本牧jack『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

本牧Jackで御座います
小生の拙ブログ『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑に御訪問頂き誠に有難う御座います。
歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。
たまに『 大人数で取材しているのか? 』との質問を戴きますが、小生と相方の二人三脚で御座います。
出来るだけ続けたいと思っていますが 膝・耳に問題が有って、いつまで出来るやら・・・説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。
御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。 ※ 申し訳御座いませんが「画像の転用」は禁止とさせて頂きます。 コメントは原則公開させていただいております 質問等に対してはブログ記事で返信させていただきます 他の方法で連絡を取り合う等一切しません 場合によっては、「IPブロック」しますがブロックした場合解除する事は有りませんので宜しくお願いします。

カテゴリ: 東京空襲・戦争・事件・震災・事故・暗殺・自殺・キリシタン弾圧

基本情報
建造所浦賀船渠
運用者 大日本帝国海軍
艦種駆逐艦
級名陽炎型
艦歴
計画③計画
起工1938年6月30日[1]
進水1939年4月19日[1]
竣工1940年8月31日[1][注釈 1]
最期1942年11月24日フォン湾にて沈没。
除籍1942年12月24日
要目
基準排水量2,033 トン
全長118.5 m
最大幅10.8 m
吃水3.8 m
主缶ロ号艦本式缶×3基
主機艦本式衝動タービン×2基
出力52,000 馬力
推進器スクリュープロペラ×2軸
速力35.5 ノット
航続距離5,000 海里/18ノット
乗員239人
兵装

早潮(はやしお / はやしほ)は[2]日本海軍駆逐艦[3]陽炎型駆逐艦の5番艦である[4]1942年(昭和17年)11月下旬、ラエ沖で空襲により大破、沈没した[5]。戦後、艦名は海上自衛隊はやしお型潜水艦はやしお」、はるしお型潜水艦はやしお」に継承された。

概要
1940年(昭和15年)8月末に浦賀船渠で完成した陽炎型駆逐艦5番艦[4]太平洋戦争開戦時、第二水雷戦隊麾下の第十五駆逐隊に所属して南方作戦にともなう比島作戦蘭印作戦に従事[6]1942年(昭和17年)6月上旬のミッドウェー作戦では第十一航空戦隊(千歳神川丸)の護衛に従事した[6][7]。8月以降のガダルカナル島の戦いでは、第二次ソロモン海戦南太平洋海戦等に並行して、鼠輸送ガダルカナル島輸送作戦)に多数参加[6]。11月中旬の第三次ソロモン海戦では[8]第二水雷戦隊(司令官田中頼三少将)旗艦となる[9][10]。同海戦直後の11月24日、ニューギニア東部ラエ増援作戦従事中[11]フォン湾で連合軍重爆撃機の夜間空襲を受けて大破、炎上する[12]。僚艦「白露」の砲撃で自沈した[13]

艦歴
建造
1939年(昭和14年)3月31日、日本海軍は練習巡洋艦1番艦と2番艦にそれぞれ「香取」「鹿島」、陽炎型駆逐艦5番艦に「早潮」、測天型敷設艇に「巨済」の艦名を与えた[2][14]。同日付で4隻(香取、鹿島、早潮、巨済)は艦艇(特務艇)類別等級表に類別される[15][16]。「早潮」は浦賀船渠で建造されることになった[2][注釈 2]1938年(昭和13年)6月30日、起工[1]1939年(昭和14年)4月19日、進水[1]

1940年(昭和15年)5月1日、日本海軍は山隈和喜人中佐を、早潮艤装員長に任命する[17][注釈 3]。同日、浦賀船渠の早潮艤装員事務所は事務を開始する[20]。 8月31日[注釈 1]に竣工[注釈 4][注釈 5]。山隈中佐も制式に早潮駆逐艦長となった[22]。早潮艤装員事務所を撤去[23]呉鎮守府籍。

第十五駆逐隊
1940年(昭和15年)8月31日、日本海軍は既に竣工していた陽炎型4番艦「親潮」[注釈 6]と、完成したばかりの「夏潮」[26]と「早潮」で第十五駆逐隊を編制した[27]。初代駆逐隊司令には植田弘之介大佐が任命されている[22]。編制直後の第十五駆逐隊は、呉鎮守府練習駆逐隊となる[28]。11月15日、第十五駆逐隊は第二艦隊(司令長官古賀峯一中将)・第二水雷戦隊(司令官五藤存知少将)に編入[29][30]。同時に第十六駆逐隊に所属していた陽炎型3番艦「黒潮[注釈 7]が第十五駆逐隊に編入され、十五駆は定数4隻(黒潮、親潮、早潮、夏潮)を揃えた[29][32]

1941年(昭和16年)6月18日、第十五駆逐隊司令は植田大佐から佐藤寅治郎大佐[33][注釈 8]に交代した[注釈 9]。 9月1日、山隈中佐(早潮艦長)は第11掃海隊司令[36] へ転任[37][注釈 10] 金田清之中佐[注釈 11]が、早潮駆逐艦長(二代目)に補職される[36]
  詳細は「南方作戦」および「フィリピンの戦い (1941-1942年)」を参照

太平洋戦争開戦時、陽炎型姉妹艦4隻(黒潮親潮、早潮、夏潮)は引続き第十五駆逐隊(司令佐藤寅治郎大佐)を編制、第二水雷戦隊(司令官田中頼三少将:旗艦神通)に所属し、比島部隊(指揮官高橋伊望中将/第三艦隊司令長官)の指揮下にあった[41][42]。また二水戦(神通、第八駆逐隊、第十五駆逐隊、敷設艦白鷹、哨戒艇2隻)で第五急襲隊を編成していた[43]。第五急襲隊は11月26日に内海西部を出発、南方部隊本隊と行動することになった第八駆逐隊を途中で分離し、12月2日パラオに到着した[44]

1941年(昭和16年)12月8日の開戦以後、第二水雷戦隊[注釈 12]は比島部隊に所属してダバオ[45][46]レガスピー[47]ホロ攻略作戦に参加した[48][49][50]。フィリピン方面の作戦が一段落すると比島部隊の大部分は12月28日付で「蘭印部隊」となり、東南アジアでの作戦に従事する[51][52]

  詳細は「蘭印作戦」を参照

1942年(昭和17年)1月、第十五駆逐隊はスラウェシ島メナド攻略作戦に参加し、以降、ケンダリー[53]アンボン[54]マカッサル[55]ティモール島クーパンなど各方面攻略作戦、ジャワ南方機動作戦に参加した[56]。マカッサル攻略戦従事中の2月9日、アメリカ潜水艦「S-37英語版」の雷撃により僚艦「夏潮」が沈没[26][57]。陽炎型駆逐艦で最初の沈没艦となった[58]。佐藤司令は司令駆逐艦を「親潮」に変更した[59]。第十五駆逐隊は陽炎型3隻(黒潮、親潮、早潮)編制になった[60]

3月初頭、高雄型重巡洋艦3隻(愛宕〔第二艦隊旗艦、近藤信竹中将座乗〕、高雄摩耶)、第四駆逐隊(野分)はセレベス島スターリング湾を出撃してジャワ島南方に進出[61]、通商破壊作戦を実施する[62]。重巡部隊を支援していた「早潮」は、3月2日にオランダ船籍の輸送船(1,100トン)を拿捕した[63]。3月3日、重巡部隊は「早潮」と油槽船「東栄丸」と合同、補給を行う[64]。3月7日、各艦はスターリング湾に帰投した[65]

3月15日[66]、第十五駆逐隊(黒潮、親潮、早潮)は空母加賀第一航空戦隊[注釈 13]を護衛してスターリング湾を出港した[29][68]。途中、黒潮は二水戦旗艦神通護衛のため分離した[66][69]。3月22日、「加賀」は佐世保に到着[68]佐世保海軍工廠で修理をおこなう[70]。同日、第十五駆逐隊はに到着する[66][71]。3月23日から4月17日まで「早潮」は呉で整備に従事した[72]

  詳細は「ドーリットル空襲」を参照

4月上旬、フィリピンの連合軍残存部隊はバターン半島およびコレヒドール要塞に立てこもり、抵抗を続けていた[73][注釈 14]。 日本海軍は4月10日に南西方面艦隊を新編し、隷下の第三南遣艦隊は引き続き比島部隊としてマニラ湾の封鎖任務や陸軍輸送船護衛任務を続けていた[76][77][78]。 4月17日、第十五駆逐隊(親潮、黒潮、早潮)は呉を出撃[79]、比島作戦に協力するためフィリピンへ向かう[80][81]。翌18日、米軍はドーリットル空襲を敢行する[82][83]。第十五駆逐隊は宮崎県沖合でドーリットル隊のB-25型爆撃機を発見、「黒潮」が対空射撃をおこなった[84]。また米軍機動部隊を邀撃するため、第十五駆逐隊は警戒部隊に編入される[85][79]。警戒部隊指揮官高須四郎中将の指揮下兵力[注釈 15]や他部隊から派遣された艦艇・航空隊と共に日本列島沿岸の警備にあたるが、米軍機動部隊との交戦は起きなかった[86]。本作戦従事中の4月19日朝、「早潮」はソビエト商船の臨検を実施しているが、連行中に悪天候でソ連商船を見失い[87]、日本海軍は基地航空隊を投入して捜索活動をおこなっている[85][88]。4月20日夜、連合艦隊は作戦中止を発令する[89]。第二戦隊等は内海西部へ帰投、第十五駆逐隊はフィリピンへ向かった[85]

当時、日本海軍の比島部隊(指揮官杉山六蔵第三南遣艦隊司令長官、旗艦「球磨」)は、ビサヤ諸島ミンダナオ島における日本陸軍の戡定作戦に協力していた[90][91]。フィリピン進出後の第十五駆逐隊(親潮、黒潮、早潮)も戡定作戦に従事する。4月28日、第十五駆逐隊第1小隊(親潮、黒潮)は陸軍輸送船の護衛を命じられてビサヤ諸島へ出撃[92]、第2小隊(早潮)はマニラ封鎖部隊に編入された[93]。5月10日、第十五駆逐隊は比島部隊から除かれた[93]。同日、マニラを出発する。同時期、珊瑚海海戦で損傷した第五航空戦隊の空母「翔鶴」は、駆逐艦2隻(夕暮)に護衛され、内地に向かっていた[94][95]。第十五駆逐隊はサイパン島付近で翔鶴隊と合流する[96][94]。5月17日[97][98]、「翔鶴」[99] と護衛部隊は呉に帰投した[100][94]

詳しいことは、『早潮 (駆逐艦)ウィキペディア』をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A9%E6%BD%AE_(%E9%A7%86%E9%80%90%E8%89%A6)

(wikiより)

第十五駆逐隊夏潮慰霊碑1

第十五駆逐隊夏潮慰霊碑2

第十五駆逐隊夏潮慰霊碑3




竹村俊秀 ( たけむら - としひで )
幕末 - 明治時代の武士、士族。陸奥 ( むつ ) 会津 ( あいづ ) 藩 ( 福島県 ) 藩士。

明治 9年、前原一誠の乱に呼応して永岡久茂らと共に挙兵しようとした。

永岡らが 10月 29日の思案橋事件で捕らえられた翌 30日逮捕され、明治 10年 2月 7日処刑された。33歳。通称は幸之進。

辞世 : 白露と消る命はおしまねとなを思はるゝ国の行末

〇 思案橋事件
思案橋事件(しあんばしじけん)は、1876年(明治9年)に東京思案橋(現東京都中央区日本橋小網町)で起こった明治政府に対する士族反乱未遂事件。思案橋の変ともいわれる。
1876年(明治9年)10月28日に山口県士族の前原一誠らが起こした萩の乱に呼応する形で、旧会津藩士永岡久茂らにより生起した。

概要
1876年(明治9年)10月29日、萩の乱の発生を電文で知った永岡久茂ら旧会津藩士他14名は、東京・思案橋から千葉に向けて出航しようとしていた。しかし不審に思った者の通報により駆け付けた警官隊と切りあいとなり、永岡ら数名はその場で逮捕された。逃走を図った者は中根米七を除き、最終的には逮捕されている。主犯の永岡は事件の時に負った傷が元で翌年1月に獄中死し、その年の2月7日に行われた裁判では井口慎次郎、中原成業、竹村俊秀の会津藩士3名が斬罪となった。中根は1878年(明治11年)、喜多方町の寺院境内で切腹している。警察側は寺本義久警部補と河合好直巡査の2名が殉職した。

当初の計画では千葉県庁を襲撃し県令を殺害したのち、佐倉の東京鎮台歩兵第2連隊を説得して日光から会津若松を襲い、前原に呼応して挙兵する予定であった。

関係者墓所
・市谷源慶寺 - 東京都新宿区富久町。井口慎次郎ら処刑された3人の墓がある。
・今戸称福寺 - 永岡久茂の墓があったが、関東大震災や空襲のため現存していない。
・染井霊園 - 寺本警部補

参考資料
・東京日日新聞『思案橋の暴徒事件』錦絵 - 早稲田大学図書館蔵
・尾佐竹猛『法窓秘聞』 - 批評社 1999年
・中村彰彦『明治無頼伝』角川文庫2002年2月 - 新撰組三番隊長であった斎藤一を主人公に束松事件と思案橋事件を描いた。
・綱淵謙錠『苔』中公文庫 1977年

関連項目
・千葉県の事件一覧  
(wikiより)

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中原成業 ( 本名 : 高津仲三郎 )
会津藩士・高津平蔵三男

本姓 : 樋口俗弥忠三良 明治 10年 2月 7日就死

ことし阿らはまた魁ん国の為わか魂をこゝに残して

〇 思案橋事件
思案橋事件(しあんばしじけん)は、1876年(明治9年)に東京思案橋(現東京都中央区日本橋小網町)で起こった明治政府に対する士族反乱未遂事件。思案橋の変ともいわれる。

1876年(明治9年)10月28日に山口県士族の前原一誠らが起こした萩の乱に呼応する形で、旧会津藩士永岡久茂らにより生起した。

概要
1876年(明治9年)10月29日、萩の乱の発生を電文で知った永岡久茂ら旧会津藩士他14名は、東京・思案橋から千葉に向けて出航しようとしていた。しかし不審に思った者の通報により駆け付けた警官隊と切りあいとなり、永岡ら数名はその場で逮捕された。逃走を図った者は中根米七を除き、最終的には逮捕されている。主犯の永岡は事件の時に負った傷が元で翌年1月に獄中死し、その年の2月7日に行われた裁判では井口慎次郎、中原成業、竹村俊秀の会津藩士3名が斬罪となった。中根は1878年(明治11年)、喜多方町の寺院境内で切腹している。警察側は寺本義久警部補と河合好直巡査の2名が殉職した。

当初の計画では千葉県庁を襲撃し県令を殺害したのち、佐倉の東京鎮台歩兵第2連隊を説得して日光から会津若松を襲い、前原に呼応して挙兵する予定であった。

関係者墓所
・市谷源慶寺 - 東京都新宿区富久町。井口慎次郎ら処刑された3人の墓がある。
・今戸称福寺 - 永岡久茂の墓があったが、関東大震災や空襲のため現存していない。
・染井霊園 - 寺本警部補

参考資料
・東京日日新聞『思案橋の暴徒事件』錦絵 - 早稲田大学図書館蔵
・尾佐竹猛『法窓秘聞』 - 批評社 1999年
・中村彰彦『明治無頼伝』角川文庫2002年2月 - 新撰組三番隊長であった斎藤一を主人公に束松事件と思案橋事件を描いた。
・綱淵謙錠『苔』中公文庫 1977年
関連項目
・千葉県の事件一覧  
(wikiより)

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井口慎次郎 ( いぐち - しんじろう )
 ( 1854 ~ 1877年 2月 7日 )

150石。

戊辰時 15歳。

井口隼人の次男として若松城下に生まれ、性淳良で勇敢、日新館の秀才。


井口隼人の妻、井口慎次郎の母は浅羽忠之助の姉「みさ」である。

京都守護職時代 ~ 戊辰戦争
戊辰戦争では白虎隊幼少組に編入され、力戦奮闘したという。
兄・信太郎 ( 18 ) は 8月 29日の長命寺の戦いに朱雀士中二番田中隊として参加し戦死している。

戊辰戦争後
父、隼人は高田謹慎の際に病死。( 母・みさ、弟常四郎等を連れ斗南に移住し金田一村に永住した )

誠実で快活な性格で永岡は弟のように面倒をみた。

永岡の書生となり、永岡に私淑し、思案橋事件に参加する。

思案橋事件の際、誤って永岡を傷つけ、その傷が元で永岡が亡くなった為自責の念に苛まれるが、永岡よりの遺言で「軽挙を謹んで欲しい」と言われ思いとどまる。

そして刑場では永岡の後を追える事、自責の念から開放される事から喜んで死を迎えたという。

『待て暫し我も後より続かまし同じ黄泉路を辿る身なれば』は辞世の句である。

事件首謀者として明治 10年 2月 7日処刑される。享年 24歳。

墓は新宿区源慶寺。

〇 思案橋事件

思案橋事件(しあんばしじけん)は、1876年明治9年)に東京思案橋(現東京都中央区日本橋小網町)で起こった明治政府に対する士族反乱未遂事件。思案橋の変ともいわれる。
1876年(明治9年)10月28日山口県士族前原一誠らが起こした萩の乱に呼応する形で、旧会津藩永岡久茂らにより生起した。

概要
1876年(明治9年)10月29日、萩の乱の発生を電文で知った永岡久茂ら旧会津藩士他14名は、東京・思案橋から千葉に向けて出航しようとしていた。しかし不審に思った者の通報により駆け付けた警官隊と切りあいとなり、永岡ら数名はその場で逮捕された。逃走を図った者は中根米七を除き、最終的には逮捕されている。主犯の永岡は事件の時に負った傷が元で翌年1月に獄中死し、その年の2月7日に行われた裁判では井口慎次郎、中原成業、竹村俊秀の会津藩士3名が斬罪となった。中根は1878年(明治11年)、喜多方町の寺院境内で切腹している。警察側は寺本義久警部補と河合好直巡査の2名が殉職した。

当初の計画では千葉県庁を襲撃し県令を殺害したのち、佐倉東京鎮台歩兵第2連隊を説得して日光から会津若松を襲い、前原に呼応して挙兵する予定であった。
関係者墓所
・市谷源慶寺 - 東京都新宿区富久町。井口慎次郎ら処刑された3人の墓がある。
・今戸称福寺 - 永岡久茂の墓があったが、関東大震災や空襲のため現存していない。
染井霊園 - 寺本警部補

参考資料
東京日日新聞『思案橋の暴徒事件』錦絵 - 早稲田大学図書館
尾佐竹猛『法窓秘聞』 - 批評社 1999年
中村彰彦『明治無頼伝』角川文庫2002年2月 - 新撰組三番隊長であった斎藤一を主人公に束松事件と思案橋事件を描いた。
綱淵謙錠『苔』中公文庫 1977年
関連項目
千葉県の事件一覧  
(wikiより)

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明治 40年に起きた日露戦争の戦没者を悼んで建てられた石碑です。

揮毫は日清、日露戦争で陸軍大将として指揮した大山巌です。裏側には戦没者の名前が刻まれています。

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満州義軍(まんしゅうぎぐん)は、日露戦争中の1904年ロシア軍の後方攪乱・兵站破壊を任務として満州の馬賊を集めて創設された特別任務隊である。トップに立ったのは、「花大人(ホアターレン)」として知られた花田仲之助少佐である。彼は、戦争前から、ウラジオストクの西本願寺において僧に化け、「諜報」活動に従事していた。

概要

日露戦争が始まると満州義軍は、同じく馬賊を編成した「遼西特別任務班」と共に大陸の各地で鉄道の破壊や、物資の略奪を行い、ある程度の成果を挙げた。ロシア軍の後方で活動する満州義軍がロシア軍の将兵に与えた心理的ダメージは計り知れない。これらの部隊の総指揮を行ったのは、日本陸軍の情報将校の先駆けで現地満州軍の高級参謀だった福島安正である。実際のところ、満州義軍については、研究がほとんど存在しない。何故ならば、この組織は国際法に抵触する秘匿されたものであり、当時の公式の戦史に記述が存在しないからである。(但し、蜷川新著「黒木軍ト戦時国際法」には付言としてではあるが、言及されており必ずしも「秘匿されていた」とは言い難い。)


福岡市崇福寺内の玄洋社墓地に「満州義軍義士之碑」がある。

文献

旧日本軍の文書、とりわけ諜報活動に関するものは太平洋戦争の敗戦の折、GHQの手に渡るのを恐れその多くが焼却処分されたため、ほとんど現存していない。しかし、2006年9月1日付毎日新聞(全国版)に日露戦争の諜報史料発見の記事が掲載された。この史料の中には、満州義軍に関する情報も多く含まれる。この史料は「発信原稿」と呼ばれ、当時の極秘電文の元原稿を月日順に綴ったものである。個人蔵であるため、まだその全容を閲覧する事は出来ないが、詳しい内容は2006年9月刊行の『軍事史学』(第42巻2号・錦正社)に掲載された「日露戦争と戦場の諜報戦」を参照のこと。


なお、山名正二著『日露戦争秘史・満州義軍』(月刊満州社東京出版部、一九四二年)は、満州義軍の関係者に取材して記された好資料である。また、谷寿夫著(『機密日露戦史』〈明治百年史叢書 第三巻〉原書房、一九六六年)にも、記述はある。
(wikiより)

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日露戦没記念忠魂碑。

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小倉歩兵第百十四聯隊第七中隊


慰霊碑


杭州西湖の思ひ出に


西湖の水の

   青くして


紅木蓮の

   花咲けば


たづぬる春の

   身に近く


兵隊なれば

   楽しかる  


            葦平


( 左、中央の碑 )
日中戦争勃発により編成された歩兵第 114連隊第 7中隊の戦友諸氏により、昭和 43年 ( 1968年 ) に建立されました。

戦時中の門司港は将兵が出征する港であり、同連隊には「麦と兵隊」や「花と竜」などで知られる作家・火野葦平氏 ( 1907 ~ 1960 ) も所属しておりました。

その縁により「杭州西湖の思い出に 西湖の水の青くして 紅木蓮の花咲けば たづぬる春の身近く 兵隊なればたのしかる」の詩が刻まれています。


( 右の碑 )
昭和 57年 ( 1982年 )、芥川賞作家・火野葦平氏の母校である早稲田大学校友会により建立され、碑文には「足は地に、心には歌と翼を、ペンには色と肉を」と刻まれています。

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明治維新百年記念碑について

明治元年四月六日 明治天皇は天地神明に誓って五ヶ條の御誓文を発布されました


十月二十三日明治改元の詔下ろされひとえに わが国を近代国家建設のための国是を打ち立てたものといふべきです


以来齢を重ねること百歳 その間郷土門司をはじめとして 小倉など近郊の発展は日本国の発展とその軌を一つにし港都あるいは産業都市として国家社会への貢献は計り知ることはできません


明治百年を迎えるに当りこれを意義あらしめたるため産土甲宗八幡宮境内に記念碑を建て裏面に郷土の変遷発展の跡をたどり敬神祟祖報本反始の誠を尽くし この⇧ともに平和国家社会の基礎の確立を期する資としたいと思います。


昭和四十三年十月


國興す明治のこころ傳 ( つた ) えんと 甲宗の宮に いしぶみの建つ

劉 寒吉
(石碑文より)

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史跡 楠木正則公戦没地


一、指定区域  四百十三坪九合


一、指定年月日 昭和二十六年六月九日


一、由緒

此の地は延元元年 ( 西暦 一三三六年 )

五月二十五日楠木正成公 ( 大楠公 ) が一族十六騎、郎党六十余人と共に自刃せられた所である。


明治元年 ( 一八六八年 ) 明治天皇は大楠公を千載の一人、臣子の亀鑑として鎮祭すべき旨仰せ出され此の地を含めたところに湊川神社が創建せられたのである。
(案内板より)

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 お菊の墓は、神奈川県平塚市立野町 9番地・共同墓地にある眞壁家墓所に有ります。
「お菊墓」で検索してみてください。


この井戸は、播州皿屋敷 ( ばんしゅうさらやしき ) の怪談で知られる「お菊井戸」といわれています。


永正 ( えいしょう ) 年間 ( 1500年間 )、姫路城主・小寺則職の執権・青山鉄山は町坪弾四郎と語らい、城を奪おうと企てていました。


則職の忠臣・衣笠元信は、お菊を青山家に女中として住み込ませ、その企てを探らせました。


則職暗殺を探知したお菊は元信に知らせたため、則職は家島 ( 姫路 ) に逃げて殺されずにすみましたが、城は鉄山に乗っ取られました。


お菊の動きを知った弾四郎は、お菊を助ける代わりに結婚を強要しました。


元信を慕うお菊はそれを拒みました。


弾四郎はそんなお菊を憎み、青山家の家宝の 10枚揃いの皿の 1枚を隠し、その罪をお菊にかぶせて責めあげました。


それでも弾四郎を拒むお菊は、ついに切り殺されて井戸に投げ込まれました。


その後、毎夜この井戸から「1枚、2枚、3枚、…9枚」と 9枚目まで何度も数えるお菊の声が聞こえたといいます。


やがて元信らが鉄山一味を滅ぼし、お菊は「御菊大明神」として、十二所神社内に祀られました。
(案内板より)

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第一次世界大戦時にドイツ軍捕虜収容所として境内が使用され、300名以上の捕虜が収容されており、その捕虜達が故郷の城をイメージした噴水を制作したそうです。

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⇧ 中央の突起物。

 

大阪冬の陣と夏の陣で豊臣方の真田幸村配下として戦い、散った郷土駒ケ根市西側一帯に広がる上穂郷で、武芸に秀でた農家の次男や三男の十一人。


夏の陣では伊達政宗軍などと戦い、徳川方本陣にあと一歩まで迫りながら全員討ち死にした。
(案内板より)

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呉市海事歴史科学館(くれし かいじれきしかがくかん)は、広島県呉市にある科学館愛称大和ミュージアム(やまとミュージアム)で、正式名称よりも愛称が広く定着している。

概要

呉市を設立主体とする博物館。戦前・戦後の呉市における船舶製造技術を主たる展示内容としている。愛称の「大和ミュージアム」が示すように、旧日本海軍の超大型軍艦大和」の建造と軍事活動が中心となっている[1]


明治時代
以降の造船の街あるいは軍港鎮守府としての呉の歴史や、基幹となった製鋼や造船などの科学技術を展示することを目的に、日露戦争日本海海戦から100年目、大東亜戦争太平洋戦争)終戦から60年目にあたる2005年4月23日に開館した。開館から668日目の2007年(平成19年)5月20日に来館300万人目を、1443日目の2009年(平成21年)7月4日に来館500万人目を迎えた。呉市は原子爆弾の被災地の広島市に近接し、海上自衛隊と在日アメリカ陸軍の施設が現役で稼働している安全保障問題の現場としての土地柄、修学旅行生の平和学習の場としても活用されている。


構想あるいは建設に関しては、「戦争責任」について様々な意見を向ける旨もあったが開館以来盛況を続けており、呉市の歴史的観光資源を再発見するきっかけとして呉市を全国的観光地に一躍押し上げた立役者である。呉市の経済社会にも影響を与えており、様々なイベントが行われる地域拠点の役割も果たしている[1]


初代館長の戸高一成は、当館の展示が戦争賛美ではなく、とくに戦艦大和建造など軍事や戦争によって発達した産業技術そのものとその使われ方(軍事目的)とは分けてとらえるべきだとしている[1]。館の方針としては、当館を「平和学習の場」として開放するため、実物の兵器や当時の映像フィルムなどの歴史的資料を淡々と提示するかたちで意見や注釈は付けず、政治的に中立的な立場をとるよう努めている。「歴史認識についての判断は来館者個々に任せる」という方針を採用している。


2008年度より指定管理者制度が導入され、学芸部門は引き続き呉市が、管理運営・広報などは「大和ミュージアム運営グループ」が担当している[1]

歴史
開館の経緯

呉市が造船業不況による経済停滞からの脱却を模索していた1980年代初頭、広島県は県立博物館建設を検討していた。1980年度より呉市も県に対して市内での県立博物館設置要望を出すようになった。この頃は「海に関する県立博物館」という構想であった。1990年度 - 1991年度にかけて呉市から業務委託を受けた財団法人日本博物館協会が博物館基本構想を策定し、「近代造船技術の進展」を展示する博物館が提唱された。こうして1991年度より資料収集・調査研究が開始された[1]


1993年11月、呉市長に前広島県副知事の小笠原臣也が就任する。小笠原は松山市助役を務めていたころ、同市の子規記念博物館設立にかかわった経験があり、文化行政のノウハウを理解していた。また、同博物館の資料を調べる際、司馬遼太郎坂の上の雲』などで自らの出身地・呉の「軍都」としての歴史を再確認していた。そのため、小笠原は積極的に博物館建設を推進していく[1]


1994年 - 1995年にかけて、戦艦大和を博物館の核としていくことに構想が固まっていった。しかし、県側は(海)軍事色が強い博物館を県立として開館することは難しいことを呉市に伝えた。そこで小笠原は1996年12月の市議会で、博物館建設に市主体で取り組むことを正式に表明した。1997年に呉市は主要プロジェクトの1つとして海事博物館建設を明記し、同年9月の市議会で呉駅南側の宝町地区を博物館の建設場所とすることが表明された。財源は国(防衛施設庁科学技術庁)・県への働きかけに加え、呉市博物館推進基金、呉商工会議所の募金委員会などを設立し民間資金の活用も行われた。最終的に事業費総額65億円のうち、国・県・地方交付税・募金等が約36億円、市負担が約29億円となった[1]


1999年10月 - 12月に呉市が博物館設立準備として設置していた収蔵仮展示施設で「戦艦大和展」が行われた。これには3カ月で累計1万人を超える来館者が訪れた。2000年大阪で開催された関西ミュージアムメッセで呉市が参加した戦艦大和関連の展示には、4日間で1万2000人以上が訪れ、そのアンケート結果(1300件分)では「印象に残った出展ブース」の第1位となった[1]


2003年初頭、広報活動の一環として名称募集を行い,同年8月に正式名称を「呉市海事歴史科学館」、愛称を「大和ミュージアム」とすることが公表された[1]


2005年1月、ガイドボランティアが組織された。マスコミの関心は高まっており、2005年3月の定例市議会では、入館者数の予想を当初の20万人から40万人へ引き上げられた。ただしこれらは、反対意見を抑えるための多めの見積もりであったと、小笠原らが後に明かしている[1]。2005年4月23日、開館を迎えた[1]。    

開館と反響

開館後、大和ミュージアムは大きな人気を博した。開館した2005年には来館者が122万9250人(開館日4月23日を起算日とした初年1年間の来館者数は161万4457人)と予想をはるかに上回り、地方都市の博物館としては類を見ないほど多くの人々が訪れた。地域・団体からの来館希望も多く、行政職員が旅行代理店業務をこなす有様であった。2005年12月公開の映画『男たちの大和』も大和ミュージアムの人気に大きく貢献した。また、これにより街全体の観光客数も大幅に増加し、呉市は年間300万人以上が訪れる観光都市に成長した[1]


なお一部からは批判も挙がった。開館直後の2005年5月、市民団体「ピースリンク広島・呉・岩国」は、展示の見直しを求める要請書を提出し、「軍事技術・戦争を美化している」と主張した。また中華人民共和国と、対戦国ではないにもかかわらず大韓民国でも一部に大和ミュージアムを批判する報道があり、日本共産党の呉市議が市議会でそれ引用した。ただし、大和ミュージアムへの批判やクレームはほとんどなく、具体的な行動を起こしたのは上記の市民団体にとどまった[1]

運営の沿革

開館から時間が経っても、年々漸減しているものの大和ミュージアムは多くの入館者が訪れている。4年目以降の来館者は90万人から74万人の間で安定的に推移しており、年間10万人で成功とされる地域の歴史博物館としては異例の多さである[1]。太平洋戦争に関連する映画が公開されると、来館者が増える傾向がある[2]


2007年には隣に海上自衛隊呉史料館(てつのくじら館)が併設され、大和ミュージアムと並んで多くの入館者を集めている[1]。同館のメインの展示物は、退役した海上自衛隊の展示用潜水艦あきしおの実物などである。


2008年度に指定管理者制度が導入され、学芸部門のみ呉市商工観光部(現・産業部)が管轄し、民間会社で構成される「大和ミュージアム運営グループ」が管理・運営・広報などを担当することとなった。2012年度からの2期目も同グループが引き続き管轄している[1]


大和ミュージアムの集客力は周辺の地域社会にも大きな影響を与え、単なる「戦争博物館」にとどまらない地域拠点になりつつあるとされる。2010年にはリニューアルオープンによって呉の戦後の歩みなど地域史を紹介するコーナーを拡充させた。2012年4月には「ミュージアムショップやまと」を中核として地元の業者・アーティストと共同で「Blue Project(ブループロジェクト)」という事業体が結成され、大和関連だけではなく、呉や瀬戸内海にちなんだオリジナル商品の開発・販売が行われている[1]

展示内容

入口を入ってすぐの『大和ひろば』には、実物の10分の1サイズの戦艦大和の模型[注 1]が展示されている。この模型は、大和の海底調査や発見された資料により判明した最新の情報に基づいて制作されており、新たに判明した史実や資料があれば随時それに合わせて改装されている(この変更点には、偵察機の追加搭載などがある)。また映画男たちの大和/YAMATO』の撮影の際、尾道市向島町にあった戦艦大和実寸大オープンロケセットの不足部分を補うため、CGの合成用素材として使用された。なお映画撮影後に解体されたロケセットの一部は呉市へ寄贈され、2006年(平成18年)6月29日、大和ミュージアムの資料修復保存施設(旧海事博物館推進室敷地内)に搬入され、同館の第2駐車場ビル2階に展示されている。ロケセットは「まちづくり」への利用を目的とする理由であれば、無償で貸出しをされる(ただし輸送・管理費は申請者負担)。


大和の模型の他、戦艦陸奥重巡洋艦青葉に実際に搭載されていた主砲身、戦艦金剛イギリスヴィッカース社から輸入した当時のボイラーや、戦艦陸奥の錨、航空戦艦日向 (戦艦)マストに掲揚されていた軍艦旗零式艦上戦闘機六二型、“人間魚雷回天10型(試作型)、特殊潜航艇海龍」を展示の主体として、海軍兵器の実物が数多く展示されている。その他、実物の潜水調査船である「しんかい」の屋外展示など、戦後の海事史についての展示物も充実している。


1階「展示室 呉の歴史」では、日本の幕末から太平洋戦争終結までの戦史呉海軍工廠の歴史、戦艦大和について、当時の記録映像の上映、海軍兵器の実物、戦没者の遺品などの歴史的資料の展示を通じて解説。呉軍港空襲広島市への原子爆弾投下に関しても、呉の人々の視点から見えた当時の様子などが詳細に展示されている。随時、ガイドや学芸員による解説を受けながら展示物を閲覧する機会も設けられている。


2階は吹き抜けとなっており、1/10大和を見下ろせるようになっている。


3階「船をつくる技術」では、船を中心とした科学技術の原理を紹介しており、操船シミュレータなど実際に体験ができるようになっている。ミニシアターがあり、企画展示などに使用されている。「未来へ」では、名誉館長の一人である松本零士の監督作品『宇宙戦艦ヤマト』関連の展示品があったが後に撤去されている。


4階には、図書館として「ライブラリー」が設けられており、収蔵資料のデータおよび安全保障問題に関する書籍やビデオ教材などを閲覧することができる。


2018年からスマートフォン・タブレットを用いた多言語音声ガイドが導入された。日本語ナレーションは、艦船擬人化ゲーム『艦隊これくしょん -艦これ-』で大和役を務めた竹達彩奈が担当する[4]


地域経済社会への影響

大和ミュージアムの盛況に伴い、呉も広島湾一帯の観光ツアーに組み込まれるようになった。そのため、岩国市錦帯橋)、廿日市市宮島)、広島市(原爆ドーム広島平和記念公園広島城)を訪れる前後に来館する観光客も少なくない。呉市は周辺都市と広域行政に取り組むようになり、広島市・廿日市市とともに修学旅行の誘致事業も行っている。また戦後の広島湾岸諸都市の間には、広島が「軍都」から「平和都市」となる一方、呉・岩国・江田島が、広島のみならず日本の平和を守る自衛隊在日米軍の拠点を担うという「分業」が存在した。広島は「軍事と平和」という二項対立のもと、「周辺都市の軍事拠点を隠し続けることで平和都市としての機能を維持している」という一部の政党や市民団体による見方もあった。しかし、多くの観光客が大和ミュージアムと平和記念公園を往来するようになると旧来の二項対立構造は瓦解し、この地域における「軍事と平和」は観光面で融合を果たしたとされる[1]


2005年には広島県の観光客数・観光客県内消費額が過去最高(当時)となり、大和ミュージアム開館が大きな一因であるとされた。呉市の観光客も2005年以降は年間300~350万人に増え、観光都市に成長した。この結果、県も大和ミュージアムを県観光の代表的・象徴的拠点として積極的に利用するようになり、2011年にはここで広島県と島根県の交流会議が開かれ、両県の観光ルート開拓が話し合われた[1]。一方で、呉市の宿泊客はほぼ増えておらず、大和ミュージアムを訪れた観光客も広島市などで宿泊している人が多いと考えられている。そのため経済効果を市全体に広げる必要があるとされている[5]


多くの人が訪れるようになった大和ミュージアムは呉の社会経済の中核的存在として機能するようになり、市の商業中心地は大和ミュージアムと呉駅の間に移動した。既存の文化施設・商店街は人通りが減ったため利用客数・店舗数等の減少が見られた。そのため、集客力ある大和ミュージアムの来館者を呼び込むために、れんが通り(旧中通り)で大和ミュージアムの姉妹館「ヤマトギャラリー零(ZERO)」がオープンした。ここでは大和ミュージアムの名誉館長・松本零士の漫画作品・収集コレクションなどを展示している[1]

館長
歴代館長
・初代 戸高一成 (2005年4月23日 - )


名誉館長
松本零士 - 漫画家[1]

阿川弘之

的川泰宣

半藤一利

石坂浩二 …… 戦艦長門軍艦旗を呉市に寄贈した縁で、2015年(平成27年)5月9日に行われた開館10周年記念イベントにて委嘱[6]

詳しいことは、「呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム)ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%89%E5%B8%82%E6%B5%B7%E4%BA%8B%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E7%A7%91%E5%AD%A6%E9%A4%A8
(wikiより)

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 この記事にて、旧海軍墓地は終了になります
時間の制約上、すべての墓碑等の撮影が出来なかったことが残念です。


旧海軍墓地は、1890(明治23)年に、戦没などによる海軍軍人などの埋葬地として開設、1986(昭和61)年に国から市に無償で譲与され、「長迫公園」として整備されました(公園全体面積-約2.90ha)。この墓地には、戦前に建立された墓碑が169基、「戦艦大和戦死者之碑」等80基の合祀(ごうし)碑が建立されています。

〇 長迫公園
長迫公園(ながさここうえん)は、広島県呉市にある公園。旧呉海軍墓地。

概要

1890年(明治23年)に開設された大日本帝国海軍墓地[1][2]。以降呉鎮守府が管理し毎年慰霊祭が行われていたが、1945年(昭和20年)呉軍港空襲枕崎台風被害によりこの地は荒廃した[3]。さらに終戦により慰霊行事自体も廃止された[3]。戦後国有地であったが、有志のみによる手入れが続いていた[3][4]。1965年(昭和40年)頃から更に慰霊碑が建立されていった[3]。1986年(昭和61年)旧軍港市転換法に基づき国から呉市に無償譲与されたことを受け、市が公園として再整備した[2]


敷地面積2.9ha[1]。所有は呉市、管理は公益財団法人呉海軍墓地顕彰保存会が行っている[3]


男たちの大和/YAMATO』のロケ地の一つ。

アクセス
・バス

  ・広電バス長の木長迫線「長迫町」バス停下車、徒歩約1分


・車

  ・広島呉道路呉インターチェンジから約15分

  ・駐車場は普通車10台分

脚注

1. a b 旧海軍墓地(長迫公園)”. ひろしま観光ナビ. 2016年11月28日閲覧。

2. a b 【13】長迫公園(旧海軍墓地)”. 呉市. 2016年11月28日閲覧。

3. a b c d e 呉海軍墓地について”. 呉海軍墓地顕彰保存会. 2016年11月28日閲覧。
4. 第4地区まちづくり委員会の組織概要”. 呉市. 2016年11月28日閲覧。

関連項目
呉市にある日本遺産に関連する文化財一覧

海上自衛隊呉史料館

呉市海事歴史科学館

海軍墓地

外部リンク
旧呉海軍墓地 長迫公園 - 呉市

呉海軍墓地- 呉海軍墓地顕彰保存会
(wikiより)

〇 呉海軍墓地合祀碑一覧

1. 軍艦厳島乗組員之碑 ( 軍艦厳島乗組員之碑 )


2. 軍艦比叡戦没者之碑 ( 軍艦比叡戦没者之碑 )


3. 軍艦天龍 ( 軍艦天龍遭難死者紀念碑 )


4. 軍艦廣丙 ( 軍艦廣丙遭難哀悼碑 )


5. 軍艦高砂 ( 軍艦高砂戦死下士卒墓 )


6. 軍艦矢矧 ( 軍艦矢矧殉職者之碑 )


7. 駆逐艦早蕨 ( 駆逐艦早蕨殉職者之碑 )


8. 上海満州事変 ( 上海満州事変戦没者之碑 )


9. 駆逐艦深雪 ( 駆逐艦深雪殉難者之碑 )


10. 第四艦隊 ( 第四艦隊遭難殉職者之碑 )


11. 軍艦吉野 ( 軍艦吉野戦死者之碑 )


12. 大東亜戦争戦没者 ( 大東亜戦争戦没者之碑 )


13. 戦艦日向 ( 軍艦日向慰霊碑 )


14. 戦艦伊勢 ( 軍艦伊勢慰霊碑 )


15. 戦艦大和 ( 戦艦大和戦死者之碑 )


16. 戦艦扶桑 ( 戦艦扶桑戦没者慰霊碑 )


17. 航空母艦信濃 ( 軍艦信濃戦没者之墓 )


18. 航空母艦雲鷹 ( 軍艦雲鷹戦没者之碑 )


19. 航空母艦隼鷹 ( 軍艦隼鷹慰霊碑 )


20. 航空母艦飛鷹 ( 航空母艦飛鷹の碑 )


21. 軍艦加古 ( 軍艦加古戦没者慰霊碑 )


22. 軍艦青葉 ( 軍艦青葉戦没者慰霊碑 )


23. 軍艦最上 ( 重巡最上戦没者慰霊碑 )


24. 軍艦古鷹 ( 軍艦古鷹戦没者慰霊碑 )


25. 軍艦阿賀野 ( 巡洋艦阿賀野慰霊碑 )


26. 軍艦鈴谷 ( 軍艦鈴谷戦没者慰霊碑 )


27. 軍艦熊野 ( 軍艦熊野慰霊碑 )


28. 軍艦鬼怒 ( 軍艦鬼怒慰霊碑 )


29. 軍艦衣笠


30. 軍艦三隈 ( 軍艦三隈戦没者慰霊碑 )


31. 軍艦球磨 ( 軍艦球磨慰霊碑 )


32. 軍艦神通 ( 軍艦神通戦没者慰霊碑 )


33. 軍艦大井 ( 軍艦大井戦没者慰霊碑 )


34. 軍艦鹿島 ( 軍艦鹿島有終之碑 )


35. 駆逐艦島風 ( 駆逐艦島風戦没者之碑 )


36. 駆逐艦綾波 ( 駆逐艦綾波戦没者之碑 )


37. 駆逐艦敷波 ( 駆逐艦敷波戦没者慰霊碑 )


38. 駆逐艦浜風 ( 駆逐艦浜風戦没者慰霊碑 )


39. 駆逐艦陽炎 ( 駆逐艦陽炎之碑 )


40. 駆逐艦谷風 ( 第17駆逐隊(谷風、浦風、浜風、磯風、雪風、初霜)之碑 )


41. 駆逐艦浦風 ( 第17駆逐隊(谷風、浦風、浜風、磯風、雪風、初霜)之碑 )


42. 駆逐艦桑 ( 駆逐艦桑戦没者之碑 )


43. 駆逐艦磯風 ( 第17駆逐隊(谷風、浦風、浜風、磯風、雪風、初霜)之碑 )


44. 駆逐艦雪風 ( 第17駆逐隊(谷風、浦風、浜風、磯風、雪風、初霜)之碑 )


45. 駆逐艦初霜 ( 第17駆逐隊(谷風、浦風、浜風、磯風、雪風、初霜)之碑 )


46. 駆逐艦浦波 ( 駆逐艦浦波慰霊碑 )


47. 駆逐艦椿 ( 駆逐艦椿戦没者慰霊碑 )


48. 駆逐艦叢雲 ( 駆逐艦叢雲慰霊碑 )


49. 駆逐艦東雲 ( 駆逐艦東雲慰霊碑 )


50. 駆逐艦天津風 ( 駆逐艦天津風之碑 )


51. 駆逐艦白雲 ( 駆逐艦白雲慰霊碑 )


52. 駆逐艦夏潮 ( 第15駆逐隊(夏潮、早潮、親潮、黒潮、陽炎)慰霊碑 )


53. 駆逐艦早潮 ( 第15駆逐隊(夏潮、早潮、親潮、黒潮、陽炎)慰霊碑 )


54. 駆逐艦親潮 ( 第15駆逐隊(夏潮、早潮、親潮、黒潮、陽炎)慰霊碑 )


55. 駆逐艦黒潮 ( 第15駆逐隊(夏潮、早潮、親潮、黒潮、陽炎)慰霊碑 )


56. 駆逐艦呉竹 ( 駆逐艦呉竹慰霊碑 )


57. 駆逐艦秋風 ( 駆逐艦秋風慰霊碑 )


58. 駆逐艦吹雪 ( 第11駆逐隊(吹雪、白雪、初雪、深雪)慰霊碑 )


59. 駆逐艦白雪 ( 第11駆逐隊(吹雪、白雪、初雪、深雪)慰霊碑 )


60. 駆逐艦初雪 ( 第11駆逐隊(吹雪、白雪、初雪、深雪)慰霊碑 )


61. 呉鎮守府潜水艦戦没者 ( 呉鎮守府潜水艦戦没者之碑 )


62. 伊号第8潜水艦 ( 伊号第8潜水艦之碑 )


63. 伊号第11潜水艦 ( 伊号第11潜水艦之碑 )


64. 伊号第27潜水艦 ( 呉鎮守府潜水艦戦没者之碑 )


65. 伊号第29潜水艦 ( 伊29潜戦没者慰霊碑 )


66. 伊号第30潜水艦 ( 呉鎮守府潜水艦戦没者之碑 )


67. 伊号第31潜水艦 ( 呉鎮守府潜水艦戦没者之碑 )


68. 伊号第32潜水艦 ( 呉鎮守府潜水艦戦没者之碑 )


69. 伊号第33潜水艦 ( 呉鎮守府潜水艦戦没者之碑 )


70. 伊号第34潜水艦 ( 呉鎮守府潜水艦戦没者之碑 )


71. 伊号第35潜水艦 ( 呉鎮守府潜水艦戦没者之碑 )


72. 伊号第37潜水艦 ( 呉鎮守府潜水艦戦没者之碑 )


73. 伊号第38潜水艦 ( 呉鎮守府潜水艦戦没者之碑 )


74. 伊号第52潜水艦 ( 呉鎮守府潜水艦戦没者之碑 )


75. 伊号第54潜水艦 ( 呉鎮守府潜水艦戦没者之碑 )


76. 伊号第55潜水艦 ( 呉鎮守府潜水艦戦没者之碑 )


77. 伊号第56潜水艦 ( 呉鎮守府潜水艦戦没者之碑 )


78. 伊号第70潜水艦 ( 呉鎮守府潜水艦戦没者之碑 )


79. 伊号第73潜水艦 ( 呉鎮守府潜水艦戦没者之碑 )


80. 伊号122潜水艦 ( 伊号第122潜水艦戦没者慰霊碑 )


81. 伊号第123潜水艦 ( 呉鎮守府潜水艦戦没者之碑 )


82. 伊号第168(68)潜水艦 ( 呉鎮守府潜水艦戦没者之碑 )


83. 伊号第169(69)潜水艦 ( 呉鎮守府潜水艦戦没者之碑 )


84. 伊号第171(71)潜水艦 ( 呉鎮守府潜水艦戦没者之碑 )


85. 伊号第172(72)潜水艦 ( 呉鎮守府潜水艦戦没者之碑 )


86. 伊号第174(74)潜水艦 ( 呉鎮守府潜水艦戦没者之碑 )


87. 伊号第175(75)潜水艦 ( 呉鎮守府潜水艦戦没者之碑 )


88. 伊号第176(76)潜水艦 ( 呉鎮守府潜水艦戦没者之碑 ) 


89. 伊号第351潜水艦 ( 呉鎮守府潜水艦戦没者之碑 )


90. 伊号363潜水艦 ( 伊363潜殉職者之碑 )


91. 呂号第103潜水艦 ( 呉鎮守府潜水艦戦没者之碑 )


92. 呂号第104潜水艦 ( 呂号第104潜水艦之碑 )


93. 呂号第105潜水艦 ( 呉鎮守府潜水艦戦没者之碑)


94. 呂号第112潜水艦 ( 呉鎮守府潜水艦戦没者之碑)


95. 呂号第113潜水艦 ( 呉鎮守府潜水艦戦没者之碑)


96. 呂号第114潜水艦 ( 呉鎮守府潜水艦戦没者之碑)


97. 潜水母艦長鯨 ( 潜水母艦戦没者慰霊碑 )


98. 第31潜水艦基地隊 ( 第31潜水艦基地隊戦没者慰霊碑 )


99. 敷設艦初鷹 ( 軍艦初鷹慰霊碑 )


100. 工作艦明石


101. 特務艦朝日 ( 工作艦朝日,山彦丸,山霜丸合同慰霊碑 )


102. 工作艦山彦丸 ( 工作艦朝日,山彦丸,山霜丸合同慰霊碑 )


103. 工作艦山霜丸 ( 工作艦朝日,山彦丸,山霜丸合同慰霊碑 )


104. 特務艦間宮 ( 特務艦間宮戦没者慰霊碑 )


105. 特務艦第3号輸送艦 ( 第参号輸送艦戦没者慰霊之碑 )


106. 特務艦第113号輸送艦 ( 第113号輸送艦慰霊碑 )


107. 海防艦第82号 ( 第82号海防艦戦没者慰霊碑 )


108. 海防艦稲木 ( 海防艦稲木戦没者慰霊碑 )


109. 駆潜艇第34号 ( 第34号駆潜艇戦没者慰霊碑 )


110. 特設駆潜艇第18日東丸 ( 特設駆潜艇第18日東丸戦没者慰霊碑 )


111. 掃海艇第13号(第11掃海隊)( 第11掃海隊13,14,15,16,17,18慰霊碑 )


112. 掃海艇第14号(第11掃海隊)( 第11掃海隊13,14,15,16,17,18慰霊碑 )


113. 掃海艇第15号(第11掃海隊)( 第11掃海隊13,14,15,16,17,18慰霊碑 )


114. 掃海艇第16号(第11掃海隊)( 第11掃海隊13,14,15,16,17,18慰霊碑 )


115. 掃海艇第17号(第11掃海隊)( 第11掃海隊13,14,15,16,17,18慰霊碑 )


116. 掃海艇第18号(第11掃海隊)( 第11掃海隊13,14,15,16,17,18慰霊碑 )


117. 呉6特レンドバ島派遣隊 ( レンドバ島派遣隊戦没者慰霊碑 )


118. 第32特別根拠地隊 ( 第32特別根拠地隊戦没者慰霊碑 )


119. 第33警備隊 ( 第33警備隊戦没者慰霊碑 )


120. 第531航空隊 ( 第531海軍航空隊慰霊碑 )


121. 第634,934航空隊 ( 第634、第934海軍航空隊慰霊碑


122. 呉海軍設営隊 ( 呉海軍設営隊顕彰慰霊碑 )


123. 第103工作部 ( 第103海軍工作部戦没者之碑 )


124. 呉第1特別陸戦隊(善本中隊)( 善本野戦高射砲中隊戦没者慰霊碑 )


125. 第12防空隊 ( ソロモン方面第12防空隊慰霊碑 )


126. ショートランド島(第13防空隊)( ショートランド島戦没者慰霊碑 )


127. 第16防空隊 ( 第16防空隊戦没者慰霊碑 )


128. 第17防空隊 ( 呉鎮守府第17防空隊慰霊碑 )


129. 呉6特(バラレ島)( 呉6特バラレ島戦没者慰霊碑 )


130. 昭和15年徴主主計科 ( 昭和15年徴募主計科戦没者慰霊碑 )


131. 第634航空隊(基地隊)( 第634海軍航空隊基地隊慰霊碑 )


132. 呉海軍看護合葬碑 ( 看護の碑 )


133. 柔道部員之碑 ( 大東亜戦争海軍戦没者柔道部員之碑 )


134. 英国水兵の墓 ( 英国水兵の墓碑 )

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⇧ パンフレットの地図

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雲鷹(うんよう)は、日本海軍航空母艦[5][22]

概要

軍艦雲鷹(うんよう)は日本海軍の航空母艦(空母)[23][24]1940年(昭和15年)7月末に竣工した日本郵船所有の新田丸級貨客船2番船八幡丸(やはたまる/やわたまる)を[25]太平洋戦争直前に日本海軍が徴用および買収、空母に改造した艦艇である[26]大鷹型航空母艦としても2番艦である[27]。八幡丸の建造費用は政府の優秀船舶建造助成施設の適用を受けており、有事には徴用・改装されることがあらかじめ決められていた[28][29]。なお大鷹型航空母艦は小型で速力も20-22ノット程しか発揮できず[30]太平洋戦争中盤までは航空機輸送任務に従事した[31]


八幡丸は1940年(昭和15年)7月31日に貨客船として竣工後、約一年間、商船として運用された[32]1941年(昭和16年)11月25日付で特設航空母艦に類別[2]呉海軍工廠で空母改造に着手し[32]1942年(昭和17年)5月末に竣工[23][33]。八幡丸の最初の任務は、第二航空隊零式艦上戦闘機九九式艦上爆撃機ラバウル輸送であった[34]


八幡丸は8月31日付で軍艦籍に編入され[5][35]、特設空母八幡丸から軍艦(航空母艦)雲鷹となった[32][36]。大鷹型空母は航空機輸送艦として奔走、雲鷹はトラック島に17回、ラバウル方面2回、東南アジア方面2回の輸送を実施した[37]


1943年
(昭和18年)11月15日に海上護衛総司令部が設立されると[38]、本艦以下大鷹型空母は同部隊に編入される[24][39]1944年(昭和19年)1月19日、雲鷹はアメリカ海軍潜水艦ハダックの魚雷攻撃を受けて大破[23][40]。辛うじて横須賀へ帰投後、8月まで修理を実施した[41]。同年8月24日のヒ73船団護衛が、護衛空母としての初任務になった[33][42]。日本からシンガポールへの往路は無事だったが、折り返して日本へ向かうヒ74船団を護衛中の9月17日[42]、南シナ海でアメリカの潜水艦バーブの雷撃で[32][33]沈没した[43][44]

歴史
建造前

雲鷹の前身である八幡丸(やはたまる)は[5]、昭和初期に好況を博していた欧州航路の老齢船を置き換える目的で、またドイツの新型貨客船3隻(シャルンホルストグナイゼナウポツダム)に対抗しつつ1940年(昭和15年)開催予定の東京オリンピックを見込んで、日本郵船が建造した豪華客船新田丸級三姉妹船の第3船であった[45][46]。新田丸級三姉妹船(新田丸、八幡丸、春日丸)は、日本郵船を象徴する客船であり、日本郵船株式会社のイニシャル“NYK”に因んでそれぞれNittamaru, Yawatamaru, Kasugamaruと命名されている[46]。建造費用は優秀船舶建造助成施設による補助を受けていた[46]。また3隻とも三菱長崎造船所で建造され、新田丸、八幡丸、春日丸の順番で建造された[46]。新田丸と八幡丸は短期間ながら客船として活動した[46]。春日丸は客船として就役することなく最初から空母として竣工したため[46]、本型は最初に完成した春日丸をネームシップとして春日丸級特設航空母艦と呼称されている[47]

詳細は「新田丸級貨客船」を参照


第二船の八幡丸は、三菱長崎造船所で1938年(昭和13年)12月14日に起工[48]1939年(昭和14年)10月31日、進水[48]。1940年(昭和15年)7月31日、竣工[48][49]。シアトル航路で一航海ののち、サンフランシスコ航路に就航した。予想される日米の艦隊決戦に際して、大鷹型航空母艦(春日丸級航空母艦)は艦隊用補助空母としての役割を期待されていた[50][51]。しかし本型は小型で速度も遅く[52]、さらに日本海軍が終戦まで空母用カタパルトを実用化できなかった事は、運用に大きな制約をあたえた[53][51]。空母用カタパルトを装備した連合国軍の軽空母護衛空母と比較して、本型の航空機運用能力は非常に見劣りするものとなり、本格的な海戦に投入される事は一度もなかった[53][51]


1941年(昭和16年)11月22日、日本海軍は八幡丸を徴用する[54]。11月25日、特設航空母艦として呉鎮守府所管となった[2]。 同日附で、駒澤克己大佐(当時、水上機母艦〈甲標的母艦〉日進艤装員長)は、日進艤装員長と八幡丸艤装員長の兼務を命じられた[55]。12月10日、駒澤大佐(日進艤装員長、八幡丸艤装員長)は兼務を解かれる[注釈 5]。八幡丸艤装員長は湊慶譲大佐となった[56]。 空母改造着手の時期について、1941年(昭和16年)11月下旬とする資料[46][57]、1942年(昭和17年)1月とする資料がある[52][58]

1942年

1942年(昭和17年)5月10日、井上良雄中佐(5月5日まで駆逐艦萩風艦長)[59]は、八幡丸副長に任命される[60]。5月31日、改造完成[49][61]。連合艦隊付属となる[57]


空母に改造され春日丸級特設航空母艦となった八幡丸の最初の任務は、1942年(昭和17年)7月末~8月上旬のラバウル向け第二航空隊の航空機輸送任務だった[62][注釈 6]。7月下旬、八幡丸と駆逐艦峯雲(第9駆逐隊)[注釈 7]は内海西部から横須賀へ移動する[65]。 7月29日、八幡丸は零式艦上戦闘機 16機と九九式艦上爆撃機 16機を搭載、第7駆逐隊([66]に護衛されて横須賀を出発する[57]8月6日ニューブリテン島ラバウル近海で、八幡丸は敵双発爆撃機(機種不明)から攻撃される[注釈 8]。 同6日、二空の零戦15(二号零戦)と艦爆16機はラバウル進出を完了した[34]。ラバウルから来た駆逐艦秋風(第34駆逐隊)は、二空の整備員を収容した[67][68]。 翌7日、連合軍はウォッチタワー作戦によりフロリダ諸島ガダルカナル島に来襲し、ガダルカナル島の戦いが始まった[69]。八幡丸が輸送した零戦と艦爆は、第五空襲部隊指揮官(第二十五航空戦隊司令官山田定義少将)の下令により、ただちにガ島戦に投入された[70][71]


なおラバウルを偵察したB-17は、この海域に日本軍の空母1隻を発見していた[72]。米海軍情報部は「この空母は改装空母で、航空機輸送艦だろう」と推定したが、連合国軍上陸部隊(アメリカ海兵隊)を支援していた第61任務部隊(司令官フランク・J・フレッチャー中将)は違う受け止め方をした[72]正規空母3隻(サラトガエンタープライズワスプ)を擁する第61任務部隊は、日本空母に対する攻撃準備や上空防衛に労力を割いた挙句[73]、上陸部隊と輸送船団に対する掩護を打ち切って撤退した[74][注釈 9]


ラバウルへの航空機輸送任務を終えた八幡丸は、8月9日ウルシー環礁へ到着、13日から14日、呉へ戻った[75][注釈 10]。 水雷艇の協力を得て[78]、8月末まで九州佐伯沖合で八幡丸は着艦訓練をおこなう[79][80]


8月31日[54]、特設航空母艦八幡丸と春日丸は、それぞれ軍艦雲鷹(ウンヨウ)および大鷹(タイヨウ)と改名される[5][61]。2隻は同31日付で正規の航空母艦となった[32][3]。雲鷹は呉鎮守府籍となる[35][81]。湊大佐の役職も、八幡丸艦長から雲鷹艦長になった[82]。 ひきつづき連合艦隊附属[83]。艦容に変化はなく、内地と前線を往復して航空機輸送任務に従事した[33]


9月初旬[84]、雲鷹と駆逐艦磯波(第19駆逐隊)は呉から横須賀に移動する[85][86]。9月4日、雲鷹は物資輸送を兼ねて横須賀を出港する[87][注釈 11]。第16駆逐隊の駆逐艦雪風に護衛され[61]、トラック泊地へ向かった[89]。 トラック泊地で、搭載中の陸軍兵や弾薬を第7駆逐隊に移載する予定であった[注釈 12]9日朝、第34駆逐隊の駆逐艦秋風はトラック泊地北方に潜望鏡を発見し対潜警戒警報を発令、連合艦隊は戦艦大和陸奥、巡洋艦香取(第六艦隊旗艦)以下トラック在泊艦艇に転錨を命じた[注釈 13][92]。哨戒機と駆逐艦は爆雷を投下する[93]。戦艦・機動部隊・重巡部隊の各隊各艦はただちに停泊地を変更し、宇垣纏連合艦隊参謀長が『最も難物』と心配していた工作艦明石も横抱きした損傷艦3隻を自力航行させたのち移動した[93]。午後3時、トラック泊地に到着した雲鷹も警戒機を発進させたが敵潜を発見できず、結局秋風がトラック泊地へ接近中の雲鷹のマストを潜望鏡と誤認したものであったという[94]18日[61]、雲鷹隊(雲鷹、)は呉に帰投した[95][96]


南東方面での戦闘が激しくなるにつれて航空機の消耗は甚大となり、大鷹型空母は航空機輸送任務に奔走する[97][98][99]。だが、航空機輸送任務中の航空母艦は、暗号解読により待ち伏せている米潜水艦に幾度も襲撃された。11月10日、ラバウルに派遣予定の一式戦闘機輸送任務[注釈 14]に従事していた雲鷹は、暗号解読により待ち伏せていたアメリカ潜水艦シーウルフ (USS Seawolf, SS-197) に狙われた[103]。雲鷹を翔鶴型航空母艦と誤認したシーウルフは追跡をおこなうが、同艦は機関故障をおこして襲撃を断念、各方面に情報を発信して真珠湾へ帰投した[103]。同海域にはシーウルフの他に潜水艦シール (USS Seal, SS-183) も行動していたが、雲鷹を襲うことはなかった[103]

1943年

1943年(昭和18年)1月28日、雲鷹艦長は湊大佐から相徳一郎大佐に交代[104]。4月14日、相徳大佐は重巡洋艦最上艦長へ転任、後任の雲鷹艦長は関郁乎大佐となる[105]


5月8日、大和型戦艦大和、第五戦隊(妙高羽黒)、空母2隻(雲鷹、冲鷹)、駆逐艦複数隻[注釈 15]はトラックを出発する[109]13日、横須賀着(大和は呉)[110][111]。5月下旬、大鷹型空母2隻(雲鷹、冲鷹)は横須賀~トラック間を往復する[112]


6月10日、横須賀を出港した空母飛鷹と駆逐艦2隻(有明夕暮)はアメリカ潜水艦トリガー (USS Trigger, SS-237) から襲撃され[113][114]、被雷して航行不能となった飛鷹は軽巡五十鈴[115](第十四戦隊)[116]に曳航されて横須賀へ帰投した[117][118]16日、第三戦隊司令官栗田健男中将の指揮下[119]、戦艦2隻(金剛榛名)、第七戦隊(熊野鈴谷[120]、軽巡五十鈴[115](第十四戦隊)[116]、空母3隻(龍鳳、雲鷹、冲鷹)、駆逐艦複数隻[注釈 16]は横須賀を出発する。 6月20日、暗号解読により待ち伏せていたアメリカ潜水艦スピアーフィッシュ (USS Spearfish, SS-190) が日本軍空母(個艦不明)に対し魚雷4本を発射するが、速力を見誤っていたので命中しなかった[注釈 17]。翌21日、日本艦隊はトラックに到着した[123]。空母2隻(雲鷹、冲鷹)等は、一旦横須賀に戻った。


7月上旬、雲鷹はマーシャル諸島への航空機輸送任務に従事する[124]。第二〇一海軍航空隊の零式艦上戦闘機 45機と、第五五二海軍航空隊の九九式艦上爆撃機 27機、計82機を搭載する[124]。7月6日[57]、特設巡洋艦愛国丸と共に横須賀を出発した[124][125]。7月10日、アメリカ潜水艦ハリバット (USS Halibut, SS-232) が愛国丸に魚雷6本を発射する[126]。魚雷1本が命中し、愛国丸が小破した[127]。翌11日、雲鷹隊はトラック泊地に到着した[126]19日、雲鷹は龍鳳と共にトラック泊地を出発、24日横須賀に到着した[57][124]


7月31日、雲鷹は第二水雷戦隊司令官高間完少将(旗艦長良)の指揮下に入り、3隻(長良、雲鷹、)で横須賀を出発する[128][129]。 8月1日、呉からトラックへむかう大和型戦艦武蔵(連合艦隊司令長官古賀峯一司令長官座乗)[130]と護衛部隊に合流する[注釈 18]4日、暗号解読により待ち伏せていたアメリカ潜水艦スティールヘッド (USS Steelhead, SS-280) に発見された[133]。翌日未明、スティールヘッドが雲鷹に対し魚雷6本、戦艦に対し魚雷4本を発射したものの早爆に終わった[133]。トラック泊地の九七式艦上攻撃機(対潜哨戒機、レーダー未搭載)は夜間のため基地で休息しており、敵潜の雷撃を防ぐことができなかった[133]5日、艦隊はトラックに到着した[134][135]。雲鷹と曙は連合艦隊附属となる[134]。雲鷹は重巡鳥海および野分と白露と行動を共にし[136]、一旦内地へ戻った[57]8月18日付で井上良雄大佐(雲鷹副長)は第9駆逐隊司令へ転任する[137][注釈 19]。後任の雲鷹副長は志柿謙吉中佐[137]。引き続き航空機輸送任務に従事する。


10月上旬、マーシャル諸島ギルバート諸島へ配備される日本陸軍の輸送作戦が実施されることになり[139]、雲鷹は輸送部隊指揮官木村進第十一水雷戦隊司令官の指揮下に入った[140]。同月13-14日[141]、空母2隻(隼鷹、雲鷹)と駆逐艦2隻(玉波)は内海西部を出発する[142]19日[57]、隼鷹隊はトラック泊地に到着した[143][144]。雲鷹は帰路も第十一水雷戦隊に同行することになった。21日付で志柿謙吉中佐(雲鷹副長)は、空母飛鷹副長を命じられる[145]


10月31日、第十一水雷戦隊司令官指揮下、戦艦山城、航空戦艦伊勢、空母2隻(隼鷹、雲鷹)[注釈 20]、重巡洋艦利根[注釈 21]、軽巡洋艦龍田、駆逐艦4隻(第24駆逐隊〈海風涼風〉、第17駆逐隊〈谷風〉、第7駆逐隊〈〉)はトラック泊地を出発した[148]11月5日午前5時、暗号解読により豊後水道近海で待ち伏せていたアメリカ潜水艦ハリバット (USS Halibut, SS-232) は、日本輸送艦隊を襲撃した[140]。午前5時35分、ハリバットが発射した魚雷1本が隼鷹の艦尾に命中する[149]。隼鷹は利根に曳航されて日本本土に向かった[146][150]


1943年(昭和18年)11月上旬のろ号作戦ブーゲンビル島沖航空戦)で、第一航空戦隊の母艦航空隊は大幅に消耗した[151]。航空機補充のため、瑞鳳がトラック泊地より横須賀に帰投した[152]。11月16日、空母3隻(瑞鳳、冲鷹、雲鷹)は駆逐艦(秋雲、曙、潮、漣)に護衛されて横須賀を出発、21日トラック泊地に到着した[注釈 22]11月30日、瑞鳳艦長が指揮する内地回航部隊 空母3隻(瑞鳳、雲鷹、冲鷹)、重巡洋艦摩耶[注釈 23]、第7駆逐隊、浦風(第17駆逐隊)はトラック泊地を出発した[154]。暗号を解読したアメリカ軍は、複数の潜水艦(スケートガンネル、セイルフィッシュ)に輸送船団の襲撃を命じた[152]12月4日、冲鷹がアメリカ潜水艦セイルフィッシュ[155](USS Sailfish, SS-192) の雷撃で沈没した[156][157][注釈 24]等に護衛された空母2隻(瑞鳳、雲鷹)は、横須賀に帰投した[159]


12月15日海上護衛総司令部麾下に第九〇一海軍航空隊が編制された[160]。同15日付で空母3隻(雲鷹、海鷹、大鷹)は海上護衛総司令部部隊に編入[161]12月20日には空母神鷹(ドイツ客船シャルンホルスト改造空母)も編入された[162][163]。だが雲鷹は連合艦隊の麾下にあって輸送任務に従事しており、この時点で海上護衛部隊として行動する機会はなかった[164]

1944年
航空機輸送

1944年(昭和19年)1月4日、瑞鳳と雲鷹は第6駆逐隊()に護衛されて横須賀を出発、9日トラック泊地に到着した[注釈 25]。空母2隻は零式水上偵察機4機、零式観測機8機、二式水上戦闘機6機、天山艦上攻撃機7機、合計25機を輸送した[166]。この後、雲鷹は第二水雷戦隊司令官早川幹夫少将の指揮下に入る[40]。 軽巡洋艦(二水戦旗艦)能代、空母2隻(瑞鳳、雲鷹)、駆逐艦3隻(早波若葉初霜)という編成で1月18日にトラック泊地を出発、先行隊(五十鈴、初春)を追って横須賀へ向かう[167]。日本空母出撃の情報を得たアメリカ海軍は、サイパン島東方で行動中の潜水艦3隻(ハリバット、タリビー、ハダック)に迎撃を命じた[168]


1月19日
10時37分[169]、雲鷹は米潜ハダック (USS Haddock, SS-231) の魚雷攻撃を受けた。魚雷6本を発射し、ハダックの艦長は翔鶴型航空母艦を撃破したと報告した[168]。被雷位置北緯12度52分 東経146度26分 / 北緯12.867度 東経146.433度 / 12.867; 146.433[170]。雲鷹には魚雷3本が命中[41]、特に艦首・艦前部の損傷により速力は4ノットに低下(機関部には異常なし)[40]、瑞鳳隊(瑞鳳、若葉)は先行して横須賀へ帰投する[171]。本艦は3隻(能代、早波、初霜)に護衛されてサイパンへ避退する[41](1月20日到着)[172]。同地で、雲鷹は能代に繋留された[171][173]。同日、工作艦明石の工員と排水ポンプを乗せた駆逐艦海風(第24駆逐隊)がサイパンに到着する[174]。また損傷状況調査のため連合艦隊司令部付の塩山策一技術大佐もサイパンへ派遣され、対応を協議している[175]21日、二水戦(能代、早波)は海風と哨戒護衛任務を交代し、横須賀へ向かった[176]22日朝、駆逐艦皐月(第22駆逐隊)がサイパンに到着した[177]


1月24日、連合艦隊は、駆逐艦海風、皐月を雲鷹の警戒に任じ、駆逐艦初霜のトラック帰投を発令する[178]。だが24駆司令の要請により海風と初霜を入れ替えることになった[179]25日、潜水艦ハリバットが泊地に侵入して雲鷹を雷撃しようとしたが、警戒が厳しく皐月にも攻撃されたため諦めて去った[180][166]26日、第7駆逐隊(潮、曙)がサイパンに到着、雲鷹に合同した[181]27日、雲鷹隊はサイパンを出発した[182]


一方、瑞鳳隊は横須賀へ帰投したのち、空母2隻(瑞鳳千代田)、重巡洋艦高雄、駆逐艦3隻(初春若葉玉波)という戦力で、1月29日に横須賀を出港した[183]。すると連合艦隊より重巡高雄に対し雲鷹救援命令が発せられ、高雄と玉波は瑞鳳隊から分離する[184]2月1日午前11時、高雄と玉波は、サイパンより内地へむかう雲鷹隊(雲鷹、潮、曙、初霜、皐月)と合同した[185]。玉波は瑞鳳隊の護衛に戻った[186]。雲鷹隊はアメリカの潜水艦2隻(ガジョンソーリー)に狙われて幾度も雷撃された[41]2日、初霜は雲鷹の警戒中、潜水艦と会敵し、爆雷攻撃を実施する[187]。これに悪天候も加わって、高雄による雲鷹曳航の試みは全て失敗した[188]。幾度も襲撃を行うアメリカ潜水艦に対し、高雄は戦闘詳報の中で「敵潜ハ盲目蛇ニ怖ジザル呆氣者カ或ハ人ヲ舐メテ懸ッタ勇敢ナル者カ」と前置きし、「おそらく後者であろう」と推測している[189]。雲鷹は前進することさえできず、ほとんど漂流状態であった[190]。このような状況下、敷設艇猿島や駆逐艦白雲等の支援艦艇が漸次雲鷹隊に合流するが[191]、当初の護衛部隊は燃料不足に陥り、また爆雷や食料品・燃料補給のため、次々に横須賀へ回航される[192][193]5日、白雲は北方部隊(第五艦隊)の命令により大湊へ回航された[194]6日、高雄も燃料不足になり、先行していた初霜と合流して横須賀へ戻った[195]夕雲型駆逐艦沖波岸波が雲鷹護衛を引き継ぎ[196]、横須賀からも第7駆逐隊(潮、曙)が再出撃する[197]。横須賀で補給を終えた高雄と初霜は、横須賀工廠の救難部隊をのせて7日早朝に雲鷹隊と合同する[198]。同日夜、雲鷹と高雄以下の護衛部隊は東京湾に到着した[199]。 高雄は雲鷹護衛時の経験から、大型囮艦(損傷艦に偽装)・精鋭護衛艦・利根型重巡洋艦の連繋により「潜水艦狩り」を行ってはどうかと提言している[200][注釈 26]

詳しいことは、「雲鷹 (空母)ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%B2%E9%B7%B9_(%E7%A9%BA%E6%AF%8D)
(wikiより)

79   軍艦雲鷹

雲鷹

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79c

79d



大和(やまと)[5]は、大日本帝国海軍が建造した大和型戦艦の1番艦[6]。2番艦の武蔵とともに、史上最大にして唯一46センチ砲を搭載した超弩級戦艦呉海軍工廠で建造。


昭和20年(1945年)4月7日、沖縄海上特攻作戦に旗艦として参加し、アメリカ軍艦載機約300機に攻撃され坊ノ岬沖で沈没した。

概要

戦艦 大和は、大和型戦艦1番艦[6]。大和の艦名は奈良県旧国名大和国、あるいは日本の古称・別称・雅称に由来する[7]。艦名は、明治・大正時代の海防艦/特務艦大和[8]に続いて二代目。


大和は、戦艦として史上最大の排水量に史上最大の46cm主砲3基9門を備え、防御面でも、指揮系統の集中する重要区画(バイタルパート)では対46cm砲防御を施した軍艦であった。設計はもちろん、ブロック工法の採用など施工においても当時の日本の最高の技術が駆使された。しかし、その存在で特に46cm主砲の搭載が最高軍事機密であったので、建設時から秘匿に力が注がれ、また完成が数日差ながらすでに戦時中になっていたことや、さらに敗戦前後に設計図含め多くの記録が焼却処分されたためにその姿をとらえた現存写真は非常に少なくなっている。


太平洋戦争
大東亜戦争)開戦直後の1941年(昭和16年)12月16日に就役[9]1942年(昭和17年)2月12日連合艦隊旗艦となった(司令長官山本五十六大将)[10]。6月上旬のミッドウェー作戦が初出撃となった。1943年(昭和18年)2月、司令部設備に改良が施された同型艦の武蔵がトラック島に進出し、武蔵に連合艦隊旗艦任務を移譲した。同年末、大和は輸送作戦中にアメリカの潜水艦の雷撃で小破した。 修理・改装後、1944年(昭和19年)6月の渾作戦マリアナ沖海戦に参加した。同年10月中旬以降の捷一号作戦で、アメリカ軍の護衛空母部隊(タフィー3)に対し46cm主砲砲撃を実施した(レイテ沖海戦)。1945年(昭和20年)4月7日天一号作戦において第二艦隊第一航空戦隊)旗艦として麾下の第二水雷戦隊と共に沖縄方面へ出撃したがアメリカ軍の機動部隊の猛攻撃を受け、坊ノ岬沖で撃沈された。爆撃や魚雷を多数受けたが、対空防御、対水雷防御の両面において、特攻作戦を行わなければ十分な防御能力があった。

大和・武蔵に共通する特徴については「大和型戦艦」を参照

沿革・艦歴
建造

大和型戦艦#建造」および「大和型戦艦#機密保持」も参照


ロンドン海軍軍縮条約の失効を1年後に控えた1937年(昭和12年)、失効後にアメリカ・イギリス海軍が建造するであろう新型戦艦に対抗しうる艦船を帝国海軍でも建造することが急務とみた軍令部は、艦政本部に対し主砲として18インチ砲(46センチ砲)を装備した超大型戦艦の建造要求を出した。この要求を満たすべく設計されたのが「A140-F6」、すなわち後の大和型戦艦である。「A140-F6」型は2隻の建造が計画され、それぞれ「第一号艦」「第二号艦」と仮称された[11]。しかし当時すでに航空主兵論が提唱され始めていたこともあり、山本五十六ら航空主兵論の将校からはそうした大型艦の建造が批判されていた[12]


1937年(昭和12年)8月21日、米内光政海軍大臣から第一号艦製造訓令「官房機密第3301号」が出ると[13]、5年後の1942年(昭和17年)6月15日[14]を完成期日としてここに第一号艦の建造が始動した。同年11月4日には広島県呉市呉海軍工廠造船船渠で起工[15]長門型戦艦1番艦長門天城型巡洋戦艦2番艦赤城(空母)を建造した乾ドックは大和建造のために1メートル掘り下げて[16]、長さ314メートル、幅45メートル、深さ11メートルに拡張された[17]。イギリスやアメリカにこの艦を超越する戦艦を作られないように建造は秘密裏に進められ、設計者たちに手交された辞令すらその場で回収される程だった[18]。また艦の性能値も意図的に小さく登録された[19]

機密保持は厳重を極めた[20]。造船所を見下ろせる所には板塀が設けられ、ドックには艦の長さがわからないよう半分に屋根を架け、船台の周囲には魚網などに使われる棕櫚(しゅろ)を用いたすだれ状の目隠しが全面に張り巡らされた[21]。全国から膨大な量の棕櫚を極秘に買い占めたために市場での著しい欠乏と価格の高騰を招き、大騒ぎになったという逸話が残っている[要出典]。建造に携わる者には厳しい身上調査が行われた上、自分の担当以外の部署についての情報は必要最小限しか知ることができないようになっていた[22]造船所自体が厳しい機密保持のために軍の管制下に置かれた[23]。建造ドックを見下ろす山でも憲兵が警備にあたっていた。しかし海軍関係者の間で巨大戦艦建造の事実そのものは公然の秘密だった[24]海軍兵学校の生徒を乗せた練習機が大和の上空を飛び、教官が生徒達に披露したこともあったという[25]。大和型戦艦建造の際の機密保持については、多くの建艦関係者が行き過ぎがあったことを指摘している[26]


1940年(昭和15年)3月3日、海軍はマル3計画1号艦の艦名候補として『大和』と『信濃』を挙げ、3月6日に昭和天皇は『大和』を選択した[27][28]。軍艦の命名は、海軍大臣が複数の候補を選定して天皇の治定を仰ぐことが定められていた[29]。天皇の決定をうけて吉田善吾海軍大臣は「第一号艦」を大和(やまと)と命名した[5]。なお同日附でマル3計画の各艦艦名、武蔵(2号艦)、翔鶴(3号艦)、瑞鶴(4号艦)も決定している[27]


同年8月8日進水[30][31]。ただし進水といっても武蔵(三菱長崎造船所建造)のように陸の船台から文字通り進水させるのではなく、大和の場合は造船ドックに注水してから曳船によって引き出す形で行われた[30]。しかも機密保持からその進水式は公表されることもなく、高官100名と進水作業員1000名が見守るだけで、世界一の戦艦の進水式としては寂しいものだった[32]昭和天皇海軍兵学校の卒業式出席という名目で大和進水式に行幸する予定が組まれ、造船関係者は社殿風の進水台を制作する[30]。結局は天皇の義兄にあたる久邇宮朝融王海軍大佐(香淳皇后の兄、当時海防艦八雲艦長)臨席のもとで進水式は行われた[30][33]。海軍大臣代理として式に臨んだ嶋田繁太郎海軍中将は、それまで仮称「一号艦」と呼ばれていたこの巨艦のことを初めて、ただし臨席者にも聞き取り難いほどの低い声で、大和と呼んだ[34]。造船関係者は葛城型スループ2隻(大和武蔵)が既に廃艦になっていることから新型戦艦(本艦)の艦名を大和と予測、橿原神宮千代田城二重橋を描いた有田焼風鈴を500個制作、関係者のみに配布した[35]。 8月11日、帰京した朝融王は天皇に大和進水式について報告した[33]


大和進水後のドックでは大和型4番艦111号艦の建造がはじまったが、大和の艤装工事に労力を割いたため111号艦の進捗は遅れた[36]。一方の大和は前述のように1942年6月の竣工を目指して艤装工事を続けたが、日本海軍は本艦の完成時期繰り上げを命令[14]

1941年(昭和16年)10月18日、土佐沖で荒天(風速南西20m)の中で速力27.4ノットを記録[14]。続いて30日に全力公試27.46ノットを記録[2]、11月25日には山本五十六連合艦隊司令長官が視察に訪れた[37]。12月7日、周防灘で主砲射撃を実施した[14]真珠湾攻撃の前日だった。12月8日、南雲機動部隊の収容掩護のため豊後水道を南下する戦艦6隻(長門、陸奥、扶桑、山城、伊勢、日向)、空母鳳翔、第三水雷戦隊以下連合艦隊主力艦隊とすれ違う[38]。 呉帰投後の第一号艦(大和)は12月16日附で竣工した[15]。同日附で第一戦隊に編入された[39]。艦艇類別等級表にも「大和型戦艦」が登録された[6]。大和の1/500模型は昭和天皇香淳皇后天覧ののち海軍省に下げ渡され[40][41]、海軍艦政本部の金庫に保管されたという[42]


大和には、当時の最新技術が多数使用されていた。日本海軍の軍艦では最初に造波抵抗を打ち消す球状艦首(バルバス・バウ)を用いて速力向上をはかり(竣工は翔鶴が先)、煙突などにおける蜂の巣構造の装甲、巨大な観測用の測距儀の装備など、進水時には世界最大最新鋭の艦型だった。就役当初レーダーは装備されていなかったが、その後電波探信儀が漸次装備されていった。 なお、副砲には条約型重巡の主砲がそのまま転用されたが、これは帝国海軍が海軍休日を破棄して条約型重巡の主砲を15センチ砲から20センチ砲に入れ替えるのを最初から計画していた、という説もある。

連合艦隊旗艦

1942年(昭和17年)2月12日、大和は連合艦隊旗艦となった[43]。参謀達はそれまで旗艦だった長門に比べ格段に向上した本艦の居住性に喜んでいる[44]。 3月30日、距離38100mで46cm主砲射撃訓練を行う[45]。第二艦隊砲術参謀藤田正路は大和の主砲射撃を見て1942年5月11日の日誌に「すでに戦艦は有用なる兵種にあらず、今重んぜられるはただ従来の惰性。偶像崇拝的信仰を得つつある」と残した[46]5月29日、大和はミッドウェー作戦により山本五十六連合艦隊司令長官が座乗して柱島泊地を出航したが、主隊として後方にいたため大和が直接アメリカ軍と砲火を交えることはなかった[要出典]。6月10日、アメリカ軍の潜水艦に対して二番副砲と高角砲を発砲した[47]。同6月14日柱島に帰投する[要出典]


大和が機動部隊と同行しなかったのは、戦前からの艦隊決戦思想と同じく空母は前衛部隊、戦艦は主力部隊という思想の元に兵力配備をしたからであり、艦艇の最高速度との直接的な関係はなかった。実際、主力空母のうち最も低速の空母加賀の速度差は殆ど0、飛鷹型航空母艦は25ノットで大和型戦艦より劣速である。ただ、飛鷹型空母は民間客船を改造した艦で、正規空母ではなく、航空母艦の護衛はより高速な艦が必要だったのは事実である。実際、空母の護衛には戦艦の中では高速戦艦に分類される金剛比叡榛名霧島が用いられることが多かった。日本海軍の主戦力が空母と認識されたのはミッドウェー海戦での敗戦を受けてのことであり、この時点では少なくとも編成上は戦艦が主力の扱いであった。


1942年(昭和17年)8月7日、アメリカ軍がガダルカナル島に来襲してガダルカナル島の戦いが始まった。8月17日、山本長官以下連合艦隊司令部を乗せた大和は、空母大鷹(春日丸)、第7駆逐隊(潮、漣、曙)と共にソロモン方面の支援のため柱島を出航する[48]。8月21日、グリメス島付近を航行し[49]、航海中に第二次ソロモン海戦が勃発した。航空機輸送のため2隻(大鷹、曙)をラバウルに向かわせたのち、3隻(大和、潮、漣)は8月28日にチューク諸島トラック泊地に入港したが[50]、入泊直前に大和はアメリカの潜水艦フライングフィッシュから魚雷4本を撃ち込まれた。2本は自爆、1本を回避している[51]。その後、トラック泊地で待機した。 9月24日、ガダルカナル島への輸送作戦をめぐって陸軍参謀辻政信中佐が大和に来艦、山本連合艦隊長官と会談する[52]。辻は大和の大きさに感嘆した[52]。だが、大和が最前線に投入されることはなかった。ヘンダーソン基地艦砲射撃に参加する案も検討されたが取りやめとなった[53]第三次ソロモン海戦では、老艦の金剛型戦艦霧島と比叡が大和と同世代のアメリカの新鋭戦艦であるサウスダコタワシントンとの砲撃戦により大破、自沈した。この点で大和型戦艦の投入をためらった連合艦隊の消極性とアメリカの積極性を比較する意見もある[54]

昭和18年の行動

1943年(昭和18年)2月11日、連合艦隊旗艦任務は大和の運用経験を踏まえて通信、旗艦設備が改良された大和型戦艦2番艦武蔵に変更された[55]。2月20日には第八方面軍司令官今村均陸軍中将が大和を訪問し、連合艦隊首脳陣と南東方面(ニューギニア方面、ソロモン諸島方面)作戦について懇談した[56]。第八方面軍は海軍の潜水艦による輸送を依頼した[56]。これは三式潜航輸送艇(通称「まるゆ」)開発につながる動きである。5月8日、空母2隻(冲鷹、雲鷹)、重巡2隻(妙高、羽黒)、駆逐艦4隻(潮、夕暮、長波、五月雨)と共にトラック出航、各艦は18日に呉や横須賀の母港へ戻った[57]。呉では対空兵器を増強し、21号電探22号電探などレーダーを装備する[58]


8月16日、主力部隊(戦艦3隻〈大和、長門扶桑〉、空母〈大鷹[59]、巡洋艦3隻〈愛宕高雄能代〉、駆逐艦部隊〈涼風海風秋雲夕雲若月天津風初風〉)は呉を出撃し、トラックへ向かう[60][61]。 ソロモン諸島では激戦が行われ戦局が悪化していたが、大和はトラック島の泊地に留まったまま実戦に参加できなかった。居住性の高さや食事などの面で優遇されていたこともあいまって、他艦の乗組員や陸軍将兵から「大和ホテル」と揶揄されている[62](当時満州に満鉄の経営する高級ホテルチェーン、ヤマトホテルがあった)。作戦行動を終えた駆逐艦が大和に横付けし、駆逐艦乗組員が大和の巨大で整った風呂を利用することも多かったという[63]。10月中旬、マーシャル諸島への出撃命令が下った[要出典]。アメリカ海軍の機動部隊がマーシャルに向かう公算ありとの情報を得たからである[要出典]。旗艦武蔵以下、大和、長門などの主力部隊は決戦の覚悟でトラックを出撃した。しかし、4日間米機動部隊を待ち伏せしても敵は来ず、10月26日にトラック島に帰港する[64][要出典]


1943年12月、大和は陸軍独立混成第一連隊をニューアイルランド島へ輸送する戊号輸送に参加[65]。大和は駆逐艦秋雲、谷風、山雲とともに戊一号輸送部隊として横須賀からトラックまでの輸送にあたることとなった[66]


12月12日、6隻(大和、翔鶴山雲秋雲風雲谷風)はトラックを出発、17日に横須賀へ帰着した[67]


人員物件を搭載して12月20日に大和、山雲、谷風は横須賀を出発したが、12月25日に大和はトラック島北西150浬でアメリカの潜水艦スケート (USS Skate, SS-305)より魚雷攻撃を受け、主砲3番砲塔右舷に魚雷1本を被雷した[68]。4度の傾斜を生じたが約770トンの注水で復元、速度を落とさず速力20ノット前後でトラック泊地へ向かった[68]。魚雷命中の衝撃を感じた者はおらず、わずかに傾斜したため異常に気づいたという[69]。一方、すぐに魚雷命中と気がついた、乗り込んだ陸軍の兵士が衝撃に驚いて大騒ぎになったという乗員の証言が残されている[70]。爆発の衝撃で舷側水線装甲背後の支持肋材下端が内側に押し込まれ、スプリンター縦壁の固定鋲が飛び、機械室と3番砲塔上部火薬庫に漏水が発生する被害を受けた[71]。浸水量は3000-4000トンである[72]。敵弾が水線鋼鈑下端付近に命中すると浸水を起こす可能性は、装甲の実射試験において指摘はされていたが重大な欠陥とは認識されていなかった[73]。工作艦の明石に配属されていた造船士官によれば、トラック泊地着後の大和は明石に「右舷後部に原因不明の浸水があり調査して欲しい」と依頼、工作部員達は注排水系統の故障を疑ったものの異常はなかった[74]。そこで潜水調査をしたところ右舷後部に長さ十数m・幅五mの魚雷破孔を発見し、驚いたという[74]。同日、トラックに到着[75]。大和から人員物件は戊三号輸送部隊へと移され、カビエンへ向かった[75]。大和はトラックで応急修理を受けた後、内地への帰還を命じられた。

レイテ沖海戦まで

1944年(昭和19年)1月10日、3隻(大和、満潮藤波)はトラック泊地を出発する[76]。15日に瀬戸内海へ到着した[77][78]。 被雷により明らかになった欠陥に対して、浸水範囲をせばめるための水密隔壁が追加されたが、装甲の継手と装甲の支持鋼材の継手とが一致してしまっているという根本的欠陥は補強する方法もなく(支持鋼材の継手に角度をつけることでクサビ効果があると設計では考えられていたが、そのとおりには機能しなかった)、元のとおりに修理されただけであった[79]。この工事と並行して、両舷副砲を撤去し、高角砲6基と機銃を増設して対空兵装の強化を図った[要出典]。 なお、スケートによる雷撃の2ヶ月後、トラック基地の偵察飛行で撮影されたネガフィルム上に見慣れぬ巨大な艦影を発見したアメリカ軍は[70]、捕虜の尋問によってそれが戦艦大和・武蔵という新型戦艦で主砲についても45cm(17.7インチ)であると資料を纏めている[70]


4月22日、大和と重巡洋艦摩耶は駆逐艦4隻(島風早霜雪風山雲)に護衛され瀬戸内海を出撃した[80]。山雲は豊後水道通過後に護衛をやめて平郡島に戻った[81][82]。早霜も途中で護衛を切り上げて横須賀に向かった[83]。 大和隊は4月26日マニラ着、29日に同地を出発する[84][85]。5月1日、リンガ泊地に到着した[86]


5月4日、第一戦隊司令官宇垣纏中将は長門から大和に移乗し、大和は第一戦隊旗艦となった[87]。6月14日、ビアク島に上陸したアメリカ軍を迎撃するため渾作戦に参加するが、アメリカ軍がサイパン島に上陸したことにより渾作戦は中止となった[88]。渾作戦部隊(第一戦隊〈大和、武蔵〉、第五戦隊〈妙高、羽黒〉、第二水雷戦隊〈能代、沖波、島風〉、第10駆逐隊〈朝雲〉、第4駆逐隊〈山雲、野分〉)は北上し、小沢機動部隊と合流した。6月15日、マリアナ沖海戦に参加。大和は栗田健男中将指揮する前衛艦隊に所属していた。6月19日、前衛艦隊上空を通過しようとしていた日本側第一次攻撃隊を米軍機と誤認、周囲艦艇とともに射撃して数機を撃墜するという失態も犯している[89]。大和は発砲していないという証言もある[90]。同日、日本軍機動部隊はアメリカ潜水艦の雷撃により空母2隻(大鳳翔鶴)を失った。 6月20日、アメリカ軍の攻撃隊に向けて三式弾27発を放った。大和が実戦で主砲を発射したのはこれが最初である[91]。6月24日に日本に戻る[92]。10日ほど在泊したのち、陸軍将兵や物資を搭載して第四戦隊・第七戦隊・第二水雷戦隊と共にシンガポールへ向かう[要出典]。7月16日、第一戦隊(大和、武蔵、長門)、駆逐艦3隻(時雨、五月雨、島風)はリンガ泊地に到着した[要出典]。この後3ヶ月間訓練を行い、10月には甲板を黒く塗装した[93]

詳しいことは、「大和 (戦艦)ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%92%8C_(%E6%88%A6%E8%89%A6)
(wikiより)

78   戦艦大和

大和

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日向ひゅうが、命名時のかな艦名表記はひうか[2])は、大日本帝国海軍戦艦伊勢型戦艦の2番艦。太平洋戦争中盤、航空戦艦に改造されたが、「航空戦艦」という呼称は便宜上のものであり、正式な艦籍は戦艦のままであった。艦名の由来は宮崎県旧国名からで、艦内神社宮崎神宮からの分神[3]。この艦名は帝国海軍ではこの艦のみで、戦後、海上自衛隊ひゅうが型護衛艦の1番艦「ひゅうが」に引き継がれた。

艦歴

海軍省は1914年(大正3年)10月12日に仮称艦名第六号戦艦を日向と命名[2]し、三菱合資会社三菱造船所(現・三菱重工長崎造船所)で1915年(大正4年)5月6日に起工[4]東伏見宮依仁親王立会いのもと1917年(大正6年)1月27日に進水[5]1918年(大正7年)4月30日、「軍艦 日向」として竣工した[6][1]


扶桑型戦艦
の4番艦として着工の予定が財政事情により大幅に遅れたため、扶桑型の欠点を改善し主砲の位置が変更されている。だが完成時には、38cm砲を搭載したクイーン・エリザベス級戦艦が既にイギリスで就役していた。歴代艦長には後に連合艦隊司令長官として捷一号作戦等を指揮した豊田副武や、航空戦艦改装案を推進し、後に第四航空戦隊司令官として日向に深く関わることになる松田千秋をはじめ、宇垣纏西村祥治など、戦史上著名な人物が多く名を連ねている。


竣工後、日向は第一艦隊第一戦隊に配備[7]1940年(昭和15年)6月22日から7月10日にかけて、満州国康徳帝(愛新覚羅溥儀)訪日の際の座乗艦としても使用された[8]。同年10月11日、横浜港沖で行われた紀元二千六百年特別観艦式に参加[9]太平洋戦争開戦時は、伊勢と共に第一艦隊第二戦隊にあり、その戦隊旗艦を務めた。

2度の砲塔爆発

就役直後の1919年(大正8年)10月24日房総沖で演習中第3砲塔の爆発事故を起こした[10]。そればかりか1924年(大正13年)9月17日には第4砲塔弾薬庫で火災が発生している[11]1942年(昭和17年)5月5日午後4時伊予灘で日向、伊勢、扶桑、山城による演習中、第七斉射を行った際に第5砲塔の爆発事故を起こした[12]。この筒内爆発事故については、その爆発の瞬間の映像が当時のニュースに現存している[注 1]。見た目では、発砲煙の様子がややおかしい程度で、外見上の損傷が目立ったものではなかった。艦橋にいた艦長や砲術科も、5番砲塔から発射された主砲弾が50mほど先の海面に落ちた事に違和感を覚えつつ、異変に気付かなかった[13]。直後、主砲発令所から5番砲塔火災発生の報告があり、直ちに火薬庫に注水して爆沈を免れるも、死者55名、重傷者8名(当初の報告では戦死51名、重傷11名。5月14日合同葬儀時は54名)を出した[14]。原因は主砲弾装填後、尾栓が完全に閉じないうちに火管から電流が流れて装薬に点火、弾丸を前方へ飛ばすはずの圧力が砲塔内に逆流したためであった[15]。火管から突然電流が流れることは、5番砲塔に特有の「癖」だったという[15]


多くの死傷者を出した日向は呉に戻り、損傷した第五砲塔を撤去。その跡に25ミリ3連装機銃を4基搭載し、また当時開発が進んでいた仮称二号電波探信儀二型(対水上22号電探)を試験的に搭載[16]。設置は5月27日に完了し、一連の作業を指導した海軍技術研究所の二階堂中将等が戦艦大和の連合艦隊司令部に挨拶している[16]。性能は良好で、宇垣纏連合艦隊参謀長は『三連装機銃四門の第五砲塔上の假装備と相俟つて、反つて現代化せるに非ずや』と感想を述べた[16]。 5月31日以降、日向はミッドウェー海戦の一環としてアリューシャン方面に進出した。この戦いで南雲機動部隊は主力空母4隻を喪失して壊滅、主力部隊は会敵することなく日本に帰還した。日向の電探は帰還途上の悪天候において艦隊の航路保持に役立ち、松田千秋艦長はレーダーの有効性を周囲に訴えている[17]


砲塔爆発2回、弾薬庫火災1回という危険極まりない事故を起こしながらも無事だったことは、戦艦河内陸奥などの爆沈の例と照らし合わせると非常に幸運であったと言える[注 2]。また、空母4隻を失うことになるミッドウェー海戦の時期に第五砲塔を事故で失ったことは、その後の日向と同型艦の伊勢の運命を大きく変えることになる。(詳細は伊勢型戦艦を参照。)

航空戦艦日向

空母戦力を補填すべく、日本海軍は扶桑型戦艦伊勢型戦艦の空母改装を決定した。だが時間的都合から扶桑型の改装は実施されず、伊勢型も全面空母改装は見送られ、後部の5番、6番の主砲を撤去して格納庫及び飛行甲板を設け、航空戦艦となった[18]。重量軽減のため、副砲の50口径三年式14cm砲を全て撤去した。副砲は陸上砲台に転用され、呉鎮守府第六特別陸戦隊重砲隊が編成されている[19]。ただし、通常の空母の半分以下の長さしかない飛行甲板では艦載機の着艦はできない。飛行甲板はもっぱら航空機整備・発艦作業用のスペースである。撤去された主砲弾薬庫の空間には、航空機用燃料と武器庫が設けられた[20]。飛行甲板は鋼板の上にコンクリートを流したものが設置された(木甲板ではない)[21]。「日向」を擁する第四航空戦隊に配備される予定の第六三四海軍航空隊は、水上偵察機瑞雲艦上爆撃機彗星二二型を主力とする部隊で、日向には彗星14機・瑞雲8機が配属される予定であった[22]。カタパルトで射出された彗星は攻撃後機体を消耗して空きのできた他空母や、近隣の陸上基地へ着陸するという運用が想定されていた。伊勢型航空戦艦とほぼ同速の空母信濃(大和型戦艦三番艦改造空母)と航空戦隊を組む予定だったという説もある[23]


日向の改装は1943年5月に開始、11月18日に完成した[24]。この間、先に航空戦艦改装を終えた伊勢は航空機格納庫に大和型戦艦の46cm砲弾を積み込み、トラック泊地に物資・弾薬輸送を行っている。日向の改造完成後は伊勢と共に第十一水雷戦隊に編入され、内地で訓練に明け暮れる日々が続いた。1944年5月1日第四航空戦隊を編成し、松田千秋少将座乗の第四航空戦隊旗艦となる[22]。6月7日に機銃増強のため呉工廠のドックに入るが、この間にアメリカ軍はサイパン島方面に来襲、日本軍との間にマリアナ沖海戦が勃発する[22]。日向と伊勢は急遽工事を中止して出撃準備を整えるが、同海戦には間に合わなかった[22]


10月、アメリカ軍はフィリピン方面に進攻を開始した。10月20日、日向は捷一号作戦に参加して日本を出撃したが、搭載予定の第634航空隊は先の台湾沖航空戦によりフィリピン方面に転用されたために、日向と伊勢は航空戦隊でありながら搭載機は1機もなかった[25]。小沢本隊の前衛部隊として松田支隊を編成、10月24日にはアメリカ艦隊との砲戦を試みるべく南下するも会敵機会に恵まれず、翌25日午前7時に本隊と再合流している[26]。25日のエンガノ岬沖海戦において本隊は空母4隻(瑞鶴瑞鳳千歳千代田)を失う大損害を被った。その後アメリカ軍機の攻撃は健在な日向と伊勢に集中したが、松田少将発案の航空攻撃回避術と、それによる両艦長の巧みな回避運動、さらに航空戦艦に改装された際に大幅に増強された対空火力の効果もあいまってアメリカ軍の攻撃を回避した。アメリカ軍機撃墜6機確実を記録、艦に重大損傷はなく1名が戦死、8名が負傷した[27]。日向は主砲三式弾112発、12.7cm高射砲弾659発、25㎜機銃弾28970発、噴進砲弾250発を発射した[28]。10月29日、日本に戻った[26]


1945年
(昭和20年)2月、戦略物資輸送作戦「北号作戦」で、カタパルトを撤去、更に機銃を一部撤去して現地部隊に引き渡し、石油・ゴム・錫などの希少な戦略物資を航空機格納庫のスペースを生かして満載した。全艦損害なく日本に戻るという奇跡的な成功を収めたが、物資総量は伊勢や軽巡洋艦大淀が輸送した分を含めても、中型貨物船1隻分に過ぎなかったという。

終焉

北号作戦を終えた日向は呉軍港に停泊していたが、3月1日に第一予備艦に指定され、直後の3月19日の呉軍港空襲で爆弾3発(二番砲塔左舷後部、左舷缶室、艦後部)が命中した[29]。損傷を受けた日向は4月20日に第四予備艦に指定され、5月1日に特殊警備艦となり、呉港外(情島沖)で浮砲台となった[29]。7月24日の呉軍港空襲でアメリカ軍空母機の波状攻撃を受け、日向の草川艦長も戦死した[30]。この年7月の時点で乗組員のうち約半数が退艦していたが、これらの攻撃による乗組員の被害は、残存乗組員千余名中戦死者204名、重軽傷者600余名に及んだ[30]。7月26日、日向は着底大破した[30]


戦後の1947年(昭和22年)7月、日向の解体が完了して艦歴を閉じた。なお、情島で着底した日向の様子を戦後にアメリカ軍が撮影したカラー映像が残っており、今日でもその被害の凄まじさを観察することができる。日向に装備されていた航海灯軍艦旗が広島県呉市の大和ミュージアムに所蔵されている。

詳しいことは、「日向 (戦艦)ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E5%90%91_(%E6%88%A6%E8%89%A6)
(wikiより)

77 軍艦日向

日向

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綾波(あやなみ)は大日本帝国海軍駆逐艦[1]。特型駆逐艦(吹雪型)の11番艦。艦名は重なりあって寄せる波から由来し、この名を受け継いだ日本の艦艇としては神風型駆逐艦 (初代)綾波」に続き2代目にあたる。


特型駆逐艦(一等駆逐艦吹雪型)
の11番艦であるが、実質吹雪型の改良艦となっており特型II型駆逐艦(綾波型)という分類に属する一番艦である。吹雪型(I型)との違いは主に煙突の形状の違いや、主砲のタイプの違いである(⇒参照:吹雪型駆逐艦 - 分類)。

艦歴

大阪の藤永田造船所1928年(昭和3年)1月20日に起工[2]。同年8月1日附で第四十五号駆逐艦から駆逐艦「綾波」となる[1]1929年(昭和4年)10月5日進水、1930年(昭和5年)4月30日に竣工した[2]第四艦隊事件などの教訓から主砲の換装等重心低下の為の改装を経て、日中戦争では上海杭州における上陸作戦を支援、1940年にも上陸作戦の支援に参加している。


太平洋戦争
では第1艦隊第3水雷戦隊に所属し、数々の戦闘に参加。開戦直後の1941年(昭和16年)12月8日にはマレー半島における上陸作戦を支援し、同年12月19日には「浦波」及び「夕霧」とともにオランダ海軍の潜水艦O-20を砲撃によって撃沈、僚艦と共に生存者32名を救助した。また、1942年(昭和17年)2月17日、馬来部隊の一艦としてシンガポールやスマトラ島方面で作戦中、海図未記載の暗礁によってスクリューを損傷する[3]。馬来部隊指揮官小沢治三郎中将は「綾波」の蘭印作戦参加は不可能と判断、「綾波」を主隊に残し、軽巡「由良」、第11駆逐隊(初雪、白雪、吹雪)、第12駆逐隊(白雲)、「磯波」(27日附編入)を蘭印部隊(第三艦隊)に編入した[3]。その後、「綾波」は馬来部隊旗艦の重巡「鳥海」と行動を共にした。4月上旬、小沢中将は空母「龍驤」を旗艦とする馬来部隊機動部隊のベンガル湾機動作戦を実施、「綾波」「汐風」は輸送船「日栄丸」と共に補給部隊として参加した[4]。内地帰投後、ミッドウェー海戦に主力艦護衛部隊として参加。


8月14日、トラックへ向けてマカッサル[5]。8月21日に到着し、機動部隊に編入された[5]


8月以降のガダルカナル島の戦いでは、ガダルカナル島への輸送任務(鼠輸送)に従事している。

第三次ソロモン海海戦

「綾波」の名を高めたのがこの海戦である。


1942年
11月14日から翌日にかけて行われた第三次ソロモン海戦の第二夜戦で「浦波」、「敷波」とともに第2艦隊第3水雷戦隊に所属していた「綾波」はガダルカナル島(図の下側の陸地)飛行場砲撃に向かうため、近藤信竹中将の麾下、戦艦霧島」と「高雄」「愛宕」の重巡2隻の射撃隊(図でE)、軽巡「長良」以下駆逐艦6隻の直衛隊(図でD)、そしてこの2隊の前路警戒にあたるための掃討隊として、軽巡川内」以下「綾波」、「敷波」、「浦波」の計4隻でサボ島(図の左上の小島)付近を航行していた。間もなく掃討隊はサボ島近海の哨戒にあたるべく、「川内」「綾波」がサボ島の西側へ、「敷波」「浦波」がサボ島東側へと2つに分離した。


ところがここでサボ島東側を航行していた「浦波」が単縦陣でサボ島南水道を西に向かって航行する敵艦隊らしきものを発見。「川内」に報告すると共に追尾を始めた。これが戦艦「サウスダコタ」(USS South Dakota, BB-57)、戦艦「ワシントン」(USS Washington, BB-56)を含む米主力艦隊(図でA)であった。「綾波」と航行していた「川内」は「浦波」隊支援のため分離、サボ島北側を通って「浦波」隊に合同すべく急速に「綾波」から離れていった。


こうして「綾波」のみで当初の予定通りサボ島西側を哨戒航行することとなり、予定では「綾波」(図でB)は単艦でサボ島南側を回って掃討隊主隊(図でC)と合同するはずであった。

そしてこの分離が「綾波」の運命を決めることとなる。


21:16、サボ島南水道に進入した「綾波」の見張員が艦首方向右寄り距離8000に単縦陣で航行する米艦隊を発見。この時点で既に米艦隊と交戦していた掃討隊主隊の「川内」から日本艦隊全艦へ通報した"敵艦隊発見"の報告が綾波には届いていなかった(サボ島に電波が遮られたものといわれている)。即座に艦長作間英邇中佐が「右砲戦、右魚雷戦」を命じ、主隊に「敵は駆逐艦4隻、重巡1隻」(戦艦ワシントンの誤認である)と通報した上で30ktに増速して突撃を開始した。 この時「綾波」にとって不運だったのがサボ島東側に展開していた掃討隊主隊の「川内」以下3隻が形勢不利とみて一時後退を始めた直後だったことである。従って「綾波」は戦艦2隻駆逐艦4隻の米艦隊に対し単艦で突入する格好になってしまったのである。


突撃してきた「綾波」に気づいた米艦隊が砲撃を始めた直後、21:20、距離5000になったとき艦長は砲撃開始を下令。初弾が敵3番艦「プレストン」(USS Preston, DD-379)を捉えさらに敵一番艦「ウォーク」(USS Walke, DD-416)にも命中。火災を発生させた。また、21:33には戦艦「サウスダコタ」(USS South Dakota, BB-57)に命中弾を与え、同艦は損傷と人的ミスによる電気系の故障により、副砲群とレーダーの大半が一時的に沈黙する。綾波はサボ島を背景にしていたため米海軍のレーダーは島と艦を同時に捉えて照準ができず、肉眼で見ても艦影が島に黒く滲んで視認は困難だった。


しかし「綾波」は21:22、敵艦隊からの集中砲撃に晒され第1煙突に命中した一弾によって魚雷発射前に1番連管が故障、3本の魚雷が装填された発射管は艦軸線を向いたまま旋回、発射不能となり、同時に左舷に積んでいた艦載内火艇のガソリンタンクから発生した火災によって魚雷が炙られる状態となった。2130、艦長は攻撃可能な2番、3番連管による攻撃を下令。発射した魚雷は21:33、米駆逐隊に次々と命中し、「ウォーク」の艦首部に命中した一本は前部主砲弾薬庫を誘爆させ、同艦は21:43に沈没。さらに2番艦「ベンハム」(USS Benham, DD-397)艦首部にも命中し、同艦は艦首が潰れて航行不能となり艦隊から落伍した。「ベンハム」は翌15日、応急修理に成功して5ktで「グウイン」と共にエスピリッツサントに向かうものの、13:37時に再び破口が開き、沈没した。


こうして戦果は挙げたものの、米駆逐艦の砲撃と戦艦「ワシントン」の副砲射撃による反撃で「綾波」は次々と命中弾を受け2番砲塔は被弾し沈黙、さらに機関室に2発被弾して航行、操舵共に不能となってしまった。ここで別働隊である直衛隊の軽巡「長良」以下駆逐艦「五月雨」「」「白雪」「初雪」の計5隻(「朝雲」「照月」は射撃隊の直衛で分離)が戦場に到着する。ここでも激しい戦闘が繰り広げられたが米艦隊の3番艦の「プレストン」は「綾波」の砲撃による火災が酷く、日本艦隊の格好の目標となり航行不能となって間もなく沈没してしまった。さらに直衛隊は4番艦「グウイン」(USS Gwin, DD-433)の機関部にも損傷を与え、、艦隊から落伍させる。


この後さらに「霧島」と「サウスダコタ」、「ワシントン」による戦艦同士による砲撃戦が行われることになるがここでは割愛する。


被害甚大となって漂流を始めた「綾波」ではあったが、喫水線下への被弾はなかったため浸水はしなかった。しかし上甲板の火災は既に消火不能となっており、魚雷の誘爆は時間の問題と見た艦長は総員退艦を下令。生存者は全員海へ飛び込み救助に駆けつけた浦波に収容された。「浦波」に生存者全員が救助された後、23:46に遂に魚雷が誘爆。翌15日の00:06、2度目の大爆発をおこした後綾波は沈んでいったという。戦闘での戦死者は27名。浦波に収容された後に死亡した者も含めて戦死者は42名であった。艦長の作間英邇中佐以下、生存者の一部はガダルカナル島へ渡った。その後、作間中佐は輸送任務のためにカミンボにやってきた伊17に便乗し、トラック経由で横須賀へ移動した。


沈没後に漂流していた兵士たちの士気は、大戦果を上げた(その当時は「綾波」と刺し違えに敵艦3隻を撃沈し、そのうち1隻は重巡洋艦だったと戦果を誤認していた)ため非常に高揚しており、沈没前に爆雷へ安全装置をつけて海に沈め、浮遊物を散々投げ込んだ後、海に飛び込んでいたため溺死、圧死の心配もなかった。そのため自艦が沈没したにもかかわらず漂流中に軍歌を合唱している兵士たちもいたほどだったという。


駆逐艦「綾波」は第三次ソロモン海戦で沈没した重巡「衣笠」、駆逐艦「」、「夕立」と共に12月15日附で除籍。 帝国駆逐艦籍[6]、 第19駆逐隊[7]、 白雪型駆逐艦[8] のそれぞれから削除された。

戦果
・日本艦隊の中では際立つ、日本艦隊の戦果(撃沈破5)の半分を単艦で挙げ、活躍をした。戦艦を含む敵艦隊に単艦で挑み、敵駆逐艦2隻を屠り、1隻を炎上させ、戦艦サウスダコタの電気系統を断ち切り(「重巡」撃沈と判断した「重巡からの砲撃が止んだ」(実際はサウスダコタの両用砲だと思われる。)から。ただし明確な根拠が無いので異説扱い。)一時砲戦不能にさせたという、駆逐艦1隻としては異例の大戦果を挙げた。

・自身は沈んだものの、それだけの奮戦に関わらず乗員の生存者が極めて多かった。乗員の8割以上が生還している上、特に艦長が生還したことにより、その証言が公になっている。

・近藤中将の拙劣な指揮が目立ち、リー中将の名を上げる戦いとなり、日本軍は戦艦「霧島」を失い、さらにレーダー射撃の有効性を実証させてしまう戦い(これが後にスリガオ海峡海戦等の夜戦での日本海軍の一方的な敗北に繋がる)となったという、戦没艦の数以外では米軍に軍配の上がった(日本軍の戦術的勝利、米軍の戦略的勝利、総合的に見て米軍の勝利というのがこの海戦の一般的評価)この戦いで、際立った活躍をした。


等が挙げられる。

発見
タイタニック、戦艦ビスマルクを発見した、海洋研究者ロバート・バラードらのチームによる、1992年(平成4年)夏のアイアンボトム・サウンド調査で、サボ島海面400m地点に眠る「綾波」を発見した。当初、同じ特型駆逐艦の「暁」と思われていたが、「暁」の元水雷長である新屋徳治は「綾波」であると指摘した。

歴代艦長
※『艦長たちの軍艦史』276-277頁による。

艤装員長
1. 後藤鉄五郎 中佐:1929年11月30日 -

艦長
1. 後藤鉄五郎 中佐:1930年4月30日 - 1931年12月1日

2. 河原金之輔 中佐:1931年12月1日 - 1933年11月15日

3. 藤田俊造 中佐:1933年11月15日 - 1935年11月15日

4. 崎山釈夫 中佐:1935年11月15日 - 1936年12月1日

5. 杉野修一 中佐:1936年12月1日 - 1937年11月15日[9]

6. 白石長義 少佐:1937年11月15日 - 1938年4月15日[10]

7. (兼)岡部三四二 少佐:1938年4月15日[10] - 1938年12月1日[11]

8. 原為一 中佐:1938年12月1日 - 1939年11月15日[12]

9. 有馬時吉 少佐:1939年11月15日 - 1941年9月12日[13]

10. 作間英邇 中佐:1941年9月12日 -

詳しいことは、「綾波 (吹雪型駆逐艦)ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B6%BE%E6%B3%A2_(%E5%90%B9%E9%9B%AA%E5%9E%8B%E9%A7%86%E9%80%90%E8%89%A6)
(wikiより)

76   駆逐艦綾波

綾波

76b

76b2



第十一掃海隊は第十三号型掃海艇6隻で編成された掃海隊である。


1933年(昭和8年)9月30日 第十三号掃海艇、第十四号掃海艇で編成。 呉防備隊所属。

1934年(昭和9年)8月31日 第十五号掃海艇を編入。

1934年(昭和9年)9月29日 第十六号掃海艇を編入。

1936年(昭和11年)1月15日 第十七号掃海艇を編入。

1936年(昭和11年)4月30日 第十八号掃海艇を編入。

1941年(昭和16年)5月15日 第十七号掃海艇および第十八号掃海艇は第三十掃海隊を新編、第三艦隊第二根拠地隊に所属。

1942年(昭和17年)1月12日 ボルネオ攻略作戦。 タラカン泊地掃海中、第十三号掃海艇および第十四号掃海艇がオランダ軍陸上砲台の攻撃を受け沈没。

1942年(昭和17年)1月31日 第十三号掃海艇、第十四号掃海艇を除く。

1942年(昭和17年)3月10日 解隊。 

第十三号型掃海艇について

日本海軍が最初に機雷戦を経験したのは日露戦争の時で、このときは艦載艇や徴用漁船などが用いられた。 1913年(大正2年)になって旧式駆逐艦を掃海艇に改装することが要求され、6隻が改装された。 本格的な新造掃海艇は、1920年(大正9年)の八八艦隊完成案で計画された第一号型掃海艇6隻である。 本型の艦型は当時建造中の吹雪型駆逐艦に類似したもので、構造そのものも類似していた。 主機は製造費の安価な往復動機関とし、缶は燃料国策上から石炭専焼とされた。 兵装は、12cm単装砲2門、8cm単装高角砲1門、爆雷投射機2基、爆雷18個を装備した。 掃海兵装は単艦式大掃海具1組または機雷50個(第五号、第六号は単艦式大掃海具2組または機雷50個、対艦式大掃海具2組)を装備した。 尚、既成艦の実績により改正を加えた第五号および第六号を第五号型掃海艇に分類する場合もある。


第十三号型掃海艇は第五号型掃海艇の改正型で、昭和6年度の第一次補充計画で6隻が計画された。 艦型をいくぶん小型化し、必要な兵装を装備し、居住性を改善したものであった。 主機は往復動機関であったが、缶は混焼式とされた。 兵装は、12cm単装砲2門、13mm単装機銃2門、爆雷投射機2基、爆雷18個を装備した。 掃海兵装は単艦式大掃海具1組または八六式機雷26個(五号機雷の場合50個)、対艦式大掃海具2組を装備した。  しかしながら艦の割には重兵装で上構の大きな、トップヘビーな艦となった。 このため第十三号および第十四号の2艦は、1934年(昭和9年)に発生した友鶴事件により性能改善工事が実施され、艦橋を1甲板低め、煙突と前檣マストも短縮、艦底にバラストキールを装着するなどの改装を施した。 第十五号および第十六号は同様の改正を施し竣工した。


第十七号および第十八号は第十三号型の5、6番艦として計画されていたが、友鶴事件などにより、未着工だった2隻について再設計したものである。 このため、第十七号型掃海艇にに分類する場合もある。 艦型的には大差はないが、線図そのものは新たなものとなっている。 艦は混焼式のままであったが、主機はコストの低下してきたタービンに改められている。 兵装は、12cm単装砲2門、13mm連装機銃1基2門、爆雷投射機1基、爆雷36個を装備した。 掃海兵装は単艦式大掃海具1組または八六式機雷26個(五号機雷の場合50個)、対艦式大掃海具2組を装備した。(5)

75a

75b

75c



深雪(みゆき)は大日本帝国海軍駆逐艦[1][2]

概要

一等駆逐艦「深雪」は吹雪型駆逐艦の4番艦[3][4]。 吹雪級の1隻[5]。 当初の艦名は第38号駆逐艦[1][6]浦賀船渠1927年(昭和2年)4月30日に起工、1928年(昭和3年)6月26日に進水、1929年(昭和4年)6月29日に竣工[7][8]。竣工と共に第11駆逐隊に編入され、同駆逐隊は雪級4隻(吹雪、白雪、初雪、深雪)を揃えた[9][10]


1934年
(昭和9年)6月29日、第11駆逐隊(深雪、白雪、初雪)は第二水雷戦隊に所属して済州島沖合で行われた連合艦隊の演習に参加、本艦は吹雪型駆逐艦24番艦「」(第6駆逐隊)と衝突、艦首部(艦橋より前部)を喪失した[2][11]。「深雪」の艦体後部は軽巡「那珂」(第二水雷戦隊旗艦)に曳航されて佐世保港へ帰投中、浸水により沈没した[12][13]。浮いていた深雪前部も、間もなく沈没した[13][14]

艦歴
建造経緯

1927年(昭和2年)4月26日、日本海軍は建造予定の駆逐艦4隻を、それぞれ第三十六号駆逐艦(横浜船渠。後の白雪)、第三十八号駆逐艦(後の深雪)、第三十九号駆逐艦(藤永田造船所。後の叢雲)、第四十四号駆逐艦(佐世保海軍工廠。後の浦波)と命名する[15][16][17]。 第三十八号駆逐艦は、同年4月30日浦賀船渠で起工[18][19][7]1928年(昭和3年)6月26日午前11時30分、第三十八号駆逐艦は無事進水[20][21]。 8月1日附で第三十八号駆逐艦は深雪と改称[1][18]。 12月10日、日本海軍は加藤仁太郎中佐(当時、駆逐艦如月艦長)を、深雪艤装員長に任命する[22]


1929年(昭和4年)2月12日午後、東京湾で試運転中に伊号第二十四潜水艦と衝突、スクリューに損傷を受けて4月30日の竣工予定を延期した[23][24]6月29日に竣工[7][25]呉鎮守府[8]。同日附で深雪艤装員事務所は撤去された[26]。加藤艤装員長も、正式に深雪駆逐艦長(初代)となった[27]

竣工後

深雪竣工後、吹雪型駆逐艦4隻(吹雪、白雪、初雪、深雪)は呉鎮守府所属の第11駆逐隊を編成(昭和3年12月18日附編成、駆逐隊司令千谷定衛大佐[28]。)[9]第二艦隊第二水雷戦隊に所属した[29][30]


第11駆逐隊編入から間もない1929年(昭和4年)8月2日午後9時、山口県油谷湾で第12駆逐隊の射撃訓練に協力中の「深雪」(曳的艦)は、流れ弾2発が命中して小破[31]。負傷者4名[32]。舞鶴要港部工作部で修理を実施した。 11月1日、第11駆逐隊司令駆逐艦が「初雪」から「深雪」に変更された[33]。 11月30日、千谷大佐(第11駆逐隊司令)は標的艦「摂津」特務艦長へ転任[34]森田重房大佐(当時、軽巡夕張艦長)が後任の第11駆逐隊司令となる[34]


1930年
(昭和5年)11月20日、加藤(深雪駆逐艦長)は第28駆逐隊司令に補職され、安富芳介中佐(当時、駆逐艦浜風艦長)が後任の深雪駆逐艦長となる[35]。 12月1日、第11駆逐隊司令は森田大佐から、南雲忠一大佐(当時、軽巡那珂艦長)に交代する[36]


1931年
(昭和6年)10月10日、南雲大佐(第11駆逐隊司令)は軍令部参謀へ転任、後任の第11駆逐隊司令は小沢治三郎大佐となる[37][38]。同月、深雪は呉工廠で缶用乙型1号噴燃器の換装等の工事に着手[8]。12月1日、第二予備艦となった[8]。 同日附で安富(深雪艦長)は姉妹艦朝霧駆逐艦長に任命される[39]。同時に姉妹艦初雪艦長河原金之輔中佐も、綾波駆逐艦長へ転任[39]。海軍は、直塚八郎中佐(当時、特務艦室戸運用長)に、深雪・初雪駆逐艦長兼務を命じた[39]。 また小沢大佐(第11駆逐隊司令)は海軍大学校教官を命じられて退任[38]、後任の第11駆逐隊司令は第28駆逐隊司令加藤仁太郎大佐(深雪の初代駆逐艦長)となる[40]。 さらに艦隊の再編により吹雪型3隻(東雲吹雪磯波)で第20駆逐隊が編成され[41][42][43]、第11駆逐隊は3隻となった[44][45]


1932年
(昭和7年)1月11日、直塚中佐(深雪艦長兼初雪艦長)は大湊防備隊副長へ転任[46]天津風型駆逐艦2隻(天津風、浜風)艦長を兼務していた金桝義夫中佐が、新たな深雪・初雪駆逐艦長となる[46]。 5月16日附で金桝(深雪・初雪)艦長は吹雪型姉妹艦天霧駆逐艦長[47]に補職される。姉妹艦白雪駆逐艦長中原達平中佐が、吹雪型3隻(深雪、初雪、白雪)艦長を兼務することになった[47]。 7月1日、山口次平中佐が初雪駆逐艦長に補職される[48]。これにともない、中原中佐の艦長兼務は2隻(深雪、白雪)となった[48]。 7月8日、工事を完了[8]


12月1日、第二水雷戦隊に復帰[8]。 同日附で、中原(深雪、白雪)艦長は姉妹艦敷波艦長へ転任[49]大森正直中佐(当時、姉妹艦吹雪艦長)が、深雪駆逐艦長に補職される[49]金桝義夫中佐(天霧艦長)は白雪駆逐艦長に補職された[49]。また第11駆逐隊司令も、加藤仁太郎大佐(深雪初代艦長)から後藤英次大佐に交代する[49]

1933年(昭和8年)11月15日、第11駆逐隊司令後藤英次大佐は川内型軽巡洋艦2番艦「那珂」艦長に補職[50]。後任の11駆司令は、第20駆逐隊司令と姉妹艦磯波駆逐艦長を兼務していた横山茂大佐となる[50]

沈没

1934年(昭和9年)4月7日から6月15日まで、「深雪」は呉海軍工廠で入渠整備を実施[8]。 6月下旬、連合艦隊済州島南方沖で演習を実施[51][52]。 6月28日、第二艦隊司令長官高橋三吉中将(旗艦「鳥海」)[53]指揮下の、第二水雷戦隊(司令官阿武清少将:旗艦《那珂》、第6駆逐隊《》、第10駆逐隊《狭霧》、第11駆逐隊《深雪白雪初雪》、第12駆逐隊《白雲叢雲薄雲》)、第四戦隊第1小隊(鳥海《第二艦隊旗艦》、摩耶)、第六戦隊(青葉古鷹衣笠)、第二潜水戦隊《軽巡由良、潜水母艦迅鯨、潜水艦部隊)[54]、第一戦隊(扶桑日向[55]、および龍驤航空部隊は乙軍を編成[56][57]


これに対し、連合艦隊司令長官末次信正中将(旗艦「金剛」)[51]指揮下の金剛型戦艦2隻(金剛霧島)、第四戦隊第2小隊(高雄愛宕)、第七戦隊(長良五十鈴名取)、第一水雷戦隊(旗艦「川内[58]、第30駆逐隊《睦月卯月弥生如月》、第5駆逐隊《松風春風旗風朝風》、第23駆逐隊《菊月夕月望月三日月》、第29駆逐隊《疾風追風朝凪夕凪》)、第一航空戦隊(空母《赤城》、第2駆逐隊《澤風沖風》)、第一潜水戦隊、補給部隊(鳴戸間宮)等[59][60][61]甲軍を編成[57][62]。 甲軍(第一艦隊基幹)、乙軍(第二艦隊基幹)はそれぞれ佐世保を出撃した。


6月29日午後1時、第四回連合艦隊基本演習(第一水雷戦隊、第二水雷戦隊の昼間襲撃)がはじまる[63][52]。午後5時頃より本格的な交戦がはじまるが、狭隘海面に多数の艦艇がひしめき、さらに天候と煙幕のため視界は極めて悪かった(約10-12km)[63][52]。鳥海座乗の第二艦隊参謀大西新蔵中佐(当時)は、演習条件(視界狭少、大部隊の襲撃)に多少無理があったが「これ位の無理はこの時に限ったことではなかった」と回想している[52]


午後6時頃、乙軍の第11駆逐隊(1番艦深雪、2番艦初雪、3番艦白雪)は甲軍(仮想敵)の第四戦隊第2小隊(高雄愛宕)に対し雷撃を敢行し、続いて煙幕(軽巡洋艦由良展開[64]、もしくは甲軍飛行機隊展開[52])を転舵で避け、たまたま発見した「衣笠」(乙軍)に続航しようとしていた[65]。 直後、煙幕の中から乙軍の第6駆逐隊(1番艦、2番艦、3番艦)が出現、回避できず「電」(第6駆逐隊司令駆逐艦)が「深雪」(第11駆逐隊司令駆逐艦)の左舷に衝突する[66][67][52]。 「深雪」の船体は艦橋直下の46番ビーム付近で断裂[68]。 後部船体に「那珂」が横付し、那珂・愛宕乗組員の応援を得て排水を試みたものの浸水が止まらず、第二水雷戦隊司令官阿部清少将(那珂座乗)は深雪乗組員の退去を命じた[69]。 深雪乗組員は「那珂」に移動[70][69]。軽傷者は戦艦「金剛」(連合艦隊旗艦)に収容された[71]。深雪乗組員総員退去完了後、「那珂」は「深雪」への横付を離す[69]。 午後9時53分[72]北緯32度51分 東経127度11分 / 北緯32.850度 東経127.183度 / 32.850; 127.183[73]もしくは北緯32度57分 東経127度14分 / 北緯32.950度 東経127.233度 / 32.950; 127.233地点で沈没した[8][69]。 深雪艦首部分は駆逐艦2隻(初雪、叢雲)で曳航を試みたが濃霧の中で見失い、翌日の捜索でも発見できず、沈没したものと推定された[14][74]。また「鳥海」(第二艦隊旗艦)も現場に残留し、翌朝には水上偵察機を投入して捜索に従事したが、深雪艦首を発見することは出来なかった[52]


深雪水兵2名と機関兵1名の3名が死亡、水兵2名が行方不明、電乗組員1名が行方不明となった[75]


戦艦「扶桑」分隊長として衝突を目撃した高松宮宣仁親王(海軍大尉、昭和天皇弟宮)は『もっと早く「日向」位が横抱きすればよかった』と評している[13]。 このあと艦首を喪失した「電」は姉妹艦「白雲」(第12駆逐隊)に曳航され[76]、6月30日朝以降は「那珂」に曳航され[77][52]、「響」や曳船の応援を得て7月1日午後3時、佐世保に帰投した[78][79]


7月3日
、第11駆逐隊司令駆逐艦は「深雪」から「初雪」に、第6駆逐隊司令駆逐艦は「電」から「響」に変更[80]。同日附で深雪残務整理事務所を設置する[81]7月5日附で第11駆逐隊より除かれ、同隊は吹雪型2隻(白雪、初雪)となる[82][83]。大森中佐(深雪駆逐艦長)、蘆田部一大尉(深雪航海長)、黒瀬淳大尉(深雪水雷長)、板垣金信大尉(深雪砲術長)、國末辰志機関大尉(深雪機関長)等も、それぞれの職務を解かれた[84]7月22日、事務所撤去[85]。 同年8月15日に除籍された[86][87]


「深雪」は吹雪型(特型)駆逐艦以降の日本海軍在籍駆逐艦の中で第二次世界大戦に参戦していない唯一の駆逐艦であり、また、特型駆逐艦として最初の喪失艦である[11]美保関事件に続く本艦沈没は艦隊乗組員に衝撃を与えたが、訓練は一層激しくなったという[52]。 なお、艦艇研究家の福井静夫は、「深雪」亡失の原因を、衝突後の応急処置失敗にあると評している[12]。「電」との衝突により深雪艦首切断後、深雪中央部以降では第一罐室こそ満水になったが、第二罐室は健在だった[12]。だが深雪乗組員が自艦の構造を把握しておらず、罐室の隔壁を補強せず別の部位を補強したため、浸水が進んで沈没に至ったとしている[12]。また応急の不徹底は当時の海軍でも重く受け止められ、これ以降日本海軍では応急教育の徹底化がなされたという[12]


大藤正直中佐(本艦沈没時の艦長)[84]太平洋戦争において給糧艦「間宮」特務艦長[88][89]や標的艦「摂津」特務艦長[90][91]等を歴任した。 また深雪沈没の要因となった「電」駆逐艦長平塚四郎中佐(深雪沈没当時)は、軽巡「球磨」艦長、空母3隻(雲鷹葛城天城[91])艦長等を歴任して終戦を迎えた。

歴代艦長
※『艦長たちの軍艦史』267頁による。

艤装員長
1. 加藤仁太郎 中佐:1928年12月10日[22] - 1929年6月29日[27]

艦長
1. 加藤仁太郎 中佐:1929年6月29日[27] - 1930年11月20日[35]

2. 安富芳介 中佐:1930年11月20日[35] - 1931年12月1日[39]

3. 直塚八郎 中佐:1931年12月1日[39] - 1932年1月11日[46]第二予備艦、初雪艦長兼務

4. 金桝義夫 少佐:1932年1月11日[46] - 1932年5月16日[47] ※第二予備艦、初雪艦長兼務

5. (兼)中原達平 中佐:1932年5月16日[47] - 1932年12月1日[49] ※第二予備艦、初雪・白雪艦長兼務

6. 大藤正直 中佐:1932年12月1日[49] - 1934年7月5日[84]

詳しいことは、「深雪 (駆逐艦)ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%B1%E9%9B%AA_(%E9%A7%86%E9%80%90%E8%89%A6)
(wikiより)

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深雪

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初雪(はつゆき)は大日本帝国海軍駆逐艦[1]。 特型(一等駆逐艦吹雪型)の3番艦[2]雪級の3番艦[3]。 「吹雪、白雪」沈没後は『初雪型駆逐艦』の1番艦(ネームシップ)である[4]。当初の艦名は、第37号駆逐艦[1]。この名を持つ帝国海軍の艦船としては神風型駆逐艦 (初代)初雪」に続いて2隻目。戦後、はつゆき型護衛艦はつゆき」としてその名は受け継がれた。

艦歴

1926年(大正15年)9月29日、「第三十七号駆逐艦」と命名[5]。同日附で一等駆逐艦に類別される[6]。 「第37号駆逐艦」は1927年(昭和2年)4月12日に舞鶴工作部で起工[7]1928年(昭和3年)8月1日附で、「第37号駆逐艦」は「初雪」と改名される[1]。同年9月29日に進水、1929年(昭和4年)3月30日に竣工[7]呉鎮守府所属。第二艦隊第二水雷戦隊・第11駆逐隊に編入。吹雪型初期姉妹艦(吹雪白雪、初雪、深雪)と共に第11駆逐隊を編制していた。 1931年(昭和6年)、「吹雪」は第11駆逐隊から除籍され、あらたに「吹雪、東雲磯波」の3隻で第20駆逐隊を編制することになった。さらに「深雪」は昭和9年の事故(駆逐艦と衝突)によって喪失、第11駆逐隊は3隻編制となった[8]


1935年
(昭和10年)9月26日、三陸沖で演習中に台風により艦首を切断(第四艦隊事件)。当時、第四水雷戦隊旗艦「那珂」は第11駆逐隊(初雪、白雪)、第12駆逐隊(白雲、薄雲、叢雲)、第7駆逐隊(潮、曙、朧)、第8駆逐隊(天霧、夕霧)を率いて演習をおこなっていた[9]。9月25日、「初雪」で溺者1名が発生、「那珂」は『此ノ際油断大敵ナル事ヲ銘記セヨ』と各艦に注意している[10]。 9月26日夕刻、荒天により駆逐艦「夕霧」が艦首切断(行方不明27名)、その救援中に「初雪」も艦首切断により行方不明24名を出した。夜が明けたのち「夕霧」は軽巡「大井」に、「初雪」は重巡「羽黒」に曳航され大湊へむかった[11]


1936年(昭和11年)年末の編制変更により第20駆逐隊は除籍され、「吹雪」は第11駆逐隊、「東雲」は第12駆逐隊、「磯波」は第19駆逐隊にそれぞれ復帰した[12]日中戦争に際しては1937年(昭和12年)以降、上海上陸、杭州湾上陸、北部仏印進駐作戦などに参加した。 1939年(昭和14年)11月、有賀幸作中佐が第11駆逐隊司令に着任。第11駆逐隊は空母2隻(蒼龍飛龍)と共に第二航空戦隊を編制(司令官戸塚道太郎少将)[13]。1940年(昭和15年)8月下旬以降、「飛龍、初雪、白雪」は北部仏印進駐に投入された[14]。その年の異動により第11駆逐隊は第三水雷戦隊に所属することになった。


1941年(昭和16年)9月12日に内示された昭和17年度海軍戦時編制によれば、第11駆逐隊(吹雪、白雪、初雪)は最新鋭の翔鶴型航空母艦翔鶴瑞鶴)と第一航空戦隊を編制予定だった[15]。しかし太平洋戦争の勃発により、「初雪」以下第11駆逐隊が同大戦で空母機動部隊に配属される事はなかった。

太平洋戦争緒戦

太平洋戦争における第11駆逐隊(初雪、白雪、吹雪)は、ひきつづき第三水雷戦隊(司令官橋本信太郎少将:旗艦「川内」:第11駆逐隊、第12駆逐隊、第19駆逐隊、第20駆逐隊)に所属、三水戦はさらに小沢治三郎中将(旗艦「鳥海)指揮下の馬来部隊(南遣艦隊)に編入されていた。 南方侵攻作戦、エンドウ沖海戦蘭印作戦バタビア沖海戦に参加する。1月27日エンドウ沖海戦では三水戦旗艦「川内」の指揮下、第20駆逐隊(朝霧夕霧天霧)、第11駆逐隊(初雪、白雪、吹雪)、第一掃海隊(掃海艇1号)に編制され、イギリス海軍駆逐艦「サネット」を撃沈した[16]戦闘後、「初雪」が乗員を救助し捕虜の英海軍少尉と会話したとの証言がある[要出典]が、第三水雷戦隊戦闘詳報によれば同海戦の連合軍捕虜は士官(中尉)1名、下士官5名、兵25名の計31名で、捕虜の救助と尋問は「白雪」で行ったとある[17]


3月10日、吹雪型「東雲」を喪失して「白雲、叢雲」の2隻編制になっていた第12駆逐隊が廃止される[18]。「白雲」は第20駆逐隊に編入[18]。「叢雲」は第11駆逐隊に編入され、開戦時以来吹雪型3隻体制だった第11駆逐隊は4隻となった[18]。その後も第11駆逐隊は第三水雷戦隊所属隊としてベンガル湾機動作戦ミッドウェー海戦(戦艦《大和長門陸奥扶桑山城伊勢日向》、空母「鳳翔」以下主隊護衛)、インド洋方面通商破壊作戦、ソロモン・ニューギニア作戦などに参加。

ガダルカナル島の戦い

インド洋通商破壊作戦(B作戦、指揮官西村祥治第七戦隊司令官)は米軍のガダルカナル島およびフロリダ諸島上陸にともなうガダルカナル島の戦い勃発(8月7日以降)により中止され、第七戦隊、第三水雷戦隊、第四水雷戦隊各艦はソロモン諸島方面へ移動した[19]。第三水雷戦隊の到着をもって第二水雷戦隊司令官田中頼三少将(重巡「衣笠」座乗)は外南洋部隊増援部隊指揮官を更迭され、増援部隊指揮官は三水戦司令官橋本信太郎少将(旗艦「川内」)となる[20]


8月31日-9月1日、第24駆逐隊(江風海風涼風)、第11駆逐隊(初雪、白雪、吹雪)は川口支隊1200名をガダルカナル島へ揚陸した[21][22]。 9月4日0330、「夕立、初雪、叢雲」隊、「浦波敷波有明」隊はショートランド泊地を出撃、同日0854には「川内、涼風、江風、海風」がショートランド泊地を出撃、それぞれガダルカナル島へ輸送作戦を実施した[23][24]。夕立駆逐艦長吉川潔中佐指揮のもと「夕立、初雪、叢雲」はルンガ泊地に突入し、駆逐艦(高速輸送艦)「グレゴリー」と「リトル」を撃沈した[23][25]。戦果報告を受けた宇垣纏連合艦隊参謀長は、陣中日誌『戦藻録』で夕立隊の行動を絶賛している[24]。両艦を撃沈した後、ガタルカナル島へ泳いで逃げようとする乗組員を銃撃して殺傷し[26]、帰路についた。この銃撃事件ではグレゴリーは11名の死者を出したもののほとんどの乗員が救助され[27]。、米太平洋艦隊司令長官はグレゴリーとリトルの勇敢さを讃えるコメントを出した。


9月7日、第24駆逐隊(涼風、江風、海風)と第11駆逐隊(初雪、叢雲)はそれぞれガ島への輸送を実施[28][29]。9月16日、戦闘詳報(戦史叢書)では駆逐艦「初風、夕立、浜風」がガ島ルンガ泊地に突入したと記録されているが[30][31]、第16駆逐隊(雪風、時津風、初風、天津風)は機動部隊所属で、外南洋部隊には編入されていない。


10月1日、第11駆逐隊(初雪、白雪、吹雪、叢雲)は陸軍青葉支隊司令部をガ島へ輸送したが、米軍機の空襲を回避中に「初雪」は舵故障を起こす[32]。このため司令駆逐艦を「白雪」に変更、「初雪」は単艦でショートランド泊地へ戻った[33]。「白雪、吹雪、叢雲」による輸送作戦は成功した[32]。10月4日の輸送(時雨、白雪、吹雪、叢雲、綾波)において、第八艦隊戦闘詳報では「白雪」のかわりに「初雪」が参加した事になっている[34][35]。実際の「初雪」は駆逐艦「綾波」と交替する形で挺身輸送隊(大発動艇小発動艇によるショートランド諸島からニュージョージア諸島経由のガ島輸送作戦)に編入された[36][37]。本輸送方式は蟻輸送と呼称されている[37]。「初雪」はニュージョージア島周辺を航海し、蟻輸送の拠点となりそうな基地(地形)の調査をおこなった[38]。また駆逐艦「天霧」と共に大発動艇の曳航や物資輸送に従事した[39][40]

詳細は「サボ島沖海戦」を参照


ガダルカナル島の戦いにおける日本軍苦戦の大きな要因が、米軍に奪取されたヘンダーソン飛行場だった。10月11日、ガダルカナル島ヘンダーソン基地艦砲射撃を目指す外南洋部隊支援隊(指揮官五藤存知第六戦隊司令官)は、第六戦隊の重巡3隻(青葉古鷹衣笠)、第11駆逐隊第2小隊(初雪、吹雪)という戦力でショートランド泊地を出撃[41][42]。並行して、水上機母艦2隻(日進千歳)、駆逐艦6隻(秋月型駆逐艦秋月》、綾波、第9駆逐隊《朝雲、夏雲》、第11駆逐隊第1小隊《白雪、叢雲》)によるガ島輸送作戦も実施されることになった[42]。 だが外南洋部隊支援隊は待ち伏せていた米艦隊(指揮官ノーマン・スコット少将:重巡洋艦2、軽巡洋艦2、駆逐艦5)と交戦[43]。五藤司令官は戦死、「吹雪」が轟沈、「古鷹」は航行不能(12日日付変更後に沈没)、「青葉」が大破という被害を受けた[44]。「初雪」は重巡「衣笠」と行動を共にし、砲撃により米艦隊に損害を与えたが、前部水線上に被弾して最大発揮速力24ノットとなる[45][44]


その後「初雪」は「衣笠」からの下令に従い、航行不能となった「古鷹」の救援に赴いた[46][44]。航行不能となった「古鷹」を発見するが、傾斜のため横付できず、同艦沈没後に救助作業を開始[44]。古鷹生存者513名を救助、短艇や円材を沈没現場に残して戦場を離脱した[47][44]。このあと一部の古鷹・吹雪生存者は米軍に救助されている。


なお「古鷹」救援のため日進輸送隊から派遣された朝潮型駆逐艦夏雲」と吹雪型駆逐艦叢雲」も、日中の空襲により撃沈された[48][49]。本多(叢雲水雷長)によれば、「叢雲」の救助と雷撃処分を実施したのは「初雪」と回想しているが[50]、実際に「叢雲」の救助および処分を担当したのは駆逐艦「朝雲」と「白雪」である[45]。また戦史叢書では「白雲、朝雲」とするが[48]、「白雲」は8月下旬の空襲で大破したため警備駆逐艦に格下げ[要出典]され[51]、サボ島沖海戦時には日本本土で修理中である>[52]


本海戦により吹雪型ネームシップ「吹雪」が沈没すると、吹雪型駆逐艦は『白雪型駆逐艦』に改定された[53]。 11月2日、増援部隊指揮官橋本信太郎第三水雷戦隊司令官は旗艦を軽巡「川内」から重巡「衣笠」に変更、第一攻撃隊(衣笠、川内、天霧、初雪)を率いて甲増援隊(旗艦「朝雲」)と乙増援隊(旗艦「浦波」)の輸送作戦を支援した[54]。 また「初雪」は「望月」と共に『蟻輸送』作戦中止にともなう基地撤収を行うよう下令されていた[55]。11月5日、撤収作戦を完了した[37][56][57]

詳細は「第三次ソロモン海戦」を参照


11月中旬、「初雪」は前進部隊指揮官近藤信竹第二艦隊司令長官(旗艦「愛宕」)の指揮下、第三次ソロモン海戦第二夜戦に参加した。同夜戦に参加した日本艦隊の戦力は、前進部隊指揮官直率の射撃隊(重巡「愛宕《近藤中将旗艦》、高雄」、戦艦《霧島》)、直衛隊(軽巡「長良」、駆逐艦「五月雨初雪、白雪》、朝雲、照月」)、掃蕩隊(軽巡「川内」、駆逐艦「浦波、敷波、綾波」)という編制である[58][59]。 一方の米軍は、ウィリス・A・リー少将率いる戦艦2隻(ワシントンサウスダコタ)、駆逐艦4隻(ウォークグウィンベンハムプレストン)である[60]。直衛隊は「長良、五月雨、電、白雪、初雪」の単縦陣で戦闘に突入[61]。「長良」と分離後は「白雪、初雪、電、五月雨」が一群となって行動したという[62]。本夜戦で米軍駆逐艦3隻(ウォーク、ベンハム、プレストン)が沈没、日本側は「霧島、綾波」を喪失して米新型戦艦2隻(ワシントン、サウスダコタ)と駆逐艦「グウィン」を取り逃がした[60]。 12月上旬、「初雪」は「雪風」と共に空母「飛鷹」を護衛して内地へ帰投した[63]

昭和十八年の戦い

1943年(昭和18年)1月、駆逐艦「初雪」は輸送船団を護衛して再びソロモン海へ進出する[64]。「初雪」が護衛する丙一号第二輸送隊(清澄丸、靖国丸、筥崎丸)には、増援として「朝雲、五月雨」が加わった[65]。2月上旬のガダルカナル島撤退作戦(ケ号作戦)における「初雪」は、前進部隊・警戒隊(軽巡《神通、阿賀野、長良》、駆逐艦《陽炎、朝雲、時雨、涼風、大波、初雪、敷波、嵐、五月雨》)に編入されている[66]。「初雪、」は航空部隊の空母2隻(隼鷹瑞鳳)を直衛し、1月31日にトラック泊地を出撃[66]。陽動部隊として行動した。


2月25日、駆逐艦「天霧夕霧」が第11駆逐隊に編入され、同隊は白雪型4隻(初雪、白雪、天霧、夕霧)となる[67]。だが3月3日ビスマルク海海戦で「白雪、朝潮荒潮時津風、輸送船8隻」がダンピール海峡に沈没すると、4月1日をもって『白雪型駆逐艦』は初雪型駆逐艦に改定された[4]。本海戦で「初雪」は輸送船団の救援におもむき、「敷波、浦波、雪風、朝雲」と合流すると各艦に燃料を補給、生存者2700名を「初雪、浦波」に移乗させラバウルへ送り届けた(3日1650現場発、4日1015着)[68]。「敷波、雪風、朝雲」は再び戦闘海域に戻ると遭難者を救助したのち、3月5日朝にラバウルへ戻った。

詳細は「クラ湾夜戦」を参照


6月30日、アメリカ軍はニュージョージア島ムンダ飛行場対岸のレンドバ島に上陸し、ニュージョージア島の戦いがはじまる。これに対し第八艦隊(司令長官鮫島具重中将)は第三水雷戦隊(秋山輝男少将)に対してレンドバ島突入と米軍輸送船団撃退を下令[69]。秋山少将直率部隊(秋月型駆逐艦新月》、卯月型《望月皐月》、神風型《夕凪》)、先行隊(指揮官第11駆逐隊司令:天霧、初雪、長月三日月水無月)はレンドバ島西方に進出したが、会敵しなかった[69]。 7月2日、秋山少将は突撃隊(旗艦「新月」、第11駆逐隊《天霧、初雪》、第22駆逐隊《長月、皐月》、第31駆逐隊《望月》)と陽動隊(軽巡《夕張》、駆逐艦《夕凪、三日月》)を率いて米軍上陸部隊砲撃に向かうが、米軍魚雷艇と交戦して2隻を撃沈、ブーゲンビル島ブインへ引き揚げた[70]。 7月4日-5日、コロンバンガラ島への輸送作戦が計画されるが、第一回輸送部隊(長月、皐月、新月、夕凪)は米軍機及び米艦隊と交戦、駆逐艦1隻を撃沈したものの輸送作戦は失敗した[70]。そこで南東方面部隊指揮官は第三水雷戦隊に増援駆逐艦を手配し、全力での輸送作戦を命じた[70]


7月5日夕刻、秋山少将は支援隊(新月《第三水雷戦隊旗艦》、第24駆逐隊《涼風》、第17駆逐隊《谷風》)、第一次輸送隊(第30駆逐隊《望月、三日月》、第17駆逐隊《浜風》)、第二次輸送隊(第11駆逐隊《天霧、初雪》、第22駆逐隊《長月、皐月》)を率い、それぞれショートランド泊地を出撃した[71]。日本艦隊は電波探知機で米艦隊の存在を察知、レーダーで日本艦隊をとらえた米艦隊(指揮官ウォルデン・L・エインズワース少将:軽巡3、駆逐艦4)も発砲し、交戦状態に入る(クラ湾夜戦)。「初雪」も砲撃戦を行い、不発弾2発を受けた[71]。本海戦で「新月、長月」が沈没(米艦隊は軽巡「ヘレナ」沈没)、「新月」と共に秋山少将以下第三水雷戦隊司令部が全滅、輸送物件の約半分(陸兵1,600名と物資90トン)を揚陸した[71]。損傷した「初雪、望月」はラバウルへ後退し、応急修理を実施する[72]。新司令官着任までの間、重巡「鳥海」艦長有賀幸作大佐(かつての第11駆逐隊司令)が数日間だけ増援部隊指揮官となった。


日本海軍は戦死した秋山少将の後任として伊集院松治大佐を第三水雷戦隊司令官に任命する人事を7月7日に発令、伊集院大佐は7月10日にラバウルへ到着すると軽巡「川内」に将旗を掲げた[73]。しかし新司令部をいきなり実戦に投入するわけにはいかず、第二水雷戦隊(司令官伊崎俊二少将:旗艦「神通」)が当面の指揮を執る[73]。第二水雷戦隊と第七戦隊(司令官西村祥治少将)は、7月7日附で南東方面部隊に編入されていた[74]。7月12日、コロンバンガラ島輸送作戦中の第二水雷戦隊は米艦隊と交戦、軽巡「神通」が沈没し、伊崎少将と二水戦司令部は全滅した(コロンバンガラ島沖海戦)。それでも日本海軍はクラ湾夜戦とコロンバンガラ島沖海戦で米軍水上部隊に大打撃を与えたと判断し、クラ湾方面での敵艦隊撃滅と輸送作戦を行う計画をたてる[73]。第七戦隊司令官西村少将を指揮官とし、主隊(熊野鈴谷)、水雷戦隊(川内、皐月、水無月、雪風、浜風、清波、夕暮)、輸送隊(三日月、夕凪、松風)という戦力が集結、16日2200にラバウルを進出してブインへむかった[75]。「初雪《第11駆逐隊司令山代大佐座乗》、望月」は西村艦隊に先行して16日夕刻にラバウルを出撃、17日午前5時にブインへ入港[76][77]。「初雪」は「水無月」に、「望月」は「皐月」に横付けして物件・重油の移載をおこなっていた[75]


7月17日朝、ブインは大型爆撃機19、戦爆約150機の大空襲を受ける[73][78]。至近弾多数と艦橋後部附近に被弾した「初雪」は、浸水により水平状態で沈没(山代司令によれば、浅い水深のためマストは海面上に出ていたという)[77]。他に「皐月、水無月」が小破、翌日にも空襲を受け「望月」が小破した[79][75]。これを受けて西村艦隊は一旦ラバウルへ帰投、重巡「鳥海」を加えるなど戦力を再編したのち18日に再出撃した[73]。19日-20日、輸送作戦には成功したものの、夜間空襲により重巡「熊野」小破、駆逐艦「清波夕暮」沈没という損害を受けて戦果はなかった[73]


10月15日、「初雪」は初雪型駆逐艦[80] 第11駆逐隊[81]、 帝国駆逐艦籍[82] のそれぞれから除籍された。なおネームシップの本艦沈没後も『初雪型駆逐艦』の名称は改定されずに用いられている。

歴代艦長
※『艦長たちの軍艦史』265-267頁による。

艤装員長
・石橋三郎 中佐:1928年12月10日 - 1929年2月7日[83]


艦長
・石橋三郎 中佐:1929年2月7日[83] - 1929年11月30日

・福原一郎 中佐:1929年11月30日 - 1930年12月1日

・河原金之輔 中佐:1930年12月1日[84] - 1931年12月1日 同日より第二予備艦

・(兼)直塚八郎 中佐:1931年12月1日 - 1932年1月11日

・(兼)金桝義夫 少佐:1932年1月11日 - 1932年5月16日[85]

・(兼)中原達平 中佐:1932年5月16日[85] - 1932年7月1日[86]

山口次平 中佐:1932年7月1日 - 1933年11月15日

久宗米次郎 中佐:1933年11月15日 - 1935年1月15日[87]

・(兼)杉本道雄 中佐:1935年1月15日 - 1935年4月1日

・有田貢 少佐:1935年4月1日[88] - 1936年3月11日[89]

・(兼)小川莚喜 少佐:1936年3月11日[89] - 6月15日

島居威美 少佐:1936年6月15日 - 1937年12月1日[90]

・広瀬貞年 中佐:1937年12月1日 - 1938年6月25日[91]

・一門善記 少佐:1938年6月25日 - 1938年12月1日[92]

・山隈和喜人 中佐:1938年12月1日 - 1939年12月1日[93]

・岩橋透 少佐:1939年12月1日 - 1941年8月20日[94]

・神浦純也 少佐:1941年8月20日 -

・山口達也 少佐:1942年5月12日 -

・杉原与四郎 少佐:1943年5月30日 -

詳しいことは、「初雪 (吹雪型駆逐艦)ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%9D%E9%9B%AA_(%E5%90%B9%E9%9B%AA%E5%9E%8B%E9%A7%86%E9%80%90%E8%89%A6)
(wikiより)

74   初雪

初雪

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白雪(しらゆき)は、大日本帝国海軍駆逐艦[1]。特型駆逐艦こと一等駆逐艦吹雪型(白雪型・初雪型)の2番艦[2]。 雪級(ゆきクラス)の1隻[3][4]。 当初の艦名は第三十六号駆逐艦[1]。白雪の名を持つ日本海軍の艦船としては神風型駆逐艦 (初代)白雪」に続いて2隻目。名称ははつゆき型護衛艦(現:しまゆき型練習艦)2番艦「しらゆき」に受け継がれている。

艦歴

駆逐艦白雪は横浜船渠で建造された[5]1927年(昭和2年)3月19日に起工[5]4月26日、建造予定の一等駆逐艦4隻に、それぞれ第36号駆逐艦(のちの白雪)、第38号(〃深雪)、第39号(〃叢雲)、第44号(〃浦波)の艦名が与えられた[6]。第36号駆逐艦の艦名は浦風型駆逐艦江風(第36号駆逐艦)に使われた事がある[7][8]。 本艦は1928年(昭和3年)3月20日に進水[5]。同年8月1日、第36号駆逐艦を白雪と改名した[1]。12月18日に竣工した[5]。竣工後、第2艦隊第2水雷戦隊・第11駆逐隊に編入。呉鎮守府所属。


日中戦争
に際しては1937年(昭和12年)以降、上海上陸、杭州湾上陸、北部仏印進駐作戦などに参加した。この間、第二航空戦隊や第三水雷戦隊など、所属部隊は幾度もかわった。太平洋戦争直前の1941年(昭和16年)6月18日附で、第11駆逐隊司令は有賀幸作大佐から荘司喜一郎大佐に変わった[9]

太平洋戦争緒戦

太平洋戦争緒戦、第三水雷戦隊(司令官橋本信太郎少将:旗艦川内および第11駆逐隊《初雪、白雪、吹雪》、第12駆逐隊《白雲、叢雲、東雲》、第19駆逐隊《綾波、敷波、浦波、磯波》、第20駆逐隊《夕霧、狭霧、天霧、朝霧》)は南遣艦隊(司令長官小沢治三郎中将:旗艦鳥海)を基幹とする馬来部隊に所属され、南方作戦蘭印作戦に参加した。

詳細は「エンドウ沖海戦」を参照


1月27日、白雪はマレー半島南部エンドウ沖で発生したエンドウ沖海戦に参加する。日本軍輸送船団撃破を狙うオーストラリア海軍駆逐艦「ヴァンパイア」とイギリス海軍駆逐艦「サネット」が「白雪」に対して[10]夜間雷撃を実施(「ヴァンパイア」1本」[11]、「サネット」4本発射[12])、魚雷は白雪の艦底を潜り抜けていった[13][14]。「サネット」側は「白雪」を巡洋艦と誤認して魚雷の深度を巡洋艦用の設定としていた[12]。 「白雪」は探照灯を照射して応戦。「川内」以下第三水雷戦隊各艦と共に「サネット」を撃沈し「ヴァンパイア」を撃退したが、僚艦から砲火が集中して危険になる一幕もあった。「白雪」は「サネット」の生存者、水雷長以下31名を救助した[15]。「サネット」の生存者を救助した際には、勝ち戦のため余裕があったためか、可能な限り優遇した[13]。この海戦で「白雪」では1名が機銃弾で重傷をおっている[12]

詳細は「バタビア沖海戦」を参照


3月1日、白雪はジャワ島西部攻略作戦中に発生したバタビア沖海戦に参加する。当時の第11駆逐隊(初雪、白雪、吹雪)と第12駆逐隊(白雲、叢雲)は、軽巡洋艦由良等と共に第五水雷戦隊(司令官原顕三郎少将:旗艦名取)を基幹とする第三護衛隊に臨時編入されており、三水戦主力部隊とは別行動だった。第11駆逐隊は輸送船団を襲撃した重巡洋艦ヒューストン、軽巡洋艦パースの撃沈に大きな貢献を果たした。3月10日、第12駆逐隊(白雲叢雲)は解隊され、白雲は第20駆逐隊に編入。第11駆逐隊には叢雲が編入され、開戦時以来吹雪型3隻体制だった第11駆逐隊は4隻(吹雪、白雪、初雪、叢雲)に増強される[16][17]。第11駆逐隊の区分は、第1小隊1番艦初雪(駆逐隊司令艦)、2番艦白雪、第2小隊3番艦吹雪、4番艦叢雲であった。日本に帰投後、白雪は6月上旬のミッドウェー海戦に参加。7月15日附で第11駆逐隊司令として杉野修一大佐が着任[18]。つづいて印度洋通商破壊作戦に参加する。第三水雷戦隊各艦の士気はふるわなかったという[19]

ガダルカナル島の戦い

インド洋通商破壊作戦(B作戦、指揮官西村祥治第七戦隊司令官)はアメリカ軍のガダルカナル島およびフロリダ諸島上陸にともなうガダルカナル島の戦い勃発(8月7日以降)により中止され、第七戦隊、第三水雷戦隊、第四水雷戦隊各艦はソロモン諸島方面へ移動した[20]。第11駆逐隊(初雪、白雪、吹雪)は輸送船佐渡丸(陸軍川口支隊川口清健少将乗船)を護衛して、8月29日朝にショートランド着[20]。第三水雷戦隊の到着をもって第二水雷戦隊司令官田中頼三少将(重巡衣笠座乗)は外南洋部隊増援部隊指揮官を更迭され、増援部隊指揮官は三水戦司令官橋本信太郎少将(旗艦川内)となる[21]


8月31日-9月1日、第24駆逐隊(江風海風涼風)、第11駆逐隊(初雪、白雪、吹雪)は川口支隊1200名をガダルカナル島へ揚陸した[22][23]。 9月2日、敷設艦津軽および駆逐艦2隻(陽炎夕暮)、第一号型哨戒艇2隻(1号2号)のガ島輸送作戦が実施される[24][25]。駆逐艦3隻(吹雪、白雪、天霧)は津軽隊と共にガ島ルンガ泊地に突入、飛行場を砲撃しつつ掩護に任じた[26][25]。 9月5日、駆逐艦5隻(吹雪、白雪、天霧、陽炎、夕暮)はガ島輸送を実施[27][28]。 9月8日、アメリカ軍の輸送駆逐艦2隻・特設哨戒艇2隻が海兵隊二個大隊を輸送、上陸した部隊はガ島日本陸軍部隊に損害を与えたのち撤退した[29]。日本側はアメリカ軍輸送船団に零式水上観測機12機による空襲を実施するとともに、増援部隊指揮官直率部隊(川内、浦波、敷波、吹雪、白雪、天霧、陽炎、夕暮、《夕立》)も出動する[30][29]。だが米艦艇は撤収しており、大きな戦果をあげられなかった[29]。 9月12日、ガ島ヘンダーソン飛行場に対する日本陸軍総攻撃に呼応し、外南洋部隊も重巡鳥海以下所属艦多数を派遣する[31]。陽炎艦長指揮下の駆逐艦2隻(陽炎、白雪)は飛行場占領後の敵退路遮断を命じられたが、飛行場占領失敗の報告を受けて反転、外南洋部隊(主隊《鳥海等》・支援隊《青葉、古鷹、衣笠》)に収容されて引き返した[31]。あらためてガ島突入の命令を受けた橋本三水戦司令官将は、軽巡川内および駆逐艦7隻(海風、江風、浦波、敷波、嵐、叢雲、白雪)をひきいてショートランド泊地を出撃する[31]。アメリカ軍機の活動により川内は引き返し、駆逐艦部隊(大発動艇曳航)のみでガ島揚陸作戦を実施した[32][31]


日本陸軍のガ島飛行場占領失敗により、海軍側はひきつづき同島への増援輸送作戦を実施することになった[33]。9月18日、アメリカ軍輸送船団(巡洋艦3、駆逐艦10、輸送船6)のルンガ泊地入泊と揚陸の報告を受けた増援部隊指揮官(橋本三水戦司令官)は直率隊(川内、浦波、白雪、叢雲、浜風)をひきいてショートランド泊地を出撃、ルンガ泊地に突入したが敵影を見ず、アメリカ軍の物資集積場を砲撃して帰投した(効果不明)[34][33]。 9月21日夜、第19駆逐隊司令大江賢治大佐指揮下の駆逐艦4隻(浦波、白雪、陽炎、浜風)はガ島揚陸を実施[35][36]。月齢11のためアメリカ軍機は夜間空襲を敢行し、機銃掃射で陽炎に浸水被害を与えた[35]。執拗な空襲により、各艦は糧食の1/3程度を揚陸した時点でショートランド泊地へ避退した[35]


10月1日、第11駆逐隊(初雪、白雪、吹雪、叢雲)は陸軍青葉支隊司令部をガ島へ輸送したが、アメリカ軍機の空襲を回避中に初雪は舵故障を起こした[37]。このため司令駆逐艦を白雪に変更、初雪はショートランド泊地へ戻った[38]。白雪、吹雪、叢雲による輸送作戦は成功した[37]。 10月4日、第27駆逐隊司令瀬戸山安秀大佐(司令駆逐艦時雨)を指揮官とする輸送作戦(時雨、白雪、吹雪、叢雲、綾波)において、第八艦隊戦闘詳報では白雪のかわりに初雪が参加した事になっている[39][40]。実際の初雪は駆逐艦綾波と交替する形で蟻輸送大発動艇小発動艇によるショートランド諸島からニュージョージア諸島経由のガ島輸送作戦)に従事していた[41]。 10月8日、水上機母艦日進および秋月型駆逐艦1番艦秋月によるガ島輸送が実施されることになり、27駆司令指揮下の駆逐艦5隻(時雨、白雪、吹雪、叢雲、綾波)は護衛をかねて輸送作戦を実施することになった[42]。だが基地航空隊より天候不良のため零式艦上戦闘機を派遣できないとの報告があり、2隻(日進、秋月)はショートランドへ引き返した[43][42]。駆逐艦部隊はそのままガ島へ向かい、揚陸に成功して無事に帰投した[44]

サボ島沖海戦

詳細は「サボ島沖海戦」を参照


ガダルカナル島の戦いにおける日本軍苦戦の大きな要因が、アメリカ軍に奪取されたヘンダーソン飛行場だった。10月11日、ガダルカナル島ヘンダーソン基地艦砲射撃を目指す外南洋部隊支援隊(指揮官五藤存知第六戦隊司令官)は、第六戦隊(青葉古鷹衣笠)、第11駆逐隊第2小隊(初雪、吹雪)、計5隻(重巡3隻・駆逐艦2隻)という戦力でショートランド泊地を出撃[45]。並行して、水上機母艦2隻(日進千歳)、駆逐艦6隻(秋月型駆逐艦秋月》、第19駆逐隊《綾波》、第9駆逐隊《朝雲、夏雲》、第11駆逐隊第1小隊《白雪、叢雲》)によるガ島輸送作戦も実施されることになった[45][46][47]。 10月11日午前6時、日進輸送隊はショートランド泊地を出撃、零戦隊の援護をうけつつガダルカナル島へ向かった[48]。零戦隊の援護をうけつつ、夜になりガ島へ到着して揚陸に成功した[48]。だが日進隊に遅れてショートランド泊地を出撃[48]、後続していた外南洋部隊支援隊は待ち伏せていた米艦隊(指揮官ノーマン・スコット少将:重巡洋艦2、軽巡洋艦2、駆逐艦5)と交戦[49][50]。五藤司令官は戦死、吹雪が轟沈、古鷹も航行不能(古鷹は日付変更後に沈没、乗組員は初雪に救助された)、青葉が大破という被害を受けた(サボ島沖海戦[49]


衣笠より米艦隊との交戦報告をうけた外南洋部隊指揮官三川軍一第八艦隊司令長官は、米艦隊が日進輸送隊を攻撃することを懸念し、第六戦隊・日進輸送隊の援護を目的として、支援隊残存艦・増援部隊(第三水雷戦隊)に米艦隊撃滅を命じた[51]。同時刻、日進輸送隊も米艦隊撃滅と古鷹救援のため、第9駆逐隊の朝潮型駆逐艦2隻(朝雲夏雲)・第11駆逐隊第1小隊の吹雪型駆逐艦(白雪、叢雲)を派遣した[51][52]。 駆逐艦4隻は古鷹の救援のため行動したが同艦を認めず(すでに沈没)、退避中にニュージョージア島沖合でアメリカ軍機の空襲を受け[51]、まず夏雲が沈没した[47]。朝雲、白雪は夏雲、叢雲の生存者を収容後に一旦ひきあげ、増援部隊(川内、由良、時雨、白露、浦波、磯波、天霧)と合流後、夜陰に乗じて叢雲曳航のために現場へ戻った[53]。朝雲、白雪は19時に叢雲の傍にもどるが同艦は爆発炎上して曳航の手段がなく、白雪は叢雲を雷撃で処分した[51][54]


なお戦史叢書では呉鎮守府警備駆逐艦(豊田司令長官指揮下)の白雲が、10月11日-12日に生起した水上機母艦日進護衛および『サボ島沖海戦』に参加し、外南洋部隊(指揮官三川軍一第八艦隊司令長官)に所属する第11駆逐(白雪、叢雲、初雪、吹雪)の司令駆逐艦(駆逐隊司令杉野修一大佐)として、第11駆逐隊第1小隊2番艦の駆逐艦叢雲救援と雷撃処分を白雲が実施したことになっている[51]。だが白雲は8月28日の空襲で大破、第20駆逐隊の解隊にともない警備駆逐艦となって外南洋部隊(第八艦隊)から除かれ[55]、サボ島沖海戦時は日本本土に戻っていた(10月8日着)[56]。さらに大修理が必要な状態であり、最前線で戦闘に参加できる状態ではなかった[57]。水上機母艦日進の護衛および叢雲の処分を実施したのは、白雲と名前が似ている本艦(白雪)である[53][54]。 本海戦により吹雪型ネームシップ吹雪が沈没すると、吹雪型駆逐艦は『白雪型駆逐艦』に改定された[58]


10月13日、第四水雷戦隊(旗艦秋月)が高速輸送船6隻を護衛してガ島輸送を実施することになり、並行して外南洋部隊主隊(鳥海、衣笠、望月、天霧)・増援部隊(川内、由良、朝雲、白雪、暁、雷)も飛行場砲撃と輸送作戦を決行する[59][60]。外南洋部隊・増援隊の飛行場砲撃・輸送作戦は成功[61]。白雪は甲標的基地員と物件輸送を担当した[60]。だが高速輸送船団はアメリカ軍機の空襲を受け輸送船3隻を喪失、揚陸した物資もアメリカ軍機や米艦艇の攻撃で大部分を焼き払われてしまった[61]


水上機母艦2隻(日進、千歳)の投入は連合艦隊の指導により中止され、外南洋部隊増援部隊はガ島日本陸軍総攻撃(10月下旬予定)の前に、全力で輸送作戦を実施することになった[62]。増援部隊指揮官橋本三水戦司令官は軽巡3隻(川内、由良、龍田)を、第四水雷戦隊司令官高間完少将(旗艦秋月)は水雷戦隊(秋月、朝雲、白雪、暁、雷、村雨、夕立、春雨、五月雨、浦波、敷波、綾波、時雨、白露、有明)を指揮し、10月17日早朝にショートランド泊地を出撃[62]。由良に米潜水艦から発射した不発魚雷1発が命中しただけで、輸送作戦は成功した[62]


11月2日、増援部隊指揮官橋本信太郎第三水雷戦隊司令官は旗艦を軽巡川内から重巡衣笠に変更、第一攻撃隊(衣笠、川内、天霧、初雪)を率いて輸送作戦を支援する[63]。 第四水雷戦隊司令官高間完少将(旗艦「朝雲」)は甲増援部隊(朝雲村雨春雨夕立時雨白露有明夕暮、白雪、天龍)を[64]、乙増援隊(浦波、敷波、綾波、満潮、朝潮)は第19駆逐隊司令が指揮[65]、望月は挺身輸送隊(蟻輸送部隊)撤収のため、それぞれショートランド泊地よりガ島へ向かった[63]。甲増援隊は揚陸地点の天候不良に悩まされ、装載艇多数を喪失、物資を一部揚陸できないまま引き返した[63]。白雪はカミンボで入泊する際に艦底を触接、若干の浸水被害を受けている[63]。白雪は甲増援部隊本隊に合流せず、単艦で帰投した[63]。 11月5日、三水戦司令官は旗艦を重巡衣笠から駆逐艦浦波に変更する[66]。乙増援部隊(浦波、敷波、綾波、白雪、望月、天龍)を直率してショートランド泊地を出撃する[66]。甲増援隊(朝雲、村雨、春雨、夕立、時雨、白露、有明、夕暮、朝潮、満潮)は第9駆逐隊司令佐藤康夫大佐(司令駆逐艦朝雲)の指揮下でガ島へ向かう[66]。甲増援隊・乙増援隊とも被害なく輸送に成功[67]。6日朝にショートランドへ戻った[66]。三水戦司令官は旗艦を川内に復帰、増援部隊指揮官の職務を第二水雷戦隊司令官田中頼三少将(旗艦五十鈴)に引継ぐと、白雪以下第三水雷戦隊各隊・各艦をひきいてトラック泊地へ向かった[66]

詳細は「第三次ソロモン海戦」を参照


11月中旬、第11駆逐隊第1小隊(白雪、初雪)は前進部隊指揮官近藤信竹第二艦隊司令長官(旗艦「愛宕」)の指揮下、第三次ソロモン海戦第二夜戦に参加した。同夜戦に参加した日本艦隊の戦力は、前進部隊指揮官直率の射撃隊(重巡愛宕《近藤中将旗艦》、高雄、戦艦《霧島》)、直衛隊(軽巡《長良》、駆逐艦《五月雨、初雪、白雪、朝雲、照月》)、掃蕩隊(軽巡《川内》、駆逐艦《浦波、敷波、綾波》)という編制である[68]。 一方の米軍は、ウィリス・A・リー少将率いる戦艦2隻(ワシントンサウスダコタ)、駆逐艦4隻(ウォークグウィンベンハムプレストン)である[69]。直衛隊5隻(長良、五月雨、電、白雪、初雪)は単縦陣で戦闘に突入[70]。長良と分離後は駆逐艦4隻(白雪、初雪、電、五月雨)が一群となって行動したという[71]。本夜戦でアメリカ軍駆逐艦3隻(ウォーク、ベンハム、プレストン)が沈没、日本側は霧島、綾波を喪失して米新型戦艦2隻(ワシントン、サウスダコタ)と駆逐艦グウィンを取り逃がした[69][72]

ケ号作戦

1943年(昭和18年)1月17日、白雪は輸送船4隻(大井丸、乾坤丸、旭盛丸、はばな丸)のB船団を護衛してトラック泊地を出発、速力9ノットでショートランド泊地を目指した[73]。航海中の1月20日附で川内、白雪は南東方面部隊に編入される[74][75]。 21日夕刻、ブーゲンビル島ショートランド泊地近海でB-17重爆6機の空襲を受けた乾坤丸が大破炎上し(戦死62、行方不明29)[73]、自沈処理された[76]。白雪は残3隻を護衛して目的地にたどり着いた[73]。ブーゲンビル島への輸送作戦では、参加輸送船11隻(B船団含む)のうち、乾坤丸以下4隻が沈没、A船団掩護のため出撃した秋月型駆逐艦の秋月が大破(第十戦隊司令官木村進少将負傷)という被害を出している[73]


1月24日、第三水雷戦隊司令官橋本信太郎少将は川内、白雪をひきいてラバウルに到着、翌日には第八艦隊司令部・第三水雷戦隊司令部・第十戦隊司令部が合同してガダルカナル島撤退作戦の打ち合わせを行った[75]。26日、三水戦司令官は増援部隊指揮官を引き継ぎ、白雪に乗艦してショートランド泊地へ移動、夕雲型駆逐艦巻波に将旗を掲げた[75]。川内はカビエンに回航され、重巡2隻(鳥海、熊野)と共に待機する[75]。 ショートランド泊地では、駆逐艦輸送が失敗した場合の予備手段として大発動艇部隊による撤収作戦の準備が行われた[77]。第16駆逐隊司令荘司喜一郎大佐(司令駆逐艦「時津風」)指揮下の駆逐艦6隻(警戒隊《時津風、白雪、黒潮》、輸送隊《浦風、浜風、江風》)で作戦を実施、アメリカ軍機の空襲を排除して作戦は無事に成功した[78][77]

詳細は「ケ号作戦」を参照


2月上旬、白雪はガダルカナル島撤収作戦(ケ号作戦)に参加した[79]。 第一次撤収作戦は警戒隊(巻波親潮舞風江風、白雪、文月皐月長月)と輸送隊(風雲巻雲夕雲秋雲浦風磯風浜風谷風時津風雪風大潮荒潮)という区分で、2月1日9時30分にショートランド泊地を出撃、エスペランス岬とカミンボへ向かった[80]。だがアメリカ軍機の空襲で旗艦巻波が航行不能となり、同艦は文月に曳航されて引き返した[80]。三水戦司令官は白雪に移乗して撤収部隊をおいかけ、その間の指揮は第十戦隊司令官がとっている[80]。ガ島では夕雲型駆逐艦巻雲が触雷して航行不能となり、夕雲に処分されている[80]。それ以上の被害はなく、第一次撤収作戦は成功裡に終わった[80]


第二次撤収作戦は、沈没損傷艦(巻雲、巻波)の代替として駆逐艦2隻(朝雲、五月雨)を編入し、それ以外は第一次撤収作戦と同じ艦で実施することになった[81]。2月4日9時30分にショートランド泊地を出撃するが、往路の空襲で舞風が航行不能となり、長月に曳航されて避退した[81]。さらに白雪は機関故障を起こしたため、増援部隊指揮官は江風に旗艦を変更する[81]。白雪はショートランド泊地に引き返し、江風は第二次撤収部隊をおいかけてガ島へ向かった[81]。駆逐艦3隻(舞風、長月、白雪)の離脱という事態があったものの、第二次撤収作戦も成功裡に終わった[81]


2月7日の第三次ケ号作戦(第一連隊《白雪、黒潮、朝雲、五月雨、時津風、皐月、文月、大潮、荒潮》、第二連隊《風雲、夕雲、秋雲、長月、谷風、浦風、浜風、磯風》)では、当初第8駆逐隊(大潮、荒潮)は加わっておらず、海軍と日本陸軍の折衝によって参加が決まったという[82][83]。2月7日9時10分にショートランド泊地を出撃、往路の空襲で磯風が大破した[82]。長月が曳航しようとしたが自力航行可能となったため、長月は撤収部隊に復帰[82]、対潜哨戒任務中の江風がかけつけ磯風を護衛してショートランド泊地へ避退した[82]。白雪指揮下の撤収部隊はガ島に到着、第三次撤収作戦も成功のうちに終わった[82]

詳しいことは、「白雪ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E9%9B%AA_(%E5%90%B9%E9%9B%AA%E5%9E%8B%E9%A7%86%E9%80%90%E8%89%A6)
(wikiより)

74   白雪

白雪

74a

74b

74c

74d

74e

74f



吹雪型駆逐艦(ふぶきがたくちくかん)は、大日本帝国海軍(以下「海軍」)の一等駆逐艦[3]の艦級である。同型艦24隻[3]特型駆逐艦(とくがたくちくかん)の名でも知られる。

概要

ワシントン海軍軍縮条約により、戦艦を始めとする主力艦等の保有制限を受けた日本海軍が、条約の制限を受けない補助艦艇の整備を強化する方針を打ち出したことにより建造された新型駆逐艦が本型である。 凌波性能を追求した船形による良好な航海性能と、艦橋を露天式から密閉式に改めるなどの居住性の改善、排水量に対して重武装(砲塔式12.7cm連装砲3基、61センチ魚雷9射線を中心に配備し予備魚雷も搭載した)の本型の出現は、当時の列強海軍に衝撃を与えた。

太平洋戦争では当初酸素魚雷こそ装備していなかったものの、水雷戦隊の主力や空母護衛、輸送船団護衛などで活躍し、結果として損害も多く、建造された24隻の中で終戦時まで残存した艦は2隻(潮、響)のみである。

ワシントン条約と睦月型駆逐艦
1921年(大正10年)のワシントン軍縮条約により、主力艦(戦艦巡洋戦艦)は保有比率が制限(英5:米5:日3)を受けた[25]。これにより主力艦の建造はいずれも中止され、日本海軍では主力艦の劣勢を補うため、条約で保有制限を受けない巡洋艦以下の補助艦艇を整備・強化する事に活路を見出す方針を打ち出した[25]。数的にはアメリカ海軍に及ばないため、必然的に個艦性能をアメリカより優勢にすることが求められた[25]。駆逐艦に関しては、それまでの八八艦隊計画では大型の一等駆逐艦と中型の二等駆逐艦の2系統で駆逐艦の建造を進めていた[26]が、条約後の計画見直し(大正12年度艦艇補充計画)で二等駆逐艦の建造を取りやめ、一等駆逐艦(1,400トン型)24隻の計画となった[27]。この計画では53cm魚雷搭載の神風型駆逐艦4隻と61cm魚雷搭載に兵装を強化した睦月型駆逐艦12隻の計16隻を建造した[28]。残り8隻の予算は計画が変更され、1,700トン型(本型)5隻として建造されることになる[29]

新型駆逐艦
睦月型駆逐艦は当時としては高性能かつ重武装艦(速力37.3kt 航続力14ktで4000浬 兵装:61糎三連装魚雷発射管/2基6射線 12糎単装砲四基)であるが、 1924年(大正13年)に出された軍令部の新型駆逐艦の要望はそれをはるかに上回る61cm魚雷発射管9射線(3連装3基)、12.7cm砲6門、速力37ノットというものだった[30]。 基本計画主任の藤本喜久雄造船大佐(当時)はそれを実現させるため、軽巡洋艦夕張の手法を取り入れ、新技術(半自動溶接等の新方式の電気溶接法など)を積極的に採用することによって徹底的な軽量化を試み、基準排水量1,700トン以下で要望通りの駆逐艦を設計した(実際の排水量は計画よりかなり重くなった)。固定天蓋付きの艦橋(ブリッジ)、防盾(シールド)付きの砲など、この後の日本海軍駆逐艦の基本形が本型できあがった。吹雪型は、国内外に衝撃を与え、海軍の分類に準拠した特型駆逐艦という呼称が有名になった。軽合金が多用されたのも初期の特徴だが、当時のアルミ合金は耐海水性が悪いうえ腐食が激しく使用を中止された[31]

建造

上述のように大正12年度(1923年)計画で5隻(吹雪、白雪、初雪、叢雲、深雪)[32]、大正15年度(1926年)成立の予算で4隻(磯波、東雲、薄雲、白雲)[33]、昭和2年度(1927年)計画により残り15隻が建造された[34]1928年(昭和3年)6月竣工の磯波から1933年(昭和8年)3月竣工の響で全艦24隻が竣工した。


本型は予想以上の好成績で、この事実が諸外国に知れた場合に大型駆逐艦の建艦競争が起きることを日本海軍は恐れ、建造の打ち切りを予定していた[35]1930年(昭和5年)のロンドン海軍軍縮条約で1,500トン以上の駆逐艦にも保有量の制限が課せられたため(後述)、予定通りの建造打ち切りが決定した[35]

竣工後から太平洋戦争開戦前まで

竣工後は続々と水雷戦隊、特に花形の第二水雷戦隊に配属されて日本海軍の主力を担った[35]。特に昭和9年度(1934年)の艦隊編成では第二水雷戦隊の全ての駆逐艦が本型だった[35]


大型かつ重武装である吹雪型の存在は当時の各国海軍に衝撃を与え、ロンドン海軍軍縮会議にて大型駆逐艦の保有枠が新たに設けられる事態や[36]、アメリカ海軍のポーター級、イギリス海軍のトライバル級等の特型駆逐艦に対抗した様々な駆逐艦が生まれる結果となった[37]

深雪 (駆逐艦)」、「友鶴事件」、および「第四艦隊事件」を参照


国外に様々な影響を与えた吹雪型であったが、国内においては訓練中に起こった事故や問題が発生していた。訓練中の事故で本級の電と衝突した深雪が沈没する事故や友鶴事件第四艦隊事件によって発覚した復元性不足、強度不足問題等である[38][39]。特に後者の2つの問題により性能改善工事が行われ、耐波性や凌波性は優秀なままであったが、重量が増大し速力が34ノットまで低下することとなった[39]

太平洋戦争時

太平洋戦争時には既に陽炎型駆逐艦等の最新鋭駆逐艦が主力となっていたが、吹雪型も最前線で運用された。なお陽炎型駆逐艦の18ノットで5,000海里に対して、1943年(昭和18年)9月時点での響の航続距離は17ノットで1,600海里と報告されている[15]


開戦時には23隻あった吹雪型であったが、終戦時には潮と響のみが残存していた。潮は後に解体され、響はソ連海軍へ賠償艦として引き渡され1970年代まで在籍していた。

特型駆逐艦

計画時の呼称は特型駆逐艦(とくがたくちくかん)。これは、1924年に艦政本部に対して要求された「新型駆逐艦」の過酷な要求を満たすため、艦政本部内に設けられた「特型駆逐艦対策委員会」の名称が基となっている。合計24隻が建造された[40]


ただし、特型は次級である初春型駆逐艦白露型駆逐艦[41]および朝潮型駆逐艦を含む呼称として使用された例もある[42]。あらたに登場した本型(特型駆逐艦)に対し、従来の睦月型駆逐艦峯風型駆逐艦神風型駆逐艦は『並型駆逐艦』と表現された事例もある[43]

艦級(クラス)

日本海軍での公式の艦型(艦級に相当)は艦艇類別等級表に記載され、あくまで全隻「吹雪型駆逐艦/白雪型駆逐艦/初雪型駆逐艦」である[44][45][3]


「吹雪型」命名前(後述)の呼称は第三十五号型駆逐艦(だいさんじゅうごごうがたくちくかん)[46]、命名後は「吹雪型駆逐艦」で統一しており[47]ネームシップの「吹雪」沈没後白雪型駆逐艦(しらゆきがたくちくかん)に改定され[48]、さらに初雪型駆逐艦(はつゆきがたくちくかん)と改められた[49]


その他の分類として、駆逐隊は4隻単位で本型の艦名も4隻ごとになっているので、吹雪から4隻ごとに雪級雲級波級霧級とする分類も見られた[41]ほか、吹雪型を16隻とし、後期型8隻(朧、曙、潮、漣、響、雷、電、暁)を朧型とする場合もあった[50]。なお吹雪型の次級である初春型駆逐艦の当時9隻(初春型《初春子日若葉初霜有明夕暮》、白露型白露時雨村雨》)も特型駆逐艦として分類している資料もある[41]。庭田尚三造船中将(呉海軍工廠造船部長として大和型戦艦1番艦大和の建造を指揮)は、初春型駆逐艦・白露型駆逐艦・朝潮型駆逐艦を『特型駆逐艦○○型』と分類している。


昭和造船史第1巻」巻末資料[11]や「世界の艦船」[51]では「吹雪」から「潮」までの20隻を「吹雪型」とし、機関を改良した「暁」以降4隻を暁型吹雪改型[52])として別のクラスに分類している(英語版ウィキペディアの暁型駆逐艦の記事を参照)。

分類

本型は建造期間が長いこともあり、いくつかの種類で分類される[53]。通常は外観の相違に基づいて3タイプ(+1タイプ)に分ける形になる[53]

I型[53](吹雪型[54]
大正12年度と大正15年度の計画で建造された9隻を指す[53]。昭和2年度計画の1番艦浦波を含める場合もある[53]。この10隻のみ12.7cm連装砲はA型を採用している[53]

改I型[53](浦波[53]
10番艦(昭和2年度計画の1番艦)の浦波は缶室吸気口形状などが後述のII型と同じであるが、艦橋構造物はI型と同じ、主砲はA型砲を搭載しており、I型とII型の折衷的な形態となっている。そのため「改I型」、もしくは 「IIA型」(II型の船体にA型砲を搭載していることから)[要出典]と呼ばれる[53]。当初はII型として完成する予定だったが折しもジュネーブ海軍軍縮会議が開かれておりその交渉の経過から急遽竣工を早めることとなった[53]。そのため新型砲(B型砲)が間に合わなくなり今までのA型砲を搭載して竣工した[53]

II型[53](綾波型[54]
昭和2年度に計画された15隻のうち、綾波以降潮までの10隻を指す[53]。艦橋構造物がI型より大型化し、缶室吸気口はI型(改I型を除く)のキセル型から荒天時海水の吸入を防ぐためにお碗型に変更された[53]。なお、このお椀型形状は以後日本海軍駆逐艦の標準となった[53]。また、I型に搭載されたA型砲が仰角40度なのに対し、75度にまで引き上げたB型砲を主砲に持つ[55]
朧、曙、漣、潮の4艦は他の綾波型の前期型6艦より煙突の高さが低く、その形状も若干変化していて「後期型」とする場合もある[56]。艦名は1文字の名が当てられた(後述のIII型も同様)[56]

III型[53](暁型[54]
吹雪型駆逐艦は当初から重量が計画より200トンほど超過しており、うち機関関係だけで100トン近くの超過があった[57]。これは当時の艦本第5部長(造機部長)が懲罰を受けるほどの大きな問題であった[57]。そこで缶(ボイラー)に空気余熱器を採用して効率を上ることにして、4基だった缶を3基に減らすことを画作した[57]。空気余熱器はII型の漣に搭載してテストされ、その結果が良好だったため、昭和2年度計画の最後の4隻は急遽缶を3基に変更した[57]。これにより細くなった一番煙突が、外見上の顕著な特徴である[52]。その他艦橋構造はII型より更に大型化し[56]、魚雷発射管に防盾を標準装備したのもこの型が最初である[58]友鶴事件第四艦隊事件による性能改善工事により、艦橋の小型化、魚雷発射管位置の変更等、事件の前後で最も艦容が変わった特型駆逐艦である[59]

詳しいことは、「吹雪型駆逐艦ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%B9%E9%9B%AA%E5%9E%8B%E9%A7%86%E9%80%90%E8%89%A6
(wikiより)

74   吹雪

吹雪

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深雪(みゆき)は大日本帝国海軍駆逐艦[1][2]

概要

一等駆逐艦「深雪」は吹雪型駆逐艦の4番艦[3][4]。 吹雪級の1隻[5]。 当初の艦名は第38号駆逐艦[1][6]浦賀船渠1927年(昭和2年)4月30日に起工、1928年(昭和3年)6月26日に進水、1929年(昭和4年)6月29日に竣工[7][8]。竣工と共に第11駆逐隊に編入され、同駆逐隊は雪級4隻(吹雪、白雪、初雪、深雪)を揃えた[9][10]


1934年(昭和9年)6月29日、第11駆逐隊(深雪、白雪、初雪)は第二水雷戦隊に所属して済州島沖合で行われた連合艦隊の演習に参加、本艦は吹雪型駆逐艦24番艦「」(第6駆逐隊)と衝突、艦首部(艦橋より前部)を喪失した[2][11]。「深雪」の艦体後部は軽巡「那珂」(第二水雷戦隊旗艦)に曳航されて佐世保港へ帰投中、浸水により沈没した[12][13]。浮いていた深雪前部も、間もなく沈没した[13][14]

艦歴
建造経緯

1927年(昭和2年)4月26日、日本海軍は建造予定の駆逐艦4隻を、それぞれ第三十六号駆逐艦(横浜船渠。後の白雪)、第三十八号駆逐艦(後の深雪)、第三十九号駆逐艦(藤永田造船所。後の叢雲)、第四十四号駆逐艦(佐世保海軍工廠。後の浦波)と命名する[15][16][17]。 第三十八号駆逐艦は、同年4月30日浦賀船渠で起工[18][19][7]1928年(昭和3年)6月26日午前11時30分、第三十八号駆逐艦は無事進水[20][21]。 8月1日附で第三十八号駆逐艦は深雪と改称[1][18]。 12月10日、日本海軍は加藤仁太郎中佐(当時、駆逐艦如月艦長)を、深雪艤装員長に任命する[22]


1929年(昭和4年)2月12日午後、東京湾で試運転中に伊号第二十四潜水艦と衝突、スクリューに損傷を受けて4月30日の竣工予定を延期した[23][24]6月29日に竣工[7][25]呉鎮守府[8]。同日附で深雪艤装員事務所は撤去された[26]。加藤艤装員長も、正式に深雪駆逐艦長(初代)となった[27]

竣工後

深雪竣工後、吹雪型駆逐艦4隻(吹雪、白雪、初雪、深雪)は呉鎮守府所属の第11駆逐隊を編成(昭和3年12月18日附編成、駆逐隊司令千谷定衛大佐[28]。)[9]第二艦隊第二水雷戦隊に所属した[29][30]


第11駆逐隊編入から間もない1929年(昭和4年)8月2日午後9時、山口県油谷湾で第12駆逐隊の射撃訓練に協力中の「深雪」(曳的艦)は、流れ弾2発が命中して小破[31]。負傷者4名[32]。舞鶴要港部工作部で修理を実施した。 11月1日、第11駆逐隊司令駆逐艦が「初雪」から「深雪」に変更された[33]。 11月30日、千谷大佐(第11駆逐隊司令)は標的艦「摂津」特務艦長へ転任[34]森田重房大佐(当時、軽巡夕張艦長)が後任の第11駆逐隊司令となる[34]


1930年(昭和5年)11月20日、加藤(深雪駆逐艦長)は第28駆逐隊司令に補職され、安富芳介中佐(当時、駆逐艦浜風艦長)が後任の深雪駆逐艦長となる[35]。 12月1日、第11駆逐隊司令は森田大佐から、南雲忠一大佐(当時、軽巡那珂艦長)に交代する[36]


1931年
(昭和6年)10月10日、南雲大佐(第11駆逐隊司令)は軍令部参謀へ転任、後任の第11駆逐隊司令は小沢治三郎大佐となる[37][38]。同月、深雪は呉工廠で缶用乙型1号噴燃器の換装等の工事に着手[8]。12月1日、第二予備艦となった[8]。 同日附で安富(深雪艦長)は姉妹艦朝霧駆逐艦長に任命される[39]。同時に姉妹艦初雪艦長河原金之輔中佐も、綾波駆逐艦長へ転任[39]。海軍は、直塚八郎中佐(当時、特務艦室戸運用長)に、深雪・初雪駆逐艦長兼務を命じた[39]。 また小沢大佐(第11駆逐隊司令)は海軍大学校教官を命じられて退任[38]、後任の第11駆逐隊司令は第28駆逐隊司令加藤仁太郎大佐(深雪の初代駆逐艦長)となる[40]。 さらに艦隊の再編により吹雪型3隻(東雲吹雪磯波)で第20駆逐隊が編成され[41][42][43]、第11駆逐隊は3隻となった[44][45]


1932年(昭和7年)1月11日、直塚中佐(深雪艦長兼初雪艦長)は大湊防備隊副長へ転任[46]天津風型駆逐艦2隻(天津風、浜風)艦長を兼務していた金桝義夫中佐が、新たな深雪・初雪駆逐艦長となる[46]。 5月16日附で金桝(深雪・初雪)艦長は吹雪型姉妹艦天霧駆逐艦長[47]に補職される。姉妹艦白雪駆逐艦長中原達平中佐が、吹雪型3隻(深雪、初雪、白雪)艦長を兼務することになった[47]。 7月1日、山口次平中佐が初雪駆逐艦長に補職される[48]。これにともない、中原中佐の艦長兼務は2隻(深雪、白雪)となった[48]。 7月8日、工事を完了[8]


12月1日、第二水雷戦隊に復帰[8]。 同日附で、中原(深雪、白雪)艦長は姉妹艦敷波艦長へ転任[49]大森正直中佐(当時、姉妹艦吹雪艦長)が、深雪駆逐艦長に補職される[49]金桝義夫中佐(天霧艦長)は白雪駆逐艦長に補職された[49]。また第11駆逐隊司令も、加藤仁太郎大佐(深雪初代艦長)から後藤英次大佐に交代する[49]

1933年(昭和8年)11月15日、第11駆逐隊司令後藤英次大佐は川内型軽巡洋艦2番艦「那珂」艦長に補職[50]。後任の11駆司令は、第20駆逐隊司令と姉妹艦磯波駆逐艦長を兼務していた横山茂大佐となる[50]

沈没

1934年(昭和9年)4月7日から6月15日まで、「深雪」は呉海軍工廠で入渠整備を実施[8]。 6月下旬、連合艦隊済州島南方沖で演習を実施[51][52]。 6月28日、第二艦隊司令長官高橋三吉中将(旗艦「鳥海」)[53]指揮下の、第二水雷戦隊(司令官阿武清少将:旗艦《那珂》、第6駆逐隊《》、第10駆逐隊《狭霧》、第11駆逐隊《深雪白雪初雪》、第12駆逐隊《白雲叢雲薄雲》)、第四戦隊第1小隊(鳥海《第二艦隊旗艦》、摩耶)、第六戦隊(青葉古鷹衣笠)、第二潜水戦隊《軽巡由良、潜水母艦迅鯨、潜水艦部隊)[54]、第一戦隊(扶桑日向[55]、および龍驤航空部隊は乙軍を編成[56][57]


これに対し、連合艦隊司令長官末次信正中将(旗艦「金剛」)[51]指揮下の金剛型戦艦2隻(金剛霧島)、第四戦隊第2小隊(高雄愛宕)、第七戦隊(長良五十鈴名取)、第一水雷戦隊(旗艦「川内[58]、第30駆逐隊《睦月卯月弥生如月》、第5駆逐隊《松風春風旗風朝風》、第23駆逐隊《菊月夕月望月三日月》、第29駆逐隊《疾風追風朝凪夕凪》)、第一航空戦隊(空母《赤城》、第2駆逐隊《澤風沖風》)、第一潜水戦隊、補給部隊(鳴戸間宮)等[59][60][61]甲軍を編成[57][62]。 甲軍(第一艦隊基幹)、乙軍(第二艦隊基幹)はそれぞれ佐世保を出撃した。


6月29日
午後1時、第四回連合艦隊基本演習(第一水雷戦隊、第二水雷戦隊の昼間襲撃)がはじまる[63][52]。午後5時頃より本格的な交戦がはじまるが、狭隘海面に多数の艦艇がひしめき、さらに天候と煙幕のため視界は極めて悪かった(約10-12km)[63][52]。鳥海座乗の第二艦隊参謀大西新蔵中佐(当時)は、演習条件(視界狭少、大部隊の襲撃)に多少無理があったが「これ位の無理はこの時に限ったことではなかった」と回想している[52]


午後6時頃、乙軍の第11駆逐隊(1番艦深雪、2番艦初雪、3番艦白雪)は甲軍(仮想敵)の第四戦隊第2小隊(高雄愛宕)に対し雷撃を敢行し、続いて煙幕(軽巡洋艦由良展開[64]、もしくは甲軍飛行機隊展開[52])を転舵で避け、たまたま発見した「衣笠」(乙軍)に続航しようとしていた[65]。 直後、煙幕の中から乙軍の第6駆逐隊(1番艦、2番艦、3番艦)が出現、回避できず「電」(第6駆逐隊司令駆逐艦)が「深雪」(第11駆逐隊司令駆逐艦)の左舷に衝突する[66][67][52]。 「深雪」の船体は艦橋直下の46番ビーム付近で断裂[68]。 後部船体に「那珂」が横付し、那珂・愛宕乗組員の応援を得て排水を試みたものの浸水が止まらず、第二水雷戦隊司令官阿部清少将(那珂座乗)は深雪乗組員の退去を命じた[69]。 深雪乗組員は「那珂」に移動[70][69]。軽傷者は戦艦「金剛」(連合艦隊旗艦)に収容された[71]。深雪乗組員総員退去完了後、「那珂」は「深雪」への横付を離す[69]。 午後9時53分[72]北緯32度51分 東経127度11分 / 北緯32.850度 東経127.183度 / 32.850; 127.183[73]もしくは北緯32度57分 東経127度14分 / 北緯32.950度 東経127.233度 / 32.950; 127.233地点で沈没した[8][69]。 深雪艦首部分は駆逐艦2隻(初雪、叢雲)で曳航を試みたが濃霧の中で見失い、翌日の捜索でも発見できず、沈没したものと推定された[14][74]。また「鳥海」(第二艦隊旗艦)も現場に残留し、翌朝には水上偵察機を投入して捜索に従事したが、深雪艦首を発見することは出来なかった[52]


深雪水兵2名と機関兵1名の3名が死亡、水兵2名が行方不明、電乗組員1名が行方不明となった[75]

戦艦「扶桑」分隊長として衝突を目撃した高松宮宣仁親王(海軍大尉、昭和天皇弟宮)は『もっと早く「日向」位が横抱きすればよかった』と評している[13]。 このあと艦首を喪失した「電」は姉妹艦「白雲」(第12駆逐隊)に曳航され[76]、6月30日朝以降は「那珂」に曳航され[77][52]、「響」や曳船の応援を得て7月1日午後3時、佐世保に帰投した[78][79]


7月3日
、第11駆逐隊司令駆逐艦は「深雪」から「初雪」に、第6駆逐隊司令駆逐艦は「電」から「響」に変更[80]。同日附で深雪残務整理事務所を設置する[81]7月5日附で第11駆逐隊より除かれ、同隊は吹雪型2隻(白雪、初雪)となる[82][83]。大森中佐(深雪駆逐艦長)、蘆田部一大尉(深雪航海長)、黒瀬淳大尉(深雪水雷長)、板垣金信大尉(深雪砲術長)、國末辰志機関大尉(深雪機関長)等も、それぞれの職務を解かれた[84]7月22日、事務所撤去[85]。 同年8月15日に除籍された[86][87]


「深雪」は吹雪型(特型)駆逐艦以降の日本海軍在籍駆逐艦の中で第二次世界大戦に参戦していない唯一の駆逐艦であり、また、特型駆逐艦として最初の喪失艦である[11]美保関事件に続く本艦沈没は艦隊乗組員に衝撃を与えたが、訓練は一層激しくなったという[52]。 なお、艦艇研究家の福井静夫は、「深雪」亡失の原因を、衝突後の応急処置失敗にあると評している[12]。「電」との衝突により深雪艦首切断後、深雪中央部以降では第一罐室こそ満水になったが、第二罐室は健在だった[12]。だが深雪乗組員が自艦の構造を把握しておらず、罐室の隔壁を補強せず別の部位を補強したため、浸水が進んで沈没に至ったとしている[12]。また応急の不徹底は当時の海軍でも重く受け止められ、これ以降日本海軍では応急教育の徹底化がなされたという[12]


大藤正直中佐(本艦沈没時の艦長)[84]太平洋戦争において給糧艦「間宮」特務艦長[88][89]や標的艦「摂津」特務艦長[90][91]等を歴任した。 また深雪沈没の要因となった「電」駆逐艦長平塚四郎中佐(深雪沈没当時)は、軽巡「球磨」艦長、空母3隻(雲鷹葛城天城[91])艦長等を歴任して終戦を迎えた。

歴代艦長
※『艦長たちの軍艦史』267頁による。

艤装員長
1. 加藤仁太郎 中佐:1928年12月10日[22] - 1929年6月29日[27]

艦長
1. 加藤仁太郎 中佐:1929年6月29日[27] - 1930年11月20日[35]

2. 安富芳介 中佐:1930年11月20日[35] - 1931年12月1日[39]

3. 直塚八郎 中佐:1931年12月1日[39] - 1932年1月11日[46]第二予備艦、初雪艦長兼務

4. 金桝義夫 少佐:1932年1月11日[46] - 1932年5月16日[47] ※第二予備艦、初雪艦長兼務

5. (兼)中原達平 中佐:1932年5月16日[47] - 1932年12月1日[49] ※第二予備艦、初雪・白雪艦長兼務

6. 大藤正直 中佐:1932年12月1日[49] - 1934年7月5日[84]

参考文献
大西新蔵『海軍生活放談 日記と共に六十五年原書房、1979年6月。NCID BN09436350 大西は昭和8年11月15日から第二艦隊首席参謀。深雪沈没を鳥海艦橋で目撃。

・小沢提督伝刊行会編『回想の提督 小沢治三郎』原書房、1971年3月。

・重本俊一ほか『陽炎型駆逐艦 水雷戦隊の中核となった精鋭たちの実力と奮戦』潮書房光人社、2014年10月。ISBN 978-4-7698-1577-8

  ・戦史研究家伊達久『日本海軍駆逐艦戦歴一覧 太平洋戦争時、全一七八隻の航跡と最後

高松宮宣仁親王著、嶋中鵬二発行人『高松宮日記 第二巻 昭和八年一月一日~昭和十二年九月二十六日』中央公論社、1995年6月。ISBN 4-12-403392-3

・外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。ISBN 4-7698-1246-9 
福井静夫福井静夫著作集 軍艦七十五年回想記 日本駆逐艦物語』第5巻、阿部安雄・戸高一成/編集委員、光人社、1993年1月。ISBN 4-7698-0611-6

・『写真 日本の軍艦 軽巡II 川内型・阿賀野型・大淀・香取型 砲艦』第9巻、雑誌『』編集部/編、光人社、1990年4月。ISBN 4-7698-0459-8

・『写真 日本の軍艦 駆逐艦 I 睦月型・神風型・峯風型』第10巻、雑誌『』編集部/編、光人社、1990年5月。ISBN 4-7698-0460-1

・歴史群像編集部編『水雷戦隊I 特型駆逐艦 米英を震撼させたスーパー・デストロイヤーの全貌』学習研究社〈歴史群像太平洋戦史シリーズ Vol.18〉、1998年5月。ISBN 4-05-601768-9

・Howarth, Stephen (1983). The Fighting Ships of the Rising Sun: The Drama of the Imperial Japanese Navy, 1895–1945. Atheneum. ISBN 0-689-11402-8 

・Jentsura, Hansgeorg (1976). Warships of the Imperial Japanese Navy, 1869–1945. US Naval Institute Press. ISBN 0-87021-893-X 

・Nelson, Andrew N. (1967). Japanese–English Character Dictionary. Tuttle. ISBN 0-8048-0408-7 

・Whitley, M J (2000-4) [1988]. Destroyers of World War Two: An International Encyclopedia. London: Arms and Armour Press. ISBN 1-85409-521-8 

・M.J.ホイットレー『第二次大戦駆逐艦総覧 (Destroyers of World War Two: An International Encyclopedia)』岩重多四郎訳、大日本絵画、東京、2000年2月(原著1988年)。ISBN 4-499-22710-0


国立国会図書館デジタルライブラリー - 国立国会図書館

  ・海軍研究社編輯部 編『ポケット海軍年鑑 : 日英米仏伊独軍艦集. 1935年版』海軍研究社、1935年5月。

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  ・海軍大臣官房『海軍制度沿革. 巻4(1939年印刷)』海軍大臣官房、1939年。

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  ・海軍大臣官房『海軍制度沿革. 巻11(1940年印刷)』海軍大臣官房、1940年。


アジア歴史資料センター(公式)

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  ・『昭和2年達完/4月』。Ref.C12070088000。

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  ・『第38号駆逐艦工事予定概括表の件』。Ref.C04016680000。

  ・『伊号第24潜水艦觸衝報告』。Ref.C04016970400。

  ・『予備推進器貸与の件』。Ref.C04021822700。

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  ・『事件 災害事故 衝突 深雪、電、衝突関係(4)』。Ref.C05023975300。

  ・『事件 災害事故 衝突 深雪、電、衝突関係(5)』。Ref.C05023975400。

  ・『事件 災害事故 衝突 深雪、電、衝突関係(6)』。Ref.C05023975500。

  ・『事件 災害事故 衝突 深雪、電、衝突関係(7)』。Ref.C05023975600。

詳しいことは、「深雪 (駆逐艦)ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%B1%E9%9B%AA_(%E9%A7%86%E9%80%90%E8%89%A6)
(wikiより)

72 駆逐艦深雪

深雪

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72b



高砂(たかさご)は、日本海軍二等巡洋艦防護巡洋艦[1][2]。 艦名は加古郡加古川河口の高砂浦に由来する[3]日露戦争中の1904年(明治37年)12月13日旅順港閉塞作戦に従事中(旅順攻囲戦)、ロシア海軍の機雷により沈没した[4]

概要

日清戦争前の1893年に竣工した1番艦「吉野」より遅れること、日清戦争後の1896年に起工した。


一般には吉野と同型艦とされるが[5]、吉野型と独立して分類されることもある。吉野とは兵装、装甲などに違いがある。これは元々本艦が、1896年4月(もしくは5月29日)にアームストロング社エルジック造船所で起工された建造中の防護巡洋艦を、日本海軍が購入したものだからである。よって厳密には高砂は吉野の同型艦や準同型艦ではない。実際にはチリチャカブコ級防護巡洋艦の同型艦である。設計者は吉野と同じく、サー・フィリップ・ワッツである。

艦歴

1896年(明治29年)5月29日[3]イギリスニューカッスルアームストロング社エルジック造船所で起工[6]。1897年(明治30年)3月26日、日本海軍はイギリスとアメリカで建造の軍艦4隻を命名[1]。第三号二等巡洋艦は「高砂」と命名された[1][7]5月17日、「高砂」は進水[3]。 1898年(明治31年)3月21日、日本海軍は海軍軍艦及び水雷艇類別標準を制定し、3,500トン以上7,000トン未満の巡洋艦を「二等巡洋艦」と定義[8]。 該当する9隻(浪速高千穂厳島松島橋立吉野高砂笠置千歳)が二等巡洋艦に類別された[9][2]。 「高砂」は5月17日に竣工[6]。呉鎮守府籍[10]。同年5月25日、サウスシールズを出港し[11][3]。日本に回航され、8月14日横須賀港に到着した[3]。回航員には、石橋甫(当時、高砂航海長。後日、高砂沈没時艦長)も含まれていた[12]


1899年
(明治32年)10月19日より約一ヶ月間、明治天皇皇太子(嘉仁親王/大正天皇)は沼津御用邸を出発し、広島・兵庫両県下を行啓する[13]。海路での移動時には、装甲巡洋艦「浅間」を御召艦とし、供奉艦として巡洋艦3隻(常磐、高砂、明石)が同行した[13]。10月23日、皇太子は一時「高砂」に乗艦し、本艦を御召艦とした[14]

北清事変では1900年から翌年にかけて芝罘山海関大沽方面に出動した。


1902年
(明治35年)6月16日から同月18日にかけて行われた、エドワード7世戴冠記念観艦式に参列のため、小松宮彰仁親王明治天皇名代)および伊集院五郎少将指揮下の巡洋艦2隻(高砂、浅間)は[15][16]イギリスを訪問後、ヨーロッパ各国を歴訪した[3]


1903年(明治36年)10月、皇太子(嘉仁親王/大正天皇)は和歌山県および瀬戸内海を巡啓することになり、「高砂」は皇太子の御召艦となった[17][18]。 10月9日、皇太子は和歌浦で「高砂」に乗艦し、紀伊海峡を周遊する[19][20]由良要塞を巡視した[20]


翌日[21]、皇太子(高砂乗艦)は高松市に移動する[22][23]。 10月10日から13日まで香川県滞在後(金刀比羅宮参拝等)[19][24]、再び「高砂」に乗艦して松山市愛媛県)に移動[25]、同地に14日から16日まで滞在する[26][27]。 10月17日、皇太子は「高砂」に乗艦して四国を出発し[28]糸崎広島県)で下艦した[22][19][29]


日露戦争
における本艦は、第三戦隊(司令官出羽重遠少将:千歳、高砂、笠置、吉野)に所属しており[30]旅順要塞攻略作戦、黄海海戦に参加[3][31]1904年(明治37年)2月9日、旅順沖でロシア汽船マンチュリア(Manchuria)(後の工作艦関東」)を鹵獲した[32]


5月15日
未明、日本海軍は巡洋艦「吉野」を味方艦「春日」との衝突により喪失した[33][34]。 同日昼間にはロシア海軍が敷設した機雷により戦艦2隻(初瀬、八島)を一挙に喪失した[35][36][34]。 「高砂」は僚艦(笠置龍田須磨等)等と共に、触雷した戦艦「八島」(艦長坂本一大佐)の救援に従事した[37][38][39]


同年12月12日深夜、「高砂」(高砂艦長石橋甫大佐)は僚艦「音羽」(音羽艦長有馬良橘大佐)と共に旅順港閉塞作戦に従事中、旅順港外で機雷に触雷した[40][41]。被雷から約1時間15分後の12月13日未明、転覆して沈没した[42][12]。沈没の前後、僚艦2隻(八雲、音羽)が救援のため来着する[42][43]。高砂乗組員436名中、艦長以下生存者153名が「音羽」に救助され、副長以下283名が死亡した(行方不明者を含む)[42][44]


1905年
(明治38年)6月1日、日本海軍は本艦以下6隻(八島大島速鳥愛宕、高砂)の喪失を公表する[41]。 同年6月15日、日露戦争で沈没した高砂以下八島初瀬吉野等は軍艦籍[10]および艦艇類別等級表(軍艦及び水雷艇類別等級表)より除籍された[45][46]

艦長
※『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。

回航委員長
内田正敏 大佐:1897年6月10日 - 12月10日

艦長
・内田正敏 大佐:1897年12月10日 - 1898年11月2日

・早崎源吾 大佐:1898年11月2日 - 1899年6月17日

・丹治寛雄 大佐:1899年6月17日 - 11月20日

・中山長明 大佐:1899年11月20日 - 1900年5月20日

滝川具和 大佐:1900年5月20日 - 9月25日

成川揆 大佐:1900年9月25日 - 12月6日

梨羽時起 大佐:1900年12月6日 - 1901年1月23日

・岩崎達人 大佐:1901年1月23日 - 9月10日

吉松茂太郎 大佐:1901年9月10日 - 1903年4月21日

・(心得)石橋甫 中佐:1903年7月7日 - 1904年1月17日

・石橋甫 大佐:1904年1月17日 - 12月23日

同型艦
吉野 (防護巡洋艦)


参考文献
・海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。

宮内庁図書寮編『大正天皇実録 補訂版 第一 自明治十二年至明治三十三年』株式会社ゆまに書房、2016年12月。ISBN 978-4-8433-5039-3

宮内庁図書寮編『大正天皇実録 補訂版 第二 自明治三十四年至明治四十年』株式会社ゆまに書房、2017年11月。ISBN 978-4-8433-5040-9

呉市海事歴史科学館編『日本海軍艦艇写真集・巡洋艦』ダイヤモンド社、2005年。

原武史『大正天皇 朝日選書663』朝日新聞社、2000年11月。ISBN 4-02-259763-1

正木生虎『正木義太傳および補遺 一海軍士官の記憶』文藝春秋、2009年11月。ISBN 978-4-16-371670-1
正木義太(当時海軍大尉)は明治36年12月28日、高砂分隊長。明治37年1月13日、高砂砲術長。第二回旅順口閉塞作戦で負傷。4月7日、佐世保鎮守府附。

・「巡洋艦の発達」『写真 日本の軍艦 重巡 I 妙高・足柄・那智・羽黒 巡洋艦の発達』第5巻、雑誌『』編集部/編、光人社、1989年11月、235-252頁。ISBN 4-7698-0455-5

・『官報

国立国会図書館デジタルコレクション - 国立国会図書館

  ・海軍有終会編『幕末以降帝国軍艦写真と史実』海軍有終会、1935年11月。

  ・海軍大臣官房『海軍制度沿革. 巻4(1939年印刷)』海軍大臣官房、1939年。

  ・海軍大臣官房『海軍制度沿革. 巻8(1940年印刷)』海軍大臣官房、1940年。

  ・海軍大臣官房『海軍制度沿革. 巻11(1940年印刷)』海軍大臣官房、1940年。

  ・川井裕『軍艦「足柄」の英国観艦式派遣及びドイツ訪問について』防衛省/戦史研究年報.(12)(国立国会図書館)

  ・藤田定市編『戦袍余薫懐旧録.第2輯』財団有終會、1926年12月。

アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)

  ・『明治30年 達 完/3月(4)』。Ref.C12070038100。

  ・『明治31年 達 完/3月(1)』。Ref.C12070040500。

  ・『明治38年 達 完/6月』。Ref.C12070053000。

  ・『日露役旅順附近海戦一覧表(明治37年)』。Ref.C14120009300。

  ・『日露役(旅順附近黄海海戦)に於ける沈没艦船並戦死者一覧表(昭和10年6月7日旅順要港部港務部調製)』。Ref.C14120009400。

  ・『日露役旅順陥落迄の両国艦船勢力並亡失表(明治37年)』。Ref.C14120009500。

詳しいことは、「高砂 (防護巡洋艦)ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E7%A0%82_(%E9%98%B2%E8%AD%B7%E5%B7%A1%E6%B4%8B%E8%89%A6)
(wikiより)

73 軍艦高砂

高砂

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陽炎(かげろう/かげろふ)は、日本海軍陽炎型駆逐艦1番艦である[3]1939年(昭和14年)11月に竣工した。日本海軍の艦船名としては1899年(明治32年)竣工の東雲型駆逐艦陽炎に続いて2隻目。1943年(昭和18年)5月、ソロモン諸島ブラケット海峡で触雷し沈没した。


ネームシップであるにもかかわらず、現存する写真が非常に少ないとされる[4]

艦歴
建造~第18駆逐隊時代

1934年(昭和9年)12月に日本がワシントン海軍軍縮条約の破棄を通告し2年後の失効が決まると、海軍は太平洋広域での活動を想定した大型駆逐艦の整備に着手した。1937年(昭和12年)からの第三次軍備補充計画(マル3計画)で、新型駆逐艦18隻の建造が承認された(同計画での建造は15隻)。陽炎は同型艦で3番目となる1937年(昭和12年)9月3日に舞鶴海軍工廠で起工[2]し、1938年(昭和13年)4月15日に命名され[5]、同日附で艦艇類別等級表に陽炎型駆逐艦が新設された[6]


9月27日に進水[2][7]1939年(昭和16年)8月10日、艤装員長山本岩多中佐が正式に初代駆逐艦長となった[8]。11月6日に同型艦で最も早く竣工した[2]。兵装は朝潮型駆逐艦と同程度ながら、18ノットで航続距離5000カイリの優秀な遠征能力を備えた。


陽炎は朝潮型駆逐艦2隻の第18駆逐隊()に編入し、11月15日に同駆逐隊が第二艦隊第二水雷戦隊に編入した。12月20日、2番艦不知火が竣工し、第18駆逐隊は4隻体制となった[9]。1940年(昭和15年)10月11日、横浜港沖で行われた紀元二千六百年特別観艦式に18駆の僚艦と共に参加[10]。18駆は第三列(金剛、榛名、熊野、鈴谷、最上、利根、筑摩、《陽炎》、大潮、朝潮、荒潮、満潮、《霰、霞、不知火》、黒潮、雪風、初風)に配置された。


太平洋戦争の開戦が迫った1941年(昭和16年)、航続距離が長い陽炎型2隻を揃えた第18駆逐隊は、真珠湾攻撃に備えて第二水雷戦隊の指揮を離れて第一航空艦隊の警戒隊(第一水雷戦隊司令官大森仙太郎少将)に編入された[11]。警戒隊には他に第一水雷戦隊旗艦の軽巡阿武隈、第17駆逐隊(谷風浦風浜風磯風)、駆逐艦秋雲第五航空戦隊所属[12])が加わっていた。1941年(昭和16年)11月26日、機動部隊(赤城加賀蒼龍飛龍翔鶴瑞鶴)の護衛として単冠湾を出発し、真珠湾攻撃に参加した。帰投後、開戦時の艦長だった横井稔中佐が脳溢血で倒れ[13]、12月22日附で有本輝美智中佐に交代した[14]


1942年
(昭和17年)1月5日に呉を出港し、第一航空艦隊に随行してラバウル攻撃に従事した。1月29日、浜風と共に翔鶴を護衛して横須賀に向かい、2月3日に到着した[15][16]。2月には第二航空戦隊(蒼龍、飛龍)のポート・ダーウィン攻撃を護衛し、ジャワ南方機動作戦、4月のセイロン沖海戦にも参加した。4月23日、呉に入港し入渠整備を行った[17]


5月1日、第18駆逐隊は第二水雷戦隊の麾下に復帰した[18]。5月下旬、第二水雷戦隊はミッドウェー攻略作戦に参加するためサイパンに進出し、6月のミッドウェー海戦では攻略隊の護衛として参加した[19][20][21]。空母4隻を失って上陸作戦は中止となり、第18駆逐隊は6月8日、重巡三隈が沈没した第七戦隊(栗田健男少将)の指揮下に入った[22]。大破した重巡最上を護衛し、同戦隊の重巡熊野、重巡鈴谷と共にをトラック泊地に寄港した。6月23日、第18駆逐隊は熊野と鈴谷を護衛して呉に帰投した[23]


第18駆逐隊は北方海域を担当する第五艦隊の指揮下に入った[24]。日本軍は、ミッドウェー作戦の陽動作戦として占領に成功したアッツ島キスカ島を維持する方針を決め、第18駆逐隊が呉に帰投した6月23日に輸送部隊(水上機母艦千代田あるぜんちな丸、鹿野丸、菊川丸、第18駆逐隊)を編制した[25]。第18駆逐隊は千代田を護衛して横須賀に寄港し、あるぜんちな丸と合流した。28日、陽炎を除く3隻が一足先に千代田、あるぜんちな丸を護衛して横須賀を出撃した。残る輸送船の出発が遅れたため陽炎は対潜作戦を行い、他の部隊と共に米潜水艦ノーチラスを攻撃して損傷を与えた[23]


7月5日、キスカ島に到着した不知火と霞、霰が米潜水艦グロウラーに攻撃され、霰が沈没、不知火と霞が大破した[26][27]。出港が遅れて難を逃れた陽炎は9日、輸送船菊川丸の護衛として横須賀を出発し[28]、19日にキスカ島へ到着した[29]。第18駆逐隊の健在艦が陽炎1隻となったため駆逐隊の編制が変更となり、陽炎は20日に南方に展開する第二水雷戦隊・第15駆逐隊(黒潮親潮早潮)に編入した[30]。キスカ島に投錨していた陽炎は28日、駆逐艦が曳航する霞を護衛し、同島を出発した[31][32]。8月3日、3隻(陽炎、雷、霞)は幌筵島片岡湾に到着した[33]。陽炎は霞と分かれて横須賀に向かい、8日に到着した[34]。同日附で第二水雷戦隊の指揮下に復帰した[35]

ガダルカナル島の戦い

1942年(昭和17年)8月7日、米軍はガダルカナル島ツラギ島に上陸し、ガダルカナル島の戦いが始まった。陽炎は、整備を終えた第二水雷戦隊旗艦の軽巡神通を護衛して15日にトラック泊地に入り、16日にソロモン海方面を担当する外南洋部隊(三川軍一第八艦隊司令長官)の指揮下に入った[36][37]。18日夜、陽炎は他の駆逐艦5隻(萩風谷風浦風浜風)と共に陸軍一木支隊をガダルカナル島に揚陸させた[38]。第17駆逐隊の浦風、谷風、浜風がラバウルに戻り、19日昼にB-17の空襲で萩風が大破し、嵐が護衛してトラック泊地に避退したため、同島付近に残る駆逐艦は陽炎1隻となった。陽炎は米軍機の空襲を受けたがツラギ方面の偵察と対地砲撃を実施した。第二水雷戦隊から交代の駆逐艦江風が派遣され、陽炎は21日にショートランド泊地へ向かった[39]

詳細は「第二次ソロモン海戦」を参照


8月22日、外南洋部隊は陽炎、夕凪、江風、睦月望月の駆逐艦5隻にガダルカナル島に対する米軍の補給・増援の阻止を、駆逐艦卯月には日本軍守備隊への補給を命じた[40]。陽炎は単艦で出撃し、23日深夜にガ島とツラギ島を砲撃するが、敵艦とは遭遇しなかった[41]


24日午後10時、陽炎、睦月、弥生、江風、磯風の駆逐艦5隻でガダルカナル島ヘンダーソン飛行場基地を10分間砲撃し、陽炎は潜水艦1隻の撃沈を報告した。5隻は北上し、25日午前5時40分に陸軍一木支隊第二梯団を輸送する第二水雷戦隊(田中頼三少将)の旗艦神通、海風涼風哨戒艇4隻、輸送船3隻(ぼすとん丸、大福丸、金龍丸)と合流した。直後、急降下爆撃機SBDドーントレスとB-17の空襲を受け、睦月と金龍丸が沈没、神通が大破した[42][43]。陽炎は涼風と共に神通を護衛して輸送船団から離脱したが、田中少将は陽炎を旗艦として再び船団に戻り、神通を涼風に護衛させてトラックに退避させた[43][44]。輸送作戦は失敗し、26日夕、陽炎は燃料不足の海風を護衛してショートランド泊地へ向かった。28日朝、旗艦は重巡衣笠に移った[45]


同日、ガダルカナル島に陸軍川口支隊の揚陸を目指していた天霧朝霧夕霧白雲の駆逐艦4隻が空襲を受け、朝霧が沈没した。陽炎は救援のため出動し、29日昼に無傷の天霧と航行不能になった白雲、小破した夕霧と合流した。30日朝、陽炎は3隻を護衛しショートランド泊地に戻った[46][47]。31日以降、第三水雷戦隊(橋本信太郎少将)を中心とする増援部隊に加わり、鼠輸送作戦に従事した。


9月2日深夜、陽炎、駆逐艦夕暮、敷設艦津軽哨戒艇1号2号による輸送作戦が行われ、駆逐艦3隻(吹雪白雪、天霧)が援護と飛行場砲撃を行った[48]。5日、駆逐艦5隻(吹雪、白雪、天霧、陽炎、夕暮)でガ島揚陸が実施された[49]。8日、ガ島に増援の米軍が上陸し、から米軍が川口支隊の背後に上陸したと報告が入った。第三水雷戦隊の旗艦軽巡川内と駆逐艦5隻(陽炎、吹雪、白雪、天霧、夕暮)が夜に到着したが、上陸船団は撤収しており、掃海艇1隻を座礁させたにとどまった[50][51]。13日にはヘンダーソン飛行場への日本陸軍総攻撃を支援するため出撃したが、攻撃が失敗し引き返した。


21日、大江覧治大佐の指揮で駆逐艦4隻(陽炎、浦波、白雪、浜風)が出撃、夜にガダルカナル島揚陸に成功するが、月明下で米軍機の夜間空襲を受けた。陽炎は機銃掃射をうけて艦首の水線上に穴が空き、浸水して揚錨機が使用不能になった[52][53][54]。この戦闘で、日本は月明下での鼠輸送を避けるようになった。22日、損傷した陽炎はいったん増援部隊から外されることになり、25日にトラック泊地に到着[53][55]。工作艦明石で修理した[56]


10月11日、前線に復帰した[57]。13日に計画された大規模な飛行場砲撃作戦では前進部隊に編入し、駆逐艦磯波と共に第二航空戦隊の空母隼鷹、空母飛鷹を護衛した[58]。10月26日の南太平洋海戦に参加し、米艦隊を追撃した陽炎と駆逐艦巻波が27日、空母エンタープライズホーネットの搭乗員各1名を捕虜にした[59][60]

第三次ソロモン海戦

11月3日、第二水雷戦隊(田中頼三少将)が再び増援部隊の中心となった[61]。6日、駆逐艦11隻(陽炎、親潮、早潮、海風、江風、涼風、巻波、高波長波夕雲風雲)がショートランド泊地を出撃しガダルカナル島に輸送し、作戦は成功した[62]

詳細は「第三次ソロモン海戦」を参照


11月、再びヘンダーソン飛行場への大規模な艦砲射撃と上陸作戦が計画され、第38師団佐野忠義中将)を乗せた輸送船11隻を、第二水雷戦隊が指揮する駆逐艦11隻(陽炎、早潮、親潮、海風、江風、涼風、高波、長波、巻波、天霧、望月)が護衛し、11月12日にショートランドを出撃した。しかし13日の第三次ソロモン海戦第一夜戦と昼間の空襲で戦艦比叡、重巡衣笠、駆逐艦夕立を失って砲撃が中止となり、船団はいったんショートランド泊地に戻った。14日に再出撃するがエンタープライズ艦載機やB-17重爆の攻撃で輸送船6隻が沈没、輸送船佐渡丸は天霧と望月の護衛で退避した。残る輸送船4隻(廣川丸、山浦丸、鬼怒川丸、山東丸)を護衛し揚陸を目指したが、15日に同海戦第二夜戦に遭遇した。田中少将は陽炎と親潮に突撃を命じ、戦艦霧島と交戦中の米戦艦ワシントンに遭遇した。親潮は魚雷1本を発射したが外れ(命中と誤認)、陽炎は夜戦の混乱で敵味方が識別できず攻撃できなかった。輸送船は15日午前2時頃、ガダルカナル島に座礁させ揚陸をめざしたが、昼間の空襲で全隻炎上し、輸送作戦は完全に失敗した[63]


・陽炎は15日の第二夜戦の混乱の中で金剛型戦艦らしい艦影に識別信号を送った。さらに距離1000mで米戦艦(サウスダコタと推量される)が反航しすれ違ったが、攻撃できなかった。当時の高田俊夫・陽炎水雷長は「魚雷を発射しなくても大砲や機銃を撃てば良かったのかもしれないが、日本海軍は事前にそういう訓練はしてないので、撃つという発想がなかった」と回想している[64]


連合軍は16日にパプアニューギニアブナに上陸した。17日夜、駆逐艦5隻(夕雲、風雲、巻雲、陽炎、親潮)で陸兵1000名のブナ輸送に成功した。別の輸送作戦で海風が空襲で航行不能となり、19日に親潮と陽炎がラバウルから救援に向かった[65][66]。24日、第15駆逐隊の僚艦早潮が空襲で沈没し、同隊は3隻(親潮、黒潮、陽炎)になった。外南洋部隊は東部ニューギニアとガダルカナル島の二正面作戦を強いられることになり、第二水雷戦隊はガ島へのドラム缶輸送計画に参加することになった[67]

詳細は「ルンガ沖夜戦」を参照


11月29日夜、田中少将が指揮する第二水雷戦隊の駆逐艦8隻(長波、高波、親潮、黒潮、陽炎、巻波、江風 、涼風)が、第一次のドラム缶輸送のためガダルカナル島ルンガ沖に到着した。日本の輸送作戦を察知したカールトン・ライト少将率いる米艦隊は重巡3隻、軽巡1隻、駆逐艦6隻で急襲し、ルンガ沖夜戦が勃発した。陽炎はこの時、輸送任務のため魚雷16本のうち予備魚雷8本を降ろしていた[68]。陽炎は攻撃命令を受けてドラム缶投下を中止、魚雷戦を準備した。しかし後続の巻波と行動中に僚艦を見失ったため、他艦より遅れて米艦隊を追撃し、巻波と共に魚雷を発射した。このうち2本が重巡ノーザンプトンに命中し、まもなく沈没した。日本は高波を失ったが、重巡ミネアポリス、 重巡ニューオーリンズ、重巡ペンサコラを大破させ、日本が海戦に勝利した。ただ輸送は失敗した[69][70]


第二次輸送は野分が加わった駆逐艦9隻で実施され、12月3-4日にドラム缶1500個を投下したが、陸軍が回収したドラム缶は310個にとどまった[71][72]。7-8日、第三次輸送が駆逐艦11隻(親潮、黒潮、陽炎、長波、江風、涼風、嵐、野分、浦風、谷風、有明)で実施された。空襲で野分が航行不能となり、長波、嵐、有明と共に撤退した。残る駆逐艦はガ島付近で魚雷艇と夜間空襲を受け、揚陸を断念した[71]。11-12日の第四次輸送は野分を照月に交代して実行されたが、揚陸中に魚雷艇の襲撃で照月が沈没し、投下したドラム缶1200個中220個しか回収されなかった[73]

16-17日には駆逐艦6隻(長波、巻波、親潮、黒潮、陽炎、谷風)でニュージョージア島ムンダに輸送を実施、揚陸中の夜間空襲で陽炎は重軽傷6名を出した。21日には駆逐艦4隻(浦風、谷風、巻波、陽炎)でムンダ輸送を実施した[74]1943年(昭和18年)1月2-3日、駆逐艦10隻(長波、江風、涼風、巻波、荒潮、親潮、黒潮、陽炎、磯波、電)でガ島への輸送し成功した。この頃、第二水雷戦隊の各艦が激戦で故障を抱えたため艦の交代が行われ、陽炎と親潮、涼風、長波はトラック泊地に戻った[75]


ガダルカナル島からの撤退が決まり、陽炎は2月上旬、敵艦隊の出現に備える本隊の支援隊として参加した(編制はケ号作戦参照)。2月8日までに撤退は成功し、トラック泊地の主力艦艇はいったん内地に帰投が決まった[76]。陽炎と黒潮は悪天候で航空隊の収容が遅れた隼鷹を護衛するため、主力艦艇に1日遅れて2月16日にトラックから内地に向かった。到着後、陽炎は入渠整備を行った[77][78]

沈没

3月22日、陽炎と駆逐艦涼月、駆逐艦初月、夕暮は、隼鷹、飛鷹、重巡利根、重巡筑摩を護衛して本土を出撃し、28日にトラック泊地に到着した[79][80]。4月24日、トラックで合流した第十五駆逐隊(親潮、黒潮、陽炎)は外南洋部隊に編入された[81]。4月26日、ラバウルに到着[82]。この頃ムンダやコロンバンガラ島の部隊が栄養不良などのために戦力が低下していたため部隊の補充交代が実施されることになり、この任務に第十五駆逐隊などが投入された[83]。4月29から5月8日までに6回のコロンバンガラ島輸送を実施することが計画され、第15駆逐隊(親潮、黒潮、陽炎)は奇数回の輸送を担当した[84]。第1回(4月29日)、第3回(5月3日)の輸送は成功したが、毎回ブラケット水道を通過する同じ航路をとったため、日本軍の補給部隊がブラケット水道を通っていることを知ったアメリカ軍は5月6日に敷設駆逐艦「ブリーズ」、「プレブル」、「ガンブル」によりブラケット水道に機雷[85]を敷設した[86]


5月7日17時(日本時間)、「親潮」、「黒潮」、「陽炎」はブインから5回目の輸送に出撃した[84]。「陽炎」は八連特の人員や軍需品などを搭載していた[84]。5月8日1時ごろにコロンバンガラ島ヴィラ泊地に入泊し、揚陸およに交代人員の収容を終えて3時10分頃に出港[87]。ブラケット水道を通過し、ファーガスン水道に向かおうとしていたとき、先頭の「親潮」が触雷した[88]。時刻は3時59分であった[88]。これを潜水艦の雷撃によるものと判断した「黒潮」と「陽炎」は爆雷を投射[88]。それから「陽炎」は「親潮」の周囲で潜水艦の捜索を行っていたところ、フェアウェイ島の37度約2000メートル付近で触雷した[89]。その時刻は4時11分頃[88]か4時6分[89]、または「親潮」触雷の11分後[90]であった。「陽炎」は第一缶室と第二缶室に浸水し航行不能となった[91]。この後さらに「黒潮」も触雷し爆沈した[88]


沿岸監視員から日本駆逐艦が航行不能となって漂流中との報告を受けたマーク・ミッチャー少将はSBD19機、TBF3機、F4U32機、P-40を8機攻撃に向かわせた[92]。F4UとTBFは荒天のため引き返したが残りは攻撃を行い、「親潮」に爆弾1発が命中[93]。「陽炎」も至近弾や機銃掃射で負傷者を出し、火災も発生したがすぐに消火された[94]。「陽炎」は北西に流され[88]、浸水が進んで沈み始めたため18時ごろ艦長は総員離艦を下令[95]。18時17分、「陽炎」はフェアウェイ島の0度1200メートルで沈没した[95]。「陽炎」での人的被害は戦死者18名、重傷者11名、軽傷者25名であった[95]。「陽炎」の生存者はフェアウェイ島に上陸し、5月9日の日没後に救出に着た大発により救助された[96]


6月20日、陽炎は帝国駆逐艦籍から除籍され、第15駆逐隊も解隊した[97][98]

詳しいことは、「陽炎 (陽炎型駆逐艦)ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%BD%E7%82%8E_(%E9%99%BD%E7%82%8E%E5%9E%8B%E9%A7%86%E9%80%90%E8%89%A6)
(wikiより)

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黒潮(くろしお/くろしほ)は、日本海軍駆逐艦[1]

概要

一等駆逐艦「黒潮」は陽炎型駆逐艦の3番艦[2]。竣工直後は第二水雷戦隊麾下の第16駆逐隊、続いて第15駆逐隊に所属して、フィリピン攻略戦蘭印作戦スラバヤ沖海戦)、ガダルカナル島攻防戦鼠輸送南太平洋海戦第三次ソロモン海戦ルンガ沖夜戦)等に参加[3]。本艦は1943年(昭和18年)5月8日コロンバンガラ島への輸送作戦中に触雷し、第15駆逐隊の姉妹艦2隻(陽炎親潮)と同時に沈没した[3]


黒潮」の艦名は海上自衛隊の潜水艦として継承され、ガトー級潜水艦くろしお旧名ミンゴ)」、うずしお型潜水艦「くろしお」、おやしお型潜水艦「くろしお」が就役した。

艦歴
太平洋戦争以前

陽炎型駆逐艦3番艦「黒潮」は仮称19号艦として藤永田造船所1937年(昭和12年)8月31日に起工[4][5]。同年12月9日、藤永田造船所で陽炎型6番艦「夏潮」が起工される[6]


1938年(昭和13年)4月15日、日本海軍は舞鶴海軍工廠で建造中の駆逐艦を『陽炎』、浦賀船渠の同型駆逐艦を『不知火』、藤永田造船所の本艦を『黒潮』、東京石川島造船所測天型敷設艇2番艇を「白神」と命名する[7][1]。同日附で艦艇類別等級表に『陽炎型駆逐艦』が新設され、3隻(陽炎、不知火、黒潮)は同型に類別された[8]。 同年10月25日、「黒潮」は進水[5][9]


1939年(昭和14年)2月23日、藤永田造船所で「夏潮」が進水[6][10]。本艦と同時に艤装工事が進められる[11]。同年4月11日、藤永田造船所で陽炎型11番艦「浦風」が起工[12]。 10月16日、日本海軍は吹雪型駆逐艦22番艦「」駆逐艦長岡本次郎少佐を黒潮艤装員長に任命する(後任の響艦長は、白露型4番艦「夕立」艦長岡三知夫少佐)[13]。10月22日、藤永田造船所に設置した黒潮艤装員事務所は事務を開始する[14]


1940年
(昭和15年)1月20日、佐世保海軍工廠で陽炎型8番艦「雪風」が竣工[15]、呉へ回航される[16]。 「雪風」竣工から一週間遅れた1月27日、陽炎型3番艦「黒潮」は竣工[4][5][17]。岡本中佐も黒潮駆逐艦長(初代)に任命される[18]。藤永田造船所に設置されていた黒潮艤装員事務所を撤去[19]。 同日附で日本海軍は、陽炎型2隻(雪風、黒潮)により第16駆逐隊(司令島崎利雄大佐)を編制[18][20]。初代司令駆逐艦は「雪風」[21]2月15日、神戸川崎造船所で陽炎型7番艦「初風」が竣工[22]。同日附で第16駆逐隊に編入され[20]、呉に移動する。2月24日、「黒潮」も大阪から呉に回航[23]。第16駆逐隊は3隻(黒潮、初風、雪風)を揃えた[20]第二艦隊第二水雷戦隊に所属[24][25]


10月11日、第16駆逐隊3隻(初風《司令駆逐艦》、雪風、黒潮)は紀元二千六百年記念行事に伴う紀元二千六百年特別観艦式に参加する[26][5]。同駆逐隊は、第三戦隊、第七戦隊、第八戦隊、第8駆逐隊、第18駆逐隊と共に第三列に配置されていた[27]。10月26日に陽炎型9番艦「天津風」が、12月15日に陽炎型10番艦「時津風」が竣工して漸次第16駆逐隊に編入されると、「黒潮」は11月15日附で第15駆逐隊に転出した[20]。第15駆逐隊は8月31日附で、陽炎型3隻(4番艦親潮、5番艦早潮、6番艦夏潮)によって編制されていた[28]。黒潮編入時の第15駆逐隊司令は植田弘之介大佐[29]、本艦の編入で定数4隻を揃えた[30]。 同日附で岡本中佐(黒潮艦長)は海軍水雷学校教官へ転任、吹雪型8番艦「白雲」艦長前川新一郎中佐が、黒潮駆逐艦長(二代目)に任命される[31]。第15駆逐隊も第二艦隊・第二水雷戦隊所属となる[32]


1941年
(昭和16年)6月18日、第15駆逐隊司令は植田大佐から佐藤寅治郎大佐(前職、第4駆逐隊《野分萩風舞風》司令)[33][34]に交代した(植田は9月20日より日本丸監督官)[35]。 6月23日、連合艦隊の第16回応用訓練が終了した午後6時頃、日向灘で同型艦「夏潮」(15駆僚艦)、朝潮型駆逐艦8番艦「峯雲」(第9駆逐隊)、本艦の多重衝突事故が発生[36][3]。「黒潮」は後進をかけた「峯雲」に追突し、艦首部分に損傷を受けた[37]。修理は呉工廠において約1ヶ月間かけて行われた[38]。7月26日、修理完了[3]。 9月10日、前川中佐(黒潮艦長)は海軍兵学校副官に補職[39]。日本海軍は、睦月型駆逐艦6番艦「水無月」艦長[40][41]古鷹型重巡洋艦2番艦「加古」水雷長[41][42]峯風型駆逐艦12番艦「帆風」艦長[42][43]等を歴任し、当時は吹雪型13番艦「朝霧」艦長[43]だった宇垣環中佐を黒潮駆逐艦長(三代目)に任命する[39]。 9月15日、第二水雷戦隊司令官五藤存知少将は第六戦隊(青葉加古衣笠古鷹)司令官へ転任(翌年10月、サボ島沖海戦で青葉大破時に戦死)、後任の二水戦司令官は第六潜水戦隊司令官田中頼三少将となった[44]

太平洋戦争緒戦

1941年(昭和16年)12月8日太平洋戦争開戦時、「黒潮」は引続き同型艦3隻(親潮早潮夏潮)と共に第二水雷戦隊(司令官田中頼三少将:旗艦/「神通」)・第15駆逐隊(司令官佐藤寅治郎大佐)に所属、比島部隊(指揮官高橋伊望中将/第三艦隊司令長官)の指揮下にあった[45]。 第二水雷戦隊の麾下駆逐隊には、陽炎型編制の駆逐隊が15駆のほかに2つ所属していた。第16駆逐隊(初風天津風時津風雪風)と第18駆逐隊(陽炎不知火、《朝潮型駆逐艦:》)である。このうち第18駆逐隊は第一水雷戦隊(司令官大森仙太郎少将:旗艦阿武隈)の指揮下にあって南雲機動部隊警戒隊として真珠湾攻撃に参加しており、第二水雷戦隊本隊とは別行動であった[45]


開戦と同時に第15駆逐隊はダバオホロ攻略作戦に参加した[30][3]1942年(昭和17年)1月4日、メナド攻略作戦に参加し、以降、ケンダリー攻略作戦、アンボン攻略作戦、マカッサル攻略作戦に参加[30][3]。一連の任務に従事中の2月8日、マカッサル沖で輸送船団護衛中の第15駆逐隊(夏潮、親潮、黒潮)は米潜水艦「S-37」に襲撃される[46][47]。「黒潮」は、魚雷が命中して航行不能となった「夏潮」の曳航を行うも[48]2月9日朝になり浸水が進み「夏潮」は沈没した[49][47]。同艦は陽炎型はじめての喪失艦となる[50]。 第15駆逐隊は司令駆逐艦を「親潮」に変更し[51][52]、しばらく陽炎型3隻(黒潮、親潮、早潮)編制で行動を続ける(夏潮は2月28日附で第15駆逐隊より除籍)[53]。以後、クーパン攻略作戦、ジャワ南方機動作戦に参加[30][3]。 3月15日、スラウェシ島スターリング湾を出港し、日本本土まで空母「加賀」(前月、パラオ入港時に座礁して艦底を損傷中)を護衛した[30][54]。3月22日、佐世保に到着[54]


4月17日、呉を出撃[3]。フィリピン方面へ進出中の4月18日夕刻、第15駆逐隊はドーリットル空襲に遭遇[55]。「黒潮」は宮崎県都井岬沖でB-25爆撃機に対して主砲10発と機銃31発を発射したが、戦果は無かった[56]。一連の空襲に対処したあと、15駆はフィリピンカガヤン攻略作戦に参加[57]。5月10日、第15駆逐隊(親潮、黒潮、早潮)はマニラを出港し、内地帰投中の翔鶴型航空母艦1番艦「翔鶴」(同艦は5月8日の珊瑚海海戦で大破、損傷中)[58]及び同行駆逐艦2隻(夕暮)と合流、5月17日呉軍港に到着した[59][3]


6月上旬のミッドウェー海戦における第二水雷戦隊は、攻略部隊(指揮官近藤信竹第二艦隊司令長官)指揮下にあって、輸送船団の護衛に従事した[60]。6月20日、桂島泊地(瀬戸内海)に戻る[3]。7月16日、呉を出撃してB作戦に参加。ペナン沖で対潜警戒活動を実施[3]。 7月5日、アリューシャン方面作戦に従事中の二水戦・第18駆逐隊3隻(不知火、霞、霰)は、米潜水艦グロウラーUSS Growler, SS-215)に雷撃され[46]、大損害を蒙った(沈没、不知火大破航行不能)[61][62]。第18駆逐隊司令宮坂義登大佐は更迭される[63](後日、予備役に編入)[64]。 7月15日、陽炎型1番艦「陽炎」は第18駆逐隊から第15駆逐隊に編入され、15駆は再び陽炎型4隻(黒潮、親潮、早潮、陽炎)を揃えた[65][30]。第18駆逐隊は8月15日附で解隊された[66]

ガダルカナル島の戦い

1942年(昭和17年)8月7日以降、ガダルカナル島の戦いがはじまると、第15駆逐隊および第二水雷戦隊もソロモン諸島に投入される。ガダルカナル島への駆逐艦輸送作戦『鼠輸送』に10回従事した。10月、二水戦はヘンダーソン基地艦砲射撃南太平洋海戦に参加。11月10日、黒潮駆逐艦長は宇垣環中佐から竹内一中佐[67]に交代(竹内は11月6日まで吹雪型24番艦「」艦長)[68]。直後の第三次ソロモン海戦では、輸送船団の護衛部隊として参加する。 11月21日、陽炎型5番艦「早潮」(第15駆逐隊)は単艦で第十八戦隊の指揮下に入り、駆逐艦5隻(春雨白露磯波、早潮)によるパプアニューギニアラエ輸送作戦に投入される[30]。11月24日夜、「早潮」は空襲を受けて大破して沈没(白露による砲撃処分)[69]。第15駆逐隊は3隻編制(親潮、黒潮、陽炎)になった[70]


11月30日、第二水雷戦隊司令官田中頼三少将(駆逐艦「長波」座乗)が指揮する第二水雷戦隊(第31駆逐隊《高波長波巻波》、第15駆逐隊《親潮黒潮陽炎》、第24駆逐隊《江風涼風》)はルンガ沖夜戦で勝利を収めるが[71][72]、夕雲型6番艦「高波」(第31駆逐隊司令清水利夫大佐戦死)を喪失した[73][74]。15駆2隻(親潮《残魚雷0本》、黒潮《残魚雷2本》)は田中司令官より航行不能となった「高波」救援命令を受けたが[75]、救助活動開始寸前で米艦が接近してきたため、救援を中止して避退した[76]。 第二水雷戦隊は引続き、ガダルカナル島へのドラム缶輸送に従事。 12月26日、第15駆逐隊司令は佐藤寅治郎大佐から牟田口格郎大佐に交代(佐藤大佐は、翌年2月より二水戦旗艦神通艦長。コロンバンガラ島沖海戦で戦死)[77][78][79]。 12月29日附で第二水雷戦隊司令官も田中頼三少将から小柳冨次少将(前職、金剛型戦艦1番艦「金剛」艦長)に交代[77][80]。この後、田中少将は陸上部隊勤務となり、二度と海上で指揮を執ることはなかった[81][82]


1943年
(昭和18年)1月以降も第15駆逐隊は引き続きガダルカナル島輸送作戦を始め、各方面の作戦に参加[83]。1月2日の第五次ガ島輸送作戦(親潮、黒潮、陽炎、長波、巻波、江風、涼風、電、荒潮)では駆逐艦「涼風」(第24駆逐隊)が空襲により中破[84]1月10日の第六次ガ島輸送作戦では、小柳司令官が「黒潮」に座乗して指揮をとり、一時期的に「黒潮」が第二水雷戦隊旗艦となる[85]。この作戦では駆逐艦8隻(黒潮、巻波、江風、嵐、大潮、荒潮、初風、時津風)が参加して、第16駆逐隊の姉妹艦「初風」が米軍魚雷艇の雷撃を受け大破している[86]。11日以降、「黒潮」はトラック泊地で待機し、第二水雷戦隊各艦もトラック泊地に集結していった[87]。1月23日、修理を終えた軽巡「神通」がトラックに到着する。同時期、第十戦隊司令官に任命された小柳少将は第二水雷戦隊司令官職を離れ、後任の二水戦司令官は伊崎俊二少将となる[88]。また二水戦から長良型軽巡洋艦2番艦「五十鈴」(第三次ソロモン海戦で損傷)が外れ、二水戦旗艦は同隊に復帰した「神通」に変更された[89][90]


2月上旬、「黒潮」はガダルカナル島撤収作戦(ケ号作戦)に従事する[91]。第二次作戦と第三次作戦で、姉妹艦「舞風」(第4駆逐隊)・「磯風」(第17駆逐隊)がそれぞれ損傷したが、「黒潮」は第二次作戦で至近弾により多少被害を受けた程度であった[92]。作戦終了後、「黒潮」は輸送船と衝突した白露型駆逐艦9番艦「江風」(第24駆逐隊)を曳航してショートランド泊地からラバウルに向かう[93]。 2月15日にトラック帰投後、僚艦「陽炎」と共に空母「隼鷹」を護衛する事になった[94]。2月15日、隼鷹隊(隼鷹、黒潮、陽炎)は第三戦隊(金剛榛名)、空母「冲鷹」、水上機母艦「日進」、重巡2隻(鳥海利根)、護衛駆逐艦(時雨大波)と共にトラック泊地を出港するが、トラック陸上基地に展開中の「隼鷹」航空隊を悪天候のため収容することが出来ず、3隻のみトラック泊地に留まった[95]。2月16日、3隻は隼鷹航空隊を収容するとトラックを発ち、21日に呉へ到着した[96]。以後、呉工廠で修理に従事する[3]。 2月23日附で黒潮駆逐艦長は、竹内中佐から[97]、白露型1番艦「白露」艦長[98]や同型「海風」艦長[99]等を歴任した杉谷永秀中佐に交代した[97]

沈没

1943年(昭和18年)4月2日、15駆2隻(黒潮、親潮)は横須賀に到着[100]。4月4日、駆逐艦4隻(黒潮、親潮、)は、大鷹型航空母艦2隻(大鷹冲鷹)と高雄型重巡洋艦3番艦「鳥海」を護衛して横須賀を出発、トラックまで護衛した[101][102]。 同時期、ムンダやコロンバンガラ島の部隊が栄養不良などにより戦力が低下していたため部隊の補充交代が実施されることになり、4月29日から5月8日にかけて駆逐艦による6回のコロンバンガラ輸送が行われることになった[103]。第15駆逐隊もこの任務に投入され[104]、4月26日にラバウルへ移動した[105]。「黒潮」は4月29日の第一回、5月3日の第三回と参加したが[106]、毎回同じ航路を取ったため5月6日にアメリカの機雷敷設艦ブリーズ、プレーブル、ギャンブルがブラケット水道に機雷を敷設した[107]5月7日17時、第15駆逐隊(親潮黒潮陽炎)はブインから第五回の輸送に出発した[106]。3隻は前回同様ファーガスン水道、ブラケット水道を通って5月8日1時ごろにコロンバンガラ島ビラ沖に入泊し、搭載人員、物資を下ろして帰還者を乗せると3時10分ごろに出港した[108]。3時49分、アウェイ島北西約0.6海里で「親潮」が触雷[109]。それを潜水艦の雷撃と考えた2隻(黒潮、陽炎)は爆雷を投下したが、4時11分ごろに今度は「陽炎」が触雷し、5時6分に「黒潮」も触雷して瞬時に沈没した[109][110]。損傷した「親潮」と「陽炎」も、米軍機の空襲を受け沈没した[111][112]。「黒潮」では83名の戦死者が出た[109]。救助に向かっていた第4駆逐隊司令杉浦嘉十大佐指揮下の駆逐艦2隻(萩風海風)は速報を受けて遭難現場に到着したが、生存者より3隻沈没の報告を受けて引き返した[113]


6月1日、杉谷中佐は黒潮駆逐艦長[114]の職務を解かれた(後日、杉谷は秋月型駆逐艦3番艦「涼月」駆逐艦長[115]等を歴任)。 6月20日、陽炎型3隻(黒潮、親潮、陽炎)は帝国駆逐艦籍より除籍[116]。全滅した第15駆逐隊も同日附で解隊された[117][30]。陽炎型駆逐艦の名称も「不知火型駆逐艦」に改定され、3隻は不知火型駆逐艦籍からも削除された[118]

詳しいことは、「黒潮 (駆逐艦)ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E6%BD%AE_(%E9%A7%86%E9%80%90%E8%89%A6)
(wikiより)

71  黒潮

黒潮

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親潮(おやしお/おやしほ)は、日本海軍駆逐艦[1]陽炎型駆逐艦4番艦である[2]。艦名は海上自衛隊の潜水艦「おやしお(初代)」、おやしお型「おやしお」に継承された。

艦歴
太平洋戦争前

「親潮」は舞鶴海軍工廠1938年(昭和13年)3月29日に起工[3]1938年(昭和13年)9月20日、日本海軍(米内光政海軍大臣)は舞鶴海軍工廠で建造の本艦を『親潮』、藤永田造船所の陽炎型6番艦を『夏潮』、川崎造船所の陽炎型7番艦を『初風』と命名した[1][4]。 同日附で、各艦(親潮、夏潮、初風、伊号第十八潜水艦伊号第二十潜水艦伊号第二十二潜水艦第十一号掃海艇第十二号掃海艇)は、それぞれ艦艇類別等級表に登録[5]。 同年11月29日舞鶴海軍工廠で本艦は進水[3][6]。同日の舞鶴港には、高雄型重巡洋艦2隻(高雄愛宕)、潜水母艦「長鯨」、駆逐艦「敷波」等が整備・修理中、朝潮型駆逐艦10番艦「」と陽炎型駆逐艦1番艦「陽炎」等を建造中だった[7]


1939年
(昭和14年)12月1日、吹雪型駆逐艦6番艦「東雲」艦長金岡国三中佐は親潮艤装員長に任命される(後任の東雲艦長は、叢雲艦長古閑孫太郎少佐)[8]。 12月7日、舞鶴海軍工廠に親潮艤装員事務所を設置、事務を開始する[9]


1940年(昭和15年)1月27日、藤永田造船所で陽炎型3番艦「黒潮」が竣工[10]、先に完成していた陽炎型8番艦「雪風」(1月20日竣工)と第16駆逐隊を編制する[11][12]。 5月1日、金国親潮艤装員長は、制式に親潮駆逐艦長(初代)に任命された[13]。 5月10日、親潮艤装員事務所を撤去[14]8月20日に竣工[3]呉鎮守府所属。

8月31日、姉妹艦2隻(早潮、夏潮)が同時に竣工する[15][16]。 同日附で日本海軍は、陽炎型3隻(親潮、早潮、夏潮)で第15駆逐隊を編制[17]。第15駆逐隊司令には、初春型駆逐艦2番艦子日初代艦長や同型吹雪艦長[18]、特務艦野島特務艦長[19][20]等を歴任した植田弘之介大佐が任命された[21]


11月15日、第15駆逐隊は第二艦隊・第二水雷戦隊(司令官五藤存知少将)に編入[17]。同時に、陽炎型9番艦「天津風」と10番艦「時津風」の竣工にともない、第16駆逐隊に所属していた姉妹艦「黒潮」が第15駆逐隊に編入される[17][12]。これをもって第15駆逐隊は(親潮、黒潮早潮夏潮)の陽炎型4隻編制となる[17]


1941年(昭和16年)6月18日、第15駆逐隊司令は植田大佐から佐藤寅治郎大佐(前職、第4駆逐隊《野分萩風舞風》司令)[22][23]に交代した(植田は9月20日より日本丸監督官)[24]。 9月10日、金岡(親潮艦長)は第30掃海隊司令へ転任(翌年3月、秋月型駆逐艦1番艦秋月艤装員長。第22駆逐隊司令、軽巡北上艦長《終戦時》、空母鳳翔艦長《復員船時代》等を歴任)[25][26]。後任の親潮駆逐艦長は、吹雪型「綾波」艦長有馬時吉中佐[25]。 9月15日、第二水雷戦隊司令官五藤存知少将は第六戦隊(青葉加古衣笠古鷹)司令官へ転任(翌年10月、サボ島沖海戦で青葉大破時に戦死)、後任の二水戦司令官は第六潜水戦隊司令官田中頼三少将となった[27]

太平洋戦争緒戦

1941年(昭和16年)12月8日の太平洋戦争開戦時、第二水雷戦隊(司令官田中頼三少将:旗艦神通)所属。二水戦には、「親潮」と同じ陽炎型編制の第16駆逐隊(初風天津風時津風雪風)、第18駆逐隊(陽炎不知火)が所属していたが、第18駆逐隊は第一水雷戦隊(司令官大森仙太郎少将:旗艦阿武隈)の指揮下にあって南雲機動部隊警戒隊として真珠湾攻撃に参加しており、別行動であった。12月、ダバオホロ攻略作戦に参加した[17]


1942年
(昭和17年)1月上旬、メナド攻略作戦に参加した[17]。以降、ケンダリー攻略作戦、アンボン攻略作戦、マカッサル攻略作戦、クーパン攻略作戦、ジャワ南方機動作戦に参加した。一連の任務従事中の2月8日、輸送船団護衛中に15駆僚艦「夏潮」が米潜水艦「S-37」に雷撃され航行不能となる[28]。「親潮」が護衛する中で「黒潮」による曳航が実施されたが、「夏潮」は2月9日に沈没[29][30]。陽炎型はじめての喪失艦となる。第15駆逐隊は司令艦を「親潮」に変更し[31][32]、当分3隻編制で行動を続けた[33]。 3月15日、スラウェシ島のスターリング湾を出港し、呉まで空母「加賀」を護衛した[17]。 4月18日のドーリットル空襲に対処したあと[34]、第15駆逐隊はフィリピン、カガヤン攻略作戦に参加[35]。5月10日、第15駆逐隊(親潮、黒潮、早潮)はマニラを出港し、内地帰投中の翔鶴型航空母艦1番艦「翔鶴」(同艦は5月8日の珊瑚海海戦で大破、損傷中)[36]及び同行駆逐艦2隻(夕暮)と合流、5月17日呉軍港に到着した[37]。6月上旬のミッドウェー海戦における第二水雷戦隊は輸送船団(ミッドウェー島占領部隊)の護衛を担当。第15駆逐隊は第十一航空戦隊(水上機母艦「千歳」)の護衛任務に就いた[38]


7月にはペナン沖で対潜警戒活動を実施。7月5日、アリューシャン方面作戦に従事中の二水戦・第18駆逐隊3隻(不知火、霞、霰)は、米潜水艦「グロウラー」に雷撃され、大損害を蒙った(沈没、不知火大破航行不能)[39][40]。第18駆逐隊司令宮坂義登大佐は更迭される[41](後日、予備役に編入)[42]。そこで「不知火」達とは別行動で無事だった陽炎型1番艦「陽炎」(第18駆逐隊)を3隻編制になっていた15駆に編入する事になり、7月20日附で第15駆逐隊は陽炎型4隻編制(親潮、黒潮、早潮、陽炎)となった[43]。第18駆逐隊は8月15日附で解隊された[44]

ガダルカナル島の戦い

8月7日以降、第15駆逐隊はガダルカナル島の戦いに投入された。駆逐艦によるガダルカナル島への輸送作戦『鼠輸送』に従事する。 10月13日、第三戦隊司令官栗田健男中将指揮下の挺身攻撃隊(第三戦隊《金剛榛名》、第二水雷戦隊《旗艦〔五十鈴〕、第15駆逐隊〔親潮、黒潮、早潮〕、第24駆逐隊〔海風江風涼風〕、第31駆逐隊〔高波巻波長波〕》)はガ島ヘンダーソン飛行場基地に対する艦砲射撃を実施、成功した(ヘンダーソン基地艦砲射撃[45]。 10月下旬、前進部隊(指揮官近藤信竹第二艦隊司令長官)に所属して南太平洋海戦に参加。 11月12-15日の第三次ソロモン海戦における第二水雷戦隊(早潮《二水戦旗艦》、親潮、陽炎、海風、江風、涼風、高波、長波、巻波、天霧望月)は輸送船団11隻を護衛して作戦に参加[46]。米軍機の空襲により輸送船10隻喪失(沈没6隻、4隻擱座)、輸送船1隻大破という大損害を受けた[47][48]


11月24日、ニューギニア島ラエ輸送作戦に従事していた15駆僚艦「早潮」がB-17型爆撃機の空襲を受けて沈没[49]、15駆は3隻編制(親潮、黒潮、陽炎)になった[50]。11月30日、二水戦司令官田中頼三少将(駆逐艦「長波」座乗)が指揮する第二水雷戦隊(第31駆逐隊《高波、長波、巻波》、第15駆逐隊《親潮、黒潮、陽炎》、第24駆逐隊《江風、涼風》)はルンガ沖夜戦で勝利を収めるが[51][52]、夕雲型6番艦「高波」(第31駆逐隊)を喪失した[53]。15駆2隻(親潮《残魚雷0本》、黒潮《残魚雷2本》)は田中司令官(長波)より航行不能となった「高波」救援命令を受けたが[54]、救助活動開始寸前で米艦が接近してきたため、「高波」を残して避退した[55]


11月28日附で東日出夫少佐(吹雪型5番艦叢雲沈没時の艦長)[56]が親潮駆逐艦長に補職[57]。前親潮艦長有馬時吉中佐は夕雲型駆逐艦8番艦「清波」艤装員長[58]および初代艦長[59]に補職され、同艦沈没時に戦死した(1943年7月20日)[60][61]


12月3日、田中少将の指揮下、駆逐艦10隻(31駆《長波、巻波》、15駆《親潮、黒潮、陽炎》、24駆《江風、涼風》、4駆《嵐、野分》、27駆《夕暮》)でガ島へのドラム缶輸送を実施、「巻波」が中破する[62][63]。 12月7日、佐藤大佐(第15駆逐隊司令)の指揮下[64]、駆逐艦9隻(親潮、黒潮、陽炎、江風、涼風、嵐、野分、有明)でガ島輸送を実施するが、空襲で「野分」が損傷、米軍魚雷艇の迎撃により輸送作戦も失敗した[65]


12月11日、二水戦司令官田中頼三少将の指揮下、駆逐艦部隊(秋月型2番艦照月《二水戦旗艦》、第4駆逐隊《》、第31駆逐隊《長波》、第24駆逐隊《江風涼風》、第15駆逐隊《親潮、黒潮、陽炎》、第17駆逐隊《谷風浦風》、第27駆逐隊《初春》)と共にガダルカナル島へ輸送作戦中、「照月」が魚雷艇に撃沈される[66]。その後、ムンダ輸送作戦に従事した。


12月26日、第15駆逐隊司令は佐藤寅治郎大佐から牟田口格郎大佐に交代(佐藤大佐は、翌年2月より二水戦旗艦神通艦長)[67][68][61]。12月29日附で第二水雷戦隊司令官も田中頼三少将から小柳冨次少将(前職、金剛型戦艦1番艦「金剛」艦長)に交代[67][69]。この後、田中少将は陸上部隊勤務となり、二度と海上で指揮を執ることはなかった[70][71]


1943年
(昭和18年)1月2日-3日、二水戦司令官小柳冨次少将の指揮下、駆逐艦10隻(長波、江風、涼風、巻波、親潮、黒潮、陽炎、荒潮磯波)はガ島ドラム缶輸送を実施する[72]。この作戦中に「涼風」が損傷[73]。続いて「親潮」も異常振動に見舞われ、以降の作戦に参加できなくなる[61]。 第15駆逐隊(親潮、陽炎)は「黒潮」を外南洋部隊(第八艦隊)に残して前進部隊(第二艦隊)に復帰[74]。1月9日、15駆(親潮、陽炎)は特設水上機母艦「山陽丸」を曳航する給油艦「鶴見」を護衛してショートランド泊地を出発[75]、17日トラック泊地到着[76][77]


1月17日からトラックで応急修理を受ける[74]。1月23日、小柳冨次少将は第二水雷戦隊司令官から第十戦隊司令官へ転任、後任の二水戦司令官は伊崎俊二少将となる [78]。また二水戦から長良型軽巡洋艦2番艦「五十鈴」(第三次ソロモン海戦で損傷)が外れ、二水戦旗艦は同隊に復帰した「神通」に変更された[79]。 2月1日、本艦は「箱崎丸」を護衛してトラック泊地を出発[80][81]、2月9日に呉到着[82][83]。 2月21日、空母「隼鷹」を護衛していた15駆2隻(陽炎、黒潮)も呉に戻る[82][81]。さらに呉工廠において3月22日まで修理を実施した。3月31日、2隻(親潮、黒潮)は内海西部を出発[84]、4月2日到着[85]。 4月4日、駆逐艦4隻(、黒潮、親潮)は大型艦3隻(空母《大鷹冲鷹》、重巡《鳥海》)を護衛して横須賀を出発[86][87]、4月8日夜、アメリカの潜水艦タニー(USS Tunny, SS/SSG/APSS/LPSS-282) が日本艦隊を発見、襲撃するが被害はなかった[86]。10日、トラック泊地に到着して任務を終える[88][89]。トラック泊地周辺の対潜掃蕩を実施したのち、4月24日附で二水戦4隻(親潮、黒潮、陽炎、海風)は南東方面艦隊(外南洋部隊)に編入される[90][91]。26日、第15駆逐隊はラバウルに進出した[89][92]

沈没

1943年(昭和18年)4月、ムンダやコロンバンガラ島の部隊が栄養不良などにより戦力が低下していたため部隊の補充交代が実施されることになり、4月29日から5月8日にかけて駆逐艦による6回のコロンバンガラ輸送が行われることになった[93]。「親潮」(第15駆逐隊司令駆逐艦)は4月29日の第一回、5月3日の第三回と参加したが[94]、毎回同じ航路を取ったため5月6日にアメリカの機雷敷設艦3隻(ブリーズ、プレーブル、ギャンブル)がブラケット水道に機雷を敷設した[95]。 5月7日17時、第15駆逐隊3隻(親潮、黒潮、陽炎)はブインから第五回の輸送に出発した[94]。3隻は前回同様ファーガスン水道、ブラケット水道を通って5月8日午前1時ごろにコロンバンガラ島ビラ沖に入泊し、搭載人員、物資を下ろして帰還者を乗せると3時10分ごろに出港した[96]。3時49分、「親潮」はアウェイ島北西約0.6海里で触雷、航行不能になった[97]。それを潜水艦の雷撃と考えた2隻(黒潮、陽炎)は爆雷を投射したが、4時11分ごろに今度は「陽炎」が触雷し、5時6分に「黒潮」も触雷して瞬時に沈没した[97]コースト・ウォッチャーズ(沿岸監視員)から日本駆逐艦が航行不能となって漂流中との報告を受けたマーク・ミッチャー少将は19機のSBD、3機のTBF、32機のF4Uおよび8機のP-40を攻撃に向かわせた[98]。F4UとTBFは荒天のため引き返したが残りは攻撃を行い、「親潮」の三番砲塔付近に爆弾1発が命中した[99]。「親潮」は南方に漂流し、同日17時5分にアンウィン諸島西端付近で沈没した[100]。「親潮」では91名の戦死者が出た(黒潮戦死者83名、陽炎戦死者18名)[97][101]。艦齢は約2年8ヶ月だった[102]。 第15駆逐隊司令牟田口大佐や東(親潮駆逐艦長)以下生存者は近くの島へ移動[103]。引き揚げ船でショートランド泊地に戻った[104]。 救助に向かっていた駆逐艦2隻(萩風海風)は速報を受けて遭難現場に到着したが、生存者より3隻沈没の報告を受けて引き返した[105]


同年6月1日、東日出夫中佐は親潮駆逐艦長の職務を解かれる[106]。東中佐は三重海軍航空隊教官を経て[107][108]、1944年(昭和19年)12月1日より秋月型駆逐艦13番艦「花月」艤装員長[108]、初代艦長[109]を歴任。終戦後、駆逐艦「雪風」艦長等を兼務して復員業務に従事した[110][111]


6月20日、陽炎型3隻(黒潮、親潮、陽炎)は同時に除籍[112]。また同日附をもって第15駆逐隊も解隊[113]。陽炎型駆逐艦の名称も『不知火型駆逐艦』に変更された[114]。 第15駆逐隊司令牟田口格郎大佐は横須賀鎮守府附となり[115]、8月18日より軽巡洋艦「大淀」艦長に補職された[116]。後日、伊勢型戦艦1番艦「伊勢」艦長へ転任し[117]呉軍港空襲にける同艦大破時に戦死した[118]

詳しいことは、「親潮 (駆逐艦)ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%AA%E6%BD%AE_(%E9%A7%86%E9%80%90%E8%89%A6)
(wikiより)

71   親潮

親潮

71a

71b

71c



早潮(はやしお/はやしほ)は[3]日本海軍駆逐艦[4]陽炎型駆逐艦の5番艦である[5]1942年(昭和17年)11月下旬、ラエ沖で空襲により大破、沈没した[6]。戦後、艦名は海上自衛隊はやしお型潜水艦はやしお」、はるしお型潜水艦はやしお」に継承された。

概要
駆逐艦早潮は、1940年(昭和15年)8月末に浦賀船渠で完成した陽炎型駆逐艦5番艦[5][7]太平洋戦争開戦時、第二水雷戦隊麾下の第15駆逐隊に所属して南方作戦にともなう比島作戦蘭印作戦に従事[7]1942年(昭和17年)6月上旬のミッドウェー作戦では第十一航空戦隊(千歳神川丸)の護衛に従事した[7][8]。 8月以降のガダルカナル島の戦いでは、第二次ソロモン海戦南太平洋海戦等に並行して、鼠輸送ガダルカナル島輸送作戦)に多数参加[7]。11月中旬の第三次ソロモン海戦では[9]第二水雷戦隊(司令官田中頼三少将)旗艦となる[10][11]。同海戦直後の11月24日、ニューギニア東部ラエ増援作戦従事中[12]フォン湾で連合軍重爆撃機の夜間空襲を受けて大破、炎上する[13]。僚艦「白露」の砲撃で自沈した[注 1]

艦歴
建造

1939年(昭和14年)3月31日、日本海軍は練習巡洋艦1番艦と2番艦にそれぞれ香取鹿島陽炎型駆逐艦5番艦に早潮(本艦)、測天型敷設艇巨済の艦名を与えた[3][15]。同日附で4隻(香取、鹿島、早潮、巨済)は艦艇(特務艇)類別等級表に類別される[16][17]。 本艦は浦賀船渠で建造されることになった[3][注 2]。早潮は1938年(昭和13年)6月30日、起工[1]1939年(昭和14年)4月19日、進水[1]


1940年(昭和15年)5月1日、日本海軍は朝潮型駆逐艦4番艦荒潮艤装員長[18]および初代艦長[19]、駆逐艦皐月初雪艦長等を歴任した山隈和喜人中佐を、早潮艤装員長に任命する[20]。 同日、浦賀船渠の早潮艤装員事務所は事務を開始する[21]。 8月31日[2]に竣工[注 3][注 4]。山隈中佐も制式に早潮駆逐艦長となった[23]。早潮艤装員事務所を撤去[24]呉鎮守府籍。

第15駆逐隊

1940年(昭和15年)8月31日、日本海軍は既に竣工していた陽炎型4番艦「親潮」[注 5]と、完成したばかりの「夏潮」[27]と「早潮」で第15駆逐隊を編制した[28]。初代駆逐隊司令には植田弘之介大佐が任命されている[23]。編制直後の第15駆逐隊は、呉鎮守府練習駆逐隊となる[29]。 11月15日、第15駆逐隊は第二艦隊(司令長官古賀峯一中将)・第二水雷戦隊(司令官五藤存知少将)に編入[30][31]。同時に第16駆逐隊に所属していた陽炎型3番艦「黒潮[注 6]が第15駆逐隊に編入され、15駆は定数4隻(黒潮、親潮、早潮、夏潮)を揃えた[30][33]

1941年(昭和16年)6月18日、第15駆逐隊司令は植田大佐から佐藤寅治郎大佐[34][注 7]に交代した[注 8]。 9月1日、山隈中佐(早潮艦長)は第11掃海隊司令[36]へ転任[37][注 9]金田清之中佐[注 10]が、早潮駆逐艦長(二代目)に補職される[36]

詳細は「南方作戦」および「フィリピンの戦い (1941-1942年)」を参照


太平洋戦争開戦時、陽炎型姉妹艦4隻(黒潮親潮早潮、夏潮)は引続き第15駆逐隊(司令佐藤寅治郎大佐)を編制、第二水雷戦隊(司令官田中頼三少将:旗艦神通)に所属し、比島部隊(指揮官高橋伊望中将/第三艦隊司令長官)の指揮下にあった[41][42]。また二水戦(神通、第8駆逐隊、第15駆逐隊、白鷹、哨戒艇2隻)で第五急襲隊を編成していた[43]。第五急襲隊は11月26日に内海西部を出発、南方部隊本隊と行動することになった第8駆逐隊を途中で分離し、12月2日パラオに到着した[44]


1941年(昭和16年)12月8日の開戦以後、第二水雷戦隊[注 11]は比島部隊に所属してダバオ[45][46]レガスピー[47]ホロ攻略作戦に参加した[48][49][50]。フィリピン方面の作戦が一段落すると比島部隊の大部分は12月28日付で「蘭印部隊」となり、東南アジアでの作戦に従事する[51][52]

詳細は「蘭印作戦」を参照


1942年(昭和17年)1月、第15駆逐隊はメナド攻略作戦に参加し、以降、ケンダリー[53]アンボン[54]マカッサル[55]、クーパンの各攻略作戦、ジャワ南方機動作戦に参加した[56]。 マカッサル攻略戦従事中の2月9日、アメリカ潜水艦(USS S-37,SS-142)の雷撃により僚艦「夏潮」が沈没[27][57]。陽炎型駆逐艦で最初の沈没艦となった[58]。佐藤司令は司令駆逐艦を「親潮」に変更した[59]。第15駆逐隊は陽炎型3隻(黒潮、親潮、早潮)編制になった[60]。 3月初頭、高雄型重巡洋艦3隻(愛宕〔第二艦隊旗艦、近藤信竹中将座乗〕、高雄摩耶)、第4駆逐隊(野分)はセレベス島スターリング湾を出撃してジャワ島南方に進出[61]、通商破壊作戦を実施する[62]。重巡部隊を支援していた「早潮」は、3月2日にオランダ船籍の輸送船(1,100トン)を拿捕した[63]。3月3日、重巡部隊は「早潮」と油槽船「東栄丸」と合同、補給を行う[64]。3月7日、各艦はスターリング湾に帰投した[65]


3月15日[66]、第15駆逐隊(黒潮、親潮、早潮)は空母「加賀[注 12]を護衛してスターリング湾を出港した[30][68]。途中、黒潮は二水戦旗艦神通護衛のため分離した[66][69]。 3月22日、「加賀」は佐世保に到着[68]佐世保海軍工廠で修理をおこなう[70]。同日、第15駆逐隊はに到着する[66][71]。3月23日から4月17日まで、「早潮」は呉で整備に従事した[72]

詳細は「ドーリットル空襲」を参照


4月上旬、フィリピンの連合軍残存部隊はバターン半島およびコレヒドール要塞に立てこもり、抵抗を続けていた[73](バターン半島の米軍部隊は4月9日降伏、4月13日大本営発表[74][75]。日本海軍は4月10日に南西方面艦隊を新編し、隷下の第三南遣艦隊は引き続き比島部隊としてマニラ湾の封鎖任務や陸軍輸送船護衛任務を続けていた[76][77][78]。 4月17日、第15駆逐隊(親潮、黒潮、早潮)は呉を出撃[79]、比島作戦に協力するためフィリピンへ向かう[80][81]。 翌4月18日、米軍はドーリットル空襲を敢行する[82][83]。第15駆逐隊は宮崎県沖合でドーリットル隊のB-25型爆撃機を発見、「黒潮」が対空射撃をおこなった[84]。また米軍機動部隊を邀撃するため、第15駆逐隊は警戒部隊に編入される[85][79]。警戒部隊指揮官高須四郎中将の指揮下兵力(戦艦〈扶桑山城伊勢日向〉、空母〈鳳翔瑞鳳〉、第6駆逐隊〈〉、第15駆逐隊〈親潮、黒潮、早潮〉、駆逐艦〈三日月夕風〉)として[85]、他部隊から派遣された艦艇や航空隊と共に日本列島沿岸の警備にあたるが、米軍機動部隊との交戦は起きなかった[86]。本作戦従事中の4月19日朝、「早潮」はソビエト商船の臨検を実施しているが、連行中に悪天候でソ連商船を見失い[注 13]、日本海軍は基地航空隊を投入して捜索活動をおこなっている[85][88]。4月20日夜、連合艦隊は作戦中止を発令する[89]。第二戦隊等は内海西部へ帰投、第15駆逐隊はフィリピンへ向かった[85]


当時、日本海軍の比島部隊(指揮官杉山六蔵第三南遣艦隊司令長官、旗艦「球磨」)は、ビサヤ諸島ミンダナオ島における日本陸軍の戡定作戦に協力していた[90][91]。フィリピン進出後の第15駆逐隊(親潮、黒潮、早潮)も戡定作戦に従事する。4月28日、第15駆逐隊第1小隊(親潮、黒潮)は陸軍輸送船の護衛を命じられてビサヤ諸島へ出撃[92]、第2小隊(早潮)はマニラ封鎖部隊に編入された[93]。 5月10日、第15駆逐隊は比島部隊から除かれた[93]。同日、マニラを出発する。同時期、珊瑚海海戦で損傷した第五航空戦隊の空母「翔鶴」は、駆逐艦「夕暮」(第27駆逐隊)と「」(第7駆逐隊)に護衛され、内地に向かっていた[94][95]。第15駆逐隊はサイパン島付近で翔鶴隊と合流する[96][94]。5月17日[97][98]、「翔鶴」[99]と護衛部隊は呉に帰投した[100][94]

ミッドウェー海戦

5月下旬から6月上旬にかけてのミッドウェー作戦における第15駆逐隊「親潮」と「黒潮」は輸送船団護衛隊(指揮官:第二水雷戦隊司令官田中頼三少将)に所属していたが[101]、「早潮」は第十一航空戦隊(司令官藤田類太郎少将)を基幹とする航空隊(水上機母艦千歳、特設水上機母艦神川丸、駆逐艦早潮、第35号哨戒艇〔旧駆逐艦〕、海軍第二聯合特別陸戦隊1個小隊)として行動した[72][102]。特設水上機母艦「神川丸」は第四艦隊附属だったが、潜水艦ドラムに撃沈された水上機母艦「瑞穂[103][104]の代艦として、5月20日付で航空部隊[105]および第十一航空戦隊[106]に編入されていた。「神川丸」には、キューア島攻略のため二聯特1個分隊が乗艦している[107]。 航空隊の主任務は、ミッドウェー島攻略部隊の対潜・対空警戒、キューア島の攻略、ミッドウェー占領後の水上機基地設営等であった[108]。「早潮」は呉で緊急整備をおこなったのち、佐世保に移動する[97]。同地より15駆は「千歳」を護衛する[97]。26日、「千歳」はサイパン島に進出した[109]


5月28日夕刻以後、ミッドウェー占領隊(輸送船12隻、補給船3隻。設営隊、第二聯合特別陸戦隊[注 14][110]、護衛隊(旗艦神通、第15駆逐隊、第16駆逐隊、第18駆逐隊など)、航空隊(千歳、神川丸、早潮、35号哨戒艇)はサイパン島を出撃、ミッドウェーに向かった[111][112]。航空隊は船団部隊と行動を共にし、水上機により対潜・対空哨戒をおこなった[113][114]。輸送船、護衛艦艇とも、対空火器は極めて貧弱であった[115]。 翌29日、船団部隊はグァム島からきた最上型重巡洋艦を基幹とする支援隊[注 15]と合流する[113]。30日夜、船団部隊は支援隊を見失い、そのまま連絡がとれなくなった[117][116]。 6月4日、航空隊(千歳、神川丸、早潮、35号哨戒艇)は事前の計画どおり船団部隊と分離して、ミッドウェー北西約17浬に位置するキューア島(クレ環礁)に向かった[118]。当時、船団はB-17重爆9機の空襲を受けたが、特に被害はなかった[119][120]。真夜中に飛行艇による夜間攻撃を受け、輸送船2隻が損傷した[121][122]


6月5日、南雲機動部隊の主力空母4隻は空襲を受けて炎上、戦闘不能となる[123][122]。同日1000、攻略部隊指揮官(第二艦隊司令長官近藤信竹中将)は船団部隊(指揮官田中頼三少将)に対し、第十一航空戦隊司令官指揮による輸送船団の避退と、第二水雷戦隊の攻略部隊本隊(第二艦隊)への合流を命じる[124]。キューア島に向かっていた航空部隊は反転、高速を発揮できる「千歳」と「早潮」は同日1630に、低速の「神川丸」と「第35号哨戒艇」は6月6日0400に、それぞれ船団部隊と合流する[125]。前述のように護衛部隊指揮官は指揮下部隊(神通、第16駆逐隊、第18駆逐隊)を率いて攻略部隊本隊にむけ進撃していたので、第15駆逐隊[126]を含め船団部隊の指揮は藤田少将(十一航戦司令官)がとった[125]。船団部隊(編隊速力11.5ノット)は藤田司令官の指揮下で南鳥島方面への退避を続けた[125][127]


6月7日、藤田司令官は重巡「三隈」と「最上」に対する米空母機の攻撃を知り、船団部隊も翌日には敵空母部隊に捕捉され空襲に晒されると判断した[128]。そこで速力を基準に船団部隊を三分割、一刻もはやく南鳥島の飛行威力圏内に避退することにした[注 16][128]。各船団の内訳は、一番隊(速力16ノット。駆逐艦親潮ぶらじる丸あるぜんちな丸、清澄丸)、二番隊(速力14ノット。駆逐艦黒潮第二号哨戒艇〈旧灘風〉第三十四号哨戒艇〈旧薄〉、南海丸、善洋丸、五洲丸、吾妻丸、北陸丸、霧島丸、鹿野丸、第二東亜丸)、三番隊(速力13ノット。第一号哨戒艇〈旧島風〉、あけぼの丸、慶洋丸)であった[128]。航空隊は、船団部隊二番隊と三番隊の中間付近に位置した[128]


6月8日朝、藤田司令官は敵機動部隊からの離脱に成功したと判断し、分割していた船団を合同した[129]。1710、「神川丸」は連合艦隊からの下令により船団部隊と分離、翌日には第三戦隊第1小隊(比叡、金剛)と合流して北方に向かった[107]。また船団部隊の指揮は藤田(第十一航戦司令官)から田中(二水戦司令官)に復帰する[107]。6月9日正午、「千歳」と「早潮」は船団部隊から分離する[130](船団部隊は6月13日グァム帰投)[131]。6月14日、2隻(千歳、早潮)は桂島泊地に入泊した[130][132]。同日夕刻には[133]、戦艦「大和」なども桂島泊地に帰投した[134][注 17]


7月5日、アリューシャン方面作戦に従事中の第18駆逐隊の駆逐艦3隻(不知火)は[136]、アメリカ潜水艦グロウラーの雷撃により「霰」沈没[137]、「不知火」大破[138]、「霞」大破[139]という損害を受ける[140]7月5日の海戦[141]。 駆逐隊として当分活動できないため[142][143]、残存かつ健在の駆逐艦「陽炎[144]は7月20日附で第15駆逐隊に編入された[30][145]。第15駆逐隊は再び陽炎型駆逐艦定数4隻となった[30][142]。艦隊の編制替えにより、二水戦も軽巡「神通」、第15駆逐隊(黒潮、親潮、早潮、陽炎)、第24駆逐隊(海風、江風、涼風)となった[136]

ガダルカナル島の戦い

1942年(昭和17年)6月末、連合艦隊司令長官山本五十六大将は南西方面艦隊に対し、7月下旬から8月下旬にかけてインド洋方面で通商破壊機動作戦を実施するよう命じた(連合艦隊電令作第174号)[146]。作戦名はB作戦であった[147]。南西方面艦隊の従来戦力(軽巡鬼怒、軽巡長良、練習巡洋艦香椎、駆逐艦春風、海防艦占守など)に加え、連合艦隊所属の一部戦力もB作戦に参加することになった[148]。 作戦全体の指揮官は第一南遣艦隊司令長官(旗艦「香椎」)[注 18]。本艦は、機動部隊南方隊(指揮官西村祥治第七戦隊司令官)第七戦隊(熊野、鈴谷)[注 19]、第2駆逐隊(村雨、五月雨、春雨、夕立)[149]、第15駆逐隊(親潮、早潮、黒潮)[注 20]に所属していた[150]。B作戦参加部隊は、7月31日までにマレー半島西岸メルギーに集結した[151][150]。7月にはペナン沖で対潜警戒活動を実施する。


8月7日、ガダルカナル島攻防戦の生起によりB作戦は中止され[152]、増援部隊はソロモン諸島への移動を開始した[153][154]第二艦隊(司令長官近藤信竹中将)と第三艦隊(司令長官南雲忠一中将)の大部分はトラック泊地を経由して南太平洋方面へ進出、8月下旬の第二次ソロモン海戦に至った[155][156]。同海戦で軽空母「龍驤」と駆逐艦「睦月」および輸送船「金龍丸」が沈没[157]、水上機母艦「千歳」と軽巡「神通」が損傷する[132][158]。 輸送船団によるガ島揚陸作戦は中止された[159]。「神通」はトラック泊地に後退して修理をおこない、二水戦は「早潮」を旗艦として9月上旬の川口支隊総攻撃掩護作戦に従事した[160][161][162]。9月25日[163]、二水戦旗艦は「神通」から軽巡「五十鈴」に交代した[164][165]


続いて二水戦の大部分はガダルカナル島輸送に投入される[136][166]。外南洋部隊増援部隊[注 21]に編入された各艦・各隊は[167]、トラック泊地からビスマルク諸島へ移動する[168]。9月30日、ニューアイルランド島カビエンで水上機母艦「日進」と合流、同艦を護衛して「親潮」と「早潮」はショートランド泊地に到着した[168][169]。10月3日以降、第15駆逐隊は外南洋部隊増援部隊の僚艦と共にガ島輸送作戦(鼠輸送)に従事した[170][171]。 10月9日、第15駆逐隊司令佐藤寅治郎大佐指揮下の6隻(親潮、黒潮、早潮、龍田、野分、舞風)はショートランド泊地を出撃[170]日本陸軍第十七軍(司令官百武晴吉陸軍中将以下770名)をガ島に輸送する[172][173]。第十七軍司令部(司令官、作戦主任参謀)と大本営陸軍部参謀辻政信中佐など、陸軍の高級将校はラバウルで駆逐艦「五月雨」(水上機母艦「千歳」を護衛中)に乗艦、ショートランド泊地移動後に「親潮」へ移乗した[174][175]。輸送作戦は成功し、百武中将や辻中佐はガ島に上陸した[176][177]。10日、輸送部隊はショートランド泊地に戻った[178]


10月中旬のヘンダーソン基地艦砲射撃では[179][180]、第三戦隊司令官栗田健男中将の指揮下[181]、第三戦隊(金剛榛名)、第二水雷戦隊(旗艦五十鈴、第15駆逐隊〈親潮黒潮、早潮〉、第24駆逐隊〈海風江風涼風〉、第31駆逐隊〈高波巻波長波〉)として参加する[182][183]。 飛行場砲撃実施のため第15駆逐隊は10月11日付で前進部隊に復帰[184]、ショートランド泊地帰投後に即日出港する[178]。10月12日1230、洋上で第三戦隊以下と合流した[178]。10月13日から14日にかけて、ガダルカナル島ヘンダーソン飛行場砲撃をおこなう第三戦隊を護衛した[185]。15日夜、第五戦隊(妙高、摩耶)と第31駆逐隊がガ島海域に突入し、ヘンダーソン飛行場を砲撃する[186][187]。二水戦(五十鈴、第15駆逐隊)は射撃隊の警戒に従事した[188]。続いて支援部隊・前進部隊(指揮官近藤信竹第二艦隊司令長官)に所属して南太平洋海戦に参加する[189][190]。26日の海戦当日、「黒潮」と「早潮」は第二航空戦隊(司令官角田覚治少将)旗艦「隼鷹」を護衛しており[191]、空母ホーネットの追撃には参加していない[192]


11月1日、連合艦隊は損傷艦の修理とガ島輸送部隊増強をかねて兵力部署の再編を実施する[193](11月1日0821、聯合艦隊電令作第366号)[194]。第二水雷戦隊は外南洋部隊(指揮官三川軍一第八艦隊司令長官)に編入され、3日にトラック泊地を出発、5日11時30分ショートランド泊地に進出した[195]。外南洋部隊増援部隊の職務は第三水雷戦隊司令官から第二水雷戦隊司令官に引き継がれ[196]、三水戦はトラック泊地に帰投した[197][198]。 6日から7日にかけて、甲増援隊(第15駆逐隊〈親潮、早潮、陽炎〉、第24駆逐隊〈海風、江風、涼風〉、第31駆逐隊〈巻波、長波、高波〉、第10駆逐隊〈夕雲、風雲〉)は15駆司令の指揮下でガ島輸送を実施する[195]。空襲で「長波」と「高波」が小破したが、作戦は成功した[199][200]。大本営陸軍部の辻政信陸軍中佐は駆逐艦(陽炎)に乗艦し、ガ島から生還した[201][202]

詳細は「第三次ソロモン海戦」を参照


11月12日、第二水雷戦隊司令官田中頼三少将(輸送部隊指揮官)は二水戦旗艦を「五十鈴」から「早潮」に変更する[203]。同日15時30分、第15駆逐隊(早潮〔第二水雷戦隊旗艦〕、親潮〔第15駆逐隊司令〕、陽炎)[注 22]、第24駆逐隊(海風、江風、涼風)、第31駆逐隊(高波、巻波、長波)、収容隊(望月、天霧)、第一分隊(長良丸、宏川丸、佐渡丸、かんべら丸、那古丸)、第二分隊(山月丸、山浦丸、信濃川丸、鬼怒川丸、ぶりすべん丸、ありぞな丸)[204][205]はショートランド泊地を出撃、ガダルカナル島に向かう[206][207][208]。 だが飛行場砲撃にむかった挺身攻撃隊(比叡、霧島、第十戦隊、第四水雷戦隊)が夜間水上戦闘に巻き込まれる[209][210]。挺身輸送船団(駆逐艦11隻、輸送船11隻)[211]は連合艦隊の命令により13日午前3時に反転し、午前11時頃ショートランド泊地に戻った[11](第三次ソロモン海戦・12日の夜戦)[212][213]


11月13日朝、外南洋部隊主隊[注 23]と支援隊(旗艦「鈴谷」)[注 24]はショートランド泊地を出撃[215]、支援隊は同日深夜にガ島ヘンダーソン飛行場砲撃を敢行した[213][216]。 挺身輸送船団(駆逐艦11隻、輸送船11隻)は同日15時30分、ショートランド泊地を再出撃した[212][217]。11月14日朝、輸送船団はニュージョージア島東方海域で索敵機に発見される[217]。以後、F4Fワイルドキャット戦闘機SBDドーントレス急降下爆撃機TBFアヴェンジャー雷撃機、B-17爆撃機の波状攻撃を受けた[注 25][219][220]。零式艦上戦闘機のべ36機、零式水上観測機14機が上空警戒をおこなったが、敵機を阻止できなかった[217]。 輸送船6隻が沈没[221]、「佐渡丸」のみ損傷避退した[222][223][注 26]。外南洋部隊も空襲を受けて損害を受けた[注 27]。 第二水雷戦隊と残存輸送船4隻(宏川丸、山月丸、山浦丸、鬼怒川丸)は進撃を続行する[226][227](この時、第三次ソロモン海戦・14日の夜戦生起)[228][229]。増援部隊指揮官(田中少将)は、輸送船4隻をガダルカナル島タサファロング沿岸に突入・擱座させた[230][10]。 約2000名が上陸したが[231]、無傷で揚陸できた物資・糧食・重火器は少量であった[232][233]。またガ島から生還できた輸送船4隻の乗組員も、小数であった[234][235]。15日夜、第二水雷戦隊はショートランド泊地に帰投した[236]。第三次ソロモン海戦は日本軍の大敗で終わり[222]、ガダルカナル島撤退の決定的要因となった[237]

詳しいことは、「早潮 (駆逐艦)ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A9%E6%BD%AE_(%E9%A7%86%E9%80%90%E8%89%A6)
(wikiより)

71  早潮

早潮

71a

71b

71c



夏潮(なつしお/なつしほ)は[3]藤永田造船所で建造された日本海軍駆逐艦[4]陽炎型駆逐艦(一等駆逐艦)の6番艦である[5]1942年(昭和17年)2月8日夜、「夏潮」は上陸船団護衛中にスラウェシ島マカッサル沖において潜水艦に雷撃されて大破[6][7]。姉妹艦「黒潮」による曳航中の2月9日、浸水が進んで沈没した[8][9]。なお、本艦は陽炎型全19隻のうち最初の沈没艦となった[10]。艦名は海上自衛隊のなつしお型潜水艦「なつしお」、はるしお型「なつしお」に継承された。

艦歴
太平洋戦争前

駆逐艦「夏潮」は[11]、陽炎型駆逐艦の6番艦[5]藤永田造船所1937年(昭和12年)12月9日に起工[1]1938年(昭和13年)9月20日、日本海軍(米内光政海軍大臣)は舞鶴海軍工廠で建造の陽炎型4番艦を『親潮』、藤永田造船所の陽炎型6番艦(本艦)を『夏潮』、川崎造船所の陽炎型7番艦を『初風』と命名した[3][12]。 同日附で、各艦(親潮、夏潮、初風、伊号第十八潜水艦伊号第二十潜水艦伊号第二十二潜水艦第十一号掃海艇第十二号掃海艇)は、それぞれ艦艇類別等級表に登録[13]


「夏潮」は1939年(昭和14年)2月23日進水[1][10]。本艦の建造は陽炎型3番艦「黒潮」と同時に進められた[14]。同年4月11日、藤永田造船所で陽炎型11番艦「浦風」が起工[15]。同年10月18日、藤永田造船所で陽炎型14番艦「谷風」が起工[16]。藤永田造船所は陽炎型4隻(黒潮、夏潮、浦風、谷風)を同時に建造することになった。


1940年(昭和15年)1月27日、藤永田造船所で姉妹艦「黒潮」が竣工する[17]。 5月1日、日本海軍は睦月型駆逐艦5番艦皐月艦長[18]白露型駆逐艦8番艦山風艦長[19]吹雪型駆逐艦浦波艦長[20]等を歴任した野間口兼知中佐を夏潮艤装員長に任命した[21]。同日附で早潮艤装員長も任命されている[21]。 5月3日、藤永田造船所に夏潮艤装員事務所を設置する[22]


同年8月31日、「夏潮」は竣工した[1][2]浦賀船渠で建造していた陽炎型5番艦「早潮」と同日付の竣工であった[23]呉鎮守府籍。野間口艤装員長は制式に夏潮駆逐艦長(初代)となる[24]。夏潮艤装員事務所も撤去された[25]。 同日(8月31日)付で、日本海軍は舞鶴海軍工廠で竣工していた陽炎型4番艦「親潮」[26][27]と、完成したばかりの「夏潮」と「早潮」で第15駆逐隊を編制した[28]。 駆逐隊司令には、初春型駆逐艦2番艦子日初代艦長や吹雪型1番艦吹雪艦長[29]、第7駆逐隊司令[30][31]、特務艦野島特務艦長[32][33]等を歴任した植田弘之介大佐が任命されている[34]。編成直後の第15駆逐隊は、呉鎮守府練習駆逐隊となる[35]。 11月15日、第15駆逐隊は第二艦隊(司令長官古賀峯一中将)・第二水雷戦隊(司令官五藤存知少将)に編入[36][37]。同時に第16駆逐隊に所属していた姉妹艦「黒潮」が第15駆逐隊に編入され、15駆は定数4隻(黒潮、親潮、早潮、夏潮)を揃えた[36]

1941年(昭和16年)6月18日、第15駆逐隊司令は植田大佐から佐藤寅治郎大佐(前職第4駆逐隊司令)[38][注 1]に交代した。 6月23日、日向沖で実施された演習で駆逐艦3隻(夏潮、峯雲、黒潮)が絡む多重衝突事故が発生する[40]。第9駆逐隊主計長によれば、夜戦演習を終えたあとの演習魚雷回収中、朝霧のなかで速力21ノットを発揮する第9駆逐隊朝雲夏雲峯雲山雲)と、速力18ノットで航行中の第15駆逐隊が遭遇した[41]。 「夏潮」は「峯雲」[注 2]に衝突され、「夏潮」は右舷中央部に損傷被害をうけた[43][44]。さらに後進をかけた「峯雲」と、前進してきた「黒潮」が衝突する多重事故が発生した[45]。損傷艦は呉海軍工廠で修理をおこなった[46]。 9月1日、第二艦隊司令長官は古賀峯一中将から近藤信竹中将に交代[47]。9月6日、本艦は修理を完了する[48]。 9月15日、第二水雷戦隊司令官五藤存知少将は第六戦隊司令官へ転任[注 3]、後任の二水戦司令官は田中頼三少将(当時、第六潜水戦隊司令官)となった[49]。 10月20日、野間口(夏潮艦長)は第5駆逐隊司令を命じられ、長井純隆中佐(当時、海軍省人事局局員)が二代目夏潮駆逐艦長となる[50]。長井は初春型2番艦子日二代目艦長だった事がある(前の15駆司令植田大佐は、子日初代艦長)[29]。 10月25日、佐藤(15駆司令)は司令駆逐艦を「早潮」から「夏潮」に変更した[51]

南方作戦

詳細は「南方作戦」および「フィリピンの戦い (1941-1942年)」を参照


太平洋戦争
開戦時、陽炎型姉妹艦4隻(黒潮親潮早潮、夏潮)は引続き第15駆逐隊(司令佐藤寅治郎大佐)を編制、第二水雷戦隊(司令官田中頼三少将:旗艦神通)に所属し[52]、比島部隊(指揮官高橋伊望中将/第三艦隊司令長官)の指揮下にあった[53][54]。 当事の第二水雷戦隊は、第15駆逐隊以外に第8駆逐隊(大潮朝潮満潮荒潮)、第16駆逐隊(雪風時津風初風天津風)、第18駆逐隊(不知火陽炎)が所属していたが、第8駆逐隊は南方部隊本隊(指揮官近藤信竹第二艦隊司令長官)[55]、第18駆逐隊は南雲機動部隊警戒隊(指揮官大森仙太郎第一水雷戦隊司令官)に所属しており[56]、第二水雷戦隊本隊とは別行動である[54]

1941年(昭和16年)12月上旬より、第15駆逐隊(夏潮、黒潮、親潮、早潮)と第16駆逐隊(雪風、時津風、天津風、初風)をふくむ南方部隊(指揮官近藤信竹中将、第二艦隊司令長官)は、南方作戦にともなうミンダナオ島ダバオルソン島レガスピー[57]ホロ島ホロ攻略作戦[58][59]に参加した[4][60]。パラオ出撃時の「夏潮」は、空母「龍驤」を護衛していたという[61]。12月25日のホロ島攻略時[58]、夏潮陸戦隊員から戦死者1名を出す[62]。比島作戦は順調に進み、日本軍は制空権・制海権を掌握した[63][64]

詳細は「蘭印作戦」を参照


フィリピン方面の作戦が一段落すると比島部隊の大部分は蘭印部隊となり、東南アジアでの作戦に従事する[65][66]。12月30日、第五戦隊(司令官高木武雄少将。妙高、羽黒、那智)がダバオに到着し、所在先任指揮官は田中頼三第二水雷戦隊司令官から第五戦隊司令官に交代した[67]


1942年(昭和17年)1月4日、連合軍のB-17重爆数機がダバオのマララグ湾に飛来し、在泊艦隊に空襲をおこなう[68]。蘭印作戦に関係する多くの艦艇がダバオに集結しており[69]、重巡「妙高」(第五戦隊旗艦)が被弾して死傷者多数を出した[68]。「妙高」被弾の様子は「夏潮」からも見えたという[70]。第五戦隊旗艦(蘭印部隊旗艦)は「那智」に変更された[71]。 1月7日、蘭印部隊は蘭印作戦を開始した[72]。東方攻略部隊(支援隊〈那智、羽黒、雷、電〉[注 4]、第二護衛隊〈神通、第15駆逐隊、第16駆逐隊、第21掃海隊、第5駆潜隊、哨戒艇3隻、佐世保聯合陸戦隊〉、第一根拠地隊〈長良、駆潜艇・掃海隊〉、第二航空部隊〈第十一航空戦隊〔千歳、瑞穂〕、哨戒艇、佐世保聯合陸戦隊、漁船部隊〉、横須賀第一特別逐戦隊/海軍空挺部隊)はスラウェシ島北東部ミナハサ半島メナドを攻略する[73][74][75]。メナド攻略は日本海軍単独で行われた[76]。メナドへの空挺降下は日本軍最初の空挺作戦であったが、日本陸軍の申し入れにより、海軍側は空挺作戦の実施報道を延期した[77][78]。 1月12日夕刻、メナドのオランダ軍守備隊は同地を放棄した[79]。1月15日から16日にかけて、第15駆逐隊(夏潮、親潮、黒潮、早潮)、第16駆逐隊(初風、雪風、時津風、天津風)、第21掃海隊は索敵機からの「敵潜水艦30隻発見」の報告をうけて、モルッカ海において対潜掃蕩を実施した[80][81]。この「敵潜水艦30隻」はの誤認であった[82]

1月21日以降、東方攻略部隊はスラウェシ島ケンダリー攻略作戦を実施した[83][84]。本作戦は、日本海軍単独で実施された[85]。兵力はメナド攻略時とほぼ同じであったが[86]、第15駆逐隊と第16駆逐隊は第一根拠地部隊(司令官久保九次少将、旗艦「長良」)の指揮下に入った[87]。攻略部隊は十一航戦(千歳、瑞穂)による哨戒・直衛下で1月21日にバンカ泊地を出撃、24日朝ケンダリーに上陸した[88][87]。同日、ケンダリーから南方へ逃走する水上機母艦チャイルズ英語版」(USS Childs, AVD-1)[注 5]を日本軍偵察機が発見、各艦(長良、第15駆逐隊、第16駆逐隊)で追撃したが捕捉できなかった[87][89]。25日、攻略部隊はケンダリー飛行場の占領に成功する[90]。だが、軽巡洋艦「長良」と駆逐艦「初春」(第21駆逐隊)の衝突事故が発生する[90][89]。損傷艦・護衛部隊の離脱により兵力部署に混乱が生じた[91]


つづいて東方攻略部隊はアンボン島アンボンを攻略することになり[92][93]、第二護衛隊指揮官(二水戦司令官田中頼三少将)が攻略の直接指揮をとる[94][95]。第15駆逐隊と第16駆逐隊は、第二護衛隊(二水戦)の指揮下にもどった[96][97]。第8駆逐隊(大潮、朝潮、満潮、荒潮)も第二護衛隊に編入されていた[97]。 従来の第二航空部隊(千歳、瑞穂)に加えて[98]、南方部隊航空部隊の母艦航空部隊[99]第二航空戦隊蒼龍飛龍〉、重巡〈摩耶〉、第7駆逐隊〈〉、第27駆逐隊第2小隊〈有明夕暮〉、タンカー国洋丸)が作戦を支援した[96][100]。アンボン攻略に投入された日本陸軍は、第三十八歩兵団長伊藤武夫陸軍少将を指揮官とする東方支隊であった[101]。東方支隊の輸送船5隻は第8駆逐隊に護衛されて香港を出発、19日までにダバオに到着していた[102]。 1月末から2月初旬にかけて、日本軍はアンボン攻略作戦を実施した[103][104]。掃海隊と駆逐隊は、オランダ軍が敷設した機雷の掃海作業をおこなった[105][106]。2月3日、日本軍はアンボンを占領した[7]


2月1日の時点で、第15駆逐隊は司令駆逐艦/第1小隊1番艦夏潮、2番艦黒潮、第2小隊3番艦親潮、4番艦早潮という編制であった[107]。2月4日夜、第15駆逐隊はマカッサル攻略作戦に従事するためスターリング湾に到着した[108]

沈没

スラウェシ島南部マカッサルの攻略は[109]、日本海軍が単独で攻略することになった[110]。マカッサル攻略部隊指揮官は、第一根拠地隊司令官久保九次少将(旗艦「長良」)と定められた[111]。第二航空部隊(千歳、瑞穂)はマカッサル作戦に従事することになったが、第二護衛隊(神通、第7駆逐隊、第16駆逐隊)はアンボン作戦を続行した[112]ボルネオ島東岸バリクパパン攻略作戦に従事していた第四水雷戦隊の駆逐艦5隻(朝雲、峯雲、夏雲、海風江風)はマカッサル作戦支援のため、バリクパパン沖からマカッサル沖に移動した[56]。 2月5日、マカッサル攻略部隊(軽巡長良、第8駆逐隊〈大潮朝潮満潮荒潮〉、第15駆逐隊〈夏潮、黒潮、親潮、早潮〉、第21駆逐隊〈若葉子日初霜〉等)はセレベス島スターリング湾に集結した[112][113]。前日には蘭印部隊主隊[注 6]に所属していた駆逐艦「涼風」(第24駆逐隊)[112][114]が米潜水艦スカルピン(USS Sculpin, SS-191)の雷撃で大破しており[113]、船団はすでに連合国軍潜水艦に狙われていた。2月6日夕刻、マカッサル攻略船団はスターリング湾を出撃する[112][115]。その前路掃蕩に従事していた駆逐艦「満潮」(第8駆逐隊)はスカルピンに爆雷攻撃を行うが、スカルピンを取り逃がした(満潮報告では効果確実)[113]


2月8日、船団はマカッサルに接近するが天候不良となり、攻略部隊指揮官久保九次少将は指揮下部隊・各艦に天候不良時の上陸方法について指示を行う[6]。マカッサル入港時、攻略船団は各艦相互に通信をおこなって識別灯を点灯しており、対潜警戒をおろそかにしていた[116]。 同日22時15分[117][118]、輸送船団後尾にいた「夏潮」はスラウェシ島のマカッサル沖南緯5度36分9秒 東経119度6分6秒 / 南緯5.60250度 東経119.10167度 / -5.60250; 119.10167で米潜水艦S37(USS S-37,SS-142)の雷撃に遭った[4][119]。 魚雷1本が艦中央前部機械室左舷に命中し船体に大破孔ができ、上甲板は膨れ上がった[120]。また爆発と同時に九三式魚雷を装填していた2番魚雷発射管と測量儀が吹き飛び、被害箇所に近い位置にあった内火艇や探照灯も破壊された[121]。これにより前部機械室と第三缶室が浸水、主機械破壊により航行不能となり左に2度傾斜したが、この時点では沈没せず僚艦「黒潮」の曳航でスラウェシ島ケンダリに退避する事になった[122]。 佐藤(第15駆逐隊司令)は司令駆逐艦を「夏潮」から「親潮」に変更する[123]。2隻(黒潮、夏潮)を「親潮」が護衛した[124]。黒潮駆逐艦長によれば、当初は機雷による被害だと考えていたという[8]。マカッサル上陸作戦そのものは成功した[56][116][125]


2月9日7時15分、「親潮」(第15駆逐隊司令)より緊急電が発信された[126]。タナケナ島の南で風向が急変、急速に浸水が進んだ[124]。手の施しようがなく[8]、「夏潮」は次第に中央部が沈降し、つづいて艦首と艦尾を持ち上げV字型に折れ曲がり、前後に分断[127]。8時43分に沈没した[128]。乗員は「親潮」と「黒潮」に収容された[128]。沈没時点の戦死者は8名、重傷者6名[129]。沈没地点南緯5度53分 東経119度26分 / 南緯5.883度 東経119.433度 / -5.883; 119.433[4]。曳航失敗の原因について夏潮駆逐艦長は「被害認定が甘かった」と回想している[124]


なお『このまま沈めてしまうのはかわいそうである。はなばなしく自爆して最後を飾ろう』という乗組員のはからいにより、爆雷に細工が行われた[130]。水雷科員は投下器に装填中の爆雷全てを起爆深度を30mに設定、船体水没後、「夏潮」は巨大な水柱を上げ自爆した[130]。僚艦に救助された夏潮乗員はセレベス島ケンダリに入港後、日本海軍初の生き残り[注 7]として珍しがられ各方面から見舞い品が届き、親切にされたという[131]。その後、玄洋丸と建洋丸を乗り継いで内地へ帰投した[132]。第二水雷戦隊司令官田中頼三少将(旗艦神通)は夏潮乗組員達に対し『開戦以来二ヶ月余ニ亘リ、艦長以下乗員一同ノ労苦ヲ多トシ、戦没セル勇士ノ英霊ニ衷心敬意ヲ表スルト共ニ、帰還後更ニ新任務ニ就カントスル諸子ノ自重自愛ヲ祈ル』との電文を送った[133]。長井(夏潮艦長)は2月14日附で呉鎮守府附となり、夏潮駆逐艦長の職務を解かれた[134]


駆逐艦「夏潮」は2月28日、 第15駆逐隊[135]、 帝国駆逐艦籍[136]、 陽炎型駆逐艦[137]、 それぞれから除籍された。夏潮残務処理は3月3日から呉海兵団内でおこなわれ[138]4月6日に終了した[139]。 第15駆逐隊は7月20日に陽炎型1番艦「陽炎」を編入するまでの間[140]、3隻編制で行動することになった[130][141]


詳しいことは、「夏潮 (駆逐艦)ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%8F%E6%BD%AE_(%E9%A7%86%E9%80%90%E8%89%A6)

71  夏潮 (駆逐艦)

夏潮

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早蕨(さわらび)は、日本海軍駆逐艦若竹型駆逐艦の4番艦である。

艦歴
1923年(大正12年)9月1日 - 進水(浦賀船渠建造)。進水時の名称は「第八駆逐艦」。

1924年(大正13年)4月1日 - 「第八号駆逐艦」に艦名変更。

  ・7月24日 - 竣工

1928年(昭和3年)8月1日 - 「早蕨」に艦名変更。

1932年(昭和7年) 12月5日 - 台湾海峡基隆北方120浬(推定)を荒天航行中に行方不明となった。竣工以来の上部重量増加による復元性悪化を原因とする転覆事故と推定された。

歴代艦長
※『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。階級は就任時のもの。

艤装員長
・柳原信男 少佐:1923年8月13日[1] -

駆逐艦長
・柳原信男 少佐:1924年7月24日 - 1925年12月1日[2]

須賀彦次郎 少佐:1925年12月1日 - 1927年1月20日[3]

・(兼)藤田類太郎 少佐:1927年1月20日 - 6月20日[4]

・(兼)勝野実 少佐:1927年6月20日 - 8月10日

・手束五郎 少佐:1927年8月10日 - 1929年11月1日

秋山輝男 少佐:1929年11月1日 - 1930年11月20日

・(兼)橘正雄 少佐:1930年11月20日 - 1931年10月5日[5]

・門田健吾 大尉:1931年10月5日[5] - 1932年12月5日殉職

脚注
1. 『官報』第3312号、大正12年8月14日。
2. 『官報』第3982号、大正14年12月2日。
3. 『官報』第18号、昭和2年1月21日。
4. 『官報』第142号、昭和2年6月21日。
5. a b 『官報』第1432号、昭和6年10月6日。


参考文献
片桐大自『聯合艦隊軍艦銘銘伝』普及版、光人社、2003年。

・海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。

・『官報

(wikiより)

70 駆逐艦早蕨

早蕨

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70b



呉所管看護長・看護婦・看護手・看護の墓。

69a

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吉野(よしの)は、日本海軍巡洋艦二等巡洋艦[2][3]吉野型防護巡洋艦1番艦である。設計はフィリップ・ワッツが手掛けた。 艦名は奈良県の吉野山に由来する[4]日清戦争で活躍[4][5]日露戦争に従事中の1904年(明治37年)5月15日、味方艦「春日」と衝突して沈没[6][7][8]

艦歴

完成当時、世界最速の軍艦[9][10]1892年明治25年)3月1日、起工[4]。8月30日、「吉野」と命名される[2][11]。12月20日、進水[4]1893年(明治26年)9月30日、竣工[4]及び領収[12]イギリスから回航する時にのちに艦長となる河原要一とともに回航委員として秋山真之も同行した。1894年(明治27年)3月、に到着[13][4]

日清戦争においては、第一遊撃隊(司令官坪井航三少将)の旗艦であった(吉野艦長河原要一大佐)[4][5]豊島沖海戦黄海海戦で活躍[4]。『吉野桜に武士の姿』と謳われたという[5]

1898年(明治31年)3月21日、日本海軍は海軍軍艦及び水雷艇類別標準を制定し、3,500トン以上7,000トン未満の巡洋艦を「二等巡洋艦」と定義[14]。該当する9隻(浪速高千穂厳島松島橋立吉野高砂笠置千歳)が二等巡洋艦に類別された[15][3]


1903年(明治36年)4月、神戸沖で挙行された大演習観艦式に参列、第二列に配置された[16]。12月28日、常備艦隊が解隊され、戦艦を中心とする第一艦隊(司令長官:東郷平八郎海軍中将、旗艦:戦艦三笠)と巡洋艦が主体の第二艦隊(司令長官:上村彦之丞海軍中将、旗艦:装甲巡洋艦出雲)が設置される。第一・第二艦隊で連合艦隊(司令長官:東郷中将)を構成した。吉野は第一艦隊隷下の第三戦隊(司令官:出羽重遠海軍少将、防護巡洋艦《千歳笠置吉野高砂》)に配属される[17]


日露戦争
においては、第三戦隊所属艦として旅順口攻撃旅順港閉塞作戦)に従事し、任務を終えて旅順沖から裏長山列島へ向かう途中の1904年(明治37年)5月15日午前1時40分[18][5]千歳(出羽少将旗艦)・吉野春日八雲富士という編制の日本艦隊は濃霧に遭遇し、「春日」が「吉野」左舷後部に衝突する[4][5]。 本艦は吉野艦長佐伯誾大佐以下三百余名(将校31名、下士官以下286名、他)を乗せたまま沈没した[6][5]。戦死者319名、生存者約90名(計104名)[19][6][5]。 同日には戦艦2隻(初瀬八島)も機雷により沈没[20][21][7]5月15日は日本海軍厄災の日となった[22][23]


1905年
(明治38年)6月15日、「吉野」および「高砂」等は軍艦籍[24]および艦艇類別等級表(軍艦及び水雷艇類別等級表)より除籍された[25][26]

兵装

砲は全て防盾付きで上甲板に置かれており、アームストロング 40口径15.2cm単装速射砲は司令塔の前に1基、司令塔両脇の船橋の横に片舷1基ずつ両舷で2基、艦後部に1基。アームストロング 40口径12cm単装速射砲は片舷4基ずつ両舷で8基。片舷に5基並んでいる砲の内、先頭が15.2cm砲である。


「吉野」は、日本海軍において初めて無煙火薬の導入と測距儀(バー・アンド・ストラウド社製(海軍呼称:武式)1.5メートル測距儀)を搭載した艦であった[27][28]

年譜
1893年9月30日 - イギリス ウィリアム・アームストロングにて竣工。

1894年7月25日 - 豊島沖海戦に参加。

1894年9月17日 - 黄海海戦に参加。

1904年5月15日 - 装甲巡洋艦「春日」の艦首(衝角)が左舷中央部に衝突し沈没した。

1905年5月21日 - 除籍。

艦長

※『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。

回航委員長
河原要一 大佐:1893年5月20日 - 1893年6月7日

艦長
・河原要一 大佐:1893年6月7日 - 1895年6月4日
諸岡頼之 大佐:1895年6月4日 - 1896年11月26日
・島崎好忠 大佐:1896年11月26日 - 1897年12月1日
植村永孚 大佐:1897年12月1日 - 1898年6月13日
・丹治寛雄 大佐:1898年6月13日 - 1899年6月17日
・大井上久麿 大佐:1899年6月17日 - 1900年2月13日
酒井忠利 大佐:1900年2月13日 - 1901年1月21日
寺垣猪三 大佐:1901年2月4日 - 1901年3月13日
・松本有信 大佐:1901年4月23日 - 1902年4月22日
佐伯誾 大佐:1903年4月12日 - 1904年5月15日戦死

同型艦
高砂


詳しいことは、「吉野 (防護巡洋艦)ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E9%87%8E_(%E9%98%B2%E8%AD%B7%E5%B7%A1%E6%B4%8B%E8%89%A6)
(wikiより)

68 軍艦吉野

吉野

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第参号輸送艦について

第参号輸送艦は第一号型輸送艦の1艦である。


海洋に囲まれた日本は、外征ま場合には陸上兵力の洋上輸送が必要であり、このため日本陸軍は戦前より、大発動艇(上陸用舟艇)や神州丸(揚陸艦)のような上陸作戦支援艦艇を整備していた。 日本海軍においても、旧式駆逐艦を転用した哨戒艇の艦尾にスリップ・ウェイを設けて、大発を発進させる機能を持たせ、緒戦の島嶼攻略戦に使用した、 1942年(昭和17年)8月に始まったガダルカナル戦では敵制空権下での兵員物資輸送が実施された。 これは、夜間に駆逐艦などの高速艦艇で突入し、夜明けまでに敵制空権外に脱出する任務であり、多くの駆逐艦を喪失することとなった。 このような背景から、高速大量輸送ができる輸送専門の艦艇が要求され、1943年(昭和18年)中期ごろに軍令部より2種の輸送艦の計画要求があり、これにより出現したのが第一号型輸送艦(一等輸送艦)および第百一号型輸送艦(二等輸送艦)である。


第一号型輸送艦の当初案では、松型駆逐艦を1軸にして、空いたスペースを船倉として物件搭載にあてようとしたものであったが、新しい艦を計画したほうが得策であるとされ、新規計画となった。 設計にあたっては、戦時急造に適するように簡易化につとめ、兵装や艤装も最低限にとどめられた。 また、船体線図も簡易型が採用され、ブロック建造方式に適するように考慮されて、電気溶接が大幅に使用された。 本型は艦尾にスリップ・ウェイを設けて、ここから兵員物資を搭載した大発を発進させる仕組みで、このための喫水調整用タンクや注排水装置を有した。 搭載できるのは14m大発4隻、補給物件260トンであった。 兵装は12.7cm連装高角砲1基、25mm3連装機銃15挺(後に増強)、爆雷18個を搭載した。


46隻が計画され、21隻が完成し、16隻が戦没した。 竣工後に充分な訓練が行われないまま南方方面の輸送作戦に投入され、その多くが極めて短期間に失なわれた。 第三号輸送艦は竣工後78日で沈没したが、短いものでは28日(十四号、十五号)というものがある。

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レンドバ島は、ブーゲンビル島とガダルカナル島とのほゞ中間にあるソロモン群島の島で、配備された守備部隊は、海軍部隊は呉鎮守府第6特別陸戦隊(呉6特)、陸軍部隊は第38師団歩兵第229連隊第7中隊であった。


昭和18年6月30日、米軍反攻作戦の上陸部隊はレンドバ島の北ニュージョージア島に対し大規模な上陸作戦を開始し、レンドバ島に対しても守備部隊の数十倍にも達する米軍部隊が攻撃を開始した。守備部隊は衆募敵せず次々と倒れ、南冥の孤島に〃草むす屍〃となって散華した。


レンドバ島派遣隊の生存者は、戦死した陸海軍の戦友の御霊を鎮魂するため〃碑〃を建立し、碑文に次の歌を刻んだ。


〃ソロモンの孤島に散りし戦友の英霊よながくここにやすかれ〃


また、レンドバ島遺族会は、遺骨収集、納骨を機に副碑を建立した。

                               

昭和18年6月30日ソロモン群島レンドバ島において米軍と交戦した際戦死したレンドバ島派遣隊員の霊をいたみ、昭和45年6月30日に建立された。


碑(表)呉鎮守府第六特別陸戦隊

     歩兵第二二九連隊第七中隊


(側)ソロモンの孤島に散りし戦友の

     英霊よながくこゝにやすかれ


(裏)

陸戦隊並に陸軍部隊は我に数十倍する米軍を水際に迎撃、昭和18年6月30日激戦奮闘する。衆寡敵せず、恨みをのんで此の地に散り心を邦家報恩に走せて今こゝに眠る。その健斗をたゝへ平和の礎に殉じた英霊の冥福を謹んで祈る。 


〇 呉鎮守府第六特別陸戦隊
海軍陸戦隊(かいぐんりくせんたい)は日本海軍が編成した陸上戦闘部隊である。単に陸戦隊と呼ぶこともある。元々は常設の部隊ではなく、艦船の乗員などの海軍将兵を臨時に武装させて編成することを原則としたが、1930年代には常設的な部隊も誕生した。

沿革
西洋諸国の海軍では、軍艦の操作を担当する水兵とは別に、戦闘を担当する海兵隊という制度を有していた。これは現在のアメリカ海兵隊のような水陸両用戦部隊ではなく、海上戦闘で敵艦船への強行接舷後に強行移乗・制圧を行う部隊で、陸軍よりも即応性の高い陸上戦闘部隊としても使用された。西洋式海軍の建設を始めた日本でも、当初はイギリス海軍にならい、海軍の兵科として海兵隊が置かれた。しかし、「強行移乗による制圧は時代遅れである」との声で1876年(明治9年)に廃止され、海兵軍楽隊のみが軍楽科として存続した。


他方、日本海軍では海兵隊のほかに、必要に応じて一般の水兵を武装させて陸上戦闘に充てることがあり、これを海軍陸戦隊と呼んでいた。海兵隊の廃止後は、海軍陸戦隊のみが陸上戦闘を受け持つことになり、その一般規定として1886年(明治19年)11月5日に「海軍陸戦隊概則」が定められた。海軍陸戦隊は常設でなく、艦艇の乗組員から必要に応じ陸戦隊を臨時に編成するものとされた。これに対して鎮守府などの陸上部隊の人員で地上戦闘部隊を作ることもあり、特に特別陸戦隊と呼んだ。


海軍陸戦隊は、1877年(明治10年)の西南戦争などで機動力を生かし鎮圧に功績を挙げた。日露戦争では、仁川上陸作戦などの上陸作戦で陸軍を支援したほか、陸揚げした艦載砲と乗組員で臨時に編成された海軍陸戦重砲隊が、旅順攻囲戦に参加した。第一次世界大戦時にも青島攻略戦に重砲隊を参加させたほか、艦船陸戦隊と6個特別陸戦隊によるドイツ領南洋諸島の占領や、シンガポールで発生したイギリス軍インド人兵士の反乱鎮圧などに従事した。二・二六事件の際は横須賀鎮守府および艦艇の乗員で編成された陸戦隊を動員し反乱軍に対抗することが、横須賀鎮守府参謀長の井上成美により計画され、横須賀鎮守府長官の米内光政の決裁により、臨時に艦艇乗組員を中心とする海軍陸戦隊が組織され、横須賀鎮守府を中心とする地域の警備を担当するため、武装して上陸した。


また、国際的には、在外公館の警備や自国民保護には陸軍部隊ではなく海兵隊を使用することが常であり、日本も特に清国、中華民国における在外公館や居留民の保護に海軍陸戦隊が活躍した。義和団の乱では、戦闘激化直前に砲艦愛宕から派遣された25名の陸戦隊が、篭城戦での貴重な兵力となった。1920年尼港事件では全滅するまで戦い在留邦人と運命をともにした。第一次上海事変では上海陸戦隊が編成され大規模な戦闘に投入された。上海事変を受けて1932年には「海軍特別陸戦隊令」が制定され、上海海軍特別陸戦隊は正式な常設部隊となった。5年後の第二次上海事変でも、上海海軍特別陸戦隊を中心に多数の陸戦隊が戦った。上海での一連の戦闘は陸戦隊にとって重要な戦訓とされ、装甲車両や短機関銃の導入、市街地の警備戦闘能力の重視といった影響が生じた。


太平洋戦争
(大東亜戦争)では戦域が拡大するにつれ、島嶼や局地防衛の必要から、特別陸戦隊のほか警備隊防衛隊などの名称で陸戦隊が次々と編成された。また、海軍独自の空挺部隊(パラシュート部隊)(陸軍の空挺部隊とともに空の神兵の愛称)や戦車部隊も保有した。空挺部隊は1942年1月にセレベス島メナドで日本最初の落下傘降下作戦を実施し、指揮官の堀内豊秋中佐はその功を讃えられ、特別に昭和天皇に拝謁した。終戦前には本土決戦に向けて艦艇部隊などの多くが陸戦隊に改編され、総兵力は10万人に達していた。


このように、日本海軍の陸戦隊は拡充を続けたものの、アメリカ海兵隊の様に陸・海軍から独立した軍種となることはなかった。太平洋戦争(大東亜戦争)前に、常設の地上戦部隊として海兵隊を復活させることなどが陸戦隊関係者から提案されていたが、採用されなかった[1]。海軍内で陸戦隊はあくまで二義的な任務として捉えられ、一般的な海軍士官にとって根拠地隊などの常設的性格の陸戦隊への配置は左遷に近い扱いであった。

編制
艦船乗員による陸戦隊

海兵隊廃止後は専ら陸戦隊が海軍の陸上戦闘機能を担うこととなった。そのため、艦艇乗組員のうち必要数をあらかじめ陸戦隊要員として指定しておき、有事の際に「陸戦用意」の命令のもと武装し臨時の陸戦隊を編成した。これを陸戦隊部署と呼んだ。艦・戦隊・艦隊ごとに編成計画を定めてあり、1935年(昭和10年)頃の連合艦隊所属艦の例では駆逐艦なら各艦1個分隊(10人弱)、巡洋艦で1-2個小隊(4-8個分隊=40-80人)、戦艦で1個中隊(4個小隊=約160人)が標準的な編制であった[2]。これらを束ねて戦隊で1個大隊、艦隊で数個大隊から成る連隊級の「連合陸戦隊」を編成した。編成する陸戦隊の規模は状況によって変更され、1943年(昭和18年)頃の第2艦隊隷下の水雷戦隊では、第1編制(528人)から第3編制(1268人)まで3パターンの連合陸戦隊が規定されていた[2]。単艦ごとの部隊は艦名を付して「軍艦長門陸戦隊」、連合陸戦隊ならば「第一艦隊連合陸戦隊」というような呼び方をするのが通常である。


当初の海軍陸戦隊概則では、銃隊と砲隊から成るものと規定された。歩兵に相当する銃隊が基幹で、重機関銃装備の機銃隊が状況によって編成されるほか、附属隊と総称される工作隊・通信隊・医務隊・主計隊などの支援組織が随伴した。銃隊・機銃隊は専門的な陸戦訓練を受けている砲術科の人員を中核として編成され、附属隊は工作兵・通信兵などの各専門兵科の人員で構成された[2]


艦隊とともに速やかに派遣して警備任務を行うのに適していた。もっとも、本格的に地上戦闘訓練を受けているわけではないため、戦力として強力とは言い難かった。また、陸戦隊上陸中は艦内の配置人員が不足して艦の作戦行動に支障が生じるおそれがあり、例えば前述の第2艦隊水雷戦隊の第3編制の場合、全乗員の約25%が陸戦隊として上陸してしまった状態になる。さらには艦船乗員として高度な技術を身に付けた水兵を消耗する恐れもあった[3]


なお、太平洋戦争(大東亜戦争)中には、沈没艦の乗員が再編成されて陸戦隊として地上戦に投入された場合がある。その場合も、旧乗艦ごとに小隊・中隊を組織することが多かった。

特別陸戦隊

特別陸戦隊とは、艦船乗員ではなく、鎮守府の海兵団など陸上部門の人員をもとに編成する陸戦隊のことである。艦船陸戦隊を長期行動させることには前述のように支障があることから、より長期間の陸上戦闘に対処するため編成される[3]。日中戦争から太平洋戦争(大東亜戦争)にかけてのものは、後述の上海海軍特別陸戦隊を除くと「特設艦船部隊令」(1936年改正)に基づいて編成され、正式には特設鎮守府特別陸戦隊と呼ぶ。臨時に編成される特設部隊の建前ではあったが、中国情勢の緊迫化で陸戦隊の需要が増えたために事実上の常設部隊としての性格を持つようになった。第二次世界大戦期には上陸作戦や占領地の守備に任ずる専門の陸戦隊として運用された。太平洋戦争(大東亜戦争)中には、目標地点占領後に、固定的な警備隊や根拠地隊へ改編されたものも多い。特設鎮守府特別陸戦隊は、太平洋戦争(大東亜戦争)開戦時には特別陸戦隊11個[4]、終結時には連合特別陸戦隊11個と特別陸戦隊54個が存在した。


特設鎮守府特別陸戦隊は、所属する鎮守府等の名称と番号を組み合わせて「横須賀鎮守府第三特別陸戦隊」(横三特)などの部隊名で呼ばれる。司令は中佐が多い。特設艦船部隊定員令による模式的な編制は、本部中隊と銃隊2個中隊(各小銃4個小隊と機銃小隊)及び特科隊からなる歩兵大隊相当の編成であるが、実際の編制はかなり多様である。太平洋戦争(大東亜戦争)初期には、2~3個小銃中隊と1~2個機銃中隊、砲隊を持つ1000~1500人規模の例が多かった。中には砲兵隊や戦車隊、海軍空挺部隊としての編制をとるものもあった。呉鎮守府第101特別陸戦隊に代表される「S特別陸戦隊」の秘匿名を与えられた特殊部隊も作られた。特別陸戦隊の場合も、複数が集まり、または防空隊などと組み合わされて「連合特別陸戦隊」となる場合がある。

特別陸戦隊は専門の地上戦闘部隊として戦車機関短銃などの充実した装備を保有し、陸戦隊の中では高い練度を誇る精鋭とされた。ただし、若くて健康な現役兵や志願兵は艦船や航空隊に優先配分されたため、特別陸戦隊配属は予備役など高齢者や身体能力に劣る者が中心で、人員の素質の面では優れているとは言えない。例えば、日中戦争中に編成されて太平洋戦争(大東亜戦争)でもアンボンの戦いなどに参加した呉第一特別陸戦隊の場合、年齢37歳の大正12年徴兵者まで混じっていた[4]ラビの戦いに参加した特別陸戦隊も30歳以上の老兵が多かった。


上海海軍特別陸戦隊
は、鎮守府所属ではなく上海に駐留するために編成された官衙たる常設部隊である。

1927年より上海に駐留していた陸戦隊(鎮守府から派遣されていた特別陸戦隊2個大隊及び戦車隊等)を、第一次上海事変の起きた1932年に独立の特別陸戦隊として整理した。司令官は少将大佐、複数大隊編制で特別陸戦隊と比べ大規模である。人員は各鎮守府から派出された。

詳しいことは、「海軍陸戦隊ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E8%BB%8D%E9%99%B8%E6%88%A6%E9%9A%8A


〇 第38師団 (日本軍)
第38師団(だいさんじゅうはちしだん)は、大日本帝国陸軍師団の一つ。

沿革

盧溝橋事件華北から華中華南へと戦線が拡大し日中戦争が泥沼化するなかで、占領地の警備や治安維持を目的として1939年昭和14年)6月30日に新設された歩兵三個連隊編制師団の一つであり、同時に第39師団第40師団第41師団が新設された。また同年2月7日には第32師団第33師団第34師団第35師団第36師団第37師団が新設された。


編成後、同年10月に華南に進駐、第21軍の指揮下に入り広東方面の警備に当たる一方、ほかの治安師団と同様さまざまな治安作戦に参加した。


1940年
(昭和15年)2月9日、第21軍が廃止され、同時に編成された南支那方面軍に編入される。1941年(昭和16年)6月28日、南支那方面軍も廃止されると、新設の第23軍に編入され、香港の戦いに参戦した。


1942年(昭和17年)1月4日、第16軍へ転属し、蘭印作戦に加わりジャワ島攻略などで激しい戦闘を行った。さらに、ガダルカナル島の戦いに投入され大きな損害を受けた。ガダルカナル島撤退後に第8方面軍直轄となり、隷下の歩兵第229連隊はニュージョージア島の戦いに参加する。その後、戦力再建を進め、ラバウル防衛に従事しつつ終戦を迎えた。

師団概要

歴代師団長
藤井洋治 中将:1939年(昭和14年)10月2日 - 1941年6月20日[1]

佐野忠義 中将:1941年(昭和16年)6月20日 - 1943年6月10日[2]

影佐禎昭 中将:1943年(昭和18年)6月10日 - 終戦[3]

参謀長
谷田勇 工兵大佐:1939年(昭和14年)10月6日 - 1940年12月2日[4]

阿部芳光 大佐:1940年(昭和15年)12月2日 - 1943年3月23日[5]

田中良三郎 大佐:1943年(昭和18年)3月23日 - 終戦[6]

最終所属部隊
・歩兵第228連隊(名古屋):山口達春中佐

・歩兵第229連隊(岐阜):平田源次郎大佐

・混成第3連隊:遠藤健治大佐

山砲兵第38連隊(名古屋):神吉武吉大佐

工兵第38連隊(豊橋):西村金三郎少将

輜重兵第38連隊(名古屋):幸田録郎中佐

・第38師団通信隊(名古屋):集田貞雄少佐

・第38師団兵勤隊(名古屋):佐藤光蔵少佐

・第38師団衛生隊(名古屋):仙田藤助少佐

・第38師団第1野戦病院(岐阜):大畠良秀軍医中佐

・第38師団第2野戦病院(岐阜):坂野長夫軍医少佐

・第38師団病馬廠(名古屋):土屋義弥獣医少佐

詳しいことは、「第38師団 (日本軍)ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC38%E5%B8%AB%E5%9B%A3_(%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%BB%8D)
(wikiより)

65a

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65c



伊号第三百六十三潜水艦(いごうだいさんびゃくろくじゅうさんせんすいかん)は、大日本帝国海軍潜水艦伊三百六十一型潜水艦の3番艦。回天攻撃隊に参加、戦後触雷で沈没。荒木艤装員長の要求で、特例として艦首魚雷発射管2門を装備。

艦歴

1942年改マル5計画第5463号艦

1943年5月1日 呉海軍工廠にて起工

  ・12月12日 進水

1944年7月8日 竣工。横須賀鎮守府

  ・9月15日 第7潜水戦隊に編入

  ・10月9日 横須賀発、トラック、メレヨンへの輸送任務

  ・12月10日 横須賀発、南鳥島への輸送任務

1945年3月5日 横須賀発、南鳥島へ2回目の輸送任務

  ・3月20日 横須賀着、回天搭載工事に着手

  ・5月28日 轟隊として光基地を出撃、沖縄南東5百海里に配備。輸送船1隻雷撃沈

  ・8月8日 多聞隊として出撃。パラオ北方5百海里の配備点に向かう途中、ソ連対日参戦日本海に配備変更

  ・8月14日 に帰港、そのまま終戦を迎える

  ・10月29日 呉から佐世保へ回航の途中、宮崎県沖で触雷沈没。艦長以下35名死亡、10名が救助される
別に荒木浅吉談によれば、艦橋要員は脱出、海岸に泳ぎ着いたのは1名、艦長以下42名死亡、先任将校ら5名は別途交通艇回航中、潜航長は特命で陸路移動中とも

  ・11月10日 除籍

歴代艦長
※『艦長たちの軍艦史』444頁による。

艤装員長
1. 荒木浅吉 大尉:1944年6月5日 -

艦長
1. 荒木浅吉 大尉:1944年7月8日 -

2. 木原栄 大尉:1944年12月1日 -

脚注
1. 数値は『写真 日本の軍艦』の解説より。『艦長たちの軍艦史』によると伊361型の搭載量は艦内65トン、艦外40トンで合計105トン

参考文献
・雑誌「丸」編集部『写真 日本の軍艦 第12巻 潜水艦』光人社、1990年。ISBN 4-7698-0462-8

・外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。ISBN 4-7698-1246-9

福井静夫『写真日本海軍全艦艇史』ベストセラーズ、1994年。ISBN 4-584-17054-1

・荒木浅吉『伊号艦長潜航記』光人社、2005年。 ISBN 4-7698-2471-8

関連項目
潜水艦

大日本帝国海軍
(wikiより)

64 伊三六三

伊号第三百六十三潜水艦

64a

64b



    伊号第二十九潜水艦(いごうだいにじゅうくせんすいかん、旧字体:伊號第二十九潜水艦)は、大日本帝国海軍伊十五型潜水艦(巡潜乙型潜水艦)の10番艦。最初は通商破壊任務に用いられ、インド洋を主戦場として7隻の船舶を撃沈した。また、日本とドイツの往復に成功寸前まで行った潜水艦として有名。


    当初は伊号第三十三潜水艦と命名されていたが、1941年昭和16年)11月1日に伊号第二十九潜水艦と改名されている[2]

    艦歴
    1939年昭和14年)の第四次海軍軍備補充計画(マル4計画)により、1939年9月20日に横須賀海軍工廠で起工。1940年(昭和15年)9月29日に進水し、1941年(昭和16年)8月15日に伊豆寿一中佐が艤装員長に着任。1942年(昭和17年)2月27日に竣工した。竣工と同時に伊豆中佐は艦長に着任。同日、呉鎮守府籍となり、第六艦隊第14潜水隊に編入。


    3月10日、第14潜水隊は第8潜水戦隊に編入。


    4月15日、伊29はを出港。18日、ドーリットル空襲が起こったため米機動部隊の捜索を行うが、見つけることはできなかった。24日、トラックに到着。30日、MO作戦に参加するべくトラックを出港し、オーストラリア東方沖に進出。5月14日0400、シドニーへ向かう駆逐艦を発見。ウォースパイトと識別して追尾するが、雷撃できなかった。16日2028、ニューキャッスル東方35浬地点付近で、羊毛を搭載してウェリントンからバンダレ・シャープールに向かっていた、中立国であるソ連貨物船ウエレン(Uelen、5,135トン)へ向け魚雷2本を発射したが命中しなかった。その後浮上して砲撃を開始し、ウエレンを撃破した。その後、米駆逐艦パーキンス英語版(USS Perkins, DD-377)、豪駆逐艦アランタen:HMAS Arunta (I30))等からなる対潜部隊が迎撃に向かったが、伊29を見つけることはなかった。23日早朝、特殊潜航艇によるシドニー港攻撃の事前航空偵察を行う。搭載機はレーダーに発見されたものの、湾内に停泊中の豪軽巡アデレード、米駆逐艦パーキンス、蘭潜K IXK IX)、豪機雷敷設艦バンガリーen:HMAS Bungaree)、豪掃海艇ワイアラen:HMAS Whyalla (J153))、ジーロングen:HMAS Geelong (J201))、印掃海艇ボンベイen:HMAS Bombay (J249))、米駆逐艦母艦ドビン(USS Dobbin, AD-3)、豪仮装巡洋艦カニンブラen:HMAS Kanimbla (C78))、ウェストラリアen:HMAS Westralia (F95))、宿泊艦クッタブルHMAS Kuttabul)の在泊を報告。攻撃後、6月3日までシドニー沖で甲標的の帰還を待った。その後ブリスベン沖に移動。4日、モートン島付近で豪客船キャンベラ(Canberra、7,710トン)に発見されるが、退避に成功。6月10日、哨戒区域を離れる。その後ヌーメアの飛行偵察を行い、クェゼリンを経由して7月21日に横須賀に到着して整備を受ける。


    29日、伊29は横須賀を出港し、ペナンに移動。8月8日、ペナンを出港し、29日にセーシェル諸島を飛行偵察。9月2日、北緯13度01分 東経50度41分 / 北緯13.017度 東経50.683度 / 13.017; 50.683ソコトラ島西方沖で英貨物船ガズコン(Gazcon、4,131トン) を雷撃により撃沈。3日明け方、北緯13度34分 東経50度05分 / 北緯13.567度 東経50.083度 / 13.567; 50.083アデン湾で、英タンカーブリティッシュ・ジーニアス(British Genius、8,553トン)を発見するも、攻撃に失敗。10日には、北緯13度05分 東経54度35分 / 北緯13.083度 東経54.583度 / 13.083; 54.583のソコトラ島付近で、空船でアデンからカルカッタに向かっていた英貨物船ハレスフィールド(Haresfield、5,299トン)を雷撃により撃沈。16日、北緯12度48分 東経50度50分 / 北緯12.800度 東経50.833度 / 12.800; 50.833のソコトラ島西方沖で英貨物船オーシャン・オナー(Ocean Horner、7,147トン) を砲雷撃により撃沈した。23日夜、北緯10度03分 東経63度42分 / 北緯10.050度 東経63.700度 / 10.050; 63.700マンガロール南西780浬地点付近で、戦車18両、B-25 ミッチェル10機等を搭載して航行中の米貨物船ポール・ラッケンバック(Paul Luckenbach、6,579トン)を発見し、魚雷を発射。魚雷はポール・ラッケンバックの左舷に命中し、同船は船首から沈み始める。1時間後、伊29は再度魚雷を発射。魚雷はポール・ラッケンバックの左舷に命中し、同船を撃沈した。10月2日、ペナンに寄港した後、5日にシンガポールに到着して整備を受ける。


    整備完了後、ペナンに移動した伊29は11月11日にペナンを出港し、モルディブ諸島南方沖を通過してアラビア海に進出。23日、北緯07度36分 東経61度08分 / 北緯7.600度 東経61.133度 / 7.600; 61.133のモルディブ諸島北西沖で、乗客958名と一般貨物6,472トンを乗せてボンベイからモンバサに向かっていた英貨客船ティラワ(Tilawa、10,006トン)を発見し、魚雷を発射。魚雷は命中し、ティラワは一旦放棄された。1時間後、脱出した乗員と乗客はティラワに戻ったが、伊29が再度発射した魚雷が命中し、同船は沈没した。12月3日、北緯11度29分 東経55度00分 / 北緯11.483度 東経55.000度 / 11.483; 55.000のソコトラ島南南西沖で、石油9,000トンを積んでアーバーダーンからモンバサに向かっていたノルウェータンカーベリタ(Belita、6,323トン)を発見して魚雷を発射。魚雷が命中したベリタは放棄された。その後伊29は浮上し、砲撃によりベリタを撃沈した。1943年(昭和18年)1月27日、シンガポールに到着し、整備を受ける。


    整備完了後、ペナンに移動した伊29は2月14日にペナンを出港し、ベンガル湾に進出して哨戒。3月頃にペナンに戻った。


    4月5日、伊29は江見哲四郎海軍中佐、友永英夫技術中佐、89式空気式魚雷1本、魚雷艇用の2式魚雷2本、ベルリンの日本大使館向けのの延べ棒2トン、赤城型空母と特殊潜航艇の設計図の合計11トンの貨物と乗客2名を乗せて出港。26日、予定より1日早くマダガスカル島南東450浬地点付近の会合点に到着。27日、ドイツUボートU180と会合するが、海が荒れていたため2隻は北東方向に移動。28日、波が穏やかになったため2隻は機関を止めて積荷と乗客の移動が行われた。U180からは反英インド独立運動家のスバス・チャンドラ・ボースと秘書ハッサン、吸着地雷1発、キニーネ2トン、砲身、弾薬、ドイツ大使館向けの郵便文書、ボールト(ソナー欺瞞用デコイ)432個入りの木箱3個が積み替えられた。積み替え完了後にU180と別れた伊29は、5月6日にサバンに到着し、乗客と積荷降ろした。ボース氏一行はサバンから航空機で日本へ向かった。伊29はこの任務を成功させたことで有名となる。その後同日中にサバンを出港した伊29は、14日にシンガポールに到着して整備を受ける。


    整備完了後、ペナンに移動した伊29は6月6日と8日に搭載機を発進させて対潜哨戒を行わせた。2回目の対潜哨戒と同時にペナンを出港し、アフリカ東岸およびアデン湾で哨戒を行う。7月12日、北緯14度52分 東経52度06分 / 北緯14.867度 東経52.100度 / 14.867; 52.100のアデン湾で英貨客船ラフマニ(Rahmani、5,291トン)を撃沈した。8月2日、ペナンに到着。9日、捕虜3名を乗せてペナンを出港し[注釈 3]、19日に呉に到着。便乗者を降ろした後整備を受ける。10月10日、伊19艦長時に米空母ワスプ(USS Wasp, CV-7)を撃沈した名艦長、木梨鷹一中佐が艦長に着任。


    11月5日、伊29は第4次訪独潜水艦として呉を出港。14日にシンガポールに到着し、生ゴム80トン、タングステン30トン、錫50トン、亜鉛2トン、キニーネと薬用アヘンコーヒー計3トン、96式連装機銃4基が搭載された。また、14cm砲が取り外され、後部甲板に96式3連装機銃2基が装備された。12月5日、伊8から電波探知機「メトックス」を譲り受け、これを装備。15日、第14潜水隊の解隊にともない、第8潜水戦隊所属となる。


    16日1100、伊29は駐独日本大使館付海軍武官として赴任する小島秀雄少将他日本人技術者16名を乗せてシンガポールを出港した[注釈 4]。作戦中の暗号名は「マツ」。


    12月23日早朝、南緯26度00分 東経70度00分 / 南緯26.000度 東経70.000度 / -26.000; 70.000の地点で、独貨物船ボゴタ(Bogota、1,230トン)[注釈 5]から補給を受ける。1944年1月16日、喜望峰沖を通過して大西洋に進出。2月14日、アゾレス諸島南西60浬地点付近でUボートU518と会合し、電波探知機「ナクソス」、電波探知機「ワンゼ」を受領し、ドイツ人技術者3名を乗せた。3月4日、リー・ライトを装備した哨戒機に発見されて照らされるが、退避に成功。9日、予定よりも早くビスケー湾に到着したため、潜航待機して一夜を明かした。10日、上空援護のユンカース Ju885機と合流。午後には独駆逐艦Z23ZH1、水雷艇T27T29と合流。同日デ・ハビランド モスキートの攻撃を受けてJu881機が撃墜され、1700からはブリストル ボーファイターとB-25の空襲をうけるが、いずれも伊29に損害はなかった。11日、伊29はフランス大西洋岸のロリアン港(当時ドイツの占領下)に到着し、UボートU190の隣に係留され、輸送物資と便乗者を降ろした。このとき、司令塔の96式連装機銃が取り外され、エリコン20ミリ四連装機銃が装備されたほか、後部甲板にクルップ製37mm対空機関砲が装備された。また、Me163Me262の設計図とエンジン、魚雷艇用エンジン、V1飛行爆弾の胴体、音響探知式機雷、ボーキサイト水銀ラジウムアマルガム、ロケット式射出機、対空射撃管制用ウルツブルクレーダーエニグマ暗号機20台を積み、海軍航空本部の造兵監督官として滞独した巌谷英一他ドイツ人4人を含む乗客18名が便乗した。伊29は4月16日にロリアンを出港。6月11日、南大西洋で伊52とすれ違う。29日、インド洋に進出。7月13日、上空援護の一式陸上攻撃機2機と合流。14日1030にシンガポールに到着した。乗客はここで艦を降り、巖谷英一はいち早く新兵器の報告をすべく空路東京に向かった。22日、伊29は海軍士官候補生10名を乗せてシンガポールを出港し、呉に向かった。25日、浮上している米潜水艦を発見したと報告。この潜水艦は米潜ソーフィッシュ(USS Sawfish, SS-276)で、ロック(USS Rock, SS-274)およびタイルフィッシュ(USS Tilefish, SS-307)とウルフパックを構成して哨戒中の20日に、ウルトラ情報英語版により伊29を待ち伏せして撃沈することを命じられており、ソーフィッシュ側も伊29を発見していたが、この時は見失っている。翌26日1645、バリンタン海峡にて17ノットで浮上航走中、追跡してきたソーフィッシュに再度発見された。ソーフィッシュは魚雷4本を発射。伊29は接近する魚雷を発見して回避行動を行ったが、立て続けに魚雷3本が命中。伊29はドイツからの数々の貴重物資もろとも轟沈した[3]。仕留め損ないに備えてタイルフィッシュも攻撃のために寄ってきていたが、その必要はなかった[4]。被雷により伊29の乗員3名が海に投げ出され、うち1名が島に泳ぎ着き、唯一の生存者となった。艦長の木梨鷹一中佐以下乗員95名、乗客10名戦死。沈没地点はバリンタン海峡西口、北緯20度10分 東経121度50分 / 北緯20.167度 東経121.833度 / 20.167; 121.833


    その後、巖谷英一が持ちだした設計図により橘花秋水が開発された。


    10月10日、生存者の喪失報告により戦没認定され、除籍された。


    撃沈総数は7隻であり、計44,776トンにのぼる。

    歴代艦長
    ※『艦長たちの軍艦史』407-408頁による。

    艤装員長
    1. 伊豆寿一 中佐:1941年8月20日[5] - 1942年2月27日[6]


    艦長
    1. 伊豆寿一 中佐:1942年2月27日 -

    2. 木梨鷹一 中佐:1943年10月10日 - 1944年7月26日戦死

    脚注
    注釈
    1. 常備排水量:2,589トンとする資料もある。
    2. 『写真 日本の軍艦 第12巻 潜水艦』より。752.6トンとする資料もある。
    3. この3名は伊10が撃沈したノルウェータンカーアルシデス(Alcides、7,634トン)の船長と無線員、航海士。
    4. 乗客のほとんどは伊34でドイツへ向かう予定だったが、伊34の戦没によりドイツ派遣が延期されていた。
    5. 後に同船は帝国船舶に傭船され、帝宝丸に改名する。

    出典
    1. 『写真 日本の軍艦 第12巻 潜水艦』より。
    2. 昭和16年11月1日付 海軍達 第333号。「昭和16年7月〜12月 達(防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C12070111100 
    3. #SS-276, USS SAWFISHp.192, p.215-216
    4. #Blairp.679
    5. 海軍辞令公報(部内限)第695号 昭和16年8月20日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072081800 。伊号第三十三潜水艦艤装員長。
    6. 海軍辞令公報(部内限)第818号 昭和17年2月28日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072084300 

    参考文献
    ・(issuu) SS-276, USS SAWFISH. Historic Naval Ships Association. http://issuu.com/hnsa/docs/ss-276_sawfish?mode=a_p 

    ・雑誌「丸」編集部『写真 日本の軍艦 第12巻 潜水艦』光人社、1990年。ISBN 4-7698-0462-8

    ・外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。ISBN 4-7698-1246-9

    福井静夫『写真日本海軍全艦艇史』ベストセラーズ、1994年。ISBN 4-584-17054-1

    ・Blair,Jr, Clay (1975). Silent Victory The U.S.Submarine War Against Japan. Philadelphia and New York: J. B. Lippincott Company. ISBN 0-397-00753-1

    関連項目
    遣独潜水艦作戦
    (wikiより)

    63a



    椿(つばき)は、大日本帝国海軍駆逐艦松型(丁型)の15番艦である。日本海軍の艦名としては2代目(初代は二等駆逐艦「楢型」3番艦「椿」)。丁型一等駆逐艦第5498号艦として舞鶴海軍工廠で建造された。

    艦歴
    本籍は舞鶴鎮守府[1]。就役後、訓練部隊の第十一水雷戦隊(高間完少将海軍兵学校41期)に編入。瀬戸内海に回航され、訓練の後2月5日付で「」とともに第一海上護衛隊の指揮下に入り、缶系統に不具合が発生したものの修理を行い、2月16日にモタ38船団を護衛して門司を出撃した[6]。3月15日付で「桜」「」「」「」「」とともに第五十三駆逐隊を編成する[7]。4月に入り、かつて日米交換船として活躍し、1943年(昭和18年)9月9日のイタリア無条件降伏により上海にて自沈後引き揚げられたイタリアの大型客船コンテ・ヴェルデを日本に回航する計画が持ち上がった[8]。4月10日、「寿丸」と仮称されたコンテ・ヴェルデを砲艦宇治」、第21号掃海艇とともに護衛して[9]上海を出港する。しかし、18時過ぎに呉淞灯台沖を航行中に磁気機雷に触れ中破[10]。艦後部を中心に被害があり、行方不明者1名と負傷者30名を出した[10]江南造船所英語版で修理が行われ[11]、一応の修理を終えた後の5月8日にシモ04船団を護衛して上海を出港する[12]。シモ04船団は大きく迂回航路をとり、5月17日に油谷湾に到着[13]。5月25日付で呉鎮守府部隊に編入され[14]呉海軍工廠で本格的に修理が行われるも、江南造船所製作のディーゼル発電機の状態が不良で[15]、代替用のディーゼル発電機もなかなか到着しなかった[15]。7月に入り、左舷運転で18ノットが出るまでに回復したものの、ディーゼル発電機を含む電気系統の修理は完了しなかった[16]。7月13日に備讃瀬戸に回航された後[16]、7月24日に備讃瀬戸で第38任務部隊ジョン・S・マケイン・シニア中将)の艦載機の攻撃を受け中破し、28日にも再度の空襲を受けた。8月15日の終戦時、で中破状態で残存。11月30日に除籍ののち長く放置された後、1948年(昭和23年)7月1日から播磨造船呉ドックで解体が開始され、7月28日に解体が終了した。


    歴代艦長
    ※注記のないものは『艦長たちの軍艦史』367-368頁による。

    艤装員長
    1. 宇那木勁 少佐: - 1944年11月1日[17]
    2. 田中一郎 少佐:1944年11月12日 -

    駆逐艦長
    1. 田中一郎 少佐:1944年11月30日 - 1945年7月[18]

    2. 本多敏治 少佐(松型駆逐艦及び橘型駆逐艦駆逐艦長と兼務):1945年7月[19] -

    詳しいことは、「椿 (松型駆逐艦)ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A4%BF_(%E6%9D%BE%E5%9E%8B%E9%A7%86%E9%80%90%E8%89%A6)
    (wikiより)

    62 駆逐艦椿

    椿

    62a

    62b



    神通(じんつう)[注釈 1][3]は、大日本帝国海軍(日本海軍)の軽巡洋艦(二等巡洋艦)[4]


    5500トン型軽巡洋艦
    川内型軽巡洋艦の2番艦[5]。その艦名は、岐阜県富山県を流れる神通川から因んで命名された[6]

    艦歴

    建造経緯

    大正時代の日本海軍は、7000トン以上の巡洋艦を「一等巡洋艦」、7000トン未満の巡洋艦を「二等巡洋艦」と類別していた(大日本帝国海軍艦艇類別変遷[7]


    1921年
    (大正10年)3月19日、建造予定の軽巡洋艦(二等巡洋艦)4隻に、それぞれ加古那珂川内神通の艦名が与えられる[3]。6月9日、4隻(加古、那珂、川内、神通)は二等巡洋艦として艦艇類別等級別表に登録された[8]1922年(大正11年)3月17日、軽巡加古(佐世保海軍工廠)の建造は中止された[9]


    神通は、1922年(大正11年)8月4日に神戸川崎造船所で起工[10]。同年10月9日加古の艦名を一等巡洋艦に流用する事が決まり、加古は一等巡洋艦類別と共に二等巡洋艦から抹消された[11]。2隻(神通、加古)は共に神戸造船所で建造されることになった[12]


    1923年(大正12年)11月下旬に進水台の付近で汽船が沈没し、神通の進水は延期された[13]。翌月12月8日、神通は進水した[10]艦内神社は、神通川が流れる富山県の射水神社[14]


    1925年(大正14年)7月31日、「神通」は竣工、就役した[10][15]呉鎮守府[16]。8月15日、第一艦隊第三戦隊に編入[16]。12月1日、第二艦隊第五戦隊に編入[16]

    美保関事件

    詳細は「美保関事件」を参照


    1927年
    (昭和2年)8月24日、島根県美保関沖で行われた第八回基本演習(夜間無灯火演習)において、第五戦隊(司令官清河純一中将:第1小隊《加古、古鷹》、第2小隊《神通、那珂》)および第二水雷戦隊(旗艦夕張、第22駆逐隊、第二十六駆逐隊、第二十七駆逐隊、第二十九駆逐隊、第三十駆逐隊《駆逐艦20隻》)は乙軍を編制し、夜間雷撃訓練を実施する[17][18]。この時、本来第一水雷戦隊(龍田)に所属する第二十六駆逐隊・第二十七駆逐隊(駆逐艦8隻)は第二水雷戦隊に臨時編入され、乙軍として行動することになった[19]。那珂には観戦武官として伏見宮博義王が乗艦している[20]


    対する甲軍は加藤寛治連合艦隊司令長官率いる第一艦隊の戦艦(長門陸奥伊勢日向)、第二艦隊(司令長官吉川安平中将:戦艦《金剛比叡)等と軽巡4隻(鬼怒阿武隈龍田由良)で編制されていた[19]


    午後11時過ぎ、第五戦隊第2小隊(神通、那珂)は戦艦部隊を仮想敵(甲軍)にみたてて接近中、戦艦伊勢・日向・第六戦隊(由良、龍田)等から照射を受けた[21]。特に龍田の探照燈に捉えられた神通は攻撃の機会を失ったと判定され、那珂と共に右へ旋回する[22]。すると第五戦隊第2小隊(神通、那珂)は後続していた第1小隊(加古、古鷹)および第二十六駆逐隊、第二十七駆逐隊(司令倉田弘保中佐:、蕨、葦、)の一群に突っ込んだ[23]。神通と第二十七駆逐隊2番艦が衝突、ボイラーを粉砕された同艦は爆発を起こし真っ二つに分断されて沈没した[24]


    それを避けようとして左に転舵した那珂は第二十七駆逐隊3番艦と衝突、那珂は艦首を、葦は艦尾を大破した[25]。現場に居合わせた各艦(加古、古鷹、伊勢、鬼怒、阿武隈、由良、龍田)等は協力して沈没艦と損傷艦の救援に従事した[26]。陸奥艦載機や能登呂鳳翔艦載機も捜索に従事した[27]。蕨は92名、葦は27名の殉職者を出した[28]


    その後、自力航行可能だった那珂は2隻(戦艦《比叡》、重巡《古鷹》)に護衛されて舞鶴へと向かった[29]。神通は戦艦金剛に曳航され[28]、加古の護衛下で同港へ向かった[30]。葦は阿武隈に曳航され同港へ向かった[28]。当時の舞鶴工作部は吹雪型駆逐艦複数隻(第35号駆逐艦《吹雪》第37号駆逐艦《初雪》)の建造に追われており、その中で最初に那珂を修理した[31]。次に神通を修理する事になったが、その際に姉妹艦の那珂に準じた改正が施された[32]。スプーンバウから凌波性に優れたダブルカーブドバウへの変更であり、神通(及び那珂)の外見上の特徴となっている。艦首改正に関して神通は応急修理を施したうえで呉に回航され、翌年3月まで修理に従事した[31]


    12月26日
    、事故当時の神通艦長水城圭次大佐は軍法会議の判決が下される前日に自宅で自決した[33][34]。これを美保関事件と称する。


    1928年3月1日、第一艦隊第三戦隊に編入[16]。12月1日、第一艦隊第一水雷戦隊に編入[16]。1929年11月30日、予備艦となった[16]。1930年12月1日、第一艦隊第三戦隊に編入[16]


    1931年
    (昭和6年)11月から滑走台上への呉式二号二型射出機の装備工事が行われたものと思われる[35]

    1931年12月1日、第二艦隊第二水雷戦隊に編入[16]


    1933年(昭和8年)6月5日、神通副長は辻栄作中佐から大西新蔵中佐に交代(当時、第二水雷戦隊司令官井上継松少将)[36]。8月25日の横浜沖観艦式に参加後、翌日に横須賀入港[37]。9月11日、神通は樺型駆逐艦(廃駆逐艦)を曳航して館山湾外に出動し、第七駆逐隊による砲撃演習を実施、松は沈没した[37]。ところが神通艦内で赤痢が蔓延、9月15日には第二水雷戦隊司令部が駆逐艦に移乗する[38]。他艦との交通禁止、当時乗組員約500名中、入院患者262名という事態になった[38]。10月4日、第二水雷戦隊司令部は神通に移乗[38]。10月10日、横須賀を出発して呉に向かった[38]。11月15日、予備艦となった[16]。1933年11月から1934年7月にかけて滑走台の撤去や後部への呉式二号三型射出機の装備などの工事が起こなわれた[35]


    1934年11月15日、第二艦隊第二水雷戦隊に編入[16]。1935年11月15日、第一艦隊第八戦隊に編入[16]。1936年12月1日、第二艦隊第二水雷戦隊に編入[16]。1938年12月15日、予備艦となった[16]。1939年11月15日、第二艦隊第二水雷戦隊に編入[16]


    1941年
    (昭和16年)には後部魚雷発射管を四連装2基に換装する工事を行い、九三式魚雷の発射能力を得た。前部発射管は撤去され、廃止されたウェルデッキは兵員室に充てられている。神通のこの魚雷発射管換装工事を否定する説もあるが、神通を旗艦とする水雷戦隊への兵装補給記録において九三式魚雷のみが補給されていることから、換装工事が行われていることが確認できる。

    太平洋戦争
    1941年(昭和16年)12月8日太平洋戦争開戦時、「神通」には第二水雷戦隊司令官田中頼三少将が座乗。第二水雷戦隊(第十六駆逐隊、第十八駆逐隊を除く)は白鷹などと共に比島部隊の第五急襲隊を編成[39]。第五急襲隊は11月26日に寺島水道を出発し、12月2日にパラオに到着[40]。計画変更に伴い第五急襲隊の編制はとかれ、第二水雷戦隊(神通、第十五駆逐隊、第十六駆逐隊第二小隊)は第五戦隊の重巡洋艦3隻、第四航空戦隊の空母龍驤、駆逐艦1隻および第十一航空戦隊の水上機母艦2隻と共に比島部隊の南比支援隊(指揮官は第五戦隊司令官高木武雄少将)となり[41]フィリピンの戦いに参加した。南比支援隊の第二水雷戦隊や龍驤などは12月6日にパラオより出撃し、12月8日に「龍驤」搭載機がダバオを空襲した際に神通と第十六駆逐隊第二小隊は飛行機帰投線形成して練度不十分な搭乗員を支援した[42]。なお、開戦時の第二水雷戦隊は第八駆逐隊(大潮《司令艦》、朝潮満潮荒潮)、第十六駆逐隊(雪風《司令艦》、時津風、天津風、初風)、第十八駆逐隊(不知火《司令艦》、霞、陽炎、霰)で構成されていたが、第八駆逐隊(第十八駆逐隊)は南方部隊本隊(南雲機動部隊)指揮下に行動して神通達とは別行動だった[43]。第二水雷戦隊は12月9日にレガスピー攻略船団と合流[44]。12月11日に神通と第十五駆逐隊第二小隊はスリガオ海峡へ向かい、敷設艦八重山による機雷敷設を支援した[45]。神通と第十五駆逐隊は12月14日にパラオに帰投した[46]


    次は神通などは第五急襲隊(指揮官は第二水雷戦隊司令官)を編成し、ダバオ、ホロ攻略に参加[47]。ダバオ攻略部隊は12月16日にパラオから出撃し、神通も出撃した[48]。上陸は12月20日に行われた[49]。第五急襲隊は監禁されていた日本人の救出を行い、神通陸戦隊は他艦の部隊と共に435名を救出した[50]。ホロ攻略部隊は12月22日からダバオより出撃し、神通も12月23日に出撃した[51]。ホロの攻略は12月25日に行われた[52]。12月27日、神通は第十五駆逐隊とともにホロを離れ、ダバオへ向かった[53]


    続いて蘭印作戦が開始される。蘭印攻略部隊はダバオに集結し、神通は12月29日に到着した[54]。神通は第十五駆逐隊、第十六駆逐隊などとともに東方攻略部隊の第二護衛隊(指揮官は第二水雷戦隊司令官)を編成し、最初はメナドの攻略に参加した[55]。1942年1月9日に攻略部隊はマグナガ湾から出撃[56]。1月11日にメナドケマへの上陸が行われた[57]。同日、神通はメナド沖で爆撃を受けたが被害はなかった[57]。次のアンボン攻略作戦準備のため神通は1月15日にメナドを離れ、ダバオへ向かった[58]


    1月26日、神通と駆逐艦朝潮はバンカ泊地に向け出撃した[59]。アンボン攻略船団は二つあり、第一梯団は1月27日にダバオから出撃[60]。第二梯団は1月29日にバンカ泊地から出撃し、同日神通もこれに合流[60]。神通と第十六駆逐隊第一小隊は1月30日に船団からはなれ、以後ブル島の西で行動した[61]。上陸は1月31日に行われた[62]。2月10日、神通はアンボン港に到着した[63]


    2月17日、第二護衛隊はクーパン攻略船団を護衛してアンボンから出撃した[64]。このとき第二護衛隊は神通、第十六駆逐隊、第十五駆逐隊(駆逐艦1隻を除く)、第七駆逐隊第一小隊、水上機母艦瑞穂などからなっていたが、瑞穂は別行動であった[65]。また、第七駆逐隊はデリー攻略船団を護衛した[66]。クーパン上陸は2月20日に行われた[64]。神通は第十六駆逐隊と共に2月24日にマカッサルへ向け出発[67]。同日、第二護衛隊は解散された[67]


    1942年2月27日、神通以下第二水雷戦隊はスラバヤ沖海戦に参加、酸素魚雷の早爆や遠距離発射命中率の低さという問題も露見したが連合軍艦隊相手に勝利をおさめた。

    詳細は「スラバヤ沖海戦」を参照


    4月10日、戦時編制の改編により、第8駆逐隊朝潮満潮大潮荒潮)は第四水雷戦隊(司令官西村祥治少将:旗艦那珂/夏雲由良)に編入され、神通麾下を離れた[68]


    4月18日、日本はアメリカ軍機動部隊(空母ホーネット、エンタープライズ)及び艦載機(陸軍航空隊B-25)によるドーリットル空襲を受けた。この時、第二水雷戦隊指揮下駆逐隊は南雲機動部隊や南方部隊に組み込まれて各方面で活動しており[69]、神通は単艦で呉に停泊し整備待機を続けていた[70]。神通は4月19日午前中に桂島泊地を出撃[71]、20日には前進部隊本隊(指揮官近藤信竹中将:旗艦愛宕)に編入された[72]。さらに三宅島及び八丈島東方海域に進出しアメリカ軍機動部隊を捜索したが会敵せず[73]、22日夕刻呉に戻った[74]


    6月上旬のミッドウェー作戦における第二水雷戦隊は、一木清直大佐率いる陸軍一木支隊及び太田実[要曖昧さ回避]海軍少将率いる海軍陸戦隊を載せた輸送船団の護衛を担当した[75][76]。6月13日、二水戦(神通、初風、雪風、天津風、時津風)はトラックを発ち、21日横須賀へ帰投した[77]


    7月上旬、水上機母艦千代田あるぜんちな丸の護衛として第五艦隊(司令長官細萱戊子郎中将)指揮下のもと北方へ進出した第十八駆逐隊は[78]、7月5日キスカ島の沖合でアメリカの潜水艦グロウラーの襲撃に遭いが沈没、不知火も大破航行不能という大損害を被った[79]。長期修理を余儀なくされた第十八駆駆逐隊は第五艦隊所属(翌月8月15日附で解隊)[80]、陽炎は第十五駆逐隊(親潮、黒潮、早潮)に編入されて同隊4番艦となった[81]


    7月14日、第十六駆逐隊(第1小隊《雪風時津風》、第2小隊《初風天津風》)は第十戦隊(司令官木村進少将:旗艦長良)に編入され、神通指揮下を離れた[82]。そのかわりに同日附をもって 白露型駆逐艦3隻で構成された第二十四駆逐隊(第一小隊《海風江風》、第二小隊《涼風》、〔山風6月23日沈没〕)が第二水雷戦隊に編入される[83]

    ガダルカナル島の戦い

    ガダルカナル島の戦い」も参照


    1942年(昭和17年)8月7日、アメリカ軍はウォッチタワー作戦を発動しガダルカナル島フロリダ諸島に上陸を開始、ガダルカナル島の戦いが始まった。第二水雷戦隊旗艦神通も第十五駆逐隊・第二十四駆逐隊計7隻の駆逐艦を率いており、横須賀で整備改修工事を受けていた[84]。8月5日には木更津沖にて天津風・初風・江風・涼風等と停泊していたが、アメリカ軍襲来の急報により木更津から横須賀へ戻った[85]


    その後出撃準備を行い8月11日に横須賀を出港、15日にトラック泊地着[86][87]。神通は外南洋部隊増援部隊旗艦となり、陸軍一木部隊と横須賀鎮守府第五特別陸戦隊(海軍陸戦隊)をガダルカナル島へ輸送する任務をまかされた[88]。だが第十五駆逐隊3隻(親潮、黒潮、早潮)は前進部隊本隊(指揮官近藤信竹中将:旗艦愛宕)に編入され、神通とは別行動をとった。


    8月16日、同月13日より外南洋増援部隊指揮官(二水戦司令官田中頼三少将)指揮下にあった陽炎型駆逐艦6隻(第四駆逐隊《萩風》、第十五駆逐隊《陽炎》、第十七駆逐隊《谷風浦風浜風》)は第四駆逐隊司令有賀幸作大佐の指揮下でトラック泊地を出動[89]


    8月18日深夜、陸兵900名の揚陸に成功し、第十七駆逐隊はラビの戦いに参加するためラバウルに向かった[90]。この後、陽炎型3隻(嵐、萩風、陽炎)はアメリカ軍水雷艇部隊を撃退したのち、空襲により萩風が被弾し、嵐に護衛されてトラック泊地へと避退した[91]。陽炎は単艦でガダルカナル島海域の警戒を行う[92]。2日後、江風と任務を交代[91]。江風は22日にアメリカ軍駆逐艦2隻と交戦し駆逐艦1隻(ブルー)を撃沈した[93][94]

    第二次ソロモン海戦

    第二次ソロモン海戦」も参照


    駆逐艦隊がガダルカナル島海域で行動する中、増援部隊旗艦神通以下護衛部隊(神通、哨戒艇1号、哨戒艇2号、哨戒艇34号、哨戒艇35号、第二十四駆逐隊)及び輸送船団(ぼすとん丸、大福丸、金龍丸)は8月16-17日トラック泊地を出港、海上で合同しガ島へ向かう[95][96]。しかし米軍機動部隊の出現、ガダルカナル島米軍ヘンダーソン飛行場の存在により日本側制空権掌握の見通しが立たないことから、輸送船団はガダルカナル島北方海域で北上と南下を繰返していた[97][98]


    8月21日、燃料不足に陥った哨戒艇4隻を分離[99]。8月24日夜の一木師団揚陸は見送られ、25日夜に延期される[100]


    このような状況下、8月24日朝より輸送船団はアメリカ軍飛行艇の接触を受けることになる[101]。正午すぎに第六戦隊(司令官五藤存知少将)の重巡2隻(青葉古鷹)と遭遇[102]。「敵味方飛行機約20機交戦中」「船団ハ一時西方ニ避退スルヲ可ト認ム」という信号を受信した[103]。また重巡衣笠と駆逐艦夕凪も輸送船団南西80浬に位置していた[102]。神通からは東方海面に空母らしきものが炎上している光景が見られた[104]。これは第三艦隊主力より分離して行動中、米空母サラトガ艦載機の攻撃で沈没しつつある空母龍驤と護衛部隊(利根天津風時津風)であった[102]


    これらの状況から田中司令官は反転避退を決定した。南雲機動部隊(翔鶴瑞鶴)より「敵エセックス型空母1隻戦艦1隻大火災、空母1隻火災」(実際は空母エンタープライズの中破のみ。)という戦果報告が入る[105]。輸送船団は下令により再び南下してガダルカナル島へ向かうが、同島ヘンダーソン飛行場の勢力が健在である限り、低速の輸送船団の運命は明らかであった[106]


    田中司令官は神通より宇垣纏連合艦隊参謀長を含む各上級部隊司令部に「低速輸送船ヲ以テスル増援ハ成功ノ算尠キモノト認ム」と意見具申を行った[107]。翌8月25日には第八艦隊司令部も田中司令官の判断を追認し、各方面に輸送船団の上空掩護を要請している[108]


    8月24日深夜、第三十駆逐隊(司令安武史郎大佐:睦月弥生)及び駆逐艦3隻(江風、陽炎、磯風)はガダルカナル島ルンガ泊地に突入、ヘンダーソン飛行場を砲撃した[109]。この安武司令指揮下の夜襲部隊は夜間のうちに北上し、5時40分を以て神通以下輸送部隊と合流する[110][111]


    命令伝達後、2隻(神通、陽炎)を率いて船団から離れようとしていた。空襲直前、哨戒艇1号・2号・34号・35号は神通左前方7kmにあって輸送船ぼすとん丸→大福丸→金龍丸の輸送船3隻単縦陣を護衛し、神通右前方(左前方)3kmに海風(凉風)が航行しており、神通左舷と凉風右舷の間を、駆逐艦5隻(睦月、江風、磯風、陽炎、弥生)の単縦陣が追い抜くように通過していた[112]。最も神通に接近していたのは磯風(第十七駆逐隊)で、神通左舷600mであった[112]


    この状態で航行中の6時4-5分、ガ島ヘンダーソン飛行場を発進したアメリカ軍急降下爆撃機SBDドーントレス8機が雲間より出現、来襲機を味方機と誤認していた神通は奇襲を受けた[111]。神通の第1主砲・第2主砲の間に爆弾が命中、第一兵員室で炸裂し火災が発生、前部弾薬庫に注水する[113]


    さらに船団への空襲は続いた。輸送船金龍丸は被弾して大爆発を起こし、乗組員と便乗者を弥生と哨戒艇に移したのち睦月によって雷撃処分された[111]。その睦月も、B-17爆撃機3機の空襲で被弾し9時40分に沈没した[114][115]。通信機能の一部を喪失した神通は駆逐艦2隻(陽炎、凉風)に護衛され、輸送船団から離れるように16ノットでアメリカ軍機行動圏外に避退を開始する[111]。火災も鎮火したため田中司令官は陽炎に移乗、2隻(神通、涼風)のみトラック泊地に向かわせた[116]


    また沈没艦2隻(睦月、金龍丸)の生存者を救助した3隻(弥生、哨戒艇1号、2号)も船団を離脱してラバウルに向かった[117][118]。26日、第二水雷戦隊旗艦となった陽炎は燃料不足の海風と共に先行してショートランド泊地へ向かい、残された磯風が船団の指揮を執って同泊地へ向かった[119][120]


    8月28日午前8時、神通はトラック泊地に到着し応急修理を開始した[121]。一方、ショートランド泊地にて田中頼三少将は二水戦旗艦を陽炎から重巡衣笠に変更した[122]。8月31日午前8時、第三水雷戦隊(司令官橋本信太郎少将:旗艦川内、第十九駆逐隊《浦波敷波》、第十七駆逐隊《浦風谷風》)がショートランド泊地に到着[123]。これをもって田中司令官は増援部隊の任務を解かれ、橋本司令官がその任を引き継いだ[124][125]。同日、田中司令官は衣笠より駆逐艦夕霧(第二十駆逐隊)に移乗し、ショートランドよりトラック泊地へ向かった[126][127]


    9月2日午後、夕霧のトラック泊地到着後、田中司令官は神通に二水戦旗艦を戻した[128]。9日、二水戦旗艦は神通から陽炎型駆逐艦5番艦早潮(第十五駆逐隊)に変更された[129]。引き続きトラック泊地で待機する神通に対し[130]、9月25日附で長良型軽巡洋艦2番艦五十鈴が第二水雷戦隊に編入され、神通は呉鎮守府部隊に所属変更となった[131]。翌日、二水戦旗艦は五十鈴に変更された[132]。10月8日、神通は日本本土に戻る[133]呉鎮守府(司令長官豊田副武大将)の指揮下にあって、サボ島沖海戦で大破した重巡青葉などと共に修理整備作業に従事した[134][135]


    12月29日、田中頼三少将は第二水雷戦隊司令官を更迭され、後任として小柳冨次少将が着任、駆逐艦長波に将旗を掲げた[136]。結局、第二次ソロモン海戦による損傷以降、神通が参加した海戦は神通が沈没するコロンバンガラ島沖海戦のみだった[137]

    詳しいことは、「神通 (軽巡洋艦)ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E9%80%9A_(%E8%BB%BD%E5%B7%A1%E6%B4%8B%E8%89%A6)
    (wikiより)

    61 軍艦神通

    61a



    「第三十四号駆潜艇」は、第 13号型駆潜艇として、昭和 17年 8月 31日播磨造船所で竣工した。

    第 13号型駆潜艇は戦時中建造の主力を占める優秀な性能の駆潜艇で、各地で奮戦し 49艇中 35艇 ( 71% ) が海没するという大きな損害をだした型式であった。


    本艇は、竣工後横須賀回航、三陸方面沿岸の海上警備に従事したのが初陣であった。 

    昭和 17年 12月 29日第二特別根拠地隊に編入、ウエワクに入港直ちに船団護衛、対潜哨戒に従事した。


    昭和 18年はパラオ、比島、ボルネオ、ジャワと各地を転戦して武勲をたて、昭和 19年には第十五特別根拠地隊に編入され、シンガポールに配備された。

     
    昭和 20年 3月 26日、アンダマン向け船団護衛中、英駆逐艦 2隻と遭遇し被弾、宇佐美艇長以下百十余名が散華した。


    戦後 22年たって元乗組員の岡本照男氏が、共に戦って散華した戦友の冥福を祈り、艇の武勲を永く後世に伝えるためにこの〃碑〃を建立した。

                                       
    呉鎮守府所属第 34号駆潜艇 450トン 速力 16ノット


    昭和 17年 8月 31日兵庫県相生市播磨造船所に於て竣工、横須賀に廻航三陸方面沿岸の海上警備に従事。


    昭和 17年 12月 29日午後 2時横須賀を出港、第二特別根拠地隊附としてニューギニア、ウエワクに向う。

    サイパン、ラバウルを経て昭和 18年 1月 22日午前 9時 30分ウエワクに入港、直ちに沿岸の警備日夜を分たず船団の護衛又は潜水艦哨戒に従事。 

    昭和 18年 10月 30日呉軍港に帰港相生に廻航播磨ドックに於て船体、兵器、機関の修理を行い、昭和 18年 11月 29日パラオに向け出港パラオ入港以後パラオ ← → ニューギニア間の舶団の護衛又は潜水艦掃蕩に従事し南太平洋に戦う最後の日本艦艇となるまで活躍し赫々たる武勲をあげたり、比島、セレボス、ボルネオ、ジャワと転戦し昭和 19年 10月艦隊編成変更に依り第 15特別根拠地隊 ( ペナン ) 隊附となり昭南に廻航第 10特別根拠地隊司令官の指揮下に入る北に南に舶団の護衛沿岸の警備に従事。


    昭和 20年 3月 22日「ペナン」を出港印度洋東部「ニコバル」「アンダマン」方面に向け舶団護衛の途中、昭和 20年 3月 26日午前 9時 30分頃北緯 10度 38分東経 94度 42分の海上に於て英国駆逐艦 2隻と遭遇し数時間にわたる交戦の末、午前 1時頃撃沈され艇長以下百十余名は艇と運命を共にした。


    昭和 42年 3月 26日この碑を建立し戦友の冥福を祈ると共に艇と戦友の武勲を末永く伝える。

                                  碑 ( 表 )初代艇長 逆 井 保 治 謹書


    ( 裏 ) 呉鎮守府所属第三十四号駆潜艇 四百五十トン 速力十六ノット

    昭和 17年 8月 31日播磨造船所に於て竣工、横須賀に回航三陸方面の沿岸警備、 昭和 17年 12月 29日ニューギニア方面に向け出撃以来南方海域に於て日夜戦斗に 従事、昭和 20年 3月 26日ニコバル・アンダマン方面に向けて船団護衛の途中英国 駆逐艦 2隻と遭遇し 3時間にわたる交戦の末撃沈され艇長以下 110余名艇と運命を共にす。


    昭和 42年 3月 26日この碑を建立して戦友の冥福を祈ると共に艇と戦友の武勲を末 永く伝える。

    60a

    60c



    矢矧 (やはぎ)は、大日本帝国海軍軽巡洋艦[17]二等巡洋艦阿賀野型(阿賀野型軽巡洋艦)の3番艦[18]


    艦名は長野県から岐阜県を経て愛知県に至る矢矧川にちなんで命名された(現在は矢作川と表記されている)[19][20]。帝国海軍の命名慣例については日本艦船の命名慣例を参照。この名をもつ帝国海軍の艦船としては、筑摩型防護巡洋艦2番艦矢矧(二等巡洋艦)に続いて2隻目[19][20]坊ノ岬沖海戦において、戦艦大和等と共に撃沈された[21]

    艦歴
    1941年(昭和16年)11月11日、本艦(第134号艦)は阿賀野型軽巡3番艦として佐世保海軍工廠で起工[2][22]


    1942年
    (昭和17年)8月20日、第134号艦は軍艦矢矧と命名され[17]、阿賀野型2番艦能代と共に二等巡洋艦阿賀野型として登録される[23]


    9月25日[24]昭和天皇の名代として高松宮宣仁親王(海軍大佐、昭和天皇弟宮)臨席の元、矢矧は進水した[3][25]佐世保鎮守府所属となる[26][24]。機密保持のため、進水式で配られた記念酒盃には『矢矧』の艦名は記されておらず、かわりに矢に萩の花をあしらった絵が描かれていた[27]。帰京した高松宮宣仁親王は、天皇に矢矧進水式を終えたことを報告した[28]


    1943年
    (昭和18年)10月11日、日本海軍は駆逐艦磯波艦長・第27駆逐隊(時雨、白露、有明、夕暮)司令・軽巡龍田艦長[29]・第10駆逐隊(秋雲、夕雲、風雲、朝雲)司令[30][31]等を歴任した吉村真武大佐を、矢矧艤装員長に任命した[32]


    10月16日
    、佐世保工廠に矢矧艤装員事務所を設置[33]


    12月29日、竣工[34][35]。同日附で矢矧艤装員事務所を撤去[36]。吉村矢矧艤装員長も制式に矢矧初代艦長となる[37]佐世保鎮守府[38]。同日、第三艦隊第十戦隊に編入[38]


    1944年(昭和19年)1月10日、佐世保を出発して瀬戸内海へ向かう[39] [40]。 2月、リンガの哨戒および訓練のためシンガポールへ派遣された[41]


    6日、第十戦隊(矢矧、第10駆逐隊《秋雲、風雲、朝雲》、第61駆逐隊《初月、若月》)は第一航空戦隊翔鶴瑞鶴)、重巡洋艦筑摩を護衛して内地を出発[42][43][44]


    13日、シンガポールに到着する[43][45]。ここで第10駆逐隊や一航戦と別れ、18日に2隻(筑摩、矢矧)はシンガポールを出発、同日着[46][43]。矢矧が航海中の2月17日、阿賀野型1番艦阿賀野が米潜水艦スケートUSS Skate, SS-305)の雷撃で撃沈された事に伴い[47]、第十戦隊司令官木村進海軍少将はリンガ泊地で秋月型駆逐艦1番艦秋月(敷島部隊編入中)から矢矧に移乗した[48]


    2月23日、第十戦隊旗艦となった[49][50][51]


    3月[52]、4月[53]は、第十戦隊各艦および空母部隊と共にシンガポールとリンガ泊地を拠点に訓練と整備に従事[54]


    5月12日、矢矧以下第十戦隊(旗艦《矢矧》、第10駆逐隊《朝雲、風雲》、第61駆逐隊《初月、若月、秋月》、第17駆逐隊《磯風》)は第一航空戦隊(空母大鳳翔鶴瑞鶴)、第五戦隊(重巡洋艦妙高羽黒)とともにシンガポールからタウィタウィ泊地へ向け出発した[55][56]


    航海中、2隻(矢矧、風雲)は敵潜水艦撃沈を報告した[57]


    15日到着以後、タウィタウィ泊地で訓練と搭載水上偵察機による潜水艦哨戒任務に従事した[58]


    1944年(昭和19年)6月19日、第十戦隊(第17駆逐隊《磯風、浦風》、第10駆逐隊《朝雲》、秋月型4隻《初月、若月、秋月、霜月》)[59]を率いて小沢治三郎中将指揮の第一機動艦隊に所属し、マリアナ沖海戦に参加した。午前8時10分、第一機動部隊旗艦大鳳(矢矧より距離3kmを航行)に米潜水艦アルバコア(USS Albacore, SS-218) の発射した魚雷1本が命中した[60][61]。矢矧は大鳳から『ワレ航行ニ差シ支エナシ』の信号を受取っている[62]。さらに午前11時20分、矢矧の目前で翔鶴が米潜水艦カヴァラ(USS Cavalla, SS-244)から雷撃され魚雷4本が命中した[63]。翔鶴は午後2時前後に沈没し、随伴艦(矢矧、浦風、若月)等は翔鶴の乗組員の救助に従事するも乗組員および航空隊員合計約1100名以上が戦死した[64]。14時32分、大鳳が大爆発を起こした[65]。これは魚雷命中の衝撃でガソリンが洩れ、数時間後に引火した為である。大鳳は16時28分に沈没していった[66]。第十戦隊各艦(磯風、初月)は共同で脱出乗組員の救助にあたった[67]


    6月20日17時50分、第一機動部隊(旗艦《瑞鶴》、第五戦隊《羽黒、妙高》、第十戦隊《矢矧、磯風、浦風、初月、秋月、若月、朝雲》、秋月型《霜月》)、は米機動部隊から発進した戦闘機85、艦上爆撃機77、艦上攻撃機54と交戦。矢矧は主砲15 (18) 発、高角砲130発、機銃5,200発を発射した[68]。この戦闘で矢矧に損害はなく、瑞鶴も被弾したが小破に留まった。


    6月24日、矢矧は日本のに戻った[69]。ドックでレーダーや機銃の増強を行った後、7月8日に多くの戦艦、巡洋艦、駆逐艦と共に呉を出航し、東南アジア方面へ向かった。マニラを経由し、20日リンガ泊地に到着した[70]。その後はアメリカ軍との戦闘に備えて訓練に従事した。

    レイテ沖海戦

    1944年(昭和19年)10月、矢矧は栗田艦隊(第一遊撃部隊)、第二部隊(指揮官鈴木義尾中将/第三戦隊司令官・旗艦金剛)に属してレイテ沖海戦に参加した。10月23日、栗田艦隊は米潜水艦2隻に襲撃され重巡2隻(愛宕、摩耶)を喪失、高雄が被雷して駆逐艦2隻(朝霜、長波)と共に離脱、第二艦隊司令長官栗田健男中将は旗艦を変更した(愛宕→大和)[71]10月24日シブヤン海海戦で栗田艦隊はアメリカ海軍第38任務部隊からの空襲を受ける。空襲直前、矢矧は艦載水上偵察機2機を発進させたが[72]、1号機(佐々木少尉機)が未帰還となった。この戦闘で各艦はアメリカ軍側の記録にないアメリカ潜水艦を発見し、空襲下にある艦隊は混乱した[73][74]。日本軍は、10時30分から16時30分にわたる五回の空襲によって戦艦武蔵が沈み、戦艦2隻(大和、長門)、重巡2隻(利根妙高)、駆逐艦2隻(浜風清霜)が命中弾を受けた。3隻(妙高、浜風、清霜)は栗田艦隊から離脱、矢矧も第二次対空戦闘で左舷に至近弾、第三次対空戦闘で後部兵員室に小型爆弾命中、艦首至近弾で錨鎖機室で火災発生[75]という被害を受けた。右舷艦首に直径4-5m(2m程とも)の穴があき、速力も22ノットに低下した[76]。池田武邦航海士によると、応急修理で28ノット発揮可能になったが、30ノット以上出すと破孔が拡がって危険な状態になったという[77]。だが矢矧は翌日の戦闘で無理をして32ノットを発揮していた[78]


    10月25日、矢矧はサマール沖海戦に参加した。午前6時30分に米護衛空母艦隊を発見[79](戦闘詳報の発見時刻は6時45分発見[80])、栗田艦隊全艦はこの部隊を正規空母部隊と誤認し[81]、重巡洋艦部隊を突出させその後に止め役として水雷戦隊を続行させた[82][83]。第十戦隊(旗艦《矢矧》、第17駆逐隊《浦風、雪風、磯風、野分〔臨時編入〕》)を率いて逃走する米空母部隊を追撃し護衛駆逐艦と交戦したが、午前7時25分にアメリカ軍機の機銃掃射で艦橋勤務兵に死傷者が出た[84]。午前9時、米駆逐艦の砲撃が左舷士官室に命中したのに加え[85]、アメリカ軍機の機銃掃射により再び艦橋要員に被害を出し[86]、小火災が発生し魚雷発射管1門が使用不能となった[87]。午前8時50分、米駆逐艦ジョンストン(USS_Johnston, DD-557)が煙幕を突破して偽装の魚雷発射姿勢を取った(なお、ジョンストンの魚雷は既に発射しており1本も残っていなかった)[88]。矢矧以下第十戦隊は魚雷回避のため右に舵をきり、これが第二水雷戦隊(軽巡能代、島風型島風等)の針路を妨害することになった[88]。第二水雷戦隊も右に回避行動をとったため米艦隊との距離が開いてしまい、同戦隊が魚雷を発射する機会は失われた[88]。午前9時6分、第十戦隊は矢矧が九三式酸素魚雷7本、第17駆逐隊各艦4本(磯風のみ8本)[89]、計魚雷27本を発射し[90]、エンタープライズ型空母1隻撃沈、同型空母1隻大破撃沈殆ど確実、砲撃により駆逐艦3隻撃沈を報告している[91]。実際には、魚雷は1本も命中していなかった[92]。なお、矢矧の指揮下にあった磯風水雷長は矢矧(旗艦)が魚雷命中の期待できない遠距離雷撃命令を出したことに疑問を呈している[93]。矢矧の艦橋にいた池田は同艦水雷長は米空母がスコールに逃げ込み魚雷発射のチャンスを逸することを懸念していたと述べている[86]。アメリカ軍によれば、護衛空母カリニン・ベイセント・ローに迫る数本の魚雷があったものの、対空砲や艦載機の機銃掃射により、命中前に爆破されたという[94]。実際の第十戦隊の戦果は、砲撃による米駆逐艦ジョンストンの撃沈のみであった。


    栗田艦隊は撤退行動に移ったが、帰路にも18回にわたるアメリカ軍機の空襲を受けた。16時45分、矢矧は至近弾により魚雷発射連管室で火災が発生し、戦死者14名重傷者多数を出す損害を受けた[95]


    10月26日にも艦隊は空襲を受け、阿賀野型2番艦(姉妹艦)能代が沈没した[96]。28日、残存日本艦隊はブルネイに帰投した。一連の戦闘で本艦は主砲通常弾367発、対空砲弾205発、高角砲600発、機銃2万7000発、爆雷6個を消費し[97]、戦死44名、行方不明3名、重軽傷者97名を出した[98]。水上偵察機も1機が未帰還となった[99]


    11月15日
    、第十戦隊の解隊に伴い残存艦(矢矧、浦風、磯風、雪風、浜風、涼月、冬月)は第二水雷戦隊に編入された[100][101]。当事の第二水雷戦隊は多号作戦で島風型駆逐艦島風(二水戦旗艦)の沈没時に二水戦司令官早川幹夫少将が戦死したため、司令官不在だった。矢矧は日本への帰還を命じられ、戦艦3隻(大和、長門、金剛)、第17駆逐隊4隻(浦風、雪風、浜風、磯風)と共に16日ブルネイを出港した[102][103]。20日、随伴していた松型駆逐艦2隻()が艦隊から分離して台湾へ向かった[104]。11月21日、金剛型戦艦1番艦金剛と17駆司令艦浦風が米潜水艦シーライオンII(USS Sealion, SS/SSP/ASSP/APSS/LPSS-315) の雷撃で沈没(鈴木司令官戦死)、浦風の乗組員は第17駆逐隊司令部ごと総員戦死した[105]。金剛の生存者は2隻(浜風、磯風)に救助された[106]。大和や矢矧は金剛の救援に関しては何も出来ず[102]、現場海域を避退した[105]


    11月23日本土到着、26日佐世保に回航、修理が行われる[107]。修理個所を明確にするため白ペンキで塗られた場所は1,000個所を越えた[108]。この間、第一水雷戦隊の解隊にともない木村昌福少将は第二水雷戦隊司令官に任命され[109]、軽巡大淀や駆逐艦霞を旗艦とした。


    12月20日、吉村(矢矧艦長)は金剛型戦艦3番艦榛名の艦長を命じられた[110]。後任の矢矧艦長として、朝潮型6番艦山雲初代駆逐艦長・陽炎型9番艦天津風初代駆逐艦長・第27駆逐隊《時雨白露五月雨春雨》司令等を歴任した原為一大佐が任命された[110][111]


    12月23日、第二艦隊司令長官も栗田中将から伊藤整一中将に交代した[112]


    同時期、第二水雷戦隊(矢矧、時雨、第17駆逐隊)に対して、ヒ87船団と空母龍鳳の護衛として出撃、その後2隻(矢矧、時雨)のみ第二水雷戦隊麾下各艦が活動するフィリピンへの進出が下令される[113]。21日、修理を終えて佐世保を出港し、23日呉到着[114]。だが矢矧側は「補充乗組員を多く抱え訓練不足の為出撃できない」と連合艦隊に意見具申、矢矧の出動は取りやめられた[115]


    結局、第17駆逐隊2隻(浜風、磯風《雪風は機関故障のため出港前日同行中止》)と第21駆逐隊(時雨)の駆逐艦3隻がヒ87船団と龍鳳の護衛として出動することになった。なおこの船団護衛中、浜風は台湾で輸送船と衝突し馬公市附近で座礁した上に空襲を受けて危機に陥った。また時雨は2隻(龍鳳、磯風)と分離後もヒ87船団の護衛を続行し、シンガポール方面で米潜水艦ブラックフィンの雷撃により沈没した。


    1945年(昭和20年)1月3日(着任1月4日)、第二水雷戦隊司令官は木村昌福少将から古村啓蔵少将に交代した[116][117]。矢矧は内地で待機を続け2月20日、シンガポールから日本本土への強行輸送作戦(北号作戦)に従事していた『完部隊』(第四航空戦隊司令官松田千秋少将:日向伊勢大淀[118])、第二水雷戦隊3隻(初霜朝霜)が呉に到着した[119]。23日、旗艦は霞から矢矧に変更された[120]。その後、第二水雷戦隊各艦は内地で待機した。


    3月19日の呉軍港空襲では、ドックで整備中だったため動けなかったが被害はなかった[121][100]。修理や各種装備の整備も、特攻兵器生産優先のため、万全とは云い難い状態だった[122]。 3月28日、大和や麾下駆逐艦と共に呉港を出港し、周防灘、続いて三田尻沖に停泊する。3月29日、指揮下の吹雪型駆逐艦(第7駆逐隊)が触雷して大破、朝霜は呉に向かう響を途中まで護衛すると艦隊に戻った[123]

    連合艦隊の最期

    ・1945年(昭和20年)3月27日 菊水作戦直前の第二水雷戦隊の編制は以下のとおりである[127]

    ・旗艦:矢矧

      ・第7駆逐隊潮(横須賀待機)

      ・第17駆逐隊:磯風、浜風、雪風

      ・第21駆逐隊:朝霜、初霜、霞

      ・第41駆逐隊冬月涼月


    1945年(昭和20年)4月1日、アメリカ軍が沖縄に上陸を開始した。4月6日天一号作戦に参加すべく、第二水雷戦隊司令官古村啓蔵中将が座乗する矢矧は徳山沖に停泊中の戦艦大和に合流、矢矧の原為一艦長は少尉候補生23名を退艦させた。艦内の倉庫にあった米麦20日分も、5日分のこして徳山軍需部に返還している[128]。13時、大和士官室で草鹿龍之介連合艦隊参謀長が第二艦隊司令官・艦長達に作戦を説明すると一斉に不満の声があがり、原艦長も「敵の後方補給路を『矢矧』で暴れて寸断する」と提案している[129]。15時20分、第二艦隊所属の10隻(旗艦《大和》、第二水雷戦隊《矢矧、17駆〔磯風、浜風、雪風〕、21駆〔朝霜、初霜、霞〕》)は沖縄へと出撃[130]。原艦長は乗組員に「死に急ぐな」と訓示したという[131]。また沖縄に到着後は座礁して砲台になる事や、宮本武蔵の話をしたという乗組員の回想もある[132]。ただ、原艦長自身は矢矧が被害担当艦となることで他艦への被害を減らそうと考えていたと回想している[133]。夕刻、伊予灘にて二水戦は大和を目標とした編隊訓練と襲撃運動訓練を実施した[134]

    詳細は「坊ノ岬沖海戦」を参照


    4月7日午前6時頃、第二艦隊は大隅海峡を通過、針路を280度とした[135]。ところが午前6時57分、駆逐艦朝霜が機関故障を起こして速力が低下、第二艦隊から落伍した[136]。矢矧では、搭載水上偵察機を事前に退避させるよう意見具申された[137]。8時15分に零式水上偵察機1機(富原辰一少尉/機長、松田上飛曹/操縦、佐々木上飛曹/電信)を鹿児島県指宿基地に戻した[138][139][140]


    だが、12時32分から始まったアメリカ機動部隊の空襲では矢矧は大和に次ぐ大型艦であったため集中して狙われることになった[141]。天候は不良で、雲高3000フィート(1000m以下)、視界5 - 8浬[142]。戦闘開始早々の12時46分、アメリカ軍の雷撃機TBF/TBMアベンジャー(空母ベニントン所属機)が投下した魚雷1本が命中し[143]、航行不能となった[144]、13時00分にも矢矧の艦尾に魚雷が命中した[145]。最初に命中したのは右舷後部という見解もある[146]。いずれにせよ13時前には航行不能となり、このため矢矧は護衛すべき大和から離れてしまった[142]。なお、矢矧からは10-20km遠方に左舷に傾斜した大和が見えたという[147][148]。標的状態となった矢矧は多数の魚雷や爆弾直撃、至近弾で損傷が拡大した[21]。最初の魚雷命中直後に魚雷を投棄[146][149]。重巡三隈鈴谷のように酸素魚雷の誘爆による致命傷を避けることが出来た。そのため魚雷2本・爆弾1発で沈んだ矢矧の姉妹艦である(能代)と比較して長い時間、戦闘を継続していた[150]。「もう早く沈んでくれと思うくらい沈まなかった」という艦橋で勤務していた池田武邦の回想が今も残っている[151]


    一方、麾下の第二水雷戦隊各艦も次々に損傷していった。


    まず、単艦で落伍していた朝霜が4発の直撃弾で沈没し総員(326名)が戦死した[152][153]。 次に浜風が12時48分に直撃弾と魚雷の直撃で爆沈した[154][155]


    涼月は艦前部への直撃弾で大破し戦線を離脱した[156]


    さらに霞も被弾して航行不能となった[157]。この時点での大和は魚雷や爆弾を数発被弾して多少の損害を受けたもののまだ余裕があり、二水戦旗艦(矢矧)の状況を確かめるべく反転しつつあったという[158]


    13時すぎ、駆逐艦磯風(第17駆逐隊司令駆逐艦)のみが矢矧の護衛にあたった[159]。古村司令官は矢矧での水雷戦隊指揮は不可能と判断[160][161]。健在艦を率いて沖縄へ突入すべく、アメリカ軍機の空襲がやんだ時間を見計らって磯風(17駆司令艦)に接近命令を出した[162]。磯風は13時28分に矢矧に横付けを試みたが[163]、直後にアメリカ軍機攻撃隊第二波が来襲したため離れた[147][164]。二水戦参謀の進言で艦載艇を海面に降ろしたが、爆弾の直撃で将兵と共に四散[165][159]。このため第二水雷戦隊司令部が移乗するには、磯風側が矢矧に横付けするしか方法がなくなった。磯風は速度を落として矢矧に横付けした瞬間を米軍機に襲撃され、13時56分に被弾[166]。至近弾により速力12ノットに低下[167]、やがて航行不能となった。


    救援の見込みがなくなった矢矧は最終的に合計魚雷6-7本・爆弾10-12発を被弾(アメリカ軍記録、矢矧に対し爆弾56発、魚雷17本、機銃9970発を投下・発射)[168][169]、14時5分に沈没した[170][21]。13時20分頃[171]、または13時30分頃という回想もある[172][173]


    矢矧の沈没から十数分後の14時23分前後、大和も大爆発を起こして沈没した[174][175]。矢矧から脱出した将兵は、遠方に大和が爆発した際に発生した巨大なキノコ雲を目撃している[176]。14時40分、脱出者に対する銃撃を終えたアメリカ軍機が離脱した[177]。17時以降、駆逐艦3隻(初霜、雪風、冬月)が矢矧乗組員の救助を開始した[178]。矢矧の乗組員446名が戦死、133名が負傷した[179]。原(矢矧艦長)を含む乗組員500名以上と、古村司令官を含む第二水雷戦隊司令部が生還した[180]。矢矧の乗組員と大和の乗組員を救助した駆逐艦冬月の士官によれば、大和の乗組員は重油で真っ黒、矢矧の乗組員は長い対空戦闘により顔が火傷で腫れていたという[181](原艦長によると皆、重油で真っ黒だったとも言われている)。

    一方で、初霜に救助された古村司令官は初霜を第二水雷戦隊旗艦とした[182]。19時以降、初霜の古村司令官は磯風曳航許可を求める第17駆逐隊司令部および雪風に対し、磯風の自沈処理を命令する[183][184]。翌日の再空襲や潜水艦の襲撃により、更に被害が増えることを避ける為とされる[185]。22時40分、雪風は初霜からの下令に従い磯風を砲雷撃で処分させ[186]、二水戦残存艦4隻(雪風、冬月、初霜、凉月)は佐世保に帰投した。


    4月15日、原大佐(矢矧艦長)は矢矧艦長の職務を解かれた[187]。 4月20日、初霜の艦上で解散式が行われ、第二水雷戦隊は解隊された[188][189]。6月20日、矢矧の除籍が決定された。

    その他

    ・『矢矧』の名が艦艇に使われるのは本項の軽巡洋艦阿賀野型3番艦としての矢矧が2度目であり、以前に筑摩型防護巡洋艦の2番艦に矢矧 [I]の名が使われている。

    ・後に海上保安庁やはぎ型巡視船のネームシップとして名前が受け継がれた。

    ・現在、矢矧の慰霊碑が佐世保市の旧海軍墓地東公園にある。

    ・レイテ湾海戦で損傷した矢矧艦橋の12cm高角双眼望遠鏡が曲折を経て池田武邦の手に渡り、海上自衛隊江田島第一術科学校内「教育参考館」に収蔵されている[190]

    ・沖縄出撃では艦長と副長が相談の上、20日分以上搭載していた米麦を5日分のみを残し徳山軍需部へ返納した[191]。また撃沈後の救命用に大量の角材を積載して出撃し、実際に使用された[192]

    ・矢矧の艦歴は航空機との戦いであった。沈没時の戦訓として艦橋頂上の防空指揮所に艦の全機能を集約して操艦の即応性を高め、飛行機の操縦席のようにキャノピーをつけたいと提言している[193]

    詳しいことは、「矢矧 (軽巡洋艦)ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%A2%E7%9F%A7_(%E8%BB%BD%E5%B7%A1%E6%B4%8B%E8%89%A6)

    59 軍艦矢矧

    矢矧

    59a



    第四艦隊事件(だいよんかんたいじけん)は、1935年(昭和10年)岩手県沖で台風により大日本帝国海軍(以下日本海軍、もしくは海軍と略)の艦艇が被った大規模海難事故である。

    これにより、船体強度設計に問題があることが判明し、前年に発生した友鶴事件と共に、後の海軍艦艇の設計に大きな影響を与えた。

    事件の経過
    海難前

    日本海軍は前年(1934年)に起こった水雷艇友鶴の転覆事件に鑑み、保有艦艇の復原性改善工事を終了していた。更にロンドン海軍軍縮条約の失効と国際情勢の悪化に伴い、海軍力の拡充に奔走していた。

    1935年、昭和10年度海軍大演習のため臨時に編成された第四艦隊(第二期編成・司令長官松下元中将)は、岩手県東方沖250海里での艦隊対抗演習に向かうため9月24日から9月25日にかけ、補給部隊・水雷戦隊・主力部隊・潜水戦隊が函館港を出港した。

    海難

    すでに台風の接近は報じられており、9月26日朝の気象情報により、午後には艦隊と台風が遭遇することが明らかになった。そのため、反転して回避する案も出されたが、すでに海況は悪化しており、多数の艦の回頭による接触・衝突も懸念された。また、「大戦において、台風という荒天下での開戦もあるはず」という台風の克服も艦隊の練度向上になると判断され、予定通りに航行を続けた。主力部隊は台風の中心に入り、最低気圧960mbarと最大風速34.5m/sを観測、右半円に入った水雷戦隊は36m/sを記録し、波高20mに達する大波(三角波)が発生した。その結果、転覆・沈没艦は無かったものの、参加艦艇(41隻)の約半数(19隻)が何らかの損傷を受けた。


    特に主力部隊から約200km南東を進んでいた水雷戦隊は、台風右側の危険半円に入っており、最大瞬間風速は45~50 m/sに達して大きな被害を受けた[1]。水雷戦隊にいた最新鋭の吹雪型(特型)駆逐艦2隻(「初雪」「夕霧」)は、波浪により艦橋付近から前の艦首部分が切断されるという甚大な被害を受けた。なおこの際、初雪の艦首を発見した那智は、曳航を試みるものの高波のため断念、更にこの中には暗号解読表などの機密書類を保管している電信室があり、漂流した結果他国の手に渡ってしまう事態を回避するため、やむなく艦首部を艦砲射撃で沈めている。艦首部には24名の乗員がいると予測され、状況的にも全員死亡している可能性が高く、救出の見込みもない状況ではあったが、生死の確認が取れないまま砲撃している。

    一覧
    艦隊編成
    第一期編成(7月20日から9月20日まで)


    ・独立旗艦:足柄


    ・第5戦隊:妙高那智羽黒


    ・第9戦隊:天龍北上大井木曾


    ・第3水雷戦隊:鬼怒

      ・第4駆逐隊:秋風帆風羽風

      ・第23駆逐隊:菊月三日月望月夕月

      ・第30駆逐隊:睦月如月弥生卯月


    ・第4水雷戦隊:那珂

      ・第7駆逐隊:

      ・第8駆逐隊:夕霧天霧

      ・第11駆逐隊:白雪初雪

      ・第12駆逐隊:叢雲薄雲白雲


    ・第3潜水戦隊:迅鯨

      ・第19潜水隊:伊56伊57伊58

      ・第27潜水隊:呂65呂66呂67

      ・第30潜水隊:伊65伊66伊67


    ・付属:神威能登呂鳴戸間宮、第一航空隊

      ・第26駆逐隊:

    第二期編成(9月21日からの編成。10月7日、大演習終了に伴い解散)


    ・第2戦隊:足柄、川内大鯨


    ・第5戦隊:(第一期編成と同じ)


    ・第7戦隊:最上三隈


    ・第9戦隊:(第一期編成と同じ)


    ・第3水雷戦隊:(第一期編成と同じ)


    ・第4水雷戦隊:(第一期編成と同じ)


    ・第3潜水戦隊:(第一期編成と同じ)


    第一航空戦隊:(第一艦隊から貸与)鳳翔龍驤

      ・第5駆逐隊:朝風春風松風旗風


    ・付属:神威、鶴見厳島

    損害

    ・駆逐艦 初雪夕霧は艦首側の主砲付近で艦体が切断

    ・駆逐艦 睦月菊月朝風が艦橋大破

    ・駆逐艦三日月の艦橋とマストが大破

    ・航空母艦 鳳翔:前、後部及び側面の飛行甲板損傷

    ・航空母艦 龍驤高波により艦橋圧壊

    ・重巡洋艦 妙高:船体中央部の鋲(びょう)が弛緩

    ・軽巡洋艦 最上:艦首部外板に亀裂が発生

    ・潜水母艦 大鯨:船体中央水線部及び艦橋前方上方外板に圧力による大型の曲がりが発生(大鯨は艦体製造に電気溶接を全面的に取り入れた最初の艦)

    初雪 の切断された艦首等にて殉難者24名

    ・その他駆逐艦多数の上部構造物に損傷

    原因

    演習終了後、査問会(委員長、野村吉三郎大将)が開かれ、原因が検討された。その結果、新鋭艦の損傷が大きいため、それらに大規模に使用された溶接部の強度不足が主たる原因とされた。しかし、現在ではそれと異なり「太平洋における台風圏の波浪に対する知識の不足からくる艦体設計強度の問題」と考えられている。さらにワシントン海軍軍縮条約及びロンドン海軍軍縮条約(以下軍縮条約)からくる海軍側の要求により、艦体をできるだけ軽量化したため強度に余裕が無かった事も要因に挙げられる。


    1. 当時世界的に想定されていた「荒天時の波浪」は、波高/波長の比が1/20の波だったが、第四艦隊が遭遇した波浪は各艦の観測によれば(数字の信頼性に若干疑問があるが)1/10に達し、当時の艦体設計強度を遥かに超える海況であった。


    2. 軍縮条約により保有艦艇数の制限を受けた結果、規定内での排水量を確保しつつ一艦ごとの戦闘力を引き上げるため、できうる限りの武装を装備することになった。その結果、船体強度を計算値ぎりぎりに下げられていた。


    3. この事件の前、同年7月の艦体異常の報告(牧野造船少佐による特型駆逐艦の艦体強度に対する提言)があったにも拘らず訓練を強行させた。


    これらの原因が重なり(当時の溶接技術の不備も原因のひとつ)これほどの惨事となった。


    造船技術者の回想[2]によれば、従来、船の前後方向中央に加わる力を大きくしていた設計を、特型駆逐艦では、全体に力を分散させる設計に変えた。二連装の大砲が載った長い船首楼の後端の元々断面係数の実効値が小さくなる部分に広い士官室と重油タンクを配置したという構造上の問題もあり、艦橋付近に位置する船首楼の後端(フォクスルエンド)が弱くなっていた。

    結果

    前年に起こった友鶴事件と合わせ、軍縮条約下で建造された全艦艇のチェックが行われ、ほぼ全艦が対策を施されることになった。主な対策は、船体強度確保のための補強工事、及び軽量化のための武装の一部撤去(復原性への改良は友鶴事件の影響が大きい)となった。しかし、実際にこの問題の解決には、船体強度の向上が必要であり、具体的には、船の構造、鋼材の開発、さらには各周波数への振動や温度変化による船体各部の疲労、さらには船体の調査方法(超音波による非破壊検査)までの研究が必要であったが、当時はそこまでの調査研究はなされなかった。


    結論として、船体強度を増すことが優先され、これ以降の艦艇は、リベット中心による建造に戻ることとなった。電気溶接の技術向上の研究はその後も続けられ、強度の不要な部分に用いられており、戦時標準船松型駆逐艦海防艦の建造を行う際ブロック工法(これは戦後、日本が造船王国になる下地となった)と共に全面採用されているものの、日本海軍の造船技術は軽量化という面で、他の海軍先進国より遅れをとることとなった。


    また気象学では、広範囲に多数の艦が気象観測を行なったことにより、台風の構造を知る上で貴重なデータが得られた。資料は極秘扱いとなったが、戦後公開された。その後1969〜70年に就役5年未満の鉱石運搬船が同様の海洋現象により、船体強度と構造の脆弱性から相次いで沈没したことが明らかになった。

    事件を題材とした作品

    吉村昭「艦首切断」 『空白の戦記』(新潮文庫、2003年) ISBN 4-10-111709-8 所収

    参考文献
    ・赤軍第4艦隊機密第11号 10・10・6 荒天遭難報告の件(第四艦隊司令長官、海軍省公文備考 昭和10年 T 事件 巻1) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C05034650500、C05034650600、C05034650700

    ・大鯨機密第63号の24 10・10・4 荒天遭難に関する件報告(大鯨艦長、海軍省公文備考 昭和10年 T 事件 巻1) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C05034650300

    ・赤軍4水戦機密第6号 10・9・29 夕霧、初雪遭難事件報告(第四水雷戦隊司令官、海軍省公文備考 昭和10年 T 事件 巻1) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C05034650000、C05034650100、C05034650200

    ・11駆機密第101号の13 10・10・10 駆逐艦初雪遭難詳報(第十一駆逐隊司令、海軍省公文備考 昭和10年 T 事件 巻1) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C05034651200、C05034651300、C05034651400、C05034651500、C05034651600

    ・横鎮機密第1396号の2 10・10・8 夕霧救援に従事せる漁船盛厚丸に関する報告の件(横須賀鎮守府参謀長、海軍省公文備考 昭和10年 T 事件 巻1) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C05034651100

    ・JACAR(アジア歴史資料センター)Ref. C05034655200「足柄砲塔事件関係電」(1)他 (標題は1935年9月14日に発生した足柄二番砲塔爆発事件だが、内容は全て第四艦隊事件とその概要)

    ・紀 脩一郎「第四艦隊事件の艦艇被害とその対策」 海人社『世界の艦船』1979年4月号 No.267 p96~p103

    ・未発表軍艦写真集・第四艦隊事件フォトファイル 『丸エキストラ9月別冊 戦史と旅6 戦史特集・海軍爆撃機隊』(潮書房、1997年) p18~p27

      1. “気象学と気象予報の発達史: 台風による第4艦隊事件 (2), The Fourth Fleet incident (2)”. 気象学と気象予報の発達史 (2020年7月17日). 2020年9月19日閲覧。

      2. 浅沼弘; 荒木晃; 狩野忠男; 木原博; 後藤彰; 笹山徳太郎; 中村成勝; 長谷川健二 et al. (1972). “造船工作法の今昔:大供(おおども)会座談会の記録”. 日本造船学会誌 514: 189-200. 

    関連項目
    美保関事件

    友鶴事件

    ・大型専用船海難特別委員会

    ぼりばあ丸

    コブラ台風

    外部リンク
    第四艦隊事件 - 失敗知識データベース

    台風による第4艦隊事件 - ブログ「気象学と気象予報の発達史」
    (wikiより)


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    上海事変及び満洲事変において戦死した 49名の慰霊碑。


    〇 第一次上海事変
    第一次上海事変(だいいちじシャンハイじへん)は、1932年昭和7年)1月28日から3月3日にかけて戦われた中華民国上海共同租界周辺で起きた日中両軍の衝突である。中国語では「一·二八」事變と呼称される。

    背景

    当時の上海市にはイギリスアメリカ合衆国大日本帝国イタリア王国などの国際共同租界とフランス租界からなる上海租界が置かれていた。日本は北四川路及び虹江方面に「約2万7千の在住民を有した」[2]。居留民の警護を目的とする各国軍が駐留していた。日本も海軍陸戦隊1000人を駐留させていた。このとき共同租界の防衛委員会は、義勇軍、市参事会会長、警視総監の他に、租界設置国各軍の司令官によって構成されていた[3]

    上海という地域では、日本軍にとって、強襲しなければ達成できない目標というものが二つあった。一つはサスーン財閥の麻薬利権を奪取することである。作戦後は実際に里見機関などができて軍事費の調達に貢献した。もう一つは通信網の掌握である。南下する途中において、上海手前までは大北電信会社だけに注意しておけばよかったが、さらに南はケーブル・アンド・ワイヤレスの権益がおよぶ地域であった。上海事変を知ったJPモルガンのトーマス・ラモントは森賢吾へ次のように書いている。「上海事変はすべてを変えました。日本に対して、何年もかかって築き上げられた好意は、数週間にして消失しました。」[4]


    事変の起きる前の日本と列強との関係について、大角岑生海軍大臣は「上海事件の起こる前に於ける日本と各国との関係は、すこぶる良好にして、即ち居留地外は上海市長呉鉄城の支配権内に在るも、居留地内は工部局行政権を握り、其の執行機関たる参事会員は外人9名支那人5名を以て組織せるものなるが、各国人も予め支那側の横暴なることを熟知し日本に対し同情せり。」と発言した[2]。前年の1931年6月15日には、共同租界工部局警察英語版が、上海租界で太平洋地域のプロフィンテルン支部(太平洋労働組合書記局)の連絡役であるイレール・ヌーランを逮捕して(ヌーラン事件、牛蘭事件)、日本の警察にも情報を渡していた。押収された文書には、「国民政府の軍隊内に、共産党の細胞を植付け、其戦闘力を弱める事が最も必要」だと記されていた[5]

    租界における緊張の高まり

    1932年、上海市郊外に、蔡廷鍇の率いる十九路軍の一部(第78師)が現れた。十九路軍は3個師団(第60師、第61師、第78師)からなり、兵力は3万人以上である。十九路軍は江西省での紅軍との戦闘で損耗し、再編成のために南京、鎮江、蘇州、常州、上海付近に駐留した。


    日本は、防衛体制強化のため、上海に十数隻の艦隊を派遣した。また、「住民の生命や財産を守るため」として、虹口に隣接する中国領を必要に応じて占領する意図を明言していた。


    共同租界の市参事会にとっては、日本軍の動きより市街の外に野営する十九路軍のほうが重要だった。十九路軍は5年前にあった上海クーデターにおける国民党軍を思い起こさせた。蔡廷鍇は、給与が支給されるまでは去らないと通告した[6]。しかし、蔡廷鍇の目的は未払いの給与の支払いだけではなく、繁栄を極めていた上海の街を手に入れようとしているというのが共同租界防衛委員会の全員の意見だった[7]

    排日貨運動

    満洲事変勃発直後の9月22日、上海で反日大会が開催され「上海抗日救国連合会」が組織され、1. 国民政府に対し軍事動員して日本軍を駆逐し占領地を回復するよう要請する、2. 総工会及び失業者で救国義勇軍を組織する、3. 日本からの水害慰問品を返還する、4. 対日経済関係を絶つ、違反者があれば撲殺する、ことを決議した[8]日本資本の紡績工場で就労拒否が拡大し退職者が続出した[8]。9月24日に上海の荷役労働者3万5千人が、26日には郵便、水道、電気、紡績、皮革など約100の労働組合がストライキを敢行した[8]。租界には抗日ポスターが貼られ、学生や労働者による集会が頻繁に開催されて「打倒日本帝国主義」が叫ばれ、日本人通学児童への投石事件も相次ぎ、学校は授業短縮や休校を余儀なくされた[8]


    さらに、10月13日、上海抗日救国連合会は、一. 日貨を買わず、売らず、運ばず、用いず、一. 原料及び一切の物品を日本人に供給せず、一. 日本船に乗らず、荷揚げせず、積荷せず、一. 日本銀行紙幣を受け取らず、取引せず、一. 日本人と共同せず、日本人に雇われず、一. 日本新聞に広告せず、中国紙に日貨の広告を載せず、一. 日本人と応対せず、以上の規定に違反する者は、一. まず、反日救国会に懲戒委員会を設置する、一. 違反者の罪重き者は漢奸として極刑に処す、一. 懲戒は、貨物没収、財産没収、拘禁の上曝す、町を引き回す、漢奸服・三角帽の着用、罪名を記した布を胸に付ける、を決定し、日貨検査隊が組織され、日貨を扱った中国商人は容赦なく処罰された[8]


    上海日本商工会議所は幣原喜重郎外相に抗議電報を送り、10月7日、重光葵公使は国民政府に抗議文を手交したが、排日貨運動は継続し日貨の輸入は激減した[9]。在華紡ではストライキでしばしば操業が停止し、1931年末には在華紡の工場の約9割が閉鎖され、内外綿の工場と社宅が群衆に包囲され、海軍陸戦隊と工部局巡警が出動する事件も発生した[9]。日本政府は、居留民に引き揚げを勧告し、婦女子など一時帰国者が増加した[9]。日本商工会議所は幣原外相に抗議し、居留民団は日本人倶楽部や日本人学校でたびたび抗議大会を開催した[9]

    『民國日報』不敬記事事件
    1932年1月8日に東京で朝鮮人李奉昌が天皇を暗殺しようとした桜田門事件に関し、1月9日、上海の国民党機関誌『民國日報中国語版』は「不幸にして僅かに副車を炸く」と報道した[10]。日本人居留民は憤慨し、上海総領事村井倉松は記事について上海市長呉鉄城に抗議した[11]

    日本人僧侶襲撃事件

    詳細は「上海日本人僧侶襲撃事件」を参照


    1月18日午後4時頃、托鉢寒行で楊樹浦を回っていた日蓮宗系の日本山妙法寺上海布教主任天崎啓昇と水上秀雄の僧侶2名と信徒3名 (後藤芳平、黒岩浅次郎、藤村国吉)の計5名の日本人が三友實業社中国語版タオル工場附近の馬玉山路で50~60名の中国人により襲撃され、水上が租界内の外国人経営病院に収容された後24日に死亡し、天崎が全治6ヶ月、後藤が全治1年の重症を負った[12]。日本の外務省調書によると、300人以上が襲撃に参加したという[13]。18日、村井倉松上海総領事から呉鉄城上海市長に対し謝罪要求などがなされ、27日に最後通牒が出され、28日に日本側の要求が承認された[14]


    当時の上海公使館附陸軍武官補田中隆吉 (当時は少佐、最終階級は少将)は、1931年10月初頭、板垣征四郎大佐に列国の注意を逸らすため上海で事件を起こすよう依頼され、その計画に従って自分が中国人を買収し僧侶を襲わせた、と1956年になって証言した[15][16][注釈 1]

    三友實業社襲撃事件

    1月19日から20日にかけての深夜、日本青年同志会の32人が、僧侶たちを殴打した職工たちの会社であり、抗日運動の拠点として知られていた三友實業社タオル工場の物置小屋に放火し、その帰路、1月20日未明、東華紡績付近で共同租界工部局警察の中国人巡警2名の誰何を受けると、巡警2名を威嚇して交番まで追跡し、臨青路付近で応援の中国人巡警2名と乱闘になった。青年同志会の柳瀬松十郎が射殺され即死し、北辻卓爾と森正信が重傷を負った[18]。また、巡警1名が斬殺され、1名が重傷を負った[18]


    1月20日、『民國日報』は、三友実業社タオル工場襲撃を日本海軍陸戦隊が支援したという根拠の無い報道をした[16]第一遣外艦隊司令官塩沢幸一少将と『民國日報』との間の論争で、工部局は「1月9日の民国日報の不敬記事及同月18日の日蓮宗僧侶等に対する抗日会の暴行事件に付いても、工部局は、民国日報の閉鎖、抗日会の解散を決議」し[2]、26日に『民国日報』は、会社の自発的閉鎖を決定した[16]。同日午後、日本人居留民は、日本人倶楽部で大会を開き、日本人僧侶襲撃と新聞報道に対する憤りを表明し、大会参加者の約半数が日本総領事館と海軍陸戦隊司令部に行進した[16]


    1月21日、村井総領事は呉市長に対し僧侶殺害に関し、1. 市長による公式謝罪、2. 襲撃者の逮捕と処罰、3. 負傷者と死亡した僧侶の家族に対する治療費の保障と賠償、4. 全ての反日組織の即時解散、の四項目を要求した[16]。1月22日、日本は巡洋艦2隻、空母1隻、駆逐艦12隻、925名の陸戦隊員を上海に派遣して、村井総領事と呉市長の交渉を有利にすすめようとした[16]


    1月27日、呉市長は最初の3項目を受諾したが、第四項に関しては政府と相談するため30日までの公式回答の猶予を要請した[16]。村井総領事は、海軍に押され、28日午後6時までに満足のいく回答が得られない場合、必要と考えられる手段を行使する、と通告した[19]。1月28日午後3時、呉市長は全ての要求を受諾した。しかし、上海の日本人居留民は満足せず、完全な興奮状態にあり[19]、中国人も「支那の回答遷延中民情は日に日に悪化し、呉市長が日本の要求を容れたることを聞くや之を憤慨したる多数の学生等は大挙して市役所を襲ひて暴行し、公安隊の巡警は逃亡するの有様にて、支那の避難民は続々として我居留地に入り来り、物情騒然たる」[2]という状況であったという。


    1月26日には中国当局が戒厳令を布告した。1月27日、日本を含む列国は協議を行い、共同租界内を列国で分担して警備することを決めた。1月28日、上海市参事会の非常事態宣言(戒厳令)がされ、列国の軍隊は1月28日「午後5時」[2]より各自の担当警備区域に着いた。日本軍は、最も利害関係のある北四川路及び虹江方面の警備に当ることとなった。当時の日本の兵力は「我陸戦隊は当時1000人に過ぎざりしを以て、9時半頃更に軍艦より1700名を上陸せしめ、合計2700名」[2]という状況であった。

    詳しいことは、「第一次上海事変ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%B8%80%E6%AC%A1%E4%B8%8A%E6%B5%B7%E4%BA%8B%E5%A4%89


    〇 第二次上海事変
    第二次上海事変(だいにじシャンハイじへん)とは、1937年昭和12年)8月13日からの中華民国軍の「日本租界」[注釈 1][注釈 2]への攻撃に端を発する日本軍との軍事衝突のこと[注釈 3]上海戦(シャンハイせん)とも[8][9]。中国側の呼称は淞滬會戰(淞沪会战)。本事変の勃発によって北支事変支那事変へと拡大し日中全面戦争に発展した[10][11][12][13][14]

    背景
    中華民国の戦争準備とドイツ軍事顧問団
    1935年冬、国民政府は、南京・上海方面の「抗戦工事」(陣地)の準備を張治中に密かに命令し、優勢なる兵力をもって奇襲し上海の日本軍を殲滅しこれを占領し、日本の増援を不可能にしようと企図した[15]。このため、上海の各要地に密かに堅固な陣地を築き、大軍の集中を援護させ、常熟呉県洋澄湖澱山湖中国語版を利用し、主陣地帯 (呉福陣地: 呉県と福山中国語版の間)と後方陣地帯 (錫澄陣地: 江陰無錫の間)[15]、淞滬線: 呉淞と竜華の間、呉県から嘉興を通って乍浦鎮の間(呉福延伸線)にトーチカ群が設置された[16]。長江沿いに対日戦のための要塞線は、「ヒンデンブルク・ライン」と称された[17][18][19][20]


    1936年、幹部参謀旅行演習を実施し、龍華徐家匯、紅橋、北新涇真茹中国語版閘北停車場江湾、大場江湾、大場中国語版の各要点における包囲攻撃陣地の構築、呉福陣地の増強、京滬鉄道の改修、後方自動車道路の建設、長江防備と交通通信の改善、民衆の組織訓練等を行った[15]


    1936年末頃から、1932年の上海停戦協定に違反して、保安隊と称する中央軍を滸浦口 (碧溪街道中国語版安亭蘇州河黄浦江揚子江に囲まれた非武装地帯に侵入させ陣地を構築していた[21]。北支事変勃発後、中・南支の情勢が逼迫するなか、上海附近の兵力を増強し、頻繁に航空偵察を実施していた[21]


    1936年4月1日、ドイツ軍事顧問団の第五代団長ファルケンハウゼン中将は、蔣介石あての「極秘」報告書で「ヨーロッパに第二次世界大戦の火の手があがって英米の手がふさがらないうちに、対日戦争にふみきるべきである」と進言した[22][23]。中将は、中国の第一の敵は日本、第二の敵は共産党であり、日本との戦いの中で共産党を「吸収または消滅」させるのが良策であると判断していた[24][23]。中将は、それまでは中国の防衛問題に関する助言しか与えていなかったが、1936年のメモを皮切りにもっと強い主張をするようになり、その中で日本側に奇襲をかけ、日本軍を長城の北方へ押し返し中国北部から追い出すことを提案した[25]


    京滬区の軍事責任者に就任した張治中は、1936年に「上海包囲攻撃計画」を立案し、上海周辺の日本軍への先制攻撃の準備を進めた[26]。ファルケンハウゼン中将は、北海事件の直後の9月12日、「ただちに河北省に有力なる部隊を派出し、空軍の掩護のもと所在の日本軍に先制攻撃を加え、河北省を奪還すべきである」と提案した[27][23]蔣介石は、提案を採用しなかったが、9月18日、「戦事一触即発之勢」と判断し、軍政部長何応欽に「準備応変」を指令した[27]。10月1日、中将は、軍事委員会弁公庁副主席劉光を通じて、漢口上海の租界地の日本軍を奇襲して開戦の主導権を握るよう提案したが、何応欽は時期尚早である旨を述べるとともに、「ファルケンハウゼンの熱心さはわかるが、外人顧問は外人顧問であり、無責任な存在にとどまる、国運を委ねるべき相手ではない」とも指摘した。蔣介石は「加仮我一年之準備時期、即国防更有基礎矣」と判断し、10月8日、外交部長張群との交渉を前にした川越茂と会談し、10月22日、第六次剿共作戦を準備すべく西北剿匪副総司令張学良と会談するため、西安に飛んだ[28]。中将は、1937年4月3日、軍事委員会弁公庁副主席劉光に書簡を送り、すみやかに防衛態勢をととのえるべきだ、とくに朧海、京漢、津浦線の確保と青島、済南の要塞化、さらに塘沽天津北京に「奇襲進駐」をおこなう必要がある、と強調した[29]


    盧溝橋事件後、張は日本による陸軍の上海派遣、揚子江にある日本軍艦の上海への結集、日本による無理な要求の提出などの事態が発生した場合、主導権を獲得するため先制攻撃を発動するよう国民政府に提案した[30]。蔣は、提案の主旨を承認し、先制攻撃の態勢を作っておき発動の時機については命令を待つよう返電した[31][32]。八月一三日以前に、中国側は既に先制攻撃を仕掛ける決断をしていた[30]


    中国軍はドイツ製の鉄帽、ドイツ製のモーゼルM98歩兵銃、チェコ製の軽機関銃などを装備し、第36師、第87師、第88師、教導総隊などはドイツ軍事顧問団の訓練を受けて精鋭部隊と評価されていた[33]。1937年8月6日、蔣介石は国際宣伝組織を結成するためCC団陳立夫を上海に派遣した[34]。蔣は同日の日記中国語版に「毒瓦斯をもっていく」と書いており、実際に中国軍による毒ガスの散布は日本軍によって確認されている[34]

    「第二次日独戦争」

    8月12日、国防大臣ブロンベルクは、訪独して武器購入に奔走していた国民政府財務部長孔祥熙に対し「中国への武器輸出を継続するためあらゆる努力をする」と約束した[35]。8月16日、ヒトラーは「中国との条約に基づいて輸出される物資 [武器] については、中国から外国為替ないしは原料供給で支払われる限り、続行せよ」と命じ、ドイツは日中戦争勃発後も対中国武器輸出を精力的に推進した[36]


    ファルケンハウゼンは、上海戦の指導にも関与しながら、蔣介石にも適宜戦況の報告やアドバイスを行い[2]、ファルケンハウゼンが数日間、激戦の続く上海に滞在し自ら作戦を指導したことは、駐日大使ディルクセンドイツ語版も知っていた [3]


    同盟通信
    松本重治上海支社長は、「上海の戦いは日独戦争である」と月刊誌『改造』に書いたが、そのところが削られて掲載された[37]

    在留日本人引き揚げ

    7月28日、日本政府は、揚子江沿岸に在留していた日本人約29,230名の引き揚げを訓令し、8月9日までに上海への引き揚げを完了した[21]。さらに、上海への危険が増加したため、奥地からの引揚者及び上海居留民約3万名の内婦女子約2万名と13日から19日頃までに帰国し、約1万名が残留した[38]


    7月7日に起きた盧溝橋での日中両軍の衝突は停戦協定で収まるかにみえたが、その後も中国各地で日本軍への抵抗は続いた。直後の7月10日蔣介石は蘆山会議を経て、徐州付近に駐屯していた中央軍4個師団に11日夜明けからの河南省の境への進撃準備を命じた[39]。7月16日には中国北部地域に移動した中国軍兵力は平時兵力を含めて約30個師団に達している[40]。アメリカはこの行動を非難し、地方的解決をもとめている[41]。一方、日本軍は日本政府の事態の不拡大政策に基づき事態の沈静化に努め、8月3日には天津治安維持委員会の高委員長に被災した天津のための救済資金十万元を伝達している[42]
    [要検証]

    詳しいことは、「第二次上海事変ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E6%AC%A1%E4%B8%8A%E6%B5%B7%E4%BA%8B%E5%A4%89


    〇 満州事変
    満州事変(まんしゅうじへん、旧字体滿洲事變)は、1931年昭和6年、民国20年)9月18日中華民国奉天(現瀋陽)郊外の柳条湖で、関東軍[注釈 1]南満州鉄道の線路を爆破した事件 (柳条湖事件[注釈 2])に端を発し、関東軍による満州中国東北部)全土の占領を経て、1933年5月31日塘沽協定成立に至る、日本と中華民国との間の武力紛争事変)である。中国側の呼称は九一八事変[注釈 3]。 関東軍は約6か月で満州全土を占領した。

    満州事変までの経緯
    条約無効問題と国権回復運動

    中国は清朝時代の1902年英清通商航海条約改正交渉より、領事裁判権の撤廃や関税自主権の回復など国権の回復に着手しており、中華民国蔣介石派は1919年7月のカラハン宣言以降、急速に共産主義勢力に接近し、国家継承における条約継承否定説を採用し、日本との過去の条約(日清間の諸条約)の無効を主張しはじめた。特に、北伐に着手中の1928年7月19日には日清通商航海条約の破毀を一方的に宣言し、これに対して日本政府はその宣言の無効を主張した。


    また1915年のいわゆる対華21カ条要求をめぐる外交交渉の際、対日制裁として発布された懲弁国賊条例はこの交渉で締約した2条約13公文に完全に違背する条例であったが、1929年に強化され「土地盗売厳禁条例」「商租禁止令」などおよそ59の追加法令となり、日本人に対する土地・家屋の商租禁止と従前に貸借している土地・家屋の回収が図られた[1]間島や満洲各地の朝鮮系を中心とした日本人居住者は立ち退きを強要されあるいは迫害された。このことは満洲事変の大きな要因となる[2]

    南満州鉄道と関東都督府

    詳細は「南満州鉄道」を参照


    1902年の日英同盟の締結を期に、ロシアは満州から撤兵を開始するが、日本を軽視し全兵力の撤兵は行わなかった[3]。日本では対露強硬論が噴出し、また韓国、満洲の利益に関する日露外交交渉は決裂、1904年には日露戦争が勃発し[3]。1905年、この戦争に勝利した日本はロシアとの間にポーツマス条約を締結した。これにより、日本は、東清鉄道の内、旅順長春間の南満洲支線と、付属地の炭鉱の租借権、関東州の租借権などを獲得した[4]。この規定に基づいて、12月、日清間でロシア権益の継承に加えて併行する鉄道新設の禁止などを定めた満洲善後条約が締結され、1906年6月7日の勅令第142号をもって1906年11月26日に南満洲鉄道が設立された。以降、南満洲鉄道を柱とする満洲経営権益は日本の重大な課題となった[4]。鉄道守備隊はのちに関東軍となった[5]。一方で、日本は、1905年10月、満洲軍総司令官下に関東総督府を設置し軍政を敷いた[5]。これに清が抗議し、日本の門戸閉鎖に英米が反発し[6]、1906年3月に満洲の門戸開放を迫ったため、日本は満洲開放の方針を確認し、同年7月31日の勅令196号をもって、関東総督府関東都督府として改組された[4]


    辛亥革命にはじまる中国革命と南満洲鉄道にかかわる年譜を下に示す。


    ・第一次革命(1911年(明治44年、宣統2年)10月)

      ・1911年5月、鉄道国有化問題惹起

      ・1912年1月1日、南京に臨時政府確立

    ・第二次革命(1913年(大正2年、民国2年)7月)

      ・第二次革命の失敗により、同年10月に袁世凱が正式な中華民国大総統に就任。陸海軍大元帥を兼ねる

    対華21ヶ条要求(1918年)

    ・第三次革命(1916年(大正5年、民国5年)1月)

      ・同年6月、袁世凱の死亡により黎元洪が大総統に就任、南方諸省は独立を取り消す

    ・満洲宗社党問題(1916年(大正5年、民国5年))

      ・満洲では、趙爾巽張作霖は革命に反対だったが、袁には抗えず、袁と妥協するに至った。袁世凱の帝政の反動により、清復辟を目的とする宗社党は、吉林将軍孟恩遠と謀り満洲に騒乱を起こすため、張作霖爆殺を試みたが失敗。

      ・蒙古人巴布札布(パブチャブ)は宗社党の首領として蒙古兵を率いて南下。南満線郭家店に出て、満鉄線を挟んで奉天派と対陣するが、日本の抗議で休戦し蒙古へ引き揚げる。その後巴布札布の死により蒙古軍は四散する。

    ・南北政権の対立(1917年(大正6年、民国6年))

      ・袁の死後、段祺瑞は段祺瑞内閣を組織するが、約法旧国会回復を無視したため、広東非常国会及び同軍政府はそれを非難して北京政府に対抗し、南北政府の対立が起こった。

    山東出兵(1918年)

    ヴェルサイユ条約(1919年)

      ・日本政府は同条約の山東条項により、帝国ドイツの鉄道や通信施設を含めた山東の日本への譲渡を求めたが、中国側に異議が生じ、排日活動が激しくなるなど、山東問題が発生した。

    山東懸案解決に関する条約(1922年)

    北伐(1922年(大正11年、民国11年))

    第一次北伐

    北京政府内で直隷派の呉佩孚、安薇派の段祺瑞を圧し、武力統一政策を執った。一方、南方広東政府は内部安定と広西占領の余勢を駆って北伐を決し、同年に孫文を陣頭に立て北伐を行おうとしたが、南軍陳炯明の反旗で失敗。

    第二次北伐

    国民党はソビエト連邦と提携し共産党合流を容認、1923年(民国12年)陳炯明を破り、広東に更生した蔣介石をもって奉直戦争を行い、この機に第二次北伐を行なったが馮玉祥の寝返りで頓挫し、孫文は北京に入り1925年(民国14年)3月に死去した。第二次北伐は失敗に終わる。

    ・張郭戦争(1925年(大正14年、民国14年)11月)

      ・張作霖は第二次奉直戦争後、關内に進出し直隷、山東、安徽、江蘇の中央書証を手中に収め、中央政権の掌握をしようとした。福、浙の孫伝芳討張の兵を挙げ、江蘇の楊宇霆、呉佩孚は漢口で立ち奉天派と提携、国民軍奉天派に呼応し、奉天派の重鎮郭松齢は張作霖と対峙した。

      ・この戦いにより満洲は兵乱の巷となり、日本は在留邦人保護のため増兵した。この結果、張作霖に有利な戦いとなり、12月に郭を葬り、辛うじて満洲王国の崩壊を免れた。[要出典]

    ・1928年、以下のような記事が新聞発表された。

    電報 昭和3年6月1日
    参謀長宛 「ソ」連邦大使館付武官
    第47号
    5月26日「チコリス」軍事新聞「クラスヌイオイン」は24日上海電として左の記事を掲載せり
    張作霖は楊宇廷に次の条件に依り日本と密約の締結すべきを命ぜり
    一.北京政府は日本に対し山東半島の99年の租借を許し
    二.その代償として日本は張に五千万弗の借款を締結し
    三.尚日本は満洲に於ける鉄道の施設権の占有を受く


    奉天票問題及び現大洋票
    奉天票は1918年1月4日以降、不換紙幣であったため[7]、度々暴落を起こしており、この問題が奉天票問題と呼ばれていた。1929年6月に現大洋票への幣制改革が行われた。

    四ヶ国共同管理案

    1922年、日英米仏の四国公使が中華民国政府に対し財政整理勧告を出した[8]。1923年、鉄道において臨城事件が起こり、多数の英米人が被害を受けたため、英米を中心に列強による鉄道警備管理共同案が議論された[8]。また、中華民国の内政全ての共同管理案も議論されていた[9]


    この列強による共同管理案は、中華民国広東政府をソ連へと近づけさせ第一次国共合作を始めさせたり、直隷派の北京政府にカラハン協定及び中蘇解決懸案大綱協定中国語版を結ばさせる原動力となってしまった[9]


    中ソ紛争敗北後、真偽不明ではあるが、白系ロシア人である奉天キリル派代表のペトゥホーフが「支那側に交渉中なるが、最近南京政府に於ては赤露勢力を北満より一掃し併て今後東鉄に関する絲●を除去する為め日英米仏四ヶ国の国際共同管理を認めんとの意向を有する向ある」と話していたとされる[10]

    東三省政府の財政・国軍の中央への統合問題
    張作霖爆殺事件と張学良の易幟

    詳細は「張作霖爆殺事件」を参照

    関東軍は、地元の親日派軍閥長である張作霖に軍事顧問団を送り、取り込みを図った。しかし、張作霖が排日運動の高まりや欧米からの支援をとりつけようと日本との距離を置き、海外資本の提供をうけて、いわゆる満鉄の並行線を建設し始めると、両者の関係は悪化した。1928年(昭和3年)6月4日、関東軍は張作霖が乗る列車を秘密裏に爆破し、殺害した(張作霖爆殺事件)。事件を首謀した河本大作大佐は、予備役に回される軽い処分とされた。田中義一内閣はこの事件処理をめぐり昭和天皇から不興を買ったことにより、翌年7月になって総辞職に追い込まれた。


    事件により父親を殺された張学良だが、日本を表立って批判することは無かった。とはいえ、この事件は満州における日本の地位を弱める結果となった[11]
    [要出典]張作霖の後を継いだ息子の張学良は、蔣介石南京国民政府への合流を決行(易幟)し、満洲の外交権と外交事務は南京政府外交部の管轄となった。また、東北政務委員会東北交通委員会国民外交協会が設置されて、日本に敵対的な行動を取るようになった。ソ連追い出しに失敗した張学良は、失権失地回復の矛先を南満の日本権益と日本人に向けてきた。満鉄を経営的に自滅枯渇させるために、新しい鉄道路線などを建設し、安価な輸送単価で南満洲鉄道と経営競争をしかけた。満鉄は昭和5年11月以降毎日赤字続きに陥り、社員3000人の解雇、全社員昇給一カ年停止、家族手当、社宅料の半減、新規事業の中止、枕木補修一カ年中止、破損貨車3000輌の補修中止、民間事業の補助、助成中止など支出削減を実施した[12]


    また、張学良は、満鉄の付属地に柵をめぐらし、通行口には監視所を設けて、大連から入ってきた商品には輸入税を支払っているにもかかわらず、付属地から持ち出す物品には税金をとった[12]。さらに「盗売国土懲罰令」を制定し、日本人や朝鮮人に土地を貸したり売ったりした者を、国土盗売者として処罰した。多数の朝鮮人農民が土地を奪われ、抵抗した者は監獄に入れられた。満洲事変直後、奉天監獄には530人の朝鮮人が入れられていたという[12]。そのうえ、林業、鉱業、商業などの日本人の企業は、日露戦争後の日清善後条約で、正当な許可をえたものは、満鉄付属地外でも営業できることになっていたが、昭和5、6年には、一方的な許可取り消しや警察による事業妨害のために、経営不振が続出した。奉天総領事から遼寧省政府に交渉しても、外交権はないので南京政府の外交部に直接交渉するようにと相手にされなかった。外務省を通じて南京総領事が南京政府に交渉しても、いつまでたっても音沙汰なしであった[12]。満洲事変前には、このような日中懸案が370件あまりあった。危機感を抱いた関東軍は、再三に渡り交渉するが聞き入れられなかった。これにより関東軍の幹部は、本国に諮ることなく、満洲の地域自決・民族自決にもとづく分離独立を計画した。

    詳しいことは、「満州事変ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%80%E5%B7%9E%E4%BA%8B%E5%A4%89
    (wikiより)

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    大東亜戦争において戦死した海軍柔道部員の慰霊碑。

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    この碑は呉地方復員局が建立し碑の背面に納骨施設を施して大東亜戦争戦没者の遺骨 で遺族から納骨希望のもの及び引取人のないもの氏名の判明しないもの 121名


    昭和 26年末までの靖国神社合祀 11万柱、27年以降を積極的に進め 13万 3千余柱の見込み ( 呉復員局発表 )

     大東亜戦争死歿者の遺骨で遺族から納骨希望のもの、引取遺族不明のもの及び氏名該当者不明のもの 121柱を納骨するため、呉地方復員局が昭和 22年 1月同墓地の災害復旧工事完成時に建立したものである。

    その後靖国神社合祀の 133,000柱の御霊を合祀。

    昭和 30年 6月碑文 ( 真鎮鈑 ) 盗難にあい、同年 7月石材で修復した。

    建立 55年後の平成 14年 7月 13日改装整備し、鎮魂の鐘を設置した。

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    長鯨(ちょうげい/ちゃうげい)は[5]大日本帝国海軍潜水母艦[6]迅鯨型潜水母艦の2番艦[注 1]。 艦名はの別称で、徳川幕府が使用した「長鯨丸」に続いて二代目[注 2]

    概要
    軍艦(ぐんかん)長鯨(ちょうげい/ちゃうげい)は[5]、日本海軍が三菱長崎造船所で建造した潜水母艦[9]。 廃艦になった八八艦隊主力艦の機関部を流用し(長鯨は加賀型戦艦の土佐より)[10]1924年(大正13年)8月に水雷母艦として竣工、同年12月に潜水母艦へ類別変更された[11]。 姉妹艦迅鯨と共に[注 3]、日本海軍が最初に保有した本格的潜水母艦である[13][14]。 昭和時代になると、大型化・高速化した潜水艦に対応できなくなり[15]1939年(昭和14年)以降は新型潜水母艦の大鯨剣埼に潜水母艦と潜水戦隊旗艦を譲る[14][16]。2隻(迅鯨、長鯨)とも練習艦や工作艦になった[10]。 だが大鯨が空母龍鳳[17]、剣埼が空母祥鳳に改造され[18]、迅鯨・長鯨とも再び潜水戦隊旗艦に返り咲いた[19][20]。長鯨は第六艦隊隷下の第二潜水戦隊旗艦となった[19]


    太平洋戦争
    開戦時の長鯨は、第三艦隊麾下の第六潜水戦隊旗艦であった[21]1942年(昭和17年)4月10日、第六潜水戦隊の解隊にともない長鯨は呉鎮守府部隊に編入され[22]海軍潜水学校練習艦として瀬戸内海で訓練に従事した[23][24]


    1943年(昭和18年)1月15日、長鯨は第八艦隊麾下の第七潜水戦隊に編入され[25]、迅鯨より旗艦を継承する[11][26]。ラバウルに進出し、同地にあって潜水艦作戦を支援する[23][27]。11月上旬のラバウル空襲では被害を受けなかった。11月25日、長鯨は内海西部に帰投した[28]。以後の迅鯨型2隻(迅鯨、長鯨)は、瀬戸内海で潜水艦部隊の練習艦として過ごした[11]。長鯨は第十一潜水戦隊旗艦であった[29]


    1944年(昭和19年)になると、迅鯨型も輸送任務に投入された[11][10]沖縄方面輸送作戦で迅鯨が沈没したが[26]、姉妹艦喪失後も長鯨は内海西部で訓練に従事した[11]1945年(昭和20年)6月上旬、舞鶴へ回航される[30]。7月30日、伊根湾で対空戦闘を実施、長鯨は艦橋に直撃弾をうけて損傷[30]、まもなく終戦を迎えた[11]。戦後、長鯨は復員輸送に従事した後[31]、解体された[30]

    兵装の変遷
    航空機は1927年(昭和2年)度に一度搭載し、1930年(昭和5年)度より常時、一四式水上偵察機を1機搭載した。射出機は搭載されず、デリックで水上に降ろして運用していた。1940年(昭和15年)ころには九四式水上偵察機を搭載していたらしい[4]


    8cm高角砲2基は1940年(昭和15年)ころ25mm機銃連装2基と交換されたとされる。ただし長鯨乗組員によればラバウル進出時も8㎝高角砲を装備しており、対空戦闘で幾度も発砲したという[32][33]。大戦中の機銃増備は明らかでないが、艦橋前に25mm機銃連装1基、艦橋両舷に13mm連装機銃各1基を装備した[34]。艦橋左舷側の13mm連装機銃は公室の真上にあり、発砲すると騒音で部屋にいられなくなった[33]。そこで第七潜水戦隊司令部の意向により銃身は取り外され、銃架は幌で覆われて固縛されていた[33]。 その他、1944年(昭和19年)4月中旬と[35]、1945年(昭和20年)1月下旬に対空兵装を増強[36]、25mm単装機銃10挺を増備していたとされる[37]。また1944年(昭和19年)5月中旬より呉海軍工廠で21号電探を前部マストのトップに装備した[29]。さらに電波探知機も装備していた[38]。 潜水部隊の練習艦であるため、日本海軍の標準的な対潜兵器を一通り装備していた[29]

    艦歴

    建造経緯
    日露戦争第一次世界大戦当時の潜水艦潜水艇)は限定された能力しか持たず、居住空間も含め、常に母艦の支援を必要とした[14][16]。しかし日本海軍の潜水母艦(潜水艇母艦)や潜水戦隊旗艦は、輸送船や旧式海防艦・巡洋艦改造の艦艇ばかりだった[15]。迅鯨型は日本海軍最初の本格的潜水母艦であり[14]、艦隊に随伴可能な速力と航洋性、特設巡洋艦や駆逐艦程度に対抗可能な戦闘力、旗艦としての通信能力、補給能力、母艦としての居住性能、簡易工作艦能力を併せ持った多用途艦である[16][39]。また訓練時には仮想敵としてメリーランド級戦艦などと仮定されることもあった[14]。 日本海軍の本格的潜水母艦は大鯨が竣工するまで迅鯨型2隻(迅鯨、長鯨)のみだったが、これは有事には大型貨客船を潜水母艦に充当する予定であり、平時には艦隊訓練用として2隻で充分だったからである[40]


    長鯨は1920年(大正9年)度の計画(八八艦隊案)により建造が予定されていたが、起工前にワシントン軍縮条約が締結された[9]。それにより計画艦の中で起工前のものの予算は一度見直された。幸い長鯨は計画中止になることなく1923年大正12年度艦艇補充計画により改めて予算を獲得、建造された。 民間技術者と建造能力維持という観点から、迅鯨型2隻とも三菱長崎造船所での建造になった[39]。この際、軍縮下で建造費を節約するため、八八艦隊主力艦用として製造されていたボイラー(艦本式ロ号混燃罐)を流用している[39]。当初の計画では、長鯨用のボイラーは加賀型戦艦2番艦土佐より四罐、天城型巡洋戦艦4番艦高雄より一罐であった[41]。 長崎三菱造船所における土佐の進水は、1921年(大正10年)12月18日だった[42]。この時点での土佐は船体構造のみ完成していた[43]


    1922年(大正11年)2月15日、日本海軍は建造予定の水雷母艦を長鯨、特務艦2隻をそれぞれ隠戸間宮と命名した[5]。 3月11日、長鯨は起工[注 4] しかし軍縮条約と土佐ボイラー搭載の関係上、長鯨の工事は遅れはじめる[45]


    1923年(大正12年)9月18日、長鯨は水雷母艦に類別される[46]


    1924年(大正13年)3月24日、長鯨は進水した[47]。 8月2日、長鯨は竣工した[44][48]。長鯨艤装員事務所も閉鎖された[49]呉鎮守府籍に編入された。9月8日、第二艦隊・第二潜水戦隊に編入[50][51]。 9月12日、長鯨は防護巡洋艦平戸より第二潜水戦隊旗艦を引き継ぐ[52]。同時期に撮影された、迅鯨と長鯨が並んで停泊する写真が残っている[53]。飛行機揚収デリックや水上偵察機搭載の有無などの差異があるが、2隻を写真から識別するのは極めて難しい[39]

    太平洋戦争以前
    竣工から約4ヵ月が経過した1924年(大正13年)12月、迅鯨型2隻(迅鯨、長鯨)は水雷母艦から潜水母艦に類別変更される。艦隊編入後は中国方面や南洋に進出し活動した。 1935年(昭和10年)に一度練習艦となるが、友鶴事件による復元性能改善対策[10]はこの時期に行われたようである[54]


    昭和に入り伊号潜水艦(巡潜型)や海大潜が潜水戦隊の主力となると[55][56]、呂号潜水艦の潜水戦隊旗艦・母艦を想定していた迅鯨型では能力不足となった[57][58]。海大潜の水上速力は20ノットを越えていたのである[56]。 このため潜水戦隊旗艦には5,500トン型巡洋艦(軽巡由良[59]鬼怒五十鈴など)や新型の潜水戦隊用巡洋艦(大淀型[60][61]が配備もしくは建造された[13][16][注 5]。 また迅鯨型の艦齢も15年を超え、旧式化が顕著になった。 新鋭潜水母艦の大鯨剣埼が相次いで竣工すると[注 6]1939年(昭和14年)11月より練習艦となった。本型は、航海学校(運用術練習艦)、兵学校、機関学校生徒用の練習艦として重宝される[63]。また日中戦争では工作艦任務にも従事した[10]


    しかし新鋭潜水母艦3隻(大鯨、剣埼、高崎〈未完成、のちの瑞鳳〉)は有事の際に空母へ改造する予定であり[15]、実際に軽空母に改造されてしまう[64]。新鋭潜水母艦の空母改装により、迅鯨型2隻(迅鯨、長鯨)は翌年11月から再び潜水戦隊旗艦に戻る[注 7]。日本海軍は、事前の予定どおり大型貨客船を徴傭して特設潜水母艦とした[66]


    1940年(昭和15年)10月11日、迅鯨型の2隻は横浜港沖で行われた紀元二千六百年特別観艦式に参加した[67]。11月15日、日本海軍は主力潜水艦を中核とする第六艦隊(司令長官平田昇中将、旗艦香取)を編制する[68]。長鯨は、第六艦隊隷下の第二潜水戦隊旗艦となった[注 8]


    1941年(昭和16年)1月中旬以降、連合艦隊と第六艦隊は合同で訓練を実施することになった[69]。この時、潜水艦の戦時行動能力を検討するため、臨時部隊が編成された[70]。第二潜水戦隊司令官山崎重暉大佐(旗艦:伊号第七潜水艦)を指揮官とし、第7潜水隊(伊1、伊2、伊3)、第12潜水隊(伊68、伊69、伊70)と潜水母艦長鯨で編成された部隊は、南洋諸島配備の第四艦隊[71](旗艦鹿島)を敵艦隊に想定した[70]。 横須賀隊(伊7、第7潜水隊)は2月23日内地出撃、呉隊(長鯨、第12潜水隊)は3月10日呉を出撃、トラック諸島近海で合同する[70]。臨時部隊は、トラック泊地~サイパン~小笠原諸島まで進出する第四艦隊に対し、反復攻撃を実施した[70]。連合演習終了後、各艦は4月23日に横須賀へ帰投した[70]


    同年4月20日、日本海軍は第六潜水戦隊司令部の準備事務を長鯨において開始した[72]。5月1日、長鯨は新編の第六潜水戦隊旗艦となった[20][73]。第三艦隊隷下の第六潜水戦隊所属のまま、太平洋戦争に突入した[74]

    太平洋戦争前期
    1941年(昭和16年)12月8日の開戦時、長鯨は引き続き第三艦隊麾下の第六潜水戦隊(司令官河野千萬少将)旗艦であった[注 9]。 第六潜水戦隊はカムラン湾に進出する[20]。第六潜水戦隊の一部兵力(長鯨、伊123、伊124)は比島部隊潜水部隊として[77]フィリピン攻略(比島作戦)や蘭印攻略(蘭印作戦)を支援した[11]。当時の長鯨は艦首部分に白波を描き、艦側面には魚雷発射管を描くなど、迷彩を施していた[78]。 長鯨はミンダナオ島ダバオ(比島作戦時)やスラウェシ島スターリング湾(蘭印作戦時)等に停泊し、潜水艦作戦を支援した[20]


    1942年(昭和17年)3月10日、第四潜水戦隊(旗艦鬼怒)の解隊にともない、鬼怒は第十六戦隊へ[79]、第18潜水隊は呉鎮部隊へ、第19潜水隊は第五潜水戦隊へ、第21潜水隊は第六潜水戦隊に編入される[80]。この時点での第六潜水戦隊は、母艦長鯨、第13潜水隊(伊121、伊122、伊123)、第21潜水隊(呂33、呂34)であった[81]。 4月1日、長鯨は佐世保に帰投した[11][20]。その後、呉に移動した[82]。 4月10日、日本海軍は第二段作戦に対応して戦時編制の改訂を実施する[83]。これにともない第六潜水戦隊は解隊された[84]。長鯨は予備艦となる[24]呉鎮守府(司令長官豊田副武大将)部隊に編入され[85]、練習艦兼警備艦に指定される[24][86]。以後、海軍潜水学校練習艦として訓練に従事した[11][20]


    8月31日、日本海軍は戦時編制の改訂により伊34・伊35・さんとす丸で呉潜水戦隊を編成し、呉鎮守府部隊に編入した[87]。同部隊は新造潜水艦の訓練と練成を主任務としていた[88]。 12月15日、呂号第百潜水艦は呉潜水戦隊から第八艦隊麾下の第七潜水戦隊に編入される[89]呂百型潜水艦の配備にともない、酸素魚雷の調整設備をもった長鯨の第七潜水戦隊編入がきまった[注 10]

    太平洋戦争中期
    1943年(昭和18年)1月上旬[19]、第七潜水戦隊旗艦の迅鯨が内海西部に帰投した[91][92]。 1月15日、長鯨は呉鎮守府部隊より除かれ[93]第八艦隊(司令長官三川軍一中将、参謀長大西新蔵少将、参謀神重徳大佐ほか)麾下の第七潜水戦隊旗艦となる[25][注 11]。それまでの七潜戦旗艦だった迅鯨が、交代で呉鎮守部隊に編入された[注 12]。 1月19日、長鯨(第七潜水戦隊司令官座乗)は内海西部を出発する[20][95](翌日、佐伯を出航)[96]。1月26日、トラックに到着した[20]。丁潜水部隊(第七潜水戦隊基幹)は先遣部隊指揮官(第六艦隊司令長官、旗艦香取)の直率から除かれた[97]。 2月11日にトラック泊地を出航した長鯨は、同月14日にニューブリテン島ラバウルへ進出する[11][20]。以降、同方面の潜水艦作戦を支援した[11][98]


    2月27日、第七潜水戦隊(兵力部署は先遣部隊丁潜水部隊)は南東方面艦隊(司令長官草鹿任一中将)に編入され、南東潜水部隊となった[99][100]呂百型潜水艦の就役と編入により、3月15日時点での第七潜水戦隊は母艦(長鯨)、第13潜水隊の7隻[注 13]、伊122となる[101]。東部ニューギニア方面への輸送任務も南東潜水部隊指揮官(第七潜水戦隊司令官)の担当となり、七潜戦所属艦と増援潜水艦はソロモン諸島や東部ニューギニア方面に展開[101]、輸送任務や敵艦隊攻撃(増援遮断作戦)に従事した[102][103]


    6月末以降、連合軍はニュージョージア諸島に来攻、ニュージョージア島の戦い(6月下旬~8月下旬)並びにブーゲンビル島の戦い(10月下旬以降)がはじまる[104]。南東方面潜水部隊(指揮官、第七潜水戦隊司令官、旗艦長鯨)は各地への輸送任務や邀撃作戦に投入されるが[105]、損傷艦や沈没艦が続出する[106]11月5日シャーマン提督が率いる空母サラトガプリンストンを基幹とする第38任務部隊は、ラバウルに空襲を敢行する[107]。 ラバウル在泊中の遊撃部隊(指揮官栗田健男第二艦隊司令長官)の重巡洋艦部隊は大損害を受けた[108][注 14]。特に重巡摩耶(第四戦隊)の被害は深刻で[110]、栗田艦隊は摩耶をラバウルに残してトラック泊地に撤退した[111]。 11月10日、アメリカ軍は第38任務部隊と、モントゴメリー提督が率いる第50任務部隊により、再びラバウル空襲を敢行した[112]。 日本側は、駆逐艦涼波沈没、軽巡阿賀野損傷、駆逐艦長波大破などの損害を受ける[113]。南東方面部隊指揮官草鹿任一中将(南東方面艦隊司令長官)は損傷艦と遊撃部隊のトラック泊地回航を命じた[114]。 11日、摩耶と長鯨は[115]、第二水雷戦隊と第十戦隊の各艦(二水戦〈能代五月雨[116]早波藤波〉、十戦隊〈風雲若月〉)に護衛され、ラバウルを出発した[117]。 途中、先行してラバウルを出発した軽巡阿賀野と駆逐艦浦風のうち、阿賀野が米潜水艦スキャンプの雷撃で大破したので、能代と32駆(藤波、早波)は阿賀野の救援にまわった[118]。14日、護衛艦艇および摩耶と長鯨はトラック泊地に到着した[110]。 この後、連合軍のニューブリテン島西部攻勢によりダンピール海峡は制圧され、南東方面における日本軍の敗北は決定的となった[105]


    トラック到着後、長鯨艦長は練習巡洋艦鹿島[注 15]および特設巡洋艦護国丸を指揮し、内地へ帰投することになった[121][122]。 11月18日、3隻(長鯨、鹿島、護国丸)は第十戦隊所属の駆逐艦若月(第61駆逐隊)と駆逐艦山雲(第4駆逐隊)に護衛され[123]、トラック泊地を出発する[120][122]19日[124]、艦隊を追跡していた米潜水艦スカルピンを山雲が発見し、撃沈する[125]。山雲はスカルピンの生存者41名を救助した[126][28]。山雲はトラック泊地に戻っていった[127]25日朝、横須賀へむかう若月と分離したのち[128]、内海西部に帰投した[120][11]。 11月29日、長鯨は第七潜水戦隊より除かれる[98]。第十一潜水戦隊[注 16]の旗艦となり、瀬戸内海で訓練に従事する[11][129]。先遣部隊(指揮官第六艦隊司令長官)の兵力部署においては、第十一潜水部隊である[130]。 12月1日、潜水艦乗組員急速養成のため、呉潜水戦隊が再編された[88]。呉潜水戦隊の旗艦は迅鯨となった[131]。また鹿島も呉練習戦隊旗艦となった[120]

    太平洋戦争終盤
    1944年(昭和19年)4月18日より長鯨は呉海軍工廠に入渠し、25mm機銃を増備して27日に出渠した[35]。 7月28日、大本営海軍部(軍令部)は大海指第438号[132]により連合艦隊と呉鎮守府から軍艦4隻(長良、長鯨、鹿島、迅鯨)を佐世保鎮守府の麾下に加え、第二航空艦隊(司令長官福留繁中将)の南西諸島方面物資輸送を命じた[133]。これにより、迅鯨型(迅鯨、長鯨)は沖縄方面への輸送任務に就くこととなった[29]。長鯨が輸送任務に従事中[134]、第十一潜水戦隊には一等巡洋艦八雲が編入され[132][135]、潜水戦隊旗艦となった[29]。 同作戦実施中の8月7日、米潜水艦クローカーの雷撃で甑島列島近海を航行中の軽巡長良が沈没した[136]。九州近海での長良沈没という事態に、作戦の前途が危ぶまれた[137]


    第四海上護衛隊より駆潜艇と駆逐艦海威が迅鯨型2隻の護衛についた[注 17]。迅鯨型2隻は特殊潜航艇甲標的を曳航した[138]。海軍陸戦隊や甲標的を搭載して8月11日に輸送部隊は佐世保を出撃、沖縄到着後の長鯨は疎開婦女子や遭難陸兵など約800名をのせて鹿児島経由で佐世保にもどった[137]。以後、迅鯨型2隻は第二回沖縄輸送(8月22日~28日)、第三回沖縄輸送(9月6日~11日)に成功した[139]。 9月18日、迅鯨型2隻は第四回沖縄輸送を開始する[139]。9月19日、迅鯨は米潜水艦(スキャバードフィッシュ)の雷撃で大破し[19]、駆逐艦海威により沖縄本島に曳航された[36]。その後、10月10日に十・十空襲に遭遇し[140]、迅鯨と海威は沈没した[141]。 同時期の長鯨は原隊の第11潜水戦隊に復帰しており[142]、瀬戸内海において伊号第四十七潜水艦伊号第五十八潜水艦などの新造潜水艦と共に訓練を実施した[143][144][145]


    12月19日、特殊水上攻撃機晴嵐を搭載できる伊号第十三潜水艦が第十一潜水部隊(旗艦長鯨)に編入された[146][147]。 12月30日、日本海軍は伊十三と伊号第四百潜水艦により第一潜水隊を編制した[148]。翌31日、第一潜水隊は第十一潜水部隊に編入された[147]。長鯨麾下の各隊・各艦は瀬戸内海で訓練に従事した[149]


    1945年(昭和20年)1月中旬、長鯨は呉海軍工廠で25mm単装機銃を装備した[36]。 3月19日の呉軍港空襲では、小数機による空襲を受けたが被害はなかった[150]。長鯨の付近にタンカー「さばん丸」(三菱海運、10,241トン)が停泊しており、米軍機はこちらに攻撃を集中して大破着底に追い込んだ[30]


    5月以降、空襲の激化にくわえて瀬戸内海がB-29が投下する機雷で封鎖される[151]。長鯨をふくめ第十一潜水戦隊も日本海側に移動することになった[152]。 6月1日、長鯨は呉を出発する[153]。伊予灘を経由して、4日舞鶴港に到着した[20][154]。だが日本海側もB-29の空襲や機雷作戦により、安全地帯ではなくなっていた[155]。 6月8日、長鯨は舞鶴港外で触雷して軽微な被害を受けた[30]。機雷敷設のため、舞鶴周辺の長鯨と第17駆逐隊(雪風初霜)も、ほとんど行動できなくなる[156]7月30日[157]伊根湾で敵艦上機の攻撃を受け、長鯨は艦橋に直撃弾を受け中破する[11]。戦死者100名以上、負傷者100名以上を出した[30]。初霜は宮津湾で対空戦闘中に触雷して擱坐した[158]。なお、舞鶴周辺に所在の艦艇は大損害を受けたが[159]、病院船(高砂丸氷川丸第二氷川丸〔オプテンノール〕)のように被害を免れた艦船もあった[160]。舞鶴周辺所在艦のうち、長鯨は損傷状態で、雪風[161]や軽巡洋艦酒匂は健在のまま、終戦を迎えた。


    終戦後、舞鶴海軍工廠は復員輸送に従事する艦船の修理をおこなった。舞廠は8月15日から12月末まで、長鯨や雪風のほか、軽巡酒匂、駆逐艦、海防艦占守国後など、復員または掃海に従事する艦船60~70隻の整備をおこなったという[162]。 長鯨は修理により艦橋の形状が変化[163]、その後は復員輸送に従事した[30]。本来の機関科兵は全員帰郷してしまい、機関科未経験の元神雷部隊隊員(特攻兵器「桜花」部隊)約20名が長鯨に配属された[164]。艦内規律も失われ混乱の中、素人の機関科兵達は機関室火災と修理と整備を繰返しつつ長鯨を運用していった[165]。妊娠中の女性が長鯨の乗船中に出産し、長鯨にちなんだ名前が付けられた事もあったという[166]。1946年(昭和21年)8月15日をもって復員船任務解除。その後は日立造船向島造船所で解体され[10][167]1947年(昭和22年)初めに解体完了した。船体の一部は同所の浮き桟橋に利用されたという[167]

    略年表
    1922年(大正11年)3月11日 三菱長崎造船所にて起工[168]

    1924年(大正13年)3月24日 進水。

      ・8月20日 竣工(建造時の艦種は水雷母艦)

      ・9月8日 第2艦隊第2潜水戦隊に編入。9月12日より旗艦となる[52]

      ・12月1日 潜水母艦に艦種変更。

    1932年(昭和7年) 第一次上海事変に参加。

      ・12月1日、予備艦となる。第一潜水戦隊旗艦は軽巡洋艦球磨に変更[169]

    1933年(昭和8年)11月15日 第1艦隊第1潜水戦隊に編入、長鯨は旗艦となる[170][注 18]

    1934年(昭和9年) 友鶴事件発生。11月15日、第1潜水戦隊旗艦は長鯨から軽巡多摩に変更[172][173]。長鯨は第2艦隊・第2潜水戦隊に編入[20]。二潜戦旗艦はおもに由良[7][174][注 19]

    1935年(昭和10年)10月15日 練習艦となる[注 20]

    1937年(昭和12年)7月28日 第2艦隊付属。

      ・10月20日 予備艦。呉警備戦隊旗艦となる[176]。以後、呉警備戦隊旗艦を務め、海防艦浅間[177]、巡洋艦最上[178]青葉[179]などが臨時の呉警戦旗艦になった。

    1939年(昭和14年)4月1日 海軍航海学校練習艦。

      ・11月15日 海軍兵学校練習艦。

    1940年(昭和15年)3月11日 呉鎮守府旗艦となる[180]。3月16日まで[181]

      ・11月15日 第六艦隊・第2潜水戦隊の旗艦となる[65]

    1941年(昭和16年)5月1日、第三艦隊・第6潜水戦隊の旗艦となる。

      ・5月28日 臨時の第三艦隊旗艦となる[182]。6月4日、軽巡洋艦長良に戻る[183]

      ・12月9日 カムラン湾で警泊。

    1942年(昭和17年)1月4日 サマール島に陸戦隊を送る。

      ・4月10日 第6潜水戦隊解隊[184]。予備艦となり[24]、呉鎮守府部隊編入[22]海軍潜水学校の訓練艦となる[23]

    1943年(昭和18年)1月15日 第8艦隊・第7潜水戦隊の旗艦兼母艦となる。ラバウルに進出した[23]

      ・4月1日 南東方面艦隊に編入。

      ・11月25日 瀬戸内海に帰投。

      ・11月29日 第6艦隊隷下の第11潜水戦隊に編入され、旗艦兼母艦となる。以後、内海で訓練に従事[32]

    1944年(昭和19年)5月下旬 呉海軍工廠でレーダーを搭載[29]

      ・8月11日 迅鯨型2隻は佐世保から沖縄への輸送任務を開始[137]

      ・9月18日 迅鯨型2隻は第四回沖縄輸送を実施、翌19日に迅鯨が潜水艦の雷撃で大破、座礁する(10月10日空襲で沈没)[139]

    1945年(昭和20年) 6月4日 舞鶴に回航。

      ・6月8日 機雷により損傷。

      ・7月30日 敵機の攻撃を受け中破、舞鶴で終戦を迎える。

      ・10月15日 除籍、その後は復員艦として使用。

    1946年(昭和21年)9月ころ 尾道の日立造船向島造船所で解体開始。

    1947年(昭和22年)はじめころに解体完了。

    詳しいことは、「長鯨 (潜水母艦)ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E9%AF%A8_(%E6%BD%9C%E6%B0%B4%E6%AF%8D%E8%89%A6)
    (wikiより)

    54 潜水母艦長鯨

    長鯨 (潜水母艦)

    54a

    54b



    呉鎮守府第6特別陸戦隊(呉6特)は、1942年(昭和17年)11月1日に編成。 

    1943年(昭和18年)1月バラレ島に進出。 

    配備後は連日の戦闘および補給の途絶で戦力を消耗。 

    その後ブインに一部を派遣。 残存部隊はバラレ島で終戦を迎えた。

    53a



    (くわ)は、大日本帝国海軍駆逐艦[2]松型駆逐艦(丁型)の5番艦である[3]。艦名は楢型駆逐艦2番艦「[4]に続いて2代目[5]

    概要
    一等駆逐艦は、1944年(昭和19年)7月25日藤永田造船所で竣工した松型駆逐艦[6]。竣工後は訓練部隊の第十一水雷戦隊に所属した[7]8月3日から8月30日にかけて第十一水雷戦隊旗艦を務めた[注 1]。 同年10月4日第三十一戦隊を基幹とする敵潜掃蕩部隊に編入される[11][12]。出動準備中に捷一号作戦が発動されると、小沢機動部隊に編入されてレイテ沖海戦に参加した[13][14]10月25日の戦闘で空母瑞鳳が沈没すると[15]、同艦乗組員847名を救助した[16]


    11月上旬より第三十一戦隊[注 2]第四航空戦隊日向伊勢)を護衛して内地を出撃[18]、「桑」は馬公南沙諸島を経由してフィリピン方面に進出した[6]。 同年11月15日[19]、新編成の第52駆逐隊に所属する[20]12月2日深夜、姉妹艦「[21](第43駆逐隊)と輸送艦3隻を率いて多号作戦を実施中[22](第七次作戦)[23]、日付変更後の12月3日未明にフィリピンレイテ島オルモック湾米軍大型駆逐艦3隻と交戦する[24]。この戦闘で「桑」は沈没した[25]

    戦歴
    建造
    仮称艦名、第5485号艦[5]。 1943年(昭和18年)12月20日、藤永田造船所で起工[26]。 1944年(昭和19年)4月5日、「」と命名される[2]。 同5日付で各艦(桑、奄美粟国伊号第三百五十二潜水艦伊号第三百六十七潜水艦)等は艦艇類別等級表に類別される[27]5月25日、進水[26]。 6月20日、日本海軍は海軍兵学校教官大熊安之助少佐(スラバヤ沖海戦時の軽巡那珂水雷長)を、桑艤装員長に任命する[28]。 6月24日、藤永田造船所の桑艤装員事務所は事務を開始する[29]


    7月2日、大熊(桑艤装員長)は白露型駆逐艦五月雨艦長[30]へ転任した[注 3]。 駆逐艦文月艦長[35][36]等を歴任した山下正倫(やました まさとも)中佐(当時、海軍艦政本部部員)が、桑艤装員長に補職される[30]。この人事は「海上勤務となって最前線で戦いたい」と山下が熱望した結果だったという[37]7月25日、「桑」は竣工した[26]

    山下正倫中佐は正式に桑駆逐艦長となる[38]。主な初代幹部は、航海長小平清人中尉、砲術長北村徹大尉、水雷長三谷與司夫中尉[38]。同25日付で松型2隻(桑、)は、呉鎮守府籍となる[39]

    訓練
    就役後、訓練部隊の第十一水雷戦隊(司令官高間完海軍少将海軍兵学校41期)に編入される[40]。瀬戸内海に移動し、十一水戦僚艦と合流した[41][42]


    8月1日、連合艦隊は新たな兵力部署を発令[43]第二遊撃部隊を新編して機動部隊に編入した[44]。 第二遊撃部隊は第五艦隊を基幹とする[注 4]。 ほかに第十一水雷戦隊[注 5]、扶桑型戦艦2隻[注 6]、航空戦艦2隻(伊勢日向)、第21駆逐隊(若葉初春初霜[注 7]、第61駆逐隊(秋月、涼月、初月、若月)などが第二遊撃部隊に組み込まれた[48]8月3日、高間司令官は十一水戦旗艦を「扶桑」から「桑」に変更した[9][49] [注 8]。 この頃、秋月型駆逐艦「涼月」が修理を終えて戦線に復帰、十一水戦各艦と訓練をおこなった[50][53]。 また「清霜」と「竹」は8月10日に内海西部を出撃、南西方面にむかった[50][54]


    8月30日、軽巡「多摩」が十一水戦に編入される[46]。高間少将は十一水戦旗艦を「桑」から「多摩」に変更した[10][55]。これ以降、十一水戦旗艦は「多摩」になった[56][57]。 以降の「桑」は10月中旬まで十一水戦僚艦や[56][58]、内海西部所在だった第二遊撃部隊と[59][60]、訓練をおこなう[58][11]。内海西部所在の他部隊所属艦も第二遊撃部隊の訓練に同行することがあり、9月上旬には駆逐艦「初月」と「雪風」が訓練に協力した[61][62]


    日本海軍は8月20日付で対潜機動部隊の第三十一戦隊(司令官江戸兵太郎少将、旗艦「五十鈴」)を編成した[63]。第三十一戦隊は連合艦隊に編入された[64]。9月7日、豊田副武連合艦隊司令長官は第三十一戦隊と第21駆潜隊で「敵潜掃蕩部隊」の編成を命じ、9月中旬以降の活動を命じた[65]。 10月4日、「桑」は敵潜掃蕩部隊に編入された[11]。第二遊撃部隊としての訓練を切り上げ、呉で整備を実施する[66]大鷹型航空母艦の「海鷹」とともに対潜掃討任務に従事する予定だった[66][67]。 10月10日、アメリカ海軍機動部隊は沖縄方面に来襲[68]十・十空襲[69]、日本海軍は基地航空隊により反撃を試みた[70]

    レイテ沖海戦
    10月17日[71]アメリカ軍がフィリピン、レイテ湾スルアン島に上陸した[72]。翌18日夕刻、日本軍捷一号作戦を発動した[73][74]。 本作戦は、第一機動艦隊司令長官小沢治三郎中将(海兵37期)が率いる機動部隊第三艦隊)が囮となって第38任務部隊マーク・ミッチャー中将)をひきつけ[75]、その隙に第二艦隊司令長官栗田健男中将(海兵38期)率いる第一遊撃部隊がレイテ湾に突入し、アメリカ軍の上陸部隊を撃破するというものであった[76][77]


    第三艦隊の本来の護衛部隊は第二遊撃部隊[注 9]だったが[78]台湾沖航空戦の「残敵掃討」に駆り出されてしまった[79][80]。 さらに秋月型駆逐艦「冬月[81]と「涼月[82]が日本近海で相次いで被雷、修理を余儀なくされた。 そこで練習部隊の第十一水雷戦隊から「多摩」と「杉」を[83][注 10]、内地所在の第三十一戦隊と軽巡「大淀」を、それぞれ機動部隊の護衛部隊に編入した[85]


    当時、第三十一戦隊司令官は旗艦を「五十鈴」から「槇」に移し、「五十鈴」は呉で整備を実施、「槇」と「桑」は大分県佐伯において訓練中を実施していた[13]。このあと第三十一戦隊旗艦は「大淀」に変更された[86][87]。また四航戦のうち空母「隼鷹」と「龍鳳」は搭載する航空隊がなく、出撃しなかった[88]。「海鷹」は台湾への航空機輸送任務を命じられた[89]。出撃各艦は内地残留の「隼鷹」から燃料を補給した[90]


    10月20日夕刻[14]、小沢機動部隊、すなわち第三航空戦隊瑞鶴瑞鳳千代田千歳)、第四航空戦隊航空戦艦2隻(日向伊勢)、軽巡洋艦3隻(大淀五十鈴多摩)、秋月型駆逐艦4隻(初月秋月若月霜月)、松型駆逐艦4隻()は豊後水道を出撃した[注 11][注 12]


    22日に空母千歳から重油の洋上補給を行うも[93]、予定の100トンに対して75トンしか補給できなかった[94]。 機動部隊は23日に兵力を二分して2つの輪形陣を形成し[95]、これにより「桑」は空母「瑞鳳」の左後方に位置することとなった[96][注 13]10月24日[98]、松型2隻(桐、杉)は小沢機動部隊から分離、沖縄方面に退避した[99]


    10月25日
    朝、小沢機動部隊はエンガノ岬沖でついに第38任務部隊の艦上機による空襲を受ける[100]エンガノ岬沖海戦[101]。数度にわたる空襲により空母4隻と護衛艦2隻を喪失した[注 14]。 本艦の損傷は最少だった[105][106]


    対空戦闘の最中、「桑」は小沢中将の命を受けて沈没空母の生存者救助任務を行った[107][108]。「桑」と「伊勢」は空母「瑞鳳」の救助をおこなう[109]。 17時20分までの救助作業の結果、「桑」は瑞鳳艦長の杉浦矩郎大佐以下847名を救助した[16][注 15]。また被弾して速力低下中の「槇」と遭遇し、山下(桑艦長)が「いかがなりや」と気遣う場面もあった[111]。 続いて「桑」は第61駆逐隊(初月若月)と共に更に救助作業を行うも、ローレンス・T・デュボース少将率いる巡洋艦部隊の攻撃を受け避退する[112]。生存者救出中の小沢機動部隊各艦は「初月」(第61駆逐隊司令天野重隆大佐)の奮戦と沈没により窮地を脱した[113][114]。 10月26日に中城湾に到着、瑞鳳生存者の一部を2隻(五十鈴、槇)に移し、「桑」は「槇」を率いて奄美大島へ移動する[108](同地でさらに瑞鳳生存者を戦艦日向に移乗)[108][115]。10月29日から30日にかけて、小沢部隊残存艦は呉に帰投した[116][117]


    小沢機動部隊が避退中だった10月27日、連合艦隊はレイテ島決戦に関する基本方針を発令した[118]。第三十一戦隊はフィリピン方面緊急輸送と、同地進出後の南西方面部隊[119](指揮官:南西方面艦隊司令長官)編入を命じられた[注 16]11月2日付で、十一水戦の松型2隻(杉、桑)は第三十一戦隊の指揮下に入った[121][122]11月5日、第三十一戦隊(五十鈴、梅、桃、桐)と松型2隻(桑、杉)はマニラ方面緊急輸送作戦を下令されるとともに、マニラ到着をもって南西方面部隊編入を命じられた[123](GF電令作第515号)[18]。 第三十一戦隊司令官指揮下の各艦(軽巡五十鈴、駆逐艦霜月[124]、桑、杉、桐、)は南方に進出する第四航空戦隊(司令官松田千秋少将。日向伊勢[125]を護衛して、11月9日に門司を出撃する[126][17]。 この輸送部隊を南方輸送部隊H部隊と呼称する[注 17][注 18]澎湖諸島馬公を経由して南下中の11月13日マニラは米軍機動部隊艦上機の襲撃をうけて在泊艦艇に大損害をうけた[130][131]。H部隊はマニラ直行をやめていったん南沙諸島に入泊した。


    11月15日
    [19]、日本海軍は松型5隻()により第52駆逐隊を編成した[20][132][133]。 第四航空戦隊と護衛の姉妹艦(梅、桐)とは南沙諸島長島で別れ[134]、第三十一戦隊旗艦の軽巡「五十鈴」を護衛してマニラに向かい、11月18日に到着した[135]。またマニラ脱出後に四航戦と合流していた駆逐艦3隻(朝霜)のうち[136]、便乗中の宇那木勁少佐が「竹」に移乗[137]、竹駆逐艦長の交代が行われた[注 19]。 同方面行動中の11月19日未明、マニラ沖合でアメリカ潜水艦ヘイクの雷撃により「五十鈴」が損傷する一幕もあった[140]。「五十鈴」は舵をうしなった[141]。 「五十鈴」は「桃」に護衛されてシンガポールに退避した[123][142][注 20]


    同時期[145]、第三十一戦隊は第五艦隊に編入された[133]。また11月25日付で第52駆逐隊は第三十一戦隊に編入され[19][146]、駆逐隊司令には岩上次一大佐(当時、第7駆逐隊司令)が任命されている[147]。 この頃、日本軍はマニラからレイテ島西岸オルモック湾への輸送作戦「多号作戦」を依然として継続していた[148][149]。本艦は第七次多号作戦に参加することになった[150]。本来の参加予定艦は「桐」だったが、座礁して修理にまわされた為、「桑」が代艦として参加することになったという[151]

    多号作戦

    詳細は「多号作戦」を参照


    11月30日午前[152]、第七次多号作戦が発令された[注 21]。 松型駆逐艦2隻()、第9号輸送艦第140号輸送艦第159号輸送艦は「第三/第四梯団」を構成し[22]、マニラを出撃した[160][161]。部隊指揮官は山下正倫中佐(桑駆逐艦長)[162]。僚艦の松型2番艦「竹」は、これまでに第三次[163]、第五次の多号作戦に参加していた[23][164]。 出撃前、山下艦長は「犬死は許さん。一人となっても敵陣に踏みこむべし」と激励した[165][166]。また輸送戦隊司令部の機関参謀が各輸送艦をまわって「任務を果たさずして、絶対に帰ってくるな」と訓示しており[162]、宇那木少佐(竹駆逐艦長)は「陸上にいる参謀というものは無責任なものだ」[167]、志賀博大尉(旧姓保坂、竹水雷長)は「輸送戦隊司令官か南西方面艦隊司令長官の意向であろう」と回想している[37]。 午前6時30分、第七次多号作戦部隊の第三梯団はマニラを出航した[168]。出港直後、船団は日本陸軍潜水艦(三式潜航輸送艇、通称まるゆ)と遭遇した[165][169]


    この頃になると、アメリカ軍は妨害のためにレイテから魚雷艇隊をはるばるオルモック方面に派遣するようになっており、11月28日夜半のオルモック襲撃に成功するなど戦果を挙げていた[170]第7艦隊司令官のトーマス・C・キンケイド中将は続いてオルモック方面に駆逐艦と掃海艇を派遣することとし[170]、これも過去二度の作戦で潜水艦と小型貨物船を破壊する戦果を挙げていた[170]。そして、三度目の作戦[170]としてアレン・M・サムナー (USS Allen M. Sumner, DD-692)、モール (USS Moale, DD-693) そしてクーパー (USS Cooper, DD-695) がオルモック湾に差し向けられる事となったのである[171]。 アレン・M・サムナー、モールおよびクーパーの第120駆逐群(ジョン・C・ザーム大佐)[172]は18時30分にレイテ湾を出撃し[172]、オルモック湾に急行した[173]。だが、第120駆逐群はとにかく運がよくなかった。出撃して間もなくセブから飛来してきた戦闘八〇四飛行隊月光に付きまとわれ、爆撃と機銃掃射によりモールは2名の戦死者と22名の負傷者を出した[174]。また、アレン・M・サムナーおよびモールの船体にも若干の損傷が生じた[172]

    クーパー (駆逐艦)」も参照


    12月2日午後、第七次多号作戦部隊(第三、第四梯団)は敵機に発見されるが、空襲を受けなかった[175]同2日夜、船団5隻はオルモック湾に到着して揚陸を開始した[176]大発が輸送艦と陸上を往復して物資を揚陸させている頃、「桑」は船団南側を、「竹」は船団南西側の哨戒を開始した[173][177]。しかし、その南方からは第120駆逐群がオルモック湾に入りつつあり、ザーム大佐は日本側の雷撃を警戒して、艦を横に広がらせた横陣の隊形で湾内に入っていった[178]。 オルモック湾に入った第120駆逐群は11,000メートル先の目標を狙い、まずクーパーが砲撃を開始した[178]。オルモック港(揚陸地点)より「竹」-「桑」-米駆逐艦3隻という位置関係になる[179]。 「桑」は第120駆逐群のオルモック湾侵入を確認するや、発光信号で敵艦発見を「竹」に知らせた[180]。「桑」は電気系統に故障をかかえており、砲側照準での戦闘となった[181]。山下(桑艦長)は米艦隊を軽巡洋艦3隻と判断、魚雷を発射する[注 22]。敵艦2隻撃沈を確認したあと[184]、続いて砲撃戦を行う[185]。だが最初の交戦はおよそ9分で決着がつき[186]、「桑」は大破して炎上[187]。艦尾から沈没した[188]。山下艦長は体当たりを命じて「桑」は突撃を敢行したが、魚雷艇の魚雷攻撃で沈没したとの証言もある[184]。 その後、「竹」の雷撃によりクーパーは沈没し[189](桑生存者は「桑」の雷撃と回想)[190]、潜水艦の襲撃と誤認して浮き足立った第120駆逐群は南方へ去っていった[191][192]


    この戦闘における「桑」沈没により[25]、第三梯団の指揮官を兼ねていた山下正倫中佐(桑駆逐艦長)[193]以下、桑乗組員約250名が戦死した[194]。海上に放り出された桑生存者は「竹」に対して声をかけたり[195](志賀によれば、桑艦長ここにありとの声もあったという)[196]、撃沈されたクーパーの乗員と英語で会話したという[197]。救助をもとめられた「竹」も被弾して左舷に傾斜[198]、機関部に損傷を受けてマニラにたどりつけるか否かという状態で、救助を行う余裕はなかった[196][199]。宇那木勁少佐(竹艦長)は生存者の救助をオルモックの陸上部隊に依頼した[200][201]。桑生存者によれば「竹」から「大発動艇から助けに来るから頑張れ」と声がかけられたという[188]。この時、最後尾の輸送艦が独断でカッターボートをおろし、桑乗組員8名(重傷2名)を救助した[202]。また救助された少数名は、現地の海軍陸戦隊に編入された[203][204]。だが陸上に上陸した乗組員のうち大部分は米軍や現地ゲリラに殺害されたという[194]。桑生存者の一人は入院治療を余儀なくされ、1945年(昭和20年)1月5日マニラへ入港した病院船第二氷川丸[205](元オランダ病院船「オプテンノール」)に乗船してフィリピンを離れた[202]


    2月10日、松型4番艦「」と本艦は松型駆逐艦[206]、 帝国駆逐艦籍[207]より除籍。 「桃」は第43駆逐隊から、「桑」は第52駆逐隊から除かれた[208]


    2005年(平成17年)、オルモック湾の深海108メートルの海底にて旧日本軍の艦艇とおぼしき残骸が発見された。香港のマンダリン・ダイバーズによって潜水調査が行われた。撮影された映像を見た乗員遺族の造船技師が、全弾射出済みの九二式 61cm4連装魚雷発射管と松型駆逐艦特有の船体の溶接痕を確認した。これにより、ほぼ「桑」と特定されたと香港ラジオテレビ(RTHK)は伝えた。

    歴代艦長
    艤装員長
    1. 大熊安之助 少佐: 1944年6月20日[28] - 1944年7月2日[30]

    2. 山下正倫 少佐/中佐:1944年7月2日[30] - 1944年7月25日[38]

    駆逐艦長
    1. 山下正倫 中佐:1944年7月25日[38] - 1944年12月2日 戦死認定、同日付任海軍大佐[193]

    詳しいことは、「桑 (松型駆逐艦)ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%91_(%E6%9D%BE%E5%9E%8B%E9%A7%86%E9%80%90%E8%89%A6)
    (wikiより)

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      〇 第六三四海軍航空隊
      第六三四海軍航空隊だい634かいぐんこうくうたい)は、日本海軍の部隊の一つ。航空戦艦を母艦として運用する変則的水上機・艦上機部隊として整備されたが、母艦と連携する機会がないまま、小規模の水上機基地航空隊として終戦まで運用された。

      沿革
      機動部隊の再建を急ピッチで進めていた海軍は、既に航空母艦9隻を3隻ずつ振り分け、各集団ごとに1個航空隊を充当した3個航空戦隊の編制を終えていた。六三四空は再建・増強策の第二段として、航空戦艦伊勢日向を母艦とする艦載機航空隊として編制された。割り当てられたのは水上偵察機瑞雲と艦上爆撃機彗星で、着水能力がない彗星は、基地または空母に着陸・着艦する片道運用を想定していた。


      1944年5月1日岩国飛行場を原隊とし、呉飛行場で開隊。第四航空戦隊隷下。定数瑞雲18・彗星18。瑞雲は呉、彗星は岩国で練成開始(実機不足のため九九式艦上爆撃機を使用)。5月22日母艦決定。瑞雲は伊勢(天谷司令直卒)、彗星は日向(江村日雄飛行長指揮)。6月15日サイパン島派遣命令。のちに中止。6月23日カタパルト射出実験開始。全機成功。7月5日東号作戦発令、瑞雲隊は横須賀飛行場、彗星隊は香取飛行場に進出。8日原隊復帰。8月1日解隊した第六五二海軍航空隊より戦闘機隊・攻撃隊編入。10月12日台湾沖航空戦勃発。瑞雲隊は指宿飛行場、艦上機隊は鹿屋飛行場に進出。10月15日瑞雲隊に原隊復帰命令。機動部隊参加の是非が検討されたが、搭載見送りが決定。10月19日母艦伊勢・日向、六三四空艦載機を搭載せずフィリピンに向け別府湾出航。10月22日フィリピンに進出、キャビテに駐留。以後、夜間対艦攻撃、多号作戦対艦哨戒に従事。


      10月末フィリピンで神風特攻隊が開始すると、11月634空も梅花隊を編成して特攻を命じた[1]


      11月15日 第二航空艦隊に編入。艦上機隊を廃止(第二〇一海軍航空隊第七〇一海軍航空隊に譲渡)、偵察機隊を増強。以後、従来の夜間対艦攻撃に加え、サンホセ飛行場爆撃に従事。


      1945年1月8日第一航空艦隊に転籍。台湾東港飛行場に撤退。以後、東港より淡水飛行場に拠点を移し、台湾・沖縄近海の哨戒に従事。3月26日「菊水一号作戦」発動。沖縄近海で夜間対艦攻撃に従事。4月台湾より本土に撤退。 福岡、鹿児島に偵察301、偵察302を展開して奄美大島の古仁屋を前進基地に沖縄に反復攻撃を行った[2]


      8月3日第五航空艦隊に編入、第三十二航空戦隊を編制。


      8月15日終戦。

      主力機種
      瑞雲 - 伊勢を母艦とする水上偵察機

      彗星 - 日向を母艦とする艦上爆撃機


      その他、慣熟練成用の九九式艦上爆撃機、六五二空から譲渡された零式艦上戦闘機天山、その他偵察航空隊から編入された各種偵察機が含まれている。


      歴代司令
      ・天谷孝久 大佐:昭和19年5月1日 -

      ・江村日雄:昭和19年11月15日 -

      ・立見孝六郎:昭和20年8月 - 解隊

      脚注
      1. 木俣滋郎『日本空母戦史』図書出版社
      2. 渡辺洋二『日本本土防空戦』徳間書店183頁

      関連項目
      大日本帝国海軍航空隊一覧


      〇 九三四海軍航空隊
      第三十六航空隊[1] (だい36こうくうたい)および昭和17年11月1日に改称した第九三四海軍航空隊(だい934かいぐんこうくうたい)は、日本海軍の部隊の一つ。太平洋戦争序盤から中盤にボルネオ島から西ニューギニアにかけての東インドネシア航路の防衛を担当し、ダーウィンを基地とする連合軍航空部隊の哨戒・迎撃にも従事した。

      沿革
      ダーウィンを最前線基地とする連合軍航空部隊の撃滅は、ケンダリー飛行場に駐留する陸上攻撃機部隊の高雄海軍航空隊が担当したが、双方の拠点が離れているために散発的なものとなり、膠着状態であった。また、監視基地としてアル諸島・ケイ諸島・タニンバル諸島の占領も急がれた。そこで最前線の哨戒部隊として、三十六空の編制が昭和17年6月にようやく開始された。


      ・昭和17年(1942年)

        6月20日 佐伯を原隊とし、第二南遣艦隊附属水偵隊を改変し、バリクパパンで開隊。第二十四特別根拠地隊隷下。(水上偵察機8) 

        7月4日 セラム島アンボンに進出。タニンバル諸島の哨戒・残敵掃討に従事。

        7月30日 タニンバル諸島上空で敵爆撃隊と遭遇、1機撃墜。

        11月1日 「第九三四海軍航空隊」に改称。

        12月1日 特設水上機母艦相良丸の運送船転用に伴い、艦載機6機を編入。


      ・昭和18年(1943年)

        4月頃  アル諸島マイコール基地竣工。派遣隊が進出。

         派遣隊に二式水上戦闘機投入、本隊に連絡用九七式飛行艇投入。

        4月25日 マイコールに敵機襲来、水戦隊が迎撃しボーファイター1機撃墜。

        4月29日 アンボンに敵機襲来、整備員全員が死傷し、補給機能壊滅。

         以後、連日マイコールに敵機襲来、5月上旬まで迎撃に従事。偵察隊への戦闘機護衛開始。

        5月下旬 連日、ニューギニア方面を攻撃、戦果なし。

        6月3日 マイコールへの敵機襲来再開。

        8月6日 哨戒中、アラフラ海で敵輸送船団発見、1隻撃沈。

        11月1日 第四南遣艦隊を編制、艦隊附属に転籍。

          ニューギニアに進出。偵察機はカウ、戦闘機はマノクワリに駐留。

        11月24日 ニューギニアの敵地攻撃に出撃。

        12月10日 ニューギニアに全機移転、マイコール基地放棄。


       ・昭和19年(1944年)

        3月5日 セレベス海の掃討作戦に出撃。

        3月30日 ホーランディアに敵上陸。哨戒・迎撃に出撃。

        5月27日 ビアク島に敵上陸。哨戒・迎撃に出撃。

        6月4日 第二次渾作戦発動。船団護衛に従事するも8日に中止。

        8月頃  マカッサルに撤退。

        10月1日 解隊。


      消耗に加え、捷一号作戦発動にともなうフィリピン方面の増強のために部隊は解散となった。アンボンをはじめ各地の飛行場・水上機基地に残された地上要員は、アンボンに司令部を置く乙飛行隊の濠北海軍航空隊の統率下で自活自給した。濠北空が20年5月に解散した後は現地根拠地帯に合流。バリクパパンなど一部では地上戦も展開された。

      主力機種
      零式三座水上偵察機

      零式水上観測機

      二式水上戦闘機

      九七式飛行艇

      歴代司令
      ・木村健二(昭和17年6月20日‐)

      ・時永逢之助(昭和18年3月10日‐)

      ・中島第三(昭和19年7月頃‐昭和19年10月1日解隊)

      脚注
      1. 内令、達号、辞令公報ほか「海軍省が発行した公文書」では、海軍航空隊番号附与標準制定(1942年11月1日)前の2桁番号名航空隊は航空隊名に「海軍」の文字が入らず漢数字の「十」を使用する。海軍航空隊番号附与標準制定後の2桁番号名航空隊は他の3桁番号名航空隊と同様、航空隊名に「海軍」の文字が入り漢数字の「百」や「十」は使用しない。


      関連項目
      大日本帝国海軍航空隊一覧

      参考文献
      ・『日本海軍編制事典』(芙蓉書房出版 2003年)

      ・『航空隊戦史』(新人物往来社 2001年)

      ・『日本海軍航空史2』(時事通信社 1969年)

      ・『戦史叢書 海軍航空概史』(朝雲新聞社 1976年)

      ・『戦史叢書 南西方面海軍作戦 第二段作戦以降』(朝雲新聞社 1972年)

      ・『連合艦隊海空戦戦闘詳報別巻1』(アテネ書房 1996年)
      (wikiより)

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