将)旗艦となる[9][10]。同海戦直後の11月24日、ニューギニア東部ラエ増援作戦従事中[11]、フォン湾で連合軍重爆撃機の夜間空襲を受けて大破、炎上する[12]。僚艦「白露」の砲撃で自沈した[13]。
艦歴
建造
1939年(昭和14年)3月31日、日本海軍は練習巡洋艦1番艦と2番艦にそれぞれ「香取」「鹿島」、陽炎型駆逐艦5番艦に「早潮」、測天型敷設艇に「巨済」の艦名を与えた[2][14]。同日付で4隻(香取、鹿島、早潮、巨済)は艦艇(特務艇)類別等級表に類別される[15][16]。「早潮」は浦賀船渠で建造されることになった[2][注釈 2]。1938年(昭和13年)6月30日、起工[1]。1939年(昭和14年)4月19日、進水[1]。
1940年(昭和15年)5月1日、日本海軍は山隈和喜人中佐を、早潮艤装員長に任命する[17][注釈 3]。同日、浦賀船渠の早潮艤装員事務所は事務を開始する[20]。 8月31日[注釈 1]に竣工[注釈 4][注釈 5]。山隈中佐も制式に早潮駆逐艦長となった[22]。早潮艤装員事務所を撤去[23]。呉鎮守府籍。
第十五駆逐隊
1940年(昭和15年)8月31日、日本海軍は既に竣工していた陽炎型4番艦「親潮」[注釈 6]と、完成したばかりの「夏潮」[26]と「早潮」で第十五駆逐隊を編制した[27]。初代駆逐隊司令には植田弘之介大佐が任命されている[22]。編制直後の第十五駆逐隊は、呉鎮守府練習駆逐隊となる[28]。11月15日、第十五駆逐隊は第二艦隊(司令長官古賀峯一中将)・第二水雷戦隊(司令官五藤存知少将)に編入[29][30]。同時に第十六駆逐隊に所属していた陽炎型3番艦「黒潮」[注釈 7]が第十五駆逐隊に編入され、十五駆は定数4隻(黒潮、親潮、早潮、夏潮)を揃えた[29][32]。
1941年(昭和16年)6月18日、第十五駆逐隊司令は植田大佐から佐藤寅治郎大佐[33][注釈 8]に交代した[注釈 9]。 9月1日、山隈中佐(早潮艦長)は第11掃海隊司令[36] へ転任[37][注釈 10]。 金田清之中佐[注釈 11]が、早潮駆逐艦長(二代目)に補職される[36]
詳細は「南方作戦」および「フィリピンの戦い (1941-1942年)」を参照
太平洋戦争開戦時、陽炎型姉妹艦4隻(黒潮、親潮、早潮、夏潮)は引続き第十五駆逐隊(司令佐藤寅治郎大佐)を編制、第二水雷戦隊(司令官田中頼三少将:旗艦神通)に所属し、比島部隊(指揮官高橋伊望中将/第三艦隊司令長官)の指揮下にあった[41][42]。また二水戦(神通、第八駆逐隊、第十五駆逐隊、敷設艦白鷹、哨戒艇2隻)で第五急襲隊を編成していた[43]。第五急襲隊は11月26日に内海西部を出発、南方部隊本隊と行動することになった第八駆逐隊を途中で分離し、12月2日パラオに到着した[44]。
1941年(昭和16年)12月8日の開戦以後、第二水雷戦隊[注釈 12]は比島部隊に所属してダバオ[45][46]、レガスピー[47]、ホロ攻略作戦に参加した[48][49][50]。フィリピン方面の作戦が一段落すると比島部隊の大部分は12月28日付で「蘭印部隊」となり、東南アジアでの作戦に従事する[51][52]
詳細は「蘭印作戦」を参照
1942年(昭和17年)1月、第十五駆逐隊はスラウェシ島メナド攻略作戦に参加し、以降、ケンダリー[53]、アンボン[54]、マカッサル[55]、ティモール島クーパンなど各方面攻略作戦、ジャワ南方機動作戦に参加した[56]。マカッサル攻略戦従事中の2月9日、アメリカ潜水艦「S-37」の雷撃により僚艦「夏潮」が沈没[26][57]。陽炎型駆逐艦で最初の沈没艦となった[58]。佐藤司令は司令駆逐艦を「親潮」に変更した[59]。第十五駆逐隊は陽炎型3隻(黒潮、親潮、早潮)編制になった[60]。
3月初頭、高雄型重巡洋艦3隻(愛宕〔第二艦隊旗艦、近藤信竹中将座乗〕、高雄、摩耶)、第四駆逐隊(嵐、野分)はセレベス島スターリング湾を出撃してジャワ島南方に進出[61]、通商破壊作戦を実施する[62]。重巡部隊を支援していた「早潮」は、3月2日にオランダ船籍の輸送船(1,100トン)を拿捕した[63]。3月3日、重巡部隊は「早潮」と油槽船「東栄丸」と合同、補給を行う[64]。3月7日、各艦はスターリング湾に帰投した[65]。
3月15日[66]、第十五駆逐隊(黒潮、親潮、早潮)は空母加賀(第一航空戦隊)[注釈 13]を護衛してスターリング湾を出港した[29][68]。途中、黒潮は二水戦旗艦神通護衛のため分離した[66][69]。3月22日、「加賀」は佐世保に到着[68]、佐世保海軍工廠で修理をおこなう[70]。同日、第十五駆逐隊は呉に到着する[66][71]。3月23日から4月17日まで「早潮」は呉で整備に従事した[72]。
詳細は「ドーリットル空襲」を参照
4月上旬、フィリピンの連合軍残存部隊はバターン半島およびコレヒドール要塞に立てこもり、抵抗を続けていた[73][注釈 14]。 日本海軍は4月10日に南西方面艦隊を新編し、隷下の第三南遣艦隊は引き続き比島部隊としてマニラ湾の封鎖任務や陸軍輸送船護衛任務を続けていた[76][77][78]。 4月17日、第十五駆逐隊(親潮、黒潮、早潮)は呉を出撃[79]、比島作戦に協力するためフィリピンへ向かう[80][81]。翌18日、米軍はドーリットル空襲を敢行する[82][83]。第十五駆逐隊は宮崎県沖合でドーリットル隊のB-25型爆撃機を発見、「黒潮」が対空射撃をおこなった[84]。また米軍機動部隊を邀撃するため、第十五駆逐隊は警戒部隊に編入される[85][79]。警戒部隊指揮官高須四郎中将の指揮下兵力[注釈 15]や他部隊から派遣された艦艇・航空隊と共に日本列島沿岸の警備にあたるが、米軍機動部隊との交戦は起きなかった[86]。本作戦従事中の4月19日朝、「早潮」はソビエト商船の臨検を実施しているが、連行中に悪天候でソ連商船を見失い[87]、日本海軍は基地航空隊を投入して捜索活動をおこなっている[85][88]。4月20日夜、連合艦隊は作戦中止を発令する[89]。第二戦隊等は内海西部へ帰投、第十五駆逐隊はフィリピンへ向かった[85]。
当時、日本海軍の比島部隊(指揮官杉山六蔵第三南遣艦隊司令長官、旗艦「球磨」)は、ビサヤ諸島とミンダナオ島における日本陸軍の戡定作戦に協力していた[90][91]。フィリピン進出後の第十五駆逐隊(親潮、黒潮、早潮)も戡定作戦に従事する。4月28日、第十五駆逐隊第1小隊(親潮、黒潮)は陸軍輸送船の護衛を命じられてビサヤ諸島へ出撃[92]、第2小隊(早潮)はマニラ封鎖部隊に編入された[93]。5月10日、第十五駆逐隊は比島部隊から除かれた[93]。同日、マニラを出発する。同時期、珊瑚海海戦で損傷した第五航空戦隊の空母「翔鶴」は、駆逐艦2隻(夕暮、漣)に護衛され、内地に向かっていた[94][95]。第十五駆逐隊はサイパン島付近で翔鶴隊と合流する[96][94]。5月17日[97][98]、「翔鶴」[99] と護衛部隊は呉に帰投した[100][94]。
詳しいことは、『早潮 (駆逐艦)ウィキペディア』をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A9%E6%BD%AE_(%E9%A7%86%E9%80%90%E8%89%A6)
(wikiより)


