本牧jack『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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小生の拙ブログ『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑に御訪問頂き誠に有難う御座います。
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出来るだけ続けたいと思っていますが 膝・耳に問題が有って、いつまで出来るやら・・・説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。
御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。 ※ 申し訳御座いませんが「画像の転用」は禁止とさせて頂きます。 コメントは原則公開させていただいております 質問等に対してはブログ記事で返信させていただきます 他の方法で連絡を取り合う等一切しません 場合によっては、「IPブロック」しますがブロックした場合解除する事は有りませんので宜しくお願いします。

カテゴリ: 将軍・春日局・大名・藩主・家老・側室・代官・家臣・旗本・武将関連

時代戦国時代
生誕大永7年(1527年
死没天正6年5月7日1578年6月12日
改名春日虎綱、香坂虎綱
別名昌信、昌宣、昌忠、晴昌、晴久
通称:源五郎、弾正
渾名:逃げ弾正[1]
戒名保雲椿公禅定門(「成慶院過去帳」)
憲徳院玄菴道忠居士
墓所明徳寺長野県長野市
恵林寺山梨県甲州市
官位弾正忠
主君武田信玄勝頼
氏族春日氏香坂氏高坂氏
父母父:春日大隅、養父:香坂宗重
兄弟熊麿虎綱(高坂昌信)
正室:香坂宗重の娘
昌澄(源五郎)信達(源次郎)昌定(源三郎)

春日 虎綱(かすが とらつな)は、戦国時代武将高坂(香坂) 昌信(こうさか まさのぶ)の名で知られる甲斐武田氏家臣で譜代家老衆。幼名は春日源五郎(かすがげんごろう)。武田晴信 (信玄)勝頼に仕え、武田四天王の一人として数えられる。

姓名
及び仮名
一般に「高坂昌信」の名前で知られるが、姓については「高坂」または「香坂」姓を用いたのは最も長くて弘治2年(1556年)から永禄9年(1566年)9月までの11年間である。この「高坂」または「香坂」姓は信濃国更級郡牧ノ島の香坂氏の家督を継承していることに由来する。香坂氏は武田領と反武田の北信濃国人・上杉謙信との境目に位置しつつ唯一武田側に属しており、虎綱が養子に入った背景にも香坂氏の川中島地域における政治・軍事的立場が考慮されたと考えられている[2]

香坂氏に養子に入った時期は『甲陽軍鑑』によれば、永禄4年に香坂氏が上杉謙信に内通し成敗された時点、または弘治2年(1556年)に小山田昌行(備中守)が水内郡海津城長野市松代町)から雨飾城に番替えとなると後任として海津城代となり、この時点で「高坂」を称していたとしている[3]。なお、『甲陽軍鑑』は海津城築城を永禄3年としているが、これは史実とは矛盾する[4]

一方、高野山成慶院『武田家過去帳』では弘治4年時点で「香坂弾正」を称していることが確認される[3]。この他に「香坂」姓の名乗りが確認されるのは、永禄2年11月屋代政国宛判物における副状で、早くとも永禄6年6月まで「香坂」姓を称し、遅くとも永禄9年9月までには復姓している[5]

名については、確実な文書上からは実名は「虎綱」であることが指摘されており[6]「昌信」(しょうしん)に関しては出家名とされる[要出典]

また、仮名として弾正を名乗っていたとされ、しばしば「高坂弾正」と記載する場合もある。永禄2年まで「弾正左衛門尉」を称し、同年以降には「弾正忠」に改めている[3]

本記事においては以下、春日虎綱として記述する。

生涯
出生から香坂氏継承​
甲陽軍鑑』に拠れば、大永7年(1527年)、甲斐国八代郡石和郷(山梨県笛吹市石和町)の百姓春日大隅の子として生まれる。天文11年(1542年)に父の大隅が死去した後、姉夫婦との遺産を巡る裁判で敗訴して身寄りが無くなるが、信玄の奥近習として召抱えられたという。

はじめは使番として働き、天文21年(1552年)には100騎持を預る足軽大将となり、春日弾正忠を名乗ったという[要出典]。なお、この間の『天文15年(1546年)推定武田晴信誓詞東京大学史料編纂所所蔵文書)』は、虎綱を指すとされる「春日源助」宛で晴信と虎綱の衆道関係を示す文書とされていたが、近年は宛名の「春日」姓が後筆である可能性が指摘されている[7]

武田氏による埴科郡村上義清攻略が本格化した天文22年(1553年)には信濃佐久郡小諸城(長野県小諸市)の城代となる。同年4月に虎綱が名跡を継承することになる信濃更級郡牧野島の国人の香坂氏が武田家に出仕している[2]

その後、虎綱は香坂氏をはじめとする川中島衆を率いて越後上杉氏に対する最前線にあたる海津領の守将を任された。川中島衆となる北信の寺尾・屋代両氏の取次役を務めている[5]。海津城は武田氏と上杉氏の争いにおいて最前線に位置し、『軍鑑』に拠れば永禄4年(1561年)8月には上杉謙信が侵攻し、虎綱は海津城において籠城し、同年9月4日には川中島において第4次川中島の戦いが発生する[4]。『甲陽軍鑑』によれば妻女山攻撃の別働隊として戦功を挙げ、引き続き北信濃の治世にあたったという。

『軍鑑』に拠れば、その後も元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦いなど、武田氏の主だった戦いに参戦したという。

囲碁に関しては「信玄より高坂のほうが二子強かるべし」とする伝説があった[8]

勝頼期の活動から晩年​
元亀4年(1573年)4月の武田信玄死後の武田勝頼期にも海津城代として上杉氏に対する抑えを任されている。天正3年(1575年)5月21日の長篠の戦いには、上杉軍の抑えとして参戦せずに海津城を守備していたが、嫡男の高坂昌澄が戦死している。『軍鑑』に拠れば武田勝頼期には一門の武田信豊穴山信君、譜代家臣の跡部勝資長坂光堅らが台頭していたといわれ、春日虎綱らの老臣は疎まれていたという。

長篠の戦い武田氏織田氏に大敗した。この戦いは武田家にとって有力家臣の多くを失い領国の動揺を招くこととなり甲陽軍鑑においても武田氏の衰退を決定づけた合戦とされる。武田勝頼は長篠敗戦後に信濃へ逃れ、6月2日に甲府へ帰陣している。甲陽軍鑑には、春日虎綱は敗報を聞くと信濃駒場において武田勝頼を出迎え、衣服・武具などを替えさせ敗軍の見苦しさを感じさせないように体面に配慮し、五箇条の献策を行ったとする逸話がある[9]。虎綱の献策が事実であるかは検討を要することが指摘されるが、主に相模国後北条氏との同盟を強化することと、戦死した内藤昌豊山県昌景馬場信春らの子弟を奥近習衆として取り立てて家臣団を再編すること、および長篠敗戦の責任を取らせるため、戦場を離脱したとされる親族衆の穴山信君武田信豊切腹を申し立てたとしている[10]

武田勝頼期には尾張の織田氏との対決が行われているが、虎綱は天正6年(1578年)の上杉謙信死後に発生した上杉家における御館の乱において、武田信豊とともに上杉景勝との取次を努め、甲越同盟の締結に携わっている。虎綱が甲越間の交渉に携わっている天正6年6月8日付の北条高広北条景広上杉景勝書状を最後に史料からは消え、6月12日付の武田信豊書状では信豊が単独で交渉に携わっており、同年10月からは虎綱の子の高坂昌元が登場することが確認される[11]。同年6月14日に海津城において死去したとされる。享年52。

虎綱の命日は複数の説があり、『乾徳山恵林寺雑本』等では天正6年5月11日、『甲斐国志』人物部第五では墓所の明徳寺に伝わる5月初7日死去としているが、甲越間の交渉時期からこの説は整合性が取れない[12]。高野山成慶院「武田家過去帳」では虎綱の命日を「天正6年6月14日巳ノ刻」としており、この説が最も整合性の取れることが指摘される[13]。『武田御日坏帳』によれば、同年7月25日には高野山成慶院で甥の惣次郎による供養が営まれている。法名は弘治2年4月21日に「保雲椿公禅定門」と定められている。

虎綱の子孫と『甲陽軍鑑』
春日氏は次男の信達が継承し海津城代も務めるが、天正10年(1582年)3月の武田氏滅亡後は森長可の支配を受ける。同年6月の本能寺の変後、信達は美濃に撤退する森長可を妨害し、越後上杉景勝に属したが、7月13日、北信での自立を画策する武田遺臣の真田昌幸北条氏直らと内通したことが発覚し、激怒した上杉景勝によって誅殺され、これにより高坂氏嫡流は滅亡した。さらに慶長5年(1600年)3月、初代川中島藩主として北信濃に入った森長可の弟の森忠政によって信濃に残っていた信達の一族は残らず探し出され18年前に森長可の信濃撤退を妨害した罪で一族全員が磔刑に処された(森家先代実録)。

近世には甲府町年寄の山本金右衛門(春日昌預1751年3月17日寛延4年) - 1836年天保7年))は甲府城下の大店若松屋を営む加藤家の出自で、加藤家は虎綱の子孫を称している。

虎綱の活躍をはじめ信玄・勝頼期の事績を記している『甲陽軍鑑』は江戸時代の元和年間に成立した軍学書で、『軍鑑』自身の奥書によれば原本は虎綱の口述記録で、長篠合戦の後に武田氏の行く末を危惧した虎綱が勝頼や重臣の跡部勝資長坂光堅らに対する「諫言の書」として記したという。

虎綱の死後も甥の惣次郎と家臣大蔵彦十郎が執筆を継続し、虎綱の海津城代時代の部下である小幡昌盛の子の小幡景憲がこれを入手し、完成させたという[14]

高坂節三経済同友会幹事)によると、「高坂家の先祖は甲斐の武田信玄に仕えた武将・高坂弾正忠昌信といわれ、兄(高坂正堯)は自分が戦国武将の末裔であることを非常に誇りに思っていた」という[15]高坂正堯は自身の長男を「昌信」と名付けている[16]

関連作品
映画
杉森修平:『影武者』(1980年東宝
沖田浩之:『天と地と』(1990年角川
稲見雅文:『おけちみゃく』(2018年カエルカフェ)

テレビドラマ
村井国夫
 ・『天と地と』(1969年NHK大河ドラマ
 ・『おんな風林火山』(1986年TBS
村上弘明:『武田信玄』(1988年・NHK大河ドラマ)
成瀬正孝:『武田信玄』(1991年TBS大型時代劇スペシャル
里見浩太朗:『風林火山』(1992年日本テレビ年末時代劇スペシャル 里見は山本勘助と2役を演じている。)
金児憲史:『風林火山』(2006年テレビ朝日
田中幸太朗:『風林火山』(2007年・NHK大河ドラマ)役名は春日源五郎→春日虎綱→香坂虎綱
大出俊:『天地人』(2009年・NHK大河ドラマ)役名は高坂弾正昌信

脚注
1. 甲陽軍鑑』に拠れば、虎綱は慎重な采配で三方ヶ原の戦い等においても撤退を進言し、「逃げ弾正」の異名を取ったという。
2.
a b 平山(1994・②)、p.52
3. 
a b c 平山(1994・②)、p.53
4. 
a b 平山(1994・②)、p.55
5. 
a b 平山(2008)、p.314
6. 
平山(2008)、p.313
7. 
鴨川(2004)
8. 
http://www.excite.co.jp/News/lifestyle/20150720/NHKtextview_21077.html 
9. 
平山(2011)、p.156
10. 
平山(2011)、pp.156 - 158
11. 
平山(1994・②)、p.64
12. 
平山(1994・②)、pp. 64 - 65
13. 
平山(1994・②)、p.65
14. 
『甲陽軍鑑』には文書上確認されない人物名や合戦、年紀の誤り等基本的事実の混同が頻出するため史料的価値や虎綱が原本を口述したとすることも疑問視する指摘もあるが、近年は国学的検討により再び性格をめぐり議論が行われている
15. 
高坂節三 『昭和の宿命を見つめた眼―父・高坂正顕と兄・高坂正堯』PHP研究所、2000年11月1日、28頁。ISBN 978-4569613574
16. 
岡部陽二服部龍二 『Documents and Data 元住友銀行専務取締役 岡部陽二インタビュー : 学生時代の高坂正堯』中央大学総合政策学部〈総合政策研究 = Japanese journal of policy and culture (28)〉、2020年3月、116頁。

参考文献
・『石和町誌』石和町、1987年
平山優「春日虎綱」『新編武田信玄のすべて』(新人物往来社、2008年)
・平山優①「戦国大名武田氏の領国支配機構の形成と展開 -川中島四郡支配を事例として-」『山梨県史研究 第2号』、1994年
・平山優②「戦国大名武田氏の海津領支配について-城代春日虎綱の動向を中心に-」『甲斐路 No.80』山梨郷土研究会、1994年
柴辻俊六「戦国期信濃海津城代春日虎綱の考察」『信濃 第59巻第9号』2007年、のち『戦国期武田氏領の地域支配』(岩田書院、2013年)に収録
・鴨川達夫「武田信玄の自筆文書をめぐって」『山梨県史研究 第12号』、2004年

関連項目
戦国時代の人物一覧
春日氏
香坂氏
高坂氏
(wikiより)

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 大照院の毛利家墓所に詳細不明のお墓が有り それを撮影してきたのでupします。

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⇧⇩ 毛利家墓所入口

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以上 33基のお墓が有りました。


時代江戸時代前期
生誕文禄4年10月18日[1]1595年11月19日
死没慶安4年1月5日1651年2月24日[2]
改名松寿丸[1]幼名[3])→秀就
別名藤七郎(通称[1][3]、秀成(秀就の初名とも)
諡号大照公[2]
戒名大照院殿前二州太守四品羽林次将月礀紹澄大居士[2]、大照院月礀紹澄[3]
墓所山口県萩市椿青海の大照院[2][3]
官位従四位下[2]右近衛権少将[2]
幕府江戸幕府
主君豊臣秀頼徳川家康秀忠家光家綱
長州藩
氏族毛利氏
父母父∶毛利輝元[4]
母∶清泰院[1]
兄弟秀就就隆[5]、竹姫[5]
喜佐姫[2]
松寿丸、和泉守、大吉丸、綱広、登佐姫、竹姫

毛利 秀就(もうり ひでなり)は、江戸時代前期の大名毛利氏15代当主。長州藩初代藩主。

毛利輝元の長男[3][4]。母は児玉元良の娘・清泰院(二の丸殿)[1]毛利就隆の兄[5]。正室は結城秀康の娘・喜佐姫徳川秀忠の養女・龍昌院)[2]。子に松寿丸[6]綱広(四男)[7]、登佐姫(越前松平光長正室)[2]、竹姫(鷹司房輔室)ほか[6]毛利元就の嫡曾孫にあたる。

生涯
幼年の当主
文禄4年(1595年10月18日毛利輝元の長男として、安芸広島城で生まれた(異説あり・後述[1][3]。幼名は松寿丸。

輝元は長く実子に恵まれなかったため、従弟の毛利秀元を養嗣子に迎えていたが、秀就が生まれると、秀元には別家を立てさせている。

慶長4年(1599年)、豊臣秀頼近侍となり、秀頼を烏帽子親として元服豊臣姓を与えられ、その偏諱を受けて、秀就と名乗った[3][注釈 1]

関ヶ原の戦い西軍が敗れると、毛利家は長門周防2か国29万8千石[注釈 2]に減封され、輝元に代わって秀就が形式的な当主となった。しかし、幼年のため、幕府からは輝元と共同での当主と見なされていたようである。また、輝元が法体のまま実質的な当主として君臨し続け、秀就との二頭体制が敷かれた[4][9]

慶長6年(1601年)、はじめて江戸に赴き、徳川家康と面会した[3]

慶長8年(1603年)、江戸外桜田に屋敷を拝領する[3]

慶長9年(1604年)、築城が始まった萩城に、築城者である輝元とともに入城した[注釈 3]

慶長13年(1608年)、大御所・家康の命によって、家康の次男・結城秀康の娘の喜佐姫正室に迎え[2]越前松平家の一門となり、松平長門守を称した[10]

慶長15年(1610年)、領内の新たな検地が行なわれ、53万9268石余を幕閣に申告したが、検地時に一揆が発生したこと、東軍に功績のあった隣国の広島藩主・福島正則とのつりあいなどを理由に、幕府は検地高の7割に相当する36万9千石を、毛利家の表高として公認した。この表高は幕末まで変わることはなかった。

慶長16年(1611年12月、江戸での証人としての勤めを終えて幕府から帰国を許され、初めて領国に入った。その際に、幕府より10万石の役儀を免ぜられ、小袖銀子などを拝領している[11]。これらの幕府の処置に対し、輝元は福原広俊への書状で感謝の意を漏らしている[12]

慶長18年(1613年1月、再び江戸に赴いて2代将軍徳川秀忠に謁見し、翌年まで桜田の毛利邸に滞在した[12]

大坂の陣
慶長19年(1614年10月11日、徳川家康が駿府を発して大坂城攻撃の途に上ると、同年10月18日に輝元の命を受けた神村元種が密かに下野小山藩主・本多正純と会見し、秀就の弟・就隆も出陣すべきかを協議した。その結果、就隆だけでなく輝元、秀就、秀元も出陣することで意見が一致したため、正純は10月24日に輝元へ出陣を要請した[13]。さらに秀忠が11月10日に伏見に到着すると、秀忠に従軍する酒井忠世土井利勝安藤重信は江戸にいる秀就と秀元に早々に西上するよう要請した[14]

11日、輝元はを発し、17日摂津国兵庫に着陣したが、病により家康から帰国許可を得て、秀就が到着し次第、帰国することとなった。家康の要請により、21日夕刻に輝元は秀就に対し、急遽西上することを督促した[15]

12月6日、秀就は秀元と共に大坂に到着して、茶臼山に布陣した家康や西宮の輝元と会見した後に、大坂へ布陣した。秀就は大坂冬の陣に参戦し、これが秀就の初陣となった[16]

同年12月19日、徳川方と豊臣方の間で講和が成立し、毛利家も大坂城のの埋め立て普請を手伝う事となったが、秀忠は青山忠俊板倉重宗を秀就のもとに派遣し、堀の埋め立ては急ぐよう通達。また、普請が終われば秀就の帰国が認められることとなった。

27日、秀就は毛利元倶毛利元景に秀忠からの通達を連絡し、翌28日には元倶と元景に黒印の法度を出し、堀の埋め立て普請助役に関する注意事項を伝えた。

慶長20年(1615年1月23日、堀の埋め立てが完了し、1月下旬には秀就も秀元と共に帰国した[17]

しかし、慶長20年(1615年)4月10日付けの本多正純の奉書4月17日に輝元と秀就宛てに届いた。内容は、徳川方と豊臣方が手切れとなった際には摂津国の兵庫、西宮、尼崎付近へ出陣する準備を命じるものであり、一方で、出陣命令を受けるまではもし家康が上洛したとしても国許で指示を待つようにというものであった。輝元と秀就は、奉書を受け取った17日に直ちに秀元を毛利軍の先鋒とし、宍戸元続、毛利元倶、毛利元宣毛利元鎮らを従軍させると決定した。

4月18日、家康が二条城に、21日に秀忠が伏見城に入ったことで本多正純は毛利家へ出陣を要請した。

4月28日、秀元が先鋒としてまず出陣し、5月4日に秀就は吉川広正や宍戸元続をはじめとする毛利の主力を率いて周防国三田尻を出航した。

5月10日、秀就は兵庫を経て西宮に着陣したが、既に5月8日に大坂城が陥落して大坂夏の陣は終戦しており、家康も二条城へと凱旋していた。そこで、伏見から秀就を出迎えた福原広俊の意見に従って、5月11日に伏見で本多正信に面会し、進退についての指示を求めた。

正信は早々に家康に謁見することを秀就に勧めたため、5月12日に毛利秀元と吉川広正を伴って二条城で家康に謁見し、大坂城攻撃に間に合わなかったことを謝罪した。しかし、家康はそもそも毛利へ出陣命令を出すことが遅れたことが原因であるとして不問としたため秀就は安堵し、伏見の毛利邸に暫く滞在した[18]

家康は秀就が遠国から急行した労を謝して、同年7月には暇を出し、秀就は直ちに毛利秀元や吉川広正をはじめとする毛利の全軍を率いて帰国した[19]

単独での政務
元和9年(1623年9月10日、秀就が江戸から帰国して萩城に入城すると、輝元から家督譲渡の儀式を行われ、正式に秀就へと家督が譲渡された[20][21]。これにより、秀就が単独で藩主を務めるも、藩政は後見人の秀元、益田元祥清水景治らが担当、秀就に権力はほとんどなかった。

寛永2年(1625年)、秀元が中心となって、一門を含めた家臣団の大幅な知行地の入れ替えを行った。知行地の入れ替えの例としては、毛利元倶が周防国熊毛郡三丘から佐波郡右田へ、毛利元景が周防国玖珂郡椙杜から長門国豊浦郡阿川へ、毛利元包が長門国豊浦郡阿川から周防国吉敷郡吉敷へ、福原元俊が周防国吉敷郡吉敷から長門国厚狭郡宇部へ、宍戸元匡が周防国佐波郡右田から熊毛郡三丘へ移動していることが挙げられる。また、家臣団の削減も行っており、元和8年(1622年)の分限帳と寛永4年(1627年)の分限帳を比較すると、約160人が減少している。しかし、これらの施策には秀元の思惑の影響が多大にあったことが指摘されており、例えば知行地の入れ替えでは秀元と懇意であった毛利元倶と毛利元包が防長両国の要衝である右田と吉敷に移動しているのに対して、秀元と折り合いの悪かった福原広俊の子である福原元俊は民家も少なく土地も痩せていた宇部への移動となっている。また、秀就と縁戚関係にあった児玉家が輝元の遺言を名目として突如暇を出されているが、これも児玉景唯が秀元と不仲であったことが関係しているとされる[22]

寛永3年(1626年)、大御所・秀忠、将軍・家光父子の上洛に付き従い、後水尾天皇の二条城行幸に供として加わり右近衛権少将に任ぜられた[3]

しかし、秀就は次第に秀元と対立し、寛永8年(1631年)に秀元が後見人を辞任してからは不和が深刻になる。寛永11年(1634年)に秀元が独立を画策したり、江戸城普請を拒否したりしたことから、事態を憂慮した幕府の仲裁で寛永13年(1636年)に秀元と和解し、対立は終息した[23][24]。秀元の後見人辞任後の寛永9年(1632年)は義兄弟の吉川広正が後見人となっているが、実際の藩政は重臣たちに任せているため、秀元の辞任で藩主を中心とした権力は確立したとされる[25]

慶安4年(1651年1月5日[2][3]、秀就は萩城において、57歳で死去した[2][3]。死後、跡を四男の綱広が継いだ。

出生について
前述の通り、通説では秀就は文禄4年(1595年)に広島城で生まれたとされているが、異説として天正19年(1591年)に長門厚東郡四ケ小野村(現在の山口県宇部市小野地区)で出生したとの説がある[26][27][28]。これは、布引敏雄が指摘しており、宇部市小野地区に残る古文書に「秀就は小野村で生まれた」との記述があることから小野郷土史懇話会の会員が調査したもので、厚東郡小野村の領主であった財満家の文書や伝承から、財満忠久就久父子の屋敷が出生地であると結論づけた。

この説によると、輝元の正室・南の大方を非常に恐れていた側室の二の丸殿は、懐妊が発覚すると秘密裏に財満家に匿われて、そのまま密かに出産したとされる[29]。また、出生後の処置について、小早川隆景に相談した記録も発見された(財満家文書)。財満屋敷跡がある同地には、秀就の誕生時に使われたという「産湯の池」や暗殺を逃れるための「穴蔵」などが残るほか、村人たちが秀就の成長を高良神社で祈願したとの伝承も残っている[30]

くわしいことは「毛利秀就ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E5%88%A9%E7%A7%80%E5%B0%B1
(wikiより)

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毛利秀就

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時代江戸時代後期
生誕天明3年12月9日[1]1784年1月1日
死没天保7年5月14日1836年6月27日[1]
改名保三郎[1](幼名)、熙成[1]、憲熙[1]、斉熙[1]
別名(*「熙」は「煕」、「熈」とも書く)
戒名清徳院殿故中大夫中書大卿羽林次将長防国主天安道寧大居士[1]
墓所東京都港区愛宕の青松院
山口県萩市椿の大照院[1]
官位従四位下侍従大膳大夫[1]左近衛権少将[1]民部大輔[1]中務大輔[1]
幕府江戸幕府
主君徳川家斉
長州藩
氏族毛利氏
父母父:毛利治親[1]、実母:小泉氏(明善院)[1]
養父:毛利斉房
兄弟斉房斉熙細川興昶熙載水野忠篤
正室:池田治道娘・三津(法鏡院)[1]
側室:池上藤大夫娘・真嶺院、金子繁平娘・玉温院、野中繁八娘・豊
斉広[2]信順[2]、由美子[2]、万寿子[3]、八重姫[4]、美知子[4]斉元

毛利 斉熙(もうり なりひろ)は、江戸時代後期の大名毛利氏24代当主。長州藩10代藩主。8代藩主・毛利治親の次男[1]

初名は熙成ひろなり憲熙のりひろ、改名して斉熙[1]。各に一貫して共通する「熙」の通字は祖先にあたる毛利煕元に由来するもので、「煕」または「熈」とも表記する。

経歴
天明3年(1783年12月9日江戸で生まれる[1]文化6年(1809年)、兄で先代藩主の毛利斉房の死去により跡を継ぐ[1]。このときに斉房同様、11代将軍徳川家斉より偏諱を授与され斉熙に改名し、従四位下侍従に叙任した。聡明な藩主で、海防の強化や西洋軍備による軍備増強を行なった。

文政2年(1817年)に従四位・少将となる[1]。併せて従弟で福原房純の養嗣子になっていた福原房昌(後の毛利斉元)を貰い返して婿養子にし、文政7年(1824年2月27日家督を譲って隠居した[1]。幼い実子斉広をただちに世継とするのがためらわれた一方、一度福原家へ養子に出した斉元を呼び戻すからには、単に実子が成長するまでのつなぎの仮養子のままとどめて斉元の立場をないがしろにするわけにもいかなかった、という事情による[5]

しかし、隠居後も斉熙は村田清風の登用など、なおも藩政の実権は握り続けた。天保7年(1836年5月14日、54歳で死去[1]。墓所は東京都港区愛宕の青松院、山口県萩市椿の大照院[1]

系譜
・父:毛利治親(1754年 - 1791年)
・母:明善院 - 小泉氏
・養父:毛利斉房(1782年 - 1809年)
・正室:三津 - 法鏡院、池田治道長女
・側室:真嶺院(志津・花ノ井) - 池上藤大夫
 ・女子:由美子 - 蓮容院、毛利斉元正室
 ・次男:毛利斉広(1814年 - 1837年) - 毛利斉元の養子
・側室:豊 - 野中繁八娘 
 ・長男:俊次郎(1812年)[6]
・側室:玉温院 - 金子繁平
 ・三男:毛利信順 - 子の順明は13代藩主毛利敬親の養子
 ・女子:万寿子 - 慈芳院、宗義章正室
 ・女子:八重姫 - 天妙院、毛利元蕃正室
 ・女子:美知子 - あき、水野忠武正室、のち毛利元純正室
・側室:須美(住崎・小梅)
 ・女子:多亀姫
 ・女子:直姫
・養子
 ・男子:毛利斉元(1794年 - 1836年) - 毛利親著の長男

家臣
武鑑掲載の家臣
斉熙が隠居する直前の文政6年(1823年)に刊行された須原屋茂兵衛蔵版武鑑[7]に掲載されている家臣は以下のとおり。なお刊行の都合により刊行年以前の内容が含まれている可能性がある。また、武鑑では諸藩で呼び名が違う役職名を標準化している場合があるので、実際の藩職名と相違する場合もある。

一門八家、家老など
宍戸主計毛利内匠、毛利本之助(毛利房晁か?)、毛利蔵主毛利少輔三郎毛利伊賀益田丹後福原豊前、清水長左衛門、堅田宇右衛門、児玉三郎右衛門、国司信濃、佐世六郎左衛門、井原大學

用人
江羽兵庫、福嶋九郎右衛門、三浦内左衛門、秋里治右衛門、福原三郎左衛門、久芳安積

側用人
揚井謙蔵、粟屋十右衛門、吉田六蔵、神村喜兵衛、南杢之助、内藤十郎兵衛、粟屋与一右衛門(城使兼務)、毛利丹宮、井上三郎兵衛、石津環、宮本八郎右衛門、宇野太兵衛、八木作左衛門、馬屋原伊兵衛、平川端

城使(他職兼任者除く)
井原幸兵衛、坂次郎右衛門

偏諱を受けた人物
注: 上記の通り、「熙」は「煕」または「熈」とも表記する。

憲熙時代(藩主就任前)
毛利(のちの細川興昶)
毛利吉敷毛利家毛利房直の養子)
毛利(のちの水野忠篤)
いずれも斉熙の実弟で、他家に養子入りしたがいずれも家督を継ぐことなく早世している。

斉熙時代(藩主在任中)
毛利徳(孝)阿川毛利家
毛利大野毛利家
赤川安芸熊谷氏
熊谷(安芸熊谷氏第23代当主、赤川熈斐の実弟)
宍道(宍道伊豆、宍道氏
根来根来上総の父)
福原(宇部領主福原家

脚注
1. a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w 時山弥八編 1916, p. 115.
2.
a b c 時山弥八編 1916, p. 116.
3. 
時山弥八編 1916, p. 118.
4. 
a b 時山弥八編 1916, p. 119.
5. 
大森、p.162-167
6. 
大森、p.162
7. 
『編年江戸武鑑・文政武鑑3』所収

参考文献
オープンアクセス時山弥八編 国立国会図書館デジタルコレクション 『稿本もりのしげり』1916年。 NCID BN04718592
石井良助 監修『編年江戸武鑑・文政武鑑3』/柏書房
大森映子『お家騒動 大名家の苦闘』吉川弘文館〈読みなおす日本史〉、2018年
(wikiより)

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時代江戸時代前期
生誕寛永16年11月20日[1]1639年12月14日
死没元禄2年4月17日1689年6月4日[1]
改名千代熊丸[1](幼名[2])、綱広
戒名泰巌院殿前二州太守四品拾遺補闕兼大官令清高亮安大居士[1]、泰巌公[1]
墓所山口県萩市大照院[1]
官位従五位下[1]従四位下[1]侍従[1]大膳大夫[1]従三位[2]
幕府江戸幕府
主君徳川家綱綱吉
長州藩
氏族毛利氏
父母毛利秀就[1][2]喜佐姫[1][2]
兄弟松寿丸、和泉守、大吉丸、綱広、登佐姫、竹姫ら
松平忠昌娘千姫[1]梨木永祐娘房子[1]
吉就[3]吉広[3]元重[4]、良[5]、品[5]、勘[6]、幸[6]、類[3]

毛利 綱広(もうり つなひろ)は、江戸時代前期の大名。毛利氏16代当主。長州藩2代藩主。初代藩主・毛利秀就の四男[1][2]。母・喜佐姫徳川家康の孫なので、綱広は家康の外曾孫に当たる。

生涯
寛永16年11月20日[1]1639年12月14日)に江戸桜田の藩邸で生まれる[2]慶安4年(1651年)、父・秀就の死去で跡を継ぐ[1][2]承応2年(1653年)に叙任し、4代将軍徳川家綱(綱広の外又従弟にあたる)から偏諱を受けて綱広と名乗った[2]。承応3年(1654年)には周防国三田尻を結ぶ萩往還を造った。その際に、三田尻御茶屋を築造して、参勤交代の拠点とした。藩政では、榎本就時を起用して万治制法と呼ばれる法令「33か条の条目」を万治3年(1660年)に制定させた[2]。これは毛利元就以来の先例をまとめ上げたものと言われている。

このように藩政を確立したが、その反面で反骨心も人一倍強く、徳川将軍家家門筆頭の越前松平家から正室・千姫(高寿院)を迎えている(自身も母方で越前家の血を引き、千姫とは外従兄妹にあたる)にもかかわらず、元就の嫡孫・毛利輝元の嫡孫であるということから、徳川家に仕えることを恥として、江戸に滞在しながら病と称して江戸城に登城しないことさえあったという[2]。幕府側からは綱広の母が徳川家康の次男・結城秀康の娘であることから幕府から追及はされなかったが[2]、これを口実とした改易を恐れた家臣が綱広に隠居を要求するようになる[2]。綱広はやむを得ず、天和2年(1682年2月27日[1]に長男の吉就に家督を譲って、麻布の藩邸に隠居した[2]

元禄2年4月17日1689年6月4日)に江戸麻布龍土邸で死去した[1][2]。享年51[1][2]。墓所は山口県萩市椿の大照院[1][2]昭和3年(1928年11月従三位を追贈された[2]

系譜
・父:毛利秀就(1595-1651)
・母:喜佐姫(1598-1655) - 竜昌院、徳川秀忠の養女、結城秀康の長女
・正室:千姫 - 高寿院、松平忠昌
 ・長女:良 - 吉姫、青陽院、松平義行正室
 ・次女:品 - 内藤弌信継室
 ・長男:毛利吉就(1668-1694)
・継室:房子 - 昌寿院、梨木永祐
 ・次男:毛利吉広(1673-1707) - 毛利就信の養子
 ・五男:毛利元重(1676-1706)
 ・六女:勘 - 毛利就豊毛利就詮の子)室
 ・七女:幸 - 放光院、毛利匡広正室 
 ・
九女:類 - 松平忠雅正室

偏諱を与えた人物
毛利吉(次男、初め就勝、第4代藩主として就任時に故・綱広の1字を取って吉広に改名)
毛利吉敷毛利就直の長男、毛利広政広包(※この2人は吉広から「広」の字を授与されている)の長兄)
浦氏
国司?(国司氏堅田就政の子で国司元貞の養子とされる)
佐佐木尼子氏末裔・佐佐木氏)
福原次(俊)(宇部領主福原家15代当主、隠岐守)
山内山内広通毛利元雅の父)

毛利綱広を演じた人物
森繁久彌 - TBS系列『水戸黄門』第23部 二十二話「白いお髭の意地比べ・萩」…劇中では水戸黄門(光圀)と碁の腕を競った仲で互いに「圀さん」「綱さん」と呼び合う親友となっている。

脚注
1. a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u 時山弥八編 1916, p. 89.
2.
a b c d e f g h i j k l m n o p q 吉田 1976, p. 235.
3. 
a b c 時山弥八編 1916, p. 91.
4. 
時山弥八編 1916, p. 92.
5. 
a b 時山弥八編 1916, p. 90.
6. a b 時山弥八編 1916, p. 93.

参考文献
オープンアクセス時山弥八編 国立国会図書館デジタルコレクション 『稿本もりのしげり』1916年。 NCID BN04718592
・吉田祥朔 『近世防長人名辞典』(増補)マツノ書店、1976年6月1日。 NCID BN02934961・      
(wikiより)

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時代江戸時代中期
生誕享保2年7月6日[1][2]1717年8月12日
死没寛延4年2月4日1751年3月1日[1]
改名百合助[1](幼名)、維広(初名)[1]、宗広
別名大膳[1]、松平大膳[2]
戒名観光院殿前二州大守四品拾遺輔閥兼大官令天倫常沢大居士[1]、観光公[1]
墓所山口県萩市桜江の大照院[1]
官位従五位下大膳大夫[1]従四位下[1]侍従[1]
幕府江戸幕府
主君徳川吉宗家重
長州藩
氏族毛利氏
父母毛利吉元[1][2]、永昌院[1]
兄弟元朝(宗元)元陳宗広、皆姫、寧ら
松平宗昌娘勝姫[1]
齢、百合姫ら
重就[3]

毛利 宗広(もうり むねひろ)は、江戸時代中期から後期の大名毛利氏20代当主。長州藩6代藩主。5代藩主・毛利吉元の五男[1][2]。正室は松平宗昌の娘・勝姫(隔芳院・融芳院)。は初め維広これひろ[1]、後に8代将軍徳川吉宗の諱を拝領して宗広に改名した[2]

経歴
享保2年(1717年7月6日萩城で生まれる[1][2]。長兄で嫡子だった宗元が享保6年(1721年)に早世したため世嗣となる。享保12年(1727年)に松平大膳と称し、諱を維広とする[2]。同年、将軍・吉宗から偏諱を受け吉広と改名する[2]。享保16年(1731年)、吉元の死去により家督を相続し15歳にして藩主に就く[1][2]

その施政は、岡山藩の倉安川を参考に萩城下に藍場川を造成し、水運の便を図ったり、神社仏閣の建設にも力を入れた。治世中の出来事として、寛保2年江戸洪水の手伝い普請がある。

寛延4年(1751年2月4日、35歳で死去した[1]。世嗣となる男児がいなかったため、支藩である長府藩から重就末期養子として迎えられた。

系譜
・父:毛利吉元(1677-1731)
・母:永昌院 - 森氏
・正室:勝姫 - 隔芳院・融芳院、松平宗昌
・生母不明の子女
 ・次女:齢 - 誠姫、毛利重就の養女、毛利重広室、のち松平容頌継室
 ・三女:百合姫 - 毛利重就の養女
・養子
 ・男子:毛利重就(1725-1789) - 毛利匡広の十男

偏諱を与えた人物
毛利右田毛利家
毛利定(胖)(広信の養子、重就の実兄。※広定については父の匡広から賜った可能性もある)
毛利漢(氏/景)阿川毛利家
毛利大野毛利家
井原(長州藩士。前藩主毛利吉元期の家臣、井原孫左衛門元歳の子と思われる。次男に熊谷就直がいる。年代から判断して就直の養父・熊谷元貞の子である井原就正は広似の養子と思われる)
宍戸周(満)宍戸氏安芸熊谷氏の出身で熊谷就直の義兄にあたる)
宍道慶(慶)益田就高の子、宍道氏を継ぐ)
椙杜椙杜氏椙杜元縁の孫)
福原門(茂)(宇部領主福原家
益田(須佐領主益田家、宍道広慶の実兄)
益田問田益田家
※死後
毛利重(重就の養子。宗広の遺言により娘婿となり、重就の嫡子となるも早世)

脚注
1. a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 時山弥八編 1916, p. 100.
2.
a b c d e f g h i 吉田 1976, p. 236.
3. 時山弥八編 1916, p. 101.

参考文献
オープンアクセス時山弥八編 国立国会図書館デジタルコレクション 『稿本もりのしげり』1916年。 NCID BN04718592
・吉田祥朔 『近世防長人名辞典』(増補)マツノ書店、1976年6月1日。 NCID BN02934961
(wikiより)

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時代江戸時代中期
生誕延宝元年1月12日[1]1673年2月28日
死没宝永4年10月13日1707年11月6日[1]
改名千之助[1](幼名[2])→就勝[1]→吉広
別名主膳[1][2]
諡号青雲公[1]
戒名青雲院殿前二州太守四品拾遺補闕大官令徹山道照大居士[1]
墓所山口県萩市椿の大照院[1][2]
官位従五位下[1]従四位下大膳大夫侍従[1]
幕府江戸幕府
長州藩藩主
氏族毛利宗家右田毛利家→毛利宗家
父母父:毛利綱広[1][2]
母:房子(昌寿院、梨木永祐の娘[2][1]
養父:毛利就信
養母:長寿院(亀子、酒井忠隆の娘)
兄弟吉就[3][2]吉広元重[4]
正室:小石姫(養心院、鷹司輔信の娘)[1]
養子:吉元

毛利 吉広(もうり よしひろ)は、江戸時代前期から中期の大名毛利氏18代当主。長州藩4代藩主。2代藩主・毛利綱広の次男[1]

概要
延宝元年1月12日[1]1673年2月28日)に江戸麻布の藩邸で生まれる[2]

貞享元年(1684年)に一門八家の一つ右田毛利家当主・毛利就信の養嗣子となり、異母兄で長州藩主を継いでいた毛利吉就から偏諱を授与されて毛利就勝もうり なりかつと名乗った。

元禄7年(1694年)に吉就が嗣子なくして早世するとその養嗣子として跡を継ぐ[1][2]。8月に兄同様、5代将軍徳川綱吉より偏諱を授与され、亡き父の1字を取って[要出典]吉広に改名した[2]

元禄9年(1696年)にはじめて領国に入国する[2]。藩財政が窮乏化する中、三田尻海岸の干拓[2]橋本川の治水工事、城下町整備や検地など積極的な政策を展開するが、宝永4年(1707年10月13日[1]に江戸桜田の藩邸で[2]、35歳で死去する[1][2]。改革は中途半端に終わった。

嗣子はなく、また弟の元重も前年に死去し、その子で甥に当たる元直も幼少であったため、長府藩から元倚もうり もとよりが養子に迎えられ、毛利吉元として跡を継いだ。

偏諱を与えた人物
毛利右田毛利家、吉敷毛利就直の四男、就直の実兄・毛利就信の養子)
毛利吉敷毛利家、就直の五男で広政の実弟)
毛利阿川毛利家、正室は毛利就包(広政・広包の兄)の娘)
宍戸宍戸氏
椙杜椙杜氏椙杜元縁の孫)
椙杜(広中の実弟・養嗣子)
福原(宇部領主福原家
福原泰(毛利為)(初め大野毛利家の嗣子、のち兄の広頼が亡くなったのに伴い実家を相続)
山内(山内采女広通、備後山内氏

脚注
1. a b c d e f g h i j k l m n o p q r 時山弥八編 1916, p. 95.
2. 
a b c d e f g h i j k l m 吉田 1976, p. 235.
3. 
時山弥八編 1916, p. 91.
4. 
時山弥八編 1916, p. 92.

参考文献
オープンアクセス時山弥八編 国立国会図書館デジタルコレクション 『稿本もりのしげり』1916年。 NCID BN04718592
・吉田祥朔 『近世防長人名辞典』(増補)マツノ書店、1976年6月1日。 NCID BN02934961
(wikiより)

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時代江戸時代中期 - 後期
生誕宝暦4年6月15日[1]1754年8月3日
死没寛政3年6月12日1791年7月12日[1]
改名岩之允[1]幼名)→徳元[1]→治元[1]→治親[1]
戒名容徳院殿前二州太守大官令四品拾遺補闕仁山応寿大居士[1]
墓所山口県萩市大照院[1]
官位従五位下壱岐[1]、従四位下[1]、侍従[1]、大膳大夫[1]
長州藩藩主
父母父:毛利重就[1]、母:立花貞俶娘・登代子(瑞泰院)[1]
兄弟匡満治親匡芳親著
正室:田安宗武の娘・とき子(邦媛院)[2]
側室:小泉氏(明善院)[3]、岡田氏(宝池院)[4]
斉房[5]斉熙[5]細川興昶[5]熙載毛利房直養子)[3]水野忠篤[3]、多美(有馬頼端婚約者)[2]、他

毛利 治親(もうり はるちか)は、江戸時代後期の大名毛利氏22代当主。長州藩8代藩主。7代藩主・毛利重就の四男[1]嫡出子

生涯
宝暦4年(1754年6月15日江戸で生まれる[1]。四男だったが正室の子で[1]、かつ重就が養嗣子にしていた重広(従兄にあたる)や実兄たちが相次いで早世したため、世子となる。明和5年(1768年)3月に元服して従五位下、壱岐守に叙任する。後に従四位下に叙任し、10代将軍徳川家治から偏諱を受けて、初名の徳元のりもとから治元はるながに改名した(後に治親と改名)。

薩摩藩の「近秘野艸」(『鹿児島県史料』「伊地知季安著作史料集六」所収)では天明元年(1781年)生まれの奥平昌高が治広(松平大膳大夫治元)の養子になっていたとしている。

天明2年(1782年8月28日、父・重就の隠居により跡を継ぐが[1]寛政元年(1789年)に父が死去するまでは実権は全くなく、また父の死からわずか2年後の寛政3年(1791年6月12日に江戸で死去したため[1]、治績などはほとんどない影の薄い藩主であった。享年38[1]。跡を長男の斉房が継いだ。

墓所は山口県萩市椿の大照院[1]

系譜
・父:毛利重就(1725-1789)
・母:登代子 - 瑞泰院、立花貞俶次女
・正室:とき子(1756-1815) - 邦媛院、田安宗武の五女
・側室:明善院 - 小泉氏
 ・長男:毛利斉房(1782-1809)
 ・次男:毛利斉熙(1784-1836) - 毛利斉房の養子
・側室:花村(?-1790) - 宝池院、岡田氏
 ・五男:水野忠篤(1787-1816) - 水野忠韶の養子
・生母不明の子女
 ・三男:細川興昶(1785-1803) - 細川興徳の養子
 ・四男:毛利熙載 - 毛利房直の養子
 ・女子:多美 - 有馬頼端婚約者

偏諱を与えた人物
治親時代 (*「親」の字は南北朝期の毛利氏当主(毛利時親貞親親衡師親(元春)の4代)が代々使用した字でこれに由来する)
毛利(実弟、子に第11代藩主斉元、孫に第13代藩主慶親(敬親)
毛利大野毛利家
熊谷安芸熊谷氏
佐世益田就恭の実弟)
宍戸宍戸氏
益田愛(賢)問田益田氏、娘に吉敷毛利房謙正室、右田毛利房顕正室、阿川毛利房嘉正室がいる)

脚注
1. a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u 時山弥八編 1916, p. 110.
2.
a b 時山弥八編 1916, p. 111.
3. 
a b c 時山弥八編 1916, p. 113.
4. 
時山弥八編 1916, p. 114.
5. 
a b c 時山弥八編 1916, p. 112.

参考文献
オープンアクセス時山弥八編 国立国会図書館デジタルコレクション 『稿本もりのしげり』1916年。 NCID BN04718592
(wikiより)

270 毛利治親

毛利治親

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時代江戸時代後期
生誕文化11年5月16日[1]1814年7月3日
死没天保7年12月29日1837年2月4日[1]
改名保三郎[1](幼名)、崇広[1]、斉広
戒名崇文院殿故大官令中大夫羽林次将長防国主天常瑞誠大居士[1]
墓所東京都港区愛宕青松寺
山口県萩市椿の大照院[1]
官位従四位下侍従修理大夫[1]左近衛権少将[1]大膳大夫[1]
幕府江戸幕府
主君徳川家斉
長州藩
氏族毛利氏
父母毛利斉熙[1]、志津[1]
毛利斉元
兄弟斉広信順、由美子、万寿子、八重姫、
美知子
徳川家斉二十女和姫[1]、勇信院[2]
都美子[2]敬親

毛利 斉広(もうり なりとう)は、江戸時代後期の大名毛利氏26代当主。長州藩12代藩主。10代藩主・毛利斉熙の次男で、11代藩主・毛利斉元の養嗣子[1]。長州藩主としては在職期間が最短の藩主である。

経歴
文化11年(1814年5月16日萩城内において、斉熙と側室の池上氏(志津・花ノ井)との間に生まれる[1]幼名として保三郎、のちに初名の崇広たかひろを名乗る[1]文政5年(1822年6月、先代藩主・毛利斉元の養嗣子となる[1]。これに先立って、保三郎の丈夫届公儀に提出されたが、斉熙は文政2年(1819年)に斉元を養嗣子にした際、実子はまだないとして願い出ていたため、保三郎の官年は5歳若く当年4歳、すなわち文政2年生まれとして届け出ている[3]

文政13年(1830年3月、実父・斉熙や養父・斉元と同様、11代将軍徳川家斉より偏諱を授与され斉広なりとうに改名、従四位下侍従に叙任し、修理大夫と称する。しかし、文政13年(1830年)に正室の和姫(家斉の娘)が死去する[1]

天保7年(1836年9月8日に斉元が死去したため、同年12月10日に跡を継ぐが、20日足らず後の29日に桜田の藩邸において、23歳で死去した[1]。なお、実父の斉熙も同年5月14日に死去していた。

3歳年下の異母弟の毛利信順がいたが、斉元が生前に自身の長男・猶之進を斉広の跡継ぎに立て、斉広の娘都美子(当時数え5歳)と娶わせる意向を残しており、これが江戸加判役・毛利房謙より公表されるに及び、老臣の衆議でこれに異議がなかったため、猶之進(教明、のちの慶親、敬親)が家督を相続した。斉広は生前に仮養子を立てておらず、手続きは斉広の存命を装っての末期養子となり、3月15日に斉広の死が公表された[4]

文化人としては有能で、林述斎に師事して「与人論」や「世子告文」など多くの書物を残している。

系譜
・父:毛利斉熙(1784年 - 1836年)
・母:志津 - 花ノ井、池上氏
・養父:毛利斉元(1794年 - 1836年)
・正室:和姫(1813年 - 1830年) - 貞惇院、徳川家斉二十女
・側室:勇信院 - 本多氏
・生母不明の子女
 ・長女:毛利都美子(1833年 - 1913年) - 浄華院殿釈尼妙好大姉、毛利敬親正室
・養子
 ・男子:毛利敬親(1819年 - 1871年) - 毛利斉元の長男

補足
・前述したように、藩主在職期間が20日足らずと歴代の中でも最短の藩主であるため、このわずかな期間に偏諱を与えられた者はいない(該当者なし)。
の2文字目「広」は祖先大江広元にちなんだ毛利氏の通字の一つで、歴代藩主の中でも2代綱広、4代吉広、6代宗広が用いている字でもあり、本来は「ひろ」と読む。斉広自身も最初は崇広たかひろと名乗っていたが、斉広と改名する際に実父・斉熙と同じ読みとなってしまうのを避けるために読みを変更したものと思われる(かつて曽祖父の重就が「就」の読みを「なり」から「たか」に改めた例もある)。

脚注
1. a b c d e f g h i j k l m n o p q r 時山弥八編 1916, p. 123.
2.
a b 時山弥八編 1916, p. 124.
3. 
大森、p.165-167
4. 
大森、p.172-174

参考文献
オープンアクセス時山弥八編 国立国会図書館デジタルコレクション 『稿本もりのしげり』1916年。 NCID BN04718592
・萩市史編纂委員会編 『萩市史』 第1巻、萩市、1983年6月。 NCID BN01890860全国書誌番号:83049750Closed Access logo alternative.svg国立国会図書館デジタルコレクション    
大森映子『お家騒動 大名家の苦闘』吉川弘文館〈読みなおす日本史〉、2018年
(wikiより)

269 毛利斉広

毛利斉広

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 東光寺の毛利家墓所に入って左奥の方に、詳細不明のお墓が有り それを撮影してきたのでupします。

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⇧ このような状態で並んでいました。

画像左側にも有り 向かい合って並んでいました。

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17

以上 17基のお墓が有りました。




時代江戸時代中期 - 後期
生誕天明2年11月20日[1]1782年12月24日
死没文化6年2月14日1809年3月29日[1]
改名義二郎[1]・善次郎(幼名)、維房(初名)[1]、斉房[1]
戒名靖恭院殿前二州太守大官令四品拾遺補闕澹雲如祥大居士[1]
墓所山口県萩市椿東の東光寺[1]
官位従四位下侍従大膳大夫[1]
幕府江戸幕府
主君徳川家斉
長州藩
氏族毛利氏
父母毛利治親[1]、明善院[1]
兄弟斉房斉熙細川興昶熙載水野忠篤、多美
有栖川宮織仁親王幸子、芳春院[2]
徳丸[1]斉熙

毛利 斉房(もうり なりふさ)は、江戸時代後期の大名毛利氏23代当主。長州藩9代藩主。8代藩主・毛利治親の長男[1]

経歴
天明2年(1782年11月20日江戸で生まれる[1]寛政3年(1791年)、父・治親の死去により10歳で跡を継ぐ[1]。寛政7年(1795年8月、11代将軍徳川家斉から偏諱を授かって初名の維房(これふさ)から斉房に改名し、叙任する。寛政12年(1800年)からは藩財政再建のために10ヵ年の倹約を行ない、さらに伊能忠敬周防長門の測量を行なわせて海防の強化に努めるなどしたが、文化6年(1809年2月14日に28歳で江戸にて死去した[1]。実子の徳丸が生まれたのは斉房の死後であり[3]、養子となっていた弟の斉熙が跡を継いだ[4]。墓所は萩市椿東の東光寺[1]

系譜
・父:毛利治親(1754年 - 1791年)
・母:明善院 - 小泉氏
・正室:幸子 - 栄宮、貞操院殿松林如榮大姉、有栖川宮織仁親王
・側室:芳春院 - 山田氏
・生母不明の子女
 ・男子:徳丸(1809年 - 1814年)[3]    
・養子
 ・男子:毛利斉熙(1784年 - 1836年) - 毛利治親の次男

斉房の代の主要
家臣
文化元年(1804年)頃の主要な斉房の家臣は下のとおり。
家老
宍戸美濃毛利勇之進毛利若狭、毛利帯刀、毛利次郎兵衛毛利伊賀益田吉十郎福原豊前、粟屋帯刀、佐世仁蔵、清水長左衛門、堅田宇右衛門、山内九郎兵衛、児玉遠江、国司市正

用人     
・山田図書、粟屋清蔵、吉田八郎右衛門、田坂昇、粟屋恵次、山県市左衛門、冷泉六郎右衛門

側用人      
・石津環、揚井鎌蔵、三浦内左衛門、福島直衛、久芳安積、山中殿衛、山県左次馬

城使      
・児玉準、簗川六兵衛、粟屋十右衛門

偏諱を与えた人物
「房」の字は室町時代の毛利家当主、毛利広房之房(光房)熙房(熙元)の3代に亘って使用された字でこれに由来する。
毛利(勇之進、右田毛利家
毛利吉敷毛利家、房良の実弟)
毛利(右田毛利家、房良・房直の実弟)
毛利(吉敷毛利家、房直の養孫)
毛利晁(衆)厚狭毛利家
毛利阿川毛利家、房晁の実弟)
毛利謙(祀)(吉敷毛利家、房晁・房嘉の実弟で房裕の養子)
(うら ふさとも、通称:浦木工、浦氏浦元襄(靱負)の養父)
国司毛利元美の後見役)
佐佐木尼子氏末裔・佐佐木氏)
宍戸宍戸氏一族の者か、次男に佐佐木房高の婿養子となった佐佐木元久、孫に元久の子で浦元襄養子の浦親教がいる)
宍道(宍道外記、宍道氏
益田(吉十郎、須佐領主益田家
福原純(俊)(豊前、宇部領主福原家
福原(従兄弟、房純の養子、のちの長州藩第11代藩主毛利斉元

脚注
1. a b c d e f g h i j k l m n o p 時山弥八編 1916, p. 114.
2.
時山弥八編 1916, p. 115.
3. 
a b 大森、p.159
4. 時山弥八編 1916, pp. 114–115.

参考文献
オープンアクセス時山弥八編 国立国会図書館デジタルコレクション 『稿本もりのしげり』1916年。 NCID BN04718592
大森映子『お家騒動 大名家の苦闘』吉川弘文館〈読みなおす日本史〉、2018
(wikiより)

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時代江戸時代中期
生誕延宝5年8月24日[1]1677年9月20日
死没享保16年9月13日1731年10月13日[1]
改名又四郎[1](幼名[2])、元倚(初名)[1]、吉元
別名右京大夫(通称
諡号泰桓公[3]
戒名泰桓院殿前二州太守四品拾遺補闕仰岳浄高大居士[3]、泰桓院仰岳浄高[2]
墓所山口県萩市東光寺[3]
官位従五位下[3]右京大夫[3]従四位下[3]民部大輔侍従[3]長門守[3]
幕府江戸幕府
主君徳川綱吉家宣家継吉宗
長府藩世嗣、長州藩
氏族毛利氏
父母父:毛利綱元[1][2]、母:池田光政[1][2]・祥雲院
養父:毛利吉広[1]
兄弟吉元本多忠次匡以元矩、真寿院
正室:池田綱政娘・法林院[3]
側室:伴氏(桂月院)[4]、森氏(永昌院)[4]
元朝(宗元)[3]元陳[5]宗広(維広)[6]、皆姫[5]、寧[6]

経歴
延宝5年(1677年8月24日江戸で生まれる[1]元禄4年(1691年12月元服して元倚もとより[1][注釈 1]と名乗る。宝永4年(1707年)に本家藩主・毛利吉広が若死にすると、その養嗣子として後を継ぐ[2]。吉広同様、5代将軍徳川綱吉より偏諱を賜い、吉元に改名。吉元は毛利秀元系初の長州藩主であるが、この家督相続の際に徳山藩主で、血統上は毛利輝元系の毛利元次が無視されたので、禍根を残すことになり、万役山事件を起こすこととなる。

藩財政再建のため、5か年の倹約や経費節減、参勤交代での人数の減少に努めた。また、文武を奨励して藩校明倫館を創設し[2]、さらに毛利家の家系をまとめた閥閲録204冊の編纂も行なった。

享保16年(1731年9月13日、江戸で死去[3][2]。享年55[3][2]。墓所は山口県萩市椿東の東光寺[3][2]大正5年(1916年11月従三位を追贈された[2]

初めは三男の元陳もとのぶを、次に実家の長府藩主を継いでいた長男の元朝(宗元)を、次の長州藩主に定めていたが、いずれも吉元に先立って早世しており、新たに嫡男となっていた五男の維広(宗広)が跡を継いだ。

系譜
・父:毛利綱元(1651-1709)
・母:房姫(1653-1686) - 祥雲院、池田光政
・養父:毛利吉広(1673-1707)
・正室:品子 - 法林院、池田綱政
 ・長男:毛利元朝(宗元)(1703-1721)
 ・三男:毛利元陳 (1706-1713)
 ・長女:皆姫 - 島津継豊正室
・側室:桂月院 - 伴氏
・側室:永昌院 - 森氏
 ・五男:毛利宗広(維広)(1717-1751)
・生母不明の子女
 ・女子:寧 - 心涼院、毛利師就正室

偏諱を与えた人物
吉元時代
「元」は毛利氏の通字として最もよく用いられている字であり、一部の分家でも代々用いられている。そちらについては特別に吉元から賜ってはいないものとみなし、明らかにこの代に賜っている人物のみを掲載する。
毛利朝(宗(長男)
毛利(三男)
毛利厚狭毛利家
毛利吉敷毛利家
井原(通称:井原孫左衛門、毛利広豊徳山藩入りの際にその同行人として萩藩から派遣された)
(通称:浦図書、浦氏
(通称:浦主計、蔵田与右衛門連珍の次男で元敏の養嗣子)
熊谷安芸熊谷氏、子に宍戸広周ほか)
佐佐木尼子氏末裔・佐佐木氏)
清水清水氏、通称:清水宮内)
宍道(宍道四郎右衛門、毛利就久の弟・匡雅の子で宍道氏を継ぐ)
椙杜世(蜂/岑)椙杜氏椙杜元縁の曾孫)
益田(須佐領主益田家
益田言(方)問田益田家
福原(益田元道の実弟、宇部領主福原家を継ぐ)
山内山内采女広通の子か。子に熊谷直温がいる)

登場する作品
テレビ朝日の「暴れん坊将軍」(第11シリーズ)では地元出身の歌手・山本譲二が吉元を演じた。

脚注
1. 元猗とも。
2.
a b c d e f g h i j 時山弥八編 1916, p. 96.
3. 
a b c d e f g h i j k 吉田 1976, p. 236.
4. 
a b c d e f g h i j k l m n 時山弥八編 1916, p. 97.
5. 
a b 時山弥八編 1916, p. 100.
6. 
a b 時山弥八編 1916, p. 98.
7. a b 時山弥八編 1916, p. 99.

参考文献
オープンアクセス時山弥八編 国立国会図書館デジタルコレクション 『稿本もりのしげり』1916年。 NCID BN04718592
・吉田祥朔 『近世防長人名辞典』(増補)マツノ書店、1976年6月1日。 NCID BN02934961
(wikiより)

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時代江戸時代前期
生誕寛文8年1月21日[1]1668年3月3日
死没元禄7年2月7日1694年3月2日[2]
改名元千代丸[1](幼名[3])、吉就
諡号寿徳公[2]
戒名寿徳院殿前二州太守四品拾遺補闕大光元栄大居士[2]、寿徳院大光元栄[3]
墓所山口県萩市東光寺[2][3]
官位従五位下[2]従四位下侍従長門守[2]
幕府江戸幕府
主君徳川綱吉
長州藩
氏族毛利氏
父母毛利綱広[1][3]松平忠昌娘千姫[1][3]
兄弟吉就吉広[4]元重[5]、良、品、勘、幸、類ら
酒井忠隆娘亀子[2]
吉広

毛利 吉就(もうり よしなり)は、江戸時代前期の大名毛利氏17代当主。長州藩3代藩主。

略歴
2代藩主・毛利綱広の長男[1]。母は松平忠昌の娘・高寿院(千姫)[1][3]。正室は若狭小浜藩主・酒井忠隆の娘・長寿院(亀子)[2]官位従四位下長門[2]

寛文8年(1668年1月21日江戸麻布の藩邸で生まれる[1][3]天和2年(1682年2月27日、父の隠居により跡を継いだ[1][3]4月に5代将軍徳川綱吉から偏諱を賜り[3]祖父・毛利秀就からも1字を取って[要出典]吉就と名乗り、従四位下に叙位、侍従に叙任され、長門守と称する[3]

藩主としては、貞享元年(1684年)にはじめて領国に入国する[3]。貞享3年(1686年)に貞享検地と呼ばれる検地を行なって、領民への徴税を是正することに務める一方[3]、新堀川の治水工事[3]城下町の整備に取り組み、元禄4年(1691年)には護国山東光寺を建立する[3]など積極的な政治を展開するが、同時に藩財政の悪化も招くことになった。これに反発する家臣団との対立に苦労する中、元禄7年(1694年2月7日に江戸桜田の藩邸で急死してしまった[2][3]。享年27[2][3]

吉就には嗣子がなく、跡を吉就の異母弟で養嗣子の就勝(吉広)が継ぐこととなった。墓所は萩市椿東の東光寺[2][3]

系譜
・父:毛利綱広(1639-1689)
・母:千姫 - 高寿院、松平忠昌
・正室:亀子 - 長寿院、酒井忠隆
・養子
 ・男子:毛利吉広(1673-1707) - 毛利綱広の次男

偏諱を与えた人物
毛利(実弟・養嗣子、のちの毛利吉広。就勝は右田毛利就信の養子になっていた時の。)
毛利厚狭毛利家
毛利吉敷毛利就直の次男で広政広包の次兄、初め村上武真)
毛利阿川毛利家
宍戸延(宗)熊谷元実の子で宍戸就附熊谷就実の実弟。就附死後、宍戸氏を継ぐ。)
志道志道氏、主に吉広・吉元時代に当職(国家老・執政)を務めたが、毛利広政の直訴により罷免。)
志道椙杜元縁の養子・就幸の子で椙杜就保とも。元縁実父・志道元保の曾孫で就晴とは親戚関係にある。娘に宍戸広周正室。主に吉広・吉元時代に当役を務めたが、毛利広政の直訴により罷免。)
清水清水氏
宍道(宍道氏)
福原?(福原広俊の子)
益田益田氏分家、益田景祥の孫で広尭宍道広慶の実父。)
益田(益田氏分家から本家・須佐領主益田家第7代当主となる。)
椋梨椋梨氏

脚注
1. a b c d e f g h 時山弥八編 1916, p. 94.
2.
a b c d e f g h i j k l 時山弥八編 1916, p. 95.
3. 
a b c d e f g h i j k l m n o p q 吉田 1976, p. 235.
4. 
時山弥八編 1916, p. 91.
5. 
時山弥八編 1916, p. 92.

参考文献
オープンアクセス時山弥八編 国立国会図書館デジタルコレクション 『稿本もりのしげり』1916年。 NCID BN04718592
・吉田祥朔 『近世防長人名辞典』(増補)マツノ書店、1976年6月1日。 NCID BN02934961
(wikiより)

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⇧⇩ 酒井忠隆 娘 亀子 墓

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時代江戸時代後期
生誕寛政6年3月24日[1]1794年4月23日
死没天保7年9月8日1836年10月17日[1]
改名豊之允[1](幼名)、房昌[1](福原氏時代)、教元、斉元
別名弾正[1](福原氏時代)、式部(通称[1]
戒名邦憲院殿故大中大夫大官令羽林次将長防国主慈峰真秀大居士[1]
墓所山口県萩市椿東の東光寺[1]
官位従四位下式部大輔[1]宮内大輔[1]侍従[1]大膳大夫[1]左近衛権少将[1]、従四位上[1]
幕府江戸幕府
主君徳川家斉
長州藩
氏族毛利氏安芸福原氏、毛利氏
父母毛利親著[1]、以久[1]
福原房純毛利斉熙[1]
兄弟斉元毛利房良正室
毛利斉熙娘由美子[1]
原田氏[2]、田代氏、山崎氏[3]、京[3]
敬親[4]、牧之助[4]、三寿姫[4]、孝子[2]教徳[2]、嘉姫[2]斉広

毛利 斉元(もうり なりもと)は、江戸時代後期の大名毛利氏25代当主。長州藩11代藩主。7代藩主・毛利重就六男である毛利親著の長男で、10代藩主毛利斉熙の養子[1]

経歴
寛政6年(1794年3月24日萩城下八丁邸にて出生する[1]享和3年(1803年)に一門八家福原房純の養嗣子となり、文化5年(1808年9月1日、養父と同じく藩主・毛利斉房偏諱を授かり福原房昌ふくばら ふさまさと名乗った。同年に通称として弾正と名乗った。藩主の兄弟を養子にできるのは一門八家のうちさらに六家のみに限られていたため、この養子縁組には反対もあったが、斉元は藩主の弟でなく弟の息子であったため押し切られた[5]

文政2年(1819年)、従兄で藩主の毛利斉熙の実子・保三郎(後の毛利斉広)が幼いため、つなぎの当主とすべく福原家から藩主家に貰い返されて、通称を式部、名を毛利教元のりもとに改めた。同年9月に斉熙の養嗣子となり[1]、四品に叙任して式部大輔に任じられ、文政3年(1820年)に宮内大輔に転じ、文政4年(1821年)に従四位侍従となる[1]

文政7年(1824年2月27日の斉熙の隠居により跡を継ぐが、文政12年(1829年)に従四位・左近衛少将になる[1]。11代将軍徳川家斉からの偏諱を受け斉元と改名する。

天保6年(1836年12月26日に従四位上に叙任されるが、翌天保7年(1836年)5月14日に養父の斉煕が死去する。同年6月12日には後世に「申歳の大水」として語り継がれる大洪水が起こり、実子の猶之進(教明)らがいた萩城下の南苑邸が大破し、城下の3分の2が浸水、溺死者約200人に上るなどの被害を出す。同年9月8日に斉熙の後を追うように死去した[6]。享年43[1]。跡を継いだ斉広は同年のうちに亡くなり、実子の教明(後の慶親・敬親)がその跡を継ぐことになる。

人物
父が部屋住み身分で、自身も家臣福原家から貰い返されて毛利宗家を継いだ経緯があるためか、万事に控え目な性格で、実権は養父・斉熙が握り、終始中継ぎ藩主のままであった。

狂歌を好んで鹿都部真顔に師事し、柳桜亭花也[1]、柳花亭風姿瑞垣、土筆亭和気有丈などの狂号をもち、戯作者山東京山の次女・京が侍女から側室となり、孝姫、甚之丞(早世)を産んだ。

系譜
・父:毛利親著(1766年 - 1800年)
・母:以久 - 心月院
・養父:福原房純(1772年 - 1836年)、毛利斉熙(1784年 - 1836年)
・正室:由美子 - 蓮容院、毛利斉熙娘
・側室:原田氏
 ・長男:毛利敬親(1819年 - 1871年) - 毛利斉広の養子
・側室:田代氏
・側室:山崎氏
・側室:京 - 山東京山
・生母不明の子女
 ・男子:牧之助 
 ・
女子:三寿姫 - 益田親興親施兄)室
 ・女子:孝子 - 伊達宗徳正室
 ・男子:毛利教徳
 ・女子:嘉姫
・養子
 ・男子:毛利斉広(1814年 - 1837年) - 毛利斉熙の次男

偏諱を与えた人物
毛利教元時代
毛利(長男、のちの毛利敬親)
毛利(息子、教明の弟)

毛利斉元時代
「元」は毛利氏の通字として最もよく用いられている字であり、一部の分家でも代々用いられている。そちらについては特別に斉元から賜ってはいないものとみなし、明らかに賜っている人物のみを掲載する。
毛利美(教)厚狭毛利家
毛利寿右田毛利家房顕の嫡男(のち廃嫡))
毛利亮(敬/統)(右田毛利家、元寿廃嫡後の嫡子、元美の娘婿)
毛利一(潔)吉敷毛利家、元寿の義弟(正室が房顕の娘))
浦 (通称:浦靱負)
堅田徳山毛利広鎮の五男、堅田就正の養子)
佐佐木尼子氏末裔・佐佐木房高の婿養子、浦靱負の養子・親教の実父)
宍戸(福原家における義弟、母方の宍戸氏を継承、初め宍戸延良)
清水清水氏、通称:清水信濃、清水親春の養父)
高洲(寄組藩士、国司親相(国司信濃)の実父)
福原(通称:福原越後、毛利広鎮の六男で堅田元琦の実弟)
益田(須佐領主益田家、子の親興は斉元の娘婿。)
益田(通称:益田伊豆、問田益田氏

脚注
1. 
a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y 時山弥八編 1916, p. 120.
2. 
a b c d 時山弥八編 1916, p. 122.
3. 
a b 時山弥八編 1916, p. 123.
4. 
a b c 時山弥八編 1916, p. 121.
5. 
大森、p.162-164
6. 
時山弥八編 1969, p. 118.

参考文献
・津田真弓『山東京山』新典社、2005年
オープンアクセス時山弥八編 国立国会図書館デジタルコレクション 『稿本もりのしげり』1916年。 NCID BN04718592
 ・復刻 時山弥八編 『増補訂正もりのしげり』(復刻)赤間関書房、1969年2月20日。 NCID BA43309514全国書誌番号:73000641
・萩市史編纂委員会編 『萩市史』 第1巻、萩市、1983年6月。 NCID BN01890860全国書誌番号:83049750Closed Access logo alternative.svg国立国会図書館デジタルコレクション    
大森映子『お家騒動 大名家の苦闘』吉川弘文館〈読みなおす日本史〉、2018年
(wikiより)

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⇧⇩ 正室:由美子 - 蓮容院 ( 毛利斉熙娘 )墓

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時代江戸時代中期 - 後期
生誕享保10年9月10日[1]1725年10月15日
死没寛政元年10月7日1789年11月23日[1]
改名岩之丞(幼名[1]
→ :元房[1]匡敬まさたか
→ 重就(しげなり→しげたか)
諡号英雲公[1]
戒名英雲院殿前二州太守四品吏部大郷羽林次将祐山如靖大居士[1]
墓所山口県萩市東光寺[1]
官位従五位下甲斐守[1]、従四位下侍従・大膳大夫[1]、左近衛少将[1]、式部大輔[1]
従三位明治41年[1]
幕府江戸幕府
長府藩主→長州藩
氏族毛利氏
父母父:毛利匡広[1]、母:性善院(飯田氏)[1]
養父:毛利宗広
兄弟演暢院(有馬一準室)、師就政苗広定
重就増山正贇
正室:登代立花貞俶娘・瑞泰院)[1]
側室:利尾(家臣飯田存直娘)
側室:留楚(佐竹氏家臣武藤群次妹)
側室:種織(家臣河野通貞娘)
匡満治親匡芳親著(六男)、友(山内豊雍正室)、勢代(有馬頼貴正室)、好(藤井松平信亨正室)、佐代(鷹司輔平室)、澄(奥平松平忠啓正室)、長(毛利匡邦正室のち前田利謙正室、顕徳院)、娘(内藤信旭正室)、列(井伊豊吉婚約者)、多鶴(近衛経熙婚約者)
養子:毛利重広[2]、養女:(保科松平容頌継室[2]

毛利 重就(もうり しげなり/しげたか)は、江戸時代中期から後期の大名毛利氏21代当主。長門国長府藩8代藩主、のち長州藩7代藩主。ははじめ元房(もとふさ)、のち匡敬(まさたか)、重就(しげなり)、さらに重就(しげたか)と改めた。

経歴
享保10年(1725年[1]、長州藩支藩の長府藩主・毛利匡広の十男として生まれる。幼名は岩之丞[1]。匡広の跡を継いだ五男の師就が享保20年(1735年)に死去した際、師就の実子・多賀之丞(毛利教逵)は出生が幕府に未届けで相続が認められず、匡広の七男の政苗、八男の広定はそれぞれ清末藩主、右田毛利家を継いでおり、仮養子として届けられていた岩之丞(重就)が家督を相続することになった。また、宝暦元年(1751年)には本家にあたる長州藩6代藩主・毛利宗広が早逝し、世嗣がないことなどで、末期養子として家督を相続する。

当時の長州藩は、天災によるの不作、藩商品の販売不振などにより収入が減少し、財政赤字に陥っていた。重就は藩主就任と同時に坂時存、長沼正勝ら3家老を招集し、改革案の提出を要請する。宝暦3年(1753年)「三老上書」が提出される。内容は、経費の削減などから新田開発、荒廃田の復旧、築港による流通整備などが掲げられていた。

重就はまず検地を行い、8年後には新たに4万石分の収入を得ることに成功した。この収入を藩財政には組み込まず撫育方を設立させ、こちらの資金として充てる。撫育方はこの資金を元手に明和元年(1764年)、鶴浜を開作、伊崎を埋め立て今浦港を築港、4年後には室積・中関(三田尻)の港整備を行う。

港の改良により回船の寄港地として発展させると同時に、藩物品の販売、回船業者への資金貸し付け、倉庫貸出などを行い、利益を得る。撫育方がほぼ全てにあたった。

また、塩田開発も進め、明和年間には21万石に上がる収益を得たと言われている。この他にも製紙、製蝋、製糖などにも力を入れた(防長三白)。一方で、過度な年貢取り立てなどの政策は一揆に悩まされることにもなった。

天明元年(1781年)、10代将軍徳川家治の嗣子に一橋家の男子の豊千代が決定し、徳川家斉と改名すると、“しげなり”の“なり”が将軍嗣子の本名と同じ(「就」が「斉」と同じ読みである)ため、読みを“しげなり”から“しげたか”に改める[3][4]

天明2年(1782年)に家督を四男の治親に譲って隠居し[1]、自身は三田尻三田尻御茶屋に住んだ。7年後の寛政元年(1789年)に死去した[1]。享年64[1]

墓所は山口県萩市東光寺[1]

系譜
参考は「萩市史・第一巻」など
・父:毛利匡広(1675-1729)
・母:性善院 - 側室、飯田氏

・兄弟姉妹
 ・毛利師就
 ・毛利政直
 ・毛利政苗
 ・毛利広定
 ・増山正贇
 ・演暢院(丸岡藩有馬一準室)
 ・慧照院(長島藩増山正武室)
  ほか

・正室:登代(
柳川藩藩主立花貞俶の次女・寛延元年(1748年)入輿、明和6年(1769年)死去)
 ・三女: 友(とも)子(1749年 - 1780年) - 寛延2年12月21日または19日に江戸日々窪長府邸で生まれる[5]土佐藩山内豊雍正室、三条実美の曾祖母。婚姻日は明和6年(1769年)3月23日[5]。安永9年4月30日1780年6月2日)に江戸鍛冶橋土佐藩邸において死去、年32、法名は観月院殿翠顔妙黛大姉、墓所は東京芝愛宕町青松寺[6]     
 ・四女: 勢代(せよ)子(1751年 - 1775年) - 三田御前様と称した[7]。寛延4年(1751年5月5日に江戸日々窪長府邸で生まれる[7]久留米藩有馬頼貴正室で婚姻日は明和5年(1768年11月23日[7]。安永4年12月20日(1776年2月9日)に江戸芝三田有馬藩邸において死去、年25、法名は養源院殿貞室知栄大姉、墓所は東京渋谷祥雲寺[7]       
 ・五女: 艶(つや)子(1752年 - 1759年) - 早世、はじめの名前は屋代(やよ)姫、宝暦2年(1752年)11月15日に江戸桜田邸において誕生する[7]。宝暦9年7月25日1759年8月17日)に江戸桜田邸において死去、年8、法名は涼岳院殿慧林玉芳大童女、墓所は東京芝白金瑞聖寺[7]     
 ・四男:毛利治親(1754年 - 1791年) - 長州藩第8代藩主

・側室:利尾(家臣飯田存直の娘・
享和3年8月2日死去)
 ・長女: 好(よし)子(1744年 - 1766年) - 上山藩主藤井松平信亨の正室、婚姻日は宝暦12年(1762年6月23日[2]。明和3年4月12日1766年5月20日)に江戸三田新堀邸において死去、年23、法名は清峰院殿浄雲自鏡大姉、墓所は東京泉岳寺[8]    
 ・次女: 佐代(さよ)子(1746年 - 1769年) - はじめの名前は千代姫、後に惟保(いほ)君と称する[5]。関白鷹司輔平室で婚姻日は、宝暦11年(1761年2月18日[5]。明和6年4月29日1769年6月3日)に京都において死去、年24、法名は妙池院殿青蓮慈薫大姉、墓所は京都嵯峨二尊院、萩市広雲寺[5]   
 ・長男: 毛利匡満(1748年 - 1769年) - 長府藩第9代藩主
 ・次男: 徳治郎(1750年 - 1750年) - 早世、寛延3年(1750年3月11日に江戸日々窪邸で誕生[注釈 1][7]。寛延3年7月22日(1750年8月23日)に死去、法名は玉章院殿瑞厳本光大童子、墓所は長府笑山寺[7]      
 ・三男: 永丸(1753年 - 1758年) - 早世、岩之助、又利丸、宝暦3年(1753年4月29日に萩城において生まれる[9]。宝暦8年10月9日1758年11月9日)に萩城において死去、年6、墓所は萩市東光寺[9]   
 ・六女: 澄(すみ)子(1755年 - 1779年) - 宝暦5年(1755年)2月28日に萩城で生まれる[9]桑名藩松平忠啓正室、婚姻日は安永4年(1775年)6月3日[9]。安永8年6月29日1779年8月11日)に江戸馬場先松平邸において死去、年25、法名は蘭蕙院殿孤芳智秀大姉、墓所は東京谷中天眼寺と萩市東光寺[9]  

・側室:留楚(佐竹氏家臣武藤群次の妹・
文化7年7月22日死去)
 ・五男: 毛利匡芳(1758年 - 1792年) - 長府藩第10代藩主[10]     
 ・七女: 列(れつ)子(1762年 - 1773年) - 宝暦12年(1762年)4月11日に江戸新シ橋邸で生まれる[10]彦根藩井伊直幸の嗣子・井伊直富と婚約中の安永2年10月4日1773年11月17日)に江戸麻布邸において早世、年12、法名は凌寒院殿幻梅衍香大童女、墓所は東京芝白金瑞聖寺[10]   
 ・六男:毛利親著(1766年 - 1800年) - 長州藩第11代藩主・毛利斉元の父

・側室:田中氏(文化12年9月17日死去)
 ・八女: 多鶴子 - 権大納言の近衛師久と婚約中に夭折)

・側室:種織(家臣河野通貞の娘、
寛政2年8月25日死去)
 ・九女: 長子 - 初め雅子、清末藩主毛利匡邦正室、富山藩前田利謙正室

・生母不明の子女
 ・女子:内藤信旭正室

・養子
 ・男子: 毛利重広 - 演暢院の子で重就の甥にあたる[2]    
 ・女子: 誠(のぶ)姫 - 毛利宗広の次女[2]     
 ・女子: 百合(ゆり)姫 - 毛利宗広の三女[2]

系図

実際の親子関係のみを示す。
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家臣
武鑑に掲載された家臣
「大武鑑・中巻」に収録された宝暦5年(1755年)の武鑑に掲載された家臣は以下の通り。なお刊行の都合により掲載情報が宝暦5年以前のものを含んでいる可能性はある。また、武鑑では諸藩で呼び名が違う役職名を標準化している場合があるので、実際の藩職名と相違する場合もある。

【一門八家】
宍戸出雲毛利筑後毛利七郎兵衛毛利虎槌毛利宮内毛利彦治(次)郎益田越中福原豊前  

【家老】
宍道外記、清水長左衛門、浦主計     

【毛利重広附】
井原孫左衛門、児玉縫殿

用人
三戸是令、小川貞右衛門、赤川仁右衛門、桂五郎左衛門

【毛利重広附用人】
三浦内左衛門、中井定右衛門

城使
周布与三右衛門、嶋尾五郎右衛門、有福庄右衛門、都筑弥右衛門

偏諱を与えた人物
匡敬時代
毛利(長男、長府藩第9代藩主)
毛利豊(芳)(五男、長府藩第10代藩主)

重就時代
(※前述した通り、「就」の読みは初め「なり」、天明元年(1781年)以降は「たか」と読まれる。1781年から(重就が隠居した)天明2年(1782年)に授与された者は初めから読みは「たか」である。)
毛利(甥(兄・広定の子)、右田毛利家当主)
毛利(同上、就任の実弟、吉敷毛利家第8代当主)
毛利(同上、就任・就兼の実弟、厚狭毛利家第8代当主)
毛利(吉敷毛利家第7代当主、就兼の養父)
毛利(厚狭毛利家第7代当主、就宣の養父)
毛利馴(友)徳山藩(就隆系)毛利家)
毛利阿川毛利家第8代当主)
井原安芸熊谷氏熊谷元貞宍戸広隆の弟)の子で宍戸広周の実弟。毛利敬親期の家臣・井原親章(主計)は子孫とみられる。)
(通称:浦兵介、宍道外記(宍道広慶)の次男、浦主計(浦元伴)の養子となり浦氏を継承)
国司国司氏、次男に浦就尹の子・房伴の養子となった浦元襄、三男に熊谷直行がいる。)
熊谷(就正の養父と思われる井原広似の次男で熊谷元貞の養子)
佐佐木尼子氏末裔・佐佐木氏)
宍戸宍戸氏、宍戸出雲の子)
宍道(宍道氏、益田就高の孫)
志道(熊谷元貞の子で宍戸広周・井原就正の実弟、志道氏を継ぐ)
椙杜椙杜氏分家、椙杜元縁の曾孫)
繁沢(はじめ繁沢利充の養子、のち実家の阿川毛利家に戻ってその第11代当主となる)
福原(宇部領主福原家
益田(須佐領主益田家
益田(就祥の子、母は重就の兄・広定の養女)
益田問田益田家
村上(むらかみ なりつね/たかつね、藩士・能島村上氏当主、佐佐木就清の子を養子に迎える。)

伝記
・小川国治『毛利重就』(吉川弘文館、2003年) ISBN 4-642-05226-7   

関連項目
三田尻    

脚注
1. 『長府系図』では長府で誕生したとする[7]
2. 
a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u 時山弥八編 1916, p. 102.
3. 
a b c d e f 時山弥八編 1916, p. 103.
4. 
小川国治『毛利重就』
5. 
『萩市史・第一巻』参照
6. 
a b c d e 時山弥八編 1916, p. 104.
7. 
時山弥八編 1916, pp. 104–105.
8. 
a b c d e f g h i 時山弥八編 1916, p. 105.
9. 
時山弥八編 1916, pp. 103–104.
10. 
a b c d e 時山弥八編 1916, p. 106.
11. a b c 時山弥八編 1916, pp. 106–107.

参考文献
オープンアクセス時山弥八編 国立国会図書館デジタルコレクション 『稿本もりのしげり』1916年。 NCID BN04718592

外部リンク
防府と毛利重就 - 防府Web歴史館(防府市教育委員会文化財課)
萩藩改革の足がかりをつくった毛利重就と撫育方 - 山口ブランドストーリー(山口県観光振興課)
毛利重就 - 茶室辞典(株式会社山中工務店)
(wikiより)


264 毛利重就

毛利重就

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⇧⇩ 登代 ( 立花貞俶娘・瑞泰院 )墓。

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毛利秀就公を火葬した場所です。

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〇  長井元房と忠義の猫 ~ 猫町 ( ねこちょう ) 伝説 ~
これは毛利輝基の家臣であった長井元房のお墓です。

萩に城下町を築いた藩祖、毛利輝元には、長井元房という家臣が居ました。

元房は、若いころ萩を出奔し他国に流浪していましたが、その間も輝元はひそかに銀子を与えて元房を庇護していました。

その後、輝元は萩に帰った元房を依然と同様に家臣として遇しました。

1625年 ( 寛永 2年 )、輝元が亡くなると元房は輝元に深い恩を感じていたのでしょう、後を追って殉死しました。

元房には、たいへん可愛がっていた猫がいました。

その猫は元房の死後、天樹院の元房の墓前から離れようとはせず、49日の法要の日に舌を噛んで死んでいたと伝えられています。

萩博物館の西側には元房の屋敷があったことから、この筋に猫町 ( ねこのちょう ) という名前がつけられました。
(案内板より)

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清光院(せいこういん、永禄元年(1558年)- 寛永8年6月20日1631年7月19日))は、毛利輝元正室。父は毛利氏一門衆の宍戸隆家、母は毛利元就の娘である五龍局南の大方と呼ばれた。

生涯
永禄元年(1558年)、宍戸隆家の三女として生まれる[1]

永禄6年(1563年)2月、毛利輝元との婚約が成立し、永禄11年(1568年)3月に吉田郡山城内において盛大な婚儀が執り行われた。ただ、この婚約は毛利元就によって1度破棄されている。これは当時、室町幕府将軍足利義輝の仲介で、輝元に大友宗麟の娘を嫁がせて和議を結ぶことが決まったことによる[2]。その後、和議が破綻して輝元と宗麟の娘との婚姻は実現しなかったことで、改めて婚姻が進められた。

清光院と輝元との間には子がなかったため、天正13年(1585年)に輝元の叔父穂井田元清の子である毛利秀元を輝元の養子とした。しかし、文禄4年(1595年)に輝元の側室である中の丸殿(清泰院)毛利秀就を生んだため、秀元には別家(長府藩)を興させ、秀就を輝元の嗣子とした。

毛利氏が豊臣秀吉に従った後の天正18年(1590年)、輝元や小早川隆景吉川広家らが小田原征伐のために上洛するに先立って、清光院は女房衆を伴い上洛。その際に勧修寺尹豊勧修寺晴豊とその女房衆らと贈物を贈り合い、三色三荷を贈られた。また、福原元俊を使者として、准后女御に挨拶をしている。

慶長5年の関ヶ原の戦い後、毛利氏が周防長門二か国に封じられると、清光院も山口移り住み、慶長9年(1604年)に萩城がある程度出来上がるとへと移っている。清光院は浄土真宗に帰依しており、慶長9年(1604年)頃に山口興正寺兼帯所を建立。慶長13年(1608年)頃には興正寺兼帯所をへ移転した。

寛永8年(1631年)6月20日、74歳で周防国山口宮野で死去[1]。墓は山口県萩市堀内の沙麓山天樹院跡に、輝元の墓と並んで建っている。輝元の墓は高さ2.1m、清光院の墓は高さ1.8mと大型で、いずれも花崗岩製の五輪塔形である。また、清光院の死去に伴い、興正寺を清光院の霊位安置所として「月輪山清光寺」と号するようになり、現在でも清光院の肖像画が所蔵されている。

脚注
1. 
a b 小都勇二「元就の家族」(河合正治編『毛利元就のすべて(新装版)』新人物往来社、1996年)
2. 宮本義己「足利将軍義輝の芸・豊和平調停」(初出:『政治経済史学』102・103号(1974年)/所収:木下昌規 編『シリーズ・室町幕府の研究 第四巻 足利義輝』(戎光祥出版、2018年) ISBN 978-4-86403-303-9) 2018年、P221-223.

参考文献
渡辺世祐『毛利輝元卿伝』(マツノ書店1982年
・小都勇二「元就の家族」(河合正治編『毛利元就のすべて(新装版)』新人物往来社1996年
(wikiより)

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萩藩を創設した毛利輝元の墓所。

もともとここは輝元の隠居所(四本松邸)で、輝元亡き後に天樹院という菩提寺が建てられましたが維新後に廃寺になりました。

竹林に囲まれた静かな場所に五輪搭形の墓が残っています。  

毛利輝元は、天文22年(1553)毛利隆元の長男として生まれ、永禄6年(1563)家督を相続。祖父・元就(三矢の訓えで有名な戦国の武将)の後見を受け将軍足利義輝の一字を拝領して輝元と称す。

元就没後は、両叔吉川元春と小早川隆景の補佐を受け出雲国から尼子勝久・山中幸盛らを追放、備前国の浦上宗景を圧迫し、讃岐国にも兵を出した。

天正8年(1580)信長に追われた足利義昭を厚遇し、上洛して信長と覇を争う。

同年6月、備中高松城下で講和成立直後に本能寺の変を知るが講和を守って追撃せず、秀吉の中央での制覇に好機を与える。

豊臣政権下に入っては四国・九州出征において先鋒をつとめ、参議に任官。


天正 17年 ( 1589 ) 太田川口のデルタに築城を始め、この地を広島と命名。

本拠を吉田郡山城から広島に移す。

同 19年秀吉から安芸・周防・長門・石見・出雲・備後・隠岐七ヵ国および伯耆国三郡と備中国内で 120万石の知行目録を与えられ、中国にその勢を振るった。

慶長 2年 ( 1597 ) に五大老に列せられ、秀吉の死去にあたり秀頼の補佐を委託される。

慶長 5年 ( 1600 ) の関ヶ原の役では、自身は大阪西の丸にあって西軍の総帥とみなされたため七ヵ国を削られ周防・長門両国 36万 9千石に減封された。

同 5年 10月薙髪して隠居し、家督を 6歳の秀就に譲り、同 9年 ( 1604 ) 11月築城中の萩城に移った。

寛永 2年 ( 1625 ) 萩城内で死没。73歳。 

時代戦国時代後期 - 江戸時代前期
生誕天文22年1月22日1553年2月4日[1]
死没寛永2年4月27日1625年6月2日[1]
改名幸鶴丸[1]幼名)→輝元→幻庵宗瑞[1](号)
別名少輔太郎[1]通称)、羽柴安芸宰相、羽柴安芸中納言、大江輝元
戒名天樹院殿前黄門雲巌宗瑞大居士[1]、天樹公[1]
墓所山口県萩市堀内の沙麓山天樹院[1]
官位従五位下右衛門督→ 右馬頭従四位下・ 侍従参議従三位権中納言[1]
従二位[2]
幕府室町幕府 相伴衆副将軍[3]江戸幕府
主君足利義昭豊臣秀吉秀頼徳川家康秀忠家光
長州藩藩祖
氏族大江姓毛利氏
父母父:毛利隆元[1]
母:尾崎局内藤興盛の娘、大内義隆の養女[1]
兄弟輝元徳鶴丸[4]津和野局吉見広頼室)[4]
正室南の大方宍戸隆家の娘[1]
側室二の丸殿児玉元良の娘)、
秀就[1]竹姫吉川広正正室)、就隆
養子:秀元
養女:古満姫宍戸元秀女、小早川秀秋准尊室)、羽柴秀勝室(内藤元種の娘)

〇 毛利輝元
毛利 輝元(もうり てるもと)は、戦国時代後期(安土桃山時代)から江戸時代前期にかけての武将大名安芸戦国大名毛利氏の14代当主。父は毛利隆元、祖父は毛利元就

豊臣政権五大老の一人であり、関ヶ原の戦いでは西軍の総大将となった。長州藩の藩祖でもある[5]

生涯
誕生
天文22年(1553年)1月22日、毛利隆元の嫡男として、毛利氏の居城・安芸吉田郡山城で誕生した[1]。母の尾崎局大内氏の重臣で長門守護代内藤興盛の娘であり、大内義隆の養女でもあった[6]幼名幸鶴丸(こうつるまる)と名付けられた[1]

幸鶴丸が誕生した天文22年は、天文19年(1550年)7月の井上元兼とその一族の討伐を契機に家中掟法の整備、それによる家中統制が行われ、毛利氏の「国家」が成立していた[7]。また、陶晴賢が主君・義隆を討った大寧寺の変を経て、祖父・毛利元就の権力基盤が強化された後でもあった[7]

天文23年(1554年)、防芸引分(大内氏・陶氏との断交)が行われ、翌年(1555年)に毛利氏は厳島の戦いで陶晴賢を討った。その後、防長経略も行われ、毛利氏は大内氏と陶氏を滅ぼした。さらに、尼子晴久を惣領とする尼子氏との戦いも行われ、石見国で対峙が続いた。それゆえ、父の隆元は断続的に出陣を繰り返し、幸鶴丸のもとに落ち着くことはなかった[8]

家督相続と二頭体制
永禄6年(1563年)8月4日、当主である父・隆元が尼子攻めのさなか、安芸佐々部で急死した[7]。そのため、幸鶴丸が11歳にして家督を継承するが、元就が後見して政治・軍事を執行した。この時期、安堵状・宛行状・官途状・加官状類は元就から発されており、幸鶴丸は形式的には家督を継承したものの、その権限は保留状態にあった[9]

永禄8年(1565年)2月16日、幸鶴丸は13歳のとき、吉田郡山城で元服し、室町幕府の13代将軍足利義輝より「輝」の偏諱を受けて、輝元と名乗った[10][11]。もっとも、輝元が将軍の偏諱を受けることができたのは元就が幕府に働きかけたからであり、永禄7年(1564年)12月以前から元服の準備が進められ、幸鶴丸の名を据えた花押の文書が同年半ば頃から増加したのもその一環であったと考えられる[12]

これにより、輝元は事実上の当主となり、幸鶴期には全く発給していなかった官途状・加官状類が輝元の名でも発給されるようになり、輝元自身の当主としての権限も拡大された[13]。だが、輝元と元就の連署の書状もあり、元就の後見が必要となる場面もあった[14]

永禄8年3月、輝元は毛利氏による尼子攻めに出陣し、4月の尼子氏の本拠地・月山富田城への総攻めで初陣を飾る(月山富田城の戦い[15]。この戦いにより、永禄9年(1566年)11月に尼子氏の当主・尼子義久が降伏し、毛利氏にとって長年の宿敵たる尼子氏は滅亡した[16]

永禄10年(1567年)2月、輝元は吉田郡山城へ凱旋した[16]

他方、元就自身は二頭体制に移行後、輝元の当主権限が拡大されるにつれ徐々に権限を移行し、輝元の初陣を機に隠居を考えていた[16]。だが、同年に輝元は隠居しようとする元就に隠居しないように懇願し、その隠居を断念させた[17]。15歳の輝元には毛利氏の領国を円滑に運営させてゆく自信がなく、輝元の名で領主たちの盟主たりうることは困難であった[17]。そのため、元就が死没するまで、輝元と元就の二頭政治体制が続くことになる[18]。また、叔父の吉川元春小早川隆景の2人、毛利氏庶家筆頭の福原貞俊口羽通良を合わせた4人、いわゆる「御四人」が輝元の政務を補佐した[19]

尼子氏残党の蜂起と大内輝弘の乱
永禄12年(1569年)6月、尼子勝久山中幸盛ら尼子氏の残党が蜂起し、但馬山名祐豊の支援を受け、毛利氏の支配する出雲に侵入した[20][21][22]。このとき、毛利氏の主力は豊後大友氏との戦闘のため、九州北部に展開中であり、それを狙った蜂起であった。尼子氏の残党が出雲に侵入すると、尼子氏の旧臣が集結し、7月中旬には月山富田城を攻撃した。

10月、旧主家・大内氏の残党である大内輝弘が大友氏の援軍を得て、周防に侵入した[21]。これには大内氏の遺臣らも加わり一気に勢力が拡大し、毛利氏の領国支配を乱すこととなった(大内輝弘の乱[21]

輝弘の侵入は6月の尼子氏の出雲侵入に呼応したものであり、大友氏の策略によるものであった。大友氏とは永禄7年に幕府の仲介で和睦していたが、永禄9年になると大友氏が毛利氏に属する筑前国の有力国人・高橋鑑種への攻撃を始めた[23]。その後、同じ筑前の有力国人・立花鑑載が毛利氏に付き、それに対して大友氏が立花氏の居城・立花山城を攻め落とすなど、筑前では毛利氏と大友氏の攻防が続いていた(多々良浜の戦い[23]

毛利氏は輝弘ら大内氏残党の侵入に対処するため、九州に展開していた軍勢を撤退させ、同月のうちに輝弘ら大内残党を討伐した。だが、この大内輝弘の乱により、筑前の高橋鑑種は不利な状況となり、輝元・元就・元春・隆景の連署起請文では「毛利氏が鑑種を見捨てない」ことを約束していたにもかかわらずそれを反故にする形となり、翌年に降伏を余儀なくされた[23]。毛利氏は筑前国から勢力を失ったほか、豊前国でも門司城などの一部を残して拠点を失い、北九州における毛利氏の勢力は大きく減退した[24]

永禄13年(1570年)1月、輝元は大内輝弘の乱を鎮圧したのち、尼子氏残党軍を討伐するため、元春、隆景らとともに吉田郡山城より大軍を以て出陣した[25][26]。2月に布部山の戦いで勝利したのをはじめ、次々と尼子方を打ち破り、元亀2年(1571年)8月までに山陰から駆逐した[27]。だが、尼子勝久・山中幸盛ら尼子氏の残党勢力は再興を諦めず、毛利氏に対して抵抗を続けることとなる。

織田氏との関係構築・敵対勢力との戦い
永禄8年5月、輝元が元服して3ヶ月後、京では将軍・足利義輝が三好義継三好三人衆松永久通らに討たれる永禄の変が発生し、新たな動乱の火種となった。その後、義輝の弟・一条院覚慶は還俗して足利義昭を名乗り、永禄10年に聖護院門跡の道増を使者とし、輝元を後見する元就に支援を求めた[28]。この道増は近衛尚通の子で、さらに兄の近衛稙家は義輝の義父であり、義輝の使者として幾度か西国へ下向していた[28]。義昭は道増と元就の間に構築された外交ルートを活用することを考え、尼子氏を滅ぼして上洛が可能となった毛利氏を頼ろうとしていた[28]

その後、永禄11年1月3日付で義昭から輝元に起請文が発せられたものの、元就は無用な戦線の拡大を望まず、出兵要請には応じなかった[29]。同様の要請は越後の上杉輝虎(謙信)、越前の朝倉義景、尾張の織田信長らにも行われたが、上杉輝虎は要請に難色を示し、朝倉義景も上洛に踏み切ろうとしなかった。結局、織田信長がこの要請に応じ、同年9月に義昭とともに上洛、義昭は朝廷から将軍に任命された。

永禄12年半ば以降、毛利氏と織田氏の交流が始まった。同年6月に毛利氏の主力が九州北部に出兵中、但馬山名氏の支援を受けた尼子氏残党が出雲国に侵攻した際、信長は木下秀吉坂井政尚を丹波へと出兵させて毛利氏を支援した[20]。また、信長は敵対する阿波讃岐を支配する三好氏に対抗するため、毛利氏と大友氏を調停し、和睦させた[20]

永禄13年3月以降、輝元と信長の通交が始まるようになる。3月23日付の書状では、輝元が朝廷から右衛門督に任ぜられたことに関して、義昭の御内書が発給されたことを信長が祝している[30]。また、毛利氏が要請した浦上氏の攻撃に関して、信長が時期を見て出兵すると約束したことも記されている[30]

元亀2年4月、輝元が元就との連署で信長に書状を発している[30]。その内容は尼子氏に与して出雲・伯耆沿岸部に襲来した丹後・但馬の海上勢力に対して、将軍から停止命令を発給してほしいと要請したものである[30]。信長は将軍にこれを奏達し、信長自身も命令を発している[30]

同年6月、信長が輝元・元就宛に書状を送っている[31]。その内容は、阿波の三好氏家臣・篠原長房備前国児島郡に襲来し、将軍から停止命令を発給してもらえるように輝元・元就が要請したことに関して、長房は義昭や信長と敵対状況にあり、停止命令は効果がないというものであった[31]

同月14日、輝元を後見し続けてきた元就が死去した[26]。このとき、輝元は布部山の戦いの後も出雲に在陣中であったが、新山城攻撃を目前に「元就、危篤」の報が入り、元春にその場を任せ、隆景と共に元就の病床に駆けつけたほどであった。元就の死により、輝元は毛利両川体制を中心とした重臣の補佐を受け、親政を開始する。

9月、信長は元就死去の弔意を隆景宛ての書状で示している[32]。その書状には、「讃州表発珍重に候」とあり、毛利氏が三好氏の支配する分国へ出兵を図っていたことも記されている[32]

輝元ら毛利氏は大友氏、尼子氏、三好氏、浦上氏などに戦いを有利に進めるため、将軍の権威を利用し、その過程で信長を経由しなければならなかった[32]。信長も表面的には協力姿勢を見せ、毛利氏と織田氏には軍事同盟が成立していたが、信長自身のなかでは毛利氏への優先度は低かった[32]

そのため、輝元は独力でこれらの敵を相手にせねばならなかった。輝元は元亀2年の元就没後すぐ、尼子勢を領内から駆逐し、また三好氏の分国へも侵攻した[32]。その後、元亀3年(1572年)には浦上氏とも和睦を成立させ、事実上屈服させた。これにより、毛利氏はその包囲網を瓦解させることに成功した[32]

義昭の処遇を巡って
永禄13年1月、信長は義昭に殿中御掟に追加の5ヶ条を加えた。その第一条は諸国の大名との交流に関して制限を加えるもので、義昭が御内書を出す場合には信長の添状を必要とするものであり、その効力に規制を加えるものであった[33]。これを機に信長と義昭の関係は悪化していった[33]

元亀3年(1572年)10月、信長は義昭に殿中掟書の徹底を求めるため、意見17ヶ条を出した[34]。その中では義昭の御内書の無断発給を問題視し、信長は同盟関係にあった毛利氏との交流も監督下に置こうとした[34]

元亀4年(1573年)2月9日、輝元は義昭からの推挙を得て、朝廷から右馬頭に任じられた[34]。これは輝元を与党に引き入れ、毛利氏の勢力を味方につけようとする義昭の工作でもあった[34]

信長も義昭の動きに対抗して、輝元に接近し、毛利氏との同盟関係を維持しようとした[35]。義昭は信長に対抗するため、6月に毛利氏に対して兵粮料を要求したが、輝元は信長との関係から支援しなかった[35]。そして、7月18日に義昭は槇島城の戦いに敗れ、京から退去した。信長は輝元に7月13日付の書状で、「自身が天下を静謐し、将軍家のことに関しては輝元と万事相談してその結果に従うこと」を約束している[35]

義昭追放後、輝元と信長の関係は続いた。そのため、9月7日付の御内書では、毛利氏が信長と懇意にしていることや、かつて毛利氏が将軍家を疎かにしないと提出した起請文が反故にされていることが批判されている[36]。他方、輝元が秀吉に充てた同日付の書状では、信長と義昭が和解し、義昭が京に帰還できるよう仲介を試みている[37]

輝元はまた、義昭と信長の和解を仲介する代わりに、但馬山名氏の支援を受けて反抗を続ける尼子氏残党に対抗するため、織田氏に但馬への侵攻を要請しており、信長も同意していた[37]。輝元にとってもまた、織田氏との同盟は領国を守るためには重要であり、義昭のために信長と敵対して上洛するより、信長の力を利用する道が最適であった[37]。他方、輝元は信長と義昭の仲介もあきらめておらず、両者の関係をとりもつため尽力した。

天正元年11月5日、義昭が和泉のに落ち着くと、信長からは羽柴秀吉と朝山日乗が、輝元からは安国寺恵瓊林就長が派遣され、双方の使者はともに義昭と面会し、信長と和解したうえでの帰京を説得した[38][39]。信長自身も義昭の帰京を認めていたが、義昭が信長からの人質を求めたため、交渉は決裂した[40]

輝元は義昭の処遇に関して、信長と義昭を仲介したが、それは決して室町幕府復興のために尽力したわけではなかった[40]。輝元が怖れていたのは、追放された義昭が毛利氏の領国に下向し、織田氏と全面戦争に突入することであった[40]。信長もまた、義昭の追放で畿内が動揺している今、輝元が義昭を奉じて織田氏との全面戦争に踏み切ることは避けたかったと考えられる[40]

詳しいことは「毛利輝元ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E5%88%A9%E8%BC%9D%E5%85%83
(wikiより)


259  Terumoto_Mouri

毛利輝元

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⇧ 右側の白壁内が毛利輝元公の墓所になります。

元々、輝元の隠居所だった四本松邸が天樹院という菩提寺になりました。

お寺は、明治維新後廃寺になり、今は墓所のみ残っています。


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⇧ 入口です。

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⇧⇩ 毛利輝元公を火葬した場所です。

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⇧⇩ もともと隠居所だったので敷地も広いです。

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⇧ 墓所入り口です。

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⇧⇩ 毛利輝元公のお墓です。

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⇧⇩ 清光院  ( 毛利輝元正室 ) のお墓です。

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時代江戸時代末期
生誕文政2年5月1日1819年6月22日
死没文久3年2月6日1863年3月24日
別名雅楽、与之助、与左衛門、隼人、右近
戒名庸軒誠義英剣居士
墓所海潮寺山口県萩市
主君毛利敬親
長州藩
氏族大江姓長井氏
父母父:長井泰憲 母:福原利茂の女
貞子

長井 雅楽(ながい うた、文政2年5月1日1819年6月22日〉 - 文久3年2月6日1863年3月24日〉)は、日本江戸時代末期(幕末)の長州藩士。役職は直目付。一般的な呼び名である雅楽は通称で、時庸(ときつね)。

長井家は主家毛利家の庶流安芸福原氏の一族で、毛利家と同じく大江広元が祖先にあたり、毛利家家臣団の中でも名門であった。

略歴
萩藩士大組士中老・長井次郎右衛門泰憲の長男として生まれた。文政5年(1822年)、4歳の時に父が病死したため、家督を継いだが、このとき幼少のためということで家禄を半分に減らされた。その後、藩校明倫館で学び、時の藩主・毛利敬親の小姓、奥番頭となった。敬親から厚い信任を受け、敬親の世子である毛利定広の後見人にもなった。そして安政5年(1858年)、長州藩の重役である直目付となる。

当初から雅楽は開国論者であったため、文久元年(1861年)に公武一和に基づいた『航海遠略策』を藩主に建白し、これが藩論となされた[1]。その後、朝廷や幕府の公武合体派にこれを歓迎され、11月には藩主・敬親と共に江戸に入り老中・久世広周安藤信正と会見。翌月に正式に同策を建白して公武の周旋を依頼された。しかし、藩内の吉田松陰とその門下生が主流である尊皇攘夷派とは対立関係にあり、井伊直弼安政の大獄で松陰が捕縛され、後の江戸護送に対しても強硬な対抗策を取らなかったため、後に松陰の弟子である久坂玄瑞前原一誠らに暗殺を計画される。当時の藩の事情を考慮すれば長井のとった方針はごく自然なものであり、また松陰が江戸に護送された際には様々にその処遇について気を使っていた側面もうかがえる。

文久2年(1862年)、幕府で公武合体を進めていた安藤や久世らが坂下門外の変で失脚すると藩内で攘夷派が勢力を盛り返し、長井の排斥運動が激しくなった。同年3月、再度入京したが、この頃には尊攘激派の台頭が著しく、岩倉具視や久坂らの朝廷工作もあり、長井の説は朝廷を誹謗するものとして聞き入れられず、敬親により帰国謹慎を命じられた。同年6月に免職され、帰国。翌、文久3年(1863年)、雅楽は長州藩の責任を全て取る形で切腹を命じられた。長井本人もこの措置には納得しておらず、また長井を支持する藩士はいまだ多くいたが、藩論が二分され、内乱が起きることを憂いて切腹を受け入れ、同年2月、萩城下、土原(ひじはら)の自邸にて、検視役正使国司親相の下に切腹した。享年45(満43才没)。長女・貞子は後に富岡製糸場で勤務した。

高杉晋作の父・高杉小忠太とは長年世子付の同役を務めた友人同士であった。切腹の前日、小忠太へ身の潔白を訴え遺児の庇護を依頼する長文の手紙を出し、末尾に「ぬれ衣のかかるうき身は数ならで唯思はるる国の行く末」と辞世の歌を残している。

辞世の句
・今さらに何をか言わむ代々を経し君の恵みにむくふ身なれば
・君がため捨つる命は惜しからで ただ思はるる国のゆくすえ
・君恩に報いんとして業いまだ央ならず 自羞す四十五年の狂 即今成仏は予が意に非らず 願わくは天魔を帥いて国光を輔けん

評価
野村靖 「長井雅楽は敵ながらも天晴れな男で、風采は坂東彦三郎そっくりで、弁舌は今の金子堅太郎を一層調子強くしたものだ」[2]   


演じた俳優
テレビドラマ
・『天皇の世紀』(1971年、ABCテレビ・国際放映、演:小栗一也
・『花神』(1977年、NHK大河ドラマ、演:渥美国泰
・『奇兵隊』(1989年、日本テレビ年末時代劇スペシャル、演:渥美国泰
・『花燃ゆ』(2015年、NHK大河ドラマ、演:羽場裕一


脚注
注釈
出典
1. 村上一郎 『草莽論』ちくま学芸文庫、2018年、P.273頁。
2. 『実録維新十傑 第十巻』

外部リンク
長井氏
毛利福原氏
国立国会図書館 憲政資料室 長井雅楽関係文書(MF:個人蔵)    
(wikiより)


236 長井雅楽


長井雅楽

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236b




勇士。

行年 38歳。

没年 元和 4年 8月 25日。

戒名 : 覚林院月庭清秋大禅貞門。

吉見廣頼の二男、初名 広行。

毛利輝元公より一万石を賜って大井浦に居住したが出奔して本領断絶、のち帰萩して罪を謝すも、その行動を輝元に疑われ、討手を向けられて自刃す。

毛利輝元 ( 甥 )。
(案内板より)

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213b

213c




妻の滝との合葬墓。

吉田松陰の実父、萩藩士 ( 家禄二十六石 )。

妻・滝との間に三男・四女 ( 松陰は次男 )。

杉家一族の中心として困難の中で誠実に生き抜き、終始松陰を温かく応援し続けた。

慶應元年 ( 1865 )没 行年 六十二才
(案内板より)

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時代江戸時代末期(幕末
生誕天保14年6月9日1843年7月6日
死没元治元年12月25日1865年1月22日
別名字:子済、通称:清太郎、勘太郎、与右衛門、号:葭堂
戒名仁沢院殿向山義雄
墓所東光寺
幕府江戸幕府
主君毛利氏
長州藩家老
氏族清水氏
父母父:清水信篤、養父:清水親春

清水 親知(しみず ちかとも)は、幕末長州藩正義派の代表的家老備中高松城の戦いで知られる清水宗治から12代の子孫。

生涯
天保14年(1843年)6月9日、長州藩清水分家・清水図書信篤の子として萩に生まれる。安政2年(1855年)本家清水美作親春の養子に迎えられる。文久元年(1861年)大橋訥庵に師事した。後の伊藤博文と親交が深かった親知は伊藤博文を誘い、同じ塾で学んだ。[1]


文久3年3月(1863年) 20歳にして学習院御用掛として、朝廷と幕府との間に入り調整役を勤めた。[2]


同年4月(1863年)孝明天皇は237年ぶりに賀茂社行幸[3]を決行し攘夷祈願を行った。江戸幕府発足以来、天皇は幕府の許可なく御所からでることが許されなかったため、重大な意味を持った行事となった。この重大な行事に長州藩の代表家老として親知は清水家家老難波覃庵と参加した。[4]

同年8月(1863年)藩制改革後により22歳にして国元加判役(家老格)に抜擢される。


元治元年(1864年)4月には津和野鳥取岡山ら諸藩を巡廻し、八月十八日の政変により処罰された藩主父子の雪冤を働きかけ、6月に領内で藩兵が不満を募らせると周布政之助とともに鎮撫のために奔走した。しかし7月に禁門の変が失敗に終わると更迭され謹慎する。高杉晋作が挙兵すると、報復処刑として12月25日俗論派の藩命により自刃。東光寺の元治甲子殉難烈士墓所では、福原元僴益田親施国司親相周布政之助甲子殉難十一烈士と共に祀られている。


辞世の句は、「古道照顔色」の五文字で自分を励ますための言葉である。[5]

死後
清水家の家老である難波覃庵が、立野村の給主・清水氏の氏神と清水宗治 の神霊 と清水親知の神霊を合祀し正義霊社に祀った。[6][7][8]

清水清太郎
幕末には3人の清水清太郎が登場する。1人目は本項の清水清太郎親知、2人目は養父である清水清太郎親春、3人目は島根県宇龍港で前原一誠を捕縛した島根県吏。

関連項目
長州藩の家臣団
向山文庫
正義霊社
難波覃庵  

参考文献
・「明治維新人名辞典」
1. 防長回天史 第,3(上)編 
2. 
国会図書館 学齢館 少年立志伝
3. 
孝明天皇の賀茂社行幸とその絵巻 
4. 
国会図書館所蔵 三十一豪傑列伝 殺気満紙. 2 P36 
5. 
国会図書館 靖献事蹟 : 山口県史略附録 下巻 
6. 
事實文編. 國書刊行會. (1910)
7. 
吉田松陰 (1934). 吉田松陰全集. 岩波書店
8. 
光市史 989ページ
(wikiより)

160 清水清太郎

清水清太郎

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時代江戸時代後期 - 明治時代
生誕文化13年11月3日1816年12月21日
死没明治24年(1891年7月1日
改名松平岩之丞→永井岩之丞(幼名)→尚志→介堂(法号)
戒名崇文院殿介堂日彰大居士
墓所東京都荒川区西日暮里本行寺
官位従五位下玄蕃頭主水正
幕府江戸幕府大目付若年寄
主君徳川家慶家定家茂慶喜明治天皇
氏族大給松平家永井氏
父母父:松平乗尹、母:側室
養父:永井尚徳
兄弟松平某室、女子、尚志
養兄弟:松平乗羨
養子:尚忠

永井 尚志(ながい なおゆき/ながい なおむね)は、幕末武士旗本)。昭和時代の作家・三島由紀夫の父方の高祖父にあたる。

生涯

文化13年(1816年11月3日三河国奥殿藩5代藩主・松平乗尹とその側室の間に生まれた。幼名を岩之丞、号を介堂といった。父の晩年に生まれた息子で、既に家督は養子の乗羨に譲っていたことから、25歳の頃に旗本の永井尚徳の養子となった。


嘉永
6年(1853年)、目付として幕府から登用される。安政元年(1854年)には長崎海軍伝習所の総監理(所長)として長崎に赴き、長崎製鉄所の創設に着手するなど活躍した。安政5年(1858年)にそれまでの功績を賞されて呼び戻され、岩瀬忠震と共に外国奉行に任じられた。そしてロシアイギリスフランスとの交渉を務め、通商条約調印を行なった。その功績で軍艦奉行に転進したが、直後の将軍後継者争いで一橋慶喜を支持する一橋派に組したため、南紀派大老井伊直弼によって罷免され、失脚した。


直弼没後の文久2年(1862年)、京都町奉行として復帰し、元治元年(1864年)には大目付となる。文久3年(1863年)の八月十八日の政変、元治元年(1864年)7月19日の禁門の変では幕府側の使者として朝廷と交渉するなど、交渉能力で手腕を発揮した。慶応3年(1867年)には若年寄にまで出世する。大政奉還においても交渉能力を発揮した。鳥羽・伏見の戦い後は慶喜に従って江戸へ戻り、徳川家の駿府転封が決まった後は榎本武揚と行動を共にして蝦夷地へ渡り、「蝦夷共和国」の箱館奉行に就任した。しかし、旧幕府軍は半年あまりの戦いの末、明治2年5月に降伏した。新選組隊士の田村銀之助が大正9年に史談会で語ったところによれば、最初に降伏したのが弁天台場の守備に当っていた永井らで、降伏後は五稜郭の榎本らにも頻りに降伏の勧誘を行っていたという[1]


明治
5年(1872年)、明治政府に出仕し、開拓使御用係、左院小議官を経て、明治8年(1875年)に元老院権大書記官に任じられた。


明治24年(1891年)7月1日に死去した。享年76。

年譜
※日付は明治5年(1872年)までは旧暦
文化15年(1818年)5月13日 - 父・松平乗尹死亡のため、江戸麻布藩邸にて藩主の義兄松平乗羨のもとで養育される。
天保11年(1840年)- 旗本2,000石・永井尚徳の養子となる。幼名・岩之丞はそれまで通り称す。
弘化4年(1847年)4月16日 - 小姓組番士となる。
嘉永元年(1848年)- 昌平坂学問所学問吟味に合格。
・嘉永4年(1851年)2月 - 甲府徽典館学頭となる。
・嘉永6年(1853年
 ・7月20日 - 十番小姓組番頭・牧野筑後守忠直組進物番士より二番徒頭に異動。
 ・10月8日 - 目付に異動し、海防掛を兼帯し、砲台普請・大砲製鋳等を併せて担当する。
 ・11月7日 - 布衣に遇せられる。
・嘉永7年(1854年)4月5日 - 肥前国長崎駐在。
安政2年(1855年
 ・7月29日 - 長崎海軍伝習所総取締を兼帯。
 ・11月19日 - 従五位下・玄蕃頭に叙任。
・安政4年(1857年
 ・5月 - 江戸に帰府。
 ・12月3日 - 勘定奉行(勝手掛)に異動。江戸詰にて長崎御用を兼帯す。
・安政5年(1858年)7月29日 - 外国奉行に異動。
・安政6年(1859年
 ・2月24日 - 軍艦奉行に異動。
 ・8月27日 - 軍艦奉行を罷免され、隠居差控の処分を受ける。
文久2年(1862年
 ・7月5日 - 軍艦操練所御用となる。前年9月4日より田沼意尊が若年寄となっており、旗本管轄の若年寄の官職名と同一であることから内規に倣い、主水正(実父・松平乗尹が藩主時代に任官していた)に遷任。
 ・5月7日 - 京都東町奉行に異動。
元治元年(1864年
 ・2月9日 - 大目付に異動。
 ・6月23日 - 宗門改を兼帯。
・元治2年(1865年)1月11日 - 大目付を免じ、寄合となる。
 ・改元して慶応元年10月4日 - 再び大目付となる。
 ・10月27日 - 外国奉行長州御用掛を兼帯。
・慶応3年(1867年
 ・2月3日 - 若年寄格に異動。前年10月24日に若年寄・田沼意尊が御役御免となっていたため、若年寄格への異動に伴い玄蕃頭に還任。
 ・11月15日1867年12月10日) - 近江屋事件発生。
 ・12月15日 - 若年寄に異動。
・慶応4年(1868年) 戊辰戦争
 ・1月10日 - 従五位下・玄蕃頭の官位を剥奪。
 ・2月9日 - 若年寄は御役御免。
 ・2月19日 - 逼塞処分を受ける。
 ・改元して明治元年12月 - 蝦夷島政府における箱館奉行となる。
・明治2年(1869年)5月15日 - 降伏。
・明治4年(1871年)1月6日 - 特赦により出獄。
・明治5年(1872年
 ・1月12日 - 開拓使御用掛となる。
 ・1月19日 - 左院少議官に異動。
 ・4月15日 - 正六位に叙位。
 ・10月8日 - 左院三等議官に異動。(官制改革による)
・明治8年(1875年
 ・4月14日 - 左院三等議官を免ず。
 ・7月12日 - 元老院権大書記官となる。
 ・12月7日 - 元老院権大書記官を免本官、位記返上[2]
・明治24年(1891年)7月1日 - 従五位に昇叙。同日、死亡。享年76。死後、正五位に叙せられる。法号:崇文院殿介堂月影大居士。墓所:東京都荒川区西日暮里長久山本行寺

人物・逸話
・幼い頃から利発で読書が好きであったため師について経史を学び、独学で蘭学を修めた。泰西事情に通じていたという。その学才を伝えきいた永井能登守尚徳が、永井家の養子として迎えた。
長崎海軍伝習所では、勝麟太郎矢田堀鴻木下利義榎本釜次郎肥田浜五郎、他数十人を教えた。
戊辰戦争で幕府軍が敗れることを知っていたのに、最後まで忠誠を尽くして戦った忠臣として高く評価されている。また、旗本から若年寄に栄進したのは、異例のことである。一方、『越前藩小倉滞陣日記』によると、第一次征長戦争においては後から交渉に関わったにもかかわらず、毛利敬親を捕縛しさらし者にすることを主張し、交渉をまとめた征討総督の徳川慶勝らの面目を潰し、参謀の西郷隆盛に矛盾を指摘され論破されるという失態を犯しているという[3]ところからみて、政治的には旧態依然とした幕府中心主義から最後まで脱しきれなかった人物と見ることもできる。しかし、このような観点は表層的であり、永井の行動は長州藩の過激派を解体するプログラムに沿っており、寛典論を尾張藩との交渉において発言しているのは蘇峰の『国民史』でも明らかである。言い換えると役人らしく幕府の強硬派への釈明から薩摩の意見を容れるポーズを見せたというのが実相である。
・戊辰戦争では、息子(養子)・岩之丞と共に品川を脱出し、函館五稜郭に立て籠もり、共に戦った。
・養子である永井岩之丞の長女・夏子内務官僚平岡定太郎に嫁ぎ、その孫が平岡公威、すなわち作家の三島由紀夫である。つまり尚志は三島の養高祖父にあたる。
・尚志の子孫の集まる「桜木会」があり、年一度の親睦会が開かれ昭和45年(1970年)時には、270名の会員がいたという。三島由紀夫もその一員であり、親睦会に出席したこともあったという。
・孫の永井亨(経済学博士)は祖父・尚志について、「監察史となって長崎に出張しましたときオランダ人を雇い入れ長崎に海軍伝習所をつくったのであります。(中略)長崎奉行と意見が合わないのを独断でオランダ人からいろいろの技術や材料を入れて、長崎の飽ノ浦という所へ造船所を作った。これがいまの三菱造船所の前身であります。(中略)そのうちだんだん用いられまして、海軍奉行あるいは軍艦奉行外国奉行などいたしまして後に京都へ参り、京都で若年寄格にまでなりまして、守護職の松平容保(会津藩主)の下ではたらき、近藤勇土方歳三以下の新撰組の面々にも人気があったと伝えられています」[4]と語っている。また、尚志の晩年については、「向島の岩瀬肥後守という、若くして死にましたが偉い人物がおりました。その人の別荘に入り、その親友の岩瀬を邸前に祭って死ぬまで祀をたたず、明治二十四年七月一日に七十六歳で死んでおります。私は数え年十四の年でしじゅう遊びに参っておりましたのでよく覚えております」[4]と語っている。
・孫の大屋敦(元住友本社理事、日銀政策委員)は、「軍艦奉行として日本海軍の創設者であったゆえをもって、烏帽子直垂といったいでたちの写真が、元の海軍記念館に飾られていたことを記憶している。(中略)そういう波乱に富んだ一生を送った祖父は、政治家というより、文人ともいうべき人であった。徳川慶喜公が大政奉還する際、その奏上文を草案した人として名を知られている。勝海舟なども詩友として祖父に兄事していたため、私の昔の家に、海舟のたくさんの遺墨のあったことを記憶している」[5]と語っている。
・三島由紀夫は映画『人斬り』(監督・五社英雄)に薩摩藩士・田中新兵衛の役で出演した際のことを、友人・林房雄宛の書簡(1969年6月13日付)の中で、「明後日は大殺陣の撮影です。新兵衛が腹を切つたおかげで、不注意の咎で閉門を命ぜられた永井主水正曾々孫が百年後、その新兵衛をやるのですから、先祖は墓の下で、目を白黒させてゐることでせう」と記している[6]
・田中新兵衛が姉小路公知暗殺の嫌疑で捕縛された時の京都町奉行は、永井尚志であったという。[7]

系譜については、『永井尚志ウィキペディア』をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E4%BA%95%E5%B0%9A%E5%BF%97

登場作品
新選組! (2004年 NHK大河ドラマ 演:佐藤B作)
新選組!! 土方歳三 最期の一日(2006年正月時代劇 演:佐藤B作)
龍馬伝 (2010年 NHK大河ドラマ 演:石橋蓮司)
青天を衝け(2021年、NHK大河ドラマ、演:中村靖日
幕末相棒伝(2022年、NHK正月時代劇、演:杉本哲太

脚注
1.「田村銀之助君の函館戦争及其前後に関する実歴談」(原書房版『史談会速記録』第40巻)
2. 『国立公文書館所蔵 勅奏任官履歴原書 上巻』279頁。
3. 参照『越前藩小倉滞陣日記』
4.  a b 『永井亨博士回顧録 思い出話』
5. 私の履歴書 第22集』(日本経済新聞社、1964年)、『私の履歴書 経済人7』(日本経済新聞社出版局、1980年)
6. 『決定版 三島由紀夫全集第38巻・書簡』(新潮社、2004年)
7. 『三島由紀夫 vs.司馬遼太郎 戦後精神と近代』P.85
8. 永井氏系譜(武家家伝)

参考文献
大日本近世史料『柳営補任』、戸川安宅(残花)『旧幕府(合本一)』原書房所収の第五号記載の『永井玄蕃頭伝』
越次倶子『三島由紀夫 文学の軌跡』広論社、1983年。
福島鑄郎『再訂資料・三島由紀夫』朝文社、2005年。
安藤武『三島由紀夫「日録」』未知谷、1996年。
私の履歴書 経済人7』日本経済新聞社出版局、1980年。
我部政男・広瀬順晧編『国立公文書館所蔵 勅奏任官履歴原書 上巻』柏書房、1995年。
(wikiより)

n2

⇧ 永井尚志

n1




時代江戸時代末期(幕末) - 明治時代
生誕弘化2年(1845年)9月
死没明治40年(1907年5月25日
改名鍵之丞(幼名)→尚忠(
別名誠斎(号)
戒名瑞雲院殿尚忠日順大居士
墓所東京都荒川区西日暮里本行寺
官位従四位勲三等
幕府江戸幕府
氏族三好氏永井氏
父母父:三好長済、養父:永井尚志
兄弟三好悌三郎岩之丞三好晋六郎
松平頼位の三女)
永井壮吉平岡夏子平岡定太郎妻)、永井亨永井啓永井繁大屋敦、鐘、愛、千恵(横山英太郎妻)、清子、文子

永井 岩之丞
(ながい いわのじょう)は、幕末幕臣明治期の裁判官(大審院判事)。三島由紀夫の曾祖父にあたる。

生涯

三好為三の子孫である700石取りの幕臣・三好長済(山城守幽雙)の次男として生まれ、旗本永井尚志玄番頭)の養子となる。


戊辰戦争
では養父と共に蝦夷地へ脱走し、函館五稜郭に立て籠もって戦った。


明治
5年(1872年)7月7日、常陸宍戸藩主・松平頼位の三女・鷹(のちに高)と結婚し、六男六女を儲ける。


明治6年(1873年)7月、司法省十等出仕を命ぜられる。明治13年(1880年)5月1日、判事。明治16年(1883年)1月、控訴院判事。明治27年(1894年)4月、大審院判事。


明治40年(1907年)5月25日、下谷区上野桜木町の自宅で死去。享年63。


栄典
1886年(明治19年)7月8日 - 従六位[1]
1904年(明治37年)2月10日 - 従四位[2]

人物
六男の大屋敦(元住友本社理事、日銀政策委員)は、父・岩之丞について『私の履歴書』(日本経済新聞 1964年に連載)の中で、「父は融通など全くきかぬ厳格そのもののような人だった。子供の教育については、なにひとつ干渉しなかったが日常の起居は古武士のようであぐらなどかいた姿を、ただの一度も見たことはなかった。当時の判事は行政官に比べるときわめて簿給で、それで十二人の子女を養わねばならなかったから、当然清貧であった。私どもと同じ上野桜木町に住む父の実弟三好晋六郎は日本の造船界黎明期の権威者で、東京帝大教授であり、産業界にも深いつながりを持っていた関係で、今の大学の先生など想像のできぬ豊かな暮らしをしていたが、兄弟仲はすこぶるむつまじかったようである」[3]と語っている。

家族・親族
父・三好長済(山城守幽雙)(幕臣)
・養父・永井尚志旗本玄番頭
・長男・永井壮吉海軍中佐
・二男・永井亨経済学博士、人口問題研究所所長)
・三男・永井啓第一銀行監査役
・四男・永井繁東洋リノリューム社長)
・五男・高校生の時に急逝(京都三高の学生時、スペイン風邪で死去)
・六男・大屋敦住友本社理事、日銀政策委員)
・長女・夏子(なつ)(内務官僚平岡定太郎に嫁ぐ)
・二女・
・三女・
・四女・千恵電波研究所長・横山英太郎に嫁ぐ)
・五女・清子
・六女・文子

・孫
 壮吉の子:多喜子衆議院議員岡田五郎に嫁ぐ)、稔子永井隆

 夏子(なつ)の子:平岡梓農商務官僚)

 亨の子:永井良(明石合金)、永井弘日本通運健保常務理事)、久子志子信子保子礼子

 啓の子:細谷省吾(娘・悠が伊勢丹社長・小菅丹治に嫁ぐ)、永井彰(新家電工業取締役)、永井保彫刻家)、永井治石川島播磨設計課長)

 繁の子:恵美子永井基住友軽金属常務)、永井三明同志社大学教授)

 の子:大屋宏住友金属鉱山取締役)、純子大屋薫東芝音楽工業邦楽部長)、千枝子大屋韶日本板硝子ガラス課長)

 鐘の子:磯崎隆吉海軍造船少将)、磯崎勉東急自動車社長)、磯崎叡国鉄総裁)、京子磯崎迪三菱商事鹿児島支店長)、澄子

 愛の子:加代子豊沢通明

 千恵の子:喜美住友銀行専務取締役・伊部恭之助に嫁ぐ)、
 
 清子の子:
田中泰(互栄酵素代表者)、博子静子和子

 文子の子:渡辺篤二農林省食品栄養部長)、渡辺文治東芝音楽工業)、久子重子

・曾孫・平岡公威(作家、筆名:三島由紀夫)、平岡美津子平岡千之外交官)、その他

系譜については、「永井岩之丞ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E4%BA%95%E5%B2%A9%E4%B9%8B%E4%B8%9E

脚注
1. 『官報』第907号「賞勲叙任」1886年7月10日。
2. 『官報』第6181号「叙任及辞令」1904年2月12日。
3. 『私の履歴書 第22集』(日本経済新聞社、1964年)、『私の履歴書 経済人7』(日本経済新聞社出版局、1980年。
4
永井氏系譜(武家家伝)

参考文献
越次倶子『三島由紀夫 文学の軌跡』(広論社、1983年)
福島鑄郎『再訂資料・三島由紀夫』(朝文社、2005年)
安藤武『三島由紀夫「日録」』(未知谷、1996年)
・『私の履歴書 経済人7』(日本経済新聞社出版局、1980年)
・安藤武『三島由紀夫の生涯』(夏目書房、1998年) 64-65頁
(wikiより)


n1



遠江国横須賀藩三万五千五石で、城中で将軍に諸事を取り次ぎ、礼式を管理した奏者番の職にあった西尾隠岐守の抱屋敷です。


敷地はおよそ一万三千坪あり、津軽家上屋敷がおよそ八千坪といいますから、その一.六倍はあったことになります。


当時、周辺は押上村、小梅村と称され、長閑な田園地帯が広がり、その中に寺社仏閣が点在していました。


内河川が発達していたことから四季折々の変化を舟で楽しむ江戸市民の人気の行楽先でした。


しかし、夜ともなると、明かりもめったに見えない実に寂しい土地となり、大名の下屋敷は博奕場に変わり、盗賊の盗人宿も加わって、脛に疵持つ者が身を隠す格好の場所になります。


鬼平犯科帳では、賭場や盗人宿への経路としてたびたび登場します。
(案内板より)


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平岡 円四郎(ひらおか えんしろう、1822年11月20日文政5年10月7日〉- 1864年7月19日元治元年6月16日〉)は、日本武士一橋家家臣・家老並)。徳川慶喜小姓を務めた。は方中。

生涯

旗本岡本忠次郎の四男として生まれ、16歳の時に旗本・平岡文次郎の養子となる。昌平坂学問所にて学問所寄宿中頭取(学生寮の寮長)に就任するなど若い頃から聡明だった。だが、人づきあいが苦手な性格が災いしてか「武術鍛錬のため」と2年ほどで学問所を辞めてしまう。その後10年近くは定職につかずにいたが、一時的に町方与力の助手をしたりすることはあったという[2]


徳川慶喜
(一橋家相続及び改名前は松平昭致)が一橋家に入った際、父親の徳川斉昭は慶喜に諍臣が必要と考え藤田東湖にその人選を依頼。平岡の才能を認めていた川路聖謨や藤田から同家の小姓として推薦され、慶喜に仕えることとなった[2]安政5年(1858年)に徳川家定将軍継嗣をめぐっての争いが起こったときには、平岡と中根長十郎(一橋家家老)は主君の慶喜を将軍に擁立しようと奔走したが、将軍には徳川慶福紀州藩主)が擁立されてしまい、失敗する。しかも直後の安政の大獄では、大老井伊直弼から一橋派の危険人物として処分され、小十人組に左遷された。安政6年(1859年)、甲府勝手小普請にされる。


文久
2年(1862年)12月、慶喜が将軍後見職に就任すると江戸に戻る。文久3年(1863年)4月、勘定奉行所留役当分助となり、翌月一橋家用人として復帰した。この年、慶喜の上洛にも随行している。京都で慶喜は公武合体派諸侯の中心となるが、裏で動いているのは平岡と用人の黒川嘉兵衛と見なされた[注釈 1]。慶喜からの信任は厚く、元治元年(1864年)2月、側用人番頭を兼務、5月に一橋家家老並に任命される。6月2日には慶喜の請願により大夫となり、近江守に叙任される[4]。その2週間後の6月14日、渡辺甲斐守の宿所から御用談所へ向かう途中、京都西町奉行所付近[5]にて在京水戸藩士江幡広光林忠五郎らに襲撃され暗殺された。平岡に同行し暗殺者を倒した川村恵十郎によると、一人に背後から頭へ、一人に腰へ一刀づつ斬り付けられ即死だったという[6]享年43。


遺体は京都で荼毘に伏せられ、本所本久寺に葬られた。法号は養忠院殿徳孝日浄大居士。なお、円四郎自身の墓石は関東大震災後の特設墓地造営により失われており、東京大空襲においても同寺は被害を受け、現在はその名前は見ることはできないがコンクリート製の"平岡家之墓"に同族の平岡煕平岡養一などと並んで葬られている。

評価
平岡の推薦で一橋家の家臣に取り立てられた経験を持つ渋沢栄一は後年、以下のように述べている。

この人は全く以て一を聞いて十を知るといふ質で、客が来ると其顔色を見た丈けでも早や、何の用事で来たのか、チヤンと察するほどのものであつた。然し、斯る性質の人は、余りに前途が見え過ぎて、兎角他人のさき回りばかりを為すことになるから、自然、他人に嫌はれ、往々にして非業の最期を遂げたりなぞ致すものである。平岡が水戸浪士の為に暗殺せられてしまうやうになつたのも、一を聞いて十を知る能力のあるにまかせ、余りに他人のさき廻りばかりした結果では無からうかとも思ふ。
 
                                    — 渋沢栄一『実験論語処世談』[7]


脚注
注釈
1. 「天下の権朝廷に在るべくして在らず幕府に在り、幕府に在るべくして在らず一橋に在り、一橋に在るべくして在らず平岡・黒川に在り」と評された[3]
2. 「二日 幕府、禁裏守衞総督德川慶喜權中納言・後征夷一大橋將軍ノ願意ニ依リ、其家家老並平岡方中圓四郎ヲ諸大夫ト為スニ敍ス近江守ト稱ス」

出典
1. 雨夜譚会談話筆記』 - デジタル版「渋沢栄一伝記資料」
2. a b 丸山淳一 (2021年6月2日). “堤真一さんが演じた平岡円四郎の志、渋沢栄一はどう引き継いだか”. 読売新聞. https://www.yomiuri.co.jp/column/japanesehistory/20210531-OYT8T50042/ 
3. 『朝日日本歴史人物事典』「平岡円四郎」(執筆者:井上勲
4. 『大日本維新史料稿本』コマ924[注釈 2]
5. 紀行第16回「東京都文京区/京都府京都市」大河ドラマ青天を衝け
6.  藤木喜久麿 (1940-06). “川村恵十郎日記より見たる青淵先生(上)”. 竜門雑誌 (621). 
7. 『実験論語処世談』2.平岡円四郎と藤田小四郎

参考文献
維新史料綱要データベース東京大学史料編纂所

  ・『大日本維新史料稿本』(維新史料編纂事務局編)

デジタル版「実験論語処世談」(渋沢栄一記念財団)

登場作品
テレビドラマ
・『雲を翔びこせ』(1978年 TBSドラマスペシャル 演:田村高廣

・『雄気堂々』(1982年 NHK時代劇ドラマスペシャル 演:児玉清

・『翔ぶが如く』(1990年 NHK大河ドラマ 演:永田博丈

・『徳川慶喜』(1998年 NHK大河ドラマ 演:新井康弘

・『西郷どん』(2018年 NHK大河ドラマ 演:山田純大

・『青天を衝け』(2021年 NHK大河ドラマ 演:堤真一

外部ドラマ
平岡円四郎』 - コトバンク
(wikiより)

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次席家老。

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伊藤小左衛門累代墓。


伊藤小左衛門父子哀悼碑。

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寛永十五年二月二十二日没。
(案内板より)

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竹中半兵衛 ~ 重門 ~ 重次


慶長十七年、十三歳にて長政公仕える。


万治四年四月十四日没 六十二才。
(案内板より)

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鎌田九郎兵衛昌信の墓。


元禄三年八月二十九日没。

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黒田家家老。


鎌田八左衛門昌勝の墓。


寛文九年十月六日没。

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西村文助の墓。

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宮崎織部安直の墓。


寛永八年十月十六日没。


秋月藩家老。


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伊丹九郎左衛門氏親の墓。


雪峯宗伯居士。


寛永十四年十二月二十九日没。


直方藩家老。

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伊丹九郎左衛門氏親の墓。


雪峯宗伯居士。


寛永十四年十二月二十九日没。


直方藩家老。

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吉田壱岐繁成の墓。


元和七年九月三日没。


黒田二十四騎の一人、吉田長利の子で、中津城で宇都宮鎮房 ( 城井鎮房 ) を謀殺した際に、鎮房に酌をした人物だそうです。

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黒田二十四騎の一人、大譜代 : 竹森石見次貞


父の代から黒田家に仕え、数々の武功を挙げますが播磨別府城攻めで左腕を斬られ不自由になって以降は旗奉行を務めています。


竹森家は代々黒田家の旗奉行を勤めた。

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三代藩主、光之公息男


黒田左兵衛 ( 宗玉 )


寛文三年四月九日没。

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幕末の勤皇の志士 加藤司書公 ( 墓所 )

加藤司書公は、天保元年 3月 5日城門前上の橋堀端で出生。


加藤家 11代当主として 2800石の家督を継ぎ、中老職となる。


先祖の加藤重徳は、荒木村重のため地下牢に投じられた黒田如水 ( 官兵衛 ) を救出した功で代々中老職に列せられる。


重徳次男の一成は、甘木三奈木 16000石を賜り、黒田 24騎の一人として活躍した。


司書 24歳の嘉永 6年 ( 1853年 ) 7月ロシア海軍プチャーチンが来港した時、藩兵 500余人を指揮し長崎を警護、 同艦隊を無事国外に立ち去らせ、異国との紛争回避に努力した功績は多大であった。


次に長州征伐解兵のために活躍した。


元治元年の池田屋事件・禁門の変、更に幕府は、前尾張藩主徳川慶勝を総督として 36藩を動員し、 長州を討とうとした為、長州征伐まで戦火が拡大した。


この時広島に各藩の藩兵が参集、司書は黒田藩を代表し薩摩の西郷と共に長州の恭順を条件に長州征伐の解兵を成功させた。


司書はこの時の成功を喜び、広島の宿において作った今様は、次の通りである。


皇御国すめらみくにの武士つわものは いかなる事をか勤むべき ただ身にもてる 赤心 ( まごごろ ) を君と親とに盡 ( つく ) すまで


その後長州にいた五卿を九州太宰府延寿王院に請じ、太宰府は五卿を中心に尊王運動の策源地とする薩・長・筑三藩連合を打ち立てた。


次に司書は、諸外国侵攻の危機を解消するため、万一の場合藩主を鞍手郡犬鳴の別館に移すべく工事を急いだが、この事が佐幕派の人々の扇動により反逆の疑いをかけられ、 遂に慶応元年 ( 1865年 ) 十月乙丑 ( いっちゅう ) の獄 ( ごく ) の大弾圧となり、 切腹を命ぜられ、36歳をもってその生涯を終わった。


司書公の霊は、加藤家の菩提寺節信院に眠る。
(案内板より)


 漢数字は、英数字にしました。


〇 加藤司書
加藤 司書(かとう ししょ)は、江戸時代末期(幕末)の武士福岡藩家老。筑前勤王党首領格。名は三太郎、家督を継いで徳成(のりしげ)と改めた。月形洗蔵らとともに勤皇派の中心人物として活躍した。

生涯

文政13年3月5日(1830年3月28日)、福岡藩中老職の加藤家9代当主加藤徳裕側室の尾形友花との間に生まれる。


天保
11年(1840年)に遠縁である大老職の三奈木黒田家からの養子だった加藤家10代当主の義兄加藤徳蔵(黒田溥整)が実家に復籍して三奈木黒田家の家督を継いだことで当時11歳の司書が加藤家11代目2800石の家を継ぎ、福岡藩中老の位列に加えられる。


嘉永6年(1853年)7月、ロシアエフィム・プチャーチン長崎に来航した際、長崎港警備を勤めていた福岡藩は会議の末、藩主黒田長溥は司書に命じて、藩士約500人を率いて長崎沿岸の警護にあたらせる。司書は幕府外国奉行の川路聖謨に助力し、黒船の艦長達の対応に当たる。水と炭を求める相手側に対し、水のみを与える対応をした。


安政
3年(1856年)、司書は藩の執政に就任し、義兄の後押しもあり尊皇攘夷派の中心人物となる。


安政4年(1857年)、蘭癖大名と呼ばれ世界情勢や軍事事情に詳しい藩主・長溥は、現状のままの装備では今日の情勢に通用せず、洋式兵制の導入の必要性を藩士たちに説いた。しかし、司書ら攘夷派は西洋調練を嫌い、藩内の尊皇攘夷派、筑前勤王党、三十九派の砲術師範らは結束して藩への洋式兵制を拒否した。薩摩、長州、佐賀、久留米など新進の藩が富国強兵を目指し洋式兵制を取り入れている時期に、福岡藩は戦国時代の装備のまま取り残される事になる。司書は蘭学振興や洋式兵制の必要性を説く長溥を「殿様は愚昧だから」と切り捨て、蘭学を無視して国学に傾倒し、尊皇攘夷を唱えた。


元治
元年(1864年)7月、司書は以前に担当した製鉄事業で注目していた犬鳴谷に有事の際に藩主を匿う避難所の建設を提案、黒田長溥もこれを承諾し、犬鳴御別館の建設が始まる。その後、京都で起こった禁門の変に際し、福岡藩は藩兵約500人を禁裏守護のため京都へ派遣することになり、司書がこれを率いて福岡を発したが、直後に第一次長州征討が決まった為、派兵は中止となり福岡に引き返した。


11月、高杉晋作筑前入りした際に野村望東尼の住む平尾山荘で月形洗蔵早川養敬中村圓太らと共に会合し、七卿の九州下りと薩長両藩の融和などを話し合う。


12月、第一次長州征討に際し、司書ら勤王派は黒田長溥の命を受け、長州周旋に当たる。司書は建部武彦、月形洗蔵、早川養敬らを連れ、幕府軍の本陣があった広島まで赴き、成瀬正肥田宮如雲とに密かに接見し交渉した。その後、広島城の大広間にて藩代表による作戦会議に参加し、薩摩藩西郷吉之助と共に総督徳川慶勝に謁見にした。司書は藩主・長溥が総督に宛てた「外国艦隊の脅威を前に国内で戦っている時ではない、国防に専念すべし」という親書を提出し、現状を細かに説明した上で「今は挙国一致を以て外敵の襲来に備えるべし。」と進言した。その後も二人は懲罰案や譲歩案などの建議書を提示して交渉し、総督に征長軍解散を決めさせることに成功する。


征長軍解散の結果、長州藩の三家老(国司親相益田親施福原元僴)の切腹のみで決着することとなった。この結果に感激した司書は宿舎に戻った時に筑前今様を書き留め、その場で2度歌った。


皇御國すめらみくに武士もののふはいかなる事をか勤むべき、只身にもてる赤心まごころを君と親とに盡すまで


また勤王派はこの時、長州にいた三条実美ら五卿を説得し、大宰府延寿王院に移したことで、筑前太宰府は勤王志士達のメッカとなり、坂本龍馬中岡慎太郎も大宰府へ五卿を見舞いに訪れている。司書達は西郷吉之助や高杉晋作と密談を行い[1]薩長同盟の実現に向けて活動し、福岡藩は尊皇攘夷の急先鋒とされ筑前勤王党の知名度も飛躍的に上がることとなった。


慶応
元年(1865年)2月11日、司書は征長軍解兵の功績を賞じられ、家老に昇進した。黒田播磨が藩主長溥や子の長知の反対を押し切って実現したものであり、佐幕派の3家老が一斉辞任して対抗するなど対立が強まった。勤王党の面々が藩の要職となり、藩主の側用人を廃止し長溥に直接要求を主張するなど勢いに乗った司書は、藩論を公武合体から尊王攘夷へと転換すべく、そのために宗教は一藩神道とし、邪教の仏教は廃止、寺院の打ち壊しを説くなど性急に藩政改革を進める。5卿の太宰府転座で全国の浮浪浪士が警備の名目で太宰府に集まっており、無法の彼らを背景にした筑前勤王党は増長し、横暴さを増していった。


藩主の専制権をも侵し始めた勤王党に対し、長溥が反撃に出る。勤王党と保守派を対決論争させ、「公武一和」を主張する保守派の意見を藩是とすることにした。


5月、筑前勤王党は加藤派と月形派に分かれて内紛を起こすようになっており、暴走していた勤王党員が「司書は優柔不断な藩主を幽閉し、長州周旋に奔走し、長州藩主毛利敬親と面識のある黒田長知を擁立して、佐幕派を排除し実権を握ろうとしている。」と言い回った。これまでの勤王党の活躍を面白く思ってなかった佐幕派はこの事を聞き、司書を非難し長溥に報告した。


さらに幕府が長州再征討を決めた為に勤王派の周旋活動の功績が否定された結果、佐幕派が復権し、形勢が逆転となって勤王派弾圧の動きが強くなった。


これに対して、加藤司書も黒田溥整と連名で「上下一致、人心一和して過激を抑え因循を奮発することが肝要である。」という内容の建白書を提出したが、長溥はこれに激怒して側近らに命じ、司書ら勤王党の陰謀を目付に調べさせる。


5月24日、司書は家老の職を三ヶ月で辞任した。6月、追い込まれた勤王党の人物から司書らのクーデター計画が注進され、6月20日、長溥は直書を発して勤王党の一斉断罪を命じる。これにより勤王派140人余りが逮捕・監禁され、その中でも加藤司書以下7名が切腹、月形洗蔵以下14名が桝木屋で斬首、野村望東尼以下15名が流罪の大粛清に至る(乙丑の獄)。


慶応元年(1865年)10月25日天福寺にて切腹享年36。「君かため盡す赤心まごころ今よりは 尚いやまさる武士の一念」と辞世の句を残した。


福岡市
博多区聖福寺塔頭寺院 節信院に墓がある。

没後

乙丑の獄により夫の司書と兄の建部武彦を同時に亡くした妻の安子はその後 病に倒れ、司書の死から7ヶ月後、絶食の末に亡くなった。


長男の堅武と次男の大四郎は藩から家督を継ぐ事を許されず、野村市之丞を次女の婿養子に迎え、徳行と名を改めた。


明治
10年(1877年)3月27日、堅武はかつて司書と共に謀った西郷隆盛が起こした西南戦争に呼応し、従兄弟である武部小四郎らと共に福岡城を襲撃するために平尾山にて挙兵し、福岡の変を起こした。福岡の変には大四郎と徳行も参加した。しかし官軍と警官隊に挟撃され、敗走した後に小隊長だった堅武は捕らえられ斬罪に処され、大四郎と徳行も逮捕された。その後、大四郎は釈放されたが、徳行は獄中で病死した。処刑時の福岡県令だった渡辺清 (政治家)は堅武の未亡人チセ(母里太兵衛十代目の娘)を後妻とした[2]。大四郎は釈放されたが若死にし、子の輔道は加藤家の菩提寺である節信院の親寺聖福寺に預けられ、節信院の住職となった[3]

明治24年(1891年)、正五位を追贈された[4]

人物

父親・加藤徳裕教育厳格であり、6歳で初めて書を読み、7歳から武を学んだ。成長するにつれ文武両道に磨きがかかり、周りから将来を嘱望させられていたという。司書は力が強く、相撲においては藩内で誰も敵わなかったとされており、武術剣術槍術のみならず、弓術馬術も堪能であった。


また司書は非常に負けず嫌いでもあったとされている。重臣中の若者達が集まって、蝋燭の火を碁盤で消せるかどうかを話ていたときに司書は何も言わず、帰宅後に一睡もせずに碁盤で蝋燭の火を消す練習をした。後日、話していた重臣達を自宅へ呼んで、碁盤で蝋燭の火を消して見せた。一同は司書の腕力の強さに驚嘆するよりも、その負けず嫌いの強さに驚嘆したという。


他にも捕魚の術を全く知らなかった司書は、網打ちに出掛けても自分は打たずに漁師が捕ったものを貰っていたが、ここでも網打ちの上手い下手の話になり網打ちが出来ない司書は黙って聞いていた。そして司書は帰宅後、家人が寝静まった後に庭を海と見立てて、縁側で網打ちの稽古を夜な夜な続けた。そして休日に網打ちの自慢していた重臣達と海に出た。各自網を打ちながら「司書殿は網を打てぬでお気の毒」と言われた司書は立ち上がり、手捌きも鮮やかに網を打ち、その網の中は大漁だったという。網打ちが出来ないと笑った一同は驚いて理由を聞くと、毎晩網打ちの稽古をしていたと聞かされ、改めて負けず嫌いな性格に驚嘆した。


また司書は非常に大食いであったとされる。礼節を尊ぶ茶席懐石料理は好まず、食材が沢山入った鍋料理を好んでいた。ある時に侍女の実家に立ち寄った際に合鴨三羽入った煮物を悠々と平らげたという。また、勤王党の同志であり長女の夫の河合茂山の家を訪ねた際も、二分のを平らげたという。


長崎警備で長崎に出張した際、長崎奉行は酒の席で最初に五入りのを饗したが、司書は一気に飲み干した。奉行は更に八合入りの盃を差し向けるとこれも一気に飲み干した。最後に一盃に入れて差し向けると辟易せずにこれを一気に飲み干した様を見て、奉行や周りの人々は司書の大酒に驚いたとされている。

エピソード
1854年、黒田長溥に製鉄事業を任され、外部への見つかり難くさ、製鉄と運搬の効率を考えた結果、深山幽谷であり木炭の生産地であった建部武彦の知行地の犬鳴峠犬鳴谷村(現在の宮若市犬鳴)を選び、犬鳴日原鉄山を開業させた。これは木炭を別の場所へ運ぶより、砂鉄を犬鳴谷に運んだ方が効率が良いとされたためである。さらに1865年、有事の際に福岡藩主が避難する場所として犬鳴御別館を建てさせた。犬鳴日原鉄山や犬鳴御別館の建設により、旧犬鳴村周辺は加藤司書ゆかりの地として、1994年に建設された犬鳴ダムのダム湖には公募の結果「司書の湖」という愛称が付けられているほか、ダム湖より犬鳴川源流側に「司書橋」、福岡県道21号福岡直方線上には「新司書橋」があり、新司書橋の近くのJR九州バス直方線バス停の名前は「司書橋」となっている。また、犬鳴のある若宮町(現宮若市)には「司書太鼓」という太鼓演奏の団体も存在する。犬鳴御別館は現在では石垣の一部とその後に作られた陸軍大将荒木貞夫題字の加藤司書忠魂碑のみが残る。


今様「皇御国(すめらみくに)の武士(もののふ)」の作者である。この歌は前の小学校唱歌軍歌黒田節の一節として知られる。


戦前までは西公園に司書の銅像が建てられていたが、戦時特例により供出され、現在では台座が皇御國の歌碑として残されている。


福岡市中央区桜坂1丁目にはいまもその邸宅跡が残っている。

系譜
・司書の家系である福岡藩重臣の加藤家の家祖は福岡藩祖である黒田孝高有岡城の戦い荒木村重により有岡城幽閉された際に、世話をして救出の手引きをした有岡城牢番の加藤重徳とその長男の加藤吉成である。重徳の家系は摂津国の豪族の藤原北家利仁流加藤氏支流とされる伊丹氏であり、有岡城(伊丹城)落城後は宇喜多家小西行長の家臣となったが、関ヶ原の戦いの後に浪人を経て、福岡藩初代藩主黒田長政に父・孝高救出の功績が認められて加藤家は代々重臣となった。なお、司書の義兄の徳蔵の実家である三奈木黒田家の祖黒田一成は重徳の次男であり、吉成の実弟である。

脚注
1.  石蔵酒造の歴史と博多百年蔵 、2015年7月29日閲覧
2. 『現代華族譜要』 維新史料編纂会編、日本史籍協会、1929, p717
3. 加藤司書西日本シティ銀行、平成2年5月
4. 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.7

参考文献
・『加藤司書傳』全頁 1929年

・『福岡県史 第二巻上冊』253 - 254頁 1963年

川添昭二『新訂 黒田家譜』1984年

田中健之『靖国に祀られざる人々 -名誉なき殉国の志士たちの肖像-』66 - 69頁 2013年

・『アクロス福岡文化誌9 福岡県の幕末維新』47頁 2015年
(wikiより)

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時代安土桃山時代
生誕天正10年(1582年
死没慶長2年(1597年
墓所

崇福寺福岡市博多区

圓應寺
氏族黒田氏
父母父:黒田孝高(官兵衛・如水)
母:櫛橋光(幸圓、照福院。櫛橋伊定娘)
兄弟長政熊之助

黒田 熊之助
(くろだ くまのすけ)は、安土桃山時代の人物。黒田孝高の次男。

生涯

天正10年(1582年)、黒田孝高と正室の次男として播磨国姫路にて生まれる。兄に黒田長政がいる。


慶長
2年(1597年)7月、豊前中津城で留守中、兄、長政の朝鮮出兵(慶長の役)に加われなかったことを嘆き、中津城から抜け出し秘密裏に朝鮮へ渡る途中、が嵐にあい転覆、16歳で死去した。その時、一緒に船出した家臣の子、母里吉太夫母里友信嫡男)、加藤吉松黒田一成弟)、木山紹宅の3人も一緒に溺死した。死後、母の光は自身が創建した圓應寺福岡市中央区)に熊之助の霊を弔った。のち崇福寺(福岡市博多区)にも墓碑が建立された。

関連作品
軍師官兵衛2014年、演:佐藤陽大田中悠翔北村凌駕荒井雄斗今井悠貴
(wikiより)

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時代江戸時代前期 - 中期
生誕寛文7年6月26日1667年8月15日
死没享保5年2月23日1720年3月31日
改名平八(幼名)→長清
戒名龍湫院殿瑞林道祥大居士
墓所東京都港区南麻布の]の天真寺
福岡県直方市山部の雲心寺
和歌山県高野山奥の院
官位従五位下、伊勢
幕府江戸幕府
筑前直方藩
氏族黒田氏
父母父:黒田光之、母:市松姫小笠原忠真の娘)
兄弟綱之綱政長清
正室:賀留(小笠原長勝三女)
継室:伊予(小笠原長勝五女)
側室:宮井氏
利(佐竹義峯正室)、男子、継高

黒田 長清
(くろだ ながきよ)は、筑前直方藩(福岡新田藩)の藩主。黒田光之の五男。

略伝

寛文7年(1667年)6月26日、江戸麻布の藩邸に生まれた。元禄8年(1688年)、兄の綱政が本家の福岡藩を継いだとき、筑前鞍手郡内に5万石を分与され、福岡新田藩を立藩した。


綱政の死後、本家の家督はその子・宣政が継いだが、宣政は生来から病弱で政務を執れず、嗣子もいなかった。このため、長清の長男・継高がその養嗣子となり、長清は宣政の後見人となった。享保5年(1720年)2月23日、江戸麻布の藩邸にて死去した。享年54。


継高は本家を継いでおり、他に嗣子が無かったため、直方藩は廃藩となり、その所領は福岡藩に還付された。長清の供養塔が高野山奥の院にあるが荒廃し、現在は無残な姿となっている。
(wikiより)

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時代江戸時代前期
生誕寛永11年(1634年
死没寛文3年7月25日1663年8月27日
改名万吉(幼名)→政之(初名)→之勝
別名官兵衛(通称
戒名乾徳院殿高峯宗堅大居士
墓所東京都渋谷区広尾の祥雲寺
福岡県直方市山部の雲心寺
官位従五位下、市正右馬頭
幕府江戸幕府
筑前東蓮寺藩
氏族黒田氏
父母父:黒田忠之、母:養照院(坪坂十右衛門の娘)
養父:黒田高政
兄弟光之之勝
正室:松平定頼の娘
継室:池田輝興の娘)
娘、養子:長寛

黒田 之勝
(くろだ ゆきかつ)は、筑前東蓮寺藩の第2代藩主。福岡藩2代藩主黒田忠之の次男。

略歴

寛永16年(1639年)11月、叔父で東蓮寺藩主であった黒田高政が嗣子無くして死去したため、翌年に高政の養嗣子としてその跡を継いだ。しかし之勝も娘1人だけしか生まれず、寛文3年(1663年)7月25日に江戸麻布の藩邸にて死去した。享年30。


福岡藩3代藩主の兄光之の三男・長寛(後の福岡藩4代藩主黒田綱政)が養嗣子として跡を継いだ。
(wikiより)

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黒田 長政(くろだ ながまさ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将大名筑前国福岡藩初代藩主。


戦国武将・黒田孝高(官兵衛・如水)の嫡男九州平定文禄・慶長の役で活躍した。特に関ヶ原の戦いでは東軍につき大きな戦功を挙げたことから、徳川家康より筑前国名島に52万3千余の封を受け、福岡藩を立藩し初代藩主となった。長政も父の孝高と同じくキリシタン大名であったが、棄教した。

生涯
出生
長政は永禄11年(1568年)12月3日、黒田孝高と正室櫛橋光嫡男として播磨姫路城にて生まれる。幼名は松寿丸(しょうじゅまる)といった[2]。当時、この名前は縁起の良い名前として、武将の嫡子にはよくつけられた名前である。当時の黒田家は御着城主・小寺政職の家老として、小寺姓を賜って名乗っていたため、小寺吉兵衛とも呼ばれる。

織田家の人質時代

長政の父・孝高は中央の織田信長に伺候し、織田氏家臣の羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に従っていたが、天正5年(1577年)10月15日に孝高は秀吉に対して起請文を提出し、松寿丸を人質として秀吉に預けている。これは信長が播磨諸侯に人質の提出を命じたものの、主君の政職が嫡子・氏職が病弱であることを理由に、松寿丸を代わりに提出させたためとされる[3]


松寿丸は秀吉の居城・近江長浜城にて、秀吉・おね夫婦から人質ながら、我が子のように可愛がられて過ごしたという。この頃、別所重棟の娘と婚約しているが、のちに破談となった。


天正6年(1578年)、信長に一度降伏した荒木村重が反旗を翻した(有岡城の戦い)。父の孝高は、懇意であった村重を翻意させるために有岡城へ乗り込むも説得に失敗し逆に拘束された。この時、いつまで経っても戻らぬ孝高を、村重方に寝返ったと見なした信長からの命令で松寿丸は処刑されることになった。ところが、父の同僚・竹中重治(半兵衛)が密かに松寿丸の身柄を居城・菩提山城城下に引き取って家臣・不破矢足(喜多村直吉)の邸[注釈 1]に匿い、信長には処刑したと虚偽の報告をするという[注釈 2]機転を効かせた[1][要ページ番号][注釈 3]


有岡城の陥落後、父が救出され疑念が晴らされたため[注釈 4]、姫路へ帰郷した。

羽柴(豊臣)家の家臣として

天正10年(1582年)6月、本能寺の変で信長が明智光秀の襲撃によって自刃すると、父と共に秀吉に仕える。秀吉の備中高松城攻めに従い、初陣の冠山城の戦いなど中国地方毛利氏方と戦った(備中高松城の戦い)。


天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いでも功を挙げて、初めて河内国内に450石の領地を与えられる。


天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いでは大坂城の留守居を務め、雑賀衆根来衆菅達長率いる長宗我部水軍と戦った。その功績により、加増2,000石を与えられる。


天正15年(1587年)、九州平定において、長政自身は日向財部城攻めで功績を挙げた。戦後、父子の功績をあわせて孝高に豊前国中津に12万5,000石が与えられた。しかし豊前の国人勢力を懐柔するのは困難であった。その中の有力領主の一人・城井鎮房(宇都宮鎮房)は秀吉の出陣要請に対して、病気と称して自身は出陣せず、息子の城井朝房に僅かな手勢を付けて参陣させた。だが、このような鎮房の態度に秀吉は不信を抱き、以後の豊前国の治世の困難を憂慮して九州平定後、鎮房に伊予国への移封を命ずる。移封は加増を伴ったものであるが鎮房は先祖伝来の地に固執して朱印状の受け取りを拒否し、秀吉の怒りを買うに至る。


この期に及んでは穏便に事を修めることが不可能と悟った長政は城井谷を攻撃したが、地の利のある鎮房のゲリラ戦術に苦戦した。そこで黒田父子は付け城を築いて兵站を断つ持久戦法をとり、他の国人勢力を各個攻め下していった。これが功を奏し形勢は逆転し、鎮房は12月下旬に13歳になる娘・鶴姫を人質に差し出すことを条件に和議を申し出、それが受け入れられ鎮房は恭順を誓った。しかし、秀吉の承認を得ることは出来なかった。秀吉の承認を得ることができないと知った長政は、城井一族の誅伐を決心した。


天正16年(1588年)4月20日、長政は鎮房を中津城に招いたが、家臣団は城下の合元寺に留め置かれた。わずかな共の者と中津城に入った鎮房は、長政の手によって酒宴の席で謀殺された。そして黒田勢が合元寺に差し向けられ、斬り合いの末に城井の家臣団は全員が討ち取られた。さらに黒田勢は城井谷城に攻め寄せて陥落させ、鎮房の父・城井長房を殺害した。また、鎮房の嫡男・城井朝房は、黒田孝高に従い一揆鎮圧のため出陣していたが肥後国で孝高によって暗殺された。こうして城井氏の勢力の殲滅に成功した長政は、人質の鶴姫を13人の侍女と共に、山国川の畔、広津の千本松河原で磔にして処刑した[6][7]


天正17年(1589年)、父が隠居したために家督相続を許され、同時に従五位下、甲斐守に叙任した。

朝鮮出兵

文禄元年(1592年)から行なわれた文禄・慶長の役では渡海している。長政は5千人の軍役を課せられ、主将として三番隊を率いて一番隊の小西行長や二番隊の加藤清正らとは別の進路を取る先鋒となった。釜山上陸後は金海昌原、霊山、昌寧、厳風、茂渓津、星州、金山、秋風嶺永同、文義、清州、竹山を進撃して、5月7日に漢城へ到達した。5月初旬の漢城会議で黄海道を任された三番隊は、平安道担当の一番隊と共に朝鮮王宣祖を追って開城を攻略した。


6月15日、大同江の戦いでは朝鮮軍の夜襲を受け苦戦していた宗義智の軍勢を救援し、長政は負傷するも大いに奮戦し朝鮮軍を破った。


6月16日、敗退した朝鮮軍が放棄した平壌城を占領した。


6月下旬、黄海道の制圧に戻り、7月7日には海州を攻略した。


8月初旬、漢城会議での援軍を警戒して戦線を縮小して主要街道を固め、李廷馣の守る延安城を攻撃を行ったが落とすことが出来ず、以後黄海道の広範な制圧から転換して北方からの攻勢に対応するために主要街道沿いにある白川城・江陰城を守った。同じく三番隊の大友吉統は鳳山城・黄州城を拠点とした。


文禄2年(1593年)正月、中央から派遣された李如松率いる明の大軍が小西行長らの守る平壌城を急襲し、落城寸前の状態から撤退してきた小西軍を長政は白川城に収用した。漢城に集中した日本軍は碧蹄館の戦いで南下してきた明軍を撃破し、戦意を失った明軍と兵糧不足に悩む日本軍との戦いが停滞する中で、長政は幸州山城の戦いにも出陣した。


和平交渉が進み、日本軍は4月に漢城を放棄して朝鮮半島南部へ布陣を行った。6月には朝鮮南部の拠点である晋州城を攻略し(第二次晋州城攻防戦)、長政配下の後藤基次が先陣争いで活躍した。その後の南部布陣期の長政は機張城を守備する。


慶長
元年(1596年)9月、日明和平交渉は大詰めを迎え、秀吉による明使謁見で双方の外交担当者による欺瞞が発覚して交渉が破綻すると秀吉は諸将に再出兵を命じた。


慶長2年(1597年)7月、元均率いる朝鮮水軍による攻撃があり、反撃により漆川梁海戦で朝鮮水軍を壊滅に追い込んだ日本軍は、8月より主に全羅道から忠清道へ攻勢を掛けた。長政は再度5千人の軍役を課せられ加藤清正や毛利秀元らと右軍を形成して黄石山城を攻略し(黄石山城の戦い)、8月に全州で左軍と合流し、全州会議に従って各軍の進路を定めた。長政ら右軍は忠清道の天安へ進出した。日本軍の急激な侵攻を受けて、漢城では明軍が首都放棄も覚悟したが明軍経理の楊鎬が抗戦を決意し、派遣された明将の解生の軍と長政軍が忠清道の稷山で遭遇戦(稷山の戦い)となり、激戦の末に秀元の援軍もあり明軍を撃破し、数日間稷山に駐屯した。駐屯中の長政に対して、解生は白鷹を贈るなどして和議を求めた[1]。長政軍が稷山に至ると漢城では恐れ戦いた多くの人々が都から逃亡した[8][要ページ番号]。その後、長政は秀元、清正と鎮州で会議を行い、竹山、尚州慶山密陽を経て梁山倭城を築城して守備についた。


占領地を広げて冬営のために布陣していた日本軍に対し、12月末から経理・楊鎬、提督・麻貴率いる明軍が完成間近の蔚山倭城へ攻勢をかけ(第一次蔚山城の戦い)、加藤清正が苦戦すると西部に布陣していた日本軍は蔚山救援軍を編成して明軍を撃破した。長政はこの救援軍に600人を派遣しており、後にその不活発さを秀吉から叱責される。明の攻撃を受けた諸将は今後の防衛体制を整えるために蔚山倭城(最東方)、順天倭城(最西方)、梁山倭城(内陸部)の三城を放棄して戦線を縮小する案を秀吉に打診したが却下された。結局、長政の梁山倭城のみ放棄が認められ、以後撤退命令が出るまで長政は亀浦倭城へ移陣した。


慶長3年(1598年)8月18日、秀吉が死去し、日本軍が明軍を三路の戦いで撃破すると長政ら日本軍はそのまま撤退した。


このように朝鮮では数々の武功を挙げたが、同時に吏僚である石田三成や小西行長らと対立した。

関ヶ原の戦い

慶長3年(1598年)8月、秀吉が死去すると、三成ら文治派との路線対立から五大老徳川家康に接近し、先に結婚していた蜂須賀正勝の娘・糸姫と離別し、家康の養女の栄姫保科正直の娘)を新たに正室に迎えた。


慶長4年(1599年)閏3月、前田利家が死去すると、長政は福島正則や加藤清正ら武断派(いわゆる七将)と共に三成を襲撃した。この頃、根岸兎角ら優秀な鉄砲の遣い手を多数召抱えている。


慶長5年(1600年)、家康が会津の上杉景勝討伐(会津征伐)の兵を起すと家康に従って出陣し、出兵中に三成らが大坂で西軍を率いて挙兵すると、長政も東軍の武将として関ヶ原の戦いにおいて戦う。本戦では家臣の菅正利の鉄砲隊などを従え、切り込み隊長として西軍に攻撃を加え、三成の家老・島清興を討ち取り、さらに父・如水譲りの調略においても親戚でもあった平岡頼勝らを通じ、西軍の小早川秀秋吉川広家など諸将の寝返りを交渉する役目も務めている。それらの戦功により戦後、家康から御感状(福岡市博物館所蔵)を賜り、関ヶ原の戦い一番の功労者として子々孫々まで罪を免除するというお墨付きをもらい、筑前国名島に52万3,000余石のを与えられた。


江戸時代

慶長6年(1601年)、豊前国より筑前国に入府。海外貿易の大湊、博多大津(三津七湊)を要する筑前は古来より町人や禅僧の力が強い地であり、長政や家臣達は威力を示すために武装して入部した。これを『筑前お討ち入り』といった。当初入城した小早川氏の居城であった名島城は手狭で簡素な城であり、太守としては不便な土地であったことから、父・如水とともに新たな城を築城する。と並ぶ商人の街・博多の那珂川を挟んだ隣接地を選び、当初は福崎といったその地を、黒田氏ゆかりの備前国の故地からとって福岡と名付け、同年に着工し、

慶長11年(1606年)に福岡城は7年あまりで全体が完成。長政は初代福岡藩主となる。


慶長8年(1603年)、朝廷より従四位下、筑前守に叙任される。


慶長9年(1604年)、父・如水が京都伏見屋敷(または福岡城三の丸御鷹屋敷)にて死去した。如水はキリシタンであったため、葬儀はキリスト教カトリック式及び仏式で行われ、仏式では臨済宗京都大徳寺他にて大々的に取り行う。また、播磨国の鶴林寺においては、福岡藩の安寧と故地播磨をしのび大法要を行い、金銀を寄進した。


慶長10年(1605年)、藩領内の土地や住民に対し錠書を出す。


慶長11年(1606年)、長政は筑前入部に従い同行してきた商人・大賀宗九に対し徳川家康から海外貿易を行うための朱印状を受けさせる。宗九はこの貿易により巨万の富を築き以降、博多筆頭町人、福岡藩黒田家御用の地位を得、博多一の豪商となった。また、この年に亡父・如水の供養ために、京都の大徳寺山内に塔頭・龍光院を建立。

慶長17年(1612年)、嫡男の黒田忠之とともに上洛し、忠之は江戸幕府第2代将軍・徳川秀忠から松平の名字を与えられる[9]


慶長19年(1614年)、大坂冬の陣では江戸城の留守居役を務め、代理として忠之を出陣させる。徳川方によって長政の交流関係が調査され、徳川氏に対して繰り返し起請文を提出させられた[10]


慶長20年(1615年)、大坂夏の陣では秀忠に属して加藤嘉明とともに陣を張り、豊臣方と戦った。また、戦後、家臣の黒田一成に命じ、当時一流の絵師を集めて自らも参陣した『大坂夏の陣図屏風』(通称『黒田屏風』)を描かせたが、その絵の中には徳川軍の乱妨取りも詳細に描かれており、何故徳川方の長政が、味方の残酷極まりない有り様をこの大作に描かせたのか現在も論争が絶えない。同屏風は大阪市所有(大阪城天守閣保管)で、国の重要文化財に指定されている。


長政は藩主となって以降、数々の産業を奨励し博多人形博多織高取焼など伝統工芸の復興に力を入れ、現在に至るまで福岡の名産品となっている。


元和
9年8月4日(1623年8月29日)、長政は京都における黒田家の位牌寺・報恩寺の客殿寝所にて、56歳の生涯を終えた。徳川家光の三代将軍宣下の先遣として、早くに上洛していたが、既に病にかかっていた状態であった。


辞世は「此ほどは浮世の旅に迷ひきて、今こそ帰れあんらくの空」。


跡を長男の忠之が継いだ。生前の長政は、忠之の器量を心配して廃嫡を考えたこともあったが、重臣の栗山利章(大膳)にも諌められ、思いとどまった。そして利章に忠之の補佐を託して亡くなった長政だったが、後に忠之と利章が対立するお家騒動が勃発することになった(黒田騒動[11]

人物

・熟慮断行の気性であったとされ、父・如水はそれを優柔不断のように見たのか「自分はかつて小早川隆景に、物事の決断が早すぎるので慎重にしたほうがよいと言われたが、おまえはその逆だから注意しろ」との意味の言葉をかけたとも言われる。


・築城の名手であり、家臣には林直利など天才的な石工、石材加工の職人集団がおり、江戸城築城の際の天守台、本丸の石垣、福岡市の箱崎宮住吉神社、徳川家康を祀る日光東照宮の石の大鳥居(日本三大鳥居)、石塔、徳川期大坂城名古屋城の通称「清正石」など、さまざまな巨石の建造物を各地に残している。各地の石切場に多くの石丁場(石切丁場)を作り、有名な天狗岩丁場などがある香川県小豆島[注釈 5]のほか、福岡県糸島市、静岡県伊豆市、神奈川県真鶴町本小松石)などに遺跡がある。なお、日光東照宮には正室の栄姫(徳川家康の養女)も女性としては唯一、献灯篭を許されている。


・歴史学者の渡邊大門が唱える新説によれば、長政の父・孝高は天下取りも出来るほどの逸材だったとの評は、実は長政による宣伝であったという。長政の遺言書には、「自分と父は、関が原の戦いで天下を取ろうと思えば取れたが、父はほぼ九州を支配下においており、自分がいなければ徳川家は関ヶ原で勝てたかどうかわからない。徳川家に天下を取らせることが良いことだと思ったために、この程度で甘んじたのだ。家康公もそのことがよくお分かりだったので、実質的に100万石の領地を与えられ、将軍家の姫君が降嫁し、子々孫々まで罪を免除されたのだ」と大いに自己宣伝をしている。これを伝え聞いた黒田藩士の学者・貝原益軒らが『黒田家譜』において黒田孝高を持ち上げたために、孝高の逸話が多く作られたとされているが[誰によって?]それを証明する文書が無い等、この渡邊大門の新説に対する異論もある[誰によって?]。なお、長政の遺言書は黒田騒動の時に幕府に寛大な措置を求めるために用意されたとする偽作説も小説にあるが、こちらも定かではない[12]

詳しいことは、『黒田高政ウィキペディア』をご覧ください。⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E7%94%B0%E9%95%B7%E6%94%BF
(wikiより)

034 直方藩初代・黒田高政   黒糸威胴丸具足


⇧ 直方藩初代・黒田高政   黒糸威胴丸具足。


034 黒田高政

⇧ 黒田高政

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黒田高政の殉死者。
(案内板より)

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黒田高政の殉死者。
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黒田高政の殉死者。
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黒田高政の殉死者。
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黒田継隆の子の墓。
(案内板より)

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