本牧jack『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

本牧Jackで御座います
小生の拙ブログ『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑に御訪問頂き誠に有難う御座います。
歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。
たまに『 大人数で取材しているのか? 』との質問を戴きますが、小生と相方の二人三脚で御座います。
出来るだけ続けたいと思っていますが 膝・耳に問題が有って、いつまで出来るやら・・・説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。
御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。 ※ 申し訳御座いませんが「画像の転用」は禁止とさせて頂きます。 コメントは原則公開させていただいております 質問等に対してはブログ記事で返信させていただきます 他の方法で連絡を取り合う等一切しません 場合によっては、「IPブロック」しますがブロックした場合解除する事は有りませんので宜しくお願いします。

カテゴリ: 映画・弁士・UMA・ゴジラ・写真家・調理師

・小津安二郎誕生の地

江東区の生んだ世界的映画監督小津安二郎は、明治三十六 ( 一九〇三 ) 年 十二月十二日、この地に生をうけました。 

生家は、「湯浅屋」という屋号の肥料問屋でした。 

安二郎が十歳のとき、三重県松坂町に転居、中学校卒業後、尋常小学校の代用教員を一年間勤めた後、大正十二 ( 一九二三 ) 年再び上京、深川和倉町に住み、松竹蒲田撮影所に撮影助手として入社しました。
 
昭和二 ( 一九二七 ) 年監督に昇進、処女作時代劇「懺悔の刃」を監督しました。
 
その後の小津安二郎監督作品は、「出来ごころ」に代表されるような、下町特有の情緒や人情味が描かれ、またローアングルによる撮影スタイルなどによって、家族の触れ合いや日常生活を端的に描く独特の作風を作り上げていきました。

昭和三十七 ( 一九六二 ) 年、「秋刀魚の味」を発表、映画人としては、初の芸術院会員となりました。 

この作品が小津安二郎の遺作となり、翌昭和三十八 ( 一九六三 ) 年六十歳で死去しました。

その作品の価値は死後内外共にいよいよ高まり、世界最高の映像作家として評価されています。
(案内板より)

〇 小津安二郎
小津 安二郎(おづ やすじろう、1903年明治36年〉12月12日 - 1963年昭和38年〉12月12日)は、日本映画監督脚本家である。日本映画を代表する監督のひとりであり、サイレント映画時代から戦後までの約35年にわたるキャリアの中で、原節子主演の『晩春』(1949年)、『麦秋』(1951年)、『東京物語』(1953年)など54本の作品を監督した。ロー・ポジションによる撮影や厳密な構図などが特徴的な「小津調」と呼ばれる独特の映像世界で、親子関係や家族の解体をテーマとする作品を撮り続けたことで知られ、黒澤明溝口健二と並んで国際的に高く評価されている。1962年には映画人初の日本芸術院会員に選出された。

生涯
生い立ち
1903年12月12日東京市深川区亀住町4番地(現在の東京都江東区深川一丁目)に、父・寅之助と母・あさゑの5人兄妹の次男として生まれた[4][5][6]。兄は2歳上の新一、妹は4歳下の登貴と8歳下の登久、弟は15歳下の信三である[5]。生家の小津新七家は、伊勢松阪出身の伊勢商人である小津与右衛門家の分家にあたる[7]。伊勢商人は江戸に店を出して成功を収めたが、小津与右衛門家も日本橋で海産物肥料問屋の「湯浅屋」を営んでいた[7][8][注 2]。小津新七家はその支配人を代々務めており、五代目小津新七の子である寅之助も18歳で支配人に就いた[7][10]。あさゑはの名家の生まれで、のちに伊勢商人の中條家の養女となった[5][7]。両親は典型的な厳父慈母で、小津は優しくて思いやりのある母を終生まで敬愛した[8]。小津は3歳頃に脳膜炎にかかり、数日間高熱で意識不明の状態となったが、母が「私の命にかえても癒してみせます」と必死に看病したことで一命をとりとめた[13]


1909年
、小津は深川区立明治小学校附属幼稚園に入園した。当時は子供を幼稚園に入れる家庭は珍しく、小津はとても裕福で教育熱心な家庭で育ったことがうかがえる[14]。翌1910年には深川区立明治尋常小学校(現在の江東区立明治小学校)に入学した[4]1913年3月、子供を田舎で教育した方がよいという父の教育方針と、当時住民に被害を及ぼしていた深川のセメント粉塵公害による環境悪化のため、一家は小津家の郷里である三重県飯南郡神戸村(現在の松阪市垣鼻785番地に移住した[4][15]。父は湯浅屋支配人の仕事があるため、東京と松阪を往復する生活をした[15]。同年4月、小津は松阪町立第二尋常小学校(現在の松阪市立第二小学校)4年生に転入した[16]。5・6年時の担任によると、当時の小津は円満実直で成績が良く、暇があるとチャンバラごっこをしていたという[17]。やがて小津は自宅近くの映画館「神楽座」で尾上松之助主演の作品を見たのがきっかけで、映画に病みつきとなった[4]


1916年
、尋常小学校を卒業した小津は、三重県立第四中学校(現在の三重県立宇治山田高等学校)に入学し、寄宿舎に入った[4]。小津はますます映画に熱を上げ、家族にピクニックに行くと偽って名古屋まで映画を見に行ったこともあった[18]。当時は連続活劇の女優パール・ホワイトのファンで、レックス・イングラムペンリン・スタンロウズ英語版の監督作品を好むなど、アメリカ映画一辺倒だった[18][19]。とくに小津に感銘を与えたのがトーマス・H・インス監督の『シヴィリゼーション』(1917年)で、この作品で映画監督の存在を初めて認識し、監督を志すきっかけを作った[19][20]1920年、学校では男子生徒が下級生の美少年に手紙を送ったという「稚児事件[注 3]」が発生し、小津もこれに関与したとして停学処分を受けた[22]。さらに小津は舎監に睨まれていたため、停学と同時に寄宿舎を追放され、自宅から汽車通学することになった[22]。小津は追放処分を決めた舎監を終生まで嫌悪し、戦後の同窓会でも彼と同席することを拒否した[23][24]。しかし、自宅通学に変わったおかげで外出が自由になり、映画見物には好都合となった[22]。この頃には校則を破ることが何度もあり、操行の成績は最低の評価しかもらえなくなったため、学友たちから卒業できないだろうと思われていた[25][26]


1921年
3月、小津は何とか中学校を卒業することができ、両親の命令で兄の通う神戸高等商業学校を受験したが、合格する気はあまりなく、神戸大阪で映画見物を楽しんだ[27][28]名古屋高等商業学校も受験したが、どちらとも不合格となり、浪人生活に突入した[4]。それでも映画に没頭し、7月には知人らと映画研究会「エジプトクラブ」を設立し、憧れのパール・ホワイトなどのハリウッド俳優の住所を調べて手紙を送ったり、映画のプログラムを蒐集したりした[29]。翌1922年に再び受験の時期が来ると、三重県師範学校を受験したが不合格となり、飯南郡宮前村(現在の松阪市飯高町)の宮前尋常高等小学校に代用教員として赴任した[30]。宮前村は松阪から約30キロの山奥にあり、小津は学校のすぐ近くに下宿したが、休みの日は映画を見に松阪へ帰っていたという[31][32]。小津は5年生男子48人の組を受け持ち、児童に当時では珍しいローマ字を教えたり、教室で活劇の話をして喜ばせたりしていた[31]。また、下宿で児童たちにマンドリンを弾き聞かせたり、下駄のまま児童を連れて標高1000メートル以上の局ヶ岳を登頂したりしたこともあった[33]

映画界入り
1923年1月、一家は小津と女学校に通う妹の登貴を残して上京し、東京市深川区和倉町に引っ越した[4]。3月に小津は登貴が女学校を卒業したのを機に、代用教員を辞めて2人で上京し、和倉町の家に合流して家族全員が顔を揃えた[34]。小津は映画会社への就職を希望したが、映画批評家の佐藤忠男曰く「当時の映画は若者を堕落させる娯楽と考えられ、職業としては軽蔑されていた」ため父は反対した[34][35]。しかし、母の異母弟の中條幸吉が松竹に土地を貸していたことから、その伝手で8月に松竹キネマ蒲田撮影所に入社した[34]。小津は監督志望だったが、演出部に空きがなかったため、撮影部助手となった[36]。入社直後の9月1日、小津は撮影所で関東大震災に遭遇した。和倉町の家は焼失したが、家族は全員無事だった[37]。震災後に本家が湯浅屋を廃業したことで、父は亀住町の店跡を店舗兼住宅に新築し、新たに「小津地所部」の看板を出して、本家が所有する土地や貸家の管理を引き受けた[38][39]。松竹本社と蒲田撮影所も震災で被害を受け、スタッフの多くは京都の下加茂撮影所に移転した[39]。蒲田には島津保次郎監督組が居残り、小津も居残り組として碧川道夫の撮影助手を務めた[40]


1924年
3月に蒲田撮影所が再開すると、小津は酒井宏の撮影助手として牛原虚彦監督組についた[41][42]。小津は重いカメラを担ぐ仕事にはげみ、ロケーション中に暇があると牛原に矢継ぎ早に質問をした[42]。12月、小津は東京青山近衛歩兵第4連隊一年志願兵として入営し、翌1925年11月に伍長で除隊した[41]。再び撮影助手として働いた小津は、演出部に入れてもらえるよう兄弟子の斎藤寅次郎に頼み込み、1926年に時代劇班の大久保忠素監督のサード助監督となった[43]。この頃に小津はチーフ助監督の斎藤、セカンド助監督の佐々木啓祐、生涯の親友となる清水宏、後に小津作品の編集担当となる撮影部の浜村義康の5人で、撮影所近くの家を借りて共同生活をした[43][44]。小津は大久保のもとで脚本直しと絵コンテ書きを担当したが、大久保は助監督の意見に耳を傾けてくれたため、彼にたくさんのアイデアを提供することができた[36][44][45]。また、大久保はよく撮影現場に来ないことがあり、その時は助監督が代わりに務めたため、小津にとっては大変な勉強になった[36]。小津は後に、大久保のもとについたことが幸運だったと回想している[45]


1927年
のある日、撮影を終えて腹をすかした小津は、満員の社員食堂でカレーライスを注文したが、給仕が順番を飛ばして後から来た牛原虚彦のところにカレーを運んだため、これに激昂して給仕に殴りかかろうとした[46]。この騒動は撮影所内に知れ渡り、小津は撮影所長の城戸四郎に呼び出されたが、それが契機で脚本を提出するよう命じられた[47]。城戸は「監督になるには脚本が書けなければならない」と主張していたため、これは事実上の監督昇進の試験だった[36]。小津は早速自作の時代劇『瓦版かちかち山』の脚本を提出し、作品は城戸に気に入られたが、内容が渋いため保留となった[36][47]。8月、小津は「監督ヲ命ズ 但シ時代劇部」の辞令により監督昇進を果たし、初監督作品の時代劇『懺悔の刃』の撮影を始めた[48]。ところが撮影途中に予備役の演習召集を受けたため、撮り残したファーストシーンの撮影を斎藤に託し、9月25日に三重県津市の歩兵第33連隊第7中隊に入隊した[49]。10月に『懺悔の刃』が公開され、除隊した小津も映画館で鑑賞したが、後に「自分の作品のような気がしなかった」と述べている[49][50]

監督初期
1927年11月、蒲田時代劇部は下加茂撮影所に合併されたが、小津は蒲田に残り、以後は現代劇の監督として活動することができた[48]。しかし、小津は早く監督になる気がなく、会社からの企画を6、7本断ったあと、ようやく自作のオリジナル脚本で監督2作目の『若人の夢』(1928年)を撮影した[50]。当時の松竹蒲田は城戸の方針で、若手監督に習作の意味を兼ねて添え物用の中・短編喜劇を作らせており、新人監督の小津もそうした作品を立て続けに撮影したが、その多くは学生や会社員が主人公のナンセンス喜劇だった[51][52][53]1928年は5本、1929年は6本、1930年は生涯最高となる7本もの作品を撮り、めまぐるしいほどのスピード製作となった[4][54]。徐々に会社からの信用も高まり、トップスターの栗島すみ子主演の正月映画『結婚学入門』(1930年)の監督を任されるほどになった[55]。『お嬢さん』(1930年)は当時の小津作品にしては豪華スターを配した大作映画となり、初めてキネマ旬報ベスト・テンに選出された(日本・現代映画部門2位)[54][55]


1931年
、松竹は土橋式トーキーを採用して、日本初の国産トーキー『マダムと女房』を公開し、それ以来日本映画は次第にトーキーへと移行していったが、小津は1936年までトーキー作品を作ろうとはしなかった[56]。その理由はコンビを組んでいたカメラマンの茂原英雄が独自のトーキー方式を研究していたことから、それを自身初のトーキー作品で使うと約束していたためで、後に小津は日記に「茂原氏とは年来の口約あり、口約果たさんとせば、監督廃業にしかず、それもよし」と書いている[55][57]。小津は茂原式が完成するまでサイレント映画を撮り続け、松竹が採用した土橋式はノイズが大きくて不備があるとして使用しなかった[55]。しかし、サイレント作品のうち5本は、台詞はないが音楽が付いているサウンド版で公開されている[58]


1930年代前半になると、小津は批評家から高い評価を受けることが多くなった。『東京の合唱』(1931年)はキネマ旬報ベスト・テンの3位に選ばれ、佐藤は「これで小津は名実ともに日本映画界の第一級の監督として認められるようになったと言える」と述べている[59]。『大人の見る繪本 生れてはみたけれど』(1932年)はより高い評価を受け、初めてキネマ旬報ベスト・テンの1位に選ばれた[58]。さらに『出来ごころ』(1933年)と『浮草物語』(1934年)でもベスト・テンの1位に選ばれた[55]1933年9月には後備役として津市の歩兵第33連隊に入営し、毒ガス兵器を扱う特殊教育を受けた[32]。10月に除隊すると京都で師匠の大久保や井上金太郎らと交歓し、井上の紹介で気鋭の新進監督だった山中貞雄と知り合い、やがて二人は深く心を許し合う友となった[32][60]。新しい出会いの一方、1934年4月には父寅之助を亡くした[4]。父が経営した小津地所部の後を継ぐ者はおらず、2年後に家族は深川の家を明け渡すことになり、小津と母と弟の3人で芝区高輪に引っ越した。小津は一家の大黒柱として、家計や弟の学費を背負ったが、この頃が金銭的に最も苦しい時期となった[61]


1935年
7月、小津は演習召集のため、再び青山の近衛歩兵第4連隊に3週間ほど入隊した[4]。この年に日本文化を海外に紹介するための記録映画『鏡獅子』(1936年)を撮影し、初めて土橋式によるトーキーを採用した[55][62]1936年3月、小津は日本映画監督協会の結成に加わり、協会を通じて溝口健二内田吐夢田坂具隆などの監督と親しくなった[60]。この年に茂原式トーキーが完成し、小津は約束通り『一人息子』(1936年)で採用することを決め、同年に蒲田から移転した大船撮影所で撮影することを考えたが、松竹が土橋式トーキーと契約していた関係で大船撮影所を使うことができず、誰もいなくなった旧蒲田撮影所で撮影した[63][64][注 4]1937年に土橋式で『淑女は何を忘れたか』を撮影したあと、自身が考えていた原作『愉しき哉保吉君』を内田吐夢に譲り、同年に『限りなき前進』として映画化された[63]。9月には『父ありき』の脚本を書き上げたが、執筆に利用した茅ヶ崎市の旅館「茅ヶ崎館」は、これ以降の作品でもしばしば執筆に利用した[65]

小津と戦争
1937年7月に日中戦争が開始し、8月に親友の山中が応召されたが、小津も『父ありき』脱稿直後の9月10日に召集され、近衛歩兵第2連隊に歩兵伍長として入隊した[63][66]。小津は毒ガス兵器を扱う上海派遣軍司令部直轄・野戦瓦斯第2中隊に配属され、9月27日に上海に上陸した[66]。小津は第三小隊の班長となって各地を転戦し、南京陥落後の12月20日に安徽省滁県に入城した[67]1938年1月12日、上海へ戦友の遺骨を届けるための出張の帰路、南京郊外の句容にいた山中を訪ね、30分程の短い再会の時を過ごした[68]。4月に徐州会戦に参加し、6月には軍曹に昇進し、9月まで南京に駐留した[66]。同月に山中は戦病死し、訃報を知った小津は数日間無言になったという[4]。その後は漢口作戦に参加し、1939年3月には南昌作戦に加わり、修水の渡河作戦で毒ガスを使用した[66]。続いて南昌進撃のため厳しい行軍をするが、小津は「山中の供養だ」と思って歩いた[69]。やがて南昌陥落で作戦は中止し、6月26日には九江で帰還命令が下り、7月13日に日本に帰国、7月16日に召集解除となった[70]


1939年12月、小津は帰還第1作として『彼氏南京へ行く』(後に『お茶漬の味』と改題)の脚本を執筆し、翌1940年に撮影準備を始めたが、内務省の事前検閲で全面改訂を申し渡され、出征前夜に夫婦でお茶漬けを食べるシーンが「赤飯を食べるべきところなのに不真面目」と非難された[71]。結局製作は中止となり、次に『戸田家の兄妹』(1941年)を製作した。これまで小津作品はヒットしないと言われてきたが、この作品は興行的に大成功を収めた[55]。次に応召直前に脚本を完成させていた『父ありき』(1942年)を撮影し、小津作品の常連俳優である笠智衆が初めて主演を務めた[4]。この撮影中に太平洋戦争が開戦し、1942年に陸軍報道部は「大東亜映画」を企画して、大手3社に戦記映画を作らせた。松竹はビルマ作戦を描くことになり、小津が監督に抜擢された[56]。タイトルは『ビルマ作戦 遥かなり父母の国』で脚本もほぼ完成していたが、軍官の求める勇ましい映画ではないため難色を示され、製作中止となった[72]


1943年
6月、小津は軍報道部映画班員として南方へ派遣され、主にシンガポールに滞在した[56]。同行者には監督の秋山耕作と脚本家の斎藤良輔がおり、遅れてカメラマンの厚田雄春が合流した[56]。小津たちはインド独立をテーマとした国策映画『デリーへ、デリーへ』を撮ることになり、ペナンスバス・チャンドラ・ボースと会見したり、ジャワでロケを行ったりしたが、戦況が悪化したため撮影中止となった[73]。小津は厚田に後発スタッフが来ないよう電報を打たせたが、電報の配達が遅れたため、後発スタッフは行き違いで日本を出発してしまい、小津は「戦況のよくない洋上で船がやられたらどうするんだ」と激怒した。後発スタッフは何とか無事にシンガポールに到着し、撮影も続行されたが、やがて小津とスタッフ全員に非常召集がかかり、現地の軍に入営することになった[74]。仕事のなくなった小津はテニスや読書をして穏やかに過ごし、夜は報道部の検閲試写室で「映写機の検査」と称して、接収した大量のアメリカ映画を鑑賞した[32][75]。その中には『風と共に去りぬ』『嵐が丘』(1939年)、『怒りの葡萄』『ファンタジア』『レベッカ』(1940年)、『市民ケーン』(1941年)などが含まれており、『ファンタジア』を見た時は「こいつはいけない。相手がわるい。大変な相手とけんかした」と思ったという[76]


1945年
8月15日にシンガポールで敗戦を迎えると、『デリーと、デリーへ』のフィルムと脚本を焼却処分し、映画班員とともにイギリス軍の監視下にあるジュロンの民間人収容所に入り、しばらく抑留生活を送った[4][77]。小津は南方へ派遣されてからも松竹から給与を受け取っていたため、軍属ではなく民間人として扱われ、軍の収容所入りを免れていた[78]。抑留中はゴム林での労働に従事し、収容所内での日本人向け新聞「自由通信」の編集もしていた[77]。暇をみてはスタッフと連句を詠んでいたが、小津は後に「連句の構成は映画のモンタージュと共通するものがあり、とても勉強になった」と回想している[76]。同年12月、第一次引き揚げ船で帰国できることになり、スタッフの人数が定員を上回っていたため、クジ引きで帰還者を決めることにした。小津はクジに当たったが、「俺は後でいいよ」と妻子のあるスタッフに譲り、映画班の責任者として他のスタッフの帰還が終わるまで残留した[77]。翌1946年2月に小津
も帰還し、12日に広島県大竹に上陸した[4]

詳しいことは、『小津安二郎ウィキペディア』をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%B4%A5%E5%AE%89%E4%BA%8C%E9%83%8E
(wikiより)

0128 小津安二郎

小津安二郎

0128b

0128a



葛飾柴又寅さん記念館(かつしかしばまたとらさんきねんかん)は、東京都葛飾区柴又に所在する記念館である。

柴又は松竹製作・配給の映画男はつらいよ』の舞台であり、当該作品の世界観および各種資料を再現・展示したものである。

施設概要
・住所:東京都葛飾区柴又6丁目22番19号

・正式名称:葛飾区観光文化センター内葛飾柴又寅さん記念館

指定管理者共立メンテナンス2014年4月~)

・開館:1997年11月16日

・開館時間:9:00 - 17:00(閉館30分前に入場)

・休館日:第3火曜日(但し第3火曜日が祝日の場合は直後の平日)および12月の第3火・水・木曜日

・入場料:一般500円、児童・学生300円、シルバー400円、団体(一般)400円

京成電鉄の主要駅(京成上野駅成田空港駅など)では当記念館の前売入場券を発売している。(一般450円、児童・学生270円)

解説

柴又地区で、江戸川高規格堤防の整備事業が行われ、河川敷法面が一体で整備され「柴又公園」が設立された。当該記念館は、その柴又公園の真下に作られたものである。別棟にはレンタサイクルのセンターが設置されている。


『男はつらいよ』の世界をコーナー別に分けて展示しており、松竹大船撮影所神奈川県鎌倉市2000年閉鎖)から移設した「くるまや」「朝日印刷所」のセット、映画の名場面を紹介した映像コーナー、実物の革カバンなどの展示コーナー、記念撮影コーナーなどがある。2012年からは『男はつらいよ』の原作者で第3作と第4作を除いたシリーズの監督も務めた山田洋次を顕彰する『山田洋次ミュージアム』を開設している。

展示物
・「くるまや」セット

・「くるまや」ミニチュア模型

・「朝日印刷所」セット

・思い出に残るなつかしの駅舎

・生まれも育ちも葛飾柴又コーナー

・帝釈人車鉄道への旅

・作品資料展示コーナー 他

関連項目
柴又

男はつらいよ

渥美清

山田洋次

外部リンク
寅さん記念館

葛飾区観光サイト かつまるガイド
(wikiより)

099a



山田洋次監督の自筆による「男はつらいよ」でおなじみの台詞が刻されています。

088a



柴又駅(しばまたえき)は、東京都葛飾区柴又四丁目にある京成電鉄金町線駅番号KS50

歴史
帝釈人車鉄道
1899年明治32年)12月17日 - 帝釈人車鉄道(後の帝釈人車軌道)の駅として開業。

京成
1912年大正元年)11月3日 - 京成電気軌道の駅として開業。開業当時は終点であった。

1913年(大正2年)10月21日 - 京成電気軌道の金町(後の京成金町駅)延伸により、中間駅となる。

1945年昭和20年) - 社名変更により京成電鉄の駅となる。

1997年平成9年) - 「関東の駅百選」に選定。選定理由は「ご存知寅さんの『男はつらいよ』の雰囲気を考慮した瓦葺き風の駅舎」。

2010年(平成22年)7月5日 - 当駅 - 京成高砂駅間が複線から単線並列に切り換えられる。

2021年令和3年)2月26日 - 駅前の商業施設「柴又駅前店舗」が一部開業[1][2]


1929年
に投機会社筑波高速度電気鉄道1930年に京成と合併)が当駅を通る松戸支線の鉄道免許を取得したが、当駅を含む区間は後年失効。また、1962年新京成線松戸駅から当駅までの延伸の敷設免許が新京成電鉄に下りていたが、一部用地が取得できず、1970年代までに失効した。

駅構造

相対式ホーム2面2線を有する地上駅京成金町駅管理)。ホーム有効長は6両。


2010年7月4日までは当駅 - 京成高砂駅間は複線で、列車交換も一部時間帯でのみ行われていた。成田スカイアクセス開業に伴う京成高砂駅東側の踏切の遮断時間短縮のために、同年7月5日から京成高砂駅の金町線ホームが高架化され、京成高砂方が単線並列(ただし1本は入・出庫線)となり、早朝と深夜を除くほとんどの時間帯に当駅で列車交換が行われるようになった。金町側は単線となっている。


駅舎は京成高砂方面ホーム側にある。改装時には山田洋次の意見も取り入れて、純和風の外観となった。京成金町方面ホームとは構内踏切により連絡している。初詣葛飾納涼花火大会などの多客時には金町方面ホーム側の臨時改札口(有人)や臨時出札口も営業することがある。

のりば、利用状況については、『柴又駅ウィキペディア』をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B4%E5%8F%88%E9%A7%85

駅周辺
周辺は山田洋次が監督し、渥美清が主演したテレビドラマおよび劇映画シリーズ『男はつらいよ』(1968年 - 1995年)の舞台となった地域・柴又である。駅前には、渥美清が演じた「フーテンの寅」(車寅次郎)の銅像がある。この銅像は渥美清の死去に伴い『男はつらいよ』シリーズが終了したことにより、主役「車寅次郎」および俳優渥美清を記念して1999年に建てられたものである[7]。男はつらいよシリーズには柴又帝釈天参道や当駅が度々登場して「柴又出身者」が主役となっている物語の世界観を決定付け、現実の柴又の知名度を向上させた[8]。その後、2017年には振り返る寅さんを見送る妹さくら(倍賞千恵子)の銅像も建立されている[9]


柴又帝釈天へは駅前からの参道が通じており、開業当時から、正月初詣)や庚申の日には多くの参拝客で賑わう。加えて、渥美の死去後、映画の舞台として探訪する観光客が急増した。その後、葛飾区は「寅さん記念館」や「山田洋次ミュージアム」を開設し、「こちら葛飾区亀有公園前派出所」の亀有とともに区内の物語の舞台であることをPRするラッピング列車を走らせるなど、観光に力を入れている。また、葛飾納涼花火大会の会場最寄駅でもある。


以上のことに加え、住宅密集地であることも相まって、小さな構内の当駅は混雑しやすく、並行路線バスの本数も多い。


・経栄山題経寺(柴又帝釈天

・葛飾区観光文化センター

  ・葛飾柴又寅さん記念館

  ・山田洋次ミュージアム

葛飾区山本亭

柴又八幡神社

・おりつ地蔵尊

江戸川

  ・矢切の渡し柴又側船着場

金町浄水場

・葛飾区柴又区民サービスコーナー

  ・柴又地域センター

・葛飾柴又郵便局

・葛飾柴又一郵便局

柴又街道

京成バス京成タウンバス「柴又帝釈天」停留所

その他

・当駅は『男はつらいよ』シリーズのほぼ全作に登場するため、車両や駅の変遷を映像からたどることができる。

・駅名の表記は、プラットホーム上やウェブサイト、時刻表などの冊子では柴又であるが、駅前広場に面する駅舎上部のみ柴叉と、「又」より一つ点が多い「叉」が使用されている。

・前記の『こちら葛飾区亀有公園前派出所』やアニメ版の『男はつらいよ』で当駅駅舎が描写されたことがある。

隣の駅

京成電鉄
KS 金町線

        京成高砂駅 (KS10) - 柴又駅 (KS50) - 京成金町駅 (KS51)

脚注
1. “「柴又駅前店舗」が開業します!” (PDF) (プレスリリース), 京成電鉄, (2020年12月18日), オリジナルの2020年12月18日時点におけるアーカイブ。, https://web.archive.org/web/20201218081644/https://www.keisei.co.jp/information/files/info/20201218_154537647928.pdf 2021年4月9日閲覧。 
2. “柴又駅前の商業施設が一部オープン 「風景の国宝」に配慮、ファミマの看板は茶色に”. 東京新聞. (2021年2月27日). オリジナルの2021年2月27日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20210227022943/https://www.tokyo-np.co.jp/article/88414 2021年4月9日閲覧。 
3. 駅別乗降人員(一日平均) (PDF) - 京成電鉄
4. 葛飾区統計書 - 葛飾区
5. レポート - 関東交通広告協議会
6. 東京都統計年鑑 - 東京都
7. 「フーテンの寅像」説明
8. 今こそ「寅さん」の世界へ!定番から穴場まで柴又昭和散歩”. 楽天トラベル (2019年3月22日). 2020年7月14日閲覧。
9. 『見送るさくら』像除幕式レポート!「お兄ちゃん、もう寂しくないよ」|松竹映画『男はつらいよ』公式サイト| 松竹株式会社” (日本語). 『男はつらいよ』公式サイト | 松竹株式会社. 2020年9月23日閲覧。

出典
東京都統計年鑑
1. 東京都統計年鑑(平成2年)
2. 東京都統計年鑑(平成3年)
3. 東京都統計年鑑(平成4年)
4. 東京都統計年鑑(平成5年)
5. 東京都統計年鑑(平成6年)
6. 東京都統計年鑑(平成7年)
7. 東京都統計年鑑(平成8年)
8. 東京都統計年鑑(平成9年)
9. 東京都統計年鑑(平成10年) (PDF)
10. 
 東京都統計年鑑(平成11年) (PDF)
11. 
 東京都統計年鑑(平成12年)
12. 東京都統計年鑑(平成13年)
13. 東京都統計年鑑(平成14年)
14. 東京都統計年鑑(平成15年)
15. 東京都統計年鑑(平成16年)
16. 東京都統計年鑑(平成17年)
17. 東京都統計年鑑(平成18年)
18. 東京都統計年鑑(平成19年)
19. 東京都統計年鑑(平成20年)
20. 東京都統計年鑑(平成21年)
21. 東京都統計年鑑(平成22年)
22. 東京都統計年鑑(平成23年)
23. 東京都統計年鑑(平成24年)
24. 東京都統計年鑑(平成25年)
25. 東京都統計年鑑(平成26年)
26. 東京都統計年鑑(平成27年)
27. 東京都統計年鑑(平成28年)
28. 東京都統計年鑑(平成29年)
29. 東京都統計年鑑(平成30年)
30. 東京都統計年鑑(平成31年・令和元年)

関連項目
日本の鉄道駅一覧

外部リンク
柴又駅|電車と駅の情報 - 京成電鉄

(wikiより)

087a 柴又駅

⇧ 柴又駅(wikiより)

087a

087b

087c

087d

⇧ よく見ると寅さん

087e

087f



饂飩 ( うどん )・蕎麦 ( そば ) 発祥之地の碑


仁治 2年 ( 1241年 )、中国の宋より帰国した聖一国師は、羹、饅、麺の製法とともに、製粉技術も日本に持ち帰りました。


羹は羊羹、饅は饅頭、麺は饂飩・蕎麦等を指しますが、聖一国師により伝えられた製法・製粉技術のおかげで、日本の粉食文化が大きく発展したことは言うまでもありません。


この碑は、博多における聖一国師の偉業を後世へと伝えるものです。
(案内板より)

074a

074b

074c



上野彦馬は、天保 9年 ( 1838 )、銀屋町 16番 ( 現、長崎市銀屋町 ) に生まれた。


父・俊之丞 ( しゅんのじょう ) は、長崎奉行所の御用時計師で、ダゲレオダイプ・カメラ ( 銀板写真機 ) を日本で初めて輸入した。


彦馬は 16歳から広瀬淡窓 ( ひろせ - たんそう ) の私塾・咸宜園 ( かんぎえん ) で関学を学び、その後、長崎に戻り、オランダ海軍医ポンペのもとで舎蜜学 ( せいみがく )( 化学 ) を学んだ。


このとき湿板写真術に興味を示し、津藩士堀江鍬次郎とともに、フランス人ロッシェについて、写真術を学んだ。


文久 2年 ( 1862 )、彦馬は、中島川河畔に商業写真館・上野撮影局を開設。


高杉晋作ら著名人の肖像や各地の風景を撮影し、貴重な写真を後世に残すとともに、多くの門人を育成し、わが国写真業界の基礎を築いた。


また、明治 7年 ( 1874 ) 金星観測の写真撮影に参加。


さらに、明治 10年 ( 1877 ) には西南の役に従軍し、日本初の従軍写真家として活躍し、明治 37年 ( 1904 ) 65歳でこの世を去るまで、写真技術の発展に多大な功績を残した。
(案内板より)

〇 上野彦馬
上野 彦馬(うえの ひこま、天保9年8月27日1838年10月15日) - 明治37年(1904年5月22日)は幕末期から明治時代にかけて活動した日本写真家(写真師)。


日本における最初期の写真家で、日本最初の戦場カメラマン(従軍カメラマン)としても知られる。号は季渓。家紋は桔梗の二引。


生涯
天保9年(1838年)、長崎の蘭学者・上野俊之丞(しゅんのじょう)の次男として生まれる。広瀬淡窓の私塾、咸宜園で2年間学び、咸宜園を離れた後の安政5年(1858年)にはオランダ軍医ポンペ・ファン・メールデルフォールトを教官とする医学伝習所の中に新設された舎密試験所に入り、舎密学化学)を学んだ。このとき、蘭書から湿板写真術を知り、大いに関心を持つ。同僚の堀江鍬次郎らとともに蘭書を頼りにその技術を習得、感光剤に用いられる化学薬品の自製に成功するなど、化学の視点から写真術の研究を深める。また、ちょうど来日したプロの写真家であるピエール・ロシエにも学んだ。その後、堀江とともに江戸に出て数々の写真を撮影して耳目を開き、文久2年(1862年)には堀江と共同で化学解説書『舎密局必携』を執筆する。


同年、故郷の長崎に戻り中島河畔で上野撮影局を開業した。ちなみにこれは日本における最初期の写真館であり(ほぼ同時代に鵜飼玉川下岡蓮杖が開業)、彦馬は日本における最初期の職業写真師である。同撮影局では坂本龍馬高杉晋作ら幕末に活躍した若き志士や明治時代の高官、名士の肖像写真を数多く撮影した。


維新後の明治7年(1874年)には金星の太陽面通過の観測写真を撮影(日本初の天体写真)、明治10年(1877年)には西南戦争の戦跡を撮影(日本初の戦跡写真)、同年に開催された第1回内国勧業博覧会では鳳紋褒賞を受賞するなど、その写真は歴史的、文化的にも高く評価されている。


一方で海外に支店を持つ(ウラジオストク上海香港)など写真業繁栄の傍ら後進の指導にもあたり、富重利平田本研造ら多くの門人を輩出した。明治37年(1904年)、長崎で死去。享年67。

ギャラリーについては「上野彦馬ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E9%87%8E%E5%BD%A6%E9%A6%AC

参考文献
鈴木八郎小澤健志、八幡政男、上野一郎監修『写真の開祖 上野彦馬』 産業能率短期大学出版部,1975年
・八幡政男『幕末のプロカメラマン 上野彦馬』 長崎書房,1976年
・八幡政男『写真術師 上野彦馬』 マルジュ社,1986年
・八幡政男『評伝上野彦馬 日本最初のプロカメラマン』 武蔵野書房,1993年
・安田克廣編『幕末維新-写真が語る-』 明石書店,1997年
長野重一飯沢耕太郎木下直之編『上野彦馬と幕末の写真家たち』 岩波書店,1997年
・馬場章編『上野彦馬歴史写真集成』 渡辺出版,2006年
・本馬貞夫「上野彦馬-化学者でもあった写真師」(Wolfgang Michel、鳥井裕美子、川嶌眞人編『九州の蘭学-越境と交流-』所収) 思文閣出版,2009年
・小澤健志、上野一郎監修『レンズが撮らえた幕末の写真師上野彦馬の世界』 山川出版社,2012年


関連項目
日本写真史
三谷幸喜 - 上野をモデルにした写真家が主人公の演劇『彦馬がゆく』を上演した。
グイド・フルベッキ
上野陽一 - 「能率の父」と呼ばれる経営学者、産業心理学者。彦馬の甥(彦馬の実弟・幸馬の長男)。
上野彦馬賞


外部リンク
写真の開祖 上野彦馬(産業能率大学)

上野彦馬賞(九州産業大学)

長崎大学付属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース 上野彦馬

早稲田大学図書館 古典籍総合データベース 「舎密局必携-前篇」

『舎密局必携』巻三 附録「撮形術」(上記の付録をひらがな・読み仮名付きにしたもの)

ダルメイヤー B-3(上野が最初使ったものと同型のレンズ)

NHK福岡制作ミニ番組「維新の傑物たち 上野彦馬」公開中
(wikiより)

西南戦争…熊本城攻防戦…官軍側から写真師・上野彦馬が撮影

⇧ 西南戦争、熊本城攻防戦 官軍側から写真師・上野彦馬が撮影。


1210 上野彦馬

⇧ 上野彦馬

194a

194b

194c

194d



岡田庄次 ( おかだ - しょうじ )     
明治 24年 ~ 昭和 23年 11月 20日 ( 1891 - 1948 )

「銀座復興」のモデルとなった料理屋の主人。

東京出身。

銀座の食料品店「三浦屋」に奉公する。

大正 5年 ( 1916 ) 料理店「岡田」を銀座松屋の裏に創業。

”常に鉢巻、鉢巻”と愛唱され「鉢巻岡田」として銀座の名物者となる。

水上瀧太郎原作・久保田万太郎脚本の「銀座復興」が昭和 20年 ( 1945 ) 10月に帝国劇場で上演された際に 6代目尾上菊五郎は、岡田庄次をモデルに上演し、好評となる。57歳没。

「岡田家之墓」。「積徳院謙山證道居士」。

2223a

2223b



わが国 西洋料理の歴史は 16世紀中頃、ポルトガル船の来航に始まり、西洋料理の味と技 ( わざ ) は鎖国時代、唯一の開港地長崎のオランダ屋敷からもたらされた。


1800年代にいたり、横浜、函館などが開港され、次第に普及し、更に東京を中心に国内に大きく輪を広げ、日本人の食生活に融和 ( ゆうわ ) され現代の隆盛となった。


ここに西洋料理わが国発祥を記念し この碑を建てる。

1977年 社団法人 全日本司厨士協会
(案内板より)


〇 自由亭
「自由亭」は、江戸時代の終わり頃、日本で初めて西洋料理のレストランとして、伊良林 ( いらばやし ) の神社前にオープンしました。


主人の草野丈吉は出島のオランダ人のもとで修行し、オランダ公使デヴィットにかわいがられ、大いに料理の腕を上げたと言われています。


当時の自由亭のメニューには、ビフテキやカレーライス、コーヒー、スポンジケーキなどがあったようで、「料金は一人前三朱、6人以上お断り、前日に予約すること」という記録が残っています。


三朱は今の 1万 3千円くらい。電話もない時代に前日に予約するのは大変なことだったと思います。


自由亭は大いに繁盛し、1879年には市内の馬町 ( うままち ) に進出すると同時に、建物も現在のものに新築。


長崎一のレストランとして、元アメリカ大統領、グランド将軍をはじめとした各国の賓客が次々と訪れるようになりました。


当時のメニューには「カーァヒイ ( コーヒー )、カアレイ ( カレー )、ゼリターツ ( ゼリータルト ) などと記されています。


この建物は検事正官舎として使われていましたが、昭和 49年グラバー園に移築復元されました。

2924a

2924b

2924c

2924d

2924e



大島 渚(おおしま なぎさ、1932年3月31日 - 2013年1月15日)は、日本映画監督脚本家演出家、著述家。フィクションだけでなくドキュメンタリーも制作した。

生涯
生い立ち
1932年昭和7年)3月31日岡山県玉野市で生まれた[注 1]。父方は長崎県対馬、先祖は対馬藩士。母親は広島県呉市出身[1]。父親は農林省水産学者。仕事の関係で瀬戸内海を転々とし、カニエビの研究をしていた。

「渚」という名前もそこから付けられた[2]。6歳の時、農林省の水産試験場の場長をしていた父が死去し[注 2]、母の実家のある京都市に移住した。その後、旧制京都府立第二中学校(現在の京都府立鳥羽高等学校)に入学したが、学制改革とその後の学校再編に伴い、京都市立洛陽高等学校(後の京都市立洛陽工業高等学校。現在は移転の上京都市立伏見工業高等学校と統合し京都市立京都工学院高等学校)に移った。


1950年京都大学法学部に進学。同窓には推理作家和久峻三、建築学者の上田篤俳優辰巳琢郎の父親がいる。在学中は猪木正道に師事した。また、京都府学連委員長として学生運動に携わり、全日本学生自治会総連合米田豊昭委員長とともに京大天皇事件1951年)や松浦玲が放校処分になった荒神橋事件1953年)などに関わった。法学部助手試験は不合格となった。その際、猪木には「君に学者は向きませんよ」と諭されたという[3]。また、在学中に劇団「創造座」を創設・主宰し、演劇活動も行っていた。

「松竹ヌーヴェルヴァーグ」の旗手
京都大学卒業後、1954年(昭和29年)に松竹に入社。大船撮影所大庭秀雄野村芳太郎などの元で助監督を務めた。1959年(昭和34年)、長編『愛と希望の街』[4]映画監督としてデビュー。同作のタイトルは当初『鳩を売る少年』であったが、松竹幹部から「題名が暗くて地味」だと指摘され、妥協案として落差を表した『愛と悲しみの街』という改題を提案したが、公開時には本人の知らないうちに『愛と希望の街』へと変更されていた。翌1960年(昭和35年)の『青春残酷物語』や『太陽の墓場』といったヒット作により、篠田正浩吉田喜重とともに松竹ヌーヴェルヴァーグの旗手として知られるようになった[5]。しかし、自身はそのように呼ばれることを望まなかったという[注 3]


1960年(昭和35年)10月日米安全保障条約に反対する安保闘争を描いた『日本の夜と霧[6]を発表。しかし、同作は公開から4日後、松竹によって大島に無断で上映を打ち切られた。大島はこれに猛抗議し、1961年(昭和36年)に同社を退社。同年に大島と同時に松竹を退社した妻で女優小山明子、大島の助監督でその後脚本家として活動する田村孟、同じく脚本家の石堂淑朗、俳優の小松方正戸浦六宏の6名で映画製作会社「創造社」を設立した。その後、同社には俳優の渡辺文雄らが加わった。


1962年(昭和37年)の『天草四郎時貞』の興行失敗を契機として、テレビの世界にも活動範囲を広げるようになった。1963年(昭和38年)の元日本軍在日韓国人傷痍軍人会を扱ったドキュメンタリー『忘れられた皇軍』は話題となり、翌1964年に脚本を務めたテレビドラマ『青春の深き渕より』は芸術祭文部大臣賞を受賞した。また、60年代には大島渚が南ベトナム軍を取材したTVドキュメンタリーも放映された。戦争の悲惨さを伝える内容だったが、放映後に寄せられた視聴者の声は、よくやったというものが圧倒的に多く、批判的なものは皆無だったという。その他にも『日本映画の百年』(1995年)など20本以上のテレビドラマやドキュメンタリーを手がけた。テレビでの仕事を通じて親交を深めたディレクターの一人に実相寺昭雄がおり、後に映画監督として創造社系の脚本家と多くコンビを組んだ。大阪釜ヶ崎にのりこんで撮影した『太陽の墓場』[7]でも高評価を得た。


1960年代後半には『白昼の通り魔』(1966年)や『忍者武芸帳』(1967年[注 4]、『絞死刑』(1968年)、『新宿泥棒日記』(1969年)など政治的・社会的な作品を矢継ぎ早に発表し、国内外での認知度も急速に高まった。1971年(昭和46年)には創造社時代の集大成とも言われる『儀式』を発表。同作はキネマ旬報ベストテンの第1位に選出された。翌1972年(昭和47年)の『夏の妹』の発表後、「創造社」は翌1973年(昭和48年)7月に解散した。その後は映画製作の資金を稼ぐためにテレビ出演などの活動を行った。1975年(昭和50年)、新たに「大島渚プロダクション」を設立。『愛のコリーダ』の製作に着手した。

世界進出
1976年(昭和50年)、阿部定事件1936年)を題材に社会の底辺に住む男女の性愛を描いた『愛のコリーダ』を発表。同作は検閲を避けるため、若松孝二アナトール・ドーマンのプロデュースという日仏合作で製作され、撮影済みのフィルムをフランスへ直送して現像と編集の作業を行い、タイトルクレジットはフランス語で書かれていた[8]第29回カンヌ国際映画祭の監督週間部門に出品され、ハードコア・ポルノとしての性描写が観客や批評家の間で話題となった。同作は国際的に評価され、シカゴ国際映画祭審査員特別賞や英国映画協会サザーランド杯を受賞したが、日本では映倫によって大幅な修正を受けた。2000年のリバイバル上映の際には修正個所は大幅に減ったものの、依然としてボカシ修正が入り、日本では21世紀に入っても、映画館や国内DVDによる無修正完全版の視聴は不可能である。また、1979年(昭和53年)に同作の脚本や宣伝用スチル写真などを掲載した書籍『愛のコリーダ』が出版された際にはわいせつ物頒布等の罪で起訴された。大島が「刑法175条は憲法違反である」と主張した点は認められなかったものの、1982年、猥褻物とは認められず無罪となった。同年、東映のヤクザ映画大作日本の黒幕』の監督に抜擢されたが、脚本の最終段階で降板した。


その後は日本国外資本での映画製作が中心となり、1978年(昭和53年)に再び日仏合作による『愛の亡霊』を発表。性的描写は前作よりは抑制されたが、不倫した妻が愛人と共謀して夫殺しに走るという前作と似たストーリーの作品を発表。同作は第32回カンヌ国際映画祭監督賞を受賞。1983年(昭和58年)にはビートたけし坂本龍一デヴィッド・ボウイなど異色のキャスティングが話題となった国際的合作『戦場のメリークリスマス』を発表。第36回カンヌ国際映画祭に出品された際にはパルム・ドール最有力候補と目されたが、無冠に終わった[注 5]。同作で初めて映画音楽を担当した坂本龍一は英国アカデミー賞作曲賞を受賞した。1986年(昭和61年)の『マックス、モン・アムール』では人間とチンパンジーの愛を描いた。同作は主演にシャーロット・ランプリング、脚本にジャン=クロード・カリエール撮影監督ラウール・クタールを起用し、全編フランスで撮影された。

1990年代には早川雪洲ルドルフ・ヴァレンティノの関係を題材にした『ハリウッド・ゼン』の製作に着手。早川役には再び坂本龍一、ヴァレンティノ役にはアントニオ・バンデラスを起用したが、撮影開始直前に資金不足により製作中止となった。その後はBBCの依頼を受け、『キョート、マイ・マザーズ・プレイス』(1991年)や『日本映画の百年』(1995年)といったテレビドキュメンタリーを製作した。


1980年代後半からは『朝まで生テレビ』のレギュラーパネリストとなり、テレビ番組のコメンテーターとしても活動した。大島は映画製作の資金捻出が目的ではなく、テレビに出演するのが生き甲斐であると語った。事実、死去までの30年間は依頼を受けた2本の映画を監督したのみ(それ以前には24年間で25本の映画を監督しており、その大部分が依頼作品ではなく資金負担をともなう自主企画であった)であり、病身もあって自己資金で映画を製作・監督するような活動は停止していた。その他にも1980年(昭和54年)には日本映画監督協会の理事長に就任し、1996年平成8年)まで歴任した。

『御法度』と闘病
1996年(平成8年)1月下旬、10年ぶりの作品となる『御法度』の製作を発表。しかし、同年2月下旬に渡航先のロンドン・ヒースロー空港脳出血に見舞われた[9]。その後、3年に及ぶリハビリを経て、1999年(平成11年)に『御法度』を完成させた。同作ではビートたけし崔洋一という二人の映画監督俳優として出演し、大島は二人に撮影現場でのサポート役を託したと言われている。同作は翌2000年(平成12年)の第53回カンヌ国際映画祭に出品され、第42回ブルーリボン賞では作品賞・監督賞を受賞した。また、1999年12月15日には同作の撮影現場を映したテレビドキュメンタリー『1999 大島渚 映画と生きる』がNHK-BS2にて放映された。


2000年、紫綬褒章を受章。褒章受章は、若き日の大島の思想や生き方とは矛盾していた。2001年(平成13年)6月にはフランス政府よりフランス芸術文化勲章オフィシエ章が授与された。その後、再び病状が悪化し、リハビリ生活に専念した。2006年(平成18年)、映画の著作権問題を問う『映画監督って何だ!』に出演した。また、同年2月26日には同品の披露会見を兼ねた日本映画監督協会の創立70周年祝賀パーティーにも歴代理事長として壇上に上がった。公の場に姿を現すのは4年8ヶ月ぶりであった。2008年(平成20年)7月28日に放映された『テレメンタリー パーちゃんと見つけた宝もの〜大島渚・小山明子の絆〜』や同年8月17日に放映された『田原総一朗ドキュメンタリースペシャル「忘れても、いっしょ…」』において神奈川県鎌倉市の聖テレジア病院で言語症右半身麻痺のリハビリに励む姿がオンエアされた。

死去
2013年(平成25年)1月15日午後3時25分、神奈川県藤沢市の病院で肺炎により死去[10]。80歳没。戒名は大喝無量居士(だいかつむりょうこじ)。墓所は神奈川県鎌倉市建長寺回春院[11]


訃報を受けて坂本龍一岩井俊二松尾貴史などが自らのTwitterで大島への追悼の辞を発した[12]。大島と同世代の映画監督であり、同じく松竹ヌーヴェルヴァーグと呼ばれた篠田正浩は「僕と大島は戦友だった」と哀惜の念を語り[13]田原総一朗は「(大島さんは)頼れる兄貴みたいな存在だった」と語った[14]。『戦場のメリークリスマス』に出演したビートたけしは大島との出会いを「夢のようだった」と語った[15]。また、大島と親交のあった映画監督の帯盛迪彦は大島の訃報にショックを受けたことが影響したのか体調が悪化し、3日後の1月18日敗血症で死去した[16]


2019年12月4日、「大島渚賞」の創設が発表された[17]。選考対象は「日本在住で活躍し、過去に3本程度の劇場公開作品がある映画監督」[17]

詳しいことは、「大島 渚ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%B3%B6%E6%B8%9A
(wikiより)

73   Nagisa_Oshima_at_Cannes_in_2000

大島 渚

73a

73b

73c

73d

73e

⇧⇩ 「 深海に生きる魚族のように、自らが燃えなければ何処にも光はない  大島 渚 」

73f



小林 正樹(こばやし まさき、1916年2月14日 - 1996年10月4日)は日本の映画監督

人物・来歴
北海道小樽区(現・小樽市)に会社員の息子として生まれる。女優田中絹代又従弟[1][2]に当たる。旧制小樽中学校(現在の北海道小樽潮陵高等学校)を経て早稲田大学文学部哲学科に進学。早大では東洋美術を専攻し、会津八一に師事する。在学中に田中絹代に誘われて映画『桑の實は紅い』(清水宏監督)のロケ現場に1ヶ月参加する。1941年(昭和16年)早稲田大学卒業。卒業論文は「室生寺建立年代の研究」。


同年に松竹大船撮影所助監督部に入社する。同期には野村芳太郎がいた。入社試験に際しては、親しい間柄であった田中絹代に紹介を頼んだが、「映画界は実力がなければ通用しない」と諭され、田中の縁者であることを隠し通したという。同年、『暁の合唱』(清水宏監督)、『風薫る庭』(大庭秀雄監督)に助監督として就いたのち、応召する。満州においてソ連国境線の警備にあたる。軍務の合間を縫ってシナリオ『防人』を執筆。1944年(昭和19年)に宮古島へ移動、飛行場建設作業に従事する。

1945年
(昭和20年)、宮古島で終戦を迎えるが、労働要員として沖縄本島嘉手納捕虜収容所に収容される。


1946年(昭和21年)に復員して松竹大船撮影所に戻り、1947年(昭和22年)助監督として木下恵介監督につく。

1948年(昭和23年)の『破戒』から『日本の悲劇』まで11作品でチーフを務め、木下門下の優等生と呼ばれた。

1952年
(昭和27年)、中編『息子の青春』を監督し、1953年(昭和28年)木下が脚本を手がけた『まごころ』で正式に監督に昇進。同年安部公房の脚本により、無実の罪で投獄されたBC級戦犯を描いた重厚な作品『壁あつき部屋』を監督するが、アメリカ合衆国への配慮から1956年(昭和31年)まで公開が見送られた。その後、プロ野球の内幕を暴露した『あなた買います』や、基地の町の退廃を描写した1957年(昭和32年)『黒い河』などが評価される。


1959年(昭和34年)から1961年(昭和36年)の3年間にかけて公開された『人間の條件』は、五味川純平原作の大長編反戦小説「人間の條件」の映画化で、長きに渡る撮影期間と莫大な製作費をつぎ込み、6部作、9時間31分の超大作となった。完成した作品は、戦時中の日本軍の暴虐と、それに反抗したインテリ兵の逆境と敗戦、逃亡、死を見事に描ききり、毎日芸術賞、毎日映画コンクール監督賞、ヴェネツィア国際映画祭サン・ジョルジョ賞を受賞する。続く1962年(昭和37年)、滝口康彦の小説「異聞浪人記」を原作にした橋本忍の脚本を得、自身でも「自作の中で最も密度が高い」と豪語した初の時代劇『切腹』でカンヌ国際映画祭審査員特別賞を受賞。続いて小泉八雲の原作『怪談』をオムニバス方式で映画化した初のカラー作品『怪談』は3時間の大作で、2度目のカンヌ国際映画祭審査員特別賞を受けたほか、アカデミー賞外国語映画賞にノミネートされ、日本映画史上屈指の傑作と絶賛された。撮影は廃屋となっていた航空機の格納庫に大規模なセットを組んで行われ、ホリゾントに描かれた空の絵などに、美術を担当した戸田重昌の才気が光り、武満徹による音楽は、画や演技との掛け合いを行う音響のような効果を存分に発揮し、幻想的な世界を作り上げた。しかし、大規模なセット、長期に亘る撮影、スタッフ・キャストほか800名にもおよぶ大編成のため、製作費が大幅に膨らみ、多くの名作を世に送ってきた独立プロダクション「文芸プロダクションにんじんくらぶ」は、多額の負債を抱えて倒産するという憂き目に合う。


1965年(昭和40年)松竹を退社して東京映画と契約し、1967年(昭和42年)三船プロ第1作となる『上意討ち 拝領妻始末』を監督して、ヴェネツィア国際映画祭で国際映画批評家連盟賞を受賞、キネマ旬報ベスト・ワンとなった。1968年(昭和43年)の『日本の青春』のあとフリーとなり、1969年(昭和44年)には黒澤明、木下恵介、市川崑とともに「四騎の会」を結成。1971年(昭和46年)にはカンヌ国際映画祭で25周年記念として世界10大監督の1人として功労賞を受賞。同年から俳優座映画放送製作『いのちぼうにふろう』を監督や井上靖の長編小説をテレビドラマ化と同時に映画も製作した1975年(昭和50年)の『化石』などといった話題作を発表。


1982年
(昭和57年)には足掛け5年の歳月をかけて米国国防総省の保管フィルムや内外のニュース映像などをつなぎ合わせ、極東国際軍事裁判の長編記録映画『東京裁判』を完成させた。『東京裁判』は、立花隆などから肯定的な評価を得た一方、南京事件に関する映像に中国・国民政府が作成した信憑性の低い『中国之怒吼』のフィルムを挿入した事が批判を受けるなど、評価が分かれた(ただし作品中では『これは中国側のフィルムである』というクレジットを表記し、中立性に配慮を行っている)。この間、井上靖原作の「敦煌」の映画企画を長年温め、脚本も完成していたが、製作を決定した新生大映社長の徳間康快とのあいだで方針の食い違いを生じ、断念せざるをえなかった。1985年(昭和60年)円地文子原作の連合赤軍事件を題材にした『食卓のない家』を監督。これが最後の映画監督作品になる。


小林は、癌を患っていた又従姉である女優・田中絹代の晩年の面倒を看た。身寄りがない田中は借金をしており、邸宅が抵当に入っていた。そのため、小林は、田中の法的な相続権もなく賃貸借の証文もないまま、田中のために奔走し、小林自らが借金をして抵当権を解除、田中の入院費をも負担した[3]。田中の死後の1985年(昭和60年)に小林自身が病気で倒れた際には急遽、彼の働きで毎日映画コンクール田中絹代賞が創設され、日本映画界の発展に貢献した女優に授与されることとなった。晩年は大学時代の恩師会津八一の伝記映画の準備をしていたが、1996年(平成8年)10月4日、心筋梗塞のため東京都世田谷区の自宅で80歳で死去。遺骨は、神奈川県鎌倉市円覚寺と、絹代の出生地であり墓がある山口県下関市の市営下関中央霊園に分骨されている。

作品


監督作品
息子の青春(1952年)

まごころ(1953年)

この広い空のどこかに(1954年)

三つの愛(1954年)

美わしき歳月(1955年)

壁あつき部屋(1956年)

あなた買います(1956年)

(1956年)

黒い河(1957年)

人間の條件・第一・第二部(1959年)

・人間の條件・第三・第四部(1959年)

・人間の條件・完結篇(1961年)

からみ合い(1962年)

切腹(1962年)

怪談(1965年)

上意討ち 拝領妻始末(1967年)

日本の青春(1968年)

いのちぼうにふろう(1971年)

化石(1975年)

燃える秋(1978年)

東京裁判(1983年)

食卓のない家(1985年)

その他の映像作品
破れ太鼓1949年12月7日公開、木下惠介監督、松竹) - 脚本

どですかでん1970年10月31日公開、黒澤明監督、東宝) - 企画

どら平太2000年5月13日公開、市川崑監督、東宝) - 脚本

栄典
・1990年 - 勲四等旭日小綬章受章[4]

評伝
・『映画監督 小林正樹』(小笠原清・梶山弘子編、岩波書店、2016年12月)[5]

  ・知人の回想、本人へのインタビュー、戦時中の日記などを収録。

展示
東京の世田谷文学館で「小林正樹展」が開催された(2016年7月16日 - 9月15日)[6]

脚注
出典
1.  NPO法人 田中絹代メモリアル協会とは”. NPO法人田中絹代メモリアル協会. 2013年3月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年7月2日閲覧。
2. 倉本 2002, p. 137.
3. 倉本 2002, pp. 137-139.
4. 「「秋の叙勲」 東京で559人が受章」『読売新聞』1990年11月3日朝刊
5. “小林正樹の全貌に迫る書籍発売、木下惠介による講演や仲代達矢の寄稿文も収録”. 映画ナタリー. (2016年12月21日). http://natalie.mu/eiga/news/214165 2016年12月22日閲覧。 
6. 小林正樹の自筆資料など集めた展覧会が開催、仲代達矢によるトークショーも”. 映画ナタリー. 2019年7月2日閲覧。

参考文献
倉本聰『愚者の旅 わがドラマ放浪』理論社、2002年。ISBN 4652077092

外部リンク
小林正樹 - allcinema

小林正樹 - KINENOTE

小林正樹 - 日本映画データベース

Masaki Kobayashi - インターネット・ムービー・データベース(英語)

小林正樹 | 新潟市會津八一記念館

映画監督小林正樹オフィシャルサイト(松竹公式)
(wikiより)


70 小林正樹

小林正樹

70a

70b

70c




下岡蓮杖
( 1823 ~ 1914 )


日本営業写真開祖の写場 ( スタジオ )。


〇 下岡蓮杖
下岡 蓮杖(しもおか れんじょう、文政6年2月12日1823年3月24日) - 1914年3月3日)は、日本の写真家(写真師)、画家。「蓮杖」は号で、通称は久之助。横浜を中心に活躍、上野彦馬鵜飼玉川らと並び、日本最初期の写真家である。


801 下岡蓮杖

⇧ 下岡蓮杖が慶応4年(1868年)に撮影した武州忍藩士・吉田庸徳の写真

801   Monument_and_Statue_of_Shimooka_Renjō

⇧ 静岡県下田市下田公園内にある下岡蓮杖の碑と像

経歴
生い立ち
伊豆国下田中原町(現在の静岡県下田市静岡地方裁判所下田支部裏付近)に桜田与惣右衛門の三男として生まれる。父は浦賀船改御番所の元、下田問屋六十三軒衆の一人だった。幼いときから絵を好んで下田で奉公するのを嫌ったため、天保6年(1835年)13歳で江戸に出て絵師になろうとする。しかし、何のツテも持たない少年が良い師につくことは難しく、結局日本橋横山町の足袋問屋に丁稚奉公に出ることになった。しかし、これも合わず3年で下田に戻る。天保14年(1843年)には父のコネで、下田奉行所の臨時下田御台場附足軽の職につくが、絵師への夢を捨てきれず、暇さえあれば絵を描いていた。これを見ていた上役の取次を得て、弘化元年(1844年)秋に江戸へ向かい狩野菫川に入門。菫川も伊豆出身ということもあって気に入られ、菫円(園)、菫古と号して、のちに全楽堂あるいは伝神楼とも号した。

写真術取得への道のり
ある日、師の用事である旗本家(一説に薩摩藩下屋敷)に出向くと、オランダ船のもたらした1枚のダゲレオタイプを見せられた。これに驚嘆した蓮杖は、以来写真術を学ぼうと決心し、菫川の許しを得てその門を離れた。しかし、菫川からの恩を忘れないため、「菫」の字が蓮の根を意味することから自分の身長より大きい5尺3寸の唐桑の木で蓮根の形を表した杖を作らせ、これを常に持ち歩いた。そのためいつしか蓮杖と呼ばれるようになり、自身もそう名乗るようになった。また、奥儒者成島司直(幕府の正史『徳川実紀』の編纂者)から、写真術の情報を聞いたのも、写真師を目指すきっかけの一つと言われている[1]


写真術を学ぶには外国人と近づくのが近道であると、伯父を頼り浦賀奉行の足軽として浦賀平根山台場の御番所警衛係の職を得た。そこで数回にわたってアメリカやロシア船舶の外国人に接したが目的を達することができず、諦めて長崎で学ぼうとした矢先に黒船来航が起こる。日米和親条約で下田が開港すると、郷里の下田で次の機会を狙おうと考え、船で帰省する途中、今度は安政東海地震に遭遇する。どうにか辿り着いた下田は酷い惨状だったが、何とか肉親や縁者と再開することが出来た。菫川には自身の無事を知らせるため、紙の代わりに屋根板に手紙を書き、その板には「逆浪に追われて家も米もなし 楽しみもなし死にたうもなし」と記されていたという。


下田での蓮杖は開国以前からあった、米国船が薪や水、食料などを買い付けるための市場「漂民欠乏所」の足軽として外使への給仕役として勤め、写真術を学ぶ機会を窺った。ここで安政3年(1856年横浜開港の談判のために来日したタウンゼント・ハリスの通訳であるヘンリー・ヒュースケンから、ようやく写真術の原理や基本概要を学ぶことが出来た。安政6年(1859年)12月に下田開港場は閉鎖され蓮杖もお役御免になると、菫川の江戸城再建に伴う絵画制作を手伝いに江戸に行く。ここで賃金100両を得るとどういう経緯は不明だが、開港した横浜で雑貨貿易商を営むユダヤ人レイフル・ショイアーの元で働くことになった。ショイヤーの妻アンナは幼い頃から画を好み、蓮杖の日本画を高く評価したため、蓮杖はアンナから西洋画法を学び、蓮杖はアンナに日本画法を教えた。


そのショイアー家にアメリカの写真家ジョン・ウィルソン(蓮杖の記録では「ウンシン」)が寄宿する。彼こそが蓮杖に写真術を授けた人物である。ただし、ウィルソンは同業者が増えるのを嫌い、容易に蓮杖を受け入れなかった。宣教師S・R・ブラウンの長女・ジュリア・マリア・ブラウン(後のラウダー夫人)がウィルソンから写真術を学ぶようになると、蓮杖はジュリアを通じて写真術を学べるようになるが、薬品の調合や暗室作業の詳細などは解らないことが多かった。特にウィルソンは、コロディオン湿板ネガから印字紙へプリントする技術を故意に教えなかったと思われ、蓮杖は大変苦労することになる。文久元年末(1862年1月末)にウィルソンは離日するが、写真機材や薬品と蓮杖が描いた日本の景色風俗のパノラマ画86枚と交換し、翌年ウィルソンはロンドンでパノラマ画の展示会を開いている。ウィルソンの写真機材得た蓮杖は、努力と財産の全てを傾けて写真術の研究に没頭し、苦労の末どうにか鮮明な画像得るのに成功した。

写真館開業
文久2年(1862年)蓮杖は40歳で横浜の野毛、ついで弁天通5丁目横町で写真館を開業した。これが横浜における営業写真館の最初であるとされる(江戸では前年に鵜飼玉川が写真館を開設しているとされる。長崎の上野彦馬の開業は、蓮杖と同年)。当初は日本人は写真を撮影すると寿命が縮まると称してこれを嫌い、客はいずれも外国人であった。写真館に来る外国人は和服和装姿や甲冑姿で写真を取るのを好んだが、着物を左前に着たり、屏風の傍らに石灯籠を配するなど日本の風習を無視する者もいた。蓮杖は注意したが外国人は応じず、蓮杖も諦めて撮影するようになった。開化期にしばしば見られる奇妙な日本風俗写真は、こうした経緯で制作されたとみられる。また外国人客は日本娘の写真を大変好んだため、蓮杖は多額の報酬でモデルを雇って撮影し、浮世絵美人画のような写真も販売した。文久年間には根強かった迷信も次第に無くなり、日本人客も来るようになり店は繁盛した。


蓮杖の門下からは、横山松三郎臼井秀三郎鈴木真一(初代)江崎礼二など日本写真史に名を残す著名な写真家達を輩出した。ほかに桜田安太郎、四身清七、桜井初太郎、平田玄章、西山礼助、船田万太夫、勅使河原金一郎などがいる[2]


一方で蓮杖はまた勤王の志が強く、箱館戦争台湾出兵などのパノラマ画を描き、作品は遊就館に納められた。また、元治元年(1864年)に来日、石版の技術を有していたアメリカ人の建築技師リチャード・ブリジェンスと親しくなり、そこで石版印刷を学び、明治初期、蓮杖も自ら石版画「徳川家康像」を制作、日本における石版印刷業、牛乳搾取業、乗合馬車営業の開祖であるとされる。


明治15年(1882年)、蓮杖は浅草公園第五区に写真館を移したがその後写真業を廃しキリスト教に入信、信仰生活に入り画筆を楽しみつつ余生を送った。


蓮杖は1914年に浅草で没した。享年92。墓地は豊島区駒込染井霊園にあり、下田公園には蓮杖の記念碑と銅像が建立されている。

脚注
1. 大日方欣一、「下岡蓮杖」 『日本大百科全書小学館、1994年。 
2. 幕末明治の写真師列伝 第三十回 鈴木真一 その一一般財団法人 日本カメラ財団

参考文献

・藤倉忠明 『写真伝来と下岡蓮杖』 神奈川新聞社、1997年5月、ISBN 978-4-8764-5216-3

・石黒敬章編 『限定版 下岡蓮杖写真集』 新潮社、1999年5月、ISBN 978-4-1072-0045-7

・斎藤多喜夫 『幕末明治 横浜写真館物語』 吉川弘文館歴史文化ライブラリー〉、2004年3月、ISBN 978-4-6420-5575-8

東京都写真美術館監修 『下岡蓮杖 日本写真の開拓者』 国書刊行会、2014年2月、ISBN 978-4-336-05782-2

関連項目
上野彦馬

鵜飼玉川

日本写真史

外部リンク

・『歴史写真. 大正6年10月號』(国立国会図書館デジタルコレクション)

  ・写真館安政6年横浜大田町にて全楽堂を開業と説明

  ・撮影旅行の下岡

下岡蓮杖とブラウンの周辺の写真について高橋信一(慶應義塾大学)
(wikiより)

24  下岡蓮杖

下岡蓮杖

32a

32b



下岡 蓮杖(しもおか れんじょう、文政6年2月12日1823年3月24日) - 1914年3月3日)は、日本の写真家(写真師)、画家。「蓮杖」は号で、通称は久之助。横浜を中心に活躍、上野彦馬鵜飼玉川らと並び、日本最初期の写真家である。

801 下岡蓮杖

⇧ 下岡蓮杖が慶応4年(1868年)に撮影した武州忍藩士・吉田庸徳の写真

801   Monument_and_Statue_of_Shimooka_Renjō

⇧ 静岡県下田市下田公園内にある下岡蓮杖の碑と像

経歴
生い立ち
伊豆国下田中原町(現在の静岡県下田市静岡地方裁判所下田支部裏付近)に桜田与惣右衛門の三男として生まれる。父は浦賀船改御番所の元、下田問屋六十三軒衆の一人だった。幼いときから絵を好んで下田で奉公するのを嫌ったため、天保6年(1835年)13歳で江戸に出て絵師になろうとする。しかし、何のツテも持たない少年が良い師につくことは難しく、結局日本橋横山町の足袋問屋に丁稚奉公に出ることになった。しかし、これも合わず3年で下田に戻る。天保14年(1843年)には父のコネで、下田奉行所の臨時下田御台場附足軽の職につくが、絵師への夢を捨てきれず、暇さえあれば絵を描いていた。これを見ていた上役の取次を得て、弘化元年(1844年)秋に江戸へ向かい狩野菫川に入門。菫川も伊豆出身ということもあって気に入られ、菫円(園)、菫古と号して、のちに全楽堂あるいは伝神楼とも号した。

写真術取得への道のり
ある日、師の用事である旗本家(一説に薩摩藩下屋敷)に出向くと、オランダ船のもたらした1枚のダゲレオタイプを見せられた。これに驚嘆した蓮杖は、以来写真術を学ぼうと決心し、菫川の許しを得てその門を離れた。しかし、菫川からの恩を忘れないため、「菫」の字が蓮の根を意味することから自分の身長より大きい5尺3寸の唐桑の木で蓮根の形を表した杖を作らせ、これを常に持ち歩いた。そのためいつしか蓮杖と呼ばれるようになり、自身もそう名乗るようになった。また、奥儒者成島司直(幕府の正史『徳川実紀』の編纂者)から、写真術の情報を聞いたのも、写真師を目指すきっかけの一つと言われている[1]


写真術を学ぶには外国人と近づくのが近道であると、伯父を頼り浦賀奉行の足軽として浦賀平根山台場の御番所警衛係の職を得た。そこで数回にわたってアメリカやロシア船舶の外国人に接したが目的を達することができず、諦めて長崎で学ぼうとした矢先に黒船来航が起こる。日米和親条約で下田が開港すると、郷里の下田で次の機会を狙おうと考え、船で帰省する途中、今度は安政東海地震に遭遇する。どうにか辿り着いた下田は酷い惨状だったが、何とか肉親や縁者と再開することが出来た。菫川には自身の無事を知らせるため、紙の代わりに屋根板に手紙を書き、その板には「逆浪に追われて家も米もなし 楽しみもなし死にたうもなし」と記されていたという。


下田での蓮杖は開国以前からあった、米国船が薪や水、食料などを買い付けるための市場「漂民欠乏所」の足軽として外使への給仕役として勤め、写真術を学ぶ機会を窺った。ここで安政3年(1856年横浜開港の談判のために来日したタウンゼント・ハリスの通訳であるヘンリー・ヒュースケンから、ようやく写真術の原理や基本概要を学ぶことが出来た。安政6年(1859年)12月に下田開港場は閉鎖され蓮杖もお役御免になると、菫川の江戸城再建に伴う絵画制作を手伝いに江戸に行く。ここで賃金100両を得るとどういう経緯は不明だが、開港した横浜で雑貨貿易商を営むユダヤ人レイフル・ショイアーの元で働くことになった。ショイヤーの妻アンナは幼い頃から画を好み、蓮杖の日本画を高く評価したため、蓮杖はアンナから西洋画法を学び、蓮杖はアンナに日本画法を教えた。


そのショイアー家にアメリカの写真家ジョン・ウィルソン(蓮杖の記録では「ウンシン」)が寄宿する。彼こそが蓮杖に写真術を授けた人物である。ただし、ウィルソンは同業者が増えるのを嫌い、容易に蓮杖を受け入れなかった。宣教師S・R・ブラウンの長女・ジュリア・マリア・ブラウン(後のラウダー夫人)がウィルソンから写真術を学ぶようになると、蓮杖はジュリアを通じて写真術を学べるようになるが、薬品の調合や暗室作業の詳細などは解らないことが多かった。特にウィルソンは、コロディオン湿板ネガから印字紙へプリントする技術を故意に教えなかったと思われ、蓮杖は大変苦労することになる。文久元年末(1862年1月末)にウィルソンは離日するが、写真機材や薬品と蓮杖が描いた日本の景色風俗のパノラマ画86枚と交換し、翌年ウィルソンはロンドンでパノラマ画の展示会を開いている。ウィルソンの写真機材得た蓮杖は、努力と財産の全てを傾けて写真術の研究に没頭し、苦労の末どうにか鮮明な画像得るのに成功した。

写真館開業
文久2年(1862年)蓮杖は40歳で横浜の野毛、ついで弁天通5丁目横町で写真館を開業した。これが横浜における営業写真館の最初であるとされる(江戸では前年に鵜飼玉川が写真館を開設しているとされる。長崎の上野彦馬の開業は、蓮杖と同年)。当初は日本人は写真を撮影すると寿命が縮まると称してこれを嫌い、客はいずれも外国人であった。写真館に来る外国人は和服和装姿や甲冑姿で写真を取るのを好んだが、着物を左前に着たり、屏風の傍らに石灯籠を配するなど日本の風習を無視する者もいた。蓮杖は注意したが外国人は応じず、蓮杖も諦めて撮影するようになった。開化期にしばしば見られる奇妙な日本風俗写真は、こうした経緯で制作されたとみられる。また外国人客は日本娘の写真を大変好んだため、蓮杖は多額の報酬でモデルを雇って撮影し、浮世絵美人画のような写真も販売した。文久年間には根強かった迷信も次第に無くなり、日本人客も来るようになり店は繁盛した。


蓮杖の門下からは、横山松三郎臼井秀三郎鈴木真一(初代)江崎礼二など日本写真史に名を残す著名な写真家達を輩出した。ほかに桜田安太郎、四身清七、桜井初太郎、平田玄章、西山礼助、船田万太夫、勅使河原金一郎などがいる[2]


一方で蓮杖はまた勤王の志が強く、箱館戦争台湾出兵などのパノラマ画を描き、作品は遊就館に納められた。また、元治元年(1864年)に来日、石版の技術を有していたアメリカ人の建築技師リチャード・ブリジェンスと親しくなり、そこで石版印刷を学び、明治初期、蓮杖も自ら石版画「徳川家康像」を制作、日本における石版印刷業、牛乳搾取業、乗合馬車営業の開祖であるとされる。


明治15年(1882年)、蓮杖は浅草公園第五区に写真館を移したがその後写真業を廃しキリスト教に入信、信仰生活に入り画筆を楽しみつつ余生を送った。


蓮杖は1914年に浅草で没した。享年92。墓地は豊島区駒込染井霊園にあり、下田公園には蓮杖の記念碑と銅像が建立されている。

脚注
1. 大日方欣一、「下岡蓮杖」 『日本大百科全書小学館、1994年。 
2. 幕末明治の写真師列伝 第三十回 鈴木真一 その一一般財団法人 日本カメラ財団

参考文献

・藤倉忠明 『写真伝来と下岡蓮杖』 神奈川新聞社、1997年5月、ISBN 978-4-8764-5216-3

・石黒敬章編 『限定版 下岡蓮杖写真集』 新潮社、1999年5月、ISBN 978-4-1072-0045-7

・斎藤多喜夫 『幕末明治 横浜写真館物語』 吉川弘文館歴史文化ライブラリー〉、2004年3月、ISBN 978-4-6420-5575-8

東京都写真美術館監修 『下岡蓮杖 日本写真の開拓者』 国書刊行会、2014年2月、ISBN 978-4-336-05782-2

関連項目
上野彦馬

鵜飼玉川

日本写真史

外部リンク

・『歴史写真. 大正6年10月號』(国立国会図書館デジタルコレクション)

  ・写真館安政6年横浜大田町にて全楽堂を開業と説明

  ・撮影旅行の下岡

下岡蓮杖とブラウンの周辺の写真について高橋信一(慶應義塾大学)
(wikiより)

24  下岡蓮杖

下岡蓮杖

24a

24b

24c

24d

24e

24f

24g

24h



納屋美算 ( なや - びさん )     
弘化 4年 2月 24日 ~ 昭和 8年 6月 10日 ( 1847 - 1933 )

正岡子規の最晩年の写真を撮影した人。

別名、納屋才兵衛。

美濃大垣出身。

飯沼家に生まれ、桑名で「納屋才」を屋号にし魚介類を扱っていた中島家の養子となり、明治中期に納屋姓に改姓。

家業の傍ら写真を始め、祖父・飯沼慾斎 ( 美算の養父中島孫左衛門の実父で祖母の兄 ) の甥小島柳蛙のもとで写真術を修業。

桑名で初めての写真館「笛橋堂」を開く。

写真は飯沼長蔵 ( 美算の実兄 ) の影響に拠るものと思われる。

上京して根岸に写真館「春光堂」を経営。一家をなす。87歳没。

 古書に「根岸の先生 ( 平田篤胤 ) は一本橋の北、2 ~ 3丁先田圃の中に住せり」とあり、この一本橋は、写真館「春光堂」前にあった。

また、一本橋の下を流れる川は、音無川と思われる。

なお、平田篤胤は本居宣長らの後を引き継いだ国学者で、やがてその思想は水戸学同様尊皇攘夷の支柱となる。飯沼慾斎に関してはウィキペディアを参照のこと。

 小島柳蛙 ( こじま - りゅうあ ) : 文政 3年 ( 1820 ) に小島当三郎と蘭学者・飯沼慾斎 ( いいぬま - よくさい ) の妹・登喜 ( とき ) の子として美濃国に生れ、飯沼慾斎に化学を学ぶ。

万延元年 ( 1860 ) 先に江戸に遊学に出た兄を頼って上京、外国人から写真術を伝授され、文久 3年 ( 1863 ) に名古屋で尾張藩の儒学者細野要斎を撮影。

明治 4年 ( 1871 ) に郷里の伊奈波 ( いなば ) 神社口に写場を開設。

2621a

2621b

2621c



江木保男 ( えぎ - やすお )     
安政 3年 5月 ~ 明治 31年 7月 2日 ( 1856 - 1898 )

明治期の写真家。

幼名、鶴之進。

父、江木鰐水。

備後国 ( 広島 ) 出身。

明治 8年 ( 1723 ) 司法省に入るが、のち商業に転じ、貿易商を営む。のち、東京京橋に写真館を開業。43歳没。

また、「江木保男」と「江木悦子」の名は、鉄格子のある納骨墓に見られる。

因みに、江木定男は、明治 19年 9月 9日生 ~ 大正 11年 6月 20日歿。

2376a

2376b



江木松四郎 ( えぎ - まつしろう )    
安政 3年 11月 17日 ~ 明治 33年 5月 15日 ( 1856 - 1900 )

写真家。

広島県出身。

父、江木江木鰐水 ( 五男 )。

明治 10年父と共に東京に出る。

明治 13年 ( 1880 ) に京橋区山城町 ( 銀座 6丁目 ) に江木写真店を弟江木保男と開設。

松四郎はアメリカにて、保男はオランダで写真術を習う。

帰国後明治 17年 ( 1884 ) 神田区 ( 千代田区 ) 淡路町に写真店を開設した。

明治 24年京橋区丸屋町 ( 銀座 8丁目 ) に 6階建ての塔を持つ店を開設。45歳没。

兄に、江木高遠がいる。

江木保男の先妻江木蝶子との子に江木定男がいるが、定男の妻の江木ませ子は、鏑木清方の代表作「築地明石町」のモデル。

江木保男の後妻は、江木ませ子の実の姉関場悦子。

2095a

2095b



斎藤 達雄(さいとう たつお、1902年6月10日 - 1968年3月2日)は、日本俳優映画監督


松竹蒲田撮影所に入り、独特の存在感を持つ飄々とした演技で、脇役や短篇喜劇映画の主役として多くの作品に出演した。初期の小津安二郎監督作品に欠かせない俳優でもあり、『肉体美』『会社員生活』『大人の見る繪本 生れてはみたけれど』などの小津作品に主演した。戦後も貴重な脇役として活躍し、監督作も発表している。

来歴・人物
1902年(明治35年)6月10日東京府東京市深川区佐賀町(現在の東京都江東区佐賀)に生まれる。父は米の仲売人で日本橋区に店を構えていた[1]。父は芝居道楽で、家業そっちのけに一座の勧進元になって巡業に出たりして財産を蕩尽し、5歳の時に佐賀町の家をたたんで神田明神近くへ引越しする始末だった[1]。引っ越した家の隣には後にカメラマンとなる長井信一が住んでおり、幼い頃に幻灯機を作ってもらったという[1]


地元の小学校を卒業後、京華中学校(現在の京華中学高等学校)に入学。父が浅草のルナパークの株主だった関係で映画館には無料入場できたことから映画ファンとなる[1]ブルーバード映画のスター女優だったエラ・ホールに夢中となり、彼女にファンレターを送ると返事が返って来て有頂天になったり、映画雑誌『活動之世界』などに投稿したりした[2]。学業そっちのけで映画に夢中になっていたため、それを心配した父によってシンガポールでカメラ材料店を開く人に預けられ、京華中学を中退してシンガポールに渡る[2]マレー商業学校を卒業後、外国商館に勤務する傍ら、コンナム・フィルム社の『ステマドル』という映画に出演し、1922年(大正11年)に日本へ戻る[2]


1923年(大正12年)、松竹蒲田撮影所に入社。牛原虚彦監督の『狼の群』で映画デビューし、その後島津保次郎監督の『人肉の市』、大久保忠素監督の『天を仰いで』などに出演するが、同年8月に退社して日活大将軍撮影所に入社する[2]。若手助演者として注目され始め、『小品映画集 《人生と活動》』では主役に起用される。

1926年(大正15年)、松竹蒲田に再入社。長身痩躯で混血児風の容貌と飄々とした持ち味を買われて、特異なバイプレーヤーとして注目されるようになり、牛原監督の『感激時代』『陸の王者』などに出演する一方、城戸四郎撮影所長が奨励する短篇喜劇に次々と起用されて持ち味を発揮していく[2]

1928年(昭和3年)、小津安二郎監督の第2作『若人の夢』で主役の学生役に起用され、以後、小津の短篇喜劇に次々と主演する。やがて小津の小市民映画の主人公として不況時代のサラリーマンなどを演じ、飯田蝶子坂本武らとともにサイレント時代の小津映画に欠かせない存在となる。斎藤が主演した小津の短篇喜劇に『女房紛失』『カボチヤ』『肉体美』『会社員生活』『突貫小僧』『落第はしたけれど』『エロ神の怨霊』があり、『肉体美』では妻の尻に敷かれている亭主、『会社員生活』ではボーナスの支給日に会社をクビになるサラリーマン、『突貫小僧』ではさらった子供に手を焼く人さらい、といった役を演じてユーモラスな演技を見せる。この間、小津の長篇作品『学生ロマンス 若き日』『結婚学入門』にも出演し、デリケートな人間心理を表出してうま味を見せた[2]

その後も、『足に触つた幸運』で大金を拾ったサラリーマンの泣き笑いを好演、『お嬢さん』では岡田時彦と組んで新聞記者を演じ、『東京の合唱』では持ち味の飄逸さを発揮する。小津のサイレント期の代表作『大人の見る繪本 生れてはみたけれど』では、子供から大人の世界の矛盾を突かれるサラリーマンの父親役で主演し、困惑する不況時代のサラリーマンの悲哀を見事に演じた[2]。以後も『淑女は何を忘れたか』『戸田家の兄妹』『宗方姉妹』などに出演し、計23本の小津作品に出演した。


小津作品以外にも、佐々木恒次郎監督の『珍客往来』『裏町の大将』、斎藤寅次郎監督の『モダン怪談100,000,000円』、清水宏監督の『村の王者』、五所平之助監督の『大東京の一角』『左うちわ』などに主演し、1929年(昭和4年)に結城一朗日夏百合絵とともに準幹部[3]、翌1930年(昭和5年)には高田稔岡田時彦、結城、龍田静枝筑波雪子とともに幹部に昇格する[4]。以後も五所監督の『人生のお荷物』、島津保次郎監督の『春琴抄 お琴と佐助』、吉村公三郎監督の『暖流』などに助演する。


1947年(昭和22年)にフリーとなり[5]、各社の作品で脇役として活躍する。1950年代には監督業に進出し、『嫁ぐ今宵に』『純情社員』、島倉千代子主演の『早く帰ってコ』『東京だヨおッ母さん』などを監督するが、監督としてはほとんど評判にならなかった。やがて草創期のテレビドラマにも多く出演する。1967年(昭和42年)、山田洋次監督の『九ちゃんのでっかい夢』が最後の映画出演作となった。


1968年
(昭和43年)3月2日肺がんのため東京都世田谷区梅ヶ丘の自宅で死去[5]。65歳没。墓所は台東区長運寺


一時期、松竹蒲田の女優・井上雪子と結婚したが後に離婚し、ドイツ人女性と再婚するも死別、付き人と三度目の結婚をして2子を儲けている[5]


益田喜頓
は憧れていた人物に斎藤をあげ、「銀座でお洒落で目立った人は、何といっても斎藤達雄。外人みたいで、どんな格好をしてもさまになるんです。」と語っている。

出演作品
映画
太字の題名はキネマ旬報ベスト・テンにランクインした作品
◎印は小津安二郎監督作品
街の手品師(1925年、日活) - 酔っぱらい

・東洋のカルメン(1925年、日活)

・小品映画集 人生と活動(1925年、日活)

・美女と秘密(1927年、松竹キネマ

・晴れゆく空(1927年、松竹キネマ) - 紳士

・・感激時代(1928年、松竹キネマ) - 先生

・◎若人の夢(1928年、松竹キネマ) - 加藤兵一

・彼と東京(1928年、松竹キネマ)

・◎女房紛失(1928年、松竹キネマ) - 彼

・妻君廃業(1928年、松竹キネマ)

・彼と田園(1928年、松竹キネマ)

・◎カボチャ(1928年、松竹キネマ) - 山田藤助

・陸の王者(1928年、松竹キネマ) - 岩井教授

・◎肉体美(1928年、松竹キネマ) - 高井一郎

・◎学生ロマンス 若き日(1929、松竹キネマ) - 学生・山本秋一

・村の王者(1929年、松竹キネマ) - 作造

・モダン怪談100,000,000円(1929年、松竹キネマ) - 松田襄二

・女難歓迎腕比べ(1929年、松竹キネマ) - 旅の小間物問屋

・恋慕小唄(1929年、松竹キネマ) - 英語音楽教師中谷

・◎会社員生活(1929年、松竹キネマ) - 塚本信太郎

・◎突貫小僧(1929年、松竹キネマ) - 人撰い文吉

・新婚前後(1929年、松竹キネマ)

・彼と人生(1929年、松竹キネマ) - 陸軍リンコルン

・◎結婚学入門(1930年、松竹キネマ) - 北宮光夫

・大東京の一角(1930年、松竹キネマ)

・◎朗かに歩め(1930年、松竹キネマ) - 犬を抱いた人(ノンクレジット)

・◎落第はしたけれど(1930年、松竹キネマ) - 学生

・不景気時代(1930年、松竹キネマ) - 松造

・◎その夜の妻(1930年、松竹キネマ) - 医師・須田

・◎エロ神の怨霊(1930年、松竹キネマ) - 山路健太郎

・◎足に触った幸運(1930年、松竹キネマ) - 古川貢太郎

・若者よなぜ泣くか(1930年、松竹キネマ) - 新聞記者

・◎お嬢さん(1930年、松竹キネマ) - 斎藤達次

・◎淑女と髯(1931年、松竹キネマ) - 敵の大将

愛よ人類と共にあれ(1931年、松竹キネマ) - 歯医者渋川

・◎美人と哀愁(1931年、松竹キネマ) - 佐野

・◎東京の合唱(1931年、松竹キネマ) - 大村先生

・昇給と花嫁(1931年、松竹キネマ)

・島の裸体事件(1931年、松竹キネマ)

・若き日の感激(1931年、松竹キネマ) - 光子の夫

金色夜叉(1932年、松竹キネマ) - 富山唯継

・◎春は御婦人から(1932年、松竹キネマ) - 加藤

蝕める春(1932年、松竹キネマ) - 白川幸介

・◎大人の見る繪本 生れてはみたけれど(1932年、松竹キネマ) - 父親

・太陽は東より(1932年、松竹キネマ) - 弁護士宮本

上陸第一歩(1932年、松竹キネマ) - ダンスホールの客(ノンクレジット)

・◎青春の夢いまいづこ(1932年、松竹キネマ) - 斎木太一郎

忠臣蔵(1932年、松竹キネマ) - 不破数右衛門

・花嫁の寝言(1933年、松竹キネマ) - 落第生斎田

・港の日本娘(1933年、松竹キネマ) - 画家三浦

・夜ごとの夢(1933年、松竹キネマ) - 夫水原

・嬉しい頃(1933年、松竹キネマ) - 課長斎田

・大学の若旦那(1933年、松竹キネマ) - 若原

・女学生と与太者(1933年、松竹キネマ) - 校長

・玄関番とお嬢さん(1934年、松竹キネマ) - 御前様

・東洋の母(1934年、松竹キネマ) - 主治医

・その夜の女(1934年、松竹キネマ)

・生きとし生けるもの(1934年、松竹キネマ)

・左うちわ(1935年、松竹キネマ)

春琴抄 お琴と佐助(1935年、松竹キネマ) - 利太郎

・永久の愛(1935年、松竹キネマ) - 社長金沢専三郎

・恋愛豪華版(1935年、松竹キネマ) - 根本社長

・人生のお荷物(1935年、松竹キネマ) - 福島省三

・◎大学よいとこ(1936年、松竹キネマ) - 講師

家族会議(1936年、松竹キネマ) - 丸由

男性対女性(1936年、松竹キネマ) - 岡倉清彦

・新道 前後篇(1936年、松竹キネマ) - 宗方子爵

・花籠の歌(1937年、松竹キネマ) - 刑事

・◎淑女は何を忘れたか(1937年、松竹キネマ) - 麹町のドクトル小宮

・奥様に知らすべからず(1937年、松竹) - 横山氏

・婚約三羽烏(1937年、松竹) - 阿奈支配人

・浅草の灯(1937年、松竹) - 藤井寛平

母と子(1938年、松竹) - 岡部

愛染かつら(1938年、松竹) - レコード会社専務・岡島

純情二重奏(1939年、松竹) - 河田武彦

暖流(1939年、松竹) - 志摩泰彦

女性の戦ひ(1939年、松竹) - 高澤議員

・西住戦車長伝(1940年、松竹) - 第十八路軍将校

・◎戸田家の兄妹(1941年、松竹) - 長男進一郎

(1941年、松竹) - 片田江先生

櫻の國(1941年、松竹) - 笹野賢吉

・秘話ノルマントン号事件 仮面の舞踏(1943年、松竹) - 常民

・水兵さん(1944年、松竹)

・必勝歌(1945年、松竹) - 工員・中村

そよかぜ(1945年、松竹) - 平松

・待ちぼうけの女(1946年、松竹) - 市長

地獄の顔(1947年、松竹) - 貝塚医師

多羅尾伴内シリーズ(大映

  ・十三の眼(1947年) - 清島了助

  ・二十一の指紋(1948年) - 皆川弁護士

幽霊暁に死す(1948年、新演伎座・CAC) - 小幡平次郎

王将(1948年、大映) - 学芸部長・大倉

人間模様(1949年、新東宝) - 新井寛政

・グッドバイ(1949年、新東宝) - 船越恭平

果てしなき情熱(1949年、新東宝) - 砂堂

獄門島(1949年、東横映画) - 了然和尚

にっぽんGメン 第二話 難船崎の血闘(1950年、東横映画) - 栗原部長

・◎宗方姉妹(1950年、新東宝) - 教授内田譲

東京ファイル212(1951年、東日興業) - 松戸

自由学校(1951年、大映) - 茂木

陽気な渡り鳥(1952年、松竹) - 岡本政治

・ラッキーさん(1952年、東宝) - 町田さん

・朝の波紋(1952年、スタジオ8プロ) - 久富営業部長

やぐら太鼓(1952年、滝村プロ) - 村田喜三郎

離婚(1952年、東京プロ) - 酒井半蔵

若い人(1952年、東宝) - 長野教頭

カルメン純情す(1952年、松竹) - 須藤の父

・嫁ぐ今宵に(1953年、新映プロ) - 父長太郎

・坊ちゃん社員(1954年、東宝) - 石山所長

ハワイ珍道中(1954年、新東宝) - 白河

日本敗れず(1954年、新東宝) - 総理

慈悲心鳥(1954年、東宝) - 駒居直亮

鶴亀先生(1954年、東宝) - 荒木さん

大学は出たけれど(1955年、松竹) - 高田彌左衛門

やがて青空(1955年、東宝) - 飛田真平

・嫁ぐ日(1956年、近代映画協会) - 木島進作

吸血蛾(1956年、東宝) - 長岡秀二

・婚約三羽烏(1956年、東宝) - 栄子の父

・森繁よ何処へ行く(1956年、東京映画) - 石田博士

兄とその妹(1956年、東宝) - 支配人荒川

美貌の都(1957年、東宝) - 丹下

挽歌(1957年、歌舞伎座) - 怜子の父

お姐ちゃん罷り通る(1959年、東宝) - 総領事

青い目の蝶々さん(1962年、アメリカ)

喜劇 にっぽんのお婆あちゃん(1962年、M.I.I.プロ) - ロマンチックじいさん安西

続・社長洋行記(1962年、東宝) - 宗社長

九ちゃんのでっかい夢(1967年、松竹) - コック・山下

詳しいことは「斎藤達雄ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%8E%E8%97%A4%E9%81%94%E9%9B%84
(wikiより)

1873a

1873b



大都映画株式会社だいとえいが)は、1933年から1942年までの戦前から戦中にかけて東京・西巣鴨に存在した映画会社である。1928年に設立された河合映画製作社を前身にした新興の中小企業で低予算の娯楽作品を大量に製作し安価な入場料で当時の大手映画会社に対抗した。1942年に戦時統合で新興キネマ日活(製作部門)との3社が合併して大日本映画(大映)となって、大都映画はその歴史を閉じた。

概要
1933年(昭和8年)6月、土木・建築業界の実力者で当時東京府会議員でもあった河合徳三郎がそれまで経営していた河合映画製作社を発展的に解消して、新たに大都映画を設立した。撮影所は河合映画以来引き続き巣鴨撮影所を使用した。同年6月22日公開の吉村操監督の『悲惨の鉄路』を河合映画の最終作として、翌週29日公開の根岸東一郎監督の『新籠の鳥』を大都映画設立第1作として、直営館「河合キネマ」ほかで公開した。


1942年
(昭和17年)1月、戦時統合によって新興キネマおよび日活の製作部門と合併して「大日本映画製作株式会社(大映)」(現在の角川映画)となる。この統合で大都映画は河合映画以来通算15年の歴史を閉じた。観客の支持と、徹底した低コスト製作もあいまって、最後まで一度も経営危機にはならなかった。

B級会社
大都映画の製作方針は、完全に娯楽に徹することであった。観客をハラハラさせたり泣かせたりすることに特化し、1年間に100本もの映画を大量生産した。メジャー他社や評論家からは粗製乱造及び内容が無いなどと酷評されたが、観衆からは理屈抜きに面白い大都映画は圧倒的に支持された。


大都映画の創始者河合徳三郎の「楽しく、安く、速く」をコンセプトに、「敢て高尚を狙わず、上品振ろうとはせず、所謂批評家と称する人々には低級と云われようとも意に介さずして製作方針に更改を加えようとはせぬ」(昭和10年10月5日『国際映画新聞159号』から)とされて粗製乱造と言われても方針は変えなかった[1]。他の会社からは「B級三流」と揶揄されながらも、河合徳三郎は「女給と工員と丁稚や子守っ子たちに喜ばれればいい」と明言していた。そこには映画を余裕を持って見られる月給取りや学者や学生でなく、小銭をかき集めて映画館に駆けつけて日々の暮らしの疲れを映画の楽しさや面白さで吹き飛ばそうとする貧しい人々が彼の映画の観客であることを彼自身がイメージしていたからである[2]


ゆえに松竹の映画館が50銭の入場料ならば大都は30銭として、子どもは5銭であったという。毎週2本立てで封切り、翌週はまた違う新作を上映する。1950年代後半から60年代前半に東映などが行ったプログラムピクチャーを戦前の時代にすでに大都映画が行っていたことになる。河合映画から大都映画に変わった1933年以降毎年の製作本数は103本(1933年)ー104本ー109本ー106本ー110本ー103本ー102本ー87本ー36本ー4本(1942年)で1937年の日中戦争時には最大の110本を製作していた[3]。これは1系統としては最大の製作本数である(1960~1961年の東映は2系統でこの数字を上回ったが1系統としては104本が最高である)。そして河合映画から通算して15年間で総製作本数は1,294本(1,325本という説もある)に達した[4]


製作された映画フィルムの多くは戦災で焼失して現存していないが、近年地元の巣鴨を中心として、その存在は再評価されている。



主な作品と俳優
女優で琴糸路鈴木澄子久野あかね橘喜久子大山デブ子、水川八重子、木下双葉佐久間妙子。男優で杉狂児市川百々之助山本礼三郎ハヤフサヒデト大乗寺八郎藤間林太郎水島道太郎近衛十四郎阿部九州男といったスターを擁し、時代劇、新派ふうの悲恋物、現代物の痛快アクション、そしてコメディからなるラインナップで人気を博した。映画料金もメジャー他社より一段安いところが観衆には魅力だった。その分製作は徹底した低コストで、一週間以内に撮影を済ませる早撮りで量産した。また所属する女優陣の中には河合徳三郎の娘が3人いて、正妻の娘1人と別の女性に生ませた娘が2人おり、しかも主役を演じている[5]


・時代劇
「燃える叫び」「由比正雪」「浮世絵双紙」「忠臣蔵」「街道一の大親分」「鬼火まつり」「修羅八荒」「時代の狼火」「決戦般若阪」「女国定」[6]など。

葉山純之輔海江田譲二桂章太郎阿部九洲男杉山昌三九松山宗三郎大乗寺八郎近衛十四郎[7]琴糸路三城輝子など。


・コメディ

「泣き笑ひの友情」「てるてる天助」「じゃじゃ馬と坊や」「突貫小僧」「新婚はずかし」など。

大山デブ子[8]大岡怪童海江田譲二松山宗三郎津島慶一郎伴淳三郎[9]北見礼子[10]など。


・冒険活劇

「旋風の荒鷲」「街の爆弾児」「肉弾の王者」「地獄に結ぶ恋」「街の暴れん坊」「怪電波殺人光線」「怪電波の戦慄第二篇」など。

ハヤフサヒデト松山宗三郎水島道太郎水原洋一藤間林太郎佐久間妙子琴路美津子大河百々代など。


・現代劇

「級長」[11]「悲惨の鉄路」「晴れたり青空」「街の灯」「松風村雨」「子は鎹」「地平線」「法廷哀話涙の審判」「祖国」「少年野口英世」など。

水島道太郎藤間林太郎海江田譲二琴糸路津島慶一郎橘喜久子など。


・国策

「赤心城」「忠魂肉弾三勇士」「召集令」「軍国の妻」「誓いひの乳母車」「杉野兵曹長の妻」「大空の遺書」など。

水島道太郎藤間林太郎阿部九洲男琴糸路水川八重子[12]など。

巣鴨撮影所
巣鴨撮影所は、東京府北豊島郡西巣鴨町(現在の東京都豊島区西巣鴨4丁目、西巣鴨交差点の近く)にあった撮影所である[13]


1919年
(大正8年)、「天然色活動写真株式会社」(天活、1914年創立)が開設した。正法院や妙行寺など、寺社の多い巣鴨の地の利を活かしてロケーション撮影を行ない、時代劇などを製作したが、当時は日活(日本活動写真株式会社)が圧倒的に強く、天活の基盤は脆弱であった。1920年(大正9年)には天活は、もと天活創設者だった小林喜三郎(関東の興行師。アメリカの大作映画『イントレランス』の日本興行で成功したのは有名)が日活から脱退した人々と新たに創立した「国際活映」(国活)に買収される形で消滅した。


国活は、この巣鴨撮影所で、新派の俳優を加え現代劇も製作し日活の対抗勢力たろうとしたが、経営が悪化し配給が滞りわずか4年で倒産した。その後巣鴨撮影所は一旦、天活消滅後大阪の撮影所を引き継いで発足していた帝国キネマの撮影所となり、さらに1928年(昭和3年)、前年末に河合徳三郎が発足したB級映画専門会社「河合映画製作社」が手に入れた。河合映画は徹底した娯楽路線で次々配給先の映画館ネットワークを広げ、1933年(昭和8年)に「大都映画」となった。


1942年
(昭和17年)、大都は合併により大映になり、同社は同年、巣鴨撮影所は閉鎖した。かわって巣鴨に入る映画会社はもはやなく、かつて日本最大の映画量産地だった巣鴨から、映画製作の活気は失われた。


撮影所跡地には、のちに「豊島区立朝日中学校」が建てられた。同校も合併統合により、2001年(平成13年)に廃校となった(存続校舎は旧豊島区立大塚中学校豊島区立巣鴨北中学校の項を参照)。元校舎は2004年より2016年まで「にしすがも創造舎」になり演劇の稽古場などに使われていた。2017年以降は再び豊島区立巣鴨北中学校の建て替えに伴い、その期間中の代替校舎として利用されている。

詳しいことは「大都映画ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%83%BD%E6%98%A0%E7%94%BB
(wikiより)

1671a

1671b

1671c

1671d

1671e

1671f




アンドレ・ルコント(Andre Lecomte, 1932年 - 1999年)は、フランス出身のパティシエ日本で初となるフランス菓子専門店を開店させた。今日の日本におけるスイーツブームの草分け的存在である。

経歴
パリの南、ロワールの地主の生まれ。13歳で菓子製造の世界に入り、14歳だった1945年にはモンタルジーのマルセル・ルナンのもとで見習いとして修業した。16歳のときパティシエとしての国家試験に合格。兵役後、パリの高級ホテル「ジョルジュ・サンク」(当時4つ星)に入社。20代前半でスーシェフ(副シェフ)になると、ホテルの常連客に呼ばれて、世界各地に足を運ぶ。


東京オリンピック
を翌年に控えた1963年、ホテルオークラのシェフ・パティシエとして初めて日本を訪れた。本場の菓子製造技術を広めるために尽力し、本格的な砂糖菓子の彫刻を日本で最初に広めた。1968年12月17日、東京・六本木に「A.ルコント」をオープン。日本人に本場フランスの味を知ってもらおうと、フランスと同じ材料・同じレシピにこだわった。


“Tout a la Francaise”(万事、フランス流に…)が、彼の信念である。味へのこだわりは、皇室フランス大使館をはじめ、各国大使館や政府官庁などにも支持された。併設されたサロン・ド・テには、一流芸能人や政財界人まで、時代を代表する顔ぶれが集まったという。


キッチンの拡大のため、1978年には本店を六本木から青山に移転(一時、キッチンを三田にも増設)。続いて、新宿伊勢丹店・日本橋店・銀座店(ともに三越)・丸の内店(現在は閉店)をオープンさせる。1994年、食事も楽しめる「ブラッスリールコント」を青山にオープン。2007年には 新宿高島屋店・「ルコント」の故郷でもある六本木に東京ミッドタウン店を相次いでオープン(2007年当時、都内6店舗)。


アンドレ・ルコントはシェフとしても一流で、東京サミットの際は、フランス大統領主催晩餐会の料理も担当していた。フランス料理アカデミー日本支部の初代会長を務める。現在は、古くからの友人でもあるジョエル・ブリュアンが2代目を務めている。その他の親しい友人には、ポール・ボキューズジョエル・ロブションなどの料理人、ピエール・エルメの師匠であるガストン・ルノートル(菓子職人)、日本のフランスパンの父であるフィリップ・ビゴ(パン職人)、前フランス大統領のジャック・シラクがいる。


オープン当時、フランスの材料を手に入れることが非常に困難だった。現場に立つだけでなく、菓子には欠かせない菓子材料を輸入する会社も設立した。

死後の影響力
1999年に68歳で亡くなり、店は妻とルコントの遺志を引き継ぐ職人達によって継がれた。


ルコントの遺志を引き継ぎ活躍する主なオーナーパティシエに、島田進(パティシエ・シマ)、大山栄蔵(マルメゾン)、東健司(キャトル)、豊田英男(ペルージュ)、魵澤信次(レ・アントルメ)、加登学(ロワゾー・ド・リヨン)(以上東京)、蛭町裕司(コム・アン・プロバンス)(神奈川・湘南台)、目黒英治(ガトーめぐろ)、池田一紀(カズノリ・イケダ)(以上宮城・仙台)、上田真嗣(ラトリエ・ドゥ・マッサ)(兵庫・神戸)、ステファン・セッコ(SECCO)(フランス・パリ)などがいる。


2005年3月より、日本に初めて本場のフランス菓子を紹介した彼の冠名をつけた世界に通用する洋菓子職人を発掘するコンクール「アンドレ・ルコント杯」が開催されている。


2010年9月26日に閉店し、42年の歴史に幕を下ろした。


「現存する最古のフランス菓子専門店」の存続を望む多くの声を受けて、3年後の2013年3月10日、アンドレ・ルコントの信念である“Tout a la francaise.(万事、フランス流に。)”を、しっかりと受け継ぎ「懐かしくてあたらしい」というコンセプトのもと、広尾に「ルコント広尾店」が再オープンした。六本木で3年間、そして青山に移転した「A.ルコント」で総製菓長としてルコントの片腕として活躍した島田進(パティシエ・シマ)が監修し、青山時代の「A.ルコント」でパティシエとして活躍してきたシェフ・パティシエがルコントの遺志を引き継ぎながら味を再現している。

エピソード
・パリでのスーシェフ時代、ケネディ一家の為にジャマイカのリゾートホテルに滞在し、ジャクリーン夫人の好みのクレーム・カラメルを作ったこともある。


イランパーレビ国王にも可愛がられ、イラン王室に招聘された。同時に王室ホテル インターナショナル・イランのケーキ指導を拝命。


・オープン当時、菓子材料をフランスからまとめて仕入れていたため、リキュールバターなどが1年分届き保管スペースが大変だという。


バブル時代に銀行から「融資するから13億円のビルを買いませんか?」と本社ビル建設の話を持ちかけられて、「職人にビルはいらない」とあっさり断わった。


・ルコントは、食べ物のロスには厳しい人だったため、使える食材を捨てていないか、抜き打ちでゴミ箱チェックをしていたという。


料理の鉄人でお馴染みの石鍋裕(クィーン・アリス)が昔、自分のお店のデザートに出すため シャルロット・オ・ポワールをよく買いに来ていたと言われている。

スペシャリテ
・スウリー - ルコントが「ジョルジュ・サンク」時代に考案したネズミの形をしたシュークリーム。「子供達も楽しくなるお菓子を」と言う思いから生まれた。


・ガトー・フランボワーズ - オープン当時から変わらぬお菓子。


・ポンポネット - しっとりとラム酒が香るレーズン入りの本格的ババ


・フルーツケーキ - ルコントの教えを守りつつ作り続ける名物。彼が世界中から厳選した10種類のドライフルーツをたっぷりのラム酒に1ヶ月漬け込んだ物が使われている。

叙勲・受賞歴
1974年1987年:Merite agricole (農事功労勲章)

1981年:National du Merite(フランス国家功労賞)

1991年:l'Ordre des la Legion d'honneur (レジオン・ドヌール勲章

1993年: M.O.F.賞(フランス最優秀職人賞)


その他多数

関連項目
タンポポ (映画)(1985年 東宝) - 伊丹十三監督作品で、劇中でスパゲッティを音をたてて食べる外国人役を演じている。

パティシエ一覧

外部リンク
ホームページ

フランス料理アカデミー
(wikiより)



0822a

0822b

0822c



北庭筑波 ( きたにわ - つくば )
天保 13年 ~ 明治 20年 12月 9日 ( 1842 - 1887 )


写真家。

本名:伊井孝之助。

号、北庭筑波・平米雷 ( へべらい )。


父、油屋伊勢吉。

江戸日本橋呉服町出身。


当時の写真家の多くは山に関する号を使った。


和漢洋の学に明るく江戸風の粋人であった。


写真に興味を持ち、写真師内田九一・清水東谷・横山松太郎らと交わる。


明治 4年 ( 1871 ) 浅沼藤吉に写真材料店を開業させ、自らも明治 4・5年ころ浅草公園で写真館を開業。


明治 6年 ( 1873 ) 闇夜でも写すことができる器械を取り寄せ、明治 11年 ( 1878 ) には、竜影を写した写真師として知られている。


明治 7年 ( 1874 )深 沢要橘と協力し、日本初の写真月刊雑誌「脱影夜話」を創刊 ( 脱影とは写真のこと )。


約 2年後には「フォトグラフィー」と改題。


さらに 3年を後に「写真新誌」 ( 第一次 ) と改題された。


明治 9年 ( 1876 ) に浅草に写真塾を開設。その後新橋に店を移す。


明治 14年 ( 1881 ) 10月浅草大代地の内田九一 ( 明治 8年 2月 17日歿 ) の写真館を購入して「旧内田舎」として再開業する。


明治 17年 ( 1884 ) 即席紙撮り写真を発明。


交遊は広く写真界のみならず画家や文士らとの親交も多く、我が国の写真文化の基盤を築くのに大きな功績を残す。


門下生に二見朝隈 ( ふたみ - あさま、本名:二見勇 ) とその弟二見朝陽 ( ふたみ - ちょうよう。本名:小林利藤太 )、花輪吉野などがいる。

新派俳優、伊井蓉峰の父。

1412a

1412b








横山 松三郎(よこやま まつさぶろう、1838年11月26日天保9年10月10日) - 1884年明治17年)10月15日)は、幕末・明治初期の写真家、洋画家。別名・文六(三代目)。城郭、社寺などの写真が、重要文化財として残っている。

生涯
択捉島に生まれた。祖父・文六(初代)と父・文六(二代)は、高田屋嘉兵衛および金兵衛に仕え、冬期を除き、箱館から択捉島に出向いて場所支配人として漁場を管理していた。1833年(天保4年)に高田屋が闕所処分を受けた後、松前藩場所請負人制となった択捉島で引き続き支配人を務めた。松太郎は5人兄弟の長男で、姉2人、妹・三代[1]、弟・松蔵[2]がいた。


1848年(嘉永元年)、父が没し、家族とともに箱館に帰る。1852年(嘉永5年)、箱館の呉服屋で奉公する。画を好み、夜分葛飾北斎の漫画を写した。2年後肺を病んで家に戻り、療養する。肺患が生涯の持病であった。


1854年(嘉永7年)、ペリーの米艦隊が箱館に上陸したときに、初めて写真を知る。1855年(安政2年)商店を開いたが、病気のため2年後に畳んだ。この頃、写真機の製作を試みている。


1857年(安政4年)、病気回復祈願のため、津軽に渡り、江戸京坂を経て四国讃岐神社、木曽を通り善光寺日光を巡る[3]


1859年(安政6年)、箱館が自由貿易港となって米・露・英人が住むようになり、彼らから洋画・写真術を学びあるいは盗み見る機会が増えた。ロシア領事のヨシフ・ゴシケーヴィチから昆虫の実写画を頼まれ、その代わりに写真術を学んだ。1861年(文久元年)、ロシア領事館の神父・ニコライを通じて、ロシア人通信員レーマンの助手となり、洋画を学ぶ[3]


1862年(文久2年)(24歳)、箱館奉行所の香港バタヴィア行貿易船「健順丸」に商品掛手附として乗り込み、海外で写真を学ぼうとしたが、一旦は品川港で渡航中止となった。しかし、1864年(元治元年)に今度は上海へ渡航でき、約1ヶ月半滞在して師となる人物を見つけることはできなかったものの欧米の洋画・写真を見聞した。帰国後、横浜下岡蓮杖に印画法を教わり、箱館に帰った[3]


1865年(元治2年・慶応元年)(27歳)、再び上京し下岡蓮杖に写真と石版術を教わった。箱館に戻り、木津幸吉田本研造に印画法を教える[3]


1868年(明治元年)(30歳)、下岡に更に石版印刷を学んだのち、江戸両国元町に写真館を開き、すぐに上野池之端に移って「通天楼」と称した。横山はここで多くの肖像写真を撮影し、宮下欽片岡如松など後進の写真家も育てている。箱館戦争が勃発して、現地の母を見舞った。1869年(明治2年)門人たちと共に日光山に赴き、中禅寺湖華厳滝日光東照宮など数多くの写真を撮影した。


1871年(明治4年)(33歳)3月、蜷川式胤の依頼で、同じく写真家の内田九一と共に荒れた江戸城を撮影する。その写真の一部は洋画家・高橋由一によって彩色され、翌年蜷川により、『旧江戸城写真帖』計64枚に編集された。1872年、湯島聖堂大成殿で文部省博物局が3月 - 4月一杯催した日本初の博覧会を撮影した[4]。5月から10月まで、町田久成、蜷川式胤らが伊勢名古屋奈良京都の古社寺・華族正倉院の宝物を調査した『壬申検査』に同行した[5]


1873年(明治6年)(35歳)、通天楼に洋画塾を併設し、ここで亀井至一亀井竹二郎本田忠保らを育てた。

1874年、漆紙写真と光沢写真を作った。1876年、通天楼を譲渡して陸軍士官学校教官となり、フランス人教官アベル・ゲリノー(Abel Guérineau)から石版法や墨写真法などを教わり、研究した。1877年、電気版写真を完成し、当時日本でほとんど知られていなかったゴム印画やカーボン印画、サイアノタイプなど19世紀半ば欧州で発明された写真技法を、日本で先駆的に取り入れている。


1878年(明治11年)(40歳)、士官学校の軽気球から日本初の空中写真を撮った。蜷川式胤が、松三郎の写真を編集して『観古図絵城郭之部』を刊行し、翌年京都の洋画展に油絵を出品した。1880年(明治13年)頃、横山は長年の研究の成果から、「写真油絵」法を完成させる。これは印画紙表面の感光乳剤層を薄く剥がし、裏から油絵具で着彩するという繊細で高い技術を要するものである。横山の写真・油彩・スケッチなどに共通する特徴として、物そのものを捉えようとする写実の重視が挙げられ(この姿勢は高橋由一ら多くの洋画家・写真家に共通する)、横山は自分が発明した写真油絵技法で、自己が理想とする写実表現を求めた。反面、研究に没頭するあまり、次第に「通天楼」の仕事からは遠ざかっていったようだ。横山の没後、写真油絵技法は弟子の小豆澤亮一に継承され、1885年(明治18年)の専売特許条例施行直後に小豆澤を出願人として特許登録されている。

1881年(明治14年)、肺病再発のため、陸軍士官学校を辞し、『写真石版社』を銀座に開いた。


1884年(明治17年)(46歳)、市谷亀岡八幡宮社内の隠居所に没した。戒名「温良院実参霊性居士」。墓は函館の高龍寺にある。そのほか弟子により、高輪泉岳寺に遺髪が埋められ、山門左脇に「横山君墓碣銘」が建てられている[6]

重要文化財に指定されている作品

江戸城関係
・「旧江戸城写真帖」64枚(蜷川式胤編)、(1871)、東京国立博物館[7]

・「旧江戸城写真ガラス原板」29枚(1871年)、東京都江戸東京博物館[8]

壬申検査関係
・「壬申検査関係写真」ステレオ写真386枚、四切写真109枚、四切写真ガラス原板70枚、1872年5月 - 10月撮影、東京国立博物館蔵

東寺五重塔、桂離宮(笑意軒、梅馬場、園林堂、松琴亭など)法隆寺(金堂、五重塔、夢殿など)、正倉院宝物などの写真を含む[9]

・「壬申検査関係ステレオ写真ガラス原板」257枚、1872年5月 - 10月撮影、東京都江戸東京博物館蔵

脚注
1. 高田屋嘉兵衛の子孫・高田篤太郎(高田屋四代目)に嫁ぐ。 桑嶋(1979)
2. 函館で写真館を経営。晩年は高田家に寄寓する。 桑嶋(1979)
3. a b c d 千代(1990)
4. 東京国立博物館の歴史
5. 東京国立博物館 壬申検査 120年前の文化財調査
6. 桑嶋(1979)
7. 重要文化財『旧江戸城写真帖』
8. 国宝・重要文化財の指定等について
9. 文化審議会答申


参考文献
桑嶋洋一「洋画・写真・印刷の開祖者 横山松三郎伝」『箱館 高田屋嘉兵衛』、高田屋嘉兵衛顕彰会出版委員会、1979年。

・千代肇「西洋画・写真術の先覚者 横山松三郎伝」『市立函館博物館研究紀要』第1号、市立函館博物館、1990年。

・「『日本の写真家1 上野彦馬と幕末の写真家たち』、岩波書店(1997) ISBN 4-0000-8341-4」巻末の、「木下直之・石井亜矢子編、写真史年表」

・『月刊文化財』441号、453号、477号、489号、第一法規(2000、2001、2003、2004)(新指定重要文化財の解説あり)

東京都写真美術館監修 日外アソシエーツ株式会社編集、『日本の写真家 近代写真史を彩った人と伝記・作品集目録』、日外アソシエーツ(2005) ISBN 978-4-8169-1948-0




・『企画展140年前の江戸城を撮った男 横山松三郎』図録、江戸東京博物館、2011年

外部リンク
江戸東京博物館蔵、横山松三郎撮影の写真

箱館最初の洋画家横山松三郎

北海道大学北方関係資料総合目録 横山松三郎

はこだて人物誌 横山松三郎 - 函館市中央図書館

『幕末・明治の写真師』総覧
(wikiより)


0767 横山松三郎

横山松三郎

0767a

0767b

0767c

0767d

0767e

0767f

0767g

0767h

0767i

0767j

0767k



当地は明治三十年 ( 1897 )、実業家であり,後に大阪商工会議所会頭も務めた稲畑勝太郎 ( 1852 ~ 1949 ) が日本で初めて映画 ( シネマトグラフ ) の試写実験に成功した場所である。


明治二十九年 ( 1896 )、万国博覧会の視察と商用でパリを訪れた稲畑は,フランス留学時の旧友リュミエール兄弟の発明したシネマトグラフ ( 映写機兼カメラ ) と、その興行権、フィルムを購入し、リュミエール社の映写技師兼カメラマンのコンスタン・シレルを伴って帰国した。


そして翌明治三十年一月下旬から二月上旬にかけての雪の降る夜、京都電燈株式会社の中庭 ( 現在の立誠小学校跡地 ) で国内初の映画の試写実験に成功した。


映画の上陸は、単にヨーロッパの文化や最新技術を日本に伝えただけでなく、人・もの・事物を記録し伝える映像メディアのはじまりであり、新しい娯楽・芸術産業の始まりでもあった。


この地を起点にした日本映画は二十世紀を代表する国民娯楽に成長していった。
(案内板より)

0435a

0435b



イッシーとは鹿児島県指宿市池田湖に棲むと言われる巨大水棲生物のUMA

目撃情報
初めて目撃されたのは1961年頃とされる。1978年9月3日18時頃、法事のため集まっていた20人以上が同時に目撃したと証言しており、有名となったのはこの時である。同年12月16日には初のイッシーのものとされる写真が撮影され、指宿市観光協会に設けられたイッシー対策委員会により10万円を贈呈されている。


1991年1月4日には指宿スカイラインをドライブしていた福岡市在住の一家が、家庭用ビデオカメラでの湖中で蠢く黒い物体の撮影に成功し、再び地元は盛り上がった。

正体
体長は約10m~20mと言われ、イッシー目撃の証言には「黒いコブのようなものが移動していた」というものが多い。正体は謎であるが、池田湖には2m級のオオウナギが多く棲んでいるとされ、巨大ウナギ説が有力である。この他、出現時期から池田湖に放流された大型魚、ハクレンの群の魚影の誤認ではないかとも言われる。


ただ、コブが何であったかについては不明。


過去数回テレビ番組の企画で魚群探知機などを使いイッシーらしき物体の正体を調べているが、水が濁っているため鮮明な画像を撮影することができず明確な結論は得られていない。

その他
池田湖畔には、2体のイッシー像が置かれている。


日本テレビ
系列『ズームイン!!SUPER』の年末スペシャルで、よく調査されていた。


空想歴史読本の作者円藤祥之空想科学論争の対談の中で、イッシーの姿を撮影すると賞金が貰えると聞いて、では捕まえたらいくら貰えるかと指宿市役所の職員に電話で聞くと、「湖の守り神だから捕まえてはいけません」と真剣な調子で言われた経験があると語っていた。

関連項目
未確認動物一覧

池田湖

ネッシー  
モスラ (架空の怪獣) - 映画「ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃」に登場したモスラは池田湖に眠っていた。
(wikiより)

089a

⇧ 池田湖

089b

⇧⇩ イッシー像

089   イッシーの像



映画「石井十次の生涯 石井のおとうさんありがとう」の飫肥ロケーション地


宮崎県日南市の飫肥は、飫肥藩伊東家五万一千石の城下町として栄えた地で、明治を代表する外交官・小村寿太郎の生まれた町でもあります。


今は、国選定の日南市飫肥伝統的建造物群保存地区に指定され、飫肥城近くから上級家臣、中級家臣、町屋、下級家臣と並んでいる各武家屋敷は、飫肥石や玉石の石垣と生垣に囲まれており格式に応じられた門が設けられております。


〇 石井十次の生涯 石井のおとうさんありがとう
石井のおとうさんありがとう』(いしいのおとうさんありがとう)は2004年公開の日本映画。製作・配給は現代ぷろだくしょん

概要
明治期に日本初の孤児院を創設し、後に「児童福祉の父」「岡山四聖人の一人」と称えられた石井十次宮崎県児湯郡高鍋町出身)の生涯を描いた作品。


現代ぷろだくしょん」製作であるため、大手映画配給網への配給が成されておらず、1日単位で借りることのできる演芸場コンベンションホールないしはミニシアターを利用した「地域巡回上映」で公開されている作品である。巡回上映は現在も行われているため、そのスケジュールを公式サイトなどで確認することができる。

受賞
平成17年度 こども未来財団 児童福祉文化賞

・平成17年度 厚生労働省 児童福祉文化賞

・第14回 日本映画批評家大賞 主演男優賞(主演・松平健

あらすじ
日本から遠く離れたブラジルの日本人街。日系ブラジル人のヨーコは日本人ブラジル移民であった祖父から「石井のおとうさんありがとう」と書き添えられた一枚の写真を手渡される。


写真に記された「石井のおとうさん」とは誰なのか。自身のルーツに興味を持ったヨーコは祖父の育った日本は宮崎へと飛ぶ。「石井のおとうさん」の物語と足跡を追うために。

出演者
・石井十次:松平健

・石井品子:永作博美

大原孫三郎辰巳琢郎

・炭谷小梅:竹下景子

・吉田辰子:星奈優里

・園長:大和田伸也

・渡辺亀吉:ケーシー高峰

・菅之芳:石濱朗

・武用五郎辺衛:堀内正美

・林源十郎:小倉一郎

児島虎次郎南原健朗

・石井万吉:草薙幸二郎   
金森通倫牟田悌三

・老婆:丹阿弥谷津子

・石井乃婦子:磯村みどり

・青木:中谷彰宏

新島襄真砂皓太

・前原つね:和泉ちぬ

・豊熊巡査:山崎之也

・西山洋子:今城静香

・石井友子:須貝真己子

・ウノ:相生千恵子

・イワ:高松博美

・川上:高村尚枝   
山室軍平:草薙仁

・森友治:本間健太郎

・井上巡査:瀬野和紀

・松本先生:市原康

・八郎:山田太郎、黒岩司(青年期)

・長谷川昇次郎:山本道

・前原定一:山辺悠太、真子展幸(青年期)

・池本杢次:篠原健太

・岡本儀助:林泰之、樋口倫也(青年期)

・宮本ヨネ:吉田佳菜

・宮本キノ:秋吉海音

・隣の女房:山本昌代

スタッフ
・ゼネラルプロデューサー:山田火砂子

・原作:横田賢一

・監督:山田火砂子

・脚本:青木邦夫、松井稔、山田火砂子 
・プロデューサー:井上真紀子

・撮影監督:長田勇市

・美術監修:木村威夫

・美術監督:丸山裕司  
・音楽:石川鷹彦

・録音:沼田和夫

・仕上録音:福島音響

・編集:浦岡敬一   
・助監督:石田和彦

・衣裳:ケイプランニング

・美粧:小堺なな

・題字・版画:野村たかあき

外部リンク
映画「石井のおとうさんありがとう」公式サイト
(wikiより)

077a


077b

077c



市来 四郎(いちき しろう、文政11年12月24日(1829年1月29日) - 明治36年(1903年)2月12日)は薩摩藩士。幕末は島津斉彬側近として琉球を通じての貿易を模索。明治以後は島津久光の側近となる。通称は「正右衛門」、「四郎」。は「広貫」。安政4年(1857年)に「日本人が最初に撮った写真」と言われる島津斉彬ダゲレオタイプ(銀板)写真を撮った人物として著名である。

略伝
寺師正容の次男として生まれるが、市来政直の養子となる。青年時には高島流砲術など火薬に関する勉学を修めたところを島津斉彬に認められ、側近となる。製薬掛、後に砲術方掛となり、集成館事業に携わるなどの要職を務める。安政4年(1857年)に斉彬の密命により琉球に渡りフランスとの交渉に当たる。目的はフランスから戦艦を購入することであったとされるが、斉彬の急死により頓挫した。これは琉球王府内部での政変につながっている(牧志恩河事件)。斉彬の死後は弟の久光の側近となり、引き続き集成館事業に携わり、大砲・火薬製造を担当。文久2年(1862年)以降は琉球通宝天保通宝の鋳造にも関わった。


維新後は、主に久光の元で島津家に関わる史料の収集に携わった。

著書
・「市来四郎日記」(旧大久保利謙蔵書、現鹿児島県歴史資料センター黎明館蔵)

・「忠義公史料」(※編者。『鹿児島県史料』所収。)

・「順聖公御言行録」(現在岩波書店より『島津斉彬言行録』と改題の上販売)

・「島津家国事鞅掌録」

外部リンク
国立国会図書館 憲政資料室 石室秘稿 - 市来四郎の収集資料
(wikiより)

094d

 ⇧ 市来四郎が撮影した島津斉彬の写真(1857年)

094a

094b

094c



山中 貞雄(やまなか さだお、1909年明治42年)11月8日 - 1938年昭和13年)9月17日)は、日本映画監督脚本家である。京都府生まれ。

来歴
1909年(明治42年)11月8日京都市東山区本町通五条下ルに、扇子職人の父・喜三右衛門、母・よその末子として生まれる。


1922年
(大正11年)、旧制・京都市立第一商業学校(現在の京都市立西京高等学校)に入学、同級生にのちに松竹下加茂撮影所の脚本家となり「鳴滝組」の仲間となる藤井滋司、1年先輩に「日本映画の父」こと牧野省三の長男・マキノ正博(のちのマキノ雅弘)がいた[1]。山中自身も少年時より「カツキチ(活動写真きちがいの略)」と呼ばれるほど大の映画好きであった。


1927年(昭和2年)、一商の先輩であるマキノ正博を頼って、マキノ御室撮影所へ入社する。城戸品郎監督の助監督に付くが動きが悪く、ロケの届け出専門だった。


1928年(昭和3年)、山中を持て余したマキノは脚本家兼助監督として、嵐寛寿郎の第一次嵐寛寿郎プロダクション(寛プロ)に推薦、移籍させる。


同年夏、第一次寛プロがスポンサーに逃げられ困窮。それでも山中は先頭に立ってライトを担ぎ、資金稼ぎのためにアラカンのプロマイドを大阪まで街頭売りに出る毎日だった。が、やがて製作はストップ。また五社協定により自主配給の道も絶たれ、独立プロは失敗。寛プロは解散となった。


12月26日、京都の実家に戻った山中を、兄の作次郎は「人間とも思えぬ形相をしていた。まず風呂に入り散髪してからあがれと云うほどの汚さだった」と回想している[2]。親戚一同は縛り付けるように活動写真から足を洗えと説得したが、心中の灯は消えていなかった。


1929年(昭和4年)2月、脚本家デビューとなる、前年に寛プロで制作した『鬼神の血煙』(城戸品郎監督)が公開される。

この年3月1日、嵐寛寿郎が東亜キネマに招かれ映画復帰すると、旧・寛プロのメンバーも参集、山中もチーフ助監督としてこれに参加。


脚本家としては、筆名に「吉岡貞明」「阿古三之助」、「社堂沙汰夫」がある。この東亜での『鞍馬天狗 前後篇』(山中貞雄名義)、続いて『大利根の殺陣』、『明暦風流陣』(吉岡貞明名義)、『右門一番手柄・南蛮幽霊』(山中貞雄名義)ほか、以降、主幹脚本家として活躍。


1932年(昭和7年)、「むっつり右門」シリーズの脚本で山中の真価を確信したアラカンは、長谷川伸の戯曲を脚色した『磯の源太・抱寝の長脇差』で監督に抜擢。この監督第一回作品が映画評論家岸松雄の目にとまり、「寛プロには場違いな天才」と大絶賛されたことで注目が集まり、その結果、処女作にしてその年のベストテンに名を連ねる。


『磯の源太』以降、山中は22歳の若さでインテリ評論層から「日本映画界の巨匠」扱いされたものの、それ以前の寛プロでの山中の仕事は変わらず評論界からは無視され続けた。続く超大作『小笠原壱岐守』が興行4日で打ち切りという記録的な不入り。


同年、シリーズ第10作『天狗廻状 前篇』を最後に、第二次寛プロから日活京都撮影所へ引き抜き移籍。以降、若き天才監督の名前をほしいままに、『盤嶽の一生』、『街の入墨者』を発表。


1934年
(昭和9年)からは、それぞれが所属する会社の枠組を越え、山中、稲垣浩滝沢英輔土肥正幹三村伸太郎藤井滋司萩原遼八尋不二の8名の俊才とシナリオ集団「鳴滝組」を結成、「梶原金八」の共同ペンネームで22作を発表した。時代劇映画に大きな革新を生み、批評家以上に観衆からも大きな支持を得ていた。交友関係も広く、「鳴滝組」の面々のほか、伊藤大輔伊丹万作ら京都の映画人はもとより、小津安二郎清水宏など東京在住の映画人とも、幾度となく盃を交えた。


1937年(昭和12年)、東京に移り、P.C.L.映画製作所(現在の東宝スタジオ)で発表した前進座がユニット出演した名作『人情紙風船』を製作、封切り当日に召集令状が届き、平安神宮で壮行会が行われ神戸港から中国に出征した。中島今朝吾中将率いる北支那方面第2軍第16師団歩兵第9連隊第1大隊第3小隊に編入し、第2分隊長として、12月には南京攻略戦に参加した。


その後、中国各地を転戦。翌1938年(昭和13年)9月17日、中国河南省開封市の「北支開封野戦病院」で赤痢により[3]戦病死した。満28歳没。最終階級は陸軍歩兵曹長。

人物・エピソード
「社堂沙汰夫」の筆名から、あだ名が「シャドやん」だった。アゴが長いことから「アゴ」のあだ名もあり、 「阿古三之助」とも名乗った。寛プロでは「吉岡貞明」のほかに、「小仏浩」、「辻喜久江」、「小野三郎」の筆名も山中のものとみられている[4]


伊丹万作
井上金太郎から「ヒゲを生やすと顔が長く見えなくなる」と教えられ、コールマンヒゲを生やすようになったが、井上のこの説は小津安二郎の受け売りだった。小津と交流が始まったころから、伊丹に劣らぬ長い顔だった山中はヒゲを生やすようになった。


山中がまだヒゲを生やさなかったころ、あるバーで「先生、先生」と大モテにもてた。山中が天下の色男ぶってすっかり悦に入っていたところ、武田麟太郎と間違えられていたことがわかり、悔しがっていた。


あるとき蒲郡の旅館に泊まったところ、宿帳に「山中貞雄」と書いてあるのを見つけ驚いた。女中にいろいろ聞くと、「アゴの長いところ」、「原稿を書いていた」などという点で、いたずらの主は武麟センセイとすぐわかった。そこで山中は憤然として宿帳に「武田麟太郎」と署名した[5]

山中とアラカン
アラカンによると、マキノでの山中は「なにやらしても間に合わへん、オイゆうたらホーイと返事する」、「もさっとして邪魔になるだけやと、マキノほり出されたんです」ということで、マキノ雅弘が第一次寛プロに推薦した際の言葉は、「マキノでは目が出んよって使ってみてや、どっちもアゴが長いから、相性がええやろ」というものだった。


またこのときの印象は、「才能あんのかいな」、「第一印象は箸にも棒にもかからん、一見バカでんな、落第零点」というものだった。動作がのろく、不精ヒゲを生やし、ドテラを着て会社に来る、タバコの空缶を帯にくくりつけ、灰を膝に落とす。雑誌「新青年」をしょっちゅう読んでいて、着るものもなく、虱を沸かせた乞食のようななりで、洋服を買ってやってもすぐに質に入れてドテラを着てまた会社に来る、というもので、アラカンとしても「往生した」という。


ところがシナリオを読んだところ、「たまげた、二度びっくりや、これ天才やないか」と第二次寛プロの1927年(昭和2年)、『磯の源太・抱寝の長脇差』で監督に抜擢。「脚本書かしたらええ、監督やらしたらええ、山中の才能を発見したのはワテやと、これが自慢だ」、「マキノは人員過剰やから山中貞雄の出る幕はない。鳥なき里の寛プロならば、自由に羽ばたけるやろと、それが真意やった。そこがマキノ流です、うまいこと眼をつけた、山中をチャッと送り込んで来よった」と語っている。


1929年(昭和4年)3月1日、東亜キネマに錦を飾ったアラカンはすぐに山中を呼びよせ、山中も真っ先に駆けつけた。アラカンは「ヌボーッとしていて、一見とらえどころのない男やったけど、義理人情には厚かった」、「天性のユーモリスト、若いのに包容力のある、おおけな人柄やった」と評している。


カツベンに反感を抱いていた仁科熊彦監督は、「タイトルの字幕と音楽だけで理解できること」をモットーとしていて、山中に「洋画をよく観ろ、観ながらコンテをとれ、映画はカッティングなのだ」と教え込んだという。仁科から洋画仕込みの基礎を学んだ山中は、アラカンに出会って才能を開花させた。仁科は「妙な言い方になりますけど、ちょっと嫉妬したくなるほど、全面的に山中貞雄を信頼していました、寛寿郎氏は」と語っている。アラカンは山中の作品について「人はどうゆうか知らんが、山中これはマキノと洋画の混血でんな。むっつり右門、これシャルロック・ホルムズや、『なりひら小僧』かて地下鉄サムのまがいでっしゃろ、アメリカやフランスの映画から、ひゅっと名場面盗んで来よる」と語っている。


山中はそれまでの監督とは演出が違い、鋭い舌鋒でよく役者を怒らせた。「よーいホイ、精出して演らなあかんで、ああ芝居が腐れとる、腐っとる」、「俺は(編集の)ハサミあるさかい、お前らなんぼでも勝手にさらせ、ちょんぎれちょんぎれや」といった調子だった。


このように「ストーリーもちょんぎれ、フィルムもちょんぎれ」と、「ちょんぎれ」が口癖で、『むっつり右門』の「ちょんぎれの松」は、ここから出来た役名だった。仁科監督は、脚本家・山中の最高傑作は『むっつり右門』だと語っている。『なりひら小僧』は仁科がアラカンに「山中貞雄のシナリオでおやんなさい」と勧めたもので、アラカンは山中の名前を出されれば逆らわなかったという。


山中は非常に気の回る人物だったため、アラカンに重用され、付き人のようにいつもついていた。山中はアラカン全作品の作者であり、チーフ助監督だったが、批評界では全くの無名だった。これが『磯の源太・抱寝の長脇差』で岸松雄に大絶賛されたことで突然変異の「天才」扱いされることとなる。アラカンは「アラカン映画の監督やと、インテリは山中貞雄を馬鹿にしとったんだ。コロッと変わった、キシマツはんの褒め言葉一つで名監督や。批評家えらいものでんな」とこれを皮肉っている。


山中は1932年(昭和7年)の『天狗廻状』で日活に引き抜かれ移籍しているが、これについてアラカンは「当然のことやったんです、山中貞雄にはもう寛プロは狭すぎたんだ」と述べている[6]

山中と「鳴滝組」
山中の住んだ鳴滝は元々映画俳優が多く住むところだったが、1931、32年(昭和6、7年)ごろから「鳴滝に住むと落ち目になる」と言われだして、俳優たちは引っ越していった。昔の駅の標識は右から左に書いていたので、電車の進行に従うと、上りも下りも「きたるな」となるので、稲垣浩は「落ち目になるという噂は、そうしたことに原因があったのかもしれない」としている。鳴滝には代わりにシナリオ作家や監督が住み始め、「ムダめしを食う奴はきたるな。映画が好きな奴は集まれ」と山中が仲間たちに呼びかけたというのが「鳴滝組」の始まりである。


「鳴滝組」の最も大きな仕事として、稲垣は「時代劇のセリフを現代語にしたということ」としている。これは当時として勇気と困難のなかでの仕事であり、稲垣は「現代語を非とする頑迷固陋な評論家もいたなかに斬り込んだ鳴滝組の仕事は、いま考えると若かったことと、同志の集まりで成功したのだと思う」と振り返っている。


山中が応召の赤紙を受け取ったのは『人情紙風船』が完成した時だった。このため、山中は「これが最後の作品になるのは嫌やなぁ」と、暗示的な言葉を残して伏見の聯隊に入った[7]


『人情紙風船』の封切りは、ちょうど第二次嵐寛寿郎プロダクションの解散直後だった。これを観たアラカンは感心し、「山中ともう一度組みたい」と考えて会いに行ったが、山中は赤紙を受け取った後だった。京都東山の旅館「桜屋」で壮行会があり、アラカンも顔を出した。山中は階段から転げ落ちるほど酔い、「オレ戦争行ってどないするんや、要領悪いさかいすぐ死ぬわ」と大泣きしていたという[8]


聯隊では、内地勤務の暗号解読班を命ぜられ、4キロも体重を増やした。山中は「こんな楽な兵隊はない」と喜んでいたが、やがて中支那派遣軍に加わり、1937年(昭和12年)、呉淞の敵前上陸作戦に従事[9]


1938年(昭和13年)正月、山中同様応召した小津安二郎と現地で巡り合う。内地の稲垣らのもとに、山中と小津が「悪運尽きず」と書いた寄せ書きが届く。稲垣らはこれを見て「われわれの杞憂は晴れ、元気で生きて還るようなのぞみをいだいていた」という[10]


この年軍曹に昇進するが、9月17日に「北支開封野戦病院」で赤痢で病死。


友人たちは山中の死を惜しんで「山中会」をつくり、「偲ぶ会」や「山中映画祭」、「シナリオ出版」、「山中貞雄賞」、「建碑」などの事業を行ったが、この碑は山中の菩提寺である大雄寺に建てられた。碑文はキネマ旬報初代社長の田中三郎、題字は小津安二郎による。「梶原金八」の名も山中の死とともに消えた[11]


宮川一夫は随想で「初恋の人(山中)とはついにプラトニックに終わった。最初の夫(稲垣)とはいい仕事をした。

今は分かれて再婚(溝口健二)したが、時々先夫のことを思い出す」と書いて山中を偲んでいる[12]


山中は出征中、手記に「紙風船が遺作とはチト、サビシイ、友人、知人には、いい映画をこさえてください」と書き遺していた。


後年、鳴滝組の仲間であり山中の親友でもあった滝沢は、彼がたびたび夢枕に出ることがあったと座談会で語っている。

山中の遺産
5年間の監督生活で発表した監督作品は、全26本(応援監督2本含む)であるが、ほとんどのフィルム原版が紛失、もしくは戦災で焼失したため、まとまった作品として現存するのは『丹下左膳余話 百萬両の壺』、『河内山宗俊』、『人情紙風船』の3作品のみである。ただ、これらも残っているものは戦後の公開版であるためオリジナルの尺・編集であるかどうかは定かではなく、『丹下左膳余話 百萬両の壺』はGHQ検閲によってチャンバラ場面が削除されたと考えられている。映画評論家の滝沢一によると、『河内山宗俊』のラストでは大立ち回りがあったという。


『磯の源太 抱寝の長脇差』[13]、『怪盗白頭巾[13]、『海鳴り街道[14]、『鼠小僧次郎吉[15]はフィルム断片のみ残存する。『小笠原壱岐守』、『風流活人剱』は1-2分間のフィルム断片を東京国立近代美術館フィルムセンターが所蔵しており、稲垣浩の応援監督としてクレジットされている『大菩薩峠 甲源一刀流の卷』は全篇が同センターに所蔵されている[16]


山中が学生時代に、辞書のページに描いた剣戟、疾走する馬のパラパラマンガを遺していた[17]。2003年(平成15年)、京都文化博物館が同館所蔵の辞書のページを撮影し、3篇からなる2分30秒の『山中貞雄パラパラ漫画アニメ』として公開している[17]


甥に映画監督の加藤泰がいる。山中にもっとも深い影響を受けた1歳下の助監督、「鳴滝組」の仲間であり、のちの映画監督に萩原遼がいる[18]。萩原ら鳴滝組の脚本家たちは、戦後も、山中脚本の映画化やリメイクを行なっていった。 また山本晋也もデビュー作のリメイクに取り組んだ。

詳しいことは、「山中貞雄ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E4%B8%AD%E8%B2%9E%E9%9B%84
(wikiより)

011a

011b

011c

⇧⇩ 山中貞雄之碑

011d



豊田 四郎(とよだ しろう、1906年1月3日 - 1977年11月13日)は、日本映画監督。多くの文芸映画を作り、「文芸映画の巨匠」と呼ばれた。

概歴
京都府京都市生まれ。父は鉄道会社の重役で、裕福な家に育った。幼いころから体が弱く、小学校に入学するころに肋骨カリエスにかかった経験がある。中学校卒業後、東京にいた長兄をたよって上京する。1924年松竹蒲田撮影所に入社し島津保次郎に師事、やがて島津の助監督となった。脚本家志望だった豊田は、松竹に入社するときに脚本を書いて持参したが、その脚本が島津監督に『夕の鐘』として映画化される。1929年佐藤春夫の小説『売笑婦マリ』を下敷きにした自作の脚本による『彩られる唇』で監督デビューする。しかし、次に撮った『友愛結婚』などが興行的に失敗し、以降5年間再び助監督生活を送ることになる。


1935年に『三人の女性』で監督再デビューする。1936年大日方伝の誘いで松竹を退社して東京発声映画製作所に入るが、作品には恵まれなかった。しかし、1937年石坂洋次郎のベストセラー小説を映画化した『若い人』が興行的に大成功、キネマ旬報ベストテン第6位にランクインされて認められるようになった。以後林芙美子原作『泣虫小僧』、伊藤永之介原作『鶯』などを発表。1940年らい病患者を献身的に治療する女医の姿を描いた『小島の春』を発表。キネ旬1位にランクインされたが、らい病の誤った知識や対処法を原作どおりに描いたため、批判も多い。戦中は国策映画『若き姿』などを監督。


戦後はしばらくスランプを味わっていたが、森鴎外の名作を映画化した『』でスランプを脱出。1955年織田作之助の代表作を映画化した『夫婦善哉』を発表、高い評価を受け豊田の代表作となった。以降は東京映画が活動の中心となる。谷崎潤一郎原作『猫と庄造と二人のをんな』、川端康成原作『雪国』、志賀直哉原作『暗夜行路』、永井荷風原作『濹東綺譚』など多くの文芸作品を発表した。また、1956年には東宝香港邵氏父子の共同製作の『白夫人の妖恋』も製作。1958年には駅前シリーズの第1作となる『駅前旅館』を監督、のちに2本の同シリーズ作品も監督した。


1971年
心筋梗塞で倒れて意識不明の状態が数日続くが、奇跡的な回復を遂げ、1973年に4年ぶりの監督作『恍惚の人』を発表。有吉佐和子のベストセラー小説の映画化で、痴呆老人の姿を描き、興行的にも批評的にも成功した。ただし、この映画では豊田はほとんど撮影現場に姿を見せていなかったことを、主演の高峰秀子がのちの著書『わたしの渡世日記』で記している。


1977年11月13日、俳優北大路欣也結婚披露宴中に心臓発作で倒れ急逝。71歳没。


女優へのしごきは人一倍厳しかったという。豊田映画には森繁久彌を始め、淡島千景池部良淡路恵子山本富士子京マチ子杉村春子芥川比呂志などが常連俳優として活躍した。

主な監督作品
若い人(1937年)

小島の春(1940年)

わが愛は山の彼方に(1948年)

(1953年)

或る女(1954年)

夫婦善哉(1955年)

猫と庄造と二人のをんな(1956年)

白夫人の妖恋(1956年)

雪国(1957年)

駅前旅館(1958年)

・負ケラレセン勝マデハ(1958年)

暗夜行路(1959年)

花のれん(1959年)

珍品堂主人(1960年)

濹東綺譚(1960年)

台所太平記(1963年)

新・夫婦善哉(1963年)

甘い汗(1964年)

四谷怪談(1965年)

千曲川絶唱(1967年)

喜劇 駅前百年(1967年)

喜劇 駅前開運(1968年)

地獄変(1969年)

恍惚の人(1973年)

妻と女の間(1976年、市川崑と共同監督)



関連項目
森繁久彌

佐藤一郎

三浦光雄

八住利雄

外部リンク
豊田四郎 - allcinema

豊田四郎 - KINENOTE ウィキデータを編集

豊田四郎 - 日本映画データベース
(wikiより)


1484 豊田四郎

豊田四郎

1484a

1484b



小川 一眞(おがわ いっしん/かずまさ/かずま、万延元年8月15日1860年9月29日) - 昭和4年(1929年9月6日[2])は、日本写真家(写真師)、写真出版者。

写真撮影・印刷のほか、写真乾板の国産化を試みるなど、日本の写真文化の発展に影響を与えた。写真技術者・印刷技術者の小林忠治郎(1869-1951)は実弟。

略歴

万延元年(1860年)、武蔵国埼玉郡忍藩(現・埼玉県行田市)に生まれる[2]。忍藩培根堂で学んだのち[3]明治6年(1873年)に旧藩主松平忠敬から学費の支給を受けて、有馬頼咸が開設した東京の報国学舎(有馬学校)へ入学し土木工学を学んだ[2][3][4]。一眞は同校在学中に写真術に興味を持ったという[2]。明治8年(1875年)に同校を卒業して帰郷し、熊谷の写真師吉原秀雄の下で働きながら写真湿板撮影法を学び、上州富岡町で自身の写真館を開いた[3]。同地では古沢福吉と親交を深め彼の支援を受けている[3]。明治13年(1880年)に築地のバラー学校へ入学して英語を習得し、翌明治14年(1881年)には横浜外国人居留地で警察の通詞を勤めるほどとなった[2]


明治15年(1882年)、前年の第2回内国勧業博覧会に出品した作品が評価されないことに衝撃を受けた一眞は[3]、更に進んだ写真術を会得するべくアメリカ合衆国マサチューセッツ州ボストンへと渡り、同地のハウスティング写真館に住み込んで働きつつ、欧州からもたらされた当時の最新写真技術やコロタイプ印刷などを体得して明治17年(1884年)1月に帰国した[2]。帰国した一眞は東京飯田町に写真館玉潤館を開業して評判を得、企業家としても活動した[2]。一眞の起ち上げた写真乾板製造会社は失敗に終わったが、明治18年(1885年)にはカーボン印画法の材料を販売する会社も起こしている[2]


一眞の写真技術の評判は政府の耳目を集め、明治20年(1887年)、内務省の委嘱により皆既日食コロナ撮影を行い、明治21年(1888年)には図書頭である九鬼隆一による近畿地方での古美術文化財調査に帯同し、文化財の調査撮影を行った[2]。これをきっかけにフェノロサ日光の美術史調査にも帯同し、岡倉天心らと国華社を設立して明治22年(1889年)にはコロタイプ印刷による図版入りの美術雑誌「国華」の創刊へと繋がった[2]。また、一眞は同年に休刊していた雑誌「写真新報」を編集人兼発行人として復刊して刊行を重ねた[2]。一眞は数々の名所や風俗・文化財をはじめ、日清日露戦争明治天皇大喪の礼濃尾地震アイヌ民族の生活調査など数多くの題材を写真に収めた[2]。明治43年(1910年)、帝室技芸員として顕彰され、東京写真師組合を組織し同初代会長に任ぜられた[5][6]

小川一真写真店(小川写真製版所)

小川一真(1860 - 1929)はボストンで写真術を修業し、明治18年(1885)、飯田町に写真館「玉潤館」を開業すると、東京有数の写真家として知られるようになった。21年(1888)、日本初のコロタイプ写真製版、印刷を開始。翌年、京橋区日吉町に小川写真製版所を開き、27年(1894)、写真銅板の製版、印刷に着手した。43年(1910)、帝室技芸員を拝命。写真の産業化、写真文化の発展に大きな足跡を残した。写真撮影に使われた用具の一部が描かれている。「小川一真写真店は当今写真界の冠にして東京名物の一也」と記載あり。

— 清水晴風著『東京名物百人一首』明治40年8月「小川一真写真店(小川写真製版所)」より抜粋[7]
年譜
・万延元年8月15日(1860年9月29日)- 武蔵国忍藩(現・埼玉県行田市)藩士原田庄左衛門の二男として生まれる。

文久3年(1863年)- 武蔵国行田藩小川石太郎の養子となり、一眞(かずま)と名を改める。

・明治6年(1873年)- 上京して英語学を修める。

・明治8年(1875年)- 写真師を志して、群馬の豊岡町の吉原秀雄に師事して湿版式写真術を会得する。

・明治10年(1877年)- 群馬県富岡に「小川写真館」を開く。

・明治14年(1881年)- 写真館を廃業して、横浜の下岡太郎次郎下岡蓮杖の弟子で養子)に写真術を学ぶ。

・明治15年(1882年)- 横浜居留地の警護をしていた親類に薦められ、アメリカ軍艦に水兵として乗船し、単身渡米留学をする。アメリカでは、旧岸和田藩主の岡部長職の知遇を得て、乾板製法コロタイプなどの当時最新の写真術を学ぶ。

・明治17年(1884年)- 帰国。帰国後すぐ、東京府飯田橋に「玉潤会」を設立し、写真師として活躍。

・明治22年(1889年)- 日本で初となるコロタイプ印刷工場として小川写真製版所を京橋区日吉町(現・銀座8丁目6番周辺)に設立[5][8]

・明治24年(1891年)- 凌雲閣(浅草12階)開催の「百美人」コンテストのため写真を撮影。

・一真は、二人の妻に先立たれていたが、明治36年(1903年)6月2日、12歳年下で板垣退助伯爵の三女、婉(えん)と再婚する。

・明治43年(1910年)10月18日 - 帝室技芸員に任命される[9]

大正2年(1913年)- 小川写真化学研究所を創設[8]

昭和4年(1929年)9月6日 - 神奈川県平塚市で死去[10]。享年70。

詳しいことは、「小川一真ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%B7%9D%E4%B8%80%E7%9C%9F
(wikiより)

2308   小川一真

小川一真

2308a

2308b



稲垣 浩(いながき ひろし、1905年12月30日 - 1980年5月21日)は、日本映画監督脚本家俳優。本名は稲垣 浩二郎。戦前期に伊丹万作山中貞雄らと時代劇の傑作を生み出し、日本映画の基礎を作った名監督の一人である。チャンバラに頼らない時代劇を作り「髷をつけた現代劇」と呼ばれた。生涯で100本の映画を撮り、海外での評価も極めて高い。

経歴
東京本郷区駒込千駄木町(現・文京区千駄木1丁目)に、父は新派俳優・東明二郎の息子として生まれた。母の病気のために小学校を一年でやめ、7歳から東明浩の芸名で子役となり舞台に立つ。8歳の時に母が亡くなり、父と共に旅公演に出たが、この間に独学で読み書きを覚え、小説家劇作家を目指すほどの読書家となる。『カルメン抜粋曲』を聞いて以来、浅草金龍館のオペラファンとなり、戯曲の執筆をはじめる。それを父の一座にかけたところ意外にも好評を博したという。また浅草松竹館に毎週通うほどの松竹蒲田映画のファンだった。


1922年日活向島撮影所に俳優として入社。12年、溝口健二監督の『夜』などで銀幕での親子出演を果たす。この年の『女と海賊』(伊藤大輔監督)を観て、時代劇に興味を持ち、伊藤映画研究所に参加し、シナリオを学ぶ。

1926年、父親が出演する『日輪』(伊藤大輔監督)でサード助監督を務める。

阪妻プロへ
同年、阪東妻三郎プロダクション米国ユニバーサル社と提携、現代劇製作開始と聞きつけ、阪妻プロで月給150円の幹部俳優となる。当時助監督の江川宇礼雄と知り合い、江川の脚本による『九番倉庫』で主演。江川の第一回監督作『夜の怪紳士』でも助演した。

千恵プロへ
1927年、阪妻プロを去って、下賀茂の松竹京都撮影所に入社。月給25円の助監督となる。衣笠貞之助のサード助監督を経て、1928年に伊藤の紹介で伊丹万作とともに片岡千恵蔵プロダクションの創設に参加。同年千恵蔵主演、伊丹脚本の『天下太平記』で監督としてデビューし、以後、『放蕩三昧』『源氏小僧』『絵本武者修行』『元禄十三年』といった千恵蔵主演の明朗にして陽気な時代劇を多数手がけ、伊丹と共に千恵蔵プロの二本柱と呼ばれた。『絵本武者修行』や『元禄十三年』といった作品は、病気がちであった伊丹に代わっての監督担当だった。


1931年
、日活が否決した『瞼の母』の企画を惜しんで、原作者長谷川伸に千恵蔵の名を騙って映画化許諾をもらい、千恵蔵を怒らせたが、首をかけて企画を通し、千恵プロと日活の契約更新第一作として完成、映画は大ヒット。この作品が駄目なら別の仕事で出直すつもりだったという稲垣は、この作品ではっきり方針を定め、監督を生涯の仕事と決めたという。


千恵プロではほかに『一本刀土俵入り』、子母沢寛原作『弥太郎笠』などの股旅物も多く作って好評され、のちにたびたびリメイクされている。

「鳴滝組」の結成
1932年、トーキー試作品『旅は青空』を監督。1933年、童謡ひろめ会を結成し、野口雨情の後援を受け、映画主題歌に取り組む。またこの年、三村伸太郎山中貞雄滝沢英輔八尋不二ら京都の鳴滝に住んでいた若手映画人らと映画会社の垣根を超えた脚本執筆集団鳴滝組を結成し、梶原金八の合同筆名で山中監督『丹下左膳余話 百万両の壺』『河内山宗俊』、滝沢監督『太閤記』『宮本武蔵』のシナリオを執筆し、それぞれヒットを飛ばした。

日活へ
1935年日活京都撮影所に入社。『関の弥太ッぺ』、中里介山原作の『大菩薩峠』を山中と共同監督したほか、前進座がユニット出演した『股旅千一夜』などを監督した。1938年、山中貞雄が戦死すると、友人たちで「山中会」を結成した。その後も1940年片岡千恵蔵主演の『宮本武蔵』三部作を、1941年に『海を渡る祭礼』、阪東妻三郎主演の『江戸最後の日』などといった時代劇の大作や話題作を製作。太平洋戦争開戦後は、撮影所の文化委員長を務める。


1943年、病床の伊丹が脚本を書いた『無法松の一生』を監督。同作は戦前の日本映画を代表する名作といわれるが、人力車夫・無法松が軍人の未亡人に愛の告白をするという場面が時局に合わないとして、検閲でカットされた。


1944年
、日華合作映画『狼火は上海に揚る』(大映・中華電影)を阪妻主演で製作。上海で8カ月にわたるロケを行った力作だったが、日本も上海も空襲で観劇のゆとりはなかったという。


1945年
、撮影所の企画室で、阪妻とともに終戦を迎える。稲垣と阪妻は黙って手を握り合ったという。戦後は『最後の攘夷党』でいち早く活動を開始した。


1947年東横映画の第1作となった現代劇『こころ月の如く』を監督。脚本の「藤木弓」は稲垣のペンネームである[1]

東宝へ
1950年からは主に東宝で活躍し、1954年に製作した三船敏郎の『宮本武蔵』がアカデミー賞アカデミー名誉賞を受賞。さらに1958年には自作『無法松の一生』を戦時中にカットされた箇所を元に戻して再度三船敏郎主演で映画化し、ヴェネツィア国際映画祭金獅子賞に輝く、このときに本国に「トリマシタ ナキマシタ」の電報を打ったという話は有名である。


その後は黒澤明とともに東宝の大作及び時代劇路線の代表的な監督とされ、1959年に三船出演・円谷英二特撮の東宝1000本記念映画『日本誕生』を、1962年に東宝30周年記念映画『忠臣蔵』を製作し、それぞれ興行的に成功を収めた。のち東京宝映プロの代表に就任、タレントの指導や演劇活動を行った。晩年は日刊スポーツに劇画『ナンセンス三浪士』を連載した。

1980年5月21日、肝硬変で死去。享年74。

人物・エピソード
あだ名は「イナカン」(稲垣監督の略)。1943年の『伊那の勘太郎』(滝沢英輔監督)の、長谷川一夫演じる主人公「伊那の勘太郎」は、この「イナカン」をもじった架空の人物だが、映画公開後、伊那には「勘太郎出生の地」と称する土地ができ、記念碑まで建てられてしまった[2]。そればかりか「勘太郎餅」や「勘太郎茶漬け」が名物になってしまっていて、「勘太郎腰かけの石」などというものもあって、実在は動かすことができなくなってしまった。実際は勘太郎の創作者は三村伸太郎である[3]


大映の永田雅一社長は稲垣と同じく小柄で、ロイド眼鏡にコールマンヒゲをしていて、永田が駆け出しのころはよく稲垣と間違われた。「キミの方が顔は売れとるんだなア、しかし見とれよ、いまに君がわしに間違えられるようになってみせるよッて」と永田によく言われたという。たまにヒゲを剃ることがあったが、周りにはいつも驚かれ、成瀬巳喜男には「キミは変装できるからいいナ」と冷やかされたという[4]


大映京都撮影所
黒田義之は親戚に当たる。「特撮映画」が東宝のお家芸と言われた時代に、黒田が特撮監督を務めた『大魔神』(1966年)が完成した際には、自分が東宝に籍を置いているにもかかわらず、「東宝のやつ、びっくりするやろな」と大喜びしていたという[5]


稲垣は『日輪』で助監督となるが、厳密に言うとポジションは「サード」だった[6]。黒田は「日本の撮影所で助監督を経ずにいきなり監督になったのは稲垣くらい」と述べている[7]

お酒に関しては少しずつ飲む「チョビ飲み」の人であったという[8]


土屋嘉男は敬愛する映画監督として、稲垣を「サングラスに、ちょび髭の伊達男」と呼び、「いかにも活動屋といった感じのくったくのない大物であった」と評している。撮影所では、「黒澤一家」と呼ばれた黒澤明の黒澤組に対し、稲垣組は「稲垣一家」と呼ばれ、黒澤の「天皇」に対して稲垣は「巨匠」と並び称された。撮影現場は和気藹々とのどかで、演技指導で遊びが入ることもあり、黒沢組と全く異なっていたという。土屋が「巨匠」と呼びかけると、優しい性格の稲垣は「なんだい」と答えてくれたという。「不思議な癖」があり、女優の演技で必ず本番直後に「何点」と採点していた。また何故かいつも土屋にだけ「阪妻に負けないようにね」とすぐに阪妻を引き合いに出したという[9]

詳しいことは、「稲垣 浩ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%B2%E5%9E%A3%E6%B5%A9
(wikiより)

2485   稲垣浩

稲垣 浩

2485a

2485b




ゴジラは、日本東宝1954年昭和29年)に公開した特撮怪獣映画ゴジラ』に始まる一連のシリーズ作品及び、それらの作品に登場する架空の怪獣の名称である。これら一連のシリーズ作品のことを「ゴジラ映画」と呼ぶこともある。


本項ではシリーズ作品全般についての解説を行う。個々の作品の詳細は後述のリストを参照のこと。


概要
1954年に第1作が公開されて以降、半世紀以上にわたって製作されている怪獣映画。演技者がぬいぐるみ着ぐるみ)に入って演じる手法を主体としており、この手法は以後、日本の特撮映画やテレビ特撮番組の主流となった[注 1]。怪獣や怪獣同士の格闘のみならず、逃げ回る住民や攻防する軍隊等の周辺の人間描写も毎回描かれ好評を得ている。日本のみならず海外でも放映されて人気を呼び、ハリウッド・ウォーク・オブ・フェームに日本のキャラクターとしては唯一の例として登録されている。


ゴジラ映画の変遷
第1期・昭和ゴジラシリーズ
シリーズの特徴・経緯
1954年11月3日、特撮映画製作を熱望していたスタッフが、当時社会問題となっていたビキニ環礁核実験に着想を得て製作した、第1作“水爆大怪獣映画”『ゴジラ』が公開される。身長50メートルの怪獣ゴジラは人間にとっての恐怖の対象であると同時に、煽り文句などで「の落とし子」「人間が生み出した恐怖の象徴」として描かれた。また核兵器という人間が生み出したものによって現れた怪獣が、人間の手で葬られるという人間の身勝手さを表現した作品となった。映画評論家の樋口尚文は、本作の監督である本多猪四郎への取材において「戦後の暗い社会を尽く破壊、無秩序に陥らせる和製キングコングを作りたかった」という旨の言質を取っている[1]。水爆実験で蘇った怪獣がニューヨークの街を破壊していくというレイ・ハリーハウゼン特撮の怪獣映画『原子怪獣現わる』(1953年)に大きな影響を受けている[2]。観客動員数は961万人を記録。この成功を受けて直ちに続編が準備され、翌年の1955年に公開された第2作『ゴジラの逆襲』で描かれた「怪獣同士の対決」は以後のゴジラ映画のフォーマットとなった。7年後の1962年に公開されたシリーズ第3作『キングコング対ゴジラ』では、当時の歴代邦画観客動員数第2位の記録となる1255万人を動員。アメリカなど日本国外でも上映され、大ヒットとなる。以降、日本国外で好調なセールスを買われた昭和ゴジラシリーズは、外貨獲得の手段として1960年代には矢継ぎ早に新作が製作された。


しかし、第5作『三大怪獣 地球最大の決戦』でゴジラが人類の味方として扱われて以降、ゴジラは恐怖の対象としての側面が薄まっていった。新作の度に次第に娯楽作品へのシフトが進み、ゴジラの擬人化的演出も見られ、本来のテーマであるSFとしてのリアリティも希薄になっていった。そして第12作『地球攻撃命令 ゴジラ対ガイガン』以降は完全に子供たちのヒーローとして描かれた。


当時の「邦画の斜陽」による深刻な興行不振や家庭へのテレビの普及などもあり、新作の度に観客動員数が前作を下回っていき[注 2]、それに合わせて上映時間が短縮され、制作費も縮小された。そのためビル街などの大掛かりなセットが製作できず、山林のセット主体の作品が続き、怪獣の戦闘場面に流用シーンが多用されるようになる。そして1973年に公開された第13作『ゴジラ対メガロ』で観客動員数が100万人を割り(98万人)、 1975年に公開された第15作『メカゴジラの逆襲』でそれを下回る97万人を記録。歴代ワースト1位を記録した。これを受けて東宝は巨額の予算がかかる怪獣映画を封印することを決定し、シリーズは1984年まで長い休止期間に入る。


第2期・平成ゴジラシリーズ(vsシリーズ)
シリーズの経緯
1984年、『メカゴジラの逆襲』以来9年ぶりに製作されたシリーズ第16作『ゴジラ』では、第1作を踏まえ、ゴジラ以外の怪獣は登場せず、再びゴジラは恐怖の対象として描かれた。この作品においてゴジラは1954年に一度だけ日本を襲った怪獣とされ、第1作の直接の続編という形をとっており、第2作以後の作品すべてをリセットした。また第1作当時と異なり、ゴジラの設定サイズの50メートルより高い高層ビルが多くなっており、それらに合わせゴジラのサイズを80メートルに設定。後のシリーズ第18作『ゴジラvsキングギドラ』以降はサイズは100メートルとなった。


5年後の1989年、第16作の直接の続編であるシリーズ第17作『ゴジラvsビオランテ』が公開された。以降「昭和ゴジラシリーズ」と同様、対決ものとしてシリーズ化され、1991年公開のシリーズ第18作『ゴジラvsキングギドラ』以降は正月映画として1995年公開の第22作『ゴジラvsデストロイア』まで毎年1本のペースで製作された。


第2期の初期(『ゴジラ』『ゴジラvsビオランテ』)は高齢化した当時のゴジラファンをターゲットにしていたためストーリーも大人向けであり、リアル路線であった。しかし実際の観客は親子連れが多数を占めていたため、徐々に子供でも楽しめるシンプルなファミリー向け娯楽映画にシフトしていき、内容もファンタジー要素やSF要素が強くなっていった。また『ゴジラvsビオランテ』が内容では高い評価を得たものの動員数が伸びなかったため、その後は昭和の人気怪獣の再登場路線となる[3]。『ゴジラvsキングギドラ』以降は動員数も大幅に向上し、スタジオジブリ作品などと並び、毎年の邦画興行ランクの1・2位を争うドル箱シリーズとして定着していった。


ハリウッド版『GODZILLA』の製作決定によりシリーズ第22作『ゴジラvsデストロイア』でシリーズ終了となった[注 3]。劇中でゴジラの死を描き、以降は休止期間となる。

詳しいことは、「ゴジラウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B4%E3%82%B8%E3%83%A9
(wikiより)

1592a

⇧⇩ 以前は「この像」でした。

1592c

1592d

1592e

1592f

⇧ いまは「この像」です。




鵜飼 玉川(うかい ぎょくせん、文化4年(1807年) - 明治20年(1887年5月12日)は幕末・明治時代の写真家。本名は遠藤幾之助、又は三二(三次)。日本で最初の商業写真家とされている。

経歴
1807年(文化4年)常陸府中藩士遠藤三郎兵衛の第4子として生まれる。横浜でアメリカ人オリン・フリーマンに写真術を学び、江戸薬研堀で写真館「影真堂」をひらく。1861年文久元年8月19日付け)の松平春嶽の江戸滞在中の記録に、玉川を呼んで横井小楠の肖像写真を撮影させたとある。文久元年の「大江戸当盛鼻競・初編」にも「写真・玉川三次」で登場している。上野彦馬下岡蓮杖が写真館を開業したのは1862年(文久2年)であるから、一般に言われる長崎の上野彦馬の写真館よりも玉川の方が開業が早かったとも推測される。弟子に、明治天皇に写真を進講し、日本初の写真誌創刊にも関わった深澤要橘がいる[1]


1873年
明治5年)、正倉院宝物調査に参加、その後古美術鑑定の道をあゆんだ。晩年は東京谷中に自分が撮影した写真を埋め、写真塚を建てた。この写真塚は1956年(昭和31年)9月30日と2009年(平成21年)5月16日に調査されている。


1887年(明治20年)5月12日死去。享年81。

脚注
1. 『寫眞雜誌(脱影夜話)』全3冊に関する検証と考察宮﨑真二、日本写真学会誌2017年80巻1号:46–52

参考文献
・講談社日本人名大辞典

中島徳博著「関西の写真」関西写真家たちの軌跡100年展、2007年5月

「鵜飼玉川―日本人最初の営業写真家―」横浜開港資料館館報「開港のひろば」第85号  

関連項目
日本写真史   

外部リンク
写真が紐解く幕末・明治 鵜飼玉川「写真塚」。2010年12月5日閲覧
(wikiより)

1209a

1209c

1209d

1209e

1209f

1209g



日本映画の製作は、日活、松竹など四つの大手会社が占めていましたが、大正十年前後になると、短期間の内に幾つも独立プロダクションが生まれては消えていく混沌とした時期を迎えました。


高松プロダクションの創始者・高松豊次郎は、始め、映画興行を通じて労働演説等の活動をしていましたが、大正六年(1917)六月に活動写真資料研究会を結成し、社会教育映画を製作するようになりました。


この過程において、プロダクション創立後に協力しあうことになる牧野省三らと親交を結びました。


また、「大東京」などの映画館を経営し、浅草六区の興行組合長にもなりました。


映画資料の収集にもあたりましたが、関東大震災で消失しました。


吾妻撮影所のグラスステージは、高松プロダクションの活動拠点として、大正一四年(1925)一〇月に建てられました。


敷地は一〇〇〇坪余り、現像室も一〇〇坪あったといわれています。


主なスタッフとして所長兼監督・山根幹人(やまねみきと)、文芸部・今東光(こんとうこう)、俳優・近藤伊与吉、草間実、西山普烈(江川宇礼雄・えがわうれお)等がいました。


この撮影所で「輝ける扉」(山本嘉次郎監督)、「愛染手綱」(高松操監督)など、四二本の時代劇等を製作配給し、俳優では西山普烈、近藤伊与吉、滝田静江、高島愛子等を輩出しました。


しかし、高松プロダクションは、提携していたマキノ映画社の撤退、監督の他プロへの移籍などにより、わずか一年数ヵ月の経営で休業状態に陥り、貸スタジオに転向せざるを得ませんでした。


隅田川湖畔にあった日活向島撮影所(現在の堤小学校敷地内)とともに、墨田区内に存在した映画撮影所として日本映画史の一端を刻んでいます。
(案内板より)

2528a

2528b



上野 彦馬(うえの ひこま、天保9年8月27日1838年10月15日) - 明治37年(1904年5月22日)は幕末期から明治時代にかけて活動した日本写真家(写真師)。


日本における最初期の写真家で、日本最初の戦場カメラマン(従軍カメラマン)としても知られる。号は季渓。家紋は桔梗の二引。


生涯
天保9年(1838年)、長崎の蘭学者・上野俊之丞(しゅんのじょう)の次男として生まれる。広瀬淡窓の私塾、咸宜園で2年間学び、咸宜園を離れた後の安政5年(1858年)にはオランダ軍医ポンペ・ファン・メールデルフォールトを教官とする医学伝習所の中に新設された舎密試験所に入り、舎密学化学)を学んだ。このとき、蘭書から湿板写真術を知り、大いに関心を持つ。同僚の堀江鍬次郎らとともに蘭書を頼りにその技術を習得、感光剤に用いられる化学薬品の自製に成功するなど、化学の視点から写真術の研究を深める。また、ちょうど来日したプロの写真家であるピエール・ロシエにも学んだ。その後、堀江とともに江戸に出て数々の写真を撮影して耳目を開き、文久2年(1862年)には堀江と共同で化学解説書『舎密局必携』を執筆する。


同年、故郷の長崎に戻り中島河畔で上野撮影局を開業した。ちなみにこれは日本における最初期の写真館であり(ほぼ同時代に鵜飼玉川下岡蓮杖が開業)、彦馬は日本における最初期の職業写真師である。同撮影局では坂本龍馬高杉晋作ら幕末に活躍した若き志士や明治時代の高官、名士の肖像写真を数多く撮影した。


維新後の明治7年(1874年)には金星の太陽面通過の観測写真を撮影(日本初の天体写真)、明治10年(1877年)には西南戦争の戦跡を撮影(日本初の戦跡写真)、同年に開催された第1回内国勧業博覧会では鳳紋褒賞を受賞するなど、その写真は歴史的、文化的にも高く評価されている。


一方で海外に支店を持つ(ウラジオストク上海香港)など写真業繁栄の傍ら後進の指導にもあたり、富重利平田本研造ら多くの門人を輩出した。明治37年(1904年)、長崎で死去。享年67。

ギャラリーについては「上野彦馬ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E9%87%8E%E5%BD%A6%E9%A6%AC

参考文献
鈴木八郎小澤健志、八幡政男、上野一郎監修『写真の開祖 上野彦馬』 産業能率短期大学出版部,1975年
・八幡政男『幕末のプロカメラマン 上野彦馬』 長崎書房,1976年
・八幡政男『写真術師 上野彦馬』 マルジュ社,1986年
・八幡政男『評伝上野彦馬 日本最初のプロカメラマン』 武蔵野書房,1993年
・安田克廣編『幕末維新-写真が語る-』 明石書店,1997年
長野重一飯沢耕太郎木下直之編『上野彦馬と幕末の写真家たち』 岩波書店,1997年
・馬場章編『上野彦馬歴史写真集成』 渡辺出版,2006年
・本馬貞夫「上野彦馬-化学者でもあった写真師」(Wolfgang Michel、鳥井裕美子、川嶌眞人編『九州の蘭学-越境と交流-』所収) 思文閣出版,2009年
・小澤健志、上野一郎監修『レンズが撮らえた幕末の写真師上野彦馬の世界』 山川出版社,2012年


関連項目
日本写真史
三谷幸喜 - 上野をモデルにした写真家が主人公の演劇『彦馬がゆく』を上演した。
グイド・フルベッキ
上野陽一 - 「能率の父」と呼ばれる経営学者、産業心理学者。彦馬の甥(彦馬の実弟・幸馬の長男)。
上野彦馬賞


外部リンク
写真の開祖 上野彦馬(産業能率大学)

上野彦馬賞(九州産業大学)

長崎大学付属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース 上野彦馬

早稲田大学図書館 古典籍総合データベース 「舎密局必携-前篇」

『舎密局必携』巻三 附録「撮形術」(上記の付録をひらがな・読み仮名付きにしたもの)

ダルメイヤー B-3(上野が最初使ったものと同型のレンズ)

NHK福岡制作ミニ番組「維新の傑物たち 上野彦馬」公開中
(wikiより)

西南戦争…熊本城攻防戦…官軍側から写真師・上野彦馬が撮影

⇧ 西南戦争、熊本城攻防戦 官軍側から写真師・上野彦馬が撮影。


1210 上野彦馬

上野彦馬

1210a

1210b

1210c

1210d

1210e

⇧⇩ 上野彦馬親族の墓

1210f

1210g

1210h

149l

⇧⇩ 再訪時撮影。

149m

1210i



墓碑の由来
故坂斎小一郎(共同映画株式会社創立者)氏の遺族ハツ夫人が墓地資金を提供し、日本映画の民主的発展のためにつくされた映画の仲間の生涯を顕彰し、追悼する共同の墓碑建立に役立ててほしいとの申し出がありました。


その意志を尊重し、映画を愛する人々と団体によって本会が組織され、この墓碑が建立されました。


1992年4月29日 映画を愛し 平和と民主主義を支えた人々の墓碑の会
(碑文より)


2583a

2583b

2583c



実相寺 昭雄(じっそうじ あきお、1937年3月29日 - 2006年11月29日)は、映画監督演出家脚本家小説家東京藝術大学名誉教授。妻は原知佐子


現在までのところ、デビュー作(長編映画第1作)でFIAPF公認の国際映画祭(ロカルノ国際映画祭)の最高賞を獲得した唯一の日本人監督である。


海外では非常に多く見られる、映画とオペラを並行して手掛けるタイプの演出家としても日本で唯一であった[1]



来歴
1937年(昭和12年)3月29日、東京四谷に生まれ、中国青島で育つ。日本敗戦を満州で経験し、戦後帰国。


1959年
(昭和34年)、早稲田大学第二文学部(在学中に第一文学部から転籍)仏文科卒業後、在学中に国家公務員試験に合格したこともあり、外務省に勤務。その後ラジオ東京(現 TBS)に入社。演出部に配属され、テレビ演出家として活動。


1961年(昭和36年)、『歌う佐川ミツオ・ショー』の中継演出でデビュー。続いて『さようなら1961年 日劇ビッグパレード』を演出。以後、スタジオドラマや中継で演出に腕を振るう。しかしスチールを多用したり、ショー中に街頭インタビューを挿入したりと、実相寺のイメージ優先のシュールな演出は局の理解を得られず、テレビドラマでラストシーンに唐突に暗転させ雪を降らせたところ「なぜいきなり雪を降らすんだ」と大目玉を喰らった。このとき「なかなかいい演出だったね、でももっと雪は多いほうが良かったな」と誉めてくれたのが円谷英二監督だった。


1962年(昭和37年)、単発ドラマシリーズ『おかあさん』の「あなたをよぶ声」でテレビドラマ初演出。映画『愛と希望の街』に感銘し、脚本を大島渚に依頼。作品自体は当の大島から酷評されたが、これがきっかけで彼と親交を持つ。


1963年(昭和38年)、歌番組中継にて、大スター美空ひばりを執拗にアップで狙って喉の奥まで映したり、逆に美空を豆粒のように小さく映したりと、奇抜な演出を行ったため、局やファンから抗議が殺到。さらに、1964年(昭和39年)のスタジオドラマ『でっかく生きろ!』が不評を浴び、途中降板。半ば干された形で「局でぶらぶらしていて、フランスあたりで映画の勉強でもするかなと漠然と考えていた」ところ、これを見かねたTBSの先輩で円谷英二の息子である円谷一に「映画部へ来いよ、その前に暇だろうから特撮脚本でも書かないか」と誘われ、テレビ映画畑に転身。当時TBSはフィルムによる劇映画の監督を局内映画部で養成するスタンスを採っており、局員助監督、監督として円谷特技プロダクション京都映画に出向しながら作品を発表していた。円谷特技プロを初訪問したのは、同年秋だったという。


この年、原と結婚。自動車免許を取得する。


1965年
(昭和40年)、TBS映画部に異動。ここは、フィルムを用いたテレビ映画を担当すると同時に、その外注先に社員ディレクターを監督や助監督として派遣しノウハウを蓄積するという役割の部署だった。『ウルトラQ』の脚本を執筆するが没となる。円谷一監督のドラマ『スパイ 平行線の世界』のチーフ助監督を務める。


1966年(昭和41年)、初夏に『現代の主役 ウルトラQのおやじ』で、円谷英二をドキュメント・ルポする。これが好評を得て、以後円谷特技プロに出向して、『ウルトラマン』、『ウルトラセブン』の演出で名を高める。なお、話の内容が現実味を含んだ夢幻なのか、幻想のような現実なのかよくわからない世界を舞台にした話が多く、映像効果もマッチしたものが多いために、その演出スタイルは後に実相寺マジックと呼ばれた。


1969年(昭和44年)、中篇映画『宵闇せまれば』(大島渚脚本)を自主製作し、映画監督デビュー。


1970年
(昭和45年)、ATG提携映画の製作に専念するためTBSを退社。フリーの監督として活動を開始。美術監督・池谷仙克を社長とする映像制作会社「コダイグループ」(現:「株式会社コダイ」)の設立に参加。同じ円谷プロ出身スタッフで興した「日本現代企画」とは提携関係にあった。コダイには死去に至るまで所属している。長編映画第一作『無常』でロカルノ国際映画祭グランプリ受賞。


1971年(昭和46年)、TBSの『シルバー仮面』(宣弘社)に、「コダイグループ」として演出参加。


1981年
(昭和56年)、小説『怪盗ルパンパン』(徳間ノベルズ)を上梓。著述家としても活躍する。同年、演出を務めたスペシャル番組『カラヤンとベルリンフィルのすべて』において、カラヤンとのディスカッションで後の音楽関連の造詣にも関わるほどの影響を受ける。


1983年
(昭和58年)、日本テレビドラマ『波の盆』で文化庁芸術祭大賞を受賞。他にカンヌCM映画祭グランプリも受賞している。


1985年(昭和60年)、西崎義展の依頼で『交響曲宇宙戦艦ヤマト』演出。NHKの外部制作番組の先駆けとなる。


1987年(昭和62年)、小説『星の林に月の舟 怪獣に夢見た男たち』(大和書房)を上梓。円谷プロ時代を、虚実の間で熱く綴る。


1988年(昭和63年)、『帝都物語』(荒俣宏原作)を演出。旧知のスタッフを総動員、ハイビジョンなども用い、大ヒット作となる。


2003年(平成15年)、食玩昭和情景博物館」の監修を手がけた。


2005年(平成17年)、実相寺の作風とマッチする雰囲気を持つ、京極夏彦の『京極堂シリーズ』第一作『姑獲鳥の夏』を映画化(京極自身が熱烈な実相寺ファンだった)。以降もシリーズ続けての演出担当を期待させたが、実相寺の死によりコンビは一作のみで終わった。


2006年(平成18年)、11月29日午後11時45分、胃癌のため東京都文京区の病院で死去。享年69。戒名は「龍徳院禅徹定昭居士」。

人物
「コダイグループ」で長年実相寺を支えた鈴木政信は、実相寺について「天才的頭脳の持ち主」とし、人柄としては「照れなのか自分を隠すほうで、本音はなかなか言わず、みんながいると“これやだ”とか言う」と語っている。池谷仙克は「非常に多面的な人物で、一個の人格として矛盾も多く、知らない人には誤解されそうで、どうも伝えにくい人」と評している。池谷によると、CMの打ち合わせから帰ってきて、平気で「降りた」と言われることもあり、これも「世界観のズレがあったから」という理由からだった。また反面、親しくなった相手なら、センスが合わなくとも「世界観? そんなのいいや」と依頼を受けてしまう人の良さもあったという[2]


上原正三
は、実相寺の個性の核は満州育ちに起因する「大陸的感性」だとしている。実相寺が欧州を愛するのも、数百年来変わらない大陸的風景への憧れだという。上原の執筆した『ウルトラセブン』の没脚本『300年間の復讐』(予定監督は野長瀬三摩地)は、沖縄生まれの上原が虐げられた者の視点で描いた内容だが、実相寺は興味を示さなかった[3]


実相寺自身は、満州で見た大陸の地平線に沈む真っ赤な夕陽に強い印象を受け、その後日本へ引き上げる際に貨車から見た夕陽には不安や悲しみ、寂寥感などを感じたと、池田憲章との雑談の中で述べている[4]。この発言を受けて池田は夕陽を背負う怪獣の描写について、怪獣が少年時代の実相寺と同じ悲しみの中にあったのだと解釈している[4]


人が撮った映画には興味を示さず、「あれはイモよ」で片づけていた。寺田農相米慎二を実相寺に紹介したが、唯一相米とは気が合って、よく一緒に呑んだりしていたという。寺田が『でっかく生きろ!』で実相寺と知り合ったのは、久世光彦の紹介からだったが、オシャレな久世とは対照的に身なりに拘らない実相寺の格好から、初見の印象は「大道具さん」だったという。寺田は後々までこのことで「君は人を見る目が無い。大道具さんと間違えて驚いたあの顔は終生忘れないよ」と実相寺にからかわれ続けたと述懐している。また、後に独創的な演出でTBSから度々叱責される実相寺が、なぜ演出部門で出世できたかについて寺田は、「演出助手の有能さに加え、上司に対してのお世辞が異常に上手かった」と述べている。


実相寺を語るうえで外すことのできないATGでの映画製作だが、実相寺がTBSを退職してATGに専念できたのは、後記されているCM制作を数多くこなして収入を得ていたからである。これには実相寺の知り合いが電通に勤めていたから可能であったことで、この伝手が無ければATGでの映画製作は早期に行き詰まっていたと考えられている。実際ATGでの映画作品は批評的に評価はされたものの、興行成績は作品を出す度に悪化し、「生活か製作か」でスタッフ内部で対立することもあった。


クラシック音楽にも造詣が深かった。欧米では多数の監督がこの趣味を持つのに対し、日本では浦山桐郎山田洋次大林宣彦ら列挙が可能な程度であるが、実相寺は他の誰にも増して全面展開させ続けた。演出作品のBGMへの反映に始まり、やがて音楽番組『オーケストラがやってきた』の演出、音楽雑誌への寄稿と徐々に仕事の比率を高めるようになり、ついにはオペラ演出にも進出。『イドメネオ』『カルメン』『魔笛』と多くの舞台を手がけ、東京藝術大学演奏芸術センター教授として教壇にも立った。1980年代には朝比奈隆指揮のベートーヴェン交響曲全集の映像収録を演出したが、これが2009年にDVDボックスとして発売された際は、この種のソフトでは映像監督の名はライナーノートの隅に載る程度が通例であるにもかかわらず、「朝比奈隆指揮 実相寺昭雄監督」と曲名や作曲者名より遥かに大きくボックス全面に大書される扱いとなった。寺田農は、「映像に関しては自らの映像世界の構築を役者にまで押しつけたが、こと音楽の仕事に関しては違っていた」と述べている。実相寺が撮った最初のドラマ『おかあさん』(1962年)の音楽を担当した冬木透は、録音の時に「テストなしで滅茶苦茶なまんまでいい、下手くそな演奏でいい」と言われたという。実相寺は『ステレオ藝術』に連載していた冬木のLP批評を毎月欠かさず読んでいたといい、欧州での仕事の帰りに現地のLPを買ってきて来てくれたりもしたという。愛聴する範囲は宗教音楽からオペレッタまで幅広かったが、多くの音楽愛好家の例に漏れず最終的にバッハにもっとも強く惹かれるようになった旨エッセイに記している。また夫人によれば、晩年はドミートリイ・ショスタコーヴィチを好んでいたという。


映像関係では色々と奇天烈な手法を行ったり、約束事を敢えて破るなどした実相寺だったが、音楽に対する演出では約束事は一切破らなかった。その姿勢は評価され、前記の通り、日本音楽界の重鎮であった朝比奈隆と親交を持ったほどである。朝比奈は晩年、オペラ『魔笛』の舞台演出を実相寺に依頼していたが、直後に死去。朝比奈が指揮、実相寺が舞台演出の『魔笛』は実現しなかった。その後、実相寺は『魔笛』の演出を2回担当している。


妻は女優の原知佐子。娘の実相寺吾子も女優。また、一家の「長男」とされる愛用のアライグマのぬいぐるみちな坊も度々自らの作品に登場させている。祖父は海軍大将台湾総督長谷川清日露戦争を題材とした東宝映画『日本海大海戦』(1969年、丸山誠治監督)では、撮影小道具として祖父長谷川大将の勲章類を提供。この奇縁は、同作で特技監督を務めた円谷英二にも驚かれたという。


仏文科出身ということで、カンヌ映画祭などでも通訳なしでフランス語で臨み、熱愛するモーツァルトやバッハを産み育てたドイツ語にも通じていたが、英語は苦手で中学レベルの間違いを連発して友人を呆れさせたことがあるといわれる。また書道を独学で会得し、自身が題字を揮毫した漫画作品なども複数存在する。以前書道雑誌「墨」にインタビューを受けたこともあり、自らの書道は唐の顔真卿の影響があると述べたこともあった。鈴木政信によれば絶対音感だったといい、独学で譜面が読めた。速読法も習得していて、本はめくるだけで記憶でき、大変な読書量だったという[5]


けろけろけろっぴのファンで、キャラクターを使用したふりかけ預金通帳、眼鏡ケース等を愛用し、家族から「変態ケロッピおやじ」と言われていた[6]。またけろっぴのみならず、興味を持った物は集めずにはいられない収集家で、電車の切符からミニカー、果てはエヴァンゲリオンアダルトアニメのキャラクターフィギュアまで収集していた。


達筆で知られ、スタッフが手描きのメモの判読に苦しむことが多々あったが、1992年頃からワープロを使うようになり、この問題が解決した逸話がある。


友人だった脚本家の石堂淑朗によれば、実相寺は若い頃は酒が飲めない下戸で、コマーシャル撮影で訪れたフランスで当時在住していた岸惠子から貰ったコニャックを石堂に贈るなどしていた。だが中年になってから、そのコニャックを愛飲するストレート専門の酒豪家になったのだという。石堂は「中年からの食習慣の変貌は危険だ」と忠告したが、実相寺は是正せず、後年に癌を患って手術する際に、「失敗した、胃腸に過信があったね」と嘆いたという[7]


盟友の美術監督・池谷を社長とする「株式会社コダイ」を連絡事務所として活動し続けたが、その名刺には“東京市赤坂区…”と戦前表記が併記されていた。


早稲田大学およびTBSの先輩でアナウンサーであった吉村光夫と同様に鉄道ファンであった。特に路面電車ファンとしても知られ、雑誌「東京人」などにコラムなどを度々執筆していた。また、実相寺の鉄道好きは吉村同様にTBS局内でも知られていた。自署「昭和電車少年」では、座席をスタンションポールにより着座区分を物理的に区切るという発想が、乗客の自発的なマナーに期待していないという理由で、JR東日本209系電車がお気に入りであることを明かしている。


元TBSアナウンサーの山田二郎は小中学校の同級生である[8]。高校では進路が分かれ、大学も同じであったものの学部が異なるため会うことはなかったが、TBSで偶然再会したという[8]

詳しいことは、「実相寺昭雄ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%9F%E7%9B%B8%E5%AF%BA%E6%98%AD%E9%9B%84
(wikiより)

1253a

1253b

1253c

1253d

1253e

1253f




下岡 蓮杖(しもおか れんじょう、文政6年2月12日1823年3月24日) - 1914年3月3日)は、日本の写真家(写真師)、画家。「蓮杖」は号で、通称は久之助。横浜を中心に活躍、上野彦馬鵜飼玉川らと並び、日本最初期の写真家である。

801 下岡蓮杖

⇧ 下岡蓮杖が慶応4年(1868年)に撮影した武州忍藩士・吉田庸徳の写真

801   Monument_and_Statue_of_Shimooka_Renjō

⇧ 静岡県下田市下田公園内にある下岡蓮杖の碑と像

経歴
生い立ち
伊豆国下田中原町(現在の静岡県下田市静岡地方裁判所下田支部裏付近)に桜田与惣右衛門の三男として生まれる。父は浦賀船改御番所の元、下田問屋六十三軒衆の一人だった。幼いときから絵を好んで下田で奉公するのを嫌ったため、天保6年(1835年)13歳で江戸に出て絵師になろうとする。しかし、何のツテも持たない少年が良い師につくことは難しく、結局日本橋横山町の足袋問屋に丁稚奉公に出ることになった。しかし、これも合わず3年で下田に戻る。天保14年(1843年)には父のコネで、下田奉行所の臨時下田御台場附足軽の職につくが、絵師への夢を捨てきれず、暇さえあれば絵を描いていた。これを見ていた上役の取次を得て、弘化元年(1844年)秋に江戸へ向かい狩野菫川に入門。菫川も伊豆出身ということもあって気に入られ、菫円(園)、菫古と号して、のちに全楽堂あるいは伝神楼とも号した。

写真術取得への道のり
ある日、師の用事である旗本家(一説に薩摩藩下屋敷)に出向くと、オランダ船のもたらした1枚のダゲレオタイプを見せられた。これに驚嘆した蓮杖は、以来写真術を学ぼうと決心し、菫川の許しを得てその門を離れた。しかし、菫川からの恩を忘れないため、「菫」の字が蓮の根を意味することから自分の身長より大きい5尺3寸の唐桑の木で蓮根の形を表した杖を作らせ、これを常に持ち歩いた。そのためいつしか蓮杖と呼ばれるようになり、自身もそう名乗るようになった。また、奥儒者成島司直(幕府の正史『徳川実紀』の編纂者)から、写真術の情報を聞いたのも、写真師を目指すきっかけの一つと言われている[1]


写真術を学ぶには外国人と近づくのが近道であると、伯父を頼り浦賀奉行の足軽として浦賀平根山台場の御番所警衛係の職を得た。そこで数回にわたってアメリカやロシア船舶の外国人に接したが目的を達することができず、諦めて長崎で学ぼうとした矢先に黒船来航が起こる。日米和親条約で下田が開港すると、郷里の下田で次の機会を狙おうと考え、船で帰省する途中、今度は安政東海地震に遭遇する。どうにか辿り着いた下田は酷い惨状だったが、何とか肉親や縁者と再開することが出来た。菫川には自身の無事を知らせるため、紙の代わりに屋根板に手紙を書き、その板には「逆浪に追われて家も米もなし 楽しみもなし死にたうもなし」と記されていたという。


下田での蓮杖は開国以前からあった、米国船が薪や水、食料などを買い付けるための市場「漂民欠乏所」の足軽として外使への給仕役として勤め、写真術を学ぶ機会を窺った。ここで安政3年(1856年横浜開港の談判のために来日したタウンゼント・ハリスの通訳であるヘンリー・ヒュースケンから、ようやく写真術の原理や基本概要を学ぶことが出来た。安政6年(1859年)12月に下田開港場は閉鎖され蓮杖もお役御免になると、菫川の江戸城再建に伴う絵画制作を手伝いに江戸に行く。ここで賃金100両を得るとどういう経緯は不明だが、開港した横浜で雑貨貿易商を営むユダヤ人レイフル・ショイアーの元で働くことになった。ショイヤーの妻アンナは幼い頃から画を好み、蓮杖の日本画を高く評価したため、蓮杖はアンナから西洋画法を学び、蓮杖はアンナに日本画法を教えた。


そのショイアー家にアメリカの写真家ジョン・ウィルソン(蓮杖の記録では「ウンシン」)が寄宿する。彼こそが蓮杖に写真術を授けた人物である。ただし、ウィルソンは同業者が増えるのを嫌い、容易に蓮杖を受け入れなかった。宣教師S・R・ブラウンの長女・ジュリア・マリア・ブラウン(後のラウダー夫人)がウィルソンから写真術を学ぶようになると、蓮杖はジュリアを通じて写真術を学べるようになるが、薬品の調合や暗室作業の詳細などは解らないことが多かった。特にウィルソンは、コロディオン湿板ネガから印字紙へプリントする技術を故意に教えなかったと思われ、蓮杖は大変苦労することになる。文久元年末(1862年1月末)にウィルソンは離日するが、写真機材や薬品と蓮杖が描いた日本の景色風俗のパノラマ画86枚と交換し、翌年ウィルソンはロンドンでパノラマ画の展示会を開いている。ウィルソンの写真機材得た蓮杖は、努力と財産の全てを傾けて写真術の研究に没頭し、苦労の末どうにか鮮明な画像得るのに成功した。

写真館開業
文久2年(1862年)蓮杖は40歳で横浜の野毛、ついで弁天通5丁目横町で写真館を開業した。これが横浜における営業写真館の最初であるとされる(江戸では前年に鵜飼玉川が写真館を開設しているとされる。長崎の上野彦馬の開業は、蓮杖と同年)。当初は日本人は写真を撮影すると寿命が縮まると称してこれを嫌い、客はいずれも外国人であった。写真館に来る外国人は和服和装姿や甲冑姿で写真を取るのを好んだが、着物を左前に着たり、屏風の傍らに石灯籠を配するなど日本の風習を無視する者もいた。蓮杖は注意したが外国人は応じず、蓮杖も諦めて撮影するようになった。開化期にしばしば見られる奇妙な日本風俗写真は、こうした経緯で制作されたとみられる。また外国人客は日本娘の写真を大変好んだため、蓮杖は多額の報酬でモデルを雇って撮影し、浮世絵美人画のような写真も販売した。文久年間には根強かった迷信も次第に無くなり、日本人客も来るようになり店は繁盛した。


蓮杖の門下からは、横山松三郎臼井秀三郎鈴木真一(初代)江崎礼二など日本写真史に名を残す著名な写真家達を輩出した。ほかに桜田安太郎、四身清七、桜井初太郎、平田玄章、西山礼助、船田万太夫、勅使河原金一郎などがいる[2]


一方で蓮杖はまた勤王の志が強く、箱館戦争台湾出兵などのパノラマ画を描き、作品は遊就館に納められた。また、元治元年(1864年)に来日、石版の技術を有していたアメリカ人の建築技師リチャード・ブリジェンスと親しくなり、そこで石版印刷を学び、明治初期、蓮杖も自ら石版画「徳川家康像」を制作、日本における石版印刷業、牛乳搾取業、乗合馬車営業の開祖であるとされる。


明治15年(1882年)、蓮杖は浅草公園第五区に写真館を移したがその後写真業を廃しキリスト教に入信、信仰生活に入り画筆を楽しみつつ余生を送った。


蓮杖は1914年に浅草で没した。享年92。墓地は豊島区駒込染井霊園にあり、下田公園には蓮杖の記念碑と銅像が建立されている。

脚注
1. 大日方欣一、「下岡蓮杖」 『日本大百科全書小学館、1994年。 
2. 幕末明治の写真師列伝 第三十回 鈴木真一 その一一般財団法人 日本カメラ財団

参考文献

・藤倉忠明 『写真伝来と下岡蓮杖』 神奈川新聞社、1997年5月、ISBN 978-4-8764-5216-3

・石黒敬章編 『限定版 下岡蓮杖写真集』 新潮社、1999年5月、ISBN 978-4-1072-0045-7

・斎藤多喜夫 『幕末明治 横浜写真館物語』 吉川弘文館歴史文化ライブラリー〉、2004年3月、ISBN 978-4-6420-5575-8

東京都写真美術館監修 『下岡蓮杖 日本写真の開拓者』 国書刊行会、2014年2月、ISBN 978-4-336-05782-2

関連項目
上野彦馬

鵜飼玉川

日本写真史

外部リンク

・『歴史写真. 大正6年10月號』(国立国会図書館デジタルコレクション)

  ・写真館安政6年横浜大田町にて全楽堂を開業と説明

  ・撮影旅行の下岡

下岡蓮杖とブラウンの周辺の写真について高橋信一(慶應義塾大学)
(wikiより)

801 下岡 蓮杖

⇧ 下岡蓮杖

801a

801b



江崎 礼二(えざき れいじ、1845年 - 1910年)は明治時代の写真家。本姓は塩谷。


経歴
1845年弘化2年3月3日[1]美濃国厚見郡江崎村(現岐阜市[注釈 1]に生まれた。幼いうちに両親を失い、叔父の塩谷宇平に養われ、その農作業を手伝っていた。1863年(文久3年)、18歳の頃大垣の久世治作という写真史研究者の家に出入りするようになり、そこで1枚の写真を見せられて写真を志した[1]。1870年(明治3年)同郷の権大参事小野崎蔵男に従って東京に出、その書生として勤めた[1]。ある日、本屋で柳川春三の『写真鏡図説』を見つけて大枚を叩いて購入、さらに京橋竹川町の玉屋という眼鏡店でレンズを購入、写真術を独習した[1]。1871年(明治4年)8月に小野崎蔵男は帰郷したが江崎は横浜に行って[1]1か月程下岡蓮杖[1]上野彦馬に師事してこれまでの疑問点を解消した後、東京芝日陰町に間借りで写真スタジオを開業したがこれはうまく行かず、生活に行き詰まった[1]。幸い知人に資本金600円を借りることができたため1874年(明治6年)に当時盛り場だった浅草奥山に写真館を移転、10年余の間に奥山でも1、2を争う写真師となった[1]。ここで浅草寺と仲見世の悶着解決を図ったり、後藤庄吉郎と共同で浅草勧業場を開設して産業振興を図る等後に東京市会議員となる素地を作った[1]


当時の一般の写真術は湿板写真であり、露光時間が5-15秒必要なだけでなく撮影前に感光材料を全て自分で作らなくてはならず、スタジオ外での撮影時には小型の暗室も持ち歩く必要があった。江崎は1884年(明治16年)5月19日、当時最新の乾板写真により隅田川での海軍短艇競争や水雷の発火演習を撮影し、「早撮りの江崎」として知られることとなった[1]天体写真や夜間撮影にも成功した。1987年には、息子の礼忠を写真の勉強のためにニューヨークに洋行させた[2]


1898年(明治31年)には東京市議会議員・市参事会員に選出された。議員時代には東京における高層建築物の先駆けである浅草凌雲閣を発案している。1910年(明治42年)1月28日、65歳で死去[1]


家族
四男は海軍技術中将の江崎岩吉


注釈
1. 『クラシックカメラ専科No.17、フォクトレンダーのすべて』p.122は美濃国大垣とする。


出典
1. abcdefghijk 『クラシックカメラ専科No.17、フォクトレンダーのすべて』p.122。
2. 江崎礼二の息子、写真術研究で洋行新聞集成明治編年史. 第六卷、林泉社、1936-1940


参考文献
講談社日本人名大辞典
岐阜図書館、岐阜県ゆかりの先駆者たち 第4回。早取写真師の元祖 江崎礼二
『クラシックカメラ専科No.17、フォクトレンダーのすべて』朝日ソノラマ


外部リンク
明治・大正ショウケース、江崎礼二写真館 キャビネ判写真 - 2010年12月6日閲覧
(wikiより)

649a



溝口 健二(みぞぐち けんじ、1898年5月16日 - 1956年8月24日)は、日本映画監督


女性映画の巨匠[3]と呼ばれ、一貫して虐げられた女性の姿を冷徹なリアリズムで描いている。サイレント期は下町情緒を下敷きとした作品で声価を高め、戦中・戦後は芸道ものや文芸映画でも独自の境地を作り出した。完璧主義ゆえの妥協を許さない演出と、長回しの手法を用いた撮影が特徴的である。黒澤明小津安二郎成瀬巳喜男らと共に国際的に高い評価を受けた監督であり、ヴェネツィア国際映画祭では作品が3年連続で受賞している。また、ジャン=リュック・ゴダールを始めヌーベルバーグの若い映画作家を中心に、国内外の映画人に影響を与えた。代表作に『祇園の姉妹』『西鶴一代女』『雨月物語』など。


来歴
生い立ち
1898年(明治31年)5月16日東京市本郷区湯島新花町11番地(現在の東京都文京区)に、父・善太郎と母・まさの長男として生まれる[2][4]。3姉弟の2番目で、3歳上の姉に寿々、7歳下の弟に善男[注釈 1]がいる。父の善太郎は大工[6](屋根葺き職人[7]、請負業とする説もある[注釈 2])で、日露戦争時に軍隊用雨合羽の製造をしていたが、戦争終結により事業は失敗。差押えを受けて、一家は浅草玉姫町に引っ越すことになった[6]


1905年(明治38年)、私塾の田川学校に入学[6]。一家の窮乏の口減らしのため、姉の寿々は養女に出される[8]。寿々は養家から日本橋の芸者屋「三河屋」に奉公に出せられ、半玉となり、客の松平忠正子爵[注釈 3]に落籍(後に正式に結婚し松平寿々となる)され一家の家計を助けた[2][9][6]1907年(明治40年)、同年開校の石浜小学校に入学。同級生には後年に仕事を共にする川口松太郎がいた。6年生の時、盛岡薬剤師をしている親戚に預けられ、そこで小学校を卒業した[10][7]1912年(大正元年)、東京に戻ったが、リウマチに罹り1年間闘病していた[6][10]


1913年(大正2年)満15歳の時、浴衣の図案屋に弟子入り。同じ図案屋仲間の弟子に大久保忠素がいた[6][11]。その後浜町の模様絵師に弟子入りし[10]1916年(大正5年)、赤坂溜池の葵橋洋画研究所(黒田清輝主宰・和田三造塾頭)に入って、洋画の基礎を学んだ[6]。この時、研究所近くのローヤル館ジョヴァンニ・ヴィットーリオ・ローシーオペラを上演しており、その背景画を研究所が引き受けていたので、溝口もそれを手伝ううちに浅草オペラに夢中になった[2]。また、この頃から落語講談などの江戸趣味に凝り始め、トルストイゾラモーパッサンなどの外国文学や、尾崎紅葉夏目漱石泉鏡花永井荷風らの本を読みあさっていた[6][2]


1917年(大正6年)、姉の計らいで名古屋の陶器会社の図案部に入ることになるが、働く気にはなれず、入社翌日には東京に戻った[6][11]1918年(大正7年)、神戸又新日報社広告部の図案係に就職するが、僅か1年で退職した。


日活時代

1920年(大正9年)、友人の琵琶の弟子だった日活の俳優・富岡正と親しくなり、日活向島撮影所に出入りするうち、若山治の知遇を得、同撮影所に入社した[6]。俳優志願で入社したが、小口忠の助監督に就くことになり、やがて田中栄三の助監督として、彼の代表作である『京屋襟店』などの作品を担当した。


1923年(大正12年)2月、若山のオリジナル脚本による『愛に甦る日』で24歳にして映画監督デビューを果たしたが、貧乏生活の描写が余りにも写実的過ぎたため検閲で大幅にカットされ、やむなくつなぎで琵琶劇を入れて公開したという。同年だけでも11本の監督作を発表しており、漁村を舞台としたメロドラマ『敗残の唄は悲し』や、ルパンを翻案した探偵劇『813』、表現主義風の『血と霊』など様々なジャンルの作品を作っている。同年9月1日関東大震災が発生。その影響で京都日活大将軍撮影所に移り、『峠の唄』『大地は微笑む 第一篇』等の佳作を手がけた。


1925年(大正14年)5月、痴話喧嘩のもつれから、同棲中の一条百合子(別れた後、貧しさのため娼婦となる)に背中を剃刀で切られるという事件が起きる。丁度『赤い夕日に照らされて』の撮影中の出来事であり、この事件で作品の監督を降ろされ、しばらく謹慎処分となる。しかし、9月には撮影所に復帰した。1926年(大正15年)、『紙人形春の囁き』『狂恋の女師匠』などで下町情緒を描き、女性映画で独特の感覚を発揮していった。1927年(昭和2年)、ダンサーの嵯峨千枝子と結婚。



1929年(昭和4年)には、左翼思想の高揚に乗じて『都会交響楽』などの傾向映画を作って、リアリズム追求に邁進し、翌1930年(昭和5年)製作の『唐人お吉』は大ヒットした。同年にはパートトーキーの『藤原義江のふるさと』を発表するが、技術的に拙く失敗作となった。

新興キネマ・松竹時代
1932年(昭和7年)、日活を辞めて新興キネマに入社。同社第1作は入江ぷろだくしょんと提携した『満蒙建国の黎明』で、満州で2カ月間ロケーション撮影を行った[12]国策映画だが、興行的には大失敗した。1933年(昭和8年)、『日本橋』に続く泉鏡花作品の映画化となる『瀧の白糸』がキネマ旬報ベストテン第2位にランクインされ、興行的にも成功、溝口のサイレント期の傑作となった。1934年(昭和9年)の『神風連』を最後に新興キネマを退社して日活多摩川撮影所で『愛憎峠』を撮るが、日活多摩川での作品はこの1作のみとなった。


同年9月、日活を退社した永田雅一が設立した第一映画社に参加。山田五十鈴主演・泉鏡花原作の『折鶴お千』などを経て1936年(昭和11年)、依田義賢とはじめてコンビを組んだ『浪華悲歌』そして、祇園を舞台に対称的な性格の芸者姉妹をリアリズムに徹して描いた『祇園の姉妹』を発表し、戦前の代表作となった。同年、永田の新興キネマ入りによって第一映画社は解散、溝口も首脳部や他のスタッフと共に新興キネマに入った。


1937年(昭和12年)、日本映画監督協会の2代目理事長に就任し、1955年(昭和30年)まで務めた(1943年(昭和18年)に一旦解散し、1949年(昭和24年)に再結成されている)。


新興キネマでは山路ふみ子主演の『愛怨峡』など3本を撮り、後松竹下加茂撮影所に移って村松梢風原作の『残菊物語』、田中絹代を初めて自作に迎えた『浪花女』、川口松太郎原作の『芸道一代男』といった芸道ものを製作。この3作は「芸道三部作」[13]と呼ばれ、長回しのショットを基調とした演出スタイルをここで完成させていった。


1941年(昭和16年)から真山青果原作の『元禄忠臣蔵』前後編を製作する。同作では厳密な時代考証を行ったり、松の廊下を原寸大に再現するなど完璧主義による映画製作が行われ、結果長い撮影期間と破格の費用をかけて完成された。作品は文部大臣特別賞を受けたものの興行的には大失敗するという苦汁を嘗め、これを機に溝口は長いスランプ期を経験することになる。

戦後
1946年(昭和21年)、絹代出演の民主主義的映画『女性の勝利』で復帰したが、不調が続き、翌1947年(昭和22年)に作った『女優須磨子の恋』も競作になった『女優』(衣笠貞之助監督)に評価が集中し、大惨敗した。


1948年
(昭和23年)、戦争で夫を亡くし敗戦後の生活苦から娼婦に堕していく女性をシビアに描いた『夜の女たち』で長きスランプから復調。その後に『雪夫人絵図』(舟橋聖一原作)、『お遊さま』(谷崎潤一郎原作)、『武蔵野夫人』(大岡昇平原作)などの文芸映画を作るが、これも低迷した。


1952年(昭和27年)、井原西鶴の『好色一代女』を基に、溝口同様スランプ状態に遭っていた絹代主演で『西鶴一代女』を製作。当初国内ではキネマ旬報ベストテン第9位の評価だったが、ヴェネツィア国際映画祭に出品されるや海外の映画関係者から絶賛され、国際賞を受賞。海外で一躍注目され、国内でも溝口の評価が変り、彼は長いスランプをようやく脱することが出来たのである。


1953年(昭和28年)、上田秋成の原作を幽玄な美で表現した自信作『雨月物語』が同映画祭でサン・マルコ銀獅子賞を獲得 (この年は金獅子賞の該当作がなく、本作が実質の最高位であった)。翌1954年(昭和29年)の『山椒大夫』でも同映画祭サン・マルコ銀獅子賞を受賞。3年連続で同映画祭の入賞を果たすという快挙を成し遂げ、一躍国際的に認知される映画監督となった。3年連続の同映画祭での入賞は、日本国内では他に類を見ない功績である。ほか『祇園囃子』『近松物語』等の秀作を生み出した。


1955年
(昭和30年)、大映の取締役の欠員1名の補充で衣笠貞之助と候補に挙がるが、衣笠が辞退したため、9月の株主総会で正式に大映取締役に就任、重役監督となった[14]11月3日には映画監督として初の紫綬褒章を受章[15][16]。この年にカラー映画に取り組み、『楊貴妃』『新・平家物語』の歴史大作を製作した。


1956年
(昭和31年)、売春防止法成立前の吉原の女たちを描いた『赤線地帯』製作後、次回作『大阪物語』の準備中に体調を崩し、5月に京都府立病院の特別病棟1号室に入院した[17]。病名は単球性白血病で、本人には病名を知らせなかった[18]。また、白血病は当時の医学では手の施しようがなかったため、そのまま回復に向かうことなく、同年8月24日午前1時55分[4]にこの世を去った。享年58。


同年8月に青山斎場で大映による社葬が営まれ[14][15]池上本門寺に付属する大坊本行寺に墓が建てられた(隣には溝口の友人の花柳章太郎の墓がある)。京都の満願寺にも分骨されており、そこには記念碑も建てられている。没後、勲四等瑞宝章を受章。1957年(昭和32年)、未完成の『大阪物語』の製作を吉村公三郎監督が引き継いで完成させた。

詳しいことは、「溝口健二ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%9D%E5%8F%A3%E5%81%A5%E4%BA%8C
(wikiより)

404 溝口健二

⇧ 溝口健二

404a

404b

404c



池田 義信(いけだ よしのぶ、1892年3月10日 - 1973年9月1日)は、日本の映画監督脚本家である[1][2]。本名・旧名池田 義臣(いけだ よしおみ、いけだ ぎしん)[1]映画製作者連合会事務局長、映画倫理規程管理委員会(旧映倫)副委員長を歴任[2]

人物・来歴
1892年(明治25年)3月10日長野県上水内郡三輪村(現長野市)に生まれる[2]


長野郵便局(現在の長野中央郵便局)勤務を経て、1920年(大正9年)、松竹蒲田撮影所に入社、新派系の演出家賀古残夢野村芳亭に師事する[1][2]。翌1921年(大正10年)には、田中欽之が監督した『親なき娘』の脚本を書く[1]。同年10月21日に公開された、柳川春葉原作、伊藤大輔脚本、栗島すみ子主演の映画『生さぬ仲』で監督に昇進している[1][2]


1923年(大正12年)、女優の栗島すみ子と結婚する[3]。同年9月1日に起きた関東大震災で松竹蒲田撮影所は稼動不能になり、松竹下加茂撮影所に移転する[1]。翌1924年(大正13年)2月には、すでに蒲田が復興し、池田は『スヰート・ホーム』を発表している[1]


1932年(昭和7年)8月19日に公開された、栗島すみ子主演の『情人』で、初めてトーキーを手がけるが、以降もサイレント映画、劇伴の入ったサイレント映画であるサウンド版も手がけている[1]。1936年(昭和11年)、新しく建設された松竹大船撮影所に移り、トーキー『結婚の条件』を撮り、同年12月19日に公開された田中絹代主演のトーキー『わが母の書』を最後に、映画監督を引退した[1]。1937年(昭和12年)、妻の栗島すみ子もまた引退している[3]


1945年(昭和20年)12月1日に発足した「映画製作者連合会」(のちの日本映画連合会、現在の日本映画製作者連盟)の初代事務局長に就任する。1951年(昭和26年)、「映画倫理規程管理委員会」(旧映倫)の副委員長を兼任した。


1973年
(昭和48年)9月1日、死去した[2]。満81歳没。妻の栗島が死去したのは1987年(昭和62年)8月16日であった[3]。長男は日本テレビ放送網ディレクターの池田義一


2012年(平成24年)6月現在、池田の監督作のうち、現存し、東京国立近代美術館フィルムセンターに所蔵される上映用プリントは、『不如婦』(『ほとヽぎす』、1922年)、および『小唄集 第二篇 ストトン』(『ストトン節』、1924年)の2作のみである[4]

詳しいことは、「池田義信ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E7%94%B0%E7%BE%A9%E4%BF%A1
(wikiより)

351d

351e


荻 昌弘(おぎ まさひろ、1925年8月25日 - 1988年7月2日)は映画評論家料理研究家、オーディオ評論家。月曜ロードショーの解説者を長年務め、その落ち着いた語り口から[1]淀川長治水野晴郎と並んで名解説者として知られた。身長165センチ、体重69キロ[2]

人物
来歴
東京府東京市小石川区大塚仲町(現・東京都文京区大塚)に生まれ育つ。男4人、女1人のきょうだいの長男[3]。「荻家はもともと裕福であって、ビンボーには向いていない。荻さんがグルメ評論やオーディオ評論を始めたのは、好きだからであり、こうした多趣味は荻家の兄弟に共通している」と、荻家と古い交際があった小林信彦は書いている[4]。東京府女子師範学校附属幼稚園(現・東京学芸大学附属幼稚園竹早園舎)を経て、1932年4月、東京府女子師範学校附属小学校(現・東京学芸大学附属竹早小学校)に入学[5](当時の同級に椿實岡田孝男がいる)。


物心つく前から映画を愛し、浅草で35ミリの名作映画のフィルムの断片を買い、映写機で壁に映し出して喜んでいた[6]。小学校時代には榎本健一ジョニー・ワイズミュラー大河内傳次郎に夢中になり、学校からの帰りには映画館のポスターを一字残らず暗記して帰るほどだったが[6]、職業軍人である父からは映画鑑賞を厳禁され、古本屋で買ってきたスター名鑑を庭に叩きつけられた上「家を出てゆけ」と言われたこともある[7]


第一志望の国立、第二志望の東京府立に落ちて旧制開成中学校に入学。この第三志望の学校の中でも自分より成績のいい生徒が大勢いたため、荻は二重の屈辱感を持ったが、学校で開かれたマラソンの参加体験を「疲れた疲れた」と題して作文に書いたところ、作文教師の安村正哉からこれを大変ほめられて劣等感を癒され、それが文筆業に進む出発点となったという[8]。同校在学中は単独で映画館に出入りすることを学校から禁じられていたため、隠れて『オーケストラの少女』『格子なき牢獄』『巴里祭』『望郷』『未完成交響楽』『舞踏会の手帖』『駅馬車』などの洋画に熱中[7]


1943年昭和18年)に開成中学校を卒業。旧制高等学校の入試に失敗し、開成中学校からの推薦により、二松學舍専門学校(現・二松學舍大学)に無試験入学[9]。しかし1年生の2学期からは戦争が盛んになったため授業がなくなり、赤羽の化学工場に勤労動員され、工員として肥料作りを担当[10]


当時、二松學舍の教員の中でただひとり赤羽の化学工場に来て15分間の小休止時間に『源氏物語』『たけくらべ』などの古典の話をしてくれたのが国文学者の塩田良平(のちの二松学舎大学学長)だった[11]。この化学工場における塩田の小講義を、荻は後年「私が受けた学校教育の中でいちばん強い思い出」[12]と回想している。

一方、二松學舍の歴史教師には当時ひたすら皇国史観を唱える者がおり、この教師は戦後有名な歴史学者となったが、戦時中と打って変わって唯物論による人民史観を提唱するようになったため、荻は「こういう生き方だけはしたくない」「私にとっての反面教師はその先生一人」「時代の流れでこんなふうに自分を変える生き方だけはしたくない」と、後年発言している[13]。当初は国語教師を志望しており、教員免状も取得したという[6]


1944年(昭和19年)夏、徴兵検査で第2乙と判定され、小石川区役所から「筋骨薄弱でお国の役に立つかっ」と怒鳴られて強制的に熱海の健民修練所という合宿に送られ、毎朝5時から夜まで1ヶ月間のしごきを受ける[14]1945年(昭和20年)春に召集令状を受け、同年5月15日、第二乙の陸軍二等兵として博多の東公園に集合[10]

 この間、4月13日東京大空襲で大塚の実家が焼失[10]。本籍地が熊本だったため九州の西部243部隊に入り、壱岐で伝令として活動しつつ『十八史略』『北越雪譜』を読む[10]。この部隊には老兵が多かったため、軍隊にありがちな新兵いじめは免れたという[10]


二等兵として復員後、1946年(昭和21年)、東京帝国大学文学部国文学科に入学。同じゼミに三浦朱門がいた。同年夏、友人2人と京都に伊丹万作の遺族を訪ねたが、土産に持参した羊羹がかびていたことに後で気付き、肝を潰したという[15]


このころ、黒澤明の『わが青春に悔なし』にエキストラ出演[6]。「大河内伝次郎扮する教授が、戦争前の京都大学でお別れの講義をする。それを聞いている学生の中に、ぼくが一人で映っているのです」と、後年語っている[6]


大学在学中から中平康渡辺祐介たちと「東大映画文化研究会」を結成し、映画評論家志望を宣言。当時、友人の三浦朱門や阪田寛夫映画監督を志望して映研への入部を望んだが、荻が「ああ、いいよ。だけど、入るときは試験をするぞ」と答えたため腹を立て、映画監督志望を断念したという[16]。また、同じ頃、友人の佐々克明の自宅で東大在学中の吉行淳之介と知り合ったが、荻は作家としての吉行エイスケを尊敬していたため、遺児の淳之介に強い印象を受けた[17]


映画批評家としては飯島正清水千代太清水晶登川直樹双葉十三郎に師事[18]


1948年の『映画評論』に「論壇時評」を書くなど、大学時代から映画評論の仕事を開始[19]1951年(昭和26年)、新制東京大学卒業。卒論は「近代日本の劇文学」[20]


大学卒業後はキネマ旬報社に入社。『キネマ旬報』同人や『映画旬刊』(雄鶏社)編集委員を務めた。雄鶏社時代は、別の映画雑誌の編集部に向田邦子がいた。


『映画旬刊』廃刊に伴い、1956年(昭和31年)6月からフリーになり[21]、KRテレビ(後のTBSテレビ)『映画の窓』でレギュラー司会者として映画解説を担当。日本の映画評論家でテレビのレギュラー番組を持ったのは、荻が最初であった[22]


週刊朝日』では映画評を8年間連載。1957年勅使河原宏松山善三羽仁進草壁久四郎川頭義郎丸尾定武者小路侃三郎向坂隆一郎と「シネマ57」を結成し、短篇映画『東京1958』の共同製作に参加。1958年、文部省芸術祭テレビ部門審査委員となる。


1962年、NHK演出審議会委員に就任。この当時までの荻昌弘について、「軽い、というのは、いまならホメ言葉だが、東京オリンピック前は、そうではなかった。荻さんは、<軽すぎる>と見られ、二十代のころのぼく、そう見ていた」と小林信彦は証言している[23]


1970年(昭和45年)4月から1987年(昭和62年)9月までTBSテレビ月曜ロードショー』の解説者を務め、同番組終了後、1987年10月から同局の火曜日の『ザ・ロードショー』の解説者を務め、没年の5月に体調不良で休むまで続けた。落ち着いた雰囲気で視聴者に語りかけるスタイル、そして映画が始まる前はストーリーには極力触れず、出演者やスタッフにまつわる話に絞った解説はおしなべて好評であった。


東京都立大学非常勤講師として映画を講義した他、食通としても知られ[24]さつま揚げコンビーフはんぺんなどを自宅で自製し、「男の料理」の先駆者でもあり、その方面の著書も多い。 ただし当人は食通と呼ばれることを嫌い、「『食通』とは、最もなりたくない、最も嫌悪し最も自戒するタブーの領域である」と発言し[25]、「食いしん坊」「食魔」という言葉を好んだ。


「せっかく自由業なんだから、いろいろと視点を変えて住んでみるということも必要なんじゃないか」という理由から、東京大塚の自宅の他、自宅近くのマンションに映画の原稿専用の仕事部屋を持ち、さらに映画の雑誌とチラシだけを置く空間として家を借り、東京以外では長野県軽井沢町京都市大分県杵築に仕事場を持った。


一時期苗字にちなみ大分県直入郡荻町(現在の竹田市)に別荘を所有し、日本各地の食文化と人情を研究していた[26]


長年日本レコード大賞の審査員を務めたが、関係者からの贈答品を受け取らないことで有名だった。


また、試写会で見逃した作品を映画館で観るときは映画館の受付が顔パスで通してくれようとすることが多いが、「金を払って見ないと、1300円(当時)払ってその映画を見る人の気持はわからない」との理由から入場料を払って観ていた[6]


1980年
から1983年まで横溝正史大賞選考委員を務める。なお、1973年(昭和48年)の日活ロマンポルノ裁判では映倫側証人として東京地裁で証言している。1977年6月1日には渋谷公会堂で開かれた「革新自由連合マニフェスト77」に企画委員会メンバーとして携わった。


FM東京
「オンキヨー・ダイナミック・サウンド」などのラジオ番組のDJテレビの司会、旅番組のレポーターとしても活動。


かつて毎年4月21日に放送されていた放送広告の日(現・民放の日)特番では、毎年司会を務めていた。そのためか、CBCラジオ開局35周年特番でも司会を務めていた。


1982年(昭和57年)5月から1987年(昭和62年)9月までTBS系列『そこが知りたい』の初代司会者を務めた。

1988年(昭和63年)春から体調を崩し入院していたが、同年7月2日午前8時56分、肝不全により順天堂病院で死去。享年62。墓は西日暮里本行寺にある。 


没後、蔵書類は遺族から京都文化博物館に寄贈され、「荻昌弘文庫」として保存されている。


1991年
水野晴郎により発起された日本映画批評家大賞には「ダイヤモンド大賞(荻昌弘賞)」が設けられている。

逸話
・もともと内気で人見知りが強い性格のため、1956年、TBSテレビ『映画の窓』にレギュラー出演が決まった時は憂鬱だったが、映画を紹介するのは自分の本職であり、本職に関して依頼があったからには逃げるわけに行かないと考えて度胸を決めた。それ以後もテレビ出演には恐怖心を持っていたが、『映画の窓』を始めてから数年後のある日、テレビカメラを自分の母親だと思えば気が楽ではないかと思うようになり、それ以来テレビ出演への恐怖心がなくなったという。「私の母親にわかる内容の話だったならどなたでも同じような調子で話が通じていくだろうし。また、ふだんから私も母親の前ではあまりふざけたまねとか、あるいは母親が悲しむかっこうとかはあまりしない。それだったらテレビの前へ出て、ついはしゃぎすぎてえげつない自分を見せるようなこともないのじゃないだろうか、ということに気がつきました」[27]と、荻は語っている。

・『キネマ旬報』編集部時代には、当時大学生だった品田雄吉の映画批評の才能を見出し、品田を同誌の懸賞論文に入選させた[28]。品田が大学卒業後に『キネマ旬報』編集部に入ったのも、荻の後押しによる[28]。荻の歿後、品田は「荻さんは新しいものが好きだった。ファクシミリなんか、すごく早くから使っていた。ワープロも早かった。パソコン時代を前にして亡くなられたのが、他人事ながら残念でならない」と語っている[28]。書斎へのワープロ導入について、荻は『私の書斎ワープロ戦略』(ダイヤモンド社1986年)の中でインタビューに応じている。それによると、1982年1月に購入したシャープ「小さな書院」が荻の最初のワープロであり、当初は手持ちの映画ビデオの外箱に題名を美しくタイプする目的で使っていたが、やがてワープロによるデータベースの構築とデータ分析の可能性に思い至り、1982年夏に「キャノワード60S」を200数十万円で入手し、毎日の原稿執筆から書斎の全資料、毎日の日程一覧表までをフロッピーで統御するようになったという[29]

旧制中学以来のクラシックファンで、2日に1枚のペースでLPレコードを購入し、特にフルトヴェングラーシューリヒトの録音はどんな駄盤でも入手すると自ら決めていた[30]。編集者時代には、輸入物のオーディオ機器を買うために訪れた商社で、後に妻となる女性と出会っている[30]

・小学校1年生のとき隣席の少女が真っ赤になっておもらししたのを目撃したことからその子を好きになり、気を引くため、下校の折に別の少年と示し合わせ、その子の傘を自分の傘で盛んに叩いて困らせた。このため、翌日に担任教師から別の少年ともども居残りを命じられ、訓戒を受けて反省したという[31]

・若い頃はしばしば作品を酷評し、そのために抗議を受けたり映画雑誌から干されたりしたが、やがて「安っぽい映画には安っぽい映画の面白さがある」と思い始め、最近はあまり酷評しないようになったと1979年に発言した[6]

・『ザ・ロードショー』の最後の出演解説(作品は『ビューティフル・ピープル/ゆかいな仲間』1974年、ワーナー・ブラザース)では、命の大切さを切実に訴えていた。

詳しいことは、「荻 昌弘ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%BB%E6%98%8C%E5%BC%98
(wikiより)

340  荻 昌弘

⇧ 荻 昌弘

340a

340b


永井仙吉(ながい - せんきち) 
明治29年?~昭和62年1月27日(1896?-1987)


映画カメラマン。

東宝に入社。テレビの「ウルトラセブン」シリーズのメインカメラマンで、実相寺昭雄とコンビを組んでいたことでも知られる。


撮影作品:「クレージー大作戦」、「てなもんや大騒動」、「南太平洋の若大将」、「日本一の男の中の男」、「ウルトラセブン」、「クレージーのぶちゃむくれ大発見」、「クレージーの大爆発」、「恋人って呼ばせて」、「毘沙門天慕情」。

91歳没。


307a

307b


浅草寺の境内には数多くの石碑が建っている。そのなかの一つである映画弁士塚は、明治・大正期の無声映画が活動写真として盛んだった頃の百余名の弁士たちの名を刻んでいる。


明治の中葉わが国に初めて映画が渡来するやこれを説明する弁士誕生 幾多の名人天才相次いで現れその人気は映画スターを凌ぎわが国文化の発展に光彩を添えたが 昭和初頭トーキー出現のため姿を消すに至った ここに往年の名弁士の名を連ねこれを記念する

建設者 大蔵 貢


石碑に記された弁士たち
徳川夢声   
石田夢人   
竹本簫虎   
石野馬城   
伊原旭寿
樋口旭浪   
森 鴎光   
高橋林風   
西村楽天   
東 稲水
熊岡天堂   
高村秀嶺   
細山夢眼   
玉井旭洋   
土屋松寿
原 紫翠   
金子晴洋   
渋谷白涙   
高岡黒眼   
山野一郎
国井紫香   
染井三郎   
紫野柳晃   
林 天風   
内藤紫健
谷 天朗   
静田錦波   
三木緑光   
大蔵忠孝   
中川慶二
泉天嶺    
松田春翠   
五十嵐狂虎  
黒沢松風   
犬養一郎   
生駒雷遊   
大友 保   
加川栄一   
大和春城   
岸田秀水   
大原霜渓   
松浦翠波
斎木嶺水   
加藤如洋   
大蔵正一   
大辻司郎
千代田鴬谷  
西村小天楽  
松井翠声   
石井春波
加藤柳美   
木下紫楼   
鈴木寿晃   
花井秀雄
他 55人
(石碑文より)

219a

219b

219c

219d

219e

219f

219g


この地は、かって南葛飾郡隅田村といい、田園地帯で空気が澄み、映画撮影に最適の土地でした。


ここにあった杉山茂丸氏の別荘地、7500㎡を日本活動フィルム株式会社(『日活』の前身)が買収し、映画撮影所を建てました。


それは大正二年十月のことです。


この撮影所は、日本で初めてという総ガラス張りの屋根をもったグラス・ステージで、広さ約400㎡もあり、東洋一の規模と言われました。


遠く吾妻橋の上からも、陽光きらきらと輝く屋根を望むことができました。


このスタジオの完成によって、それまでのように映画撮影が天候に左右されることがなくなり、映画の内容も飛躍的に向上しました。


ここでの作品は『向島作品』と称してもてはやされ、なかでも映画『カチューシャ』は永く名作の名を遺しました。


この撮影所は、関東大震災にも倒壊をまぬがれたものの、震災による映画界の受けた大打撃によって惜しくも大正十二年閉鎖されました。
(案内板より)


〇 日活向島撮影所
日活向島撮影所(にっかつむこうじまさつえいじょ、1913年10月 正式開業 - 1923年11月14日 閉鎖)は、かつて存在した日本の映画スタジオである。大正期日活の2大撮影所の一つとして、現代劇を製作し、製作物(映画作品)の配給はすべて日活本社が行った。新派劇を得意とし「日活新派」と呼ばれた。

データ
・正式名称 : 日本活動写真株式会社向島撮影所

・所在地 : 東京府南葛飾郡隅田村字堤外1412番地 (現在の東京都墨田区堤通2-19-1)

・所長 : 歴代

  ・山崎勝造 (1913年10月 - )

  ・池永浩久 (1922年5月 - 9月)

  ・後藤信治 (1922年9月 - 1923年)

  ・根岸耕一 (1923年 - 1923年)



略歴・概要
合併による新撮影所
1912年(大正元年)10月1日、合併により営業を開始した日本活動写真株式会社(日活)は、M・パテー商会福宝堂横田商会吉沢商店のそれぞれの撮影所のうち、前者2社の撮影所を閉鎖し、京都の横田商会の法華堂撮影所、東京の吉沢商店の目黒撮影所を稼働させた[1]。閉鎖された撮影所の従業員は一部日活に引き継がれたが、京都に配転されても旅費も出ず、目黒の周囲にたむろしていた[1]


合併から明けて、1913年(大正2年)、東京の隅田川ほとりの杉山茂丸の別荘地、約100坪(330.58平方メートル)買収し、旧吉沢商店代表・当時日活取締役の河浦謙一と、旧福宝堂の撮影技師吉本敬三の設計により、同年2月に着工した[1]。旧福宝堂、旧M・パテー商会のスタッフは、建設中の敷地で撮影を開始した[1]。当時の旧両社のスタッフは、下記の通りである[1]


・旧福宝堂 - 脚本・演出 : 篠山吟葉田村宇一郎、撮影 : 杉山大吉菅谷幸吉枝正義郎西川源一郎、吉本敬三、俳優 : 山崎長之輔 一派

・旧M・パテー商会 - 撮影 : 藤野泰男沢粛坂田重則大洞元吾


工費は公称約2万5,000円で、目黒を超える本格的グラスステージが同年10月には完成、稼働が開始した[1]。目黒の旧吉沢商店のグラスステージが閉鎖され、最終的には向島撮影所を現代劇、関西撮影所を時代劇に使用するという形で決定がおこなわれた。現在東映が踏襲する東西撮影所の棲み分けの原型が生まれた。

目黒から移ってきたスタッフは下記の通りである[1]


・旧吉沢商店 - 脚本・演出 : 小口忠桝本清鬼頭磊三新海文次郎、背景(美術) : 斎藤五百枝、撮影 : 千葉吉蔵村上満麿小西亮、俳優 : 関根達発森三之助五味国太郎立花貞二郎横山運平


土地提供者の杉山茂丸の推薦で入社した山崎勝造が撮影所長に就任した[1]

カチューシャと革新映画
1914年(大正3年)に入るとますます日活は欠乏し、経費節減で新作の製作を抑えにかかった[2]。同撮影所では、吉沢商店時代に佐藤紅緑藤沢浅次郎の薫陶を受けて自由に育った演出部の小口、桝本、俳優部の関根、立花らは新しい表現を目指した[2]。同年3月に島村抱月芸術座が公演した、レフ・トルストイの小説『復活』の新劇への翻案が脚光を浴び、松井須磨子が劇中で歌った『カチューシャの唄』は一世を風靡した[2]。そこで桝本が脚本を書き、小口が演出し、関根がネフリュードフ、女形の立花がカチューシャを演じた『カチューシャ』が生まれた[2]。同作は同撮影所始まって以来の大ヒットとなり、翌1915年(大正4年)早々、続編が製作・封切られた[2]


1917年(大正6年)、演出部に田中栄三、俳優部に東猛夫山本嘉一藤野秀夫衣笠貞之助が入社した[3]。新劇出身の田中、山本は、脚本部の桝本と同志的結合を結び、1918年(大正7年)、再びトルストイを原作に『生ける屍』を生み出した。田中の監督デビュー第2作である[3]。当時、アヴァンタイトルに監督名のクレジットは入っていなかったが、イタリア映画を真似て、同作にはクレジットが入った[3]。同作は向島の「革新映画」の第1作とされる[3]。スター女形の立花貞二郎が、同作のリイザ役を最後に同年11月11日、満25歳で死去した[4]


1921年(大正10年)の正月興行から、同撮影所に「第三部」が設置され、中山歌子酒井米子ら「女優」をフィーチャーした映画を製作、公開した[5]。前年に松竹キネマ小山内薫新劇に裏打ちされた映画を製作し始め、日本映画に女優の歴史が始まったからである。第1作は、1920年(大正9年)12月31日公開の田中栄三監督作品『朝日さす前』である[5]。日活本社は第三部の興行のフラッグシップに東京・赤坂の洋画専門館葵館をブッキングしたが、中山らは新派出身の芝居をする女優であり、作品に革新の意思は存在したものの、新派の延長線上の作品はマーケットに合わず、早晩に敗退した[5]

新劇と女優の導入
1922年(大正11年)9月、後藤信治が所長に就任した[6]。同年、田中栄三が監督した映画『京屋襟店』は、女形が出演する映画の最後の輝きとなった[6]。同作の完成試写が行われた同年11月25日夜、前取締役の石井常吉国際活映再建の為の引き抜きにより、藤野秀夫を初めとする13名の幹部俳優、1名の監督、2名の撮影技師が退社を表明した[6][7]。退職した者は下記の通りである[6][7]


・俳優 : 藤野秀夫、衣笠貞之助、島田嘉七東猛夫宮島憲一、横山運平、大井吉弥荒木忍五月操藤川三之助新井淳邦江弘久川上吾郎

・監督 : 坂田重則

・撮影技師 : 持田米三高城泰策


この流れのなかで、溝口健二が23歳で監督に昇進した[8]。残されたのは、山本嘉一以外はすべて端役で[8]、同日夜、緊急に首脳陣が、専務取締役の風間又左衛門後藤信治、京都からすでに独立した牧野省三ら重役まで呼んで同撮影所次長の小園末徳と会議を開き、田中、山本の同席のもとで、田中の提案により、同年12月1日付で新劇の舞台協会との提携を決め[6]山田隆弥佐々木積森英治郎東屋三郎岡田嘉子夏川静江東八重子ら20数名が向島に参加することとなった[6]、同協会の俳優と3本を製作することとし、結果的には、旧劇という女形による芝居から新劇にシフトできた[8]


1923年(大正12年)春、本社一旦支配人根岸耕一が撮影所長を兼務、初めて「監督制度」を敷いた[9]。これまでの作品について、現在もデータに乏しいのはこの遅れのためである[9]。脚本部に川村花菱田中総一郎大泉黒石、平戸延介(のちの映画監督山本嘉次郎)が入社している[9]。当時の演出部は、田中栄三、鈴木謙作若山治溝口健二細山喜代松、大洞元吾がいた[9]。同年5月、田中栄三は退社した[9] が、松竹蒲田撮影所から村田実を演出部に迎えた[10]。村田の入社第1回作品は『地獄の舞踏』であった。


同年9月1日の関東大震災により、同撮影所は壊滅、日活以前のフィルムアーカイヴもすべて灰燼に帰した[11]。同社首脳は緊急取締役会を開き、本社は非常事態に会社を一旦解散し、1,000人の従業員の解雇を宣言した[11]。それでも同撮影所では、溝口健二、鈴木謙作、細山喜代松が震災をテーマにした作品を製作した[11]。震災後、急造で復興し、溝口健二らの震災のエピソードによる映画を製作したが、同年11月14日、向島撮影所の解雇を免れた全メンバーは、京都の日活大将軍撮影所に一時移籍となった[11]。4日後の同月18日、大将軍で、溝口と村田がクランクインし[11]、同撮影所の歴史は終焉となり、現代劇部もそのまま京都に固定された[11]




詳しいことは、「日活向島撮影所ウィキペディア」をご覧ください ⇩ 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%B4%BB%E5%90%91%E5%B3%B6%E6%92%AE%E5%BD%B1%E6%89%80
(wikiより)

218a

218b

218c

218d


リ・デ・フォーレスト博士は明治6年米国アイオワ州に生まれ無線電信の開拓者として三百有余の特許権を得ラジオの父と仰がる。

大正12年更にトーキーを発明、紐育市に於けて上映世人を驚かせたり。

大正13年故高峰譲吉博士令息エヴエン氏来朝の際、親しくその詳細を聴きて将来に着目す、翌年渡米、博士の好意により東洋におけるトーキーの製作および配給権を獲得したり、依て米人技師を帯同帰国。

大正14年7月9日宮中に於天皇皇后両陛下の天覧に供し、各宮殿下の御覧を仰ぎ足る後一般の公開せり。
 
トーキーの我国に招来されたる之を以て初めとす。

以来余、我国におけるトーキーの製作を企図し、日本人技師をフォーレスト博士の許に派して技術を習得せしめ余の渡米もまた前後9回に及べリ。
 
大正15年大森撮影場において撮影を開始し、ミナトーキーの名を冠して黎明、素襖落、大尉の娘等の劇映画を完成す。

これ我国におけるトーキー製作の濫觴なり。

爾来トーキーは日進月歩、昭和3年の衆議院議員選挙には時の田中首相及び三土、山本、小川の各閣僚が自ら画中の人となりて政見を発表する等普及発達をみたる外ミナトーキーは上海を始め東洋各地にも大いに進出するに至れり。
 
今やトーキー我国に渡来してより35年を閲するもフォーレスト博士の発明形式は依然として世界各国に踏襲さる。

博士の業績、偉大なりというべし。加うるに我国テレビジョンの発足もまた実に博士の力に依れリ。

昭和23年、フォーレスト博士は極東軍総司令部マッカーサー元帥を介して余に日本におけるテレビの創設を慫通した。
 
余正力松太郎氏にその意を伝う。正力氏夙にテレビジョンの創設に意あり、フォーレスト博士の勘奨を機とし氏独自の構想の下にテレビジョンの実現に努力し、遂に昭和27年にテレビジョン電波許可第一号を受け、日本テレビ放送網株式会社を創立し、余もまた役員に加わる。

翌28年8月30日日本における最初の電波を出せり。これ偏に正力士の業績によると雖もまたフォーレスト博士の日本への友情に基づくものというべく吾人の感謝措く能わざるところなり。
 
今日トーキーの普及発達は実に目覚しく、テレビジョンの普及もまた瞠目に値す。

フォーレスト博士の文化に貢献する処、絶大なりというべし。

茲に余の旧縁の地待乳山の名蹟をトして碑を建てトーキー渡来の由来とテレビジョン創成の縁由を刻して博士の功績を讃え合せて報恩の微意を表す。                

建碑者  皆川芳造

217a


八ツ山橋は品川駅の南で京浜東北線、山手線、新幹線、横須賀線を跨ぐ橋であります。


南側の国道15号線(第一京浜)が新八ツ山橋で、北側の八ツ山通りの橋が八ツ山橋であります。


第一京浜が京浜急行の踏み切りを超えたところが旧東海道の入り口だったと言われる。


品川宿は入り口から徒歩(かち)新宿、北品川宿(北本宿)、目黒川を渡った南品川宿(南本宿)と三宿に区別されていた。


駅前の大きな通りを南下する左手は低くなり、そこを東海道線や山手線が走っている。

まもなく左手に京浜急行のトラス橋と八ツ山橋が見えてくる。


この橋は明治5年の新橋ー横浜開通の時から立体交差で、わが国最初の跨線橋あります。


※ この橋は、映画「ゴジラ(1954年)」でゴジラの上陸時に破壊されたという場所だそうです。

202a

202b


↑このページのトップヘ