本牧jack『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。
たまに『 多人数で取材しているのか? 』との質問を戴きますが、小生と相方の二人三脚で御座います。
出来るだけ続けたいと思っていますが 膝・耳に問題が有って、いつまで出来るやら・・・説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。
御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。 ※ 申し訳御座いませんが「画像の転用」は禁止とさせて頂きます。 コメントは原則公開させていただいております 質問等に対してはブログ記事で返信させていただきます 他の方法で連絡を取り合う等一切しません 場合によっては、「IPブロック」しますがブロックした場合解除する事は有りませんので宜しくお願いします。

カテゴリ: 将軍・春日局・大名・藩主・家老・側室・代官・家臣・旗本・武将関連

国選定 重要文化的景観「北魚目 ( きたうおのめ ) の文科的景観」

〇 柴田勝家子孫の居宅
立串集落は今から約 400年前の慶長年間に越前の柴田勝家の子孫が移住し、定着したことから現在の漁業集落としての基礎が作られました。

柴田家は当初、製塩などで生計を立てていましたが、網の権利を得るなどし、本格的に漁業に参入しました。

柴田勝家の四子・空性は出家し、文禄元年 ( 1592 ) 平戸の光明寺を開山しました。

勝家の長子・掃部頭の子は兄弟で空性を頼り、平戸の地へ渡りました。

兄は出家し名を了空と改め、光明寺の住職となりましたが、弟・勝厚は出家せず、漁業者として身を立てるべく、山田、木谷、蒲田、松下、福田、小賀氏従者 8人を従え慶長 18年 ( 1613 ) 上五島に渡り、藤ノ首に定住したといわれています。

8人の従者の事を「家来八軒」あるいは「八軒屋」と称され、現在も海岸沿いの住宅の配列にその面影が残されています。

また、後に領主からカマス網の権利を受け、従者にはカマス網の操業をさせるなど、主従の深いつながりは長く持続されていました。

現在の柴田家の家屋は近代になり建て替えられた建物ですが、集落の中では最も規模が大きいもので、立串集落の成り立ちを表す建物として、北魚目の文科的景観構成要素として指定されています。
(案内板より)

 家の画像については削除させていただきました。

⇩ 以下墓石以外にも多くの墓石が有りました。

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芳春尼:大村家家老富永因幡 ( いなば ) が五島来島のおり、江川町の娘との間に生まれた女性。

法名が「華顔院芳春大姉」とあるように美しい人であった。

細御寮が秀吉の命により五島を去った後、妾として盛長につかえ、第 22代盛利の母となった。

その他歴代藩主側室の墓があります。

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西館翫水 ( 1835 ~ 80、諱 : 建哲 ) は天保6年に弘前藩津軽家の藩士・高倉盛儀と津軽多膳娘の次男として生まれ、10歳で西館本家の養子となります。

家督を継ぐと諸役を歴任し、次第に藩主・承昭の信任を得て、慶応元年 ( 1865 ) に家老職に就任しました。

徳川幕府が倒壊し、慶応 4年に奥羽越列藩同盟が結成されると津軽藩もこれに加わりますが、京都出役西館孤清の活動により藩主が官軍支持に方針を変えると、翫水は藩主の意を受けて家中の説得にあたりました。

その結果、津軽藩は新政府から奥羽触頭に任命され、函館戦争の尖兵を務め、翫水は藩兵を率いて転戦しました。

明治 2年 ( 1869 ) の版籍奉還後、翫水は入れ札によって津軽藩大参事に就任しますが同 4年に職を辞し、同 11年には妻子を引き連れて東京に寄寓しました。

明治 13年 10月 29日に没し、長寿寺に葬られました ( 享年 46歳 ) 。

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時代戦国時代室町時代後期)
生誕大永元年11月3日[1]1521年12月1日
死没元亀4年4月12日[2][3]1573年5月13日)(53歳没[2][3]
改名太郎(幼名・通称)→晴信→機山(道号)→徳栄軒信玄(法号・法名)
別名勝千代[注釈 1]
戒名法性院機山徳栄軒信玄
墓所武田神社信玄墓大泉寺恵林寺諏訪湖長岳寺竜雲寺高野山、福田寺、妙心寺
官位従四位下[3]大膳大夫[3]信濃[3]
従三位
幕府室町幕府甲斐守護職・信濃守護職
氏族清和源氏義光河内源氏甲斐源氏嫡流武田氏
父母父:武田信虎
母:大井の方
兄弟竹松信玄犬千代信繁信基信廉信顕一条信龍宗智松尾信是河窪信実信友定恵院南松院殿穴山信友正室)、禰々花光院浦野友久室)、亀御料人大井信為正室)、女(下条信氏正室)、女(禰津常安室)、女(葛山氏室)、菊御料人菊亭晴季室)
正室上杉の方上杉朝興の娘)[4]
継室三条の方
側室諏訪御料人禰津御寮人油川夫人ほか
義信海野信親信之黄梅院見性院穴山梅雪室)、勝頼真理姫(木曽義昌正室)木曾義昌室)、仁科盛信葛山信貞信清松姫菊姫上杉景勝室)

武田 信玄(たけだ しんげん) / 武田 晴信(たけだ はるのぶ)は、戦国時代武将甲斐守護大名戦国大名甲斐源氏第19代当主。武田氏の第16代当主。晴信通称太郎(たろう)。正式な姓名は、源 晴信(みなもと の はるのぶ)。表記は、「源朝臣武田信濃守太郎晴信」。「信玄」とは(出家後の)法名で、正式には徳栄軒信玄

甲斐の守護を務めた武田氏の第18代当主・武田信虎の嫡男。先代・信虎期に武田氏は守護大名から戦国大名化して国内統一を達成し、信玄も体制を継承して隣国・信濃に侵攻する。その過程で、越後国上杉謙信(長尾景虎)と五次にわたると言われる川中島の戦いで抗争しつつ信濃をほぼ領国化し、甲斐本国に加え、信濃・駿河・西上野および遠江三河美濃飛騨などの一部を領した。次代の勝頼期にかけて領国をさらに拡大する基盤を築いた。西上作戦の途上に三河で病を発し、没した。

生涯
出生から甲斐守護継承まで
大永元年(1521年)11月3日[1]甲斐国守護・武田信虎の嫡長子として生まれる。母は西郡の有力国人大井氏の娘・大井夫人。幼名は太郎[注釈 2]

信玄の出生は信虎による甲斐統一の達成期にあたり、生誕地は躑躅ヶ崎館に付属した城として知られる要害山城である(または積翠寺)。信虎は駿河国今川氏を後ろ盾とした甲府盆地西部(西郡)の有力国衆大井氏と対決していたが、大永元年(1521年)10月には今川家臣福島正成率いる軍勢が甲府に迫り、信虎は甲府近郊の飯田河原合戦において福島勢を撃退している。この際、既に懐妊していた大井夫人は詰城である要害山へ退いていたといわれ、信玄は要害山城において出生したといわれている[注釈 3]

また、甲斐国では上杉禅秀の乱を契機に守護武田氏の権威が失墜し、有力国衆が台頭していたが、信玄の曽祖父にあたる武田信昌期には守護代跡部氏を滅ぼすなど[5]、国衆勢力を服従させて国内統一が進んでいた。信昌期から父の信直(後の信虎)期には武田宗家の内訌に新たに台頭した有力国衆・対外勢力の争いが関係し甲斐は再び乱国状態となるが、信虎は甲斐統一を達成し、永正16年(1519年)には甲府躑躅ヶ崎館を本拠とした城下町(武田城下町)を開府。家臣団組織が整備され、戦国大名として武田氏の地位が確立されていた。

傅役は不明だが、『甲陽軍鑑』では譜代家臣板垣信方が傅役であった可能性を示している。土屋昌続の父、金丸筑前守傅役であったと伝わる。

甲斐武田家の嫡男
大永3年(1523年)、兄の竹松が7歳で夭折した為、嫡男となる[6]

大永5年(1525年)、父・信虎と大井夫人との間に弟・次郎(武田信繁)が生まれる。『甲陽軍鑑』によれば、父の寵愛は次郎に移り、太郎を徐々に疎むようになったと言う。

信虎後期には駿河今川氏との和睦が成立し、関東地方において相模国の新興大名である後北条氏と敵対していた扇谷上杉氏と結び、領国が接する甲斐都留郡において北条方との抗争を続けていた。

天文2年(1533年)、扇谷上杉家当主で武蔵国川越城主である上杉朝興の娘・「上杉の方」が晴信の正室として迎えられた。これは政略結婚であるが、晴信と仲が良かったと伝えられている。しかし、天文3年(1534年)に出産の折、難産で上杉の方も子も死去している[4]

元服と初陣
天文5年(1536年)3月、太郎は元服して、室町幕府の第12代将軍・足利義晴から「晴」の偏諱を賜り、名前を晴信と改める[7]。官位は、従五位下大膳大夫に叙位・任官される。元服後に継室として左大臣三条公頼の娘である三条夫人を迎えている。この年には駿河で今川氏輝が死去し、花倉の乱を経て今川義元家督を継いで武田氏と和睦しており、この婚姻は京都の公家と緊密な今川氏の斡旋であったとされている。『甲陽軍鑑』では輿入れの記事も見られ、晴信の元服と官位も今川氏の斡旋があり、勅使は三条公頼としているが、家督相続後の義元と信虎の同盟関係が不明瞭である時期的問題から疑問視もされている(柴辻俊六による)。

信虎は諏訪氏村上氏ら信濃豪族と同盟し、信濃国佐久郡侵攻を進めているが、武田家の初陣は元服直後に行われていることが多く、『甲陽軍鑑』によれば晴信の初陣は天文5年(1536年)11月、佐久郡海ノ口城平賀源心攻めであるとしている。『甲陽軍鑑』に記される晴信が城を一夜にして落城させたという伝承は疑問視されているものの、時期的にはこの頃であると考えられている。

武田信虎の駿河追放と家督相続
晴信は信虎の信濃侵攻に従軍し、天文10年(1541年)の海野平の戦いにも参加しているが、『高白斎記』によれば、甲府へ帰陣した同年6月には、晴信や重臣の板垣信方甘利虎泰飯富虎昌らによる信虎の駿河追放が行われ、晴信は武田家の第19代目の家督を相続する[注釈 4]。しかしこの直後に上杉憲政に信濃佐久郡を掠め取られた。

信濃攻め
信虎期の武田氏は敵対している勢力は相模後北条氏のみで、駿河国今川氏、上野国山内上杉氏扇谷上杉氏、信濃諏訪氏と同盟関係を持ち、信虎末期には信濃佐久郡・小県郡への出兵を行っていた。晴信は家督を相続すると信虎路線からの変更を行い、信濃諏訪領への侵攻を行った[注釈 5]

天文11年(1542年)3月、瀬沢の戦いがあった(諸説あり、瀬沢の戦い参照)。

天文11年(1542年)6月、武田晴信諏訪氏庶流である伊那高遠頼継とともに諏訪領への侵攻を開始し、桑原城の戦いで諏訪氏は和睦を申し入れ、諏訪頼重を甲府へ連行して自害に追い込み、諏訪領を制圧している[注釈 6]

天文11年(1542年)9月25日、武田軍と高遠頼継軍が信濃国宮川で戦った(宮川の戦い)。武田方はこれを撃破して諏訪を掌握する。

天文12年(1543年)、武田方はさらに信濃国長窪城主である大井貞隆を攻めて、自害に追い込んだ。

天文14年(1545年)4月、上伊那郡高遠城に侵攻して高遠頼継を滅ぼし、続いて6月には福与城主である藤沢頼親を追放した(高遠合戦)。

天文13年(1544年)、父・武田信虎時代は対立していた後北条氏と和睦し、その後も天文14年の今川氏と後北条氏の対立(第2次河東一乱)を仲裁して、両家に貸しを作った。それによって西方に安堵を得た北条氏康河越城の戦いで勝利し、そうした動きが後年の甲相駿三国同盟へと繋がっていく。

今川・北条との関係が安定したことで、武田方は信濃侵攻を本格化させ、信濃守護小笠原長時、小県領主村上義清らと敵対する。

天文16年(1547年)、関東管領勢に支援された志賀城笠原清繁を攻め、同年8月6日小田井原の戦いで武田軍は上杉・笠原連合軍に大勝する[注釈 7]。また、領国支配においても同年には分国法である『甲州法度之次第(信玄家法)』を定めている。

天文17年(1548年)2月、晴信は北信地方に勢力を誇る葛尾城主・村上義清と上田原で激突する(上田原の戦い)。上田原の戦いにおいて武田氏方は村上義清方に敗れ、宿老の板垣信方甘利虎泰らをはじめ多くの将兵を失い、晴信自身も傷を負い甲府の湯村温泉で30日間の湯治をしたという。この機に乗じて同年4月、小笠原長時諏訪に侵攻して来るが、晴信は7月の塩尻峠の戦い勝弦峠の戦い)で小笠原長時軍を撃破した。

天文19年(1550年)7月、晴信は松本盆地に侵攻する。これに対して仁科盛能は武田方に内通し、小笠原長時には既に抵抗する力は無く、林城を放棄して村上義清の下へ逃走した(林城の戦い)。こうして松本盆地は武田の支配下に入った。

天文19年(1550年)9月、村上義清の支城である砥石城を攻める。しかし、この戦いで武田軍は後世に砥石崩れと伝えられる敗戦を喫した。

天文20年(1551年)4月、真田幸隆(幸綱)の調略砥石城が落城すると、武田氏軍は次第に優勢となった。

天文21年(1552年)8月、武田晴信軍は3000人の兵で仁科氏庶流小岩盛親が500人で守る小岩嶽城を攻略した。

天文22年(1553年)4月、村上義清葛尾城を放棄して越後国主の長尾景虎(後の上杉謙信)の下へ逃れた(葛尾城の戦い)。こうして東信地方も武田家の支配下に入り、晴信は北信地方を除き信濃をほぼ平定した。

詳しいことは、『武田信玄ウィキペディア』をご覧ください。 ⇩ 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E7%94%B0%E4%BF%A1%E7%8E%84

(wikiより)

46 武田信玄

⇧ 武田信玄

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時代戦国時代 - 江戸時代初期
生誕天文21年1月26日1552年2月20日
死没慶長19年5月6日1614年6月13日
改名秀康、盛長
別名千石権兵衛[1]
戒名円覚院殿宝誉道樹大禅定門
墓所

長野県上田市常磐城の芳泉寺
長野県佐久市岩村田の西念寺    

埼玉県鴻巣市天照山 良忠院 勝願寺
官位従五位下、越前守
主君斎藤龍興織田信長豊臣秀吉徳川家康→豊臣秀吉→秀頼→徳川家康→秀忠
信濃小諸藩
氏族仙石氏萩原氏→仙石氏
父母父:仙石久盛、養父:萩原国満
兄弟久勝秀利秀久
正室:本陽院野々村幸成の娘)
側室:慶宗院(竹村新兵衛の娘)
久忠秀範忠政政能政直久隆、久形、久清、娘(古田重広[注 1]室)、娘(大久保某室)、娘(藤堂高清室)、娘(森某室)、娘(佐野政秀[2]室)

仙石 秀久(せんごく ひでひさ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将大名信濃小諸藩の初代藩主。出石藩仙石家初代。

豊臣秀吉の最古参の家臣で少年の頃より仕え[3]、家臣団では最も早く大名に出世した。戸次川の戦いで大敗し改易されるが、小田原征伐の活躍により許された。

生涯
美濃時代
天文21年(1552年)1月26日、美濃国土豪・仙石治兵衛久盛の四男として美濃国加茂郡黒岩村(現在の加茂郡坂祝町)に生まれた(生年は天文20年(1551年)とも[4])。系図によれば仙石氏藤原利仁を祖として始まったと伝承されており、本姓は藤原姓であった。しかし仙石基秀の代に土岐氏の血を引く親族の仙石久重が後継者とされ、久重は基秀の娘と婚姻して家督を継承した。これ以降、仙石氏は源姓(土岐源氏支流)を称している[5]。土岐氏没落後は台頭した斎藤氏に仕え、父・久盛も斎藤家三代に奉公した。

四男であった秀久は家督を引き継ぐ可能性が低く、親交のあった越前国の豪族である萩原国満の養子として引き取られている。だが織田氏と斎藤氏が対峙する中で嫡男が相次いで倒れると久盛から急遽呼び戻され、仙石氏の家督を譲られる。永禄10年(1567年)、主君の斎藤龍興織田信長との稲葉山城の戦いに敗れて落ち延びた後、信長は秀久の勇壮な風貌を気に入り[5]、配下である羽柴秀吉寄騎に任命した。

大名への道
永禄10年(1567年)、14歳で織田家入りを果たしてからは羽柴隊(木下隊)の馬廻衆として各地を転戦し、最古参の家臣として秀吉から寵愛を受けた。元亀元年(1570年)の姉川の戦いにも参加している。この戦いで浅井方の山崎新平を討ち取った功績により[5]天正2年(1574年)に秀吉から近江国野洲郡に1,000石を与えられ、一領主となった。また同じ羽柴家の家臣で黄母衣衆の一員である野々村幸成の娘・本陽院を正室に、甲斐国の浪人の娘であるという慶宗院を側室にそれぞれ迎えて10男6女を儲けている[6]

やがて秀吉が信長から中国攻略を命じられると、秀久はそれに従軍して戦功を挙げる。天正6年(1578年)に4,000石を加増、天正7年(1579年)には茶臼山城を任せられ、赤松峠を越える播磨道の警護に当たった。また、三木合戦三木城を包囲していたこの時期には秀吉が三木城から幾度も通った湯の山街道有馬温泉を統括する湯山奉行にも任じられている。さらに天正9年(1581年)には黒田孝高らと淡路島に渡って岩屋城由良城を陥落させた(淡路遠征)。

天正10年(1582年)6月、信長が本能寺の変で死去し、秀吉の中国大返し山崎の戦いが始まると、秀久は淡路で明智光秀方に与した豪族達を討伐する任にあたり、淡路平定に貢献した。秀吉は織田氏重臣の柴田勝家賤ヶ岳の戦いで対決。秀久も羽柴秀勝と共に十二番隊の将として参戦する予定であったが、秀吉は秀久に四国勢の抑えとして急遽近江から淡路に出向く命を与えた。これにより、柴田側に与した四国の長宗我部元親と対陣することとなる。淡路入りした秀久は菅達長を破り、その後小豆島を占拠し、十河存保を救援(第二次十河城の戦い)するために四国へ渡る。

手始めに高松頼邑が守る喜岡城を攻めたが、落とせずに撤退。次いで讃岐国引田に上陸、引田城に入城した。天正11年(1583年4月21日、長宗我部勢の香川信景らの部隊が押し寄せるも、秀久は伏兵で迎えうち、緒戦は優勢となる。しかし数で優位な香川隊が態勢を立て直すと徐々に巻き返され、次いで駆けつけた長宗我部勢の援軍の攻撃により、引田城へ撤退。翌22日に引田城は長宗我部軍の総攻撃を受け落城し、秀久は敗走する(引田の戦い)。一説では、この戦いの最中に秀久はを取られる失態を見せたといわれている。敗戦後は淡路島と小豆島の守りを固める事に専念し、瀬戸内の制海権維持によって四国勢を牽制した。

天正11年(1583年)、秀久は淡路平定の軍功を評価されて淡路国5万石を拝領して大名となり、洲本城に入城した。天正8年(1580年)との説もあるが、信長が淡路に平定軍として秀吉を派遣したのは天正9年(1581年)といわれているため、これは資料の誤りである可能性が高い。淡路受領後は淡路水軍、小西行長、石井与次兵衛、梶原弥助ら複数の水軍を統括し、紀州征伐では湯川一族討伐で功を挙げた。羽柴軍本隊による四国攻めの折には喜岡城を攻略、木津城攻めで城の要を抑え、城内の水源を絶つなど奮戦した。天正13年(1585年)、四国攻めの論功行賞により讃岐1国(うち2万石は十河氏領)を与えられ、聖通寺城(聖通寺山城、宇多津城)、或いは高松城に入城した[3]

改易
天正14年(1586年)、立身を続けていた秀久は秀吉の命令で九州征伐が始まると、先陣役として派遣される事になった四国勢の軍監に任命された。十河存保や長宗我部元親・信親父子らの軍勢と共に九州に渡海して島津軍と対峙し、秀久自身も三千余の兵を率いて豊後国府内に着陣した[1]。他の四国勢を合わせて先陣の総勢は六千名程度で、九州での同盟国である大友家の軍勢を合わせれば総勢で二万を数え、島津軍を凌ぐ程の兵力が集まる筈であった。だが数はともかく大友家からの軍勢は士気に乏しく戦意旺盛なのは豊臣軍のみであり、その豊臣軍の先陣を務める四国勢は元々激しく敵対しあったもの同士が呉越同舟した混成軍で、さらに長宗我部氏は四国攻めの降伏から間もないこともあり、結束に乏しかった。

頼みの綱である豊臣軍の本軍は一向に上方から出陣する気配がなく[1]、軍監役として焦燥を深める秀久に対して、秀吉は「毛利小早川両軍を門司に布陣させており、薩摩国に後退する事ができない島津軍はいずれ士気を崩す」「徐々に軍を増やし、やがて自分が直々に本軍を率いて来れば悪逆人(島津軍)の首は一人残らず撥ねられるだろう」と持久戦に徹するよう書状を送っている[1]。しかし焦る秀久は豊臣軍先陣のみで攻勢に出て閉塞した状況を打開しようとする。この決定に対して十河存保は賛意を示したが、長宗我部親子は反対した。

開始された戸次川の戦いで冬季の渡河作戦を行った豊臣軍6,000名は思うように進軍できない中、島津家久率いる島津軍1万余と遭遇して戦闘となった。戦いの当初では得意とする釣り野伏せを準備する島津軍に対し、豊臣側が積極的に攻めかかって一時は優勢を得た。想定よりも豊臣側の攻勢が強かったために家久は狼狽したとも言われているが、時機を逃すまいとした秀久本隊が突出し過ぎたのを見逃さずに反撃に転じた。中央と右翼からの増援によって数で上回られた秀久本隊は壊滅的な打撃を受け、第二陣の長宗我部信親隊と十河存保隊も総崩れとなって信親・存保ら両将は討死した。第三陣の長宗我部元親隊は戦いに参加する間もなく伊予国へ敗走し、戦いは豊臣側の敗北に終わった。

豊後国にて防備を固めよという秀吉の命令を順守せず、独断で会戦に望んだ上で敗北した事は秀吉の勘気を被るに十分な理由と言えた[1]。加えて敗走する軍を取りまとめる軍監役としての責務を果たさず、諸侯を差し置いて小倉城に入城した事も不名誉となった。小倉城に引き退いた後も防戦は行わず、20名の家臣団と共に遠征軍の敗残兵を率いて讃岐国へ退却してしまい、敗北と合わせてそれまでの名望を一挙に失う事となる。秀吉は仙石氏に与えた讃岐国を召し上げ(改易)、秀久に対しては高野山追放の処分を下した。

復帰
改易から暫くは高野山にて隠棲し、京都・大坂に滞在していた時期もあったとされる[7]

天正18年(1590年)に豊臣秀吉による小田原北条氏追討の戦い(小田原征伐)が始まると三男・仙石忠政と共に美濃国で20名の旧臣らを集め[7]、浪人衆を率いて秀吉の下に馳せ参じた。陣借りに際しては秀吉の盟友となっていた徳川家康からの取り成しを受けている[7]。秀久は糟尾の兜と白練りに日の丸を付けた陣羽織を着て、紺地に無の字を白く出した馬印を真先に押し立て、手勢を率いて諸軍の先に進んだ、といわれている。さらに敵兵を引き付ける為に鈴を陣羽織一面に縫いつけた、とりたてて際立つ格好をして合戦に参加し、「鈴鳴り武者」の異名をとったという逸話も残されている。際立っていたのは扮装だけではなく、槍働きにおいても随一の活躍を示した。若き頃と同じく自ら十文字の槍を振るって力戦した秀久は伊豆山中城攻めで先陣を務め、小田原城早川口攻めでは虎口(こぐち。城郭や陣営などの最も要所にある出入り口)の一つを占拠するという抜群の武功を挙げた。活躍による名声は「箱根にある地名『仙石原』は秀久の武勇に由来する」という巷説が存在する程である。戦勝の後、秀吉に謁見を許された秀久は忠勇を賞されて、秀吉が使っていた金の団扇を手づから下賜された逸話が残っている。この場面は『道樹・宗智両祖出陣之図』(上田市立博物館所蔵)にも描かれており、この時のものとされる金団扇も現存している。秀吉の赦免を得た秀久はさらに、旧領の半分に相当する5万石を信濃国小諸に与えられ、大名として豊臣家臣に復帰した。小諸入封後、を秀久から秀康に改めている[6]

豊臣政権下では領地の小諸城ではなく、秀吉の家臣として京に滞在していたとされている[6]文禄元年(1592年)、朝鮮出兵が始まると肥前名護屋城の築城工事で功績を挙げ、それにより従五位下・越前守に叙任された。文禄3年(1594年)に秀吉の命令で始まった伏見城築城工事においても同様の功績を挙げたため、7,000石を加増され5万7,000石の大名となった。築城に関わった伏見城では大盗賊・石川五右衛門を捻じ伏せ、捕縛したとの伝承が残っている[8][3]。秀久は秀吉から石川五右衛門が盗もうとした大名物「千鳥の香炉」を褒美として拝領した[3][注 2]

慶長2年(1597年)、仙石越前守盛長と記した龍雲寺への寄進状が残っており、秀康から更に諱を変えたものと考えられている[6]。またこの頃から領地経営に本腰を入れ、居城である小諸城の大改修に取り掛かっている[6]

秀吉死後
慶長3年(1598年)8月、秀吉が薨去すると豊臣政権内で武断派文治派の対立、及び五大老五奉行らの内紛が始まる。陣借りの大恩がある家康と懇意であった秀久は早くから徳川氏に接近していたとみられる。慶長5年(1600年)の会津征伐に参加を求める家康の書状に応えて兵を招集し[6]、立て続けて関ヶ原の戦いが起きると中山道北国街道を結ぶ交通の要所である小諸を引き続き鎮撫している[5]。因みに嫡男とされていた次男[注 3]仙石秀範は独断で西軍に与した事から勘当されている。

信濃に徳川秀忠が着陣するとこれを単騎で出迎え、真田攻めの為に小諸を本陣に定めた秀忠軍に参陣した。上田城の戦いで城方の真田昌幸の善戦により秀忠軍が足止めを食うと、秀久は自身を人質に出して秀忠は家康の本陣に向かう様に薦めている。また関ヶ原本戦に遅参して父の逆鱗に触れた秀忠を執り成す事にも務めるなど、外様ながら秀忠の指揮を補佐して深い信頼を得て、後に秀忠が家康の世継ぎとして征夷大将軍に任ぜられると特に重用されるようになる(準譜代大名)。所領面では旧領を安堵され、幕藩体制において信濃小諸藩の初代藩主となった。

慶長6年(1601年)、諱を秀久に戻している[6][注 4]

小諸藩主としての秀久は熱心に領地の開拓や整備に取り組み、先に述べた小諸城の大改修は24年間の治世で大手門や黒門、二の丸を増築していて、小諸城を近代城郭として完成させた[6]。特に大手門は歴戦の武人らしく華美な装飾を省き、慶長風の質実剛健な作りとなっている[6][9]。 八幡宮(八幡神社)の勧進や街道の伝馬制度や宿場街の整備など多様な治績も残し、笠取垰と小諸城及び城下町を現在のように開拓したのは秀久の治績といえる。一方で大規模な開拓事業の為に農民達には過酷な課役を与えてしまい、佐久郡では一郡逃散という事態が起きている[注 5]。しかし、その後は農民の逃亡を防ぐ農村復興策として、年貢の減額・猶予による農民の帰還や、農村の有力者に恩給を与えて家臣化するなど改善策に取り組み[注 6]、後に藩主となった三男の忠政も逃散した農民達への帰還を呼びかけている。

幕府からの信頼は篤く、豊臣恩顧の大名達の中で尚且つ一介の外様大名としては過分とも言える程の待遇で扱われており、秀忠付という名誉職を賜っている。秀久が江戸に参府する時は例外的に道中の妻子同伴が許され、必ず幕府からの上使が板橋宿まで迎えに来ていたという。慶長13年(1608年)の冬には秀忠が江戸の秀久邸を訪れて歓談している。慶長14年(1609年)に秀忠の将軍宣下御拝賀に随行し、慶長16年(1611年)正月2日の御謡初めの際にも着座を許されている。慶長19年(1614年)、江戸から小諸へ帰る途中に発病し、武州鴻巣にて5月6日に死去した[10]。享年63(もしくは64)[6]。遺骸は小諸の西念寺で荼毘に付され、墓所が複数存在する事から分骨が行われたと考えられる。『改選仙石家譜』ではその内の一つである芳泉寺の墓所を正式な霊廟としている[6]。家督は三男・忠政が継いだ。

子女
本陽院正室野々村幸成の息女)
  ・長男・仙石久忠(廃嫡):検校
  ・次男・仙石秀範(廃嫡):豊臣秀頼家臣、3万石。従五位下豊前守
  ・三男・仙石忠政(嫡男):小諸藩主。上田藩主、従五位下兵部大輔    

・慶宗院:側室
  ・五男・政能
  ・六男・政直
  ・七男・仙石久隆(分家):徳川家旗本。書院番、目付、長崎奉行。従五位下大和守
  ・娘(古田重広の妻)
  ・娘(藤堂高清の妻)

子孫
・家督を相続した三男の忠政の代に仙石家は小諸藩から同信濃国の上田藩に移封され、4代当主仙石政房の代に但馬出石藩へ更に移封された。
 ・江戸時代後期に仙石騒動というお家騒動が起こり家名の存続も危ぶまれたこともあったが、減封処分だけで済んでいる。
 ・幕末には新政府に協力した功績から華族となり、明治以降も貴族院議員となった。
・長男の久忠は失明、次男の秀範は西軍側に与した事でそれぞれ廃嫡されたが、長男の家系は藩家老として存続している。のちこの長男家系から養子の仙石政房を出し、本家を相続している。
・六男の政直は藩家臣となり、郡代などを務めた。
・七男・久隆は父が懇意にしていた徳川秀忠に召し出され、本家と別に幕府旗本として4千石の所領を与えられた。
・十男の久清は藩臣として1千石を与えられ、やはり郡代や家老職などの藩の要職を務めた。

逸話
・『改選仙石家譜』によれば織田家に家臣入りした際、信長が秀久の勇壮な相貌を気に入り、黄金一錠を与えたといわれている。
・『常山紀談』では秀久は豊臣秀吉が使っていた忍びとして登場し、商人に化けて九州に潜入、地理すべてを絵に描き、攻め入る地点を書き送ったなどと記されている。
・『豊薩軍記』・『大友公卿家覚書』では戸次川の戦いの失態について「はじめ脇津留の戦には、長宗我部、仙石利を得ると言えども、迫の口の戦に利を失い四国勢敗亡す。長宗我部嫡子信重(親)戦死、仙石権兵衛尉は小舟に乗りて阿波の洲本に渡りけりと言いて、その頃の落書に、仙石は四国を指して逃げにけり、三国一の臆病者」と痛罵している。
・『フロイス日本史』では「豊後国に跳梁している最悪の海賊や盗賊は仙石の家来や兵士に他ならない」「恥とか慈悲と言った人間的感情を持ち合わせていない輩であり、できる限り(略奪して)盗み取ること以外目がなかった」「彼は関白から豊後勢を敵から救助するために遣わされていたにもかかわらず、悪事を働き、豊後の人々を侮辱し暴政を行なったために、深く憎悪されており、陸にいる人たちが彼を殺す危険が生じた。仙石殿は片足を負傷したが、20名とともに脱出し、家財を放棄して妙見にたどり着いた」と秀久や家臣団が粗野な人物であったと記している。一方でルイス・フロイスは「彼は高尚ではなかったが、決断力に富み独善的、ただし優秀な武将として知られていた」として、秀久が武人としては優秀であったとも評している[11]
・前述の通り伏見城で石川五右衛門を捕縛したとの記述が残されており[注 7]、そのため講談の世界では怪力無双の豪傑として登場することがある。
・旗印としては信長から下賜された「永楽銭紋」と、肖像画に描かれている「丸に無の字紋」が知られている。馬印は「金幣」とよばれる御幣の一種を用いており、指定文化財として保管されている[12]
当世具足は黒一色の甲冑に、藁の編笠を模した飾りの付いた兜を使用していた。この飾りは他の具足には見られない珍しい形状である[12]
・紀州征伐の際、根来攻めに参加した秀久は山林に放置されていた曰く付きの「安珍清姫の鐘」を陣鐘(合戦の時に合図に使う鐘)として用いた後、供養のために経力第一の法華経を頼って妙満寺に鐘を納めたという話が伝わる[13]
・信心深さとしては小諸城主時代に健速神社へ参拝していた記録が残っており、秀久が参拝に使っていた坂は権兵衛坂と呼ばれている。
・秀吉の古参家臣中で失態を犯して処断された者の中で、大名への復帰を許された数少ない人物である。
・家康・秀忠からの信任も厚く仙石氏の江戸城内での詰所は譜代大名に準する家格(願い譜代)として帝鑑の間に置かれていた。
  ・分家に家督が移った際に小身の外様大名が配置される柳の間に替えられ、以後は幕末まで柳の間となった。
・小諸藩主時代には、早くから殖産興業に目を向け、蕎麦を名産品にしようと取り組んでいた。また蕎麦切りを媒体にして領民とのコミュニケーションをはかり、「仙石さん」の名で慕われていたとされる[14]
  ・前述の通り仙石家の所領は後に信州から但馬に所領が移動するが、その際に移住した信州のそば職人が技法を伝えたことにより、名物の出石皿そばが誕生した。
・弟の内膳正正直は乱暴者であったことから、激怒した秀久により山奥へと移された。心配した母によって岩村田西念寺 (佐久市)へと移されたが、若くして亡くなった(西念寺 (佐久市)#伝承を参照)。

詳しいことは「仙石秀久ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%99%E7%9F%B3%E7%A7%80%E4%B9%85   
(wikiより)

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時代江戸時代前期
生誕元和3年7月9日1617年8月10日
死没延宝2年7月24日1674年8月25日
改名兵介(幼名)→政俊→直政→道休(法号)
戒名松翁院殿謙誉道休大居士
墓所長野県上田市諏訪部の芳泉寺
官位従五位下、越前
幕府江戸幕府下館城在番・大坂城加番
主君徳川家光家綱
信濃上田藩
氏族仙石氏
父母父:仙石忠政、母:小堀政徳の娘
兄弟姉(桑山一玄室)、政俊政則政勝、妹(水野勝忠室)
正室水谷勝隆の娘
忠俊
養子:養女水野勝直室)、政明

仙石 政俊(せんごく まさとし)は、信濃上田藩の第2代藩主出石藩仙石家3代。

生涯
元和3年(1617年)7月9日、小諸藩の第2代主・仙石忠政の長男として小諸で生まれた。寛永5年(1628年)、父の死去により家督を継いで第2代上田藩主となり、寛永11年(1634年)に従五位下・越前守に叙位・任官する。

常陸下館城在番や大坂城加番を務め、慶安3年(1650年)には検地を行なって石直しに務めるなどして藩政の基礎を固めた。寛文7年(1667年)に嫡男の忠俊が早世したため、忠俊の長男で嫡孫の政明を養子に迎え、寛文9年(1669年)2月25日に家督を政明に譲って隠居した。その際、弟の政勝小県郡2000石(矢沢知行所)を分知し、上田藩の石高は5万8000石となった。隠居後上田城外の諏訪部に住み、直政と改名した。のち剃髪し道休と号する。

延宝2年(1674年)2月25日に死去した。享年58。隠居地諏訪部の芳泉寺に葬られた。
(wikiより)


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生誕天正元年(1573年
死没元和6年2月24日1620年3月27日
武蔵国鴻巣宿
墓地勝願寺埼玉県鴻巣市
正覚寺群馬県沼田市
芳泉寺長野県上田市
別名於子亥、小松殿、稲姫、大蓮院
配偶者真田信之
子供まん(高力忠房室)、まさ(佐久間勝宗室)、真田信政真田信重
本多忠勝
養父:徳川家康(または徳川秀忠

真田氏の家紋「六連銭」(左)と、徳川氏の家紋「三つ葉葵」(右)。

小松姫(こまつひめ、天正元年(1573年) - 元和6年2月24日1620年3月27日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての女性。上田藩および松代藩の初代藩主・真田信之(信幸)の正室。徳川氏譜代家臣の本多忠勝の娘[1][2]。幼名は於子亥(おねい)[2][3]小松殿(こまつどの)、稲姫(いなひめ)とも称される[3][4][注 1]徳川家康または徳川秀忠の養女として真田信之に嫁ぎ[4]信政信重、まん(高力忠房室)、まさ(佐久間勝宗室)らを生んだ[6]

生涯
出自
天正元年(1573年) 、本多忠勝の長女(第1子)として生まれた[7]。母は阿知和玄鉄の娘於久もしくは松下弥一の娘乙女。幼名は於子亥(おねい)、稲姫(いなひめ)[5]。兄弟には、もり姫(奥平家昌室)、本多忠政本多忠朝らがいる[7]

父の忠勝は松平氏および徳川氏の家臣として永禄3年(1560年)の大高城の戦いにおける初陣以来、姉川の戦い長篠の戦い小牧・長久手の戦いなどで武功を挙げ、酒井忠次榊原康政井伊直政と共に徳川四天王と称された人物である[8]。また本多氏は、忠勝の父・忠高、叔父の忠真、祖父の忠豊がいずれも合戦の最中に討死するなど武門の家系でもあった[8]

真田氏との婚姻
婚姻の時期」も参照

天正10年(1582年)10月末の徳川・北条同盟の成立による天正壬午の乱終結後、沼田領(吾妻利根郡)の引き渡し問題や[9][10]天正13年(1585年)閏8月の第一次上田合戦[11]、天正14年(1586年)7月の真田征伐[12]などで対立抗争を続けていた徳川家康真田昌幸が、天正15年(1587年)3月に豊臣秀吉の命により昌幸を家康の与力大名とすることで決着した[13]ことを契機に、小松姫と真田信之との婚姻が成立した。これは両家の関係を緊密にする狙いがあったと見られ[14][15]、秀吉の意向によるものだったとの所伝も残されており、時期的な状況からその可能性も考えられる[15]

豊臣政権下での動静
天正17年(1589年)より、豊臣政権では諸大名の妻子を聚楽第伏見城大坂城の城下に建設された武家屋敷に居住させたが、小松姫もそれに従い信之の屋敷に居住したものと考えられる[16]。小松姫が嫁いだ当時、信之はすでに真田信綱の娘(清音院殿)を正室に迎えていたが[17]、その後の記録において清音院殿は「家女」と記され、側室待遇となっている[4]。このことから信之と小松姫の婚姻以降に、城主とその家族の生活の場である「奥」を取り仕切る権利全般が小松姫に移されたと見られている[4]。一方、歴史学者の黒田基樹は、そうした序列で表現するのは妥当か否かは再考の余地があるとした上で、政権本拠地に居住する小松姫が対外的な妻、信之の領国である上野国沼田城に居住する清音院殿が領国における妻としての役割を担ったのではないかと推測している[16]

信之には二女三男の子供がいたが、長男・信吉[注 2]以外、長女・まん[注 3]、次女・まさ[注 4]、次男・信政[注 5]・三男信重[注 6]は、小松姫の所生とされている[6][19][18]。なお、長男・信吉については清音院殿の実子とする説と、小松姫の実子とする説がある[19][20][注 7]

徳川政権下での動静
沼田御守城」も参照

慶長5年(1600年)9月の関ヶ原の戦いの戦後処理の際、信之は家康の率いる東軍に属して戦功を挙げたことから従来の上野国沼田領(岩櫃領を含む[21])を安堵されたのに加えて、父・昌幸が治めていた信濃国上田領、弟・信繁の知行を加増された[22]。これにより信之は8万4,000石[22]または上田領(約6万5,000石)と沼田領(約3万石)を合わせ9万5,000石の大名として存続することになった[23][24]

西軍に属した昌幸と信繁は、信之と小松姫の父・本多忠勝や本多正信らの嘆願もあり紀伊国高野山への流罪となったが[25]、その後も信之は昌幸・信繁一行の援助[26]、病気を患った昌幸の助命嘆願を繰り返した[27]。また、昌幸から信之の家臣に宛てた書状の中で御料人(小松姫)からの音信に礼を述べる内容が記されていることから、夫と同様に小松姫も昌幸を気遣っていたことが推測される[28]

この後、家康は慶長8年(1603年)に征夷大将軍に就任して政務を執り行い、豊臣政権と同様に諸大名の妻子を政権本拠地に集住させたが、小松姫も江戸の大名屋敷に居住したものと考えられる[16]。ただし、当初は信之の母・山手殿が江戸屋敷に、沼田城には小松姫が居住し、慶長18年(1613年)6月に山手殿が亡くなったことを受けて、小松姫が江戸の屋敷に移り住んだとも推測される[29]

小松姫の父・本多忠勝[注 8]は、関ヶ原の戦いの功績によって伊勢国桑名藩に移封され、大多喜藩は小松姫の弟の忠朝が継いだ[8][30]。この時期、忠勝からは信之の家臣・湯本三郎右衛門尉宛てに、小松姫を気遣う書状が送られ、信之と忠勝一族との間で親密な関係が築かれるなど、小松姫との縁戚を通じて交流が図られた[30]

慶長19年(1614年)から慶長20年(1615年)の大坂の陣では、病気療養中の信之に代わり、長男・信吉と次男・信政が本多忠朝の軍勢の指揮下に入って出陣した[31]。小松姫からは、冬の陣の際に信之の重臣・木村綱成とその妻に宛て、信之は病気の養生のため出陣が叶わぬこと、信吉と信政が沼田城から急遽出陣したこと、信繁が大坂方に加わり大坂城に入場したことを知らせる内容の書状が[32]、夏の陣の際には信吉の家臣・安中作左衛門に宛て「河内殿(信吉)については若いので、伊豆殿(信之)のようにはできないでしょう(中略)、伊豆殿に免じて陣中精を致し、奉公をお願いします」と合戦の経験が不足している信吉を気遣い、その補佐を依頼する内容の書状が残されている[33]

晩年と死
養父の家康は江戸幕府の開設以来、浄土宗を保護する政策を行ったが、武蔵国鴻巣[注 9]にある勝願寺の二世住職・円誉不残に帰依した[34][35]。円誉は仏教学に通じた学僧であったことから[36]、家康の御前で教義の解釈を行うなど重用された[35]。小松姫も家康の勧めもあり円誉に帰依したが、同時に薬師如来像を拝領し生涯にわたって信仰を続けた[34]

元和6年(1620年)春、小松姫は病気を患い草津温泉での湯治のため[34]、江戸から草津へ向かう最中[37]2月24日3月27日)に武蔵国鴻巣で亡くなった[34][38]。48歳没[34]。戒名は大蓮院殿英誉皓月大禅定尼[38]

墓は前述の勝願寺と、上野国沼田[注 10]にある正覚寺、信濃国上田[注 11]にある芳泉寺(当時は常福寺)の三か寺に分骨された[2][39][40]。このうち、信濃国上田の芳泉寺の墓は一周忌の際に信之によって建立された[41]。また、武蔵国の勝願寺の墓は、小松姫が生前に同寺の二世住職・円誉不残に深く帰依していたことから[42]、次女の見樹院によって墓石が建立されたものであり[43]、三男の信重夫妻の墓も並んで建てられている[42]

夫の信之は、小松姫の菩提を弔うため上田城下に大英寺を建立すると、松代藩への移封に伴い、寛永元年(1624年)に同寺も松代城の城下(後の長野県長野市松代町松代)に移築した[44]。この寺の本堂は創建当時は小松姫の御霊屋として使用されていたもので、昭和41年(1966年)に長野県の文化財に指定されている[44][45]

人物
人となり
小松姫は、江戸幕府初代将軍の徳川家康や2代将軍の徳川秀忠に対して直に意見をする程はきはきとした女性[46][47]、弟の本多忠政本多忠朝が戦地から帰還した際には高らかに忠節を讃えるなど勇気のある女性[46]、才色兼備の女性だったと伝えられている[40]。また、小松姫の遺品の中には『史記』の「鴻門の会」の場面を描いた枕屏風があるが、こうした戦を表す勇壮な絵を所持していた点からも「男勝り」と評されている[48]

婚姻の時期
婚姻の時期については、本多氏の系図『参考御系伝』や『幕府祚胤伝』では秀吉の仲介により、天正14年(1586年)に成されたと記されているが[4]、『甲陽軍鑑』では天正11年(1583年)、『沼田日記』では天正16年(1588年)と記されるなど様々な説がある[5][49]

歴史学者の間でも意見が分かれており、黒田基樹は「二人の婚姻は真田氏の当主である昌幸が秀吉に出仕し家康の与力大名となった天正15年(1587年)以降と見て間違いないだろうとした上で、『沼田日記』の『天正16年(1588年)12月に婚約が成立し、翌天正17年(1589年)9月に入輿』との記述が、時期的に最も可能性が高い」としている[5]。このほか、丸島和洋は時期は明らかにできないとした上で、「本多氏側が真田氏との和解後に婚姻が成立したと認識している点から、婚姻は天正15年(1587年)頃とみるべきだろうか」[4]平山優は「婚姻が結ばれる可能性がある最も早い時期として天正15年(1587年)[50]、次に信之が家康の与力大名となることが確定した天正17年(1589年)を挙げているが[51]、最も可能性が高いのは天正18年(1590年)」としている[52]

家康の養女であったか
一般的に小松姫は家康の養女として真田氏に嫁いだものとされており[3][4]、本多氏の系図『参考御系伝』にも同様の内容が記されている[4]。『本多家武功聞書』などによれば、家康が真田昌幸を従わせるため、嫡男の信之に家康の重臣・本多忠勝の娘を嫁がせようとしたが、昌幸は承諾しなかったため、家康は忠勝の娘を自分の養女とした上で嫁がせるのではどうかと提案したところ、昌幸はようやく承諾した[51]。その後、小松姫は高力摂津守を従えて江戸城西の丸から沼田へと向かったと記されている[51]。この逸話について平山は天正11年(1583年)から天正16年(1588年)のものなら明らかにおかしいが、家康が関東に移封された天正18年(1590年)以後であれば問題ないと指摘している[51]

家康の養女であったかについては、信之の孫にあたる松代藩3代藩主・真田幸道が幕府に提出した書状や小松姫の菩提寺である大英寺の書上には「台徳院(秀忠)」の養女と通説と異なる記載がされているなど[4]、実際に小松姫が家康の養女となったのか否かは確定されていない[15]。ただし、家康の養女とする複数の所伝が残されていることや[15]、信濃国の国衆の中では小笠原貞慶の長男・秀政も、松平信康の娘(登久姫)を家康の養女として正室に迎えていることから、養女の体裁が採られた可能性はある[15]

沼田御守城
慶長5年(1600年)、秀吉の没後に五奉行の石田三成が挙兵すると、夫の信之は家康の率いる東軍に付き、父・昌幸と弟・信繁は三成の率いる西軍に付いた[53]。袂を分かった昌幸・信繁親子が居城の上田城に戻る際、沼田城に立ち寄り城に入ろうとしたところ、留守を預かる小松姫が昌幸の計略を見抜いて開門を拒み、女丈夫と謳われたとの逸話が残されている[39]

真田氏の家記『滋野世記』によれば、次のような内容が記されている。

昌幸は信繁同道にて犬伏の宿を打立て、夜中沼田に著たまい。城中へ按内ありければ、信幸の室家使者を以て、夜中の御皈陣不審に候なり、此の城は豆州の城にて、自を預居候事なれば、御父子の間にて候え共、卒尓に城中へ入申事成難く候と仰ける(中略)。暫有て城中より門を開きけるに、信幸の室家甲冑を著し、旗を取り、腰掛に居り、城中留守居の家人等其外諸士の妻女に至るまで、皆甲冑を著し、あるいは長刀を持ち、あるいは弓槍を取り列座せり。時に信幸の室家大音に宣うは、殿には内府御供にて御出陣有し御留守を伺い、父君の名を偽り来るは曲者なり、皆打向って彼等を討ち取るべし(中略)、一人も打ち洩らさず打ち捕べしと下知したまう。昌幸その勢いを御覧ありて大いに感じたまい、流石武士の妻なりと称美あり。御家人等を制し止められ、夫より我妻かかり、上田城へ篭城なり[54]

16 舅の真田昌幸。

⇧ 舅の真田昌幸。


また、『
改正三河後風土記』によれば、小松姫は昌幸から「今生の暇乞のため対面し、孫共を一見せばやと存候」との申し出を受けるが、これを断ると侍女を遣わして昌幸らを城下の旅宿に案内し丁重にもてなした。その一方で、城中の家臣には弓や鉄砲を狭間に配置させ相手方の襲撃に備えるように命じた。これを見た昌幸は家臣に向かって「あれを見候へ。日本一の本多忠勝が女程あるぞ。弓取の妻は誰もかくこそ有べけれ[55][56]」と、その手並みを褒め称えたと記している。このほかにも『御家書留書』『真田御武功記』『沼田記』『出浦助昌家記』などに沼田城の留守を守った逸話が記されている[57]

この逸話については小松姫が沼田に居たのかどうかが問題となるが、豊臣政権下において諸大名の妻子が伏見、次いで大坂屋敷に移り住んでいたという点[58]と同年7月30日付の大谷吉継から昌幸に宛てられた書状の解釈が問題となる[58][59][60]

黒田は「大坂で吉継に保護されて不在であったので事実ではない」としており[59]、丸島も2015年の時点では吉継書状に「信幸の妻子を保護した」と記されてあり、これが側室であった清音院殿のことであれば問題ないが、普通に考えれば正室を指すはずという点から創作の可能性を指摘していた[58]。しかし、平山はこの書状について昌幸、信繁親子の妻子については吉継が預かっているが、信之の妻女については「伊豆殿女中改候間、去年くだり候」と記されていることから、三成挙兵の前年にあたる慶長4年(1599年)の時点で小松姫は「女中改」という口実で、沼田に引き上げていたと指摘している[60][61]。平山と丸島はともに2016年の著作で石田三成による徳川家康への弾劾状「内府ちかひ(違い)の条々」における一節「諸侍の妻子、ひいきひいきニ国元へ返候事」との一文を指摘し、家康が一部大名の人質の帰国を勝手に認めており、信幸の妻子が家康の計らい(贔屓)によって帰国していたと解釈しうるとしている[61][62]

その他
この他、いくつかの逸話や伝承が残されている。ただし、その多くは「武芸に秀でる」「勝気な性格」といった人物像を基に後世に創作されたものだとの指摘もある[63]

・小松姫が家康の養女であったとする話の中に、婿選びの逸話がある。家康が若い武将達を列座させて小松姫の相手を選ばせたところ、家康を前にして委縮している中で、小松姫が平伏している一人一人の髻を掴んで面を上げさせて吟味していた。髻に手を差し伸べられた瞬間に信之は叱咤して、鉄扇で小松姫の顔を打った。小松姫はこの気骨に感動して信之を選んだ
[40][64]

・小松姫の夫の真田信之は上田城6万石の大名であったが、上田は加賀街道(
北国街道)を押さえた要所に位置して、加賀藩前田家金沢江戸との間を往来する通路上にあった。小松姫は家臣に命じて加州候の通行を妨害し、将軍への献上する品を奪い取らせたが、小松姫が将軍家の養女であるため、成敗することができず、ついに将軍家に訴え出た。将軍家から小松姫にお咎めがあったが、「親の物は子の物である」と答えるので、将軍家の方でも処置に困り、それまで6万石のところに4万石を加増して、加賀街道から外れた松代に移封させた[64][注 12]。ただし、元和8年(1622年)の松代藩への移封時には小松姫はすでに亡くなっている。

詳しい事は「
小松姫ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%9D%BE%E5%A7%AB
(wikiより)


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小松姫

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信綱の墓の傍らにあり、白川兄弟の墓と伝える。

兄弟は、信綱の首級を信綱寺に葬ってのち、共々に、主君の後を追って殉死したという。 

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 案内板には「真田昌輝墓」と書かれていますが脊柱には夫妻墓と刻されています。
正室:相木昌朝の娘。

時代戦国時代
生誕天文11年(1543年)6月
死没天正3年5月21日1575年6月29日
改名徳次郎(幼名)→昌輝
別名信輝
戒名嶺梅院殿風山良薫大禅定門
墓所愛知県新城市の設楽ヶ原古戦場
官位兵部丞[1]兵部少輔
主君武田信玄勝頼
氏族真田氏
父母父:真田幸綱、母:河原隆正の妹・恭雲院飯富虎昌の娘とも)
兄弟信綱昌輝昌幸信尹金井高勝清鏡?
正室相木昌朝の娘
信正(幸明)湯本三郎右衛門室?

真田 昌輝(さなだ まさてる)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。甲斐武田家の家臣。

甲斐武田家の騎馬50騎持の侍大将[1]真田幸綱(幸隆)の次男[1]。同母兄に信綱、同母弟に昌幸、信尹らがいる[1]。幼名を徳次郎。兵部丞[1]、兵部少輔。名は信輝とも。武田二十四将にも数えられる。長篠の戦いで奮戦するも戦死した[1]

生涯
天文12年(1543年)6月に岩尾城で生まれたとするが、異説もある[1]

小姓として武田信玄に近侍し、信玄により、有力武将の子弟が任じられる「百足衆」に抜擢される。信玄に常に付き従い、「一之先衆七千」を務め、「兵部は我が両眼なり」とまで言わしめたという逸話が残っている。

甲陽軍鑑』では、信玄から別家を立てる事を許されて独立し、真田本家の長兄・真田信綱の200騎とは別に50騎を預かる将として活躍し、信州先方衆の副将格であった[1]。なお、所領は真田郷の周辺に与えられたと思われるが、在城地などは不明[1]。兄・信綱とともに出陣する事が多かったが、単独でも出陣し戦功を挙げた。

永禄11年(1568年)には信綱と駿河国攻めの先鋒を担い、永禄12年(1569年)の三増峠の戦いでは信綱や内藤昌豊とともに殿軍を務めて戦功を挙げている。

天正3年(1575年)5月21日の長篠の戦い設楽原決戦場では、最右翼の主将を馬場美濃守、そのすぐ左翼を兄信綱が担い、さらに左横に陣取って、右翼部隊の一端を担う。織田軍の左翼を受け持った正面の佐久間信盛の陣に突撃すると、「丸山」と呼ばれる小高い丘を奪い合う局地戦を展開。ここでは首級を挙げるなど奮闘するが、深手を負い信綱とともに討死した。享年33、法名は嶺梅院殿風山良薫大禅定門。設楽原には墓が存在し[注釈 1]、同じ墓碑の向かって右に兄・信綱の名が、左側に昌輝の名が『真田兵部丞昌輝の碑』と刻まれている。

子の真田信正は徳川家に仕え、忠昌に従って越前に在し、子孫は越前松平家に仕えた[1]。今も越前真田家として存続している[1]

関連作品
・赤神諒「表裏比興の者たち」(講談社、2018年10月18日)ISBN 978-4065135297(『決戦!設楽原』所収の短編。真田昌輝を主人公とする)

脚注
注釈
1. 新城市浅谷字杉ノ本。東郷東小学校の北で、山の中腹に看板在り。実際の戦没地かは不明。

出典
1. 
a b c d e f g h i j k 柴辻俊六『真田昌幸』吉川弘文館〈人物叢書〉、1996年、71頁。ISBN 464205202X

関連項目
武田二十四将     
(wikiより)

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高梨政頼の娘・於北様(井上次郎座衛門の娘とも)

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 子供のお墓でしょうか?


時代戦国時代
生誕天文6年(1537年
死没天正3年5月21日1575年6月29日
改名源太郎(幼名)→信綱
別名源太左衛門
戒名信綱寺殿天室道也大禅定門
信綱寺殿大室道也大居士[1]
墓所長野県上田市真田町信綱寺
設楽原古戦場
官位左衛門尉
主君武田信玄勝頼
氏族真田氏
父母父:真田幸綱、母:河原隆正の妹・恭雲院飯富虎昌の娘とも)
兄弟信綱昌輝昌幸信尹金井高勝清鏡?
正室高梨政頼の娘・於北様(井上次郎座衛門の娘とも)[2]
与右衛門信興信光清音院殿真田信之正室のちに側室)

真田 信綱(さなだ のぶつな)は、戦国時代武将武田信玄勝頼の2代に仕える。幼名は源太郎。官途は左衛門尉。武田家の騎馬200騎持の侍大将。武田二十四将にも数えられる。

家系
甲斐国守護武田氏に仕える他国衆・真田幸綱(幸隆)の嫡男。母は真田家の譜代家臣・河原隆正の妹・恭雲院または飯富虎昌の娘[3]正室は「於北様」と呼ばれ、北信濃の旧族・高梨政頼井上次郎座衛門の娘とする説がある。子に真田与右衛門真田信興真田信光らがいる。与右衛門は越前松平家へ仕官した。また清音院殿は信綱の弟・真田昌幸の嫡男・信之の正室(のちに側室)になったという[4]

生涯​
武田家の家臣時代​天文6年(1537年)生まれ[5]。同母弟の昌幸・信尹らが幼年期から武田信玄に近侍しているため、信綱も早い時期から信玄に出仕していたと考えられている[6]

確実な初出史料は真田氏の氏神四阿山白山神社奥宮に奉納された父・幸綱と連名の連署で[7]、武田家へ仕えているが初陣や出仕時期など前半生は不明[6]とされる一方で、天文21年(1552年)8月の信濃小岩嶽城攻めで初陣を飾っているとする伝承もある[8]。これは父・幸綱と生涯が重なるためで、前半生の大半は幸綱が前面に出ていたため、信綱の記録はほとんど見られない[6]。父と連署していることから、この時点で既に嫡子・家督相続者としての地位を固めていたとされている[7]

永禄4年(1561年)の第4次川中島の戦いでは父・幸綱と共に妻女山攻撃の別働隊に加わっていた[9]。永禄6年(1563年)の岩櫃城攻略の前後から、幸綱は上野吾妻郡での活動が主となっており、信濃の本貫地は後継者である信綱が事実上支配していたと思われる。元亀3年(1572年)には幸綱に代わって信濃先方衆の筆頭に挙げられており[10]、この頃には世代交代が済んでいると推測されており、史料の検討から西上野侵攻作戦が行われていた永禄10年(1567年)までには継承が行われていたと考えられている[11]

戦場では専ら父・幸綱や弟の真田昌輝らと共に行動しており、幸綱と共に信濃国や上野国を転戦し、永禄11年(1568年)には昌輝と兄弟で駿河国攻めの先鋒を担い、永禄12年(1569年)の三増峠の戦いでは昌輝や内藤昌豊とともに殿軍を務めて戦功を挙げている。その後も主要な戦いには必ず名を連ね、主に先鋒として活躍している。また近年では箕輪城城代であったとする説も有力で、準譜代としての待遇を得ていたようである。[要出典]元亀3年(1572年)の信玄の西上作戦にも従軍し、三方ヶ原の戦いでは武田軍の先手を務めて奮戦した。

最後
天正2年(1574年)5月に幸綱の死去に伴い正式に真田家の家督を継いだ信綱は[7]、その一年後、天正3年(1575年)5月21日の長篠の戦いに真田の兵を率いて参戦した。三尺三寸の陣太刀・青江貞を振って奮戦し、馬防柵を次々なぎ倒しながら敵陣に迫るが鉄砲部隊の銃撃によって弟の昌輝と共に戦死した[7][1]享年39。設楽原古戦場に残る墓碑には、『真田源太左衛門尉信綱の碑』と刻まれている。

真田家の家督は勝頼の命令により信綱の遺児らに受け継がれることは認められず、武藤家を継いでいた同母弟の昌幸が継承した。法名は信綱寺殿天室道也大禅定門。

信綱を討ったのは徳川方の渡辺半十郎政綱渡辺半蔵守綱の実弟)とされるが[12]実際には織田信長配下の柴田勝家丹羽長秀羽柴秀吉ではないかとする説もある[要出典]。信綱の首は着用していた陣羽織に包まれて、家臣(近習)の北沢最蔵白川勘解由が甲斐に持ち帰ったといい、この「血染めの陣羽織」は上田市の信綱寺に収蔵されている。なお、この2人は信綱を追って殉死し、その忠義を賞されて北沢家には300石、白川家にも200石が与えられた。

なお、信綱寺は、信綱の弟・昌幸が、位牌所として建立した寺で、この南には古城と呼ばれる尾根がある。ここは中世に真田氏が居館を構えていたと言われる由緒のある地である。

人物
信綱は信玄に将来を嘱望されるほどの豪勇の持ち主で、弟の昌幸も信綱の勇を尊敬していたという。甥(昌幸の次男)の真田信繁に信綱と同じ「左衛門」を名乗らせているのは信綱のように剛勇になってほしいという昌幸の期待があったといわれる。

初陣である信濃小岩嶽城攻めで一番槍の功名を挙げるなど豪勇の士であり、「若年より武勇抜群、信玄・勝頼両代のうち、攻城、野戦、その功すこぶる多し」と評されている[8]

脚注 
1. 
a b 柴辻 1996, p. 69.
2. 柴辻 1996, p. 70.
3. 仙台真田代々記
4. 滋野世記
5. 信綱寺殿御事蹟稿
6. a b c 柴辻 1996, p. 68.
7. a b c d 柴辻 1996, p. 67.
8. a b 『真田家譜』
9. 甲陽軍鑑
10. 甲陽軍鑑』「信玄惣人数書上」
11. 柴辻 1996, p. 68-69.
12.三河後風土記

参考文献
柴辻俊六『真田昌幸』吉川弘文館〈人物叢書〉、1996年。

関連作品
近衛龍春『真田信綱 弟・昌幸がもっとも尊敬した武田家随一の剛将』PHP研究所、2013年。
(wikiより)

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時代戦国時代 - 江戸時代初期
生誕永禄10年(1567年[注釈 1]または
元亀元年2月2日1570年3月8日[注釈 2]
[注釈 3]
死没慶長20年5月7日1615年6月3日)?
改名弁丸/[4]幼名)→信繁→好白(法名
別名幸村(「真田幸村」の由来を参照)、豊臣信繁
通称:源二郎/源次郎、左衛門佐
道号:好白斎、偽名:伝心月叟
戒名大光院殿月山傳心大居士
墓所長野県長野市長国寺
京都府京都市龍安寺塔頭大珠院
京都府京都市の妙心寺塔頭養徳院
宮城県白石市の墓所
福井県福井市の孝顕寺
秋田県由利本荘市の妙慶寺
鹿児島県南九州市の墓所
秋田県大館市の一心院
大阪府大阪市天王寺区心眼寺
官位従五位下左衛門佐
主君武田勝頼真田昌幸上杉景勝豊臣秀吉秀頼
氏族武藤氏真田氏清和源氏海野流)、豊臣贈姓
父母父:真田昌幸
母:山手殿(寒松院)[異説有]
兄弟村松殿信之信繁信勝昌親 ほか
正室:竹林院大谷吉継の娘)
側室:隆清院豊臣秀次の娘)[5][6]
側室:堀田興重の娘[7]または妹[8]
側室:高梨内記の娘
阿菊/すへ(石合重定/道定室)[9]、於市、
阿梅片倉重長後室)、あくり蒲生郷喜室)、
幸昌なほ(御田姫、岩城宣隆室)、阿昌蒲(片倉定広室)、おかね石川貞清室)、大八(早世)幸信 ほか

真田 信繁(さなだ のぶしげ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将大名[10]真田昌幸の次男。通称左衛門佐で、輩行名源二郎(源次郎)。真田 幸村(さなだ ゆきむら)の名で広く知られている。

豊臣方の武将として大坂夏の陣において徳川家康を追い詰め、本陣まで攻め込んだ活躍が江戸幕府や諸大名家の各史料に記録され、「日本一の兵(ひのもといちのつわもの)」と評されるなど日本の国民的ヒーローとされている[11][12][13][14][15]。後世、軍記物講談草双紙(絵本)などが多数創作され、さらに明治-大正期に立川文庫の講談文庫本が幅広く読まれると、真田十勇士を従えて宿敵である家康に果敢に挑む英雄的武将というイメージで、庶民にも広く知られる存在となった。

2016年には真田信繁(幸村)を主人公にした大河ドラマ真田丸』(脚本:三谷幸喜、主演:堺雅人)が放送された。

「真田幸村」の由来
「真田幸村」の名が広く知られているが、は「信繁」が正しい[16]。直筆の書状を始め、生前の確かな史料で「幸村」の名が使われているものは無い。信繁は道明寺の戦いで勇戦した家臣6名に対して、将棋の駒型の木片に戦功を書き記した感状を与えている[17]。「繁」の字の下半分に花押を重ね書きする信繁の書き癖から翻刻された際に「信仍」「信妙」と誤写されているが、花押の形が信繁のものであると断定でき、死の前日まで「信繁」と名乗っていたことが確認できる[18]。また、幸村と署名された古文書は、記録類のなかに書写されたものが2通見られる[19]が、いずれも明らかな偽文書で、信繁が幸村と自称したことの証明にはならない[20]

「幸村」の名が見られるようになったのは夏の陣が終わってから60年近く経った、寛文12年(1672年)に刊行された軍記物の『難波戦記[注釈 4]がその初出であるとされる[22]。『難波戦記』では昌幸の次男「左衛門佐幸村」[23]や「眞田左衛門尉海野幸村」[24][注釈 5]との名乗りで登場するが、前述のようにこの名乗りを実際に使用した形跡はなく、大坂入り後の書状でも「信繁」を用いている[16]

しかし「幸村」という名前にも説得力があった。「幸」は真田家や(真田家の本家にあたる)海野家通字であり、また「村」については徳川家に仇なす妖刀村正が由来に利用された。俗説ではあるが、村正は幸村の佩刀であったとか、介錯に村正が用いられたとかいう話がある。もちろんこれらは誤伝であるが、話に尾ひれがついたことで「幸村」の名は元禄時代には広く知られていた[6]。 そのため、元禄14年(1701年)に書かれた『桃源遺事』(徳川光圀の言行録)では既にもう、編集者の三木之幹、宮田清貞、牧野和高らがわざわざ、幸村は誤り、信仍が正しい[25]と書き記したほどである(もっとも、信仍というのも誤っている)。

時代が下るにつれて「幸村」の名があまりに定着したため、江戸幕府編纂の系図資料集である『寛政重修諸家譜』や兄・信之の子孫が代々藩主を務めた松代藩の正式な系図までもが「幸村」を採用した[16]。 松代藩が作成した系図の『真田家系図書上案』では信繁だけだが、『真田家系譜』になると幸村が現れる[26]。大坂夏の陣から200年近く後、文化6年(1809年)、徳川幕府の大目付から「幸村」名についての問い合わせを受けた松代藩・真田家は、「当家では、『信繁』と把握している。『幸村』名は、彼が大坂入城後に名乗ったもの」との主旨で回答している[27]

篠原幸久は論文で、武田信玄の同母弟に典厩信繁がおり、難波戦記の作者らには真田信繁の活躍を描く効果上、その旧主家一門の著名な同名者の呼称を避ける意図があり、信繁の名乗りが否定されて幸村が案出されたのであろうと主張する[28]

信繁の発給文書は20点が確認でき、花印は9回変えている[26]

生涯​
出生から真田氏の自立​
永禄10年(1567年)または元亀元年(1570年)[注釈 1][注釈 2]、真田昌幸(当時は武藤喜兵衛を名乗る)の次男として生まれた。母は正室の山手殿[注釈 6]。通称は、長男の信幸が源三郎を称し、信繁は源二郎を称した。

真田氏は信濃国小県郡国衆で、信繁の祖父にあたる幸隆(幸綱)の頃に甲斐国武田晴信(信玄)に帰属した。信繁の伯父・信綱は先方衆として信濃侵攻越後国上杉氏との抗争、西上野侵攻などにおいて活躍している。父の昌幸は幸隆の三男で、武田家の足軽大将として活躍し武田庶流の武藤氏の養子となっていたが、天正3年(1575年)の長篠の戦いにおいて長兄・信綱、次兄・昌輝が戦死したため、真田氏を継いだ。

幸隆は上野国岩櫃城代として越後上杉領を監視する立場にあったが、昌幸も城代を引き継いだ。信繁は父に付き従い甲府甲府市)を離れ岩櫃に移ったと考えられている。天正7年(1579年)には武田・上杉間で甲越同盟が締結され上杉方との抗争は収束するが、一方で相模後北条氏との甲相同盟が破綻したため、上野国は引き続き緊張状態にあった。

天正10年(1582年)3月には織田徳川連合軍の侵攻により武田氏は滅亡し、真田氏は織田信長に恭順して上野国吾妻郡利根郡、信濃国小県郡の所領を安堵され、信繁は関東守護として厩橋城に入城した滝川一益のもとに人質として赴く[31]。同年6月に本能寺の変により信長が横死すると武田遺領は空白域化し、上杉氏・後北条氏・三河国徳川家康の三者で武田遺領を巡る争いが発生する(天正壬午の乱)。滝川一益は本能寺の変によって関東を離れる際に信繁も同行させ、木曾福島城で信繁を木曾義昌に引渡した[31]

真田氏は上杉氏に帰属して自立し、天正13年(1585年)には第一次上田合戦において徳川氏と戦っている。従属の際に信繁は人質として越後国に送られ、信繁には徳川方に帰属した信濃国衆である屋代氏の旧領が与えられたといい、天正13年(1585年)6月24日に屋代氏旧臣の諏訪久三宛に安堵状を発給している。慶長5年以前の信繁領は上田市西塩田の前山村で、上田領全体で千貫以上を所持していた[32]

豊臣秀吉の馬廻衆
織田家臣の羽柴秀吉(豊臣秀吉)が台頭すると昌幸はこれに服属し、独立した大名として扱われる。信繁は人質として大坂に移り、のちに豊臣家臣の大谷吉継の娘、竹林院を正妻に迎えている。

天正17年(1589年)、秀吉の命で、信幸は沼田城を後北条氏へ引き渡したが、北条氏直が裁定に逆らって名胡桃城を攻めたことで、12月に小田原征伐が号令される。翌年の遠征に際しては、昌幸・信幸は前田利家・上杉景勝らと松井田城箕輪城攻めに、信繁・吉継は石田三成の指揮下で忍城攻めに参戦したと伝えられる。

文禄の役においては、『大鋒院殿御事跡稿』によれば、昌幸・信幸とともに肥前名護屋城に700名の指揮を執って在陣している。『松浦古事記』によると、三ノ丸御番衆の御馬廻組の中に信繁の名がある。

文禄3年(1594年)11月2日、従五位下左衛門佐に叙任されるとともに、豊臣姓を下賜される[33]。この信繁の立身には、岳父の吉継とその母である東殿の意向が反映されていた[34]

豊臣政権期の信繁の動向は史料が少なく、詳細はわかっていない。文禄3年の叙任も史料自体はあるものの、さらに確認するための別の史料による裏付けは困難でもある。

ただし、近年の研究によって信繁が秀吉の馬廻衆であり、昌幸とは別に1万9000石の知行を有していたことがわかっている[10]。信繁は豊臣政権から伏見城の普請役を課され、大坂・伏見に屋敷を与えられるなど独立した大名として遇されていた[10]。一方で知行地の支配については原昌貞ら昌幸の家臣に任せていた[10]

関ヶ原の合戦
秀吉死後の慶長5年(1600年)に五大老の徳川家康が、同じく五大老の一人だった会津の上杉景勝討伐の兵を起こすとそれに従軍し、留守中に五奉行石田三成らが挙兵して関ヶ原の戦いに至ると、父と共に西軍に加勢し、妻が本多忠勝の娘(小松殿)であるため東軍についた兄・信之と袂を分かつことになる。諸説あるが東軍西軍どちらにつくかの合議を犬伏で行ったため、「犬伏の別れ」として語られることが多い

東軍の徳川秀忠(家康の三男)勢は中山道制圧を目的として進軍し、昌幸と信繁は居城上田城に籠り、38,000の徳川軍を城に立て籠もって迎え撃った[35]。少数の真田隊に手こずった秀忠勢は家康からの上洛を命じられ、攻略を諦めて去った[注釈 7]

詳細は「上田合戦#第二次上田合戦」を参照

また、秀忠勢が去った後も海津城将の森忠政葛尾城井戸宇右衛門配下の兵を置いて上田城の動きを監視させていた。これに対して信繁は9月18日と23日の2度討って出て、夜討と朝駆けを敢行している。

9月15日、西軍は秀忠が指揮を執る徳川軍主力の到着以前に関ヶ原で敗北を喫する。昌幸と信繁は本来なら敗軍の将として死罪を命じられるところだったが、信之とその舅である本多忠勝の取り成しがあって、高野山配流を命じられるにとどまり、12月12日に上田を発して紀伊国に向かう[36]。初め高野山にある蓮華定院に入り、次いで九度山[注釈 8]に移った。

蟄居中の慶長16年(1611年)に昌幸は死去。慶長17年(1612年)に信繁は出家し、好白と名乗った[注釈 9]

大坂城入城
慶長19年(1614年)、方広寺鐘銘事件をきっかけに徳川氏と豊臣氏の関係が悪化する。

大名の加勢が期待できない豊臣家は浪人を集める策を採り、九度山の信繁の元にも使者を派遣して黄金200枚、銀30貫を贈った[37]。信繁は国許(上田)にいる父・昌幸の旧臣たちに参戦を呼びかけ、九度山を脱出して嫡男大助幸昌と共に大坂城に入った[注釈 10]。大坂で信繁が指揮を執っていた軍は、鎧を赤で統一していたという[38]

赤備え#真田の赤備え」も参照

大坂冬の陣
慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では、信繁は当初からの大坂城籠城案に反対し、先ずは京都市内を支配下に抑え、近江国瀬田(現在の滋賀県大津市。瀬田川の瀬田橋付近)まで積極的に討って出て徳川家康が指揮を執る軍勢を迎え撃つよう主張した。その作戦案に浪人衆は賛成を表明するが結局受け入れられずに終わる[39]

大坂城への籠城策が決定すると、信繁は大坂城の最弱部とされる三の丸南側、玉造口外に真田丸と呼ばれる土作りの出城を築いたが、千田嘉博によると大坂城の実際の最弱部は、上町台地の中央部、真田丸の西のあたりであるとされる。信繁は、地形の高低差が少なく惣堀の幅も狭い真田丸という突出部を築くことで真田丸に敵の注意を引きつけ、大坂城の真の弱点を見逃しやすくしたのである。さらに真田丸の背後には幅200メートルにもおよぶ深い谷があり、信繁は、真田丸がたとえ落とされたとしても、その谷が大坂城を守りつづけてくれると見越して、この場所に真田丸を築いたのであると指摘している[40]。さらに半円形といわれてきた真田丸は『浅野家文庫諸国古城之図』が採録した『摂津 真田丸』の絵図を調査した千田嘉博により、不定形であったことが判明した[41]

この戦闘で信繁は、寄せ手を撃退し、初めてその武名を天下に知らしめることとなる[42]。なお、この真田丸を造る際、大野治長を始めとする豊臣方の他の武将は、これを信繁が徳川方に寝返るための下準備と疑っていた[43]

詳細は「真田丸の戦い」を参照

冬の陣の講和後、この真田丸は両軍講和に伴う堀埋め立ての際に取り壊されてしまった。そして豊臣方の弱体化を謀る家康は慶長20年(1615年)2月に、使者として信繁の叔父である真田信尹を派遣し、「信州で十万石下さるべく候旨」条件を提示し、承知をするならば、本多正純から誓詞を与えると寝返るように説得している [44][11]。信繁が秀頼には恩があると言ってこれを断ると、正純から再び信尹を使者として差し向け、今度は「信濃一国を与える」と説得に出たが、これを聞いた信繁は「信濃一国などで裏切るような者だと思ったか。」と立腹して対面をしなかったという[11]

大坂夏の陣
天王寺・岡山の戦い」も参照

慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では、道明寺の戦い(5月6日)に参加。伊達政宗隊の先鋒(片倉重長ら)を銃撃戦の末に一時的に後退させた。

ただし、この道明寺の戦いでは、先行した後藤基次(通称又兵衛)隊が真田隊が駆けつける前に壊滅し、基次は討死している。この大幅な遅れの要因としては、当日の濃霧のため、真田隊が行路を誤ったためとする史料がある。また、毛利勝永隊はこの時、真田隊より早く戦闘現場に着陣済みで、真田隊の到着を待っていた。しかも当日の指揮権は、大坂城内の譜代の大野治長が持っていた。そのため、後藤基次討死の責任が、信繁や勝永ら現場の武将にあるとは断定できない。しかし、所定の時間に着陣できなかった信繁は毛利勝永に向かって「濃霧のために味方を救えず、みすみす又兵衛(後藤基次)殿らを死なせてしまったことを、自分は恥ずかしく思う。遂に豊臣家の御運も尽きたかもしれない」と嘆き、この場での討死を覚悟した。これを聞いた毛利勝永は「ここで死んでも益はない。願わくば右府(豊臣秀頼)様の馬前で華々しく死のうではないか」と信繁を慰留、自らは退却に移った。ここで真田隊は殿軍(しんがり)を務め、追撃を仕掛ける伊達政宗隊を撃破しつつ、豊臣全軍の撤収を成功させた。この撤退戦の際には、「関東勢百万と候え、男はひとりもなく候」(「関東武者は百万あっても、男子は一人も居ないものだな」)と徳川軍を嘲笑しながら馬に乗り、悠然と撤収したといわれている。この言葉は後世にまで語り継がれた[45]

信繁は兵士の士気を高めるためには、豊臣秀頼本人の直接の出陣を訴えたが、豊臣譜代衆や、秀頼の母・淀殿に阻まれ、秀頼の出陣は困難を極めた[注釈 11]

5月7日、信繁は大野治房明石全登・毛利勝永らと共に最後の作戦を立案する。それは右翼として真田隊、左翼として毛利隊を四天王寺茶臼山付近に布陣し、射撃戦と突撃を繰り返して家康の本陣を孤立させた上で、明石全登の軽騎兵団を迂回・待機させ、合図と共にこれを急襲・横撃させるというものだった、とされている[46][注釈 12]

先鋒の本多忠朝の部隊が毛利隊の前衛に向けて発砲し、射撃戦を始めた。信繁は、かねての作戦計画に齟齬をきたすため、毛利隊に射撃中止の伝令を遣わし、勝永自身も中止を促したが、射撃戦は激しくなるばかりで、ついに本格的な戦闘へと突入したため、作戦を断念せざるを得なくなった[47]。これを受けて信繁は、軍目付の伊木遠雄に向かって武運拙きことを嘆き、己の死を覚悟したという[47][48]。そして死を覚悟した信繁は徳川家康本陣のみを目掛けて決死の突撃を敢行した。この突撃は真田隊のみではなく、毛利・明石・大野治房隊などを含む豊臣諸部隊が全線にわたって奮戦し、徳川勢は総崩れの観を呈するに至った[49]。信繁が指揮を執る真田隊は、越前松平家松平忠直隊・15,000の大軍を突破、合わせて10部隊以上の徳川勢と交戦しつつ[50]、ついに家康本陣に向かって突撃を敢行。精鋭で知られる徳川の親衛隊・旗本・重臣勢を蹂躙し、家康本陣に二度にわたり突入した。真田隊の攻撃のあまりの凄まじさに家康は自害を二度も覚悟したほどだった。

なお、家康の本陣が攻め込まれ馬印が倒されたのは「三方ヶ原の戦い」以来二度目であり、家康は武田家ゆかりの武将に二度馬印を倒されたこととなる[51]

大野治長は秀頼の出馬は今しかないと考え、自ら言上しようと大坂城に引き返した。しかしこの時、治長は秀頼の馬印を掲げたまま帰ろうとしたため[注釈 13]、退却と誤解した大坂方の人々の間に動揺が走り、落胆が広がった。さらに城内で火の手が上がったことで、前線で奮闘していた大坂方の戦意が鈍った。家康はこれを見逃すことはなく、全軍に反撃を下知した。東軍は一斉に前進を再開し、大坂方は崩れ始めた。

この時、真田隊は越前・松平隊と合戦を続けていたが、そこへ岡山口から家康の危機を知って駆けつけた井伊直孝の軍勢が真田隊に横槍を入れて突き崩したという。真田隊は越前・松平隊の反撃によって次々と討ち取られて数が減っていき、遂には備えが分断されてしまった。数度に渡る突撃で信繁の疲弊も頂点に達した。兵力で勝る徳川勢に押し返され、信繁は家康に肉薄しながら、ついに撤退を余儀なくされたのである。真田隊が撤退をはじめたのを見た毛利隊も攻撃続行をあきらめた。こうして大坂方は総崩れとなって大坂城への退却を開始し、天王寺口の合戦は大坂方の敗北が決定的となった[52]

信繁は四天王寺近くの安居神社大阪市天王寺区)の境内で木にもたれて傷つき疲れた身体を休ませていた[注釈 14][注釈 15]ところを、越前松平家鉄砲組頭の西尾宗次に発見され、「この首を手柄にされよ」との最後の言葉を残して討ち取られた[53]。享年49。実際は、真田信繁だという首級が多数あったと言われている。一方、近年発見された[54]新史料[注釈 16]では、生玉(生國魂神社の周辺)と勝鬘(勝鬘院の周辺)の間の高台で身を休めていた信繁に、西尾が相手を知らずに声をかけ、互いに下馬して槍で戦った末に討ち取り、後に陣中見舞いに来た知人が過去に真田家に仕えていたことから信繁の首と判明したと記述されている[55]

人物・逸話・俗説
・旗印である六文銭(もしくは「六連銭」)は、冥銭を表しているといわれている。冥銭とは本来古代中国の習俗で[56]、日本ではとくに亡くなった人を葬る時に棺に入れる六文の銭を意味し、三途の川の渡し賃のことである。これを旗印にすることは「不惜身命」[注釈 17]を意味するといわれている。

・家康を追いつめた勇猛な名将として語り継がれた。夏の陣の戦功においては、自らも参戦した証人とも言える
黒田長政は生前に、大坂夏の陣図屏風を描かせ、右隻中央に信繁軍の勇猛果敢な姿を配している。江戸時代中期の文人・神沢杜口は、自身の著した随筆集『翁草』のなかで、「史上、単独一位は真田、第二の功は毛利」と記し、さらに「惜しいかな、後世、真田を言いて、毛利を言わず」と、毛利勝永の活躍を記している。幕府・諸大名には当然ながら知られていたが、庶民には夏の陣から後、主に軍記物や講談等でその名将ぶりが知られていった。徳川に敵対したにもかかわらず幕府側は、真田の名将ぶりの流布を敢えて禁ずることはなかった。これに関しては、「その忠勇に敵方も武士として尊意を示した」「主君に最後まで忠義を尽くすという筋立てが幕府に容認された」とされる。他に「二代将軍となった秀忠の関ヶ原での遅参を誤魔化すため、真田親子が名将の方が都合が良かった」「大坂の陣でやや不甲斐なかった徳川勢を遠回しに擁護するため」といった見方も存在する。

・信繁の人柄は、兄・信之の言葉によると柔和で辛抱強く、物静かで怒る様なことは無いという、およそ勇猛な武将のイメージとはかけ離れたものであったようである。また、信之は『幸村君伝記』において「左衛門佐は国郡を支配する本当の侍であり、それに対して我らは見かけを必死に繕い、肩をいからしている道具持ちという程の差がある」とも語っている。

・「台徳院殿御実紀」に記述されている逸話として、家康は大坂方の諸将の中で最も活躍した信繁に脅威を覚え、大坂冬の陣の後には信繁の兄・真田信之に命じて信濃一国40万石で彼を調略しようとしているが、この破格の条件に興味を微塵も見せず豊臣家への忠誠を最期まで貫き通しているとされる(諸説があり叔父真田信尹に命じて上田10万石とも)。

・大坂の陣において後藤基次の近習を務めた、長沢九郎兵衛という者が後年に口述筆記させた『長沢聞書』によると、「真田左衛門佐(信繁)は四十四、五にも見え申し候。ひたひ、口に二、三寸の疵跡あり小兵なる人にて候」とあり、年齢相応(大坂入城時、信繁48歳)の容姿をした小男であったと想像される。

・『真竹内伝追加』によれば、九度山幽閉中の信繁は日頃から地域の人々や老僧と深く交わり、狩りをしたり寺に遊びに行っては囲碁や双六に興じ、屋敷では夜更けまで兵書を読み耽っていたという。また、父昌幸生存中は、兵書の問答を欠かさず、欠けていた知識を教え込まれ、常に武備を怠ることは無かった。心中に蟠竜(伏流する竜)を保ち近隣の郷士や郎従をしばしば集めては、兵術、弓、鉄砲の訓練を行っていたとされる。これがどこまで真実であるかは定かでは無いが、信繁のその後の戦歴と活躍を見ると極めて蓋然性が高い[52]

・大坂の陣の後、秀頼と嫡男の大助(幸昌)とともに薩摩国に落ちのびたとする俗説がある[22]

愛用の刀槍
現在のところ、信繁の愛用の刀槍が何であったのかは不明である。

講談や軍記物語では、信繁の愛槍は「十文字槍」とされ、これは両鎌槍を強化して作られた細めの槍である。槍の柄は朱色に塗られ、真田の赤備えに恥じぬ名槍であったと講談や軍記物語では語られている。大坂夏の陣図屏風に描かれた信繁も十文字槍を握っている。

信繁の愛刀についても、刀は正宗、脇差しは貞宗、とする話が有名だが、これは歴史書というよりも歴史小説に近い明治初期の『名将言行録』(明治2年(1869年))に登場する説[57]である。他にも、村正の大小を帯びたという説が有名だが、こちらは噂の出処が比較的古く、徳川光圀の家臣が元禄14年(1701年)12月に著した光圀の言行録『桃源遺事』まで遡ることができる[25]。この書によれば、光圀は、「真田信仍は東照君(家康)を宿敵と見なしてから、常に千子村正の大小(打刀と脇差の一揃い)を手放さなかった。村正は徳川家不吉の刀と聞いて、東照君を調伏(呪殺)する意図があったのだと聞く。武士とはこのように、常日頃からこのようなことにまで忠義に心を尽くすものだ」と称賛していたという[25][注釈 18]。なお、実際に村正を大小で愛用していたのは、徳川家康である[58][59]。こちらは噂や伝説などではなく、尾張徳川家に伝来した由緒正しいものがあり、大小のうち村正の脇差は大正時代に売却されたが、徳川家康愛用の村正の打刀は徳川美術館が所蔵し、今も展覧会などで観ることができる[59]。信繁の兄の真田信之の家系松代藩真田家には、村正の弟子の千子正重の刀が伝来していた(信之のものかは不明)[60]ので、信繁が村正を所有していたとしても時代考証的に不自然ではない。ただし、徳川家に祟るとする妖刀伝説が発生したのは家康の死後[58]なので、その場合はただの業物としての村正ということになる。

詳しい事は「真田信繁ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E7%94%B0%E4%BF%A1%E7%B9%81 
(wikiより)

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恭雲院(きょううんいん、生没年不詳)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての女性。甲斐武田氏の家臣・真田幸綱(幸隆)の正室

生涯
海野棟綱真田氏の譜代の家老であった河原隆正の妹で、海野氏分家の家柄だった真田幸綱に嫁ぎ、真田信綱真田昌輝真田昌幸真田信尹金井高勝を産んだ。幸綱には他に二人の娘(長坂昌国室、遠山右馬助室)がいるがこちらの生母は不明である[1]。長男の信綱が天文6年(1537年)の生まれ(『信綱寺殿御事跡稿』)のため、幸隆と恭雲院の結婚は天文年間初期と推測される[2]

系図纂要』によれば、武田家の譜代家老・飯富虎昌の娘が幸綱に嫁いだとする説があり、その後は側室となったと思われるが、永禄8年(1565年)10月15日に飯富虎昌が義信事件で失脚・処刑されて以降は正室に戻ったと思われる[1]天正2年(1574年)5月19日には幸綱が死去する。また、『羽尾記』によれば、恭雲院の出自を羽尾幸全の娘(『羽尾記』)ともされるが、柴辻俊六はこの説の根拠は弱いとしている[2]

天正10年(1582年)3月の武田家滅亡後、上野国と信濃小県郡佐久郡を支配していた織田家家臣・滝川一益の元に人質として出されたが、後に武田氏から離反して織田氏に従属し、信濃安曇郡筑摩郡木曽郡を与えられた木曾義昌へ引き渡された。同年9月に真田家が徳川家に従属したことに伴い、翌11年2月に徳川家康の人質となった。その後天正13年(1585年)ごろに解放され、真田家へもどったとされる[3]

没年には二説ある。真田氏の菩提寺である長野県上田市長谷寺墓碑には天正20年5月20日1592年6月29日)とあり、同寺の過去帳には文禄2年8月1日1593年8月27日)とあり、1年余の差があるがこの頃に没したものと思われる[2]。戒名は恭雲院喜山理慶大姉[2]

登場する作品
・『風林火山』(2007年NHK大河ドラマ、演:清水美砂
・『真田丸』(2016年、NHK大河ドラマ、演:草笛光子

脚注3. 
1. 
a b 丸島和洋 2016, p. 220.
2. a b c d 柴辻俊六 1996, p. 20.
3.丸島和洋 2016, pp. 220–222.

参考文献
書籍
柴辻俊六『真田昌幸』吉川弘文館〈人物叢書〉、1996年。ISBN 978-4-64-205202-3
丸島和洋『真田一族と家臣団のすべて』KADOKAWA〈新人物文庫〉、2016年。ISBN 978-4-04-601099-5
(wikiより)


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時代戦国時代 - 江戸時代初期
生誕天文16年(1547年)?
死没慶長16年6月4日1611年7月13日
改名真田源五郎(幼名)→武藤喜兵衛→真田昌幸
別名通称:喜兵衛
戒名長谷寺殿一翁千雪大居士
一翁閑雪大居士
墓所真田山長国寺長野県長野市
真田山長谷寺(長野県上田市
善名称院和歌山県九度山町
官位従五位下安房守
主君武田信玄勝頼織田信長北条氏直→(徳川家康)→上杉景勝豊臣秀吉秀頼
氏族真田氏(自称滋野氏)→源姓武藤氏→真田氏
父母父:真田幸綱、母:河原隆正の妹・恭雲院[1]
養父:武藤三郎左衛門尉
兄弟信綱昌輝昌幸信尹(加津野昌春)、金井高勝清鏡?
正室:山手殿(寒松院殿)[注釈 2]
信之信繁(幸村)信勝昌親村松殿小山田茂誠室)、清寿院(真田幸政室)、娘(鎌原重春室)、清陽院(保科正光室)、趙州院宇多頼次室のち滝川一積室)、清光院(妻木頼熊室)、於楽

真田 昌幸(さなだ まさゆき)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将大名

甲斐国武田信玄の家臣となり信濃先方衆となった地方領主真田氏の出身で、真田幸綱(幸隆)の三男。信玄・勝頼の2代に仕え、武田氏滅亡後に自立。織田信長の軍門に降り、滝川一益の与力となったが、本能寺の変後に再び自立し、近隣の北条氏徳川氏上杉氏との折衝を経て、豊臣政権下において所領を安堵された。上田合戦で2度にわたって徳川軍を撃退したことで、徳川家康を大いに恐れさせた逸話で知られるが、関ヶ原の戦いで西軍についたために改易された。

軍記物講談小説などに登場したことで、後世には戦国時代きっての知将としてよく知られるようになった。

子に真田信之上田藩初代藩主)、真田信繁(真田幸村)らがいる。

生涯
出自
天文16年(1547年[注釈 3]、真田幸綱(真田幸隆)の三男として生まれる[4][3]。生誕月日は不明[4]。幼名は源五郎[5]

真田昌幸は三男であり、同母兄に真田信綱真田昌輝がいたため、生まれた時点では真田氏の家督相続の権利は無かった。

武田信玄の時代
天文22年(1553年)8月、甲斐武田家への人質として7歳で甲斐国へ下り、武田晴信(武田信玄)の奥近習衆に加わった[5][6]。なお、『甲陽軍鑑』(以下『軍鑑』)によれば、この時の奥近習衆は昌幸の他に金丸平八郎曽根与一三枝勘解由三枝新十郎曽根総次郎が挙げられている[5]

武田氏親族衆の武藤氏を継ぐ
真田昌幸永禄年間に信玄の母系・大井氏の支族である武藤氏の養子となり、武藤喜兵衛を称し足軽大将に任じられ、その軍役は騎馬15騎、足軽30人と伝えられている[注釈 4]。 なお、武藤氏武藤三郎左衛門尉の時に実子の武藤与次が早世したため、真田昌幸を養子にとったとされている[8]

永禄7年(1564年)頃に、山手殿(山之手殿、真田信之、真田信繁らの母)を妻に迎えている。山手殿は公家・菊亭晴季の娘とされているが、晴季の生年などから否定的見方がなされており、出自には諸説がある(山手殿の項を参照)。

第四次川中島の戦い​
初陣は『甲陽軍鑑』によれば、永禄4年(1561年)9月の第四次川中島の戦いに、足軽大将として武田家奉行人にも加わったと言われている。ただし『軍鑑』以外の史料が無く、昌幸が川中島に出陣したかどうかの傍証は無い。ただし昌幸は15歳であり、元服前後の年齢で出陣していた可能性も否定はできない[9]

永禄9年(1566年)春、甲府一蓮寺で歌会が開かれた際には奥近習衆として信玄の配膳役を勤めた。永禄10年(1567年)11月に武田勝頼の嫡男・武田信勝が生まれた際には山県昌景馬場信春内藤昌豊(昌豊)・土屋昌続(昌次)と共に信玄の使者として高遠城の武田勝頼の下に出向いた。昌幸以外の顔ぶれはいずれも武田氏の譜代宿老・重臣クラスであり、この頃の昌幸は武藤氏を継いで既に重臣クラスかそれに準ずる地位にあったと見られている。ただし出典が『軍鑑』のみで傍証が無いのも事実である[9]

武田信玄の小田原攻め
永禄12年(1569年)10月6日、北条氏康氏政氏照親子との三増峠の戦いでは先陣の馬場信春への使番を務めた[10]。『軍鑑』によれば北条氏との戦いで一番槍の高名を挙げたとされている。

武田信玄の駿河侵攻
武田信玄は昌幸の父・幸綱にも劣らぬ才能を見抜いていた。『軍鑑』によれば、元亀元年(1570年)に武田軍が伊豆に侵攻して韮山城を攻めている時、北条氏政が援軍の指揮を執り箱根を越えて三島に着陣したので、信玄は決戦を主張した。これに状況を見極めるべきではと慎重論を唱えた馬場信春に、「信玄の両眼の如き者たちを物見に派遣しておる」と信玄は答えた。諸将が信玄の両目に比肩される武将は誰なのかと訝しんでいると、まもなく曽根昌世と昌幸が帰還して報告をして、その両名が両眼であることがわかった[11]。 この話に出てくる昌世がそうであるように、昌幸も、父と兄の信綱、昌輝と並び、武田二十四将にも数えられる事があり、父と兄弟3人が武田二十四将に数えられるような家は、この真田家だけである。

武田信玄の西上作戦
元亀3年(1572年)10月から武田信玄の西上作戦に参陣し、12月の三方ヶ原の戦いにも参加しているが[12]、この際に昌幸は浜松城に敗走した徳川家康らを追撃・総攻撃すべきという意見に反対したとされている[13]。『甲陽軍鑑』によれば、昌幸は「武藤喜兵衛尉、騎馬15騎、足軽30人」の指揮を執って出陣したとされている。当時の昌幸の所領の場所や規模は明らかではないが、武田家の親族衆である信玄の弟・武田信実が昌幸とほぼ同じ規模の兵を保有しており、信実は397貫文を知行としていたため、昌幸も同等かそれより上くらいと推測されている。なお、この頃には養父の武藤三郎左衛門尉は戦死していたとされており、昌幸がその遺領を継いでいたと見られている[14]

なお、信玄の晩年には武田氏の奉行人に列されており、元亀3年(1572年)2月4日の佐久郡岩村田の龍雲寺宛の竜朱印状の奉者として確認できる[15]

武田勝頼の時代​
元亀4年(1573年)4月、信玄が病死すると家督を継いだ武田勝頼に仕えた[16]

天正2年(1574年)には父・幸綱が死去する。この時、既に真田氏の家督は長兄・真田信綱が継いでいた。しかし天正3年(1575年)5月21日の長篠の戦いで信綱と次兄・昌輝が討死したため、昌幸は真田氏に復して家督を相続した[17]。これには武田家の重臣で川中島海津城主であった高坂昌信の支援があったとされ、勝頼も昌幸の復姓と家督相続を認めたとされる。なお、昌幸も長篠合戦には参加していたが、勝頼旗本衆として参加していたため、戦死は免れていた[18]。武藤家の家督は武藤一族の武藤常昭が継承したと考えられており、武藤領と真田領を併せて相続したわけでは無かったようで、所領に関しては一万五千貫ともいわれる真田領のみの相続であった[18]。家督相続後、昌幸は真田領の仕置のために在国し、あるいは勝頼への甲府出仕も多かったとされ、本領と甲斐を往復する事を繰り返したようである[19]。真田氏の本拠の展開は戸石城を中心とした一帯を掌握したことを第一の画期としており、居館を核としてはいるが、山城(詰の城)・寺院・市町などはいずれも多元的で家臣の集住はほとんど見られないことから[20]、昌幸の支配領域では兵農未分離のまま、在地の中小領主層が戦国期以来の郷村支配を続けており[21]、上田に移住するまで昌幸は、小県郡と西上野に独自の領域支配を展開していくことになる[22]

天正6年(1578年)3月、越後上杉謙信死後に御館の乱を経て甲越同盟が成立するが、この時の上杉景勝との交渉は親族衆の武田信豊・譜代家老の小山田信茂・勝頼側近の跡部勝資らが担当しており、昌幸は蚊帳の外に置かれていた[23]。この同盟成立により、天正7年(1579年)9月に昌幸は勝頼の命令で北条氏政の所領であった東上野の沼田領へ侵攻した。昌幸は沼田衆を調略によって切り崩し、叔父の矢沢頼綱沼田城を攻めさせ[23]、一方で現在の利根郡みなかみ町にある名胡桃城鈴木重則小川城小川可遊斎を誘降させて両城を手に入れた[24]。そしてこれらを拠点にして沼田城を攻撃したが、北条氏邦が援軍に駆け付けたために撤退した。天正8年(1580年)閏3月から沼田城攻撃を再開し、金子泰清藤田信吉らを投降させて5月に沼田城を開城させた。この時、同時に利根郡みなかみ町にあった猿ヶ京城も攻め落とした[24]。同年、武田信勝元服祝儀の名目で喜兵衛尉を改め、安房守の名乗りを許された[25]。この時点では、勝頼から与えられた私称である[26]。これは、北条方の上野担当である藤田(北条)氏邦が、安房守を受領名としていたことへの対抗である[27][注釈 5]

天正9年(1581年)には、勝頼の命で新たに韮崎へ築城された新府城の人夫動員を通達している。新府城築城に関しては昌幸は作事奉行であったとする説もあるが、昌幸は麾下の諸将に人夫動員を通達しているに過ぎず、作事奉行であったとする見方を慎重視する説もある[30]。同年、元沼田城主・沼田景義が旧領奪回を図ったが、昌幸は家臣の金子泰清に命じて景義を討ち取った。

天正10年(1582年)3月、織田信長徳川家康連合軍による甲州征伐が開始され本格的な武田領国への侵攻が行われた。なお江戸期編纂の文書に拠れば、このとき昌幸は武田勝頼に甲斐国を捨てて上野国吾妻地方に逃亡するように進言し岩櫃城へ迎える準備をしていたが勝頼は郡内領主・小山田信茂の居城である岩殿城を目指して落ち、その結果途中で信茂の裏切りに遭って最期を遂げることになったと言われている。このような武田家への忠誠を示す逸話が知られるが、一方で武田滅亡以前から北条氏邦、徳川家康、上杉景勝との接触を示す史料もあり、氏邦からは北条への降伏をするよう返信を受けている。

武田氏滅亡後、天正10年(1582年)4月8日、昌幸は織田信長から、旧領のどの部分かは不明だが安堵をされ、織田政権に組み込まれ[31]織田氏の重臣・滝川一益の与力武将となった。また沼田城には滝川益重が入った。昌幸は次男の信繁を人質として滝川一益に差し出した[32]

天正壬午の乱
詳細は「天正壬午の乱」を参照

織田氏に従属してから僅か3ヶ月後の天正10年(1582年)6月2日に本能寺の変で信長が横死する。甲斐・信濃の旧武田領はこの事変で騒然たる状態となり、森長可毛利秀頼道家正栄ら信長から旧武田領の統治を任されていた織田家臣らは相次いで美濃方面に逃走し、甲斐・信濃諏訪郡支配を担っていた河尻秀隆は殺害された。こうして無主となった旧武田領を巡り、徳川家康・上杉景勝・北条氏直らが熾烈な争奪戦を繰り広げた(天正壬午の乱)。

昌幸もこの好機を見逃さず、信濃小県郡佐久郡における旧武田家臣の取り込みを策した。織田信長の苛烈な仕置のために武田家臣の多くは潜伏していたが、本能寺の変により彼らは自由の身となった。しかし主家である武田家は既に滅亡しており、彼らは6月12日に小県郡海野郷に鎮座する白鳥明神の祭礼に事寄せて神前で会合し、酒を酌み交わしながら将来について話し合った。昌幸はこの会合には参加していないが、会合参加者の一部をこの時に既に調略しており、この会合で調略していた一部が昌幸を総大将に仰ぐ事を表明すると他もそれに続くようになった。そして彼らの代表者が岩櫃城にいた昌幸の下を訪れ、昌幸は快諾して砥石城に移り、彼らと主従の契りを結んだ。この2日前の6月10日には真田領の四阿山白山神社の宝蔵院に寺領を寄進し、武田家臣時代の与力衆だった吾妻衆の家臣団化を推し進めている。6月12日付で吾妻郡の地侍・恩田伊賀に30貫文、6月16日には吾妻郡の豪族・鎌原重春に1,000貫文、6月21日には湯本三郎右衛門に所領を与え、吾妻郡有力者の人心収攬に務めている。

6月19日、北条氏直が上野に侵攻し、滝川一益を破った(神流川の戦い)。この時、昌幸は滝川一益を諏訪まで送り届けた[33]。昌幸は一益がいなくなり上野も無主になると、6月21日に叔父の矢沢頼綱を送り込んで沼田城を奪回した。また、嫡男の信幸を岩櫃城に送って上野方面の守備を固めた。

同時期、越後の上杉景勝も北信に進軍し、6月24日に長沼城に入った。これに対し、昌幸はまず上杉景勝に臣従したが、7月9日には北条氏直に降った[34][35]。7月12日、北条氏直は川中島に進軍し、上杉景勝と対峙したが決戦を避け、徳川家康が侵攻した甲斐に向かった。この時、松田憲秀と真田昌幸を殿として残している[36]。一方、上杉景勝は8月9日に新発田重家に対処する為に越後に帰国した。沼田城に戻った昌幸は9月25日、佐久郡において北条氏直に抵抗していた春日城主・依田信蕃を介して徳川家康方となり、突如、北条氏を裏切る[34]。10月19日に禰津昌綱を攻めたのを手始めに、信蕃と連合軍を形成して小諸で軍事行動を行うが、信蕃と組むのは北条氏を裏切った証として家康から求められていたものであった[37]。昌幸離反の情報は、10月初旬に北条氏に伝わったとみられる[37]藤田氏邦は昌幸をけん制するため沼田城を攻めるが、成功しなかった[38]。これが契機となって、若神子で徳川軍と対陣する北条氏直は10月29日に和睦の途を選択する。しかし、北条氏との同盟を選択した家康は氏直に和睦の条件として上野国の沼田領を譲渡するという条件を出した。昌幸は自力で獲得した沼田割譲について代替地が不明瞭だったことに反発し、徳川・北条と敵対していた越後の上杉景勝に臣従する[39]。これは徳川・北条連合と対立する上杉・羽柴陣営への参加に他ならない。この時、厩橋城北条高広も真田昌幸や上杉景勝に通じ北条氏と敵対するが、翌年9月頃、厩橋城は落城している。

徳川家康との対立
詳細は「上田合戦」を参照

天正11年(1583年)、昌幸は上杉氏に対する千曲川領域を抑える城が必要になり、徳川家康の命で川の北岸、沼、崖などの自然を要害とする地に松尾城(後の上田城)と、その周囲に当時流行の城下町も築いた[40]。また、同時期には北条氏と通じていた一族である根津昌綱を懐柔、近隣の屋代秀正室賀満俊らを調略し、丸子氏を滅ぼしている。これら一連の活動は徳川家の家臣として行なっているが、昌幸は家康との和睦条件の齟齬から独立を策していたとされている。

天正12年(1584年)3月に小牧・長久手の戦いが起こり、家康は主力の指揮を執り尾張国に向かい、昌幸は越後の上杉景勝を牽制するために信濃に残留した。昌幸は家康の注意がそれたのを見て、吾妻衆に上野白井城を計略を以て攻めさせ[41]、沼田城周辺で北条氏と小競り合いを繰り返している間に、知行宛行状を濫発して沼田・吾妻の所領を改めて確保し、さらに室賀正武を殺害し、徳川を刺激しないため正武の妻子の命は助けて、上杉に引渡した。この事件は真田による謀殺ではなく、昌幸を暗殺しようとした室賀を返討ちにした事件として噂が広められた[42]。 こうして沼田・吾妻・小県を完全に真田領として掌握した。当時佐竹義重宇都宮国綱の連合軍と沼尻の合戦を展開していた氏政、氏直父子は、昌幸の動きを警戒しており、主要街道の確保に躍起になっていた[43]

家康は12月に羽柴秀吉と和議を結んで尾張から撤兵する。そして北条氏直から和議の条件の履行を迫られたため、天正13年(1585年)4月、甲府に軍を進めて昌幸に対し沼田領を北条氏に引き渡すように求めた。しかし昌幸は相応の替地が宛がわれない限りは引き渡しに応じないと拒否[注釈 6]。 家康は浜松城に引き返した。

昌幸は家康との手切れを決断し、徳川軍の侵攻に備えて7月15日に次男の信繁を人質にして上杉景勝に従属する。閏8月、真田領の制圧を狙った徳川家康と北条氏直は、鳥居元忠大久保忠世平岩親吉ら約7,000の兵力を昌幸の居城・上田城に、藤田氏邦を沼田城に侵攻させた[注釈 7]。 昌幸はわずか2,000の兵力[注釈 8]で徳川軍に1,300人もの死傷者を出させるという大勝をおさめている(第一次上田合戦)。結城晴朝のもとに上田の戦勝の知らせが届いた時にはその数字は2千人に膨れ上がり、晴朝は「誠に心地好き次第」として喜んだ[44]。この上田合戦を契機に真田氏は、武田の旧臣から信濃の独立勢力(大名)として豊臣系大名の間で認知されることになった。同様の構図による戦いは幾度か再戦があり、少なくとも2度以上あったとされる。一方、家康は上田の敗戦を受けて、北条氏との同盟強化に乗り出さなければならなかった[44]。また、氏直は沼田攻めを手掛けるも、落とせなかった[45]

詳しい事は「真田昌幸ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E7%94%B0%E6%98%8C%E5%B9%B8
(wikiより)

5 真田昌幸

真田昌幸

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時代戦国時代
生誕永正10年(1513年
死没天正2年5月19日1574年6月8日
改名次郎三郎(幼名)→幸綱→幸隆?→一徳斎(号)
別名通称:源太左衛門、弾正忠
渾名:攻め弾正、鬼弾正
主君海野棟綱長野業政武田信玄
氏族真田氏
父母父:真田頼昌[異説あり]
母:海野棟綱の娘[異説あり]
兄弟綱吉幸綱矢沢頼綱常田隆永鎌原幸定海野幸景萩原綱重[1]
正室:恭雲院河原隆正の妹)
側室:羽尾幸全の娘
信綱昌輝昌幸信尹金井高勝清鏡?、娘(根津志摩守信忠室)、娘(長坂昌国室)、娘(遠山右馬助室)

真田 幸綱(さなだ ゆきつな) / 真田 幸隆(さなだ ゆきたか、こうりゅう)は、戦国時代武将信濃の在地領主で、甲斐国戦国大名である武田氏の家臣。息子三人と共に、武田二十四将にも数えられる。

幼名は次郎三郎、通称は源太左衛門、剃髪して一徳斎と号す。諸系図では幸隆と記されるが、確実な同時代史料においては幸綱と記され[2]、また子に“隆”を通字とする者がまったく居ない事などから、永禄5年頃までは幸綱と名乗り、幸隆は晩年に改めたものであると考えられている[3] 。「幸隆」の名に関して、『高野山蓮華定院過去帳』では一徳斎道号に伴い「一徳斎幸隆」と記されており、道号は原則として音読みされることから、「幸隆」の読みは「こうりゅう」であるとも考えられている[4]


出身は信濃小県郡の名族海野氏で、海野平合戦でいったん所領を失うが信濃に侵攻した武田晴信に仕えて旧領真田本城(松尾城)(長野県小県郡真田町)を回復。以後も武田家の信濃先方衆として活躍し、後の真田氏の礎を築いた。

生涯
信濃国小県郡(現在の長野県東御市)の豪族海野棟綱の子[5]、あるいは棟綱の娘婿真田頼昌の子[6]として生まれたとされている。幸綱の出自については様々な家系図とともに諸説あり、真田氏自体も幸綱以前の記録が少ないとはいえ存在しているため、真田頼昌を棟綱の娘婿とする説や、海野棟綱の子である幸綱が頼昌の養子になったなど、様々な見解があり確定していない。

上野国へ亡命
甲斐国では守護武田氏による国内統一が行われ信濃への進出を開始しており、武田信虎天文10年(1541年)に同盟関係にある信濃諏訪郡の諏訪頼重や、信濃小県郡の村上義清と共に信濃小県郡・佐久郡へ侵攻する。同年5月23日の海野平の戦いにより海野一族は敗北して上野国へ亡命している。幸綱が合戦に参加していたことを示す史料は無いものの、共に箕輪城主・長野業正を頼って上野に逃れている。

武田信虎は海野平合戦から帰国した同年6月14日に嫡男・武田晴信(信玄)により駿河へ追放され、晴信が家督を継承する。晴信はまず天文11年(1542年)に独断で関東管領上杉憲政と和睦して領地を割譲した諏訪頼重を滅ぼすと、本格的な佐久小県郡侵攻を再開する。

旧領回復時期
幸綱は晴信期の武田氏に帰属して旧領を回復しているが、その帰属時期は諸説ある。『高白斎記』に拠れば、幸綱は調略を用いて佐久で抵抗を続ける望月氏の一部を武田氏方に臣従させたという。江戸時代初期の『甲陽軍鑑』に拠れば、天文17年(1548年)の上田原の戦い板垣信方の脇備として参戦している。一方、江戸時代に成立した真田家史料では、『真武内伝』が天文13年説とともに武田家の足軽大将である山本勘助(菅助)の推挙があったとする伝承を伝え、『沼田記』が天文14年説、『滋野世記』が天文15年説を伝えている。初期の軍役は10騎程度と推定する説があり動員兵力は300 - 400人程度と考えられるが功名を重ねた後年は200騎程であっただろうとされている。

近年の研究では、猪坂直一は諏訪氏の娘(諏訪御料人)が武田晴信の側室となる際に、同じ滋野一族禰津氏の養女となっていることから禰津氏が幸綱を推挙したと推測して天文12年説を提唱し[7][注釈 1]、柴辻俊六は武田の佐久侵攻と平行して相模の後北条氏が関東へ侵攻し、関東管領である上杉憲政を天文15年(1546年)4月に河越夜戦上杉氏勢を上野国から駆逐していることから、幸綱の帰属を天文15年としている。笹本正治は天文17年の上田原の戦い敗戦を契機に、晴信が村上義清対策に人材を求めてそれに応じた、或いは自分から売り込んだのが幸綱であったと推測している。

武田氏へ臣従​
武田氏臣従した後は、信濃先方衆として軍役を務め、村上義清方の望月氏の調略などを行っている。天文19年(1550年)7月には小県郡諏訪に知行を約束されており[8][注釈 2]、同年9月の戸石城(砥石城)攻めは幸綱の要請にもよるものと言われている[要出典]。戸石城攻めで幸綱は村上方の清野氏寺尾氏などを調略するが、戸石崩れ砥石崩れ)と呼ばれる大敗で一時は失敗する。

天文20年(1551年)に再び戸石城攻めが行われ、『高白斎記』に拠れば幸綱の調略で同年5月26日に城はわずか1日で攻略されたという。

第一次川中島合戦
天文22年(1553年)、葛尾城が落城した村上義清越後国へ逃れ、幸綱は旧領を完全に回復する。義清は越後国の長尾景虎(上杉謙信)を頼り、甲越両国は信濃の領有を巡って対峙し、川中島の戦いを展開することとなる。幸綱は対長尾氏上杉氏)の最前線に置かれることとなり、引き続き真田本城を本拠地とし、戸石城番を兼ねた。

この頃、関東へ進出した後北条氏は上野国で上杉憲政を庇護した長尾景虎と対峙するが、幸綱は天文23年(1554年)に甲相駿三国同盟に基づく北条氏康吾妻郡在城を求める出兵要請を受けており[10]、永禄4年からはじまる西上野侵攻など関東方面の戦略に関わっていたと考えられている[要出典]

弘治2年(1556年)9月8日には埴科郡東天飾城を攻略し、小山田虎満(備中守)とともに城番を務める。


出家
『甲陽軍鑑』に拠れば、永禄2年(1559年)に晴信が出家して信玄と名乗ると、自身も剃髪して一徳斎と号したという。

第四次川中島の戦い
詳細は「川中島の戦い」を参照

『甲陽軍鑑』によれば、永禄4年(1561年の、第4次川中島の戦いでは、嫡男・真田信綱とともに妻女山の上杉本陣への夜襲に加わっていたという。川中島の戦いの後、武田信玄西上野侵攻を開始するが、武田氏に提訴されていた吾妻郡内での鎌原氏羽尾氏の所領抗争は、双方が真田氏の同族でもあることから、幸綱が調停に関わっている。永禄6年(1563年)には羽尾氏を支援した上杉氏方の斎藤氏の居城・岩櫃城を、永禄8年(1565年)には嵩山城を、永禄10年(1567年)には白井城を攻略している。近年の柴辻俊六らの研究によると、嫡男・信綱と共に、武田氏の上野攻略の拠点・箕輪城代であった時期もあるようである。これは譜代衆並みの扱いである[要出典]

隠居
永禄10年(1567年)、病気のために家督を真田信綱に譲って隠居したとされている。このため、信玄の駿河侵攻西上作戦には加わらず、もっぱら信濃北部及び上州方面の抑えとして活動した。

死去
天正2年(1574年)5月19日、戸石城で病死した。享年62。墓所は長野県上田市真田町の曹洞宗真田山長谷寺 (上田市)にある。肖像は長野県長野市松代町長国寺 (長野市)所蔵。

関連作品
映像作品
武田信玄1988年、NHK大河ドラマ、演:橋爪功
武田信玄1991年、TBS、演:西郷輝彦
風林火山2007年、NHK大河ドラマ、演:佐々木蔵之介
天と地と2008年、テレビ朝日、演:三浦浩一

トレーディングカードアーケードゲーム
戦国大戦2010年、アーケードゲーム、声:岡野浩介

脚注
1. ただし、笹本正治は諏訪氏の娘が禰津氏の養女になったこと自体が推測で、根拠にならないとしている。
2. 笹本正治は真田家文書には不自然な点があることを指摘し、他所から流入してきた可能性があるものとしている[9]


出典
1. 柴辻 1996, p. 8.
2. 
「高野山蓮華定院過去帳」長野県真田町山家神社所蔵「白山神社奥宮扉永禄5年銘」
3. 
柴辻 1996.   
4. 
平山 2011, pp. 103–104.
4. 
江戸時代に松代藩により編纂された真田家系図による。
6. 
矢沢氏の菩提寺良泉寺所蔵の「良泉寺矢沢系図」に拠る。
7. 
猪坂直一『真田三代録 伝説から史実へ』理論社、1966年。
8. 
『真田家文書』真田宝物館
9. 
笹本 2009, pp. 23–25.
10. 
神奈川県立博物館所蔵文書「天文23年推定10月5日付真田幸隆宛北条氏康書状」

参考文献
柴辻俊六『真田昌幸』吉川弘文館〈人物叢書〉、1996年。ISBN 464205202X
笹本正治『真田氏三代 真田は日本一の兵』ミネルヴァ書房、2009年。ISBN 4623054446
平山優「真田幸綱」『新編武田信玄のすべて』新人物往来社、2008年。
・平山優『真田三代 幸綱・昌幸・信繁の史実に迫る』PHP研究所〈PHP新書〉、2011年。
橋場日月『真田幸村 戦国を生きた知将三代』学研、2004年。

関連項目
戦国時代の人物一覧
真田氏
真田本城          
(wikiより)

4 真田幸隆

真田幸綱 / 真田幸隆

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開基である養源院 ( 生年不詳 ) は、岩国藩 ( 山口県 ) 2代藩主・吉川広嘉 ( ひろよし・1621 ~ 79 ) の室 (『御府内寺社備考』)、あるいは妹 (「毛利氏系図」) とされ、承応 3年 ( 1654 ) に没し、戒名を「養源院殿正誉貞心大姉」と付けられました。

なお、広嘉は、元服して左馬助、後に監物と称し、寛文 3年 ( 1663 ) に家督を継ぎました。

同 6年 ( 1666 ) に領内の風土産物を調査して、『村記』及び付録の地図を作成し、同 11年 ( 1671 ) に、ニ鹿村の銅山の開発をしました。

さらに延宝元年 ( 1673 ) には、錦帯橋 ( きんたいきょう ) を架橋しました。


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時代戦国時代
生誕大永7年(1527年
死没天正6年5月7日1578年6月12日
改名春日虎綱、香坂虎綱
別名昌信、昌宣、昌忠、晴昌、晴久
通称:源五郎、弾正
渾名:逃げ弾正[1]
戒名保雲椿公禅定門(「成慶院過去帳」)
憲徳院玄菴道忠居士
墓所明徳寺長野県長野市
恵林寺山梨県甲州市
官位弾正忠
主君武田信玄勝頼
氏族春日氏香坂氏高坂氏
父母父:春日大隅、養父:香坂宗重
兄弟熊麿虎綱(高坂昌信)
正室:香坂宗重の娘
昌澄(源五郎)信達(源次郎)昌定(源三郎)

春日 虎綱(かすが とらつな)は、戦国時代武将高坂(香坂) 昌信(こうさか まさのぶ)の名で知られる甲斐武田氏家臣で譜代家老衆。幼名は春日源五郎(かすがげんごろう)。武田晴信 (信玄)勝頼に仕え、武田四天王の一人として数えられる。

姓名
及び仮名
一般に「高坂昌信」の名前で知られるが、姓については「高坂」または「香坂」姓を用いたのは最も長くて弘治2年(1556年)から永禄9年(1566年)9月までの11年間である。この「高坂」または「香坂」姓は信濃国更級郡牧ノ島の香坂氏の家督を継承していることに由来する。香坂氏は武田領と反武田の北信濃国人・上杉謙信との境目に位置しつつ唯一武田側に属しており、虎綱が養子に入った背景にも香坂氏の川中島地域における政治・軍事的立場が考慮されたと考えられている[2]

香坂氏に養子に入った時期は『甲陽軍鑑』によれば、永禄4年に香坂氏が上杉謙信に内通し成敗された時点、または弘治2年(1556年)に小山田昌行(備中守)が水内郡海津城長野市松代町)から雨飾城に番替えとなると後任として海津城代となり、この時点で「高坂」を称していたとしている[3]。なお、『甲陽軍鑑』は海津城築城を永禄3年としているが、これは史実とは矛盾する[4]

一方、高野山成慶院『武田家過去帳』では弘治4年時点で「香坂弾正」を称していることが確認される[3]。この他に「香坂」姓の名乗りが確認されるのは、永禄2年11月屋代政国宛判物における副状で、早くとも永禄6年6月まで「香坂」姓を称し、遅くとも永禄9年9月までには復姓している[5]

名については、確実な文書上からは実名は「虎綱」であることが指摘されており[6]「昌信」(しょうしん)に関しては出家名とされる[要出典]

また、仮名として弾正を名乗っていたとされ、しばしば「高坂弾正」と記載する場合もある。永禄2年まで「弾正左衛門尉」を称し、同年以降には「弾正忠」に改めている[3]

本記事においては以下、春日虎綱として記述する。

生涯
出生から香坂氏継承​
甲陽軍鑑』に拠れば、大永7年(1527年)、甲斐国八代郡石和郷(山梨県笛吹市石和町)の百姓春日大隅の子として生まれる。天文11年(1542年)に父の大隅が死去した後、姉夫婦との遺産を巡る裁判で敗訴して身寄りが無くなるが、信玄の奥近習として召抱えられたという。

はじめは使番として働き、天文21年(1552年)には100騎持を預る足軽大将となり、春日弾正忠を名乗ったという[要出典]。なお、この間の『天文15年(1546年)推定武田晴信誓詞東京大学史料編纂所所蔵文書)』は、虎綱を指すとされる「春日源助」宛で晴信と虎綱の衆道関係を示す文書とされていたが、近年は宛名の「春日」姓が後筆である可能性が指摘されている[7]

武田氏による埴科郡村上義清攻略が本格化した天文22年(1553年)には信濃佐久郡小諸城(長野県小諸市)の城代となる。同年4月に虎綱が名跡を継承することになる信濃更級郡牧野島の国人の香坂氏が武田家に出仕している[2]

その後、虎綱は香坂氏をはじめとする川中島衆を率いて越後上杉氏に対する最前線にあたる海津領の守将を任された。川中島衆となる北信の寺尾・屋代両氏の取次役を務めている[5]。海津城は武田氏と上杉氏の争いにおいて最前線に位置し、『軍鑑』に拠れば永禄4年(1561年)8月には上杉謙信が侵攻し、虎綱は海津城において籠城し、同年9月4日には川中島において第4次川中島の戦いが発生する[4]。『甲陽軍鑑』によれば妻女山攻撃の別働隊として戦功を挙げ、引き続き北信濃の治世にあたったという。

『軍鑑』に拠れば、その後も元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦いなど、武田氏の主だった戦いに参戦したという。

囲碁に関しては「信玄より高坂のほうが二子強かるべし」とする伝説があった[8]

勝頼期の活動から晩年​
元亀4年(1573年)4月の武田信玄死後の武田勝頼期にも海津城代として上杉氏に対する抑えを任されている。天正3年(1575年)5月21日の長篠の戦いには、上杉軍の抑えとして参戦せずに海津城を守備していたが、嫡男の高坂昌澄が戦死している。『軍鑑』に拠れば武田勝頼期には一門の武田信豊穴山信君、譜代家臣の跡部勝資長坂光堅らが台頭していたといわれ、春日虎綱らの老臣は疎まれていたという。

長篠の戦い武田氏織田氏に大敗した。この戦いは武田家にとって有力家臣の多くを失い領国の動揺を招くこととなり甲陽軍鑑においても武田氏の衰退を決定づけた合戦とされる。武田勝頼は長篠敗戦後に信濃へ逃れ、6月2日に甲府へ帰陣している。甲陽軍鑑には、春日虎綱は敗報を聞くと信濃駒場において武田勝頼を出迎え、衣服・武具などを替えさせ敗軍の見苦しさを感じさせないように体面に配慮し、五箇条の献策を行ったとする逸話がある[9]。虎綱の献策が事実であるかは検討を要することが指摘されるが、主に相模国後北条氏との同盟を強化することと、戦死した内藤昌豊山県昌景馬場信春らの子弟を奥近習衆として取り立てて家臣団を再編すること、および長篠敗戦の責任を取らせるため、戦場を離脱したとされる親族衆の穴山信君武田信豊切腹を申し立てたとしている[10]

武田勝頼期には尾張の織田氏との対決が行われているが、虎綱は天正6年(1578年)の上杉謙信死後に発生した上杉家における御館の乱において、武田信豊とともに上杉景勝との取次を努め、甲越同盟の締結に携わっている。虎綱が甲越間の交渉に携わっている天正6年6月8日付の北条高広北条景広上杉景勝書状を最後に史料からは消え、6月12日付の武田信豊書状では信豊が単独で交渉に携わっており、同年10月からは虎綱の子の高坂昌元が登場することが確認される[11]。同年6月14日に海津城において死去したとされる。享年52。

虎綱の命日は複数の説があり、『乾徳山恵林寺雑本』等では天正6年5月11日、『甲斐国志』人物部第五では墓所の明徳寺に伝わる5月初7日死去としているが、甲越間の交渉時期からこの説は整合性が取れない[12]。高野山成慶院「武田家過去帳」では虎綱の命日を「天正6年6月14日巳ノ刻」としており、この説が最も整合性の取れることが指摘される[13]。『武田御日坏帳』によれば、同年7月25日には高野山成慶院で甥の惣次郎による供養が営まれている。法名は弘治2年4月21日に「保雲椿公禅定門」と定められている。

虎綱の子孫と『甲陽軍鑑』
春日氏は次男の信達が継承し海津城代も務めるが、天正10年(1582年)3月の武田氏滅亡後は森長可の支配を受ける。同年6月の本能寺の変後、信達は美濃に撤退する森長可を妨害し、越後上杉景勝に属したが、7月13日、北信での自立を画策する武田遺臣の真田昌幸北条氏直らと内通したことが発覚し、激怒した上杉景勝によって誅殺され、これにより高坂氏嫡流は滅亡した。さらに慶長5年(1600年)3月、初代川中島藩主として北信濃に入った森長可の弟の森忠政によって信濃に残っていた信達の一族は残らず探し出され18年前に森長可の信濃撤退を妨害した罪で一族全員が磔刑に処された(森家先代実録)。

近世には甲府町年寄の山本金右衛門(春日昌預1751年3月17日寛延4年) - 1836年天保7年))は甲府城下の大店若松屋を営む加藤家の出自で、加藤家は虎綱の子孫を称している。

虎綱の活躍をはじめ信玄・勝頼期の事績を記している『甲陽軍鑑』は江戸時代の元和年間に成立した軍学書で、『軍鑑』自身の奥書によれば原本は虎綱の口述記録で、長篠合戦の後に武田氏の行く末を危惧した虎綱が勝頼や重臣の跡部勝資長坂光堅らに対する「諫言の書」として記したという。

虎綱の死後も甥の惣次郎と家臣大蔵彦十郎が執筆を継続し、虎綱の海津城代時代の部下である小幡昌盛の子の小幡景憲がこれを入手し、完成させたという[14]

高坂節三経済同友会幹事)によると、「高坂家の先祖は甲斐の武田信玄に仕えた武将・高坂弾正忠昌信といわれ、兄(高坂正堯)は自分が戦国武将の末裔であることを非常に誇りに思っていた」という[15]高坂正堯は自身の長男を「昌信」と名付けている[16]

関連作品
映画
杉森修平:『影武者』(1980年東宝
沖田浩之:『天と地と』(1990年角川
稲見雅文:『おけちみゃく』(2018年カエルカフェ)

テレビドラマ
村井国夫
 ・『天と地と』(1969年NHK大河ドラマ
 ・『おんな風林火山』(1986年TBS
村上弘明:『武田信玄』(1988年・NHK大河ドラマ)
成瀬正孝:『武田信玄』(1991年TBS大型時代劇スペシャル
里見浩太朗:『風林火山』(1992年日本テレビ年末時代劇スペシャル 里見は山本勘助と2役を演じている。)
金児憲史:『風林火山』(2006年テレビ朝日
田中幸太朗:『風林火山』(2007年・NHK大河ドラマ)役名は春日源五郎→春日虎綱→香坂虎綱
大出俊:『天地人』(2009年・NHK大河ドラマ)役名は高坂弾正昌信

脚注
1. 甲陽軍鑑』に拠れば、虎綱は慎重な采配で三方ヶ原の戦い等においても撤退を進言し、「逃げ弾正」の異名を取ったという。
2.
a b 平山(1994・②)、p.52
3. 
a b c 平山(1994・②)、p.53
4. 
a b 平山(1994・②)、p.55
5. 
a b 平山(2008)、p.314
6. 
平山(2008)、p.313
7. 
鴨川(2004)
8. 
http://www.excite.co.jp/News/lifestyle/20150720/NHKtextview_21077.html 
9. 
平山(2011)、p.156
10. 
平山(2011)、pp.156 - 158
11. 
平山(1994・②)、p.64
12. 
平山(1994・②)、pp. 64 - 65
13. 
平山(1994・②)、p.65
14. 
『甲陽軍鑑』には文書上確認されない人物名や合戦、年紀の誤り等基本的事実の混同が頻出するため史料的価値や虎綱が原本を口述したとすることも疑問視する指摘もあるが、近年は国学的検討により再び性格をめぐり議論が行われている
15. 
高坂節三 『昭和の宿命を見つめた眼―父・高坂正顕と兄・高坂正堯』PHP研究所、2000年11月1日、28頁。ISBN 978-4569613574
16. 
岡部陽二服部龍二 『Documents and Data 元住友銀行専務取締役 岡部陽二インタビュー : 学生時代の高坂正堯』中央大学総合政策学部〈総合政策研究 = Japanese journal of policy and culture (28)〉、2020年3月、116頁。

参考文献
・『石和町誌』石和町、1987年
平山優「春日虎綱」『新編武田信玄のすべて』(新人物往来社、2008年)
・平山優①「戦国大名武田氏の領国支配機構の形成と展開 -川中島四郡支配を事例として-」『山梨県史研究 第2号』、1994年
・平山優②「戦国大名武田氏の海津領支配について-城代春日虎綱の動向を中心に-」『甲斐路 No.80』山梨郷土研究会、1994年
柴辻俊六「戦国期信濃海津城代春日虎綱の考察」『信濃 第59巻第9号』2007年、のち『戦国期武田氏領の地域支配』(岩田書院、2013年)に収録
・鴨川達夫「武田信玄の自筆文書をめぐって」『山梨県史研究 第12号』、2004年

関連項目
戦国時代の人物一覧
春日氏
香坂氏
高坂氏
(wikiより)

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 大照院の毛利家墓所に詳細不明のお墓が有り それを撮影してきたのでupします。

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⇧⇩ 毛利家墓所入口

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以上 33基のお墓が有りました。


時代江戸時代前期
生誕文禄4年10月18日[1]1595年11月19日
死没慶安4年1月5日1651年2月24日[2]
改名松寿丸[1]幼名[3])→秀就
別名藤七郎(通称[1][3]、秀成(秀就の初名とも)
諡号大照公[2]
戒名大照院殿前二州太守四品羽林次将月礀紹澄大居士[2]、大照院月礀紹澄[3]
墓所山口県萩市椿青海の大照院[2][3]
官位従四位下[2]右近衛権少将[2]
幕府江戸幕府
主君豊臣秀頼徳川家康秀忠家光家綱
長州藩
氏族毛利氏
父母父∶毛利輝元[4]
母∶清泰院[1]
兄弟秀就就隆[5]、竹姫[5]
喜佐姫[2]
松寿丸、和泉守、大吉丸、綱広、登佐姫、竹姫

毛利 秀就(もうり ひでなり)は、江戸時代前期の大名毛利氏15代当主。長州藩初代藩主。

毛利輝元の長男[3][4]。母は児玉元良の娘・清泰院(二の丸殿)[1]毛利就隆の兄[5]。正室は結城秀康の娘・喜佐姫徳川秀忠の養女・龍昌院)[2]。子に松寿丸[6]綱広(四男)[7]、登佐姫(越前松平光長正室)[2]、竹姫(鷹司房輔室)ほか[6]毛利元就の嫡曾孫にあたる。

生涯
幼年の当主
文禄4年(1595年10月18日毛利輝元の長男として、安芸広島城で生まれた(異説あり・後述[1][3]。幼名は松寿丸。

輝元は長く実子に恵まれなかったため、従弟の毛利秀元を養嗣子に迎えていたが、秀就が生まれると、秀元には別家を立てさせている。

慶長4年(1599年)、豊臣秀頼近侍となり、秀頼を烏帽子親として元服豊臣姓を与えられ、その偏諱を受けて、秀就と名乗った[3][注釈 1]

関ヶ原の戦い西軍が敗れると、毛利家は長門周防2か国29万8千石[注釈 2]に減封され、輝元に代わって秀就が形式的な当主となった。しかし、幼年のため、幕府からは輝元と共同での当主と見なされていたようである。また、輝元が法体のまま実質的な当主として君臨し続け、秀就との二頭体制が敷かれた[4][9]

慶長6年(1601年)、はじめて江戸に赴き、徳川家康と面会した[3]

慶長8年(1603年)、江戸外桜田に屋敷を拝領する[3]

慶長9年(1604年)、築城が始まった萩城に、築城者である輝元とともに入城した[注釈 3]

慶長13年(1608年)、大御所・家康の命によって、家康の次男・結城秀康の娘の喜佐姫正室に迎え[2]越前松平家の一門となり、松平長門守を称した[10]

慶長15年(1610年)、領内の新たな検地が行なわれ、53万9268石余を幕閣に申告したが、検地時に一揆が発生したこと、東軍に功績のあった隣国の広島藩主・福島正則とのつりあいなどを理由に、幕府は検地高の7割に相当する36万9千石を、毛利家の表高として公認した。この表高は幕末まで変わることはなかった。

慶長16年(1611年12月、江戸での証人としての勤めを終えて幕府から帰国を許され、初めて領国に入った。その際に、幕府より10万石の役儀を免ぜられ、小袖銀子などを拝領している[11]。これらの幕府の処置に対し、輝元は福原広俊への書状で感謝の意を漏らしている[12]

慶長18年(1613年1月、再び江戸に赴いて2代将軍徳川秀忠に謁見し、翌年まで桜田の毛利邸に滞在した[12]

大坂の陣
慶長19年(1614年10月11日、徳川家康が駿府を発して大坂城攻撃の途に上ると、同年10月18日に輝元の命を受けた神村元種が密かに下野小山藩主・本多正純と会見し、秀就の弟・就隆も出陣すべきかを協議した。その結果、就隆だけでなく輝元、秀就、秀元も出陣することで意見が一致したため、正純は10月24日に輝元へ出陣を要請した[13]。さらに秀忠が11月10日に伏見に到着すると、秀忠に従軍する酒井忠世土井利勝安藤重信は江戸にいる秀就と秀元に早々に西上するよう要請した[14]

11日、輝元はを発し、17日摂津国兵庫に着陣したが、病により家康から帰国許可を得て、秀就が到着し次第、帰国することとなった。家康の要請により、21日夕刻に輝元は秀就に対し、急遽西上することを督促した[15]

12月6日、秀就は秀元と共に大坂に到着して、茶臼山に布陣した家康や西宮の輝元と会見した後に、大坂へ布陣した。秀就は大坂冬の陣に参戦し、これが秀就の初陣となった[16]

同年12月19日、徳川方と豊臣方の間で講和が成立し、毛利家も大坂城のの埋め立て普請を手伝う事となったが、秀忠は青山忠俊板倉重宗を秀就のもとに派遣し、堀の埋め立ては急ぐよう通達。また、普請が終われば秀就の帰国が認められることとなった。

27日、秀就は毛利元倶毛利元景に秀忠からの通達を連絡し、翌28日には元倶と元景に黒印の法度を出し、堀の埋め立て普請助役に関する注意事項を伝えた。

慶長20年(1615年1月23日、堀の埋め立てが完了し、1月下旬には秀就も秀元と共に帰国した[17]

しかし、慶長20年(1615年)4月10日付けの本多正純の奉書4月17日に輝元と秀就宛てに届いた。内容は、徳川方と豊臣方が手切れとなった際には摂津国の兵庫、西宮、尼崎付近へ出陣する準備を命じるものであり、一方で、出陣命令を受けるまではもし家康が上洛したとしても国許で指示を待つようにというものであった。輝元と秀就は、奉書を受け取った17日に直ちに秀元を毛利軍の先鋒とし、宍戸元続、毛利元倶、毛利元宣毛利元鎮らを従軍させると決定した。

4月18日、家康が二条城に、21日に秀忠が伏見城に入ったことで本多正純は毛利家へ出陣を要請した。

4月28日、秀元が先鋒としてまず出陣し、5月4日に秀就は吉川広正や宍戸元続をはじめとする毛利の主力を率いて周防国三田尻を出航した。

5月10日、秀就は兵庫を経て西宮に着陣したが、既に5月8日に大坂城が陥落して大坂夏の陣は終戦しており、家康も二条城へと凱旋していた。そこで、伏見から秀就を出迎えた福原広俊の意見に従って、5月11日に伏見で本多正信に面会し、進退についての指示を求めた。

正信は早々に家康に謁見することを秀就に勧めたため、5月12日に毛利秀元と吉川広正を伴って二条城で家康に謁見し、大坂城攻撃に間に合わなかったことを謝罪した。しかし、家康はそもそも毛利へ出陣命令を出すことが遅れたことが原因であるとして不問としたため秀就は安堵し、伏見の毛利邸に暫く滞在した[18]

家康は秀就が遠国から急行した労を謝して、同年7月には暇を出し、秀就は直ちに毛利秀元や吉川広正をはじめとする毛利の全軍を率いて帰国した[19]

単独での政務
元和9年(1623年9月10日、秀就が江戸から帰国して萩城に入城すると、輝元から家督譲渡の儀式を行われ、正式に秀就へと家督が譲渡された[20][21]。これにより、秀就が単独で藩主を務めるも、藩政は後見人の秀元、益田元祥清水景治らが担当、秀就に権力はほとんどなかった。

寛永2年(1625年)、秀元が中心となって、一門を含めた家臣団の大幅な知行地の入れ替えを行った。知行地の入れ替えの例としては、毛利元倶が周防国熊毛郡三丘から佐波郡右田へ、毛利元景が周防国玖珂郡椙杜から長門国豊浦郡阿川へ、毛利元包が長門国豊浦郡阿川から周防国吉敷郡吉敷へ、福原元俊が周防国吉敷郡吉敷から長門国厚狭郡宇部へ、宍戸元匡が周防国佐波郡右田から熊毛郡三丘へ移動していることが挙げられる。また、家臣団の削減も行っており、元和8年(1622年)の分限帳と寛永4年(1627年)の分限帳を比較すると、約160人が減少している。しかし、これらの施策には秀元の思惑の影響が多大にあったことが指摘されており、例えば知行地の入れ替えでは秀元と懇意であった毛利元倶と毛利元包が防長両国の要衝である右田と吉敷に移動しているのに対して、秀元と折り合いの悪かった福原広俊の子である福原元俊は民家も少なく土地も痩せていた宇部への移動となっている。また、秀就と縁戚関係にあった児玉家が輝元の遺言を名目として突如暇を出されているが、これも児玉景唯が秀元と不仲であったことが関係しているとされる[22]

寛永3年(1626年)、大御所・秀忠、将軍・家光父子の上洛に付き従い、後水尾天皇の二条城行幸に供として加わり右近衛権少将に任ぜられた[3]

しかし、秀就は次第に秀元と対立し、寛永8年(1631年)に秀元が後見人を辞任してからは不和が深刻になる。寛永11年(1634年)に秀元が独立を画策したり、江戸城普請を拒否したりしたことから、事態を憂慮した幕府の仲裁で寛永13年(1636年)に秀元と和解し、対立は終息した[23][24]。秀元の後見人辞任後の寛永9年(1632年)は義兄弟の吉川広正が後見人となっているが、実際の藩政は重臣たちに任せているため、秀元の辞任で藩主を中心とした権力は確立したとされる[25]

慶安4年(1651年1月5日[2][3]、秀就は萩城において、57歳で死去した[2][3]。死後、跡を四男の綱広が継いだ。

出生について
前述の通り、通説では秀就は文禄4年(1595年)に広島城で生まれたとされているが、異説として天正19年(1591年)に長門厚東郡四ケ小野村(現在の山口県宇部市小野地区)で出生したとの説がある[26][27][28]。これは、布引敏雄が指摘しており、宇部市小野地区に残る古文書に「秀就は小野村で生まれた」との記述があることから小野郷土史懇話会の会員が調査したもので、厚東郡小野村の領主であった財満家の文書や伝承から、財満忠久就久父子の屋敷が出生地であると結論づけた。

この説によると、輝元の正室・南の大方を非常に恐れていた側室の二の丸殿は、懐妊が発覚すると秘密裏に財満家に匿われて、そのまま密かに出産したとされる[29]。また、出生後の処置について、小早川隆景に相談した記録も発見された(財満家文書)。財満屋敷跡がある同地には、秀就の誕生時に使われたという「産湯の池」や暗殺を逃れるための「穴蔵」などが残るほか、村人たちが秀就の成長を高良神社で祈願したとの伝承も残っている[30]

くわしいことは「毛利秀就ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E5%88%A9%E7%A7%80%E5%B0%B1
(wikiより)

275 毛利秀就


毛利秀就

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時代江戸時代後期
生誕天明3年12月9日[1]1784年1月1日
死没天保7年5月14日1836年6月27日[1]
改名保三郎[1](幼名)、熙成[1]、憲熙[1]、斉熙[1]
別名(*「熙」は「煕」、「熈」とも書く)
戒名清徳院殿故中大夫中書大卿羽林次将長防国主天安道寧大居士[1]
墓所東京都港区愛宕の青松院
山口県萩市椿の大照院[1]
官位従四位下侍従大膳大夫[1]左近衛権少将[1]民部大輔[1]中務大輔[1]
幕府江戸幕府
主君徳川家斉
長州藩
氏族毛利氏
父母父:毛利治親[1]、実母:小泉氏(明善院)[1]
養父:毛利斉房
兄弟斉房斉熙細川興昶熙載水野忠篤
正室:池田治道娘・三津(法鏡院)[1]
側室:池上藤大夫娘・真嶺院、金子繁平娘・玉温院、野中繁八娘・豊
斉広[2]信順[2]、由美子[2]、万寿子[3]、八重姫[4]、美知子[4]斉元

毛利 斉熙(もうり なりひろ)は、江戸時代後期の大名毛利氏24代当主。長州藩10代藩主。8代藩主・毛利治親の次男[1]

初名は熙成ひろなり憲熙のりひろ、改名して斉熙[1]。各に一貫して共通する「熙」の通字は祖先にあたる毛利煕元に由来するもので、「煕」または「熈」とも表記する。

経歴
天明3年(1783年12月9日江戸で生まれる[1]文化6年(1809年)、兄で先代藩主の毛利斉房の死去により跡を継ぐ[1]。このときに斉房同様、11代将軍徳川家斉より偏諱を授与され斉熙に改名し、従四位下侍従に叙任した。聡明な藩主で、海防の強化や西洋軍備による軍備増強を行なった。

文政2年(1817年)に従四位・少将となる[1]。併せて従弟で福原房純の養嗣子になっていた福原房昌(後の毛利斉元)を貰い返して婿養子にし、文政7年(1824年2月27日家督を譲って隠居した[1]。幼い実子斉広をただちに世継とするのがためらわれた一方、一度福原家へ養子に出した斉元を呼び戻すからには、単に実子が成長するまでのつなぎの仮養子のままとどめて斉元の立場をないがしろにするわけにもいかなかった、という事情による[5]

しかし、隠居後も斉熙は村田清風の登用など、なおも藩政の実権は握り続けた。天保7年(1836年5月14日、54歳で死去[1]。墓所は東京都港区愛宕の青松院、山口県萩市椿の大照院[1]

系譜
・父:毛利治親(1754年 - 1791年)
・母:明善院 - 小泉氏
・養父:毛利斉房(1782年 - 1809年)
・正室:三津 - 法鏡院、池田治道長女
・側室:真嶺院(志津・花ノ井) - 池上藤大夫
 ・女子:由美子 - 蓮容院、毛利斉元正室
 ・次男:毛利斉広(1814年 - 1837年) - 毛利斉元の養子
・側室:豊 - 野中繁八娘 
 ・長男:俊次郎(1812年)[6]
・側室:玉温院 - 金子繁平
 ・三男:毛利信順 - 子の順明は13代藩主毛利敬親の養子
 ・女子:万寿子 - 慈芳院、宗義章正室
 ・女子:八重姫 - 天妙院、毛利元蕃正室
 ・女子:美知子 - あき、水野忠武正室、のち毛利元純正室
・側室:須美(住崎・小梅)
 ・女子:多亀姫
 ・女子:直姫
・養子
 ・男子:毛利斉元(1794年 - 1836年) - 毛利親著の長男

家臣
武鑑掲載の家臣
斉熙が隠居する直前の文政6年(1823年)に刊行された須原屋茂兵衛蔵版武鑑[7]に掲載されている家臣は以下のとおり。なお刊行の都合により刊行年以前の内容が含まれている可能性がある。また、武鑑では諸藩で呼び名が違う役職名を標準化している場合があるので、実際の藩職名と相違する場合もある。

一門八家、家老など
宍戸主計毛利内匠、毛利本之助(毛利房晁か?)、毛利蔵主毛利少輔三郎毛利伊賀益田丹後福原豊前、清水長左衛門、堅田宇右衛門、児玉三郎右衛門、国司信濃、佐世六郎左衛門、井原大學

用人
江羽兵庫、福嶋九郎右衛門、三浦内左衛門、秋里治右衛門、福原三郎左衛門、久芳安積

側用人
揚井謙蔵、粟屋十右衛門、吉田六蔵、神村喜兵衛、南杢之助、内藤十郎兵衛、粟屋与一右衛門(城使兼務)、毛利丹宮、井上三郎兵衛、石津環、宮本八郎右衛門、宇野太兵衛、八木作左衛門、馬屋原伊兵衛、平川端

城使(他職兼任者除く)
井原幸兵衛、坂次郎右衛門

偏諱を受けた人物
注: 上記の通り、「熙」は「煕」または「熈」とも表記する。

憲熙時代(藩主就任前)
毛利(のちの細川興昶)
毛利吉敷毛利家毛利房直の養子)
毛利(のちの水野忠篤)
いずれも斉熙の実弟で、他家に養子入りしたがいずれも家督を継ぐことなく早世している。

斉熙時代(藩主在任中)
毛利徳(孝)阿川毛利家
毛利大野毛利家
赤川安芸熊谷氏
熊谷(安芸熊谷氏第23代当主、赤川熈斐の実弟)
宍道(宍道伊豆、宍道氏
根来根来上総の父)
福原(宇部領主福原家

脚注
1. a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w 時山弥八編 1916, p. 115.
2.
a b c 時山弥八編 1916, p. 116.
3. 
時山弥八編 1916, p. 118.
4. 
a b 時山弥八編 1916, p. 119.
5. 
大森、p.162-167
6. 
大森、p.162
7. 
『編年江戸武鑑・文政武鑑3』所収

参考文献
オープンアクセス時山弥八編 国立国会図書館デジタルコレクション 『稿本もりのしげり』1916年。 NCID BN04718592
石井良助 監修『編年江戸武鑑・文政武鑑3』/柏書房
大森映子『お家騒動 大名家の苦闘』吉川弘文館〈読みなおす日本史〉、2018年
(wikiより)

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時代江戸時代前期
生誕寛永16年11月20日[1]1639年12月14日
死没元禄2年4月17日1689年6月4日[1]
改名千代熊丸[1](幼名[2])、綱広
戒名泰巌院殿前二州太守四品拾遺補闕兼大官令清高亮安大居士[1]、泰巌公[1]
墓所山口県萩市大照院[1]
官位従五位下[1]従四位下[1]侍従[1]大膳大夫[1]従三位[2]
幕府江戸幕府
主君徳川家綱綱吉
長州藩
氏族毛利氏
父母毛利秀就[1][2]喜佐姫[1][2]
兄弟松寿丸、和泉守、大吉丸、綱広、登佐姫、竹姫ら
松平忠昌娘千姫[1]梨木永祐娘房子[1]
吉就[3]吉広[3]元重[4]、良[5]、品[5]、勘[6]、幸[6]、類[3]

毛利 綱広(もうり つなひろ)は、江戸時代前期の大名。毛利氏16代当主。長州藩2代藩主。初代藩主・毛利秀就の四男[1][2]。母・喜佐姫徳川家康の孫なので、綱広は家康の外曾孫に当たる。

生涯
寛永16年11月20日[1]1639年12月14日)に江戸桜田の藩邸で生まれる[2]慶安4年(1651年)、父・秀就の死去で跡を継ぐ[1][2]承応2年(1653年)に叙任し、4代将軍徳川家綱(綱広の外又従弟にあたる)から偏諱を受けて綱広と名乗った[2]。承応3年(1654年)には周防国三田尻を結ぶ萩往還を造った。その際に、三田尻御茶屋を築造して、参勤交代の拠点とした。藩政では、榎本就時を起用して万治制法と呼ばれる法令「33か条の条目」を万治3年(1660年)に制定させた[2]。これは毛利元就以来の先例をまとめ上げたものと言われている。

このように藩政を確立したが、その反面で反骨心も人一倍強く、徳川将軍家家門筆頭の越前松平家から正室・千姫(高寿院)を迎えている(自身も母方で越前家の血を引き、千姫とは外従兄妹にあたる)にもかかわらず、元就の嫡孫・毛利輝元の嫡孫であるということから、徳川家に仕えることを恥として、江戸に滞在しながら病と称して江戸城に登城しないことさえあったという[2]。幕府側からは綱広の母が徳川家康の次男・結城秀康の娘であることから幕府から追及はされなかったが[2]、これを口実とした改易を恐れた家臣が綱広に隠居を要求するようになる[2]。綱広はやむを得ず、天和2年(1682年2月27日[1]に長男の吉就に家督を譲って、麻布の藩邸に隠居した[2]

元禄2年4月17日1689年6月4日)に江戸麻布龍土邸で死去した[1][2]。享年51[1][2]。墓所は山口県萩市椿の大照院[1][2]昭和3年(1928年11月従三位を追贈された[2]

系譜
・父:毛利秀就(1595-1651)
・母:喜佐姫(1598-1655) - 竜昌院、徳川秀忠の養女、結城秀康の長女
・正室:千姫 - 高寿院、松平忠昌
 ・長女:良 - 吉姫、青陽院、松平義行正室
 ・次女:品 - 内藤弌信継室
 ・長男:毛利吉就(1668-1694)
・継室:房子 - 昌寿院、梨木永祐
 ・次男:毛利吉広(1673-1707) - 毛利就信の養子
 ・五男:毛利元重(1676-1706)
 ・六女:勘 - 毛利就豊毛利就詮の子)室
 ・七女:幸 - 放光院、毛利匡広正室 
 ・
九女:類 - 松平忠雅正室

偏諱を与えた人物
毛利吉(次男、初め就勝、第4代藩主として就任時に故・綱広の1字を取って吉広に改名)
毛利吉敷毛利就直の長男、毛利広政広包(※この2人は吉広から「広」の字を授与されている)の長兄)
浦氏
国司?(国司氏堅田就政の子で国司元貞の養子とされる)
佐佐木尼子氏末裔・佐佐木氏)
福原次(俊)(宇部領主福原家15代当主、隠岐守)
山内山内広通毛利元雅の父)

毛利綱広を演じた人物
森繁久彌 - TBS系列『水戸黄門』第23部 二十二話「白いお髭の意地比べ・萩」…劇中では水戸黄門(光圀)と碁の腕を競った仲で互いに「圀さん」「綱さん」と呼び合う親友となっている。

脚注
1. a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u 時山弥八編 1916, p. 89.
2.
a b c d e f g h i j k l m n o p q 吉田 1976, p. 235.
3. 
a b c 時山弥八編 1916, p. 91.
4. 
時山弥八編 1916, p. 92.
5. 
a b 時山弥八編 1916, p. 90.
6. a b 時山弥八編 1916, p. 93.

参考文献
オープンアクセス時山弥八編 国立国会図書館デジタルコレクション 『稿本もりのしげり』1916年。 NCID BN04718592
・吉田祥朔 『近世防長人名辞典』(増補)マツノ書店、1976年6月1日。 NCID BN02934961・      
(wikiより)

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時代江戸時代中期
生誕享保2年7月6日[1][2]1717年8月12日
死没寛延4年2月4日1751年3月1日[1]
改名百合助[1](幼名)、維広(初名)[1]、宗広
別名大膳[1]、松平大膳[2]
戒名観光院殿前二州大守四品拾遺輔閥兼大官令天倫常沢大居士[1]、観光公[1]
墓所山口県萩市桜江の大照院[1]
官位従五位下大膳大夫[1]従四位下[1]侍従[1]
幕府江戸幕府
主君徳川吉宗家重
長州藩
氏族毛利氏
父母毛利吉元[1][2]、永昌院[1]
兄弟元朝(宗元)元陳宗広、皆姫、寧ら
松平宗昌娘勝姫[1]
齢、百合姫ら
重就[3]

毛利 宗広(もうり むねひろ)は、江戸時代中期から後期の大名毛利氏20代当主。長州藩6代藩主。5代藩主・毛利吉元の五男[1][2]。正室は松平宗昌の娘・勝姫(隔芳院・融芳院)。は初め維広これひろ[1]、後に8代将軍徳川吉宗の諱を拝領して宗広に改名した[2]

経歴
享保2年(1717年7月6日萩城で生まれる[1][2]。長兄で嫡子だった宗元が享保6年(1721年)に早世したため世嗣となる。享保12年(1727年)に松平大膳と称し、諱を維広とする[2]。同年、将軍・吉宗から偏諱を受け吉広と改名する[2]。享保16年(1731年)、吉元の死去により家督を相続し15歳にして藩主に就く[1][2]

その施政は、岡山藩の倉安川を参考に萩城下に藍場川を造成し、水運の便を図ったり、神社仏閣の建設にも力を入れた。治世中の出来事として、寛保2年江戸洪水の手伝い普請がある。

寛延4年(1751年2月4日、35歳で死去した[1]。世嗣となる男児がいなかったため、支藩である長府藩から重就末期養子として迎えられた。

系譜
・父:毛利吉元(1677-1731)
・母:永昌院 - 森氏
・正室:勝姫 - 隔芳院・融芳院、松平宗昌
・生母不明の子女
 ・次女:齢 - 誠姫、毛利重就の養女、毛利重広室、のち松平容頌継室
 ・三女:百合姫 - 毛利重就の養女
・養子
 ・男子:毛利重就(1725-1789) - 毛利匡広の十男

偏諱を与えた人物
毛利右田毛利家
毛利定(胖)(広信の養子、重就の実兄。※広定については父の匡広から賜った可能性もある)
毛利漢(氏/景)阿川毛利家
毛利大野毛利家
井原(長州藩士。前藩主毛利吉元期の家臣、井原孫左衛門元歳の子と思われる。次男に熊谷就直がいる。年代から判断して就直の養父・熊谷元貞の子である井原就正は広似の養子と思われる)
宍戸周(満)宍戸氏安芸熊谷氏の出身で熊谷就直の義兄にあたる)
宍道慶(慶)益田就高の子、宍道氏を継ぐ)
椙杜椙杜氏椙杜元縁の孫)
福原門(茂)(宇部領主福原家
益田(須佐領主益田家、宍道広慶の実兄)
益田問田益田家
※死後
毛利重(重就の養子。宗広の遺言により娘婿となり、重就の嫡子となるも早世)

脚注
1. a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 時山弥八編 1916, p. 100.
2.
a b c d e f g h i 吉田 1976, p. 236.
3. 時山弥八編 1916, p. 101.

参考文献
オープンアクセス時山弥八編 国立国会図書館デジタルコレクション 『稿本もりのしげり』1916年。 NCID BN04718592
・吉田祥朔 『近世防長人名辞典』(増補)マツノ書店、1976年6月1日。 NCID BN02934961
(wikiより)

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時代江戸時代中期
生誕延宝元年1月12日[1]1673年2月28日
死没宝永4年10月13日1707年11月6日[1]
改名千之助[1](幼名[2])→就勝[1]→吉広
別名主膳[1][2]
諡号青雲公[1]
戒名青雲院殿前二州太守四品拾遺補闕大官令徹山道照大居士[1]
墓所山口県萩市椿の大照院[1][2]
官位従五位下[1]従四位下大膳大夫侍従[1]
幕府江戸幕府
長州藩藩主
氏族毛利宗家右田毛利家→毛利宗家
父母父:毛利綱広[1][2]
母:房子(昌寿院、梨木永祐の娘[2][1]
養父:毛利就信
養母:長寿院(亀子、酒井忠隆の娘)
兄弟吉就[3][2]吉広元重[4]
正室:小石姫(養心院、鷹司輔信の娘)[1]
養子:吉元

毛利 吉広(もうり よしひろ)は、江戸時代前期から中期の大名毛利氏18代当主。長州藩4代藩主。2代藩主・毛利綱広の次男[1]

概要
延宝元年1月12日[1]1673年2月28日)に江戸麻布の藩邸で生まれる[2]

貞享元年(1684年)に一門八家の一つ右田毛利家当主・毛利就信の養嗣子となり、異母兄で長州藩主を継いでいた毛利吉就から偏諱を授与されて毛利就勝もうり なりかつと名乗った。

元禄7年(1694年)に吉就が嗣子なくして早世するとその養嗣子として跡を継ぐ[1][2]。8月に兄同様、5代将軍徳川綱吉より偏諱を授与され、亡き父の1字を取って[要出典]吉広に改名した[2]

元禄9年(1696年)にはじめて領国に入国する[2]。藩財政が窮乏化する中、三田尻海岸の干拓[2]橋本川の治水工事、城下町整備や検地など積極的な政策を展開するが、宝永4年(1707年10月13日[1]に江戸桜田の藩邸で[2]、35歳で死去する[1][2]。改革は中途半端に終わった。

嗣子はなく、また弟の元重も前年に死去し、その子で甥に当たる元直も幼少であったため、長府藩から元倚もうり もとよりが養子に迎えられ、毛利吉元として跡を継いだ。

偏諱を与えた人物
毛利右田毛利家、吉敷毛利就直の四男、就直の実兄・毛利就信の養子)
毛利吉敷毛利家、就直の五男で広政の実弟)
毛利阿川毛利家、正室は毛利就包(広政・広包の兄)の娘)
宍戸宍戸氏
椙杜椙杜氏椙杜元縁の孫)
椙杜(広中の実弟・養嗣子)
福原(宇部領主福原家
福原泰(毛利為)(初め大野毛利家の嗣子、のち兄の広頼が亡くなったのに伴い実家を相続)
山内(山内采女広通、備後山内氏

脚注
1. a b c d e f g h i j k l m n o p q r 時山弥八編 1916, p. 95.
2. 
a b c d e f g h i j k l m 吉田 1976, p. 235.
3. 
時山弥八編 1916, p. 91.
4. 
時山弥八編 1916, p. 92.

参考文献
オープンアクセス時山弥八編 国立国会図書館デジタルコレクション 『稿本もりのしげり』1916年。 NCID BN04718592
・吉田祥朔 『近世防長人名辞典』(増補)マツノ書店、1976年6月1日。 NCID BN02934961
(wikiより)

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時代江戸時代中期 - 後期
生誕宝暦4年6月15日[1]1754年8月3日
死没寛政3年6月12日1791年7月12日[1]
改名岩之允[1]幼名)→徳元[1]→治元[1]→治親[1]
戒名容徳院殿前二州太守大官令四品拾遺補闕仁山応寿大居士[1]
墓所山口県萩市大照院[1]
官位従五位下壱岐[1]、従四位下[1]、侍従[1]、大膳大夫[1]
長州藩藩主
父母父:毛利重就[1]、母:立花貞俶娘・登代子(瑞泰院)[1]
兄弟匡満治親匡芳親著
正室:田安宗武の娘・とき子(邦媛院)[2]
側室:小泉氏(明善院)[3]、岡田氏(宝池院)[4]
斉房[5]斉熙[5]細川興昶[5]熙載毛利房直養子)[3]水野忠篤[3]、多美(有馬頼端婚約者)[2]、他

毛利 治親(もうり はるちか)は、江戸時代後期の大名毛利氏22代当主。長州藩8代藩主。7代藩主・毛利重就の四男[1]嫡出子

生涯
宝暦4年(1754年6月15日江戸で生まれる[1]。四男だったが正室の子で[1]、かつ重就が養嗣子にしていた重広(従兄にあたる)や実兄たちが相次いで早世したため、世子となる。明和5年(1768年)3月に元服して従五位下、壱岐守に叙任する。後に従四位下に叙任し、10代将軍徳川家治から偏諱を受けて、初名の徳元のりもとから治元はるながに改名した(後に治親と改名)。

薩摩藩の「近秘野艸」(『鹿児島県史料』「伊地知季安著作史料集六」所収)では天明元年(1781年)生まれの奥平昌高が治広(松平大膳大夫治元)の養子になっていたとしている。

天明2年(1782年8月28日、父・重就の隠居により跡を継ぐが[1]寛政元年(1789年)に父が死去するまでは実権は全くなく、また父の死からわずか2年後の寛政3年(1791年6月12日に江戸で死去したため[1]、治績などはほとんどない影の薄い藩主であった。享年38[1]。跡を長男の斉房が継いだ。

墓所は山口県萩市椿の大照院[1]

系譜
・父:毛利重就(1725-1789)
・母:登代子 - 瑞泰院、立花貞俶次女
・正室:とき子(1756-1815) - 邦媛院、田安宗武の五女
・側室:明善院 - 小泉氏
 ・長男:毛利斉房(1782-1809)
 ・次男:毛利斉熙(1784-1836) - 毛利斉房の養子
・側室:花村(?-1790) - 宝池院、岡田氏
 ・五男:水野忠篤(1787-1816) - 水野忠韶の養子
・生母不明の子女
 ・三男:細川興昶(1785-1803) - 細川興徳の養子
 ・四男:毛利熙載 - 毛利房直の養子
 ・女子:多美 - 有馬頼端婚約者

偏諱を与えた人物
治親時代 (*「親」の字は南北朝期の毛利氏当主(毛利時親貞親親衡師親(元春)の4代)が代々使用した字でこれに由来する)
毛利(実弟、子に第11代藩主斉元、孫に第13代藩主慶親(敬親)
毛利大野毛利家
熊谷安芸熊谷氏
佐世益田就恭の実弟)
宍戸宍戸氏
益田愛(賢)問田益田氏、娘に吉敷毛利房謙正室、右田毛利房顕正室、阿川毛利房嘉正室がいる)

脚注
1. a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u 時山弥八編 1916, p. 110.
2.
a b 時山弥八編 1916, p. 111.
3. 
a b c 時山弥八編 1916, p. 113.
4. 
時山弥八編 1916, p. 114.
5. 
a b c 時山弥八編 1916, p. 112.

参考文献
オープンアクセス時山弥八編 国立国会図書館デジタルコレクション 『稿本もりのしげり』1916年。 NCID BN04718592
(wikiより)

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時代江戸時代後期
生誕文化11年5月16日[1]1814年7月3日
死没天保7年12月29日1837年2月4日[1]
改名保三郎[1](幼名)、崇広[1]、斉広
戒名崇文院殿故大官令中大夫羽林次将長防国主天常瑞誠大居士[1]
墓所東京都港区愛宕青松寺
山口県萩市椿の大照院[1]
官位従四位下侍従修理大夫[1]左近衛権少将[1]大膳大夫[1]
幕府江戸幕府
主君徳川家斉
長州藩
氏族毛利氏
父母毛利斉熙[1]、志津[1]
毛利斉元
兄弟斉広信順、由美子、万寿子、八重姫、
美知子
徳川家斉二十女和姫[1]、勇信院[2]
都美子[2]敬親

毛利 斉広(もうり なりとう)は、江戸時代後期の大名毛利氏26代当主。長州藩12代藩主。10代藩主・毛利斉熙の次男で、11代藩主・毛利斉元の養嗣子[1]。長州藩主としては在職期間が最短の藩主である。

経歴
文化11年(1814年5月16日萩城内において、斉熙と側室の池上氏(志津・花ノ井)との間に生まれる[1]幼名として保三郎、のちに初名の崇広たかひろを名乗る[1]文政5年(1822年6月、先代藩主・毛利斉元の養嗣子となる[1]。これに先立って、保三郎の丈夫届公儀に提出されたが、斉熙は文政2年(1819年)に斉元を養嗣子にした際、実子はまだないとして願い出ていたため、保三郎の官年は5歳若く当年4歳、すなわち文政2年生まれとして届け出ている[3]

文政13年(1830年3月、実父・斉熙や養父・斉元と同様、11代将軍徳川家斉より偏諱を授与され斉広なりとうに改名、従四位下侍従に叙任し、修理大夫と称する。しかし、文政13年(1830年)に正室の和姫(家斉の娘)が死去する[1]

天保7年(1836年9月8日に斉元が死去したため、同年12月10日に跡を継ぐが、20日足らず後の29日に桜田の藩邸において、23歳で死去した[1]。なお、実父の斉熙も同年5月14日に死去していた。

3歳年下の異母弟の毛利信順がいたが、斉元が生前に自身の長男・猶之進を斉広の跡継ぎに立て、斉広の娘都美子(当時数え5歳)と娶わせる意向を残しており、これが江戸加判役・毛利房謙より公表されるに及び、老臣の衆議でこれに異議がなかったため、猶之進(教明、のちの慶親、敬親)が家督を相続した。斉広は生前に仮養子を立てておらず、手続きは斉広の存命を装っての末期養子となり、3月15日に斉広の死が公表された[4]

文化人としては有能で、林述斎に師事して「与人論」や「世子告文」など多くの書物を残している。

系譜
・父:毛利斉熙(1784年 - 1836年)
・母:志津 - 花ノ井、池上氏
・養父:毛利斉元(1794年 - 1836年)
・正室:和姫(1813年 - 1830年) - 貞惇院、徳川家斉二十女
・側室:勇信院 - 本多氏
・生母不明の子女
 ・長女:毛利都美子(1833年 - 1913年) - 浄華院殿釈尼妙好大姉、毛利敬親正室
・養子
 ・男子:毛利敬親(1819年 - 1871年) - 毛利斉元の長男

補足
・前述したように、藩主在職期間が20日足らずと歴代の中でも最短の藩主であるため、このわずかな期間に偏諱を与えられた者はいない(該当者なし)。
の2文字目「広」は祖先大江広元にちなんだ毛利氏の通字の一つで、歴代藩主の中でも2代綱広、4代吉広、6代宗広が用いている字でもあり、本来は「ひろ」と読む。斉広自身も最初は崇広たかひろと名乗っていたが、斉広と改名する際に実父・斉熙と同じ読みとなってしまうのを避けるために読みを変更したものと思われる(かつて曽祖父の重就が「就」の読みを「なり」から「たか」に改めた例もある)。

脚注
1. a b c d e f g h i j k l m n o p q r 時山弥八編 1916, p. 123.
2.
a b 時山弥八編 1916, p. 124.
3. 
大森、p.165-167
4. 
大森、p.172-174

参考文献
オープンアクセス時山弥八編 国立国会図書館デジタルコレクション 『稿本もりのしげり』1916年。 NCID BN04718592
・萩市史編纂委員会編 『萩市史』 第1巻、萩市、1983年6月。 NCID BN01890860全国書誌番号:83049750Closed Access logo alternative.svg国立国会図書館デジタルコレクション    
大森映子『お家騒動 大名家の苦闘』吉川弘文館〈読みなおす日本史〉、2018年
(wikiより)

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毛利斉広

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 東光寺の毛利家墓所に入って左奥の方に、詳細不明のお墓が有り それを撮影してきたのでupします。

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⇧ このような状態で並んでいました。

画像左側にも有り 向かい合って並んでいました。

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以上 17基のお墓が有りました。




時代江戸時代中期 - 後期
生誕天明2年11月20日[1]1782年12月24日
死没文化6年2月14日1809年3月29日[1]
改名義二郎[1]・善次郎(幼名)、維房(初名)[1]、斉房[1]
戒名靖恭院殿前二州太守大官令四品拾遺補闕澹雲如祥大居士[1]
墓所山口県萩市椿東の東光寺[1]
官位従四位下侍従大膳大夫[1]
幕府江戸幕府
主君徳川家斉
長州藩
氏族毛利氏
父母毛利治親[1]、明善院[1]
兄弟斉房斉熙細川興昶熙載水野忠篤、多美
有栖川宮織仁親王幸子、芳春院[2]
徳丸[1]斉熙

毛利 斉房(もうり なりふさ)は、江戸時代後期の大名毛利氏23代当主。長州藩9代藩主。8代藩主・毛利治親の長男[1]

経歴
天明2年(1782年11月20日江戸で生まれる[1]寛政3年(1791年)、父・治親の死去により10歳で跡を継ぐ[1]。寛政7年(1795年8月、11代将軍徳川家斉から偏諱を授かって初名の維房(これふさ)から斉房に改名し、叙任する。寛政12年(1800年)からは藩財政再建のために10ヵ年の倹約を行ない、さらに伊能忠敬周防長門の測量を行なわせて海防の強化に努めるなどしたが、文化6年(1809年2月14日に28歳で江戸にて死去した[1]。実子の徳丸が生まれたのは斉房の死後であり[3]、養子となっていた弟の斉熙が跡を継いだ[4]。墓所は萩市椿東の東光寺[1]

系譜
・父:毛利治親(1754年 - 1791年)
・母:明善院 - 小泉氏
・正室:幸子 - 栄宮、貞操院殿松林如榮大姉、有栖川宮織仁親王
・側室:芳春院 - 山田氏
・生母不明の子女
 ・男子:徳丸(1809年 - 1814年)[3]    
・養子
 ・男子:毛利斉熙(1784年 - 1836年) - 毛利治親の次男

斉房の代の主要
家臣
文化元年(1804年)頃の主要な斉房の家臣は下のとおり。
家老
宍戸美濃毛利勇之進毛利若狭、毛利帯刀、毛利次郎兵衛毛利伊賀益田吉十郎福原豊前、粟屋帯刀、佐世仁蔵、清水長左衛門、堅田宇右衛門、山内九郎兵衛、児玉遠江、国司市正

用人     
・山田図書、粟屋清蔵、吉田八郎右衛門、田坂昇、粟屋恵次、山県市左衛門、冷泉六郎右衛門

側用人      
・石津環、揚井鎌蔵、三浦内左衛門、福島直衛、久芳安積、山中殿衛、山県左次馬

城使      
・児玉準、簗川六兵衛、粟屋十右衛門

偏諱を与えた人物
「房」の字は室町時代の毛利家当主、毛利広房之房(光房)熙房(熙元)の3代に亘って使用された字でこれに由来する。
毛利(勇之進、右田毛利家
毛利吉敷毛利家、房良の実弟)
毛利(右田毛利家、房良・房直の実弟)
毛利(吉敷毛利家、房直の養孫)
毛利晁(衆)厚狭毛利家
毛利阿川毛利家、房晁の実弟)
毛利謙(祀)(吉敷毛利家、房晁・房嘉の実弟で房裕の養子)
(うら ふさとも、通称:浦木工、浦氏浦元襄(靱負)の養父)
国司毛利元美の後見役)
佐佐木尼子氏末裔・佐佐木氏)
宍戸宍戸氏一族の者か、次男に佐佐木房高の婿養子となった佐佐木元久、孫に元久の子で浦元襄養子の浦親教がいる)
宍道(宍道外記、宍道氏
益田(吉十郎、須佐領主益田家
福原純(俊)(豊前、宇部領主福原家
福原(従兄弟、房純の養子、のちの長州藩第11代藩主毛利斉元

脚注
1. a b c d e f g h i j k l m n o p 時山弥八編 1916, p. 114.
2.
時山弥八編 1916, p. 115.
3. 
a b 大森、p.159
4. 時山弥八編 1916, pp. 114–115.

参考文献
オープンアクセス時山弥八編 国立国会図書館デジタルコレクション 『稿本もりのしげり』1916年。 NCID BN04718592
大森映子『お家騒動 大名家の苦闘』吉川弘文館〈読みなおす日本史〉、2018
(wikiより)

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時代江戸時代中期
生誕延宝5年8月24日[1]1677年9月20日
死没享保16年9月13日1731年10月13日[1]
改名又四郎[1](幼名[2])、元倚(初名)[1]、吉元
別名右京大夫(通称
諡号泰桓公[3]
戒名泰桓院殿前二州太守四品拾遺補闕仰岳浄高大居士[3]、泰桓院仰岳浄高[2]
墓所山口県萩市東光寺[3]
官位従五位下[3]右京大夫[3]従四位下[3]民部大輔侍従[3]長門守[3]
幕府江戸幕府
主君徳川綱吉家宣家継吉宗
長府藩世嗣、長州藩
氏族毛利氏
父母父:毛利綱元[1][2]、母:池田光政[1][2]・祥雲院
養父:毛利吉広[1]
兄弟吉元本多忠次匡以元矩、真寿院
正室:池田綱政娘・法林院[3]
側室:伴氏(桂月院)[4]、森氏(永昌院)[4]
元朝(宗元)[3]元陳[5]宗広(維広)[6]、皆姫[5]、寧[6]

経歴
延宝5年(1677年8月24日江戸で生まれる[1]元禄4年(1691年12月元服して元倚もとより[1][注釈 1]と名乗る。宝永4年(1707年)に本家藩主・毛利吉広が若死にすると、その養嗣子として後を継ぐ[2]。吉広同様、5代将軍徳川綱吉より偏諱を賜い、吉元に改名。吉元は毛利秀元系初の長州藩主であるが、この家督相続の際に徳山藩主で、血統上は毛利輝元系の毛利元次が無視されたので、禍根を残すことになり、万役山事件を起こすこととなる。

藩財政再建のため、5か年の倹約や経費節減、参勤交代での人数の減少に努めた。また、文武を奨励して藩校明倫館を創設し[2]、さらに毛利家の家系をまとめた閥閲録204冊の編纂も行なった。

享保16年(1731年9月13日、江戸で死去[3][2]。享年55[3][2]。墓所は山口県萩市椿東の東光寺[3][2]大正5年(1916年11月従三位を追贈された[2]

初めは三男の元陳もとのぶを、次に実家の長府藩主を継いでいた長男の元朝(宗元)を、次の長州藩主に定めていたが、いずれも吉元に先立って早世しており、新たに嫡男となっていた五男の維広(宗広)が跡を継いだ。

系譜
・父:毛利綱元(1651-1709)
・母:房姫(1653-1686) - 祥雲院、池田光政
・養父:毛利吉広(1673-1707)
・正室:品子 - 法林院、池田綱政
 ・長男:毛利元朝(宗元)(1703-1721)
 ・三男:毛利元陳 (1706-1713)
 ・長女:皆姫 - 島津継豊正室
・側室:桂月院 - 伴氏
・側室:永昌院 - 森氏
 ・五男:毛利宗広(維広)(1717-1751)
・生母不明の子女
 ・女子:寧 - 心涼院、毛利師就正室

偏諱を与えた人物
吉元時代
「元」は毛利氏の通字として最もよく用いられている字であり、一部の分家でも代々用いられている。そちらについては特別に吉元から賜ってはいないものとみなし、明らかにこの代に賜っている人物のみを掲載する。
毛利朝(宗(長男)
毛利(三男)
毛利厚狭毛利家
毛利吉敷毛利家
井原(通称:井原孫左衛門、毛利広豊徳山藩入りの際にその同行人として萩藩から派遣された)
(通称:浦図書、浦氏
(通称:浦主計、蔵田与右衛門連珍の次男で元敏の養嗣子)
熊谷安芸熊谷氏、子に宍戸広周ほか)
佐佐木尼子氏末裔・佐佐木氏)
清水清水氏、通称:清水宮内)
宍道(宍道四郎右衛門、毛利就久の弟・匡雅の子で宍道氏を継ぐ)
椙杜世(蜂/岑)椙杜氏椙杜元縁の曾孫)
益田(須佐領主益田家
益田言(方)問田益田家
福原(益田元道の実弟、宇部領主福原家を継ぐ)
山内山内采女広通の子か。子に熊谷直温がいる)

登場する作品
テレビ朝日の「暴れん坊将軍」(第11シリーズ)では地元出身の歌手・山本譲二が吉元を演じた。

脚注
1. 元猗とも。
2.
a b c d e f g h i j 時山弥八編 1916, p. 96.
3. 
a b c d e f g h i j k 吉田 1976, p. 236.
4. 
a b c d e f g h i j k l m n 時山弥八編 1916, p. 97.
5. 
a b 時山弥八編 1916, p. 100.
6. 
a b 時山弥八編 1916, p. 98.
7. a b 時山弥八編 1916, p. 99.

参考文献
オープンアクセス時山弥八編 国立国会図書館デジタルコレクション 『稿本もりのしげり』1916年。 NCID BN04718592
・吉田祥朔 『近世防長人名辞典』(増補)マツノ書店、1976年6月1日。 NCID BN02934961
(wikiより)

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時代江戸時代前期
生誕寛文8年1月21日[1]1668年3月3日
死没元禄7年2月7日1694年3月2日[2]
改名元千代丸[1](幼名[3])、吉就
諡号寿徳公[2]
戒名寿徳院殿前二州太守四品拾遺補闕大光元栄大居士[2]、寿徳院大光元栄[3]
墓所山口県萩市東光寺[2][3]
官位従五位下[2]従四位下侍従長門守[2]
幕府江戸幕府
主君徳川綱吉
長州藩
氏族毛利氏
父母毛利綱広[1][3]松平忠昌娘千姫[1][3]
兄弟吉就吉広[4]元重[5]、良、品、勘、幸、類ら
酒井忠隆娘亀子[2]
吉広

毛利 吉就(もうり よしなり)は、江戸時代前期の大名毛利氏17代当主。長州藩3代藩主。

略歴
2代藩主・毛利綱広の長男[1]。母は松平忠昌の娘・高寿院(千姫)[1][3]。正室は若狭小浜藩主・酒井忠隆の娘・長寿院(亀子)[2]官位従四位下長門[2]

寛文8年(1668年1月21日江戸麻布の藩邸で生まれる[1][3]天和2年(1682年2月27日、父の隠居により跡を継いだ[1][3]4月に5代将軍徳川綱吉から偏諱を賜り[3]祖父・毛利秀就からも1字を取って[要出典]吉就と名乗り、従四位下に叙位、侍従に叙任され、長門守と称する[3]

藩主としては、貞享元年(1684年)にはじめて領国に入国する[3]。貞享3年(1686年)に貞享検地と呼ばれる検地を行なって、領民への徴税を是正することに務める一方[3]、新堀川の治水工事[3]城下町の整備に取り組み、元禄4年(1691年)には護国山東光寺を建立する[3]など積極的な政治を展開するが、同時に藩財政の悪化も招くことになった。これに反発する家臣団との対立に苦労する中、元禄7年(1694年2月7日に江戸桜田の藩邸で急死してしまった[2][3]。享年27[2][3]

吉就には嗣子がなく、跡を吉就の異母弟で養嗣子の就勝(吉広)が継ぐこととなった。墓所は萩市椿東の東光寺[2][3]

系譜
・父:毛利綱広(1639-1689)
・母:千姫 - 高寿院、松平忠昌
・正室:亀子 - 長寿院、酒井忠隆
・養子
 ・男子:毛利吉広(1673-1707) - 毛利綱広の次男

偏諱を与えた人物
毛利(実弟・養嗣子、のちの毛利吉広。就勝は右田毛利就信の養子になっていた時の。)
毛利厚狭毛利家
毛利吉敷毛利就直の次男で広政広包の次兄、初め村上武真)
毛利阿川毛利家
宍戸延(宗)熊谷元実の子で宍戸就附熊谷就実の実弟。就附死後、宍戸氏を継ぐ。)
志道志道氏、主に吉広・吉元時代に当職(国家老・執政)を務めたが、毛利広政の直訴により罷免。)
志道椙杜元縁の養子・就幸の子で椙杜就保とも。元縁実父・志道元保の曾孫で就晴とは親戚関係にある。娘に宍戸広周正室。主に吉広・吉元時代に当役を務めたが、毛利広政の直訴により罷免。)
清水清水氏
宍道(宍道氏)
福原?(福原広俊の子)
益田益田氏分家、益田景祥の孫で広尭宍道広慶の実父。)
益田(益田氏分家から本家・須佐領主益田家第7代当主となる。)
椋梨椋梨氏

脚注
1. a b c d e f g h 時山弥八編 1916, p. 94.
2.
a b c d e f g h i j k l 時山弥八編 1916, p. 95.
3. 
a b c d e f g h i j k l m n o p q 吉田 1976, p. 235.
4. 
時山弥八編 1916, p. 91.
5. 
時山弥八編 1916, p. 92.

参考文献
オープンアクセス時山弥八編 国立国会図書館デジタルコレクション 『稿本もりのしげり』1916年。 NCID BN04718592
・吉田祥朔 『近世防長人名辞典』(増補)マツノ書店、1976年6月1日。 NCID BN02934961
(wikiより)

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⇧⇩ 酒井忠隆 娘 亀子 墓

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時代江戸時代後期
生誕寛政6年3月24日[1]1794年4月23日
死没天保7年9月8日1836年10月17日[1]
改名豊之允[1](幼名)、房昌[1](福原氏時代)、教元、斉元
別名弾正[1](福原氏時代)、式部(通称[1]
戒名邦憲院殿故大中大夫大官令羽林次将長防国主慈峰真秀大居士[1]
墓所山口県萩市椿東の東光寺[1]
官位従四位下式部大輔[1]宮内大輔[1]侍従[1]大膳大夫[1]左近衛権少将[1]、従四位上[1]
幕府江戸幕府
主君徳川家斉
長州藩
氏族毛利氏安芸福原氏、毛利氏
父母毛利親著[1]、以久[1]
福原房純毛利斉熙[1]
兄弟斉元毛利房良正室
毛利斉熙娘由美子[1]
原田氏[2]、田代氏、山崎氏[3]、京[3]
敬親[4]、牧之助[4]、三寿姫[4]、孝子[2]教徳[2]、嘉姫[2]斉広

毛利 斉元(もうり なりもと)は、江戸時代後期の大名毛利氏25代当主。長州藩11代藩主。7代藩主・毛利重就六男である毛利親著の長男で、10代藩主毛利斉熙の養子[1]

経歴
寛政6年(1794年3月24日萩城下八丁邸にて出生する[1]享和3年(1803年)に一門八家福原房純の養嗣子となり、文化5年(1808年9月1日、養父と同じく藩主・毛利斉房偏諱を授かり福原房昌ふくばら ふさまさと名乗った。同年に通称として弾正と名乗った。藩主の兄弟を養子にできるのは一門八家のうちさらに六家のみに限られていたため、この養子縁組には反対もあったが、斉元は藩主の弟でなく弟の息子であったため押し切られた[5]

文政2年(1819年)、従兄で藩主の毛利斉熙の実子・保三郎(後の毛利斉広)が幼いため、つなぎの当主とすべく福原家から藩主家に貰い返されて、通称を式部、名を毛利教元のりもとに改めた。同年9月に斉熙の養嗣子となり[1]、四品に叙任して式部大輔に任じられ、文政3年(1820年)に宮内大輔に転じ、文政4年(1821年)に従四位侍従となる[1]

文政7年(1824年2月27日の斉熙の隠居により跡を継ぐが、文政12年(1829年)に従四位・左近衛少将になる[1]。11代将軍徳川家斉からの偏諱を受け斉元と改名する。

天保6年(1836年12月26日に従四位上に叙任されるが、翌天保7年(1836年)5月14日に養父の斉煕が死去する。同年6月12日には後世に「申歳の大水」として語り継がれる大洪水が起こり、実子の猶之進(教明)らがいた萩城下の南苑邸が大破し、城下の3分の2が浸水、溺死者約200人に上るなどの被害を出す。同年9月8日に斉熙の後を追うように死去した[6]。享年43[1]。跡を継いだ斉広は同年のうちに亡くなり、実子の教明(後の慶親・敬親)がその跡を継ぐことになる。

人物
父が部屋住み身分で、自身も家臣福原家から貰い返されて毛利宗家を継いだ経緯があるためか、万事に控え目な性格で、実権は養父・斉熙が握り、終始中継ぎ藩主のままであった。

狂歌を好んで鹿都部真顔に師事し、柳桜亭花也[1]、柳花亭風姿瑞垣、土筆亭和気有丈などの狂号をもち、戯作者山東京山の次女・京が侍女から側室となり、孝姫、甚之丞(早世)を産んだ。

系譜
・父:毛利親著(1766年 - 1800年)
・母:以久 - 心月院
・養父:福原房純(1772年 - 1836年)、毛利斉熙(1784年 - 1836年)
・正室:由美子 - 蓮容院、毛利斉熙娘
・側室:原田氏
 ・長男:毛利敬親(1819年 - 1871年) - 毛利斉広の養子
・側室:田代氏
・側室:山崎氏
・側室:京 - 山東京山
・生母不明の子女
 ・男子:牧之助 
 ・
女子:三寿姫 - 益田親興親施兄)室
 ・女子:孝子 - 伊達宗徳正室
 ・男子:毛利教徳
 ・女子:嘉姫
・養子
 ・男子:毛利斉広(1814年 - 1837年) - 毛利斉熙の次男

偏諱を与えた人物
毛利教元時代
毛利(長男、のちの毛利敬親)
毛利(息子、教明の弟)

毛利斉元時代
「元」は毛利氏の通字として最もよく用いられている字であり、一部の分家でも代々用いられている。そちらについては特別に斉元から賜ってはいないものとみなし、明らかに賜っている人物のみを掲載する。
毛利美(教)厚狭毛利家
毛利寿右田毛利家房顕の嫡男(のち廃嫡))
毛利亮(敬/統)(右田毛利家、元寿廃嫡後の嫡子、元美の娘婿)
毛利一(潔)吉敷毛利家、元寿の義弟(正室が房顕の娘))
浦 (通称:浦靱負)
堅田徳山毛利広鎮の五男、堅田就正の養子)
佐佐木尼子氏末裔・佐佐木房高の婿養子、浦靱負の養子・親教の実父)
宍戸(福原家における義弟、母方の宍戸氏を継承、初め宍戸延良)
清水清水氏、通称:清水信濃、清水親春の養父)
高洲(寄組藩士、国司親相(国司信濃)の実父)
福原(通称:福原越後、毛利広鎮の六男で堅田元琦の実弟)
益田(須佐領主益田家、子の親興は斉元の娘婿。)
益田(通称:益田伊豆、問田益田氏

脚注
1. 
a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y 時山弥八編 1916, p. 120.
2. 
a b c d 時山弥八編 1916, p. 122.
3. 
a b 時山弥八編 1916, p. 123.
4. 
a b c 時山弥八編 1916, p. 121.
5. 
大森、p.162-164
6. 
時山弥八編 1969, p. 118.

参考文献
・津田真弓『山東京山』新典社、2005年
オープンアクセス時山弥八編 国立国会図書館デジタルコレクション 『稿本もりのしげり』1916年。 NCID BN04718592
 ・復刻 時山弥八編 『増補訂正もりのしげり』(復刻)赤間関書房、1969年2月20日。 NCID BA43309514全国書誌番号:73000641
・萩市史編纂委員会編 『萩市史』 第1巻、萩市、1983年6月。 NCID BN01890860全国書誌番号:83049750Closed Access logo alternative.svg国立国会図書館デジタルコレクション    
大森映子『お家騒動 大名家の苦闘』吉川弘文館〈読みなおす日本史〉、2018年
(wikiより)

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⇧⇩ 正室:由美子 - 蓮容院 ( 毛利斉熙娘 )墓

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時代江戸時代中期 - 後期
生誕享保10年9月10日[1]1725年10月15日
死没寛政元年10月7日1789年11月23日[1]
改名岩之丞(幼名[1]
→ :元房[1]匡敬まさたか
→ 重就(しげなり→しげたか)
諡号英雲公[1]
戒名英雲院殿前二州太守四品吏部大郷羽林次将祐山如靖大居士[1]
墓所山口県萩市東光寺[1]
官位従五位下甲斐守[1]、従四位下侍従・大膳大夫[1]、左近衛少将[1]、式部大輔[1]
従三位明治41年[1]
幕府江戸幕府
長府藩主→長州藩
氏族毛利氏
父母父:毛利匡広[1]、母:性善院(飯田氏)[1]
養父:毛利宗広
兄弟演暢院(有馬一準室)、師就政苗広定
重就増山正贇
正室:登代立花貞俶娘・瑞泰院)[1]
側室:利尾(家臣飯田存直娘)
側室:留楚(佐竹氏家臣武藤群次妹)
側室:種織(家臣河野通貞娘)
匡満治親匡芳親著(六男)、友(山内豊雍正室)、勢代(有馬頼貴正室)、好(藤井松平信亨正室)、佐代(鷹司輔平室)、澄(奥平松平忠啓正室)、長(毛利匡邦正室のち前田利謙正室、顕徳院)、娘(内藤信旭正室)、列(井伊豊吉婚約者)、多鶴(近衛経熙婚約者)
養子:毛利重広[2]、養女:(保科松平容頌継室[2]

毛利 重就(もうり しげなり/しげたか)は、江戸時代中期から後期の大名毛利氏21代当主。長門国長府藩8代藩主、のち長州藩7代藩主。ははじめ元房(もとふさ)、のち匡敬(まさたか)、重就(しげなり)、さらに重就(しげたか)と改めた。

経歴
享保10年(1725年[1]、長州藩支藩の長府藩主・毛利匡広の十男として生まれる。幼名は岩之丞[1]。匡広の跡を継いだ五男の師就が享保20年(1735年)に死去した際、師就の実子・多賀之丞(毛利教逵)は出生が幕府に未届けで相続が認められず、匡広の七男の政苗、八男の広定はそれぞれ清末藩主、右田毛利家を継いでおり、仮養子として届けられていた岩之丞(重就)が家督を相続することになった。また、宝暦元年(1751年)には本家にあたる長州藩6代藩主・毛利宗広が早逝し、世嗣がないことなどで、末期養子として家督を相続する。

当時の長州藩は、天災によるの不作、藩商品の販売不振などにより収入が減少し、財政赤字に陥っていた。重就は藩主就任と同時に坂時存、長沼正勝ら3家老を招集し、改革案の提出を要請する。宝暦3年(1753年)「三老上書」が提出される。内容は、経費の削減などから新田開発、荒廃田の復旧、築港による流通整備などが掲げられていた。

重就はまず検地を行い、8年後には新たに4万石分の収入を得ることに成功した。この収入を藩財政には組み込まず撫育方を設立させ、こちらの資金として充てる。撫育方はこの資金を元手に明和元年(1764年)、鶴浜を開作、伊崎を埋め立て今浦港を築港、4年後には室積・中関(三田尻)の港整備を行う。

港の改良により回船の寄港地として発展させると同時に、藩物品の販売、回船業者への資金貸し付け、倉庫貸出などを行い、利益を得る。撫育方がほぼ全てにあたった。

また、塩田開発も進め、明和年間には21万石に上がる収益を得たと言われている。この他にも製紙、製蝋、製糖などにも力を入れた(防長三白)。一方で、過度な年貢取り立てなどの政策は一揆に悩まされることにもなった。

天明元年(1781年)、10代将軍徳川家治の嗣子に一橋家の男子の豊千代が決定し、徳川家斉と改名すると、“しげなり”の“なり”が将軍嗣子の本名と同じ(「就」が「斉」と同じ読みである)ため、読みを“しげなり”から“しげたか”に改める[3][4]

天明2年(1782年)に家督を四男の治親に譲って隠居し[1]、自身は三田尻三田尻御茶屋に住んだ。7年後の寛政元年(1789年)に死去した[1]。享年64[1]

墓所は山口県萩市東光寺[1]

系譜
参考は「萩市史・第一巻」など
・父:毛利匡広(1675-1729)
・母:性善院 - 側室、飯田氏

・兄弟姉妹
 ・毛利師就
 ・毛利政直
 ・毛利政苗
 ・毛利広定
 ・増山正贇
 ・演暢院(丸岡藩有馬一準室)
 ・慧照院(長島藩増山正武室)
  ほか

・正室:登代(
柳川藩藩主立花貞俶の次女・寛延元年(1748年)入輿、明和6年(1769年)死去)
 ・三女: 友(とも)子(1749年 - 1780年) - 寛延2年12月21日または19日に江戸日々窪長府邸で生まれる[5]土佐藩山内豊雍正室、三条実美の曾祖母。婚姻日は明和6年(1769年)3月23日[5]。安永9年4月30日1780年6月2日)に江戸鍛冶橋土佐藩邸において死去、年32、法名は観月院殿翠顔妙黛大姉、墓所は東京芝愛宕町青松寺[6]     
 ・四女: 勢代(せよ)子(1751年 - 1775年) - 三田御前様と称した[7]。寛延4年(1751年5月5日に江戸日々窪長府邸で生まれる[7]久留米藩有馬頼貴正室で婚姻日は明和5年(1768年11月23日[7]。安永4年12月20日(1776年2月9日)に江戸芝三田有馬藩邸において死去、年25、法名は養源院殿貞室知栄大姉、墓所は東京渋谷祥雲寺[7]       
 ・五女: 艶(つや)子(1752年 - 1759年) - 早世、はじめの名前は屋代(やよ)姫、宝暦2年(1752年)11月15日に江戸桜田邸において誕生する[7]。宝暦9年7月25日1759年8月17日)に江戸桜田邸において死去、年8、法名は涼岳院殿慧林玉芳大童女、墓所は東京芝白金瑞聖寺[7]     
 ・四男:毛利治親(1754年 - 1791年) - 長州藩第8代藩主

・側室:利尾(家臣飯田存直の娘・
享和3年8月2日死去)
 ・長女: 好(よし)子(1744年 - 1766年) - 上山藩主藤井松平信亨の正室、婚姻日は宝暦12年(1762年6月23日[2]。明和3年4月12日1766年5月20日)に江戸三田新堀邸において死去、年23、法名は清峰院殿浄雲自鏡大姉、墓所は東京泉岳寺[8]    
 ・次女: 佐代(さよ)子(1746年 - 1769年) - はじめの名前は千代姫、後に惟保(いほ)君と称する[5]。関白鷹司輔平室で婚姻日は、宝暦11年(1761年2月18日[5]。明和6年4月29日1769年6月3日)に京都において死去、年24、法名は妙池院殿青蓮慈薫大姉、墓所は京都嵯峨二尊院、萩市広雲寺[5]   
 ・長男: 毛利匡満(1748年 - 1769年) - 長府藩第9代藩主
 ・次男: 徳治郎(1750年 - 1750年) - 早世、寛延3年(1750年3月11日に江戸日々窪邸で誕生[注釈 1][7]。寛延3年7月22日(1750年8月23日)に死去、法名は玉章院殿瑞厳本光大童子、墓所は長府笑山寺[7]      
 ・三男: 永丸(1753年 - 1758年) - 早世、岩之助、又利丸、宝暦3年(1753年4月29日に萩城において生まれる[9]。宝暦8年10月9日1758年11月9日)に萩城において死去、年6、墓所は萩市東光寺[9]   
 ・六女: 澄(すみ)子(1755年 - 1779年) - 宝暦5年(1755年)2月28日に萩城で生まれる[9]桑名藩松平忠啓正室、婚姻日は安永4年(1775年)6月3日[9]。安永8年6月29日1779年8月11日)に江戸馬場先松平邸において死去、年25、法名は蘭蕙院殿孤芳智秀大姉、墓所は東京谷中天眼寺と萩市東光寺[9]  

・側室:留楚(佐竹氏家臣武藤群次の妹・
文化7年7月22日死去)
 ・五男: 毛利匡芳(1758年 - 1792年) - 長府藩第10代藩主[10]     
 ・七女: 列(れつ)子(1762年 - 1773年) - 宝暦12年(1762年)4月11日に江戸新シ橋邸で生まれる[10]彦根藩井伊直幸の嗣子・井伊直富と婚約中の安永2年10月4日1773年11月17日)に江戸麻布邸において早世、年12、法名は凌寒院殿幻梅衍香大童女、墓所は東京芝白金瑞聖寺[10]   
 ・六男:毛利親著(1766年 - 1800年) - 長州藩第11代藩主・毛利斉元の父

・側室:田中氏(文化12年9月17日死去)
 ・八女: 多鶴子 - 権大納言の近衛師久と婚約中に夭折)

・側室:種織(家臣河野通貞の娘、
寛政2年8月25日死去)
 ・九女: 長子 - 初め雅子、清末藩主毛利匡邦正室、富山藩前田利謙正室

・生母不明の子女
 ・女子:内藤信旭正室

・養子
 ・男子: 毛利重広 - 演暢院の子で重就の甥にあたる[2]    
 ・女子: 誠(のぶ)姫 - 毛利宗広の次女[2]     
 ・女子: 百合(ゆり)姫 - 毛利宗広の三女[2]

系図

実際の親子関係のみを示す。
264

家臣
武鑑に掲載された家臣
「大武鑑・中巻」に収録された宝暦5年(1755年)の武鑑に掲載された家臣は以下の通り。なお刊行の都合により掲載情報が宝暦5年以前のものを含んでいる可能性はある。また、武鑑では諸藩で呼び名が違う役職名を標準化している場合があるので、実際の藩職名と相違する場合もある。

【一門八家】
宍戸出雲毛利筑後毛利七郎兵衛毛利虎槌毛利宮内毛利彦治(次)郎益田越中福原豊前  

【家老】
宍道外記、清水長左衛門、浦主計     

【毛利重広附】
井原孫左衛門、児玉縫殿

用人
三戸是令、小川貞右衛門、赤川仁右衛門、桂五郎左衛門

【毛利重広附用人】
三浦内左衛門、中井定右衛門

城使
周布与三右衛門、嶋尾五郎右衛門、有福庄右衛門、都筑弥右衛門

偏諱を与えた人物
匡敬時代
毛利(長男、長府藩第9代藩主)
毛利豊(芳)(五男、長府藩第10代藩主)

重就時代
(※前述した通り、「就」の読みは初め「なり」、天明元年(1781年)以降は「たか」と読まれる。1781年から(重就が隠居した)天明2年(1782年)に授与された者は初めから読みは「たか」である。)
毛利(甥(兄・広定の子)、右田毛利家当主)
毛利(同上、就任の実弟、吉敷毛利家第8代当主)
毛利(同上、就任・就兼の実弟、厚狭毛利家第8代当主)
毛利(吉敷毛利家第7代当主、就兼の養父)
毛利(厚狭毛利家第7代当主、就宣の養父)
毛利馴(友)徳山藩(就隆系)毛利家)
毛利阿川毛利家第8代当主)
井原安芸熊谷氏熊谷元貞宍戸広隆の弟)の子で宍戸広周の実弟。毛利敬親期の家臣・井原親章(主計)は子孫とみられる。)
(通称:浦兵介、宍道外記(宍道広慶)の次男、浦主計(浦元伴)の養子となり浦氏を継承)
国司国司氏、次男に浦就尹の子・房伴の養子となった浦元襄、三男に熊谷直行がいる。)
熊谷(就正の養父と思われる井原広似の次男で熊谷元貞の養子)
佐佐木尼子氏末裔・佐佐木氏)
宍戸宍戸氏、宍戸出雲の子)
宍道(宍道氏、益田就高の孫)
志道(熊谷元貞の子で宍戸広周・井原就正の実弟、志道氏を継ぐ)
椙杜椙杜氏分家、椙杜元縁の曾孫)
繁沢(はじめ繁沢利充の養子、のち実家の阿川毛利家に戻ってその第11代当主となる)
福原(宇部領主福原家
益田(須佐領主益田家
益田(就祥の子、母は重就の兄・広定の養女)
益田問田益田家
村上(むらかみ なりつね/たかつね、藩士・能島村上氏当主、佐佐木就清の子を養子に迎える。)

伝記
・小川国治『毛利重就』(吉川弘文館、2003年) ISBN 4-642-05226-7   

関連項目
三田尻    

脚注
1. 『長府系図』では長府で誕生したとする[7]
2. 
a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u 時山弥八編 1916, p. 102.
3. 
a b c d e f 時山弥八編 1916, p. 103.
4. 
小川国治『毛利重就』
5. 
『萩市史・第一巻』参照
6. 
a b c d e 時山弥八編 1916, p. 104.
7. 
時山弥八編 1916, pp. 104–105.
8. 
a b c d e f g h i 時山弥八編 1916, p. 105.
9. 
時山弥八編 1916, pp. 103–104.
10. 
a b c d e 時山弥八編 1916, p. 106.
11. a b c 時山弥八編 1916, pp. 106–107.

参考文献
オープンアクセス時山弥八編 国立国会図書館デジタルコレクション 『稿本もりのしげり』1916年。 NCID BN04718592

外部リンク
防府と毛利重就 - 防府Web歴史館(防府市教育委員会文化財課)
萩藩改革の足がかりをつくった毛利重就と撫育方 - 山口ブランドストーリー(山口県観光振興課)
毛利重就 - 茶室辞典(株式会社山中工務店)
(wikiより)


264 毛利重就

毛利重就

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⇧⇩ 登代 ( 立花貞俶娘・瑞泰院 )墓。

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毛利秀就公を火葬した場所です。

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〇  長井元房と忠義の猫 ~ 猫町 ( ねこちょう ) 伝説 ~
これは毛利輝基の家臣であった長井元房のお墓です。

萩に城下町を築いた藩祖、毛利輝元には、長井元房という家臣が居ました。

元房は、若いころ萩を出奔し他国に流浪していましたが、その間も輝元はひそかに銀子を与えて元房を庇護していました。

その後、輝元は萩に帰った元房を依然と同様に家臣として遇しました。

1625年 ( 寛永 2年 )、輝元が亡くなると元房は輝元に深い恩を感じていたのでしょう、後を追って殉死しました。

元房には、たいへん可愛がっていた猫がいました。

その猫は元房の死後、天樹院の元房の墓前から離れようとはせず、49日の法要の日に舌を噛んで死んでいたと伝えられています。

萩博物館の西側には元房の屋敷があったことから、この筋に猫町 ( ねこのちょう ) という名前がつけられました。
(案内板より)

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清光院(せいこういん、永禄元年(1558年)- 寛永8年6月20日1631年7月19日))は、毛利輝元正室。父は毛利氏一門衆の宍戸隆家、母は毛利元就の娘である五龍局南の大方と呼ばれた。

生涯
永禄元年(1558年)、宍戸隆家の三女として生まれる[1]

永禄6年(1563年)2月、毛利輝元との婚約が成立し、永禄11年(1568年)3月に吉田郡山城内において盛大な婚儀が執り行われた。ただ、この婚約は毛利元就によって1度破棄されている。これは当時、室町幕府将軍足利義輝の仲介で、輝元に大友宗麟の娘を嫁がせて和議を結ぶことが決まったことによる[2]。その後、和議が破綻して輝元と宗麟の娘との婚姻は実現しなかったことで、改めて婚姻が進められた。

清光院と輝元との間には子がなかったため、天正13年(1585年)に輝元の叔父穂井田元清の子である毛利秀元を輝元の養子とした。しかし、文禄4年(1595年)に輝元の側室である中の丸殿(清泰院)毛利秀就を生んだため、秀元には別家(長府藩)を興させ、秀就を輝元の嗣子とした。

毛利氏が豊臣秀吉に従った後の天正18年(1590年)、輝元や小早川隆景吉川広家らが小田原征伐のために上洛するに先立って、清光院は女房衆を伴い上洛。その際に勧修寺尹豊勧修寺晴豊とその女房衆らと贈物を贈り合い、三色三荷を贈られた。また、福原元俊を使者として、准后女御に挨拶をしている。

慶長5年の関ヶ原の戦い後、毛利氏が周防長門二か国に封じられると、清光院も山口移り住み、慶長9年(1604年)に萩城がある程度出来上がるとへと移っている。清光院は浄土真宗に帰依しており、慶長9年(1604年)頃に山口興正寺兼帯所を建立。慶長13年(1608年)頃には興正寺兼帯所をへ移転した。

寛永8年(1631年)6月20日、74歳で周防国山口宮野で死去[1]。墓は山口県萩市堀内の沙麓山天樹院跡に、輝元の墓と並んで建っている。輝元の墓は高さ2.1m、清光院の墓は高さ1.8mと大型で、いずれも花崗岩製の五輪塔形である。また、清光院の死去に伴い、興正寺を清光院の霊位安置所として「月輪山清光寺」と号するようになり、現在でも清光院の肖像画が所蔵されている。

脚注
1. 
a b 小都勇二「元就の家族」(河合正治編『毛利元就のすべて(新装版)』新人物往来社、1996年)
2. 宮本義己「足利将軍義輝の芸・豊和平調停」(初出:『政治経済史学』102・103号(1974年)/所収:木下昌規 編『シリーズ・室町幕府の研究 第四巻 足利義輝』(戎光祥出版、2018年) ISBN 978-4-86403-303-9) 2018年、P221-223.

参考文献
渡辺世祐『毛利輝元卿伝』(マツノ書店1982年
・小都勇二「元就の家族」(河合正治編『毛利元就のすべて(新装版)』新人物往来社1996年
(wikiより)

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萩藩を創設した毛利輝元の墓所。

もともとここは輝元の隠居所(四本松邸)で、輝元亡き後に天樹院という菩提寺が建てられましたが維新後に廃寺になりました。

竹林に囲まれた静かな場所に五輪搭形の墓が残っています。  

毛利輝元は、天文22年(1553)毛利隆元の長男として生まれ、永禄6年(1563)家督を相続。祖父・元就(三矢の訓えで有名な戦国の武将)の後見を受け将軍足利義輝の一字を拝領して輝元と称す。

元就没後は、両叔吉川元春と小早川隆景の補佐を受け出雲国から尼子勝久・山中幸盛らを追放、備前国の浦上宗景を圧迫し、讃岐国にも兵を出した。

天正8年(1580)信長に追われた足利義昭を厚遇し、上洛して信長と覇を争う。

同年6月、備中高松城下で講和成立直後に本能寺の変を知るが講和を守って追撃せず、秀吉の中央での制覇に好機を与える。

豊臣政権下に入っては四国・九州出征において先鋒をつとめ、参議に任官。


天正 17年 ( 1589 ) 太田川口のデルタに築城を始め、この地を広島と命名。

本拠を吉田郡山城から広島に移す。

同 19年秀吉から安芸・周防・長門・石見・出雲・備後・隠岐七ヵ国および伯耆国三郡と備中国内で 120万石の知行目録を与えられ、中国にその勢を振るった。

慶長 2年 ( 1597 ) に五大老に列せられ、秀吉の死去にあたり秀頼の補佐を委託される。

慶長 5年 ( 1600 ) の関ヶ原の役では、自身は大阪西の丸にあって西軍の総帥とみなされたため七ヵ国を削られ周防・長門両国 36万 9千石に減封された。

同 5年 10月薙髪して隠居し、家督を 6歳の秀就に譲り、同 9年 ( 1604 ) 11月築城中の萩城に移った。

寛永 2年 ( 1625 ) 萩城内で死没。73歳。 

時代戦国時代後期 - 江戸時代前期
生誕天文22年1月22日1553年2月4日[1]
死没寛永2年4月27日1625年6月2日[1]
改名幸鶴丸[1]幼名)→輝元→幻庵宗瑞[1](号)
別名少輔太郎[1]通称)、羽柴安芸宰相、羽柴安芸中納言、大江輝元
戒名天樹院殿前黄門雲巌宗瑞大居士[1]、天樹公[1]
墓所山口県萩市堀内の沙麓山天樹院[1]
官位従五位下右衛門督→ 右馬頭従四位下・ 侍従参議従三位権中納言[1]
従二位[2]
幕府室町幕府 相伴衆副将軍[3]江戸幕府
主君足利義昭豊臣秀吉秀頼徳川家康秀忠家光
長州藩藩祖
氏族大江姓毛利氏
父母父:毛利隆元[1]
母:尾崎局内藤興盛の娘、大内義隆の養女[1]
兄弟輝元徳鶴丸[4]津和野局吉見広頼室)[4]
正室南の大方宍戸隆家の娘[1]
側室二の丸殿児玉元良の娘)、
秀就[1]竹姫吉川広正正室)、就隆
養子:秀元
養女:古満姫宍戸元秀女、小早川秀秋准尊室)、羽柴秀勝室(内藤元種の娘)

〇 毛利輝元
毛利 輝元(もうり てるもと)は、戦国時代後期(安土桃山時代)から江戸時代前期にかけての武将大名安芸戦国大名毛利氏の14代当主。父は毛利隆元、祖父は毛利元就

豊臣政権五大老の一人であり、関ヶ原の戦いでは西軍の総大将となった。長州藩の藩祖でもある[5]

生涯
誕生
天文22年(1553年)1月22日、毛利隆元の嫡男として、毛利氏の居城・安芸吉田郡山城で誕生した[1]。母の尾崎局大内氏の重臣で長門守護代内藤興盛の娘であり、大内義隆の養女でもあった[6]幼名幸鶴丸(こうつるまる)と名付けられた[1]

幸鶴丸が誕生した天文22年は、天文19年(1550年)7月の井上元兼とその一族の討伐を契機に家中掟法の整備、それによる家中統制が行われ、毛利氏の「国家」が成立していた[7]。また、陶晴賢が主君・義隆を討った大寧寺の変を経て、祖父・毛利元就の権力基盤が強化された後でもあった[7]

天文23年(1554年)、防芸引分(大内氏・陶氏との断交)が行われ、翌年(1555年)に毛利氏は厳島の戦いで陶晴賢を討った。その後、防長経略も行われ、毛利氏は大内氏と陶氏を滅ぼした。さらに、尼子晴久を惣領とする尼子氏との戦いも行われ、石見国で対峙が続いた。それゆえ、父の隆元は断続的に出陣を繰り返し、幸鶴丸のもとに落ち着くことはなかった[8]

家督相続と二頭体制
永禄6年(1563年)8月4日、当主である父・隆元が尼子攻めのさなか、安芸佐々部で急死した[7]。そのため、幸鶴丸が11歳にして家督を継承するが、元就が後見して政治・軍事を執行した。この時期、安堵状・宛行状・官途状・加官状類は元就から発されており、幸鶴丸は形式的には家督を継承したものの、その権限は保留状態にあった[9]

永禄8年(1565年)2月16日、幸鶴丸は13歳のとき、吉田郡山城で元服し、室町幕府の13代将軍足利義輝より「輝」の偏諱を受けて、輝元と名乗った[10][11]。もっとも、輝元が将軍の偏諱を受けることができたのは元就が幕府に働きかけたからであり、永禄7年(1564年)12月以前から元服の準備が進められ、幸鶴丸の名を据えた花押の文書が同年半ば頃から増加したのもその一環であったと考えられる[12]

これにより、輝元は事実上の当主となり、幸鶴期には全く発給していなかった官途状・加官状類が輝元の名でも発給されるようになり、輝元自身の当主としての権限も拡大された[13]。だが、輝元と元就の連署の書状もあり、元就の後見が必要となる場面もあった[14]

永禄8年3月、輝元は毛利氏による尼子攻めに出陣し、4月の尼子氏の本拠地・月山富田城への総攻めで初陣を飾る(月山富田城の戦い[15]。この戦いにより、永禄9年(1566年)11月に尼子氏の当主・尼子義久が降伏し、毛利氏にとって長年の宿敵たる尼子氏は滅亡した[16]

永禄10年(1567年)2月、輝元は吉田郡山城へ凱旋した[16]

他方、元就自身は二頭体制に移行後、輝元の当主権限が拡大されるにつれ徐々に権限を移行し、輝元の初陣を機に隠居を考えていた[16]。だが、同年に輝元は隠居しようとする元就に隠居しないように懇願し、その隠居を断念させた[17]。15歳の輝元には毛利氏の領国を円滑に運営させてゆく自信がなく、輝元の名で領主たちの盟主たりうることは困難であった[17]。そのため、元就が死没するまで、輝元と元就の二頭政治体制が続くことになる[18]。また、叔父の吉川元春小早川隆景の2人、毛利氏庶家筆頭の福原貞俊口羽通良を合わせた4人、いわゆる「御四人」が輝元の政務を補佐した[19]

尼子氏残党の蜂起と大内輝弘の乱
永禄12年(1569年)6月、尼子勝久山中幸盛ら尼子氏の残党が蜂起し、但馬山名祐豊の支援を受け、毛利氏の支配する出雲に侵入した[20][21][22]。このとき、毛利氏の主力は豊後大友氏との戦闘のため、九州北部に展開中であり、それを狙った蜂起であった。尼子氏の残党が出雲に侵入すると、尼子氏の旧臣が集結し、7月中旬には月山富田城を攻撃した。

10月、旧主家・大内氏の残党である大内輝弘が大友氏の援軍を得て、周防に侵入した[21]。これには大内氏の遺臣らも加わり一気に勢力が拡大し、毛利氏の領国支配を乱すこととなった(大内輝弘の乱[21]

輝弘の侵入は6月の尼子氏の出雲侵入に呼応したものであり、大友氏の策略によるものであった。大友氏とは永禄7年に幕府の仲介で和睦していたが、永禄9年になると大友氏が毛利氏に属する筑前国の有力国人・高橋鑑種への攻撃を始めた[23]。その後、同じ筑前の有力国人・立花鑑載が毛利氏に付き、それに対して大友氏が立花氏の居城・立花山城を攻め落とすなど、筑前では毛利氏と大友氏の攻防が続いていた(多々良浜の戦い[23]

毛利氏は輝弘ら大内氏残党の侵入に対処するため、九州に展開していた軍勢を撤退させ、同月のうちに輝弘ら大内残党を討伐した。だが、この大内輝弘の乱により、筑前の高橋鑑種は不利な状況となり、輝元・元就・元春・隆景の連署起請文では「毛利氏が鑑種を見捨てない」ことを約束していたにもかかわらずそれを反故にする形となり、翌年に降伏を余儀なくされた[23]。毛利氏は筑前国から勢力を失ったほか、豊前国でも門司城などの一部を残して拠点を失い、北九州における毛利氏の勢力は大きく減退した[24]

永禄13年(1570年)1月、輝元は大内輝弘の乱を鎮圧したのち、尼子氏残党軍を討伐するため、元春、隆景らとともに吉田郡山城より大軍を以て出陣した[25][26]。2月に布部山の戦いで勝利したのをはじめ、次々と尼子方を打ち破り、元亀2年(1571年)8月までに山陰から駆逐した[27]。だが、尼子勝久・山中幸盛ら尼子氏の残党勢力は再興を諦めず、毛利氏に対して抵抗を続けることとなる。

織田氏との関係構築・敵対勢力との戦い
永禄8年5月、輝元が元服して3ヶ月後、京では将軍・足利義輝が三好義継三好三人衆松永久通らに討たれる永禄の変が発生し、新たな動乱の火種となった。その後、義輝の弟・一条院覚慶は還俗して足利義昭を名乗り、永禄10年に聖護院門跡の道増を使者とし、輝元を後見する元就に支援を求めた[28]。この道増は近衛尚通の子で、さらに兄の近衛稙家は義輝の義父であり、義輝の使者として幾度か西国へ下向していた[28]。義昭は道増と元就の間に構築された外交ルートを活用することを考え、尼子氏を滅ぼして上洛が可能となった毛利氏を頼ろうとしていた[28]

その後、永禄11年1月3日付で義昭から輝元に起請文が発せられたものの、元就は無用な戦線の拡大を望まず、出兵要請には応じなかった[29]。同様の要請は越後の上杉輝虎(謙信)、越前の朝倉義景、尾張の織田信長らにも行われたが、上杉輝虎は要請に難色を示し、朝倉義景も上洛に踏み切ろうとしなかった。結局、織田信長がこの要請に応じ、同年9月に義昭とともに上洛、義昭は朝廷から将軍に任命された。

永禄12年半ば以降、毛利氏と織田氏の交流が始まった。同年6月に毛利氏の主力が九州北部に出兵中、但馬山名氏の支援を受けた尼子氏残党が出雲国に侵攻した際、信長は木下秀吉坂井政尚を丹波へと出兵させて毛利氏を支援した[20]。また、信長は敵対する阿波讃岐を支配する三好氏に対抗するため、毛利氏と大友氏を調停し、和睦させた[20]

永禄13年3月以降、輝元と信長の通交が始まるようになる。3月23日付の書状では、輝元が朝廷から右衛門督に任ぜられたことに関して、義昭の御内書が発給されたことを信長が祝している[30]。また、毛利氏が要請した浦上氏の攻撃に関して、信長が時期を見て出兵すると約束したことも記されている[30]

元亀2年4月、輝元が元就との連署で信長に書状を発している[30]。その内容は尼子氏に与して出雲・伯耆沿岸部に襲来した丹後・但馬の海上勢力に対して、将軍から停止命令を発給してほしいと要請したものである[30]。信長は将軍にこれを奏達し、信長自身も命令を発している[30]

同年6月、信長が輝元・元就宛に書状を送っている[31]。その内容は、阿波の三好氏家臣・篠原長房備前国児島郡に襲来し、将軍から停止命令を発給してもらえるように輝元・元就が要請したことに関して、長房は義昭や信長と敵対状況にあり、停止命令は効果がないというものであった[31]

同月14日、輝元を後見し続けてきた元就が死去した[26]。このとき、輝元は布部山の戦いの後も出雲に在陣中であったが、新山城攻撃を目前に「元就、危篤」の報が入り、元春にその場を任せ、隆景と共に元就の病床に駆けつけたほどであった。元就の死により、輝元は毛利両川体制を中心とした重臣の補佐を受け、親政を開始する。

9月、信長は元就死去の弔意を隆景宛ての書状で示している[32]。その書状には、「讃州表発珍重に候」とあり、毛利氏が三好氏の支配する分国へ出兵を図っていたことも記されている[32]

輝元ら毛利氏は大友氏、尼子氏、三好氏、浦上氏などに戦いを有利に進めるため、将軍の権威を利用し、その過程で信長を経由しなければならなかった[32]。信長も表面的には協力姿勢を見せ、毛利氏と織田氏には軍事同盟が成立していたが、信長自身のなかでは毛利氏への優先度は低かった[32]

そのため、輝元は独力でこれらの敵を相手にせねばならなかった。輝元は元亀2年の元就没後すぐ、尼子勢を領内から駆逐し、また三好氏の分国へも侵攻した[32]。その後、元亀3年(1572年)には浦上氏とも和睦を成立させ、事実上屈服させた。これにより、毛利氏はその包囲網を瓦解させることに成功した[32]

義昭の処遇を巡って
永禄13年1月、信長は義昭に殿中御掟に追加の5ヶ条を加えた。その第一条は諸国の大名との交流に関して制限を加えるもので、義昭が御内書を出す場合には信長の添状を必要とするものであり、その効力に規制を加えるものであった[33]。これを機に信長と義昭の関係は悪化していった[33]

元亀3年(1572年)10月、信長は義昭に殿中掟書の徹底を求めるため、意見17ヶ条を出した[34]。その中では義昭の御内書の無断発給を問題視し、信長は同盟関係にあった毛利氏との交流も監督下に置こうとした[34]

元亀4年(1573年)2月9日、輝元は義昭からの推挙を得て、朝廷から右馬頭に任じられた[34]。これは輝元を与党に引き入れ、毛利氏の勢力を味方につけようとする義昭の工作でもあった[34]

信長も義昭の動きに対抗して、輝元に接近し、毛利氏との同盟関係を維持しようとした[35]。義昭は信長に対抗するため、6月に毛利氏に対して兵粮料を要求したが、輝元は信長との関係から支援しなかった[35]。そして、7月18日に義昭は槇島城の戦いに敗れ、京から退去した。信長は輝元に7月13日付の書状で、「自身が天下を静謐し、将軍家のことに関しては輝元と万事相談してその結果に従うこと」を約束している[35]

義昭追放後、輝元と信長の関係は続いた。そのため、9月7日付の御内書では、毛利氏が信長と懇意にしていることや、かつて毛利氏が将軍家を疎かにしないと提出した起請文が反故にされていることが批判されている[36]。他方、輝元が秀吉に充てた同日付の書状では、信長と義昭が和解し、義昭が京に帰還できるよう仲介を試みている[37]

輝元はまた、義昭と信長の和解を仲介する代わりに、但馬山名氏の支援を受けて反抗を続ける尼子氏残党に対抗するため、織田氏に但馬への侵攻を要請しており、信長も同意していた[37]。輝元にとってもまた、織田氏との同盟は領国を守るためには重要であり、義昭のために信長と敵対して上洛するより、信長の力を利用する道が最適であった[37]。他方、輝元は信長と義昭の仲介もあきらめておらず、両者の関係をとりもつため尽力した。

天正元年11月5日、義昭が和泉のに落ち着くと、信長からは羽柴秀吉と朝山日乗が、輝元からは安国寺恵瓊林就長が派遣され、双方の使者はともに義昭と面会し、信長と和解したうえでの帰京を説得した[38][39]。信長自身も義昭の帰京を認めていたが、義昭が信長からの人質を求めたため、交渉は決裂した[40]

輝元は義昭の処遇に関して、信長と義昭を仲介したが、それは決して室町幕府復興のために尽力したわけではなかった[40]。輝元が怖れていたのは、追放された義昭が毛利氏の領国に下向し、織田氏と全面戦争に突入することであった[40]。信長もまた、義昭の追放で畿内が動揺している今、輝元が義昭を奉じて織田氏との全面戦争に踏み切ることは避けたかったと考えられる[40]

詳しいことは「毛利輝元ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E5%88%A9%E8%BC%9D%E5%85%83
(wikiより)


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毛利輝元

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⇧ 右側の白壁内が毛利輝元公の墓所になります。

元々、輝元の隠居所だった四本松邸が天樹院という菩提寺になりました。

お寺は、明治維新後廃寺になり、今は墓所のみ残っています。


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⇧ 入口です。

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⇧⇩ 毛利輝元公を火葬した場所です。

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⇧⇩ もともと隠居所だったので敷地も広いです。

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⇧ 墓所入り口です。

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⇧⇩ 毛利輝元公のお墓です。

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⇧⇩ 清光院  ( 毛利輝元正室 ) のお墓です。

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時代江戸時代末期
生誕文政2年5月1日1819年6月22日
死没文久3年2月6日1863年3月24日
別名雅楽、与之助、与左衛門、隼人、右近
戒名庸軒誠義英剣居士
墓所海潮寺山口県萩市
主君毛利敬親
長州藩
氏族大江姓長井氏
父母父:長井泰憲 母:福原利茂の女
貞子

長井 雅楽(ながい うた、文政2年5月1日1819年6月22日〉 - 文久3年2月6日1863年3月24日〉)は、日本江戸時代末期(幕末)の長州藩士。役職は直目付。一般的な呼び名である雅楽は通称で、時庸(ときつね)。

長井家は主家毛利家の庶流安芸福原氏の一族で、毛利家と同じく大江広元が祖先にあたり、毛利家家臣団の中でも名門であった。

略歴
萩藩士大組士中老・長井次郎右衛門泰憲の長男として生まれた。文政5年(1822年)、4歳の時に父が病死したため、家督を継いだが、このとき幼少のためということで家禄を半分に減らされた。その後、藩校明倫館で学び、時の藩主・毛利敬親の小姓、奥番頭となった。敬親から厚い信任を受け、敬親の世子である毛利定広の後見人にもなった。そして安政5年(1858年)、長州藩の重役である直目付となる。

当初から雅楽は開国論者であったため、文久元年(1861年)に公武一和に基づいた『航海遠略策』を藩主に建白し、これが藩論となされた[1]。その後、朝廷や幕府の公武合体派にこれを歓迎され、11月には藩主・敬親と共に江戸に入り老中・久世広周安藤信正と会見。翌月に正式に同策を建白して公武の周旋を依頼された。しかし、藩内の吉田松陰とその門下生が主流である尊皇攘夷派とは対立関係にあり、井伊直弼安政の大獄で松陰が捕縛され、後の江戸護送に対しても強硬な対抗策を取らなかったため、後に松陰の弟子である久坂玄瑞前原一誠らに暗殺を計画される。当時の藩の事情を考慮すれば長井のとった方針はごく自然なものであり、また松陰が江戸に護送された際には様々にその処遇について気を使っていた側面もうかがえる。

文久2年(1862年)、幕府で公武合体を進めていた安藤や久世らが坂下門外の変で失脚すると藩内で攘夷派が勢力を盛り返し、長井の排斥運動が激しくなった。同年3月、再度入京したが、この頃には尊攘激派の台頭が著しく、岩倉具視や久坂らの朝廷工作もあり、長井の説は朝廷を誹謗するものとして聞き入れられず、敬親により帰国謹慎を命じられた。同年6月に免職され、帰国。翌、文久3年(1863年)、雅楽は長州藩の責任を全て取る形で切腹を命じられた。長井本人もこの措置には納得しておらず、また長井を支持する藩士はいまだ多くいたが、藩論が二分され、内乱が起きることを憂いて切腹を受け入れ、同年2月、萩城下、土原(ひじはら)の自邸にて、検視役正使国司親相の下に切腹した。享年45(満43才没)。長女・貞子は後に富岡製糸場で勤務した。

高杉晋作の父・高杉小忠太とは長年世子付の同役を務めた友人同士であった。切腹の前日、小忠太へ身の潔白を訴え遺児の庇護を依頼する長文の手紙を出し、末尾に「ぬれ衣のかかるうき身は数ならで唯思はるる国の行く末」と辞世の歌を残している。

辞世の句
・今さらに何をか言わむ代々を経し君の恵みにむくふ身なれば
・君がため捨つる命は惜しからで ただ思はるる国のゆくすえ
・君恩に報いんとして業いまだ央ならず 自羞す四十五年の狂 即今成仏は予が意に非らず 願わくは天魔を帥いて国光を輔けん

評価
野村靖 「長井雅楽は敵ながらも天晴れな男で、風采は坂東彦三郎そっくりで、弁舌は今の金子堅太郎を一層調子強くしたものだ」[2]   


演じた俳優
テレビドラマ
・『天皇の世紀』(1971年、ABCテレビ・国際放映、演:小栗一也
・『花神』(1977年、NHK大河ドラマ、演:渥美国泰
・『奇兵隊』(1989年、日本テレビ年末時代劇スペシャル、演:渥美国泰
・『花燃ゆ』(2015年、NHK大河ドラマ、演:羽場裕一


脚注
注釈
出典
1. 村上一郎 『草莽論』ちくま学芸文庫、2018年、P.273頁。
2. 『実録維新十傑 第十巻』

外部リンク
長井氏
毛利福原氏
国立国会図書館 憲政資料室 長井雅楽関係文書(MF:個人蔵)    
(wikiより)


236 長井雅楽


長井雅楽

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236b




勇士。

行年 38歳。

没年 元和 4年 8月 25日。

戒名 : 覚林院月庭清秋大禅貞門。

吉見廣頼の二男、初名 広行。

毛利輝元公より一万石を賜って大井浦に居住したが出奔して本領断絶、のち帰萩して罪を謝すも、その行動を輝元に疑われ、討手を向けられて自刃す。

毛利輝元 ( 甥 )。
(案内板より)

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213c




妻の滝との合葬墓。

吉田松陰の実父、萩藩士 ( 家禄二十六石 )。

妻・滝との間に三男・四女 ( 松陰は次男 )。

杉家一族の中心として困難の中で誠実に生き抜き、終始松陰を温かく応援し続けた。

慶應元年 ( 1865 )没 行年 六十二才
(案内板より)

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時代江戸時代末期(幕末
生誕天保14年6月9日1843年7月6日
死没元治元年12月25日1865年1月22日
別名字:子済、通称:清太郎、勘太郎、与右衛門、号:葭堂
戒名仁沢院殿向山義雄
墓所東光寺
幕府江戸幕府
主君毛利氏
長州藩家老
氏族清水氏
父母父:清水信篤、養父:清水親春

清水 親知(しみず ちかとも)は、幕末長州藩正義派の代表的家老備中高松城の戦いで知られる清水宗治から12代の子孫。

生涯
天保14年(1843年)6月9日、長州藩清水分家・清水図書信篤の子として萩に生まれる。安政2年(1855年)本家清水美作親春の養子に迎えられる。文久元年(1861年)大橋訥庵に師事した。後の伊藤博文と親交が深かった親知は伊藤博文を誘い、同じ塾で学んだ。[1]


文久3年3月(1863年) 20歳にして学習院御用掛として、朝廷と幕府との間に入り調整役を勤めた。[2]


同年4月(1863年)孝明天皇は237年ぶりに賀茂社行幸[3]を決行し攘夷祈願を行った。江戸幕府発足以来、天皇は幕府の許可なく御所からでることが許されなかったため、重大な意味を持った行事となった。この重大な行事に長州藩の代表家老として親知は清水家家老難波覃庵と参加した。[4]

同年8月(1863年)藩制改革後により22歳にして国元加判役(家老格)に抜擢される。


元治元年(1864年)4月には津和野鳥取岡山ら諸藩を巡廻し、八月十八日の政変により処罰された藩主父子の雪冤を働きかけ、6月に領内で藩兵が不満を募らせると周布政之助とともに鎮撫のために奔走した。しかし7月に禁門の変が失敗に終わると更迭され謹慎する。高杉晋作が挙兵すると、報復処刑として12月25日俗論派の藩命により自刃。東光寺の元治甲子殉難烈士墓所では、福原元僴益田親施国司親相周布政之助甲子殉難十一烈士と共に祀られている。


辞世の句は、「古道照顔色」の五文字で自分を励ますための言葉である。[5]

死後
清水家の家老である難波覃庵が、立野村の給主・清水氏の氏神と清水宗治 の神霊 と清水親知の神霊を合祀し正義霊社に祀った。[6][7][8]

清水清太郎
幕末には3人の清水清太郎が登場する。1人目は本項の清水清太郎親知、2人目は養父である清水清太郎親春、3人目は島根県宇龍港で前原一誠を捕縛した島根県吏。

関連項目
長州藩の家臣団
向山文庫
正義霊社
難波覃庵  

参考文献
・「明治維新人名辞典」
1. 防長回天史 第,3(上)編 
2. 
国会図書館 学齢館 少年立志伝
3. 
孝明天皇の賀茂社行幸とその絵巻 
4. 
国会図書館所蔵 三十一豪傑列伝 殺気満紙. 2 P36 
5. 
国会図書館 靖献事蹟 : 山口県史略附録 下巻 
6. 
事實文編. 國書刊行會. (1910)
7. 
吉田松陰 (1934). 吉田松陰全集. 岩波書店
8. 
光市史 989ページ
(wikiより)

160 清水清太郎

清水清太郎

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時代江戸時代後期 - 明治時代
生誕文化13年11月3日1816年12月21日
死没明治24年(1891年7月1日
改名松平岩之丞→永井岩之丞(幼名)→尚志→介堂(法号)
戒名崇文院殿介堂日彰大居士
墓所東京都荒川区西日暮里本行寺
官位従五位下玄蕃頭主水正
幕府江戸幕府大目付若年寄
主君徳川家慶家定家茂慶喜明治天皇
氏族大給松平家永井氏
父母父:松平乗尹、母:側室
養父:永井尚徳
兄弟松平某室、女子、尚志
養兄弟:松平乗羨
養子:尚忠

永井 尚志(ながい なおゆき/ながい なおむね)は、幕末武士旗本)。昭和時代の作家・三島由紀夫の父方の高祖父にあたる。

生涯

文化13年(1816年11月3日三河国奥殿藩5代藩主・松平乗尹とその側室の間に生まれた。幼名を岩之丞、号を介堂といった。父の晩年に生まれた息子で、既に家督は養子の乗羨に譲っていたことから、25歳の頃に旗本の永井尚徳の養子となった。


嘉永
6年(1853年)、目付として幕府から登用される。安政元年(1854年)には長崎海軍伝習所の総監理(所長)として長崎に赴き、長崎製鉄所の創設に着手するなど活躍した。安政5年(1858年)にそれまでの功績を賞されて呼び戻され、岩瀬忠震と共に外国奉行に任じられた。そしてロシアイギリスフランスとの交渉を務め、通商条約調印を行なった。その功績で軍艦奉行に転進したが、直後の将軍後継者争いで一橋慶喜を支持する一橋派に組したため、南紀派大老井伊直弼によって罷免され、失脚した。


直弼没後の文久2年(1862年)、京都町奉行として復帰し、元治元年(1864年)には大目付となる。文久3年(1863年)の八月十八日の政変、元治元年(1864年)7月19日の禁門の変では幕府側の使者として朝廷と交渉するなど、交渉能力で手腕を発揮した。慶応3年(1867年)には若年寄にまで出世する。大政奉還においても交渉能力を発揮した。鳥羽・伏見の戦い後は慶喜に従って江戸へ戻り、徳川家の駿府転封が決まった後は榎本武揚と行動を共にして蝦夷地へ渡り、「蝦夷共和国」の箱館奉行に就任した。しかし、旧幕府軍は半年あまりの戦いの末、明治2年5月に降伏した。新選組隊士の田村銀之助が大正9年に史談会で語ったところによれば、最初に降伏したのが弁天台場の守備に当っていた永井らで、降伏後は五稜郭の榎本らにも頻りに降伏の勧誘を行っていたという[1]


明治
5年(1872年)、明治政府に出仕し、開拓使御用係、左院小議官を経て、明治8年(1875年)に元老院権大書記官に任じられた。


明治24年(1891年)7月1日に死去した。享年76。

年譜
※日付は明治5年(1872年)までは旧暦
文化15年(1818年)5月13日 - 父・松平乗尹死亡のため、江戸麻布藩邸にて藩主の義兄松平乗羨のもとで養育される。
天保11年(1840年)- 旗本2,000石・永井尚徳の養子となる。幼名・岩之丞はそれまで通り称す。
弘化4年(1847年)4月16日 - 小姓組番士となる。
嘉永元年(1848年)- 昌平坂学問所学問吟味に合格。
・嘉永4年(1851年)2月 - 甲府徽典館学頭となる。
・嘉永6年(1853年
 ・7月20日 - 十番小姓組番頭・牧野筑後守忠直組進物番士より二番徒頭に異動。
 ・10月8日 - 目付に異動し、海防掛を兼帯し、砲台普請・大砲製鋳等を併せて担当する。
 ・11月7日 - 布衣に遇せられる。
・嘉永7年(1854年)4月5日 - 肥前国長崎駐在。
安政2年(1855年
 ・7月29日 - 長崎海軍伝習所総取締を兼帯。
 ・11月19日 - 従五位下・玄蕃頭に叙任。
・安政4年(1857年
 ・5月 - 江戸に帰府。
 ・12月3日 - 勘定奉行(勝手掛)に異動。江戸詰にて長崎御用を兼帯す。
・安政5年(1858年)7月29日 - 外国奉行に異動。
・安政6年(1859年
 ・2月24日 - 軍艦奉行に異動。
 ・8月27日 - 軍艦奉行を罷免され、隠居差控の処分を受ける。
文久2年(1862年
 ・7月5日 - 軍艦操練所御用となる。前年9月4日より田沼意尊が若年寄となっており、旗本管轄の若年寄の官職名と同一であることから内規に倣い、主水正(実父・松平乗尹が藩主時代に任官していた)に遷任。
 ・5月7日 - 京都東町奉行に異動。
元治元年(1864年
 ・2月9日 - 大目付に異動。
 ・6月23日 - 宗門改を兼帯。
・元治2年(1865年)1月11日 - 大目付を免じ、寄合となる。
 ・改元して慶応元年10月4日 - 再び大目付となる。
 ・10月27日 - 外国奉行長州御用掛を兼帯。
・慶応3年(1867年
 ・2月3日 - 若年寄格に異動。前年10月24日に若年寄・田沼意尊が御役御免となっていたため、若年寄格への異動に伴い玄蕃頭に還任。
 ・11月15日1867年12月10日) - 近江屋事件発生。
 ・12月15日 - 若年寄に異動。
・慶応4年(1868年) 戊辰戦争
 ・1月10日 - 従五位下・玄蕃頭の官位を剥奪。
 ・2月9日 - 若年寄は御役御免。
 ・2月19日 - 逼塞処分を受ける。
 ・改元して明治元年12月 - 蝦夷島政府における箱館奉行となる。
・明治2年(1869年)5月15日 - 降伏。
・明治4年(1871年)1月6日 - 特赦により出獄。
・明治5年(1872年
 ・1月12日 - 開拓使御用掛となる。
 ・1月19日 - 左院少議官に異動。
 ・4月15日 - 正六位に叙位。
 ・10月8日 - 左院三等議官に異動。(官制改革による)
・明治8年(1875年
 ・4月14日 - 左院三等議官を免ず。
 ・7月12日 - 元老院権大書記官となる。
 ・12月7日 - 元老院権大書記官を免本官、位記返上[2]
・明治24年(1891年)7月1日 - 従五位に昇叙。同日、死亡。享年76。死後、正五位に叙せられる。法号:崇文院殿介堂月影大居士。墓所:東京都荒川区西日暮里長久山本行寺

人物・逸話
・幼い頃から利発で読書が好きであったため師について経史を学び、独学で蘭学を修めた。泰西事情に通じていたという。その学才を伝えきいた永井能登守尚徳が、永井家の養子として迎えた。
長崎海軍伝習所では、勝麟太郎矢田堀鴻木下利義榎本釜次郎肥田浜五郎、他数十人を教えた。
戊辰戦争で幕府軍が敗れることを知っていたのに、最後まで忠誠を尽くして戦った忠臣として高く評価されている。また、旗本から若年寄に栄進したのは、異例のことである。一方、『越前藩小倉滞陣日記』によると、第一次征長戦争においては後から交渉に関わったにもかかわらず、毛利敬親を捕縛しさらし者にすることを主張し、交渉をまとめた征討総督の徳川慶勝らの面目を潰し、参謀の西郷隆盛に矛盾を指摘され論破されるという失態を犯しているという[3]ところからみて、政治的には旧態依然とした幕府中心主義から最後まで脱しきれなかった人物と見ることもできる。しかし、このような観点は表層的であり、永井の行動は長州藩の過激派を解体するプログラムに沿っており、寛典論を尾張藩との交渉において発言しているのは蘇峰の『国民史』でも明らかである。言い換えると役人らしく幕府の強硬派への釈明から薩摩の意見を容れるポーズを見せたというのが実相である。
・戊辰戦争では、息子(養子)・岩之丞と共に品川を脱出し、函館五稜郭に立て籠もり、共に戦った。
・養子である永井岩之丞の長女・夏子内務官僚平岡定太郎に嫁ぎ、その孫が平岡公威、すなわち作家の三島由紀夫である。つまり尚志は三島の養高祖父にあたる。
・尚志の子孫の集まる「桜木会」があり、年一度の親睦会が開かれ昭和45年(1970年)時には、270名の会員がいたという。三島由紀夫もその一員であり、親睦会に出席したこともあったという。
・孫の永井亨(経済学博士)は祖父・尚志について、「監察史となって長崎に出張しましたときオランダ人を雇い入れ長崎に海軍伝習所をつくったのであります。(中略)長崎奉行と意見が合わないのを独断でオランダ人からいろいろの技術や材料を入れて、長崎の飽ノ浦という所へ造船所を作った。これがいまの三菱造船所の前身であります。(中略)そのうちだんだん用いられまして、海軍奉行あるいは軍艦奉行外国奉行などいたしまして後に京都へ参り、京都で若年寄格にまでなりまして、守護職の松平容保(会津藩主)の下ではたらき、近藤勇土方歳三以下の新撰組の面々にも人気があったと伝えられています」[4]と語っている。また、尚志の晩年については、「向島の岩瀬肥後守という、若くして死にましたが偉い人物がおりました。その人の別荘に入り、その親友の岩瀬を邸前に祭って死ぬまで祀をたたず、明治二十四年七月一日に七十六歳で死んでおります。私は数え年十四の年でしじゅう遊びに参っておりましたのでよく覚えております」[4]と語っている。
・孫の大屋敦(元住友本社理事、日銀政策委員)は、「軍艦奉行として日本海軍の創設者であったゆえをもって、烏帽子直垂といったいでたちの写真が、元の海軍記念館に飾られていたことを記憶している。(中略)そういう波乱に富んだ一生を送った祖父は、政治家というより、文人ともいうべき人であった。徳川慶喜公が大政奉還する際、その奏上文を草案した人として名を知られている。勝海舟なども詩友として祖父に兄事していたため、私の昔の家に、海舟のたくさんの遺墨のあったことを記憶している」[5]と語っている。
・三島由紀夫は映画『人斬り』(監督・五社英雄)に薩摩藩士・田中新兵衛の役で出演した際のことを、友人・林房雄宛の書簡(1969年6月13日付)の中で、「明後日は大殺陣の撮影です。新兵衛が腹を切つたおかげで、不注意の咎で閉門を命ぜられた永井主水正曾々孫が百年後、その新兵衛をやるのですから、先祖は墓の下で、目を白黒させてゐることでせう」と記している[6]
・田中新兵衛が姉小路公知暗殺の嫌疑で捕縛された時の京都町奉行は、永井尚志であったという。[7]

系譜については、『永井尚志ウィキペディア』をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E4%BA%95%E5%B0%9A%E5%BF%97

登場作品
新選組! (2004年 NHK大河ドラマ 演:佐藤B作)
新選組!! 土方歳三 最期の一日(2006年正月時代劇 演:佐藤B作)
龍馬伝 (2010年 NHK大河ドラマ 演:石橋蓮司)
青天を衝け(2021年、NHK大河ドラマ、演:中村靖日
幕末相棒伝(2022年、NHK正月時代劇、演:杉本哲太

脚注
1.「田村銀之助君の函館戦争及其前後に関する実歴談」(原書房版『史談会速記録』第40巻)
2. 『国立公文書館所蔵 勅奏任官履歴原書 上巻』279頁。
3. 参照『越前藩小倉滞陣日記』
4.  a b 『永井亨博士回顧録 思い出話』
5. 私の履歴書 第22集』(日本経済新聞社、1964年)、『私の履歴書 経済人7』(日本経済新聞社出版局、1980年)
6. 『決定版 三島由紀夫全集第38巻・書簡』(新潮社、2004年)
7. 『三島由紀夫 vs.司馬遼太郎 戦後精神と近代』P.85
8. 永井氏系譜(武家家伝)

参考文献
大日本近世史料『柳営補任』、戸川安宅(残花)『旧幕府(合本一)』原書房所収の第五号記載の『永井玄蕃頭伝』
越次倶子『三島由紀夫 文学の軌跡』広論社、1983年。
福島鑄郎『再訂資料・三島由紀夫』朝文社、2005年。
安藤武『三島由紀夫「日録」』未知谷、1996年。
私の履歴書 経済人7』日本経済新聞社出版局、1980年。
我部政男・広瀬順晧編『国立公文書館所蔵 勅奏任官履歴原書 上巻』柏書房、1995年。
(wikiより)

n2

⇧ 永井尚志

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時代江戸時代末期(幕末) - 明治時代
生誕弘化2年(1845年)9月
死没明治40年(1907年5月25日
改名鍵之丞(幼名)→尚忠(
別名誠斎(号)
戒名瑞雲院殿尚忠日順大居士
墓所東京都荒川区西日暮里本行寺
官位従四位勲三等
幕府江戸幕府
氏族三好氏永井氏
父母父:三好長済、養父:永井尚志
兄弟三好悌三郎岩之丞三好晋六郎
松平頼位の三女)
永井壮吉平岡夏子平岡定太郎妻)、永井亨永井啓永井繁大屋敦、鐘、愛、千恵(横山英太郎妻)、清子、文子

永井 岩之丞
(ながい いわのじょう)は、幕末幕臣明治期の裁判官(大審院判事)。三島由紀夫の曾祖父にあたる。

生涯

三好為三の子孫である700石取りの幕臣・三好長済(山城守幽雙)の次男として生まれ、旗本永井尚志玄番頭)の養子となる。


戊辰戦争
では養父と共に蝦夷地へ脱走し、函館五稜郭に立て籠もって戦った。


明治
5年(1872年)7月7日、常陸宍戸藩主・松平頼位の三女・鷹(のちに高)と結婚し、六男六女を儲ける。


明治6年(1873年)7月、司法省十等出仕を命ぜられる。明治13年(1880年)5月1日、判事。明治16年(1883年)1月、控訴院判事。明治27年(1894年)4月、大審院判事。


明治40年(1907年)5月25日、下谷区上野桜木町の自宅で死去。享年63。


栄典
1886年(明治19年)7月8日 - 従六位[1]
1904年(明治37年)2月10日 - 従四位[2]

人物
六男の大屋敦(元住友本社理事、日銀政策委員)は、父・岩之丞について『私の履歴書』(日本経済新聞 1964年に連載)の中で、「父は融通など全くきかぬ厳格そのもののような人だった。子供の教育については、なにひとつ干渉しなかったが日常の起居は古武士のようであぐらなどかいた姿を、ただの一度も見たことはなかった。当時の判事は行政官に比べるときわめて簿給で、それで十二人の子女を養わねばならなかったから、当然清貧であった。私どもと同じ上野桜木町に住む父の実弟三好晋六郎は日本の造船界黎明期の権威者で、東京帝大教授であり、産業界にも深いつながりを持っていた関係で、今の大学の先生など想像のできぬ豊かな暮らしをしていたが、兄弟仲はすこぶるむつまじかったようである」[3]と語っている。

家族・親族
父・三好長済(山城守幽雙)(幕臣)
・養父・永井尚志旗本玄番頭
・長男・永井壮吉海軍中佐
・二男・永井亨経済学博士、人口問題研究所所長)
・三男・永井啓第一銀行監査役
・四男・永井繁東洋リノリューム社長)
・五男・高校生の時に急逝(京都三高の学生時、スペイン風邪で死去)
・六男・大屋敦住友本社理事、日銀政策委員)
・長女・夏子(なつ)(内務官僚平岡定太郎に嫁ぐ)
・二女・
・三女・
・四女・千恵電波研究所長・横山英太郎に嫁ぐ)
・五女・清子
・六女・文子

・孫
 壮吉の子:多喜子衆議院議員岡田五郎に嫁ぐ)、稔子永井隆

 夏子(なつ)の子:平岡梓農商務官僚)

 亨の子:永井良(明石合金)、永井弘日本通運健保常務理事)、久子志子信子保子礼子

 啓の子:細谷省吾(娘・悠が伊勢丹社長・小菅丹治に嫁ぐ)、永井彰(新家電工業取締役)、永井保彫刻家)、永井治石川島播磨設計課長)

 繁の子:恵美子永井基住友軽金属常務)、永井三明同志社大学教授)

 の子:大屋宏住友金属鉱山取締役)、純子大屋薫東芝音楽工業邦楽部長)、千枝子大屋韶日本板硝子ガラス課長)

 鐘の子:磯崎隆吉海軍造船少将)、磯崎勉東急自動車社長)、磯崎叡国鉄総裁)、京子磯崎迪三菱商事鹿児島支店長)、澄子

 愛の子:加代子豊沢通明

 千恵の子:喜美住友銀行専務取締役・伊部恭之助に嫁ぐ)、
 
 清子の子:
田中泰(互栄酵素代表者)、博子静子和子

 文子の子:渡辺篤二農林省食品栄養部長)、渡辺文治東芝音楽工業)、久子重子

・曾孫・平岡公威(作家、筆名:三島由紀夫)、平岡美津子平岡千之外交官)、その他

系譜については、「永井岩之丞ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E4%BA%95%E5%B2%A9%E4%B9%8B%E4%B8%9E

脚注
1. 『官報』第907号「賞勲叙任」1886年7月10日。
2. 『官報』第6181号「叙任及辞令」1904年2月12日。
3. 『私の履歴書 第22集』(日本経済新聞社、1964年)、『私の履歴書 経済人7』(日本経済新聞社出版局、1980年。
4
永井氏系譜(武家家伝)

参考文献
越次倶子『三島由紀夫 文学の軌跡』(広論社、1983年)
福島鑄郎『再訂資料・三島由紀夫』(朝文社、2005年)
安藤武『三島由紀夫「日録」』(未知谷、1996年)
・『私の履歴書 経済人7』(日本経済新聞社出版局、1980年)
・安藤武『三島由紀夫の生涯』(夏目書房、1998年) 64-65頁
(wikiより)


n1



遠江国横須賀藩三万五千五石で、城中で将軍に諸事を取り次ぎ、礼式を管理した奏者番の職にあった西尾隠岐守の抱屋敷です。


敷地はおよそ一万三千坪あり、津軽家上屋敷がおよそ八千坪といいますから、その一.六倍はあったことになります。


当時、周辺は押上村、小梅村と称され、長閑な田園地帯が広がり、その中に寺社仏閣が点在していました。


内河川が発達していたことから四季折々の変化を舟で楽しむ江戸市民の人気の行楽先でした。


しかし、夜ともなると、明かりもめったに見えない実に寂しい土地となり、大名の下屋敷は博奕場に変わり、盗賊の盗人宿も加わって、脛に疵持つ者が身を隠す格好の場所になります。


鬼平犯科帳では、賭場や盗人宿への経路としてたびたび登場します。
(案内板より)


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平岡 円四郎(ひらおか えんしろう、1822年11月20日文政5年10月7日〉- 1864年7月19日元治元年6月16日〉)は、日本武士一橋家家臣・家老並)。徳川慶喜小姓を務めた。は方中。

生涯

旗本岡本忠次郎の四男として生まれ、16歳の時に旗本・平岡文次郎の養子となる。昌平坂学問所にて学問所寄宿中頭取(学生寮の寮長)に就任するなど若い頃から聡明だった。だが、人づきあいが苦手な性格が災いしてか「武術鍛錬のため」と2年ほどで学問所を辞めてしまう。その後10年近くは定職につかずにいたが、一時的に町方与力の助手をしたりすることはあったという[2]


徳川慶喜
(一橋家相続及び改名前は松平昭致)が一橋家に入った際、父親の徳川斉昭は慶喜に諍臣が必要と考え藤田東湖にその人選を依頼。平岡の才能を認めていた川路聖謨や藤田から同家の小姓として推薦され、慶喜に仕えることとなった[2]安政5年(1858年)に徳川家定将軍継嗣をめぐっての争いが起こったときには、平岡と中根長十郎(一橋家家老)は主君の慶喜を将軍に擁立しようと奔走したが、将軍には徳川慶福紀州藩主)が擁立されてしまい、失敗する。しかも直後の安政の大獄では、大老井伊直弼から一橋派の危険人物として処分され、小十人組に左遷された。安政6年(1859年)、甲府勝手小普請にされる。


文久
2年(1862年)12月、慶喜が将軍後見職に就任すると江戸に戻る。文久3年(1863年)4月、勘定奉行所留役当分助となり、翌月一橋家用人として復帰した。この年、慶喜の上洛にも随行している。京都で慶喜は公武合体派諸侯の中心となるが、裏で動いているのは平岡と用人の黒川嘉兵衛と見なされた[注釈 1]。慶喜からの信任は厚く、元治元年(1864年)2月、側用人番頭を兼務、5月に一橋家家老並に任命される。6月2日には慶喜の請願により大夫となり、近江守に叙任される[4]。その2週間後の6月14日、渡辺甲斐守の宿所から御用談所へ向かう途中、京都西町奉行所付近[5]にて在京水戸藩士江幡広光林忠五郎らに襲撃され暗殺された。平岡に同行し暗殺者を倒した川村恵十郎によると、一人に背後から頭へ、一人に腰へ一刀づつ斬り付けられ即死だったという[6]享年43。


遺体は京都で荼毘に伏せられ、本所本久寺に葬られた。法号は養忠院殿徳孝日浄大居士。なお、円四郎自身の墓石は関東大震災後の特設墓地造営により失われており、東京大空襲においても同寺は被害を受け、現在はその名前は見ることはできないがコンクリート製の"平岡家之墓"に同族の平岡煕平岡養一などと並んで葬られている。

評価
平岡の推薦で一橋家の家臣に取り立てられた経験を持つ渋沢栄一は後年、以下のように述べている。

この人は全く以て一を聞いて十を知るといふ質で、客が来ると其顔色を見た丈けでも早や、何の用事で来たのか、チヤンと察するほどのものであつた。然し、斯る性質の人は、余りに前途が見え過ぎて、兎角他人のさき回りばかりを為すことになるから、自然、他人に嫌はれ、往々にして非業の最期を遂げたりなぞ致すものである。平岡が水戸浪士の為に暗殺せられてしまうやうになつたのも、一を聞いて十を知る能力のあるにまかせ、余りに他人のさき廻りばかりした結果では無からうかとも思ふ。
 
                                    — 渋沢栄一『実験論語処世談』[7]


脚注
注釈
1. 「天下の権朝廷に在るべくして在らず幕府に在り、幕府に在るべくして在らず一橋に在り、一橋に在るべくして在らず平岡・黒川に在り」と評された[3]
2. 「二日 幕府、禁裏守衞総督德川慶喜權中納言・後征夷一大橋將軍ノ願意ニ依リ、其家家老並平岡方中圓四郎ヲ諸大夫ト為スニ敍ス近江守ト稱ス」

出典
1. 雨夜譚会談話筆記』 - デジタル版「渋沢栄一伝記資料」
2. a b 丸山淳一 (2021年6月2日). “堤真一さんが演じた平岡円四郎の志、渋沢栄一はどう引き継いだか”. 読売新聞. https://www.yomiuri.co.jp/column/japanesehistory/20210531-OYT8T50042/ 
3. 『朝日日本歴史人物事典』「平岡円四郎」(執筆者:井上勲
4. 『大日本維新史料稿本』コマ924[注釈 2]
5. 紀行第16回「東京都文京区/京都府京都市」大河ドラマ青天を衝け
6.  藤木喜久麿 (1940-06). “川村恵十郎日記より見たる青淵先生(上)”. 竜門雑誌 (621). 
7. 『実験論語処世談』2.平岡円四郎と藤田小四郎

参考文献
維新史料綱要データベース東京大学史料編纂所

  ・『大日本維新史料稿本』(維新史料編纂事務局編)

デジタル版「実験論語処世談」(渋沢栄一記念財団)

登場作品
テレビドラマ
・『雲を翔びこせ』(1978年 TBSドラマスペシャル 演:田村高廣

・『雄気堂々』(1982年 NHK時代劇ドラマスペシャル 演:児玉清

・『翔ぶが如く』(1990年 NHK大河ドラマ 演:永田博丈

・『徳川慶喜』(1998年 NHK大河ドラマ 演:新井康弘

・『西郷どん』(2018年 NHK大河ドラマ 演:山田純大

・『青天を衝け』(2021年 NHK大河ドラマ 演:堤真一

外部ドラマ
平岡円四郎』 - コトバンク
(wikiより)

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次席家老。

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伊藤小左衛門累代墓。


伊藤小左衛門父子哀悼碑。

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寛永十五年二月二十二日没。
(案内板より)

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竹中半兵衛 ~ 重門 ~ 重次


慶長十七年、十三歳にて長政公仕える。


万治四年四月十四日没 六十二才。
(案内板より)

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鎌田九郎兵衛昌信の墓。


元禄三年八月二十九日没。

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黒田家家老。


鎌田八左衛門昌勝の墓。


寛文九年十月六日没。

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西村文助の墓。

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