本牧jack『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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小生の拙ブログ『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑に御訪問頂き誠に有難う御座います。
歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。
たまに『 大人数で取材しているのか? 』との質問を戴きますが、小生と相方の二人三脚で御座います。
出来るだけ続けたいと思っていますが 膝・耳に問題が有って、いつまで出来るやら・・・説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。
御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。 ※ 申し訳御座いませんが「画像の転用」は禁止とさせて頂きます。 コメントは原則公開させていただいております 質問等に対してはブログ記事で返信させていただきます 他の方法で連絡を取り合う等一切しません 場合によっては、「IPブロック」しますがブロックした場合解除する事は有りませんので宜しくお願いします。

カテゴリ: 大学・高校・各種学校創立・鰥寡院・生糸関連

松下村塾は,吉田松陰の叔父である玉木文之進が 1842 ( 天保 13 ) 年 ) に設立した私塾 ( 第 1代 ) で,松陰自身もここで学んでいる。

その後玉木が藩に抜擢され官職に就いたため、松陰の母方の叔父にあたる久保五郎左衛門に代わった ( 第 2代 )。

ペリー来航の際に 松陰はアメリカに密航を企てたため捕らえられ、萩の野山獄に幽囚された。

出獄後も自宅に幽閉されていたが、その間に近隣の子弟を集めて孟子の講義をはじめ、やがて松下村塾を主宰していた叔父までが聴講するようになり、自然に松下村塾の主宰は松陰に移った ( 1855 = 安政 2年。第 3代松下村塾 )。ここで 高杉晋作をはじめ 維新の指導者となる多くの人材が育った。

 松陰はその 3年後に、幕府の老中・間部詮勝の暗殺を企て、そのため再度捕らえられ斬首刑に処された。 

〇 松下村塾
松下村塾(しょうかそんじゅく)は、江戸時代末期(幕末)に、長州萩城下の松本村(現在の山口県萩市)に存在した私塾である。

吉田松陰が同塾で指導した短い時期の塾生の中から、幕末より明治期の日本を主導した人材を多く輩出したことで知られる。

変遷
1842年天保13年)に松陰の叔父、玉木文之進が八畳一間の私塾を開き松下村塾と名付け、少年だった松陰も入門した。文之進の指導は非常に厳格なもので、松陰が授業中、顔にとまった蚊を払って殴られた話が伝わる。ついで松陰の外叔、久保五郎左衛門がその名を継承し、塾生の教育にあたった。松下村塾は武士町民など身分の隔てなく塾生を受け入れた。明倫館士分と認められた者しか入学できず、町・農民はもちろん(卒族)、軽輩と呼ばれた足軽中間なども入学できなかったのと対照的であった。1857年安政4年)より、藩校明倫館の塾頭を務めていた吉田松陰が同塾を引き継いだ。名簿は現存しないが、塾生は約50名ほどいた。

著名な門下生には、全国の倒幕の志士の総元締の役割を果たした久坂玄瑞吉田稔麿入江九一寺島忠三郎等、また藩論を倒幕にまとめ幕府軍を打ち破った高杉晋作がいた。高杉晋作、久坂玄瑞は、「識の高杉、才の久坂」と称され、「松下村塾の双璧」と呼ばれた。また、この2人に吉田稔麿を入れて松陰門下の三秀と言い、さらに入江九一を合わせて「松下村塾の四天王」と称された。 1858年(安政5年)、松陰が野山獄に再投獄され、また幕末動乱期に至って塾生の多くが地元を離れたため中絶した。慶応二年にいったん再開し、馬島甫仙、河合惣太等が教授にあたる。明治4年より再度玉木文之進が塾頭となり、塾の場所を自宅に移した。

以後の塾舎として使われた玉木文之進の旧宅もまた、萩市内に保存されている。

萩の乱に前原一誠など元塾生の多数が参加し反乱の罪に問われたため、乱の鎮定後の1876年(明治9年)に責任を感じた玉木が切腹し、再度途絶。1880年(明治13年)頃に松陰の兄の杉民治が塾を再開した。1892年明治25年)頃、杉が老年に至って閉塾した。

著名な塾生
伊藤博文 政治家
山縣有朋 陸軍軍人、政治家
品川弥二郎 官僚、政治家
山田顕義 武士、政治家、陸軍軍人
野村靖 武士、政治家、子爵
松本鼎 長州藩士、官僚、政治家
岡部富太郎 長州藩士、尊王攘夷派志士
正木退蔵 官僚、外交官、教育者
前原一誠 長州藩士
飯田俊徳 官僚、技術者
渡辺蒿蔵天野清三郎)官僚、造船技術者、実業家
松浦松洞 画家、長州藩士
増野徳民  尊攘運動家、医師
有吉熊次郎 長州藩士、 尊王攘夷派武士
時山直八 長州藩士
駒井政五郎 長州藩士
中村精男 気象学者
玉木彦助 長州藩士
飯田正伯 長州藩士
杉山松助 長州藩士
久保清太郎 長州藩士、官僚
生田良佐 長州藩士
境二郎 長州藩士、官僚
宍戸璣 長州藩士、政治家、官僚、子爵
久坂玄瑞 長州藩士
吉田稔麿 長州藩士
入江九一 長州藩士
寺島忠三郎 長州藩士、 尊王攘夷派志士
高杉晋作  尊王攘夷派志士

関係者
玉木文之進 - 松下村塾を開塾。
吉田松陰 - 講師
木戸孝允(桂小五郎)- 塾生ではないものの、明倫館時代の松陰に兵学の教えを受けていた。
乃木希典 - 玉木家の親戚にあたり、塾生ではないが一時玉木家に住み込んで文乃進から指導を受けた。
富永有隣 - 講師
杉民治 - 松下村塾を再開。

建物
萩市の松陰神社の境内には幕末当時の塾舎が現存する。建物は木造かわらぶき平家建(床面積45.51㎡、天保年月日不詳新築、安政5年3月11日増築)の小舎で、当初からあった八畳と、十畳半の部分からなっている。十畳半は塾生が増えて手狭になったため、後から塾生の中谷正亮が設計し、松陰と塾生の共同作業で増築したものである。

1889年(明治22年)、境二郎が往時の塾舎の保存を提案、品川弥二郎、山田顕義らが賛同して寄付金を募り、塾舎を屋根の漆喰塗りや壁の塗り直し等の若干の補修を行ったうえで保存することとした。1922年大正11年)10月12日、国の史跡に指定されたが、当時の山口県の調査資料では、幕末の建物がそのまま保たれていたことが記載されている[1]。管理団体は松陰神社である。

2009年平成21年)1月5日に「九州・山口の近代化産業遺産群」の一つとして世界遺産暫定リストに追加掲載され、2015年に「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」として正式登録された。

2020年令和2年)10月27日に山口県土地家屋調査士会により法務局へ建物表題登記がされた。

模築
下記のところに松下村塾の模築がある。
松陰神社(東京) - 東京都世田谷区
玉川学園玉川大学) - 東京都町田市広瀬淡窓咸宜園の模築と並んでいる)
山口県立奈古高等学校 - 山口県阿武郡阿武町
竹村記念公園 - 秋田県大館市(当時安田生命相談役であった竹村吉右衛門が奔走して、実現となったもの)
徳山大学 - 山口県周南市
山口放送本社 - 山口県周南市
道の駅萩往還 - 山口県萩市(松陰記念館内)

脚注
1. 
「塾ハ爾来僅カニ修理ヲ加へタルモ完全ニ旧態ヲ維持ス」 山口県編  史蹟名勝天然記念物調査報告概要. 1925年(大正14年)

関連項目
松陰神社     
ザメディアジョン(「月刊 松下村塾」を全国発売している)

外部リンク
松下村塾 - 文化遺産オンライン文化庁
松下村塾 - 国指定文化財等データベース(文化庁
吉田松陰.com(幕末の私塾・松下村塾について)   
萩市松陰神社公式サイト 松下村塾(世界遺産)  
(wikiより)

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玉木文之進 ( 1810 ~ 76 ) は、吉田松陰の叔父にあたり、杉家から出て玉木家 ( 大組 40石 ) を継いだ。

生まれつき学識に優れ、松陰の教育にも大きな影響を与えたほか、付近の児童を集めて教授し松下村塾と名付けた。

この塾の名称は後に久保五郎左衛門が継ぎ、安政 2年 ( 1855 ) には松陰が継承して、名を天下にあげるに至ったことから、この旧宅は松下村塾発祥の地といえる。

建物は木造茅葺き平屋建てで、8畳の座敷のほか 4畳の畳部屋・3畳半の玄関・4畳の板間と土間の台所があり、別に湯殿・便所がある。
(案内板より)

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日本大学の学祖「山田顕義」とは

日本大学の学祖である山田顕義は、最年少の門下生として 14歳で吉田松陰が主宰する松下村塾に入門します。

高杉晋作や久坂玄瑞らと交流し、長州の志士として歩み始めた顕義は、大村益次郎から兵学を学び、幕末に戦闘が絶え間なく続いた長州藩において軍人としての才能を発揮、諸隊を率いて幕末・維新の動乱を駆け抜けました。

明治初年、日本近代陸軍の創設に尽力、岩倉使節団で欧米諸国を回覧後は、近代法の整備が急務であると痛感し、以後近代法整備事業に取り組んでいきます。

一方で教育普及にも力を注ぎ、明治22年には日本法律学校 (  現日本大学 )、翌年には國學院 (  現國學院大學  ) の創立に尽力しました。

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日本大学、國學院大学の創設者として知られる山田顕義 ( 市之允 ) の生家跡。

弘化元年 ( 1844年 ) に萩藩大組士山田七兵衛の長男として生まれた顕義は、安政 4年 ( 1857年 ) 吉田松陰の門を叩いた。

四境戦争、戊辰戦争、西南戦争に参戦し、陸軍中将、司法大臣、枢密顧問官を歴任。

昭和 54年 ( 1979年 ) 建学 90周年を迎えた日本大学によって、山田顕義の誕生地に顕義園が整備された。 

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山田顕義

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明徳小学校発祥之地
1872 ( 明治 5 ) 年に学制が公布され 公立学校が設立されることになり、ここ本所地区でも 本久寺に寺子屋が開設された。


これが 後の明徳小学校である。


その 3年後に ここから南東に 400m先 ( 現在の本所中学校 ) に移転。


1923 ( 大正 12 ) 年の関東大震災で校舎が焼失し,、7年後に 鉄筋の新校舎が完成したが、1945 ( 昭和 20 ) 年の東京大空襲で再び全焼し、翌年 国民学校の廃止に伴い廃校になった。


この発祥碑は 今年 ( 2006 ) 6月に 開校 130周年記念として建立された。

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足立区立第二中学校(あだちくりつ だいにちゅうがっこう)は、かつて東京都足立区千住曙町にあった公立中学校。略称は足立二中(あだちにちゅう)。


少子化
ドーナツ化現象私立中学校への進学者増加に伴う公立中学校への進学者減少などの理由により学区内の生徒数が減少し、全校生徒が127人と少なくなったため、2005年平成17年)3月末に閉校した。ともに閉校となった足立区立第十六中学校と統合した、足立区立千寿桜堤中学校が別の所在で新設された。

沿革
1947年4月1日 - 開校。当初は本校を旭小学校内、分校を柳原小学校内に設置される。

1950年9月11日 - 千住曙町(閉校までの場所)に木造校舎が完成する。

1959年1月1日 - 校歌が完成する(作詞:石田波郷、作曲:渡邊浦人)。

1963年5月10日 - 体育館が完成する。

・1963年5月6日 - 学校給食を開始する。

1971年頃 - 屋上プールなどを備える鉄筋校舎が完成する。以降、閉校までほぼ同じ姿だった。

・2005年3月31日 - 閉校。同時期には閉校式・お別れ会も催され、生徒・卒業生・地域住民などが別れを惜しんだ。

  ・閉校後しばらくはそのままの状態となっていたが、一時は校庭の貸出利用も行っていた。

2006年3月 - 足立区から学校法人三幸学園に対して、当校の敷地(土地)については定期借地権により無償貸与、建物・工作物・立木については無償譲渡された。のちにクレーン等の大型重機が入り施設の改修や増設工事が行われ、2007年(平成19年)4月に東京未来大学が同地に開校した。

校章
はばたいた翼の中に「中」の文字をあしらったシンプルなデザインだった。外側の羽は鳩の羽をイメージしたもので、「鳩のように礼儀正しく責任感の強い生徒になれ」との意味が込められている。

交通
東武伊勢崎線 堀切駅西口より徒歩3分

・東武伊勢崎線 牛田駅より徒歩8分

京成本線 京成関屋駅より徒歩8分

撮影地として
・テレビドラマ『3年B組金八先生』で、舞台となる「東京都区立桜中学校」のロケ地として当校が使用されたことでも知られてもいるが、未成年の妊娠など題材とする内容に難色を示して撮影を拒否する事もあった為、撮影が行われたのは第1、第5〜7シリーズのみであり、それ以外は近隣の中学で撮影した。

・廃校後、東京未来大学への転用にともなう改修工事が着工されるまでの間は様々な映像作品の撮影に使用された。金八のスペシャル11『未来へつなげ 3B友情のタスキ』(2005年12月30日放送)を初めバラエティ番組『水10!ワンナイR&R』内で放送されたドラマ『もんじゃろ学園物語』のオープニング映像では当校が使用されており、3年B組金八先生を模した演出がなされている。このほか、コブクロの楽曲『』のプロモーションビデオや、テレビドラマ『アンフェア』などでも使用されている。

関連項目
足立区の学校一覧

東京都中学校の廃校一覧

3年B組金八先生

学園ドラマ
(wikiより)

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明治 20年 ( 1887 年 ) 9月 16日


井上円了は民衆に教育の機会を開放し


かつ哲学を中心とする教育を行うことを


目的として、 東洋大学の前身である哲学館を


 この地に創立した
   
昭和 62年 9月 16日
       
東洋大学創立 100周年記念建立
(石碑文より)

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明治後期に結成された松代の産業組合製糸。


明治 42年 ( 1909 ) の松代町内製糸工場一覧 ( 農商務省工務局工務課編纂 ) に、松代製糸改良組再操工場、代表者・大里 孝、職工数・男 4人、女 15人の記載がある。


揚げ返し仕上げの再操工場だった。
(案内板より)

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泰明小学校は明治十一年 ( 1878 ) 六月に開校され、北村透谷 と島崎藤村 はその初期の卒業生でした。
 
北村透谷 ( 1868 ~ 1894 ) は、現在の神奈川県小田原市に生まれ、明治十四年に家族とともに京橋区弥左衛門町 ( 現在の銀座四丁目 ) に転居し、翌年卒業するまで泰明小学校に通いました。


その後、自由民権運動に惹かれて政治運動志しましたが、後に文筆活動に転じ文芸評論家・詩人として活躍しました。明治二十六年雑誌『文学界』に参加した透谷は、文芸における自由主義を唱え、近代浪漫主義文学の開拓者といわれました。
 
島崎藤村 ( 1872 ~ 1943 ) は、中山道馬籠宿 ( 現在の岐阜県中津川市 ) に生まれ、明治十四年に上京し、京橋区鎗屋町 ( 現在の銀座三・四丁目付近 ) の嫁先から泰明小学校に通学しました。


その後、姉夫婦が帰郷したことにより同郷人の家に寄寓し、明治十七年に卒業しました。


明治学院在学中に文学への関心を深めた藤村は、『文学界』の活動を通して透谷から深い影響を受けました。


著作に『若菜宗』・『春』・『夜明け前』などがあり、中でも『破戒』は自然主義文学の先駆と言われています。
( 案内板より )

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跡見 花蹊(あとみ かけい、1840年5月10日天保11年4月9日) - 1926年大正15年)1月10日)は、日本教育者日本画家書家学校法人跡見学園の創設者。浦和画家跡見泰

人物・概要
摂津国西成郡木津村(現在の大阪市浪速区)生まれ。本名は滝野。父重敬は寺子屋を営んでいた。幼少時より書や画などを習い、12歳の時石垣東山に入門、その後禎野楚山について画を学ぶ。


17歳の時の1856年(安政3年)に京都に遊学する。頼山陽門下の宮原節庵漢籍、詩文、書を学ぶ。画は円山応立中島来章から円山派(写生派)を、日根対山から南宗派(文人派)をそれぞれ学び、それぞれを生かした画風を作り上げた。その後1859年(安政6年)に大坂に戻り、父が大坂・中之島(現在の大阪市北区)に開いていた私塾「跡見塾」を継いだ。


その後1866年(慶応2年)に京都に移って私塾を開く。1870年(明治3年)には京都の私塾を閉じて上京し、東京神田猿楽町で私塾を開く。次いで明治8年(1875年)には東京・神田中猿楽町(現在の東京都千代田区)に「跡見女学校」を開校した。この跡見女学校が、現在の跡見学園のルーツとなっている。


幕末
明治維新の混沌を目の当たりにしたことで女子教育の重要性を認識したことが、跡見の教育方針の原点となっている。跡見女学校では古来の文化や風俗を重視し、漢学書道茶道体操などを導入し、知識習得だけにとどまらない情操教育を図った。


1871年
(明治4年)3月8日、外務省から清国向けの画帖を依頼される。この作品は現在、台北の国立故宮博物院に『故画 清花蹊女子冊頁』として所蔵されている。故画とあることから、当時の清国皇帝同治帝に献上されたものと考えられ、日清修好条規を締結する際に、日本国から清国皇帝に献上されたものの一つとされた可能性が高いとされる[1]


1887年
(明治20年)3月9日、『東京日日新聞』に花蹊訃報の誤った記事が掲載され、お悔やみを述べる使者が次々と訪れ、お供え用の花、菓子、香典まで届く事態となる。そのようななかでも花蹊は、いつもどおりに授業を行い、数日後には、跡見女学校の転居地として小石川柳町の土地を決める[2]。このエピソードは教育者としての花蹊の熱意を物語るものといえよう。


また教育者としてだけでなく、日本画家書家としても活躍した。明治5年(1872年)と26年(1893年)御前揮毫の栄誉を賜り、学校経営者としてのみならず画家としても著名だった。従妹の跡見玉枝も日本画家で、の絵を良くしたことで知られる。書家としても「跡見流」といわれる書風を築き上げた。


万里小路通房
の娘・李子を養女にし、跡見女学校の二代目校長とした。

参考資料
・展覧会図録 『江戸文化シリーズ11回 江戸の閨秀画家』 板橋区立美術館、1991年

蒲生重章「花蹊女史傳」:『近世偉人傳・初編』(明治10年)より

関連項目
学校法人跡見学園

跡見学園女子大学

跡見学園女子大学短期大学部

跡見学園中学校・高等学校

日根対山

脚注
1. 『跡見花蹊』(ミネルヴァ書房、2018年)102~104頁
2. 『跡見花蹊』(ミネルヴァ書房、2018年)139~141頁

外部リンク
学祖・跡見花蹊 学校法人跡見学園

跡見花蹊日記 岩田秀行らによる花蹊の日記の公開
(wikiより)

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跡見花蹊

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蜷川親継 ( にながわ - ちかつぐ )     
大正 5年 ~ 昭和 62年 1月 9日 ( 1916 - 1987 )

日本文化大学創立。

昭和 53年 ( 1978 ) 日本文化大学創立、学長となる。法学部のみの単科大学として始めた。

正面「蜷川家先祖代々之墓」。

日本文化大学による「日照柏廟」という顕彰碑がある。

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松下村塾は、木造平屋建瓦葺の小舎 ( こや ) で、当初からあった 8畳の 1室と、後に塾生達との労力によって増築した 10畳半の部分とからになっている。


初め吉田松陰の叔父・玉木文之進がここからほど遠くない自宅で私塾を開き、松下村塾と名付けていた。


ついで外淑 ( がいしゅく ) 久保五郎左衛門がその名を継承し、子弟の教育にあたった。


安政 4年 ( 1858 ) 11月 29日までの 1年間塾生達とすごした場所である。


松下村塾では、身分にとらわれず集まった若者達を、強い志と誇りを持って行動する日本人に育てた
(案内板より)

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鳩山 春子(はとやま はるこ、文久元年3月23日1861年5月2日) - 1938年7月12日)は、日本の教育者。共立女子大学創立者の一人。旧姓多賀。


津田梅子
津田塾大学創立者)、安井てつ東京女子大学創立者)、成瀬仁蔵日本女子大学創立者)、横井玉子女子美術大学創立者)、戸板関子戸板学園創立者)などと並ぶ日本の女子高等教育の基盤づくりに活躍した「明治クリスチャン教育家」のうちの一人である。


夫の鳩山和夫を賢妻として助け、のちに連なる鳩山一族の礎ともいうべき存在であり、息子の鳩山一郎のために立憲政友会の別の候補者を辞退させ当選させたことが統帥権干犯問題鈴木喜三郎に繋がり軍部の専横の増大を間接的に生んだが、戦後多くの子孫が政治、経済、学問の道で活躍した。

来歴
1861年(文久元年)3月23日に信濃国松本藩士(戸田松平家家臣)渡辺幸右衛門(多賀努)と賢子の五女として長野県松本市に生まれる。明治になって一家は多賀と改姓する。


1874年4月、竹橋女学校に入学する。

1877年3月、竹橋女学校の廃止につき、新設の東京女子師範学校別科英学科に入学する。

1878年7月、東京女子師範学校別科英学科を卒業する。同年9月に東京女子師範学校師範科本科に入学する。


1879年5月13日、アメリカのフィラデルフィア府女子師範学校入学の許可がおりるが、8月に政府の都合により留学が中止する。同年9月に文部省の依頼によりお茶の水東京女子師範学校師範科に復旧し、一級昇進する。

1881年7月30日にお茶の水東京女子師範学校を卒業する。同年8月9日に母校のお茶の水東京女子師範学校に就職する。同年11月に鳩山家に嫁ぐため辞職する。


1881年11月16日に鳩山和夫と結婚する。

1883年1月1日に戦後に総理大臣になる長男の鳩山一郎を出産する。

1884年2月4日に次男の鳩山秀夫を出産する。 同年6月2日に東京女子師範学校御用掛拝命。

1886年2月20日に新設の文部省直轄東京高等女学校より御用掛拝命。


1886年3月に宮川保全と共に共立女子職業学校(共立女子学園)の創立に参加。本務の傍ら、教授職も務める。


1895年11月に高等女学校の設備がない地方に大日本女画学会通信教育を開始する。その後高等女学校が普及するまで十数年継続する。


1899年1月に共立女子職業学校の財団法人化にともない、商議員となる。

1912年4月に共立女子職業学校に家庭科を新設する。

1913年に東京女子高等師範学校講師となり、職員を兼任する。

1914年に共立女子職業学校の理事となる。

1916年3月31日に共立女子職業学校の副校長となる。


1922年10月30日に学制頒布50年記念式で東京市教育会長から表彰を受ける。同年12月8日に共立女子職業学校第6代校長となる。


1923年9月1日に共立女子職業学校の校舎・寄宿舎が関東大震災により焼失し復興に全力を尽くす。


1924年2月11日に勲六等瑞宝章を受章する。


1925年4月に共立女子職業学校に専門学校を併置、初代校長となる。

1927年4月に共立女子職業学校にて「女子技芸講習録」を編輯し、1年間の通信教育を始める。


1927年5月27日にローマ教皇ピウス11世より1925年聖年祭記念布教博覧会功労賞を受賞する。


1927年12月に日本婦人海外協会顧問を嘱託。

1928年2月1日に大礼記念国産振興東京博覧会評議委員を嘱託。同年5月に東京府下中学校博物教育会の賛助員として推挙される。同年6月1日に御慶記念婦人子供博覧会顧問を嘱託。


1928年6月16日に帝都教育会長から表彰状と功牌を受ける。


1928年10月1日、共立女子職業学校長に続いて共立女子専門学校長を兼任する。


1928年11月10日、勲五等瑞宝章を受章する。


1938年7月12日に78歳で亡くなる。同日に叙勲四等瑞宝章を受章する。

家族・親族
・夫:鳩山和夫衆議院議長

  ・長男:鳩山一郎(第52・53・54代内閣総理大臣

  ・嫁:鳩山薫(共立女子大学学長)

    ・孫: 鳩山威一郎外務大臣

  ・次男:鳩山秀夫東京大学法学部教授)

  ・曾孫:鳩山由紀夫民主党代表、第93代内閣総理大臣)、鳩山邦夫(元総務大臣

エピソード
薄田泣菫は著書『茶話』のなかで、春子が息子の鳩山一郎を担ぎ出して精力的に支援し、政友会の別の候補者を辞退させた際に、大隈重信夫人の大隈綾子が癇癪を起した話を面白おかしく書き、「侯爵夫人(綾子)はもとから春子夫人のお喋舌とお凸額とが気に入らなかつた」と記している。

著書
・『婦人の修養』(大日本女学会、1907年)

・『模範家庭 - 西洋家事讀本』(大日本図書、1913年)

・『家政の巻』(鳩山薫子共著、實業之日本社、1917年)

・『我が子の教育』(婦女界社、1919年)

・『婦人生活の改善』(先進堂、1920年)(『叢書女性論』に収録、大空社、1996年)

・『鳩山の一生』(私家版、1929年) (『伝記叢書』に収録、大空社、1997年)

・『自叙伝』(私家複製版、1929年)(『人間の記録』に収録、日本図書センター、1997年)

外部リンク
鳩山春子 年譜 - 鳩山会館
(wikiより)

2386  鳩山春子

鳩山春子

2385b

2385a



明治大学創立者


宮城浩蔵先生墓碑


嘉永五年 ( 1852 ) 四月 ~ 明治二十六年 ( 1893 ) 二月


出羽天童藩医・武田直道 ( 玄々 ) の次男に生まれ、慶応元年宮城家の養子となり、藩校養正館の句読師を勤める。


明治三年上京し、箕作塾に入門。


ついで維新政府の貢進生となり、大学南校に学ぶ。


明治五年八月、新設の司法省明法寮生徒となり、ボアソナードにフランス法を学ぶ。


明治九年、選ばれてパリ大学及びリヨン大学に留学し、法律学士の学位を取得。


帰朝後、明治十四年一月、岸本辰雄・矢代 操とともに明治法律学校を創立する。


司法省参事官の傍ら明治法律学校の教頭となり、主に刑法教育を担当し、その学説から東洋のオルトランと称せられた。


明治二十三年七月、山形県第一区より衆議院議員に当選。


民法典論争のさなか明治二十六年死去。行年四十一歳。


宮城浩蔵先生の生誕一五〇年を記念して


二〇〇一年 ( 平成十三 ) 一〇月


明治大学
(案内板より)

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桓武天皇が創設した官吏養成のための教育機関。卒業すると官吏に採用されたため全国から志願するものが多かった。
(wikiより)

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女紅場は、明治 5年 ( 1872 ) 土手町丸太町下るの旧九条家河原町邸跡に開設された女子に対する高等教育施設のこと。

当初は新英学校及女紅場という名称で、料理や裁縫などのほか英語教育も行われていた。


後の京都第一高等女学校、現在の府立鴨沂高校の前身にあたる。
(案内板より)

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小花春吉 ( おばな - はるきち )     
文久元年 1月 22日 ~ 明治 44年 1月 18日 ( 1861 - 1911 )

山口農学校長・専売局技師兼主事。

父、小花作助 ( 四男? )。小花冬吉の弟。

千葉県出身。

駒場農学校卒業。

明治 13年 ( 1880 ) 農学士。

山口農学校校長。

水戸・京都専売局長等を歴任。正五位勲五等。51歳没。

著書:「小学農業道志るべ」、「養豚略解 」。

正面「小花春吉一家墓」。

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堀越千代子 ( ほりこし - ちよこ ) / 堀越千代     
安政 6年 8月 15日 ~ 昭和 23年 4月 4日 ( 1859 - 1948 )

私立和洋裁縫女学校創立。

岩手県盛岡出身。

堀越修一郎の妻。

父、村野儀平 ( 四女 )。

明治 16年 ( 1883 ) 米国式東京洋服裁縫学校に入学。卒業して同校教師となる。

教職 2年の後、フランス式裁縫を 10年間修業。

明治 30年 (1897 ) 2月麹町区飯田町に私立和洋裁縫女学校を創立、校長とな、和洋学園の基礎を築く。

東京府教育会伝習所で教える。

明治 42年 ( 1909 ) 文部大臣認定校となる。都下の大裁縫学校となる。

大正 12年 ( 1923 ) 堀越高等女学校を創立。

昭和 3年 ( 1928 ) 和洋女子専門堀越高等女学校・堀越家政女学校に発展させ各校長を兼務。東亜婦人会理事もつとめる。勲六等。90歳没。

著書:「和洋裁縫教本」。

 大妻学院(大妻女子大学)を創立した大妻コタカも卒業生の一人。

正面「堀越家之墓」。千代子:「慧観院春屋妙照大姉」。

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上領定子 ( うえりょう - さだこ )     
明治 30年 ~ 昭和 49年 11月 17日 ( 1897 - 1974 )

「敬愛学園」創立者。

東京出身。

満州にて敬愛幼稚園を経営。

引き上げ後、昭和 44年 ( 1969 ) 八王子に社会福祉法人「敬愛学園」を創立。

初代理事長。

上領三郎の妻。78歳没。

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上領三郎 ( うえりょう - さぶろう )     
明治 22年 ~ 昭和 20年 12月 24日 ( 1889 - 1945 )

教育哲学者・「敬愛小学校」創立者。

父、上領頼方 ( 長男 )。
 
上領家 19代当主。

東京出身。

満州の間島省立民衆教育館長。

妻・定子と共に、「すべてのものを愛しむ」との敬愛の教育理念を掲げ、高円寺に「敬愛小学校」を創立。

しかし、私財力尽き、昭和 12年 ( 1973 ) 3月に閉校となった。

しかし、のちに上領頼正らにより、「敬愛学園」として復興させた。57歳没。

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上領頼正 ( うえりょう - よりまさ )     
大正 6年? ~ 平成 8年 12月 28日 ( 1917? - 1996 )

敬愛学園第二代理事長。

父、上領三郎 ( 三男) 。

上領家 20代当主。

昭和 14年 ( 1939 ) 満州国延吉において、「教育こそ人民を幸福にする! 民衆のために教育を!」この使命と信念の基に「敬愛学舎」を設立。79歳没。

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伊藤幹一 ( いとう - かんいち )    
弘化元年 11月 ~ 大正 11年 5月 28日 ( 1844 - 1922 )

    
学習院創立に功績・東京株式取引所常任理事。

父、幕臣伊藤幸之助 ( 長男) 。

東京出身。

維新の動乱に際し脱走の徒に加わり官軍と戦うが敗れて静岡に帰る。

明治 4年 ( 1871 ) 東京府に出仕。

明治 5年 ( 1872 ) 学制の制定に従い、東京師範学校・学習院の設立に功績を挙げる。

明治 11年 ( 1878 ) 教育界を去り、東京株式取引所書記官、のち常任理事。

日本陶料・日韓瓦斯電機・東京瓦斯・東京湾汽船・石狩石炭・二十七銀行・日本昼夜貯蓄銀行・旭日生命保険各監査役。

東京株式取引所相談役。

明治 22年 ( 1889 ) 鵠沼海岸別荘地開発に関与。

明治 29年 ( 1896 ) 東京市会議員 ( 小石川区 )。

 学習院 : 起源は、弘化 4年 ( 1847 ) とくに教育機関がなかった公家 ( くげ ) のための学習所として京都御所内に設立された「学習院」( 1867閉鎖 ) にまで遡る。

現在の学習院の直接的な起源は、華族有志が結成・創設した華族会館によって明治 10年 ( 1877 ) に東京・神田錦 ( かんだにしき ) 町に設立された華族学校であり、明治天皇の勅諭により「学習院」と名づけられた。

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渡辺安積 ( わたなべ - あさか )     
安政 6年 8月 22日 ~ 明治 20年 2月 23日 ( 1859 - 1887 )

英吉利法律学校 ( 中央大学 ) 創設者の一人。

幼名、大十郎。山口県岩国出身。

父、渡辺九郎兵衛。

はじめ郷里にて和漢学と、岩国学校でスティーブンスに英語を学ぶ。

明治 7年 ( 1874 ) 3月東京に出て東京英語学校・開成学校で予備教育を受け、東京大学で法律学を専攻。

明治 15年 ( 1882 ) 7月卒業し、法学士となる。

日報社員として政治経済関係の社説を書く。

明治 18年 ( 1885 ) 5月農商務権少書記官、参事院の員外議官補および東京大学御用掛・准講師を兼任。

当任官に伴い正七位に叙任。

11月肺を患い、郷里にて静養。

官制改革により非職を命じられる。

明治 18年 ( 1885 ) 英吉利法律学校創立に参画し、明治 19年 ( 1886 ) 3月東京に戻り同年 4月幹事となる。

のち、熱海にて加療するも明治 20年 ( 1887 ) 2月 23日に没する。29歳没。

 英吉利法律学校創立者の 18人は、増島六一郎、高橋一勝、岡山兼吉、高橋健三、岡村輝彦、山田喜之助、菊池武夫、西川鉄次郎、江木衷、磯部醇、藤田隆三郎、土方寧、奥田義人、穂積陳重、合川正道、元田肇、渡辺安積、渋谷慥爾。

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豊田 周衛(とよた しゅうえい、生誕年不詳 - 明治17年(1884年1月26日)は、理学士。東京物理学講習所(後の東京物理学校、現東京理科大学)の創立者の一人、東京物理学講習所筆頭人[1]である。

経歴
東京帝国大学を卒業した。1881年(明治14年)、東京物理学講習所の創立者の一人となる。1884年(明治17年)1月26日に逝去した[注釈 1]

脚注
1. 墓所は、谷中霊園

出典
森野義男「物理学校を創設した建学の志士たち (PDF) 」 『理大科学フォーラム』2013年12号、東京理科大学[要ページ番号]
(wikiより)

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高木 壬太郎(たかぎ みずたろう、1864年6月23日元治元年5月20日) - 1921年大正10年)1月27日)は、明治時代から大正時代にかけて活動したメソジスト派牧師、教育者である。静岡バンドのメンバー。

青山学院第4代目院長。

生涯
幼少期
1864年(元治元年)遠江国榛原郡中川根村(現在の川根本町)上長尾で、父高木龍介(通称源左衛門)・母その子 の長男として生まれる[1][2]。幼少より漢学を学ぶ。


1869年(明治2年)村の儒学者・川村半山に学ぶ[2]


1874年
(明治7年)1月 智満寺にあった長尾学校に入学[2]


1877年(明治10年)

・長尾学校を卒業[2]

・10月 掛川の蘭学者岡田清直の蘭学塾に入る[3]


1878年
(明治11年)3月 静岡師範学校に入学[1][3]。この静岡師範学校で、山路愛山と出会う[1]


1879年(明治12年)10月 静岡師範学校一等小学師範学科から新設の高等師範学科に転入。


1880年(明治13年)10月 山路愛山と文学雑誌『呉山一峰』を創刊[2]


1881年
(明治14年)

・5月 静岡師範学校を卒業[1][3]

・8月 御殿場村立中郷学校の校長となる[1]


1884年
(明治17年)2月 中郷学校を退任[1]


1885年(明治18年)キリスト教宣教師F.A.カシディ説教を聞きキリスト教の求道を初める。

・夏頃 静岡教会員になる[1]

・10 月 大石梨花と結婚[1]


1886年
(明治19年)10月31日 カナダ・メソジスト教会静岡教会平岩愃保牧師より山路愛山と共に洗礼を受ける[1][3][4]。静岡教会は高木の他に、今井信郎らを輩出した[5]


1887年(明治20年)6月 平岩愃保牧師が静岡教会から麻布教会(現鳥居坂教会)に転任。


1888年(明治21年)

・24歳にして静岡県高等小学校の校長になったが、教師を辞する。

・4月 静岡教会の福音士となる[1]

・11月21日 長男の一三誕生[1]


1889年(明治22年)

・5月 教職試補となる[3]

・9月21日 妻と子を残し、上京[1]平岩愃保牧師らが創設した東洋英和学校の神学部に入学する[1]

牧師時代
1892年(明治25年)平岩愃保牧師、麻布教会牧師を退任し東洋英和学校専任校長となる。

・7月 平岩愃保の後任として麻布教会の3代目牧師となる[1][3]

・9月24日 次男の二郎誕生[1]


1893年
(明治26年)

・6月 東洋英和学校神学課程を卒業[1][3]


1894年
(明治27年)

・7月 按手礼を受け、日本メソジスト教会教職(正格教師)となる[1][3]

・11月3日 三男の武夫誕生[1]


1895年(明治28年)

・5月 麻布教会3代目牧師を退任[1][3]

・11月1日 カナダヴィクトリア大学神学部に入学[1][3]


1898年(明治31年)

・4月 ヴィクトリア大学神学部卒業[1][3]

・10 月 帰国[3]

・11 月 東洋英和学校神学部教授に就任[1]築地教会牧師を兼任[1][3]


1899年
(明治32年)6月 中央会堂(現在の本郷中央教会)牧師となる[1]


1900年(明治33年)

・5月 駒込教会牧師(中央会堂と兼牧)に任命される[1]

・6月2日 メソジスト教会機関誌『護教』3代目主筆となる[6]



青山学院教授

1904年(明治37年)6月 麻布教会に転任し、第7代牧師となる[3]。青山学院神学部教授の兼任は継続 [3]


1906年(明治39年)10月 ヴィクトリア大学神学部より日本人初の名誉神学博士号を授与された[4]


1907年(明治40年)

・4月 麻布教会牧師を退任。青山学院専任教授となり、新約神学を講る。[1]

・5月 『護教』3代目主筆を辞任[6]


1911年(明治44年)

・10月 メソジスト教会機関誌『護教』の5代目主筆となる[1][3]

・11月 『基督教大辞典』を刊行。


1912年(明治45年)第2次西園寺内閣の時に、床次竹二郎内務事務官の主催により、三教合同が開催された。高木、柏木義円内村鑑三明石繁太郎らはこの会合に反対した[7]


1913年(大正2年)5月 小方仙之助の後をついで青山学院第4代目院長に就任する[1][3][4]


1914年(大正3年)4月 『護教』の主筆を退任[1][3]


1920年(大正9年)

・1月1日 『護教』が『教界時報』と改題され委員長に就任[6]

・青山学院大学設置計画を発表。キリスト教主義大学の設立事業の実現に向けて全力を傾ける[3]


1921年
(大正10年)1月27日 病気のため霊岸島病院で召天[1][3][4]

親族
・妻:梨花[1]

・長男:一三[1][8]

・二男:次郎[1][8]

・三男:武夫[1][8]

著書
・『心の写真 MENTAL PHOTOGRAPHY』(1888年3月)

・『ジョン・ウェスレー伝』(警醒社書店、1903年11月)[9]

・『基督教的品性』(教文館、1903年12月)[10]

・『宗教小観』(教文館、1904年3月)[11]

・『基督教安心論』(梁江堂、1908年2月)[12]

・『基督教大辞典』(警醒社書店、1911年11月)[13]

・『八木翁紀念帖』(教文館、1913年3月)

・『生活と宗教』(警醒社書店、1914年)[14]

・『本多庸一先生遺稿』(日本基督教興文協会、1918年)[15]

脚注
1. a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah 司, 川崎「高木壬太郎(たかぎみずたろう)の足跡をたどって : 1889年〜1898年」『聖学院大学論叢』第15巻第1号、2017年9月13日、 37–54、 ISSN 0915-2539
2. a b c d e 図説 中川根の歴史. 中川根町史編さん委員会. (2002年11月2日). pp. 30-31. 
3. a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t 鳥居坂教会百年史. 日本基督教団鳥居坂教会. (1987年11月15日). pp. 87-88. 
4. a b c d 静岡教会一二五年史. 日本基督教団静岡教会. (2009年7月31日). p. 43. 
5. 高橋2003、66頁
6. a b c 澤田奏紳 (2006年7月25日). 日本メソヂスト教会史研究. 日本基督教団出版局. pp. 298-308. 
7. 高橋2003、192-193頁
8. a b c 明治初期の静岡. 可美古業書刊行会. (1989年7月30日). p. 111. 
9. ジョン・ウェスレー伝 - 国立国会図書館デジタルコレクション”. dl.ndl.go.jp. 2019年5月20日閲覧。
10. 
基督教的品性 - 国立国会図書館デジタルコレクション”. dl.ndl.go.jp. 2019年5月20日閲覧。
11. 宗教小観 - 国立国会図書館デジタルコレクション”. dl.ndl.go.jp. 2019年5月20日閲覧。
12. 基督教安心論 - 国立国会図書館デジタルコレクション”. dl.ndl.go.jp. 2019年5月20日閲覧。
13. 基督教大辞典 - 国立国会図書館デジタルコレクション”. dl.ndl.go.jp. 2019年5月20日閲覧。
14. 生活と宗教 - 国立国会図書館デジタルコレクション”. dl.ndl.go.jp. 2019年5月20日閲覧。
15. 本多庸一先生遺稿 - 国立国会図書館デジタルコレクション”. dl.ndl.go.jp. 2019年5月20日閲覧。

参考文献
警醒社編『信仰三十年基督者列伝』,「故高木壬太郎氏略歴」
高橋昌郎「帝国憲法発布まで」『明治のキリスト教』吉川弘文館、2003年2月10日。ISBN 4-642-03752-7

守部喜雅「47都道府県それぞれの物語」『日本宣教の夜明け』いのちのことば社〈マナブックス〉、2009年4月20日。ISBN 978-4-264-02638-9

・『静岡教会一二五年史』日本基督教団静岡教会、2009年7月31日

・『鳥居坂教会百年史』日本基督教団鳥居坂教会、1987年11月15日

・澤田奏紳『日本メソヂスト教会史研究』日本基督教団出版局、2006年7月25日

・『明治初期の静岡』可美古業書刊行会、1989年7月30日

・『図説 中川根の歴史』中川根町史編さん委員会、2002年11月2日
(wikiより)


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1884b

1884c



養育院は、明治五 ( 1872 ) 年十月十五日に創設された。


維新後急増した窮民を収容保護するため、東京府知事・大久保一翁 ( 忠寛 ) の諮問に対する営膳会議所の答申「救貧三策」の一策として設置されたものである。


この背景には、ロシア皇子の訪日もあった。


事業開始の地は、本郷加賀藩邸跡 ( 現東京大学 ) の空長屋であった。


その後、事業拡大などのため養育院本院は東京市内を転々としたが、関東大震災により大塚から現在地の板橋に移転した。


養育院設置運営の原資は、営膳会議所の共有金 ( 松平定信により創設された七分積金が新政府に引き継がれたもの ) である。


養育院の歴史は、渋沢栄一を抜きには語れない。


営膳会議所は、共有金を管理し、養育院事業を含む各種事業を行ったが、渋沢は明治七年から会議所の事業及び共有金の管理に携わり、養育院事業と関わるようになった。


明治十二年には初代養育院院長となり、その後亡くなるまで、五十余年にわたり養育院長として事業の発展に力を尽くした。


養育院は、鰥寡孤独 ( かんかこどく ) の者の収容保護から始め、日本の社会福祉・医療事業に大きな足跡を残した。


平成十一年十二月、東京都議会において養育院廃止条例が可決され、百二十七年にわたる歴史の幕を閉じた。


ここ大雄寺には、養育院創設当初の物故者、引き取りのない遺骨の埋葬、回向をお願いしたものである。


明治六年中の埋葬者は百名と伝えられ、寺内の一角に義葬の冡がある。


この義葬之冡は養育院創立当初の唯一の遺構である。


なお、養育院物故者の墓は、他に東京都台東区谷中の了俒寺、栃木那須塩原市の妙雲寺及び東京都府中市の東京都多磨霊園がある。


ここに、養育院及びその墓地の由来を記し、諸霊の冥福を祈るものである。


平成二十二 ( 2010 ) 年 四月
               養育院を語り継ぐ会


この碑は元養育院職員等の篤志によって建てられました。
                   大雄寺
(案内板より)  

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波多野 精一(はたの せいいち、1877年7月21日 - 1950年1月17日)は、日本哲学史家宗教哲学者玉川大学第2代学長。


西田幾多郎と並ぶ京都学派の立役者。早大での教え子には村岡典嗣、東大での教え子には石原謙安倍能成、京大での教え子には田中美知太郎小原国芳らがいる。また指導学生ではないが、波多野の京大での受講者で波多野から強い影響を受けたとされる人物に三木清がいる。

生涯
1877年(明治10年)長野県筑摩郡松本町(現:松本市)に旧松本藩士波多野敬の次男として生まれる。1882年(明治15年)父が大蔵省官吏となり、東京市麹町区飯田町に移る。


高等師範学校
附属小・中学校(現:筑波大附属小筑波大附属中・高)を経て、1893年(明治26年)第一高等中学校に入学し、1896年(明治29年)東京帝国大学文科大学に入学し、哲学科で学ぶ。1899年(明治32年)同大学を卒業する。卒業論文は「ヒュームがカントに及ぼせる影響」で、カントの『純粋理性批判』序文の解釈を試みる。大学院に進学し、ケーベル博士の指導のもとで、近世哲学を研究する。なおケーベル博士は「おれの弟子は波多野一人だ、他にはない」と語ったという[1]


1900年(明治34年)東京専門学校(現:早稲田大学)講師を嘱託され、西洋哲学史を教える。1901年(明治34年)『西洋哲学史要』を刊行する。また、この年に植村正久から洗礼を受け、キリスト教徒になる。1904年(明治37年)東京帝国大学大学院を修了する。修了論文は「スピノザ研究」(ドイツ語で書かれる)。そして、早稲田大学海外留学生としてドイツのベルリン大学ハイデルベルク大学へ留学し、ハルナックヴィンデルバントヨハネス・ヴァイス (Johannes Weiß)、エルンスト・トレルチなどの講義を聞く。


1906年
(明治39年)に帰国し、早稲田大学文学部で教える。また倉田やすと結婚する。1907年(明治40年)東京帝国大学文科大学講師を嘱託され、「原始基督教」を講義し、1908年(明治41年)『基督教の起源』を刊行する。1909年(明治42年)東京帝国大学大学院を修了する(文学博士)。1910年(明治43年)にはドイツ語で書かれた卒業論文の翻訳である『スピノザ研究』を刊行する。1917年(大正6年)早稲田大学における騒擾により辞職し、その後、京都帝国大学文学部哲学科宗教学講座の担当として迎え入れられることになり、京都へ移住する。


1918年(大正7年)カントの『実践理性批判』の翻訳を宮本和吉とともになし、出版する。さらに1920年(大正9年)には『宗教哲学の本質及其根本問題』を刊行する。1922年(大正11年)、宗教学第二講座基督教学が設置され、この第二講座も兼任する。1925年(大正14年)の講演「プロティノスとカント」(於、京都哲学会)を最後に、以後10年以上にも渡る思索に沈潜する。


1935年
(昭和10年)に後に「三部作」といわれることになる連作の嚆矢である、執筆に7年を費やした『宗教哲学』を刊行し、1937年(昭和12年)京都帝国大学を定年退官、同大学名誉教授となる。1939年(昭和14年)夫人やすに先立たれる。1940年(昭和15年)に「三部作」の二作目である『宗教哲学序論』を刊行する。1941年(昭和16年)東京へ移り、養子雄二郎夫妻と同居する。1943年(昭和18年)『時と永遠』を刊行することによって、「三部作」が完成する。1945年(昭和20年)岩手県東磐井郡千厩町(現一関市千厩町)へ疎開し、戦後もしばらくはそこにとどまる。1947年(昭和22年)、京大での教え子小原國芳の招聘により玉川大学教授に迎えられ、同学園内の住宅へ移る。1948年(昭和23年)『波多野精一全集』全5巻を刊行し、1950年(昭和25年)1月17日に72歳で死去、直腸ガンであった。海軍火薬廠長の波多野貞夫は実弟(敬の四男)。

略年譜
1877年明治10年) - 長野県筑摩郡松本町(現:松本市)に生まれる。


1888年(明治20年) - 8月に高等師範学校附属小学校高等科(現:筑波大学附属小学校)卒業。


1893年(明治26年) - 高等師範学校尋常中学科(現:筑波大学附属中学校・高等学校)卒業(第1回卒業生)。


・1893年(明治26年) - 第一高等学校入学。


1896年(明治29年) - 東京帝国大学文科大学哲学科入学。


1899年(明治32年) - 同大学卒業。大学院に進学。


1901年(明治34年) - 『西洋哲学史要』出版。


1908年(明治41年) - 『基督教の起源』出版。


1909年(明治42年) - 東京帝国大学大学院修了。


1917年(大正6年) - 東大講師などを経て、京都帝国大学教授。


1935年(昭和10年) - 『宗教哲学』出版。


1937年(昭和12年) - 京都帝国大学を退任。


1940年(昭和15年) - 『宗教哲学序論』出版。


1943年(昭和18年) - 『時と永遠』出版。


1947年(昭和22年) - 玉川大学教授に就任。


1949年(昭和24年) - 玉川大学長に就任。日本学士院会員。


1950年(昭和25年) - 永眠。

著作
・『波多野精一全集』(全6巻、岩波書店、1968-69年、新版1989年)

  ・「1. 西洋哲学史要ほか」

  ・「2. 基督教の起源・原始キリスト教・パウロの生涯」

  ・「3. 西洋宗教思想史・宗教哲学序論ほか」

  ・「4. 宗教哲学・時と永遠」

  ・「5. 初期の論文・小論ほか」

  ・「6. 書簡・総目次・年譜」

 以下は現行での刊行版。

・『西洋哲学史要』(牧野紀之再話、未知谷、2001年、新版2007年)

・『基督教の起源 他一編』(岩波文庫、1979年)

・『原始キリスト教』(岩波全書、改訂版2005年)

・『宗教哲学』(岩波書店、新版1972年、1976年)

・『宗教哲学序論』(岩波書店、新版1972年、1976年)

  ・『宗教哲学序論・宗教哲学』(岩波文庫、2012年9月)

・『時と永遠』(岩波書店、新版1980年、1993年)

  ・『時と永遠 他八篇』(岩波文庫、2012年8月)

・『波多野精一宗教哲学体系』(書肆心水、2007年)、上記「宗教哲学三部作」を収める。

・『西洋哲学要史』(キリスト新聞社、2012年8月)、「西洋哲学史要」及び「時と永遠」を収める。

・『西洋哲学要史 西洋哲学史要・波多野宗教哲学〈時間論〉素描』(菅原喜重郎編、東洋出版、2016年)

脚注
1. 玉川学園公式ウェブ  http://www.tamagawa.jp/introduction/enkaku/history/detail_6750.html より。

参考文献
・浜田与助『波多野宗教哲学』玉川大学出版部、1949年。

・『哲学研究』第四〇六号(波多野精一博士追悼号)、京都哲学会、1952年。

・石原謙・田中美知太郎・片山正直・松村克己著『宗教と哲学の根本にあるもの――波多野精一博士の学業について』岩波書店、1954年。

・宮本武ノ助『波多野精一』日本基督教団出版局、1965年。

・松村克己・小原国芳編『追憶の波多野精一先生』玉川大学出版部、1970年。

・湯浅泰雄『近代日本の哲学と実存思想』創文社、1970年。

・石田慶和『日本の宗教哲学』創文社、1993年。

・側瀬登『時間と対話的原理――波多野精一とマルチン・ブーバー』晃洋書房、2000。

・小野寺功『絶対無と神――京都学派の哲学』春風社、2002年。

関連項目
筑波大学附属中学校・高等学校の人物一覧

京都大学

玉川大学

外部リンク
京都大学文学部 日本哲学史研究室

波多野精一:作家別作品リスト - 青空文庫

波多野精一関連文献一覧
(wikiより)

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1704b

1704c



Maria True ( マリア・トゥルー )

( 1841 - 1896 )

アメリカ


マリア・T・ピッチャー・トルー 築地居留地の女学校に赴任後、桜井女学校の基礎をつくった。


看護婦養成所や女子独立学校を設立した。

0585a

0585b



明治20年(1887)、この麟祥院内に「東洋大学」の前身である「哲学館」が創立された。


創立者井上円了は、安政5年(1858)越後国(新潟県)の寺に生まれる。


明治18年(1885)東京大学文学部哲学科卒業。


2年後の明治20年(1887)9月16日、哲学と宗教の啓発のため、私塾「哲学館」を境内の一棟を借りて開校する。


哲学館では、授業以外に今日の通信教育ともいうべき講義録を毎月3回発行し哲学の普及につとめた。


円了は大正8年(1919)大連で逝去。享年61歳。

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養老館(ようろうかん)は、津和野藩藩校。安政年間に、菁々舎と改名された。

概要
1786年(天明6年)、津和野藩8代藩主亀井矩賢が森村の字下中島に設置。藩主矩賢自らによる校名の揮毫がなされた。

当時は、儒学が中心であり、儒学者 山口剛三郎(日本教育史資料 文部省編 [第2冊]p505には「後□剛□坂府(文字不鮮明)ヨリ之ヲ召聘ス」とある)、吉松儀一郎がこれに尽力し、以来隆盛した。

嘉永安政年間(嘉永1848年-1854年、安政1854年-1860年)、津和野藩11代藩主亀井茲監時代に、規模を拡張し、田村の殿町へ各練武場とあわせて新築された。(同書p498)
 
同書p504には「校舎所在地 天明年間ヨリ嘉永六年マテ森村ノ内字下中島ニ設置アリ安政年間後田村ノ内殿町ヘ練武場ト合セテ新築ス」とあり、一斉に新築移転したのか、徐々に規模を拡大したのかなど、明確な移転時期はわからない。藩の布令が出された日付などから嘉永2年4月には、すでに拡張は決定されていたと思われる。(大正時代に入り旧藩士の記憶をもとに書かれた、「津和野城下絵図」のト書きによると、安政元年四月再築起工、安政二年七月十三日再築となっている)


なお、天明6年の設立に関する諸布令、嘉永2年に出された養老館再興に係る諸布令に関しては、嘉永6年の大火、および廃藩による混乱で藩の書面が現存していない。(同書には、わずかに残る小冊子や古家等に残された書面から情報を読み取ったと記述がある)


建物は武術教場と書庫が現在も残されており島根県の指定史跡となっている。そのうちの武術教場は津和野町の民俗資料館として利用されている。

授業
儒学(教授:市川弁五郎(復斎)、山口顕藏、增野禮藏。助教:坂村基一、山口重三郎、林一見等)
和学(教授:岡熊臣大国隆正福羽美静
医学(吉木蘭斎、室良悦、進藤良策)
兵学(不明)
算法(教授:桑本才次郎、堀田仁助
弓術(伴派弓術竹林派弓術
馬術(大坪流馬術多田流一騎働
剣術(一刀流剣術挽田流剣術
槍術(刃心流槍術夢相流槍術
砲術(浅木流砲術
柔術(不明)

和学、医学、兵学、算法、習礼等は定日があり、それにそって授業が行われていた。弓馬砲術柔術も同様に定日があった。
ただ、槍剣に限っては、日々教場が開かれていた。
試験に関しては、「試験ハ文学ト武術ト程度ノ比例ナシ生徒賞品中免ハ金百疋皆伝ハ上下ヲ賜ウ」(同書p510)とあり、免許皆伝等の折り紙方式であったようだ。
また、春秋両度藩主の臨場があり、直接試験を行うこともあった。

休業定日
二月丁祭南日(前日・当日)、三月上巳御霊社禮祭両日(二十六日・二十七日)、四月御帰城当日、五月端午、六月御發駕当日、祇園海両日(七日・十四日)七月七夕、盆会(十三日・十四日・十五日)、八月丁祭両日(前日・当日)、御霊社禮祭両日(二十六日・二十七日)、九月重陽、十月玄猪、十一月冬至、十二月節分(二十一日~正月十日)

職名および職掌(弘化2年)
家老(嘉永年間 都教):儒師、生徒の選別、賞罰を全て差配・裁判し、館中の文武の綱紀を統領した。
中老(同 準都教):家老に準じた。
用人:典籍の購入から校舎の修繕、筆硯、什器類まで全ての館中の用度品の調達および予算を管理した。
大目付(同 監察):館中の規則を取締り、教員、生徒の勤務状態を査察した。
教授:学問を隆盛させ、藩の子弟を教導した。
助教:藩の子弟を教導し、教授を補佐した。
句読(後に司業に改める):「音義詳明ノモノニ仰セ付ケラレル」(同書p510)とあるので、授業等で素読等の読み上げを担ったと思われる。
塾長(後に舎長に改める):「蒙生ノ行ヲ督察」(同書p510)とあるので蒙生をどうみるかであるが、不行跡、成績不良の生徒の指導を行ったと思われる(あるいは、年少の初学者を指すと思われる)。
計吏(安政年間に取締に改める):教官の指導を受け館中の会計を司った。
司記(安政年間に手傳と改める):館中の出入りを記録し、月末に清書の上、教官へ提出した。
司客(後に廃止):茶、タバコの世話を行った。

職員概数
教員 7名
事務員 5名
小使 5名(内2名門衛)

生徒概数(年により増減あり)
寄宿生 20名(過半の者には藩費支給あり)
通学生 30名
その他(聴講、詩文会のみ出席する者) 未詳

束修謝儀
なし

校経費
年間経費増減不明、藩札三貫目と記述のある書類はあるが、年度が詳らかでない。

藩主臨校
臨校に際し、藩主自ら生徒の学業を試みることがあった。その際、試験科目及び方法は上聴式に準じて行われた。

祭儀
聖廟を設け、毎年、二月、八月に釈尊釈莱(内容不明)を執行する。

蔵書等
学校にて出版翻刻した書籍、蔵書の種類、部数など詳細は不明。

使用教科書
素読書順 孝経大学中庸論語孟子小学易経詩経書経礼記春秋
これらは、無点本を主として使われた。

独看書順
 第一 古文孝経、左傳杜註、七書、小学集成、国語、楚辞十八史略、蒙求、国史略、世説、元明史書、古文前後集、聯珠詩格、(但国朝雑書の内歴代軍記の類等は、本業の余力を以って読むのはかまわないとされた)
 第二 論語史記、通義、漢書、新策、皇朝史略、百将詩、三国詩(ママ)、文章規範、日本外史、唐詩正声、本朝通鑑、杜詩偶評、蘇陸詩抄類
 第三 孟子、戦国策、靖献遺言、大学後漢書、家學小言、温公通鑑、兵要録、通語、孫子十家註、逸史、二程全書、大日本史、朱子語録、新論、八大家文集、海国図志、同続、古詩韻範、宋元明清詩抄類、(この級を超えるものは和書、漢書、西書などその嗜好に応じて広く本を読んでも構わないとされた)
 第四 詩経、集傳、隋書、韓文公集、書経、蔡傳、唐書、柳々州集、近思録、新五代史、朱文公集、通鑑綱目、陳龍川集、日本後紀(ママ)、壮悔堂集(ママ)、日本後紀続、李杜韓白、文徳実録、古詩選(詩集類)、三代実録、朱子語類、宋元通鑑、明史記事本末、三朝実録、東華録
 第五 中庸大全、南史、廿二史箚記、北史、中庸或問、呂史春秋(ママ)、易経本義、唐鑑、陸象山集、礼記集説、日本記同続(ママ、日本書紀か?)、王陽明集、学誌通弁、類集国史、唐六典、東国通鑑、通誌略、琉球国史略、令義解、地球説略、制度通、江家次第、武備志、職原抄、延喜式
 上堂 十三経注疏、東都事始、和漢名家、南宋書、契丹国志、大全国志、元史類篇、晋書宋書梁書陳書魏書北斉書周書明史  

塾中心得書
 正月元日二日三日但夜九ッ時迄
 二月丁祭当日但夜五ッ時迄
 三月上巳但夜九ッ時迄御霊社禮祭両日(二十六日・二十七日)但夜五ッ時迄
 四月御帰城当日但夜五ッ時迄
 五月端午但夜九ッ時迄
 六月御發駕当日、祇園海両日(七日・十四日)但夜五ッ時迄
 七月七夕、盆会(十三日・十四日・十五日)但夜九ッ時迄
 八月丁祭当日、御霊社禮祭両日(二十六日・二十七日)但夜五ッ時迄
 九月重陽但夜九ッ時迄
 十月玄猪但夜五ッ時迄
 十一月冬至但夜五ッ時迄
 十二月二十八日晦日但夜九ッ時迄
 毎月朔日但夜五ッ時迄
 毎月十度但晩飯前ヨリ夜六ッ時迄
右ハ御定ノ他出致シ苦シカラサル事
一、他出シ度者ハ当番ノ教官ヘ相届ラルヘシ但拜前ヨリ他出致度者ハゼンジツ相届ラル可シ尤疾病事故ニテ夜中急ニ他出致度者ハ其由塾長ヘ申置翌朝塾長ヨリ届ケラル可シ
一、遅刻致度者ハ其由書付ヲ以ッテ教官ヘ相届印鑑ヲ請取御門番ヘ渡シ罷出シ但帰塾ノ節ハ御門番ヘ姓名ヲ申聞ケ罷通ル可シ尤モ印鑑ハ取帰ルニ及ハサル事
一、疾病事故ニテ下宿致度者ハ二夜ノ間ハ教官ノ心得ニテ取計ラセ苦シカラス三夜以上ハ大目付聞届ノ上相許ス五夜以上ハ当人ヨリ大目付ヘ願書可差出尤伯叔父父母兄弟以上ノ喪中ハ帰宅致度者ハ教官聞届ケノ上相許ス
一、塾中明置キ他出致ス可カラス
一、戯芸来ル節ハ遅刻願相成ル丈遠慮致スヘシ
一、御門外吟声堅ク之ヲ禁ス
一、塾中夜五ツ時後ハ讀声ヲ禁ス
一、毎朝講堂清掃致スヘシ(此緒後ニ削除セラルヽモノヽ如シ)
一、毎日輪番ニ御揃番ヲ立テ朝六ツ時相揃ヘ孰レモ着袴礼拝スヘシ夜五ツ時ニモ同シ心得ノ事但疾病ノ外蓋ハ脱袴致スヘカラス
一、御揃番ニ当ル者ハ其日御蔵書ノ出入ヲ可致但塾長一人宛付添マイル可シ
一、御揃番ニ当ル者ハ其日他出遠慮致スヘシ但拠ナキ義ニテ他出致度者ハ外人ヘ頼ミ置テ出ヘシ

門下生
福羽美静

西周

森鴎外

山辺丈夫

高岡直吉   

参考文献
・日本教育史資料 1-9 文部省編 [第2冊]〔2〕 諸藩の部 北陸道,山陰道,山陽道,南海道 文部省 明23-25 1892

・島根県史. 9 島根県学務部島根県史編纂掛 編 昭和2 島根県

・日本古武道協会 編 『日本古武道総覧』 1989年 島津書房

・今村嘉雄 編 『日本武道大系』1982年 同朋舎

・栗本格斎 画 『津和野城下絵図』1921年(大正十年)

・亀井矩賢 筆 『養老館扁額』 太皷谷稲成神社所蔵

関連項目
津和野藩

外部リンク
津和野町|藩校養老館/民俗資料館
(wikiより)


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⇧ かなり古いガラス板なんでしょうか?


高峰 譲吉(たかみね じょうきち、嘉永7年11月3日1854年12月22日) - 大正11年(1922年7月22日)は、日本科学者実業家。名誉工学博士[1]薬学博士[要出典]タカジアスターゼアドレナリンを発明し、アメリカ合衆国で巨万の財を成した[2]三共創業者。現在の富山県高岡市生まれ。現在の東京大学工学部の前身の一つである工部大学校卒。理化学研究所の設立者の一人。1912年帝国学士院賞受賞、1913年帝国学士院会員。

経歴
幼少からアメリカ永住まで
1854年越中国高岡(現:富山県高岡市)の山町筋と呼ばれる御馬出町(おんまだしまち)の漢方医高峰精一の長男として生まれる。翌年、父の学問所「壮猶館」の勤務のため加賀国金沢城下の梅本町(現:石川県金沢市大手町)へ移住。幼い頃から外国語と科学への才能を見せ、加賀藩御典医であった父からも西洋科学への探求を薦められた。母は造り酒屋(鶴来屋)津田家(塩屋弥右衛門)の娘で名を幸子(ゆき)と言う、後年の清酒醸造のの改良にも繋がっている。


1865年
慶応元年)、12歳で加賀藩から選ばれて長崎に留学し海外の科学に触れたのを最初に、1868年(明治元年)、京都兵学塾大阪緒方塾(適塾)に入学、翌年16歳のとき大阪医学校、大阪舎密(せいみ)学校に学ぶ。工部大学校(後の東京大学工学部)応用化学科を首席で卒業。


1880年からイギリスグラスゴー大学への3年間の留学を経て、農商務省に入省。1884年アメリカ合衆国ニューオリンズで開かれた万国工業博覧会に事務官として派遣され、そこで出会ったキャロライン・ヒッチと婚約。博覧会取材のラフカディオ・ハーンに会う。帰国後の1886年専売特許局局長代理となり、欧米視察中の局長高橋是清の留守を預かって特許制度の整備に尽力。1887年に結婚[3]1890年に渡米しアメリカへ永住することになる。

研究とビジネス
1886年、東京人造肥料会社(後の日産化学)を設立[4]。会社が軌道に乗り始めた折、かねてより米国で特許出願中であった「高峰式元麹改良法」(ウイスキーの醸造に日本のを使用しようというもので、従来の麦芽から作ったモルトよりも強力なデンプンの分解力を持っていた)を採用したいというアメリカの酒造会社より連絡があり、1890年に渡米する。東京人造肥料会社の株主であった渋沢栄一に渡米を止めるように言われ、高峰は当初渡米を渋っていたが、益田孝の強い勧めもあって、渡米を決意する。渡米後、木造の研究所をこしらえ研究を続けるが、麹を利用した醸造法が採用されたことでモルト職人が儲からなくなり怒りを買うが、新しい醸造工場にモルト職人を従来より高い賃金で雇うことで和解した。しかし、モルト工場に巨額の費用をつぎ込んでいた醸造所の所有者達が、高峰の新しい醸造法を止めようと、夜間に譲吉、キャロライン夫妻の家に武装して侵入し、高峰の暗殺を試みた。その時高峰は隠れていたので見つからず、そのまま醸造所の所有者たちは高峰の研究所に侵入、結局高峰を発見できなかった所有者たちは、研究所に火を放って研究所を全焼させた。


1894年、デンプンを分解する酵素、いわゆるアミラーゼの一種であるジアスターゼを植物から抽出し「タカジアスターゼ」を発明する。タカジアスターゼは消化薬として非常に有名となった。


高峰が最初に居住したシカゴは当時アメリカでも有数の肉製品の産地で多数の食肉処理場が存在していた。この時廃棄される家畜の内臓物を用いてアドレナリンの抽出研究をはじめ、1900年に結晶抽出に成功。世界で初めてホルモンを抽出した例となった。アドレナリンは止血剤としてあらゆる手術に用いられ、医学の発展に大きく貢献した。


高峰は1899年に東京帝国大学から名誉工学博士号を授与された[1]1912年には帝国学士院賞を受賞している。1913年6月26日、帝国学士院会員となる[5]。同年、日本における「タカジアスターゼ」の独占販売権を持つ三共(現在の第一三共)の初代社長に就任する。


また、アメリカの会社のアルミニウム製造技術と原料を使い、富山県黒部川の電源開発による電気を利用した日本初のアルミニウム製造事業の推進に取り組み、1919年高峰譲吉らによって 東洋アルミナムを設立。アルミ精錬に必要な電源確保のため黒部川に発電所を建設することになり、その資材輸送手段として鉄道建設も計画し黒部鉄道を設立、1921年鉄道免許状が下付された。また宇奈月温泉の礎となった黒部温泉株式会社や、黒部水力株式会社を立ち上げている。


1922年7月22日、腎臓炎のためニューヨークにて死去[6]。日本人は帰化不能とされていたため、当時の移民法により生涯アメリカの市民権は得られなかった[7]。また黒部鉄道の開業が同年11月5日だったため、目にすることは叶わなかった[8]

栄典
1906年(明治39年)4月18日 - 勲五等双光旭日章[9]

1915年(大正4年)11月10日 - 勲四等旭日小綬章[10]

家族
・父・高峰精一 (1827-1900)


・母・津田幸子 (1835-1894)


・妻・キャロライン・ヒッチ (Caroline Field Hitch, 1866-1954) - ファルマス (マサチューセッツ州)で生まれ、ルイジアナ州ニューオーリンズで育つ[11]。父親は南北戦争の北軍義勇兵として歩兵隊長を務めたのち、税務局勤務 書店員、部屋貸しなどをしていた[12][13]。母親はクレオール[14]。アメリカがイギリスに綿を初めて輸出した百周年を記念して1884年にニューオーリンズで開催された博覧会World Cotton Centennial で譲吉と知り合う。ヒッチ家で開かれた若い博覧会スタッフの打ち上げパーティに譲吉が出席したことが縁とも[15]、譲吉がヒッチ家に下宿したとも言われる[11]。1887年にニューオーリンズで結婚[15]。キャロラインの母は高峰がアメリカに設立したジアスターゼ製造会社の初代社長に就任、以降キャロラインの両親が高峰の事業の重役を務める[15]。譲吉没後、キャロラインは地所を処分し、1926年にアリゾナのランチハンド(牧場労働者、カウボーイ)だった歳若いチャールズ・ビーチ(Charles Pablo Beach、1889-1967、カンザス生まれカルフォリニア育ち。アリゾナ大学農学部卒)と再婚、農場を次々と購入し大牧場主となった(所有地はキャロライン没後1956年に夫により売却)[16][17][18]。1935年に農場で働くメキシコ人労働者のために地元の町Valiにカトリック教会「Santa Rita in the Desert」を建設、のちにキャロライン、チャールズとも同教会で葬られた[19]。キャロラインの妹(Marie Morel Septima Hitch)の夫(Henry George Jr.)と、ウィリアム・C・デミルの妻(Anna Angela de Mille)はともにヘンリー・ジョージの子であるため、高峰家とデミル家は親戚にあたる[20][21][22]


・長男・譲吉II:ジューキチ・ジュニア(Jokichi Jr., 1888-1930)[23] - 名門ホレース・マン・スクールイエール大学卒業後、ドイツに化学留学、パリパスツール研究所でも学ぶ[24]。帰国後父の会社で働き、1915年に引退した父親に代わり代表となる[24]。Hilda Petrie(スコットランドとノルウェーの混血)と結婚し、2人の子をもうける[24]。父親の没後、全事業を引き継いだが、41歳でニューヨークのルーズベルト・ホテルの14階から転落死した[24]。母キャロラインは高峰が発明した麹によるウィスキー醸造の反対派による殺人と断定したが(以前にも放火され会社が全焼している)、公式発表では飲酒による事故死とされた[24]


・次男・エーベン・孝(Ebenezer Takashi, 1890-1953)[23] - イエール大学卒業。1916年にEthel Johnsonと結婚。披露宴はニューヨークの社交クラブコスモポリタン・クラブで400人を招いて盛大に行われたが、1925年に離婚[25]。健康のためアリゾナに移住し、のちに母親の再婚相手となるチャールズ・ビーチと同居していた[19](キャロラインとの離婚を望んでいた父の譲吉は日本にいることが多く、エーベンは孤独な母のために若い友人をよく紹介しており、ピーチもその一人だった[26])。1928年にジーグフェルド・フォリーに出演していたショーガールのOdette Jeanと駆け落ちし結婚[24]。兄没後事業を引き継ぎ、さらに発展させた[24]。日本生まれだったためアメリカの市民権が得られず第二次大戦勃発で財産没収の可能性があったが特例で許され、ペニシリン製造などでアメリカ軍を支援した[24]。1943年にイギリス女性Catherine MacMahonと結婚。エーベン没後、妻が事業を売却し、財産は散逸したが、寄付により、サンフランシスコゴールデンゲート公園高峰庭園が造られた[24][27]


・孫・ジョーキチ・タカミネIII( Jokichi (“Joe”) Takamine III, 1924- 2013[28]) - 5歳で父である二代目譲吉を亡くし、母方で育つ。マサチューセッツ州のウイリアムス・カレッジ (Williams College) とニューヨーク大学医学部を卒業後、ニューヨークとロサンゼルスの病院勤務を経て、1957年に開業。1974年に仲間とセント・ジョンズ化学物質依存症治療センターを立ち上げ、アルコール中毒と薬物依存症の分野での指導的な役割を果たした[29]


・親戚・南桂子 - 妹・節子の孫

評価と志を継ぐ事業
生涯に亘り科学者、かつ企業人として、数々の国際的業績をあげてその生涯を全うした。1922年高峰没後、正四位勲三等瑞宝章を授与。また、「ニューヨーク・タイムズ」は「光輝ある故高峰博士」と題した社説を掲載し、高峰の業績を大きく称えた。

高峰譲吉博士顕彰会
1950年昭和25年)、高峰譲吉博士顕彰会が金沢市に結成され、1952年高峰賞を制定し、在米高峰家拠出の奨学金により10年間、その後更に10年間は在米マイルス製薬会社の高峰研究所取締役L.A.アンダーコフラー博士に引き継がれ、現在は顕彰会の事業費とも三共からの交付金と金沢市の補助金をもって賄っている。個人賞である高峰賞は地元の優れた学生の勉学を助成し、2006年度(第56回)までの受賞者は742名に上り各界で活躍している。

107年目の名誉回復、2006年4月
アドレナリン1900年に高峰譲吉と助手の上中啓三がウシの副腎から世界で初めて結晶化した。一方、エピネフリン抽出をした米国研究者が高峰譲吉は研究上の盗作を行ったと、事実誤認の非難をしたことも災いし、また高峰譲吉は醸造学者であり薬学での業績が少なかったことなどの経緯もあり、ヨーロッパではアドレナリンと呼ばれる薬は日本と米国では、副腎髄質ホルモン「エピネフリン」と長らく呼ばれてきた。


しかし、高峰譲吉の業績に詳しくその著書もある菅野富夫北海道大学名誉教授)らが、日本は発見者高峰譲吉の母国であり、「エピネフリン」に代わり正式にアドレナリンの呼称として欲しいとの厚生労働省への要望が実り、2006年(平成18年)4月、107年目の名誉回復として、日本国内では晴れて「アドレナリン」と呼ばれることとなった。アドレナリンの発見およびエピネフリン参照。

その他
ワシントンD.C.ポトマック川にある美しい並木は、1912年に東京市が寄贈したが、高峰は寄贈の計画発案当初から参画、尾崎行雄東京市長らとともに実現に大きな役割を果たした。今日では寄贈を記念して毎年全米桜祭りが行われている。


・1905年にはニューヨークに日系アメリカ人と日本人のための紳士クラブ「Nippon Club」を設立した。


・菩提寺は金沢市寺町5丁目にある臨済宗国泰寺である。塀の瓦に高峰家の家紋「八ツ矢車」が彫られている。高峰自身は亡くなる前に病床でカトリックに改宗した[19]


・金沢市梅本町(現在の大手町)にあった実家の離れが丸の内の黒門前緑地に移築されている。


・生誕の地である高岡の土地は高岡市に寄贈、同市は生家跡を「高峰公園」として整備。園内には顕彰碑と胸像が建ち、毎年生誕祭が行われている[30]。また、高峰公園に隣接する、高岡信用金庫本店別館内に高峰譲吉の功績を紹介するコーナー「たかしん高峰譲吉記念館」が2017年平成29年)12月1日に開館した(入館無料)。

詳しいことは、「高峰譲吉ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B3%B0%E8%AD%B2%E5%90%89  
(wikiより)

1510 高峰譲吉

高峰譲吉

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津田仙(つだ せん、天保8年7月6日1837年8月6日) - 明治41年(1908年4月24日)は、日本の農学者キリスト者学農社創立者。青山学院大学筑波大学附属盲学校の創立に関わる。また、日本で最初に通信販売を行った人物でもある。同志社大学の創始者新島襄、人間の自由と平等を説いた東京帝国大学教授の中村正直とともに、“キリスト教界の三傑”とうたわれた。明六社会員。娘に、後に津田塾大学創設者となる津田梅子、サンフランシスコで日本語新聞「日米新聞」を発行し日系人社会のリーダー的存在だった安孫子久太郎と結婚しアメリカに移住した安孫子余奈子がいる。

経歴
佐倉城内に生まれる。父は下総国佐倉藩堀田氏の家臣小島良親(善右衛門)3男に生まれる。幼名は千弥。嘉永4年(1851年)、元服して桜井家の養子となる。文久元年(1861年)に津田家の初子と結婚し婿養子となる。


15歳で佐倉藩藩校、成徳書院(現在の千葉県立佐倉高等学校の前身)で学び、藩主堀田正睦の洋学気風もあり、藩命でオランダ語英語の他、洋学や砲術を学ぶ。安政2年(1855年)に出仕し、江戸では蘭学塾へ入門し、森山栄之助の下で英語などを学ぶ。文久元年(1861年)外国奉行の通訳として採用された。慶応3年(1867年)、小野友五郎が幕府発注の軍艦引取り交渉のためアメリカへ派遣されるのに、福澤諭吉尺振八の3人が通訳として随行する。

明治維新が成ると官職を辞して、明治2年(1869年)には築地の洋風旅館、築地ホテル館に勤め、西洋野菜の栽培などを手がける。明治4年(1871年)には明治政府が設立した開拓使の嘱託となり、女子教育に関心のあった開拓次官の黒田清隆が、政府が派遣する岩倉使節団に女子留学生を随行させることを企画すると、娘の梅子を応募する。使節団が出発した翌月には開拓使を辞職。


民部省
に勤めたのち、明治6年(1873年)には、ウイーン万国博覧会に副総裁として出席する佐野常民日本赤十字社の創設者)の書記官として随行。オランダ人農学者ダニエル・ホイブレイクの指導を受け、帰国後の明治7年(1874年)5月に口述記録をまとめて『農業三事』として出版した。仙がウィーン万博から持ち帰ったニセアカシア種子は、その後明治8年(1875年)に大手町に植えられ、これが東京初の街路樹となった。


明治8年(1875年)1月、米国メソジスト監督派教会で後に青山学院神学部教授も歴任したジュリアス・ソーパー宣教師によりメソジスト派信者として妻の初と共に洗礼を受ける。また、古川正雄らと共に盲聾唖者の教育のため楽善会を組織する。明治9年(1876年)には東京麻布に、農産物の栽培・販売・輸入、農産についての書籍・雑誌の出版などを事業とする学農社を設立、その一環として農学校も併設した。キリスト教指導も行う。


学農社雑誌局発行の「農業雑誌」で、明治9年(1876年)にアメリカ産トウモロコシの種の通信販売を始め、これが日本で最初の通信販売といわれている。同年には、栗原信近に招かれワイン醸造技術指導のため甲府を訪れている。また、1890年には東北を視察してりんご二十数種を東京に持ち帰り、当時珍しかったマスコミ向けの試食会を行なった[1]

明治16年(1883年)5月には第三回全国基督教信徒大親睦会の幹部として活躍する。

足尾鉱毒事件では田中正造を助け[2]、農民救済運動に奔走した。明治30年(1897年)には事業を次男に譲り引退、鎌倉で過ごす。明治41年(1908年)、東海道本線の車内で脳出血のため71歳で死去。葬儀は青山学院の講堂で行われた。


死後、内村鑑三新渡戸稲造らは追悼文を発表し、仙の事業を讃え、仙を「大平民」と呼んだ。

墓所は青山墓地

学農社
1875(明治8)年9月1日、麻布東町23番地に学農社を開業した。西洋種苗頒布ならびに「農業雑誌」の発行、農学校の経営に従事する。1876(明治9)年に校舎落成と「農業雑誌」創刊、1877(明治10)年、麻布新堀町2番地西に移転。1898(明治31)年、仙が引退すると次男の次郎が社長を後継。


出版事業は、「民間自由の一大農誌」として定期刊行物「農業雑誌」を1876(明治9)年に創刊、新しい知識を得て各地に現われた果樹栽培や種苗農家は、農学校卒業生の助けを借りることになる。また、この農業専門雑誌には投稿者や読者が集い、それぞれが生活する場所にありながら、農学校で津田が進めようとした「新しい技術・知識」の共有と新たな時代への対応を、誌面を通じて享受する。津田が唱えた「農は百工の父母」あるいは「自由を重し」とする精神は受容の度合いに差はあれ、各地へバトンタッチされていく[3]。 1916(大正5)年7月、宇喜多秀穂が社長を引き継ぐ。1921(大正9)年、「農業雑誌」最終号を出版。

学農社農学校
1875(明治8)年9月1日、麻布東町23番地に学農社農学校を設立、農園は麻布年本村町178番地にあり、教員1名、学生12名で授業が始まる。本科の修了年限を3年、予科と別科には年限を設けていない。また学内で日曜学校を開催し、フルベッキジュリアス・ソーパー等を講師に招いた。


1876(明治9)年7月、農園内に新校舎が落成すると教員7名を置き、学生35名が集った[4]。卒業生は各地の勧業課つまり都道府県の産業育成部門に入り、新しい農業の指導に当たる[3]が、明治14年に政変があるとその影響か、翌年、学生数は半減。帝国議会が開設される明治23年を待たず、農学校は1884(明治17)年12月に10年目に閉校する。


農業振興を支える『学農社制規』に定めた「物産興隆の道」である収益部門として、農学校を終えた後も学農社は頒布により西洋苗種を普及させ、卒業生はその栽培指導に努めていく。

教師
上野栄三郎

内村鑑三

岡田松生

海部忠蔵 英語担当。普連土学園初代校長(明治20年)[5][6]

窪田義衛

中川久和

中島力造

水原政次 三重県出身、卒業生[7]。学農社社員、三田育種場勤務、入社前から京阪神間から種子を購入[7]。県栽培試作場では高等教育を受けられない農業従事者に専門技術と知識を普及[8]

元良勇次郎

山本亮吉

渡辺譲三郎 新潟出身。卒業生の杉江秀道(明治9年入学)が石川県に開いた「農事社」[9]教授を経て「石川県勧業場」農学科(明治9年創設)教授。杉江とともに農業の実践教育にあたる[10]

詳しいことは、「津田 仙ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%A5%E7%94%B0%E4%BB%99
(wikiより)

1475 津田仙

津田 仙

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昌平坂学問所(しょうへいざかがくもんじょ)は、1790年(寛政2年)、神田湯島[1]に設立された江戸幕府直轄の教学機関・施設。正式の名称は「学問所」であり「昌平黌」(しょうへいこう)とも称される。

湯島聖堂」も参照

沿革
もともとは1630年(寛永7年)、徳川家康から与えられた上野忍岡の屋敷地で林羅山が営んだ儒学の私塾を起源とする。羅山は、ここに孔子廟を設けてその祭祀を行い、これらの維持運営はその後代々の林家当主(大学頭)が継承したが、その後1690年(元禄3年)、将軍徳川綱吉が神田湯島にこの孔子廟を移築することを命じ、この際講堂・学寮が整備され、この地は孔子の生地である「昌平郷」にちなんで「昌平坂」と命名された。


ついで1790年(寛政2年)、いわゆる「寛政異学の禁」により幕府の教学政策として朱子学が奨励され、その一環として林家の私塾であった「学問所」を林家から切り離し、「聖堂学規」や職制の制定など、1797年までに制度上の整備を進めて幕府の直轄機関とした。これが幕府教学機関としての昌平坂学問所の成立である。この時外部から尾藤二洲古賀精里が教授として招聘され、以後は直参のみならず藩士・郷士・浪人の聴講入門も許可された。


昌平黌は幕末期においては洋学の開成所、医学(西洋医学)の医学所と並び称される規模の教学機関であったが、維新期の混乱に際して一時閉鎖、その後新政府に接収され慶応4年6月29日(1868年8月17日)には官立の「昌平学校」として再出発した。しかしこの昌平学校は従来のような儒学・漢学中心の教育機関でなく、皇学(国学・神道)を上位に置き儒学を従とする機関として位置づけられていたため、旧皇学所出身の国学教官と昌平黌以来の儒学派との対立がくすぶり、特に昌平学校が、高等教育および学校行政を担当する「大学校」(のち「大学」)の中枢として位置づけられて以降、儒学派・国学派の主導権争いはますます激化したため、「大学本校」と改称されていた昌平学校は明治3年7月12日(1870年8月8日)当分休校となり、そのまま廃止された。このため、幕府の開成所・医学所の流れをくむ東京開成学校東京医学校東京大学の直接の前身となったのと異なり、昌平黌以来の漢学の系統は、東京大学の発足に際し(「源流」としての位置づけはなされているものの)間接的・限定的な影響力しか持ち得なかったのである。

廃止後
前述のように、昌平黌は維新政府に引き継がれ「昌平学校」と改称された後、1871年(明治4年)に閉鎖された。しかし、教育・研究機関としての昌平坂学問所は、幕府天文方の流れを汲む開成所、種痘所の流れを汲む医学所と併せて、後の東京大学へ連なる系譜上に載せることができるほか、この地に設立された東京師範学校(のちの高等師範学校[2])や東京女子師範学校(のちの東京女子高等師範学校[3])の源流ともなった。さらに学制公布以前、明治政府は小学→中学→大学の規則を公示し、そのモデルとして1870年(明治3年)、太政官布告により東京府中学がこの地を仮校舎として設置された[4]


昌平坂学問所のあった湯島聖堂の構内において、文部省国立博物館[5]の他、先述した東京師範学校と東京女子師範学校[6]が同居していた時期もあった。


後に文部省は霞ヶ関、国立博物館は上野、東京師範学校・東京女子師範学校およびそれぞれの附属学校は文京区大塚にそれぞれ移転した。東京師範の後身である東京高師は、新制東京教育大への移行を経て茨城県つくば市に移転し筑波大学に改編され現在に至っている(しかし附属学校は大塚に止まっている)。東京女子師範の後身である東京女高師が新制大学移行に際して「お茶の水女子大学」を校名としたのは、源流と目される昌平黌が湯島聖堂構内に所在していたことに由来する。


このように、幕末維新期に至るまでの学問所の存在以降、中央大学明治大学日本大学等の旧法律学校を中心とする神田学生街や古書店街の現在の発展へとつながったが、敷地としての学問所跡地は、そのほとんどが東京医科歯科大学湯島キャンパスとなっている。

詳しいことは、「昌平坂学問所ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8C%E5%B9%B3%E5%9D%82%E5%AD%A6%E5%95%8F%E6%89%80
(wikiより)

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正之公の寛文四年 横田俊益等稽古堂を建て無為庵如默を堂主とし庶民に学を講せしむ是れ藩黌の濫觴なり。
(碑文より)

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神田錦町郵便局の向かい側「学習院(華族学校)開校の地」という碑があります。
 
『弘化4年(1847)京都御所の日御門前に公家の学習所として設立された「学習院」は, 明治10年(1877)華族学校「学習院」としてこの地に創立されました。
 
同年10月17日に明治天皇, 皇后両陛下をお迎えして開業式がおこなわれました。』(碑文より)
 
また、明治22年(1889)には、華族女学校は当時の麹町区永田町に移転しました。現在は豊島区、新宿区に各学校があり、千代田区内には校舎はありません。
(案内板より)

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日本女子大学創立者
  
成瀬仁藏略伝


安政五年 ( 1858 ) 六月二十三日、長州藩士・成瀬小左衛門の長男として生まれ、明治維新前後の日本の激動期に幼少時代を過ごした。


明治九年、山口県教員養成所を卒業、小学校教育に従事したが、たまたま同郷の先輩・澤山保羅によってキリスト教にふれ、深い感化を受け、職を辞して出郷、大阪難波協会において洗礼を受けた。


明治十一年、梅花女学校を創立、また大和郡山教会のの牧師となり、新潟教会に転じ更に新潟女学校を創立した。


明治二十三年、米国に留学、四年の間主として女子教育について研究、帰朝後は女子高等教育の急務を説き、助成の人間的価値と尊厳をとなえ、画期的な構想をもって女子大学設立を企図、東奔西走、遂に明治三十四年 ( 1901 )、東京目白台に、史学として最初の女子高等教育機関である日本女子大学校を設立した。


爾来二十年、校長として一意女子教育の発展と大学教育改善に尽くした。


大正八年 ( 1919 ) 三月四日 没 享年六十歳
(案内板より)


〇 成瀬仁藏
成瀬 仁蔵(なるせ じんぞう、1858年8月2日安政5年6月23日) - 1919年大正8年)3月4日)は、明治から大正のキリスト教牧師プロテスタント)であり、日本における女子高等教育の開拓者の1人であり、日本女子大学校(日本女子大学の前身)の創設者として知られる。

生涯
出生から就職まで
周防国吉敷郡吉敷村(現山口県山口市吉敷赤田大形)に生まれる。成瀬家はもとは河崎姓で、仁蔵の父・小左衛門の代に成瀬姓を名乗る。小左衛門は長州藩毛利家の一門・吉敷毛利家に仕える下級武士。仁蔵は長男。仁蔵の母・歌子は隣村の大歳村出身で、藩士である秦家の娘。


仁蔵は幼少時は郷校の憲章館に学び、維新後の1874年(明治7年)には調剤師として医家に住み込む。この年には父の小左衛門が死去し、山口の教員養成所(山口師範学校)の2期生となる。1876年(明治9年)に卒業し、小学校教員となる。

大阪時代
1877年
からアメリカに留学し、帰国後牧師になった同郷の沢山保羅の感化を受けて山口を離れ、1878年(明治11年)に大阪浪花教会で入信する。組合教会の運動で同年に設立された梅花女学校で主任教師を務め、翌1879年(明治12年)には浪花教会に属し、旧福井藩士の娘で女学校生徒であった服部満寿枝と結婚。私財を投じて学校経営の維持を図るなど教職には熱心であったが、伝道活動への意思が強く、1882年(明治15年)に卒業生を送ると教職を辞し、牧師としての活動をはじめる。沢山保羅の浪花教会を拠点に、翌1883年(明治16年)には奈良県生駒郡郡山町(現大和郡山市)の出張伝道所へ移る。1884年(明治17年)には郡山教会の独立を許されてその初代牧師となり、布教活動をおこなう一方で女子教育を研究する。

新潟時代
このころ、キリスト教受容の壁が厚かった新潟ではT・P・パーム押川方義らが教会を形成した。1883年にパームが帰国すると、O・ギューリック夫妻とR・H・デイヴィス夫妻らアメリカン・ボードのメンバーが伝道を引き継いだが、伝道活動が困難をきわめており、成瀬は組合から新潟での伝道を依頼される。成瀬はこれを拒むが、病床の沢山から赴任を懇願されると新潟へ移り、1886年(明治19年)には新潟第一基督教会(現・日本基督教団新潟教会)を設立。女子の就学状況が不振であった新潟で女学校の設立案が出されると成瀬はこれに参加し、翌1887年(明治20年)に私立新潟英学校を基礎に設立された新潟女学校の校長となる。同じく英学塾を基礎に設立された男子中等教育機関である北越学館にも関わり、教師として招かれた内村鑑三が生徒の支持を得て分離する動きを見せると、成瀬らは内村に反論し、解任を求めた。内村が去った後には旧知の松村介石麻生正蔵らが招かれた。

詳細は「北越学館事件」を参照

米国留学
1890年(明治23年)にはアメリカへ渡る。アンドーバー神学校クラーク大学教育学や社会学、キリスト教などを学び、ユニテリアン的な思想を身に付け、各種社会施設も視察して女子教育研究を行い、1894年(明治27年)に帰国。

日本女子大学校設立へ
第5代梅花女学校校長を務め[1]、女子高等教育機関の設立に着手。成瀬はこの梅花女学校校長時代に日本初となる「球籠遊戯」(日本式バスケットボールの原型)をカリキュラムに採用、後に自らが創立した日本女子大学校でも「球籠遊戯」をカリキュラムに採用していることから、成瀬はバスケットボール紹介者のひとりと言われている[1][2]


大阪市東区清水谷東之町(現天王寺区清水谷町[3])で建設を進めたが、その後、広岡浅子の働きかけで三井財閥から東京・目白の地(現在地)を寄贈され、1901年(明治34年)、日本女子大学校を創設した(設立発起人、創立委員に西園寺公望)。


1912年
(明治45年)6月、渋沢栄一森村市左衛門姉崎正治らと共に帰一協会を設立する。これは、諸宗教・道徳などが、同一の目的に向かって相互理解と協力を推進することを期した会である。会員には、江原素六島田三郎新渡戸稲造石橋智信今岡信一良高木八尺M・C・ハリスD・C・グリーンC・マコウリー、W・アキスリングなどの宣教師たちも参加した[4]


晩年にはキリスト教信仰を捨てて、混交宗教を奉じた[5]


1919年3月4日、肝臓癌のため死去[6]

死後
生家跡は1934年昭和9年)に山口在住の卒業生有志によって、成瀬公園として整備された。公園内に設置された記念碑は毛利本家第29代当主の毛利元昭貴族院議員)の揮毫によるものである[7]


詳しいことは、「成瀬仁藏ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%90%E7%80%AC%E4%BB%81%E8%94%B5
(wikiより)

1127 成瀬仁藏

成瀬仁藏

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齋藤 百合(さいとう ゆり、1891年3月31日 - 1947年1月17日)は、日本の盲女性のための教育施設福祉施設を設置し、盲女性の地位向上に力を尽くした。

生涯
齋藤百合は、1891年明治24年)3月31日愛知県豊橋の近く石巻村の野口浪太郎の次女として生まれた。父は旅まわりの浪曲師で、村の旧家の娘きくが心を寄せ、駆落ち同然に所帯を持った。そしてゆりたち姉妹が生まれた。百合は興行先の楽屋で幼い日々を過ごしたが、母親の両親が2人の結婚を認め、孫を引き取った。両親が興行に出たあとは、祖父母の下で育った。3歳の時、百合は高熱を伴うはしかにかかり、その後の栄養失調失明した。9歳になって按摩師の下に弟子入りしたが、百合は他人の体をもむ按摩を好きになれなかった。1902年春、岐阜聖公会訓盲院に入学し、寮生活を始めた。百合はここで学問する楽しさを知った。聖公会の青年たちも百合に読んで聞かせてくれた。全額給費生として鍼按を学び、英文詩集の暗記を進んでマスターした。宣教師とともに外国人の家庭に招かれてオルガンを弾くなどして、英会話も身につけた。1908年に岐阜聖公会訓盲院を卒業し、同校の代用教員になり、11月には聖公会で洗礼を受けてキリスト者になる。1911年4月、百合の才能を認めた院長は、百合を岐阜訓盲院の派遣生として全額給費で、東京盲学校師範科鍼按科に送った。1913年大正2年)に同校を卒業し、岐阜訓盲院の正教員になったが、2年後の1915年秋に病院勤務のマッサージ師齋藤武弥と結婚し、東京雑司ヶ谷に新居を持つ。この結婚を機に、齋藤百合と名乗る。1918年、読んでもらった新聞に「東京女子大学設立。女性を1人の人間として伸ばすための教育を行う」という記事に突き動かされ、夫の助言も得て、東京女子大学を受験した。26歳で2児の母、全盲の百合を、大学は特別生として受け入れた。1922年、第1回卒業66名の1人として卒業した百合は、東京盲学校同窓会主事として機関誌『むつぼしの光』の編集にあたる。盲人女性の置かれた地位の低さを以前から憂いていた百合は、1928年昭和3年)11月、武蔵野婦人会(のち陽光婦人会)を組織し、盲女子が安心して働ける鍼灸按摩の治療所を開設し、編み物や組紐の授産教室も始めた。しかし、3年で経営は行き詰ってしまった。1935年、今度は東京女子大学学長を後援会長におくなど大学関係者30名を中心とした後援組織を固め、陽光会ホームを発足させた。一軒屋を借りて、機関誌『点字倶楽部』を発行、鍼按外来治療室、点字教室、編物教室、点字出版、失明者相談室などをおいて、盲女子の保護・訓練を行った。地方の盲人のために宿泊も受け入れた。百合は講演や原稿書きによる収入をこの事業につぎ込んだが、公的な助成がなかったから、4人の子を得た家庭生活はいつも貧しかった。太平洋戦争の戦況の悪化で、東京に空襲が始まり、陽光会ホームは閉鎖しなくてはならなくなった。百合は、1944年に陽光会のメンバーとともに浜名湖の奥に疎開した。長女・次女は結婚し、次男は出征(のち戦死)、夫武弥は東京に残った。1946年1月、夫武弥が東京駅で不慮の災難に遭い逝去した。1年後の1947年1月31日、百合は風邪から肺炎を併発して逝去した、55歳だった。


・『道ひとすじ―昭和を生きた盲人たち―』で、昭和時代に活躍した著名な盲人100人の一人に挙げられている。


・『光に向って咲け―斎藤百合の生涯』(岩波新書)は、陽光会ホームで学び働いた粟津キヨが、齋藤百合の考え方と行き方を紹介している。


1927年生まれの娘で女優の斎藤美和は、1994年に、斎藤百合の生涯製作委員会を結成し、『視覚障害者に光を! 盲目の斎藤百合の生涯』という映画を完成させた。

年譜
・1891年(明治24年)3月31日 愛知県豊橋在で生まれる。本名野口小つる

1893年 はしかの高熱などのために失明

1901年 豊橋の按摩師に弟子入り

・1902年春 岐阜聖公会訓盲院に入学

・1908年 岐阜聖公会訓盲院を卒業し、同校の代用教員になる

・1911年4月 岐阜訓盲院委託生として東京盲学校師範科鍼按科に入学

・1913年(大正2年)3月 同校を卒業し、岐阜訓盲院の正教員になる

・1915年秋 齋藤武弥と結婚し、齋藤百合と名乗る

1916年8月 長女久美を出産

・1918年4月 開校されたばかりの東京女子大学高等部に入学

・1922年4月 東京女子大学英文科に入学(翌年秋まで在学)

1925年 東京盲学校研究科英文科に入学(1928年まで在学)

・1928年(昭和3年)11月 武蔵野婦人会(のち陽光婦人会)を組織

1930年 盲女子のため陽光会治療所を開設

・1935年 陽光会ホームを発足させる

1937年 盲女子高等学園設立のためヘレン・ケラーの講演会などを開く(盲女子高等学園の設立は実現でき・かった)

・1944年 陽光会のメンバーとともに静岡県現浜松市に疎開する

・1946年 夫武弥が逝去。疎開先から東京に戻る

・1947年1月31日 風邪から肺炎を併発し逝去、享年55


参考文献
・『道ひとすじ―昭和を生きた盲人たち―』 あずさ書店、1993年10月、ISBN 4900354341
(wikiより)

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羽仁 もと子(はに もとこ、1873年9月8日 - 1957年4月7日)は、日本で女性初のジャーナリスト。また、自由学園の創立者。また家計簿の考案者としても知られている。

来歴
1873年(明治6年) 本名羽仁もと子(旧姓松岡)とし、青森県八戸市に生まれる。


1889年(明治22年) 上京し、東京府立第一高等女学校2年生に編入。


1890年(明治23年) 東京女子高等師範学校を目指すも不合格となる。この年洗礼を受け、生涯にわたってキリスト教を信仰したが、教会に属さない無教会の立場であった。


1891年(明治24年) 「女学雑誌」の編集長である巌本善治が校長を務める明治女学校高等科に入学。明治女学校在学時には「女学雑誌」の校正を手伝い雑誌作りの基礎を学ぶ。


1892年(明治25年) 帰郷し尋常小学校盛岡女学校の教員をし、その後結婚するが、まもなく離婚。


1897年(明治30年) 再度上京し、報知社(現・報知新聞社)に入社[1]報知新聞の校正係の職を得て、機会あるごとに自主的に書いた原稿で実力を認められて記者に登用され、日本で初めての女性ジャーナリストとなった。家庭生活の合理化を唱え、思想家としても著名である。


1901年(明治34年) 職場で知り合った羽仁吉一と再婚、その後まもなく報知新聞を退職し、吉一が高田新聞社に勤めるのにあたり、新潟へ


1903年(明治36年) 女性雑誌「家庭之友」を創刊。


1908年(明治41年) 羽仁夫妻が独自に出版していた雑誌「家庭女学講義」を「婦人之友」へと改題した。同時に婦人之友社設立。


1914年(大正3年) 婦人之友の姉妹誌として、子ども向けの「子供之友」も出版。しかし、国家総動員法のもとで日本出版会による統制によって、「婦人之友」を残して「子供之友」は廃刊となった。戦後に福音館書店から刊行されるようになった「こどものとも」は、この誌名を譲渡されたものである。


1921年(大正10年) 読者の子への家庭的な教育を目指して、当初は女学校として東京・旧目白(西池袋)に自由学園を創立した。その名称は新約聖書の「真理はあなたたちを自由にする(ヨハネによる福音書 8:32)」に由来している。創立当時、来日していたフランク・ロイド・ライトはファミリースクールへの共感から積極的に校舎の設計を引き受け、後に自由学園明日館として国の重要文化財の指定を受けて一般に公開されている。


1925年(大正14年) 学校規模の拡大により、現在の東京都東久留米市に購入した学校建設予定地周辺の土地を関係者などに分譲し、その資金で新しい学校施設を建設して移転。


1930年(昭和5年) 全国の「婦人之友」愛読者により「全国友の会」を設立。


1957年(昭和32年) 脳血栓の後、心臓衰弱のため死去。墓は雑司ヶ谷霊園にある。

親族
・夫 羽仁吉一 - 報知新聞編集長、その後高田新聞社編集長などを経て婦人之友社設立。自由学園では学園主を務める。

・妹 千葉くら - 青森八戸の千葉学園創立者

・弟 松岡正男 - 京城日報社社長 毎日申報社社長 時事新報社社長。その娘に評論家の松岡洋子

・長女 羽仁説子 - その婿は歴史学者であり参議院議員として国立国会図書館の設置に携わった羽仁五郎(旧姓森)、

・次女 羽仁凉子 - 幼くして病死、

・三女 羽仁惠子 - 生涯独身であった。羽仁夫妻死後は自由学園にて2代目学園長を務める。

・孫 羽仁立子(幼少期に病死)、続いて生まれた羽仁進羽仁協子羽仁結子の3人が孫として成長する。

・ジャーナリストの羽仁未央は曾孫にあたる。

著書

・『家庭小話』内外出版協会 1903

・『育児之栞』内外出版協会 1905

・『如何に家計を整理すべき乎』鹿鳴社 1906

・『ネルの勇気』(少女文庫)編. 愛友社[ほか] 1907

・『家庭問題 名流座談』編. 愛友社 1907

・『家庭教育の実験』家庭之友社[ほか], 1908

・『女中訓』婦人之友社 1912

・『赤坊を泣かせずに育てる秘訣』婦人之友社 1912

1927年より婦人之友社から羽仁もと子著作集の刊行が始まり、戦後に新訂版が出版された。全20巻で完結したが、後に1巻が加えられて21巻となった。

脚注
1. 羽仁もと子 とは - コトバンク(デジタル版 日本人名大辞典+Plus)

参考文献

・『婦人之友』各号

・『羽仁もと子著作集』婦人之友社

・秋永芳郎『評伝羽仁もと子』新人物往来社、1969年

・羽仁説子『妻のこころ』岩波書店、1979年

・羽仁進『自由学園物語』講談社、1984年

・斉藤道子『羽仁もと子 生涯と思想』ドメス出版、1988年

・自由学園女子部卒業生会編『自由学園の歴史I 雑司ヶ谷時代』、1985年

・自由学園女子部卒業生会編『自由学園の歴史II 女子部の記録1934~1958』、1991年

・富坂キリスト教センター編『大正デモクラシー・天皇制・キリスト教』新教出版社、2001年

・『自由学園80年小史』自由学園出版局、2001年

・近代日本を創った7人の女性 長尾剛著 PHP文庫出版 2016年

関連人物
羽仁吉一

天野貞祐

羽仁五郎

頼母木桂吉

外部リンク
婦人之友社:婦人之友社について

婦人之友社:羽仁もと子・吉一 ふたりの生涯

学校法人自由学園

自由学園・明日館

羽仁もと子記念館

羽仁もと子:作家別作品リスト - 青空文庫
(wikiより)


1088 羽仁もと子

羽仁もと子

1089a

1089b



本石碑は、当地にあった東京高等学校工業学校(現・東京工業大学)を記念し、工業教育発祥の地として同窓会の蔵前工業会が建立したものである。


当校は、工業指導者の養成を目的として、明示十四年五月東京職工学校として創立され、明治二十三年三月東京工業学校、明治三十四年東京高等工業学校と改称された。


当校は、常に日本の工業教育の指導的地位にあり、また、多くの留学生を教育するなど、科学技術の発展に貢献し、当校の出身者は「蔵前の出身」という愛称で重用された。


しかし、大正十二年九月の関東大震災により、校舎工場等が灰燼に帰したため、学校当局は、当地での再建を断念、目黒区大岡山に移転した。


当地の敷地は、正門の位置に建てられている本石碑を中心に、隅田川に沿って面積四万三千平方メートルに及んでいた。


側面に「昭和十八年三月吉日 社団法人蔵前工業会建立」


裏面に「永田秀次郎選」の碑文が刻されている。
(案内板より)

1212a

1212b

1212c



学校法人麻布獣医学園麻布大学の前身は、明治二十三年 ( 1890 ) 九月十日、東京獣医講習所として、帝国大学農科大学助教授・興倉東隆によって開設されました。


東京市麻布区本村町 204 ( 日東山曹渓寺境内 ) にできた私立慈育小学校の一部を借りて校舎とし、全国から選抜推薦された獣医師に六か月間、解剖、生理、薬物、内科、外科、装蹄、病院実習、装蹄実習を教授しました。


明治二十七年 ( 1894 ) 一月に麻布獣医学校と改称し、同二十八年 ( 1895 ) 十月には、興倉東隆がすでに開設していた東京家畜病院がある麻布区新堀町に校舎を新築移転しました。

その後、明治四十五年 ( 1912 ) 三月に、麻布獣医畜産学校、昭和九年 ( 1934 ) 四月に麻布獣医畜産専門学校と改称しました。


昭和二十年 ( 1945 ) 五月、戦災により学園諸施設を消失したため、神奈川県相模原市に移転し、同二十五年 ( 1950 ) に校名を麻布獣医科大学として開学し、昭和五十五年 ( 1980 ) 麻布大学と改称し、現在に至っています。
(案内板より)

843a

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「東京都立光明養護学校 発祥の地」( 港区南麻布二丁目九番二十五号 )


学制公布後、わが国の児童の就業率は上昇してきましたが、肢体不自由児の教育は取り残されてきました。


昭和六年 ( 1931 ) 東京市教育局は市内十五区の学齢児を調査して、1,200名の肢体不自由児の三分の一が未就学児であることを見出しました。


そこで、当時就学免除の対象と考えられていた肢体不自由児のために、小学校に類する各種学校 (「小学校令」第十七条 ) として、昭和七年 ( 1932 ) 六月一日、東京市長・永田秀次郎によって命名され、わが国最初の肢体不自由児学級となりました。


開設当時は、一年から六年まで六学級九十名の児童が学び、各学級で学習指導を行う教員のほかに看護婦が配置され、マッサージなどの治療を行いました。


また、普通教科の他に生活科や職業科なども設け、養護と訓練を徹底的に行いました。


児童のもつ才能を存分に伸ばす教育は、現在の肢体不自由児教育の基礎となっています。


昭和十四年 ( 1939 ) 九月、世田谷区松原に新校舎が落成移転し、当地には麻布分校が残りましたが、同二十年 ( 1945 ) 戦災により消失しました。


その後、東京都立光明養護学校と改称し、小学部、中学部、高等部を世田谷区松原に設置し、現在に至っています。
(案内板より)

842c

842b

842a



明治大学創立者
  
岸本辰雄先生墓碑

嘉永四年 ( 1851 ) 十一月 ~ 明治四十五年 ( 1912 ) 四月


鳥取藩士・岸本平次郎の三男に生まれる。


幼名辰三郎。


倒幕のための新国隊の半隊司令官を勤める。


明治二年・箕作塾に入門。 


翌年、藩を代表し貢進生となり、大学南校に学ぶ。


明治五年八月、新設の司法省明法寮生徒となり、ボアソナードにフランス法を学ぶ。


明治九年、選ばれてパリ大学に留学し、法律学士の学位を取得。


帰朝後、明治十四年一月、宮城浩蔵、矢代 操とともに明治法律学校を創立する。


法制局参事官、司法省参事官、大審院判事を勤める傍ら、初代校長として主に商法教育を担当し、「権利自由」・「独立自治」の建学理念を生み、明治大学発展の基礎を築いた。


明治三十八年方角博士となる。


明治四十五年死去。行年六十一歳。


岸本辰雄先生の生誕一五〇年を記念して

二〇〇一年(平成十三) 一〇月
                     明治大学
(案内板より)


〇 岸本辰雄
岸本辰雄(きしもと たつお、1851年11月13日嘉永4年10月19日) - 1912年明治45年)4月4日[1])は、日本法学者明治大学の創設者。

人物
因幡国南本寺町(現在の鳥取市)に鳥取藩岸本平次郎の三男として生まれる。幼名、辰三郎。当初藩校「尚徳館」で蘭式兵法を修める[2]


戊辰戦争に従軍後、1869年、箕作塾に入門。翌1870年、貢進生として鳥取藩の推薦を受け、大学南校(後の東京大学)に入学。1872年、新設の司法省明法寮(後に司法省法学校)に第一期生として入学。ジョルジュ・ブスケ[3]ボアソナードらにフランス法を学び1876年卒業。同年宮城浩蔵らとともにフランスに留学。パリ法科大学でフランス法律学士の学位を取得[4]。1880年に帰国後、判事任官、東京大学法学部講師太政官御用掛等[5][6]


判事
の傍ら1881年(明治14年)1月17日、有楽町数寄屋橋の旧島原藩上屋敷(松平主殿頭家(とのものかみけ)旧邸、現在の千代田区有楽町数寄屋橋交差点そば)[7]において、宮城浩蔵矢代操らとともに明治大学の前身である明治法律学校を創設、初代校長となる。岸本は法学全般に通じていたが、宮城浩蔵が刑事法を担当したのに対し、矢代操と分担して主に民事法を担当。


この間に法制局判事法制局参事官司法省参事官大審院判事等を歴任。1889年には地元の鳥取県から第1回衆議院議員総選挙に立候補するが、すぐに辞退している。


1893年に弁護士登録。1897年東京弁護士会長。1905年法学博士となる。商法編纂委員、会社法編纂委員、破産法編纂委員、民商法施行調委員、法典調査会委員などを務める[8]


1912年(明治45年)4月、市電で明治大学へ向かう途中に脳溢血で倒れ死去。墓所は谷中霊園乙4号9側。


明治大学駿河台キャンパスリバティタワー23階に「岸本辰雄記念ホール」がある。出身地鳥取の藩校「尚徳館」跡地には、2006年に胸像が建立された[9][10]

詳しいことは、「岸本辰雄ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%B8%E6%9C%AC%E8%BE%B0%E9%9B%84
(wikiより)


566 岸本辰雄

⇧ 岸本辰雄

566a

566b


長州藩士 : 高杉晋作の従兄弟


生誕年月日 : 弘化4(1847)
没年月日 : 大正4(1915年)7月14日


職業:長州藩士、東京芝南英学舎経営

変名:高杉百合三郎、谷松助

親族:マサ(母)、高杉小忠太(養父)、高杉晋作(従兄弟)、ライザ(妻)

主な著作:大西新聞
 
経歴 : 幕末期の長州藩士。

高杉晋作の父である高杉小忠太の妹マサの子で、文久二年(1862年)跡継ぎが晋作しかいないことに不安を感じた小忠太は、南貞助を養子に迎えた。

当時は、高杉百合三郎と名乗った。


元治元年(1864年)、藩政府打倒のために晋作が挙兵すると、谷松助と変名して参戦した。

このため高杉家を除名されている。


慶應元年(1865年)から三年(1867年)までイギリスに秘密留学。


維新後は外国御用掛として新政府に出仕し、明治四年(1871年)には東伏見宮嘉彰親王の英国留学に随従を任命され再びイギリスに留学を果たし法律、実業を学ぶ。

またイギリス人女性ライザと結婚。

日本における国際結婚第一号と言われた。十年後に離婚。


その後、外国人相手の旅行会社を設立するなど日本の国際化に奔走。 

363 南貞助

⇧ 南 貞助

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西園寺公望(1849~1940)の秘書官中川小十郎(1866~1944)は,明治33(1900)年5月,法律・政治の二科を置く,私立京都法政学校(立命館大学の前身)を開校した。

料亭清輝楼を仮校舎として講義が行われ,翌年12月,広小路河原町の新校舎に移転した。

この石標はその仮校舎跡を示すものである。


なお清輝楼は,桂小五郎(木戸孝允)と幾松(のちの木戸夫人)の逸話で知られる吉田屋のあとを受け継いだ料亭といわれ,その後平成8(1997)年まで大和屋旅館として存続した。

またここは、桂小五郎捕縛未遂の地でもあります。

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